砂時計アプリ
まえがき
技術の進歩は、私たちに多くの便利さをもたらしてくれました。しかし同時に、「見えなくてよかったもの」まで可視化してしまうことがあります。
もしも、自分の人生の残り時間がスマートフォンの中に「砂時計」として表示されたら、私たちは今日という日をどう生きるでしょうか。
本作は、デジタルに疎い一人の還暦過ぎの男性と、奇妙なAIアシスタントとの交流を描いた物語です。
変わりゆく時代の中で、私たちが本当に大切にすべきものは何か。物語の砂時計をひっくり返すように、ゆっくりとお楽しみいただければ幸いです。
第一章 スマホという名の敵
還暦を過ぎてから、世界は妙に速足になった。
浩一はそう感じている。テレビのリモコンのボタンが減っていく一方で、スマートフォンというあの薄い板には、ボタンがひとつもない。あるのはガラスの平面と、そこに浮かんでは消える光の粒だけだ。
「お父さん、それ、もう三年前の機種だよ。さすがに替えたら?」
娘の美咲がそう言って、新しいスマホの箱を置いていったのが先週のこと。浩一は箱を開けるまでに四日かかり、電源を入れるまでにさらに二日かかった。画面に浮かんだ「ようこそ」の文字を見て、なんだか自分の方が歓迎されていない気がした。
「設定アシスタントを起動しますか?」
機械的な、しかしやけに愛想のいい声がスピーカーから漏れる。浩一は迷いながら「はい」をタップした。
光が渦を巻き、画面の中央に小さな人型のアイコンが現れる。卵形の輪郭に、まばたきをする目だけがついている、奇妙な生き物だった。
「はじめまして。わたくし、AIアシスタントの“サナ”と申します。これからあなたの時間管理をお手伝いいたします」
「時間管理? スケジュールアプリみたいなもんか」
「おおむね、そうですね。ただし管理する時間の単位が、少々特殊でございます」
浩一は眉をひそめた。妙に古風な言葉遣いをする人工知能だ。
「特殊って、何が」
「あなたの残り時間です」
浩一は画面をタップする指を止めた。
「……は?」
「冗談です。まずはWi-Fiの設定からまいりましょう」
サナはそう言って、けらけらと笑うような効果音を鳴らした。浩一は、信用していいのか分からないまま、とりあえずWi-Fiのパスワードを打ち込んだ。
第二章 砂時計の通知
それから一ヶ月、浩一とサナの奇妙な同居生活が始まった。
最初の数日は、サナに振り回されてばかりだった。「指紋認証に失敗しました」「アップデートには2時間かかります」「容量が不足しています、写真を23,000枚削除してください」——浩一はそのたびに、画面の前でため息をつき、時には小さく毒づいた。
それでも徐々に、操作には慣れてきた。LINEで美咲とスタンプのやり取りをするのも、悪くないと思い始めていた矢先のことだった。
ある晩、ホーム画面に見慣れないアイコンが増えていた。砂時計の形をした、小さな緑色のアイコンだ。
「サナ、これは何だ?」
「ああ、それはバックグラウンドで自動インストールされた『ライフタイマー』というアプリです。失礼、説明が遅れました」
「ライフタイマー……」
タップすると、画面いっぱいに、巨大な砂時計のイラストが表示された。上の容器には、無数の白い砂粒が詰まっていて、それが一定の速度で下の容器へと落ち続けている。
「これは、あなたの人生における残存時間を可視化したものです」
「冗談はよせ」
「冗談ではございません。ただし、誤差は約3割ございますので、参考程度にご覧くださいませ」
浩一は画面を二度見した。下の容器には、すでにそれなりの量の砂が溜まっている。上の容器の砂は、まだたっぷり残っているように見えたが、よく見ると、その中に一粒だけ、赤い砂が混じっていた。
「サナ、これは何だ。この赤いやつ」
サナは少し間を置いてから答えた。
「申し訳ございません。それについては、現在のところ、当方からは詳しい説明を差し控えさせていただいております」
「は? お前のアプリだろうが」
「左様でございます。ですが、赤い粒に関する情報開示は、利用規約第48条によって制限されております」
「利用規約なんて読んでないぞ」
「皆様そうおっしゃいます」
浩一はしばらく画面を睨んでいたが、やがてアプリを閉じ、スマホを枕元に置いて眠ることにした。妙な胸騒ぎがしたが、それも年のせいかもしれないと思うことにした。
第三章 昭和を生きた先輩たち
翌朝、浩一はかつての職場の同僚、田村から電話を受けた。固定電話に、だ。田村はいまだにガラケーを使っている数少ない友人だった。
