カタカムナの共鳴 -6ページ目

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

Ⅰ.サヌキとアワについて

 

 サヌキは男性的な性質、アワは女性的な性質のことを指します。何かの目標、目的に向かう時の努力の組み重ね、工夫をすること、試行錯誤を繰り返すことがサヌキになります。そして、飛びぬけて大きな成果を得ることであるとか、現状を大きく変えるような力のことです。サヌキが発生するためにはアワの状態がなくてはなりません。アワとは漢字で(感じて)書けば「泡」。あの丸くて、軽くて、浮き上がる、儚い、なんともいえない状態のことです。サヌキが継続する力だとしたら、アワは出ている力を緩めたり、いなしたり、落ち着かせたりするような力のことです。力を抑えることが力を支えることにつながります。ペース配分を守ったり、行き過ぎた状態を休ませたり、濃い心の状態を薄くしたり、模様をぼやかしたりして、出来るだけ真っ白にすること。カタカムナの図ではサヌキとアワの働きを八つの小円の積み重ねとひとつの大きな円の循環で表わしています。




 カタカムナ(ヤタノカガミ)の図


 大きな目標はありますが、まずは到達可能な目的を決め、それにむかって突き進む。達成できたら、次の目的に。そうして、最終的には、目標を達成する。目的と目標は数詞になっており、古神道の祝詞でいう、「ヒフミヨイムナヤコト」の音の響きで表わされます。




      図における数詞の位置


 「ヒ」から始まり「ヤ」までの経過は目的を決めて積み重ねることですが、「コ」にくると、それはもう、9番目の段階ということで、今までの「ヒフミヨイムナヤ」の目的達成の成果をまとめ、ひとつにすることになります。



  カタカムナの数詞 「コ」の図
 (1と8の目的を合わせて9なので

  最初と最後の状態を見比べることにもなります)


 実は成果をまとめる力もアワになります。もしアワがないと、目的は達成できたけど、それを目標にまで高めていき、現状を変えるような状態にしていくことが出来なくなります。会社でいえば、実務担当とか現場担当とか技術職がサヌキにあたり、それらの報告の成果をまとめて世間に発表するのがアワになります。よくやり方を教えてとか、ノウハウとか、コツは何かと問うことはサヌキを力を高めています。これに対して、どうしてそれをするの? とか 今は何をやってるの? とか これからどうしていきたいの? と問うことがアワです。サヌキの発生の前にはアワがあります。アワで大きな目標を決め、サヌキで目標までの段階を決め、積み重ねていくこと。このようなサヌキとアワの共同作業はしなやかで折れない丈夫な幹のように見えます。嵐にふかれても、風にはなびくけれど、しっかりと地面に根(ネ)を張って、離れません。地面から栄養を吸収し、育っていきます。



Ⅱ.「ネ」という音の響きについて


   カタカムナの「ネ」の図


 このカタカムナの「ネ(根)」の図は「ケ」と「セ」から成ります。「ケ」と「セ」は向かい合うような心情をかもしだします。そしてサヌキとアワの共同作業を生み出していくのです。向かい合う関わりにおいて「ケ」である側からは「セ」を見ており、「セ」である側からは「ケ」を見ています。「セ」は支えること、アワの性質です。「ケ」は気配を読むこと、手短な目的を察知すること、サヌキの性質です。





   カタカムナの「ケ」の図





   カタカムナの「セ」の図


 この両方の性質が合わさって「ネ」になります。いわば「ケ」は合わそうとしたけど相手がいないよ、「セ」についても受け入れようとしたけど相手はいないよ、という心情です。小さな円が抜けているのは、そういうことを表わしています。わたしは会話の中で「~だね」というふうに「ネ」を使うことがクセですが、どうも女子の間では暗黙の了解だとか、誰かをのけものにする村八分をつくるような文化にも寄与してきました。そうして、気配を察知し、受け入れるものを見極めるのです。

 

 

 

