サイオニクス戦士、ハルマゲドン接近、サイキック使う時のオーラの「のぼり立つ」表現などなど数々のエポックメイキング。


アニメ映画のノーベル賞くらいあげてもなんら差し支え無し。
大友先生のキャラクターデザインなんかも衝撃的。ヴェガのデザインは土偶的で秀逸だと思う。
土偶的でなおかつメカニカルでかっこいい!こんなキャラクター「並み」じゃない。ウルトラマンとかに出てくる円谷キャラクター的なかっこよさかな。(なんとか星人とかの)


このアニメ映画ははまった。


小説も読んでみたが、長い話でアニメから入ったからかお話の進みかた、こだわり方がまわりくどく感じられて自分には合わなかった。


中身がどうとかが問題になるものでもないとおもう。
きっと小説はそのプロセスとかディテールを活字で追ってたのしむ娯楽大衆SF小説だと思うけど。
(中学生だったし小説は大人むけ)とすると、アニメ映画のほうに在った要素に強く惹かれたということ。


それは斬新なキャラクターデザイン。
「ハルマゲドン接近」という奇妙で強引で強烈なキャッチフレーズ。
超能力発動時の画期的オーラ表現。
キースエマーソンのかっこいいサウンドトラック。(ローズマリー・バトラーのボーカルも)
ようするに初期角川アニメ映画の持つ「熱さ」。


これらのばらばらな各要素がとても大きく貢献してる。
小説には無い要素がほとんど。


こういう企画というかプロデュースってすごく効くと言える。
小説が原作の映画の在り方としてすばらしいと思う。
もともと小説の持ち味を映像化すること自体不可能だということをわかりきって確信犯的に企画しているとすら感じる。
「もともと無理なんだから、まったく別物のしかも極上のエンタテインメントにしようよ!」ってことだろうと思う。(みんなそう考えるにしても!)

そこに当時爛熟期に達した日本のアニメ文化がうまくはまったんだろうと思う。


宮崎駿監督とかのアニメ映画はなんでも受けるみたいだけど、初期角川アニメ映画ってのはまた違った「熱さ」をもっていて、
自分はこっちのほうが好み。
「カムイの剣」とか。
あれも熱いアニメだよ。
サウンドトラックは竜童組だよ(!)。
キースエマーソンに竜童組、いったい全体すごいっつ~の!

そういう企画そのものが熱いと思う。


ほどよくエコでソフィスティケイトされた価値観ではなく、ごつごつとしたせめぎあいを観客に楽しんでもらおうという考え。
惚れるよね。
これは作る人の性格の差だと思う。
生きてきた土壌の違いであるとも言えると思う。


アニメ作ってる人って、もの作りの基本的な考えに「しょせんアニメだし...。」ってな自嘲のような意識はきっと少なからずあると思う。


たぶんアニメが増産されはじめたあたりの作り手には共通する感覚ではないかと思う。
それは宮崎駿監督にしたって、少しはあると思う。(この大御所でさえ)
押井守監督にはやや違うものを感じるけれど。
初期角川アニメはぜんぜん違った意識のもとに始まったものと推測する。


これはたぶんストーリーの発端、アニメ作品として成立させるという目的、アニメ表現へ貢献するという気負い、すぐれた原作をアニメでやることの必然性の追求、などなど、これらのキーワードから推し量れるであろう作り手の初期設定の違いが、そのまま作風(作品からかすかに吹き寄せる微風)になってあらわれるから。


宮崎作品というと世間はなんだかすごく反応いいけれど、それもどうかと思う。
それに反して「イノセンス」的なものにはそんなに表立って反応しない。(当然のように見えるけれど、逆のことも言えるし)
おたく作品といっちゃえばそれまでで、それを言っちゃったら宮崎作品だっておたく作品のカテゴリに入るよ。


「甲殻」は作品中で自覚しているとおり、人工人間の系譜の中の作品で、ホムンクルスとかゴーレムとかそういう憧れ。
宮崎作品は「不思議の国のアリス」に遠い血縁があるように感じる。
ルイス・キャロルの意識と大差無い。幻想の正当化行為が意識の深いところにあるはず。
それでもあの作品は現在までよく残っている。
たぶん幻想というかファンタジーの中に「ロリコン」というリアリティが感じられるからだと思う。
幻想としてリアルなんだな。
本当に見ていた夢だから力を持つってわけ。なにも悪いことだと言ってない、そうなんじゃないの~?
って言ってるだけ。たぶんズバリ。


アニメ作品の後ろめたさは、切って貼ったりするような骨格づくりの伝統みたいなものからくるのではないかと思う。
商業ベースの作品なんてみんなあるていどそういう感じでつくられてきたんじゃないかと思う。(勝手な想像ばかりでごめんなさい)
「もとネタ」的なものをいろいろ掘り起こしてきて、つぎはぎするという作業をプロセスの一環として意識的にやっていたのかな~、と感じる。
それは仕事としてわりきった態度ともとれる。
、でそれがあるていど癖になっている。
というか職業的にやっているからかなり上手だし、普通のことだと思っているけれど、声高に言える素性を持たないってこと。


小説のほうがえらい!っていうよりも、多かれ少なかれどちらもそういう要素はあるわけだけど、要は単純にもの作りのプロセスの話、そしてプロセスってのはそのそもそもの動機に繋がってるんじゃないのかな~っていう問題提起。
とうぜん出来上がるものはかなり違ってくるから、さあ君はどれを選ぶ?ってこと。単純でしょ?


