これおれにはむつかしなぁ~。
わかりやすいのはまず、映像が奇麗。
南フランス行きたくなるもん。
緑と黄色と空の青の風景。
すこしくすんだ色のペンキのぬられたカフェの椅子とか、
土色の家の壁にあざやかな水色の雨戸がならぶコントラスト。
木立の枝ごしに見えるそういう人工物のカラーコーディネイトがいちいちハマっている。
全体としてどちらかというと彩度の高い傾向に彩られた色彩。

使われていなかったプールには水面に枯れ葉が浮いている。
この南フランスの家は出版社の社長さんの持ち家で、仕事に疲れた女性作家の主人公が気分転換に行ってみることを勧められてやってきた。
家はこざっぱりしてて部屋もたくさんあって広いししずかでとてもいい環境。
管理をまかされている、マルセルというおじいさんが近くに住んでいて、街からもちょっと離れている。
すごくいい気分になってさっそく仕事がはかどりかけたやさきに、社長の娘が夜中突然やってくる。

それでまあ、喧騒を逃れてやってきた疲れた作家にとって、この娘は邪魔なだけの存在。
毎晩違う男を連れ込んだりしてほとほと迷惑千万。
枯れ葉の浮いたままのプールをその枯れ葉の浮く水面下、全裸の少女が元気に泳ぐ幻想。
プールサイドでどうやら現実と幻想が交錯しているかんじに思わせぶりな映像がいくつかあったかな。
そうこうしてるうちにこの娘によって殺人が行われたということになって、
「それで結局だれがどうなってんの?」と思わせられて、最後にあれれ???
となる。

そんでさ、結局おれよくわかんなかったんだけど、、、。
面白いんだよね。
全体が謎めいているので、展開を追っていくんだけど、途中から、どうもひとつひとつのエピソードが単にそれ単体で断片化している感覚を覚える。
それで、ひとつひとつの映像断片が奇麗で、南フランス~!って感じでいいね~。
DVDのジャケの写真のあの幻想。
南フランスって実際どんな感じなのか?
温暖?
べつに熱いわけじゃないよね?
と、すると日差しもさほどひりひりするほどではないだろう。
プールの水温も映画の中でも若干低めの設定。
そこへ優しげでけだるい感じの陽光の底の圧力に、横たわるプールサイドの女体だよ...。
南仏だよ!
妙にオイル塗ってるふうでもなく、しっとりと汗ばんだかに感じられる肌の健康美はまさに南仏!
そういった映像の視点が、いったいだれのものなのかときおり曖昧になる。
心象風景が勝手に走り出すのは、このへんからではないかと思う。

主人公がマルセルの家にいってみて話を聞こうと試みるが、出てきたのは老婆の顔をもつ少女だったりするあたり、もう幻想が破綻してほころびかけている感じ。
主人公の幻想はそれ以上の設定はあえて必要ともしなかったものなのか、はからずも設定の裂け目に接近したことを少し恐れるがそれも作家の想定の範囲内。

そうしてみると全ての空想は作家の贅沢なマスターベーション。
その舞台設定がかくも美しいあたり、それまで血なまぐさいミステリーばかり書き続けてきた作家のもつ別の美意識の一面。

「エロ本を捨てよ、南仏へ出よう!」って感じかな。

この映画は見終わった直後、解釈に不安を感じて、他のブログなどで、いろいろ他の方の見方を参考にさせて頂いた。
このての終わり方はあんまり多く観ていないタイプなので、不安に感じたからである。

ちょっとはじめ「バートン・フィンク」っぽいんでしょ?
とか思ってわりと幻想の類いでももっとハードな破綻を期待してはいた。
おおむね同じタイプなんだとは思うけれど、けっこうこちらの「スイミング・プール」のほうは、作家が最後に精神の安定と一抹のわびしさを現実的に感じていて、一定の落ち着きは得ている。
その点ちょっと健全な結末だと思うけれど、なんだか南仏の家のバルコニーの上からプールをはさんで、現実逃避の意図的継続のようなイメージが繰り返されるところに、ちょっと病気を感じる程度。
まだ軽い病なんだな、と思った。

ただよくよく考えるに、この主人公の作家の作風の変化に対する自分なりのいいわけじみた妄想?
あたかも別人が書いたかに見られかねない新しい作品につけたした、じつに余計なプロローグ?
どうもそんな感じもする...。

