新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》 -17ページ目

新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》

謎に満ちた迷宮のギタリスト、新津章夫のオフィシャル・ブログ。迷宮の森 《Forest in maze》

 高校時代に友達といくつかのバンドを組んだ以外、めだったバンド経験はない新津章夫は一人で音楽を作りあげることを思いつきました。
 しかし、1960年代末、当時はまだ今のような多重録音用の機材は民生器ではありませんでした。2台のテープレコーダーを使って、あらかじめ録音したものをバックに別パートを弾き、それを繰り返す“ピンポン録音”が主流でした。
 彼は我々兄弟の長男のバンドが所有していた、L・Rチャンネルのそれぞれを単独で録音できるステレオ式のオープンリール・テープレコーダーを譲り受け、まず右チェンネルに録音、その音をバックに別パート弾き、それを左チャンネルに録音。さらに、またそれをバックに右チェンネルへ…、と交互にピンポン録音をしていました。そして、あらゆる試行錯誤の結果、多重録音は完成した形から逆算して作るのが良いとの結論に至ったのでした。

 つまり、最初に録音した音は再三にわたるダビングの結果、音質が劣化し、音がこもります。そこで、こもっても良い音源を先に録音するのです。それはベースの音でした。そして、同時に基本となるリズム音を入れておくとテンポが一定するとの知識も得られました。こうして1972年ごろ、新津章夫の多重録音は始まりました。
 芸術の世界、あるいは広く料理など、おおよそ物を作り出す上においては、この考え方は、正解とされるものです。出来上がりをイメージできなければ、何も作れません。

 最初の頃は、新津章夫はベースを所有していなかったので、ギターの4~6弦を使ってベース・パートを作っていました。1976年ごろに作られた「I・O」のデモテープでは私のバンド友達からベースを借りてきました。彼が自分のベースを手に入れたのは「I・O」のアルバム作成が始まってからのことです。
 そして、ベース音はなるべく”かため”の音(トレブルを効かせた音)で録音すると度重なるダビングにも耐えられるという結論に達しました。
 次はリズム関係です。当時は自宅には打楽器と呼べるものは、スネア・ドラムとシンバル、そして、ボンゴくらいしか持っていなかったので、これらを使用していました。当時、住んでいた家は木造だったので、騒音問題を考慮してこれらの録音は昼間の間に行われました。
 続いて、リズム系ギター、メロディー系ギターとなりますが、倍速ギター を使う場合には、速度のガイドとなるギターを最初に録音することもありました。
 いずれにしても、録音前には設計図を作り、それから始めるわけです。気の遠くなるような作業であったことはたしかです。

 1月19日は新津章夫の5回目の命日です。実の兄の命日に免じてくだらない事を書かせてください。

「サイエンス・クラシックス」のCD帯の裏に「I・O」の紹介が載っていますが、ここに「彗星のごとく現れ去っていった幻の、孤高のアーティスト」と書かれています。

 まさに、新津章夫をひと言で表すならば、孤高の人でした。悪い人ではありませんが、気難しい人でした。もっとも本人も自覚があったようで、それがわかっているごく一部の人々だけに愛された人でもありました。しかも、その人々は彼が亡くなったことで、精神を支えるひとつの柱を失ったかのような人生を歩んでいます。もちろん、人の死とは誰かに大きな陰を与えるものですが…。

 現在、新津章夫のCDはすべてBridgeというレーベルから発売されていますが、実を申せばこの会社の代表者は、新津章夫のマネージメントをしてくれていた人でもあり、「I・O」の担当ディレクターでもあり、音楽業界内では知らない人はいない、という人物です。 「孤高のアーティスト」と呼んだのは、何を隠そうこの人なのです。何故かといえば、「I・O」が発売になった時、ごく少数ではありますが、彼に熱狂的なまでに共演を申し込んだミュージシャンたちがいました。

「I・O」のジャケットデザインは、横尾忠則さんが担当してくれました。CDの帯に横尾さんのコメントが載っています。

「彼のジャケットは最近の僕の作品群の中でもっとも苦労したものなのです。新津君のサウンドに報いるために。

 ご存知のように、横尾さんがジャケットデザインをすることは、けして多くありません。なぜならば、彼がそのアーティストの音楽を気に入らなければ引き受けてもらえないからです。結果、サンタナ、アース・ウィンド&ファイアー、姫神、遠藤賢司等、個性的なアーティストばかりです。

 横尾さんが惚れこむくらいなので、共演を申し込んだミュージシャンも個性的な人々ばかりでした。ウォーというバンドでブルース・ハープを吹いていたリー・オスカー。「I・O」にコメントを寄せてくれたリトル・フィートのローウェル・ジョージ喜納昌吉さんは、当時、音楽ライターをしていた僕がインタビューにおじゃました際に、かなり熱心に兄を説得するように頼まれた思い出があります。

