新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》 -16ページ目

新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》

謎に満ちた迷宮のギタリスト、新津章夫のオフィシャル・ブログ。迷宮の森 《Forest in maze》

「I・O」のCD盤は「音楽の基礎研究」というシリーズ(ブリッジ・レコード)の1枚として再発された。付けも付けたり、というタイトルだと思う。そのシリーズを象徴する、あるいはシリーズに恥じない一曲が「オレンジ・パラドックス」であります。

 2分12秒と短いこの曲は1分6秒の地点を中心に、最初から聞いても最後から聞いてもまったく同じ曲に聞こえるように作られている。しかし、この曲のそういった構造については、どの資料にも明確には書かれていない。題名からの類推、制作サイドからの漏れ伝わった話、あるいは、数少ない新津章夫のインタビューなどから知った一部のファンの間で語り草となり、アナログ盤発売から四半世紀経った今も、この曲がいかに先鋭的な実験に富んだ曲なのか、ネットのどこかで噂されているのだ。

 このBlogにもさんざん書いたけど、新津章夫の曲作りのひとつの技法として、シンメトリーやパラドックス、アンチクライマックス、クラインの壺、メビウスの輪など、思考や論理や視覚における不思議を音に表すというのがある。

 1960年代、70年代にはそういった実験的な音楽というのがさまざまな分野で作られていた。その中のひとつに「無段階音階」記憶が怪しいけど…)みたいなレコードがあって、これはドレミファソラシドという8つの音階がいつまでたっても上に上がっていかないというもの。タネを明かせばミキシングの技術で下のドと上のドを摩り替えているのだ。

「オレンジ・パラドックス」はこれに大きなヒントを得ている。いつまで立っても上昇しない音階。最初から聞いても最後から聞いても同じ曲。ともに、論理的な遊びから音楽が作られている。

 正直言って、「オレンジ・パラドックス」は心地よいメロディーでもなければ、カッコいいフレーズもない。辻褄を合わせるための音の羅列に他ならない。

 しかし、コンピュータのない時代に、しかもアナログ録音で、どうやってそんなものを作れというのか? これもBlogで書いたけど、前半部分を録音したテープを逆回転させて、その音に近づけるようにひたすら練習するのだ。まるで偽札を鉛の版から起こすように…。

 新津章夫はギタリストというよりもアレンジャーであり、エンジニアである。しかし、アレンジャー新津章夫、エンジニア新津章夫の求める音を実現させられるだけの技量を持ったギタリストでなければ、逆回転音楽も倍速ギターも何も生まれない。卓越したギター・テクニックを持っていたからこそ、このような実験音楽を具現化できたのだ。

 ちなみに、バックに聞こえるリズムは、エーストーンかローランド(どちらを使ったか、記憶が…)のリムズボックスであります。もちろん、打ち込みもなんにもできない、「ルンバ」とか「マーチ」なんてリズムがあらかじめセットされている、アレ。そして、1分6秒目の「ピッ」ですが、これはシンバルの音です。その前からのジリジリジリジリはシンバルの音の減衰音です。それを加工しました。シンバルのアタック音が逆回転では「ピッ」になるので、二人でひっくり返って笑った記憶があります。

 今や曲作りのテクニックとしては古典となっている「輪唱」。これなども元を辿れば、まず構造的にこうやったら面白いのではないかという論理的な曲作りがあって、それを音に現した結果が、♪ある~ひ、もりのなか、くまさんに、であり♪ゲロゲロゲロゲロクワックワックワッになったのだと思っています。

 新津章夫が取り組んだ、逆回転音楽を現代のそして後世の音楽家たちが、ぜひ美しいメロディーで誰もが楽しめる形に仕上げてくれれば、それは輪唱などと並ぶ音楽のテクニックのひとつに育つのではと、誠に淡い期待をしているのですが…。

