AKIRAすごいね~。
って今驚いてちゃだめか!

でもいままで嫌いってわけじゃなかったんだけど、なんかその時代のアニメのムーブメントには乗れてなかったんで時期を逸してしまっていたわけ。

それでなにかのついでにふと思い出して観てびっくりだよ!(っていまさら!)
まずこれ金かかってんな~って気がする。
バブル期?
とにかく動きがえらく丁寧で感動する。
それでもディズニーのそれとは違う。
けっこういろいろ工夫してセルを描いてるんだと思う。
いまだったらCGでしょ!ってところ描いてるところ見ると、それなりになんらかのキャプチャの技法を使ってると思う。ディズニーなんかで定番だったロトスコープ的なキャプチャ法かなんかやってると思うな。
アニメがリアルだよ。
あと、カット割りもすごく丁寧で手がこんでると思う。
そういう意味でも金かかってんな~ってのと同時にものすごく才能を感じる。
トータル的にすごいポテンシャルになってると思う。(だからいまさらかよ!っての)

基本的に自分は無条件的条件反射であまりセルアニメって表現が好きでなかった時期があって、その時期に関してはかなり空白というか、タイムリーな体験としてもっていない。
そしてその時期こそ、このAKIRAとかそういう超ハイクオリティな作品の出現した時期だったと思う。
わかっちゃいたんだけど...。まさかこれほどとはね...、って思う。

思うにジャパニメーションの発達ってセルで中割りを描き出すテクニックではなくてむしろ映像効果としてのいろいろなテクニックの発展だったんだな、と印象を改めさせられた。
ものすごく参考になるもん。

セルアニメって基本的に「カメラ」というものの概念が希薄で、基本的にフィックスなカメラだからダイナミックな表現にはつらいものがあったわけで、そこをむりやりセルでやろうとするところに無理が生じる。
でもそれを力技でやり通してしまった作品というのはそれなりに高い価値を持つことになる。
それでもジャパニメーションは屈折してて、そういうばか正直な力の使い方しないかわりに、効果的と思われるカットやシーンについてはアンバランスともとれる尽力をする。
そのことでその部分が輝く。
いや実際輝いて見えるでしょ、部分的に。
あとアニメートはあるていど感性のなせる技として大切にされてきている感じがする。
ロトスコーピングはコスト問題さえクリアされればある意味安易な手法ではないかと思う。
それをしないかわりにある「動き」がアニメ絵と言われるジャパニメーション特有の様式とともに熟成されていて、そのテイストはあるていど大切にされていると思う。
その表現をベースにできあがる特殊なコンテというものがあるような気がする。
この親にしてこの子あり、的な。

先のカメラの問題もそうだけど、ロトスコーピングならカメラはそれこそ自由に動いていい。
それをしない時のコンテのきりかたってのがあるはず。
そういう表現のこれは究極のアニメ映画だと言えると思う。

もう出ないんだと思う。このクオリティは。
だいたいからして技術が違うから。
いまはCGの時代になってしまったからね。
CGはどうせいまよりももっとリアルになって現実味を強くしてくると思う。
そのフォーマットを使ってあえてアニメ的表現を論じるようなことはしないと思う。
資本主義社会でコストをむげに扱うことはできないから、どこかで必ずコストを意識して、力加減がそういう方向で流れるはずである。
表現のためにだれかを説得しなければならないとしたら、そういう論客がこんどは居るかどうかみたいなことになる。
ものの良さはわかっていてもコストとか合理性のほうに世の中は動くと思う。
AKIRAの世界が過去にイメージされた過去の技術で作られた未来の世界であるのに対して、現実のハイテクノロジーはこと味という面でその合理性とトレードオフされたというわけ。
それって技術はむしろ上がってるんだけど、はたして人心にうったえるにはどうなのか?ということ。
アニメってもっと手づくりされるべき分野だと思う。
なんでもそう。

CG作品だって、すごいね!って言われるものもほんとうは凄くなんか無い。
苦労はしてるだろうそりゃ。そんなの当たり前だよ。
でも人の感性のどの領域に訴えてるか?ということが果たしていかほど認識して作れているかということは、それはなんとも言えない気がするし実際どうなの?って問いたい。
トレンドだし、効率的だし、こっちのほうがリアルだし、商業的にあーたらこーたら、という感じで選び取られていくテクノロジーが、人の脳のどのあたりに主に刺激をもたらすのか?

あなたはいったいナニを食べて生きるのか?っていうのと大差ないもの。

ジャンクフードか、無農薬野菜か?
それが良いのはわかってる無農薬野菜は人間全体の需要を満たせるのか?
効率的にはどういうふうに作れば儲かるのか?
などなど、ほんと食い物といっしょだと思う。

非常によくできたカップ麺?
美食家も絶賛!
栄養満点、健康にも良い、そんなインスタント食品。されどインスタント食品。

いや~とにかくいろいろ考えたよ、AKIRA観て。
「童夢」の話してまたまぜっかえそうと思ったけどやめたよ。
さあ、みんな、そろそろ手づくりしようぜ!
バンデラスはかっこいいよ。
映画自体はまあ、たいしたことはないっていうか、なんかツボがよくわからないアクションものだけど、バンデラス自体は渋いから許せる。
で、なにが渋いってこの映画ではやっぱりフラメンコギターだと思う。
実際ギターを弾くシーンってのは少ないんだけど、ガットギターの音色が切なくてとてもいい。
フラメンコというかマリアッチって言ってるけど、マリアッチって何?

メキシコっていろいろ治安が悪そうで、いいイメージあんまり無いってのが日本人として残念だけど、たしかにアメリカ映画なんか見てると、北米(テキサスとか)でなんかやらかしてやばくなると南米方面へ飛ぶ、というパターンが多いと感じる。
事情とかよくわからないけど、なんかメキシコあたりってそういう吹きだまり的なイメージがメディアから入ってくる。
あんまりいいイメージでは無いけど、よく映画では根っからのワルじゃないけどいきがかり上しかたなくそっち方面に身を隠す、なんてパターンも多いと思う。
北米においてもそういうある種の憧憬、じゃないけど奇妙な郷愁をイメージする土地なんではなかろうか?
メキシコ料理とかマリアッチ?あとサボテンとか赤茶けた風土とかそういう諸々のイメージとあいまって。

で、最近ギターといっても生ギターの音はいいなぁ、と想いはじめていて、特にやさしくせつない感じのガット弦のクラッシックギターのほうに魅力を感じてる。
この映画で見たというより、空想をかきたてられた分野の音色と雰囲気もけっこう影響してるし、これまた最近聞いた、ジェフ・ベックの「Cause We've Ended As Lovers」のガットギターによるカバー曲をiTuneで検索してミュージックストアでゲットして聞いてみて、「かっこエぇ~な~」って関心したのも影響してる。
そもそもまえまえからまともな生ギターを所有して電気にたよらないボディの直接的な「鳴り」を心行くまで楽しみたいな~とか考えていたし。

そういうわけで「デスペラード」とか、映画としてどうかとも思うけど、そういう「雰囲気もの」として自分の中では奇妙な符号を果たし、印象には残る結果となったわけ。
善し悪しだけでみると映画も逆につまんなかもしれないね。
ちなみにそんなに悪くないよこの映画、でもツボがいまいちはまりきってないって感じ。
作ってるほうも雰囲気的な動機から映画としての高い価値観まで高めきれて無いというか、未消化な感じはする。
っていうかご当地名物についてよそ者がきちんとした評価なんてそもそも困難だったりすると思う。
うまいとかまずいとか以前の理由で存在するものが多いはず。
せいぜい自身の一般常識で考えるくらいしか無い。

あとガットギターと言えばクラシックギターだけど、実際クラッシックが好きなんじゃなくてフラメンコのほうが好き。自分の聞く耳のレベルはおよそ大衆レベルだし、フラメンコのほうがかっこいいし。
で、フラメンコっていうと自分はパコ・デ・ルシアしか聴いたことがなくて、パコだとこんどはレベル高すぎて、けっこうオリジナリティ強いし、なんか「これでスタンダードじゃないでしょ?!」って感じがまずしてしまう。めちゃくちゃかっこいいんだけど、なんでも丁度いいところから始めたほうがいいと思う。
でもブルースもそうだけど、じゃ基本的なやつはどれどれ?って聴いてみると、まちがってやけにルーツのところ選んじゃって、なんかもうドロくさすぎたりして。
「なんじゃこりゃ~?!」みたいな。
そこんところはけっこう落とし穴。
じゃちょうどいいブルースって?というなんかナンセンスなものを求めている自分を発見する。
近年のクラプトンあたりが日本人にはちょうどいい感じ。

