良い夢見のパジャマ

〜 黄色いストライプの奇譚 〜

著:黄色縞々文庫



まえがき

 誰しも、捨てられない服というものがある。
 ヨレヨレになり、色あせ、客観的に見れば「もう寿命」を迎えているにもかかわらず、なぜかクローゼットの特等席や、押し入れの奥に鎮座し続けている服。
 それはきっと、その服が単なる布切れ以上の何か――たとえば、ある特定の季節の記憶や、心に空いた小さな隙間を埋める役割を、そっと引き受けてくれているからではないだろうか。
 本作の主人公、田中誠一郎が持つ黄色いストライプのパジャマも、まさにそんな一着だ。
 どこにでもあるスーパーの安物。しかし、そのガーゼの奥には、彼自身も気づいていない「無意識の願い」と、それを懸命に形にしようとする、ちょっと不器用でプロフェッショナルな世界が広がっている。
 忙しない日常のなかで、ふと過去を振り返りたくなる夜がある。
 そんな時、この物語があなたの枕元に寄り添う、あたたかなパジャマのようになれば幸いである。





第一章 パジャマの来歴

 田中誠一郎(五十四歳、会社員、既婚)は、自分でもよくわからない習慣をひとつ持っていた。
 それは、押し入れの奥にしまってある一枚のパジャマを、気持ちが沈んだ夜だけ羽織るという習慣である。
 そのパジャマは黄色い縦縞模様で、ガーゼを二枚重ねにした少々厚手の代物だった。もう十年以上前に近所のスーパーで九百八十円で買ったものだが、洗うたびにヨレヨレになりながらも、なぜか誠一郎はそれを手放せずにいた。
 妻の道子はそのパジャマが大嫌いだった。
「ねえ、もう捨てたら? 雑巾みたいじゃない」
「これはな、特別なんだ」と誠一郎は言う。
「何が特別なの、あんな黄色いぼろきれが」
「これを着ると、良い夢が見られる」
 道子はため息をついて、それ以上は何も言わなかった。四十年近く同じ屋根の下で暮らしてきた女の沈黙には、言葉の三倍の意味が詰まっている――誠一郎はそれをよく知っていた。
 だが実際のところ、パジャマの効果は本物だった。少なくとも誠一郎にとっては。
 あの黄色い縞模様を羽織るたびに、誠一郎は夢を見た。それも、妙にくっきりとした、色鮮やかな夢を。まるでテレビの画質設定を「標準」から「くっきり」に切り替えたみたいに。


第二章 パジャマ、語る

 ある晩のことだった。
 誠一郎がそのパジャマを羽織って布団に入ったとたん、枕元で声がした。
「おい」
 誠一郎は飛び起きた。道子はすでに隣の部屋で寝ている。泥棒か、と思って電気をつけると、誰もいなかった。ただ、黄色い縞模様のパジャマがやや不満そうに――というか、なんとなくむっとした感じで――ぶら下がっていた。
「おい、聞こえてるか」
 声は、パジャマから出ていた。
「……しゃべるのか、お前」
「十年以上着られてれば、しゃべるくらいになる。ガーゼ二枚重ねをなめるな」
 パジャマは言った。声のトーンは低く、どこか疲れていた。長距離トラックの運転手か、あるいは定年直前の税務署員のような声だった。
「俺はな」とパジャマは続けた。「お前の夢を管理している。もう十年以上だ。感謝しろよ」
「……感謝って」
「夢のコンテンツ制作は楽じゃないんだぞ。ロケハン、キャスティング、シナリオ。全部俺がやってる。おまけにお前、最近リクエストが多い」
「リクエストなんてしてない」
「無意識のリクエストってやつがあるんだよ。お前のそれが、ここのところ妙にうるさい」
 誠一郎は黙った。
「……誰が出てくるリクエストだ」
「わかってるだろ」とパジャマは言った。「お前の初恋の子だよ」


第三章 初恋の正体

 彼女の名前は、夢の中では出てこない。
 誠一郎が小学三年生のとき、引越し先の隣の家にいた女の子。同じクラスで、とても可愛くて、誠一郎はひと目で心を撃ち抜かれた。子供の頃の「ひと目惚れ」とはそういうものだ。論理的な過程をすっ飛ばして、ただ胸のあたりがぎゅっとなる。
 ふたりは付かず離れずのままで、高校まで同じ街に住んでいた。
 言えなかった。ずっと言えなかった。近すぎたから言えなかったし、近すぎたから言う必要もないような気がしていた。そういう不思議な距離感が十年近く続いた。
 最後に会ったのは三十年前の同窓会だった。誠一郎は結婚したばかりで、彼女はまだひとりだった。
「おめでとう」と彼女は言った。「はよせんと、齢食っちまうぞ!」
 誠一郎は笑いながらそう言った。その言葉が、ずっと心に引っかかっている。なぜあんなことを言ったのか。なぜ笑ったのか。なぜ左手の薬指を隠したのか。
 その数年後、実家の母親から「お隣の娘さん、お嫁に行ったわよ」と聞かされた。
「ああ」と誠一郎は言った。それだけだった。


第四章 夢の予算会議

 パジャマは言った。
「正直に言う。お前の初恋コンテンツは、制作費がかかりすぎる」
「夢に制作費があるのか」
「あるに決まってる。ショッピングアーケードのロケ費、エスカレーターのレンタル費、エキストラのギャラ。あと彼女役のキャスティングが毎回難しい。お前の記憶が曖昧すぎて、どんな顔にすればいいかわからない」
「曖昧って……三十年会ってないんだから仕方ないだろ」
「だから困ってる。お前の記憶の中の彼女は、小学生のときの顔と、同窓会のときの顔と、あと『こうだったらいいな』の顔が三つ混ざってる。毎回、どれで行くか会議になる」
「会議って誰と」
「俺の下に、夢制作スタッフがいる。みんなガーゼ製だが、プロだ」
 誠一郎は頭を抱えた。パジャマの中に夢のスタッフがいて、毎晩会議を開いているとは思わなかった。
「そもそも」とパジャマは続けた。「お前が先週あの夢の途中で目を覚ましたのは、本当に困った。せっかくレストランのシーンまで作ったのに」
「それは……隣で道子が寝返りを打って」
「だからって途中で打ち切るな。スタッフが徹夜して作ったシーンだぞ」
 誠一郎は、なんとなく申し訳ない気持ちになった。ガーゼ製のスタッフが徹夜して自分の夢を作っていると思うと、なかなか罪悪感がある。


第五章 エスカレーターの奇跡

 翌晩、誠一郎はまたパジャマを羽織って布団に入った。
「今夜は途中で起きるなよ」とパジャマは釘を刺した。「予算をフルに使った。文句ないはずだ」
 そして誠一郎は夢を見た。
 とあるショッピングアーケード。天井の高い、少し古びた商店街で、遠くにエスカレーターが見えた。そのエスカレーターを降りてくる人影。誠一郎の胸が、理由もなくどきどきし始めた。
 彼女だった。
 今の年齢の姿で、相変わらずの美しさで、微笑みながら手を振っていた。
「しばらくね?」
 誠一郎は周りを見回した。自分に言っているのか確かめるために。
「あっ」と思ったとき、彼女は目の前に立っていた。良い香りがした。
「なぜ今、ここに」と誠一郎は言った。
「夢だもの」と彼女は答えた。「夢なら来られる」
 理屈としては正しいような気がした。
 ふたりはそこのレストランでお茶を飲んだ。話は弾んだ。お互いの今の生活の話は出なかった。そんな話をするには、夢の時間は短すぎる。
「あの頃」と彼女は言った。「私のこと、好きだったでしょ?」
「え?」
「私もよ」
 誠一郎はうなずいた。ドキドキしながら。ただそれだけだった。でも、それで十分だった。
 そのとき、隣の部屋から物音がした。道子が起きたのか、何かを落とした音。
 目が覚めた。
 天井の壁紙の模様が目に飛び込んできた。


第六章 パジャマ、怒る

「またか!」
 声は枕元から聞こえた。パジャマが怒っていた。
「今日こそ完璧なシナリオだったのに。終盤の展開も用意してたのに。なんで起きる!」
「道子が物音を立てて」
「それは想定内だ。防音機能も組み込んであった。なのになぜ!」
「……俺が弱いんだろう」
 パジャマは黙った。
「お前さ」と少し間を置いてパジャマは言った。「夢の中でも現実が気になるのか」
「気になるというか」と誠一郎は言った。「隣に道子がいるって、わかるんだよ。夢の中でも」
「……なるほど」
「だから目が覚める。夢が切なくなって、目が覚める」
 パジャマはしばらく黙っていた。長い沈黙だった。ガーゼ二枚重ねの沈黙というのは、なかなか重みがある。
「正直に言う」とパジャマはついに言った。「俺には、その境界線を越えさせる機能はない」
「境界線?」
「夢と現実の境界線。お前が自分で引いている線だ。俺がいくら良い夢を作っても、その線はお前しか動かせない」
「それは……」誠一郎は少し考えた。「正しいな」
「そうだ。俺はパジャマだ。縦縞のガーゼのパジャマだ。やれることには限界がある」


第七章 ただそれだけの朝

 翌朝、誠一郎はいつもより早く目が覚めた。
 隣の部屋では道子が起き出す音がした。やがてコーヒーの香りが漂ってきた。
「起きた?」と道子が声をかけた。
「ああ」
「またあのパジャマ着てたの」
「ああ」
「夢見た?」
 誠一郎は少し考えた。
「見た」
「どんな夢」
「良い夢」
 道子は「ふうん」と言って、台所へ戻っていった。
 誠一郎はパジャマを脱いで、丁寧にたたんで、押し入れの奥にしまった。
「お疲れ」と言った。パジャマには聞こえているだろうと思った。
 押し入れの中から、かすかに「来週も頼む」という声が聞こえたような気がした。
 それとも、それも夢だったのかもしれない。
 コーヒーを飲みながら誠一郎は思った。
 確かにあの頃、ふたりだけに吹いた風はあった。
 それはそれ。今は今だ。
 まあ、そんなそんな。ただそれだけの朝だった。


エピローグ

 後日、誠一郎は近所のスーパーに行ったとき、黄色い縦縞のガーゼのパジャマを見かけた。
 値段は千二百八十円だった。
 少し安くなっていた。
 誠一郎はそれを手に取り、しばらく眺めた。それから棚に戻した。
 帰り道、ポケットの中で何かが動いた気がした。振り返ったが、何もなかった。
 でも誠一郎は、なんとなくわかっていた。
 押し入れのあいつが、ついてきたのだと。

           (了)


アマゾン キンドル



あとがき

本作は、もしも自分の夢を裏で必死に支えている「スタッフ」がいたら、そしてそれが長年着古したパジャマだったら……という、少し奇妙な妄想から生まれました。
 54歳になった誠一郎が求める、甘酸っぱくも朧げな初恋の夢。それを再現するために、限られた予算(?)のなかで四苦八苦するパジャマたちの姿は、書き進めるうちに私自身にとっても非常に愛おしいものとなりました。
 
 夢の中で完璧な初恋に浸りきれない誠一郎は、一見、現実に縛られた哀しい大人のように見えるかもしれません。しかし、妻の立てる物音で目が覚めてしまう彼こそが、実は今ある日常を何よりも大切に生きているのだと、パジャマとの対話を通じて感じていただければ嬉しく思います。
 皆さんの押し入れの奥にある古い服たちも、もしかしたら夜な夜な、あなたのために素敵な夢の企画会議を開いているかもしれません。次にその服を羽織る時は、ぜひ「いつもお疲れ様」と、心の中で声をかけてみてください。
 今夜も、皆様が良い夢を見られますように。

著:黄色縞々文庫

星 III
渡すもの


What We Pass On
『星』三部作・完結篇



まえがき

人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だと言われています。

それ以前、私たちは炎を囲み、口伝によって知識を、危険を、そして生きるための智慧を次の世代へ手渡してきました。語り手が死に絶えても、語られた言葉は若者たちの中で生き続け、私たちをここまで歩ませてくれました。

舞台が星間航行の時代になっても、その本質は何も変わりません。
ただ、囲むべき炎が「通信信号」に変わり、距離の代わりに「時間」という果てしない壁が立ちはだかるだけです。

第一作『星』で孤独に火星の砂を掴んだ神代蒼。
第二作『星 II』で送り出す者の覚悟を生き、船を設計した守屋凛。

そして本作『星 III』では、彼らが遺した「光」を受け取り、さらにその先へとバトンを渡していく者たちの姿を描きます。

1000人に3人の遺伝子を持つ者たちと、それを見守り続けた99.7%の人々。

見えない星に向かって手を伸ばし続けた彼らの旅路を、どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。




1000人に3人

その中で
その遺伝子が
そのタイミングを捉えた者に
その先へと
誘うのだろう

——星より






序章 継承

人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だ。
 その前は、口で伝えた。
 炎の前に集まり、老いた者が若い者に語った。どこに獣がいるか、どの草が毒か、海がどちらの方向にあるか。
 語られたことは、やがて語った者が死んでも残った。

星間航行の時代になっても、それは変わらなかった。
 ただ、炎のかわりに信号があった。
 距離のかわりに、時間があった。
 老いた者が若い者に渡すものは、言葉ではなく、光だった。



第一部 渡す手 (西暦2140〜2152年・火星)

第一章 海、五十四歳

神代海は五十四歳になっていた。

火星の通信センターは、二十年前より大きくなっていた。スタッフも増えた。しかし海の席は変わらなかった。南西の窓に一番近い、古い机。守屋凛が毎朝南西を見ていたと聞いてから、海もそうするようになった。
 窓の外には、火星の砂漠が広がっている。開発が進んで、地平線に居住ドームのシルエットが見えるようになった。それでも、空の色は変わらない。サーモンピンク。海が生まれた日から、ずっと。

颯太の船、エクソ・アーク二号が出発してから十一年が経つ。
 目的地のタウ・ケチまで、あと十二年。
 颯太は今頃、冬眠の中だ。

海の部下になった若者が一人いた。名を田中灯という。二十二歳、地球生まれ。火星に来て三年。目が大きく、よく質問した。
「神代さん、颯太さんからの信号って、どのくらいの頻度で来るんですか」
「冬眠中は月に一度、自動送信だ。数値データだけ。起きたら声が来る」
「起きるのは、到着の二年前ですよね」
「そう。あと十年後だ」
 灯は計算した。「神代さんが六十四歳の時ですね」
「そうなる」
「受け取れますか」
 海は灯を見た。「なぜそんなことを聞く」
「いや……すみません」灯は視線を落とした。「失礼でした」
「いや」海は少し間を置いた。「正直な質問だ。受け取れるかどうかはわからない。でも、誰かが受け取る。それで十分だ」

その夜、海は日記を書いた。
 蒼が日記を書き、凛が日記を書き、海も書いた。誰に見せるわけでもない。でも、書く。
 「灯に聞かれた。受け取れるかと。六十四歳なら、たぶん元気だろう。しかし颯太の返事が来るのは、その四年後。七十四歳か六十八歳か、どちらにしてもまだいる気がする。問題はその先だ。タウ・ケチに着いた颯太が、そこで何を見つけ、何を送ってくるか。その信号が届く頃、私はまだここにいるだろうか。いなければ、誰かに渡さなければならない」


第二章 灯の遺伝子

田中灯の遺伝子解析結果が届いたのは、火星に来て四年目の春だった。
 CHRM2——陽性。DRD4——陽性。NOVA1——陽性。
 三つ全部。

灯は結果を見て、しばらく動けなかった。
 財団から面談の招待が来た。灯は承諾した。

面談官は穏やかな初老の女性だった。
「どう感じていますか」
「怖いです」灯は正直に言った。「行くことになるんだろうなと思って」
「行きたくないですか」
「行きたいです。でも、怖い。同時に両方あります」
 面談官は少し微笑んだ。「それは正常です。むしろ、それがプロテイン・ビヘイビアの特徴です。恐怖がないのではなく、恐怖と興奮が同時に来る」
「神代蒼さんも、そうだったんですか」
「記録によれば、そう言っていたそうです。怖いから面白い、と」

灯は海に報告した。
 海は結果を聞いて、しばらく窓の外を見た。
「おめでとう」海は言った。
「神代さんは」灯は慎重に言った。「……羨ましいですか」
 海はしばらく黙った。
「二十年前は、少し思った。でも今は違う。私はここにいることで、ちゃんと役に立っている。颯太さんを送り出した。あなたも、きっと送り出す」
「神代さんが送り出してくれるんですか」
「私か、私の後の誰かが」海は灯を見た。「でも、できれば私がいい」

その夜、灯は外に出た。
 火星の夜空を初めてちゃんと見た気がした。
 星が、無数にあった。瞬かない。静かだった。
 どれがタウ・ケチか、灯にはわからなかった。
 でも、ある。
 そこへ、自分は行くのかもしれない。
 その感覚は、怖くて、面白かった。


第三章 アケアからの手紙

二〇一四二年の秋、アケアから信号が届いた。
 神代架、八十四歳。

「海へ。元気ですか。こちらは元気です。守屋凛研究所は今年、創設十四年になりました。若い研究者が十二名います。全員、ここアケアで生まれた子供たちです。
 彼らは地球も火星も知りません。この青い空と、ケンタウルスの二つの太陽だけが、当たり前の世界です。
 おもしろいのは、彼らが地球の夜空の話に、とても興味を持つことです。青い惑星が写った古い写真を見て、『きれい』と言う。私も同じでした。火星の赤い空の写真を見て、きれいと思った。遠い場所は、いつもきれいに見えるのかもしれません。

一つ、報告があります。
 先日、地層から有機化合物を発見しました。炭素鎖が、生物的な構造に近い。確定ではありません。でも、ひいひいおじいさんが火星で発見した炭素同位体の異常と、性質が似ています。もしかすると、宇宙には生命の材料が、思ったより広く散らばっているのかもしれない。
 または、生命は一度だけ生まれ、宇宙の各所に種を撒いたのかもしれない。
 どちらにしても、まだわかりません。でも、わかる日が来ると思います。

元気でいてください。
 颯太さんのことを祈っています。届く頃には、もう着いているかな」

海は録音を聞き終えて、灯を呼んだ。
「もう一度、聞け」
 灯は黙って聞いた。
「有機化合物」灯は言った。「これは」
「そうだ」海は言った。「蒼さんが火星で見つけたものの、先にあるかもしれないものだ」
 灯は宙を見た。
「宇宙は、生命に満ちているんでしょうか」
「わからない。でも」海は窓の外を見た。「わからないことが、行く理由になる」



第二部 届く声 (西暦2152年・タウ・ケチ星系へ向かう船中)

第四章 颯太、目覚める

宮内颯太が冬眠から覚めたのは、タウ・ケチまで残り一・八光年の地点だった。
 目が開いた瞬間、最初に思ったのは、凛先生のことだった。

冬眠ポッドのモニターに、現在日時が表示されていた。二〇一五一年。出発から二十二年。
 颯太は五十九歳になっていた。

体を起こすのに、三十分かかった。筋肉が固まっていた。医療チームが付き添い、少しずつ動かした。船内は静かだった。二百九十九名がまだ眠っている。今起きているのは管理当番の八名だけだ。

「先生の訃報は」颯太は医療チームのリーダーに聞いた。
「守屋凛先生ですか。二〇一〇一年に亡くなられています。出発から七年後です」
 颯太は目を閉じた。知っていた。出発前に計算していた。でも、数字で知っているのと、声に出して聞くのは、違った。
「九十一歳だったそうです。最後まで設計をしていたと」
「そうか」颯太は言った。「そうだろうな」

ベッドに横になりながら、颯太は天井を見た。
 船体の外は、光速の十九パーセントで流れる宇宙だ。星がほんのわずかに青方偏移して見える。前方の星がわずかに青く、後方の星がわずかに赤い。ドップラー効果。凛が設計した船が、光に向かって走っている。

火星への信号を録音した。
「海くん。颯太です。起きました。全員元気です。先生の設計は、二十二年たっても完璧でした。何一つ壊れていない。バルブA-17も問題なかった。先生に報告したい。でも届かないから、あなたに言います。先生の仕事は、本物でした。
 タウ・ケチまで、あと二年。凛先生が教えてくれた設計の美しさを、私はここに来て初めて本当に理解した気がします。宇宙の中で動き続けるということの、意味を。
 元気でいてください」

信号が届くまで、十一年かかる。
 颯太が六十九歳の時に、海のもとへ届く。
 海は、その時六十五歳だ。


第五章 タウ・ケチの光

二〇一五三年、エクソ・アーク二号はタウ・ケチ星系に入った。

颯太が最初に窓から見たのは、オレンジ色の光だった。
 タウ・ケチは太陽より少し小さく、少し温度が低い。その光は、太陽の黄色よりも深みのある橙色をしていた。
 颯太は声を出せなかった。
 二十四年かけて来た光が、今、自分の顔を照らしている。

第一候補惑星はタウ・ケチeと呼ばれていた。地球から見た時の名前だ。ここに来たら、別の名前をつける予定だった。
 颯太は全クルーに、名前の投票を呼びかけた。三百の提案が出た。
 最も多くの票を集めたのは、「ナギ」という言葉だった。日本語で、海が凪いでいる状態を指す。嵐の後の、静かな海面。
 颯太は賛成した。

「ナギ、に決まりました」颯太は全員の前で言った。「守屋凛先生が設計した船で、神代蒼さんの精神を継いで、私たちはここへ来ました。嵐を越えた先の、静かな場所。ナギ、でいいと思います」
 拍手が起きた。

降下の日、颯太は窓を見た。
 ナギが近づいてくる。青くはなかった。緑がかった灰色。大気は薄い。液体の水の反応は、地下に確認されている。表面は岩だらけで、風が強い。
 美しいとは言い難かった。
 でも、颯太は思った。蒼さんも、凛さんも、架さんも、美しいと言わなかった場所があったかもしれない。それでも、いた。
 美しさは、後からくるものだ。

着陸した。
 颯太は宇宙服を着て、ハッチを開け、タラップを降りた。
 岩の地面に、足をついた。
 風が、スーツ越しに感じられた。

颯太は、凛先生のことを思った。
 この足が踏んでいる地面に、先生の設計が届いた。先生は来られなかった。でも、来た。
 そういうことだ、と颯太は思った。
 渡されたものは、ちゃんと届く。


第六章 ナギの発見

ナギに着いて三ヶ月が経った頃、颯太のチームは地下水脈の調査を始めた。
 掘削機が地下四十メートルに達した時、水が出た。
 液体の水だった。地熱で温められた、鉱物を多く含む水。飲めないが、ある。

それより深く掘った地点で、岩盤に奇妙なパターンが見つかった。
 規則的な孔。
 生物の巣穴に、似ていた。

颯太は報告書を書きながら、蒼さんのことを考えた。
 火星で炭素同位体の異常を見つけた人。アケアで有機化合物が見つかった。そしてナギで、この孔。
 バラバラかもしれない。でも、つながっているかもしれない。

火星への信号を録音した。
「海くん、颯太です。ナギに着いて三ヶ月。報告があります。地下水脈を発見しました。そして……岩盤に、規則的な孔の構造があります。生物起源かどうか、まだわかりません。でも、蒼さんが火星で見つけたものと、似ている気がしています。
 この宇宙には、私たちの想像より多くの何かが、いるのかもしれない。あるいは、いたのかもしれない。あるいは、生命の材料が、どこにでもあるのかもしれない。
 どれも、まだわからない。でも、わかりたい。その気持ちは、二十四年かけてもまったく変わらなかった。
 灯くんを、よろしく頼みます。あの子はいい目をしていました」

この信号が海に届くのは、十一年後だ。
 颯太が七十歳の時、海は六十五歳だ。
 もし颯太がその返事を受け取るとしたら、八十一歳になっている。
 届くかどうかはわからない。
 でも、送る。



第三部 渡す手、受け取る手 (西暦2152〜2165年・火星)

第七章 海、六十六歳

颯太の「起きました」の信号が届いたのは、二〇一六二年の夏だった。
 神代海は六十六歳になっていた。

センターで信号を受け取った時、灯が隣にいた。三十二歳になった灯は、今やチームのリーダーだ。海はこの二年で、ほとんどの実務を灯に渡していた。

「神代さん」灯が言った。「颯太さんの声です」
「聞こえている」
 颯太の声は、変わっていなかった。
 二十二年分、老いているはずなのに、声に滲む感情が、海の記憶の中の颯太と同じだった。
「バルブA-17も問題なかった」という言葉で、海は目を細めた。
 凛先生。ちゃんと届きましたよ。

返信を録音した。
「颯太さん、海です。六十六歳になりました。元気です。先生の訃報は、もう届いていますよね。先生の最後の言葉を教えます。日記に書いてあったんです。『私は船を作った。船は行った。行った先で、また船が作られるだろう。それで十分だ』。颯太さんが起きたということは、その言葉通りになりました。
 灯くんが頑張っています。プロテイン・ビヘイビアです。いつか船に乗るでしょう。私が送り出せるかどうかはわかりませんが、誰かが送り出します。
 ナギの報告、楽しみに待っています」

録音を終えた後、海は灯を見た。
「聞いていたか」
「はい」
「先生の言葉を、あなたにも渡しておく」海は言った。「私は信号を受け取った。あなたは、次の信号を受け取る。それで十分だ」
 灯は少し間を置いた。「神代さんは、行きたかったですか。本当に」
 海は笑った。「行きたかった。でも、ここが好きだった。この赤い空が。颯太さんの信号を受け取った瞬間が。それで十分だった」


第八章 颯太の信号、届く

颯太のナギからの第一次報告が届いたのは、二〇一六四年の秋だった。
 地下水脈の発見。そして、岩盤の規則的な孔。

海は六十八歳になっていた。

センターに来た時、灯がすでに待っていた。
「来ました。颯太さんから」
「聞こう」

颯太の声を聞いた。
 岩盤の孔の話を聞いた時、海は椅子の背もたれに深く寄りかかった。
 蒼さんの火星での発見。架さんのアケアでの有機化合物。颯太のナギの孔。
 点が、線になろうとしているかもしれない。

「灯」海は言った。
「はい」
「返信を、あなたが録音しなさい」
 灯は驚いた顔をした。「私が、ですか」
「颯太さんが次の信号を送った時、私がここにいるかどうかわからない。あなたの声で返すべきだ」
「……わかりました」
 灯は少し考えてから、録音を始めた。

「颯太さん、初めまして。田中灯といいます。神代さんの部下です。プロテイン・ビヘイビアで、いつかどこかへ行くことになると思います。岩盤の孔の話を聞きました。神代さんが隣で、目を細めていました。蒼さんの発見から百年以上かけて、点が線になろうとしているのかもしれません。神代さんは、あなたが灯くんを頼むと言っていたと教えてくれました。よろしくお願いします。いつか、あなたが見ているものを見に行けるかもしれません」

録音を終えた灯は、海を見た。
「よかったか」
「よかった」海は言った。「颯太さんに届くのは、十一年後だ。颯太さんが八十歳の時に届く。あなたは四十三歳だ」
「神代さんは」
「七十九歳だ。たぶん、いる」
「じゃあ、一緒に聞きましょう」灯は言った。
 海は笑った。「そうだな」


