「私説桶狭間」211回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

本文の中で改易の一例として織田秀信の名前が出てきます。

関ヶ原の時点での織田家当主、信長の孫にあたる人物です。太田牛一が気にした可能性は大きいなと思いました。

この人、後の信秀よりも「三法師」という幼名の方が有名です。

当時たった3歳にして織田家の当主を決める『清州会議』のキーパーソンになりました。

 

『清州会議』は信長の死後1か月にも満たない天正10年(1582)6月27日より開かれました。次期当主として次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が候補として挙がり、2人のうちどちらにするかで会議が紛糾していたところ、秀吉は隙をついて三法師を擁立。柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が幼い三法師を抱いて現れた秀吉に平伏するという場面は有名です。

翌年、賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗死。信孝も岐阜城で自害します。そのまた次の年、天正12年には信雄と徳川家康の連合軍が羽柴秀吉と対決。小牧・長久手の戦いと呼ばれるこの戦の結果、徳川家康は秀吉の家臣となり、信雄も秀吉に臣従します。

秀吉はこのことで信雄の織田家家督相続を認め、三法師は坂本城に移されます。

 

天正16年(1588)、三法師は9歳で元服し、三郎秀信を名乗ります。

秀吉の『秀』が前、信長の『信』が後ろになった名前で、かなり意図的です。

天正18年(1590)の小田原征伐で徳川家康が江戸へ移封となり、家康の旧領には信雄が命じられます。しかし信雄がこれを拒否したことで改易、流罪となり、秀信が織田の家督を継ぐことになります。当時の年齢で11歳です。

その後彼は旧織田領である美濃国13万石と岐阜城を相続し、文禄の役に従軍します。

そして文禄2年(1593)には従三位権中納言に任官、岐阜中納言と呼ばれます。

 

関ヶ原の戦いで、秀信は西軍に付きますが、自らなのか仕方がなかったのかは分かりません。

ただ彼の居城である岐阜城は激戦の地となり、関ケ原の戦い後に岐阜城は落城。秀信は高野山に送られました。

高野山では本文にある通り様々な迫害を受けたそうです。そして関ケ原の5年後となる慶長10年(1605)、追放ともいわれる下山となり、ひと月もたたずに亡くなりました。5月27日、享年26歳。高野山では彼が下山した5月8日が命日になっているそうです。

 

秀信は織田信長にそっくりだったという記事があるそうです。そしてお洒落で派手好みだったとのこと。それでなくとも利用と監視が繰り返された人物だと思います。もし本当なら、余計に悲劇的な運命を持っていたのかもしれません。