茨城県民が納得する出来映え。
ことに、牛久市民にはうれしい「牛久大仏」が多くのシーンでフィーチャーされている。
メジャーな映画に牛久大仏が出ているってだけでもう感激なのだ。

茨城県南文化圏としての取手、龍ヶ崎、牛久、土浦という常磐線沿線エリアを都会への窓口とした下妻の地理的境遇が地元の人間はよくわかってる。もうそれがなんとなく描かれてるだけでおれなんてもうめろめろ。
いまだかつてここまで茨城県南部を直接とりあつかった映画があっただろうか!?そして今後も二度と出ないのではないか?
そう考えるとこの映画の茨城県南部の地元民にとっていかに重要な映画であるかがわかっていただけると思う。

しかも深田恭子、土屋アンナというなんだかリッチなキャスティングはさらにうれしくなるね。
とりたててファンでもなんでもないんだけど、この映画に関わっているだけで、なにか親近感を感じてしまうから不思議だ。
編集とかさっぱりしててロリータ表現もこてこてでいて、すっきりしてる。
表情をうまく切り取っている感じ。
ロリータを扱う際にべたべたになっていやみになることは、こういったあっさりめな表現でうまく回避。
そのかわりヤンキーのほうにどちらかといえば強烈な演技がもとめられてる。
声質といい、台詞まわしといい、ほぼ完璧ではないだろうか?
この「ほぼ完璧?」と実感できるあたりが、「ヤンキー」というある種身近な素材だからだろうと思う。
こういうことが見る人に親近感を与える。
人は豊富な予備知識からその作品の良否を判定するほうが的確だから、この題材の身近さは成功の要素。
それをあそこまでみごとに演じた土屋アンナというひとはなかなかである。
深田恭子は終盤にいたるまで、感情の発露ができない役だからある意味むつかしい。
最後、牛久大仏のあしもとでみせる切れた表情はやはり美しい。

全編漫画的(原作が漫画だし)で雑誌のページをめくるがごとくテンポがいい。
アニメ部分も重くなくキルビルのような意図的破壊状態を目的としていない点、安心して見られる。
すべてが安定感のなかにあって表現される題材、演技は予測の上をいってる感じ。

これ永久保存すっぺ。

「すっぺ」とかいうとあのビッグバンドのジャズやってる映画、なんだっけ?あれ、スウイングなんとか,,,,。
あれで「やるべ」とか「いぐねぇ?」とか言ってるかもしれないけど、ああいうのを「べたべた」っていうんだよ。
やってもいいんだけど、どんなキャラがどんな局面で使うか、ちゃんと計算したほうがいいと思う。
そしてほんとうの効果を狙ったほうがいいと思う。

最近はあんまりべたべたな茨城弁は若いもんは使わない。
そこんところは意識して使わないようにしてる。
イントネーションは変だけど、語尾がそこまでなまることは稀だと思う。
たしかに自分の幼いころは平気でつかっていたけど。
最近は常磐線沿線から内陸にはいったワンランク上の田舎でも、たぶんほとんど標準語に修正されてきていると思う。

思うにあれだな。
「いぐねぇ?!」って言い方は、あんなにおおっぴらな場面で大声でくっきりと発音する使い方は稀だと思う。
ふつうに「いいなぁ~!」とか、「いいよねぇ~!」とか言って、イントネーションだけ研究すばいいと思う。
そのほうが自然でいて、最大限「地方」を表現していると思う。
「いぐねぇ~?」って言っちゃうと、なんかそういう方言知ってます、的な辞書的な使い方で、教科書英語っていうか、ネイティブじゃねぇんだよなぁ~。
やめてよ!って感じ。
地元敵にまわさなくてもいいと思うんだけどね。あの映画はどこを想定してるんだか...?ああ、東北って書いてあるな。
東北のみなさんどう思ってる?
茨城弁も東北弁も広義の関東以北の方言と言えるからね。
青森までいくとなかり違うんだけど(津軽弁)、東北弁、というと共通する点は多いはず。

また、明るさとか、健全さとかと方言は別である。
ましてやジャズとも別である。
ある意味アメリカにおける黒人音楽だからむちゃむちゃ方言的なんだけど、やっぱり地方の高校生と、かわいい女の子と、方言とはすべてが乖離していてパーツとしての印象が強い。
その分ねりこみが浅いかあるいはもともと動機が浅いと思う。
「天使にラブソングを...」とか「スクールオブロック」とかと同じことしてるだけかな?
まあ、なんでもなにかに似てるのはあたりまえだけどね。
見てないで言っててもうしわけないけど、たぶんそういうことだと思う。(でもさんざんテレビで宣伝やってたから見たのと同じ?)
そういうジャズの民族性(言語のちがいとか、マイノリティとしての文化)含めて「地方、方言」とかとイメージをダブらせているのかな?なんかよくわからん。そこまで考えてないよね、きっと。

