こんなに有名な映画を自分はまだ観ていなかった。
よくあることだね。

この映画って人形劇から始まるし、「穴」の映像とか「エ~!?」ってくらい安くできてるし、ラストの少女のプールで泳ぐ映像とかなんだか美しいし、すごく絶妙な味のある作品だってことで高ポイント。

おおむね因果応報的な内容なんだけど、同情もできるというか、この作品もある種の不思議なやさしさに包まれているように感じる。
監督の優しさだよこれは。

なんかジョン・マルコビッチが滑稽というか、災難というか、あの風貌で。

めちゃくちゃ映画的な映画。
小手先の陳腐でチープな映像トリックだけど、人形劇が実はけっこう効果的な掴みとして効いてるみたい。
なんだかリアリティの強い人形の顔が生っぽくて怪しさを醸し出していて惹かれる。
これがすごく掴みになってる。

そこからさらにまた別の映像次元、別の意識のレイヤーに連れて行かれる快感。
そこでもまた「安物」の映像見せられて「出たよ~」って感じ。
それもまた快感。

この「佳作」感ってみんなの好きな感触なんだよね。
これあんまり言うこと無し。
ナイス!
12月21日 国際フォーラム ホールC

初めての生教授。
しかもピアノソロだし!

教授は自然体だし、曲は癒し系でいて、かつラディカル。
対面に配置された2台のピアノの上にはキャンドル。
暗い背景にはシンプルなモーショングラフィックス。

教授の曲は有名なものだと多くの場合映像とともにあることが多い。
だからかどうだか、背景のモーショングラフィックスとよくマッチする。
教授のピアノがかっこいいBGMにも感じられる。
刻々と現れ消えてゆく「音」と過ぎ去って往く「形」。
一瞬の出会いと別れがさりげなく無限に繰り返されるような錯覚。
静謐な湖面に、音が形として映るような同一性。
あるものがあるがままに静かに響き合う効果。
さりげないかっこよさの究極奥義。
(手を抜くとこのシンプルさは出ないと思う。計算されている。かといって計算されきってもいない、要するにちょうどよいクオリティコントロール!セザンヌの塗り残しの秘密。)

「ラストエンペラー」とか「戦場のメリークリスマス」とかすごくかっこよかった。
CM用の小品もよいけど、こういう映画用の曲は構成もドラマティックだし、迫力も違う。

あとは聴いたことのない曲もふくめて全部よかった。
もう一台のピアノはコンピュータ制御であらかじめ自身で弾いておいたものを生で再生する仕組み。
これでテンポのいい感じのパターンにのせて弾くってわけ。
ラディカルなサウンド。
自分はイエローマジックオーケストラ世代だから、そういうラディカルさがびんびんきて心地よい。

自分はこんな演奏中しんとしてるタイプのコンサートには初めて行ったけれど、けっこういい。
ロックコンサートなんかと比較して、音楽ってやぱりこういうものなのかな~、ってちょっと考えた。
「アマデウス」なんか観るとコンポーザーと観客が一緒になってにぎやかに騒ぎながらやっていていまどきのいわゆるクラブっぽい感じなのかなともとれるしそれもまた有りっちゃ有りで、
しかしやっぱりピアノはこういう聞き方がいい。
感覚にしみるね。

楽器や表現されるものによってシチュエーションが変化するってことで、
見た目がものの真価では無いって感じ。
表現は幾とおりもあって.....。

あと教授のトークも楽しい!

こんなに自然になにか目標があって、たんたんと作品にしていける人生なんて、すごいな、って思う。
なにか奇をてらう感じがぜんぜん無く、自分の感覚にストレートにやってる感じがいい。
ひとことでいって自然。
自然ってのはかくも自然なんだな~ってことにあらためて気づかされる。
自然が一番だよ。
癒しとかなんとかいうものの基盤は自然。

