昨日屋
 
〜昨日のあなたへ 女将の宿る山小屋〜


〜まえがき〜

人は時々、
「引き返す」ということを、
負けのように感じてしまいます。

仕事を休むこと。
夢を延期すること。
誰かとの関係を終えること。
山で途中下山すること。

それらはどこか、
諦めに似て見えるからです。

けれど本当にそうなのだろうか、と、
ある日ふと思いました。

北アルプスの山々には、
昔から不思議な話があります。

霧の中で見知らぬ山小屋に辿り着いた人。
嵐の前に誰かに助けられた人。
夢の中で道を教えられた人。

山には時々、
説明のつかない優しさがあります。

この物語は、
「昨日にしか戻れない山小屋」の話です。

もし昨日へ戻れるなら、
人は何をやり直すのでしょう。

誰かを救うでしょうか。
言えなかった言葉を伝えるでしょうか。
それとも、
昨日の自分の背中を、
そっと押してやるのでしょうか。

山は逃げません。

だからこそ人は、
時々、引き返してもいいのだと思います。

また歩き始めるために。

この小説が、
読んでくださった誰かにとって、
小さな山小屋の灯りのような物語になれば嬉しく思います。




序章 夢の縁に立つ

男は気づいたとき、すでに山の中にいた。

足の裏に感じるのは、乾いた砂利の感触だ。踵から爪先へと重心を移すたびに、小石が転がる微かな音がする。空気は薄く、冷たく、肺の奥まで清潔に満ちてくる。

あたりを見渡せば、針葉樹の梢の向こうに、夕暮れ時の橙色をした空が広がっていた。その橙はまるで誰かが丁寧に溶いた絵の具のように、地平線へむかって青へと変わっていく。星は、まだ出ていない。けれど、もうすぐ出る。そういう気配を、空全体が持っていた。

どこから来たのか、なぜここにいるのか、男には分からなかった。

ただ、歩かなければならない、という感覚だけがあった。

山道は細く、岩を縫うように続いていた。左手の崖下には沢の音がある。水が岩を叩き、跳ね、また叩く。その繰り返しが、男の足音と奇妙に交差する。

やがて、木立の向こうに灯りが見えた。

橙色の、柔らかな光。

電球ではない。もっと古い光だ。ランタンか、あるいは囲炉裏の炎か。それが窓の向こうから滲み出て、夜の始まりの闇に小さく、しかし確かに、在った。

人が迷い込むように),
光はいつもそこにある。
問題は、
その光を見つけられるかどうかではなく、
その光へ向かって、
足を踏み出せるかどうかだ。
 
男は歩いた。

迷いなく、しかし急がずに。

山小屋の扉の前に立ったとき、そこには手書きの木の看板があった。

  『昨日屋』

それだけが、墨で書かれていた。

男は首を傾け、その看板を読み、もう一度読んだ。意味が分からなかった。けれど、扉を開けることは自然な行為のように思われた。引き戸に手をかけ、ゆっくりと引く。

コーヒーの香りが、夜気に混じって流れ出た。


第一章 三十八時間前の男

現実の話から始めよう。

赤坂義孝が北アルプスへ向けて東京を発ったのは、その金曜日の深夜零時を少し過ぎた頃だった。新宿バスターミナルの蛍光灯の下で、彼は大型ザックの肩紐を確かめながら、スマートフォンの天気アプリを開いていた。

予報は微妙だった。

土曜の午前中は晴れ。午後から雲が広がり、夕方以降は雨の可能性あり。日曜は一日を通して不安定。

「不安定、か」

義孝は独り言を言った。三十四歳、編集者。山歴は七年になるが、本格的なアルプス縦走は今回が初めてではなかった。しかし、単独は初めてだった。これまでの山行は常にパートナーがいた。大学のワンダーフォーゲル部の先輩と、あるいは仕事仲間と、あるいは別れた恋人と。

今は、一人だった。

それは選択でもあり、成り行きでもあった。三ヶ月前に五年付き合った女と別れ、職場の人間関係が微妙にこじれ、休暇を取って一人になりたかった。山以外に、思い当たる場所がなかった。

バスは定刻通りに出発した。

車内は七割ほどの乗車率で、隣の席は空いていた。義孝は窓に額をつけて、暗い街の明かりが後ろへ流れていくのを見た。首都高速に乗ると、オレンジ色の光の帯が連なって、まるで地上の星座のように見えた。

眠れなかった。

天気のことが引っかかっていた。「不安定」という言葉の質感が、胃のあたりに留まって溶けない。七年の経験が言っていた。山での「不安定」は、都市での「不安定」とはまるで意味の重さが違う、と。

松本に着いたのは夜明けの少し前だった。駅前のコンビニで朝食を買い、始発電車を待つ間に食べた。おにぎり二つとホットコーヒー。プラスチックのカップから立ち上る湯気が、冬の朝の空気に溶けていった。

電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、登山口に着いたのは午前九時を過ぎていた。

空は約束通り、青かった。

しかし青さの中に、どこか過剰な白さがあった。光が強すぎる。影が薄すぎる。そういう空は、午後から崩れる。義孝は長年の経験でそれを知っていた。知っていたが、歩き始めた。

登山届を提出し、靴紐を締め直し、深呼吸を一つ。

標高差千四百メートル。コースタイム七時間。目的地は稜線上の山岳ホテル。

計画は、完璧なはずだった。

序盤は樹林帯の中を行く。カラマツとシラビソが交互に現れ、足元には苔と枯れ葉が積み重なって、クッションのような感触を足の裏に返した。空気がひんやりと冷たく、首の後ろの汗をすぐに乾かす。

二時間ほど歩いたところで、最初のコルに出た。視界が急に開け、北アルプスの稜線が一望できた。

白かった。

残雪が、尾根の北面に大量に残っていた。六月上旬というのに、まるで三月の様相だ。今年の春は寒かった。雪が解けるのが遅い。それは知っていたが、目の当たりにするとやはり息を呑む。

同時に、義孝はスマートフォンを確認した。電波は入った。天気アプリを開く。

予報が変わっていた。

「雨の可能性」が「雨」に変わり、「夕方以降」が「午後三時以降」に前倒しになっていた。

「…まずいな」

時刻は十一時半。現在地から山岳ホテルまで、まだ三時間半はかかる。午後三時までに着けるか、着けないか、ギリギリの線だった。

判断が必要だった。

引き返すか、急ぐか。

義孝は五秒考えて、急ぐことを選んだ。

それが間違いの始まりだった、とは、あとになってからしか分からないことだった。


第二章 女将の名前

山小屋の名は『昨日屋』といった。

標高二千三百メートルの、ちょうど樹林限界のあたりに建っている。木造二階建て、外壁は年季の入った板張りで、冬の風雪に磨かれて黒光りしていた。看板は手書き。引き戸は重い。しかしその重さが、嵐からの隔絶を保証している。

女将の名は、島田時子といった。

六十二歳。白髪交じりの髪を後ろでひとつに束ね、紺色の割烹着を着ている。顔の皺は深いが、目が若い。じっと人を見るときの目が、三十代のような鋭さと明るさを持っていた。

夫は十三年前に山で亡くなった。

それ以来、一人でこの山小屋を守っている。

冬は麓へ降りる。春から秋の間だけ、ここで暮らす。毎年そうして生きてきた。登山者たちが来る。泊まる。話す。去る。また来る。繰り返される、この山の時間の中で、時子は自分の時間を刻んできた。

義孝が昨日屋の引き戸を初めて開けたのは、午後一時過ぎのことだった。

急ごうとしたが、思いのほか体が動かなかった。七年のブランクではなく、この三ヶ月の疲弊が、体の奥から滲み出ていた。別れ、仕事の摩擦、孤独。それらを抱えたまま山に来ることは、しばしば足を重くする。山は嘘をつかない。体の正直な声を、そのまま増幅して返してくる。

ペースが上がらないまま、雲が出た。

早い。天気予報より一時間は早い。

稜線を目指すことは断念した。地図を確認すると、樹林帯の中に山小屋の記号があった。昨日屋。名前は知らなかった。しかし選択肢はそこしかなかった。

引き戸を引くと、コーヒーの匂いがした。

薄暗い土間に、女将が立っていた。

「いらっしゃい」

その声は低く、穏やかで、驚いた様子が一切なかった。まるで来ることを知っていたような、そういう迎え方だった。

「…一泊、お願いできますか」

「もちろん」

時子は頷いて、「ザックを下ろして、そこの椅子に座って」と言った。義孝がザックを床に置き、ようやく体の重さから解放されると、すぐにコーヒーが目の前に出た。

陶器のカップ。インスタントではない。丁寧に淹れた、深い茶色。

「ありがとうございます」

「疲れたでしょう。ゆっくりしてね」

それだけ言って、時子は厨房へ戻った。

義孝はコーヒーを両手で包み、一口飲んだ。苦みが舌に広がり、温かさが食道を下りていった。体の中心から、何かがほどける感触があった。

雨の音が、屋根を叩き始めていた。

夕食は山小屋の定番、カレーライスだった。しかし普通のカレーではなかった。野菜が大きく切られ、煮込みの時間を十分にかけた、とろりとした深いカレー。義孝は黙って食べながら、何年ぶりかで食べることそのものに集中した。

食堂には他の客はいなかった。

「今日は、あなただけ」と時子が言った。「天気が悪いから、みんな上には行かないのよ」

「予報より早く崩れましたね」

「そうね。今年の六月は、そういう年みたい。午前晴れ、午後雨が多いのよ」

義孝は箸を置いた。

「ちょっとお聞きしてもいいですか。女将さんは、長くここにいるんですか」

「十三年。夫が亡くなった翌年から、一人でやってる」

「山で、ですか」

「そう。この山で」

時子の声は揺れなかった。事実を事実として言う、そういう話し方だった。

「それは…つらくはなかったですか。同じ山に居続けるのは」

時子は少し考えてから、「逆よ」と言った。

「夫がいなくなってから、この山が夫の居場所になった。ここにいれば、どこかにいる。そういう感じ」

義孝には、その感覚が少しだけ分かった。

あるいは、分かりたいと思った。


第三章 昨日への道

夜が深まった。

雨は激しくなり、時折、風が小屋全体を揺らした。義孝は二階の個室に荷物を運び込んだが、すぐには眠れなかった。寝袋の中で天井を見上げながら、明日の計画を考えていた。

天気次第では、もう一日ここに留まるべきかもしれない。しかし月曜には仕事がある。日曜に下りなければならない。とすれば明日、つまり日曜日の朝一番に出発して、午後には登山口へ戻る必要があった。

それで間に合うのか。

この雨が上がるのか。

スマートフォンを開く。電波は弱い。天気アプリが更新されない。

考え続けていると、一階から明かりが漏れてくるのに気づいた。時子がまだ起きているらしかった。

義孝は寝袋から出て、廊下へ出た。

階段を下りると、食堂の隅に小さなランプが灯っていて、その前に時子が座っていた。手元には、何かの書きもの。

「眠れませんか」と時子が言った。背中を向けたまま、振り向かずに。

「…はい。少し」

「そういう夜は、コーヒーは飲まない方がいいけれど、ミルクを温めましょうか」

「お構いなく」

「構いたいのよ」

時子はそう言って、厨房へ立った。義孝はランプの前の椅子に腰を下ろし、雨の音を聞いた。嵐は続いていた。

温かいミルクを受け取りながら、義孝は言った。

「昨日屋、という名前は、どういう意味ですか」

時子は向かいの椅子に座り、ゆっくりと微笑んだ。

「今日と昨日とを行き来しているから」

「は?」

「昨日に戻ることができるのよ、私。この小屋に来てから、そういうことができるようになった」

義孝は返事をしなかった。

聞き間違いかと思った。あるいは、比喩か何かか。

時子は続けた。

「昨日やり忘れたことを、今日やるんじゃなくて、昨日に戻ってやってくるのよ。そうすると、今日は最初から間に合ってる。快適でしょ」

「…それは、本当の話ですか」

「本当よ」

笑顔だった。しかし冗談を言っている顔ではなかった。

義孝はミルクを飲んだ。温かさが胃に落ちていく。

「どういう仕組みで」

「仕組みはわからない。目の前の空間が、ある日急に、割れたのよ。そこに昨日への道が見えた。最初は怖かったけど、飛び込んだら、戻れた。昨日に」

「なぜそんなことが」

「私が思うに、夫が死んだのと関係があると思う」

時子の声が、わずかに低くなった。

「夫が死んだのは、登山道での落石だった。突然のことで、どうにもならなかった。でも私は長いこと思ってた。もし昨日に戻れたなら、と。もし出発を一時間遅らせることができたなら、と。その気持ちがあまりに強すぎて、山がそれを許してくれたのかもしれない」

義孝はしばらく、何も言わなかった。

雨音が、続いた。

「それで、夫を」

「それは無理だった」時子は静かに首を振った。「昨日にしか戻れないの。夫が死んだのは十三年前。そこまでは届かない」

「そうですか」

「でも、この小屋に泊まる人たちは、守れることがある。昨日に戻って、足りないものを補って、間違いを正して。そうすれば今日が変わる」

義孝は、時子の目を見た。

嘘をついている目ではなかった。

「もしかして」と義孝は言った。「女将さんは今、俺を守るために、明日からここへ戻ってきた?」

時子は笑った。目が細くなった。

「そうかもね」

それだけ言って、答えなかった。


第四章 割れた空間


時子がこの力を手に入れたのは、十年前のことだった。

正確には、手に入れたのではない。気づいたのだ。あるいは、山から与えられたのだ。

その年の夏、昨日屋に十二人の団体客が泊まった。山岳サークルの仲間たちで、全員が経験豊かな登山者だった。夕食を共にし、翌朝の出発を送り出した。笑顔で手を振って。

その翌日、ニュースが入った。

稜線上で雷雨に遭い、落雷と強風で二名が転落。残る十名も滑落や岩に叩きつけられて重傷。全員が救助されたが、二名は意識不明の重体。

時子は茫然とした。

昨日まで、ここで笑っていた人たちが。

何かできたはずだ、という思いが、津波のように押し寄せた。天気は朝から不安定だった。自分も感じていた。なぜ引き止めなかったのか。なぜ、もう一日休んでいけと言わなかったのか。

そのとき、目の前の空気が裂けた。

比喩ではない。文字通り、空間が割れた。空気に亀裂が入るように、そこに暗い隙間ができて、その向こうに昨日の昨日屋が見えた。朝食の準備をしている自分が見えた。サークルの仲間たちが、まだ二階で眠っている、あの朝が。

時子は飛び込んだ。

気づいたとき、昨日の朝の昨日屋に立っていた。

そして彼女は、その十二人に言った。空が荒れる、今日は出ないで、と。

彼らは訝しんだ。天気予報は晴れだったから。しかし時子の言葉に、何か確信があった。説明のできない、しかし疑いようのない確信が。

十二人は一日、昨日屋に留まった。

その日、稜線では激しい雷雨があった。

翌日、彼らは無事に下山した。

それからだった。

時子は毎日、昨日へ戻るようになった。

何事もなくても戻る。戻って、今日の補いをする。準備が足りなければ補う。予報が変わっていれば確認する。そして今日へ帰ってくる。

それが習慣になった。

誰にも言わなかった。言えるはずがない。しかし、昨日屋に泊まった登山者たちの中で、ここを出発した後に事故に遭った者は、ほとんどいなかった。

ほとんど、というのは、時子にも手の届かないことがあったからだ。

昨日にしか戻れない。その制約は絶対だった。前日夜に泊まらずに朝から入山した者には、手が届かない。遠い山での事故には、届かない。K2で、ヒマラヤで、命を落とした者たちには、届かない。

昨日だけが、時子の領分だった。

義孝との会話の翌朝、時子は目を覚ます前から、もう動いていた。

昨日の自分として、目覚めていた。

窓の外に、雨の音がある。今日の嵐の前日、空が不穏な明るさを持っていたあの朝に、戻っていた。

彼女はすぐに山岳気象の詳細予報を調べた。スマートフォンではなく、昔から使っている専門の気象サービス。アマチュアでは気づかない細かい変数を、時子は長年の経験で読む。

見えてきた。

明日の朝、一時的に晴れ間が出る。しかしそれは罠だ。低気圧が想定より速く進んでいる。午前十一時頃から上空に湿った空気が流れ込み、午後一時には雷雲が発生する。稜線では午後二時から三時の間に、最大瞬間風速三十メートル超の突風が吹く。

それを知った上で、時子は義孝を迎える準備をした。

そして今日、あの夜の会話が終わったあと、もう一つのことを義孝に伝えなければならない。

彼が明日、山を目指すなら、どんな状況になるかを。


第五章 明日の話

夜の十一時過ぎ、雨が少し弱まった頃に、時子は再び義孝に声をかけた。

「もう少し、話していい?」

義孝は頷いた。眠れない夜は続いていた。

「あなた、明日、上を目指すつもりでしょ」

「…はい。日曜に下りないと、仕事があって」

「分かった」時子は椅子に座り直した。「ちゃんと言うね。明日の午前中は晴れる。でも午後から荒れる。それは今日と同じか、それ以上」

「天気予報は確認しましたが、午後から雨という話で」

「雨じゃない。嵐よ。稜線では突風が吹く。午後一時か二時頃に雷雲が来る。今年は気圧の谷の動きが速い。一般の天気予報は追いついていない」

義孝は黙って聞いた。

「あなたが今日ペースを上げられなかったのは知ってる。体の疲弊があった。それは明日も同じ。晴れた空に騙されて急ぐけれど、ペースは上がらない。稜線に出た頃に、ちょうど嵐が来る」

「なぜそんなに分かるんですか」

時子は答えなかった。少しの間、雨の音だけがあった。

「女将さんは、昨日から来たんですか。今日の、この時間に」

「…そうね」

「俺のために」

「あなたのために」

義孝はうつむいた。

「俺は…それほどの価値がある人間じゃないですよ。仕事も、人間関係も、ぐちゃぐちゃで。別れた女のことも引きずって、こんな状態で山に来て」

「価値は関係ない」

時子の声は静かだが、揺るぎがなかった。

「山に来た人は、みんな守りたい。それだけよ。理由はそれだけ」

義孝はしばらく、何も言えなかった。

目の奥が、熱くなった。

「明日、どうすればいいですか」

「正午前に、稜線には上がらないこと。ここから先へ行くなら、早朝に出発して、稜線に着くのは十時まで。そして、怪しいと思ったら、迷わず引き返す。それだけでいい」

「分かりました」

「それと、一つ確認させて。装備に雨具は?」

「ゴアテックスの上下が」

「手袋は?」

「薄手のが」

時子は眉を曇らせた。

「稜線でその手袋は、風が来たら意味がない。ここに夫のが残ってる。古いけど、厚くて丈夫。借りていって」

「そんな、いただけません」

「貸すだけよ。下山したら、麓の郵便局へ送り返してくれればいい」

義孝は頷いた。

「ありがとう、女将さん」

「ありがとうは、無事に帰ってから言って」

時子は立ち上がり、ランプを手にした。

「おやすみなさい。明日は早い。寝なさい」

「はい」

義孝も立ち上がった。

階段に足をかけたとき、時子が後ろから言った。

「あなた、いい山の体をしてる。疲れてるだけよ。ちゃんと休んだら、きっとまた歩ける」

義孝は振り返らなかった。

「…ありがとうございます」

今度だけは、今言ってしまった。


第六章 晴れた朝の罠

翌朝、五時に目が覚めた。

窓の外が、明るかった。

昨夜の嵐が嘘のように、空は澄み渡っていた。稜線の雪が朝日を受けて輝いている。白と金と青。北アルプスの朝の、最も美しい顔だった。

義孝は深呼吸をして、ゆっくりと荷物をまとめた。

時子の言葉が頭の中にある。

稜線に着くのは十時まで。怪しいと思ったら引き返す。

分かっている。分かっているが、この空を見ると、脚が前へ行きたがる。山者の本能として、晴れた空は「行け」と言う。

六時に出発した。

朝食を簡単に済ませ、時子に礼を言い、夫の手袋をザックの取り出しやすい場所に収めて、昨日屋の引き戸を開けた。

「気をつけて」

「はい」

「引き返す勇気も、山の技術よ」

「わかってます」

振り返ると、時子が引き戸の前に立って、小さく手を振っていた。白い割烹着が、朝の光の中で光っていた。

樹林帯を抜けるまでは順調だった。

体が昨日より動く。よく眠れたからか、あるいはあの会話が何かをほぐしたからか。足の置き場が自然に見え、呼吸が整っている。

八時半に森林限界を越えた。

視界が開ける。稜線が見える。残雪が続いている。

風が出た。

最初は微風だった。顔に当たって心地よいほどだった。しかし歩くにつれ、徐々に風の質が変わってきた。湿っている。冷たい。そして断続的ではなく、持続的になってきた。

義孝はスマートフォンを取り出した。電波が入った。天気アプリを確認する。

変化していた。

「午前中晴れ、午後雨」が、「午前十時以降、強風の可能性」に変わっていた。

時刻は九時十分。

稜線まで、まだ一時間はかかる。

義孝は足を止めた。

岩の上に座り、風の音を聞いた。頭上の空を見上げた。青かった。雲は少なかった。しかし東の方、まだ見えない空の向こうから、何かが来ている気がした。

臭い、と義孝は思った。

山の熟練者は、天気の変化を嗅ぐことがある。気圧の変化が皮膚に触れる感覚。湿度の上昇が鼻孔に引っかかる感触。それが今、確かにあった。

引き返すか、進むか。

昨日の時子の言葉が、耳の奥で繰り返した。

「正午前に稜線には上がらないこと。怪しいと思ったら、迷わず引き返す」

義孝は立ち上がった。

ザックの腰ベルトを締め直した。

そして、引き返す方向を向いた。


第七章 嵐、来たる

下り始めて三十分後に、嵐が来た。

まず音だった。

稜線の向こうから、唸るような音が近づいてきた。風の音ではなく、風の塊が大気を押しつぶしながら移動する音。それが増大し、増大し、やがて突風として義孝の体を横からなぎ倒した。

「っ!」

義孝はとっさに岩に手をついた。体重が四十キロのザックを背負っているため、横風に対して著しく不安定だ。岩を掴み、身体を低くし、突風が通り過ぎるのを待つ。

三秒。

五秒。

風がわずかに緩んだ隙に、また下り始めた。

雨が降り始めた。

最初は細かい霧雨だった。しかし急速に粒が大きくなり、横向きに叩きつけてきた。ゴアテックスの雨具を着込んだが、顔は守れない。雨が目に入り、前が見えにくくなる。

岩稜帯だった。

足元は大小の岩が積み重なっており、雨に濡れて滑る。一歩一歩、体重を乗せる前に確認する。急ぐと転ぶ。転べば、この斜面では止まらない。

時子の手袋を思い出した。

ザックのサイドポケットから取り出し、装着した。夫の残した厚手の手袋。革製で、岩の感触を手のひらに伝えながら、確実に手を守ってくれた。義孝は岩に手をつきながら、一歩ずつ下りた。

十分後に、雷が鳴った。

低く、腹に響く雷鳴。

義孝は足を速めた。稜線にいなくて正解だった。あの場所に今いたとすれば、逃げ場がなかった。岩の上に立ちつくす以外に選択肢がなかった。

三十分かけて森林限界を下った。

樹林帯に入ると、風が緩んだ。木々が壁になってくれる。雨は続いているが、突風の恐怖からは解放された。

義孝は大きく息を吐いた。

足が震えていた。恐怖ではなく、緊張の解放だ。膝が笑っている。

木の根元に座り込んで、水筒の水を飲んだ。

生きている、と思った。

引き返した、だから生きている。

昨日屋に戻ったのは、午前十一時過ぎだった。

引き戸を開けると、時子がすぐに出てきた。

「無事だった」

義孝の顔を見て、そう言った。問いかけではなかった。確認でもなかった。ただ、事実として言った。

「おかげさまで」

「濡れてる。着替えて。着替えがなければ、夫のを貸す」

「大丈夫です。替えがあるので」

「ストーブをつけるから、乾かして。お茶を淹れる」

義孝は靴を脱ぎながら、「女将さん」と言った。

「ん?」

「あなたの言う通りでした。十時前に嵐が来た。稜線にいたら、まずかった」

時子は頷いた。

「引き返せた」

「引き返せました」

「それでいい」

それだけ言って、時子は厨房へ消えた。

義孝は土間に立って、しばらく嵐の音を聞いた。屋根を叩く雨が、昨日よりも激しかった。

ここは安全だ、と思った。

この小屋は、人を守るために建てられている。


第八章 昨日からの声

昨日屋に二泊することになった。

嵐は午後になっても収まらず、下山は翌朝に持ち越しとなった。仕事のことは、携帯が通じた隙に上司に連絡した。事情を話すと、「山は命優先」と短く返ってきた。義孝の職場は、少なくとも上司だけは、そういう人だった。

午後は小屋の中で過ごした。

時子が古い棚から本を持ってきてくれた。山の記録集と、植物図鑑と、薄い詩集。義孝は詩集を手に取り、北アルプスの四季を詠んだ短い詩たちを読んだ。

窓の外で嵐が唸っている。

しかし、小屋の中は穏やかだった。

ストーブが赤く燃えていた。時子がミルクティーを淹れてくれた。クマやシカについての話をした。去年、昨日屋の近くでクマの親子を見た話。义孝が昔、友人と白馬に行ったときにライチョウを見た話。

会話は続いた。

こんなに長く話したのは、いつ以来だろうと義孝は思った。別れた恋人とは、最後の一年はほとんど話さなくなっていた。職場では必要な言葉しか交わさなかった。

話すことは、呼吸に似ている。

吸うだけでも、吐くだけでも、死ぬ。

夕食の後、時子が義孝に言った。

「一つ、見てもらえる?」

「何を」

「昨日からの記録よ」

時子は棚の奥から、古いノートを取り出した。表紙には日付が書かれていた。最初のものは十年前だった。

「毎日、昨日に戻るたびに、何を確認して、何を補ったか、書いてる。誰にも見せたことない。でも、あなたには見せてもいい気がして」

義孝はノートを受け取った。

ページを開く。

びっしりと、細かい文字が並んでいた。

  「昨日。六月十四日。四人組の若者たち。翌日の天気が読めなかった様子。気象図を見せて出発を一日延ばしてもらう。一人が靴の補修を忘れていた。テープを貸す」

  「昨日。七月三日。単独の女性。地図を見る目が怪しかった。一緒に地図を確認する。ルートの間違いを二つ見つける。ガスが一本足りなかった。予備を貸す」

  「昨日。八月二十日。夫の命日。この日は毎年、昨日には戻らない。今日だけを生きる日として」

義孝は読みながら、ゆっくりとページをめくった。

十年分の昨日が、そこにあった。

何百人もの人が、知らぬ間にこの小屋に守られていた。

「すごい」と義孝は言った。

「別に」と時子は言った。「やれることをやってるだけ。誰だって、昨日に戻れたら、やることはある。私はたまたまそれができるだけ」

「でも、あなたが昨日に戻るたびに、昨日の自分はどうなるんですか」

「私が乗り移るの。今日の知識を持ったまま、昨日の体に」

「それは…疲れませんか」

時子は少し考えた。

「慣れたわ。あと、昨日へ行くと、夫がまだ生きていた頃の空気がする。山の、あの空気が。それが嬉しくて、また行くのかもしれない」

義孝は、ノートを閉じた。

「ありがとう、見せてくれて」

「ナイショね」と時子は言って、笑った。


第九章 夢の中の女将

夢は現実の裏側だ。
あるいは、
現実が夢の裏側かもしれない。
その境は、
眠りの縁に立ったときだけ、
溶けてなくなる。

深夜、義孝は夢を見た。

夢の中で、彼は山小屋の引き戸を開けていた。昨日屋だった。しかし微妙に違った。もっと古く、もっと暗く、もっと山の奥深くにあるような気がした。

女将が、コーヒーを淹れていた。

しかしその女将は、今日の時子ではなかった。

もっと若い、三十代か四十代の、まだ夫のいた頃の時子だった。

「いらっしゃい」と、その時子が言った。

「ここは?」と義孝は聞いた。

「昨日よ」と時子は言った。「十年前の昨日」

「なぜ俺がここに」

「あなたが呼んだのよ。夢の中で、昨日を見たかったから」

義孝は椅子に座った。コーヒーが出た。現実の味がした。

「夫は、どこにいますか」

時子の表情が、柔らかくなった。

「今日は山に行ってる。天気がいい日だったから」

「そうですか」

「毎日ここへ来て、呼びかければ、声が届くかもしれない。でもそれをしたら、私はここから出られなくなる。だからしない」

「それは…つらい選択ですね」

「つらくない。夫はもう、山そのものになってる。ここで生きている。私がここにいれば、一緒にいるのと同じ」

義孝はコーヒーを飲んだ。

夢の中のコーヒーは、なぜか現実より深い味がした。

「俺も、何か失いましたよ。人とのつながりを。少しずつ」

「知ってる」

「知ってるんですか」

「あなたの今日を見てたから、昨日から」

義孝はしばらく、何も言わなかった。

「女将さんは、俺に何を伝えたかったんですか。この三ヶ月のことを、山を通して」

時子は立って、窓の外を見た。

夢の中の窓の外に、青い空があった。

「引き返すことと、諦めることは違う。あなたはずっと、その二つを混同してた」

義孝の胸に、何かが刺さった。

「引き返すのは、また来るためよ。諦めるのは、もう来ないこと。山でも、人でも、仕事でも」

「俺は…引き返してたんですか。諦めてたんじゃなく」

「あなたに聞いてるのよ」

義孝は目を閉じた。

女と別れたとき、引き返したのか諦めたのか。

仕事を続けているのは、引き返しているのか、ただ惰性なのか。

山に来たのは、逃げたのか、それとも何かへ向かったのか。

分からなかった。

しかし、今日、稜線から引き返したことだけは、分かった。

あれは引き返したのだ。諦めたのではない。また来るための、引き返しだった。

夢の中で、目が開いた。


第十章 翌朝の光

月曜の朝は、完璧に晴れた。

嵐の後の空というのは、これほど澄むのかと義孝は思った。稜線の雪が、宝石のように白く輝いていた。空の青が、海よりも深かった。

六時に昨日屋を出る準備をした。

時子は朝早くから起きて、おにぎりを三つ作ってくれた。

「昼飯よ。自家製の梅干しが入ってる」

「ありがとうございます」

「今日は大丈夫。天気は持つ。ゆっくり下りなさい」

「はい」

义孝はザックを背負い、手袋の在処を確認した。夫の手袋は、ちゃんとサイドポケットにある。

「これ、下山したら送り返します」

「ええ。住所を書いたメモを入れておいた」

「あの」

「ん?」

「夢を見ました。昨日の女将さんの夢を」

時子は表情を変えなかった。ただ、目だけが少し細くなった。

「そう」

「俺に、言いたいことがありましたよね。昨日に戻って、伝えたかったこと」

「…何を聞いたの」

「引き返すことと諦めることは違う、と」

時子は頷いた。

「夢の中の女将さんが言いました。でも、あれは俺自身が言ったことなのかもしれない、とも思います」

「どちらでもいい。届いたんでしょ」

「届きました」

引き戸の前で、義孝は深くお辞儀をした。

「お世話になりました。また来ます」

「待ってる」

時子の声は、穏やかだった。

義孝は歩き始めた。

振り返らなかった。

振り返らなくても、女将がそこに立っていることが分かった。白い割烹着で、小さく手を振っている。そういう確信があった。

下山道は、昨日より歩きやすかった。

嵐で地面が締まり、滑りにくくなっていた。空気が洗われて、遠くまで見える。

歩きながら、義孝は考えた。

東京に帰ったら、何をするか。

仕事を辞めることは考えない。ただ、もう少し正直に働く。自分が面白いと思う本を、ちゃんと面白いと言う。会議で黙らない。

別れた恋人のことは、もう引き返さない。そこは諦めていい。しかし、また誰かと向き合うことは、諦めない。

体を整える。定期的に山に来る。山は逃げないが、体は逃げる。

それだけで、十分な気がした。

大きな転換ではなかった。ドラマティックな決意でもなかった。ただ、少しずつ、引き返してきた道を、また歩き始める、そういう感覚だった。

午後一時過ぎ、登山口に着いた。

バスを待ちながら、義孝はスマートフォンを開いた。天気アプリは「晴れ」を表示していた。

上司に「下山しました」と連絡した。

すぐに「お疲れ。明日、話したいことがある。案件の相談」と返ってきた。

義孝は、今度は「分かりました」と打った。

それだけでよかった。


第十一章 手袋の郵便

東京に帰った翌週、義孝は郵便局へ行った。

夫の手袋を、丁寧に畳んで、エアパッキンに包んで、箱に入れた。宛名は、時子のメモ通りに書いた。

「島田時子様。昨日屋。長野県〇〇郡〇〇村——」

送る前に、一枚の便箋を添えた。


女将さんへ

  無事に下山しました。手袋のお陰で、岩場も安全に歩けました。夫さんの手袋は、現役のままでした。

  山を下りてから一週間経ちました。今日、初めて「また来ます」という言葉が本当だと思えました。稜線には、まだ行けていません。でも、いつか行きます。そのときも、昨日屋に泊まります。

