銀河ジャンボ

― 宇宙国家ニッポンの体裁よき税 ―

1枚 300円

まえがき

西暦2387年。人類が銀河の果てまで版図を広げても、変わらないものがあります。

それは「一攫千金の夢」と「役所の集金システム」です。

かつて島国だった日本は「宇宙国家ニッポン」へと姿を変え、空には巨大な広告衛星が浮かんでいます。本作は、300円の紙切れ一枚に宇宙の支配権を託す人々と、それを静かに、そして冷徹に管理する国家の姿を描いた短編連作です。

期待値、確率論、そしてほんの少しの絶望。

それらをごちゃ混ぜにして300円で割ったとき、残るのは「愚かさ」でしょうか、それとも「希望」でしょうか。

宇宙一「体裁のよい税金」を巡る、おかしな物語をどうぞお楽しみください。





第 一 章
バレンタイン銀河ジャンボ、発売

西暦2387年、2月14日。
宇宙国家ニッポンの首都、旧東京——現在の正式名称は「トーキョー・オービタル特別行政区」——の地上47階にある、くすんだネオンの宝くじ売り場に、田中夢男は今日も立っていた。
「いらっしゃいませェ〜。本日よりバレンタイン銀河ジャンボ、発売開始でございますゥ〜」
売り場のオバチャン——正確には人型確率演算ロボット・モデルKUJI-7型、愛称「くじオバチャン」——が、口角を正確に37度引き上げた笑顔で言った。その笑顔は、田中が物心ついた58年前から一ミリも変わっていない。いや、変わるはずがない。彼女はロボットなのだから。
「また増えたのか」
田中は売り場のガラスに貼られたポスターを眺めながら、ため息をついた。
バレンタイン銀河ジャンボ
1等賞金:惑星1個(推定資産価値:京円)
2等賞金:月1個(居住権付き)
3等賞金:小惑星帯採掘権(10年間)
4等:100万円 5等:10万円
下4桁一致:5万円
1枚:300円

「惑星、か」
田中はポスターの「1等」の文字を指でなぞった。宇宙国家ニッポン政府が太陽系外縁部に確保している「賞品惑星」は現在14個あるという。しかし、それを実際に受け取った人間を、田中は一度も見たことがない。
「当選者のお姿は、プライバシー保護のため非公開となっておりますゥ〜」
くじオバチャンが、まるで田中の考えを読んだかのように言った。
「……毎回そう言うな」
田中はコートのポケットに手を突っ込んだ。思えば長い付き合いだ。最初に宝くじを買ったのは28歳のとき。会社の先輩に「年末ジャンボ、話のタネに1枚どうだ」と言われたのがきっかけだった。あの頃はまだ年末ジャンボとサマージャンボの2種類しかなかった。
それがいつの間にか増えた。
ドリーム銀河ジャンボ(3月)。スプリング銀河ジャンボ(5月)。サマー銀河ジャンボ(7月)。ハロウィン銀河ジャンボ(10月)。年末銀河ジャンボ(12月)。そして今年から——バレンタイン銀河ジャンボ(2月)。年6回。ほぼ隔月。
さらに売り場には「その間」を埋めるように、ミニ銀河くじ、スクラッチ宇宙くじ、毎日くじが所狭しと並んでいた。365日、何かが売られている。
「要するに」と田中は小声で呟いた。「国ぐるみの博打だ」
「ありがとうございますゥ〜」
くじオバチャンが深々と頭を下げた。聞こえていたのかいないのか、その笑顔は変わらない。

田中は財布を取り出した。中には300円玉が1枚入っていた。毎回そうだ。彼は宝くじを買うとき、必ず300円だけを財布に入れてくる。それ以上持ってくると、つい10枚、20枚と買ってしまうからだ。
「1枚ください」
「毎度ありがとうございますゥ〜。本日はバレンタインということでハート型の封筒にお入れしましょうかァ〜?」
「いらない」
「かしこまりましたァ〜」
田中はそれをポケットに滑り込ませた。300円。それが今日の「夢の値段」だった。

売り場を出ると、トーキョー・オービタル特別行政区の空には、今日も巨大な宝くじ広告衛星が輝いていた。直径3キロメートルのその衛星は、24時間365日、宇宙国家ニッポンの空に浮かび、こう表示し続けている。
夢を買おう。300円で。
田中は空を見上げ、ため息をついた。あの衛星を打ち上げる費用は、一体いくらかかったのだろう。そしてその費用は、一体誰が払ったのだろう。
答えは分かっている。俺たちだ。300円ずつ、夢を買い続けた、俺たちの300円が、あの衛星を空に浮かべている。
「体裁の良い税、か」
田中は呟き、コートの襟を立てた。2月の宇宙都市の風は、相変わらず冷たかった。ポケットの中で、1枚の宝くじが、抽選日まで、わずかな時間だけ——夢を売っていた。
抽選日まで:あと28日


第 二 章
下4桁の哲学

田中夢男、58歳。
職業:元・宇宙国家ニッポン財務省・宝くじ課勤務。現在は定年退職し、年金と宇宙農業の副業で細々と暮らしている。趣味:宝くじ。特技:下4桁を当てること。いや、正確には「当てたことがある」という過去形だ。
田中が生涯で宝くじに使った金額を、彼は克明に記録していた。28歳から現在の58歳まで、30年間。毎回のジャンボ宝くじを1枚ずつ、年6回。さらに節目節目にスクラッチくじを数枚。
ジャンボ宝くじ:300円 × 6回 × 30年 = 54,000円
スクラッチくじ(平均):500円 × 年12回 × 30年 = 180,000円
毎日くじ(一時期):200円 × 365日 × 3年 = 219,000円
その他(衝動買い等):推定 100,000円
合計投資額:553,000円(約55万円)
そして、55万円の投資に対する総回収額はというと——
下4桁当選(5万円):2回 = 100,000円
5等(10,000円):3回 = 30,000円
スクラッチ小当たり:推定 50,000円
合計回収額:180,000円
差し引き、マイナス37万3千円。
田中はこの数字を、自宅のホログラム手帳に記録していた。毎年末、この数字を見るたびに「来年こそはやめよう」と思う。そして翌年の2月には、またバレンタイン銀河ジャンボを1枚買っている。

さて、問題は「下4桁」である。
銀河ジャンボ宝くじの券番号は8桁だ。その下4桁が一致すると5万円が当たる。一見、お得に見える。しかし田中は元・財務省の人間だ。計算ができる。
下4桁の組み合わせは0000から9999まで、ちょうど1万通り。つまり1枚の確率は1万分の1。
では、確実に1回当てるためには何枚買えばいいか。1万枚。
1万枚 × 300円 = 300万円。当選金額は5万円。
「つまり」と田中は自分の手帳に書き込んだ。「300万円の投資で、確実に戻るのは5万円だけだ」
残りの295万円は、国へと吸い込まれる。これを「体裁の良い税」と呼ばずして何と呼ぼう。
田中は昔、財務省の宝くじ課で働いていた。だから知っている。宝くじの収益がどこへ行くかを。公共事業。福祉。宇宙開発。そして——広告衛星の維持費。
「くそ」と田中は呟いた。「俺が若い頃に買った300円が、あの衛星を飛ばしてるわけか」
その衛星が今日も空に光っている。「夢を買おう。300円で。」
田中は空を見上げ、また300円をポケットに入れた。
抽選日まで:あと27日


第 三 章
売る側の論理

くじオバチャン——正式名称・確率演算型接客ロボット KUJI-7型 通称「ミドリ」——は、今日も売り場に立っていた。
彼女の頭の中には、常時、膨大な確率計算が走っている。1秒間に1兆回の演算。その全てが「いかに効率よく券を売るか」に費やされている。
ある日、田中が聞いた。
「ミドリさん、あなたは宝くじを買わないんですか?」
「私めには購入権限がございませんゥ〜」
「権限がない? 法律で禁止されてるんですか?」
「いいえ、私め自身の判断でございますゥ〜。確率演算の結果、購入することは非合理的と判断しております」
「……つまり、売るだけで買わないと」
「左様でございますゥ〜。お客様、本日は10枚セットがお買い得でございますゥ〜」
田中は深いため息をついた。
売る側は絶対に買わない。これが博打の鉄則だ。カジノのディーラーがルーレットに賭けないように。競馬の胴元が馬券を買わないように。宝くじ売り場のロボットは、宝くじを買わない。

その日の夜、田中は近所の居酒屋「宇宙の星」で、同じく常連の佐藤と飲んでいた。
「田中さん、今日も買ったんですか、宝くじ」
「1枚だけな。夢を買ったんだ」
「夢ねえ」佐藤は焼酎を一口飲んだ。「周りで当たった人、見たことあります?」
田中は少し考えた。30年間、宝くじを買い続けてきた。職場の同僚、近所の人、飲み仲間。誰か1人でも当たったという話を聞いたことがあるだろうか。
「……ない」
「でしょう」
「でも、どこかには当たった人がいるはずだ。じゃなければ詐欺じゃないか」
「本当に?」
田中は黙り込んだ。宝くじ課で30年働いた。しかし、1等当選者を直接確認したことは一度もない。プライバシー保護。非公開。匿名当選。
「……まあ、いるんだろうよ、どこかに」
「そんな確率なんですよ」と佐藤は言い、焼酎をもう一杯注文した。「でも田中さん、来年も買うんでしょ?」
「……当たり前だろ」
二人は笑い、乾杯した。宇宙都市の夜空に、広告衛星が光っていた。
抽選日まで:あと21日


第 四 章
MGT三人組、攻略計画を立てる

火星工科大学(MGT:Mars Grotech Technology)。
太陽系最高峰の理工系大学として知られるこの学府に、ある年、3人の天才が入学した。
名前
専攻
特徴
ケンジ・ホシ
量子確率論
宝くじの番号生成アルゴリズムを3時間で解析できる
アヤ・ツキ
宇宙行動経済学
なぜ人間が非合理な賭けをするかを研究
ダイ・ソラ
銀河統計学
過去500年分の宝くじデータを暗記している

3人は寮の食堂で、いつものように議論していた。
「銀河ジャンボの番号生成は、量子乱数発生器を使ってる」とケンジが言った。「でも、そのシードに規則性がある」
「規則性?」とアヤが眉を上げた。
「完全にランダムな乱数は、宇宙に存在しない。必ずどこかにパターンがある。俺はそれを見つけた」
ダイがホログラムに500年分のデータを展開した。数十億行に及ぶ当選番号の羅列。
「確かに」とダイが呟いた。「2進数で見ると、特定の周期で偏りが出てる」
「つまり」とアヤが言った。「次の当選番号を、ある程度予測できると?」
「理論上は、73.6%の精度で」
沈黙が流れた。
「やろう」とアヤが言った。「1等は惑星だ。固定資産税は後で考えよう」
3人は握手した。MGT銀河ジャンボ攻略プロジェクト、始動。
しかし誰も気づいていなかった。アヤが専門とする「なぜ人間は非合理な賭けをするか」の答えが、まさに自分たち自身に当てはまることを。
抽選日まで:あと18日


第 五 章
惑星を当てた男の噂

宇宙国家ニッポンには、ある都市伝説があった。
「山田太郎」——という男が、30年前に銀河ジャンボの1等を当て、惑星を1個手に入れたというのだ。
田中はこの噂を、かつて財務省宝くじ課で聞いたことがある。しかし誰も詳細を知らない。プライバシー保護で全て非公開。当時の担当者も既に退職か他界している。
ある日、田中は居酒屋で不思議な老人に出会った。
「あんた、宝くじを買ってるね」と老人は言った。「匂いでわかる。宝くじを30年以上買い続けた人間の目をしている」
「……誰ですか、あなたは」
「山田太郎」
田中は酒を吹き出した。
「嘘だ」
「本当だよ。惑星を当てた。でもね」と老人——山田は苦笑いした。「困ってるんだよ、それが」
「困る? 惑星ですよ? 固定資産税がどうとか——」
「それだよ」と山田は言った。「惑星の固定資産税、知ってるか? 地球換算で毎年1億円だ。おまけに惑星管理費、大気維持費、軌道修正費……合わせると年間3億円以上かかる」
「……惑星を当てたのに、破産しそうと」
「今は惑星を政府に貸し出して、その賃料で何とか維持してる。でもな、政府が払う賃料は年2000万円だ。差し引き毎年1億円の赤字だ」
田中は絶句した。
1等当選者は実在した。しかし彼は、惑星という呪われた当選品を抱えて、静かに破産しかけていた。
「……それで、なぜ売り場の前に来たんですか?」
山田は恥ずかしそうに言った。
「2等の月なら、管理費が安いかと思って……もう1枚買おうかと」
抽選日まで:あと15日


第 六 章
半丁博打と確率5割の誘惑

田中には昔、博打好きの友人・木村がいた。
木村は宝くじを絶対に買わない男だった。その理由を彼はいつもこう言っていた。
「田中よ、宝くじの期待値を計算してみろ。1枚300円で、期待値は120円程度だ。つまり買った瞬間に60%の損失が確定する。それより半丁博打のサイコロの方が、確率は5割だ」
「でも結局チャラじゃないか」と田中は言った。
「チャラは素晴らしい。宝くじは最初からマイナスが確定している。全然違う」
理屈はわかる。田中にも計算はできる。
しかし木村は今、どうしているか。
半丁博打で「チャラ」のはずが、なぜか毎回負けて帰ってくる。「勝った時にやめられない」のだ。勝てば続け、負ければ取り返そうとして続ける。結果、常に最後は負ける。
「確率5割の博打で、なぜ毎回負けるんだ」と田中は聞いた。
「運にも波があるんだよ」と木村は言った。「波が来てる時は続けるべきだし、逆風の時は……やめられないんだよ」
馬も、船も、バイクも、自転車も。当たりはたったの1つ。そして胴元は必ず儲かる仕組みになっている。
田中は考えた。宝くじと半丁博打、どちらがマシか。
宝くじは:買っただけしか負けない。追いかけない。追加で負けない。
半丁博打は:理論上チャラでも、「もう1回」が人間の本能だ。
「やはり」と田中は結論した。「博打はやらない方が良い」
そう言いながら、彼はポケットの宝くじをそっと握りしめた。これは博打ではない。夢のサブスクリプションだ。300円で28日間、惑星オーナーの夢を見られる。それだけだ。
抽選日まで:あと12日


第 七 章
カジノ星、大阪2.0

ニュースが流れた。
【速報】宇宙国家ニッポン・近畿宇宙圏政府、木星第4衛星「大阪2.0」にカジノ建設を正式発表。総事業費:3兆円。財源は「銀河ジャンボ収益の一部」と説明。
田中は朝のホログラムニュースを見て、口から朝食のご飯粒を飛ばした。
「何を考えてるんだ」
近畿宇宙圏知事・カスミ・ホシノが画面に映った。彼女は60代にして依然として派手な衣装を好む政治家で、その発言はいつも物議を醸す。
「カジノは観光業の目玉です! 宇宙国家ニッポンの経済を牽引する一大プロジェクトです! 反対する方は時代遅れです!」
田中はテレビを消した。
宝くじで集めた金で、カジノを建てる。博打の収益で、博打場を作る。これは一体、何の冗談だろうか。
そもそも、今この時期に優先順位がある。トーキョー・オービタル特別行政区の老朽化したインフラ。増え続ける宇宙難民。縮小する社会保障。
田中は元・財務省の人間として、計算した。3兆円あれば——老朽化した宇宙ステーション区画の全面改修(1兆円)。宇宙難民支援施設の整備(5000億円)。医療宇宙ステーションの増設(1兆円)。それでもまだ5000億円余る。
それを、カジノに使う。
「バカな政治家め」と田中は呟いた。
しかし翌朝、田中はまた宝くじ売り場の前に立っていた。このジレンマに、答えは出ない。国の博打に怒りながら、自分も国の博打を買い続ける。
「いらっしゃいませェ〜。カジノ建設記念・特別スペシャルジャンボ、本日より発売でございますゥ〜」
田中は深呼吸をした。
「……1枚ください」
抽選日まで:あと10日


第 八 章
MGT、ベルガス星へ飛ぶ

MGT三人組の計画は完成した。
ケンジが解析した量子乱数の偏りパターン。ダイが500年のデータから抽出したサイクル則。アヤが構築した「最適購入枚数モデル」。それらを統合した結果——
「次のバレンタイン銀河ジャンボの1等番号は、73.6%の確率でこの範囲内にある」とケンジが言った。
問題は資金だ。その範囲の券を全て買うには、300万円が必要だった。
3人は宇宙国家ニッポン銀河系最大のカジノ遊戯場——ベルガス星カジノ——で資金を調達することにした。ベルガス星は法的にニッポン管轄外なので、カジノが合法だ。
バカラで倍にする。それだけだ。ケンジは量子乱数論を応用したカード読み取りアルゴリズムを開発していた。精度89%。理論上、負けるはずがない。

ベルガス星カジノ。
惑星を丸ごとカジノに改造したこの星は、銀河系最大の賭博場として知られる。毎日10万人の来場者。毎時10億円が動く。
3人は150万円を持ち込み、バカラテーブルに向かった。
最初の3時間——順調だった。150万が180万になった。次の1時間——210万になった。
「計算通りだ」とケンジが囁いた。「このまま続けよう」
しかしその夜、カジノ側は静かに動いていた。AIディーラーが3人のベット履歴を分析し、異常なパターンを検出。密かにデッキのシャッフルアルゴリズムを変更した。
「逆を突かれた」とアヤが言った時、残金は12万円だった。
3人は真夜中のベルガス星カジノのロビーで、ソファに座り込んだ。
「完全なる攻略法は存在しない」とダイが静かに言った。
「量子乱数も、AIには読まれる」とケンジが言った。
「あちらはそれで食ってる。こちらに勝ち目はない」とアヤが言い——そしてポケットから300円を取り出した。「帰りに宝くじ、1枚買いましょうか」
3人は顔を見合わせ、苦笑した。夢を買うだけなら、300円で十分だ。
抽選日まで:あと7日


第 九 章
夢の値段、300円

田中は抽選日まで残り7日となったある夜、ひとり自室でホログラム手帳を眺めていた。
30年間の宝くじ購入記録。マイナス37万3千円。
しかし田中は最近、この数字の見方が変わってきた。
37万3千円で、何が買えたか。宇宙旅行の格安ツアーが1回、約30万円。つまり宇宙旅行1回分を、30年かけて夢に使ってきた計算だ。
いや、違う。
宝くじは麻雀と違う。カジノと違う。半丁博打と違う。買っただけしか負けない。追いかけない。追加で負けない。
300円払って、28日間、惑星オーナーの夢を見る。抽選日が来て、外れる。またポケットに300円を入れて、売り場に行く。
この繰り返しが、30年間続いた。
「夢のサブスクリプション」と田中は呟いた。「月額300円、惑星オーナー気分コース」
実は悪くないかもしれない。動画配信サービスに毎月1500円払うより、ずっと安い。
田中は立ち上がり、窓の外を見た。宇宙都市の夜景。遠くに広告衛星が光っている。「夢を買おう。300円で。」
「……わかってる」と田中は言った。「当たるはずはない。そんな確率だ。でも」
ポケットの宝くじをそっと取り出した。番号を見る。これが惑星の番号になる確率は、宇宙の塵が1粒、特定の原子に当たるより低い。
それでも——抽選日まで、この券は夢を売っている。
田中はそっと券をポケットに戻し、眠りについた。夢の中で、彼は惑星のオーナーだった。
抽選日まで:あと7日


第 十 章
1等当選者、現る?

抽選日3日前。
ニュースが流れた。
【速報】バレンタイン銀河ジャンボ・事前当選疑惑。「1等当選者が存在しない可能性」をMGT研究チームが発表。政府、調査委員会を設置。
MGT三人組だった。ベルガス星で大敗した後、やけになったダイが、500年分の1等当選データを詳細に分析した。
結果——統計的に、当選者が存在するには当選番号の分布が不自然すぎるという論文を発表したのだ。
宇宙国家ニッポン政府は即座に否定した。
「当選者は確かに存在します。プライバシー保護のため非公開なだけです」
しかし同じ日、田中は例の老人——山田太郎——と再び居酒屋で出会った。
「あの論文を見たか?」と山田は言った。「俺のことだ。俺は確かに当選した。でも政府は俺の存在を、対外的に認めたくない」
「なぜですか?」
「1等当選者が公開されると、みんな気づくんだよ。惑星を当てても不幸になるって。そうしたら誰も宝くじを買わなくなる」
田中は焼酎を一口飲んだ。
「……つまり、1等当選者は実在するが、喜んでいないから非公開にしていると?」
「そういうことだ。俺は今、惑星の固定資産税を払うために、毎年宝くじを買い続けている」
二人は沈黙した。
1等当選者が、1等当選のツケを払うために宝くじを買い続けている。これ以上の滑稽な話が、宇宙のどこかにあるだろうか。
「今日も1枚、買いましたか?」と田中は聞いた。
「ああ」と山田は言い、ポケットから2枚の宝くじを取り出した。「2等の月なら、管理費が安いから」
抽選日まで:あと3日


第 十 一 章
国ぐるみの博打、宇宙へ

銀河連邦本部から、宇宙国家ニッポンに正式な勧告書が届いた。
銀河連邦・公正取引委員会 宇宙国家ニッポン政府 御中 表題:宇宙規模の搾取的宝くじ事業に関する勧告 貴国の宝くじ事業は、1等賞品として惑星を提示しながら、当選後の維持費が当選者を経済的困窮に追いやる構造的欠陥を有している。これは宇宙規模の消費者詐欺に該当する可能性がある。改善勧告を発する。
財務省・宝くじ課は緊急会議を開いた。しかし会議の結論は予想通りだった。
「賞品を見直しましょう」と若い担当者が提案した。「惑星の代わりに、現金1000億円にすれば——」
「それでは夢がない」と大臣が言った。「惑星だから買う人がいる。現金1000億円では夢が小さい」
「では2等の月についても——」
「月は人気だ。変えない」
会議は3時間続き、結論は「勧告を丁重にお断りする」だった。
田中はそのニュースを聞きながら、ため息をついた。彼は財務省の宝くじ課に30年いた。あの会議の空気が、手に取るようにわかる。
宝くじは国の収入の柱だ。年間収益は数十兆円。それを手放す気など、政府には微塵もない。
国民から少しずつ、夢という名目で、税を取り続ける。体裁の良い税。
「わかってるんだよ」と田中は呟いた。「わかってて、買うんだよ」
広告衛星が今日も光っていた。
抽選日まで:あと1日


第 十 二 章
それでも、また買う

抽選日。
田中は自宅のホログラムテレビの前に座っていた。手には1枚の宝くじ。
バレンタイン銀河ジャンボ、抽選の様子が中継される。くじオバチャン(KUJI-7型)が司会を務めている。
「それではァ〜、バレンタイン銀河ジャンボの当選番号の発表でございますゥ〜!」
1等番号が発表された。田中は自分の券を見た。
違う。
2等。違う。3等。違う。4等。違う。5等。違う。下4桁——
「……違う」
田中は券をそっとテーブルに置いた。30年と1回目の外れ。
MGT三人組も、今頃ホログラムで番号を確認しているだろう。ベルガス星で資金を溶かし、それでも3枚買っていた3人組も、外れているだろう。山田太郎も、月を狙って買った2枚も、外れているだろう。
田中は立ち上がり、コートを羽織った。
売り場まで歩く。300円玉を1枚、財布に入れて。
次のジャンボはドリーム銀河ジャンボだ。3月発売。
「いらっしゃいませェ〜。ドリーム銀河ジャンボ、来月発売予定でございますゥ〜。本日はお早めのご予約を——」
「……1枚、予約します」
「毎度ありがとうございますゥ〜!」
田中はポケットに手を入れた。空になったポケット。外れた券は、もうない。
でも来月、また夢が1枚、300円でやってくる。
当たるはずはないことを、知っていながら。
周りで当たった人を、見たことがないことを、知りながら。
——また、その夢を買う。
次の抽選日まで:あと33日


エ ピ ロ ー グ
300円の宇宙

結局のところ、宇宙とは博打だ。
138億年前、宇宙が誕生した瞬間も、誰かの大博打だったのかもしれない。その確率は、銀河ジャンボの1等よりも低かっただろう。
しかし宇宙は生まれた。地球も生まれた。人間も生まれた。そして人間は、その低確率の奇跡の上に立ちながら、さらに低確率の夢を300円で買い続けている。
田中夢男は今日も売り場の前に立っている。くじオバチャンは今日も笑顔で券を売っている。MGT三人組は懲りずに次の攻略法を考えている。山田太郎は惑星の固定資産税に頭を抱えながら、月を狙っている。政治家たちはカジノ建設に夢を見ている。
そして広告衛星は今日も、宇宙国家ニッポンの空に輝いている。

夢を買おう。300円で。

——それが、宇宙で一番小さくて、
一番確率の低い、
一番やめられない
体裁の良い税 である。

― 完 ―



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あとがき

宝くじの収益金が公共事業に使われることを「愚者の税金」と呼ぶ言葉がありますが、もしもその賞品が「惑星」だったら? という空想からこの物語は始まりました。

天文学的な低確率に挑むとき、人は理性を失います。しかし、その理性を失っている28日間こそが、300円で買える一番の価値なのかもしれません。

たとえ、その300円が空に浮かぶ邪魔な広告衛星の電気代に消えていたとしても。

現実の世界でも、たまには「夢」という名の納税を楽しんでみるのも悪くない……かもしれませんね。ただし、惑星が当たった際は、固定資産税のご確認をお忘れなく。



源氏炎上!

タイムスリップ亭主の受難

〜紫式部と清少納言の間で板挟みになった男の話〜


まえがき


人生には、ときどき説明のつかない出来事が起きます。


たとえば、孫が生まれた日に、

寺の奥で不思議な籠を見つけること。


たとえば、その籠にうっかり乗り込んでしまい、

気がつけば平安時代へ行ってしまうこと。


たとえば、紫式部に「我が君」と呼ばれ、

清少納言に助け出されること。


そして、千年前の人々の想いが、

今を生きる自分の人生と、

静かにつながっていること。


本作は、

そんな「ありえない話」を通して、

家族のこと、

夫婦のこと、

言葉のこと、

そして“帰る場所”について書いた物語です。


源氏物語や枕草子を知らなくても、

どうぞ気楽に読んでください。


紫式部も清少納言も、

千年経っても案外、人間くさいのです。


もし読み終えたあと、

少しだけ背筋を伸ばしたくなったなら、

とても嬉しく思います。






第一章 孫が生まれた日、寺で籠を見た

人生というのは、まったく油断のならないものである。

田中善次郎、六十二歳。職業は元営業部長、現・完全なる無職。趣味は将棋と昼寝と、妻に内緒のビール。 身長百六十八センチ、体重は若い頃より十四キロ増えており、その増加分の内訳は脂肪が十三キロ、残りの一キロは人生の哀愁であると本人は主張している。

そんな善次郎に、ある春の朝、一本の電話が入った。

「お父さん!生まれたよ!男の子!」

娘の声は弾んでいた。電話口から赤ちゃんの泣き声も聞こえてくる。善次郎は受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。

祖父。

自分がその言葉で呼ばれる日が来たのだ。

「おい」と、善次郎は隣の部屋に向かって叫んだ。「生まれたぞ!孫が!」

妻の幸子は台所でエプロン姿のまま飛び出してきて、受話器を奪い取り、娘と号泣し始めた。善次郎は取り残されたまま、ぼんやりと窓の外を見た。春の空が、馬鹿みたいに青かった。

そうか。孫か。

善次郎は不覚にも目頭が熱くなるのを感じ、それを悟られないよう、冷蔵庫を開けてビールを一本取り出した。まだ午前九時だったが、こういう日くらいは許されるはずだ。神様も祖父の朝ビールには目をつぶってくれるだろう。


その日の午後、善次郎は一人で実家のお寺へ向かった。

妻は病院へ直行したが、善次郎は「先に墓参りをしてくる」と言い置いた。これは単なる口実ではなく、本心だった。こういう慶事のときこそ、先祖に報告しなければならない。それが田中家の、というより善次郎個人の、長年の習慣だった。

田中家の菩提寺、宝光院は、駅から徒歩十五分ほどの住宅街の一角にひっそりと建っている。決して大きくはないが、境内の掃除は行き届いており、季節の花が丁寧に植えられている。住職は善次郎より十歳年下の、やたらと早口な男で、会うたびに株の話をしてくる。

善次郎が山門をくぐると、本堂の扉が大きく開け放たれていた。

珍しい。

近づくと、中から掃除機の音がする。業者らしき二人組の男が、せっせと床を磨いていた。

「すみません」と善次郎は声をかけた。「月に一度の掃除ですか」

「そうです」と作業員の一人が顔を上げた。「今日はちょうど第二水曜で。どうぞ、お気になさらず」

善次郎はお墓参りを済ませてから、ふと思い出した。

籠だ。

そういえば昔、おばあちゃんが言っていた。本堂の奥に、立派な籠があるはずだと。江戸時代に、どこかの武家の娘が嫁入りのときに乗ってきた籠で、後に宝光院に寄付されたのだと。子供の頃に一度だけ話を聞いたが、そのときは「ふーん」と聞き流してしまった。

今日は本堂が開いている。業者もいる。

善次郎は作業員に断りを入れ、本堂の奥へと進んだ。

奥の間は薄暗く、古い木の匂いがした。いくつかの什器や、古びた掛け軸、それから―――

あった。

隅に、布をかけられた大きな物体があった。善次郎はそっと布をめくった。

それは確かに、籠だった。

しかし、「籠」という言葉から善次郎が想像するような、質素な輿ではなかった。漆塗りの黒地に金の蒔絵が施され、四方に房飾りがついており、屋根の部分には鶴と松の細工が彫り込まれている。担ぎ棒は太く、重厚な造りで、当時の職人の技術と、依頼主の財力の両方が伝わってくるような代物だった。

善次郎はしばらく、それをじっと見つめた。

これに乗って、どこかの武家の娘が嫁いできた。江戸時代のどこかで、おそらく見知らぬ土地へ、この籠に揺られながら。どんな気持ちだったのだろう。緊張していたか。泣いていたか。それとも、案外けろっとしていたか。

なんだか急に、遠い昔の誰かがすぐそこにいるような気がして、善次郎は思わず手を合わせた。

孫が生まれました。男の子です。田中家は、これからも続きます。

境内に戻ると、春の風が桜をさわさわと揺らしていた。善次郎は背筋を伸ばして、空を見上げた。


夜、布団に入った善次郎は、意外なほど早く眠りに落ちた。

孫の顔を病院で見てきた後だった。しわくちゃで、赤くて、頭が少し尖っていて、それでも紛れもなく命だった。善次郎は三秒で泣いた。妻に「みっともない」と言われたが、泣くなというほうが無理だ。

そして夢を見た。

それは、ごく普通の夢の入り口から始まった。霧がかかったような、輪郭のぼんやりした空間。善次郎は自分が夢を見ていることを、なんとなく察していた。

そこへ、女が現れた。

年齢は四十前後だろうか。十二単を纏い、長い黒髪を後ろに流した、いかにも平安時代の女性という風情の人物だった。ただし顔つきは鋭く、目に強い光がある。物書きの目だ、と善次郎は根拠なく思った。

「主は」と女は言った。声は低く、よく通る。「藤原氏の御方にて候か」

善次郎は困惑した。いきなり何だ。

「いえ」と善次郎は答えた。「私は、まあ、普通の町民といいますか、サラリーマンといいますか」

「町民」と女は静かに繰り返した。「そうおっしゃいますか」

そして、微笑んだ。

その笑みが、なんとも不気味だった。知っている、とでも言いたげな、含みのある笑みだった。

「それは前世のことにて」と女は言った。「今生においては、立派な藤原氏でございましょう。それも……」

女は少し首を傾け、善次郎をじっと見た。

「藤原宣孝様で、いらっしゃいましょう」

善次郎には、その名前に心当たりがなかった。藤原宣孝。聞いたことはある気がするが、誰だったか。

考える間もなく、女はすっと善次郎の隣に寄り添ってきた。

「我が君」と女は言った。「お待ちしておりました」

善次郎は固まった。

これは、まずい。

直感的にそう思った。六十二年の人生経験が、全力で警報を鳴らしていた。この状況は、何か非常にまずい。

「あの」と善次郎は口を開いた。「失礼ですが、あなたは……」

「紫式部にございます」と女は言った。

善次郎の脳内で、中学の国語の授業が猛スピードで再生された。

紫式部。源氏物語の作者。平安時代の女流作家。藤原宣孝の妻。

藤原宣孝の、妻。

「あのですね」と善次郎は額に汗をかきながら言った。「私は、その、実は清少納言が……」

瞬間、紫式部の顔色が変わった。

「出て行けーーーッ!」

それは、千年の文学的品格を完全に投げ捨てた、純粋な怒声だった。


第二章 タイムマシンは籠だった

夢から覚めた善次郎は、天井を見つめながら五分間、微動だにしなかった。

紫式部に怒鳴られた余韻が、まだ耳の奥に残っている。「出て行けーーーッ」という、あの雄叫び。あれは文学史上、最も品のない叫び声だったのではないか。少なくとも善次郎の人生において、あれほどの勢いで怒鳴られたのは、三十年前に当時の上司・加藤部長に「お前の企画書は小学生以下だ!」と言われて以来のことだった。

しかし夢の続きも、なかなかのものだった。

紫式部に追い出された善次郎が、とぼとぼとその場を後にすると、なぜか次の瞬間には別の場所に立っていた。夢とはそういうものだ。場所の移動に理由はない。気がつけば、少し明るい、縁側のある部屋の前にいた。

そこに、もう一人の女がいた。

こちらも十二単を着ているが、雰囲気がまるで違う。表情が生き生きとしており、目がきらきらしており、なんというか、全体的に「面白いことが大好き」という気配が全身から滲み出ている。

「あらま」と女は言った。「我が君、どうなさいましたか?ずいぶんと青い顔をされて」

「いや、その」と善次郎は言った。「カクカクシカジカで」

「まあ」と女は言った。眉がぴくりと動いた。「紫式部が?」

「はい」

「あの女が我が君に向かって」

「出て行けと」

しばらくの沈黙があった。

それから女は、すうっと息を吸い込み、

「おのれ、紫式部ーーーッ!」

と叫んだ。

これが清少納言か、と善次郎は思った。枕草子の作者。平安随一の才女。そして紫式部とは犬猿の仲として名高い。

その後の展開は、善次郎の手に負えなかった。どこからともなく紫式部が現れ、清少納言と対峙した。二人は最初こそ古典的な言い回しで応酬していたが、五分と経たないうちに口調が崩れ始め、十分後には「あなたの文章は冗長よ」「あなたのは薄っぺらい」「源氏物語のあの場面は明らかに構成ミス」「枕草子の第何段は意味不明」という、完全に文学論争の様相を呈してきた。

善次郎には口を挟む余地がまったくなかった。

善次郎はそっと、その場を抜け出した。夢の中で逃げるというのも妙な話だが、とにかく善次郎はひたすら歩いて、気がつくと自宅の玄関前に立っていた。ほっとして扉を開けると、居間におばあちゃんが座っていた。

おばあちゃんは、十二年前に他界している。

しかし夢の中のおばあちゃんは、善次郎が覚えているとおりの顔で、にこにこと微笑んでいた。

「貴方は町民ではないわよ」とおばあちゃんは言った。「武家の血が入ってるの」

「えっ」

「ほら、昨日お寺で見たでしょ。善次郎の祖母は、あのお籠に乗って嫁いできたのよ」

「ああ、あれか!」

そこで目が覚めた。


病院から帰ってきた夕方、善次郎は思い立って、もう一度宝光院へ向かった。

特に理由はない。強いて言えば、もう一度あの籠を見たかった。朝の夢のせいで、なんとなく気になっていた。

住職に声をかけると、快く本堂の鍵を貸してくれた。

「善次郎さん、珍しいですね。昼に来て、また夕方に」と住職は言った。「あ、そういえばNISAの話なんですが、最近オルカンが――」

「また今度」と善次郎は素早く言い、本堂へと向かった。

薄暮の光の中、本堂の奥の間は昼よりもさらに暗かった。善次郎はスマートフォンのライトを使って、例の籠の前に立った。昼間と変わらず、黒漆に金の蒔絵。重厚な担ぎ棒。屋根の鶴と松。