アートも本来は自然が基盤で、それは日々目に入る様々な色や形とは著しく違う事実に目覚める。
クリエイティブと称して平面上の法則性に従うだけの異常性。
ありそうでいて実はからっぽの中身。
そんなものに囲まれた日常。
だからこそ、ごく自然にやれてる人がすごく貴重。
何かを指して賞賛したくてもその何かが非常に例えにくいはがゆさ。
装飾は実質的に装飾としてのみあり、根本を侵さず。
その溶け合う美しさはあまりにもあるがままであるがゆえ、
空気のありがたみへの感謝にも似てそこに「在る」もの。

ライブでその価値と時間を共有できる幸福。
下世話な話、6,800円ではチケットもすごく安く感じてさらに幸福。

クリスマスのイブイブイブイブ(!)にとってもいいもの観た!
人が何に惹かれるのか?
っていう基本的なことろの秘密とか。
なんかそういうものに意識が向いていないとだめなんだな。

感謝!
主に印象派絵画を集めてある。
印象派はなにかの一派というよりは絵画芸術が「官から民へ」ひきつがれたまさにその移り変わりの前後の現象として捉える必要がある。
その兆候を示す偉大な先輩として自分はゴヤとかあのへんを認識しているけれど、おおむね巨匠は「官」の仕事をしているふりして自分の好きな絵の描けただけ時代を常に超えていた。

そういう意味でみるとよく言われるように印象派は素人の絵画サークル的な側面がある。
その中でとりわけ傑出していたのが今日に名声を得ている作家たちだと言える。
だから当時から売れていた人とまったく売れていなかった人がいたりということになるけれど、そもそも官の絵描きだと工房に入るのが前提だから売れるとか売れないとかいう次元の話ではなくなってくる。
職人として達者かどうか。

印象派の時代になって王侯貴族が零落して巨大なパトロンが居なくなり、職人である必要もなくなり、ではいったいどうしようか?という状況への結論としての金持ちのひまつぶし絵画。
きれいなことはいろいろ言えるだろうし、実際そういう文化の享受が民衆レベルに落ちてきて、っていう事情はあるだろうけれど、やむにやまれぬ事情というものは常にものごとの最優先であることに変りは無い。

たぶん本当なら印象派を正しく理解しようとした場合、その対極にあったアカデミズムの組織について実に詳細に知る必要も自然と生じるはず。
その知識なくしてきっちりと印象派を理解することは出来ないはず。
印象派の対極に位置するもの、極端に言えばその敵にあたる勢力を理解する。
なにゆえ印象派がラディカルでその敵に対してどのような脅威となったかを知ること。
だって世の中は戦いでしょ?
絵画が単に美しかった、ってだけでは一つの時代は築けない。
芸術だって戦って勝ち残ったものが次の歴史となってゆく。
そこには必ず古い巨大な勢力があったはず。
逆に言えばそういう図式は今にもあてはまり、それを知ることは、自分がその地図のどのあたりを歩いているのか?
といった指針にもなると思う。

そういう意識で、激動だったであろう印象派の時代を観ることのほうこそ有意義。
歴史がなにかを記憶する場合、そこで起こった激動の激しさのみを記憶していることはままあると思う。
「出雲の国譲り」とか、いかに当時の権力がゆがめた虚構とは言え、そこにはやっぱりなにか大きな出来事の記憶がある。
いまの印象派人気も単に歴史的に近いからというだけじゃなくて、その当時の「激動の記憶」こそが変化して語り継がれているせいともとれる。
それでなければ、あんなにぺたぺたぬりたくったような絵画群がそんなに人気を維持している説明がつかないではないか!

、ってなもんもんとした意識を胸に抱き、日本のおばさまがたにも大人気な印象派を観てみよう。

まずなんといってもモネだろう。
モネは畑とか池とかそんなジミなものをひたすらぺたぺたぺたぺたと描いていたヒマな人。
逆に言えばそんなに単純なことを気長にやれるそのモチベーションの裏にはいったいどんな高尚な意識が潜んでいるのか?
世のおばさまがたにはわかるまい。
おれにもわかんねー。
だから好きじゃない。

