いろいろな意味で衝撃を受けることのできる九つのアニメ作品からなるオムニバス。
マトリックスの延長線上に考えうるエピソードを追っている。


本編の映画がああいうかたちで3作品続いてみて、この作品の意味はむしろ大きく感じられる。
本編を補完するかたちで企画されてると言える。


映画ですら、マトリックスという大きな構造の一面をスクリーン用にもっとも耐えうるエンタテインメントなエピソードで追いかけるしかできなかった。
そこからこぼれたアイデアがたくさんあって、どうせなら日本のアニメスタジオに大きく関わってもらって全体としての「マトリックス」を完成させてほしい。という気持ちが伝わる。
日本のアニメスタジオのこの企画にかかわる気合いもびりびり伝わる。
それはだれにでもわかるほどだと思う。


コラボレーションという語を軽々しく使う勿れ。こういうものがコラボレーションだと思う。


たとえば、
だれかがだれかにきっかけの手紙を送る、それを受け取ったものが1年後、予想だにしなかった作品を送り返す。
そういう馴れ合わない理解のことをコラボレーションというと思う。
まぜっかえして焦点のぼやけた商品を人に売りつけるために使うべきではない。
それやってるヒマがあったらネタの無いことを自覚して、本気に新しいものを考えることに時間とお金を使うべきである。


なにがすごいのか?という問いには、「すべてが」と答える。
既存のセルアニメの延長上のものではあるけれど、タッチを大きく変えて、目新しさを強調していることろがかっこいい。


また、なぜそれをアニメ化するのか?という問いにも簡単に答えられる。
それは「タッチによる視覚効果がすさまじいから」だ。
こういう部分に従来のセルアニメ用のタッチと表現用のタッチとのパワーの差をきっちり出してきてる。
それは映画にも出せない効果、という意味で必然性を備える。


日本のアニメは手塚治虫先生の開発したリミテッドアニメを得意とする。
このリミテッドの手法は突き詰めればサウンドと止め絵だけでどれほど情感をかもしだせるか、ということにつきる。
そういう「間」の存在に価値を与える日本人ならではの感じ方をそのまま手法にしてコストに貢献させたということだけど、実はこの「間」の認識という一見副産物に見える価値観は、もともと映像作品に内包されるものとして、アニメ表現というカタチにする過程でおもわず突出したもので、それがなぜ突出したかといえば、やはり日本人がそう認識したからに他ならない。
マトリックスの監督も、ここは正直「胸を借りた」という気持ちもあったと思う。

技術や表現の奇抜さで圧倒できる力を持つ日本のアニメだけど、こういった「間」を器用に利用して独自の表現に高める手法ももともと持っている。まだまだ伸びる分野だと言える。
まあ、このアニマトリックスもすでにそれほど新しくはないけれど、一定の水準に達しているという意味で、ユニークなアイデンティティを持つ作品に数えてもいいと思う。


本編の三つの映画とこのアニメ。
実はルーツをたどる意味をも持つこのアニメ企画は、けっこう重要な意味を含むと思う。
ただのサイドストーリーとして観てもよし、そういう含みを味わいながら観てもよし。


自分は一発目のフルCG作品で度肝抜かれた。
人物はよくよく見て微妙に違和感のある程度。よくできてる。実物と並べて比べるのは野暮というもの。
ここまでくるとアニメートさせるという意味を、あまり感じないので、全部キャプチャでやったほうがいいとすら思える。
自然な基本動作はほぼキャプチャだと思う。

ところどころ手付けの大げさなモーション。
男女のキャラクターが刀の練習をしていて、体すれすれに刃先が交錯しておたがいの着衣が脱がされていくというなんともふざけた、やったモン勝ちなシナリオ大賛成。
だれでも考えてるんだね、こういうすじがき。
アクションそのものは、まあ、普通。
センチネルの動きは複雑で気合入ってるね。これ大好き。

あとはセル調の作品が多いけれど、それぞれCGとシームレスに表現したり、タッチに凝ってみたりと、目が飽きない。
そういう意味でも単純にフィジカルな要素としてサービスが行き届いてるのでお得でもある。
非常にリッチなDVDだと思う。


好みもあるとはいえ、そんじょそこいらのテレビのアニメDVD何本か借りてみるなら、これ一本で何度か楽しめるような気もする。
そしてアニメを見るという一般的な行為として考えた場合、それで十分。おかわりはいらない。
それだけパワーがあって、カラフルな表現に満ちている。
アニメの本分としての「アニメートする」こと。
リミテッドに感じさせる「間」のこと。
単にシナリオに拠らない「映像表現」として優れていること。
「アニメであることの条件」をいまさらながら考える機会に遭遇する。
いかに考えるか?
ということに気づかされる。
少なくとも比較はなりたつ。
従来型の見方とか、固定観念とか。
アニメ屋さんの本気はけっこうこわいよな。

ちょっと映画以外にとっても気になることなんで、新カテゴリー登場。


秋葉原がちょっとまえから「萌え」に汚染されてる。


むかしは「同人誌」とか裏通りにそれも地下の店とかビルの上のほうだったりとかにひっそりと存在していたような店があったと思うけれど、
いまそういう内容とおんなじ内容を大手のソフマップとか、あとは中堅どころのゲームソフト屋さんとかが中央通りぞいでおおっぴらに売りまくってる。


ここを観光コースに入れて多くおとづれるであろう外国人観光客にとってもかつての「デンキガイ」は萌え萌えな街と映るはずである。
はたしてこの現状はこれでいいんだろうか?

おおきなお世話?


売れりゃなんでもそりゃたしかに原理にはかなってるんだけど、そのお客の嗜好に問題あるんだろうか?
それともあるていどニーズを超えたところでお店が過剰に反応して店舗展開してる一時的なものだろうか?
まあ、やっぱりあるていど一時的なものだとは思うけれど、なんかいや。


もうじき常磐新線が開通してしまうので、筑波研究学園都市への都内からまたはそれより南からの通勤がかなり楽になる。
よって多くの大学生やら研究員やらが寮生活ではなくて通勤を考えることにもなると思う。
そして仕事や学校の帰り、東京の入り口にあたる駅「萌え萌えなアキバ」で「萌え萌えな商品」を物色するのである。
そんな感じで日本の経済などを支える基礎研究とかそういうことに携わる人たちもどんどん「アキバ系」化してゆく。
日本の明るい未来。


