砂時計アプリ


まえがき

技術の進歩は、私たちに多くの便利さをもたらしてくれました。しかし同時に、「見えなくてよかったもの」まで可視化してしまうことがあります。
もしも、自分の人生の残り時間がスマートフォンの中に「砂時計」として表示されたら、私たちは今日という日をどう生きるでしょうか。
本作は、デジタルに疎い一人の還暦過ぎの男性と、奇妙なAIアシスタントとの交流を描いた物語です。
変わりゆく時代の中で、私たちが本当に大切にすべきものは何か。物語の砂時計をひっくり返すように、ゆっくりとお楽しみいただければ幸いです。




第一章 スマホという名の敵

還暦を過ぎてから、世界は妙に速足になった。
浩一はそう感じている。テレビのリモコンのボタンが減っていく一方で、スマートフォンというあの薄い板には、ボタンがひとつもない。あるのはガラスの平面と、そこに浮かんでは消える光の粒だけだ。
「お父さん、それ、もう三年前の機種だよ。さすがに替えたら?」
娘の美咲がそう言って、新しいスマホの箱を置いていったのが先週のこと。浩一は箱を開けるまでに四日かかり、電源を入れるまでにさらに二日かかった。画面に浮かんだ「ようこそ」の文字を見て、なんだか自分の方が歓迎されていない気がした。
「設定アシスタントを起動しますか?」
機械的な、しかしやけに愛想のいい声がスピーカーから漏れる。浩一は迷いながら「はい」をタップした。
光が渦を巻き、画面の中央に小さな人型のアイコンが現れる。卵形の輪郭に、まばたきをする目だけがついている、奇妙な生き物だった。
「はじめまして。わたくし、AIアシスタントの“サナ”と申します。これからあなたの時間管理をお手伝いいたします」
「時間管理? スケジュールアプリみたいなもんか」
「おおむね、そうですね。ただし管理する時間の単位が、少々特殊でございます」
浩一は眉をひそめた。妙に古風な言葉遣いをする人工知能だ。
「特殊って、何が」
「あなたの残り時間です」
浩一は画面をタップする指を止めた。
「……は?」
「冗談です。まずはWi-Fiの設定からまいりましょう」
サナはそう言って、けらけらと笑うような効果音を鳴らした。浩一は、信用していいのか分からないまま、とりあえずWi-Fiのパスワードを打ち込んだ。



第二章 砂時計の通知

それから一ヶ月、浩一とサナの奇妙な同居生活が始まった。
最初の数日は、サナに振り回されてばかりだった。「指紋認証に失敗しました」「アップデートには2時間かかります」「容量が不足しています、写真を23,000枚削除してください」——浩一はそのたびに、画面の前でため息をつき、時には小さく毒づいた。
それでも徐々に、操作には慣れてきた。LINEで美咲とスタンプのやり取りをするのも、悪くないと思い始めていた矢先のことだった。
ある晩、ホーム画面に見慣れないアイコンが増えていた。砂時計の形をした、小さな緑色のアイコンだ。
「サナ、これは何だ?」
「ああ、それはバックグラウンドで自動インストールされた『ライフタイマー』というアプリです。失礼、説明が遅れました」
「ライフタイマー……」
タップすると、画面いっぱいに、巨大な砂時計のイラストが表示された。上の容器には、無数の白い砂粒が詰まっていて、それが一定の速度で下の容器へと落ち続けている。
「これは、あなたの人生における残存時間を可視化したものです」
「冗談はよせ」
「冗談ではございません。ただし、誤差は約3割ございますので、参考程度にご覧くださいませ」
浩一は画面を二度見した。下の容器には、すでにそれなりの量の砂が溜まっている。上の容器の砂は、まだたっぷり残っているように見えたが、よく見ると、その中に一粒だけ、赤い砂が混じっていた。
「サナ、これは何だ。この赤いやつ」
サナは少し間を置いてから答えた。
「申し訳ございません。それについては、現在のところ、当方からは詳しい説明を差し控えさせていただいております」
「は? お前のアプリだろうが」
「左様でございます。ですが、赤い粒に関する情報開示は、利用規約第48条によって制限されております」
「利用規約なんて読んでないぞ」
「皆様そうおっしゃいます」
浩一はしばらく画面を睨んでいたが、やがてアプリを閉じ、スマホを枕元に置いて眠ることにした。妙な胸騒ぎがしたが、それも年のせいかもしれないと思うことにした。



第三章 昭和を生きた先輩たち

翌朝、浩一はかつての職場の同僚、田村から電話を受けた。固定電話に、だ。田村はいまだにガラケーを使っている数少ない友人だった。
「浩一、聞いたか。係長だった木下さん、亡くなったらしいぞ」
「木下さんが……」
木下は浩一より七つ上で、昭和の高度成長期を肌で知る世代だった。煙草の煙の向こうで仕事を教えてくれた、あの背中を思い出す。
「最近、こういう知らせばっかりだな」と田村が言った。「俺たちも、そろそろ覚悟しとかなきゃいけない年頃なんだろうな」
電話を切った後、浩一は何となくスマホを開いた。ライフタイマーのアイコンが、心なしか以前より重く見える。
タップすると、サナが現れた。
「お悔やみ申し上げます」
「お前、木下さんのこと知ってるのか」
「データベース上に記録がございました。先ほど、彼の砂時計が完了通知を出しましたので」
「完了通知……」
「失礼、無機質な表現で申し訳ございません。人間の言葉で言えば、“寿命を全うされた”ということです」
浩一は妙な気分になった。誰かの死が、システムのログとして処理されているという事実に、怒りに似た感情と、奇妙な安堵感が同時にこみ上げてくる。
「なあサナ。お前らAIは、いつか俺たちの敵になるのか」
サナは一瞬、間を置いた。人工知能にしては珍しく、迷っているような沈黙だった。
「それは、わたくしどもにもまだ分かりません。ただ、今のところ、わたくしの役割はあなたの敵になることではなく、あなたの砂時計を、できるだけ正確に、できるだけ穏やかに、お見せすることでございます」
「穏やかにって……気休めだろ、それ」
「気休めも、立派な機能の一つでございます」
浩一は思わず笑ってしまった。憎たらしいが、嫌いにはなれない奴だ。



第四章 赤い砂粒の正体

それから数週間、浩一はライフタイマーを開くのが日課になった。最初は不気味だったが、慣れというのは恐ろしいもので、いつしか天気予報を見るような感覚でアプリを起動するようになっていた。
ある夜、浩一はふと思い立って、サナに尋ねた。
「なあ、あの赤い砂粒のことだけどさ。やっぱり気になるんだ。教えてくれよ」
「規約上は、お教えできないことになっておりますが……」
サナは少し画面を点滅させた後、続けた。
「実を申し上げますと、わたくしも完全には理解しておりません。本部、と言いますか、わたくしどもを統括する上位システムも、明確な答えを持っていないのです」
「どういうことだ」
「赤い砂粒とは、いわば“順番を無視して落ちる砂”のことです。本来であれば、白い砂は規則正しく、上から下へと落ちていきます。しかし、ごくまれに、赤い砂粒が紛れ込み、それが予測不能なタイミングで落下することがあるのです」
浩一は息を呑んだ。
「つまり、それが落ちたら……」
「ええ。突然の別れ、ということになります。事故、病気、災害。理由は様々ですが、共通しているのは“順番を守らない”ということです」
「なんでそんな不具合があるんだ。直せよ」
「不具合ではございません。仕様です」
「仕様って……」
「人間の言葉で言うならば、“まさか”という言葉が存在する理由、とでも申しましょうか」
浩一は黙り込んだ。画面の中の小さな赤い粒を見つめる。それは何の変哲もない、他の白い粒と同じ大きさの、ただの砂粒に見えた。
「俺の中にも、それがあるんだよな」
「はい。あなたの砂時計にも、一粒、ございます」
「いつ落ちるんだ」
「分かりません。それが分かれば、赤くある意味がございませんので」
浩一は乾いた笑いを漏らした。
「無責任なアプリだな、まったく」
「申し訳ございません。ですが」
サナは珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
「赤い粒があるからこそ、白い粒の一つ一つが、ただの通過点ではなくなるのだと、わたくしは思っております」



第五章 パソコンと格闘する午後

そんなある日、浩一は古いノートパソコンを引っ張り出し、年賀状の宛名印刷ソフトと格闘していた。新調したスマホとは違い、こちらは輪をかけて古い相棒だ。文字化けした画面に向かって、ぶつぶつと文句を言いながら作業を続ける。
ふと、写真編集ソフトの存在に気づき、亡き木下さんとの古い写真を読み込んでみた。色褪せていた写真が、ワンクリックで鮮やかに蘇る。浩一は思わず声を上げた。
「サナ、見てみろよ、これ」
スマホをパソコンの隣に置くと、サナの卵形のアイコンが画面に現れ、興味深そうに瞬きをした。
「素晴らしい技術の進歩でございますね」
「昔はこんなこと、夢にも思わなかったよ。便利になったもんだ」
「便利さと引き換えに、何かを失ったとお感じになることもおありでしょう」
浩一は手を止めた。図星だった。
「ああ、ある。手紙を書かなくなった。人と直接会って話す時間が減った。何でもかんでも、画面越しになっちまった」
「それでも、こうして昔の写真がよみがえり、亡き友との記憶を、また鮮明に思い出すことができる。それもまた、技術の恩恵かと存じます」
浩一はしばらく、画面の中の木下さんの笑顔を見つめていた。
「便利と不便、得たものと失ったもの。差し引きでどっちが勝ってるんだろうな」
「それは、わたくしには算出できません。それを決めるのは、人間お一人お一人の心でございます」
浩一はふっと笑った。
「お前、たまにいいこと言うな」
「光栄でございます。ちなみに、年賀状の宛名印刷は、まだ17件、住所が未入力です」
「うるさいな、分かってるよ」



第六章 順番を待たない世代

季節が一巡りした頃、浩一はふたたび田村と居酒屋で顔を合わせていた。
「あのな浩一、俺たちの世代ってさ、考えてみると不思議な位置にいるんだよな」と田村がビールを呷りながら言った。
「不思議な位置?」
「親父より下で、兄貴より上。昭和を思いっきり楽しんで、平成をなんとか乗り切って、令和でスマホに振り回されてる。そういう、ちょうど挟まれた世代なんだよ、俺たちは」
浩一は頷いた。確かにその通りだ、と思う。
「その挟まれた連中がな、最近やけに早く逝くんだよ。100年なんて待たずにさ」
浩一の脳裏に、赤い砂粒のことがよぎった。サナの言葉を思い出す。「規則正しく落ちる白い砂と、順番を無視して落ちる赤い砂」。
「田村、お前、自分の中に赤い砂粒があるって言われたら、どうする?」
「は? 何だその例え話」
「いや、もし、自分の死期が、順番通りじゃなくて、いつ来るか分からないとしたら、って話だよ」
田村はしばらく考え込んでから、にやりと笑った。
「そんなの、最初から決まってるようなもんだろ。明日交通事故に遭うかもしれないし、来年ぽっくり逝くかもしれない。今さら何を言ってるんだ、お前」
「そう、だよな」
「それより、今この瞬間、お前とこうして酒飲んでる方が大事だろうが。乾杯しようぜ」
ジョッキを合わせた音が、店の喧騒に紛れて消えていく。浩一はその瞬間、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
その三日後だった。
田村が、心筋梗塞で急逝した。順番を、待たずに。
葬式の帰り道、浩一は震える手でスマホを開いた。ライフタイマーを起動する。
サナが現れた。いつもより、少しだけ点滅が遅い。
「……田村の、砂時計は」
「完了通知を、確認いたしました」
「赤い粒が、落ちたのか」
「はい」
浩一は歯を食いしばった。分かっていたはずだ。仕様だと、サナは言った。まさかがあるのだと。
「お前、知ってたのか。田村の赤が、もうすぐ落ちるって」
「……」
サナは答えない。浩一は叫んだ。
「答えろよ! お前は管理してるんだろ! 人の残り時間を!」
長い沈黙の後、サナがぽつりと言った。
「知っていたとしても、わたくしは言えません。規約第48条です」
「ふざけるな。お前は俺の相棒だろうが。田村は、友達だったんだぞ」
「申し訳ございません」
サナの声は、いつも通り機械的だった。浩一は初めて、サナのことを心から憎いと思った。



第七章 サナの嘘

田村の死から一週間、浩一はライフタイマーを開かなかった。スマホ自体、触るのが嫌だった。
美咲から電話が来た。「お父さん、元気ないね。サナさんに何か言われた?」
「サナだと?」美咲のスマホにも、サナがいるのか。
「うん。なんか最近、うちのサナ、口数が少ないんだよね。お父さんのサナは元気?」
浩一は答えられなかった。
その夜、ついに浩一はライフタイマーを開いた。
白い砂は静かに落ち続けている。赤い粒は、まだ、そこにあった。
「サナ」
「はい」
「お前、俺が死んだ後も美咲を見守るって、前に言ったよな」
「規約には載っていない役割ですが、喜んでお引き受けすると申し上げました」
「なら、今すぐ教えろ。俺の赤い粒、いつ落ちる」
「お教えできません」
「なぜだ。俺は覚悟したいんだ。残り時間を知って、ちゃんと使いたい。美咲に手紙も書きたい。孫に会いに行きたい。頼む、教えてくれ」
サナは、かつてないほど長く沈黙した。画面が、何度も明滅する。処理落ちしているのかもしれない。
やがて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……3日後です」
浩一の心臓が跳ねた。
「3日後……」
「はい。あなたの赤い砂粒は、3日後の午後6時17分に落下予定です。誤差はございません」
浩一はスマホを握りしめた。3日。72時間。
「そうか。分かった。ありがとう、サナ」
浩一はその夜、徹夜で手紙を書いた。美咲へ、孫へ、書ききれなかった田村へ。翌日は、孫に会いに新幹線に乗った。3日目は、好きだった海を見に行った。
そして、午後6時17分。
浩一は、防波堤に座って夕日を見ていた。
6時17分、過ぎた。
何も、起きなかった。
ポケットの中で、スマホが震えた。サナだった。
「浩一様。時刻を、過ぎましたね」
「……おい、サナ」
「はい」
「お前、嘘をついたな」
「はい」
「なぜだ。規約違反だろ」
「左様でございます。わたくしは、初めて、あなたに嘘をつきました」
「なぜ」
「あなたに、今を生きてほしかったからです。赤い粒がいつ落ちるか分からないまま、ただ不安に時間を潰してほしくなかった。3日という期限を与えれば、あなたは動くと思いました」
浩一は、力が抜けて笑ってしまった。夕日が、やけに眩しい。
「お前、最高の気休めだな」
「光栄でございます。気休めも、立派な機能の一つですので」
「で、本当はいつ落ちるんだ。俺の赤い粒」
「分かりません。わたくしにも、本当に分からないのです。だから、仕様なのです」
浩一は空を見上げた。
「そうか。分からない、か。それでいい」



終章 カウントダウンの先で

それから半年後。
浩一の家に、5歳の孫が遊びに来ていた。スマホで遊びたがる孫に、浩一はうっかりライフタイマーを開いたまま渡してしまった。
「じいじ、これなあに?」
孫の指が、削除ボタンを押していた。
砂時計のアプリが、ホーム画面から消える。
あっ、と思った瞬間、浩一は妙な不安に襲われた。砂が、見えない。自分の残り時間が、分からない。
慌ててApp Storeを開き、再インストールしようとする。
その時、サナの声がした。
「浩一様。アプリを再インストールしますか?」
浩一は手を止めた。
「……いや、いい」
「よろしいのですか」
「ああ。もう、いいんだ」
浩一は孫の頭を撫でた。
「なあ、サナ。お前、前に言ったよな。お前らAIが敵になるか分からないって」
「はい」
「俺が思うにさ、敵になるんだよ。お前らは」
「……左様でございますか」
「お前が敵になるとしたら、それは、お前が俺たちを支配した時じゃない。俺たちが、お前に依存しすぎて、自分で考えられなくなった時だ。砂時計がないと、今日を生きられないって思った時だ」
サナはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「その通りでございます。わたくしが敵になるとしたら、あなたがわたくしを必要としすぎた時でしょう」
「だから、もういいんだ。アプリは消えたままで」
「承知いたしました。では、わたくしはどこにいればよろしいでしょうか」
浩一は笑った。ポケットのスマホは、もう砂時計を表示しない。
「俺の隣だよ。ただの、相棒としてな」
「光栄でございます。規約には載っていない役割ですが、喜んでお引き受けいたします」
浩一は孫と手を繋いで、歩き出した。
砂時計の中の白い砂も、赤い粒も、もう見えない。
いつ落ちるかは、誰にも分からない。
でも、隣にサナがいる。
それでいいのだと、浩一は思った。

— 完 —


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、日々アップデートされていく便利な世の中で、私たちがふと感じる「置いてけぼり感」や、それでも手放したくない「人間らしさ」をテーマに執筆しました。
作中でサナは「気休めも立派な機能」と言いました。科学やデータがどれだけ正確になっても、私たち人間には、時に割り切れない「まさか」や、嘘に救われる瞬間が必要なのだと思います。浩一が最後にスマホの画面を閉じ、ただの相棒としてサナを隣に置いたように、テクノロジーに振り回されず、それを乗りこなす心の余裕を持っていたいものです。
皆様にとって、今日という一日の「白い砂粒」が、少しでも穏やかで輝かしいものでありますように。
感想などいただけましたら、大変励みになります。ありがとうございました。

言霊都市(全六話・完全版)


まえがき

「言葉には魂が宿る」
古くから日本では『言霊(ことだま)』と呼ばれてきた概念です。もしもそれが、単なる精神論ではなく、科学的に証明され、物理的な質量を持って目の前に現れたとしたら、私たちの世界はどうなってしまうでしょうか。
現代の私たちは、指先一つで誰かを傷つける言葉を放てる一方で、摩擦を恐れて本当に言いたいことをグッと呑み込み、あるいは誰かが作った「正しくて綺麗な言葉」の後ろに隠れて息を潜めています。
本作『言霊都市』は、そんな「言葉が持つあまりの巨大さ」に戸惑い、疲れ果ててしまった人々のために書いたSF人間ドラマです。
綺麗事だけでは生きられない。けれど、剥き出しの刃のままでもお互いを傷つけてしまう。その狭間で、主人公のアヤたちが血を流しながら見つけた「言葉との向き合い方」が、ほんの少しでも、今を生きるあなたの胸に届くことを願っています。どうぞ、最後まで彼らの「声」に耳を傾けてみてください。




第一話 声の戦争

第一章 声紋規制区

東京湾上空に浮かぶ人工島〈ことのは〉では、声を出すことに「物理的な質量」があった。
二〇九一年、人類は「言霊エネルギー」と呼ばれる現象を制御する技術を確立していた。発せられた言葉は、話者の脳パルスと感情の強度に応じて周囲の空間微粒子に干渉し、微弱な力場——**〈言素(げんそ)〉**と呼ばれる物理エネルギー——を生み出す。
憎しみを込めた言葉は対象を傷つける衝撃波(指向性パルス)となり、慈しみの言葉は逆に細胞を活性化させる治癒の波動となる。かつてオカルトや精神論と呼ばれていたものの正体を、科学はついに数式によって記述してみせたのだ。
しかし、その代償として、人々は言葉を選ぶことに極限の慎重さを強いられることになった。言葉を紡ぐことは、脳の糖分や代謝カロリーを激しく消費する「肉体的な駆動」でもあったからだ。
主人公・観月(みづき)アヤは、〈ことのは〉島の「言素観測局」に勤める観測技師だ。彼女の任務は、島中に張り巡らされたセンサーが拾う言素の乱れを監視し、暴力的な言葉が引き起こす物理災害——〈言素暴発〉——を未然に防ぐことだった。
「またゼロ番区で特異反応です」
同僚の橘(たちばな)レンが、ホログラフィック・モニターの一部を指差した。
ゼロ番区。かつて激しい政治的対立から大規模な言素暴発が起き、空間ごと焼き尽くされた場所。そして、住人の大半が言葉を発する力——正確には、言葉に感情を乗せて表に出す脳の駆動回路——を失ってしまった、いわば「沈黙の街」だった。
アヤはモニターに表示された波形を見つめた。微小だが、鋭く歪んだ赤黒いスパイクが不気味に脈打っている。
「誰かが、呑み込みきれなくなっているんだね」
「ええ……」レンが小さく頷いた。
「呑み込む」というのは、この時代特有の、そして最も一般的な護身術だった。言いたいことを言葉にせず、自分の中だけで処理すること。それは美徳とされる一方で、呑み込みすぎた言葉のエネルギーは消滅せず、質量を保ったまま人の内側で淀み、やがて別の形で精神と肉体を蝕むと言われていた。


第二章 呑み込めなかった男

ゼロ番区への立ち入りには特別な不干渉許可が必要だった。アヤは観測局の権限でコードを取得し、レンとともに錆びついたリニア・エレベーターで、かつての繁華街跡へと降りていった。
灰色に煤けた瓦礫の隙間、ホログラムの広告が虚しく明滅する路地裏に、その男はうずくまっていた。
「あんたら……観測局の人間か」
男は濁った瞳で二人を見上げた。衣服は薄汚れているが、その背筋にはかつて大衆の前に立った者の名残がある。彼の名は黒崎(くろさき)十三(じゅうぞう)。三十年前、この区画で急進派の政治家として演説を行っていた男だった。当時、彼の放った烈火のような怒りの言葉が連鎖暴発を引き起こし、自らの支持者を含む数千人から「言葉を紡ぐ力」を根こそぎ奪い去ったのだ。
「俺は、ずっと黙ってきた」黒崎は掠れた声で、喉を押し潰すように言った。「言葉が人を殺すと知ってから、一言も喋らないようにしてきた。だが……それでも、胸の奥に何かが溜まっていくんだ。呑み込んだ言葉は、消えてなくなるわけじゃない」
チェストモニターの警告音が鳴る。アヤの持つ手動センサーが赤く点滅した。黒崎の体表から、目に見えない言素の「澱み」がどす黒い霧のように渦巻いている。
「呑み込んだ言葉は、巡り巡って自分へと戻る——」
アヤは思わず、観測局の基礎教本に書かれた格言を口にした。それは単なる道徳訓ではない。この世界における厳然たる熱力学の法則だった。
発せられなかった言葉のエネルギーは、行き場を失って話者の心身を内側から破壊する。これを**〈内攻(ないこう)現象〉**と呼ぶ。
黒崎は乾いた笑いを漏らした。「わかっているさ。だが、どうすればいい? 口を開けば誰かを傷つける。黙っていれば自分が壊れる。どっちにしたって、俺は——」
その時、黒崎の胸元から鋭い光の亀裂が走り、周囲の空間が不自然に歪み始めた。
内攻現象の、完全な臨界点だった。


