この映画は自分にとって思い出深い。
ビデオで観たのだが、とても思い出深い映画。
なつかしい。

はじまりからなんだか「地味な映画だなぁ~」と思っていたんだけれど、
じわじわひきこまれていってしまった。
薄味にあとひくソフトサラダせんべいのような感じで見入ってしまうよ。
こういう映画はきっと星の数ほどあるだろうね。
そのうちの一つに、ある夜、幸運にも出会えたのだ。

主人公を自分に照らしてみるのにちょうどいいかんじの等身大な設定。
さまざまなこざかしい問題をかかえて日常をすごす主人公はジョニーデップで、
その弟で知的障害をもっている子がおさないころのデカプリオであることに気づくのは、
エンドロールを見てからのこと。(遅!)

そう、自分はデカプリオをみくびっていたんだね。
あまり映画を知らない自分的にはデカプリオってどちらかというとアイドル的な存在で、
まともに見たことも無かったので、もろもろの出演作にはようするにそういう先入観があった。
ところがこの映画で、何の先入観も無く、デカプリオに知らぬまに触れていた自分は、
その演技にいつしか魅了されていた。
「この子いいよねぇ」という言葉が自然と口をついて出た。

設定上この子の演技は目立つ。
そうしてみているうちにその演技をうけとめるお兄ちゃん役であるジョニーデップというのも、
かなりの役者であることに気づく。
じつはこっちの役者のほうがかなり上手ではないかとすら思えてもくる。
そういう比較に思いいたるのは自分的にはごく稀で、
そこまでおこがましい比較は自分にはきっちりできないと思ってる。
でも映画を観ていてそんなことが目立ったから、実に印象に残った。
とにかくこの二人はなかなかいけるよ。

すべてが自然でいて、人を魅了する。
その自然な日常の瑣末な面倒ごとが、フィルムの上できらきらとちりばめられているように
自分には輝いて感じられる。
リアリズムの絵画のようなものだ。
絵画になった時点で実は日常の視点からきりはなされてきらきらした別の価値観におきかわる。
そういう良さのある映画。

たぶんわざとらしさが無いからだと思う。
流れもいい。その存在を主張せず、ひっそりと季節の光を反射しながら流れる小川のようだ。
フィルムを通して一貫した日常が、すごく存在感をもっている。
役者はその「日常の存在感」のためにいるかのよう。
ようするにかなり一般大衆むけな内容といえる。
世の中の大多数を占める一般大衆。
家庭の事情も、千差万別とはいえおよそ似かよったものだと思う。
どこかに自身の身の上が重なる。

物語のうねりをことさら演出していない。
そりゃ当然それなりのうねりはあるけれど。
波乱無き人生と、ちりばめられた瑣末なめんどうごと。
しかし車で旅する家族のうちの女の子との出会いはやっぱりその中でもひときわ輝いて見える。
これは心情的にしょうがないね(笑)。
なんつうかな、これ。
ほかにもいろいろ瑣末な日常苦がきらめいていて、それぞれのきらめき具合に微妙な違いがあって
それでとてもきらきらみえるのかな....。
そうした全ての「きらきら」をひとつひとつ見ていって、この女の子との出会いに集約される感情をおいといて、
やっぱり日常苦があってさ。
しまいにはあるていど解放されてゆくけれど。
こうしてみていって一番に思いうかぶのは、チーターの名曲「365歩のマーチ」だね。
なんか違う気もするけれど、監督はきっとこのたまねぎの皮のように幾重にも重なりあう日常という苦痛全体を
「たまねぎ」という価値観として捕らえて、それらをすこしづつ紐解いてみせていく。
サダメがサダメだけに、自己完結的に己なりの回答を見つける主人公一家。

最大のうねりはほんとうに最後におとづれる。
母の死と母をいたわりながら「家」もろとも「火葬」にしてしまうところ。
ここで日常と決別する。
障害をもつ弟はここではすでに苦痛の対象としてではなく主人公にとっての生涯を通してのパートナーとして認識されている。
ふたたび再会した少女とはいづれ所帯をもつことが予測される。
なんともシブイ。
渋いけれど、このカタチもきらきらしているように見えたよ。
「そりゃ素敵だな」、と思わせる。

