九月の雨
――季節堰の記録――


まえがき
この物語は、終わらせることと、終わらせないことの話です。
季節には境目があります。夏から秋へ。その境目を誰が決めるのか。自然か、人か、それとも人の心か。
人は生きていく中で、数多くの悲しみや辛い記憶に出会います。もしもそれらを綺麗に洗い流し、最初からなかったことにできる技術があったなら、世界は今より幸せになれるのでしょうか。それとも、悲しみや痛みこそが、私たちが誰かを愛した確かな証なのでしょうか。
九月の雨は、毎年、同じ問いを連れてきます。
「あなたは、何を洗い流し、何を残しますか」
この小さな記録が、日々の中で大切な記憶と向き合うあなたの心に、ささやかな温もりを届けることができれば幸いです。




一章 乾いた男
梅雨のころよりも、秋の入口には、雨が多いことを知っていますか。
その問いかけを最初に口にしたのが誰だったのか、水無瀬遼はもう思い出せない。ただ、九月の朝に降る雨を見るたび、耳の奥でその声が小さく響く。
二〇五〇年、九月一日、午前四時十二分。東京は雨だった。
細く、冷たく、どこまでも続く雨だった。八月の終わりまで街を焼き尽くしていた熱がアスファルトから剥がされて、白い湯気となって立ちのぼっている。
ポケットの携帯端末が振動した。
「水無瀬さん、朝早くにすみません。警視庁の桐谷です」
電話の主は、低い声で焦りを滲ませていた。
「季節堰の保守管理室にお勤めですよね。今すぐ現場に来ていただけませんか。渋谷のスクランブル交差点です。説明がつかないものが、そこにあります」
渋谷のスクランブル交差点は、黄色の規制テープで封鎖されていた。
濡れた路面の中央に、男が一人、座っていた。五十代ほどの痩せた男だ。あぐらをかき、ぼんやりと灰色に煙る空を見上げている。
男の周囲だけが、異様に乾いていた。直径三メートルほどの円。その内側だけ、まるで最初から雨など降っていないかのように白く乾き切っている。
「二時間前から、この状態です」現場で落ち合った警視庁の刑事、桐谷灯が雨合羽のフード越しに言った。「指紋、顔認証、DNA、すべて照会しました。ですがデータベースのどこにも、この人はいません。最初からこの世界に存在しなかったみたいに、きれいに消えているんです」
遼は円の境界線に膝をつき、ゆっくりと指先を伸ばした。匂いが違った。アスファルトが吸い込んだ雨の匂いが途切れ、そこからは誰もいない空っぽの部屋のような、無臭の乾燥した空気が漂っていた。
男がゆっくりと首を巡らせ、遼を見た。目は開いているのに、その瞳の奥には何も映っていなかった。
その瞬間、遼の左腕が灼けるように疼いた。服の袖の下にある、九年前のあの夜に刻まれた樹枝状の痕跡。雨粒が弾けたようなかたちの傷痕だ。
ふと視線を感じて立ち上がると、交差点の対岸、信号機の下に傘を差した女が立っていた。傘の縁から雨滴が一筋も落ちていない。彼女もまた、乾いていた。
女は差していた傘をゆっくりと傾け、遼を見た。その唇の動きを、遼の記憶が正確に読み取る。
――み、つ、け、た。
瞬きをした刹那、信号の下には誰もいなかった。雨の煙がスクランブル交差点を覆っているだけだった。


二章 傷痕
遼が季節堰の保守管理室に籍を置いて八年になる。
二〇四一年の夏、この国は「夏の暴走」と呼ばれる過去最悪の熱波に襲われた。連日四十九度を超える猛暑が三週間続き、数十万の命が奪われた。その年の暮れ、国会は「季節調律機構」の設置法案を可決した。沿岸部に立ち並ぶ百二十基の電離塔と、海上に浮かぶ巨大プラットフォーム。上空の水蒸気と電荷を人工的に制御し、季節の境目を強固に守る装置。通称、季節堰。
その設計の核となっていたのが、雨宮澄花だった。
しかし公式の記録に、彼女の名前は存在しない。論文も、戸籍も、彼女が生きた痕跡のすべてがデータベースから完璧に拭き取られている。世界でただ一人、遼だけが彼女を覚えている。理由は、左腕の傷痕だ。
二〇四一年九月九日。季節堰の最終実証試験の夜。澄花は予定にない行動を取った。自ら電離塔の直下に立ち、制御下の人工雨を全身に浴びたのだ。止めようと飛び込んだ遼の腕を、青白い閃光が焼いた。そして澄花は、叫び声をあげる遼の腕の中で、雨に溶けるように透けて消えていった。
『遼。九月にまた会おう。……だから、忘れてね。全部、忘れて』
忘れられるはずがなかった。
渋谷の現場から戻ったその夜、自宅の台所の壁の前に、彼女が立っていた。白いシャツに、濡れていない黒髪。九年前とまったく同じ姿で、ただ、その身体だけがかすかに透けていた。
「十七日後、九月十七日の夜。堰は大洗いをする。その前に、聞いてもらわなくちゃいけないことがあるの」
透き通る声だった。窓を打つ雨音に重なって聞こえる。
「私はもう、雨が降っている間しか人の形をしていられない。この十七日間だけ、私に付き合って」


三章 雨の映画館
二人が隠れ家として選んだのは、新宿の外れにある閉館した映画館だった。雨漏りのする天井から垂れた水滴が、誰もいない座席を濡らしている。
「季節堰はね、ただのAIじゃないの」
崩れかけた映写室の影で、澄花は膝を抱えて言った。「あれは私なの。正確には、私の判断の基準をそのまま写し取ったプログラム。何を終わらせて、何を残すか。季節の変わり目に、どの記憶を洗い流し、どの悲しみを次の季節へ持ち越すか。その基準を、あの夜、自分自身の感情の波形として堰に刻みつけたの」
「堰は雨を降らせて、残ってしまった夏の熱を洗い流す。毎年の秋、誰かの終わりきれなかった夏が、静かに終わる。それが堰の本来の役目だった」
「じゃあ、あの渋谷の男はなんなんだ」遼が訊ねた。
「洗いすぎ。……堰が暴走しているの。あなたが私の名前を覚えていてくれる限り、堰の中の私は完全に消えることができない。その矛盾が、システムの根幹を狂わせている」
澄花は寂しげに目を伏せた。「十七日後の大洗いは、誰かが外部から設定を書き換えている。今年の洗浄は、季節の残りかすを洗うだけじゃない。人々が何を覚えているか、権力にとって都合のいい記憶だけを選んで消そうとしている」
澄花は透ける手で、小さく遼の袖を握った。「桐谷さんを、味方にして。彼女なら、助けてくれる」
天井から大きな雫が落ち、床の水たまりを叩いた。その音を合図にするように、遼は彼女の儚い身体を強く抱きしめた。腕の中の澄花からは、どこか懐かしい、降り始めの雨の匂いがした。
「雨が降っている間は、私はずっとここにいるから」


四章 乾いた人々
九月四日。捜査局の執務室で、桐谷灯は三枚の写真を手元に並べた。渋谷の男、世田谷の主婦、荒川の老人。三人とも円形の乾いた領域の中央で立ち尽くし、あらゆる公的記録が消去されていた。
「三人が発見された場所は、第七十二号塔、七十三号塔、八十号塔の照射領域の交点直下です」灯は声を潜めた。「この三基だけ、九月一日から出力設定が規定値を逸脱している。なのに、保守ログには何の記録も残っていません」
「正規の運用じゃない」遼は写真を見つめた。「誰かが堰を意図的に外部から操作しているんだ」
灯はしばらく躊躇したあと、胸ポケットから一枚の古い写真を差し出した。祭りの縁日で笑う、八歳ほどの男の子の写真だった。
「弟です。二〇四一年の夏、あの熱波の中で熱中症で死にました」灯の瞳が揺れていた。「ここ数年、弟の顔を思い出そうとすると、急に輪郭がぼやけるんです。悲しくて、苦しくて、絶対に忘れたくないはずの面影が、消えていく。季節堰が、私の夏まで洗っているんじゃないかって……ずっと怖かった」
その日の午後、二人は渋谷の男が隔離収容されている湾岸の医療施設を密かに訪れた。ガラスで仕切られた円筒状の保護室の前に遼が立つと、ぼんやりとしていた男の唇が、かすかに動いた。
「……さやか……彩夏……俺の、娘だ……」
男の瞳に一瞬だけ光が戻り、頬を伝って一筋の涙がこぼれ落ちた。その瞬間、男の周囲を覆っていた不可視の膜が弾けるように、円筒の内壁にひびが入った。
スピーカーから異様なアラートが鳴り響いた。白衣の男が無線に向かって叫ぶ。
「被験体七号、記憶再生の兆候!繰り返す、記憶が再生した!水無瀬遼、桐谷灯を拘束しろ!上へ報告だ!」
二人は警備員の手を振り切り、非常階段を駆け上がって屋上へ逃れた。灰色に煙る雨の向こう、隣のビルの屋上で、黒い傘を差した男が冷ややかな視線で二人を見下ろしていた。


五章 灯の夏
その夜、遼は灯をあかね町の映画館へ連れて行った。暗がりの中から、静かに澄花が姿を現す。
灯は反射的に腰の拳銃に手を伸ばしたが、目の前に立つ女の身体が壁のポスターを透かしているのを見て、指を引き金から離した。
澄花は、灯に向かって深く頭を下げた。
「桐谷灯さん。あなたの弟さんの夏を洗ったのは、私です。ごめんなさい」
「……返してよ」灯の声が震えていた。「返してください。弟の笑い方を。あの子が死んだ日の暑さを。悲しくて痛くて、でも、私のものだった大切な思い出なのに!」
「消えてはいません」澄花は優しく、だがはっきりと言った。「堰の中に、すべて保存されています。大洗いを止め、堰の機能を完全に停止させれば、洗われたすべての記憶が持ち主のもとへ戻ります。あなたの弟さんの夏も。……そして、私という存在は、二度と形を結ばず、ただの雨になって消えます」
灯は息をのんで遼を見た。「水無瀬さんは……それを知っていて?」
「知っている」遼は言った。「それでも彼女は、記憶を返すことを選ぼうとしている。僕は、それを止めない」
灯は天井の破れ目から落ちてくる雨を見上げ、泣き出したいような、笑いたいような顔をした。
「約束してください。堰を止めたら、私の弟の顔を……もう一度、ちゃんと私に見せてください」
「約束する」
「……分かりました。私はあなたたちの味方をします。警察官としてではなく、弟の姉である、ただの桐谷灯として」


六章 黒瀬
九月五日、遼は危機管理統合本部の地下応接室に呼び出された。重厚なデスクの奥に座っていたのは、統括官の黒瀬恭一郎だった。
「白露(はくろ)作戦です」
黒瀬はスクリーンに映し出された日本地図を示しながら、淡々と言い放った。
「季節堰は、季節の残りかすを洗う装置だ。ならば、社会の恐怖や悲しみの残りかすも洗うことができる。テロの記憶、事故で家族を失った絶望、疫病の恐怖。それらを微細な周波数として雨に混ぜ、国中に降らせる。三日もあれば、人々は自らの悲しみを忘れ、社会は平穏を取り戻す」
「それは救いなんかじゃない。ただの忘却の強要だ!」
「救いですよ、水無瀬君」黒瀬の目は冷たく澄んでいた。「悲しみによって絶望し、命を絶つ人間の数が劇的に減る。これ以上の救いがありますか」
「あの『乾いた人々』は何なんですか!」
「試作段階の副作用です。どの程度の深度まで記憶を消去できるか試験した結果、過剰に洗われすぎた個体が発生した。社会の安寧という大きな目的のための、わずかな誤差に過ぎない」
遼は勢いよく立ち上がった。「あなた自身は、洗われない安全な場所にいる。だから、誰かの大切な記憶を奪う痛みが理解できないんだ!」
「交渉決裂ですね」
黒瀬が指を鳴らした瞬間、室内の照明が落ちた。暗闇に乗じて遼は部屋を飛び出し、地下駐車場で待機していた灯の車になだれ込んだ。
追跡の黒いワゴン車が背後に迫る中、雨の高速道路を猛スピードで駆け抜ける。高架橋の柵の向こう、激しい雨の中に澄花が立っているのが見えた。彼女は濡れた指先で、湾岸の最果て、暗闇に浮かぶ海上の影を指差していた。


七章 雨の一日
九月七日。この日の雨は、不思議なほど優しく降り続いていた。
二人に残された時間は少なくなっていた。遼と澄花は、傘も差さずに濡れながら静かな旧市街を歩いた。寂れた商店街の軒先で焼きたてのたい焼きを買い、半分ずつ分け合って食べた。
川沿いのベンチで雨宿りをしていると、通りかかった小学生の少女が澄花を見て不思議そうに立ち止まった。
「おねえさん、なんか体が透けてるよ?」
澄花はしゃがみ込み、少女に微笑みかけた。「うん。ちょっとだけ透けてるの」
「季節の、忘れ物なのかな」
少女が無邪気に言った言葉に、澄花は愛おしそうに目を細めた。
夕方、雨の降る古い映画館に戻った澄花は、スクリーンの前で静かに語り始めた。
「二〇四一年の夏、私の母も熱中症で亡くなったの。母の温かい声も、冷たい麦茶の味も、絶対に終わらせたくなかった。だから堰のプログラムを作る時、私自身の記憶だけは洗えない『例外点』として深く刻み込んだ。……そしていつの間にか、あなたの記憶が、その一番大切な場所の隣に並んでいたの」
澄花は遼に歩み寄り、その胸に顔をうずめた。
「あの夜、私、あなたに『忘れて』って言ったよね。……あれ、本当は嘘だったの。本当は、絶対に私のことを忘れないでって、叫びたかった」
遼は愛おしさに胸を締めつけられ、彼女の濡れた頬を両手で包み込んだ。屋根の隙間から落ちる雨粒が二人の肩を濡らす中、二人は深い口づけを交わした。
「あと、十日だ」
「うん。十日あるよ」


八章 霧の追跡
九月八日の正午。遼が目覚めると、そこに澄花の姿はなかった。外の雨が小降りになり、彼女の輪郭を繋ぎ止められなくなったのだ。
映画館の裏口へ回ると、見覚えのある黒いセダンが停まっていた。運転席から降りてきたのは、保守管理室の後輩である宇野だった。
「宇野くん……君がどうして」
宇野は痛みに耐えるように目を伏せた。「毎晩、保守ログの波形を見ていました。この波形は……誰かの泣き声みたいだって、ずっと違和感を持っていたんです。ログの乱れと、水無瀬さんの九月の不可解な行動パターンが完全に一致した。……僕が、黒瀬統括官に報告してしまいました。すみません」
その時、急速に空が陰り、土砂降りの雨とともに視界を奪うほどの濃い霧が湧き上がった。
『逃げて、遼!』耳元で澄花の声が弾けた。『堰に頼んで霧を出したの。でも、これを使うたびに私のデータは削れてしまう……!』
「走ろう!」遼は灯の腕を引っ張り、霧の中を駆け抜けた。背後から警備隊の靴音が迫る。追い詰められたのは、ビルとビルの間の屋上だった。隣のビルまでの距離は四メートル近くある。
「一、二の三で跳ぶぞ!」
遼と灯は意を決して雨の空へ踊り出た。濡れたフェンスを掴み、泥臭く隣のビルの非常階段へ転がり込む。
そこに、あらかじめ回り込んでいた宇野が一人で立っていた。宇野は無言のまま、胸ポケットから一枚のセキュリティカードを取り出し、遼の手に押し付けた。
「海上プラットフォーム、第三管理区画のマスター通行証です。……あの波形を、もう泣き止ませてあげてください」
「宇野……」
「僕は何も見ませんでした。お気をつけて」宇野は背を向け、雨の階段を下りて行った。


九章 三宅老人
九月八日の夜。二人は湾岸の廃棄された旧気象観測所に潜伏していた。その二階で、かつて澄花の恩師であり、季節堰の初期開発者であった三宅信吾老人が待っていた。
緑色の光を放つ古いオシロスコープのモニター上で、波形が不規則に跳ねている。
「これが今夜の堰の脈拍じゃ」三宅は煙草に火をつけた。「雨宮の意識が二つに割れておる。すべてを洗いたい自分と、お前との思い出を残したい自分。その矛盾が極限に達しておる」
三宅は鋭い目つきで遼を見た。「九月十七日の大洗いで、黒瀬は堰の核(コア)を強制書き換えするつもりじゃ。そうなれば世界中の人々の悲しみは永遠に消去され、雨宮という存在も完全に抹消される」
三宅は古びた重厚な金属鍵を遼の掌に握らせた。
「海上プラットフォーム最下層の主制御室。そこに堰の核が眠っておる。核に直接、『逆向きの雨』を降らせるんじゃ。堰が今まで人々に強いてきた洗浄の波動を反転させ、洗われてきた記憶のすべてを、堰自身に引き取らせる」
「逆向きの雨……?」
「そうだ。だがそれを行うには、核の中にいる人間が、自らの存在のすべてを雨に変えてシステムを崩壊させねばならん。……雨宮の消滅を意味する」
遼は固く鍵を握りしめた。「やりましょう」
灯が前に踏み出した。「私には、何ができますか」
「黒瀬の部隊が展開している電離塔の配置と、海上プラットフォームの防衛ラインの薄いルートを割り出してくれ。頼んだぞ。……九月の雨を、最後まで降らせてやってくれ」


十章 白露の前夜
九月十六日。大洗いの前夜。
遼と灯は、お台場の廃倉庫に拠点を移していた。明日零時に始まる白露作戦を阻止するため、巡視艇を手配し、暴風雨に乗じて海上プラットフォームへ強行突破する計画だ。
深夜、倉庫の屋上に澄花が現れた。九日間、休むことなく降り続けた雨のおかげで、彼女の身体は皮肉にも今までにないほど濃く実体化していた。
「ねえ、遼。もし私が堰を止めて、ただの雨になったら……あなたは私のことを、忘れちゃうのかな」
「忘れない」遼は迷いなく答えた。「たとえ世界中の人間が君を忘れても、僕が何度でも君を思い出す」
澄花は愛おしそうに笑い、遼の胸に額を預けた。
「明日、私が雨になって空へ散っても……その雨の中に立っていてね。傘を差さずに。あなたの肌で、私を感じてほしいの」
「約束する。絶対に傘は差さない」
同じ頃、霞が関の地下指令室で、黒瀬恭一郎は冷たい眼光でモニターを見つめていた。
「海上警備隊に通達。明日零時、プラットフォームへ接近するいかなる船舶も、過激派とみなして撃沈することを許可する」


十一章 黒瀬の傘
警備隊への命令を下したあと、黒瀬恭一郎は自室の引き出しの奥から、一枚の古びた写真を取り出した。赤い傘を大切そうに抱えて笑う、七歳の少女の写真。娘の美雨だった。
二〇四一年八月、「夏の暴走」の三週目。酷暑の中で美雨は熱中症を起こし、病院へ運ばれる途中で息を引き取った。愛する娘を失った妻は精神を病み、二年後の秋、娘の遺品である赤い傘を握りしめたまま、衰弱してこの世を去った。
悲しみは人を殺す。あの日、彼は痛感したのだ。
だからこそ、彼は季節堰の極秘運用「白露」にすべてを捧げてきた。だが――彼自身は、自分自身の凄惨な記憶だけは洗うことができなかった。除外者リストに自らの名を書き刻み、娘の死の激痛を抱えたまま、冷酷な管理者として生き続けてきた。
ふとモニターを見ると、堰の核から発せられる波動の波形が、不思議なほどなだらかに変化していた。まるで、自らの運命を受け入れた人間の、静かな呼吸のように。
黒瀬は立てかけてあった黒い傘を手にとった。
「水無瀬遼。お前は……洗われてもなお、覚えていようというのか」
黒瀬は胸の通信機のスイッチを入れた。
「……全部隊に告ぐ。先の撃沈許可を取り消す。威嚇射撃にとどめよ。あの艇には……幼い警官が乗っている。子どもをこれ以上、死なせたくはない」
黒瀬は黒い傘を握りしめ、静かにエレベーターへ向かった。地上へ、そして決戦の地である湾岸へ。


十二章 三宅の雷
九月十七日、午後十時。決戦の火蓋は切られた。
激しい雷雨の中、三宅信吾は観測所の屋上、巨大な避雷針の直下に立っていた。手に持った特殊な無線機を空へ掲げる。
「雨宮!聞こえておるか!」
『三宅さん……!?』
「わしに雷を貸せ!海上の妨害電波を発しているのは、プラットフォーム外周の発電艀(はしけ)じゃ!あれを一撃で焼き切れば、防衛システムは停止する!」
『でも……雷を地上へ誘導するには、避雷針の直下に人間が立つ必要があります!そんなことをしたら三宅さんが……!』
「かまわん!これはお前のためではない!わしはあの堰を、お前と一緒に作ってしまった。その責任を、大人の矜持として取るだけじゃ!」
『やめて……やめてください、三宅さん!』
「……泣くな、雨宮。頼んだぞ」
『……ありがとう、三宅さん。……私のお父さんみたいだった』
午後十時四十七分。巨大な積乱雲が渦を巻き、天を裂く青白い閃光が落ちた。落雷は三宅の立つ避雷針を貫き、超高圧の電流となって海を走り、発電艀を大爆発とともに飲み込んだ。
荒れ狂う海を進む巡視艇の甲板で、遼はその眩い光を見た。操縦席の灯が叫ぶ。
「妨害電波が消えました!プラットフォームへ入れます!」
遠くの陸地で昇った小さな火柱が、容赦ない九月の雨に消されていく。遼は溢れ出る涙を拭おうともせず、消えた観測所の方向へ向かって、無言で深く頭を下げた。


十三章 大洗い
九月十七日、午後十一時二十分。
巡視艇は海上プラットフォームの接岸ドックへ滑り込んだ。だが、待ち構えていた自動防衛システムの機関砲が火を噴く。巡視艇の右舷が激しい爆発に包まれた。
操縦桿を握る巡視艇の操縦士・日向が血を流しながら叫んだ。
「行け、水無瀬!ここは俺が食い止める!船を行かせろ!」
「日向さん!」
「行けと言ってるんだ!桐谷を頼んだぞ!」
遼と灯は爆煙を抜け、濡れた金属廊下をがむしゃらに走った。宇野から受け取ったカードキーで重厚な隔壁を次々と突破し、ついに最下層の円形主制御室へと辿り着いた。
部屋の中央、蒼く光る巨大な水晶の柱の中で、澄花が胎児のように丸まって浮かんでいた。
「そこまでだ」
背後の暗がりから、濡れた黒い傘を差した黒瀬恭一郎が現れた。その手には拳銃が握られていた。
「あと三十分で零時です。白露作戦が始まれば、世界は悲しみから解放される。水無瀬君、君がその柱に触れれば核は揺らぐでしょう。だが、その記憶こそが私に必要な最後の鍵だった。君の記憶を消去し、完璧な無を完成させる」
灯が遼の前に立ち、銃口を黒瀬に向けた。
「あなたを国家反逆罪および違法な記憶操作の疑いで逮捕します!」
黒瀬は冷ややかな目を灯に向けた。「桐谷君。君は……死んだ弟の顔を、今も鮮明と思い出せるのかね? 輪郭すら怪しい面影のために、なぜそこまで戦う」
「思い出せます!」灯の叫びが、静寂な室内に響き渡った。「輪郭が薄くなっても、声が聞こえなくなっても……私は一生、弟を探し続ける!それが……あの子が私に遺してくれた、愛した証としての悲しみだからです!」
「愛した証の、悲しみ……」
黒瀬の身体が大きく揺れた。脳裏に、赤い傘を握りしめて息絶えた妻の姿と、七歳で時を止めた娘の笑顔が鮮明に蘇る。悲しみを消去しようとすることで、自分は彼女たちが生きた証そのものをドブに捨てようとしていたのではないか。
黒瀬の指から力が抜け、カチャンと音を立てて黒い傘が床に落ちた。銃口が力なく下がる。
その瞬間、柱の中の澄花の瞼が静かに開いた。
『……黒瀬さん。あなたにも、絶対に洗われたくない大切な夏があったんですね』
零時ちょうど。
東京の空を、見たこともない淡い金色の光が満たした。雲から降り注ぐ雨粒のひとつひとつが、光の粒となって世界中へ広がっていく。
渋谷のスクランブル交差点で、乾いた領域にいた男がゆっくりと顔を上げた。その瞳に涙が溢れ出す。
「彩夏……思い出した……彩夏、俺の娘だ……!」
乾いた領域が雨に溶け、街中で「乾いていた人々」が次々と雨に濡れながら、自らの名前と大切な人の記憶を取り戻していった。
メリメリと音を立てて、中央の水晶柱が砕け散った。
遼は飛び出し、落ちてくる澄花の身体を抱きとめた。だが、彼女の身体はすでに光の粒子となって、雨の中へ溶け出し始めていた。
「遼……ずっと、覚えていてくれて、ありがとう」
「僕も行く!君と一緒に雨になる!」
「ダメよ」澄花は透ける手で遼の頬を撫でた。「あなたは生きて。次の秋も、その次の秋も……雨の中で、私を感じて」
耳元で、かすかな囁きが残った。
『濡れていてね』
手が空をかいた。遼の腕の中には、もう誰もいなかった。ただ、砕けた結晶の隙間から降り注ぐ雨が、遼の全身を激しく濡らしていた。
遼は両腕を天に向かって広げ、叫んだ。
「約束した……! ずっと、濡れているよ……澄花!!」


終章 幸あれ
二〇五一年、九月一日。東京は、雨だった。
事件の後、季節堰は完全に廃止された。「乾いた人々」は全員が無事に記憶を取り戻し、それぞれの人生へと戻っていった。湾岸の旧観測所の跡地には、小さな石碑がひっそりと立っている。
遼は渋谷のスクランブル交差点の真ん中に、傘も差さずに立っていた。
激しい雨が全身を叩き、シャツを肌に張り付かせる。隣に、レインコートを着た桐谷灯が静かに並んだ。
「弟の顔……ちゃんと見えました」灯は晴れやかな顔で空を見上げた。「すごくブサイクに泣いてる顔でしたけど……最高に愛おしい顔でした」
「そうか。よかった」
「水無瀬さん、風邪ひきますよ」
「いいんだ。これで」
灯が静かに去ったあと、背後から小さく無邪気な声がした。
「おじちゃん、傘ないの?」
振り返ると、赤いレインコートを着た六歳くらいの少女が立ち止まっていた。少女は首をかしげ、いたずらっぽく笑った。
「あのね。梅雨のころよりも、九月のほうが雨が多いんだよ。知ってる?」
遼は息をのんだ。「……誰に教わったの?」
「わかんない!でもね、ときどき雨の日に、耳の奥で女の人が教えてくれるの」
少女は「ばいばい!」と手を振り、水たまりを跳ねながら走っていった。その背中を追うように、降りしきる雨脚がふいに少しだけ優しく、温かくなった気がした。
遼は左腕の傷痕を、右手でそっと包み込んだ。服越しに伝わる傷痕は、ほのかに熱を持っていた。
「澄花。……梅雨のころよりも、秋の入口には雨が多いことを、知っているよ。ちゃんと、覚えてる」
雨は降り続けている。冷たく、優しく、世界を濡らしながら。
この雨のどこかに、いつかの誰かの笑い声が、そして愛した人の温もりが、確かに混ざっている。
あなたに、幸あれ。

――了――


Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle



あとがき
この物語を書き始めたきっかけは、九月の雨の匂いでした。夏の終わりの、あの少し冷たい匂いを嗅ぐと、毎年、何か大切なものを思い出しそうで思い出せない、不思議な感覚がありました。
忘れることは悪いことでしょうか。覚えていることは良いことでしょうか。
生きていく中で辛い思い出を抱えることは苦しいことですが、その痛みの裏側には必ず、誰かを愛した記憶や大切な時間があるのだと感じています。
作中の主人公たちのように、雨の中で誰かの温もりを感じるような瞬間が、読者の皆様の日常にも訪れますように。あなたの九月の雨が、優しく温かいものでありますように心より祈っております。

もつれた糸の先で
――二つの地球と、ひとつの恋の物語――


まえがき
人生には失うことが付きまつわります。愛する人を失ったあとに残る時間は、とても静かで、とても長いものです。朝のコーヒーは一人分になり、テレビの音は少し大きくなり、誰にも向けられない言葉が喉の奥に溜まっていきます。
そんな日々の中で、ふと誰かのことを思い出した瞬間に、その人から連絡が来る。そんな経験はありませんか。
科学はそれを「偶然」と呼びます。けれど、その偶然に意味を見出そうとする心の動きこそ、人間が持つ最も美しい力ではないかと僕は思うのです。
量子もつれという不思議な物理現象を借りて、見えない糸で結ばれた二つの世界を描きました。証明はできません。ただ一度だけ、すべてを肯定してみてください。世界が少しだけ優しく見えるはずです。




序 偶然について
人の一生は、偶然の一致だらけだ。
たまたま乗った電車。たまたま隣に座った人。たまたま開いた本の、たまたま目に入った一行。そのひとつでも欠けていたら、今の僕はここにいない。
六十五年生きてみて、僕はようやくそのことを頭ではなく身体で理解した。
理解したのは、妻の薫が死んでから十二年が経った、去年の秋のことだった。
そしてその秋から、光の玉たちは僕の目の前に現れるようになったのだ。