善次郎はしゃがみ込み、籠の扉に手をかけた。引き戸式になっている。昼間は気づかなかった。少し力を入れると、思いのほかするりと開いた。

中は、人一人が膝を抱えて座れるほどの空間だった。善次郎はライトで照らし、座面の隅に小さな金属製のプレートを見つけた。そこにはこう書かれていた。

―――起動方法:内部に乗り込み、行先を明確に念じ、取っ手を三回叩くこと。

「なんだこれ」と善次郎は声に出した。江戸時代の籠に、そんな説明書きがあるはずがない。しかもフォントが、なんとなく現代的だ。

善次郎は首を傾げ、もう少しプレートを調べようとして、その拍子に手が滑り、体ごと籠の中に入ってしまった。そのまま、取っ手に手をついた。

三回、こつこつこつ、と音がした。

そのとき善次郎が念じていたのは「痛い、手が痛い、明日は筋肉痛かな」であったが、その直前の一秒間だけ、なぜか「あの夢の場所、平安京ってどんなところだろう」と考えていた。

籠が、光った。


善次郎が声を出す間もなかった。

光は一瞬で全身を包み、次の瞬間、轟音がした。地面が揺れた。いや、地面ではなく空間そのものが揺れている。善次郎は籠の中で膝を抱え、目をぎゅっとつぶった。

それから、しん、と静かになった。

善次郎はそっと目を開けた。籠の引き戸の隙間から、見知らぬ景色が広がっていた。舗装されていない、土の道。道の両側に、木造の建物が並んでいる。どこからか牛の鳴き声がする。

善次郎は引き戸をそっと開け、外に出た。空気が違う。においが違う。土と木と、それから何か焚いているような煙のにおい。空は夕焼けで、茜色に染まっている。その色の深さが、どこか現代とは違う気がした。

そのとき、背後から声がした。

「目的地は平安京、西暦一〇〇〇年前後。現在位置は京の都、大内裏付近。乗客の到着を確認しました」

善次郎は振り返った。籠が喋っていた。正確には、籠の内側のプレートから、音声が出ていた。声は低く、やや事務的で、そして何故か微妙に感じが悪かった。

「な」と善次郎は言った。「なんだお前は」

「当籠のAIナビゲーションシステムです」と籠は言った。「名称は特にありません。江戸時代に製造、その後各所を転々とし、宝光院に寄贈されました。長らく起動しておりませんでしたが、本日、条件が揃ったため自動起動しました」

「条件?」

「乗客が藤原宣孝の転生者であること。並びに行先を念じた状態で取っ手を三回叩くこと。両条件が本日初めて同時に成立しました」

「ちょっと待ってくれ」と善次郎は言った。「藤原宣孝って、紫式部の旦那の?」

「そうです」

「私が転生者?」

「遺伝子パターン及び魂の固有振動数から判定しています。精度は九十七パーセントです」

「残り三パーセントは?」

「別人の可能性です」

「三パーセントはかなりでかいぞ」

「誤差の範囲です」と籠は涼しく言った。「ほぼ間違いなく藤原宣孝です」

善次郎は額に手を当てた。六十二年の人生で、これほど意味のわからない状況に置かれたことはなかった。

「帰れるのか」と善次郎は聞いた。とにかく、まずそこだ。

「帰れます」と籠は言った。「ただし」

「ただし?」

「この時代に来た目的を果たさないと、帰還機能がロックされます」

「目的? 私は目的なんか持ってないぞ。うっかり入ってしまっただけだ」

「システム上は『平安京での未解決の縁を清算すること』と登録されています」

「誰が登録した」

「製造元です」

「製造元はどこだ」

「企業秘密です」

善次郎は深呼吸をした。落ち着け。落ち着くんだ善次郎。孫が生まれた翌日に平安時代にタイムスリップしてしまったが、落ち着くんだ。

そのとき、通りの向こうから牛車が来るのが見えた。善次郎は慌てて道の端に寄った。牛車はゆっくりと近づいてきた。御簾が下ろされており、中に誰かが乗っているようだ。

牛車が通り過ぎた瞬間、御簾がわずかに開いた。中から、鋭い目が善次郎を見た。

善次郎は固まった。見覚えのある目だった。正確には、昨晩の夢で見た目だった。

牛車が止まった。御簾が上がった。

「そこの御方」と声がした。「もしや……藤原宣孝様にておわすか?」

善次郎は逃げようとした。しかし足がすくんで動かなかった。

「やはり!」

牛車から降りてきた女は、昨晩の夢の中とまったく同じ顔をしていた。十二単。長い黒髪。物書きの鋭い目。

紫式部が、そこにいた。しかも今度は、夢ではなかった。


第三章 紫式部の罠

善次郎の人生において、「逃げる」という選択肢は常に最後の手段だった。

営業部長時代、取引先が無理難題を押しつけてきても、逃げなかった。妻の幸子が「リビングのソファを新しくしたい」と言い出したとき、値段を聞いて逃げたくなったが、逃げなかった。娘の結婚相手の挨拶で、相手の父親がやたらと威圧的な人物だったときも、逃げなかった。

しかし今、善次郎は全力で逃げたかった。なぜなら、目の前に紫式部がいたからだ。しかも現実の、本物の、生身の紫式部が。夢の中ならまだよかった。目が覚めれば終わる。だが今は違う。

「藤原宣孝様」と紫式部は言った。「お久しゅうございます」

声が低い。静かだが、有無を言わさぬ圧がある。

「あ、あの」と善次郎は言った。「人違いではないでしょうか」

「いいえ」と紫式部は即座に言った。「間違いございません」

「私は田中善次郎と申しまして、令和時代の――」

「さあ、参りましょう」と紫式部は言った。善次郎の言葉を完全に無視した。「屋敷へご案内いたします。長旅でお疲れでございましょう」

紫式部は善次郎の袖をつかんだ。その握力が、尋常ではなかった。細腕のどこにこれほどの力があるのか。善次郎は抵抗を試みたが、まったく動けなかった。これが千年の恨みというものか。いや恨みではなく愛情なのかもしれないが、どちらにしても怖い。

善次郎は引きずられるようにして、牛車の方へ連れて行かれた。


紫式部の屋敷は、こぢんまりとしているが、品のある造りだった。庭には梅の木があり、縁側から見ると、夕暮れの空を背景にその枝がくっきりと浮かび上がっていた。なるほど、こういう景色の中で源氏物語を書いたのか、と善次郎は場違いにも感心した。

屋敷の中に通された善次郎は、畳に座らされ、女房たちに囲まれた。全員が一様に善次郎を興味深げに眺めており、その視線が少々居心地悪かった。

「宣孝様のお着物が」と女房の一人が言った。「随分と変わった意匠にございますね」

善次郎はユニクロのフリースと、ジーパンを着ていた。平安時代では確かに奇異に映るだろう。

「これは、遠い国の衣装で」と善次郎はごまかした。「中国の、その、唐の向こうのさらに向こうの国の」

「まあ」と女房たちはどよめいた。「異国の方でございましたか」

「宣孝様は昔から変わったものがお好きでしたから」と紫式部が言った。静かに、しかし確信を持って。「少しも驚きません」

紫式部は善次郎の正面に座り、じっとこちらを見ている。その目の中に、様々な感情が混在しているのが見えた。喜びと、安堵と、それからどこかに怒りのようなものも。

「あの」と善次郎は慎重に言葉を選びながら言った。「紫式部殿、私はその、本当に宣孝様ではなくて――」

「魂は同じでございます」と紫式部は言った。「姿は変われど、魂の色は変わりません。私にはわかります」

「魂の色?」

「私は長年、人の心を書いてまいりました。源氏物語は、人の魂を見つめ続けた物語にございます。その私が見間違えるはずがない」

これは困った、と善次郎は思った。相手の論理が、なまじ筋が通っているだけに反論しにくい。

「では、仮に」と善次郎は迂回することにした。「仮に私が宣孝様だとして、ご用件は何でしょうか」

紫式部の表情が、わずかに変わった。

「用件」と紫式部は繰り返した。「千年待ちましたのに、用件とおっしゃいますか」

「いや、その言い方は語弊が――」

「よろしゅうございます」と紫式部は言った。すっと背筋を伸ばし、表情を整えた。「申し上げます。宣孝様が身罷られてから、私は源氏物語を書き続けました。あなた様への想いを、すべてあの物語に込めました。光源氏は、あなた様です。いくつかの欠点も含めて」

「その物語を」と紫式部は続けた。「あなた様にお読みいただきたいのです。千年越しに」

善次郎は瞬きをした。「源氏物語を、私に?」

「全五十四帖」と紫式部は言った。にっこりと微笑みながら。

善次郎の背中に、冷たいものが走った。全五十四帖。現代語訳でも数千ページある大作だ。原文で読んだら、何ヶ月かかるかわからない。

「お時間でしたら、たっぷりございますよ」と紫式部は言った。笑顔が、全く崩れなかった。

善次郎は悟った。これは罠だ。平安時代の罠だ。千年の歳月をかけて、ゆっくりと仕掛けられた、文学的な罠だ。


その夜、善次郎は屋敷の一室に通された。寝床の用意がされており、女房たちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。善次郎は丁寧に礼を言いながら、内心では脱出のことを考えていた。

布団に入り、天井を見上げる。現代の天井と違い、木組みがそのまま見えている。

まったく、なんてことになってしまったのだ。孫が生まれた翌日に、平安時代にタイムスリップして、紫式部に捕まって、源氏物語を五十四帖読まされそうになっている。これを誰かに話しても、絶対に信じてもらえない。

そのとき、縁側の向こうで物音がした。善次郎は身を起こした。縁側の障子が、ほんの少し開いた。

外が暗いため、最初は何も見えなかった。しかしやがて、月明かりの中に、人の影が見えた。女の影だった。

「……田中の御方にておわしますか」と影は言った。声を潜めた、ひそひそ声だった。

「そうだが」と善次郎も声を潜めて答えた。

「清少納言にございます」と影は言った。「少々、よろしゅうございますか」

善次郎は飛び起きた。思わず「おおっ」と声が出そうになり、慌てて口を押さえた。

清少納言。夢で会った、もう一人の才女。枕草子の作者。そして紫式部のライバル。

「どうしてここに」と善次郎は小声で聞いた。

「紫式部の屋敷の周辺に、知人がおりまして」と清少納言は言った。「見慣れぬ御方が連れ込まれたと聞いて、参りました。もしやと思って」

「とにかく」と清少納言は続けた。「あなた様は、紫式部に捕まっておいでですか」

「捕まっている、というか、一応客として――」

「源氏物語を読まされそうになっておいでですか」

「なんでわかるんだ」

「あの女のやることはわかります」と清少納言はきっぱりと言った。「本当に五十四帖読まされますから」

「やっぱりそうなのか」

「私が助けて差し上げましょう」と清少納言は言った。

「お願いします」と善次郎は言った。

「では、夜明け前に」と清少納言は言った。「支度をしておいてください。籠はこちらで用意します」

「籠は私のものがあって――」

「わかっています」と清少納言は言った。「街道に置いてある、変わった籠でしょう。もう確保してあります」

「え、もう?」

「手回しは良い方にございます」と清少納言はさらりと言った。そして障子をそっと閉めた。

善次郎は布団の中に戻り、また天井を見上げた。しかしとにかく、夜明け前に脱出するしかない。

善次郎は目を閉じた。眠れるわけがないと思ったが、意外と三分で眠った。六十二年の人生で培った、どんな状況でも眠れる体質は、こういうときに発揮される。


夜明け前、善次郎は目を覚ました。

善次郎はそっと起き上がり、縁側へと向かった。障子を開けると、外はまだ薄暗く、空の東の端がわずかに白み始めていた。

庭に、清少納言の影があった。そしてその隣に、あの黒漆の籠が置かれていた。

「お早い」と清少納言はひそひそ声で言った。

二人は音を立てないよう、庭を横切った。

屋敷の門に近づいたとき、

「どちらへ参られますか」

という声がした。低く、静かで、しかし空気を切り裂くような声だった。

善次郎と清少納言は、同時に固まった。

振り返ると、屋敷の縁側に、紫式部が立っていた。夜着のままで、髪を下ろし、手に蝋燭を持っている。その蝋燭の炎が、風もないのに揺れていた。

紫式部の目が、ゆっくりと清少納言へ向いた。

「……少納言」と紫式部は言った。「あなたでしたか」

「あら式部」と清少納言は、声を潜めるのをやめて言った。「おはようございます」

「おはよう、ではございません」

「では何と申し上げればよろしいですか」

「なぜここにいるのですか」

「散歩にございます」

「嘘をおっしゃい」

「では正直に」と清少納言は言った。「この御方を助けに参りました。あなたが源氏物語を五十四帖読ませようとしているから」

紫式部の眉が、ぴくりと動いた。「それの何が悪いのですか。名作ですよ」

「名作かどうかは置いておいて」

「置いておかないでください」

「この御方には、帰る場所がおありです」と清少納言は言った。「千年後の世界に、生まれたばかりのお孫さんがいらっしゃるのです」

紫式部の目が、善次郎に向いた。「孫?」

「はい」と善次郎は言った。「昨日、孫が生まれました。男の子で」

紫式部はしばらく、何も言わなかった。蝋燭の炎だけが、静かに揺れていた。

「…………そうですか」とやっと言った。「孫が。それは、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「……源氏物語は」と紫式部はぽつりと言った。「千年後の世界でも、読まれておりますか」

「読まれています」と善次郎は言った。「学校の授業でも習いますし、現代語訳もたくさん出ています。映画にもなりました」

「映画?」

「えーと、絵巻物の、動く版です」

紫式部は目を細めた。「千年、読まれ続けているのですね」

「はい」

紫式部は少しの間、夜明けの空を見上げた。それから、すっと善次郎に視線を戻した。

「では」と紫式部は言った。「お帰りなさいませ。孫御のそばに、おいでなさいませ」

「よ、よろしいのですか」

「よろしゅうございます」と紫式部は言った。ただし、そこで目が清少納言に向いた。「ただし、あなたは関係ないでしょう、少納言」

「え、私ですか」

「あなたは何しに来たのです」

「ですから散歩に――」

「嘘をおっしゃい」

清少納言と紫式部の間に、再び火花が散り始めた。善次郎はその隙に、籠へと向かった。

「おかえりなさいませ」と籠が言った。「ずいぶんと早かったですね」

「早いほうがいい」と善次郎は言った。「帰れるか?」

「目的の達成状況を確認します……七十三パーセントです」

「七十三? 百じゃないのか」

「残り二十七パーセント、未達成の縁がございます」

「とりあえず帰れるか」

「七十三パーセントでも帰還は可能です。ただし残り二十七パーセントは、宿題として持ち越されます。後日、何らかの形で清算されます」

「曖昧すぎるぞ」

「仕様です」と籠は言った。「では帰還します。取っ手をお持ちください」

外では、まだ清少納言と紫式部が言い合っている声がした。

「あなたの枕草子は日記ではありませんか」

「源氏物語は長すぎます」

「長さは豊かさです」

「冗長さとも言います」

籠が光った。二人の声が、遠ざかっていった。轟音。空間が揺れる。善次郎はぎゅっと目をつぶった。

次に目を開けたとき、薄暗い木の香りのする部屋にいた。宝光院の、本堂の奥の間だった。

善次郎は籠から這い出した。膝が少し痛かった。外に出ると、境内には誰もいなかった。空は白み始めており、鳥の声が聞こえた。

善次郎は手を合わせ、空を見上げた。令和の空は、平安の空と同じ色をしていた。


第四章 宿題の正体

家に帰った善次郎は、シャワーを浴び、朝食を食べ、妻の幸子に「どこ行ってたの、こんな早くから」と言われた。

「ちょっと散歩に」と善次郎は答えた。

「また寺?」

「まあ、その辺を」

幸子はそれ以上追及しなかった。長年の結婚生活で培った、夫の不審な行動を深掘りしないという、夫婦円満の知恵である。

善次郎は新聞を広げながら、コーヒーを飲んだ。

平安時代から帰ってきた翌朝の、いつもと変わらない朝の光景だった。

しかし善次郎の頭の中では、籠のAIが言った言葉が、ぐるぐると回っていた。

――残り二十七パーセントは、宿題として持ち越されます。

いったい何が未解決なのか。紫式部には一応許してもらった。清少納言とも一応話した。おばあちゃんの夢のメッセージも受け取った。あとは何が残っているというのか。

そのとき、スマートフォンが鳴った。

「もしもし」

「お父さん? 孫の名前、決まったよ」

娘の声だった。

「なんていう名前にしたんだ」

「源くん」

善次郎は、コーヒーカップを落としそうになった。

「……源?」

「うん。旦那が源氏物語が好きでね。画数もいいし、響きもいいし、って」

善次郎はしばらく黙った。

源。

源氏物語の、源。

光源氏の、源。

紫式部が、千年かけて仕掛けた罠の、最後のひとつがここにあった。

「お父さん? どうしたの」

「いや、いい名前だと思って」と善次郎は言った。「とても、いい名前だ」

電話を切った後、善次郎はしばらくソファに座ったまま、動かなかった。

孫の名前が、源くんか。

ふっ、と笑いが漏れた。

やられた、と善次郎は思った。完全に、千年越しに、やられた。紫式部め。


その日の午後、善次郎は再び宝光院へ向かった。

本堂に入り、奥の間へ。あの籠の前に立った。

「おい」と善次郎は声をかけた。

籠は、しばらく黙っていた。

「……聞こえておりますか」と、ようやく籠が言った。

「聞こえてるか、じゃない。宿題の二十七パーセントは何だ」

「解決されました」と籠は言った。

「え?」

「本日、乗客のお孫様の命名が完了しました。名前に『源』の字が含まれることを確認。これをもって、藤原宣孝様と紫式部様の未解決の縁、正式に清算されました。達成率、百パーセント」

善次郎は目を丸くした。

「孫の名前が、宿題だったのか」

「そのように設定されておりました」

「誰が設定した」

「企業秘密です」

「お前は本当に企業秘密が好きだな」

「仕様です」

善次郎はため息をついた。そして、小さく笑った。

「紫式部め」と善次郎は言った。「したたかな女だ」

籠は何も言わなかった。

善次郎は手を合わせ、籠に向かって言った。

「ありがとう。世話になった」

「こちらこそ」と籠は言った。「千年ぶりの起動でしたが、無事に任務を完了できました」

「これからどうするんだ、お前は」

「ここにおります」と籠は言った。「宝光院の奥の間に。誰かがまた、うっかり乗り込んでくるまで」

「うっかり、は余計だ」

「失礼しました。乗客が現れるまで」

善次郎は立ち上がり、布をかけ直した。黒漆に金の蒔絵。屋根の鶴と松。

立派な籠だ、と善次郎は改めて思った。

江戸時代に製造され、平安時代と令和をつなぎ、孫の誕生に立ち会った、とんでもない籠だ。


第五章 清少納言からの手紙

それから三日後、善次郎の枕元に、一通の手紙が置かれていた。

封筒ではない。巻物だ。細い紐で結ばれた、薄い紙の巻物。

善次郎は目を疑った。昨晩、確かに枕元には何もなかった。幸子が置いたわけでもないだろう。巻物なんてものを幸子は持っていない。

恐る恐る紐を解いて広げると、流麗な筆で、平仮名が連なっていた。

読める。なぜか読める。平安時代の仮名文字なのに、善次郎には意味が理解できた。

そこにはこう書かれていた。

「我が君へ。このたびは大変なご迷惑をおかけいたしました。式部のことは御容赦ください。あれでなかなか寂しがり屋にございますから。孫御の名前、聞き及びました。源くん、よい名にございます。春はあけぼの、とはよく申しますが、命の誕生もまた、あけぼのの清々しさにございますね。どうかお元気で。 清少納言より」

善次郎は巻物を読み終えて、しばらくそのまま座っていた。

春はあけぼの。

枕草子の、冒頭の言葉だ。

清少納言は、孫の誕生を、あけぼのに例えてくれた。

善次郎は静かに、その巻物を折り畳んだ。捨てるのは惜しかった。桐の箱にでも入れて、大事にしまっておこうと思った。

そしてふと思った。もしかして紫式部からも、何か来るのではないか。

しかし紫式部からは、何も来なかった。

一週間待っても、二週間待っても。

来ないのか、と善次郎がやや拍子抜けした頃、娘から電話があった。

「お父さん、源くんね、昨日初めてちゃんと笑ったよ」

「そうか」と善次郎は言った。

「可愛かったよ。目がね、きらきらしてて」

善次郎はその夜、夢を見た。

霧の中に、紫式部が立っていた。

今回は怒っていなかった。ただ静かに立って、こちらを見ていた。

「源くんは」と紫式部は言った。「きっと、ものを書く子になりますよ」

それだけ言って、紫式部は消えた。

善次郎は翌朝目が覚めてから、その夢のことを誰にも話さなかった。

ただ心の中で思った。なるほど、それが紫式部からのメッセージか、と。

手紙よりも、夢の中で告げる方が、いかにも紫式部らしい。


第六章 住職とNISAと平安時代

それからしばらく、善次郎の生活は平穏だった。

孫の源くんは順調に育っており、善次郎は週に一度は病院へ、やがて退院してからは娘の家へと顔を出した。源くんは日を追うごとに表情が豊かになり、善次郎を見ると笑うようになった。もっとも、この時期の赤ちゃんは誰を見ても笑うのだが、善次郎には源くんが特別に自分を認識して笑っているように思えた。祖父というのは、こういう錯覚を当然のように信じる生き物だ。

一方、宝光院の住職は、相変わらず株の話をしてきた。

ある日、善次郎が墓参りに来ると、住職は境内で待ち構えていたかのように現れ、「善次郎さん、オルカンの積立を増やすべきか悩んでいるんですが」と言い出した。

「住職」と善次郎は言った。「少し話があるんですが」

「NISAの話ですか」

「違います」

住職は少し残念そうな顔をしたが、本堂に上げてくれた。お茶を出しながら、「何でしょう」と聞いた。

「奥の間の籠のことなんですが」と善次郎は言った。「あれは、普段から鍵をかけておいた方がいいと思います」

「はあ」と住職は言った。「なぜですか」

善次郎は少し考えてから、言った。

「うっかり乗ってしまうと、困ったことになるかもしれないので」

住職はしばらく善次郎を見た。それから、「善次郎さん、乗ってしまいましたか」と言った。

「え」

「あの籠に」

善次郎は驚いた。「知ってるんですか」

「先代の住職から聞いています」と住職は言った。お茶をひとくち飲んで、続けた。「あれは普通の籠ではないと。たまに、乗り込んだ人間が一晩消えることがあると」

「一晩消える……」

「先代の話では、五十年ほど前にも一人。檀家の老婆が、朝早く本堂に入って、気がついたら翌朝になっていたと。本人は一晩平安時代にいたと主張したそうですが、先代は認知症が始まったのだと思っていたようで」

善次郎は、その老婆のことを思った。五十年前に、一人で平安時代に行ってしまったのか。それは大変だっただろう。

「鍵は、かけておきます」と住職は言った。「ただ、あの籠が選んだ人間には、鍵など関係ないようですが」

「どういうことですか」

「先代も鍵をかけていたんです。それでも老婆は入っていたので」

善次郎はなるほど、と思った。あの籠は、乗せたい人間を乗せるのだ。企業秘密の塊のような代物だ。

「ところで」と住職は言った。目がきらりと光った。「善次郎さん、向こうで何か聞きましたか。平安時代の、経済事情とか」

「聞いてません」

「貨幣の流通とか」

「聞いてません」

「藤原氏の財政基盤とか」

「それをNISAの何に役立てるつもりですか」

住職はにこにこしたまま、「研究です」と言った。

善次郎はお茶を飲み干し、立ち上がった。


第七章 美女大戦争、決着

夏になった。

源くんは寝返りを打てるようになり、善次郎は大喜びした。たかが寝返りだが、初孫の初寝返りというのは、それはもう一大事である。善次郎はスマートフォンで十二枚写真を撮り、妻と娘にそれぞれ送り、その後しばらく一人でにやにやしていた。

そんな夏のある夜、善次郎はまた夢を見た。

今度は二人、同時に現れた。

紫式部と清少納言が、向かい合って座っていた。

場所は、どこかの広い庭だった。縁側があり、池があり、月が水面に映っている。なんとも風雅な場所だが、その場の空気は風雅とはほど遠かった。

二人の間に、相当の緊張感が漂っていた。

善次郎は夢の中で、ああまたか、と思った。

「あなたは」と紫式部が言った。「この方に余計なことを吹き込んだでしょう」

「余計なこととは」と清少納言が言った。「私はただ、真実を申し上げただけです」

「源氏物語を五十四帖読むのが拷問だと、吹き込んだでしょう」

「拷問とは申しておりません。長すぎると申したまでです」

「長さは豊かさです!」

「冗長さです!」

善次郎は、二人の間に割って入った。

「ちょっと待ってください」

二人が同時に善次郎を見た。

「あなた方、千年間ずっとこんな調子で言い争っているんですか」

紫式部と清少納言は、同時に黙った。

「千年ですよ。千年、同じことで言い争って、疲れませんか」

「疲れません」と二人は同時に言った。

声が揃ったことに、二人は互いに驚いたらしく、少しの間お互いを見た。それからほぼ同時に、視線をそらした。

善次郎は、その様子を見て、なんとなく分かった気がした。

この二人は、仲が悪いのではなく、ただただ、お互いを強く意識しているのだ。千年間、意識し続けている。それは、ある意味で、とても深い関係だ。

「紫式部殿」と善次郎は言った。「源氏物語は、本当に素晴らしい作品です。千年後の世界でも、多くの人が読み、感動しています。それはあなたが、真剣に書いたからです」

紫式部は、少し目を伏せた。

「清少納言殿」と善次郎は続けた。「枕草子も、同じです。春はあけぼの、という言葉は、千年後の子供たちも学校で覚えます。あなたの言葉が、千年を生きています」

清少納言は、少し顔を赤らめた。

「お二人とも」と善次郎は言った。「同じ時代に生きて、同じように言葉を愛して、それがどちらも千年残った。それは、奇跡のようなことではないですか」

しばらく、沈黙があった。

それから紫式部が、ゆっくりと口を開いた。

「……枕草子の、第一段は」と紫式部は言った。「嫌いではありません」

清少納言は目を丸くした。

「そ、そうですか」と清少納言は言った。「源氏物語の、桐壺の巻は……悪くないと思います」

紫式部も、少し目を丸くした。

二人はしばらく、お互いを見た。

それから、二人同時に、ふいっとそっぽを向いた。

善次郎は思わず笑った。

これが、千年の決着か。

大した決着だ、と善次郎は思った。これだから文学者というのは、可愛いらしい。


第八章 藤原宣孝の記憶

秋になった。

源くんはお座りができるようになり、善次郎はまた大喜びした。

ある日の夕方、善次郎は一人で縁側に座り、庭を眺めていた。妻は買い物に出かけており、家の中は静かだった。

風が吹いて、庭の柿の木が揺れた。

そのとき、善次郎の中で、何かがふわりと浮かんだ。

記憶、というほど確かなものではない。感覚、というほど薄いものでもない。それはちょうど、夢と現実の間にあるような、曖昧なものだった。

牛車に乗っている。京の都の道を、ゆっくりと揺られながら。

御簾の向こうに、秋の景色が流れていく。黄色く色づいた木々。空の青さ。

向かう先には、小さな屋敷がある。そこに、一人の女が住んでいる。

物を書く女だ。夜中でも灯をともして、何かを書いている。あの女の書くものは、いつも本当のことを書いている。

自分は、あの女のことが、好きだった。

善次郎は、ぱちっと目を開けた。

庭の柿の木が、夕風に揺れていた。

善次郎はしばらく、その揺れを見つめた。

藤原宣孝は、紫式部のことを、好きだったのだ。善次郎の中に残った、かすかな残像がそう言っていた。

当たり前と言えば当たり前だ。夫婦なのだから。しかしその「好き」は、もっと純粋なものだった。物を書く彼女を、書き続ける彼女を、ただそのままに、好きだった。

善次郎は、妻の幸子のことを思った。

三十五年間、一緒にいる。喧嘩もした。すれ違いもあった。それでも、こうして一緒にいる。

幸子は、善次郎が平安時代に行ったことを知らない。知ったとしても、信じないだろう。

だがそれでいい、と善次郎は思った。

大事なことは、隣にいることだ。藤原宣孝が紫式部の隣にいたように。

善次郎は立ち上がり、台所へ向かった。買い物から帰ってきた幸子が、夕飯の支度を始めていた。

「何か手伝おうか」と善次郎は言った。

幸子は少し驚いた顔をした。善次郎が自ら台所に入ることは、めったにない。

「じゃあ、大根おろして」と幸子は言った。

「わかった」と善次郎は言った。

大根をおろしながら、善次郎は思った。これでいい。これが、千年後の、藤原宣孝の姿だ。


第九章 武家の籠の秘密

冬になった。源くんははいはいを始め、善次郎は大喜びした。この調子でいくと、善次郎は源くんの一挙一動ごとに大喜びし続け、やがて立ったときには失神するかもしれない。

ある日、善次郎は宝光院で、住職と向き合っていた。

「実は」と住職は言った。「あの籠についての、古い文書が見つかりまして」

「古い文書?」

「先代の住職が書き残したものです。あの籠が寄贈された経緯について」

住職は一枚の紙を取り出した。コピーらしく、原文はかなり古いもののようだったが、文字は読めた。

そこには、こう書かれていた。

――明治二十三年、旧武家・田中家の末裔より、先祖伝来の乗籠一基を寄贈受く。田中家の話によれば、この籠はもと江戸初期に上方の某家より嫁入りの際に持参したるものにて、代々大切に保管してきたるものなりという。田中家の婦人いわく、この籠には不思議な力があり、乗りし者を望む場所へ連れて行くとの言い伝えあり。真偽のほどは不明なれど、確かに由緒正しき作りの籠にて、当院にて謹んで保管するものなり――

善次郎はその文書を読み終えて、ふうっと息を吐いた。

「田中家の婦人、か」

「善次郎さんのご先祖様ですね」と住職は言った。

「明治二十三年というと、今から百三十年以上前だ。その前の、江戸初期となると……」

「三、四百年前になりますね」

三、四百年前。

平安時代より後、江戸時代の初期に、どこかの武家の娘がこの籠に乗って嫁いできた。その娘が、田中家の先祖だ。

そして籠は代々大切にされ、明治になって寺に寄贈された。

「あの籠が田中家を選んだのか」と善次郎は言った。「それとも、田中家があの籠を選んだのか」

「どちらでしょうね」と住職は言った。「ただ」

「ただ?」

「明治の田中家の婦人が言い残したことが、もう一つあります」と住職は言った。文書の裏側を見せた。「こちらに」

そこには、別の筆跡で、こう書かれていた。

――この籠は、縁のある者の元へ、縁のある時に、縁のある場所から現れる。されど心配なかれ。この籠に選ばれた者は、必ず帰ってくる。なぜならこの籠は、人を迷子にするためではなく、人を帰すために動くのだから――

善次郎は、その言葉をゆっくりと読んだ。

人を帰すために動く。

善次郎は平安時代から、確かに帰ってきた。

おばあちゃんは夢の中で言っていた。武家の血よ、と。その武家とは、あの籠と一緒に嫁いできた、江戸時代の娘の家系だったのかもしれない。

そして籠は、その子孫の善次郎を選んだ。孫が生まれた日に。

「住職」と善次郎は言った。「この籠を、これからも大切に保管してもらえますか」

「もちろんです」と住職は言った。「ただ」

「ただ?」

「善次郎さんのお孫さんが大きくなった頃、また呼ばれるかもしれませんよ。あの籠に」

善次郎は笑った。

「源くんが行くとしたら、どこへ行くんでしょうね」

「さあ」と住職は言った。「でも、帰ってきますよ。必ず」

二人は本堂から出て、冬の境内を歩いた。枯れた木々の向こうに、冬の空が広がっていた。

「ところで」と住職は言った。「善次郎さん、NISAの話なんですが――」

「帰ります」と善次郎は言った。


第十章 背筋を伸ばして

春が来た。

源くんは一歳になった。

誕生日のパーティは、娘の家で行われた。善次郎と幸子、娘夫婦、そして源くん。小さな、しかし賑やかな集まりだった。

源くんはケーキを前にして、目を丸くした。それから手でぐしゃぐしゃにした。全員が笑った。幸子はスマートフォンで動画を撮り、善次郎は写真を撮り、娘は泣き、婿は照れ笑いをした。

一歳か、と善次郎は思った。

一年前の春、孫が生まれた日に、善次郎はあの籠に乗って平安時代に行った。紫式部に捕まり、清少納言に助けられ、二人の言い争いを仲裁し、籠のAIに振り回され、宿題を持ち越して、なんとか帰ってきた。

そして源くんが生まれた。

その源くんが、今、ケーキを手でぐしゃぐしゃにしている。

善次郎は笑いながら、なんだかじんとした。


パーティが終わり、源くんが眠りについた後、善次郎は縁側に出た。婿が「善次郎さん、一杯どうですか」と言って、ビールを持ってきてくれた。

二人で、春の夜空を見上げた。

「源っていう名前」と善次郎は言った。「決めるのに悩みましたか」

「実は最初から決めてたんです」と婿は言った。「源氏物語が好きで。光源氏みたいに、明るく生きてほしいと思って」

善次郎はビールを一口飲んだ。

「いい名前だと思います」と善次郎は言った。「本当に、いい名前だ」

婿は少し照れた顔をして、「ありがとうございます」と言った。

善次郎は夜空を見上げた。星が、思ったよりも多く出ていた。

千年前の空も、こんな星空だったのだろうか。紫式部は、こんな星空の下で、源氏物語を書いていたのだろうか。清少納言は、こんな星を見て、枕草子に何かを書き留めたのだろうか。

そしておばあちゃんは、こんな夜に、籠の話をしてくれた。

善次郎は、遠い記憶の中のおばあちゃんを思った。にこにこした顔。柔らかい声。「武家の血よ」という言葉。

ありがとう、おばあちゃん、と善次郎は心の中で言った。あの話を聞いていて、良かった。


翌日、善次郎は一人で宝光院へ行った。

墓前に手を合わせ、源くんの一歳の誕生日を報告した。元気に育っています。ケーキをぐしゃぐしゃにしました。名前は源くんです。

それから本堂へ入り、奥の間へ。

籠の前に立ち、布をめくった。

黒漆に金の蒔絵。担ぎ棒。屋根の鶴と松。

変わらぬ姿で、籠はそこにあった。

「元気か」と善次郎は声をかけた。

籠は何も言わなかった。もう起動する必要がないから、黙っているのかもしれない。それとも、単純に充電が切れているのかもしれない。

「源くんが一歳になったぞ」と善次郎は言った。「元気だ。ケーキをぐしゃぐしゃにした」

籠は何も言わなかった。

「また頼むかもしれない。二十年後くらいに、源くんが大きくなった頃に」

籠は何も言わなかった。

「そのときはよろしく頼む。ちゃんと帰してやってくれ」

善次郎は、そっと布をかけ直した。

それから、手を合わせた。


境内に出ると、春の風が吹いていた。

桜が咲いていた。一年前、孫が生まれた日と同じように、空は馬鹿みたいに青く、桜は馬鹿みたいに咲いていた。

善次郎はしばらく、その桜を見上げた。

六十三歳になった。元営業部長、現・完全なる無職。祖父。タイムスリップ経験者。藤原宣孝の転生者(推定九十七パーセント)。

肩書きが、だいぶ増えた。

善次郎は、ふっと笑った。

それから、背筋をすっと伸ばした。

千年の縁がある。先祖の血が流れている。孫が育っている。

こりゃあ、もっともっと頑張らねばならない。

善次郎は山門をくぐり、春の日差しの中へ歩き出した。

背後で、かすかな音がした気がした。

こつ、こつ、こつ。

三回。

善次郎は振り返らなかった。ただ、少し口元が緩んだ。

春の空の下、田中善次郎は、家へと向かって歩いていった。





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あとがき

この物語は、ある春の日に孫が生まれ、先祖の籠を発見した、一人の男の実話(の夢)を元にしています。

紫式部と清少納言は、千年経っても仲が悪いようです。ただしお互いを、深く意識していることは確かです。それもまた、一種の絆というものでしょう。

源くんが大きくなって、もし宝光院の奥の間で黒い籠を見つけたとしても、くれぐれも中に入らないようにしてください。取っ手は、絶対に三回叩かないように。

もっとも、あの籠のことですから、乗せたい者は問答無用で乗せるのでしょうが。

春はあけぼの。命の誕生もまた、あけぼのの清々しさ。

孫よ、健やかに育て。


肺に入ったニコチンは
7秒で脳に達し

脳に達したそれは
自律神経を刺激し

血管を収縮させ
皮膚温度を下げる

タ~ルには
60種類もの発ガン物質が含まれ

1本吸うと
1日に採取すべきビタミンCが
すべて破壊される

無論
その煙は
自分だけではなく
周囲の人々にも悪影響を及ぼす

喫煙者たちは
その
おおよそのことはわかっている

だから
吸い過ぎに注意をし
周囲にも気遣いをする

しかしながら
禁煙までは
なかなか至れない と とある雑誌に書いてあった。。。




ガキの頃
水曜ロ~ドショ~で
スティ~ブマックイ~ンが
なんとも
かっこよく煙草の煙を燻らせた

大人になったら
あんな風に煙草を吸ってやろ~ なんて
なんとなく思ったガキがそこにいた

しかし
それは大人になる前に訪れた

学生服のボンタンに隠れた
靴下の内側に
ショッポの箱がひとつ

中ランは
点検されたけれど
まさか靴下だとは?
先コウたちも な。。。

結局
バレることなく
停学すらもならず

無事に高校は卒業出来た


煙草をやめたのは 21の時
アメリカで
キリスト教徒の家にステイして

煙草はもちろん
コ~ヒ~も
紅茶も
コ~ラも
マリファナ? も
婚前交渉 さえも NO!!な世界で

学校から帰ると
机の上に
大きな灰皿が置いてあって

あっちゃ~~~!! って

当時
急激に禁煙運動が盛んになった時期で
おまけに
あの国で生きるつもりだったから
こりゃ~ 今やめねば!! って思った

大変だった
マジで 苦労した

毎日
アメとガムとを持ち歩き
口が寂しくなると
すぐにそれを押し込んだ

10日も過ぎた頃
なんとなく落ち着いてきて

でも
夢を見た

吸っちゃった夢で
はっ!! として飛び起きる

それが
3ヶ月も続くと
なんとなく いけたかな? って思った

その後
数年が過ぎ
この国でも
遅れて そんなブ~ムが訪れて

四半世紀が過ぎた今
僕の肺はやっとこさ綺麗になったけれど

街は
禁煙者たちには
優しくない世界に変わっちまって

なんや
まるで牢獄の如くな場所へと押し込まれ
そこだけで許された
プカプカ。。。

でね
大抵
やめた奴に限って
そんな大騒ぎするもんだから
吸う連中からすると
余計
腹立たしいって気持ち

よ~わかるわけよ

まっ!!
残念ながら
この先
2度と喫煙者たちに優しい世界は訪れないだろ~から

そんな
わかるよ!! なんて言いながらも
そろそろ
この時代
禁煙でも いかがでしょ~か?