 しかし、どの誘いも断り続けました。たしかに、新津章夫の音作りは、全パート、全制作工程を彼一人で行うことで完結します。ゆえに、そこに誰かが演奏するパートや、あるいは誰かの曲にギターだけで参加することが、当時の頑固一徹の新津章夫には想像できなかったのかもしれません。

 ただし、音楽活動を休止する直前に一度だけ、他のミュージシャンと共演をしました。それは、アンドレアス・ドーラウというドイツのテクノ系のアーティストです。それは、彼が80年代半ばに発表した「DEMOKRATIE」 というアルバムで、のちに日本でもCD化されました。新津章夫が共演しているのは、5曲目の「TAXI NACH SHIBUYA」という曲で、クレジットにも「AKIO NITZU, guitar 」とあります。

 聞いた話では、当時、南ドイツ放送というテレビ局の仕事で、日本のテクノを取材に来たドーラウが新津章夫をインタビューし、元からアルバムを持っているほどのファンだったため、青山の某スタジオでセッション的に参加したそうです。おそらく、新津章夫が好きな「ドイツ」というキーワードが、彼を動かしたのでしょう。

 新津章夫はアルバムを発表するたびに、「まぁ、売れないだろう」「どうぜ売れないよ」と言い続けていました。しかし、可能であるならば、音楽で食べていければ、それにこしたことはない、とも思っていたはずです。

 もう少しだけ柔軟に競演の手を差し伸べてくれていたビッグネームの誘いに耳をかたむけていたらなぁ、と思うのです。

 現在の僕の活動に「死後、その絵が評価されたゴッホのような例もあるし…」と励ましてくれる人もたくさんいます。これには感謝しています。唯一のモチベーションといえるでしょう。しかし、「死んで花実が咲くものか」でございます。


ドラウ

 今回は、ミュージシャンではない人の話です(いや、ミュージシャンとしての活動がゼロではないか)。  新津章夫は暇さえあれば神田神保町に行っていました。元々、小中学校時代をおくった場所なので愛着はあったのですが、目的は古本屋めぐりです。とにかく、作家なのかミュージシャンなのかわからないくらい本ばかり読んでいる人でした。  しかし、唯一といっていい、新刊で買い続けていたのが筒井康隆です。Blogの冒頭でも書いたとおり、新津章夫は「エッシャーのだまし絵、クラインの坪やメビウスの輪、シンメトリーとパラドックス、そして、アンチクライマックス、回文、円周率」などが大好きな人でした。筒井作品の基本はこういった概念やレトリックの延長上にあります。いわば新津章夫は、それを音楽化しようと試みたわけです。

 バッハの時代においては、音楽は数式のようなものだった、という人がいます。1オクターブを12等分し平均率が生まれました。音を数字に置き換える概念は音程だけでなく、小節の概念もまた全音符の半分の長さが二部音符であるように、それを概念化する作業は数字なのです。

 文系の一学問だと思われているレトリックという概念は、もともとは数学の範疇として生まれたといいます。そこにレトリックとの接点があるのだ、と思います。

「サイエンス・クラシックス」の一曲目、「金平糖の踊り」のおどろおどろしいアレンジや5曲目「ジムノペディ」の居心地の悪さ。さらに「I・O」においては、最初から聞いても逆回転させて最後から聴いても同じ曲になる「オレンジ・パラドックス」、4回の転調をして元のキーに戻る「光のオルゴール」など、美しいメロディーありき、と思える音楽の世界において「レトリックありき」の人だったといえるでしょう。

 新津章夫は、筒井康隆、星新一、小松左京等のショートショートやSFを読みふけり、その概念やレトリックを数字化する作業を経て独特な音楽に仕上げていたのでした。

 俗に亡くなった人は夢に出てきても喋らないといいます。しかし、新津章夫は違います。喋り捲ります(2005年9月17日付のBlogにも書きましたが…)。そして、なんと私の初夢に登場しました。

 

場所は廃墟のような雰囲気のライブハウス。そのシーンは突然始まりました。どういういきさつかわかりませんが、そこには20~30人ほどの人がいて、「こんなに人が集まっているんだから、何曲か弾いてよ」となりまして、即興のLIVEになりました。


 新津章夫は、見たことがない白っぽいフルアコースティックのギターを抱えていました。全部で3曲弾いてくれましたが、どれも初めて聴く曲でした。1曲目はエコーチェンバー(エフェクター)を使ったフーガ。現実ではありえない曲調でしたが、面白い曲でした。2曲目は、残念ながらまったく覚えていません。そして、3曲目。それはそれは、素晴らしい曲でした。いつもながらのロマンティックなメロディーと遊び心いっぱいの装飾音。ぜひ、もう一度同じ夢を見て、その曲を再現したいものです。天国から届いた新曲として。


 1月19日は新津章夫の5回目の命日です。また、その日に夢枕に立って欲しいと願っています。

 あけましておめでとうございます。

 まずは、皆さんに感謝を述べさせてください。なんと1月1日の順位が未曾有の387位になりました! これまでの最高位は600位台ですから、信じられない順位です。前日の1000位台から700人抜きです。