こういうことってサブ的なものが一般人が多く触れられるその水面上についつい顔を出してきてしまった例だと思う。


「萌え」なんて地下でかくれてやっててくれ。


人の嗜好なんてどうでもいいから、それがあたかも一般に認知されたもののごとく印象づける方向だけはかんべんしてほしい。


そういうものはサブ的なものでありつづけていて健全なんだと思う。
それが最低のモラルであって、インモラルなものとして「萌え」の存在価値はそもそもあると言えるから。
こっそりやる魅力ってのはだれでも理解できるもので、おおっぴらにやるべきものとは異質であるという「違和感」を感じることがモラルの分野の問題だと思う。モラルという言葉が死後となって、治安もなにも関係無いというそういう無法地帯にある秩序にこそ自由を主張し、己の規範をそこに見出せもしないくせに、せいぜいライトなインモラルに甘んじてるくせに、そういう「萌え」をまっとうな社会現象的に取り扱うというような面の皮のぶあつい無神経ってのは、オレはいかがなものかと思う。

少なくとも、他にやるべきことはある。


ところで、昔のエロ漫画は絵がリアル志向だった。
いわゆる劇画調。


体の描写も、肉質感があったけれど、いまのエロマンガはさしづめアニメ絵のシリコン製だろう。
ただおそらく今も昔も写真を下敷きにしてると思う。
そういう努力はエライと思う。
画力の不足を写真で補う。健全である。
だからよく出来てはいると思う。


またそういったプロセスの稚拙感のある絵のほうが妙にそそるのも事実で、
そもそも漫画なんてあまり上手く描いて喜ばれるというものでは本来ない。
エロも同じで、上手すぎて「職人」が見え隠れしてしまうと醒める。
適度に下手がよい。


下手が一生懸命熱意を持って仕上げてくれるからいい。
その熱意がエロ度合いとなって読者は敏感に反応する。
昔のエロマンガもあまり職人的な上手さでクレバーすぎる仕事はよくない。
もしかしたら、そういう描き手の意識の変化が、シリコン的アニメ絵の新しい熱意に負けてしまったのかもしれない。
そのムーブメントがソフトなどに向かい、商品価値としてお店に認知されてしまった。
そのシリコンのように透き通る無垢なマチエールならむしろ昔のような劇画のどろどろ感がなくなっているだけ、一般の目にさらされたとしても、環境汚染度は低いのかもしれない。


あともうひとつ重要な検証がある。

アールヌーボーというムーブメントである。


どこか今の秋葉原の「萌え萌え」なムーブメントと似通っている。
というか「萌え萌え」文化は遠く、アールヌーボーの隔世遺伝的現象かと思う。


アールヌーボーといえばアルフォンス・ミュシャだ異論はあるまい。
自然物、植物や昆虫、爬虫類それにくわえて実は浮世絵の様式もおりまぜて独自の様式までにたかめたのがアルフォンス・ミュシャ。


この当時の雰囲気すべてを体現してしまっているといっても言いすぎじゃない。

まあこの男はけっこうフェティッシュである。
おそらく日本カブレというよりも、日本の様式から使える要素を抜粋して画面レイアウトを組み立てている。
縦長のポスターなんてそのまま「見返り美人」である。
そういう骨格と、絵師のサインとハンコ、風景の植物の侘びさび的風情(風情は再現できていない)などのこまかいマテリアル。
そういうものをデザインとして扱い、アールヌーボーの旗振りをやっていた事実。


「じゃアールヌーボーって浮世絵なんじゃん!」


ってことは大声で国際的に言ってもいいことである。
日本の絵から感じ取れる不可解な感慨「わびさび」、これをあちらさんが曲解したものがアールヌーボーだと思う。なにも印象派に限ったことではない。


それでね、浮世絵から学んだことはその「輪郭線」だったと思う。
これをくっきり見せることといわゆる「平面構成」という概念はセットで考えられる。
そうしたことで風情をリアリティでしか解釈できなかったレベルの高い「稚拙さ」で描写しきってしまった独特のデッサン力がミュシャにはあったということだと思う。
画期的表現。


この「やりかた」はそのままその後のイラストレーションやコミックスに継承される。
その影響をそのまま受けて、日本のシリコンアニメ絵などもアイデンティティのいくばくかはそれにおんぶしたカタチはあると思う。


考えるな、感じるのよ~ん。


ミュシャも女性を、というより女性ばっかり描いている。
これはイラストレーター・ミュシャに対して需要があったからで、今の状況とそっくりそのまま。
ようするにエコール・ド・パリの爛熟の時代の雰囲気から、大衆の緩んだ気分の上になされたインモラルの一般化という認知なのだ。
そういう絵だと思うミュシャは。


たしかにシリコンアニメエロイラストとは比べるまでもなくファインアートに近いけれど、永遠に交差しない価値観、そこからあえてファインに向かうことのそらぞらしさ。ファインなんてつまらない!


ファインなんてつまんね~ぞ~!


これからは「パリの萌え萌えリーダー、アルフォンス・ミュシャ!」ってことで、今後ともよろしく!


みんなわかってんのかな~そこんとこ。
応援してるぜ!エロエロ萌え系作家たちよ!心して、なにも考えず描け!

萌え萌えにもこういう深い歴史のしがらみがあるんだ。
ハリウッド映画にも影響あたえるアニメの原点は浮世絵で、それがアールヌーボーを触発させ国際的となる。
その後のイラストやマンガの消費のカタチの変遷が萌え萌え文化に至り、あのエコール・ド・パリが秋葉原に(実は!)再来している現実。ちょっとやってる人多すぎるけど。

まあ、レベルもなんか違うけどまあ、いっか。


気にちない気にちない。

この映画には衝撃を受けた。
はっきり言って反則だと思った。


でもクラブDJとかがやってることとかと同じかな~とも思った。


ようするに、「DJ~MIX」とかって原曲にイケてるビートいれてかっこよくアレンジしちゃうのあるでしょ?
あれの映画版だと思ってみると、その精神が理解できて、それほど腹も立たない(笑)。
ただ、動機が「カンフー映画好き」で結果が「ギャグ」だった。


というか、へたするとなかなか画期的といえるやり方。
みのもんたのプロ野球好プレー珍プレーのアフレコばりばりのナレーションでそのまま既存のカンフー映画使ってギャグ映画に仕立ててしまったといったらわかりやすいし、あえて見なくても済むしね(笑)。


オリジナルの制作者が見たら怒るんじゃないかと思うようなとんでもなくナンセンスなアフレコの数々。
繰り返し使われるカットがまさに、「DJ~MIX」といった感じ。
もっと言うと「こぴぺ」って感じ。
まあ、見てるだけならそれが実に子気味いい。
ただ多少むかついてくるけどね。


最新のデジタル合成処理とか、3DCG表現とか、けっこう駆使して使いこなしてる。
あえてプアな表現を意識してたりするのか、そういう感覚も表現になってる。


冒頭いきなり「選ばれし者」として命を狙われる赤ちゃんが3DCG!
ぴょんぴょんはねまわる、なんかダンシングベイビーそのまんまな感じ。


牧場でCGの牛とナンセンスバトルしたりとか、ほんとイケテル。


「選ばれし者」の証、舌に顔があってこいつがやかましくしゃべる。字幕だと「ぺろんちょ」っていう名前付いてるし。


さらに特筆すべきは主人公の男が監督も兼ねてるってこと。
まあ、かえって納得もできるっていうか、こいつにしてこの作品というか、奇妙な説得力を得るに至る。


言い方を変えると「キル・ビル」なんかのカンフー映画に対するリスペクトのしかたのさらに対極にあるもの、というかその表現のもっともイージーなやり方だったりする点、おちゃめで憎めない、そんなかわゆい映画だったりなんかしちゃったりして。
殿堂入り決定!
って感じでこの映画に関しては実にあっさりと、でもこのくらいの文章っていいよね。


それまでのカンフー映画のつもりでみると、いわゆる「カンフーアクション」という意味ではものたりないかもしれない。
もっとプリミティブな「パワー」とか「勢い」とか「痛み」みたいな表現に傾倒してるから。


スキンヘッドの空飛ぶ殺し屋のキャラクターが素敵!

