「蛍大名」京極高次
「私説桶狭間」206回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)最終章、スタートは関ヶ原です。主人公といえる太田牛一がこのときどこにいたのかは記録がありません。しかし淀殿が饗庭局らを大津城に派遣したのは事実で、豊臣家での役職と淀殿・京極殿との関係から牛一はこの一行の一員として大津城に向かった可能性が一番高いのではないかと思いました。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)は太田牛一74歳。さすがに戦いに参加はしていないでしょう。但し、牛一よりも3歳年上の金森長近は東軍の武将として参戦していますし、93歳で参戦し小説にもなっている大島光義という人は、実在の人物だそうです。当時の人々は足腰が自然に鍛えられていたから、老齢でも心身がしっかりとしていたのかもしれません。さて、本文に登場する京極高次、この人の母は浅井長政の姉である京極マリアです。浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻にもちながら信長と敵対することになった人物で、淀殿の父にあたる人です。本文でも一度書いていますが、高次と妹の龍子は淀殿のいとこということですね。高次は将軍義昭から織田信長に送られた人質として幼少期を美濃で過ごし、そのまま信長の家臣になりました。本能寺の時には明智方に付き、明智光秀が敗れた後は一時柴田勝家に匿われていたようです。このとき秀吉に高次の助命を嘆願したのが秀吉の側室となっていた妹の龍子でした。高次は許されただけでなく近江国高島郡に2,500石の領地を与えられ、後に5,000石、1万石に加増されます。淀殿の妹初との結婚後も小田原征伐での加増転封、秀次関白就任時の従五位下侍従など、高次は着実に昇進を続け、文禄4年(1595)大津城6万石へと加増、従四位左近江少将に叙され、豊臣姓を下賜されました。翌年にはさらに従三位参議に任官し、以降「大津宰相」と呼ばれるようになります。この頃から京極高次は陰で「蛍大名」と囁かれたそうです。彼の出世は実績からではなく、妹や妻の“尻の光”つまりは血脈で出世したという意味です。たしかにものすごい出世で、周囲がそう噂する気持ちが分かりますし、当の本人もそう思っていたのではないかと想像してしまいます。関ヶ原のあった慶長5年(1600)高次は当時の年齢(数え年)で38歳。壮年といっていい年齢で、彼としても忸怩たるものがあったように思えます。