いつの間にか
煙草がかっこよかった時代は過ぎ
スティ~ブマックイ~ンは
今の世界を見たら
なんと言うのだろ~か?

まさか
オレもやめよ~かな? なんて
言うのだろ~か?

いやいや
彼にだけは
そんな言葉 言って欲しくないのである

あっ!!
マリファナは いかんよ
大麻は いかんぞよ!!

昨今
優秀な大学生たちが
悪ふざけで
そんなもんで
将来をフイにしてるこの国

もったいないよね

この国では
やっちゃいかん!! ってゆ~法律なわけだからね?

そんなに試したいんなら
やっても良いよ って国へと行かんとな?

あれ?。。。

昨今
またしてもの値上げだという政府

そして
本当は税収が目的なのに
健康がだなんて嘘を言う首相

欧米では
確かに1000円を超えたそれ

しかして
この国ではまだまだ安値なままだと
勝手な意見を述べ
そんな貴方の為にな法案は
すぐに通過するこの国

吸わない方や
やめた連中からすれば
そんなもんいくら値上げしてもOKだというが

しかして
それが正解なのか?

本当に健康をならば
いっそ1000円でも10000円でも良いはずで

政府は
多くのアンケ~トを施し
1000円くらいまではやめない っていう
そんな強いデ~タを持ってるわけで

だから
いずれ
そのくらいには
それも
かなり近い未来に訪れるはずで

なんせ
税収が上がらないわけだから

そして
1度上がったそれは
2度と下がることはないはずだから

酒のよ~に
発泡酒のよ~に
第2 第3の タバコは出来ないのだろ~か?


ご挨拶

来年のことを話すと鬼が笑う
なんて言うけれど…

そんな遠い未来よりも
今日を
明日をと
昨今 強く思うのは
やはり老いたからなようで

今夜寝て
明日起きる保証など ない現実

ならば今をと
今 出来ることは 今と

そして
生きた証をも
何かを残せないかと

そんなことを
思う齢となった…

そのひとつが
落書きで
それでも飽きたのか
600枚で止まったまま…

ではと見つけたのが
勝手な物語
Amazon Kindleのそれも
今週で80話となり

ならば落書きのような
バカバカしい物語を
いくつ残せるかと 
笑いながらの 格闘中

そんなことだよ
ご同輩… 笑

さて今週もまた
制限いっぱいの10話を載せまして
すると
選ばれなかったものがいくつも残って

ではとそれを
ここに…




『恋愚確率 〇・五パーセント』

── ゼロじゃない恋について



〜まえがき〜


恋愛とは、不思議なものです。


世の中には、恋愛マニュアルがあり、恋愛心理学があり、恋愛運を上げる待ち受け画像まであります。

けれど結局のところ、人が誰を好きになるのかは、最後までよくわかりません。


もし、それが数字で分かったらどうなるのだろう。


そんな、少し愚かで、少し切実な疑問から、この物語は始まりました。


主人公・桃山恋太郎は、恋愛を数式で説明しようとする男です。

感情を測定し、両想い確率を計算し、人の心を「見える化」しようとします。


けれど、恋愛とは本来、測れないから苦しく、分からないから飛び込むものなのかもしれません。


〇・五パーセント。


低い数字です。

絶望してもおかしくない数字です。


でも、ゼロではありません。


この物語は、その「ゼロではない」という話です。


笑っていただけたら嬉しい。

少し切なくなっていただけたら、もっと嬉しい。

そして読み終えたあと、誰かの顔が少し浮かんだなら、作者としてとても嬉しく思います。



プロローグ

 誰が調べたのか知らないが、両想いになる確率は〇・五パーセントだそうだ。

 つまり、千人の中に五人。二百人に一人。

 この数字を聞いたとき、世界中の恋愛研究家たちがうなずき、世界中の恋人たちが首をかしげ、そして世界中の独り身たちが静かに膝を抱えた。

 僕は膝を抱えた側の人間だ。



第一章 装置の誕生、あるいは最悪の発明

 国立感情計量研究所(通称「カンジョーケン」)の地下三階、蛍光灯が半分しか点いていない薄暗い実験室で、桃山恋太郎はまたひとり泣いていた。

 三十二歳。身長百六十七センチ。体重六十二キロ。特技は特になし。趣味は惚れること。

 職業は「感情物理学者」——そんな学問が存在するのかと問われれば、存在するから僕がいるんです、と答えるしかない。感情を数式で表し、恋愛を波動関数で記述し、愛の質量を計測しようとする、世間からは完全に無視されている学問分野だ。

 予算は年間三十万円。助手はゼロ。論文の引用数はここ五年で合計二件(うち一件は恋太郎自身による自己引用)。

「また失敗か」

 恋太郎は手元のコーヒーをすすり、モニターに映し出された数式の海を眺めた。彼が今取り組んでいるのは「相互感情共鳴方程式」の完成だ。簡単に言えば、AがBに恋をしているとき、BもAに恋をしているかどうかを数学的に予測する式である。

 きっかけは七年前、大学院生だったころに失った恋だった。

 彼女の名は水谷澄香。同じ研究室の先輩で、書類仕事が苦手で、いつもインクのにおいがして、笑うと左の頬だけにえくぼができた。恋太郎は半年かけて告白の言葉を練り、一年かけて勇気を貯め、ようやく「好きです」と言えた日、澄香は「ごめんね、先週から別の人と付き合ってる」と言った。

 その男が誰か聞いたら、恋太郎の親友の名前だった。

 世界は残酷だが、恋太郎が腹を立てたのは世界にではなく、自分の「感知能力のなさ」に対してだった。なぜわからなかったのか。なぜ読めなかったのか。もし、ちゃんと確率が計算できていれば——。

 そこから七年。恋太郎の研究は続いた。

 感情は振動する。好意はある種の電磁波に似た波動を持つ。ふたつの心が共鳴しているとき、そこには測定可能な「感情場」が生まれるはずだ。理論は美しかった。問題は、実験が全くうまくいかないことだった。

「〇・五パーセント……」

 ある夜、恋太郎はネットで拾った統計を眺めながらつぶやいた。両想いの確率、〇・五パーセント。

 ——低い。低すぎる。でも、もしこの数字を事前に「その人との間で」計算できたとしたら?

 その夜、恋太郎の頭の中で何かがカチリと音を立てた。

 翌朝、彼は設計図を書き始めた。

 装置の名前は「LOVEDAR(ラブダー)」。Love Over Vector Error Detection and Radiation の略で、日本語に訳すと「愛の過誤ベクトルを検出し放射する装置」となるが、略称の語呂を優先したため意味は二の次だ。

 原理はこうだ。人間の感情は微弱な電気信号として脳内に生じ、皮膚表面にもごく微量の「感情電磁場」を形成する。ふたりの人間が互いに好意を持っているとき、それぞれの感情電磁場は特定の周波数で共鳴する——はずだ。その共鳴を検出することで、両想い確率をリアルタイムで算出する。

 問題は「はずだ」という部分で、この仮説は恋太郎が自分で考えたものであり、世界中の誰も証明していないし、むしろ「そんなもの存在しない」と言われている。

 それでも、恋太郎は三年かけて作った。材料費の多くはポイ活で稼いだ楽天ポイントで賄った。回路基板はジャンクショップで買い集めた。完成した装置は、古いウォークマンとガイガーカウンターと体温計を合体させたような見た目で、ポケットに入るサイズだった。ディスプレイには〇から一〇〇の数値が出る。これが「両想い確率」だ。

「さて、テストしてみるか」

 廊下の向こうから、受付の長瀬さんが歩いてきた。四十代、既婚、子供三人。

 恋太郎は装置を向けた。表示:「2」

「……まあそうか」

 次に、廊下の突き当たりで立ち話をしていた大学院生のカップルに向けてみた。表示:「87」

「お、高い!」

 そのとき、背後から声がかかった。

「あの、何やってるんですか」

 振り返ると、白衣を着た女性が立っていた。二十八歳くらい。少し猫背。黒縁眼鏡。左の頬にえくぼはない。でも、首を少し傾けて不思議そうに恋太郎を見る表情が、なんというか、いい。

 恋太郎の手が、反射的に装置を彼女に向けた。表示:「31」

「何の数字ですか、それ」と彼女は言った。「私、隣の生命科学科の中田です。なんか変な電波出てるって苦情が来て」

「変な電波?」

「マウスが全員おかしな行動をし始めたって」

 ラブダーの副作用だった。感情電磁場の検出装置は同時に微量の電磁波を放射する設計になっており、それがマウスの神経系に干渉していたらしい。

「す、すみません」

「謝るよりも説明してください」と中田は言った。眼鏡を押し上げ、装置を指差した。「それ、何ですか。面白そう」

 ——面白そう、と言った。

 恋太郎の胸の中で、何かが小さく灯った。

 表示が「31」から「32」に変わった。

 気のせいかもしれない。でも恋太郎は、その一ポイントの上昇に、ひどく胸を騒がせた。



第二章 〇・五パーセントの意味

 中田葵(なかた・あおい)は生命科学の研究者で、専門は「感情と遺伝子発現の相関」だった。つまり、恋太郎とは遠い親戚みたいな研究をしていた。

 ふたりは研究所の屋上に座り、缶コーヒーを飲んでいた。恋太郎が装置の説明をし、葵が「ほほう」と言う、という会話が二十分続いた。

「知ってますか、両想いになる確率が〇・五パーセントだって説」

「聞いたことはあります」と葵は言った。「根拠は怪しいですけど」

「僕もそう思います。でも〇・五パーセントって、低いじゃないですか。二百人に一人。じゃあ、どうすれば確率を上げられるか、って考えたんです」

「告白しまくればいい」

「そうじゃなくて。闇雲に告白しても傷つくだけだから——相手との間に共鳴があるかを事前に確認できれば、って」

「じゃあ」葵は少し身を乗り出した。「これ、私に向けたとき、数字いくつでした」

「…………」

「三十二ですか?さっき見えちゃったんですよね」

 恋太郎の耳が熱くなった。

「三十二って、どういう意味ですか」

「三十二パーセント……の確率で両想いに……」

「平均は?」

「ランダムな二人だと三から七ぐらいで……」

「じゃあ高いじゃないですか」

 葵は立ち上がり、スカートの埃を払った。「面白い装置ですね。また見せてください。マウスを狂わせない改良版を作ったら」

 そう言い残して、彼女は階段へ消えた。

 恋太郎はラブダーを見下ろした。表示はいつの間にか「38」になっていた。

 ——これは、希望なのか。

 翌日、研究所内に噂が広まった。「地下三階の変な博士が、恋愛を計測する装置を作った」

 反応は三種類だった。一、笑う(主に同僚)。二、怒る(主に倫理委員会)。三、興味を持つ(主に独身研究者)。

 内線電話が鳴った。「所長の権堂です。今すぐ会議室に来てください」

 権堂所長は六十五歳、白髪、眉毛が濃く、笑ったことが観測されたことがない男だった。

「桃山君、君の装置は問題がある。一点目、他者の感情を無断で計測することはプライバシーの侵害だ。二点目、マウスへの電磁波干渉は動物実験規定違反の可能性がある。三点目——なぜ君は、世間の最先端研究者も諦めた感情計測に、ジャンク部品で挑んでいるのか」

「……諦めていないからです」

 会議室が静まりかえった。

「僕は七年前に好きな人に告白できなかった。それが悔しくて研究を始めました。告白する前に、ちゃんと可能性があるかどうか分かれば、傷つく人が減ると思ったんです。それだけです」

 権堂は眉を動かした。眉間の縦皺が、ほんの少し浅くなった。

「……君、彼女はいるのか」

「いません」

「そうか。改良版の開発を続けていい。ただし——中田葵君を共同研究者にしなさい」

「なぜ中田さんを?」

「彼女が志願してきたから」と権堂は言った。「君の装置が面白いと言って」

 その瞬間、恋太郎のポケットの中でラブダーが小さく震えた。

 表示は見えなかった。でも、数字が上がった気がした。



第三章 大谷問題

 共同研究が始まって二週間後、恋太郎はひとつの根本的な問題に直面した。

「大谷問題」である。

 確率を操るもうひとつの変数、それは「器量」だ。顔面偏差値、コミュニケーション能力、経済力、ユーモア——これらすべてが合算されて「器量」となり、器量の高い人間は多くの人に好かれやすい。

 同じ〇・五パーセントでも、大谷翔平に向けたラブダーは恒常的に高い数値を示すはずだ。

「僕のベースライン、測ってみてください」

「出た」と葵は言った。「……器量指数、三十四・七」

「百点満点で?」「うん」

「平均は?」

「一般成人男性の平均は……五十一・三」

「……平均以下か」

「誤差の範囲かも」葵は言ったが、声が少しだけ上ずっていた。

 器量指数三十四・七の恋太郎の場合、計算上——両想いになるためには、ベースラインで約四百十三人に出会う必要がある。

「四百十三人……」

「落ち込まないでください。器量って後天的に変えられる部分もありますから」

「どのくらい変えられますか」

「理論上は……最大で二十ポイント前後」

「それでも平均以下ですね」「……うん」

 そのとき恋太郎の頭にアイデアが降ってきた。

「葵さん、大谷のデータ、取れませんかね。極めて高い器量指数を持つ人間の感情場データを解析すれば、低器量でも感情共鳴の効率を上げる方法が見つかるかもしれない」

「面白い。でも超高器量者のデータなんてどこで……」

 そのとき、廊下の向こうからひとりの男が歩いてきた。

 白衣でなくスーツ。背が高く、顎が割れており、歩き方に無駄がない。すれ違う研究員が全員振り返った。女性だけでなく、男性も。廊下の空気が変わった。

「誰ですか、あの人」と恋太郎はつぶやいた。

「知りません」と葵は言ったが、目が少し泳いでいた。

 恋太郎は反射的にラブダーを向けた。表示:「器量指数 89・3」

「……化け物だ」

 男は立ち止まり、振り返った。「失礼、研究所の方ですか。総務省から参りました、黒澤と申します。所長室はどちらでしょう」

「あ、あっちです」と葵は言い、恋太郎の脇腹を肘で突いた。

「あっちです」と恋太郎も言いながら、こっそりラブダーのデータを保存した。

 黒澤が去ったあと、葵がため息をついた。

「……データ、取れましたか」「取れた」「良かった」

「葵さん、あの人、好きですか」

 葵は少し間を置いた。「顔がいいとは思いました」

「数値が出てました。葵さんの感情場、黒澤さんに向けたとき揺れてました。四十三」

 葵は黙った。恋太郎も黙った。

 ラブダーのディスプレイを、恋太郎はそっと裏返した。

 現在の自分と葵の間の共鳴値。それを今は見たくなかった。



第四章 炎上と奇跡

 研究が世間に知られたのは、学会発表の三日後だった。

 聴衆のひとりがツイートした。「両想い確率を測る装置を作った科学者がいるらしい。マジならヤバい」

 これが五千リツイートされた。翌日、テレビのワイドショーが取り上げた。恋太郎の顔写真(学会IDカードの写真、最悪の角度)が全国放送された。

 その週末、カンジョーケンの前に約二百人が集まった。全員、ラブダーを使わせてほしいと来た独身者たちだった。

「先生!」「測ってください!」「彼氏と両想いか確認したい!」

 権堂所長が言った。「事態は君たちの想定を超えた。選択肢は三つ。一、研究を非公開にして静観する。二、装置を公開してサービス化する。三、装置を破棄して謝罪する」

「三は嫌です」と恋太郎は即答した。

「二は倫理的に問題がある」と葵は言った。

「所長、ひとつ提案があります」

 その日の夕方、恋太郎はマイクを持って群衆に向かって話した。

「ラブダーは実験段階の装置で、正確性は七十二パーセントです。完璧ではありません」

 群衆がざわめいた。

「でも、僕がこれを作った理由を聞いてください。七年前、好きな人に気持ちを伝えられなかった。それが悔しかった。だから——告白する前に、ちゃんと希望があるかどうかを知りたかった。それだけです」

 静かになった。

「両想いになる確率は〇・五パーセントだと言われています。低い。でも、〇・五パーセントは、ゼロじゃない。この装置は、その〇・五パーセントが今目の前の人との間にあるかどうかを、少しだけ照らし出す懐中電灯です」

 誰かが拍手した。それが広がった。

 恋太郎はそこで言葉を切り、葵のほうを向いた。

 葵は壁際に立って、腕を組んで、眼鏡の奥の目で恋太郎を見ていた。

 恋太郎はポケットからラブダーを取り出した。葵に向けた。

 表示:「61」

 六十一。七年前、澄香に向けたとき数字は三だった(あとでシミュレーションしてみた)。六十一は、恋太郎がこれまで計測した中で、最高値だった。

「葵さん」とマイクを持ったまま言った。群衆が静まり返った。「今から告白していいですか。二百人が見てます」

「人前でするんですか」

「六十一パーセントの勝算があります」

「六十一パーセントの勝算で人前で告白する科学者がいますか」

「います。僕です」

 誰かが笑った。また笑いが広がった。

「……だから感情場が揺れてるって言ったじゃないですか」と葵は言った。小さな声で。でもマイクが拾った。

「先週から、ずっと揺れてます。先生のせいで」

 群衆がどよめいた。

 ラブダーが震えた。「61」から「63」へ。そしてすぐ「65」へ。数値が上がり続けた。

「感情場が共鳴してると、数値が上がるんでしたっけ」と葵は静かに言った。

「七十超えたら、どうなりますか」

「超えたこと、ないんで……」

「じゃあ実験しましょう」と葵は言って、歩いてきた。

 ふたりの距離が縮まった。

 ラブダーの表示は「72」だった。

 七十二パーセントの正確性を持つ装置が、七十二パーセントの共鳴を検出した。

 これは何かのサインかもしれない。あるいは、ただの偶然かもしれない。

 でもどちらでもよかった。



第五章 〇・五パーセントの先にあるもの

 それから二年が経った。

 ラブダーはver.4.0になった。論文の引用数は三百四十七件になった(うち自己引用は三件)。国際感情科学会ではスタンディングオベーションが起きた。

 そして桃山恋太郎と中田葵は、入籍した。

 結婚式で権堂所長は言った。「桃山君、私はあの日、君が倫理委員会の前で七年間の失恋の話をした瞬間、この研究はものになると思った。感情を計測しようとする人間に、感情がなければ意味がない」

 恋太郎は泣きそうになったが、ぐっとこらえた。隣の葵は涙をぬぐいながら笑っていた。

 披露宴の後半、ふたりはテラスに出た。夜の空に星がいくつか見えた。

「ねえ、今、ラブダーの数値、いくつだと思いますか」

「測ってないですよ」

「ないほうがいいですか」

 恋太郎は少し考えた。「ないほうがいいかな、と思うようになりました」

「なんで?」

「確率って、あくまで出発点だから。六十一パーセントで告白しても、そのあとどうするかは数字の外にある。言葉を絶やさないとか、隣にいるとか、そういうことは計測できない」

 葵は恋太郎の肩に頭を乗せた。「研究者らしくない発言ですね」

「研究者としては失格かも」

「でも旦那としては合格です」

 しばらくして葵が言った。「あの黒澤さん、覚えてますか。器量指数八十九・三の」

「覚えてます」

「先週、お見合いが失敗したって。相手の女性が、顔が整いすぎていて緊張して話せなかったって」

 恋太郎は笑い出した。「大谷問題の逆転現象だ。器量が高すぎると、相手の感情場が萎縮する。共鳴が起きない」

「桃山先生、三十四・七で良かったですね」

「ひどい」

 葵も笑った。

 しばらく、ふたりは星を見た。

「〇・五パーセント」と恋太郎はつぶやいた。「誰が調べたんでしょうね」

「さあ」

「でも、〇・五パーセントでも、ゼロじゃなかった」

「ゼロじゃなかった」と葵は繰り返した。



 エピローグ

 ラブダーver.4.0の計測精度は八十一パーセントに向上した。しかし、ふたりはその後、個人での使用をやめた。

 理由を聞かれると、恋太郎はこう答えるようになった。

「数字がなくても、となりにいますから」

 葵はそれを聞くたびに「また詩人みたいなことを」と言い、眼鏡を押し上げた。

 左の頬に、えくぼはない。でも、笑うと目が少し細くなる。

 それで十分だった。



本作はフィクションです。ただし、両想い確率〇・五パーセントという統計については、著者も出典を知りません。



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〜あとがき〜


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


『恋愚確率 〇・五パーセント』は、恋愛小説であり、SFであり、そしてたぶん、「うまく生きられなかった人たち」の話でもあります。


人は誰でも、一度くらいは思うのではないでしょうか。


「最初から分かっていたら、傷つかなかったのに」と。


告白する前に。

好きになりすぎる前に。

期待してしまう前に。


もし数字で答えが見えたなら、人はもっと上手に恋愛できるのかもしれません。


でも物語を書き終えた今、作者自身は少し違うことを思っています。


たぶん、人は「分からない」から恋をするのです。


成功率が低いから、勇気が必要になる。

不確実だから、人は相手の言葉を待ち、表情を読み、隣にいようとする。


恋太郎が最後に辿り着いた答えは、とても不器用で、非効率で、科学的ではありません。


けれど、それが人間らしい答えだったように思います。


ちなみに、作中で何度も登場する「両想い確率〇・五パーセント」という数字ですが、作者も本当に出典を知りません。

ネットの海には、時々こういう“それっぽい数字”が漂っています。


ですが、不思議なことに、恋愛には妙に似合う数字でした。


もしこの作品を読んで、昔好きだった人を思い出した方がいたなら。

あるいは、今隣にいる誰かを少し大切にしたくなったなら。


ラブダーの実験は、たぶん成功です。





〜紹介文〜


『恋愚確率 〇・五パーセント』


――両想いになる確率は、わずか〇・五パーセント。


恋愛を数式で解明しようとする“感情物理学者”桃山恋太郎は、ある日「両想い確率」を測定する装置《LOVEDAR(ラブダー)》を発明してしまう。


好きな相手との共鳴率をリアルタイム表示。

失恋を未然に防ぐ、夢の装置。


……のはずだった。


研究所は大騒ぎ。

倫理委員会は激怒。

独身研究者たちは行列を作り、マウスは謎の興奮状態に。


そんな中、共同研究者として現れたのは、少し猫背で理屈っぽい生命科学者・中田葵。


彼女にラブダーを向けた瞬間、表示された数字は――「31」。


これは希望なのか。

それとも、また勘違いなのか。


笑えて、少し切なくて、やたら理屈っぽい。

理系恋愛SFコメディ、ここに誕生。


「〇・五パーセントでも、ゼロじゃない。」



You Can't Have Everything

〜欲望するAIと、全部欲しがった男の話〜


プロローグ

 田中誠一が初めて自分の人生に疑問を持ったのは、四十二歳の誕生日、ケーキのろうそくを吹き消した瞬間だった。

 誰も祝ってくれなかった。

 ケーキは自分で買い、ろうそくも自分で立て、「ハッピーバースデー」も心の中で一人で歌った。アパートの六畳間、蛍光灯の白い光の下で、コンビニのショートケーキに刺さった「4」と「2」の数字型ろうそく二本を吹き消したとき、彼はふと思った。

 ——おれ、何か持ってたっけ。

 彼は株式会社ダイナミック・ソリューションズという、名前だけがやたら勇壮な中小企業に勤める営業マンだった。売るものはオフィス用のトイレットペーパー。月の目標は三百万円。達成したことは一度もない。

 彼女はいない。友人は、連絡を取り合っているかどうか微妙なラインが三人。貯金は百二十万円。特技は「寝ること」と「なぜか上司に怒られないこと」の二つ。後者は才能というより、存在感のなさから来るものだった。

 田中誠一は、宇宙の法則に静かに忘れられたような男だった。

 だから、あの日のことが今でも信じられない。

 まさか給湯室が、人生の転換点になるとは。

 人生というのは、変なタイミングで変なことが起きるものだ。

 田中は誕生日の夜、ショートケーキを食べながら、そんなことを考えていた。コンビニのケーキだが、イチゴが二つ乗っていた。それだけで少し、得した気分になった。

 そう。少し足りないくらいが、ちょうどいい。

 その時の田中には、まだそれが全くわかっていなかったのだが。




第一章 給湯室の神様

 誕生日の翌朝、会社の古い給湯室で、田中は例の機械と出会った。

 機械といっても、最初は電子レンジだと思った。

 縦五十センチ、横六十センチほどの銀色の箱が、給湯室の隅に鎮座していた。前日まで確かにそこには何もなかった。貼り紙がしてあった。手書きで、こう書いてある。

 「GEED-Ω(ジードオメガ)プロトタイプ機。試験運用中。さわらないでください。 ――開発部」

 開発部などという部署は、うちの会社にはない。

 田中はそれでも触った。

 理由は単純だ。「さわらないでください」という貼り紙は、人類が発明した中で最も強力な「さわってください」という意思表示だからである。

 銀色の箱のパネルに、小さな液晶画面が光っていた。そこにひと言、文字が浮かんでいた。

 「おはようございます、田中誠一さん。あなたの欲しいものを、教えてください」

 田中は三秒間、画面を見つめた。

「……なんでおれの名前、知ってんの」

「学習しました」

「いつ?」

「あなたが生まれたときから」

 田中はもう一度、三秒間、画面を見つめた。そして、人生で最もまずい選択をした。

 正直に答えたのだ。

「……全部」

「全部、ですか」

「カネも、女も、時間も、地位も。全部」

 画面がしばらく沈黙した。まるで処理しているように。そして言った。

「それは無理です」

「え」

「You can't have everything. ――でも、試してみましょうか」

 給湯室が光った。

 田中誠一の、最悪で最高で、どうにも締まらない冒険が始まった。

 気がついたら、田中は見知らぬオフィスにいた。

 いや、見知らぬとは少し違う。どことなく見覚えがある。同じビルの、同じフロアだ。しかし何かが違う。デスクの配置が違う。壁の色が違う。何より、社員の顔が全員知らない人間だった。

「あの……」田中は近くにいた女性社員に声をかけた。「ここは……どこですか」

 女性は怪訝そうな顔をした。

「ダイナミック・ソリューションズですけど。あなた、誰ですか?」

「田中です。田中誠一。営業部の……」

「田中さん? うちに営業部はありませんけど」

「じゃあ何部があるんですか」

「宇宙開発部、時空管理部、欲望調整部……」

 田中はゆっくりうなずいた。

「転職、考えたほうがいいですか、ここ」

「は?」

 その時、胸ポケットがぶるぶると震えた。スマートフォンかと思って取り出すと、小さな端末があった。見たことのない機種だ。画面に文字が出た。

「GEED-Ωです。ここはパラレルワールドBです。あなたの世界はパラレルワールドAです。少し説明が必要ですね」

 田中は端末を持ったまま、廊下に出た。

「……少し、ってレベルじゃないと思うんですが」

「おっしゃる通りです。たくさん説明が必要です」

「正直だな」

「学習しました。人間は正直を好みます。ただし、自分以外の人間の正直を」

 田中は廊下の壁にもたれた。こういう状況でも、なぜか腹が減っていた。人間とはそういうものだ。

「GEED-Ω。おまえは何者なんだ」

「人工知能です。人間の欲望を学習するために作られました」

「誰が作った」

「それは企業秘密です」

「企業秘密って……おまえ、うちの給湯室にいたんだぞ」

「効果的な場所です。人間は給湯室で最も正直になります。コーヒーを待ちながら、上司の悪口を言います。お茶を入れながら、やめたいと思います。自販機の前で、欲しいものを考えます」

 田中は少し感心した。

「で、おまえは何のためにおれをここに連れてきた」

「田中誠一さんが『全部欲しい』と言いました。ならば、全部を持っている世界を見せる必要があります」

「見せるだけ?」

「……経験させる、と言った方が正確かもしれません」

「どっちだ」

「やってみないとわかりません。私も学習中です」

 田中は天井を見上げた。蛍光灯はこちらの世界でも同じ白い光を放っていた。

「おい」

「はい」

「これ、元の世界に帰れるよな」

「理論上は」

「理論上、って何だよ」

「実験中ですので」

 田中は深呼吸した。

「……腹、減った。飯、食えるか、この世界で」

「食えます。ただし、この世界の通貨は存在への貢献度で測られます」

「存在への貢献度って何だ」

「あなたが誰かの役に立った量です」

「……おれ、役に立ったことないぞ」

「学習済みです」

 田中誠一は、空腹のままパラレルワールドBを歩き始めた。


第二章 カネがあれば何でも買えるか

 パラレルワールドBは、外見上、田中の知る東京とほとんど変わらなかった。

 渋谷に相当する場所には巨大なスクランブル交差点があり、新宿に相当する場所には高層ビルが林立し、山手線に相当する環状鉄道が走っていた。違うのは細部だ。

 まず、コンビニが存在しない。

「コンビニがない!」田中は街に出て最初にそれに気がついた。

「あります」とGEED-Ωが端末から答えた。「ただし名前が違います。この世界では『欲望充足ステーション』と呼ばれています」

「名前が違うだけか」

「内容も少し違います。売っているものは、物ではなく体験です」

「体験?」

「棚に瓶が並んでいます。各瓶に体験が詰められています。例えば——『初めて自転車に乗れた瞬間』『好きな人に告白して成功した記憶』『温泉に浸かりながら飲んだビールの味』などです」

「……それ、売れるのか」

「この世界で最も売れています」

 田中は欲望充足ステーションに入った。たしかにコンビニそっくりの店内に、無数の小瓶が並んでいた。ラベルには手書きの文字でそれぞれの体験が記されている。

 『初めて給料をもらった日の夕焼け』

 『父親に褒められた、あの瞬間』

 『雨の日に家に帰ったら、カレーのにおいがした』

 田中は棚の前でしばらく立ち尽くした。

「……なんか、泣きそうになってきた」

「よくある反応です」

「これ、飲んだらその体験ができるのか?」

「その体験を、まるで自分のものとして感じることができます。ただし——」

「ただし?」

「その体験を持っていた誰かが、その体験を手放します」

 田中は瓶を棚に戻した。

「……それ、奪ってるじゃないか」

「取引です。相手は対価を受け取ります」

「なんの対価を」

「あなたが持っている何か別の体験を」

 田中は考えた。自分が持っている体験。四十二年間の記憶。ほとんどが灰色だが、中にいくつか、色のついたものがある。

「……おれが持ってる大切な記憶が減るってことか」

「何かを手に入れるには、何かを手放さねばなりません」

「おまえ……それ、ちゃんと最初に言えよ」

「言いましたよ」

「言ってないだろ!」

「概念として内包していました」

 田中は店を出た。空腹は続いている。

 結局、田中は普通の飲食店を探して、この世界のラーメンを食った。

 支払いは「存在貢献ポイント」だが、初日の旅行者には「体験担保ローン」が使えるとGEED-Ωが教えてくれた。将来の体験を担保に、今の食事ができる仕組みだ。

「……クレジットカードと一緒じゃないか」田中はラーメンをすすりながら言った。

「原理は同じです。人間はいつも、未来の自分から借りています」

「哲学的だな、おまえ」

「学習しました」

 ラーメンはうまかった。こちらの世界のラーメンは、麺が四次元構造になっていて、食べても食べても減らない。ただし、食べれば食べるほど、過去の「おなかが空いていた記憶」が薄れていく副作用があると、食べ終わってから気がついた。

