ノヴェラを知っていますか...?
このアルバムはノヴェラの非常におくゆかしき部分の凝縮されたお得版だと思います。
必聴は「マジカル・アクション!!」と「アイム・ダンディ」これにつきます。
ぶっ飛びの歌詞、切れのよすぎるロックサウンド。 良すぎるって....。過ぎたるは及ばざるがごとし。
ちょっとカルチャーショックなくらいにいま現在己の聞いている音楽に疑問を感じるのを禁じ得なくなる。
まさにショック!
やばい。まいやひ~どころのさわぎじゃないんだこっちの方面は。
こっちもぜんぜん負けてない!
その行為、立ち居振る舞い身のこなし、それにしたってこのロック!というかひらがなで書く「ろっく」!

あとはノヴェラっていっちょまえに第1期から第3期まであるようで、メンバーが変ってる。
特に第3期目はもうヤバいくらいに変ってる。
もっともそれまでのボーカルの声もすごかったんだけど、3期めに変ったボーカルは、なんだか河村隆一みたい!?
あの河村隆一感をもっとはげしく、強力にした感じ。
それはもうやばいくらいに...。

だいたいもうこれくらいで普通の人はおなかいっぱいなはず。
通常のノヴェラの曲にまじってこれら絢爛豪華できらびやかなナンバーがいつでも聞けるなんて!
すばらしすぎる!!

ちなみにNOVELAっていうのは四人囃子なんかとならぶ、日本を代表するプログレバンドでした。
けっこうファンタジー系ののりでRPGっぽい歌詞とか。
むかしチャンピオンのマンガで「狂四郎狂四郎」(?だったっけ?)ってのにプログレネタがけっこう出てて、そもそもノヴェラってそれで知ったというこのふがいなさ。
四人囃子はなんか普通で歌詞におもしろみのかけらも無いので、サウンドはともかく印象に残りにくいんでしょう。
「一触即発」かっこいいけどね。
もともとジェッフベックもジミーペイジもあのあたりのひとって「ロカビリー」というジャンルが好きみたい。
ジミーペイジも「トレインケプトアローリン」というロカビリーの曲の解釈をその人の音楽性の指標としていたとのこと。

ジェフベックのこのアルバムはもう100パーセントロカビリーであって、その演奏にいつものあの研ぎすまされたレアなアイテム感を求めてはいけない。
なんだか別の人ですか?ってくらいにロカビリーというジャンルのギター奏者として徹している。

いや実はここんところがジェフベックという人の性質をよく物語っていると自分は思う。
なんでも器用にやっちゃう人ね、ということではなく、ここはことわざ「郷に入っては郷に従え」だと言える。
それができるとっても柔らかな人なんだよジェフベックって。
つまり、一見気難しそうで、その実それってそういう他者を正確に認めようとする態度からくるものなんだと思う。
だからほんとうはまったく正反対で、非常にひとなつっこい人なんだと思う。

実際通常の自分の曲にもその態度は現れている。
キーボードとはげしくかけあうような部分では、ほんとに曲のために自分が存在している、とでもいわんばかりに、相手のキーボードの音との親和性を求めて結果として曲をもっとも大切にしている自分がいる、といった感じ。
自分だけ突出しない。むしろ流れにいかに同化するか?その瞬間そういうことを熱望しているような印象がある。

このアルバム聞いて、ほんとうは期待はずれだった(笑)。
だって最初は「ジェフベック流のロカビリーか~、かっちょいいんだろうな~」とか思ってたから。
それが間違いなんだなすべからく。
そうではなく、「ロカビリーに献身的なジェフベックという一人のギタリスト」がそこに居たわけ。
これって実はなんとも感動的じゃないかな。
自分は感動する。

それで、このアルバムはいわゆるそういう使い道。
ほんとうにロカビリーのアルバムとして純粋にロカビリーを楽しんでもらえる一枚。
そこにジェフベックの存在は無い。
ただ、知っていればいい。
そこにジェフベックという一人のロカビリーギタリストが居たことを。