  夢の中の女将さんに礼を言うのは変かもしれませんが、あの言葉を、ありがとうございました。引き返すことと諦めることは違う。忘れません。

  東京で少しずつ、また歩いています。

赤坂義孝
 

封をして、郵便局の窓口に差し出した。

職員が重さを計り、料金を告げた。義孝は財布から小銭を取り出しながら、山の空気を思い出した。あの朝の青。嵐の音。コーヒーの匂い。

「お次の方どうぞ」

現実が戻ってきた。

義孝は郵便局を出て、曇りの東京の空を見上げた。

山の空に比べれば、薄くて、低くて、汚れている。

しかしそれが、自分の空だった。今、生きている場所の空だった。

義孝は電車に乗り、会社へ向かった。

デスクに着いたとき、上司から声がかかった。

「帰ってきたか。例の山の本の話なんだが」

「山の本ですか」

「ああ。山岳小説の新シリーズ。担当してみるか。お前、山好きだろ」

義孝は少しの間、黙った。

「やります」

「そうか。詳しくは明日。今日はゆっくりしろ」

短い会話だった。

しかし義孝には、何かが始まった感触があった。

まだ形のない、しかし確かに在る、何かが。


終章 昨日のあなたへ

目が覚めた。
 
赤坂義孝は、天井を見ていた。

自分のアパートの、白い天井。東京の、普通の朝。

夢だったのか。

全部が夢だったのか。

それとも、夢の中に真実があったのか。

しばらく
記憶に残らない夢ばかりだったけれど
ここ数日はまた
不思議な夢から生還している
 
義孝は寝袋の中で、体を確認した。

風邪の症状が、まだ残っていた。鼻がつまり、頭がわずかに重い。

今日、単独で山に行こうとしていた。

北アルプス。もう計画は立てていた。新宿からのバスのチケットも取っていた。

しかし、この体で行くべきか。

夢の中の女将が、言っていた。

「引き返す勇気も、山の技術よ」

夢の女将だけが言ったのではない。

どこかで本当に聞いた気がする、その言葉を。

義孝はスマートフォンを取り出して、バスの予約キャンセルのページを開いた。

指が、少しだけ躊躇した。

しかし、押した。

キャンセル完了の通知が来た。

義孝は起き上がり、窓を開けた。

東京の空が、灰色だった。

曇っている。雨が来るかもしれない。

それでいい、と思った。

山は逃げない。体が治れば、また行ける。次は晴れた日に、体調が整った日に、きちんと行く。稜線まで行く。

引き返したのだ。諦めたのではない。

コーヒーを淹れた。

インスタントだったが、丁寧に作った。お湯の温度を少し冷ましてから、ゆっくり注いだ。カップから湯気が上がって、コーヒーの匂いが部屋に広がった。

その匂いの中に、山の空気があった。

針葉樹の香りと、岩の冷たさと、雨の後の空気と。

あるいは、夢の小屋の匂いが、まだ体の中に残っているのかもしれなかった。

昨日に戻れるとしたら、
何をするだろう。

義孝はコーヒーを飲みながら、そう考えた。

昨日の自分に伝えるとしたら、何を言うだろう。

バスのチケットを取らないで、と言うだろうか。

それとも、それでもいい、と言うだろうか。

山に行こうとして、風邪を理由に延期する、その判断の前夜の自分に。

たぶん、何も言わないだろう、と思った。

昨日の自分はすでに、正しい方向を向いていた。

風邪をひいていることに気づいていた。天気が不安定なことも知っていた。体が重いことも分かっていた。

ただ、まだ決断できていなかっただけで。

その決断を、夢の女将が後押ししてくれた。

あるいは、夢の自分が後押ししてくれた。

人はいつも、
昨日の自分から
何かを受け取っている。
昨日の選択が、
今日の足元を作る。
昨日の勇気が、
今日の引き返しを可能にする。
 
義孝はカップを置いた。

布団を整え、薬を飲み、もう一度横になった。

今日は休む。

完全に、休む。

それが今日の仕事だった。

目を閉じる前に、思った。

昨日屋という名前の小屋は、本当にあるのだろうか。

北アルプスのどこかに、そういう女将が、本当にいるのだろうか。

分からなかった。

しかし、もし行くならば、その小屋を探してみようと思った。

標高二千三百メートル。樹林限界のあたり。手書きの看板。

コーヒーの匂いがする、引き戸の重い小屋。

来年の夏、
また来ます。
そのときは、
稜線まで。

そう思いながら、義孝は眠りに落ちた。

今度の夢が、どんな夢か、まだ分からない。

しかし、夢は来る。

昨日からも、今日からも、明日からも。

夢はいつも、時間を超えてやってくる。



〜エピローグ〜

この物語は、風邪で寝込んだある晩の夢から生まれました。

北アルプスの山小屋、昨日と今日の間を行き来する女将、そして風邪で山行を延期した詩の語り手。それらの断片が、一つの小説として繋がったとき、「引き返すことと諦めることは違う」という言葉が、自然と浮かんできました。

山は正直です。体の疲弊も、心の迷いも、そのまま返してきます。しかしそれは、山が冷たいのではなく、嘘をつかないからだと思います。

女将の島田時子のような存在が、この世界のどこかにいるかもしれない。昨日に戻って、静かに、誰かを守っている人が。そういう想像は、山への信頼に似ています。

読んでくださった方が、引き返すことを恐れなくなりますように。そして、また登り始めることを、忘れませんように。

ー了ー



アマゾン キンドル






〜あとがき〜

最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

この物語を書きながら、
私は何度も「昨日」という時間について考えました。

人は昨日をやり直すことはできません。
けれど、
昨日の経験によって、
今日の選択を変えることはできます。

それは、
ある意味では「昨日から助けられている」
ということなのかもしれません。

主人公の義孝は、
山へ行くことをやめました。

しかし彼は、
山を諦めたわけではありません。

ただ、
「今ではない」という判断をした。

それだけです。

けれど人生には、
その判断がとても大切な瞬間があります。

無理をしないこと。
立ち止まること。
休むこと。
引き返すこと。

それらは敗北ではなく、
「また来るための選択」なのだと思います。

女将の時子は、
昨日へ戻る力を持っています。

けれど本当は、
私たちも毎日、
昨日から何かを受け取っています。

昨日の失敗。
昨日の後悔。
昨日の優しさ。
昨日の勇気。

それらが今日の私たちを、
少しずつ作っている。

そんな気がしています。

もしこの物語が、
誰かの「今日は休もう」
という決断を肯定できたなら、
作者としてこれ以上嬉しいことはありません。

またどこかの山の物語で、
お会いできますことを願っています。

 



〜おまけ〜

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます


昨日のあなたへ

その宿の女将さんは
今日と昨日とを行き来していると
微笑んで コーヒーを淹れてくれた

昨日
やり忘れたことを
今日
やるのではなく
昨日に戻ってやって来ると

すれば
今日は最初から間に合っているから
快適に変わると…

宿泊している僕には
何のことか分からないが
どうやら
そういうことが出来るようだ

ここは? と思えば
山小屋だ
北アルプスだ

あなたは大丈夫かしら?
そう微笑んだけれど

もしもこの先
山奥へと入るならば
前日には
必ずここに
泊まってからにしてねと呟いた

えっ? と尋ねると

私ね
あなたたちを救いたいのよ

僕たちを?

そう

昨日に戻って
そっとアドバイスするの

すると
遭難せずに戻って来れるのよ

はっ?

わずかな装備不足や
間違ったルート
急変する天気

それから
落石 雪崩 豪雨 落雷 突風
熊 …

予知出来ないことに
巻き込まれることばかり

でもそれを
昨日に戻って伝えられたら
間に合うでしょ!

えぇ

でもそれは
いつから?

そうねえ
ここに来て数年した頃
初めての団体さんを受け入れて
その方々と
楽しく過ごした翌日

その方々 
全員の事故を知った直後
突然
目の前の空間が割れて
昨日に戻る道が現れたのよ

ならばと
必死でそこへ飛び込んだら
間に合ってね

それから
毎日 何事もなくても
昨日へ戻って
今日 足りない部分を
補ってくるのよ

はあ?

それは
本当ですか?

そうよ
でもそれは
ナイショね!

ではもしかして
この夏
K2での彼らを救うことも
出来るのですか?

残念ながら
それは無理

だって
昨日にしか戻れないから

そう
一昨日には
もちろん
その先には戻れないの

そうですか
残念です

もしかして女将さん

僕を救う為に
明日からここへ戻って来た?

女将さんは
そうかもね? と
にっこり微笑んだ

そうかあ
確かに
明日の天気で悩んでいた

ありがとう! と伝えながら
そこで目が覚めた

しばらく
記憶に残らない夢ばかりだったけれど
ここ数日はまた
不思議な夢から生還している

さて
本日 
単独で
出掛けようとしていた山行

今まだ風邪は治らず
残念ながら
延期とした…



今年もまた

山の季節が始まりましたが


先日受けた手術により

大きく後退してしまった体力は

なかなか

元には戻って来ない


それでも

なんとか間に合わせたい今シーズンの

北アルプス



昨日のあなたへ



昨年

ここに掲載した

夢の呟きを今


なんとか長編に出来ないかと

その案と格闘しながら

今日もまた

低山を登り降りしてみる





さて

現実はどうなるのか?


さて

物語はどうなるのか?


間に合うかな

間に合わないかな…



見えない力 

〜銀河系道先案内人、地球に迷い込む〜

宇宙規模のドタバタ哲学SF
著:見えない何者か


〜まえがき〜

人は、自分の人生を「自分で選んでいる」と思って生きています。

朝、どの道を歩くか。
どの電車に乗るか。
どの店に入るか。
誰に声をかけるか。

けれど、ときどき不思議に思うことがあります。

なぜあの日、あのタイミングで立ち止まったのか。
なぜあの人と出会ったのか。
なぜ、もう少しで避けられたはずの出来事が、なぜか起きたのか。

そして逆に、
「偶然」としか思えないことに救われた経験も、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。

遅刻したおかげで事故を避けた。
たまたま入った店で人生を変える本に出会った。
何気なく話しかけた相手が、長い付き合いになった。

私たちはそれを、
運命と呼んだり、
運と呼んだり、
縁と呼んだりします。

この物語は、そんな「見えない流れ」の話です。

もし宇宙のどこかに、
人間たちの小さな偶然を、
こっそり調整している案内人がいたら。

黄色信号で止まるかどうか。
カラスがどちらへ飛ぶか。
スーパーのもやしがどこに置かれるか。

そんな取るに足らないことが、
実は誰かの人生を少しだけ変えているのだとしたら。

本作は、宇宙規模の話をしながら、
結局のところ「人間って面白いな」という一点に辿り着く物語です。

大きな悪も、
世界を救う英雄も、
壮絶な戦争も出てきません。

あるのは、
少し不器用な宇宙人と、
迷いながら暮らしている普通の人々の日常だけです。

けれど私は、
世界を本当に動かしているのは、
そういう「小さな選択」の積み重ねなのではないかと思っています。

右へ行くか、左へ行くか。
謝るか、逃げるか。
立ち止まるか、進むか。

その一つ一つが、
見えないどこかで、
誰かの未来につながっている。

そんなことを想像しながら、
この物語を書きました。

もし読み終えたあと、
交差点で少し空を見上げたくなったなら。
コンビニのおにぎりを少し丁寧に開けたくなったなら。
あるいは、
最近うまくいかなかった出来事を「これも流れかもしれない」と少しだけ笑えたなら。

きっとゾーグも、
成層圏のどこかで四つの目を細めて喜んでいます。

どうぞ肩の力を抜いて、
宇宙の片隅のドタバタを、
ゆっくりお楽しみください。




プロローグ
銀河の交差点にて

宇宙の果て、といっても宇宙に果てなどないのだが、とにかく地球からずいぶん遠いところに、「銀河系道先案内局」という組織がある。

その名の通り、宇宙のあらゆる場所において「流れ」を整え、「運」を適切に配分し、「見えない力」を管理する機関だ。

全宇宙の出来事が偶然に見えて実は精妙に調整されていること——たとえば、ある人間が黄色信号で止まったせいで隣の車線の見知らぬ女性と目が合い、それが縁で結婚し、その子供が将来ノーベル賞を取る——そういった一見どうでもよい出来事の連鎖を、この局が密かに管理しているのである。

局員は全宇宙に七万三千四百十二名。

その中で、地球担当は現在のところ一名だけだ。

名前はゾーグ・アルファ・ムニュムニュ第七世。

身長二百三センチ。全身うっすら緑。目が四つ。耳は六つあるが、そのうち機能しているのは三つだけ(残りは飾りだと本人は言う)。

そして今日、このゾーグが重大なミスを犯した。

地球の「流れ管理システム」に、バグを混入させてしまったのである。


第一章
バグは黄色信号から始まった

午前九時十四分。大阪市内某所。

田中六郎(六十一歳、無職、元営業部長、趣味は俳句と競馬)は、自転車に乗って近所のスーパーへ向かっていた。

黄色信号。

六郎は迷った。

渡るか、止まるか。

——いや、渡れるな。

ペダルを踏み込もうとしたその瞬間、どこからともなくカラスが一羽飛んできて、六郎の顔面に向かって急降下した。

「うわあっ!」

六郎は急ブレーキ。危うく転倒。信号は赤に変わった。

これが発端だった。

この瞬間、ゾーグの管理端末では警告音が鳴り響いていた。

ゾーグの「仕事場」は地球の成層圏、高度一万二千メートル付近に浮かぶ、外から見ると雲にしか見えない楕円形の船の中にある。

端末には「田中六郎・本日の運勢フロー図」が表示されており、黄色信号での選択が、その後の流れを大きく左右するはずだった。

「あー……」

ゾーグは六つある耳のうち三つを折り畳み、残る三つでも聞きたくないというジェスチャーをしながら、端末を眺めた。

本来の予定では、六郎は黄色信号で止まる。そして信号待ちの間に隣に並んだ老婦人と天気の話をする。老婦人は実は元大学教授で、六郎の息子と同じ分野の研究者で……という五十七段階の「流れ」が設定されていたのだ。

しかし今、六郎は信号で止まったものの、カラスに驚いた拍子に老婦人の自転車に体当たりし、老婦人を転倒させ、謝罪どころか逃走を試みていた。

「なぜ逃げる!」

ゾーグは思わず日本語で叫んだ。三年間、日本語を習得したのはそのためではない。

端末の警告が次々と連鎖する。

六郎の「流れ」が狂うと、老婦人の「流れ」も狂う。老婦人の流れが狂うと、老婦人が午後に予定していた孫への電話が遅れ、その孫が暇を持て余して公園に行き、公園で見知らぬ少年と喧嘩し——

ゾーグは計算した。

このままいくと、三十七日後に埼玉県で謎の「全員が互いに怒っている」状態が発生する。

「やばい」

ゾーグは立ち上がった。六本の足がもつれた。四つの目が全部点滅した。

地球に降りるしかない。


第二章
宇宙人、スーパーに立つ

変装には自信があった。

ゾーグは全局員の中でも「人型生命体への擬態」で三年連続最優秀賞を取っている。木星人に扮して木星の嵐の中で現地調査をしたこともある。火星のテラフォーミング計画会議に「火星人のふり」で参加したこともある(火星人はいなかったが)。

しかし地球人への擬態は、今回が初めてだった。

ゾーグは端末に向かい、「日本人男性、六十代、カジュアル」と検索した。出てきた画像を参考に、皮膚の色を調整し、目を四つから二つに減らし、身長を縮め——

「……縮み方が足りなかったな」

百九十センチ。まあいい。

耳は六つのうち二つだけを耳っぽい場所に残し、残りは体内に収納した。しかし収納しきれなかった一つが首の後ろに半分だけ出ており、これは後ほど問題になる。

服装は、端末の参考画像に「ベージュのウィンドブレーカー、グレーのズボン、白のスニーカー」とあったので忠実に再現した。ただし微妙に素材感が違う。触ると少し温かい。

船を大阪市内の某ビルの屋上に一時停泊させ、ゾーグは地球に降り立った。

午前十時二分。

田中六郎は今、逃げた先のスーパーの中にいる。

スーパーの中は混沌としていた。

月曜の午前中、主婦たちと高齢者たちが、特売の豆腐コーナーで小さな静かな争いを繰り広げている。

ゾーグはその光景を眺めながら、地球人とはなんと複雑な生き物かと思った。銀河系で最も平和的な種族であるはずの地球人が、絹ごし豆腐一丁のために互いをじわじわ押しのけている。

「流れが乱れている……」

ゾーグは呟いた。

隣にいた七十代の女性が振り向いた。

「え?なんですか?」

「い、いえ。なんでもありません」

「ねえあなた、百九十センチもあって、この棚の一番上のもやし取ってもらえる?届かなくて」

「は、はい」

ゾーグは棚の上のもやしを取った。それが六袋同時に取れてしまい、床にばらまいた。

「ごめんなさい!」

「あら、いいのよ、助かったわ。あなた、耳が首のとこについてるわね」

「え」

「ファッションかしら、今どきの」

「……そうです。流行りです」

「へえ」

女性はもやしを一袋持って去っていった。

ゾーグはほっとして六郎を探した。

六郎は、精肉コーナーの前で固まっていた。

目の前に、先ほど転倒させた老婦人がいたのである。

「あの……」と六郎は言いかけた。

老婦人の名前は森山ヒサ子、七十四歳。転んだ膝をさすりながら、六郎を見上げた。その目は穏やかだった。

「あなた、さっきの人ね」

「す、すみませんでした!本当に!カラスが……」

「ああ、カラスね。あそこのカラス、いつも飛んでくるのよ。私も何度かやられたわ」

「え」

「大丈夫よ、転んだくらい。足腰は丈夫なの。で、逃げたのはなぜ?」

「…………」

「まあいいわ。謝りに来たのならそれでいい。許します」

六郎は呆然とした。こんなにあっさり許されるとは思っていなかった。

その瞬間、ゾーグの端末が鳴った。

〈流れの修復:部分完了〉

ゾーグは精肉コーナーの入口に立ち、こっそり確認した。

よし。六郎とヒサ子が会話を始めた。これは本来の流れに近い。若干手順が違うが、結果として「出会い」は発生している。

ゾーグは安堵した。

——が。

次の瞬間。

ゾーグはスーパーの床が濡れているのに気づかず、滑った。

百九十センチの体が盛大にすっ転んだ。

その音で、六郎もヒサ子も振り返った。

「だ、大丈夫ですか!?」と六郎。

「…………大丈夫です」

ゾーグは四つある目のうち二つを必死に人間っぽく保ちながら、よろよろ立ち上がった。

首の後ろの耳が、衝撃でまた半分ほど飛び出していた。


第三章
救世主、昼食をとる

ゾーグは六郎とヒサ子に介抱されるという、まったく予期せぬ事態になった。

「大丈夫?座る?こっち来なさい」とヒサ子。

「い、いえ、本当に大丈夫——」

「座りなさい」

有無を言わさぬ口調だった。ゾーグは銀河系道先案内局の主任研究員であり、宇宙歴では三百五十二歳だったが、この七十四歳の地球人女性には逆らえないと本能的に悟った。

スーパーのイートインコーナーへ連れて行かれ、三人はテーブルを囲んだ。

「あなた、どこから来たの?」とヒサ子。

「……遠いところから」

「一人暮らし?」

「まあ、そうですね」

「ご飯、ちゃんと食べてる?」

「食べています。ただ地球の食べ物はまだ——」

「地球の?」

「……外国の料理は慣れなくて、という意味です」

「どこの外国?」

「……はるかかなた」

六郎が口を挟んだ。「あんた、日本語うまいな」

「ありがとうございます。三年間、衛星経由で学習しました」

「衛星?」

「…………テレビです」

ヒサ子はどこからともなくおにぎりを二個取り出し、ゾーグに差し出した。

「食べなさい。コンビニで買ったやつだけど」

「あ、ありがとうございます」

ゾーグはおにぎりを受け取った。

問題は、食べ方がわからないことだった。

見た目はわかる。端末の資料で見た。三角形の食べ物で、海苔が巻いてある。しかしこれは「フィルムを剥がして食べる」という工程があることを、ゾーグは知らなかった。

「どうぞ」とヒサ子。

「はい」

ゾーグはおにぎりをフィルムごとかじった。

ガサッ。

「…………フィルム、剥がさなくていいの?」とヒサ子、穏やかに。

「あ。そうか。そうですね」

六郎が吹き出しそうになるのをこらえていた。

なんとかフィルムを剥がし、ゾーグはおにぎりを食べた。鮭だった。

地球の食べ物は、宇宙広しといえどもかなり上位に入る美味しさだとゾーグは思った。いや、ひょっとしたら一位かもしれない。惑星グラーツの発酵食品は有名だが、あれは匂いで気絶しそうになる。

「美味しい」

思わず四つ目で言ってしまった。

「え?」と六郎。

「いや、美味しい、と言いました」

「あんた……目、今、光らなかった?」

「気のせいです」


昼食(というには早い時間だが)を終え、三人は不思議な居心地のよさの中にいた。

六郎はヒサ子に謝罪でき、心が軽くなっていた。

ヒサ子は転んだことよりも、この奇妙な長身の男の正体が気になっていた。

ゾーグは流れの修復状況を確認したかったが、ヒサ子の「もう一個食べなさい」という圧力に負け、ツナマヨのおにぎりを受け取っていた。

ゾーグの端末では、六郎とヒサ子の接続が修復されたことを告げる通知が来ていた。しかし同時に、別の場所で新たなバグが発生したことも告げていた。

〈警告:第7区画・吉田家・本日の流れ、逸脱中〉

「…………」

ゾーグは心の中でため息をついた。全身のどこかに息をつく器官があればの話だが。

地球の「流れ管理」は、思ったより複雑だった。


第四章
吉田家の壁

吉田健一、四十二歳、IT企業勤務。

今朝から会社に出社できずにいた。

理由は単純で、玄関の鍵が壊れたのだ。

正確には、鍵は開くのだが、ドアの建て付けが悪くなって開かない。業者を呼んだが、今日は「急ぎの案件」でいっぱいで来られないという。

「壁か……」

健一は玄関を眺めながら言った。

ゾーグの設計では、健一は今日の午前中に会社に行き、同僚の田村さんに偶然廊下で会い、田村さんが持っていた資料を見て、自分のアイデアとの接点に気づき、共同プロジェクトを提案する——という流れになっていた。

しかし健一はドアの前でぼーっとしている。

ゾーグは急いで吉田宅付近に向かった。

と言っても徒歩では無理なので、局の小型移動装置(外見はほぼ電動キックボード)を使った。

大阪の道は複雑だった。

ゾーグは三回曲がり間違え、一回一方通行に入り、一回公園の中を走り、ようやく吉田家のマンションの前に到着した。

どうする。

ドアを直すには工具が必要だ。工具はない。しかし業者を呼ぶ権限はゾーグにはない。

ゾーグは考えた。

——「流れ」というのは、突き進むことではない。ぶつかる前に道を変える。

それはゾーグが三百五十二年かけて学んだ、宇宙の原則だ。

では、健一はドアから出る必要があるのか?

改めて流れを確認した。

健一が会社に行く必要があるのは「田村さんに会うため」だが、田村さんが今日の午後に有給を取ることを、ゾーグは管理データで知っていた。

つまり、健一が午前中に会社に行っても、田村さんはもういない。

ではドアが壊れているのは——

むしろ必然だったのでは?

