カタカムナの共鳴 -4ページ目

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

今の世の中は
コロナから始まり
感染者が増えただの
米や食料品の価格が上がっただの

妙にあおるような
雰囲氣につつまれており

あおることで
まとまるような

熱を帯びるような
履歴性が
環境に印加されて

それに無意識に
従っているような氣がする。

それで
それ以外の もっといい雰囲氣があるのではないか

公共へ発信してゆく態度は
どういったものなのだろうか

という疑問を持ちつつ
以前にようつべ(youtube)に自分で撮った動画を
見ていて

自分が公共に発信するんだったら

 

 

 


こんな雰囲氣なのだろうなぁと思った。

じっくりと 時間をかけて 考えるという雰囲氣。

(あおりは無し)

公共の電波の活用の仕方は
何か問題(裁判が立ち上がったなど)が起きたら
それを水平展開し
共通の認識として持ってもらう

ということだと思う。

何か起きても 何も知らせない というのは
まったくもっておかしい。

森永卓郎さんが亡くなって
それを嬉しそうに発信する公共のメディア、

だったら彼の書いた著作とか
今起きている財務省のデモとか
それに参加する若い人にインタビューするとか
      (クライシスアクターではなく)
もっと深く切り込めばいいものを。

 

「惟神の道」ということが一般に言われていますが
この「惟神」とは何のことなのか

読み方を調べてみると
「かんながら」と読むそうです。

しかし「惟」という漢字には
音が 「イ」「ユイ」
訓じて「オモンミル」「コレ」「タダ」

となっており
漢文式に読むなら
レ点を打って

「神をおもんみる道」となるのでしょう。

書き方はそうなっていたとしても
ここで注目したい所は、音なんです。

「かんながら」という音、

この音から
元の方へさかのぼると

 かんながら → カムナガラ → カムナから

となり

「カムナ」から出てきたもの、という意味になります。



「カム」とは自然環境のことで
「ナ」は核となる思念です。

自然環境の中心から出てきたことによると~(ナニナニ)

という意味になり
自然靈、自然崇拝の心持ちを表わすようです。



「カムナ」に対応する言葉に「アマナ」があります。

カムナ と アマナ のふたつの柱から
何かが生まれてくる

という紹介が相似象学会誌ではなされています。



そして 「アマナ」は 現代科学の用語で言う
原子核にあたるもの、としています。



環境の核 と 原子の核 です。



このふたつの柱を見ていたというのです。



惟神からずいぶん拡張されてしまいましたが
元を辿ると このような感じになります。

一般的には
「考えること」と「感じること」は
区別されていますが

語源を辿ると
同じところから来ています。


 感じる → カムシル  → カム知る

 

 考える → カムカヘル → カムに還る → カムから孵る



カタカムナ は カム の ナ である型(パターン)を知ることであり、
ナ(中心核の役割) になる前の カム を知ることです。

ム や ナ は 数で表わせば
古神道の 6 や 7 の意味になり
やはり ム の方が大元の側になります。

カム のことを相似象学会誌の言葉を借りて訳せば
「自然環境」ということになり、

環境的に良い場所と悪い場所のことを
イヤシロチ や ケカレチ と言って区別しました。

また カム とは別に
「自然」に対しては「天然」という言葉をもちゐて
アマ と呼びました。

どちらが大元になるかと言えば
「天然」なわけで
「天然」のナリにのっとって
「自然」が「自然」にできあがる、と教えています。

/ / / / / / / / / / / / / /
/ 投資詐欺に騙され 泣き寝入りの状態       /
/ 警察は被害届も書かせてくれない         /
/ 実際に被害に遭っているんだけど!!       /
/ この状況に甘んじてのうのうと生きている奴らを  /
/ 許せますか?                  /
/ / / / / / / / / / / / / /
 
 
時系列に私に起きたことを並べました。
ここで出てくる金額は架空です。
 
犯人とはじめて出会ったのは2014年夏頃でした。
スピリチュアル系のセミナーに参加したときです。
 
女性の参加者が大多数を占めましたが、二人か三人、男性の参加者がいました。
会が終わった後は、後に私がお金を預けることになる男と二人で帰りました。
その頃、私はFX投資をしていました。
男もFX投資をしており、それで話が合いました。
 
 
それから一年が過ぎて、
 
2015年8月8日
男から誘いがあり、月島のビルで花火を見ながら、交流する会に参加しました。
 
 
2015年8月13日
男と都内でお茶をしました。
「クラウド・アトラス」という映画の上映会をする打ち合わせでした。
 
余談になりますが、私は、このクラウド・アトラスという映画が大好きです。
全シーンをこのブログ内で文字起こししています。
今思えば、男はそれにつけこんで、私との接触を図ったと感じます。
 
 
2015年9月13日
上映会を開催しましたが、参加者はゼロで、私と男の二人だけでした。
映画鑑賞後にビルの一室の部屋を買うことで、ネットで利用者を募り、
その家賃収入を得られる話を聞かされました。

 
 
