1月19日は新津章夫の5回目の命日です。実の兄の命日に免じてくだらない事を書かせてください。
「サイエンス・クラシックス」のCD帯の裏に「I・O」の紹介が載っていますが、ここに「彗星のごとく現れ去っていった幻の、孤高のアーティスト」と書かれています。
まさに、新津章夫をひと言で表すならば、孤高の人でした。悪い人ではありませんが、気難しい人でした。もっとも本人も自覚があったようで、それがわかっているごく一部の人々だけに愛された人でもありました。しかも、その人々は彼が亡くなったことで、精神を支えるひとつの柱を失ったかのような人生を歩んでいます。もちろん、人の死とは誰かに大きな陰を与えるものですが…。
現在、新津章夫のCDはすべてBridgeというレーベルから発売されていますが、実を申せばこの会社の代表者は、新津章夫のマネージメントをしてくれていた人でもあり、「I・O」の担当ディレクターでもあり、音楽業界内では知らない人はいない、という人物です。 「孤高のアーティスト」と呼んだのは、何を隠そうこの人なのです。何故かといえば、「I・O」が発売になった時、ごく少数ではありますが、彼に熱狂的なまでに共演を申し込んだミュージシャンたちがいました。
「I・O」のジャケットデザインは、横尾忠則さんが担当してくれました。CDの帯に横尾さんのコメントが載っています。
「彼のジャケットは最近の僕の作品群の中でもっとも苦労したものなのです。新津君のサウンドに報いるために。」
ご存知のように、横尾さんがジャケットデザインをすることは、けして多くありません。なぜならば、彼がそのアーティストの音楽を気に入らなければ引き受けてもらえないからです。結果、サンタナ、アース・ウィンド&ファイアー、姫神、遠藤賢司等、個性的なアーティストばかりです。
横尾さんが惚れこむくらいなので、共演を申し込んだミュージシャンも個性的な人々ばかりでした。ウォーというバンドでブルース・ハープを吹いていたリー・オスカー。「I・O」にコメントを寄せてくれたリトル・フィートのローウェル・ジョージ。喜納昌吉さんは、当時、音楽ライターをしていた僕がインタビューにおじゃました際に、かなり熱心に兄を説得するように頼まれた思い出があります。
しかし、どの誘いも断り続けました。たしかに、新津章夫の音作りは、全パート、全制作工程を彼一人で行うことで完結します。ゆえに、そこに誰かが演奏するパートや、あるいは誰かの曲にギターだけで参加することが、当時の頑固一徹の新津章夫には想像できなかったのかもしれません。
ただし、音楽活動を休止する直前に一度だけ、他のミュージシャンと共演をしました。それは、アンドレアス・ドーラウというドイツのテクノ系のアーティストです。それは、彼が80年代半ばに発表した「DEMOKRATIE」 というアルバムで、のちに日本でもCD化されました。新津章夫が共演しているのは、5曲目の「TAXI NACH SHIBUYA」という曲で、クレジットにも「AKIO NITZU, guitar 」とあります。
聞いた話では、当時、南ドイツ放送というテレビ局の仕事で、日本のテクノを取材に来たドーラウが新津章夫をインタビューし、元からアルバムを持っているほどのファンだったため、青山の某スタジオでセッション的に参加したそうです。おそらく、新津章夫が好きな「ドイツ」というキーワードが、彼を動かしたのでしょう。
新津章夫はアルバムを発表するたびに、「まぁ、売れないだろう」「どうぜ売れないよ」と言い続けていました。しかし、可能であるならば、音楽で食べていければ、それにこしたことはない、とも思っていたはずです。
もう少しだけ柔軟に競演の手を差し伸べてくれていたビッグネームの誘いに耳をかたむけていたらなぁ、と思うのです。
現在の僕の活動に「死後、その絵が評価されたゴッホのような例もあるし…」と励ましてくれる人もたくさんいます。これには感謝しています。唯一のモチベーションといえるでしょう。しかし、「死んで花実が咲くものか」でございます。
