二十一世紀のあなたへ
―未開封の手紙―


まえがき
人は誰しも、過去のどこかに「選ばなかった道」を残して生きているのではないでしょうか。
「あの時、あの一言を伝えていれば」「あの手紙を開けていれば」――振り返れば愛おしく、けれど二度と戻ることはできない分岐点。西暦2000年から2001年にかけて、新しい世紀の訪れを祝うように様々な「未来への手紙」企画が行われました。二十年後の自分や大切な人へ宛てた言葉たちは、時という名の川を渡り、それぞれの元へ届けられたはずです。
もしも、その手紙を開けずに捨ててしまったとしたら。そして、もしも自分が知らなかった「もう一通の手紙」が四十年間、静かに自分を待ち続けていたとしたら――。
変わりゆく時代の冷たさの中で、私たちが胸の奥に灯し続けるささやかなぬくもりについて考えながら、この物語を綴りました。どうぞ、静かな夜にページをめくっていただければ幸いです。




プロローグ 二〇〇一年、正月
 その手紙は、正月の陽光が差し込む実家の茶の間に、年賀状の束に紛れて届いた。
 消印は前年の十二月。差出人の名は、藤崎由紀。当時の恋人だった。封筒の表には几帳面なフォントで「21世紀のあなたへ」と印刷されている。郵政省(当時)が企画した、二十年後の誰かに手紙を届けるという、あの年だけのどこか浮き足立った奇妙な催しだった。
 実家の居間で、母は何も言わずにその封筒を差し出した。だが、その目の奥には「まさか、お前まだこの子と……?」という疑念と心配が揺れていたのを、青年だった僕は見逃さなかった。
 開ける前から、文面はなんとなく想像がついた。お元気ですか。そこに、私もいますか。そんな、拙くて、まっすぐな問いかけ。
 あの手紙は、開けられないまま、実家の抽斗の奥にしまい込まれた。就職し、独り暮らしを始め、何度か引っ越しを重ねるたびに、僕はその封筒を手に取っては、結局開けることも、捨てることもできずにいた。まるで、開けてしまえばふたりの曖昧な関係に何かが確定してしまうことを、無意識に恐れていたかのように。
 二〇二一年。二十年後の僕は、その手紙をとうとう開けることなく、迷った末に家庭ごみと一緒に処分した。
 ――正確には、処分したはずだった。
 だが、この物語はそこから始まる。



第一章 還暦間近の朝
 二〇四一年、如月。
 小田島涼は、五十九歳になっていた。
 窓の外には、灰色の空を突っ切るように無人配送ドローンの群れが飛んでいる。子どもの頃に夢見た「空飛ぶ車」のような華やかさはない。ただ荷物を効率よく運ぶためだけの、無機質な羽虫の大群だ。台所の壁に取り付けられたスマートAIディスプレイスピーカーが、合成音声で淡々とニュースを読み上げている。
『……昨年度の十代の自殺者数が過去最多を更新しました。有識者は「将来的な不透明感と社会的孤立」を指摘しており……次のニュースです。主要企業の株価が上昇し、富裕層の資産形成が……』
 涼はため息をつき、手元の端末でスピーカーの電源を落とした。静寂が部屋に満ちる。台所で湯を沸かしながら、壁にかけたカレンダーを見た。今日は二月一日。特別な日ではない。ただ、なぜか胸の奥が、朝から妙にざわついていた。
 携帯端末が震えた。見知らぬ番号。詐欺かセールスだろうと無視しかけたが、画面に表示された発信元――「日本郵政アーカイブ機構」という聞き慣れぬ公的組織の名前に、指が止まった。
「もしもし、小田島涼様のお電話でよろしいでしょうか」
 落ち着いた、性別の判別しがたい声だった。
「……そうですが」
「突然のご連絡失礼いたします。私ども、二〇〇一年に実施されました『21世紀のあなたへ』事業の記録を管理している者です。小田島様宛に、当時未達のまま保管されていた郵便物が一件見つかりまして」
 涼の手から、湯呑みが滑り落ちそうになった。
「未達……? そんなはずは。手紙はちゃんと、届きましたが」
「それが、実は――」
 電話の向こうで、声が一瞬、言葉を選ぶように静まった。
「小田島様が受け取られたのとは別に、もう一通、存在していたようなのです。差出人は同じく藤崎由紀様。ただし宛先の記載に不備があり、四十年間、当機構の保管庫で眠っておりました」
 涼は、しばらく言葉を失った。
 最初に受け取った一通は、確かに二十年前に読まずに捨てた。それは自分の手で捨てたのだから間違いない。だが、まさかもう一通、四十年もの間、宛先不備のまま眠っていたなんて。
「その手紙は、どこに」
「よろしければ、直接お越しいただけますか。電話や郵送でお渡しできる性質のものではなく……その、少々、複雑な事情がございまして」



第二章 保管庫
 都心から電車で一時間半。かつて大規模な郵便物流拠点だった施設は、今は「アーカイブ機構」という名の、半ば忘れられた公的機関の建物になっていた。灰色のコンクリートの外壁には、枯れた蔦が好き放題に這っている。
 受付で名乗ると、白髪を後ろで束ねた女性職員が現れた。名札には「碓井」とある。年齢は涼と同じくらいだろうか。
「小田島様。ようこそ、いらっしゃいました」
 碓井は先に立って歩き出した。長い廊下の両側には、天井まで届くスチール棚がびっしりと並び、色褪せた段ボール箱がひしめいている。どの箱にも、几帳面な手書きの数字――年と地域を示すコードが記されていた。
「この施設に眠っているのは、単なる『届かなかった手紙』ではないんです」
 碓井は歩きながら、静かに言った。
「詳しいことは、後ほどゆっくりお話しします。今はまず、あの手紙に会っていただくのが先かと」
 涼は、その言い方に、かすかな違和感を覚えた。まるで手紙そのものが、何か意志を持った存在であるかのような言い方だった。
「一つだけ伺っても」涼は尋ねた。「なぜ、こんな公的施設が、今も残っているんですか。二〇〇一年の郵便企画なんて、とっくに終わっているはずでしょう」
 碓井は少し足を止め、涼を振り返った。
「いい質問です。理由はあります。ただ、それをお話しするのは、もう少し後にさせてください。先に、ご自分の目で確かめていただいた方が、早いと思いますので」
「僕が捨てた手紙は……もう、取り戻せないんですよね」
「ええ。開封され、そして処分された時点で、それは『定まった過去』になりました。もう戻りません」
 碓井の声には、静かな憐みが滲んでいた。
「ですが、もう一通は違います。宛先不備のまま、この四十年、誰にも読まれることなく、ここに眠っていました」
 碓井は、棚の奥にある小さな温度管理された室の扉を開いた。部屋の中央にある小さな台の上に、一通の古びた封筒が置かれていた。
 四十年という年月の重みで、封筒の角はわずかに丸く擦り切れ、紙全体がほのかに飴色に褪せている。表書きの文字を見た瞬間、涼の喉が詰まった。
 由紀の字だ。間違いない。



第三章 二〇〇一年、もうひとつの正月
「これを、開封されますか」
 碓井の問いに、涼はすぐには答えられなかった。
「開封すれば、何が起きるんですか」
「正直に申し上げると、私どもにも分かりません。これまでこの施設で保管されてきた、こうした特別な手紙のうち、実際に開封を許可されたのは数件のみです。ただ、共通して報告されているのは――」
 碓井は言葉を選んだ。
「開封した瞬間、その人物の『記憶』に、微細な変化が生じる場合がある、ということです。危険はありません。ただ、まるで――開けなかった四十年間と、開けていたかもしれない人生の断片が、ほんの一瞬だけ、重なり合うような感覚だと。体験者は皆、そう証言しています」
 涼は封筒を見つめた。指先が震えているのが自分でも分かった。そっと触れると、古書の持つ甘く乾燥した紙の匂いがほのかに鼻腔をくすぐった。
 由紀とは、大学を卒業してすぐに別れた。理由らしい理由はなかった。ただ、お互いに目の前の生活に追われていくうちに、自然と連絡が途絶えた。それだけのことだった、はずだった。
 だが本当にそうだったか。あの頃、由紀は「結婚して、家庭を持って」と、まっすぐに未来を語る人だった。涼はそのたびに、曖昧な相槌を打つばかりでまともに向き合ってこなかった。それが、ふたりの間にゆっくりと深い溝を作っていったのではなかったか。
「開けます」
 涼は言った。声が思ったより掠れていた。
 碓井が深く頷き、静かに部屋を出て行った。一人残された涼は、震える指で封を切った。
 便箋は一枚。四十年の時を経てもなお、由紀らしい丸みを帯びた文字がそこにあった。
『21世紀のあなたへ。
 この手紙が届く頃、私たちはどうなっているでしょうか。
 正直に言うと、今すごく不安なんです。あなたは、いつも私が将来の話をすると、困ったような顔をする。私が重いのかな、って、最近よく思う。
 でも本当は、あなたと一緒に、家を持って、車を持って、犬か猫を飼って、笑って年を取っていきたいって、それだけなんです。
 二十年後、私たちはまだ一緒にいますか。それとも、もうお互い、違う人生を歩んでいますか。
 どちらでも、私はきっと、後悔していないと思います。だってあなたと過ごした今この瞬間は、本物だったから。
 でも、もしまだ迷う瞬間があったら。もし、二十年後のあなたが、まだ独りぼっちで、これを読んでいるのだとしたら。
 伝えたいことがあります。
 私は、ずっと待っているわけじゃない。でも、もし縁があるなら――』
 そこで文章は途切れていた。便箋の続きは、経年劣化のシミで酷く滲み、判読不能になっていた。
 涼は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
 そのとき、視界が一瞬、白く眩むように滲んだ。
 めまいだろうか。いや、違う。頭の奥で、現実の輪郭がすり替わるような激しい感覚があった。
 ――遠い記憶の中で、涼は二〇〇一年の自分に戻っていた。年賀状の束の中から、あの手紙を見つけ出す自分。封を切ろうとして手を止め、結局、開けずに引き出しの奥にしまい込んだ、あの日の自分。
 だが今、その記憶の中の涼は、もう一通の手紙の存在を、どこかで知っている。知らないはずの未来の記憶が、過去の自分に染み込んでいくかのように――。
 目を開けると、涼は保管庫の部屋の中に立っていた。手の中の便箋は変わらずそこにあった。だが、自分の中の「何か」が、確かに不可逆的に変化していた。



第四章 分岐点
 碓井が部屋に戻ってきたとき、涼は放心したように椅子に座り込んでいた。
「大丈夫ですか」
「……今、何かを見ました。二〇〇一年の自分を。まるで自分の中に、二つの記憶が同時にあるような」
 碓井は驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「そろそろ、きちんとお話しする頃合いですね」
 碓井は涼の向かいの椅子に静かに腰を下ろした。
「二〇〇一年のあの企画には、実は表に出ていない側面がありました。当時、心理学と、まだ黎明期だった初期量子情報理論を組み合わせた、ある実験的な研究チームが関わっていたのです。名目は『未来への手紙』でしたが、本当の目的は別にありました。『人が、まだ見ぬ未来に何を託すか』という意思データを集め、集合的な未来予測モデルを作ることだったのです」
「それが、この施設が残っている理由ですか」
「研究自体は途中で行き詰まりました。ですが、思いがけない副産物が見つかったのです。ごく一部の手紙――受取人に届かず、未開封のまま長期間保管された手紙に限って、ある奇妙な現象が観測されました。その手紙が語っていた未来と、実際に起きた出来事の間に、確率的な揺らぎが見られたのです。私たちはこれを『臨界書簡』と呼んでいます」
「アンド、それを開けると……」
「開封の瞬間、可能性として存在していた『もう一つの過去』の記憶の断片が流れ込んでくる。研究チームはこれを『分岐残響』と名付けました。小田島様の中には今、実際の人生の記憶と、『もし当時、開封していたら』という可能性の記憶が同居しています」
「それで、僕はどうすればいいんですか」
 碓井は少し困ったように微笑んだ。
「過去は変わりません。ですが、これから先の未来はまだ定まっていません。研究チームの仮説では、臨界書簡が開封されるとき、これから先の未来の分岐確率が、わずかに揺らぐのだと言われています」
 涼は便箋の最後の一文を、もう一度目で追った。
 ――もし縁があるなら――
 続きは読めない。だが、そこに何が書かれていたのか、涼には解る気がした。
「由紀は、今どこにいるか分かりますか」
 碓井は微笑んだ。
「今回の一件に際し、由紀様にもご連絡を差し上げております。由紀様もまた、ご自身宛の未来の手紙がここに眠っておりました。明日、いらっしゃる予定です」