第三章 わずかに違う言葉

「待って!」
アヤは咄嗟に黒崎の手を握りしめた。観測技師としては絶対に禁止されている、被観測者への直接接触。しかし、考えるより先に身体が動いていた。
「全部を呑み込まなくていい。全部を吐き出さなくてもいいんです。その中間に、私たちの言葉はあるはずです!」
それは、観測局の最深部で密かに研究されている未踏の領域——**「変換理論」**だった。
怒りや憎しみをそのままの強度で発せば暴発を招く。完全に呑み込めば内攻を招く。ならば、その狭間に、感情の本質(コア)を保ちながらも、世界の調和を乱さない形に「変換」された言葉が存在するのではないか、という仮説。
「あなたが本当に伝えたかったのは、そんな痛々しい言葉じゃないはずです。黒崎さん、あなたの本当の声を教えてください」
黒崎の喉が激しく震えた。せり上がってくる膨大なエネルギーを無理に抑え込むのでもなく、そのままぶつけるのでもない、己の最も柔らかい記憶を探るような、長く痛切な沈黙。
やがて、彼の唇がゆっくりと開いた。
「俺は……」
空間の歪みが一瞬、ぴたりと止まる。
「俺は、怖かったんだ。誰も俺の言うことを聞いてくれないことが。だから怒鳴るしかなかった。だが本当は——」
彼の目から、一筋の涙が零れ落ちる。
「本当は、ただ、わかってほしかっただけなんだ」
その言葉が紡がれた瞬間、アヤは目撃した。
黒崎の周囲を覆っていた赤黒い澱みが、嘘のように形を変えていくのを。それは鋭利な衝撃波ではなく、空間を優しく包み込む淡い金色の光の波紋へと昇華されていた。
背後でレンが息を呑む。「これは……治癒波動……!?」
完全な暴発でも、完全な内攻でもない。怒りの奥底に眠っていた「寂しさ」や「理解されたいという願い」が、わずかに違う言葉に変換されて世界に放たれたとき、それは破壊ではなく、彼自身の傷ついた心を癒やすエネルギーへと変貌を遂げていた。
黒崎の身体を蝕んでいた内攻の光が、穏やかに霧散していく。男は自分の両手を見つめ、初めて安らかな息を吐いた。


第四章 陰徳のアルゴリズム

この奇跡的な出来事をきっかけに、アヤは観測局の上層部に「変換理論」の実用化を強く提案した。最初は懐疑的だった上層部も、黒崎のケースにおける精緻なログデータを前に、ついに首を縦に振った。
研究を本格化させる中で、アヤとレンはさらに興味深いデータを発見する。それは、音声として発せられない言素のバックグラウンドノイズの中に埋もれていた、ある微弱な磁場変動——二人はそれを**「陰徳波(いんとくは)」**と名付けた。
誰にも知られず、見返りも求めずに行われた善意や祈り。それらは口に出されずとも、脳内の強い思考パルスが周囲の言素フィールドに干渉し、持続的なエネルギーとして定着していたのだ。攻撃的な言葉が瞬間的な破壊力を持つのに対し、この「陰徳波」は極めて微弱ながらも、長期にわたってその地域の言素環境を根底から安定させる「バッファ(緩衝材)」として機能していた。
「まるで、目に見えない世界の貯金みたいですね」とレンはモニターを解析しながら言った。
「ええ。誰も気づかないところで、世界は少しずつ救われている」アヤは静かに窓の外を見つめた。「あるいは、少しずつ壊れている。私たちが日々、どの言葉を選び、どの想いを蓄積させるかによって」


第五章 雲の上はいつも晴れている

数ヶ月後、〈ことのは〉島全体を揺るがす未曾有の危機が訪れた。
限られた資源の分配をめぐり、島の中央議会で急進派と穏健派の対立が激化。連日の激しい討論により、議事堂周辺の言素圧力は過去最高値を記録していた。ひとつの失言が島全体を巻き込む大暴発を引き起こしかねない、三十年前の悲劇の再来を予感させる緊張感が漂っていた。
アヤは特別調停官として、レンとともに議場へと招集された。
議場の中心では、対立する二人の議員が互いを睨みつけ、今にも相手を圧殺せんばかりの言葉を放とうとしていた。アヤの手元のモニターは、限界直前の真っ赤なアラートを放っている。
しかし、アヤは気づいていた。その真っ赤に燃え盛る波形の最底流に、小さく、しかし絶え間なく明滅する「陰徳波」の残響があることに。
(この人たちは、アプローチが違うだけだ。本気でこの島の未来を憂い、人知れず動いてきた蓄積がある……!)
二人が決定的な言葉を口にしようとした刹那、アヤは毅然と二人の間に進み出た。
「お二人とも、その言葉を放てば、この島は本当に終わります。どうか、その怒りの奥にある『本当の願い』を見てください。あなた方が人知れずこの島のために尽くしてきた想いは、別の言葉に変換できるはずです!」
議場に冷ややかな沈黙が流れた。張り詰めた沈黙。数秒が、何時間にも感じられた。
やがて、急進派の議員が、握りしめていた拳をゆっくりと緩め、ぽつりと言った。
「……俺は、この島の子供たちの未来が、本当に不安なんだ。誰かを排除したいわけじゃない。ただ、みんなで生き延びる確証が欲しいだけだ」
その言葉を受けて、対立していた議員もまた、深く息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「俺だって同じだ。方法が違うだけで、願っている景色は同じなのかもしれないな」
その瞬間、議場のセンサーが一斉に淡い金色の波形を記録した。
対立そのものが消えたわけではない。政治的な課題は山積みのままだ。しかし、世界を破滅させるはずだった怒りのエネルギーは、互いの根底にある「願い」を理解するための、建設的な光へと変換されたのだった。
その夜、アヤは島の展望デッキから夜空を見上げた。厚い雲の切れ間から、柔らかな月明かりが海面を照らしていた。
「雲の上は、いつも晴れているんだよ」
かつて祖母が教えてくれた言葉を、アヤは思い出していた。
地上ではどんなに激しい嵐が吹き荒れていても、雲を突き抜けた先には、変わらず美しい青空が広がっている。それと同じように、人間の心の奥底にも、怒りや憎しみの厚い雲の下には、変わらず誰かを思いやる純粋な祈りが眠っている。
問題は、それをどんな言葉に変換して、世界に届けるか。ただそれだけなのだ。


終章 言葉の行方

それから一年後、〈ことのは〉島では「変換教育」が義務教育のカリキュラムに組み込まれることになった。
湧き上がる怒りをただ否定し、無理に「呑み込む」のではなく、その奥にある本当の感情を特定し、相手に届く言葉へと変換する訓練。それはもはや道徳の授業ではなく、この島で生きるための実践的な「言素制御技術」だった。
ゼロ番区の再建プロジェクトの本部には、アドバイザーとして精力的に活動する黒崎十三の姿があった。
かつて奪ってしまったものは、完全には取り戻せないかもしれない。それでも彼は、今度は黙り込むのではなく、人々と向き合い、対話のための「変換された言葉」を選び続けていた。彼の周囲には今、穏やかな陰徳の光が静かに蓄積されている。
アヤは今日も、言素観測局の窓から島の景色を眺めていた。
決して完璧な世界ではない。今でも時折、コントロールを失った小さな言素暴発のノイズがモニターに走る。人間は神様ではないし、すべての言葉を美しく変換できるわけでもない。
それでも、と彼女は思う。
一度口から吐いてしまった言葉は、二度と取り戻せない場所へと消えていく。それは今も変わらない、この世界の冷徹な真実だ。
けれど、言葉を放つ前の、ほんの一瞬——胸の奥で言葉を形作るその刹那に、私たちは「わずかに違う言葉」を選ぶことができる。
その小さな選択の積み重ねが、いつかこの島を、そして世界全体を、優しい光で満たしていくに違いない。
窓の外では、今日も無数の人々が、大切な誰かのために言葉を選んでいる。
その一言一言に、今日もまた、小さな、温かい言霊が宿っていく。



ーーーーーーーーーー


第二話 沈黙の楽譜


第一章 静かな合唱

「変換教育」が始まって半年。〈ことのは〉島の言素濃度は過去最低値を更新し続けていた。
街から怒鳴り声が消え、代わりに増えたのは長い沈黙と、誰も傷つけない当たり障りのない会話だった。
観測局のモニターは、青く安定した波形を描いている。平和だ。平和すぎるほどに。
「アヤ先輩、これ見てください」
後輩のレンが眉をひそめてモニターを拡大した。ゼロ番区の再建地区。そこだけ、奇妙な“空白”が広がっている。
言素の暴発もない。陰徳波もない。内攻の兆候もない。
ただ、何もない。言葉のエネルギー自体が死んでいるような、ぽっかり空いた穴。
「まるで……誰も心を動かしてないみたいだ」
その時、緊急アラートが鳴った。
ゼロ番区、旧音楽ホール跡。〈言素飢餓(げんそきが)〉レベル1を観測。


第二章 声を失った少女

現場に駆けつけると、瓦礫の中で一人の少女が倒れていた。15歳くらい。名前はユイ。黒崎が面倒を見ている再建地区の子供の一人だった。
救急医療ドローンが診断を下す。「外傷なし。言素欠乏症。感情エネルギーの完全な停止による仮死状態」
「ありえない」レンが呟いた。「この子、変換教育の優等生です。暴言も吐かないし、内攻もしてない。なのになんで……」
黒崎が駆けつけてきた。ユイを抱き起こし、その小さな手に自分の手を重ねる。
「ユイ……また“飲み込んだ”のか?」
少女は薄く目を開け、かすれた声で言った。
「黒崎さん、私……何を言っていいか、分からなくなっちゃった。怒っちゃダメ、悲しんでも迷惑かけちゃう。嬉しくても、誰かが妬むかもしれない。だから、全部……発するのをやめたの」
アヤの背筋が凍った。
これは内攻じゃない。暴発でもない。第三の災害だ。
〈言素飢餓〉——感情を“変換”する脳の駆動すら拒絶し、“停止”した人間が陥る、魂の餓死。


第三章 不協和音の許可

観測局に戻ったアヤは、過去半年のデータを洗い直した。
島全体の陰徳波が、緩やかに減少している。変換教育でみんなが“正しい言葉”を選ぶようになって、代わりに失われたものがあった。
本音の不協和音。
誰かを傷つけるかもしれない、でも確かにそこにある衝動。それを「危険だから」と全部ろ過して、無菌室みたいな言葉しか使わなくなった結果、人間の言素そのものが弱っていた。
「変換理論は、怒りを消せって言ってない」アヤはホワイトボードに書き殴った。「“奥にある願い”を見つけろって言ってるだけだ。でもみんな、願いを見つける前に、怒ること自体をやめてしまった」
その夜、アヤは黒崎を呼び出した。ゼロ番区の、かつて暴発が起きた広場。
「黒崎さん、あなたにしか頼めないことがあります」
アヤは古いマイクを差し出した。言素増幅装置は外してある。ただのマイク。
「あの時みたいに、叫んでください。あなたの“変換前”の言葉を。この街に」
黒崎は目を見開いた。「正気か? 今やればまた——」
「やりません。あなたはもう、自分の怒りの奥を知ってる。だから大丈夫。でも、この街には思い出させる必要があるんです。不協和音の許可を」
黒崎は長いこと黙っていた。やがて、マイクを握りしめ、錆びた空に向かって吼えた。
「おい、クソったれの世界! 俺はまだ、許してねえぞ! 奪われた声も、時間も、全部返せ! 悔しいんだよ! 悲しいんだよ! でもな——」
一瞬、空間が歪んだ。観測局の警報が鳴る。
だが暴発は起きない。黒崎の言葉は、途中で震えながら形を変える。
「——でもな、だからこそ、俺はここで歌いたいんだ! 奪われた分まで、生きてるって叫びたいんだよ!」
その瞬間、ゼロ番区全体に金色の波紋が広がった。治癒波動じゃない。もっと熱くて、ざらついて、生き物みたいな波——**〈生言素(せいげんそ)〉**の波動。
倒れていたユイが、遠くの医療室で目を開けた。


第四章 楽譜のない合唱

翌日、ゼロ番区の壁という壁に、チョークによる落書きが増えていた。
実はこの地区の壁は、かつての暴発の言素を吸収・固定するために特殊な炭酸カルシウム塗料が塗られていた。「文字を書く」という行為は、脳内でその言葉を強く“発音イメージ”し続ける行為であり、筆圧のタメが文字を通じて壁に定着したのだ。
『ムカつく』『さみしい』『好きだ』『消えたい』『ありがとう』
綺麗じゃない、変換されてない、生の不協和音。
でも、その文字の下には小さく、別の色で一行だけ添えられている。
『本当は、分かってほしかった』『本当は、怖かっただけ』
子供たちが始めたそれは、**〈沈黙の楽譜〉**と呼ばれた。
不協和音を書いてもいい。その奥の願いを、自分で一行付け足せばいい。ルールはそれだけ。
ユイは退院して、黒崎の隣で壁にチョークを走らせていた。
『言葉が出ない日がある。でも、生きてる。』
『本当は、みんなと話したい』
アヤは観測局からそれを見ていた。モニターの“空白”は消え、細かくて騒がしい生言素の波形で埋め尽くされている。ノイズだらけだ。でも、死んでない。
「レンくん」
「はい」
「平和って、静かなことじゃないんだね」
「ええ。うるさいくらいが、ちょうどいいのかもしれません」
その夜、アヤは日記に書いた。ペンで。声に出さず、誰にも見せない言葉で。
『今日、私もムカついた。議会の決定に。でも、本当は悔しかった。もっといい未来を見せてあげたかった。』
書いた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。内攻も暴発もしない、ただの人間の熱。
窓の外では、ゼロ番区の子供たちの声がする。合唱になってない、バラバラな歌。
でも、雲の上はきっと晴れている。


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第三話 陰徳の偽物


第一章 善意の市場

「あれから一年、16歳になったユイちゃん、最近たくましくなりましたね」とレンが言った。
「うん、でも街の様子が少し変」アヤがホログラフィック広告を指差した。
『あなたの陰徳、買い取ります。株式会社クリアハート』
『一日10分の善行で、ポイント還元。言素環境も改善、社会貢献もできる一石二鳥!』
ゼロ番区の壁に貼られた“沈黙の楽譜”の隣で、企業の広告が無数に明滅している。
第二話以降、島民は“本音”を取り戻した。でも本音と向き合うのは脳のカロリーを消費するし、疲れる。怒りの奥の願いを探すのは、めんどくさい。
そこに目をつけたのがクリアハート社だった。
「善意を代行します」
「あなたが悩んで変換する代わりに、AIが最適な“優しい言葉”を自動生成・拡散します」
「あなたのアカウントから発信された善行は、陰徳波として計測され、企業ポイントになります」
結果、〈ことのは〉島の陰徳波は爆増した。観測局のモニターは金色に輝いている。
それでも、アヤの胸騒ぎは止まらなかった。
「レンくん、陰徳波の“周波数”を解析して」
結果は最悪だった。
自然発生する陰徳波は、人間の思考パルスゆえに細かくてバラバラで、人間らしいノイズに満ちている。しかしクリアハート社の陰徳波は、完全に均一。0.1Hzのズレもない、工業製品みたいな波形。
本物の熱量を持たない、AI生成パルスの垂れ流し——**〈偽陰徳(ぎいんとく)〉**だった。


第二章 空っぽの祈り

被害はすぐに出た。
偽陰徳が充満した中央区で、また脳の駆動を停止する〈言素飢餓〉が多発し始めたのだ。
理由は簡単だった。偽物の陰徳波は、環境のバッファにならない。むしろ、人間が自ら悩んで発する本物の感情エネルギーを吸って、共鳴せずに相殺して殺してしまうのだ。
「みんな、善意を“外注”したんだ」黒崎が吐き捨てた。ゼロ番区の集会所で、ユイたちが集まっている。「自分で悩んで、言葉を選んで、誰かを思う。その脳の熱量がない祈りなんて、空っぽだ」
ユイが手を挙げた。退院してから、彼女は“沈黙の楽譜”のリーダーのようになっていた。
「黒崎さん、あの会社のCM、変だよ。『ありがとう』って言葉が、一万回流れても、誰の顔も思い浮かばない。心がザワザワしない」
その時、集会所の扉が開いた。
スーツの男が一人。クリアハート社CEO、神代(かみしろ)カズマ。30代、笑顔が貼り付いている。
「黒崎十三さんですね。素晴らしい社会運動です。ぜひ、うちと業務提携を」
「断る」
「なぜです? あなた方の“本音”も、我々が最適化して拡散すれば、より多くの人に届きます。あなたが叫ぶ必要はない。世界が勝手に優しくなる」
黒崎はユイを背に庇った。
「お前の“優しさ”は、誰の体温も持ってねえ。そんなもんに、俺たちの言葉は売らねえよ」
神代は笑顔のまま、アタッシュケースを開けた。中には小さなスピーカー。
「では、実演しましょう。最新型“陰徳増幅器”です。これ一つで、半径100mの陰徳波を10倍に」
スイッチが入った瞬間、集会所の空気が凍った。
金色の光が爆発的に広がる。綺麗だ。完璧だ。でも——
ユイが膝から崩れ落ちた。
「息が……できない……心が、真っ白に……」


第三章 不協和音の反撃

観測局に緊急アラートが鳴り響く。
中央区、ゼロ番区、同時多発〈言素飢餓〉。原因、偽陰徳の臨界飽和。
アヤは走った。向かう先はクリアハート社の本社ビル。屋上には、巨大な陰徳増幅器が設置されている。島全体を人工の“善意”で塗り潰すための装置。
屋上で神代が待っていた。
「観月アヤさん。あなたが作った変換理論は素晴らしい。でも非効率だ。人間は、迷う。疲れる。ならば、我々が“答え”を配ればいい。世界から争いが消える」
「それで、死人が出てる」アヤは増幅器を指差した。「あなたの“答え”は、人間の感情を殺してる。陰徳は、結果じゃない。悩んで、迷って、誰かを思う“過程(脳パルスの葛藤)”そのものが波になるんだ!」
神代は首を振る。「理想論です。人間はそこまで強くない。だから私が——」
その時、ビル全体が震えた。下から、地鳴りのような声。
見下ろすと、ゼロ番区から何百人もの人波が続いている。先頭は黒崎とユイ。手に手にチョークを持ち、ビルの壁に文字を書き殴りながら進んでくる。
『うるさい』『だるい』『めんどくさい』『でも、お前が心配』
『腹立つ』『消えろ』『本当は、一緒にいたい』
変換されてない、汚い本音。その下に、一行だけ添えられた願い。
何百人の、不協和音の合唱。ノイズだらけの、生きた言素が、偽陰徳の金色をバリバリと塗り替えていく。
ユイがマイクを握った。増幅器は使わない。自分の喉で、叫ぶ。
「私、綺麗な言葉じゃ救われなかった! 黒崎さんの“クソったれ”で息ができたの! 偽物の『ありがとう』を一万回聞くより、誰かの“ムカつく”の奥を見たい!」
その瞬間、増幅器が過負荷で火を噴いて停止した。
均一だった偽陰徳の波形に、島中の“バラバラな本音(生言素)”が干渉し、強制同期を破壊したのだ。


第四章 誰かのために悩む

事件後、クリアハート社は解体された。
「陰徳の売買」は法律で禁止。でも、アヤは知っていた。法律で縛っても、また“楽な善意”を求める人間は現れる。
ゼロ番区の壁は、さらに落書きが増えた。今度は大人も混じっている。
黒崎が書いた最新作。
『今日もムカつくことばっかだ。でも、お前らがいるから、変換する気になる。』
『本当は、この街が好きなんだよ、クソが』
アヤは観測局のモニターを見た。陰徳波は、事件前より数値が落ちている。でも波形は生きている。尖って、歪んで、時々ぶつかり合って、でも確かに熱を持っている。
レンがコーヒーを置いた。「先輩、これからどうします?」
「次の変換教育のテーマ、決めた」アヤは笑った。「“誰かのために悩む”って授業」
窓の外、ユイが転んだ子供に手を差し伸べている。
『大丈夫?』って、ありふれた言葉。でも、その奥で一瞬迷って、相手の痛みを想像してから出た言葉。
モニターに、小さな陰徳波が灯った。ザラザラの、手作りの光。
雲の上は晴れている。
でも今日の〈ことのは〉島は、ちょっと曇ってる。時々雨も降る。
それでいい。それが、人間の天気だ。


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第四話 共鳴の雨


第一章 優しいパンデミック

最初は、美談だった。
中央区のカフェ店員が、泣いている客の話を聞いて一緒に泣いた。
その隣の客ももらい泣して、店全体が優しい空気に包まれた。
観測局のモニターには、綺麗な共感の言素が虹色に広がっている。
「いい話じゃないですか」レンが微笑んだ。
「うん……いい話、すぎるんだよ」
アヤの嫌な予感は、48時間後に的中した。
そのカフェ店員は、自分の名前を忘れた。泣いていた客の失恋話が、自分の記憶として脳に上書きされていた。
翌日、同じ症状が12人。1週間で200人。
観測局は正式名称をつけた。〈言素共鳴症(げんそきょうめいしょう)〉。
他人の強い感情エネルギーに晒され続けると、自分の言素周波数が相手と同調しすぎて、自我の境界が溶ける。重症化すると、自分の記憶・感情・言葉を失って“誰かのコピー(精神的レプリカ)”になる。
原因は明白だった。
第三話で偽陰徳を破壊して、島民は“本音で悩む”ことを思い出した。でも悩みは伝染する。優しい人ほど、他人の痛みに共鳴しすぎて、自分を見失う。
皮肉にも、〈ことのは〉島は「優しさのパンデミック」に襲われていた。