ラップもブルースもはっきり言って日本人には出来ないと思う。
レベル高く仕上げることはそりゃ練習によって可能になるとして、それとこれとは違うと思う。
みんな「日本の~」というカタチでしか表現できない。
「日本の~」でレベルの高いものは存在すると思う。
かといってそれに心酔しきれるか?というのはこれもまた別問題。
だから変にルーツというかスタンダードを求めすぎても、それはやっぱり「なんかこれ違う!」となる。
心はさまよい続けるというわけ。
だから自分で弾いてみることになる。
「日本の~」ではなくて、自分の血液に自分なりのなにか本物を混入しようという行為。

ロックにしろクラシックにしろ「好み」で聴いてるような一般大衆ってみんなそんな感じで、結局は個人の価値観。
それでいいんだけど。
それだからなおさらなのか、自分なんかはやっぱり多少自分で弾いたりしてみたい口で昔からもうけっこうエレキ歴は長いことになる。依然へたっぴだけど。
音楽に対するセンスなんて自分は人並み以下かもしれないから、けっこう弾いてみてからわかることも多い。
一聴衆でいるだけでは不安で、理解も薄いもんだと思う。
ロックジャーナリストもやっぱり自分でなんか楽器できる人のほうが精度の高いコメントができると思う。
そもそも、そういうもんじゃなく、聴衆とは一定の距離があってかまわないとミュージシャンは思っているかもしれない。
でも知る、ってことはべつに悪いことじゃない。
その手段としての実践なら、音楽とは聴くだけでは常に一定の片手落ちなんじゃないかとの個人的な見解もある。あくまで個人の。
だから聴くことに徹することもすごくいいと思う。
逆にそれだけでかなり楽しめるわけだし、理解も深いものにできるのなら、それもすごい才能だと思う。

バカは自分でやってみないと安心出来ないってこと。
たとえば「グリンディスティニー」も「英雄」もすごくよく出来た映画だと思う。
でも後世にできたカンフー映画の流れとしてはそれはやっぱり変化球。
この「どら息子カンフー」はまさしくまじめに作られた直球勝負のカンフー映画。

直球にもいろいろ価値基準があるとして、
一つには日本で公開の多かったジャッキーチェンの一連のシンプルな敵打ち構造のカンフー映画。
基本的にカンフー映画って敵打ち構造だけど、この「どら息子カンフー」はさらにちょっとまじめに作ってある映画。と視た。

けっこうブルースリーの作品って異質な感じのものが多いけれど、そういう「味」っていうかにじみ出るものっていうのは確かにある。同じ敵打ちだとしても。

「どら息子カンフー」というのは、けっこう癒し系な面と武術界の過酷な面とが、なかなかハイコントラストに描かれてるように自分は感じた。
これは思うにサモ・ハンの考えによるところが大きいと思う。監督、脚本だし。
逆に言えばサモ・ハンってすごい才能のある人だな~と思う。
キャスティング的には主人公としてのユン・ピョウなんだけど、ユン・ピョウって癒し系なんだね。
癒し系であることってすごくいいことだと思う。
で、いつも主役としてはちょっと弱いと思う。ごめんなさい。
だってこの映画もルン・イータイ役の人のほうがぜんぜんいいんだもん。
あと敵役の人もすごくいい。

こういうキャスティングってしかし悪く無い。
映画の印象がフラットになるから。
自分はそういう印象の映画を悪いとも面白みに欠けるとも思わない。
もしかしたら意図されたことかもしれないよ。
それをわからずにただただ印象が薄いとか盛り上がりに欠けるとかキャラが立って無いとか評価するのはちょっとセンスが独りよがりの可能性を含む。
香港映画ってだってすごい数作られてるわけだし、この映画自体も同じストーリーの昔の映画のリメイクだって言うし。それぞれ違う味わいを求めて作り直されていると思う。
あと根底にあるテーマ性からすると、「一瞬にして燃え上がってればいい」ような話でも無い。
細かなディテールの積み重ねこそ大切な構造だから、そこが楽しいというタイプの映画。
細かなディテールの集積というのは中華的だと思う。

思想というほど大げさには語れないけれど、中華的なものは幾重にも積み重ねられた経験からくる様式的なものにそれをより感じる。
西洋から見たら合理性を感じなくてもそれは関係ない。
マクドナルドが合理的か?
中国的な考え方って、けして無理を強いる感じが無い。
狂信的になにかに向かうとういことが無い。
その点、原理をよく知り、限界をちゃんと考えて長い経験にもとづいて動いている。
日本的に感情だけで動かない。
西洋とどこが違うかというと根底ではほとんど違わないと思う。
ただ、視点のずれからくる違和感と、対象について考えてきた歴史の深さがそれぞれ違うのと、西洋イコールアメリカ、と錯覚してしまってる日本人の感覚の錯誤に問題がある場合が多い。
逆に本当の欧州についてあまりに知らないと思う。

それはそれとして。

そういう中華的な細やかさが、画面の一風癒し系な雰囲気と実際の武術の厳しさと、交わって複雑な味わい。
子弟関係について、東洋的かつ中華的な真剣さとおおらかな関係があざやかに見える。
これはもう武術を通して、ということになるけれど。
だから先に描いたキャスティングについて、主役をユン・ピョウにするということの意味は大きいと思う。ユン・ピョウって周囲の魅力的なキャラクターの間に埋もれがちなんだよな~。
でもそこが持ち味としてこの映画が成立し、かつプロデュースされているとしたら、それはもうサモ・ハンの友情に他ならないと思う。手腕とも言えるけど。
そういう香港映画界のエリートクラスの間にある気安さというかある種の優しさも感じる。
そういう環境で作られてる映画。
ツイ・ハークはそういう意味でもやっぱり若い世代の監督なんだと思う。
それにしてもみんなすごいクンフー。
この映画の主役級の人たちはほんとすごい。

この映画は言うまでもなく詠春拳をかなりまじめに扱ってる映画として有名。
映画的に動きはメリハリ出して作られてはいるけれど、自分のつたない見識でもおおよそ詠春拳と言える。
特に先生役のひとの動きはすごく決まっていてめちゃくちゃかっこいい。
ラストのユン・ピョウと敵の人とのバトルでは、あまり詠春という雰囲気は薄いかもしれない。
まだ未熟な弟子だからいいのか。
先生のルン・イータイが京劇の女形ではじめ女性的な動作でユン・ピョウをあしらうところもなんだかかっこいい。それをだらだらしないでいやみに感じさせないのもいい。
このDVDの特典映像でサモ・ハンも言っているけれど、このルン・イータイの役づくりはすごくいい。

あとこのラストバトルも敵役も根っからのワルというわけでは無く、お互いがどら息子同士の戦いとなる。タイトルに偽り無し。
それでもお互いしょっているものがある。
それはやっぱり師の影で、お互いの中でのカタチは違うけれど、同じような想いが、立ち会いというカタチの中でぶつかり合う。残酷な戦いだけど最後の息の根は止めず、厳しさだけが痛いほど伝わる。
お互いに完全理解には至らず、ただ結果として戦いと勝敗のみを生ずる武術の過酷さ。
なんともすがすがしくもせつなくむなしい隠し味を秘めている。

かなりいいカンフー映画。
実は癒し系。
奈良興福寺の阿修羅像

部屋の掃除してたら中学生のころ修学旅行のときに買ったと思われる阿修羅像の絵はがきが出てきた。
これを見てはっとした。

当時はなんとなくかっこいいからこれ一枚だけ大事にもっていたと思う。
いま見るとぜんぜん印象が異なる。
像はまったく同じ造形効果を視覚的にもたらすにもかかわらず、その内容が変化している。
ただ当時の印象とそのみずみずしさだけが変らない。