第五章 街灯の下で
 その夜、涼は自宅に戻ってからもほとんど眠れなかった。
 テレビをつけると、また若い世代の悲しいニュースが流れていた。涼は画面を見つめながら、かつて思い描いていた「二十一世紀」を思った。もっと明るく、誰もが笑顔になれる時代のはずだった。だが現実は格差が広がり、若者たちが未来に希望を持てない世界になってしまっている。
 涼はコートを羽織り、外へ出た。ドローンの羽音だけが響く夜の街角。ふと、公園のベンチで膝を抱えて肩を震わせている若い女性が目に入った。
 涼は迷った末に、近づいた。
「大丈夫ですか」
 女性は驚いて顔を上げた。目が真っ赤に腫れている。
「……すみません、こんな時間に」
 女性はぽつりぽつりと、就職の不安や将来への絶望を語り始めた。涼はただ静かに耳を傾けた。
「僕はね」涼は言った。「若い頃、二十一世紀はもっといい時代になると思っていた。でも実際はひどい有様だ。僕たち大人が、君たちにこんな未来を押し付けてしまった。ごめんな」
 女性がはっと涼を見た。
「でもね、今日、僕は四十年前に書かれた手紙を読んだんだ。『今この瞬間が本物だったから後悔しない』って書いてあった。未来がどうなるかは分からない。でも、今君がここにいて、こうして話していることは本物だ。それだけは誰にも奪えない」
 女性は涙を拭い、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。もう少しだけ、頑張ってみます」
 立ち去ろうとする彼女に、涼はふと思い直して、ポケットから取り出した小さなメモ用紙に自分の連絡先アドレスを書いて渡した。
「これ、もしまたどうしても辛くなったときに」
 連絡が来るとは思っていなかった。ただ、世界のどこかに自分を気にかけている人間がいるという感覚だけを、手渡してやりたかったのだ。



第六章 再会
 翌日、保管庫の面会室で、涼は由紀と四十年ぶりに顔を合わせた。
「久しぶり」
 由紀が微笑んだ。白髪の混じった髪に目尻の皺。だが、涼を見つめる瞳の強さは昔のままだった。
「読んだの、手紙」
「読んだよ」
「私も自分宛のを読んだの。恥ずかしいくらいまっすぐだった。あなたに宛てて二通書いていたなんて忘れてたけど、読んだ瞬間、全部思い出したわ」
 ふたりは静かに微笑み合った。
「あの頃の僕は、逃げてばかりで向き合っていなかった。悪かった」
「今更謝られてもね。でも、恨んでなんていないわ。お互い精一杯だったもの。私、結婚もしたし離婚もした。後悔もあるけど、それ以上に愛おしい人生だった」
 涼は由紀を見つめた。
「由紀、手紙の最後の言葉……覚えているか?」
 由紀は一瞬驚いた顔をし、それから優しく首を振った。
「覚えているわ。でも……言わないでおく。あの時の私が書いた言葉より、これから私たちが何を話すかの方が、ずっと大切でしょう?」
 涼は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ああ、そうだな」
「だったら」由紀はまっすぐに涼を見た。「もう一度、ゼロから始めてみるのはどう?」



第七章 新しい手紙
 ふたりは碓井の立ち会いのもと、施設の一角で新しい便箋に向かい合った。
「二十年後のご自身たちへ、新しい手紙を書いてみませんか」
 碓井の提案に、ふたりは頷いた。涼はペンを取り、静かに文字を走らせた。
『八十歳になった自分へ。
 あの頃、二十一世紀はもっと素晴らしい時代になると思っていた。
 実際は厳しい現実ばかりだったけれど、僕はもう絶望だけを残す大人ではいたくない。
 今日、公園で会った見知らぬ誰かに、小さな希望を渡せたと思う。
 由紀ともう一度、歩き出すことにした。
 二十年後の僕へ。どうか若い人たちが安心して夢を見られる世界を、少しでも作れていますように。』
 ふたりは互いの手紙を封じ、碓井に託した。二〇六一年に開封されるはずの、新しい希望の種だ。



エピローグ 二〇四一年、その後
 施設を出ると、夕暮れの空が淡いオレンジ色に染まっていた。
「送っていくよ」
「うん、お願い」
 並んで歩き始めたとき、涼の端末が静かに震えた。昨夜の女性からの短文が届いていた。
『昨日はありがとうございました。アドレス、嬉しかったです。今日、面接に行ってきます』
 涼は端末を握りしめ、静かに微笑んだ。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。ただの、いい知らせだ」
 空を見上げると、ドローンの群れの隙間に、久しぶりに本物の星が瞬いていた。子どもの頃に夢見た未来とは違うかもしれない。けれど、この灰色の時代の中にも、確かに拾い上げることができる光はある。
 ――未来は、今よりずっと良いはずだった。
 その言葉は、もう悲しい後悔ではなかった。それは、これから自分たちが綴っていく新しい時代への、静かな祈りだった。

(完)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
デジタル技術が飛躍的に発達し、効率や即時性が求められる現代において、「手紙」という媒体はどこか時代遅れのようにも思えます。文字を書き、切手を貼り、届くまで時間を要する。しかし、だからこそそこには、書いた人の「その瞬間の時間と温度」がそのまま閉じ閉じ込められているのではないでしょうか。
作中に登場する「臨界書簡」や「分岐残響」という概念はフィクションですが、「誰かの思いが巡り巡って、巡り合った誰かの未来をほんの少しだけ温かい方向へ変える」という現象は、私たちの現実の世界にも確実に存在していると私は信じています。
この物語が、お読みいただいた皆様の胸の奥にある「選ばなかった過去」を優しく包み込み、明日という未来へ向かって踏み出す小さなしるべとなれば幸いです。


             



ーーー原詩ーーー

21世紀のあなたへ


21世紀 ってやつは
もっともっと
良い時代だと思っていた

もしかすると
車は空を飛び
人々は家事の大半を
ロボットに任せ
余暇を楽しむ みたいな

ところがどうよ
このざま!

ズルイ連中が
国を騙し
人々を騙し
自分が自分だけがな世の中に
変えてしまった

若者たちは
未来を不安視し
自ら命を断つ

本当は皆が家庭を持って
家を車をペットを…と
笑顔だったはずなのに

若者たちの
出会いも 恋愛も
コロナで止まってしまった

やはり
人間たちの罪は重く
今すぐ 考えを改めないと
取り返しの付かないことになるのだろう

いつぞやか
未来へと書いた
タイムレターを開くことなく…

未来は
今より
ずっと良いはずだった…


2001年のお正月に
実家へと
年賀状に紛れて届いた手紙

差出人は当時の彼女

お袋
何も言わなかったけれど
きっと
まさか お前 まだ? なんて
疑ったかも?

それは
「21世紀のあなたへ 」っていう
20年も前の 郵便局の企画で
2001年の未来のどなたかに
今の気持ちを届けるというもの

お元気ですか?
そして
そこに 私もいますか? って。。。

一瞬にして
連れ戻された時間

叶わなかったけれど
嬉しかった心遣い

ありがとう
ありがとう と呟き
少し迷ったけれど 処分した手紙

そんな日から
更にまた
20年もが過ぎようとしている今日

お互いすでに還暦間近
ならば
あれこれのことは
もうすべてが時効なはずで

取り巻く環境すらも
おそらくすべてが許すはず
ならば
元気な内に
また笑顔でとも思いながら

この人生の中で…


盆帰り
――あの日の君に、もう一度だけ会いたかった




まえがき
お盆になると、故郷へ帰る。それは昔から変わらない。
東京で暮らすようになって四十年以上になるが、八月になると、なぜか実家へ帰りたくなる。
父も母ももういない。実家といっても、今では誰も住んでいない古い家だ。それでも盆になると帰る。仏壇に線香を上げ、庭の草を少し抜き、縁側に座って夕暮れを見る。それだけのために。
人間には、理由を説明できない習慣がある。たぶん故郷というのは、そういうものなのだろう。
ところが、六十六歳になった今年の盆。私は夢を見た。
初恋の人が出てきた。五十年以上前の、あの日の姿で。
彼女は笑っていた。そして私の隣に座ると、昔と変わらない声で言った。
「これからは一緒よ」
私は目を覚ました。真夜中だった。胸が、妙に苦しかった。
そして思った。なぜ、今なのだろう。なぜ、彼女なのだろう。なぜ――盆なのだろう。





第一章 隣の家
彼女の名前は、佐伯美奈子という。私と同じ六十六歳になっているはずだ。「なっているはず」という言い方をするのには理由がある。
私は、彼女が今どこにいるのか知らない。結婚したのか。子供がいるのか。どこに住んでいるのか。生きているのか。それすら知らない。最後に会ったのは、三十五年ほど前の同窓会だった。それが最後だった。
けれど、私が彼女を知ったのは、もっとずっと前。小学生の頃だった。
私の家が引っ越した。父の仕事の都合だった。新しい家は、古い木造住宅だった。庭は狭く、隣家との境に低いブロック塀があった。その向こうが、彼女の家だった。
引っ越した翌朝。私は学校へ行こうとして玄関を出た。すると、隣の家の門から女の子が出てきた。
白いブラウス。紺色のスカート。肩まで伸びた髪。ランドセルを背負っていた。
彼女は私を見ると、少しだけ首を傾げた。
「転校生?」
「うん」
「何年?」
「五年」
「同じじゃん」
それが最初だった。たったそれだけ。
けれど子供というのは不思議なものだ。その日から私は、彼女がいることを当たり前のように受け入れた。
朝、家を出る。隣から彼女が出てくる。一緒に学校へ行く。帰りも、だいたい一緒だった。夏休みには、塀越しに話をした。冬になると、彼女の家の窓から漏れる明かりが見えた。
近すぎた。本当に近すぎた。だからこそ、私は何もできなかった。好きだと言うこともできなかった。手を握ることもできなかった。
中学生になっても、それは変わらなかった。むしろ、余計に何も言えなくなった。彼女のことを好きなのだと、自分で気づいてしまったからだ。




第二章 言えなかった言葉
中学三年の冬。卒業が近づいていた。高校は別々になる。私は、それが怖かった。
今まで当たり前に隣にいた人が、突然、人生から消えてしまう。そんなことがあるのだと、その頃初めて知った。
卒業式の日。校門の前で彼女と写真を撮った。彼女は笑っていた。私は笑えなかった。
何か言おうと思った。ずっと好きだった。高校が別々になっても会いたい。そんなことを言いたかった。けれど、言葉が出てこなかった。
彼女が言った。
「じゃあね」
「うん」
それだけだった。その「うん」が、私の初恋の結末になった。
高校に入ると、会わなくなった。電話もしなかった。手紙も書かなかった。
若いというのは、どうしてあんなに不器用なのだろう。会いたければ会えばいい。話したければ話せばいい。好きなら好きと言えばいい。今ならそう思う。けれど、十六歳の私は、そんな簡単なことができなかった。
そして時間が流れた。
大学へ行った。就職した。結婚した。子供が生まれた。仕事に追われた。父が死んだ。母が死んだ。
気づけば、六十六歳になっていた。人生は、思っていたより短い。そして記憶は、思っていたより早く薄くなる。彼女の顔さえ、いつの間にかぼんやりしていた。
それなのに。あの夜。夢の中の彼女だけは、はっきりしていた。