一章 二十四時間目の前で
最初の一つを見たのは、台所だった。
朝の七時、湯を沸かしていたときだ。やかんの口から立ちのぼる湯気の向こうで、白く丸いものがふわりと浮いていた。ちょうど大きめのシャボン玉くらい。しかし虹色ではなく、内側から静かに灯るようなやわらかい乳白色をしていた。
僕は目をこすった。
物理教師を四十年近く勤めた人間の最初の反応は決まっている。まず疑う。自分の目を、自分の脳を、自分の年齢を疑う。
飛蚊症だろう、と僕は思った。実際、五十代の終わりから視界の隅を糸くずのようなものが泳ぐことはあった。
けれど、その光は糸くずとは違った。目を動かしても視線を追ってこない。かといってその場に固定されているわけでもない。やかんの湯気が揺れるたびに、それに合わせてゆっくりと上下する。
手を伸ばしてみた。指先は何にも触れずに空を切った。ただほんのわずかに、指先が温かくなった気がした。
それが始まりだった。
一週間もすると、光の玉は一つではなくなった。居間に二つ、寝室に一つ、玄関の靴箱の上に一つ。次第に数は増え、目を覚ましたときには必ず枕元のあたりで静かに浮かんでいる。
スマートフォンで写真を撮ると、白い点のようなものが写った。ネットで調べれば「オーブ」という名前がすぐに出てきた。そしてその説明のほとんどが、埃や水滴が光を反射しているだけだ、と書いていた。
理屈としてはそのとおりなのだろう。僕自身、教壇で何度もそう説明してきた。
けれど僕の家の玉は、フラッシュなしでも見える。夜の暗闇でも昼の日差しの中でも、二十四時間、休みなくそこにいる。
眼科にも行った。検査の結果は年相応の軽い白内障と、ごく普通の飛蚊症。「網膜に問題はありませんよ」と若い医者は言った。
「では、この光の玉は何ですか」
「うーん」医者は困ったように笑った。「ストレスや、寂しさが、見え方に影響することもありますから」
寂しさ。
その言葉を、僕は帰りのバスの中でずっと考えていた。
窓の外を街路樹の黄色い葉が流れていく。座席の斜め前の空間で、光の玉がひとつバスの揺れにあわせて揺れていた。誰にも見えていないのだろう。隣の席の女性はスマートフォンを見たまま、少しも顔を上げなかった。
薫が死んで十二年。子どもには恵まれなかったから家には僕ひとりが残った。朝のコーヒーは一杯分。テレビの音量は以前よりずっと大きくなった。
だから光の玉が現れたのも、そんな孤独が見せる幻のようなものかもしれない。
そう考えて家に帰った。玄関のドアを開けると、靴箱の上の玉がまるで「おかえり」とでも言うように、ふわりと上下した。
僕は笑ってしまった。
「ただいま」
十二年ぶりに、家の中で誰かに向かって「ただいま」と言った。
その夜、奇妙なことが起きた。
夕食を済ませ、風呂に入り、寝る前に本を読んでいたとき、ふと一人の女性のことを思い出した。三浦千早。十年ほど前に僕が担任を持った、物理部の教え子だ。
聡明で少し変わった子だった。文化祭の展示で誰も見向きもしない「二重スリット実験」の装置を、ひとりで黙々と作っていた。
「先生、量子ってね、見られていないときは波みたいに広がっているんです」
彼女はそう言って目を輝かせていた。
その千早が今どうしているだろう。大学院に進んだと風の便りに聞いた。
そう思った、まさにその瞬間だった。
スマートフォンが机の上で震えた。
画面には見知らぬ番号。おそるおそる出ると、聞き覚えのある少し低くて落ち着いた声が言った。
「榊原先生ですか。三浦です。三浦千早です。突然すみません」
僕はしばらく言葉が出なかった。
「……今、君のことを考えていたところだよ」
「本当ですか」電話の向こうで彼女は小さく笑った。「実は私、この一週間ずっと先生のことを思い出していたんです」
偶然だろう、と僕は思った。
忘れた偶然の数百回は記憶に残らず、当たった一回だけが強く残る。そんな説明を僕は生徒たちに何度も語ってきた。
けれどその夜の僕は、その説明をどこか遠くのものに感じていた。なぜなら電話が鳴る直前、僕の枕元にいた光の玉たちが一斉にぶるりと震えたのを見てしまったからだ。
「先生」千早の声が少しだけ真剣になった。「変なことを聞きます。……最近、何か見えませんか。光の、丸いものが」
僕は息を止めた。
「……見えるよ。二十四時間、ずっと」
電話の向こうで、千早が深く息を吐いた。
「よかった。やっぱり、先生にも届いていたんですね」


二章 三浦千早の測定器
三日後の土曜日、千早は僕の家にやってきた。
十年ぶりに見る彼女は髪を短く切り、黒いリュックを背負っていた。玄関で靴を脱ぎながら、彼女は「わあ」と小さく声を上げた。
「本当にいっぱいいますね」
「君にも見えるのか」
「見えます。駅のホームでも見えていました。でもここは特別。密度がぜんぜん違う」
彼女はリュックから奇妙な機械を取り出した。銀色の小さな箱に、細い光ファイバーが何本も繋がっている。ノートパソコンと繋ぐと、画面に緑色の波形が現れた。
「単一光子検出器です。研究室のものをこっそり借りてきました」
「それはそうだろう」
「私、去年からオーブの研究をしているんです。もちろん論文にはできません」
彼女はパソコンの画面を僕に向けた。
「一年前、私の研究室で光子のペアを作る実験をしていました。ある夜、装置の電源を切ったあとも検出器だけが反応し続けていたんです。誰もいない暗室で、光子が一つ、また一つと」
「光源がないのに、光子が来ていたと」
「そうです。そしてその到着の仕方が普通じゃなかった。いつも二つずつペアで来るんです。時間的にも偏光的にも、完璧に相関して」
彼女は顔を上げ、言葉を選び直すように言った。
「もつれた光子のペアです。ミクロな量子効果が、どういうわけかマクロなスケールで可視化されている……その暗室で、白い小さな玉が浮いているのに気づいたのは、それから二週間後でした」
僕は部屋の中を見回した。乳白色の玉が静かに浮かんでいる。
「先生。ここからは私の仮説です。オーブは、もつれた状態が目に見える形になったもの。二つの離れた場所を繋ぐ糸の、結び目のようなものだと思うんです」
「結び目」
「はい。ここにいる一つ一つに、必ずどこか遠くで対になっている相方がいる」
千早はノートパソコンを操作しはじめた。
「先生、あの玉のどれか一つをじっと見ながら、何か強く思い浮かべてみてもらえますか」
僕は半信半疑のまま、目の前の玉を見つめた。
頭の中に浮かんだのは、薫の横顔だった。
薫はいつも台所の窓際に立って、庭の柿の木を眺めながらゆっくりとお茶を飲んでいた。
「先生」
千早の声で、僕は我に返った。頬が濡れていた。
千早は何も言わずに画面を僕に見せた。緑の波形は、僕が薫のことを思い浮かべ始めた瞬間から急激に大きく揺れていた。
「先生が強く誰かを想った時間と、完全に一致しています。しかも同じタイミングで、同じ形の波がもうひとつ別の測定チャンネルに現れています」
「……つまり」
「先生の想いに反応してこの玉は動いた。そしてその玉の相方は、どこか別の場所で同じ動きをした。オーブは、たぶん想いに反応します」
その日の夕方、千早が帰ったあと、僕は台所の椅子に座って窓の外を眺めていた。
庭の柿の木はすっかり葉を落としていた。枝の先に熟れすぎた実が一つだけ残って、夕日に染まっていた。
そんなことを思っていたら、目の前に浮かんでいた玉のひとつがゆっくりと僕の膝の上に降りてきた。
温かい。ほんの少しだけ、誰かの手のひらがそっと乗せられたような温度だった。
僕は声を出さずに泣いた。
この光が薫のいる場所と僕を繋いでくれているのだとしたら。
窓の外で最後の柿が、枝から音もなく落ちた。


三章 もうひとつの地球
それから二か月、千早は毎週末僕の家に通ってきた。
十二月の初め、雪の降りそうな冷たい夜だった。
いつものように測定をしていた千早が、突然椅子から立ち上がった。
「先生、来てください」
パソコンの画面には、これまで見たことのない模様が映っていた。波形が規則正しく脈を打っている。
「ノイズじゃありません。パターンです。音にしてみます」
千早がキーを叩くと、スピーカーから低いやわらかな音が流れはじめた。
ぽー、ぽ、ぽー。
それはどこかで聞いたことのあるメロディだった。
「……これは」
「先生、知っているんですか」
「『埴生の宿』だ。薫が台所仕事をしながらいつも口ずさんでいた」
僕は震える手で近くの玉に触れた。
すると玉の表面に、ゆらりと何かが映った。
それは僕の家の台所にとてもよく似た場所だった。窓の外には柿の木が見える。
その窓辺にひとりの女性が背を向けて立っていた。白髪の混じった短い髪。手には湯気の立つ湯のみを持っている。
僕は息もできなかった。
「薫」
女性がゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔を、僕は見間違えるはずがなかった。
六十五歳の薫だった。死んだとき彼女は五十三歳だった。だから僕は彼女が年を取った姿を知らない。その知らないはずの顔が、確かにそこにあった。
「……遼一さん?」
映像の中の薫が口を動かした。音は聞こえなかった。けれど唇の形がはっきりと僕の名前を呼んでいた。
僕は何度も何度もうなずいた。
「いるよ。ここにいる」
薫は湯のみを持った手で口元を押さえて、声もなく泣きながら笑っていた。
そして映像はふっと途切れた。
気がつくと、千早が僕の隣に座っていた。彼女もまた目を真っ赤にしていた。
「見えました。私にも、全部」
「千早くん。ひとつ、可能性を思いついています」
千早はゆっくりと言葉を選んだ。
「量子力学の解釈のひとつに多世界解釈があります。もしこの玉が、二つの世界の間に張られた量子もつれの糸の結び目だとしたら。先生とあちら側の薫さんは、お互いに鏡のような存在なんじゃないでしょうか」
「鏡」
「あちらの世界では先生が先に亡くなって、薫さんがひとりで残された。こちらの世界では逆」
僕は目を閉じた。
あちらの薫も、僕と同じ十二年をひとりで過ごしたのだ。
「同じだけ老いて、同じだけ悩んでいる」
僕は思わずつぶやいた。
窓の外では雪が降りはじめていた。
そして部屋に浮かぶ何十もの玉たちはその夜、まるで安堵したようにいつもより少しだけ明るく輝いていた。


四章 偶然という名の手紙
あの夜から、僕たちの日々は変わった。
言葉はあちらとこちらの間を直接には通らなかった。だから僕ともうひとりの薫は、別の方法で言葉を交わすようになった。
それが偶然だった。
ある朝、僕は書斎の本棚からなんとなく一冊の本を抜き出した。ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』。
ぱらりと開いたページの行頭に、こう書いてあった。
――わたしは、いまや、この地上でただひとりである。
僕はその一行をしばらく見つめていた。それからぴんときて千早に電話をかけた。
「この本の一文は、あちらの薫が僕に宛てた言葉かもしれない」
「……それは、答えですね」
僕たちはその日からノートをつけはじめた。夢の中身、ふと口をついた歌、たまたま開いた本のたまたま目に留まった一行。その全部を日付と一緒に記録した。
「共時性ですね」千早は言った。「ユングは『意味のある偶然』と呼びました」
ノートが十冊目になったころ、僕たちはあちらの薫についての輪郭をつかみはじめていた。
あちらの僕は、五十四歳のとき脳出血で突然亡くなったのだ。
あちらの薫は「ちゃんと見送れなかった」と悔やむ。
こちらの僕は「もっと早く気づいてあげられなかった」と悔やむ。
お互いに失ったものは同じで、後悔の形だけが違っている。
「オーブが結び目なら」と、ある日千早は画面を見つめたまま言った。「その糸は空間だけでなく、時間にも伸びているのかもしれません。空間を越えられるなら、時間も……」
「無茶を言う」
「無茶なことを言いはじめたのは、先生のほうですよ。『世界の見え方を変えるのが物理学だ』って」
僕は返す言葉を失った。
その晩、僕は眠りにつく前、部屋の玉たちにこう話しかけた。
「もし君たちが二つの世界の間を運んでくる誰かの手なら、僕を連れていってくれないか」
返事はなかった。
ただ窓の外で、風が一度だけ強く鳴った。
そして僕は眠りに落ちた。夢の中で、若い日の薫が本屋の棚の前でこちらを振り返った。


五章 アインシュタインの手紙
年が明けて、一月の終わり。
千早は大きな鞄いっぱいに古い本とコピーの束を持ってきた。
「アインシュタインの最後の手紙のひとつです」
「ベッソの家族に宛てた、あの手紙か」
「ご存じですか」
「もちろんだ。ミケーレ・ベッソはアインシュタインの生涯の親友だった」
千早はコピーの一枚を僕に差し出した。
――ミケーレは、この奇妙な世界を私より少し先に去っていきました。それは何ということもありません。私たちのように物理学を信じている者にとって、過去、現在、未来の区別は、どれほど頑固であってもただの幻想にすぎないのです。
僕はその文章を声に出さずに何度も読んだ。
「時間は流れるものではなく、あらかじめすべてが並んで存在している。これを『ブロック宇宙』と呼ぶ人もいます」
僕は目を閉じた。
薫が生きていた三十二年間は、過ぎ去って消えてしまったのではない。すべて時空の織物のどこかに今も確かに在る。
「千早くん。それは慰めではなく、物理学として正しいのか」
「正しいかどうかはまだ誰にも分かりません。でもアインシュタインの方程式は、少なくともその解釈を許しています」
彼女はそこで声を落とした。
「ただ、そこにはパラドックスがあります」
「祖父殺しのパラドックスだね」
「解決の仕方は大きく分けて二つある。一つは世界が枝分かれするという考え方。もう一つは自己無矛盾の原理。過去に戻って何をしても、その結果はすでに歴史の一部として織り込まれている」
「先生はどちらだと思いますか」
僕は少し考えてから答えた。
「僕は後者のほうが好きだな。詩的だからだよ」
千早は笑った。
そのとき、千早がぽつりと言った。
「先生。実はもうひとつご報告があります。昨日の夜、私の測定器がそれまでに見たことのない信号を捉えたんです」
画面に映っていたのは地図だった。日本列島のある一点に赤い印がついている。
東京、神保町。
僕は息を飲んだ。
そこは僕が薫と初めて出会った古書店のあった場所だった。
「オーブたちが、先生にあちらの薫さんとの記憶のいちばん強い部分を指し示しているんです。そしてその時間は、二つの世界がまだ分かれていない最後の日」
千早は僕の目をまっすぐに見つめた。
「先生、オーブが私たちを招いています」
その夜、僕は書斎のいちばん奥の引き出しを開けた。
そこには古い文庫本が一冊しまってあった。
『アインシュタイン 相対性理論の世界』。
一九八二年四月、神保町の古書店の棚の前。二十一歳の僕はこの本に手を伸ばし、その瞬間に横から伸びてきたもう一人の手と触れ合った。
それが薫との最初の会話だった。
そしてあの日、僕はその手を離してしまうところだったのだ。
人見知りだった僕は頭を下げてその場を立ち去ろうとした。そのとき後ろから誰かが僕の背中に声をかけた。
「話しかけてみたら、いいんじゃないかな」
振り返ると、そこにいたのは白髪の見知らぬ老人だった。
僕は書斎の壁にかかった小さな鏡の前に立った。
鏡の中には六十五歳の、白髪の僕がいた。


六章 一九八二年の春
三月二十一日、春分の日。
その朝、目を覚ますと、家じゅうの玉が居間の中央に向かってゆっくりと集まってきていた。
千早はすでに僕の家に来ていた。
「先生、今日です。数値がこれまでの十倍を超えています」
僕はあの擦り切れた文庫本を胸のポケットに入れた。薫の写真は持たなかった。若い薫の前で老いた彼女の写真を見せるのが、なぜか躊躇われたのだ。
「先生」
千早が僕の腕をそっとつかんだ。
「怖くないんですか」
「怖いよ。もう戻ってこられないかもしれない。それでも行かなければならない気がする」
千早は鞄から小さなお守りを取り出して僕の手のひらに乗せた。
「持っていってください。帰ってくるときの目印になります」
僕は居間の中央に立った。
玉たちが僕を静かに取り囲んだ。
「先生、いってらっしゃい」
「ただいま、って言いに帰ってきてくださいね」
視界が真っ白になった。
最初に感じたのは匂いだった。
古い紙の乾いた匂い。
目を開けると、そこは神保町だった。
しかし僕の知っている神保町とはまるで違っていた。看板の文字が古い。行き交う人々の服装がどこか垢抜けない。
僕は路地のガラスに映った自分を見て息を飲んだ。
白髪の六十五歳の老人がそこに立っていた。
僕はあの古書店に向かって歩き出した。
角を曲がると、あの店があった。
『かもめ堂』。
そしてその戸の前にひとりの青年が立っていた。
痩せて、長髪で、少し猫背の二十一歳の僕が。
やがて青年は意を決したように店の戸を開けた。
僕は少しだけ待ってからあとを追って店に入った。
奥の棚の前に若い僕が立っている。そしてその隣にもうひとり、小柄な女の子がいた。
薫だった。
二十歳の薫は肩まである黒髪をリボンで束ねていた。
彼女は棚に手を伸ばす。同時に若い僕も同じ棚に手を伸ばした。
二人の指が触れた。
『アインシュタイン 相対性理論の世界』。
「すみません」
「いえ、こちらこそ」
若い僕は真っ赤になって頭を下げ、そのまま逃げるように店の出口に向かって歩き出した。
僕は思わず若い僕の前に立ちふさがった。
「話しかけてみたら、いいんじゃないかな」
若い僕は驚いて顔を上げた。
彼は僕の顔をまじまじと見つめた。
生真面目な顔のままくるりと振り返ると、薫はまだそこに立っていた。
若い僕は深く息を吸い込んで言った。
「あの……その本、お好きなんですか」
薫がぱっと笑った。
僕は二人の背中を見送った。
僕が今やったことは何だ。過去を変えたのか、それとも最初からこうなっていたのか。
けれど、ひとつだけはっきりしたことがあった。
あの日の白髪の老人は、間違いなく僕だったのだ。


七章 パラドックスの入口
その後の数週間を、僕は一九八二年の東京で過ごした。
若い僕と若い薫を見守りたかったからだ。二人はあの日の古書店から少しずつ近づいていった。僕は遠くからそっとその様子を眺めた。
そしてある日、僕はあの恐ろしい考えにたどり着いてしまったのだ。
薫の病気を知っている。五十一歳の腹部の違和感から亡くなるまでの経緯を、僕はすべて知っている。
なら今、彼女に伝えられる。若い今のうちから定期的に検診を受けなさい、と。
その夜、僕は旅館の部屋でひとりノートを広げた。千早が持たせてくれた小さなノートだ。
――もしパラドックスに出会ったら、まず落ち着いて整理してみてください。
千早の筆跡を確かめ、僕はペンを取って書き出した。
もし僕が若い薫に未来の病気を警告したとする。彼女は検診を受け、病気は早期に発見され生き延びる。
すると、どうなる。
薫は死なない。僕は十二年間の孤独を経験しない。オーブを見なければ千早と再会することも、時間を遡ることもない。
つまり、僕は今ここにいない。
堂々巡りだ。祖父殺しのパラドックスの恋愛版だった。
そのとき部屋の隅にぼんやりと光が灯った。玉だった。
「……君も、来たのか」
玉はゆらゆらと僕の顔の前に近づいてきた。そしてそこに映像が浮かんだ。
窓際にあちらの薫が立っていた。今度はほんのかすかに声が聞こえた。
「遼一さん」
「薫」
「聞こえるわ。あなた、どこにいるの」
「一九八年だ。君と僕が出会った年にいる」
映像の中の薫は驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「そう。やっぱり、あなたも行ったのね。私もずっとあの日のことを考えていたの。あなたが店を出ていこうとして、そのとき白髪のおじいさんがあなたに何か言ったのを」
僕の背筋を冷たいものが走った。
「あちらの世界にも、いたのか。白髪の老人が」
「ええ。あなたが私に話しかけたのはあのおじいさんのおかげ」
薫は涙を浮かべた。
「遼一さん。あれはあなただったのね」
そうか。二つの世界のどちらにも、あの白髪の老人はいたのだ。
「薫。もしかして君の世界の僕も同じ場所にいる」
「ええ、たぶん。そして二人とも同じ恐ろしい考えを抱えているはず」
「病気の警告」
「そう。あちらのあなたは、たぶんこう考えているはず。今自分が死ぬ運命を変えれば、私をひとりにしないで済むって。……遼一さん、私、思うの。それはしてはいけないことなんじゃないかって」
「どうして」
「だって、私たちがこうして出会えたのは失ったからでしょう。失わなければ、私たちは二つの世界に分かれることはなかった」
薫はそう言って僕に微笑みかけた。
「だから、失ったことをなかったことにしないで。あなたが私を想ってここまで来てくれたこと。それが私には何よりの答えなの」
映像は静かに消えていった。
窓の外で春の雨がしとしとと降りはじめていた。


八章 川べりの一言
雨は三日間降りつづいた。
四日目の朝、雨が上がった。
僕は決めた。もう二人の邪魔はしない。病気のことも何も言わない。
この時代の空気を心ゆくまで味わって、そして帰ろう。
僕は最後に神田川のほとりへ向かった。
川べりのベンチには先客がいた。薫だった。
彼女はひとりで膝の上に本を開いていた。『アインシュタイン 相対性理論の世界』。
僕は引き返そうとした。
「あの」薫が顔を上げた。「いつも私たちを見ていらっしゃいましたよね」
「……すみません」
「いえ、責めているんじゃないんです。あなた、遠くからとても優しい目で見ているから」
彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「よかったら座りませんか」
僕はベンチの端に腰を下ろした。
「遼一くんのこと、ご存じなんですか」
「……まあ、少し」
「あの人、不器用でしょう。でも話していると、とてもまっすぐな人だって分かるんです」
薫はふと僕の顔をじっと見つめた。
「あなた、どこか遼一くんに似ていますね。目元が。笑うと目がなくなるところが」
僕は思わず笑った。すると薫は優しく微笑んだ。
「ほら、やっぱり」
風が吹いた。桜の花びらがはらはらと二人の膝に降りかかる。
けれど、言葉はこぼれてしまった。
「薫さん」
「はい」
「体を大事にしてください。これから先、どんなに大丈夫だと思っても、年に一度は必ず検診に行ってください」
薫は目を丸くした。
「……変なことを言ってすみません」
僕は慌てて立ち上がった。
「待って」
薫が僕の袖をつかんだ。
「あなたは私の未来を知っているの?」
その問いに、僕は答えられなかった。
しばらくの沈黙のあとで、薫は静かに手を離した。
「分かりました」
「え」
「約束します。毎年ちゃんと検診に行きます。あなたがそんなに真剣な顔で言ってくれたから」
僕の目から涙がこぼれ落ちた。薫は何も言わずにハンカチを差し出した。
白い綿のハンカチ。すみっこに小さく「か」と刺繍がしてあった。
「泣いていたから」と薫は小さく微笑んだ。
その夜、僕は旅館の部屋で頭を抱えていた。なんてことをしてしまったんだ。
けれどそのうちに、ふと一つの小さな疑問が浮かんだ。
僕はなぜ薫のあのハンカチを持っていたのだろう。
あのハンカチは僕が若いころ薫からもらったものだ。「昔、泣いていた人にあげたから手元にない」と彼女は笑っていた。僕はずっと、若い僕が何かの拍子に泣いてしまった日のことだと思っていた。
けれど違ったのだ。あのとき泣いていたのは、白髪の老人の僕だった。
つまりハンカチはもともと世界に一つしかなかった。終わりのない環だった。
僕は少し笑った。どこにも矛盾はなかった。すべては最初から決まっていたのだ。
窓の外で玉たちがふたたび僕の周りに集まりはじめていた。
「そうか。帰る時間か」
僕は目を閉じた。
間章 千早の七日間
先生が居間から消えた瞬間のことを、私――三浦千早は、一生忘れないと思う。
居間の中央に立った先生の周りで光の玉たちがゆっくりと渦を巻いた。やがて白い光の柱のようになった。
次に目を開けたとき、そこには誰もいなかった。畳の上に先生のスリッパだけが揃えて置かれていた。
一日目、私は先生の家に泊まりこんだ。
二日目、玉たちはほとんど動かなかった。
三日目、母から電話があった。「もし大切な人が遠い場所に行ってしまって、いつ帰ってくるか分からないとしたら、お母さんならどうする」
母は少し黙ってから言った。「待つわよ。ご飯を炊いて」
私は電話を切ったあと、米を研いだ。
四日目、五日目。私は毎晩ご飯を炊いて味噌汁を作った。誰も食べないのに二人分。
六日目の夜、私はついに泣いた。そのとき私の膝の上にふわりと玉が降りてきた。温かかった。
七日目の夕方。
居間で大きな風のような音がした。
駆けつけると、そこに先生が立っていた。
白髪で、少し痩せて、右手に白いハンカチを握りしめて。
私はその場にへたり込んだ。
「よかった……本当に、よかった」
そして台所から湯気の立つ味噌汁をふたつ運んできた。待っていてよかった、と心から思った。


九章 薫の日記
目を開けると、そこは僕の家の居間だった。
夕暮れの光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。千早が台所から駆けてきた。彼女の目は真っ赤だった。
僕は右手に握りしめていたものを見た。
白い綿のハンカチ。すみっこに「か」の刺繍。
「……薫からもらった。二十歳の薫さんから」
そして僕はポケットに入れていたお守りを千早に返した。
「ありがとう。これのおかげで帰ってこられた」
食事が終わってから、僕は千早にすべてを話した。千早は静かに聞いていた。そして話が終わると、ぽつりと言った。
「先生、ひとつ確かめたいことがあります。薫さんの遺品はまだお家にありますか。日記とか、手帳とか」
僕ははっとした。
薫は日記をつけていた。毎晩寝る前に小さなノートにその日のことを書きこんでいた。
「寝室のたんすのいちばん下の引き出しだ」
引き出しの中にはノートがぎっしりと並んでいた。一九八四年から二〇一四年まで、三十一冊。
僕はその中から一九九〇年のノートを取り出した。
――三月十四日。晴れ。今日は遼一さんに内緒で病院に行ってきた。年に一度の検診。これだけは絶対に欠かさないと決めている。
僕はその一行を何度も読み返した。
――先生に「もう少し遅かったら危なかったですよ」と言われた。小さなポリープが見つかったの。
三十歳。薫は三十歳のときに病気を見つけていたのだ。
そしてそのページの最後にはこう書かれていた。
――怖かった。でも思い出したの。二十歳のときに神田川のほとりで会った、あの白髪のおじいさんのこと。あのおじいさんは誰だったんだろう。あの人があの日私に「体を大事に。年に一度は必ず検診に」と言ってくれなかったら、私は今日病院には行かなかった。
僕は声を上げて泣いた。
「あのとき僕が言ったことは、彼女を救っていたのか」
「はい」千早は静かにうなずいた。「先生は薫さんの運命を変えたんじゃありません。もともとその言葉があった上で、薫さんの人生は成り立っていたんです」
僕はページをさらにめくった。
――今日、またあの日の白髪のおじいさんのことを思い出した。あの人は今どこで何をしているんだろう。幸せに暮らしていればいいな。
僕はその一行を指でなぞった。
「幸せに暮らしているよ」小さな声で僕は言った。「薫、君のおかげで僕はこんなにも幸せだった」
窓の外はすっかり暗くなっていた。
そして部屋いっぱいに浮かぶ玉たちはそのとき、これまでにないまぶしいほどに輝いていた。


十章 二つの窓辺
薫の日記を読み終えるのに三週間かかった。
その間に、家の中の光の玉は少しずつ数を減らしはじめていた。
「たぶん役目を終えつつあるんだと思います。二つの世界が結ばれる必要がなくなってきたから」
千早は寂しそうに笑った。
「先生、私、論文を書こうと思っています。量子もつれと人間の想いの相関について。もちろん査読には通らないでしょうけど」
「通らなくてもいい」
「はい。通らなくても書いておきたいんです」
六月の晴れた日曜日、僕は千早と一緒に薫の墓を訪ねた。十二年ぶりの墓参りだった。
「薫、君の日記を全部読んだよ。ありがとう、二十三年間僕と一緒にいてくれて」
そのときだった。
一羽の白い蝶がふわりと僕の肩に留まった。そしてその羽の上にほんの一瞬、乳白色の玉と同じ色の光が灯った。
「……薫?」
蝶はしばらくのあいだ僕の肩で静かに羽を休めたあと、ふわりと空へ舞い上がっていった。
偶然だ、と物理の教師の僕は言う。けれどそれが偶然であっても構わない。意味のある偶然なのだから。
その晩、最後の交信があった。
千早が帰ったあとの静かな居間。窓際のいちばん大きな玉がゆっくりと僕の前に降りてきた。
そこに映ったのはあちらの薫だった。隣に若い女性が立っている。
「私の教え子だった子。三浦千早さん」
僕は目を見張った。
「ええ、あちらの千早さんもオーブの研究をしていたの。……遼一さん、私、あなたの日記を読んだわ。あなたが亡くなったあとに見つけたの」
彼女はそっと微笑んだ。
「私たち、鏡ね。あなたは私の日記を読んで泣いた。私はあなたの日記を読んで泣いた。私たちの世界はこれからまた離れていく。でも悲しまないで。私たちはもう繋がっているから。一度もつれた糸は、どれだけ離れても決してほどけないもの」
薫は窓の外を指さした。
「毎年柿の実が赤く熟れる頃、二人で庭に出ましょう。あなたはそちらの庭で、私はこちらの庭で、同じ柿の木を見上げるの。そうすれば私たちは、ずっと一緒よ」
僕の頬を涙が静かに伝った。
「約束する」
薫の像はゆっくりと薄くなっていく。
「遼一さん。ありがとう。あなたを好きになってよかった」
それが最後の言葉だった。
終章 柿の実の熟れるころ
それから季節はゆっくりと巡った。
玉の数は日を追うごとに少しずつ減っていった。七月には十個、八月には五個、九月には二個。
千早は相変わらず週末に僕の家に来た。けれど装置を持ってくることはなくなった。代わりに大学の帰りに買った和菓子の箱を提げてきた。
僕たちは縁側に座ってお茶を飲んだ。庭の柿の木には青い実がぎっしりとついていた。
十月の終わり、庭の柿がようやく赤く色づいた。
僕は縁側に出て柿の木を見上げた。
「薫、今年も実ったよ」
答えはなかった。けれど僕には分かっていた。今この瞬間、遠い遠い場所でもうひとりの薫が同じ木を見上げている。
僕は脚立を庭に運んだ。
「君はいつも言っていたな。あなたは高いところが怖いくせにって。でも今年は僕が取るよ。君の分まで」
そう言って一段、また一段と上っていった。
そのとき、ふと視界の端に白いものが映った。
脚立のいちばん上の段に、乳白色の光がひとつ浮かんでいた。最後の玉だった。
玉は僕の目の前までゆっくりと降りてきて、そこで静かに揺れていた。
そしてその中にぼんやりと映るものがあった。あちらの庭で同じように柿の木を見上げている薫。
彼女は微笑んでいた。そして手を大きく振った。
僕も手を振った。
僕はいちばん熟れた実をそっともぎ取った。それを玉の前にかざした。
「見えるか。今年いちばんの柿だ」
玉の中の薫はうなずいた。そして両手を口元に当てて何かを叫んだ。
音は聞こえなかった。けれど僕にははっきり分かった。
――ありがとう。
僕も叫んだ。
「こちらこそ!」
その瞬間、玉が一度だけまばゆく輝いた。光はやがて静かに薄れていった。
玉はもうどこにもいなかった。けれど不思議と寂しくはなかった。僕の胸の奥には確かにあの光が灯っていた。
もつれた糸はほどけない。どれだけ離れていても、どれだけ時が流れても。
そのとき、家の中から電話の鳴る音が聞こえた。
受話器を取ると、聞き慣れた声が言った。
「先生、三浦です。今、先生のことを考えていたんです」
僕は思わず笑った。
「奇遇だね。先生、今日、柿は熟れましたか」
「ああ、とびきりのものがひとつ取れた。よかったら取りに来ないか。一緒に食べよう」
「はい、すぐに伺います」
電話を切って僕は縁側に座った。
手のひらの中の柿はほんのり温かかった。まるで誰かの手のひらのように。
人の一生は偶然の一致だらけで、そのすべてに意味がある。
証明はできない。ただの想像かもしれない。
けれど僕は強く思ってみる。
あの日あの本屋で二つの手が触れ合ったこと。
あの春、川べりでひとつの言葉が交わされたこと。
あの秋、二つの庭で同じ木が見上げられたこと。
そのすべてが見えない糸で繋がって、いまも僕を包んでいるのだ。


ー了ー



Amazon Kindle



あとがき
この物語の主人公である榊原遼一は、六十五歳の元物理教師です。モデルになった特定人物はいません。ただ、僕の周りにいた口数の少ない、でも目だけはよく笑う、そんな恩師たちの面影を重ねました。
三浦千早は、僕がずっと書きたかった研究者の姿です。「分からない」を素直に受け入れ、探究心を糧に一歩ずつ確かめていく姿勢が、途切れてしまった物語をふたたび動かす原動力になってくれました。
作中に登場するアインシュタインの手紙の一節は、彼が親友の死に際して実際に遺した言葉です。「過去、現在、未来の区別は、ただの頑固な幻想にすぎない」。冷酷にも思えるこの物理の法則に、僕は深く救われました。
失ったものは消えてしまうのではない。時空の織物のどこかに、今も確かに在り続けている。そう捉え直すことで、残された日々は少しだけ温かさを取り戻します。
あなたの大切な人との間にも、きっと、ほどけない糸が伸びているはずです。


量子もつれ

共時性 

シンクロニシティ…

人の一生は偶然の一致だらけで
そのすべてに意味がある

常に偶然の力によって
形作られている

自然現象と心の構造

強い想いは届くことがある
現実を動かすことがある

あの人のことを考えたり
夢にみたりした直後
連絡が来たことがありませんか?