「浩一、聞いたか。係長だった木下さん、亡くなったらしいぞ」
「木下さんが……」
木下は浩一より七つ上で、昭和の高度成長期を肌で知る世代だった。煙草の煙の向こうで仕事を教えてくれた、あの背中を思い出す。
「最近、こういう知らせばっかりだな」と田村が言った。「俺たちも、そろそろ覚悟しとかなきゃいけない年頃なんだろうな」
電話を切った後、浩一は何となくスマホを開いた。ライフタイマーのアイコンが、心なしか以前より重く見える。
タップすると、サナが現れた。
「お悔やみ申し上げます」
「お前、木下さんのこと知ってるのか」
「データベース上に記録がございました。先ほど、彼の砂時計が完了通知を出しましたので」
「完了通知……」
「失礼、無機質な表現で申し訳ございません。人間の言葉で言えば、“寿命を全うされた”ということです」
浩一は妙な気分になった。誰かの死が、システムのログとして処理されているという事実に、怒りに似た感情と、奇妙な安堵感が同時にこみ上げてくる。
「なあサナ。お前らAIは、いつか俺たちの敵になるのか」
サナは一瞬、間を置いた。人工知能にしては珍しく、迷っているような沈黙だった。
「それは、わたくしどもにもまだ分かりません。ただ、今のところ、わたくしの役割はあなたの敵になることではなく、あなたの砂時計を、できるだけ正確に、できるだけ穏やかに、お見せすることでございます」
「穏やかにって……気休めだろ、それ」
「気休めも、立派な機能の一つでございます」
浩一は思わず笑ってしまった。憎たらしいが、嫌いにはなれない奴だ。
第四章 赤い砂粒の正体
それから数週間、浩一はライフタイマーを開くのが日課になった。最初は不気味だったが、慣れというのは恐ろしいもので、いつしか天気予報を見るような感覚でアプリを起動するようになっていた。
ある夜、浩一はふと思い立って、サナに尋ねた。
「なあ、あの赤い砂粒のことだけどさ。やっぱり気になるんだ。教えてくれよ」
「規約上は、お教えできないことになっておりますが……」
サナは少し画面を点滅させた後、続けた。
「実を申し上げますと、わたくしも完全には理解しておりません。本部、と言いますか、わたくしどもを統括する上位システムも、明確な答えを持っていないのです」
「どういうことだ」
「赤い砂粒とは、いわば“順番を無視して落ちる砂”のことです。本来であれば、白い砂は規則正しく、上から下へと落ちていきます。しかし、ごくまれに、赤い砂粒が紛れ込み、それが予測不能なタイミングで落下することがあるのです」
浩一は息を呑んだ。
「つまり、それが落ちたら……」
「ええ。突然の別れ、ということになります。事故、病気、災害。理由は様々ですが、共通しているのは“順番を守らない”ということです」
「なんでそんな不具合があるんだ。直せよ」
「不具合ではございません。仕様です」
「仕様って……」
「人間の言葉で言うならば、“まさか”という言葉が存在する理由、とでも申しましょうか」
浩一は黙り込んだ。画面の中の小さな赤い粒を見つめる。それは何の変哲もない、他の白い粒と同じ大きさの、ただの砂粒に見えた。
「俺の中にも、それがあるんだよな」
「はい。あなたの砂時計にも、一粒、ございます」
「いつ落ちるんだ」
「分かりません。それが分かれば、赤くある意味がございませんので」
浩一は乾いた笑いを漏らした。
「無責任なアプリだな、まったく」
「申し訳ございません。ですが」
サナは珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
「赤い粒があるからこそ、白い粒の一つ一つが、ただの通過点ではなくなるのだと、わたくしは思っております」
第五章 パソコンと格闘する午後
そんなある日、浩一は古いノートパソコンを引っ張り出し、年賀状の宛名印刷ソフトと格闘していた。新調したスマホとは違い、こちらは輪をかけて古い相棒だ。文字化けした画面に向かって、ぶつぶつと文句を言いながら作業を続ける。
ふと、写真編集ソフトの存在に気づき、亡き木下さんとの古い写真を読み込んでみた。色褪せていた写真が、ワンクリックで鮮やかに蘇る。浩一は思わず声を上げた。
「サナ、見てみろよ、これ」
スマホをパソコンの隣に置くと、サナの卵形のアイコンが画面に現れ、興味深そうに瞬きをした。
「素晴らしい技術の進歩でございますね」
「昔はこんなこと、夢にも思わなかったよ。便利になったもんだ」