 プライベートではほとんどギターを触らない新津章夫でしたが、家にいてギターを弾いていたときは、必ずといっていいほどジョー・パスのスタイルのジャズを弾いていました。
 つまり、ブルースのコード進行を基本として、5、6弦でベースを弾きながら、途中途中にコードを挟み、アドリブを弾く。
 その演奏を聴くたびに、この人、本当に天才だなぁと関心したものです。
 ジョー・パスのことを新津章夫がはじめて知ったのは、この「VIRTUOSO/ヴァーチオーゾ」というアルバムをラジオで聴いたときでした。高校時代からジャズは好きで、高校3年の時に学園祭に出たときに弾いた「Fly Me To The Moon/フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の演奏などは、とても18歳の青年が弾いているとは思えないほど大人びたものでした。
 その当時はバーニー・ケッセルが大好き曲の流れ全体はバックのメンバー任せ、自分はただただ美しいメロディーを弾くというスタイルに憧れていたようですが、ジョー・パスを聞いて以降は、ギター一本でベース、和音、メロディーを弾き分ける技術に傾倒していきました。
 このアルバムの中に収録されている「How High The Moon/ハウ・ハイ・ザ・ムーン」や「Cherokee/チェロキー」をコピーして弾いていたことを良く覚えています。唯我独尊の新津章夫も人のコピーをするんですよ。意外にも。
 しかし、ジョー・パスとの出会いが、その後、ギターの多重録音のアレンジに大きく影響していることは確かです。
 アルバム「I・O」の6曲目「天気雨」などは、アントン・カラスの「第三の男」意識していることは明らかですが、ギターの演奏自体はジョー・パスの影響が強く感じられます。
 新津章夫がInkStick六本木でライブを始めた当初、実は彼のやりたかったスタイルというのがジョー・パスのようなジャズのギターソロだったのでした。
 しかし、Inkのオーナーである松山氏(故人)も、またマネージメント事務所側も、ギターの多重録音で知られる新津章夫が、ギター一本の、しかもジャズを演奏することに納得しているハズもなく、このアイディアは実現しませんでしたが、ほんの数回だけ、ピアノと新津章夫のギターで映画音楽とジャズのスタンダードを演奏するライブが行われました。その時の音源をたまに聴いていますが、作・編曲家として以上に演奏者として素晴らしかったのだと思います。
 もしも新津章夫が生きていたら…。彼の新しい音楽よりも、家で弾いてくれたジョー・パス・スタイルのギターをもう一度聴かせて欲しいと思っています。


Joe Pass

アジアの風

「アジアの風」トランザム


 プロフィールの欄で紹介しているように、新津章夫は、ロックバンドとアイドル歌手のプロデュース&アレンジを担当したことがあります。
 ひとつは、トランザムというグループのアルバム「アジアの風」(ビクター・エンターテイメントからCD化されています)。
 1960年代をギター少年として過ごした新津章夫にとって、トランザムは忘れられないバンドでした。ドラマー、チト河内率いるトランザムは日本のロック界の創世記にとって、欠くことのできない伝説的なバンドです。
”ボーカルとドラムを憎む”新津章夫とて、トランザムのプロデュースを断れるはずはありません。
 もっとも、このアルバムに至っては名前こそ「トランザム」でも、昔のメンバーは一人も残っていません。リーダーであるチト河内さんですら、ほとんどスタジオには顔を出しませんでした。それでもボーカルの高橋伸明氏と意気投合し、初プロデュースながらもレイドバックした良いアルバムになりました。
 なお、「哀しきミュージシャン」では、新津章夫のリードギターが聴けます。