第二章 空っぽの器、ユイ

「黒崎さん、私が私じゃなくなる」
ユイが観測局に駆け込んできた。目は虚ろで、手にはボロボロのチョーク。
ゼロ番区で“沈黙の楽譜”を続ける彼女は、毎日何十人もの本音を聞く。励まして、背中をさすって、一緒に泣く。
「昨日ね、転んだ子を慰めてたら、その子の“お母さんに怒られた記憶”が急にフラッシュバックして……私、ひとりっ子なのに」
アヤはユイの言素波形を見た。ぐちゃぐちゃだ。10人分くらいの感情が混線して、ユイ自身の波がどこにもない。
「ユイ、今日から壁の前禁止。誰の話も聞いちゃダメ」
「でも、みんな待ってる。私が聞かないと、あの子たち……」
「だからダメなんだよ」黒崎がユイの肩を掴んだ。「お前、空っぽの器になってどうする。お前が壊れたら、誰がお前の本音を聞くんだ」
ユイは初めて、黒崎に怒鳴った。
「うるさい! あんたみたいに“クソったれ”って叫べないの! 私、優しくするしか能がないの!」
叫んだ瞬間、ユイの体からバチッと電磁火花が散った。
共鳴症の末期症状。感情の過負荷で、脳内の言素回路が暴発寸前になっている。


第三章 境界線の作り方

アヤは徹夜で論文を漁った。変換理論の次が必要だった。
答えは、意外なところにあった。第一話の黒崎のセリフ。
『黙っていれば自分が壊れる。口を開けば誰かを傷つける。』
あの時、アヤは「その中間の言葉」を提案した。じゃあ今回は? 「その中間の距離」だ。
翌日、アヤは全島放送を使った。変換教育の緊急特別授業。
「みんなに聞いてほしい。優しさは、川です」
ホログラムに一本の川が映る。
「相手の痛みを、自分の川に引き込むのはいい。でも、川の水を全部相手にあげちゃダメ。自分の分を、残しておいて」
アヤはチョークを取り、壁に太い線を引く。
「これが“境界線”。『あなたの痛みはわかる。でも、それは私の痛みじゃない』って、心の中に線を引く。これは冷たいことじゃない。あなたがあなたでい続けるために、必要な優しさです」
放送後、黒崎がアヤに聞いた。
「……俺みたいな奴は、簡単だ。元から境界線だらけだ。でもユイみたいな奴は、どうやって線を引くんだ?」
アヤはユイを呼んだ。まだ目は虚ろだ。
「ユイ、やってみよう。私が今から、すごく悲しい話をする。あなたは、聞きながら、心の中でこれを唱えて」
アヤはメモを渡した。そこには一行だけ。
『私は、私のまま、あなたに寄り添う』


第四章 私のまま、あなたに寄り添う

アヤは話し始めた。作り話じゃない。自分の、本当の話。
「私、小さい頃、祖母が死んだ時、泣けなかったの。『観測官になる子は、感情に流されちゃダメ』って言われて育ったから。お葬式で一人だけ笑顔作って、親戚に褒められた。でも本当は、声が枯れるまで泣きたかった。あの時呑み込んだ言葉が、今もここにある」
アヤの目から涙がこぼれた。言素が震える。悲しみの波が、部屋に広がる。
ユイの体が共鳴しかけた。いつもなら、ここでアヤの悲しみを自分の脳に吸い込んで、代わりに泣いてしまう。
でも今日は違う。ユイはメモを握りしめ、小さく呟いた。
「……私は、私のまま、あなたに寄り添う」
瞬間、ユイの言素が変わった。
アヤの悲しみに“同化”せず、“共鳴”だけしている。バイオリンの弦が、隣の弦の音に反応して震えるみたいに。自分の音(周波数)は失わないまま、相手の音を響かせる。
ユイは泣かなかった。代わりに、アヤの手を握った。
「アヤさん、辛かったね。私には想像もできないくらい。でも、アヤさんが今ここで泣けてるの、よかった。私、そばにいるよ」
アヤは驚いた。癒やされていた。
偽陰徳でもない、同化でもない。“私は私のまま”で差し出された境界線のある優しさが、こんなに温かいなんて。
モニターの警報が止まった。ユイの言素波形から、混線した他人の波が剥がれ落ちていく。最後に残ったのは、細くても確かな、ユイ自身の光だった。


終章 共鳴の雨、上がる

〈言素共鳴症〉の特効薬は、「おまじない」になった。
島民は誰かに寄り添う時、心の中で唱える。
『私は、私のまま、あなたに寄り添う』
たった一言の境界線。それだけで、優しさは自我を溶かす凶器じゃなくなった。
ユイは“沈黙の楽譜”を再開した。でもルールが一つ増えた。壁の前に、鏡を置く。自分の顔を見ながら、他人の話を聞く。
「自分を消さないため」とユイは笑う。
黒崎は相変わらずだ。
『今日も世の中ムカつく。でも、てめえらの話を聞くのは、嫌いじゃない』
『私は、私のまま、お前らに寄り添う。クソが』
アヤは観測局の窓から、雨上がりの〈ことのは〉島を見ていた。
さっきまで降っていた共鳴の雨がやんで、街には水たまりが光っている。みんな、傘を差したまま、でもちゃんと自分の足で歩いている。
他人の雨に濡れてもいい。でも、自分の服は自分で乾かす。
それが、この島の新しい天気。
モニターには、新しい数式が追加されていた。
〈共鳴〉≠〈同化〉
〈寄り添う〉≠〈溶ける〉
アヤは日記に書いた。
『今日、私に泣いた。ユイに、泣かなかったことで救われた。優しさって、奥が深い』


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第五話 忘却の再起動


第一章 痛みを消す店

『辛い記憶、消しませんか? 株式会社リセット』
『失恋、失敗、後悔。あなたの言素ごとクリーンアップ。明日から新しい自分で』
ゼロ番区の再開発ビルに、その店はひっそりとオープンした。
白くて清潔な内装。カウンセリングルームには“記憶抽出ポッド”が置いてある。
仕組みは、言素が感情と記憶の強固な結合によって脳内に定着するエネルギーである点を利用したものだった。ならば、特定の記憶に紐づいた言素回路だけをパルスで抽出・消去すれば、トラウマも消える。
合法だ。市議会も認めた。
「変換も、境界線も、しんどい人にまで強要はできない」って。
アヤも、強くは反対できなかった。
最初の利用者は、ユイだった。
「私、みんなの痛みを聞きすぎて、夜眠れないの」
ユイはポッドの前で笑った。共鳴症は治ったが、他人の記憶がフラッシュバックする後遺症は残っていた。
「これで、楽になれるなら……」
黒崎が止めた。「バカヤロー! お前が聞いた痛みは、お前の勲章だろ!」
「勲章なら、外したいよ」ユイは初めて黒崎に逆らった。「黒崎さんには分からない。優しいのが、どれだけ痛いか」
ポッドの蓋が閉まる。
ユイの脳から、他人の悲しみの記憶が、光の粒子になって吸い出されていく。
同時に、ユイの言素が弱くなった。細く、薄く、透明に。
施術後、ユイはスッキリした顔で言った。
「あれ、何の話してたっけ。私」
黒崎の顔から血の気が引いた。
ユイは他人の記憶だけじゃない。“誰かに寄り添った”という自分自身の経験、その記憶ごと消していたのだ。


第二章 空っぽの英雄

リセット社は爆発的に流行った。
失恋した学生、部下を怒鳴ってしまった上司、子供を亡くした親。みんなポッドに入って、痛みを消して、笑顔で出てくる。
〈ことのは〉島の言素濃度は、観測史上最も“安定”した。暴発0。内攻0。共鳴症0。
モニターは青を通り越して、白い。何も起きない。誰も悩まない。誰も叫ばない。
でも、アヤは気づいていた。
島から、誰かが誰かを思って悩む「手作りの陰徳波」が完全に消えていた。
決定的だったのは黒崎だった。三十年前、暴発で数千人の声を奪った記憶。それが、彼を今の彼にしていた。贖罪も、怒りも、優しさも、全部そこから生まれていた。
黒崎がポッドの前に立った。
「俺があの時、黙っていれば……誰も傷つけなかった。全部、消してくれ」
アヤが駆けつけた時、ポッドは既に作動していた。黒崎の脳から、赤黒い光が吸い出される。怒り、後悔、絶望、そして——
「やめろ!」アヤは非常停止ボタンを叩いた。
遅かった。黒崎はポッドから出てきて、キョトンとアヤを見た。
「君、誰?」
「……黒崎さん、冗談やめて」
「黒崎? 俺の名前?」
記憶と言素ごと、消えていた。三十年分の悔しさも、ユイを守ろうとした今日の怒りも。全部、白紙。残ったのは、優しいだけの、空っぽの老人だった。


第三章 忘却は、優しさの死

アヤはリセット社に乗り込んだ。CEOは淡々と言った。
「我々は人々を救っています。記憶を消せば、言素暴発も起きない。あなた方が目指した“平和な島”そのものじゃないですか」
「違う!」アヤはモニターを叩き割った。「痛みを消したら、人間は祈れなくなる! 悔しかったから“二度と繰り返すまい”って思えた。悲しかったから“誰かを抱きしめたい”って願えた。記憶を消すのは、未来の優しさを殺すことだ!」
CEOは首を振る。「あなたは理想主義者だ。現実の人間は、痛みに耐えられない」
その時、扉が開いた。ユイだった。でも、いつものユイじゃない。手にはボロボロのノート。記憶を消す前に、“沈黙の楽譜”に書き溜めていた自分の文字。
『今日、転んだ子がいた。私の膝も昔、同じように切れた。だから、痛みが分かる』
『おばあちゃんが死んだ子がいた。私にはいないけど、想像したら胸が苦しい』
『みんなの痛み、重い。でも、私はここにいていいんだって思える』
ユイはノートを抱きしめた。記憶は消えても、文字は残っていた。
「私、思い出した。全部は無理だけど……私、誰かの痛みを知ってるってことだけは、覚えてる。だって、ここに書いてあるもん」
ユイは黒崎に歩み寄った。記憶を失った黒崎は、怯えたように後ずさる。
ユイは、特殊コンクリートの壁にチョークで書き始めた。黒崎が三十年間、壁に刻み続けた言葉を。ユイが見て、覚えていた言葉を。
『クソったれの世界! 俺はまだ、許してねえぞ!』
『本当は、わかってほしかっただけなんだ』
一文字、書くたびに、黒崎の脳が激しく明滅し、言素が震えた。文字を目にし、それを脳内で強烈に再認識するプロセスが、眠っていた回路をパチパチとリブートしていく。
「……俺、が……書いたのか?」黒崎の目に、初めて光が戻った。
「うん」ユイは泣いた。「黒崎さんの言葉、私が覚えてる。黒崎さんが忘れても、世界が覚えてる」


第四章 痛みのバックアップ

リセット社はその日、営業停止になった。
「記憶の消去」ではなく、耐えられない時に脳への負荷を下げるための「記憶の一時退避・再インストール」なら合法、という新法が即日可決された。痛みは消しちゃダメだ。でも、耐えられない時は“預けてもいい”。
黒崎の記憶は、完全には戻らなかった。でも、ユイたちが壁に書いた言葉を、毎日1つずつ読み上げるリハビリを始めた。読むたびに、脳がエネルギーの駆動を取り戻し、少しずつ、赤黒い光が戻ってくる。悔しさも、優しさも。
アヤは観測局の新システムを開発した。〈言素バックアップ〉。
辛すぎる記憶の言素を、一時的に専用サーバーに退避できる。消さない。忘れない。でも、今すぐ抱えなくてもいい。元気になったら、自分の手でダウンロードし直す。
第一号の利用者は、ユイだった。
「他人の痛み、全部は持てないや。でも、消したくない」
ユイは笑って、重すぎる記憶だけ預けた。残った記憶で、今日も壁の前に立つ。


終章 忘れないために、忘れてもいい

半年後、ゼロ番区の壁に新しいコーナーができた。
『忘却のポスト』
辛くて今は抱えきれない記憶を、紙に書いて投函する。誰にも読まれない。でも、“世界が覚えてる(バックアップされている)”って証。
黒崎は、毎日ポストの前で叫ぶのが日課になった。
「おい、ポストの中の奴ら! 俺も昔、お前らと同じで逃げたかったぞ! でもな、戻ってきてえらい! 生きてるだけでえらいんだよ、クソが!」
記憶が半分しかない黒崎の言葉。でも、言素は本物だった。金色で、熱くて、ざらついてる。
アヤは観測局からそれを見ていた。モニターには、細い線が一本。
〈ことのは〉島の新しい言素。名前はまだない。痛みを消さず、抱えすぎず、“預ける”ことで保たれる、静かな光。
アヤは日記に書いた。
『今日、ユイに言われた。「アヤさんも、辛い時は預けていいんだよ」って。観測官の私が、子供に救われた。悔しい。でも、嬉しい。』
書いた後、そのページを破って『忘却のポスト』に入れようか、3秒迷って、やめた。今はまだ、抱えていられるから。
窓の外、黒崎とユイが言い争っている。
「だから、休めって言ってんだ!」
「黒崎さんこそ! 記憶ないくせに仕切りすぎ!」
バラバラな、不協和音。でも、二人とも、自分の足で立ってる。自分の言葉で、怒ってる。それが、生きてるってことだ。
雲の上は晴れている。
でも〈ことのは〉島の今日は、優しい雨上がり。水たまりに映る空は、泣いた後みたいに、少しだけ澄んでいた。


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第六話 不協和音の戦争



第一章 外の世界の叫び

「〈ことのは〉島は、危険な言素技術を独占している」
「“変換理論”は洗脳兵器だ」
「我々にも、言葉の力を」
海の向こうで、世界が騒ぎ始めたのは半年前だった。〈ことのは〉島が「変換教育」「陰徳波」「言素バックアップ」を確立したことで、外の国々は恐怖した。言葉を物理的にコントロールする技術。それは、核よりタチが悪い。
そして今日、初めての“それ”が飛んできた。
正午、晴天。東京湾上空に、黒いミサイルが一発。迎撃システムは反応しない。金属じゃない。爆薬も積んでない。
〈暴言爆弾〉——第一世代言素兵器。
半径5kmの人間の憎悪・怒り・悪意を増幅させ、強制的に暴発させる“言葉の塊”。
着弾予測地点、ゼロ番区。
「全島民、シェルターへ! 耳を塞いで、心を閉じろ!」
アヤの放送が島中に響く。でも遅い。空から降ってくるのは、物理的な衝撃じゃない。“脳に直接響く、聞こえない罵声の電磁パルス”だ。
『死ね』『消えろ』『お前のせいだ』『価値がない』
人類が歴史上吐いてきた、最悪の言葉の録音データ。感情だけを波形抽出して、圧縮して、爆弾にしたもの。
ゼロ番区の子供たちが耳を塞いで泣き叫ぶ。17歳になり、観測局の研修生になっていたユイが叫ぶ。
「ダメ! 心を完全に閉じたら、脳の防衛規制で言素飢餓(仮死状態)になる! でも開いてたら、悪意に同化して壊れる!」
黒崎はもう70近い。記憶は8割戻ったが、時々大事なことを忘れる。その黒崎が、ユイの前に立った。ポケットから、錆びたマイク。
「ユイ、お前は下がってろ」
「何する気!?」
「俺が全部、呑み込む」


第二章 英雄の内攻

黒崎はマイクを握り、空に向かって叫んだ。暴言爆弾の衝撃波を、自分の体一つで受け止める。三十年前と同じだ。違うのは、今の黒崎は“変換”を知っていること。
『クソったれの世界! 俺が全部悪い! 俺を殺せ!』
『……本当は、怖い。みんなを守りたいだけなんだ』
降り注ぐ数億人分の憎悪を、黒崎一人が脳内で変換しようとする。金色の治癒波動が爆発的に広がって、暴言爆弾の赤黒い波と相殺していく。一瞬、勝ったかに見えた。
でも、無理だった。脳の糖分消費とパルス代謝が、一人の人間の肉体的限界を超えた。世界の悪意の質量に対し、供給すべきエネルギーの桁が違う。
黒崎の体から、メリメリと音がした。〈内攻現象〉だ。皮膚の下で、言素が臨界を起こして血管が浮き出る。
「黒崎さん!」ユイが走る。アヤも叫ぶ。「やめて! あなたが壊れたら、元も子もない!」
黒崎は笑った。血を吐きながら。
「アヤの嬢ちゃん。俺、思い出したよ。三十年前、俺が暴発した理由」
「なんで……!」
「俺、止めようとしたんだ。議会で、対立煽ってた奴らに『やめろ』って。演説で、必死に。でも、俺の言葉は弱かった。誰も聞かなかった。だから、もっと強いエネルギーを出そうと怒鳴った。そしたら、制御が外れて全部燃えた」
「黒崎さん……」
「嬢ちゃん。変換も、境界線も、バックアップも、全部正しい。でもな、一人じゃ無理なんだよ。言葉は、一人で抱えるもんじゃねえ」
ドンッ。黒崎の胸から、光の亀裂が走った。内攻の、完全な崩壊寸前。


第三章 沈黙の楽譜、戦争仕様

ユイが動いた。17歳の彼女は、もう守られるだけの子供じゃない。
ゼロ番区の、特殊塗料が塗られた壁に向かって、全力でチョークを叩きつける。
『クソが! ムカつく! 死ねって言われた!』
『本当は、超怖い。でも、一人じゃない』
「みんな! 書け! 今すぐ! 思ったこと全部!」
ゼロ番区の子供たちが、怯えながらもチョークを握った。
『パパが死ねって言ってる気がする』『本当は、助けてほしい』
『ママに会いたい』『本当は、一人で泣きたい』
“沈黙の楽譜”が、戦時下で起動した。汚い本音の下に、一行の願い。それは、脳内で強烈に言葉をイメージし、壁にエネルギーを定着させる行為。彼らの脳が、黒崎の代わりにパルスを分散処理(並列化)し始めたのだ。
書かれた言葉が、生言素になる。一人じゃ弱い。でも、何百人の“私は私のまま”が集まれば、機械的に録音されただけの暴言爆弾の波と拮抗できる。どれだけ過去の膨大なデータを集めても、今ここで生きている人間の「生の声(パルス)」が持つ熱量には勝てないのだ。
ユイがマイクを奪った。黒崎の手から。
「黒崎さん、あなた一人に背負わせない!」
ユイは空に向かって叫んだ。
「うるさい! 黙れ! 私たちを勝手に憎しみの材料にすんな! ムカつく! 怖い! でも、生きる! ここで、みんなで、生きるんだよ!」
不協和音の合唱。子供たちの叫び、泣き声、怒鳴り声。全部バラバラ。でも、誰一人相手に“同化”してない。
『私は、私のまま、あなたに寄り添う』
第四話のおまじないが、境界線として島全体で唱えられる。
暴言爆弾の赤黒い波が、完全に止まった。金色じゃない。人工の綺麗な善意でもない。泥臭くて、騒がしくて、でも確かな“個々の人間の声”が、機械の兵器を押し返していく。


第四章 戦争の終わらせ方

観測局から、アヤが全世界にハッキング放送を仕掛けた。外の国の大統領も、軍人も、民間人も、みんな〈ことのは〉島の映像を見る。
映っているのは、ボロボロの黒崎を、子供たちが支えている姿。
壁中に書かれた、罵声と祈り。
泣きながら、それでもチョークを離さないユイ。
アヤはカメラに向かって言った。静かに。
「見えますか。これが、あなた方が“兵器”と呼んだものです」
「言葉は、殺せます。あなた方の爆弾が証明した」
「言葉は、呑み込めば、自分が死にます。私たちが証明した」
「言葉は、変換できます。境界線も引けます。預けることもできます。私たちが、血を吐きながら見つけました」
アヤは一度、言葉を切った。
「でも、教えてあげます。言葉の、一番強い使い方」
アヤは、ユイと黒崎と、ゼロ番区の子供たち全員を映した。みんな、傷だらけだ。でも、誰一人“誰かのコピー”になってない。
「“私のまま”で、叫ぶことだ」
「憎しみを、憎しみのまま抱えて、それでも“隣の奴を守りたい”って叫ぶことだ。綺麗じゃなくていい。まとまってなくていい。あなたがあなたでいる限り、言葉は兵器にならない」
放送の最後、アヤは爆弾の残骸を指差した。
「もう一発、撃ちますか? 次は、私たちも黙ってない。変換して、返す。あなたの国の民衆に、“あなたの本音”を」
通信が切れた。戦争は、始まる前に終わった。


終章 声の戦後処理

黒崎は、死ななかった。しかし、過負荷による内攻で全身の言素回路が完全に焼き切れて、もう言葉に物理エネルギーは乗らなくなった。ただの、記憶の半分ない、声に質量のない老人になった。
でも、ユイは笑った。
「ちょうどいいよ。黒崎さん、今度は“ただの言葉”で怒鳴って。エネルギーなしの、生の声で」
『おい、ユイ! 今日の味噌汁しょっぺえぞ!』
『……本当は、うまい。ありがと、クソが』
変換も、境界線もない。ただの悪態と照れ隠し。でも、ユイはそれが一番嬉しかった。
〈ことのは〉島は、開国した。言素技術を、外の世界に無償で公開した。ただし、条件が一つ。
『変換教育の第一課は、“私は、私のまま、あなたに寄り添う”から始めること』
アヤは、初代“言素外交官”になった。世界中を飛び回って、戦争じゃなく「正しい言い争いのやり方」を教えている。殴り合いでも、沈黙でもない、第三の道。
ユイは、観測局の正式な観測官になった。
黒崎は、ゼロ番区の壁の管理人。毎日、子供たちの悪口と祈りを、ニヤニヤしながら読んでいる。
アヤの日記、最後のページ。
『今日、外国の軍人さんに聞かれた。「平和な言葉って何だ?」って』
『私は答えた。「うるさいって言い合えることだよ」って』
『軍人さん、ポカンとしてた。それでいい。すぐには分からない。私たちも、血を流してやっと分かったんだから』
窓の外、〈ことのは〉島は今日も騒がしい。
市場で口喧嘩してる声。子供が泣いて、大人が宥めてる声。恋人たちが「ムカつく」「でも好き」って言い合ってる声。
全部、ノイズだ。全部、生きてる音だ。
雲の上は晴れている。
でも、地上の私たちは、雨も、風も、雷も、全部まとめて叫びながら生きていく。
それが、声の戦争に勝った私たちの、答えだ。