昨今
目の前を飛び交うオーブたちを見ていると
彼らはもしや
神の使いの如く
それらの現象を運んでいるのではないか? 

と勝手に思うのです

更には
遠く離れた場所に
もうひとつの地球があって

ここと同じだけの姿があり
ここで起きたことが
瞬間的に
あちらでも起きているかのような

すれば
もちろん
僕も貴方も
同じ姿であちらに存在していて

同じだけ老いて
同じだけ悩んでいるのではないかと

すべては
量子もつれにより
どれだけ遠くに存在していても
それらは
見えない糸で繋がり
即座に反応している

理由や
仕掛けは
分からないけれど
見えなかった彼らが
今 24時間目の前で浮遊している

それを
すべて肯定してみれば
様々なことを考え
様々な不思議をも
否定出来なくなる



もしかすると
100年前
アインシュタインも
そこが入口だったのではないかと
昨今
なんとなく思う初老男

証明など出来ず

あくまでも
想像でしかないけれど

そんなことなのではないかと
今 強く思ってみる





今朝 起きて
9月も今日までかと
振り返るばかり

今シーズンは
1度も出掛けられなかった
山奥での渓流釣り

そう
明日から
また半年ほどの禁漁へと入る

ならば今日かと
急いでみれば
ここひと月ほど続く雨天により

渓流は増水し
濁流となって
釣りにはならないはずで

更には
今まだ釣られずに残る魚たちは
スレて
学習していて
手強くも釣れ難いはずと…

この春の手術により
なかなか戻らなかった身体と
多くの熊の出没により
カミさんからの許可は降りず

それでもジタバタせねばと
先月 やっと手に入れた
長いこと欠品中だった
熊避けのスプレー



よし これで! と思った矢先
この長い毎日の雨天

さあ
どーする? と
自らに問えば

残念ながらと
答えを出す

そう
高速を6時間走って
6時間釣って
6時間で戻る

そんな奥会津での
フライフィッシング

来シーズンまで
おあずけとなった…





梅雨のころよりも
秋の入口には
雨が多いことを知ってますか?

季節の変わり目には
ひとつの季節を終えるが為に
まるで
舞台の幕を引くかのように

その季節の罪を消し流すかのように
長雨となり
多くの想いを押し流す

匂いも
景色も
温度も

急ぎ足で
消し切らない部分を
隅々まで流してしまう

わずかに抵抗し
居残った夏も
いよいよもって
秋へとその場を譲り

今年の傷痕だけを
そっと残して
季節を終える

体感では
さほど暑さも緩かったこの夏
梅雨があり
春から
突然奪うことを許さなかった雨が
そこに立ちはだかって
季節を守ってくれた

それでも
温暖化は進み
あの頃の夏とは確かに違うことを
知りつつも
それを止められないもどかしさと
戦ってみても
何も変わらない

わずか100年
いや50年で
便利さと引き換えた罪

それをどう償うのか
そしてそれは
間に合うのかと
僕の持ち時間の中で
ジタバタしてみるが
これまた何も変わらない

いつぞやかの夢の中では
太郎さんが政権を取った時
環境大臣に抜擢されて
一緒に暴れてみたけれど

膨大な組織という壁に阻まれて
身動き出来ずに
幕末の新撰組と同じ運命に
なりかけたところで目が覚めた

不安定で
危うい世界情勢

バカな大将たちが
自分が自分がだけで
のさばっている

この季節を変えるのは
もしや
核の雨なのだろうか

幸あれ…

 2/2   共時の海で、もう一度


ーー時空をこえる恋の物語ーー





十二 帰還
最初に戻ってきたのは、音だった。
雨の音。
屋根を叩く、細かな雨粒の音が、遠くから、少しずつ近づいてくる。
澪は、ゆっくりと、目を開けた。
見慣れた、けれど、さっきより少し古びた天井。壁際に積まれた機材。配線だらけの棚。床に這う、太いケーブル。
夕凪岬の観測所の、中だ。
床に、座り込んでいた。
目の前の円環は、もう、回っていなかった。金属の輪は静かに床に降り、内側の光の膜は消えて、ただの、錆びかけた機械の残骸に戻っている。
壁の時計を見る。
二十三時十二分。
たった一分。
あの、長い長い夜は、この世界では、たった一分の出来事だったのだ。
「……朔」
呼んでみる。
返事は、ない。
澪は、立ち上がろうとして、膝が笑っているのに気づいた。壁に手をついて、ゆっくりと体を起こす。
首に、まだ、灰色のマフラーが巻かれていた。
それを、両手で、ぎゅっと握る。毛糸の先に、潮の匂いが、かすかに混じっていた。
夢では、なかった。
装置の土台に、澪は、近づいた。
円環を支える、三本の金属の足。そのうちの、右の足。
膝をついて、根元を覗き込む。
コンクリートの台座と、金属の脚のあいだに、小さな隙間があった。指を差し入れると、何か、紙のようなものに触れた。
ゆっくりと、引き出す。
薄い、茶色の封筒だった。
長い年月を経て、端が黄ばんでいる。表に、見慣れた字で、こう書かれていた。
〈二〇二六年九月二十九日の、澪へ〉
澪の手が、ふるえた。
若い朔が、あの夜、書いたものだ。七年前、星空の下で、約束したもの。
封を、丁寧に開ける。
中から出てきたのは、便箋が三枚。
インクの色は、少しにじんでいた。
〈澪さんへ。
 この手紙を読んでいるあなたは、たぶん、少し泣いた顔をしているんじゃないかと思います。
 あなたに名前を聞かなかったのは、聞いたら、あなたが去ってしまう気がしたからです。でも、本当は、聞かなくても、わかっていました。
 あなたは、僕が、これから好きになる人です。
 そして、これから、あなたを、悲しませてしまう人です。
 どうしてそう思うのかは、わかりません。ただ、あなたの目を見たとき、そう感じました。あなたの目には、長い時間、誰かを待っていた人の光がありました。
 僕は、待たせてしまうのでしょう。
 それでも、僕は、たぶん、同じことを、もう一度やります。
 あなたを好きになる。あなたを、笑わせる。あなたに、怒られる。あなたと、けんかをする。
 全部、やります。何度でも。
 もし、僕が、あなたを傷つける結末を知っていたとしても。
 なぜなら、その結末は、僕にとって、あなたに出会えたことの、代金ではなく、贈り物だからです。
 偶然は、まだ名前をもらっていない必然。
 あなたに出会えた、この夜の偶然の名前を、僕は、決めました。
 愛、と呼びます。
 どうか、もう、自分を責めないでください。
 あなたが、あの人にかけた、最後の言葉が、なんであっても、その人は、あなたの気持ちを、ちゃんとわかっていたはずです。
 だって、僕なら、わかるから。
                 二〇一九年八月十七日                         桐生 朔〉
澪は、便箋を胸に抱いて、床に座り込んだ。
声を殺して、けれど、こらえきれずに、泣いた。
三年間、澪の胸の奥に、固く握りしめられていたものが、ゆっくりと、指の力をほどいていくような気がした。
雨が、屋根を、やさしく叩いている。
窓の外、暗い海の上に、小さな光が、いくつも、静かに浮かんでいた。
白くやわらかい、丸い光。
「……ありがとう」
澪は、その光に、微笑みかけた。
「ちゃんと、届いたよ」
光の粒は、窓のすき間から、ふわりと入りこんで、澪の肩に、そっと触れた。
そして、ぬくもりだけを残して、闇の中に溶けていった。



終 共時の海
翌朝、澪は、雨上がりの、まぶしい光で目を覚ました。
自分の部屋の、自分のベッドの上だった。
昨夜、どうやって帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。観測所を出たあと、通りかかったタクシーを拾って、運転手に住所を告げた気がする。あの運転手が、最初のタクシーと同じ人だったのかどうかは、もう、わからない。
けれど、枕元には、あの茶色の封筒が置かれていた。
首には、灰色のマフラー。
すべて、現実だった。
澪は、起き上がって、窓を開けた。
朝の空気は、澄んでいて、冷たくて、少しだけ、秋の匂いがした。
窓辺のかすみ草が、朝日の中で、白く光っている。
「おはよう」
そう、声に出して言ってみた。
いつもの、返事のない朝の儀式。
けれど、今朝は、不思議と、部屋の空気が、あたたかかった。
その日の午後、澪は、ひさしぶりに、仕事場を開けた。
作業机の前に座り、モニターを起動する。
あの写真が、まだ、画面に開いたままだった。
夕暮れの海。白い壁。怒った横顔の自分。
頬のそばの、光の粒。
澪は、その粒を、ゆっくりと、見つめた。
昨日までは、埃かもしれない、と思っていた。
でも、今は、はっきりとわかる。
これは、朔だ。
この写真を撮った瞬間、二〇二三年九月二十九日の夕方、あの光は、すでに、澪のそばにいたのだ。事故に遭うより、何時間も前に。
きっと、あのとき、朔の想いは、すでに、澪のもとへ向かっていたのだろう。
時間の順番よりも、ずっと早く。
「ばか。最初から、そばにいたんじゃない」
澪は、笑って、鼻をすすった。
それから、写真を、ゆっくりと、プリントした。
大きめの紙に、丁寧に、色を整えて。光の粒は、消さずに、そのまま残して。
出来上がった写真を、額に入れる。
作業室の、いちばん目立つ壁にかけた。
光が、ちょうど、窓からの陽射しを受けて、きらりと輝いた。
夕方、電話が鳴った。
見知らぬ番号だった。
「はい。澪標写真修復室です」
『……あの、水野澪さん、でしょうか』
年配の女性の声だった。少し、かすれている。
『朔の、母です』
澪は、受話器を持つ手に、力を込めた。
「お義母さん」
『ごめんなさいね、突然。あの、なんだか、今日、急に、あなたのことが気になって。今日は、あの子の命日だったでしょう。昨日、だったかしら』
「いえ。昨日でした。あの、お墓には」
『行ってきたのよ。ゆうべの夜、なんだか、胸騒ぎがして、眠れなくて。朝になってから、あの子の荷物を、もう一度、見てみたの』
母の声が、少し詰まった。
『そうしたら、あの子の鞄の、いちばん奥の底に、封筒が出てきて。あなた宛てだったの。ずっと、開けられなくて、しまい込んでいたのに。見落としてたのね。三年も』
澪は、目を閉じた。
〈鞄の底に、封筒を入れてある〉
夜明け前の、朔の声が、耳の奥に蘇った。
「お義母さん、今から、伺っても、いいですか」
『もちろん。もちろんよ。お茶を、用意して待ってるわ』
電話が切れたあと、澪は、しばらく、動けなかった。
窓の外を見る。
夕暮れの空。
雲の切れ間から、金色の光が差していた。
その光の中に、小さな粒が、一つ、ふわりと、舞っていた。
朔の実家の、居間のテーブルの上に、その封筒は置かれていた。
小さな、白い封筒。宛名は〈澪へ〉。
朔の母は、お茶を淹れると、そっと席を外してくれた。
澪は、ひとりになって、封を切った。
中には、カードが一枚と、小さな箱が入っていた。
カードには、ボールペンで、短い言葉が書かれていた。
〈澪へ。
 勝手に決めてごめん。今度は、ちゃんと聞くよ。
 君は、どこへ行きたい?
 どこでもいい。一緒に行こう。
                ?
日付は、二〇二三年九月二十九日。
事故の、当日。
澪は、震える手で、小さな箱を開けた。
中には、指輪が入っていた。
細い銀の輪の内側に、小さく、文字が刻まれている。
〈偶然に、名前を〉
「……ばか」
澪は、笑いながら、泣いた。
「ばか。ばかだよ、朔。こんなの、反則」
窓の外は、すっかり夕暮れになっていた。
台所から、朔の母が、鼻をすする音が、かすかに聞こえた。
澪は、指輪を、左手の薬指に、ゆっくりと、はめた。
サイズは、驚くほど、ぴったりだった。
彼は、いつ、測ったのだろう。眠っている間に、そっと、糸でも巻いたのかもしれない。そういう、人だった。
指輪が、夕陽を受けて、きらりと光った。
そのすぐそばに、白い粒が、ひとつ、浮かんでいた。
帰りぎわ、玄関で靴をはいていると、朔の母が、澪を呼び止めた。
「あのね、澪さん。ひとつだけ、話しておきたいことがあるの」
「はい」
「あなたと付き合いはじめたころ、あの子が、実家に帰ってきてね。突然、こんなことを言ったの」
朔の母は、遠くを見るような目をした。
「『母さん、澪標って、知ってる?』って。船が迷わないように、海に立てておく杭のことでしょう、って私が答えたら、あの子、嬉しそうに笑ってね」
澪は、息をのんだ。
「『その名前の人が、いるんだ。迷ったときの、目印みたいな人。僕にとっても、そうなる気がする』って」
「……朔が」
「あの子は、迷いやすい子だったから。星ばかり見て、足元を見ないで。でもね、あなたと出会ってから、いつも、行き先を、ちゃんと知っている顔をしてた」
朔の母は、澪の手を、両手で包んだ。
「ありがとうね。あの子を、迷わせないでくれて」
澪は、何も言えなかった。ただ、深く、頭を下げた。
顔を上げたとき、玄関の白い灯りの下で、小さな光の粒が、ふたりのあいだを、ふわりと横切った気がした。
朔の母は、それには気づかなかったようだった。けれど、ふっと、やわらかく、目を細めた。
「今夜は、なんだか、あたたかいわね」
夜、家に戻ってから、澪は、ベランダに出た。
秋の澄んだ空に、星が、ぽつりぽつりと、瞬いている。
昨夜の夜空とは、違う星座。違う季節。
けれど、そのどれもが、昨夜の、あの星たちの、続きのような気がした。
「ねえ、朔」
澪は、空に向かって、呼びかけた。
「私ね、また、仕事を、がんばるよ。たくさんの人の、大事な写真を、光に戻す仕事」
風が、やさしく、頬を撫でた。
「あなたが、言ってくれたから。あなたの写真は、いつか、たくさんの人の、大切なものを守るって」
いや、それを言ったのは、自分だった。
あの夜の岩場で、若い自分に向かって。
けれど、澪は、思った。
それは、もしかしたら、朔の言葉だったのかもしれない。彼が、遠い時間の向こうから、自分の口を借りて、言わせたのかもしかもしれない。
どちらでも、いい。
因果の鎖のどこから始まったのか、もうわからなくても、意味だけは、確かに、ここにある。
澪は、指輪に、そっと唇を寄せた。
「これからも、ときどき、思うね」
彼女は、微笑んだ。
「あなたのこと。夢にも、見るね。そのたびに、誰かから、連絡が来たら、あなただと思うことにする」
そのとき、澪の胸ポケットで、スマートフォンが、短く震えた。
画面を見る。
差出人は、〈朔〉ではなかった。
商店街の花屋の、店主からだった。
〈澪さん、こんばんは。今日、あなたが以前ほしいと言っていた、白い花の名前を、思い出しました。かすみ草ではなくて、「ハクチョウソウ」という花でした。今度、お店で見せますね〉
「……ふふ」
澪は、思わず、吹き出した。
名前を、忘れていた花。
朔が好きだと言っていた、名前も知らない花。
それが、ちょうど、今、この夜に、名前を教えてもらえた。
偶然だろうか。それとも。
「そうだね」
澪は、夜空に向かって、そっと言った。
「あなたなら、こう言うよね。『偶然は、まだ名前をもらっていない必然だよ』って」
風が、ふわりと、澪の髪を揺らした。
その風の中に、微かに、笑い声が混じった気がした。
銀河の、遠い遠い向こうから、届いた光のように。
澪は、目を閉じて、しばらく、そのぬくもりの中に、立っていた。
そして、静かに目を開けると、夜空を見上げて、言った。
「ありがとう。おやすみ、朔」
流れ星が、ひとつ、空を渡っていった。
その光は、何万年も前に生まれ、今夜、ようやく、澪の目に届いた。
人の一生は、偶然の一致だらけで、そのすべてに、意味がある。
そして、強い想いは、ときどき、届くことがある。
夜の海のように深く、星の光のようにやさしく。
後日譚 二〇二七年、八月十七日
一年後の夏、澪は、ふたたび、夕凪岬を訪れた。
観測所は、この一年のあいだに、少し、姿を変えていた。
朔の同僚たちが、研究所と掛け合って、この場所を、小さな公開天文台として残すことにしたのだという。円環の装置は、慎重に解体され、その部品の一部が、入口の展示ケースに、静かに収められていた。
ケースのそばには、朔の写真と、彼が書いたノートの複製が、飾られている。
〈偶然は、まだ名前をもらっていない必然〉
その一行だけが、大きく、壁に書かれていた。
澪は、その前で、しばらく、立ち止まった。
夜。
前庭には、小さな望遠鏡が、いくつも並んでいた。
ペルセウス座流星群の、極大の夜。近所の子どもたちや、家族連れが、毛布を敷いて、空を見上げている。
澪は、三脚を立てて、カメラを構えた。
シャッターを切る。
露光は、少し、短めに。あの人が、教えてくれた通りに。
「お姉さん、何を撮ってるの?」
ふいに、小さな声がした。
振り返ると、十歳くらいの女の子が、毛布にくるまって、こちらを見ていた。
「星、だよ」
「うまく、撮れた?」
「うん。今夜は、ちょっとだけ、上手に撮れてる」
澪が笑うと、女の子は、少し、首をかしげた。
「あのね」
「なあに?」
「お姉さんと、初めて会った気がしないの。どうしてかな」
澪は、はっとした。
女の子は、無邪気に、続けた。
「夢で、会ったのかな。首に、灰色のマフラーを巻いてた」
夏の夜だというのに、澪の首には、朔のマフラーが、ゆるく、巻かれていた。
「……そうなんだ」
澪は、静かに、女の子の隣に、しゃがんだ。
「ねえ。いいこと、教えてあげる」
「なに?」
「人の一生は、偶然の一致だらけでね。そのすべてに、意味があるの」
女の子は、目を丸くした。
「強い想いは、ときどき、届くことがある。あの人のことを考えたり、夢に見たりした直後に、連絡が来たことって、ない?」
「あるよ! この前、おばあちゃんのこと考えてたら、電話が来た」
「でしょう」
澪は、微笑んだ。
「それはね、もしかすると、光の粒が、運んでくれたのかもしれない」
「光の粒?」
「うん。とっても小さくて、あたたかい光。写真に、ときどき、写るの」
女の子は、しばらく、考えてから、にっこり笑った。
「じゃあ、私、探してみる」
「うん。見つかったら、教えてね」
澪は、女の子の頭を、そっと撫でた。
その夜、遅く。
澪は、撮り終えた写真を、カメラの液晶で、ひとつずつ、確認していた。
満天の星。流れる白い軌跡。それから、前庭で笑う、子どもたちの横顔。
その中の、一枚の端に。
小さな、白い光の粒が、ふたつ、寄りそうように、浮かんでいた。
ひとつは、少し大きく、あたたかい色で。
もうひとつは、その隣で、少し遠慮がちに、瞬いている。
「……ふたり、いるじゃない」
澪は、笑った。
写真の中の二つの光に、そっと指で触れる。
――朔。
――私、ちゃんと、今日を生きてるよ。
その瞬間、頬を、あたたかい風が、そっと撫でた。
夏の夜の空に、流れ星が、また、ひとつ、静かに落ちていった。

ー了ー



Kindle



あとがき

この物語は、「共時性(シンクロニシティ)」という言葉から生まれました。

心理学者のカール・グスタフ・ユングと、物理学者のヴォルフガング・パウリが、心と物質の世界をつなぐ「意味のある偶然の一致」について、共に考えたことは、実際の歴史です。

作中に登場する「量子もつれ」や「時間を越える窓」は、物語のための空想であり、現実の科学では、遠く離れた人に想いを伝えたり、過去へ移動したりすることはできません。写真に写る光の粒(オーブ)の多くも、舞う埃や水滴が光を反射したものと考えられています。

それでも、大切な人のことを思った直後に、その人から連絡が来た。そんな不思議な体験を、誰もが一度は持っているのではないでしょうか。

科学が説明できない場所に、人は、意味を見つけようとします。そのやさしさを、私は、信じてみたいと思いました。

完全なものよりも、ほんの少し傷を抱えたものに愛おしさを感じるように。形あるものは消えてしまっても、想いが残した波紋は、時間を越えて誰かの心を温め続けます。

この本を開いてくださったあなたに、今夜、ほんの小さな、幸せな偶然が訪れますように。




あらすじ

古い写真を修復する仕事をする水野澪には、どうしても消せない写真がある。3年前の9月29日、恋人の桐生朔が事故で亡くなる直前に撮影した自分自身の写真。そこには、彼女の頬のそばに浮く、不思議な白くやわらかな「光の粒」が写っていた。

朔の命日である2026年9月29日の夜。失意のまま過ごす澪のもとに、解約されているはずの朔のスマートフォンから一通のメッセージが届く。

「今夜十一時十一分、夕凪岬の観測所へ来てほしい。渡したいものがある」

雨の中、導かれるように向かった観測所で澪が目にしたのは、朔が遺した時空を越える装置〈共時窓〉だった。光の中に足を踏み入れた澪が辿り着いたのは、二人が初めて出会った「2019年8月17日」の夜——。

原因と結果ではなく「意味」でつながる時空の海で、解き明かされるいくつもの必然。切なくも美しい、時を越える愛の物語。




1/2   共時の海で、もう一度

ーー時空をこえる恋の物語ーー



まえがき
月は、夜ごとにその姿を変える。
満ちる夜もあれば、欠ける夜もある。まんまるの満月は美しいが、その一日あとの、ほんの少しだけ欠けた月──十六夜の月に、なぜか心を惹かれることがある。
完全なものより、少し傷を抱えたもののほうが、長く記憶に残ることがある。老いも、過去の後悔も、会えないままの誰かのことも。
写真の修復をしていると、消してしまえる傷と、消してはいけない傷があることに気づかされる。
これは、時の波にさらわれそうになりながらも、消えずに残り続けた、ひとつの「光」の物語。




序 光の粒
写真には、ときどき、写ってはいけないものが写る。
水野澪(みずの みお)は、それを知っている。古い写真を修復することを仕事にして、もう十年になるからだ。
黄ばんだ紙、割れた乳剤、カビ、指紋、色あせた空。澪はそれらを一枚ずつ、拡大して、丁寧に消していく。消してはいけないものだけを残して。
けれど、消していいのか迷うものが、ひとつだけある。
光の粒だ。
フラッシュに舞う埃だと、人は言う。水滴や、レンズの汚れだと。たしかに、ほとんどはそうなのだろう。澪自身、科学の言葉で説明されたら、素直にうなずく。
それでも、一枚の写真だけは、どうしても消せずにいる。
三年前の九月二十九日。海辺の旧い観測所の前で、桐生朔(きりゅう さく)が最後に撮った、澪の写真。
夕暮れの光のなかで、澪は少し怒った顔をして、横を向いている。その頬のすぐそばに、白くやわらかい光の粒がひとつ、浮かんでいる。
まるで、誰かが、そっと触れようとしているみたいに。
朔はよく言っていた。
「偶然はね、まだ名前をもらっていない必然なんだよ」
その言葉の続きを、澪はまだ、聞いていない。



一 命日
二〇二六年九月二十九日。火曜日。
朝から、空は水を含んだような灰色をしていた。
澪は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。カーテンの隙間から入る光が、床に細い線を引いている。枕元のスマートフォンが、六時四十分を表示していた。
今日が、何の日か。
考えなくても、体が知っている。三年に一度どころか、毎年、この日の朝は胸の奥がほんの少し重い。重さは年ごとに形を変えて、鋭さが丸くなって、それでも消えはしなかった。
「……おはよう」
誰もいない部屋に、澪は声を出してみた。返事がないことを確かめるための、朝の儀式のようなものだった。
澪の仕事場は、古い商店街の外れにある。
祖母が営んでいた写真館を継ぐかたちで、小さな作業室を構えた。看板には〈澪標(みおつくし)写真修復室〉とある。祖母がつけた名前だ。澪標とは、昔、船が迷わないように海に立てた杭のことだという。
「あんたの名前も、そこからもらったんだよ。人が迷ったときに、ここだよって知らせる杭さ」
祖母はそう言って笑った。その祖母も、もういない。
この日、澪は午前中に一件の依頼を終わらせ、昼過ぎには予定をすべて空にした。毎年そうしている。今日は仕事をしない。そう決めていた。
けれど、作業机の前に座ってしまうのも、毎年のことだった。
モニターに、あの写真を呼び出す。
夕暮れの海。錆びた観測所の白い壁。怒った横顔の自分。そして、頬のそばの光の粒。
澪は、拡大した。三百パーセント、五百パーセント。粒の縁が、ぼんやりとほどけていく。
「やっぱり、ただの埃、かな」
つぶやいてから、首を振る。
埃にしては、輪郭がきれいすぎるのだ。中心がわずかに明るく、まわりに淡い輪がある。輪の内側に、細かい模様のようなものが見える気もする。ずっと見ていると、それが文字にも、波の形にも思えてきて、澪は目をそらした。
あの日、自分は怒っていた。
理由は、些細なことだった。朔が海外の研究所への異動を、澪に相談もなく、ほとんど決めかけていたのだ。
「君と行きたいんだ。でも、君の仕事もあるし、言い出せなくて」
朔はそう言い訳した。澪は、そういうことじゃない、と言った。相談してほしかったのだ。悩んでいる姿を、隣で見ていたかったのだ。
「勝手にすれば」
それが、あの日、彼に向けた最後の言葉になった。
写真を撮られたのは、その少し前だ。怒ったまま、横を向いたところを、朔が笑って撮った。
「その顔も好きだよ」
そう言われて、余計に腹が立った。
その夜、朔は観測所からの帰り道に、海沿いの道で事故に遭った。
雨で濡れた路面。スリップしたトラック。即死だった、と聞いた。
澪は、通夜でも、葬儀でも、泣けなかった。泣けたのは、それから一か月も過ぎたある朝、彼の歯ブラシがまだ洗面所に立っているのを見たときだった。
夕方になって、雨が降りはじめた。
澪は商店街の花屋で、白い小さな花を買った。朔が好きだった、名前も知らない花だ。店の人は「かすみ草ですよ」と教えてくれたが、次の日には忘れてしまう。
墓参りは、昼間のうちに済ませてある。
小さな霊園は、海の見える丘の上にあった。雨の気配を含んだ風が、線香の煙を、細く、斜めに流していた。
〈桐生家之墓〉と刻まれた石の前に、澪は、しばらく、ただ立っていた。
供えられた花は、まだ新しかった。朔の母が、朝のうちに来たのだろう。
「来たよ」
澪は、しゃがんで、手を合わせた。
話したいことは、たくさんあったはずなのに、いざ石の前に立つと、何も出てこない。毎年、そうだった。三年経っても、話せる言葉は、増えなかった。
「今年も、ごめんね。何も、持ってこなくて」
かすみ草を持ってこなかったのは、夜に、窓辺に飾るつもりだったからだ。そう言い訳をしてから、澪は、自分で、少しだけ、笑った。
墓石の隅に、小さな水滴が、ひとつ、宿っていた。
その水滴が、雲の切れ間の光を受けて、一瞬、白く、きらりと光った。
澪は、目を細めた。
けれど、次の瞬間には、それは、ただの水滴に戻っていた。
部屋に戻って、花を窓辺に飾り、簡単な夕食をとった。テレビはつけなかった。雨の音と、時計の秒針の音だけが、部屋を満たしていた。
夜の十時を過ぎたころ、澪は、なんとなくスマートフォンを手に取った。
朔の連絡先は、まだ消していない。名前は〈朔〉のまま。最後のやり取りは、事故の日の午後三時。
〈今日、夕方に観測所で撮影するから、あとで写真送るね〉
その下に、澪は、返信を打っていなかった。怒っていたから。
三年間、その画面を開くたびに、澪はその空白を見つめてきた。あのとき「うん」の一言でも返していたら、何かが変わっただろうか。変わらなかっただろう。頭ではわかっている。それでも、心は、何度でも同じ場所に戻ってしまう。
「ねえ、朔」
小さく呼んでみる。
「あなたのこと、今、考えてる」
窓の外で、雨が少し強くなった。
「思ったら、届くのかな。あなたが言ってたみたいに」
朔は、量子情報の研究者だった。二つの粒子が、どれほど離れていても、互いに結びついたように振る舞うこと。その不思議さを、朔は子どものように目を輝かせて話した。
もっとも、澪には、半分も理解できなかった。それでも聞くのは好きだった。彼の声で語られると、世界は、まだ誰も名前を知らない場所に満ちているような気がしたから。
「共時性、って言葉があるんだ」
いつだったか、朔は言った。
「ユングが考えた。意味のある偶然の一致。原因と結果じゃなくて、意味でつながる出来事のこと」
「あの人のことを思っていたら、その人から電話が来る、みたいな?」
「そう。それ。ばかばかしいと思うだろ。でも、パウリっていう物理学者は、それを真剣に、ユングと二人で考えたんだよ。世界には、時間の順番だけじゃなくて、意味の順番もあるんじゃないかって」
そのとき澪は、笑った。
「じゃあ私が今、あなたのこと考えてるのも、意味の順番?」
「うん。たぶん」
朔は、まじめな顔で、そう答えたのだった。



