黙示録の恋人たち
まえがき
もしも、このまま地球の温暖化が止まらなかったら。もしも、人類を襲う未曾有の感染症や気候変動が、地球という一つの生命体による「人間という熱を冷ますための免疫反応」だったとしたら――。
本作『黙示録の恋人たち』は、そんな少し先の、けれど地続きの未来を描いたSFアポカリプス作品です。
タイトルにもある「ヨハネの黙示録」の一節、――なんじは冷かにもあらず、熱きにもあらず。 という言葉を軸に、滅びゆく世界で「なまぬるさ」を捨てて生き抜こうとする二人の足跡を追いました。
容赦なく照りつける灼熱の太陽と、その裏側に潜む凍てつくような冷気。
そのコントラストを、悠真と由貴の物語を通して体感していただければ幸いです。
それでは、2061年の夏の終わりへ。どうぞお楽しみください。
プロローグ 冷たくも熱くもなく
西暦二〇六一年、日本という国から四季が消えて、もう十年が経っていた。
気象庁はとうの昔に「四季」という言葉を予報用語から外している。天気予報の画面に残ったのは「乾季」と「雨季」、そして九ヶ月にわたって日本列島をじりじりと焼き続ける「酷暑期」だけだった。東京の最高気温が四十八度を記録した日、誰も驚かなかった。驚くという感情の機能そのものが、過酷な日常の中で摩耗し、砂のようにサラサラとこぼれ落ちてしまっていたからだ。
環悠真(たまき・ゆうま)は、気候研究機構の解析官として、その人類の摩耗を数字で見続けてきた男だった。
――三十六度五分で二十四時間、絶え間なく発熱し続ける八十億の生き物が、わずか百年の間に地表を埋め尽くしたんだ。地球が悲鳴を上げるのは当然だろう。
上司である宇佐見が、酒の席でそう言って力なく笑った夜のことを、悠真は今でもよく覚えている。冗談のつもりだったのだろう。だが、誰も笑わなかった。
「地球は、たぶん本気で人間を『熱』だと思ってる」
同僚の一人がそう呟いたのも、その晩だった。二〇三〇年代に世界を覆い尽くした、あの原因不明の致死的な感染症。世界中がパニックに陥ったが、結局のところ、あれが何だったのかは誰も完全には説明できなかった。ただ一つ確かなのは、あの病が去った後、世界の体温は下がるどころか、むしろ加速して上がり続けたということだ。まるで、一度目の処置では人間の活動という「熱源」を冷ましきれなかったから、もっと強い免疫反応が必要だ、と地球自身が判断したかのように。
悠真は仕事の合間、古い聖書の一節を思い出すことがあった。いつだったか、電子書籍の隅に残っていた、誰かの引用だ。
『――なんじは冷かにもあらず、熱きにもあらず。我はむしろなんじが、冷かならんか熱からんかを願う。』
なまぬるいものは、口から吐き出される。確か、そんな風に続いていたはずだ。悠真には、その「なまぬるさ」こそが、滅びに向かいながらも決定的な行動を起こせない今の人類そのものを言い当てているように思えてならなかった。
その夏、悠真は最後の現地調査に向かうことになっていた。行き先は、かつて避暑地と呼ばれた信州の山あい――黒姫山の麓。
彼はまだ知らなかった。その辞令が、自分の所属する機構の上層部によって、ある冷酷な計画のために巧妙に仕組まれた罠だということを。
第一部 黒姫
第一章 辞令
「環くん、君に黒姫山麓の窪地の再調査を頼みたい」
機構長の宇佐見はそう言って、悠真の前に重々しくタブレットを滑らせた。画面に表示されていたのは、黒姫山麓の一角だけが斑点のように周囲より著しく気温が低い、異常な熱画像データだった。
「三年前から放置されていた案件ですよね。予算も削られたはずですが、今さらなぜですか」
「異常域が急激に拡大している。それだけだ」
宇佐見の声には、わずかな硬さがあった。悠真はその時、それを連日の激務による疲労のせいだと思った。だが後になって、それが嘘をつく人間特有の、あるいは「引き返せない選択」をした人間特有の硬さだったのだと気づくことになる。
悠真には、この命令の裏にある巨大な陰謀を知る由もなかった。彼はただ、数日分の観測機材を整え、旧型の電動四輪駆動車に乗り込み、熱波で蜃気楼の揺れる北へと向かった。
道中、砂埃を上げる軍用車両とすれ違うことが何度かあった。ここ最近、内陸の山岳部での軍の動きが活発になっているという噂は耳にしていたが、悠真はそれを、残されたわずかな水資源や居住可能地域を巡る、上層部のいつもの縄張り争いの一環だろうと信じて疑わなかった。
第二章 窪地の女
かつての高級避暑地、軽井沢はもう涼しくなかった。錆びついた観光客向けの看板だけが、過去の栄光の遺物のように色褪せて佇んでいる。アスファルトは熱で溶け出し、空気は重く淀んでいた。