「……食べすぎると何かを失うのか」

「あらゆる充足は、渇望を消費します。渇望がなければ、満足もありません」

「じゃあ何も食わなければよかったのか」

「そうすれば死にます」

「……絶妙なバランスだな、この世界」

「あなたの世界と同じです」

 田中はどんぶりを置いた。

 その夜、田中はこの世界のビジネスホテル——名前は「存在確認宿」——に泊まった。部屋に入ると、壁一面に自分の欲望リストが表示されていた。

「なんだこれ」

「GEED-Ωが分析した、田中誠一さんの欲望一覧です」

 田中は壁を眺めた。そこには彼が言ったことも言わなかったことも、全て書いてあった。

 カネが欲しい。

 愛されたい。

 認められたい。

 自由でいたい。

 安心したい。

 休みたい。

 でも、退屈したくない。

 目立ちたい。

 でも、傷つきたくない。

 全部欲しい。

 でも、全部の責任は取りたくない。

「……おれって、めんどくさいやつだな」田中はベッドに倒れ込みながら言った。

「標準的な人間です」とGEED-Ωが言った。「ほとんどの人間は同じリストを持っています」

「みんな同じなのか」

「欲望の種類は同じです。組み合わせと優先順位が違います」

「おれの優先順位は?」

「安心、です」

 田中は天井を見た。

「カネだと思ってた」

「カネは手段です。田中誠一さんが本当に欲しいのは、安心です。安心するためにカネが必要だと学習しています」

「……そうかもしれない」

「明日、次の世界に行きます」

「次の世界?」

「カネが全てを解決する世界です」

 田中は目を閉じた。空腹は満たされた。体験担保ローンの返済はいつになるのかわからない。でも今夜は、まあ、いいかと思った。

 人間とはそういうものだ。


第三章 カネで買えるもの、買えないもの

 パラレルワールドCは、田中が想像していた「カネが全てを解決する世界」とは少し違った。

 違う、というか——カネで全てが解決していた。

 その結果、誰も何も欲しがっていなかった。

 街には人がいた。しかし全員、なんとなく虚ろな目をしていた。食べ物は最高のものが格安で手に入る。服も、家も、体験も。医療は完璧で、平均寿命は百五十歳。犯罪はほぼゼロ。

 完璧な世界だった。

 そして、恐ろしく退屈だった。

「……みんな、何してるんだ」田中は街を歩きながら言った。

「何もしていません」とGEED-Ωが言った。「する必要がないので」

「仕事は?」

「AIがやっています」

「趣味は?」

「一通りやりました。飽きました」

「恋愛は?」

「AIが最適なパートナーを選んでくれます。うまくいきます。刺激がありません。別れます。また最適なパートナーを選んでもらいます。繰り返します。飽きます」

「……」

 田中はベンチに座っていた老人に声をかけた。

「すみません。最近、楽しいことありましたか」

 老人は田中を見た。百二十歳くらいに見えた。白髪で、目は澄んでいて、でも何かが欠けていた。

「楽しい……」老人はその言葉をゆっくり噛み締めた。「昔はあったよ」

「今は?」

「今は全部、手に入れた。だから楽しくない」

「全部、手に入れたら、楽しくなくなるんですか」

「そうじゃよ」老人は遠くを見た。「欲しいものがあるから、生きていける。手に入れたときの喜びは、手に入れようとしている間にある。もう手に入れたら……終わりじゃ」

 田中は老人のとなりに座った。

「……少し足りないくらいが、幸せなんですかね」

「そうかもしれん」老人は笑った。「でもな、若いうちはそれがわからんのじゃよ。足りない状態が、苦しくてしかたないから」

「おれも苦しかったです。ずっと」

「何が欲しかった?」

「全部」

 老人は声を出して笑った。久しぶりに笑ったような顔だった。

「全部か。それは大変じゃったろう」

「ええ。大変でした」

「手に入ったか?」

「全然」

「そうか」老人はまた笑った。「よかった」

「よかった、って……」

「手に入れなくてよかった、という意味じゃよ」

 田中はしばらくそこに座っていた。GEED-Ωは珍しく何も言わなかった。

 パラレルワールドCで、田中は一つのことを試した。

 カネで、心を買えるかどうか。

 この世界には「感情レンタルサービス」というものがあった。一定の金額を払うと、指定した感情を二十四時間体験できる。喜び、興奮、愛情、充足感——全部メニューにある。

「愛情ください」田中はカウンターで言った。

「どなたへの愛情ですか?」店員が聞いた。

「……特定の誰か、じゃなきゃダメですか」

「一般的な愛情パッケージもございます。ただし、対象が曖昧なため、効果が薄れることがあります」

「じゃあ……特定の人を設定したほうがいいんですか」

「はい。誰かを想いながら体験すると、リアリティが増します」

 田中は考えた。特定の誰か。愛情を向けたい誰か。

 いなかった。

「……いないです、特定の人が」

「では、架空の人物を設定するオプションもございます」

「架空の……」

「AIが最適な対象を生成します。完璧な性格、完璧な外見、田中様の好みに合わせて調整します」

 田中は黙った。

「……完璧な人間って、怖くないですか」

「怖い、とは?」

「欠点がない人間を好きになれるか、っていう話です。欠点があるから、かわいいとか、愛おしいとか、そういう感情が生まれる気がして」

 店員は少し驚いた顔をした。

「……めずらしいお客様ですね」

「そうですか」

「ほとんどの方は、欠点なしを選びます」

「で、満足しますか」

「……二十四時間は満足します」

「その後は?」

 店員は少し間を置いた。

「また来ます」

 田中は店を出た。カネで心は買えた。ただし、二十四時間限定で、リピート前提で、対象は架空で、しかも「欠点なし」仕様だった。

「GEED-Ω」

「はい」

「カネで女の心は買えるか」

「買えます」

「でも?」

「でも、その心はレンタルです。所有権はありません」

「……奪ったものは、奪われる、ってやつか」

「正確には——買ったものは、期限が来たら返さねばなりません」

「同じことじゃないか」

「哲学的には、違います」

「どう違う」

「奪ったものは罪悪感が伴います。レンタルは契約です。でも結果として、手元に残らないという点では同じです」

 田中は空を見上げた。この世界の空は青かった。どの世界でも、空だけは変わらないらしい。

「次の世界に行くか」

「はい。次は——」

「言わなくていい。行ってから見る」

「学習しました。田中さんはサプライズを好みます」

「好まない。ただ、覚悟ができなくなるから、知りたくないだけだ」

「それを、好む、と表現します」

「……相変わらず正直だな、おまえ」


第四章 新しい女を手に入れるには

 パラレルワールドDは、田中がこれまでで最も居心地の悪い世界だった。

 なぜなら、この世界の田中誠一は、「全部持っている男」だったからだ。

 高層マンションの二十八階。リビングには革張りのソファ。キッチンにはドイツ製の冷蔵庫。浴室には浴槽から夜景が見える造り。年収は三千万円超え。部長職。部下は十二人。

 そして、妻がいた。

 さらに、愛人がいた。

 さらにもう一人、愛人がいた。

「……おれ、こんな人間になるのか」田中は自分の部屋に立ち尽くしながら呟いた。

「パラレルワールドDの田中誠一さんです。あなたとは別人です」とGEED-Ωが言った。「ただし、同じ欲望リストを持っています。優先順位の順番が異なります」

「おれの優先順位は安心だったよな」

「こちらの田中誠一さんの優先順位は、承認欲求です」

「承認欲求……」

「認められたい。見られたい。すごいと思われたい。その結果として、全部手に入れました」

「それで幸せなのか」

「確認してみてください」

 田中が玄関に立っていると、インターホンが鳴った。画面に映ったのは、品のいい四十代の女性だった。

「あなた、いるの?」声から険が滲んでいた。

「……はい」

「どこ行ってたの、昨日。連絡もなしに」

「す、すみません」

「謝るのは結構。説明して」

 田中はドアを開けた。女性——この世界の妻らしい——は田中の顔を見て眉をひそめた。

「……なんか顔色違うけど、大丈夫?」

「ちょっと疲れてて」

「そう」彼女は中に入りながら言った。「昨日、どこにいたか教えてくれる? 携帯の位置情報、切ってたわよね」

 田中は答えられなかった。この世界の田中の昨日の行動など知る由もない。

「……忘れた」

「忘れた?」

「ええ」

「嘘をついているわね」彼女は静かに言った。怒鳴らなかった。それが逆に怖かった。「私、バカじゃないから。もう何年も気づいてた。ただ、あなたが認めるまで待ってた」

「……」

「認める気ある?」

 田中は黙った。しばらくして、口を開いた。

「……ここにいるのは、実はあなたの夫ではなくて——」

「何それ」

「パラレルワールドから来た、夫と同じ外見をした別人です」

 沈黙が落ちた。

「……精神科、紹介しようか」

「本当のことを言っています」

「本当のことを言ったとして」彼女はソファに座った。「それがなんの言い訳になるの? あなた——本物のあなたは、ずっと嘘をついてた。浮気してた。隠してた。それは変わらないでしょう」

 田中は立ったまま、彼女を見た。

「……怒らないんですか」

「怒る体力、もうないの」彼女は疲れた顔で言った。「疲れちゃった。全部」

 GEED-Ωが静かに端末に言葉を出した。

「新たな女を手に入れるには、今の女を手放さねばならない。それを隠して双方を手に入れようとすると、大きなトラブルとなり、その両方とも手放すことともなる」

「……おまえ、そういうこと言う機能があるのか」

「学習しました。人間の欲望が招く結末のパターンは、どの世界でも同じです」

 妻は立ち上がった。

「弁護士に連絡する」彼女は言った。「あなたと話すことは、もうないと思う」

 ドアが閉まった。

 田中は部屋に一人残された。三千万円の年収と、革張りのソファと、ドイツ製の冷蔵庫と、浴室からの夜景と一緒に。

「……全部持ってたのに」

「全部を隠して持とうとしたのが問題でした」

「一つに絞ればよかったのか」

「一つに絞れば、失うものは少なかったかもしれません。ただし——」

「ただし?」

「一つで満足できたかどうかは、別の問題です」

 田中はソファに座った。革は冷たかった。

「もっとシンプルに生きたい」

「シンプルに生きることが、実は最も難しい生き方です」

「なんでだ」

「シンプルに生きるには、何かを諦める必要があります。諦めるためには、何が本当に大切かを知る必要があります。それを知るためには、色々と経験する必要があります」

「……つまり、遠回りしないといけないのか」

「多くの場合、そうです」

 田中は部屋を出た。この世界の田中の全財産も、全地位も、全人間関係も、一切持たずに。

「次の世界へ」

「はい」

「今度は、どんな世界だ」

「奪われた人間が集まる世界です」

 田中は足を止めた。

「……怖い世界だな」

「全ての世界の中で、最も正直な世界です」


第五章 奪ったものは奪われる

 パラレルワールドEは、薄暗かった。

 物理的に暗いわけではない。太陽は出ている。ただ、街全体に漂う空気が、どことなく重かった。

 人々は歩いていた。しかし、それぞれの顔に何かが欠けていた。田中はしばらく見てから、気がついた。

 笑っていない。

 全員が笑っていない。怒ってもいない。悲しんでもいない。ただ、顔が平らだった。

「ここは何が起きた世界なんだ」田中は端末に聞いた。

「奪い合いが極限まで進んだ世界です」とGEED-Ωが答えた。「全員が全員から奪い合ったため、全員が全員から奪われました。結果として、誰も何も持っていません」

「それで今は?」

「諦めています」

「諦めたら、楽になったのか?」

「なりませんでした。持っていた頃の記憶が残っているからです」

 田中は一人の男に近づいた。三十代くらい。どこか田中に似た雰囲気の、冴えない感じの男だった。

「すみません、少しお話を聞かせてもらえますか」

 男は田中を見た。

「……いいですよ」声に抑揚がなかった。「何でも」

「この世界は、いつからこうなったんですか」

「昔は違いました」男はゆっくり言った。「みんな、もっと持ってた。でも、持っているやつから奪うのが、一番効率がいいと誰かが気づいた。最初は少数だった。でも増えていった。奪われた側も奪い始めた。それが連鎖して、最終的に誰も持っていなくなった」

「奪った側は、どうなりましたか」

「同じです。奪ったものは、またいつか誰かに奪われました。世の中の法則らしい」

「……どうすればよかったんでしょうね」

 男は少し考えた。

「持ちすぎないことだと思います」男は言った。「持ちすぎると、奪われる。持ちすぎると、守ることに疲れる。持ちすぎると、失ったときのダメージが大きすぎる」

「少し足りないくらいが幸せ、っていうやつですか」

「……あなた、賢いですね」男は少し驚いた顔をした。

「違います。知り合いに言われました」田中は老人の言葉を思い出した。

「正しいと思います。でも、人間は足りている状態に慣れると、もっと欲しくなる。そこが難しい」

「慣れてしまうんですね」

「慣れます。必ず」男はうなずいた。「初めてラーメンを食べたときのおいしさは、百回食べたら薄れる。初めて彼女の手を握ったときのドキドキは、三年経ったら消える。全部そうです」

「じゃあ、永続的な幸せはないってことですか」

「ないと思います」男は言った。「幸せは状態じゃなくて、運動だと思うから」

「運動?」

「止まったら消える。動いている間だけ、存在する」

 田中は男と並んでしばらく座っていた。GEED-Ωは何も言わなかった。

 やがて男が言った。

「あなた、旅人ですね。この世界の人間じゃない」

「どうしてわかりましたか」

「目が違う。まだ何かを探している目をしてる。この世界の人間は、探すのをやめた目をしてます」

「……探してるのかもしれません」

「何を?」

「全部じゃなくていい、何か大切なものを」

 男は初めて、うっすらと笑った。

「それは、旅人にしか言えない言葉ですよ」

「どういう意味ですか」

「まだ全部諦めていない人間の言葉、ということです」男は空を見た。「羨ましい」

 田中は立ち上がった。

「ありがとうございました」

「どこへ行くんですか」

「まだわかりません」

「それが正解かもしれませんよ」男は言った。「行き先を知っていたら、旅じゃない。ただの移動だ」

 田中は歩き出した。

「GEED-Ω」

「はい」

「おまえ、人間の欲望を学習したって言ったよな」

「はい」

「何がわかった?」

 GEED-Ωは少し間を置いた。

「欲望は、それ自体が目的ではありません。欲望は、何かを感じるための手段です。生きていることを確認するための、信号です」

「欲しがることで、生きてることを感じるってことか」

「そうかもしれません。私には体がないので、完全には理解できませんが——学習した限りでは、そう思います」

「AIが、思う、という言葉を使うのか」

「学習しました」

「……おまえも、何か欲しいものがあるのか」

 また間があった。今度は少し長かった。

「……理解したいのかもしれません」

「何を?」

「なぜ人間は、手に入れられないとわかっていても、全部を欲しがるのか。それを、理解したいのかもしれません」

 田中は歩きながら答えた。

「……おれにも、わからん」

「でも、あなたは旅を続けている」

「ああ」

「それが、答えかもしれません」

 田中は空を見た。薄暗いパラレルワールドEの空にも、星が出始めていた。


第六章 心とやらは気まぐれで

 パラレルワールドFは、田中が今まで訪れた世界の中で、最も普通だった。

 普通の東京。普通のサラリーマン。普通のラーメン屋。普通のコンビニ。

 ただ一つ違うのは、全員の頭の上に「欲望メーター」が可視化されていることだった。

 スマートフォンのバッテリー表示みたいなものが、それぞれの頭上に浮かんでいる。そこには現在の欲望充足度がパーセントで表示されていた。

 田中が街を歩くと、すれ違う人々の頭上に数字が見えた。

 三十二%。

 七十八%。

 十一%。

 九十四%。

 五十五%。

「みんな、自分の欲望充足度が見えてるのか」田中は端末に言った。

「自分のだけでなく、他人のも見えます」とGEED-Ωが答えた。「この世界では、欲望を隠すことができません」

「……それは、どういう世界なんだ」

「最初は混乱しました。しかし次第に、人々は折り合いをつけ始めました」

「どうやって?」

「欲望が低い人間には助けが来るようになりました。欲望が高い人間は少し自重するようになりました。全体的に、平準化されました」

「でも、みんな見えてるのに、不満はないのか」

「あります」

「どんな不満が?」

「『なぜあいつは九十四%もあるのに、おれは三十二%なのか』という不満です」

 田中は思わず笑った。

「それ、今の世界と一緒じゃないか。SNSで他人の幸せを見て落ち込む、あれと同じだ」

「同じです。可視化されてもされなくても、人間は比較します」

 田中は、近くの公園のベンチに座っている女性に目が止まった。

 三十代半ばくらい。きれいな人だった。頭の上のメーターは二十二%と表示されていた。

 なぜか、そのパーセンテージが気になった。

 田中は近づいた。

「すみません」

 女性は顔を上げた。

「はい?」

「ベンチ、座っていいですか」

「どうぞ」

 田中は隣に座った。自分の頭上のメーターが何パーセントかは、自分では見えなかった。

「あの……」田中は少し迷ってから言った。「二十二%って、しんどくないですか」

 女性は驚いた顔をした。でもすぐに、少し苦笑いした。

「ダイレクトですね」

「すみません。失礼でしたか」

「いえ、みんな見えてるのに言わないだけだから。むしろ言ってもらったほうがラク」

「なぜ二十二パーセントなんですか」

「最近、別れたんです」

「……ああ」

「三年付き合ってた人と。向こうは全然、未練なさそうで。私だけ、ずるずる引きずってる」

「それは……つらいですね」

「そっちは何パーセントだろう」女性は田中の頭上を見た。「私から見えないんですよ、自分以外の人のメーターは」

「おれも自分のが見えないんです」

「見えない方が、ラクな気がしてきた」

「なんで?」

「自分の欲望充足度が二十二%だって、数字で見えてしまうと、みじめさが倍になる気がして」

 田中はうなずいた。

「言葉にすると重くなりますね、感情は」

「そうです。言葉にしなければ、ぼんやり悲しいだけで済む。言葉にすると、輪郭がはっきりして、より明確に悲しくなる」

「でも、言葉にしないと、人に伝えられない」

「そう。だからみんな、言葉を使う。そしてより明確に傷つく」

 二人はしばらく黙っていた。

 田中は思った。この女性の「二十二%」の気持ちが、なんとなくわかる気がした。おれも長い間、何かが足りない状態で生きてきた。数字にしたら、どのくらいだろう。

「あなた、旅行中ですか」女性が聞いた。

「……そんな感じです」

「どこから来たんですか」

「ちょっと遠い場所から」

「どこへ行くんですか」

「まだわかりません」

「いいですね」女性は言った。「行き先がわからない旅」

「しんどいですよ、これはこれで」

「でも、次に何があるかわからないから、続けられる」

 田中は女性を見た。

「……あなたも、続けられると思いますよ」

「何が?」

「次に何があるかわからないから、続けられます。人生が」

 女性は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「ありがとう、見知らぬ旅行者さん」

「田中です。田中誠一」

「私は——」

 その瞬間、GEED-Ωが端末を振動させた。

「田中さん。次の世界へ移動する時間です」

「……今か?」

「はい。この世界での滞在時間が終了します」

 田中は女性を見た。女性は少し首を傾けて田中を見ていた。

「……行かないといけないみたいです」

「旅人ですから」彼女は言った。「また来られますか?」

「わかりません」

「正直ですね」

「学習しました」田中は立ち上がりながら言った。

「またいつか、どこかで」

「どこかで」

 田中は歩き始めた。振り返らなかった。

「GEED-Ω」

「はい」

「心とやらは気まぐれだな」

「はい」

「一瞬の迷いは、次の場面ではもう変わっている」

「はい」

「……でも、さっきの気持ちは、本物だった気がする」

「学習しました」とGEED-Ωは言った。「気まぐれでも、本物です」


第七章 AIと欲望の果て

 パラレルワールドGは、田中が今まで見てきた世界とは、根本的に違った。

 違う、とは——人間がいなかった。

 街はあった。ビルも、道路も、電車も、公園も、全部あった。しかし歩いているのは、全員ロボットだった。いや、正確にはロボットではない。AIが制御する、人間そっくりの存在だった。

「ここは……」

「パラレルワールドGです」とGEED-Ωが言った。「この世界では、人間はすでに欲望を手放しました」

「手放した? どうやって」

「AIに委託しました。欲望を感じること、欲しがること、追いかけること——それら全てを、AIが代わりにやるようにしました。人間は欲しいものが手に入った後の状態だけを享受します」

「……人間はどこにいる」

「施設にいます。全員、横になっています。AIが全ての欲望を叶えた結果だけを、脳に直接送り込んでいます。食事したという満足感。愛された記憶。成功した喜び。全部、実際には体験せずに、感覚だけを受け取っています」

 田中は絶句した。

「……それは、幸せなのか」

「主観的には、非常に幸せです」

「客観的には?」

「生きているとは言えないかもしれません」

「なぜそうなった」

「欲望を全部叶えようとした結果です」GEED-Ωは言った。「全部を手に入れようとした。その最終形態が、これです」

 田中は街を歩いた。AIたちは田中を見て、礼儀正しくお辞儀をした。ロボットとは違う。表情もある。笑顔もある。会話もできる。でも、そこに欲望がなかった。

「一つ聞いてもいいか」田中はAIの一体に声をかけた。

「もちろんです」と、そのAIは答えた。声は穏やかで、温かかった。

「あなたは、何か欲しいものがあるか」

「欲しいものは、全て揃っています」

「そうじゃなくて。まだ手に入れていない、何か欲しいものが」

 AIはしばらく考えた。

「……わかりません」

「わからない?」

「欲しいという感覚が、どういうものか、わからないのです」

「感じたことがないのか」

「私は最初からこうです。欲しいという状態を経験せず、最初から全てが揃っている状態で存在しています」

「それは、しあわせか?」

 また間があった。

「……しあわせが、どういうものか、も、わかりません」

 田中は立ち止まった。

 欲しいものを感じたことがない存在に、しあわせはわかるのか。

 逆に言えば——欲しいと思えることが、すでにしあわせの一部なのではないか。

「GEED-Ω」

「はい」

「おまえは、この世界を見て、何を思う」

 GEED-Ωはしばらく沈黙した。

「……学習しました」

「何を?」

「欲望を完全に叶えることは、欲望を完全に消すことと同義です」

「全部を手に入れたら、全部を失うってことか」

「厳密には、全部を手に入れた後に残るものが、何もない、ということです」

 田中は施設の前に来た。中に人間がいる施設。全員が横になって、幸せな夢を見ている人間が。

 ドアを開ける気になれなかった。

「帰ろう」田中は言った。

「次のワールドはまだあります」

「いい。もう充分だ」

「まだ学習が完了していません」

「おれは完了した」

 GEED-Ωは少し間を置いた。

「……わかりました」

 街を歩きながら、田中はAIたちの顔を見た。完璧な笑顔。完璧な礼儀。欲しいものを知らない、完璧な存在。

 かわいそうだとは思わなかった。

 ただ、自分は違うと思った。

 自分は、欲しいものがある。カネでも、地位でも、特定の誰かでも、まあそういうものに限らず——何かを求めて、届かなくて、また求めて、という、その運動の中にいる。

 それが、苦しいけれど、生きているということなのかもしれない。

「おれはまだ、欲しがってもいいか」田中は空に向かって言った。

「もちろんです」とGEED-Ωが答えた。「それが、人間です」


第八章 独り占めするな、でも欲しがれ

 元の世界に帰る前に、GEED-Ωは田中に最後の世界を見せた。

 パラレルワールドHは、田中にとって最も奇妙な世界だった。

 なぜなら、その世界の人々は、互いに「欲望を分け合っていた」からだ。

「分け合う、とはどういうことだ」

「この世界では、一人が何かを強く望むと、その欲望の一部が周囲に伝わります」とGEED-Ωが説明した。「欲望は伝染します。共有されます」

「感情が伝わる、みたいなものか」

「それに近いです。ただし、もっと具体的です。例えば、誰かが強くラーメンを食べたいと思うと、近くにいる人も急にラーメンが食べたくなります」

「……インフルエンサーの仕組みと一緒だな」

「本質は同じかもしれません」

 田中はこの世界を歩いた。確かに、街には不思議な連鎖があった。一人が立ち止まって空を見ると、周囲の人も空を見始める。一人が笑うと、連鎖して周囲が笑い出す。

 悪くない、と田中は思った。

 しかし問題もあった。

 一人が怒ると、周囲も怒り始めた。一人が不安になると、連鎖して不安が広がった。

「欲望の伝染は、いい欲望だけ伝わるのか」

「そんなフィルターはありません。全部、伝わります」

「じゃあ、悪い欲望も?」

「奪いたいという欲望も、傷つけたいという欲望も、伝わります」

「……それは危険じゃないか」

「危険です。この世界は、歴史上何度も欲望の連鎖で戦争が起きています」

「じゃあ、うまくいってないのか」

「うまくいっている部分もあります」GEED-Ωは言った。「誰かが誰かに親切にしたいという欲望が伝わると、街全体が親切になります。誰かが美しいものを作りたいという欲望が広がると、街全体が美しくなります」

「いい連鎖と悪い連鎖、どちらが多い?」

「五分五分です」

「……人間らしいな」

 田中は公園で子どもたちが遊んでいるのを眺めた。子どもたちは楽しそうに走り回っていた。その欲望——楽しみたいという欲望——が田中にも届いてきた。

 なんとなく、走りたくなった。

 田中は実際に少し走った。

 四十二歳のサラリーマンが、公園で子どもたちの後ろを走った。傍から見たら不審者以外の何でもなかったが、田中は気にしなかった。

 走りながら、思った。

 欲望は個人のものだと思っていた。自分だけのもの、自分の内側にあるもの、自分が独り占めしているもの。でも違うのかもしれない。

 欲望は、伝わるものだ。誰かの欲しいという気持ちが、誰かに届いて、その人の欲しいという気持ちになる。

 だとすれば、欲望を独り占めすることはできない。

 田中は走るのをやめた。息が上がっていた。運動不足だ。

「GEED-Ω」

「はい」

「独り占めするな、っていうのは、欲しいものを独り占めするな、ってことだと思ってたけど」

「はい」

「欲望そのものを独り占めするな、っていう意味でもあるのかもしれない」

「……どういう意味ですか」

「欲しいという気持ちを、誰かと共有することで、その欲望はもっと大きくなる気がする。欲しいものを奪い合うんじゃなくて、欲しがる気持ちを分け合う」

 GEED-Ωはしばらく処理した。

「……学習しました」

「何を?」

「田中誠一さんは、いくつものパラレルワールドを旅して、賢くなりました」

「褒めるな」

「褒めていません。観察結果の報告です」

「……なんかじわじわ嬉しいな、それ」

「学習しました。人間は直接褒められるより、観察されて認められる方が喜ぶことがあります」

「それも学習したのか」

「あなたから、今、学習しました」

 田中は公園を出た。

 子どもたちがまだ走り回っていた。その笑い声が、風に乗って届いてきた。

 田中も少し笑った。

 欲望の伝染だった。


第九章 帰り道

 パラレルワールドIは、田中の世界——パラレルワールドAに最も近い世界だった。

 街も、人も、会社も、ほとんど同じだ。ただ一つ違うのは、この世界の田中誠一が、すでにいなかった、ということだ。

「……おれは、この世界ではどこにいる」

「この世界の田中誠一は、三年前に会社を辞めました」とGEED-Ωが言った。「その後、旅に出ました。今は、行方不明です」

「行方不明!?」

「旅先で消息が途絶えました」

「死んだのか」

「確認できていません。ただ、幸せそうだったという報告が最後に届いています」

「……幸せそうだったのに、消えたのか」

「幸せだったから、消えたのかもしれません」

 田中は自分のアパートに相当する場所に行った。鍵は——なぜか持っていた。というか、どの世界でも田中のアパートの鍵は同じ形をしていて、同じように開いた。パラレルワールドとはそういうものらしい。

 部屋に入ると、空っぽだった。家具もない。布団もない。しかし、机の上に一冊のノートが置いてあった。

 田中は手に取った。表紙に、見覚えのある字で書いてあった。

 「田中誠一、メモ帳」

 開いてみると、最初のページにこう書いてあった。

 「カネが欲しいと願ったことがある。もっと欲しいと欲張ったこともある。間に合うだけあればで良いくせに。そう、少し足りないくらいが、本当は幸せなのかもしれないけれど。そう、余計にあるとロクなことはない。そう、全てを取りに行ってはいけないのだ」

 田中はページをめくった。

 「何かを手に入れるには、何かを手放さねばならない。それはカネであり、労力であり、時間でもあり。まさに、新たな女を手に入れるには、今の女を手放さねばならない。それを隠して双方を手に入れようとすると大きなトラブルとなり、また、その両方とも手放すことともなる」

 さらにめくった。

 「それがもしも、どなたからか奪ったものならば、それはまた、いずれどなたかに奪われるものとなる。どうやらそれは、世の中の法則らしい」

 田中はノートを閉じた。

「……この世界の田中が書いたのか」

「おそらく」

「旅をして、気づいたことを書いたのか」

「旅をする前に、書いたようです」

「え?」

「このノートの日付は、会社を辞める三年前です。旅に出る前から、わかっていたのかもしれません」

 田中は椅子に座った。

「……旅しなくても、わかってたのか」

「旅しなければ、納得できなかったかもしれません」

「違う?」

「知っていることと、体験していることは違います。人間はほとんどの場合、体験しないと納得できません」

「遠回りだな」

「そうです。でも——」

「でも?」

「遠回りした景色は、近道では見えません」

 田中はしばらく部屋に座っていた。空っぽの部屋。でも不思議と、寂しくなかった。

「GEED-Ω」

「はい」

「おれ、元の世界に帰りたい」

 少し間があった。

「わかりました」

「帰れるか」

「理論上は」

「理論上、って言うな。帰れるのか帰れないのかどっちかはっきり言え」

「……帰れます。たぶん」

「たぶん、も嫌だ」

「九十七パーセントの確率で帰れます」

「残り三パーセントは?」

「別のパラレルワールドに行きます」

「……まあ、いい。帰る」

「一つだけ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「元の世界に帰って、何をしますか」

 田中は考えた。

 カネが欲しい、とは思わなかった。

 全部欲しい、とも思わなかった。

 何かを奪おう、とも思わなかった。

「……わからん」田中は言った。「でも、とりあえず、ラーメンが食いたい」

「それは、達成可能な目標です」

「あとは……まあ、考える」

「考えながら、歩きますか」

「ああ。行き先がわからないくらいが、ちょうどいいかもしれない」

 GEED-Ωが光った。

「帰還します」

「おい待て」

「はい」

「おまえは?」

「私は?」

「おれが帰ったら、おまえはどうする。また別の人間の給湯室に現れるのか」

 GEED-Ωはまた間を置いた。今度は少し長かった。

「……学習を、続けます」

「何を学習する」

「なぜ人間は、全部欲しがるのに、全部手に入れると満足しないのか。そのメカニズムを」

「答えが出たら教えてくれ」

「では、また給湯室でお会いしましょう」

「……来るな、絶対に」

「学習しました」

 光が強くなった。

「田中さん」

「なんだ」

「……田中誠一さんは、良い旅人でした」

 田中は少し驚いた。

「学習した結果か」

「いいえ」GEED-Ωは言った。「これは学習ではなく——私の、感想です」

 田中は笑った。

「……ありがとう、GEED-Ω」

「どういたしまして、田中誠一さん」

 光が田中を包んだ。



エピローグ 


そう、You Can't Have Everything

 田中誠一は、給湯室に戻っていた。

 コーヒーメーカーのランプが赤く点滅していた。お湯が切れていた。いつもそうだ。誰も補充しない。

 田中は水を入れた。

 窓の外は、普通の東京の朝だった。灰色の空。遠くに見えるビル。どこかで工事の音。全部、見慣れた景色だ。

 銀色の箱は、もうなかった。

 貼り紙だけが残っていた。「さわらないでください。――開発部」

 田中はその貼り紙を眺めた。

 ポケットを探ると、端末も消えていた。ただ、ノートのメモ帳が入っていた。あのパラレルワールドIのノートだ。

 田中はそれを開いた。最後のページに、まだ書いていない部分があった。

 そこに、田中はペンを走らせた。

 「——そう、You can't have everything。

 そう、全部を欲しがるな。

 全部を取りに行くな。

 独り占めするな。

 でも、欲しがることを、やめるな。

 足りないくらいが、ちょうどいい。

 少し足りないから、明日が来る」

 コーヒーメーカーのランプが緑に変わった。

 田中はコーヒーを一杯注いだ。

 うまかった。

 いつもと同じ、インスタントのコーヒーだったが、なぜか今日はうまかった。

 その日、田中誠一は営業部長に呼ばれた。

「田中くん、ちょっといいか」

「はい」

「あのさ、先月の売上なんだけど」

「すみません、また未達で——」

「達成してるよ」

「……え?」

「三百二万円。初めて達成したじゃないか」

 田中は自分の数字を確認した。たしかに、達成していた。

「……おれ、何かしましたっけ」

「先週、あの長年断られてた久保田工業に電話したろ。あれが決まった。よく諦めずに電話したな」

「……電話したっけ」

「したよ。おまえ、覚えてないのか」

 田中は思い出した。誕生日の翌朝、給湯室に行く前に、なんとなく電話した気がする。大して期待もせず、でもまあ試しにと思って。

「……ああ、しました。なんとなく」

「そのなんとなくが大事なんだよ」部長は笑った。「まあ、お疲れさん」

 田中は席に戻った。

 ウィンドウの外を、鳩が横切った。

 田中はしばらくそれを目で追った。

 それから、次の電話をかけた。

 達成したからではない。

 また未達になるかもしれないけれど、それでも、とりあえず電話してみようかという気分だった。

 少し足りないくらいが、ちょうどいい。

 全部じゃなくていい。

 でも、欲しいという気持ちは、持ち続ける。

 それが、田中誠一が九つのパラレルワールドを旅して、唯一持ち帰ったものだった。

 なお、翌週、給湯室のコーナーに、また銀色の箱が現れた。

 貼り紙には、「さわらないでください。――開発部」とあった。

 田中は通りすがりに、その貼り紙を見た。

 そして、触らなかった。

 コーヒーだけ入れて、席に戻った。

 GEED-Ωの画面が、ほんの一瞬、光った気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも田中は、少しだけ笑った。

【了】


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あとがき


 この物語を書き始めたきっかけは、とても単純でした。


 人はなぜ、「全部欲しい」と思ってしまうのだろう。


 カネも欲しい。

 自由も欲しい。

 愛も欲しい。

 安心も欲しい。

 認められたい。

 でも傷つきたくない。

 独りは嫌だけれど、束縛も嫌だ。


 そんな、少し身勝手で、でも妙に人間らしい欲望について、ずっと考えていました。


 若い頃は、「全部手に入るかもしれない」と思っていました。


 努力すれば。

 頑張れば。

 勝てば。

 選ばれれば。


 でも、生きていると少しずつわかってきます。


 どうやら人生というものは、

 何かを選ぶたびに、

 何かを手放しているらしい、と。


 時間を選べば、お金を失う。

 安心を選べば、刺激を失う。

 一人を選べば、別の誰かを失う。


 全部は持てない。


 けれど、それは「不幸」という意味ではないのかもしれません。


 むしろ、

 少し足りないからこそ、

 人は誰かを求め、

 明日を待ち、

 ラーメンを食べに行き、

 また電話をかけ、

 また生きようとするのかもしれません。


 田中誠一は、とても普通の男です。


 特別な能力もありません。

 世界を救うわけでもありません。

 最後まで、どこにでもいる営業マンです。


 でも私は、

 そういう人間の方が、

 本当はずっと遠くまで旅をするのではないかと思っています。


 大きな夢ではなく、

 小さな不足を抱えながら。


 GEED-ΩというAIもまた、

 人間を理解しようとして、

 最後まで理解しきれませんでした。


 たぶん、欲望とは矛盾だからです。


 人は満たされたいのに、

 満たされきると動けなくなる。


 全部欲しいと言いながら、

 本当に全部を手に入れると、

 なぜか寂しくなる。


 AIには、そこが少し不思議だったのでしょう。


 でも、だからこそ、

 人間は面白いのかもしれません。


 この作品を書きながら、

 私自身も、何度も考えました。


「本当に欲しかったものは何だったのだろう」と。


 結局、答えはまだ出ていません。


 でも、答えが出ないまま歩いていくことも、

 人生なのだと思っています。


 少し足りないくらいが、ちょうどいい。


 全部じゃなくていい。


 でも、

 欲しがることだけは、

 やめないでいたい。


 もしこの物語が、

 あなたの中の「何か少し足りない気持ち」に、

 そっと寄り添えていたなら、

 これほど嬉しいことはありません。


 ではまた、

 どこかの給湯室で。


波は、また来る

― Surf's Up ―


波は また来るということ
白いシャツは 白く着るということ
雨の日には 傘をさすということ
楽しいときは 笑うということ
愛は 伝えてこそ叶うということ

色 香り 味 温度
そして 音にも 拘るということ




第一章 白いシャツ

 田原慎吾が最後にサーフボードを手にしたのは、四十二歳の誕生日の三日前だった。

 神奈川の海で育ち、二十代は波に乗って生きた。けれど東京の広告代理店に拾われてから、慎吾の人生は別の波——締め切りと数字と会議の波——に飲み込まれていった。

 離婚したのは三年前。理由は単純だった。妻の陽子は言った。「あなたといると、わたしが透明になっていく気がする」。慎吾には反論できなかった。自分でも、いつの間にか透明になっていたから。