第三章 同窓会
三十五年ほど前。一度だけ、中学の同窓会があった。
私は三十一歳だった。結婚したばかりだった。左手には指輪があった。
会場は駅前のホテルだった。懐かしい顔が並んでいた。
「お前、変わったな」
「そっちこそ」
そんな会話をしていた。
そして彼女が来た。
「久しぶり」
私は、一瞬、何も言えなかった。彼女は笑った。
「やあ」
私も笑った。
「やあ」
彼女の目が、私の左手に落ちた。
「結婚したの?」
「ああ」
それだけ答えた。本当は違うことを言いたかった。「君と結婚したかった」。もちろん、そんなことは言えるはずもない。
彼女は少し笑って、「そうなんだ」と言った。
そして、私は余計なことを言った。
「美奈子も、早く嫁に行かないと」
言った瞬間。自分でも、しまったと思った。
彼女は笑っていた。「うん」。その笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
けれど私は、気づかないふりをした。いや。気づきたくなかった。
それからしばらくして、彼女は帰った。私も帰った。そして二度と会わなかった。
だが、その一言だけは残った。「早く嫁に行かないと」。何十年経っても。時々、思い出した。
もし、あのとき。あんなことを言わなかったら。
もし、「君はどうしているの?」と聞いていたら。
もし、「昔から好きだった」と言っていたら。
人生は変わったのだろうか。私は何度も、その「もし」を考えた。




第四章 夢
盆の三日前。私は夢を見た。
夢の中で、私は中学生だった。校庭にいた。夕方だった。校舎の窓が赤く染まっていた。
彼女がいた。制服姿だった。卒業式の日の姿。
彼女は私を見ると笑った。
「遅いよ」
「何が?」
「ずっと待ってた」
私は何も言えなかった。彼女が近づいてきた。そして私の隣に座った。
「これからは一緒よ」
「え?」
「だって、もう離れないから」
彼女は笑った。
私は目を覚ました。午前二時十七分。汗をかいていた。胸が激しく鳴っていた。
そして妙なことに気づいた。夢の中で見た時計。その時刻を、私は知っていた。午前二時十七分。なぜ知っているのか、わからなかった。ただ、嫌な感じがした。
私は台所へ行き、水を飲んだ。窓の外を見る。真っ暗だった。その向こうに、隣家の屋根が見えた。
もちろん、今の隣家だ。あの頃の家は、もうない。取り壊されている。
私は窓を閉めた。そして、眠れなくなった。




第五章 盆帰り
盆になった。私は実家へ帰った。
久しぶりに見る町は、さらに小さくなっていた。子供の頃には広かった道路が、今では狭く感じる。商店街も半分ほどシャッターが下りている。駅前にあった本屋はなくなっていた。駄菓子屋もない。公園の遊具も変わっていた。
けれど、私の家だけは残っていた。古い家だった。
玄関を開ける。空気が違った。誰も住んでいない家には、時間が溜まっている。
私は仏壇に線香を上げた。父と母の写真を見る。
「帰ってきたよ」
そう言った。自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。
夕方。縁側に座った。蝉の声が聞こえる。遠くで盆踊りの音がしていた。
ふと。隣を見た。昔、彼女の家があった場所。そこには、新しい家が建っていた。誰かが住んでいるらしい。カーテンが閉まっている。
私は立ち上がった。なぜか、胸がざわついた。
そして、その夜。再び夢を見た。




第六章 午前二時十七分
「来たね」
彼女が言った。私は夢の中で、何かがおかしいと思った。
「どこへ?」
「ここ」
「ここって?」
彼女は答えなかった。ただ、私の手を取った。手が温かかった。その温度が、あまりにもリアルだった。
私は言った。
「美奈子」
彼女が振り向く。
「なに?」
「今、何歳?」
彼女は笑った。
「知らない」
「え?」
「あなたは?」
「六十六」
「じゃあ、私も六十六」
「……でも」
彼女は昔のままだった。十六歳の姿。
「これは夢だから?」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「夢じゃないよ」
「じゃあ、何?」
彼女は少し考えて、「帰ってきたの」と言った。
その瞬間。世界が揺れた。




第七章 記憶の部屋
私は知らない部屋にいた。
白い壁。白い床。窓がない。
正面に巨大なスクリーンがあった。そこに数字が表示されていた。「2038」。その下に、「TEMPORAL MEMORY INTERFACE」と書かれていた。
「何だ、これ」
彼女が横に立っていた。
「覚えてない?」
「知らないよ」
「そう」
彼女は悲しそうに笑った。
スクリーンに映像が流れた。子供の頃の私。隣の家。ランドセル。夏休み。彼女。私たち二人。
私は息を呑んだ。
「これ……」
「記憶」
「誰の?」
「あなたの」
映像が変わった。中学卒業の日。そして、同窓会。
「ここで止まってる」
彼女が言った。
「何が?」
「私たちの人生」
私は彼女を見た。
「どういう意味?」
彼女は答えなかった。代わりにスクリーンに一行の文字が浮かんだ。
《観測対象:佐伯美奈子》
その下。
《最終観測時刻:2038年8月13日 02:17》
私は固まった。
「2038年?」
「そう」
「今は2026年だぞ」
彼女は頷いた。
「知ってる」
「じゃあ、これは……」
「未来」




第八章 十二年後
私は混乱した。彼女は言った。
「私たちが住んでいる世界には、時間が一つしかないと思ってるでしょう?」
「違うのか?」
「違うかもしれない」
「かもしれない?」
「科学者たちも、まだわかってない」
彼女は笑った。
「でも、人間の記憶には、時間を越える性質があるらしい」
「そんな馬鹿な」
「だから夢なんじゃない?」
私は何も言えなかった。彼女は続けた。
「2038年。私はこの町に戻ってきた」
「なぜ?」
「わからない」
「それで?」
「隣の家を見た」
私は息を止めた。
「私の家?」
「そう」
「でも私は……」
「あなたはまだ生きてる」
「2026年に?」
「そう」
彼女は微笑んだ。
「だから会いに来た」
「十二年後から?」
「うん」
私は頭を抱えた。
「そんなこと、できるわけがない」
「私もそう思った」
彼女は静かに言った。
「でも、人間は死んだ人間に会うことができるでしょう?」
「夢の中で?」
「記憶の中で」




第九章 もう一つの人生
スクリーンに映像が出た。別の人生だった。
私は結婚していない。彼女と一緒に暮らしている。小さな家。二人の子供。犬。庭。
私は笑っていた。彼女も笑っていた。
私はそれを見て、胸が痛くなった。
「これは……」
「もう一つの可能性」
「こんな世界があるのか?」
「ある」
「本当に?」
「少なくとも、観測された」
私は画面から目を離せなかった。別の私、彼女と庭にいた。年を取っていた。それでも幸せそうだった。
私は思った。こっちの人生のほうが、幸せだったのだろうか。
彼女が言った。
「そう思う?」
私は答えられなかった。
「でもね」彼女は続けた。「この世界のあなたにも、幸せはあったでしょう?」
私は頷いた。妻がいた。子供がいた。孫もいる。平凡だった。けれど、幸せだった。
「じゃあ、何が違う?」彼女が聞いた。
私はしばらく考えて言った。
「君がいない」
彼女は笑った。
「私も」




第十章 言葉の修正
「未来から来たなら、過去を変えられるのか?」
私は聞いた。彼女は首を振った。
「変えられない」
「どうして?」
「変えるんじゃなくて、分岐するから」
「分岐?」
「あなたが今ここで、私に好きだと言ったとしても、それは過去のあなたには届かない」
「じゃあ意味がない」
「意味はある」
彼女は私の手を握った。
「あなた自身が、ずっと抱えていた後悔を終わらせることができる」
私は黙った。
「ねえ」彼女が言った。「同窓会の日のこと、覚えてる?」
胸が痛くなった。
「覚えてる」
「私に言ったよね」
「何を?」
彼女は笑った。
「早く嫁に行かないと、って」
私は目を伏せた。
「……悪かった」
「どうして謝るの?」
「ずっと後悔してた」
彼女はしばらく黙っていた。そして言った。
「あの日ね。私は、あなたがそう言ったから、あなたが私のことを何とも思ってないんだと思った」
私は息を呑んだ。
「だから、何も言わなかった」
「……」
「でも」彼女は笑った。「私も好きだったよ」
その瞬間。世界が音を失った。




第十一章 遅すぎた告白
私は泣いていた。六十六歳にもなって。夢の中で。十六歳の彼女の前で。
「もっと早く言ってくれよ」
私は笑いながら言った。彼女も笑った。
「あなたもね」
「そうだな」
「お互い様」
「本当に」
二人で笑った。そして私は聞いた。
「今まで、結婚したの?」
彼女は首を振った。
「してない」
「どうして?」
「待ってたわけじゃないよ」
「じゃあ?」
「好きな人ができなかった」
私は何も言えなかった。彼女は続けた。
「あなたは?」
「結婚した」
「うん」
「妻はいい人だった」
「知ってる」
「どうして?」
「あなたの記憶を見たから」
私は笑った。
「なんだ、それ」
「幸せだった?」
私は頷いた。「幸せだった」
彼女も頷いた。「よかった」
その言葉が、なぜか一番悲しかった。




第十二章 妻
目が覚めた。朝だった。
私は布団の中で泣いていた。
妻はもういない。三年前に亡くなった。
私は、彼女のことを愛していた。それは本当だ。だからこそ、初恋の人への気持ちを長い間、胸の奥にしまっていた。罪悪感があった。
けれど、その朝。私は初めて思った。
人間の心には、複数の人生が入ることができるのかもしれない。
妻への愛と。初恋への想い。どちらかが嘘だったわけではない。
人生は、一つしか選べない。けれど心の中には、選ばなかった人生も残っている。そのことを、私は六十六歳になって初めて理解した。




第十三章 隣の家
朝食を食べていると。隣の家から音がした。玄関が開く音。
私は箸を置いた。外へ出た。
隣の家の前に、白髪の女性が立っていた。後ろ姿だった。
私は動けなくなった。女性が振り向いた。
違った。知らない人だった。
私は苦笑した。
「何を期待してるんだ」
家に戻ろうとした。そのとき。ポストに何か入っているのが見えた。
白い封筒。宛名は私だった。
差出人の名前を見て。私は立ち尽くした。
佐伯美奈子。




第十四章 手紙
手が震えた。封筒を開ける。中には一枚の紙。
《久しぶり》
その文字を見ただけで、彼女だとわかった。
《たぶん、あなたは驚いていると思います。私も驚いています。あなたがこの手紙を読む頃、私はもう、この町にはいません》
私は読み進めた。
《あの日のことを、私はずっと覚えていました。同窓会で、あなたが「早く嫁に行かないと」と言ったこと。あの言葉を、私はずっと気にしていました》
私は目を閉じた。
《でも、最後にあなたの夢を見ました。そこで、あなたは私に言いました。ずっと好きだった、と》
私は息を止めた。
《だから、もう十分です。私もずっと好きでした。でも、それぞれの人生を生きてきたことも、間違いではありません。だから、後悔しないでください》
最後に。
《盆になったら、帰ってきてください。あなたが故郷に帰る限り、私はどこかで帰ってきます》
名前の下に。日付があった。
2038年8月13日。
私は紙を落とした。




第十五章 十二年後の手紙
私は震える手で、もう一度日付を見た。2038年。未来の日付だった。
しかし、手紙は今ここにある。あり得ない。そんなことはわかっている。
私は封筒を裏返した。消印があった。2038年8月13日。
そして、もう一つ。小さな文字。
《この手紙は、2026年のあなたへ》
私は笑った。笑うしかなかった。
「なんだよ、それ」
その瞬間。携帯電話が鳴った。知らない番号だった。
出る。
「もしもし」
無言。そして。
「……遅いよ」
私は凍りついた。彼女の声だった。
「美奈子?」
「うん」
「どこにいる?」
「隣」
私は窓を見た。隣の家。カーテンが開いた。誰もいない。
「見えないよ」
「まだね」
「まだ?」
「十二年後なら見える」
電話が切れた。