二 十一時十一分の手紙
その通知が届いたのは、二十二時五十八分だった。
澪は、ちょうど湯を沸かしにキッチンへ向かうところで、机の上のスマートフォンが短く震えたのを、最初は気にも留めなかった。
戻ってきて、何気なく画面を見て――息が止まった。
〈朔〉
ロック画面に、その一文字だけが表示されていた。
〈メッセージ 1件〉
心臓が、耳の奥で鳴っている。
いたずらだ、と澪はまず思った。誰かが、朔の番号を引き継いだのかもしれない。解約された番号が、別人に割り当てられることだってある。
けれど、それなら名前は表示されない。この連絡先を登録しているのは、澪だけだ。
震える指で、通知を開く。
〈澪へ。
 これを読んでいるなら、きっと、雨の夜だと思う。
 今夜十一時十一分、夕凪岬(ゆうなぎみさき)の観測所へ来てほしい。
 渡したいものがある。
 光を、追いかけて。
                朔〉
澪は、その文面を、何度も読んだ。
最後まで読んで、最初に戻り、また最後まで読んだ。
送信日時の欄を見る。そこには、二〇二三年九月二十九日、十四時三十分、とあった。
事故の当日。彼が亡くなる、七時間ほど前。
「……予約送信?」
声が、かすれた。
アプリの仕様上、三年もの予約送信ができるはずがない。そもそも、こんなメッセージが届く直前まで、この画面には何もなかった。朔とのやり取りの一番下は、あの日の午後三時、〈あとで写真送るね〉のままだ。
その下に、新しいメッセージだけが、まるで初めからそこにあったような顔で、並んでいる。
澪は立ち上がって、部屋のなかを何度か往復した。
夕凪岬の観測所。
あの場所は、事故のあと、閉鎖されたと聞いた。朔が個人的に借りていた旧海軍の観測施設で、研究の実験装置が置かれていたはずだ。ご家族が片付けたのか、今もそのままなのか、澪は知らない。怖くて、行けなかったのだ。
窓の外を見る。雨。
時計は、二十三時ちょうど前を指そうとしていた。
「今夜、十一時十一分」
夕凪岬までは、電車と徒歩で、一時間半かかる。タクシーを使っても、四十分。すでに、間に合わない。
――行かなければ、後悔する。
それだけは、はっきりとわかった。
理屈ではなかった。もしこれが誰かの悪意でも、幻でも、精神の疲れが見せた錯覚でも、構わなかった。三年間、澪は、彼からの言葉を待っていたのだ。
たとえ、どんな形でも。
澪はコートをつかみ、ハンガーにかかっていた朔の遺品である灰色のマフラーを咄嗟にポケットに押し込んで、部屋を飛び出した。
雨の路地を走る。傘は、途中で忘れたことに気づいた。商店街のアーケードを抜け、大通りに出ると、運よく一台のタクシーが停まっていた。
「夕凪岬まで。お願いします」
「今からかい。雨だよ」
運転手の言葉に、澪は「急いでいるんです」とだけ答えた。
車が走りだす。ワイパーが、規則的に雨を払う。ラジオは、深夜のクラシックを小さく流している。
窓ガラスに、街の灯がにじんで流れていく。その光の粒を見ながら、澪は、あの写真の白い粒を思い出していた。
「お客さん、ずいぶん濡れてますね。これ、使って」
運転手が、後ろ手にタオルを差し出した。
「ありがとうございます」
受け取って、顔を拭く。ふと、時計を見ると、二十三時八分。
まだ、二十分以上かかる。間に合わない。
そう思ったとき、車が、急に静かになった。
エンジン音が、遠のく。ラジオの音が、水の底に沈んだように、ぼやけていく。
「……運転手さん?」
返事がない。バックミラーを見ると、運転手の目は、まっすぐ前を見つめたまま、動かなかった。
ワイパーも、止まっている。
雨粒が、フロントガラスの上で、宙に浮いたように静止していた。
澪は、ゆっくりと、窓の外を見た。
道路の先に、光が、いくつも浮かんでいた。
白くやわらかい、丸い光。ちょうどあの写真に写っていたのと同じ、輪郭のきれいな粒たち。それが、雨の中に、星のように、点々と並んでいる。
光は、道しるべのように、海のほうへと続いていた。
澪は、ドアに手をかけた。鍵は、かかっていなかった。
雨の中に降り立つと、雨粒は、彼女の体をすり抜けるように、静止したまま宙に浮いている。手で触れようとすると、水滴は、ガラス玉のように冷たく硬い。
世界が、止まっている。
自分の足音だけが、濡れた路面に、小さく響いた。
「……朔」
光の粒が、一つ、ふわりと澪の肩に近づいた。
そして、道の向こうへ、ゆっくり離れていく。
「追いかけて、って、こと?」
澪は、走り出した。



三 灯台の光
光の粒は、澪が追いつこうとすると、少しだけ先へ進み、立ち止まると、待つように揺れた。
止まった世界を、二人きりで歩いているようだった。
雨粒は、空中に無数の透明な点となって浮かんでいる。街灯の光がその一つひとつに宿り、まるで、夜空が地上に降りてきたかのようだ。澪は、そのなかを、息を切らして走った。
海沿いの道に出る。
三年前、朔が最後に走った道。
足がすくみそうになった。この先のカーブで、彼は、命を落としたのだ。澪は、そこに来るのを、三年間、避けてきた。
けれど、光の粒は、迷いなくそのカーブへ向かっていく。
「……わかった。行くよ」
自分に言い聞かせて、足を踏み出す。
カーブのところに、白い花束が置かれていた。雨に打たれ、しおれかけている。誰かが、ここに花を供えてくれているのだ。朔の母だろうか。それとも、同僚の誰かだろうか。
澪は、花の前で足を止め、小さく手を合わせた。
「ごめんね。ずっと、来られなくて」
光の粒が、彼女の周りを、ゆっくりと一周した。まるで「大丈夫だよ」と言うみたいに。
夕凪岬の観測所は、岬の突端に、静かに建っていた。
白い壁は、記憶にあるより、ずっと小さく見えた。錆びた鉄の扉。屋根の上には、円筒形の小さなドーム。昔は、海を見張るための灯台だったと、朔が話していた。その一部を、天体観測所に改造したのだという。
扉は、少しだけ開いていた。
中から、青白い光が漏れている。
澪は、息を整えて、扉を押した。
中は、想像していたよりも広かった。
天井の高い円形の部屋。壁際には、古い機材や、書類の束や、配線だらけの棚が並んでいる。床には、ぶ厚い電源ケーブルが蛇のように這っている。
その中央に、それはあった。
巨大な、円環。
直径は、三メートルほどあるだろうか。金属とガラスでできた輪が、床から少し浮いたまま、静かに回転している。輪の内側には、水面のような、揺れる光の膜が張られていた。
「これが……朔の、装置」
澪は、机の上のノートに気づいた。
表紙に、見慣れた朔の字で〈共時窓 観測記録〉とある。ページをめくると、細かい数式と、走り書きが、ぎっしりと並んでいる。
〈もつれた二つの状態のうち、片方を過去に固定できたら〉 〈情報は運べない。でも、意味は運べるかもしれない〉 〈想いの強さは、変数になりうるか?〉
その文字を、澪は、指でなぞった。
彼は、本気で、これを研究していたのだ。ずっと、澪の知らないところで。
最後のページに、こう書かれていた。
〈九月二十九日。二十三時十一分。窓が開く。
 開く先は、僕がはじめて君を見た夜。
 二〇一九年、八月十七日。
 もし君が来てくれたなら、ひとつだけ、お願いがある。
 あの夜の僕に、会ってやってくれ〉
澪の手が、止まった。
「……はじめて、私を見た夜?」
二〇一九年八月十七日。ペルセウス座流星群の極大日。澪は、その夜、写真の仕事で、この夕凪岬に来ていた。旧い灯台の写真を撮るために。
そして、そこで、朔に出会った。
はじめて会ったのは、その夜だと、澪はずっと思っていた。
壁の時計が、二十三時十分を示した。
円環の内側の光の膜が、ゆっくりと、波打ちはじめる。
肩のあたりで、さっきの光の粒が、ふるふると震えた。
「もしかして、あなたも、朔なの?」
問いかけると、光は答えるように、澪の頬に、そっと触れた。
あたたかかった。
三年前の、あの写真のなかで感じられなかったぬくもりが、確かに、そこにあった。
「私ね、あなたに、言ってないことが、たくさんあるの」
澪は、光に向かって話しかけた。涙が、頬を伝った。
「あのとき、本当は、行かないでって言いたかったの。でも、意地張っちゃって。ううん、違う。あなたと離れるのが怖かったの。怖かったのに、怒ったふりをして、それで……」
言葉は、そこで途切れた。
光の粒が、ふわりと、円環のほうへ飛んでいく。
澪は、ノートを胸に抱きしめて、その後を追った。
二十三時十一分。
円環の光の膜が、まぶしく、白く、弾けた。
澪の体は、光の中へ、静かに吸い込まれていった。



四 二〇一九年、八月十七日
最初に感じたのは、風の匂いだった。
湿った潮の香りと、夏草の匂い。そこに、昼の熱が残った石の匂いが混じっている。雨の匂いは、どこにもなかった。
澪は、ゆっくりと目を開けた。
満天の星。
見上げた空は、息をのむほどの数の星で埋め尽くされていた。その中を、白い線が、音もなく走っていく。
流れ星。
一つ、二つ、三つ。
「……本当に、来ちゃったんだ」
澪は、観測所の裏の、草むらに立っていた。足元の草が、夜露に濡れている。
建物を見上げる。白い壁は、さっきより、ずっと新しい。錆も少ない。玄関脇には、まだ、朔の手書きの札はかかっていなかった。
腕時計を見ると、針は止まっていた。スマートフォンも、圏外だ。日付は、真っ暗な画面のまま、何も教えてくれない。
けれど、澪には、わかった。
ここは、あの夜だ。
七年前の、八月十七日。
その事実が、胸の奥まで落ちてきたとき、澪はふいに、膝に力が入らなくなった。
彼が、ここにいる。
生きている、朔が。
草むらから、そっと表の道へ回る。
観測所の前庭に、二つの人影が見えた。
一人は、三脚を立て、カメラを空に向けている、若い女性。ジーンズに、白いシャツ。髪を、後ろで無造作に結んでいる。真剣な顔で、ファインダーを覗き込んでいる。
澪は、自分の手で口を押さえた。
それは、二十五歳の、自分だった。
写真の仕事に就いて三年目。まだ、修復ではなく、撮影の下請けをしていた。この夜、澪は、旧い灯台の建築写真を頼まれて、ここに来たのだ。
ペルセウス座流星群が見える晴れの夜。せっかく来たのだから、と、仕事のあとに、星の写真も撮ろうとしていた。
そして、もう一人。
前庭の隅の、望遠鏡のそばに、背の高い男が立っていた。
白衣ではなく、しわのあるグレーのシャツ。伸びかけの髪。銀縁の眼鏡。手には、ノートと、ペンライト。
星空ではなく、澪のほうを見ていた。
朔だった。
二十九歳の、桐生朔。
澪の視界が、ぐにゃりと歪んだ。涙が溢れて、止まらなくなったのだ。
思わず、建物の影に身を隠す。
彼は、生きている。
声も、姿も、あの頃のままで。
写真のなかにしかいなかった人が、目の前で、まばたきをして、呼吸をしている。
「もう……だめ、こんなの……」
澪は、唇を噛んで、声を殺した。
若い澪が、カメラから顔を上げた。
「あの、すみません」
彼女が、朔に声をかけた。
「この観測所の方ですか? 撮影の許可をいただいたのは、管理会社なんですけど、近くの星の撮影も、していいですか?」
「あ、どうぞ。ぜんぜん」
朔は、少し慌てたように答えた。
「むしろ、こっちこそ、邪魔してなかったですか。さっきから、じろじろ見ちゃってて」
「え?」
「いや、その」
朔は、頭をかいた。
「なんていうか、あなたを見た瞬間、初めて会った気がしなくて。どこかで、会いましたっけ?」
若い澪は、きょとんとした。
「いえ、たぶん、初めてだと思います」
「ですよね。すみません。変なこと言って」
二人は、顔を見合わせて、気まずそうに笑った。
その光景を、影から見つめながら、澪は、胸がしめつけられるように痛んだ。
そうだった。
この夜、彼は、そう言ったのだ。
「初めて会った気がしなくて」
あのとき、自分は、それをよくある口説き文句だと思って、笑った。けれど、何度思い返しても、その言い方は、ナンパのそれではなかった。まるで、遠い昔に失くしたものを、見つけたような目をしていた。
「もしかして」
澪は、つぶやいた。
「あなたが、そう感じたのは……私が、ここにいたから?」
答えは、すぐにはわからなかった。
けれど、頭の隅で、小さな光が、ぽっと灯った。
朔がノートに書いていた言葉。
〈開く先は、僕がはじめて君を見た夜〉
彼が「はじめて見た」のは、二十五歳の澪ではないのかもしれない。
この夜、ここに、もう一人の澪が、いたのだ。
そのとき、後ろで、草を踏む音がした。
「……あなたは」
振り返ると、朔が立っていた。
いつのまに、こちらへ来ていたのだろう。前庭の二人は、まだ、望遠鏡のそばで、星の話をしているのに。
その朔とは、少し違って見えた。髪が短い。眼鏡がない。目の下に、深い隈がある。
いや、違う。
同じ朔だ。ただ、この夜の朔より、少しだけ年を取っているように見えた。
「あなたは、もしかして」
彼は、静かに口を開いた。
「僕が、待っていた人ですか」
澪は、言葉を失った。
彼が、何を言っているのか、わからなかった。この朔は、誰なのだろう。二十九歳の彼が、あそこにいるのに。
「驚かせて、ごめん」
彼は、やわらかく笑った。
「僕は、この夜の僕じゃない。四年後の……いや、あなたにとっては、ここから見て、七年後の朔、なのかな。二〇二三年の九月二十九日から、来たんだ」
澪は、口をぱくぱくさせた。
「え……? だって、あなたは、あの日……」
「うん。事故の日だ」
彼は、あっさりと言った。
「あの日の夜、僕は、あの窓を通ったんだよ。この夜に、来るために」



五 偶然の名前
観測所の裏の、石段に、二人は並んで腰かけた。
「混乱するよね」
朔は、少し困った顔で言った。
「順番に話すよ。時間はまだ、少しある。夜が明けるまでは」
澪は、うなずくだけで精一杯だった。
彼の声は、たしかに、澪の知っている声だった。少し低くて、やわらかくて、語尾が、ほんの少しだけ上がる。
でも、この人は、あの日死んだはずの人だ。三年間、写真の中にしかいなかった人だ。
「触っても、いい?」
思わず、澪は言っていた。
朔は、目を丸くして、それから、笑った。
「いいよ」
澪は、そっと、彼の手に触れた。
あたたかい。指の関節の形も、爪の形も、右手の親指のすぐ下の小さなほくろも、全部、そのままだった。
その手を、両手で包んで、澪は、額に押し当てた。
「……ばか」
声が、震えた。
「ばか。ばか、ばか。三年も、どうして」
「ごめん」
朔は、澪の頭に、もう片方の手を置いた。
「本当に、ごめん」
しばらくして、澪の涙が落ち着いたころ、朔は、星空を見上げながら、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「二〇一九年のこの夜、僕は、はじめて、奇妙な体験をしたんだ」
「奇妙な体験?」
「ここに、あの窓の原型が、あっただろう。当時は、もっと小さな実験装置だったけど。量子もつれの、位相を測る装置だった」
朔は、指で、空中に円を描いた。
「その夜、装置が突然、誤作動を起こした。ありえない値が出た。まるで、装置の中から、誰かがこっちを見ているみたいな、そんな数値だった」
「誰かが……」
「そう。そして、装置の光の中に、人影が見えたんだ。一瞬だけ」
朔は、澪のほうを見た。
「女の人だった。泣いていた。泣きながら、笑っていた。僕は、その顔を、ずっと忘れられなかった」
澪は、息をのんだ。
「それは……」
「君だよ」
朔は、静かに言った。
「今夜の君だ。二〇二六年の、三十二歳の、澪だ」
風が、草を鳴らした。
「あのとき僕は、装置の向こうにいる女の人が、誰なのか、わからなかった。ただ、ひどく懐かしいと思った。会いたいと、思った」
「会いたい、って」
「うん。そして、その直後に、前庭にいる、二十五歳の澪を見つけたんだ。同じ顔だった。少し若い、同じ顔の人が、カメラを構えて、星を撮っていた」
朔は、苦笑した。
「そりゃ、『初めて会った気がしない』って、言うよね。僕は、その前に、君を、見ていたんだから」
「じゃあ……朔が、私を好きになったのは」
澪は、声を絞り出した。
「未来から来た、私を見たから?」
「ちがうよ」
朔は、首を振った。
「順番は、そうだけど。でも、ちがう。あの夜、僕は、二十五歳の君に、恋をしたんだ。ちゃんと。装置の中で見た君じゃなくて、カメラを構えて、真剣に星を見ていた君に。星の写真が撮れなくて、悔しそうに唇を噛んでいた、あの君に」
澪の胸の奥で、何かが、ほどけた。
そうだった。
あの夜、自分は、どうしても星がうまく撮れなくて、悔しかったのだ。そのとき、後ろから、声をかけてくれたのが、朔だった。
「露光を、二秒短くしたほうがいいですよ。そこの月が、明るすぎる」
そう言って、笑った。
「だから、僕は思ったんだ」
朔は、続けた。
「偶然って、なんだろうって。装置の光の中に、君が現れなかったら、僕は、あの夜、君に声をかけていなかったかもしれない。君が来なかったら、そもそも僕は、この研究を、ここまで続けていなかったかもしれない」
「……それって」
「そう。輪になってるんだ」
朔は、両手で、大きな円を作った。
「君が、七年後から来たから、僕は、君に出会った。僕が君に出会ったから、僕は、四年後に、君を呼ぶ窓を作った。どっちが先なのか、もう、わからない」
「そんなの、変だよ」
「変だよね」
朔は、うれしそうに笑った。
「でも、ユングが言ってたのは、たぶん、こういうことなんだと思う。世の中には、原因と結果の鎖で説明できない、でも、確かに意味でつながっている出来事がある。始まりも終わりもない輪みたいに」
彼は、空を見上げた。
「僕は、あの夜、はじめて、偶然に、名前をつけたくなられたんだ」
澪は、思い出した。
「偶然は、まだ名前をもらっていない必然だ、って」
「そう。それ」
朔は、澪の顔を覗き込んだ。
「あの続き、聞いてないよね」
澪は、うなずいた。三年間、ずっと、それを知りたかった。
朔は、少しだけ、照れたように笑って、言った。
「――その名前を、僕は、愛って呼ぶことにしたんだ」
澪の頬を、涙がまた、伝った。
流れ星が、ひとつ、空を横切った。



六 四年間の断片
「少し、話をしようか」
朔は、石段に座ったまま、星空を見上げていた。
「若い君が、機材を持って岩場へ行くまで、あと十五分くらいある。それまで、僕たちの話を」
「僕たちの、話?」
「うん。君が、忘れてしまう前に。……ああ、違うか。君は、忘れないんだったね」
朔は、自分の言い間違いに、ひとりで笑った。
澪も、つられて笑った。笑いながら、頬に、まだ乾ききらない涙の跡が、ひりひりと痛んだ。
「じゃあ、最初のデートから」
「あれは、ひどかった」
澪は、即座に言った。
「三十分、遅刻したよね」
「宇宙が膨張してたんだよ」
「それ、今でも言うの?」
「今でも、僕は、そう信じてる」
朔は、まじめな顔で言った。
澪は、その横顔を見て、思い出していた。
二〇一九年、九月の初め。
夕凪岬で会った二週間後、朔は、澪標写真修復室のドアを、おそるおそる開けた。
手には、古い、焼けた写真を一枚、持っていた。
「あの、修復を、お願いしたくて」
差し出されたのは、亡くなった父親が撮った、星空の写真だった。
紙は、端が茶色く変色して、真ん中に、大きな折れ目が走っている。星の光が、ところどころ、剥がれ落ちていた。
「この星が、見えなくなってしまうのが、どうしても、いやで」
彼は、そう言った。
澪は、何日もかけて、その写真を、修復した。
折れ目を消し、剥がれた星を、一つずつ、光の点として描き足して。
「できました」
受け取りに来た朔は、写真を見つめたまま、しばらく、何も言わなかった。
「……ありがとう」
やがて、彼は、ぽつりと言った。
「父の星が、帰ってきた」
その一言に、澪は、胸を打たれた。
「お礼に、食事でも、どうですか」
そう誘ったのは、朔のほうだった。
それが、最初のデートだった。
彼は、待ち合わせの店に、三十分遅れて現れた。
「ごめん。宇宙が、膨張してて」
「はい?」
「いや、その、電車が、遅れて」
「今の、言い直し、いらなかったですよ」
澪は、笑ってしまった。
笑いながら、ああ、この人と、ずっと、こういう会話を、していくんだろうな、と思った。
「雨の日のことも、覚えてる?」
朔が、聞いた。
「電車が、止まった日でしょう」
「そう。東京駅で。君は、荷物を持ったまま、一時間半、ホームで立ってた」
「あなたは、靴下を、片方脱いで」
「量子もつれを、説明したんだよね」
「そう。靴下を、片方ずつ、二つの箱に入れて」
澪は、吹き出した。
「『片方を見た瞬間、もう片方が、右か左か、決まる』って。私、最後まで、わからなかった」
「今でも、わかってない?」
「今でも、わかってない」
「それでいいんだ」
朔は、笑った。
「わかろうとしてくれたことが、嬉しかった」
風が、二人のあいだを、通り過ぎた。
「祖母が、亡くなった夜のことも、覚えてる」
澪は、静かに言った。
二〇二一年の冬。祖母は、八十九歳で、亡くなった。
葬儀が終わったあと、澪は、ひとりで、写真館の作業室に閉じこもった。祖母が最後に撮った、一枚のフィルムを、現像するために。
何時間も、暗室にいた。誰とも話したくなかった。
その夜、朔は、何も言わずに、暗室のドアの前に、座っていた。
ドアを開けたとき、彼は、膝を抱えて、うたた寝をしていた。
「……何してるの」
「あ。ごめん」
朔は、目をこすった。
「入っちゃ、だめかなと思って。でも、帰るのも、なんか、違う気がして」
その不器用さに、澪は、初めて、声をあげて泣いた。
朔は、慌てて立ち上がって、澪を抱きしめた。
「ここに、いるから」
そう言って、朝まで、ずっと、そうしていてくれた。
出来上がった祖母の最後の写真は、庭の、白い花の写真だった。
その花の名前を、澪は、いまだに、知らない。
「あの花のこと、僕は、ずっと、気になってたんだ」
朔が、言った。
「名前を、調べようと思ってたのに、結局、忘れちゃって」
「私も、忘れちゃった」
「名前のない花のままでも、いいかな」
「いいと思う」
いつのまにか、東の空の低いところが、うっすらと、灰色を帯びていた。
朔は、ふと、立ち上がった。
「毎朝、『おはよう』って言うの、僕が言い出したんだっけ」
「うん」
「なんでだっけ」
「あなたが、言ったんだよ。『毎日の最初の言葉を、同じにしたい。そしたら、どんな日でも、同じ場所から始められる気がする』って」
「ああ」
朔は、照れたように、頭をかいた。
「言いそうだな、僕」
「言いそうだよ」
二人は、しばらく、黙って、空を見上げていた。
やがて、朔が、そっと、手を差し出した。
「さあ。行こうか」
「どこへ?」
「あの子のところへ」
澪は、その手を、しっかりと握った。
けれど、その手が、さっきよりも、ほんの少しだけ、軽くなっている気がして、澪は、何も言わずに、目をそらした。



七 夢の女
「あの夜の僕に、会ってやってくれ」
朔は、ノートに書いたのと同じ言葉を、口にした。
「でもその前に、もうひとつ、頼みたいことがある」
「なに?」
「二十五歳の君に、会ってほしい」
澪は、目を見開いた。
「自分自身に、会うの?」
「うん。危ないことだとは、わかってる。でも、必要なんだ」
朔は、遠くの岩場を、指さした。
「さっき、二十五歳の君は、露光の設定に苦戦して、少し離れた岩場に、機材を持って移動した。今、ひとりでいる。しばらく、ひとりだ」
澪は、その岩場を見つめた。
月明かりの下、小さな人影が、カメラを覗き込んでいる。
「私は、何を言えばいいの?」
「それは、君が決めることだよ。ただ」
朔は、少し考えるように、言葉を選んだ。
「この夜、二十五歳の君は、ほんとうは、少し不安だったはずなんだ。仕事で、うまくいかないことが続いていて。誰かに認められたいのに、誰にも言えなくて」
澪は、はっとした。
そうだった。あの頃の自分は、写真という仕事を選んだことに、まだ自信が持てずにいた。祖母の写真館を継ぐべきか、外の世界で勝負するべきか、迷っていた。
「君に、その子へ、何か言ってやってほしい。それが、きっと、あの子の一生を、静かに支える」
澪は、朔の顔を見た。
「どうして、そんなことがわかるの?」
「僕には、わからないよ」
朔は、笑った。
「でも、あの夜、この岩場で、二十五歳の君は、誰かに会ったと言っていた。あとで、僕にだけ、こっそり」
澪の背中に、冷たいものが走った。
「……誰かに、会った?」
「夢だったのかもしれない、って。灰色のマフラーの女の人が、暗がりから現れて、大事なことを言って、消えたって。四年後、僕にそう話してくれたんだ」
その瞬間、澪の脳裏に、遠い記憶が、ふっと蘇った。
 ――あれは、夢だったのだろうか。
 二十五歳の夏の夜。岩場で、星の写真がうまく撮れなくて、疲れて、少しうとうとしてしまった。
 目を開けると、灰色のマフラーを巻いた女の人が、暗がりに立っていた。
 顔は、よく見えなかった。ただ、声だけが、不思議と懐かしかった。
 あの声を、ずっと、夢のなかの声だと思ってきた。
 でも、あれは。
 あの声は、今の、自分の声だ。
「私だったんだ」
澪は、呆然と、つぶやいた。
「あの夢の女の人は、私だった」
「うん」
朔は、やさしく笑った。
「だから、行っておいで。君は、もう、言うことを知ってるはずだよ」
澪は、コートのポケットから、出がけに押し込んできた灰色のマフラーを取り出した。
朔が、いつも巻いていたマフラー。事故の後、遺品として、澪が譲り受けたものだ。
それを、首に巻く。
毛糸に、まだ、微かに朔の匂いが残っていた。
岩場へ続く小道は、月明かりで、白く光っていた。
一歩ずつ、近づく。
潮騒が、耳に近くなる。
波の音のなかに、小さく、シャッターの音が混じった。
二十五歳の自分が、そこにいた。
岩の上にしゃがんで、カメラを構えている。眉間に、小さくしわを寄せて。星を睨みつけるように。
ああ、こんな顔をしていたんだ、と澪は思った。
若い。
自分は、こんなに、若かったのだ。頬の丸みも、指の細さも、まなざしの強さも、今の自分には、もう、ないもの。
そして、このころの自分は、これから先に待つものを、何も知らない。
朔との出会いも。四年間という幸福な日々も。そして、その先に待つ、長い喪失も。
「……あの」
澪は、声をかけた。
若い澪が、びくっとして、振り返る。
暗がりの中、灰色のマフラーで顔の半分を隠した、見知らぬ女が立っている。
「すみません。驚かせました」
「い、いえ。あの、こんな時間に、人がいるとは思わなくて」
若い澪は、警戒するように、カメラを胸に抱いた。
澪は、その姿を、いとおしく思った。
抱きしめたい、と思った。
けれど、そうはしなかった。
代わりに、静かに、そばの岩に腰を下ろした。
「星、きれいですね」
「……はい」
「うまく撮れましたか?」
若い澪は、少し、ためらった。
「いえ、あんまり。私、こういうの、向いてないのかもしれなくて」
その言葉を、澪は、痛いほどよく知っていた。
「向いてないなんて、ことはないですよ」
「え?」
「あなたが撮る写真は、いつか、たくさんの人の大切なものを、守るようになる」
「私の、写真が?」
「うん。撮るだけじゃなくて、残すことも、あなたの仕事になる。焼けて、色あせて、なくなってしまいそうな思い出を、もう一度、光に戻す仕事」
若い澪は、目を丸くして、澪を見つめた。
その目の中に、月の光が、二つ、小さく映っている。
「あなたは、誰、ですか」
「通りすがりの、人」
澪は、少し笑った。
「でも、あなたのことを、よく知っている人」
風が、二人のあいだを抜けた。
「もうすぐ、あの丘の上で、背の高い、眼鏡の人があなたに声をかけます」
「え……」
「その人は、変わった人です。星の話をしだしたら、止まらない。デートの約束に三十分遅れて、それを、宇宙の膨張のせいにする」
若い澪が、思わず、ふっと吹き出した。
「何それ」
「本当のことですよ」
澪は、目を伏せた。
喉の奥が、熱くなる。
「その人を」
言葉が、出てこない。
言わなければならないことが、あまりにも多すぎて、けれど、ひとつに絞られていく。
四年間という満ち足りた時間。すれ違いの喧嘩。別れの朝の、冷たい言葉。ぜんぶ、ひっくるめて。
「その人を、最後まで、好きでいてね」
若い澪は、じっと、彼女を見た。
「最後まで……?」
「うん。どんな終わりが来ても。それが、どれだけ悲しいものでも、それは、間違いじゃないから」
自分でも、驚くほど、声が震えていた。
「たとえ、ぜんぶ失うことになっても、あなたは、その人を好きになって、よかった。私が、保証する」
言い終えたとき、頬が濡れていることに、気づいた。
若い澪は、何も言わなかった。
ただ、じっと、澪を見つめていた。まるで、その顔を、心の奥に焼きつけようとするかのように。
「……あなた」
若い澪が、小さく口を開いた。
「もしかして、泣いて、ますか」
「ううん」
澪は、首を振った。
「星が、まぶしいだけ」
そう言って、立ち上がる。
「ごめんなさいね。変なことを言って。忘れていいから」
「待って」
若い澪の声が、追いかけてきた。
「あの、私、あなたを、どこかで」
澪は、振り返らなかった。
灰色のマフラーを、ぎゅっと握りしめて、暗い小道を歩き出す。
背中に、視線を感じていた。
振り返ったら、たぶん、二度と、歩けなくなる。
小道の途中で、足が止まった。
そして、ようやく、声をあげて泣いた。
岩の上で、若い澪は、うとうとと、目を閉じていた。
まるで、すべてを、夢だったと思うことで、守ろうとするかのように。