Ⅲ.カタカムナという図のつくりについてまとめ


 日本語はカタカムナの図が発祥と研究者の間では言われております。ただ図は簡略化した絵であり、絵になる前には心情とか、心情の醸し出す雰囲氣があります。つい上げてしまう唸り声、イントネーション、独特の雰囲氣が人格をつくります。そうして、そういう人格は、文章ではなかなか表現しづらいものがあります。(それをうまく表現したものを「文学」というが、現実は難しい) 男性的な性質がサヌキ、女性的な性質がアワであるということ、サヌキとアワの共同作業が人格をつくること、これを覚えておいてください。

すべての行いの基調に 情 があるから
人と交はるには
つねに 相手の情 にふれていなければならない。

相手の情の醸し出す雰囲気を顧慮せず
どこまでも自己の正善と信じることを
押しつけてはいけない。

すべてのことに
理外の理というものがある。

この呼吸をよく呑み込んでいないと
思はぬ失敗を招いてしまふ。

だれでも 自分の過去を振り返るとき
今の人の幼稚、無恥、傲慢、利己心・・・等を
許さずにはおれない。

自分の過去の
幼稚、無恥、傲慢、利己心さを思い出すたびに
今の人のそうした心持ちに
十分同情することができる。

誰でも最初は幼稚であり
無恥であり
傲慢であり
利己主義一辺倒なのである。

すべての心持ちをよく了解して
それに當たる同情を寄せることは
誰もが必要としてゐる。

婉曲に処置づけることのできる人は えらいことだ。
よほどの世慣れか
よほどの苦労人かでなくては
なかなかできぬことである。

「体験の多い人」を「えらい人」と言いたい。
本の上での知識があっても
それは 要するに 色々な単語を

 たくさん覚えている

というだけであって
人生の真剣勝負の場数を経た人に比べては
吹けば飛ぶような手合い。

善にあれど 悪にあれど
その本場所を数多く踏んでいる人ほど
人間味がある。

どんなことに対しても
人の意に逆らわないで
ヘイヘイ言ってるお人好しは
意気地なしの八方美人だ。

えらい えらくない の根本は
天から賦与された
たましいの質量の如何による。


人為的な地位や事業にはよらない。

たましいの質量の大なる人は
憤怒の勢いも
常人の比ではない。

世間においては
偏狭固陋(へんきょうころう)なる執着心を
おうおうに 愛 と名付け
利己心一辺倒の権謀術数(けんぼうじゅっすう)の才を
知 と名付けるが どうであろう。

腹の中で思ってることと
まったく正反対の言辞(げんじ)を弄(ろう)して
相手の心を引いてみるような態度に出るくらい
嫌なものはない。

こんな卑屈なことをするよりは
少々 相手に不快を与えても構わないから
どしどし 自己の所信を述べればよい。

たがいに腹のさぐり合いをするような
話しぶりくらい 嫌なものはない。

謙遜も 時と場合によって
いい加減やめないと
かえって無礼になる。

イヤならイヤ ハイならハイと
ハッキリ応じた方が
たとえ 一時的に 相手に不快を与えたとしても
あとの氣分が カラリと晴れて
双方 共に 氣持ちがよい。

   ――― 以上 出口日出麿さんのエッセイより抜粋


 

たくさんの間をとれるものを「生命」と定義しますと、
ひとつの間しか持たないものを「物質」と言います。

モコロの段階で

 生命であるか?

 物質であるか?

の違いがみられる。


その違いは モコロの造りにある といいます。
      (楢崎皐月博士が言うには)

カタカムナ図象は
ヤタノカガミ(八つに分かれた鑑)であり
お正月の鏡餅のように
上に重なる性質があり
一番上のみかんの赤が
日本の国家の象徴である とも言へ
旗のデザインに採用されている と見られます。