とりあえず心療内科をお勧めします。
そそられもして、そしてどこかうさんくささも漂っていて.....。
でも観てみたらおもしろいよ。

これは背骨、背骨、と言ってるけれど、実は精神の映画だと思う。
大半の時間、主人公が無意識的に行動してるってとこがポイントで、ユニークなところだと思う。
骨、骨言ってるけれど、無意識に動いてるってことは「不随意筋」の動きなんだね。
不随意筋っていうのは内蔵の動き、分かりやすいのが心臓の鼓動とか腸のぜん動運動とか。
意識と関係なく生命維持のための機能的な動き。

この意識のぶっとんだ不随意筋の暴走と収束の過程が描かれるってかんじ。

なにか人体のゆがみが精神のゆがみに通じ、大きな意味では社会のゆがみを生むらしい。
整体師の主人公がそのゆがみを矯正してゆくってすんぽう。

全体的にわたって無意識であることが主人公のフィジカル面を強調している。
ようするに簡単にいうと「健全な精神は健全な肉体に宿る」というあの格言をまんま映画にした感じ。
その健全な肉体が心神喪失状態でもなお健全に機能しながら悪を倒す!
そういう「善良なオートマティスム」っぽい香りがするので、これはその不気味なリングコスチュームとあいまって非常にシュールレアリスムな映画だと言える。
ちゃんとシュールレアリスムを理解した造りになってるよ。

ちりばめられた小ネタもそうしてみるとシュールレアリスムな雰囲気に一役かっているし。
あなどれない映画だと思うよ。
よくできてる。
そういう目でみてよね!

※レイチェル・リー・クックっていう女優さんかわいいし!
三味線でバトルをする!
みんなこういうの好きじゃん!?
ぼくも大好き!

題材は日本人の心、三味線じゃん。
で、60年代生まれのおっさんの心、ジミー・ペイジとかブルース・リーじゃん。
ってかんじ。年齢ばればれだぞ~、これ考えた人!

ダブルネックの三味線とか、まあ、やったもん勝ちな小ネタをとりあえず突っ込みたかった。
そんな感じ。
このダブルネックの三味線は、まあ、あってもいいとは思うんだけど、お話の大事なところでは使うべきじゃないかな~。
いくら主人公が本来ギタリストという設定だからって、ちょっとサウンドまでエレキになっちゃっててかなりここサム~いよ。

リー師傅の「Don't think! Feeeeeeeel...」
ってあの名言とか女の子に言わしちゃってるしね。
もうちょっと上手にやってほしかった。
声のトーンや強さをもうちょっと似せてやんないとわかんねぇよ。
つまり、このネタわかっちゃうんだとしたら、けっこうブルース・リーファンだということ。
ようするに、それでいいのか?ってネタなわけ。

このほかにもかなりの小ネタで構成されたストーリーだから、まあはじめからそんなに肩に力も入らないし、その点は身の程をわきまえておられる。
作品の出来にめくじらたてることもなく平和な心持ちで見られるよ。

出ている俳優さんたちはけっこうバランスはいいんじゃないかと思う。
わりとそういうバランスですごく救われてる面を感じます。
主人公のおとぼけキャラっぷりは傑出してて小気味よいくらいです。
この点美点といえますよ。

でもね、三味線だったらジミー・ペイジよりもジミだろ!って。
ジミネタはあったっけかな?う~ん、そんなによく観てないしな~。
だってロックギターやってて三味線とひっかけるならやっぱしジミの「ウッドストック」での伝説的プレイ「ウッドストック・インプロヴィゼーション」の三味線テイスト、その後の「ヴィラノヴァ・ジャンクション」の日本昔話っぽさをこそ語るべきであるが、そこまでやると、なんの映画だかわかんなくなっちゃうっていうのもなんだかわかる。

でもね、おおむねいいかんじだよこれ。
おれはいろんなもの差し引きして、まあこれも許容範囲ってかんじ。
ジミー・ペイジよりはチープ・トリックって感じだけど....。
極真3部作の第3作目。

このセミドキュメンタリーの映像では世界に広がる極真と第2回世界オープントーナメントの模様が観られる。

ここでわかることは、本家日本の空手はあの第七回のフランシスコ・フィリョの優勝を待つまでもなく、すでに第二回大会にしてほんとうならば負けていた!
という事実だけであろう。