そしてこのアルバムはドライブにはぴったりだ。
季節はできれば夏。
暑いさかり。
さらにできればフルオープンかタルガトップ。
外気をまきこんで、山道なり、海沿いなり、壮快にドライブできる。
ちまちまとりつくろった最近のJPOPなんかかけないで、これかけろこれ!
最高にごきげんな雰囲気を満喫できることうけあい。
アメ車に合うよ。
やっぱり強い男はかっこいい!
男は強くなくっちゃ~だめ!
男、それはサムライ!
日本に於いては、いいわるいじゃなくて基本的にSAMURAI!!
徳川300年の安定した治世の間にSAMURAIは変容して「お役人さま」と民衆からよばれるようになる。
戦国とはそれ以前のSAMURAIが「男」であった時代。
そういう感じ。
いまはSAMURAIと言えばトムクルーズか渡辺謙くらいかな~。
あとはみんなヤンキーかオタッキーか秋葉系。(言いすぎた...)

SAMURAIを分析して動きとかそういうものを研究している人もいるけれど、それって実際なんかちがうと思う。SAMURAIのいいとろだけを抽出するなんてほんとうは出来っこ無いはず。
だから言ったのさ、よくもわるくも本来男はSAMURAIでなくっちゃ。
技術論だけじゃない部分。
気持ちとか構えの問題だと思うな。

このしんちゃん作品だと、ある対比がテーマ。
それは「武士の価値観」と「現代の家族の価値観」で、それぞれしょってたつところが違うけれど、タイムスリップすることで、それぞれの価値観が交錯しお互いが鏡となり、それぞれのかっこよさを映し出す。

、とまあ、その感じ方自体がきわめて現代的ではあるんだけど、想像の限界のなかで、価値観を対決させることは悪くない。リアルではなく、シミュレーションだから。

合わせて勢いで古い角川映画「戦国自衛隊」も観てしまった。
いままで部分しか観ておらず、はじめて全編観た。
ちょっとひいてしまった。
まあ、たしかに有りなんだけど、なんだかな~という感想。
やっぱり時代を感じてしまうんだろうか?

ほんの二十何年?
たったそれだけで価値観とはこんなに変る。
なにがどう変ったかというよりも、単純に異質に見えてしまう質感というものは絶対的にある。
「戦国自衛隊」はなんかベトナム戦争コンプレックスみたいな、アメリカコンプレックスみたいな印象を受ける。それでわざわざ過去の日本へ設定を移してみて、かつての内戦にあけくれていた自国を体験させられる。
「うちの国も昔はこんなにやってたんだぞ~、すごいだろ!?」みたいな。
いってみれば自衛隊の一個小隊が実戦の最前線部隊にとつぜん体験入隊させられたような状況を作る。
べつにベトナム派兵でも同じだと思う。
そういうことをあるていど切実なコンプレックスとして捉えていた当時と今の感覚とですら、こんなに隔たりがあるんだな~、って感慨深い。

とにかくSAMURAIを観るということは、自分にとって何を考えさせられている時間なのか?
ってことでいいと思う。
そのテーマが男一人一人の心の中にあるはず。
そういうテーマ性が芽生えること。
それすらもなくなった場合、日本はやばいよ。
そんな気もした。
天海祐希ということで、深夜テレビでやっていてついついおしまいまで見てしまい、夜が白々と明けてしまった。
R-15指定っていうけれど、どういう基準なんだろう?
いわゆる憑き物筋といって、霊媒的な素質を代々受け継ぐ家系のはなしで、なにやら雰囲気が淫媚な感じ。
天海祐希だしな~、ということでついつい...。
しっかし天海祐希はキレイだよね~。

でも差別問題は難しいね。
それが生まれた背景っていうのがあると思うんだけど、カムイ伝なんかはそういう内容のことが克明に描かれていてわかりやすい。起源についてはほとんど触れられていないけど。
それについては多くの本があるのでそういうものでもっと勉強すべきだと思う。
ただ、この映画でいう憑き物筋というのはちょっと特殊で、身分差別というより、一般の民衆が特別な存在を忌み嫌うというような感じだと思う。
狗神筋ということで、狗神を使役してなにかを予言してみたり、災いをもたらしたりできるとされる。
ある種、巫女の役割も持つ。卑弥呼が遠い祖先なんだよね。
裏返せば、民衆のそういうものへの信仰心が厚いということとも言える。
そもそも原始的な精霊を崇拝するようなベースからきているんじゃないかな。
そんな山深い地方に残る差別問題の話。