さて一見してモネ周辺にはまあ似たような描き方の作家がけっこう居る。
カミーユ・ピサロとかは有名で、逆に「これぞ印象派!」的な決定版的画風だと言える。
印象派入門。
それがカミーユ・ピサロだと言える。
まちがってもゴッホ、セザンヌあたりから入門してはいけない。

あと自分的にちょっと理解しがたいのがルノワール。
1度入ったことがあり、その古風な高度経済成長風なたたずまいにノスタルジックすら感じたあのルノワール。
、ではなくあのふとっちょな女性のはだかの絵が多いあのじじい。
痩せたじじいのモチベーションとしてはよくあることかもしれない。
ゆえに普遍的な愛でもあるんだろうか?
技術的にどうこうって、言う絵でもないでしょ?
ゆえに根源的なこと言えばやっぱり痩せにはデブ、ってことでしょ?
いいじゃんそれで。
でもね、デッサン巧いと思うよ、構図も巧いと思う。
それ以上か?と言われると、自分にはよくわからない、というだけの話。
すきなもの描いてたんだから幸せだよ。

さてここでいきなりセザンヌに行くけれど、セザンヌの絵は比較論がわかりやすい。
ざっくりしたタッチ、塗り残し、などに無意識的な匂いを感じ取る。
たとえばよく出来た印象派絵画を隣にもってくる。
点描のスーラでもいいし、カミーユ・ピサロでもいいし。
で比べてみるとその差が歴然と理解される。
ロックンロールがロックへと変化していったようなグラデーションすら感じられる。
ジミヘン以前とそれ以降、くらいの差があるのだ。
セザンヌはセザンヌだけではとても成立しえないと思う。
こういった価値観が独り立ちするのはやっぱりピカソからだと言える。
ゆえにその祖先ということで、べつにキュービスムがどうとかあまりにも直接的に言わなくてもいいと思う。
ただ「ちがった個性」というはなし。
非常にパーソナルな人間性の問題だったように感じる。
そこに先に「無意識的」と行った匂いを感じる。
ゆえにシュールレアリスムも含む。
塗り残しとは、意識され得ない部分を画面に許容するスタンスで、それを画面構成の要素として取り入れてもいる。
あるいみ本当にパーソナルな価値をかなりの完成度で表現し得た一番乗りの画家のような気がする。
ただ、いかんせんとんがりすぎていたんだな当時としては。
隠遁者のようになってしまったと何かで読んだ記憶がある。

さてセザンヌには深入りしてしまうだけの面白さがあるけれど、そろそろゴッホとゴーギャン問題に移る。
というか、つづく!
ぼくはジミな映画がけっこうすきで、
車も大好きで、当然きれいなおねいさんも大好きだ!
というなら観てもいい。

自分は映画が実際どういうふうに作られるのかその初期段階の話の流れとかぜんぜん知らないけれど、
この映画はリアリティとくだらなさの同居した不思議な味がする。
脚本があのリュック・ベッソンで、監督は車のCMなんかのベテランの人らしい。
いろいろな思惑のありげな感じはする。
なにを言わんとしているかは推して知るべし。

車へのこだわりはけっこういいんじゃないかなー。
自分はプレステのGTシリーズは「3」からはまっていて、それでドライビングに目覚めたくらい好き。
そこでしかみたことのないような車Pagani Zondaっていうスーパーカーが出てるよこの映画。
けっこうレア。

主人公ミシェル・ヴァイヨンはかなり超人的な究極とも言えるくらいのレーシングドライバー。
目隠しでコーナーまでの距離の読み上げだけで例のPagani Zondaで全開にしてコースを周回できるくらいすごい人。
ここもわりとばかばかしいシーンなんだけど、なかなかしびれる。

前半のラリーのシーンとかもかなりリアリティのある撮り方でいいかんじいいかんじ。

あと「おねいさん」っていうのは、汚い手を使ってくる敵チームのオーナー。
この目と口のでかいモデルばりのおねいさんが手口がきたなくて最高。
ここにかわいげを視るか、単なる憎たらしさを視るかが男の器の大小に関わる。
(にしてもキレイすぎるか...)
当然フランス人はそういうこと考えない。
最後まで悪役の人そのものはそんなに責めたりもしないので、ある意味、かなりのスポーツマンシップを発揮してる映画。