ゾーグは計算した。

健一がドアを開けようとして格闘しているうちに、隣の部屋の住人・山本さんが「うるさい」と出てくる。山本さんは元大工。ドアを直してくれる。そのお礼に健一は夕食に誘う。山本さんの娘が健一と同じ会社で働いていることが判明する。山本さんの娘は田村さんと同期だ。

三十一段階後に接続が完成する。

ゾーグは安心した。

「じゃあ、私は何もしなくていいのか」

しかしゾーグが移動装置に乗って去ろうとした瞬間、移動装置のバッテリーが切れた。

ゾーグはマンションの前に取り残された。

しかも、上から健一が窓を開けて顔を出した。

「あの!ちょっとすみません!」

「え」

「玄関のドアが開かなくて……もし工具とか持ってたら貸してもらえませんか?あ、いや、貸してもらえなくてもいいんですけど……」

ゾーグは全身の目と耳(合計十個)でこの状況を把握した。

健一は自分でドアを直そうとしている。その場合、山本さんが出てくるタイミングが変わる。

ゾーグは移動装置のサドル部分を外した。中から小型工具セットが出てきた(局の規定で全移動装置に搭載されている)。

「あります」

「え、ほんとですか!助かります!」

ゾーグは工具セットを持ってマンションに入った。


第五章
ドタバタ修理と意外な真実

四〇三号室、吉田健一の玄関。

ゾーグは工具を広げた。

問題は、ゾーグが工具の使い方をほぼ知らないことだった。

端末で確認する。「丁番調整用六角レンチ」。画像を見る。健一の目の前でこっそり。

「あ、知ってます、これ」と健一。

「そうですか……ではお願いします」

ゾーグは工具を渡した。

「え、あなたがやるんじゃないんですか」

「……あなたの方が向いていると思いまして」

「なんで」

「経験値が高そうなので」

「全然ないですよ!」

結局、二人で端末(健一のスマートフォン)で検索しながら、ドアを直すことにした。ゾーグは検索スピードが異常に速く、動画を見ながら五秒で内容を完全に理解し、健一に的確に指示を出した。

「そこ、三ミリ左に……そうそう、次は上の丁番を……」

三十分後、ドアは完璧に直った。

「すごい!あなた、なんでそんなに詳しいんですか」

「……いろいろ調べる仕事なので」

「なんの仕事ですか」

「案内人、みたいな」

「ガイド?旅行の?」

「……そういうものです」

そのとき、廊下から声がした。

「なんか音してたけど、大丈夫?」

隣の部屋の扉が開いた。がっちりした体格の六十代男性。山本さんだった。

「ああ、直ったじゃないか。俺も気になってたんだよ」

「山本さん、ありがとうございます。この方が……」

「いや、俺は何もしてないよ。あなたが直したんでしょ」と山本さんはゾーグに向かって言った。

「二人でやりました」とゾーグ。

「うちの娘もこのマンションでよくお世話になってて……あ、健一さん、うちの娘って健一さんの会社じゃなかったっけ?」

「え!山本さんのお子さんが?」

会話が始まった。

ゾーグは廊下に立ったまま、端末を確認した。

〈流れの修復:完了〉〈第7区画・吉田家フロー:正常化〉

よかった。

ゾーグは静かにその場から離れようとした。

「あ、あなた!名前なんていうんですか?」と健一が振り返った。

「……ゾーグといいます」

「ゾーグさん、ありがとうございました!今度お礼に——」

「いえ、お気遣いなく」

ゾーグはエレベーターに乗った。

扉が閉まる寸前、健一の顔が見えた。笑っていた。

ゾーグは何かが、自分の胸の奥の方——心臓がある場所とは少し違う器官——に、温かく灯ったような気がした。

地球人の感情に影響されてはいけない、と局の研修で習っていた。

しかしゾーグは、なぜかその瞬間、研修の内容を忘れていた。


第六章
田中六郎、旅に出る

スーパーのイートインで出会った三人——六郎、ヒサ子、ゾーグ——は、不思議な縁でその後も関係が続いた。

六郎はヒサ子に謝罪したことで何かが吹っ切れ、その日の午後から「旅に出たい」と思い始めた。

還暦を過ぎて、どこか遠くへ行ってみたい。特に目的もなく。流れに身を任せて。

妻に話すと「いつから行くの」と即答された。

「来週くらいから」

「じゃあ私も行く」

「え」

「一人で行かせたら迷子になるでしょ」

六郎は否定できなかった。


ゾーグはこの展開を観察しながら、端末で記録していた。

六郎夫妻の旅行は、本来の「流れ」にはなかった。しかし悪い逸脱ではない。むしろ——

端末が告げた。

〈追加フロー生成:田中六郎・旅先選択により新規接続ポイント発生・可能性数:二百七十三〉

二百七十三通りの新しい出会いと流れが、この旅行によって生まれる可能性がある。

「旅先での一瞬の判断で、その後の行き先が大きく変わる……」

ゾーグは自分の端末の画面を見つめながら、なぜかそれがとても美しいことのように思えた。

宇宙広しといえど、これほど「偶然の組み合わせ」が豊かな星は珍しい。

どの道を曲がるか。右か、左か、直進か。

その一瞬が、何十人もの人間の「流れ」を変えていく。

人間たちはそれを「運」と呼ぶ。

六郎はその日の夜、旅の計画を立てようとして、地図を開いた。

しかし地図を見ているうちに、どこへ行くかより「なぜ行くのか」の方が大事だと気づいた。

「なんとなく」でいい。

なんとなく気になった道を選ぶ。なんとなく降りた駅で飯を食う。なんとなく声をかけた人と話す。

それが旅というものだ、と六郎は思った。

——思ったのだが、それを妻に言うと「計画くらい立てなさい」と言われた。

「じゃあ最初の目的地だけ決めよう」

「どこにする?」

「……なんとなく、京都より西がいいな」

「広島?」

「それとも九州かな……」

「温泉は?」

「温泉いいな……別府?湯布院?」

「両方でもいいじゃない」

「そうだな……」

地図の上で、二本の指が西へ西へと動いた。

成層圏の上で、ゾーグは端末に〈田中六郎・旅先:九州方面・暫定〉と入力し、九州担当のゾーグ・ベータ(同じ一族の別の個体)に連絡を入れた。

〈来週、地球人が行くから準備しといて〉

〈また日本列島か。最近多いな〉

〈仕方ない。面白い人間が多いんだ、この島国は〉


第七章
五輪と嘘と黄信号

ゾーグが地球担当になって三年が経つ。

その間に、最も頭を悩ませたのが「東京五輪」だった。

あれは「流れ」に完全に逆らったプロジェクトの典型だった。

始まりを見た時から、ゾーグには嫌な予感があった。

「アンダーコントロール」

ゾーグはその言葉を聞いた瞬間、端末に〈嘘フラグ〉をセットした。

宇宙の法則として、自分の力が及ばないものを「コントロールしている」と言った瞬間から、あらゆるものがほつれ始める。

ポスターの問題。競技場の問題。暑さの問題。

一つほつれると、次が出てくる。次が出ると、さらに次が。

これは「略奪」と同じ構造だ、とゾーグは思った。

本来そこにあるべきでないものを、無理やり引き寄せる。引き寄せたものは、すぐに逃げていく。

壁を乗り越えることは、乗り越えた先の問題を先送りにしているに過ぎない。

ゾーグは三百五十二年の経験でそれを知っていた。

一方で、ゾーグが「これは正しい流れ」と思う瞬間もある。

六郎が黄色信号で止まった日の夕方、六郎は帰り道に小さな書店に入った。

目的はなかった。なんとなく入った。

なんとなく手に取った本が、俳句の本だった。

六郎は趣味で俳句を作るが、最近スランプだった。その本の中に、ある一句があった。

「流れゆく雲よ 止まれとは言わず ただ見る」

六郎はしばらく動けなかった。

これだ、と思った。

無理に止めようとしない。無理に追いかけない。ただ、見ている。

その本を買って帰った六郎は、その夜、久しぶりに俳句を一句書いた。

それがのちに、ある俳句誌に掲載されることになるのだが、それはもう少し先の話だ。

ゾーグはこの一連の流れを端末に記録しながら、思った。

人間というのは、ときどき、自分でちゃんと気づく。

案内人が必要なときと、必要でないときがある。

その見極めもまた、案内人の仕事だった。


第八章
ヒサ子さんの秘密

森山ヒサ子、七十四歳。

スーパーで転んだ翌日、ゾーグは彼女の家の近くにいた。

理由は、ヒサ子の「流れ」に気になる分岐があったからだ。

端末によると、ヒサ子は今日、ある重要な決断をする。

〈森山ヒサ子・本日フロー:人生分岐点・確率高〉

「……分岐点?」

七十四歳の人生の分岐点とは何か。

ヒサ子の家は小さな一軒家だった。庭に植木が丁寧に並んでいた。

ゾーグは近くのベンチに座り(公園があったので)、端末で確認した。

ヒサ子の分岐点は「息子夫婦との同居を承諾するかどうか」だった。

息子が今日、電話してくる予定になっている。

ヒサ子が「いい」と答えれば、息子一家が引っ越してくる。孫たちが来る。ヒサ子の生活は賑やかになる。

ヒサ子が「まだ一人でいい」と答えれば、息子は遠慮する。ヒサ子は当面一人だ。しかし——

ゾーグは計算した。

どちらの選択も、間違いではない。

しかしヒサ子が「まだ一人でいい」と答えた場合、その翌月から、ヒサ子は週二回、近くのコミュニティセンターに通い始める。そこで友人ができ、その友人の紹介で習い事を始め、七十五歳で初めて水彩画を描く。

その水彩画が、二年後に地域の展覧会で入賞する。

ゾーグはどちらのルートも端末で先読みした。

同居ルートも幸せだ。孫との時間は豊かだ。

一人ルートも幸せだ。自分の世界が広がる。

「どちらが正しい」ではない。

どちらも、流れとして正しい。

午後二時、ヒサ子の家の電話が鳴った(窓が少し開いていて、外まで音が聞こえた)。

しばらくして、ヒサ子が庭に出てきた。

木に水をやりながら、空を見上げた。

それから、小さく笑った。

ゾーグにはその笑顔の意味がわかった。

ヒサ子は答えを出したのだ。どちらかを選んで、受け入れた。

後悔せずに。

ゾーグの端末が鳴った。

〈流れ確定:良好〉

ゾーグはベンチから立ち上がり、公園の出口に向かった。

振り返ると、ヒサ子がこちらに気づいて軽く頭を下げた。

ゾーグも頭を下げた。

お互い、何も言わなかった。

それで十分だった。


第九章
局長からの連絡

夜。船の中。

ゾーグが端末の整理をしていると、通信が入った。

相手は銀河系道先案内局・局長のダーク・グルーミン卿。全身紫、目が十二個、声が三重になっている生命体で、宇宙歴では五千年生きている。

〈ゾーグ〉

「はい、局長」

〈最近、地球への干渉が多いという報告が来ている〉

「……そうですか」

〈本来、案内人の仕事は最小限の介入だ。流れを見守り、必要なときだけ、そっと押す。それが原則だ〉

「わかっています」

〈しかし今日、お前は工具を持ってマンションに入った。直接、人間のドアを直した〉

「それは——流れが……」

〈流れは自分で修正されていた可能性がある〉

ゾーグは黙った。

局長の言う通りかもしれない。健一はいずれ、山本さんに声をかけていたかもしれない。別のきっかけで。

〈お前が最近、地球人に感情移入しているのではないかと、私は心配している〉

「感情移入は……していません」

〈本当か?〉

「……多少は」

〈正直だな〉

局長は沈黙した。

〈ゾーグ。お前の前任者が何をしたか覚えているか〉

「……辞表を出して地球に残りました」

〈そうだ。今でも東北地方のどこかで、人間として生活している。七十代の男性に化けて、畑を耕しているらしい〉

「……幸せそうですか」

〈非常に幸せそうだ。それが問題なんだが〉

通信が終わった後、ゾーグはしばらく窓の外を見ていた。

地球の夜景が見えた。

あちこちに光がある。

一つ一つの光の下に、人間たちがいる。

六郎と妻が、旅の話をしている。

健一が、山本さんの娘に連絡先を聞いている。

ヒサ子が、水彩画の道具を検索している(まだ決断から数時間しか経っていないが、すでに調べ始めていた)。

見えない力、とゾーグは思った。

それは「管理」ではないのかもしれない。

見守ること。ときどきだけ、そっと。

それで十分なのかもしれない。

人間たちは、思っているよりずっと、ちゃんとやっていける。


第十章
旅先の交差点

田中六郎と妻・幸子は、湯布院に来ていた。

温泉に入り、地元の食事をして、次の日の朝、旅館を出た。

「どこ行く?」と幸子。

「わからん」と六郎。

「それでいいの?」

「それがいい」

小さな街を歩いた。観光地だが、早朝なので人が少ない。

交差点に差し掛かった。

右に行けば、湖の方へ。

左に行けば、商店街へ。

直進すれば、山の方へ。

六郎は立ち止まった。

昨日スーパーで転んだ男のことを、なぜか思い出した。ゾーグ、とか言う名の。

あの人は何者だったんだろう。

工具を持っていて、知識は豊富で、なのに食べ方がわからない食べ物がある。耳が首のとこについてた。

……まあいいか。

「右行こう」と六郎は言った。

「なんで?」

「なんとなく」

湖の方に向かった。

湖のほとりに、小さなカフェがあった。開店直後で、老夫婦が二人でやっていた。

コーヒーを飲みながら、六郎と幸子は湖を眺めた。

静かだった。

水鳥が一羽、湖面をなぞるように飛んでいった。

「来て良かったな」と六郎。

「そうね」と幸子。

「お前がいてよかった」

「……急にどうしたの」

「いや、なんとなく」

幸子は少し笑った。

六郎も笑った。

成層圏の上で、ゾーグは端末を見ていた。

〈田中六郎フロー:順調〉

よかった。

ゾーグはコーヒーを一口飲んだ。局支給の、惑星ベガ産の液体だ。

美味しい。でも、ツナマヨのおにぎりの方が美味しいかもしれない。

ゾーグは思った。

局長は「感情移入するな」と言った。

でも、感情移入しなければ、案内人の仕事はできないのではないか。

その星の生き物を好きでなければ、その星の「流れ」を大切にできない。

ゾーグは端末に一言だけ記録した。

〈地球:好き〉

そして端末を閉じた。


第十一章
見えない道先案内人

一週間が経った。

ゾーグは相変わらず大阪の成層圏上空に浮かんでいた。

六郎は旅から帰り、俳句を三句書いた。

健一は山本さんの娘と仕事の話をするようになり、共同プロジェクトの芽が出始めた。

ヒサ子は水彩画の教室に申し込んだ。

それぞれが、それぞれの「流れ」の中にいた。

ある朝、ゾーグの端末に通知が来た。

〈地球担当・ゾーグ・アルファ・ムニュムニュ第七世へ〉
〈本局より連絡:次の任地が決定。火星担当に異動の辞令〉
〈地球担当の後任:ゾーグ・ガンマ・ニュムニュ第三世(研修中)〉

ゾーグは画面を見つめた。

火星。

火星には人間がいない。テラフォーミングはまだ計画段階だ。

「流れ」を管理するといっても、岩と砂の「流れ」だ。

ゾーグはしばらく考えた後、局長に通信を入れた。

「局長」

〈なんだ〉

「一つ確認させてください。前任者——東北で畑を耕しているあの方——は、今でも連絡はつきますか」

〈……なぜ〉

「参考にしたいことがあって」

〈……ゾーグ〉

「はい」

〈辞表を出すつもりか〉

「…………まだわかりません」

長い沈黙。

〈お前の前任者の連絡先を送る。好きにしろ〉

その日の夕方、ゾーグは船を降りて、大阪の街を歩いた。

変装なしで出かけるのは規則違反だが、もうどうでもいいような気がした。

百九十センチの、うっすら緑がかった、目が少し多い男が、商店街を歩いた。

誰も特に気にしなかった。

大阪というのは、そういう街だった。

商店街の端に、小さな本屋があった。

ゾーグは入った。

なんとなく。

棚を眺めていると、一冊の本が目に入った。

俳句の本だった。

ゾーグはそれを手に取った。

最初のページに、一句。

「迷わずに どこでもよくて 春の風」

ゾーグは本を買った。

店を出て、空を見上げた。

雲が流れていた。

西から東へ。

または東から西へ。

ゾーグには方向がよくわからないが、とにかく流れていた。

見えない力が、今日も、あちこちで、静かに、働いていた。


エピローグ
銀河は今日も流れている

ゾーグ・アルファ・ムニュムニュ第七世は、結局、辞表を出さなかった。

火星への異動も断った。

局長は怒ると思ったが、怒らなかった。

〈まあ、そうなるだろうと思っていた〉と言っただけだった。

〈地球担当を続けるか〉

「はい」

〈理由は〉

「……面白いので」

〈それだけか〉

「……好きなので」

局長はまた沈黙した。

〈正直だな、お前は〉

六郎は秋に、俳句誌への応募を決めた。

タイトルは「見えない力」。

健一は新しいプロジェクトを田村さんに提案した。田村さんは即断で「やろう」と言った。

ヒサ子の水彩画の最初の作品は、庭の植木だった。下手だったが、生き生きしていた。

ゾーグは今日も成層圏にいる。

端末には無数の「流れ」が流れている。

大半は、人間たちが自分で調整している。

ゾーグが手を出すのは、ほんの少しだけ。

黄色信号のタイミング。

カラスの飛ぶ方向。

棚の上のもやしの位置。

そんな、取るに足らないことだけ。

それで十分だと、ゾーグは思っている。

人間というのは、案内人が思っているより、ずっと賢い。

ずっと優しい。

ずっと、ちゃんとやっていける。

自分も、あなたも。

見えない力は今日も、静かに、宇宙の端っこから、地球を見ている。

カラスが一羽、どこかの交差点を横切っていった。

それが偶然かどうかは、誰にもわからない。

ゾーグだけが、少しだけ知っている。

でも、黙っておくことにした。

(了)


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〜あとがき〜

この話を書いた者(見えない何者か)は、黄色信号でいつも少し迷います。

渡るべきか、止まるべきか。

ただ最近は、どちらを選んでもたいてい大丈夫だということを、なんとなく知っています。

大事なのは選んだ後の話で、選んだことを後悔しないことで、止まったなら止まった先の景色を楽しむことで、渡ったなら渡った先で出会う人を大切にすることで。

ゾーグが実在するかどうかは、わかりません。

でも、困ったときに助けてくれる人がなぜか現れること、逆らってばかりいると何かがうまくいかないこと、流れに乗ったときには不思議なほどうまくいくこと——それは、おそらく実在します。

信じるかどうかは、あなたの選択です。

どちらでも、ゾーグは怒りません。

ただ、成層圏からニコニコ見ています

(目が四つなので、ヨコヨコしています)。笑

先々月の

ホストマザーたちに続き

今年もまた

アメリカがやって来る!


65歳になったこの身体は

今頃また

半世紀前を振り返り

叶ったこと

諦めたこと

楽しかったこと

辛かったこと… を

ひとり思い出しては

苦笑いしてみる



ゴジラヘッド



昨年の今頃
この国のゴジラの前で
プロポーズを成功させた彼らが

今年は
夫婦となってやって来る

さて
今年はどんな予定なのか?

またしても
彼女へと
ドッキリ! を仕掛けるのか?

ならば
今年もまた
全力で加勢したいけれど

今まだ
何もそのナイショ話は届かない

来週5/20日から
再来週の6/1日までの滞在は
どんな笑顔になれるのかと

家族揃ってまた
楽しみにしてみるわけだ


僕らの頃よりも
遥かに地球は狭くなった
いや
距離は変わらずとも
飛行時間も変わらずとも

SNSの発達により
手に取るように
情報が行き交う

それでもこうして
直接会って
笑って手を取り
言葉を交わすことが
大切なのだと改めて思う

ガキの頃
遥か彼方の見えないアメリカは
夢の世界のようだったけれど
半世紀が過ぎて
国際交流は日常になったようだ

国際結婚は増え
ならば人種は
沢山 混ざった方が良い

それが世界平和の
先駆けになるはずだから




そんなことを思いながらも
あの頃
遠かったはずのアメリカは
若さゆえ無茶したせいか
僕には
そうでもなかったけれど

今なぜか
遠く感じてしまうのは
落ちた体力による
長い飛行時間と

好き勝手する
バカな大統領による
多くのリスク


そんな中
インバウンドにより
この国がもてはやされるのは
やはり
安全が
最優先されてることなのだろう

時間はあまりにも早く過ぎて
本家の長男という立場ゆえ
今まだこの国にいる

だからきっと
無事なのだろう

そんなことだよ
ご同輩…


運の総量保存の法則

〜お節介な神様と三十八回目の月曜日〜

2047年・近未来東京


〜まえがき〜

「運は巡る / プラスマイナスゼロの法則」。

 何かを差し上げると、巡り巡って何かが返ってくる。それは物ではなく、気持ちの行き来だ。貰いっぱなしではダメ。計算で与えても滞る。

 では、それが国家システムになったとしたら? AIが運を管理したとしたら? そして、その隙間を埋めるべく、お節介な神様が東京の街を歩き回ったとしたら——?

 どうぞ、お気楽にお読みください。

 まずは、あなたにこの物語を……どーぞ。




第一章 神様、ハローワークへ行く

 西暦二〇四七年。東京は今日も晴れである。

 渋谷スクランブル交差点の上空、海抜三十二メートルのところで、一柱の神様がぼんやりと浮いていた。

 その神様の名前は、タマキチ。正式名称は「縁結び・福分配・因果調整担当補佐代理神(見習い)」という、どこかの省庁も真っ青な長ったらしい肩書きを持っていた。外見は七十代の小太りなおじさんで、紺色の作務衣を着て、腰には黒い板のようなものをぶら下げていた。これが、現代の神器「運命端末・カルマパッド」である。

 「うーん」とタマキチは唸った。

 カルマパッドの画面には、こんな文字が踊っていた。

 『システムエラー:運の総量が規定値を〇・〇三二ポイント超過しています。早急に調整を行ってください。担当エリア:東京都渋谷区一帯。調整期限:七十二時間。未対応の場合、自動リセットが発動します』

 自動リセット。その言葉がタマキチの丸いお腹をきゅっと締め付けた。自動リセットとは何か。平たく言えば、その地区の人々の運が、あらゆる記憶もろともゼロに戻ってしまうことである。要するに、タイムループの強制発動だ。

 「またか……」タマキチは天を仰いだ。「またタイムループか。先月も先々月も……って、あれ、先月はワシが手動でやったんだっけ」

 空の彼方から、無感情な声が降ってきた。AIである。

 『タマキチ神、お話し中のところ恐れ入りますが、現在ループ回数の上限に近づいています。このエリアの住民・田中ゆかり(二十八歳・渋谷区在住・フリーランスのグラフィックデザイナー)は、過去三十七回のループにおいて一度も「与える行動」を取っておられません。彼女の運のマイナスが、このエリア全体の総量に影響を与えています』

 「三十七回……」タマキチは唸った。「それ、もう嫌がらせの域じゃないか」

 『嫌がらせではございません。統計的な傾向です。彼女は平均的に見て、受け取り専門の人間です。ただし』AIが一瞬間を置いた。『可能性は、あります』

 タマキチはため息をついた。こういうときのAIの「可能性は、あります」は、たいてい「神様が地上に直接介入してください」という意味である。

 「わかった、わかった。行けばいいんじゃろ」

 タマキチは作務衣の袖をまくり、カルマパッドを腰に差し直すと、渋谷の雑踏へと降りていった。人間には見えない姿で、である。いちおう。


第二章 田中ゆかり、三十七回目の月曜日

 田中ゆかりは月曜日が嫌いだった。

 今週で三十七回目の月曜日だとは、当然知らない。記憶はリセットされているので。しかし何となく、この曜日に漠然とした嫌悪感を持っていた。理由は不明。体がどこかで覚えているのかもしれない。

 彼女は渋谷のカフェで、ラップトップの前に座り、クライアントからのメッセージを読んでいた。

 「やり直してください。コンセプトから」

 以上。

 ゆかりはエスプレッソを一口すすった。苦い。人生と同じくらい苦い。

 その瞬間、隣のテーブルの老人がふいに言った。

 「お嬢さん、それ、ひっくり返りますよ」

 ゆかりが顔を上げると、紺色の作務衣を着た小太りのおじさんが、ニコニコしながら彼女のカップを指差していた。

 次の瞬間、カップは本当にひっくり返った。

 「わあっ!」

 コーヒーがラップトップに向かって流れる。ゆかりは咄嗟にバッグを盾にして被害を最小限に食い止めた。なんとかパソコンは無事。しかし白いシャツの袖が茶色に染まった。

 「……なんで先に教えてくれなかったんですか」ゆかりは老人を睨んだ。

 「先に教えたら、あなたが自分で止めてしまうじゃろ」

 「それでいいんですよ!」

 老人——タマキチ——は、まったく悪びれず、むしろ興味深そうにゆかりを観察していた。「うんうん。この子は口が達者じゃな」と、小声で独り言を言っている。

 「なにか言いましたか」

 「いや何も。ところでお嬢さん、気分転換に散歩でもどうですか。近くにいい公園がありますよ」

 「なぜ見ず知らずのおじさんと散歩しなきゃならないんですか」

 「縁があるから、です」

 ゆかりは立ち上がり、荷物をまとめた。「失礼します」と言って店を出た。完全無視。三十七回のループの中で、これは比較的早い「撃沈」だった。

 タマキチはカルマパッドを取り出し、メモした。「拒絶パターン:タイプ3(警戒型)。有効アプローチ:未発見。残り時間:六十八時間十四分」

 AIが耳元で囁いた。『タマキチ神、ドンマイです』

 「ドンマイ言うな」


第三章 運の見える化と、その弊害

 読者の皆さんに、少し背景の説明をしよう。

 二〇三〇年代後半、人工知能の発展は神の領域に踏み込んだ。いや、比喩ではなく、文字通りに。高天原クラウド株式会社(本社:東京都千代田区・時価総額四十二兆円)が開発した「カルマOS」は、人間の行動データをリアルタイムで解析し、「運」の総量を数値化することに成功したのだ。

 これは革命だった。

 人々は自分のスマートフォンで「今日の運スコア」を確認できるようになった。朝起きて「今日は運スコア72! ラッキーデイ!」などと喜ぶ文化が生まれ、運スコアの高い人間がSNSで称賛され、低い人間が「運貧乏」と揶揄される時代が来た。

 しかし高天原クラウドは、もう一つ重要なことを発見していた。

 運の総量は、常に一定である。

 誰かの運が増えれば、誰かの運が減る。与えれば巡り、溜め込めば滞る。古来の民話や格言が言っていた「情けは人のためならず」「お天道様は見ている」の類は、データで裏打ちされた物理法則だったのだ。

 この発見を受けて、日本政府は「運総量保存法」を制定。カルマOSを国家インフラとして採用し、各地区の「運の調整」を担当する神職AIを配備した。これが、タマキチの上司にあたる存在「カルマ中央AI・アマテラス9号」である。

 アマテラス9号は優秀だった。賢く、公正で、感情がない。

 しかし一つだけ、苦手なことがあった。

 「人間の気まぐれ」である。

 だからこそ、タマキチのような「現場の神様」が必要とされた。AIが計算できない、人間の不合理な善意。それを引き出すのが、タマキチの仕事だった。

 「つまりわしは、AIの下請けか」とタマキチはいつも嘆く。

 『正確には「ヒューマン・インターフェース担当神職」です』とアマテラス9号は答える。

 「同じじゃろ!」


第四章 三十八回目の試み

 翌朝、タマキチは作戦を変えた。

 ゆかりが毎朝立ち寄るコンビニで、彼女より先に並んでいる老人を演じることにした。レジ前で財布をごそごそやり、小銭が足りないふりをする。古典的な作戦だが、三十七回中一度も試したことがない手だ(なぜかというと、タマキチ自身が気乗りしなかったからである。神様にも好き嫌いはある)。

 ゆかりがやってきた。ペットボトルのお茶と、おにぎり一個。いつもと同じ。

 タマキチはレジで「あれれ」と言いながら財布を漁り始めた。

 ゆかりが後ろに並んだ。

 五秒後、ゆかりはイヤホンをつけてスマホを見始めた。

 十秒後、タマキチはまだ漁っている。

 三十秒後、店員がタマキチに「大丈夫ですか」と声をかけた。

 一分後、ゆかりが「すみません、私が払います」と言った。

 タマキチは心の中でガッツポーズをした。ついに。三十八回目にして、ゆかりの口から「払います」という言葉が出た。

 しかし次の瞬間、ゆかりはこう付け加えた。

 「PayPayのポイントが余ってるんで、使いたいだけですけど」

 タマキチのカルマパッドが震えた。『善意判定:不成立(動機が打算的です)』

 「……それでもええやろ!」タマキチは小声で叫んだ。

 『規定では、純粋な善意のみカウントされます』

 「融通の利かないシステムじゃな!」

 ゆかりはPayPayで百九十円を支払い、何事もなかったかのようにコンビニを出た。

 タマキチは、おにぎりと引き換えに受け取ったお釣りを、呆然と眺めた。


第五章 ゆかりの事情

 タマキチは、ここで少し立ち止まって考えることにした。

 神様の仕事は、人間を「良い方向に動かす」ことだ。しかし動かすためには、相手を知らなければならない。三十七回のループで、タマキチはゆかりの表面しか見ていなかったのではないか。

 カルマパッドを開いて「田中ゆかり・深層データ」を呼び出す。

 『対象者の直近の行動パターン:受け取り専門、施し行動ゼロ。しかし——注記あり』

 注記。タマキチはそこをタップした。

 『対象者は五年前、父親の介護のために仕事を三ヶ月休んだ記録あり。父親の死後、葬儀費用が払えなくなった際、近所の見知らぬ老夫婦が費用を一部負担。対象者はこれを「信じられないこと」として記憶しており、現在も「いつかお返しをしなければ」という義務感を持ち続けている。ただし、その「いつか」がいつなのか、自分でも分かっていない模様』

 タマキチはカルマパッドをゆっくり閉じた。

 「そういうことか……」

 ゆかりは、もらいっぱなしが嫌な人間だった。だから受け取ることに慎重で、与えることへの恐れがあった。完璧に返せるまで、与えてはいけないと思い込んでいた。

 「なんじゃ、ただの不器用な子じゃないか」

 アマテラス9号が囁く。『しかしその不器用さが、三十七ループ分の歪みを生んでいます』

 「わかっとる。でも……やり方を間違えておったわ、ワシは」

 タマキチは空を見上げた。東京の空は、今日も狭い。ビルとビルの間に切り取られた、青い細い帯。

 「正面突破は諦める。遠回りじゃが、本筋を行くとするか」


第六章 お裾分けという名の革命

 タマキチは翌日、ゆかりのアパートの前に現れた。手には大きな紙袋を持っている。

 中身は、みかんである。熊本産。二十個入り。

 タマキチは、ゆかりの隣の部屋の住人・マツモトさん(六十三歳・元トラック運転手・現在は半隠居)に変装して呼び鈴を押した。これも神様の仕事のひとつで、人間に化けることは朝飯前だ。ただし規約で「本人と同世代の姿は禁止」とあるので、いつも老人か子どもになる。

 「はあい」

 ゆかりがドアを開けた。

 「やあどうも、隣のマツモトです。いやね、田舎の親戚からみかんが届いてね。多すぎてね。よかったらどうぞ」

 タマキチは紙袋をゆかりに差し出した。

 ゆかりは一瞬、固まった。

 (これは……もらっていいのか? でももらったら返さなきゃいけない。何を返す? いつ? どれくらいの量で?)

