『麒麟がくる』でももう浅井長政が登場して、次回は朝倉攻め(信長からの離反)に入りそうなので、盛り沢山な小谷城の投稿もやや焦り気味です(^^;
今回は番所の上に積み重なる曲輪を順次見て行きます
大永5年(1525)、六角定頼は大軍を催して浅井領に侵攻して来ます。
この窮地に浅井亮政は越前の太守:朝倉教景に援軍を依頼したので、 朝倉宗滴が率いる朝倉勢が来援し、小谷城に布陣しました。
宗滴は六角勢と対峙する傍ら、定頼との調停工作も進めたので、この時は和議が成って双方とも兵を引きました。
以後、浅井氏は後ろ盾として朝倉氏を頼む様になりましたが、朝倉氏としても畿内の戦国大名との緩衝勢力としての浅井氏の存在は有益ゆえの事と思われます。
番所の上には、御茶屋、御馬屋、桜馬場が重なります
御茶屋は来訪者を接見する場所か? 枯山水の石組みと池の跡が明瞭に遺ります
御馬屋にある馬洗池は二段式の水溜め 今もわずかに水を湛えています
馬屋跡は草刈りが行き届いていません。 井戸跡があり、籠城時には数十頭の馬が確保されていたんでしょうか?
しかしこの後も六角氏の攻勢は幾度となく続き、兵力差は明確でその都度敗戦続きとなった亮政でした。
一時は小谷城を棄てて国外へ逃れる事態もありましたが、六角氏の主力が去ると攻勢に出て領地を回復し、しぶとく滅亡を免れました。
国人衆の団結と頑張りもありますが、その陰には常に『浅井を潰させない』朝倉氏の大きな助勢が有った事は明らかで、この時期に浅井氏は終生返せない大恩を受けた訳ですね。
桜馬場に登る手前に、赤尾清綱の曲輪『赤尾屋敷』への入り口がありました。 長政が自害した場所なので行って見ます。
長い帯曲輪の先に赤尾曲輪の平場がありました。
奥にある石柱が長政の供養碑です 合掌。
この曲輪は三段構造ですが、急斜面の小谷山でも特に勾配の急な場所に造られた要害です
度重なる敗戦を経て亮政は、六角氏に対し対決姿勢を緩め、自らを『京極氏執事』と称して従属の意を表す事で攻勢を避けようと謀ります。
六角定頼も背後の朝倉氏を見越して、損害の大きい力攻めは自粛したため、しばしの平穏が訪れました。
しかし、そんな時は束の間で、囲っていた京極国清が病死すると浅井を嫌った嗣子の高延が小谷城を抜け出して観音寺城へ奔り、六角氏の庇護下に入ります。
またまた苦境に立たされた浅井氏でしたが、そんな折の天文11年(1542)、亮政は急死してしまいました。
元に戻って、桜馬場へ上がって行きます。
家臣団を供養する五輪塔がありました。まだ新しいけど…。
馬場と言っても、30mほどの細長い曲輪で、馬の充分な運動は無理っぽいですね。
この景色、大河ドラマ『江』でお市の方(鈴木保奈美さん)が琵琶湖を見下ろすシーンがあった様な…?
浅井領のほぼ全域がパノラマで見渡せます
跡を継いだのは亮政の晩年に生まれた唯一の男子だった久政ですが、既に娘婿の田屋明政を跡継ぎと決めていた経緯があり、浅井氏にも内訌が起こります。
明政は京極高延と結んで対決姿勢を示したので、当主のスタートから窮してしまった久政は、なんと正式に六角氏傘下に服属する事で難を逃れます。
定頼の跡を継いでいた六角義賢の調停で、明政には湖西の高島郡(?)を渡す事で分裂は回避されました。
また、久政の嫡男の猿夜叉(のちの長政)には義賢の賢を貰って“賢政”と名乗らせ、六角の重臣:平井氏の娘を嫁に迎えましたから、完全従属ですね。
その頃の義賢は、美濃の斎藤義龍と盟約を結び、共闘して浅井を攻める動きを見せていました。
頼みの朝倉氏も、斎藤氏とは穏便にやりたいので援軍は期待出来ず、久政としてはやむに止まれぬ決断だった事でしょう。
石段を登り、黄金門跡を過ぎると…
“大広間”と呼ばれる本丸広場です。建物の礎石と思われる石がゴロゴロ
普通、城主の居館が有った壇を本丸と言いますが、小谷城の本丸は物見台の壇を指します
本丸の壇は半分近くまで石垣が積まれ、本場近江の城らしいですね。
壇上は二段式でかなり広く、後世の天守曲輪みたいな構造です。 天守は無かったでしょうが、長政が起居する建物がここに有ったのかも知れませんね。
この久政の穏便策により、戦わずして六角家臣にアゴで使われる事になってしまった国人衆の嘆きは大きく、久政リコールの思いが拡がります。
浅井家とは対等の意識の強い赤尾、磯野、遠藤、安養寺ら有力国人は結束し、賢政の元服を待って賢政を新たな“主君”に担いで久政に引退を迫りました。
重臣:『我ら賢政殿を主君に仰ぎ、浅井家を盛り立てて行くんで、久政殿はもうゆるりとされ
よ!』
久政:『主君…と言うたな。是非も無し、賢政を家督としワシは隠居しようぞ!』
表向きはクーデターで追い落とされた形ですが、浅井家と国人衆はこれで主従関係がやっと明確になり、戦国大名:浅井家が正式に発足した訳です。
本丸から大堀切を挟んだ北側は中ノ丸になります
三段式構造で本丸より高所になり、さらに上に三つの曲輪が重なっているのが小谷城独自のユニークさですね。
その西側斜面にある“御局屋敷跡”、根小屋に近く、籠城時には女房衆が集められたか?
中ノ丸には随所に石垣が使われていますから、中間の尾根に最後に築造された曲輪かも知れませんね
新たな当主となった賢政は、もともと自主自立を標榜していた様で、すぐさま平井氏の娘を離縁して返し(賢政との間の子:万福丸は残された)、 賢政→長政と名乗りを改め“六角離れ”を明らかにします。
永禄3年(1560)8月、これに怒った義賢が討伐の兵2万5千を率いて浅井領に攻め入ると、長政は1万余の総力を以って野良田(現:彦根市)で果敢に立ち向かい、若干15歳の初陣とは思えない見事な采配で六角軍を打ち破りました。
これには長政を擁立した国人衆も驚嘆し、みな若殿長政に心酔して行ったそうです。
戦国乱世ですから周囲はみな敵! 拡張欲の無いユースケの国だけが上手くやってますね(^^;
敗れた六角義賢はと言うと、ショックと動揺が激しく、家督を子の義治に譲って隠居してしまいます。
そして3年後の永禄6年(1563)、その義治が宿老筆頭で家中での人望が厚い後藤賢豊親子を城中で殺害してしまう事件(観音寺騒動)が起こると、家臣団の人心は一気に六角家を離れ、縁のあった平井氏を始め、浅井長政に心を寄せる者が多く生まれたそうです。
これを契機に六角氏は滅亡への道を転げ始め、浅井氏の北近江に於ける覇権は盤石のものとなりました。
小谷に初登城 Ⅲ につづく