素人が見てもウイリーの強さはずばぬけていた。
準々決勝で判定を不服として態度を豹変させてしまい、準決勝で失格扱いにされてしまう。
よくよく考えてみればわかることだが、あれだけ辛く、精神からして鍛えられるであろうはずの空手の練習を通して、それではいったい何を学んできたのか?
という点。
すごく不自然な矛盾を感じる。
それほどの選手、というか一個の空手家のとる態度じゃないだろうと思う。
それまでしてきたことを考えれば、あれくらいの辛さのホームタウンデシジョンに対して、あそこまでめくじら立てて怒るとも思えないのだが...。
「ちぇ!しょうがねぇなぁ...!」といった程度でその後の闘志につながりこそすれ。
だからあの顛末を観て、いろいろ想像をめぐらすにつけ、とても不自然な展開の裏にとてもどす黒く、不愉快なものを感じる。

中村誠さんも強いだけじゃなく、動きも柔らかくて巧いな!と思ったけれど、やっぱりウイリーはぜんぜん強いな!と思った。
本来ならば決勝戦でこの二人が戦うはずであったと思う。
それはきっと名勝負と呼ばれるものになったかもしれない。

そんなことがはからずも、きっちり記録されている貴重な作品だと思う。

思えば決勝で日本人と海外選手がぶつかったのは第四回と、そしてあの第七回しか無い。
第四回大会はあのアンディ・フグが決勝にまで残っている。
それを破って本家日本の立場を死守したのが現極真会館館長の松井さん。
準決勝でも外人と当たり、それがマイケル・トンプソンでたしか延長5回くらいまでやってると思う。
松井さんが感覚的に出した上段回し蹴りがキレイにヒットして一本勝ちとなった伝説の試合である。
たしか第七回はフィリョに数見さんが破れていると思う。
うちのちかくの幼稚園の出口にマクドナルドがあって、平日午後2時から4時あたりに行き会わせると、なんだかがやがや妙に人が込んでて異様な熱気。
比較的年齢の若い奥さん連中とそのがきんちょ軍団。
奥様連合軍はこどものことなど見ちゃいねぇ、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃなんだか聞く気にもなれないことしゃべってる。べつにあやしげな内容では無いようで、ただただ内容が無いだけ。
そんで子供は子供でプレイルームで勝手にあそんでるくちならまだしも、レジ前で遊んでて邪魔。好き勝手に注文しちゃってるやつもいる。
とにかく放し飼い。

まあ、奥様連合軍がどんなこと考えて何をしゃべっててもいいけれど、ふと思ったのは、自分らの世代にはこんなことはなかった。
幼稚園の帰りにはどこにも寄ったりせず、母にしろ父にしろ家に直行、という記憶しか無い。
まあ茨城だし、当時はマック自体がぜんぜん少なかったんだけど、幼稚園の後の時間は親にしろ子供にしろそういうふうに過ごすという感覚そのものが無かったように記憶する。

奥様がたはストレスも多いし、ふだん家に一人でいたりして発散したい気持ちもわからなくはないし、マックは安いし...。といった感じ。
ただそういう自分の都合にあわせて、とりあえず子供もよろこぶから、という程度の考えで、子供をマックに安易に連れてきちゃうっていうのはあまりにも無責任すぎると思う。
マックで食べられるものなんて幼稚園児の発育に重要な時期にとってよかろうはずがない。
そんなところでぺちゃくちゃしゃべって、子供ほったらかしでは、いったいなにしゃべってるの?って聞いてみたくなる。
いまそこにいることの問題性を話題にしなければならないのに、そのおしゃべりは果てしなく遠いテーマに溺れているんだと思う。

ぜったいポテトにしろジュースにしろ良く無いにきまってる。
とにかく砂糖やら脂肪やらでできてるものだから。

それにしてもアメリカさんは裏と表が激しいと思う。
口ではいい事たくさん言ってるけど、社会の状態はぜんぜん良く無いように思える。
肥満なんて就職にも影響するらしいことが言われたりしているけれど、それでも肥満はそうとう増えてきている現状があるという。
かかげる理想とか正論に反して、大衆はどんどん肥えているみたい。
企業の問題は政治とセットで大衆を食い物にしている構図。
そのやり口がいちいち汚く、論点のすり替えとか正当化してて、そういうことも理づめで言ってくるしまつ。
手に負えない。

この映画はやってることが極端だし、どこまで本気でやれているのかさだかではないけれど、これも一つの正論なんだと思うし、普通に考えればそりゃそうだろう!
ということを体当たりでやってみせて告発するという形。
そういう普通に考えればわかりそうなことでも、案外バカでわかってない人が多い。
考えて分からないことは感じてみればいいだけの話。
そんな生活つづけたらどんなふうになりそうか?
それがよさそうかわるそうか?
そんなことって感覚でわかる範囲のことでもあると思う。
、というのも「豊かさ」の求められる次元がまた日本とちょっと感覚が違うのかもしれない。
「安さ」とか「手軽さ」とかそういったことに対する切実さが、格差のはげしい多民族国家ではぜんぜん大きく感じられる問題なのかもしれない。
だから結果として民衆はマックなんかのファーストフードは手放せなくなる。
やっぱり政治とセットなんだと思う。
どこかでそういう企業を後押ししてる仕組みがありそうである。