俳優が先か映画が先かということを考えていて、
そりゃ場合によるもんだなぁ、と思う。
だって俳優って常にベストはつくすでしょ。
問題は作る動機だと思う。
話題にだけのぼる映画は逆に動機をかんぐられることにもなると思う。
テクノロジーとか、経済効果とか、みえみえにミーハーなキャスティングとか。

この映画には動機として善意があって、映画としてはひたすら上手だと思う。
お金のかかった「タイタニック」なんかと比べてどうなのか?
そりゃ、こちらの映画のほうが好ましいと思う。
あとから脳内で反応おこすよ。
そういうふうに作られてる感じがする。
あとから、というのは時間的感覚にすれば、1日とか3日から個人差で1月くらいかな。
記憶のまだ鮮明なうちに、その映画で観た時間の経過と空間を懐かしく思うだろう。
その味つけに、配慮がなされているんじゃないか。
どのように作っていったのか、その「感覚」を学びたいと思った。

壮大なテーマの名作を名乗るということもせず、佳作であることを目指し、私に地味な感銘を与えてくれた作品。
もしかしたら瑣末な日常にかきけされて、忘れてしまう映画かもしれない。
でもいい映画だよ。
昔ビデオで見た思い出。
この映画は前後半とわかれた構成になっていて、雰囲気がぜんぜん異なる。
たしか記憶では後半のなかばで寝てしまって観ずじまい。
最近見直そうとして近所のビデオレンタル屋でさがしたけれど無かった。
まじかよ。

この映画を知るきっかけは、
「吉川晃司のお気に入りの映画」、というなにかの記事から。
むしょうに気になってビデオ借りてみた。
そうしたら期待を超えた内容だったので、一発でうちのめされた。
この「黒いガンマン」のスタイルのカッコよさに惚れた。
スタイリッシュなんだな~。
まかろにウエスタンっぽい線の細さ(?)。
アメリカンではこういうものにならないんだろうな。

とにかくね、自分は昔観たの。
で、雰囲気がものすごく気に入った映画なの。
「ウエスタン」スタイルで、しかも「ポエム」(!)なんだなぁ。
これってすごいと思う。
しかもなにか「業」のようなものの香りがはじめからぷんぷん。
「黒いポエム」だなぁ~と記憶している。
ある意味これも非常にたんたんとした映画だといえる。
次々に強敵を倒していく黒いガンマン。
とってつけたような濃~い敵キャラがそれぞれ魅力的(!?)
倒していくしだいに相手のキャラがうさんくさくなってくる。
そもそもはじめっからうさんくさい相手なんだけど、どんどん言いたいことが観念的になってくよ。
でもこれって何の映画なの?ってほどに一瞬戸惑う。
でもその感じもよかったよ。
あ~、そういう映画!
って感じ。
どういう映画?って聞かれるとなにせ昔に観たからね~。
詳細を言うことは無理。

なにかこの黒いガンマンがやっきになって敵を求めてる前半と、
なんかこう、人生問い直してるようなキャラ変わっちゃう後半とがきっぱり分かれて、
ほんと二部構成って記憶ばかり残っている。
求道的な印象を受けてる。
前半の最後のほうの敵なんてもう妙な道具もっててガンマンの打ち込む弾丸が反射してしまうような感じだったかなぁ~。
そこまでいくと状況がとにかく滑稽ですらある。
結局この敵をも倒してしまうんだけど、そのことでこの主人公のガンマンはなにかに気がつく(悟る?)。
自己を完全否定せざるをえないくらいに、ある悟りに至ったのだろうと思う。
なんともウエスタン映画とは言えなくなるような自己否定だよね!
まあ、もともとウエスタンというカテゴリの映画では無いんだね。
「ウエスタン」なディテールは、悟りに至るための生死をかけた「真剣勝負」という状況を発生させる要素と、
スタイリッシュなかっこよさを言いたいためのものだ。
カタチとテーマをこのくらいのレトロな雰囲気で表現するというイメージが見て取れる。