第十六章 2038年
私はその年の盆を、何度も思い返した。そして十二年が過ぎた。
私は七十八歳になった。身体は弱った。髪はほとんど白くなった。けれど、盆になると故郷へ帰った。
2027年。2028年。2029年。2030年。毎年。何も起きなかった。
それでも帰った。妻の墓参りもした。父母の墓にも行った。そして隣の家を見た。彼女の姿はなかった。
2037年。私はもう、帰れないかもしれないと思った。けれど帰った。
そして2038年。八月十三日。
私は実家の縁側に座っていた。午後二時十七分。
突然。庭の向こうに人影が見えた。
若い女性だった。白いブラウス。紺色のスカート。肩までの髪。
私は立ち上がった。
「美奈子」
女性が笑った。
「やっと会えたね」




第十七章 帰ってきた人
私は歩いた。一歩ずつ。彼女も歩いてくる。近づくほど、顔がはっきりする。十六歳の彼女だった。
「どうして?」
私は聞いた。彼女は笑った。
「お盆だから」
「それだけ?」
「それだけでいいじゃない」
私は泣いた。
「俺、ずっと待ってた」
「知ってる」
「本当に?」
「夢で見てた」
「じゃあ……」
「うん」
彼女は私の隣に座った。昔と同じように。
「これからは一緒よ」
私は笑った。
「遅すぎるよ」
「そう?」
「半世紀以上だぞ」
「でも、会えた」
私は頷いた。




第十八章 観測
その夜。私は奇妙な夢を見た。
白い部屋。巨大なスクリーン。そこに文字が出ていた。
《時間接続終了》
《記憶転送終了》
《観測結果:成功》
私は気づいた。これは彼女の実験なのだ。
彼女は未来の研究者たちとともに、記憶を過去へ送った。けれど、記憶だけではない。「感情」も送れる。
科学者たちはそれをまだ理解していない。人間が持つ強い感情には、時間を越える何かがある。
初恋。後悔。言えなかった言葉。そういうものは、記憶の中で消えない。むしろ時間が経つほど、純粋になる。
スクリーンに最後の文字が出た。
《最も強い時間接続因子:後悔》
私は笑った。
「そんなものが、科学になるのか」
すると声がした。
「なるんだよ」
彼女だった。
「だから会えた」




第十九章 もう一つの盆
夢の中で。私は再び十六歳になっていた。彼女も十六歳。
私たちは並んで歩いていた。昔の通学路。蝉の声。夕方の空。
私は言った。
「なあ」
「なに?」
「好きだった」
彼女が笑った。
「知ってる」
「ずっと」
「うん」
「もっと早く言えばよかった」
「私も」
「ごめん」
「私もごめん」
二人で笑った。そして、彼女が言った。
「でもね」
「うん」
「言えなかったから、ずっと好きだったのかもしれないよ」
私は考えた。確かにそうかもしれない。
叶わなかった恋だからこそ。そこには、誰にも壊せない形が残っている。




第二十章 妻への手紙
目を覚ました。朝だった。
私は机に向かった。そして妻へ手紙を書いた。もう読むことはない。けれど書きたかった。
《君と結婚してよかった。君と生きた人生は、本物だった。そして、私にはもう一つ、選ばなかった人生があった。それも、本物だった》
私はそこで筆を止めた。
初恋の彼女との人生。それは実際には存在しなかった。けれど、私の中には確かに存在した。
人生とは、起きた出来事だけでできているのではない。起きなかった出来事も。言わなかった言葉も。会わなかった人も。選ばなかった道も。全部、心の中では人生なのだ。
私は手紙を畳んだ。仏壇の妻の写真の前に置いた。
「ありがとう」
そう言った。妻の写真、いつものように笑っていた。




第二十一章 最後の盆
それから十年。私は八十八歳になった。
身体はすっかり弱った。けれど盆だけは、故郷へ帰った。
ある年。実家の庭で、私は彼女を見た。昔と同じ姿だった。
私は笑った。
「また来たのか」
「あなたこそ」
「俺は毎年帰ってる」
「知ってる」
「じゃあ、君も毎年?」
「うん」
「どこから?」
彼女は空を見上げた。
「少し遠いところ」
私は笑った。
「未来?」
「そう」
「何年?」
「秘密」
「なんだよ、それ」
彼女は笑った。そして私の隣に座った。
私は言った。
「来年も来る?」
彼女は答えなかった。ただ、私の手を握った。温かかった。




第二十二章 盆帰り
その夜。私は夢を見た。
若い私がいた。隣に彼女がいた。二人は並んで歩いていた。
何も言わなかった。ただ歩いた。昔の道を。
家の前まで来る。彼女が立ち止まった。
「じゃあね」
私は言った。
「また来年」
彼女は笑った。
「うん」
目を覚ます。朝だった。蝉の声が聞こえた。
私は窓を開けた。隣の家が見える。もう誰も住んでいない。庭も荒れている。
それでも。塀の向こうから。声が聞こえた気がした。
「早く帰ってきて」
私は笑った。
「わかった」
そして、もう一度目を閉じた。




終章 それとも……
盆が終わる。私は東京へ戻る。
実家の鍵を閉める。最後に振り返る。
隣の家。昔、彼女が住んでいた家。
そこに。一瞬だけ。人影が見えた。
少女だった。白いブラウス。紺色のスカート。肩までの髪。
彼女が笑った。私は手を振った。少女も手を振った。そして消えた。
私は思う。あれは夢だったのか。未来から送られてきた記憶だったのか。それとも。お盆だから、帰ってきたのか。
答えは、わからない。
ただ。人生には、ときどき。科学では説明できないものがある。
忘れたはずの声。消えたはずの面影。言えなかった言葉。
そして。半世紀を越えて届く、たった一つの「好きだった」。
私は駅へ向かって歩き出す。振り返らない。もう、後悔はしていない。
あの日。「早く嫁に行かないと」と言ってしまった自分も。何も言えなかった十六歳の自分も。全部、私だった。
そして彼女も。きっと同じように。あの日の私を、どこかで待っていたのだ。
だから。盆になると、帰る。帰ってくる。
どこからなのかは、もうわからない。過去からなのか。未来からなのか。それとも。人の心の、時間のない場所からなのか。
ただ一つだけ。私は知っている。
初恋は、終わらない。
叶わなかった恋だけが、時間の向こう側で、ずっと生きていることがある。
今年もまた。盆が来る。私は帰る。
隣の家に、彼女の姿はあるだろうか。
それとも――もう、私のほうが、彼女のいる場所へ帰っていくのだろうか。
盆帰り。そう呼ぶことにした。
それで、いい気がした。






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あとがき
お盆の時期になると、誰もいなくなった故郷の家へと足が向きます。縁側に座り、暮れていく空を眺めていると、かつて過ごした時間や、かつてそこにいた人々の気配が静かに蘇ってくる感覚を覚えます。
誰の人生にも、思い返すたびに小さな痛みを伴う「言えなかった言葉」や「選ばなかった道」が存在するのではないでしょうか。十六歳の青さゆえに手放してしまった初恋、三十代の同窓会でかけてしまった余計な一言――それらは長い月日を経てもなお、胸の奥底で消えることはありません。
本作『盆帰り』は、そうした人生の後悔や切なさを、少しのファンタジーとSFの要素を交えて描いた物語です。過去を変えることはできません。けれど、心の深い場所で過去と向き合い、そっと受け入れることはできるのではないか。そんな思いを込めて執筆いたしました。
選んだ人生も、選ばなかった人生も、どちらも大切な自分の物語です。このささやかな物語が、お読みいただいた皆様の記憶のどこかにそっと寄り添うことができれば、とても嬉しく思います。

『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』 



第三十六幕 初代の話
第二二六章 店主の休日
「客になれ」
そう言われて、僕は初めてYaYaの客席に座った。何とも妙な気分だった。今までずっと店を開ける側で、コーヒーを淹れ、ギターを渡し、「一曲だけ」と言ってきたのに、今日は僕が客なのだ。 
カウンターの向こうには、17歳の少女——新しい店主が立っている。さっきまで制服だったのに、今はエプロンを着ている。 
「似合います?」
「うん」
「本当に?」
「かなり」
「ありがとうございます」 
僕は笑った。「でも、店主って何するの?」
彼女が真顔で答える。「分かりません」
「……」
「初代の人も教えてくれませんでした」 
僕は笑った。「それがYaYaなんだろうね」 
彼女はコーヒーを淹れた。「どうぞ」
僕は一口飲んだ。「うまい」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、成功ですね」 
僕は笑った。「店主って案外簡単だな」 
その瞬間、店の奥から声がした。「最初だけだ」 
僕と少女は同時に振り返った。初代が笑っていた。 

ーーーーーーーーーー

第三十七幕 初代YaYaの青春
第二二七章 1948年
「俺が最初にこの店を作ったのは——」初代は古い椅子に座った。「1948年だ」 
僕は驚いた。「そんな昔?」
「そう」
「じゃあ、YaYaって何年あるんですか?」 
初代は笑った。「数えたことがない。店は何度もなくなった」
「え?」
「焼けたこともある、壊されたこともある、立ち退きもあった」
「じゃあ、今の店は?」
「四代目」 
少女が言う。「私?」
「そう」
「四代目って少なくないですか?」 
初代が笑う。「店主は代わるたびに名前を変えるからな」
「え?」
「店そのものは同じじゃない」
「じゃあ、どうしてYaYa?」 
初代はギターを見た。「名前だけは残した」
「なぜ?」 
少し黙って、初代が言った。「最初にその名前をくれた人がいたからだ」 

第二二八章 YaYaという女
僕は聞いた。「人の名前?」
初代は頷く。「女だった」 
少女が目を輝かせる。「恋人?」
初代が笑う。「まあ、そういうことだ」 
僕は思わず笑った。「結局、恋愛なんですね」
「人間なんてそんなもんだ」初代は遠くを見る。「戦争が終わって、東京は何もなかった。食べ物も、仕事も、家も何もない」
「そんな時代に?」
「俺はギターだけ持っていた。ギターが俺の全部だった」初代は笑った。「ある夜、女が店に入ってきた」
「YaYa?」
「そう」
「本名?」
「違う、愛称だ」
「どういう人?」 
初代は少し困った顔をした。「よく笑う女だった」
「美人?」
「ものすごく」 
少女が笑う。「惚気ですね」
「そうだな」初代も笑った。 

ーーーーーーーーーー

第三十八幕 最初の一曲
第二二九章 雨の夜
「その夜も雨だった」初代は話を続ける。「女はびしょ濡れで店に入ってきた」
「何の店だったんです?」
「その頃は喫茶店」
「じゃあ、最初からギターの店では?」
「違う」 
僕は驚いた。「コーヒーを出していた」
「普通の店?」
「普通だった」
「なのに、どうして?」 
初代はギターを持った。「女が泣いていた。俺は何も言えなかった」
「それで?」
「ギターを弾いた」
「何を?」
「自分で作った曲」
「曲名は?」 
初代が笑う。「なかった。曲名なんて考えたことがなかった」 
少女が聞く。「じゃあ、その曲を彼女がYaYaと?」
「そう」
「何で?」 
初代は答えた。「『あなたの歌、YaYaみたい』って」 
僕には意味が分からない。初代が笑う。「俺にも分からなかった」
「じゃあ、どうして?」
「好きな女がそう言ったんだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」 
僕は笑った。確かにそうかもしれない。 

第二三〇章 YaYaは歌だった
初代は続けた。「YaYaは歌の名前だった。女の名前でも、店の名前でもなかった」
「じゃあ?」
「音そのもの」
「音?」
「彼女が笑うときの音」 
少女が笑った。「分かりません」
初代も笑う。「俺も今でもよく分からない」 
僕は思った。この店らしい。何もかも説明できない。でも、何となく分かる。それでいい。 