この映画ではアメリカの学校給食(?)についてもレポートして見せてて興味深い。
さすがに日本ではあんな乱れた食事は出していない!(と思う)
あんなにひどい状態があることに驚きである。
(マック食べ続けてるこの映画の監督はまだ大人だからいいけど....)
だから大人はまだいい,自己責任でやればいいと思う。
企業もそんな大人には誘惑の手をゆるめることなくどしどしやっていいと思う。
イヤなら食べなきゃいいんだから。
でも子供にやるのは酷だと感じる。
学校もちゃんと指導していなかったりしてるらいしシーンはショックである。

なんでもルールとか企業理論とかだけが前面に出るからいけないんだよ。
どこかに正当性を見つけさえすれば、あとはイケイケな体質、そして無神経。
逆に子供が結果どうなろうと知ったこっちゃないという態度にすら正当性が添えられている御丁寧さ。
企業が己自身肥え太ることへの無感覚のような感じ。

やがて資源も枯渇しちゃう。
アメリカ見てるとものすごく背筋が寒くなってくる。
日本にはすごく良いイメージしか伝わってこないものだから、そこが問題。
多少マイナスイメージも伝わってはくるけれど、良い面で十分相殺されてる感があり、そんなところでも正当化が行き届いてる。
なんにでも良いところと悪いところはあるものだけれど、それぞれ規模がでかいとやばくなる。

ヨガとか意外にアメリカ経由で流行ったりしてるけど、茶番である。
精神性とかに興味が向いてるらしいけれどこれも茶番に見える。
表面だけでできている。
なにか「根底」とか「根本」とかいうレイヤーそのものに厚みが無い。
精神は精神だけのもので、本来「なにかに役に立つ」といった類いのものではない。
時間を割いてやるからにはなにか糧を得ようと欲する時点ですでに根本から遠かったりする。
なんでも論理的かつ合理的に整合性のある考えでとらえるものだからその「根底」自体があまり体積を持たず、その他の雑多な時間や空間の有限性、もろもろの価値観と並列化されて平均化される。

もっと自然に非合理的な部分があってよいのだ。
理屈に合わなくてもそこへ向かう精神だけが尊いことだってありうる。
逆にそういうことは彼らには理解不能となる。
でもそれを認めたり、許容する部分に企業理論を拒絶するという発想の余地が生まれる。
そのくせケチャップこってりかけたスーパーサイズのポテト食べてからヨガやってみたり。
これとて摂取と消費の関係から言えば、食って動いてるわけだから論理的に正しいといえば正しいけれど、一番正しいのはそんなもの食べないこと。
本当に正しいことは彼らのいう理論からははるかに遠いストイックな領域にこそあるもんだ。
日本人はもっと自信もってよいと思う。
別な意味でまけずおとらずバカだから...。
ちょっとまえから香港カンフー映画の古いものがいくつかDVD化されていてありがたい。
長くビデオ化すらされていなかった「少林寺三十六房」をはじめ、キルビルの話題性もあって、タランティーノ監督がインスパイアされ、リスペクトしている作品などがお手軽に購入できるというわけ。

この作品もその流れなのかどうだか知らないけれど、まずこの安直すぎるが、はてしなく魅力的なタイトルはどうだ!
結局これにつきるのではないか?ともとれるこのタイトル。
「それで結局、北と南、どっちが強いんだ!?」とでもいわんばかり。

ストーリーでは、ようするに清朝政府にとっては漢民族の武術家達はめざわりな反政府分子。
ということで、謀略によって武術の総本山である北と南の少林寺の武術家を争わせて共倒れをねらう。
結局これにのせられてしまい、おたがいの秘術を出し惜しみなく出し切って、ほとんど壊滅状態に近くなってしまうというのがお話の流れ。