この像を作った人のひととなりと想い、それに阿修羅というキャラクターの持つ意味なんかがどっとイメージされた。
この像の由来なんてまったく知らないけれど、勝手に想像してみる。

おそらくこれは自画像だと思う。
よく少年の顔と言われるが、ここではそれをふまえて少年の天才彫刻家がいたとしてもいいし、比較的童顔の作家、あるいは自分の精神年齢を具体化したものと捉えてもいい。
とにかく自画像なんだ。
阿修羅といえば三面六ぴの言ってしまえば妖怪のような姿だから当時の人にしたってそりゃ理屈では神様の一人かもしれないが、薄気味悪いものには違いないと思う。ましてやこの個体は国宝であるから造形も極め付きいい。したがってなまなましさも加わって、やっぱりそれはあまり気味のいいものでは無いと思う。
逆説的に言えば、いくら造形的によくても気味の悪いものだし、ではなぜ国宝か?
ということを純粋に造形芸術の観点だけからみると、やはりそこには造形以上のなにかが刻まれているからにほかならない。
造形のみで名作となることはあり得ない。
名作にはいつもそれ以上のものが隠されている。

この阿修羅の印象は妙に「なまなましい」ところ。
これはだれもがその前に立てば感じることだと思う。
構造上無理のある片側三本の腕を肩から生やすという処理について、この作家は付け根以降のアーム部分の造形を簡略化することで処理している。
このての彫刻のセオリーなんだと思うけれど、腕を詳細まで作らず上品に、様式化するやりかた。
それでも手首にいたるまでには微妙に径が変化してしぼられてゆく。
それが優美だ。
そのあくまでも優美な腕が合計6本、様式的なカタチを作って、3っつのポーズの残像のように異様な静的リズムを刻んでいる。数百年も。
このカタチそのものがまず絶妙で、立体造形を超えている部分。
はからずも時間軸の概念が高度な造形と融合する状態が見られる。
そこに正面をむく少年のような微妙な表情。
このサスペンドした表情がアルカイックなものとは完全に一線を画す。
この表情を作者のもので無いとしてしまったら、こういう造形芸術に含まれる内面的ドラマがとたんにつまらなくなってしまうように思われて残念に感じる。

この神様はおそらく少なくとも三つのことを同時に考えていて、大変そうだ。
神様だから平気か?といえばそうではないと思う。
宗教的思想的には神様でも歴史的にみてこういうものには実在のモデルとなった人物や、出来事が隠されている。
理論を具体化したと言われればそれまでだけど、そういう事象は常づねあるわけだ。

最近になってこれを見てはっとしたのはまさにそこで、
「一人でいくつか仕事をかかえてぴりぴりした生真面目な青年像」という印象がまず入ってくる。
まさに今の自分が似たような状態だし、現代のビジネスマンの忙しさにも似ていないか?
と思った。
高度な事柄が幾重にも未熟な自分にのしかかっていて常に緊張状態。
昔からみたら今のネットとか情報社会は神の技のようなものだと言える。
そのなかに生きる人間そのものはたいして変化していない。より上質になったわけじゃないから。
その己ののぞんだ業に必死に耐えている姿が、この阿修羅像なんだと思える。

加えてこれを作った彫刻家もきっとたまったオーダーにおしつぶされそうで、いいかげんたまっていたんだろうと思う。
この阿修羅といううってつけなテーマに自分の想いを吐露してしまう。
そしてそのあふれるように蘇ったモチベーションを感じながら熱中する。
気負わず、仕上げもそこそこで、しかしなんとも名状しがたい造形になる。
そしてこの阿修羅像は名作として時を超える。
そんな筋書きでおおかた間違いは無いはずだ。
芸術ってこういう人間くさいものだと思う。
ことさら高尚でなくてもいいと思う。
逆に高尚であれ、と思ってなんかやること自体、ちょっとナンセンスだと言える。

とろけるように美しいアニメーション!
リッチで行き届いた作りこみでおなじみのピクサーの作品。

DVD楽しみにしていて、購入。
劇場で観ろって感じだけど、そこはそれ、そういう性質だから。


ニモにはどうも食指が動かなかったけれど、インクレディブルには興味津々だった。
人間がメインの作品は初ではないだろうか。
だから特別な思い入れを予測していた。
なおかつヒーローモノということだし作り手としても特別気合入るんじゃないだろうか?


ニモは観て無い。
これは真っ先に観る!
自分の中ではそれくらい差別化している。


作っている人たちはパートを担当しているので、外野が思うほど、作品ごとに差を感じていないかもしれないけれど、出来てくる完成品のもつ意味合いや重さは違うはず。
かたやお魚、かたや人間。
作る難しさも作業量もそれなりに違ってくると思うけど。


作業量(コスト)や、作品の制作スケジュールなど、かなり意図的にコントロールしてるんじゃないかな。
つまりそのときそのときのバランスというか。


完全に想像で書いてるけど、企業としてはそういうことはうまくやるはずだと思う。


しかしシステム自体は人間単位で違ってくるから、その時点での最高のポテンシャルを出さざるをえない。
だからニモもまちがいなくクオリティは高いにちがいない。

作品の順序は周知のとおり「モンスターズインク」「ニモ」「インクレディブル」と続く。
モンスターズインクは劇場でたまたま観ることができて感動。
その後シチュエーションが海とお魚だということで、ちょっと興味がそがれる。
でこんどの「インクレディブル」でついに人間!


思えば「トイストーリー」からいちおう人間は出ていて、表現自体さほど問題を感じないけれど、
そこは当時のこと、「トイストーリー」もさまざまな思惑を込めて考え出された苦肉の策について、
最高度のクオリティを与えることが命題であったと思う。
当時の技術レベル、アプリケーションはお金さえかければいくらでも高等技術が使えるとしても、
レンダリング時間が現実的でなければ商業的には続かなくなってしまう。
ピクサーがコンスタントにこういったハイエンドでユニークなアニメ作品を出し続けられるのも、先を見越したクレバーで思慮深い計画性がしっかりしているからだといえる。
その場かぎりの最大のポテンシャルで行かず、レッドゾーン手前できっちり仕事する。
いつでも「次」を視野に入れているからそういう体力も確保する。
そういう仕事としていままで継続してきて、ついにここへきて「人間」「アクション」といういちばんおいしいと思われるテーマに正面から挑んでいる。
「挑んでいる」という表現はなんだかそらぞらしい、「満を持して」という感じが本音だろうし、それでもあくまでもディズニーの作品としての品格を保つような表現のレギュレーションの中でばっちりきめている!
これはすごい。
ここにテーマと「もの作り」のダブった在り方が見えてくる。

インクレディブルのテーマ性、「失われたヒーロー」っていうものがまさに3DCGにたずさわってきたピクサーの本音からやりたかったテーマでもあるかもしれないから。


「アクションもの」を3DCGで表現する、というごくごくストレートな必然性をあえて封印してきていたから。
ここへきて、それが実現したという感じだ。
実写の映画でもゲームでも、こういったアクションというジャンルは花形だといえる。
そういう別のメディアで華々しく見える「アクション」や「人物表現」というのは、ピクサーの作業で行われたとしたら、さぞや魅力的な結果になるだろうと考えていた。また同時に、なんですぐにやらないんだろう?とも思っていた。
おもちゃであったり、虫であったり、怪物であったり、魚であったり.....。
なかなか人間が作られなかった。
そうしている間に「ファイナルファンタジー」なんて「リアル」を売りにしたCG映画もできてしまったりもした。


ただ、そういうご時世だと、けっこうアマチュアのレベルでも人物を作るなんてことはたいして特別な仕事ではなくなってきていたりもした。
実際、人物を作るなんてこと自体は技術的にかなり前からクリアになっていた。
論理的に考えうることはコンピューターの中では即実行可能となるのだ。
コストを度外視すればの話。
ただ、その時点でそれを見せるか押さえるかというだけの話で、あえて押さえるという場合の「意図」を読まねばならない。