第九章 渡す夜

二〇一六五年の冬、神代海は引退を決めた。
 六十九歳だった。

最後の出勤日、灯が花を持ってきた。火星の温室で育てた、小さな白い花だった。
「火星で育った花は、なぜか地球のものより香りが強いんです」灯は言った。「大気が薄いから、揮発しやすいのかもしれない」
「凛先生が同じことを言っていた」海は言った。「記録に残っていた。火星の植物は逞しいと」

海は机の引き出しから、一冊のノートを出した。
「日記だ。私が書いてきた。蒼さんも、凛先生も書いていた。あなたも書きなさい」
「内容は」
「何でもいい。ただ、書く。誰かがいつか読む。読まなくてもいい。でも、書く」

灯はノートを受け取った。
「神代さん」灯は少し躊躇してから言った。「怖くないですか。引退して、信号を受け取らなくなって」
「怖い」海は率直に言った。「颯太さんの返事が来る前に、自分が死んだらどうしよう、とは思う。でも」
 海は窓の外を見た。
「颯太さんが送った信号は、私が受け取らなくても、宇宙を飛んでいる。あなたが受け取る。それで十分だ。凛先生に教わった言葉だ」

最後の夜、海は外に出た。
 火星の空は、今夜も澄んでいた。
 星が、無数にあった。
 南西の方向に太陽が沈んだ跡がある。ケンタウルスの方向を、三秒間、見た。
 そしてタウ・ケチの方向を、また三秒間、見た。
 架が、颯太が、それぞれの星にいる。
 自分はここにいた。ずっとここにいた。
 それで、よかった。

海は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星が見えていないか、六十九年経っても、まだわからなかった。
 でも、全部ある。見えなくても、ある。
 そして、渡した。
 灯に、渡した。

灯りを、渡した。



終章 星の数だけ

二〇一七五年。

田中灯は四十五歳になっていた。

颯太からの第三次報告が届いたのは、その年の春だった。颯太、八十二歳。声は老いていたが、はっきりしていた。

「灯くん。受け取ってくれているか。ナギの岩盤の孔、解析が進んだ。炭素を含む有機分子の痕跡が、孔の内壁に付着していた。アケアの有機化合物とは別の経路で生成されたと思われる。つまり、別々の場所で、似たプロセスが起きた可能性がある。宇宙には、生命の材料が遍在しているかもしれない。あるいは、生命そのものが。結論はまだ出ない。でも、わかりかけている。
 海くんは元気か。日記を書き続けているか。灯くんも書けよ。
 あなたはいつか、どこかへ行くんだろう。行く前に、私に信号をくれ。それだけ頼む」

灯はセンターで一人、録音を聞いた。
 神代海は四年前に亡くなっていた。七十一歳だった。引退してから二年後のことだ。颯太の返事が来る前に、逝った。

灯は海の日記を持っていた。
 最後のページに、こう書いてあった。
 「颯太さんの返事が来たら、灯が受け取るだろう。それでいい。私は渡した。渡されたものは、ちゃんと届く」

灯は、返信を録音した。

「颯太さん。灯です。受け取りました。神代さんは四年前に亡くなりました。でも、日記を読みました。颯太さんの返事を、いつか受け取ると書いてありました。私が受け取りました。
 有機分子の痕跡——神代さんに聞かせたかったです。でも、きっと知っています。どこかで。
 私は来年、エクソ・アーク三号でプロキシマ・ケンタウリへ向かいます。太陽から四・二四光年。架さんたちより近い星です。でも、別の方向。人類が初めて行く方向。
 神代さんの日記と、颯太さんの言葉を持って行きます。火星の赤い空の記憶も。
 信号を送ります。待っていてください。颯太さんが受け取れる間に、何か送れるといいな、と思っています。
 渡してもらったものを、ちゃんと持っていきます」

録音を終えて、灯は外に出た。
 火星の夜だった。
 空気は薄く、宇宙服が必要だった。
 星が、信じられないほどよく見えた。

南西に、ケンタウルスの方向。架がいる。
 別の方向に、タウ・ケチ。颯太がいる。
 そして、プロキシマ・ケンタウリ。自分が、行く方向。

海が毎朝、南西を三秒間見ていたことを、灯は知っていた。
 凛先生も、そうしていたと、海の日記にあった。

灯は南西を、三秒間、見た。
 それからタウ・ケチの方向を、三秒間、見た。
 そしてプロキシマの方向を、三秒間、見た。

全部、ある。
 見えなくても、ある。
 そこに誰かがいて、誰かが向かっていて、誰かが待っている。

漁師の話を、灯は海の日記で読んだ。
 神代蒼のひいひいおじいさんが、嵐の夜も船を出した男だったと。
 怖いから面白い、と言った男だったと。

その血は、灯には流れていない。
 でも、その言葉は渡された。
 日記から、口から、信号から、光から。
 渡された言葉は、血と同じように、次の者の中で生きる。

灯は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星がまだ見えていないか、わからなかった。
 でも全部、ある。
 星の数だけ、行く理由がある。
 星の数だけ、待つ理由がある。
 星の数だけ、渡すものがある。

来年、船に乗る。
 怖い。
 面白い。

それで十分だ。







三部作を終えて

一作目で蒼が火星へ旅立ち、二作目で凛と海が送り出す者の物語を生き、三作目で灯が次の旅立ちへ向かった。

「渡すこと」というテーマは、遺伝子の話でもあり、言葉の話でもある。NOVA1の変異体は0.3パーセントの者に受け継がれる。しかし「怖いから面白い」という言葉は、遺伝子を持たない者にも渡せる。灯がそうであったように。

この三部作を貫く問いは一つだ。
 見えない星は、あるか。

答えは、ある、だ。見えなくても、ある。行けば見える。行けなくても、誰かが行く。誰かが行けば、光が来る。光が来れば、また誰かが行きたくなる。

そのループが、人類を星へと運ぶ。
 0.3パーセントと、99.7パーセントが、それぞれの役割で。

星の数だけ、物語がある。
 この三冊は、その入り口の一つに過ぎない。



Amazon Kindle




あとがき

『星』三部作の最終篇となる本作を、無事に書き終えることができました。ここまでお付き合いいただいた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。

この物語を貫く問いは、一貫して「見えない星は、あるか」というものでした。

宇宙はあまりにも広く、人間の寿命はあまりにも短い。光の速さで通信を送っても、返事が届く頃には、送り出した本人はこの世にいないかもしれない。それは一見、絶望的なディストピアのようにも思えます。

しかし、私はそこに「人間が人間であることの最も美しい営み」を描きたいと思いました。

神代海は、颯太からの決定的な解析結果を自分の耳で聞くことなく、火星の空の下で生涯を終えました。しかし彼には、寂しさはありませんでした。自分の言葉を、そして蒼や凛から受け取った日記を、次の世代である「灯」へと確かに手渡すことができたからです。

遺伝子の繋がりがなくても、血が流れていなくても、私たちは言葉で、光で、意志を繋ぐことができる。「怖いから面白い」というあの無謀で美しい開拓者の魂は、そうして時空を超えていきました。

私たちが生きるこの現実の世界もまた、先人たちが命がけで渡してくれたバトンの先にある未来です。

本を閉じたあと、夜空を見上げた皆様の胸に、彼らが繋いだ小さな「灯(ともしび)」が少しでも灯ることを願って。


星 II
光の届かない場所で


Where the Light Cannot Reach
『星 ——プロテイン・ビヘイビア』続編


まえがき

光は1秒間に30万キロメートルを進む。それは人類にとって、あまりにも速く、同時に、あまりにも遅い速度だ。

前作『星 ——プロテイン・ビヘイビア』では、遺伝子の運命に導かれ、4.37光年先の未知へと飛び出した「行く者たち」の軌跡を描いた。
本作はその地続きにある、もう一つの航海の物語である。

人類が星の海へ漕ぎ出すとき、そこには常に二つの眼差しがある。暗闇の先へと進む船の窓から見つめる眼差しと、その船がいつか届く場所を信じて、地上から見上げる眼差しだ。

時空の裂け目に言葉を響かせ、何年も先の「返事」を待ち続ける人々。彼らもまた、動かぬ大地に立ち尽くしながら、心は星々を旅する航海者たちであった。

光の届かない場所で、灯りを掲げ続けた者たちの記録を、ここに開く。



序詞

それは
わずかに冒険心を抱いた者たちが
この先の
その先もと
命を掛けて進んで行く

そして
残った者たちが
灯りを持って
待つ

——星より

 




序章 届かない光

光は、秒速二十九万九千七百九十二キロメートルで進む。
 ケンタウルス座アルファ星Bまでの距離は、四・三七光年。つまり、あの星で今この瞬間に何かが起きたとしても、その光が地球に届くまでに四年以上かかる。
 逆に言えば、私たちが今夜見ているあの星の光は、四年前のものだ。

エクソ・アーク一号が出発してから、三十八年が経った。
 地球では、あの船のことを知らない世代が生まれ、育ち、子供を持ち始めている。
 火星では、入植第三世代が地表を歩いている。彼らは地球に行ったことがない。

しかし、守屋凛は覚えていた。
 九十一歳になった今も、あの日の朝を。
 孫娘が冬眠ポッドに入る前に送ってきた、最後の映像を。



第一部 残された海 (西暦2094〜2101年・東京/火星)

第一章 凛、八十七歳

守屋凛は、架が旅立った日から毎朝、同じことをした。
 ベッドから起き上がり、南西の窓を開け、ケンタウルス座の方向を三秒間、見る。
 見えるわけがない。東京の朝空に、四光年先の星は溶けている。それでも、見る。

八十七歳の凛の手は、もう設計図を引けなかった。関節が変形し、細かい線が引けない。かわりに口述で若い研究者に指示を出す。脳だけは、まだ動く。
 彼女が今手がけているのは、エクソ・アーク二号の推進システムだった。

「先生、休んでください」助手の宮内颯太が言った。二十六歳、凛の孫と同じ世代だ。
「颯太、あなたはNOVA1の変異体を持っているか」
 唐突な質問に、颯太は戸惑った。「……持っています。先月、財団から連絡が来ました」
「そうか」凛は端末から目を離さなかった。「だから心配しなくていい。あなたはどうせ行くんだから」
「先生は」颯太は少し間を置いた。「行きたかったですか」
 凛は答えなかった。窓の外を、三秒間、見た。
「私は設計者だ。船を作ることが、私の行き方だった」

その夜、凛は日記を書いた。
 紙の日記だった。蒼が死んでから始めた習慣で、もう二十年近く続いていた。

「架の信号が届いた。出発から七年、距離にして〇・九光年。まだ太陽系の外縁を抜けていない。冬眠中のため内容は短い。船体の温度、酸素濃度、核融合炉の出力。数字だけ。それでも、数字が来るということは、生きているということだ。数字が来なくなった日のことを、私はまだ想像できない」


第二章 火星の子供たち

神代海は十四歳で、祖父の父のことを学校で習った。
 神代蒼。最初の火星有人探査クルーの一員。砂嵐の中で百日間、一人で基地に残った男。炭素同位体の異常を発見した地質調査担当。

海は火星生まれだった。両親も火星生まれで、地球には一度も行ったことがない。青い空というものを、映像でしか知らない。
 火星の空は、海が物心ついた頃からサーモンピンクだった。それが普通だと思っていた。

「神代くん、発表して」歴史の先生が言った。
 海は立った。「神代蒼は……えーと、NOVA1の変異体を持つプロテイン・ビヘイビアで、財団の訓練を経て第一次火星クルーに選ばれました。火星基地あけぼので砂嵐による電力危機が発生した際、残留を志願し……」
「それは教科書の内容ね。あなた自身は、どう思う?」
 海は少し考えた。「……怖かったと思います。でも、行った」
「なぜ行ったと思う?」
「怖いから面白いんだ、って、そういう人だったんだと思います。ひいひいおじいさんが漁師で、同じことを言ってたって聞きました」

放課後、海は基地の外縁ドームに行った。特別な許可が要る場所で、海は財団の奨学生証を持っていたので入れた。
 分厚い透明アクリルの向こうに、火星の地表が広がっていた。赤茶けた岩、砂、地平線。空はいつものピンク。
 ここを、神代蒼が歩いた。宇宙服を着て、岩のサンプルを拾った。
 海は窓に手を当てた。ガラス越しに、微かに寒かった。

海の遺伝子解析結果は出ていなかった。もうすぐ出る。
 プロテイン・ビヘイビアかどうか、海はまだ知らなかった。
 でも、海は思っていた。遺伝子がどう出ようと、怖いから面白いという感覚は、自分の中にある、と。


第三章 信号が来なくなる日

エクソ・アーク一号からの信号は、出発から十一年目に変わった。
 冬眠から一部のクルーが目覚め始めたのだ。船が光速の十二パーセントに達し、航行が安定した段階で、管理担当の八名が交代で起きる仕様になっていた。

最初の肉声が届いたのは、地球時間で二〇一〇五年の三月だった。
 信号の遅延はその時点で一・四光年分、約十七ヶ月。つまり、その声は一年以上前に発せられたものだ。

「地球の皆さん。火星の皆さん。こちらエクソ・アーク一号、管理当番の中村です。全システム正常です。凛先生の設計は完璧でした。何一つ壊れていない」

凛はその録音を百回以上聞いた。
 中村というのは、凛が直接指導した学生だった。三十歳で船に乗った。今頃、四十一歳になっているはずだ。声は若いままだった。

返信を送った。届くのは一年四ヶ月後。
「中村くん。こちら守屋凛。あなたの声が聞けてよかった。架は元気ですか。船の第四冷却系の、バルブ番号A-17を定期的に確認してください。設計上の微妙な個所があります。元気でいてください」

颯太が隣でそっとハンカチを取り出したが、凛は気がつかなかった。

九十一歳の秋、凛は設計室に来なくなった。
 熱ではなかった。単純に、体が言うことを聞かなくなった。
 颯太が自宅に来て、エクソ・アーク二号の図面を見せた。
「先生の設計をベースに、推進効率を二十三パーセント改善できました」
「見せて」凛は手を伸ばした。
 颯太はタブレットを渡した。凛は老眼鏡越しにしばらく眺め、一箇所を指で示した。
「ここ。冷却剤の流路、ここをもう少し太くしなさい。長期航行では詰まる」
「……先生、それ、私が三ヶ月悩んでいた部分です」
「そうか」凛は返した。「蒼がいつも言っていた。悩んでいる場所は、正しい場所だ、と」

凛は日記の最後のページにこう書いた。
 「架に会えないまま死ぬだろう。でも、架が設計した夢の続きを、颯太が作っている。それでいい。私は船を作った。船は行った。行った先で、また船が作られるだろう。それで十分だ」

守屋凛は、その年の冬に眠るように亡くなった。
 九十一歳だった。



第二部 待つ者の星 (西暦2101〜2120年・火星/地球)

第四章 海の遺伝子

神代海の遺伝子解析結果が届いたのは、十六歳の誕生日の翌日だった。
 CHRM2——陽性。DRD4——陰性。NOVA1——陽性。
 三つのうち二つ。プロテイン・ビヘイビアの条件を満たさなかった。

海は結果を三回読んで、端末を伏せた。
 悲しいとは思わなかった。ただ、少し静かな気持ちになった。

翌週、財団の面談があった。担当者は穏やかな中年の女性だった。
「がっかりしていますか」
「少し」海は正直に言った。「でも、変な話だと思います。遺伝子の数字でがっかりするって」
「特別な数字ではありますが、全てではありません」担当者は言った。「神代蒼さんのクルーにも、プロテイン・ビヘイビアでない方がいました。凛さんもそうです」
 海は顔を上げた。
「守屋凛さんは、三つの変異のうち一つだけでした。でも、人類史上最高の宇宙船設計者でした。行く人だけが探査をするわけではありません。作る人が、待つ人が、記録する人が——全員で、星へ向かっているんです」

海はその夜、外縁ドームに行った。
 火星の夜空は、地球よりずっと澄んでいた。大気が薄いから、星が滲まない。
 南西の方向に、ひときわ明るい星がある。太陽だ。地球からは燦々と輝く恒星が、ここからは少し小さく見える。でも、まだ見える。
 ケンタウルス座アルファ星は、今の季節は地平線の下だ。見えない。
 でも、ある。

海は窓に手を当てた。プロテイン・ビヘイビアでなくても、この感覚はあった。見えないものが、あると信じる感覚。
 それは遺伝子ではなく、もっと別の何かかもしれなかった。


第五章 エクソ・アーク二号

宮内颯太は三十八歳になっていた。
 エクソ・アーク二号の設計が完成したのは、二〇一一年のことだ。守屋凛が残した設計思想を骨格に、新しい世代のエンジニアが十七年かけて完成させた船だった。

全長四百二十メートル。推進効率は一号比で三十一パーセント向上。最高速度は光速の十九パーセント。到達時間は約二十三年。
 目的地は変わった。ケンタウルス座アルファ星Bではなく、その先——タウ・ケチ星系。地球から約十一・九光年。

「先生が怒るかもしれない」颯太は図面を眺めながら言った。
 隣に立った神代海が首を傾げた。「守屋先生が?」
「ケンタウルスに一号が着く前に、もっと遠くへ送り出すことになる」
「でも先生は言っていたじゃないですか。船は行った。行った先で、また船が作られる、って」

颯太は海を見た。二十三歳になった海は、財団の地質調査部門に就職し、今は二号クルーの行き先候補の惑星データを分析していた。プロテイン・ビヘイビアでない者として、地上から探査を支える役割を選んだ。
「海くんは、羨ましくないか」颯太は言った。「颯太さんは行けるのに」
「先生と同じことを言うんですね、私も」海は少し笑った。「私の祖先には漁師がいました。その人は嵐の海へ出た。でも、港に残って、明かりを灯した人もいたはずです。船が帰ってくる場所がなければ、出ることもできない」
「火星に戻る予定はないけどな、二号は」
「知ってます。でも比喩です」

選抜が始まった。
 颯太は迷わず応募した。
 三百人の枠に、四十万人が応募した。


第六章 二つの船

エクソ・アーク一号からの最後の定期信号が届いたのは、二〇一一五年の夏だった。
 距離にして四・一光年。信号の遅延は四年以上。つまり、その信号が発せられた時、一号は目的地まであと〇・二七光年だった。

内容はシンプルだった。
 「全員元気。架、元気。もうすぐ着く」

神代海は三十五歳になっていた。
 信号を受け取った時、海は火星の通信センターにいた。受信を確認した瞬間、センターにいた全員が立ち上がり、拍手した。老いた研究者が泣いていた。

一号からの次の信号が来るとすれば、着陸後の報告だ。距離は四・三七光年以上。届くまで四年半以上かかる。
 今から四年半後、海は四十歳になっている。

その時、何が届くだろうか。
 架の声か。新しい惑星の空の色か。あるいは、静寂か。
 何が届いても、海はここにいるだろう。火星に。受け取る側に。
 そしてもし、届かなかったとしても——

海は窓の外を見た。
 太陽が、地平線に沈もうとしていた。空がいつもより深い赤に染まっていた。
 あの光は、八分前に太陽を出た光だ。
 全ての光は、過去から来る。
 それでも、光はある。



第三部 光の返事 (西暦2128〜2132年・火星)

第七章 四年半後の声

信号が来たのは、予測より六週間遅かった。
 神代海は四十二歳になっていた。

二〇一二八年、一月の火星の朝。通信センターの担当者からの緊急連絡で、海は飛び起きた。
「来ました」
 それだけだった。

センターに走って、ヘッドフォンをつけた。スピーカーから音声が流れた。遅延補正後の、クリアな声。

「地球の皆さん。火星の皆さん。こちらエクソ・アーク一号。神代架です」

海の息が止まった。
 架の声を、海は録音でしか知らなかった。この声の主は、海が生まれた年に旅立っていた。

「着きました。ケンタウルス座アルファ星B、第三惑星の周回軌道に入りました。惑星の正式名称をアケア——『夜明け』という意味のハワイ語です——と命名します。大気あり、液体の水の反応あり。降下準備中です。皆さんに伝えたいことがたくさんあります。でも、まず一つだけ」

一拍、間があった。

「空が、青いです」

センターが、しんとなった。
 誰かが小さく泣いた。
 それから、波が来た。笑い声と泣き声が混ざった、あの感じ。

海は椅子に座ったまま、動けなかった。
 青い空。火星では見たことのない、地球でも見たことのない、別の星の、青い空。
 架は見ている。今この瞬間——いや、四年半前に——別の太陽の光の下で、顔を上げている。

海は、窓の外を見た。
 火星の空は、サーモンピンクだった。
 それでよかった。
 それぞれの星に、それぞれの空がある。


第八章 返事を書く

火星代表として、海が返信を担当することになった。
 距離は四・三七光年。信号の遅延は四年四ヶ月。海が今録音したものが、アケアに届くのは四年後だ。架の「青い空」の声が発せられたのは、四年以上前。そのサイクルの中で、二つの星が言葉を交わしていく。

海は一晩かけて、原稿を書いた。

「架さんへ。火星の神代海です。あなたの玄孫——ひいひいお孫さんにあたります。神代蒼のひいひい孫です。あなたが旅立った年に、私はここ火星で生まれました。だからずっと、あなたのことを遠い人だと思っていました。でも、あなたの声を聞いて、そう思わなくなりました。

守屋凛先生は、九年前に亡くなりました。九十一歳でした。最後まで二号の設計をしていました。エクソ・アーク二号は来年、タウ・ケチへ向けて出発します。颯太さんが乗っています。凛先生の設計を受け継いだ颯太さんが。

青い空、というのが、どんな色か私にはまだわかりません。映像は見ています。でも、実際に見上げた経験がない。もしかすると、一生ないかもしれない。でも、あなたが見た。あなたが見たということを、私は知っている。それが、見えない星を信じることと、同じことだと思っています。

火星の空は今日も赤いです。でも、きれいです。
 どうか元気でいてください」

録音して、送信した。
 届くのは、四年後だ。
 その頃、海は四十六歳になっている。
 その返事が来るのは、さらに四年後。五十歳だ。

往復する光の中で、人は生きていく。
 届かなくても、送り続ける。
 それもまた、航海だと海は思った。


第九章 エクソ・アーク二号、出発

出発の日は、二〇一二九年の春だった。
 エクソ・アーク二号は、天王星軌道の発射台を離れた。全長四百二十メートル。クルー三百名。目的地、タウ・ケチ星系。到達まで約二十三年。

神代海は、火星の通信センターで見送った。
 実際には見えない。発射台は遠すぎる。でも、信号を受け取る画面の前にいた。

宮内颯太の最後のメッセージが届いた。
「海くん、守屋先生の日記を読んでいる。蒼さんのことが何度も出てくる。二人はすごい人たちだった。でも、先生が言っていた。すごい人じゃない人が、それぞれの場所で灯りを持っていてくれるから、船は行けるんだ、と。頼んだぞ」

海は返信した。
「任せてください。ちゃんと受け取ります。二十三年後も、ここにいます。いや、私がいなくても、誰かがいます。ずっと誰かが、ここにいます」

信号を送り終えて、海は外に出た。
 火星の夜だった。空気は薄く、宇宙服が必要だった。でも、この空は好きだった。

星が、信じられないほどよく見えた。
 大気が薄いから、瞬かない。ただ、静かに輝く。
 南西の方向に、ひときわ明るい点がある。太陽だ。
 その近くに、肉眼では見えないが、ケンタウルス座アルファ星がある。
 アケアがある。架がいる。今はもう、七十代になっているはずだ。

タウ・ケチの方向は、また別の場所だ。颯太が向かっている。

遠くなっていく。
 でも、つながっている。
 光の速さで、言葉を交わしながら。

海は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星がまだ見えていないか、海には分からなかった。
 でも、全部ある。
 見えなくても、ある。

それで十分だ、と海は思った。
 父の父の父の父が漁師だったことを、海は知っていた。
 嵐の夜も、船を出した男のことを。
 怖いから面白い、と言った男のことを。

その血が、自分の中にあるかどうか、遺伝子は教えてくれなかった。
 でも、今夜、この空の下でこうして立っていること。
 見えない星を、あると信じていること。
 それが答えだと思った。


終章 すべての星が見えたならば

二〇一三二年。
 アケアからの第二次報告が届いた。

神代架は七十四歳になっていた。声は老いていたが、はっきりしていた。

「火星の海へ。ありがとう。凛先生のことは、泣きました。もっと話したかった。でも、あなたが送ってくれた凛先生の最後の設計図を、私たちは全員で読みました。ここアケアで、小さな研究施設を建設中です。凛先生の名前をつけようと思います。守屋凛研究所。いいでしょう?

