カタカムナの共鳴 -5ページ目

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

相似象の学会誌

 第三号の135ページを以下に筆記します。

 

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 日本語の始まりに端を発するカタカムナ文献は人類全体における言葉の成り立ちを示している。ところが日本の先生が教える学問はみな西洋のものばかり。義務教育では「能」の一曲に触れることも無く、精神のカテと言はれる仏教の教えは天竺からのイタダキモノ。自分たちの使っている文字は漢字から借りたもの。遣唐使以来、外国の知識をひたすら勉強することにまい進してきた。外国の文化に憧れ、外国の学問を学ぶ。果たしてそのような態度でいいのだらうか? 外国人の動きをあまりにも氣にかけ、ミエを張るという劣等感がまん延している。日本の遠い祖先がカタカムナの文化を捨て去ってからずいぶんと経つ。シナ(漢方医薬)、インド、西洋の文化に触れる度、天地のひっくり返るようなイカレ方をしてきた。しかし、触れた時の衝撃が収まるといつのまにか自分たちの文化にしてしまう所がある。そのことに外国人たちは驚き、日本のナゾを解こうとする。カタカムナの文字を捨てて漢字を採り入れた奈良時代の人も外国に憧れる心は同じだったはずだ。漢字がどれほど立派に、心踊らされるものだったのかは想像にかたくない。実に二千年の間、日本人の血肉に染み渡るまでに深い影響を与へた外国文化であったが、採り入れてしまえば、それだけでは収まりきらない何かがあることに気付くもの。外国人が長い歴史を通して作り上げた花を、日本の土壌で、それ以上の美しさを持って咲かせることが出来たのはナゼなのか? 漢字に心酔しながらも、その字にオンとクンを持たせたり、カエリ点をつけて日本語と同じ読みにしてしまう芸当は他の国では出来ないだらう。そのような日本人の感性は一体どこからやってくるのか? 明治以降は西洋の合理主義を学び、人権や契約の交わし方を身につけ、立派な個人として、近代的な自我の確立を目指してきた。明治以降の教育は「進んだ」と言はれる。だがその内容はあまりにも真の教育にはほど遠い。日本人であることの正しい意義を前提として西洋文化の紹介がなされるのならまだよかった。

 日本人が日本人であることの証拠は日本語を使ふことにある。日本では外国語には訳せない言葉が日常生活の中でよく使はれる。「マ」とか「ワ」といふ単一の音にしても、訳すことのできぬ深い意味がある。辞書を引くと

マ:間、部屋、間仕切り、部分、時間、調子、運、機会、運命、幸運、魔 とあり、使用例としては まにあわせ、まがよい、まにうける、まとまり、まがさす、まがあう、そのまま、ままならぬ、まぬけ、まけ、まいった などがあり、到底一言では訳しきれない。

ワ:円形、車輪、環っか、調和、平和、和(足し算の答え)、日本という国(和製、和訳)、把(ひとたば) これほどの意味がある「マ」や「ワ」を日本人は別段、氣にも留めず使ひ分ける。

 「ありがとう」を「サンキュー」に訳してまにあわせているが厳密には意味が違う。「サンキュー」では収まりきらない意味が「ありがとう」にはある。「サンキュー」だと「私があなたに感謝する」といふ主語、目的語、述語から成る文になってしまう。

 「ありがとう」「甘える」「バチがあたる」「もったいない」など日常生活に使はれる言葉は外国語には写しきれぬ日本の心を潜めている。自分たちの存在をかくあらしめる大きな根っこへの思ひがこもっている。このことを忘れては日本というものの本当の姿にまみえることは出来ない。

 「オヤコ」という言い方も不思議である。その意味は両親と子どもであるが、欧米ではさらに性別によって言い方を変えたり、単数か複数かによってスペルを変えたりする。しかしカタカムナ文献には「オヤコ」といふ言葉は出てこない。思ふに日本人の感覚から本当の日本の心の感覚が薄れ、オヤコの環に凝結したあたりから微妙に心がゆがみ、敬語を使ふほど心が衰弱し、カタカムナ文献の理解の前に立ち塞がる大きな壁になったのではないか。

