静岡の中部まで戻り、R1沿いの“道の駅掛川”で車中泊して、翌日は諏訪原城からスタートしました。

 

日本200名城 №146 諏訪原城 静岡県 登城日:2021.12.10

 

 

 別名        牧野城、牧野原城、扇城
 城郭構造     山城

 標高/比高   218m/148m
 天守構造     なし
 築城主        馬場信春?
 築城年        天正元年(1573)
 主な改修者  松平家忠など
 主な城主     今福虎孝、今川氏真、松平家忠など
 廃城年       天正18年(1592)
 遺構          土塁、曲輪、堀、馬出、井戸など
 指定文化財  国の史跡

 所在地      静岡県島田市菊川1174

 

 

 諏訪原城は牧ノ原台地の東端にあり、その東を流れる大井川の河岸段丘を利用した“崖端城”です。

馬場信春による武田氏の城なので、ずいぶん前に訪ねた事がありますが、その当時の感性でとても困惑したのが、その地取りでした。

“地取り”とは、城を築く場所を決める、一番最初の作業を言います。

 

 旧今川領をめぐって徳川家康と争っていた頃の築城ですから、敵は西側に居るので西の備えを堅固にすべき筈ですが、この城の立地は真逆で、味方が控える東の背後は急な崖になって落ちていて、反対の西側には地続きの台地が広がっているのです。

 こうした地取りを“後ろ堅固”と呼ぶのだそうですが、そうした縄張りを敢えて選んだ武田氏の軍略・戦術について、この城をもとに少し考察してみます。

 

城址パンフより 奥が武田領、手前が徳川領ですが、どっち向いて城を作っとんじゃろ!?

 

パンフより 見やすい縄張り図が載っててホント助かります

 

❶のビジターセンターに駐車して見学スタート まだ朝の8時前なので、開いていません(^^;

 

❷の大手曲輪南外堀と土塁 台地を寸断する形に造られていて、徳川時代の増築か?

 

外堀と⓱の大手馬出し ここには諏訪神社が祀られ、城名の元になりました

 

堀沿いに進むと、左手に見える➍大手北外堀 西側で背面の郭なので堀も小規模

 

 

 諏訪原城が築かれた天正元年は元亀4年でもあり、4月には西上作戦の陣中で信玄が病没しています。

一旦は甲斐に退いた武田軍でしたが、勝頼が家督を相続するとまた攻勢に転じ、大井川を越えて遠江へと侵攻します。

この時に勝頼は、宿老の馬場信春に命じて大井川西岸に前線基地として13の城砦を整備させましたが、その一つが諏訪原城です。

 

 勝頼は此処を拠点に翌年5月には高天神城を攻略し、徳川領に深く斬り込む訳ですが、高天神城への補給・後詰めの拠点として最も重視されたのが旧東海道を押さえるこの諏訪原城で、勝頼は今福虎孝、室賀満正など、複数の足軽大将クラスを城番として配備しており、4~500名規模の兵数で守らせました。

 

➏中馬出しまで来ました 木が伐り払われて見やすくなっています 堀も深くなった気がするので、崩落分を掘り返したか?

 

➏中馬出しから西の城外を見ます 外の方が高いのがよく判りますね

 

❽外堀は北の谷へ落ちて行きます シッカリ薬研に見えるので、やはり復元されていますね

 

❿二の曲輪に入って➏中馬出しを振り返ります 外側に土塁が積み上がっていますが、掘られた堀の土量には全然足りません 土は何処に行った?

 

❿二の曲輪は石垣で区画されており、屋敷跡?かと思いましたが、上にコンクリが載っていました(^^;

 

南北に広い❿二の曲輪を仕切る土塁痕 これは当時のものでしょう

 

 

 天正3年(1575)5月、勝頼は信濃から三河に侵攻して長篠城を攻め、後詰めに来た織田・徳川軍と設楽原で決戦し大敗を喫してしまいます。

 これを好機と捉えた家康は、すぐさま遠江での反転攻勢に出て、まず目先の高天神城ではなく、補給拠点の諏訪原城へと攻め寄せました。

 

 徳川軍の猛攻に城兵もよく耐えて戦いましたが、諏訪原城の後詰めを担う藤枝の田中城には城主:山県昌景の姿はもうありません。

本国の勝頼も救援の動員を発令するものの、大敗直後の家臣団にその余力はなく、遂に出兵は叶いませんでした。

 孤軍奮闘のまま2ヶ月が過ぎ、ついに力尽きた城兵は城を捨てて大井川下流の小山城に退却し、諏訪原城は徳川の手に落ちました。

 

