別巻 良い夢見のパジャマ
〜黄色の縦縞は、時空を超える〜
浪漫妄想科学文庫
第一章:二枚重ねのガーゼは、宇宙の歪み
僕のクローゼットには、かれこれ十年間、絶対に手放せないパジャマがある。
そいつのスペックを語るなら、こうだ。全体に走る黄色の縦ストライプ柄。素材はガーゼ生地の二
枚重ね。少々厚手の物。長年の洗濯によってヨレヨレになっており、今や全体的に「干からびかけ
た、たくあん」のような哀愁を帯びた色合いに変色している。
毎朝、それを見た妻からは「いい加減に捨ててよ。それとも何? 実家のお母さんが編んでくれた呪
いのアイテムか何かなの?」と冷たい視線を浴びせられる。だが、僕は絶対にこれを譲らない。なぜな
ら、このパジャマには、僕にしか知らない秘密の機能が備わっているからだ。
少々、気持ちが落ち込んだとき、あるいは現実世界の世知辛さに押しつぶされそうになったとき、
決まって僕はそいつを羽織る。するとどうなるか。驚くべきことに、僕の意識は、地球の三次元空間
から、精神的マルチバース(並行宇宙)へと強制的にシフトするのだ。科学的に言えば、この二枚重ね
のガーゼの隙間に、未知のタキオン粒子が捕捉され、量子記憶定着型の次元跳躍ワームホールが形成
されているとしか説明がつかない。
そして、昨晩もまた、僕はその深すぎる夢の中へと、光速を超えてダイブしていったのだった
――。
第二章:エスカレーターを降りてきた宇宙艦隊司令官
視界が開けると、僕はとあるノスタルジックなショッピングアーケードに立っていた。昭和の香りが
残る、それでいてどこかサイバーパンクなネオンが瞬く空間だ。
僕が中央のエスカレーターの前に佇んでいると、上方の階から、ゆっくりと降りてくる一人の女性
の姿が目に飛び込んできた。一瞬、僕は我が目を疑った。心臓がドクンと不規則なビートを刻む。
「うそだろ……? なんで、キミがここに……」
忘れるはずのない笑顔。紛れもなく、僕の初恋の女性だった。
小学三年生のとき、我が家は引っ越しをして、古い一軒家に移り住んだ。その隣のお宅に住んでい
たのが彼女だった。最初に生垣越しに挨拶を交わしたとき、子供心に胸が跳ね上がったのを、まるで
昨日のことのように思い出す。同級生だった彼女はとても可愛くて、当時の僕にとっては、まさにスト
ライクゾーンのど真ん中だった。
当時の僕らの関係は、例えるなら学園ドラマ『おれは男だ!!』の森田健作と吉川くんのようだっ
た。付かず離れず、互いに照れくさくて決定的な言葉は口にできないけれど、いつもどこかで意識し
合っている。そんなもどかしい関係が、確かに高校時代まで続いていたのだ。
だが、エスカレーターから降りてきた彼女は、当時の小学三年生の姿でも、高校生の姿でもなかっ
た。なぜか**今の年齢の姿**のまま、そこに現れたのだ。
相変わらずの美しさだった。いや、それどころか、年齢と共に養われた大人の妖艶さすら身にま
とっている。いつの間にそんなレベルアップを果たしたのか、とびきりの美女となった彼女は、なぜ
か肩に大型のパルス・レーザーライフルを担ぎ、背後には三匹のタコ型宇宙人(おそらく彼女の忠実な
部下だろう)を従えていた。どうやらこの並行宇宙において、彼女は反銀河帝国同盟の女首領、ある
いは宇宙艦隊の司令官に就任しているらしい。
彼女は僕を見つけると、ふっと微笑みながら手を振った。
「しばらくね、サトシ。……いかがされてました?」
あたりに、高級な宇宙香水のような、とても良い香りがふんわりと広がった。僕はパニックにな
り、周りを見回した。僕に言っているのか? いや、僕しかいない。ドキドキしながら、僕は声を絞り
出した。
「おい……僕らに、そんな敬語、いらんだろ?」
心の底で思った言葉が、そのまま口をついて出た。彼女はクスッと悪戯っぽく笑った。
「そうね。じゃあ、あ~んなことや、こ~んなことまで話しちゃおうかしら。時間、ある?」
「あ、あお(ある)」
あまりの美しさと緊張に、僕の喉の音声合成機能がバグを起こし、謎の宇宙語のような返答になっ
てしまった。
第三章:ドムドムハンバーガーλ-38星雲店での逢瀬
僕らは、アーケードの片隅にある「ドムドムハンバーガー λ-38星雲店」に入り、お茶をすることに
なった。窓の外には土星の環のようなプレキシガラスの装飾が見える。彼女はメロンソーダをスト
ローで静かにかき混ぜながら、僕が隣に引っ越してきたあの遠い日の思い出話を始めた。
そして、ついに、物語の核心となるセリフが、彼女の唇から放たれた。
「ねえ、あの頃、私のこと好きだったでしょ?」
「え……?」
心臓がタキオン粒子のように激しく振動を始める。
「私もよ」
彼女はまっすぐに僕を見つめた。
「でも、あの頃の地球の重力と、子供という不自由な関係の中では、言えなかったわよね」
僕はただ、激しくうなずくことしかできなかった。胸のドキドキは止まらない。現実世界では三十
年も前に途絶えてしまったタイムラインが、今、強力な量子もつれを起こして結びつこうとしてい
た。
最後に彼女に会ったのは、確か三十年前の同窓会だった。あのとき、僕は結婚したばかりで、彼女
はまだひとりだった。元気? と声を掛け合いながらも、彼女が密かに左手の薬指をバッグの陰に隠し
たのを、僕は今でも鮮明に覚えている。それなのに、当時の僕は若く、そして致命的に愚かだった。
「おめでとう」と言ってくれた彼女に対し、照れ隠しでこう言い放ってしまったのだ。
「おい、はよせんと、齢食っちまうぞ!」
笑いながら言ったその言葉は、彼女の心をどれほど傷つけただろうか。その数年後、実家のお袋か
ら「お隣の娘さん、お嫁に行ったわよ」と聞かされたとき、僕の胸には取り返しのつかない暗黒物質
(ダークマター)のような後悔が沈殿した。あの失言は、僕の人生における最大の宇宙的過ちだっ
た。
「でも今なら。そして、今でも……」
彼女はそう言って、僕の手をそっと握った。その手は驚くほど温かかった。なぜか、今の現実の生
活――住宅ローンや、会社の人間関係、胃カメラの予定など――の話題は一切出ない。ここは、純粋
な未練と記憶だけが肯定される特異点(シンギュラリティ)なのだ。
ならば。男として、今一度、あの日の精算をしよう。もし許されるなら、もう一度、彼女と共にこ
の銀河の果てまで――そう僕が覚悟を決めた、その瞬間だった。
第四章:現実の波動(戦闘力五十三万の寝息)
突然、僕の精神宇宙に、すさまじい重力波が襲いかかった。
『警告:現実世界の妻による、大規模な寝返りが発生します』
脳内でそんなシステムアナウンスが響いた気がした。次の瞬間、世界が激しくシェイクされる。
パッ!!