だからどんな映画かというと、まあ、とにかくかっこいい黒いガンマン。
マカロニウエスタンなんだけど、思想的なテーマを追ってる風変わりな映画、と言える。
自分にはこれしか言えない。
言えないけどこの映画は自分でもおすすめ的な映画として話題にのぼる。
最近ネットで検索したらジョンレノンも影響うけて黒い服ばかり着てたとか。
この流れで吉川晃司も影響受けたのだろうか?
そういえばもともとブルースとかウエスタンとかブルーグラスとかそういう人たちのファッションが
そのままロックにうけつがれてメタルにも受け継がれ、
日本のロックにも受け継がれる。
ウエスタンなスタイル。
ブーツとかカウボーイの帽子とかシルバーのアクセサリーとか、そういった一連のスタイル。
このスタイルは黒づくめになることで、そのファッション的なコントラストを際立たせる。
ジャパニーズロックも特に「黒い系譜」があるよね。

!。そうそう、とにかく、も一度観たい映画。

いちおう観てみた。

印象的なのは、最近のトレンド、トランスルーセントシェーダーとGI系のレンダラーによる美しいロボットの顔。
それだけかな。

ロボットが取調べしされてるところが一番美しい。
ここではじめて「人?」という雰囲気のロボットと視聴者は出会うしくみ。
ここ担当されたCGアーティストさんの情念を感じさせる出来だと思う。みなさん拍手しよう!

硬質で冷たい取調べ室の雰囲気のなかでロボットに生命を与えたのは脚本でも監督でもなく、
CGアーティストの手腕だと思う。
このシーン以降、この「特別な一体」のロボットの意味が浮き彫りにされて視聴者の感情移入が促される仕組み。
博士カスタムの魅力というか、博士チューンされた内緒の一体のロボットは根本的に他のロボットとは違う。
それはフェルッチョランボルギーニに内緒で「ミウラ」の先行開発として製作された「イオタ」のそれに似ている。(福野礼一郎さんの本にあるような)
イオタの魅力がこの特別なロボットの魅力に重ねられて差し支えない。
「レースはやらん!」と言っていたフェルッチョに内緒の特別なミウラのレーシングバージョン。
「ミウラ改イオタ」ではなくてほとんど別物の車であったらしい。
そんなものへ抱く愛と同質の感情が誘発される。

DVDで観たので、ロボットのレンダリングの困難さも特典映像で語られている。
ああいったロボットのデザインがなぜなされたのか?
現状のレンダリング技術からの時間的制約から逆算して得られたデザインだということもなんとなくわかった。
そういうクレバーというか、合理的思考でものの形にとりくむところがハリウッド的というかアメリカ的。
というかまぁ、世界標準的なのかな。
日本のアニメはイメージ先行する。
そこがよいところで、コストからあるていど離れたところでイメージをカタチにしやすいのがアニメなんだと思う。
この力の入れ方は世界に誇れると思う。
容易に「カッコイイイメージ」を実現しやすいから。

ようするになにが言いたいかというと、あのあまりにもアメリカ的デザインのロボットは、ぜんぜん魅力的では無い、ということ。
でもそれはアメリカ的合理的もの作りからの産物であるということ。
それらをありがたがって受け取る必要は、いまや無いけれど、
けどあくまでもそれは合理的思考にもとづいて行われた技術的な過渡的な表現にすぎないということ。
まだまだ未来がある。
ようするにパソコンの処理速度が倍になったとしたら、あのロボットは全身をトランスルーセントマテリアルで包むことになるだろう。
より人間に近く、それでいて異なる表現。
そこまで踏み込まなかったのではなく、ごく自然に踏み込めなかっただけ。
アメリカさんはわかっている。
そんなことは当然わかっている。
自分たちが作っているものがベストではないことを知ったうえで最大限の効果を得ようとしている。

意識の程度の違いが日本にはあると思う。
自分はそういうレンダリングとかの面からしかこの映画に興味をもてないけれど、
その一側面からでも、これだけのことが言えるのは事実である。
最近の北野武監督版と勝新版との比較。