ーーーーーーーーーー

第三十九幕 別れ
第二三一章 彼女が消えた日
「でも」初代の声が少し低くなった。「YaYaはある日いなくなった」 
少女が黙る。僕も黙る。 
「どこへ?」
「分からない」
「亡くなった?」
「それも分からない」
「じゃあ?」
「ある朝、いなくなっていた」 
初代はギターを見つめた。「手紙が一枚だけ」
「何て?」 
初代は答えなかった。代わりに古い封筒を出し、僕の前に置く。封筒には一言、「一曲だけ」とあった。 
僕は息を呑んだ。「これ……」
「最初の『一曲だけ』だ」
「じゃあ、僕たちが聞いてきたのは……」 
初代は頷いた。「全部、あの女からの続きだ」 
少女が封筒を見る。「その人は今?」
初代は微笑んだ。「知らない」
「ずっと?」
「ずっと」
「探さないんですか?」 
初代は笑った。「探したさ」
「見つからなかった?」
「見つからない」
「どうして?」 
初代は静かに言った。「見つけたら物語が終わるから」 
僕は胸を突かれた。 

ーーーーーーーーーー

第四十幕 最初の読者
第二三二章 僕の夢の始まり
僕は突然思い出した。僕が最初にYaYaの夢を見た夜、雨だった。小さな店、ギター、「一曲だけ」、そして知らない女性が僕に笑いかけていた。 
僕は初代を見る。「もしかして」
「そう」
「僕が見た女性は」
「YaYaだ」 
僕は言葉を失った。「でも、僕はその人を知らない」
「当然だ」
「じゃあ、どうして?」 
初代が笑う。「夢だから」
「またそれ?」
「いや」初代は真顔になった。「夢は記憶の反対じゃない。未来の記憶だ」 
僕は黙った。 
少女が聞く。「未来の記憶?」
初代が頷く。「まだ起きていないことを先に覚えている」 
僕は笑った。「そんな馬鹿な」
初代が笑い返す。「YaYaだからな」 
その答えで全部済ませてしまう。 

ーーーーーーーーーー

第四十一幕 未来から来た少女
第二三三章 彼女の正体
僕は少女を見る。「じゃあ、君は?」
「私?」
「どうして僕の夢に出てきた?」 
少女は黙った。しばらくして言った。「まだ分かりません。でも、私もあなたを夢で見てました」
「僕を?」
「はい」
「どんな僕?」
「今のあなた」 
僕は笑った。「それ、夢で見るほどの男かな」
少女が笑う。「夢の中ではギター弾いてました」
「それだけ?」
「はい」
「じゃあ、たいした夢じゃない」 
「でも」少女が少し真面目な顔になる。「私の夢では、あなたが死んだ後でした」 
僕は黙った。 

第二三四章 僕の葬式
「葬式?」
少女は頷く。「はい」
「僕の?」
「そうです」
「嫌だな」
「私も嫌でした」
「それで?」
「あなたの写真の前で、私が一曲弾くんです」 
僕は笑えなかった。「何の曲?」
「分かりません。でも弾き終わると、あなたが笑うんです」 
僕は目を閉じた。「何て?」
少女が言う。「『ありがとう』って」 
店内が静かになる。初代が静かに笑った。「それでいい」 
僕は少女を見る。「まだ君は生きてる」
「はい」
「僕も生きてる」
「はい」
「だったら、そんな未来変えよう」 
少女は首を振る。「変えません」
「え?」
「死ぬのは仕方ないです。でもそのとき、一曲弾けるなら、私はそれでいい」 
僕は何も言えなかった。 

ーーーーーーーーーー

第四十二幕 人生の予約
第二三五章 予約票
初代がカウンターの下から紙を出した。「これ」 
僕が見る。古い予約票。 
日付:2098年11月18日 
僕は固まった。「これ、何?」
「予約」
「誰の?」
「お前」
「……」
「この日に一曲」 
僕は笑った。「僕、そんなに長生き?」
「知らん」
「じゃあ、何で予約?」
「YaYaだから」 
僕は頭を抱えた。「何でもありですね」
初代が笑う。「人生だって何でもありだろ」 
少女が予約票を見る。その裏にもう一枚。 
日付:2098年11月18日
名前:少女 
僕は驚いた。「君も?」
少女は頷く。「どうやら」
「同じ日?」
「はい」 
僕は笑った。「じゃあ、二人で一曲だ」
少女も笑う。「はい」 
初代が言う。「それがYaYaだ」 

ーーーーーーーーーー

第四十三幕 現在へ
第二三六章 目覚め
目が覚めた。朝、雨。僕はベッドの中。隣に妻が眠っている。時計は午前七時。 
僕は笑った。「全部、夢か」と呟いた。 
すると、枕元に何かある。古いカセットテープ。僕は固まり、手に取る。 
ラベル:YaYa 1976 
僕はしばらく動けなかった。そして妻を起こす。 
「ねえ」
「……何?」
「これ」 
妻が半分眠ったまま見る。「何それ?」
「夢でもらった」 
妻は目をこする。「また?」
「うん」
「今度は何?」
「カセット」 
妻は笑う。「再生してみれば?」 
僕は古いカセットデッキを押し入れから出した。いつ買ったのか覚えていない。テープを入れる。再生。 
ザーッ—— 
そして、声。『聞こえるか?』 
僕は凍った。その声は確かに聞き覚えがあった。でも祖父ではない、先輩でもない、桑田さんでもない、初代でもない。 
その声は、僕自身だった。 

ーーーーーーーーーー

第四十四幕 僕から僕へ
第二三七章 未来の声
テープの中の僕が言う。 
『これを聴いているということは、お前はYaYaをまだ続けている』 
僕は息を止めた。 
『安心しろ。人生は思っているほど悪くない』 
僕は笑った。 
『失敗もする、恥もかく、後悔もする。でもそれでいい。一番大事なのは——』少し間が空く。『誰かと一緒に笑えるかどうかだ』 
妻が僕の隣に座り、二人で聴く。 
『もし今、お前が一人なら、誰かを呼べ』
『もし喧嘩しているなら、一言謝れ』
『もし夢を諦めているなら、一度だけもう一回やってみろ』
『そして——』少し声が笑った。『もしギターを持っているなら、一曲だけ弾け』 
僕は泣きそうになった。最後に、僕の声。 
『その一曲を、誰かに渡せ』 
そこでテープが終わった。 

ーーーーーーーーーー

第四十五幕 もう一度、渋谷へ
第二三八章 妻と二人
妻が言った。「行こうか」
「どこへ?」
「渋谷」
「今から?」
「今から」 
僕は笑った。「何で?」 
妻は立ち上がる。「一曲、弾くんでしょう?」 
僕は笑った。「そうだった」 
二人で家を出る。雨は上がっていた。電車、渋谷、駅、改札……あの日と同じ場所。 
僕は少しだけ立ち止まる。肩に何か触れた。 
「よっ」 
振り返るが、誰もいない。 
妻が僕を見る。「どうしたの?」
「いや」
「誰かいた?」
「昔の友達」
「見えないけど」
「うん。でも、いる」 
僕が笑うと、妻も笑った。 

ーーーーーーーーーー

第四十六幕 坂道
大学へ向かう坂道。昔は長かったが、今は短い。坂道が変わったのではない、僕が変わったのだ。 
妻が隣を歩く。「ここ?」
「うん」
「懐かしい?」
「すごく」
「じゃあ、一曲」 
僕はギターケースを開けた。街角、小さなベンチ、ギター。ポーン……。 
妻が笑う。「下手」
「昔よりは上手い」
「そう?」
「たぶん」 
そこへ一人の青年が立ち止まった。「すみません」 
僕は顔を上げる。「はい?」
「それ、何ていう曲ですか?」 
僕は少し考えた。「まだ名前はない」 
青年が笑う。「じゃあ、僕にも教えてください」 
僕はギターを渡した。「一曲だけ」 
青年が受け取り、弦を弾く。ポーン……。 
僕は笑った。妻も笑った。そしてどこか遠くから、誰かの声。「よっ」。 
僕も答える。「よっ」。 

エピローグ YaYaは、まだ始まったばかり
その夜、僕はノートを開いた。新しいページの改行一行目、僕はこう書いた。 
『YaYaは、終わらない。』 
二行目、少し考えてからこう書いた。 
『なぜなら、まだ一曲も弾いていない人がいるから。』 
三行目。 
『そして、まだ一度も夢を見ていない人がいるから。』 
四行目。 
『そして、まだ誰にも「よっ」と肩を叩かれていない人がいるから。』 
そこで筆を止めた。窓の外は雨がポツ、ポツと降っている。僕は笑った。また始まる。 
カラン——と店のドアが開く音。僕は振り返る。「いらっしゃい」 
誰かが入ってくる。顔は見えないが、声だけは聞こえる。「すみません」
「はい」
「ここ、YaYaですか?」 
僕は笑う。「そうですよ」
「何の店ですか?」 
僕はギターを一本取り出した。そして答える。「人生の途中で、ちょっとだけ寄り道する店です」 
客が笑う。「じゃあ、一曲だけ」
僕も笑った。「どうぞ」 
雨が降っている。東京のどこか、誰にも知られない小さな店「YaYa」。そこでは今日も、誰かが誰かに一曲を渡している。 
そしてその曲は、また次の誰かへ渡される。一人、また一人。百年、また百年。 
そうしていつの日か、僕たちがすっかり忘れられた頃、どこかの知らない青年がギターを弾く。ポーン……。 
誰かが言う。「いい音だね」
青年が笑う。「ありがとう」 
そのとき、YaYaの初代店主がどこかで笑っている。祖父も笑っている。先輩も笑っている。桑田さんも笑っている。原さんも笑っている。そして、僕も笑っている。 
時間など関係ない。夢も、現実も関係ない。ただ一曲、同じ音を聴いた。それだけで、人は何十年も繋がっていられる。 
だから、もしあなたが今夜雨の音を聞いたなら、少しだけ耳を澄ませてほしい。 
カラン。ドアが開く。「よっ」。 
あなたが振り返る。そこに誰がいるかは分からない。でもきっと、あなたの人生で一度だけ会うべき人。その人が笑っている。 
そして、あなたにギターを渡す。「一曲だけ」。 
あなたは聞く。「僕に?」
「そう」
「弾けないよ」
相手は笑う。「俺も」 
二人、笑う。 
そして、最初の音。ポーン……。 
その音が鳴った瞬間、また新しい物語が始まる。 
YaYa——
夢から始まった物語は、いつしか誰かの現実になる。
そして、その現実もまた、誰かの夢になる。 
YaYa——次の一曲へ。

ーーーーーーーーーー

第四十七幕 同じ夢
第二三九章 翌朝のニュース
翌朝。テレビをつけると、珍しく朝からニュースが騒いでいた。
『昨夜、都内を中心に、奇妙な夢を見たという人が相次いでいます』
僕はコーヒーを吹き出した。妻が振り返る。
「何?」
「これ」
テレビでは街頭インタビューが流れていた。
若い女性『雨の中で、小さな店に入ったんです』
会社員『ギターを渡されました』
老人『昔の友達に会いました』
女子高校生『知らないおじさんに、「一曲だけ」って言われました』
僕は黙った。妻が言った。
「あなたの夢?」
「……」
「どうなの?」
「たぶん」
妻がテレビを見る。
『夢の中に登場した店の名前については――』
画面に大きく文字が出た。
YaYa
僕は立ち上がった。「……始まった」
妻が聞く。「何が?」
僕は窓の外を見た。「店が」
雨は降っていない。それなのに、遠くから雨音が聞こえた。

ーーーーーーーーーー

第四十八幕 東京のYaYa
第二四〇章 夢の目撃者
その日の午後、SNSには「YaYa」という言葉が溢れ始めた。僕は見ないようにしていたが、妻が勝手に見せてくる。
「ほら」
画面には、投稿が並んでいた。
『昨夜、渋谷の古い店の夢を見た』
『ギターを弾いたら、知らない人が泣いていた』
『夢の中で高校時代の親友に会った』
そして、一番下の投稿。
『店のカウンターに、「一曲だけ」と書いてあった』
僕は背筋が寒くなった。
妻が言う。「有名になったね」
「嫌だな」
「どうして?」
「YaYaは、ひっそりしてる方がいい」
妻が笑う。
「でも、あなたずっと物語にしてたじゃない。ひっそりしてるわけないでしょ」
確かに、その通りだった。

