昨年の夏に登城した越前大野城です。

続百名城に選ばれている名城ですが、文章化する焦点を絞り切れないまま投稿が遅れていました。

 

日本200名城 №138 越前大野城 登城日:2019.08.25

 

 

 城郭構造  梯郭式平山城

 天守構造  複合連結式22階(復興RC造)

 築城主   金森長近

 築城年   1580年頃(天正8年頃)

 主な城主  金森氏、青木氏、松平(越前)氏、土井氏ほか

 廃城年   明治初期

 遺構    石垣、堀

 指定文化財 県史跡

 所在地   福井県大野市城町

 

 竹田城、備中松山城と並び、“天空の城”として知られる大野城です。

その事自体はさして興味の外なのですが、この城は戦国末期の築城以来、幸い戦災や事件に見舞われる事無く現在に至っています。

 

碁盤目状の町並みは、近年に改変する必要も無く、当時の姿をよく遺しています

 

高山の囲まれた大野は湧き水が豊富で、町の至る所にこんな湧水があります

 

 

 越前大野は九頭竜川の中流域にある約10㎞四方の盆地で、下流の北側が狭い谷間になる事で、ほぼ四方を高い山々に囲まれた独立性の強い立地にあります。

 代々ここは斯波氏、朝倉氏など越前国主の一族が治めていましたが、天正元年(1573)の朝倉氏滅亡後に、一時期百姓(一向宗徒)の持ち国となっていた越前を2年後に織田信長が奪還に攻め込み、美濃方面から板取経由で大野に攻め込んだのが金森長近でした。

 戦後越前の大半は重臣の柴田勝家に与えられ、勝家は北陸方面軍の長となりましたが、大野郡の過半の3万石は金森長近に与えられ、長近は勝家の与力に配されます。

 

正保絵図の案内看板 外堀はもう無く、内堀内がなんとか公園化され遺ります

 

その内堀の南東角 う~ん、 城の堀端の雰囲気はありません

 

 

 大野に入った長近は、かつて朝倉景鏡が居城としていた戌山城に居を構えましたが、すぐに隣接する独立丘の亀山に新城を築造します。

新城は郡名にちなんで大野城と名付けられました。

 

 大野城は主郭を山上に置き、副郭は山麓に配して水堀で囲み、外側に城下町を整然と配しています。

後の城と城下町の見本となる様な整備の仕方であり、長近が仕官して間もない岐阜城下と通じるものが感じられます。

もしかしたら、岐阜の建設に長近もひと役買っていたのかも知れませんね。

 

 

ブロック敷の登城路から分かれて、当時の大手道があるので、迷わずこちらを登ります。藩主も使った道ですが、本丸に登る事は正月くらいで、麓の御殿ですべて完結していました

 

 

比高差80mの山は15分の登山 天守が見えて来ました

 

 

 この金森長近、元々は美濃土岐氏の被官(支族とも)で、土岐頼武VS頼芸の政争で頼武を支持して敗れた事から美濃を追われ、近江野洲郡金森に定住し金森氏を名乗ったそうです。

 成人後、長近は尾張の織田信秀に仕官し、信長にも仕えて頭角を現して行きます。

 美濃攻めや甲州攻めに活躍した長近は信長に信頼され、天正10(1582)2月には従四位下兵部卿を任官しています。

同時期の明智光秀が従五位下日向守ですから、戦功以上に評価される何かが有ったのでしょうね。

 

天守には200円で入れ、3階には廻廊があって360℃の展望を楽しめます。 北側の小天守跡は何やら複雑な虎口の石組み。 復興に際して小天守は南側に建てられましたが、これを壊さぬ為?

 

小天守越しの大野盆地 山と平地のコントラストがハッキリしていますね。 領民と石高の殆どは平地に集中してた事でしょう。

 

 

 翌年の賤ケ岳の戦いでは勝家を見限って離脱し、羽柴秀吉に臣従した長近でしたが、秀吉にも信頼されて、飛騨一国の国主として厚遇され傍近くに仕えました。

秀吉が晩年に有馬に湯治した際には同行し、脚が弱って歩けぬ秀吉を背負って入湯してたそうですから、相当なものです。

 

 それでも、秀吉死後の関ヶ原では東軍に組しており、戦後に家康と岐阜城天守に登って、信長時代からの思い出話をしたという逸話もあります。

 千利休、古田織部に学び茶人でもあった長近は、蹴鞠などの風流の世界にも長けていて、家康、秀忠親子は長近を気相の人と称して親交を深めました。

 

 その後の加増を含め6万石の石高は、官位や戦功に比べかなり低い気がしますが、私的な野望を封印して、与えられた待遇を過分と心して、むしろとの精神的な距離にこそ自らの存在感を見出した感のする金森長近。

 あの時代は、そんな“無欲なれど誠心誠意の奉公” にこそ子孫繁栄の手形が与えられたのでしょうね。

 

復興天守は昭和43年製のコンクリ造りで、絵図を基に設計されたそうですが、手頃な良い天守です。 しかし積み直された天守台は、荷重が掛かってないから出来る積み方ですね。

 

 

良いアングルを見付けました。 野面の苔むした石垣に望楼天守がマッチして、この城のベストアングルです(^^;

 

 

 長近が去った後の大野城には、秀吉の従弟(大政所の妹の子)青木一矩が入り、次いで織田信雄の子:秀雄が入りますが、関ヶ原で西軍に付いた織田氏は改易され、新たに越前一国を与えられた結城秀康の重臣:土屋氏が城代で治めました。

 

 寛永元年(1624)、秀康の嫡子の忠直が改易になると、遺領はその弟たちに分配され、大野藩5万石は松平直政で立藩しました。

 越前平家が3代続いた後の天和2(1682)、土井利勝の四男で老中を務めた土井利房が4万石で入ると、土井家が8代繋いで明治を迎えています。

 

金森長近像 親藩、譜代の城として藩主の入れ替わりは多い城ですが、長近の縄張りや石垣に手を加えた形跡は見当たりません。 完成度の高い城だった様です。

 

手頃な城に加え、この立地条件。 外敵から守り易く平時の管理運営も最小で済む…地方の小藩にとっては願ったり叶ったりですね

 

 

 城址には遺構建物は無く、特に山麓の御殿エリアは改変も大きいのですが、山上の本丸には戦国の素朴な野面の石垣が残り、城下町もその景観を損なう事無く上手く整備されています。

 天守からは四囲の高い山並みに囲まれた領地(盆地)が一望でき、立場を換えれば領地の何処からも領民の誰からも城が見える訳ですね。

 こうした地理的要素は藩の一体感を醸成したでしょうし、復興ながら盛ってない、45万石の小藩らしい天守もイイ感じです。

 

在りし日の城と城下と領地の関係を体感するには、とてもオススメな大野城でした。