「私説桶狭間」205回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

桃山、豊臣秀吉の時代は今回で終わりです。

以降、書いていない時期の話をすると、太田牛一は慶長3年(1598)3月にあった醍醐の花見で記録が残っています。とはいえそれを書いたのは彼自身で、『大かうさまくんきのうち』の松の丸様(京極龍子)の輿についた3人衆の1人として「大たいつみ」の名前があるそうです。

この時、秀吉の正室である北政所の次に盃を受けるのを淀殿と松の丸殿が争ったという有名なエピソードがあります。これは前田利家のお伽衆が残している記録なので信憑性がありそうです。しかし、あくまで伝聞ということと、後に淀殿が松の丸殿を助けるという事実があるので、実際の事情は分かりません。

 

慶長3年は太田牛一に関してこんな記録もあります。

義演という醍醐寺三宝院の門跡(元公家の住職)が残した日記『義演准后日記』です。

慶長3年3月17日の記事で「太田又助来る。信長公以来当御代に至り記録これを書く。少々は暗誦の躰なり」つまりはこの時太田牛一は信長の時代から秀吉の現在までの記録を書いており、一部を暗誦できたということです。

「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ」(勉誠出版)の中で著者の金子拓氏は、信長の時代の記録は『信長公記』のことだろうと推測されています。

きっとそうだろうと思うし、一部暗誦できたということはある程度完成しており、かなり推敲もしていたと想像できます。

本文で牛一が『信長公記』をまとめ、推敲を重ねていたと書いていたのはこの一文があったためです。

ありがたい。

 

ところで、物語形式で書き進め改めて感じたのですが、天下を得た豊臣秀吉は、その瞬間から不幸になっていったように見えます。

弟、母、そして我が子を失い、甥は一家ごと滅ぼし、一旦治まった戦を他国相手に起こす。晩年の秀吉は自身の老いと残された我が子の事で不安しかなかったのではないか。

太田牛一が豊臣家に再仕官したであろう時期は大まかに推測できたということもあり、嫡子鶴松が生まれる秀吉の最絶頂期から筆を進めたのですが、不幸の連鎖と秀吉の老いの姿が重なり、桃山時代がこんなにも陰鬱な影に包まれていたのかと思えます。

秀吉が死んだとき、彼の遺体は伏見城の中に隠され、約半年間秘密とされました。絶対権力を自分ひとりのものにしてしまった人物は、安らかな死を与えられないようです。