引き続いて長野氏の城の『草生城』と『雲林院城』の二城アップします。
【草生城】 登城日:2019.02.26
草生(くさわ)城は、長野氏随一の安濃川沿いの穀倉地帯を見下ろす南側の台地の先端に造られた城です。
城主の草生氏も、長野氏五代目の豊藤の子が分家して立てた家と言われますが、歴代の当主を記した資料は伝わっておらず、詳細は不明です。
しかしながら、江戸初期に記された『勢州軍記』には、兵500を率いる大将であると銘記されていますから、家臣団の有力な一人であったのは間違いないでしょう。
縄張り図 北東からの敵に対する備えが特徴の梯格式の城ですね
県道からの入り口は、簡易の防獣柵を開けて入って行きます
入るといきなり主郭が聳えています。 中央に横堀が走り、右手の高台が主郭です
堀底道を南側へ回り込み、主郭へと登って行きます
草生城の築城時期も判然としませんが、城址の遺構を観る限りでは北向きに縄張りされており、横堀を多用した比較的新しい手法に見えます。
この事は織田信長の侵攻に備えての築城、もしくは大幅に改築された事によるものと思えます。
織田軍が最初に囲んだのは4㎞北東に位置する安濃城ですが、それに後詰めする形で、当時の草生城にも軍兵が満ちていた事でしょうね。
主郭は百坪程度で、南北に土塁を備えます
主郭の西端は一段高く、物見台になっている様ですが…
盛土には明らかに積み石の痕跡が見られます
一段下がった二の郭は相当な広さがありますから、手勢の500を全て収容する構想ですね
結局、安濃城攻防戦の途中に和議が成立し、開城降伏した草生城でしたが、その後は織田軍に編入されたといいます。
しかし、織田家臣団の中にその名を探し当てる事はできませんでした。
現在、“草生さん”は埼玉県行田市に多い姓の様です。
二の郭の南北にも横堀が巡り、厚い備えです
三の郭は帯状に細長く東へと延び…
東端は15mほどもある切岸で終わっています
北東方向に広がる田園の向こうには安濃城跡が見渡せます
【雲林院城】 登城日:2019.03.04
雲林院(うじい)城は安濃川が狭い峡谷から平地に流れ出る間際にあります。
ここは長野氏領でも最北端で、低い丘陵を隔てて関氏領と境を接しており、生命線の“穀倉地帯と水”を確保する上でとても重要な場所でした。
事実、長野氏末期にも雲林院郷を巡っては関盛政(亀山城主)の度重なる侵入が記録されています。
布引山系に発した安濃川の出口に城址はありました
縄張り図 頂部だけでなく、尾根や山腹にも多くの曲輪を持つ山城ですね
城址の入り口は東山麓の林光寺から。 雲林院氏の菩提寺ではありません
そこを守っていた雲林院氏ですが、長野氏第二代:祐藤の三男の祐高を置いて雲林院氏を名乗らせたのが始まりで、兵力も当主と同等の1,000名が宛がわれています。
その待遇は代々替わっていませんから、当主に強い牽制力を持った分家(ひょっとしたら継承権も?)が雲林院氏だった様です。
登り口に祀られていた五輪塔 雲林院氏のものと思いますが、今も手厚く供養されてる様です
30mほど登った最初の平場 幾つかの曲輪が重なり、虎口を形成している様です
もう明瞭ではありませんが、横堀は竪堀になって落ちて行きます
雲林院城は谷の入り口の小山を丸ごと城塞化した城で、山頂に主郭を置き、尾根筋に階段状に曲輪を重ねて行く、典型的な中世の山城です。
しかし、あくまでも詰めの城で、居館は山麓の高台にあって、それを家臣の屋敷が取り巻く戦国期の城と城下を形成していました。
二つ目の平場からは、小曲輪が無数に重なって登って行きます
最後はギューッと絞られて土橋状になっています。 ここから主郭エリアかな?
明瞭ではありませんが、山頂の手前は土塁が盛られ喰い違い虎口状になっています
織田信長の侵攻に際して、当主:長野藤具が抗戦を主張する中、雲林院祐基は融和策を主張したので、和睦後にも信長によってその所領は安堵され、織田軍団に編入されました。
ところが、より多くの自領が欲しい新当主の長野(織田)信包は、雲林院領の簒奪を図って工作し、間もなく雲林院氏は伊勢を離れざるを得なくなりました。
頂上(主郭)は完璧な削平ではありませんが、3百坪はあります。 水の手が無いので、多くが籠るには適さないんですけどね。
安濃川上流方面 この先は伊賀盆地まで急峻な山が続きます
東側は樹木が茂り藪が酷くて、肝心の領地を俯瞰する事は出来ませんでした…残念。
安土に信長を頼った祐基は、次いで徳川→豊臣と主を替えて近江で小禄を得たそうです。
その後伊勢への帰還は無かったのか?…というと、35年前、我が家を新築した際にお世話になった司法書士のお名前が、確か雲林院さんでした(^^;