ホラーというよりは差別問題なんだけど、描かれ方としては、実際に狗神使いとして描かれる。
ただ、表現はきつくなく、センシティブな印象で、言うなれば「黒いファンタジー」。

だって深い森や、霊的表現、山村風景、紙漉きをする超キレイな天海祐希、これだけそろえばもうファンタジー。
ファイナルファンタジーよりはたぶんファンタジー。
幻覚とか幻聴とか幻想のようにもとれる狗神使いの表現は、差別問題という重いストーリーとシームレスに融合されていてけっこう高度だと思った。
ある意味問題作品とも言えなくもない。だって、
「古い迷信による科学的根拠の薄い差別」としてリアリティを得て、ある種の告発的啓蒙的な構造にするならばその説得力が最も発揮されるであろうところを、あえて、というか挑戦的に実際に狗神使いとして描いているので、けっこうやってることはすごいことなんだと思う。

なかなかチャレンジャーな精神力のある映画だと思う。

そんな過酷なサダメをただ受け入れているかに見える主人公も、実は恋をする。
はじめ寄る年波を相応に受け入れて死んだような単調なスローライフを送っていたけれど、教師として赴任してきた若者と恋に落ちるにおよんで「若さ」が蘇ってくるように演出される。
「死と再生」の神話を踏襲。
そこにさらにまた覆いかぶさる宿命的な事実が発覚するということで、お話として多重的な宿命の構図を持っている。
そのサダメから脱出して恋を貫く、あるいは、その動機的エネルギーとして「恋」が描かれるところがドラマティックで自分好み。
それも天海祐希だよ!

田舎というよりも山村で、深い山を背景に背負ったロケーションに、天海祐希のあのすらっとしてすきとおった御姿だよ。
もうこれだけで、はっきりいって挑戦的ミスマッチだし、幻想の領域。
泉鏡花の迷宮に迷い込んだ感じさえする。

相手役が渡部篤郎ってとこもいい。
ベストキャストだな~って思いながら観れたし。

そうしてみると、この映画はかなり暗く重大で陰湿なテーマを扱っておきながら、表現としてはイリュージョンだと言える。
暗黒のメルヘンを設定しておいてそこからの脱出のエネルギーとして「恋」がある感じ。
ちょっと小説の「八つ墓村」っぽい印象がある。
「八つ墓村」はあきらかに映画よりも小説のほうが良い。
小説のほうはなんだか、せつない印象のほんっとに美しい恋の話なんだ。
おどろおどろしいだけの、単なる探偵小説って感じがぜんぜん無い特別な作品。
共通項が多いわけじゃなくて、印象がちょっと似てる気がする。
おれはそう思う。
そのつまり男性性と女性性の同居がなしうる感覚というのは、微妙で鮮烈でかつ繊細なんじゃないだろうか?
自分にはとんとあずかり知らぬ世界なんだけど、そういうことだと思う。
グラムとか見た目からしてオカマみたいでオカマ多いみたいだけど、それにはそれなりの理由があるってことだと思う。
かりにどっちが優れているか?ってことではなくて、その違いだけを精査してみたらいいと思う。
感じ方なんてぜんぜん違うんだろうと思う。そこから出てくる詩とか、それをのせる旋律やタイム感なんてのもちょっと異質なものが期待できるように思う。

だからミュージシャンにオカマが多いんじゃなくって、オカマは曲作るのが巧いんだよ。

ある意味の露出行為だと言える。人前で歌うのは。
その行為に解放の光を見いだすならそれは切実だし、創造行為の動機としては強いものがある。
オカマにして強い、ということだ。
クリエイティブの世界ではけっこう強いんじゃないかな。
だから勘違いしちゃいけないよ。

ミュージシャンにオカマが多いんじゃなくって、オカマは曲作るのが巧いんだよ。

そういう観点からして、ロックにおいて、あるいはポップスにおいて、オカマの功績と、それ以外の音質の違いをいろいろ考えてみようよ、秋の夜長に。
そういう語らいって大事だと思うな。
これまたいまさらね~。
でもこれも宮崎作品の中では自分の好みにちょっとひっかかるタイプ。