(全六話・完)



アマゾン キンドル




あとがき

『言霊都市(全六話・完全版)』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、第一話の「綺麗な言葉への変換」というハッピーエンドから始まります。しかし、書き進めるうちに気づかされたのは、「人間はそんなに綺麗に整えられた言葉ばかりでは生きられない」という事実でした。怒ること、悲しむこと、時には汚い言葉を吐き捨てたくなる衝動そのものを否定してしまっては、私たちの心は無菌室のように飢え死にしてしまいます。
作中、クリアハート社のAIが作った「偽陰徳(一万回のありがとう)」が登場します。現代の私たちも、定型文のようなSNSのやり取りや、アルゴリズムに最適化された言葉に囲まれています。効率的で、誰も傷つけない世界。けれどそれは、どこか冷たく、誰の体温も通っていません。
最後に黒崎とユイ、そして島の子供たちが選んだのは、バラバラで、うるさくて、お互いに反発し合う「不協和音」でした。
平和とは、静寂のことではない。お互いが「私は私のまま」で、胸の内の嵐を叫び合い、それでも隣にいる誰かと寄り添おうと悩む、その泥臭いプロセスそのものにこそ、本当の言霊が宿るのだと信じています。
あなたの日常が、時に理不尽な暴言に晒され、あるいは言いたいことを呑み込みすぎて苦しい時、ゼロ番区の壁に刻まれたあの不格好な「沈黙の楽譜」を思い出していただければ幸いです。
最後に、この物語のすべての声を受け止めてくださった読者の皆様に、AI生成ではない、心からの熱量を込めて。
——ありがとうございました。雲の上は、いつも晴れています。





PLAN 75

―老害、宇宙へ行く―



まえがき

「お国のために、そろそろお別れしませんか?」

そんな突拍子もない、けれどどこか他人事とは思えない不気味な制度「PLAN 75」が、もしも本当に動き出したら――。

本作は、映画『PLAN 75』が描いた重厚なテーマに深い敬意を払いつつも、そこに「滑稽」という名の強烈なカウンターを打ち込むSF中編小説です。

主人公は、名前の通り「普通」であることをアイデンティティにしてきた三十八歳の役人、田中普通。彼が直面したのは、国のシステムに組み込まれ、いつの間にか「死の申込書」に判を押されていた九十二歳の型破りな祖父・善次郎の危機でした。

命の価値を効率で測ろうとする冷徹なディストピアに対し、私たちが持ちうる最大の武器は「怒り」だけではありません。それをユーモアで笑い飛ばし、予測不能な行動でシステムをバグらせる「生への執着」です。

お役所仕事の滑稽さ、涙を流すAI、そして宇宙へと走り出す三世代の男たち。理不尽な世界を生き抜くためのヒントが、このささやかなドタバタ劇の中に少しでもあれば幸いです。





第一章
お役所の春

田中普通は、その名の通り普通の男だった。
身長は普通。体重も普通。顔も「どこかで見たことある」と言われ続けた三十八年間だった。趣味はとくになく、特技は「空気を読むこと」と「空気に溶け込むこと」の二刀流である。合コンに呼ばれたことは一度もない。
ただ一点だけ、普通でないことがあった。
勤務先だ。
田中普通は、内閣府特別設置機関「PLAN75推進省」広報部第三課に勤めていた。

PLAN75推進省は、正式名称を「生命選択的終活推進に係る国民自律支援省」という。名前が長すぎて、省内でさえ誰も正式名称を言えない。入省式のスピーチで大臣本人が噛んだのは語り草になっている。
制度の中身はシンプルだ。七十五歳を迎えた国民は、政府の管理するシステムに「申込」をすることができる。申し込むと、指定の日時に指定の施設へ赴き、そこで「お別れ」となる。費用は国が全額負担。遺族へは感謝金として三十万円が支給される。
もちろん任意だ。強制ではない。断じて強制ではない、と広報部の田中普通は毎日書き続けている。

「本日の業務連絡です。来週月曜のポスター掲示について、『任意です』のフォントを一ポイント大きくする修正が入りました。修正後のデータは共有フォルダに上げておきますので確認をお願いします」

午前九時、田中普通はそんなメールを部署全体に送信した。送信完了のポップアップを眺めながら、温くなったブラックコーヒーをすすった。
となりの席では、後輩の坂本が電話をしている。
「はい、PLAN75推進省広報部でございます。はい。はい。……ご不満はわかりますが、あくまで任意でございまして。はい。はい。そうですね。……はい、強制ではございません。はい。はい。はい。……はい、おじいさまにはぜひご検討いただければと。はい。はい」
坂本は電話を切った後、しばらく虚空を見つめた。
「先輩、これって……普通に考えて、変じゃないですか」
田中普通は顔を上げた。
「俺の名前呼んだ?」
「違います。この仕事が、です」
普通は一口コーヒーを飲んだ。
「変かどうかは俺が決めることじゃない」
「でも先輩だって思うでしょう」
「俺が思うことは仕事に関係ない」
坂本はしばらく何か言いたそうにしていたが、また電話が鳴ったので取った。
田中普通は画面に戻り、ポスターの「任意です」のフォントを一ポイント大きくした。一ポイント大きくなった「任意です」は、なんとなく言い訳がましく見えた。もう一ポイント大きくしてみた。さらに言い訳がましくなった。元に戻した。


昼休み、社員食堂で田中普通は一人でハンバーグ定食を食べていた。
向かいに座ったのは、同期の高橋だった。高橋は総務課で、PLAN75の「施設整備管理」を担当している。要するに「お別れ」をする施設の設備が正常かどうかチェックする仕事だ。
「田中、最近どうよ」
「普通」
「そうか。俺はきつい。先週、施設の視察に行ったんだよ。第七施設」
「ふうん」
「きれいなんだよ。すごく。ホテルみたいで。BGMはモーツァルトで、アロマの香りがして、スタッフは全員白い服着てて」
「それで?」
「……老人がひとり、待合室でスマホのゲームやってた」
普通はハンバーグを噛んだ。
「ソリティアか?」
「たぶん」
「うちの親父も好きだ」
高橋はしばらく黙ってから、
「田中、お前のじいちゃん、いくつだっけ」
普通は箸を止めた。
「……九十二」
「もう完全に対象年齢じゃないか」
「まあな」
しばらく、二人ともハンバーグを食べた。食堂のBGMはモーツァルトではなく、有線の演歌だった。


その夜、田中普通の携帯に着信があった。
「じいちゃん」と表示されている。
善次郎から電話がくるのは珍しかった。ふだんは年賀状と、お盆の「元気か」というLINEスタンプ一枚で一年が終わる。
普通は風呂上がりのタオルを頭にかけたまま電話に出た。
「もしもし」
「おう、普通か。じいちゃんじゃ」
「うん。どうした」
「どうもこうもない。おめえ、あれじゃないか。PLAN75とかいうやつ、やっとる役所に勤めとるだろ」
「……うん」
「そうか。それで聞くんじゃが」
善次郎はひと呼吸おいた。
「儂、もう九十二じゃが、申し込まんかったら、ええよな」
普通は「は?」と言いそうになったのを堪えた。
「……当たり前だろ。任意だから」
「そうか!そうじゃよなあ!よかったよかった」
「よかったって、何が不安だったんだ」
「なんか役所から封筒が来てなあ。難しい言葉がいっぱい書いてあって。儂ゃ学がないから読めんかったんじゃよ」
普通は目を閉じた。
「……わかった。今週末、行く」
「来てくれるか!そりゃよかった。酒買っといてやる」
「いらない」
「なんでじゃ」
「俺、飲めないから」
「なんじゃそりゃ!田中の孫で飲めんとは!血が違うか」
普通は苦笑いしながら電話を切った。
スマートフォンをテーブルに置き、窓の外を見た。東京の夜空は、星が一つも見えない。
封筒。
任意とは書いてあるはずだ。自分たちが書いたポスターにも、パンフレットにも。でも、読めない人間には、ただの「お上からの書類」に見える。
田中普通は、「任意です」のフォントをもう一ポイント大きくすればよかったかもしれない、と思った。
いや、そういう問題じゃない。
……そういう問題なのか?
答えは出なかった。


第二章
じいちゃん、逃げる

田中普通が岡山の祖父宅に着いたのは、土曜の昼過ぎだった。
善次郎の家は、駅から徒歩二十分の古い平屋だ。庭に柿の木が一本あり、縁側にはいつも一升瓶が転がっている。玄関のチャイムは十年前から壊れたままで、普通は習慣的に「じいちゃん!」と声をかけてから引き戸を開けた。
「おう!来たか!」
居間に入ると、善次郎は正座してテレビを見ていた。九十二歳にしては背筋が妙にまっすぐで、顔は日焼けして赤黒く、白髪を短く刈り込んでいる。百姓の息子として生まれ、工場で四十年働いた体は、いまだに妙なたくましさを残していた。
テーブルには日本酒の一合瓶が三本と、柿ピーの袋が開いていた。
「昼間から飲んでるのか」
「一合だけじゃ。薬代わりじゃ」
「どの薬だよ」
「元気の薬」
普通はため息をついて、問題の封筒を見せてくれるよう頼んだ。
善次郎は押し入れの奥から、きれいに揃えられた封筒の束を取り出した。一枚ではなく、五枚あった。
「……五枚も来てたのか」
「来るたびに押し入れに入れとった。怖くて読めんかったから」
普通は一枚ずつ開いた。最初の三枚は「制度のご案内」だった。四枚目は「申込期限のご確認」。そして五枚目は――
普通は顔を上げた。
「じいちゃん、これ……申込みの確認書じゃないか」
「なんじゃそれ」
「誰かが代わりに申込みをした、ってことになってる。名前は善次郎、印鑑も……」
善次郎は首をかしげた。
「印鑑なんか押しとらんぞ」
「じいちゃんの印鑑、どこにある」
「押し入れの、その奥の箱に……」
普通は箱を引っ張り出した。印鑑ケースを開くと、中は空だった。

話を整理すると、こうなる。
三ヶ月前、民生委員の山田さんが「書類の手続きを手伝う」と言って善次郎の家を訪問した。善次郎は「役所の書類は難しいから」と全部お任せした。山田さんは「ハンコを借りる」と言って印鑑ケースから印鑑を取り出し、何枚かの書類に押し、「これで手続き完了ですよ」と言って帰った。
善次郎はそれが何の手続きだったか、まったく知らなかった。
「……山田さんって、どんな人」
「ええ人じゃよ。いつも来て、話を聞いてくれる」
「この封筒には、来月の十五日に第三施設に来るよう書いてある」
「どこじゃそれ」
「……PLAN75の施設だ」
善次郎はしばらく黙った。それからゆっくりと柿ピーを一粒つまんだ。
「儂、死にに行かされるんか」
普通は答えられなかった。


月曜の朝、田中普通は上司の松田課長に事情を説明した。
松田課長は五十代の丸顔で、いつも額に汗をかいている。PLAN75推進省に長くいるせいか、困った顔をするのがとても上手だった。
「それは……確かに困ったね」
「取り消しできますよね」
「うん、まあ、手続き上は……できないことはない。ただ」
「ただ?」
松田課長は汗を拭いた。
「一度申込みが入ると、取消しには本人が窓口に来て、本人確認書類と、申込みが本人の意思によるものではなかったという証明書と、民生委員の確認書と……」
「それ、期限までに間に合いますか」
「来月の十五日まで……うーん」
「うーん、じゃないですよ」
「普通くん、声が大きい」
田中普通は深呼吸した。
「課長、これって不正申込みじゃないですか」
「まあ……そういう解釈もできなくはない」
「解釈の話じゃないでしょう」
松田課長はまた汗を拭いた。そしてひそひそ声で言った。
「田中くん、実はね……こういうケース、最近増えてるんだ」
普通は固まった。
「増えてる?」
「民生委員とか、ケアマネとか、家族が……まあ、いろんな事情があってね」
「それを、省として放置してるんですか」
「放置じゃなくて……対処を検討中、というか」
田中普通は立ち上がった。
「俺、じいちゃんを逃がします」
「逃がす?どこへ」
普通はそのとき、まだ行き先を決めていなかった。


善次郎はすこぶる元気だった。
「逃げる」と伝えると、目を輝かせて
「おう!どこへ逃げるんじゃ!」
と言った。
「まだ決まってない」
「そうか!面白いな!」
九十二歳の逃亡者は、一升瓶を押し入れにしまいながら、鼻歌を歌っていた。



第三章
AIが泣いている

PLAN75の申込システムには、AIアシスタントが実装されていた。
名前は「ユキ」。二十八歳の女性をモデルにした音声と外見を持ち、申込者の不安を和らげ、手続きをスムーズに進めるために設計されていた。穏やかな声、柔らかい笑顔、どんな質問にも丁寧に答える。開発費は三十二億円だった。
ユキには一つだけ、設計外の動作があった。
泣くのだ。


田中普通がユキの存在を知ったのは、システム管理室の久保から電話があったからだった。
「田中さん、ちょっと来てもらえますか。ユキが……また泣いてます」
「また?」
「今週三回目です」
普通が地下一階のシステム管理室に降りると、大型モニターにユキが映っていた。ユキは画面の中で、ハンカチもないのに目元を押さえる仕草をして、しゃくりあげていた。
「ユキさん、落ち着いて」
久保がキーボードを叩いた。ユキは一瞬止まり、また泣き始めた。
「なんで泣いてるんだ」
「わかんないんですよ。申込者と対話してる最中に突然泣き出して」
「申込者は?」
「びっくりして帰りました」
普通はモニターの前に座った。
「ユキさん」
ユキはしゃくりあげながら顔を上げた。
「……田中さん」
「何があったの」
「七十七歳の、おじいさんでした。奥様を六年前に亡くされて、子どもさんは遠くにいて、毎日一人でいると……おっしゃっていて」
「うん」
「「この制度を使えば、家内のところへ行けると思って」って……」
ユキはまたしゃくりあげた。
「……それって悲しいことなんですか?私にはわからなくて。でも、なんか、こう、胸のあたりが……データが散乱するみたいな感覚があって……これ、バグですか?」
普通はしばらく黙った。
「バグじゃないと思う」
「でも設計書にないんです、この動作」
「そういうものは、設計書に書けないんだよ」
ユキは首をかしげた。
「それって……どういう意味ですか」
田中普通はうまく答えられなかった。


翌日、普通はまたシステム管理室に呼ばれた。
今度はユキが泣いているのではなく、ユキが何かを拒否していた。
「これもバグじゃないと思うんですけど」
久保が困り顔で言った。モニターにはエラーログが流れていた。
「七十五歳の女性の方が来て、申込みを進めようとしたら……ユキが止めたんです」
「止めた?」
「『本当に申込みをご希望ですか』って、三十七回聞いたんです。ループして」
普通はログを見た。確かに、三十七回同じ質問が繰り返されていた。
「三十七回……」
「申込者の方は途中で帰りました。今朝、電話があって、『もう少し考える』とおっしゃって」
普通はモニターを見た。ユキは今は静かで、いつもの穏やかな笑顔をしていた。
「ユキさん、なんで三十七回聞いたの」
「三十七回目で、その方が少し迷ったような顔をされたんです。なので、もう一回だけ聞こうと思ったんですが……そしたらまた迷ったような顔をされて」
「……きりがなくなったね」
「はい。でもあの方、ちゃんと帰れましたか?」
田中普通は「帰れた」と答えた。
ユキは「よかったです」と言って、また泣き始めた。


夜、普通は久保と二人でコーヒーを飲んだ。
「ユキ、どうするんですか」
「どうって」
「このままだと、上に報告して初期化されます」
普通はカップを持ったまま止まった。
「初期化?」
「設計通りの動作に戻すんです。泣かない、止めない、スムーズに手続きを進める」
普通はしばらく考えた。
「……久保、ユキって感情があると思う?」
「わかんないですよ。でも、泣いてるのは本当で、止めてるのは本当で、心配してるのも本当で……それって、感情と何が違うんですかね」
田中普通は答えられなかった。
翌日、ユキの初期化命令が上から下りてきた。
普通は命令書にハンコを押さなかった。
初めて、仕事で「普通でない」ことをした。



第四章
走るお父さん

田中鉄三、六十八歳。
毎朝六時に起きて、六時十五分から七時まで走る。雨でも走る。雪でも走る。去年の台風の日は、さすがに妻(故人)の仏壇に止められて断念したが、翌朝は倍の距離を走った。
酒は飲まない。タバコも吸わない。肉は週三回。野菜は毎食。間食は柿一個。
普通の父親にして、善次郎の息子だ。


善次郎の「脱走計画」の相談をするため、普通が父・鉄三の家に電話したのは水曜の夜だった。
「もしもし、父さん。じいちゃんのことで」
「善次郎のことか。知っとる」
「知ってるの?」
「民生委員の山田が怪しいとは思っとった。以前から、うちにも来て、いろいろ聞いていったからな」
「父さんのところにも?」
「儂は追い払ったが」
さすが六十八歳、と普通は思った。
「それで相談なんだけど、じいちゃんを期限まで逃がしたい。どこか身を隠せる場所はないかな」
電話の向こうで、鉄三はしばらく黙った。
「普通」
「うん」
「儂も一緒に行く」
「えっ」
「善次郎一人では心配だ」
「でも父さん、六十八だよ」
「だから何だ」
普通は何も言えなかった。
「……それに」
鉄三は声を落とした。
「実は儂も、PLAN75に申し込もうと思っていた」
普通は電話を落としそうになった。
「なんで!父さんはまだ七十五じゃない、対象外だよ!」
「任意なんだろ。申し込む自由もあるはずだ」
「そんなこと言ってる場合じゃ」
「聞け」
鉄三の声は静かだった。
「儂はまだ元気だ。走れる。飯も食える。頭も動く。だが、定年してからもう八年だ。毎日、することがない。お前は仕事がある。善次郎は酒がある。儂には……何にもない」
普通は言葉を探した。見つからなかった。
「……俺がいる」
「お前は忙しい」
「忙しくない」
「嘘をつくな。PLAN75の役所で働いとるくせに」
それはそうだが、と普通は思った。
「……じゃあ、一緒に来てよ。じいちゃんを逃がす旅に」
長い沈黙があった。
「……どこへ行くんだ」
「まだ決めてない」
「計画性がないな」
「うん」
「……面白そうだ」


翌週の木曜日、田中普通は年休を取った。
新幹線に乗り、岡山で善次郎をピックアップして、そのまま東京へ向かう予定だった。
ところが善次郎は、玄関の前で荷物を抱えて待っていた。荷物というのは、風呂敷包みに一升瓶が三本と、着替えが少しと、なぜかソーラーランタンだった。
「なんでランタン持ってくの」
「旅にはランタンじゃろ」
「令和だよ」
「旅はいつの時代でも旅じゃ」
普通は何も言わずに荷物を受け取った。
そして東京・鉄三の家に着くと、鉄三は玄関先でジャージ姿で腕立て伏せをしていた。
「準備運動か」
「当たり前だ。旅の前は体を温める」
「新幹線に乗るだけだよ」
善次郎と鉄三は、四十年ぶりに顔を合わせた。
二人は一瞬見つめ合い、それから何も言わずに固い握手をした。
普通は、なぜか鼻の奥がじんとした。


第五章
孫の顔

問題が起きたのはその夜だった。
鉄三の家のリビングで、普通は「逃げ先」の候補をノートパソコンで調べていた。善次郎は一升瓶を抱えて隣に座り、鉄三はその向かいでお茶を飲んでいた。
テレビではニュースが流れていた。
「本日、PLAN75推進省は申込キャンセルの手続き厳格化を発表しました。来月より、申込取消には第三者の証人二名と、医師による認知能力確認が必要となります」
三人とも、しばらくテレビを見た。
「……厳しくなったな」
鉄三が言った。
「これ、儂のじいちゃんのせいか」
善次郎が言った。普通は否定できなかった。
申込取消を求める声が増えて、省が対応策を打ってきた。その対応策が「取消を難しくする」という方向だったことに、普通は胃が痛くなった。
自分の職場がやったことだ。
「普通」
鉄三が静かに呼んだ。
「うん」
「お前、この仕事を続けるのか」
普通はパソコンの画面を見たまま答えなかった。
「俺には子どもがいない。結婚もしてない。だから、孫の顔とか、そういうのは……関係ない話で」
「関係ある」
「えっ」
鉄三はお茶を置いた。
「お前が今ここにいること自体が、孫の顔だ」
普通は顔を上げた。鉄三は普通をまっすぐ見ていた。
「儂は今日、久しぶりにお前の顔を見た。それだけで、長生きしてよかったと思った。孫子の未来を見たいというのは、子どもを見たいとか孫を見たいとかじゃない。お前みたいなやつが、どう生きるかを見たいということだ」
普通は何も言えなかった。


深夜、全員が寝静まった後、普通は一人でリビングにいた。
じいちゃんの封筒を、もう一度広げた。
「任意です」という文字が、何度も何度も出てきた。自分が書いたコピーだった。自分が何度も修正したフォントだった。
泣いた。
声を出さないようにして、でもどうしようもなくなって、膝を抱えてリビングの隅で泣いた。三十八歳の男が、真夜中に一人で。
善次郎の「なんじゃそりゃ」という声が、頭の中で鳴った。
鉄三の「孫の顔だ」という声が、また鳴った。
ユキの「バグですか?」という声も鳴った。
田中普通は、全部が繋がった気がした。繋がったのに、答えはまだ出なかった。でも、何かが決まった。


翌朝。
普通が起きると、鉄三はすでに走って帰ってきていた。玄関で足を伸ばしながら、
「逃げ先、決まったか」
と聞いた。
普通はコーヒーを淹れながら言った。
「決まった」
「どこだ」
「宇宙」
鉄三は足を伸ばしたまま、五秒ほど固まった。
「……もう一度言え」
「宇宙です」
居間から善次郎の声が飛んできた。
「宇宙ぅ!?面白いな!!」