これ観るがわの義務。


ただディズニー&ピクサーはそういった余計な詮索を大衆にさせないほどのユニークさを備えるべく努力していると思う。
それはやっぱりそれぞれのストーリーにこめられたCG界やら周囲のメディアの環境を含めた風刺であり、そのつどきっちり押さえてくるテーマ性によって形成される一塊の価値観だといえる。
日本の作品はディテールこそマニアックでとても魅力的だけど、これが無いに等しい。

ディズニー作品はキャラクターデザインが、そのまさに性格としてのキャラクターと形態、テーマ性などと密接に結びついて、価値観が互いにクロスしている。そしてともすれば空気に近い感じにまで磨き上げられるがゆえ、かえって単体としての印象を落とすところまでつるつるになる。


ディズニーのユニークさはキャラクター設定そのものにある。
あくまでも漫画であることを忘れないというのが原則。
そこで与えられる自由度。
これを最大限活かしきるところに偉大さがある。

観ればわかることだけど、あえて書くと、
メインキャラクター以外のサブキャラの動きまでまさに芸術品のように美しい。
この美しさは「漫画」的であり、ようするに「風刺」の美しさである。
「風刺」を極限まで試している。
そのキャラクターの温度管理は、統一された質感によってなされる。
これは絶妙なスケール管理にあると思う。
それぞれのシーンのなかでからむキャラクター同士の比率がそのまま作品のユニークさにつながる。
つまりあらゆる意図が「作品」なので、一瞬たりとも目を離す隙など無いし、コンマ1秒たりとも手抜きが無い。


漫画だからこそなしうる表現というものがある。
キャラクター一人一人の性格を反映したスケール感、しぐさ、ものごし、すべてにおいて人を納得させるための表現に徹していて、単純な「人の動き」なんて次元で苦労していない。
ここが、モーションキャプチャーなどの技術寄りで、かつ低コスト管理的な話題からはほど遠い世界である。
モーキャプも使い方だと思う。普通コスト削減のために言い訳で多用されてるように見える。まあそれはいいとして。
いっときモーキャプ是非論なんてあったけれども当時からしてナンセンスなこと問題にしてるな~、なんて思ってた。


逆に考える。
モーキャプを必要とする表現って何なのか?


ではそこから導き出される、手付けアニメとモーキャプをシームレスに表現する手間だとかノウハウだとかは、実は何なのか?
ちょっと一般的ではないけれど、映画なんかの製作現場ではこういう問題に常にとりくむスタッフがいるわけだから。

ようするにこの世の価値観なんてそのときのトレンドにかなり左右されるものだと思う。
かといって左右されてばかりじゃ、真にいいものは作れないのも現実で、そのハザマをうまくコントロールする頭脳がピクサーのスタッフには在るということ。
そしてかなり早期から技術的な問題と本来の表現すべきことの温度の違いを正確に測っていた。
親和性を考えるのではなく。必要な技術だけを吟味していって、捨てるべきものはきっぱり捨て去ってきた。
そこに心の乱れは無く、ただひとつ「アニメ表現」というものがあり、「漫画のこころ」というものがはっきりあったと思う。
その規範にもとづくかぎり、「いらないものは要らない!」とはっきりとした態度でしめしてきた。
声高に技術を誇るなんて必要性がなく、作品のクオリティだけで勝負すべきだと貫いてきた。
この結果。


各キャラクターついて言うと、


まずお父さんは実は脇役なのだ。
もうすでに自覚あるヒーローとしてすべてのきっかけをつくる柱のような存在だから。
単に「力持ち」という魅力しかない。
女性から見たら「マッチョ」だから魅力的なんだろうか?
愛嬌があるし「やさしさ」という面が強調されるので、体つきはマッチョというよりもただ「ごつい男」っていうイメージで作っていると思う。


奥さん。
マニアにはたまらないと思う。
男性の目は釘付けのはずだ。
正直こんな便利な奥さんは「ほしい!」って思う。
そう、「便利」っていうのは実際重要なファクターだと思う。
この奥さんはだんなさんにとって非常に助かる、まさに「一家に一台」的な多機能性を象徴する存在としてデザインされている。
その結果ゴム人間に決定。
同時にセクシーな表現にもつながっていることも特筆しておく。
手塚治虫先生も言うようにメタモルフォーゼという行為そのものがセクシーを感じさせるという根本聖典にのっとっているかのような符合。


おねえちゃん。
「ひっこみじあん」ということで透明エフェクトと、「ひきこもり」ということでシェルターエフェクトを能力として備える。
こういう小憎らしい設定がアメリカン!
よくみるとカワイイ!という絶妙なデザインも秀逸。
奥さんとの美しさのバランスに注意。


おとうと。
これはもうそこらへんにいるちょこまかうざったらしい「ガキ」そのまま。
だから高速性能を備える。
わるものの島にきて、敵に追われてる時、陸地がとぎれて思わず水面を走ってしまい、自分の能力のすばらしさにあらためて感動するあたり、音楽による盛り上げ効果もあいまって、思わず感涙!!ここ泣くところだから注意してて!


そこから家族が合流するシーンはテンポを意図的に高速化し、視聴者をふりまわし、ありきたりな再会シーンを拒む作り!


「能力を介して解りあう家族」という感じ。


そういう新鮮な感動に気がつくようにとてもよく表現されている。特筆もの。
本人たちは必死で戦っていてむしろそれどころではないような状況を視聴者に見せることで、第三者からの俯瞰的視線を印象づけて、他人からみてその家族が「うらやましく」感じられるほどにしているのではないか、ととれる。
そういう視点の移動が制作の意図にはあるところだと思う。
ここにきて一丸となった家族の姿を目の当たりにする感動。
当の家族はそのことすら一瞬忘れるほどに動いていて、瞬間家族を認める。実ににくい演出。


あかちゃん。
これは最後までなぞの存在。
最後明かされる。


わるものの秘書。
奥さんとの美しさバランスに注意。
ストーリーがすすんで中盤からのメンタル的変化による表情表現にも注意。アニメート担当者の魂在り。


保険金の相談にきたおばあちゃん。
しぐさが最高にいい!
これだけで短編として成立するほどの美しさと完成度。
これだから目がはなせない!


会社の上司。
これもおばあちゃん同様、美しい!


デザイナー。
歩き方最高!
「ちび」ぐあいもいい。
足先まで魂のこもるフォルムとアニメート。
ここにも担当者の魂とセンスを感じる。


スケート選手みたいなヒーロー。
これは準主役的なサブキャラで力入ってる。
キャラそのものの表現は言うにおよばず。
空気中の水分を凍らせてスケートして突っ走る自分のコースを構築しながらすべるアクションは必見!
ここはおぷらんぷらんした手の振り方、氷柱の構築と崩壊のアニメ、スピード感など、鳥肌もの!
「幻魔大戦」の後半、主人公の「超能力!絶対零度!」を思い出した。あれよりもいい。
このキャラはそういうとってもおいしい役どころ。
すごくかっこいい!
まさに失われた伝説の再生といった感じで、ここらへんも涙もの!


あとインクレディブルが乗ってる黒い車。
ちゃんとアメリカンV8サウンドしてるじゃん!サイコー。
そうそう、なんかの商品のタイアップみたいなキャンペーンで応募するとコルベットC5が当たるてぇやつがあったっけ。
実は心憎いプレゼントだったんだってこと。


映像見てればわかる、やっぱりあの音にこだわってるところがアメリカ人にはある。
すくなくとも「これぞ!」と感じられるものが、あのフィーリングにはあって、あんまりシルキーにヒステリックに繊細に回ってもらっては「なにか違う?」とみんな感じてしまう。
なににも増して重要なものとしての「あの音を奏でる車」というものがある種の一定のステイタスにはちがい無いと思う。


それと随所に「家族」が風刺される。
高速の出口のタイミング指示で言った言わないとか、「あるある!」って感じ。

とまあ、こんなぐあいでピクサー的にも失われた時間をとりかえして「ざまあみろ!」っていう位置づけの作品だろうから、個人的には他のピクサー作品とは一線を画している。
強引な言い方だけど、たとえ意図して無くても、結果としてはそういうことにしてまちがい無いはず。

編集とか、画面作りとかもうこれに至っては手馴れていて、モンスターズインクあたりから完成の域に達していると思う。


今回はほんと、満を持して「人間」「アクション」を披露してくれた!
なんだか関係なしに溜飲が下がった思いがする。
これでいいんだよピクサー!


