実際に行われた実験がもとになってる怖い映画。
ということでリアリティが感じられ、ひきこまれる。
はじめは単なる実験のはずが、マジになってしまうという構造。
一般公募であつめられた人たちが監守と囚人の役にわかれて、そういう状況での心理状態とか行動の実験をするということらしい。

最初のうちは遊び半分でいた参加者たちが、しだいに感情のコントロール不能状態となっていくわけだけれど、案外一線を超えるのは早期におとずれる。
ほんの些細な点から、人権が蹂躙されるということに対して通常の心理状態ではいられなくなってしまう怖さ。
いったん超えたらあとはもうとめどなくエスカレートしてゆく人権侵害。
囚人がわも人権の蹂躙に抵抗する気持ちが抑えられない状態になる。
映画では主人公がそういう抵抗分子的な囚人役で、意外とほかの囚人役のひとたちはそれなりに従順だったから、主人公が不測の自体を引き起こす要因であるわけだけど、この実験が早期に破綻しても終了とならずにさらにエスカレートしてゆくもうひとつの要因に、実は軍人、という人物がまぎれこんでいたことが挙げられる。軍人なので、極限状態をあるていど想定して行動できるので、なにかとこの人だけは冷静にしていて、はみ出そうとする主人公を適切にフォローしたりした結果、かえって実験が内容的に破壊的な局面までもつれてしまったような感じ。
ここらへんが映画を成立させるための構造になってると思う。

サイコサスペンスっていうのかな。
展開が急激にエスカレートして最終的に破綻にむかっていくので、観ていて手に汗にぎる。
状況は特殊な設定をするわけだけど、実験の場ということでもあるし、そういうある意味管理されているはずの場でアンコントロールにおちいってゆく人間性の怖さっていうのはかなり怖いね。

ドイツの映画なので、どうしてもナチの収容所なんかのイメージとだぶる感じもあるので、背筋が寒い。
おたがいがただ与えられただけの役のはずなのに、その役目に忠実であろうとするある種の生真面目さのようなサガが発揮されてしまうと、こんどは感情っていうものはその役目の尊守に血道をあげるように機能してしまう。まるで感情と理論が危険にかみあったマシーンのように見えた。その機械はいったん動き出すと、さらに強力な権力をもってしか止められなくなってしまう!
結局「権力」っていうものは理屈の裏付けをもって完成されてるような面があって、そういう視点からいったん筋が通ってしまうと、人間はいっこの個人であると同時にその機能をまっとうする機械の歯車でしかなくなってしまう恐怖。
実験という、そういうものの縮図が、急速に進行してゆく速さにも恐怖する。
ちょっと考えさせられるタイプの映画でもある。
映画としてはあるていどきっちりエンターテインメント性ももちあわせている造りなので、ただ単にリアリティだけでできているセミドキュメンタリー的なものでもなく、面白く作ってあって、よいと思った。

実験の内容を密かに調査する(?)という目的でまぎれこんでいた軍人さんは、腕にも自信があるので、そういうフィジカル面が一定の冷静さの源泉にもなっていて、実際後半脱獄(!)しようとする過程で監守を格闘技で倒したりするシーンもあったりする。
こういうシーンでも、過剰に格闘技が役立つようには描かれていない。
常に絶対的人数に対する不利があるので、案外思ったとおりには戦えないっていうような描き方もなんだか好きだ。
ここらへんはなんだか当事者にとってみたらけっこう悪夢だね。
よく夢に見るようなあの、追手に思うように勝てないあの悪夢。
たぶん布団が邪魔で手足が思うように動かないことの現れかとも思うけれど、あのいや~な悪夢。
「夜と霧」とかカンボジアの大虐殺について書かれた本の内容をふと思い出した。
悪夢がそのまま現実という状況に背筋が凍った記憶がある。
そういう状況が、ある条件さえそろえばいとも簡単に現実のものとなってしまいそうな危うさを感じて、それも怖いと思う。
歴史から学んでいるから次は大丈夫、とか、そういう問題じゃないように感じた。
だれでも常に持っている人間の心の「機能そのもの」としての危なさの映画。
日中戦争のときの中国大陸、長城が海にまで達している、とある農村での話。
近くに日本軍のトーチカがあり、駐屯してる日本軍の行進が毎日のようにあるみたい。
そんな村に住む中国人の男のところに「私」と名乗るなぞの男が、麻袋に入れた日本兵と中国人通訳をひとりづつ預かるように脅す。
しかたなく預かるが、村全体の問題となり、さてどうしたもんか?
という話。
この謎の「私」はとにかく完全に謎のキャラクターで、実はだれでも良い。
この状況を作り出す役目にすぎない。
小さな村が大きな意味での人間の実験場として映画が成り立ったているから。

