「……つまり、秀頼様はもちろん、お袋様もあの戦には関与していなかったと、書けばよろしいのでしょうか」

 上目づかいで牛一が言うと、正信は微笑み、

「察しのよい方と話をするのは、楽です」

 と言った。

 しかし、正信からの依頼を初めて聞いたなら、牛一もそこまで意図を読むことは出来なかっただろう。昨日片桐且元に聞いた時から、何故自分になのか、とそのことをずっと考えていた。

 正信が依頼するなら、それは徳川家康の意図なのだろう。しかし、関ケ原の記録を残すだけなら徳川方にはそれくらいの文章を書ける家臣は何人でもいるはずだ。わざわざ豊臣方の牛一を指名するのは、それだけの理由があるからという事になる。そして考えた結論が先程の言葉だった。

 石田三成は太閤無き豊臣の権力を我が物とするため、上杉景勝と謀って謀判を企てた。豊臣家の支柱である徳川家康は、関ヶ原で三成らに勝利し、その野望を砕いた。この筋書きを公的なものとするため、家康は牛一を任命したのだろう。

 豊臣秀頼付きの家臣であり、淀殿にも仕えている牛一が書くことによって、その書は豊臣家の公式見解ともなる。それは家康が兵を起こした大義名分そのものであり、自らの野心のために兵を起こしたのではないということを広く知らしめることになる。

 もちろん、このことは豊臣家にとっても利のあるだろうと牛一は思っている。秀頼や淀殿はこの一件に関係はなく、あくまで三成らが勝手に事を起こしたということになる。

「貴殿が書をまとめるために史料が必要ということになれば何でもお申しつけください。また、聞き取りをしたいということであれば、こちらからその人物に話をつけます」

 本多正信は口元にある微笑みを残したまま、牛一への目線を強めると言った。

「わが(あるじ)も助力を惜しむなと申しております」

「ありがたきお言葉」

 牛一は深々と頭を下げた。

 

「ところで、太田殿は総見院様(織田信長)の伝記を記されておられますね」

 少しの間のあと、ややくつろいだ口調で本多正信が言った。

「ご存知でしたか」

「ええ、今度のこともありましたので拝読しました。あれだけの記録、よく残しておられましたな」

 正信の言葉に牛一は軽く頭を下げ、

「いえ、京での公務に着いた時から溜めていたもので、そのときは一つにまとめようとは思っておりませんでした。まあ手慰みと言っていいかもしれません」

「いやいや、あそこまでまとめてあれば貴重です。後世に残る」

「恐縮です」

 世辞か、と牛一は思ったが、正信は軽い微笑みを浮かべた顔を崩してはいなかった。

「読んでいて懐かしかったです。もっともしばらくの間(それがし)は徳川の家から離れておりましたので、知らなかったことも多かったのですが」

(ああ、それは)

 聞いたことがある、と牛一は思った。

 確か徳川家康が三河で独立してすぐの頃、領内で一向一揆が起こり、熱心な信徒であった正信は一向宗の武将として家康に敵対した。一揆の鎮圧後正信は徳川家を出奔し、諸国を流浪したという。

 今の正信からは信じられない話だった。

 

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