しかし、黒姫山の麓に入ると、空気の密度が変わった。そこには、周囲より確実に気温が二度から三度ほど低い「窪地」が点在していた。気象機構はそこを、地球に残された「最終冷源」と呼び、半ば放棄された観測網を辛うじて残していたのだ。
集落と呼ぶにはあまりに小さい、十数軒の廃屋が並ぶその土地に辿り着いたとき、悠真は一人の女と出会った。
「由貴(ゆき)」と、彼女は静かな声で名乗った。
歳の頃は悠真より少し下、二十代後半に見えた。容赦のない太陽の下で暮らしているにしてはどこか透明感のある、しかし奇妙なほど落ち着いた底のない目をしていた。彼女は廃校になった小学校の校舎を一人で住居に作り変え、わずかな自給自足の畑と、誰も管理しなくなった山の水源を守って暮らしているという。
「外から来た人?」
由貴は警戒するでもなく、ただ世界に自分以外の人間がまだ存在していたことを確かめるようにそう聞いた。悠真が機構の身分証と観測機材を見せると、彼女は小さく頷いた。
「あの機械、知ってる。たまに様子を見に来る人がいた。でも、もう三年来てなかった。世界はもう、ここを忘れたんだと思ってた」
「人手が足りなくて。世界中、どこも自分の足元を冷やすので精一杯なんです」
そう答えながら、悠真は彼女が袖を捲り上げたとき、手首に刻まれた小さな古い傷痕に目を留めた。それは通常の注射の痕にしては大きすぎる、まるで皮膚の下から何かを無理やり抉り取られたような、あるいは何かを埋め込まれていたような、歪な痕跡だった。聞くのは憚られて、彼はそのまま喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
三章 監視者
滞在三日目の夜だった。悠真は夜間の気温暴落データを回収するため、ランタンを手に外へ出た際、鬱蒼とした林の奥から、かすかな機械音を聞き取った。高周波の、生き物ではない羽音。
光を遮りながら近づくと、太いブナの木の枝にカモフラージュされた、軍用の小型偵察ドローンが設置されているのを見つけた。そのレンズは、明らかにこの集落全体――というより、由貴が寝泊まりしている校舎の窓を精密に狙う角度で固定されていた。
悠真は息を呑んだ。自分が機構から支給された公式の観測機材の中に、こんな隠密性の高い監視兵器は含まれていない。これは別の組織が、すでにこの場所を、そして彼女をマークしていたという明確な証拠だった。
彼は即座にドローンを叩き落として回収し、校舎へ戻って由貴の前に突きつけた。メカニカルな緑のインジケーターが明滅している。それを見た由貴の顔から、初めて血の気が引いた。
「やっぱり、見つかったんだ」
「どういうことだ? 由貴、君はこれを知っているのか」
「悠真。座って。全部話すから」
由貴はパチパチと爆ぜる焚き火の前で、膝を抱え、これまで世界の誰にも明かさなかった凄惨な過去を語り始めた。
彼女は十年前、「創世(ジェネシス)機関」という、表向きは感染症ワクチンを開発する政府系の民間医療機関の最深部に囚われていた被験者だった。あの二〇三〇年代の感染症が世界を襲った後、機関は生き残った人間の中から、病に対して特異な遺伝子耐性を持つ者を探し出した。いや、それは単なる耐性ではなかった。地球の環境変化、その「意思」のようなものに対して、ある種の「同調(シンクロ)」反応を示す異常な個体群――機関は彼らを極秘に収容し、実験を繰り返していた。由貴もその生き残りだった。
「あの病気は、ただの突然変異のウイルスじゃない。少なくとも、創世機関の上層部はそう確信してた。地球規模の環境維持システムが放った免疫細胞。そして、わたしたちみたいな人間は、そのシステムからの信号を受け取る『受信機』なんだって」
「君は、そこから逃げてきたのか」
「五年前に、内部の協力者が命を懸けて逃がしてくれた。仲間も何人かいたわ。でも、みんな追っ手に捕まったか……その場で殺された」
悠真は言葉を失った。冷え切った電子を解析する仕事の中で、自分がどれほど世界の真実から遠ざけられていたかを思い知らされる。そして、自分に下された「再調査」という不可解な任務の意味が、最悪の形で結びついた。機構の上層部は最初から、ここに由貴が潜伏していることを知っていて、自分を「生体レーダーの感度を確かめるための捨て駒」として送り込んだのだ。
第四章 肺
翌日、由貴は悠真を、国土地理院の地図にも載っていない、深い涸れ沢の先にある巨大な風穴へと案内した。地中深くから、凍りつくような冷気を一定のリズムで吐き出し続けているその場所を、由貴は親しみを込めて「肺」と呼んでいた。
「世界中に、まだ何ヶ所か残ってる。目立たない、でも確実に冷たい空気を生み出す地球のツボのような場所。みんな、それぞれの場所で、最後の呼吸をしてる」
「地球が、まだ生きようとして足掻いている、ということか?」