絶対的なチカラで抑圧されていれば感情というものはそれなりに抑えられる。
いたしかたない状況とはいえ、コントロールは効く。
過酷ながらも一定の節度をもって破綻せず、その状態を維持すべく働く。
しかし、立場や状況が変ったとき、ほんの些細ともとれる言動が発端となって、心が抑えきれなくなってしまうこともある。社会現象の末端に実際におこることは、そういう感情の動きによって表現される人間味のようなものが、悲劇的ともとれる感じで描かれてると思った。
そうやって感情を爆発させた時の一瞬の輝きというものも現実であり、歴史解釈とそういう個人の感情の在処とは、まったく別のことろにあるもんだな~、とつくづく感じさせられもした。
そんな映画かな~。
そういうリアリズムをコメディタッチで作ってる。
映像のエフェクト的には唯一「古いフィルム感」っていうこと。
この点重要、というか実に細やかにこの「古い」質感にはこだわっていると思う。
その古さにひきこまれるふしがある。
古い映像からなにが感じ取れるか、感じ取れるだけ感じ取ってやろうという意識も働く気がする。
古いにもかかわらずセンスいい映像に見えて、そこがまたちょっと新鮮な映像に見える。
そういうある種のひねくれた重層的な構造が、意識と内容をちょうどよい距離感に保つ。
内容に対してこの観やすさや、ひきこまれ感は、こういうレトロ調な映像効果が最も功を奏した例とも言える。

作っている人たちのグローバルな視点もいい。
どちらかに偏っていないことが観ているとすぐにわかる。
それって、「どこらへんが?」というものでもないからよくできてると思う。
よく思うことだけど、作っている人がいい人かどうか?ってのがたまにわかる映画ってある。
これもそういう「わかる」タイプの映画かもしれない。
だから個人的にはすごく好感がもてるタイプ。
「佳作」的な、良好な映画だと思う。
ジェット・リーvsジェット・リーならさぞかし凄いだろう!?
っていう発想の実現のために膨らませたストーリーのような感じのストーリー!
なかなかおもしろい要素が随所にあったので、全体としてそんなに悪くない印象なんだけど、SF的なセットだとかそういう細かいディテールがまず子供っぽい造りで、そこがいちばん萎えるところだったように思う。

最大の興味は、形意拳の使い手のジェット・リーと八卦掌の使い手のジェット・リーとの戦い!
ちょっとでも中国拳法知識あるひとの感覚からすると、かたや「突進系」で、かたや「いなし系」という構図。
強烈なモチベーションと殺意でしかけてくる相手にはやたらなことでは勝てない。ってことで、出てくる発想としては八卦掌は妥当。太極拳でもいいと思う。
ここらへんが「熱い」要素であり「カンフー萌え~」な部分。