「居合い」っていうのが一つの大きな要。
とにかくこれが無かったら「座頭市」はなりたたない。
その技がとことんすごいから「市」のキャラクターが成立してる。
だからすごい居合いを描くことに関しては、この映画はぴかいちだ。
このぴか一というのは世界的にぴかいちだということを、まず認識する必要がある。

アメリカンなアクションで言えば西部劇に似ている。
あのお互いが向き合ってする立会いにすこし似ているね。
ショートレンジかロングレンジかという違いだけ。

いわゆるちゃんばら映画では無いと言える。
ちゃんばらにもつれる前に済んでしまってるから。
ともすれば「ちゃんばら」に陥ることがある。その危険を孕んでいることろが鉄砲とちょっと違うかな。
鉄砲はとにかくズドン!

逆にちゃんばらに近いのが、カンフー映画。
打って、受けて、打ち返して、受けられて、また打って、.....。とそういうたぐいのアクションを見せる造り。
同じカンフーとはいえ、これとちょっと違うのがブルースリーってわけ。
「燃えよドラゴン」でオハラとの立会いの時、手の甲をあわせてから瞬間スパーン!と決めるあの感じ。あの映画の中でいちばんかっこいいあの場面。出鼻のああいう展開は実際にはよく使われる。居合い的だといえる。
ほんとうにすごいものを映画の画面に映し出そうとすると、それは速すぎて映らないってわけ。

またまたこれと逆な発想なのがマトリックス。超高速撮影のような表現で本当は映像に映らないはずの「速さ」を「売り物」に変換してしまったハリウッドの商魂はすばらしい!

そこいくとわれらが勝プロダクションはちがう。
速さを編集技術で、美しい芸術的映像にして表現する言語体系を持っているといえる。
「残心」というか、一瞬の集中と斬ったあとの(映像表現としての)溜め。
これのバリエーションとその質の高さはやっぱり世界的にぴか一だと思う。

北野監督版はこういう世界に属さない。
もっともっと社会的な表現と含蓄に傾斜していると思う。

民衆のあし音をタップにして表現してる。
一般人なら足音を忍ばせない。
「農民」の「地に足をつけて生きている」というイメージを視覚化したもの。
生活のにおいをミュージックにして表現している。
対照的に「市」の足音は聞こえない。
存在が浮いた存在ということである。
これは「一般」から「市」という存在をきりはなして描きたいからである。
なぜか?
市は目が見えているということ。
なぜ眼をつぶっているか?
それはおそらく眼の色によるなんらかの社会的差別を暗に想定しているのだと思う。
按摩という職業自体昔はそういう分野の仕事だったのではないか?と勝手に思う。
「あえてそういう身分に身をやつしている市」という図式。
市の正体に隠されている寂しさというか社会的悲劇性というかマイノリティとしての身の置き方のようなもの。
かんぐるとこんな感じになると思う。

世間が言うほど、単なるエンターテインメントではなく、けしてタップで奇をてらった、という代物でもない。
勝新を越えようとしたのでもない。映画としていま作られるべき「座頭市」のカタチをきっちりつくっていると思う。

しかし勝新のものも「不知火検校」という悪役な按摩さんの話がもとになっているとのこと。
もともとそういうダークな面から生まれてきたキャラクターではある。
普段渋谷なんて歩かない俺が、偶然出会った映画。
これもまた思い出。