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ウーピーゴールドバーグみたいな歌上手い黒人がやるから説得力ある映画になってる。
そこに白人も仲間に入ってるからフレンドリーで平和なイメージがある。
スクールオブロックも主役のおっさんなかなかのつわものだし。
なにしろロック好きはだいたいにんまりしちゃうこと言ってるし。
とにかく説得力を得るための努力はかなりしてて、付け焼刃ではない部分が多いと思う。
日本だと、あれだ。いま三味線とか流行ってるじゃんか。
ああいう若者使って純日本的な映画つくってよ。
海外でもうけるって!
なにしろかっこいいじゃん、絵が浮かぶよ。
架空の潜水艦作って「もしも劇場」やってる場合じゃないよ(失礼)。
あとは、「8Miles」とかエミネムそのものが白人でラップという特殊な状況をそのまま映画にしてて画期的。
むしろこの「8Miles」的逆説的で圧倒的な説得のプロセスをなにかで表現してみたらどうだろうか?
そうしたらべつにとりたてて「方言」が全面に出るなんてくだらない発想、および宣伝はきっと鳴りをひそめるにちがいないんだから。
まあ、思うに映画はやっぱり宣伝もよくないよ。まちがってる。だからきっと少なからず誤解してしまうことも多い。
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下妻物語と比べればわかるんじゃないだろうか?
こちらは茨城県南文化圏を表現しつつもいわゆる茨城弁を誇張することは無い。
これはエライ。
これが正しい認識であって、動機がほかにきちんとある証拠である。
そのためにはむしろこてこての方言は逆に邪魔だという的確な判断のもとに作られた演出が「ある」と言える。
無いことによって在るわけだ。(なんか仏教っぽくね?)
なんにせよすごく「地元」を感じた映画。
地名が実名で出ているからといえばそれまでだけど、そこでこてこてにすぎず、
その地の草の根としての登場人物のキャラクターの演出にこだわったからこそ出たリアリティだと思った。

まあ、地元だからね。ヒイキ目はいってるけど、やむおえない。
他の地方の人が見たらたしかにそのぶん楽しさは差し引いて考えるべきだとは思う。

それにしても茨城県南文化圏に特化した映画。エライ!!

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キャラクターに関して。
フロントの二人が際立っていて(とくにヤンのほう)、あとは脇役としてのキャラクターでひたすら漫画的だね。
Babyの社長のキャラは好き。ぞくぞくする。
一角獣もまずまずかな。
でもみんなパーマネント性は薄い。
さすがにきききりんさんは適当な役だけど存在感がある。
だからトラさん的(山田洋二的)キャラクターのパーマネント性は薄い。
だからこそこの映画の二人の主役の真夏の夜の打ち上げ花火のような一瞬のきらびやかさが貴重なのだ。
音楽といってもロックだね。
映画もそうだけど、音楽も偏ってる(笑)。
かたよりっぷりをちょっとでも楽しめたらよいのではと思って。

まずはイングヴェイかな(笑)。
イングヴェイいいよな。
ぼくは音楽もかなり遅れてて、高校生の時はちまたではBOOWYとか流行ってた。
でも自分だけビートルズ聴いてた。
ビートルズだけ聴いてればことは済む、とか思っていた。
いま思うとなんじゃそりゃ!?って感じるけれど、そのころはそんな陸の孤島のような状態。そもそも音楽に熱中するようなキャラじゃなかったし、アニメソングくらいしかわからなかったし、歌謡曲なんて「港のヨーコ横浜横須賀」くらいしか聞かなかった。
これはもちっと昔になるけれど。
で、そんな鎖国状態の国にビートルズがひょんなきっかけではいってきてとたんにそれ一色になっちまった。
だから聞き狂った。
もう全部の曲をくりかえし聴いてた。

いいかげんいやんなるくらい聞いてしまってから、
なんかものたりなくなってきた。
それはスタジオ音楽としての限界を、そこはかとなく感じてのことだった。
自分でもフォークギターをちょっといじるくらいになっていたから、ビートルズなんかまっさきに覚えたけれど、ギターそろなんて簡単すぎてすぐつまんなくなっちゃう。

そういう需要からビートルズに決別。
意外とあっさりと決別したんだ。
それからもとめたのはハードロックの周辺だった。
もうぜんぜん知らない世界で右も左もわかんない。
そんな時ラジオからアルフィーの高見沢さんの声とともに、ツェッペリン、パープル、ジミ、アルビンリーなんかが聞こえてきて、大きな衝撃を受けた。
特にジミ。
ウッドストックの「パープルへイズ」だった。
これにはやられた。だれがこんな音出すんだよ!?って感じだった。
人間技じゃねぇ!って根拠も無く感動して、たしかに背筋に寒いものが走った。
あとはかっこいいなって程度でツェッペリンの「天国への階段」。
パープルはつまんないと思った。
アルビンリーは論外に聞こえた。
それでジミのベストめいたものを買って聞いた。
そしたら思っていたものと違っていた。
なんかウッドストックにあったあの異常なテンションが無くなんだか当時の自分には奇異としか感じられないレトロちっくなロックがはいっていた。
「う~~ん。なんかこれ違うな~。」って感じ。
それでもうジミは一旦やめて、そこからいきなりイングヴェイだよ(笑)!
イングヴェイはギター雑誌に取り上げられはじめたころで、まだお痩せになられていたっけな。
それで「マーチングアウト」を買った。
聞いてみて、「あれ~、これもなんか違う。綺麗すぎ!」なんて感じてしまった。
それでもなんとなく聞いていて、エレキでコピーにトライしたりして、まあそれなりだったけれど、そのすぐあとヴァンへイレンに行く。
これははまった。

まさにほぼばっちりの理想的な音だった。
それでけっこうヴァンへイレンは聞いた。
ビデオもカッコいいからそれも感動した。
けど、コピーしたくはならなかった。
なんかあんな音は出せないだろうってのと、なんか微妙に肌が合わない部分を感じてもいた。
ここらへんの違和感は重要かと思う。
それで周辺をいろいろ聞いたけれど、その当時の感覚では、どうもこれってのが見つからなかった。

つづく
ムエタイかっこいいね~。
かっこいいよ~。
トニージャー!

