最近の北野武監督版と勝新版との比較。
「居合い」っていうのが一つの大きな要。
とにかくこれが無かったら「座頭市」はなりたたない。
その技がとことんすごいから「市」のキャラクターが成立してる。
だからすごい居合いを描くことに関しては、この映画はぴかいちだ。
このぴか一というのは世界的にぴかいちだということを、まず認識する必要がある。
アメリカンなアクションで言えば西部劇に似ている。
あのお互いが向き合ってする立会いにすこし似ているね。
ショートレンジかロングレンジかという違いだけ。
いわゆるちゃんばら映画では無いと言える。
ちゃんばらにもつれる前に済んでしまってるから。
ともすれば「ちゃんばら」に陥ることがある。その危険を孕んでいることろが鉄砲とちょっと違うかな。
鉄砲はとにかくズドン!
逆にちゃんばらに近いのが、カンフー映画。
打って、受けて、打ち返して、受けられて、また打って、.....。とそういうたぐいのアクションを見せる造り。
同じカンフーとはいえ、これとちょっと違うのがブルースリーってわけ。
「燃えよドラゴン」でオハラとの立会いの時、手の甲をあわせてから瞬間スパーン!と決めるあの感じ。あの映画の中でいちばんかっこいいあの場面。出鼻のああいう展開は実際にはよく使われる。居合い的だといえる。
ほんとうにすごいものを映画の画面に映し出そうとすると、それは速すぎて映らないってわけ。
またまたこれと逆な発想なのがマトリックス。超高速撮影のような表現で本当は映像に映らないはずの「速さ」を「売り物」に変換してしまったハリウッドの商魂はすばらしい!
そこいくとわれらが勝プロダクションはちがう。
速さを編集技術で、美しい芸術的映像にして表現する言語体系を持っているといえる。
「残心」というか、一瞬の集中と斬ったあとの(映像表現としての)溜め。
これのバリエーションとその質の高さはやっぱり世界的にぴか一だと思う。
北野監督版はこういう世界に属さない。
もっともっと社会的な表現と含蓄に傾斜していると思う。
民衆のあし音をタップにして表現してる。
一般人なら足音を忍ばせない。
「農民」の「地に足をつけて生きている」というイメージを視覚化したもの。
生活のにおいをミュージックにして表現している。
対照的に「市」の足音は聞こえない。
存在が浮いた存在ということである。
これは「一般」から「市」という存在をきりはなして描きたいからである。
なぜか?
市は目が見えているということ。
なぜ眼をつぶっているか?
それはおそらく眼の色によるなんらかの社会的差別を暗に想定しているのだと思う。
按摩という職業自体昔はそういう分野の仕事だったのではないか?と勝手に思う。
「あえてそういう身分に身をやつしている市」という図式。
市の正体に隠されている寂しさというか社会的悲劇性というかマイノリティとしての身の置き方のようなもの。
かんぐるとこんな感じになると思う。
世間が言うほど、単なるエンターテインメントではなく、けしてタップで奇をてらった、という代物でもない。
勝新を越えようとしたのでもない。映画としていま作られるべき「座頭市」のカタチをきっちりつくっていると思う。
しかし勝新のものも「不知火検校」という悪役な按摩さんの話がもとになっているとのこと。
もともとそういうダークな面から生まれてきたキャラクターではある。
「居合い」っていうのが一つの大きな要。
とにかくこれが無かったら「座頭市」はなりたたない。
その技がとことんすごいから「市」のキャラクターが成立してる。
だからすごい居合いを描くことに関しては、この映画はぴかいちだ。
このぴか一というのは世界的にぴかいちだということを、まず認識する必要がある。
アメリカンなアクションで言えば西部劇に似ている。
あのお互いが向き合ってする立会いにすこし似ているね。
ショートレンジかロングレンジかという違いだけ。
いわゆるちゃんばら映画では無いと言える。
ちゃんばらにもつれる前に済んでしまってるから。
ともすれば「ちゃんばら」に陥ることがある。その危険を孕んでいることろが鉄砲とちょっと違うかな。
鉄砲はとにかくズドン!
逆にちゃんばらに近いのが、カンフー映画。
打って、受けて、打ち返して、受けられて、また打って、.....。とそういうたぐいのアクションを見せる造り。
同じカンフーとはいえ、これとちょっと違うのがブルースリーってわけ。
「燃えよドラゴン」でオハラとの立会いの時、手の甲をあわせてから瞬間スパーン!と決めるあの感じ。あの映画の中でいちばんかっこいいあの場面。出鼻のああいう展開は実際にはよく使われる。居合い的だといえる。
ほんとうにすごいものを映画の画面に映し出そうとすると、それは速すぎて映らないってわけ。
またまたこれと逆な発想なのがマトリックス。超高速撮影のような表現で本当は映像に映らないはずの「速さ」を「売り物」に変換してしまったハリウッドの商魂はすばらしい!
そこいくとわれらが勝プロダクションはちがう。
速さを編集技術で、美しい芸術的映像にして表現する言語体系を持っているといえる。
「残心」というか、一瞬の集中と斬ったあとの(映像表現としての)溜め。
これのバリエーションとその質の高さはやっぱり世界的にぴか一だと思う。
北野監督版はこういう世界に属さない。
もっともっと社会的な表現と含蓄に傾斜していると思う。
民衆のあし音をタップにして表現してる。
一般人なら足音を忍ばせない。
「農民」の「地に足をつけて生きている」というイメージを視覚化したもの。
生活のにおいをミュージックにして表現している。
対照的に「市」の足音は聞こえない。
存在が浮いた存在ということである。
これは「一般」から「市」という存在をきりはなして描きたいからである。
なぜか?
市は目が見えているということ。
なぜ眼をつぶっているか?
それはおそらく眼の色によるなんらかの社会的差別を暗に想定しているのだと思う。
按摩という職業自体昔はそういう分野の仕事だったのではないか?と勝手に思う。
「あえてそういう身分に身をやつしている市」という図式。
市の正体に隠されている寂しさというか社会的悲劇性というかマイノリティとしての身の置き方のようなもの。
かんぐるとこんな感じになると思う。
世間が言うほど、単なるエンターテインメントではなく、けしてタップで奇をてらった、という代物でもない。
勝新を越えようとしたのでもない。映画としていま作られるべき「座頭市」のカタチをきっちりつくっていると思う。
しかし勝新のものも「不知火検校」という悪役な按摩さんの話がもとになっているとのこと。
もともとそういうダークな面から生まれてきたキャラクターではある。