設定にある「多次元宇宙」という発想から実現する、もう一人の自分との出会いの映画、として捉えると、もっと感動的な映画にもできたような気がしてそういうのも観てみたい。
「多次元宇宙」の解釈としては、ぜんぜん違う世界もあれば、ちょっとだけ違う世界もあるらしい。
その他の宇宙の自分を殺すことで、本来多次元を超えて一定であるらしいエネルギーを最終的にはひとりじめできるのでは?
ということろが悪役ジェット・リーのモチベーション。
超人となって、もしかしたら神に近い存在になれるかもしれない?!という感じ。
ここらへんは面白いと思う。
平行して存在する別の世界には、なんかへんな太極拳とか、ブルース・リーが生きていた!なんてのもありそうで、もうめちゃくちゃになる。
それはそうとしても、同じように同名の流派が各世界にも並列にあるとしたら、たしかに同じようにパワーアップしていないと勝負が成り立たない。すごく正しいと思う。
ただ、そうなるとあんまり形意拳とか八卦掌とかの特性を表現する必然性が薄くなってしまってちょっと残念。
そういう流派色を薄めるのはたぶん業界の暗黙の了解なんだろうけれど、「カンフー萌え~」な人の興味って実はそのコアな部分にこそある。

アクションにワイヤーやら、この場合は主にCGだろうけれど、そういう便利なもの使うのがいけないわけではない。
とくにこの映画は最強の自分同士で戦うわけだからCGなくしてはなし得ない映画と言える。
そこにはそういう他の特殊効果映画には持ち得ない必然性もあるんだから、その表現の動機をもっと大事にしたら、歴史に残ったと思う。
それってやっぱり、「本来不可能であったはずのアクション」という意味の捉え方が、あちらとこちらではおおきくずれてしまってるってこと。

あくまでもちがう世界に住み、本来出会うことの永遠になかったはずの、もう一人の自分。という面が、いい出会いでなかったにせよ、もっと感動的な表現を含んでいても良かったし、その上で相手の拳質をお互いが戦うなかで理解する過程があり、それが丁寧に組み立てられてゆく、といった造りならかなり観てみたい気がする。
かなりマニア映画になるけれど、それをやろう!という基本的考えがあって、それで必要とされるCGを使うなら、それぞれは必然的だろう、ということである。

「ぶっとばすカットはCGでいくんでしょ?」
っていうレベルの会話が聞こえてくる。
それはいただけない。

ジェット・リーはハリウッドで成功した希有なカンフースターだけれど、本当の成功はいまだしていないんじゃないか。
「英雄」が作品としてすぐれている。
ジャッキー・チェンとは素材として違うというところをいまだ完璧に表現しきれていないと思う。
唯一、かつての「少林寺」がそれにあたる。

だれか(マニアな)いいプロデューサーいないのかね~?
これはじめて観た!
空と海と飛行機!
なんだかすごく趣味性だけでできているような作品だと思う。
他の宮崎作品とはぜんぜん違うものと言える。
「エコ」要素ほとんど無し。
それなら思い切ってもっとおとな向けにしてみても良かったと思う。

「豚」って言われてもちょっとぴんとこないんだけど、展開上この「豚」である必然性ってどこにあるのかな?と、おしまいまでよく解らなかった。
コンプレックス的な現実の象徴だろうか?
所詮物語りなんだから全部虚構なわけで、ほんとうはいかすオヤジなんだけど....、ってところがそんなに意味を持っていないと思う。
そうなると、どこにカタルシスをもってきてるんだかちょっと考えないといけないの?って思うけれど、けっこう能天気に楽しめちゃうから、実際そこまでの印象をもってして評価としてもぜんぜんさしつかえないようにも思える。
すなおにゆかいな作品。

この手のレトロな飛行機マニアに言わせるとなかなかマニアックにディテールを作ってあるらしい。
自分はそこまでよくわからないのでなんとも言えないけれど、なんにせよ、あらゆる面でほどよく突っ込みが甘いように感じる。
全体がフラットでよく収まっている感じ。
すごく好印象な感じの作品なんだけどけっこう食い足りないのも事実。

それにしてもかわいいブタだよね。
あいかわらず女の子が出てくる。
大人の女性をメインに据えてあるようにも思ったんだけど、中盤以降はやっぱり女の子がメインとなる。
ん~、なんかどうでもいいけど、ん~、という感じ。
でもやっぱりすごく感じはいい作品なんだよな~。
とするとやっぱりあれだね。
なにを見せたいかってところの志が、やっぱり美しさに向いていて、空とか海とか飛行機とか少女とか、そういう明確な美意識で組み立てているいつもの手法が、やっぱりワンランク上なんだよね。
いい映画。
ドキュメンタリーっぽいリアルさを感じるけれど、わりとファンタジー。
ファンタジーは「伝承の変容」というリアリティに帰結するための重要な要素となっている。