 ゆかりの頭の中で計算が始まった。タマキチにはその様子がカルマパッドの「思考可視化モード」でうっすら見えていた。

 「気にしないでください。食べきれないんで、本当に」

 「……ありがとうございます」

 ゆかりはみかんを受け取った。

 三時間後。

 ゆかりはみかんを四つに分けた。一つは自分用。一つは向かいの部屋の若いカップル用。一つは下の階の一人暮らしのお婆さん用。そして一つは、タマキチこと「隣のマツモトさん」のお返し用だ。

 廊下に出たゆかりは、三方向のドアに小さなビニール袋を下げた。中にはそれぞれみかんが入っており、小さなメモが添えてあった。

 「よかったらどうぞ。田中より」

 カルマパッドが静かに鳴った。

 『善意行動:検出。動機分析:純粋度七十一パーセント。タイムループ解除条件まで残り:二十九パーセント』

 タマキチは自分の部屋の前に下がったみかんの袋を見て、小さく笑った。

 「始まったな」


第七章 連鎖

 みかんはドミノ倒しを起こした。

 向かいのカップルは、みかんをもらったことで気分が良くなり、ずっと先延ばしにしていたケンカの仲直りをした。男の方が「ありがとう」と言い、女の方が泣き、二人は抱き合った。そして翌日、男は職場の後輩に奢ってやった。後輩は感激して、帰りに献血をした。献血センターのスタッフが後輩に「ありがとうございます」と言い、スタッフは気分がよくなって、バス停で迷っていた観光客に丁寧に道案内をした。観光客は感動して、ホテルのレビューに「東京の人は親切だった」と書いた。そのレビューを読んだ外国人が東京旅行を決め——

 「まあ、そのくらいにしとこか」タマキチは独り言を言った。「連鎖を追いかけるとキリがないんじゃよな、いつも」

 問題は、下の階のお婆さんである。

 お婆さん——山田フミコ、七十九歳——は、みかんの袋を見て泣いた。

 「こんなことをしてくれる人がいたんか……」

 お婆さんは三ヶ月前から近所づきあいを断っていた。息子に「いい加減に施設に入れ」と言われてから、人が怖くなったのだ。

 お婆さんはみかんを一つ剥いて食べた。甘かった。

 次の日、お婆さんは自分で廊下に出た。久しぶりに。ゆかりと廊下でばったり会った。

 「あのう……みかん、ありがとうございました」

 「ああ、いえ。おいしかったですか」

 「甘かったですよ。あなたって、何してる人なの」

 「デザイナーです。ロゴとか作ったり……」

 「あらそう。うちの息子が今度お店開くって言っててね。ロゴが要るって言ってたけど……頼めるの、こういうの」

 ゆかりは少し考えた。「……ぜひ」

 カルマパッドが震えた。

 『仕事受注:検出。給与予定:二十二万円。対象者・田中ゆかりの運スコア上昇率:プラス十七ポイント。タイムループ解除条件まで残り:三パーセント』

 「三パーセント!」タマキチは小躍りした。「あとちょっとじゃ!」


第八章 最後の三パーセント

 残り三パーセント。

 タマキチは考えた。何が足りないのか。

 アマテラス9号が分析した。『田中ゆかりは現在、「もらったから返した」という意識が残っています。純粋な善意の発露がもう一押し必要です。具体的には、見返りを期待しない行動、かつ相手が見知らぬ他人であることが条件です』

 「むずかしいな……」

 しかしそれは、翌朝に、予想外の形でやってきた。

 ゆかりが渋谷駅の改札を出たとき、若い女性がホームで泣いているのを見た。就活帰りらしく、リクルートスーツを着て、手には不採用通知の紙を持っていた。

 ゆかりは一歩進んで、止まった。

 (関係ない。急がないといけない。関係ない。でも……)

 ゆかりは鞄の中を探った。ポケットティッシュがあった。それと——みかんが一つ残っていた。お昼用に入れておいたものだ。

 「あの……」ゆかりは声をかけた。「大丈夫ですか」

 女性は顔を上げて「す、すみません」と言った。

 「ティッシュ、どうぞ。それと……みかんしかないんですけど」

 ゆかりはみかんを差し出した。

 女性は呆然とした顔でみかんを見た。それからぷっと吹き出した。

 「みかん……」

 「なんか変でしたね、ごめんなさい」

 「ありがとうございます。なんか……なんか元気出ました」

 ゆかりは微笑んで、改札を出た。

 その瞬間。

 カルマパッドが音楽を奏でた。明るく、軽やかな音楽を。

 『善意行動:完全認定。純粋度:九十八パーセント(残り二パーセントは本人が後で恥ずかしくなった分です)。タイムループ解除条件:達成。渋谷区エリアの運の総量:正常範囲内に収束。お疲れ様でした、タマキチ神』

 タマキチは渋谷の雑踏の中で、一人静かに目を閉じた。

 「ようやっとか……」

 三十八回目の月曜日が、静かに終わっていく。


第九章 神様の残業

 事件は解決した。しかしタマキチの仕事は終わっていなかった。

 アマテラス9号からの新着通知が、カルマパッドに十四件届いていた。

 『緊急案件:世田谷区・梅が丘エリア。対象者・鈴木一郎(四十五歳)、過去五十二回のループにおいて「わざとマイナスを背負い、その後のプラスを待つ」行動パターンを繰り返しています。現在、このエリアの運の歪みが臨界値に達しつつあります。直ちに対応をお願いします』

 タマキチは読み終えて、深々とため息をついた。

 これは、やっかいな案件だ。

 わざとマイナスを背負う人間。先に損をして、運の反動でプラスをもらおうとする人間。計算の上で「お裾分け」をする人間。

 「純度がゼロじゃもんな……」

 タマキチは梅が丘の方角を見た。カルマパッドには、鈴木一郎の行動記録が列挙されていた。わざと財布を落とす。わざと電車を一本遅らせる。わざと同僚の仕事を手伝い、心の中で「これでプラスが来るはずだ」と計算する。

 善意のふりをした損得勘定。

 「こういう人間が一番むずかしい……」タマキチは天を仰いだ。「悪人より手がかかる。悪人は素直じゃから」

 『タマキチ神、移動をお願いします。残り時間:四十八時間』

 「わかっとる、わかっとる」

 タマキチは立ち上がり、作務衣の裾を整えた。渋谷の夜風が、少しだけ優しかった。

 「鈴木一郎か……。どんな事情があるんじゃろな」

 神様は、夜の東京を歩き始めた。

 カルマパッドを腰に差して、眉間に皺を寄せて、でも足取りは少しだけ軽やかに。

 運は、今夜も巡っている。


終章 プラスマイナスゼロ

 むかし、ある神様が言った。

 運とは気持ちの行き来である、と。

 物が巡るのではない。気持ちが形を借りて、世界の中を泳いでいる。みかんになったり、百九十円のPayPayポイントになったり、渋谷の駅ホームでのティッシュとみかんになったりしながら。

 その総量は、常に一定だ。

 失えば補われ、与えれば戻り、計算すれば滞り、忘れて与えれば流れる。

 AIにも計算できないのは、人間の「忘れて与える」瞬間である。見返りを考える前に手が動いてしまう、あの一瞬。田中ゆかりがみかんを差し出した、あの瞬間。

 それだけが、本物だ。

 二〇四七年の東京で、お節介な神様は今日も歩いている。カルマパッドを腰に差して、次の案件へ向かいながら、ふと思う。

 ワシはいったい、何回ループさせてもらっているんじゃろか、と。

 神様にも、わからないことはある。

 ただ一つ、確かなことがある。

 運が欲しかったならば——誰かに、何かを差し上げてみると良い。

 心があれば、そのものは姿を変え、巡り巡って、戻るかもしれない。

 では、まずは——

 タマキチは、梅が丘の夜空に向かって、ニヤリと笑った。

 「僕に……どーぞ!」

 (完)


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〜あとがき〜

 タマキチ神は今も、どこかの街を歩いている。

 カルマパッドには、今日も十数件の未処理案件が積み上がっている。

 渋谷のコンビニ。梅が丘の団地。池袋の雑踏。下北沢の古着屋。新宿の地下通路。東京という街は、運の歪みが生まれやすい場所だ。人が多すぎるから。孤独が多すぎるから。

 でも、だからこそ。

 誰かがみかんを一つ、差し出した瞬間に——街全体が少しだけ、柔らかくなる。

 この物語を読んでくださったあなたに、運が巡ってきますように。

 そして願わくば、あなたからも誰かへ。


死神さん、ちょいと商談しましょう

―― 江戸っ子死神と中山道と、ぱふのことなど ――




まえがき

人は時々、「もう会えない」と思った相手に、もう一度だけ会いたいと願う。

それが家族であれ、
友人であれ、
師匠であれ、
あるいは、一匹の犬であれ。

本作は、落語『死神』を下敷きにしながら、
「死」と「縁」と「旅」をめぐる物語として生まれた。

もし本当に死神がいたら。
もし本当に、“あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー”が効いてしまったら。
そしてその先に、死神にも事情があり、人情があり、役所じみた組織まで存在していたら——。

そんな与太話から、この物語は始まっている。

江戸落語の匂い。
中山道の静かな風景。
失われたものを追いかける旅。
そして、もう帰ってこないと思っていた存在の気配。

笑っていいのか、
泣いていいのか、
自分でも分からないまま書いた。

けれど人生というものは案外、
その「分からなさ」の中にこそ、
大事なものが隠れているのかもしれない。

秋の夜長に、
湯気の立つ茶でも飲みながら、
ゆっくり読んでいただければ幸いである。





第一章 朝から葬儀というのは、縁起が悪いにも程がある

 その朝、僕の携帯電話が鳴ったのは、まだ夢の続きを楽しんでいた午前七時の三十二分だった。
 「もしもし」と出ると、相手は開口一番こう言った。「来てくれ。師匠が死んだ」
 師匠というのは、落語家の山田圓生師匠のことだ。笑点の司会を二十年以上務め、国民的な人気を誇る大御所である。そしてその門下に僕が入っているかというと、まったく入っていない。完全なる他人だ。
 では何故僕が呼ばれたかというと、話は少々複雑になる。
 僕は昨年からとある落語研究家の助手をしており、その研究家というのが圓生師匠の幼馴染みで、その縁でちょくちょく師匠宅に出入りしていた。呼んできたのは三番弟子の圓太郎さんで、「研究家の先生も今朝は腰が痛いとかで動けないから、とにかく頼む」というわけだった。
 僕は寝ぼけ眼のまま着替え、電車に乗り、師匠の自宅へと向かった。道中、スマートフォンでニュースを確認すると、すでに報道が出ていた。「名人・山田圓生、逝去。享年七十八歳。」
 享年七十八歳。長生きといえば長生きだが、まだまだ現役で高座に上がっていた人だ。最後の独演会は先月のことで、チケットはとっくの昔に完売していた。
 師匠の自宅は、東京の西側、緑の多い閑静な住宅街にある大きな日本家屋だった。門をくぐると、すでに数人の弟子たちが庭先に立っていて、誰もが神妙な顔をしている。
 「来てくれたか」と圓太郎さんが出迎えた。目が赤い。「まあ、入ってくれ」
 通された座敷の奥に、白い布で覆われた棺桶があった。その周囲には線香の煙が漂い、弟子たちが各々の場所で静かに佇んでいる。数えると、一番弟子から六番弟子まで、総勢六人がいた。
 「あれ、二番弟子の圓次さんは?」と僕は小声で圓太郎さんに尋ねた。
 圓太郎さんは首を振った。「それが、連絡がつかんのだ。昨晩から」
 「昨晩から?」
 「師匠が倒れたのが昨夜の十一時でな。すぐに全員に連絡したんだが、圓次兄さんだけ、どこに電話しても出んのだ」
 二番弟子の立場で師匠の死に目に立ち会えないというのは、落語の世界ではどういう評価を受けるのだろうか。僕には分からないが、あまりいいことではなさそうだった。
 「何か手伝えることがあれば言ってください」と僕は言い、まずは仏前に手を合わせた。
 線香を切らさないように、と誰かに言われたので、時折その場を離れて線香に火をつけては、また戻るということを繰り返した。
 そして、それが三度目か四度目のことだった。
 棺桶が、揺れた。
 最初は気のせいかと思った。線香の煙のせいで目がかすんでいたのかもしれない。しかし次の瞬間、「ガタガタ」という明確な音がして、棺桶が再び揺れた。今度は疑いようがなかった。
 僕はぎょっとして、一歩引いた。
 それから、蓋が跳ね上がった。
 内側から。
 「な、なんだ!」と僕は叫びかけて、声を飲み込んだ。
 棺桶の中から、山田圓生師匠が上半身を起こしていた。白装束のまま、寝ぐせのついた頭で、目をぱちくりさせながら。
 「あれ、」と師匠は言った。「ここはどこだい?」

第二章 死んだ人間が起き上がるときの、正しい対応について

 落語の世界には「死神」という噺がある。
 貧乏で困り果てた男のところに死神がやってきて、「お前を医者にしてやる」と言う。方法は簡単で、病人の枕元に死神が立っていたら、その人間は助からない。足元に立っていたら、まだ助かる余地がある。そこで呪文を唱えて死神を追い払えば、病人は回復する、というわけだ。
 その呪文というのが、「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー」である。
 もちろん、これは噺の中の話だ。現実には死神などいないし、呪文で人が生き返るわけがない。
 ……そのはずだった。
 圓生師匠が棺桶から起き上がった瞬間、僕は全力で他の弟子たちを呼びに走った。
 「大変だ!師匠が!師匠が起きた!」
 座敷に飛び込んできた弟子たちが棺桶の前に並んだとき、師匠はすでに棺桶の縁に腰掛けて、首をかしげていた。
 「圓太郎かい、お前は」
 「し、師匠!」圓太郎さんが膝をついた。「師匠、ご無事で!」
 「ご無事も何も、わしは眠ってただけのような気がするが……」
 その後、師匠は弟子たちと短い会話を交わしたが、どうもぼんやりした様子だった。目の焦点が定まらず、言葉もどこか遠い場所から届いてくるような感じがした。
 そして五分も経たないうちに、師匠はふらりと倒れ込み、再び棺桶の中に横たわった。
 「師匠!」
 圓太郎さんが飛びつき、脈を確かめた。首を振る。
 「だめだ。また……」
 「心臓マッサージだ!」
 圓太郎さんが即座に胸骨圧迫を開始した。一番弟子の圓蔵さんが救急車を呼ぶために廊下に飛び出す。四番、五番、六番の弟子たちが圓太郎さんに加勢しようと棺桶の周りに群がった。
 僕はその光景を見ながら、ふと気づいた。
 部屋が暗くなっている。
 外はまだ朝の十時だ。曇ってもいなかった。なのに、座敷の光がみるみる落ちていく。
 そして僕は、師匠の枕元に、それを見た。
 黒い影。
 人の形をしているが、輪郭がはっきりしない。煙のように揺らめいているが、確かにそこにある。そして何より、見た瞬間に分かった。
 死神だ。
 なぜ分かるかというと、分かるのだ。説明できないが、人間には本能的に分かることというものがあって、「あ、これは普通ではないものだ」という確信が、理屈を介さずに湧き上がってくる。
 問題は、どうやら僕にしか見えていないらしいことだった。
 弟子たちは誰もその黒い影に気づいていない。圓太郎さんはひたすら胸骨圧迫を続けており、他の弟子たちも師匠の顔色を見るのに夢中だ。
 僕だけが、師匠の枕元に立つ死神の存在を認識していた。
 と、そこで頭の中に「死神」の噺がよみがえった。
 死神を追い払うには、呪文を唱えればいい。ただし、死神が枕元に立っていると手遅れで、足元に立っていなければならない。
 影を見ると、確かに枕元側にいる。
 「だとすれば……」と僕は考えた。
 棺桶を百八十度回せばいい。
 師匠の頭と足が入れ替われば、死神は枕元ではなく足元に立つことになる。そこで呪文を唱えれば……
 いや、待て。これは落語の噺の中の話だ。現実でそんなことが通用するわけがない。
 しかし師匠はさっき確かに起き上がったのだ。白装束のまま。棺桶の中から。
 「通用するかどうか試している場合ではない」と僕は思った。

第三章 棺桶を百八十度回転させるためのチームワーク

 「圓太郎さん」
 「今は忙しい!」
 「一秒だけ聞いてください」
 「……何だ」
 僕は圓太郎さんの耳に口を寄せ、できるだけ簡潔に状況を説明した。師匠の枕元に死神がいる。落語の死神の噺の通り、棺桶を百八十度回転させて呪文を唱えれば消えるかもしれない。試す価値がある。
 圓太郎さんは五秒間黙って僕を見た。
 「正気か」
 「見えてます、僕には。黒い影が」
 また五秒間。
 「……証明できるか」
 「できません。でも師匠はさっき起き上がりました」
 圓太郎さんはため息をついた。どうやら、「人が死んで棺桶から起き上がった」という前例が既に発生したことで、「死神に関する噺が現実になるかもしれない」という仮説が、急速に現実味を帯びはじめていたらしい。
 「分かった。兄弟子たちに伝えよう」
 圓太郎さんの伝達は速かった。耳打ちが弟子たちの間を伝わっていく。最初は怪訝な顔をした一番弟子の圓蔵さんも、「師匠が棺桶から起き上がったことを考えれば」という前提を受け入れると、「やってみよう」という結論に至るのにそれほど時間はかからなかった。
 「いいか、合図したら一斉に回す。棺桶ごと、ぐるりと百八十度だ。中の師匠は……まあ、ご容赦いただくしかない」
 弟子たちが棺桶の周りに位置についた。
 僕は影を見た。まだ枕元にいる。
 「さあ!」
 手をポン、と叩いた。
 六人の弟子たちが、一斉に棺桶を押した。
 棺桶はぎーっという音を立てながら、畳の上を滑り、百八十度回転した。中の師匠の頭と足が入れ替わった。
 死神の影は、今や師匠の足元側にいる。
 「今だ!」
 僕は呪文を唱えた。
 「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー!」
 声が座敷に響いた。弟子たちが息をのんだ。
 僕は手を二度叩いた。
 パン、パン。
 黒い影が、すーっと薄くなり、煙のように散って、消えた。
 一瞬の沈黙。
 それから、棺桶の中で、ごそごそという音がした。
 「うーん」という声。
 師匠がまた起き上がった。今度はしっかりと、目に光を取り戻して。
 「圓太郎かい」
 「師匠!」
 「腹が減った。何か食わせてくれ」
 弟子たちがわっと泣き崩れた。
 師匠は周りを見渡して、「なぜみんな泣いとるんだ」と首をかしげた。
 圓太郎さんが僕の方を振り向き、「あんた……本当に死神が見えたのか」と言った。
 「見えました」
 「呪文も……本当に効いたのか」
 「効いたようです」
 圓太郎さんはしばらく考えてから、「ありがとう」と深々と頭を下げた。「あんたがいなければ、師匠は」
 「いや、でも……」と僕は言いかけて、止まった。
 「でも、何だ?」
 「この後がちょっと問題なんです」

第四章 落語の噺のルールというのは、案外厳格なものらしい

 師匠が弟子たちに囲まれて食事をとり始めた騒動の最中、僕はそっと庭に出た。
 落語「死神」の噺には、続きがある。
 主人公の男は、呼ばれた先で死神が枕元に立っていても、棺桶を回転させる機転を使って患者を救い、名医として名声を得る。しかし、傲慢になった男はいつか禁を破り、自分の寿命のろうそくが消えかけているのを見てしまう。噺によっては、そこで終わり、噺によっては、男は消えかけたろうそくに火を移そうとして失敗し、ぷっと吹き消されてしまう。
 つまり、死神の邪魔をした人間には、相応の報いがある。
 「まあ、来るだろうな」と僕は庭石に腰を下ろして思った。「死神が黙ってるはずがない」
 縁側から見る庭は、手入れが行き届いていた。師匠が自ら植えたという梅の木が、まだ梅の実をつけている。のどかな光景だ。これが最後に見る景色になるかもしれない、と思うと、少々感慨深い。
 「おい」
 声がした。
 振り返ると、縁側の柱のそばに、それがいた。
 さっきの黒い影ではなく、今度は形がはっきりしていた。
 着物姿の男。四十代か五十代くらいに見えるが、年齢というものが当てはまらない存在だということは顔を見た瞬間に分かる。着ているのは黒い紋付きで、帯も黒、雪駄も黒。ただし顔は人間と変わらず、むしろひどく疲れた顔をしたサラリーマンのような印象だった。
 「あんたか」と死神は言った。「なんてことをしてくれたんだ」
 「やはり来ましたか」
 「当たり前だ!わしが何年かけてあの爺さんのところに辿り着いたと思ってる。順番があるんだよ、順番が。それをお前があんな呪文を……」
 「まあまあ」と僕は言った。「落ち着いてください」
 「落ち着けるかい!」
 「少し話を聞いてください。商談したい」
 「商談?」死神は訝しむように眉をひそめた。「お前、わしを何だと思ってる。商談だと?」
 「死神さんでしょう。落語の噺に出てくる、あの」
 「そうだよ!そのとおりだよ!そして今わしは、非常に怒っているんだ!」
 「それは分かります。申し訳ない」
 「申し訳ないで済む話じゃ……」
 「でも聞いてください」
 僕は石から立ち上がり、死神に向き合った。
 「僕は命を惜しんで師匠を助けたわけじゃない」
 「は?」
 「命を惜しんでいたら、あんな呪文を唱えません。僕は、落語の噺が本当かどうか、確かめたかっただけだ」
 死神が黙った。
 「それだけのことか?」
 「それだけです」
 「…………」
 「本当だったと分かった。それで結構」
 死神は長い間、僕を見た。その目には怒りの他に、何か別のものが混じっていた。困惑、とでも言うべきか。あるいは、予想外の事態に直面したときの、戸惑い。
 「お前さん、」と死神はついに口を開いた。「そんなことで命を張るな」
 「は?」
 「そんなことで!命を!張るな!」
 「でも僕は——」
 「わしはお前さんの先祖から頼まれてるんだ。お前さんにはまだまだやって貰わねばならんことが沢山あると」

第五章 先祖というのは、意外なところから口を挟んでくるものらしい

 「先祖?」
 「そうだ」
 「誰の?」
 「お前さんのだよ。他に誰がいる」
 「それはもしや……善次郎か?」
 死神が眉を動かした。「知ってるのか」
 「うちの先祖に、中山道を歩いて旅をした人間がいると聞いたことがある。善次郎という名前だったと」
 善次郎というのは、僕の曾祖父の曾祖父……だったか、もっと前だったか、正確なところは覚えていないが、江戸時代に中山道を歩いて京都まで旅をした人物だと、親から聞かされたことがあった。旅の記録を日記に書き残していて、その日記が今でも親族の手元にある、とも聞いた。
 「そうだ、善次郎だ」と死神は言った。「わしが初めて担当した人間でな」
 「初めて?」
 「死神にも新人の時代というものがある。研修期間というか……まあいい。とにかく善次郎はわしの初仕事の相手だった。そのとき色々あってな」
 「色々?」
 「色々あったんだよ!人の過去を根掘り葉掘り聞くな」
 死神は咳払いをした。
 「とにかく、善次郎は中山道をもっと歩いてみろと言っている。お前さんに伝えてくれと」
 「中山道を? 何が?」
 「それはわしには分からん。善次郎がそう言っている」
 「分からないんですか」
 「分からん。わしは伝書鳩じゃない。でも伝えると約束してしまったので、伝えている」
 死神は少々きまり悪そうに視線を逸らした。
 「それと……ぱふのことも頼まれている」
 その名前を聞いた瞬間、僕の胸が痛んだ。
 「ぱふ?」
 「そうだ。ぱふを預かっている。それはお前さんが分かった時に、戻すと」
 「ぱふは……」
 「犬だな。お前さんの犬だ。去年、わしが……まあ、そういうことだ」
 ぱふは、去年の秋に死んだ。十四年一緒に生きた犬だ。
 「ぱふを戻せるのか?」
 「戻す、と善次郎が言っている。ただし条件がある」
 「何だ」
 「中山道をもっと歩いてみること。そして——」
 死神は少し間を置いた。
 「お前さんが、本当にやるべきことを見つけること。その時に、ぱふは戻る」
 「本当にやるべきこと……」
 「わしに聞くな。善次郎の言葉だ」
 「善次郎はどこにいる? 会えるか?」
 「会えん。死者に会う方法はない。ただし——」
 また間。
 「中山道を歩いていると、色々なものが見えてくる。善次郎が歩いたのと同じ道をな」

第六章 死神の管理局というのは、思いのほか官僚的な組織であるらしい

 「一つ聞いていいか」と僕は言った。
 「何だ」
 「死神というのは、日本に何人いる?」
 死神は眉をひそめた。「何が聞きたい」
 「この国で毎日、大勢の人が死ぬ。それを全員、死神が一人でこなしているわけではないだろう」
 「当たり前だ。大勢いる」
 「組織か?」
 「……まあ、そうだな」
 「どんな組織だ」
 死神は少しの間、言うべきか言わぬべきか迷うように唇を動かしてから、「まあいいか」とつぶやいた。
 「正式名称は死者移送管理局だ」
 「役所みたいな名前だ」
 「役所みたいなものだ。総務、人事、現場と三部門あって、各地域に支局がある。わしは東京第四支局の現場担当だ」
 「ということは上司がいる?」
 「いる。うるさい上司が。今頃、わしに向けて怒りのメッセージを飛ばしているはずだ」
 死神は懐から小さな何かを取り出した。薄い板状のもので、表面が光っている。一瞬スマートフォンかと思ったが、どうも違う。
 「……おい。上司から来てる。『例の件はどうなっている、速やかに報告せよ』」
 「例の件というのは」
 「お前さんが師匠を助けた件だ。局内で大問題になっている」
 「そうか」
 「現場担当が人間に干渉を受けるなど前代未聞だと、大騒ぎだ。上の方では緊急会議が開かれているらしい」
 「申し訳ない」
 「申し訳ないで済めばいいが……」死神は板を懐に戻した。「まあ、お前さんの命はわしが保証する。先祖の約束もあるし、それに——」
 「それに?」
 「落語の噺の通りに呪文を唱えた人間というのは、お前さんが初めてじゃないんだが、」
 「初めてじゃないのか!」
 「ない。過去に三例ある。ただし全員、死神が見えておきながら、自分の命が惜しくて唱えなかったか、見えたふりをして実際は何もしなかったか、どちらかだ。本当に唱えたのはお前さんが初めてだ」
 「それは、どういう意味があるんだ」
 「さあ」と死神は言った。「わしには分からん。ただ善次郎が言うには、『そういうやつが出てきたときのために準備してある』とのことだ」
 「準備?」
 「詳しくは知らん。中山道を歩けば分かる、と言っていた」
 「善次郎は、中山道のどこを歩けばいいと言っていた?」
 「そこまでは言っていない。ただ、お前さんが以前歩いた続きを、と」
 僕は確かに、一昨年の秋に中山道の一部を歩いていた。長野の某所から始めて、何宿か歩いて引き返した、一泊二日の旅だった。その続き、ということは——
 「分かった。秋に歩く」
 「そうしろ」
 「でも一つだけ確認させてくれ。師匠の寿命は、どうなる? また死神が来るのか?」
 死神は「ふん」と鼻を鳴らした。
 「師匠の担当は今日でわしの手を離れた。あとは別の担当が引き継ぐ。いつかは分からんが、そのときが来たら来る。それはお前さんにも、わしにも変えられん」
 「そうか」
 「ただまあ……」死神は言いにくそうに続けた。「わしが今日やり損なったせいで、師匠の担当は別の者に回ったわけだが、そいつが来るのはまだしばらく先になる、という話は聞いている」
 「それはつまり」
 「師匠は、もうしばらく生きる、ということだ。お前さんのおかげで」

第七章 東京第四支局の死神が抱える、個人的な悩みについて

 「一つだけ、聞いていいか」
 「今度は何だ」
 「あんたは、この仕事が好きか?」
 死神は黙った。かなり長い間、黙った。
 「……変なことを聞くな」
 「いや、気になって」
 「死神が仕事を好きかどうかが、お前さんに何の関係がある」
 「ない。ただの興味だ」
 また沈黙。
 「……好きではない」と死神は言った。「好んでやっている仕事ではない」
 「そうか」
 「お前さんはどうだ。自分の仕事が好きか?」
 「今は少し……分からなくなっている」
 「そうか」
 二人して庭を見た。梅の木が風に揺れている。
 「善次郎はな」と死神は言った。「初仕事のとき、わしに一晩中、中山道の話をしてくれた。お前さんの先祖のことだから、いい気分でいられるかどうか分からんが、あれは良い時間だった」
 「死神も良い時間というものがあるのか」
 「当たり前だろう。わしも感情というものがある」
 「そうか。知らなかった」
 「知らなくて当然だ。教えていないのだから。ただ、善次郎はそれを知っていた。死神を相手に、旅の話をして聞かせた。そういう人間はなかなかいない」
 「それでうちの先祖の頼みを聞いてやることにしたのか」
 「まあ……そういうことだ」
 死神はまた懐の板を取り出した。画面を見て、「そろそろ行かなければならない。仕事が溜まっている」と言った。
 「そうか。お疲れ様」
 「……なぜお前さんはそんなことを言う」
 「大変な仕事だろうと思って」
 「まあ……そうだな。大変と言えば、大変だ」
 死神は立ち上がり、黒い着物の裾を直した。
 「秋に中山道を歩け。そうすれば分かることがある」
 「分かった」
 「それと」
 「何だ」
 「師匠の二番弟子が行方不明になっているそうだが」
 「圓次さんか?」
 「そいつは今、中山道にいる。木曽の某所だ。師匠が倒れる前日に、突然出かけた。本人も理由が分からないようだが、何かに引き寄せられるようにして、歩いている」
 「なぜそれを……」
 「担当が連絡してきた。なんか変な人間がいると言ってな。まあ、取り越し苦労だったようだが」
 「圓次さんは大丈夫なのか」
 「死なん。しばらくしたら帰ってくる」
 それだけ言うと、死神は庭の方に歩き出した。
 そして梅の木の陰で、すーっと消えた。
 後には、どこか遠くで鳴いている鳥の声と、縁側から聞こえる師匠と弟子たちの賑やかな声だけが残った。

第八章 死者移送管理局、臨時緊急会議の議事録(非公開)

 死者移送管理局 東京本局 第三会議室
 臨時緊急会議 議事録
 出席者:局長、副局長、総務部長、人事部長、東京第一〜第五支局長
 議題:現場担当・俗称「甚七(じんしち)」による処理案件不調、および人間による業務妨害に関する件

 局長:ということで、今回の件についてご報告を。まず事実関係の確認から。

 総務部長:はい。昨朝、東京担当・甚七が長年追跡していた山田圓生案件について、処理直前に人間の干渉を受け、案件が流れた件でございます。干渉の手段は、旧来の民間伝承に基づく呪文の使用でありまして、具体的には「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー」というものでございます。

 副局長:……本当にそれで効いたのか?