たまたま見つけた看板にひかれてついつい入ってしまったのがこの「ムトゥ」。
しかも並んでしまった。なぜだか思いだせない。

先の上映の終わるのを外のフロアで待っているとき、中からものすごい笑い声と、
驚くべきことに大勢の観客の拍手が聞こえてきた。ショックだった。
あとでパンフレットなどにこの映画の見方、のような感じで拍手しよう、ってくらいのことが書いてあった。
とにかくちとびっくりさせられて、わくわくしながら席についた。
近くにインド人の初老の夫婦の方々も見えた。
あとはだいたい日本の若者。
はじまるやいなやインドのキムタクことスーパースター、ラジニ・カートンの名前が他の俳優とは比べ物にならない大きさで画面奥よりズーム!
大拍手。大笑い!
ラジニが真っ白な服で出てきて抱え込み前方宙返りかなんかして馬車に飛び乗ってこれまた拍手!大笑い!
なんだか映画館だっていうのに、なんだろこの一体感は?って感じで、いくらコメディー映画とはいえ、この異質なテンションはなんだろう?って驚いた。
渋谷の映画館でねぇ~。
自分は「クラブ」とかなんとか、そういうハイカラな若者文化じみた場所には行かないからわからないけれど、あの日のこの映画を観たあの空間ってのも、なかなかどうしてレトロな人間くさいエネルギーと開放感が漂っていてすごくいいなって感じた。

インド映画はとりあえず大勢でダンスするのがお決まりみたいだけど、これもこれでもかってくらい踊ってた。
でもそんなに退屈には感じなかった。
それだけギャグの部分が面白かったし、さすがに「インドのキムタク」ってだけあって、キャラクターが立ってた。
そういう意味では本家よりも立ってるといえる。見た目単なるおっさんなんだけど、たしかに妙なセクシーさがある。
日本でいうところのそれではなくて、もっとプリミティブな感じの。
あと相手やくの女優さんは綺麗だね。
もともとインドの人だし目鼻立ちはバリっとしてるし美形というか、例のインドのけばいメイクとど派手な演出でもってもう神々しいのなんの。
これも文化の違い。

後日。
一年かそこらしてビデオ屋でレンタルされてるのを見つけて借りようと思い、一度手にとりかけて、すこしためらった。
「これはきっと、あの映画館の雰囲気が無いと意外につまらないぞ....。」
そんな考えがよぎったから。
それでも結局一度は借りて観た記憶がある。
そしたら、まずまずだった。
たしかに面白いことはおもしろい。
でもやっぱり、インド映画は映画館でね。
それも拍手と爆笑の渦の中、大勢で見ないと楽しさ半減だよ。
でもそういう「文化」ってことでとらえたら、なんだかインドっていいな、って思う。
いい映画を撮るってのもエライことだし、それを認める教養もたいしたもんだと思うけど、映画の一側面でこういう大衆の一体感が得られるなんてところもなかなか価値あることだと思う。
良し悪しも当然あるけど、これも一つの見方だから。

DVDとか安くなってますます映画館に行く人がへってるんじゃいかって思うし、作る人たちだってあるていどそういう映像の流通とか消費の形態とかわかってつくってるふしがあるからなんかかえって不自然な様相を呈しているように感じる今日このごろ。
インドの映画の見方。大勢で観る。あるいは大家族的に団欒で観る。
煮え切らないなんて言われるような表現しかなくても、それはそういう用途や文化背景ゆえ。
なにか人間的な実際のつながりとともにあるような映画の存在は、なんかいい感じがする。

もっともこれも数年前のはなし。
いまはどんな状況か?よく知らないし。

ちなみに音楽も良くって、サントラ持ってる。
インドの音楽なのに電子楽器ふんだんに使ってる。
いわゆるテクノではないけどまあ、音はそれ系な感じにやっている。
インドの旋律でやっててばっちりはまってるからかっこいい。
日本も負けてらんないよこりゃ。
、とあえて言おうと思う。
いいかい?「品質」だけがすべてじゃないよ。
大衆文化としては、わかりやすさの中のエネルギーも大事だと思うんだ。
これはレビューではなくて思い出。

この当時日本では「少林寺」が大ブレイク(ブレイクとは言わなかった)。
それでおなじような(少林寺と名のつく)カンフー映画がいくつか上映された。

そのうちの一つ、いまとなっては名作と呼ばれるのがこの「三十六房」。
たしかテレビで観たんだと思うけど....。
「三十六房を知らずして少林寺は語れない!」がキャッチコピーだった。
そんなわけねぇだろ!とか中学生だった自分たちはエセ拳法仲間とよく議論したもの。

この映画の楽しいところは各修行房のシーンで、人体の各部位をパーツごとに鍛錬している様が、とても愉快に描かれている。
中学生の自分たちはそのかっこうを真似、笑いころげたっけ。