「空飛ぶ」といってもロープを上手に使って飛び回ってるだけなんだけど、そういう特技をもつ最強の殺し屋ってこと。


両手に刃物もってぶんぶん振り回して鬼神のように相手にせまる様は迫力ある。
これを迎え撃つのはやっぱり並大抵ではなくて、ちょっと強い程度だとやられちゃう。


かつて父をこの殺し屋に殺されたテンゴンという主人公が折れた形見の中華包丁のようになってしまった刀でもって最後に戦う。


匪賊との戦いで片手を奪われ瀕死となり、死に掛けていたところを助けてもらった少女の家でもさらに匪賊の襲撃に遭い、焼け残ったあとから刀術の秘伝書を発見する!


片手なので習得のしかたもオリジナルで、みていて「そんなんでいいの?」と思わせるけれど、そういうつっこみはよくない。


自分を腰からひもにくくりつけて木や天井からなかば釣り下がるようにしてぐるぐる刀を振るう独特のスタンス。
こういうアイデアってすごいと思う。オリジナリティがある。
いわゆる「カンフーアクション」ではなくなってる点。
滑稽ですらあることをシリアスに熱意をもって作ってるこのエネルギー!
先入観だけでみると、いつものバトルとあまりに違うので、「あれれ?」ってなる。


テンゴンの技は発想を得て包丁のような折れた短い刀を鎖につないでぐるぐる廻しながらトリッキーに攻撃を繰り出すスタイルに発展する。


相手のスキンヘッドの殺し屋も戦闘法はユニークでトリッキーだ。


共通して言えるのはその目殴るしく回転しながら繰り出される技の「勢い」。
この映画のアクションの狙いはこういうプリミティブな表現にあると思う。
その後のトレンドにはなりえなかったかもしれないけれど、ジャッキー・チェンが後期以降試みてきた「パワー型」の表現の延長線上だと思う。「スパルタンX」とかでベニー・ユキーデとの格闘シーンはびっくりしたもんなぁ~。


この「ブレード」はあれなんかとはまた違うけど、カンフー映画のお約束的アクションのフラストレーションを吹っ飛ばそうというような意識を感じる点、美しいアクションだと思う。けして整然として整ったかっこいい技の連続にはなってない。けれどその勢い、そのくせじっさいやるとなるとかなり難しいアクションではあると思う。


そうだ、ある意味従来の「かっこよさ」を否定してる作りになってる!


そうしておいてものすごい勢いでぶつかり合うシーンは、その全体の塊としての印象がすごく美しいものに感じられる。
刃物の怖さ、足元に仕掛けられた狩のためのトラップ、あぶない雰囲気の殺し屋。
こういう要素が緊張感をいやおうなく煽る。
ただ、そのぶん主人公などはいわゆる「いけ面」で、バランスはいい。


効果的なのはやっぱり舞台設定とか衣装のデザインという雰囲気作りもてっていしているところだと思う。
このころの中国(ちょっとはっきりわからないんだけど、チーパオとか着てないから清朝以前かな?)全体的に荒れ果てた治安の様子が殺伐としてて素敵。こういう設定づくりはすごく重要で、きっちり考えて作っていればそれだけでリッチな映画に見える。


なにもかたっ苦しく「リアリズム」なんて言うこともない。どんな内容の映画でもごくごく普通にちゃんと押さえるべき点だと思う。
でもほんとにきっちりやる(やってあるようにうまく演出、撮影、編集すること)ということはそれなりに大変なんだろうな、とも思う。


これは「リアリズム」とかっていういわゆる「~イズム」の問題だけでできるもんじゃなくて、きっとここらへんが「技術」なんだと思う。


だからいつの世も勉強はせにゃならん。
感性だけでは実現しないことも多い。


これ見て思うのは、
「中国ってのはとらえどころが無いな~」って感慨。


これがいつの時代であってもおかしくないもん。
つまりいつの時代でもあらゆるものが実際に在ったんだと思う。
アヘン窟とか、調度品とかで見て、清末かな~?なんてかろうじてわかるときもあるけれど、
それだって他の時代にまったく無いとは言えない。


以前渋谷あたりの小さなギャラリーでシルクロード周辺でみつかった小さなガラス器とかをこじんまり展示してあるのをたまたま見たときは驚いた。
黄色やオレンジの水玉模様があしらってある小さな小瓶はまったくおしゃれで、かつモダンなのだ!(かわいい!)
むかしのひともさすがにおなじように「これ超~かわい~」って感じたはずだ。
「これじゃ、なんでもありかよ~!」って愕然とした経験がある。


少なくとも1000年単位の歴史を4、5回は繰り返してるんだから、想像を超える。
カンフーといったって、実際記録上はせいぜいここ300年以内の話だから。
そんなかなで「~拳」とかにこだわった作りの映画も多く作られて、日本人が多く目にしてきたのはジャッキー・チェンなわけで、
それを思うとなんて偏狭な視野しか与えられてこなかったんだろうって思う。


最近になって「グリーンディスティニー」とか「英雄」とかああいうスケールとテーマに奥行きのある作品ができてきてるのでそういうことはすごくいいことだと思う。


あれだっていったいいつごろの時代を想定してるのかといえば、始皇帝とか明言されてる場合はいいけれど、日本人が予備知識無しで見ると漠然とした「古さ」を強烈に感じていて、また「それも在り」ってことで納得しちゃってる感じがして、それはそれでいいと思う。


おとなりの国のはかりしれない歴史の深さの、「いったいどこらへんか?」なんてことさして気にもせず、その深みにはまる自由さに浸ってるひと時。それで見方は正しいと思う。
それだけ中国の歴史は繰り返し、いったいいつのことなのか?思考することを放棄させるだけの量的絶望をなんとなく知っているから。