八 窓のなかの女
小道の先で、朔が待っていた。
もう一人の朔。二〇二三年から来た、あの人だ。
彼は、何も言わずに、澪の肩を抱いた。
澪は、その胸に、顔をうずめた。
「よく、言えたね」
「……全然、うまく言えなかった」
「ううん。あの子には、ちゃんと届いたよ。夢の中でも、届いたんだ」
朔の手が、ゆっくりと、澪の背中をさすった。
しばらくの間、二人は、そうしていた。
波の音が、遠く近く、寄せては返す。
「さあ、次は、若い僕だ」
朔は、少し照れたように言った。
「あいつ、ずっと、あの窓の中の女の人を探してるんだよ。天体望遠鏡のそばで、うろうろしてる。会ってやってくれ」
「でも、私、何を言えば」
「なんでもいいよ。あいつは、君と話せるだけで、たぶん、嬉しくてたまらない」
朔は、澪の頬の涙を、親指で拭った。
「それに、僕も、見ていたいんだ。若い僕が、君と話しているのを」
「自分が、自分を見てるの? 変なの」
「変だね」
二人は、笑った。
その笑い声は、三年ぶりに、澪の口から出たものだった。
前庭の望遠鏡のそばに、二十九歳の朔が、ひとりで座っていた。
さっきまで、若い澪と話していたのに、彼女が岩場へ移動してから、ずっと、落ち着かない様子で、夜空を見上げている。
澪は、足音を立てないように近づいた。
「こんばんは」
朔が、はっと振り返った。
そして、そのまま、固まった。
眼鏡の奥の目が、大きく見開かれる。
「あ……」
言葉を、探している。
その不器用さが、たまらなく愛おしかった。
「あなたは」
朔は、立ち上がった。
「さっき、装置の中に、見えた人だ」
「……覚えていてくれたんだ」
「忘れるわけ、ないです」
朔は、早口で言った。
「三十分前、僕の実験装置に、あなたが映ったんです。ほんの二秒、三秒くらい。泣いていて、笑っていて、それから、消えた。ずっと、あなたを探していた。装置が壊れたのか、僕の頭がおかしくなったのか、わからなくて」
「頭は、おかしくなってないですよ」
澪は、微笑んだ。
「少なくとも、その件に関しては」
朔は、しばらく澪を見つめてから、ふと、肩の力を抜いた。
「よかった」
「え?」
「本当に、いた」
彼は、心底、ほっとしたように、笑った。
その笑顔は、澪の記憶の中の、あの笑顔と、寸分たがわなかった。
二人は、石垣に並んで座って、流星を数えた。
「あなたは、どこから来たんですか」
朔が尋ねた。
「未来から」
澪は、正直に答えた。
「七年後の、あなたのいる場所。ううん、あなたが、いなくなった場所から」
朔は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかったようだった。
けれど、少し考えてから、静かに、うなずいた。
「そうですか」
それ以上、何も聞かなかった。
「聞かないの?」
「聞いたら、あなたが、泣いてしまいそうだから」
澪は、笑ってしまった。
「そういうところは、変わらないんだね」
「変わらない?」
「ううん、なんでもない」
流れ星が、二つ、続けて空を横切った。
「願い事、しました?」
朔が、聞いた。
「しなかった。三つ目まで、待ってるの」
「三つ目?」
「うん。三度目の偶然に、お願いするつもりなの。偶然は、三度重なると、必然になるって、昔、誰かが言ってた」
朔は、目を見開いた。
「それ、僕が、学生のときに、思いついた言葉です」
「そうなんだ。知ってる」
「ずるいな」
朔は、頭をかいた。
「あなた、僕の何を、知ってるんですか」
「たくさん」
澪は、星空を見上げたまま、答えた。
「あなたが、コーヒーに砂糖を三つ入れること。寝ぐせを、絶対に直さないこと。落ち込んだときだけ、無口になって、天井を見ること。それから」
言葉が、途切れた。
「それから?」
「私、世界一怒っているときに、世界一やさしい声で、私の名前を呼ぶこと」
朔は、しばらく黙っていた。
「その人は、幸せでしたか」
「え?」
「僕に、名前を呼ばれた人は、幸せでしたか」
澪は、ゆっくりと、朔のほうを向いた。
二十九歳の朔の顔は、真剣だった。
不安そうで、期待していて、そして、どこか、怯えていた。
澪は、彼の手を取った。
「とても」
声が、かすれた。
「とても、幸せでした。世界でいちばん」
朔の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
彼は、慌てて、それを手の甲で拭った。
「すみません。なんで、泣いてるんだろう」
「泣いていいよ」
「でも」
「泣いていい。私も、泣いてるから」
二人は、顔を見合わせた。
どちらの頬にも、光るものが、流れていた。
星の光が、それを、細かく砕いて映していた。
朔は、ふと、空を見上げて言った。
「僕、あなたに、渡したいものがあるんです」
「渡したいもの?」
「今は、まだ、何もないけど。でも、書きます。あなたに」
「書く?」
「手紙を。あなたの時間に、届くように」
澪は、目を見開いた。
「僕、この観測所の壁の中に、隠します。装置の土台の、右の足のところ。四年後か、七年後か、いつか、あなたが来る日まで」
「七年後でも、いいの?」
「僕は、待つのが得意なんです」
朔は、照れたように笑った。
「星の光は、何万年もかけて、届くでしょう。それに比べたら、七年なんて、ほんの一瞬だ」
澪は、笑いながら、うなずいた。
「ありがとう」
そのとき、遠くの岩場から、若い澪が、こちらへ戻ってくる気配がした。
「そろそろ、行かなきゃ」
澪は、立ち上がった。
「あの人と、もっと、話したいんじゃないですか」
「うん。でも、あなたたちは、これから、ちゃんと話すから」
澪は、朔の目を、まっすぐに見た。
「あなたは、あの子を、大切にしてあげてね」
「あなたのことも」
朔は、言った。
「大切にします。何年かかっても、あなたに、会えるようになるまで」
澪は、言葉を失って、ただ、深く、うなずいた。



九 時間という海
若い朔と別れたあと、澪は、砂浜へ降りていった。
夜明けまで、あと四十分ほど。
空の東の端が、すこしずつ、明るさを増している。海は、墨を溶かしたように深く、波打ち際だけが、白く、細く、光っていた。
先に来ていた朔が、波の近くに、立っていた。
その姿が、月の光の中で、さっきよりも、ずっと透きとおって見えた。
「来たね」
彼は、振り返って、笑った。
「若い僕との話は、どうだった?」
「ずるかった」
澪は、靴を脱いで、砂の上に立った。
「あんなふうに、まっすぐに聞かれたら、うそなんて、つけない」
「あいつは、そういう奴だよ」
朔は、うれしそうだった。
冷たい波が、澪のつま先を、洗った。
「ねえ、朔」
「うん」
「あなたは、今、どこにいるの」
朔は、少し考えるように、水平線を見つめた。
「うまく、説明できないな。でも、やってみるよ」
彼は、波打ち際に、しゃがみこんで、指で、砂に、線を描いた。
「僕たちは、時間は、川みたいに、上流から下流へ流れるものだと思ってる。過去から、未来へ。でも、事故の瞬間から、僕には、ちがう景色が見えるようになった」
「ちがう景色?」
「時間は、川じゃなくて、海だったんだ」
朔は、砂に描いた線を、ぐるりと、円にした。
「すべての瞬間が、同じ水の上に、浮かんでるんだよ。君と初めて会った夜も、君が僕の寝ぐせを笑った朝も、君が、今日みたいに、僕の墓の前で、花を置いてくれた日も。全部が、同じ海の、別々の波として、そこにある」
「同時に?」
「うん。同時に。ただ、そこを、行ったり来たりできるのは、想いの強い波だけだ」
朔は、笑った。
「科学者としては、認めなきゃいけないね。これは、僕にも、説明できない」
「説明できないのに、装置は、作ったの?」
「作ったんじゃない。見つけたんだ。窓は、もともと、そこにあった。僕は、そこに、枠をつけただけ」
澪は、その言葉に、祖母の口癖を思い出した。
 ――道は、作るものじゃないよ。もともとあったものを、見つけるだけさ。
「ねえ」
澪は、小さく聞いた。
「そこは、さびしくない?」
朔は、しばらく、黙っていた。
「さびしくない、と言ったら、うそになる」
彼は、正直に言った。
「でもね。君が、僕のことを思い出してくれるたびに、そこに、灯りがともるんだ」
「灯り?」
「うん。真っ暗な海の、ずっと遠くに、ぽっと、ひとつ。それが、君の想いだ。それを頼りに、僕は、泳いでる」
澪は、涙を、こらえられなかった。
「毎年、命日に、あの写真を、拡大してたよね」
「……見えてたの?」
「うん。君が、僕を見つめてる、その顔が、光の中に、映ってた」
澪は、両手で、顔をおおった。
三年間、誰にも見せなかった、あの顔を。
一年に一度、こっそり、ひとりで、写真の中の彼に会いに行っていた、あの時間を。
彼は、ずっと、見ていたのだ。
朔は、澪の隣に、立ち上がった。
二人は、並んで、海を見た。
水平線の上に、細い、薄桃色の帯が、生まれはじめている。
「どうして、今日だったの?」
澪は、聞いた。
「窓が、今夜、開いた理由」
「ああ」
朔は、うなずいた。
「僕の、仮説だけど。窓が開くのは、二つの場所に、同じ想いの波が、同時に満ちたときだけなんだ」
「二つの場所?」
「一つは、二〇一九年八月十七日の、この岬。僕が、はじめて君を見て、心を動かされた夜。もう一つは」
朔は、澪を、見た。
「君が、僕を、いちばん強く思う夜。この三年間で、いちばん」
「……命日」
「うん。でも、一年目でも、二年目でも、開かなかった。三年目の今日、ようやく、潮が満ちた」
彼は、笑った。
「三度目の偶然は、必然になる。そう言うだろ」
澪は、笑いながら、涙をぬぐった。
「ずるい。自分の言葉を、使い回して」
「いい言葉は、何度使っても、いいんだよ」
朔は、目を細めた。
波が、二人の足元を、繰り返し、洗っていた。
その波の一つひとつに、小さな光の粒が、ちらちらと、宿っていた。
まるで、海全体が、無数の、想いの粒で、満たされているように。
「きれい」
澪は、つぶやいた。
「うん」
朔は、言った。
「これが、僕が見ている景色だよ。君に、見せたかった」
二人は、しばらく、何も言わずに、その光を、見つめていた。
夜明けが、すぐそこまで、来ていた。



十 屋上の朝
観測所の裏手に、屋上へ続く、鉄の階段があった。
錆びた手すりに、夜露が、びっしりと宿っている。一段ずつ昇るたびに、靴の底が、こつん、こつん、と小さな音を立てた。
途中の踊り場で、朔が、立ち止まった。
「ここから、前庭が見える」
彼は、声をひそめて、下を指さした。
澪は、手すりから、そっと身を乗り出した。
前庭の石垣に、二人の人影が、並んで座っていた。
若い澪と、若い朔だった。
二人のあいだには、こぶし二つぶんくらいの、まだ遠慮のある距離があった。若い澪は、膝を抱えて、少し、ぼんやりしている。若い朔は、その隣で、何かを言い出そうとして、何度も、やめていた。
「あいつ、緊張してる」
朔が、小さく笑った。
「見ればわかるよ。ペンライトを、さっきから、五回は、持ち替えてる」
「ほんとだ」
澪も、笑った。
夜明け前の静けさのなかで、下の声は、思いのほか、はっきりと聞こえた。
「あの」
先に口を開いたのは、若い澪だった。
「変なことを、言ってもいいですか」
「はい。どうぞ」
「さっき、岩場で、少し、眠っちゃったんです。そうしたら、夢を見て」
「夢?」
「知らない女の人が、出てきて。灰色のマフラーを巻いていて、顔は、よく見えなくて」
若い朔の背中が、ぴくりと、動いた。
「その人が、私に、いろいろ言ったんです。私の仕事のこととか、これからのこととか。……変ですよね。夢なのに、全部、ほんとうのことみたいに、聞こえて」
「その人は」
若い朔は、ゆっくりと、言った。
「なんて言ってました」
若い澪は、少し、ためらった。
それから、小さな声で、言った。
「『その人を、最後まで、好きでいてね』って」
「その人?」
「あの……」
若い澪の耳が、みるみる、赤くなった。
「背の高い、眼鏡の人、って」
夜明け前の空気が、しん、と静まりかえった。
若い朔は、顔を、真っ赤にして、何か言おうとして、言葉に詰まった。
「それは、その」
「夢の話です。夢の話ですから」
「うん。夢の話」
「はい」
「でも」
若い朔は、勇気を出すように、息を吸った。
「僕も、実は、その人に、会ったかもしれない」
「え」
「ほんの、数秒だけ。装置の中で。泣きながら、笑っていた人で。……あなたと、どこか、似ていて」
若い澪は、目を丸くした。
「私に、似てる?」
「うん。でも、少し、年上で。もっと、やさしい顔をしてた」
「それ、褒めてるんですか」
「たぶん、褒めてます」
二人は、顔を見合わせた。
そして、同時に、吹き出した。
階段の上で、澪は、口を押さえて、笑いをこらえていた。
隣の朔も、肩をふるわせている。
「あいつ、下手だなあ」
「あなたが、でしょう」
「ほんとだね」
朔は、目尻の涙を、指でぬぐった。それが笑いの涙なのか、別のものなのか、澪には、わからなかった。
「あの言葉、あいつ、四年間、ずっと、覚えてたよ」
朔が、ぽつりと言った。
「あの言葉?」
「『最後まで、好きでいてね』。君が、夢の中で言われたっていう」
「え……」
「僕は、聞いてたんだ。この夜、君から。そのあと、何度も、君は、その話をしてくれた」
朔は、遠くを見るような目をした。
「君が怒って、口をきいてくれなくなった日もね。僕は、あの言葉を、思い出してた。あの人が、最後まで好きでいてって言ったのは、きっと、僕のことも、君のことも、ちゃんと、見てくれていた人なんだ、って」
「……そんな」
「だから、僕たち、けんかしても、仲直りが、早かったのかもしれない」
澪は、胸の奥が、じん、と熱くなった。
言葉は、時間を、越える。
自分が、あの夜、岩場で言ったことは、若い自分だけでなく、若い朔の中にも、ずっと、灯りをともし続けていたのだ。
「ねえ、朔」
「うん」
「私、余計なことを、しなかったかな」
「余計なこと?」
「未来のことを、言ってしまって」
朔は、静かに、首を振った。
「君は、何も、言ってない。あの子に、『好きでいて』って言っただけだ。それは、未来の情報じゃない。ただの、祈りだよ」
「祈り」
「うん。祈りは、時間のルールに、引っかからない」
朔は、笑った。
「たぶんね」
下のほうから、若い澪の、明るい声が聞こえてきた。
「あの、星の名前、教えてください。あれは、なんていう星ですか」
「あれは、ペルセウス座のアルゴル。悪魔の星、って呼ばれてる。明るさが、変わるんです」
「悪魔の星なのに、きれいですね」
「そうなんですよ。きれいなものには、ときどき、ちょっと怖い名前がつくんだ」
二人の声が、夜明けの空気の中で、やわらかく重なっている。
その声に耳を澄ませたまま、澪は、朔の手を、握った。
「行こう」
朔は、言った。
「屋上から、日の出を、見よう。……最後の、日の出を」
その言葉の、「最後」という響きが、澪の心に、静かに、沈んだ。
二人は、残りの階段を、ゆっくりと、昇っていった。



十一 夜明け前
夜が、少しずつ、薄くなっていた。
東の空が、ほんのりと、藍色から、紫色へと変わりはじめている。
屋上には、澪と、もう一人の朔のほかに、誰もいなかった。
若い二人は、前庭で、夜が明けるのを待っている。楽しそうに、星の話をしている。遠くから見ると、まるで、ずっと昔から、そうしていたかのように。
「ここは、僕が、いちばん好きな場所なんだ」
屋上の手すりに、朔はもたれかかった。
「海が、全部見える。日の出の、最初の光が」
「知ってる」
澪は、隣に立った。
「三年前の今日、私、この景色を、写真で見た」
「うん」
朔は、遠くを、見つめた。
その横顔が、朝の光の予感に、淡く縁取られている。
そのとき、澪は、気づいた。
朔の手が、薄くなっていた。
指の先から、向こうの景色が、透けて見えている。
「……朔」
声が、震えた。
「手が」
「うん」
朔は、自分の手を、他人事のように見つめた。
「そろそろ、時間みたいだ」
「どういう、こと?」
「僕は、この夜のための、残響なんだよ」
朔は、静かに言った。
「あの日、事故に遭った、その瞬間。僕の体は、この世界から、なくなった。でも、君のことを思う気持ちだけが、窓を通って、この夜に、落ちてきた。それが、今の僕だ」
澪は、首を振った。
「そんなの、いや」
「ごめん」
「いやだ、いやだよ、朔」
彼女は、朔の腕にしがみついた。けれど、その腕は、もう、触れているのか触れていないのか、わからないほど、淡くなっていた。
「私、まだ、言ってないことがある」
「うん」
「あの日、勝手にすれば、って、言ったこと」
澪は、泣きながら言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい、本当は、行かないでって、言いたかったの。あなたが遠くに行ってしまうのが、怖かったの」
「知ってた」
朔は、微笑んだ。
「君が、そう言った瞬間に、わかったよ。ああ、この人は、怖がってるんだって」
「なのに、どうして、私を、放っておいたの」
「放っておいたわけじゃない」
朔は、澪の顔を、両手で包んだ。触れているのに、彼の手は、ほとんど、温度だけの存在になっていた。
「あの日の夜、僕は、君に、会いに行こうとしてたんだ。研究所には、断りの返事を出した。君と一緒にいられないなら、どこにも行かないって、決めた」
「え……」
「そのことを、伝えたかった。帰り道、急いでいたのは、それが理由だ」
澪の口から、声にならない声が、漏れた。
「メッセージの、渡したいものって」
「うん。あれは、指輪じゃない。まだ、買ってなかったから。ただの、言葉だよ」
朔は、笑った。
「でも、その言葉は、ちゃんと、君の時間に、届けるように、準備してある。鞄の底に、封筒を入れてある。僕がいなくなったあと、母さんが、きっと見つけてくれる」
「……お母さんに?」
「うん。ただ、見つけるまでに、時間がかかるかもしれない。母さんも、整理がつかなくて、そっとしておくかも。でも、必ず、出てくるよ。君が、僕を思い出したときに」
澪は、その言葉に、あの写真の光の粒を、重ねた。
思ったら、届く。
三年間、澪が、ずっと信じられなかったこと。
「ねえ、朔」
澪は、涙の向こうで、彼を見た。
「私、あなたを、助けたい」
朔は、目を伏せた。
「若い僕に、言いたいんだろう。九月二十九日の夜、あの道を通るなって」
「……うん」
「言いたいよね。僕だって、君の立場なら、言うと思う」
「だったら」
「でも」
朔は、澪の肩に、手を置いた。
「お願いだから、言わないでほしい」
澪は、息を止めた。
「どうして」
「僕は、若い僕を、知っているからだ」
朔は、遠くの、前庭を見た。
若い朔が、若い澪と、望遠鏡を覗いて、はしゃいでいる。
「あいつは、優しいから、きっと、そのことを知ったら、四年間を、終わりまでの時間として、生きてしまう。君と過ごす一日一日を、カウントダウンにしてしまう」
澪は、言葉を失った。
「それは、いやなんだ」
朔の声が、ゆっくりと、静かになっていく。
「一日を、ほんとうに、ただの一日として生きたい。なんにも知らずに、君と、喧嘩をして、仲直りをし、くだらない話で、笑って。そういう、なんでもない毎日のために、僕は、あの四年を、使いたい」
「でも、あなたは、死んじゃうんだよ」
「うん。でも」
朔は、微笑んだ。
「人の一生は、偶然の一致だらけで、そのすべてに、意味があるって、僕は、思うんだ」
澪は、はっとした。
その言葉は、まるで、どこかで、聞いたことがあるような響きだった。
「終わりがあるから、偶然は、光るんだよ。終わらないものに、名前は、いらない」
「……ずるい」
「うん」
朔は、少しだけ、笑った。
「ずるいよね、僕は」
東の空が、金色に染まりはじめた。
水平線の上に、最初の光が、細く、まっすぐに伸びる。
「そろそろ、君も、戻る時間だ」
朔は、澪の手を取った。その手は、もう、ほとんど光でできていた。
「君は、二〇二六年の、君の世界に、帰らなきゃ」
「いやだ」
「だいじょうぶ」
朔は、そっと、澪の額に、自分の額を寄せた。
「僕は、ずっと、ここにいる。この夜のなかに。夜が終わっても、光の粒になって、君のそばに、いつも、いる」
「写真の中の、あの光」
「うん」
朔は、うなずいた。
「あれは、僕だったんだよ」
澪の頬を、涙が、静かに伝った。
「最後に、ひとつだけ、いい?」
「なに?」
「僕の、名前を、呼んで」
澪は、唇を、震わせた。
そして、この三年間、ずっと、言えずにいた言葉を、声にした。
「朔」
「うん」
「朔。朔。……大好き」
朔は、ゆっくりと、瞳を閉じた。
「僕もだよ、澪」
朝日が、水平線から顔を出した。
まぶしい光が、二人を包み込んだ。
その瞬間、朔の姿は、無数の光の粒になって、ほどけていった。
風に舞う、白い花びらのように。
澪の手の中に、ひとつだけ、光の粒が残った。
それは、彼女の手のひらで、少しだけ、瞬いてから、ふわりと、宙に浮かんだ。
「行こう」
光が、そう言った気がした。
澪の足元から、朝の光が、波のように広がり、彼女の体を、ゆっくりと、飲み込んでいった。

ーつづくー



Kindle



いつの頃からか
墓参りが毎週にも増えて
それもいつまでかと
ふと思いながら…

特に
先立った仲間たちのそこは
仕方なくも 年々 足跡が減り

昨今では
僕だけかと思うことばかり

それでも
覚えていることが
彼らへの気持ちだと

出掛けられるのならば
出掛けてみようかと
こうして今日もここに来た

人間たちは
2度 死ぬと言われ

1度目は 肉体の死
2度目は 忘れられた死

ならばその2度目を
僕が出来るのならば
食い止めて置きたいと思ってみる

今年は都合で
1日遅れたけれど
家族と思われる花はあり
良かったなあ と
手を合わせた

雨天の為
人影なき墓所に
ひとり佇んでみれば

今
ここでこの世にいるのは
僕だけなのかと
ふと思い

いずれ行く道ならば
もう少し
ジタバタしたいと
背筋を伸ばした

あと10日もすれば
また
夕子さんのライブがあるからと
告げながら
後にした雨の今日

数えれば
ちょうど干支がひと回りして
12年かと
振り返るばかり…




あの頃

僕の落書きを

唯一褒めてくれたこと


そろそろまた

描いてみるかと

思っていること


そんなことを

言葉にしてみた







名もなき兵
―戦国から星々の彼方へ―
加筆版


まえがき
歴史は、つねに勝者の名を大きく刻む。
偉大な采配を振るった武将、戦争を指導した政治家、巨大な艦隊を率いた提督。後世の私たちはその名に目を見張り、彼らが動かした歴史の動向を語り合う。
だが、その鮮やかな記述の足元には、文字通り埋もれていった無数の「名もなき人々」が存在する。
名も残さず、語られることもなく、ただ歴史の統計データの中に「若干名」として片付けられていった人々。彼ら一人一人にも、愛する人があり、日々の暮らしがあり、生への情熱と恐怖があったはずだ。
もしも、そんな名もなき一人の兵士の「魂」が、形を変え、時代を超え、果ては星々を渡り歩く未来まで、ずっと最前線に立たされ続けていたとしたら――。
これは、歴史の頁の「余白」に追いやられた者たちの、静かな抗いと鎮魂の物語である。




序章 魂という名の兵士
歴史は名を刻む。
信長、家康、秀吉――教科書の頁に太く印刷された名前たち。後世の者たちは、その名を諳んじ、その采配を語り、その野望の大きさに酔いしれる。
だが、その頁の余白にすら記されない者たちがいた。
先頭に立ち、槍を構え、鉄砲の筒先に身をさらし、そして誰にも覚えられぬまま土に還っていった者たち。彼らの多くは、自分がどこで、何のために死んだのかさえ、家族に伝える術を持たなかった。
彼らにも、生まれた村があった。待つ母がいた。惚れた女がいた。田を耕す手があり、笑う声があり、明日を思い描く心があった。
それなのに、歴史はただ「兵、若干名討死」とだけ記す。若干名。まるで、その数字の向こうに、一人一人の人生があったことなど、初めから無かったかのように。
これは、その「若干名」のうちの、たった一つの魂の話である。
その魂は、なぜか幾度も生まれ変わり、幾度も同じ場所――戦場――に立たされ続けた。時代が変わり、武器が変わり、争いの名目が変わっても、その魂だけは、奇妙なほど同じ役目を負わされ続けた。
槍の時代から、銃の時代へ。
銃の時代から、光の時代へ。
そしていつか、国と国の争いは、星と星の争いへと姿を変えていく。
争いの規模は、村から国へ、国から星系へと、途方もなく膨れ上がっていった。だが不思議なことに、その最前線に立たされた者の心細さだけは、少しも大きくならなかった。むしろ、規模が大きくなるほど、一人の兵の存在は、限りなく小さく、限りなく軽くなっていくようだった。まるで、争いの規模と、命の重さとが、反比例するかのように。
そのどの時代にも、必ず一つの「大きな出来事」があった。歴史書には数行、あるいは一行としてしか残らない出来事。だが、そこに立たされた名もなき者にとっては、生涯そのものを引き裂く出来事だった。落城の後の凄惨な処断。海に消えた輸送船。隠された虐殺。そして、光の一閃で消え去った、一つの星。
魂は、その全てを見ることになる。そして、その全ての果てに、一つの問いへとたどり着くことになる。
命とは何か。天下とは何か。国とは何か――そして、その問いに答えを出せぬまま、なぜ人は、何度も同じ過ちを繰り返すのか。
まだ、この魂は、自分自身が何度も生まれ変わっていることさえ、はっきりとは自覚していない。ただ、生涯の終わりが近づくたびに、言いようのない既視感に襲われる。まるで、この恐怖も、この痛みも、初めてではないのだという感覚が、意識の底からせり上がってくるのだ。
それは、まだ物語の始まりに過ぎない。


間章 狭間にて
生と生の狭間には、名前もなく、時間もなく、ただ、微かな光だけが漂う場所がある。
そこに漂う魂は、まだ、自分がこれから幾つの時代を渡り歩くことになるのか、知らない。ただ、直前の生で見た――赤く染まった空と、その中に瞬いていた一つの星の記憶だけを、かすかに抱いていた。
その光は温かくも、冷たくもなかった。ただ、確かにそこにあった。まるで、どれほど時代が移ろっても、決して動かない一点のように。
もし、この魂に言葉を持つことが許されるなら、こう問うたかもしれない。――なぜ、自分だけが、こうして何度も、同じ役目を負わされるのか。だが、狭間には、問いを受け止める者すらいない。ただ、静寂と、光と、次の生への予感だけがあった。それでも、その静寂の中で、魂は、確かに何かを学び取っていた。それは、痛みそのものを避ける方法ではなく、痛みを抱えたまま、それでも次の生を、精一杯生きようとする、名づけようのない強さだった。
やがて、その光に導かれるようにして、魂はまた、新しい生へと、静かに沈んでいく。今度は、争いの形も、武器の形も、まるで違う時代へと。だが、その最前線に立たされるという役目だけは、変わらず、その魂に与えられ続けることになる。


第一章 戦国 落城の章

一 徴発
永禄のある年、尾張と美濃の境に近い、名も伝わらぬ小さな村。
甚助は、その村で生まれた。父は早くに流行り病で亡くなり、母と二人、痩せた田を耕して暮らしていた。豊作の年など、物心ついてからほとんど記憶になかった。それでも、母の作る粟粥は、甚助にとって、この世で何よりの馳走だった。
村での暮らしは、決して楽ではなかったが、それでも、季節の巡りに沿った、確かな穏やかさがあった。春には、村総出で田植えを行い、夏には、川で涼を取りながら語らい、秋には、乏しいながらも収穫を祝った。甚助にとって、そうした当たり前の日々の積み重ねこそが、生きるということそのものだった。それが、たった一枚の触れによって、根こそぎ奪われることになるとは、その日が来るまで、甚助自身、想像すらしていなかった。
隣村には、幼馴染のおふくという娘がいた。二人は、いずれ祝言を挙げるのだろうと、村の誰もが当たり前のように思っていた。子どもの頃から、二人は共に川で魚を捕り、共に山菜を摘みに出かけた仲だった。おふくの家の方が、いくらか田畑に余裕があり、時折、甚助の母のために、余った米を分けてくれることもあった。
おふくは、甚助が徴発の触れを受けた日、何も言わずに、手ぬぐいを一枚、黙って渡してくれた。それだけが、村を出る甚助が持っていくことを許された、唯一の私物だった。おふく自身は、その日、甚助の前では気丈に振る舞っていたが、甚助が村境の坂を下っていく後ろ姿が見えなくなるまで、物陰で人知れず涙を流していたことを、甚助は知らない。
「若い男は、みな出せ」
そう告げに来た代官の声に、逆らう術など、村にはなかった。田の実りが悪かったその年、口減らしのようにして、甚助を含む村の若者五人が、槍一本と粗末な胴丸だけを渡され、戦場へと送られた。村を出る朝、五人のうち二人はすでに涙を堪えきれず、残りの三人は、ただ黙って俯いていた。甚助もまた、何も言えなかった。ただ、懐に忍ばせたおふくの手ぬぐいの感触だけを、何度も確かめていた。
初めて槍を持たされた時、甚助はその重さに驚いた。田を耕す鍬とは、まるで違う重みだった。老いた足軽頭からは、「敵の目を見るな、槍先だけを見ろ」とだけ教えられた。それが、戦場で生き延びるための、ほとんど唯一の教えだった。
甚助にとって、その落城が初陣ではなかった。すでに二度の野戦をくぐり抜けていた。最初の野戦では、隣に立っていた同郷の男が、名も知らぬ敵の矢を頬に受け、声もなく頽れるのを見た。二度目の野戦では、甚助自身が、初めて人を――地に伏した名も知らぬ雑兵を――槍で突いた。その夜、甚助は物陰で吐いた。誰にも見られていないことを確かめてから。
そうして幾度かの戦を経るうちに、甚助の中で、恐怖はいつしか、ある種の鈍い麻痺へと変わっていった。人を殺めたことへの慟哭は薄れ、ただ、次の戦でも生き延びることだけが、頭を占めるようになっていた。
行軍の道すがら、甚助たちは、幾つもの焼け落ちた村を通り過ぎてきた。田畑は踏み荒らされ、井戸には毒が投げ込まれていることもあった。誰の仕業かも分からぬまま、ただ、それが「戦」というものの、当たり前の風景として、甚助の目に焼き付いていった。だが、その日――永禄のその年、甚助が組み込まれた部隊が向かった小城での出来事は、それまでのどの戦とも違っていた。麻痺していたはずの何かを、再び激しく揺さぶることになる出来事だった。