 もうひとつ、プロデュースをしたのが、アイドルの伊藤さやかです(デビュー・アルバムの一部)。
 アイドル歌手のアレンジを新津章夫が担当?! これはファンならずとも驚きます。しかし、残念ながらシングルはボツになりました。彼がアレンジを担当した曲は、デビュー・アルバムと、プロモーション用テープの語りのBGMに使われています(悲しい…)。
 しかし、もちろん歌謡曲をやっても、やはりそれは、新津章夫サウンド。新津章夫のギターとドラム(なんと鈴木さえ子が敲いております)以外の音は、すべてシンセサイザーのプログラム演奏という、当時としては画期的な音に仕上がっておりました。
 なお、このシンセサイザー・プログラミングを担当したのは、のちにサザン・オールスターズのアルバムの「KAMAKURA」などの成功で一躍時の人となる藤井丈司氏です。鈴木さえ子嬢、藤井丈司氏といった人脈は、新津章夫の所属していた事務所「オレンジパラドックス」と、そのお隣にありました「ヨロシタミュージック」がらみであります。
 おそらく、2006年にこの企画が上がったとしたら、すんなり通りCDシングルとして発売されたことでしょう。しかし、四半世紀前では、あまりに斬新過ぎる試みであり、当時の状況を考えれば実現しても、まったく評価は得られなかったでしょうね。
 ちなみに、新津章夫とロックバンド、新津章夫とアイドルという異色の取り合わせを実現させたのは、同じ人物です。その方は、1960年代のヒット曲「走れコータロー」を歌った元ソルティシュガーのメンバーで(山本コウタロー氏ではありません。念のため)、ビクター・レコードの某名物ディレクターでした。

GO-1500

↑GO-1500は私が保管中。


 新津章夫はギタリストです。チェロも弾くしシンセやキーボードも扱うし、パーカッションも叩きますが、基本としている楽器はギターです。

 メインとして使っていたのは、1969年製のフェンダー・テレキャスター。しかし、別に彼が買ったわけでもありませんし、気に入っていたわけでもありません。ビグスビータイプのトレモロアームが付いておりブリッジがフローティングになっているためチューニングが合わないとボヤいていました

 実は我々は三兄弟でその長男が音楽を辞める時に、自分が使っていたものを新津章夫にプレゼントしてくれたのでした。長男曰く、「ケースごとアパートの2階から落下したこともある」とかで、傷だらけのギターでしたが、ぶつぶつと文句をいいながらもそれをメインに使っていました。

 2番目に多く使っていたのはギブソンのSGスペシャル(1970年初頃のミニハムモデル)これは1978年にレコードを発表するにあたり、知人が「良かったら使ってくれ」と貸してくれたものですが、そのまま我が家に今も隠匿してあります(すみません、I 先輩!)。1979年に放送されたNHK「日本の響き」では、これを弾いています。テレキャスターがシングル・コイルPUゆえのノイズの多さに比べ、このギブソンは雑音が少ないことだけが魅力でした。

 1980年代に入ってからはスタジオの仕事が増え、ノイズ問題、チューニング問題は切実なものとなりました。そこで、私が雑誌の取材で訪れていた池袋の某楽器店に、たまたま下取りで入ってきたミュージックマンのセイバーⅡを略奪するかのように買い取り、新津章夫のプレゼントしました。プリアンプが付いたこのギターはチューニング、ノイズともに対策は完璧で、しばらく彼のメインギターとして活躍しました(現在このギターは、スーパーバイザーの岩下由記夫さんのスタジオにあります)。

 他では、アンプで有名なVOX社製のSuperAce(ストラトキャスターに似た小型のギター)。これは「I.O.」の中で「天気雨」の2番目のアドリブで聞かれます。また、ライブでは見栄えがするということもあってグレコのダブルネック(GO-1500)を使っていました。

 とはいえ、弘法筆を選ばず、とでもいうのか、つまらないほどギターにはぜんぜんこだりのないギタリストでした。 倍速ギター、エフェクターを多用する彼の場合、大切なことは正確にチューニングが合って、弦が6本張ってあるというくらいなもので、自分の音を作り出すタイプのギターリストである新津章夫にはギブソンもフェンダーも大差なかったのです。


saber

↑一方、SaberⅡは岩田氏のスタジオにあります。

「いまにコンピュータで音楽を創る時代になる。そんな時代がやってきた時、ギター1本とわずかな楽器でこんな馬鹿な音楽を創ったやつがいたって笑ってもらいたいんだよね。でも、その未来のミュージシャンたちにギターと多重録音だけで、このアルバムと同じ音は絶対に作れっこないという自信はあるけどね」