法則に従わない小さな意思の流れが伝承を変えてゆく。
ゆくゆく、かたくなに守ろうとしている伝承が、そもそもの伝承の根源なる力によって変ってしまう。ここらへんがファンタジー。

でも「変化しながらも伝承されてゆくもの」を描いているところが妙にリアリティを感じる。

かたくなな形式の尊重に反発する個人個人も、けっきょくは力を合わせていくことの重要さを理解してゆく。そのきっかけとなるのが、パイケアという名の少女。
首長の家の娘。
パイケアとは、もともと伝説のクジラに乗ってやってきた祖先の男子の名前。
パイケアの父親もその親に反発ぎみで、島を出て自己のアイデンティティを確立しようとがんばっていた。
パイケアの名も望まれず生まれた首長の家の女の子にいたたまれずつけてしまったもの。

伝承の法則はその名前の力によって女子にも同様に働く。
心の目でクジラを幻視する少女のことは、伝統の形を重んじる祖父にはわからない。
海の中でしずかに、ゆっくりと伝承は変容してゆく。
「太陽光のふりそそぐ」という感じの原始の美しさに最も近い島。
せつない表情の少女の表情が印象深い。
おとうさんとそっくりの下がった濃い眉毛がほほえましい。

自然とうまく付き合っていかないと幸せには暮らせない小さな島なんだけど、例のごとく現代文明の余波を受けていて、個人個人では娯楽とか、便利な暮らしを求めてる。
でもおおむね子供たちはむしろピュアな存在として次世代を担える素材として希望が繋がれる。

伝承をむげに否定しない。
きっちり守ってゆく。
そのかわり変容も恐れない。
民族が一つにまとまるための伝承を理解する。
後味がいい。

マンガの「マッドメン」(諸星大二郎著)を思い出した。
あっちのほうが内容がえぐいけれど、伝承との関わりかたをテーマにしているので、似た味はする。
「マッドメン」いいよね~。
神懸かり的な展開と奇跡的な作画のクオリティとテンション。

それと最近「ダヴィンチコード」を読んでみて、いろいろ思うところがあった。
もしかしたら?! と思えるところが宮崎駿作品に多くあてはまるのではないか?
と感じた。
「女性崇拝」的思想。
男が実権をにぎるための伝統や、思想に対するさらに古い「女性崇拝」。
そういう知識にもとづく設定なんか、もしかしてあったりする?と考えたりした。
男性によるヒロイズムを全面に出せない感覚の根源としての女性崇拝的思想。
そういう考えがあったりするのかな~?どうなの?どうなの?
とかいろいろ考えた。
この「クジラの島の少女」ははっきりとはそういう考えに基づいてはいない。
でも現象として、伝統の変化が新しい伝説の創造に繋がっていくから、
男性的な伝統の中に新しく女性的な要素が入って行くまさにその過程。
そんな意味でういういしいというか、太古の楽園で女性的なものが崇拝対象となってゆくはじまりの情景をリアルタイムで見ているような感覚にもなる。
ここのところをちょっと特筆したい気持ち。

宮崎アニメは太古を見つめている。
最近おそらくそこからなにか変化を求めている。
でもなかなかにぬけだせない。
そして伝説を繰り返す。
なんかこれも予告編が大変魅力的に見えた映画で気になっていた。
それで遅れてDVDで見たが、なんかようするにフリーのサンダーバードみたいなヒーローもの映画なんだね。
で、設定とかはあんまり考えないで観てくれって感じで、勝手にお話が進んでいく。