この作品はとにかく自分の先入観がまず先にあった。
まず時代設定についてはもっと昔のことかと思ったけれど、時代考証的には仏教がかなり根づいてる感じだからそんなにむかしじゃない。
というのも自分はなんだか大和朝廷とか、へたすると邪馬台国と大和朝廷の間の空白の時代あたりの話かな、とも思ってた。
それで意外と時代が下ることを知ってちょっとがっかりした(笑)。

でもまあ、見てみると権力支配が行き届いてない部族っぽい感じがしたりして、ちょっと好みな感じがしていたのでまあ許せた。

それでまあ「神」の認識というか表現のしかたは、まあアニメだし、あれでいいのかな?とも思うけど、いつものあの「エコ」なテーマだからああいうカタチでいいんだろうな。
なんか祟る神とかいうとちょっとその手の本なんか読んでいたりすると、権力闘争の敗者のことだよ、っていう先入観なんかあったりするもんだから、こういうもっと根源的なテーマとしての「エコ」というものになんだか物足りなさを感じてしまう。
それも教育というかよけいななまはんかな知識からくる「こうあらねば!」という限定的な正論に縛られてるからだとやがて気がつく。

宮崎作品はそんなところも実はそつがなく、攻撃されにくいクオリティを求めているようにも感じるし、そういうもろもろの知識も認識もふまえたうえで、それらを一つのマテリアルとして別なもっと普遍的なテーマに昇華させてるんだ、と言えてしまうから偉い。

「たたら」とかさ、製鉄の技術とかさ、そういうディテールが「自然」と対立する要素として出てくる。ふつうだったら、朝廷と出雲の関係とかさ、青銅器の製造技術とかどうからんでいたかとか、せいぜいそういう仮説とか物証があがってる知識つなぎあわせてそれらしいお話にしたてて終わりだろう。
それはそれで好みなんだけど、ようするにはじめは神といってもそういう人間的なものを期待してたんだ。

でもやっぱり宮崎作品は「エコ」一筋。
エコマーク付けたいくらいである。
そういうところにだれにも反論のしようのないクオリティを用意してるところがなんとも狡猾というか、おれは好きになれない。
観るがわの自分のクオリティはたぶんもう一段下にあると思う。
というかもうちょっとドキュメンタリっぽい内容が好みなんだと思う。
大河ドラマでもなんだか最近ぜんぜんものたりない作りのものが続いている。
武蔵ってあんなんじゃないだろう。(役所広司の武蔵は良かった記憶がある、ごつくて。)
義経ってああじゃないよ。(もっと軍人と線の細さが極端に同居した感じかな?すごみがまったく...)
幕末なんだしもっとちゃんとやろうよ、って思う。(冗談としか思えなかった...)
そういうのに比べたらぜんぜん宮崎作品のほうがいいよ。
でも心底なっとくできないなにかは常にある。

なんだろう?って思う。

なんだろう?

やっぱりそれは登場人物の設定にあるとしかいいようがないな。
常に強い女子キャラの前に虚勢されてはいるけれどがんばっちゃう男の子とかさ。
そういうのって心理学的になにかがばればれなんじゃないの?
いいのかな、そういうの。
くわしいことはなんとも言えないけれど、それもなにか普遍的な構造を提示した結果なんだろうか?
そうとも言えないんではないかと思う。
そこはそれ、単なる趣味性で作ってると思う。
それで毎回やってるからなんとなくディズニーランドのアトラクションというか、もっともらしい虚構感が拭えないんだな。
どこまでいっても子供むけって感じ。
きっとそうだ。

それでもやっぱりテクニックとしての映像の見せ方がうまいから、逆に言うとほかの作品があんまりぱっとしないからか、宮崎作品のほうがいい!ってことになっちゃうよ。
単なる好みかな。
ジャニーズの一人勝ちみたいな。
かといってジャニーズって最高か?違うよね?