おれ「TAXI」なんかよりこっちが好き。
リアリティな部分で手腕を発揮した監督がいい人なんだよこれ。
全体がそんな「いい人」感がするもん。
「TAXI」はなにかコメントするほどの映画じゃない。
子供むけだよねあれ。
「臥虎蔵龍」、「英雄」などにつづくなんだかリッチな雰囲気のするカンフー映画の流れ。
チャン・ツィイーはなにかと重宝に使われてる気がする。
もともとダンスの人なんだっけ?
アクションめちゃめちゃうまいってのもあるけれど、
それよりもたぶん清楚さとエロティックさが同居してる雰囲気でこうなるんだと思う。
「SAYURI」とかまさにきっとそういうことだと思う。
「MUSA(武士)」にも出てるね。
もう出まくり。

「臥虎蔵龍」のテーマ性はすごく好み。
そもそも武術家とは本当はすべからく「臥虎蔵龍」。
なにゆえ「臥虎蔵龍」か?という部分が重層をなすディテールに宿るもの。
しかし映画の造りはどうもぴんとこなかった。
「臥虎蔵龍」たるフィジカルもなってないように見えたから。
それを映像テクニックだけで描けるとかんちがいして作った映画。
エフェクトはいまだかつてない美しさで「詩」のレベルまで高めた功績はすごいけれど、
飛天のような表現はそれまでのあまたのワイヤーカンフー映画の蓄積があってこそ。
ただ一枚世代を飛び抜けたのは事実。
嫌いじゃない。

「英雄」は実はジミな(しぶい)内容の映画でこっちのほうが「詩」に近い。
内容とフィジカルがここにきて一致した。
このキャスティングに「臥虎蔵龍」の不満点への製作側としての回答が見て取れる。
ストーリーに対するエフェクトの使い方が良く、ばっちりはまってる。
時代感と衣装の色別けもいい。
ストーリーを際立たせるための極端な色分けなので、映像的。
これなら小説よりも効果のある映像と言うことが少なくともできる。
観念の中で決闘するシーン。
罠をしかけながら皇帝に近づいたジェット・リーと皇帝の間のロウソク群が「殺気」でゆらめくところ。
最後ジェット・リーに向かって集中する無数の矢が城門にささるCG。など。
すばらしい。
これは実は真「臥虎蔵龍」と言える。(監督ちがうけど)
ここで頂点である。

「LOVERS」はどうか?というとこれも一編の漢詩を映像にしようとした趣きがびんびんつたわる。
いいかわるいか?で言えば「悪く無い」(笑)。
よくもわるくも前2作ほどがつ~んとくるものは無い。
金城武はなんかやっぱりかっこいいな~、って感じかな~。

このDVDは日本語版でみると、敵役、というかもうひとりの男の声がシャアの声で、ストーリー的に観て金城武がアムロ、チャン・ツィイーがララアの立場に符号するので、観てておのれのドメスティックさにあきれる。
このもうひとりの男は嫉妬して二人の間に割って入る構図なので、まさにあのファーストガンダムの名場面といっしょ。シャアの声にしちゃったらだめだよここ、想像しちゃう。意図有りなんだろうな。
まあ声そのものはかっこよくて、グッドなんだけどね。
ちょっとこころに引っかかったので、ここに記す。

反体制組織がなんだかすごい組織で、こんな組織からはとても駆け落ちできそうにはないんだけど、もとより命は捨てるつもりかこの二人。
逃げ切ろうとするカムイ伝のがまだ人間くさい。
そういう組織の締め付けのディテールはほんとうは重要なんだけど、それあんまりがちがちにやりすぎるとこんどはそもそも物語が存在しえなくなるので、そういうリアリティは求めてはいけないものだと言える。

そういう意味では圧政の過酷な時代、霧の夜に視る夢。
そこがこの映画、ポエムたるゆえん。
これはむつかしい映画だね。
すくなくとも自分にとってはちょっと測りかねる内容。

