🎍明けましておめでとうございます。
今さら何を…という感じですが、例年通りのスロースタートです(^^;
年末年始は息子と娘の家族も加わって、狭義の家族だけで大人しく古民家に蟄居していましたが、建物に重大な損傷が見つかったので、年明けはそちらの対応を優先していました。
それも一応の目途が立ち、発注した資材待ちの状態なので、昨年末に引き続き奥三河の城を紹介して行きます。
昨年は東三河の城を歩きましたが、今年のスタートは西三河山間部の2城を紹介します。
まずは市場城から。
三河の城 市場城 愛知県 登城日:2020.11.27
別名 大草城
城郭形式 山城
標高/比高 390m/60m
築城年 文亀2年(1502)
築城主 鱸藤五郎親信
主な城主 鱸(すずき)氏4代
廃城年 文禄元年(1592)
残存遺構 郭、石垣、土塁、堀
文化財指定 市指定史跡
所在地 愛知県豊田市市場町657(旧:西加茂郡小原村)
市場城のある地は矢作川支流の犬伏川上流に位置し、古くは小原谷と呼ばれていました。
この山間の地に鱸氏が定住したのは室町初期の事でした。
鱸氏は尾張源氏の足助氏の支族と言われますが、足助氏が南朝に与した事で、その後は山間の地に逃れて定住したものと思われます。
*この辺の経緯は次回の足助城で詳しく述べます。
市場城遠景 豊田市市場(旧:小原村大草)の集落の真ん中に聳える城山です
城山の南側にある専用駐車場とトイレ インフラは整っています
駐車場の反対側が城の登り口で、判り易いです
戦国時代の奥三河の高原地帯では、東は菅沼氏と奥平氏、西は松平氏と鈴木氏が盤踞していました。
鈴木氏は足助氏に代わって足助郷に居住した氏族で、鱸氏もこの鈴木氏に従って、今川氏の傘下に居ましたから、鱸(すずき)の姓は鈴木氏から与えられた可能性もありますね。
長禄3年(1459)の所領安堵記録があるそうですが、この時点の居城は“市場古城”と呼ばれる城で、市場城の東500mの位置にありました。
登り口の奥にある縄張り図 周遊路があり、反時計回りに大手から見て行きます
大手道沿いには野仏が沢山有りました
最初の虎口か? 切岸の土塁が迫って来ます
新城としての市場城が築かれたのは戦国中期の文亀2年(1502)の事でした。
同じく山間の松平郷を本拠にしていた松平氏が中原に勢力拡大し、より戦乱の危機が深まる中、長年守り育てた小原谷と領民を守るには、より強固な城の必要性を感じた故の事と思われます。
実際にこの谷間に足を踏み入れて見ると、山深い地にも係わらず谷間から斜面まで良く開墾されていて、耕作放棄地や廃屋もほとんど無く、想像以上に拓けた山村でした。
これは竪堀ですね
鱸氏4代の供養塔 江戸末期の建立とされます
二つ目の虎口は堀底道 戦国の山城の雰囲気満点(^^♪
しかし大永2年(1525)に足助城鈴木氏が松平清康に攻められ降ると、鱸氏も松平氏の傘下に組み込まれ、今川、織田の影響も受けて動乱の渦に飲み込まれて行きます。
時は流れて天正年間、徳川家康の麾下で活躍したのは藤五郎親信から数えて4代目の鱸越中守重愛(しげよし)で、天正9年(1581)の高天神城攻防戦での奮闘ぶりは信長公記(鈴木越中守名で)にも記されています。
かと思えば、ありゃ? 石垣が見えて来たぞ(^^; 二ノ丸の櫓台か?
さらに進むと、上の壇(本丸)も石垣造りです…。 織豊期の野面積みで、こりゃ徳川大名の城並みだな。
二ノ丸はさほど広くは有りませんが、本丸の南を梯郭に囲む帯曲輪になっています
さらに天正壬午の乱でも活躍した重愛に家康は大幅加増したと言われます。
当初の鱸氏の所領は2千貫(4千石)と言われ、その後の自助開発分を合わせると、万石を越える経済力を得たものと推測されます。
重愛はこの収入を主に市場城の改修に充て、主郭を総石垣で固め、虎口も石垣の枡形に改修し、鉄砲時代の戦術に耐えうる堅城にしました。
これは家康に従って各地を転戦し、城攻めで得た教訓なのでしょうが、あくまでも自身の城と領地を守りたいという“小原谷愛”なのでしょうね。
二ノ丸から見る本丸高石垣 ありゃ、予算が足りなかった様ですね(^^;
本丸壇上に上がって来ました。
ひょうたん型に奥まで広く続いています。 削平レベルから見て、城主居館は此処に有った様ですね。
土塁で囲まれてるエリアは古い本丸で、加増後に奥に拡張されたみたいです。
11月も末なのに、ポツポツ咲いているのは“四季桜” 旧小原村は四季桜の名所で、花見ポイントがたくさん有りますが、残念ながら宇都宮酒造はありません。
天正18年(1590)、小田原攻めで北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は徳川家康に北条旧領への移封を命じます。
これは徳川家だけでなく、麾下の国衆もこぞって関東へ移れという事なのですが、この命に不満な重愛はとことん拒絶した為、強制的に退去させられ改易されてしまいました。
市場城はすぐさま破却され、流浪の身となった重愛は各地を転々とした後、慶長11年(1611)5月に紀州新宮で没したそうですが、浅野家に召し抱えられていたのかどうかは不明です。
東側には小郭が折り重なっています。 遠方の山上が古城跡か?
本丸の西側下に残る“畝状竪堀”は、この城最大の見所ですね。 これだけの規模で遺る例は滅多にありません。
搦手への虎口も石垣で補強され、枡形が形成されていますが、こちらは初期の古い遺構の様です。
搦手口内側の平場は“さんざ畑”と呼ばれていますが、家老:尾形三左衛門の屋敷跡と伝わります。
思えば、関東も住めば都で、温暖で日照時間も多く、冬場の加湿器さえあれば暮らしやすい土地柄なんですが、先祖代々で切り拓き、育ててくれた小原谷への愛着は、尋常でなかったのでしょうね。