❿二の曲輪の外側には明瞭な土塁が残ります 前に来た時には確か茶畑でした

 

⓬本曲輪への土橋 内堀の土橋はここだけですから、大手口です

 

⓫内堀はかなり埋まっていますが、内外の高低差から内側に相当に積み上げられた事が判ります

 

⓬本曲輪内を見ると、本来の地面に対し、手前と奥に幅広い土塁が形成されていて、堀の残土は殆どが此処に積まれた感じですね

 

⓬本曲輪の北側は急な角度で落ちて行っています

 

⓬本曲輪東の奥の土塁の先も、小さな帯曲輪になっています

 

 

 新たに徳川氏の前線拠点となった諏訪原城に家康は、譜代の牧野康成を入れ、城名も牧野城と改めました。

この時の戦陣には今川氏真も同行していて、名目上の城主となって今川旧臣の糾合に力を尽くしたそうです。

 他にも城番として松平家忠、戸田康長、西郷家員なども常駐させ、大規模な改修工事を行なったそうで、“武田の城”として有名な諏訪原城ですが、現在見られる遺構の殆どは徳川の手によるもの…の様です。

一転して東向きに有利な地取りは、凡将でも守り易い城になった訳ですね。

 その為か、その後に武田氏による奪還作戦も有った様ですが、二度と奪還する事はありませんでした。

 

⓬本曲輪の下10mには横堀が走っています これも武田の奪還に備えた徳川の仕事ですね

 

横堀は途中でクランクし、虎口状になっています

 

❿二の曲輪に戻る内堀の底にあった⓭カンカン井戸 今も水を湛えています

 

内堀は自然の谷間になって行き、⓮水の手曲輪の案内がありました

 

谷間を降りて見ましたが、曲輪の造作は無く、水が湧き出るポイントのみ有りました これが⓮水の手曲輪か

 

⓲東内馬出し ❿二の曲輪の南端は3つの丸馬出しが連続して、東海道に出ます 武田時代はここが大手だったかも

 

 

 天正8年(1580)、補給拠点を失って孤立無援だった高天神城もついに落城してしまいます。

勢いに乗った家康は、大井川を渡って駿河へと侵攻して行くのですが、天正10年には織田信長も動いて“甲州征伐”が始まり、武田氏は滅んでしまいました。

 その流れで駿河が徳川領となったので、地勢的に諏訪原城の戦略的価値は無くなり、天正18年(1590)、小田原征伐で駿府に中村一氏が配されると、廃城になった様です。

 

 その後は山野と化していた城址でしたが、江戸幕府が斃れた後に、徳川慶喜が駿府に遷ると、多くの幕臣達が付き従い、彼らは生活の為に牧ノ原台地の山野を耕して茶畑を拓き、茶農家として帰農しました。

 諏訪原城の周辺には現在も茶畑が広がり、城内にもその痕跡が遺っていますが、城址が大きく損壊される事なく開墾され、現在こうして見られるのは彼らの先人の武士に対するリスペクトがあったからだと思われます。

 

⓲東内馬出しの外側には、三日月堀がキレイに遺っています

 

⓳東馬出し ここは木が伐採されて唯一展望が利くポイントです

 

大井川を挟んで手前に金谷の市街、向こうは島田の市街です

 

下の横堀はここで終わっていました

 

最後の⓴南馬出し 当時の馬出しがここまで完璧に遺っているのは珍しい…貴重な遺構です

 

攻略に手こずった徳川軍はその効用を認めて、後に外堀に二ヶ所の丸馬出しを増築した…というのが現在の定説です

 

 

 さて、困惑の“地取り”ですが、これはその当時の武田氏の勢い、馬場信春という有能な武将の性格・戦術を現わしているんだと思います。

 “後ろ堅固の城”というのは、後顧に憂いなく目の前の敵に集中できるメリットがあります。

つまりタイマンでの戦いに絶対の自信を持っている者の城な訳ですね。

 それを補完する意味で、後ろ堅固は背水の陣でもあります。

目の前の敵を斃し続けなければ最後は自分が斃される…という状態の中で、末端の兵まで洩れなく極限までテンションを高めて戦う事が、持てる戦力の最大活用…。

まさに“イケイケどんどん”な当時の武田軍を現わしていますね。

 また、それを実現して来た馬場信春が幾多の戦場を経てそれを会得した超有能な武将だったという事なのでしょう。

幸いにも平和な時代に生きた私達には、到達できない武人の高みとも言えます。