ムエタイってもこれ古伝っていうか、武術としてのムエタイなのかな?
でもこれ観て、この型とか戦い方のスタイルが本物のムエタイにかなり近いものだとしたらムエタイってなんだかすげえ...。
カラテとか中国拳法と比べても異質に見える。
そりゃ全部知ってるわけは無いんだけど、その戦おうってする心持がなにかぜんぜん違う属性になる気がする。

地理的にちょっと考えてみようかな~。
アジアの武術がいったいどんな系統を持っているのか?
自分的には中国を原点とした流れしかわからない。
中国->琉球->日本
っていう流れがカラテの流れであって、日本から見たらそういう認識以上のものはなかなか持ち得ないと思う。
情報も少ないし、研究者か、よっぽどのマニアしかそのほかのアジアについてはよく知らないはず。

中国に朝貢しつつ、日本からの支配を余儀なくされた琉球で、中国拳法と土着の「ティー(手)」とが融合して後のカラテ各流派となった経緯は、いかにも防衛手段としての武術というイメージがある。実際どういうつもりだったかは知らないけれど、刀狩とかあったし、徒手武術は必要だったことは事実のよう。
カラテは日本にも広まっていくので周知のとおりだけど、このようなイメージからはあの狂ったように好戦的な技術は沸いてこない。
でもムエタイにはそれを感じる。
異質だな~、って感じ。

中国拳法も激しいものは激しいらしいけれど、なんかもってる雰囲気が違うよねぇ~。
なんだろ~ムエタイ。

伝統武術ってプロ格闘技にはほとんど出場しない。
それは強い弱いっていうレベルの低い考え方に同調したがらないからだと思う。あと、見世物ではないという考え。そりゃそうだ。武術だもん。ネタばれしちゃったらいざというとき破られる可能性もあるから、隠すわけではないけど、みだりに見せない。これ正しい。
なんとなく解ってきた気がする。

ムエタイはプロ格闘技のフォーマットでも通用してしまう。
というより、そういう場でこそ有効な技術が多く含まれるみたい。
アグレッシブって言っちゃうとそれまでだけど、そんな単純なもんではないな、あれは。

あんなでもやっぱり型とかあるみたい。
映画の中でもやってる。
すごくシャープで新鮮に見えてかっこいい。
技の出し方に独特な趣があって面白い。
基本的にスタンスは広くとるんだな~。
正しいと思う。
短期間で覚えられそうだしその点で実用的だと思う。
なんかそういう闘争を経てきた痕跡なんだろうな~。
蟷螂拳とか、洪家拳みたいなタイプの実用性だよね。
それにしても激しい武術。
すごく実践を経てきたんだよきっと。
それで秘伝だとかなんだとかいってられないほど差し迫った危機があったに違いない。
そういう時代に広く行われたに違いない。
そりゃ秘伝じみた技もあるだろうさ、でもスタイルに多くが語られている武術だね。
見ていてまずわかりやすい。
ということは単純に覚えやすい、そして使いやすい、イコール実用的で強い。
だからスポーツとして成り立っていく。
K1もほとんどムエタイだよね。
キックボクシングはカラテサイドから起こった興行だけど、それにしたってムエタイのスタイルに倣っていると言える。
ムエタイを超えよう超えようとしていたんだから。
そこらへんは「四角いジャングル」シリーズ見るといい。

それにしてもかっこいい映画だよ。

そして技術的にはけっこうマニアックだといえる。
頭でハイキック受けるところがあるけれど、あれも「受け」の技術なんだろうな。
当たる瞬間を意識して打面を上手く合わせて衝撃で衝撃を緩和してるんだろうね。
交通事故のときぶつかる瞬間まで目をそらさないほうが怪我が少ないのといっしょだと思う。
それを技術化したもので理にかなっている。
両手がすぐに使えるしね。
まずいものを「えい!」って飲み込む気合だよ!(厳密には違うと思うけど、さすがに)

とにかくちゃんと見てると新鮮な動きがもりだくさんだと思うよ。
映像はなかりへこむクオリティだけどね。
それはもうご愛嬌だよ、ははは。
でも仏像を追ってストーリーが進むなんて、なんてのどかなんだろう!
ってのも特筆すべきところかな。
こののどかさと、ムエタイのかっこよさ!
あと仏像のお顔の表情の豊かさもいい感じ。
癒されるよタイ式の仏像はさ!
エルトポ買ったよDVD