宮崎駿監督以降に出てくる優れた才能というのは、そういう環から外れた人であったら楽しいな、と思う。
ある種初期角川アニメ映画ってなんだかその対極にあったムーブメントとして当人が意識して企画していたものなんじゃないかな、とこれまた勝手に妄想してる。


図式的には、
「原作をそもそも持たないアニメ屋さんの習慣的にもとネタから話をでっちあげてはいるけれど、アニメーションとしてすぐれている、というもの作りのかたち」に対する「完成された原作(ソフトウエア資産)をアニメーションというまったく異なったメディアに変換することでエンターテインメント性に徹底した新たな価値観として対抗する意識で始まったもの作りのかたち」
という感じ。


ともにアニメーション表現の爛熟の時代に実現したことで、それなりに必然的。
必然的ではあっても、もの作りの醍醐味(クリエイティビティ)としては角川アニメのほうに強くそれを感じる。

いいものはいつの世もなぜか先に消えていってしまう。
これがサダメ。
(みんなの責任だぞ~、ぷんぷん!)


とりあえず宮崎作品のサウンドトラックにエミネムあたりを使ってみてはどうかと提案する。(なんでもいいんだけどね)
かたほうがいいということでは無く、そうすることで若干風味の違ったものに毒されながらも、国際性と偏らない価値観を獲得できるかもしれない。


とにかく閉鎖的な意識でしょぼい予算でこんなにすんげぇ~ものつくってこんなに受けたよ~!(ほんとはロリなのに)っていう意識からは脱却してほしい。


「氣士団」もファーストアルバムにあったあの房総のヤンキーのきらきらした苦味はその後続かなかった。
これにもなにかビジネスがらみの裏話があるように感じる。


幻想にも真実味がしっかりあって、それを軽んじたら、いけないということだと思う。


要するに幻想は個人のもつべきものだけど、その価値はあなどれないという結論。
純度の高いハイエナジーな妄想は、映画作品や音楽などの善意のために使われてほしいと常々思う次第。

とっても弱~い人たちの点景をオムニバス的に絡みつかせた構造。


知恵遅れな男の走らせる架空の汽車が、この男の目にうつるカラフルで極彩色な時間の止まったかのような「街」のなかをのんびりと走る。

 

黒澤先生の初カラー作品だっていうじゃない。
カラーだってことで、ほんとお馬鹿なくらいカラーにストレートにこだわっていて、すがすがしい。
ほんとにキャラクターを原色と中間色系とでくっきり色分けしてる。
その性格を色で象徴している。
なんともやったもん勝ちな手法だと思う。

 

でもほんと見ていていらいらするくらいの弱者ぶりのバリエーションが語られる。
そのバリエーションもほんといろいろあって、きらきらしてる。
わかるよね?「きらきら」。

 

すごく、皮肉たっぷりな映画。
カラーということでまずカラフルな妄想の絵画に塗りこめられた内向的な部屋から、妄想の汽車が出発する。
その先にひろがる殺伐とした「空き地」に集うカラフルな「弱者」たち。
ひとしきり「ばか」(当時の映画の意図だと思うので、あえてこう表現させていただく)が運転させる汽車がその情景をめぐり、
この男の妄想の一日とともに内向的な弱者たちの映画が終わる。


すべてこの「ばか」の視点を借りてスクリーンに映し出される情景を見ているのがわれわれだってことで、
自分ら自身も少なからずもっている「弱さ」との対峙を迫るような構造になっていて、ここで「ばか」と表現されたキャラクターと見る側も同化する。そのため、差別的な表現(あくまでも表現に必要な表面上の)を超えて映画的力を発揮させるに至る。だれも文句言えない。


差別、差別と忌避するだけじゃなく、みんながもってる気持ちの弱さと強引にまぜっかえしてしまうことでその力量をみせつけてると言える。
避けるのではなくて、正面からきっちり取り扱う姿勢。そう、姿勢が正しい!

