修正は、桶狭間の戦いを書いた「今川義元討死にの事」だけでは済まなかった。

 永禄3年の出来事を天文21年に変えたことから、前後の出来事の組み替えをしなければならなくなった。どれだけ組み直しても矛盾は起こってしまうのだが、そのあたりは仕様がない。どこでキリをつけるかを考えながら組み替えた。

 もう1つは豊臣秀吉、当時の木下藤吉郎が書かれている部分を出来るだけ消していった。

 特に斎藤氏の居城だった美濃稲葉山城を攻略していく過程で、時の木下藤吉郎秀吉は美濃衆の誘降工作を次々と成功させていた。書巻ではそのいくつかを書き記していたのだが、藤吉郎の名を削除したり内容自体を抹消したりした。

結局秀吉の記載は巻一以降からとなり、「信長ご入洛無き以前の双紙」では登場しなくなっていた。

 そんな折、牛一に1通の手紙がきた。差出人は丹羽兵蔵だった。

 この手紙を読まれているなら、私は死んだということです。私の死に少しでも不審な点があれば、この手紙は届けぬよう頼んでいるので、ご安心ください。上様の伝記が無事完成することをお祈りいたします。

 手紙には簡潔にこのようなことが書いてあった。

 牛一はこの手紙を燃やした。そして丹羽兵蔵が登場する永禄2年信長の初上洛の項を読み返し、いくつかの文章をさらに推敲した後、見出しを『丹羽兵蔵御忠節の事』に改めた。

 この段は巻一以前のまとめでは丁度中間にあり、桶狭間のすぐ後に記載している。丹羽兵蔵への取材によってこの稿は1つの物語のような活き活きとした描写となり、丁度いい折り返しになっていると感じた。

 推敲文を読み返した牛一は、豊臣秀吉から難題を与えられる前に丹羽兵蔵に会っていたことが、天からの配剤ではなかったかと感じていた。信長公の伝記を書くことは、我に与えられた使命なのだと牛一は考えるようになっている。

 と、すると、今の秀吉や三成は天意に沿っているのだろうか、牛一はふとそんな疑問を持ったが、それは考えないことにした。

 

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