「違うわ、悠真。生きようとしてるんじゃない――人間という熱を、本気で『治そう』としてるの。ここは地球の白血球が作られる場所」
悠真は黙って、洞窟から吹き出す激しい冷気に手をかざした。掌に伝わる暴力的なまでの涼しさが、外の世界の異常な灼熱を、狂気のように際立たせる。
「創世機関が本当に欲しいのは、わたしたち同調者の血じゃない。不老不死の薬でもない。わたしという受信機をハッキングして、この世界中に散らばる『肺』のネットワーク全体に強制接続すること。彼らはその地球の冷却システムを乗っ取り、自分たちだけが生き延びるための特権的な『ドーム型のシェルター』を作ろうとしてるの」
「全人類を救うためじゃなく」
由貴は悲しげに首を振った。
「選ばれた、ほんの数百人の富裕層と権力者のためだけに、地球の最後の生命力を絞り尽くそうとしてる」
その夜、悠真は由貴に、自分が抱えてきた気候解析のすべてを打ち明けた。人口爆発と気温上昇の数式、あの感染症が人類の特定の年齢層や活動層にだけ異常な選択性を持って発症していたデータ。由貴の「受信機」という言葉を聞いた今、悠真の中でそれは単なる環境破壊の被害ではなく、明確な「地球からの拒絶」という確信に変わっていた。
二人の距離は、その夜を境に急速に縮まった。世界の終わりが決定的な速度で近づくほどに、皮肉なことに、二人が共有する時間は、濃く、鮮やかに爆発していくようだった。
第五章 蝉時雨
夏の盛り、黒姫の窪地には、連日信じられないほどの激しい蝉時雨が降っていた。外の世界では熱波によってとっくに絶滅したはずの蝉の声が、この冷たい境界線の中だけで、まるで最後の祭りのように狂ったように鳴り響いていた。
悠真と由貴は、涸れかけた沢のほとりで、世界から切り離された二人だけの時間を過ごした。膝までもない深さの水に足を浸す。ただそれだけのことで、忘れていた「かつての豊かな日本の夏」の記憶が、悠真の脳裏に鮮烈に蘇るようだった。
「子どもの頃は、こんな冷たい水なんて、どこにでもあった。珍しくもなかったんだ」
悠真が水面に映る歪んだ太陽を見つめて呟くと、由貴は水をすくい上げ、悪戯っぽく笑った。
「わたしは、この壊れかけた世界しか知らない。だから、これがわたしにとっての、最初からのかけがえのない当たり前」
その夜、二人は自然な流れで唇を重ね、互いの体温を貪るように抱き合った。世界が崩壊していく秒読みの速度と、二人の心が重なっていく速度が、完全にシンクロしているのを悠真は感じていた。それは絶望の裏返しにある、狂おしいほどの生命の肯定だった。
「悠真。本当にわたしに付き合っていいの? あなたにはまだ、東京に戻れば、機構の解析官としての安全な席があるのに」
「もう、あんななまぬるい場所に、戻りたいとは思わない」
悠真の迷いのない言葉に、由貴は静かに目を閉じ、彼の胸に顔を埋めた。だが、そのささやかな安らぎは、あまりにも唐突に破られることになる。
翌朝の未明、悠真の携帯端末に、暗号化された機構からの緊急音声通信が割り込んだ。
『――環くん、今すぐそこを離れろ! 命令だ、走れ! “セルベルス”がそっちへ向かった!』
スピーカーから響く宇佐見の声は、悠真がかつて聞いたことのないほど、悲痛に切迫していた。
第二部 追跡
第六章 セルベルス
「セルベルスって、一体何のことですか!」
悠真が叫ぶように問い返したが、宇佐見は遮るように早口でまくし立てた。
『創世機関が囲っている民間軍事会社だ。表向きは国境資源の警備会社だが、実態は汚れ仕事を専門に請け負う非合法の私設軍隊だ。いいから、今すぐその由貴という女性の手を引いて山へ逃げろ。お前が昨日送った定期業務報告書が、機構のメインサーバーから奴らに漏洩した!』
「漏れたって……誰が」
通信は、その本質的な問いに答える前に、激しい電子ノイズと共に切断された。ジャミングが始まったのだ。悠真は呆然と画面の消えた端末を見つめた。自分が送った、ただのルーティンワークとしての観測データ。そこにほんの数行付け足した「現地居住者の存在」という記述。それが、機構内部に巣食う創世機関の内通者によって、最悪のトリガーとして引かれてしまった。
由貴はすでに、声をかけるまでもなく古いザックに荷物を詰め込んでいた。その無駄のない手際の良さに、悠真は彼女がこれまでどれほど過酷な逃避行を生き延びてきたかを思い知り、胸が締め付けられる。
「悠真、電動車は置いていくわ。主要な林道は確実にやつらに押さえられている」
「じゃあ、どうやってこの包囲網を抜ける」
「山を歩くの。一般の登山道じゃない、猟師も使わなくなった廃道をわたしが知ってる」
二人は必要最低限の水と機材だけを背負い、夜明け前の蒼い霧が立ち込める窪地を後にした。出発の直前、由貴は小学校の校庭の隅にある、地中へと続く「肺」の小さな通気口にそっと手を当て、何かを低く囁いた。それは世界への別れの言葉ではなく、必ず戻るという厳かな約束の儀式のように、悠真の目には映った。