アケアは、美しいです。空は青く、海があります。生命の痕跡は——まだ断言できませんが、珪素系の化合物の層を発見しました。三十億年前の地層です。詳しい報告は次の信号で。

颯太さんが出発したと聞きました。二十三年後、あの人はタウ・ケチに着く。私が九十七歳の時だ。たぶん生きていない。でも、信号は来るでしょう。誰かが受け取る。それでいい。

あなたに会いたい。でも、会えない。でも、あなたの声は届く。私の声もそちらに届く。光の速さで、往復しながら。
 人類はそういう生き物になったんだと思います。
 太古の海を渡った者と、残った者が、それぞれの岸で灯りを持って。

火星の空が赤いと聞いて、懐かしかった。私もあの色の中で育ちました。ここの青い空も、慣れました。でも、時々赤い空が見たくなる。

元気でいてください。どうか、元気で」

神代海は、四十六歳だった。
 センターで信号を受け取り、録音を聞き終えた後、しばらく動けなかった。

そして、返信を録音した。

「架さんへ。海です。元気です。守屋凛研究所、最高の名前だと思います。先生に似てる名前のつけ方です。シンプルで、本質だけ。

颯太さんは今頃、冬眠の中です。タウ・ケチまであと二十二年。私が六十八歳になった頃、着く計算です。

こちらも変わりました。火星の人口が五十万を超えました。子供たちが地表を走り回っています。ここで生まれた子供たちは、この赤い空が普通なんです。あなたもそうだったように。私もそうだったように。

今日、外に出ました。夜空を見ました。あなたのいる方向を、三秒間、見ました。守屋先生がずっとそうしていたように。
 見えないけど、あると知っている。
 それが、私たちの航海の仕方だと思います。

元気でいてください。信号を、待っています」

送信して、海は外に出た。
 火星の夜空は、今夜も澄んでいた。
 星が、無数にあった。
 見えている星より、見えていない星の方が多い。
 それでも、空は暗かった。
 暗いから、星が見える。
 一つ一つが、際立って見える。

どの星に誰かがいるか、海には分からなかった。
 ただ、その光の数だけ、可能性がある。
 人類が、まだ踏んでいない地面がある。
 まだ見ていない空がある。

海は空を見上げた。
 見えない海の向こう側へ。
 光の速さで言葉を交わしながら、人類は進んでいく。
 0.3パーセントが先へ行き、残りが灯りを持って待つ。
 そのどちらも、航海者だ。

すべての星が見えたならば、夜空は光で埋まるという。
 しかし、まだそうではない。
 暗闇があるから、星は輝く。
 見えない星があるから、行く理由がある。

海は三秒間、南西の空を見た。
 それから、通信センターに戻った。
 次の信号を、待つために。




Amazon Kindle




著者より

一作目『星——プロテイン・ビヘイビア』は、旅立つ者の物語だった。
 この続編は、残る者の物語だ。

人類の探査の歴史を振り返ると、常に二種類の人間がいた。船に乗った者と、岸に立った者。マゼランと、マゼランの帰りを待った人々。アームストロングと、管制室で祈った人々。
 どちらが勇敢かという話ではない。どちらも、同じ夢を別の形で生きていた。

光の速さで言葉を交わすということ——それは、おそらく人類が初めて経験する時間感覚だ。返事が届くまでに何年もかかる。送った言葉が届く頃には、相手も自分も変わっている。それでも、送り続ける。
 それは、祈りと、どこが違うのだろう。

見えない星の方が多い。届かない光の方が多い。それでも、空を見上げることをやめない者たちが、この星にはいる。
 彼らを、人類と呼ぶ。


星 I
プロテイン・ビヘイビア

Protein Behavior


まえがき

すべての星が見えたならば、夜空は光で埋め尽くされ、暗闇はなくなるという。


これは「オルバースのパラドックス」と呼ばれる、天文学の古い謎です。


宇宙が無限であるなら、どの方向を見上げても必ず星があるはずなのに、なぜ夜は暗いのか。その答えは、宇宙の年齢と光の速さにあります。


私たちの頭上には、まだ光すら届いていない「見えない星」が、見えている星よりもはるかに多く存在しているのです。


人類の歴史は、常にその「見えないもの」を目指す旅でした。
かつて、木枯らしの吹く水平線の向こうへ命懸けで舟を出した者たちがいました。彼らはなぜ、引き返すことのできない海へ向かったのでしょうか。


本作は、未知を恐れる代わりに、それに焦がれるよう運命づけられた「0.3パーセントの人間たち」の物語です。


遺伝子に刻まれた見えない地図に導かれ、東京から火星、そして太陽系の外へと命を繋いでいく三世代の旅路。彼らが暗闇の向こうに見出した「星の色」を、どうぞ一緒に見届けてください。



ー序詞ー

すべての星が見えたならば
夜空は
星で埋まり
暗闇はなくなるそうだ

それだけ惑星は多く
それだけ宇宙は広く
それだけ遠くもある

人類は
やっとこの星を
抜け出すことが出来始めて

いつか
他の星へと
移住するのだろう

——作者




序章 星の地図

すべての星が見えたならば、夜空は光で埋め尽くされ、暗闇はなくなるという。


 これはオルバースのパラドックスと呼ばれる古い謎だ。宇宙が無限で、星が均一に分布しているなら、どの方向を見ても視線の先には必ず星があるはずだ。

だが夜空は暗い。その矛盾の答えは、宇宙の年齢と光の速度にある。まだ光が届いていない星たちがある。見えていない星の方が、見えている星よりもはるかに多い。


 人類はいつも、見えないものを目指してきた。



第一部 航海者の血 (西暦2031年・東京)

第一章 0.3パーセント

神代蒼は十九歳の春に、自分が人類の0.3パーセントに属することを知った。
 知らせてきたのは医師でも遺伝カウンセラーでもなく、スマートフォンに届いた一通のメールだった。送信者は「プロテイン・ビヘイビア財団」と名乗っていた。

件名は、シンプルだった。
 「あなたは選ばれています」

蒼はゴミ箱に捨てようとして、手を止めた。本文には彼の遺伝子解析データが添付されており、三ヶ月前に自ら送付したものと完全に一致していた。

就職活動の一環で受けた民間の遺伝子検査だった。CHRM2遺伝子の変異、DRD4の特定のハプロタイプ、そしてNOVA1——神経細胞の可塑性を制御するタンパク質をコードする遺伝子の、きわめてまれな組み合わせ。


 財団の説明によれば、この三つが同時に発現している人間は、全人口のおよそ千人に三人。

蒼の父は漁師だった。北海道の小さな港町で、嵐の夜も船を出した。「海が怖くないのか」と聞いたことがある。父は笑って言った。「怖いから面白いんだ」。
 父は蒼が十四歳の冬に、時化の海で還らなかった。

メールには面談の招待が添えられていた。場所は東京・港区の、ガラス張りのビル。蒼は承諾の返信を打った。

財団の受付で待っていたのは、白衣の女性だった。三十代半ばか、眼鏡の奥の目が静かだった。
「神代蒼さん。私は桐嶋梓、財団の主任研究員です」
 彼女は握手を求めず、かわりに小さな端末を差し出した。画面には螺旋状のグラフィックが回転していた。
「あなたの遺伝子の、この部位を見てください」
 蒼は画面を覗き込んだ。三本の鎖が絡み合う、奇妙な形だった。
「NOVA1の変異体です。タンパク質の立体構造が通常と異なり、ニューロンの接続パターンが特殊になる。具体的には」梓は一呼吸置いた。「未知の環境に対するストレス反応が、一般的な人間と逆転しているんです」


「逆転?」
「ほとんどの人は、未知に対して恐怖を感じる。あなたたちは、興奮を感じる」

蒼は父の言葉を思い出した。怖いから面白いんだ。

「財団は何をしているんですか」
 梓は端末をしまい、蒼を見た。
「人類を、この星の外へ送り出す準備をしています」


第二章 財団の地下

プロテイン・ビヘイビア財団の本部は、地上十八階建てのビルの地下三フロアに広がっていた。
 蒼が案内されたのは、地下二階の研究室だった。ここには世界中から集められた「0.3パーセント」の若者たちがいた。十八歳から二十五歳、三十二名。国籍は十七カ国に及ぶ。

「あなたたちのことを、私たちはプロテイン・ビヘイビアと呼んでいます」梓は言った。「タンパク質の振る舞いが特殊な人々、という意味です。しかし同時に、人類という生命体の根源的な行動様式を体現している、という意味でもある」
「移住?」三人ほど前の席に座ったブラジル人の青年が英語で尋ねた。「どこへ?」
「まずは火星です」梓は答えた。「しかしそれは通過点に過ぎない」

スクリーンに星図が映し出された。太陽系、そしてその外へ伸びる矢印。ケンタウルス座アルファ星、エリダヌス座イプシロン星、τケチ。

「あなたたちの中の誰かが、あるいはその子孫が、いつかあの星に立つかもしれない」
 誰かが小さく息を呑んだ。

隣に座ったのは、黒髪の日本人の女子だった。名を守屋凛といった。東京大学の宇宙工学科の三年生で、目が鋭く、手元のノートパッドに何かを素早く書き続けていた。
「信用できると思う?」蒼が小声で聞くと、凛は顔を上げた。
「財団の資金提供元はすでに調べた。航空宇宙企業三社、スウェーデンの機関投資家、そして匿名の個人。信用できるかどうかは、目的による」
「君はここへ来た目的は?」
 凛はまた前を向いた。「宇宙船を設計したい」

その夜、蒼は宿舎の屋上に上がった。東京の夜空はひどく白んでいて、星はほとんど見えなかった。
 父と一緒に見た北海道の夜空を思った。あの時の天の川の密度。満天とはこういうことかと初めて知った、十歳の夏。
 宇宙は広い。それだけ惑星は多く、それだけ遠くもある。
 そして今、自分はその入り口に立とうとしている。


第三章 訓練

財団のプログラムは過酷だった。
 午前五時起床、体力訓練。午前中は宇宙医学と生命維持システムの座学。午後は各自の専門分野の実習。夜は語学と宇宙法規。週に一度、心理評価。

蒼に割り当てられた専門は、船外活動と地質調査だった。なぜこの組み合わせなのかを尋ねると、梓は言った。「あなたのデータは、孤立環境での判断力と、物理的な作業への適応速度が高い。そして好奇心が、恐怖を上回る閾値が特に低い」
「褒めているんですか」
「事実を言っています」

三ヶ月が過ぎた頃、蒼は凛と話すようになっていた。凛は居眠りをしたことがなかった。食事も最低限で、常に何かを計算していた。


「眠れているのか」ある夜、蒼が尋ねた。
「眠れているが、眠りたくない」凛は答えた。「夢の中では何も設計できないから」
「君にとって宇宙船は、何なのか」
 凛は少し考えた。「私の両親はエンジニアだった。東北の大震災で亡くなった。私が八歳の時」
 蒼は黙った。


「この星は、時々ひどく意地悪だと思う」凛は続けた。「でも宇宙はもっと意地悪だ。だからこそ、立ち向かう価値がある」

財団のプログラムに参加して半年後、蒼たちは初めて実機訓練のために種子島に向かった。JAXA との共同施設、そこにあったのは次世代の有人ロケット「暁」だった。全長七十二メートル、三段式。第一段に液体水素エンジン六基。月周回軌道まで到達可能。
 蒼はその巨体を見上げ、心臓が速く打つのを感じた。
 恐怖ではなかった。



第二部 大海原への帰還 (西暦2041年・火星軌道上)

第四章 赤い惑星

火星の空は、サーモンピンクだった。
 蒼が初めてその色を見たのは、船外活動用ハッチの小窓からだった。大気圧は地球の約一パーセント。酸素はほぼない。地表気温は昼間でもマイナス二十度を下回る。
 だが、美しかった。

神代蒼は二十九歳になっていた。
 財団のプログラムから選抜された十二名が、火星有人探査ミッションの第一次クルーとして「暁II」に乗り込んだのは、七ヶ月前のことだった。地球を離れる瞬間、蒼は窓から青い惑星を見ていた。あんなに小さいのに、あんなに重かった。
 守屋凛は同じクルーにいた。彼女は船の構造設計を担当し、出発直前まで溶接の検査をしていた。

火星基地「あけぼの」は、オリンポス山の麓から南東三百キロメートルの場所に設置された。三棟のモジュール、太陽光パネル、掘削機。地下に水の氷があることは探査機が確認済みだった。


 蒼の任務は地質調査だった。毎朝、宇宙服を着て外に出る。サンプルを採取し、分析する。地球との通信遅延は最大二十二分。何かあっても、すぐに助けを呼べない。

「怖くないのか」と凛に聞かれたことがある。
「怖いから面白い」蒼は答えた。
 凛は苦笑した。「遺伝子そのままだね」

ある朝、蒼は地表から十七センチメートル下の岩盤に、奇妙なパターンを発見した。規則的な層状構造。生物が作る縞模様に、似ていた。


第五章 発見

分析に三週間かかった。
 基地のキャプテン、田辺修一郎が全員を会議室に集めたのは、火星到着から百三十日目だった。

「報告します」梓はここでも主任研究員として同行していた。彼女の声は静かだが、微かに震えていた。「神代が採取した岩盤サンプルから、炭素同位体比の異常な偏りを確認しました。具体的には、C13対C12の比率が、生物的プロセスの痕跡と一致する範囲に収まっています」
 誰も声を上げなかった。


「火星にかつて生命が存在したことを、直接示す証拠ではありません。しかし、否定する根拠もない」
「どれくらい古いんだ」凛が聞いた。
「三十五億年前から四十億年前の地層です」
 三十五億年前。地球では、最初の単細胞生物が誕生した頃だ。

その夜、蒼は外に出た。
 火星の夜空には、フォボスとダイモスが浮かんでいた。二つの月、不規則な形。そして星。地球からよりも、ずっとよく見える星。
 あの光の一つ一つに、惑星が回っているかもしれない。その惑星に、かつて何かが生きていたかもしれない。
 あるいは今も。

蒼は父のことを考えた。海の向こうへ漕ぎ出した男のことを。
 種族の中の0.3パーセントが、常に次の地平へと向かう。それは盲目的な衝動ではなく、生命そのものの記憶なのかもしれない。

かつて単細胞生物が陸に上がったように。魚が脚を生やしたように。人類が大洋を渡ったように。
 今は、空を超える番だ。


第六章 嵐と選択

火星の砂嵐は、地球のそれとは次元が違う。
 到着から百八十日目、太陽から見て反対側に回り込んだ火星の南半球で嵐が発生した。数日のうちに全球規模へと拡大した。ダスト・ストームと呼ばれるこの現象は、時に数ヶ月続く。太陽光パネルの発電量が九十パーセント低下した。

「電力が持たない」田辺は言った。「地熱発電機の出力上限で計算すると、十六週間分。地球から補給船が来るまで、二十一週間」
 五週間の不足。
「何かを削らなければならない」

選択肢は三つだった。暖房を下げてほぼ全員が低体温症のリスクを負う、食料と水の生産ラインを最低限に絞る、あるいは半数が基地に残り、残り半数が緊急帰還する。

蒼は残ることを申し出た。
 凛も手を挙げた。
「君は帰れ」蒼は言った。「設計者が帰らなければ、次のミッションが遅れる」
「そのロジックは私の方が言うべきだ」凛は答えた。「私がいなければ、このモジュールの緊急修理ができない。帰るべきはあなただ」

二人はしばらく向き合っていた。
「じゃんけんにしよう」凛が言った。
 蒼は笑った。「宇宙でじゃんけんか」
「人類三十万年の知恵だ」

凛が勝った。蒼は残ることになった。
 帰還艇が火星を離れる日、蒼は格納庫の窓から小さくなっていく船体を見た。凛の顔は、通信越しに最後まで何かを計算していた。

嵐の中で、蒼は記録を取り続けた。岩盤の変化、大気の組成、地下水脈の動き。恐怖はあった。しかし恐怖より、ここにしかないデータへの渇望の方が強かった。
 父も同じだったのだろうか、と思った。嵐の海の中で、波のパターンを読んでいたのだろうか。



第三部 見えない海 (西暦2089年・土星軌道外)

第七章 孫娘の時代

神代架は十七歳で、祖父の日記を読んだ。
 祖父、神代蒼は火星から生還した後、プロテイン・ビヘイビア財団の理事になった。守屋凛と結婚し、娘が一人いた。架はその娘の子、つまり孫娘だ。蒼は架が七歳のとき、老衰で死んだ。

日記には火星での日々が書かれていた。嵐の記録、岩盤のスケッチ、発見した炭素同位体パターンの図。そして最後の一節。

「いつか、この先の星に誰かが立つだろう。それは私ではないかもしれない。しかし、誰かの血の中に、私が見た星の色が残っているとしたら、それで十分だと思う」

架の遺伝子解析結果は、二週間前に届いた。CHRM2、DRD4、NOVA1。三つ全部。
 架は、プロテイン・ビヘイビアだった。

2089年、人類は太陽系の外縁に「前線基地」を設けていた。土星の衛星エンケラドゥスに恒久的な居住施設があり、天王星軌道上には太陽系外探査のための発射台が建設中だった。火星はすでに人口三万人を超える入植地となり、自律した政府を持っていた。
 プロテイン・ビヘイビア財団の活動も変わっていた。もはや小さな財団ではなく、国連の準機関として「種間探査機構」に再編されていた。

架に届いたのは、財団の後継組織からではなかった。「エクソ・アーク計画」——恒星間航行を目指す、人類史上最大のプロジェクトからだった。


第八章 エクソ・アーク

エクソ・アーク計画の本部は、エンケラドゥス基地の地下にあった。
 土星の巨大な輪を窓の向こうに見ながら、架は初めてブリーフィングを受けた。

「ケンタウルス座アルファ星Bは、地球から約四・三七光年の距離にあります」説明官は三次元マップを展開した。「現在の技術では、光速の十二パーセントで航行可能です。到達まで約三十七年」
「三十七年」誰かがつぶやいた。
「クルーは出発時に全員、冬眠します。意識のある状態での航行は最初と最後の数年のみ」
 架は手を挙げた。「帰れるんですか」
 説明官は一瞬、間を置いた。「片道です」

会議室が静まり返った。
 帰れない。地球にも火星にも。永遠に。

架は窓の外を見た。土星の輪が光を受けて輝いていた。ここまで来るのに、人類は何百年もかかった。あの輪に最初に望遠鏡を向けた人間は、まさか人間がその傍に住む日が来るとは思っていなかっただろう。

帰れないことを恐ろしいとは思わなかった。
 ただ、さびしいとは思った。

「祖父は」架は口を開いた。「火星から帰れないかもしれない状況で、記録を取り続けたと書いていました。怖かったと思います。でもそれより、そこにしかないものへの渇望が勝ったと」
 架は前を向いた。「私も同じです」

選抜試験は一年に及んだ。エクソ・アーク第一次クルーの定員は二百四十名。応募者は世界中から六万人を超えた。遺伝子的条件だけでなく、技術、心理、医学的な適性が厳しく審査された。
 架はクルーに選ばれた。


第九章 出発

出発の日は、2094年の春だった。
 エクソ・アーク一号は、天王星軌道上の発射台から離れた。全長三百二十メートル、質量八万六千トン。核融合パルスエンジン十六基。二百四十名の乗組員。そして冷凍睡眠ポッドの中に、何千もの種子と受精卵と、人類の知識のアーカイブ。

架は出発前夜、地球に向けてメッセージを録音した。信号が届くまで十三分かかる。返事が来るまで二十六分。この先、その遅延は伸び続け、いつかは届かなくなる。

「おばあちゃんへ。守屋凛。あなたの設計した宇宙船のエンジンは、今も私たちの基礎になっています。おじいちゃんの日記を何度も読みました。


彼が見た火星の空の色を、私は想像することしかできないけれど、あなたたちが歩いた道の先を歩いています。太古の昔、海に漕ぎ出した誰かの子孫が今日もまた、新しい海へと出ます。見えない海の向こう側へ。

帰れないけれど、後悔はありません。きっと向こうにも、そこにしかない星の色がある。愛しています」

船が加速を始めた。
 土星の輪が、遠くなった。
 太陽が、小さくなった。
 暗闇の中に、星だけが残った。

架は冬眠ポッドに入る前、最後に窓を覗いた。
 無数の星。まだ光が届いていない星の方が、はるかに多い。
 父の父の父が漁師だったことを、架は知っていた。嵐の夜も船を出した男のことを。怖いから面白いと言った男のことを。
 その血が、今、自分の中にある。
 それは遺伝子でできた、見えない地図だった。

ポッドが閉まった。
 意識が遠のく前に、架はひとつのことを思った。
 向こうに着いたら、まず夜空を見よう。そこから見える太陽は、ただの星のひとつだ。でも、あの光の中に、地球も火星もエンケラドゥスも含まれている。
 見えない星の方が多い。それでも、星はある。

宇宙は広い。
 それだけ惑星は多く、それだけ遠くもある。
 だから、行く。


終章 光の速さで

三十八年後、ケンタウルス座アルファ星Bの第三惑星の軌道上で、エクソ・アーク一号は減速を始めた。
 神代架は、五十五歳になっていた。

窓の外に、青みがかった惑星が見えた。大気がある。液体の水の証拠も、事前調査で確認されていた。生命の痕跡は、まだわからない。
 だが、美しかった。

地球へのメッセージを録音した。届くまで四年以上かかる。返事が来るとしたら、八年後。架が生きているかどうかわからない。
 でも、誰かが来る。架の子供たちが、この星で生まれるかもしれない。その子たちの子供たちが、またこの星から次の星へと向かうかもしれない。

「地球の皆さん、そして火星の皆さん。私たちは着きました。星は、ここにもあります。見えなかった星が、今、窓の外にある。祖父が火星で書いた通りです。見えない星の方が多い。でも、行けば見える。それだけのことです。そしてそれは、十分なことです」

録音を止めた後、架は静かに笑った。
 向こうに着いたら、まず夜空を見よう、と思っていた。
 そして今、ここから見える太陽は、ただの星のひとつだった。
 あの小さな光の中に、すべてが含まれていた。

夜が来た。
 新しい星の、新しい夜が。
 空を埋め尽くす、無数の星とともに。


Amazon Kindle



あとがきに代えて

オルバースのパラドックスは、十九世紀のドイツの天文学者ハインリッヒ・オルバースが提起した逆説だ。


宇宙が無限で静的であれば、夜空はどの方向を向いても星で満たされ、昼のように明るいはずだ。


しかし実際には夜空は暗い。

その答えは宇宙の年齢と膨張にある——まだ光が届いていない星が、無数にあるのだ。


本書の根底にあるのは、この問いだ。

世界はまだ、知らないことで満ちている。見えていない星の方が多い。行ったことのない場所の方が多い。だからこそ、私たちは前へ進む理由を持ち続けることができる。


「プロテイン・ビヘイビア」という概念は、行動遺伝学における新奇探索行動(Novelty Seeking Behavior)の研究や、特定の遺伝子変異と人類の移動歴史を結びつけた仮説にヒントを得ている。


もっとも、本書はあくまでフィクションであり、科学的厳密さよりも、人間が抱く「ここではないどこかへ」という詩的な衝動を優先して描いた。


太古の昔、見えない海の向こうへと漕ぎ出した私たちの祖先は、決して恐怖を知らない超人ではなかったはずだ。

彼らもまた、震える手で舵を握り、それでも進むことを選んだ市井の人々だった。彼らが臆病でなかったとは思わない。

臆病であっても、進んだのだ。その血のグラデーションが、今ここにいる私たちへと繋がっている。


星はある。見えなくても、そこにある。


そのシンプルな衝動が、冷たい宇宙を生きる人類の小さな灯火となることを願って。
だから、行く。


『世界は近く、日本は遠く』
── 時をかける手紙と、消えた妖精たちの国 ──



まえがき

世界は、驚くほど近くなりました。

手のひらに収まる小さな箱をひとつ持てば、地球の裏側にいる人と顔を見ながら話ができる時代です。会いたい人にすぐ会え、知りたいことは一瞬で調べられ、言葉の壁さえ機械が越えてくれるようになりました。

けれど、便利になればなるほど、不思議なことに「心の距離」は遠くなっているような気がします。

返事が少し遅いだけで不安になり、一言が軽く消費され、待つことや信じることが難しくなっていく。

昔の人たちは、顔も見えず、声も聞けず、それでも一通の手紙を信じて生きていました。

もし、百年前の誰かと手紙を交わせたなら。
もし、その人から「待つことの意味」を教えられたなら。

この物語は、そんな小さな空想から始まりました。

便利さを否定するための物語ではありません。
ただ、私たちがどこかへ置き忘れてしまった「言葉の重み」を、もう一度思い出すための物語です。

あなたが読み終えたとき、大切な誰かへ、一言だけでも丁寧な言葉を届けたくなっていただけたなら、とても嬉しく思います。




第一章:薄っぺらな箱と、一週間のタイムラグ

1
液晶画面が放つ冷たいブルーライトが、四畳半のワンルームマンションの壁を青白く染めていた。

「ハロー、アーサー! そっちの天気はどう?」

蓮(れん)はベッドに寝転んだまま、手元にある薄っぺらなプラスチックとガラスの箱──スマートフォンに向かって話しかけていた。画面の向こうでは、地球の裏側、ブラジルのサンパウロに住む友人のアーサーが、眩しいひまわりのような笑顔を浮かべている。時刻はあちらの朝、こちらは深夜だ。

「最高さ、レン! 今からビーチに行くところだよ。ほら、見てくれ!」

アーサーがスマホのカメラを外側に向けると、画面には抜けるような青空と、白い波飛沫を上げるコパカバーナの海岸がリアルタイムで映し出された。波の音までが、まるで隣の部屋から聞こえるかのように鮮明だ。

「すごいな。本当に、すぐ隣にいるみたいだ」
「だろ? ひと昔前なら、国際電話で聖徳太子が何枚も飛ぶような距離なのに、今じゃ無料のテレビ電話だ。世界は本当に狭くなったな!」

アーサーはそう言って豪快に笑い、親指を立てた。自動翻訳アプリが彼のポルトガル語を、寸分の狂いもなく完璧な日本語の音声へと変換して蓮の耳に届けている。言葉の壁も、距離の壁も、今の世界には存在しなかった。

「じゃあな、レン。またいつでもボタン一つで呼んでくれ!」
「ああ、良い一日を」

通話終了のボタンをタップする。わずかな電子音と共に、画面は一瞬で暗転した。

静寂が、泥のように部屋に満ちていく。
蓮は仰向けのまま、天井を見つめた。

世界は近くなった。それは間違いない。地球の裏側の笑顔を、指先ひとつで確認できる時代だ。しかし、通話を切ったあとに残る、この底なしの虚しさは一体何なのだろう。

出会うはずもなかった世界中の人々と、毎日いくらでも出会えてしまう。タイムラインをスクロールすれば、見ず知らずの他人の日常や愚痴、無数の言葉が洪水のように溢れてくる。約束などしなくても、いや、出会う必要すらない連中とまで、無理やり繋がされてしまう厄介な時代。

便利さと引き換えに、自分たちは何か決定的なものを失ってしまったのではないか。
蓮は胸のあたりに広がる奇妙な空洞感を抱えたまま、深い眠りに落ちていった。

2
週末、蓮は実家の古い物置の片付けを手伝っていた。
数ヶ月前に亡くなった祖母の、遺品整理のためだ。

埃の舞う薄暗い物置の奥から、蓮は古びた木箱を見つけた。桐の木でできているのだろうか。表面は黒ずみ、角が丸く擦り切れている。真鍮の留め金は赤錆びていたが、そっと力を込めると、カチリと小さな音を立てて開いた。

中に入っていたのは、数枚の茶色く変色した便箋だった。
毛筆で書かれた、流れるような美しい文字。縦書きの文章は、現代の蓮にとっては少し読みづらかったが、目を凝らして一文字ずつ追ってみる。

> 『拝啓
> 蓮(れん)様
>
> お手紙、確かに受け取りました。
> あなた様の住む世界のお話は、まるで狐に化かされているかのように不思議なことばかりですが、文面から伝わるあなた様の寂しげな熱は、本物であると信じられます。
>
> こちらは今、銀杏の葉が黄金の絨毯のように街を染めております。
> あなた様からの次のお手紙が届くまで、また一週間, 大切に待たせていただきます。
> どうか、お体に気をつけて。
>
> サヨ より』

「サヨ……?」

蓮は首を傾げた。祖母の名前はキヨだ。サヨという親戚がいたという話は聞いたことがない。しかも、宛名は「蓮様」となっている。同姓同名の誰かなのだろうか。いや、便箋の端に書かれた日付を見て、蓮は息を呑んだ。

『大正十五年 十一月』

今からちょうど百年前の、日付だった。

「おかしな悪戯だな」

蓮は苦笑した。百年前の人間が、自分の名前を知っているはずがない。きっと祖母が昔、何かの小説の文章でも書き写したものか、あるいは歳の離れた曾祖父の恋文か何かなのだろう。

しかし、なぜだろう。その便箋から漂う、微かな墨の香りと、一文字一文字に込められた「重み」のようなものが、蓮の心を捉えて離さなかった。

蓮はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、SNSの通知が何十件も溜まっている。既読をつけて一秒で返す、スタンプだけの会話。文字としての体をなしていない、軽薄な記号の羅列。