 これは1978年に「I・O」が発売になった当時、新津章夫のスーパーバイザーだった、音楽ライターでありプロデューサーの岩田由記夫氏が「I・O」の宣伝資料に綴った言葉です。

 日本初の8ビットのパーソナル・コンピュータ(当時は「*マイコン」と呼びましたが…)が発売されるのは、その2年後のこと。実際、それ以降、音楽は大きく変化しました。

 当時、僕もミュージシャンを志すティーンエイジャーでしたが、僕から見ても今の若い人たちは、機材面では本当に恵まれています。ビートルズの日本公演の映像を見たことがある人は、ポール・マッカートニーが、どんどん横を向いてしまうマイクスタンドを手で押さえながら歌っているのに気づいたことでしょう。60年代、70年代の機材なんて、あんなものだったんです。天下のビートルズの公演でですよ?!

 実は「I・O」は、アルバム制作のきっかけとなった4チャンネルのオープンリール・レコーダーで録音されたデモテープの内容と、あまり変わりがありません。プロ機材を使ったことで、音質が格段によくなった。そのくらいです。CD化した際の解説に「何千時間もかかった」とか「制作に1年以上」とありますが、アルバム化されるまでには、その倍の時間が費やされました

 時間をかけて、何度も何度も見直し、手直し、練り直し、修正、取捨選択がされたものは、当然のことですが、タフです。ある有名デザイナーは20回縫い直す、といわれています。19回縫い直しても、まだ直すべき点を見つけられるわけです。新津章夫の音が約30年経った今も新鮮に響くのは、音をひとつづつ取り出しては磨きあげたから、だと思うのです。

 機材の質が向上し、またデビューへのハードルが低くなったためか、昨今の音楽の薄っぺらさがとても気になります。発表したばかりの気持ちがホットなときはいいけれど、”その時”が過ぎてしまうと気持ちまで冷めてしまうハズレ馬券のようになってしまいます。

 若いミュージシャンたちへ。創意工夫を凝らして、アイディアを練って、楽器の練習をして、何年経っても褪色しない、ヴィヴィッドであり続ける音楽を作ってください。

*新津章夫は、この”マイコン”をすぐに手に入れ、そのことがのちにコンピュータ・プログラマーへの転進のきっかけとなりました。

 高校時代に友達といくつかのバンドを組んだ以外、めだったバンド経験はない新津章夫は一人で音楽を作りあげることを思いつきました。
 しかし、1960年代末、当時はまだ今のような多重録音用の機材は民生器ではありませんでした。2台のテープレコーダーを使って、あらかじめ録音したものをバックに別パートを弾き、それを繰り返す“ピンポン録音”が主流でした。
 彼は我々兄弟の長男のバンドが所有していた、L・Rチャンネルのそれぞれを単独で録音できるステレオ式のオープンリール・テープレコーダーを譲り受け、まず右チェンネルに録音、その音をバックに別パート弾き、それを左チャンネルに録音。さらに、またそれをバックに右チェンネルへ…、と交互にピンポン録音をしていました。そして、あらゆる試行錯誤の結果、多重録音は完成した形から逆算して作るのが良いとの結論に至ったのでした。

 つまり、最初に録音した音は再三にわたるダビングの結果、音質が劣化し、音がこもります。そこで、こもっても良い音源を先に録音するのです。それはベースの音でした。そして、同時に基本となるリズム音を入れておくとテンポが一定するとの知識も得られました。こうして1972年ごろ、新津章夫の多重録音は始まりました。
 芸術の世界、あるいは広く料理など、おおよそ物を作り出す上においては、この考え方は、正解とされるものです。出来上がりをイメージできなければ、何も作れません。