すごくマクロな視点(?逆かな?)、というか顕微鏡で見たミジンコの生活って感じ。
イメージがすごく内向的。
キャラクターが人間ではあるけれど、すごく小動物的(笑)。
こういうところがコメディー要素として感じられるんだね。


弱者のバイブル。
極彩色で色分けされた精神のカルテ。

 

哀れみをかけてもいるけれど、それだけじゃなくつきはなしてもいる。
そうした両面のプロセスを混在させることで総体としてすべてを肯定している。というかリアリズムに高めている。
見るものの認識の変化を促す作るがわとしては余裕をもって高い位置からちゃんと作ってる。ベストポジション。

 

ほんとこんなこと書くのもほんとはなんなんだけど、いちおう書くからさ。


それにしても芸術家だよ黒澤先生。

ジュリーと窪塚ね。

 

おどろおどろしさが重要なエンタテインメント作品が原作だから、ジュリー版(深作欣二監督版)に軍配。
当然だね。(当然すぎてこっぱずかしいね)

 

新しいものってなんのかんの言ったって、それなりによく出来てたりするもんなんだ。
車がそうだね。


いくら旧車のほうが音とか乗り味が、とか言ったって絶対的に車としての性能は新型に劣るし、
トータル的な価値を向上させてあるもの。
ただ、それは車になにを求めるかによって主観的な感じ方は違ってくる。
昔の車のほうがキャシャだし、エンジンの性格もワイルドだろうから、そういうこと重んじて雰囲気までいれて考えれば、
古い車のほうが機械を操る感覚において良し、とする考え方にも一理ある。


ようするに「価値」をどこにおくかということが大事なんだ、なにごとも。
この位置だけは不動のものにしておく必要がある。

 

いつも不思議に思うのは、映画ってカットごとに撮影していって、それをつないでいくわけだけど、いい映画ってのは、うまく出来てるな~、っていうより、そんなこと感じさせないもんな~ってこと。
実にたいしたもんだな~って思う。さすがプロだし、良い映画悪い映画いろいろあるところを見ると、それができるのもプロ中のプロに限られるように思える。


そこいくと良くない映画というかなんというか、そういう映画は不自然。
お話のつながりとかではなくて、映像断片の連続として価値にまで高められて無いという感じをうける。
そうなると映像同士の切れ目はただ単なる「つなぎ目」にしか見えない。

 

「おどろおどろしさ」というのは、なにかその場の雰囲気に飲み込まれるような状態だから、そういう場のつながり感はとても重要だと思う。
表現上は「欲望むき出しな感じ」が前作にはある。
そういうものを新しいほうは意図的にひかえてる。表現が弱くなってしまうよ。
さらに窪塚くんはなんだか「演技を抑えた演技」なんだかどうかしらないけれど、「怨念」の表現になっているんだろうか?
それを言うとジュリーのほうだって純粋に怨念では無いかもしれない。
「怨念」だけむきだしにするとすごく醜くなってしまうだろうから、そこは美化があっていいと思うけど、
ジュリーのほうはその容姿の独特な「濃さ」と、やっぱり独特なあの「声」と台詞まわしによって台詞は歌うかのように美しく、「エロイムエッサイム」と耳に残るものがあった。
「俳優としての歌手ジュリー」が高度に成立している。
これははっきりこのように企てられていた思う。
だから新しく「魔界転生」を作ってるとなにかで聞いたとき、「そこんところはどうするんだろう?」って即座に心配した。

 

でも、作る側はそんな心配に気をもむようなけつの穴の小さいこと考えてなかったようで、
そんなことよりも、おそらく若年層の視聴にも耐えるようにとの配慮が意図して大きかったと思う。
「若年層」(中学生以上から)、「カップル」、「その他」、というふうにターゲットを意識したのだと思う。
実は「その他」の中にさらに訴えるべき内容を持つ原作であるにもかかわらず。
そういう意味では表現から逃げてしまっていて、出演している人にも意図がしっかり浸透していなかったのではないかとも思える。
必然といえばあまりに必然で、必然すぎて人によっては現象は災難であったと想像できる。

 

天草四郎に付き添っていた女の人は綺麗で、よかった。演技もがんばっていたね。(さりげなく書いておく)

 

しかし「魔」っていうのは「魔がさす」っていうとおり、ついつい欲望が発露してしまうことだから、たとえお茶の間の視聴に耐えられなくなっても、カップルで見るに気まずくなるにしても、そういう表現無しには説得力を欠く。

歴史上(小説上)の有名人、しかもつわものぞろいが、「魔」にそそのかされ、ついつい抑えてきた部分のはめをはずしてしまい、この世に迷惑をかける。人物が人物だけにそりゃもうすごいことになるよ~!ってのが主要構造だからね。


それを向かえ打つはめになるのが千葉真一扮するところの柳生十兵衛だよ!
千葉真一もぎらぎらオイリーなエネルギー発散してる感じの人だから完璧はまる。もう完璧だよ!
言ってみれば、柳生十兵衛がそういう「はめになる」って雰囲気が「コメディ」の要素すら潜在的にもってるとも思う。
エンタテインメントとしてdouble meaningというか二重性がほのかに感じられてぞくぞくする。
それくらいの器をもってお話つくってるはずなんだ。
「おどろおどろしい」といっても十分なマージンもって書いてるからいくらエロやっても作品の中に整然ととどまる。
テクニックが無いとそれが出来ないってことかな、きっと。

 

ともかく新作は宗教上性的表現を極端に規制してる国の映画みたい。
それは前作からの比較からも言えるし、原作者の作風の無茶ぶりから比べたらまったく牙を抜かれてしまってるから。
牙を抜いちゃったら観るとこ無くなるっつーの!怒るよ~も~!