それらに比べて、この百年前の手紙に宿る言葉の、なんと静かで重厚なことか。

蓮は引き寄せられるように、物置の机にあったメモ帳とボールペンを手に取った。そして、本当に気まぐれに、サヨという正体不明の女性宛てに、返事を書き始めた。

『サヨ様
手紙を読みました。僕の住む世界は、ボタン一つで地球の裏側と話せる便利な場所です。でも、みんな忙しなく動いていて、誰の言葉も軽くて、時々息が詰まりそうになります。あなたの言う、一週間待つという時間の豊かさが、少し羨ましいです』

書き終えると、蓮は少し恥ずかしくなった。現代の愚痴を、百年前の幽霊にぶつけてどうする。
彼はメモを小さく折り畳むと、からかい半分で、その古い桐の木箱の中へと放り込み、パチンと蓋を閉めた。

その時だった。
ズボンのポケットの中で、スマートフォンが激しく震えた。

画面を見ると、見たこともない真っ黒なエラー画面が表示されていた。中央には、白い文字でこう刻まれている。

【未着信:1926年(大正15年)からの返信】
【システム処理中──相手方への到達まで:残り7日間】

「……は?」

蓮は画面を何度もタップしたが、フリーズしたように動かない。再起動を試みようとしたその時、画面の文字がすうっと消え、いつもの見慣れたホーム画面に戻った。

「バグか。最近のスマホは、変な広告のウイルスでも入ったのかな」

蓮は冷や汗を拭いながら、スマホをポケットにしまい込んだ。

3
それから、ちょうど一週間が経った。

蓮はすっかりあの出来事を忘れていた。大学の講義を受け、アルバイトをこなし、深夜に帰宅する日常。相変わらず、世界は近く、そして浅かった。

夜の11時半。自室のベッドに腰掛けた蓮は、ふと、部屋の隅に置いてあったあの桐の木箱に目を留めた。実家からなぜか持って帰ってきてしまったのだ。

「確か、スマホの画面には一週間って書いてあったな……」

冗談交じりに、時計を見る。11時45分。
蓮は立ち上がり、木箱の前にしゃがみ込んだ。錆びた留め金に手をかける。心臓が、なぜかドクドクと不自然な高鳴りを上げていた。

カチリ。

蓋を開ける。
中には、蓮が先週入れたはずの、ノートを破ったメモ用紙が──なかった。

代わりに、別の、少し黄ばんだ和紙の便箋が、一枚だけ静かに横たわっていた。
まだ乾いたばかりのような、鮮やかな黒い墨の匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。

蓮は震える手で、その便箋を取り出した。

> 『拝啓
> 蓮様
>
> 驚きました。お返事、本当に届くなんて。
> あなた様の文字は、見たこともないほど細く均一で、まるで機械が書いたようですが、そこに込められた寂しさは、確かに私の胸に届きました。
>
> ボタン一つで遠くの人と話せる世界。それはまるで神様の住む世界のようですね。
> ですが、言葉が軽くなってしまったというのは、悲しいことです。
>
> こちらでは、昨日、友人が上野の駅の伝言板に書いた待ち合わせの文字が、誰かの悪戯で消されてしまい、一日中すれ違って会えずじまいでした。友人は「これもまた、仕方なき別れる運命だったのだ」と、寂しそうに笑っておりました。
> 不便ではありますが、だからこそ、私たちは一度の約束を命がけで守ろうといたします。一言の重みを、神様の世界の方々にも、忘れてほしくはありません。
>
> また、一週間後にお便りいたします。
>
> サヨ より』

蓮は、言葉を失った。

指先が微かに震える。便箋の裏を返すと、そこには『大正十五年 十一月』の文字。
これは錯覚でも、誰かの悪戯でもない。

手元にある薄っぺらな箱を使えば、地球の裏側の笑顔は一秒で確認できる。
しかし、今、自分の手にあるこの手紙は、「一週間前の彼女の気持ち」なのだ。
そして、自分が今すぐ折り返して書く気持ちが、彼女へと届くのは、さらに一週間後。

往復で二週間。
日々、移り変わる若者の心にとって、二週間という時間はあまりにも長い。顔の見えない虚しさは、信頼していたはずの心を揺さぶり、時にはすれ違いのまま、永遠に遠ざかってしまうかもしれないリスクを孕んでいる。

「すがれるものは、手紙だけ……」

蓮は呟いた。
現代の人間が忘れてしまった、本当の「距離」がそこにはあった。

国際電話ですら、一瞬で大金が飛ぶからこそ、人は言葉を選び、命を削るようにして想いを伝えていたのだ。すべてが無料になり、無限になり、便利になった現代。それは同時に、すべての価値をゼロにしてしまったのではないか。

蓮はデスクに向かい、今度は万年筆を握り締めた。
サヨのいる百年前の日本へ向けて、二通目の手紙を書き始める。

「サヨさん、僕のいる日本は、あなたのいる日本と同じ場所なのに、とても遠い場所にあります……」

世界はこんなにも近くなったのに、どうして僕たちの心は、こんなにも遠くなってしまったのだろう。
時空を超えた、一週間のタイムラグを持つ文通が、静かに幕を開けた。



第二章:駅の伝言板と、すれ違う運命

1
一週間という時間は、現代の感覚からすれば、気が遠くなるほど長い。

蓮がサヨへの二通目の手紙を桐の木箱に投函してから、わずか数日の間にも、彼のスマートフォンの画面は目まぐるしく変化していた。大学のグループチャットでは、一日に数百件ものメッセージが飛び交い、一時間スマホを見ないだけで「未読」の数字が膨れ上がる。

「レン、昨日の夜のミーティング、なんで返信くれなかったんだよ?」

大学の食堂で、ゼミの同期である拓海(たくみ)が、不満げにトレイをテーブルに置いた。手元のスマホをいじりながら、視線すらこちらに向けない。

「すまん。少し疲れていて、早く寝たんだ」
「勘弁してくれよ。スタンプ一つ返すのに一秒もかからないだろ? 『既読』がつかないと、こっちだって予定が組めなくて困るんだからさ」

拓海の言葉に、蓮は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
一秒で返せる言葉。それは裏を返せば、一秒の価値しか持たない言葉ということではないか。

現代の人間は、いつでもどこでも繋がれる便利さと引き換えに、相手の「不在」を許せなくなっている。相手が今、何をしているのか、どんな気持ちでいるのかを「想像する余白」が、完全に奪われてしまっているのだ。

「……なぁ、拓海。もし、連絡した相手からの返事が届くまでに、どうしても一週間かかるとしたら、どうする?」
「は? 一週間?」

拓海は呆れたように鼻で笑った。

「そんなの、連絡してないのと一緒じゃん。縁がなかったって諦めて、次の奴探すわ。今の時代、待つなんて時間の無駄だし、効率悪すぎ」

効率。無駄。
それが現代を支配する絶対の正義だった。
蓮はそれ以上言葉を返すのをやめ、静かに冷めたスープを口に運んだ。

彼の心はすでに、ここではないどこか──一週間の静寂が守られている、百年前の街並みへと向かっていた。

2
約束の一週間が経ち、深夜十一時四十五分。
蓮は儀式を行うかのような厳かな気持ちで、桐の木箱を開けた。

予想通り、蓮が書いた手紙は消え、代わりに新しい墨の香りをまとった便箋が収められていた。サヨからの三通目の手紙だった。

> 『拝啓
> 蓮様
>
> お手紙、嬉しく拝読いたしました。
> あなた様の住む世界では、人々が皆、手元にある小さな箱に縛られ、一秒の遅れも許されずに急ぎ足で生きているのですね。神様のような便利な道具を持ちながら、心に余裕を持てないというのは、なんだか不思議で、少しお気の毒な気もいたします。
>
> こちらでは先日、少し悲しい出来事がありました。
> 私には、幼馴染で、いずれ一緒になるのだろうと信じていた男性がおりました。名を『清治(せいじ)』と申します。
>
> 彼は実家の商売を助けるため、遠くの街へ行くことになり、出発の日の朝、上野の駅で待ち合わせをする約束をしておりました。
> ところが、私が乗った路面電車が途中で故障してしまい、約束の時間に一時間も遅れてしまったのです。
>
> 急いで駅へ駆けつけ、駅の伝言板を見ました。
> そこには、彼の文字で『一時間待ったが、先に行く。達者で』と書かれていた形跡があったのですが……悲しいことに、その文字は、誰かの悪戯か、あるいは駅員の掃除によって、半分以上が雑に消されてしまっていたのです』

蓮は息を呑んだ。
文字が消された駅の伝言板。携帯電話のない時代、それが何を意味するか、現代の蓮にも容易に想像がついた。

> 『私は、彼がまだ駅の近くにいるかもしれないと、夕方まで探し回りました。
> ですが、ついに会うことは叶いませんでした。
>
> 今、私の手元には、彼が旅立つ前にくれた一通の手紙だけが残されています。
> その手紙には、私を大切に思う気持ちと、向こうの街へ着いたら必ずまた手紙を書く、と記されていました。
>
> しかし、顔の見えない、声も聞こえない日々が続くのは、本当に虚しいものです。
> 届くまでに一週間もかかる手紙を待つ間、私の心は、激しく揺さぶられてしまいます。
> 『彼は本当に私のことを待ってくれていたのだろうか』
> 『消された文字の裏に、もっと別の言葉があったのではないか』
>
> 日々、移り変わる若さの心では、その一週間の空白が、まるで底のない深い溝のように思えてしまうのです。
> 信頼していたはずの心が、少しずつ遠ざかっていくような恐怖に、私は毎夜、耐えております。
> すがれるものは、この手紙だけなのに。
>
> もし、あなた様の言う『スマートフォン』があれば、私たちはすれ違わずに済んだのでしょうか。
>
> サヨ より』

手紙を読み終えた蓮は、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「さよなら、ってこと……」

先週、自分が感じていた「便利さゆえの軽さ」とは真逆の、不便さゆえの「残酷な重み」がそこにはあった。
ちょっとしたトラブルで、駅の伝言板の文字が消され、それきり一生の別れになってしまうかもしれない時代。現代なら、一通のメッセージで「電車が遅れてる」と送れば済む話だ。

サヨの生きる時代の人々は、そんな張り裂けそうな不安と戦いながら、それでも「仕方のない運命」として諦め、あるいは「縁がなかった」と片付けて生きていたのだ。

蓮は震える手でペンを握った。サヨの、その張り裂けそうな心を、どうしても繋ぎ止めたかった。

『サヨさん。スマートフォンがあれば、確かにあなたと清治さんはすれ違わずに済んだかもしれません。でも、現代の僕たちは、繋がれすぎることで、相手を信じ抜く強さを失ってしまいました。
一週間、顔が見えないからこそ、相手を想う時間は本物になるはずです。どうか、清治さんからの手紙を、彼の言葉を信じて待ってください。僕も、あなたの言葉をここで信じて待っています』

蓮は祈るような気持ちで手紙を木箱に収め、蓋を閉じた。

3
翌日、蓮が大学の講義を終えて駅へ向かう途中、奇妙な違和感に襲われた。

駅の改札口の横。いつもなら、そこには巨大なデジタルサイネージが置かれ、きらびやかな広告映像やニュースがせわしなく流れているはずだった。
しかし、その日に蓮の目に飛び込んできたのは、黒いペンキで塗られた、古びた黒板だった。

上部には、白いチョークでこう書かれている。
『伝言板』

「え……?」

蓮は足を止めた。周りを行き交う人々は、誰もその黒板を奇異の目で見ていない。それどころか、何人かの会社員や学生が、備え付けのチョークを手に取り、「先に行く」「〇〇カフェにいる」などと文字を書き込んでいる。

蓮は慌ててスマートフォンを取り出し、検索欄に「駅 伝言板」と打ち込もうとした。
だが、指が止まった。

スマートフォンの画面デザインが、昨日までと微妙に変わっているのだ。
アプリのアイコンはどれも簡素になり、リアルタイムで動いていた動画広告は姿を消し、静止画ばかりになっている。まるで、通信速度そのものが、世界全体で意図的に落とされているかのような──。

「世界が、少しずつ変わっている……?」

蓮の脳裏に、サヨの手紙の文字が蘇る。

便利さと引き換えに失われた「一言の重み」。
蓮が百年前の世界と繋がり、言葉を交わしたことで、現代の「便利すぎる世界の構造」が、ほんの少しだけ過去の不便さの方へと引きずり戻されているのではないか。

その時、蓮の背後から、コツン、コツンと、革靴の静かな足音が近づいてきた。

「妖精たちの魔法が、解けかけているね」

低く、しかし驚くほど澄んだ声だった。
蓮が振り返ると、そこには古びたトレンチコートを着た、白髪交じりの老人が立っていた。
その老人は、片目に黒い眼帯をつけていた。隻眼の老人──ハーン。

「……誰、ですか?」

老人は優しく微笑み、駅の伝言板を見つめながら言った。

「かつて、この国は妖精たちが住む国と呼ばれていた。目に見えない調和を重んじ、自然を敬い、一言の言葉に命をかける、美しい妖精たちだ。だが、彼らが作り上げた便利な製品が世界を占める頃、妖精たちは皆、日本人の姿をした西洋人へと変わってしまった」

蓮は息を呑んだ。それは、彼が以前読んだことのある、小泉八雲の言葉そのものだった。

「君が木箱に入れた言葉が、眠っていた妖精たちを揺り動かしている。だがね、青年。時間を超える言葉には、相応の覚悟が必要だ。1週間のタイムラグは、時に人を救い、時に人を永遠に狂わせる」

「どういう意味ですか!? サヨさんは……サヨさんはどうなるんですか!」

蓮の問いかけに、老人は答えなかった。
ただ、寂しげな笑みを浮かべ、人混みの向こうへと歩き去っていく。その姿は、夕暮れの駅舎の影に溶けるようにして、一瞬で消え去ってしまった。

手元で、スマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、エラー画面が再び表示されていた。

【未着信:1926年からの返信(残り到着時間:6日間)】
【警告:時代の渦が接近しています】

蓮はスマホを握りしめた。
サヨのいる大正十五年は、もうすぐ激動の昭和へと変わる。歴史が狂い始めようとしていた。
便利さと不便さの狭間で、二人の運命の歯車が、激しく回り出していた。



第三章:消えゆく『妖精の国』の予言

1
世界は確実に、その輪郭を変え始めていた。

大学への通学路、いつも視界を埋め尽くしていた派手なネオンサインや、歩きスマホをする人々の群れが、日に日に減っていることに蓮は気づいていた。
人々はスマホをポケットにしまったまま、ぼんやりと空を見上げたり、隣を歩く友人の顔をじっと見つめて話したりしている。

SNSを開いても、かつてのような一秒ごとに流れていくタイムラインの喧騒はなかった。
代わりに、短い一言がぽつり、ぽつりと表示されるだけだ。自動翻訳機の精度も落ちたのか、海外の友人からのメッセージには、どこかぎこちない、直訳調の冷たさが混じるようになっていた。

まるで、世界を覆っていた「超高速の網」が、一本ずつ解かれていくかのように。

「……レン、最近なんか、変だと思わないか?」

ゼミの講義前、拓海が所在なげにスマホの画面を見つめながら呟いた。

「何が?」
「いや、なんかさ……街の空気が静かすぎるっていうか。昨日、コンビニの店員に『ありがとうございました』って言われた時、いつもなら聞き流すのに、なんか妙に胸に染みたんだよな。あの店員、俺の目をちゃんと見て、頭を下げてた。まるで、俺の無事を祈るみたいにさ」

拓海は自分の腕をさすりながら、不思議そうに笑った。

「変だよな。あんなの効率悪いし、ただの無駄な愛想なのに。でも、悪くないっていうか、なんか、ホッとしたんだ」

蓮は拓海の横顔を見つめた。
効率と合理性を最優先し、「待つことは無駄だ」と言い切っていたあの拓海が、他人の小さな「気遣い」に心を動かされている。

小泉八雲が言った「妖精たち」の魔法。
それは、かつてこの国の隅々にまで満ちていた、目に見えない相手への敬意、繊細な情緒、誠実な美意識、そして「言葉の裏にある沈黙を尊ぶ心」だったのではないか。
それが、蓮とサヨの文通によって、百年後の現代にじわじわと染み出し、人々が「日本人の姿をした西洋人」から、本来の「日本人」へと戻り始めている証拠だった。

しかし、それは同時に、現代の「便利で快適な世界」が壊れていくことでもあった。

2
一週間後。十一時四十五分。
蓮は祈るような心地で桐の木箱の蓋を押し上げた。
中から現れたサヨの手紙は、前回よりも心なしか、文字の勢いが乱れているように見えた。

> 『拝啓
> 蓮様
>
> お手紙、嬉しく拝読いたしました。
> 顔も見えぬ、一週間も前の私を信じて待ってくださるあなた様の存在が、今の私の、どれほどの心の支えになっているか言葉では言い尽くせません。
>
> あなた様のアドバイスの通り、私は清治さんを信じて待つことにいたしました。
> すると、昨日、本当に彼からの手紙が届いたのです。
>
> 彼は向こうの街の印刷工場で、必死に働き始めたそうです。
> 『今はまだ不甲斐ない身だが、必ず一人前になって、君を迎えに行く。だから、男を立てると思って、俺を信じて待っていてくれ』と、不器用な文字で書かれていました。
>
> 男を立てる、という言葉。
> もしかすると、あなた様の時代では、古臭く、女が虐げられているように聞こえる言葉かもしれませんね。
> でも、こちらの女にとって、それは決して卑屈なことではないのです。
>
> 私たちが男の人を立てるのは、その人がおだてに乗って、私たちのために命をかけて戦ってくれると信じているからです。その人の背中に、自分の命と、この国の未来を預ける覚悟があるからです。
> また男の人もまた、その祈りに応えるだけの、守り通せる強さと誇りを持って生きています。
> 互いが互いの役割を誇り、支え合う。この目に見えぬ絆こそが、私たちの生きる世界の美しさなのだと、清治さんの手紙を読んで改めて気づかされました』

蓮は、ハッと息を呑んだ。
男を立てる女と、その女を命がけで守る男。
それは、決して古い上下関係などではなく、お互いへの絶対的な信頼と、命がけの「約束」の形だったのだ。現代の、責任を回避し、傷つくことを恐れて記号だけの言葉を交わす人間関係とは、あまりにも地平が違っていた。

しかし、手紙の後半、サヨの筆致は急に影を帯びた。

> 『ですが、蓮様。
> 最近、こちらの街でも、奇妙なことが起き始めております。
>
> 街を走る自動車の数が急に増え、人々がみな、西洋のきらびやかなお洋服を競って着るようになりました。
> 長屋の近所付き合いは薄くなり、人々は隣に住む人の名前すら気に留めなくなっています。
> 誰もが、手元に時計を携え、一分一秒の遅れを気にしながら、怒りを含んだ顔で急ぎ足に歩いているのです。
>
> 清治さんの働く印刷工場でも、西洋から輸入されたという巨大な最新式の機械が導入され、職人たちの繊細な手仕事が、次々と『無駄なもの』として切り捨てられているそうです。
>
> まるで、私たちの愛したこの国が、中身だけ別の国へ塗り替えられていくような、そんな言い知れぬ恐ろしさを感じます。
> 蓮様、私たちは一体、どこへ向かおうとしているのでしょうか……。
>
> サヨ より』

蓮の手が、激しく震えた。
逆だ。因果関係が逆だったのだ。

現代が過去の「情緒」を取り戻しつつある半面、サヨの生きる過去の世界は、現代の「冷徹な合理主義」に侵食され、急速に『日本人の姿をした西洋人の国』へと変貌をさせられていた。

蓮がサヨに送った現代の言葉が、百年前の日本を「汚染」してしまっている。
このままでは、サヨのいる大正十五年は、情緒も美徳も失われた、ただの「冷たい効率の街」へと変わり果て、小泉八雲の予言通り、妖精たちは完全に全滅してしまう。

3
「気づいたようだね」

背後から聞こえた声に、蓮は飛び上がった。
振り返ると、自室の窓辺に、いつの間にかあの隻眼の老人・ハーンが腰掛けていた。鍵をかけていたはずの窓が、静かに開いている。

「ハーンさん……! これは、どういうことなんですか! なぜサヨさんの世界が……!」
「世界は、天秤なのだよ、青年」

ハーンは眼帯のない方の目で、哀しげに蓮を見つめた。

「君が現代の虚しさを嘆き、過去の重みを求めた。天秤は傾き、現代にはかつての精神が戻りつつある。しかし、物理の法則は等価交換だ。あちらの世界は、君たちの世界の『便利さと軽薄さ』を引き受けざるを得なくなった」

ハーンは立ち上がり、ゆっくりと桐の木箱へと近づいた。

「このまま文通を続ければ、あちらの世界の妖精たちは死に絶える。日本人が作り上げた最高傑作である、あの時代の女性たちの心も、すべて西洋の個人主義に塗り潰されるだろう。清治という男も、効率の波に呑まれ、彼女を守る力を失う。……それが、君の望んだことかね?」

「そんなわけないだろ!」
蓮は叫んだ。
「僕は、サヨさんの心を救いたかっただけだ! すれ違いの寂しさから、彼女を……!」

「ならば、次の手紙が最後になる」

ハーンは静かに指を一本立てた。

「次の文通で、天秤の傾きは最大になる。あちらの世界に『時代の渦』──つまり、歴史の大きな転換点が訪れる。そこで君がどんな言葉を選ぶかで、日本の形が、そして彼女の運命が決まる」

「僕に、どうしろって言うんだ……」

「そろそろ、日本を取り戻そう」

ハーンは、あの時と同じ言葉を口にした。
「便利さと引き換えに、君たちが捨ててしまった『言葉の重み』を。男が女を守り、女が男を信じる、あの重かった約束事を。君自身の命を使って、証明するのさ」

そう言い残すと、激しい夜風が部屋に吹き込み、蓮は思わず目を瞑った。
次に目を開けたとき、老人の姿はどこにもなく、ただ、窓の外に広がる2026年の東京の夜景が、いつもよりほんの少しだけ、暗く、静かに佇んでいた。

蓮はスマートフォンの画面を見た。
そこには、赤く点滅する文字が浮かび上がっていた。

【緊急:最終着信まで残り7日間】
【次信、大正十五年十二月二十五日──大正の終わり、昭和の始まり】

時代の渦が、すぐそこまで迫っていた。




第四章:男の誇り、女の祈り

1
2026年12月。
蓮の生きる現代日本は、一年前とは完全に別世界に変貌していた。

スマートフォンの画面はモノクロの文字情報だけになり、リアルタイムの動画通話はおろか、簡単なメッセージを送るのにも数時間を要するようになった。街からは、いつでもどこでも誰かと繋がれる「薄っぺらな便利さ」が完全に消滅していた。

しかし、不思議なことに、街を行き交う人々の表情に、かつてのような苛立ちや空虚さはなかった。
駅の伝言板には、大切な人へ宛てた手紙のようなメッセージが丁寧な文字で書き込まれ、人々は相手が来るのを、30分でも1時間でも、穏やかな顔でじっと待っている。

「世界は遠くなった。でも、みんなが近くにいる」

拓海は、動かなくなったスマホを愛おしそうにポケットにしまいながら言った。

「なあ、レン。俺、今度の週末、ずっと好きだった子に告白しようと思うんだ。ラインじゃなくて、直接会って、目を見て言うよ。もし断られたら、それも縁がなかったって受け入れる。なんかさ、そう決めたら、一言一言をすごく大切に思えるようになったんだ」

拓海の言葉は力強く、そして優しかった。
現代の日本は、小泉八雲の言う「妖精の心」を取り戻しつつあった。失われたはずの情緒が、この国に還ってきたのだ。

だが、蓮の心は引き裂かれそうだった。
現代がこれほど優しく、美しくなるために、サヨの生きる百年前の世界は、どれほどの冷酷な合理主義を押し付けられているのだろうか。

運命の一週間が経ち、深夜十一時四十五分。
蓮は震える手で、桐の木箱の留め金を外した。

2
箱を開けた瞬間、蓮の指先に、これまでとは違う強烈な緊張感が走った。
中に入っていたのは、何十枚もの和紙ではなく、破り取られたような、たった一枚の便箋だった。
そこに書かれたサヨの文字は、毛筆ではなく、荒々しい鉛筆の跡。激しく乱れ、ところどころが涙で滲んでいた。

> 『蓮様
> 助けてください。世界が、私たちの世界が壊れてゆきます。
>
> 本日、大正天皇が崩御されました。
> 街は悲しみに包まれる間もなく、新しい『昭和』という時代の足音に掻き消されております。
>
> 恐ろしいのはそれだけではありません。
> 街の人々から、大切な人を思いやる心が、急速に消え失せているのです。
> 誰もが自分の利益だけを叫び、困っている人を誰も助けようとしません。
>
> 清治さんの働く印刷工場でも、恐ろしい事件が起きました。
> 機械の効率化によって、多くの年老いた職人たちが、明日からのパンも無いまま、一瞬でクビを切られたのです。
> 清治さんは激怒し、職人たちを守るために工場主へ掛け合いました。
> 『男が命をかけて守るべきは、機械の数字ではなく、一緒に汗を流した仲間だ!』と。
>
> 誠に、今の工場主の心は、西洋の冷たい数字に支配されていました。
> 清治さんは暴力的に工場から叩き出され、今、大勢の警察に追われています。
> 『効率を乱す危険分子』として、捕まればどんな目に遭うか分かりません。
>
> 先ほど、清治さんが私の家へ忍んでまいりました。
> 彼の服はボロボロで、傷だらけでした。私は彼の手を握り、言いました。
> 『清治さん、私はあなたを信じています。どんな時代の渦が来ようとも、私はあなたを立て、あなたについて行きます。だから、どうか誇りを捨てないで』と。
>
> 清治さんは私の目を見て、静かに微笑み、私をおだてに乗った馬鹿な男だと笑いながら、こう言ってくれました。
> 『サヨ、お前が信じてくれるなら、俺はどんなお上が相手でも、命がけでお前を守り通してみせる』
>
> そう言って、彼は私を逃がすために、囮となって夜の闇へ駆けていきました。
>
> 蓮様、これが私の愛した日本の姿です。
> 男を立てる女と、その女を守るために命をかける男。
> でも、街の空気は、彼を『無駄な存在』として圧殺しようとしています。
> 効率という怪物に、私たちの心まで喰い尽くされようとしています。
>
> すがれるものは、あなた様との、この手紙だけです。
> 私は、どうすればいいのでしょうか……。
>
> サヨ より』

手紙を読み終えた蓮の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。

大正十五年、十二月二十五日。
史実における大正の終焉のその日、サヨの世界では、現代の利己主義と合理主義という名の怪物が、人々の心を貪り食っていた。
清治は、サヨを、そして日本人が本来持っていた「誇り」を守るために、たった一人で時代の潮流と戦っている。

