カタカムナの共鳴 -3ページ目

カタカムナの共鳴

―――――――――――――――――

「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

 

 

カタカムナの歌は 形が先で 音が後という解釈がなされています。

それは 解読者の楢崎皐月先生が

平十字から巻物を写させてもらって

それを解読した経緯から、

形を見せられたのが先で そこに音を後からつけた

というふうに言われています。




しかし 実際は 音が先にあったのではないか

という氣がしています。

相似象学会誌の4号、5号、6号では

歌を先に詠んで、意味を後で考えて、解説する

という方法をとっています。

解説する時に形(カタカムナ図象)は出てきません。




音の意味を伝えるために 形を使った ということだと思います。

音には思念があって、ひとりでに歌が出てくるようです。

よく 歌が降りてくる など 作曲家の人は言うかもしれませんが、

それと同じ感じです。

誰かしら思ったことが どこかでまとまり 言葉となり

聞こえるようになる ということで

言葉になる前は 思念であった 

思念が漂っていた(まとまらずに)




カタカムナウタヒの第五首に

 カタチサキ の文言がそのまま出てくるけど

それもまた、サキ を 先 の意味にとってよいのかどうか

疑問が残るところです。

形の差が氣になった くらいにしておいた方がよいのかも知れません。

 このブログではカタカムナという考え方の教科書を「相似象学会誌」とそれに類する書籍において、カタカムナとはどういう意味なのかを解説してゆくことを目標にしています。実際には「相似象学会誌」があまりにも分かりにくいため、自分の分かる言葉で翻訳する、という作業です。そして、自分の分かる言葉に翻訳したものは人にも聞かせて、分かったことを共有したいという想いがあります。
 この翻訳作業は何度も修正を加えるため、そう簡単には言うことはできない難しさがあります。分かったと思って言ったとしても、時間が経つと、それを修正して言い直す、ということをしなければならなくなります。しかし、カタカムナのことを知りたいという人は自分だけではないはずです。この記事を読んだ人が自分なりにカタカムナを解釈して発表することでも、この翻訳作業は後押しされます。実際に、自分の言葉に直して翻訳する、という作業をしている人はぜひとも参考になさってください。

学校の教育で習う
地球と太陽の自転と公転の模式図は
カタカムナ図象を感じるには
かなり不向きでして

それがなぜ不向きかと申しますと

 温度感が図の中から伝わらない!

というのがあります。



縦軸は時間の軸ではありますが
正確には「時間量」の軸です。

「量」というからには
「大きサ」を持ちます。

何の「大きサ」かというと
思うに
自分独自の考え方ですけど

 加速度

なのではないでしょうか?



それで縦軸の時間量をあらわす時に
上にあれば 加速している
下にあれば 減速している

そのもの自体は 常に動いている

ということだと思います。



決して止まらぬ 地球(太陽)のように
自転と公転の温度差が伝わりそうな
模型は 手書きではありますけど
こんな感じではないでしょうか?

 







まるで自転車をこいでいるかのような
でも、夏と冬の温度感は
こちらの方が実感できそうです。

だいたい考えたことは
間違っていて
後で修正することは多いのですが
今回は自分の思うことを
書いてみました。

それは なんというか
図の中から
カタカムナの動く実感を
感じてほしい

もしくは 感じたい

と思うからです。

違和感があれば
そう思った時に
また修正すればいいと思っています。
 

カタカムナ図象についても
 ヒ フ ミ ヨ イ  は鏡のように左右対称に書かれています。

実は左右が対称なのではなく
前後が逆になっている。

前後を合わすために
左右を反対にして
自分が鏡の中にいると想定するので

左と右が反対になってる!