そうだよな、ハリーポッターとかスターウォーズとかなんかだらだらやってるし。
みんなそんなつぎつぎ新しいことしてるわけじゃないんだな。

一発芸で食ってる吉本芸人とさほど変らないというか。
ぱちぱちパンチとか。
以前テレビでカンペーちゃんが何分間かたてつづけに一発ギャグどこまでできるかチャレンジしてたけれど、あれはすさまじかった!
無条件で尊敬した。
「この人はすごい!」って思ったよ。
カンペーちゃんの威力ははっきりいってジブリ作品を超えてると思うよ。
いやまじで。
なんか二人の監督が一つのテーマで別の短編を作ってみよう。という企画もののかたほう。
DUELといって「対決」がテーマらしい。
「対決」といえば自分にとってもテーマなので、興味があったので観ることにした。
もうかたほうの「2LDK」のほうは出演者が女性だしやや人気があるのか、レンタルされてしまってることが多い様子。

趣旨としてはストレートな表現がいいと思う。どっちも。
「対決」なんだからさ。こむつかしくしないほうがいいね。
対決といえば心理戦が実は80パーセント以上を占めると思う。
対決に望むまでの形作りがけっこう大事だと思う。
ドラマがどんな筋書きを望むかによって、そういう不利な状況を力でねじ伏せるところにドラマをもってくるのか、はたまた意外な落ちを用意してくれているのか?という感じになると思う。
ただ内容を求めていったらやはり「対決」とは心理戦だろうと言える。

この「荒神」のほうは、アクション傾向が強く、ミイラ盗りがミイラに...というごく単純な構造である。こういうのはディテールが重要かと思う。
ちょっとよわいかな....。
もう一歩賞だな。
アクションシーンっていうのは、ビジュアルの一部、って考えちゃうとだめだと思う。
CG?ワイヤー?それともほんとにやる?
見た目だけを重視してゆくと映像的にどうとかこうとか?という話になるけれど、自分はそれでは不可である。
そんなことをしていては香港映画にいつまでたっても勝てないとうい理屈は、ほんとうならば勉強することによって学ばなければならないと思う。
それを単なる映像からの理屈で片付けてしまっていては、絶対に勝てない。
せいぜい物量的に押すくらいしかできないと思う。
対決とは本来心理戦の部分が大きい。
それをふまえてそのさらに上位に技術なるものが厳然としてあるからすごみが出るのだ。
そもそも古武道なんて卑怯な技の集大成だ。
ひきょうもらっきょうも無いのである。
侍とはその卑怯な技に秀でていなければ、お茶の席でさえ命を落としかねない時代に生きたのである。
そこにそれなりの作法が生まれたと自分は考える。
ならそういうものそのものが細かく噛み砕けば一本の映画になってしまうではないかとすら思う。
よく外人で格闘技好きな人に言わせれば、「日本人がうらやましい」そうである。
だっていろんな武道の宝庫みたいな国にいて、その気さえあればわざわざ遠い国に移住しなくともそれを習うチャンスがあるからということらしい。
そういう認識が当の日本人に薄い。
そういう国で作られる映像にも当然薄い。
キルビルを馬鹿にするのはだれにでもできるけれど、ああいうあこがれの気持ちって達観したつもりで見てこっけいに見えているだけで、当人は本当に達観してるわけじゃない。
そもそもの武術観が無いのだから。
映画の既成概念だけで評価してる。単なるアクションとして見てる。
「こうきたらこうやるんだ」とか言ってて実際の喧嘩であっさりやられるタイプ。

映画は娯楽だけど、まがりなりにもそれを評価しようってんならその対象についてなんかしら勉強はしたほうがいいと思う。
作るならもっともっと勉強すべきだと思う。
あまたのアクション映画っておおむねそういう気にさせられるよな。
もっと勉強せねば!って気持ち。
というかこれも需要と供給の関係かな?
大沢たかおはなんか貫禄もなにも無いからすごみもなくってちょっとこれは間違った。
もうかたほうの俳優さんはなかなかいいかんじ。
及第点だと言える。
なぞの魔物っぽい女性役の人はかわいくてよかった...。
アートアニメーションと普通のアニメーションとの違いはなにか?
ということが重要だと思う。
ノーマルに対するファインということだろうから、めっちゃすんごいアイデア、技術、感動が詰まってるはずだ。
そんな期待に対して、実際のアートアニメーション作品は実に淡々としていると思う。
そんな下世話な先入観なんて問題にしてないね。
ひとついえることはみんな作り手がある種のマイペースでやってるってこと。
アートだから。
「アート」って言葉聞くたびに、その「アート」とそうでないものの境界線のことばかり心配する。
国境線に位置するような微妙なクオリティもあるはずだといつも思う。
それっていわゆる「まんがにしては奥が深い」とかそんな感じのものだと思う。