最後までちゃんと見たよ。
とてもよかった。
昔観たときはなんだか圧倒されるだけで、あんまし良く見れてなかったな~。
でもあらためて見直してみて、案外ユーザーフレンドリーな映画だったのでなんだかほっとした。
前に観たときはむやみに難解っぽい映画っていう印象持ってて、それは得に後半にそういう「とっつきづらさ」を感じていて、
そのまま眠ってしまったわけだけど、今回は眠らずにちゃんと面白くみれたよ。

いや実にけっこうな映画だよ。
ちょっとカルトすぎるきらいはあるね。
表現重視っていうか観念的に役者動かしてるからちょっとそういうのが鼻につくかな~、って、言わなきゃいいのか!
それはそれでべつにいいんだ、いいんだ。

監督は主役であり、音楽やら脚本などもほとんど自分でやっているんだってね。すごいね。
この映画はその見た目のとおり、「質感」の映画だ。
いろいろなマテリアルがぶちこんである。
香ばしいそれらの肌合いが特に印象に残った。
デブ、アボリジニっぽい男の顔、フリークス、女のはだか、砂漠の砂、オアシスの水、死体、血の海、石、岩、青い空、
こういったいろいろなものでできている。
メキシコの風土の色彩がフィルムに染み込んだ映画。

神秘的でなんか心理を求めている雰囲気に気おされがちだが、
それらの要素よりも配置された「素材」ががっちり見る人の視線をつかむんだ。
実に即物的な側面もかなり強いというのが二度目の印象。
「内と外」なのか?
意図的にそういう構図になっているのか?
というよりもそれだけ発想やアイデアが豊かだったんだろうな。
そういう勢いでやってる感じも受けるし。
内面を描こうとするエネルギーが表面を飾る結果となった感じ。
うん、健康体だ!
これかなり健康な映画っすよ。

お勧めだ!
絶望について考えた。
シューシャンクを観て、「映画とは現実」だと感じた。
またそう感じさせる要素を備えた映画は、なんかいい映画なんじゃなかろうか?とも思う。

翌日常磐線にて移動中おしっこしたくなったときも計らずも「絶望」感というものを味わった。
常磐線にはトイレのついた車両があるが、自分のいた車両からはちょっとはなれていたし、
せっかくとった席を離れるのもいやだし、荷物おいていくのも不安。人に見張りたのむのもなんか違うと思うし、
こういう些細なことにも切実な「絶望」感を味わうことはあるもんだなあ、と気づかされた。
なんといっても常磐線。牛久から上野までは約一時間。
おしっこのたまり具合からして、とても持ちこたえられそうに無い。
こんな時、利尿作用の強そうなカテキンたっぷりのお茶とか飲まなきゃよかった、とか、
おしっこのたまり方って一定でコンスタントってわけでもなさそうだ、とか、
朝おきておしっこしてまだ活性化しきっていない体が、その後水分として入ってきたお茶を呼び水として、
しだいに身体を活性化させ、急激な利尿作用に至るプロセスかなんかあるんじゃないか?とか、いろいろ考えた。
考えているうちにすぐつらくなってきた。
こういう日常の場面にも「絶望」ってものは感じるもんだなあ、ってあらためて発見した。
生理現象なだけに切実だった。
とりあえず柏まで我慢してみたけれど、もう限界近かった。
もう次の松戸でいさぎよくトイレに降りよう、と決めた。
でも常磐線ってけっこう駅間長いからね。
辛かったよ~。
ささやかながら「絶望」を味わっていたけれど、ここでの「希望」はいづれ松戸には到達するということ。
もう一つのパターンは、渋滞の首都高フルオープンでおしっこしたくなっちゃった場合。
オープンカーなので、なにか空き瓶にしちゃうわけにもいかない。まわりから丸見えだから。
これなんかいつ渋滞から抜けられるか見当つかない場合とかかなり「絶望」。
こっちのほうがきついかな。

まあ、あとは考え方で、「生理現象」への対処法を「公共性」ということと天秤にかけて考えて、
自分さえ問題なければたとえ公共の面前でも生理現象を処理することを優先しうる。
このかなり恥ずかしい軽微なモラルの違反は、横断歩道で信号待ち切れず、車どおりも少ないので、えい渡っちゃえ!
という軽微な違反とはその意味するところとしては異なる。
「生理現象の処理」であるという点で信号無視とは異なる。
これも犯罪の動機たりうることは多くが認識するところと思う。
性質上犯してしまう犯罪とはこのようにその個人にとっては、かなり切実な生理現象なんだと想像できる。

ショーシャンクに出てくる服役中の囚人にもそういう性質で犯罪を犯した人たちもいたことと思う。
だからって同情するつもりもない。
なんとはなれば、朝おきてからおしっこして次の尿意までの時間を自分の身体状態から推測し、安全に行動することは可能だからである。
そういった自己管理によって未然に防げる「絶望」感もあると思うから。
そしてシューシャンクの主人公が捨てずにいた「希望」は「ほんとうは無罪である」こと。
おしっこにあてはめれば、「いづれ松戸には到達する」ということ。
なんとなれば公衆の面前でもらしてしまうこともできる。
これが違反事項であり、犯罪にあたる部分。
そういう切実な問題を、ひとそれぞれの分野でかかえているのも現実だということ。