という錯覚を覚える。

前後を合わせるために
上下を反対にする方法もあります。

ですが、その方法は取らない。

足を地面につけて
歩いて生活している中では
なかなか
逆立ちして前後を合わせようという
発想はしないです。

前後が反対だと
向かい合わせになります。

ただ・・・
 ・鏡の方向に向かい合わせなのか
 ・鏡と逆の方向で向かい合わせているのか
という違いもあります。

実際に鏡を見て向かい合わせると
前と前で向かい合います。

背中と背中で向かい合う場合もありそうです。

 



それで
鏡の中にいるものを

カタカムナ とした。

という歌が第二首に書かれています。

 ヤタノカガミ カタカム ナカミ

鏡のある場所が ナカミ に当たります。

双方の存在を成り立てる場 という感じです。

そして、この ナカミ のことを
アマ と呼び

アマ の吹き出し口を アマナ と呼んでいるようです。

 合っているかどうかは分からないけど、このように考えて居ます。

 内外の環境の区分けがまずある。その環境の区分けでエネルギーの移動が起きる。エネルギーを溜めては吐き出し、溜めては吐き出し、を繰り返している。室内のエネルギーが高くなれば「熱い!」という感受になる。その「アツサ」は外の環境に放出することで、エネルギーの値が下がり、「涼しい」という感受になる。そのため、涼しくするためには、中のエネルギーを外に排出する、という動作が常に働くことになる。
 また、外の環境も熱を溜めては吐き出し、溜めては吐き出し、をしている。どこに吐き出すかというと、宇宙である。宇宙は、力の壁で囲まれており、これ以上、外に行けないという領域のことを言う。仮に、外というものがあったと仮定して、宇宙と呼ぶ。なので、宇宙に空間があるわけではないし、宇宙を旅行したり、光が何光年もかけて宇宙を移動したり、惑星が何年もかけて宇宙の中を移動する、というのは、実際には、そういうことは行われておらず、いわばミラージュ、鏡に映る影として、映っている。宇宙に旅行するとか、地球の外を飛び出して宇宙に行くとか、惑星の質量がいくつとか、そういう概念は、私たちの地球での物体の運動とか距離の概念を延長して、仮に決めているだけであって、実際には、そのような重さというものはない。空想科学小説のようなもので、空想して、楽しんでいる。(実際に空想ではなく、本当に宇宙に行こうとアメリカとソ連が争い、宇宙に行ったことにする、という嘘は現代でも直されていない・・・)
 さて、そのような宇宙は、何か別の力が働いている。その力のことを古代語では「アマナ」と呼んだ。「アマナ」は「オモサ」という感受になる。エネルギーの値が増えると「オモサ」が増えるのだ。「カサが増える」とも表現する。さきほどの「涼しい」という感受なら、物体のオモサが小さくなると涼しくなる。中の環境のオモサを外に排出している、とも言える。オモサを外に出す、というのは、何となく表現がおかしいようだけど、実際にそうなのである。それで、外に出たオモサがどうなってしまうかというと、宇宙のミラージュに運動として、反映される、という仕組みになっている。なので、空に映る惑星の動きは、私たちの心のオモサを運動として、描いている、ということになり、惑星の運行が規則正しいように、私たちの心も、いつも同じようなことを考えている。
 心に「オモフ」ということも「オモサ」である。心の量の多さで「オモサ」を測る。心の方向と、その方向にある量で「オモサ」とか「カタチ」が決まる。「カタチ」になるか、ならないか、という問題もある。物体は、固体、液体、気体のそれぞれの相をとるのだが、気体では固体や液体に比べてほとんど「オモサ」が無い状態である。物体の密集の度合いとも言える。密度が多いほど見えるようになり、少ないほど透けてくる。しかし、透けているといっても、その物体が無いということにはならない。薄いけど存在はしている。内外の環境のエネルギーの移動を行う媒体として、ちゃんと存在しているのである。
 そういう見えずらい存在を簡単に表わす手法として、カタカムナの図象が開発された。物体の位置でカタチが分かり、オモサを感じる、ということをする。丸の中の環境があり、丸の外は宇宙を表現している。中の環境は上と下、右と左に分かれる。上は薄く、下は濃い。「タマル」という感受は下の濃い状態を表わしている。「暑くてタマらない!」という場合は、もうこれ以上、中の環境にエネルギーを置くことはできません! というのを端的に表現している。右と左は止まっているか、動いているか、の区分けである。古代語では「シヅマリ」「タカマリ」と言っていた。感受というのは中の環境の感受であるから、これを外(宇宙)に持っていった場合は反対になる、という性質がある。私たちが感じる右は「タカマリ」なのだが、カタカムナの図象が示す右は「シヅマリ」として表される。
 重い、暑い、中でグルグル動いている、という状態はエネルギーの高い環境にあり、軽い、冷たい、動かない、という状態はエネルギーの低い環境にある。エネルギーのバランスをとるために、内外の環境は常にエネルギーの授受が行われ、重さを変えたり、熱さを変えたり、中で運動してみたりする。外の環境に出しずらい場合、重さを変えずらい場合、中で位置を変える。その位置を変える動きが、中の運動になってくる。中の状態をミラージュとして外に移す。それをカタチとして表したものがカタカムナの図象となった。