中国はファンタジーの故郷だと思う。


それを言っちゃうと「恐竜」。
恐竜展とか最近よくやってるのは、やっぱり中国の研究が活性化しているからだという印象がある。


中国の発掘のおそらく隠し玉的などえらい恐竜がそのうち姿をあらわしそうでわくわくする。
それはおそらくみんなが見たことのある形、紫禁城の壁面にのたうつあのドラゴンなのではないかとすら想像できて、まさしくロマンティック、かつファンタジー。


空を飛ぶ細長い鳥類との過渡的な恐竜がいたってべつに不思議ではない。

実際奥地の集落は斜面にへばりつくように生活していて、その斜面は地層の断層で、あたかも龍のように見える巨大な恐竜の化石が露出していた、なんて光景があったらしいことが恐竜展の写真やら解説でうかがい知れる。


三星堆という遺跡からの出土品の青銅の仮面も山海経にある伝説を裏付ける造形だったことからして、中国における伝説はその多くが、あながち絵空事ではないんじゃないかという雰囲気。


これはもうトロイの木馬のお話が史実だったというようなものと同等かそれ以上の荒唐無稽な伝説の裏づけってことだと言える。


伝承の奇跡というか、その手の記憶がどんな形で残されてきたか、また、どのように変形され、消されていったか、そしてそれが長い時をへて実物がひょっこり出てきたとき、「あ~、あれがそうだったの~!?」なんてことが起こりそうな可能性を中国は潜在的にもっているらしい。


奥が深いよな~、中国。
だから「ブレード」もある種異端児的なひとつだし、主流ではないかもしれないけれど、そもそも中国において「主流」なんて従来そういう概念すらないんじゃないかな~、と思った。


逆にいうと日本におけるそういう発想は本当はいかんと思う。

「ザ・セル」のなかでジェニファー・ロペスがベッドに入りながらなにげなく観ていたアニメがすごく気になっていた。


それでタワレコで見つけて、「これが世に言うファンタスティックプラネットか!」とそのときはじめてこの偉大なアニメ映画に出会えた。出会うのが遅すぎた感あり。


ジェニファーはなんだか笑いながら観ていたけど、自分にとってはその画面の圧力とか圧倒的で、笑うどころではなかった。

このアニメーションの力はおそらく、いまテレビで普通に見られるセルアニメに慣れきっている普通のあらゆる人たちにとっても、抗生物質の効かないウイルスのように作用することはまちがいない。
バイオハザードレヴェル4クラスだ。


ウイルスに感染してしまった国内における患者たちの例。


宮崎駿、梅図かずお、萩尾望都、竹宮恵子........


そのつもりになって探せばもっと出そう。
ひまな人はいろいろな作品にそういう痕跡を見つけて表にしたらウケるかもしれない。


もともとアニメーションっていうのは、命の無いところに命を吹き込むという意味が語源となった言葉だと、どこかで聴いたことがある。そういうことならこの「ファンタスティックプラネット」はじめ、チェコの作家のアニメ作品などはまさにそういう感覚を強く感じる、あるいはそういう意識のもとに丁寧に作られた「擬似生命」だと言いたくなるようなすぐれた作品が多い。


「ファンタスティックプラネット」はフランス製のアニメだけど、制作はチェコのスタジオで長い時間をかけてなされたらしい。
水彩絵の具とペンで描かれたイラストがそのまま動き出す質感は、目にしたとたんその魔法にかかってしまうような感じ。


このアニメーションのすばらしさは主にそういう動画の絵の質感による。


まじまじと絵を見ていると、なんだか絵にしようとしている内容が、恐ろしく子供っぽいことに気がつく。
構図にせよ、シーンそのものにせよ、上手な子供の絵といった熱っぽさを帯びて見える。
これが人を引き込む魅力なのかな?


子供にはかけないようなセンスと技術の絵なんだけど、描かれている内容に子供目線を感じる。
ストレートで、「意匠」というよりも、ある一線からは「意識」のほうが勝っているというか、その「意識」の表現への執着度合いが強いのか。


いろいろ言ってもはじまらないけれどなにしろ「子供目線」を感じる。

セルの絵が上手とかいうレベルの意識じゃないんだなぁ、この手の「作品」は。
日本のアニメが海外で賞なんぞいただいたとしても、こういう「作品」と同じ土俵に立ったということでは無いと思う。


同じロックでもジミとビートルズではあまりに違う。


これを同じロックだとする楽天的なロックミュージシャンとかいるけれど、実際違いも大きい。
「同じ」としてしまう意識と、「差」を感じる意識とはなにが違うんだろうか?
どこかで二股に別れてゆく価値観。


「差」に対して肯定的でなければ、こっちの別れ道を行くものにはもう「さよなら」という言葉しか残されていないじゃないか。


「同じ」を良しとするなら、世のカタチなんて、みんなおそらく「球体」に接近してその差がなくなってしまう。
世にはいろいろな形があって、それぞれ違う形だからこそ、そこに特有の価値が生ずる。


一時のマツダ車なんてみんな曲面でくるんじゃうもんだからRX-7(FD)もロードスターも極言すると没個性な面の構成でできていると思う。それは外皮の問題。


興味のない人にとっては大して違わないものに見えてしまうけれど、実際はエンジンなんか仕組みからして違うし、メカニカル面とかボディ剛性とか重量バランスやら車重やらトルクからなにから全部違うんだから。


どちらも同じスポーツカーのカテゴリーだけど、RX-7はよく、あえて「ピュアスポーツ」と呼ばれる。
これが認識すべき「差」なんだと言える。
上手いドライバーならその違いを十分熟知してる。
でもどちらも同じ技術の延長線上で上手く乗りこなしてしまうもんだから「基本的にはおんなじ」なんて口では言うけど、まあ、わかってて言ってるんだよね。


そもそも企画段階の車の担う目的からして違うんだろうから、「基本的にはぜんぜん違うもの」。

ビートルズをロックとするなら、ジミはまた別の価値観でもかまわない。
とにかくぜんぜん違うじゃん!


