奥平氏の本拠地:作手の城址分布 盆地の南に亀山城、街道を挟んだ西側には支城の文珠山城があります 北の外れには最初の居城:川尻城があり、支城となっていました。 《後編》の写真ではこれらの支城を紹介します。 *青字は武田の城
まず文珠山城から 比高160mの山城ですが、城址の下まで車道があり、簡単に行けます
縄張りは一条の堀に囲まれた単郭の城で、“砦”の規模です 元亀年間に武田軍の要請で急遽築かれた城で、“一夜城”の別名があります。
郭内は平坦に削平され、物見櫓が復元されています。
作手の領地を放棄して家康の元に奔った奥平定能は、家督を嫡男の信昌に譲って隠居し、家康の間近に仕えて奥三河攻略の助言や調略活動に従事しました。
新当主の信昌はと言うと、新たに長篠の地を賜って長篠城に入ります。
武田方に降っていた長篠城の菅沼正貞でしたが、武田軍の撤退と入れ替わる様に家康に囲まれるとスンナリ降伏開城したので、徳川の城となっていました。
いずれ来るであろう武田の再侵攻を考えた時、真っ先に狙われる最前線の危険な長篠城に信昌を置いたという事は、奥平勢の勇猛さに期待した故でしょうが、それ以上に、亀姫と婚約を交わし娘をエサに寝返らせたものの、“娘婿に相応しい活躍をして見せろ”という高いハードルを置かれた感じです。
さらに穿った見方をすれば、武田軍に勇猛に立ち向かって討死にしてくれたら、大切な娘をやらなくても済むかも…という家康の親としての本音も見え隠れする気がしますね。
物見櫓に登って見ましたが、樹木が育って見通しは効きません おそらく古宮城を中心とする支城ネットワークの一部として築かれたのでしょう。
郭の周囲にはまだ土塁の痕跡が残っています。
北側は土塁が明瞭ですね。
西側にキレイに残る薬研堀
案の定、武田勝頼は2年後の天正2年(1575)に1万5千の軍を催し、長篠に攻めて来ます。
この出陣の最終目的がどうもハッキリしなくて、前回(元亀3年)の半分の兵力ですから、西上作戦の続きではありません。
その割に従う諸将はオールスターですから、必勝を期していたのは間違いないでしょう。
おそらくは、家康に寝返った奥平、菅沼を一ひねりで討伐し、長篠城を奪回して自身の力を親族・重臣達に認識させるのが主目的だった気がしますし、もし家康が救援に出て来たなら、三方ヶ原の二の舞を狙っていたかも知れませんね。
近年までお堂が祀られていた様ですが、現状はかなり残念な状態…。
郭の北東にはブナの大木が立っています。当時からの物ではない様ですが…
樹内に大量の水を貯えるブナは、水の乏しい山城には有用な樹木だった事でしょうね。
東側にある城の虎口 尾根道で武田方の塞ノ神城につながっています。
一方、僅か5百の手勢を総動員して長篠城に籠った信昌ですが、家康の真意を受け止めた上で、この時の為に長篠城を頑強に改修し、兵糧と200丁もの鉄砲を持ち込んでハリネズミ状態で待ち構えていました。
“奥平家の興廃はすべてこの一戦にあり”で、家中が一丸となった最強の状態を作り上げていた訳ですね。
5月初旬に長篠城を囲み、総攻撃を掛けた勝頼でしたが、頑強な抵抗に遭い被害が膨らみます。
無闇な力攻めを諦めた勝頼は、付け城を築いて長期戦の体制に転換し、アウトレンジでの断続的な攻撃を仕掛けました。
家康の救援が無いまま30倍の敵の攻撃に2週間耐えた長篠城でしたが、徐々に被害も増え、兵糧蔵を焼かれて落城が見えて来ます。
このタイミングで鳥居強衛門が城を抜け出し、岡崎へ援軍要請に走りました。