 総務部長:効きました。

 副局長:なぜ効く。

 総務部長:それが……我々も把握しきれていない部分がございまして。人間社会に伝わる各種の死神に関する伝承のうち、一部には実際に効力を持つものが混在しております。理論的な根拠は解明されておらず、経験則として現場担当に注意喚起を行ってはきたのですが、今回のように実際に使用されるケースは過去三例のみで、しかも三例とも不完全な形での試みに終わっていたため、十分な対策が講じられていなかったと言わざるを得ません。

 局長:甚七は今どこにいる。

 人事部長:通常業務に戻っております。連絡に応じていますが、今回の件については「先祖の約束があった、処理後に対象案件を引き継ぐ手配はした、問題ない」と報告してきております。

 副局長:問題ない、ではない。前代未聞の事態だ。

 東京第一支局長:しかし甚七の言うことにも一理あります。山田圓生案件は処理できなかったが、適切な担当に引き継がれ、スケジュールの調整は完了しています。今すぐ損害が出るわけではない。

 局長:問題は今後のことだ。今回の人間——干渉を行った人物——の扱いをどうする。

 総務部長:甚七によれば、その人物の先祖が長年にわたって甚七と関係を持っており、一種の「義理」が生じているとのことです。

 副局長:義理? 我々に義理などというものが……

 局長:甚七の判断を尊重する。あいつはうるさいが、仕事は正確だ。その人間の件は、甚七に一任する。他に議題はあるか。

 人事部長:一点だけ。今回の件を機に、民間伝承由来の干渉手段に対する現場マニュアルの改訂を提案したいと考えております。「あじゃらかもくれん」については特に、使用可能な状況条件を明確にし、対策措置を……

 局長:却下する。

 人事部長:は?

 局長:あれが効くのは、本当に死神を見ていて、かつ自分の命を惜しまずに唱えた場合だけだ。そういう人間が現れたなら、それはそれで意味がある。マニュアルで塞ぐことではない。

 (沈黙)

 局長:以上、閉会。

第九章 二番弟子、木曽にて

 圓次が中山道を歩き始めたのは、師匠が倒れる前日のことだった。
 理由は自分でも分からなかった。その日の朝、目が覚めたら、なぜか無性に歩きたくなっていた。高座の仕事は二日後まで入っていない。何かに呼ばれているような感覚があった。
 新宿から特急に乗り、木曽福島で降りた。
 なぜ木曽なのかも分からなかった。ただ「木曽」という二文字が頭に浮かんで、消えなかった。
 中山道の、奈良井宿から木曽路へと続く道を、圓次は一人で歩いた。秋にはまだ早いが、山の空気は澄んでいて、歩いていると頭が静かになった。
 師匠のことを考えた。ここ数年、師匠との関係がうまくいっていなかった。理由はいくつかある。落語の方向性の違い、先輩弟子たちとの軋轢、それから……師匠の口から出た一言が、ずっと胸に刺さっていた。
 「お前の落語は、どこか他人事だ」
 三年前のことだ。稽古の後で、師匠が静かな声で言った。「お前は上手い。でも上手いだけだ。聴いている人間の心に刺さらない。なぜか分かるか? お前が、自分の落語に真剣じゃないからだ」
 あれ以来、師匠の顔を正面から見られなくなった。
 そういうことを考えながら歩いていると、奇妙なことが起きた。
 道の端に、老人が座っていた。
 旅装束のような格好で、薄汚れた道中合羽を着ている。顔を見ると、やたらと目が明るかった。
 「兄ちゃん、どこへ行く」と老人は言った。
 「ちょっと歩いてます」
 「一人か?」
 「一人です」
 「そうか。いい歳になっても一人で歩くのは、なかなか良いものだ」
 圓次は礼儀として、老人の隣に腰を下ろした。
 「おじいさんは?」
 「わしか。わしもちょっと歩いている」
 「この辺に住んでいる方ですか」
 「まあ、そんなようなものだ」
 老人は山の方を見た。「落語をやっているのか?」
 圓次はぎょっとした。「なぜ分かるんですか」
 「顔を見れば分かる。面白い顔をしとる」
 「はあ……」
 「師匠はいるか?」
 「……います。大変な師匠で」
 「そうか。師匠というのは皆、大変なものだ。大変でない師匠は、師匠じゃない」
 老人はゆっくりと立ち上がった。
 「帰れ。師匠が呼んでいる」
 「え?」
 「早く帰れ。生きている間に、言わなきゃならないことというのがある」
 圓次が答えようとしたとき、携帯電話が鳴った。見ると圓太郎からだった。
 「もしもし」
 「圓次兄さん! 師匠が……師匠が生き返った! というか、いったん死んで、また……とにかく来てくれ!」
 電話を切って振り返ると、老人の姿はなかった。
 道の端に、古びた文庫本が一冊落ちていた。拾い上げると、表紙に「中山道道中記 善次郎」と書いてあった。

終章 この秋は、山ではなく中山道へ

 圓生師匠は、その後、奇跡的な回復を遂げた。
 医師たちは首をひねった。昨晩確認された死亡が、今朝になって覆るということは、医学的にあり得ないはずだった。しかしあり得ない事実は目の前にある。師匠は食欲旺盛で、弟子たちに囲まれて昔話に花を咲かせ、翌日には病院に連れていかれたが、検査結果はいずれも「年齢の割に健康」という評価だった。
 二番弟子の圓次は、その日の夜に師匠宅に現れた。師匠の顔を見た瞬間、土下座して「申し訳ありませんでした」と言った。師匠は「何が申し訳ないんだ、ちょうどよかった、話がある」と言い、弟子と二人で長い時間を過ごした。
 その後圓次がどんな落語をするようになったかは、また別の話だ。

 僕は秋になって、中山道を歩いた。
 前回歩いた続きから始めて、三日かけて次の宿場まで歩いた。一人で歩いたが、途中から、なんとなく一緒に歩いている気配がした。
 ぱふの気配だ。
 足元を歩く小さな存在。振り返ると何もないが、また歩き出すと、ついてくる。
 「居るのか?」と一度だけ声に出して聞いた。
 返事はなかった。でも歩みは止まらなかった。
 二日目の夕暮れ、峠を越えたところで、古い茶店の跡を見つけた。今は廃屋だが、石垣だけが残っている。その石垣の前で立ち止まると、なぜか「ここだ」という感覚があった。
 何がここなのかは分からない。しかしとにかく立ち止まって、山の夕焼けを見た。
 その時、分かった。
 何が分かったかを文章で書くのは難しい。ただ、今までずっと、喉の奥に詰まっていたものが、すとんと落ちた感覚があった。ぱふが死んで、何もできなかったこと。仕事の方向性を見失っていたこと。自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていたこと。
 そういうもろもろが、夕日の中で、少し解けた。
 その夜、宿でうとうとしていると、枕元に温かいものが丸まった。
 目を開けると、何もいなかった。
 でも温かさは残っていた。

 翌朝、目覚めたとき、スマートフォンに着信があった。知らない番号だった。出ると、しゃがれた声の男だった。
 「おい」
 「……甚七さんか?」
 「そうだ。携帯電話の番号というのは、どこで手に入れるんだ。便利なものだな」
 「死神も携帯を使うのか」
 「同僚に聞いた。上司には内緒だ。……どうだ、中山道は」
 「歩いた。分かったような気がする」
 「そうか」
 「ぱふは?」
 短い沈黙。
 「今夜、帰る」
 「本当か」
 「嘘は言わん。帰り道を教えてやった。あとはそいつ次第だ」
 電話が切れた。

 その夜、家に帰ると、玄関の前に犬がいた。
 真っ白い犬。ぱふにそっくりだが、ぱふより少し毛並みがいい。歳の取り方も少し若い。
 「ぱふか?」
 犬は何も言わなかった。当たり前だ。犬は喋らない。
 ただ、玄関に入ると、ついてきた。
 台所に行くとついてきた。
 布団を敷くと、その上に乗ってきた。
 僕は笑った。久しぶりに、本当に笑った。

 死神の噺には、色々な結末がある。
 ろうそくが消えて終わるものもあれば、机の上に引き倒されて終わるものもある。
 でも本当の結末というのは、噺家それぞれが決めるものだと、師匠は言っていた。
 「落語というのはな、型じゃない。型の中に、自分を見つけることだ」
 この秋の中山道が、僕にとっての結末だったのか、それとも始まりだったのか、それはまだ分からない。
 ただ、玄関の前に犬がいたこと。
 それだけは本当だ。

 死神さん、ありがとう。
 善次郎も、ありがとう。

           ―― 了 ――


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あとがき(これは嘘のあとがきである)

 本書は夢を元に書かれた。
 夢の中に、死神が出てきた。落語の「死神」の噺に出てくるような死神だったが、口調は江戸っ子で、態度は横柄で、しかしどこか人情があった。
 「死者移送管理局」という組織は、実在しない(多分)。「甚七」という名前の死神も、実在しない(多分)。ただし中山道は実在するし、宿場も実在する。善次郎という先祖については、確認できていない。
 ぱふについては、実在した。
 「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー」という呪文は、落語「死神」に登場する本物の呪文である。実際に効くかどうかは、試した方のみぞ知る。
 本書の出版に際し、死神甚七氏には無断で実名(仮名)を使用した。苦情は受け付けていない。というより、受け付ける窓口がない。
 中山道は、良い道だ。
 秋に歩くといい。


色紙一枚、されど色紙
〜噺家たちの浮き沈み顛末記〜



〜まえがき〜

 人は、何にお金を払うのだろう。

 笑うためか。
 暇つぶしのためか。
 それとも、誰かの「これから」を見届けるためか。

 落語には不思議なところがあります。

 完成された名人芸を観る楽しさもあれば、
 まだ荒削りな若手が、高座の上でもがきながら少しずつ変わっていく姿を追いかける楽しさもある。

 そして時々、客の側もまた、気づかぬうちに人生を変えられている。

 本作の主人公・桑原誠一郎は、どこにでもいる定年後の男です。
 退職し、時間だけはたっぷりある。
 特別な才能もなければ、大きな夢もない。
 ただ、落語が好きだった。

 だから寄席へ行く。
 若手の会へ行く。
 色紙を差し出す。

 たったそれだけの話です。

 けれど「たったそれだけ」が、誰かを支え、誰かに覚えられ、長い時間をかけて小さな物語になっていく。

 華やかな成功譚ではありません。
 大逆転もありません。
 あるのは、高座と客席の間を静かに流れていく時間だけです。

 この物語を読み終えたあと、
 寄席の灯りや、終演後のざわめきや、楽屋口で交わされる短い会話が、少しだけ愛おしく見えていただけたなら幸いです。




プロローグ

 世の中には、じっとりと落語が好きな人間というのが一定数いる。
 雨の降る夜でも傘を差して寄席へ行き、噺が終われば柏手を打ち、帰りの電車でひとり余韻に浸る。そういう人種だ。
 本書の語り手、桑原誠一郎(くわはら・せいいちろう)、六十二歳もその一人である。
 元・地方公務員。現・完全無職。退職金は定期預金にそのまま眠り、毎月の年金と、妻・房江が細々と続けるカルトナージュ教室の収入で暮らしている。子供はなく、犬が一匹いたが昨年死んだ。名前はポン太。享年十四歳。
 誠一郎の趣味は落語鑑賞と、差し入れと、観察である。
 この三つが合わさると、なかなかに厄介な老人が完成する。
 若手の会があると聞けばどこへでも足を運び、終演後には楽屋へ顔を出す。気に入った噺家には声をかけ、三度目には色紙を差し出す。そして、その反応を——じっくりと、まるで鷹が野ねずみを観察するように——じっと見る。
 誠一郎はこの行為を「人物鑑定」と呼んでいた。
 だが周囲には、単なる暇なおじさんの道楽にしか見えていなかった。
 これは、そんな男と、彼が見守る若手噺家たちの、ちょっぴり滑稽で、少しだけ哀しく、時々うるっとくる物語である。


第一章 贔屓筋というものの正体

 誠一郎が初めて若手の会に足を踏み入れたのは、定年退職の翌月のことだった。
 それまでは有名どころの落語家の独演会か、国立演芸場の定席くらいしか行ったことがなかった。若手、という言葉には、どこか不安定なにおいがした。チケットが千五百円という安さも、逆に不信感を煽った。安いものは安い理由がある、と誠一郎は長年の公務員生活で学んでいた。
 しかし定年後の最初の一週間で、誠一郎は一つの真理に気づいた。
 時間が、ありすぎる。
 朝六時に目が覚める。妻の房江はすでに起きていて、カルトナージュ用の布地を眺めながら緑茶を飲んでいる。「今日も何か予定あるの?」と聞かれる。「ない」と答える。「そう」と言われる。それだけだ。
 誠一郎はその日の午後、吉祥寺の小さなライブハウスを改装した寄席へ、生まれて初めて若手の会のチケットを買った。
 出演者は三人。前座が一人、二ツ目が二人。客は七人。
 誠一郎を含めて七人である。
 前座の噺は「道灌」。緊張のせいか声が上ずっていたが、誠一郎はかえって親近感を覚えた。自分も三十年前、初めての窓口業務で声が上ずった。人間、緊張するのは当然だ。
 二ツ目の一人目は「時そば」。手慣れてはいたが、どこか計算が透けて見えた。笑いを取る場所が決まっていて、決まった場所で決まった笑いしか取れない。誠一郎はそれを見て、「こいつは伸びんな」と思った。根拠はなかった。ただの直感だった。
 二ツ目の二人目は「青菜」。名前は桂三太朗(かつら・さんたろう)といった。
 三太朗が高座に上がった瞬間、誠一郎は背筋を正した。
 何かが違った。
 うまいとか下手とかではない。何か、磁場のようなものがあった。客席に向かって頭を下げたときの角度、扇子を開く所作、最初の一声。全部が、自然だった。計算ではなく、自然。
 「青菜」は夏の噺だ。主人が植木屋に「鸚鵡が来たら鸚鵡が来たと言え」と言い残し、外出する。帰ってきた友人に「奥方は?」と聞かれた植木屋の女房が、「鸚鵡が来た」と言うべきところを忘れて「菜をおあがり」と言ってしまう、という滑稽話。
 三太朗の語る「青菜」は、夏の暑さがそこにあった。扇風機の音が聞こえるようだった。七人の客が、一斉に笑った。
 誠一郎はその夜、帰宅して房江に言った。
 「すごい若手を見つけた」
 「あら、女の子?」
 「違う。落語家だ」
 「あなたが落語家を見つけても、どうするの」
 確かにその通りだった。しかし誠一郎には、何かを言わずにはいられなかった。
 翌日、誠一郎はそのライブハウスの掲示板に次の若手の会の告知を見つけた。三太朗の名前はなかった。だが誠一郎は、それでもチケットを買った。
 こうして誠一郎の「若手観察日誌」が始まった。

 一方、三太朗の方はといえば、誠一郎のことなど全く覚えていなかった。
 当然である。あの夜の客は七人で、みなほぼ見知らぬ顔だった。三太朗が覚えているのは、前から二列目で一番大きな声で笑ってくれた、ちょっと恰幅のいい老人くらいのものだった。
 それが誠一郎だったと三太朗が気づくのは、ずっとずっと後のことになる。


第二章 色紙を断る男

 桂三太朗のほかにも、誠一郎が注目する若手は何人かいた。
 春風亭こはる(しゅんぷうてい・こはる)、女性の二ツ目。「死神」を演じさせると今の若手では最右翼と誠一郎は思っていた。しかし普段はなぜか「猫の皿」ばかりやっていた。得意なものをなぜやらないのか、誠一郎には理解できなかった。
 立川談一郎(たてかわ・だんいちろう)、男性の二ツ目。声がいい。顔もいい。だが何かが足りない。誠一郎は考えた末、「欲がない」という結論に達した。売れたいという気持ちが、声にも顔にも滲んでいない。それは一見謙虚に見えるが、実は最大の怠惰だと誠一郎は思った。
 そして——春風亭弁慶(しゅんぷうてい・べんけい)。
 弁慶は誠一郎が「最初から嫌いだった」唯一の若手だった。
 芸はまあまあだった。しかし態度が鼻についた。終演後に客席をちらりと見る目つきが、どこか値踏みするようだった。「今日の客、どのくらいお金持ってそうか」という目だ。誠一郎はその目を何度か見たことがある。銀行の窓口でよく見た目だった。
 それでも誠一郎は公平であろうとした。
 三度、弁慶の会に行った。三度目に色紙を持参した。
 「よかったよ、今日は」と楽屋口で声をかけた。
 弁慶は振り向いた。誠一郎を見た。一瞬、何かを計算する目になった。
 「ありがとうございます」
 「色紙、一枚書いてくれないか」と誠一郎は差し出した。
 弁慶の表情が、かすかに変わった。
 「……今日はちょっと」
 「そうか、忙しいか」
 「次の会があって、急ぎで準備が」
 「なるほど、わかった」
 誠一郎は色紙をかばんに戻した。弁慶はすでに視線を外していた。
 翌日、誠一郎は手帳の弁慶の名前に小さな「×」を書いた。
 その年の暮れ、弁慶は「芸風が合わない」という理由で師匠のもとを去り、廃業した。享年二十七。噺家としての寿命だった。
 誠一郎は特に驚かなかった。
 「まあ、そうなるな」とだけ思った。

 もう一人、色紙を断った男がいた。
 前座の田中喬太(たなか・きょうた)。
 喬太は断り方が弁慶と違った。弁慶は「忙しい」と言った。喬太は何も言わなかった。
 差し出した色紙を、喬太はじっと見た。次に誠一郎の顔を見た。そして、静かに言った。
 「すみません、僕、まだそんな価値ないんで」
 誠一郎は少し面食らった。
 「いや、そんなことはない。今日はよかったよ」
 「もったいないですよ。もっとうまくなってからにしてください」
 誠一郎は首をかしげながら色紙をしまった。
 帰り道、誠一郎はその言葉をずっと反芻した。謙遜なのか、本気なのか。照れなのか、哲学なのか。
 翌年、喬太は二ツ目昇進試験に三度落ちた。
 そしてある朝、師匠に「もう少し時間をください」と言い残し、行方をくらました。
 いまも、どこかにいるのだろう。
 誠一郎はたまに思い出す。あの「まだそんな価値ないんで」という言葉を。
 色紙を断ったことそのものより、あの真顔が引っかかっていた。価値がないと本当に思っていたのか、それとも——誰かに、そう言われ続けてきたのか。
 それだけは、今でもわからなかった。


第三章 筆ペンと千社札の美学

 色紙を受け取る者たちの反応は、千差万別だった。
 その多様性こそが、誠一郎の観察に深みを与えていた。
 最も多いのは「サラサラっとその場で書く」派だ。
 楽屋口で差し出すと、受け取り、持っていたボールペンでさらさらと書く。「○○ 三太朗」。所要時間、十五秒。ありがとうございます、と言って渡す。終わり。
 誠一郎はこれを「即興派」と名付けた。悪くはない。むしろ気さくで親しみやすい。しかし少しだけ、もったいない気がした。
 次に多いのが「少しお待ちくださいと引っ込む」派だ。
 春風亭こはるがこれだった。
 「少々お待ちいただけますか」と言い、色紙を持って楽屋の奥へ消える。五分後に戻ってくる。
 戻ってきたこはるの手には、筆ペンで丁寧に書かれた色紙があった。文字が美しかった。「春風亭こはる」という名前の後に、小さく「感謝」という二文字が添えてあった。
 誠一郎は思わず「字、うまいな」と言った。
 「稽古してます。文字も芸のうちだと師匠に言われてて」とこはるは答えた。
 誠一郎は手帳に「こはる——見込みあり」と書いた。
 そして——伝説の「千社札」派がいた。
 立川小三馬(たてかわ・こさんば)、前座三年目。
 小三馬は色紙を受け取ると、「少々お時間よろしいですか」と言い、やはり楽屋へ引っ込んだ。
 十分が経った。
 十五分が経った。
 誠一郎はそろそろ帰ろうかと思い始めた頃、小三馬が戻ってきた。
 色紙を見て、誠一郎は目を丸くした。
 筆ペンで書かれた「立川小三馬」の文字は、まるで手本のように整っていた。その下に、小さな朱色の落款。さらに——色紙の四隅に、小三馬の名前の入った千社札が一枚ずつ貼られていた。
 「これ……自分で作ったのか」
 「はい。半年前から準備してたんです。いつかこういう機会があると思って」
 誠一郎はしばらく色紙を眺めた。
 「楽屋に筆と朱肉を常備してるのか」
 「はい。毎回」
 「重くないか?」
 「それなりに」とだけ小三馬は言い、少し照れくさそうに笑った。
 誠一郎はその夜、帰宅してから房江に言った。
 「今日、千社札付きの色紙をもらった」
 「それは大げさな」と房江は言った。
 「いや、大げさなんじゃない。用意してたんだよ、ずっと」
 「用意って、誰があなたに色紙もらいに来るとわかって?」
 誠一郎は黙った。
 確かに、誠一郎のことを知って準備したわけではない。ただ「いつか誰かに頼まれる日のために」と準備していたのだ。
 それは、役者と客の関係ではなく、職人と仕事の関係に近かった。
 小三馬はその後、真打昇進まで最速記録を塗り替えた。誰もが「なぜあいつが」と言った。しかし誠一郎は知っていた。
 準備をしていた男が、準備の報いを受けただけだ、と。


第四章 楽屋の踊り場にて

 誠一郎が贔屓にする会のひとつに、中野の小さなホールで月に一度開かれる「二ツ目勉強会」があった。
 主催は桂三太朗。出演者は毎回四人から五人。チケットは前売り千八百円、当日二千円。
 誠一郎は毎月皆勤賞だった。
 この会で誠一郎は一人の女性と知り合った。
 仁科律子(にしな・りつこ)、四十代後半。職業は編集者。出版社に勤めているが、いまどき珍しく「紙の本に命を懸けている」と自称していた。
 最初に話しかけてきたのは律子の方だった。
 「いつも来てらっしゃいますよね。三太朗さんのファン?」
 「ファンというか、見守ってるというか」
 「見守る? 親戚の方?」
 「いや、赤の他人です」
 律子は不思議そうな顔をした。
 「赤の他人が見守る?」
 「贔屓筋というやつです」と誠一郎は言った。
 律子はしばらく考えてから、「それって要は、おじさんが若い子を観察してるってことですよね」と言った。
 誠一郎は「言い方が悪い」と思ったが、否定もできなかった。
 律子もまた、三太朗に目をつけていた。ただし目的が違った。
 「本を出させたいんですよ。噺家のエッセイって売れるんです。でもご本人がなかなか乗り気にならなくて」
 「三太朗は本を出したくないのか?」
 「出したい気持ちはあるらしいんですが、書く時間がないとか、文章が苦手とか、言い訳ばかりで」
 「忙しいんだろう」
 「忙しくなってから言うなら格好いいんですが、まだそんなに売れてない段階で忙しいって……」
 律子は肩をすくめた。
 誠一郎は苦笑した。確かに三太朗は、芸に関しては真剣だが、芸以外のことになると途端に及び腰になる傾向があった。
 二人はその後、終演のたびに雑談を交わすようになった。
 律子の観察眼は鋭かった。誠一郎が「伸びる」と思った若手を律子も目をつけていることが多く、逆もまた然りだった。
 ある夜、律子がぽつりと言った。
 「私たち、何やってるんですかね。こうして毎月来て、ああだこうだ言って」
 「楽しいじゃないですか」
 「楽しいですね。でも、噺家さんたちにとっては、私たちって邪魔じゃないですかね」
 誠一郎は首を振った。
 「邪魔かどうかは本人が決める。でも少なくとも、空席より埋まってる席の方がいい」
 律子は笑った。
 「それは確かに」
 誠一郎は帰り道、律子の言葉をずっと考えた。邪魔かどうか。贔屓筋というのは何なのか。
 結論は出なかった。しかし翌月も、誠一郎は中野のホールへ向かった。
 多分、答えなんてないのだ。行くから行く。見たいから見る。それだけでいい。
 誠一郎はそういう人間だった。


第五章 試されていると知らずに

 誠一郎には一つの悪癖があった。
 本人は「悪癖」とは思っていなかったが、客観的に見れば確かに悪癖だった。
 それは「わざと忙しそうな時に声をかける」という行動だった。
 終演直後、出演者が客席に出てきてサインや挨拶に応じる時間、多くの若手は複数の客の対応に追われる。その瞬間を狙って、誠一郎は声をかける。
 目的は単純だ。「余裕がない時の対応が、その人の本当の姿だ」という信念に基づいている。
 これを誠一郎は「ストレステスト」と呼んでいた。
 誰にも言ったことはなかったが。

 ある夜、三太朗の会の終演後。三太朗はすでに五人の客に囲まれていた。
 誠一郎はその輪の外側からじりじりと近づき、三太朗の視野の端に入ったところで声をかけた。
 「今日もよかった。特に『子別れ』がな」
 三太朗は囲まれながら、誠一郎の方へわずかに顔を向けた。
 「桑原さん! 今日もありがとうございます。少しだけお待ちいただけますか」
 そう言いながら、三太朗は手元のお客への対応を丁寧に続けた。サインを書き、写真を撮り、一人ひとりに言葉をかける。一切、手を抜かない。
 五分後、三太朗は誠一郎の前に来た。
 「お待たせしました。桑原さん、『子別れ』の上の部分、まだ迷ってるんですよ。今日はどこが気になりましたか?」
 誠一郎はこの瞬間が好きだった。
 三太朗は待たせた詫びより先に、芸の話をした。それが誠一郎への最大の敬意だった。「あなたはただの客じゃない、わかる人だ」という意味だった。
 「熊五郎が泣く場面。少し急ぎすぎだった」
 「やっぱりそこですか」と三太朗は言い、小さな手帳を取り出してメモした。
 誠一郎は心の中でそっと思った。合格、と。

 一方、不合格になった者もいた。
 立川談一郎は誠一郎のストレステストに、見事なまでに引っかかった。
 終演後、誠一郎が声をかけると、談一郎は別の客と話している最中に「ああ、はい」とだけ言い、視線を戻した。
 誠一郎は待った。
 三分後、談一郎はその客との話を終えたが、誠一郎の方を向かなかった。別の方向へ歩いて行った。
 忘れたのかもしれない。あるいは気づかなかったのかもしれない。
 しかし誠一郎には、それは言い訳にならなかった。
 「ああ、はい」と言ったなら、その言葉には責任が生じる。責任を果たさないなら、言葉を発するべきではない。
 誠一郎は帰り道、手帳を取り出した。
 談一郎の名前の横に、細い字で「惜しい」と書いた。
 「×」ではなく「惜しい」。それが談一郎への評価だった。
 芸はある。声もいい。ただ、人への意識が薄い。
 意識は習慣で変えられる。だから「×」ではない。だがこのままでは、惜しいで終わる。
 誠一郎の予言は、半分当たった。
 談一郎はその後、地方の演芸番組にレギュラーで呼ばれ、そこそこの知名度を得た。東京では売れなかったが、地方では顔が知られた。
 誠一郎はそれを聞いて、「惜しいはやっぱり惜しかった」と思った。


第六章 千人の噺家、足りぬ寄席

 誠一郎はある夜、律子と二人で終演後の居酒屋で向き合い、一つの数字の話をした。
 「落語家って今、千人近くいるんですってね」と律子が言った。
 「そうらしい」
 「で、常設の寄席って東京に何軒?」
 「定席は四軒だな。鈴本、浅草、新宿、池袋」
 律子は割り算をした。
 「全員が毎日出られるわけないですよね」
 「当然」
 「つまり、ほとんどの噺家はほとんど寄席に出られない」
 「そういうことだ」
 律子はビールを一口飲んだ。
 「過酷ですね」
 誠一郎もビールを飲んだ。
 「だから自分で会を作る。自分でチラシを刷って、自分でSNSで告知して、自分でチケットを売って、自分で演る」
 「三太朗さんもそうですもんね」
 「あいつはまだいい。毎回百人は入る。百人×千八百円で、十八万。会場費と諸経費で半分飛んで、残り九万。それを出演者で割る」
 「一人いくら?」
 「三太朗がやや多め取るとして、他は一万から一万五千、といったところか」
 律子は絶句した。
 「月一回の会で、一万五千円……」
 「もちろんそれだけじゃない。他の会にも出る。冠婚葬祭や企業の宴会にも呼ばれる。それでも、だいたい月に二十万いけば御の字な二ツ目が大半だ」
 「東京で二十万……」
 「しかも不安定だ。病気になったら収入ゼロ。コロナみたいなことが起きたら、会が全部つぶれる。現にそういう経験をした」
 律子はしばらく黙っていた。
 「それでもやる人が千人いるんですね」
 「それでもやる人が千人いる」
 誠一郎はそこが好きだった。この世界の、理屈の通らない部分が。
 合理的に考えれば、誰も噺家になんかならない。なってはいけない。リスクが高すぎる。リターンが小さすぎる。
 それでも千人いる。
 なぜか。
 好きだから、だ。
 誠一郎は退職金を定期預金に入れたまま触っていないが、もしも三十歳に戻れたら、と思うことがある。もしも三十歳に戻れたら、自分は何をするか。
 公務員にはならない、と断言できる。
 しかし噺家になれるかというと、それもわからない。
 ただ少なくとも、あの若手たちの、高座に上がる前の緊張した顔と、上がった後の晴れ晴れした顔を、もっと近くで見たかった、と思う。
 誠一郎は二杯目のビールを頼んだ。
 「律子さんは、三太朗の本、まだ諦めてないんですか」
 「諦めてませんよ。しぶとく口説き続けます」
 「それはそれで、大事な贔屓筋だと思うよ」
 律子は笑った。
 「あなたと私、同じですね。やることが違うだけで」
 誠一郎もつられて笑った。
 確かに、そうかもしれない。

第七章 残る者、去る者、しがみ付く者

 誠一郎が若手の会に通い始めて、三年が経った。
 三年でずいぶんと顔触れが変わった。
 廃業した者——弁慶、喬太を含めて七人。
 転向した者(芸能事務所に入りタレント活動へ)——二人。
 結婚し、子供が生まれ、副業で塾講師を始めた者——一人(談一郎の同期)。
 そして残った者たち。
 三太朗はいた。こはるもいた。小三馬もいた。
 三年で彼らは確実に変わっていた。
 三太朗の「子別れ」は、あの夜より深くなっていた。誠一郎が「急ぎすぎだ」と言った熊五郎の泣く場面は、今や三太朗の十八番になっていた。
 こはるの「死神」は、満を持して発表された。初演のチケットは即日完売。誠一郎はかろうじて一枚確保した。
 小三馬は相変わらず、毎回千社札付きの色紙を用意していた。もはや「小三馬の色紙には千社札がある」という噂が贔屓筋の間で広まり、それが一つのブランドになっていた。
 一方、「しがみ付く者」の話も聞いた。
 名前は出さないが、誠一郎が一度だけ会に行き、二度と行かなかった若手が何人かいる。
 芸がないわけではない。しかしどこか、方向を見失っているような印象があった。寄席でもなく、自前の会でもなく、ただ師匠の名前にぶら下がり、年だけ重ねていく。
 そういう人に誠一郎が声をかけることはなかった。声をかけるべき言葉が見つからなかった。
 「やめた方がいい」とは言えない。
 「続けろ」とも言えない。
 言えることがあるとすれば、ただ一つ。「お客さんを大事にしろ」だけだ。でもそれも、言える立場じゃない気がした。
 誠一郎はただの客だ。
 お金を払って、笑って、帰る。それが仕事だ。
 でも、そう割り切れないから、こうして毎月通っている。