 奈良時代から続く日本語の仮名遣いの混乱もまた、カタカムナの伝統を失ったことに端を発している。新カナ遣いよりも旧カナ遣いの方が文章としては日本らしいという見解を持っているが旧カナ遣いが最良の日本語だとは思っていない。自然発生的に立ちいでたカタカムナの言葉に対して、法則性を見い出そうと五十音図を作ったり、主語や述語などの文法を取りまとめたりしているが、それには収まりきらない例外がどうしても出てしまう。旧カナならまだ良かったのだが、それでズレた字と音の区別がつかなくなり「いっそうのこと発音通りに書いてしまえ」という暴挙に出たのが新カナ遣いである。カタカムナの歌は動詞も置かず、主語や述語の順番も決まらず、後先の言葉のカカハリ合ひで直接読むものであるから、クセは出るものの(そのクセが文法となるのだが)、そのクセが今日の文法の概念にはまったく当たらないということはハッキリさせておきたい。万葉集や能の謡ひにわづかにその面影をとどめている。

 カタカムナの伝統を失ったといえど無意識のうちにカタカムナ以来の言葉を使ひ、カタカムナを創作した人の編み出した片仮名を使ひ、カタカムナを使ふ人の心を今なほ留めてゐる。カタカムナ文献の出現によって改めて自分たちの根っこを知り、自らの行く末を案じた時、一体どのような可能性が生まれるのだらうか? 世界の一部の心ある人は人類滅亡の危機を感じ、一縷の望みを日本の文化に賭けている。彼らのうちには人類の行く末を案じるスコヤカサがまだ生きている。日本人が人類の行く末で果たすべき役割を日本人よりも正しく考えている。どうしてカタカムナの伝統文化が絶えてしまったのか? その事情は古代史の文献をさらってみても分からないが、日本人の二千年間のさまよへる歴史も今となっては貴重な体験になった。

 人類絶滅の危機を回避する可能性を日本人らが持っているが、それはあくまで可能性であって、今後の展開は回避とはウラハラな、最も絶滅に近いありさまを露呈している。明治の開国以来、ひらすら欧米に追従し、衣食住の生活様式とか、病気の扱い方まで、思いきり西洋に肉薄し、彼らの社会の仲間入りできるまでになった。それほどに西洋文化に心酔し、親しみの情を抱いている。経済が発展し一生懸命になって働こうとも彼らからは「何をコシャクナ」とばかりに裏で稼ぎを横取りされて弱弱しく引き下がるしかないありさまが偽らざる現実である。個人としては心を失っていない。ただ集団になるとどうしても弱い所がある。

 ところでヨーロッパの諸民族が時には占領の憂き目にあって母国語の使用まで禁じられ百年経ったとしても国の伝統を保てた例がある。それは影で母親たちが学校では教へない自分たちの伝統の言葉、習慣、誇り、知恵を語り伝えてきたからに他ならない。女性の秘めるまごころのありかを思はずにはゐられない。
 日本の文化が衰退に向かうのが自然のなりゆきなら努力をしてもしょうがないというのは人間のリクツである。自然に生きる動植物たちにそのような態度は無い。生きものは死ぬ間際まで精一杯に生きようとする。ほんのわずかな隙間に芽吹く雑草の種は成長の見込みが薄くても痩せていても何とかして花を咲かそうとする。人間の情はこれをあはれと思ひ、みじめと思ひ、愚かとも見る。しかし天の営みは一度受けた生に対して誠実に生きるのみ。日本人が人類を滅亡の危機から救うなど木によりて魚を求めるようなものかも知れない。まったくの独りごとに終わるのかも知れない。雑草の種のように。それもありうることである。それでも私はカタカムナの子孫として生まれ、カタカムナを知った者として、出来るだけのことをしてゆく。ささやかだがすべての生きものはその生まれた場でひたすら誠実に生きていくしかないではないか。

 実に長い間、埋もれていたカタカムナ文献を一朝一夕に解き明かすなど、出来る訳がない。科学だってひとつの理論を確立するまでに何代も人が代わって受け継がれ実を結ぶ。私も自分の研究がこれで完成だと胸を張って言えるほどのことは出来ていない。ただ方向を指し示し、こういふ解釈ができるのではないかと提示したまで。こうしておけば心ある人が後を継いで研究して下さると思ってゐる。