あの Aさん と Eさん の違い を
見比べてみてください。

どっちが生命で どっちが物質なのかを。


もう分かりきったことだと思うのですが
言わないといけないほど
感性が劣化しているのです。

AさんにはBさんとの間の取り方、
Cさんとの間の取り方、
Dさんとの間の取り方がある。

ここにEという機械がある。
Eにとっては
Aも、Bも、Cも、Dも、
同じ間の取り方しかできない。

もちろん
間を測ることもできない。

間を測れるのは
機械ではない
相手の機嫌をうかがうことのできる
Aや、Bや、Cや、Dの
固有の能力である。



いつのまにか
Eという機械が
生活に取り入れられるようになって
Eの間の取り方しか
出来なくなってしまったのでは
ないだろうか。

ヨワ〇〇〇 イジ〇 の
間の取り方ばかり採用していては
この先 立ち行かなくなってしまうぞ。

ツヨ〇〇〇 に挑む間の取り方も
あるだろうに。
 

わたしたちは 空間に生かされている ということが
よく分かる 動画 です。



カタカムナでは
 アマウツシされてくる なんていう表現をします。


空間に生かされていることを実感してほしくて
紹介してみました。


なんか 途中 変なことを言っているけど
正確には

「現代の物理学では時間を表現する術がない」

です。

時間が存在しないわけじゃありません。

時間は社会的な約束事です。

わたしたちは 社会的な動物 です。

何かしらと かかわりを持ち 時間を大切に 生きています。



ちゃんと 時間を守ります。

待ち合わせすれば 遅れないようにしますし

お金を貸し借りしたら ちゃんと 期日を守ります。
(わたしの場合は 見事に裏切られていますが・・・)