その後、フェイスブックのメッセージで、男から投資の話をもちかけられました。
三人でお金を出し合い、運用するというもの。
家電の転売による利ザヤから配当金を得る仕組みですが、
特に詳しいことは聞きませんでした。
大好きな映画の上映会を一緒にやった仲ですし、特に氣にしませんでした。
 
ひとつの運用案件を三人で共同購入し、配当を分配します。
運用の枠は2万円、運用期間は三ヶ月、配当金は月利8%でした。
三人で運用する場合、一人当たり約7千円出せば購入できます。
 
私は当初、6千5百円ではリスクが高すぎると思い、
4千円くらいでやってみたい氣持ちがありました。
 
でも、投資額が2万円に満たなければ、購入することができないため、
誰がどれだけ出すのか、男とフェイスブックのメッセージで打ち合わせしていました。
男が多めに、8千円くらいなら出してもいいと言いました。
三人目の人はお金を消費者金融から借りてまで、この投資をしたいと願い出ていると、
男から聞かされました。
 
男と話しているうちに、当初4千円くらいで考えていたのですが、
6千5百円で運用してもいい という氣分になりました。
男とやりとりしていく中、その投資案件が魅力的に見えてきました。
 
 
2015年10月23日
上野駅で待ち合わせし、近くの喫茶店でお金の借用の手続きをしました。
 
お金は男が借りている形で、借用書を書いてもらい、運用をお願いしました。
借用書にサインしてもらひ、家に帰り、当日、すぐに6千5百円を銀行振込しました。
投資信託などのように、元本割れをするリスクも考えられ、
少し不安だったのですが、男を信用しました。
私に対しては、「銀行に預けるのと一緒ですよ」と言い、
元本は保証する と約束してくれました。
こうして、2015年12月、翌年1月、2月の運用をお願いしました。

 万象(タマ)の元は時間量と空間量(トキトコロ)から成る。万象の背後を占める始元量(アマ)から時間量と空間量が生起し、分化する。そして、万象には始元量の微分されたもの(アメ)が内在し、始元量のハタラキを代わりにオコナフという関連がある。ここに来て私は、神とか仏で表わされる信仰を始元量の相似象として見るべきことに氣がついた。人に宿る神性、あるいは仏性は始元量の微分されたものが集まってできたもの(アマナ)であると氣づくに至ったのだ。

 般若心経では「空」のサトリを「色即是空」と「空即是色」の二方面から説いているが、特に「空即是色」という認識が始元量から生起し、分化するという考えを表明している。これを昔の日本人は「アマタカマカ(数多の形は間の形)」と表現した。また、万物は始元量に還るものだという考えがあり、これを日本人は「ハラ」と表現した。 般若心経では「色則是空」のことである。あらゆる現象の背後には、その現象を起こした主体である始元量が微分され、集まり、形となっている。 般若心経では形あるものとして「色」と表現した。そして、現象を起こす主体のことを「空」と言ったのである。

 「空」は梵語では「シューニヤター」と言い、インドで生まれた数字のゼロと同じ発想で言ったものだった。ゼロはいわば数における始元量。数学はインドで発見されたゼロという思想の元に発展してきたのだが、日本ではこのゼロなる認識を「アナ」と言った。

 「アナ」とは「シヒ」の「カヅ」である。「シヒ」は「タマシヒ(魂)」とか「ムナシヒ(空)」の「シヒ」であるから、現象の背後を示しているのであって、数がゼロであることよりももっと大きな概念を表わしている。

 インドのコーサラ国で生まれたガウタマ・シッダールタが唱えた仏教には正と反の側面がある。人間に現れる我執迷妄の姿に関しては彼の死後も大いに研究が進められ、諸行無我(アマタム アディガタム 8P141参照)は人間の側から推察したサトリの境地を説明している。しかし、人間が我執迷妄していない姿として「ヴァヤダムマー サムカーラー」というサトリがあったことはあまり知られていない。これはシッダールタの臨終の言葉であった。シッダールタと同じ境地に達したごく少数の人たちが、彼の最後の言葉を仏の教えにすべきだと説いたのだ。このサトリは極めて人間的で、彼と同じ境地に達するような厳しい体験がない限り分かりようがないのだが、これこそ人間としての最高の在り方を示す言葉であった。シッダールタの死後に夥しい経典を作らねばならなかったという事は、彼のサトリが果たしていかなるものであったのかに深く迷った人間のスガタそのものだったと言えるのである。

 

(相似象学会誌 第二号 より)

感性(第一印象)が生まれた後に知性(習慣)が育まれ

同じものはひとつもなく すべてが感性で出来ている


それだと不便


一括りにするという技が知性!

