カタカムナの共鳴 -8ページ目

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

ふと疑問に思ったんだけど
「親切」と書いて
なぜ 親を切る と書くのだろう?

ボー としているときに
オヤギリ と読んで
あれ?! と思い
あぁ 親切か と思ったのだが

親を切って 親切になるって
一体・・・

と思ってしまった。

そこで調べてみると
過去には
ラジオ放送で鈴木杏里さんが言うには

親 → 親しみ
切 → 願い

というようなことであった。

「切に願う」という言い方がある。

切には どうしても とか
心の底から という意味がある。

セツナイ と言えば
寂しくて胸が苦しいことであるが
そういう氣持ちを抱くのは
「どうしても」が効かない
不条理さを大いに感じているのだろう。

同じように 大切 は
大きなものを切る と書く。

大きなものを切ってしまったら
大切という意味にならないじゃないんじゃないか?

と思ったが
どうも「切」の発音の仕方に
違いがありそうである。

キル のか セツ なのかで
感じるものが全然 違うのである。

切 の音読みは セツ
これは大陸からの言葉
それを訓じると キル になる。

訓じるときは 漢字の形をよく見て
意味を決める
という過程が入ってくる。

その形とは 七つの刀 である。

七支刀なるものがあるが
それはどういうものだろう?

日本書紀では ななつさやのたち という
記述があるそうだ。

元々 和の国にあったものを
大陸へ送ったという。
大陸側でも この刀を模して
和の国に送り返したようだ。

伝説では 百の兵を避ける という
呪力があるらしい。

紀元後の300~400年あたりの時代の
宗教は 道教 のようだ。

とにかく キル では
全然 意味が違うのだろう。

七つの刀 という意味で
親切 と書くべきではないのかも知れない。

仮に 片仮名で
親セツ と書いた方がしっくりするかというと
どうも そうもならなそう。

親 の側の シン という発音にしても
音読みであり 訓じた時に オヤ の意味が出る。

こちらも 音から意味をとった方がよさそうなので
シンセツ と書いた方が よりしっくりとくる。

しかし こうした 大陸から入ってきた言葉を
そのままの音で使う場合は スル とつけて
意味を通じ合わせている。

親切 だけでは 行い とはならず
必ず 親切にスル と後付けしなければ
いけないところが不便である。

大陸から入ってきた音をそのまま使うという
利便性を保つことには大いに役立つが
あくまでも 借り物の言葉 という氣がしてならない。

ことばそのものを響かせて シンセツ を
行いに結びつけるには
どのような発音をすればいいのか?

シンセツ では 見ているだけ。
概念が分かっていても 動かずにじっとしている。

本物の響きになれば 動きに結び付くはずだけど どうだろう?

 

まだ潤いある感覚の人が

息を吹き込んであげないと

いけないんだよなぁ



ミイラ取りがミイラになってしまうかもしれない

半分ミイラになっているかもしれない



しかし まだ 生物としての

乾きのない 潤いのある感覚 を

まだ 持ち合わせているなら

その感覚 そのままに

息を吹き込んであげないと



自分が 異常だ ということに

気付けないのだろう



何をされても

受け入れることに慣れてしまうと

されることに対しての

異常さの感覚が忘れ去られて



知らぬ間にミイラの仲間になっている



息が吹き込まれれば

気付く機会も得られようて



その機会を活かすか殺すかは

受け手次第で



あとは どうにも

やれることして

息を吹き返して

血の巡りが戻ってくることに

わずかな 期待を寄せるのみ

わたしはカタカムナを伝える人の中では
浄化槽という役割を演じています。

それで何か発信する時は
空氣の浄化を手伝ってもらっている
という役を担ってもらっています。

つまり 何か胸にひっかかるものが
わたしと動揺に感じるかもしれないけど


  それを浄化してもらっている
 

という感じなんです。

なので 浄化なんてもっての他だ
癒されたい というニーズのある方とは
およそ 反対の方向を向いています。

人間の欲に関しての
 健康になりたい
 幸せになりたい
 お金を稼ぎたい
とは違う方向なんです。

なんと言い表したらよいのか分かりませんが
少なくともフェイスブックという
アプリケーションでいう
広告の範疇には入らないのではないかと
思っています。

広告代理店もかなり敵視しています。
代理ではなく 料理でも 洗濯でも
「直接」が大事なのです。

人間の手から離れてしまった
もろもろの事柄を
人間の手に取り戻すような
動きを作ろうと思っています。

 