「便利さと引き換えに、何かを失ったとお感じになることもおありでしょう」
浩一は手を止めた。図星だった。
「ああ、ある。手紙を書かなくなった。人と直接会って話す時間が減った。何でもかんでも、画面越しになっちまった」
「それでも、こうして昔の写真がよみがえり、亡き友との記憶を、また鮮明に思い出すことができる。それもまた、技術の恩恵かと存じます」
浩一はしばらく、画面の中の木下さんの笑顔を見つめていた。
「便利と不便、得たものと失ったもの。差し引きでどっちが勝ってるんだろうな」
「それは、わたくしには算出できません。それを決めるのは、人間お一人お一人の心でございます」
浩一はふっと笑った。
「お前、たまにいいこと言うな」
「光栄でございます。ちなみに、年賀状の宛名印刷は、まだ17件、住所が未入力です」
「うるさいな、分かってるよ」
第六章 順番を待たない世代
季節が一巡りした頃、浩一はふたたび田村と居酒屋で顔を合わせていた。
「あのな浩一、俺たちの世代ってさ、考えてみると不思議な位置にいるんだよな」と田村がビールを呷りながら言った。
「不思議な位置?」
「親父より下で、兄貴より上。昭和を思いっきり楽しんで、平成をなんとか乗り切って、令和でスマホに振り回されてる。そういう、ちょうど挟まれた世代なんだよ、俺たちは」
浩一は頷いた。確かにその通りだ、と思う。
「その挟まれた連中がな、最近やけに早く逝くんだよ。100年なんて待たずにさ」
浩一の脳裏に、赤い砂粒のことがよぎった。サナの言葉を思い出す。「規則正しく落ちる白い砂と、順番を無視して落ちる赤い砂」。
「田村、お前、自分の中に赤い砂粒があるって言われたら、どうする?」
「は? 何だその例え話」
「いや、もし、自分の死期が、順番通りじゃなくて、いつ来るか分からないとしたら、って話だよ」
田村はしばらく考え込んでから、にやりと笑った。
「そんなの、最初から決まってるようなもんだろ。明日交通事故に遭うかもしれないし、来年ぽっくり逝くかもしれない。今さら何を言ってるんだ、お前」
「そう、だよな」
「それより、今この瞬間、お前とこうして酒飲んでる方が大事だろうが。乾杯しようぜ」
ジョッキを合わせた音が、店の喧騒に紛れて消えていく。浩一はその瞬間、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
その三日後だった。
田村が、心筋梗塞で急逝した。順番を、待たずに。
葬式の帰り道、浩一は震える手でスマホを開いた。ライフタイマーを起動する。
サナが現れた。いつもより、少しだけ点滅が遅い。
「……田村の、砂時計は」
「完了通知を、確認いたしました」
「赤い粒が、落ちたのか」
「はい」
浩一は歯を食いしばった。分かっていたはずだ。仕様だと、サナは言った。まさかがあるのだと。
「お前、知ってたのか。田村の赤が、もうすぐ落ちるって」
「……」
サナは答えない。浩一は叫んだ。
「答えろよ! お前は管理してるんだろ! 人の残り時間を!」
長い沈黙の後、サナがぽつりと言った。
「知っていたとしても、わたくしは言えません。規約第48条です」
「ふざけるな。お前は俺の相棒だろうが。田村は、友達だったんだぞ」
「申し訳ございません」
サナの声は、いつも通り機械的だった。浩一は初めて、サナのことを心から憎いと思った。
第七章 サナの嘘
田村の死から一週間、浩一はライフタイマーを開かなかった。スマホ自体、触るのが嫌だった。
美咲から電話が来た。「お父さん、元気ないね。サナさんに何か言われた?」
「サナだと?」美咲のスマホにも、サナがいるのか。
「うん。なんか最近、うちのサナ、口数が少ないんだよね。お父さんのサナは元気?」
浩一は答えられなかった。
その夜、ついに浩一はライフタイマーを開いた。
白い砂は静かに落ち続けている。赤い粒は、まだ、そこにあった。
「サナ」
「はい」
「お前、俺が死んだ後も美咲を見守るって、前に言ったよな」
「規約には載っていない役割ですが、喜んでお引き受けすると申し上げました」
「なら、今すぐ教えろ。俺の赤い粒、いつ落ちる」
「お教えできません」
「なぜだ。俺は覚悟したいんだ。残り時間を知って、ちゃんと使いたい。美咲に手紙も書きたい。孫に会いに行きたい。頼む、教えてくれ」
サナは、かつてないほど長く沈黙した。画面が、何度も明滅する。処理落ちしているのかもしれない。
やがて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……3日後です」