第七章 追跡
黒姫山の尾根を越えようとしたとき、二人は最初の追跡者と遭遇した。
バリバリという不快なローター音が静寂な谷間にこだまし、上空から巨大なサーチライトの白い光束が、夜の木々を舐めるように、執拗に動き回った。由貴は機転を利かせ、悠真の腕を強く引いて、せり出した巨岩の陰に身を伏せさせた。
「動かないで。あのライトは熱源感知センサーと連動してる。人間の体温を捉えた瞬間に、上空から誘導弾が降ってくるわ」
息を殺して、心臓の鼓動すら押し殺した数分間。ヘリの音は次第に遠ざかり、尾根の向こうへと去っていったが、それは長い地獄の始まりに過ぎなかった。地上に展開したセルベルスの特殊部隊が、すでに山道の要所を完全に封鎖していることが、由貴が持っていた古い軍用の無線受信機から漏れるノイズ混じりの音声で判明した。
「セルベルスは、わたしの皮膚の下にある古い識別チップの微弱な電気信号――『同調』の余波を追跡する広域スキャナーを持ってる。完全に気配を消して逃げ切るのは無理。でも……」
由貴は防水布に包まれた、古い紙の地図を広げた。液晶のデジタル機器なら、GPSのログから一瞬で居場所を特定されると分かっていたのだ。
「ここに、もう一つ別の、より巨大な『肺』がある。志賀高原の最奥、原生林の地下。そこまで辿り着ければ、地球が放つ膨大な地磁気と冷気のノイズで奴らのスキャナーが完全に狂う。追跡を振り切れるわ」
二人は道なき険しい斜面を、夜を徹して泥にまみれながら進んだ。途中、疲労が限界に達した悠真が足を滑らせ、数十メートル下の断崖へと転落しかけた。その瞬間、由貴が人間離れした瞬発力で間一髪、彼の細い腕を掴み、細い身体で地を這うようにして引き上げた。
「……すまない、助かった」
「お互い様よ、解析官殿。これからもっと、死にそうに危ないことが待ってるんだから」
彼女の冗談めかした言葉は、数時間後に最悪の現実となった。明け方近く、霧が晴れかけた険しい谷の出口で、二人は自動小銃を構えて待ち伏せていたセルベルスの一個小隊と、正面から鉢合わせしてしまったのだ。
第八章 突破
「動くな! 両手を頭の後ろに上げろ!」
全身を最新の黒いタクティカルギアで固めた男たちが、容赦のない銃口を悠真と由貴の眉間に向けた。悠真は全身の血が凍りつき、言われるがままに両手を上げかけたが、その隣で、由貴だけは銃口を目の前にしながらも、不思議なほど凪いだ、静かな瞳で地面を見つめていた。
「悠真。わたしの真後ろに隠れて。絶対に離れちゃダメ」
由貴がそう低く囁いた、次の瞬間だった。
ドスン、という重低音とともに、彼女の足元の地面が生き物のように不気味に振動を始めた。それは通常のプレート境界型の地震では断じてなかった。由貴の強烈な脳波――「生きたい」という生物としての強烈な願いに呼応するように、地下の「肺」に溜まっていた超高圧の水蒸気と冷却結晶が、局所的な地殻流動を引き起こしたのだ。科学的にはそう説明するほかない現象だった。
ズガガガガ、と凄まじい音を立てて兵士たちの足元の土壌がピンポイントで爆発するように隆起し、彼らは悲鳴を上げてバランスを崩し、斜面へと転げ落ちていく。
その一瞬の隙を見逃さず、由貴は呆然とする悠真の手を力強く引き、煙が立ち込める谷の脇道へと猛然と走り出した。
「今のは、一体何が起きたんだ……! 君がやったのか!?」
激しく息を切らし、背後の銃声を浴びながら悠真が問うと、由貴は前を見据えたまま叫び返した。
「分からない! ただ、ここで死にたくないと必死に願ったら――地面の底にいる何かが、わたしの声に応えてくれたの!」
それが単なる地質の偶然の奇跡なのか、それとも由貴の言う地球との「同調」の力なのか、悠真の解析官としての脳では処理しきれなかった。だが、もはやそれを疑い、考察している余裕など一秒もなかった。
数時間に及ぶ決死の逃走の末、追っ手を撒いた二人は、志賀高原の山中にひっそりと佇む、半ば崩落しかけた古い無人の避難小屋に滑り込んだ。しかし、安堵したのも束の間、暗い小屋の奥には、思いがけない人物が二人を待っていた。
第九章 内通者
「久しぶりね、環くん。ずいぶんと手荒な歓迎を受けたみたいじゃない」
埃っぽい小屋の暗がりに腰掛けていたのは、悠真のかつての同僚であり、先輩研究者でもあった御崎美咲(みさき・みさき)だった。機構の気候解析部門で天才と謳われ、悠真と共に数々の論文を執筆したが、二年前に何の説明もなく突然退職し、忽然と消息を絶っていた人物だ。
「美咲さん……!? なぜ、あなたがこんな山奥の禁足地にいるんですか」