ただ もう あまりにも狂ってしまったため

  空氣の浄化をまとめてやってやる

という気概で

 

   普段から避けて通っている

  思ったことを吐き出してください

 

ということをブロブ内で発信しました。

 

いい状態のエネルギーがあります。

今は失われてしまったかも知れませんが

かつて あった エネルギー があり

そこに 留めたい と思えば

それを 思い出し 戻ってくることができる。



良さの評価は

出来るだけ たくさんの経験を積んだ中で

最も良い状態のことです。



ハチャメチャな良さではなく

落ち着いた キメの細かい 良さのことです。



よく 欲に引っ張られて

その欲の条件に従い 良さを決めることも

あるかと思います。



 例えば

幸せになりたい

 とか

健康になりたい

 とか

お金を稼ぎたい

 という 欲があります。



それに 引っ張られた良さ もありますが

どうにも キメ細かさに欠ける きらいがあります。



あくまでも できるだけ 不純物を取り除いた

良さを感じた時 それを 覚えておいて

すぐに 戻ってこれるようにすると

いいかも知れない と思いました。

ユーチューブの動画を見ていて
コメント欄を読んでいたんですけど

個を超えた 集まりとしての 社会としての
行き先を考えようとする人は
あんまり いないのだなぁ という
感想を抱きました。

どんな動画かと言いますと

たぶん 世界初なのかもしれないけど

ワンネスの仕組みについて でした。

動画を張っておきますね。

 

 


 

 

 

 

わたしは次のようなコメントをしました。

水のようなものとは「オホワタツミ」のことではないですか? たぶん、右脳を外に出せ、と言っているんですよ。左脳だけだと、バランス崩れて、社会を維持できなくなると思います。命と物質で分かれるんだけど、AIは物質ですよ。左脳も物質ですよ。AIにはむかついているから、今度こそは、克服して、うまく外側でバランスをとっていかないといけないと思う。現実的な、歯止めを教えるのは、右脳。右脳がないと、左脳はどこまでも行ってしまう、という危険がある。この先は止めておこう、という制限をする発想が、今までの文明では無かったのでは?

 

 

AIは なんとかしないと ヤバイと思いますよ。

 

お掃除ロボなんて あんなもの 売ってはいけないですよ。

 

感覚的に そう思いました。

 

 

 

だって 掃除は 人間のやることです。

 

機械のやることじゃない。

わたしのスピリットは

・たくさんの時間がある
・手が空いている
・パターンの分類が得意

です。

今 感じていることから
スピリットに到達すると
そうなるらしい。

片っ端からスピリットに
導こうと思うので
このブログのコメント欄に

 


 今 思っていることを 書いてください。


わたしが導きます。

 

 

 

お金は取りません。

 

 

 

敢えて言えば

コメントが公開されるので

他の人から自分が何を感じているのか

分かってしまう

 

 

というところが

デメリットになるかも知れません。

 

 

 

お金を取らない代わりに

お願いを聞いてほしいというのがあります。

 

 

 

そのお願いでさえも 聞かなくてもいいし

聞いたあとに してもしなくても どちらでもよい

という 大変ゆるいもの になっています。

フェイスブックの投稿を読んでいて

日本人は奴隷だ

とか

何の疑問も抱かず 今だにマスクしてゐる

とか言うけれど

何の奴隷か? という疑問が抜けている



奴隷 というと 言い方が悪い。

羊 も また いまいちだ。



もっと しっくりとくる 何か がある。



日本語の特徴は 主語を 明らかにしないことである。

事挙げせず を よし とする文化。

周りが 応じて 自然に氣づかせる文化



かの 有名な ドラゴンクエスト では

主人公は 一言もしゃべることなく

周りが 常に 氣遣い

述べることで 主人公の立場を 明らかにする。


「おぉ、勇者よ、ロトの血を引く者よ」


と言えば そうか と 氣がつく。



さて 何の奴隷なのか? という疑問の答えなのだが

これは すでに 答えを伏せ 答えらしきものを

このブログの中 に 書いている。



これに 付き従っている。

まさしく 主語がない。



どうか この感覚を 思い出してほしいものである。
 

天然に還るものとはナンダロウ?