 カタカムナ文献を読み解こうとして下さる方は専門家の意見を聞かれてもよいが聞いても正しい評価は得られない。たとえ専門家がどう言おうと「私はこう感じる」を基本に据え読んでもらいたい。「自分の感じ」はそれぞれが持っている。その感じは実にマトモなもの。長いものに巻かれろ式に無抵抗に従っているように見えて、その実、チャンと自分の見方、自分の感じを持っており、いつかそれがモノを言ってくる。雑草のようなたくましさを持つ人種なのである。私は日本人の底力としてもっている根の確かさと未知のものに対する純粋で無邪気な好奇心を頼りに、カタカムナの解説を続けようと思ふ。

 表面的にどれほど変貌しようと人種の生やす根はそう簡単に変はるものではない。今後、日本人が、昔の日本人には無かった国際的な場で、日本人の持つ可能性を存分に発揮していくには、日本人たる根(ネ)の理に十分な正しさを感じていなければならない。それが出来て、初めて「愛国心」とか「情熱」とか「勇氣」が湧いてくる。

 長い精神の放浪の旅からココロの故郷へ帰る道がようやく見つかった。それは一日本人の運命だけではなく全人類の存亡に関はることなのである。その道とは古来、心のある人や感じよい人がバラバラに探り当て、それぞれ表現し、断片的に行くべき方向を指し示してきた。しかし、誰も、それが何かはハッキリと掴めなかった。西洋人たちに示すものは歌舞伎や茶の湯や禅の庭では無かったのである。

 私たちははるか遠い昔にカタカムナの伝統を失い、それ以来、数々の困難に直面し、その度にブザマな姿をさらけ出してきた。しかしいづれの場合も困難を避けるのではなく、立ち向かい、精一杯の力をもって解決してきた。他国の文化をこだはり無く受け容れ、本当に好意を持ち、マジメに学んできた。他の国と比べていかにもウブな、純粋な、世間知らずで、悪の存在することを知らず、テレクサく、はにかまれる程であるが、ひとたび誰かの目に映った姿はいつも本氣で、謙虚に、全力投球してきた。清々しく尊いものだった。そして今、悪事を行う者たちの試練に耐え、大きな犠牲を払って得た数々の苦い教訓は日本人の根となって、私たちのうちに受け継がれてゐる。

 

頭とお腹を調和させるため

カタカムナウタヒの第五首と第六首を

読んでみましょう。

 

第六首の「ハエツヰネホン」から

なるべく相似象の学会誌とか

日本の物理学から言葉を選び

あててみました。

 

あてた鏡のピントが合うかどうか

確かめてみたくなったので

あえて このブログにも

載せようと思いました。

 

 

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(ハ)対向
(エ)発生
(ツ)個々の現象
(ヰ)位置
(ネ)潜象・アマ-タカ-マカ-ハラ
(ホ)共役の物理・フトマニニ
(ン)片方の面・ヒフミヨイの五つの相・スガタ

(ヒ)玄・穴・狭い所・元
(フ)不自由・暗い・影が伸びる・影響・エネルギー
(ミ)密・充填・カタマリ・片のマ
(ヨ)代継ぎ・世代交代・次元
(イ)イサキ・元氣・広い所・微細に分かれる

(マ)間・真ん中・中和・旋転・イカツ
(ワ)循環・マク
(リ)裡・裏と裏を合わせる・カラミ
(テ)正反に現れる・チカラ
(メ)目方・重さ・量
(ク)自由・明るい・光の屈折・反射・物体
(ル)半々に現れる

(ム)六方向に広がる環境・体積
(ナ)容積
(ヤ)生成過程の極限・飽和・安定・水溜まり
(コ)ヤからヒに至るまでの崩壊過程・蒸発
(ト)統合・ヒトツ・ヒトシサ

(ア)奇妙さ量を外に表す響き
(ウ)マリ・両のマ
(ノ)行き帰りが統合されたモノ
(ス)帰る方向・帰納・一般性・ホーム
(へ)行く方向・演繹・相対性・アウェイ
(シ)示し合わせる
(レ)令・主従関係・親子・家族