長いことム所ぐらししてるとその生活以外できなくなる。
そんなところも描かれいた。
うしろめたさからくる負い目なので、理屈ではない。
でも主人公はもともと罪をおかしていないという自負があるのでへこたれないでいられる。
だから他の服役囚とは条件が違っている。
松戸につけばトイレに駆け込める、これが「希望」というものである。
同じだ。

この映画はそういう感じがとてもよく出ていて、「映画も現実なんだ」と認識させられた。

最後のブルーなメキシコちかくの海で主人公と仲間が再会するところがきもちいい。
「希望」のある場所にたどりつけたから、命がすくわれた結果に見ていて満足する。
そんな終わり方。

映画そのものの全体の作りは、名作と呼ぶにはやや届かず、といった感じのエンタテインメント要素の強い作りだといえる。
でもそれくらいのスタンスで実にすがすがしい気分になるんだから、ねらいは外していない、いい映画だと思う。
フリーダって好ききらいの別れやすい画家だ。
かくいう自分も昔はすごく嫌いだった。
まずはじめに自画像がほとんどだし、ぱっと見男なのか女なのか判別つきがたい。
つまり女性の顔としてはいわゆる「美人」に描かれていない。
あとは眉毛が太く、つながっている。
女性だな、と気がついたあと、口ひげなどがうっすら描写してあるのを発見してちょっと引く。(絵はダウンタウン松本に酷似している!)
流血の要素が多い。
技術的には稚拙(ルソー的自己流)。

、とまあ、かなり失礼な感じなんだけど、
これらがいったん好きになると全部好きな要素に変わる。
不思議だね。

これは「理解」ということなんだ。
絵はなんでもそうだね。
とにかくフリーダの絵は灰汁が強い。
シュルレアリスムといっても意図的なものではなく、幻想などよりはリアルな体験的な内容からくるところを便宜的に分類したにすぎない。
ダリみたいなキレイキレイなブルジョアっぽいいかにもっていうシュルレアリスムとはぜんぜん趣きが異なる。

映画はまあ、それなりによくできてる。
これを観ていままでディエゴに対してもっていた印象がすこしかわったくらい。
ディエゴっていうのはメキシコの巨匠で、歳はけっこう離れてるけど、フリーダと結婚したデブのおじさん。
ディエゴは当時その地位をもう確立していて巨匠と呼ばれていた。
フリーダは交通事故に巻き込まれて体がより不自由になってすこししてから、ディエゴに接近してゆく。
絵を描き始めたからだけど、いろいろな思いがあったことと思う。

ディエゴはいまとなってはフリーダの旦那としてしかあまり知られていない。
当時は逆だった。フリーダのほうがディエゴの奥さんでしかなかった。
でもディエゴはフリーダのほうがいわゆる純粋な「画家」であろうことは理解していた。
このディエゴってのがなんとも味のあるデブで、デブのくせに女性にもてたらしく、すぐ浮気する。
女性から見るととんでもないやつ、らしいけれど、全体的に見ると、なんとも憎みきれないおっさんだったようである。
この点ピカソにちょいと似るけれど、ピカソのほうは根っこのところでもうちょっと乾いているような印象がある。
ピカソも自身に対してものすごい自信まんまんで、芸術のために生き抜いた人だ。
まあ、そんなにストイックというものではないけれど、「美術」に対してより近く、世の中の中心で振舞えた人。
でもディエゴは民族意識がもっと強く、ひいては自己のアイデンティティにかかわる政治思想のために貢献する、という間接的なスタンスで絵画表現にとりくんでいる。
この点が大きくちがう。
ピカソはひたすらピカソそのものであろうとしたのに対して、ディエゴはもっと社会的であろうとした。
ここらへんが人柄なんだといえる。
一見同じように見えるわがまま野郎でも、ピカソはさらに上を行く。
ディエゴは「いい人」の部類なんだな。

この「いい人」っていうチャンネルのおかげで、ディエゴの心のなかをすこし覗ける。

フリーダから近づいたんだけど、そのフリーダを知ったあとは、もう完全にフリーダはディエゴの人生の一部となったに違いないんだ。
おたがい曲者だからいろいろあるわけだけど、特にディエゴの場合は多くの浮気相手と比較しても、やっぱりお互いがいちばん印象深い相手であったことは想像がつく。
この二人のケースはそれだけでかなりユニークなケースなんだ。
とにかくレアな関係。
人間も絵も、その当時の社会情勢も。

絵が絵だけで存在しえない。
その裏の「人間」の存在を常に強力に感じさせるという点で、フリーダの絵は最強。
芸術のためなんていう大儀無し。
自分の痛みに耐えるため。
存在自体を皮肉るため。
絵をみてそれを描いた人がこんなに強く感じられるのは、なんだかよくよく考えるとやっぱりめづらしい。

芸能で言うと歌舞伎役者の存在感に近い。
役を演じていながら役者そのもののユニークさを強くアピールするという特殊な芸能、歌舞伎。
フリーダとは、歌舞伎的絵画そのものである、と言える。

だからおれはその役者のファンになったようなもんだね。
(映画の役者は関係ないよ)
ブルースリーの映画はみんな好きだけど、
この映画はその中でも意味深く、大好きな一本。
強いて言えばね。

チャックノリスとのコロッセオでの格闘シーンが有名。

あとで知ったけれど、この映画にあるようなシチュエーション、たとえば外国(アメリカ)行った先で知り合いだか親戚だかのレストランでお世話になって生活しのいでいたとか、本人の実体験にかさなるところもあるしね。
あと、武術的な自己主張の強い人だから自分の考える武術像をこの映画の中でよく表現してると思う。
そんな意味ではその他のドラゴン映画とはずいぶん違った見方をすべき映画といえると思うけれど、専門家の方々、いかがでしょう?