そして 感性と知性は
どちらも大切


その両者のバランスをうまく保つコツ
理性 である



漢方薬は


生薬を飲んでその働きを後で知る 感性
すでに飲んだことのある生薬についてのまとまった 知性
知性をたくさん集めて いろいろな症状が現実として現れた時
どの生薬を混ぜて飲むのがよいかを判断する 理性

 

から出来ています

カタカムナの歌は
下図のように
螺旋回転する文字として
書かれています。



カタカムナウタヒの第一首を表した図


外に現れる螺旋は
右回転をしています。

この右回転が進む向きは

見ている方向に進むのか
見ている方向とは逆に進むのか

があるように思います。


右ネジの法則を思い出してみると
この右回転の螺旋運動は
見ている方向に進んでいると思われます。

沈み込むので
天地で言えば 地 の方を表わします。



カタカムナの記号、本体側は

ヒ フ ミ ヨ イ

で左回転の螺旋運動となっており、
こちらは 天に向かう方向 です。

 


それで
左回転がそのまま進むと
見ている本体(目)をつきぬけて
裏にいってしまうので


見ているものの背後


という表現をしたのだと思います。
 

感受性についてのおもしろい記述が

静電三法の本にありましたので、紹介します。

 

 

 身体の働きに障害が起きる原因は素因(内的環境)と環境(外的要因)に区分けされる。身体の一部が特定の病気を招きやすい性質を素因という。これに対して病気を退ける力のことを抵抗という。素因と抵抗は正反の関係である。素因と感受性は比例し、抵抗と感受性は逆比例の関係にある。そして病気になる時は同じ環境(種類、強さ、さらされる時間、さらされる部位)であっても各人の感受性のいかんによって症状の出方が異なる。言い換えると同じ環境にある同じ種類の培養菌が二人の人に襲い掛かった場合、片方は全然平気で、もう片方はすぐに症状が出たりする。また両方の人が同じ病気に掛かったとしてもその後の経過で治りやすさが異なる。こうした事実をみると、病気のかかりやすさは単純に環境だけに依存するものではないことが分かる。素因も病気の成立に関して重要な役割を果たしてゐる。

 素因については一般のものと個人のものに大別できる。一般的には健康体である人の年齢別、性別、人種別、臓器別の感受性で判定する。個人的には先天性のもの(遺伝、体質)と後天的に変化した感受性で判別する。個人がある培養菌に対して免疫を持つ場合、素因が著しく減退しているか、消えているような状態と言へ、その培養菌に対しての感受性がかなり低い状態にある。ある種の病気に対して抵抗力が大きい(感受性が低い状態のこと)場合、体内においては菌の着床を防いでいるか、着床しても菌の出す毒素を感受していないかのどちらかが考えられる。

 

集まりがあって、それが終わるとき、
おひらきにする、という。

開くの反対は閉めることだが、
終わる時に閉めるとは言わない。

閉めるというのは
引き締めるという語感なので
どうしても違和感が出てしまう。

人が集まるときは
締めている状態。

普通なら、あらゆる人が、
あちらこちらへ移動する。

それが移動しないのは
引き締めているからであって
移動してもいい時には
開かないといけない。

だから
集まりを終える時は
おひらきにします
と言った方がしっくりくるのである。

語感がそのままの意味を伝える。

こうして
日本語は長きにわたって
人から人へ伝わってきたのである。

日本では
「人に迷惑をかけるな」と教えられる。

「周りへの配慮」が
すっかり骨身に染みついてしまう。

なんと息苦しい考え方を強いられてきたものか。

インドでは
「みな人に迷惑をかけて生きているのだから、
 色々なことがあるだろうけど
 許してあげましょう」
と教えられる。

日本では
「失敗は許されない」とか切腹とかいう
文化が発達した。

責任感が強く、信頼がおける。
信用は何よりも大事。

そこはいいところだ。

しかし、相手の問題を自分の問題として
片付けようとしてしまうきらいがある。

取り扱う範囲がでかすぎる。

自己と他者の分離ができない。
自分も他者も同じだと考える。

自分の考え、他者の考え、
それぞれの情況を受け容れる。

自分と他者を分ける。

分けたうえで受け容れる。

受け容れられぬ時はどうするか。
その時は文句を言えばいい。

配慮されるのを待っているのではなく
配慮するように
もっと気を配るように文句を
言えばいい。

権利の侵害だ。

生きるスペースの侵害だ。

同じ場所で生きている。

広い時も狭い時もある。

狭ければ、ぶつかることが多くなる。

狭ければ、狭いなりに、
住む範囲を分けて
浸食しないように
気を配る必要が出てくる。

そう、支配者は
生きるスペースを狭くすることに
必死だ。

そうして
ぶつけて
楽しんでいる。

ぶつからないように
広くスペースを取ればいいのに。

広さはどこからもたらされるか。

足りている状態というのは?

人のものを搾取する考えは
どこから生まれたのか?

集めて、みんなのために使うお金。

公共のお金

会社のお金

個人の財布に入ったお金


身勝手に使うのか。

それともみんなのために使うのか。

自分のために使うのか。

しいて、それが、みんなのために
なるものなのか。


必要なものと必要なものの間に
媒介するお金という文化。

お金は交換を容易にする道具。


お金は必要なものと交換されてこそ
威力を発揮する。

不必要な工事とか設備とか
接待とか
何に使ったのか言えない機密費だとか

お金がお金として
ちゃんと働かず さぼっている状況が
ずっと続いてきた。