この映画の見所は詠春拳である。(個人的に)
武術指導は有名な梁挺(リャン・ティン)師傅である。
有名な、といっても詠春拳とかよく知らないとぜんぜん知らないと思うけれど、とにかくでかい組織をもってるボスである。
映画の武術指導などもおそらくいくつか(たくさん?)やっているようで、キルビルがらみで「五毒拳」とかの武術指導もしている。
それでなくてもただでさえ香港カンフー映画では手技に詠春的技法がよく用いられるのを目にする。
なので、ことさら特筆するほどでもないくらい絵的にはポピュラーなのだが、お話上何度か負け続けている南少林寺が最後の切り札として最後の最後に弟子に習得させる拳法の一つが、この「詠春拳」という実名入りでもろに出るのは案外めずらしい。
もっとも、日本で公開、あるいは紹介されているものが少ないのと、字幕などでもちゃんと訳されていないせいかもしれないけれど....。
なにはともあれ、
「クレイジーモンキー笑拳」とか「カンニングモンキー天沖拳」とか言っていたほうが当たり障りが無く、みんなに笑顔で受け入れられやすい。かといってこれらの映画の内容や根本哲学がまったくの荒唐無稽なものではなく、基本の理念はきっちり押さえている、という点を見逃すべきではない。
ジャッキー・チェンの一連のモンキーシリーズ(?)からでも十分に学べる点があるので。心して観よ!
だからまず、映画表現的のためには、流派名を特に明記する必要性は薄いと言える。
ここらへん案外重要である。

ようするに、そういう「創作だよ!」っていう姿勢を明記してあるタイプの作品に対して、この「南少林寺vs北少林寺」は実在の流派の名前がもろに出ているタイプの作品群にあたる、として自分のなかでは大別される。
映像的にも、基本にしてもっとも重要な「小念頭」の型をそのまんまアレンジせずにやってるし...。

だって、「空とぶギロチン」とか「片腕カンフー」って言っちゃったらほとんどパーソナリティの問題だからこれほど無難な題材は無いってこと。
逆に流派の名前を明記する場合は、世の中に出されて自然とそれがあるていど実在の流派の「看板」の役目をおってしまうということになる。
このことから梁挺派の組織としての大きさとか影響力が伺える。
という話。

梶原一騎の「地上最強のカラテ」シリーズはドキュメンタリー映画のカテゴリだけど、タイトルが表す、当時のその自信はものすごいものがある。
同じく「四角いジャングル」シリーズは、カラテ(極真派)のアイデンティティを他の格闘技とあえて並列に並べてみることで際立たせようとしているように感じる。
ブルース・リーの「ドラゴンへの道」は半分自伝みたいなものだし。

そうすると、ジャッキー・チェンの映画的な純粋性も逆に際立ってくるような気がする。
「片腕カンフー」のジミー・ウォングも映画的に「純」である。
「少林寺三十六房」も意外と「純」なものを感じる。
「カンフーハッスル」や「少林サッカー」は「愛」である。
あくまでもこういった作品群をノーマルな「映画的な映画」だとすれば、それ以外の風味を感じるもの、
そういう作品には「意図」有りである。
ちなみに「少林寺」の当時の上映のされ方なんかにも実は(日本少林寺拳法の)「意図」有りであった。
カンフー映画、というよりも武術系映画とするべきこれらの作品にはかならず特定の「意図」がこめられていると思う。

結果的にどっちが主流かよくわかんないけど、内容がプロフェッショナルになればなるほど、なんらかの「意図」は切り離せないものとなるような気がするし、さらにそれを超えたところにある表現というのは、単なる狭い「流派」意識を超えた普遍的な哲学に繋がる道のような気がする。
そういう意味ではブルース・リーなんかはその偉業をたった一代でなし得ようとした野心家であった、という意味でも希有であると言える。
この構図、この縮図。
希少なるもののほんとうの価値とそのサダメ。
ボクシングの純粋性、K1のエンタテインメント性、WWEの純粋性。
おりかさなり、価値観が価値観を内蔵し、輪廻転生するイメージはまるであのマーク...。
そうだ...太極なんだ。

個人的には、この映画、なかなかいいです。
セットや映像のクオリティはいまにしてみるとかなりチープで、ぞくぞくするし、南と北、3vs3で対戦する構造とか楽しいし、詠春拳もろ出しだし、そのくせ妙なアレンジ効かせた訓練シーンとか笑えるし。
見所満載ではあります。(個人的に)
けっこう好きです(個人的に)
衛星の「日本映画チャンネル」で初めてみた。
これは面白くない。
構造が良く無い。
最後夢落ちであったりするのはべつに映画的表現としてあったりまえにあってもいいけれど、それをやるには中身が希薄で水で薄めた感じ。
この映画せいぜい10分くらいの短編の内容しか持たない。
基本的に夢落ちって10分以上やっちゃだめだよ。ねぇ。