いちばん愉快なのが「頭力房」か「眼力房」か決め難いけれど、ものすごく笑っちゃう。中学生の自分たちはそのしぐさを克明に真似、お互いを観て笑いあったっけ。

主演のリューチァフィーは少林寺のリーリンチェイ(あえて当時の名前で)よりもお坊さん顔だし、なんせばっちりはまってる。
今見ると、愉快な修行房のシーンだけじゃなくてオープニングで鍛錬用の腕環つけて「シャリ~ん」とかいわせながら演舞してる彼ったらもう最高!
めちゃくちゃかっこいい。

感動的な「三節棍」開発秘話。
池の丸太でのお粥。
おっきなハンマーは根元をもって使うといいぞ!っていう
ナイスなアドバイス。
ほんとにみんないい思い出。

いいとかわるいではなくて、これは愛だね。
自分はこの映画を愛していると思う。
少林サッカーは泣ける映画である。
チャウシンチーの眼は、カンフー映画ではなくてカンフー界に向いている。
日本でも有名になったカンフー映画しか知らない分際でなにか言おうとしてる段階で問題なのだが、
その氷山の一角のようないくつかの有名なカンフー映画のいままでもってきた視点とは異なる視点を持つところが新しい。

カンフーって、現代社会では、いくらできてもあまり意味が無い。(みもふたもないけれど事実)
実際ものすごいクンフーを積んでる人があまりいい職につけないで、ひっそり暮らしてるなんてことはよくあるパターンらしい。
でもそのクンフーのすごさは常軌を逸してすごい。
長い時間をかけてじっくりと錬られた体と技は、日常目にできるあらゆるすぐれた運動とも異質なものであるらしい。
拳法の流派はかなりの数が日本でもよく知られてきているけれど、そういった流派の体系のなかでのクンフーの高さとはまた別にもっと一つの技に特化したクンフーの高さというのもあるようで、頭が固いとか握力が強いとか、体当たりがすごいとか、そういうクンフーも民間ではふつうに伝承されていて、特化されているだけに、こう言うと非常にもうしわけないけれど、現代ではあまり生活の役たたない。
でもそういうすごい人というのは少なくなってきているとう話ではあるが実在する。

チャウシンチーさんというのはきっといい人だと思う。
そういう事情をギャグ仕立てで笑いに換える。
それらを踏まえてあらためてこの映画を観たとき、涙なくしては観ることのできない箇所が何箇所かある。
たとえば兄弟子たちが「お戻りになられた」瞬間、あそこ笑うところではなくて泣くところ!

挙げればまだあるけれど、これほどではないけれどさりげない箇所......
ヒロインの女の子がバイトしてるとこの店主のおばさんの攻撃を
「片手でさばく」ところ。
このシーンは詠春拳的な美意識が抑圧された彼女の魂の叫びが
抑えようもなくなって吐露された瞬間のできごとである。
ここも実はじんわりするところ。

あとその女の子がゴールキーパーで出てきてゴールの前で構えたその姿こそ、
陳氏太極拳図説の挿絵そっくりではないか!
これは自分でそう思ってるだけだが、あの「図説」にでてくるくりくりボウズのイラストに酷似しているところは指摘しておく。
じつにこころにくいマニアっくな配慮だと言える。

最近作の「カンフーハッスル」もこの意識の延長線上にある映画のようである。
だから言える。チャウシンチーさんはいい人である。
前作「the ghost in the shell」は草薙素子が出ていたのでジミながらも華のあるアニメであった。
イノセンスはそれ考えるとかなりチャレンジャーな作品だと言える。
バトーとトグサしか出てこないからさらにジミな作品。
CGがばりばり使われてる。
オープニングの義体の製造工程のCGはかなり繊細で綺麗だし。
まあ、普通って言えば普通なんだけど、でもやっぱしよくできてると思うよ。
前作もそういえばオープニングは義体の製造工程だった。
あのころのCG技術は今から見ると稚拙なんだけど、そんなことは問題じゃない。