けっこうディズニー色薄いと見たけれど、どうなんだろう。
契約も一定の期間があったように記憶していたけれど、どんなだったかな?
わすれちゃった。
けっこう「節目」って感じかな?
かんぐりすぎかな。

ロックコンサート自体あまり行かないけれど、いままでは筋肉少女帯とかレッドウォーリアーズ、カヴァデール・ペイジ、イングヴェイ・マルムスティーンなどしか観に行ったことがない。
みんなそれはそれは楽しめた!


筋少は一番売れてたときで曲がキャッチー。


レッドウォーリアーズは最後のライブってやつをチケットがまわってきたので、ロックつながりの友人といった。
ちょっとステージが荒かったかな~って思ったけど、楽しめた。


カヴァデール・ペイジはもう感激!特にジミーペイジの実物だよ!どう?神様だよ。じわ~っときたもん実際。
でもスピーカーのギターの音が割れまくっていて、「こういうものなのかな?」って感じた。


イングヴェイ・マルムスティーンも安定した人気を得ていた「セブンス・サイン」のツアー。
これも曲がかなりキャッチーだったのでギタープレイも圧巻で観客はみんな圧倒されていた様子。
インギーももう神様の領域に近かったので、いいもん観たな!って感じだった。


それからだいぶあいだが空いての今回のジェフ・ベック様。


お客はけっこうなアダルト層でも登場するやいなや「座って観るなんて失礼じゃ!」といわんばかりの気分になるし、みんな立って観る。
そりゃそうか。


ジェフ・ベックはほんとマイペースな人だな~って感じ。


飾らず、おもむろに出てきてギターの音がちょっとしたかと思うとすぐに演奏がはじまった。

ん~、なんか普通~って感じで神様のはずの人がたんたんとほんの目の前でプレイしてる。
なんかそのあまりにも普通さがかえって不思議なくらいにやっている。
ちょっとお歳のことが頭をよぎった。
見た目は若く見える。
プレイも十分にやれている。
しかしやっぱり老いているにはちがいない。
だから以前観た「若い」人たちのステージにある、はじけるようなテンションは感じない。
ジミーペイジは曲や構成を巧妙につくってくるプロデューサーだからステージを盛り上げる努力をしてくると思う。
だから彼は別格。


ジェフ・ベックのステージは彼というギタリストのオンステージであって、ショウアップされたその他のロックアーティストのそれとは雰囲気が大きく異なることを知った。


かつてはロッド・スチュアートとの掛け合いなど、その手のはしりみたいな業績ものこしている彼だけど、そういう演出に対する努力はもうきっぱり卒業しているみたい。


ではギターそのものはどうか?というと、すごい!と思う。


ボリューム奏法と、ボトルネック奏法(?)、あとワウが組み合わさると彼の場合もうその出てくる音がひとつの塊として高い完成度を追求されたものなので、「え?いまのはどうやってるの?」的な演奏がふんだんに、、、というよりほぼそういう特殊技術でなりたっていて、全体としてあくまでもレガート。
呼吸でもするかのように、しかもすごくロックを感じさせる演奏で、たんたんと自分のイメージを刻んでいく。
個人的にはボリューム奏法が好みで、ボリューム奏法を使った空間的な曲が好き。
「ダイヤモンドダスト」的な曲とか、けっこう先入観もたずに観ていて、「ダイヤモンドダスト」はじまったときはうれしかった!
そしてすごく綺麗!
この曲はなんか7,80年代っぽいアメリカ映画を感じさせるような雰囲気だと自分で思っていて、そういう映像のBGMであったりエンディングであったりする曲のもっともクオリティの高い部類の曲(?!)なんていう勝手なイメージを持っている。
いい意味でアメリカっぽい。
フランクザッパの「ホット・ラッツ」に入ってるあれみたいな、なんかアメリカ~!って感じのいい感じな雰囲気。
ロックギターを聞かせるマテリアルとしてけっこうマッチしてるところがいいんだ。
そういう意味で「ダイヤモンドダスト」は美しい。
スペーシーですごくいい。


あと「悲しみの恋人たち」。
これもバラードっぽい曲で、ちょっといわくつきのスティービー・ワンダー提供の曲だったと記憶する。
ジェフ・ベック自身もこの曲はけっこう好きなんだと思う。
だっていい曲だし。
これのボーカル(スティービーのもと奥さん?)版もいいんだ。
芯のとおった、それでいて繊細でキュートな歌声が一発でハートを釘付けだよ。
CDもってなくて、CD出てたらなんていうCDだろう?
だれか教えて!


実際に観られて、「ああ、そうやってるんだ~!」的な発見もあった。


それ見ると、CDなんかで得るイメージからするにジェフ・ベックという人が高い技術を求めていて、オタッキーに、ストイックに、手の技術を磨いてるんじゃないか?!
って感じてたけれど、そういう自己満足でやってるわけではなくて、なりふりかまわず、「音」を求めているだけなんだな~って思った。
ボトルネックのパイプをピックアップ上でスライドギター的に小さい動きで使用して、ギター的でないフレーズを演奏してるところなんか、自分の無知ぶりはあるとしても、そんなに高度な技術!というわけでもない。
なのにジェフ・ベックのギターは一聴しただけで彼とわかってしまうのはなにゆえか?と悩まざるをえなくなる。


結局この人はギターの奏法にだけ興味があるといういう人ではなく、そのテクニックの凄さを売りにするような人でもない人なんだな~とわかった。
だからステージでの謙虚な雰囲気が妙にシャイに映ったりする。


当然ながらジェフ・ベックがロックに思い描くことってあると思う。


それが他者とけっこう違うってことはマチガイない。
売れたいとか、モテたいとか、ビッグになりたいとか、あいつらよりカッコいいロックしたいとか、いろいろ渦巻くロックの理想形。
そういうのは彼のいろいろな時期を通して人と変わらずあったと思うけれど、同時にプレイに筋金が入っていて、常に自分を進化させつづけている点。


ロックとは練習してきた技術の発表会ではなく、ステージ上で高揚しロック的に純粋に接近してゆく演奏のその過程を見せること。


長いスパンでは、つねにロックに対してピュアでい続けること。


常に未完成でいること。


ミストーンをも大きく包み込むかっこよさを湛える男気のあること。


ジェフ・ベックという人は他のひとのようなキャッチーで、派手なロックの側面を持たないかわりに、上記のような「ロックの核」を維持してきたと感じた。
だからこそ彼のギターは唯一無二と言われ続けてきたと思う。
そういうイメージがまずありきの人なんだな、と改めて認識できた。


そのイメージって、簡単に言うとそれは「かっこよくて、美しいロック」ってことだろうと思う。
シャイとも感じられるものごしからロック感だけは常にがっつり伝わってきていた。


演奏の終わり方、はじめ方、つなぎかた、美しさへのアプローチ、そういうところどころに「ロック魂」出ている。


美しさを追い求めるということにけっこう正面から取り組んでいて、美しい=ロック、という公式の証明もなしとげてると思う。
だれにでもあてはまるわけではないので、「公式」とは言わないかな。
やはりジェフ・ベックの個人の趣味性がかなりの程度「美しさ」に向いていて、ごく自然に体内でロックと融合する。


この純度がまさに彼なんだ。


逆にロック面から言うと、「美しさ」の効果はジェフ・ベックといえばそのプレイの切れ、といわれるくらいのその「切れ」を生み出すのも「美しさ」という概念がベースにあったればこそだけど、それに相反する「ロック的」なこころが、演奏全体に自然なワイルドさを維持させていて、いつまでも若く、生々しくロックな感じがするのはそのせいかと思う。


あとジェフ・ベックは歴史の重みも認識していて、いろいろ関係性のある曲目とか意識的にいれていて、「ベックス・ボレロ」の重要性とか、ジミヘンのナンバーとか、オーバーザレインボウとかちょっと考えさせられるし、複雑な思いにさせられる。