秋葉原の風景にリアリティを感じさせ、オタクの部屋に切なさを感じさせるならば、その映像としての魅力はもっとあってもいいはずだし、その魅力がどういう構造に活かされるべきなのか?
ってことをいろいろ考えて作るべきなんだと思う。
そのシーンにある程度の長さが与えられた場合、絶対に意味が期待される。
オタクをさらにリアリティをもたせてクリエイトした場合も同じく意味を期待される。
その過度の期待から、構造的に逃げながら2時間サイズに伸ばしてしまった感じがする。
であるからして、シーン一つ一つがさほどマニアックに見えなく、つまらない。
まずそれでつまらない。
あとは、まあ、いろいろとつまらない。
とにかくおれ単純に退いてしまう。
オタクにではなく、ばかばかしさに、というところが作品として痛いのよ。

「ナポレオン・ダイナマイト」があんなに面白いのに邦題「バス男」とかつけられて、
あれは迷惑な話ですよ。
なんか特徴的なTシャツ着てるところも似てるんだけど...。
これもやっぱり「ナポレオン~」のほうがイカしてる。
ナポレオンのほうが先にできてるわけで、日本で公開されていないだけで、あちらでは有名な映画。
だとすると妙なことになってくる。
と思わない?
おれ思うよ。
ほんと痛い映画だよこの「電車男」。

「ナポレオン・ダイナマイト」につけられた邦題、自分はほんの気まぐれでつけられたとは思わない。
なにか裏がある。
贖罪の念?
う~ん。
われわれはきっとだれかに舐められているにちがいない。
すくなくともそう考えることはできる。
こんなものよろこんで観てる場合ではありませぬぞ!
ボーン・アイデンティティの続編で、前作を観ているとたぶん自然と感情移入できるし、ツーものとしても同じような内容の踏襲とさすがにその手慣れてきた感じもして、もう前作で設定はわかっているので、よぶんな理解力を必要としない。ということは、この映画最大の売りである、リアリティのある格闘シーンを味わうことに集中できる、ということである。(自分にとっては)

アクションは、実際にリアルに表現しすぎるとあまりに殺伐として凄惨な感じになってしまい、加えて動きとしてぜんぜん面白くないものになる、としておそらく映画では意図的に避けられてきているんだと思うけれど、最近はさすがにアメリカンなだけの殴り合いでは通用しなくなってきているので、カンフー取り入れたり、合気道だったりとかいろいろ苦労していて、やっぱりそういうちゃんと仕組まれたリアリティをきちんとやったものはその迫力もかっこよさも別次元となる。

このボーン~シリーズもアクション担当の人がしっかりやっているらしく、これも特典映像からだけど、エスクリマ・カリの技法を徒手格闘技に応用して演じさせている。
カリっていうのは「燃えよドラゴン」でハンの道場の地下の麻薬精製所でブルース・リーが使ってみせて有名になったと思われるもので、非常に合理的に2本の短めの棒を連携させて使用するフィリピンの武術。
受けながら攻撃する技術が絶え間なく連環するので、しかけたり、対応したりする動きは、否応無しにリアリティを帯びてくる。
「打って受けてハイ!打って式」の古いカンフー映画やアメリカ映画式ではなくて、いかにもモダンな表現といえる。

反面そのリアリティはスピードからもたらせれてもいるので、ほんとうにやるとやっぱりかっこいいのはなんとなくわかるんだけど、ぜんぜん見えませ~ん、となってしまい、その表現には矛盾した要素をはらむ。
その一つの回答がマトリックスの超スローだったり、「グリーンディスティニー」とか「英雄」の「観念世界でのヴァーチャルな戦い」であったりすると思う。
逆にちゃんと判るように、なおかつリアリティをもってして演じるとなると、香港カンフー映画のようなしっかりとした技術や肉体的なフィジカル面を鍛え抜く必要があって、なかなかイケメンなだけでは表現できない。
当然なまはんかなCGでも、「なんでも出来ちゃうし」という程度のぬるい意識では表現できない。

ただ武術がわからの視点でみると、俳優業というのは、武術に通じる側面がある。
それは自己と相手との関係におけるものである。
ようするに演技も武術も、相手の気配の読み合いから始まって、「仕掛け」と「生理反応」とその「裏読み」からなりたっている。
うまい演技は相手を導くし、相手もそれに乗りながらさらに高い領域へ相手を誘うものであるべきだと思う。
武術だってそういう意味ではほとんど同じ意識で行われると思う。
最終的には必ず相手を上回るという点、若干目的が違うかもしれない。
それを考えると、仮に体さえついてくれば、いい俳優というのは強い武術家になりうると言える。
だからジャッキー・チェンはきっと強いはずだと思う。
K1戦士とやったらどうか?なんていうナンセンス言うのではなくて、人間として、あらゆる局面で強いはずである。
それはイコール武術的にみても強いものだということである。

