――確かに、敵とまともにぶつかる必要はないのだが、

 遠からず徳川家康と石田三成の軍は直接対決をすることになる。それはほぼ間違いないが、いつそれが始まり、終わるのか。この時点では誰にも分からない。それまで高次はこの城を守り切ることが出来るのか。

 城の周りに続々と敵の軍が集まり、包囲を固めている様子が見えた。毛利輝元の家臣で血族でもある毛利(末次)元康が大将となり、小早川秀包(ひでかね)、立花宗茂、筑紫広門など、毛利と九州の大名による軍勢が集まった。その数1万5千ほどだという。

 このままこの城にいると戦に巻き込まれてしまう危険がある。淀殿の使者の一行は一旦京まで戻ることになった。

 

 大津城の戦いは9月8日、日の出前に始まった。

 毛利らの包囲軍は始めから威力的な突入を試みた。9月1日に徳川家康が江戸を出たという情報が入っていた。また、包囲軍が大津城に集結した前日7日、同族の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らがすでに関ケ原近くの南宮山に陣を張ったという報も受けている。毛利元康以下の包囲軍は、出来るだけ早く毛利秀元の軍に合流したかった。

 しかし、京極勢は思いのほか手強い。

 防御力が低いとはいえ、大津城は琵琶湖の水を湛えた堀に囲まれた水城といえる。短期で攻略するには骨の折れる城だった。

 包囲軍は鉄砲や火矢などで攻めると共に、堀の間に長い梯子を横倒しにしたり、舟をわざと沈めたり、具足を着けたまま泳いだりして何とか堀の向こうの城内に取り付こうとした。しかし大津城側も要所要所に兵を配し、外堀を越えようとする敵を鉄砲や弓、石礫などで片っ端から崩していった。

 京にいる牛一らはそのような戦況を事細かく知ることができた。もちろん物見を残して逐一報告させるようにしていたこともあるが、他にも勝手に情報が入ってきた。京の町民が城のすぐ近くにある三井寺の観音堂で戦見物をしているためだった。連中は重箱を掲げ、水筒を持って物見遊山をしているという。

 戦いの潮目が変わったのは11日から12日にかけての深夜、京極方が仕掛けた夜討ちだった。

 京極家の家臣である山田大炊(おおい)、高宮半四郎、赤尾伊豆守ら5百名が場外に出、闇に紛れて包囲軍を攪乱した。前線の包囲軍は突然の来襲に驚き、多くの兵が逃げ惑った。

 夜の深い闇から夜明けの青い光へと全てが変わる頃、城の周りには兵たちの屍が所々に転がっていた。具足も満足に着けていない者たちが多かったそうだ。城内は朝日が昇ってもまだ所々で勝鬨の声が上がっていたという。

 京極方の圧勝だった。

 しかし、この話を聞いた牛一は寧ろ深く眉を寄せた。

(城の落ちるときが、早まったのではないか)

 本来籠城で時を稼ぐなら、出来るだけ動かず相手を刺激しないことが肝要だ。大きな被害で敵が後退でもすればまだしも、前線の兵が殺されただけなら、寄せ手はすぐに体制を立て直すだろう。

 いや、逆に敵の戦意を高める結果になったかもしれない。

 少しの勝利に浮かれ、敵を本気にさせたことに気付かないという事例は、よくあることだ。

(やはりときが迫っているとお伝えした方がよかろう)

 牛一の予測は当たっていた。

 

 

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