なりゆきだけを肯定してゆくしかないストーリー。
人種問題って日本人にはちょっと感覚として伝わりにくい。
それが差別側の「無感覚」として伝わる深い闇を描いた映画。

あるシーンで。
ハル・ベリーが男にクルマからおりかけて「なぜ助けたか?」を聴くくだり。
おとこが自分の行動を客観的に話す様子があるけれど、あの感じがなんだかすべてを集約していそうな気がした。

この男はおしまいまですべての実感からやや離れているようにも見える。
なにか手探りで、いろいろな関係性をあらためて問い直して行くような感じ。
目前の霧の存在に気付きはじめているけれど、どうすることも出来ない。
結果的になにかが解決したわけでもなさそうだし。
さいごに「おれたちうまくいくさ」というセリフ。
いやたしかにそうかもしれない。
とも思うけど...。

大人として覚醒しかけた二人の様子?
自分たちの周囲の無自覚な環境が少しづつ消えてゆく。
そうして、いいのかわるいのか、新たな関係性に覚醒しかけた感じで終わる。
これからどうなってゆくの?
というふうな終わらせ方。
ようするに答えの決められない内容をあるがままに出してみせられる。
社会問題に対する現時点でのスタンスを切り取るというような感じ。
日本人として何を読み取れるか?ではないかな、見所は。
だって、そういう環境にないもんだから、しかたないって。

白人って、どうなんだろう?って感じる。
被害者側にならないと無感覚?
無感覚なところになにかを感じさせようとすることの難しさもあるように思う。
なにも無いと思っていたとこに実はいろいろなものが存在したことにゆっくりと気がついてゆく感じ。

差別意識が強く、それが抜けない父親を介護施設にあづけてしまうけれど、これだって、本当はかなり心痛むことでもある。
けれど、男をして「愛していない」と言わしめるのは、実際、この男も何かの被害者ではないか?と思わせるくだりだろうと感じる。
「無感覚」という名の公害。
そうせざるをえない、という湿った感情よりも、そうすることが必要だ、という合理性。
そうして一つづつ自分たちの環境をゆっくりと整えてゆく。
いらないと判断したものはきっぱり捨てながら、形を整えてゆく。
削り取ることで完成に近づく彫刻のような、ギリシャやローマ的造形。
「家族」という最小単位でのささやかな楽園への意思が静かにわき上がるのが感じ取れる。
さまざまなものを奪われ、さらに捨ててきてなお問題が厚くおおいかぶさってはいるけれど、先々のそういうことすらも視野に入れたうえでのカラダの底からわきあがる小さな炎が最後かすかに燃えたような気もする。

たとえば過酷な状態を俯瞰する概念である「諦観」という概念すら無い。
「諦観」する暇も無く、唯一、現状を肯定することで生きてゆく。
ゆっくりとなめらかに、惰性で前に進み続ける巨大な鉄の機関車。
進む意味などはじめから無かっただけに、あえて止める理由も見つからない。
運転手の居ない列車みたい。

少なくともそう感じて作ってる人たちも居るのも現状かなー。
う~ん、クリエイティブだね~。
秘伝書読んで強くなれたら世話ないね。
そんなことほんとに「ありえね~!」って感じ。
でも秘伝書には実際真実の方法が書いてある。
武術がタイミングとか感覚を練習の過程で重視するのは当たり前だけど、練習の半分は実は脳内で行われるイメージの分野であることもまた事実。
これは事前にしておくイメージトレーニングといういわば予習がけっこう大事で、実際の対人練習はこれをリアルで裏付ける効果を持つ。
あとは始終そういうことをあれこれ考えていると、微妙な力加減とか微妙な角度の差とか、ポジショニングで大きく形勢が変るとか、そういうことに気がついたりするもんだと思う。
秘伝書はそういう考えに至るガイドラインだと思えばいい。
稚拙な文書と稚拙なイラストでいい味出して書かれている秘伝書からどれだけのことを読み出せるかはそれを学ぶ個人の資質によるというわけ。
犬猫に絵本見せても意味ないでしょ。
だから秘伝書だけでも強くなれるって寸法。おわかり?
ヒントは身体構造だと思う。
自分がいて相手がいる場合、そういう身体構造同士がどのような状態になりうるか。
それをじっくりイメージしながら、考えることだけでも十分強くなれる。
少なくともそれをしない人よりはカラダも反応しやすい。
練習とは型によってほぼ無意識的反射のレベルまで身体をつくることに意味がある。
そこまでやらないと形をおぼえただけでおわると思う。
ほんとに毎日やるべきだと思う。
それも惰性でなくちゃんとかんがえながら、なおかつ自然にできるようになるまで。