 最初の頃は、新津章夫はベースを所有していなかったので、ギターの4~6弦を使ってベース・パートを作っていました。1976年ごろに作られた「I・O」のデモテープでは私のバンド友達からベースを借りてきました。彼が自分のベースを手に入れたのは「I・O」のアルバム作成が始まってからのことです。
 そして、ベース音はなるべく”かため”の音(トレブルを効かせた音)で録音すると度重なるダビングにも耐えられるという結論に達しました。
 次はリズム関係です。当時は自宅には打楽器と呼べるものは、スネア・ドラムとシンバル、そして、ボンゴくらいしか持っていなかったので、これらを使用していました。当時、住んでいた家は木造だったので、騒音問題を考慮してこれらの録音は昼間の間に行われました。
 続いて、リズム系ギター、メロディー系ギターとなりますが、倍速ギター を使う場合には、速度のガイドとなるギターを最初に録音することもありました。
 いずれにしても、録音前には設計図を作り、それから始めるわけです。気の遠くなるような作業であったことはたしかです。

 1月19日は新津章夫の5回目の命日です。実の兄の命日に免じてくだらない事を書かせてください。

「サイエンス・クラシックス」のCD帯の裏に「I・O」の紹介が載っていますが、ここに「彗星のごとく現れ去っていった幻の、孤高のアーティスト」と書かれています。

 まさに、新津章夫をひと言で表すならば、孤高の人でした。悪い人ではありませんが、気難しい人でした。もっとも本人も自覚があったようで、それがわかっているごく一部の人々だけに愛された人でもありました。しかも、その人々は彼が亡くなったことで、精神を支えるひとつの柱を失ったかのような人生を歩んでいます。もちろん、人の死とは誰かに大きな陰を与えるものですが…。

 現在、新津章夫のCDはすべてBridgeというレーベルから発売されていますが、実を申せばこの会社の代表者は、新津章夫のマネージメントをしてくれていた人でもあり、「I・O」の担当ディレクターでもあり、音楽業界内では知らない人はいない、という人物です。 「孤高のアーティスト」と呼んだのは、何を隠そうこの人なのです。何故かといえば、「I・O」が発売になった時、ごく少数ではありますが、彼に熱狂的なまでに共演を申し込んだミュージシャンたちがいました。

「I・O」のジャケットデザインは、横尾忠則さんが担当してくれました。CDの帯に横尾さんのコメントが載っています。

「彼のジャケットは最近の僕の作品群の中でもっとも苦労したものなのです。新津君のサウンドに報いるために。

 ご存知のように、横尾さんがジャケットデザインをすることは、けして多くありません。なぜならば、彼がそのアーティストの音楽を気に入らなければ引き受けてもらえないからです。結果、サンタナ、アース・ウィンド&ファイアー、姫神、遠藤賢司等、個性的なアーティストばかりです。

 横尾さんが惚れこむくらいなので、共演を申し込んだミュージシャンも個性的な人々ばかりでした。ウォーというバンドでブルース・ハープを吹いていたリー・オスカー。「I・O」にコメントを寄せてくれたリトル・フィートのローウェル・ジョージ喜納昌吉さんは、当時、音楽ライターをしていた僕がインタビューにおじゃました際に、かなり熱心に兄を説得するように頼まれた思い出があります。

 しかし、どの誘いも断り続けました。たしかに、新津章夫の音作りは、全パート、全制作工程を彼一人で行うことで完結します。ゆえに、そこに誰かが演奏するパートや、あるいは誰かの曲にギターだけで参加することが、当時の頑固一徹の新津章夫には想像できなかったのかもしれません。

 ただし、音楽活動を休止する直前に一度だけ、他のミュージシャンと共演をしました。それは、アンドレアス・ドーラウというドイツのテクノ系のアーティストです。それは、彼が80年代半ばに発表した「DEMOKRATIE」 というアルバムで、のちに日本でもCD化されました。新津章夫が共演しているのは、5曲目の「TAXI NACH SHIBUYA」という曲で、クレジットにも「AKIO NITZU, guitar 」とあります。

