上田城連載の途中ですが、秋晴れに恵まれた先週末に近江の小谷城へ行ってきたので、旬なネタを先に掲載します。

今頃になって初登城?…と思われるかも知れませんが、近圏(直距離68km)の100名城で唯一未登城だった小谷城です。

 広大な山城でエピソードも多く、安易に“ついで登城”の効かない城ですから、一日一城の時間作りとそれなりの観点の絞り方に苦心して、ここまで先延ばしになっていた感があります。

 

 

日本百名城 №49 小谷城 滋賀県 登城日:2020.10.16

 

 城郭構造    梯郭式山城

 標高/比高  495m/230m

 天守構造     なし

 築城主      浅井亮政

 築城年      永正13年(1516)

 主な改修者   浅井氏、朝倉氏

 主な城主     浅井氏、羽柴秀吉

 廃城年      天正3年(1575)

 遺構        曲輪、堀切、土塁,石垣、礎石など多数

 指定文化財   国の史跡

 所在地     滋賀県長浜市湖北町伊部

 駐車場     小谷城戦国歴史資料館(無料)

 

 

 小谷城は江北の戦国大名:浅井氏の居城としてあまりにも有名ですが、浅井氏とはそもそもどんな氏族なのでしょうか?

諸説ありますが、鎌倉時代から北近江の浅井郡に根を張る郡司、郡代クラスの国人だった様です。

 近江国は近江源氏の佐々木氏が守護を務めましたが、承久の乱の後に4家に分割相続され、南部中心に過半を嫡流の六角氏が継いで守護となり、そして北近江の6郡を庶流の京極氏が継ぎました。

浅井氏はこの時から京極氏の被官として家臣団の主要なメンバーの一人だった様です。

 

北陸道に専用(?)のICが出来、僅か5分で到達します

 

城域は根小屋の清水谷を中心に、奥の山上に詰め城と両翼の尾根上に防御の曲輪が重なる広大なもの

 

後期の主郭になる東の尾根から詰め城、そして西の尾根と馬蹄型に歩いて見ますが、条件が悪い様だと清水谷から降りて来る事も考えています

 

まずは資料館で予習と資料を貰い、コンディションも確認しますが、特に問題は無さそう…

 

 

 鎌倉末期、六波羅探題を支える主力となっていた六角氏に比して、京極氏の当主:高氏(道誉)は足利尊氏に協力して討幕の一翼を担った為、新たな室町幕府では力関係が逆転します。

 道誉の後は出雲、隠岐、飛騨の守護となった為、近江守護は六角氏に戻されますが、近江での六角氏と京極氏の争いは戦国中期まで続いて行くのです。

 道誉以降の京極氏…と言っても、パッと実名が思い浮かぶ当主が居ませんね

どうも京極氏は戦国大名に相応しい、武勇と統率に優れた当主に恵まれなかった様で、その分有力な家臣が家臣団を良くまとめて、家を支えました。

 しかし、そんな構図が何代も続くと、次第に有力家臣が実権を握り、京極氏は傀儡の当主でしかなくなって行きます。

 

重臣:磯野員昌の屋敷跡から東の尾根に登って行きます

 

害獣柵を開けて入る、今やお馴染みの登攀ですが…

 

5分も登れば尾根上の広い登山道に。 真っ直ぐだし、近代に造られた道でしょう。 右手に古い道の跡が並走していますが、これが大手道か?

 

いや、こちらも真っ直ぐで樋状に凹ませていますから、水を流して伐り出した木材を運ぶ林業道路ですね

 

さらに5分登った緩傾斜地に峠の表示。 しかも『信長の野望』でお馴染みの朝倉の猛将の名が…

 

 

 まず今浜城主:上坂信光が実権を握り専横を顕わにすると、次いで尾上城主:浅見貞則が反上坂の国人連合を組織して今浜を攻め、信光は堪らず尾張へと遁走してしまいます。

 この国人連合の№2だったのが浅井氏の当主:亮政でした。俗に“浅井三代”と呼ばれる初代の亮政ですね。

 亮政はこの当時は丁野山城を居城としていた様ですが、直後に小谷山に築城(大嶽城)を始めたので、密かに“次”を狙っていたのかも知れません。

 京極氏の家政を手にした浅見貞則はやはり次第に専横を振るう様になり、困窮した国人達は反浅見で結集します。

 

さらに10分登った最初の曲輪が金吾丸。 小早川秀秋? いや、朝倉教景も金吾(左衛門尉)だった様で、彼が布陣した事による命名です。

 

と言っても、削平地と僅かな土塁痕が残るだけですが。

 

金吾丸の先にある番所跡 此処まではクルマでも来られるのだそうで、軽装で来て本丸周辺だけサラッと見て行く観光客が大半との事

 

そういえば、案内絵図も東尾根のみがクローズアップされていますね。 クマ出没といえば…

 

昨今の被害情報で今回から山歩き装備に加わった撃退スプレー。 アメリカ製で取説が直訳したもので、使って良いのはクロクマ、大型野生動物、そして悪人だそうです(^^;

 

 

 彼らが旗頭にと担いだのが浅井亮政で、大多数が浅井氏の小谷城に集まり尾上城攻撃を伺ったので、観念した貞則は家政の座を亮政に譲り、一国人となりました。

 これで京極氏の実権を手にした亮政でしたが、支持母体は鎌倉以来の同僚の国衆なので、これを一気に家臣化するのは無理だった様で、尾張に隠遁していた京極国清を小谷城に迎えて名目上の主君とし、旧来の体制への回帰を装います。

 しかし、上平館ではなく小谷城への本拠の変化は国清にとっても乗っ取り見え見えですし、京極氏への下克上は同族で主筋でもある六角氏にとっては江北侵攻の絶好の名分となってしまいました。

 

番所は主郭部への出入りの監視と、戦時の馬出し機能だったと思われますが…

 

小谷城には主要な郭にはこうして復元図が飾られています。 判り易く有難い反面、オタク的想像・妄想を阻害する一面も(-_-;)

 

此処からは眼下に虎御前山が一望。 落城時の織田信長の陣所ですね。

 

 

小谷に初登城 Ⅱ につづく

 

 

 

奥さんのリクエストで、広報紙で紹介されていた甲賀市信楽で開催中の『スカーレット展』を見てきました。

『スカーレット』とは戸田恵梨香さん主演で、信楽が舞台のひとつ前の朝ドラですね。

 

背景が大自然ではないので、現地ロケは殆ど無かったそうですが、時代に合わせて凝った小道具が見られて、懐かしく思い起こされました。

同展は来年3月末まで信楽伝統産業館・旧館で開催されています。

 

最後にタヌキを大人買い!!(^^;