ポップスというかロックというか、歴史上では、
ビートルズとグラムロックの間にちょうどジミがはさまれたカタチになっている。
テクニック至上主義的なハードロックもジミとだぶる。


ジミもこの分かれ道に立って、微妙な自分の価値観を十分よく理解していたと思うと、目頭が熱くなる。
ロックってそういうハザマに居て、ほかに居場所の無い価値観だと思う。(つっぱりロックとか)
少なくとも本当のロックっていうのは、そういうもんだから短命なのがサダメなんだ。


これも「いいものはすぐ滅んでしまう原理」を補完する事例。


違いのわかる男なら、ネスカフェの美味さもその「差」として認識すべきであって、スタバより劣る価値として認識しないことである。
それがほんとの通というもの。


当然ロックがジャズやクラシックより劣ると思ってる人も、本当の意味で「聴けてない」んだとも思う。
そう、違う価値体系というだけ。


どっちがいいとかいうそういう次元の話じゃない。

洋楽崇拝してるのもだめ。

録音とかスタジオの問題、音に関わる姿勢の問題、そんなことは音聞きゃわかる。

それ以外になにかあるんじゃないかな、邦楽にもさ。


全体を通してなんとなく、何が言いたいかというと、このグレイトなアニメーションは、ジミ・ヘンドリックスのような輝きと運命、それと後に連なる価値体系からのリスペクトを一身に受けているようで、なんだか似ているなぁ~、って思ったのさ。

いまK1とPRIDEが人気じゃん。


はじめに言っておくと、はじめK1観てけっこうわくわくしていたし、どっちかというと総合系よりも純粋な打撃系のK1が好みだった。でも最近はPRIDEなどの総合系のほうに好感を持ってみている自分がいる。


K1以前の雰囲気がこのコンプリートボックスでわかるという貴重品。
これは一連の極真系梶原一騎制作の映像作品のうちの一部。


ほんと、こういう格闘技ってのは社会主義といっしょで、初期の志は極めて高いものがあって、
それはもう「理想論」でしかなくっても、そういうものにあこがれる気持ちだけがそれぞれのモチベーションとしてフィルムからにじみ出てくる。
こういった違いはなにか「すごみ」となって現れる。
それは単に「凄惨な場面」という映像の表面だけに宿る雰囲気ではない。
こういうものこそ「観なきゃわからん」内容だといえる。
それは実際「見る」というより「観る」に近く、「感じる」ことが重要な例である。


というかそんなかしこまった言い回しはともかく、こういう映像ソースの持つ意味っていうのはなかなか一筋縄では語れない。
k1のもつ意味、猪木さんの謎(!?)、PRIDEってなんなのか?
などなど、いまにはじまったことじゃないその初期の蠢動の雰囲気を感じることこそドキュメンタリーならではの醍醐味。
せっかく映像での比較がなりたついい時代なんだから、個人的にたっぷり「比較検討」することはすごく楽しい時間。


たとえばアメリカのWWEはわりきったエンタテインメントとしてクオリティが高いショーだと思ってみてるでしょ。
そういうショーに対して特に「キック」ってのは何だったのか?ってことを気にして観てほしい。
ムエタイと極真関係者との売り言葉に買い言葉とか、日本でのキックの旗揚げと興行の発端とか、そういう経緯ってわりと重要かと思う。あとその後のカラテ界のどろどろ状態とか。
それをことば半分でも知った上で、いまのK1ってやつを観る必要がある。


はじめに「カラテ」「キック」「カンフー」ありき?


こういうコンセプトがK1のもともとの骨格としてあったように思う。

でも本当のところはこう。


「ムエタイ」「カラテ」「キック」


で順序には微妙な意味しか無い。

ムエタイの存在が非常に大きく影をおとしている。
それ以上にさかのぼることが事実上困難だとすれば、近代のムエタイを起源とするのがあたりまえだと思う。
カラテは琉球王国の土壌でカンフー各派が中途半端に伝承されて独自の完成をみた武術だから。

でもこの「中途半端」もあながちすてたもんじゃないとも言える。

かならずしもそこで進歩が止まってしまったわけではないからだ。

そこから「オリジナリティ」が生まれていくこともある。

あるいはその系統から絶縁して、別の価値観を体系付けるきっかけとなるのなら、こういう生い立ちも在りだと言える。いやぁ、ありありでしょう!

伝統もいいけど、それに頼らないこころも侮れないばかりか、そこれそ伝統を作ってきた基本のエネルギーだったという逆説的事実。

このほうがドラマにはなる。ふむふむ。


カンフーとムエタイの詳しい関係は不勉強でほとんど知らない。
地理的にはおたがい交流があったはずである。
くわしく調べれば、非常に近い形の中国拳法が存在するのかな?
おたがいが影響を受けあったのではないかと思う。


中国拳法では「南拳北腿」といわれるように北方では大きく動く足技をもつ門派が多く、南方では手技主体の技術をもつ門派が多いとされる。実際はそんなに極端ではないようだけど、そういう傾向はある。
それからするとムエタイは蹴り技のイメージが強いので、あれれ?南なのに足技って意外だよね~、って意見も出てきそうである。
地理的条件によってそういった技術に変化があるとする考え方で同じように考えるとタイもそんなに平坦な土地がだだっぴろく無いと思うので、かならずしもあてはまらないと思う。
思うに、武術の発展の背景っていうのは、そういう地勢というよりも戦乱そのものがいかに多くあったか?ではないかと思う。


その戦いの質が地方によって微妙に違っていて、その時代のトレンドなども関係していて、その場の違いを時間をかけてひきついでいるだけなんじゃないかと想像する。


それよりも自分は平均気温の差のなかで体を動かすということ全般に関わる違いだと思う。
それが基本動作のカタチの違いを作って、その上に武術としての肉付けがなされたと考える。
あくまでも想像。


でも戦争なら武器も飛び道具も使うし、なによりも戦略が重要で、戦略こそ地勢などに影響されるはず。
人ひとりの動き方とはあまり関係ないと思う。


こうしてみるとさらに、ほんとうのところはこうである。


「キック」は「カラテ」と「ムエタイ」の子である。
でも、そだての親は「カラテ」である。
そして出来た子は「ムエタイ」の血が濃く出ている。
「キック」というのは「ムエタイ」のことである。
「カラテ」はプロ化の道を選んだときから、「ムエタイ」化したということ。
そして名前にこまって「キック」と名づける。


これがほんとのところ。


そして「カラテ」の系統とは別に「日本発祥のキック」という競技が海外にも広まっていく。
もともとカラテの土壌と人脈のあったオランダなどには定着しやすかったのはうなづける。
だから極真カラテの担った役は大きい。


本来の武術と武術どうしの戦いをしたかっただけならカラテ家がタイにのりこんで、ストリートファイトをふっかければ済むことである。


逆にいうとこういうこと
「次にお客になにを見せて儲けるか?」という発想から、もともとあった「ムエタイ」をメジャーな競技として日本で興そうとした際にそれにカラテ関係者がいちまい噛む必要があった、というだけ。


「四角いジャングル」に見られるのは、「ムエタイ」になかなかおよばない日本の「キック」である。
ついでに「全米プロカラテ」っていうあやしげな団体からの刺客ベニー・ユキーデも意外に強かったことに日本人選手は驚愕する。
このころはマーシャルアーツと読んでいた。
キックボクシングはキックボクシングなんだけど、マーシャルアーツという呼び名もあった。
こういうのって、本質的に差がなくても新たなキーワードごと輸入することで、人々に新鮮さを感じさせるマジックだと思う。
それにはスター選手が必要で、それがベニー・ユキーデだったはず。