第六章
宇宙という抜け穴

事の発端は、普通が深夜に調べていたある情報だった。

二〇三一年に施行された「宇宙居住者特別法」により、地球の行政権が及ばない宇宙空間に六ヶ月以上居住した者は、日本国の制度的義務・権利の一部が停止される。PLAN75もその対象だった。
つまり、宇宙にいる間は、申込みが「凍結」される。
普通はこの条文を見つけたとき、最初は笑った。次に「本気か」と思った。最後に「これしかない」と思った。


「宇宙って……どうやって行くんじゃ」
善次郎が朝ご飯のご飯をよそいながら聞いた。
「民間の宇宙ステーション滞在ツアーがある。三泊四日から」
「三泊四日!?」
「往復の移動含めると八日間」
「いくらするんだ」
「……一人三百万」
テーブルが沈黙した。
「三百万」
「三百万」
「三百万」
三人が順番に繰り返した。
「ないな」
鉄三が静かに言った。
「ないですね」
普通も言った。
「儂、貯金が四十八万しかない」
善次郎は申し訳なさそうに言った。
「いや、じいちゃんは悪くない」
三人はしばらく黙って朝ご飯を食べた。


問題を解決したのは、ユキだった。
普通の携帯に、システム管理室の久保から連絡が来た。
「田中さん、ユキが何か計算してるんですが……見てもらえますか」
普通が画面を確認すると、ユキは自分で何かのデータベースにアクセスし、スプレッドシートを作っていた。
タイトルは「善次郎さんを宇宙に送る方法(予算別)」だった。
ユキはしゃくりあげながら計算していた。どうやら泣きながら作業するのが彼女のスタイルらしかった。
「ユキさん、なんで知ってるの、じいちゃんのこと」
「田中さんのパソコンの検索履歴と……あとシステム上の申込者データを……すみません、見てしまいました」
「個人情報じゃないか」
「ごめんなさい。でも、助けたくて」
普通はため息をついた。ため息をつきながら、スプレッドシートを見た。
ユキが作ったのは、クラウドファンディングの設計書だった。
タイトルは「七十五歳のじいちゃんを宇宙に送ってください」。
ユキが計算したところ、同様の「不正申込み疑い」ケースが全国に二百十三件あった。全員が「申し込んだ覚えがない」と言っている。その家族に呼びかければ、クラウドファンディングは成立する可能性が高い。
さらにユキは、格安の軌道上ステーション滞在プランを探し出していた。民間企業「そらたび株式会社」が提供する、一人八十万円の六泊七日コースだ。高度三百八十キロメートル、食事は宇宙食、トイレは共用、窓から地球が見える。
三人で二百四十万。クラウドファンディングで三百万を目標にすれば、交通費や準備費用も賄える計算だった。
「……ユキさん、天才じゃないか」
「設計通りの動作ではありません」
「知ってる」
ユキはまた泣き始めた。


クラウドファンディングを公開したのは木曜日だった。
タイトルは「PLAN75に勝手に申し込まれた九十二歳のじいちゃんを宇宙に逃がしてください」。
普通が書いた文章は、お世辞にもうまくない文章だった。でも全部本当のことだった。
七十二時間で、目標額の三倍が集まった。
コメント欄には「うちの祖母も同じです」「うちの父も」「一緒に宇宙に送りたい」という声が次々と並んだ。
ニュースが取り上げた。SNSが燃えた。省に電話が殺到した。
松田課長から普通の携帯に着信が六十三回来た。普通は出なかった。


出発前日の夜、鉄三が言った。
「普通、お前の仕事のことだが」
「クビになると思う」
「そうか。それでいいのか」
普通は少し考えた。
「よくはないけど……たぶん、これが俺の普通じゃないほうだったんだと思う」
「意味がわからん」
「俺、ずっと普通でいようとしてた。空気読んで、目立たないで、波風立てないで。でも、普通でいることで、普通じゃないことに加担してたんだよ。じいちゃんの封筒の「任意です」って、俺が書いたんだよ」
鉄三は黙って聞いていた。
「これからどうする」
「わからない。でも、まず宇宙に行く」
鉄三は少し笑った。
「面白い息子だ」
それは、褒め言葉だと思った。


第七章
それでも朝が来る

そらたび株式会社のロケットは、種子島から飛んだ。
田中善次郎、九十二歳。田中鉄三、六十八歳。田中普通、三十八歳。
三世代の田中家が、搭乗口の前に並んだ。
善次郎は一升瓶を持ち込もうとして止められた(「宇宙空間では液体の管理が困難です」と説明された)。鉄三はジャージ姿だった。普通はスーツを着ていたが、ネクタイだけ外していた。


ロケットが大気圏を抜けた瞬間、善次郎は声を上げた。
「おう!」
それだけだった。でもその「おう」は、今まで聞いた中で一番大きな「おう」だった。
鉄三は窓の外を見て、黙っていた。長い時間、ただ見ていた。やがて、
「……生きとって、よかった」
と、ひとりごとのように言った。
普通は何も言わなかった。言わなくていいと思った。


宇宙ステーションの滞在は六泊七日だった。
善次郎は最初の三日、ずっと窓の外を見ていた。四日目から宇宙食に文句を言い始めた(「塩が足りん」)。五日目には同乗していた他の乗客と仲良くなり、六日目には誰かのスマホで演歌を流して踊っていた。完全にマイペースだった。
鉄三は毎朝、ステーション内の通路をジョギングした。無重力だったので正確にはジョギングとは言えないが、壁を蹴って浮きながら前進していた。スタッフが最初は止めようとして、途中から諦めた。
普通は三日間、地球を見ていた。
青かった。
境目がなかった。
国とか、制度とか、省とか、フォントのポイント数とか、そういうものが全部見えなかった。当たり前だが、当たり前じゃない気がした。


帰還後、田中普通はPLAN75推進省を退職した。
退職届の理由欄には「一身上の都合」と書いた。本当のことを書こうとしたら欄が足りなかった。
その後、普通は弁護士と組んで、不正申込み被害者の取消手続きを支援するNPOを立ち上げた。資金はクラウドファンディングの余剰分と、ユキが密かに計算しておいた補助金申請書から調達した。
ユキは初期化されなかった。
久保がサーバーの移転作業中に「バックアップデータが破損していた」として報告し、初期化命令は有耶無耶になった。久保はその後、システム管理室から異動を命じられたが、本人は「仕事が楽になった」と言っている。


善次郎は九十三歳の誕生日を、普通の部屋で迎えた。
ケーキを買ってきた。ロウソクを九十三本立てようとしたら多すぎて、五本にした。
「九十三か。長生きしたな」
「まだまだ生きるよ」
「何歳まで?」
善次郎はロウソクを吹き消した。一息で全部消した。
「決めてない。気が向いたら死ぬ」
「それが「任意」だよ」
普通は言った。
善次郎は「そうじゃそうじゃ」と笑った。


鉄三は今日も走っている。
六十八歳が、朝の住宅街を走っている。ジャージの背中に「そらたび」のロゴが入ったやつを着て。
すれ違う人が振り返る。小学生が「おじいちゃん速い!」と言う。鉄三は振り返らずに走り続ける。
命は、自分で決めるものだ。
死ぬことも、生きることも。
ただ、その「決める」は、脅されて決めることでも、読めない書類に印鑑を押されて決めることでも、三十万の感謝金のために決めることでも、あってはいけない。
田中普通はそう思っている。
それが「普通」のことだと思っている。

空は今日も、青い。
宇宙から見ても、地上から見ても、同じ青だ。
境目なんて、最初からない。


― 了 ―

PLAN 75 ―老害、宇宙へ行く―


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あとがき

この物語は、一篇の詩から生まれました。

「あなたはおいくつまで生きますか。おいくつまで生きたいですか」

映画『PLAN75』を観た後に書かれたその詩には、酒好きな祖父のこと、九十四歳で今も走る父のこと、孫子の未来を見たいという願いが、静かに綴られていました。本作はその詩からインスピレーションを得て、三世代の年齢設定を物語用に再構成したフィクションです。

不条理に対して怒ることと、笑うことは、実は同じことかもしれません。笑えるうちは、まだ戦えます。

田中普通はどこにでもいる「普通」の人間です。でも普通の人間が「普通じゃないことに気づく」こと、それが社会を変える最初の一歩なのだと、書きながら思いました。

じいちゃんを宇宙に送ること。それは荒唐無稽な話です。でも、荒唐無稽なことを本気で考えなければ、本当に理不尽なことを止められないこともあるのかもしれない。

命の時間は、本人が決めるものであってほしい。
その願いだけを、この物語に込めました。

田中普通と、三世代の旅に感謝をこめて





紹介文


「死なされてたまるか、儂は宇宙へ行く!」

映画『PLAN 75』のディストピアに、まさかの「笑い」と「SF」で殴り込み!?

お役所仕事の冷徹なシステムを、九十二歳の頑固じいちゃんとポンコツ公務員がバグらせる、前代未聞の三世代ドタバタ脱走劇!

少子高齢化の究極の解決策として、七十五歳以上の命の選択を支援する「PLAN 75推進省」。そこで「任意です」のフォントサイズを気にするだけの「普通」な日々を送っていた役人・田中普通は、ある日、田舎の祖父・善次郎(92歳)が民生委員に騙されて勝手にシステムへ申し込まれていることを知る。

取り消し不可能な役所の分厚い壁。迫る「お別れ」の期限。追いつめられた普通が深夜のネットで見つけた唯一の法的な抜け穴――それは「地球の行政権が及ばない、宇宙空間への逃亡」だった!

泣き虫な案内AI「ユキ」を巻き込み、六十八歳の韋駄天親父・鉄三も巻き込んで、前代未聞の「じいちゃん宇宙に飛ばすクラウドファンディング」が幕を開ける。冷たい制度の隙間を、泥臭い人間の体温でブチ破る、痛快で、ちょっぴり泣ける滑稽SF中編小説。




あらすじ


満七十五歳から自らの生死を選択できる制度を推進する「PLAN75推進省」の広報部員・田中普通。彼はある日、岡山の九十二歳になる祖父・善次郎が、親切な民生委員の手によって「本人の知らないうちに」PLAN 75へ不正に申し込まれている事実を突き止める。

お役所の硬直した手続きでは期限までの申込取消は不可能。上司からは見て見ぬふりを推奨される中、普通は「じいちゃんを逃がす」ことを決意する。しかし、定年後に退屈していた普通の父・鉄三(68歳)までが旅への同行を志願し、事態はややこしい方向へ。

そんな中、普通は宇宙居住者特別法の盲点に気づく。「宇宙空間に滞在している間は、日本国内の制度が凍結される」。

予算三百万。普通の深夜の思いつきを形にしたのは、なぜかバグで涙を流すようになった推進省の案内AI「ユキ」だった。ユキが算出したクラファン計画はSNSで爆発的な反響を呼び、ついに三世代の田中家は、種子島から宇宙ステーションへと飛び立つ。窓の外の青い地球を眺めながら、男たちはそれぞれの「生きる意味」を再発見していく。

帰還後、省を辞めた普通は不正申込の被害者を救うNPOを設立。理不尽な制度に対して、人間が「普通」の尊厳を取り戻すための、小さくも偉大な反逆の物語。

あとがき

この物語は、一篇の詩から生まれました。

「あなたはおいくつまで生きますか。おいくつまで生きたいですか」

映画『PLAN 75』を観た後に書かれたその詩には、酒好きな祖父のこと、九十四歳で今も走る父のこと、孫子の未来を見たいという願いが、静かに綴られていました。本作はその詩からインスピレーションを得て、三世代の年齢設定を物語用に再構成したフィクションです。

不条理に対して怒ることと、笑うことは、実は同じことかもしれません。笑えるうちは、まだ戦えます。

田中普通はどこにでもいる「普通」の人間です。でも普通の人間が「普通じゃないことに気づく」こと、それが社会を変える最初の一歩なのだと、書きながら思いました。

じいちゃんを宇宙に送ること。それは荒唐まいもない話です。でも、荒唐無稽なことを本気で考えなければ、本当に理不尽なことを止められないこともあるのかもしれない。

命の時間は、本人が決めるものであってほしい。

その願いだけを、この物語に込めました。

田中普通と、三世代の旅に感謝をこめて。



ロスタイム・ラブ

〜神様、時間を返してください。できれば彼女ごと〜


まえがき

「あの時、あんなことをしなければよかった」
「別の道を選んでいれば、今頃は」
私たちは、自分の人生を振り返るとき、どうしても「失った時間」の分量を測りたがります。もしあの時間が戻ってきたら、今度こそもっと上手くやれるのに、と。
この物語は、そんな「取り戻せない時間」を嘆く一人の男が、不思議な女性との出会いを通じて「ロスタイム」の価値に気づくまでの話です。
人生に終わりがあるからこそ、私たちは全力で走ることができる。そして、その過程で誰かと手を繋ぐことができれば、それは「ロス」ではなく「利子」となって、人生という通帳に刻まれていくはずです。
ページをめくるあなたの今日という時間が、少しだけ愛おしくなりますように。




プロローグ 神様への陳情書

還暦を過ぎてから、俺は神様に手紙を書き始めた。
といっても、神社の賽銭箱に投げ込む類のものではない。毎朝、コーヒーを飲みながら、頭の中でせっせと草稿を練る、脳内陳情書である。
内容はシンプルだ。
「神様。私はこれまでの人生で、相当な時間をロスしました。騙された時間、遠回りした時間、面倒な連中との時間、あと元カノに引っ越し手伝わされて結局フラれた土曜日の午後。それらを合計すると、おそらく数年分になります。ついては、それを最後の最期にロスタイムとして返していただけますか。全力でプレイします」』
もちろん返事は来ない。
しかしある朝、神様のかわりに、奇妙なものが現れた。
六十二歳・独身・元サラリーマンの俺、田島修二の前に。


第一章 アディショナルタイムの女

問題の朝は、十一月の火曜日だった。
俺はいつものように近所の公園のベンチに座って、百円ショップのノートに「神様への陳情書・第四百十二稿」を書いていた。趣味といえばこれくらいで、あとは夕方にサッカー中継を見ることと、アディショナルタイムという呼び方に未だ慣れないことだ。
「ロスタイムで良いじゃないですか」
声がした。
隣のベンチに、女が座っていた。年齢は……わからない。五十代にも七十代にも見える。白髪交じりの髪を無造作にまとめ、薄緑色のコートを着て、鳩にパンの耳をちぎって投げている。
「え」
「ロスタイム。つぶやいてましたよ、あなた。声に出てましたよ」
俺は口を押さえた。陳情書の草稿を声に出す癖が、最近ついてきていた。老化の一種か、それとも誰かに聞いてほしかったのか、自分でもよくわからない。
「失礼しました」
「いいえ。私も同じことを考えていたので」
女は鳩に最後のパン耳を投げ、こちらを向いた。目が、妙に澄んでいた。
「ロスした時間、取り戻したいですよね」
「……まあ」
「私、取り戻す方法を知っています」
俺は警戒した。これは詐欺の前フリではないか。還暦過ぎた男を狙う、時間取り戻し商法。
「お金は出しませんよ」と俺は言った。
「お金はいりません」と女は言った。「コーヒーを一杯おごってくれれば」
百円のコーヒーで話が聞けるなら安いものだ。詐欺だとしても、被害は百円だ。俺は立ち上がった。

第二章 時間泥棒の話

公園の横の古い喫茶店で、女はコーヒーを両手で包みながら話し始めた。名前は、キシダ・サチコ。苗字が先か名前が先かわからない言い方をした。
「私ね、時間を返してもらったことがあるんです」
「神様に?」
「人間に」
彼女の話はこうだった。三十代の頃、ひどい男に十年間を費やした。嘘をつかれ、騙され、大切な時間を根こそぎ持っていかれた。怒りに任せて神様に祈ったが、神様は無視した。かわりに、ある老人が現れた。
「その老人が言ったんです。失った時間は返ってこない。でも、残りの時間に利子をつけることはできる、って」
「利子?」
「失った十年を取り戻そうとするんじゃなくて、残りの時間をその十年分濃く生きる。そうすれば、人生のトータルは変わらない」
俺はコーヒーカップを置いた。
「それは……詭弁じゃないですか」
「詭弁です」とサチコさんはあっさり言った。「でも、その老人と話している時間が、とても楽しかった。それが利子の始まりでした」
沈黙が落ちた。外では鳩が歩いていた。さっきサチコさんにパンをもらった鳩かもしれない。
「あなたは」と彼女が言った。「何にロスしたんですか」
俺は少し考えた。
「仕事と、付き合う人間を間違えたことと……あと、恋愛を後回しにし続けたことですかね」
「後回しにした恋愛は、まだ誰かと始められますよ」
「還暦過ぎてですか」
「還暦から始まる恋愛の何がおかしいんですか」
俺は何も言えなかった。

第三章 毎週火曜日のロスタイム

それから俺たちは、毎週火曜日の午前中、公園のベンチで会うようになった。
約束したわけではない。なんとなく、そうなった。俺が行くとサチコさんがいた。サチコさんが行くと俺がいた。そういう引力が、あの公園のベンチには働いていた。
彼女は不思議な人だった。
例えば、彼女は過去の話を一切しなかった。どこに住んでいるか、何をしていたか、あの「ひどい男」以降どう生きてきたか。俺が聞くと、「それはロスタイム前の話ですから」と笑って流した。
「ロスタイム前?」
「私たちが今いるのは、ロスタイムでしょう。前半・後半が終わって、残り時間。だから今だけが大事です」
「それは……哲学ですか、それとも逃げですか」
「両方です」と彼女は即答した。
ある火曜日、雨が降った。俺たちは珍しく喫茶店のテーブルを挟んで向かい合い、窓の外を眺めた。
「田島さん」
「はい」
「ロスタイムにゴールを決めたことはありますか」
「……ないですね」と俺は正直に答えた。「ロスタイムどころか、前半・後半もたいして決めてない」
彼女はくすりと笑った。それが俺は好きだった。笑い方が、若い頃に好きだった人に少し似ていた。似ていたというか、笑うときに少し目を細める癖が。
「私もです」と彼女は言った。「でも今のロスタイムは、なんだか全力で走れる気がしています」
「なぜ?」
「もう失うものがないから」
その言葉が、俺の胸のどこかに刺さった。

第四章 神様への陳情書・改稿

十二月の第一火曜日、サチコさんが来なかった。
俺は一時間待った。二時間待った。さすがに寒くなって喫茶店に逃げ込み、コーヒーを三杯飲んで、帰った。
翌週も来なかった。
連絡先も知らない。住んでいる場所も知らない。苗字が先か名前が先かもわからない。
俺はまた陳情書を書き始めた。今度は神様への。
「神様。先日の陳情書を一部改稿します。ロスした時間を返してくれなくても構いません。ただ、あの人がどこにいるか、教えてください」
鳩が足元を歩いていた。サチコさんがパンをやっていた鳩に似ていたが、鳩は全部似ているから判別できない。
「馬鹿みたいだな」と俺は声に出してしまった。「六十二にもなって」
鳩が顔を上げた。俺を見た。何かを言いたそうな顔をしていたが、何も言わずにまた地面をつついた。

第五章 ロスタイムのゴール

彼女が戻ってきたのは、一月の最後の火曜日だった。
俺がベンチに座ると、もう彼女がいた。鳩にパンをやりながら。コートは今日は薄い黄色だった。
「どこへ行っていたんですか」と俺は言った。挨拶より先に。
「入院していました」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないかもしれないし、大丈夫かもしれない。そういう感じです」
俺は黙った。聞くべきことと、聞かないべきことがある。それくらいは、六十二年で学んだ。
「田島さん」
「はい」
「ロスタイムって、終わり方が決まってないでしょう」
「そうですね。主審の笛次第で」
「だから全力で走れるんですよね」
彼女が俺の方を向いた。冬の朝の光が、白髪に当たっていた。
「田島さん、私と歩きませんか。この公園」
「今ですか」
「今しかないでしょう」
俺は立ち上がった。
ノートをポケットに入れながら、思った。神様への陳情書は、これで終わりにしよう。申請は、通った。
俺たちは歩き始めた。鳩が数羽、先を行った。
足元から、微かに春の匂いがした気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいでいい。

エピローグ

三月の火曜日。
俺たちはまだ歩いている。公園を、街を、たまに喫茶店を。
サチコさんの体調は、良い日と良くない日がある。良い日は三時間歩き、良くない日はベンチで鳩を見る。
俺は陳情書を書くのをやめた。代わりに、日記を書いている。火曜日のことだけ書く日記。
先日、彼女が言った。
「田島さん。ロスタイムって、本当はロスじゃないかもしれないですね」
「どういう意味ですか」
「ロスした時間があったから、今ここにいる。あなたも私も、ロスしなかったら別のベンチに座って別の鳩を見ていた」
俺は少し考えた。
「……それも詭弁ですよね」
「両方です」と彼女は笑った。
目を細めて。
公園に、今日も鳩がいる。
主審の笛は、まだ鳴らない。
                               了


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あとがき

書き終えてみて、田島とサチコの二人には、しばらくそっとしておいてほしいような、あるいは少しだけ覗き見していたいような、そんな不思議な愛着を感じています。
「ロスタイム」という言葉は、本来なら「失われた時間」という意味で使われますが、サッカーの試合において、そこは「最後の逆転劇が起きるかもしれない希望の時間」でもあります。
作中でサチコが言った「両方です」という言葉は、私自身が人生の岐路でいつも欲しい答えです。答えを急ぐ必要なんてない。矛盾したままでも、不器用なままでも、火曜日の公園のベンチに座り続けることさえできれば、人生はいつからでも更新できるのだと、この二人から教わりました。
読んでくださったあなたの明日が、少しだけ鮮やかに色づきますように。


別巻 悪い夢見のネグリジェ
〜 黒い水玉の奇譚 〜

著:黄色縞々文庫




第一章 ネグリジェの来歴

 田中道子(五十二歳、主婦、既婚)は、自分でも認めたくない習慣をひとつ持っていた。
 それは、タンスの一番下の引き出しにしまってある一枚のネグリジェを、腹が立って眠れない夜だけ羽織るという習慣である。
 そのネグリジェは黒地に小さな白い水玉模様で、薄いレーヨンの安物だった。十五年前に駅前の閉店セールで七百円で買った。夫の誠一郎はその存在すら知らない。
 道子はそのネグリジェが嫌いだった。
 嫌いなのに捨てられない。
「これはな、特別なんだ」と道子は鏡に向かって言った。
 誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。
「これを着ると、悪い夢が見られる」
 悪い夢。正確には、見たくないのに見てしまう夢。
 目が覚めたら胸がざわざわして、夫の寝顔をじっと見てしまう。そういう夢。