「あなたたちを助けに来たのよ。私は機構を辞めた後、創世機関の内部に潜入して彼らの動向を探っていたの。でも、奴らの本性を知って、今朝、機密データを持ってそこを命懸けで抜けてきた」
美咲は手にした軍用の高セキュリティ・タブレットを起動し、創世機関の内部資料を悠真に見せた。そこに並ぶ凄惨な文字群。それによれば、機関の真の目的は、由貴のような「同調者」の脳の松果体から抽出した生体ナノ成分を触媒とし、世界中の「肺」の冷却エネルギーを強引に奪取・一極集中させ、選ばれた世界の富裕層と権力者だけが数百年生存できる完全循環型閉鎖都市「方舟」を完成させることだった。
「気候の完全な崩壊は、もう現在の科学では止められない。だったら、限られたリソースの中で『誰を残すか』を、自分たちの手で選別する――それが創世機関の、あの狂った老人たちの理屈よ」
由貴はその恐るべき陰謀を聞きながらも、ただ静かに美咲を見つめ、表情を一切変えなかった。彼女にとっては、すでに体感として知っていた既知の事実だったのかもしれない。
「信じていいの、悠真。この人を」
由貴が悠真のシャツの袖を引っ張り、小声で耳打ちした。悠真は激しく葛藤した。だが、美咲とは何年も同じラボで机を並べ、世界の危機について夜通し語り合った仲だった。彼女の瞳にある「科学者としての切実な光」が、嘘をついているようにはどうしても見えなかったのだ。
「大丈夫だ、由貴。美咲さんは信頼できる。彼女の力を借りよう」
それが、悠真の人生における、最初の、そして最も致命的な判断ミスとなることを、その時の彼は知る由もなかった。
第十章 罠
美咲の案内により、二人は追っ手の目を盗んで山を下り、長野市の郊外、地下に作られた古い物資貯蔵庫を利用した「安全な隠れ家」へと移動することになった。道中、美咲は終始親身になって二人の体調を気遣い、今後の海外への具体的な逃走ルートを熱心に語っていた。
だが、冷え切った地下コンクリートの隠れ家に到着し、分厚い鉄扉が閉まった瞬間、すべての空気が一変した。
「――本当にごめんなさいね、環くん。あなたを巻き込むつもりはなかったのだけど」
美咲の声音から、先ほどまでの温かみが完全に消失し、絶対零度の冷徹さに変わった。
カチャリ、という不吉な金属音とともに、隠れ家の壁の隠し扉が開き、銃器を構えたセルベルスの特殊部隊員たちがアリのように雪崩れ込んできた。悠真は一瞬で数人の男たちに組み伏せられ、床に顔を押し付けられる。
「美咲さん! あなた、まさか……!」
「私が持ち出した内部資料は本物よ。創世機関の理屈が狂っているのも本当。でもね、環くん。私が機関を抜けた後に手を組んだのは、彼らと敵対する『もう一つの世界組織』だったのよ。世界が滅びるなら、私も何が何でも生き残る側に回りたい。あなたたちには気の毒だけど、由貴さんの身体は、私たちの組織にとっても最高値で取引されるマスターキーなの」
「美咲ぃーーー!!」
悠真の絶叫も虚しく、由貴は抵抗することなく、ただ悲しそうな目で悠真を見つめながら、特殊な電磁拘束具を嵌められて連れ去られていった。
そして悠真の頭部には、容赦のない銃床の強打が振り下ろされ、彼の意識は深い闇へと転落した。
第十一章 救出
激しい頭痛とともに悠真が意識を取り戻したとき、彼は薄暗い埃っぽい倉庫のような建物の片隅で、太い頑丈なワイヤーによって椅子に厳重に拘束されていた。口の中には血の味が広がり、周囲を見渡しても由貴の姿はどこにもない。絶望と自己嫌悪が、彼の胸を激しく掻き毟った。自分の甘さが、彼女を再び地獄へ突き落としたのだ。
その時、ガツン、という激しい金属音が響き、倉庫の頑強な電子ロックが外側から爆破された。
煙の中から現れた影を見て、悠真は目を疑った。
「立て、環。感傷に浸っている時間はないぞ」
そこに立っていたのは、防弾ベストを身に纏い、手に入れたばかりの自動小銃を構えた機構長の宇佐見だった。宇佐見は自ら手配した、机构内で唯一信頼できる武装警備班の部下数名を率いて、悠真を救出するために突入してきたのだ。
「宇佐見さん……! どうして、あなたがここに」
「お前の最初の報告書を上に流し、創世機関に売った裏切り者は、副機構長だった。だがな、自分の部下が目の前でハメられて、指を咥えて黙っていられるほど、俺はまだ腐っちゃいない。あのなまぬるい組織の椅子なんて、とっくに捨てる覚悟さ」
宇佐見は、悠真が拘束されているワイヤーをナイフ型工具で素早く切断しながら、冷徹に状況を説明した。彼は独自に裏切り者の通信ログを傍受し、由貴の身柄が運ばれた最新の施設位置をすでに突き止めていた。その場所は、長野県内の深い山岳地帯に隠された旧政府軍の地下核シェルターを密かに改装した、創世機関と美咲の属する組織が共同で運用する「秘密実験プラント」だった。