第二四一章 電話が鳴る
夜、電話が鳴った。知らない番号。僕は出る。
「もしもし」
『YaYaの方ですか?』
「……」
『私、昨夜夢を見た者です』
「はい」
『どうしても聞きたいことがあって』
「何でしょう?」
『あなたの店、本当にあるんですか?』
僕は黙った。
「あります」
『どこに?』
「それが……」
答えられない。
『渋谷ですか?』
「たぶん」
『たぶん?』
「雨が降れば、分かります」
電話の向こうでしばらく沈黙があり、そして女性が笑った。
『変な人ですね』
「よく言われます」
『でも、今夜雨が降ったら探してみます』
「……」
『見つけたら、一曲お願いします』
電話が切れた。僕は受話器を見つめた。妻が言った。
「何だって?」
「客」
「へえ」
「新しい客」
妻は笑った。
「店主さん、忙しくなりそうね」
僕も笑った。

ーーーーーーーーーー

第四十九幕 雨が降る
第二四二章 午前二時
午前二時、雨が降り始めた。
僕は目を覚まし、窓を見る。雨がポツ、ポツ、ポツと落ちていた。妻は眠っている。
僕は起き上がり、ギターを持った。玄関で靴を履き、外へ出る。
東京は静かだった。雨の中を歩く。渋谷駅には誰もいない。改札を通り過ぎ、あの坂道へ向かう。
昔と同じ。いや、違う。昔より少し狭い気がする。街の灯りがぼんやり濡れていた。僕は歩いた。

第二四三章 YaYaの行列
坂を上りきると、そこに店があった。YaYa。
だが、今日は様子が違った。店の前に人が並んでいる。一人、二人、十人、二十人……百人。
僕は固まった。
「嘘だろ」
最後尾の男が僕を見る。
「すみません」
「はい?」
「ここ、YaYaですよね?」
「そうですけど」
「じゃあ、並んでれば入れます?」
「いや、僕も……」
言いかけて気づく。僕は店主ではない。今日は客だった。
だから、最後尾に並んだ。前には高校生、会社員、老人、外国人、大学生、そして僕の知らないたくさんの人。みんなギターを持っていた。

ーーーーーーーーーー

第五十幕 店内満員
第二四四章 入れない
一時間待った。二時間待った。三時間待った。僕は疲れた。
「まだ?」
前の老人が言う。
「あなたも?」
「はい」
「何しに?」
「一曲」
「私も」
僕は笑った。
「じゃあ、同じですね」
老人も笑う。
「人生、一曲で十分ですよ」
その言葉が、妙に胸に響いた。
ようやくドアが開く。カラン。中からあの新しい店主の女の子が顔を出した。
「お待たせしました」
僕は言う。「大変だったね」
彼女は笑う。「百人目です」
「僕も?」
「はい」
「客として?」
「もちろん」
僕は笑った。

第二四五章 桑田さんの苦情
店の奥で、桑田さんがギターを抱えている。
「おい!」
「はい?」
「何でこんなに客がいるんだよ!」
「僕に聞かないでください」
「お前、元店主だろ!」
「元です」
「じゃあ何とかしろ」
「無理です」
桑田さんは「役に立たねえな」と呟く。
原さんが「あなたもね」と突っ込む。
先輩が「まあ、俺たちも並べばいいんじゃないか?」と言った。
「俺も?」と桑田さん。
「客なんだから」と先輩。
原さんが「ほら、最後尾」と言い、桑田さんが渋々僕の後ろに並ぶ。僕は振り返った。
「桑田さん」
「何だよ」
「有名人なのに」
「今日は客だ」
「じゃあ、一曲だけ」
桑田さんが笑った。その瞬間、店内から大きな拍手が湧き起こる。
「桑田さん! 一曲!」
桑田さんは僕を見た。
「お前、代わりに弾け」
「嫌です」
全員が笑った。

ーーーーーーーーーー

第五十一幕 夢の同窓会
第二四六章 知らない人ばかり
店内には見知らぬ人ばかり。なのに不思議と居心地が良い。
誰かが昔の話をする。誰かが失恋話をする。誰かが仕事の愚痴を言う。誰かが夢を語る。誰も否定しない。
そして一人ずつギターを弾く。上手い人、下手な人、一音だけの人、コードを一つしか知らない人。でも、全部拍手される。
僕は思った。ここでは上手い下手など関係ない。一曲を誰かに渡す、それだけ。それがYaYaだ。

第二四七章 最後の客
夜が明ける頃、最後の一人が入ってきた。二十歳くらいの若い男。手ぶらだった。
「ギターは?」と店主の少女が聞く。
男は首を振った。「持ってません」
「じゃあ、どうする?」
男は少し恥ずかしそうに言った。
「歌だけでもいいですか?」
店内が静かになる。
「もちろん」
男がアカペラで歌う。上手くはない。でも、声がまっすぐだった。
僕はなぜか涙が出た。
歌い終わり、拍手が起こる。男は頭を下げて「ありがとうございました」と言った。
少女が聞く。「何で歌いたかったの?」
男は笑った。「父が昨日、亡くなったんです」
店内が静まり返る。
「父が昔よく歌っていた歌を、もう一度誰かに聴いてほしくて」
僕は目を閉じた。YaYaで、また一曲が渡された。

ーーーーーーーーーー

第五十二幕 父から息子へ
第二四八章 知らない父
男はポケットから写真を出した。「これ」
僕は見つめる。古い写真。若い男、ギター、隣に女性、そして後ろにYaYa。
僕は息を呑んだ。
男が言う。「父です」
写真の裏には、日付「一九七六年」。僕は写真を持つ手が震えた。
この人を知っている。祖父の友人、そしてあの日YaYaにいた男。初代の店に来ていた人だ。
「どうしました?」と男が聞く。僕は答えられない。
写真の端に、小さく書いてあった。
一曲目を渡した。次は息子へ。
僕は男を見た。
「君の父親、YaYaを知ってた」
男は驚く。「本当ですか?」
「うん」
「どんな人でした?」
僕は少し考えた。
「優しい人だった」
男の目から涙がこぼれる。「そうですか」
「それと」僕は笑う。「かなり音痴だった」
男も泣きながら笑った。「やっぱり」
店内から笑いが起きる。泣きながら笑う、これもYaYaだった。

ーーーーーーーーーー

第五十三幕 僕の役目
第二四九章 最後の一曲
夜が明ける。店の外で雨が止む。YaYaの灯りが少しずつ薄くなっていく。
少女が僕を見る。「そろそろ」
僕は頷く。「うん」
「また来ます?」
「もちろん」
「客として?」
「そう」
僕は笑い、彼女も笑う。
僕は最後にギターを一本手にとった。そして弾く。一音。ポーン。
店内が静かになる。その音をみんなが聴いている。
僕は言った。
「この一曲は、僕からみんなへ」
そしてもう一度弾く。ポーン。
誰かが歌い始め、誰かが手拍子をし、誰かが泣き、誰かが笑う。いつの間にか、全員が一緒に歌っていた。

ーーーーーーーーーー

第五十四幕 現実
第二五〇章 朝
目が覚めた。朝。妻が隣にいる。
「おはよう」
「おはよう」
「また夢?」
「うん」
「今回は?」
「百人くらい店にいた」
妻が笑う。「随分繁盛したね」
「うん」
僕はベッドから起き上がる。テーブルに何か置いてあった。
古い写真が一枚。僕は固まった。
昨日の夢で見た写真。「一九七六年」「YaYa」「若い男」「ギター」「僕の祖父」……そしてもう一人。
僕は妻を見る。
「これ」
「何?」
「どこにあった?」
「知らない」
写真の裏の文字。昨日と同じ。
一曲目を渡した。次は息子へ。
僕は笑った。「……またか」
妻が聞く。「何が?」
僕は写真を大切にしまった。
「いや」
窓を開ける。雨は降っていない。でも、どこか遠くからギターの音が聞こえる。ポーン。
僕は笑った。
「今日も一曲だな」
妻が笑う。「朝から?」
「朝だからこそ」
僕はギターを手にとった。

エピローグ 歌は消えない
人は死ぬ。店もなくなる。街も変わる。駅も建て替えられる。大学も百年経てば別の顔になる。
青春も終わる。恋も終わる。夢もいつか覚める。
それでも、一曲だけは残る。
誰かが誰かへ渡した歌。その歌を、また誰かが次の誰かへ渡す。
それは録音されていなくても、楽譜がなくても、名前がなくても残る。人の中に、記憶の中に、夢の中に。
そしていつか、雨の夜。あなたが一人で歩いていると、どこからかギターの音が聞こえる。
ポーン。
振り返ると、小さな店「YaYa」の灯りがついている。
ドアを開ける。カラン。中には誰かがいる。その人が笑う。
「よっ」
あなたは戸惑う。「……誰?」
その人は笑う。「忘れた?」
あなたは首を振る。「覚えてない」
「そうか」とその人はギターを差し出す。「じゃあ、これから覚えればいい」
あなたはギターを受け取る。「弾けないよ」
「俺も」
「じゃあ」
「一緒に」
最初の音。ポーン。
その瞬間、あなたは思い出す。まだ生まれていなかった頃の誰か、若かった頃の父、母、祖父、祖母、友達、恋人、そしてまだ出会っていない人。
全部が一つの音に繋がっている。
あなたは笑う。そして初めて、一曲を誰かに渡す。
それがYaYa。
人生は、何度でも最初の一曲に戻れる。
だから、もし今夜雨が降ったなら、少しだけ遠回りをしてほしい。知らない路地を歩いてほしい。
もし小さな灯りを見つけたなら、迷わずドアを開けてほしい。
そこにはきっと誰かがいる。そしてきっと、こう言う。
「よっ」
そのときは、あなたもこう答えてほしい。
「よっ」
それだけでいい。あとは一曲、弾けばいい。
YaYa――雨の夜だけ開く、人生の寄り道。
そして物語は、また誰かの夢の中で始まる。

ーーーーーーーーーー

最終章 朝だからこそ
目が覚めた。朝だった。雨は、もう上がっていた。
隣では、妻がまだ眠っている。僕は、しばらく天井を見つめていた。
夢だった。きっと。
桑田さんも。先輩も。祖父も。
YaYaという店も。
全部、夢だった。
そう思った。
けれど。
枕元には、古いカセットテープが置いてあった。
ラベルには、手書きで「YaYa 1976」とある。
僕は、それを手に取った。そして、笑った。
「……またか」
そのとき。どこからか、小さなギターの音が聞こえた。
ポーン。
僕は、しばらく耳を澄ませた。そして、ベッドの横に立てかけてあったギターを手に取った。
妻が、眠ったまま言った。
「朝から?」
僕は笑った。
「うん」
「何するの?」
僕は、弦に指を置いた。
「一曲だけ」
妻が、布団の中で笑った。
「好きねえ」
僕も笑った。
窓を開ける。朝の東京に、雨上がりの風が入ってくる。昨日までの雨を洗い流すように。
僕は、最初の音を鳴らした。
ポーン。
誰かに届くかもしれない。届かないかもしれない。それでもいい。
一曲は。弾いた瞬間から。もう、自分だけのものではないのだから。
僕は、もう一度、弦を鳴らした。
そして、思った。
人生は。案外、悪くない。
朝だからこそ。
――YaYa

(完)

これで おしまい

ーーーーーーーーーー



ーー原詩ーー

YaYa

渋谷駅の改札を出ると
後から先輩が
よっ! って肩を叩いた

僕は
去年 
やっと卒業したばかり

先輩は
今 その卒業の単位不足で
教授と掛け合っている

僕ですら
3年もダブったのに
先輩は
すでに6年も…

今日は
創立100年とかの記念式典で
その巨大な講堂へと向かっている

緩く長いその坂道には
先を越して行った
あいつらと
ふざけた風景ばかりが
残っている

到着すると
なんや黒山の人だかり

覗くと
桑田さんだ!

サザンとかいって
只今 大ブレイク中

すると先輩が
ボソっと呟いた

桑田か!
あいつとは
ちょいとあってな…

なにか?