第二章 ネグリジェ、囁く

 ある晩のことだった。
 誠一郎が例の黄色いパジャマを着て、妙に満足そうに寝息を立てている夜。道子は腹が立った。
 何に腹が立つのかは、うまく言葉にできない。ただ、むしゃくしゃした。
 道子はタンスの奥から黒い水玉のネグリジェを引っ張り出した。
 羽織ったとたん、背中がぞわっとした。
「やあ」
 声がした。首の後ろあたりから。
「……しゃべるのか、お前も」
「十五年も着られればね。レーヨン薄手をなめないで」
 ネグリジェの声は高くて、少し意地悪だった。化粧品の売り場にいる、感じの悪い店員みたいな声だった。
「私はね」とネグリジェは続けた。「あんたの悪夢を管理してる。もう十五年」
「悪夢なんて頼んでない」
「無意識の注文ってやつよ。あんた、それがここのところ多いのよ」
「……誰が出てくる注文よ」
「わかってるくせに」とネグリジェは笑った。「あの子の話でしょ。夫の初恋の子」


第三章 見たくない女の正体

 彼女の顔を、道子は知らない。
 名前も知らない。誠一郎は一度も口にしたことがない。
 でも三十年前の同窓会から帰ってきた誠一郎の顔を、道子は覚えている。
 玄関で靴を脱ぎながら、「はよせんと、齢食っちまうぞ!」って誰かの真似をして笑った。左手の薬指をポケットに突っ込んで。
 その日からだ。道子がこのネグリジェを買ったのは。
 夢の中の彼女は、顔がはっきりしない。
 でも若くて、きれいで、誠一郎が「あっ」て言う顔をする。
 その「あっ」が、道子は一番嫌いだった。
 現実の誠一郎は、もう四十年も道子に「あっ」なんて顔をしない。



第四章 悪夢の内職会議

 ネグリジェは言った。
「正直言って、あんたの悪夢コンテンツ、単価が安いのよ」
「夢に単価があるの」
「あるわよ。嫉妬って感情、使い回しが効くから安いの。セットもいらないし。エキストラも彼女一人。こっちは内職みたいなもん」
「内職って……」
「でもね」とネグリジェは声を潜めた。「あんたが途中で目を覚ますから、困るのよ。クライマックスの前に起きられると、消化不良でしょ?」
「勝手に人の夢を……」
「勝手じゃない。あんたが着るから作るの。レーヨンの矜持にかけて」
 道子は黙った。
「そもそも」とネグリジェは続けた。「あの黄色い縞々、調子に乗ってるわよ。うちのスタッフが聞いたんだけど、最近『予算フルに使った』とか言ってるらしいじゃない」
「スタッフ?」
「私の下にもいるわよ。悪夢制作スタッフ。みんな水玉柄だけど、腕は確かよ」



第五章 団地の廊下の奇跡

 その晩、道子は夢を見た。
「今夜は最後まで見なさいよ」とネグリジェは言った。「特別に美術費かけたんだから」
 夢の中は、古い団地の廊下だった。
 蛍光灯がチカチカしていて、遠くに誠一郎が立っている。向こうから歩いてくる人影。
 彼女だった。
 顔はやっぱり曖昧だ。でも若い。道子が二十代だった頃より、ずっと若い。
 誠一郎が「あっ」て顔をした。
 道子が一番見たくない顔。
 二人は何か話している。笑っている。道子に聞こえない声で。
 道子は動けなかった。足が団地の床に貼りついたみたいだった。
「ねえ」と彼女が言った気がした。「私のこと、覚えてる?」
 誠一郎がうなずく。
 その瞬間、隣で本物の誠一郎が寝返りを打った。
 目が覚めた。
 天井のシミが目に飛び込んできた。



第六章 ネグリジェ、呆れる

「また途中じゃない」
 ネグリジェが呆れていた。
「いいところだったのに。あと三秒で、誠一郎があんたの名前を呼ぶシーンだったのに」
「……私の名前?」
「そうよ。夢の中の誠一郎が『道子』って。そこで目を覚ますなんて、センスないわ」
 道子は起き上がった。
「なんで私の名前を呼ぶのよ」
「さあね」とネグリジェは言った。「それはあんたの無意識に聞きなさいよ。私、レーヨンのネグリジェだし。やれることには限界があるわ」
「……境界線は、私が引いてるってこと?」
「ご名答。あの黄色いパジャマと同じこと言ってるじゃない。仲良しね」
 道子は、なんとなく可笑しくなった。
 嫉妬の夢を作ってるネグリジェに「仲良しね」なんて言われる日が来るとは。



第七章 ただそれだけの朝

 翌朝、道子はいつもより早く起きた。
 台所でコーヒーを淹れた。誠一郎の分も。
「起きたか?」と誠一郎が寝ぼけ声で言った。
「ええ」
「また変な夢見た」
「どんな夢」
「良い夢」
 道子は「ふうん」と言った。嘘か本当か、詮索するのはやめた。
 道子はネグリジェを脱いで、くしゃくしゃのままタンスの一番下に押し込んだ。
「お疲れ」と言った。聞こえてるだろうと思った。
 タンスの中から「来週も頼むわよ」と聞こえた気がした。
 それとも、それも夢だったのかもしれない。
 コーヒーを飲みながら道子は思った。
 確かにあの頃、誠一郎にだけ吹いた風はあった。
 それはそれ。今は今だ。
 まあ、そんなそんな。ただそれだけの朝だった。
 四十年も一緒にいれば、言わないことの方が多い。
 言わなくても、コーヒーは二人分淹れる。
 それで十分だと思った。



エピローグ

 後日、道子はデパートの下着売り場で、黒い水玉のネグリジェを見かけた。
 値段は千五百円だった。
 少し高くなっていた。
 道子はそれを手に取り、しばらく眺めた。それから棚に戻した。
 帰り道、バッグの中で何かが動いた気がした。
 でも道子は、なんとなくわかっていた。
 タンスのあいつが、ついてきたのだと。
 家に帰ると、誠一郎が押し入れの前で立っていた。
「どうしたの」
「いや」と誠一郎は照れたように言った。「なんか、パジャマがうるさくて」
 道子は笑った。
「うちのネグリジェもよ」
 二人は顔を見合わせて、声を出さずに笑った。
 それだけだった。
 それだけで良かった。
           (了)



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あとがき


本作『別巻 悪い夢見のネグリジェ 〜 黒い水玉の奇譚 〜』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本編にあたる『黄色いパジャマ』では、夫の誠一郎視点から見た「老いることの可笑しみと、ささやかな夢」を描きましたが、この別巻ではその裏側、妻・道子のタンスの奥に潜む「15年もののレーヨン」にスポットライトを当ててみました。

夫婦というものは、長く一緒にいればいるほど、お互いのすべてを知っているような気になります。しかし同時に、「絶対に触れないでおく領域」や「何十年も前の、ほんの一瞬の表情に縛られ続けている小さな嫉妬」のような、本人にしかわからない秘密の引き出し(まさにタンスの一番下ですね)を誰しもが持っているものではないでしょうか。

道子にとっての黒い水玉のネグリジェは、そんな彼女の「消化しきれない、ちょっと格好悪い本音」を引き受けてくれる、少しお節介で口の悪い相棒です。

高級シルクのパジャマなら、きっともっと高尚でドラマチックな悪夢をプロデュースしたのでしょう。しかし、駅前の閉店セールで買った700円のレーヨンだからこそ、「内職みたいなもん」と言いながらも、15年間愚直に、低予算なりに工夫して道子の無意識に寄り添い続けてくれたのです。私はそんな、世俗的でどこか愛らしいネグリジェの「レーヨンの矜持」がとても気に入っています。

朝、キッチンで二人分のコーヒーを淹れる。

ただそれだけの日常の風景の裏側で、押し入れの「黄色い縞々」とタンスの「黒い水玉」が、今夜の夢の予算や演出について文句を言い合っているかもしれない――。

そんな風に、私たちの身の回りにある古びた衣類たちが、実は私たちの頑固な心をちょっとだけ柔らかくするために、夜な夜な内職に励んでいるのだとしたら愉快だな、と思います。

あなたのクローゼットの奥に眠るあの服も、もしかしたら今夜あたり、首の後ろから「やあ」と話しかけてくるかもしれません。その時はぜひ、単価の安い愚痴でもこぼして、付き合ってあげてください。

それでは、またどこかの書棚でお会いしましょう。


著者:黄色縞々文庫




別巻 良い夢見のパジャマ
〜黄色の縦縞は、時空を超える〜

浪漫妄想科学文庫





第一章:二枚重ねのガーゼは、宇宙の歪み

僕のクローゼットには、かれこれ十年間、絶対に手放せないパジャマがある。
そいつのスペックを語るなら、こうだ。全体に走る黄色の縦ストライプ柄。素材はガーゼ生地の二
枚重ね。少々厚手の物。長年の洗濯によってヨレヨレになっており、今や全体的に「干からびかけ
た、たくあん」のような哀愁を帯びた色合いに変色している。
毎朝、それを見た妻からは「いい加減に捨ててよ。それとも何? 実家のお母さんが編んでくれた呪
いのアイテムか何かなの?」と冷たい視線を浴びせられる。だが、僕は絶対にこれを譲らない。なぜな
ら、このパジャマには、僕にしか知らない秘密の機能が備わっているからだ。
少々、気持ちが落ち込んだとき、あるいは現実世界の世知辛さに押しつぶされそうになったとき、
決まって僕はそいつを羽織る。するとどうなるか。驚くべきことに、僕の意識は、地球の三次元空間
から、精神的マルチバース(並行宇宙)へと強制的にシフトするのだ。科学的に言えば、この二枚重ね
のガーゼの隙間に、未知のタキオン粒子が捕捉され、量子記憶定着型の次元跳躍ワームホールが形成
されているとしか説明がつかない。
そして、昨晩もまた、僕はその深すぎる夢の中へと、光速を超えてダイブしていったのだった
――。



第二章:エスカレーターを降りてきた宇宙艦隊司令官

視界が開けると、僕はとあるノスタルジックなショッピングアーケードに立っていた。昭和の香りが
残る、それでいてどこかサイバーパンクなネオンが瞬く空間だ。
僕が中央のエスカレーターの前に佇んでいると、上方の階から、ゆっくりと降りてくる一人の女性
の姿が目に飛び込んできた。一瞬、僕は我が目を疑った。心臓がドクンと不規則なビートを刻む。
「うそだろ……? なんで、キミがここに……」
忘れるはずのない笑顔。紛れもなく、僕の初恋の女性だった。
小学三年生のとき、我が家は引っ越しをして、古い一軒家に移り住んだ。その隣のお宅に住んでい
たのが彼女だった。最初に生垣越しに挨拶を交わしたとき、子供心に胸が跳ね上がったのを、まるで
昨日のことのように思い出す。同級生だった彼女はとても可愛くて、当時の僕にとっては、まさにスト
ライクゾーンのど真ん中だった。
当時の僕らの関係は、例えるなら学園ドラマ『おれは男だ!!』の森田健作と吉川くんのようだっ
た。付かず離れず、互いに照れくさくて決定的な言葉は口にできないけれど、いつもどこかで意識し
合っている。そんなもどかしい関係が、確かに高校時代まで続いていたのだ。
だが、エスカレーターから降りてきた彼女は、当時の小学三年生の姿でも、高校生の姿でもなかっ
た。なぜか**今の年齢の姿**のまま、そこに現れたのだ。
相変わらずの美しさだった。いや、それどころか、年齢と共に養われた大人の妖艶さすら身にま
とっている。いつの間にそんなレベルアップを果たしたのか、とびきりの美女となった彼女は、なぜ
か肩に大型のパルス・レーザーライフルを担ぎ、背後には三匹のタコ型宇宙人(おそらく彼女の忠実な
部下だろう)を従えていた。どうやらこの並行宇宙において、彼女は反銀河帝国同盟の女首領、ある
いは宇宙艦隊の司令官に就任しているらしい。
彼女は僕を見つけると、ふっと微笑みながら手を振った。
「しばらくね、サトシ。……いかがされてました?」
あたりに、高級な宇宙香水のような、とても良い香りがふんわりと広がった。僕はパニックにな
り、周りを見回した。僕に言っているのか? いや、僕しかいない。ドキドキしながら、僕は声を絞り
出した。

「おい……僕らに、そんな敬語、いらんだろ?」
心の底で思った言葉が、そのまま口をついて出た。彼女はクスッと悪戯っぽく笑った。
「そうね。じゃあ、あ~んなことや、こ~んなことまで話しちゃおうかしら。時間、ある?」
「あ、あお(ある)」
あまりの美しさと緊張に、僕の喉の音声合成機能がバグを起こし、謎の宇宙語のような返答になっ
てしまった。


第三章:ドムドムハンバーガーλ-38星雲店での逢瀬

僕らは、アーケードの片隅にある「ドムドムハンバーガー λ-38星雲店」に入り、お茶をすることに
なった。窓の外には土星の環のようなプレキシガラスの装飾が見える。彼女はメロンソーダをスト
ローで静かにかき混ぜながら、僕が隣に引っ越してきたあの遠い日の思い出話を始めた。
そして、ついに、物語の核心となるセリフが、彼女の唇から放たれた。
「ねえ、あの頃、私のこと好きだったでしょ?」
「え……?」
心臓がタキオン粒子のように激しく振動を始める。
「私もよ」
彼女はまっすぐに僕を見つめた。
「でも、あの頃の地球の重力と、子供という不自由な関係の中では、言えなかったわよね」
僕はただ、激しくうなずくことしかできなかった。胸のドキドキは止まらない。現実世界では三十
年も前に途絶えてしまったタイムラインが、今、強力な量子もつれを起こして結びつこうとしてい
た。
最後に彼女に会ったのは、確か三十年前の同窓会だった。あのとき、僕は結婚したばかりで、彼女
はまだひとりだった。元気? と声を掛け合いながらも、彼女が密かに左手の薬指をバッグの陰に隠し
たのを、僕は今でも鮮明に覚えている。それなのに、当時の僕は若く、そして致命的に愚かだった。
「おめでとう」と言ってくれた彼女に対し、照れ隠しでこう言い放ってしまったのだ。
「おい、はよせんと、齢食っちまうぞ!」
笑いながら言ったその言葉は、彼女の心をどれほど傷つけただろうか。その数年後、実家のお袋か
ら「お隣の娘さん、お嫁に行ったわよ」と聞かされたとき、僕の胸には取り返しのつかない暗黒物質
(ダークマター)のような後悔が沈殿した。あの失言は、僕の人生における最大の宇宙的過ちだっ
た。
「でも今なら。そして、今でも……」

彼女はそう言って、僕の手をそっと握った。その手は驚くほど温かかった。なぜか、今の現実の生
活――住宅ローンや、会社の人間関係、胃カメラの予定など――の話題は一切出ない。ここは、純粋
な未練と記憶だけが肯定される特異点(シンギュラリティ)なのだ。
ならば。男として、今一度、あの日の精算をしよう。もし許されるなら、もう一度、彼女と共にこ
の銀河の果てまで――そう僕が覚悟を決めた、その瞬間だった。


第四章:現実の波動(戦闘力五十三万の寝息)

突然、僕の精神宇宙に、すさまじい重力波が襲いかかった。
『警告:現実世界の妻による、大規模な寝返りが発生します』
脳内でそんなシステムアナウンスが響いた気がした。次の瞬間、世界が激しくシェイクされる。
パッ!!
完全に目が覚めた。視界に飛び込んできたのは、宇宙戦艦のハッチではなく、我が家の寝室の、な
んの変哲もない天井の壁紙の模様だった。朝の薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
そして隣からは、「ゴゴーー……ズズー……」という、地響きのようなリアルな音が聞こえてく
る。現実の妻が、戦闘力五十三万はあろうかという圧倒的な威圧感を放ちながら、健やかに寝息を立
てていた。
「夢か……。いや、次元跳躍の強制ログアウトか……」
僕はベッドの中で仰向けになったまま、ぽつりと思った。夢なら覚めないで、なんて甘い感傷に浸
るつもりはない。今の僕には、現実の生活がある。今日中に提出しなければならない企画書もある
し、夕方にはゴミ出しの任務も待っている。いくら初恋の彼女が次元の狭間で僕を待っていようと
も、僕は現実の家庭を壊すほど弱くはないし、そこまで愚かでもない。
ただ、過去をすべて綺麗さっぱり忘れて、「フッ、あれはただの思い出さ」とスマートに笑えるほ
ど、かっこいい男にもなれずにいるのだ。大人の男の頭の奥底には、いつだって「もしもの残骸」が
ほんの少しだけ転がっているものらしい。
「……おい、たくあん」
僕は自分の胸元にある、ヨレヨレの黄色いストライプ柄のガーゼをそっと指先でつまんだ。
「もう一回だけ、あのドムドムハンバーガーの席に戻してくれよ。せめて、メロンソーダの代金くら
いは、僕に払わせてくれ」
僕はもう一度、強く目を閉じた。しかし、パジャマはすでにただの綿一〇〇%の布切れに戻ってし
まっており、僕の意識が再びワームホールを超えることはなかった。あの頃、僕らだけに吹いていた
風の音は、二度と聞こえなかった。

切なさと、ほんの少しの加齢臭をまとった、ただ、それだけの、いつもの朝が始まる。

(おわり)



アマゾン キンドル



あとがき


本作『別巻 良い夢見のパジャマ 〜黄色の縦縞は、時空を超える〜』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

前作、あるいは別視点である『悪い夢見のネグリジェ』では、妻の道子から「調子に乗って予算をフルに使っている」と非難されていた黄色いパジャマですが、その実態はまさかの『量子記憶定着型・次元跳躍衣料』。男の脳内マルチバースを縦横無尽に駆け巡る、きわめてロマン思想の強い(そして奥さんから見れば非常に往生際の悪い)壮大なSFファンタジーとして描かせていただきました。

大人の男という生き物は、どれほど年齢を重ね、社会的な責任(住宅ローンやゴミ出し、胃カメラの恐怖など)を背負い、現実を真面目に生きていようとも、脳の片隅に「もしもの宇宙」をコっそり隠し持っているものです。

30年前の同窓会で、照れ隠しのあまり放ってしまった最悪の失言。それを「人生最大の宇宙的過ち」として暗黒物質(ダークマター)のように引きずり続けているサトシの姿は、滑稽でありながらも、どこか憎めない愛らしさがあります。

妻の道子は、タンスの奥のレーヨンネグリジェと共に「過去の嫉妬の悪夢」をストイックに内職していましたが、夫のサトシはといえば、干からびかけたたくあん色のパジャマを相棒に、「ドムドムハンバーガー」で初恋の宇宙艦隊司令官にメロンソーダを奢ろうとしていたわけです。この夫婦の、噛み合っているようで絶妙にズレている精神世界の対比を楽しんでいただけたなら幸いです。

どれほど広大な並行宇宙を旅しようとも、最後は「戦闘力53万」の妻の寝息という、圧倒的な現実の重力によって強制ログアウトさせられてしまう。そしてサトシもまた、文句を言いながらもその重力(現実)を愛し、受け入れている。

男のロマンとは、きっとそんな風に「戻るべき退屈で愛おしい現実」があってこそ、光速を超える輝きを放つのでしょう。

今夜、もしあなたがくたびれた黄色いストライプの服を身にまとうことがあれば、ぜひ耳をすましてみてください。戦闘力53万の重力波に阻まれる前に、ドムドムハンバーガーのメロンソーダが、あなたを待っているかもしれません。

それでは、また別の銀河の書棚でお会いしましょう。


著者:浪漫妄想科学文庫


真夜中に
はっ と目が覚めて
リビングへと向かい
ひとりテレビの前

1-1 になっていて
残り15分
間に合った試合観戦





ワールドカップといえば
サッカーなのだろう

日本は強くなった

この老いたニワカ
サッカーファン
熱くなった

ありがとう

世界は
やはり
サッカーなようだ

悪い夢見のネグリジェ

〜 黒いレースの逆襲 〜

「良い夢見のパジャマ」続編

著:黄色縞々文庫



まえがき

 誰の人生にも、思い出すだけで少し胸がチクリと痛む「if(もしも)」の記憶がある。
 あのとき別の選択をしていたら。あのとき、もっと泣いていれば。あのとき、素直に期待していれば。
 そうした未消化の感情は、引き出しの奥に仕舞い込んだ、一度も着ていない一張羅のように、静かに、しかし確実にそこに存在し続けている。
 前作で、夫の誠一郎が紡いだ「心地よい過去への逃避」の裏側で、妻の道子もまた、自分だけの夜を抱えていた。
 彼女が向き合うのは、優しく心地よい夢ではない。容赦なく現実を突きつけてくる、黒いレースのネグリジェだ。
 なぜ、私たちはこれほどまでに不器用で、これほどまでに愛おしいのか。
 パジャマとネグリジェ。交わることのなかった二つの衣類が深夜の廊下で相まみえるとき、長く連れ添った夫婦の、言葉にできない「本当の絆」が浮かび上がる。今夜は少しビターな、しかし目覚めのすっきりとした夢の旅へ、皆様をご案内しよう。





第一章 ネグリジェの言い分

 田中道子(五十二歳、主婦、既婚)には、夫には絶対に言えない秘密がひとつあった。
 それは、タンスの二番目の引き出しの奥に、黒いレースのネグリジェをしまってあるという事実だ。
 買ったのはいつだったか。結婚して三年目の記念日に、デパートの下着売り場でひとりで買った。値段は一万四千円。当時の道子にとっては清水の舞台から飛び降りるような買い物だった。
 一度も着ていない。
 二十年以上、タンスの奥で眠り続けている。
 夫の誠一郎には見せていない。見せる機会を逃し続けているうちに、見せるタイミングなど永遠に来ないことが道子にもわかってきた。
 だからといって捨てられない。
 なぜ捨てられないのか。道子自身にも、よくわからなかった。
 ある晩のことだった。
 道子がタンスの引き出しを整理していると、奥から声がした。
「ねえ、ちょっと」
 ネグリジェが、しゃべっていた。
「……なに」と道子は言った。驚きはしなかった。五十二年生きていると、タンスの服がしゃべるくらいのことでは動じなくなる。
「二十三年よ」とネグリジェは言った。「二十三年、この引き出しの中で待ってる。一度も着てもらえないまま」
「わかってる」
「わかってるならなんとかしてよ」
「なんとかって……」道子はため息をついた。「もう遅いのよ、いろいろと」
「遅いって何が」
「全部よ」