完全に目が覚めた。視界に飛び込んできたのは、宇宙戦艦のハッチではなく、我が家の寝室の、な
んの変哲もない天井の壁紙の模様だった。朝の薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
そして隣からは、「ゴゴーー……ズズー……」という、地響きのようなリアルな音が聞こえてく
る。現実の妻が、戦闘力五十三万はあろうかという圧倒的な威圧感を放ちながら、健やかに寝息を立
てていた。
「夢か……。いや、次元跳躍の強制ログアウトか……」
僕はベッドの中で仰向けになったまま、ぽつりと思った。夢なら覚めないで、なんて甘い感傷に浸
るつもりはない。今の僕には、現実の生活がある。今日中に提出しなければならない企画書もある
し、夕方にはゴミ出しの任務も待っている。いくら初恋の彼女が次元の狭間で僕を待っていようと
も、僕は現実の家庭を壊すほど弱くはないし、そこまで愚かでもない。
ただ、過去をすべて綺麗さっぱり忘れて、「フッ、あれはただの思い出さ」とスマートに笑えるほ
ど、かっこいい男にもなれずにいるのだ。大人の男の頭の奥底には、いつだって「もしもの残骸」が
ほんの少しだけ転がっているものらしい。
「……おい、たくあん」
僕は自分の胸元にある、ヨレヨレの黄色いストライプ柄のガーゼをそっと指先でつまんだ。
「もう一回だけ、あのドムドムハンバーガーの席に戻してくれよ。せめて、メロンソーダの代金くら
いは、僕に払わせてくれ」
僕はもう一度、強く目を閉じた。しかし、パジャマはすでにただの綿一〇〇%の布切れに戻ってし
まっており、僕の意識が再びワームホールを超えることはなかった。あの頃、僕らだけに吹いていた
風の音は、二度と聞こえなかった。
切なさと、ほんの少しの加齢臭をまとった、ただ、それだけの、いつもの朝が始まる。
(おわり)
あとがき
本作『別巻 良い夢見のパジャマ 〜黄色の縦縞は、時空を超える〜』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
前作、あるいは別視点である『悪い夢見のネグリジェ』では、妻の道子から「調子に乗って予算をフルに使っている」と非難されていた黄色いパジャマですが、その実態はまさかの『量子記憶定着型・次元跳躍衣料』。男の脳内マルチバースを縦横無尽に駆け巡る、きわめてロマン思想の強い(そして奥さんから見れば非常に往生際の悪い)壮大なSFファンタジーとして描かせていただきました。
大人の男という生き物は、どれほど年齢を重ね、社会的な責任(住宅ローンやゴミ出し、胃カメラの恐怖など)を背負い、現実を真面目に生きていようとも、脳の片隅に「もしもの宇宙」をコっそり隠し持っているものです。
30年前の同窓会で、照れ隠しのあまり放ってしまった最悪の失言。それを「人生最大の宇宙的過ち」として暗黒物質(ダークマター)のように引きずり続けているサトシの姿は、滑稽でありながらも、どこか憎めない愛らしさがあります。
妻の道子は、タンスの奥のレーヨンネグリジェと共に「過去の嫉妬の悪夢」をストイックに内職していましたが、夫のサトシはといえば、干からびかけたたくあん色のパジャマを相棒に、「ドムドムハンバーガー」で初恋の宇宙艦隊司令官にメロンソーダを奢ろうとしていたわけです。この夫婦の、噛み合っているようで絶妙にズレている精神世界の対比を楽しんでいただけたなら幸いです。
どれほど広大な並行宇宙を旅しようとも、最後は「戦闘力53万」の妻の寝息という、圧倒的な現実の重力によって強制ログアウトさせられてしまう。そしてサトシもまた、文句を言いながらもその重力(現実)を愛し、受け入れている。
男のロマンとは、きっとそんな風に「戻るべき退屈で愛おしい現実」があってこそ、光速を超える輝きを放つのでしょう。
今夜、もしあなたがくたびれた黄色いストライプの服を身にまとうことがあれば、ぜひ耳をすましてみてください。戦闘力53万の重力波に阻まれる前に、ドムドムハンバーガーのメロンソーダが、あなたを待っているかもしれません。
それでは、また別の銀河の書棚でお会いしましょう。
著者:浪漫妄想科学文庫