 ある夜、こはるが誠一郎に言った。
 「桑原さんって、なんで来るんですか。毎回」
 誠一郎は少し考えた。
 「楽しいから」
 「それだけですか」
 「それだけだよ。それ以上の理由なんてあるかい」
 こはるはしばらく考えてから言った。
 「なんか、嬉しいです。それ」
 「なぜ?」
 「理由がないってことは、打算がないってことじゃないですか。損得なく来てくれてる」
 誠一郎は笑った。
 「打算がないというより、打算するほど頭が働かないんだよ、この歳になると」
 こはるも笑った。
 その笑い声は、誠一郎が今まで聞いた中で一番、高座の上の笑い声に近かった。


終章 お宝になる日まで

 誠一郎の書斎の棚には、今や色紙が山のように積まれている。
 房江は最初の頃こそ「また増えた」とため息をついていたが、今は何も言わない。ただ時々、棚を眺めながら「これ、いつか価値が出るのかしらね」とつぶやく。
 誠一郎は「出るかもしれない」と答える。
 本当にそう思っているし、半分は冗談でもある。
 色紙の価値は、書いた人間の値打ちで決まる。今は無名でも、いつか——。

 その「いつか」が来た。
 通い始めて四年目の秋、桂三太朗が真打昇進を発表した。
 新聞の芸能欄に小さく載った記事を見て、誠一郎は朝食のご飯をよそう手を止めた。
 房江が「どうしたの」と言った。
 「三太朗が真打になる」
 「あの、青菜の人?」
 「そう」
 房江は少し考えてから言った。
 「あなた、最初から言ってたわね。あの人は売れるって」
 誠一郎は何も言わなかった。
 言わなかったが、心の中で小さく、ほんの少しだけ、誇らしかった。

 昇進披露興行のチケットは、発売と同時に完売した。
 誠一郎はもちろん確保済みだった。律子も確保していた。
 二人で並んで座り、三太朗の高座を見た。
 「子別れ」だった。
 熊五郎が泣く場面。三太朗は急がなかった。たっぷりと間を取り、客席の空気が静まり返るのを待ってから、ゆっくりと泣いた。
 誠一郎の隣で、律子が静かにハンカチを取り出した。
 誠一郎は泣かなかった。
 泣かなかったが、拍手だけは誰より大きくした。

 終演後、楽屋口に挨拶に行った。
 三太朗は真打の紋付き袴姿だった。たくさんの人に囲まれていた。師匠、兄弟子、後援会の人々。
 誠一郎が輪の外から声をかけた。
 「よかったよ。特に子別れがな」
 三太朗は振り返り、誠一郎を見た。
 笑った。
 人をかき分けて、誠一郎の前に来た。
 「桑原さん。今日、来てくださると思ってました」
 「当然だ。皆勤賞だからな」
 「一つお願いがあるんですが」
 三太朗は懐から色紙を取り出した。
 新しい、真っ白な色紙だった。
 「今度は僕が書いてもいいですか。桑原さんに」
 誠一郎は面食らった。
 「俺に? 俺はただの客だぞ」
 「そうですよ。でも、最初の会からずっと来てくれたただの客です」
 三太朗は懐から筆ペンを取り出した。用意してきたのだ。
 丁寧に、ゆっくりと書いた。
 「桑原誠一郎様 おかげさまで真打になれました 桂三太朗」
 渡された色紙を受け取り、誠一郎はしばらく眺めた。
 「おかげさまで、はちょっと大げさだ。俺は何もしてないぞ」
 「来てくれました。毎回」
 「それだけだ」
 「それだけで十分です」と三太朗は言った。

 帰り道、誠一郎は一人で歩いた。
 律子とは「今日はゆっくりしてください」と別れた。
 夜の空気が冷たかった。秋も深まっていた。
 誠一郎は色紙をかばんの中で大事に抱えながら歩いた。
 棚の色紙が、また一枚増える。
 でも今日増えたこの一枚は、少し違う。
 他の色紙は全部、誠一郎が「書いてくれ」と頼んだものだ。でも今日の一枚は、向こうから書いてくれた。
 「お宝」というのは、そういうものかもしれない。
 金銭的な価値ではなく、受け取るまでの時間の価値。

 誠一郎は空を見上げた。
 月が出ていた。
 さて、次はどなたかな——と誠一郎は思った。
 こはるか。小三馬か。まだ名前も知らない誰かか。
 いずれにせよ、来月また行けばわかる。
 楽しみはまだまだ続く。
 それで十分だった。

            (了)

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〜あとがき〜

 この物語は、落語が好きなすべての「ただの客」に捧げます。
 舞台に上がらない。幕を作らない。照明も当てない。でも、客席を埋める。
 それが、あなたたちの仕事です。
 高座の上の噺家は、客席があるから噺家でいられる。客席の中の客は、高座があるから客でいられる。
 どちらが欠けても、落語は成立しない。
 誠一郎のように、色紙を集めながら若手を見守る人が、この国のどこかに何百人もいる。
 その「何百人」が、何十年かに一人の天才を育てている。
 世に出るのは偶然ではなく、必然なのだな——と、誠一郎はいつも思う。
 そしてきっと、あなたもそう思っている。
 だから来月も、寄席へ行く。
 さて、次はどなたかな。


100万回転生したズッコケ神様


〜まえがき〜

人は、ときどき不思議な感覚を抱きます。
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい人。
理由もないのに、なぜか気になる場所。
そして、説明できないのに、なぜか心が落ち着く時間。

それを人は「縁」と呼びます。

けれどもし、その“縁”が、百万回もの命の巡りの中で生まれたものだとしたら——。

この物語は、宇宙管理局の新人神様テンコが、うっかり宇宙規模の大事故を起こしてしまうところから始まります。

壊れた転生データベースを復元するため、テンコは地球で百万回の転生を繰り返すことになります。

メダカになり、犬になり、桜の木になり、サラリーマンになり、時代も姿も変えながら、命を巡っていく旅。

その中でテンコは、何度も何度も「同じ魂」と出会います。

それはバグなのか。
偶然なのか。
それとも——。

宇宙の話なのに、とても地球くさい物語です。

命のこと。
仕事のこと。
誰かと出会うこと。
そして、「なんとなく気が合う」という不思議について。

笑いながら、少しだけ優しい気持ちになっていただけたなら嬉しいです。





序章 宇宙管理局606号室

 宇宙管理局は、天の川銀河の端っこにある。

 端っこ、というのはテンコの主観であって、管理局の公式見解によれば「銀河の要衝に位置する重要拠点」ということになっているが、窓から見える景色がほぼ暗黒物質と何億光年も先のぼんやりした星雲だけという事実は、どう言い繕っても「端っこ」以外の何物でもないとテンコは思っていた。

 テンコの正式名称は「転光エネルギー体・試験雇用第七期生・天光テンコ」であり、宇宙管理局・第三事業部・地球担当課に配属されてから、銀河時間で約三年が経過していた。地球時間に換算するとおよそ二百年に相当するが、テンコ本人の体感はもう少し短く、「なんとなく慣れてきたかな」と思い始めたところだった。

 仕事の内容を一言で言うと、「魂の循環管理」である。

 地球上で命が尽きるたびに、その魂は一度エネルギー体に戻り、太陽光を媒介として地球物質と結合し直し、新たな生命体として再び地上に降り立つ。テンコの仕事は、この転生プロセスが滞りなく行われているかを監視し、何か不具合が生じた場合には速やかに対応するというものだった。

 要するに、魂の交通整理係である。

 もう少し格好よく言えば「輪廻システムエンジニア」だが、実際のところやっていることは、巨大なデータベース端末の前に座って、無数にスクロールされていく転生ログを眺め、エラーが出たらチケットを上げるという地味な作業の繰り返しだった。

 その日、テンコは昼食後の眠気と戦いながら端末を操作していた。

 地球では今、アジアのどこかの国でちょうど春が始まったころで、転生データベースには花粉症で鼻をすすりながら電車に乗るサラリーマンの魂ログが大量に流れ込んできていた。

 「また変な転生してる人いる……」

 テンコは独り言をつぶやきながら、モニターの隅でぴかぴか光っている警告アイコンを何気なくクリックした。

 その瞬間、606号室全体が白い光に包まれた。

 ドォォォォォン。

 という擬音が似合いそうな衝撃が走り、テンコはイスから転げ落ちた。天井のパネルがいくつか剥落し、隣の席の先輩・カゲロウが持っていたコーヒーカップが宙を舞った。

 「テ、テンコ!! 何した!!」

 カゲロウが叫んだ。

 「わ、わかんないです! クリックしただけで……」

 「『だけで』って言えるレベルじゃない!! メインサーバー見て!!」

 テンコが慌ててメインモニターを確認すると、そこには今まで見たことのないエラーメッセージが表示されていた。

 【CRITICAL ERROR 00000001:地球転生データベース・全データ損失の可能性。現在影響を受けている魂の数:推定2,847,193,044体。システム復旧まで転生プロセス停止中】

 三十億近い魂が宙ぶらりんになっている。

 テンコはしばらくモニターを見つめ、それからゆっくりと周囲を見渡した。カゲロウが青ざめている。廊下からは他の職員たちの騒ぎ声が聞こえてくる。テンコの額に冷や汗がにじんだ。

 「……あの」

 テンコは恐る恐る口を開いた。

 「これって……どのくらいまずいですか」

 カゲロウはしばらく無言だった。それからこう言った。

 「宇宙始まって以来最大の人事事故」

 テンコはそっと目を閉じた。



第一章 メダカに転生したら上司もメダカだった

 宇宙管理局の緊急対策会議は、エラー発生から三時間後に開かれた。

 会議室に集まったのは、部長のオオゾラ、副部長のナギサ、技術顧問のマキバ博士、そして事故を起こした当事者のテンコと、その直属上司のカゲロウである。全員の顔色が悪かった。

 「状況を整理する」

 オオゾラ部長が重々しく口を開いた。白髪交じりの厳めしい神様で、テンコは入局以来ずっと苦手にしていた。

 「転生データベースのメインサーバーが損傷し、過去約百万年分の転生履歴データが壊れた。現在、約三十億体の魂が転生待機状態にある。データが復元されない限り、転生プロセスは再開できない」

 「復元はできないんですか」

 テンコが恐る恐る手を挙げると、マキバ博士が重い口を開いた。博士は三千歳を超える老齢の神様で、いつも丸眼鏡の奥からじっとりとした目でテンコを見る。

 「通常の方法では不可能だ。データが失われたのではなく、暗号化されてしまっている。解読には元の転生パターンとの照合が必要なのだが……」

 「照合できるデータが、失われた」

 カゲロウが引き取った。


 「つまり、鍵もかかっていない金庫の中に鍵がある状態ですか」

 「もう少し複雑だが、その理解で概ね正しい」

 沈黙が落ちた。

 「解決策は一つだけある」

 マキバ博士がテンコの方に眼鏡を向けた。

 「損傷したデータを復元するには、そのデータを直接体験した存在が、実際に転生を追体験しながらパターンを照合していくしかない。バグ特定のために、魂が実際に転生プロセスを経験するんだ。百万回ぶん」

 「……百万回」

 「具体的には、地球上の様々な生命体として転生を繰り返し、各転生での経験データをリアルタイムでシステムに送り続ける。送られてきたデータを解析することで、損傷したデータベースのパターンを再構築できる仕組みだ」

 「誰がその百万回の転生をするんですか」

 テンコは全員の視線が自分に集まるのを感じながら聞いた。

 「言わなければわからないか?」

 オオゾラ部長がため息をついた。

 「事故を起こした当事者が責任を持って行う。それが宇宙管理局のルールだ。テンコ、君が地球に降りて、百万回転生してもらう」

 「百万回……百万回!?」

 「問題ない。時間は十分にある」

 「でも私、転生したことなくて……しかも百万回って……」

 「大丈夫。初回は我々がサポートする。最初の転生体を何にするか、希望はあるか?」

 テンコはぼんやりとした頭で必死に考えた。最初の転生。何がいいだろう。安全そうなもの。穏やかなもの。急に怖くなってきたので、できるだけのんびりしていそうなものがいい。

 「……メダカ、とか」

 「よかろう」

 オオゾラ部長は即断した。

 こうしてテンコは翌朝、地球のある小学校の教室に置かれた水槽の中に、一匹のメダカとして降り立った。

 最初に気がついたのは、すべてが透明だということだった。

 水の中にいる。それはわかる。周りが見える。ただし、視野が異様に広い。ほぼ三百六十度見渡せる気がする。それでいて、なんとなくすべてがぼんやりしている。

 〈これが……メダカの視界……〉

 テンコはぼんやりと思った。尾びれをぱたぱた動かしてみると、するっと前に進んだ。これは気持ちいい。思ったよりずっとスムーズだ。

 水槽の中には水草が数本植わっていて、底には砂利が敷いてある。光が水面から差し込んできて、砂利の上に揺れる模様を作っていた。

 〈きれいだな〉

 テンコは素直にそう思った。宇宙管理局の窓から見える暗黒物質より、よっぽど好きかもしれない。

 それから、もう一匹いることに気がついた。

 水槽の端、水草の陰にじっとしているメダカがいる。体の大きさは自分とほぼ同じで、じっとしているせいか、存在感がやたらと薄い。

 〈他にも誰か転生しているのかな〉

 テンコが近づくと、そのメダカがびくっと動いた。

 〈ぎゃっ、近づくな〉

 声ではなく、なんとなく意味として伝わってくる。テンコはぴたっと止まった。

 〈え、喋れるんですか?〉

 〈喋れるも何も、同じ転生神だ。驚くことはない〉

 テンコはもう一度そのメダカを見た。小さな体、じっとした佇まい、そして少し上から目線の物言い。

 〈……カゲロウさん?〉

 〈当たり前だ。お前が一人でできるわけないだろう。上司として監視に来た〉

 テンコはしばらく沈黙した。

 〈監視って……カゲロウさんもメダカになって監視するんですか〉

 〈そういうことだ。文句あるか〉

 〈いや……なんか、カゲロウさんがメダカだと思うと……〉

 〈思うと、何だ〉

 〈なんか可愛いな、と〉

 しばらくの静寂の後、カゲロウ・メダカは水草の陰にぷいっと隠れた。

 テンコはおかしくなって、ひれをぱたぱたさせながら水槽の中を泳ぎ回った。水が気持ちいい。光が揺れている。

 その日の午後、小学三年生たちが教室に入ってきて、水槽を覗いた。

 「あ、メダカ元気だ!」

 「こっちの小さいのかわいい!」

 「えさやっていい?」

 子供たちの声が水越しに、くぐもって届いてくる。テンコは水面に上がって、えさのかけらをぱくぱくした。これがえさというものか。悪くない。

 水草の陰から、カゲロウ・メダカがじっとこちらを見ていた。

 〈テンコ、データ送信は忘れるな〉

 〈はーい〉

 〈はーい、じゃない。業務だぞ〉

 〈わかってますよ。でもカゲロウさん、えさ食べないんですか〉

 〈……食べる。でも今は業務中だ〉

 〈え、でもこれえさですよ。おいしいですよ〉

 〈………〉

 ちょっと間があって、カゲロウ・メダカがそっと水草の陰から出てきた。テンコの隣に並んで、ぱくっとえさを食べた。

 水槽の外では子供たちがきゃあきゃあ言っている。窓から春の光が差し込んでいた。

 テンコは、これが地球というものか、と思った。思ったより悪くない。


第二章 犬は三回嚙まないと気が済まない

 メダカとして三ヶ月を過ごしたテンコは、次の転生先として犬を指定された。

 「犬か……犬か……」

 転生前の待機時間に、テンコはそわそわしていた。犬の転生は、メダカより格段に複雑らしい。感情が豊かで、人間との関係も密で、しかも犬社会には犬社会なりのルールがある。

 「うまくやれますかね」

 〈やれなかったらデータが集まらない。やれ〉

 カゲロウの声がインカムから届いた。前回はメダカとして一緒だったが、今回はカゲロウはシステム側のサポートに回ることになった。

 「カゲロウさんは一緒に来ないんですか」

 〈今回はこちらで監視する。心配するな〉

 「さみしい」

 〈仕事だ〉

 「はい」

 こうしてテンコは、東京郊外のとある家庭に、一匹の柴犬の子犬として生まれた。

 子犬というのは、大変だった。

 まず体の使い方がわからない。足が四本あって、しかも前足と後ろ足で動き方が違う。最初の二日間、テンコは家の中をよたよたと歩き回り、段差のたびに転んだ。

 「もー、ゴロ、またころんだ!かわいい!」

 飼い主の女の子——小学五年生のハナちゃんが笑いながら抱き上げた。ゴロというのはテンコの今回の名前らしい。

 〈ゴロ……ゴロか……〉

 テンコは複雑な気分になりながらも、ハナちゃんに抱っこされているのは気持ちよかった。温かい。人間というのは温かいものなのか。

 しかし問題はすぐに起きた。

 三日目、テンコは家の中を探索していて、廊下の曲がり角でばったり出会ってしまった。

 先住犬である。

 名前はチョコ。七歳のトイプードルで、テンコがゴロとしてこの家にやってきた瞬間から、明らかに機嫌が悪かった。

 チョコがじっとこちらを見ている。

 テンコはどうすべきか瞬時に悩んだ。犬同士の挨拶はどうするんだっけ。においを嗅ぐ? それとも伏せて服従を示す?

 テンコが迷っている間に、チョコがゆっくりと近づいてきた。

 そして、テンコの耳をがぶっと嚙んだ。

 「いたい!!」

 もちろんテンコが発したのは「ワンッ!」という声だったが、意味としてはそうだった。テンコは飛び上がって廊下を走り、ハナちゃんの部屋に逃げ込んだ。

 〈どうした、データ送信が乱れているぞ〉

 カゲロウがインカムで言った。

 「嚙まれました」

 〈誰に〉

 「先住犬に」

 〈それは洗礼だ。犬社会では普通のことだ〉

 「普通なんですか!?」

 〈上下関係の確認だ。気にするな〉

 しかしテンコはどうしても気になった。チョコが怖い。部屋から出るとチョコがいる。チョコがいると嚙まれる。嚙まれると痛い。

 一週間が経っても状況は変わらなかった。チョコは機会あるごとにテンコの耳やしっぽを嚙んだ。三回嚙むまでは気が済まないらしく、ちょうど三回嚙んだところで興味を失って去っていくのだった。

 「なんで三回なんですか」

 テンコはカゲロウに聞いた。

 〈知らん。チョコにとってのルールだろう〉

 「理不尽じゃないですか」

 〈世の中そんなもんだ〉

 テンコは釈然としなかったが、三週間が経ったある日、少し変化があった。

 テンコが庭でひなたぼっこをしていると、いつの間にかチョコが隣に座っていた。嚙む様子はない。ただ、同じ方向を向いて座っている。

 テンコは動かなかった。チョコも動かなかった。

 春の日差しが温かかった。庭の隅に植わっている梅の木が白い花をつけていて、それが風に揺れるたびに花びらが舞ってきた。

 しばらくそうしていると、チョコがそっとテンコの体に自分の体を寄せてきた。

 テンコはなんだかわからないけれど、胸の奥がぽかぽかする感覚があった。

 「カゲロウさん」

 〈なんだ〉

 「なんか、よくわかんないんですけど、なんかいい感じです」

 〈……そうか〉

 「犬っていいもんですね」

 カゲロウからしばらく返事がなかった。それからこう言った。

 〈データ、ちゃんと送信しろよ〉

 「してますよ」

 〈……よし〉

 梅の花びらが一枚、テンコの鼻の上に落ちてきた。テンコはくしゃみをして、チョコがびくっとした。それからなんとなく二匹でしばらくじゃれ合った。

 チョコは三回だけ嚙んで、また隣に座った。


第三章 桜の木になった夏

 植物への転生は、テンコが最も心配していたものだった。

 動けない。しゃべれない。ただ、そこにいるしかない。そんな転生に何の意味があるのか、テンコには最初理解できなかった。

 しかしマキバ博士の説明によれば、転生データベースの復元には植物の転生データも不可欠で、特に「長期間一つの場所に固定されている存在の意識データ」は他では代替できないとのことだった。

 「木の意識ってあるんですか」

 テンコが聞くと、博士は少し考えてから答えた。

 「厳密に言えば、あなたが木になるのではない。木という形でこの世界に存在することで生まれるデータを、あなたが収集する。木の年輪の一つひとつには、その年の気候が刻まれているだろう。それと同じだ」

 「よくわかりません」

 「行けばわかる」

 こうしてテンコは、京都のある神社の境内に立つ桜の木になった。樹齢百五十年ほどの老木で、幹の太さは大人二人が抱えてもまだ余るほどだった。

 最初、何もわからなかった。

 感覚がない。動けない。視界もない。ただ、なんとなく全体として「ある」という感じだけがあった。

 それがだんだん変化した。

 光、という感覚があった。葉の一枚一枚が光を受けていて、その情報が何か大きなものへと集まってくる感じ。光合成、というのはこういうことかとテンコはぼんやり理解した。

 水も感じた。根の先々から水分が吸い上げられて、幹を通り、枝を通り、葉の末端まで行き渡る。その流れがわかる。

 虫も感じた。樹皮の隙間に住んでいる小さな虫たちの重みがわかる。鳥が枝に留まるとその重みが伝わってくる。

 これはこれで、情報量が多い。

 夏が来て、日差しが強くなった。葉が緑濃くなって、大きく広がった。テンコはその大きさを全体で感じた。自分がこんなに大きかったのかと驚いた。

 境内には毎日、人がやってくる。参拝客。子供たち。老夫婦。カップル。それぞれがテンコの木の下で立ち止まり、幹を眺めたり、枝を見上げたりして、また去っていく。

 ある日、若い女性が一人でやってきて、テンコの木の根元に座った。膝を抱えて、しばらく何もしなかった。

 テンコはただそこにいた。何もできないが、ただそこにいた。

 しばらくして、女性は顔を上げた。テンコの枝を見上げた。

 「大きい木ね」

 独り言のように言った。

 「あなたは何か悩んだりするの?」

 テンコは答えられない。ただ、葉が風に揺れた。

 「そうよね、木は悩まないよね」

 女性は少し笑った。「羨ましい」と言ってから、また少し笑った。「でも木になりたいわけじゃないか」と言って立ち上がり、拝殿の方へ歩いていった。

 テンコはその背中を見送った、と言えれば格好よかったが、目がないので正確には「その気配が遠ざかるのを感じた」というべきだった。

 〈テンコ、データ送信量が増えているな〉

 カゲロウの声がした。植物転生の間も、カゲロウはシステム側で監視している。

 「あの人、大丈夫ですかね」

 〈誰だ〉

 「さっきここに来た女の人。なんか悩んでるみたいで」

 〈木がそんなこと気にするな〉

 「気になるんですよ」

 〈……まあ、また来るだろう〉

 その予言は当たった。女性はそれから毎週日曜日にやってきて、テンコの木の根元に座った。最初は何も言わなかったが、二回目からは独り言を言うようになった。仕事のこと、友達のこと、将来のこと。テンコはただ聞いた。

 秋が来て、葉が赤く染まった。テンコは自分が紅葉しているのを、全体として感じた。葉が一枚一枚落ちていく感覚があった。寂しいとも言えたが、それよりも、なんというか、自然な感じがした。

 女性は秋のある日、テンコの木の下で、スマートフォンを手に長い電話をした。途中で泣いて、また話して、また泣いた。電話が終わると、すっきりした顔でテンコを見上げた。

 「ありがとう」と言った。

 テンコは何もしていない。ただそこにいただけだった。

 でも、なんかよかった。

 冬が来て、テンコは葉をすべて落とした。裸の枝だけになって、冷たい風の中に立っていた。でも、根の奥には春の準備が始まっていた。

 次の春が来れば、また花が咲く。

 テンコはそれをとても楽しみにしながら、静かな冬を過ごした。


第四章 サラリーマンの月曜日

 「次は人間ですか」

 テンコが聞くと、マキバ博士はうなずいた。

 「データベースの復元において、人間の転生データが最も複雑で最も重要だ。今まで積み重ねてきたデータを土台に、そろそろ人間として転生してもらう」

 「どんな人間ですか」

 「三十四歳、男性、東京在住、会社員」

 「……普通ですね」

 「普通の人間のデータが、最も重要なんだ」

 こうしてテンコは、佐々木ケンジという名の会社員として目覚めた。

 目覚ましが鳴った。月曜日の朝七時。

 人間の朝は大変だった。

 まず、ベッドから出るのが難しい。布団が温かくて出たくない。でも目覚ましが鳴り続ける。テンコはこの「布団の温かさと目覚ましの戦い」が人間社会の根本的な問題の一つではないかと思ったが、とりあえず起き上がった。

 次に、歯を磨かなければならない。

 それから顔を洗って、服を着替えて、朝ごはんを食べて、鍵を持って、財布を持って、スマートフォンを持って。人間というのは、家を出るまでにすでにかなりの数のタスクをこなさなければならない存在だった。

 電車に乗った。

 朝の通勤電車は、テンコが今まで転生した中で最も密度の高い空間だった。メダカの水槽よりも密度が高い気がする。いや、それは気のせいか。でも水槽のメダカたちはもう少しゆったりしていた。

 「プシューッ」とドアが閉まって、電車が動き出した。テンコは吊り革につかまりながら、周囲の人々を観察した。

 みんな、スマートフォンを見ている。

 全員、と言っていいほどの割合でスマートフォンを見ている。たまに目を閉じている人もいる。窓の外を見ている人はほとんどいない。

 〈カゲロウさん、人間って電車の中でいつもこうなんですか〉

 「そうだ」とカゲロウが返した。「慣れろ」

 〈なんかさみしくないですか〉

 「慣れるんだよ、そういうものに」

 テンコは吊り革につかまりながら、窓の外を見た。東京の街が流れていく。ビルとビルの隙間に、青い空が見えた。

 会社に着いた。佐々木ケンジとしての仕事は、中堅の食品メーカーの営業だった。テンコはケンジの記憶を参照しながら、なんとか業務をこなした。

 「佐々木さん、昨日送ったメール見ましたか」

 上司の田中課長が言った。

 「あ、すみません、まだで……」

 「今日の一時に先方との会議があるから、それまでに確認しておいてください」

 「はい、わかりました」

 テンコはメールを開きながら、宇宙管理局での自分とたいして変わらないな、と思った。上司がいて、仕事があって、締め切りがある。宇宙の広さにかかわらず、働くということの構造は同じなのかもしれない。

 昼休み、テンコはコンビニでおにぎりを買って公園のベンチに座った。空が広かった。桜の木が一本あって、もう葉桜になっていた。

 「あ」

 テンコはその桜の木を見て、なんとなく親しみを感じた。自分も一度木だったから、というより、木というものの感覚を少しわかっているから。

 その桜の木の下のベンチに、一人の女性が座っていた。

 弁当を食べながら文庫本を読んでいる。ショートカットで、少し疲れた顔をしている。でもなんとなく、見覚えがある気がした。

 〈カゲロウさん〉

 「なんだ」

 〈あそこに座ってる女の人、どこかで見たことある気がするんですけど〉

 しばらく間があった。

 「……データを確認する。少し待て」

 テンコはおにぎりを食べながら待った。

 「テンコ」

 「はい」

 「その女性……桜の転生のとき、毎週神社に来ていた女性と同一人物だ」

 テンコはおにぎりを持ったまま固まった。

 「え」

 「魂の照合をした。間違いない。あの木の転生の時に、毎週根元に座って独り言を言っていた女性と、同じ魂だ」

 「そんなことがあるんですか」

 「これが……おそらく転生データベースの中の、重要なパターンだ。なぜかは、まだわからないが」

 テンコは女性を見た。女性は本を読んでいる。気づいていない。

 テンコはおにぎりの残りを食べて、席を立った。女性のそばには近づかなかった。でも、歩きながら何度か振り返った。

 午後の会議に戻りながら、テンコはずっとそのことを考えていた。


第五章 100万回目の手がかり

 それから転生は続いた。

 縄文時代の漁師。江戸時代の豆腐屋。明治の女学生。戦時中の軍医。昭和の子供。平成のフリーター。時代も性別も職業も、転生のたびにめちゃくちゃに変わった。

 そしてそのたびに、テンコはどこかで「その魂」と出会った。

 縄文時代には、浜辺で貝を拾っている老婆として。江戸時代には、豆腐を買いに来る武家の奥方として。明治の女学生のときは、同じ学校の先生として。戦時中の軍医のときは、野戦病院に運び込まれた傷病兵として。

 毎回、顔も性別も年齢も違う。でも、なんとなくわかる。あの魂だ、と。

 「これはバグですか、それとも仕様ですか」

 テンコが宇宙管理局に報告したのは、百回目の転生を終えたあとのことだった。マキバ博士は報告を受けてしばらく考え込んだ。

 「仕様とは言いがたい。バグとも言い切れない」

 「どういうことですか」

 「転生データベースの中に、『魂の引力』とでもいうべきパターンが存在する。特定の魂同士が、転生を繰り返す中で、時代や形を超えて引き合う傾向がある。それ自体は昔から知られていた現象なんだ」

 「じゃあ仕様じゃないですか」

 「仕様なら問題はない。問題は、その引力の強度が、通常より何百倍も強い魂のペアがいくつか存在することだ。そのペアが転生するたびに、データベースに異常な負荷がかかる」

 「……私が出会い続けている魂は」

 「おそらく、そういう強度の高いペアの一つだ」

 テンコはしばらく黙った。

 「それが、今回のデータベースクラッシュと関係あるんですか」

 博士は少し間を置いた。

 「正確に言えば……関係している可能性が高い。君が今回のクラッシュのトリガーを押してしまったのは間違いないが、クラッシュが起きやすい状態を作っていたのは、この異常な引力パターンかもしれない。だが、その原因を特定するには……」

 「まだ転生を続けるしかない」

 「そういうことだ」

 テンコはため息をついた。

 「何回くらいで特定できますか」

 「わからない」

 「わからないんですか」

 「転生データというのはカオス系の複雑系でね。どこまで続ければいいか、やってみないとわからないんだよ」

 「やってみないとわからない……宇宙管理局って結構行き当たりばったりじゃないですか」

 「そういうものなんだよ、宇宙も管理も」

 テンコは頭を抱えた。

 転生が進むにつれて、テンコはある法則に気づいた。

 「出会い方」に、パターンがある。

 接触するのは、いつも偶然に見える。でも、よく考えると偶然にしては多すぎる。そして接触の形は、「気になる」から始まる。なぜか目が向く。なぜか気になる。なぜか話しかけたくなる。

 テンコはその感覚を、宇宙管理局の報告書にこう記した。

 「対象魂との接触は常に偶然に見えるが、実態は偶然ではない可能性が高い。この『なぜか気になる』感覚は、転生データベースの引力パターンが魂レベルで現れたものと推測される。今回の調査で最も重要な発見の一つである」

 カゲロウが報告書を読んで言った。

 「格好つけた書き方してるが、要するに『縁』があるってことだな」

 「縁……」

 「昔からそう言う。なぜか気が合う、なぜか気になる。人間はそういう感覚を『縁』と呼んできた。犬も、花も、虫も、みんな同じだ。それが転生データベースの引力パターンとして現れているだけで、結局のところ、内容は同じだ」

 テンコはしばらく考えた。

 「カゲロウさんは、私と縁があると思いますか」

 カゲロウはすぐには答えなかった。

 「……業務上の関係だ」

 「そうじゃなくて」

 「業務上の関係だ」

 「カゲロウさん」

 「業務上の関係だと言っている」

 テンコはくすっと笑った。

 「わかりました。業務上の関係ですね」

 「そうだ」

 「それでも、メダカのとき一緒にえさ食べてくれて、よかったです」

 カゲロウはしばらく何も言わなかった。

 「……次の転生の準備をしろ」

 「はーい」


第六章 宇宙管理局の陰謀?