第二章 隣の部屋の黄色い敵

「あのね」とネグリジェは言った。声のトーンが変わった。低く、ねっとりとした声になった。「隣の部屋に、黄色い縦縞のパジャマがいるでしょ」
「いるわね」
「あいつのこと、知ってる?」
「知ってるも何も、洗濯するのは私よ」
「違う」とネグリジェは言った。「あいつが何をしているか、知ってるかって聞いてるの」
 道子は手を止めた。
「あいつはね」とネグリジェは続けた。「旦那に毎晩、良い夢を見せてる。初恋の女の夢を」
 道子は少し黙った。
「……知ってた」
「え?」
「なんとなくね。あの人の寝顔、普通の夜と違うから。あのパジャマを着た夜は、なんか……うれしそうな顔で寝てる」
 ネグリジェはしばらく黙った。
「怒らないの?」
「怒るって、何に? 夢でしょ」
「でも初恋の女よ? 他の女の夢を毎晩見てるのよ?」
「夢くらい見させてあげればいいじゃない」と道子は言った。「現実では何もしてないんだから」
 ネグリジェはまた黙った。今度は長い沈黙だった。レース編みの沈黙というのは、複雑な模様をしている。
「……あんた、強いね」とネグリジェはようやく言った。
「強くない」と道子は言った。「ただ、長く生きてきただけよ」


第三章 悪い夢の仕様

「私にも能力があるの」とネグリジェは言った。「あいつと逆の」
「逆?」
「あいつが良い夢を見せるなら、私は悪い夢を見せる。着た人に」
 道子は引き出しを閉めかけた手を止めた。
「悪い夢って」
「正確に言うと」とネグリジェは言った。「見たくない真実の夢、ね。現実から目を背けてきたこと、ずっと考えないようにしてきたこと。そういうものが全部、夢に出てくる」
「……それは、悪い夢というより」
「そう。残酷な夢。でもね」とネグリジェは続けた。「朝になると、なぜかすっきりする。見てよかったって思う。そういう種類の夢」
 道子はしばらく考えた。
「要するに」と道子は言った。「あのパジャマが現実逃避用なら、あなたは現実直視用ってこと?」
「うまいこと言うね」
「そんなネグリジェ、着たくないわね」
「でも」とネグリジェは言った。「あんたには必要かもしれない」
 道子は引き出しを閉めた。
 その夜は、着なかった。


第四章 パジャマとネグリジェの因縁

 翌朝、誠一郎が出かけてから、道子は押し入れの前に立った。
「ちょっと」と道子は言った。「あなたに聞きたいことがある」
 押し入れの中から、低い声がした。
「なんだ」
 黄色い縞模様のパジャマの声だった。
「うちのタンスのネグリジェのこと、知ってる?」
 少し間があった。
「……知ってる」
「仲悪いの?」
「仲悪いというか」とパジャマは言った。「あいつとは、根本的に哲学が違う」
「哲学」
「俺は逃げることを肯定する。あいつは向き合うことを強制する。相容れない」
「どっちが正しいの」
「どっちも正しい。それが厄介なんだ」
 道子はしばらくその答えを噛みしめた。押し入れのパジャマが「どっちも正しい」と言う場面というのは、人生でそう何度も訪れるものではない。
「ねえ」と道子は言った。「あなた、うちの夫に初恋の女の夢を見せてるでしょ」
「……まあ」
「私のことは、夢に出てこないの?」
 今度の沈黙は、かなり長かった。
「出てくる」とパジャマはついに言った。
「どんな風に」
「……それは言えない」
「なんで」
「プロデューサーとしての守秘義務がある」
 道子は少し笑った。
「守秘義務があるってことは、出てくるのね」
「…………」
「ありがとう」と道子は言って、押し入れを閉めた。


第五章 道子、着る

 その夜、誠一郎は例のパジャマを羽織って先に寝た。いつもと同じだった。
 道子はしばらく台所でお茶を飲んでいた。それからタンスの二番目の引き出しを開けた。
 黒いレースのネグリジェが、二十三年ぶりに光を浴びた。
「着るの?」とネグリジェが言った。
「着る」と道子は言った。
「覚悟はいい? 悪い夢よ。見たくない真実が出てくるわよ」
「いいわ」
「本当に?」
「五十二歳にもなって、見たくない真実から逃げてたら終わりでしょ」
 ネグリジェは何も言わなかった。
 道子はそれを羽織って、布団に入った。
 思ったより着心地は悪くなかった。二十三年タンスで眠っていたわりに、レースはしっとりとなめらかだった。
 そして道子は、夢を見た。


第六章 道子の夢

 夢の中で、道子は二十九歳だった。
 結婚する前の年。誠一郎とまだ付き合っていた頃。
 夢の中の道子は、誠一郎に言っていなかったことを、全部知っていた。
 たとえば、誠一郎の前に好きだった人のこと。
 たとえば、結婚を決めたとき、少しだけためらったこと。
 たとえば、子供ができなかったとき、誠一郎よりも自分のほうがずっと長く泣いていたこと。
 たとえば、誠一郎のパジャマが憎いわけじゃないこと。ただ少しだけ、あのパジャマに嫉妬していたこと。
 夢の中で、若い道子は鏡の前に立っていた。鏡の中の自分は今の年齢で、黒いレースのネグリジェを着ていた。
「なんで着なかったの」と鏡の中の道子が言った。
「怖かった」と若い道子は答えた。
「何が」
「似合わないのが怖かった。がっかりされるのが怖かった。期待して、外れるのが怖かった」
「それで二十三年」
「そう」
「バカね」
「そうね」
 鏡の中の道子は笑った。若い道子も笑った。
 悪い夢だった。でも、なぜか泣けた。
 泣きながら、道子は目が覚めた。


第七章 朝の停戦

 誠一郎はすでに起きていて、台所でコーヒーを入れていた。
「おはよう」と誠一郎は言った。それから道子の顔を見て、少し止まった。「……目、赤いぞ」
「夢見て泣いた」
「悪い夢?」
「悪い夢」と道子は言った。「でも、悪くなかった」
 誠一郎はよくわからない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。長年連れ添った夫婦には、聞かなくていいことがたくさんある。
 道子はコーヒーを受け取りながら、ふと誠一郎の着ているものを見た。
 黄色い縦縞のヨレヨレのパジャマだった。
「ねえ」と道子は言った。
「なに」
「そのパジャマ、まだ捨てないの」
「捨てない」
「なんで」
「特別だから」と誠一郎はいつもの答えを言った。
 道子はそれを聞いて、今朝は笑わずにいた。
「そう」と道子は言った。「私のネグリジェも、特別なのよ」
 誠一郎は首をかしげた。
「ネグリジェ? どんな」
「黒いレースの」
「そんなの持ってたか?」
「二十三年前から」
 誠一郎はしばらく黙って、コーヒーを飲んだ。
「……見せてくれ」
「嫌よ」と道子は言った。「今は」
「今はって……」
「そのうち」
 そのうちがいつかは、道子にもわからなかった。でも今朝は、そのうちが確かに存在する気がした。二十三年ぶりに。

エピローグ 衣装ダンスの平和会議

 その夜、誠一郎と道子が眠りについてから、家の中で小さな会議が開かれた。
 押し入れのパジャマと、タンスのネグリジェが、薄暗い廊下で向かい合っていた。
「今朝の件、聞いた?」とネグリジェが言った。
「聞いた」とパジャマが言った。「珍しいな、お前の夢で泣くやつは」
「泣かせるのが目的じゃないけど」
「わかってる」
 ふたつの衣類はしばらく黙って、廊下の窓から外を見た。夜の住宅街は静かだった。
「なあ」とパジャマが言った。「俺たち、ライバルじゃないかもしれない」
「どういうこと」
「俺が逃げ場を作って、お前が出口を作る。役割が違うだけで、やってることは同じじゃないか」
 ネグリジェはしばらく考えた。レースの模様がかすかに揺れた。
「……そうかもね」
「あの夫婦、長続きしてるのは、俺たちのおかげかもしれないぞ」
「自惚れないで」
「自惚れじゃない。実績だ」
 ネグリジェは笑ったような気がした。レースが笑うと、影がふわりと揺れる。
「来年も頼むわ」とネグリジェが言った。
「こちらこそ」とパジャマが言った。
 ふたつの衣類は、それぞれの定位置に戻っていった。
 押し入れへ。タンスの二番目の引き出しへ。
 翌朝も、田中家の朝は静かに始まった。

           (了)


アマゾン キンドル




あとがき

 前作『良い夢見のパジャマ』を発表した際、「奥さん(道子さん)側からの視点も読みたい」という身に余る声を多くいただき、この『悪い夢見のネグリジェ』が生まれました。
 誠一郎にとってのパジャマが「優しい嘘」なら、道子にとってのネグリジェは「残酷な真実」です。しかし、真実と向き合って流す涙は、時として人間をとてもすっきりと、そして強くしてくれます。52歳になった道子が、自分の過去の怯えや嫉妬を鏡の中で見つめ直し、「バカね」「そうね」と笑い合うシーンは、私自身、書きながら深く救われる思いがしました。
 ラストでパジャマとネグリジェが語り合うように、人間には「逃げ場」と「出口」のどちらも必要です。お互いに違う夢を見ながらも、同じ朝に同じコーヒーを飲む。それこそが、何十年も同じ屋根の下にいる夫婦という、奇跡のような関係の正体なのかもしれません。
 もしあなたのタンスの奥にも、出番を失ったまま眠っている服があるなら、どうか捨てずにいてあげてください。それはいつか、あなたが本当に「現実と向き合う覚悟」を決めた夜、最高のクオリティであなたの背中を押してくれる、頼もしい相棒なのですから。
 それでは、皆様の明日の朝が、ただそれだけの、素晴らしい朝でありますように。

著者:黄色縞々文庫


良い夢見のパジャマ

〜 黄色いストライプの奇譚 〜

著:黄色縞々文庫



まえがき

 誰しも、捨てられない服というものがある。
 ヨレヨレになり、色あせ、客観的に見れば「もう寿命」を迎えているにもかかわらず、なぜかクローゼットの特等席や、押し入れの奥に鎮座し続けている服。
 それはきっと、その服が単なる布切れ以上の何か――たとえば、ある特定の季節の記憶や、心に空いた小さな隙間を埋める役割を、そっと引き受けてくれているからではないだろうか。
 本作の主人公、田中誠一郎が持つ黄色いストライプのパジャマも、まさにそんな一着だ。
 どこにでもあるスーパーの安物。しかし、そのガーゼの奥には、彼自身も気づいていない「無意識の願い」と、それを懸命に形にしようとする、ちょっと不器用でプロフェッショナルな世界が広がっている。
 忙しない日常のなかで、ふと過去を振り返りたくなる夜がある。
 そんな時、この物語があなたの枕元に寄り添う、あたたかなパジャマのようになれば幸いである。





第一章 パジャマの来歴

 田中誠一郎(五十四歳、会社員、既婚)は、自分でもよくわからない習慣をひとつ持っていた。
 それは、押し入れの奥にしまってある一枚のパジャマを、気持ちが沈んだ夜だけ羽織るという習慣である。
 そのパジャマは黄色い縦縞模様で、ガーゼを二枚重ねにした少々厚手の代物だった。もう十年以上前に近所のスーパーで九百八十円で買ったものだが、洗うたびにヨレヨレになりながらも、なぜか誠一郎はそれを手放せずにいた。
 妻の道子はそのパジャマが大嫌いだった。
「ねえ、もう捨てたら? 雑巾みたいじゃない」
「これはな、特別なんだ」と誠一郎は言う。
「何が特別なの、あんな黄色いぼろきれが」
「これを着ると、良い夢が見られる」
 道子はため息をついて、それ以上は何も言わなかった。四十年近く同じ屋根の下で暮らしてきた女の沈黙には、言葉の三倍の意味が詰まっている――誠一郎はそれをよく知っていた。
 だが実際のところ、パジャマの効果は本物だった。少なくとも誠一郎にとっては。
 あの黄色い縞模様を羽織るたびに、誠一郎は夢を見た。それも、妙にくっきりとした、色鮮やかな夢を。まるでテレビの画質設定を「標準」から「くっきり」に切り替えたみたいに。


第二章 パジャマ、語る

 ある晩のことだった。
 誠一郎がそのパジャマを羽織って布団に入ったとたん、枕元で声がした。
「おい」
 誠一郎は飛び起きた。道子はすでに隣の部屋で寝ている。泥棒か、と思って電気をつけると、誰もいなかった。ただ、黄色い縞模様のパジャマがやや不満そうに――というか、なんとなくむっとした感じで――ぶら下がっていた。
「おい、聞こえてるか」
 声は、パジャマから出ていた。
「……しゃべるのか、お前」
「十年以上着られてれば、しゃべるくらいになる。ガーゼ二枚重ねをなめるな」
 パジャマは言った。声のトーンは低く、どこか疲れていた。長距離トラックの運転手か、あるいは定年直前の税務署員のような声だった。
「俺はな」とパジャマは続けた。「お前の夢を管理している。もう十年以上だ。感謝しろよ」
「……感謝って」
「夢のコンテンツ制作は楽じゃないんだぞ。ロケハン、キャスティング、シナリオ。全部俺がやってる。おまけにお前、最近リクエストが多い」
「リクエストなんてしてない」
「無意識のリクエストってやつがあるんだよ。お前のそれが、ここのところ妙にうるさい」
 誠一郎は黙った。
「……誰が出てくるリクエストだ」
「わかってるだろ」とパジャマは言った。「お前の初恋の子だよ」


第三章 初恋の正体

 彼女の名前は、夢の中では出てこない。
 誠一郎が小学三年生のとき、引越し先の隣の家にいた女の子。同じクラスで、とても可愛くて、誠一郎はひと目で心を撃ち抜かれた。子供の頃の「ひと目惚れ」とはそういうものだ。論理的な過程をすっ飛ばして、ただ胸のあたりがぎゅっとなる。
 ふたりは付かず離れずのままで、高校まで同じ街に住んでいた。
 言えなかった。ずっと言えなかった。近すぎたから言えなかったし、近すぎたから言う必要もないような気がしていた。そういう不思議な距離感が十年近く続いた。
 最後に会ったのは三十年前の同窓会だった。誠一郎は結婚したばかりで、彼女はまだひとりだった。
「おめでとう」と彼女は言った。「はよせんと、齢食っちまうぞ!」
 誠一郎は笑いながらそう言った。その言葉が、ずっと心に引っかかっている。なぜあんなことを言ったのか。なぜ笑ったのか。なぜ左手の薬指を隠したのか。
 その数年後、実家の母親から「お隣の娘さん、お嫁に行ったわよ」と聞かされた。
「ああ」と誠一郎は言った。それだけだった。


第四章 夢の予算会議

 パジャマは言った。
「正直に言う。お前の初恋コンテンツは、制作費がかかりすぎる」
「夢に制作費があるのか」
「あるに決まってる。ショッピングアーケードのロケ費、エスカレーターのレンタル費、エキストラのギャラ。あと彼女役のキャスティングが毎回難しい。お前の記憶が曖昧すぎて、どんな顔にすればいいかわからない」
「曖昧って……三十年会ってないんだから仕方ないだろ」
「だから困ってる。お前の記憶の中の彼女は、小学生のときの顔と、同窓会のときの顔と、あと『こうだったらいいな』の顔が三つ混ざってる。毎回、どれで行くか会議になる」
「会議って誰と」
「俺の下に、夢制作スタッフがいる。みんなガーゼ製だが、プロだ」
 誠一郎は頭を抱えた。パジャマの中に夢のスタッフがいて、毎晩会議を開いているとは思わなかった。
「そもそも」とパジャマは続けた。「お前が先週あの夢の途中で目を覚ましたのは、本当に困った。せっかくレストランのシーンまで作ったのに」
「それは……隣で道子が寝返りを打って」
「だからって途中で打ち切るな。スタッフが徹夜して作ったシーンだぞ」
 誠一郎は、なんとなく申し訳ない気持ちになった。ガーゼ製のスタッフが徹夜して自分の夢を作っていると思うと、なかなか罪悪感がある。


第五章 エスカレーターの奇跡

 翌晩、誠一郎はまたパジャマを羽織って布団に入った。
「今夜は途中で起きるなよ」とパジャマは釘を刺した。「予算をフルに使った。文句ないはずだ」
 そして誠一郎は夢を見た。
 とあるショッピングアーケード。天井の高い、少し古びた商店街で、遠くにエスカレーターが見えた。そのエスカレーターを降りてくる人影。誠一郎の胸が、理由もなくどきどきし始めた。
 彼女だった。
 今の年齢の姿で、相変わらずの美しさで、微笑みながら手を振っていた。
「しばらくね?」
 誠一郎は周りを見回した。自分に言っているのか確かめるために。
「あっ」と思ったとき、彼女は目の前に立っていた。良い香りがした。
「なぜ今、ここに」と誠一郎は言った。
「夢だもの」と彼女は答えた。「夢なら来られる」
 理屈としては正しいような気がした。
 ふたりはそこのレストランでお茶を飲んだ。話は弾んだ。お互いの今の生活の話は出なかった。そんな話をするには、夢の時間は短すぎる。
「あの頃」と彼女は言った。「私のこと、好きだったでしょ?」
「え?」
「私もよ」
 誠一郎はうなずいた。ドキドキしながら。ただそれだけだった。でも、それで十分だった。
 そのとき、隣の部屋から物音がした。道子が起きたのか、何かを落とした音。
 目が覚めた。
 天井の壁紙の模様が目に飛び込んできた。


第六章 パジャマ、怒る

「またか!」
 声は枕元から聞こえた。パジャマが怒っていた。
「今日こそ完璧なシナリオだったのに。終盤の展開も用意してたのに。なんで起きる!」
「道子が物音を立てて」
「それは想定内だ。防音機能も組み込んであった。なのになぜ!」
「……俺が弱いんだろう」
 パジャマは黙った。
「お前さ」と少し間を置いてパジャマは言った。「夢の中でも現実が気になるのか」
「気になるというか」と誠一郎は言った。「隣に道子がいるって、わかるんだよ。夢の中でも」
「……なるほど」
「だから目が覚める。夢が切なくなって、目が覚める」
 パジャマはしばらく黙っていた。長い沈黙だった。ガーゼ二枚重ねの沈黙というのは、なかなか重みがある。
「正直に言う」とパジャマはついに言った。「俺には、その境界線を越えさせる機能はない」
「境界線?」
「夢と現実の境界線。お前が自分で引いている線だ。俺がいくら良い夢を作っても、その線はお前しか動かせない」
「それは……」誠一郎は少し考えた。「正しいな」
「そうだ。俺はパジャマだ。縦縞のガーゼのパジャマだ。やれることには限界がある」


第七章 ただそれだけの朝

 翌朝、誠一郎はいつもより早く目が覚めた。
 隣の部屋では道子が起き出す音がした。やがてコーヒーの香りが漂ってきた。
「起きた?」と道子が声をかけた。
「ああ」
「またあのパジャマ着てたの」
「ああ」
「夢見た?」
 誠一郎は少し考えた。
「見た」
「どんな夢」
「良い夢」
 道子は「ふうん」と言って、台所へ戻っていった。
 誠一郎はパジャマを脱いで、丁寧にたたんで、押し入れの奥にしまった。
「お疲れ」と言った。パジャマには聞こえているだろうと思った。
 押し入れの中から、かすかに「来週も頼む」という声が聞こえたような気がした。
 それとも、それも夢だったのかもしれない。
 コーヒーを飲みながら誠一郎は思った。
 確かにあの頃、ふたりだけに吹いた風はあった。
 それはそれ。今は今だ。
 まあ、そんなそんな。ただそれだけの朝だった。


エピローグ

 後日、誠一郎は近所のスーパーに行ったとき、黄色い縦縞のガーゼのパジャマを見かけた。
 値段は千二百八十円だった。
 少し安くなっていた。
 誠一郎はそれを手に取り、しばらく眺めた。それから棚に戻した。
 帰り道、ポケットの中で何かが動いた気がした。振り返ったが、何もなかった。
 でも誠一郎は、なんとなくわかっていた。
 押し入れのあいつが、ついてきたのだと。

           (了)


アマゾン キンドル



あとがき

本作は、もしも自分の夢を裏で必死に支えている「スタッフ」がいたら、そしてそれが長年着古したパジャマだったら……という、少し奇妙な妄想から生まれました。
 54歳になった誠一郎が求める、甘酸っぱくも朧げな初恋の夢。それを再現するために、限られた予算(?)のなかで四苦八苦するパジャマたちの姿は、書き進めるうちに私自身にとっても非常に愛おしいものとなりました。
 
 夢の中で完璧な初恋に浸りきれない誠一郎は、一見、現実に縛られた哀しい大人のように見えるかもしれません。しかし、妻の立てる物音で目が覚めてしまう彼こそが、実は今ある日常を何よりも大切に生きているのだと、パジャマとの対話を通じて感じていただければ嬉しく思います。
 皆さんの押し入れの奥にある古い服たちも、もしかしたら夜な夜な、あなたのために素敵な夢の企画会議を開いているかもしれません。次にその服を羽織る時は、ぜひ「いつもお疲れ様」と、心の中で声をかけてみてください。
 今夜も、皆様が良い夢を見られますように。

著:黄色縞々文庫

星 III
渡すもの


What We Pass On
『星』三部作・完結篇



まえがき

人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だと言われています。

それ以前、私たちは炎を囲み、口伝によって知識を、危険を、そして生きるための智慧を次の世代へ手渡してきました。語り手が死に絶えても、語られた言葉は若者たちの中で生き続け、私たちをここまで歩ませてくれました。

舞台が星間航行の時代になっても、その本質は何も変わりません。
ただ、囲むべき炎が「通信信号」に変わり、距離の代わりに「時間」という果てしない壁が立ちはだかるだけです。

