「私説桶狭間」207回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)
この稿では本文中で少ししか触れなかった大津城の戦いにおける西軍側の武将たちを紹介したいと思います。
まずは大将の毛利元康、この人物は丁度桶狭間の戦いがあった永禄3年(1560)毛利元就の8男として誕生しました。
元就から出雲の末次城を与えられたことから末次元康とも呼ばれます。
秀吉の四国征伐などで戦功を立て、元々尼子氏の本拠だった月山富田城の城主になっています。文禄・慶長の役では兄であり主君でもあった毛利輝元の名代として朝鮮に出兵。碧蹄館(へきていかん)の激戦などで武功を立てました。
関ヶ原では前哨戦となる伏見城の戦いから参加。大津城では西軍の大将として参戦しています。
小早川秀包は毛利元就の9男、つまりは元康の弟にあたります。
人質として大坂に送られ、秀吉に大変気に入られたそうです。名前の秀という字は秀吉から与えられました。四国征伐、九州征伐では数々の軍功を上げ、筑後7万5千石を得たときは、久留米城を建造し、居城としました。
文禄の役では異母兄で養父でもある小早川隆景と共に出陣し、碧蹄館の戦いでも明軍を撃破する活躍をしました。
立花宗茂は有名ですね。
豊後の国で生まれ、立花道雪の婿養子となります。このとき道雪の娘誾千代と結婚するのですが、二人の仲は悪く、後に別居したと伝わっています。
しかし彼は戦上手で、温厚で誠実な人柄から「武士の中の武士」と呼ばれたそうです。
文禄の役でも活躍し、碧蹄館の戦いでは先陣として参加し、日本軍勝利をけん引します。
筑紫広門は筑後の武将で、元々は宗茂の父立花道雪らと何度も戦っています。
秀吉の九州征伐の際に降伏し、筑後国上妻郡1万8千石を安堵されます。
文禄・慶長の役に参戦し、小早川隆景の配下として奮戦。碧蹄館の戦いでも功を上げます。
つまりはこの4人。それぞれ歴戦の勇士というだけでなく、朝鮮出兵などで共に戦った『戦友』たちだったのです。
これは京極高次、圧倒的に不利だったのでしょうね。