自然に還るものとはナンダロウ?


天然というと 空! という感じがするし

自然の方は 大地 のような感じです。



男ラシサ のある方は 天然 のような氣がしますし

女ラシサ のある方は 自然 である氣がします。


男 と 女 の ラシサ を分けるものは

天然 と 自然 を分けるようなもの


天 と 自 が向かひ合う 物のコトハリ は

抽象すると 〇 と ・ であり


自 の生ずるところは

縦 と 横 の マジハリ であり

ジ の響きは 自 に通づると言ふ。

 

 

 

 

 

    カタカムナ図象

 

 

 

しかし ジ といふよりも

 

ヂ と書いた方がより直接的な感じがする。

 

 

ヂ は直接 触れているのに対し

 

ジ は薄皮一枚挟んで触っている感じなのだ。

 

 

どちらも 響きは同じであるが意味を分けている。

 

 

 

 

もちろん カタカムナ図象も 形が違う。

 

 

 

 

 

      ジの図

 

 

 

 

 

      ヂの図 

 

 

 

図においても ヂ の方が 真ん中に近い感じです。

 

 

 

 

 

 

 

そうだ 思い出した。

 

 

 

 

食べたものはドコニイクンダロウ? と思ったのでした。

 

 

 

 

それで 答えは

 

 天然なのだろう

 

ということで 書き始めたんです。

カミ のことを 漢字で 神 というけど
それで、申す というのが右半分で出来ている関係もあり

神はおっしゃった

とか、何か上から 不可思議な力が働き
自分に命令していると

思いがちだけれど

カミ とは 働きである

ということを
もう少し 深く 認識すべきではないのかな

というのを フェイスブックのコメント欄を読んでいて
思いました。

神 が 人のように人格を持ち
自分に命令してくるわけではなく

自らを活かす働きがある

ということなんです。


物質文明が極まってきて
神も 人と同じように 性格だとか
善悪がある とか思いがちだけれど

神 は 生き物と同じように
生きているわけではなく

働きそのもの のことなんです。


こんな問いはどうですか?


怪我をした時、自分が何も意識もしないのに
ひとりでに 時が経てば 治ってしまうのは
どうしてでしょう?


これこそ 働き であると思うのです。

 

 

和語では 〇〇〇サマ と言います。

(〇に何が入るかは読者のカンに委ねます)

日本語を普段から話している人にとっては
特に氣にも留めないことですが

ひとつの語の中には
微妙な高低差があり
その高低差がしっくりくる
意味になっています。

その高低なんですけど、
高いときは 動揺
低い時は  落ち着き を表します。

この 動揺 と 落ち着き を
古代語で書くと

イザナミ と イザナギ なのですが

イザ の意味が分からなくても

ナミ なら 波のように上下に揺れてるな
ナギ なら 凪で静かな海なのだな

ということが分かります。


ひとつ
高低さで 意味が反転するといえば

わがまま でしょう。


昔は自分のことを「わ」と言っていた事もあったそうです。


言葉通り意味をとれば 自分のまま でありますが

それを 駄々こねるような わがまま であるのか
本来の自分のまま であるのかで

高低差が変わってきます。


駄々をこねるのも とても大事だし
それが出来る人がいる
というのは かなり貴重な存在です!


さて
駄々をこねる場合の高低は

 わ が ま ま
 ↓ ↑ ↑ ↓


という音の高さになります。


最初の「わ」という音が低くなり
かなり音の勢いが抑えられていることが分かります。

抑えられているので イザナギ(凪) です。

もうちょっと周りに合わせて
凪のように静かにしなさい というニュアンスです。


それに対して 本来の自分を強調する場合は
これと反対の音の高低さになります。

 わ が ま ま
 ↑ ↓ ↓ ↑



音が高いので イザナミ(波) です。

自分(わ)が動いている というニュアンスが出ます。


このように
同じ音を使っていても
実際に発音する高低さにより

正反の意味に展開することができる

というのが日本語の特徴になってきます。