「私説桶狭間」209回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

本文では触れていない徳川家康とその周辺の行動です。

関ヶ原の翌日9月16日、家康は石田三成の居城である佐和山城攻撃を命じます。

佐和山城を囲んだのは小早川秀秋、脇坂安治、朽木元網、つまりは西軍からの‟寝返り者“たちで、家康自身も城の南に陣を構えます。

佐和山城は翌17日に落城。三成の父や兄、妻などは戦死、自害します。

落城を検分した家康は、18日には近江八幡に着陣。日牟禮(ひむれ)八幡宮に参詣します。

 

家康は19日に近江草津に入り、20日に京極高次の居城だった大津城に入ります。このとき城は本丸だけが辛うじて残っていた状態だったそうです。城に残っていた孝蔵主は、このとき家康に拝謁したと思われます。

家康は7日間この城に留まり、戦後処理を行いました。この間、京の公家からは入れ替わり挨拶があり、後陽成天皇は勅使を派遣して家康の戦勝を祝いました。

 

22日、捕縛された石田三成が大津城に護送されます。

家康は城の門前に石田三成を縛り、続々と入城してくる諸将に晒しました。そのときの様々な将の対応はドラマなどで見どころの一つになっていますね。

その後、家康は三成と対面します。例えば1981年のTBSドラマ「関ヶ原」での森繫久彌と加藤剛では、向かい合った二人は何も語らず、静寂の時が流れます。そして、席を立った家康は家臣に一言「切れ」と言います。

NHK大河ドラマ「葵」での津川雅彦と江守徹の場合、江守三成の釈明を聞いた津川家康は、最後に三成に近づき「さらばでござる」と言います。

どちらも名優ならではの名シーンです。

 

23日には戦いに間に合わなかった嫡男秀忠に面会し、家康は26日に大津城を出発。木幡山伏見城に向かい、夜は淀城で1泊。27日に大坂城に入ります。

 

ちなみに北政所は9月18日に太閤御所(京都新城)を出て、後陽成天皇の母である勧修寺晴子の屋敷に避難しています。この人が避難するほど京の市内も物騒だったという事でしょう。

そして19日、甥である小早川秀秋が北政所を訪ねています。

このとき、どんな会話を交わしたのか。気になるところではあります。