(カ)ココロ
(タ)ヒフミヨイとムナヤコトの循環を分かつ
(チ)トコロ
(サ)狭・わずかな変化・スロープ
(キ)広・段階的な変化・階段

(ソ)祖・ミナカヌシ
(ラ)現れる・柔らかい・カラマリ
(ニ)潜む・固い・サダマリ
(モ)模・象る・例に習う
(ロ)路・立体交差・六方向の相対性
(ケ)八方向の一般性・遠達性
(セ)迫る・近達性

(ユ)アマ
(ヱ)タカ・頭
(ヌ)マカ
(オ)ハラ・お腹
(ヲ)へその緒・魂・エーテル体

(カ)最初の心・アマココロ
(タ)アタマ・アマタマ・あまたに
(カ)次の心・マカ・変遷・好み・親和したい希求
(ム)胸に仕舞う・受け止める
(ナ)腹に納まる・受け容れる

(ヤ)数の多い世界が
(タ)あまたに
(ノ)行き来し
(カ)アマから
(カ)マカまで
(ミ)実る3つのモノ

 

どちらも同じ意味を表していますが
向きが違います。

反応は 行く という感じになりますが
感応は 来る という感じです。

反応は 前に行く ということでもあり、
弾力性を表しています。

それに対して
何の反応もないような状態もありまして
外には現れないと申しますか

でも 何かが起きている。

それが 感応 です。

野球に例えると
ピッチャーが球を投げて
それを打つ場合、

向かってくる球に対して
打ちにいく というのが反応です。

反応というのは
なぜか 一歩遅れます。

必ず、遅れてくる。

見てから 応じる。

これが 反応 です。

反応には正確性がある。

なにせ見た後のことですから

見たものが何か?

ということは
すでに分かっているのです。

だから あまり 間違える ということが
ありません。

しかし 野球 です。
野の中ある あの速い球を打つには
反応では うまくできるのかと考えると
実は そうでもないです。

球を打ちにいくという意識ですと
どうしても 一歩 遅れてしまいます。

そうではなく 球を向かい入れるような
氣持ちで 来たら打つ というような
ことをしていると
重心のブレもありませんし

打ちたい所に打てるのではないか

と思います。

向かってくる球に対して
調和しています。

外の現れとしては
打ち返しているように見えるけど
返しているわけではない。

渡されたボールを
所定の位置に投げ返している

というような感じです。

そのボールの投げ返す位置を
八方位に定めたのが
カタカムナの図なのだと思います。




       カタカムナの図  
   (通称 ヤタノカガミ)


球には前と後ろがあります。

後ろは おしなべて みんな
大きな〇の中に入っておりますが
前に出ている球は

みんな外に出ています。

必ず 半球ずつが 前に出
後ろにある というような状態です。

前に出たものを取りにいく感覚は
「サヌキ」と言われ
大きな流れの中から
一部を取り出すような感じです。

なので
大きな〇の中には収まらず
飛び出したような形で
カタカムナの図に現れてきます。

サヌキ という音は
 「サ」 ・・・ 全体の流れを表す音
 「キ」 ・・・ 鋭く何かが飛び出してくる記号
であり、

 

 「ヌ」 ・・・ やらぬ、さわらぬ という否定形を表わす
なので


 「サ」ではなく「キ」にする

 

という構成になっています。



アワ の方は
  「ア」 ・・・ あらゆるもの
  「ワ」 ・・・ 大きな〇

から構成されています。

大きな調和を表す 〇 は
カタカムナの図では「ワ」に宛ててゐます。

戦争していた頃から

あまり意識が変わっていないと思うのですけど

どう思いますか?