この映画の質感はちょっと作り過ぎでぬめっとした感触はあまり好きになれない。
全編回想シーンっぽい。

この映画のいいところは得体の知れない敵キャラというか、まさしく「ロボ」って感じのメカ。
レトロフューチャーってやつ? 
おおむねレトロ。

レトロなロボの条件とは?
造りが大味なところとブリキのような質感。
ドラム缶をつなげて作りました~的な造形。
ようするにガンダム系のデザインちっくなラインは使用禁止。
スターウォーズはぎりぎり。
あの造形はちょっとゴシック入ってる感じがするから、ちとちがうかな~。
言ってしまうとアールデコっぽく仕上げるとレトロフューチャーっぽくなる。
工業化の波がおしよせてきたばっかりの時代感。
わすれさられた造形。
それが「ロボ」。
マジンガーZ的に言うと「ボスぼろっと」がそれ。
アームの構造はフレキシブルアームか、おおげさな関節構造。
あんまり機能的に理屈っぽくデザインしてはいけない。
あくまでも来るべき未来へのあこがれを形にしなきゃいけないので、
理詰めではいけない。

映画としてはちょっとおまぬけな構造のたいしたことない出来。
レトロなメカだけが見所。
このタイトル!
まえからちょっと気になっていた。
で、観るのわすれていた。

で、衛星でやっていたのをたまたま観ることができた。
そしたら、なかなかよかった。
冷たい近未来の質感がいい。

何がいいかというと、この映画は映画内映画なんだってところ。
なんだかそんな感じ。
「マイノリティ」である予言者たちの観る「映像」がことあるごとに映し出される。いわゆる「額縁の中の額縁」的効果が得られているところが面白い。

映像が映し出されるスクリーンは室内の壁ともグラスともつかない質感に任意に投影されたりして、シンプルな空間に雑味を加える。

そういうアイデアこそ大事で、なにからなにまで超リアルなCGとか巨大なセットとか作りゃいいってもんじゃないと思う。

スピルバーグはそんなバランス感覚をよく知ってるんだと思う。
一枚の絵の完成形をドカーンと見せるのが偉大さの全てではなくて、
時には大胆にフレームで切り取って、さまざまな繋ぎ方で一つの価値を作って行く。
映像っていうのは、基本的にそういうことだと思うから、やっぱり自分はそういうものにセンスを感じる。

「宇宙戦争」とかでなんだかんだ言われてるスピルバーグだけど、ほかの似たようなSF映画とかファンタジー映画がそんなにいいのか?と言えば、そんなにたいしたことないじゃんって思うけど。
手塚治虫先生原作?
むかしの古い映画がもとじゃないの?
そこらへんは詳しく知らないけれど、昔手塚先生がアレンジしたオリジナル作品が原作、ということかなー?

それにしてもこの作品は発表当時はなかなか期待させた作品だったと記憶している。
ただ、うすうす感じてたことは、「絵が古いけれど、だいじょうぶか?」という懸念。
いま(当時)それをすることになにか意義があるのか?といううっすらとした疑問。
観てみて、あるていどそういう感性を裏打ちすることができた。
少し寂しく感じた。

たぶん大御所的なスタッフでやりすぎたんじゃないかな?と勘ぐりいれたくなる。
みなみなさまそれぞれがぱーとぱーとでしかタッチしてないからなのかなんなのか、全体の繋がり感が弱いと思う。
ぎくしゃくしているし、展開は大雑把で雑がゆえ、乱暴ともとれる印象を受ける。
末端肥大な造形のキャラクターはあからさまに現代にそぐわない。
音楽もなにか違うと思う。
ミスマッチをねらっていて、ラストなんかは、そのまま詩的な情景まで高めるつもりがありありと感じられるんだけど、意図だけが空転した感じがする。
この観点からは、背景の絵の質感はあきらかに役不足に感じる。
ひとえにスタッフの緊密性が不足しているからだと言える。
どうしろと言えるわけではないけれど、そうだと思う。

キャラクターへの思い入れの感情が生まれるかどうか?というあたりで時間切れとなってしまう感じ。
では、それまで何が描かれたか?というとその印象が無いのだ。
これは致命的だと思う。