そういう複雑なアイデンティティが当時からしてあったわけだけど、K1はまた別のさまざまな感覚に触発されていたようにも感じる。
ただ、やってることは同じで、いっときキックなんてアナクロ視されていて完全にシカトされていたわけだから。
大衆の熱狂と忘却のサイクル上、新たに考え、与えられたキーワードと概念。
まあ、キーワードまではいいんだけど、「概念」に至っては、大衆の歴史認識の無いのをいいことに....って気がする。


「四角いジャングル」はまずまず貴重な映像ソースだと思う。
K1が勢いあるうちは、あんまり大きくとりあげられることのきわめて少ない映像ソースではあると思う。


こう考えてみたらいいのだ。
いま梶原一騎が生きていたら?
こういった興行などに深く関わっていたはずである。
なぜなら言いだしっぺなんだから。


スポ根ものの草分けで、実際、社会的影響を与えた、なんていうなまやさしいもんじゃなく、
そもそも社会的影響を与えることが目的だったように見える。
そういう意識のもとに異常な熱意をもって成し遂げられていった数々の業績はその後の日本のスポーツや格闘技界を動かし続けている。
いいにつけ悪いにつけ。


少なくともいまのK1はキックにすぎないにもかかわらず、別ものの印象を与えて「新しい」という売り方をしていると思う。
この志は「四角いジャングル」当時の意識とは大変な差があるように思えてならない。
とうぜん想像も含まれるから漠然とした感覚もふくめて、知りうる事実も含めて、いまのK1のもつ意味と隠された歴史を知るいみでも「四角いジャングル」は一回見たほうがいいと強く思う。
観終わってから、だからなんだ?って言われると困るんだけど....。


内容で特筆すべきは極真カラテ中興の猛者たちの動く姿が見られること。
真樹日佐夫先生の弟子にスパーリングしてるシーン、手の使い方が意外に滑らかで素敵。
故葦原英幸先生のこれまたサバキってやつ?
その弟子でいまの円心会の二ノ宮城光先生の若かりし姿。
こしてみるとけっこうサバキ風の技術も極真にはもともと多くあったように見える。
ようするにいま打撃の強さばかり取りざたされて意外に注目されない「受け」の技術体系。
だっていまのカラテの試合見ても、大して「受け」ってものに重要性感じてらっしゃらないみたいじゃん。
そこいくと、昔の極真には実はそういうことを標榜できた人たちもいたんだなって判る。


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受けるってことが、体で受けるっていう意味と同化してるようで、それも実は在りなんだけど、そういう技術も、
あのルールのなかで、ダメージ与えにくい鍛えた胴体に対して少しでもアドバンテージをとるための技術と化していると思う。
初期の大会にはそれでもいろんな人がいたんだなぁ、って思える。
途中から観ていて面白くないたんなるどつきあいになっていったように感じる。
「胴廻し回転蹴り」なんかの大技が意外に決まるのも、全体的な防御技術かあるいは意識レベルで防御ってことを軽視する傾向が少なからずある証拠だと思う。
そんな単純じゃねぇかな?
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猪木若くてかっこいい!
ほんといろんな人とやってるよ。
それなりにマジでそれなりにお約束なんだと思うけど。
まあ、当然ショーの要素は強いね。
時代を感じる。


それと藤原敏男先生。
タイでの試合は、なんともアグレッシブというか、ムエタイをやりにきてるなんて気持ちぜんぜんなくって、「自分のペースに巻き込んでぶっつぶしてやるぞ!」って感じの内容。
ぶったおしたり、ぶんなげたり、あげくのはてには相手をロープの上からリング外に投げ落とそうとしてる!
相手のタイの選手は面食らってる。
すてきだと思う。


あとはベニー・ユキーデ!
これはもう語るまでもない、あの宙を舞う赤いパンタロン!
えらくカッコいい!

へたなホラー映画より純粋に「怖い」と感じるサスペンス映画。


主人公の探偵が、ポルノフィルムのなかでもある種のフェティッシュ、本物の「殺人現場」を映したフィルムの真偽を探るという設定からしてとっても怖い話。


ポルノ業界全体の雰囲気が、ソフトな入り口から次第にディープな世界になっていき、暗黒の深遠につながる急な坂道のように見えて怖い。


一般の日常と暗黒社会をつなぐ接点のようなポルノの世界の怖さを観る人に焼き付ける映画。


ポルノといっても普通「殺人」シーンなんてポルノになりうるの?って感じるけど、どうやら金持ちの快楽に麻痺した感覚を充足させる刺激物としてはそういうことがありうるらしい。
ゴルゴ13の話のなかにもスパルタカスというゴルゴと互角の腕を持つ相手の出てくる有名な話があって、そういえばやっぱり金持ちがとんでもない「レジャー」を楽しんでいたっけ。
なんともついていけない世界。(「鬼畜の宴」)


へたなホラー映画ってのがなんなのか、自分で書いててよくわかってないけれど(!)、
「ホラー」って銘打ってないのにこんなに怖く感じる映画ってやっぱり存在してるわけで。
そうするとカテゴリー分けの仕方はもっと事務的なんだな~って想い至る。


ようするに映像としてはっきりとした行為としての「人体破壊」とかがシーンのメインとして構成されてる映画とか。そういうものをいわゆる「ホラー」っていうのかな?
あとはもう「人ならざるもの」が出ていたりするとか。


ようするにあるていどそういう簡単なカテゴリー分けってのがあるんだろうね。


でも世の中には微妙なとこいく映画ってのがあって、これで一番こまるのがレンタル屋で探すときに、どのコーナーに置いてあるか?ってこと。
これはけっこう問題提起としてはいいせんいってるんじゃないかと思える。


ほんと、おおざっぱすぎるんだから、うちのほうのレンタル屋は。


あとスペースの問題もあるからしかたないのかもしれないけれど、微妙に古い、微妙な映画ってのが、すぐなくなっちゃうんだよな。(まあ、しかたないとは思うけどね)


本当にいい映画ってなんだろうな~、って思うと、それは「微妙な映画」なのかもしれない。


話題になってる映画ってのはそこからちょっとずれてる。
たしかにすごくよくできてても、一般的に認知されやすいってことは「単純」ということだよね?