 

敵国のアメリカへ宛てた手紙を紹介します。

 

本当はもっとうやうやしく書いているのですが

もうそれだと間に合わなくて

この際 ハッキリと書いた方がいいと思って

 

相手に対する信頼 とか

遠慮 とか

 

そんなものは省いて 本当に伝えるべきことを

伝えるべきと思った内容でした。

 

以下、その手紙です。

 

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日本海軍 市丸海軍少将が

フランクリン・ルーズベルト君にこの手紙を送る。 
私は今この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり

一言あなたに告げたい。

ペリー提督の下田入港を機として
日本は世界と広く国交を結ぶようになっておよそ百年
この間、日本の歩みは難儀を極め
自ら望んでいるわけでもないのに
日清、日露、第一次大戦、満州事変、日華事変を経て
貴国と交戦するに至る。

これについて あなた方は
 日本人は好戦的だ
 これは黄色人種の禍いだ
 日本の軍閥の専断
とみなしているが 的外れです。

あなたは真珠湾の不意打ちを対日戦争を始める

唯一の材料とし、宣伝している。

日本は自滅から逃れるため、戦争を始めた。
あなたはそこまで日本を追い詰めた。
あなた自身がよく分かってゐる。

日本は

養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする
八紘一宇で表わされる国家の統治に基づき


地上のあらゆる人々は
その自らの分に従ってそれぞれの郷でむつまじく暮らし
恒に久しく世界に平和がもたらされることを

唯一の念願としてゐる。
 
このことはかつて、
 四方の海
 皆はらからと 思ふ世に
 など波風の 立ちさわぐらむ
という明治天皇の日露の戦時中の御製が、
あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下の

感嘆を招いた。

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいるけれど
さまざまな職につきながら
この天業を助けるために生きてゐる。
わたしたち軍人もまた干戈(かんか)をもって
この天業を広く推し進めてゐる。

わたしたちは今
豊富な物量をたのみとした

貴下の空軍の爆撃や艦砲射撃のもと
外面は圧倒されているが、精神面は充実してゐる。
心地はますます明るく、歓喜に溢れている。
天業を助けることに燃えている。

けれどその心は
あなたやチャーチル殿には理解できないだろう。 
そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言付したい。

あなた方は
白人によって世界の利益を独占し
有色人種を奴隷にしようとしている。

そのためにあなた方は 奸策もって有色人種を騙し
「悪意ある善政」によって 彼らから考える力を奪い
無力にしようとしてきた。

近世になって
日本が有色人種、ことに東洋民族をして
あなた方の束縛から解放しようとすると
あなた方は日本の真意を少しも理解しようとせず
ひたすら日本を有害な存在であるとして
かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として
公然と日本人種の絶滅を口にするようになった。
 
それはあなた方の神の意向に叶うものですか?

大東亜戦争によって
いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば
それぞれの民族が善政を謳歌する。

あなた方がこれを壊しさえしなければ
全世界が恒に久しく平和を築ける。

それは決して遠くない未来のこと。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げた。
数百年来あなた方の搾取から逃れた哀れな人の希望の芽を
どうして若葉のうちに摘み取ってしまうのか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎない。

あなたはどうして そうも貪欲で狭量なのか。 

大東亜共栄圏の存在は
いささかもあなた方の存在を否定しない。
 
むしろ 世界の平和の一翼として
安寧と幸福を保障する。

たったそれだけのこと。
あなたに理解する雅量を示してもらいたい。

ひるがえって欧州をみても
相互の無理解による人と人の争いが
どれだけ悲惨なものか。 

今ここでヒトラー総統の行動についての

是非を云々することは慎むが
彼が第二次大戦を起こした因は
第一次大戦の終結に際して

その開戦の責を敗戦国であるドイツ一国に被せて
極度に圧迫したあなた方に対する反動である。

あなた方が善戦してヒトラーを倒したとしても
その後 どうやってスターリンを首領とするソビエトと
協調するつもりなのか?

およそ世界が強者の独占するものであるならば
その争いは永遠に繰り返され
いつまでたっても人々に安寧と幸福は訪れない。

あなた方は今、世界の覇権を一応実現している。
そして得意になっている。
けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、
そういった得意の絶頂の時に失脚した。 