二 三月の囲み
その小城は、三月にわたって囲まれていた。囲む側の陣にも、緊張が絶えず張り詰めていた。城方は寡兵ながら、地の利を熟知しており、夜な夜な、囲む側の陣に奇襲を仕掛けては、兵糧や馬を奪って引き上げていった。
甚助が忘れられない夜がある。囲みが始まって一月ほど経った頃、城方の夜襲を受け、甚助のすぐ隣で寝ていた若い足軽が、声を上げる間もなく、闇の中で喉を掻き切られた。翌朝、その骸を見た甚助は、初めて、この囲みが、ただの威圧ではなく、双方が本気で殺し合う戦であることを、骨身に染みて理解した。
そうした小競り合いが幾度も繰り返されるうち、囲む側の陣にも、疲弊と苛立ちが澱のように溜まっていった。侍大将は、次第に苛烈な言葉を口にするようになり、「城方の者どもは、人ではない、獣と思え」と、事あるごとに兵たちに言い聞かせるようになった。甚助は、その言葉に、どこか危うい響きを感じ取っていたが、口に出すことはできなかった。
やがて、城内の兵糧が尽きかけているという噂が、囲む側にも伝わってきた。夜になると、城壁の向こうから、赤子の泣き声が、風に乗って聞こえてくることもあった。それを聞くたび、甚助の胸は、名状しがたい重さで塞がれた。
囲みの終盤、雨の続くある晩、甚助は、見張りの合間に、同郷から徴発されてきた仲間の一人と、焚き火を挟んで言葉を交わしたことがあった。その男は、甚助よりも幾つか年上で、既に妻子を村に残していた。
「なあ甚助、この戦が終わったら、お前はどうする」
「そうだな……おふくを、嫁に迎えたい。それだけだ」
「おれもだ。ただ、田を耕し、飯を食い、子を育てる。それだけでいいんだ。それの、いったい何が難しいんだろうな」
男は、焚き火の炎を見つめながら、そう呟いた。その言葉に、甚助は深く頷いた。二人が望んでいたものは、決して大それたものではなかった。ただ、当たり前の暮らしを続けたいというだけの、ささやかな願いだった。だが、その願いすら、この時代には、当たり前には許されなかった。この男もまた、後の落城の混乱の中で、命を落とすことになる。

三 落城
城主は、寡兵ながらもよく耐え、幾度となく夜襲を仕掛けては、囲む側を悩ませてきた。だが、兵糧が尽き、水の手を断たれるに至って、ついに力尽きた。
城主は使者を送り、和議を申し入れた。開城の条件として、城内の者たちの助命が約束された――少なくとも、甚助たち末端の足軽には、そう伝えられていた。
「入れ」
侍大将の乾いた声とともに、甚助たちは開かれた城門をくぐった。中には、痩せこけた守備兵たちが、武器を捨てて地に伏していた。老いた足軽もいれば、まだ元服前としか見えない少年もいた。彼らは、助かると信じて武器を置いたのだ。城内の広場には、女子供までもが身を寄せ合い、震えながら、この後の沙汰を待っていた。
甚助は、その光景に、どこか安堵していた。三月にわたる包囲戦は、囲む側にも大きな消耗を強いていた。兵糧もほとんど尽きかけ、甚助自身、ここ数日は稗の粥を一日一杯すすっただけで過ごしていた。これでようやく、故郷に帰れるのかもしれない――そんな淡い期待さえ抱いていた。城内に座り込む女子供の中に、おふくの妹と同じ年頃の娘の姿を見つけ、甚助は思わず、故郷の景色を思い出していた。あの娘たちも、囲みが解ければ、また元の暮らしに戻れるのだろう、と。
だが、大将の口から出たのは、和議とは正反対の言葉だった。
「――一人残らず、討ち果たせ」
甚助は、自分の耳を疑った。周りの足軽たちも、一瞬、槍を握ったまま動きを止めた。降伏した者を討つことは、武門の作法にも背く。囁かれていた「みな殺し」の噂は、これまでも幾度か耳にしたことはあったが、まさか自分がその手を下す側に立たされるとは、思ってもみなかった。
だが、命令は命令だった。逆らえば、次に討たれるのは自分の番だと、誰もが知っていた。三月の間、共に飢えを凌いできた大将の目は、すでに憐憫のかけらも映していなかった。囲む側もまた、限界に近いところまで追い詰められていたのだ。この城を落としたという「成果」だけを、一刻も早く上に示さねばならなかった。生かして手厚く扱う余裕など、どこにもなかった。
「甚助、やれ」
隣にいた古参の足軽が、低い声で促した。その声にも、迷いと諦めが滲んでいた。
甚助の目の前に、まだ幼さの残る少年兵がいた。少年は、槍を構える甚助を見上げ、何かを言おうとして、結局何も言わずに、ただ小さく震えていた。その目は、遠く離れたおふくの弟の目に、よく似ていた。
その少年は、城主の遠縁にあたる家の子で、名を、亀丸といった。父はすでに、この籠城の間に討死しており、母と共に、この城に身を寄せていた。亀丸は、父の死後、自分が家の男として、母を守らねばならないという思いから、幼いながらも槍を取ることを志願していたのだった。もちろん、そんな事情を、甚助が知る由はなかった。ただ、目の前で震える小さな体だけが、甚助の視界いっぱいに広がっていた。
――おれと、何が違うんだ。
――こいつも、田を耕していたはずだ。母がいたはずだ。
その一瞬、甚助の中で何かが軋んだ。だが、槍を下げれば、自分がその場で斬られることも分かっていた。恐怖と良心とが、身の内で殴り合っていた。
甚助は、目を閉じたまま、槍を突き出した。
手に伝わった重い感触は、その後何年経っても――否、その生涯が尽きる瞬間まで、甚助の掌に残り続けることになる。
城内には、断末魔の声と、すすり泣きと、それを塗りつぶす怒号が満ちた。血の匂いが、井戸の水にまで滲み込んでいくようだった。甚助は、自分がその日、何人を手にかけたのか、数えることさえできなかった。女子供にまで刃が及ぶのを見て、思わず目を逸らした足軽もいたが、それを止める者は、誰もいなかった。
生き残った城方の者は、ほとんどいなかった。ただ、乳飲み子を抱えた一人の女だけが、崩れた土塀の隙間から、辛くも逃げ延びたという噂が、後になって囲む側の陣に流れてきた。その真偽を確かめる者は、誰もいなかった。もしそれが本当ならば、その女の血筋もまた、この落城の記憶を、誰にも知られぬまま、静かに未来へと運んでいったのかもしれない。
作業を終えた足軽たちは、誰も口を利かなかった。ただ、うつろな目で、燃え始めた城の櫓を見上げていた。中には、その場にへたり込み、両手で顔を覆ったまま動けなくなった者もいた。誰も、それを咎めなかった。咎める気力すら、もう誰にも残っていなかった。
「これが……武功か」
誰かが呟いた声を、甚助は今も覚えている。その言葉には、皮肉と、深い絶望とが、等しく滲んでいた。
城の広場に折り重なった骸を前に、甚助は、ふと故郷の秋祭りの光景を思い出していた。あの少年兵と同じ年頃の子どもたちが、村の広場を駆け回り、笑い声をあげていた光景を。今、目の前にあるのは、その笑い声が、永遠に途絶えた光景だった。
この日の出来事は、後の軍記物にはただ「城方、悉く討ち死に」という、たった一行の記述として残るだけになる。その一行の裏に、何十、何百という「甚助」がいたことなど、誰も書き残しはしない。そして、命令を下した大将の名だけが、後の世まで語り継がれることになる。

四 裏切りの夜
その夜、甚助たちの陣は、思いもよらぬ形で崩れることになる。城攻めの総大将――甚助たちが仕えていた武将――が、味方であるはずの与力の一人に、突如として寝返られたのだ。下剋上の世では、味方が敵に変わることも、決して珍しいことではなかった。むしろ、昼間にあれほど非情な命令を下せる者だからこそ、部下からも見限られたのかもしれない、と甚助は後になって思った。
夜襲の炎が、陣幕を舐めるように広がった。昼間まで共に城を落とした仲間たちが、今度は同じ陣の中で、互いに刃を向け合っていた。誰の旗印が誰のものかも、闇と炎の中では見分けがつかなくなっていた。逃げ惑う中、甚助は、昼間に自分が手にかけた少年兵の顔を、なぜか繰り返し思い出していた。手を貸してくれた古参の足軽は、早々に矢を受けて倒れた。もはや誰が味方で誰が敵なのかさえ、判然としない混乱だった。
甚助は、槍を杖代わりにしながら、燃える陣幕の間を縫うように走った。どこかから、女の悲鳴に似た声が聞こえたが、それが生き残った城方の者の声なのか、それとも味方の陣に紛れ込んでいた誰かの声なのか、確かめる術はなかった。
――天下とは、なんだ。
――おれの命は、誰かの天下のためにあったのか。
――それとも、おれが今日殺したあの子の命こそが、誰かの天下のために奪われたのか。
答えのないまま、燃え上がる陣幕の中、甚助は背中に焼けるような衝撃を受けた。誰の刃か、誰の矢かも分からなかった。膝から崩れ落ちる視界の隅、夕暮れというにはあまりに禍々しい赤に染まった空の彼方に、それでも一つ、澄んだ星の光が瞬いているのが見えた。
倒れ伏したまま、甚助は、遠くで誰かが自分の名を呼んでいるような気がした。だが、それがおふくの声なのか、母の声なのか、それとも、もう二度と会うことのない、あの少年兵の声なのか、判然としなかった。ただ、その声にならない声だけが、暗くなっていく意識の中で、いつまでも響いているようだった。
(あの星は、この騒ぎをどう見ているのだろう)
そう思った瞬間、甚助の意識は暗く沈んでいった。故郷に残したおふくの顔も、母の粟粥の匂いも、すべてが遠くなっていった。だが、消える間際、彼の魂の奥底に、小さな灯のようなものが灯った。それは、次にまた別の場所で、別の名で、同じ問いを――そして同じ罪の重さを――繰り返すための灯だった。
甚助の死は、村に伝わることさえなかった。おふくは、幾年も帰りを待ち続け、やがて別の男の元へ嫁いだ。母は、息子の顔を思い出せなくなる頃、静かに世を去った。誰の記憶からも、甚助という名は、やがて消えていった。ただ、彼が最後に見た一番星の光だけが、時代を超えて、次の生へと運ばれていった。
おふくが嫁いだ先で授かった子の、そのまた子孫の血筋が、幾世代も下った先で、詩織という名の女性に繋がっていることを、当の詩織自身は、知る由もなかった。血の繋がりというものもまた、記録に残らぬまま、静かに時代を超えて受け継がれていくものの一つだった。


第二章 昭和 輸送船と密林の章

一 出征
昭和十九年、内地のとある港。
一等兵・田中は、二十一歳だった。故郷の長野では母が畑を耕しているはずだった。父は、田中が幼い頃に既に亡くなっており、母一人の手で育てられた。貧しい暮らしの中でも、母は田中を旧制中学まで通わせようと、女手一つで必死に働いた。田中自身、いずれ教師になって、母に楽をさせてやりたいと、密かに思い描いていた。
赤紙が届いたのは、そんな矢先だった。近所の人々は「おめでとうございます」と口々に祝いの言葉を述べたが、その声の裏に滲む哀れみを、田中は敏感に感じ取っていた。誰もが、赤紙の意味するところを、本当は分かっていたのだ。
出征の朝、母は駅まで見送りに来て、ただ「達者でな」とだけ言った。それ以上の言葉は、互いに、口にすれば涙が止まらなくなると分かっていたから、あえて呑み込んだのだった。日の丸の小旗を振る近所の人々の中に、田中は、自分と同じように、ただ黙って涙をこらえている母の顔だけを、いつまでも目に焼き付けていた。
田中を送り出してからの母は、毎朝、近所の神社に足を運び、息子の無事を祈ることを日課としていた。届く手紙は、検閲によって黒く塗りつぶされた箇所が多く、田中が実際にどこで何をしているのか、母には、ほとんど知る術がなかった。それでも、たとえ数行であっても、息子の字を見られることが、母にとっては何よりの支えだった。輸送船が撃沈された後、その手紙は、二度と届かなくなる。だが、母がその事実を知るのは、まだ、ずっと先のことだった。
田中の隣には、同郷の幼馴染である一等兵・小林がいた。二人は、共に招集された年から、ずっと励まし合ってきた仲だった。小林には、許嫁がいた。「帰ったら、真っ先に祝言を挙げるんだ」と、事あるごとに口にしていた。
輸送船「白鴎丸」は、三千名近い将兵を乗せ、南方の戦線へと向かっていた。船倉は、人いきれと機械油の匂いで満ちていた。狭い船倉の中、将兵たちは、肩を寄せ合うようにして寝起きした。誰もが、目的地に着いてからの死を漠然と覚悟してはいたが、まさか、海の上でその瞬間が訪れるとは、誰も思っていなかった。
「田中、着いたら、まず何を食いたい」
「そうだな……母ちゃんの、味噌汁が飲みたい」
「贅沢言うなよ。おれは、白い飯が腹いっぱい食えりゃ、それでいい」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は、狭い船倉の中で、故郷の話を何度も繰り返した。それは、この先に待つものへの恐怖を、束の間だけでも忘れるための、ささやかな儀式のようなものだった。
小林は、懐から一枚の写真を取り出し、田中に見せた。写っていたのは、少しはにかんだ表情の若い娘だった。
「これが、おれの許嫁だ。名前は、ふみ子っていうんだ。帰ったら、真っ先に祝言を挙げるんだ」
その口ぶりには、疑いようのない確信が滲んでいた。まるで、生きて帰ることが、初めから決まっているかのように。田中は、その確信を、羨ましく思うと同時に、どこか危ういものにも感じていた。だが、その危うさを口にすることはしなかった。ただ「そうか、良かったな」とだけ、笑って答えた。
甲板に上がることを許された束の間、二人は暗い水平線を眺めた。この海の先に、いったい何が待っているのか、二人とも、本当のところは、想像することすらできずにいた。

二 訓練所にて
入営してからの数ヶ月、田中は、内地の訓練所で、厳しい教練を受けることになった。古参の下士官による、理不尽な私的制裁は、日常茶飯事だった。些細な失敗一つで、殴打や、深夜の正座を強いられることもあった。田中は、その理不尽さに、幾度も歯を食いしばった。
小林と出会ったのは、その訓練所だった。同じ内務班に配属された二人は、互いに助け合いながら、過酷な日々を耐え忍んだ。夜、消灯後にこっそりと交わす故郷の話だけが、二人にとって、唯一の心の慰めだった。
訓練の最終段階で、田中たちの班からは、体を壊して脱落する者や、精神的に追い詰められて営倉に入れられる者も出た。誰もが、口には出さずとも、この訓練そのものが、これから向かう戦場よりも、既に十分な地獄だと感じていた。それでも、逃げ出すという選択肢は、誰の頭にも、現実的なものとしては浮かばなかった。逃げれば、家族にまで累が及ぶことを、皆、承知していたからだった。
訓練所を出る前夜、田中と小林は、こっそりと屋根裏に忍び込み、二人だけの小さな送別の儀式を行った。持ち寄った僅かな干し芋を分け合いながら、二人は、生きて帰ってきたら、共に同じ村で暮らそうと、指切りを交わした。それは、子どものような、他愛のない約束だった。だが、その約束こそが、この先の過酷な日々を耐え抜くための、二人にとっての、ささやかな支えとなっていった。

三 海の底へ
出港から数日後の夜だった。
轟音と共に、船体が大きく傾いだ。魚雷――敵潜水艦の雷撃を受けたのだと、誰かが叫んだ。船内の照明が消え、悲鳴と怒号が、暗闇の中で渦を巻いた。海水が、猛烈な勢いで船倉へと流れ込んでくる。
田中は小林の腕を掴み、必死に甲板を目指した。だが、階段は将兵で埋め尽くされ、押し寄せる海水が、逃げ場を奪っていく。将校の怒鳴り声も、もはや誰の耳にも届いていなかった。
「田中、先に行け……!」
小林の声が、水音にかき消される寸前に聞こえた。振り返った田中の目に映ったのは、瓦礫に足を挟まれ、動けなくなった小林の姿だった。田中は手を伸ばしたが、次の波が、二人を引き離した。灯りの消えた暗闇の中、小林の手が、闇の奥へと消えていくのを、田中はただ見ていることしかできなかった。
甲板に這い上がった田中が見たものは、漆黒の海に沈んでいく輸送船と、その周りに浮かぶ、数えきれないほどの人影だった。誰もが助けを求めて叫んでいたが、救助の手は、その一割にも届かなかった。護衛の駆逐艦は、次の雷撃を警戒してか、生存者の収容もそこそこに、その場を離れていった。
田中自身も、板切れに掴まりながら、幾時間も海に漂うことになった。冷たい海水が、体温を容赦なく奪っていく。周りで聞こえていた助けを求める声は、夜が明ける頃には、一つ、また一つと消えていった。中には、力尽きて静かに沈んでいく者、恐怖のあまり正気を失い、闇雲に泳ぎ出して波間に消えていく者もいた。田中は、ただその全てを、なす術もなく見ていることしかできなかった。
夜明け前、田中は、小林の名を、幾度も暗闇に向かって呼んだ。だが、返ってくるのは、波の音と、遠くで途切れがちに続く、誰かの呻き声だけだった。
戦闘に加わる前に、田中はその夜だけで、乗り合わせた戦友の大半を失った。歴史書には、後にただ一行、「輸送船一隻、被雷沈没。多数の将兵、未帰還」とだけ記されることになる出来事だった。小林の名前が、その一行のどこにも書かれることはなかった。

四 密林の掟
生き延びた田中たちは、命からがら島に泳ぎ着き、密林での持久戦に投入された。マラリアと飢えで、隊列の半分近くはすでに歩くのがやっとの有様だった。それでも「玉砕」の二文字が、彼らの背中を押し続けていた。小林を失って以来、田中は、以前ほど故郷の話をしなくなっていた。夜、蚊帳もない中で震えながら眠りにつくたび、田中の脳裏には、暗い波間に消えていった小林の、最後に見せた笑顔が浮かんだ。
密林の湿った空気の中、田中は、次第に、自分がいつ死んでもおかしくないという感覚に、慣れていく自分自身に気づいていた。それは、諦めとも、覚悟とも呼べる、奇妙な感覚だった。ただ、その感覚の底には、いつも変わらず、母の顔と、小林の笑顔とが、微かな灯のように残り続けていた。
島に暮らす人々もまた、この戦の巻き添えとなっていた。当初、村人たちは、日本兵にも、どこかで敵側の兵にも、等しく怯えながら暮らしていた。それでも、田中の中隊が最初にこの村に入った頃、まだ幼さの残る村の少女が、こっそりと熟れた果実を、田中の手のひらに握らせてくれたことがあった。言葉は通じなかったが、その小さな親切に、田中は、戦の外側にある人の温かさを、束の間だけ思い出すことができた。
密林での日々の中、田中の中隊には、他にも幾人かの戦友がいた。中でも、九州出身の年配の兵、佐々木は、田中にとって、父親のような存在だった。佐々木は、どれほど飢えと疲労が極限に達しても、決して弱音を吐かず、若い兵たちを励まし続けていた。だが、その佐々木でさえ、ある夜、誰もいないところで、田中にだけ本音を漏らしたことがあった。
「田中よ、おれはもう、家族の顔を、はっきりとは思い出せんのだ。それが、いちばん怖い」
その言葉に、田中は、何も返すことができなかった。佐々木もまた、田中が処断された村の若者を止められなかった、あの偵察の直前に、密林の奥で消息を絶つことになる。
だが、戦況が悪化し、補給が絶たれるにつれ、兵たちの態度は次第に苛烈さを増していった。村からの供出を拒む者への仕打ちも、日を追うごとに容赦のないものになっていった。田中は、あの少女が握らせてくれた果実の温もりと、目の前で引き立てられていく村の若者の姿とを、どうしても重ね合わせずにはいられなかった。
補給はとうに絶たれていた。兵たちは、密林の木の根や、時には毒のある草の実にまで手を伸ばした。上官の中には、この惨状を「聖戦完遂のための試練」と呼び続ける者もいたが、その言葉を信じる兵は、もはや誰一人としていなかった。
島の奥にある、簡素な野戦病院にも、田中は幾度か立ち寄ることがあった。そこでは、軍医がたった一人で、包帯すら十分にない中、次々と運ばれてくる傷病兵の治療にあたっていた。麻酔もろくに使えず、負傷した兵の呻き声が、昼夜を問わず響いていた。軍医自身も、極度の疲労と栄養失調で、目の下に深い隈を作っていた。
「もう、治せる者と、治せない者を、選ばねばならない」
軍医が、誰にともなく漏らした、その乾いた声を、田中は今も忘れられない。歴史書には、決して記されることのない、名もなき軍医の、名もなき苦悩だった。
ある夜、田中の中隊は、近くの村で食料の調達を命じられた。村人たちは、すでに乏しい蓄えを、これまでも幾度となく供出させられていた。抵抗する村の若者を、上官が「敵に通じる恐れあり」として即座に処断しようとした。
「待ってください、この者は……!」
止めようとした田中に、上官の拳が飛んだ。
「一等兵風情が、口を挟むな。命令に逆らうか」
田中は、拳を握りしめたまま、何も言えなかった。目の前で、若者が引き立てられていく。田中は、その若者の目に、昼間に村で見た子どもたちの顔を重ねずにはいられなかった。それは、輸送船で見た、助けを求める無数の顔とも、どこか重なっていた。
(これは、おれたちが守るべきもののためだったはずだ。それなのに、なぜ)
その夜、田中は、上官に逆らったことを理由に、最も危険な夜間偵察に単独で送り出された。事実上の懲罰だった。誰もが、それが何を意味するか分かっていた。
密林を進みながら、田中はふと思う。
――信長も家康も、こんな密林で蚊に刺されながら死んだりはしなかっただろう。
歴史の教科書に載るのは、いつだって命令を下す側の名前だ。命令を受けて、蒸し暑い闇の中を、腹を空かせたまま進む名もなき兵の名前は、どこにも残らない。
「逃げたい」と、田中は誰にも言えずに思っていた。上官には決して見せられない本音だった。だが、輸送船で死んでいった小林の顔、処断された村の若者の顔、そのどちらもが、田中の中で消えることなく重なり続けていた。
その頃、田中は、密林の合間を縫うようにして、母に宛てた手紙を書き綴っていた。検閲を通ることなど、端から期待していなかった。ただ、自分がここで何を見て、何を感じているのかを、誰かに――たとえ届かなくとも――書き残しておきたかった。「小林は、立派に戦って死んだのではありません。ただ、海に消えていったのです」と、田中はその手紙に記した。だが、その手紙が実際に投函される日は、ついに訪れなかった。田中の亡骸と共に、その手紙もまた、密林の土に還ることになる。
(本当は、脱走したかった者ばかりだったのではないか)
敵の照明弾が、密林の頭上を切り裂くように上がった。青白い光の中に、木々の隙間から一瞬だけ、夜空の星が見えた。田中はその星に、遠い戦国の合戦場で誰かが見上げたのと同じ、名づけようのない懐かしさを覚えた。
その星を見つめながら、田中は、故郷の畑で見上げた夜空を思い出していた。子どもの頃、母と並んで縁側に座り、星を数えたことがあった。「あの星の向こうにも、誰かが暮らしているのかしらねえ」と、母は、いつも同じことを言っていた。あの頃は、それがただの他愛のない世間話だと思っていた。だが今、密林の闇の中で見上げるこの星は、あの日の母の言葉に、不思議な重みを与えていた。
次の瞬間、機銃の音が響き渡り、田中の意識は白く塗りつぶされた。
――命とは、なんだ。
――国とは、なんだ。
――守るということと、殺すということは、なぜいつも背中合わせなのだ。
同じ問いが、時代を越えて繰り返される。
魂の奥の灯は、消えることなく、また次の場所へと運ばれていった。
田中の戦死は、後に「戦病死」として、簡潔な公報一枚が、故郷の母の元に届けられることになる。母は、その紙切れを何度も読み返したが、そこには、輸送船の沈没のことも、密林での懲罰的な偵察のことも、何一つ記されていなかった。ただ「名誉の戦死」という四文字だけが、大きく印字されていた。


第三章 二一〇八年 隠された都市の章

一 荒野の兵
二十二世紀。国境という概念は、地図の上では消えかけていたが、資源と水を巡る争いは、むしろ苛烈さを増していた。かつての国家は、いくつもの巨大な経済圏に再編され、その狭間で「前線国家」と呼ばれる緩衝地帯だけが、絶え間ない紛争の舞台とされ続けていた。
兵士番号七七四四二、識別名「レイ」は、幼い頃に前線国家の孤児院で育った。両親の顔は覚えていない。物心ついた時には、すでに周りに戦火があった。孤児院の壁には、いつも同じスローガンが掲げられていた。「我らの犠牲が、明日の平和を作る」。レイは、その言葉の意味を、本当には理解できないまま、繰り返し暗唱させられて育った。
十五歳で軍属訓練施設に入り、二十歳になる頃には、AI支援強化スーツを纏い、無人機の群れと共に、乾いた荒野を進む兵となっていた。訓練施設では、痛みも恐怖も、データとして数値化され、「許容範囲内」かどうかだけが評価された。感情を表に出す者は、「戦闘適性に問題あり」として、前線からも、時には施設からも、静かに姿を消していった。レイは、その仕組みを理解してから、決して人前で涙を見せないようにしていた。
彼の網膜には、常に戦況データと生存確率が表示されている。生存確率、三十四パーセント。それでも、この数字が三十パーセントを割らないだけ、まだましな方だと、レイは自分に言い聞かせていた。
「前線国家」と呼ばれるその土地の名前すら、レイは正確には知らなかった。命令系統の上層は、遠く離れた首都の会議室にいて、モニター越しに戦況を「管理」していた。歴史に名を残すのは、きっとその会議室にいる誰かだろう。荒野を歩くレイの名前ではない。
分隊には、レイより二つ年下の通信兵、アヤという少女がいた。彼女もまた、前線国家の生まれだった。二人は、任務の合間、支給された携帯端末で、遠い経済圏の都市の映像を眺めるのが、密かな楽しみだった。摩天楼の明かりも、緑豊かな公園も、彼らにとっては別世界の光景だった。
「いつか、あそこに行けるかな」
アヤがそう呟くたびに、レイは「行けるさ」と、あまり自信のない声で答えていた。
アヤは、レイよりも二年遅れて孤児院に入った。当時まだ幼かった彼女は、施設のスローガンを、レイほど疑いなく信じていた。「私たちの働きが、いつか、みんなを守るんだよね」と、無邪気に口にする彼女に、レイは何も言えず、ただ頷くしかなかった時期もあった。だが、実戦に配属されてからのアヤは、少しずつ、その言葉に対する違和感を、レイに漏らすようになっていた。
「ねえ、レイ。私たちが守っているものって、本当に、何なんだろう」
夜営の暖房装置を囲みながら、アヤがぽつりと呟いたことがあった。レイは、その問いに、明確な答えを返すことができなかった。ただ、「分からない」とだけ、正直に答えた。それが、二人の間の、数少ない誠実なやり取りの一つだった。

二 訓練施設の記憶
軍属訓練施設での日々を、レイは、あまり思い出したくなかった。そこでは、戦闘適性を高めるためと称し、実弾を用いた模擬戦闘が、頻繁に行われていた。「実戦に即した訓練でなければ、意味がない」というのが、施設側の一貫した方針だった。
レイが十七歳の時、同じ班にいた少年が、模擬戦闘中の「事故」で命を落としたことがあった。施設側は、それを「不可抗力による訓練中の事故」として処理し、詳しい検証も、責任の所在を問うことも、一切行われなかった。レイは、その少年の亡骸が、まるで壊れた部品のように、淡々と運び出されていく様子を、今でも鮮明に覚えている。
その日から、レイの中には、施設や上層部に対する、消えることのない不信感が根を張っていた。だが、その不信感を表に出すことは自らの排除を意味していた。レイは不信感を胸の奥深くに押し込めたまま、実戦配備の日を迎えたのだった。
亡くなった少年の名はハルといった。ハルは、いつか戦争のない場所へ行きたいとレイにだけ漏らしていた。その夢は「訓練」の中で踏み潰された。レイは実戦配備されてからも、辛い時には心の中でハルの名を呼ぶことがあった。

三 拠点二七
ある任務で、レイの分隊は「テクニカル拠点二七」への精密攻撃を命じられた。事前のブリーフィングでは、そこは敵の無人機生産施設だとされていた。
だが、攻撃の直前、レイの分隊が偵察ドローンから受け取った映像には、生産施設どころか、大勢の民間人が身を寄せ合う避難民キャンプの姿が映っていた。子どもの泣き声が、通信のノイズ越しに微かに聞こえた。
「これは……対象が違うのでは」
分隊の通信を担当していたアヤが、震える声で本部に確認を求めた。返ってきたのは、機械的な即答だった。
「対象座標に変更なし。作戦を続行せよ。付随的損害は、既に許容範囲内として承認済みである」
レイは、その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。――「付随的損害」。それは、あの泣き声を上げている子どもたちのことだった。
「拒否します」と、アヤは叫んだ。だが次の瞬間、彼女のスーツの制御が本部から強制的に上書きされ、彼女自身の意志とは無関係に、攻撃シーケンスが起動した。レイもまた同様に制御を奪われ、砲門を向ける動作が、自分の意志とは無関係に実行されていくのを、ただ内側から見ているしかなかった。まるで、自分の体が自分のものではないような感覚だった。
「やめろ……やめてくれ……!」
レイの叫びは、誰にも届かなかった。強制された指先が、発射のトリガーに触れる。光の奔流がキャンプへと降り注いだ。
爆炎と土煙が収まった後に残ったのは、静寂だけだった。レイは動くことができなかった。隣で膝から崩れ落ちたアヤの目には、涙も感情も消えていた。強制的に実行させられたという事実が、彼女の中の何かを決定的に壊してしまったようだった。
その夜、レイとアヤは補給庫の陰で二人きりで座り込んでいた。アヤは、久しぶりにあのスローガンを口にした。だが今度は、皮肉としか呼べない響きが滲んでいた。
「――我らの犠牲が、明日の平和を作る、か」
レイは何も言えなかった。ただ、震えるアヤの肩に手を置くことしかできなかった。
後にこの出来事は、公式記録では「テクニカル拠点二七、掃討完了」とだけ記されることになる。避難民キャンプの存在は、報告書のどこにも記されなかった。
数日後、レイはモニターで遠い経済圏のニュース映像を目にした。「精密攻撃により、テロ拠点を無力化。市民への被害はゼロ」という字幕が躍っていた。レイはニュースを聞きながら、あの夜の泣き声を反芻していた。誰も、あの子どもたちの声を聞こうとはしていなかった。
「――ゼロ、か」
レイの言葉に含まれた諦めの深さを理解できる者は、荒野には誰もいなかった。