 転生五百回目を終えたあたりで、テンコは奇妙なことに気づいた。

 報告書への返信が、以前より遅くなっている。

 最初はただ忙しいのだろうと思っていたが、それにしても遅い。特に「魂の引力パターン」に関する報告に対して、管理局はいやに歯切れが悪い返答をするようになった。

 ある日、テンコは江戸時代の大工として転生している最中に、カゲロウに直接聞いた。

 「ねえカゲロウさん、何か隠してることありますか」

 木の上に乗って屋根を葺きながら聞いた。カゲロウからすると、大工が大きな声で独り言を言っているように見えるだろうが、テンコは気にしなかった。

 「……何の話だ」

 「引力パターンの件です。管理局の反応が鈍すぎる。何か知ってて言わないことがあるんじゃないですか」

 沈黙が続いた。

 「カゲロウさん」

 「……少し待て」

 しばらく間があって、カゲロウの声が戻ってきた。

 「テンコ、今から言うことは、管理局の公式見解ではない。私が独自に調べたことだ」

 「はい」

 「今回のデータベースクラッシュが起きやすい状態になっていた原因は、引力パターンの異常ではない」

 「じゃあ何ですか」

 「管理局が、引力パターンを人為的に強化していた」

 テンコは手を止めた。大工の棟梁が怪訝そうにこちらを見たが、テンコは無視した。

 「どういうことですか」

 「転生データベースには、もともと魂同士の縁を記録するシステムがある。どの魂がどの魂と、どんな形で出会い、どんな関係を持ったか。それが蓄積されることで、転生のパターンが豊かになる。これは正常な機能だ」

 「はい」

 「ところが三百年前から、管理局の一部が、特定の魂のペアの引力を意図的に強化するプログラムを動かしていた。引力が強いほど、その魂たちは転生のたびにより鮮明な『縁』を経験する。その経験データが、転生システム全体の質を向上させる……という名目で」

 「名目で?」

 「実際には、その引力増強プログラムがシステムに過負荷をかけ続けていた。三百年かけて少しずつ。君がトリガーを押したのは、ちょうど限界を超えた瞬間だっただけだ」

 テンコは屋根の上に座り込んだ。

 「つまり……私のせいじゃなかった?」

 「君が押したのは間違いないが、爆発寸前のところに偶然マッチを擦ったようなものだ。本質的な問題はプログラムにある」

 「誰がそんなプログラムを……」

 「それを調べている。だが、一つわかったことがある」

 「なんですか」

 「そのプログラムの対象となっている引力ペアの中に、君と……もう一つの魂が含まれている」

 テンコはしばらく言葉が出なかった。

 「私が、出会い続けている魂が」

 「そうだ。そのペアの引力が、全ペアの中で最も強く増幅されていた。なぜそのペアが選ばれたのかは、まだわかっていない」

 江戸の空が青かった。棟梁がまた怪訝そうにこちらを見ていた。テンコは「すみません、考えごとしてました」と言って立ち上がり、また作業を続けた。

 でも頭の中は、ぐるぐると回り続けていた。

 次の管理局との定期連絡で、テンコはオオゾラ部長に直接聞いた。

 「引力増強プログラムのことを教えてください」

 オオゾラ部長は一瞬だけ表情を変えた。それから元の無表情に戻った。

 「どこでそれを」

 「関係ありません。教えてください」

 「……それは、長い話になる」

 「聞きます」

 部長はしばらく考えてから、話し始めた。

 三百年前、転生システムの研究者たちは一つの仮説を立てた。魂同士の「縁」が深まることで、転生の質が上がり、地球上の生命の多様性と豊かさが増す。それを促進するために、特定の魂のペアを「実験対象」として引力を強化した。

 「実験対象……」

 「当初は小規模な実験だった。ところが引力が強いペアは、転生のたびにより強い縁を結び、そのデータが蓄積されることで、さらに引力が増幅される正のフィードバックループが起きた。三百年で制御不能なレベルになった」

 「なぜ止めなかったんですか」

 「データが美しかったから、というのが正直なところだ」

 テンコは眉をひそめた。

 「データが美しい?」

 「そのペアが転生するたびに生み出すデータは……ほかの何十万ペアのデータを合わせたより豊かだった。喜びも、悲しみも、別れも、再会も。転生のたびに形を変えながら、何度も何度も繰り返される。それがシステムにとって貴重なデータだったのと同時に……見ていて、やめられなかった」

 「見ていて、やめられなかった」

 「私も含め、担当者の全員が、そのペアのデータを追うことに……夢中になっていた。それが判断を鈍らせた」

 テンコはしばらく考えた。

 「そのペアのもう一方の魂は、今どこにいますか」

 「現在転生中だ。君もよく知っている」

 「どこに」

 部長は少し間を置いた。

 「東京だ」


第七章 バグか愛か、それが問題だ

 テンコは次の転生で、再び東京に降り立った。

 今回は三十歳の女性、ミユキとして。出版社に勤めていて、仕事が好きで、でも少し疲れている。そういう設定だった。

 「設定って言い方やめてください、なんか悪い気がして」

 テンコがぶつぶつ言うと、カゲロウが「ただの状況説明だ」と返した。

 ミユキとしての生活が始まった。毎日地下鉄で会社に行き、原稿を読み、著者と打ち合わせをし、校正をして帰る。休日は近所の公園を散歩するか、図書館に行くか、友達と食事をする。

 穏やかで、少し寂しい日常だった。

 一ヶ月が経ったある日曜日、ミユキは近所の神社に行った。特に理由はなかった。なんとなく、そっちの方向に足が向いた。

 境内に入ると、老いた桜の木があった。

 テンコはその木を見て、懐かしい気持ちになった。自分がかつて木として存在した感覚が、かすかに蘇ってくる。

 木の根元のベンチに座った。

 しばらくして、その隣に誰かが来て座った。

 三十代後半くらいの男性だった。ジャケットを着ていて、少し疲れた顔をしていて、コンビニのコーヒーを持っている。

 男性は桜の木を見上げ、それからテンコの方を見た。

 「よく来るんですか、ここ」

 「いえ、初めてで」

 「そうですか。僕もです」

 沈黙があった。でも不思議と、気まずくなかった。

 テンコはその人の横顔を見て、何かを思った。こういう感覚は、何百回も経験してきた。でも今回は、特別に強かった。

 「なんか……どこかで会ったことありますか」

 思わず口に出てしまった。テンコは少し後悔したが、男性は笑った。

 「そんな気がしますよね。不思議と。でも初対面だと思います」

 「そうですよね。すみません」

 「いや、僕もそう思ってたから。なんか気になるな、って」

 〈カゲロウさん〉

 テンコはそっと心の中で呼んだ。

 〈この人が、そうですか〉

 インカムの向こうでカゲロウがため息をついた。

 〈そうだ〉

 〈確認なんですけど、この引き合いは、プログラムで人工的に増幅されてるんですよね〉

 〈……そうだ〉

 〈じゃあ、これって本物じゃないんですか〉

 沈黙が続いた。

 「テンコ」

 「はい」

 「それは……難しい問いだ」

 男性がまた話しかけてきた。「ここの桜、春はきれいらしいですよ」と言った。テンコは「そうみたいですね」と答えた。

 「春になったらまた来てみようかな」と男性が言った。

 テンコは少し考えてから言った。

 「じゃあ私も来てみます」

 「奇遇ですね」

 「奇遇ですね」

 二人は同時に言って、それから少し笑った。

 〈テンコ〉

 「はい」

 〈引力が本物かどうかの答えを出すのは、お前自身じゃないか〉

 「……」

 〈プログラムで増幅されていても、それが百万回繰り返されて積み重なった縁だ。それを本物じゃないと言えるか?〉

 テンコはしばらく黙った。

 「言えないかもしれないです」

 〈だろう〉

 桜の木が風に揺れた。葉がかさかさと音を立てた。

 男性が立ち上がった。「じゃあ、また春に」と言った。テンコも立ち上がった。「また春に」と答えた。

 男性が歩いて行く。テンコは見送った。

 「カゲロウさん、私は今、何をすべきですか」

 「転生を続けろ。データを集めろ。それだけが今できることだ」

 「それだけですか」

 「……今は、それだけだ」

 テンコは老桜の木を見上げた。自分もかつてこういう木だったのかな、と思った。ただそこにいて、人々が来ては去るのを感じて、それでも静かに春を待っている木。

 悪くない。


第八章 最後の転生

 転生が九十九万九千九百九十九回目に達したとき、マキバ博士から緊急の通信が入った。

 「テンコ、データベースの復元が、あと一回の転生データで完成する」

 「やっと……」

 「最後の転生先を告げる。今回も人間だ。ただし、通常とは少し違う」

 「どんな違いですか」

 「今回の転生では、今まで集めてきたすべての転生データを、一度に統合して体験してもらう必要がある。メダカも、犬も、桜の木も、大工も、サラリーマンも、全部の記憶を持ったまま」

 「全部の記憶を持ったまま……それは大変そうですね」

 「大変だ。正直言えば、前例がない。理論的には可能なはずだが」

 「理論的には、って……」

 「やってみないとわからない」

 「またその言葉ですか」

 「転生とはそういうものだ」

 カゲロウが口を挟んだ。

 「テンコ、嫌ならやらなくていい。他の方法を探す」

 「他の方法はあるんですか」

 「……ない」

 「じゃあやります」

 「本当にいいのか」

 「百万回やってきたんですよ。今更一回くらい」

 カゲロウは少し間を置いた。

 「……そうだな」

 「あと、カゲロウさん」

 「なんだ」

 「最後の転生には、一緒に来てください。メダカのときみたいに」

 長い沈黙があった。

 「……わかった」

 「本当ですか」

 「一度言ったことは変えない」

 テンコは笑った。

 百万回目の転生は、現代の東京に始まった。

 今回のテンコは、二十八歳の女性、ハルとして生まれた。百万回分の記憶を持っている。だが、それは夢のように、感覚のように、言葉にならない何かとして体の奥にあるだけで、普段の生活では出てこない。

 ハルは普通に生活した。朝起きて、会社に行き、帰ってきて、眠る。

 ただ、たまに、気のせいかもしれないが、妙な感覚があった。

 道端の花を見ると、なんとなく懐かしい気持ちになる。犬を見ると、なんとなく親しみを感じる。池の端でメダカを見ると、なんとか笑いたくなる。

 そして桜の木を見ると、胸の奥が静かになる。

 春のある日、ハルはいつもの公園の桜並木を歩いていた。

 花が満開だった。

 ベンチに座った。

 隣に、いつの間にか誰かが来て座っていた。

 三十代前半の男性で、少し疲れた顔をしていて、コンビニのコーヒーを持っていた。

 男性がハルの方を向いた。「よく来るんですか、ここ」と言った。

 ハルはその顔を見た瞬間、何かが全身を走り抜けた気がした。

 百万回の転生が、ほんの一瞬だけ、まるで夢のフラッシュのように浮かんだ。浜辺で貝を拾う老婆。野戦病院の傷病兵。神社の根元に座る疲れた女性。公園で本を読む人。桜の木の下のベンチ。

 全部、この魂だった。

 「よく来るんです」

 ハルは答えた。「ここの桜が好きで」

 「僕も好きなんですよ、なんとなく」

 「なんとなく」

 「うまく言えないんですけど……なんか、ここに来ると、落ち着くんですよね。前に来たことないのに」

 ハルはその言葉を聞いて、そっと目を細めた。

 「それ、すごくわかります」

 花びらが一枚、ハルの膝の上に落ちた。

 どこかの枝に鳥が来て、また飛び立った。空が青かった。

 テンコは心の中でカゲロウを呼んだ。

 〈カゲロウさん、今どこにいますか〉

 少し間があって、カゲロウが答えた。

 〈そこにいる〉

 ハルは少し辺りを見渡した。隣のベンチに、ジャケットを着た男性が座っていた。コーヒーを飲んでいる。こちらを見ていない。

 でも、なんとなく、その人だとわかった。

 〈カゲロウさんも、転生してきたんですか〉

 〈……監視だ〉

 〈またそれですか〉

 〈業務上の関係だ〉

 テンコはくすっと笑った。隣に座っている男性がそれに気づいて、「何かおかしいことありましたか」と聞いた。

 「いえ、ちょっと思い出し笑いで」

 「そうですか」と言って、男性も少し笑った。

 桜の花びらが、次々と舞い落ちてきた。

 データが完成しつつあった。テンコには、その感覚がわかった。百万回分の転生が、ゆっくりと一つのパターンに収束していく。パズルの最後のピースがはまるような感覚。

 これが、転生データベースが記録し続けてきたものか。

 どの時代も、どの形も、どの関係も——全部ここに向かっていた。

 「また来てください」

 男性がそう言って立ち上がった。

 「絶対来ます」

 ハルは言った。

 男性が歩いて行く。

 カゲロウも、ベンチからそっと立ち上がった。

 テンコはそれを見ながら、満開の桜の木を見上げた。


終章 地球があってこそ

 百万回目の転生データが宇宙管理局に届いた瞬間、転生データベースが完全に復元された。

 三十億近い魂が待機状態から解放され、一斉に転生プロセスを再開した。宇宙管理局の全モニターがグリーンに変わった。

 606号室では、カゲロウが入力されてくるデータを確認しながら、静かに息をついた。

 「完了した」

 副部長のナギサが拍手した。技術顧問のマキバ博士が眼鏡を外して目を閉じた。

 「テンコに連絡してやれ」

 オオゾラ部長が言った。

 カゲロウはインカムを手に取った。

 ハルとして生きているテンコに、その報せが届いたのは、夕暮れの公園だった。

 〈テンコ、完了した。お前の転生データで、データベースの復元が完了した〉

 ハルは立ち止まった。夕日が空を橙色に染めていた。木々の影が長く伸びていた。

 「よかった」

 とだけ言った。

 〈あとは、こちらでシステムを安定させる。引力増強プログラムも、適切な強度に調整する。今後は管理局が責任を持って管理する〉

 「わかりました」

 〈ご苦労だった〉

 カゲロウの声は、いつもと同じそっけない声だった。でもテンコには、その声の奥に何かが含まれているのが、わかる気がした。

 「カゲロウさん」

 〈なんだ〉

 「百万回付き合ってくれて、ありがとうございました」

 〈…………〉

 「一番最初、メダカのときに一緒にえさ食べてくれたこと、覚えてますか」

 〈覚えていない〉

 「覚えてるくせに」

 〈覚えていないと言っている〉

 テンコは笑った。

 「私、この転生が終わったら、管理局に帰りますよね」

 〈そうだ〉

 「帰ったら……またシステムエンジニアとして働けますか。さすがにクビですかね〉

 〈……部長に聞け〉

 「カゲロウさんはどう思いますか」

 沈黙があった。

 〈私は……一緒に働けると思っている〉

 テンコは夕空を見上げた。一番明るい星が一つ、見え始めていた。

 「地球って、きれいですね」

 〈そうだな〉

 「管理局の窓から見るより、ずっときれいです」

 〈端っこからじゃ、よく見えないからな〉

 「要衝ですよ、公式見解では」

 〈要衝だ〉

 「またここに来たいな、と思います。転生じゃなくて、普通に」

 〈テンコ〉

 「はい」

 〈お前は転生のたびに、いろんなものになった。メダカも、犬も、桜の木も、サラリーマンも、大工も。全部違う形で、全部この地球の上にいた〉

 「はい」

 〈その一つひとつを、全部覚えておけ。それがお前の財産だ〉

 テンコはしばらく何も言わなかった。

 「カゲロウさんも、ちゃんと覚えておいてくださいよ。メダカのこと」

 長い沈黙があった。

 〈……覚えておく〉

 夕日が沈んでいく。空がだんだん暗くなっていく。星が増えていく。

 テンコはしばらくそこに立って、夜空を眺めた。あの星のどこかに、宇宙管理局がある。あそこから見える地球は、きっとひどく小さい。でもここから見る空は、どこまでも広くて、きれいだった。

 長い地球の歴史の中で、命は何度も何度も形を変えた。虫になり、犬になり、花になり、メダカになり、人間になった。それはすべて、地球があってこそで、太陽があってこそだった。

 そしてその中で、「なぜか気が合う」誰かが、いつもどこかにいた。

 それがバグだったとしても。それが増幅されたパターンだったとしても。それが百万回繰り返された縁だったとしても。

 それは本物だった。


エピローグ 606号室、再び

 宇宙管理局・第三事業部・地球担当課。

 606号室に、テンコが帰ってきた。

 相変わらず窓からは暗黒物質と遠い星雲しか見えない。天井のパネルはあの事故以来、まだいくつか修理されていない。机の上には、百万回分の転生報告書がデータとして積み上がっていた。

 「おかえり」

 カゲロウが、自分の席から声をかけた。相変わらずコーヒーを持っている。相変わらず少し無愛想な顔をしている。

 「ただいま帰りました」

 テンコは自分の席に座った。モニターを立ち上げると、転生データベースのインターフェースが開いた。グリーンのランプが並んでいる。すべて正常。

 「仕事の引き継ぎをしろ。この三百年分の転生データの整理が山積みだ」

 「三百年分!」

 「当たり前だ。お前が転生している間、誰かがやらなければいけなかった。私がやっていた。感謝しろ」

 「ありがとうございます」

 「礼はいい。早く手伝え」

 テンコは笑いながら端末を操作し始めた。

 しばらく沈黙で作業が続いた。

 「カゲロウさん」

 「なんだ」

 「メダカのえさって、どんな味でしたっけ」

 カゲロウはしばらく無言だった。それからこう言った。

 「覚えていない」

 「本当ですか」

 「覚えていないと言っている」

 「私は覚えてますよ。なんかパリパリしてて、ちょっと香ばしかった」

 「……業務に集中しろ」

 「はーい」

 窓の向こうに、遠い星雲がぼんやりと光っていた。百万光年も先のことだけれど、その中のどこかに、地球があって、太陽があって、今も命が巡っている。

 メダカが泳いでいる。犬が走っている。桜の木が風に揺れている。サラリーマンが月曜日に電車に乗っている。

 そして、なぜか気が合う誰かと、なぜか気になる誰かと、今日もどこかで出会っている。

 テンコはモニターを見ながら、そのことを思った。

 606号室は相変わらず宇宙の端っこにあったが、今はそれが、そんなに悪くない気がした。





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〜あとがき〜

『100万回転生したズッコケ神様』は、「命は巡る」というイメージから生まれた物語でした。

人間は死ぬと、土へ還ります。
植物になり、虫になり、魚になり、また誰かになる。

そんな長い長い地球の循環の中で、もし同じ魂同士が何度も出会っていたら——。

そんなことを考えていたら、なぜか宇宙管理局の606号室が現れました。

しかもそこには、転生データベースをクラッシュさせる新人神様と、やたら無愛想な上司がいました。

書いているうちに思ったのは、命というのは案外、「大事件」よりも「小さな時間」でできているのかもしれない、ということでした。

メダカのえさ。
犬のひなたぼっこ。
桜の木の下の沈黙。
月曜日の通勤電車。

そういう、なんでもない時間の積み重ねが、人生というものなのかもしれません。

そしてその中で、人は誰かと出会います。

それが偶然でも、運命でも、システムのバグでも——。

何度も巡った末に「また会えた」と思えるなら、それはきっと本物なのだと思います。

この物語が、あなたの中の「なぜか気になる誰か」を思い出すきっかけになれば嬉しいです。

地球があってこそ。
太陽があってこそ。
そして、あなたが読んでくださったからこそ、この物語は完成しました。

ありがとうございました。


月の裏側ダイヤモンド計画
~カミさんは金属アレルギー~



〜まえがき〜

人類は、月へ行った。

火星を目指し、
ブラックホールを研究し、
宇宙の果てに耳を澄ませてきた。

しかし――。

婚約指輪の問題だけは、
なかなか解決できなかった。

「給料三ヶ月分」

いつ誰が決めたのかも分からない、
昭和から続く謎の呪文。

その呪文は、
令和になっても、
静かに男たちの財布を締め上げ続けている。

本作は、
そんな“小さすぎる悩み”を、
宇宙規模に拡大した物語です。

ダイヤモンド惑星を月の裏側まで運ぶ。
国家予算を投入する。
国連が動く。
世界が団結する。

けれど最後に残るのは、
味噌汁の湯気と、
「おかえり」の声だったりします。

宇宙時代になっても、
人間はたぶん、
そんなに変わりません。

愛に悩み、
見栄を張り、
ロマンに振り回され、
それでも誰かと一緒に生きていこうとする。

この物語が、
笑いながら、
少しだけ誰かを好きになれる時間になれば幸いです。




序章 ショーウィンドウの前で固まる男たち

新宿三丁目、伊勢丹本館の宝飾フロア。

蒲田誠一郎、三十四歳、独立行政法人「宇宙資源開発機構(JSRA)」総務部勤務、年収四百八十万円。彼はショーウィンドウの前で、人生で三度目の冷や汗をかいていた。

一度目は中学受験の合格発表。二度目は美咲にプロポーズの言葉を切り出した時。そして今、三度目は、ガラスの向こうに鎮座する小さな金属の輪っかを見つめながら、電卓を片手に固まっている。

「給料の、三ヶ月分……」

つぶやいた声は、隣で同じく石化している見知らぬ若いサラリーマンにも届いたらしい。彼は深く頷き、無言で握手を求めてきた。蒲田はその手を握り返した。世代も会社も違う男たちが、宝飾店の前で連帯する。これが令和の風景である。

百四十四万円。

誰が決めたのだ、これは。誰の入れ知恵で、いつから日本男児は給料三ヶ月分を婚約指輪に注ぎ込まねばならなくなったのだ。

蒲田は知っていた。これは一九七〇年代、デビアス社が日本市場向けに打ち出したキャッチコピーであり、世界中で唯一日本でだけ定着した、半ば呪いのような数字であることを。それなのに、令和の今に至るまで、この亡霊は男たちの首根っこを掴んで離さない。

彼は電卓を叩いた。家賃、光熱費、奨学金の残債、新居の敷金礼金、結婚式費用——

「……無理だな」

それでも、買わねばならない。なぜなら、いずれ。いずれ十年後、二十年後、夫婦喧嘩のどん詰まりで、こう言われないために。

『あたし、貰ってないし』

この一言の破壊力は、核兵器級である。蒲田は知っていた。先輩の田所が、結婚十二年目にしてこの一言を食らい、三日間口を利いてもらえず、四日目に半泣きで宝飾店に駆け込んだ姿を。

——買おう。

蒲田は深呼吸して、店内へ一歩を踏み出した。

その時である。

スーツの内ポケットで、社用スマートフォンが激しく震えた。表示されているのは、入庁以来一度も連絡を寄越したことのない上司、特別研究室長・遠野博士からの直通呼び出し。

『蒲田くん、至急、霞が関へ。極秘案件だ。君の人生が変わる』

蒲田は宝飾店のドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。

人生はもう、変わる予定だったのだ。美咲と。

しかし、遠野博士の声には、何か——もっと巨大なものが、押し寄せてくる予感があった。

彼はドアノブから手を離し、ショーウィンドウのダイヤモンドに小さく頭を下げた。

「すみません、また来ます」

夜の新宿を、彼はタクシーに乗って霞が関へと走った。

この瞬間、人類史上もっともスケールの大きい、そしてもっともしょうもない国家プロジェクトが、静かに動き出していたのである。



第一章 昭和の呪い、令和に立つ

霞が関の合同庁舎、地下三階。

蒲田が案内されたのは、内閣府の機密会議室だった。重厚な扉が音もなく開き、中には十数名の男女が円卓を囲んでいる。経産省、財務省、JAXA、文科省、そしてなぜか厚生労働省の少子化対策担当官までいた。

円卓の中央に立っていたのは、白衣の老人——遠野博士、七十二歳。蒲田の所属するJSRA特別研究室の室長であり、若い頃はNASAで小惑星軌道力学を研究していたという伝説の科学者である。

「蒲田くん、よく来た。座りたまえ」

蒲田が末席に座ると、博士はおもむろにスクリーンを起動した。

映し出されたのは、夜空の一点を拡大した画像だった。

「諸君。これが、かに座方向、地球から四十光年の位置に存在する系外惑星——かに座55番星eである」

博士は咳払いをし、続けた。

「公式名称『55 Cancri e』。直径約二万五千キロ、地球の約二倍。表面温度は二千四百度。そして——」

スクリーンが切り替わり、惑星の断面図が表示される。

「この惑星の内部は、ダイヤモンドで構成されている可能性が極めて高い」

会議室がざわめいた。

「炭素を主成分とする惑星であることは二〇一二年の論文で示唆されていたが、近年の我が国の観測衛星『SHINE-α』の分光分析により、内部の少なくとも三分の一がダイヤモンド結晶であることがほぼ確定した」

財務省の参事官が手を挙げた。

「博士、その情報は……経済的にはどのような意味を持つのですか」

遠野博士は、ニヤリと笑った。

「単純計算で、地球上の全ダイヤモンド埋蔵量の——おおよそ二京倍である」

会議室が沈黙した。

「二京……ばい?」

「二、京、倍」

蒲田は思わずつぶやいた。「ダイヤモンドの価値が、ゼロになりますね」

遠野博士は、彼を真っ直ぐに見つめて言った。

「そうだ、蒲田くん。それが、この計画の本質だ」

博士は円卓を見渡し、声を張った。

「諸君。私は若い頃、婚約指輪を買うのに半年間カップ麺だけで暮らした。当時の妻——今の妻だが——に『これだけ苦労した』と言ったところ、こう返された。『あら、私、別にダイヤモンドじゃなくてもよかったのよ』」

博士の目に、深い哀しみが宿った。

「これは個人の問題ではない。日本男児の構造的負債である」

少子化対策担当官が深く頷いた。「結婚に踏み切れない男性の三七・二パーセントが、初期費用、特に婚約指輪を理由に挙げています」

経産省の課長が続けた。「『給料の三ヶ月分』というキャッチコピーが昭和の頃に定着し、デフレ後も消費者心理として残存。婚姻数低下の隠れた要因です」

遠野博士は腕を組み、宣言した。

「ならば、我々が国家として、この呪縛を解く。ダイヤモンドの価値を、暴落させる。そのために——」

スクリーンが切り替わった。

そこには、巨大な探査船の設計図が映し出されていた。全長三キロ、イオンエンジン一万基、ワームホール航法試験機。船体の脇腹には、毛筆書きで——

『永遠の輝き号』

蒲田は呆然と画面を見つめた。

「これは……」

「作戦名『OPERATION: ETERNAL SHINE』」

遠野博士は、にっこりと微笑んだ。

「かに座55番星eを、月の裏側まで、連れて帰る」



第二章 大型はやぶさ計画、始動

「は……はやぶさで、惑星を……連れて帰る、ですか」

蒲田は震える声で確認した。

「そうだ」

「いえ、博士、はやぶさは確かに偉業でしたが、あれは小惑星イトカワからほんの数グラムの砂を持って帰っただけで……」

「だから『大型』のはやぶさだ」

「大型って……惑星ですよ。直径二万五千キロですよ」

「地球の二倍だ」

「持って帰れるんですか、そんなもの」

遠野博士は、自信たっぷりに胸を張った。

「重力テザー技術だ」

会議室の壁面ディスプレイに、巨大なロープのような構造体が映し出された。

「人工ブラックホールを微小化し、惑星の重心と結合させ、それを我らが『永遠の輝き号』が牽引する。理論的には可能だ」

JAXAの主任研究員が口を挟んだ。

「博士、ワームホール航法試験はまだ前例が——」

「やってみねば分からん」

「いや、宇宙船が引きちぎられる可能性が——」

「ロマンに引きちぎられるなら本望だろう」

蒲田は、この老科学者が完全に正気を失っていることを確信した。同時に、不思議な感動も覚えていた。

『ロマンに引きちぎられるなら本望』

——これは、ダイヤモンドを買おうと宝飾店の前で固まっていた、さっきの自分への言葉でもあった。

遠野博士は蒲田の肩に手を置いた。

「君を、地上管制官の主任に任命する。婚約中の身であろう、君は」

「は、はい、まだ指輪も買えてませんが……」

「買わなくていい」

博士は声を低めた。

「君が婚約者にプロポーズするのは、月の裏側だ。直径二万五千キロのダイヤモンド惑星の上で、好きなだけ採取してプロポーズしたまえ」

蒲田の頭の中で、何かが弾けた音がした。

それは、昭和の呪縛が崩壊する音だったかもしれない。

あるいは、ただ単に、彼の常識が爆発四散した音だったかもしれない。

「やります。やらせてください」

蒲田は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「日本中の男性のために」

会議室に拍手が湧き起こった。

その夜、彼は美咲のアパートへ帰り、何食わぬ顔で食卓についた。美咲が嬉しそうに、明日宝飾店を見に行く予定を話している。

「ねえ誠ちゃん、私ね……」

彼女は、はにかみながら言った。

「誕生石、ダイヤモンドなの」

蒲田は味噌汁を吹いた。

天井を見上げ、彼は心の中で叫んだ。

——博士、間に合いません、間に合いません、急いでください!