ジェイソン・ボーンというキャラクターの動きにもまずまずの説得力を感じられたのは、マット・デイモンという俳優が、なかなかいい俳優だからではないか?
という自分なりの見方の一端からである。
「バス男」「ナポレオン ダイナマイト」について

邦題がひどい!と問題になっている作品で、日本では劇場公開されず、DVDでみなさん触れた人も多いと思われるこの映画。
じつにマイペースなキャラ勢揃いのなんとものどかな、そしてラストへいたるまでになんともすがすがしく癒される内容。

日本の「電車男」はみていないし、比較するものではないと思うけれど、その発想からしてまったく異なる心根があるので、日本の「電車男」の人気にあやかって後づけされた邦題から入って観ても、この作品の良さはその期待を裏切り、もっと上位のカタルシスが得られていることと思う。

DVDならではのまさしく特典映像を観ても、この作品を作るにあたって、いかにしてネタが洗練されていったか?がわかって、製作陣のクリエイティビティを感じる。秋葉系というように、まずドメスティックで、さらにマイノリティな存在をはじめ見下し、やがて復権させるというような弱者救済的な見方ではなくて、ナポレオン・ダイナマイトのほうは、はなっからみんながそれぞれの持ち分で自分なりに主張し、自主的に(身勝手に)生きている点で大違い。
ペドロの選挙演説のときのダンスパフォーマンスも、自分で勝手に「やってみよう!」って思って自室でもくもくと練習した結果にすぎない。
(なんかリサイクルショップみたいなとこではじめサイとか見つけて腰に挿したりしていて(ナイス!)、次にダンスの教則ビデオに惹かれて普通に購入!)
なにかだれかにアドバイスなんかを受けるという事自体はごく自然なコミニュケーションであって、この映画の場合、コミニュケーションの取りづらさはむしろ、一般常識人の側のあまりにも一般的すぎる反応にこそあるとも言わんばかりに感じられる。つまり、そこまで、マイノリティというか、マイペースな人たちを「創出」するためのクリエイティビティが発揮された結果が、ちゃんと認識されるようにできてると思う。
そこまで一般常識人の認識の狭さや程度の低さが逆に描かれていて、そこがある種の風刺の効果を発揮してもいる。
ネットで引きこもってなどいないのである。
ナポレオンのお兄ちゃんもチャットにはまりつつ、ちゃっかりほんとに恋人ゲットするし。

一貫して普遍性をもつものとしての「自分勝手さ」。
さらにそのアイデンティティをもってして他者とコミニュケーションを取ろうという自主的な努力とその自然さ。
自己をゆずらないかわりに他者も認めてゆく姿勢。
そういう「強さ」を感じるので、最後の「プレイ」してるところがやけにすがすがしく感じる。
(「プレイする?」って誘っておいて、やがて自分勝手なペースでボールを叩いてゆく。この徹底ぶり。)

自分は逆にこの「バス男」を観てから、それじゃその「電車男」ってのはどうなんだ?
っていうつもり「電車男」を観てみないとな~なんて思ってるクチです。
韓国(朝鮮)における、対中国外交の歴史の長さもさることながら、そのアイデンティティが伝わる。
国同士の対立構造とは別に、「超越した個人」として、はじめ奴隷として従属していた若者が挙げられる。
おそるべき武術の技を隠し持つかっこいいキャラクターだ。
男の子はこういうキャラクター大好き!
「カムイ伝」のカムイみたいなもんだね。
カムイは「カムイ伝」のなかで主役なんだけれど、このマンガは誰でも主役をはれる、というじつに社会主義的マンガ。
差別という構造は権力側が用意したお膳立て。
MUSAでも主要登場人物だれでも主役たりうると思うので、そういう群像劇っていう感じのつくりだと思う。
その中でも思い入れ的キャラはやっぱりこの奴隷の強い男だろう。
しがらみを断ち切り、個人のチカラで道をきりひらいていこうという。
それでもなにか自己の中の規範(ポリシー)にのっとって行動しようという。

「臥虎蔵龍」、「英雄」なんかとは対極をなすといっていい、外向きな事象へ向けられた視線。
そういう意味では平均的な映画。
だけど、かつての朝鮮、中国、モンゴルという三つの国際関係をあつかった実にチャレンジングな内容ではあると言える。
特に対中関係はいまに直接繋がっているので微妙なところだと思う。