もとから抜かなきゃならない牙のある原作選ぶ必要がどこにある?
純愛小説だってむしろ基本的にもっとスケベだろうに。
べつにスケベ奨励してるつもりも無いけれど、
このジャンルの必要要素は、マニアックなアクションとバイオレンスとエロスってのは鉄則じゃん。
お茶の間にはそれが無いし、ディズニーランドにも無い、AVなんて気分じゃない(笑)、
だからわざわざ映画でも観ようかなってなるんじゃないの?
小説という閉じたメディアのほうが強いのかな~、いつまでも。

 

結局、何見せたいのかよくわからんかった新しい「魔界転生」。
そのぶんさらに昔の「魔界転生」が輝いて見えた。


思うに基本からして違うと言える。
かつての「魔界転生」は、
登場人物の心の機微の表現に丁寧だった。
おどろおどろしいくせに、なおかつ繊細だったな。
言ってみれば「天下」とかに対する欲望は一般人には無い。現実味が無いので共感しづらい。
なおかつ劇中でも自己破綻してるけれど、天下取りと魔物がたいしてリンクしてない。


それらにくらべ、前作、細川ガラシャのくだりは、ごく身近な「嫉妬」がよく感じられてて印象的でもあった。
キリストに嫉妬するお殿さまが印象的。
宮本武蔵の執念がお通の笛で癒されるところが人間くさかった。
柳生但馬の息子十兵衛に対する意外な心残りが、ほんとに意外性に感じられた。
そうそう、「人間臭さ」が一番大事だと作るがわが知ってて作ってる。ここはエロとかなんとかいうよりも、一番重要な原作の風味とリンクしている部分。
ここが不動の位置。


身の丈に合った感情のほうが伝わるし、そういう身近なところにこそ実はクリエイティブなきっかけは存在すると思う。
逆に言うとそういう「繊細」さがなければ、いくらCG駆使しても「おどろおどろしく」はならないってことかもしれない、けっこう真理。
重ったらしい大儀なんていらない。
壮大なCGなんていらない。(ハイセンスなCGはまた別もの)
繊細な表現だけあればいいと思った。
ビジネスライクでない、繊細で丁寧で心のこもった打ち合わせ(笑)。

 

やっぱりすごいよ前作の「魔界転生」!

ごめん。これ「ジャケ借り」してしまった。


自分に謝ったの。


だってなんかタイトルが「箪笥」でしょ、それで家族写真の前列の姉妹二人が血まみれでぐったりしていたと。
そんなジャケあったらまちがいなく気になるって。
だれでもね!


スプラッタは苦手であんまり見る価値無いと思っているから、この程度の出血量なら耐えられるだろうな~、って向きにもうったえるようなジャケだよ、うんよく出来てる。きれいなホラーね。
きれ~きれ~な感じ。
そうそう、そういう「美」にかかわる部分が無いんじゃ借りる気になんないよ。

 

観てみた感じは、可も不可も無い映画.......、かな~.......。


ストーリー上、胸がやや切なくなる。
甘いはずの記憶が虚構だったときのかきむしられるような心の虚空にせつなさが残る。

 

特筆すべき点として、継母役の女優さん、なんか色っぽすぎる。(これは良いことである)
この継母がかなり怖く描かれていて、なんかそういう趣味系にはこたえられぬあやうい雰囲気があるよ、うんある。

 

始まってしばらくの登場人物の所作のぎこちなさの理由が終盤明らかになる。
な~るほどね、って感じ。
でも冒頭に精神病院風なシーンをもってきてよかったんだろうか?って思う。
たしかに、このシーンで「なになに?なんなの?」って気にはなるんだけどさ。
いきなり車で家に着くところからでもいいような気もするけれど、まあ、いっか。


そうだよね、「実はこれこれだったんだよ~ん」ってあまりにB級な不意打ちってのもおとなげないしね。
ある意味、普通な感じのドラマとしての構造を採ったんだろうな。
しかけの無い手品を目指したふしは在るな。
すべてが現実でそれでいて不思議な味わいという...。

 

これ観てちょっと考えたのは、これ韓国の映画でしょ。
風景がもう日本なんだよな~。
なんか不思議な感じ~。(いまさらにして思う)
印象的なススキの風景。
この風景の中に沼と「~亭」って感じの古い家がぽつねんとあって、これってもう「わび、さび」だね。
日本と同じ感覚があるんだねやっぱし。


そりゃそうか、昔は渡来系の人のほうが多かった時代もあったわけだし、
和歌だって宮廷のそういう渡来系の知識人が多く残したものだろうし、「和」という感覚も実はその多くのディテールを輸入したものではないかとも思える。


はたまたかつての縄文の日本にはススキなんて生えてなくて、実は渡来人が母国を懐かしんで日本の地に移植したものだったのではないか?ススキを見て「わび」とか「さび」とか感じる風流な感覚そのものがあるていど輸入されたものなんじゃないか?
なんて、おセンチなことを思った。