 聞いた話では、当時、南ドイツ放送というテレビ局の仕事で、日本のテクノを取材に来たドーラウが新津章夫をインタビューし、元からアルバムを持っているほどのファンだったため、青山の某スタジオでセッション的に参加したそうです。おそらく、新津章夫が好きな「ドイツ」というキーワードが、彼を動かしたのでしょう。

 新津章夫はアルバムを発表するたびに、「まぁ、売れないだろう」「どうぜ売れないよ」と言い続けていました。しかし、可能であるならば、音楽で食べていければ、それにこしたことはない、とも思っていたはずです。

 もう少しだけ柔軟に競演の手を差し伸べてくれていたビッグネームの誘いに耳をかたむけていたらなぁ、と思うのです。

 現在の僕の活動に「死後、その絵が評価されたゴッホのような例もあるし…」と励ましてくれる人もたくさんいます。これには感謝しています。唯一のモチベーションといえるでしょう。しかし、「死んで花実が咲くものか」でございます。


ドラウ

 今回は、ミュージシャンではない人の話です(いや、ミュージシャンとしての活動がゼロではないか)。  新津章夫は暇さえあれば神田神保町に行っていました。元々、小中学校時代をおくった場所なので愛着はあったのですが、目的は古本屋めぐりです。とにかく、作家なのかミュージシャンなのかわからないくらい本ばかり読んでいる人でした。  しかし、唯一といっていい、新刊で買い続けていたのが筒井康隆です。Blogの冒頭でも書いたとおり、新津章夫は「エッシャーのだまし絵、クラインの坪やメビウスの輪、シンメトリーとパラドックス、そして、アンチクライマックス、回文、円周率」などが大好きな人でした。筒井作品の基本はこういった概念やレトリックの延長上にあります。いわば新津章夫は、それを音楽化しようと試みたわけです。

 バッハの時代においては、音楽は数式のようなものだった、という人がいます。1オクターブを12等分し平均率が生まれました。音を数字に置き換える概念は音程だけでなく、小節の概念もまた全音符の半分の長さが二部音符であるように、それを概念化する作業は数字なのです。

 文系の一学問だと思われているレトリックという概念は、もともとは数学の範疇として生まれたといいます。そこにレトリックとの接点があるのだ、と思います。

「サイエンス・クラシックス」の一曲目、「金平糖の踊り」のおどろおどろしいアレンジや5曲目「ジムノペディ」の居心地の悪さ。さらに「I・O」においては、最初から聞いても逆回転させて最後から聴いても同じ曲になる「オレンジ・パラドックス」、4回の転調をして元のキーに戻る「光のオルゴール」など、美しいメロディーありき、と思える音楽の世界において「レトリックありき」の人だったといえるでしょう。

 新津章夫は、筒井康隆、星新一、小松左京等のショートショートやSFを読みふけり、その概念やレトリックを数字化する作業を経て独特な音楽に仕上げていたのでした。

 俗に亡くなった人は夢に出てきても喋らないといいます。しかし、新津章夫は違います。喋り捲ります(2005年9月17日付のBlogにも書きましたが…)。そして、なんと私の初夢に登場しました。

 

場所は廃墟のような雰囲気のライブハウス。そのシーンは突然始まりました。どういういきさつかわかりませんが、そこには20~30人ほどの人がいて、「こんなに人が集まっているんだから、何曲か弾いてよ」となりまして、即興のLIVEになりました。


 新津章夫は、見たことがない白っぽいフルアコースティックのギターを抱えていました。全部で3曲弾いてくれましたが、どれも初めて聴く曲でした。1曲目はエコーチェンバー(エフェクター)を使ったフーガ。現実ではありえない曲調でしたが、面白い曲でした。2曲目は、残念ながらまったく覚えていません。そして、3曲目。それはそれは、素晴らしい曲でした。いつもながらのロマンティックなメロディーと遊び心いっぱいの装飾音。ぜひ、もう一度同じ夢を見て、その曲を再現したいものです。天国から届いた新曲として。


 1月19日は新津章夫の5回目の命日です。また、その日に夢枕に立って欲しいと願っています。