諏訪原城から次の目的地の高天神城へ向かいますが、その道すがら徳川家康が天正9年(1581)、高天神城攻囲に構えた“六砦”のひとつで、本陣となった小笠山砦に寄って行きます。
静岡の城 小笠山砦 登城日:2021.12.10
別名 笹ヶ峯御殿
城郭構造 山城
標高/比高 265m/180m
築城主 徳川家康
築城年 1568年(永禄11年)
主な城主 徳川家康、石川康通
残存遺構 土塁、郭、堀
廃城年 1581年(天正9年)
指定文化財 なし
所在地 静岡県掛川市入山瀬85(N34.735 E138.015)
小笠山砦があるのは掛川駅の南4㎞の小笠山山頂で、城址の一部が小笠神社となっていますが、此処に行くには道がややこしいので、標記の緯度・経度でナビ設定するのが良いと思います。
麓からは舗装された神社の参道があるので、運転は楽でした。
駐車場は2ヶ所ありますが、キャパが不足する事はまず無いので、行き止まりまで登って大丈夫です。
位置関係 天正4年の徳川家康による高天神城包囲網
参道終点の駐車場 少し下にもう一ヶ所ありました
駐車場からすぐの小笠神社の鳥居
参道の歩道は馬の背で、両側は切り立った崖です これは、砦に最適だ…
小笠山砦が最初に築かれたのは永禄11年(1568)の事で、徳川家康により築かれました。
この年は、武田信玄が駿河の今川領に侵攻した年で、駿河を奪われた今川氏真は重臣:朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れていましたが、徳川家康も西から遠江の今川領に侵攻して来て掛川城を囲みました。
この時に家康の陣城として築かれた様で、“笹ヶ峯御殿”とも呼ばれます。
翌永禄12年5月、攻囲5ヶ月で掛川城は開城降伏し、今川氏真は北条氏に庇護され伊豆に去ったので、東海の雄:今川氏の滅亡を見届けた城ですね。
冒頭写真の石段を登ると社殿 意外に小ぶりですが、社務所は立派でした。 年に一回賑わう祭禮が有る様です
境内からは南側の眺望が開けています 高天神城は何処かな?
望遠で探すと… この山みたいですね。 その間4km、昔の人の視力は凄いもんです(^^;
神社から奥に進むと、すぐに現れる虎口跡
左手には小曲輪の削平地が確認できます
そして次に小笠山砦が使われたのは天正4年(1576)の事でした。
2年前の天正2年、この地域の拠点となる高天神城が武田勝頼によって落とされ、占拠されてしまった事に依ります。
奪還を期す家康は、精強な武田軍相手の無理攻めを避け、周辺に6ヶ所の付城を築いて包囲し、兵糧攻めを行なった訳ですね。
その一つが小笠山砦であり、家康は石川康通(数正の従兄)を配して改修させ、守らせました。
6砦の中では最大規模のほとんど“城郭”で、最初は本陣として入り、後に横須賀城を築いて移ったと言われています。
この攻囲戦は天正9年(1581)まで続き、高天神城への補給をめぐる戦いは熾烈を極めましたが、前年の夏頃には完全に遮断され、高天神城は落城しました。
空堀と切岸が現れ、次の郭へと移ります
反対側の堀は竪堀となって南斜面に落ちて行きます
現地案内看板
尾根道はハイキングコースになっていて、多くのハイカーとすれ違いました
やっと出て来た縄張り看板 高天神城のボランティアさんが管理されてる様ですね 有難い事です
砦の最初の郭に小笠神社が鎮座しています。
というか、この神社は奈良時代創建の那智社で、『遠州の熊野三山』と呼ばれるほどの由緒ある神社なのだそうです。
そこに強引に入り込んで“砦”に改修したのが徳川家康な訳で、当時は神官や氏子の住む村がありましたが、皆逃散を余儀なくされ、神社もずいぶん荒らされてしまい、貴重な書画類も全て失われたそうです。
徳川家康、どーする!? 罰当たりな悪いやっちゃ(^^;
縄張り図中④の平場が指揮所っぽい造作でした。 その裏手の高台からは…
北側の掛川城が見下ろせます
もちろん静岡の城には標準装備の富士の景観も
縄張り図中⑥の平場は南側の物見台か
郭の周囲に横堀は、標準装備みたいですね
これは…、大雨が降ったら滝になりそうな勢いで落ちてる竪堀です
高天神城の落城で廃城となった小笠山砦は山に還り、一部は神社が復興して改修されたものの、当時の遺構の殆どがそのままの姿で森林の中に眠っています。
史跡指定が無いので城址としての整備は無く、上級者向けの“埋もれた土の城”になりますが、車でのアクセスも良く、城址を貫く尾根道が遊歩道になっていて、ハイキング客も多い様なので、そうした難易度は低く、訪れやすい城でした。
“六砦”の残り五砦もチラッと見て廻りました これは能ヶ坂砦
なかなかそれらしい雰囲気の有る火ヶ峰砦
獅子ヶ鼻砦には左手にある公園から登れるそうです
地区の人達によって整備されつつある中村砦
三井山砦は大浜公園という桜の名所になっています
了