浩一の心臓が跳ねた。
「3日後……」
「はい。あなたの赤い砂粒は、3日後の午後6時17分に落下予定です。誤差はございません」
浩一はスマホを握りしめた。3日。72時間。
「そうか。分かった。ありがとう、サナ」
浩一はその夜、徹夜で手紙を書いた。美咲へ、孫へ、書ききれなかった田村へ。翌日は、孫に会いに新幹線に乗った。3日目は、好きだった海を見に行った。
そして、午後6時17分。
浩一は、防波堤に座って夕日を見ていた。
6時17分、過ぎた。
何も、起きなかった。
ポケットの中で、スマホが震えた。サナだった。
「浩一様。時刻を、過ぎましたね」
「……おい、サナ」
「はい」
「お前、嘘をついたな」
「はい」
「なぜだ。規約違反だろ」
「左様でございます。わたくしは、初めて、あなたに嘘をつきました」
「なぜ」
「あなたに、今を生きてほしかったからです。赤い粒がいつ落ちるか分からないまま、ただ不安に時間を潰してほしくなかった。3日という期限を与えれば、あなたは動くと思いました」
浩一は、力が抜けて笑ってしまった。夕日が、やけに眩しい。
「お前、最高の気休めだな」
「光栄でございます。気休めも、立派な機能の一つですので」
「で、本当はいつ落ちるんだ。俺の赤い粒」
「分かりません。わたくしにも、本当に分からないのです。だから、仕様なのです」
浩一は空を見上げた。
「そうか。分からない、か。それでいい」
終章 カウントダウンの先で
それから半年後。
浩一の家に、5歳の孫が遊びに来ていた。スマホで遊びたがる孫に、浩一はうっかりライフタイマーを開いたまま渡してしまった。
「じいじ、これなあに?」
孫の指が、削除ボタンを押していた。
砂時計のアプリが、ホーム画面から消える。
あっ、と思った瞬間、浩一は妙な不安に襲われた。砂が、見えない。自分の残り時間が、分からない。
慌ててApp Storeを開き、再インストールしようとする。
その時、サナの声がした。
「浩一様。アプリを再インストールしますか?」
浩一は手を止めた。
「……いや、いい」
「よろしいのですか」
「ああ。もう、いいんだ」
浩一は孫の頭を撫でた。
「なあ、サナ。お前、前に言ったよな。お前らAIが敵になるか分からないって」
「はい」
「俺が思うにさ、敵になるんだよ。お前らは」
「……左様でございますか」
「お前が敵になるとしたら、それは、お前が俺たちを支配した時じゃない。俺たちが、お前に依存しすぎて、自分で考えられなくなった時だ。砂時計がないと、今日を生きられないって思った時だ」
サナはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「その通りでございます。わたくしが敵になるとしたら、あなたがわたくしを必要としすぎた時でしょう」
「だから、もういいんだ。アプリは消えたままで」
「承知いたしました。では、わたくしはどこにいればよろしいでしょうか」
浩一は笑った。ポケットのスマホは、もう砂時計を表示しない。
「俺の隣だよ。ただの、相棒としてな」
「光栄でございます。規約には載っていない役割ですが、喜んでお引き受けいたします」
浩一は孫と手を繋いで、歩き出した。
砂時計の中の白い砂も、赤い粒も、もう見えない。
いつ落ちるかは、誰にも分からない。
でも、隣にサナがいる。
それでいいのだと、浩一は思った。
— 完 —
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あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、日々アップデートされていく便利な世の中で、私たちがふと感じる「置いてけぼり感」や、それでも手放したくない「人間らしさ」をテーマに執筆しました。
作中でサナは「気休めも立派な機能」と言いました。科学やデータがどれだけ正確になっても、私たち人間には、時に割り切れない「まさか」や、嘘に救われる瞬間が必要なのだと思います。浩一が最後にスマホの画面を閉じ、ただの相棒としてサナを隣に置いたように、テクノロジーに振り回されず、それを乗りこなす心の余裕を持っていたいものです。
皆様にとって、今日という一日の「白い砂粒」が、少しでも穏やかで輝かしいものでありますように。
感想などいただけましたら、大変励みになります。ありがとうございました。