セルにはセルにしか出せない良さがあって、CGにはCGならではの効果的な使い道があると思う。
最近のアニメは省力化という意味でおそらく3DCGを使っていると思うけれど、
それはどうかと思う。
なんか人物がセルで乗り物とか建物とか3DCGっていうのは、ちょっと興ざめしちゃうような気がする。
これをまた上手に効果的に融合させようとすると、これは逆に制作コストがかかってしまうんだろう。
常にフラストレーション。

3DCGでのアニメーションは、ソフトボディなアニメーションがなされていたとしても、
全体としては正確な剛体運動になっているので、人の感覚はすぐにそれを感知して
「お、3DCGじゃん」と理解してしまう。
この剛体感が感覚的に顕著だと「CGっぽい」とか言われておしまい。

セルアニメっていうのは逆に、「剛体感を表現する」、というプロセスをたどる。
そうすると、「すごいね、これ」って感じる。
理不尽だけど、人間の感覚にはまるのはいまのところセルかなぁ。

押井守監督もだからセルの人だと思う。
基本的に。
「アヴァロン」って実写あったけど、ちらっと観ただけで、なんだかよくわからなかった。
モノトーンなところは「トロン」的だと感じた。
「トロン」も当時3DCGが10数分ほど使われていたので、自分なんかはもううれしくてたまらなかったが、
世間一般ではあまりうけず、興行は失敗ということだったらしい。(作品自体は名作だと思う)
やっぱりいろんな意味でディズニーもセルなんだ。
押井守監督もおなじ。
「アヴァロン」は「トロン」のときからするとCGやら合成技術やらぜんぜん高度にできるわけだけど、
やっぱり実写に対してあからさまな加工を施してなにかの表現とすることを主眼に置くという方法論自体
「トロン」と同じでまず人は違和感を強く感じてしまう。
またあとでよく観てみるつもりだけど、「アヴァロン」はどうもそんな映画だと思う。(外野から言わせてもらえば)

だから押井監督はセルがいいんだよ!
セルのほうの映画には、いわゆるマーシャルアンプで作った壁から発生する音圧のような圧力を画面に感じる。
日本のできのいいアニメ映画はみんなそういう味がする。
ジャパニメーションのわりといい部分。

しかし、このアニメの原作はなかなかすごい。
予言的というか、妄想に近い気がしなくもないけれど、ひきこまれる。
脳が脳のことを追いかけるのは「ドグラマグラ」だと思う。
それのハイテク版といえる。
だから甲殻機動隊はドグラマグラのリメイクなんだなぁ.....。

魅力の正体も、似たような、怪しげで危なげな雰囲気で退廃的な部分を、
理屈を幾重にもおりかさねた中から抽出してる。

実際イノセンスでは堂々巡りが描かれる。
堂々巡りなんてあんまり面白いとは思えないんだけど、ハッキングされちゃったら!?
って思うとそんな要素も入れる必要があるんだろうなぁ、とは思う。

でもお話の流れという点では、かなり独特のテンポというか、「メリハリ」が薄いというか、
アンチ「メリハリ」的な意識が作品の味をかもし出しているようなところあるから、
文句言う筋合いでは、きっと無い。
でも普通、一般的にいったらテンポはよくない気がする。
でも最近このCFとかテレビ番組やらミュージッククリップみたいな映像で、ある種の
「テンポ良く」って概念を植えつけられて馴らされてるから、こういう「アンチ」な表現は実は
もっとあっていいと思う。

どんどんテンポ悪くやってほしいと思う。
テンポばかりよくたってしょうがないじゃん。

テンポってなに?
誰のためのもの?
???
ある先入観のもとに観て、精神の扉をブロックしながら見ると
なんだか馬鹿にされてるだけのように見える。

でも、このばかばかしさが全て計算のもとに作られているとしたら?
という視点で、再び見ると、こんどはこの映画の対極にあるであろう
価値観との対峙を迫られる。

そういうことだとしたらこの映画の製作意図とするところはその「対極」
たりうることを目的としているのではないかと思える。

メディア的にはいろいろな話題性が言われる。
マニア受けする内容から、単に見た目だけの内容まで、ふところ広く話題を
提供してくれている映画。

自分は結局2回くらい観たけれど、2回目のほうがリラックスして観たので
楽しめた。
映画を観たりして、ついつい評価してみたくなるクチはあるていど自分の
「構え」でその映画を迎え撃つ。
こうなってくると、結局自分の理解の範疇でいうところの「すげぇ~映画」
を求めていると言えなくもないけれど、実際はとんでもない才能を恐れているふしがある。