「死亡遊戯」も生前撮られていた部分である塔での格闘シーンの意図するところは近い気がする。

一本の映画として、まとまってみえる分、「ドラゴンへの道」のほうがだんぜんいい。

ブルースリーはアメリカで中国武術の先生をしていた。
外国人に貴重な文化遺産であるカンフーを勝手に教えているということで、
一部の関係者の間で問題視され、決闘をもうしこまれて勝負したりもしている。
そんな雰囲気もローマのマフィアのいやがらせなどに出ているんではないかと思う。

そんないやがらせから自衛の手段として他の若い店員が裏で練習しているのが「空手」。
やっぱ流行ってたんだね。
「空手もいいけどね。」ってちゃんと認めたうえで、カンフーもすごいんだぞ!って実演してみせるところがかっこいいよね。
このあたりがブルーリー自身の精神段階でいうと「第一段階」。

そのあと、ラストで最強の空手家チャックノリスとの戦いで、劣勢にたたされた際、身体から自然とわきあがってくるフットワークによる自由な動き、この「フリーフォーム」な取り組み方を「截拳道(ジークンドー、JKD)」として自己の流派とする。
そういう武術哲学をよく反映したシーンがここ、「第二段階」。

自分の精神的成長過程をなぞったようなつくりになっている映画なんだ。
だから純粋に映画っていうよりも、なんだか極真でいうところの「空手バカ一代」的な位置づけといえなくもない作品。
伝記ではないけど、伝記的なんだな。これ。

ただ、ふと思ったのは、空手が仮想敵となっているけれど、実際意味するところは、その他のカンフーなどの他流派をふくめた地上のあらゆる格闘技に対して、という意味もあったことと思う。
描きかたにもよると思うけど、空手関係者から文句きたろうな~って想像できる。
ただ、それがカンフーの他流派だったらもっと問題になっていたことと思う。歴史も長いしね。
実際どうなんだろう?
カンフー映画って実際の流派の優劣を匂わせるような描き方って、あったとしてもきわめて少数派なんじゃなかろうか?
たぶんすごい問題になると思う。
ハンカーロとか、ウオンフェイフォンとかやっちゃうと洪家拳ってことになるけれど、流派間の戦いというよりも勧善懲悪の図式になってるからいいのだろう。そこらへんはおそらく暗黙のルールみたいなものがあるにちがいない。(想像)
あとはだって、五獣の拳とか、酔拳とかね、ジャッキーチェンにかぎらずそこんところは上手に避けてると思う。
その点、ブルースリーの主張しやすかったこととしては、詠春拳をベースとしつつ、他のもろもろの基礎となる流派のいいとこどりで「新しい流派(門派)」にしてしまったということだと思う。
既存の門派をして「うちが最強」と声高に主張することはそれなりに問題多きことになると思う。
そこをJKDってしておけば、なんとなくいろいろな風当たりもあるていど緩和されるような気がする。
いや、根拠は無いけれど、なんか、JKDっていう洋風の新興の格闘技ってなってれば、あらゆる関係者は、とうぜんその価値はみとめつつも、一定の距離を置いて捉えるということもしやすくなるはず、とも考えられるから。
スポーツチャンバラ(スポチャン)とかさ。(これはなんか違うか!)
ボクシングだってそうだよ。
流派とは、「名トレーナーのいるジム」ってことで、秘伝はトレーナーの経験の中にある。
スポーツ競技としての側面があればこそ血なまぐさい話にならずにすんでいると思う。
そんなイメージもなきにしもあらず。
あくまでもイメージの話。

ただ、競演してるノラミャオ、いいよね。
ああ、あとオープニングね。
オープニングの切りえっぽいアニメーション。あれいいよ。音楽とあいまってすごくかっこいい。
龍のカヌーみたいなのをこぎ手が漕いでて、ローマにいきつくってストーリーになってる。
手がこんでるよね。
ガンダムってもうファーストは「聖典」だよね。
バイブルっつうやつね。
もう聖域ですよ。
ファーストはね。
ファイースト以降のガンダムを自分は知らない。
観る気もない。
ある意味サギだと思ってる。
ガンダムって名前使うな!って感じ。

だってさぁ、
アムロとララアのもっとも深い部分での「理解」がこの名作の骨子なのよ。
子供むけのようは「ダイターン3」とかの流れといっしょのはずだからおこちゃまむけだよ。
(まあ、ライディーンとかねぇ、古代ロマンと渾然一体となってたおれ好みもあったけどね)
そんなに込み入った表現はストーリー構成もふくめてできるはずがない。
でも本音としてはそういう部分がとても重要で大きいわけ。
ララアって、生涯における唯一無二の「本当の恋人」のことだと思う。
それを具現化した理想の女性像。
そういうものには、一生出会わないかもしれないし、出会っても気がつかないかもしれないし、
そういうことが言いたいんじゃないの?
この話は。
それをさ、ニュータイプとか言っちゃってさぁ~。
実に秋葉系な発想だよね。
ひきこもりなんじゃないの?