「あの美咲という女は、両方の組織から金を搾り取る二重スパイだ。今頃、地下の最深部で由貴さんを実験ベンチに縛り付け、地球のネットワークをハッキングするための最終プロトコルを開始しているはずだ。行くか、環」
悠真は床に立ち上がり、拳を血がにじむほど強く握りしめた。彼の胸の中で、絶望はすべて、美咲への、そしてこの世界への激しい怒りへと昇華されていた。
「連れて行ってください。僕の命は、あの窪地に置いてきました。由貴を、必ず取り戻す」
第十二章 潜入
広大な地下軍事施設への潜入は、宇佐見が率いる部下たちの巧妙な電子スモークと、深夜の警備交代の死角を突く形で決行された。
エレベーターで地下数百メートルへと降り立った悠真の目の前に広がっていたのは、彼がこれまで画面上の数字だけで見てきた「世界の終わりの縮図」そのものだった。巨大な超伝導サーバー群が怪しく青白く発光し、その中央のホログラムスクリーンには、由貴のような世界中の「同調者」からリアルタイムで強制吸い上げられた生体データが、おぞましい波形となって踊っていた。そしてその波形は、世界各地に点在する「肺」の座標と完全にリンクし、地球のエネルギーが急速に吸い上げられ、特定のシェルター都市の座標へ集約されていくプロセスを可視化していた。
「これが……奴らの言う、選ばれた者だけの方舟計画の全貌か」
宇佐見が吐き捨てるように低く唸った。人間の際限のない強欲が、地球という一つの生命体の断末魔をさらに加速させている。
悠真は遮二無二走り、施設の最深部である、厳重に遮蔽された円形の実験チャンバーへと辿り着いた。そこには、無数の太い触手のような電極コードを全身の血管に繋がれ、空中へと吊るされた由貴の痛々しい姿があった。
「――悠真……?」
生体エネルギーを限界まで絞り取られている由貴の声は、消え入りそうなほど微かだった。だが、ガラス越しに悠真の姿を捉えた瞬間、その底のない瞳に、一筋の烈火のような強い光が灯った。
「待たせた、由貴! 今、そこから出す!」
悠真が制御コンソールに飛びつき、解析官としての技術のすべてを尽くして拘束プログラムの解除を試みた瞬間、施設全体に耳を劈くような赤色灯のサイレンが鳴り響いた。
「そこまでよ、環くん。本当に往生際が悪いわね」
チャンバーの上部キャットウォークに、銃を手にした美咲が、冷酷な笑みを浮かべて姿を現した。
第十三章 暴走
「これ以上、私たちの邪魔をしないで。この接続が完了すれば、私は新世界の神の一人に席を約束されているのよ。あんたたちみたいななまぬるい凡人とは違うの!」
美咲が銃口を悠真の心臓へと向け、引き金に指をかけた。だが、彼女がそれを引くよりも、世界の崩壊が始まる方が一瞬早かった。
――ズ、ズズズ、ズガァァァァン!!
施設全体が、まるで生き物の胃袋の中にいるかのように、激しく、不気味に捩れるように揺れ動いた。美咲のシステムが強引に由貴の脳をハッキングしたことで、逆に由貴の深層意識を通じて、世界中に散らばるすべての「肺」のネットワークが、初めて一つの巨大な「拒絶の意志」として完全に覚醒してしまったのだ。
「止めて、由貴! 何が起きている!? このままじゃ君の脳が焼き切れる!」
ガラスを叩きながら悠真が叫んだが、空中につるされた由貴は、苦痛に顔を歪めながらも、静かに首を振った。
「止められないの、悠真……! これは、わたしの力じゃない……! 繋がれた世界中の『肺』が、人間たちの強欲に、本気で怒って……向こうが勝手に暴走してるの……!」
制御コンソールの基盤が次々とショートし、激しい火花を散らして爆発していく。超伝導サーバーが悲鳴を上げ、非常照明の赤い光が、まるで血の海のように部屋を染め上げた。
「嘘よ、私のプログラムが乗っ取られるなんてあり得ないわ!」と美咲が狂乱の声を上げてコンソールを叩いたが、次の瞬間、彼女の足元のコンクリート床が、地球の底からの凄まじい水蒸気爆発によって粉々に粉砕された。美咲は悲鳴を上げながら、漆黒の亀裂の底へと、武装諸共まっさかさまに転落していった。
宇佐見の部下たちが銃撃戦の末にチャンバーの隔壁を物理的に爆破し、悠真は崩落する破片を潜り抜けて由貴の元へと駆け寄った。素手で熱い電極を引きちぎり、彼女の細い身体を抱きとめる。
「悠真……ここを、出て……! 地球の息吹が、この施設を完全に押し潰そうとしてる……!」
「一緒に逃げるんだ! 二度と、その手は離さない!」
二人は、天井から巨大なコンクリート塊が容赦なく降り注ぐ、生き地獄と化した地下施設の中を、互いの手を骨が軋むほど強く握りしめたまま、ただひたすらに光の射す地上へと走り続けた。
第三部 夏の果てに
第十四章 脱出
研究所の崩落は、通常の地震や爆発の規模を遥かに超えていた。地球がその一点にある「腫瘍」を強引に排除するかのように、山の斜面そのものが激しく陥没し、施設を丸ごと地中深くへと飲み込んでいく。