「俺のせいだ……」

蓮は頭を抱えた。
自分が現代の空虚さから逃げるために、彼女に言葉を送り続けた結果、サヨと清治は歴史の奈落へと突き落としされようとしている。

手元で、スマートフォンが最後の一鳴りを上げた。
画面には、真っ赤な文字でカウントダウンが表示されている。

【最終同期まで、残り3分】
【選択してください】
【A:現代の情緒を維持する(過去の均一化を確定する)】
【B:過去へすべての情緒を返還する(現代は元の冷たい世界へ戻る)】

「天秤を、どちらに傾けるかね?」

いつの間にか、部屋の窓辺にハーンが立っていた。
隻眼の老人は、悲しげな、しかし蓮の覚悟を試すような鋭い視線を投げかけている。

「Aを選べば、君のいる現代日本は、美しい『妖精の国』のまま固定される。人々は互いを思いやり、言葉は重みを取り戻す。しかし、百年前のサヨの世界は、冷徹なディストピアとなり、清治は捕らえられ、サヨの心も壊れるだろう」

「Bを選べば……?」

「サヨの世界に、本来の日本の美徳が戻る。清治は彼女を守り通す力を取り戻し、二人は激動の昭和を、気高く生き抜くことができる。……だが、君のいる現代世界は、元の『薄っぺらな箱に縛られた、冷たい効率だけの世界』へと逆戻りだ。君はまた、孤独と虚しさに怯える日々を送ることになる」

蓮はスマートフォンを見つめた。
カウントダウンの数字が、刻一刻と削られていく。

「2分……1分50秒……」

現代の日本を取り戻すのか。それとも、百年前の、自分とは直接関係のない他人の幸せを救うのか。
拓海の笑顔が脳裏をよぎる。このままAを選べば、拓海の恋も、街の優しさも守られる。自分が我慢しさえすれば、この美しい現代が手に入るのだ。

しかし、蓮の耳の奥には、サヨの悲痛な叫びが、そして清治の不器用な覚悟の言葉が、激しく響いていた。

「……男が偉かったからじゃない」

蓮は、ぽつりと呟いた。

「男を立てる女がいて、そのおだてに乗って、命がけで女を守れる男がいたから。守り通せる力が、あの時代にはあったから、日本は素晴らしかったんだ」

蓮はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いはなかった。

「ハーンさん。今の僕たちの便利さは、あの時代の人たちが、不便さと戦いながら、命がけで言葉を繋いできてくれたから、その上に成り立っているんだ。それなのに、現代の僕たちが寂しいからって理由で、彼らの心を奪っていいわけがない」

蓮は、デスクに置いた万年筆を握りしめた。
残り時間は1分を切っている。
彼は最後の便箋に、自分の魂を削るようにして、サヨへの最後の手紙を書き殴った。

『サヨさん。清治さんを、あなたの男を、どこまでも信じて立ててください。清治さん、サヨさんを、あなたの命にかえても守り通してください。
あなたたちのその強さこそが、本当の『日本』です。
僕たちの世界がどれほど冷たく、便利で、浅い場所に成り下がろうとも、あなたたちの紡いだ美しい血と心は、百年後の僕たちの心の奥底に、必ず、かすかな光として生き続けます。
だから、どうか負けないで。昭和という時代を、美しく生き抜いてください。
さようなら、僕の愛した、妖精の国の人。』

蓮は手紙を小さく折り畳むと、桐の木箱へと力強く叩き込んだ。
そして、スマートフォンの画面の【B】のボタンを、迷わずタップした。

「送信……完了」

その瞬間、世界が激しく明滅した。
眩い光が部屋を包み込み、蓮は意識を失うように、深い闇へと落ちていった。



終章:そろそろ、日本を取り戻そう

光が収まり、蓮がゆっくりと目をあけたとき、四畳半の部屋は元の冷たい静寂に包まれていた。

手元のスマートフォンが、チカチカと騒がしく震える。画面には、見慣れた、しかしどこか忌々しいカラフルな通知の山が復活していた。
「未読メッセージ34件」「新着の動画広告」「地球の裏側からの『ハロー!』のプッシュ通知」。

世界は一瞬にして、あの「薄っぺらな箱に縛られた、冷たい効率だけの現代」へと逆戻りしていた。

蓮はベッドの上に上体を起こし、真っ先に部屋の隅に目をやった。
そこには、あの古びた桐の木箱が、やはり静かに佇んでいる。

恐る恐る近づき、錆びた留め金に手をかける。カチリ、と音がして蓋を開けると──中には、もう便箋は一枚も入っていなかった。墨の匂いも、鉛筆の跡も残っていない。

ただ、木箱の底の木目に、まるで長い年月をかけて刻み込まれたかのような、小さな小さな擦り傷のような文字が、かすかに残っているのが見えた。

『ありがとう』

サヨの文字だった。毛筆でも鉛筆でもない、彼女が激動の昭和を生き抜き、天寿を全うするまでのどこかの瞬間に、愛おしそうに爪先で刻んだかのような、微かな、しかし決して消えない心の跡。

蓮は画面の中でせわしなく明滅するスマートフォンを見つめ、それから窓の外の、冷たいネオンが輝く東京の夜景を見下ろした。

街を行き交う人々は、また歩きスマホを始め、一秒の遅れにイライラしながら、記号のような言葉を消費しているのだろう。世界は近く、日本はまた、遥か遠くへ行ってしまったのかもしれない。

しかし、蓮の胸の奥にある空洞は、不思議ともう消えていた。

「サヨさん、清治さん。あなたたちが守り通してくれた心は、確かにここにあるよ」

蓮はスマートフォンをポケットにしまい、今度は自分の足で、外の街へと歩き出した。便利さと引き換えに失われてしまった言葉の重みを、今度は自分が、この現代の片隅で一言ずつ、丁寧に紡いでいくために。

手のひらの上の箱は薄っぺらくとも、そこに込める心だけは、あの重かった約束事のままで。

──『世界は近く、日本は遠く』 (完)


Amazon Kindle



あとがき

『世界は近く、日本は遠く』という題名には、私自身が日々感じている違和感を込めました。

世界中の人と簡単に繋がれるようになった今、私たちは以前よりも豊かになったのでしょうか。

それとも、何か大切なものを失ってしまったのでしょうか。

答えは、きっと一つではありません。

便利さも、技術も、人類が積み重ねてきた素晴らしい財産です。私自身もその恩恵を受けながら生きています。

けれど、ときどき思うのです。

昔の人たちが持っていた、「待つこと」「信じること」「約束を守ること」の重みは、今の私たちにも必要なのではないかと。

蓮とサヨの文通は終わりました。

しかし、彼らが繋いだ心は、きっと百年後も、さらにその先の時代にも、誰かの胸の中で生き続けるでしょう。

もし今、あなたの心の中に思い浮かぶ人がいるなら、どうかその人を大切にしてください。

手紙でも、電話でも、短いメッセージでもかまいません。

言葉は軽くなったのではなく、私たちが重く使うことを忘れてしまっただけなのかもしれません。

この物語が、そのことを少しでも思い出すきっかけになれば、とても嬉しく思います。


潮時を見極めよ

― ある男の、静かな手放し ―


まえがき

私たちはいつから、「増やすこと」ばかりを正しいと思うようになってしまったのだろう。
若さ、知識、人脈、財産、思い出。人生の前半戦において、それらは生きるための武器であり、自分という存在を形作る大切なピースだった。
しかし、人生には折り返し地点がある。
還暦を過ぎ、かつての相棒たちや愛する者が一人、また一人と舞台を去っていくとき、私たちはそれまで抱え込んできた荷物の重さに、ふと立ち止まることになる。
本書は、ある一人の元板金職人の男が過ごした、静かな半年の物語である。
彼が手放していくのは、若き日の情熱の象徴だったバイクであり、身体を焦がした波乗りの板であり、いつしか義務感に変わっていた人付き合いだ。
それらは一見、「老いへの敗北」や「諦め」のように見えるかもしれない。しかし、男が一つ荷物を降ろすたびに、その人生には不思議な、そして美しい「余白」が生まれていく。
これは寂しい物語ではない。残された限られた時間を、もう一度自分のために生き直そうとする男の、静かで誇り高き「選択」の記録である。あなたが今、人生のどの季節にいたとしても、この男の背中が、これから歩む道をやさしく照らしてくれることを願っている。




一 バイクと煙草の男

 波の音が遠ざかっていく夢を、正一はよく見る。

 目が覚めると、枕もとに煙草が一本、立ててある。誰も置いた覚えがない。灰皿の隣、いつも自分が置く位置に、まるで最初からそこにいたかのように、すっと立っている。

 田中正一、六十三歳。元板金職人。現在は年金と、月に何度かの軽作業で暮らしている。妻の節子は五年前に逝き、息子は大阪にいる。

 朝六時。正一は台所でインスタントコーヒーを淹れながら、窓の外を見る。十月の空はまだ薄暗く、隣家の屋根に雀が三羽、並んでいる。

「今日もあいつが来るかな」

 声に出して言ってから、自分が誰のことを言っているのか、少し考える。あいつ、というのは友人の健二のことだ。死んで四年になる健二の。

 正一と健二は高校からの付き合いだった。二人でバイクに乗り、二人で波乗りを覚え、二人で職人になった。健二は板金ではなく溶接を選んだが、どちらも手に職を持つ男だという点では同じだった。

 健二が死んだのは冬の朝だった。脳梗塞。布団の中で、眠るように逝った。六十歳を手前にして。

 通夜の夜、正一は健二の顔を見ながら思った。まだ早いだろう、と。お前はまだ、バイクに乗るはずだったじゃないか。波乗りだって、腰が痛えとか言いながら、まだ板を抱えて海に入るはずだったじゃないか。

 その夜から、枕もとに煙草が立つようになった。
  *  *  *

二 煙草を立てるもの

 最初は気のせいだと思った。自分が無意識に置いていると思った。しかしそれにしては、置き方が几帳面すぎた。斜めでも倒れてもいない、まっすぐに、フィルターを下にして、立っている。

 正一は煙草をやめて久しい。節子に頼まれてやめたのが二十年前。だから家には煙草などない。

 では、どこから来るのか。

 あるとき、立っている煙草のそばに耳を近づけてみた。かすかに、煙の匂いがした。ただの煙草の匂いではなく、もう少し複雑な匂い。焼けた鉄の匂いが混じったような、懐かしい匂い。

 健二はよく作業着のポケットに煙草を入れたまま溶接をしていた。煙草がほんの少し焦げるのを、あいつは気にしなかった。

「健二か」

 正一は言った。返事はなかった。ただ、カーテンが揺れた。窓は閉まっているのに。

 それ以来、正一は枕もとの煙草を「健二からの便り」と解釈することにした。解釈、というよりも、そう決めた。理屈は関係なかった。そう感じた、それだけだ。

 六十を過ぎた男は、こういうことに論理を持ち込まなくなる。理屈で割り切れないものが、人生には確かにある。それを知っているだけで、もう十分だと思うようになる。

  *  *  *

三 バイクを手放す日

 十一月の初旬、正一はバイクを売ることにした。

 ホンダのCB750。三十年前に中古で買い、ずっと乗り続けてきた一台だ。何度もエンジンを開けて、自分で直した。塗装も二度やり直した。今は艶消しの黒になっている。

 売ると決めたのは、転んだからだ。大きな転倒ではない。信号で停車するときに、左足が滑っただけだ。しかし車体を支えきれず、右側に倒れた。ゆっくりと、抵抗しながら倒れるバイクの重さが、正一の右膝に来た。

 起こすのに手こずった。若い頃なら一瞬で起こせた二百キロの鉄の塊が、正一には重かった。通りがかりの若者が手伝ってくれた。ありがとうと言いながら、正一は膝の痛みよりも別の痛みを感じていた。

 その夜、枕もとに煙草はなかった。

 翌朝も、なかった。

 正一は台所に立ちながら、そのことを考えた。健二が来ない夜が続くのは、久しぶりだった。

「売るな、ということか」

 呟いてみた。返事はない。雀もいない。空が白みはじめている。

 いや、違う、と正一は思い直した。健二が来ないのは、止めようとしているからではない。健二は止める男ではなかった。何があっても、正一の選択を笑って見ていた。お前がそうしたいなら、それでいいだろ、という顔をしていつもそこにいた。

 では、なぜ来ない。

 考えながらコーヒーを飲んでいると、ふいに気づいた。健二が来ない夜というのは、正一が迷っていない夜だ。自分の中でもう答えが出ている夜だ。

 そうか。お前は迷っている俺のところに来るのか。

 バイクを売ることは、もう決まっていた。

  *  *  *

四 業者が来た日

 バイク買取の業者が来たのは、晴れた午後だった。

 三十代の、愛想のいい男で、CB750を見るなり「これ、いい状態ですね」と言った。正一はそれが素直に嬉しかった。三十年、大事にしてきた。

 査定の間、正一は縁側に腰を下ろして庭を見ていた。節子が植えた金木犀がもう盛りを過ぎ、地面にオレンジ色の花びらが散っていた。

 業者の男が戻ってきて、金額を提示した。正一は即座に頷いた。値段の話をする気分ではなかった。

「思い切りましたね」と男は言った。「大事にされてたバイクでしょうに」

「潮時というやつだよ」

 正一は答えた。男はにこりと笑って、書類を取り出した。

 CB750が積載車に載せられていくのを、正一は玄関から見ていた。後ろ姿が遠ざかる。エンジンの音が聞こえないまま、ただ荷台の上で揺れながら消えていく。

 泣かなかった。

 泣くかと思ったが、泣かなかった。かわりに、胸の中でどこかの扉が静かに閉まる音がした。

 その夜、煙草が二本、枕もとに立っていた。

 正一は少し笑った。「二本は多いだろ」と言った。カーテンが揺れた。

  *  *  *

五 海へ

 十二月に入って間もなく、正一は波乗りの板を持って海へ行った。

 最後に乗るためではない。見に行くためだ。板を抱えて砂浜に立ち、波を見る。ただそれだけのつもりだった。

 しかし海に来ると、身体が勝手に動く。ウェットスーツを着て、板を持って、波打ち際まで歩いてしまった。十二月の海は冷たかった。寒さが足首から上ってくる。

 波は小さかった。穏やかな日で、腰くらいの高さの波が、規則的に崩れていた。

 正一はしばらくそこに立っていた。

 健二と二人でここに来た日のことを思い出す。健二は上手くなかった。波に乗ろうとするたびに板から落ちて、水を飲んで、それでも笑っていた。「俺には向いてない」と言いながら、毎週来た。向いてないけど好きだ、それでいいだろ、という顔をして、毎週来た。

 波が一つ来た。

 正一は板に腹ばいになり、パドルをした。五年ぶりかもしれない。腕が重い。しかし身体は覚えている。波の引き込む感覚を、身体が覚えている。

 立てなかった。膝まで立ちかけて、板からずり落ちた。冷たい海水に沈み、鼻に水が入り、立ち上がると胸まで濡れていた。

 でも、乗った。ほんの一秒か二秒。板の上に立った。

 砂浜に戻り、ウェットスーツを脱ぎながら、正一はぼんやりと海を見た。波が来て、崩れて、消える。また来て、崩れて、消える。

「最後にしておく」

 正一は海に向かって言った。返事はない。波の音だけがある。

 しかしそう言ったとき、砂浜の先の方で、人影が一瞬揺れた気がした。振り返ると誰もいない。ただ風が砂を巻いて、その向こうに夕日が傾いていた。

 健二だろうか。わからない。でも正一は手を振った。波に向かって、あるいはそこに誰かいたかもしれない場所に向かって、一度だけ、手を振った。

  *  *  *

六 付き合いを減らすこと

 一月になって、正一は幾つかの誘いを断り始めた。

 町内会の新年会。元職場の同期の集まり。かつての取引先との飲み会。どれも悪い集まりではなかった。しかし、行くと必ず疲れた。家に帰ると、身体ではなく気持ちが磨り減っていた。

 何が疲れるのか。

 考えてみると、人の話を聞くのが疲れるのではなかった。愚痴を聞くのも、自慢話を聞くのも、それ自体はさほど苦ではない。疲れるのは、そういう話に対して適切に反応しなければならない、その義務感だった。

 うなずいて、笑って、「そうですね」と言って、「大変でしたね」と言って、「それは良かったですね」と言う。六十年以上生きてきた正一には、それが習い性になっていた。しかし還暦を過ぎてから、それがひどく消耗することに気づいた。

 ある夜、断りの電話を二本かけた後、正一は台所で缶ビールを開けた。

「お前はどうだったんだ、健二」

 声に出して聞いてみた。健二は人付き合いがよかった。誰とでも打ち解けて、場の空気を明るくした。でも、あいつも疲れることはあったはずだ。

 枕もとの煙草のことを考えながら、ビールを飲んだ。今夜は来るだろうか。

 布団に入ると、煙草が一本、立っていた。

 正一は手を伸ばして、そっと触れた。指先に冷たさと、かすかな温もりが同時にある気がした。

「お前も疲れてたんだろ」

 言うと、部屋の隅が少し明るくなった気がした。気のせいかもしれない。電柱の明かりが、窓から漏れたのかもしれない。

 でも正一には、健二が笑った気がした。そうだよ、と言っている気がした。

  *  *  *

七 手放すことと、残すこと

 二月の末、正一は押し入れの整理をした。

 節子の遺品はもう片付けてある。しかし自分の物が増えすぎていた。道具類、工具、本、レコード。三十年、四十年前のものが積み重なっていた。

 捨てるか、残すか。その判断を一つ一つしながら、正一は半日を過ごした。

 波乗りの板は、息子に送ることにした。息子は海から遠い場所に住んでいるが、いつか誰かに譲ることができるかもしれない。捨てるよりはいい。

 レコードは残すことにした。これは捨てられない。節子も好きだったものがある。健二と一緒に聴いたものもある。物が消えたって、音楽は消えない。でもレコードがなければ、この音楽とは二度と会えない。

 工具は半分処分した。もう使わない道具を取っておいても、置き場所を取るだけだ。

 夕方、全部片付け終わって、正一はぼんやりと空になった押し入れを眺めた。

 空白が怖くない。それが意外だった。むかしは物で埋めたかった。押し入れも、予定も、付き合いも。でも今は、空白がある方が、なんだか呼吸しやすい。

 人間は年を取ると、空白に慣れてくるのかもしれない。あるいは空白の意味が変わるのかもしれない。空白というのは、欠落ではなく、余白なのだと。

 その夜、枕もとに煙草はなかった。でも部屋の空気が、かすかに変わっていた。

 焼けた鉄と煙草の匂い。健二の匂い。

 正一は「ありがとう」と言った。何に対してかは、よくわからない。でも言いたかったから、言った。

  *  *  *

八 ご同輩

 三月になった。

 近所の公園で、正一は見知らぬ老人と話した。八十近い男で、ベンチに座って鳩に餌をやっていた。

「何をそんなに考えてるんだい」と老人は言った。正一が隣のベンチに座って、空を見ていたからだ。

「いや、手放すことについて、考えてました」

「手放すこと」

「ええ。色々と、手放し始めてまして」

 老人はしばらく鳩を見てから言った。

「儂もそれをやった。七十を過ぎた頃から。バイクを売って、畑をやめて、友人の集まりを減らして」

「寂しくなりませんでしたか」

「最初はな。でも途中から、これは寂しさじゃないと気づいた。荷物を降ろした感覚だと気づいた」

 正一はうなずいた。荷物を降ろす、という言葉が、ちょうど良い言葉に聞こえた。

「残りの時間を、自分のために使っていいんだよ」と老人は続けた。「それは勝手じゃない。そういう歳になった、ということだ」

 老人が立ち上がり、杖をついて歩き去った。正一は見送って、それからまた空を見た。

 春の空は、薄い青だった。雲が一つ、ゆっくりと流れていた。

 持ち時間は、こうしてる間にも減っていく。でも、何かを手放すたびに、残った時間が少し透明になっていく気がする。

 夕方、家に帰ると、台所の窓から夕日が入っていた。節子が好きだった時間だ。金色の光が、床と壁をゆっくりと染めていく。

 正一はコーヒーを淹れながら、これからのことを考えた。

 まだバイクも乗れるかもしれない。いや、乗れない。でも乗れたとしても、もう乗らない。それは敗北ではなく、ただの選択だ。身体に合わせた、身の丈の選択だ。

 波乗りも、もうしない。でも海へは行く。ただ座って、波を見る。それで十分だ。

 付き合いも、必要なものだけにする。疲れる集まりには行かない。でも本当に会いたい人とは、ちゃんと会う。

 それで、何かが失われるか。

 少し考えて、正一は思った。失われるものもあるが、残るものの方が、たしかに重い。

 布団に入ると、健二の煙草が立っていた。一本。

「お前もそう思うか」

 聞くと、カーテンが揺れた。

 正一は目を閉じた。遠くで、波の音がする。夢の中でいつも聞く、あの波の音だ。

 ゆっくりと遠ざかっていく波の音を聞きながら、正一は眠った。

  *  *  *

エピローグ 潮時

 四月の朝。

 桜が散り始めた窓の外を見ながら、正一はコーヒーを飲んでいた。

 今日は息子から電話が来る予定だ。正一が板を送ったことに、息子が礼を言ってきた。なぜ送ったかは聞かなかった。息子はそういう男だ。聞かずに受け取る。それが正一には嬉しかった。

 今朝の枕もとに、煙草はなかった。

 最後に立っていたのは、いつだっただろう。もう一週間ほど来ていない。

 正一はそのことを寂しいとは思わなかった。健二はきっと、もう来なくていいと思ったのだ。正一が迷わなくなったから、もう来る必要がないと思ったのだ。

 それでいい。

 それが健二らしい。

 花びらが一枚、窓を流れた。薄いピンクが、春の光の中でゆっくりと落ちていく。

 正一は窓を開けた。四月の朝の空気が入ってきた。まだ少し冷たく、しかしもう春の匂いがした。

「潮時、というやつだよ」

 声に出して言った。誰もいない台所に、声が消えた。

 でも消える前に、ほんの一瞬、焼けた鉄と煙草の匂いがした気がした。

 正一は窓の外に向かって、一度だけうなずいた。

 桜が散り続けていた。






  *  *  *




アマゾン キンドル




あとがき

本作は、ある素晴らしい詩との出会いから生まれた。
そこには、還暦を越えた男が自らの衰えを受け入れ、ハードな遊びや厄介な付き合いから手を引いていく覚悟が、淡々と、しかし力強く綴られていた。最後に添えられた「そんなことだよ ご同輩」という言葉に、私は救われるような、背中を押されるような感覚を覚えた。
私たちは、何かを辞めたり諦めたりすることに、どうしても罪悪感を抱きがちだ。まだ頑張れるのではないか、ここで引いたら負けなのではないかと、自分を追い詰めてしまう。
しかし、この詩が教えてくれたのは、「潮時を見極めること」は敗北ではなく、限られた持ち時間を自分のために使うための、きわめて理性的で贅沢な決断なのだということだ。
小説化にあたり、正一という男の傍らに、あえて「目に見えない相棒」を配した。職人として共に生きた親友の気配は、正一が自らの人生を整理していく上での、無言の肯定者である。人は一人で生まれ、一人で死んでいくが、心の中に響く「あいつの声」がある限り、決して本当の意味で孤独にはならない。
押し入れを空にした正一が呟いた「空白は欠落ではなく、余白なのだ」という言葉は、そのまま、この物語を通して私が読者の皆様に届けたかった想いでもある。
最後に、この物語の種を撒いてくださった原詩の作者に、心からの敬意と感謝を捧げます。桜の散る春の朝、正一が感じたあの爽やかな風が、皆様の心にも届きますように。




【原詩】

潮時を見極めよ

還暦を越したら
男は
そろそろ潮時を考えねばならない

まずはハードな遊びから

バイク
波乗り
それから
それから… と

そして
あれこれの付き合いをも
そろそろ潮時かと
減らしてしまおう

面倒な
厄介な
苦手な 連中…

背負う必要など
ない

時間は刻々と進み
身体もまた
仕方なくも劣る

永遠など
どこにもなく

すべては
有限なのだ

持ち時間は
こうしてる間にも
急ぎ足で
減って行く

もう
自分の為にと
割り切っても良い

そんなことだよ
ご同輩…



『ストレスフリー』

――あるいは、消えていく男の奇妙な冒険――

田中孝雄(六十二歳、元・営業部長、現在・ほぼ透明)著


まえがき


私たちはいつから、これほど多くの「つながり」を背負い込むようになったのだろうか。

三十八年間、会社という組織の中で営業一筋に生きてきた。名刺を配り、名前を覚え、夜の街で頭を下げ、人間関係という名の「財産」を必死に築き上げてきた。だが、定年退職を迎えた翌朝、手元に残ったのは静寂だけだった。あの賑やかな日々は、財産などではなく、会社から借りていた「レンタル品」に過ぎなかったのだ。

スマートフォンに残された無数の連絡先を、一つ、また一つと削除していく。

ボタンを押すたびに胸の奥の風船が弾け、心が軽くなっていく。

だが、それと引き換えに、私の「身体」にある奇妙な変化が起き始めた――。

これは、不要なものをすべて手放した男が、少しずつ透明になりながら「本当の豊かさ」を見つけるまでの、お気楽で、少し不思議な冒険の記録である。






第一章 排除の朝

田中孝雄(六十二歳、無職、元・株式会社ミナミ産業営業部長)がスマートフォンの「連絡先削除」ボタンを初めて押したのは、退職から三日目の火曜日の朝、午前九時十七分のことだった。


「鈴木課長」

削除。


「佐々木部長」

削除。


「山田常務」

削除。


「大口取引先・荒木商事・荒木社長」

削除。


ボタンを押すたびに、孝雄の胸の奥で何かが「ぽん」と弾けるような感覚があった。風船が割れるような、あるいは長年詰まっていた排水管がようやく通じたような、そういう感覚だ。


妻の久子(五十九歳、主婦、趣味はガーデニングと韓国ドラマ)は、テーブルの向かいでトーストをかじりながら、夫の様子をちらちらと観察していた。


「あなた、大丈夫?」

「ん?」

「なんか、顔が……」

「顔が?」

「ちょっと薄くなってきてる気がするんだけど」


孝雄は自分の頬をさわった。確かに、何かが薄れている気がしないでもなかった。しかし退職したばかりの解放感からくる錯覚だろうと思い、気にしなかった。


「気のせいだろ。ほら、これで鈴木も消えた」

「鈴木って誰?」

「……俺にも、もうわからん」


それが、すべての始まりだった。




田中孝雄は、三十八年間にわたって株式会社ミナミ産業に勤めた。営業一筋。新卒で入社し、気づけば部長になり、気づけば六十二歳になっていた。


在職中の名刺の枚数は、本人の試算によれば生涯累計で八千七百枚を超える。受け取った名刺を合わせれば、おそらく一万二千枚に達するだろう。会食の数は数えていない。数えたら発狂すると思ったからだ。


「人間関係は財産だ」と、かつて上司に言われた。


財産。


孝雄はその言葉を三十八年間信じてきた。しかし退職パーティーの翌朝、誰からも電話がかかってこず、誰からもメールが来ず、ただ朝の光の中でぽつんとコーヒーを飲んでいると、その「財産」とやらが一体何だったのかが、急にわからなくなった。