香港映画はこれがばっちりできてるからすごいと思う。
みんなそんな功夫積んできた人ばかりだから。
もうどんな技出されても対応できる。
自然とカラダが反応するレベル。
だから表現に風格がある。
そこが付け焼き刃との明確な違い。

そういうこと全部承知の夢ものがたり。
あこがれを熱く語り合うような感じのマニアックな意識の共有。
めちゃくちゃたのしんで作ってるんだろうなきっと。
古いアクションスターのひとたちも、チャウ・シンチーの出すアイデアにはきっとすぐ共感できたことと思う。
「おぉ、それおもしろいね~!」なんてね。
けっきょくそういうあこがれってみんな同じようなイメージを共有してるだろうから。
そういう時代を超越した夢の詰まった映画なんじゃないの?
エルビスがブルースを。
ジミがロックを。
エミネムがラップを。
フランス人がサルサを!
そんな味のする作品。

この映画、のっけからやってくれる。
ピアノコンテストっぽい会場でクラッシック弾いてる途中で、いきなりサルサの情熱的な演奏に変えてしまう主人公。
混乱とブーイングにつつまれる会場。
これで未来は台無し。
サルサに生きる覚悟を決める。
この出だしはいい!
もう最高~!

ラストがこれまためちゃめちゃかっこいい!
ピアノ弾く姿を遠くから観ている感じ。
その弾く姿がまた胸ときめくかっこよさだね~。
すごく観たあといい感じになれる映画。
「かっこよさ」をわかってる!さすがここらへんがフランス的かな。

なにかにつけサルサとラテン音楽をやってる。
カンフー映画におけるカンフーシーンばりにとにかくサルサ見せつけられて妬ける。
カンフー映画がそうであるように、お話がどうとかこまかいことはもういい。
とにかくサルサとラテンミュージックだよ。
それを満喫しながら、人生とは?とか、なんだかいろいろあってね。
まあ軽快に観てみよう!

とにかくこの主人公がイケメンでね。
フランス人としてもイケメンなんだけど、キューバ人に変装してからが、これがまたオスのフェロモンばりばりに見えるから不思議。
ヨンさまよりもこっちだろうな。
こっちがいいって。こっちが自然だよ。自然。
やっぱりあれかな、黒くしてオイリーな質感にしてるからかな?
もともといい顔立ちがディテールアップされてさらに精悍に見えてしまう。
いろいろ参考になるな~。

女性の描きかたもいちいちセクシーでいいね!
さっすがフランス映画。しかもラテン入ってるしね。
映画の構造的にも混血の強さが自然と出る。

ただ、なにかをとことんやるってのはなかなか難しいことだと改めて思う。
相手の国の文化をすなおに認める能力って、もしかしたら、自国の文化をはっきり認識するところから芽生えるんじゃないかとも思う。
この国は流行廃りサイクル激しいからそのサイクルに乗ってないと「古くさい」となるけれど、それはもう目線がいっちゃってるから、なかなかむつかしいとは思う。
ITなんて文化じゃないよ。
だれかに都合のいいだけの理論だよ。
なんだかしらないけれど、ジャケがいかすイラストで、なによりも「千葉」という意図的なネーミングに親近感有り。
茨城県民のガラスのアイデンティティと符号する。
そして購入。

なんだかチープなテクノ調。へろへろな歌声。
なんだ~失敗。

人がなにかにつけ「失敗」と感じるとき。
そもそもいったい何を期待していたのか?ということについては案外意識されないこともままある。
音に求める、「千葉」とは何か?といったところか?