よく見ると背景の美術なんてそれはそれはよく描かれているし、ディテールの密度もそうとうなもので、いたるところ個性的でキレイなんだからなおさら残念に感じた。

具体的に例えば、細かなディテールで重厚感を出したなら、ついでに下層のレイヤーに入って行くどきどき感というか、「あ~、こんなとこまで来ちゃった」感をもっともっと演出するとか。
「あ~イスカンダルまで来ちゃったんだな~...。」って感じを。

あとアンドロイドの女の子はもっと「人に似て人に非ず」の魅力を出さないと、今風に言えば「萌えない」ということになる。
ラスト付近でこの少女型アンドロイドは醜く変容してしまうけれど、その残念感もちょっと足りない。
思い入れにまではまだ遠いから。
たしかにかわいいんだけど、清潔に過ぎるというかなんというか。

ただ、それって、そういうことの基盤となる「ロボと人間の対立」みたいな部分の描き方がぜんぜん足りてないから、やっぱり「なんでそう感じるの?」という疑問になってしまう。
レッド侯の養子の「テロの暴走」も空転する結果となる。

外にこのアンドロイドをおびき出して、出来の悪いロボであることを確かめようとするくだりも、脚本的にはとっても貧弱だと思う。「それだけ?」って感じ。

なにか全編を非常に品よく、そつなく、無難にやろうとした感じがする。
それでよくなる内容の作品もあるとは思うけれど、アニメ作品っていうのは、そんなにもともと高尚なものではありえない。
もともとそんなに長く作るものではないと思う。
長さに対して足りないディテールをテクニックで埋めてゆく。
こんどは内容がおいつかなくなる。
そこから導き出される「高尚さ」へのあこがれでは、観る人は納得しない。
そんな感じ。
スタッフを最高レベルで固めてもそれは変えられないという事実。
プーシキン美術館展のつづき

ゴッホとゴーギャンにはかたるにつくせぬ内容がある。
この二人は行動の規範を心の虚空を見つめることに求めた、という点で共通する。

ゴッホは強く塗り込めることで存在しようと努め、
ゴーギャンは平面という永遠に希望を見いだそうとする。

ゴッホは地に足を付けようと努力しながら、常に周囲から浮いてしまう自分を
あくまでも地表につなぎとめようと必死に描く。
ゴーギャンは望めばそれができたにもかかわらず、自己の存在を周囲に押し付けることはしなかった。
(と思う)

ゴッホはやさしさを与える行為に充足を感じ、ゴーギャンは去ることがやさしさだと主張した。

お互いがどこまでお互いを理解していたか知らない。
けれど、すくなくともゴーギャンのほうからはゴッホが見えていたような気がする。
だからまず応え、やがて去ることを選ぶ。
ゴーギャンはちょっと大人なのだ。
一時生活をともにしたというだけで、いつもセットで扱われるけれど、それってどうなんだろう?

まず、そのクリエイティビティを冷静に見ると、ゴッホにあってゴーギャンに無いと言えるもの。
それは「タッチ」という紋切り型である。

まず「タッチ」とはなにか?ということを考えるにつき、印象派といえば「タッチ」なんだけど、
作家によってその解釈がけっこう異なるってことを詳細に感じなければいけない。
もっとも極端な例がスーラなんかの「点描」。

点描っていうのは、ドットのことで、ゴッホのはタッチ。
これほどまでに違う(笑)。

ついでに言うと、モネとかピサロなんかのタッチも実は点描に近いと思う。
それまでの流麗で様式的で繊細な描き方に対して、自由に気楽にいかにも楽しげに得意げに描いてる喜びが見て取れる。非常に楽天的な幸福感すら感じる。
これは同系色や、補色の配置が、それなりに理にかなっていて、それを外れないということ。

ゴッホのはそういう感じがぜんぜんしない。当然そういう面もあるにはあるが。
絵画を成立させるための対立的な色彩の配置というよりは感情が勝っている感じ。
そうなるとタッチは「点」である必然性を失う。
これは「点」から結果的に「面」へ至る極めてプリミティブなきっかけではないかと感じる。