財産というものは、普通、持ち続けることができる。


しかし「営業部長・田中孝雄」という肩書きがなくなった途端、あれほど頻繁に連絡をくれていた人たちが、まるで潮が引くように消えていった。


「これはつまり」と孝雄はコーヒーをすすりながら考えた。「財産ではなく、レンタルだったということか」


三十八年間のレンタル料は、給料という形で払ってもらっていた。


そういうことか。


孝雄はスマートフォンを手に取り、連絡先を開いた。そして、一つひとつ、丁寧に、しかし容赦なく、削除を始めた。




削除は、三日間続いた。


連絡先だけではない。SNSのフォロワー。メーリングリスト。ゴルフ仲間のグループチャット。業界の勉強会のメーリングリスト。地域の商工会のLINEグループ。同期入社の飲み会グループ(ここ五年で三人しか書き込んでいなかった)。


ゴルフそのものも、考えてみれば接待のためにやっていた。好きでも嫌いでもなかった。ただ、やらないと失礼にあたる人間関係があったから、やっていた。


では、その人間関係は好きだったか。


……否。


であれば、ゴルフも不要だ。


ゴルフクラブを四本、メルカリに出品した。二日で売れた。


趣味と称してやっていた釣りも、実は釣り仲間の中に重要な取引先が二人いたからだった。その二人も今は連絡先から消えている。釣りをする理由がなくなった。釣り具一式もメルカリに出した。


「あなた、ずいぶん身軽になるのね」と久子が言った。

「身軽が一番だ」と孝雄は言った。




四日目の朝。


孝雄は洗面台の前に立ち、鏡を見た。


「…………」


鏡の中の自分が、明らかに薄かった。


薄い、というのは、体が細くなったとかそういうことではない。存在が、薄い。輪郭が、心なしかぼんやりとしている。半透明とまでは言わないが、一段階か二段階、透明度が増している感じがある。


孝雄は鏡に顔を近づけ、自分の目を見た。


目はある。鼻もある。口もある。しかしそれらが集まって「田中孝雄」を形成しているはずなのに、なんというか、「田中孝雄っぽい何か」にしか見えない。


久子を呼んだ。


「ちょっと来てくれ。俺の顔、変じゃないか」


久子が洗面台を覗き込んで、しばらく黙った。


「……変と言えば変ね」

「だろ?」

「なんか、うっすらしてる」

「だよな」


「でも、気にしなくていいんじゃない?」と久子は言って、台所に戻った。「あなた、ずっと無理してたんだから。体が休んでるのよ。本来の薄さに戻ってるだけよ」


「本来の薄さって何だ」

「さあ」


孝雄は鏡の前でしばらく立ち尽くした。


第二章 近所の変人と不思議な理論

孝雄の家から徒歩三分のところに、松岡仙太郎(七十四歳、元・大学教授、専門は量子物理学)という人物が住んでいた。


孝雄と松岡が知り合ったのは五年前で、ゴミ出しの曜日を間違えた孝雄に松岡が声をかけたことがきっかけだった。以来、ときどき顔を合わせると立ち話をする程度の関係が続いていた。


孝雄が連絡先の大掃除をしていたとき、松岡の名前が画面に現れた。孝雄は親指をしばらくその名前の上に置いたまま、考えた。


松岡という男は、正直言って変わっている。趣味は「宇宙について考えること」で、話しかけると大抵どこかへ行ってしまったような目をしている。実用的な話はほぼできない。会食にも呼べない。商売の役にも立たない。


では、なぜ削除しないのか。


孝雄はその問いの答えを三秒で見つけた。


——面白いから、だ。


松岡の話は、よくわからないけれど、面白い。それだけだ。損得の外側にある理由。孝雄は初めて、純粋な理由で誰かの連絡先を残した。


その翌日、孝雄は松岡の家を訪ねた。


「少し相談があって」

「どうぞどうぞ」と松岡は言って、散らかり放題の居間に孝雄を通した。テーブルの上には物理学の本と将棋の駒と、なぜかバナナの皮が三枚あった。「お茶でいいですか。紅茶は切れてまして」

「何でも」

「では水で」

「……お構いなく」


二人は向かい合って座った。


「顔色が悪いですな」と松岡は言った。

「悪いというか、薄い気がしてるんです」と孝雄は言った。

「薄い?」

「うっすら、こう、透き通ってきてる感じがして」


松岡は眼鏡を外し、孝雄の顔をまじまじと見た。外した眼鏡をテーブルに置いて、今度は眼鏡なしでまじまじと見た。そして眼鏡をかけ直して、首をかしげた。


「確かに」

「でしょう?」

「うっすらしてますな」

「なぜだと思いますか」


松岡はしばらく考えた。本当に考えているのか、どこかへ行ってしまっているのか判断しがたい沈黙が三分ほど続いた後、松岡は言った。


「社会的存在としての密度が下がっているんじゃないですかな」


「社会的存在としての密度」


「人間というのはですね、物理的な体だけで存在しているわけじゃない。他者との関係性の中に、一種の……なんというか、社会的質量とでも呼ぶべきものがある。あなたは三十八年間、膨大な人間関係の中で生きてきた。その関係が急激になくなると、社会的質量が一気に軽くなる」


「それが、薄さとして現れる?」

「可能性はある」と松岡はバナナの皮を一枚どかした。「ただしこれは私の仮説であって、論文にはなっていない。というか、する気もない」

「それは……信憑性が?」

「信憑性の問題ではなく、面倒だからです」


孝雄は少し考えた。


「でも、俺はそれで良い気がしてるんです。薄くなるなら薄くなるで」

「はあ」

「ストレスがなくなって、楽になってる。それと引き換えに少し薄くなるなら、まあ、いいかなって」


松岡はしばらく孝雄を見た。


「……健全ですな」と松岡は言った。「しかし、あまり急激に薄くなると、消えるかもしれませんよ」


「消える?」

「完全に」


孝雄は思わず自分の手を見た。確かに、少しだけ向こうが透けて見える気がした。




帰り道、孝雄はコンビニに寄った。


レジに並んでいると、後ろの客がずかずかと前に出てきて、孝雄を押しのけようとした。


「あ、すみません、私が先に——」


しかし相手は孝雄の方を見ようともせず、まるで孝雄がそこにいないかのようにレジに進んだ。レジの店員も、孝雄に気づかなかった。


孝雄は呆然として、自動ドアの前に立った。試しに手を振ってみた。誰も振り向かなかった。


「……本格的に薄くなってきてるな」


孝雄はコンビニを出た。商品は買えなかったが、なぜかあまり気にならなかった。


第三章 ストレスフリー協会

ある日の午後、孝雄は近所の公民館の掲示板を見ていて、一枚のチラシを見つけた。


【第七回 ストレスフリー友の会 定例会のご案内】
日時:毎週月曜日 午後二時〜四時
場所:公民館 第三集会室
どなたでも参加可能(無料)
ストレスを手放した仲間と語らいましょう


孝雄は少し考えてから、参加することにした。


第三集会室を開けると、パイプ椅子が円形に並んでいて、五人の人間が座っていた。


正確に言うと、五人分の椅子に何かが座っていた。


というのも、全員がぼんやりと薄かったからだ。全員の輪郭が半透明で、向こう側の壁がうっすら透けて見えた。孝雄より薄い人もいれば、孝雄とほぼ同じくらいの薄さの人もいた。


一番薄い人に至っては、ほぼ見えなかった。


「あら、新しい方?」と、比較的濃い(といっても六十パーセントくらいの密度しかないが)女性が言った。「どうぞ、座ってください」


孝雄は空いている椅子に座った。


「田中と申します」

「私は西村です」と女性は言った。「元・小学校教師。六年前に退職して、以来ずっと薄くなり続けています」

「私は伊藤」と隣の男性が言った。六十代後半に見えた。「元・銀行員。定年後に人間関係をすべて整理したら、半年でここまで薄くなった」

「倉田です」とさらに隣の男性が言った。「元・広告代理店。薄さで言えば、ここで二番目です」


「一番は?」と孝雄は聞いた。


全員が一番薄い椅子の方向を見た。


椅子には何かが座っているようだったが、もはや形がほとんど確認できなかった。


「高橋さん」と西村が言った。「元・商社マン。連絡先を四百件削除してから急激に薄くなって、今では声しか聞こえません」


「存在しているんですか?」

「存在しています」とほとんど見えない椅子の方向から声がした。「ただ、もう鏡には映らなくなりました」

「それは……困りませんか」

「困りません」と高橋(推定)は言った。「むしろ快適です。信号待ちで他人に押されることもないし、電車で席を譲るよう圧力をかけられることもない。満員電車でも空間ができます」

「それは……たしかに快適ですね」

「ただ、スーパーのレジが使えなくなりました。セルフレジでも、カメラに映らないので認識されない」

「それは困りそうですね」

「ネットスーパーにしました。配達の人は玄関に置いていってくれるので、顔を見られることもない。完璧です」


孝雄はしばらく高橋(推定)の話を聞いて、なるほどと思った。なるほどと思ったが、そこまでいくのも少し行き過ぎな気がした。


「あの、皆さん、薄くなること自体は……気にしていないんですか」

「気にしていません」と全員が口を揃えて言った。


「でも、消えてしまったら?」

「それもまあ」と伊藤が言った。「いいんじゃないですか」

「そういうものですか」


「そういうものですよ」と西村が言った。「ストレスというのは、他者との摩擦から生まれる。摩擦を減らせば減らすほど、存在の輪郭がなくなっていく。でも、輪郭というのは、突き詰めれば他者のための情報なんです。他者が私を認識するための境界線。その境界線がなくなっても、私の内側は何も変わらない」


「哲学的ですね」

「物理的でもあります」と西村は言って、少し笑った。笑うと輪郭が少し濃くなったように見えた。


孝雄はその日から、毎週月曜日の「ストレスフリー友の会」に通うようになった。


第四章 名刺のない男

問題が起きたのは、孝雄が友の会に通い始めてから一ヶ月が経った頃のことだった。


久子が孝雄を呼んだ。


「あなた、ちょっと来て」


台所に行くと、久子がシンクの前で神妙な顔をしていた。


「どうした」

「さっき、ジュースを作ろうとして、ミキサーをかけたら……」

「ミキサー?」

「あなたがそこに立ってたのに、ミキサーのスイッチが入っちゃったのよ」

「それは危なかったな」

「違うの。あなたが半透明になってるから、私、あなたに気づかなかったの。人がいると思ってなかったの」


孝雄は考えた。


「それはつまり、俺がだいぶ薄くなってるということか」

「だいぶどころか、ほぼ見えないわよ」


孝雄は自分の手を見た。確かに、ほぼ透けていた。台所のタイルの模様が、手の向こうに見えた。


「まあ、気をつける」

「気をつけるって何を?」と久子が言った。「私はね、正直言って怖い。あなたが消えてしまうんじゃないかって」


孝雄は少し考えた。


「消えたら、どうなると思う?」

「知らないわよ」

「俺も知らない。でも、高橋さんは消える手前でも、ちゃんと喋ってたし、快適そうだった」

「あなたはそれでいいの?」


孝雄は窓の外を見た。公園の木が、風に揺れていた。葉の一枚一枚が、光を受けてきらきらしていた。


「わからない」と孝雄は正直に言った。「でも、今、すごく楽なんだ。三十八年間で、こんなに楽になったのは初めてかもしれない」


久子はしばらく黙っていた。


「そうね」と久子はやがて言った。「あなた、ずっと辛そうだったものね」

「そうだったか?」

「そうよ。私には見えてたわ」


孝雄は少し驚いた。久子が孝雄のことを見ていたとは、あまり意識したことがなかった。


「ありがとう」

「でもね」と久子は言った。「完全に消えないでほしいの。見えなくなっても、そこにいてほしいの。声だけでもいいから」

「それは……なんか、怖い話だな」

「あなたが言うな」


二人は台所で少し笑った。




その夜、孝雄は書いた。


退職してから詩を書くようになっていた。理由はわからない。ただ、書きたかったから書いた。


それだけの理由で何かをするのは、子供の頃以来だったかもしれない。


書いた詩は、誰にも見せなかった。出版する気もなかった。ただ、書いた。書いて、満足した。それだけだった。


第五章 増えてくるものたち

ある日の午後、公民館からの帰り道、孝雄はベンチに座っている老人に声をかけられた。


「あんた、かなり薄いな」


孝雄が振り向くと、そこには九十歳近いと思われる老人がいた。しかしその老人は、孝雄よりもさらに薄かった。ほぼ見えなかった。声だけが聞こえた。


「ずいぶん薄いですね、あなたも」と孝雄は言った。

「わしは十二年前から薄くなり始めてな」と老人は言った。「今じゃ、影も映らん」

「影も……」

「代わりに、よく見えるようになった」

「何が?」

「いろんなものが」と老人は言った。「薄くなると、見えなかったものが見えてくる。濃い人間には見えないものがな」


「たとえば?」


「ほら、あそこ」


老人が指差す方向を見たが、孝雄には何も見えなかった。


「何もないですよ」

「まだ薄さが足りんな」と老人は言った。「もう少し薄くなれば、見える。焦らんでいい。薄くなるのは、急いでするもんじゃない」

「アドバイスありがとうございます」

「礼はいい。どうせわしの声も、もうすぐ聞こえなくなるじゃろうし」


孝雄は老人のいたベンチをもう一度見た。すでに何もなかった。


消えたのか、それとも最初からいなかったのか、孝雄には判断できなかった。


第六章 消える前夜

「ストレスフリー友の会」の仲間、高橋(推定)が完全に消えたのは、十月の半ばのことだった。


正確に言うと、消えたのかどうかが確認できなかった、ということだ。会に来なくなった。電話しても出なかった。しかし声も聞こえなくなった。


「消えちゃったのかしら」と西村が言った。

「消えたと言うより、別の次元に行ったのかもしれない」と伊藤が言った。

「あの老人が言ってた話に近いかもな」と孝雄は言った。


高橋の空白の椅子を見ながら、しかし誰もそれほど悲しんでいるようではなかった。不思議と思ったが、孝雄自身も、それほど悲しくはなかった。


人が消えることへの恐怖が、薄さに比例して薄まるのかもしれなかった。




その夜、孝雄は夢を見た。


夢の中で、孝雄は完全に透明だった。体が見えなかった。しかし確かにそこに存在していた。


夢の中の世界は、孝雄が今まで見たことのない色をしていた。木の緑が、現実よりも鮮やかだった。空の青が、現実よりも深かった。土の匂いが、現実よりも濃かった。


そして、夢の中に人々がいた。みんな薄かった。みんな半透明で、みんな、どこかほっとした顔をしていた。


「田中さん」と誰かが言った。


孝雄が振り向くと、高橋がいた。高橋は完全に透明だったが、しかし確かにそこにいた。輪郭は見えないが、存在はわかる。不思議な話だが、夢の中ではそれが当たり前のことのように思えた。


「消えたんですか?」と孝雄は聞いた。

「消えたというか」と高橋は言った。「密度が変わりました」

「密度が?」

「濃い世界から、薄い世界に移っただけです。なくなったわけじゃない」

「ここは、どこですか」

「さあ」と高橋は言った。「名前はまだわかりません。でも、快適ですよ。信号待ちで押されることも、ここにはありません」

「それは前から聞きました」と孝雄は笑った。

「田中さんも、もうすぐ来ますか?」


孝雄は考えた。


「まだ来ない気がする」と孝雄は言った。「久子に、声だけでもそこにいてほしいと言われたから」

「奥さんが?」

「ああ」

「それは」と高橋は言った。「いい理由ですね」


孝雄は目が覚めた。朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


第七章 増える必要のないもの

翌朝、孝雄は台所でコーヒーを淹れた。


久子が起きてきた。


「あなた、ずいぶん……」と久子は言いかけて止まった。

「薄いか?」

「うん。でも」久子はじっと孝雄を見た。「なんか、目が、前よりはっきりしてる」

「目が?」

「目だけ、くっきりしてる。体は薄いのに、目だけ妙に存在感がある」


孝雄は洗面台の鏡を見に行った。久子の言う通りだった。体はほとんど透けていたが、目だけが、異様にはっきりしていた。


「松岡さんに聞いてみよう」と孝雄は言った。




松岡の家を訪ねると、松岡は縁側に座って空を見ていた。


「おお、田中さん」と松岡は言った。「かなり薄くなりましたな。目だけ濃い」

「それを聞きに来ました」

「座りなさい」


縁側に並んで座った。秋の空が、高かった。


「目だけ濃い理由は」と松岡は言った。「見ているからじゃないですかな」

「見ている?」

「社会的な密度が下がると、外側の輪郭は薄くなる。しかし内側——つまり意識や感覚——は、むしろ鋭くなる。あなたは今、今まで以上によく見えているはずだ。よく聞こえているはずだ。よく感じているはずだ」


孝雄は、確かにそうだと思った。コーヒーの味。木の葉の色。久子の声のトーン。今まで気づいていなかったものが、次々と目に入るようになっていた。


「ストレスが雑音だったんですかね」と孝雄は言った。「それが消えたら、本来の感度に戻った?」

「その表現は正確かもしれない」と松岡は言った。「あるいは、もともとそういう人だったのが、三十八年間、雑音で覆われていただけかもしれない」


孝雄は空を見た。


「新たなものを増やす必要はないと気づいた」と孝雄は言った。「今持っているもので、十分だと」

「ほう」

「でも、それは貧しいことじゃなくて……」孝雄は言葉を探した。「むしろ豊かなことな気がして。本当に必要なものだけが残ると、それぞれがものすごくくっきり見える」

「目だけ濃い、ということですな」と松岡は言った。

「そうかもしれない」


二人は縁側で黙って空を見た。雲が流れた。鳥が鳴いた。


松岡は急に立ち上がり、台所に行って、湯のみを二つ持ってきた。

「お茶にしますか。さっき買いました、緑茶」

「ありがとうございます」

「水より美味しい」


お茶が、美味しかった。


第八章 友というもの

十一月になった。


「ストレスフリー友の会」の定例会で、孝雄は一つのことを提案した。


「今日は、各自が今持っている、本当に大切なものを話しませんか。排除したものではなくて、残ったものを」


全員がしばらく考えた。


「妻」と伊藤が言った。

「孫」と倉田が言った。

「朝のコーヒー」と西村が言った。

「公園の桜」と誰か(ほぼ見えない人)が言った。

「松岡さんとのお茶」と孝雄は言った。


しばらく沈黙があった。その沈黙は、不快ではなかった。むしろ心地よかった。薄い人間たちが集まる部屋の、静かで透明な沈黙。


「田中さん」と西村が言った。「最初に来た時より、目が輝いてます」

「体は透けてますが」と孝雄は言った。

「それでいいんです」と西村は笑った。「体が透けて、目が輝く。それが私たちの完成形なのかもしれない」

「完成形って言うと、ちょっと大げさですが」

「大げさがちょうどいいんです。薄くなってる私たちには」


全員が笑った。笑い声だけが、部屋に満ちた。


第九章 ご同輩

ある日曜日の午後。


孝雄は、かつての同期入社の友人、木村(同い年、元・製造部長、退職は孝雄より半年早い)から電話をもらった。


木村は孝雄が「連絡先の大掃除」をしたとき、悩みに悩んで残した数少ない一人だった。損得の外側に残せた相手。


「よう、田中。元気か」

「まあ、そこそこ」と孝雄は言った。「最近、少し薄くなってるけど」

「俺もだよ」と木村は言った。「なんか、うっすらしてきてな」

「そうか」

「悩んだんだが、まあいいかと思って」

「それが正解だと思う」


「退職したら、すごく楽になったわ。もう怒鳴る上司もいないし、無理な数字も追わなくていいし」

「わかる」


「でもな」と木村は少し声を落とした。「ちょっと寂しくもあってな。お前みたいに詩を書くとか、そういう趣味も俺にはないし」


「詩は、なんとなく書き始めただけだよ」

「羨ましいよ。でも俺には書けない気がして。なんか、表現する自分がよくわからなくて」


孝雄は少し考えた。


「それで、いいんじゃないか」と孝雄は言った。「表現するだけが全部じゃないと思うし。木村は今、毎日何してる?」

「散歩」と木村は言った。「毎朝、一時間くらい歩いてる。それだけ」

「それだけで、いいじゃないか」

「それだけじゃ、何も残らないぞ」

「残すために生きてるわけじゃないだろ」


沈黙があった。


「……そうか」と木村は言った。「そうだな」

「散歩、気持ちいいか」

「気持ちいい」

「それで十分だよ、ご同輩」


木村が笑った。


「お前、なんか変わったな」

「薄くなったからかな」

「そうかもな。じゃあまた飲もうや。どうせ二人とも薄いから、互いに見えないかもしれないけど」

「声は聞こえるから、大丈夫だ」


電話を切った後、孝雄は窓の外を見た。夕暮れが近かった。空がオレンジと紫に染まっていた。


こんなに夕焼けが美しかっただろうか。毎日見ていたはずなのに、一度も気づいていなかった。


第十章 ストレスフリー

十二月になった。


孝雄の体は、ほぼ完全に透けていた。しかし目だけは、鮮やかだった。


久子は孝雄の居場所を音で確認するようになっていた。コーヒーを淹れる音。新聞をめくる音。窓を開ける音。詩を書くときのペンの音。


「あなた、そこにいる?」と久子は時々確認した。

「いる」と孝雄は答えた。

「良かった」と久子は言った。


それだけだった。それだけで、十分だった。




「ストレスフリー友の会」の仲間は、今や全員がほぼ透けていた。集会室に行くと、声だけが飛び交った。


「今日は天気が良いですな」

「鍋の季節ですね」

「夫が紅葉を見に行こうと言って」

「孫が就職するらしくて」


話すことは、小さいことばかりだった。大きいことは何もなかった。しかし会が終わると、全員が少し軽くなったような声で帰っていった。


孝雄は最後に部屋を出ながら、ふと思った。


百人いた知り合いが、十人に減った。


いや、「知り合い」が減って、「友」だけが残った。


友の数は少ない。しかしその少なさが、逆にそれぞれの存在を際立たせた。


少ない光の方が、それぞれの光が見える。




大晦日の夜、孝雄と久子は二人で紅白歌合戦を見た。


正確に言うと、久子が見て、孝雄はその隣に座っていた。孝雄がいることは、久子にはわかった。体温がある(透けていても、体温は残っていた)。息の音がある。ときどき「あれは懐かしいな」と言う。


「来年も、こんな感じかしらね」と久子は言った。

「たぶん」と孝雄は言った。「少し薄くなってるかもしれないけど」

「そうね」と久子は言った。「でも、来年の紅白も一緒に見ましょうね」

「ああ」

「声だけになっても?」

「声だけになっても」

「約束よ」

「約束だ」


二人は紅白を見た。年が明けた。


孝雄の体は、ほぼ見えなかった。しかし久子の隣に、確かに存在していた。


それで、十分だった。


エピローグ 春

翌年の春、「ストレスフリー友の会」に新しい人が来た。


六十代前半に見えた。まだ輪郭がしっかりしていて、体も透けていなかった。


しかし顔に、あの感じがあった。退職したばかりの、解放感と戸惑いが混在した、あの感じ。


「田中と申します」と孝雄の声が集会室に響いた。

「え?」と新しい人が言った。「どちらに?」

「ここに」と孝雄は言った。「見えませんか」

「……見えません」

「それはご不便を」と孝雄は言った。「まあ、慣れます。座ってください。歓迎します」


新しい人は、少し迷ってから、空いている椅子に座った。


そして、全員の声だけが飛び交う集会室を、不思議そうに見回した。


「皆さん、みんな……透けてるんですか」

「透けています」と西村の声がした。

「なぜ?」

「ストレスを排除したからです」と伊藤の声がした。

「そんな理由で?」

「そんな理由でです」と孝雄は言った。「でも、薄くなるのは、そんなに悪くないですよ。見えなくなる代わりに、よく見えるようになる」

「……どういうことですか」

「まあ、追々わかります」


新しい人はしばらく黙っていた。そして、「この会費はいくらですか」と聞いた。


「無料です」と全員の声が揃った。


「そうですか」と新しい人は言った。「それは良かった」


窓の外で、桜が咲いていた。


透けた人たちには、桜の花びら一枚一枚の色が、くっきりと見えた。


濃い体を持つ人々には、なかなか見えない色だった。


Amazon Kindle



あとがき

この物語は、一本の小さな「引き算」のアイデアから生まれました。
現代社会は常に「足すこと」を求めてきます。友達の数、フォロワーの数、所有するモノの量、肩書きの重さ。しかし、それらをすべて削ぎ落とした後に残る「剥き出しの自分」とは、一体どんな姿をしているのだろうか。そんな疑問が、田中孝雄という「消えていく男」を生み出しました。
彼が透明になるにつれて、世界の色彩が鮮やかになっていく描写は、私たちが日々のストレス(雑音)によって、いかに多くの美しいものを見落としているかという裏返しでもあります。
身体が透けても、声だけでつながり、そこにいると信じてくれる妻や友がいる。それだけで、人生は十分に「ストレスフリー」なのだと、この物語を通して感じていただけたなら幸いです。
ご同輩、私たちの人生、薄くなってからが本番かもしれませんよ。


著者・田中孝雄(を演じた書き手)より






〜おまけ〜  


ー65歳の誕生日に書いた原詩ー


ストレスフリー


リタイアと同時に

目の前にいた

多くの

すべての

ストレスを排除した


面倒なやつ

嫌なやつ

うるさいやつ

苦手なやつ…


仕事を離れ

仕事でだけの付き合いを

排除した


いくつかの遊びを辞めて

その遊びでだけの付き合いも

排除した


スマホに残る

不要なあれこれも

すべて排除した


すると

本当に必要なものだけが残り


それからの時間

それだけあれば

足りることを知った


そしてまた

新たなものを

増やす必要すらないことにも

気付いた


100人いた友達は

10人にも減り


いや

友達ではなく

きっと

知り合いだったのだろう


でも

それで良いと決めたら

楽になった


もう名刺はない

もう肩書きもない


あるのは

リアルな自分だけで

嘘偽りなく

目の前のあなたと接することが

出来る


それを

認めてくれるならば

そして

あなたを認めたならば


わずかな持ち時間の中

友となれるのだろう


ご同輩

そんなことだよ


『無目的のインク』

――そちら側を見ないための十四篇



まえがき

私たちはいつから、これほど「意味」を求めるようになってしまったのだろう。

一歩歩けば成果を問われ、立ち止まれば他者に追い抜かれる。スマートフォンの画面の向こうからは、常に誰かの「進歩」が私たちを急き立てる。まるで、何かを生み出さない時間には、生きる価値などないと言わんばかりに。

本書『無目的のインク』は、そんな息苦しい「そちら側」の視線から、そっと目を逸らすために編まれた十四の断章である。

ここにある物語は、あなたの生活の役には立たない。明日の仕事のヒントもなければ、人生を好転させるアドバイスも書かれていない。ただ、目的をなくしたインクが紙に染み込んでいくような、静かな時間があるだけだ。