いや…

氣になったけど
それよりも
僕もと
その中へ潜り込んでみた

すると
やあ! って桑田さんが
微笑んで
待ってたんだよ! と言う

えっ?
僕を?

そうだよ
忘れたのかよ?
クロコダイルで
約束したじゃあないか!

何でしたっけ?

いつか
サザンに入れてくれ! って
言ってたじゃあないか!

はあ
でも
それは叶わぬ願いで

そうじゃあないよ
入って貰おうと思ってたけど
さっさと就職しちまって…

はあ
でもしかし
僕ですか?

そうだよ
ギターがちょいとトラブって
抜けるって言うんだよ

そうですか
でも
下手ですよ

大丈夫だよ
オレらもまだ
下手だからね…

そんな光景を見ていた先輩が
突然 割り込んで来て

おい
桑田! ってちょっかいを出す

なんだ お前か!
まだ何か 用があるのか? と
ぶっきらぼうに返す

女で揉めたのか? と
ふと思うが
分からない

すると
原さんが間に入って来て

もう
いい加減にしてよ! と
鶴のひと声

分かったよ!
すまん! と詫びると

分からないけれど
そういうことかと
なんとなく思った

頼む
今すぐだ!
ギターが来ない

これから
この式典で1曲 歌わねばならない

その時
会場には
その旨を話そうと思う

頼む
今すぐなんだ

分かりました
では
その1曲だけと
引き受けてしまった

会場は超満員
老いも若きもで
熱気に溢れている

桑田さんは言う
カクカクシカジカで
本日 加わってくれましたと…

僕は緊張しながら
お辞儀をしてみた

なんとか
その1曲を終えると

ありがとね
助かったよ

では
来週からのツアーにもと
微笑んだけれど

抜けると言ったはずのギターが
慌てて駆け寄り
すまん!
ハヤトチリした
やはりここでと
土下座して詫びた

僕は…

ちょいと考えて
そうだよ
あなたが遅れたから
仕方なく僕が手伝ったんだよと
微笑んだ

先輩は
去年の僕のように

教授のところへ
ジョニ黒と
オールドパーとを持参し

しょがねえなあ
特別だぞ! って
単位を貰い
卒業出来た

僕は
あの日の講堂でだけ
桑田さんを手伝って

今 家族を持ち
テレビで彼らを観ては
口づさんでいる

あの日の講堂にいた方々は
僕を幻のサザンメンバーだと
言ってるらしい

桑田さんは
時折 連絡をくれて

どうしてる?

また
ちょいと手伝って貰いたいんだがと
微笑んでいる

どうやら
桑田バンド ってやつらしい

参加しようか
しまいかと
カミさんに相談しながら
目が覚めた

今朝は
楽しい夢だった…

I remember younger days
my friends and the family
there were tears
And yes
I fell in love
If I could only go back once more

完結





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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』 



第二十二幕 「完」の翌日
第二〇一章 終わったはずなのに
物語というものは、作者が「おしまい」と書いたところで本当に終わるとは限らない。少なくとも、僕の場合はそうだった。 
ノートを閉じ、ギターを壁に立てかけてから妻に言った。
「YaYaは、これで終わり」 
テレビを見ながら、妻はあっさりと答える。
「あっ、そう」
「感動しないの?」
「何に?」
「いや、この物語が」 
妻は僕を振り返った。
「あなたの話でしょ? だったら、終わるわけないじゃない」 
なるほど、妻は時々妙に鋭い。僕は黙ってテレビを見ることにした。 

第二〇二章 知らない番号
その夜、午前一時に電話が鳴った。嫌な予感がする。最近、この時間に鳴る電話にろくなものはない。 
「もしもし」
『もしもし』
若い女性の声だ。 
「どちら様ですか?」
『YaYaの者です』 
絶句して電話を切ったが、すぐにまた鳴る。出ずにいると何度も鳴り続け、妻が目を覚ました。 
「出ないの?」
「怖い」
「何が?」
「YaYa」 
妻は笑って「出なさいよ」と促した。僕は仕方なく受話器を取る。 
「もしもし」
『切らないでください。苦情です』
「苦情? 誰からですか」
『お客さんからです。あなたが物語を勝手に終わらせたので』
「……誰ですか?」
『読者です』 
横で妻が吹き出した。 

ーーーーーーーーーー

第二十三幕 YaYa読者会議
第二〇三章 店に呼ばれる
翌朝、スマホにメールが届いた。 
件名:YaYa緊急読者会議のお知らせ
本文:昨夜の件について、一度お話し合いをしたいと思います。
場所:YaYa
時間:雨が降ったら
持ち物:特になし
※作者本人の参加を強く希望します。 
妻に見せると、真顔で言われた。
「行ってきなさい」
「どこへ?」
「YaYa。雨が降れば分かるんでしょ?」 
その日の夕方、雨が降った。 

第二〇四章 読者たち
午前二時十三分、駅裏へ向かうと確かに「YaYa」があった。
ドアを開けるとカランと音が鳴り、店内には大勢の人がいた。若い女性、老人、サラリーマン、学生、子供。そして先輩、祖父、教授、原さん、桑田さんの姿もあった。 
「何ですか、これ」
桑田さんが手を挙げる。
「読者会議」
「誰が読者です?」
「全員」
「僕も?」
「お前は作者」 
先輩が口を挟む。
「つまり、一番立場が弱い」
「何でですか」 
教授が出した黒板には、大きくこう書かれていた。 
【議題:なぜYaYaを終わらせたのか】 
「物語だからです」と答えると、教授は首を振った。
「違う。人生だからだ」
僕は黙り込んだ。 

ーーーーーーーーーー

第二十四幕 終わらない理由
第二〇五章 原さんの反論
原さんが手を挙げた。
「私、一つ言いたい。最後に『完』って書いたでしょう? あれ、気に入らないの。だって私たち、まだ生きてるじゃない」
「夢の中ですけど」
「夢だからって勝手に殺さないでよ!」 
桑田さんも「そうだよ、俺まだギター弾きたいし」と乗っかり、先輩も「俺もまだ教授に怒られたい」と続く。「それはもう十分だ」と教授が返すと、店内に笑いが起きた。 
すると、祖父が静かに言った。
「物語が終わるのは、作者が決めることじゃない。読んだ人が続きを生きたとき、初めて終わるんだ」 

第二〇六章 読者の一人
店の隅から見覚えのない四十代ほどの女性が立ち上がった。 
「私、この物語を読んで、二十年ぶりに友達へ連絡したんです。大学時代に一緒に音楽をやっていたけれど、喧嘩してそれきりだった友達に。会って、一緒に一曲だけ歌いました。だから私にとって、この話は終わっていません」 
店内が静まり返る。続いて「俺も」「私も」「僕も」と次々に手が上がり、店の中はどんどん賑やかになっていった。 

第二〇七章 僕が知らないYaYa
気づいた。僕がYaYaを書いたけれど、完成させたのは僕ではなく読んだ人たちだ。誰かが昔の友達に会い、ギターを買い、家族に謝り、夢を思い出し、恋をする。それぞれが自分の人生で続きを書いている。YaYaは物語ではなく「現象」なのだ。 
「で? 次どうする? 作者だろ」と桑田さんに突っ込まれ、僕は頭を抱えた。
「もう書くことないですよ」 
みんなが笑う中、先輩が言った。
「じゃあ俺の話を書け。単位不足の話はまだまだある!」
教授まで「確かにまだあるな」と乗っかり、再び大爆笑が起こった。 

ーーーーーーーーーー

第二十五幕 先輩の青春
第二〇八章 六年目の秘密
先輩がギターを置いて明かした。
「実は六年目に大学を辞めようと思ってた。卒業できる単位なんてなかったんだが……好きな女がいた」 
相手は音楽が好きで、卒業したら就職すると聞いて大学に残ったのだという。
「馬鹿だろ?」と笑う先輩に「かなりですね」と返したが、その女性が結婚した相手を聞いて驚いた。先輩の視線の先にいたのは桑田さんだった。 
原さんがため息をつく。
「だから昔から面倒なのよ」 

ーーーーーーーーーー

第二十六幕 笑ってしまう過去
第二〇九章 四十年前の三角関係
聞けば聞くほどくだらなく、でも少し切ない。先輩も桑田さんも当時は本気で、原さんは二人を馬鹿だと思っていたらしい。 
格好よくも綺麗でもなく、失敗だらけで嫉妬や後悔が混ざり合ったもの。けれど後から思い出して笑える、それこそが青春なのだと思った。 

ーーーーーーーーーー

第二十七幕 最後の一曲
第二一〇章 あの日の講堂へ
突然店内が明るくなり、壁が消えてあの日の講堂が現れた。僕も先輩も桑田さんも原さんも若返り、満員の客席にはこれまでYaYaに関わった何千もの人々がいた。 
ステージ中央のギターを持ち、「何を弾けば?」と尋ねると、桑田さんが笑った。
「好きなように」 
最初の音を鳴らすと、誰かが歌い、手拍子が起き、音が重なっていく。知っている人も知らない人も、生きている人も死んだ人も、全員で音を出している。 

第二一一章 YaYaの正体
YaYaは店でも夢でも場所でもなく、「一緒に笑える場所」そのものだった。人生で一度、誰かと音が合う。たったそれだけの奇跡。 
曲が終わり大きな拍手の中で顔を上げると、客席に妻や子供、孫、ひ孫の姿があった。その中で立ち上がったギターを持つ若い人に、僕は笑って言った。 
「次、どうぞ」
「はい」 
僕はステージを降りた。 
終章 「完」の取り消し
翌朝目を覚ますと、ノートの最後のページにあった「完」が消え、僕の字でこう書き直されていた。 
『「完」を取り消す。YaYaは、次の人が続きを書く』 
僕はペンを取り、最後に一言添えた。 
『では、次の一曲へ』 
雨の中を再びYaYaへ向かうと、ドアの向こうで店主が言った。
「今日は、お前が店主だ」 
カウンターには一杯のコーヒーとギター、そして『YaYa 第1章 最初の客』と書かれた新しいノート。
そこへ雨に濡れた疲れた顔の客が入ってきた。 
「ここ、何の店ですか?」
「一曲だけ、人生を休む店です」 
ノートの終わりに『明日の朝、知らない女の子が来る』と新しい文字が浮かぶのを見ながら、僕は笑った。YaYaの物語は終わらない。終わらないからこそ面白いのだ。 
――次の一曲へ。

ーーーーーーーーーー

第二十八幕 カセットテープ
第二一二章 雨の少女
翌朝。雨は、まだ降っていた。
僕はYaYaのカウンターで、コーヒーを飲んでいた。
店主になってから何日経ったのか、分からない。というより、時間そのものがここではあまり意味を持たないのだ。
時計を見る。午前十時。
次に見ると、午後四時。
その次には、午前二時。
なのに、コーヒーは一度も冷めない。変な店だ。
(まあ、夢だから仕方ない)
そんなことを考えていると、カランとドアが開いた。
女の子が入ってきた。十七歳くらい。制服、濡れた髪、小さなリュック。そして、古いカセットテープを一つ握りしめている。
僕は言った。
「いらっしゃい」
女の子は黙っている。
「どうしたの?」
しばらくして、彼女は言った。
「これを、返しに来ました」
「誰に?」
「あなたに」
僕は自分を指差した。
「僕?」
彼女は頷く。
「はい」
そして、カセットテープをカウンターに置いた。

第二一三章 名前
テープには手書きでこう書いてあった。
――『YaYa 1976』
僕は固まった。
「一九七六年?」
女の子は頷いた。
「そうです」
「誰の?」
「分かりません」
「じゃあ、どうして僕に?」
女の子は少し困った顔をした。
「おじいちゃんが、亡くなる前に……私にこれを渡して」
「……何て?」
女の子は小さな声で言った。
「『YaYaへ持っていけ』って」
僕はカセットを見つめた。
「おじいさんの名前は?」
女の子が答える。その名前を聞いた瞬間、僕は椅子から立ち上がった。
僕の祖父の、古い友人だった。