お話のなかでも朝鮮軍は中国の御姫さまに常に従属する態度は貫いてる。
その朝鮮軍の公使の一員として来ていた文官みたいなおじいさんにさらに従属していた奴隷の男の行動規範が注目される内容。

ところで、というか重要な映画の題名なんだけど、
日本で「武士」といえば武士道を体現するおさむらいさんのことだけど、この映画でいうところの朝鮮的な意味での「武士」というのは、なんなのか?
という点は日本人として同じ目で観ていいのかどうか?という点で疑問がのこる。
そもそも現代では「武士道」そのものが失伝しているはずなので、だからどういうふうに「武士」が描かれていてご満足か?と言われてもその判断のための尺度が無いのだから本当はなんとも言えない。
そういう一般人の理解力が配慮されてるとすれば、せめて理解可能な点として、そういう国際関係上弱い立場に立たされる局面の多い朝鮮のアイデンティティにある「強い意志」なるものが「武士」というものではないか?という設定になってると思っていいのかな?
それでもやっぱり「超越した個人」としての奴隷の立場が唯一フリーな存在として際立つ。
自己の中にある規範とせいぜい手近な直接守るべきものしか意識していない。
そのシンプルな意識がどうしても光って見える。
これもまた「武士」とでも言わんとばかりに。

ただ、こういうタイプの映画を作り得るだけでも日本映画よりはなんだかすごく偉いような気にさせられてしまう。(まあ国策として映画産業を捉えているという強みはあるけれど)
日本が対外国のテーマで、なにか映画を作る、っていうのはなんだか想像しにくい気がする。
特に近隣の中国、韓国あたりとの歴史的な内容をもつ映画って、実際はいろいろ作られるべき内容ももっていると思うけれど、そこにはちょっと触れづらい雰囲気があるのかな。
現代的な視点から、現代の話としてなんらかのエピソードを描くことはあるかもしれないけれど、逆に歴史認識の部分をストレートに扱うってことはなかなかに問題が多いのか、観たくてもなかなか無いんではないか?
歴史認識っていうのはわかっていることともう調べようがないことと雑多だから、文字どおり「認識」の部分を描くことになる。
それは各国の認識なんだから、本当はどう認識しようが、いいはずなんだけど、「歴史の重さ」という感覚だけがいつでものしかかってくるのか。

たとえば「白村江の戦い」とかの日本の負け戦があるけれど、当時の朝鮮出兵がひんぱんに行われた理由に興味がわくのは日本人としてごく自然なことと思う。
そこに一般的なものから、かなり憶測的なものまで、さまざまなストーリーが作れると思うので、そういう内容の作品っていうのは、常に一定の人気を予想しやすいのではないかとも思えるけれど、どうなんだろう?
宮内庁とかなんか言ってくるのかな?まさかね!
まあ、それはともかく、あれもこれも自分なんかからすると憶測なんだけど、まわりの国からなにかと突っ込まれてるのと同じくらい、国内の事情というのも実際は闇な部分がけっこうあるんだと思う。
少なくともそういうところをいっこいっこクリヤーにしていったほうが、いろんな意味でなにかを前進させる結果になるとも思うんだけど....、まあこれも憶測なんだけどね。
でも実際は都市開発ていう名の記憶の抹殺も進んでいると思うんだよね、みなさんの周辺ではどうですか?

沖縄の問題ひとつとってみても、興味深い内容まんさいだ。
蝦夷の問題しかり、そういう異民族として認識されていた勢力に中央政権を自認する当時の日本がどのように対してきたか?
ってところが、一応歴史で習うものの、ぜんぜん実体がみえてこないくらいに薄く教わるだけなのは問題だと思う。本当は一番大切な話のはずなのに。
教育っていっても、せいぜい数学とか英語、物理のようなものだけはそれなりにちゃんとやってるんだと思うけれど、こと歴史に関しては、そのつもりになってちゃんと教え始めないといけないように思う。
あとになって本とか読んで知ることになるっていう内容が多すぎる。
学校の授業とかテストってなんだったの?
って感じ。
大学で専門的にしか教えていないっていうことでいいんだろうか?
自国のアイデンティティが無いのも、そういうシリアスな歴史認識をしないで、幻想的に濁して教えてるいまの教育が原因なんではないだろうか?
とつねづね思う。
だからせいぜいアニメ文化とかファンタジー系の方向ばかり発展しちゃうんだよ。
そういうのはほどほどでいいから、もうちょっと現実的な歴史の授業を義務教育で!
ってことで今回はおひらき。