7世紀の支那の史書『梁書』「諸夷伝」に日本列島に関する記録がある。
倭者自云太伯之後
俗皆文身
去帶方萬二千餘里
大抵在會稽之東相去絶遠
倭は、自ら太伯の後裔だという。
その風俗では皆、体に入れ墨する。
帯方郡を去ること万二千余里。
おおよそ会稽郡の東に在るが、とてつもなく遠く離れている。
商〔殷〕を倒した周の太公望は、山東省に斉を建国した。
そこの人々を連れて、紀元前3世紀末に徐福〔饒速日〕が北九州に渡来した。
彼らは、商代末の銅矛や銅戈を保持していて、北九州に持ってきた。
そして饒速日やその子孫は、連れてきた熟練工の集団に、銅矛や銅戈を鋳造させた。
倭国使 「文身」とは”入れ墨”のこと
手を合わせて相手に媚びながらも、倭人を相手の交渉は一筋縄ではいかないぞ、という態度である。
物部氏は筑後方面の豪族の頭となり、北九州各地の豪族にそれらを配って、勢力の拡大を図った。
特に中広形銅矛は、饒速日の頃の勢力範囲であった有明海沿岸や筑後平野から出土する。
巨大化した銅矛は、対馬や豊前、西四国からも発掘される。
その広い地域が、物部王国の勢力範囲であった。
大型の銅矛は、神祭りの祭器として使われ、物部王国の王のシンボルであった。
銅矛は出雲にも贈られたらしく、神庭斎谷〔荒神谷〕遺跡からも出土した。
出雲王国は、勢力を拡大させつつある物部王国に近づき、友好関係を築いていたと考えられる。
佐賀県鳥栖市の安永田遺跡は、もともと銅戈や鉄剣が出土したことでよく知られた遺跡であったが、その後の調査で銅鐸や銅矛の鋳型、砥石などが見つかり、青銅器工房の集落であることが判明した。
さらに安永田遺跡を含む柚比(ゆび)遺跡群が、青銅器の一大生産地であることも判明した。
特に九州から銅鐸の鋳型が見つかったことは、それまでの定説を覆す大発見であった。
銅矛鋳型と銅戈〔安永田遺跡〕
ここで見つかった銅鐸の鋳型は「福田型銅鐸」と呼ばれる範疇のもので「邪悪に対しにらみをきかして防ぐ」ことを意味する「眼」の文様があり「邪視(じゃし)文銅鐸」とも呼ばれている。
福田型 邪視文銅鐸〔柚比遺跡群 安永田遺跡〕
吉野ヶ里遺跡からは、銅鐸そのものが出土している。
吉野ヶ里銅鐸も「福田型銅鐸」であり、伝島根県銅鐸と同じ鋳型でつくられたものであることが判明している。
これらのことにより、物部王国でも銅鐸をつくるだけでなく、銅鐸を使った祭祀をおこなっていたと考えられるようになった。
物部王国は、出雲族との血縁関係を深めていく過程で、出雲族の信仰も一部取り入れたものと考えられる。
かれらは銅鐸を見て、古代支那の打楽器・編鐘(へんしょう)に対する懐かしさも感じていたのかもしれない。
このように物部王国の初期の頃は、出雲王国とも友好的な関係を築いていたものと考えられる。
編鐘
出雲王国の方も物部王国の高度な技術力を評価し、おそらく宗像氏を通じて、銅製品を入手していたものと考えられる。
物部王国は、数百年後には後漢に使いを送り、朝貢貿易をおこなった。
『後漢書』「東夷伝」には、次のように書かれている。
會稽海外有東鯷人
分為二十餘國
又有夷洲及澶洲
傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲
丗丗相承有數萬家
人民時至會稽市
会稽海外に東鯷人有り。
分かれて二十余国を為す。
また、夷洲、および澶洲有り。
伝えて言う、秦の始皇は方士、徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱、神仙を求むるも得ず。
徐福は誅を畏れ、あえて還らず、この洲に止まると。
世々、相承け、数万家有り。
人民が時に会稽の市に至る。
この記事は会稽〔中国にかつて存在した郡〕の人の話を聞いて、記録したものである。
20余りの国とは、九州地方の国の数であると考えられる。
この文章により、徐福集団は持っていた構造船で、会稽方面と交易していたことがわかる。
「鯷」は「鮷」と同じである。
東鯷人とは「東の弟の人々」の意味で、和人を示す。
魚へんは、中華思想による蔑字である。
さぼ