サイオニクス戦士、ハルマゲドン接近、サイキック使う時のオーラの「のぼり立つ」表現などなど数々のエポックメイキング。
アニメ映画のノーベル賞くらいあげてもなんら差し支え無し。
大友先生のキャラクターデザインなんかも衝撃的。ヴェガのデザインは土偶的で秀逸だと思う。
土偶的でなおかつメカニカルでかっこいい!こんなキャラクター「並み」じゃない。ウルトラマンとかに出てくる円谷キャラクター的なかっこよさかな。(なんとか星人とかの)
このアニメ映画ははまった。
小説も読んでみたが、長い話でアニメから入ったからかお話の進みかた、こだわり方がまわりくどく感じられて自分には合わなかった。
中身がどうとかが問題になるものでもないとおもう。
きっと小説はそのプロセスとかディテールを活字で追ってたのしむ娯楽大衆SF小説だと思うけど。
(中学生だったし小説は大人むけ)とすると、アニメ映画のほうに在った要素に強く惹かれたということ。
それは斬新なキャラクターデザイン。
「ハルマゲドン接近」という奇妙で強引で強烈なキャッチフレーズ。
超能力発動時の画期的オーラ表現。
キースエマーソンのかっこいいサウンドトラック。(ローズマリー・バトラーのボーカルも)
ようするに初期角川アニメ映画の持つ「熱さ」。
これらのばらばらな各要素がとても大きく貢献してる。
小説には無い要素がほとんど。
こういう企画というかプロデュースってすごく効くと言える。
小説が原作の映画の在り方としてすばらしいと思う。
もともと小説の持ち味を映像化すること自体不可能だということをわかりきって確信犯的に企画しているとすら感じる。
「もともと無理なんだから、まったく別物のしかも極上のエンタテインメントにしようよ!」ってことだろうと思う。(みんなそう考えるにしても!)
そこに当時爛熟期に達した日本のアニメ文化がうまくはまったんだろうと思う。
宮崎駿監督とかのアニメ映画はなんでも受けるみたいだけど、初期角川アニメ映画ってのはまた違った「熱さ」をもっていて、
自分はこっちのほうが好み。
「カムイの剣」とか。
あれも熱いアニメだよ。
サウンドトラックは竜童組だよ(!)。
キースエマーソンに竜童組、いったい全体すごいっつ~の!
そういう企画そのものが熱いと思う。
ほどよくエコでソフィスティケイトされた価値観ではなく、ごつごつとしたせめぎあいを観客に楽しんでもらおうという考え。
惚れるよね。
これは作る人の性格の差だと思う。
生きてきた土壌の違いであるとも言えると思う。
アニメ作ってる人って、もの作りの基本的な考えに「しょせんアニメだし...。」ってな自嘲のような意識はきっと少なからずあると思う。
たぶんアニメが増産されはじめたあたりの作り手には共通する感覚ではないかと思う。
それは宮崎駿監督にしたって、少しはあると思う。(この大御所でさえ)
押井守監督にはやや違うものを感じるけれど。
初期角川アニメはぜんぜん違った意識のもとに始まったものと推測する。
これはたぶんストーリーの発端、アニメ作品として成立させるという目的、アニメ表現へ貢献するという気負い、すぐれた原作をアニメでやることの必然性の追求、などなど、これらのキーワードから推し量れるであろう作り手の初期設定の違いが、そのまま作風(作品からかすかに吹き寄せる微風)になってあらわれるから。
宮崎作品というと世間はなんだかすごく反応いいけれど、それもどうかと思う。
それに反して「イノセンス」的なものにはそんなに表立って反応しない。(当然のように見えるけれど、逆のことも言えるし)
おたく作品といっちゃえばそれまでで、それを言っちゃったら宮崎作品だっておたく作品のカテゴリに入るよ。
「甲殻」は作品中で自覚しているとおり、人工人間の系譜の中の作品で、ホムンクルスとかゴーレムとかそういう憧れ。
宮崎作品は「不思議の国のアリス」に遠い血縁があるように感じる。
ルイス・キャロルの意識と大差無い。幻想の正当化行為が意識の深いところにあるはず。
それでもあの作品は現在までよく残っている。
たぶん幻想というかファンタジーの中に「ロリコン」というリアリティが感じられるからだと思う。
幻想としてリアルなんだな。
本当に見ていた夢だから力を持つってわけ。なにも悪いことだと言ってない、そうなんじゃないの~?
って言ってるだけ。たぶんズバリ。
アニメ作品の後ろめたさは、切って貼ったりするような骨格づくりの伝統みたいなものからくるのではないかと思う。
商業ベースの作品なんてみんなあるていどそういう感じでつくられてきたんじゃないかと思う。(勝手な想像ばかりでごめんなさい)
「もとネタ」的なものをいろいろ掘り起こしてきて、つぎはぎするという作業をプロセスの一環として意識的にやっていたのかな~、と感じる。
それは仕事としてわりきった態度ともとれる。
、でそれがあるていど癖になっている。
というか職業的にやっているからかなり上手だし、普通のことだと思っているけれど、声高に言える素性を持たないってこと。
小説のほうがえらい!っていうよりも、多かれ少なかれどちらもそういう要素はあるわけだけど、要は単純にもの作りのプロセスの話、そしてプロセスってのはそのそもそもの動機に繋がってるんじゃないのかな~っていう問題提起。
とうぜん出来上がるものはかなり違ってくるから、さあ君はどれを選ぶ?ってこと。単純でしょ?
宮崎駿監督以降に出てくる優れた才能というのは、そういう環から外れた人であったら楽しいな、と思う。
ある種初期角川アニメ映画ってなんだかその対極にあったムーブメントとして当人が意識して企画していたものなんじゃないかな、とこれまた勝手に妄想してる。
図式的には、
「原作をそもそも持たないアニメ屋さんの習慣的にもとネタから話をでっちあげてはいるけれど、アニメーションとしてすぐれている、というもの作りのかたち」に対する「完成された原作(ソフトウエア資産)をアニメーションというまったく異なったメディアに変換することでエンターテインメント性に徹底した新たな価値観として対抗する意識で始まったもの作りのかたち」
という感じ。
ともにアニメーション表現の爛熟の時代に実現したことで、それなりに必然的。
必然的ではあっても、もの作りの醍醐味(クリエイティビティ)としては角川アニメのほうに強くそれを感じる。
いいものはいつの世もなぜか先に消えていってしまう。
これがサダメ。
(みんなの責任だぞ~、ぷんぷん!)
とりあえず宮崎作品のサウンドトラックにエミネムあたりを使ってみてはどうかと提案する。(なんでもいいんだけどね)
かたほうがいいということでは無く、そうすることで若干風味の違ったものに毒されながらも、国際性と偏らない価値観を獲得できるかもしれない。
とにかく閉鎖的な意識でしょぼい予算でこんなにすんげぇ~ものつくってこんなに受けたよ~!(ほんとはロリなのに)っていう意識からは脱却してほしい。
「氣士団」もファーストアルバムにあったあの房総のヤンキーのきらきらした苦味はその後続かなかった。
これにもなにかビジネスがらみの裏話があるように感じる。
幻想にも真実味がしっかりあって、それを軽んじたら、いけないということだと思う。
要するに幻想は個人のもつべきものだけど、その価値はあなどれないという結論。
純度の高いハイエナジーな妄想は、映画作品や音楽などの善意のために使われてほしいと常々思う次第。