化石とか文献とかいろいろわかってるだろうから、これは勝手な空想にすぎないけどね。

 

柿本人麻呂だって渡来人だって説をテレビでやってたの観たことがあるし、古代日本関係の本はあるていど好きで読んでいるし、大昔に純日本なんてものは無くなってることはわかってる。
そんな基礎知識を補うような風景がこの映画みて発見できた。
よかったよかった。

 

なんか関係ないこと書いているように見えるけれど、こういう見方もあっていいのだ。


韓流とか言ってるわりには、ほんとうわっつらだけなんだからな、おばはん連中はさ。
でもこの映画の雰囲気もご多聞にもれず古き日本のように見える。
それをやっぱり美点に感じてしまうってことはおれも不本意ながら韓流の波にある意味呑まれてしまったのかな。

山が近く、田んぼや沼があり、ススキが群生し、さむざむとした風が吹いているなつかしい風景。
複雑な国際関係とあいまって、不思議な味のする朝鮮半島。ってかんじだ。

 

お化けの認識も日本に近いみたい。

映画は、テレビのサスペンスとか軽いホラーの2時間ドラマだと思って観るとかなりポイント高いってことは言える。
なんか生意気ないいぐさだな~。


ホラー映画ってのに「何を期待してるのか?」ってことだよな~。
スプラッタじゃねぇしな~。

大昔ビデオでみたものをまた最近見直してみた。(なんかこればっか)

 

記憶どおりに、いやいやそれ以上に面白かった。
けっこう長い作品。

 

未来っていうけど、レトロな感じで、アールデコ様式。
アールデコは人々の記憶のあまり呼び出されない領域にこっそりしまってある様式。
だからなにかのねた的にディテールを拝借されることがままあるし、あわよくばみんなそれなりに狙ってる。
この映画はその「管理社会のしらじらしさ」の表現のためにこの愛すべきレアなディテールの宝庫「アールデコ」をかなり効果的に使っている。
この点、クリエイティブポイントがかなり高い。
使用法のアイデアとしてこれを超えるのはけっこう困難である。
おかざり的に使うのはだれにでもできることだから。
「アールデコ」の使用法においてはベストな一本だと断言できる。


そのベストな使用法としての映画の内容は....、

管理社会からの脱走を企てる神経症的な主人公の悪夢をたどるような内容で、これは個人的に好みのジャンル。


と、いうことで映像みてすぐわかるとおり、センスがすごくいい映画。


コメディタッチでいて、リアリティが伴った悪夢についつい付き合わされてしまう。

閉塞的な社会は悪夢であり、なおかつ現実。
そこからの脱出は感覚としては正しいけれど、現実はさらに過酷だったって感じ。
映像空間は巨大な虚構を強く印象に残す秀逸なできばえ。
CGとか使ってないのにこれ。
下手にCG使うもんじゃないよ。
特撮いいかんじ。
美術の勝利。
軽快さそのものでテーマの軽薄さを表現している独特の映像のテンポ。音楽。
登場人物がBGM鼻歌で歌いシンクロする。これ個人的に好きな表現のカタチ。
軽薄さはアールデコのしらじらしさによっても増強される。
やがては残酷な終末にいきつくであろう予感の的中。

 

適度にエンターテインメントだし、完璧にアート。目的もはっきりしてて、ちゃんと達成された映画。


ようするに完璧な映画。

田村正和の「子連れ狼」ってどんなだろう?ってつもりで観て、その立ち居振る舞いの美しさに惚れた作品。

萬屋錦之助の拝一刀もいいけれど、こっちの正和版も意外によかったという感じで自分のなかではその意外性が強くて、うれしくなっちゃった作品。

 

演技も上手なんだ。
正和って。

出だしで奥さんを殺されたあたりから大五郎を抱きかかえて泣くあたりなんて美しいの一言で、演技も冴える。
それでひきこまれているから、こういう一刀もありだよなってもう納得させられてる。

 

萬屋錦之助のイメージがどうしても強いじゃん?

髪なんて手入れしてなくてザンバラで、ぼろ着ててっていう。ワイルドなイメージ。(しとしとぴっちゃん...っていうイメージとか)
でも正和のイメージはそのもともとの公儀介錯人という役職にまずぴったりはまっているように見える。

そういうお役所勤めの介錯人、といっても将軍家指南役を兼任するという設定になっているからエリートだ。
そのはずの人が自分と家族を陥れた陰謀に対する怒りをあらわにさせるあたりが、現代の感覚で見ても共感できる部分としてモダンな内容に変わっているせいかもしれない。

いや、もとから話はそうなんだけど、正和の清潔感というか都会的なスタイルがそういったイメージを強くしていて効果的だってこと。


そうして考えてみると、キャスティングというかディレクションというか、なかなかどうしてクリエイティブだな~って思う。
なんか多くの映画って正しくキャスティングができれば半分までは成功が約束されると思う。
それとも単に正和がうまいのかな???