後にこの未曾有の出来事は、政府の歪んだ報道管制によって「大規模な地盤沈下による不慮の災害事故」として片付けられることになるが、あくる朝、現場の泥にまみれて生き残った悠真たちは、それが単なる自然災害などではないことを、魂の底から理解していた。
宇佐見たちの決死の誘導により、命からがら地上へと生還した悠真と由貴は、朝日が昇る山頂から、土煙を上げて完全に消滅した研究所の跡地を見つめていた。
「美咲さんは……」
悠真が沈痛な面持ちで呟くと、防弾ベストを脱ぎ捨てた宇佐見が、遠い目で首を振った。
「分からん。だが、あの執念深い女のことだ、地獄の底からでも這い上がってくるかもしれんし、あるいは……。どんな天才であれ、地球の本当のスケールを見誤った者の末路だ」
宇佐見の声には、かつての優秀な教え子に対する、一抹の寂しさと哀れみが混じっていた。
由貴は、まだ微かに震える悠真の手を、自分の両手で包み込むように強く握り締めた。
「悠真。世界中の『肺』が、今、完全に一つに繋がった。私には、その呼吸の音が聴こえる」
「それは、これからの人類にとって、良いことなのだろうか」
由貴は朝日の光を浴びながら、微笑んだ。
「分からない。でもね、少なくとも、創世機関のような人たちが、地球の命を自分たちだけの都合のいいおもちゃにすることは、もう二度とできないわ」
第十五章 覚醒
あの悪夢のような施設崩落から数日後。世界中のあらゆるニュースメディアが、地球規模で同時に発生している「不可解な気象現象」を驚愕を以て報じ始めた。
南米のアマゾン、アフリカのサバンナ、そしてシベリアの永久凍土――これまで「最終冷源」として局所的に点在していた世界各地の窪地が、まるで互いにテレパシーで連絡を取り合うかのように連動し、その周囲の気温を確実に、数度ずつ冷却し始めていたのだ。
気象学者たちはありとあらゆる高度な数式と仮説を組み立てたが、誰もその世界規模のドミノ現象を科学的に証明することはできなかった。ただ、志賀高原の深い森に身を隠した悠真と由貴の二人だけは、その大気の拍動が意味する真実を知っていた。
「君が、あの時、世界中の肺を繋いだんだね」
小さな山小屋のテラスで、悠真が隣の由貴に語りかけると、彼女は静かに首を振った。
「私が繋いだんじゃないわ。人間たちがエゴのために無理やり私に触れたから、地球の側が、最初から繋がっていた自分自身の神経回路を、痛みのあまりに『思い出した』だけ」
由貴の身体からは、あの研究所にいた時のように、周囲の物質を物理的に変形させるような超常的な力の気配は完全に消え去っていた。彼女は今、ただの繊細な一人の人間の女性に戻っている。だが、彼女の心の中にある「何か」は、あの日を境に、より深く、地球の底と共鳴しているようだった。
「創世機関の残党は、もう君を追っては来ないだろうか」
「分からない。でも、もう私一人を捕まえて実験台にしても、彼らには何の意味もないわ。だって、彼らが独占したかった地球の冷気は、もう一箇所に留まることなく、世界中に分散して巡り始めてしまったのだから」
宇佐見はその後、気候研究機構のトップという地位を完全に辞した。組織の内部に潜んでいた創世機関の協力者たちを徹底的に炙り出し、非合法な「方舟計画」の全容を国際社会に向けて告発するための、孤独な戦いを始めるためだ。
「命を狙われる危険な道です。宇佐見さん、本当にいくんですか」
悠真の問いに、老科学者は不敵な笑みを浮かべた。
「誰かが泥を被らなきゃならんのさ。なまぬるい正義感で世界が救える段階は、とうの昔に過ぎているんだからな」
第十六章 告発
それから数ヶ月に及ぶ緊迫した潜伏生活を経て、宇佐見が命懸けで海外の独立系ジャーナリスト組織へとリークした機密データは、ついに全世界のネット同時配信という形で大々的に公表された。
創世機関の陰謀と「方舟計画」の存在を知った国際世論は、激しく、狂ったように揺れ動いた。一部の人道的な国家はすぐさま国内の機関関連施設への強制捜査を敢行したが、別の飢餓に苦しむ大国は、自国のエリート層を生き残らせるために逆に計画の継続を密かに支持し、水面下での小競り合いを始めた。
世界は、これまで以上に醜く分断され、悠真がかつて恐れていた「滅びを前にした人類の、バカげた身内争い」は、形を変えて続いていく。
それでも、確かに変わったことが一つだけあった。
世界中の「窪地」や「肺」を巡る環境研究が、これまでのような国家機密の闇に隠されることなく、初めて完全なオープンソースの国際公的プロジェクトとして、全人類の監視のもとで行われるようになったことだ。人間は、自らの首を絞める強欲を、ようやく少しだけ恥じるようになったのかもしれない。
