今回は奥平氏の本拠:亀山城の目と鼻の先に築かれた“武田信玄の三河進攻拠点”と言われる古宮城を訪ねます。

 

青が武田氏、赤は奥平氏の城 密集しています

 

 

 この城址については実はその詳細を顕す文献が殆どなく、“謎の多い城”なのですが、遺構から見る築城手法や規模感、またそれを必要とした歴史的背景などを総合して、上記の様に“武田の城”と解釈されています。

 

 

日本200名城 №150 古宮城 愛知県 登城日:2020.10.28

 

 城郭構造    平山城

 標高/比高   560m/30m

 築城主      武田信玄?

 築城年      元亀2年(1571)?

 主な城主    武田氏家臣?

 廃城年      天正3年(1575)頃

 遺構        土塁、曲輪、空掘

 再建造物    なし

 史跡指定   新城市指定史跡

 所在地     愛知県新城市作手宮山

 

 古宮城があるのは亀山城の北1.5kmの小丘で、杉林に覆われた中に全山要塞の遺構が眠っています。

 この場所はもともと白鳥神社という村社のあった丘で、天徳2年(958)にこの地に所縁のあった日本武尊を祀った神社と言いますから、特に神聖な場所だった様です。

 由緒ある神社を城にするのは、豊臣秀吉がよく使う手ですが、地元民の反発を勘案すれば、よほど圧倒的な力を持つ者にしか出来ない所業ですね。

 

古宮城から見る亀山城 至近距離ですね

 

城址へは白鳥神社の東から登って行きます 神社駐車場(3台分)を利用

 

山全体は若い(20年生くらい)杉林ですが、古い檜もポツポツあります

 

すぐに小さな平場に出ます 神社の屋根も見えるので、本殿跡かと思いましたが、これは城の枡形虎口ですね 

 

資料館で貰った縄張り図 大竪堀が東西に分断する西国では特異な形です

 

 

 江戸中期の書物『三河国二葉松』に依ると、元亀2年(1572)、甲州馬場氏縄張りにて築城…とあります。東三河に侵攻した信玄が馬場信春に命じて築城させた…と見て良さそうですね。

 

 馬場信春は武田四天王の中でも築城名人として知られる武将で、なるほど縄張り図を見ると信春が築いた諏訪原城や田中城に似てる気がします。

 ほぼ楕円形の城域は巨大な竪堀で二分された“一城別郭”になっていて、東側の郭は防備が薄く広い曲輪を配して、居住区を成しているのに対し、西側の郭は何重にも堀を重ねて迎撃態勢を取った“戦う城”に造られています。

 これには当時の地形が、東側は三方を低湿地に囲まれ、攻め口は西側にしか無かった事に依る縄張りなのです。

 

さっそく竪堀を見ます 南の大竪堀は灌木が繁ってよく見えませんが、広く深く、竪堀の概念には嵌りません おそらく箱堀で、堀底は通路になっていたのでしょう

 

頂部から見る西の城の主郭 中央に一文字土塁が視認できますね

 

反対の北大竪堀 両側が登り土塁状になって麓まで続き、容易に郭内には踏み込めません

 

次は東の城を見ます こちらの主郭にも土塁の仕切りが。土塁上が通路になっていますが、遺構保護の面で良い選択ではありませんね

 

主郭の東側は運動会ができるほどの広さですから、大規模な礎石建物が有ったかも

 

 

 さて城の守将ですが、馬場信春がそのまま城将として在城したかと言うとそうではなく、城将には小幡昌盛、甘利信康、大熊朝秀の名前が出て来ます。

彼らは足軽大将クラスの武将なので、単純に計算すれば動員兵力150名×3=450名の兵がこの城に駐屯していた事になりますね。

 

 では、彼らの果たした役割は何か…ですが、築城時点で奥三河の大半の豪族は武田の傘下に堕ちており、多くが生き延びる為に寝返った氏族ですから、再度離反せぬ様に監視する必要があります。

広大な地域ですから目も届きにくく、直臣がまとまった兵力で駐留する自前の拠点が必要だった訳ですね。

 

同時期、武田氏に攻め落とされた城をプロットして見ました 三河国、遠江国=徳川のイメージが強いですが、半分を攻め取られ存亡の危機に追い込まれていた事が判ります

 