もしあなたが今、誰かを追い越すことに、あるいは誰かに追い越されることに、いささかくたびれてしまっているのなら。
どうぞ、この本を開いている間だけは、どこへも辿り着かない列車の旅を楽しんでいただきたい。




第一章:遅延するプラットホーム

その日、ハルが乗った快速列車は、定刻通りに走っているはずだった。

窓の外には見慣れたビル群や、灰色に沈んだ住宅街が流れていた。しかし、ふと気づくと、吊り革を掴む乗客たちの顔から一切の表情が消え失せていた。スマートフォンを覗き込む指先も、雑誌をめくる手も、完全に静止している。動いているのは、ハル自身と、車窓の景色だけだった。

「次はいずこ、いずこでございます」

車内アナウンスの声は低く、どこか歪んでいた。列車が速度を落とし、滑り込んだのは、見たこともない木造の古いホームだった。駅名標には何も書かれていない。ただ白く塗られた板が、寒々とした街灯に照らされている。

ハルは弾かれたように列車を降りた。彼が足を一歩ホームに踏み出した瞬間、背後でドアが閉まり、列車は音もなく闇の向こうへ走り去っていった。

改札口らしき場所には、古びた外套をまとった老人が一人、小さな木製の机を前にして座っていた。老人は大きな分厚いノートを広げ、万年筆で熱心に何かを書き殴っている。カリカリ、カリカリと、夜の静寂にペン先の手応えだけが響く。

「あの、すみません」ハルは声をかけた。「ここは、どこ行きの路線の、何という駅ですか」

老人はペンを止めず、顔も上げないまま、掠れた声で答えた。

「ここは、どこでもない場所だよ。意味などなく、どこにも辿り着きもしない。ましてや、君たちが大好きな『進歩』などというものは、ここにはひとかけらも転がってはいないさ」

「戻る列車は、いつ来ますか」

「さあね。戻りたいと思っている間は、次の列車は停まらない。ここは、目的を忘れた者、あるいは目的に疲れ果てた者が、一時的に預かり置かれる終着駅なのだから」

老人の万年筆がインクを切らし、かすれた音を立てた。老人はようやく顔を上げ、深い皺の刻まれた目でハルをじっと見つめた。

「もしや君も、誰かを追い越したり、誰かに追い越されたりすることに、いささかくたびれた口かね?」

ハルは都会での生活を思い返した。彼の毎日は、目に見えない無数の「物差し」に縛られていた。社内での営業成績、資格試験の進捗、SNSに投稿した写真につく『いいね』の数。常に右肩上がりのグラフを求められ、歩みを止めることは悪だと教え込まれてきた。

一歩でも立ち止まれば、たちまち背後から迫る他者に追い抜かれ、脱落者の烙印を押される――そんな強迫観念が、ハルの胃をいつもきりきりと痛ませていた。

しかし、この静まり返った駅には、そのどれもが存在しないように見えた。空気はひんやりとして心地よく、急き立てるような時計の針の音も聞こえない。勝ちもなく、負けもなく、そもそも比べる対象となる他者がどこにも見当たらなかった。

第二章:境界線のそちら側

駅の外には、薄い霧に包まれた静かな街が広がっていた。街と言っても、まばらに平屋の家々が並んでいるだけで、商店もなければ信号機もない。住人たちはみな、思い思いの場所で、奇妙なほど脈絡のない行動に没頭していた。

ある者は、庭先に積み上げた小石の数を、ただ最初から数え直していた。またある者は、水たまりに映る雲の形を、半日もの間じっと見つめ続けていた。彼らは互いに会話を交わすことも少なく、すれ違う時も、会釈すらしない。かと言って拒絶しているわけではなく、ただ、完璧に独立した気配を纏っていた。

ハルは、広場のベンチに座り、白い砂をバケツから取り出しては地面に丸く敷き詰め、それをまたすぐに手で崩している女性に出会った。その動作には一点の迷いもなく、まるで神聖な儀式のようだった。

ハルはたまらず声をかけた。「あの、何のためにそれをされているのですか。何か、特別な模様を作っているとか?」

女性は手を止め、ハルを見た。その瞳は澄んでいたが、不思議なほどハルの「背景」を透過しているようだった。

「何のため、ですか。そんなものはありません。ただ、やりたいからやっている、それだけです」

「でも、せっかく丸く作ったのに、すぐに崩してしまったら無駄になってしまうのでは……」

「ええ、無駄ですよ」彼女は悪びれる様子もなく微笑んだ。

「無駄だとわかっちゃいても、ひたすらやることがあるのです。私たちはいつも、あちら側の世界にいるとき、意味や成果という名の病気に侵されている。誰かの役に立つか、誰かに褒められるか、そればかりを気にして生きている。でも、ここではそんな必要はありません」

彼女は遠い空を指差した。霧の向こう、はるか遠くに、ぼんやりと赤く明滅する巨大な光の網が見えた。それが、ハルのいた『あちら側の世界』の残像らしかった。

「あちら側を見ず、あちら側を気にせず、あちら側に影響すら与えず。どなたの心にも染みず、どなたの動きをも変えない。そういう、単なる自己満足な中だけで生きることが、どれほど贅沢なことか、あなたなら分かるでしょう?」

第三章:言葉の自給自足

ハルは街の片隅にある空き家に住み着くようになった。そこには最低限のベッドと、簡素な机、そしてインクの入った万年筆と真っ白な束のノートが置かれていた。食事は、毎朝玄関の前にいつの間にか置かれている、味の薄いスープとパンだけで十分だった。

最初の数日間、ハルは何をしていいか分からず、ただ部屋の中をそわそわと歩き回っていた。何かを生産しなければならない、誰かに連絡を取らなければならないという焦燥感が、細胞の隅々に染み付いたままだったからだ。しかし、一週間が過ぎる頃、その意味のない焦りは静かに霧へと溶けていった。

ハルは机に向かい、万年筆を握った。そして、誰に見せるためでもない言葉を、ノートに書き連ね始めた。

かつて彼が書いていた文章は、すべて他人の目を意識したものだった。上司に評価されるための報告書、友人に羨ましがられるためのSNSのテキスト。そこには常に「そちら側」の視線が介在していた。

しかし今、彼がノートに紡ぐ言葉は、誰の心にも染みる必要がなく、誰の行動も変える必要がなかった。ただ、インクが紙に吸い込まれていくその瞬間だけが、ハルという存在のすべてだった。

ハルは、ノートの新しいページにこう書き置きを残した。


時には目的のないことを

意味などなく
どこにも辿り着きもせず
ましてや
進歩などあるはずもなく

どなたも 傷付けることなく
どなたも 追い越さず
どなたにも 追い越されず

勝ちもなく
負けもなく
比べることすら不要

ただ
やりたいからやるとゆ~だけの行為を
無駄だとわかっちゃいても
ひたすら
やることがある

たとえれば
ここに
こ~して
日々
書き込むよ~に

そして
出来ることならば

そちら側を見ず
そちら側を気にせず
そちら側に影響すら与えず

どなたの心にも染みず
どなたの動きをも変えずな ならば

尚も良し

単なる
自己満足な中で。。

ハルが書き終えた時、外では静かな雨が降り始めていた。

窓から差し込む淡い光の中で、黒いインクの文字がゆっくりと乾いていく。それは誰にも読まれない、世界で最も無駄で、だからこそ、最も美しい自己満足の記録だった。

彼はそっとノートを閉じた。

あちら側の世界へ戻る列車がいつ来るのか、あるいはもう二度と来ないのか、今のハルにはどちらでもよいことだった。彼はただ、手の中にある万年筆の心地よい重みだけに、静かに満たされていた。

第四章:音のない楽団

街の東の外れに、廃墟に近い古いホールがあった。

ハルがそこを見つけたのは、霧の中を当てもなく歩いていたある午後のことだった。扉は開け放たれており、中から何かが聴こえてくるような気がして、足を踏み入れた。

ホールの中には、十数人の男女が楽器を持って座っていた。ヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペット。しかし、誰一人として音を出していなかった。それぞれが楽器を構え、弓を動かし、指を動かし、息を吹き込んでいるのに、会場にはただ深い沈黙だけが満ちていた。

ハルは入口に立ち尽くした。

やがて、指揮者らしき白髪の女性がゆっくりと振り向いた。

「驚かれましたか」と彼女は静かに言った。「ここの音楽は、あちら側には届きません。奏でているのは、本人の内側だけに響く音です」

「聴衆はいないのですか」

「いませんよ。聴衆を求めた瞬間に、この音は消えてしまうのです。誰かに感動してもらいたいという念が混じると、弓がぴたりと動かなくなる。だから私たちはただ、自分のためだけに演奏しています」

ハルは静かに椅子を引き、後ろの列に座った。

しばらくすると、不思議なことに、彼の耳の奥に、音が聴こえてくるような気がした。それは外から来るのではなく、胸の中心から湧き上がってくるような、柔らかく、形のない旋律だった。それを「音楽」と呼ぶべきかどうかも、ハルには分からなかった。ただ、それがそこにあることは、確かだった。

第五章:消えていく絵

広場の隅に、老いた画家が毎日やってきた。

彼はキャンバスを立て、筆を取り、油絵を描いていた。色彩は豊かで、構図は大胆だった。だが、絵が仕上がりに近づくたびに、彼は筆を逆さにし、パレットナイフで丁寧に画面を白く塗り潰してしまう。そして翌日、また最初から描き始める。

ハルは何日もその様子を眺めていた。そしてある朝、ついに声をかけた。

「どうして仕上がる前に消してしまうのですか。残しておけば、素晴らしい絵になるのに」

老画家はゆっくりと振り向いた。その手は絵具で染まり、しわが深く刻まれていたが、目だけが若々しく輝いていた。

「残したいと思っていないのですよ」

「でも、誰かに見せれば……」

「見せることが目的なら、私はもうとっくにあちら側の世界を離れていなかった。私が描くのは、描いている間だけ存在するものを描くためです。完成した途端に、それは過去になる。私が欲しいのは完成品ではなく、今この瞬間に動いている筆の、あの感触だけです」

老画家は再び筆を取り、新しい線を引いた。

ハルはその横に腰を下ろし、しばらくの間、ただそれを眺めていた。何も言わずに。

第六章:図書館のない本棚

街の中ほどに、不思議な建物があった。

外観は古い図書館に似ていたが、中に入ると、本棚はあるのに本が一冊もなかった。棚だけが広大な空間に整然と並び、その空白の棚を、人々がゆっくりと歩き回りながら眺めていた。

ハルは棚の前に立っている若い男に声をかけた。

「ここの本は、どこにあるのですか」

男は棚に指を滑らせながら答えた。「ここにありますよ」

「でも何も……」

「あなたの目には見えないだけです。ここにあるのは、誰にも読まれなかった本です。書いた人間が、誰にも見せないと決めて書き、そのまま燃やしたり、海に沈めたりした本。あちら側の世界では消えてしまったものが、ここには全部残っている」

ハルは棚に手を伸ばした。

確かに何もなかった。しかし、指先が棚の木材に触れた瞬間、どこからともなく、誰かの声のような気配が、ほんの一瞬、掌を通り抜けていった。

それが誰の声なのか、ハルには分からなかった。しかし、その感触はしばらく、彼の手の中に残り続けた。

第七章:霧の中の庭師

ハルの住む空き家の裏に、小さな庭があった。

誰が手入れしているのかは分からなかったが、毎朝、庭の土は柔らかく耕されており、名前も知らない小さな花が、霧の中でひっそりと咲いていた。

ある日の夜明け前、ハルは窓から外を眺めていると、庭に人影があることに気がついた。薄い作業着を着た老女が、しゃがんで黙々と雑草を抜いていた。彼女のそばには、抜いた草を入れるための籠がなかった。抜いた草は、そのまま地面に戻されていた。

ハルは外に出て、声をかけた。

「抜いた草を、また同じ場所に置いているのですか」

老女は顔を上げずに言った。「そうです」

「では、また草が生えてきてしまいますね」

「ええ、明日また抜きます」

「それでは終わらないのでは」

老女はようやく顔を上げ、静かに笑った。「終わらせたくないのですよ。終わってしまったら、明日の朝ここに来る理由がなくなる。庭は完成しなくていい。ただ、毎朝ここで土に触れることができれば、それで十分です」

ハルは庭の隅にしゃがみ、しばらく土を眺めていた。冷たく、湿った土の匂いが、鼻の奥に広がった。それは、彼が長い間忘れていた、どこか懐かしい感覚だった。

第八章:届かない手紙

ある日、ハルは街の中に一軒の小さな郵便局を見つけた。

窓口には年若い局員がいて、黙々と何かを書いていた。ハルが近づくと、彼女は封筒の束を差し出した。

「こちら、お使いになりますか」

「手紙を出すことができるのですか。あちら側に届きますか」

「届きません」局員はあっさりと言った。「ここから出した手紙は、どこにも届かない。書いた人間の手を離れた瞬間に、霧の中へ消えていきます」

「では、何のために書くのですか」

「書く、ということ自体のためです。あちら側にいると、手紙というのは必ず誰かに届かなければならないものでしょう。返事が来るかどうかを気にしながら、相手の反応を計算しながら書く。でも、ここでは違います。書きたいことを、ただ書く。それだけです」

ハルは封筒を一枚受け取った。

部屋に戻り、机に向かった。万年筆を取り、長い間考えた。そして、ゆっくりと書き始めた。宛名のない手紙を。届かないことを知っている手紙を。それでも、書かずにいられないことを、丁寧に、一字一字、紙に刻んでいった。

書き終えた後、ハルは封筒を閉じ、窓から外へ放った。

封筒はひらひらと宙を舞い、すぐに霧の中へ消えた。それを見送りながら、ハルは不思議なほど軽くなった胸の中を確認するように、深く息を吸い込んだ。

第九章:時計のない時間

この街には時計が一つもなかった。

最初はそれが不安で仕方なかった。今が何時なのか、何日なのか、何曜日なのかが分からないと、ハルはどうしても落ち着かなかった。あちら側の世界では、時間はいつも誰かに管理され、スケジュールという名の檻の中で生きていた。

しかし二週間が過ぎる頃、ハルは気がついた。

腹が空けば食べ、眠くなれば眠り、書きたくなれば書く。それだけで、一日は過ぎていく。今が夜なのか朝なのかは、光と暗さが教えてくれる。季節の移ろいは、空気の温度が知らせてくれる。時計がなくても、時間は消えたわけではなく、ただ、より自然な形で流れているだけだった。

「あちら側にいたとき、時間は常に足りなかった」とハルはノートに書いた。「しかしここでは、時間は余ることも足りることもなく、ただある。水のように。空気のように。名もなく、あたりまえにある」

その夜、ハルはノートを閉じ、窓の外の星を、何時間かかっているのかも分からぬまま、ただ眺め続けた。

第十章:影の収集家

街外れに、奇妙な趣味を持つ男が住んでいた。

彼は毎日、様々な場所に落ちている影を「収集」していた。木の影、塀の影、鳥が飛び去った後に残った影の痕跡。彼は薄い和紙をその上に置き、それを持ち帰って部屋の壁に貼っていた。もちろん影は紙に写ることはなく、部屋の壁には無地の白い紙が貼られているだけだった。

ハルが訪ねると、男は壁を眺めながら嬉しそうに言った。「今日はいい影を見つけた。午後の斜陽が柳の枝を通り抜けたやつです。あれは格別だった」

「でも、紙には何も残っていないのでは」

「ええ、何も残っていない。でも私の中には残っている。あの柳の影を見た瞬間、あの光の角度を感じた瞬間、それは永遠に私の中にある。物として残らなくても、消えた影は私の一部になっている」

ハルは白い紙の貼られた壁を眺めた。

するとふしぎなことに、そこには本当に何も見えないはずなのに、男の言葉を聞いた後では、うっすらと、光の揺れのようなものが感じ取れる気がした。それが錯覚なのか、それとも別の何かなのか、ハルには判断できなかった。ただ、それはそれでよかった。

第十一章:名前のない料理

この街で唯一、食事を出してくれる場所があった。

場所と言っても、それは誰かの家の台所であり、毎週一度だけ、住人たちが自由に集まって食事を共にするというものだった。料理を作るのは毎回違う人で、ルールはただ一つ、料理に名前をつけてはならない、というものだった。

ハルが初めて参加した時、テーブルには茶色いスープと、平たいパンと、葉物野菜の炒め物が並んでいた。どれも素朴だったが、不思議な旨さがあった。

「これは何という料理ですか」とハルは訊いた。

「名前はありません」と作り手の中年女性は答えた。「名前をつけると、それがどんな料理であるべきかという先入観が生まれる。名前のない料理は、ただそこにある。食べる人が、その人だけの何かとして受け取ってくれればいい」

ハルはスープを一口飲んだ。

それは、幼い頃の冬の朝に飲んだ何かに似ていた。しかし、それが何であったかは思い出せなかった。思い出せなくてもいいと、ハルは思った。ただ、温かかった。それで十分だった。

第十二章:忘れるための記憶

あちら側にいた頃、ハルは記憶力の良さを自慢にしていた。

過去の成功体験、手痛い失敗、同僚への怒り、上司から受けた理不尽な言葉。それらをすべて精緻に記憶し、いつでも取り出せるように整理していた。記憶とは武器であり、資産であると信じていた。

しかし、この街に来てから、ハルは少しずつ物事を忘れ始めていた。

同僚の名前、会社の電話番号、去年の冬に怒鳴られた上司の顔。それらがゆっくりと、霧の中に溶けていくように、意識の外へと退いていった。最初はそれが恐ろしかった。しかし、消えていくにつれて、ハルの中に生まれたのは恐怖ではなく、軽さだった。

老人が言っていた言葉を、ハルは思い出した。「目的に疲れ果てた者が、一時的に預かり置かれる場所」

疲れていたのは、体ではなかった。記憶していた、あちら側のすべてに疲れていたのだ。

ハルはノートに書いた。「忘れることは、逃げることではない。重すぎる荷物を、一度だけ地面に置くことだ。また必要になれば、拾えばいい。しかし今は、ただ手を空にしておく」

第十三章:帰る列車の気配

ある朝、目が覚めると、空気の質が変わっていることにハルは気がついた。

霧は相変わらず街を包んでいたが、どこか薄く、遠く透き通っているように感じられた。風も少し強くなっていた。駅の方角から、かすかに金属の匂いが漂ってくるような気がした。

ハルは万年筆を持ち、最後のページに言葉を記した。それは詩でも散文でもなく、ただの走り書きのようなものだった。


ここに来て
失ったものは何もない
ただ、持ちすぎていたものを
少しだけ
置いてきただけだ

あちら側へ戻っても
この感触を
全部は思い出せないかもしれない

それでいい
指に残った
インクの跡だけあれば
それで十分だ

ノートを閉じ、ハルは空き家を出た。

街の住人たちは今日もそれぞれの無目的な行為に没頭していた。砂を敷く女、影を集める男、音を出さずに演奏する人々。誰もハルに別れを告げなかった。それは冷たさではなく、ここの流儀だった。来ることも去ることも、等しく、ただそうある、ということだった。

駅に着くと、老人が今日も机に向かっていた。ノートは新しいものに替わっていたが、万年筆を動かすカリカリという音は、あの夜と全く同じだった。

「戻るのかね」老人は顔を上げないまま訊いた。

「そうします」

「戻りたくなったということは、ここでやることが、一通り終わったということだな」

「終わった、というより……」ハルは少し考えた。「少し、軽くなった、という感じです」

老人は小さく頷き、また筆を走らせた。やがて遠くから、低いエンジン音が聞こえてきた。

第十四章:無目的のインク

列車は、来た時と同じように、音もなく滑り込んできた。

古いホームの街灯が、一瞬だけ強く輝き、また元の弱い光に戻った。ドアが開き、ハルは乗り込んだ。車内には誰もいなかった。

窓の外に広がる霧の街が、ゆっくりと遠ざかっていく。砂の円を崩し続ける女性の姿が、一瞬だけ見えた気がした。あるいは見えなかったのかもしれない。それはもう、どちらでもよかった。

列車が速度を上げるにつれ、霧が晴れていった。ビル群が現れ、信号機が現れ、スマートフォンを覗き込む人々の姿が窓の外を流れ始めた。

ハルはコートのポケットに手を入れた。そこに、一本の万年筆があった。

街に帰っても、ハルがあちら側の生活に完全に馴染み直すことができるかどうかは、分からなかった。また数字に追われ、比べられ、急き立てられる日々が始まるかもしれない。

しかし、今の彼には、あのノートに書いた言葉の感触が、まだ指に残っていた。

誰の心にも染みる必要のない言葉。誰の行動も変える必要のない言葉。意味も成果も目的も持たない、ただ書かれたというだけの言葉。

それは誰にも読まれないかもしれない。いや、おそらく、読まれない。

だが、書かれたことは確かにあった。インクが紙に吸い込まれた瞬間は、確かに存在した。そしてその瞬間の重さが、今もまだ、万年筆を握る指の腹に、かすかに残っていた。

列車はどこかの駅に到着し、ドアが開いた。

ハルは立ち上がり、万年筆を握りしめ、プラットホームへと降りた。


(了)



Amazon Kindle




あとがき

街の灯りが遠くに見える。
信号機が規則正しく変わり、人々が忙しなく行き交う、いつもの「あちら側の世界」だ。

本書を書き終えた今、私の手元には、一本の万年筆が残されている。
この物語を紡いでいる間、私は確かにあの霧の街にいた。砂の円を崩す女性の隣に座り、音のない旋律に耳を澄ませ、届かない手紙を風に放っていた。

ページを閉じれば、私たちは再び、数字と効率が支配する現実へと戻っていかなければならない。あの静かな街の記憶も、日々の忙しさの中で、少しずつ薄れていってしまうかもしれない。

けれど、それでいいのだと思う。
すべてを覚えていられなくても、あなたの指の腹に、ほんの少しだけ「インクの心地よい重み」が残っていれば。
誰のためでもない、自分だけの贅沢な無駄を持っていたという感覚さえあれば、私たちはこの騒がしい世界を、もう少しだけ軽やかに歩いていけるはずだ。

最後に、この無目的な旅に最後まで付き合ってくださったあなたに、深い感謝を。
あなたの夜が、静かな雨のように穏やかでありますように。




第十五章
蛇足

列車を降りたプラットホームは、驚くほどいつも通りだった。
発車メロディが鳴り、改札機がカードを飲み込み、吐き出す。

スーツの背中が急ぎ足で階段を下り、スマートフォンの通知がポケットで震えた。
何もかもが、ハルが乗車する前の世界の続きだった。

会社に着くと、デスクの上に書類が積まれていた。
「ハルさん、これ今日中にお願い」
「進捗どう?」
「来週のKPI、もう一回詰めようか」
言葉が、音として戻ってきた。
数字が、意味として戻ってきた。
あの霧の街は、もうどこにも見当たらない。

昼休み、ハルは屋上の隅で弁当を開いた。
ふと、コートのポケットを探る。万年筆は、まだあった。
キャップを外し、弁当の包み紙の裏に、何の気なしに線を一本引く。
黒いインクが、繊維に染み込んでいく。

その、ただそれだけの手触り。
誰の役にも立たない。提出する書類でもない。評価もされない。
「……無駄だな」ハルは小さく笑った。

午後、会議。
部長がホワイトボードに右肩上がりのグラフを描く。
「ここ、もっと伸ばせるよね。意味のある施策を」
その時、ハルの耳には遠くで、あの駅の老人の声が聞こえた気がした。

『進歩などというものは、ここにはひとかけらも転がってはいないさ』
ハルは手元のメモ帳の端に、小さな丸を描いた。
そして、それをぐちゃぐちゃと塗りつぶす。
意味はない。議事録にも残らない。
ただ、やりたいからやる。無駄だとわかっちゃいても。

隣の席の後輩が、怪訝な顔でこちらを見た。
「ハルさん、どうかしました?」
「いや、なんでもない」

夜、帰宅。
部屋の電気をつけ、机に向かう。
あの街で使っていたノートは、もうない。
代わりに、100円の大学ノートを買ってきた。

一日が終わる。
今日の成果は?と問われれば、ゼロだ。
誰の心も動かしていない。売上も1円すら上げていない。
それでもハルは万年筆を手に取る。
誰にも見せない。届かない。名前もつけない。
ただ、インクを紙に落とす。
_カリカリ_という、ちいさな音がした。
それはあの駅の夜と、まったく同じ音だった。

書き終えたページを、ハルは破りもせず、丸めもせず、そのまま机の上に置いた。
明日になれば、また新しい紙に、新しい無駄を書く。
終わらない。終わらせたくないから。

窓の外では、信号機が規則正しく赤から青に変わった。
人々はまだ、どこかへ急いでいる。
ハルはコーヒーを一口飲み、呟いた。
「そちら側を見ず、そちら側を気にせず……」
言いかけたまま、やめる。

続きは、書けばいい。紙の上にだけ。
誰のためでもない。
何のためでもない。
ただ、万年筆が、心地よい重みで手の中にある。

それだけで、今夜のハルは、静かに満たされていた。
――あの街へ戻る列車は、もう来ないかもしれない。
――でも、切符はいつも、ポケットの中にある。

(了)



蛇足でした。 笑
でも、ハルが「あちら側」でどう生きるかを書かないと、この物語は綺麗すぎるまま終わってしまう気がして。

戻ってきたハルは、何も変えられない。世界も、自分も、劇的には変わらない。

ただ、ポケットに一本の万年筆がある。それだけが違う。
その“だけ”が、たぶん一番大事な無駄なんだと思います。


無目的推進機構


まえがき

本書は、あなたに何の気付きも与えません。
スキルアップにも繋がりませんし、読み終えたからといって「明日から頑張ろう」という活力も湧きません。タイパ(タイムパフォーマンス)は最悪です。
現在、銀河系で最も深刻な病は、何にでも「意味」を求めてしまう「目的論依存症」です。
「この本を読むことで、どのような学びが得られるのか?」
そう考えた時点で、あなたはすでに手遅れかもしれません。
これから語られるのは、全宇宙を揺るがした、ある42歳の男の「壮大な何もしなさ」の記録です。
どうぞ、できる限り姿勢を崩し、
お茶でもこぼしながら、
「だから何なんだ」と呟きつつ、読み進めてください。
もし途中で飽きたら、本を閉じて昼寝をしてください。
懲役3日にはなりませんが、特に褒められもしません。
それでは、意味のない読書時間を。
――尚も良し。





第一章 
主席無目的職員、日下部ヒロシ

西暦3026年。銀河標準暦211年。
人類は「進歩至上主義」を憲法に掲げていた。
朝の歯磨き+3pt。画期的な発明+50万pt。恋愛は相手の時価総額でpt変動。
非効率は違法。昼寝は懲役3日。「目的のない行為」は精神疾患コードF-404。治療対象。
そんな銀河で、唯一“無駄”が許された宙域がある。
無目的推進機構 本部。通称ムモク。
俺は日下部ヒロシ、42歳。主席無目的職員。
業務内容:「8時間、存在すること」
評価基準:「何も変えないこと」
9:00、出勤。タイムカードは今日も「労働pt:0」を叩き出す。0が俺の仕事だ。
10:02、鼻がかゆい。0.08秒で掻く。0.1秒超えると「快楽追求罪」になる。プロの技だ。
窓の外は木星。特に見る意味はない。見る。
業務日誌に書く。『こ〜して書き込む。尚も良し』
同僚はニーナ。職務は「意味のない鼻歌」。
「ヒロシ、今日の無駄は?」
「昨日と同じ」
「いいね。私も昨日の鼻歌、忘れる仕事する」
染みないように、目を合わせず別れる。共感は摘発対象だ。