そこで、このキルビルは、話題も先行していたし、その前評判から得られる先入観だけであるていど観たつもりになっていて、
「どうせ~な映画だよね」
って感じで己のアイデンティティを保護している。
それで実際に観て、
「やっぱりあれ、なんだよね~。」
てな感じで「キルビルおそるるに足らず」
という結論を導き出すプロセス。

実際自分はそのような思考プロセスをたどった。

でもたまたま衛星でやっていたのを2度目ということで観ていて、
考えが変わってきた。
その間に「片腕カンフー対空飛ぶギロチン」DVDを見ていたというのもある。
また、カンフー映画の製作スタンスというものに対する認識も変化していたので、「キルビル」を観る視点も変化していた。

やはり、この映画はこの映画の対極に位置する価値観を、
否定まではしないけれど、さりげなく対比させる位置関係に置くことを
その任務としているかに感じる。

そういう類の「新しさ」を意図して作っている?

いろいろ考えが浮かぶ。
映画のための映画、ってほどでもない。
エンタテインメントとして、そもそもエンタテインメントって?
「悪くない」ってな評価こそなんか妙な違和感を感じる。
「映画ってこんなもんですよ」
と言ってるようにも見える。
「でもこれ面白いでしょ?」
とか、いろいろ。
ビルの廃墟が巨大な白骨のように見える冒頭のシーン。

「デジタル処理」する。という一貫した手法が意味するところは容易に見て取れる。
それだけベタだが、デジタル処理と編集技術は一級品の高いレベルにあると思う。
ごく身近な映像イメージの集積が整然と、美しくコラージュされていく。
いわばデジタルコラージュ。
コラージュするネタとしては、ここ百年くらいの経済と戦争の歴史であって、
どちらかというと最近記憶に新しい映像ソースが多くつかわれる。
あらゆる自然が数字におきかえられていくところがなんだかいちばんいやだった。
生理的に好かない部分なのかもしれない。

数学者たちは、宇宙はすべて数式でなりたっているというから、
水や木や人や空気なんかのことはすべて数式で置き換えられるはずである。
だからといって、人として、そうすることがサダメとはいえ、それが幸せにつながるか?
なにか大きな不幸に気づかされるだけなんじゃないか?と気になる。

数学者はそういう普遍的な絶対的な答えを求めて、世界が美しく法則性をもっていることに
幸福感を感じているらしい。

これ自体、一般の人と大きくかけ離れた感覚だといえる。
一般の人はそんなこと考えもしない。
ただ、のんきに暮らせたらいいな、と思っている。
経済的に豊かでさえあれば、そのついでに家庭的にも恵まれていさえすれば、
だってそれ以外の幸せって?

企業はまた違うことを考えている。
自己膨張方システムだから「トドマル」という文字は辞書に載っていないから、
つねにマーケットに飢えている。
いつでも、次に何を飲み込もうかと考えている。

政治も違う。
大国といえど、多くの企業に支配され、その顔を任されるのが大統領だから、
遠くの国の巨大な個人の金持ちは許せない。
そんなものの存在は捨て置けない。
かたや中東の石油王も負けてない。
自分の持つ巨大な財力と権力も絶対だと思っている。
解決の糸口などない。
「システム」として君臨したいアメリカ。
「個人」として支配したい中東の王。

これらそれぞれの対抗勢力どうしが猛烈な渦を巻いている状態を、
映像のコラージュで表現したらどうなるか、
それがこの「ナコイカッツィ」という映像詩だと思う。

ただちょっと眠くなるかもしれない(笑)。
いわゆるけっこう「地味」な映画。
3回ほど見たらけっこう味が出てくるかもしれない。