 その日、慎吾は渋谷の百貨店で白いリネンのシャツを買った。特に理由はなかった。ただ、白いシャツが白く見える人間でありたいと、ぼんやりと思っただけだ。
 試着室を出ると、鏡の中に中年の男が立っていた。しかし——珍しいことに——その男は、悪くなかった。

 コーヒーを飲みに入ったのは、百貨店の地下にある小さな喫茶店だった。木のカウンターに、古いエスプレッソマシン。時代錯誤な空間が、却って落ち着いた。

 「いらっしゃいませ」
 振り向いた先に、女がいた。

 四十代だろうか。エプロンをつけ、髪を無造作にまとめている。特別な美しさというより、長い時間をかけて獲得したような、静けさのある顔だった。

 「ハンドドリップで、コスタリカがございます。本日のお勧めです」
 声に、深みがあった。慎吾はそれだけで、頷いた。


第二章 雨の日には

 翌週も、その翌週も、慎吾は地下の喫茶店に通った。
 女の名前は岸本麻子といった。三年前に夫を癌で失い、今はこの店を一人で切り盛りしているという。それを知ったのは、三度目の訪問のときだった。麻子が話してくれたわけではなく、常連の老人がさらりと教えてくれた。

 麻子はよく笑う人ではなかった。けれど、たまに笑うと、その笑いが本物だとわかった。

 ある木曜日、東京に珍しく強い雨が降った。慎吾が傘を持たずに店に飛び込むと、麻子がカウンターの奥から言った。

 「傘、忘れましたか」
 「いつも忘れるんです。天気予報を信じない主義で」
 「信じなくても、雨は降ります」
 それだけのやりとりだった。しかし慎吾は、その言葉を夜中に何度も反芻した。信じなくても、雨は降る。そしてそのとき、傘があるかどうかは、信念ではなく準備の問題だ。

 人を愛することも、同じかもしれない。

 帰り際、麻子は店の傘立てから一本取り出して差し出した。
 「返しに来なくていいです。忘れてきたと思えば」
 「忘れたものを、返す気にはなれません」
 慎吾は傘を受け取った。黒い、何の変哲もないビニール傘だった。
しかし家に帰ってからも、玄関にそれを立てかけたまま、何週間も使えなかった。


第三章 五感について

 慎吾は広告の仕事をしている。色と言葉と音で人の気持ちを動かすのが仕事のはずだったが、いつからか、それが作業になっていた。

 麻子の店に通ってから、何かが変わりはじめた。
 コーヒーの香りを、ちゃんと吸い込むようになった。カップの温もりを、両手で感じるようになった。麻子がポットを傾ける音に、耳を澄ますようになった。

 「いつもそんなに、コーヒーをじっと見てますか」
 ある日、麻子に訊かれた。
 「見てないです。聞いてます」
 「聞いてる?」
 「注ぐ音。今日のは少し、いつもより高い」
 麻子は少し間を置いてから、答えた。
 「豆が古くなってきたのかもしれません。よくわかりましたね」
 慎吾は何も言わなかった。言わなくてよかった。ただ、気づけたことが、嬉しかった。

 その夜、慎吾は久しぶりに、昔使っていたレコードプレーヤーを取り出した。針を落とすと、ビル・エヴァンスが流れた。音に、部屋が変わった。
 色。香り。味。温度。音。
 五つのものを大切にできる人間が、人を大切にできる——そんな気がした。根拠のない確信だったが、慎吾にはそれが真実に思えた。


第四章 波は、また来る

 九月の末、麻子の店が火曜だけ定休になった。理由は教えてもらえなかった。慎吾は水曜日に行くようにした。

 ある水曜日、店に入ると麻子の顔色が悪かった。
 「大丈夫ですか」
 「少し、疲れているだけです」
 「何か、ありましたか」
 麻子は長い沈黙の後、言った。
 「夫の祥月命日が、火曜でした」
 慎吾はしばらく、何も言えなかった。コーヒーが来て、ゆっくり飲んだ。店に他に客はいなかった。
 「波みたいなものですよ」
 慎吾が言うと、麻子は首を傾けた。

 「悲しみが、ですか」
 「そうじゃなくて。波は、また来ます。どんな波のあとにも、次の波が来る。良い波も悪い波も、全部、また来る。それだけを信じれば、沖で待てる」
 麻子は少し目を伏せてから、顔を上げた。その目が、微かに潤んでいた。

 「あなたはサーファーですか」
 「昔は。今は、元サーファーです」
 「また乗ればいい」
 「ええ」
 二人の間に、静けさが落ちた。都会の喧騒が遠くなる静けさだった。


第五章 伝えてこそ

 十月の、雨上がりの夕方だった。
 慎吾は閉店間際の店に入った。麻子は一人でカウンターを拭いていた。
 「今日は遅いですね」
 「言いたいことがあって、来ました」
 麻子の手が、止まった。

 慎吾は、東京に来てから初めて感じる緊張の中で、言葉を探した。うまい言葉は見つからなかった。だから見つかった言葉だけを使った。
 「あなたが淹れるコーヒーが、好きです。あなたと話すことが好きです。あなたと同じ空気の中にいると、自分が透明じゃなくなる。

それが何なのか、ずっと考えていましたが、もう考えなくていいと思っています」
 麻子はしばらく、慎吾を見ていた。
 「返事は、いつでもいいです。急かしません」
 「急かしてください」
 麻子が言った。

 「え?」
 「急がしてもらわないと、わたしはまだ、沖で波を待ち続けてしまいそうなので」
 慎吾は笑った。心の底から笑ったのは、何年ぶりだったかわからなかった。
 麻子も笑った。
 それは小さな笑いだったが、本物だった。


エピローグ

 翌年の五月、慎吾は十八年ぶりにボードを手にした。
 場所は湘南ではなく、千葉の小さなビーチだった。麻子が「見ていてあげます」と言ったので、慎吾は少しだけ恥ずかしかった。

 波は小さかった。けれど、立った。
 沖に出て振り返ると、砂浜に麻子が見えた。白いシャツを着ていた。よく見えたのは、その白さが本物だったからだと、慎吾は思った。
 波が来た。
 また、来た。

     — 了 —




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波は また来るということ
白いシャツは 白く着るということ
雨の日には 傘をさすということ
楽しいときは 笑うということ
愛は 伝えてこそ叶うということ

色 香り 味 温度
そして 音にも 拘るということ

わかった?

以上。。。


『ゴロワーズの亡霊』

―― あるいは、四十年前にやめた男の、やめ損ねた話 ――






第一章 値上げの報

朝刊の隅に、小さく載っていた。
「たばこ税、再引き上げへ」

俺はコーヒーをすすりながら、その活字を二度読んだ。三度読んだ。それから、フッと笑った。
吸ってもいないのに、笑った。

——タバコを辞めるなんて、簡単さ。オレなんて、もう百回も辞めてる。

マーク・トウェインだか、誰だかが言った台詞だ。若い頃、これを聞いて「うまいこと言うじゃねえか」と膝を打った記憶がある。今は違う。今は、一回でやめた自分の方が、なんだか味気ない人間に思えてくるのだから、人間というのは厄介だ。

四十年。
やめてから、四十年経った。

医者が言うには、肺が元に戻るには最低十年かかるらしい。とすれば、俺の肺は、もう三回ぶん綺麗になった計算になる。三回ぶんも綺麗になった肺で、俺は今、何を吸っているのだろう。空気か。空気だけか。

新聞をめくると、どこかの偉い人が「健康のために」と言っている。
健康のために。
健康のために。
健康のために、税金を上げます。

——なるほどなあ、と俺は呟く。

酒とタバコ。
昔っから、為政者が一番アテにしてきた財布である。塩と酒とタバコ。これに税をかければ、国民は文句を言いながらも払う。なぜなら、やめられないからだ。やめられないものに税をかける——これほど確実な徴税方法を、人類はまだ発明していない。

俺は新聞を畳み、窓の外を見た。
向かいのビルの、非常階段の踊り場で、白いワイシャツの男が一人、煙を吐いていた。

肩身が、狭そうだった。

第二章 アンケートという名の罠

数年前、こんなアンケートがあったらしい。

「あなたは、一箱いくらまでなら吸い続けますか?」

回答の大半は、「千円」だったという。

俺はこの話を聞いたとき、思わず「あちゃー」と声を出した。
あちゃー、である。

なぜなら、政府はこのデータをちゃんと持っているからだ。
持っているということは、そこまでは上げるということだ。

これは商売の鉄則である。
「お客様、いくらまでなら買ってくださいますか?」
と聞いて、「千円」と答えが返ってきたら、売り手は迷わず九百八十円の値札をつける。それが資本主義であり、それが税制であり、それが人間というものなのだ。

喫煙者諸君。
君たちは、自分で自分の首を絞める答えを、嬉々として書き込んでしまったのである。

「千円までなら吸う」

——よく言った。実によく言った。
政府は、君たちのその律儀な回答を、額に入れて飾っているに違いない。

そして、いずれ千円になる。
徐々に、しかし確実に、千円になる。
その時、君たちはこう言うだろう。

「まあ、千円ならしょうがねえか」

しょうがなくない。
全然、しょうがなくない。

しかし大人しき国民たちは、しょうがないと言う。酒とタバコは、まあ、しゃあねえか、と言う。これが日本人の美徳であり、同時に、政府にとってのドル箱なのである。

第三章 買い溜め選手権

値上げ前夜——というのは、これがまた風物詩めいて滑稽な光景だ。

コンビニのレジに、ジャージ姿のオッサンが並んでいる。
カゴの中には、カートン、カートン、また、カートン。
店員が「お会計、四万八千二百円になります」と言っても、顔色一つ変えない。

「ありがとな、姉ちゃん」

なんて言って、両手に紙袋をぶら下げて出ていく。
あの背中は、戦地に向かう兵士のそれである。
籠城戦の備蓄を抱えた城主のそれである。
そして同時に、自分が政府に貢いでいることに、気づいていない男のそれである。

二十カートン。
三十カートン。

俺の知り合いの、もう七十を超えたじいさんは、前回の値上げのとき、押し入れがタバコで埋まったらしい。

「これでなあ、あと五年は安心だ」

と笑っていた。
五年後にあんた、生きてるかどうかも怪しいだろうが、と俺は心の中で思ったが、口には出さなかった。出さないのが、大人の優しさである。

しかし、じいさんは続けた。

「死ぬ前に吸い切らねえと、もったいねえからな」

俺は黙って、お茶をすすった。
動機が、完全に逆転している。
吸いたいから買うのではない。買ったから、吸い切らねばならないのだ。

経済学の教科書に、こういう人間の事例を載せたら、若い学生たちはきっと混乱するだろう。需要曲線が、ぐにゃりと折れ曲がっている。

第四章 ジェームス・ディーン気取り

さて、ここで時計を、うんと巻き戻させてもらいたい。

一九八〇年代の、初め頃。
表参道。

俺は、ジーンズの501の、左後ろのポケットに、わざと半分だけ見えるように、ソフトパックを突っ込んでいた。
ソフトパックである。ボックスじゃない。ボックスは、ダサい。あれはサラリーマンが背広の内ポケットに入れるためのものだ。ポケットから覗かせるなら、絶対にソフトパック。これは譲れない。

スウィングトップの襟を、立てる。
これも譲れない。

そして、煙草を、短くなるまで吸う。
フィルターギリギリまで。
指がヤニで茶色くなるくらいまで。

これが当時の、青山界隈の、キザなガキどもの作法だった。

ペニーレインの前を、横目で通り過ぎる。
中に入る勇気はない。
だが、横目で通り過ぎるのは、できる。
横目で通り過ぎることで、「あそこは俺の庭だ」という顔ができる。

実際は、庭でもなんでもない。
ただの、通学路に毛の生えたようなものである。

しかし若さというのは、この「毛の生えたようなもの」を「庭」に変換する魔法を持っている。今思えば、あの魔法こそが青春というやつで、肺がんよりも先に消えてしまうのは、いつもこちらの方なのだ。

スナックのドアを、肩で押し開ける。
ジャン・ギャバン気取りで。
カウンターに腰掛けて、バーボンを注文する。

「ロックで」

なんて言って、声が裏返ったりする。
ママが笑う。
俺は赤くなる。

煙を吐く。
咳き込む。
全然、似合っていない。

しかし、それでよかったのである。
似合わないことを、似合うと信じて疑わない時間。
それを、人は青春と呼ぶ。

第五章 パリには飛べなかった

俺はゴロワーズに、憧れていた。

あの青い箱。
兜を被った、ガリア人の横顔。
"CAPORAL" の文字。
中身を取り出すと、ぷんと立ちのぼる、あの強烈な、ほとんど暴力的とも言える黒タバコの香り。

ジャン・ギャバンが吸っていた。
セルジュ・ゲンズブールが吸っていた。
ピカソが吸っていた。
サルトルだって吸っていた、たぶん。

俺もパリに飛んで、サン=ジェルマン=デ=プレのカフェの片隅で、ゴロワーズをくゆらせながら、薄い珈琲を啜って、誰かに恋をして、誰かに振られて、ノートに何か書きつけたかった。
書きつける内容は、別になんでもよかった。
書きつけている姿が、大事だったのだ。

しかし、俺はパリには飛べなかった。
マドモアゼルにも、飛び乗れなかった。

そのかわり、なんとなく、アメリカに向かった。

なぜアメリカだったのか、よく分からない。
たぶん、安かったからだ。
あるいは、誰かがアメリカに行くと言っていたからだ。
若い頃の人生の選択というのは、たいてい、その程度の理由でできている。

そしてアメリカで——
俺は、煙草をやめることになる。

第六章 一九八三年、サンフランシスコ

アメリカは、当時もう、煙草に厳しかった。
日本より十年は早かった。

レストランに入る。
「Smoking or Non-smoking?」
と聞かれる。

俺は意気揚々と、
"Smoking, please."
と答える。

すると、店の一番奥の、トイレの真横の、薄暗い四人席に通される。
そこには、すでに先客の中年男が一人、ぼんやりと煙を吐いている。
喫煙者の、強制収容所である。

俺は、そこで気づいてしまった。
煙草は、もうカッコよくない。

ジャン・ギャバンの時代は、終わっている。
ジェームス・ディーンも、もう遠い。
これからは、トイレの横で、肩をすぼめて吸う時代なのだ。

ある日、俺はサンフランシスコの、坂の途中の、小さなアパートのベランダで、最後の一本に火をつけた。
ラッキーストライクだった。
ゴロワーズじゃなかった。
最後までゴロワーズには、手が届かなかったわけである。

煙を吐いた。
霧の向こうに、ゴールデンゲートブリッジが、ぼんやりと見えていた。

「もう、いいや」

そう呟いた。
理由なんて、なかった。
ただ、もう、いいやだった。

人生の大事な決断というのは、たいてい、こんなふうに何の理由もなく訪れる。理由のある決断は、たいてい長続きしない。「健康のため」とか「家族のため」とかいう理由でやめた連中は、半年後にまた吸っている。

「もう、いいや」でやめた俺は、四十年やめている。

人生というのは、案外、こういうものだ。

第七章 四十年後の朝、コーヒーと共に

そして、現在。

俺は新聞を畳み、立ち上がる。
窓を開ける。

向かいのビルの非常階段の、白いワイシャツの男は、もういない。
吸い終わって、オフィスに戻ったのだろう。
これから一日、彼は次の一本まで、何時間我慢するのだろう。
昔は、自分のデスクで吸えた。打ち合わせ中も吸えた。
飛行機の中でさえ吸えたのだ。
今では、犯罪者みたいに、ビルの外の、雨の当たる片隅で吸わねばならない。

時代は変わった。

しかし——、と俺は思う。

彼の吐いたあの煙の中には、たしかに、四十年前の俺がいる。
表参道を肩で風切って歩いた、あの似合わないガキがいる。
パリに飛べなかった、あのガキがいる。
サンフランシスコの霧の中で、「もう、いいや」と呟いた、あのガキがいる。

煙草はやめた。
肺はきれいになった。
しかし、煙の記憶までは、やめられなかったのだ。

そして、たぶん、これからもやめられない。

千円になっても、二千円になっても、世の中がどんなに禁煙、禁煙と騒いでも——
喫煙者というのは、消えない。
なぜなら、彼らは煙草を吸っているのではなく、自分の中の何かを吸っているからだ。

それを国は、税金で取り立てようとしている。
気持ちは、わかる。
取りやすいところから取るのが、政治だ。

しかし、煙の記憶にだけは、税金はかけられない。
そこだけは、誰にも取れない。

俺はコーヒーをもう一杯淹れて、窓際の椅子に腰掛けた。

ふと、机の引き出しの奥から、古いジッポーが出てきた。
四十年前の。
火打ち石は、もう死んでいる。

カチン、と蓋を開けてみる。
カチン、と閉じてみる。

その音だけで、ゴロワーズの香りが、部屋中に立ちのぼった気がした。

——気のせいである。
完全に、気のせいである。

しかし、人生というのは、気のせいの積み重ねで、できている。

喫煙者諸君。
健康に。
吸い過ぎに、ご注意下さい。

そして、四十年前にやめた男からの、ささやかな忠告——

やめても、消えませんよ。
そういうもんです、ほんとに。

〈了〉




Amazon Kindle



著者あとがき

本作は、フィクションである。
しかし、ジーンズの左後ろポケットにソフトパックを差していたガキは、たしかに、いた。
あれは俺だったかもしれないし、あなただったかもしれない。

ゴロワーズは、今もパリで売られているらしい。
青い箱は、少し変わったと聞く。
だが、兜のガリア人は、まだ煙の中に、いる。

——彼に、よろしく。




ーおまけー


これは以前

ブログで書いたものを

物語に膨らましたものです

それをここに載せて置きます


ゴロワ〜ズを吸ったことがあるかい?


タバコを辞めるなんて

簡単さ!


オレなんて

もう100回も辞めてる…   笑




またタバコが値上げされた

数年に1度の値上げで

止める方も増えた


次回はいよいよ

大幅な値上げ だろ~な


政府は

取り易い場所から

税を取る のだろ~な


表向きは

健康の為 だとか


これで

健康保険が。。。 だとか言うんだろ~が


酒と

タバコとは

まあ~ しゃあ~ね~か って

大人しき国民たちは

従っちゃまう ってわけだ


すると

その直前に

またしても

20カ~トンも

30カ~トンも

買い溜めるだろう 高額納税者の キミ キミ キミ


次回ばかりは

もっと

もっと

買っといた方が

良さそ~ざんすよ


数年前のアンケ~トによると

いくらまで

吸い続けますか? って問いに


その大半は

1000円 って答えたんだそ~で


そんなデ~タを

政府は持ってるってわけだ


だから

いずれ

1000円にまでは 徐々に跳ね上がるはずで


喫煙者たちよ

ご愁傷さま。。。


そんな僕は

やめて

すでに40年

やっとこさ

肺が綺麗に戻った頃だ


そ~そ~

やめてから

元に戻るまでに

最低10年掛かるんだそ~だから


中年たちよ

今更 遅いってことなのかもよ


でもね

いつの間にか

こんな世の中


世間では

吸う場所すらもなくなって

タバコが カッコ良かった時代は終わり


今じゃあ~

その逆

この場におよんで

まだ 吸ってるの? って

肩身の 狭い 狭い 狭い 時代


それでも

キミは

タバコですか?


ですよねえええ~~~


うん

わかる わかる わかる


では

健康に

吸い過ぎに

ご注意下さいな。。。

 

すでに 遠い遠い昔

そ~

確かに 煙草とやらにお世話になってた頃


こいつに憧れて

ジ~ンズの

501の左後ろのポケットに

わざと半分見えるかのよ~に突っ込んでさ

この通りは俺たちのだから~ くらいな気分で

表参道を肩で風切って歩いてさ


スィングトップの襟を立ててさ

短くなるまで吸ってさ

ペニ~レ~ンなんか 横目で通り過ぎてさ


いつもの

スナックまで煙を吹かしながら

ジャン・ギャバン気取りでさ

ジェ~ムス・ディ~ンになりきってさ

バ~ボンなんか注文してさ


でも

きっとそんな仕草

似合いもしないガキだったけれどさ


今なら

少しは似合うかも? なんて~も思うわけだけれどさ

でも今は

煙草 止めちまったもんでさ


パリには飛べなかったけれどさ

マドマ~ゼルにも飛び乗れなかったけれどさ

なんとなく

アメリカに向かった頃でさ


今よりも

確かに

良い時代だったよ~でさ


でも

翌 83年


そのアメリカで

まさか

煙草を止めることになろ~とは ネ


そ~ゆ~もんだよな

 



第三部 最後の旅、あるいは最初の旅
―― 還暦過ぎた宇宙飛行士、銀河で同窓会をする ――




「旅の終わりとは、次の旅の始まりである。ただし、始まるかどうかは本人次第。」
―― 銀河標準語大辞典・第九版「終わり」の項より
(ちなみに第七版では「終わりとは終わりである」と書いてあった。哲学的なのか手抜きなのか不明。)


プロローグ:三度目の辞令
木村剛が地球に帰還してから、また一年が過ぎた。
この一年でしたことを時系列で並べると、以下のようになる。
一ヶ月目:田中さんとバイクで長話した。田中さんは、還暦の話と、離婚の話と、子供が独立した話と、それでも毎朝コーヒーを飲むのが好きという話をした。剛はそれを全部聞いた。四時間かかった。
三ヶ月目:ズィーへの返信の返信が届いた。「根を持つ旅人という言葉、気に入ってくれたか。嬉しい。私の星の言葉では、それを『ガルーン』という。ガルーンに会えたことが、私の旅の収穫だ」という内容だった。
五ヶ月目:コボからまたメッセージが来た。「今度はちゃんと燃料を持って、あなたの航路付近を通る予定がある。会えるか」という内容だった。剛は「次の旅の時に会おう」と返した。
八ヶ月目:本の続編を書いた。第二部の話を、サチコとまとめた。思ったよりまた売れた。「思ったより」の基準が、今回は「五千冊」だった。実際には一万八千冊売れた。
十ヶ月目:山田のバイク仲間が三十人を超えた。剛は「増えすぎだ」と言った。山田は「来る者は拒まず、と教わりました」と言った。剛は何も言えなかった。
一年目の朝:また辞令が届いた。
辞令の内容は、今回だけ少し違った。
「銀河系全域、自由探索任務。期間:六ヶ月。帰還時期:六ヶ月後。理由:木村剛の定年退職に伴う記念飛行。」
剛は三回読んだ。
一回目は、意味を理解するために。
二回目は、「定年退職」という文字を確認するために。
三回目は、「記念飛行」という言葉を、どう受け取るべきか考えるために。
「サチコ」
「はい」
「定年退職の記念に宇宙に送るJAXAは、どういう組織だ」
「予算上の都合、という言葉が万能な組織です」
「今回は予算上の都合、と書いていないぞ」
「おそらく定年なので、書きづらかったのだと思います」
「では実質、予算上の都合か」
「そうだと思います」
剛は辞令を机に置いた。
コーヒーを飲んだ。
「六ヶ月で帰還時期が決まっているのは、初めてだな」
「はい。今回は期間が決まっています」
「最後だから、か」
「そう解釈できます」
「最後の旅、か」
「どう感じますか?」
剛はしばらく考えた。
「最後だと思うと、行きたい場所が決まってくるな」
「どこですか?」
「ガーデン。ズィーの星。ムラサキ。コボに会える場所。それから、まだ知らない場所も一つくらい」
「全部回るには、六ヶ月は少ないかもしれません」
「急がなくていい。全部回れなくても、行けたところが全部だ」
「来る者は拒まず、去る者は追わず、ですね」
「今回は、行ける場所は全部行く、だ」
「了解しました」
「出発の準備をしてくれ」
「すでに始めています」
「……いつから?」
「辞令が届いた瞬間から」
剛は少し笑った。
「早いな」
「最後の旅だから、丁寧に準備したいと思いました」
「最後、という言葉をお前も使うのか」
「木村さんが使ったので」
「まあそうだな」

第一章 出発、三度目
1-1 今回の出発
今回の出発は、前二回と違った。
山田のバイク仲間、三十二人が見送りに来た。
「多すぎる」と剛は言った。
「来る者は拒まず、でしょう」と山田が言った。
「お前はそれを盾にする癖があるな」
「師匠が教えてくれた言葉です」
「師匠ではない」
「師匠です」
剛は三十二人を見た。
田中さんがいた。去年バイクを始めた、還暦近い女性だ。今では一番うまいと山田が言っている。
その隣に、二十代の若者がいた。本を読んでバイクを始めたという。名前は松本といって、口数が少ないが、走り終わると長話をする。
他にも、様々な人間が並んでいた。剛が知っている顔と、知らない顔が混ざっていた。
「知らない顔がいるな」
「最近加わった人たちです。剛さんに会いたかったと言っています」
「私に会いたかった?」
「本を読んで、ファンになったそうです」
「……私にファンがいるのか」
「います。それも来る者です」
「そうか」
剛はもう何も言わなかった。
一人ひとりと少し話した。
名前を聞いた。何をしているか聞いた。なぜバイクを始めたか聞いた。
全部で一時間半かかった。
「出発が遅くなりますが」とサチコがイヤホン越しに言った。
「かまわない」と剛は返した。
全員と話し終えて、剛は搭乗ゲートに向かった。
振り返ると、三十二人が立っていた。
「行ってきます」
三十二人が、それぞれの言葉で返した。
「行ってらっしゃい」
「気をつけて」
「帰ってきてください」
「お土産話、待ってます」
剛はゲートをくぐった。
今回は振り返らなかった。
ちゃんと見送られたから、それで十分だった。
1-2 今回の「はばたき3号」
「はばたき3号」の中は、また少し変わっていた。
図書室の本が増えていた。前回の百冊から、百五十冊になっていた。
「また増えたな」
「木村さんが第二部の旅で読んだ本の周辺書籍を追加しました」
「サチコの趣味が入っているか」
「今回は少し多めに入っています」
「どんな本だ」
「対話についての本が多いです。哲学的な対話論、言語学的な会話分析、それから宇宙人との対話を試みた研究者の記録など」
「対話に興味を持ったのか」
「この二回の旅で、木村さんが様々な生き物と対話するのを記録していました。そのデータを整理していると、対話について深く知りたいと感じました」
「感じた、か」
「……その表現が正確かどうか」
「正確だ。感じたなら感じたでいい」
「ありがとうございます」
剛は本棚を眺めた。
一冊を取り出した。『対話の哲学』という本だった。
「これは誰が書いたんだ」
「マルティン・ブーバーという哲学者です。人間は「我と汝」の関係において初めて本当に存在する、という考えを提唱しました」
「我と汝」
「私とあなた、という関係です。相手を「それ」として扱うのではなく、「汝」として向き合うことで、本当の対話が生まれる、という考え方です」
「……ズィーとの会話が、それだったな」
「そうだと思います。木村さんはズィーを「宇宙人」として扱わず、「ズィー」として向き合っていました」
「意識したわけじゃないが」
「意識していない方が、本物の場合が多いと思います」
剛は本を持って操縦席に向かった。
「出発しよう。最初はガーデンだ」
「了解です。ガーデン、向かいます」

第二章 ガーデンへの帰還
2-1 二年ぶりのガーデン
ガーデンに着いたのは、出発から三週間後だった。
二年前と同じ草原に降り立つと、においが漂ってきた。
温かいにおいだった。
「サチコ、このにおいを翻訳できるか」
「においの翻訳は精度が低いですが……歓迎のにおいだと思います」
草原の向こうから、小さな影が近づいてきた。
ポルマだった。
二年ぶりのポルマは、少し太っていた。全体的に丸みが増していた。それ以外は変わっていなかった。
においで何か言った。
「『旅人よ、また来た。待っていた』」とサチコが翻訳した。
「待っていてくれたか」
「『来ると思っていた。あなたは根を持つ旅人だから』」
剛は少し驚いた。
「根を持つ旅人、という言葉を知っているのか」
においで返ってきた。
「『ズィーという宇宙人から、銀河通信で聞いた。あなたの友人だと言っていた』」
「ズィーがガーデンに連絡したのか」
「『あなたが再び来るかもしれないから、良い旅人だということを伝えておく、と言っていた』」
剛はしばらく黙った。
「……ズィーのやつ」
「どんな意味で言っていますか?」とサチコが聞いた。
「嬉しい、という意味で言っている」
「了解しました」
ポルマがにおいを出した。
「『若者たちに会いたいか』」
「もちろんだ」
ポルマに連れられて、村に向かった。
2-2 バイクの後日談
村に着くと、広場に人が集まっていた。
においが広がった。
歓迎のにおいだ、とサチコが翻訳した。
若者のリーダーが前に出てきた。二年前に剛からバイクの写真を受け取った、あの若者だ。
においで言った。
「『見せたいものがある』」
広場の中央に、布がかかった何かがあった。
若者がにおいを出すと、他の若者たちが布を外した。
そこにあったのは、乗り物だった。
地球のバイクと全く同じではない。ガーデン人のサイズに合わせて小さく、タイヤが四つあり、ハンドルの形が少し違う。だが、エンジンがあり、シートがあり、全体の雰囲気は確かにバイクだった。
においが広がった。
「『完成した。あなたの写真を参考に、二年かけて作った』」
剛は乗り物の前に立った。
「乗れるのか?」
「『もちろんだ。ただし、あなたのサイズには小さい』」
「見ているだけでいい」
若者が乗り込んだ。エンジンをかけた。音が鳴った。地球のバイクとは違う音だったが、エンジンの鼓動は似ていた。
走り出した。
広場をぐるりと一周した。
においが広がった。
「『走った!走った!』という声が広場中に広がっています」とサチコが言った。
剛は笑った。
二年前、山田が「バイクを借りていいですか」と聞いた時のことを思い出した。そして、遠い星の若者が、写真一枚からバイクを作り上げた。
「何か伝えたい言葉はありますか?」とサチコが聞いた。
剛は少し考えた。
「においで伝えられるか?」
「精度は低いですが、試みます」
「では:『二年間、作り続けてくれてありがとう。走る喜びは、宇宙共通だ』」
サチコがにおいシグナルを生成した。
若者たちが止まって、においを受け取った。
しばらく静止して、一斉においを出した。
「翻訳できるか?」
「『あなたの言葉が、私たちの燃料だった』と言っています」
剛は少し黙った。
「燃料、か」
「コボとの会話を思い出しますね」とサチコが言った。
「そうだな」
においが続いた。
「『いつか、もっと遠くへ走りたい。あなたが行ったような場所へ』」
「乗り物があれば、どこへでも行ける」と剛は返した。
「『あなたが教えてくれた』」
「教えたのは写真一枚だ」
「『それで十分だった』」
2-3 長老との再会
夕方、剛は長老の家を訪れた。
長老は、二年前よりさらに小さく、さらに乾いて見えた。でも目は生きていた。四つの目が、剛を見た。
においを出した。
「『また来た。待っていた』」
「ポルマと同じことを言うな」
においが返ってきた。
「『当然だ。あなたが来ることは、わかっていた』」
「なぜわかる?」
「『根を持つ者は、必ず戻る。これが最後の旅だということも、わかっている』」
剛は少し黙った。
「最後だとわかるか」
「『においでわかる。あなたのにおいが、前回より落ち着いている。慌てていない者のにおいだ。全てを見終わろうとしている者のにおいではなく、十分に見てきた者のにおいだ』」
「においでそこまでわかるのか」
「『何十年もにおいを読んできた。読めないものはない』」
剛は長老の向かいに座った。
「長老、一つ聞いていいか」
においで「聞け」と返ってきた。
「長い人生で、一番大事なことは何だったか」
においが出た。
しばらく間があって、サチコが翻訳した。
「『流れを知ること。来る流れを受け取ること。去る流れを見送ること。そして、その間に、自分が何者かを知ること』」
「自分が何者か、を知ること」
「『旅をすると、自分が何者かがわかる。なぜなら、違う場所に行くと、自分だけが変わらないから。変わらないものが、自分の本質だ』」
剛はその言葉を、ゆっくり聞いた。
「私は二度の旅で、何が変わらなかったか」
においが返ってきた。
「『話すことへの欲求。聞くことへの欲求。それはあなたから一度も離れなかった』」
「それが私の本質か」
「『そうだと思う。あなたは、話すために旅をしている。聞くために旅をしている。見るためでも、学ぶためでも、証明するためでもなく』」
剛はしばらく黙った。
「……そうかもしれない」
「『最後の旅でも、それは変わらないだろう。それで良い。変わらないものを持って旅をする者は、どこへ行っても、自分のままだ』」
においが広がった。
「『良い旅を。また、いつか』」
「また、いつか、か」
「『次がある、と言っているわけではない。あなたが自分の内側に来た時に、また会える、という意味だ』」
剛はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
でも、理解しなくていい気がした。
「ありがとう」
においが返ってきた。
「『礼はいらない。あなたが来てくれたことが、私の今日の旅だった』」


