言葉・音・流れる氣 | カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

言葉には氣が流れている。
雰囲氣をまとっている。

わたしが「いいね」を押すのは
もちろん いい氣だ と思った時である。

氣をいくぶん 自在に流すという
特性がある。

その特性ゆえ いままで悪用されて
きてしまったのだが
当の本人は 氣を流すという特性に
気付かぬまま 利用されてきた。

毎日 無感情でしゃべりつづければ
それを聞いた人も
無感情になる という氣になってしまうのだろう。

だからといって
いきなり感情を持ち出しても
何だ こりゃ と敬遠されるのがオチだ。

情には いくつか 種類がある。
愛情 友情 人情 心情 慕情 など

わたしが 特に 危惧していたのは
「情報」という言葉である。

そこに情はない。
ことばから 何も感じられない。

やはり 無感情である。

わたしは 感情をぶつける。
そのようにしてきた。

そして 眠れる感情を叩き起こし
感情がある ということを
思い出してもらうのだ。

いかに雰囲氣に流されやすいのかは
もう分かっただろう?

あの うさんくさい Cウィルスがまん延し
みんな 口チャックしたじゃないか。

そして ワクチン後遺症 なるものもあるけど
まずは 過去の 水俣病などの事例に
よい判断を下せるようにならなければ

とても とても 

今 起きている ワクチン後遺症については
届かないのだろう。

しかしねぇ いくら無感情だからって
ものの判断くらいは できそうなものじゃないか。

感において判断すること
それは 中身 を意味し
頭は その中身を取り除き
「外形」だけを外に出す。

そして その 情たる 外形のみが
残ったもの。。。それが「情報」なのである。

完全に 悪しき岸田によって
中身が抜かれてしまった。

いくら総理大臣が変わったところで
この悪しき習慣から 逃れられるわけでも
あるまいて。

魂なきロボットたちよ。
誰かのいいなりに動き
自らの感という 動力源を失った
あわれな 氣まとい たちが
次に行き着く先は どこなのだろうか。

まったく 氣が知れない というものである。

 

どれ、昔の映像でも流しておきましょうか。

 

音楽を聴くわけではないけれど、音楽を聴いているかのように

心地がよいものですよ。