でもレンタル屋がカテゴライズに困る映画ってのは何だろう?
これこそ「単純でない映画」ではないだろうか?
「中途半端な映画」ともとれるけれど、そんなことは観ればわかること。
いい、わるい、は当人が判断すべき。


手塚治虫先生の代表作「ブラックジャック」もコミックスの分類は初期の巻だと「恐怖コミックス」となっていた。その後「ヒューマンコミックス」と変更されてる。


はじめどこに入れるべきかわからなかったからとりあえず手術シーンが気持ちわるいから「ホラー」なんじゃないかな?と思ったんだろうけど、まあ、あたらずも遠からずだとは思う。そういう認識も在りでいいと思う。実際「人間ドラマ」なんていう甘いもんじゃない内容を作品の中にくみとれればたいしたもんなんだから。


すべからく「複雑高度な傑作」ってのはそういう味わいを持つと思う。


これはどれくらいヒットしたかに比例しない不動の価値観であり、なおかつ見る人の主観で幾通りかに解釈可能な懐の深さすら備えている作品を指す。


あとは本来の意味を理解されないままとりあえず表面的なかっこよさだけでヒットだけはしちゃってるというある意味「不遇」の名作もある。
こういうのはひとそれぞれの意見があって大勢を占めない意見になるから受け入れられづらいので、まあ、わかる人だけ解ってればいいんだよな。


「8mm」はそこまでの映画かどうかというと「佳作」だと思う。
佳作で十分だとも思う。


語感からすると「優秀作」の下にあるようだけど、評価って、とりあえず「佳作」を得ることが大事だと思う。だって自分が「いい」と思ってる映画もある人は「駄作」って書いてたりする。


それは観点が違うからで、本来は自己の観点についてもっと知っておく必要があると思う。


本来なにかについてあれこれ薀蓄ならべるにしても、人の気軽に読んでくれる文章量なんてせいぜい400字原稿用紙くらいではないかと思う。しかもプリントアウトして読むなんてことは無いから目の疲れる液晶モニター睨み付けて長時間読んでくれてるとはさすがに自分も思っていないし。


でもまじめに書こうと考えたらとてもこんな短い文章には収まらないはずなんだ、一本の映画って。


それを手短に「駄作」としか書けないようでは、目にするだけ悲しくなる。


文章がうまければそれらの複雑で長い要素を上手にわかりやすく要約できるだろう。

そうして映画なり絵画なり観るようにしたほうがなにかとプラスにもなって発見も多く、実り多い時間となることは間違いない。


たとえば「駄作」と言われる映画の中の一点の美点でも発見できれば、それはその人の収穫といえる。その後の糧になることはまちがいない。


なにもその映画を売ろうとかもうけようとか考えてないんだろうから、こうした「美点」についてコメントしたほうが世のため人のため、ひいては自分の精神衛生上いいと思う。
出来について心配する必要は一般人には無いはず。


いいところに出会えるかどうか?「人を見る目」ってのと近いと思う。
なかなか理解されない才能の持ち主ってのが居るかもしれないよ、あなたの近くにも。
それでいて、「自分はなんなの?」って自問することをしない。
それはフェアじゃ無い。


「佳作」って書いてみたけれど、記憶に残るシーンは意外に鮮明な印象を多く残している。
それらの味わいは作り物の感触よりもどことなくリアリティをおびたうすら寒さを覚える感覚として、脳裏にやきついている。


こういう映画はなんといいあらわすべきなんだろう?

自分は宮崎アニメが嫌いではない。


むしろほかのあまたのアニメよりは好きで、だいすきだとも言える。(もっと素直になれよ!)


それはある部分についてだと思いあたる。


「どこか遠くへ連れて行ってくれる感じ」


おそらく現実逃避のためのシチュエーションが気にいって見てるんだと思う。
そういうところは濃密で、上質だと思う。
あと空間とスピードにあるダイナミズムの表現が、他を圧倒してすさまじいこと。


高いところからえいや!っと飛び出してしまったあとの自分に対する無責任感。
それを夢の中で後悔しながらやがて落ちて死ぬまでの間無駄にもがきつづけているような感覚。
ある種のファンタジックな悪夢のパターン。


「それとかわいい女の子。」


理想的な彼女像として描かれる。
ようするにこの女の子は浮気とかしない(笑)。
その心配の無用な雰囲気をかもしだしている。
ようするに男の子のした努力というものがしただけ自分に返されるという、
自己犠牲へのモチベーションが維持できる環境というか。
そういうのは現実にはなかなか無い。(よね?)
簡単に言うと「勤労意欲の沸いてくる」ような女性像といえる。
いまそんな女の子いるか?って感じだと思う。


女性に人気があるとしたら、女性の目から見てもある意味あくまでも「理想」にうつりはしないかと心配ですらある。


男には実は宮崎アニメに出てくる男の子のような努力やがんばりをする用意はいつでもだれにでも潜在的にあると思う。(みんなあるよね?)


ただ、現実はそこまで単純じゃなく、はたまた過保護で単に男子が貧弱になってしまったというわけでも無いはずである。
ようするに単純に「勤労意欲の沸いてくる」ような女の子の少ないのも現実ではないかとここに問う。


「男子のモチベーションとは何か?」


見方によっては宮崎アニメとは、この永遠のテーマを問いつづけているのかもしれない。


ひとつひとつの作品にいちいち分析を加えるのもなんだかかっこわるいから、おおざっぱに捉えてイメージしてみる。


自分は「天空の城ラピュタ」ってやつがいちばん好き。
とうぜんナウシカも好きだけど、トトロはそれほどでもない。
紅の豚は見てない。(見なきゃね)
それ以降というのはあんまり印象に薄い。


ラピュタのもつRPGっぽい雰囲気が好み。
ナウシカはヒーローものにむりやり「女の子」を融合させた感じ。
ラピュタは自然に冒険ものだし、すなおに見て守ってあげたい感じの女の子だし男の子が自然に努力してていい感じだと思う。
RPGってのはそれこそゲームとしてプレイするのはすごく嫌い。
パラメータとかいちいち気にしてちまちまやってくものだからだめ!
でもきれいな映像でストーリーを見れるならそれにこしたことは無いと思う。
そういうタイプのアニメなり映画は純粋にエンタテインメントとして楽しめてすごくいい。


あとラムダが出てくるからかな(笑)。


ルパンに出てきたあのラムダ。
あれはいいよね。
究極の可変翼飛行ロボットとしてまじめにデザインされていると思う。
理想的な飛行機のカタチなんだろうか。
そういう理想への熱い想いが感じられてあのラムダは特にいい。
甲殻機動隊でいうと「ふちこま」か。
日本書紀の「天の斑駒」からとったのかな。あれは。
なかなか味なネーミングだと言えるね。
デザインはラムダのほうがかなりいい。
デザインを拒否してるところがいい。
「おそらくプロトタイプ?」と思わせるカタチがすばらしい。
文明が爛熟しかけて実はあやうい進歩の過程にさしかかっている時代の過渡的なカタチ。
だから洗練とは程遠い無骨なカタチ。
機能むき出しの実用一点パリで余裕の感じられないカタチ。
あまりの高機能から導き出されるストーリーはおのずと破滅を招くというその定め。
ハイテクに対してきわめてペシミスティックな意識。
それと対峙させられる男の子の努力!
その努力に報いる女神的な女の子。
ああ、理想の世界!

