それまでのカンフー映画のつもりでみると、いわゆる「カンフーアクション」という意味ではものたりないかもしれない。
もっとプリミティブな「パワー」とか「勢い」とか「痛み」みたいな表現に傾倒してるから。
スキンヘッドの空飛ぶ殺し屋のキャラクターが素敵!
「空飛ぶ」といってもロープを上手に使って飛び回ってるだけなんだけど、そういう特技をもつ最強の殺し屋ってこと。
両手に刃物もってぶんぶん振り回して鬼神のように相手にせまる様は迫力ある。
これを迎え撃つのはやっぱり並大抵ではなくて、ちょっと強い程度だとやられちゃう。
かつて父をこの殺し屋に殺されたテンゴンという主人公が折れた形見の中華包丁のようになってしまった刀でもって最後に戦う。
匪賊との戦いで片手を奪われ瀕死となり、死に掛けていたところを助けてもらった少女の家でもさらに匪賊の襲撃に遭い、焼け残ったあとから刀術の秘伝書を発見する!
片手なので習得のしかたもオリジナルで、みていて「そんなんでいいの?」と思わせるけれど、そういうつっこみはよくない。
自分を腰からひもにくくりつけて木や天井からなかば釣り下がるようにしてぐるぐる刀を振るう独特のスタンス。
こういうアイデアってすごいと思う。オリジナリティがある。
いわゆる「カンフーアクション」ではなくなってる点。
滑稽ですらあることをシリアスに熱意をもって作ってるこのエネルギー!
先入観だけでみると、いつものバトルとあまりに違うので、「あれれ?」ってなる。
テンゴンの技は発想を得て包丁のような折れた短い刀を鎖につないでぐるぐる廻しながらトリッキーに攻撃を繰り出すスタイルに発展する。
相手のスキンヘッドの殺し屋も戦闘法はユニークでトリッキーだ。
共通して言えるのはその目殴るしく回転しながら繰り出される技の「勢い」。
この映画のアクションの狙いはこういうプリミティブな表現にあると思う。
その後のトレンドにはなりえなかったかもしれないけれど、ジャッキー・チェンが後期以降試みてきた「パワー型」の表現の延長線上だと思う。「スパルタンX」とかでベニー・ユキーデとの格闘シーンはびっくりしたもんなぁ~。
この「ブレード」はあれなんかとはまた違うけど、カンフー映画のお約束的アクションのフラストレーションを吹っ飛ばそうというような意識を感じる点、美しいアクションだと思う。けして整然として整ったかっこいい技の連続にはなってない。けれどその勢い、そのくせじっさいやるとなるとかなり難しいアクションではあると思う。
そうだ、ある意味従来の「かっこよさ」を否定してる作りになってる!
そうしておいてものすごい勢いでぶつかり合うシーンは、その全体の塊としての印象がすごく美しいものに感じられる。
刃物の怖さ、足元に仕掛けられた狩のためのトラップ、あぶない雰囲気の殺し屋。
こういう要素が緊張感をいやおうなく煽る。
ただ、そのぶん主人公などはいわゆる「いけ面」で、バランスはいい。
効果的なのはやっぱり舞台設定とか衣装のデザインという雰囲気作りもてっていしているところだと思う。
このころの中国(ちょっとはっきりわからないんだけど、チーパオとか着てないから清朝以前かな?)全体的に荒れ果てた治安の様子が殺伐としてて素敵。こういう設定づくりはすごく重要で、きっちり考えて作っていればそれだけでリッチな映画に見える。
なにもかたっ苦しく「リアリズム」なんて言うこともない。どんな内容の映画でもごくごく普通にちゃんと押さえるべき点だと思う。
でもほんとにきっちりやる(やってあるようにうまく演出、撮影、編集すること)ということはそれなりに大変なんだろうな、とも思う。
これは「リアリズム」とかっていういわゆる「~イズム」の問題だけでできるもんじゃなくて、きっとここらへんが「技術」なんだと思う。
だからいつの世も勉強はせにゃならん。
感性だけでは実現しないことも多い。
これ見て思うのは、
「中国ってのはとらえどころが無いな~」って感慨。
これがいつの時代であってもおかしくないもん。
つまりいつの時代でもあらゆるものが実際に在ったんだと思う。
アヘン窟とか、調度品とかで見て、清末かな~?なんてかろうじてわかるときもあるけれど、
それだって他の時代にまったく無いとは言えない。
以前渋谷あたりの小さなギャラリーでシルクロード周辺でみつかった小さなガラス器とかをこじんまり展示してあるのをたまたま見たときは驚いた。
黄色やオレンジの水玉模様があしらってある小さな小瓶はまったくおしゃれで、かつモダンなのだ!(かわいい!)