願わくば私の言外の意を汲んでいただき
その轍を再び踏むことがないようにしていただきたい。
 
市丸海軍少将

レベル1
分かっていないことを分かっていない

レベル2
分かっていないことを分かっている

レベル3
分かっている

レベル4
分かっていることを分かっていない

レベル5
分かっていないことを分かっている


レベル2 と レベル5
文言はまったく同じですが意味が違います

TPOに合わせる と一般では使われますが
カタカムナにおいても
こうした考えは そのまま適用できます。

直感的に 私の経験から
英語の頭文字を日本語に直すと 次のようになります。

Time    自分の空いた時間
 人は何かと忙しいものです。しかし その中でも自由に使える時間というものがあります。
 その時間は相手と交流するために使うものです。誰が来るのか 誰と合うかは分かりません。しかし 何かをする時間 誰かと会う時間 心の状態 意欲 といったものも自分の時間に考慮し それら条件がすべて満たされれば「時間が空いている」という表現をします。物理的に空いていても心が塞がっている場合があります。深い悲しみに直面したとき。そういう時は 日本の風習では 喪に服する という表現をし 相手を思いやる文化があります。

Position  自分の立ち位置、立場
 人と話す時 必ず自分の立場というものがあります。商品を買う場合は売り手と買い手に分かれます。売り手と買い手の仲立ちをするものは商品です。厳密にカタカムナで言えば この仲立ちしている商品の事を指していますが TPOにおける英語の頭文字の説明としては 買い手としての自分の立場 と理解した方が より P の意味が際立ってきます。

Opportunity 相手の都合、状況
 自分の時間と立場について明かした時 あと残っているのは 周りの情況です。自分以外は周りしかありません。このことを カタカムナでは マワリテメクル と表現しています。英語の頭文字 O では相手の心の状態とか 言ってること していること 追われていること 時間があるか 余裕はどれほどか 心身が健全な状態か などが考慮され すでに 仲立ちとしての立場についても 自分があるから相手もいる ということで 説明はいりません。仲立ちは アマナ(アマのアナ) として隠れ 決して表には出て来ないのです。

Ocean   たくさんの相手がいる状況を海(オホワタツミ・電氣の海・オーラ)に例えた場合
 もうひとつ 英語の頭文字を例えるとしたら 海 という意味についてです。カタカムナでは オホワタツミ と言い 音の感触をそのままとれば 大きな環の立つミ という イミ になります。七種の勾玉では イワネタマ に当たりそうです。勾玉の意味は まだハッキリとは 明らかにされておりませんが 電氣の海で私たちは 現在も 暮らしており 私たちの内部では 昏し(クラシ) ではありますが 外部では明るい ということで 周りの環境がどうなっているのかを示唆した頭文字として 把握することができます。英語の O の形にしても 周りを取り囲む環っかで書くのは 実に自然であります。こうしたことで カタカムナの歌の 環っかを示す ワ という音は 英語の音の オ に通じ アルファベットのOであり オーラ と言った方が 直感的には しっくりきます。

言葉には氣が流れている。
雰囲氣をまとっている。

わたしが「いいね」を押すのは
もちろん いい氣だ と思った時である。

氣をいくぶん 自在に流すという
特性がある。

その特性ゆえ いままで悪用されて
きてしまったのだが
当の本人は 氣を流すという特性に
気付かぬまま 利用されてきた。

毎日 無感情でしゃべりつづければ
それを聞いた人も
無感情になる という氣になってしまうのだろう。

だからといって
いきなり感情を持ち出しても
何だ こりゃ と敬遠されるのがオチだ。

情には いくつか 種類がある。
愛情 友情 人情 心情 慕情 など

わたしが 特に 危惧していたのは
「情報」という言葉である。

そこに情はない。
ことばから 何も感じられない。

やはり 無感情である。

わたしは 感情をぶつける。
そのようにしてきた。

そして 眠れる感情を叩き起こし
感情がある ということを
思い出してもらうのだ。

いかに雰囲氣に流されやすいのかは
もう分かっただろう?

あの うさんくさい Cウィルスがまん延し
みんな 口チャックしたじゃないか。

そして ワクチン後遺症 なるものもあるけど
まずは 過去の 水俣病などの事例に
よい判断を下せるようにならなければ

とても とても 

今 起きている ワクチン後遺症については
届かないのだろう。

しかしねぇ いくら無感情だからって
ものの判断くらいは できそうなものじゃないか。

感において判断すること
それは 中身 を意味し
頭は その中身を取り除き
「外形」だけを外に出す。

そして その 情たる 外形のみが
残ったもの。。。それが「情報」なのである。

完全に 悪しき岸田によって
中身が抜かれてしまった。

いくら総理大臣が変わったところで
この悪しき習慣から 逃れられるわけでも
あるまいて。

魂なきロボットたちよ。
誰かのいいなりに動き
自らの感という 動力源を失った
あわれな 氣まとい たちが
次に行き着く先は どこなのだろうか。

まったく 氣が知れない。

 

男性と女性の性質の違いは
どこなのか
分かりますか?