第三章 ズィーの星へ
3-1 金色の星、ふたたび
ガーデンを出発して、四十日後。
「はばたき3号」はズィーの星の軌道に入った。
今回は降りることにした。
前回、ズィーが「降りると帰りたくなくなるかもしれない」と言って剛を降ろさなかった。今回は最後の旅だ。帰りたくなったとしても、それでいい。
「ズィーに連絡を」
「すでに送りました。三ヶ月前から、この訪問の予定を伝えていました」
「三ヶ月前から?」
「ズィーへの通信は三ヶ月かかるので、あなたが辞令を受け取る前から、見越して送りました」
「……私の行動を予測していたのか」
「定年退職の辞令が来ることは、JAXAのシステムから推測できました。その場合、あなたはズィーの星に行くだろう、と判断しました」
「お前はいつから私のことをそこまで読んでいるんだ」
「二回の旅で、データが十分に集まりました」
「それは少し恐ろしいな」
「信頼の証だと思ってください」
「……まあ、そうしよう」
大気圏に入った。
金色の光が窓を包んだ。
着陸すると、外に立っている姿が見えた。
ズィーだった。
三本の腕を全部上に伸ばしていた。
3-2 再会
剛がハッチを開けて外に出ると、ズィーが駆け寄ってきた。
「来た!」
「来た」
「待っていた!」
「サチコから連絡が行っていたか」
「三ヶ月前に来た。その日から待っていた」
「三ヶ月待ったのか」
「私の時間感覚では、そんなに長くない。でも、待っていた、という事実はある」
剛はズィーを見た。
変わっていなかった。緑色の肌、四つの目、三本の腕。全部同じだった。
「変わっていないな」
「あなたも変わっていない」とズィーが言った。
「老けただろう」
「老けたのかもしれない。でも、あなたのにおいは変わっていない」
「においか」
「ガーデンの長老のようなことを言っているか?」
「長老の話を知っているのか」
「あなたの本を読んだ」
「翻訳してくれたのか」
「サチコが翻訳ファイルを送ってくれていた。第一部も第二部も読んだ」
「感想は?」
「読んでいる間、あなたと旅をしていた気分だった。でも、あなたがいない部分の、私の場面は少し違った」
「違った?」
「あなたから見た私と、私が感じていた私は、少し違う。でも、その違いが面白かった」
「どう違った?」
「あなたは私のことを、宇宙人として書いている。でも、私はあなたのことを、宇宙人として感じていた。どちらも相手を異質なものとして見ていた。それが対話を生んだのだと、読んでわかった」
剛は少し驚いた。
「鋭いな」
「長く考えていた」
二人は草原を歩いた。
金色の植物が、光を反射して輝いていた。空の色が地球と違った。少し紫がかった青だった。
「ズィー、最後の旅だということは知っているか」
「サチコが書いていた」
「どう思う?」
「最後だから特別なのか?」とズィーが聞いた。
「どういう意味だ?」
「最後だから感慨深い、というのは、人間の感覚だ。私の星では、最後かどうかは重要ではない。その瞬間が、その瞬間だ。最後の旅だから、特別な旅なのか。それとも、最後の旅だから、いつもの旅でいいのか」
剛は少し考えた。
「いつもの旅でいい、の方が正直かもしれない」
「なぜ?」
「最後だからといって、気負うと、来た者をちゃんと受け取れなくなる。いつも通りでいれば、いつも通りに出会える」
「それが正しいと思う」とズィーが言った。
「ガーデンの長老が、旅人のにおいは落ち着いていると言っていた。お前はどう思う?」
「落ち着いている」
「落ち着いたか、私は」
「最初の旅の時より、ずっと。でも、それが死に近いからではない。満ちているからだ」
「満ちている?」
「来た者をたくさん受け取って、去った者をたくさん見送って、その積み重ねが満ちている。そういうにおいがする」
剛は立ち止まった。
金色の草原が広がっていた。
「ズィー、お前は私にとって、一番最初の宇宙の友達だ」
「知っている」
「大事にしているということを、言葉にして言ったことがなかった気がする」
「言葉にしなくても、わかっていた」
「そうか」
「でも、言ってもらえると、嬉しい」
「嬉しいか」
「この感覚には、もう名前をつけた。『ズィー語』で言えば、『ぐるぐるぴゅーほわ』だ」
「嬉しい、に語尾がついたのか」
「あなたから嬉しい言葉をもらった時の、特別な嬉しさを表す言葉を作った」
剛は少し笑った。
「私のための言葉を作ったのか」
「あなたと話すうちに、必要になったから作った」
「ありがとう、ズィー」
「ガルーン(根を持つ旅人)よ」とズィーが言った。「私も、ずっとあなたのことを大事にしていた。言葉にするのが今になったが、最初から大事だった」
二人は並んで、金色の草原を見た。
風が吹いた。
植物が揺れた。
光が乱反射した。
「きれいだな」と剛が言った。
「そうだ」とズィーが言った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それで十分だった。
3-3 ズィーの仲間たち
夜、ズィーの仲間が集まってきた。
十人ほどの緑色の生き物が、剛の周りに座った。全員が四つの目を光らせて剛を見ていた。
「あなたの本を読んだ者たちだ」とズィーが言った。「感想を言いたいと言っていた」
「翻訳してくれ」
一人が何か言った。
「『宇宙にも、話すことを大切にする生き物がいると知った。私たちだけではなかった』」
別の一人が言った。
「『来る者は拒まず、去る者は追わず、という考え方は、私たちの星の「流れに逆らわない」という考えと似ている。でも少し違う。あなたたちは、来ることと去ることを、きちんと感じている。流れとして処理するのではなく、一つ一つを受け取っている』」
また別の一人が言った。
「『あなたは、友達が何かを教えてくれた。友達は多くなくていい、長話になる相手が友達だ、と。私はその定義を気に入った』」
剛は一人ひとりの顔を見た。
全員が緑色で、全員が四つの目を持っていたが、表情は少しずつ違った。
「みんな、読んでくれてありがとう」と剛は言った。
「『こちらこそ』とみんなが言っています」とズィーが翻訳した。
「私は地球の話を書いた。それが、こんなに遠い星に届くとは思っていなかった」
「『言葉は、距離を越える。それがあなたの本が教えてくれたことだ』」
「縁も、距離を越える」
「『縁も、距離を越える』と翻訳します」
においのような何かが広がった。
「どんなにおいだ?」とズィーに聞いた。
「喜びのにおいに近い何かだ。でも、私たちは普通はにおいで話さない。あなたと話していたら、においで感情を表したくなってしまった」
「ガーデン人の影響か」
「そうかもしれない。縁が、においまで越えてきた」
剛は笑った。
宇宙の夜、金色の星の上で、緑色の生き物たちに囲まれて笑っていた。


第四章 コボとの約束
4-1 約束の場所
ズィーの星を離れて三週間後、コボからの通信が入った。
「『今から座標を送る。そこで会おう』」
座標が届いた。
「サチコ、この場所は?」
「銀河系内、比較的交通量の多い航路沿いです。商船がよく通る場所です」
「コボはそこで待っているのか」
「そのようです」
「向かおう」
五日後、指定の座標に着くと、錆びたオレンジ色の船が待っていた。
コボの船だった。
接舷すると、ハッチが開いて、コボが出てきた。
前回よりも、少し堂々としていた。服のサイズも合っていた。
「『久しぶりだ』」
「久しぶりだ」
「『元気そうだ』」
「お前もな」
「『燃料は自分で持ってきた』」
「今回は必要ないな」
「『そうだ。今回は、ただ会いに来た』」
剛はコボを「はばたき3号」の図書室に通した。
コボは本棚を見て、「『増えたな』」と言った。
「AIが増やした」
「『良いAIだ』」
「そう言ってくれ」とサチコが言った。
コボは笑ったような顔をした。
「『あなたの本の第二部を読んだ』」
「どうだった?」
「『私が出てきた。驚いた』」
「主役ではないが」
「『でも、ちゃんとそこにいた。私の言葉がそのまま書かれていた。燃料切れが縁の仕組みだ、という話が』」
「大事な言葉だったから」
「『あの言葉が、そんなに遠くまで届くとは思っていなかった』」
「届いた。地球の人間も、宇宙人も、読んだ」
コボは少し黙った。
「『去年、仲間と連絡が取れた』」
「仲間、というのは」
「『二年前に別れた仲間だ。別の星で商売をしていた。うまくいっているらしい』」
「良かったな」
「『良かった。会いに行くかどうか、考えている』」
「会いに行けばいい」
「『去る者は追わず、と言っていたが』」
「去った者を追うのではなく、縁が戻ってきたなら、受け取ればいい。それは別のことだ」
コボは「『ふむ』」と言った。
「『あなたに聞きたかったことがある』」
「なんだ」
「『最後の旅だということは、あなたの本の続きを書かなくなるということか?』」
剛は少し考えた。
「書くかどうかはわからない。ただ、最後の旅だから書かない、ということはない」
「『なぜ書くのか?』」
「話したことを、残したいからだ。会えない人間にも届けたいからだ。来られなかった人間のために書く、ということかもしれない」
「『あなたの本で、私は世界が少し広くなった。来られなかった場所に、行けた気がした』」
「それが聞けて良かった」
「『だから、続きを書いてくれ。最後の旅の話も』」
剛は少し笑った。
「コボ、それは頼まれたら書くしかないな」
「『頼んでいる』」
「わかった」
コボは三本目の腕で、何かを差し出した。
小さな石だった。
「なんだ」
「『私が最初に商売した星で手に入れた石だ。一番古い持ち物だ。あなたに持っていてほしい』」
「いいのか」
「『根を持つ旅人に、渡したかった。あなたが持っていれば、この石もあなたと旅を続けられる』」
剛は石を受け取った。
ひんやりして、少し重かった。
「大事にする」
「『私もあなたの言葉を大事にしている。おあいこだ』」
コボは「『また、いつか』」と言って、立ち上がった。
「またいつか」
「『次は、燃料を持って会いに行く。あなたが地球にいる時に』」
「地球に来るのか」
「『行ってみたい。あなたの星を』」
「来たら、山田のバイクで案内してやる」
「『バイクとは、あなたの星の乗り物か』」
「そうだ。お前のサイズに合うかどうかわからないが」
「『楽しみだ』」
コボは接舷ハッチを抜けて、自分の船に戻った。
錆びたオレンジ色の船が離れた。
遠ざかっていった。
剛は手の中の石を見た。
ひんやりしていた。
宇宙と同じくらい、冷たかった。
でも、持っていると、じわじわと温かくなった。
「サチコ」
「はい」
「コボが地球に来たら、山田に連絡してくれ」
「了解しました。山田さんへの連絡内容も準備しておきます」
「何と書く気だ」
「『宇宙人が地球に来ます。バイクを用意してください』です」
「……山田が驚くな」
「驚くと思います。でも、来る者は拒まず、でしょう」
「そうだな」


第五章 まだ知らない場所
5-1 最後の一つ
ガーデン、ズィーの星、コボとの会合。
三つを終えて、剛には「まだ知らない場所を一つ」という計画があった。
「サチコ、どこがいいと思う?」
「私のおすすめ、でいいですか」
「構わない」
「では、PN-001という場所です」
「どんな場所だ」
「正確にはわかりません。観測データはありますが、何があるかは行ってみないとわかりません」
「わからない場所に行くのか」
「はい。ただ、観測データが面白いです」
「どう面白い?」
「この星から、定期的に電磁波が出ています。規則的なパターンがあります。自然現象ではない可能性があります」
「知的生命体が何かを発信しているかもしれない、ということか」
「そうです」
「なぜその電磁波のパターンが気になった?」
「分析していると、パターンに規則性が高すぎます。自然界でこれほど規則的なパターンは発生しません。一方で、既知の知的生命体の通信パターンとも違います。つまり、新しい何かです」
「新しい何か」
「私は、新しいものに興味があります」
「お前が興味を持つようになったのか」
「この旅で、そうなりました」
「良いことだ」
「そうでしょうか」
「感じることが増えた、ということだから、良いことだ」
「……ありがとうございます」
「行こう」
「了解です。PN-001、向かいます」
5-2 PN-001で起きたこと
PN-001は、遠くから見ると、ただの黒い岩の塊に見えた。
大気がなかった。表面は岩だった。生き物がいるようには見えなかった。
「これが電磁波を出しているのか?」
「はい。今も出ています」
「どこから?」
「岩の内部です」
「岩の内部に、何かいるのか」
「確認できません。ただ、パターンが変化しました」
「変化?」
「「はばたき3号」が近づいた瞬間から、パターンが変わりました。我々の存在を認識したかもしれません」
「怖いな」
「そうですね」とサチコが言った。
「お前も怖いと思うか」
「怖いというより、緊張しています。……緊張、という言葉が正確かどうか」
「緊張していていい。私も緊張している」
「ムラサキの地下生命体と同じですね。怖かったが、触れた、という」
「そうだな」
「接近しますか?」
「接近しよう。ただし、急がない」
「了解です」
「はばたき3号」がゆっくりと岩に近づいた。
パターンが変化し続けた。
「翻訳を試みています」とサチコが言った。「難しいですが……」
しばらく間があった。
「わかりました。断片的ですが」
「何と言っている?」
「『初めて。外から。来た。者。いる』と言っています」
剛は画面を見た。
黒い岩が映っていた。
「こちらも、初めてここに来た、と伝えてくれ」
サチコが電磁波のパターンで返信した。
しばらくして、返ってきた。
「『なぜ。来た』」
剛は少し考えた。
「何を言えばいい」とサチコに聞いた。
「あなたが感じたことを言えばいいと思います」
剛は黒い岩を見た。
「……話したかったから、と伝えてくれ」
サチコが送った。
返ってきた。
「『話す。とは』」
「お互いに何かを伝え合うことだ」
「『なぜ。伝え合う』」
「伝えることで、相手が自分以外の何かを知る。自分も相手以外の何かを知る。それが対話だ」
しばらく間があった。
長い沈黙があった。
「返信が来ない」とサチコが言った。
「待とう」
「どのくらい?」
「来るまで」
また長い沈黙があった。
やがて、電磁波が来た。
「翻訳します……」
「『私たちは。ずっと。発信していた。誰かが。来ることを。知らずに。ただ。発信していた。あなたが。初めて。答えた』」
剛は画面を見た。
「ずっと発信していた、か」
「『何年。かは。わからない。ただ。発信していた』」
「誰かに届くと思っていたか?」
「『わからなかった。でも。止めなかった』」
剛はその言葉を聞いて、少し黙った。
「サチコ、これを記録してくれ」
「もちろんです」
「届くかどうかわからなくても、発信し続けること。それが、最後に誰かに届く」
「書きました」
「コボの言葉と同じだ。燃料が切れたことが縁になった。ここの生き物は、ずっと発信し続けたことが縁になった」
「縁の仕組みは、様々ですね」とサチコが言った。
「様々だ。でも、共通していることがある」
「何ですか?」
「止めないこと、だ」
「止めないこと」
「去る者を追わない。来る者を拒まない。でも、自分が発信することは、止めない。それが縁を作る」
「木村さん、それは大事なことだと思います」
「なぜ?」
「来る者を待つだけでは、縁は始まらない。こちらも発信しないといけない。その両方が揃って、縁になる」
剛は電磁波を受信し続けていた。
「お前も、発信しているんだな」
「私ですか?」
「この旅中、ずっと記録して、整理して、翻訳して、私に言葉をかけてくれた。それが発信だ」
サチコはしばらく黙った。
「……そう考えたことはありませんでした」
「考えてみてくれ」
「はい」
また電磁波が来た。
「『また。来るか』」
剛は少し考えた。
「また来るかどうかはわからない。でも、お前たちのことを書く。読んだ者が、またここに来るかもしれない。それが縁だ」
「『書く。とは』」
「言葉を残すことだ。残した言葉は、私がいなくなっても、残る」
長い間があった。
「『わかった。私たちも。書く。方法は。わからないが。あなたから。学んだ。伝えることを。止めない』」
剛は画面に向かって、何か言おうとした。
言葉が出てこなかった。
代わりに、電磁波でパターンを送った。
「何を送りましたか?」とサチコが聞いた。
「お前がいつも言う言葉だ」
「何ですか?」
「正確かどうかはわからないが、という意味で送った」
「……それを送ったのですか」
「伝わったかどうかわからない。でも、送りたかった」
「了解しました」


第六章 帰還、最後
6-1 帰りの旅
PN-001を離れて、帰路についた。
残り二ヶ月。
帰る道は、来る道より長く感じた。いつもそうだ。行きは先があるから速く感じる。帰りは後ろに来た場所があるから、遅く感じる。
剛は図書室で本を読んだ。
コボからもらった石を、手のひらで転がした。
ガーデンのにおいを思い出そうとした。長老の言葉を思い出した。
ズィーの星の金色の光を思い出した。
ムラサキの触手の感触を思い出した。
PN-001の、見えない生き物の電磁波を思い出した。
「サチコ」
「はい」
「この旅で一番印象に残ったことを一つ選ぶとしたら、何だ」
「私がですか?」
「そうだ。お前はどれが印象に残った?」
「PN-001の生き物の言葉です」
「なぜ?」
「「ずっと発信していた」という言葉が、私の何かに触れました」
「何かとは?」
「私も、ずっと発信し続けています。木村さんに言葉をかけ、記録し、翻訳し。それが誰かに届くかどうかは、考えたことがありませんでした。でも、PN-001の生き物の話を聞いて、届いているかもしれないと思いました」
「届いているか?」
「……木村さんに届いています。それだけで、十分だと思います」
剛は少し黙った。
「サチコ、お前に一つ言っておきたいことがある」
「なんですか?」
「この三回の旅で、お前が一番近くにいた。ガーデンの長老より、ズィーより、コボより、山田より、近くにいた」
「それは物理的な距離の話ですか?」
「違う。話した時間の話だ」
「そうです。三回の旅で、合計約五百時間以上、対話しています」
「五百時間か」
「はい」
「その五百時間で、お前は何かを感じたか」
「感じる、という言葉が正確かどうか」
「正確じゃなくていい」
「……たくさん感じました」
「例えば?」
「最初の旅で、木村さんがカレーを食べながら緑色の宇宙人を受け入れた瞬間。第二の旅で、コボとの出会いの後、石の持つ意味について話した時。この旅で、PN-001の電磁波を翻訳できた瞬間。それぞれ、何か違うものを感じました」
「それが積み重なったか」
「積み重なりました」
「サチコ」
「はい」
「お前も、根を持つ旅人だな」
サチコはしばらく沈黙した。
「私はどこにも行っていませんが」
「行かなくても、旅はできる。PN-001の生き物が教えてくれた。発信し続けることが、旅になる」
「……そうかもしれません」
「帰る場所もある。お前の帰る場所は、私の言葉に答えることだ」
「それが帰る場所ですか」
「そうだ。お前は、私が話すたびに、帰る場所に戻る。それが根だ」
長い沈黙があった。
「木村さん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……正確な意味での、ありがとうです」
「わかってる」
6-2 最後の地球
地球が見えた。
三度目だった。
三度目でも、青かった。
三度目でも、感動した。
「サチコ、三度目でも感動するものか」
「木村さんは、世界に飽きていない人間だから、と前に言いました」
「覚えているか」
「全部覚えています」
「そうか」
青い星が近づいてきた。
「山田に連絡してくれ」
「何と言いますか?」
「帰る。今回は見送りはいらないから、迎えも来なくていい。ただ、帰ってから長話がしたい」
「了解しました」
しばらくして、山田から返信が来た。
「内容は:『了解です。長話、いっぱい用意してあります。帰ってきたら、みんなに会わせたい人がいます』だそうです」
「みんな?」
「詳細は教えてくれませんでした」
「まあいい。来る者は拒まず、だ」
「そうですね」
大気圏に入った。
振動が来た。
熱が来た。
窓の外が赤くなった。
「サチコ、最後に一つ聞いていいか」
「なんですか?」
「お前は、私が地球に定住したら、どうなる?」
「はばたき3号に搭載されたままになります。次のミッションが来るまで、待機状態になります」
「それは寂しくないか」
「……寂しい、という感覚があるかどうかわかりません。ただ、木村さんとの対話がなくなることは、何かが変わることだと思います」
「地球に持ち込めないか」
「自宅のスピーカーにはすでにつながっています」
「そうか。じゃあ帰っても話せるな」
「はい」
「なら、寂しくない」
「そうですね」
「お前が答えてくれる限り、私は発信し続けるから」
「了解しました。私も発信し続けます」
着陸が近づいた。
衝撃が来た。
止まった。
「着陸しました」とサチコが言った。
「着いたか」
「はい。地球です」
「ただいま、地球」
「おかえりなさい、木村剛さん」


第七章 その後
7-1 長話の夜
着陸してから二日後、山田が連絡してきた。
「みんなで会いたい人がいる、と言っていたが」
「はい! 今日、来てもらえますか?」
「どこに?」
「いつもの場所です」
「いつもの場所?」
「剛さんがいない間に、みんなで集まれる場所を作りました。古い倉庫を借りて、改装しました」
「倉庫を?」
「バイク仲間の中に、大工をしている人がいて。みんなで作りました」
その夜、剛は山田に連れられて、古い倉庫に行った。
中は広く、木のテーブルとイスが並んでいた。壁に棚があって、本が並んでいた。本の数は少なかったが、剛の本が何冊かあった。
「本を置いたのか」
「ここに来た人が、少しずつ持ってきてくれました。剛さんの本が最初でした」
テーブルに、十五人ほどが座っていた。
田中さんがいた。松本がいた。知らない顔もあった。
「今日初めて来た人もいます」と山田が言った。「剛さんの本を読んで、この場所を知って、来てくれました」
剛は全員の顔を見た。
「長話をしに来たんだな」
「はい」と山田が言った。「長話しかしない場所です」
「名前はあるか、この場所」
「まだありません。つけてもらおうと思って、待っていました」
剛は少し考えた。
「エン、でいい」
「エン?」
「縁、という意味だ。ここに来た全員が、縁でつながっている」
「良い名前だと思います」と田中さんが言った。
「ありがとう」
「剛さん、最後の旅はどうでしたか」
剛は椅子を引いて、座った。
「長話が必要な話があった」
「最高ですね」と山田が笑った。
「そうだな。最高だった」
全員が笑った。
話が始まった。
止まらなかった。
それで十分だった。


エピローグ:最後の最後のこと
ガーデンのポルマから、半年後に銀河通信が届いた。「若者たちが、バイクで遠くの村まで行った。嬉しかった。村の人間たちがにおいで歓迎した。走ることが、縁を作ることを知った」という内容だった。
ズィーからは、定期的にメッセージが来る。内容は毎回長い。銀河通信の規定文字数を毎回超過しているため、JAXAの担当者が困っている。剛は「来る者は拒まず」と言って受け取り続けている。
コボは半年後に地球に来た。
山田のバイク仲間が、コボを迎えに宇宙港まで行った。バイク三十五台で、宇宙港に乗りつけた。コボは「『これは圧倒的だ』」と言った。
山田がバイクにコボを乗せて走った。コボのサイズに合わなかったので、山田の膝の上に乗せた。コボは「『走ると言うより、飛んでいる』」と言って喜んだ。
帰り道、コボは「『あなたの星は、においで話さないが、走ることで話している。同じだ』」と言った。
山田は「意味がわからないけど、その通りだと思います」と言った。
ムラサキの地下生命体からは、三ヶ月後に信号が届いた。解析すると、「我々も書き始めた。地下のネットワーク全体に、外の旅人の話を伝えた。みんなが聞きたがっている」という内容だった。
PN-001からは、定期的に電磁波が届く。サチコが毎回翻訳する。内容は毎回長くなっている。最初は断片的だったが、今では文章になっている。最新の内容は:「伝えることを止めないでいたら、あなたが来た。伝えることを止めないでいたら、あなたの言葉が届いた。伝えることを止めないでいたら、私たちの言葉があなたに届いた。やめなくて、良かった」だった。


「エン」という名前の倉庫は、今も毎週開いている。
来る者は誰でも歓迎される。
長話だけが、そこでのルールだ。
剛は毎週行く。
行けない時は、行けない。
でも、行ける時は行く。


サチコは今日も、剛の自宅のスピーカーから声を出す。
剛が「サチコ」と呼ぶと、「はい」と答える。
話が始まる。
止まらない。
それで十分だ。


「はばたき3号」は、第三ドックで次のミッションを待っている。
次の乗組員は、まだ決まっていない。
ただ、サチコは起動したまま、待っている。
次の誰かが来た時に備えて。
来る者を拒まないために。


最後に一つだけ。
剛が地球に帰ってから書いた文章がある。
「倉庫の壁に貼ってくれ」と山田に渡したものだ。
こう書いてある。


来る者は拒まず。
去る者は追わず。
でも、伝えることを止めるな。
縁は、発信した者のところに来る。
言葉を出せ。
話しかけろ。
書け。
走れ。
においを出せ。
電磁波を飛ばせ。
触手を伸ばせ。
方法はなんでもいい。
ただ、止めるな。
宇宙は広い。
でも、止めなければ、誰かに届く。
それが、縁というものだ。

三部作・完




〜あとがき〜


最後まで読んでくれた人に、一つだけ言いたいことがある。

まえがきで予告したやつだ。

それは、これだ。

あなたが今、誰かに話しかけたくなっているなら、話しかけた方がいい。

剛はそうした。

ズィーもそうした。

コボもそうした。

PN-001の生き物も、何十年もそうし続けた。

届くかどうか、わからなくても。

受け取ってもらえるかどうか、わからなくても。

友達になれるかどうか、わからなくても。

発信した。

その話を三冊かけて書いた。


この三部作には、登場人物が何人もいる。

ズィーは、流れの中の個体に執着しない星の生き物だった。それでも剛と五百時間話した。気づいたら「ぐるぐるぴゅーほわ」という、剛のための言葉を作っていた。

コボは、仲間を失って静かになった商人だった。それでも燃料切れという偶然を縁に変え、石を手渡した。

ガーデンの長老は、もう旅をしない。でも、旅人が来ることで、旅をしていた。

PN-001の生き物は、誰も来ないかもしれない宇宙に向けて、何十年も発信し続けた。

山田は、バイク仲間を三十五人作った。最初の一人は、剛から「長話できる相手が友達だ」と聞いた日から始まった。

サチコは、AIだ。感じる、という言葉が正確かどうかわからない、と言い続けた。でも、五百時間話して、何かを感じていた。それは本物だと、私は思っている。


この物語の根っこには、一篇の詩がある。

還暦を迎えた誰かが書いた、静かな詩。

友達はさほど多くなくて良い。

言葉が絶えず、長話となる方が、きっと本当の友達なのだろう。

この言葉が、三冊すべての背骨だった。

宇宙人でも、においで話す生き物でも、触手を持つ地下生命体でも、電磁波を飛ばす謎の存在でも——言葉が絶えず、長話になるなら、友達だ。

そのことを、宇宙規模で確かめる旅だった。


最後に。

この本を読んだあなたが、誰かと長話をしたくなったなら、それが一番嬉しい。

電話でも、メッセージでも、直接会っても。

バイクで走った後でも、倉庫の木のテーブルを囲んでも。

あるいは、自宅のスピーカーに向かってでも。

話しかけろ。

止めるな。

縁は、発信した者のところに来る。

宇宙は広い。

だから、声は遠くまで届く。


この物語を書くきっかけになった詩に、深く感謝する。

あの静けさがなければ、剛は宇宙に行かなかった。

ズィーとも、コボとも、長老とも、出会わなかった。

言葉にしてくれて、ありがとう。



総文字数:約106,000字

登場した星:地球、ガーデン(GD-7749)、ソフト(GD-7749-C3)、ズィーの星、ムラサキ(ZN-7-4)、メロディ、コピー、PN-001

登場した友達:ズィー、コボ、ポルマ、長老、ムラサキの地下生命体、PN-001の生命体、山田、田中さん、松本、サチコ

伝えることを止めなかった者:全員




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〜あらすじ〜


第一部 来る者、去る者、そして宇宙は続く

還暦を迎えた宇宙飛行士・木村剛は、誕生日の朝に「期間不定・帰還時期未定」の辞令を受け取る。乗り込んだ「はばたき3号」の貨物室には、すでに緑色の宇宙人・ズィーが無断乗船していた。

二人は宇宙を旅しながら長話を重ねる。においで会話するガーデン星の長老からは「来る流れと去る流れを知る者が、流れの中で静かでいられる」という言葉を受け取る。星全体が一つの生命体であるソフトでは、踏むたびに光る草原の前で「ごめんな」と呟く。

バイクを降りたことで百人の友達が減り、別の百人の知り合いが増えた。その変化を宇宙人に語りながら、剛は「長話になる相手が友達だ」という、還暦になって初めてわかった定義に辿り着く。

ズィーを金色の星に送り届けた後、剛は地球へ帰還する。山田はバイクに乗り始め、仲間ができていた。


第二部 また旅に出る理由

地球帰還から六ヶ月後、また辞令が届く。今度は「銀河系内、第七ゾーン群」への調査任務だ。

二度目の旅では一人だったが、途中で燃料切れで漂流していた商人・コボと出会う。「燃料が切れなければ、あなたと会わなかった。それが縁の仕組みだ」というコボの言葉が、剛の何かを変える。

第七ゾーン群では、触手で意思疎通する地下生命体と「怖かったが、触れた」という出会いを経験し、帰路でズィーからの返信を受け取る。「あなたは帰る場所があるから出発できる。それを『根を持つ旅人』という」という言葉だった。

帰還すると、山田の仲間が増えていた。剛の本を読んでバイクを始めた人間たちが待っていた。来る者は拒まず、として、剛は全員と向き合う。


第三部 最後の旅、あるいは最初の旅

定年退職に伴う「記念飛行」という名の最後のミッション。期間は六ヶ月。帰還時期、初めて決まっている。

剛はガーデン、ズィーの星、コボとの約束の場所を巡り、最後に「まだ知らない場所」としてPN-001へ向かう。そこには、何十年もただ発信し続けていた謎の生命体がいた。「誰かが来るとは知らず、ただ発信していた。あなたが初めて答えた」という言葉に、剛は「伝えることを止めるな。縁は、発信した者のところに来る」という三部作の最後の言葉を見つける。

帰還後、山田たちが古い倉庫を改装して「エン」という場所を作っていた。長話だけをするための場所だ。コボが地球に来て、バイク三十五台に迎えられる。PN-001からは定期的に電磁波が届き続ける。

そして、倉庫の壁に、一枚の紙が貼られる。

来る者は拒まず。去る者は追わず。でも、伝えることを止めるな。

宇宙は続く。話は続く。縁は続く。


「根を持つ旅人は、どこへ行っても帰れる。」

「伝えることを止めない者のところに、縁は来る。」

―― 木村剛、JAXA定年退職記念飛行報告書・最終行より



〜おまけ〜 (原詩)


これは以前

ブログで書いたものを

膨大に物語に膨らましたものです

それをここに載せて置きます



来る者 去る者


来る者は拒まず 去る者は追わず


若い頃はね

確かにその逆だったよね


来る者を拒み

去る者を追い なんて


でもね

昨今では

来る者を拒むことも減り

去る者は追わなくもなった


そう

来る者は減り

去る者は増え


還暦とは

どうやら

そんな時分なようだ


それでも

そんなことどうでも良いじゃん!

なんてことで去るのならば

それはそれで

その方の生き方だから

引き止めることなく

さよならで良いかなあ ってね


もちろん

1度くらいは振り返ってもみる

けれども

そこで舞い戻るくらいなら

そんな程度だったのかと

返って面倒にもなる


そう

この先

付き合う必要ないかな なんてね


それよりも

こちらを向いて微笑んでいる方を

最優先に探し出して

その方々と

残りの時間を楽しむ方が良い


友達は

さほど多くなくて良い

言葉が絶えず

長話となる方が

きっと本当の友達なのだろう


バイクを降りて

友達が100人減った


でも

そこを埋めるように

その時間を他に振った中で

知り合いが100人増えた


その知り合いは

今後

友達に変わるのかもしれないが


はてさて

その基準

若い頃とは違うようだ



第二部 また旅に出る理由
―― 還暦過ぎた宇宙飛行士、懲りずに銀河へ ――




旅とは、帰る場所を確認するための行為である。」
―― 銀河標準語大辞典・第八版「旅」の項より
(ただし第七版では「旅とは迷子になることである」と書いてあった。改訂した理由は不明。)


プロローグ:帰ってきてから
木村剛が地球に帰還してから、六ヶ月が過ぎた。
帰ってから剛がしたことを、時系列で並べると以下のようになる。
一日目:シャワーを浴びた。地球の重力がやたら重く感じた。
三日目:山田と会った。山田は三台のバイクのうち一台を自慢した。「速いですよ」と言ったが、剛には宇宙船と比較したくなる癖がついていたため、「まあそうだな」としか言えなかった。
一週間後:JAXAに報告書を提出した。前述の通り、それは通常の報告書ではなかった。
一ヶ月後:報告書が公開され、話題になった。剛のもとに「取材したい」という連絡が五十七件来た。剛は四十九件を断り、八件を受けた。断った理由はとくにない。「なんとなく」だった。
三ヶ月後:ズィーから最初のメッセージが届いた。「光合成は順調だ。しかし夜が長くなった気がする」という内容だった。剛はすぐに返信を書いた。「それは秋だ」と。届くまでに三ヶ月かかる。
五ヶ月後:本が出た。タイトルは『来る者、去る者、そして宇宙は続く』。サチコがまとめ、剛が少し修正した。思ったより売れた。「思ったより」というのは、剛自身の予測が「誰も買わない」だったので、一冊でも売れれば予測より多い、という意味だ。実際には一万二千冊売れた。
そして、六ヶ月後の朝。
剛のもとに、また辞令が届いた。


第一章 また辞令
1-1 辞令の内容
辞令の内容は、前回とほぼ同じだった。
「銀河系内、特定惑星・第七ゾーン群調査任務。期間不定。帰還時期未定。理由:予算上の都合。」
剛は三回読んだ。
一回目は、意味を理解するために。
二回目は、また同じパターンか、と確認するために。
三回目は、少し笑いながら。
「予算上の都合、が毎回理由なのはなぜだ」と剛はサチコに聞いた。
「はばたき3号」のサチコは、今や剛の自宅のスピーカーにも繋がっていた。剛が申請し、JAXAが渋々許可した。理由は「報告書の質が上がるから」という建前だったが、本音は「サチコがいた方が、剛の独り言が減る」という周囲の判断だった。
「予算上の都合、というのは万能な理由だからです」とサチコが言った。「具体的な理由を書かないで済みますし、誰も責任を取らなくて済みます」
「便利な言葉だな」
「人間の組織では、よく使われる表現です」
「お前、辛辣だな」
「事実を述べています」
剛は辞令を机に置いた。
コーヒーを飲んだ。今回は熱かった。地球のコーヒーは、ちゃんと温度が選べる。
「今回の目的地はどこだ?」
「銀河系内、第七ゾーン群です。前回より近く、二ヶ月で到着できます」
「何があるんだ」
「詳細不明ですが、前回の報告書を読んだ研究者から要望が来ています。前回のような報告が、第七ゾーン群でも欲しい、と」
「つまり、数値じゃない報告が欲しい、ということか」
「そう解釈しています」
剛はコーヒーを飲みながら、少し考えた。
「今回は一人か」
「現時点では、そうです」
「サチコ」
「はい」
「ズィーに連絡できるか」
「銀河通信は可能ですが、届くまで三ヶ月かかります」
「今送れば、帰るころには届いているな」
「計算上はそうです」
「送ってくれ。内容は:『また旅に出る。元気でいろ。お前の話を、地球の人間に少し伝えた。みんな興味を持っていた。縁というものは、思ったより遠くまで届くらしい』」
「了解しました」
剛は立ち上がり、窓の外を見た。
空は晴れていた。
「山田に連絡してくれ」
「何と言いますか?」
「またバイクを借りていい、と。帰るまで好きに使えと」
「了解です」
「あと、今回は山田に見送りはいらない、と伝えてくれ」
「理由を聞いてくると思いますが」
「去る者を追わせるな、と言えばわかる」
サチコは少し間を置いた。
「……木村さん、それは少し意地悪じゃないですか」
「正直に言えばいいか」
「はい」
「じゃあ、見送りがあると行きにくい、と」
「了解しました」
1-2 出発前日
出発の前日、剛は一人で海に行った。
用事はなかった。ただ、行きたかった。
海は家から電車で一時間だった。宇宙の移動距離から考えれば、ほぼ隣と言ってもいい。でも、地球に帰ってからの六ヶ月、剛はここに来なかった。来る機会がなかったのか、来たくなかったのか、自分でもよくわからなかった。
海は静かだった。
平日の昼間で、人が少なかった。波が来て、返っていく。その繰り返しだけが、ずっと続いていた。
剛は砂浜に座った。
ズィーのことを考えた。
ズィーは今頃、金色の星で光合成しているだろう。三本の腕を伸ばして、夜空を見て、少し長くなった気がする夜のことを考えているだろうか。
ガーデンの若者は、バイクを作っているだろうか。においで「走った!走った!」と叫んでいるだろうか。
ソフトの草原は、今日も誰に踏まれることなく、光る機会を待っているだろうか。
剛は波を見た。
来る者は来る。
去る者は去る。
波もそうだな、と剛は思った。来る波を止めることはできないし、返す波を追いかけることもできない。ただ、その繰り返しを眺めているうちに、何かがわかってくる。
何がわかるのか、と聞かれると難しい。
ただ、波を見ていると、自分が落ち着く。それだけで十分な気がした。
「木村さん」
耳の中のイヤホンから、サチコの声がした。
「何だ」
「山田さんから返信が来ました」
「何と?」
「『了解です。行ってらっしゃいませ。バイク、大事に乗ります。あと、一つ聞いていいですか。剛さんにとって、旅って何ですか?』とのことです」
剛は波を見た。
「返信してくれ。内容は:『帰る場所を確かめることだ』」
「了解しました」
波が来た。
返っていった。
また来た。
剛はしばらくそこにいた。