無意識のなせる技かどうか、インド人?って感じのララア。
オリエンタルな神秘主義的なイメージを踏襲してるかんじ。
観念世界での「永遠の恋人」像。
東洋的。いいんじゃない。
少なくとも一般の日本人が描くのは金髪はありえない。
(ありえないよね?)

シャアがヤキモチやくでしょ。あれいいよね~。
ああいう表現ってクリエイティブだよね。
表現が際立っていい。
おれ好き。
あとフラウボウって単なるおさななじみ。
これはもう間違った伴侶というか、怖いもんで、特殊な状況から成立する関係なんだと思う。
でもそれが普通だよね。
でもアムロってちゃんと理解してて、「ぼくの一番大切なフラウ」って言って「あげてる」。
アムロは大人なんだ。やさしい男だよ。
でもアムロにとっての本当のパートナーはララアだ。
ララアしかいない。
自分でララアを殺してしまうのも、なにかサダメというか、
現実とのつじつま合わせに感じられてならないくらい悲しい「精神の自殺」にちかい構成といえる。
そう思うとすべての出来事がアムロの(作者の)一人芝居的な様相を呈してくる。
はたしてほんとうに実在したかと思わせるくらい現実(アニメ内)から浮いてみえるキャラクター、ララア。
演出でもそういう存在として描かれてるので、意図的なんだね。さすがガンダム。

ニュータイプであることと、現実とのギャップは、表現の上で封印されたテーマだといえる。
なにかが「わかってしまう」立場というものもつらいもんだと思う。
だって霊感といっしょじゃん。
聞くところによるとやっぱそういうのはそれなりにつらいらしい。
宗教もいろいろあるけれど、根源にはそういう状態からの救いのような役目もある。
厳密には宗教とは言えないけれど。フォーマットとして宗教の体裁をとる。
いかがわしさや、勘違いのもとともなる。
そんなニュータイプでしょ。つまりは。

モビルスーツとかさ、妙な台詞まわしとかさ、そういうこってりしたところはおこちゃま向けに塗りたくられたアクセサリーでね。
たしかにそういうところが魅力なんだけどね。
でももういいかげんしゃぶりつくしてるよね~。

そもそもファースト以降の亜流って価値あんのかね?
ファーストが提示してくれたものは、少なくとももっと異質に変形したおそるべき唯一絶対な恋の話。
なんかテーマも「スピリチュアル」なもんだし、すごく日本的じゃない?
それとメカの造形も、ファーストが一番いいわけでしょ?
そのあとどんどん複雑化、ごてごて化。
あとは勘違い派だらけだよね?

ガンダムあれよりシンプルにできないしなぁ。
もうジムっていう廉価版あるしね。
ようするにガンダムって存在も試作品的なカスタムメイドなんでしょ?
「一品もの」ね。ワンオフね。

キャラもさぁ、もうちょっとなんとかならんかね?
あんなアニメ絵じゃ入り込めないよ、ムリ言うなって。
いいのかい、そんなんで?

もういいかげん終わりにしなよ、って感じ。その他の亜流。
もうガンダム関係ねぇじゃん。

自分、ファーストガンダム、リアルタイム体験者です。
なめんなよ、って感じです。
これも思い出の映画。

ペニーレインっていうのは女の子のニックネーム(だったかな)で、
この子は一見なまいきだけど、まだまだ浅はかな女だなぁ、という視点に立ち、
主人公のロックジャーナリズムに片足つっこもうとしてる男の子が成長してゆく話。
....だな。

メディアのロックに与える影響を描きつつ、ミュージシャンの真実性っていうか、
「裏表」や「虚と実」をこの少年は学んでいくという感じだね。

ロックってのはまあ、子供っぽいものだ。
だから子供の視点で見て、真実を書いてしまう。
実のところ大人の世界ではビジネスだから「裏と表」があるんでしょ。
ってな感じでこの映画の主人公は子供ってわけ。

「成長」としてポジティブに語られる内容が、本当に成長といえるには、
それなりの内容を伴わなければならないよね。

この主人公はペニーレインという浅はかな少女に出会って、いろいろ学んでいく。
この少年はきっといい中身をもった大人になれるであろう、という期待を抱かせる映画だよね。
個人的な欲を言えば、もっと「子供の視点」ってどんななのか?
という表現を工夫してみる価値はあったように思う。
そうするとまた違った雰囲気で、よりいっそう印象深い映画になったように思うけれど、
時間のなかでいろいろもりこむのはたいへんだよね、きっと。