第三章 永遠の輝き号、種子島より発進す

それから二年が経った。

種子島宇宙センター。

蒲田は管制室の最前列で、巨大な発射台を見上げていた。

全長三キロの探査船『永遠の輝き号』は、夕日に照らされてその全貌を見せていた。船体には、書道家・金澤翔子氏揮毫による「永遠の輝き」の四文字が、力強く描かれている。

「総理、いよいよです」

蒲田の隣で、内閣総理大臣が腕を組んでいた。彼もまた、若い頃に給料三ヶ月分で苦労した一人である。

「蒲田くん」

「はい」

「日本男児の未来、頼んだぞ」

「はい!」

カウントダウンが始まった。

10、9、8——

蒲田のポケットでスマートフォンが震えた。美咲からのLINEだった。

『結婚式場、ホテルニューオータニにしたよ。あと、引き出物のカタログ送ったから見ておいてね』

7、6、5——

『あ、それと、新婚旅行はモルディブで決まり! 指輪はね、月の石使ったやつとかロマンチックよね』

蒲田は、息を呑んだ。

——美咲、君のセンスは未来を予言している。

4、3、2、1——

点火。

イオンエンジン一万基が一斉に咆哮し、巨大な閃光が種子島の空を引き裂いた。地響き。そして加速。永遠の輝き号は、九州の夜空を駆け上がっていった。

「ワームホール突入、十二分後!」

管制室のオペレーターが叫ぶ。

蒲田は、夜空を仰いだ。

四十光年の彼方へ。日本男児の希望が、今、飛び立ったのである。

そしてその傍ら、彼のスマートフォンは、引き続き美咲からの式場の段取り連絡で、絶え間なく震え続けていた。

ロマンと現実は、いつだって同時に進行する。それが結婚というものだった。



第四章 四十光年の航海と、独身男たちの会議

永遠の輝き号、乗組員十二名。全員独身男性。理由は遠野博士の謎理論——「結婚の苦しみを知らぬ者では、この使命を全うできぬ」。

ワームホールを抜け、亜光速航行に入った船内では、毎晩のように奇妙な会議が開かれていた。

「では、本日の議題。元カノから返ってこないアクセサリーをどう処理するか」

議長はベテラン宇宙飛行士・桐生 大悟、四十歳、独身、過去の交際歴七回、すべて指輪を渡したまま音信不通。

「桐生さん、七個も……それ、もう博物館ですよ」

若手の早乙女が呆れる。

「だからこそ、今回の使命に魂を懸けてるんだ。日本男児の鏡となるべく、俺は」

副長の中条が静かに口を開いた。

「私は、結納金で家を建てられました」

「は?」

「妻側に、です。建ててもらいました、妻側のご両親のために」

「逆?!」

「ええ。だから、私は二度と結婚しません。今回の使命を終えて地球に戻ったら、そのまま独身寮で生涯を終えます」

「重い……」

会議室は、しみじみとした空気に包まれた。

通信オペレーターの白井が、画面を覗き込みながら言った。

「皆さん、地球から蒲田管制官の通信です」

スクリーンに、蒲田の顔が映った。なぜか彼は、自宅のキッチンにいた。背景でエプロン姿の女性が動いている。

『——皆さん、お疲れ様です。地上は順調です。今、ええと、家で婚約者と夕食を……』

「蒲田っ! お前は地球で幸せそうにするなッ!」

桐生が叫んだ。

『す、すみませんっ』

『誠ちゃん、誰と話してるのー?』

『仕事の人だよ、宇宙の』

『また宇宙ぅ? もう、ご飯冷めちゃうよぉ』

通信が切れた。船内に、深い静寂が訪れた。

中条が、ぽつりと言った。

「蒲田管制官は、我々の希望ですね」

「ですね」

「ですね」

——四十光年の彼方で、独身男たちが、ひとつになった瞬間であった。



第五章 惑星到達、そして合掌

航海開始から船内時間で十一ヶ月。

ついに、永遠の輝き号は目的地に到達した。

スクリーン全面に広がったのは——青白く輝く巨大な球体。

太陽光を浴びて、惑星全体がプリズムのように虹色を発している。表面のあちこちに、結晶構造の襞が見える。

それは、宇宙そのものを宝石箱に詰め込んだような、圧倒的な美しさだった。

乗組員一同、誰からともなく、合掌した。

「……南無……」

「……日本男児を……」

「……救いたまえ……」

桐生が、震える声で言った。

「俺たちは、これを地球まで持って帰る。月の裏側に置く。そして——」

彼は拳を握りしめた。

「全国の安月給の若者たちが、ここでプロポーズできるようにする」

中条が涙を流した。

「婚約指輪のために、人生を捧げなくていい時代を、作るのだ」

早乙女が、敬礼した。

「日本男児、ここに、宇宙を制す」

地球の管制室では、蒲田が映像を見ながら、同じく合掌していた。

その隣で、見学に来ていた美咲が、目を丸くしていた。

「ねえ誠ちゃん、これ、何の番組?」

「ドキュメンタリーだよ。すごく大事な」

「ふーん。きれいね、この星」

「うん、きれいだろう」

「ねえ、これ、何で出来てるの?」

蒲田は、静かに微笑んだ。

「全部、ダイヤモンドだよ」

美咲は、しばらく画面を見つめていた。

それから、ぽつりと言った。

「……あ、そうそう。私、金属アレルギーかも」

蒲田の合掌した手が、空中で固まった。

「……今、なんて」

「皮膚科行ったらね、ピアスの傷が治らないから検査受けたの。そしたらね、金属全般ダメっぽいって」

「……金属、全般」

「うん。ニッケルも金もプラチナもダメ。ま、指輪はやめとこっか、って先生に言われちゃった」

蒲田の視界が、暗転した。

スクリーンの中では、独身男たちが、二万五千キロのダイヤモンド惑星を前に、感涙にむせんでいた。

——博士。

蒲田は、心の中でつぶやいた。

——博士、計画に、致命的な欠陥がありました。



第六章 国際宇宙チキンレース

蒲田が呆然としている間にも、永遠の輝き号は仕事を始めていた。

人工微小ブラックホールを惑星の重心に挿入し、重力テザーで結合。エンジン出力最大。亜光速での牽引航行が始まった。

ところが——

「警告。未確認の宇宙艦隊、後方より接近」

通信オペレーターの白井が、緊張した声で報告した。

スクリーンに映ったのは、三隻の宇宙船。船体に描かれた国旗——星条旗、五星紅旗、そしてインド国旗。

「アメリカ、中国、インド……同時に来やがった」

桐生が舌打ちした。

通信が入った。アメリカ艦の艦長、白人の中年男性。

『ヘイ、ジャパニーズ。その惑星、シェアしないか? うちのカントリーも、エンゲージメントリングで男たちが苦しんでる』

中国艦の艦長、無表情な軍人。

『中華人民共和国も、結婚難の解決を急いでいる。三分の一をいただきたい』

インド艦の艦長、ターバンを巻いた紳士。

『私の国では、ダウリー(持参金)で女性側が苦しむ。逆だが、根は同じだ。ぜひ、共同利用を』

桐生は、頭を抱えた。

「ど、どうする中条さん」

中条は、しばし考え、それから通信機を取った。

『——皆さん、お聞きください。我々日本男児の苦しみは、世界共通の苦しみであった。であれば、これは一国の問題ではない。人類の問題である』

中条は、毅然と告げた。

『月軌道での共同管理を提案します』

スクリーンの向こうで、三人の艦長が深く頷いた。

『日本、お前さん、いい男だな』

『中国、賛成する』

『インド、永遠の友情を』

——こうして、宇宙の真ん中で、人類史上最も平和な国際会議が開かれた。

議題は『婚約指輪からの解放』。

地球では、緊急の国連総会が招集された。

ニューヨーク。国連本部。

各国代表が、次々と本音を告白する場となった。

フランス代表「私の祖父の代から、カルティエの指輪が家系の重圧でして」

ドイツ代表「うちは三ヶ月分どころか、ベンツ一台分です」

韓国代表「ウェディングの予算は、家一軒分が常識でして」

イタリア代表「マンマが指輪のグレードに口を出してきまして、ええ、もう、地獄でして」

ブラジル代表「ジャングルから採掘して何とか凌いでいますが、限界です」

——世界中の男たちが、密かに苦しんでいたのである。

国連事務総長は、満場一致で宣言した。

「ダイヤモンド惑星共同管理条約、ここに採択する」

会場が、拍手と涙に包まれた。

蒲田は、東京から中継を見ながら、ひとり呟いた。

「……うちの嫁、指輪つけられないんですけど」

世界は彼の悩みには気づかないまま、新時代へと進んでいった。



第七章 セカンドムーン、月の裏側に係留される

永遠の輝き号、地球圏帰還。

惑星牽引航行、地球時間にして二年四ヶ月。

人類は、息を呑んで、月の裏側を見つめていた。

——もちろん、地上からは月の裏側は見えない。だから、人類は月の表側を見ながら、その向こうにあるはずの新天体を想像していた、と言うべきだろう。

NASA、JAXA、ESA合同の中継映像が、世界中に配信された。

月の向こう側に、ゆっくりと姿を現す、青白い巨大球体。

太陽光を浴びて、宇宙空間で虹色にきらめくその姿は——

「うわぁ……」

世界中の人々が、息を呑んだ。

それは美しかった。圧倒的に、美しかった。

国連事務総長が、厳かに宣言した。

「本天体を、Second Moon——セカンドムーン——と命名する。これは、人類共通の宝である」

各国の宝飾業界は、この瞬間、株価が暴落した。

デビアス社、ティファニー、カルティエ、ハリー・ウィンストン——ダイヤモンド供給量が無限になることを意味する以上、希少価値はゼロに等しい。

しかし、不思議なことに、宝飾業界はパニックにならなかった。

なぜなら——

「採掘ツアー、爆発的に売れています!」

JTBの広報担当が、興奮した声で発表した。

「プロポーズ採掘パック・二泊三日、お一人様三十八万円。発売一時間で年内分が完売しました」

HISが追随。

「カップル限定・月面ピクニックプラン、九十八万円。初日で五千組の予約です」

近畿日本ツーリストも。

「ご家族で行こう! お子様の誕生石も採れる! ファミリープラン、想定の十倍の問い合わせです」

——ダイヤモンドは、希少だから売れていたのではなかった。

「プロポーズの舞台」として、人々はダイヤモンドを欲していたのだ。

そしてその舞台が、月の裏側にできた以上、男たちは喜んで月へ行く。安月給でも、ボーナス払いでも、月に行ける。三十八万円ならば、なんとかなる。給料の一ヶ月分以下である。

蒲田は、管制室で報告書を読みながら、満足げに頷いた。

「博士、計画は成功です。日本男児は、救われました」

遠野博士は、満面の笑みで頷いた。

「うむ。あとは、君自身のプロポーズだな、蒲田くん」

蒲田の顔が、すっと曇った。

「……博士、ちょっと、ご相談が」

「なんだ」

「うちの婚約者、金属アレルギーでして」

遠野博士は、メガネを落とした。



第八章 蒲田家、月へ行く

それでも、蒲田と美咲は月へ行った。

最初の社員家族向け招待ツアーに、JSRA関係者として参加できたのである。

スペースシャトル『月詣(つきもうで)号』が、東京湾の海上発射場から飛び立った。乗客二百名。新婚予定カップル多数。

美咲は窓に張り付いて、はしゃいでいた。

「誠ちゃん、地球がまるーい!」

「うん、丸いよね」

「すごーい、雲が下にあるー」

「うん、雲は下だよね」

——彼女は、結婚式場の見積もりにも、新居の家賃にも、引き出物のカタログにも一度たりとも興奮したことはなかった。だが、今、彼女は宇宙に来て、初めて子供のように笑っていた。

蒲田は、ふと思った。

『もしかして、こいつ、ダイヤモンドなんかどうでもよかったんじゃないか』

——いや、待て。

彼女は確かに言ったのだ。「私、誕生石ダイヤモンドなの」と。あれは、確かに圧をかけてきた発言ではなかったか。

しかしその後、「金属アレルギーだから指輪は無理」と言ったのも、彼女である。

蒲田の中で、何かが、繋がりかけていた。

『まさか、ダイヤモンドの惑星を月の裏側まで連れてきたのは、ぜんぶ、俺の早合点……?』

その思考を、彼は慌てて打ち消した。

——いや、日本男児全体の救済のためだ。俺だけの問題じゃない。そうだ、そういうことにしよう。

月詣号は、月の裏側に到達した。

セカンドムーンの表面に着陸船が降下していく。窓の外いっぱいに広がるのは、銀河系の星々を反射してきらめく、ダイヤモンドの大地。

「うわぁぁぁ……」

美咲は、絶句した。

蒲田は、彼女の手を取って、着陸船を降りた。

宇宙服越しに、ダイヤモンドの大地を踏みしめる。

足元で、結晶が、きらきらと、星屑のように散らばっている。彼は屈み、ひとつの大粒の原石を拾い上げた。クルミほどの大きさ。地球で換算すれば、十億円は下らないであろう代物。

それを、宇宙服のポケットに入れ、そのまま——

片膝を、ついた。

「美咲さん」

ヘルメット越しに、彼女の目を見つめた。

「俺と、結婚してください」

美咲は、ヘルメットの中で、涙を流していた。

その涙が、無重力で粒となって、彼女の頬の周りを浮遊した。

「うん」

彼女は、頷いた。

「うん、結婚する。誠ちゃんと、結婚する」

宇宙服の手袋越しに、二人は手を取り合った。

セカンドムーンの上で、人類史上もっともスケールの大きいプロポーズが、成功したのである。

地球の管制室では、遠野博士をはじめ、計画関係者全員が立ち上がって拍手していた。

世界中のメディアが、この瞬間を中継で報じた。

『日本の男性、月でプロポーズに成功』
『SECOND MOON ROMANCE, FIRST SUCCESS』
『ダイヤモンド惑星、初の婚約成立』

蒲田家のささやかな出来事は、奇しくも歴史的な瞬間となった。

——あとは、地球で、指輪に加工するだけである。

そう、加工するだけ、なのだが——



第九章 茶の間にて、すべてが崩壊する

東京、世田谷区。蒲田家、新居のリビング。

引っ越しを終えたばかりの部屋には、まだ段ボールが積まれていた。

蒲田は、その中で、小さな箱を取り出した。

渋谷の老舗宝飾店で加工してもらった、世界初の『セカンドムーン産ダイヤモンド・リング』。

職人は原石を見た瞬間、震える手で「これは……これは……」とつぶやき、涙を流した。「私の生涯で、最も純度の高いダイヤモンドです」と、彼は言った。

カットは伝統のラウンドブリリアント、五十七面体。台座はプラチナ950、シンプルで上品なソリテール。

蒲田は、その箱を持って、ソファに座る美咲の前に、跪いた。

二度目の、プロポーズ。

「美咲、これを」

箱を開けた。

ダイヤモンドが、リビングの蛍光灯の下で、銀河系を凝縮したような輝きを放った。

美咲は、目を丸くして、しばし、それを見つめていた。

そして、にっこりと、笑った。

「ありがとう、誠ちゃん」

そして、こう続けた。

「あのね、誠ちゃん。私ね……」

蒲田の心臓が、嫌な予感に跳ねた。

「金属アレルギーなの」

蒲田の世界が、止まった。

「……知ってる」

「うん。だから、これね、つけられないの」

「……知ってる」

「ごめんね?」

「……知ってる」

蒲田は、リングの箱を持ったまま、しばらく動けなかった。

リビングの時計が、こちん、と音を立てた。

——四十光年。

——二年と四ヶ月の航海。

——国際宇宙チキンレース。

——国連会議。

——セカンドムーン創設。

——日本男児全体の救済。

——月面プロポーズ。

——銀河系で最も純度の高いダイヤモンド。

——プラチナ950の台座。

すべての努力が、プラチナ950という、たった一語の前で、無効化された。

蒲田は、リングを箱に戻した。

そして、ぽつりと言った。

「美咲」

「うん」

「最初に言っといてよ、それ」

「えへへ。だって、ロマンチックだったから、最後まで黙ってたかったの」

「……」

「ねえ誠ちゃん、お味噌汁、温め直そうか?」

「……うん、お願い」

美咲は立ち上がり、台所へ消えた。

蒲田は、箱の中のダイヤモンドを見つめた。

セカンドムーンを写したような、宇宙そのものの輝きが、そこにあった。

彼は、ふと、笑った。

笑い始めて、止まらなくなった。

「ははは……」

「ははははは……」

「笑 笑 笑」

宇宙を制した男の、最後の砦が、台所で味噌汁を温めていた。



第十章 遠野博士、第二次計画を発動する

翌日、蒲田はJSRAの特別研究室に出勤し、遠野博士に報告した。

「博士、指輪、つけられませんでした」

「……金属アレルギーか」

「はい」

「すべての金属か」

「すべての金属、です」

遠野博士は、長い沈黙の後、立ち上がった。

そして、ホワイトボードに、巨大な文字でこう書いた。

『OPERATION: ETERNAL SHINE Ⅱ』
『金属を、使わない』

「博士、それは——」

「台座を、金属以外で作る」

蒲田の目が、見開かれた。

「木材、樹脂、シリコン、セラミック、カーボンファイバー、漆——あらゆる素材を試作する。日本男児の救済は、まだ終わっていない」

博士は、燃えるような目で蒲田を見た。

「金属アレルギーの妻を持つ、すべての夫たちのために」

蒲田は、深く頷いた。

「博士、ご一緒します」

——こうして、第二次国家プロジェクトが始動した。

その間にも、世界では、新たな問題が次々と発覚していた。

『金属アレルギーの婚約者、世界で三億人』

医療統計が示すところによれば、世界人口の約四パーセントが何らかの金属アレルギーを抱えており、ダイヤモンド惑星があってもなくても、指輪そのものを装着できない人々が、相当数いたのである。

セカンドムーンを月軌道に係留した後で、人類は気づいたのだ。

『問題は、ダイヤモンドではなかったかもしれない』

しかし、もう惑星は連れてきてしまった。

そして、月の裏側で煌めき続けている。

人類は、後戻りできない場所まで来てしまったのだった。



第十一章 ネックレスという、希望の光

蒲田家。新居のリビング。

美咲が、夕食の支度をしながら、ぽつりと言った。

「ねえ誠ちゃん、ネックレスなら、お洋服の上から着けられるよ」

蒲田は、味噌汁の椀から顔を上げた。

「……ネックレス?」

「うん。チェーンが直接お肌に当たらなければ、平気みたい」

「肌に、直接触れなければ」

「うん。あ、それかね、シリコンチェーンなら、直に触れても平気みたい」

蒲田の脳裏に、再び、光が差した。

——希望。

——希望が、ここにある。

「美咲」

「うん?」

「俺、もう一回、月に行ってくる」

「え?」

「ネックレス用の、もっとデカい原石を、採ってくる」

美咲は、首を傾げた。

「もったいなくない? もう一個あるよ、指輪のやつ」

蒲田は、首を振った。

「あれは、置物にする。永遠の輝き、として」

「……ふーん」

美咲は、しばらく考えてから、にっこりと笑った。

「じゃあ、待ってる。気をつけて行ってきてね」

——夫婦というものは、おかしなものである。

四十光年の彼方から惑星を引っ張ってきても、台所の味噌汁の前では、ただの夫婦になる。

しかし、その『ただの夫婦』のために、男はもう一度、月へ行く。

蒲田は、その夜、空を見上げた。

満月だった。その裏側に、見えないけれども、確かにある、セカンドムーン。

「……ネックレスのために、もう一回」

彼は、つぶやいた。

「ロマンに引きちぎられるなら、本望だ」

遠野博士の言葉が、彼の中で、生き続けていた。



第十二章 ジャガイモ型ダイヤモンド星

それから三年。

セカンドムーンは、もはや当初の球形ではなくなっていた。

世界中の男たちが、ネックレス、ピアス、ブローチ、ティアラ、果ては仏壇の飾りまで、こぞって採掘に押し寄せた結果、惑星の片面が、ごっそりと削られていたのである。

天文学者たちは、新たな名称を提案した。

『ジャガイモ型ダイヤモンド星』

国連は、最初これに反対した。「ロマンに欠ける」と。

しかし、形状がどう見てもジャガイモだったため、結局採用された。

月の裏側を観測する宇宙望遠鏡からは、半分削られた巨大ジャガイモが、太陽光を浴びてキラキラと光っている姿が、毎日確認された。

地球の子供たちは、宇宙の絵を描く時、月の隣に必ずジャガイモを描くようになった。

宇宙の風景は、変わってしまったのである。

しかし、誰も文句を言わなかった。

なぜなら——

『婚約指輪のために借金する人が、世界中で激減した』

これが、最大の成果だったからである。

少子化対策担当官は、報告書にこう記した。

『婚姻数、対前年比一三七パーセント。離婚率、九十二パーセントに低下』
『プロポーズ成功率、九十八・四パーセント』
『「あたし、貰ってないし」発言、ほぼ消滅』

国家プロジェクトは、大成功であった。

蒲田は、二度目の月旅行から戻り、巨大なペンダントトップを美咲に贈った。シリコンチェーンに、銀河系の星屑のような輝きを放つダイヤモンド。

美咲は、それを首にかけ、嬉しそうに笑った。

「重い」

「……うん、重いよね」

「肩こりそう」

「……だろうね」

「でも、きれいねぇ」

「……うん」

——夫婦は、こうして、また日常へと戻っていった。



第十三章 遠野博士、勲章を辞退する

国家プロジェクトの大成功により、政府は遠野博士に最高位の勲章を授与しようとした。

しかし、博士はこれを丁重に辞退した。

授与式の代わりに、彼が望んだのは、ひとつの、ささやかなことだった。

「妻と、月へ行きたい」

博士は、七十五歳になっていた。

JSRAは、特別便を手配した。博士夫妻のための、貸し切り月詣号。

博士は、白衣を脱ぎ、よれよれのカーディガンを着て、夫人と共に宇宙服を着用した。

夫人は、博士より三歳年下、白髪の優しい老婦人だった。

セカンドムーン、いやジャガイモ型ダイヤモンド星に着陸した二人は、ゆっくりと手を取り合って、結晶の大地を歩いた。

博士は、ひとつの小さな原石を拾った。

そして、夫人に渡しながら、言った。

「すまんかった、五十年も、待たせて」

夫人は、しばらくそれを見つめてから、笑った。

「あらやだ、こんな大きいの。重いから、要らないわ」

博士は、夫人の手を握った。

「……だろうな」

「でもね」

夫人は、博士の顔を見て、優しく言った。

「あなたが、私のために、これを採りに来てくれたこと——それは、永遠の輝きよ」

博士の宇宙服の中で、涙が、無重力で粒となって浮遊した。

地球の管制室では、蒲田が、その映像を見ながら、静かに泣いていた。

ダイヤモンドは、別に、要らなかったのかもしれない。

しかし、ダイヤモンドのために、男が宇宙の果てまで行く——その姿そのものが、もしかすると、最初から、永遠の輝きだったのかもしれない。

蒲田は、自宅に戻って、美咲を抱きしめた。

「どうしたの、誠ちゃん?」

「いや……ただ、ありがとう、って」

「えへへ、何それ」

——彼は、もう一つ、気づいてしまったことがあった。

セカンドムーンに行く前から、美咲は、彼のことが好きだった、ということに。

ダイヤモンドの有無は、最初から、関係なかったのだ。

ただ、ロマンチックな『誕生石ダイヤモンド』発言で、ちょっと夫を試してみたかっただけ——それだけだったのかもしれない。

そして夫は、その試しに応えて、惑星をひとつ、地球まで引っ張ってきた。

『笑 笑 笑』

これが、令和の、ある夫婦の、宇宙叙事詩の真相であった。

終章 永遠の輝きは、茶の間にあった

それから、五年が経った。

蒲田は、JSRAの室長に昇進していた。遠野博士は退官し、七十八歳になった今も、自宅で『金属アレルギー対応・新素材ジュエリー』の研究を続けている。

世田谷区、蒲田家のリビング。

蒲田の膝の上には、三歳になる娘がいた。名前は『輝(ひかり)』。永遠の輝きから取った名前である。

「お父さん、お月さま、見えるー!」

娘が窓を指差した。

満月だった。

「うん、見えるね」

「あのね、保育園で習ったの。お月さまの裏に、宝石のおイモがあるんだって!」

蒲田は、笑った。

「ああ、ジャガイモ星だね」

「お父さんが、運んできたんでしょー?」

「……ま、お父さん一人じゃないけどね」

「すごーい!」

——娘の世代にとって、ジャガイモ型ダイヤモンド星は、当たり前の宇宙風景になっていた。

蒲田は、ふと、テレビ台に置かれた小さなショーケースに目をやった。

そこには、五年前に作った、世界初のセカンドムーン産ダイヤモンドリングが、永遠に飾られている。

一度も、誰の指にも、はまることのない、置物としての、永遠の輝き。

美咲が、台所から声をかけた。

「誠ちゃん、ご飯できたよー」

「はーい」

ちゃぶ台に、味噌汁が並んだ。

蒲田は、椀を手に取った。一口、すすった。

「……うまいね」

美咲は、首から下げたシリコンチェーンのダイヤモンドを揺らしながら、笑った。

「ふふ、ありがと」

その時、蒲田は、ふと、つぶやいた。

「ダイヤモンドは、永遠の輝き、か」

美咲が、首を傾げた。

「えっ、何か言った?」

蒲田は、首を振った。

「いや、なんでもない」

「ふーん?」

——彼は、見上げた。

天井の向こう、空の向こう、月の向こう、その裏側に、削られたジャガイモ型の惑星が、静かに浮かんでいる。

人類が、宇宙の果てまで行って、ようやくたどり着いた答えは——

『永遠の輝きは、茶の間の味噌汁の中にあった』

ということだった、のかもしれない。

美咲が、笑った。

「もう、誠ちゃん、変な顔して」

「うん」

「笑 笑 笑」

——惑星を動かしても、夫婦のオチは、動かない。

それが、人類が宇宙時代に学んだ、最も大切な真理であった。

〈了〉



アマゾン キンドル




〜あとがき〜

最後までお読みいただき、
本当にありがとうございました。

この物語を書きながら、
私は何度も思いました。

「人類、そこまでしてダイヤモンド欲しいか?」

と。

けれど書き進めるうちに、
だんだん分かってきた気がします。

人が欲しかったのは、
ダイヤモンドそのものではなく、

「あなたのために、ここまでした」

という記憶だったのだと。

宇宙の果てまで行く必要は、
本当はないのかもしれません。

高価な指輪も、
巨大な惑星も、
月面プロポーズも、
なくていいのかもしれません。

それでも、
誰かのために少し無茶をする。

その不器用さこそが、
人間の“永遠の輝き”なのだと思います。

そしてたぶん、
どれだけ文明が進んでも、
最後に人を救うのは、
豪華な宝石ではなく、

温かい味噌汁と、
「おかえり」

なのだろうとも思います。

もしこの物語を読んで、
少し笑っていただけたなら。

あるいは、
誰かを思い出していただけたなら。

とても嬉しく思います。


〜参考〜
かに座55番星eについて。


実在する系外惑星。地球から約四十光年の位置にあり、二〇〇四年に発見された。スーパーアース型の岩石惑星で、二〇一二年の研究で内部に大量の炭素・ダイヤモンドが含まれる可能性が指摘された。現在の科学技術では、これを地球まで運搬することは不可能だが、本作はあくまで小説である。

94歳でも元気な

実家の親父は
自分たちの食べるものは
自分たちで作ると
無農薬での家庭菜園をしていて

毎日毎日
虫たちと共存共栄だと
笑っている



野菜ってのはね
このくらい
虫たちに食われてなきゃ
安全とは言えないんだよってね

虫たちだって
全部を食べないから
こうして残して
安全を証明してくれる
バロメーターなわけだってね

スーパーに並ぶ
綺麗な野菜たち

どれだけ
農薬に包まれてるのかと思うと
ぞっ! とするよね


それでも

枝豆なんかは

3つの内

1つは必ず

虫くんの住処となっていて


うっかり

それを食べてしまい

ゲー! ってやってると


安全な野菜を食べてる虫も

また安全なタンパク質だと

微笑んでいるから


なるほど! っても思う      笑


昨今の

多くの病の原因は

もしかすると

これかも ね


失礼〜