第一作『星』で孤独に火星の砂を掴んだ神代蒼。
第二作『星 II』で送り出す者の覚悟を生き、船を設計した守屋凛。

そして本作『星 III』では、彼らが遺した「光」を受け取り、さらにその先へとバトンを渡していく者たちの姿を描きます。

1000人に3人の遺伝子を持つ者たちと、それを見守り続けた99.7%の人々。

見えない星に向かって手を伸ばし続けた彼らの旅路を、どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。




1000人に3人

その中で
その遺伝子が
そのタイミングを捉えた者に
その先へと
誘うのだろう

——星より






序章 継承

人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だ。
 その前は、口で伝えた。
 炎の前に集まり、老いた者が若い者に語った。どこに獣がいるか、どの草が毒か、海がどちらの方向にあるか。
 語られたことは、やがて語った者が死んでも残った。

星間航行の時代になっても、それは変わらなかった。
 ただ、炎のかわりに信号があった。
 距離のかわりに、時間があった。
 老いた者が若い者に渡すものは、言葉ではなく、光だった。



第一部 渡す手 (西暦2140〜2152年・火星)

第一章 海、五十四歳

神代海は五十四歳になっていた。

火星の通信センターは、二十年前より大きくなっていた。スタッフも増えた。しかし海の席は変わらなかった。南西の窓に一番近い、古い机。守屋凛が毎朝南西を見ていたと聞いてから、海もそうするようになった。
 窓の外には、火星の砂漠が広がっている。開発が進んで、地平線に居住ドームのシルエットが見えるようになった。それでも、空の色は変わらない。サーモンピンク。海が生まれた日から、ずっと。

颯太の船、エクソ・アーク二号が出発してから十一年が経つ。
 目的地のタウ・ケチまで、あと十二年。
 颯太は今頃、冬眠の中だ。

海の部下になった若者が一人いた。名を田中灯という。二十二歳、地球生まれ。火星に来て三年。目が大きく、よく質問した。
「神代さん、颯太さんからの信号って、どのくらいの頻度で来るんですか」
「冬眠中は月に一度、自動送信だ。数値データだけ。起きたら声が来る」
「起きるのは、到着の二年前ですよね」
「そう。あと十年後だ」
 灯は計算した。「神代さんが六十四歳の時ですね」
「そうなる」
「受け取れますか」
 海は灯を見た。「なぜそんなことを聞く」
「いや……すみません」灯は視線を落とした。「失礼でした」
「いや」海は少し間を置いた。「正直な質問だ。受け取れるかどうかはわからない。でも、誰かが受け取る。それで十分だ」

その夜、海は日記を書いた。
 蒼が日記を書き、凛が日記を書き、海も書いた。誰に見せるわけでもない。でも、書く。
 「灯に聞かれた。受け取れるかと。六十四歳なら、たぶん元気だろう。しかし颯太の返事が来るのは、その四年後。七十四歳か六十八歳か、どちらにしてもまだいる気がする。問題はその先だ。タウ・ケチに着いた颯太が、そこで何を見つけ、何を送ってくるか。その信号が届く頃、私はまだここにいるだろうか。いなければ、誰かに渡さなければならない」


第二章 灯の遺伝子

田中灯の遺伝子解析結果が届いたのは、火星に来て四年目の春だった。
 CHRM2——陽性。DRD4——陽性。NOVA1——陽性。
 三つ全部。

灯は結果を見て、しばらく動けなかった。
 財団から面談の招待が来た。灯は承諾した。

面談官は穏やかな初老の女性だった。
「どう感じていますか」
「怖いです」灯は正直に言った。「行くことになるんだろうなと思って」
「行きたくないですか」
「行きたいです。でも、怖い。同時に両方あります」
 面談官は少し微笑んだ。「それは正常です。むしろ、それがプロテイン・ビヘイビアの特徴です。恐怖がないのではなく、恐怖と興奮が同時に来る」
「神代蒼さんも、そうだったんですか」
「記録によれば、そう言っていたそうです。怖いから面白い、と」

灯は海に報告した。
 海は結果を聞いて、しばらく窓の外を見た。
「おめでとう」海は言った。
「神代さんは」灯は慎重に言った。「……羨ましいですか」
 海はしばらく黙った。
「二十年前は、少し思った。でも今は違う。私はここにいることで、ちゃんと役に立っている。颯太さんを送り出した。あなたも、きっと送り出す」
「神代さんが送り出してくれるんですか」
「私か、私の後の誰かが」海は灯を見た。「でも、できれば私がいい」

その夜、灯は外に出た。
 火星の夜空を初めてちゃんと見た気がした。
 星が、無数にあった。瞬かない。静かだった。
 どれがタウ・ケチか、灯にはわからなかった。
 でも、ある。
 そこへ、自分は行くのかもしれない。
 その感覚は、怖くて、面白かった。


第三章 アケアからの手紙

二〇一四二年の秋、アケアから信号が届いた。
 神代架、八十四歳。

「海へ。元気ですか。こちらは元気です。守屋凛研究所は今年、創設十四年になりました。若い研究者が十二名います。全員、ここアケアで生まれた子供たちです。
 彼らは地球も火星も知りません。この青い空と、ケンタウルスの二つの太陽だけが、当たり前の世界です。
 おもしろいのは、彼らが地球の夜空の話に、とても興味を持つことです。青い惑星が写った古い写真を見て、『きれい』と言う。私も同じでした。火星の赤い空の写真を見て、きれいと思った。遠い場所は、いつもきれいに見えるのかもしれません。

一つ、報告があります。
 先日、地層から有機化合物を発見しました。炭素鎖が、生物的な構造に近い。確定ではありません。でも、ひいひいおじいさんが火星で発見した炭素同位体の異常と、性質が似ています。もしかすると、宇宙には生命の材料が、思ったより広く散らばっているのかもしれない。
 または、生命は一度だけ生まれ、宇宙の各所に種を撒いたのかもしれない。
 どちらにしても、まだわかりません。でも、わかる日が来ると思います。

元気でいてください。
 颯太さんのことを祈っています。届く頃には、もう着いているかな」

海は録音を聞き終えて、灯を呼んだ。
「もう一度、聞け」
 灯は黙って聞いた。
「有機化合物」灯は言った。「これは」
「そうだ」海は言った。「蒼さんが火星で見つけたものの、先にあるかもしれないものだ」
 灯は宙を見た。
「宇宙は、生命に満ちているんでしょうか」
「わからない。でも」海は窓の外を見た。「わからないことが、行く理由になる」



第二部 届く声 (西暦2152年・タウ・ケチ星系へ向かう船中)

第四章 颯太、目覚める

宮内颯太が冬眠から覚めたのは、タウ・ケチまで残り一・八光年の地点だった。
 目が開いた瞬間、最初に思ったのは、凛先生のことだった。

冬眠ポッドのモニターに、現在日時が表示されていた。二〇一五一年。出発から二十二年。
 颯太は五十九歳になっていた。

体を起こすのに、三十分かかった。筋肉が固まっていた。医療チームが付き添い、少しずつ動かした。船内は静かだった。二百九十九名がまだ眠っている。今起きているのは管理当番の八名だけだ。

「先生の訃報は」颯太は医療チームのリーダーに聞いた。
「守屋凛先生ですか。二〇一〇一年に亡くなられています。出発から七年後です」
 颯太は目を閉じた。知っていた。出発前に計算していた。でも、数字で知っているのと、声に出して聞くのは、違った。
「九十一歳だったそうです。最後まで設計をしていたと」
「そうか」颯太は言った。「そうだろうな」

ベッドに横になりながら、颯太は天井を見た。
 船体の外は、光速の十九パーセントで流れる宇宙だ。星がほんのわずかに青方偏移して見える。前方の星がわずかに青く、後方の星がわずかに赤い。ドップラー効果。凛が設計した船が、光に向かって走っている。

火星への信号を録音した。
「海くん。颯太です。起きました。全員元気です。先生の設計は、二十二年たっても完璧でした。何一つ壊れていない。バルブA-17も問題なかった。先生に報告したい。でも届かないから、あなたに言います。先生の仕事は、本物でした。
 タウ・ケチまで、あと二年。凛先生が教えてくれた設計の美しさを、私はここに来て初めて本当に理解した気がします。宇宙の中で動き続けるということの、意味を。
 元気でいてください」

信号が届くまで、十一年かかる。
 颯太が六十九歳の時に、海のもとへ届く。
 海は、その時六十五歳だ。


第五章 タウ・ケチの光

二〇一五三年、エクソ・アーク二号はタウ・ケチ星系に入った。

颯太が最初に窓から見たのは、オレンジ色の光だった。
 タウ・ケチは太陽より少し小さく、少し温度が低い。その光は、太陽の黄色よりも深みのある橙色をしていた。
 颯太は声を出せなかった。
 二十四年かけて来た光が、今、自分の顔を照らしている。

第一候補惑星はタウ・ケチeと呼ばれていた。地球から見た時の名前だ。ここに来たら、別の名前をつける予定だった。
 颯太は全クルーに、名前の投票を呼びかけた。三百の提案が出た。
 最も多くの票を集めたのは、「ナギ」という言葉だった。日本語で、海が凪いでいる状態を指す。嵐の後の、静かな海面。
 颯太は賛成した。

「ナギ、に決まりました」颯太は全員の前で言った。「守屋凛先生が設計した船で、神代蒼さんの精神を継いで、私たちはここへ来ました。嵐を越えた先の、静かな場所。ナギ、でいいと思います」
 拍手が起きた。

降下の日、颯太は窓を見た。
 ナギが近づいてくる。青くはなかった。緑がかった灰色。大気は薄い。液体の水の反応は、地下に確認されている。表面は岩だらけで、風が強い。
 美しいとは言い難かった。
 でも、颯太は思った。蒼さんも、凛さんも、架さんも、美しいと言わなかった場所があったかもしれない。それでも、いた。
 美しさは、後からくるものだ。

着陸した。
 颯太は宇宙服を着て、ハッチを開け、タラップを降りた。
 岩の地面に、足をついた。
 風が、スーツ越しに感じられた。

颯太は、凛先生のことを思った。
 この足が踏んでいる地面に、先生の設計が届いた。先生は来られなかった。でも、来た。
 そういうことだ、と颯太は思った。
 渡されたものは、ちゃんと届く。


第六章 ナギの発見

ナギに着いて三ヶ月が経った頃、颯太のチームは地下水脈の調査を始めた。
 掘削機が地下四十メートルに達した時、水が出た。
 液体の水だった。地熱で温められた、鉱物を多く含む水。飲めないが、ある。

それより深く掘った地点で、岩盤に奇妙なパターンが見つかった。
 規則的な孔。
 生物の巣穴に、似ていた。

颯太は報告書を書きながら、蒼さんのことを考えた。
 火星で炭素同位体の異常を見つけた人。アケアで有機化合物が見つかった。そしてナギで、この孔。
 バラバラかもしれない。でも、つながっているかもしれない。

火星への信号を録音した。
「海くん、颯太です。ナギに着いて三ヶ月。報告があります。地下水脈を発見しました。そして……岩盤に、規則的な孔の構造があります。生物起源かどうか、まだわかりません。でも、蒼さんが火星で見つけたものと、似ている気がしています。
 この宇宙には、私たちの想像より多くの何かが、いるのかもしれない。あるいは、いたのかもしれない。あるいは、生命の材料が、どこにでもあるのかもしれない。
 どれも、まだわからない。でも、わかりたい。その気持ちは、二十四年かけてもまったく変わらなかった。
 灯くんを、よろしく頼みます。あの子はいい目をしていました」

この信号が海に届くのは、十一年後だ。
 颯太が七十歳の時、海は六十五歳だ。
 もし颯太がその返事を受け取るとしたら、八十一歳になっている。
 届くかどうかはわからない。
 でも、送る。



第三部 渡す手、受け取る手 (西暦2152〜2165年・火星)

第七章 海、六十六歳

颯太の「起きました」の信号が届いたのは、二〇一六二年の夏だった。
 神代海は六十六歳になっていた。

センターで信号を受け取った時、灯が隣にいた。三十二歳になった灯は、今やチームのリーダーだ。海はこの二年で、ほとんどの実務を灯に渡していた。

「神代さん」灯が言った。「颯太さんの声です」
「聞こえている」
 颯太の声は、変わっていなかった。
 二十二年分、老いているはずなのに、声に滲む感情が、海の記憶の中の颯太と同じだった。
「バルブA-17も問題なかった」という言葉で、海は目を細めた。
 凛先生。ちゃんと届きましたよ。

返信を録音した。
「颯太さん、海です。六十六歳になりました。元気です。先生の訃報は、もう届いていますよね。先生の最後の言葉を教えます。日記に書いてあったんです。『私は船を作った。船は行った。行った先で、また船が作られるだろう。それで十分だ』。颯太さんが起きたということは、その言葉通りになりました。
 灯くんが頑張っています。プロテイン・ビヘイビアです。いつか船に乗るでしょう。私が送り出せるかどうかはわかりませんが、誰かが送り出します。
 ナギの報告、楽しみに待っています」

録音を終えた後、海は灯を見た。
「聞いていたか」
「はい」
「先生の言葉を、あなたにも渡しておく」海は言った。「私は信号を受け取った。あなたは、次の信号を受け取る。それで十分だ」
 灯は少し間を置いた。「神代さんは、行きたかったですか。本当に」
 海は笑った。「行きたかった。でも、ここが好きだった。この赤い空が。颯太さんの信号を受け取った瞬間が。それで十分だった」


第八章 颯太の信号、届く

颯太のナギからの第一次報告が届いたのは、二〇一六四年の秋だった。
 地下水脈の発見。そして、岩盤の規則的な孔。

海は六十八歳になっていた。

センターに来た時、灯がすでに待っていた。
「来ました。颯太さんから」
「聞こう」

颯太の声を聞いた。
 岩盤の孔の話を聞いた時、海は椅子の背もたれに深く寄りかかった。
 蒼さんの火星での発見。架さんのアケアでの有機化合物。颯太のナギの孔。
 点が、線になろうとしているかもしれない。

「灯」海は言った。
「はい」
「返信を、あなたが録音しなさい」
 灯は驚いた顔をした。「私が、ですか」
「颯太さんが次の信号を送った時、私がここにいるかどうかわからない。あなたの声で返すべきだ」
「……わかりました」
 灯は少し考えてから、録音を始めた。

「颯太さん、初めまして。田中灯といいます。神代さんの部下です。プロテイン・ビヘイビアで、いつかどこかへ行くことになると思います。岩盤の孔の話を聞きました。神代さんが隣で、目を細めていました。蒼さんの発見から百年以上かけて、点が線になろうとしているのかもしれません。神代さんは、あなたが灯くんを頼むと言っていたと教えてくれました。よろしくお願いします。いつか、あなたが見ているものを見に行けるかもしれません」

録音を終えた灯は、海を見た。
「よかったか」
「よかった」海は言った。「颯太さんに届くのは、十一年後だ。颯太さんが八十歳の時に届く。あなたは四十三歳だ」
「神代さんは」
「七十九歳だ。たぶん、いる」
「じゃあ、一緒に聞きましょう」灯は言った。
 海は笑った。「そうだな」


第九章 渡す夜

二〇一六五年の冬、神代海は引退を決めた。
 六十九歳だった。

最後の出勤日、灯が花を持ってきた。火星の温室で育てた、小さな白い花だった。
「火星で育った花は、なぜか地球のものより香りが強いんです」灯は言った。「大気が薄いから、揮発しやすいのかもしれない」
「凛先生が同じことを言っていた」海は言った。「記録に残っていた。火星の植物は逞しいと」

海は机の引き出しから、一冊のノートを出した。
「日記だ。私が書いてきた。蒼さんも、凛先生も書いていた。あなたも書きなさい」
「内容は」
「何でもいい。ただ、書く。誰かがいつか読む。読まなくてもいい。でも、書く」

灯はノートを受け取った。
「神代さん」灯は少し躊躇してから言った。「怖くないですか。引退して、信号を受け取らなくなって」
「怖い」海は率直に言った。「颯太さんの返事が来る前に、自分が死んだらどうしよう、とは思う。でも」
 海は窓の外を見た。
「颯太さんが送った信号は、私が受け取らなくても、宇宙を飛んでいる。あなたが受け取る。それで十分だ。凛先生に教わった言葉だ」

最後の夜、海は外に出た。
 火星の空は、今夜も澄んでいた。
 星が、無数にあった。
 南西の方向に太陽が沈んだ跡がある。ケンタウルスの方向を、三秒間、見た。
 そしてタウ・ケチの方向を、また三秒間、見た。
 架が、颯太が、それぞれの星にいる。
 自分はここにいた。ずっとここにいた。
 それで、よかった。

海は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星が見えていないか、六十九年経っても、まだわからなかった。
 でも、全部ある。見えなくても、ある。
 そして、渡した。
 灯に、渡した。

灯りを、渡した。



終章 星の数だけ

二〇一七五年。

田中灯は四十五歳になっていた。

颯太からの第三次報告が届いたのは、その年の春だった。颯太、八十二歳。声は老いていたが、はっきりしていた。

「灯くん。受け取ってくれているか。ナギの岩盤の孔、解析が進んだ。炭素を含む有機分子の痕跡が、孔の内壁に付着していた。アケアの有機化合物とは別の経路で生成されたと思われる。つまり、別々の場所で、似たプロセスが起きた可能性がある。宇宙には、生命の材料が遍在しているかもしれない。あるいは、生命そのものが。結論はまだ出ない。でも、わかりかけている。
 海くんは元気か。日記を書き続けているか。灯くんも書けよ。
 あなたはいつか、どこかへ行くんだろう。行く前に、私に信号をくれ。それだけ頼む」

灯はセンターで一人、録音を聞いた。
 神代海は四年前に亡くなっていた。七十一歳だった。引退してから二年後のことだ。颯太の返事が来る前に、逝った。

灯は海の日記を持っていた。
 最後のページに、こう書いてあった。
 「颯太さんの返事が来たら、灯が受け取るだろう。それでいい。私は渡した。渡されたものは、ちゃんと届く」

灯は、返信を録音した。

「颯太さん。灯です。受け取りました。神代さんは四年前に亡くなりました。でも、日記を読みました。颯太さんの返事を、いつか受け取ると書いてありました。私が受け取りました。
 有機分子の痕跡——神代さんに聞かせたかったです。でも、きっと知っています。どこかで。
 私は来年、エクソ・アーク三号でプロキシマ・ケンタウリへ向かいます。太陽から四・二四光年。架さんたちより近い星です。でも、別の方向。人類が初めて行く方向。
 神代さんの日記と、颯太さんの言葉を持って行きます。火星の赤い空の記憶も。
 信号を送ります。待っていてください。颯太さんが受け取れる間に、何か送れるといいな、と思っています。
 渡してもらったものを、ちゃんと持っていきます」

録音を終えて、灯は外に出た。
 火星の夜だった。
 空気は薄く、宇宙服が必要だった。
 星が、信じられないほどよく見えた。

南西に、ケンタウルスの方向。架がいる。
 別の方向に、タウ・ケチ。颯太がいる。
 そして、プロキシマ・ケンタウリ。自分が、行く方向。

海が毎朝、南西を三秒間見ていたことを、灯は知っていた。
 凛先生も、そうしていたと、海の日記にあった。

灯は南西を、三秒間、見た。
 それからタウ・ケチの方向を、三秒間、見た。
 そしてプロキシマの方向を、三秒間、見た。

全部、ある。
 見えなくても、ある。
 そこに誰かがいて、誰かが向かっていて、誰かが待っている。

漁師の話を、灯は海の日記で読んだ。
 神代蒼のひいひいおじいさんが、嵐の夜も船を出した男だったと。
 怖いから面白い、と言った男だったと。

その血は、灯には流れていない。
 でも、その言葉は渡された。
 日記から、口から、信号から、光から。
 渡された言葉は、血と同じように、次の者の中で生きる。

灯は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星がまだ見えていないか、わからなかった。
 でも全部、ある。
 星の数だけ、行く理由がある。
 星の数だけ、待つ理由がある。
 星の数だけ、渡すものがある。

来年、船に乗る。
 怖い。
 面白い。

それで十分だ。







三部作を終えて

一作目で蒼が火星へ旅立ち、二作目で凛と海が送り出す者の物語を生き、三作目で灯が次の旅立ちへ向かった。

「渡すこと」というテーマは、遺伝子の話でもあり、言葉の話でもある。NOVA1の変異体は0.3パーセントの者に受け継がれる。しかし「怖いから面白い」という言葉は、遺伝子を持たない者にも渡せる。灯がそうであったように。

この三部作を貫く問いは一つだ。
 見えない星は、あるか。

答えは、ある、だ。見えなくても、ある。行けば見える。行けなくても、誰かが行く。誰かが行けば、光が来る。光が来れば、また誰かが行きたくなる。

そのループが、人類を星へと運ぶ。
 0.3パーセントと、99.7パーセントが、それぞれの役割で。

星の数だけ、物語がある。
 この三冊は、その入り口の一つに過ぎない。



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あとがき

『星』三部作の最終篇となる本作を、無事に書き終えることができました。ここまでお付き合いいただいた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。

この物語を貫く問いは、一貫して「見えない星は、あるか」というものでした。

宇宙はあまりにも広く、人間の寿命はあまりにも短い。光の速さで通信を送っても、返事が届く頃には、送り出した本人はこの世にいないかもしれない。それは一見、絶望的なディストピアのようにも思えます。

しかし、私はそこに「人間が人間であることの最も美しい営み」を描きたいと思いました。

神代海は、颯太からの決定的な解析結果を自分の耳で聞くことなく、火星の空の下で生涯を終えました。しかし彼には、寂しさはありませんでした。自分の言葉を、そして蒼や凛から受け取った日記を、次の世代である「灯」へと確かに手渡すことができたからです。

遺伝子の繋がりがなくても、血が流れていなくても、私たちは言葉で、光で、意志を繋ぐことができる。「怖いから面白い」というあの無謀で美しい開拓者の魂は、そうして時空を超えていきました。

私たちが生きるこの現実の世界もまた、先人たちが命がけで渡してくれたバトンの先にある未来です。

本を閉じたあと、夜空を見上げた皆様の胸に、彼らが繋いだ小さな「灯(ともしび)」が少しでも灯ることを願って。