まあ、実のところ、ロックを解する子供というのも、ありそうで有りえない。
ロックにはあるていど「人生」の部分が重なるものだからだ。
だから自分は幼年の天才というものを信じない。
モーツアルトだって信じない。
また違う価値体系のものであろうことは理解する。
それを真に音楽的な良さと言い切れるものなのか、それはよく知らない。
なんにせよ「経験」からくる深みや渋さも、ものごとには必要だといえる。
底の浅いものにしないためにもね。

映画のなかで、この少年にいろいろちょっとづつアドバイスを与えてるおっさんがいるんだけど、
このおっさんはロックの真実を語る。
しぶいよね。
でもこのおっさんはいわゆる負け組みだよね。(それも真実)
真実とか、いいものを「いい」って言うことには勇気も必要だし聴く耳をなければだめ。
でもその真実も大衆の前ではそんなにでかい意味を持たない。
ビジネスとして価値観を虚構によって構成された商品には夢中になるけれど。
まあ、「幼少」というのも「商品価値」にはなりうるな、うん。
とにかく、このおっさんはいい人なんだね。

そしてこのおっさんの存在はとても重要だ。
このおっさんなくしてこの子のストーリー上での活躍も無いし。
この子におっさんの血脈はうけつがれてゆく。
熱きロック魂というものがね。
ロックというのは単なるファンに終わらず、熱く語れなければ本物じゃない。
そういう点ではクラッシックとかジャズとかも同じようなもんだと思うよ。
このあたりの「語る」ってところがバックボーンなわけで、ものごとは表層だけではなりたたない。
とうぜんそれは音に出るでしょって言ってるだけだよ。
このガキんちょが!
ホモ映画。
というと見もフタも無いので訂正。
グラムロックの怪しい美しさをホモセクシュアルな面からわかりやすく解説してくれてるいい映画。
グラムロックを描いた映画じゃないと思う。
やっぱりホモがメインだと思う。
いい映画だよ。これ。

おれは好き。(ホモがではなくて)
それは個人の問題だから良し悪しでなくて。

あと、あれだ...サントラもいいよ。これは。
サントラ買ったもん。
グラムロックっていうものの気分をよく表現してるんだと感じる。
グラムってビートルズ以降のハードなんかと同じ時期かな~?
リアルタイムでないからそんなに厳密には知らないし、マークボランくらいしか実際は聞いてないから。
あとはこの映画でモデルとされているデビッドボウイとかね。
イギーポップはパンク?グラムというのあれ?パンクだよね?
パンクでしょ。

この映画はなんか切ないんだよな~。
青年がさぁ、なんか妙なとこで意地はっちゃって。
それこそなんか女々しい情熱とでも言えるんじゃないかと思うけど、
(そこがホモっぽさの根源なのかな?)
グラムにそれが昇華されていくとこがなんともいいね!
UKって感じ!アメリカンじゃこの感じは無いでしょ。

グラムっていうのはとにかく化粧とか派手派手ないでたちとか、結局その後のミュージシャンに脈々と受け継がれているところを見ると、なかなかどうしてロックというものの本質にあたる部分を受け持つのではないかと思う。
意外ではあるでしょ?

「グラムなんて!」って思ってる硬派なロックの人もいると思うけれど、それは違うよ。
それを言うならストーンズなんていっちゃん硬派じゃないよ。
あんなもんロックなの?あれロック?
「それってもしかしてロック?」
百歩ゆずっても、それと大差ないんだぜ。
ああして気長に「ビジネス」を続ける息の長さも根性なきゃできないけどね。
エンタテインメントビジネスとしてはたいしたもんだと思う。
でもストーンズは俺、逆にロックを感じない。
ルーリードとかの歌い方ほうによりロックを感じる。グラムじゃないけどね。

グラムだってすごくロックだ。
グラムの精神がロックだし、音に表れてる繊細さとコケティッシュな味もまたロック的な要素だといえる。
あと当然マジは入ってるセクシー感ね。
だからそんな意味でこの映画は「わかりやすい映画」なんだ。
そしてサントラもいいぜ~。
買っちまいな~!

自分はちょっと前まで、80年代を少々ばかにしていたけれど、
軽いポップス系の多かった中にもグラムの血統が息づいていて、自分はそれに気づいてあげられなかった。
(なんのこっちゃ!)
80年代といえばなんだかクイーンとかヴァンへイレンあたりのイメージが強いよ。
他はぜんぜんリアルタイムで聴けてない自分。
軽快さの中にグラムのどぎつき時代の残照を見ていさえすれば、もっとすなおに入り込めたのに。
またロック理解も変わっていたかもしれないのにね。
、というわけで自分はあまりストーンズは好きじゃない。理屈ぬきで、あまり好きじゃない。
エアロスミスもなんかイメージがだぶってて好きじゃない。っていうかほとんど知らないし。聴こうと思わない。
そもそもグラムも多く知ってるわけでも聴いてるわけでもない。
自分のベースはジミヘンとかそこらへんだから。
それでもグラムには好感もてる自分。
で、それはなぜかと自問してみると、そこにはやはり「ロック的」と言える要素が強いからだと思ってる。
あとは「サウンド的」にみて、グラムのほうがおもしろいと思う。
そんなイメージの体系の中にけっこうはまった映画。
なんか音楽の話になっちゃたね。ごめんね。

ハードの話はまたこんど(笑)。