高校時代に友達といくつかのバンドを組んだ以外、めだったバンド経験はない新津章夫は一人で音楽を作りあげることを思いつきました。
しかし、1960年代末、当時はまだ今のような多重録音用の機材は民生器ではありませんでした。2台のテープレコーダーを使って、あらかじめ録音したものをバックに別パートを弾き、それを繰り返す“ピンポン録音”が主流でした。
彼は我々兄弟の長男のバンドが所有していた、L・Rチャンネルのそれぞれを単独で録音できるステレオ式のオープンリール・テープレコーダーを譲り受け、まず右チェンネルに録音、その音をバックに別パート弾き、それを左チャンネルに録音。さらに、またそれをバックに右チェンネルへ…、と交互にピンポン録音をしていました。そして、あらゆる試行錯誤の結果、多重録音は完成した形から逆算して作るのが良いとの結論に至ったのでした。
つまり、最初に録音した音は再三にわたるダビングの結果、音質が劣化し、音がこもります。そこで、こもっても良い音源を先に録音するのです。それはベースの音でした。そして、同時に基本となるリズム音を入れておくとテンポが一定するとの知識も得られました。こうして1972年ごろ、新津章夫の多重録音は始まりました。
芸術の世界、あるいは広く料理など、おおよそ物を作り出す上においては、この考え方は、正解とされるものです。出来上がりをイメージできなければ、何も作れません。
最初の頃は、新津章夫はベースを所有していなかったので、ギターの4~6弦を使ってベース・パートを作っていました。1976年ごろに作られた「I・O」のデモテープでは私のバンド友達からベースを借りてきました。彼が自分のベースを手に入れたのは「I・O」のアルバム作成が始まってからのことです。
そして、ベース音はなるべく”かため”の音(トレブルを効かせた音)で録音すると度重なるダビングにも耐えられるという結論に達しました。
次はリズム関係です。当時は自宅には打楽器と呼べるものは、スネア・ドラムとシンバル、そして、ボンゴくらいしか持っていなかったので、これらを使用していました。当時、住んでいた家は木造だったので、騒音問題を考慮してこれらの録音は昼間の間に行われました。
続いて、リズム系ギター、メロディー系ギターとなりますが、倍速ギター
を使う場合には、速度のガイドとなるギターを最初に録音することもありました。
いずれにしても、録音前には設計図を作り、それから始めるわけです。気の遠くなるような作業であったことはたしかです。