伊豆まで遠征したこの機会に、ひと山越えて小田原の石垣山にも寄って行きます。
10年ほど前に訪ねた際にはまだ藪がひどくて、思う様には見られなかった城址ですが、なんと!続日本100名城に選ばれて、見やすく整備された様なので、個人的に“城”の概念からは外れる城址なのですが、新たな発見は無いか探ってみます。
日本200名城 №126 石垣山城 神奈川県 登城日:2021.12.9
別名 石垣山一夜城
城郭構造 梯郭式山城
標高/比高 262m/220m
天守構造 不明
築城主 豊臣秀吉
築城年 天正18年(1590年)
主な改修者 なし
主な城主 豊臣氏
廃城年 慶長5年(1600)?
遺構 石垣、曲輪、堀切、井戸
指定文化財 国の史跡
所在地 神奈川県小田原市早川1383-12
城巡りをする際に一番面白いのは、その城を造り、守った人達の“城愛”を感じられる時です。
城主・家臣、そして領民までの運命共同体の最後の拠り所だったのが“戦国の城”ですから、みんなが命を掛けて知恵と体力を極限まで振り絞った結晶の様なものですからね。
今回訪れた石垣山城は、豊臣秀吉が“北条征伐”に際して、本陣を置く“陣城”として造った城です。
山中の森で突貫工事で築城工事を進め、完成後に一斉に木々を伐り払い、一夜にして現れた総石垣の巨城に、ド肝を抜かれた北条氏は降伏を決意した… というセンセーショナルな話が実しやかに語り継がれています。
石垣山城は僅か80日間の工期で築城されたそうで、完成の10日後に北条氏は降伏したので、その後は廃城になったとも言われます。
僅か3ヶ月間の超短命な城な訳で、そこで思うのは
『彼我の戦力からも、囲んで置けば片付くのに、秀吉は何とも無駄な浪費をしたものだ 造った職人達の苦労は何の為?』であり、
次に『こんなの城じゃないでしょ!』といった怒りに近い呆れた気持ちです。
果たして、本当にそうだったのでしょうか?
“真の目的”に“一夜城”の伝説と“その後”についても、少し掘り下げてみたいと思います。
若者に人気の『ヨロイヅカファーム』の駐車場が城址のPを兼ねています
道路の反対側がもう城址公園
現地看板より 縄張り図 山城でも郭の広い近世城郭ですね
現地看板より 復元イラスト 小田原方面だけのハリボテではない工事量の膨大さが判ります
位置関係 早雲寺に本陣を置いた秀吉は、石垣山城を築城して本陣を移しました
天正17年(1589)の暮れ、北条征伐の動員令を発した秀吉は、翌年の3月1日に京を発って、4月5日には箱根湯本の早雲寺に入り、此処を本陣としました。(山中城攻めは3月29日)
そして4月中旬にはもう小田原城の西3kmにある笠懸山(石垣山)の山頂に築城を始めた…と言いますから、もうすでに選地も縄張りも決まっていた様ですね。
築城奉行は、前後の戦いに名前の見えない有力武将=黒田官兵衛で間違いないと思います。
広大な本城曲輪と馬屋曲輪を中心に、幾つかの曲輪を付属させた梯格の縄張りですが、郭塁はほぼ全てが総石垣であり、笠懸山の安山岩が野面に積まれています。
石工は帯同した穴太衆が務めましたが、近年の調査によると基礎は割石のみで、丸太は敷かれていない様です。
また、崩落部分に裏込めの栗石が殆ど見られない事から、一定期間の見映えと工期のみが優先された簡易の“突貫工事”だったのは間違い無い様ですね。
しかし、これだけの近世城郭の普請には、一斉の斜面の削り出しと削った土砂の埋め立てなど、大規模な土木工事が必須です。
立木を残したままの秘密裏の工事(一夜城)などでは無かった事は一目瞭然です。
関東大震災で崩落した南曲輪の石垣 小田原が震源地でした
大手虎口も崩れた石が散乱しています
馬屋曲輪の南石垣は比較的よく遺っています
小ぶりな石の乱積みと木の根が守ったのかも知れませんね