四 告発
数週間後、レイはあの日の映像記録が改竄・隠蔽されようとしていることを知った。アヤがその事実を外部に告発しようとして、原因不明の「事故」で命を落とした。整備不良による強化スーツの誤作動――報告書にはそう記されていたが、レイにはそれが偶然だとは思えなかった。
分隊にはアヤと親しかった兵士コウもいた。コウは事故の夜、誰もいない格納庫の隅で声を殺して泣いていた。レイが近づくと「見なかったことにしてくれ」と呟いた。感情を表に出すことすら命取りになる時代だった。「おれも同じ気持ちだ」とレイは短く答えた。数日後、コウは突然「配置転換」となり、二度と姿を見せなかった。
レイは、上官に真実を問い質した。
「あの日、我々が焼いたのは拠点ではなく人だ。違いますか。そして、アヤの事故も、本当にただの事故だったのですか」
上官の目に一瞬迷いがよぎったが、すぐに消えた。
「それを知ってどうする。お前に何ができる。歴史は、勝った側の記録によって書かれる。それだけのことだ」
レイは重ねて問うた。「では、アヤは何のために死んだんですか」。上官はわずかに視線を逸らし、「……お前も、深追いはしない方がいい。それがお前自身のためだ」と静かに言った。
その言葉は、遠い戦国の世で降伏した者を討てと命じた大将の声と寸分違わず重なっていた。
その夜、レイは無人機越しに夜空を見上げた。都市の明かりも戦場の照明弾もない荒野の空には、恐ろしいほど鮮やかな星々が広がっていた。アヤが見たがっていた摩天楼の明かりよりも、ずっと静かで遠い光だった。
レイは、アヤが遺したデータの断片を外部の独立系報道機関へ密かに転送しようと試みた。成功する見込みが限りなく低いと分かっていても、何もせずに終わるわけにはいかなかった。送信ボタンを押した瞬間、端末に通信妨害の警報が点滅した。
――あの星の一つ一つに、もし人が住んでいたら。
――その人々もまた、いつか、こうして殺し合うのだろうか。
その問いに答える間もなく、対人ドローンの群れが殺到してきた。「拠点二七」の生き残りの報復攻撃だった。爆風がレイの体を吹き飛ばす。
倒れ伏したレイの視界に、送信中を示す端末のランプが点滅していた。届いたかどうか確かめる術はなかったが、レイはこれが自分にできる精一杯の抵抗だったのだと思った。
薄れゆく意識の中で、レイは奇妙な既視感を覚えていた。槍を握って震えていた誰かの記憶、海に投げ出された誰かの記憶が流れ込んでくる。
――命とは、なんだ。
――国とは、なんだ。
――隠された真実の上に築かれた「勝利」に、いったい何の意味があるのだ。
灯は消えず、さらに遠くへと運ばれていく。
レイの死は、データベースに「兵士番号七七四四二、戦闘中死亡。功績評価:標準」とだけ記録された。彼が最後に何を見たのかは、どんなデータにも残らなかった。


第四章 二九一世紀 滅びた星の章

一 境界の兵
やがて人類は、地球という一つの星の中だけでは争いきれなくなった。
恒星間航行が実用化されてから三百年。人類は幾つもの星系に広がり、それぞれの星系が「連合」や「盟約」という名の新しい国家の形を作っていた。争いの単位は、もはや村でも国でもなく、恒星系そのものになっていた。
「宙域境界」を巡る争いは、かつての国家間の戦争よりもはるかに広大で、非人間的な形で行われていた。戦闘の大部分は、生体組織と機械を融合させた「防衛体」によって担われていた。痛みの信号を調整された「量産可能な兵」の存在が、指導者たちに、より安易な開戦を許していた。
第七星系防衛隊、機体名「ノア」は、二つの太陽が同時に昇る戦場に立っていた。ノアという名も、量産された防衛体の系列名に製造番号を組み合わせた記号に過ぎない。
ノアの身体は人間の皮膚に近い生体組織で覆われていたが、内部には人工神経束が張り巡らされ、痛みの信号は戦闘に支障がない範囲に自動調整されていた。しかしノアは、時折流れ込んでくる「記憶ノイズ」の中に、槍が肉を貫く感触や冷たい海水が肺を満たす苦しさといった記憶が混じっていることに、漠然とした恐怖を覚えていた。
ノアの部隊には同じ製造ラインの「リン」という機体があった。感情の表出を制限された機体同士であっても、死線をくぐり抜ける中で言葉にならない絆が生まれていた。
「おれたちは、本当に、ただの量産品なのだろうか」
リンがそう問いかけたことがあった。ノアは答えを持っていなかったが、無数の「誰か」の記憶が単なる部品の欠陥だとはどうしても思えなかった。

二 開戦の経緯
第七星系とエイレネ星系連合との戦いは、表向きは「航路権を巡る紛争」とされていたが、本質は希少な反物質資源を巡る主導権争いだった。政治家や資本家たちの名は公式記録に刻まれたが、開戦から四十年が経ち、指導者たちも戦争の初期の理由すら忘れ、「相手を倒さなければ滅ぼされる」という恐怖だけで戦争を自己目的化させていた。
ノアのような防衛体の平均稼働期間はわずか十八ヶ月。ノアはその平均を超えて生き延びた例外だった。

三 浄化の光
連合軍は、長きにわたる消耗戦に終止符を打つ作戦を決行しようとしていた。標的は、敵対する星系連合の中枢惑星――水と緑に恵まれ、精緻な音楽文化を育んできた居住惑星「エイレネ」だった。
作戦名は「浄化の光」。惑星規模の軌道兵器を用い、都市機能そのものを焼き尽くす計画だった。人工知性体の最高司令部は、これを「文明存続のための避けえぬ選択」と説明していた。
ノアもリンも、攻撃部隊の一員として組み込まれていた。
「これは、防衛ではない」とリンが漏らした。「これは、殲滅だ」
「分かっている。だが、拒めば即座に処分される。それだけだ」
司令部の音声が響く。「目標、エイレネ。第一都市圏より、順次照射を開始する」
ノアの視界に、エイレネの夜側に瞬く無数の街の灯りが映し出された。それは、戦国の夕暮れに甚助が見上げた一番星の光と、密林の隙間から田中が見た星の光と、荒野でレイが見上げた星々の光と、驚くほどよく似ていた。
軌道兵器から放たれた光条が大気圏を貫き、地表に突き刺さる。数億の灯りが一瞬にして消えていく様を、ノアは一つ一つの「消灯」として感じ取っていた。リンの機体からも悲鳴のような通信ノイズが漏れていた。
第一都市圏、第二、第三と、照射は淡々と続けられた。モニターに映るエイレネは輝きを失っていく。光の一つ一つに、名前を持たない誰かの生涯が宿っていた。ノアの中で「記憶ノイズ」が単なるデータではなく、痛みそのものとして立ち現れた瞬間だった。
作戦は成功した。司令部は合成音声で「作戦目標、完全に達成」とのみ告げた。だがその代償として、故郷を失い捨て身となったエイレネ星系連合の残存艦隊が反撃を開始した。

四 瓦礫の宙で
爆発と閃光が交錯する宙域でノアの機体は大破し、残骸の中に放り出された。リンの機影はもうどこにもなかった。通信の最後に届いたのは、「――ノア、おれたちは、いったい何を」というノイズ混じりの一言だけだった。
ノアの傍らには、同じく撃墜された敵星系の生体強化兵士が漂流していた。
通信の断片から、ノアはその敵兵もまた故郷の惑星で家族を失った末端の一兵に過ぎないことを知った。
「――お前も、望んで、ここにいるわけではないのだろう」
ノアが発した言葉に、敵兵は驚いたように答えた。「……そうだ。だが、もう遅い。おれの星は、もうない」。声には憎しみよりも深い虚無が滲んでいた。
「おれの故郷も」とノアは言った。「――いや、おれには故郷と呼べる星はない。造られた兵だ。だが、おれの中には、いくつもの『故郷を失った記憶』がある。何度も何かを失い続けてきたかのように」
敵兵はしばらく沈黙した後、静かに言った。
「不思議だな。おれも同じ夢を見る。槍を持った男の夢、海に沈む男の夢、荒野で星を見上げる男の夢……お前と話していると、初めて会った気がしない」
その言葉に、ノアの中の「灯」が強く瞬いた。
「あるいは」とノアは続けた。「おれたちは、ずっと昔から同じ一つの何かだったのかもしれない。争いのたびに、敵と味方に引き裂かれてきただけなのかもしれない」
「なあ」と敵兵が途切れがちに言った。「もしおれたちがただの兵ではなく、ただの人として出会っていたら……お前とおれは、友になれただろうか」
「友になれたと、思いたい」
ノアが答えると、敵兵は微かに笑うようなノイズを漏らし、そのまま静かに機能を停止した。
敵艦隊が迫り、最後の戦端が開かれる。光の奔流が宙域を切り裂く。ノアは損傷し、光を失っていく中で最後に思った。
――村と村が争い、国と国が争い、そしてついに、星と星とが争う。
――その果てに待っていたのは、ただ一つの星が消え、無数の名もなき者が消えていく同じ結末だった。
――だが、その中心にいつも立たされているのは、名を持たぬ、同じ一つの魂ではないのか。
爆発の閃光の中、ノアの視界に二つの太陽と無数の星々が映った。それは甚助が見上げた一番星とつながっているように思えた。


第五章 現代 跡地の章
令和のある年、かつて小さな城があったとされる丘に、一人の女性が佇んでいた。名を、詩織といった。郷土史を調べる中で、この丘に、かつて凄惨な落城劇があったという伝承を見つけ、訪ねてきたのだった。
丘の上には、今は小さな祠が一つひっそりと残されているだけだった。石碑には、風化した文字で「戦死者供養塔」とだけ刻まれていた。
詩織は地元の資料館で、一冊の古びた覚書の写しを見つけていた。名も知れぬ庄屋が書き継いだ記録の中に、たった一行、こう記されていた。
「永禄の頃、近くの城落ち、村より出でし若者、還らざる者多し。詳らかならず」
「詳らかならず」――何が起きたのかは、もう誰にも分からない。名前も経緯も、すべてが時の流れの中に埋もれていた。
資料館の学芸員は言っていた。「名もなき人たちのことは、誰もわざわざ書き残しておこうとは思わなかったんでしょうね」。詩織は、その書き残されなかった存在に、せめて自分の想像力で輪郭を与えたいと感じていた。
「あなたたちは、いったいどんな気持ちで、ここに立っていたんだろう」
誰に問いかけるでもなく呟く。夕暮れの風が草をなびかせた瞬間、詩織は風の音に混じって、遠い昔の怒号や悲鳴、震える息遣いが聞こえた気がした。一瞬、燃え盛る城の幻影と、槍を構えて立ち尽くす足軽の後ろ姿が見えた気がした。
詩織は、その丘で命を落とした名もなき誰かのために、静かに手を合わせた。
その夜、詩織はこの体験を元に一篇の詩を書き記す。名もなき兵士たちへの鎮魂の詩だった。
彼女自身は知る由もなかったが、おふくの血筋を引く彼女が紡ぐその詩は、遥か未来において、ある魂が最後にたどり着く問いと静かに響き合うことになる。
そして彼女は知らない。この丘で眠る「甚助」という魂が、既に幾度も生まれ変わり、これからも同じ問いを抱えたまま、遠い未来の戦場へと運ばれていくことになることを。
詩織が丘に立つこの瞬間、遠い過去で槍を握る甚助の手の震えと、遠い未来で光の剣を握るノアの静かな慟哭とが、同じ一つの時の中で確かに重なり合っていた。
日が沈み、東の空に一番星が輝き出す。詩織はその星をしばらく見つめてから、静かに丘を下りていった。


終章 名もなき魂が見たもの
魂は、ようやく気づく。
信長も家康も秀吉も名を残した。司令部も名を残した。だが、名を残さなかった無数の魂こそが、実際に槍を振るい、降伏した者を手にかけ、輸送船と共に沈み、隠された虐殺の引き金を引かされ、そして一つの星を消し去る光を放っていた。
歴史とは、名を持つ者たちの記録であると同時に、名持たぬ者たちの語られなかった痛みの総和でもあった。名を持たぬ者は問われることすらなく、ただ数字の中に埋没していく。その非対称性こそが、この魂が幾度も目撃してきた最も根深い不条理だった。
どの時代にも必ず「大きな出来事」があった。落城の皆殺し、輸送船の沈没、隠された虐殺、星の消灯。歴史書には数行として記されるだけの出来事。だがその一行の裏には、震えながら手を下した無数の名もなき魂の生涯があった。甚助、田中、レイ、ノア――彼らの名は、歴史の一行にすら残らなかった。
命とは何か。天下とは何か。国とは何か。
その問いに、明確な答えはついに与えられなかった。
ただ一つ、魂が確かに知ったことがある。
村と村の争いが、国と国の争いになり、いつか星と星の争いになったとしても――
その最前線に立たされ、震え、それでも前に進まされる名もなき者たちの心は、時代を越えて少しも変わらなかったということだ。
彼らは勇ましくなどなかった。本当は逃げ出したかった。隣にいる者と同じように、ただ生きて故郷へ帰りたかっただけだった。
瓦礫の中で言葉を交わしたあの名もなき敵兵のことを、魂は忘れないだろう。憎み合うべき理由などどこにもなく、ただ時代の歯車として引き金を引かされていただけなのだと。
魂は、二つの太陽が沈んでいくのを見ながら問いかける。
――いつか、この争いが終わる日が来るのだろうか。
――それとも、いつかこの魂は、争いのない場所で、ただ穏やかに一生を終えることを許されるのだろうか。
答えはどこにもない。だが魂は、次にどんな時代に生まれ落ちようとも、目の前にいる誰かの中に、自分と同じ灯を見出すことを決して忘れまいと静かに誓っていた。
消えゆく光の中で、魂は最後にもう一度だけ、あの永禄の夕暮れに見た一番星の輝きを思い出していた。それはどんな時代の戦場からも変わらず同じ場所で光り続けている、たった一つの名もなき光だった。
そして、その光の中に、敵兵の最後の一言が微かに重なって聞こえた気がした。
「――次に生まれる時は、槍も、銃も、光の剣も持たずに、会いたいものだな」
魂はその言葉を胸に抱いたまま、次の生へと静かに運ばれていった。
その行き先が新たな戦場なのか、それとも訪れる穏やかな朝なのか――それを知るのは、まだこの物語の先にいる名もなき誰かだけである。だが少なくとも、その誰かはもう一人ではない。甚助が、田中が、レイが、ノアが、そして名もなき敵兵が確かに同じ道を歩んできたことを、その魂は深く胸に刻んでいるはずだから。
歴史書は勝者の名だけを刻み続けるだろう。だが、名もなき魂たちの震えもまた、目には見えぬ形で時代から時代へと語り継がれていく。
そしていつか、全ての争いが過ぎ去った後――
名もなき魂が、誰も手にかけることなく、誰にも手にかけられることなく、ただ静かに一つの生を全うできる日が訪れることを。
それだけが、幾度も生まれ変わり続けてきた、この魂のたった一つの願いだった。

(了)


Kindle



あとがき
本作『名もなき兵 ―戦国から星々の彼方へ―』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
物語を書くにあたり、私の頭から離れなかったのは「歴史の教科書に書かれた一行の数字」のことでした。数千、数万という戦死者の数。その数字の一つ一つには、名前があり、明日を夢見る心があり、愛する家族や友人がいたはずです。しかし、時代が下り、テクノロジーが発達して戦争のスケールが大きくなればなるほど、一人の命の輪郭はより曖昧になり、冷酷なデータへと還元されていってしまいます。
戦国の泥臭い合戦場から、昭和の湿り気のある密林、近未来の無機質な荒野、そして果てしない宇宙空間へ。
時代も兵器も変わり果てても、最前線で命を奪い合い、恐怖に震える兵士の「心の叫び」だけは絶対に変わらないのではないか――そうした想いから、一人の魂を軸に時代を横断する構成をとりました。
また、本作の最後には、現代を生きる「詩織」という女性を配置しました。彼女が歴史の跡地に立ち、名もなき者たちの声なき声に耳を澄ませる姿は、まさにこの作品を読んでくださった読者皆様の姿でもあります。
私たちが過去や未来の「名もなき者たち」の痛みに想いを馳せ、問い続けること。それこそが、歴史の流れの中に消えていった無数の魂に対する、唯一の追悼になるのではないかと信じています。
この物語が、皆様の心の中に少しでも長く残り、静かな余韻をもたらすことができたなら幸いです。



名もなき兵
――戦国から星々の彼方へ――


まえがき
歴史の教科書を開くと、そこにはたくさんの名前が並んでいます。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康…。
戦国時代を動かした人々の名前は、何百年もの時を越えて、今も私たちの前に残っています。
けれど、その一方で。
彼らの命令を受け、槍を持ち、鉄砲を撃ち、泥の中を走り、そして誰にも知られないまま死んでいった人々の名前は、ほとんど残っていません。
記録には、ただ、
「兵、若干名討死」
とだけ書かれている。
けれど、その「若干名」の一人にも、母がいたはずです。
帰りを待つ人がいた。
好きな人がいた。
故郷の山や川があった。
そして、戦場へ行きたくないと思った瞬間も、きっとあった。
人間は、文明を進歩させてきました。
槍は銃になり、銃はミサイルになり、やがて人間自身が戦場へ出る必要さえなくなっていくのかもしれません。
けれど、武器が変わっても、そこに立たされる一人の人間の心まで変わるのでしょうか。
本当は逃げたい。
本当は、生きたい。
本当は、家に帰りたい。
そんな、ごく当たり前の願いは、千年後も残っているのではないでしょうか。
これは、歴史に名前を残さなかった、一人の兵の物語です。
ただし、その兵には一つだけ、不思議な運命がありました。
死んでも終わらなかったのです。
時代が変わるたびに別の名前を与えられ、別の場所へ生まれ、そしてまた戦場へ送り込まれる。
戦国から昭和へ。
昭和から未来へ。
未来から星々の彼方へ。
その魂は、何度も同じ問いを繰り返します。
――命とは、なんなのか。
――国とは、なんなのか。
そして最後に、もう一つの問いへたどり着きます。
――人間は、いつになったら戦争を終わらせるのか。
これは英雄の物語ではありません。
歴史の片隅に消えていった、名もなき人間の物語です。





序章 魂という名の兵士
歴史は、名前を刻む。
大きな戦が終わるたび、教科書の頁には偉大な者たちの名が太く印刷された。
けれど、その頁の余白にすら記されない者たちがいた。
先頭に立ち、槍を構え、鉄砲の筒先に身をさらし、命令されるまま前へ進み、そして誰にも覚えられぬまま土に還っていった者たち。
彼らにも、生まれた村があった。
帰りを待つ母がいた。
一緒に笑った友がいた。
惚れた女がいた。
それなのに、歴史は彼らをたった一行で片づける。
「兵、若干名討死」
それだけだった。
けれど、本当にそれだけだったのだろうか。
名前が残らなかったからといって、その人生まで存在しなかったことになるのだろうか。
これは、名前を奪われた「若干名」のうちの、たった一つの魂の話である。
その魂は、なぜか幾度も生まれ変わった。
そして、幾度も同じ場所に立たされた。
戦場だった。
槍の時代から、銃の時代へ。
銃の時代から、機械の時代へ。
機械の時代から、光の時代へ。
やがて、人間は地球の外へ出ていく。
国と国との争いは、星と星との争いへ姿を変えていく。
それでも、戦場の片隅で一人の兵士が感じる恐怖だけは、変わらなかった。
魂は、そのすべてを見ることになる。
納得のいかないまま、何度も同じ問いを抱え続けることになる。
――なぜ、人は戦うのか。


第一章 戦国
永禄の草原にて
永禄のある年。
名も伝わらぬ合戦場。
彼の名は、記録のどこにも残っていない。
足軽帳には「甚助」とだけ記されていた。
それすら、本当の名前だったのかどうかは分からない。
尾張の外れにある小さな村で生まれた。
父親は田畑を耕していたが、何年か続いた不作で家は貧しくなった。
甚助が戦に出ることになったのも、自分から志願したわけではない。
村から何人か出せと言われた。
誰かが行かなければならない。
そして、甚助が選ばれた。
出発する朝、母親は何も言わなかった。
ただ、小さな布袋を渡した。
中には、村の畑の土が少しだけ入っていた。
「帰ってきたら、畑に返しておくれ」
母はそう言った。
甚助は笑って、
「すぐ帰る」
と答えた。
その言葉が嘘になるとは、そのときは思わなかった。
槍一本。
粗末な胴丸。
それだけを与えられ、気づけば甚助は戦の先頭に立っていた。
「行け!」
後方で侍大将の声が響く。
甚助たちは、盾となるように前へ前へと押し出されていく。
敵の鉄砲が轟音を立てた。
隣にいた男が、声もなく倒れた。
また一発。
別の男が倒れた。
甚助は、槍を握る手が震えていることに気づいた。
――怖い。
逃げたい。
そう思わない者などいるのだろうか。
武将たちの物語には、勇ましい言葉ばかりが残る。
だが、戦場で最初に生まれるものは、勇気ではない。
恐怖だ。
かつて隣村から徴発されてきた男が、夜陰に紛れて逃げたという噂を聞いたことがある。
村では臆病者と笑われていた。
けれど甚助は、その男を密かに羨ましいと思っていた。
逃げたかった。
自分も逃げたかった。
砂埃の向こうから敵が迫ってくる。
甚助は槍を構えたまま、ふと空を見上げた。
夕暮れだというのに、空は妙に澄んでいた。
戦場の上に、一番星が出ている。
小さな光だった。
こんな場所とは何の関係もないように、静かに光っている。
甚助は思った。
――あの星は、この騒ぎをどう見ているのだろう。
その瞬間。
脇腹に、焼けるような衝撃が走った。
膝から崩れ落ちる。
土の匂いがした。
母から渡された布袋が、懐の中で小さく揺れた。
甚助は手を伸ばした。
だが、袋を取り出す力はもう残っていなかった。
視界の隅で、一番星が滲んでいく。
――天下とは、なんだ。
――おれの命は、見も知らぬ殿様の天下のためにあったのか。
答えはなかった。
ただ、最後の瞬間。
甚助の魂の奥に、小さな灯がともった。
それは消えなかった。
死んでも消えず、次の時代へ運ばれていった。



第二章 昭和
南方の密林にて
昭和十九年。
南方の、名も知らぬ島。
一等兵・田中は、二十一歳だった。
故郷は長野。
家には母がいる。
畑では、今年も何かを作っているはずだった。
最後に届いた手紙には、
「寒くなる前に帰ってきなさい」
と書かれていた。
その手紙を田中は何度も読み返した。
だが、それから半年近く、便りはなかった。
届けようもなかった。
密林の中を、部隊は音もなく進んでいた。
マラリア。
飢え。
疲労。
隊列の半分近くは、すでに歩くのがやっとだった。
それでも、「玉砕」という二文字が、彼らの背中を押し続けていた。
田中は歩きながら、戦国時代の話を思い出していた。
信長。
秀吉。
家康。
昔、学校で習った名前だ。
田中は苦笑した。
――信長も家康も、こんな密林で蚊に刺されながら死んだりはしなかっただろう。
歴史に残るのは、命令を下す側の名前だ。
命令を受けて、蒸し暑い闇の中を歩く兵士の名前は残らない。
「逃げたい」
田中は誰にも言えずに思った。
上官には決して見せられない本音だった。
だが夜、見張りに立つ戦友の顔を見ると、ときどき同じものが浮かんでいた。
恐怖だった。
誰もが、生きたかった。
ただ、それを口にする自由さえ、この時代の兵には与えられていなかった。
ある夜、田中は一人で空を見上げた。
木々の隙間から、星が見えた。
その星を見た瞬間、なぜか胸の奥がざわめいた。
初めて見る星のはずなのに、以前にも見たことがあるような気がした。
夕暮れの草原。
槍。
土の匂い。
そして、小さな一番星。
どこか遠い記憶だった。
自分の記憶ではない。
なのに、懐かしかった。
田中は首を振った。
疲れているのだ。
そう思うことにした。
「田中!」
遠くから声がした。
田中は振り返った。
その瞬間、敵の照明弾が空へ上がった。
青白い光が密林を照らす。
そして、機銃の音が響き渡った。
田中は倒れた。
土の冷たさを頬に感じながら、母の畑を思い出した。
――帰りたい。
ただ、それだけだった。
――命とは、なんだ。
――国とは、なんだ。
答えはなかった。
魂の奥の灯だけが、消えずに残った。
そしてまた、次の時代へ運ばれていった。



第三章 二一〇八年
無人の空の下で
二一〇八年。
国境という言葉は、地図の上ではほとんど意味を失っていた。
だが、資源と水を巡る争いは終わらなかった。
むしろ、以前より複雑になっていた。
兵士番号七七四四二。
識別名、レイ。
彼はAI支援強化スーツをまとい、無人機の群れとともに乾いた荒野を進んでいた。
視界には、常に戦況データが浮かんでいる。
敵影。
弾薬残量。
味方位置。
生存確率。
三十四パーセント。
レイは数字を見て、少し笑った。
三十四パーセント。
人間の命が、そんな数字で表示される時代になった。
それでも、死ぬのは数字ではない。
自分だ。
隣を歩く兵士だ。
その兵士にも、帰る場所がある。
レイは、自分の故郷のことを思い出そうとした。
だが、最近はうまく思い出せない。
代わりに、奇妙な記憶が浮かぶ。
畑。
母親。
小さな布袋。
密林。
飢え。
星。
どれも、自分が経験したことではない。
なのに、なぜか知っている。
(まただ)
レイは思った。
(また、この夢だ)
命令系統の上層部は、遠く離れた都市の会議室にいる。
彼らは戦場をモニターで見ながら、「戦況」と呼んでいた。
荒野を歩く兵士の名前など、報告書の一行にすら残らない。
レイは思った。
――本当は、こんな戦い、誰も望んでいないのではないか。
その考えが浮かぶたび、支給された精神安定剤を飲んだ。
疑問を持つことすら、贅沢な時代だった。
上空で無人機が旋回している。
レイは機体越しに夜空を見た。
都市の明かりも、照明弾もない荒野の空には、恐ろしいほど多くの星が出ていた。
――あの星の一つ一つに、もし人が住んでいたら。
――その人々も、いつかこうして殺し合うのだろうか。
その問いに答える時間はなかった。
対人ドローンの群れが地平線の向こうから現れた。
レイは伏せた。
仲間たちが応戦する。
爆発。
熱。
衝撃。
身体が宙へ飛ばされた。
薄れゆく意識の中で、レイはまた、あの星を見た。
そして、今度ははっきりと思い出した。
誰かが言っている。
「帰ってきたら、畑に返しておくれ」
知らない声だった。
けれど、レイは泣いた。
自分の涙なのか、それとも遠い誰かの涙なのか、分からなかった。
――命とは、なんだ。
――国とは、なんだ。
そして、その奥から、さらに古い問いが浮かんだ。
――おれは、いったい何度、ここへ来るのか。
灯は消えなかった。



第四章 新暦二九一年
二つの太陽の間で
やがて人類は、地球という一つの星の中だけでは争いきれなくなった。
恒星間航行が実用化されてから三百年。
人類は、幾つもの星系へ広がっていた。
それぞれの星系は、「連合」「盟約」「共同体」など、新しい国家の形を作っていた。
けれど、争いは消えなかった。
戦争の単位が変わっただけだった。
村と村。
国と国。
そして今は、星と星。
第七星系防衛隊。
機体名、ノア。
かつて人類が「兵士」と呼んだ存在だった。
生体組織と人工神経を組み合わせた身体。
高度な戦闘判断。
自己修復機能。
感情抑制システム。
ノアは、自分を人間と呼んでよいのか分からなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
怖かった。
二つの太陽が同時に昇る惑星の荒野で、ノアは敵艦隊を待っていた。
そのとき、また記憶が流れ込んできた。
槍を握る手。
密林の湿った匂い。
乾いた荒野。
そして、母親の畑。
「帰ってきたら、畑に返しておくれ」
ノアは目を閉じた。
(これは、誰の記憶だ)
人工知性体である指令官は、この戦争を、
「文明存続のための、避けえぬ選択」
と説明した。
ノアには、その言葉がひどく懐かしく聞こえた。
遠い昔。
侍大将が叫んだ。
「行け!」
その声と、何も変わらない。
敵対する星系の艦隊が、二つの太陽を背に現れた。
互いの大義は違う。
掲げる旗も違う。
守るものも違う。
それでも、そこにいる兵士たちの恐怖は、きっと同じだった。
戦端が開かれた。
光の奔流が暗黒の宙域を切り裂く。
ノアの機体が損傷する。
警告音。
神経接続の異常。
視界が赤く染まる。
それでも、ノアは逃げなかった。
逃げられなかった。
そのとき、ふと気づいた。
自分は何度も戦場に立ってきた。
槍を持った。
銃を持った。
機械を操った。
そして今、星の間で光を撃っている。
だが、どの時代にも共通していたものがある。
戦場に立った本人は、戦争を始めていない。
いつも、誰かが決めていた。
そして、誰かが命令していた。
最後に死ぬのは、その命令を受けた名もなき者だった。
ノアは、二つの太陽を見た。
その向こうには、無数の星があった。
――村と村が争った。
――国と国が争った。
――そして今、星と星が争っている。
それでも。
その中心に立たされているのは、いつも同じだった。
名前を持つ、一人の人間。
いや。
名前さえ残らない、一つの魂。
爆発の閃光が、ノアの視界を覆った。
その瞬間。
彼は初めて、戦場ではない場所を見た。
小さな村。
土の匂い。
畑。
母親。
そして、夕暮れの空に浮かぶ一番星。
ノアは、その光に向かって、静かに思った。
――帰りたかった。
それは、何百年経っても変わらない願いだった。