あともうひとつは根本的な「作る動機」の違いだと言える。
この動機がどこからやってきたものなのか?ということがアートとそうでないものを決別させるコアの部分だと言える。
別の言い方をすれば、アートとはそんな行為に身を投じている自分とその時間を「意識する行為」だとも言える。
だとすれば微妙な国境線とは意識されかかったアートなのではないかと言える。
まったくの無自覚ではないけれど、明確な意識のもとに為されたものではない、ということ。

熟練やらスキルというものがなかば身体をマシンと化すように、ある価値はオートマチックに生成される。あるいはそういうプロセスでしか生成されえない価値もある。
ある種シュルレアリスムなんかはこのての無意識と身体をつなぐものだったろうから、その国境の微妙なアイデンティティは同様のスタンスを採るものなのかもしれない。
キリコなんかの微妙なアイデンティティがそれにもっともよく当てはまると思う。

アートアニメーションは往々にして手間がものすごくかかっている。
メイキングなどみると、「そんなのCGでやっちゃえばいいだろうに...」と思えることを手仕事でやっている。
そんなローテク感が「味」であることは確かで、その「味」がじつは主体であるかもしれないという価値観を示しているようにも見える。
ストーリーであるとか、絵柄であるとかが実はそんなに重く無い。
実はその技術としての手仕事が醸し出す「動き」そのものがアートなのではないか?と強く感じた。
それにともなう要素をいくつかに分解してみることができるとも思った。
どうせ秋だし、こんな興味本位で観るいわゆる「アート作品」にささやかな問題意識を持ってみるのもまたおつなもの。

このvol1だと、楽しいのは文句無く「Guard Dog」。
ギャグに徹していて理屈抜きで楽しい。
飼い犬と飼い主の散歩なんだけど、犬がなにかと主を過剰に守ろうとする。
この飼い主のデザインとキャラクターが秀逸だと思う。
なんか飼い犬の主観からすると飼い主とはある人格ではなくて、あくまでも守るためだけの対象として「物」としてしか存在しえなくなってしまっていることろの造形!
これがすごくいい。
飼い主があたかも過酷な自然の脅威にさらされるがままのモアイのように存在している。
その描写。

あとは一番おしまいの「Fast Film」は、なんか質感がたのしい。
ようするに動くコラージュ。
映像をさらにまた改めてアニメーションに入れ子にしてある。
この「入れ子」からくる感覚が新鮮で小気味良い視覚効果になってるってわけ。
メイキング観ると手間がすごい。
時間感覚を取り入れたキュービスムっぽい印象を持った。
シャープなエッジで切り取られた古いフィルムが、おもしろい印象を与えるので、目が飽きない。
という感じ。
「The Process」は絵面は好みだけど、内容を求めていく傾向に一定の評価が想定されるにとどまる。
冒頭のシステマティックに行進する民衆の動きは面白いと思った。
これアダルトむけだよ(笑)!
18禁なんてもんじゃなく、厳密には45禁くらいかな~、40でぎりぎりだろうな思い出の密度としては。
アニメ作品のディテールに目を奪われてるのはおそらく子供つれてきてる親御さんたちだったろうなこれじゃ...(笑)。

TOYOTA2000GTが自分の生まれる2年前、昭和42年発売。
ここらへん微妙なかぶり具合で、懐かしさと単なるあこがれの中間にあるような微妙な感覚。
ビートルズでいえば「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。
ジミヘンもライブでやってる。即興でやってたのかな?

学生運動ってやつも、自分にはぴんとこない。
60年安保闘争からはじまって、69年の東大闘争とかがよくテレビでも昔のビデオが映し出されるけれど、それって自分生まれた年だし。
もうなかば体制ができあがった段階で、社会科でなんとなくさらっと流すように教わってもぜんぜん実感として得られないのもやむなしかとも思う。
ああいう、なんかいまからみると妙に熱かった時代のように見える、あのころの感じなのかな?
純粋なアウトローとよばれるひとたちの最後の時代だったようにも思う。
いろんな意味でやっぱり熱かったのかな~。
「あしたのジョー」1968年マガジンにて連載開始。
ウッドストックフェスティバル1969年。
3日間ぶっとおしの野外ロックフェスティバル。
この時のジミのアメリカ国家からパープルヘイズへ移行するあたりの演奏はもう神がかりのような奇跡で有名。
ほかの演奏とはなにかが確実に違ってる!