順序はこうである。

1、タッチの見えない精密な絵画
2、(光学的理屈による)ドットへの分解
3、タッチの開発
4、点から面への移行

もともとタッチなんて習作とかにもあったものだけど、
それを言っちゃうとヴァン・ヘイレンのライトハンド奏法も成り立たない。

「2、ドットへの分解」というのは科学的な理屈っていうだけで、アートでは無い。
「3、タッチの開発」「4、点から面への移行」というのがラディカルなアートと捉える。
なにはともあれ血が通っている。

だからゴッホのタッチは「メタドット」であり、「プレキュービスム」の一派。
だからセザンヌなんかに近い。
当事者になったつもりで考えてみるとわかる。
ドットの開発を目撃した二人は、なにか違和感を感じつつも何か得る所を感じる。
つまり、絵肌に対する「分解」という行為に正当性を与えられることになる。

だからキュービスムへ流れてるゆくその萌芽としては、ドットがあったというわけ。
まずディテールを光学的に微細に分析できた。ということが大きなインパクト。
そこから「分解」という潮流が生まれたとしてもよい。
その大きくて実際は微細な粒子が、しだいにこころの需要に応じて面積を持ち始め、
やがて立体の解析に至るという、しごく順等な発展をとげたっていうわけ。
それまでは描かれる対象について、詳細に「分析」することは自然になされてきた。
けれど、絵そのものの質感を「分解」するという行為は「無し」だった。

そうなると、ゴッホとゴーギャンの比較というよりは、重要なのは、
ゴッホとセザンヌの比較なんじゃないかな?
って思える。
こうやって考えてると、こんな支離滅裂な散文よりも、なにか系図がほしくなってくる。
簡単に教わるおおざっぱな年表なんかではなく、
まじめに取り組めば、インターネットの概念図ばりの系図が出来そうである。
特にいまと一昔まえでは距離の概念が変ってきている。
ただいっしょに住んでいたからって、いつもセットで語られては、現実のイメージをぼやかしてはいまいか?とも思ったりする。

映画「スクールオブロック」で黒板にロックバンドの系図(?)が描かれていたけど、
あれは笑えるとともに、実はけっこう重要な系図だったりする。

つづく。
12/25。
DVD買っちゃった。ショートアニメーション作品。

で、見て。ふ~ん。という感じ。
で、2度目見て、う~ん。
ちょっとしみじみする。
実際泣かなかったけれど、たしかにじんとくる。

「アートアニメ」というよりは、もっともっとピュアなもの。
ごくごく自然な感情をなんの飾り気も無く、極めてシンプルな形で丁寧に小さくまとめたもの。
そんな感じ。

岸辺とはシローではなくて、ようするに「彼岸」のこと。
父が旅だってしまってから父は娘の心の中に住み続けている。
それを絵にしてみせるアニメーション。

彼岸的思想というか、三途の川的発想は世界的に共通するのだろうか?
「岸辺」は現世とあの世を隔てる象徴として描かれているから。

ほんと、作品としてなんてことはないと思う。
でもじんわり心にしみる。
そういうタイプの作品で、このスタイルにこそ価値があるものだと言える。

ただ、よくよく考えてみよう。
この表現のほかになにか有効な表現が同じシンプルさで考えうるだろうか?
そんな唯一無二な感じのするのもまた事実。
言ってることはごくごくありきたりのこと。
でもそのあまりにもありきたりのことを表現するのに、
繊細なアニメーションとシンプルで象徴的な表現が極めて冴えているんだと思う。

モノクロームのインク風な絵の質感も印象的。
なにかびっくりするような衝撃を期待する作品じゃない。
その逆で、もともとあったはずのものをよく思い出させてくれる。
それは、子が常に、いつまでも親を思うということで、
親の死を子が看取るとき、当の親は意外に自分のお父さんやお母さんを思い出しているのかもしれない。
いや実際そんなもんだろうな、と思える。
親孝行しとけ!
ってかんじ。