 

田村正和といえば、個人的には「乾いて候」なんだけど、もういっかい観たいな「乾いて候」。
あのオープニングの曲とかも切なくていいんだこれが(笑)。名曲だよ。


これは笑アップした「ワイルドスピード」だな。
おこちゃまむけかな。

 

はじめなんか見ててちょっと地味な感じで、カットもなんかあらっぽくつないでいる感じもするけれど、
中盤から一気に元気出てくる(笑)。


最後に出てくる、まあ車で言えばマクラーレンF1のようなバイクの疾走シーンなんてもう馬鹿炸裂でもって、
納め方もなかなか笑えるしグッド!
エンジンをクールダウンするかのような演出。
でもこのバイクのすごさは、自動車評論家福野礼一郎さんの本にあるところのマクラーレンF1の記述と自分の中できちんとだぶる!
なかなかわかってるじゃんこいつ!って感じは受けた。

 

でもストイックさまるで無し。
すげぇ不真面目な映画!
シリアスなとこでデイブ・スペクターばりのギャグかまされて放置されてる感じがする。
そんな撮るがわのクールなギャグでのサービス精神は歓迎すべき点。
いろんな面で中途半端てんこもりでうれしい。

 

こういう映画ってキャラが中途半端に魅力あるもんだから始末に負えないね(笑)。
ワイルドスピードの主人公よりは魅力あるな。
あとFBIの男とか、この脇役のために妙に映像力入ってたりして笑える。
作品にかかわるスタッフの態度みえみえな感じですがすがしい。

バイクのクロームメッキのイメージもどぎつく、好感もてる(笑)。

 

ある種「ワイルドスピード」的なスピード狂な危うさとバイク趣味のストイックさを期待しながらみていて、
突然ノーモーションで中途半端なギャグかまされたとしたら、あなたはどうですか?
これ観てなんとなく理解(誤解)できるのは「こいつら(アメリカ人全般)ってストイックさかけらもねぇな...。」ってこと。
たとえば日本ではドリフト(D1)って競技にだってストイックに挑んでるでしょ。
アメリカはもっとおおらかに楽しんで参加してきてるように感じるし。

 

それを許容しうる気持ちの大きさは人間常に必要だな~って感じた。
心からそう思える。
こういうのって「少林サッカー」などとは違って、ある種まじめにふざけた連中描いてるところに、突然「映像的おふざけ」が割り込んでくるから反則だし、悪くいうとぜんぜんだめな映画なんだと思うけど、自分は許す、これ。
一般に言うコメディとかギャグってカテゴリに入れないでくれよっていう妙に別なセンスを感じる。
画面から受けるセンスはけして悪く無く、いいとこまでいってるもんね。

好き嫌いはあると思う。


観るに際してはけっして構えてちゃだめで、構えを解くように促される感じ。
心の準備も良し悪しで、あんまり準備しすぎてると中途半端なアメリカンジョーク的なものに肩透かし食らいかねないし。
ようするにリラックスしてなんとなく見始めたほうがハマれる。
変に構えてると、ノーモーションギャグに一瞬置いてかれるはめになる。
ほんの一瞬だけどね。


ある種妙にニュートラルな映画かもしれない。
そのニュートラル感からイキナリ一速で一瞬アクセルぽんと開けるもんだから(全開ではない)ガクっとやられるでしょ。


たしかに「トルク」ではある。

第二の挑戦は作られなかった、として有名な映画。

 

そんなことよりも「マトリックス」は「甲殻機動隊」ってよりもこっちだろうな。
なんか原作はアメリカの大衆むけシリーズアクション小説なんだそうな、どっかのウェブに書いてあった。
そう、ちょっと気になってしらべてみた。

 

でも意外にも「マトリックス」と絡めて言われていないので、(当時)なんかあれれ?といった印象もあった。
みんな口をつぐんでいたのかな?
それとも認めたくなかったのかな?
でもあきらかに「マトリックス」は大筋で「レモ」なんだ。いまさらながら。

 

これは昔ビデオで借りてみたんだ。

それ以前にビデオ化される前にテレビでちゃんとコマーシャルしてたよ。
それで覚えてて「こりゃかっこええぞ!」と思っていたから後にビデオ借りてみた。
ビデオ観てみて、ほほう、なかなか痛快だねぇ!って思った。
けっこうはまった記憶がある。「はまった記憶がある」なんてなんとも客観的すぎて無責任すぎるよね。


で、自分が映画観るときって、やっぱりちょっと偏っていて、
「どんな美点があるか?」って観点はポイント高い。
ストーリーってあんまり関係ない。
だってストーリーだけなら小説のほうがきっと面白いよ。
そんなんじゃなくて、映像的美点をまちかまえていて、それがばしっとハマル映画は自分的になんでもかんでも「いい映画!」ってことになっちゃう。まあ、そんなにまちがった見方じゃないと思う。
それで、レモはそれに少なからずハマッタんだよ!

 

ハマッタ点。

 

1.「シナンジュ」(?)