千葉といえば、おとなりの茨城から見ると単純に「ディズニーランドのある県」「幕張メッセ」である。
あとはそのへん一帯を海岸にそってよこぎる湾岸道路。
あとはだって、ちゅーこ車屋さんが異様に多い印象と、畑とそこに舞う赤い砂塵と...。
なんか千葉から茨城へ帰るみちみち、そんな印象しか得られない。

実は房総半島は茨城県民にとっては近くて遠い未開のエリアだったりする。
とくに用も無いし。養老の滝くらいかな。
もっと奥地へ足を踏み込ませる理由が無い。
つげ義春のマンガ的ななんかうらぶれたさみしい印象が房総にはわだかまる。
まあ、茨城北部なんてそんな話題にものぼらないと思うけど。

ひとりぼっちで暇な休日さまようにはいいかもしれない。
港町の風情とか、ひとりぼっちで味わうのもまたおつなもの(?)。

そんな千葉。(どんな千葉だよ!)

でも千葉も茨城もヤンキーで有名でもあるらしい。
らしい、なんていうのは、自分はそういう世界のことはまったく知らないから。
ヤンキーといっても暴走族なんだろうか?
おのずと絵がうかぶけど、茨城も県南の常磐線沿線からちょっとはずれるとろくな娯楽も無く、中学生、高校生はのきなみ部活かヤンキーか?ということになるらしい。
千葉も似たりよったりかな?

それで、いろいろ走りやすそうな道を夜中ぶっ飛ばすんだろうな。
気持ちはわかる、なんて人が言うのを聞いたりもする。
真夜中、なかなか変ってくれない信号待ちで、まわりには車一台も無く、交差点を街灯が青白く浮かび上がらせていたりして。
やっぱり昼間とはぜんぜん違う顔の交差点。
しかたなく歩行者用の押しボタン押しにいったりとか。

最近車が好きになって、多少乗り方考えて運転するようになるとなるほど、やっぱり気持ちはわかる。
ファッションセンスまでは理解できないけれど、そんな自分の言うセンスもまたたいしたことないのは棚にあげる。
そんな茨城県民。

この千葉レーダのCDも買って理解しようとして何回かトライしたけれど、そのたび失望してた。
それはいまにして思うと音(曲)になにかを求めすぎていたからかもしれない。
、というのも、ポップなんて歌詞ありきで、曲はおまけみたいな場合も多い。その逆もまたありき。
またグリコのおまけがおまけだけで存在しえないように、そのキャラメルたる部分に目をむけること無ければ、その価値などはじめからわかるはずも無し。

このCDはまず歌詞。
歌詞に気がつくとなかなか味な歌詞。
「うつしよは夢」という所に全部集約される気がした。
やっぱ湾岸と峠だね。
運転席から見渡せる風景、車をとりまく風景、いい感じにスケッチされてる。
もちろんそんな歌詞ばかりじゃないけれど、その比重の重さはなんとなく伝わる。
車に乗ってる時間の人生における比重。
アクセル踏んでる時間の長さに比例するカタルシスと危うさ。
そんな相反する要素が車という機械にはあって、またそこに惹かれる不思議さ。

車のることってそんなに理屈ではなくて、気分の要素が強いと思う。
あれこれ考えて乗るもよし、とんちんかんなパーツつけるもよし。
結果、その共存した時間のおくゆかしさはたいして違わないと思うから。

詩の歌詞って、まあいろいろあるとは思うけど、だいたい同じようなこと言ってるのかな?
恋とかのテーマが多いのかな?
でもたとえば、それを直接テーマとしてないところのおくゆかしさってあると思うんだよね。
たとえばクルマ。
クルマを描いて、そのリアリティの中に恋のようなものが見え隠れしていればそれですべてオッケイなわけでしょ。

みんなストイックにやってるふりして実はミーハー。
そもそもクルマってもの自体がミーハー。
それになにかが付随してくるだけのはなし。
どっちがおまけでどっちがキャラメルか?
そんなこと考えるのはナンセンスだってこと。