東の視界が開け、江戸期小田原城が俯瞰できました
こうして、小田原の北条勢が見守る中、普請は急ピッチで進み、80日後の6月26日には一応の完成を見て、秀吉は早雲寺から本陣を移しています。
ただ、作事の完成は御殿など一部のみだった様で、天守も出土した瓦の刻印から、翌年以降での完成が確認されています。
秀吉が石垣山城に移って10日後に、北条氏は降伏開城するのですが… あれ? そうすると、愛妾:淀殿や京の公家や文化人を呼んで、連日連夜ドンチャン騒ぎしていたのは石垣山城ではなく早雲寺だった…という事になりますね。
仏様には迷惑な話です(^^;
もう一つ、現地の縄張りを見て腑に落ちない事があります。
完成した石垣山城は、果たして北条勢からどう見えていたか…という事ですが、こうした“コケ脅し”の城は、敵からも目いっぱいデカく見えないと意味が半減します。
縄張り図によると、東西に長い城域は、東の小田原城からは間口が実際よりも狭く、小さく見えたと思うので、実際のところ、北条氏に見せるのが真の目的ではなかった気がします。
井戸曲輪の石垣はほぼ原形を保っている様ですね
堰堤機能のため傾斜を緩く作ってるのが良かったのか?
石粒が微細な方がせん断応力には強いのは知っていましたが、石は大きく重い方が強い…と考えるのは、人間の限界で、自然の測り知れない強大さを示す実例ですね
東端の展望台まで来ました 小田原城が一望できるものと思っていましたが…なんも見えません(^^;
北西に突き出た“御鐘ノ台”くらいは見えるかと思いましたが…展望はナシです
以前の写真で、小田原城三ノ丸新堀土塁上から見た石垣山城
織田信長の頃から、北条氏の仕置きは“征伐”が既定路線だったと思います。
その理由は、その広大な領土にあり、再配分の原資作りには最適な対象ですよね。
では、誰に見せたかったのか…というと、徳川家康とこの時に新たに参陣した、伊達政宗はじめ奥羽の諸将達でしょうね。
北条征伐は“雌雄を決する戦”ではなく、その後に続く“奥州平定”への一大デモンストレーションでもあった訳です。
遠隔地にあって百姓出の秀吉に懐疑的な大名達には、一生かけても築けない様な城を瞬時に築いて見せ、すぐさま使い捨てにしてしまう…
秀吉という天下人の剛毅さ、絶大な底力を見せ付けたかったのでは無いでしょうか。
臣従のため此処に登って来た政宗も、ビビったでしょうね(^^;
そうすると“関東の連れションベン”は演出された史実だったかも知れません。
馬屋曲輪に戻りました 綺麗に削平された広大な郭です 前方は本城曲輪
崩落した本丸石垣 7mほどの高さですが、二段に積まれていた様です それにしても、栗石が全くありません
本城北門の枡形も大きめの石が使われた為か、崩れています
本城(本丸)からの展望も木々に遮られて見えません 『与作を呼べ!』
天守台跡 三重天守が有った様ですが、大久保時代の創建かも知れませんね
本城を調査しても礎石は出土しなかった様ですから、建物は陣城らしく“仮設”の範囲だった様ですね
石垣山城のその後ですが、同年に行なわれた“奥州仕置き”の帰途に秀吉が逗留し、勅使を迎えたり茶会を開いた記録があるそうです。
翌年には陸奥で葛西大崎一揆が起こり、続いて九戸政実の乱が起こります。
追討には豊臣秀次が総大将として出陣しており、石垣山城も行程の一拠点になった事は想像できます。
徳川家康領となった小田原は重臣の大久保忠世に与えられ、石垣山城もしばらくは大久保家が管理した様です。
忠世の配置は秀吉のリクエストだった様ですから、陣中では両者の間でそんなやり取りが有ったのかも知れませんね。
忠隣の代になって、石垣山城の天守が焼失した…という記録も有るそうですから、秀吉の存命中は維持されて、関ヶ原の後に放棄されたのだと思います。
了