「私説桶狭間」218回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)
太田牛一と小瀬甫庵は出会ったことがあるようです。それだけでなく、会話も交わしていたようです。
小瀬甫庵が書いた『(甫庵)信長記』は、牛一の『信長公記』をベースとしています。断定的に書けるのは、甫庵自身がそのことを書いているためです。
「朴ニシテ約ナリ。上世ノ史トモ云ツヘシ」シンプルで完結、まさに正史というべき。甫庵『信長記』初版本の前書きといえる文章で甫庵は『信長公記』をこのように持ち上げています。
しかし、この続きで甫庵は『信長記』を書く動機をこのように記載しています。
「シカハアレト仕途ニ奔走シテ閑暇ナキ身ナレハ漏脱ナキニ非ス。予是ヲ本トシテ、且ハ公ノ善尽ク不備事ヲ歎キ、且ハ功有テ洩ヌル人、其遺憾イカハカリソヤト思フママニ、且々拾ヒ求、重撰之」
牛一は職務に奔走して多忙だったため脱稿がないわけではなく、甫庵は牛一の書を元にしながら、その書に不備が多いことに嘆き、功があっても書き漏らしている人たちがどれだけ残念に思っているかを考え、不備を拾い、改訂した。
この後甫庵は、天正の頃からこのことを始めたが、なかなかうまくいかなかった。長い年月が経ち、慶長9年(1604)の春、あやしい夢のお告げがあった、と書いています。
もしこの文章が本当なら、秀吉が関白になり、朝鮮出兵が始まる前に牛一の『信長公記』は初版といえるものが出来ていて、甫庵がそれを読んでいたということになります。
でも夢のお告げの話につながることから本当に信用してよいのかは分かりません。
小瀬甫庵は別の書(『太閤記』)でこのような文も残しています。
「彼泉州、素性愚ニシテ直ナル故、始聞入タルヲ実ト思ヒ、又其場ニ有合セタル人、後ニ其ハ嘘説ナリトイヘドモ、信用セズナン有ケル」
泉州(太田牛一)は、性格が愚直なため、最初に聞いた話を真実だと思い、その場に居合わせた人は、後にそれが嘘の情報だったとしても、すっかり信用していた。と、かなりこき下ろしています。
これって、二人は会話をしたことがあり、牛一はすっかり嫌われてしまったと想像されます。
多分、甫庵が聞きたかったことを牛一は何一つ答えなかったのではないか、と思いました。
今回の二人の出会いはこのような文章が元になっています。
さて、次回は(やっとこさ)最終回です。あと1回、よろしくお願いします。