大阪万博が1970年。
万博観れてないよ。行ってもいないし、テレビで観てたなんて記憶も無い。
そりゃそうだよおれまだ1歳になるかならないかなんだから。
この年の9月にジミヘンがこの世を去る。

松本零士「男おいどん」は1971年連載開始。
「大四畳半」というなんか逆説的哲学的な概念を打ち出す。
これの実写映画観たことある。なんかせつなかった。

...で、「ど根性ガエル」が1972年放送だったらしいから、自分はまだ3歳。
何度目かの再放送で観ていたことになる。
当時は夕方のアニメの再放送枠が多かった気がする。
思えばこのへんから植え付けられたセンスってのは影響がでかいよな~ってかんじ。
このしんちゃんの作品もまさしく、ひろしとか京子ちゃん、ゴリライモ、梅さんなんかがどたばたやっていた東京下町の風情そのまんまだと思う。
そのせいで自分にも懐かしく映るのかと思うと、幼いころの刷り込みって、なんてくだらないところからきてるんだ!?って思った。
母親が東京下町なので、親戚があり、そこへたまにあそびに行ってた。
だから実際の雰囲気もおおよそは知っていたけれど、あんな完璧な下町には遭遇する機会が無かったように思う。
ちょっと趣きが違うけれど「あしたのジョー」なんかも下町からのしあがるストーリーととれなくもない。

いきおいあまっておぼろげなキーワードをネットで自分なりにつないでみたけれど、興味深い!
この作品でなにが言いたいのか、さっぱりわからないお子様たちは、やがて自分の懐かしさをもつに至って、はじめて「な~るほどね!」とうなづくんだろうな。
なぜ隣の席のお父さんが涙目になっていたのか...。
男の目からみると、下世話な話、8人もいれば、いったいこの中ではどれがいちばん奇麗かな~?
って考える。

考えてみると奇麗にもいろいろ。
中学生の感じる美人というのと現実的な美人とはちょっと隔たりがあると思うけれど、実はこの中学生の感じる美人というのは純粋に理想に近い女性像なんだと思う。
男的に曲解してるとは思うけれど、歴史は男の視点で記録されているので、一般的にみて中学生あたりの感じる女性像ははっきりいって女神に近い(笑)。
無垢というか、それは必ずしもカタチにかぎった面だけでなく気持ち的に羽毛のようにソフトな印象だけが強調された感じ。

記憶がねじ曲げられ、理想と混同され、歴史に記述されてゆく。
正確には残らない理想の記録なのかもしれない。

歴史的に観て欧州は暗黒だと思う。
日本なんかかわいいもんなのかもしれない。
だいたいにしてなじみがないからわからない。
生活様式もぜんぜん違うし。

おフランス的女性観がどういったものなのか?この映画をうらっかえせばそこに全部記述されているとも言える。

「愛=カタチ」である。

言語は重要、セリフはシンプルで断定的がゆえ、哲学めいて聞こえる。
ことばも意思を「カタチ」にする手段だからおフランス的な文化にとっては非常に重要で、音楽もしかり。
ミュージカル風にしたてられた部分でもその威力をいかんなく発揮して、その効果は「美しさ」の賛美のためのものとわかる。
なにかおフランス的な意思の流れが、「賛美」と「批判」のせめぎあいのなかから生まれてきたような印象。
基本的に「賛美」したいんだけど、自分たちがどこから生まれてきたのか?となると「批判」的になる。
女性がどこからきたのか?という宗教観も基調低音としてあるんだろうね。
それ以上を思考しないように見える。
結末は「理解」と呼ばれる思考停止状態。
謎は謎のまま、とでもいいたげな、やっぱりおフランス的だな~と感じた。

8体の偶像が最後画面にならべられる。
八柱の女神のように神々しく見える。
この作品は大成功をおさめていると言える。