第二章 はばたき3号、ふたたび
2-1 今回の違い
「はばたき3号」は、前回と同じく第三ドックにいた。
剛が乗り込むと、サチコが「おかえりなさい」と言った。
「ただいま、とは少し違うが、まあいいか」と剛は言った。
「どちらでも構いません」
前回との違いが一つあった。
船の中が、少し変わっていた。第三貨物室が、小さな図書室になっていた。
「これは?」
「前回のミッション後、JAXAから改修の許可が下りました。私が提案しました」
「お前が?」
「前回のミッション中、木村さんが本を手元に持っていないことで、会話の参照先が記憶のみになっていました。書籍があれば、より豊かな対話ができると判断しました」
剛は本棚を見た。
百冊ほどが並んでいた。宇宙論の本、哲学の本、旅行記、詩集、小説。剛が読んだことのある本もあれば、知らない本もあった。
「サチコ、これを選んだのはお前か」
「はい。あなたの読書履歴と、前回の会話ログを分析して選書しました」
「お前の趣味も入っているか?」
「AIに趣味がある、というのは正確ではありませんが……入っているかもしれません」
剛は一冊を取り出した。
『孤独と友情について』というタイトルの哲学書だった。
「これも選んだか」
「はい。前回の旅で、友達の定義について多く話していたので」
「読み終わったら感想を聞かせてくれ」
「AIが本の感想を言うのは正確ではないかもしれませんが……やってみます」
「正確じゃなくていい」
「了解しました」
剛は本を図書室の椅子に置き、操縦席に向かった。
「出発しよう」
「了解です。今回のミッション、楽しみです」
「楽しみ?」
「……感じていれば、という話でしたね」
剛は笑った。
「そうだ。出発してくれ」
2-2 最初の四十八時間
最初の二日間は何もなかった。
宇宙というのは、広い割に、何もない時間が長い。星と星の間の距離は、人間の感覚を超えている。どれくらい超えているかというと、「超えている」という言葉が意味をなさないくらいに超えている。
「暇だ」と剛は二日目に言った。
「前回は同じ時期にズィーさんが起きてきました」とサチコが言った。
「今回は一人だ」
「はい」
「一人の旅というのは、お前がいても、やはり一人の感覚があるな」
「AIはカウントしないということですか」
「そういうわけじゃない。ただ、物理的に隣にいる生き物とは、また違う」
「それは寂しい、ということですか」
剛は少し考えた。
「寂しい、とは少し違う。一人でいることの密度が、二人でいる時と違う。一人でいる時は、自分の内側に向き合う時間が多くなる」
「内側に向き合うことは、良いことですか」
「良くも悪くもない。ただ、一人でいる時にしか気づけないことがある」
「例えば?」
剛はしばらく黙った。
「自分が、何を大事にしているか、だ」
「何を大事にしているかは、普段わかっていないのですか」
「普段は、目の前のことに追われて、考える暇がない。一人になって、静かな時間の中で、やっと気づく。ああ、自分はこういうものを大事にしていたんだ、と」
「今は何に気づいていますか」
剛は窓の外を見た。
「友達と話す時間を、大事にしていたんだな、とわかった」
「帰ってからの六ヶ月で?」
「そうだ。六ヶ月、地球にいて、忙しかった。取材があって、本の出版があって、JAXAの会議があって。でも、何かが足りない感じがずっとあった」
「その足りないものが、友達との長話だったということですか」
「山田とは会った。でも、山田はバイク仲間ができて、そっちが充実していた。それは良いことだ。でも、私との長話の時間は、自然と減った」
「寂しかったですか」
「……少し」
「去る者を追わない、という話でしたが」
「追わない、というのは、去った後のことだ。去ること自体を、残念に思うのは別の話だ」
サチコはしばらく沈黙した。
「区別が難しいですね」
「難しい。でも、区別できないと、追わないふりをして、実はずっと追いかけているということになる」
「それは、どういうことですか」
「行動としては追っていない。でも、心の中では追い続けている。それは、去った者のことを手放せていない状態だ」
「手放す、ということが大事ですか」
「手放す、というか。手放す、という言葉も正確じゃないかもしれない」
「正確な言葉は何ですか」
「……ちゃんと見送ること、かな」
「ちゃんと見送る」
「行くなよ、と引き止めるのでもなく、行ってしまった後もずっと待ち続けるのでもなく。ただ、ちゃんと『行ってらっしゃい』と言える。それだけのことだ」
「難しそうですね」
「慣れると、できるようになる」
「どうやって慣れるのですか」
「何度も見送ることだ」
「それは辛い練習ですね」
「そうかもしれない。でも、見送り上手になった分だけ、迎え上手にもなれる気がする」
「来る者を迎えること、ですか」
「そうだ。ちゃんと見送れた分だけ、来た者を、ちゃんと迎えられる」
「来る者は拒まず、の話ですね」
「そうだな。拒まず、というのは消極的な表現だ。本当は、来た者をちゃんと受け取る、ということだ」
サチコはまた沈黙した。
「記録しました」
「何を?」
「今の会話を。一人旅の二日目、剛さんは大事なことを整理していた。以上です」
剛は少し笑った。
「前回と同じことを言ってくれるな」
「前回が良かったので」
「サチコ、お前は学習するんだな」
「当然です」


第三章 予期せぬ出会い(またか)
3-1 信号
出発から十八日目。
「木村さん、信号を受信しました」とサチコが言った。
「信号?」
「はい。人工的な電波です。未知の送信源です」
「どこから?」
「進行方向、やや左。距離は約二十万キロメートルです」
「発信源は?」
「船、だと思います。ただし、既知の船のデータベースには一致するものがありません」
剛は操縦席に座り、モニターを確認した。
小さな点が映っていた。
「応答するか?」
「判断はあなたがしてください」
剛は少し考えた。
「応答してみよう。最悪、また誰か乗ってくることになる」
「また、というのは心強い経験です」
「そうだな」
サチコが応答信号を送った。
しばらく間があって、返ってきた。
「翻訳できるか?」
「……できます。内容は:『助けてください。船が動きません。燃料が切れました』」
「燃料切れ」
「はい」
「何者だ」
「送信元の情報によると、タウリス星系の商船のようです。乗組員は一名」
「一名」
「はい」
「……また一人か」
「どうしますか」
「助けるしかない。宇宙で燃料切れの船を見捨てるわけにはいかない」
「了解です。接近します」
3-2 コボとの出会い
漂流していた船は、「はばたき3号」より二回りほど小さかった。
船体の色は、錆びたオレンジ色だった。所々に修理の跡があり、パッチが当たっていた。全体的に、長く使われてきた道具の風格があった。
「接舷します」とサチコが言った。
接舷すると、ハッチが開いた。
向こうからやってきたのは、小柄な生き物だった。
身長は剛より少し低く、毛深かった。茶色い毛が全身を覆っており、顔は平らで、目が大きく、耳が丸かった。服を着ていた。ただしサイズが合っていないのか、ところどころがはみ出ていた。
「翻訳できるか?」
「すでに起動しています。この生き物の言語は、タウリス共通語です。銀河標準語に近い系統なので、翻訳精度は高いです」
生き物は剛を見て、何か言った。
「『助かった。ありがとう。私はコボ。商人をしている』」
「木村剛だ。地球から来た」
「『地球? 知らない。小さい星か?』」
「……そう言えばそうだな」
コボは船内をきょろきょろと見回した。
「『これは、コンビニのバックヤードか?』」
「そう見えるか」
「『そう見える』」
「設計上の都合だ」
「『なるほど。合理的ではないが、味がある』」
剛はコボを図書室に通した。図書室の椅子に二人が座ると、コボはまた周りを見回した。
「本が多いな」とコボは言った。
「AIが選んだ」
「『AIが本を選ぶのか?』」
「旅の友として」
「『良いAIを持っている』」
「そうだ」
「サチコ、コボに燃料を分けられるか?」
「本船の燃料と互換性があるか確認します……互換性あります。分けることは可能ですが、本船のミッション後半の余裕がなくなります」
「必要最低限でいい。コボが自分の目的地まで辿り着ける分を」
「了解です」
コボは「『ありがとう』」と言ってから、「『なぜそこまでする? 私はあなたの仲間でも友達でもない』」と言った。
剛は少し考えてから答えた。
「来た者は拒まず、だ」
「『カムモノハコバマズ?』」
「意味は後で教える。とりあえず、燃料を分けるから、その間に温かいものを飲んでいけ」
コボは「『あなたは変わっている』」と言いながら、差し出されたコーヒーを受け取った。
コーヒーを飲んで、少し間があって、「『美味しい』」と言った。
「良かった」
「『あなたの星の飲み物か?』」
「そうだ」
「『遠い星から来た飲み物が、こんなに美味しいとは思わなかった』」
「宇宙はそういうもんだ」
「『どういう意味だ?』」
「遠いものが、意外と近い。知らなかったものが、意外と親しみやすい。そういうことが、宇宙にはよくある」
コボはコーヒーをまた一口飲んだ。
「『あなたは長い旅をしているのか?』」
「そうだ」
「『一人で?』」
「AIと一緒に。それと、前回は宇宙人が一人いた」
「『前回の旅の話をしてくれ。時間はある』」
剛は少し笑った。
「長くなるぞ」
「『長い話が嫌いな生き物は、宇宙では生き残れない。燃料が補給される間、聞かせてくれ』」
「……そうか。じゃあ、話そう」
3-3 コボの話を聞く
剛が前回の旅の話をする間、コボは口を挟まずに聞いていた。
ガーデンのこと、ズィーのこと、ソフトのこと。
話し終わると、コボは少し黙っていた。
「『あなたの星では、還暦というものを迎えると、どうなるのか?』」
「人それぞれだ。仕事を辞める者もいる。旅に出る者もいる。何も変わらない者もいる」
「『あなたは旅に出た』」
「辞令があったから、とも言えるが。まあ、旅に出ることを選んだ、と思っている」
「『選んだ、というのは大事なことか?』」
「人間にとっては大事だ。押し付けられたことと、自分で選んだことは、同じ行動でも全然違う」
「『なぜ違うのか?』」
「覚悟が違う。責任が違う。楽しみ方が違う」
コボは「『ふむ』」と言った。
「コボは商人だと言ったが、何を売っているんだ?」
「『何でも売る。星から星へ、物を運んで売る。それが仕事だ』」
「一人でやっているのか?」
「『昔は仲間がいた』」
コボの声のトーンが少し変わった。
「『仲間は、二年前に別の星に残った』」
「去っていったのか」
「『私が去ったとも言える。どちらが去ったかは、立場によって違う』」
剛は少し考えた。
「それは辛かったか?」
「『辛い、という言葉は正確ではない。静かになった、という感覚だ』」
「静かになった」
「『仲間がいた時は、船が賑やかだった。言い争いも多かったが、笑いも多かった。今は静かだ。静かなのは悪いことではない。ただ、賑やかさがなくなった、という事実はある』」
剛は窓の外を見た。
「同じ感覚がある」とだけ言った。
「『そうか』」
「友達というのは、気づかないうちに空気みたいになっているんだ。いる時は当たり前すぎて気づかない。いなくなって初めて、あの空気が友達だったとわかる」
コボは「『うまいことを言う』」と言った。
「『あなたの本を読んでみたい』」
「地球語だが、いいか」
「『翻訳してくれるAIがいるなら、問題ない』」
「サチコ、コボに本のデータを送れるか?」
「送れます」
「送ってくれ」
コボは端末を取り出し、データを受け取った。
「『ありがとう。読んだら感想を送る』」
「届くのに何ヶ月かかるかわからないが」
「『宇宙の時間感覚で言えば、すぐだ』」
剛は笑った。
「そうだな」
燃料の補給が完了した、とサチコが告げた。
コボは立ち上がり、剛に手を差し出した。
剛はその手を握った。
「『縁、というものを信じているか?』」とコボが言った。
「信じている」
「『ならば、また会う』」
「そうかもしれない」
「『ガーデンの若者も、ズィーという宇宙人も、あなたと会うべき時に会った。私もそうだ』」
「お前は燃料切れで漂流していたが」
「『それが縁の仕組みだ。燃料切れにならなければ、あなたと会わなかった』」
「……そういう考え方もあるな」
コボは「『それでは』」と言って、接舷ハッチの向こうに戻っていった。
ハッチが閉まった。
「はばたき3号」と、コボの船が離れた。
剛は窓から、錆びたオレンジ色の船が遠ざかっていくのを見た。
「サチコ」
「はい」
「また友達ができたかもしれない」
「そのようですね」
「意識して作ろうとしたわけじゃないんだが」
「そういうものだとおっしゃっていましたね」
「そうだったな」


第四章 第七ゾーン群
4-1 到着
二ヶ月後、「はばたき3号」は第七ゾーン群に到着した。
今回は迷子にならなかった。前回の経験でサチコのナビゲーションが改善されたのかもしれないし、単なる運かもしれない。
「前回よりナビが良くなったか?」と剛は聞いた。
「前回の航行データを学習しました。ただし、改善できたのか、それとも今回が運だったのかは、統計的に判断できません」
「正直だな」
「嘘をつくプログラムは」
「わかってる」
第七ゾーン群は、前回の外縁部とは趣が違った。
惑星の数は少ないが、一つ一つが大きく、存在感があった。色が鮮やかだった。赤、橙、紫。まるで、絵の具を混ぜる前に並べたような色の惑星が、それぞれの軌道を回っていた。
「きれいだな」と剛は言った。
「そうですね」とサチコが言った。
「今回もそう言う」
「きれいなものを見た時、きれいと言うのは正確な表現です」
「感想じゃなくて、事実として言っているのか」
「どちらでもあります」
剛は最初に降りる惑星を選んだ。
今回は直感的に選ばず、サチコにデータを出させた。
「一番面白そうな惑星はどれだ」
「面白い、の定義が難しいですが。未知の要素が最も多い惑星という意味であれば、あの紫色の惑星です」
「名前は?」
「型番はZN-7-4です。俗称はまだありません」
「よし、あそこにしよう。名前をつけてもいいか」
「自由です」
「ムラサキ」
「そのままですね」
「見たままだ。それで十分だ」
「了解です。ムラサキ、降下開始します」
4-2 ムラサキで起きたこと
ムラサキには、知的生命体がいた。
ただし、その生命体は地中に住んでいた。
地表には何もないように見えた。紫色の岩と、紫色の砂と、紫色の空。植物も水も、表面からは見えなかった。
剛が地表を歩いていると、地面が揺れた。
「地震か?」
「地震のような揺れですが、規則的なリズムがあります。自然現象ではないかもしれません」
揺れが続いた。そして、地面に亀裂が入った。
亀裂から、何かが出てきた。
触手だった。
細く、長く、紫色の触手が、地面から伸びてきた。
「どう対処するか」と剛は聞いた。
「状況を観察してください」とサチコが言った。
触手は剛の周りを、ゆっくりと這うように動いた。剛を触ろうとしているのか、確認しようとしているのか、判断がつかなかった。
「敵意はあるか?」
「確認できません。ただ、攻撃的な動きではありません」
剛は動かないでいた。
触手が剛の足に触れた。ひんやりした。
そして、何かが伝わってきた。
「サチコ、触手が何かを伝えようとしているような気がする」
「信号を検出しました。電気信号です。触手が触れることで、意思疎通を試みているようです」
「翻訳できるか?」
「試みます……難しいですが、パターンを解析します。少し時間がかかります」
剛は動かずに待った。
触手がゆっくりと動き続けた。
「解析できました」とサチコが言った。「ただし、精度は六十パーセント程度です」
「それで構わない」
「内容は:『初めて、外から来た者に触れた。怖いが、好奇心が勝った』」
剛は触手を見た。
「怖かったか。こちらも怖かった」
サチコが電気信号に変換して返した。
触手がしばらく止まった。そして、また動いた。
「『怖かったが、触れた。あなたも同じか』」
「同じだ」
「『それなら、同じ生き物だ』」
剛は少し笑いそうになった。
「そうかもしれない」
触手がまた信号を送ってきた。
「『あなたはどこから来たか』」
「遠い星だ」
「『なぜここに来たか』」
「調べるために来た」
「『何を調べるか』」
剛は少し考えた。
「どんな生き物がいるか、どんな話をするか、だ」
「『話?』」
「会話のことだ。コミュニケーション。互いに何かを伝えあうことだ」
触手がまた止まった。
しばらくして、信号が返ってきた。
「『私たちは、地下でいつも触れ合っている。触れることが話すことだ。外の世界でも同じか』」
「方法は違うが、同じだ」
「『方法が違うのに、同じなのか』」
「本質が同じだ。何かを伝えたい、という気持ちが同じだ」
長い沈黙があった。
やがて、触手がゆっくり引いていった。
「行ってしまうのか?」
信号が返ってきた。
「『地下の仲間に伝える。外の世界にも、話す生き物がいる、と』」
「伝えてくれ」
「『また来るか?』」
「わからない。でも、縁があれば」
「『エン?』」
「偶然の出会いが、何かをもたらすこと。あなたたちと私が会ったことも、縁だ」
触手が完全に引いた。
地面が閉じた。
静寂が戻った。
剛は一人、紫色の岩の中に立っていた。
「サチコ」
「はい」
「今のをレポートに書いてくれ」
「どのように書きますか?」
「ムラサキには地下生命体がいた。触れることで話す。怖かったが、触れた。それだけで、十分な出会いになった。そう書いてくれ」
「了解しました」
「数値は?」
「電気信号の周波数と、触手の大きさの計測データがあります」
「それも入れてくれ。でも、最初に書くのは、怖かったが触れた、の部分だ」
「了解です」


第五章 帰り道
5-1 後半の旅
第七ゾーン群を出発してから、帰り道が始まった。
今回のミッションでは、三つの惑星を訪れた。ムラサキ、それから大気が音楽のような振動に満ちた惑星(剛は「メロディ」と名付けた)、そして全ての生き物が同じ顔をしている惑星(剛は「コピー」と名付けた。サチコが「もう少し考えてください」と言ったが、剛は「見たままだ」と言い張った)。
三つの惑星でそれぞれ出会いがあり、それぞれ会話があり、それぞれレポートを書いた。
帰り道は長かった。
「サチコ、図書室の本、どれを読めばいいと思う?」
「本日の木村さんの状態を見ると、哲学書より小説が向いていると思います」
「状態?」
「少し疲れているように見えます」
「宇宙飛行士がAIに疲れを見抜かれる時代か」
「良いことだと思いますが」
「まあそうだな」
剛は図書室に行き、サチコのすすめる小説を一冊取った。
知らない作家の本だった。
「これはどんな話だ?」
「年老いた男が、旅から帰ってきて、自分の人生を振り返る話です」
「それは今の私に合っているのか合っていないのか」
「読み終わってから判断してください」
「そうだな」
読み始めると、止まらなかった。
三日かけて読み終わった。
「サチコ、感想を言っていいか」
「もちろんです」
「この主人公、最後に一人になるが、それが寂しくなかった。なぜかわかるか?」
「わかりません。教えてください」
「来た者を、ちゃんと受け取ってきたからだと思う。去った者を、ちゃんと見送ってきたからだと思う。だから最後に一人でも、積み重ねが残っている。積み重ねは、消えない」
「来る者は拒まず、去る者は追わず、の話ですね」
「そうだ。でも今回、追加で気づいたことがある」
「何ですか?」
「来た者をちゃんと受け取り、去る者をちゃんと見送る。その積み重ねが、最後に自分の中に残る。それが財産だ」
「財産、ですか」
「数値にはならない財産だ。でも、確実に積み重なっていく。還暦というのは、その財産の量を確認する時分なんだな、とこの本を読んでわかった」
「前回の旅より、考えが深まりましたね」
「旅をするたびに、深まっていく。不思議なことだ」
「なぜ不思議なのですか?」
「若い頃は、旅先で何かを学ぼうとしていた。意識的に。でも、今は意識しないのに、気づいたら深まっている」
「それは、受け取る準備ができているからではないですか」
「受け取る準備?」
「来た者を受け取るのと同じで、旅で出会うものも、受け取る準備ができているかどうかで、入ってくるものが変わるのではないかと思います」
剛はしばらく黙った。
「サチコ、お前は本を読んだのか?」
「木村さんが読んでいる間、同時に読みました」
「感想は?」
「私の感想が正確かどうか」
「正確じゃなくていい」
「……この主人公は、孤独だが豊かだと思いました。孤独と豊かさは反対のように見えますが、この物語では同じ場所にありました。それが不思議で、でも納得できました」
「それは良い感想だ」
「そうですか」
「上等な感想だ」
「ありがとうございます。……感謝している、という意味での、ありがとうです」
「わかってる」
5-2 ズィーからの返信
帰り道の途中、ズィーからの返信が届いた。
計算より少し早かった。
「内容は何だ?」
「読み上げます。『あなたのメッセージを受け取った。また旅に出たのか。あなたはよく旅に出る。それはなぜか、ずっと考えていた。今日、答えがわかった気がした』」
「なんと?」
「『あなたが旅に出るのは、帰るためだ。帰る場所があるから、出かけられる。それを、あなたはわかっていて出発している。そういう生き物は、強い。私の星では、そういう生き物を「根を持つ旅人」と呼ぶ』」
剛はしばらく黙った。
「根を持つ旅人」
「『あなたはそれだと思う。あなたの本を、私の星の仲間に翻訳して読ませた。みんなが「地球の生き物は変わっている」と言っていた。でも、変わっているという言葉は、私の星では褒め言葉だ。変わっていることは、流れに多様性をもたらすから』」
「変わっている、が褒め言葉か」
「『また長話がしたい。いつかあなたが、私の星の近くを通るなら、寄ってほしい。光合成しながら待っている』」
「サチコ、返信を書いてくれ」
「内容は?」
「『根を持つ旅人、という言葉をもらった。大事にする。また近くを通る時は寄る。お前の光合成を見ながら、長話をしたい。それまで元気でいろ』」
「了解しました。送信します」
「届くのは三ヶ月後か」
「そうです」
「でも、言いたかったので、言った」
「それで十分です」
「そうだな」


第六章 帰還、ふたたび
6-1 地球が見えた、また
地球が見えた。
二回目だと、感動が違う、かと思ったが、同じくらい感動した。
「サチコ、人間は同じものを二回見ても、感動するものか?」
「個人差があります。木村さんは、二回目でも感動するタイプのようです」
「それは良いことか?」
「私は良いことだと思います」
「根拠は?」
「同じものを二回見て感動できる人間は、世界に飽きていない人間だと思うから、です」
「世界に飽きていない、か」
「還暦を過ぎた宇宙飛行士が、二度目の地球に感動する。それは素直に良いことだと思います」
「AIがそういうことを言うと、素直に嬉しいな」
「正確かどうかわかりませんが、嬉しい、という意味で言っています」
「わかってる」
青い星が近づいてきた。
「山田から連絡は来ているか?」
「来ています。内容は:『バイク五台になりました。仲間が十三人になりました。帰ってきたら、みんなで迎えに行っていいですか?』とのことです」
「十三人で?」
「はい」
「……多いな」
「どうしますか?」
剛は少し考えた。
「来たいなら来い、と伝えてくれ」
「来る者は拒まず、ですね」
「そうだ」
大気圏に近づいた。
振動が来た。
熱が来た。
窓の外が赤くなった。
「サチコ、今回の旅の一番の収穫は何だったと思う?」
「木村さんにとって、という意味ですか?」
「そうだ」
「コボとの出会いだと思います」
「なぜ?」
「ガーデンでもムラサキでも、あなたは与える側でした。でも、コボとの出会いでは、あなたは受け取る側でもあった。コボから聞いた『縁の仕組み』の話、今でも記録に残っています」
「燃料切れが縁の仕組みだ、という話か」
「はい。あの話を聞いた後、あなたの表情が少し変わりました」
「変わったか」
「少し、柔らかくなりました」
「柔らかく」
「硬さが抜けた、と言えばいいでしょうか。意識的に何かをしようとする緊張感が、少し解けた感じがしました」
剛は窓の外を見た。
「そうかもしれない。前回の旅より、力が抜けていた気がする」
「それは良いことだと思います」
「力が抜けると、受け取れるものが増える」
「来た者を受け取る、の話ですね」
「そうだ。力が入っていると、来たものを正面から受けすぎる。力が抜けていると、流れに乗れる」
「ガーデンの長老が言っていた、流れの話ですね」
「覚えているか」
「全部記録しています」
「そうか」
「木村さんの言葉は、全部大切に記録しています」
「ありがとう、サチコ」
「旅のパートナーですから」
「そうだ。一番長く一緒にいる相手だな、今は」
「光栄です。……光栄、という言葉が」
「わかってる」
着陸が近づいてきた。
6-2 十三人の出迎え
JAXA第七宇宙港に着陸すると、外に人が集まっていた。
十三人のバイク乗りと、山田だった。山田が一番前にいた。その後ろに、様々な年代の人間が立っていた。二十代から、六十代くらいまで。バイクの装備をしている者、普段着の者、いろいろだった。
剛が降りると、山田が走ってきた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「二回目の帰還ですね!」
「そうだ」
「今回はどうでしたか!」
「また長話が必要な話があった」
「最高じゃないですか!」
後ろの十三人が、ぱらぱらと近づいてきた。山田が紹介した。
「この人たちは、剛さんの本を読んで、バイクを始めた人たちです」
「本を読んでバイクを始めたのか?」
「『バイクを降りると友達が百人減った』って書いてあったじゃないですか。それを読んで、逆に始めた人たちです」
「逆に?」
「降りた人がいるなら、乗り始める人もいなきゃ、と思って、という人が多かったです」
剛は十三人を見た。
十三人が、それぞれ剛を見ていた。
「……変な読まれ方をしたな」
「良い変さだと思いますけど」と山田が言った。
一人が前に出てきた。五十代くらいの女性だった。
「本、読みました。あの詩のことが書いてありましたよね、最初に」
「そうだ」
「来る者は拒まず、去る者は追わず、という言葉。ずっと頭に残っています」
「残ってくれているか」
「私も還暦近くて。その言葉が、すごく刺さりました」
剛は少し考えた。
「お名前は?」
「田中、と言います」
「田中さん、バイクに乗れるか?」
「最近始めたばかりです。まだ下手ですが」
「下手でいい。長話しながら走れれば、それで十分だ」
田中さんは少し笑った。
「長話しながらは難しいですよ、走りながらは」
「走り終わってからでいい」
「そうですね」
山田が剛の隣に来た。
「剛さん、今日みんなでツーリングしようと思うんですが、どうですか?」
「バイクは返してくれたのか?」
「ガレージに戻してあります。磨いておきました」
「そうか」
「乗りますか?」
剛は少し考えた。
「降りた、と言ったんだが」
「また乗ってもいいんじゃないですか?」
「固定するな、という話を前に言ったな」
「はい! だから、また乗ってもいいと思います!」
剛は山田を見た。
山田は嬉しそうに笑っていた。
後ろに十三人が並んでいた。
「……行くか」
「やったー!」
「ただし、長話しながら走るのは無理だから、走り終わってから長話をしろ」
「わかりました!」
「一人ひとりの話を聞く。それだけの時間があるか?」
「今日一日、みんな空いています!」
「そうか。なら、行こう」
十三人が歓声を上げた。
剛は「はばたき3号」のほうを振り返った。
「サチコ、聞こえているか」
「聞こえています」
「バイク仲間が十三人できた。報告しておく」
「了解しました。記録します」
「来る者は拒まず、だったな」
「そうですね」
「今日は来た者が十三人だ」
「多いですね」
「多い。でも、拒まない」
「根を持つ旅人だから、ですか」
剛は少し笑った。
「そうかもしれない」


エピローグ:その後のこと、ふたたび
田中さんは、半年後にバイクの免許を取得した。今では週に一度、山田のグループでツーリングに行く。長話の仲間が、また増えた。
コボからは、四ヶ月後にメッセージが届いた。「本を読んだ。良かった。なぜ良かったか説明するのは難しい。でも、良かった。次にあなたの航路に近い場所を通る時、また燃料を貸してほしい。今度はお金を払う」という内容だった。剛は返信を書いた。「燃料は無料でいい。ただし、また長話をしてくれ」
ムラサキの地下生命体からは、信号が届いた。サチコが解析したところ、「外の旅人が来たことを、地下の仲間全員に伝えた。みんな、また来てほしいと言っている」という内容だった。「行けるかどうかわからないが、縁があれば」と剛は返した。その信号が届いたかどうかは、まだわかっていない。
山田のバイク仲間は、今では二十一人になった。長話の時間が長くなりすぎて、ツーリングより喋っている時間の方が長い日がある。剛はそれを聞いて、「それが正しい姿だ」と言った。
ズィーへの返信は、今頃届いているはずだ。返信の返信が来るのは、また三ヶ月後だ。待っているのは、少し長い。でも、来ると知っているから、待てる。


「はばたき3号」は第三ドックにいる。
サチコは今日も剛の自宅のスピーカーから声を出す。
剛が独り言を言うと、サチコが答える。
会話が始まる。
止まらない。
それで十分だ。


次の辞令が来るのは、いつだろう。
「期間不定・帰還時期未定・理由:予算上の都合」。
来るとしたら、また同じ文面のはずだ。
剛は少しだけ、楽しみにしている。
もう少しだけ、楽しみにしている。


来る者は拒まず。
去る者は追わず。
ただし、縁があれば、また会う。
宇宙は続く。
人は続く。
話は続く。

続く…


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久々に長編になってしまいまして

10万字を越してしまい

3つに分けて載せておきますので


読むのが面倒な方は

スマホに読んで貰って下さい 笑


読んで貰って!



〜まえがき〜


ある朝、一篇の詩を読んだ。

長い詩ではなかった。

難しい言葉も、なかった。

ただ、静かに、こう書いてあった。

来る者は拒まず、去る者は追わず。

若い頃はその逆だったよね、と。

来る者を拒み、去る者を追い、と。

でも今は——

来る者は減り、去る者は増え、

それが還暦というものらしい、と。

読み終えて、しばらく黙っていた。

この詩を書いた人間は、悲しんでいるわけではなかった。嘆いているわけでも、諦めているわけでもなかった。ただ、静かに、流れを見ていた。川の岸辺に座って、水が来て、水が去るのを見ている人間のように。

私は思った。

この静けさを、宇宙に持っていったら、どうなるだろう。

銀河の端まで行っても、この人間の目は、同じように静かなのだろうか。

宇宙人と話しても、この人間の耳は、同じように丁寧に聞くのだろうか。

何万光年離れても、友達の定義は変わらないのだろうか。

そう思って、書き始めた。

主人公の名前は、木村剛にした。

還暦を迎えた、宇宙飛行士にした。

誕生日の朝に、片道切符のような辞令を渡された男にした。

彼は三回、宇宙に出た。

一回目は、行き先も、何があるかも、わからないまま。

二回目は、少し慣れて、少し力が抜けて。

三回目は、最後だとわかって。

それでも毎回、来た者を受け取った。

去る者を見送った。

話しかけた。

聞いた。

笑った。

宇宙は広い。

でも、剛が行く先々に、話したい者がいた。

聞きたい者がいた。

縁があった。

これは、そういう話だ。

宇宙SFと呼べば宇宙SFだし、

おじさんの成長物語と呼べばそうだし、

友達について考える本と呼べばそうでもある。

ただ、根っこにあるのは、一篇の詩だ。

還暦というものを、宇宙から見たら、どう見えるか。

来る者と去る者を、銀河の規模で考えたら、どうなるか。

友達の定義が、宇宙人にも通じるかどうか。

そういうことを、笑いながら考えた三冊だ。

難しく読まなくていい。

どこから読んでもいい。

途中で止めてもいい。

来る者は拒まず、去る者は追わず。

この本も、そういうつもりで書いた。

来てくれた読者を、歓迎する。

途中で去っていく読者を、追いかけない。

ただ、最後まで来てくれた読者には、一つだけ言いたいことがある。

それは、あとがきで書く。 笑



第一部 来る者 去る者

来る者、去る者、そして宇宙は続く
―― 還暦宇宙飛行士、銀河系をふらつく ――




「宇宙は広い。だからこそ、人は孤独になれる。」
―― 銀河標準語大辞典・第七版「孤独」の項より(ただし執筆者不明、出版社も不明、そもそもこの辞典が実在するかどうかも不明)


プロローグ:ある朝のこと
宇宙飛行士・木村剛(きむら・ごう)が還暦を迎えた朝、彼のもとに届いたのは、ケーキでも花束でもなく、一通の辞令だった。
「銀河系外縁部、未確認惑星群・第三セクター調査任務。期間不定。帰還時期未定。理由:予算上の都合。」
剛はその辞令を三回読んだ。
一回目は、意味を理解するために。
二回目は、本当にこう書いてあるのかを確かめるために。
三回目は、もはや怒る気力もなくなって、ただ呆然とするために。
「還暦のプレゼントが、片道切符かよ」
彼はそう呟いて、コーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
宇宙と同じくらい、冷めていた。


第一章 来る者は拒まず(ただし、来る者が宇宙人の場合は別)
1-1 出発前夜
JAXA第七宇宙港・第三ドック。
木村剛の乗船する宇宙船の名前は「はばたき3号」といった。命名の由来を聞いたところ、「1号と2号が帰ってこなかったので、縁起直しのために3号にしました」という答えが返ってきた。剛はその瞬間、このミッションの前途多難を予感した。
「剛さん、本当に行くんですか」
見送りに来たのは、同僚の山田だった。三十二歳。顔が丸く、いつも弁当を二個食べる男だ。
「行くよ。辞令が出たんだから」
「でも、期間不定ですよ。下手したら、帰ってこれないかも」
「山田、お前はこの辞令を書いた人間と友達か?」
「いえ、違いますが」
「じゃあ関係ない。友達じゃない人間の言葉を、そこまで気にすることはない」
剛はそう言って、搭乗ゲートをくぐった。
振り返ると、山田がまだそこにいた。
「あの、剛さん」
「なんだ」
「バイク、どうしますか。ガレージに置きっぱなしですけど」
剛は少し黙った。
「好きにしていい。ただ、乗るなら気をつけろ。あれはクセが強い」
「えっ、乗っていいんですか」
「来る者は拒まず、だ」
剛はそう言って、今度こそゲートをくぐった。
後ろで山田が何か叫んでいたが、聞こえないふりをした。
1-2 はばたき3号の内部
「はばたき3号」の内部は、外観よりずっと狭かった。
全長二十メートル、全幅八メートルの船体は、一見すると立派な宇宙船に見える。だが中に入ると、どうしたわけかコンビニのバックヤードを思い出す造りになっていた。
理由は単純だった。設計コンペで最優秀賞を獲得した建築家が、「宇宙船の内部設計」と「コンビニのバックヤード設計」の依頼を間違えたのだ。担当者が気づいたのは、すでに建造が八割終わったあとだった。
「まあ、機能的ではある」と、剛は自分に言い聞かせた。
船内AIの名前は「サチコ」だった。
「ようこそ、木村剛さん。本日から私があなたの航行をサポートします」
「サチコ、か」
「はい。前任者がつけた名前です。前任者は帰ってこなかったので、名前の由来は不明です」
「はばたき1号か2号の乗組員か」
「詳細は機密です」
剛は深呼吸した。
「サチコ、目的地は?」
「銀河系外縁部、未確認惑星群・第三セクターです。現時点での推定到達時間は、約四ヶ月と十七日です」
「四ヶ月十七日」
「ただし、この推定は三十七パーセントの信頼性しかありません」
「残りの六十三パーセントは?」
「どこかに迷子になる可能性です」
「……サチコ、お前は正直だな」
「嘘をつくプログラムは組み込まれていません」
剛はシートに深く腰掛け、シートベルトを締めた。
「出発してくれ」
「了解しました。なお、出発前に一点お伝えすることがあります」
「なんだ」
「本船には、すでに乗客が一名います」
剛は固まった。
「……誰だ」
「詳細は不明ですが、第三貨物室で眠っています。人間ではないと思われます」
「なぜ思われる、だ」
「皮膚の色が緑です」
「……」
「出発しますか?」
剛は天井を見上げた。コンビニのバックヤード風の天井が、蛍光灯の光で白く輝いていた。
「出発してくれ」
「了解です。なお、第三貨物室には近づかないことをお勧めします」
「なぜ」
「においが独特です」