第二章 
有意義な無駄、爆誕

事件は15:00に起きた。
政府から無目的監査官カノンが来訪。全身効率スーツ。歩くたび+1pt稼ぐ女。
「日下部主席。あなたの無目的がバズっています」
「は? 見てません」
「全銀河の労働ptが0.3%低下。“幸せそうな無駄”が若者に感染した」
モニターに映るのは、盗撮された俺の勤務風景。
『椅子に座って木星を見るだけの男』再生2億回。
コメント「この人、勝ち組じゃね?」
カノンは命令を下す。
「明日から“有意義な無駄”ノルマ月20本。ガス抜きになる、計算された無目的を創れ」
目的のある無目的。
俺は初めて、頭痛という“非効率”を味わった。



第三章 
コップの水と20億人

「有意義な無駄」第一号。
俺は8時間かけて、コップの水を別のコップに移す動画を撮った。
こぼさない。飲まない。感想も言わない。ただ移す。
配信した。
3日で20億再生。「#無駄の神」「#ヒロシ教」爆誕。
労働ptが2.1%低下。工場が止まる。株価暴落。
進歩至上主義が、コップ1杯の水で溶け始めた。
カノン激怒。「影響与えない設定だったでしょう!」
「見てません。俺は水を移してただけです」
だが、やらかした。
うっかりコメント欄を見た。地球の12歳が書いていた。
『学校つらい。死にたいって思ってた。でもヒロシが何もしてないの見てたら、何もしなくても生きていい気がした』
胸が、かゆくなった。0.08秒じゃ掻ききれないやつ。
天井の共感罪検知ドローンが鳴る。ピーポーピーポー。
「対象、日下部ヒロシ。共感レベル4。逮捕」



第四章 
無目的裁判

銀河最高法院。罪状は3つ。
共感罪。労働意欲毀損罪。尚も良し罪。
検察官「被告は“意味のない行為”で“意味”を創造した。これは思想テロである」
俺「意味を見たのはそちら側です。俺はこ〜して書き込んでただけです」
証人ニーナ。鼻歌を禁じられ「効率的呼吸法」を歌わされ、声が潰れていた。
彼女は証言台で、かすれ声で歌った。昔の、意味のない鼻歌を。
傍聴席の労働者から、鼻をすする音。+1ptスーツが次々エラー吐く。
裁判長「最終弁論を」
俺は日誌の切れ端を読むだけだった。
「どなたも傷付けず、どなたも追い越さず。
勝ちもなく、負けもなく、比べることすら不要。
ただ、やりたいからやる。無駄だとわかっちゃいても。
そちら側を見ず、気にせず、影響も与えず。
どなたの心にも染みず。ならば尚も良し」
「以上です」
法廷が静まり返る。誰かが呟いた。「…俺、今日休んでいいかな」



第五章 
無職、最高

判決:無罪。
ただし無目的推進機構は解体。理由「“無目的”を組織にした時点で目的論が生じる。自己矛盾」
俺は無職になった。無pt。無価値。
晴れやかな気持ちで、解体現場のガレキに座る。
ニーナが隣に来た。
「ヒロシ、今日の無駄は?」
「特にない」
「尚も良し、だね」
二人で壊れた椅子に座る。やることがない。
彼女が鼻歌を歌う。くそ下手で、誰も得しない、最高の鼻歌。
遠くで、元労働者たちが空を見上げていた。
+1ptスーツを脱ぎ捨てて。
誰も追い越さないし、追い越されない。
ただ座ってるだけの人間が、増えていた。



第六章 
監査官の休日

1ヶ月後。カノンが訪ねてきた。効率スーツじゃない。Tシャツだ。
「労働ptが30%減った。経済は停滞。でも、自殺率が0になった」
「それで?」
「休み方を教えてほしい。私、有給の取り方を知らない」
俺は教えた。「まず椅子に座る」
「次は?」
「ない」
「…尚も良し、ってやつ?」
「そう。それ」
カノンはぎこちなく椅子に座った。3分で「落ち着かない」と立ち上がる。
「何もしないって、こんなに難しいのか」
「プロの技だからな」



第七章 
そちら側からの手紙

地球の少年から手紙が届いた。元コメント欄の12歳。
『ヒロシへ
あの後、学校辞めた。別に何か始めたわけじゃない。
ただ、朝起きて、窓から雲見る。
母さんが“あんた、何してるの”って聞くから、“無駄”って答えた。
母さん、最初怒ってたけど、昨日隣で一緒に雲見てた。
何も話さなかった。でも、なんか良かった。
尚も良し、だよね。 P.S. ニーナさんの鼻歌、下手だけど好き』
ニーナが手紙を読んで、0.1秒超えて泣いた。
減点とか、もうどうでもよかった。



第八章 
こ〜して書き込む

ムモク跡地。俺たちは勝手に「非公式無目的支部」を開設した。看板はない。会員もいない。来たい奴が勝手に来て、勝手に何もしない。
業務日誌はまだ書いてる。提出先はない。査定もない。
こ〜して。
『6月30日:木星、昨日と同じ。ニーナの鼻歌、昨日より下手。
カノン、昼寝を覚えた。寝顔、無防備。
地球からまた手紙。雲の形、毎日違うらしい。
俺は特に何もしなかった。
そちら側を見た気もするけど、見てないことにする。
誰の心にも染みたかは知らない。知る必要もない。
ただ、やりたいからやった。
無駄だとわかっちゃいても。
尚も良し』
ペンを置く。
風が吹いた。誰も命令してない、ただの風。
ニーナが「次、コップの水やる?」って聞いた。
「やる。意味はないけどな」
「それでいい。尚も良し」
目的もなく、ゴールもなく、進歩もない。
誰も傷つけず、追い越さず、追い越されず。
勝ちも負けもない、比べることすらない。
宇宙の隅で、俺たちは今日も無駄をやる。
それだけで、宇宙はちょっとだけ、呼吸していた。

『無目的推進機構』 完


Amazon Kindle



あとがき

この物語は、どなたの心にも染みないように書かれました。
もし染みたら、それはあなたの心が勝手に染みただけです。
本書は一切の責任を負いません。
尚も良し。

ドアの向こう側

――ある男と女の、滑稽で不思議な記録――



まえがき

私たちは日々、いくつものドアを開け、そして閉めて生きています。
昨日閉めたドアの向こう側に、何を置いてきたか覚えているでしょうか。


これは、ある一つの別れから始まる物語です。
ドアの隙間に未練のように足を挟み、十四年もの間、過去の記憶を頭の中で公転させ続けた男。
一方で、閉めたドアの向こう側を鮮やかに忘れ、新しい生活の地図をなめらかに描いていった女。


男と女の記憶のあり方は、驚くほど違います。それは時に滑稽で、時に少しだけ切ないミステリーのようでもあります。


冷蔵庫のバター、左右で色の違う靴下、そして持ち主を失った一冊の詩集。

ささやかな日常のモチーフたちが織りなす、二人の「交差しない」足跡を、どうぞのんびりと見届けていただければ幸いです。





第一章 男の側から

 田中誠一は五十二歳になった今も、あのドアのことを夢に見る。

 正確には、ドアの隙間に挟まった自分の足のことを。

 夢の中でいつも彼の右足は、薄暗い廊下と薄明るい部屋のあいだに挟まっている。靴下は左右で色が違う。これは夢の中だけの話ではなく、現実でも彼はしばしばそういうことをやらかした。注意散漫なのか、それとも人生全般において左右の整合性に興味が持てないたちなのか。どちらにせよ、その足は、ドアの隙間でくさびのように機能していた。

 相手の名前は――今となっては名前など関係ないだろうが、記録として――水島桜子といった。三十五歳のとき、彼女と出会い、三十八歳のとき、別れた。出会いはある会社の飲み会で、別れは彼女のアパートの玄関先だった。

 「もう終わりにしましょう」と桜子は言った。

 誠一はその言葉を聞いて、なぜか冷蔵庫の中身を思い浮かべた。たしか彼女の部屋の冷蔵庫には、自分が先週買ってきたバターが半分残っていたはずだ。あのバターは誰が食べるのだろう。

 「わかった」と彼は言いながら、しかしドアから出ていくことができなかった。足が、ちょうどドアの金属の縁のところで止まってしまった。靴の先がわずかに部屋の内側に残ったまま、本体は廊下に出ていた。

 「誠一さん」

 「うん」

 「足」

 「うん」

 しかし足は動かなかった。正確には、脳から足への命令が、どこかで迷子になっているようだった。駅で言えば乗換駅を通り過ぎてしまった感じで、命令は一駅先の「完全撤退」まで行ってしまい、当駅「足を引く」には止まれなかった。

 桜子はため息をついた。それから静かに、しかし確実に、ドアを押した。

 誠一の足の甲に、ドアの重さがかかった。痛かった。しかし彼はなぜかその痛みに、一種の懐かしさを感じた。まるで長年行方不明だった何かが、突然帰ってきたような。

 鍵の回る音がした。カチャリ、と。

 その音の、なんと決定的なことか。

 誠一は廊下に一人立ちつくした。足の甲がじんじんした。左右で色の違う靴下が、蛍光灯の光の下でひどく間抜けに見えた。

 それから彼はゆっくりとエレベーターに向かいながら、思った。

 ――また会えば、きっとうまくいくはずだ。

 これは、その思考の誕生の瞬間であった。そしてこの思考は、以後十四年間、彼の頭の中に生き続けることになる。まるで宿無しの猫が縁側に居着くように、しぶとく、図々しく、そして驚くほど快適そうに。

第二章 女の側から

 水島桜子は、ドアに鍵をかけた瞬間のことを、三日後には忘れていた。

 嘘をついているわけではない。本当に忘れたのだ。正確には「忘れる必要があることとして、記憶の適切な場所にファイリングした」と言うべきかもしれないが、桜子にとってはそれは忘れることと同義だった。

 人間の記憶とは、つまるところ書棚のようなものだと彼女は思っている。どんどん新しい本が増えるのだから、古くて読み返さない本は奥の棚に押しやるしかない。誠一との三年間は、そういう種類の本だった。表紙は決して悪くない。むしろ一時期は毎日読んでいた。でもいつの間にか、手に取らなくなった。

 ドアを閉めた翌朝、桜子は近所のカフェでモーニングセットを食べた。厚切りトーストに、バターをたっぷり塗った。

 バターを見て、何かを思い出しかけた気もしたが、すぐにトーストを口に入れたら消えた。

 その三ヶ月後、桜子は職場の後輩と付き合い始めた。二年後に結婚した。一年後に子供ができた。子供が三歳になったとき、夫が転勤で福岡に行くことになり、家族全員で引っ越した。福岡では鮮魚が安く、毎週末に夫と魚屋に行くのが習慣になった。

 桜子の人生は、ドアを閉めた日から、なめらかに前へと進んでいた。まるで川が低いほうへと流れるように、自然に、淀みなく。

 ただひとつ、不思議なことがあった。

 ときどき夜中に、夢を見た。玄関のドアを閉める夢だ。ドアの向こうに誰かがいる。顔は見えない。でも靴下の色が左右で違う、ということだけがやけにはっきり見えた。左が紺で、右がグレー。

 夢から覚めるといつも、桜子は少しだけ笑った。

 そしてまた眠った。

第三章 男は宇宙を旅する

 田中誠一のその後について、少し詳しく記す必要があるだろう。

 彼はその後、二度ほど別の女性と交際した。一度目は四十一歳のとき、同じ職場の先輩社員と。二度目は四十五歳のとき、合コンで知り合った女性と。どちらも一年ほどで終わった。終わり方はどちらも似ていた。女性のほうが先に「もう終わりにしましょう」と言い、誠一はドアのところで足を残し、相手はそれを蹴飛ばして鍵をかけた。

 一度目のときは、左足だった。二度目のときは、両足だった。両足の場合はさすがにドアが閉まらず、女性は困り果てて「ちょっと、本当に出てってください」と少し大きな声で言った。誠一はそこでやっと我に返り、「すみません」と言って出ていった。

 こうして三度の別れを経験した誠一の頭の中には、三人分の「また会えばうまくいく」が同居することになった。それらは互いに干渉せず、それぞれ独立した惑星のように、彼の頭蓋骨の内側を静かに公転していた。

 五十二歳になった誠一は、独身で、会社の近くのマンションに一人で住んでいた。部屋は散らかっていたが、冷蔵庫の中には常にバターが入っていた。これは無意識の習慣だった。なぜバターが必要なのか、自分でも説明できなかった。でも、なくなると不安になった。

 ある土曜日の昼下がり、誠一はスーパーでバターを買って帰るとちゅう、商店街の入り口で見知らぬ女性とぶつかった。女性の手から買い物袋が落ち、中身が散乱した。誠一は慌てて拾い集めた。人参、ジャガイモ、玉ねぎ、そして――バター。

 「すみません」と言って差し出すと、女性も「すみません」と言って受け取った。

 二人はほぼ同時に「バター、同じですね」と言った。

 それから二人はきまり悪そうに笑った。

 この女性の名前は後に判明するが、ここではまだ明かさない。

第四章 女は地図を書く

 福岡での暮らしは、桜子に合っていた。

 魚が旨く、空が広く、人が穏やかだった。夫の啓介は優しい男で、週末になると必ず家族で出かけた。子供の翔太は今年七歳になり、学校でも友達が多かった。

 桜子の生活は、地図に例えるなら、きちんと整備された道路のようだった。信号もあり、標識もあり、どこに行けばどこに着くかが明確だった。それは退屈ということではなく、安心ということだった。少なくとも桜子はそう思っていた。

 しかし時々、地図の端っこに、名もない道が現れることがあった。

 たとえばスーパーの帰り道、なんとなく違う道を歩いたとき。たとえば夫が出張でいない夜、子供を寝かしつけた後、一人でベランダに出て夜風に当たったとき。そういうとき、桜子の頭の中に、地図に載っていない何かが、ほんの一瞬だけ顔を出した。

 それが何なのかは、わからなかった。あるいは、わかっているのに、わからないふりをしていたのかもしれない。

 ただ、それは決して悲しいものではなかった。むしろ、若い頃に読んだ好きな本のタイトルを、ふいに思い出したときのような感覚に近かった。内容はもう覚えていない。でも、確かに好きだった、という感触だけが残っている。

 桜子はベランダから室内に戻り、洗い物をした。翔太の体操服、啓介のシャツ、自分のエプロン。手を動かしながら、何も考えなかった。いや、正確には、何も考えないことを選んだ。

 人生とは選択の積み重ねであり、「考えないこと」もまた選択のひとつである。桜子はそのことをよく知っていた。

第五章 奇妙な再会、あるいは再会しない話

 田中誠一は、スーパーでぶつかった女性と、その後三回会った。

 一回目は一週間後、同じスーパーの同じ時間帯に偶然。二回目はその翌週、近くの蕎麦屋で偶然。三回目は地元の秋祭りで偶然。三回ともバターが関係していた。一回目はバターの棚の前で鉢合わせた。二回目は蕎麦屋のメニューに「バター蕎麦」があり、二人とも頼んでいた。三回目は屋台で「バターコーン」を買おうとしたら同じ屋台に並んでいた。

 「バターの縁ですね」と女性は笑って言った。

 名前は村上奈緒といった。四十八歳で、近所に住んでいた。離婚して五年になり、小学生の息子がひとりいた。

 誠一は奈緒と話しているとき、不思議なことに、頭の中を公転していた三つの惑星のことを思い出さなかった。いや、思い出さなかったというより、惑星たちが自然と公転を止めて、静止したような気がした。宇宙が、少し静かになった。

 これはどういうことだろう、と誠一は思った。

 答えは出なかった。でも悪い気はしなかった。

 一方、水島桜子は――今や水島ではなく田所桜子だが――その年の秋、夫の啓介の転勤が再びあり、今度は東京に戻ることになった。引っ越しの荷造りをしながら、桜子は本棚を整理した。福岡に来てから読んだ本、子供の絵本、料理の本。そして、奥の棚の奥の奥に、一冊の薄い詩集が挟まっているのを見つけた。

 表紙には手書きで「桜子へ」と書いてあった。三十代に誰かにもらったものだ。誰に、というのは、もう思い出せなかった。あるいは思い出さなかった。

 桜子はそれを、他の不要な本と一緒に、近所の古本屋に持っていった。

 古本屋の主人は、その詩集を見て「これ、なかなか珍しいですね」と言った。「百円でどうですか」桜子は「はい」と言った。

第六章 ドアは誰のものか

 ここで少し、哲学的な話をしなければならない。

 ドアとは何か。

 建築学的に言えば、それは空間と空間を区切り、かつ結ぶ装置である。閉めれば壁になり、開ければ通路になる。つまりドアとは、壁と通路の両方の性質を持つ、二面的な物体だ。

 男と女の関係においても、ドアは同じように機能する。ただし、開け閉めする権限が、いつも均等に分配されているとは限らない。

 田中誠一の場合、権限は常に相手の女性が持っていた。これは彼が弱かったからではなく――少なくとも彼はそう思っていた――単純に、ドアが相手の家にあったからだ、という解釈もできる。もし自分の家のドアだったら、自分が鍵をかけていたかもしれない。

 しかしよく考えると、誠一は一度も相手を自分のマンションに招いたことがなかった。

 なぜか。

 冷蔵庫にバターが入っているからだ、と彼は思った。でもそれは理由にならない。バターを見られて困る人間はそう多くない。

 本当の理由は、もっと単純かもしれなかった。自分の領域に人を入れることへの、漠然とした恐れ。それを「スケベ心」と呼ぶ人もいる。でも誠一の場合はむしろ、失うことへの恐れだったかもしれない。自分だけの場所が、誰かの記憶の一部になることへの。

 水島桜子の場合はどうか。

 彼女は常に、自分のドアを自分で閉めた。これは主体性の表れだろうか。それとも防衛本能だろうか。あるいは単純に、片付けが得意な性格の延長だろうか。

 正解は多分、全部だ。人間の行動はたいてい、複数の理由が合わさって生まれる。それを一つに絞ろうとするのは、複雑な料理を「これは塩の味がする」と言い切るようなものだ。塩も入っているかもしれないが、それだけではない。

第七章 バターという名の奇跡(小さな)

 田中誠一と村上奈緒は、その秋から冬にかけて、少しずつ近くなった。

 最初はスーパーで会えば話す程度だった。次に、近くのカフェでコーヒーを飲むようになった。それから、奈緒の息子の陸が誠一に懐き、週末に三人で公園に行くようになった。

 誠一は子供との接し方がわからなかったので、最初は困った。でも陸は構わず誠一の手を引っ張った。子供というのは、相手の都合をあまり考えない生き物だ。それが時に、大人にとって救いになる。

 ある日曜日の夕方、三人で公園から帰る途中、誠一は奈緒に聞いた。

 「なんでバターばかり買うんですか」

 「え?」

 「いや、会うたびにバターが関係してるから」

 奈緒は少し考えてから言った。「陸がバタートーストしか食べないんです。毎朝。だからなくなるのが早くて」

 「へえ」

 「田中さんは?」

 誠一は少し間を置いた。正直に言うかどうか、一瞬迷った。そして言うことにした。

 「昔、好きだった人の部屋に置いてきたバターが、ずっと気になってて」

 奈緒はぷっと吹き出した。「それで買い続けてるんですか」

 「そういうわけじゃないと思うけど」

 「思うけど、って何ですかそれ」

 二人は笑った。陸は何がおかしいのかわからず、それでも二人が笑うから自分も笑った。商店街に、三人分の笑い声が小さく広がった。

 その夜、誠一は帰宅して、冷蔵庫を開けた。バターがあった。いつものように。でも今日は、なんだかそれが少し、違って見えた。呪いではなく、ただの食べ物に見えた。

 彼はトーストを焼いて、バターを塗って、食べた。うまかった。

第八章 東京の夜と、地図の外

 田所桜子が東京に戻ったのは、十一月の初めだった。

 新居は杉並区の住宅街で、静かな場所だった。翔太は近所の小学校に転入し、最初の一週間は友達ができないと泣いていたが、二週間目には毎日誰かと遊んで帰ってくるようになった。子供の適応力というのは、大人のそれとは別の原理で動いているらしい。

 桜子は新居に慣れながら、近所の地理を覚えていった。スーパーはどこか、病院はどこか、翔太の学校への近道はどこか。一週間もすれば、だいたいの地図が頭に入った。

 ある夕方、桜子は翔太を迎えに学校へ向かう途中、見慣れない路地に入り込んだ。抜け道だと思ったのだが、行き止まりだった。戻ろうとして振り返ると、路地の奥に小さな古本屋があることに気づいた。

 引き寄せられるように、入った。

 店内は狭く、床から天井まで本が積まれていた。埃っぽく、薄暗く、しかし不思議と居心地がよかった。

 棚を眺めながら歩くと、詩集のコーナーに来た。薄い本が何十冊も並んでいた。桜子はなんとなく一冊を手に取った。

 表紙には手書きで「桜子へ」と書いてあった。

 桜子は三秒ほど、その表紙を見つめた。

 それから本を棚に戻して、店を出た。

 翔太の学校まで、早足で歩いた。途中、空が夕焼けで赤かった。電線に鳥が一羽止まっていた。下校する子供たちの声がした。

 桜子は何も考えなかった。ただ歩いた。

 でも口元には、少し笑みがあった。

第九章 男は眠れない夜に考える

 十二月のある夜、田中誠一は眠れなかった。

 別に悩みがあったわけではない。強いて言えば、来週から奈緒と陸と一緒に、近所のイルミネーションを見に行くことになっており、その約束が頭に引っかかっていた。引っかかるというのは、嫌だということではなく、むしろ楽しみで意識から離れないということだった。五十二歳で待ち遠しいと思うとは思わなかった、というのが正直なところで、それはそれで少しおかしかった。

 天井を見ながら、誠一はぼんやり思った。

 頭の中の惑星が、消えている。

 いつ消えたのだろう。気づかないうちに、公転が止まり、そのまま静かに消滅したらしい。宇宙のどこかで星が消えても、光が届くのに時間がかかるから、地球からは気づかない。それと同じで、誠一の頭の中でも、惑星はずっと前に消えていたのかもしれない。ただ彼が気づいていなかっただけで。

 誠一は少し考えた。

 もし仮に、桜子に会ったとして。あるいは一度目や二度目の彼女に会ったとして。また抱けると思うか。

 思わない。

 その答えが出たとき、誠一は少し驚いた。そしてすぐに、何か重いものが胸から外れたような感覚を覚えた。重かったのか、と今更思った。重かったのだろう、とも思った。

 彼はそのまま、十分もしないうちに眠りについた。

 夢は見なかった。

最終章 ドアと鍵と、その先のこと

 男と女の話は、たいてい、どちらかがドアを閉めて終わる。

 だが実のところ、ドアを閉めることで終わるのは「その話」であり、「その人の話」ではない。ドアの外に出た人間は、別の廊下を歩いて、別のドアを開ける。ドアを閉めた人間は、別の窓から空を見て、また明日の朝ごはんを考える。

 田中誠一は翌春、村上奈緒と付き合い始めた。正式に、ということになったのは、陸が「パパとママみたいになるの?」と聞いたことがきっかけだった。二人は顔を見合わせ、そして笑い、「まあそういうことかな」と誠一が答えた。陸は「じゃあいいや」と言って、またゲームに戻った。

 誠一は初めて、奈緒の家に招かれた。玄関を入ったとき、自分の家のドアを人に開けるとはこういう感覚か、と思った。少し緊張したが、悪くなかった。

 そして帰り際、ドアを出るとき、誠一は自分の足が完全に外に出ていることを確認した。隙間に残った部分は、ない。

 奈緒が「また来てね」と言いながらドアを閉めた。

 鍵の音がした。カチャリ、と。

 同じ音なのに、今回は少しも寂しくなかった。

 田所桜子は東京の春を、家族三人で過ごした。翔太は新学年になり、担任の先生が変わり、それをえらく気に入ったと言った。夫の啓介は新しい職場に慣れ、週末には以前のようにどこかへ連れ出してくれた。

 ある日、桜子は近所の公園で翔太を遊ばせながら、ベンチに座って空を見ていた。青く、澄んでいた。

 そういえば、と思った。

 あの詩集。

 でもそれが何だったか、誰にもらったか、やはり思い出せなかった。ただ、手書きの字が少しだけ浮かんだ。丸くて、ぎこちない字だった。

 桜子は目を細めて空を見た。雲が一つ、ゆっくり流れていった。

 翔太が「ママー!」と呼んだ。

 「なに?」

 「ブランコ、押して!」

 「はいはい」

 桜子は立ち上がり、息子のほうへ歩いていった。

 春の風が、桜の花びらを少し舞い上げた。それはどこかのドアの隙間から、吹き込んできたのかもしれなかった。あるいはそうじゃないかもしれない。

 どちらでもよかった。

 花びらは、とにかく舞っていた。

                    (了)



あとがき

この物語は、劇的な再会も、激しい愛憎劇も起こりません。ただ、かつて同じ時間を過ごした二人が、それぞれの速度で、それぞれの人生を肯定していく姿を描きたいと思い筆を執りました。
作中で誠一の頭を悩ませていた「バターの呪い」は、新しい出会いによってただの「美味しい食べ物」へと変わります。また、桜子にとっては過去の詩集も「名前の思い出せない、でも確かに好きだった本」という優しい輪郭だけになっていきます。
ドアを閉めることは、決して人生の終わりではなく、次のドアへ向かうための静かな区切りに過ぎません。
もし今、あなたの頭の中に公転し続けている「消えない惑星」があるなら、このお話が、それをそっと着陸させる小さなきっかけになれば嬉しく思います。皆様の歩む廊下の先に、心地よい風が吹くドアが開かれていますように。



Amazon Kindle



紹介文

三十八歳のとき、恋人・桜子のアパートの玄関先で別れを告げられた田中誠一。

「わかった」と言いながらも、彼の右足はなぜかドアの隙間に挟まったまま動かなかった――。


それから十四年。五十二歳になった誠一の頭の中には、いまも元カノたちの記憶が「独立した惑星」のように公転し続けている。


一方の桜子は、ドアを閉めた三分後にはその味を忘れ、結婚、出産、地方への引っ越しと、なめらかに前を向いて生きていた。


すれ違う二人の記憶、なぜかシンクロする「冷蔵庫のバター」と「左右の違う靴下」。
決して交わることのない二人の人生が、東京の片隅で小さな奇跡と交差する――。


可笑しくて、ちょっぴり切ない、大人のための「人生の片付け」の物語。