家康はと言うと、徳川独力で勝頼に勝てる見込みは薄いので、何とか織田信長を出馬させようと腐心していました。
信長は、できる事なら徳川だけで対処して欲しい案件…という気持ちで居ましたが、岐阜で武田の陣容や動きの情報を収集した結果、再三の家康の援軍要請に応える名目で、3万の大軍(負けない陣容)で出陣します。
続いて川尻城 史跡公園になっています。
縄張りは北東から南西に涙滴状の連郭で、大きな主郭に小さな曲輪が付属します。
その曲輪にある冠木門は、雰囲気を演出する公園のモニュメントです。
主郭に着きました。 案内板によると、築城は応永31年(1424)とあるので、奥平氏も奪取した城みたいですね。
徳川の軍8千を加えて設楽ヶ原に布陣したのは積極的に戦う意思は無く、勝頼に撤退を促していた為と思われますが、長篠城を落とせず、戦功ナシで逃げ帰る“器量”は勝頼には無くて、ついタイマン張ってしまいます。
それならば…と、戦力差がそのまま出てしまったのが設楽ヶ原の戦いな訳ですね。
つまり、長篠城での奥平信昌の“予想外”の頑張りは信長に出陣を決断させ、さらに勝頼の判断ミスをも誘発して、家康にとって宿願だった三河からの武田勢の一掃に繋がった訳ですから、信昌の功績は絶大です。
信長も手放しで信昌を褒め称えたものだから、ケチな家康もそれ以上の褒賞で報いる他ありません。
“娘婿に過分な武将”として亀姫との婚姻が正式に成されました。
主郭は500坪くらいあるので、当主はここに常住していたのでしょう。
周囲は土塁で囲まれていました。
北西の角には物見櫓台の土盛りもあります。
(^^;
輿入れした亀姫は四男一女の“家康の孫”を産んだので、ここでも信昌は頑張りました(^^;
(ただ、格差婚なのは歴然で、信昌は終生側室を持てなかったそうです…)
これはとても大きな事実で、後に家康が天下を取った事で、奥平家の更なる興隆と盤石な地位の確立へと繋がって行きます。
外孫をも大切にした家康は、婿の信昌を美濃加納で10万石に遇する一方、信昌の長男:家昌には宇都宮10万石の別家を与え、後にこれが奥平家宗家となり明治まで続きます。
二男:家治は家康自らの養子とし、大藩の藩主にすべく養育しましたが、惜しくも14歳で早世してしまいました。
三男:忠政は信昌の加納10万石を継ぎ奥平家に残ります(ただ2代後に無嗣改易)。
北側に降りる虎口 搦手口か?
城の周囲は湿地帯だった様ですね(北側は現在も)。
川尻城から移転先の亀山城(右の谷間の遠方に)を望みますが… その間を遮る様に古宮城址(中央の丘)があります。
四男:忠明は早世した家治に替わり家康の養子となり、かつての領地の三河作手に作手藩(1万7千石)を立藩してもらい、亀山城を再建して居城としました。
しかし、これはほんの皮切りで、8年弱で伊勢亀山(5万石)に移ると、トントン拍子に加増と転封を重ね、最後は播磨姫路18万石の太守に収まります。
そればかりか、譜代筆頭の井伊直孝とともに大政参与を務め、家光政権の重鎮になっていますから、新参ながら名実ともに徳川譜代の重臣にまで登り詰めていた訳ですね。
max33万石は彦根藩井伊家に匹敵する、譜代として最高の待遇です。
三河山間部の一国人領主に過ぎなかった奥平氏が、定能の時流を読む判断力と、信昌の局地戦で見せた胆力、そして家臣団の一糸乱れぬ団結力で実を結んだ結果ですね。
乱世で、強者の脅威に晒された弱者はどうあるべきか… 平和と安寧は自ら動いて手に入れるしかない…先人が命懸けで遺した、大きな教訓となる事例です。
次は続・百名城の古宮城を訪ねます