 それぞれの サ のある回転の中で アウ回転 と アナのできる回転 がある。サ があるという意味は「それぞれが微妙に違う」という意味である。同じ種類の花であっても、型は同じだけども「まったく同じ」というのはなく、どこか微妙に違っている。自然界の法則のようなものを「サ」の一言で言い表した。(動画を添付します)
 

 

 

 

 合わすという性質 と 穴をつくる性質。この両者は 完全 に離れる。自分も それは イヤ というほど体験した。いくら 合わそう と思っても 穴をつくる性質の人 には合わぬのだ。図形で書くと全体的に 左に回るか 右に回るか の違いになる。(図を添付します)



 個々の性質を サ で表わし 全体的な(環境的な)性質を キ で表わす。

カタカムナ図象のおぼえ書き

 

 

 

右からの「サ」

 

 

 

 

左からの「サ」

 

 

 

 

 

真ん中で合う その位置が「ナ」

 

  「ナ」は「サ」の中におる

 

  「ミ」は「サ」に沿う形で 右と左からの違いから 位置がズレる

 

 

 

 

 同じ言葉でも時間と空間の区別があることがよく分かる事例を載せます。これはカタカムナの本を出している水分紅月さんの載せた俳句からの引用です。「前」という言葉が出るのですが、この「前」が時間になったり、空間になったりします。ちょっと感じてほしいため、例と例の間は改行を多めに入れておきます。

 




例1  米洗う前へ 蛍のふたつみっつ




 この俳句では「前」が空間を表わします。自分は今、米を洗っているのです。そして、その洗っている途中に蛍の光が、ふたつ、みっつ、飛んでいるという情景を表わした俳句になっています。




例2  米洗う前に 蛍のふたつみっつ




 この俳句で使われる「前」は時間を表わします。米を洗うという仕事はこれからしなきゃいけないのですが、でも、その前に、蛍をふたつ、みっつ、追いかけた、もしくは、捕まえた、という情景が思い浮かびます。
 あと、よく分からないというか、意味の通じない例がありました。私はよく分からないのですが、一応、これも紹介しておきます。

 




例3  米洗う前を 蛍のふたつみっつ
 

 

 

 

 よく考えてみると、この前は、時間と空間の結節点のような感じがします。今、私は米を洗おうとしている。しかし、米を洗う前に、ほたるが飛んでいるのに気がついた。私はぼうっとしながら、蛍に見入った。米を洗うはずだったのが、すっかり忘れてしまった、というような情景です。もしほたるが居なければ、米を洗う時間になっていました。それが、「ほたるの飛ぶ空間」が現れたことで、私の予定された時間が、空間にとって変わったのです。

 

日本語は五十音と言われるように
五つの母音 と 十の子音 の
二次元の行列の組み合わせから成っている。
(厳密には少し違うけど、おおまかには)