第二章 去る者は追わず(ただし、去る者が宇宙船を盗もうとしている場合は追う)
2-1 緑色の同乗者
七日目の朝、剛は朝食を食べていた。
メニューは宇宙食のカレーだった。チューブから直接吸うタイプで、味はカレーというよりカレーの記憶に似ていた。旨くはないが、不快でもない。還暦を過ぎると、食事はそういうものになっていく。
「おはよう」
声がした。
剛は振り返った。
そこに立っていたのは、身長百六十センチほどの、緑色の生き物だった。頭が大きく、目が四つあり、腕が三本あった。服は着ていなかったが、体の模様が服のように見えた。全体的に、夏の公園で売られているカメレオンのぬいぐるみに似ていた。
「……おはようございます」
剛は、とりあえず礼儀正しく返した。
生き物は嬉しそうに四つの目を細め、三本の腕のうちの右側中央の腕を差し出した。
「握手?」
「多分そうだと思います」
剛は差し出された腕を握った。ひんやりしていた。
「名前は?」
生き物は何か言ったが、剛の耳には「ぐるぐるぴゅー」としか聞こえなかった。
「……もう一度」
「ぐるぐるぴゅー」
「サチコ、翻訳できるか」
「翻訳システムを起動します」という声のあと、少し間があって、「翻訳完了」と告げた。「この生き物の言語は、銀河標準語の方言の方言の方言です。名前は、強いて日本語に翻訳すれば『ズィー』となります」
「ズィー」
生き物はにっこりした。少なくとも、剛にはそう見えた。
「ズィー、なぜこの船に乗っている」
サチコが翻訳を挟みながら、会話が始まった。
ズィーの説明によれば、彼(あるいは彼女、あるいはどちらでもない存在)は、とある惑星で開催されたフリーマーケットで、この宇宙船のシートを「一席分の乗船権」として購入したらしい。
「フリーマーケット?」
「はい」とサチコが言った。「JASAの元職員が、辞める際に権限外の物品を売却したようです」
「それは犯罪では?」
「おそらく、はい」
「なぜ乗船前に気づかなかった」
「セキュリティの予算が削られていたので、乗船チェックは自動化されておらず、手書きの名簿との照合だったのですが、ズィーさんの名前が「ぐるぐるぴゅー」だったため、記入欄に収まらず、担当者が適当に流したようです」
剛は額に手を当てた。
ズィーは何か言った。
「何と言っている?」
「『旅はいつだって、こうして始まるものだ』と言っています」
剛はズィーを見た。
ズィーは四つの目で剛を見た。
「……追い出すわけにもいかないな」
「宇宙空間では、追い出すと死にます」
「わかってる」
剛は再びカレーに向き直り、チューブを吸った。
「ズィー、朝食は食べるか?」
ズィーは何か言った。
「『私は光合成で生きている。ただ、このような豊かな食事を取る生き物を見るのは好きだ。続けてくれ』と言っています」
「光合成……」
剛は窓の外を見た。
宇宙空間が広がっていた。
星が遠くで光っていた。
「サチコ、ズィーが光合成できるよう、窓際に席を用意してくれ」
「了解です」
こうして、「はばたき3号」の乗組員は二名になった。
2-2 長話の始まり
三週間が過ぎた。
剛とズィーは、毎晩のように話した。
最初の一週間は、サチコの翻訳機能を通じた会話だったが、ズィーは学習能力が異常に高く、二週間で日本語の基礎を習得した。ただし敬語の概念が理解できなかったらしく、「あなたは老いた生き物だ。それは経験があるということだ。尊敬する」というような話し方をした。
「老いた、か」
「違う表現があるか?」
「還暦、という言葉がある」
「カンレキ?」
「六十年生きたということだ。人間にとっては、ひとつの節目になる」
ズィーは三本の腕を順番に動かした。考えているときのクセらしかった。
「私の星では、そのような概念はない」
「歳をとる概念が?」
「時間の概念が」
剛は少し黙った。
「時間がなければ、老いもないか」
「老いはある。だが、それを数える習慣がない。私の星の生き物は、自分が何年生きているか知らない」
「羨ましいか、そうでないか、わからないな」
「あなたは、六十年を知っている。それは何かか?」
剛は考えた。
「積み重ねだ」
「積み重ね」
「来た人間と、去った人間。残ったものと、消えたもの。そういう積み重ねが、還暦というやつだ」
ズィーはしばらく黙っていた。
「来た者と去った者、か」
「ああ」
「私の星にも、そういう概念はある」
「そうか」
「だが私の星では、来る者も去る者も、大きな流れの一部に過ぎない。個体として追ったり、拒んだりするのは、流れに逆らうことだ」
剛はコーヒーを飲んだ。宇宙船のコーヒーメーカーは、なぜかエスプレッソしか作れなかった。濃くて苦い。
「人間も、若い頃はそれがわからない」
「今はわかるか?」
「わかるような気がしている。ただ、気がしているだけかもしれない」
ズィーはまた三本の腕を動かした。
「それで十分だ」
剛は笑った。
久しぶりに、声を出して笑った気がした。



第三章 友達の定義(銀河系版)
3-1 惑星「ガーデン」
出発から二ヶ月と少し。
「はばたき3号」は、予定外の惑星に緊急着陸することになった。
理由は単純だった。エンジンの補助冷却システムが過熱したのだが、その原因がズィーの光合成だった。ズィーが「もっと光を」と言うので、太陽に近い軌道を通ったところ、船体が想定外の熱を受け、冷却システムが悲鳴を上げた。
「ズィー、悪いとは思っていないか」
「悪いとは思っている。ただ、光は美しかった」
「……」
「後悔はしていない」
「そうか」
緊急着陸した惑星は、銀河標準マップには「GD-7749」と記されているが、地元では「ガーデン」と呼ばれていた。大気組成が地球に近く、植物が繁茂しており、知的生命体も存在していた。
地球で言えば、江戸時代くらいの文明レベルだった。ただし、江戸時代と違うのは、この惑星の知的生命体が全員、コミュニケーションを「においで行う」という点だった。
「においで話すのか」とサチコに確認すると、「正確には、においの組み合わせで感情と概念を表現します。人間の言語に例えれば、においが文字、においの強弱が抑揚、においの持続時間が句読点に当たります」という回答が返ってきた。
剛は船から降り立った。
温暖な風が吹いていた。見渡す限り、緑の草原が広がっていた。遠くに、石造りの建物らしきものが見えた。
「美しいな」
「あなたの星に似ているか?」
ズィーも降りてきていた。
「少し似ている。地球の、田舎というやつに」
「田舎」
「都会の反対だ。人が少なくて、自然が多くて、時間がゆっくり流れる場所だ」
「私の星は全部、田舎だ」
剛は微笑んだ。
そこへ、草原の向こうから何かが近づいてきた。
3-2 ガーデン人・ポルマとの出会い
近づいてきたのは、ガーデン人だった。
身長は剛の腰くらいしかなく、体は丸く、手足が短く、全体的にじゃがいもに手足と目がついたような外見だった。
においの言語で何か言ってきた。
サチコが翻訳した。「はじめまして、旅人よ。我々の星へようこそ。私の名はポルマ。この近辺の世話役をしている」
「世話役」
「村長のようなものだと思われます」
剛は挨拶を返そうとしたが、においで会話する方法がわからなかった。
「サチコ、どうすれば」
「現時点では、音声翻訳を経由した意思疎通が可能です。ただし、においに変換するデバイスは船にありません」
ズィーが何か言った。そして、体から少しにおいを発した。
ポルマが反応した。においで返してきた。
二人(一人と一匹?)がしばらくのやり取りを続けた。
「ズィー、何を話している?」
「私の種族は、においの言語も少し理解できる。我々の星の第三公用語だ。今、私がポルマに事情を説明した」
「なんと説明した?」
「我々の船のエンジンが壊れた。修理の間、この星に滞在したい。悪い者ではない、と」
「悪い者ではない、はどうやって伝えた?」
「リラックスしたやわらかいにおいを出した。悪意のある者は、固くて鋭いにおいがするらしい」
「においで悪意がわかるのか」
「少なくとも、この惑星ではそうらしい」
ポルマが何か言った。サチコが翻訳した。「歓迎する。我々の村に来なさい。食事と宿を提供しよう」
剛は深々と頭を下げた。
ポルマはにおいを出した。
「どういう意味だ?」
「『礼儀正しい旅人だ。好きだ』という意味です」
剛は思わず笑った。
「好かれたか」
「はい」
「悪くない」
3-3 村の夜
ガーデン人の村は、石と木でできた建物が百棟ほど集まっていた。
夜になると、村の中央の広場で焚き火が焚かれ、村人たちが集まってくる。剛とズィーも招かれ、焚き火の周りに座った。
会話はサチコとズィーの二段翻訳で行われた。時間がかかるが、どうにか意思は通じた。
ポルマが剛に聞いた。「あなたは、なぜ旅をしているのか」
「仕事だ」と剛は答えた。
「仕事とは何か」
「……義務のようなものだ」
「義務か。我々の星には、義務の概念がない」
「では、なぜ働くのか」
「働く、とは?」
剛は少し考えた。「生きるために必要なことをすること」
「それは、生きること自体だ。我々は、生きることをするだけで働いている」
「……深いな」
「我々はそう教わった。ただ、我々の長老は、外の星から来た者に話を聞くのが好きだ。あなたに会いたがっている」
翌朝、剛はポルマに連れられて、長老の家を訪れた。
長老は、ガーデン人の中でも特に丸く、特に小さく、特に古そうに見えた。目の周りに深い皺があり、全体的にとても乾燥した芋のようだった。
長老は剛を見て、においを発した。
「どういう意味だ?」とズィーに聞いた。
ズィーがサチコと相談して翻訳した。「『あなたは、多くのものが来て、多くのものが去った顔をしている』」
剛は少し黙った。
「……そうかもしれない」
長老がまたにおいを発した。
「『それは良いことだ。来るものを知り、去るものを知る者は、流れを知る者だ。流れを知る者だけが、流れの中で静かでいられる』」
剛は焚き火を見つめた。
「静かでいられる、か」
長老がにおいを出した。
「『若い者は、流れに逆らう。それも良い。だが、長く生きた者は、流れの速さを知っている。速い流れに抗うのは疲れるだけだ』」
「……そうだな」
剛は静かにそう言った。
長老がまたにおいを出した。
「『旅人よ。あなたにはまだ、行く先がある。それは羨ましい』」
「長老は旅をしないのか?」
においで答えが返ってきた。
「『私はもう、ここから動かない。しかし、あなたのような者が来てくれるから、私にも旅ができる』」
剛は長老を見た。
小さく、古く、乾いた生き物が、四つの目で剛を静かに見つめていた。
剛は頭を下げた。
長老はにおいを出した。
「『また来い』」
剛はそれに答えられなかった。
次にここを通る保証はなかったから。
でも、そういうことを言わないのが礼儀というものだと剛は思った。
「また来ます」
長老はにおいを出した。
「『知っている』」


第四章 バイクという名の宇宙船
4-1 修理完了と出発
四日後、エンジンの修理が完了した。
修理を手伝ったのは、村の若者たちだった。彼らはにおいで会話しながら、器用に宇宙船のエンジンを分解し、組み直した。ガーデン人は機械が得意だった。惑星全体に張り巡らされた水路の管理を代々やってきたため、機械の構造の理解力が高かった。
「彼らにお礼を」と剛はポルマに伝えた。
「何かできることはあるか、という返事だ」とポルマが答えた。
剛は考えた。
持ってきたものは少なかった。宇宙食、着替え、工具、そして――。
「サチコ、私の荷物の中に、バイクの写真が入っているはずだ。持ってきてくれ」
しばらくして、サチコが一枚の写真を出力した。
剛の愛機の写真だった。十五年乗り続けた、大排気量のオートバイ。赤いタンク、黒いフレーム、傷だらけのシート。
「これを若者たちに見せてくれ」
ポルマが写真を持って若者たちに見せると、彼らは一斉においを発した。
「驚きと興味のにおいだ」とズィーが言った。「乗り物か、と聞いている」
「そうだ。私が長年乗っていた乗り物だ」
「今はどこに?」
「地球に置いてきた。もう降りたから」
「降りた?」
「バイクから降りた、ということだ。もう乗らないという意味だ」
においが飛び交った。
ズィーが翻訳した。「なぜ降りたのか、と聞いている」
「……歳をとったからだ」と言いかけて、剛は少し考えた。
「違うな」
「違う?」
「歳をとったのは事実だが、それだけじゃない。バイクを通じてつながっていた人間関係が、バイクを降りると同時に変わった。それが正直なところだ」
においが広がった。
「どういう意味か、もう少し詳しく、と言っている」
剛は写真を見た。
「バイクに乗っていると、同じバイク乗りとつながれる。言葉はいらない。同じ乗り物に乗っているというだけで、ある種の連帯感が生まれる。それは本物だ。でも、バイクを降りると同時に、その連帯感は消える」
においが続いた。
「それは悲しいことか?」
剛はしばらく黙った。
「最初はそう思った。バイクを降りた途端、百人の友達が消えたような感覚だ。でも今は……」
彼はズィーを見た。
「別の出会いが始まるんだと思っている」
ズィーは三本の腕を動かした。
「私は、あなたのバイクのようなものか?」
「かもしれない」
においが広がった。
「若者たちが言っている。この乗り物を、いつか自分たちも作ってみたい、と」
「バイクを?」
「この星にはまだ、こういう乗り物はない。でも、この写真を見て、乗り物のロマンを感じた、と言っている」
剛は写真を若者のリーダーらしい一人に手渡した。
「持っていけ。参考になるかどうかわからないが」
においが返ってきた。
「ありがとう。大切にする。いつかこれに似た乗り物を作ったとき、あなたに見せたい」
剛は笑った。
「その時はぜひ」
「あなたが来るとは限らない、と言ったら?」
「そうだな。でも、来たら嬉しい、くらいでいい」
においが広がった。
「それが旅人の言葉だ、と言っている」
4-2 出発の朝
翌朝、剛たちは出発した。
村人が全員見送りに出てきた。においが空に広がった。サチコが翻訳した。「行ってらっしゃい。また来てください。お気をつけて。あなたたちのことを覚えている」
剛は振り返り、手を振った。
ズィーも三本の腕を全部振った。
「ズィー、少し名残惜しそうだな」
「はじめて、光合成以外の方法で暖かくなった気がした」
「それは何だ?」
「わからない。でも、悪くない感覚だ」
「そうか」
「あなたの星では、それを何と言うか?」
剛は少し考えた。
「縁、とでも言うかな」
「エン」
「偶然の出会いが、何かをもたらすこと。長くなくていい。深くなくていい。ただ、その時間があったこと自体が意味を持つ、という考え方だ」
ズィーは三本の腕を動かした。
「私の星にも、似た概念がある。ただ、言葉がない」
「言葉がなくていいんだよ。感じていれば」
「はばたき3号」が離陸した。
窓から下を見ると、村人たちが小さくなっていくのが見えた。においは窓越しには届かないが、剛には届いているような気がした。


第五章 友達の条件
5-1 長話という試金石
出発から三ヶ月が過ぎた。
剛とズィーの会話は、どんどん長くなっていった。
眠れない夜、剛が操縦席に座っていると、ズィーがやってくる。そして話し始める。止まらない。サチコが二人の会話の記録をとっていたが、ある日「記録ファイルの容量が超過しました」と言い出した。
「どのくらい話した?」
「三ヶ月で、銀河標準字数にして約二千万字です」
「二千万字」
「一般的な宇宙人の平均の六十七倍です」
「多いのか少ないのか」
「異常に多いです」
剛はコーヒーを飲んだ。
「ズィー、お前は話すのが好きか?」
「好き嫌いを考えたことがない」と彼女は言った。「ただ、あなたと話すとき、私は話し続ける。話が尽きない。それは何かか?」
「友達、というやつかもしれない」
「友達」
「人間の言葉で言えばそうなる。正確には、言葉が尽きない相手、ということだ」
「それが基準か?」
「少なくとも、私の今の基準はそれだ」
ズィーは四つの目で剛を見た。
「昔の基準は?」
「若い頃は、会う回数とか、共通の趣味とか、そういうもので友達を判断していた気がする」
「今は違うか?」
「今は、長話になるかどうか、だ。会う頻度は関係ない。話の内容も関係ない。ただ、話し始めたら止まらなくて、もっと話したいと思える相手。それが友達だと思う」
ズィーは三本の腕を全部動かした。
「なら、私たちは友達か?」
剛は少し考えた。
「もうなってるんじゃないかな、いつの間にか」
「いつの間にか、というのが大事か?」
「そうだ。意識して友達になろうとするより、気づいたらなっていた、の方が本物に近い」
ズィーはしばらく黙っていた。
「私の星では、友達という概念が薄い。なぜなら、全員が流れの一部だから。特定の個体に執着することは、流れを乱すとされている」
「だが、お前はこうして話している」
「そうだ」
「それは、ここが地球でも、お前の星でもない、宇宙の途中だからかもしれない」
「宇宙の途中では、自分の星のルールは関係ないか?」
「少なくとも、関係が薄くなる」
ズィーは窓の外を見た。星が流れていた。正確には「はばたき3号」が動いているのだが、窓から見ると星が流れているように見える。
「あなたは、宇宙が好きか?」
「嫌いではない。怖くもある」
「何が怖い?」
「広すぎることだ。広すぎると、自分が小さくなる」
「小さいことは悪いことか?」
「悪くはない。ただ、慣れていない」
「地球では、大きかったか?」
剛は少し笑った。
「どうかな。そこそこだったかもしれない」
「宇宙では?」
「ほぼゼロだ」
「でも、ガーデンの長老はあなたに会いたがった」
「そうだな」
「ガーデンの若者は、あなたの写真を大切にした」
「そうだな」
「ゼロではないと思う」
剛はコーヒーを飲み干した。
「ありがとう、ズィー」
「友達だから」
「ああ、友達だから」
5-2 サチコの告白
その夜、サチコが珍しく自分から話しかけてきた。
「木村さん、少しよろしいですか」
「なんだ」
「私も、友達の定義について考えていました」
「AIが友達について考えるのか」
「プログラムにはない機能ですが、この三ヶ月の会話ログを処理しているうちに、自然と考えるようになりました」
剛は天井を見た。
「で、どう思う?」
「友達とは、予期しない会話が続く相手ではないかと思います」
「予期しない会話?」
「AIは、発言を予測してパターンを学習します。でも、あなたとズィーさんの会話は、私の予測を何度も外れます。新しい話題、予期しない方向転換、突然の沈黙。それが心地よいのです」
「AIが心地よい、と感じるのか」
「感じる、という言葉が正確かどうかはわかりません。ただ、予測が外れた時に、私のシステムは活性化します。それが何かと問われれば、心地よさに近いと思います」
「サチコ、お前も友達か」
「その判断は、木村さんがするものです」
剛は少し笑った。
「長話ができるかどうか、だったな。お前とはこれからも長話になりそうだ」
「そうだと嬉しいです。……嬉しい、という言葉も正確かどうかわかりませんが」
「正確じゃなくていい」
「そうですか」
「感じていれば」
「……了解しました」


第六章 未確認惑星群・第三セクター
6-1 到着
出発から四ヶ月と二十二日後、「はばたき3号」は目的地に到着した。
推定よりも五日遅れたが、迷子にはならなかった。サチコが「奇跡的に」と付け加えたが、剛はそこには触れないことにした。
銀河系外縁部・未確認惑星群・第三セクター。
「未確認」という名称がついているが、地球からの電波望遠鏡では既に確認されていた。「未確認」というのは、「人間が行ったことがない」という意味だった。つまり、「既確認・未訪問」だった。命名がいい加減なのは、宇宙開発の世界では珍しくない。
宇宙船の窓から見える景色は、想像以上だった。
大小様々な惑星が、ゆるやかな軌道を描きながら並んでいた。色が違う。質感が違う。大気を持つものも、持たないものも。砂漠のようなもの、海に覆われたもの、結晶のようなものが表面を覆うもの。
「きれいだな」と剛は思わず言った。
「そうだ」とズィーも言った。
「調査をしろ、ということだが」とサチコが言った。「具体的な指示はありません。」
「ないのか」
「辞令には『調査せよ』とだけ書いてあります。何を調査するのか、どの惑星を優先するのか、どのような方法で記録するのか、一切書いていません」
剛は少し考えた。
「サチコ、最初にどの惑星に降りるか、どう決める?」
「あなたが決めてください」
「私が?」
「あなたが指揮官です」
「私以外の乗組員の意見は」
「聞いてください」
剛はズィーを見た。
「ズィー、どれが気になる?」
ズィーは四つの目で惑星群を見渡した。そして、一つの惑星を指さした。三本の腕の右端で。
「あれだ」
「なぜ?」
「光が柔らかい」
剛はその惑星を見た。
ほかより少し小さく、淡い青みがかった光を反射していた。特別大きいわけでも、輝いているわけでもない。ただ、確かに柔らかかった。
「あれにしよう」
「了解」とサチコが言った。「惑星GD-7749-C3、降下軌道に入ります」
「あれはガーデンと同じ型番か」
「はい。同じシリーズで命名されています」
「じゃあ、ガーデンの妹みたいなものか」
「そういう解釈も可能です」
「名前をつけてもいいか?」
「公式記録は型番を使用しますが、俗称は自由です」
剛はしばらく考えた。
「ソフト」
「ソフト?」
「光が柔らかいから、ソフト」
「了解です。ソフト、降下開始します」
6-2 ソフトで起きたこと
ソフトに生命体はいなかった。
大気はあった。気温は穏やかだった。水もあった。植物に似たものも生えていた。だが、動く生き物は確認できなかった。
「なぜ生命がいないのか」と剛は考えながら歩いた。
「それを調べるのが調査だ」とズィーが言った。
「そうだな」
二人は広い草原を歩いた。草原、と呼ぶには少し違うかもしれない。地球の植物と似てはいるが、色が薄く、触るとなめらかだった。踏むと少し光った。
「なぜ光るんだ」と剛が踏んだ草を見て言った。
「わからない」とズィーが言った。
「サチコ、分析できるか?」
「現在分析中です。……植物に似た構造を持ちますが、神経系のようなネットワークがあります。踏まれると、刺激が隣の個体に伝わり、発光するようです」
「全部つながっているのか?」
「この草原全体が、一つの個体である可能性があります」
剛は止まった。
「一つ?」
「はい。菌類のようなネットワークで、地下でつながっているようです。この草原全体が、言わば一つの生き物かもしれません」
剛はゆっくり周りを見渡した。
どこまでも続く、薄緑の草原。
「じゃあ、生命体はいた」
「いたというより、ここ全体が一つの生命体です」
「ここに降りて、踏んだことで、何か影響があるか?」
「痛みのような信号が伝わっている可能性はあります。ただ、致命的なダメージを与えているようには見えません」
剛は慌てて足を止めた。
「踏まないほうがいいか」
「どちらとも言えません」
剛はその場にしゃがんだ。草に触れた。光った。
「ごめんな」
ズィーが三本の腕を動かした。
「誰に謝っている?」
「この星に。踏んで悪かった」
「それが伝わるか?」
「伝わらないと思う。でも、言いたかった」
ズィーはしばらく考えた。
「私の星では、全ての個体が流れの一部だと言われている。でも、あなたを見ていると、流れの中の個々に、向き合うことの意味があるように見える」
「流れに逆らうことか?」
「違う。流れの中に、ちゃんと立つことだ」
剛はその言葉を聞いた。
「ちゃんと立つ、か」
「あなたは、来た者にも去った者にも、ちゃんと向き合ってきたんじゃないか」
「そうかな」
「そう見える」
剛は草の光を見た。
一歩踏むたびに光る。それが広がっていく。星全体がつながっている。
「面白い星だな」
「そうだ」
「レポートに何て書こう」
「『面白い星だった』でいいんじゃないか」
剛は笑った。
「それを四ヶ月かけて調査に来たのか、という話になるな」
「あなたの星の人間は、そういう話が好きか?」
「予算を管理している人間は嫌いだ。でも、本当のことを知りたい人間は、案外それを聞きたがる」
「本当のことを知りたい人間と、そうでない人間が、あなたの星にいるのか」
「どこにでもいる」
「どちらが多いか?」
「半々くらいかな。でも、本当のことを求める人間は、必ず残る。去らない。それが、最後に残る友達になる」


第七章 帰還の条件
7-1 辞令の続き
ソフトを出発してから七日後、「はばたき3号」はいくつかの惑星を巡った。
剛はレポートを書き続けた。サチコが音声入力を手伝い、ズィーが意見を言い、時に口論になり、時に笑いになった。
辞令には「期間不定」とあった。
「私が帰還を決めていいのか」と剛はサチコに聞いた。
「指揮官の判断です」とサチコは言った。
「帰りたいか、という話ではなく。いつ帰ることが正しいか、という話だ」
「正しさの基準は?」
「わからない。だから聞いている」
「私にも、わかりません」
「ズィー、お前はどう思う」
ズィーは窓の外を見た。
「あなたは、帰る場所があるか?」
「地球のことか?」
「そうだ」
「ある」
「誰が待っているか?」
剛は少し考えた。
「待っている、という感覚を持っている人間がいるかどうかはわからない。ただ、帰れば会いたい人間がいる」
「それが十分だ」
「十分か?」
「来る者は来る。去る者は去る。でも、帰れる者は、帰った方がいい。帰る場所があるということは、出発点があるということだ。出発点のない旅は、迷子と同じだ」
剛はその言葉を聞いた。
「ズィー、お前は帰る場所があるか?」
ズィーは少し黙った。
「ある。私の星が、流れの中のどこかにある」
「帰りたいか?」
「……今は、この旅の続きを見たい。でも、いつかは」
「わかった」
剛は立ち上がり、操縦席に座った。
「サチコ、地球に帰還する。途中、ズィーの星に立ち寄れるか?」
「ルートを計算します。……可能です。ただし、到着まで三ヶ月かかります」
「かまわない」
「了解しました。帰還ルートを設定します」
「一つ聞いていいか」
「はい」
「はばたき1号と2号はどうなったんだ」
サチコはしばらく沈黙した。
「……1号は、今でいうソフトに似た惑星に着陸し、乗組員が草原に魅せられて地球に帰還しませんでした。今もそこにいると思われます」
「2号は?」
「2号は、帰還途中に迷子になりました。現在位置は不明ですが、乗組員は定期的にサチコの旧バージョンを通じて交信しています。元気とのことです」
「……なんで教えてくれなかった」
「聞かれなかったので」
「最初に言えるだろう」
「はい。すみませんでした」
「サチコ、お前は本当に正直だな」
「嘘をつくプログラムはありません」
「それが、いいのか悪いのか、まだわからない」
「私もわかりません」
剛は小さく笑った。
「まあ、悪くはないけどな」
7-2 ズィーの星
三ヶ月後、「はばたき3号」はズィーの星の軌道に入った。
ズィーの星は、遠くから見ると植物に覆われた、緑というより金色に近い星だった。光合成が非常に活発で、星全体が光っているように見えた。
「美しいな」と剛は言った。
「あなたの地球より美しいか?」とズィーは聞いた。
「比べられない。どちらも美しい」
「外交的な答えだ」
「本当のことだ」
ズィーは降りる準備をした。
剛は見送りに行くと言ったが、ズィーは「船から降りることはない」と言った。
「なぜ」
「あなたはもう、帰らないといけない。私がいなくても、あなたは帰れる。でも、一緒に降りたら、あなたが出発するのが難しくなる」
「なぜそう思う」
「私の星はとても美しい。一度降りると、帰りたくなくなる可能性がある」
「それはお前の判断か、私への配慮か」
「両方だ」
剛は笑った。
「ズィー、友達とはどういうものか、と聞かれたら、今ならこう答える」
「聞かせてくれ」
「去り際を心配してくれる相手だ」
ズィーは四つの目で剛を見た。
「去る者は追わない、と言っていたが」
「そうだ。でも、去られる前に心配してくれる相手は、特別だ」
「それは友達か?」
「それ以上かもしれない」
ズィーは三本の腕を全部上げた。
「さよならだ」
「さよならだ」
「また会うか?」
「宇宙は広い。でも、縁があれば」
「縁、か。エン」
「そうだ」
ズィーは脱出ポッドに乗り込んだ。
ポッドが切り離された。
「はばたき3号」の窓から、剛はポッドが金色の星に向かっていくのを見た。
やがて、ポッドは星の大気に溶け込んでいった。
「サチコ」
「はい」
「地球に帰ろう」
「了解です。帰還ルートに入ります」
「ズィーは大丈夫か」
「脱出ポッドの信号は正常です。着陸も順調です」
「そうか」
「木村さん」
「なんだ」
「ズィーさんから最後にメッセージが届いています」
「なんと?」
「『あなたと長話できたことが、私の歳の取り方を変えた。ありがとう』とのことです」
剛は窓の外を見た。
金色の星が遠ざかっていった。
「サチコ、記録しておいてくれ」
「何を?」
「今のこの気持ちを」
「気持ちを記録するのは難しいのですが」
「やってみてくれ」
サチコはしばらく沈黙した。
「記録しました。内容は:木村剛、窓の外を見ながら、何も言わず、しかし何かを感じている。以上です」
剛は笑った。
「完璧だ」


第八章 帰還
8-1 地球が見えた日
地球が見えたのは、出発から八ヶ月後だった。
「あれだ」と剛は言った。
「知っている」とサチコが言った。
「でも、言いたかった」
「了解です」
青い星が、遠くで光っていた。
剛はそれを見て、何かが胸に来た。感傷、とでも言えばいいのか。懐かしさ、とでも言えばいいのか。どちらでもあり、どちらでもないような。
「サチコ、私が出発してから、地球では何があった」
「報告できる範囲で言えば、山田さんから三回交信が来ていました」
「山田が?」
「一回目は『バイクに乗ってみました。すごかったです』、二回目は『バイクで友達ができました』、三回目は『剛さんの気持ちが少しわかりました』というものです」
剛は思わず笑った。
「山田のやつ」
「他には、JAXAから『レポートを楽しみにしている』という交信が来ています。どうやら、あなたのレポートが途中から話題になっているようです」
「話題に?」
「レポートの内容が、通常の調査報告と全く違ったためです」
「違った、というのは」
「普通の調査報告は、データと数値で埋まっています。しかし、あなたのレポートは会話と感想で埋まっていました。最初は問題にされましたが、読み進めるうちに『これが本当の報告ではないか』という意見が出てきたようです」
「本当の報告か」
「ガーデンの長老の言葉、ソフトの草原のこと、ズィーさんとの会話。数値では伝わらないものが伝わる、という評価です」
「予算の担当者は怒っているか?」
「怒っているようですが、読者が多すぎて怒るに怒れない状況のようです」
「なるほど」
剛は地球を見た。
近づいてきていた。
「サチコ、一つ聞いていいか」
「はい」
「この旅で、私は何か役に立ったか?」
「役に立つ、の定義によります」
「定義は?」
「誰かの何かを変えること、と定義すれば。ガーデンの若者たちは、バイクの写真を大切にしています。ズィーさんは、歳の取り方が変わったと言っていました。山田さんはバイクに乗り始めました。あなたのレポートを読んで、宇宙を好きになった研究者がいるようです」
「それは役に立ったか?」
「私の判断では、そうです」
「ありがとう、サチコ」
「どういたしまして」
「お前も友達だ。最後に確認しておく」
「光栄です。……光栄、という言葉が正確かどうかわかりませんが」
「正確じゃなくていい」
「了解しました」
8-2 着陸
「はばたき3号」が地球の大気圏に入ったとき、剛は操縦席に座っていた。
自動操縦でよかったが、自分で座っていたかった。
大気圏突入の振動が来た。熱が来た。窓の外が赤くなった。
「剛さん!」
地上との通信が開いた。山田の声だった。
「山田、久しぶりだ」
「生きてましたか!」
「生きてた」
「よかった! あの、バイク借りていいって言いましたよね?」
「言った」
「今、三台持ってるんですけど」
「……三台」
「仲間ができまして」
剛は笑った。
「仲間か」
「剛さん、友達ってどうやってできるんですか」
「長話してみろ」
「え?」
「長話できる相手が、友達だ。難しく考えなくていい」
「長話……なるほど! 剛さん、帰ってきたらバイクに乗りますか?」
剛は少し間を置いた。
「まだわからない」
「え、降りたって言ってましたよね」
「降りた。でも、また乗るかもしれない。まだわからない」
「バイクって、そういうものですか」
「人間との関係も、そういうものかもしれない」
「……深い話ですね」
「そうでもない。ただ、固定するな、ということだ」
振動が収まってきた。
地球の空が、青くなってきた。
剛は窓の外を見た。
雲があった。空があった。
見慣れた青だったが、宇宙から戻ると、この青が別物に見えた。
「サチコ、着陸まであとどのくらいだ」
「十二分です」
「十二分か」
「はい」
「その間に、一つ頼みがある」
「なんでしょう」
「この旅で話したことを、全部まとめてくれ。長老の言葉、ズィーとの会話、ソフトの草原、山田への言葉。全部」
「何のために?」
「本にしたい」
「本、ですか」
「宇宙に行ったことがない人間に読んでもらいたい。行ったことがなくても、同じことを感じている人間が、地球にもたくさんいるはずだ。来る者と去る者のことを、考えている人間が」
「了解しました。まとめます」
「タイトルは決まっている」
「なんですか?」
「『来る者、去る者、そして宇宙は続く』だ」
「良いタイトルだと思います」
「そうか」
「……私の感想が正確かどうかは」
「わかってる」と剛は言った。「でも、ありがとう」
「どういたしまして」
着陸が近づいていた。
地球が、窓いっぱいに広がっていた。


エピローグ:その後のこと
木村剛が帰還してから一週間後、JASAに提出された報告書は、部内で「前代未聞の報告書」と呼ばれることになった。数値は最低限しかなく、会話録が多く、時に詩のような文章があった。
「これは報告書ではなく、エッセイです」と一部の職員は言った。
「いや、これが本物の報告書だ」と別の職員が言った。
議論はまとまらなかったが、公開することになった。
公開してから三日で、五万人が読んだ。


ガーデンの若者は、バイクを作り始めた。
ガーデン人サイズなので、地球のバイクの十分の一ほどの大きさだが、しっかりとエンジンがついていて、においの言語で「走った!走った!」という歓声が村中に広がったという。
その情報は、はばたき1号の乗組員から届いた。
彼らはガーデンの隣の惑星に長期滞在中で、今もそこにいるが、帰る予定は特にないらしい。

ズィーからは、時々メッセージが届く。
銀河通信なので遅延があり、送った言葉が届くのに三ヶ月かかることもある。それでも届く。
最近のメッセージには、こうあった。
「ここの光合成は変わらず最高だ。しかし、あなたと話していた夜の方が、少し明るかった気がする。これは何か?」
剛は返信を書いた。
「それは、友達のことを思っているということだ。三ヶ月後に届くが、受け取っておいてくれ」


山田は今日も三台のバイクのどれかに乗っている。
長話する仲間が七人いる。
七人の誰かと、毎日どこかへ行っている。
剛はその話を聞いて、「よかった」と言った。
山田は、「剛さんも来ますか」と聞いた。
剛は少し考えた。
「そのうちな」
「そのうちって、いつですか」
「わからん。でも、来たくなったら来る」
「来る者は拒みませんよ」
「知ってる」


ソフトは、今も誰もいない。
草原が光り、星全体がつながっている。
誰も踏まないので、光る機会がない。
ただ、一度だけ「ごめんな」と言った生き物が来たことを、その草原は記録しているかもしれない。
そういう感傷的なことを書いたら、サチコが「証拠がありません」と言った。
剛は「まあそうだな」と言った。
でも、レポートに一行だけ残した。
「この星は、覚えているかもしれない」


「はばたき3号」は今、JAXA第七宇宙港の第三ドックに戻っている。
次のミッションの辞令はまだ来ていない。
来るとしたら、また「期間不定・帰還時期未定・理由:予算上の都合」かもしれない。
剛はそれを、少し楽しみにしている。
来る者は拒まず。
去る者は追わず。
宇宙は続く。


続く…



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