むかしのひともさすがにおなじように「これ超~かわい~」って感じたはずだ。
「これじゃ、なんでもありかよ~!」って愕然とした経験がある。
少なくとも1000年単位の歴史を4、5回は繰り返してるんだから、想像を超える。
カンフーといったって、実際記録上はせいぜいここ300年以内の話だから。
そんなかなで「~拳」とかにこだわった作りの映画も多く作られて、日本人が多く目にしてきたのはジャッキー・チェンなわけで、
それを思うとなんて偏狭な視野しか与えられてこなかったんだろうって思う。
最近になって「グリーンディスティニー」とか「英雄」とかああいうスケールとテーマに奥行きのある作品ができてきてるのでそういうことはすごくいいことだと思う。
あれだっていったいいつごろの時代を想定してるのかといえば、始皇帝とか明言されてる場合はいいけれど、日本人が予備知識無しで見ると漠然とした「古さ」を強烈に感じていて、また「それも在り」ってことで納得しちゃってる感じがして、それはそれでいいと思う。
おとなりの国のはかりしれない歴史の深さの、「いったいどこらへんか?」なんてことさして気にもせず、その深みにはまる自由さに浸ってるひと時。それで見方は正しいと思う。
それだけ中国の歴史は繰り返し、いったいいつのことなのか?思考することを放棄させるだけの量的絶望をなんとなく知っているから。
中国はファンタジーの故郷だと思う。
それを言っちゃうと「恐竜」。
恐竜展とか最近よくやってるのは、やっぱり中国の研究が活性化しているからだという印象がある。
中国の発掘のおそらく隠し玉的などえらい恐竜がそのうち姿をあらわしそうでわくわくする。
それはおそらくみんなが見たことのある形、紫禁城の壁面にのたうつあのドラゴンなのではないかとすら想像できて、まさしくロマンティック、かつファンタジー。
空を飛ぶ細長い鳥類との過渡的な恐竜がいたってべつに不思議ではない。
実際奥地の集落は斜面にへばりつくように生活していて、その斜面は地層の断層で、あたかも龍のように見える巨大な恐竜の化石が露出していた、なんて光景があったらしいことが恐竜展の写真やら解説でうかがい知れる。
三星堆という遺跡からの出土品の青銅の仮面も山海経にある伝説を裏付ける造形だったことからして、中国における伝説はその多くが、あながち絵空事ではないんじゃないかという雰囲気。
これはもうトロイの木馬のお話が史実だったというようなものと同等かそれ以上の荒唐無稽な伝説の裏づけってことだと言える。
伝承の奇跡というか、その手の記憶がどんな形で残されてきたか、また、どのように変形され、消されていったか、そしてそれが長い時をへて実物がひょっこり出てきたとき、「あ~、あれがそうだったの~!?」なんてことが起こりそうな可能性を中国は潜在的にもっているらしい。
奥が深いよな~、中国。
だから「ブレード」もある種異端児的なひとつだし、主流ではないかもしれないけれど、そもそも中国において「主流」なんて従来そういう概念すらないんじゃないかな~、と思った。
逆にいうと日本におけるそういう発想は本当はいかんと思う。