 おそらく、年賀状メールにBlog情報を載せたためだと思われますが、これほどまでにたくさんの人々が訪問してくれるとは思ってもいませんでした。

 今年もまた新津章夫の未発表テイク集を出したいと思っています。引き続きこのBlogもよろしくおねがいします。

 2006年 元旦 新津隆夫

 まったく似つかわしくないのですが、新津章夫はクリスマス・ソングが大好きでした。実際、3枚目のアルバム「ウィンター・ワンダーランド」にはホワイト・クリスマス」が収録されています。このBlogで音が出せるのであればお聞かせしたいほどの名編曲&名演奏です。いずれはアルバム自体をCD化したいと思っています。

 それでは、新津章夫になりかわりまして、皆様に、Merry Christmas !


参照 / 新津章夫「ホワイト・クリスマス」~日本のクリスマスソングのサイトより

http://christmasx.hp.infoseek.co.jp/songlist-na-no.htm


 驚きました。話題のmixi(ミクシイ)に新津章夫のコミュニティが生まれました。せっかくなので僕も参加することにしました。しかし、こんなマイナーなアーティストにここまでしてくれる人が多いとは…。本当に感謝感謝です。インターネットならではの広がりに驚いております。


新津章夫・コミュニティ

http://mixi.jp/view_community.pl?id=260584


 ただいま「JJazz.Net」 というサイトにて「サイエンス・クラシックス」の中の数曲が視聴できます。CD購入を考えていただいている方、一度、閲覧してみてください。「温故知新」というコーナーです。


JJazz.Net 「温故知新」コーナー

http://www.jjazz.net/aboutjjazznet/index.php


PS.Blogのが突然、未曾有の600位台まであがりました! 訪問いただいた皆様に感謝します。1000位台が定位置だったのに…。


PSのPS. 12月6日、定位置の1000位に戻りました。ありゃりゃ?


 新津章夫のお気に入りミュージシャンについて語ろうと思います。Blogのプロフィールに、「ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベック、マイケル・ブルームフィールド、ジョー・パスなどに影響を受け」と書きましたが、それ以外にも愛聴していたレコードやミュージシャンはたくさんいました。

 その一人が、オランダのロックバンド、フォーカスのギタリスト、ヤン・アッカーマンです。新津章夫自身は、ドイツ人だと思っていたようで、ドイツ好きの彼としては、より一層の愛着があったようです。1970年代半ば、来日した際には、中野サンプラザに一緒に見に行った思い出があります。

 とくに好きだったアルバムは、「ハンバーガー・コンチェルト」。これは僕が買ってきたレコードですが、ほとんど彼の手元にありました。1曲目、「リュートとリコーダーの為の小品(音楽の歓び)」は、文字通り、ヤン・アッカーマンが奏でるリュートとタイス・ヴァン・レアーのリコーダーによる曲ですが、当時のロックを取り巻く状況においては、とても異質でした。たしかに、ELPの「展覧会の絵」をはじめ、とくにプログレの人たちがクラシックにアプローチする傾向大きな流れではありましたが、この曲は、まんま古楽です。

 しかし、これを聴いたことが、四半世紀後に「サイエンス・クラシックス」の制作を喚起させたことは事実でしょう。

 ヤン・アッカーマンの、バックボーンにバロック音楽を感じさせるメロディーも、新津章夫がやりたかった音楽に自信を持たせてくれたと思います。


Focus

INK


 カフェバーブームが静かに始まろうとしていた1982年ごろ、その中心的な存在といえるLIVE&BAR、インクスティック六本木にて毎週金曜日の午後10時からライブを行っていました。


 ライブといってもバンドを持っていはない新津章夫の場合は少し変わっていました。メインのギターパートが入っていないマイナスワンのテープを使って、それをバックに演奏する、というスタイルのライブでした。聞こえはいいのですが、ま、言い換えればカラオケのテープを持参して地方のドサマワリ(死語ですね)をする演歌歌手みたいなものです。そんなんでお金(チャージ)をとっていいのかよ、と思うようなライブでしたが、デザイナーやミュージシャンなど、暇なんだか酒飲むにもBGMがあるといいな、という感じなんだか、けっこう人は入っていました。


 当初は彼一人でやっていましたが、ショーアップを目指して当時のマネージャーが途中からバイオリニスト、美尾洋乃さん(REAL FISH、MIO FOUなどで活躍)に応援を依頼しましたが、いつのまにかなくなりました。元々、人前に出るのはとっても苦手な人でしたから、ステージに立つこと自体が奇跡的でした。こんなライブが可能だったのも、すべてはオーナーの故・松山勲さん(カフェバーブームの大重鎮)が新津章夫の音楽を気に入ってくれていたからでした。新津章夫よ、天国で感謝してろ、本当に。なんと「ファンクラブ」まで作ってくれたんですからね(実態は不明)。