設定上の。つまりさ、「え?それってなに?」ってこと。
意表つかれたもん。馬鹿いってんじゃねっての!って思いまがらも、おれは好きだった。

 

 

2.玉よけ(!)


これが「マトリックス」を生み出す直系の祖先と言われる部分。
マトリックスではテクノロジーを使って速度をスローに見せて逆に「速さ」を表現するということで画期的。


レモでは、なんか「踊り」のようにして避ける。
この「踊り」であった点が美点であったといえる。


引き金を引くときの筋の動く気配だか音だかを聞いて発射のタイミングを悟るシナンジュならではの技術。
よけるときの踊りはだいたいターンによる。
スマップとかやったらきっともっと上手だと思う。
このターンと意味ありげな手の動きがもうすごくよくてね....。

 

「マトリックス」でも「レモ」でもそうだけど、自分的にどちらもテレビCFみて「こりゃいいね!」って関心した映画だったってこと。

それと「踊り」あってこそのキアヌのあの「ポース」なんだと言える。

あそこがとりわけ映画を代表する看板的な「カタチ」であるのは、監督のそういう記憶とシンクロする点なんだ。

当然「それがやりたかったんだ!」、というわけ。

遺伝子を同じくするものの美点がまさに同一の点だという点で、照合結果は「同一」である。

 

まあ、以上かな。

 

大筋のキャラクターの配置とかその受け持つ意味とかも似てるんだよマトリックスに。
もうほぼ完全にコピー。

まず、主人公が日常から自分の認知しない非日常に他力によってひきこまれる。
東洋的スピリットを体現する師匠と出会う。
修行する。
タマよける。
これだけ重なってたら十分だよ。
「甲殻機動隊」に関してはむしろ、非常に表面のディテールだけまねっこしたにすぎない。
影響を与えた、って内容ではない。
「甲殻機動隊」からさらに時代がかわってAIに支配されてる状態まで自分たちで想像してるんだろうから、それは影響っていうか正常進化と言える。(アニマトリックスは観てないけど)


根本的に監督に深くトラウマを与えた原因は「レモ」である。
そういうことだから、「レモ」のリメイクという行為こそ、ブルースまんま使ってハードロックにしてしまっていたジミーペイジと同じ、極めてクリエイティブな行為として称賛に値する部分。

 

念のため書いておくにとどめる。

これは映画館行って観た。
けっこうよかった。
観てないけど「最後のモヒカン族」と似てるのかな?


それはさておき。

やっぱり映画は映画館で観るといいね。
映像ってやっぱりサウンドが重要。
映画館ってやっぱり画面もさることながら音がでかいから気持ちいいよね。

 

トムはなかなかよく演じていたと思う。
サムライの認識として、はじめに遭遇するあたりがイメージ的にまず持っていたものだと思う。
ようするにあの山っていうか「森を縦横に騎馬で駆け巡る神秘的な集団」ってことだよ。


あの絵からくる印象はやっぱり霊的な(スピリチュアルな)表現をめざした印象を受ける。
そういう認識はいいとおもう。


平野での鉄砲隊主体の近代的な戦法というよりはどちらかというと「山の神」的な神秘性のほうに魅力感じるからね。
武士といってもさらに古い体質が描かれてる。
あとは地方性っていうか、江戸だとああいった森をかけめぐるノウハウって育たないから、幕末にあって山がちな地方にあって、当時からして時代にとりのこされたカタチで「武士」(山の神と同一視されるほどの古いイメージ)がのこっていたらかっちょよいなぁ~、ってことだと思う。

 

日本映画として日本人が作るとたぶん、そんな描き方「できなかった」のではないかと思える。
山に城があってむかしだから地方豪族的な自治をおこなっている極めて古い武士の設定。
かなり極端な設定だけど、かっこよさってそういうふうにすれば、やっぱりきわだつもんだと考えた。
外人ならではだと思う。

 

桜舞い散る中ガトリング砲に騎馬で突っ込む美学。
さらに自分のしていることに畏れ、激しい後悔といりまじった官軍の兵士が耐えられずひざまづくくだり。
ここでちょっとでもうるっとこないやつの神経はどうかしてる。
情動が正常動作していないと思う。そういう人は一度カウンセリング受けたほうがいいと思う。
トムがさ、日本人のつぼ知ってるってことだよ。
ここで絶対に「うるうる」だ!って。
ひねてたってなんもいいことねぇぞ!

