「私説桶狭間」217回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

 

 

 

太田牛一という人物は、『信長公記』以外にも多数の著作を残しています。

『関ヶ原御合戦双紙』『大かうさまぐんきのうち』などは本文でも書かれていますし、彼の自筆本とされているものも割合残っているようです。

関ヶ原以降の牛一は、その多くを推敲しています。

中には人に頼まれて名前を追加したり文章を変えたりすることもあったようです。『関ヶ原御合戦双紙』にあなたの子息4人の名前を書き入れますと牛一が書いた手紙が残っています。

『信長公記』にしても、例えば永禄2年に信長が初上洛した時、信長を暗殺しようとした美濃衆の中の1人の名が削除されていたりします。どうやら牛一の息子が仕えた家の人物だったようです。主家筋が言ったのか息子が頼んだのか、牛一自身が忖度したのかは分かりませんが。

 

さて、太田牛一の著作には思想といえるものが通底しています。「天道」です。

特に『大こうさまぐんきのうち』は明智光秀や柴田勝家、北条氏政など、秀吉に敗れた武将たちと戦いが描かれていますが、武将の最期の後には『天道おそろしき事』という言葉が使われているそうです。

天道という思想は牛一の創作ではなく、戦国時代には一般的なものでした。元々は古代中国の儒教や道教から生まれたもので、人知の及ばぬ天の理という意味合いでした。

戦国時代の日本では武士階級を中心に普及し、キリスト教の宣教師なども『神』の和訳として『天道』という言葉を使っていたようです。

理不尽なことや無情なことが通常モードのようにあっただろう時代だからこそ、このような考え方が普遍化したのでしょう。

 

で、牛一です。彼がこのような思想を強く持ち、著作にも反映させていったのは老年になってからではないかと想像しました。

特に『信長公記』なのですが、これは記録魔である牛一がずっと書き残していたメモ(カード)を元に構成したものだといわれています。そこには多少感想も入っていたかもしれませんが、事実だけを書き留めた忘備録のようなものだったのではないか。

また、『信長公記』には取材をしていると推察できる記事も割合あります。

そういった様々なパーツを書冊にするとき、最初は繋ぎや穴埋めといった事情で「天道」思想を加え始め、推敲を重ねるごとに増えていったのでは、と想像します。

後世、天道が絡む文章は、信憑性などの問題から“差し障り”となる場合が多いようなのですが、当時は自分の文章がここまで研究されるとは思っていなかったでしょうし、このあたちは仕様がない所かな、と思います。