そういうこと全部しょって今演奏できるやつなんて、そうそういないだろ!?とでも言いたげな、そんな感じかな。
クイーンだって一世代後だしね。


おれクイーンはかなりいいと思うけれど、心底燃えないんだな~、なぜだか知らないけど。
かなりいいバンドだけど二の次って感じ。
意味が違うと思うよ。彼らは。


だからジェフ・ベックなんかのスタンスが非常にわかりやすく、その差を理解させてくれるって考えに至るといいの。
ほんと今のうちに観ておいてよかったと思ってる。
いままでこんな人を観なかったことを多少後悔していたりもする。

やっぱし「CUBE」すげぇや.....。


アイデアがよく取りざたされるから、単なるアイデア賞ものって印象強いけれど、
シニカルな味付けが随所に埋め込まれて単純な構造に深みが加わっているところを評価すべき作品。
スプラッタとは一線を画す品格はだれにでもわかるし。


旧い記憶では、このキューブの巨大な外観が、晴天のどこか荒野にぽつんと立ってるさまを
離れたところから見ていて、屋上に脱出してきた一人の人間が呆然としているような、そんな絵が、
記憶に癒着していた。
でもラストにもそんなカットは無かったので、自分勝手なイメージだけの記憶だったろうと思う。


これはおそらく、あまりにも単調なセット構造のため、視覚情報が限定されてしまって、
自分なりに夢みたそのキューブの「外」を強くイメージしてしまった結果だろうと思う。
この映画のすごいところ、のような気もする記憶。
描かれない本当の外観を想像する愉しみっていうか、そういう表現はかっちょいい!


見返すと、トラップの種類もあんがいジミでバリエーションというか、映像効果もたいして作りこまれていない。
冒頭のワイヤーのグリッドでトコロテンのように刻まれるシーンだけは、この映画にして、かなり凝った部分といえる。
ここのみ、スプラッタ系の物理的な人体破壊のアカラサマなシーンとなっている。
ある意味サービスカットともいえるところで、こういうシーンを他に用意していないところがエレガント。
ただただ、なんにも無いキューブの連続の中に、恐怖とのみ同居する時間の経過が描かれる。
非常にうつろな表現者のマインドが覗ける。これも在りって感じか?


登場人物が人生について話すくだりがある。
考えてみれば、これは人生の縮図に相当する構造ともとれるってわけ。
6っつの道のどれを選ぶか?
6っつに見えるけれど、どのドアも確率は五分五分だから単純で、人生の分かれ道という感じ。
そもそも人生における選択の良否なんて、結果論であることが一般的だし、妥協によってどうにでも解釈可能ではないか?と考えさせられる。
ということはそもそも「この道は安全!」とかいう「答え」を欲すること自体が変なのか?
でもこの環境はちがう、間違っていたら即死だ!
結果が目の前に突きつけられるから怖い。
だからこの異常な環境からみんな脱出しなければならない。
状況からして急がされる。
人生のそれほど悠長な時間は無いって寸法。
こういった状況がまた変に人生のように見える。
そういう内容だから、スプラッタのシーンに不必要なお金などかける必要が無いわけ。


賢さは、まずアイデアは思いつきだとしても、そのアイデアを単純なものにしておかなかったという、
脚本のしたたかさにこそあると思う。

登場人物はそれぞれ経歴だけもって、この不可解なゲームの中に閉じ込められる。
はじめ経歴に応じてそれぞれがそれぞれの規範のかなでそれぞれ自身であろうと努めるが、
そういう精神の均衡も崩壊してゆく。


無限に継続する地獄の中でその経歴にしばられない弱い人間そのものの表情も描かれていて、
ある意味でほほえましくも見えるし、なんだかそういうところって救いにも見えてくる。


映画的だな~、って感じるのは、このキューブ構造の建物の内壁などのカット。
巨大さを表現するためのはてしなく続くかに見える虚構のパース感が素敵。
こういう嘘っていうか、極端な映像表現とあいまって醸し出される閉塞感からくる絶望感がたまらない。
つまりこういうのは「味付け」。
立方体のセットを二つつないだだけのセットで撮ったとか、っていう有名なアイデアも、
こういう「味付け」が優れているから活きてくるんだな~、って。
勉強になるなる!


ちなみに「CUBE2」は見てない。
この一作目の構造上のテンションは2作目の存在を許容するんだろうか?
はじめ「マトリックス」でもそう感じた。
あれはもう一個目のあれでいいよ~。って感じ。
しかし賛否両論あるとは思うけれど、まあ、2,3もべつにあってもそれがそんなに「悪い」ってわけじゃない。
それぞれの美点は確かにあるわけだし。
ただ、一貫したものになるかというと、なかなかそうは行かないのが常なように感じる。

猿拳ベース。
酒で威力を増すような設定。
「一掌四式」というのが絶招。
超人的に強いお師匠さま。
おっちょこちょいな主人公とサブキャラ。(でもイケメン)
カワイイ女性キャラクター。
あのリュー・チア・フィーも出てる!
まさに王道。


と、こんな感じでほぼ言い尽くしちゃってる。


でもなかなかたのしめる映画。


おきまりのコメディータッチで観ていてたのしい。

いつも思うけれど、カンフー映画ってそういうつくりのなかでさらっと本物やってみせちゃうところがすごいと思う。


映画のなかのお約束だからって?


いやいや、それでなかなか生活観とか入ってるでしょ。
ごくごく自然な存在だからこそ、ああしてコメディーで茶化せちゃう。
アクションはお約束なんだけど、それにしても原理的にさほどはずれたことはしてないと見えるんだ。
それをいくぶんわかりやすく、その動作だけ大げさにみせてくれてるってこと。
そりゃリアルなこと言ったらきりが無いし、それって微妙な角度やタイミング、シチュエーション作りの問題だったりするわけだから、逆に映画のアクションの中にも秘伝に繋がる動きなんてごろごろしてるんでっせ。
わかってんの?


技が技だけじゃ成立しえないってことだよね。


それについて考えるのが「武術」ってもんでしょう。


たぶんわかんない人は本物の動き見せられても、たぶんあんまりわかんないと思うぞ。
速すぎたり、単純すぎたり、あんまりかっこよくなかったり。
理想とは違うからね。現実は。


でも本当の強さってのは、そういうものだし、カンフーってそういうものだといえる。
最強論なんてとっくのむかしにかたがついてるはず。
だって歴史長いもん。


よく昔の中国大陸で、都市部がそれぞれはなれていたから、いくら強いといってもお山の大将だった、なんて理屈あるけれど、それもいえれば逆も言えるはず。
どんな強い人がいたかわからないじゃないか。


それに昔の交通事情とか、昔の人の基礎体力とか、距離概念を現代のそれと同じに考えるといけないと思う。
昔の飛脚の足のはやさなんてすごかったらしいじゃないか。
中国の距離感もいま乗り物基準に考える感覚では非常識なくらい長い距離の移動を、それほど苦にしていなかったらしい。


異文化交流というのも、いまから想像するよりももっともっとあったと思ってなけりゃ読み違えると思う。
それに現代にしたって、みんな全て知ってるふうなこというけれど、世の中はやっぱり広くて、知られないファイターとかまだまだいると思うよ。


そういう基準のありそうで無いのが現実なんだから、昔だってそういう現実のなかで生活してたんだよ。
「いまからくらべて」、なんていうのはナンセンスだ。

こんな比較的平和な時代に。


それにさ、いま50歳くらいのおっさんの腕の血管とか全体的にぶっといっての聞いたことあるでしょ?

それって基礎身体能力的には現代っこよりも高いと言えるんじゃないの?

合理的なトレーニングだけが正解じゃないんだよ。

食べ物の質の悪さも実際は内臓機能を高めてるはず。

いまのめぐまれた健康食品とか高たんぱく高カロリーとか、プロテインとかの助けを借りないで、作られた強さっていうのはどんなものか?

