「私説桶狭間」214回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

本文とは話が前後するのですが、この人物の事は記しておきたいと思います。

片桐且元です。

 

すでに本文で書いていますが、関ヶ原以降、豊臣家の家臣の中で徳川家康に対面できたのは彼と小出秀政、寺沢正成の3人だけでした。

且元より16歳年長の秀政は慶長9年(1604)に死去。且元より7歳下の正成は慶長6年(1601)2月には元々領していた肥前唐津に加え天草内4万石を加えられ、ほぼ家康側の家臣といっていい立場となり、島津氏との戦後処理の交渉をしています。

つまり本文の時点で寺沢正成は大坂城内にいなかったようです。今書いている本多正信との対面はフィクションでもあり具体的にいつとは決めていませんが、もしかしたら小出秀政も体調を崩したなどで出仕はしていなかったかもしれません。

 

片桐且元は関ヶ原以降、徳川家康との交渉役として気苦労を重ねます。彼は元々賤ケ岳の七本鑓の一人に数えられるほどの武勇を持ち、秀吉の直参衆になった人物です。人並み以上の能力をもっていたと思われるのですが、むしろそれが彼の後半生を暗いものにしています。

関ヶ原以降、彼はほぼ一人で徳川との交渉役と務め、寧ろ豊臣の人々の疑心を集めてしまいます。

有名な『方広寺鐘銘事件』では徳川家康から無理難題といっていい要求を突き付けられ、一方同時期に徳川へ遣わされた大蔵卿局らは懇ろなもてなしを受けて大坂に戻ります。

大坂に戻った且元は家康からの条件を提示しますが、すでに大蔵卿局らの報告を受けていた大坂方は、且元を完全に疑うことになります。家康の策略通りだったのでしょう。

 

これが原因で且元は大坂城を脱出しました。豊臣家は且元の大坂屋敷を打ちこわし、これを聞いた家康は豊臣家への宣戦を布告、大坂冬の陣が始まります。

且元は徳川方として出陣し、大坂勢と戦います。

このとき彼はどんな気持ちで戦っていたのか、それを知る術はありませんが、想像するための傍証はあります。

片桐且元の死は慶長20年(1615)5月28日、豊臣秀頼や淀殿の切腹による豊臣家の滅亡からたった20日後の事でした。60歳でした。

前年から肺病を患っていたそうですが、それにしても、という感じです。

まさに命を削る日々を送っていたのだろうな、と思います。