主郭の下側には土塁で仕切られた広めの曲輪が並びます 城兵の生活の場だった事が判りますね

 

北大竪堀に降りて、西の城へと向かいます 堀底道の両側には壁が立ちはだかります

 

西の城主郭の虎口

 

西の城は折り重なる横堀が目立ちます

 

それを画面に収めようとすると3本しか入りませんが、この部分はなんと5重になっています。 これを突破するのは並大抵の事ではありません。

 

 

 また西上作戦の様に数万もの大軍を動かす場合、本軍は平地を進軍して行く事になりますが、対峙する敵に対して側面の山地を確保している事は、攻撃の多様性の面でも、万一敗走する面でも極めて有利になります。

 古宮城は平常は地域の経営・監視拠点の傍ら、来る侵攻作戦に於いては数千の軍団を入れ、敵の背後・側面を衝く役割を担っていたのでしょうね。

 

主郭の一文字土塁 主郭に攻め込まれても尚、戦う強い意志の顕れか

 

敵の攻め口になるであろう西側の土塁は、今もなお高さを維持しています。 戦いに特化した郭ですね

 

ひと通り廻って、大手口は南に有ったに違いないと断じ、降りて見ましたが、この城址で唯一後世に改変されてるのが南麓で、跡形もありませんでした(^^;

 

城址の西側に迫る山塊 右のピークに有ったのが塞ノ神城で、左のピークには前話で訪ねた文珠山城があります

 

 

 古宮城の西側に迫る山の山上には、塞ノ神城という山城があります。

古宮城を見下ろし、攻囲を受けた場合には敵が布陣する場所の背後という立地であり、古宮城の支城には違いありません。

 しかし、居館を伴う単郭の古い城に帯曲輪を追加した様な、支城らしくない縄張りなので、ふと思ったのは、通説の武田氏の築城ではなく、もともと奥平氏の亀山城の支城であったものの、古宮城にとって目障りだった為、武田氏に譲渡(奪取)され、替わりに急遽築かれたのが文珠山城なのではないか? との疑念を持ちました。

まぁ、何の証拠もありませんけどね。

 

塞ノ神城の縄張り図 支城にしては少人数で守りにくい、複雑な縄張りです

 

話が前後しますが、塞ノ神城へは文珠山城に続いて訪れました 尾根伝いに道が有ります

 

尾根が断ち切られ、土橋で城内(西曲輪)へ入って行きます

 

さらに主郭へは険しい段差があり、幾つかの小さな帯曲輪が付属し、古い形式(兵の分散)を思わせます

 

 

 古宮城の廃城に関しても幾つかの説があり、西上作戦では信玄の死で作戦が中止され、目論見通りに機能する事はありませんでした。

 この後、奥平氏が徳川に寝返った際、家康の支援を得て攻撃し、落城させた説…地元でもこの説を採っていますが、奥平氏が作手には復帰していないので、いかにも不自然です。

 それに古宮城が落とされたとなると、勝頼は長篠城よりもこちらを攻めたでしょうから、設楽ヶ原の敗戦直後に(甘利信康は討死にしている)放棄して甲斐に引き揚げたと考えます。

 

主郭も広く平坦に削平されていて、支城らしくない仕上げです(^^;

 

どうやら、鎌倉期に“米福長者”という者が居館を構えた伝承もあるみたいですね

 

北西側の土塁を高くするのは、寒い地域の城址の主郭に共通する点です

 

主郭の北側の付曲輪は、戦国期にありがちな守りの曲輪です

 

 

 この様に学術上は未解明な部分も多い古宮城ですが、続・日本百名城に選定されています。

選定理由はこの地方には見られない超絶技巧の土の城が、ほぼ当時のまま遺っている事に尽きると思います。

 おそらく、廃城後に移転していた白鳥神社がまた遷座され、“神の山”に戻った城址には神木が植えられ、長年の風雪から城址を守ってくれたが故の奇跡的な残存状態なのだと思います。

 あいにく、史跡整備は最低限のため、“材木屋のブログ”みたいになってしまいました。

土の城に慣れ親しんだ人でないと楽しめない城址ではありますが、一見の価値は十分に有る城です。