昔の写真とかにあるじゃん、すごく引き締まった労働者の体。


昔のゼロ戦乗りの脅威的な視力と体力。

そういうひとが長く生き残っている事実。

召集まえは過酷な状況で農業に従事していた青年だったりとか。


たとえばジムで効率的に作られた筋肉と、工事現場で長年培われた筋肉では、見た目も機能もぜんぜん違うんだぞ。おれなんて親の見てるから知ってる。

見た目強くは見えないんだけど、実際力はものすごかった。

こういうのは本物なんだろうなって思う。

その時代その状況にはそれぞれの合理性ってもんがあったに違いないし、状況は悪いほど、そこに生きるものは強いはずだ。


そういう歴史があるので、カンフー映画には生活感があるし、その中にカンフーが密接にある。
そして映画はコメディータッチに非常にわかりやすくかっこよく理想的に描かれてるという、そういう目で見なきゃだめなんだよ。


K1だってなんか最近いんちきくさいじゃん。
レギュレーションの無いF1みたい。(F1はF1でレギュレーションってのもなんか?だけど)
武術っていうのはそういう見世物の範疇に無いので、無知な人たちの目の前で見せる類の性質のものではないと思うんだ。


カンフー映画ってのはだからありがたくて、はじめすごいなんて思ってて、ちょっと訳知りになってくるとなんだかうそ臭く見える時期もあるけれど、実際本物ってなんだ?って考えたり、触れたりしてみると、カンフー映画の持つ本当のすごさってわかってくる。武術の意味と同時に。
それがはたしてハリウッドはわかっているのか?
これは疑問だと思う。


反ハリウッド派で有名なこの映画の監督、そしてお師匠さま役のこのおっさんは、やっぱりすごい「師父」なんだと思う。
そういうこだわりは大事だと思う。

デコはなつかしい。


実際肌に触れていないはずなのになぜだかなつかしく感じる。
実はかつて触れていたか?
そう思って古い記憶にダイブしてみる。


せいぜい自分が小学校に上がるか上がらないかのころ。
あるいは、小学校低学年。
町で見かけるもの。
自動車くらいしか思い浮かばない。


それ以外のものには、なにか特別な感慨を持っていないことに気づく。
目の前で大きな物体が行きかっていた状況ってだけで、少なくともクルマって、幼い記憶にもあるていど新鮮に残っているもんだな、って思う。


いすずの117クーペ、トヨタのスポーツ800、オート三輪、ロータスヨーロッパ、チェリークーペ、なんだかそういう造形に少しは惹かれるものがあったようで、確かにこいつらは記憶にも鮮烈に残っている。

どことなく雰囲気のあるラインナップだと思う。


クルマの知識なんてなんにも無いので、セダンはセダン、そういう一塊の群集にしか映らなかった。
その中でも、キャラクターの際立ったクルマはやっぱり覚えてる。
いまにして思えばこういう時期の車にやっぱりレトロ感を強く抱ける。
これより古くなるともうレトロじゃなくて「骨董」って漢字で書きたくなる。


注目すべきはやっぱり見た目、その形であって、さすがにオート三輪は当時からしてもそのほかの車と同じで「めづらしかった」ってだけなんだけど、一様にして言えるのは、ある種の「流線型」だと思う。


この「流線型」ってのはアールデコについてちょっとでも感心持ったことのあるひとならみんなわかってると思うけど、よく言われる、飛行機のもつ造形のイメージをクルマなどのスピードを印象づけるために拝借したものだ。
列車などにも多く取り入れられて、こういうある種の「稚拙」なレベルの「空力」のための造形が、いまやアールデコとされ、レトロである。


そういう意味で、自分にもあるていど「なつかしさ」として捉えられているアールデコというものの「なごり」は、こういう小さいころに見た自動車なんかに認められる。


うちの親の乗っていたおんぼろのブルーバードのボンネットの中にコバルトブルーに塗られていたかたつむりのような奇妙な形のスチール製の物体、おそらく今おもうとエアクリーナーだったんだろうね。
そういうスチールのプレスされた感じにもレトロ感がある。
ただプレスしたんじゃへなへなだから剛性を加えるためにつけられたラインとか、そういう「必要上の造形」にやっぱり古さを感じてしまう。


ただ、それは自分の感じうる「レトロ感」であって、アールデコのそれとは本質的に異なる。
ここらへんが時代の重ならない悲しさっていうか、限界。


アールデコっていうのは、いわゆる感覚上の単なる「レトロ」とは違うものだと思う。


やっぱりいくらなんと言おうとそれは「工芸品」の域を出ないと思う。
工芸品から工業製品に移り変わろうとして、それでもけっきょくなんだかんだ手で作っちゃってる、いわば


「手工芸による工業製品のイミテーション」


とも言えるものだと思う。
逆説ってみんな好きでしょ?


クルマで言っちゃうとこれはっきり言ってフェラーリなんかそのものずばりアールデコ的といえる。
カタチはともかく、精神とか気持ちの上で考え、それを実践してしまっていたという点、フェラーリは現代において、長くアールデコ的だったといえるみたい。
こと手法に限って言えば、そういえないこともないのは確かだと思う。


アールデコで試みられた実践はどれもみんな、「これ!」っていうものは無い。
ただ、展示で多く見られたのは「カルティエ」だとか、そういうブランドの手がけた宝飾品類。
たしかにものすごくぎらついて、これこそ本物のアクセサリー!という威厳すら感じられた。
ここまで下品に輝きを欲してここまで作りこむところにその価値があったのを見ると、妙に複雑な心境にもなる。


アールヌーボー後のそれを引き継いでいこうとする姿勢も見受けられる。
でもそれは大きなムーブメントの過渡的な魅力の一端を担うだけ。
大きなムーブメントはやっぱり「流線型」。
と「幾何学」。


「幾何学」の発想のもとはエジプトのヒエログリフだということは初めて知った。
ツタンカーメンのお墓の発見はそれほど衝撃だったのだ。
ヨーロッパ人の目にとまったのは必ずしも学術的興味からだけではなくて、副葬品として出てきたその黄金と宝石のお宝のほうであったと想像する。


そこにものすごいロマンとインスピレーションを感じて、デザインに取り入れる。
というより、ほぼそのまま模倣する。
いまでいえば「ツタンカーメンTシャツ」「スカラベ携帯ストラップ」みたいな雰囲気だろうと思う。
そういうノリってのはいつの時代もいっしょだろうと思う。


「イミテーション」的発想度合いは強いと思う。


たとえば展示されていたドレスでも、ほんらい立体的な自然な生地のつくる「ドレープ」を、絵画から切り取ってきたもののように、平面で表現つくっていたりする。陰影も含めて。
こういう発想は、じつにアールデコ的だと感じた。
なぜかはよくわからないけれど、この「一定の胡散臭さ」自体にあるていど自覚的だった証ともとれる。
「絵画から抜け出てきた貴婦人」とでも言いたかったのだろうか?
それとも、工芸品の終焉を皮肉って、その状況をあえて手工芸してみせたのだろうか?
とにかく行為としてはわりと理解しづらい表現だと思う。


「置き換え」というひとつの「手法」に見えたのかもしれない。


置き換えというものが起こっている周辺事情を素直にもてる技術で表現してみたかった。
ほんらいの置き換えとはもっとえぐいものだったのに、まだそこに既存の価値観でいっても行けるものとのはかない楽観があるように見える。
だからアールデコってむつかしいんだ。地味だし、どことなく胡散臭いからとっつきづらい。
だからあまり多く語られない。


それでもこの時代のかぶってきた情勢っていうのは極めて重要な時代なんだ。


ようするに第一次大戦と第二次大戦を両方とも経験している時代のムーブメントってこと。
この時代の前後で、絵画もデザインという概念も、資本主義も、すべて大きく意味を変化させてるってこと。

昔の古い写真にうつる、どことなくなつかしい造形は、そのコケティッシュな姿に似合わず、史上もっとも過酷で凄惨な時代に作られたっていう事実がある。
こういうイメージもあまり多く語られない理由になっているのかもしれない。


昔の戦闘機、戦車、銃器、列車、道具、みんなアールデコの遺産で、当時ワイマール共和国から離散していったすぐれたデザインの遺産でもあると思う。(スーパーカーとかみんなそうなんだぞ)
そうしてみると工業とか経済とかデザイン、宣伝、芸術なんかが、みんなひとつの時代の動きにシンクロしてゆく。


「どこのだれだれがかいたなになにという絵」

といったそういう単純明快な紹介のしにくい時代がかつてあったということかもしれない。
すくなくともそれを経てきた現在とのギャップもはなはだしい。
しかし明らかに経済とかデザインはそれの延長線上にある。


