「私説桶狭間」219回目、最終回です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

太田牛一の享年は本文にある通り慶長18年(1613)、87歳と伝えられています。

生年月日と亡くなった日が分からないので正確ではないのですが、現代なら86歳といったところでしょうか。いずれにしても長命です。

 

牛一の墓は大阪府池田市の佛日寺(ぶつにちじ)にあります。佛日寺は現在の豊中市辺りとなる麻田藩青木家の菩提寺であり、牛一の子である又七郎牛次が仕えていました。麻田藩は青木一重が初代藩主です。一重は青木重直の長男、重直は元美濃斎藤家の家臣でした。

本文最初のエピソードである永禄2年の信長初上洛で、暗殺団の1人だったのが青木重直です。以前にも書きましたが『信長公記』の信長初上洛の記述で、青木重直の名が削除された本があるのは、子の主君筋だったという理由があったのだと推測できます。

 

美濃出身ですが初め今川氏真に仕えた青木一重は、徳川家康、丹羽長秀、そして豊臣秀吉とメジャー級の主に仕えていきました。秀吉には黄母衣衆の一人に選ばれています。秀吉の死後は秀頼に仕え、関ヶ原では大坂城にいました。

大坂冬の陣では豊臣方として参戦しましたが、休戦後、秀頼からの使者として駿府の家康に派遣されます。しかし家康にはこれから上洛するので京で対応すると言われ、京に向かうと家康の意を受けた京都所司代の板倉勝重から「もし大坂に戻れば家康に仕えている弟の命はない」と脅され、やむなく剃髪し、隠棲します。

一重が家康に仕えていた頃、姉川の戦いがあり、朝倉方の武将を討ち取るという武勲を挙げました。このことを家康は覚えていたのかもしれません。いずれにしても大坂夏の陣では豊臣勢の人数を事前に減らしておくという事があったのでしょう。

大坂夏の陣が終わると一重は、再び家康に仕えることになり、領土は安堵されました。

 

以上の経緯で青木一重は麻田藩の初代藩主となり、青木家は江戸時代を生き続けます。

太田牛一の墓が佛日寺にある理由は、そういうことなんですね。

 

本文、まずはこれで終わりです。

でも、いろいろ修正したい部分があるので、改作を作っていこうと思っています。

調べてみたら、2013年の1月から始めていました。7年半かかったということですね。

ちょっと長すぎ。今度はもう少し早く終わらせようと思います。

これまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございました。

またよろしくお願いします。