カタカムナでは
どのような表現をしているのか

ふりかえってみると

時間と空間は 間 において 一体である

と説いています。



たしかに
言葉の上では 時の間 と 空の間 に
分かれています。

あと
時間が現れたときに 空間はなく
空間が現れたときに 時間はない

かならず どちらか一方である という
特徴もあります。



そして その 片方片方 が
お互いに 交換し合って 重なり合う

という表現をしています。



これも また なんというか 分かりづらいものがあります。


ただ 片方しかない というのは
何となく 分かるような氣がしてくるのです。



片方しかないからといって
もう 片方が存在しない わけではありません。

存在はするけど 見えない状態にある

と言いましょうか



時間は これは時間だ と取り出して
他の人に示すことはできないけど
ちゃんと 持っています。

編み物する時間 料理する時間 移動する時間

いろいろな時間があります。



こうした 客観背後の絡み合い が重なり
間が合った時

合う時

会う時

合わせる時

合わさる時

を 総じて 「マ」 と表現し

「マ」の中に

すでに 「合う」 ということが
含まれています。



何かと かかわりを持つとき すでに 会っています。



すでに 合っているにもかかわらず

まだ 合っていない と言っているのが

現代の物理学なのでは? という氣さえします。



まず 時間 と 空間 という
お互いに 違う状態 がある という。

それが 第一点。

その次に

それらが 合う(すでに合っている) ということ。

それが 第二点。



時間 とは 社会 であり
客観背後の絡み合いであること。

これが 三つ目。



だから 時間とは何か? なんていう書籍もあるほど

時間について 語りつくされているけれど

ひとことで言ってしまえば

 時間 とは 社会 である。



人工知能において 時間 という社会性が抜けているのは

人工知能を使う わたしたち において

とても大切だと 感じます。



よく 動画なんかに 機械の音声で 出すことを
している方もいるけれど

そんなに 自分の声が 恥ずかしいのか



そうなんでしょうけど もっと 出してもいいし

息が分かるし 色もわかるし

醸し出される社会もわかるし

テンポも分かるし

 その人の持つ 独自の時間 も分かる

というわけで




こんなに 分かる 分かる づくしで

どうして そうしないのだ? と

動画の内容 うんぬんの前に 問うてやりたくなります。

すべての生き物のもつ直感による。一番最初の~を出している感覚が失われているのかも知れない。返り手はフィードバック回路を思い出します。エアコンの温度設定、パソコンのファンの駆動など、温度を感じて(返り手)風を出す加減を調整している。出した時の返り手との差を感じることは何も家電製品だけでなく人でも同じような働きが備わる。それらを自動で自律した神経において自然にやってしまうものだから普段はなかなかあることに氣付けない。もし氣付きたいのであれば最も最も始まりに出した~がどのくらいのものかを意識することから始めると良さそう。しかし 意識意識といっても一体何を意識すればよいのかはこの前も書いた。人から見られた時の美しさを意識の念頭に置いている。そういう美しさを意識すれば周りがほどよく調和するような~(これに該当する単語が無い。何と言ったらいいのだろう)が出てくる。~を出して返り手を浴び位置を変えた~を出してバランスとることをしてゐる。最初の~が出てゐるか? ~を出してゐるのを感じるか? を問へば自ずと答えも明らかになりそう。

一条龍について、おもしろい記事がありました。
中国人の記者が次のように書いています。


 ↓ ↓ ↓
 

 日本語には曖昧(あいまい)な表現が多く、意味が通じずに外国人を困らせることがある。香港メディアの鳳凰網は24日付けで「日本語が曖昧な理由」を分析する記事を掲載。記事の筆者は中国人であるが「日本の文化」が曖昧さに美を置いていることを指摘したうえで、そういう文化になったのには三つの理由があったと分析した。
 その一つ目が日本という環境。自然災害の多い島国で村社会を営むには近所の人とうまくつきあっていかないと生きていけなかった。「口は災いの元」なので相手の面目をつぶさぬよう、自然と言葉選びに慎重になると分析。二つ目は法律。聖徳太子が定めた十七条憲法の書き出しは「和をもって貴しとなす」で始まっていると紹介した。これが曖昧な文化の礎(いしづゑ)になったという指摘。三つ目は中国から伝わった仏教の影響があるとした。仏教における「以心伝心」という考え方により「言わなくても伝わる」と考えるようになったと説明した。
 記事の筆者(中国人)によると曖昧さのある文化は「集まるチカラ」を形づくる事に大きな発展が見られるという。そのため 日本では人が集まるほど大きな力を揮(ふる)うといふ。中国では その民族性を表すために「一個人一条龍、一群人一条虫」という言い方をする。一人だと龍のように強く 集まると虫のように弱くなる という意味。だが 日本では その真逆。集まるほど龍のように強くなる と言へる。(転載、以上)

 

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 しかし 集まるほど逆に弱くなってしまうような氣がします。それは私だけでしょうか? 周りの目にビクビクして思い切ったことが なかなかできないような印象。それとも これから大きなことを起こすのでしょうか? この記事を読まれた方はどう思いますか?

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パーソナルコンピューターがまだ珍しく

これを扱えることは 一種の憧れであった

 ↓ ↓ ↓

携帯電話にパーソナルコンピューターの機能が内蔵された
スマートホンなるものが一般に流通している


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ポケットベルが流通しており
社内連絡にも活用されていた

 ↓ ↓ ↓

ひとり一台の携帯電話を持つことが当たり前の時代となり
本人確認においても 携帯電話を使うことがあるほど


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インターネットの世界は一種の憧れであり
世界中の景色や出来事を知ることができるものだった

 ↓ ↓ ↓

ユーチューブなどで
ひとりひとりがモニターを通じて発信できるようになった

 


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ある所では
金を貸して
返さなくても泥棒にはならず
(警察には捕まらず)

またある所では
金を借りて
それを返すために
水商売よろしく
ドナドナのように
身を売られて
奴隷のように働きつづける
芸能界なるものがある。

どうして
世の中は
こうも不公平なのだろう?

まったく もってして よく分からん。

何が そういう 不公平さを
支えるのだろう?

善人の沈黙と考える。

やられたら まずは やられたことを
自分で 認識できないといけない。

さらに やられたら やられたあとになって
こいつにやられた ということを
誰かに言わなければならない。

つまり チクることが できなければならぬ。

それが 絶対条件。

それを やれずして
この不公平さは なくならないのでは?

善人が 口をつぐむと 反転し
    世に幅のきく 悪人なりや