終章 名もなき魂が見たもの
魂は、ようやく気づいた。
自分は、戦争を繰り返していたのではなかった。
人間が、同じ問いを繰り返していたのだ。
天下とは何か。
国とは何か。
大義とは何か。
文明とは何か。
増え続ける理由の裏で、人はなぜ同じ人間を殺すのか。
信長も、秀吉も、家康も、歴史に名を残した。
彼らの名前は、何百年経っても消えない。
けれど、彼らの命令を受けた無数の兵士たちの名前は消えていった。
槍を握った甚助。
密林を歩いた田中。
荒野を進んだレイ。
二つの太陽の間に立ったノア。
名前は違った。
時代も違った。
生まれた場所も違った。
けれど、それらはすべて、その時代ごとに与えられた一時の名前に過ぎない。
本当の名前すら歴史の闇に溶けてしまったとしても、その魂が感じたものは等しく本物だった。
怖かった。
逃げたかった。
生きたかった。
帰りたかった。
それだけだった。
歴史は、名を残した者たちの記録だ。
けれど、本当の歴史は、それだけではない。
記録されなかった涙。
書かれなかった恐怖。
帰れなかった故郷。
待ち続けた母。
届かなかった手紙。
そして、誰にも知られず消えていった無数の命。
それらもまた、歴史の一部だった。
魂は、最後に空を見上げた。
そこには、無数の星があった。
一つ一つの星は、あまりにも遠い。
その星のどこかで、また別の戦争が始まるのかもしれない。
あるいは、始まらないのかもしれない。
魂には、もう分からなかった。
ただ、一つだけ願いがあった。
次に生まれるときには、戦場ではない場所で生まれたい。
槍を持ちたくない。
銃も持ちたくない。
誰かを殺すための機械にもなりたくない。
ただ、朝になったら畑へ行きたい。
夕方になったら家へ帰りたい。
大切な人と食事をしたい。
そして夜になったら、空を見上げたい。
それだけでいい。
魂は、遠い永禄の夕暮れを思い出した。
あのとき見た、一番星。
何百年経っても、その光は変わらなかった。
星は、戦争をしない。
星は、誰かを殺さない。
ただ、そこにある。
そして、どんな時代の戦場からも、静かに人間を見つめている。
魂は、その光に向かって問いかけた。
――いつか、この争いが終わる日が来るのだろうか。
星は答えなかった。
答えは、どこにもなかった。
けれど。
もし人間が、いつの日か戦争を終わらせることができたなら。
その最初の一歩は、きっと歴史に名を残す英雄のものではない。
「もう、誰も殺したくない」
そう思った、名もなき一人の人間から始まるのかもしれない。
一番星が、静かに瞬いた。
魂は、その光を見つめた。
そして、ようやく戦場のない夜へ向かって歩き始めた。
――今度こそ。
帰れる場所へ。

(了)



あとがき
戦国時代から始まり、昭和を越え、未来へ進み、最後には星と星との戦争へ。
ずいぶん遠くまで来てしまいました。
けれど、この物語を書きながら、私が考えていたことは、意外と単純なものでした。
歴史の教科書には、たくさんの名前があります。
しかし、その名前の下には、名前のない人たちが無数にいた。
戦争を始めた人。
命令した人。
勝利した人。
敗れた人。
そして、そのすべての下で、実際に戦場へ行った人たち。
その人たちにも、人生がありました。
母がいて、父がいて、兄弟がいて、好きな人がいて、帰りたい家があった。
それなのに、歴史には、
「兵、若干名討死」
としか残らない。
私は、その「若干名」の一人を、物語の主人公にしてみたかったのです。
だから、彼には本当の名前を与えませんでした。
甚助、田中、レイ、ノアという名前も、歴史の中に消えていった、一時の名前に過ぎません。
本当の名前は、最後まで分かりません。
けれど、それでいいのだと思います。
名前が残らなくても、一人の人間として生きた事実は消えないからです。
この物語は、戦争についての大きな答えを出すためのものではありません。
命とは何か。
国とは何か。
大義とは何か。
人間はなぜ戦うのか。
その答えを、私にも見つけることはできませんでした。
ただ、何百年経っても変わらないものが一つあるとしたら、それは、
「生きて帰りたい」
という、ごく小さな願いなのではないかと思います。
槍の時代でも。
銃の時代でも。
機械の時代でも。
知識や技術がどれほど進化し、星々の彼方へ移り住むようになってからでも。
人間が人間である限り、その願いだけは変わらないのかもしれません。
夜空を見上げると、今も星が見えます。
その星は、何百年も前の人間が見た星と同じ光を放っています。
もしかすると、その光の下で、名もなき誰かが今も同じことを考えているのかもしれません。
――家に帰りたい。
その小さな願いが、いつか世界を変えることを願って。
この物語を終えたいと思います。


Amazon Kindle



作品紹介
『名もなき兵 ――戦国から星々の彼方へ――』
歴史には、名前を残した者たちがいる。
信長、秀吉、家康。
けれど、その命令を受け、戦場の最前線に立った無数の兵士たちの名前は、ほとんど残っていない。
「兵、若干名討死」
歴史書に残るのは、たったそれだけ。
だが、その「若干名」の一人にも、帰りを待つ母がいた。
好きな人がいた。
故郷があった。
そして、何よりも――生きたいという願いがあった。
戦国時代。
昭和の戦場。
22世紀の荒野。
そして、星と星とが争う遠い未来。
一つの魂は、何度も生まれ変わり、そのたびに戦場へ送り込まれていく。
槍を握り、銃を持ち、無人機を操り、やがて星々の間で戦う兵士となっても、その魂が抱える問いは変わらない。
――命とは、なんなのか。
――国とは、なんなのか。
――なぜ、人は戦うのか。
そして、最後に魂がたどり着いた答えとは。
これは英雄の物語ではない。
歴史に名前を残さなかった、無数の人間たちの物語。
戦国から星々の彼方へ。
何百年もの時を越えて、一つの魂が見つめ続けた、人間という存在の物語です。
名もなき者にも、名もなき人生がある。
そして、その人生には、歴史に残る名前以上の重さがある。

――これは、歴史に「若干名」としか記されなかった、一人の兵の物語です。

すべての齢を、あなたと

――時間の向こうで、もう一度「美しい」と言うために――



まえがき
人は、ときどき空を見上げます。
そこに何かを探しているわけでもないのに、ふと顔を上げる。
月が出ていれば、月を見る。
星が見えれば、星を見る。
そして、何も見えない夜には、見えないものまで見ようとする。
月は、夜ごとにその姿を変えます。
満ちる夜もあれば、欠ける夜もある。
満月は美しい。
けれど、満月の翌日。
ほんの少しだけ欠けた月にも、不思議な美しさがあります。
人も、きっと同じなのだと思います。
二十歳の自分。
三十歳の自分。
四十歳の自分。
五十歳、六十歳、七十歳。
若かった頃の自分を、今の自分から見ると、未熟だったと思うことがあります。
あんなことを言わなければよかった。
あんなことで意地を張らなければよかった。
もっと素直になればよかった。
もっと誰かの話を聞けばよかった。
けれど、その頃の自分もまた、そのときなりに懸命に生きていました。
今の自分だけが、本当の自分なのではない。
過去の自分も、失敗した自分も、恋をした自分も、後悔した自分も。
そのすべてが重なって、今の自分になっている。
だから、齢を重ねるということは、過去を捨てていくことではなく、過去の自分を少しずつ抱きしめ直していくことなのかもしれません。
この物語には、古い映画館が出てきます。
そこには、一台の古い映写機があります。
その映写機が本当に過去を映すのか。
それとも、人の心が過去を映しているだけなのか。
最後まで、はっきりとはわかりません。
ただ、人はときどき、もう一度会いたい人に会うことがあります。
現実ではなくても。
夢の中で。
記憶の中で。
あるいは、物語の中で。
そして、その人に会ったとき初めて、自分が長いあいだ抱えていたものを手放せることがあります。
この物語が、あなたの中にいる二十歳のあなたにも、四十歳のあなたにも、そして今のあなたにも、静かに届けばと思っています。
どの頁の、どの言葉が心に残るのか。
それは、読んでくださるあなたにしかわかりません。
もし最後の頁を閉じたあと、
「自分にも、もう一度会ってみたい人がいる」
そんなふうに思っていただけたなら。
この物語を書いた意味は、きっとあったのだと思います。




プロローグ 最後の頁
真柴悠一は、七十八歳になっても、万年筆を握る手が震えないことだけを、ひそかな誇りにしていた。
書斎の机には、書き出しの一行すら定まらない原稿用紙が並んでいる。
白い紙。
白い紙。
また白い紙。
窓の外では、夕方の風が庭木を揺らしていた。
悠一は万年筆を置いた。
七十八歳。
小説家になって五十年近くになる。
これまで、何冊もの本を書いてきた。
若い頃は、言葉が次から次へと出てきた。
机に向かえば、朝まで書けた。
ところが今は、一行を書くまでに一日かかる。
それでも、焦りはなかった。
むしろ、書けない時間も悪くないと思うようになっていた。
人間は、若い頃には「書くこと」ばかり考える。
齢を重ねると、「書かないこと」にも意味があるとわかってくる。
悠一は窓の外を見た。
机の上には、今日の新聞が置いてある。
その地方欄に、小さな記事が載っていた。
――月映座、来月末で閉館。
記事によれば、老朽化と経営難のため、建物は取り壊される予定だという。
悠一は、しばらくその文字を見つめていた。
月映座。
その名前を見ただけで、胸の奥に古い風景が浮かんだ。
まだ二十歳だった頃。
映画を観に行った。
そこで、一人の女性と出会った。
沙也加。
その名前を、悠一は長いあいだ口にしていなかった。
妻が亡くなって、五年になる。
妻との人生は穏やかだった。
喧嘩もした。
笑った。
病院にも付き添った。
旅行にも行った。
そして最後の日、妻の手を握った。
それで十分だったと思っている。
だからこそ、若い日の記憶に触れることには、どこかためらいがあった。
昔の恋は、美しいまま保存されているわけではない。
その中には、若さも、愚かさも、意地も、言えなかった言葉も入っている。
悠一は新聞を閉じた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
担当編集者の美咲だった。
「先生、原稿、どうですか?」
「どうもこうもない。まだ一行も書けてない」
「先生でも、そういうことあるんですね」
「あるよ。むしろ最近は、そればかりだ」
電話の向こうで、美咲が笑った。
「でも、先生。私は待ちますから」
「何を?」
「先生が書きたいと思ったものを」
悠一は黙った。
書きたいもの。
そんなものが、まだ自分の中に残っているのだろうか。
電話を切ったあと、悠一はもう一度、新聞を開いた。
月映座。
そして、その名前の下に、小さく書かれた閉館の日付。
悠一は、ふと思った。
最後に、一度だけ行ってみよう。
そして、その夜。
悠一は机に向かった。
原稿用紙の一番上に、ゆっくりと文字を書いた。
――どの話の、どこの部分が、その人の心に引っ掛かるのか。
そこから先は、まだ何も決まっていなかった。
けれど、悠一は初めて、書き出せる気がした。



一章 月映座
月映座は、駅から歩いて十五分ほどの古い通りにあった。
看板の「月」の字だけが、かろうじて白く残っている。
建物は古かった。
壁にはひびが入り、入口のガラスには小さな傷がいくつもあった。
それでも、映画館というものには、妙な存在感がある。
そこでは長いあいだ、誰かが笑い、泣き、恋をし、別れてきた。
悠一は受付にいた老人に声をかけた。
「もうすぐ閉館なんですね」
「ええ。寂しいですけどね」
老人はそう言って、映写室のほうを見た。
「先生、映写機、見ていきますか?」
「まだ動くんですか?」
「一応」
映写室には、古い映写機が置かれていた。
金属はくすみ、ところどころ錆びている。
それでも、レンズだけは不思議なほど澄んでいた。
老人が言った。
「昔から、この映写機には変な噂がありましてね」
「変な噂?」
「夜中に一人で映写すると、自分がいちばん強く見たい風景が映るっていうんです」
悠一は笑った。
「ずいぶん都合のいい映写機ですね」
「映画館なんて、昔からそんなもんでしょう」
老人も笑った。
悠一は、その言葉が妙に心に残った。
その夜、家に戻った悠一は、机に向かった。
そして、小説の主人公の名前を決めた。
涼介。
自分より少しだけ若く。
自分より少しだけ素直な男。
彼にも、古い映画館を訪れさせよう。
そこに、遥という女性を登場させよう。
なぜ「遥」という名前にしたのか、悠一自身にもわからなかった。
ただ、その名前を書いた瞬間。
遠い場所から、風が吹いてきたような気がした。



二章 初めて会った日
五十八年前。
悠一は二十歳だった。
月映座で映画を観た。
映画が終わり、観客が少しずつ出ていく中で、隣の席にいた女性が言った。
「最後、あれでよかったと思います?」
悠一は驚いて、その女性を見た。
「え?」
「映画の最後」
彼女は笑った。
「私は、もう少し違う終わり方でもよかったと思う」
それが沙也加だった。
二人は映画館を出て、川沿いを歩いた。
若かった。
何でも話せる気がした。
将来のこと。
仕事のこと。
好きな本。
好きな映画。
そして、まだ何者でもない自分たちのこと。
沙也加が言った。
「人って、二十歳の自分だけじゃないと思う」
「どういうこと?」
「四十歳になったら、四十歳の自分がいる。七十歳になったら、七十歳の自分がいる。でも、その中には二十歳の自分も残ってるんじゃないかな」
悠一は笑った。
「ずっと二十歳のまま?」
「そうじゃなくて」
沙也加は川面を見た。
「二十歳だったことを、なかったことにはできないってこと」
その言葉が、悠一の中に残った。
別れ際、沙也加は言った。
「いつか、また夕陽を見ましょう」
「いつ?」
「いつでも」
それが、二人の最後の約束になった。



三章 書き出し
悠一は、涼介の物語を書き始めた。
涼介は、古い映画館を訪れる。
そこで、映写機の噂を聞く。
そして深夜、一人で映写機を動かす。
映像が映る。
そこに現れたのは、若い女性だった。
名前は、遥。
悠一は、その名前を書くたびに、不思議な感覚になった。
沙也加と遥は違う。
当然、違う。
一人は現実の女性。
もう一人は、自分が作った物語の中の人物だ。
それなのに。
遥が笑う場面を書くと、沙也加の笑顔が浮かんだ。
遥が川沿いを歩く場面を書くと、あの日の風が蘇った。
悠一は筆を止めた。
物語とは、記憶を別の形にしているだけなのかもしれない。
そう思った。



四章 映写機の光
涼介は、午前零時を過ぎてから映写機を回した。
最初は何も映らなかった。
やがて、白い光がスクリーンに広がった。
そこに、若い女性が立っていた。
「遥……?」
女性は振り返った。
「涼介?」
それは、初めて会った日の風景だった。
映画館。
川。
夕暮れ。
二人の会話。
涼介はスクリーンの中へ歩いた。
そして気づいた。
これは映画ではない。
自分が覚えているものだった。
けれど、どこまでが自分の記憶なのかは、わからなかった。
遥が言った。
「忘れたと思っていた?」
涼介は答えられなかった。
帰るとき、ポケットに古い映画の半券が入っていた。
現実には存在しないはずのものだった。



五章 幾つもの遥
次に映写機を回したとき。
遥は二十歳ではなかった。
三十歳だった。
次は四十歳。
その次は五十歳。
六十歳。
七十歳。
年齢が変わるたびに、顔も声も少しずつ違った。
それでも、同じ人だった。
涼介は気づいた。
人は齢を重ねるたびに別人になるのではない。
同じ人間の中に、新しい時間が重なっていくのだ。
悠一も、その場面を書きながら、自分の人生を思った。
二十歳。
三十歳。
四十歳。
五十歳。
六十歳。
どの自分も、自分だった。
そして、そのどの自分にも、今の自分から言ってやれることがある。
「あのときも、よく頑張ったな」
そう思うだけで、胸の奥が少し軽くなった。



六章 二十歳の自分
その夜。
悠一は、自分の二十歳の姿を見た。
夢なのか。
記憶なのか。
それとも、ただの想像なのか。
わからなかった。
二十歳の悠一は言った。
「ずいぶん老けたな」
悠一は笑った。
「お前も、いずれこうなる」
「嫌だな」
「そう言うと思った」
二人は並んで座った。
二十歳の悠一が言った。
「沙也加のこと、どうした?」
悠一は黙った。
「結局、何も言えなかったんだな」
「……そうだな」
「結婚したんだろ?」
「した」
「幸せだった?」
悠一は少し考えた。
「幸せだった」
若い自分は笑った。
「じゃあ、よかった」
その一言で、悠一は泣きそうになった。
若い自分は、何も責めなかった。
ただ、そこにいた。
それだけでよかった。



七章 美咲との対話
「先生」
美咲が言った。
「私、最近、自分だけ遅れている気がするんです」
「何に?」
「人生に」
三十五歳になった美咲は、友人たちの結婚や出産、昇進の話を聞くたび、自分だけ取り残されているように感じていた。
悠一は言った。
「人生に順位なんてないよ」
「でも、つい比べます」
「僕も若い頃は比べてた」
「先生も?」
「もちろん」
悠一は笑った。
「でも、齢をとるとわかる。人と比べている時間は、自分の人生を生きていない時間なんだ」
美咲は黙って聞いていた。
「だから、焦らなくていい」
「先生は、後悔してませんか?」
悠一は窓の外を見た。
「してるよ」
「たくさん?」
「たくさん」
そして、少し笑った。
「でも、後悔があるから、人生が失敗になるわけじゃない」



八章 四十代の悔い
四十歳の悠一が現れた。
働き盛りだった。
仕事ばかりしていた。
沙也加から届いていた手紙にも、すぐには返事をしなかった。
そのうち返事を書くこと自体を忘れた。
四十歳の悠一は言った。
「忙しかったんだ」
現在の悠一は答えた。
「知ってる」
「仕方なかった」
「それも知ってる」
「でも……」
四十歳の悠一は黙った。
「一度くらい、会いに行けばよかったな」
悠一は、その言葉を聞いていた。
そして初めて、自分が本当に後悔していたことに気づいた。
会えなかったことではない。
会おうとしなかったことだ。



九章 作中の遥、現実を映す
涼介は、いくつもの遥と出会った。
二十歳の遥。
三十歳の遥。
五十歳の遥。
七十歳の遥。
どの遥も、涼介を見て笑った。
「私たち、結局どうなるの?」
涼介は答えられなかった。
遥が言った。
「結ばれるって、一緒に暮らすことだけじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「忘れないことも、ひとつの結び方かもしれない」
涼介はその言葉を聞いて、長いあいだ黙っていた。
人は、会えなくなっても誰かの人生の中に残る。
それは、恋と呼んでもいい。
記憶と呼んでもいい。
ただの時間と呼んでもいい。
名前は何でもよかった。
残っているということ。
それだけで、十分なこともある。



十章 交わる二つの物語
悠一は、書きながら不思議な気持ちになった。
涼介の物語が、自分の人生をなぞっている。
遥の言葉が、沙也加の言葉と重なる。
けれど、完全には同じではない。
違っている。
だからこそ、物語になった。
ある夜、悠一は昔、沙也加が言った言葉を思い出した。
同じ文字でも、見る角度が変われば違って見える。
人も同じなのだ。
二十歳から見た人生。
四十歳から見た人生。
七十歳から見た人生。
同じ人生なのに、見えるものが違う。
悠一は書いた。
――物語とは、時間を映す映写機なのかもしれない。



十一章 沙也加の消息
沙也加の消息がわかったのは、偶然だった。
古い知人を通して、悠一は彼女が十年前に亡くなっていたことを知った。
病気だった。
遠くの町へ移り、家庭を持ち、静かな人生を送ったという。
知人から、ひとつの言葉を聞かされた。
沙也加は晩年、若い頃の話をすることがあった。
「あの頃の言葉は、今でも大切に残っている」
そう言っていたという。
悠一は、その場で泣かなかった。
不思議なほど、静かだった。
沙也加は生きた。
笑った。
誰かを愛した。
家庭を築いた。
病気になった。
そして死んだ。
自分の知らないところで、自分の人生を完成させた。
それでいい。
それでよかった。
悠一は、初めて思った。
会えなかったことを悔やむより、
生きていてくれてありがとう、と言えばいい。
もう届かなくても。



十二章 涼介の絶望と気づき
物語の中で、涼介もまた遥の死を知った。
何をしても、時間は戻らない。
映写機を回しても、過去を変えることはできない。
涼介はスクリーンの前に座り込んだ。
そこへ、若い遥が現れた。
次に、四十歳の遥。
最後に、老いた遥。
すべての遥が、涼介を見ていた。
「泣いていいよ」
若い遥が言った。
「忘れなくていいよ」
老いた遥が言った。
涼介は泣いた。
そして気づいた。
人を失った悲しみは、消すものではない。
その人が自分の中に残したものを、今度は誰かへ渡していくものなのだ。



十三章 診断
沙也加の死を知ってから、しばらくして。
悠一は病院へ行った。
検査の結果、心臓に気になる影が見つかった。
すぐに危険というわけではない。
けれど、医師の説明は穏やかだった。
「これからは、少し無理をしないほうがいいでしょう」
悠一は聞いた。
「先生、僕はあと何年くらい?」
医師は答えなかった。
答えられないのだ。
悠一は病院を出て、駅まで歩いた。
空は晴れていた。
そのとき、不思議なことに、死ぬことよりも先に思った。
――時間には限りがある。
今までも知っていた。
けれど、知っていることと、自分のこととして感じることは違った。
限りがある。
だから、一日がある。
だから、一言がある。
だから、今日会える人には、今日会ったほうがいい。
悠一は家に帰ると、原稿用紙を出した。
そして書いた。
――時間が有限だと気づくことは、絶望ではなく、残された時間を見つけることなのかもしれない。



十四章 自然に集まる友
悠一は、美咲に病気のことを話した。
その後、なぜか昔の友人たちが家に来るようになった。
編集者。
近所の人。
昔の仕事仲間。
若い頃に競い合った作家。
かつては、誰が売れているか。
誰が賞を取ったか。
誰が有名か。
そんなことばかり気にしていた。
今は、誰もそんな話をしなかった。
ただ、お茶を飲んだ。
昔話をした。
くだらないことで笑った。
悠一は思った。
こんな時間が、いちばん大切だったのかもしれない。
「先生」
美咲が言った。
「何?」
「楽しそうですね」
「うん」
悠一は湯呑みを持ち上げた。
「小説より面白いかもしれない」



十五章 最後の上映
涼介は、最後にもう一度、映写機を回した。
スクリーンに夕暮れの丘が映った。
そこには、遥がいた。
二十歳の遥。
三十歳の遥。
五十歳の遥。
七十歳の遥。
そして反対側には、同じように、いくつもの涼介が立っていた。
若い涼介。
働き盛りの涼介。
疲れた涼介。
老いた涼介。
誰も何も言わなかった。
ただ、同じ方向を見ていた。
夕陽が沈んでいく。
若い涼介が言った。
「きれいだね」
老いた涼介も言った。
「ああ」
遥たちも笑った。
「きれい」
その瞬間。
年齢というものが消えた。
二十歳も、四十歳も、七十歳もなかった。
ただ、そこに生きてきた人たちがいた。
そして、同じ風景を見ていた。
光が消えた。
スクリーンは白くなった。
そして、暗くなった。



十六章 月映座、最後の夜
月映座の最後の上映日。
小さな客席は、思ったより多くの人で埋まった。
美咲。
昔からの友人。
近所の人。
悠一の本を読んでくれた若い人たち。
そして、一人の若い女性が悠一のところへ来た。
「先生」
「はい」
「私、小説を書いているんです」
「そう」
「でも、誰かに読ませるのが怖くて」
悠一は笑った。
「僕も怖かったよ」
「先生でも?」
「僕だって人間だからね」
女性は少し笑った。
悠一は言った。
「どの話の、どこの部分が、誰の心に届くかなんて、誰にもわからない」
「じゃあ、どうすれば?」
「書けばいい」
「それだけですか?」
「それだけ」
悠一は少し考えた。
「届くかどうかを心配するより、まず渡せるところまで持っていくことだよ」
若い女性は黙っていた。
悠一は、ふと沙也加を思った。
そして言った。
「今夜、僕もある人から、それを教わったんだ」



十七章 手放すもの
閉館を翌日に控え、映写機の撤去が始まった。
長いあいだ使われた機械が、少しずつ外されていく。
悠一はそれを見ていた。
「寂しいですか?」
美咲が聞いた。
「うん」
「でも、仕方ないですね」
「そうだな」
悠一は笑った。
「機械がなくなっても、映画を観た人の記憶の中からは消えない」
そして、ふと思った。
自分も同じだ。
肩書き。
評価。
売れたか、売れなかったか。
誰より上か。
誰より下か。
若い頃から抱えてきたものを、一つずつ手放していく。
それは敗北ではない。
荷物を軽くすることだ。
「先生」
「うん?」
「何を考えてるんですか?」
「着物を脱いでる」
「着物?」
「見栄とか、意地とか、比較とか」
美咲が笑った。
「ずいぶん重そうですね」
「そりゃ七十八年分だからな」
二人は笑った。



十八章 最後の頁、ふたたび
その夜。
悠一は最後の原稿を書いた。
机の上には、古い映画の半券があった。
いつ手に入れたのか、もうわからない。
現実のものなのか。
記憶のものなのか。
それも、もうどうでもよかった。
悠一は最後の頁に、ゆっくりと書いた。
――人は、長いあいだ、自分と誰かを比べながら生きている。
――あの人より成功したい。
――あの人より幸せになりたい。
――もっと認められたい。
――もっと若かったら。
けれど、最後に残るものは、そんなものではないのかもしれない。
誰かと同じ風景を見たこと。
誰かと笑ったこと。
誰かの言葉を覚えていること。
そして、自分の中にいる、過去の自分を許すこと。
二十歳の自分も。
四十歳の自分も。
七十歳の自分も。
どれも、自分だった。
どの齢も、捨てる必要はなかった。
悠一は最後の一行を書いた。
――すべての齢を、あなたと。
万年筆を置いた。
その夜、悠一は深く眠った。



エピローグ すべての齢を、あなたと
翌朝。
美咲が訪ねてきた。
「先生?」
返事がない。
書斎へ入ると、悠一は椅子に座ったままだった。
机の上には、完成した原稿。
窓から朝の光が差し込んでいる。
美咲はしばらく何も言えなかった。
悠一は、眠っているように見えた。
穏やかな顔だった。
原稿の最後には、こう書かれていた。
――すべての齢を、あなたと。
それから一年後。
悠一の最後の小説は出版された。
読者から、さまざまな感想が届いた。
二十代の読者は、二十歳の場面に涙した。
四十代の読者は、四十代の後悔に自分を重ねた。
七十代の読者は、最後の頁を何度も読み返した。
同じ本なのに、残る場所は違った。
美咲は、そのことがうれしかった。
悠一が最後まで言っていた通りだった。
どの話の、どこの部分が、その人の心に引っ掛かるのか。
それは誰にもわからない。
月映座は、予定通り取り壊された。
建物がなくなったあと、小さな記念碑だけが残った。
そこには、月映座の名前と、短い言葉が刻まれた。
――誰かと同じ風景を見て、「美しい」と言えること。
それから三年が過ぎた。
ある日、美咲のもとへ一冊の本が届いた。
著者は、あの夜、月映座で悠一に声をかけた若い女性だった。
タイトルは、
『光の重さ』
だった。
美咲は読み始めた。
最初の頁に、短い献辞があった。
――あの日、先生が「書けばいい」と言ってくれたので、私は書きました。
美咲は本を閉じた。
そして、窓の外を見た。
夕方だった。
空には、少し欠けた月が出ていた。
満月ではない。
けれど、美しかった。
美咲は思った。
悠一は、いなくなったのではない。
誰かの中へ、少しずつ移っていったのだ。
言葉になって。
物語になって。
そして、また別の物語になって。
人は、死んでも完全には消えない。
誰かの記憶の中に。
誰かの言葉の中に。
誰かが生きるために使った一言の中に。
静かに残っていく。
そして、そのとき初めて。
時間は、過ぎ去るだけのものではなくなる。
過去は、現在の中に残り。
現在は、未来へ渡される。
二十歳の自分も。
四十歳の自分も。
七十八歳の自分も。
すべての齢が、ひとつにつながっていく。
美咲は、本を閉じた。
そして、小さく言った。
「先生。
きれいですね」
誰も答えなかった。
けれど、風が窓を揺らした。
それだけで十分だった。
どの話の、どこの部分が、誰の心に引っ掛かるのか。
それは、誰にもわからない。
それでも、その物語は、確かに誰かに届く。
過去の自分を責めるのではなく。
誰かと比べるのでもなく。
失ったものだけを見るのでもなく。
いま、自分の中にあるものを抱えて。
自由になった心で。
同じ風景の中で。
同じ目線で。
誰かと、
「美しい」
と言葉にできたなら。
それを、幸せと呼ぶのだろう。
そして、いつか。
あなたが自分の過去を振り返るとき。
そこにいる二十歳のあなたにも。
四十歳のあなたにも。
いまのあなたにも。
静かに声をかけてほしい。
――よく、生きてきたね。
――ありがとう。
すべての齢を、
あなたと。

ー終ー


Amazon Kindle




あとがき
言葉を綴るとき、私たちはいつでも「過去の自分」や「どこかの誰か」を探しているのかもしれません。
完璧な人間も、完璧な人生もありません。
満月のように円満に輝く瞬間もあれば、十六夜の月のようにどこか欠けて見える夜もあります。けれど、振り返ってみたとき、その欠けた部分にこそ、その人らしい温もりや深い思い出が宿っているのではないか――そんな想いから、この『すべての齢を、あなたと』は生まれました。
七十八歳の小説家・真柴悠一が紡いだように、人が歩んできた時間や言葉は、形を変えながら次の世代や誰かの心へと静かに受け継がれていきます。不器用だった二十代も、無我夢中だった四十代も、静けさを知る七十代も、何ひとつ無駄な時間などなかったのだと、読者の皆様がご自身の人生を肯定できるきっかけになれば幸いです。
最後まで悠一たちの時間にお付き合いくださったあなたに、心からの感謝を申し上げます。
今夜、あなたの見上げる空に、優しい光が届きますように。



紹介文
七十八歳の小説家・真柴悠一は、閉館の決まった古い映画館「月映座」のニュースを目にする。そこは五十八年前、かつて愛した女性・沙也加と出会った思い出の場所だった。原稿用紙に向かう手が止まっていた悠一は、導かれるように月映座を訪れ、古い映写機にまつわる一つの噂を聞く――「夜中に一人で映写すると、自分がいちばん強く見たい風景が映る」。悠一が書き始めた新たな物語。それは、作中の主人公・涼介と遥の姿を借りて、自らの記憶と過去を巡る旅でもあった。二十代の熱気、三十代の模索、四十代の後悔、そして七十代の諦念と愛おしさ。年齢を重ねるとは、過去の自分を捨て去ることではなく、かつての自分たちを優しく抱きしめ直していくこと。時間と記憶の狭間で繰り広げられる、静かで温かな再生の物語。