極論すれば。
多くの場合、
湾岸をながすときは女性が、
峠を攻めるときは野郎が、ナビシートに座ってたらそれが人生の充実というもので、クルマって時にひとりぼっちの場合でも完全に孤独な時間をも提供してくれる、そんなすぐれものだと言うこともできる。
これはたまたま購入して意外にナイスなCDだったというもので、自分的には相当お気に入りなもの。
同名のグループがあって、そちらは有名な曲のカバーでおしゃれなアレンジがされていてそれもまたナイス。

こちらのMRABLE TONEは女性ボーカルのロックバンドスタイルで、曲がどれもこれもキャッチーでかっこいくてなおかつボーカルの声、歌い方ともに自分好みでかなりいい。
曲調がニュートラルというか、ある意味地味なんだと言えるけれど、コンディションはかなりいいと思う。
すごく地味にいいんだなこれが。
ごくごく普通にちょっと古めな感じ(90年代)なポップロックというか、とにかくあのへんの良好なフォロワーな感じで、無印良品でいいもの見つけた!ってなことかもしれず、かといって音楽としての実用性としては実際自分をかなり満たすものであった事実。
自分はそんなにヘビーであったり先端であったりとかいうことには頓着してなくて、ある種こなれた価値観を共有するもののなかから比較的良好なコンディションのものがみつかった時に、けっこううれしくなっちゃうという質。
だからこのての品質はすごくうってつけでこれだけあればだいたい足りてしまう。
あとはまた違うジャンルで隙間を埋めていければそれでおなかいっぱいになれる。

このジャンルではまずレベッカありきだろうと思う。
その切なさへのテンションやらシャープネスさがこころに刺さればほぼオッケイ。
そこでレベッカはちょっとノッコのキャラクターがかなり強くて、そこが好き嫌いあったりすると思う。
けど、このMARBLE TONEはそこまでのキャラクターは無い。
そういうフラットさ、曲は器用に刻まれたレリーフのように一定の主張でバンドのアイデンティティを物語る。
そのスタンスを自分は愛せるというだけのこと。

ロック的な趣向にはまる点といえばやぱり「空間」だと思う。
なにもギンギンにリフや歌詞が詰め込まれていなくていいから、「間」があって、バーンと鳴らした楽器、歌声なんかが余韻をもっていてくれるといいし、空間とは一定の距離感を伴うから、そこにはなにかが存在するわけで、それが有と無のいちばんシンプルでおっつけがましくない表現であろうとも思うから。
ヘタなロックって「野郎」な雰囲気しかしなくて、ぜんぜん色気のないやつね。
あとは一曲でも空間表現できるレパートリーもっているなら、それは信用に足ると言える。
それならば多くの場合、多少いそがしいパッセージの行間にもちゃんとドラマが存在しているものだから。

このMARBLE TONE、いったいどのような経緯で結成されたバンドだろう?
そしてどんな感じで解散していったのだろう?
と想像してしまう。
歌声からわかることはそんなに多くないけれど、なにか歌詞を追ってる感じがしなくもない。
でも自分はそこにも否定的な立場は採らない。
そういう仕事にある一定の価値にもまたロックが存在しているからだ。
ロックとは「仏」のようなもので、あらゆる隙間なんかに存在していて、つねに身近なものだから。
そこに人とか状況とか同時になにか求めあった場合、必ず同時にロックが存在し、中間のつなぎのように作用し、一定の価値を生む。
なにがロックか?というよりもロックとはそういう存在なんだ。
最近はやっとローリングストーンズを自分の中で「これはロックだ!」と認識できてきた。
(ビジュアルと一対で評価の対象になりうるグループだと思う)
遅い。確かに遅いけれど、それでいい。
ビートルズはロック?
ロックという人が大半ならポップという人も多い。
ではどの曲がロックでどの曲がポップか?
厳密には言えない。
ではロックとはどこに存在するのか?ということをもっといろいろ感じてみてはいかがか?