裏切り者の美咲の消息は、その後もついに分からないままだった。あの地殻変動の瓦礫の中で哀れな肉塊となったのか、それとも、偽名を使って世界のどこか別のシェルターの闇に紛れ込み、今も生き延びているのか。悠真は時折、夕暮れの空を見つめながら彼女の知的な笑顔を思い出し、複雑な感情の泥に沈むことがあった。だが、彼にはもう分かる。彼女もまた、この狂った時代の中で、ただ自分なりの方法で死に物狂いで生き延びようとした、愚かで切実な、なまぬるさを拒絶した人間の一人だったのだと。
第十七章 志賀高原
悠真と由貴は、志賀高原の最奥、まだ世界で唯一、本物の涼しい高山風が吹き抜ける尾根の小さな小屋で、静かに新しい生活を始めていた。世界は依然として壊れ続けていたし、人間たちの愚行が明日明後日に止む気配などどこにもない。だが、二人が身を寄せるその小さな空間にだけは、確かに地球の「肺」がもたらす、清らかな冷たい風がそよいでいた。
「ここなら、もう誰にも見つからないかな」
悠真が冗談めかして尋ねると、由貴は彼の肩に頭を預けながら、穏やかに笑った。
「見つかっても、もう怖くないわ。世界から隠れて怯えることより、私たちがここで生きているという事実を、世界に記録して伝えていくことの方が、ずっと大事だって思えるようになったから」
二人は、かつての黒姫の窪地がそうであったように、この志賀の地で、二人だけの新しい観測と記録を続けることに決めた。今度は組織に利用され、誰かに奪われるための数字ではなく、この地球がまだ生きているという証拠を、未来の世界に示すために。
ある静かな晩、悠真は由貴の髪を撫でながら、あの古いヨハネの黙示録の一節を、もう一度だけ口に出してみた。
「冷かにもあらず、熱きにもあらず、なまぬるいものは口から吐き出される――という、あの話」
「わたしたちは、神様から見て、どっちだったんだろうね」
由貴が楽しげに笑いながら、彼の目を見つめる。悠真は彼女の冷たくも心地よい手を握り返し、まっすぐに応えた。
「分からない。でも、少なくとも、僕たちのこの数ヶ月は、決して『なまぬるく』だけはなかったと、それだけは胸を張って言えるよ」
終章 それでも夏は来る
遠く西の空には、相変わらず大気汚染と異常気象が作り出した、おぞましい赤紫色の夕焼けが、世界の終わりのように広がっていた。だが、二人が立つその志賀の尾根には、確かに夏の終わりを優しく告げる、か細い秋の虫の声が静かに残っていた。
かつてこの地を支配した恐竜たちは、自らの滅びの運命を選べなかった。巨大隕石の衝突か、大火山の噴火か、あるいは増えすぎた自分自身の重みか――理由が何であれ、彼らはただ、抗う術なく滅びの季節を受け入れるしかなかった。
だが、人間には、恐竜にはなかった「知恵」がある。そして、その知恵を、互いを殺し合う戦争や強欲のためにではなく、地球と共に細く長く生き延びるための「選択」に使えるかどうかは、まだ誰にも分からない。人類の本当の試験は、ここから始まるのだ。
一族一種、すべての生物にいづれ決定的な滅びの日が来るとしても――せめて、その最期の日が来るまでは。
悠真と由貴はしっかりと手を守り合い、この傷だらけの地球が、まだ完全に滅び去ってはいないことを、静かに、しかし熱を込めて、確かに願い続けた。
山肌を冷たい風が吹き抜けるたびに、地中深く、世界中に散らばる無数の「肺」が、二人の鼓動と同じ優しいリズムで、深く呼吸を合わせているような気がした。
それは傲慢な人類の希望と呼ぶには、あまりにも小さく、儚い兆しだったかもしれない。
それでも、地獄のような灼熱を生き抜いた二人にとっては、それはこれ以上ないほど優しく、十分に美しい、世界の夏の終わりだった。
(了)
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あとがき
ありながらも、読後感には「一本の清涼な風」が吹き抜けるような、そんな物語を目指して執筆いたしました。
作中で人類は、滅びの足音が聞こえているにもかかわらず、自分の足元を冷やすことや、限られたリソースの奪い合いに終始しています。この「なまぬるい絶望」のリアルさは、現代を生きる私たちの姿にも少し重なる部分があるかもしれません。
だからこそ、全てを敵に回してでも「冷たくも熱くもない」場所から踏み出した悠真と由貴の強さ、そして泥を被る覚悟を決めた宇佐見の姿が、物語の救いになっていればと願っています。
劇的なハッピーエンドではないかもしれません。世界は壊れたままで、人類の試験はここから始まります。それでも、志賀高原の尾根で手を握り合う二人の上には、確かにかつての美しい「秋の気配」が訪れました。恐竜にはなかった知恵と、互いを想う熱が、彼らの未来を少しでも長く照らすことを信じています。