芸術が単純な個人の表現といえなくなってしまった時代のその先端だったのがアールデコなんだと思う。


「~工房」とかいう形態を省みる試みがバウハウスだったけれど、それも時代につぶされてしまった。
結果、多くの才能が各国に流れた。アメリカンデコや、イタリアンデザインと形を変えた。
その時代はまさに第二次大戦のほんの夜明け前。
こういった経緯は「デザインのデザイン」という本で読んだ。
これすごくいい本だと思う。


それと、アールデコってのはけっこう地味だけど、アールヌーボーよりは直接現代に繋がってるという意味で、掘り下げるならむしろこっちだろう、っていう気がしてならない。
「萌え萌えアールヌーボー」よりは、少なくとも。

すごくかわいいチェブラーシカ。


目線がかわいい小動物。


人からDVDを借りてみたけれど、はじまるなりそのかわいらしさにガツンとやられたけっこう自分にとっては稀有なアニメ。


アニメってこういうピンポイント的な良さを表現するにはうってつけだと思う。
いわゆるアートアニメっていうのはそういう作品が多いと思う。


普通に面白く、グローバルな評価を意識して作ったアニメっていうのはあんまりアートアニメとは言えないって、勝手に思ってる。


あとは、アートアニメっていうとちょっとイメージ寄りというか、映像の面白さをストレートに表現しようとするとこんどはキャラクターがつまらなくなったりして、そこんところは作者のバランス感覚が、いったいどっち寄りなのかな?ってことで違ってくると思う。


「チェブラーシカ」はそこいくと、かなりキャラクター寄りで、あまり表現がどうのこうのという「アート」な理屈を感じない、だれにでも好感のもてるかわいいアニメ作品だといえる。
アート、アートって声高に聞こえてこない感じが好感もてる。


チェブラーシカとワニとおばあさん、というレギュラーメンバーの設定があってシンプルでわかりやすいし、キャラが立ってる。
こういうとこの意識をみるにつけ、ありがちな映像実験作的雰囲気から一歩ぬきんでた「作品」としても価値がちゃんと認められる。


なににせよ、「かわいらしさ性能」において、チェブはとっても高いポテンシャルを持ってる。
癒されること間違いなし。


そういえばたしかに癒されるよこれは。
仕事に疲れて夜おそく帰ってきて、時間もはんぱで何もやる気が出ないときとか、わけも無くブルーで孤独な休日とか、そういう日のひとときのあなたの心のすきまをほんのり温かく埋めてくれる作品だってことはまちがいない。
そういう使い方ってすごくいいと思う。


アニメとかに限らず、こういうものの質感ってやっぱりあるていどお国ガラってけっこう出るのかな~って思ったりする。
ストップモーションアニメだし、いちいち手でちょっとづつ動かして、タイミングを計りなからアニメになるように動かしていく過程で、その意識がにじみ出るのではないか。
そう思う。


あるいはそういうモノ作りが出来ているってことかな~。
商売をあるていど度外視したものが多いからかな。やっぱり。
そうでないとああいう「熱」のあるクオリティにはなんないよな。
そういう表現に入れ込むって気持ちとか、パーソナリティってのがそう感じるだけなのかな?
別にチェコとかロシアとかってだけでそれが出来てるってわけでもないはず。
そういうものが多く作られる土壌のようなものがあるなら、それはなんなのか知りたいと思った。
だれか教えてちょ。
ていうか、自分で調べろって感じ?


ところで、ある種、こういうアートアニメってのはマイノリティな文化でサブカルチャー的なものだといえる。
でも最近このサブ的なものがサブ的扱いのまま、ごく普通のお店にならんでいる。
「萌え」とかね。
なんだか奇妙。


「サブ」っていう「商品」なんだよね、いまの世の中。


だからその商品カテゴリーにのっとったものを作ってしまえばいいってこと。
それもまたやり方だとは思う。


まあ、そもそも「サブカルチャー」なんていうおしゃれめいた呼び方ですら、奇妙で奇態な未知の価値観を自分の認知下で支配しようという体制側の思惑みえみえな感じ。いやらしいことこの上ない。
「ファッションリーダー」なんていう呼び方も、そう承認された時点で、企業の子飼いみたいなものに変化すると思う。


もともとアジアにおいてのそういうカタカナ語の概念はあっち(アメリカ、イギリス)から輸入されたすでに2~3年型落ちの概念らしいけれど。

お笑いだよね。


それをさらに韓国、台湾なんかがそのまんまうけうりで輸入してる。
でも市場はそれで十分だと考えてるわけだから、それ以上の価値観は生まれない。つまりそういうシステムってことだよね。


韓流、韓流言ってても、本当に価値を認めているわけじゃない。
こちらで勝手にそういう目で見ているだけ。
当人たちは、もっとかっこよくなりたいと考えているんだから、いつまでたっても本来的にかみあわない価値観。


企業ってのはきっともっとえぐくて、「一般」と「自覚的な少数派」を裏できっちり操ってると思う。
そのギャップから生まれる温度差エネルギーを「商品」に換えて売りまくってるって感じ!

言い得て妙だと思わない?


ロックももともとはいわゆるサブカルチャーで、特にプログレなんてまったくアンダーグラウンドなものだったと思う。
ロックからもジャズからもあぶれたエネルギーとかフラストレーションだったことと思う。
それがキングクリムゾンで、それ以降の価値観の安定した状況でのプログレってのは、たしかに内容は似ていても、やっぱり似て非なるものなんじゃないかと言える。


このほか、詩に問題のあるとされたロックだとか、数えればけっこうあると思う。そういう言いづらいこととかを言うこと自体がその本来の立場だとも言える。


流通に乗るとか、そういう商品のジャンルとして単なるカテゴライズしてしまおうって意識はつまり、そういうことで、価値としては初期ムーブメントの持つものとは異質となる。
これだけは良し悪しにかかわらず、言えることではないかと思う。


初期の輝きが鈍いものに変わり、意味を失い形骸化、崩壊を経てさらに概念だけは洗練される。
思想ってそういうもんだと思う。
実践しないと磨かれない。
だから行動の伴うものなんだ。
理屈も必要、行動も必要。
そしてなにかが壊れて、滅びて、誤解やら錯誤が改められていく。


なんとかイズムって小難しいことから距離を置いているようにみえる一見クールなあなたも、実際いまこの日本に生活している以上、「~イズム」っていう考え方の規範の中でものを考えてるはず。


商品が棚に並べられてそれを買い求めるその欲求そのものがコントロール下におかれてる。
すくなくとも、ものを作っていくことが仕事の基本となるのなら、そういうことをまじめに考えてとりくんだほうが、やみくもに思想的なことを忌避するよりもはるかに健全だと思う。


どちらかに偏るのもある種の勇気だし、はるかにエネルギーを必要とする。


会社の構造はそれを容易にしない。
やっぱりそれぞれの立場ってもんがあるから。
だからいちばんの法律は自分なんだと思う。


「ニート」ってものを肯定する気もないけれど、うすうす感づいてるからだと思う、若者は。


たしかにほかにやるべきことはいくらでもあるんだけど、確かに自分で心の中で諦観を極めてからでないとなかなか行動に移れないような気持ちもわかる。
そこから逆に諦めでなく、なにか興そう!ってエネルギーを振るえる若者だって居ると思う。
認めざるをえなくなってから人は認める。
それまではひたすら黙殺する。
そういう立場をとっておいて、ただただ「ニート」っていってみたりするのって、いわゆるそういう「主義」なんだと思う。
それが自覚されるべきだとかなり思う。


よく古い人間はその当時の状況に流されたことを絶対的な状況だったかのように若者に言って聞かせる。
それは間違い。
あきらかにまちがい。
認識の限界のなかにたまたま自己が在ったにすぎない。
だからそれを人に語るということには注意をしなければならないはず。
それはもうその人の非常にローカルな「イズム」でしかないわけだから。
よって、そういう基準で今の若者を評価すべきではない。


まあ、多少腹に据えかねるという気持ちはわかるけど....。


っていうかさ、なに言ってんの俺?って感じ?
「チェブラーシカ」だったような気が.....。
ま、いっか。