男性は いわば 原因 と 結果 です。

それしかありません。


そのため 男性は
原因から始まり 結果に至るまでの過程が抜けている。

それに対し 原因から結果までの経過 を
現わしているのが女性の性質になります。

カタカムナの図象では

この 原因 から 結果 に流れる
ものの流れの過程を
「サ」という記号であらわしています。



精神の実体であり、中身です。


   カタカムナ図象の「サ」



ただ、これだけですと 物事の発端がどこなのかが分かりません。

結果も分からず 次の世代に橋渡しすることもできず

ただ ただ 流れ去るばかりです。



これらの 中身を パッケージ して まとめる

という 記号 が 「キ」 になり

ものごとの発端とか 終わり について 言い表しています。




   カタカムナ図象の「キ」



「キル」と言えば 切ることで
「切」の漢字が
「七」と「刀」から構成されていることも
なかなかに おもしろいものがあります。

太陽が出て 建物があり 
日陰ができる。

東から昇る太陽は
西にある建物で反射すると
西から昇ったように感じるものです。

もちろん
カタカムナ図象は
縦線が建物
「ヒ」が日
「イ」が影

という解釈ができます。





   カタカムナ図象の「ヒ」

Ⅰ.精神の興奮状態とカタカムナ

 

   カタカムナ図象の「マ」

 


カタカムナ図象の「マ」は大変に深い意味を持ち
ある種の精神の状態を表しています。

この「マ」という記号は
精神において、興奮状態にあるのか、鎮静状態にあるのか、
興味はありませんか?

カタカムナの記号とは
精神の働きと音の響きの相互作用のことです。

例えば、ある研究をしていて、
それが成果を結びそうになった時、
最高度に精神は高揚します。


 もしかしたら出来るかもしれない


という状況にある時は


今まで 出来ない が当たり前であったものが
できる に転換する展望が見えている。

でも 今の状態は できる とも できない ともいえない。

真ん中にある。

だから「マ」。

そう、精神の「マ」は中間にありて、
最高度の興奮をあらわしています。

その興奮が冷めていくと
「ホ」の状態になります。

「ホ」には熱をまだ持っている
余韻がある
熱はあるが鎮静しているような
精神の状態を表しています。



   カタカムナ図象の「ホ」


この記号に近い漢字があります。

座るという漢字の中に含まれる

 います

 おわす

 まします(高天原に神津マリ)

の音を持つ「坐」という漢字の形は

ふたりの  が左右に座り

敷居を境として 背中合わせになっております。


ホッ としているの ホ

安心のホ 落ち着きのホ 温めるのホ です。





Ⅱ.精神の鎮静と興奮を端的に表した記号


   カタカムナ図象の「ハ」


この記号は波の立たない
精神の鎮静状態を表しています。

小さな〇 を人に見立てれば
ふたりの人が左右にいて
両側で引っ張っている状態です。

真ん中から落ちてきたものを
弾き返しそうな形をしています。




   カタカムナ図象の「エ」


この記号は 上空にも 深い地下にも
等しく揺れる
精神の波の状態を表しています。

ダイレクトに人から人へ
精神のあり様を写そうとしていることの
表れであります。

風景があり、それを書き写したもの
「絵」というのも
こういうところが発端になっています。

精神においては
上空は喜び 地下は深い悲しみ
と捉えてもらってかまいません。

 

 

 

Ⅲ.真ん中から落ちるという表現について


    カタカムナ図象の「ル」


こちら、カタカムナ図象の「ル」でありますが、
「マ」という
ある種の「ワ(〇)」を構成する要素において
〇が切れていることを表現しています。

カタカムナ図象の「ハ」が両側にいて
二人の人が綱の引っ張り合いをする中において
真ん中から落ちるものを
主に協調した記号となっておりますので、

跳ね返すことはなくなります。

 

精神における「マ」が興奮だとすれば

「ル」は鎮静ということです。