「トロン」は非常に画期的な映画だった。


興行的にからぶりだったそうだけど、今日を担うその後のクリエイターたちに多大な影響だけ残していったような映画。


実写のディズニー映画で、3DCGアニメーションを使った映画のはしり。


とはいえ、今よく目にする「現実とみまごうばかり」という意味あいでの使用ではなくて、
あくまでも「CG」として使用しているところがむしろ画期的。
通ずる映画として「ヴァーチャルウォーズ」というものがあって、こちらもあくまでもヴァーチャルな世界を取り扱っていて、
その質感としての3DCG表現をしているので素敵だ。(ちなみにこの映画の2はCGを期待すると裏切られる)
CG全体のセンスがいい。


「トロン」は、モノクロームな実写にCG風な着色を施して、部分的な3DCG映像との整合性を図っている。
シンプルなフォンシェーディングのみだったかレイトレーシングだったかはっきり覚えていないが、
必要性で考えればフォンシェーディングでも十分。


そもそも決まった位置からの光線や物の影など意識させるような実世界の条件など必要無いわけだから。
ただ、グリッド上の位置表示としての表現として直下におとす「影らしき表現」なら有効だと思う。
これがリアリティのための表現であってはならない、ということ。


主人公がデジタイズされてソフトウエアの一種となり、悪いソフトウエアと戦うというストーリー。
「会計ソフト」の人とか出てきておちゃめな味付け。


ゲームセンターのテレビゲームと同じゲームを実際に主人公が実体験としてヴァーチャルなシステムの世界で戦うダイナミズム。


「光電子バイク」というやつがその後の語り草だ。


シド・ミードというデザイナーがいて、ほかのいろんな映画でもデザインやってるらしいことを知ったのもこの映画のこのバイクのおかげ。
減速不能のグリッド上を走る4色に色分けされた4台のバイクの航跡がそのまま壁になり、
その壁で相手のバイクをとおせんぼして最後まで走っていられた人の勝ち。ハイスピード陣取りゲーム的要素のシンプルなゲーム。


自分もこういう映画の光電子バイクなんかの登場するシーンのかっこよさにすごく惹かれて3DCGなんぞに関わったりしているし、
そのほかの同じような年代の人も少なからず同じような動機があると思う。

そういう意味で古典だし、基本だし、バイブル。
啓示を与えてくれた映像のひとつとしてすごく大切な存在。

おなじような啓示を与えてくれた作品にテレビシリーズの「600万ドルの男」がある。
これもオープニングでサイボーグの主人公の内部構造を見せる見せ方でワイヤーフレーム表現されていた。
そういうCGのサイバーな魅力というものが、自分の中に「なにかそういうものを作ってみたい!」という初期衝動をおこさせていたという事実は在る。


いま現在よくあるようなあまりにリアル路線な表現というのにはそういう初期の動機からしたら
あんまり魅力らしい魅力は感じないのもまた事実。
ああいったCGは「ジュラシックパーク」以降急激に発展してしまったと感じる。


先鞭を付けたのはディズニーで、その後映画では「リアル」という違った用途で発展していく。
ハリウッドでは「需要」はともかく作る側の「供給」のニーズにしたがってそういう使い方が洗練されていく。
それにしてもディズニーは初期衝動に忠実に「表現の分野」での3DCGにこだわり続けているので、やっぱりエライと思う。
そういうポジションを取り続けていられるユニークな会社っていうのはさすがに大国の会社なんだな~って思う。


映画における3DCGの先駆でありながら、その表現的価値の観点で見ても、その後の映画には無いものを持っている。


「ヴァーチャルウォーズ」がその精神に近いので、好ましい一本といえる。
「ヴァーチャルウォーズ」のほうが時代もだいぶ後なのでCGはぜんぜん高度である。
でも表現がやっぱり仮想空間でのことだから表現に徹していてそのてかてかしてぱっきりした絵づらがすがすがしく、アニメーションも明快で爽快。
単純に「CG表現」としてかっこいい。


この二つの作品はCGが単なる手段としてではなく表現として見られる、優れた作品だと思う。
ようするに、そういうわけで「リアリティ」という名の「胡散臭さ」が無いんだよ。逆に。
これこそ一級のファンタジーではないかな?


もう~大好き!

まずサントラありき。


実は新宿タワレコの10Fを散策していたとき、耳に飛び込んできたなり自分をとりこにしてしまったサントラがこの「カジノロワイヤル」だった。


強烈にエッチな感じの語りかけるかのようなサックスが妙にかっこよく、なおかつ哀愁を帯びていた。即買いだった。


バート・バカラックという名前はなんとなく聞き覚えのある名前で、いろいろ有名な映画音楽をやってるみたい。


FMで流れてきた二胡のwei wei wuuという人の手になるこの「カジノロワイヤル」の曲もまずまずだった。即買い。


とにかく映画をDVDで確認する以前にこの「サントラ」をかなり聞き込んだ。
それ以前に「オースチンパワーズ」も観ている。
とっても幼いころ、夜おそくこの「カジノロワイヤル」がテレビでやっていたので「007だ~!」と期待して観て裏切られ、非常にむかついたトラウマもあった。
それであらためてDVDでこの奇妙な作品に触れてみたけれど、
まず最初にサントラの印象が強くて映像はミュージッククリップに見えてしまった。
そうしてみてもまたかっこよかったから、見始めで突然うれしいような、なさけないような不思議な感覚にとらわれた。


でもこれでいいと思った。
音楽は確かにすばらしい。自分をひきつける要素がばっちりだし、映像も当時としては破格の豪華さを誇っただけあって、さすがにかっこいい。


俳優も妙に力が抜けた感じもしてそこがまたおしゃれに感じられる。そこにこのサウンドトラック!
一級品であることに間違いは無かった。


映像のそれぞれのシーンでそれぞれの曲が「あ~、こういうふうに使われたのか~!」って感動した。
映像とあわせて感じるそのサントラの印象はまた新鮮で、かっこよさが増してぞくぞくすらさせられた。
ギャグもなかなか面白い。
もっと古臭くて観られないかな~とも予想していたけれどそんなことなかった。


おふざけ映画ではあるけれど、大人の映画だ。ちゃんとしぶくおさえるとこはおさえてる。たいしたもんだと思う。
そういう力かげんで、ユーモアまじり、さらっと口説いたり口説かれたりって感じでなあなあで進んでいくところが実に大人だと感じた。


「オースティンパワーズ」でやってることはそこいくと、いくぶん幼稚というか、さすがにあのキャラだとちときついな~と感じる。
めちゃくちゃ面白いんだけどね。ギャグメインとあながちそうとも言えないような奇妙な映画のここが差なんだね。


かたや「ユーモアのまじった大人の映画」、かたや「本気でギャグやってる映画」。
それくらいは違うと思う。
そしてなおかつ「オースティンパワーズ」にあるものは「カジノロワイヤル」にも全てあるということも言える。


いやはやこれほどとはね。