また数を表わす音は
母音とは関係無しに
また別の音に宛てて
表わしている。

その音は

 ヒ フ ミ ヨ イ ム ナ ヤ コ ト

のように 一音で表わされる。


ここで不思議に思う。

なぜ 母音 を そのまま
1 から 5 までの数に宛てなかったのか


カタカムナ記号で書く母音の表記は

 ア は 1のマリ で表わされる。

 ウ は 3のマリ で表わされる。

 イ は 5のマリ で表わされる。

 オ は 6のマリ で表わされる。

 エ は 3と7のマリ で表わされる。


カタカムナ記号は 思念 とも言われる。

人のこれまで生きてきた残存思念である。

これを受け継いでいる。


その音を聴いて どう思ったか? を表わしている。


その思いが受け継がれている。


 あ・・・明るい 明らか 開かれた空間

 お・・・暗い くるまれた 閉じた空間


明るい数えは  ヒ フ ミ ヨ イ

暗い数えは   ム ナ ヤ コ ト


それで 明るい状態は 昼

    暗い 状態は 夜 を表わしている。



昼と夜のまざった状態は
マリの構成から推測すると「え」にあたる。


そして 明るい 暗い 両方が混ざっている

という 3つの状態 を

カタカムナの歌では アカ アオ アヤ と言っている。



また 3のマリは「う」にあたる。

なので 「う」は 3つの状態のそれぞれを表わしていると

予想できるのだが 「う」という音を聴くと

閉じ籠るような思念を感じる。


「お」がくるまれた感じなので、似ている。


ここを どう区別したらよいのだろう。


「お」は閉じた空間だけど 大きい という感じである。

「う」は・・・閉じているけど

何が閉じているかというと 多分 時間なのではないだろうか


「う」には 大きい とか 小さい が無いように思う。

比べるものがないというか。


「う」が 3のマリ  「お」が 6のマリ というのも

何だか似ている。


比べるものがない 分かれていない


分かれる前が3  ふたつに分かれて6 なので

数からすれば 意味は合っている。


そうすると

 う・・・時間

 お・・・空間

という意味になりそうである。


残りは 「え」 と 「い」 であるが

マリの構成から

「え」の 3 と 7 を端端の位置と考えれば

その中間地点は 5 であるから

これを「い」と言ったように思える。


「あ(明るい)」と「お(暗い)」の
混ざった状態を「え」として

もっと大きな概念で 思念をとると

混ざっていない状態を「い」にしたのでは
ないかと思へる。


そうすると

 え・・・明るい(あ) と 暗い(お) が混ざっている

 い・・・混ざらない

という意味なのではないだろうか


現在では「あいうえお」が主流だが

以上の意味をふまえて、順番に並べるとすると

概念の大きなものから 小さなものになるに従い

「いえあおう」 となりそうである。


もし 母音で数を表わそうと思ったら

 い・・・1

 え・・・2

 あ・・・3

 お・・・4

 う・・・5

としたら よさそう。

カタカムナのことで とても勇氣のある発信 を
したため また一歩 すすめることができます。

やはり 発信するにしても
発言するにしても
そのひとつたるや とても労力がかかり

別々に分けてやった方が
いいという向きもあります。

カタカムナ が 滅ぼされることを恐れて
発信を無意識に避けていましたが

私でも 誰かでも
何かしら 外に出すことができれば
何かが変わるものです!

例えば
カタカムナの歌の
第一首から第四首までの意味が
分かるようになるのも

そういう

 外に出してくれた恩恵

なのだろうと思います。



自分だけで考えても 意味は読み解けないです。


誰かも何か考えて 発信することで
別の誰かが 何かを思いつき
試行錯誤することで 何かができます。


カタカムナのウタヒ 第一首 というけど
一が始まりでなく
二から始まり
四まで行ったら 一に戻る

という動きのようでした。


それで
始まりの 第二首 は

 ヤタノカカミ カタカムナカミ

という歌です。



カミ という意味は
こうなんじゃないだろうか

というのを
以前載せた記事 に書き加えました。

たしかに
こう解釈すると
ありがたみを感じます。

その
ありがたみを感じる

 カミ

という音から
第二首の意味が
浮かび上がってきました。

つまり こういうことです。



カタカムナウタヒ 第二首

 八断の「カ」は代わりに現れた身で「カタカムナ」と呼ばれる
  (ヤタ)

と翻訳しました。