 

それはすごくリサーチしたし勉強したはずで、それを客観的にみて答えを出してる。
だから一般論として強い価値観を表現してくれている以上、あそこはまず「うるうる」だ。

 

ああいうのがいいとかわるいとかじゃなくてそもそも武士ってのはなんだったかではなくて、幕末にあってはそのなりたちが形骸化していたりもするわけだからもう良い悪いではない、マイノリティってのはなんなのか?何に対するマイノリティなのか?ということを「武士」をとおしてちょっと考えればそれでよくて、その思考のプロセスからごく自然と「うるうる」がやってくるはずなんだ。

 

桜の演出も美しくていい。
入学式だ。
卒業だ。
そういうことだ。
現代人はみんながあの官軍の一兵士の子孫だろう。
同じ感情を共有できないでどうする。
それを外人のトムさんがやってくれるんだからこれはうれしくなっちゃうわけでしょ。
おれは少なくともうれしかったし、感動できたよ。


ことさら日本人って言うのもかっこわるいことだけどね。
極○カラテとかさ、テレビとかで「外人には負けないようにがんばる!」って言ってるの聞くとなんかおかしいんじゃないの?って気になる。
そんなの実際は関係ないはずなんだよ。
カラテの純血性なんて無いわけだしね。

 

まあ、日本人、と言ったって、半分以上大陸系、朝鮮系なわけだからね。
そんなくらいだから中世以降日本のアイデンティティとなっていたのは間違いなく「武」だから。
でも地方ってのはそれプラス独自の民族の(これらがおそらく古い日本民族)アイデンティティもってたわけでしょ。
なにか、そういう入れ子構造がある。
そういう感情が人類には根深くよこたわってるからね。
いくら合理的といったって、手放しで西洋文化うけいれて喜んでいるというのもおバカな話だよ。
「合理的」という考えにはそもそも根本的な欠陥もあるように感じる。
なぜかというと、そもそも合理的なんてのは人が思いつく範囲の理屈に合わせてやってますよ。ってことだから。
あほらしい。
神とあがめてきたものの正体をなんであったのか気づかずに否定してるってこともある。

 

ここでの話しは非合理的な話だから、一貫性とか常に無いわけ。

ラスト・サムライ、なかなかいい映画だよ。
(風邪でくるしみながら書いています。)

キャシャーンで無いものをキャシャーンとして評価することはできない。

この映画で興味もったのはCGとミッチーね。
ミッチーいいよね。
演技ってよりもその存在そのものがいいよね。
ミッチーが演じるってだけで、興味深い。
ミッチーは役柄で活きてくると思うからね。
今回のこの映画のポジションはこの点グッドだと思う。

あと、CGもなかなかよい。
キャシャーンはカラテのイメージがあって、素手で鉄のロボを引きちぎったり、ぶった切ったりするところがかつて衝撃的表現だった。
それをきっちりやってるところがなかなかかっこよく出来てると思った。
ただ、一つのカットに集約してしまってるようで、ちょっともったえない。
もっとがんがんやってほしかった。

あとCGテンポが速すぎる。
もっと「魅せる」CGというか、多少説明的になってもいいからもっと破壊のプロセスを丁寧にすべきだった。
その破壊の量において、キャシャーンのキャシャーンたるゆえんがある。
それでこそ生身の体を捨ててまでキャシャーン化した鉄也が浮かばれようというもの。
その鉄也に付き従い、けなげにサポートするフレンダ-を見るものはいとおしく感じるわけ。
そういうオリジナルの美点が無い。
なにかすんげぇ~もの作ってやるぞ!みたいな気持ちはひしひしと伝わってくるけれど、
それでもオリジナルにもうちょっと近い「キャシャーン」が観たいと思う。
「作り変え」っていうのはすごく気のきいたセンスが必要な仕事だと思う。
それはいくら腕があっても、「作り変え」の意義をあまり無視してしまっては、
期待に沿えてないだけのものに終わってしまうと思う。

クリエイティブとは、なにも奇をてらってそれを高いレベルで成功させ、あたかも奇をてらっていないように感じさせる手腕のことではなく、このお話を実写化する仕事に課せられた命題、ようするにそのオリジナルのもつクオリティの本質と価値を現代のセンスと尺度でリメイクすることがまずあり、そこにさらに人をあっと言わせるほどの原作への理解を新たに映像化すること。
この点においてオリジナルを超えること。
そういうことを目標にすればいいんだ。
それを臆面も無くやれる監督は、日本の持つたくさんのアニメ資産の支配者になれるのではないかとさえ思う。

はじめっから、「タイムボカン」あたりの実写化からやっときゃよかったんだ。
それだったら多少変えてもいいじゃん。
思いいれの深さが「キャシャーン」にあるものと質からして違うんだから。
その差ってはじめからあるわけだよ。
作品どとに。
キャシャーンはそういうもの。
そんなに変える部分なんて多くはないと思う。
それでももし変えるなら....
...........もうちょっと上手くやろうよ....。

ちょっとまえに「ガッチャマン」をスマップがやってたCMあったけど、あれは「下妻物語」の監督が作ったとのこと。
あれはなかなかカッコよかった。(ごく短いしね)
ふつうにやればタツノコ作品はかっこいいっていう証拠。
科学忍法火の鳥しかり、いまだったらすんげぇだろCGで。
ベルクカッツェとかだれやるんだろうね。

そうだ、そういえばキャシャーンはお話はストイックな雰囲気でもろ男の子むけ、基本ロボットだからあんまりキャスティングが重要でない。
それに対して「ガッチャマン」、「タイムボカンシリーズ」なんかはキャスティングからしてわくわくもんでしょうが!