ーーーーーーーーーー

第二十九幕 1976年
第二一四章 再生
店の奥から古いカセットデッキを取り出した。なぜそんなものがあるのか分からない。でも、YaYaには何でもある。
テープを入れる。カチッ。再生。
ザーッ……。
最初は雑音。そして、若い男の声。
『……聞こえるか?』
僕は息を止めた。
『もし、このテープを誰かが聴いているなら』
少し笑う声。
『たぶん、俺はもういない』
僕は女の子を見る。彼女は黙っている。声が続く。
『でも、それでいい。人間なんていつか死ぬ。問題はその後だ』
カセットの向こうで、ギターが一音。ポーン。
『誰かが、続きをやってくれるかどうか』
僕の背中に寒気が走った。この言葉、聞いたことがある。YaYaの言葉だ。

第二一五章 若い祖父
声は続く。
『一九七六年。俺は大学生だった』
僕は驚いた。祖父の若い頃だ。
『友達がいた。ものすごく馬鹿な奴だった』
僕は思わず笑った。
「先輩だ」
女の子が首をかしげる。
「え?」
「いや、何でもない」
テープの中の声が続く。
『そいつは大学を六年もやった』
僕は吹き出した。女の子も笑う。
『卒業する気があるんだか、ないんだか。でも、ギターだけは好きだった。ある夜、俺たちは渋谷の小さな店にいた』
その店の名前――YaYa。僕は息を呑んだ。
『そこで、一人の男と出会った』
桑田さんの名前が出るかと思った。しかし出なかった。代わりに別の名前――僕は知らない名前だった。

第二一六章 最初のYaYa
『そいつは店の主人だった。年齢は俺たちより少し上。何者なのか、最後まで分からなかった。ただ、一つだけ言った』
テープが一瞬途切れる。ザーッ。そして、男の声。
『君たちはいつか、人生で一曲だけ大切な曲を弾く。その曲を誰かに渡せ。その人がまた誰かに渡す。それがYaYaだ』
女の子が僕を見る。
「……これ」
僕は頷いた。
「僕も、同じことを聞いた」
彼女は驚いた顔をする。
「いつ?」
「夢で」
女の子が黙った。

ーーーーーーーーーー

第三十幕 夢を見る家系
第二一七章 彼女の夢
女の子がぽつりと言った。
「私もです」
「何を?」
「YaYaの夢。小さい頃から、時々見るんです」
「どんな夢?」
「雨の夜、お店に入るんです」
「うん」
「そこに知らない人がいるの」
「どんな人?」
彼女は少し考えた。
「毎回違います。……でも最後に、必ず同じことを言われます」
僕は聞いた。
「何て?」
彼女は僕を見て、言った。
「『一曲だけ』」
僕は笑った。
「やっぱり」
彼女も笑った。

第二一八章 祖父からの伝言
テープがまた再生される。
『もしこれを聴いているのが俺の孫なら――』
僕は固まった。
『一つだけ伝えておく』
音楽が小さく流れている。
『人生で一番大切なことは、成功することじゃない。有名になることでもない。金を持つことでもない。誰かと、同じ曲を一度でも弾くことだ』
僕は目を閉じた。祖父の顔が浮かぶ。
『それだけで、人間は何十年でも生きていける。だからもし、お前がこのテープを聴いているなら――誰かに一曲、渡せ』
そこで録音が終わった。

ーーーーーーーーーー

第三十一幕 祖父の青春
第二一九章 知らなかった過去
女の子が聞いた。
「あなたのおじいさん?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕は、この話を知らなかった」
女の子が笑う。
「じゃあ今、知ったんですね」
僕は頷いた。
「そうだね」
「よかった」
「何が?」
「おじいちゃん、ずっとこれを誰かに渡したかったみたいだから」
僕はカセットを手に取った。
「君はどうしてこれを持ってきたの?」
女の子は答えた。
「おじいちゃんが言ったんです。『雨が降ったらYaYaへ行け』って」
僕は笑った。
「おじいさん、本当に知ってたんだな」
「何を?」
「この店」
女の子は首を傾げる。
「この店、昔からあるんですか?」
僕は店内を見回した。
「分からない。……たぶん、ずっと」
女の子が笑った。

ーーーーーーーーーー

第三十二幕 写真
第二二〇章 壁の写真
その時、女の子が壁を見た。
「あれ?」
「どうした?」
「あの写真」
僕も見る。一枚の古い白黒写真。大学の前、若い男たち、ギター。
その中央に、僕の祖父。そして隣には若い先輩。さらに、もう一人知らない男。三人の後ろにはYaYaの看板。
僕は近づいた。写真の裏に文字が書かれている。
――『1976年 最初の一曲』
僕は写真をひっくり返した。その瞬間、写真の中の三人が動いた。
「……え?」
祖父が顔を上げる。写真の中から声が聞こえた。
『おい』
僕は後ずさった。
「誰?」
写真の中の祖父が笑う。
『お前、遅いぞ』
「……」
『ずっと待ってた』
僕は笑いながら泣いた。

ーーーーーーーーーー

第三十三幕 1976年の僕
第二二一章 祖父との再会
写真の中、祖父が僕を見る。
『大きくなったな』
僕は笑う。
「とっくに大人ですよ」
『そうか』
「じいちゃん」
『何だ?』
「どうして何も教えてくれなかったの?」
祖父は少し黙った。
『教えたら、お前が夢を見なくなるだろ。だから待ってた』
「何を?」
祖父は笑った。
『お前が自分でここへ来るのを』
僕は写真に手を伸ばす。触れられない。でも、温かい。
「じいちゃん」
『ん?』
「ありがとう」
祖父は笑った。
『礼はいらん。……次の奴へ渡せ』
僕は頷いた。

第二二二章 先輩の若い頃
若い先輩が写真の中から口を挟む。
『おい』
僕は笑う。
「何です?」
『俺の話、勝手に作るなよ』
「作ってません」
『じゃあ、六年生の話もか?』
「事実でしょう」
『余計なことを……』
祖父が笑う。
『こいつは昔から見栄っ張りだった』
先輩が返す。
『お前もだろ』
祖父が言う。
『俺は違う』
僕が言った。
「二人とも同じです」
二人揃って言った。
『お前に言われたくない!』
僕は吹き出した。女の子も笑った。写真の中、三人が笑っている。
不思議だった。死んだ祖父と、若い先輩と、今の僕が同じ場所で笑っている。時間など、本当はそんなにきっちり分かれていないのかもしれない。

ーーーーーーーーーー

第三十四幕 四人目のYaYa
第二二三章 新しい店主
女の子が言った。
「私も、一曲弾いていいですか?」
「もちろん」
彼女はギターを受け取った。少し震えている。
「下手です」
僕は笑った。
「僕も」
「本当?」
「本当」
「じゃあ、安心しました」
彼女が弾く。ポーン。少し外れる。でも、綺麗だった。
写真の中、祖父が笑っている。先輩も笑っている。そして僕も笑う。
曲が終わる。彼女が僕を見る。
「どうでした?」
僕は言った。
「最高」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、次は?」
僕は少し考える。
「次は、君が誰かに渡すんだ」
彼女は頷いた。
「分かりました」

第二二四章 では、店主を交代します
突然、店の照明が全部消えた。真っ暗。
そして一つだけ灯る。カウンター。そこに新しい鍵が置いてある。
僕はそれを見る。女の子も見る。
「これ、何ですか?」
僕は分かってしまった。
「店主の鍵。……たぶん、君の」
彼女は驚く。
「私?」
「そう」
「でも、私まだ高校生です」
「僕だって最初は大学生だった」
「それでも?」
「それでも」
彼女は鍵を取った。その瞬間、店の壁に新しい文字が浮かぶ。
――『YaYa 四代目店主』
僕は笑った。
「四代目か」
女の子が聞く。
「初代は?」
僕は写真を見る。祖父、その隣に若い男。そして、さらにその前に誰かがいる。知らない顔だ。初代なのだろう。
僕は思った。YaYaにはもっと、もっと長い歴史がある。

ーーーーーーーーーー

第三十五幕 初代
第二二五章 階段の下
女の子が鍵を握ったまま言った。
「初代の人、どこにいるんでしょう?」
その瞬間、店の奥からカランと何かが落ちる音がした。
僕たちは顔を見合わせる。
「行ってみます?」
「うん」
奥へ進む。古い階段。下へ、下へ。地下。扉。
僕は開ける。そこには大量のギター、古い写真、カセットテープ、手紙。そして壁一面に、何百人、何千人という名前が書かれていた。名前の横には小さな丸。
そして最後に大きな文字。
――『YaYaを訪れた人』
僕は息を呑んだ。
「これ、全部……」
女の子が呟く。
「お客さん?」
僕は頷く。その中に僕の名前、祖父の名前、先輩の名前、桑田さん、原さん、そして女の子の名前。まだ来たばかりなのに、もう書いてある。
僕がその下を見ると、さらに一つ名前があった。まだ知らない名前。その横には大きな丸。
女の子が聞く。
「この人、誰?」
僕は答えられない。その時、地下の奥から男の声がした。
『俺だよ』
僕たちは振り返った。

第二二六章 初代YaYa
暗闇から一人の男が出てくる。年齢は分からない。若くも見えるし、老人にも見える。白いシャツ、ギター、そして笑顔。
「やっと来たな」
僕は聞いた。
「あなたが……?」
男は頷く。
「初代YaYa」
女の子が聞く。
「何歳ですか?」
男は笑う。
「さあな」
「分からないんですか?」
「時間を数えるのをやめたからな」
僕は苦笑する。
「何でこんな店を?」
男はギターを構えた。
「一曲、聴くか?」
僕は笑った。
「また一曲ですか?」
「YaYaだからな」
男が弾く。ポーン。
その一音で地下室の壁が全部消えた。東京、渋谷、昭和、平成、令和、そしてまだ来ていない未来。無数の人間が一斉に同じ音を聴いている。
男が言った。
「これが、YaYaだ」
僕は聞いた。
「何なんですか、ここは?」
男は笑う。
「人間が時間を越えて会うための場所だ」
僕は息を呑む。
「じゃあ、僕たちは……」
「お前たちは、その続きをやる」
女の子が鍵を見る。男は言った。
「店主をよろしくな」
僕は驚いた。
「僕じゃない?」
男は笑う。
「もうお前の役目は終わった。今度は客になれ」
僕は笑った。
「客?」
「そう」
「何をすれば?」
初代YaYaはギターを差し出した。
「一曲、聴いていけ」
僕はギターを受け取る。そして思った。
(ああ、これでいい)
人生はいつか主役を降りる。でも、物語から降りる必要はない。誰かが次の主役になる。自分は客席から拍手をすればいい。
僕はギターを女の子へ渡した。
「次、君」
彼女が笑う。
「はい」
そして、YaYaの灯りがまた一つ点いた。
ポーン。
遠くで誰かが笑った。
『よっ』
僕も笑った。
「よっ」
――そしてまた、新しい一曲が始まった。

続く… はず





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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』 



第十四幕 死んだあとのライブ
第一七一章 百歳の僕
夢の中で。僕は百歳になっていた。
鏡を見る。白髪。皺。背中は少し曲がっている。でも、ギターだけはまだ持てる。
不思議だった。現実の僕はまだそんな年齢ではない。なのに夢の中では完全に百歳の自分だった。
妻もいる。子供も、孫も、ひ孫も。
そして、そのひ孫が僕に聞く。
「ひいじいちゃん」
「ん?」
「YaYaって、何?」
僕は笑った。
「さあ」
「知らないの?」
「知ってるけど、説明するのが難しい」
「じゃあ、弾いて」
僕はギターを取った。
「一曲だけ?」
ひ孫が笑う。「うん」
僕も笑った。「じゃあ、一曲だけ」
弦を弾く。ポーン。

第一七二章 百歳の誕生日
百歳の誕生日。家族が集まった。
ケーキ、料理、花、写真。みんな笑っている。僕は少し離れたところでギターを弾いていた。
すると、玄関のチャイムが鳴る。ピンポーン。
孫が出る。「誰?」
玄関から声がする。「すみません」
若い女性だった。「こちらに、YaYaという人は?」
孫が困った顔をする。「YaYa?」
女性は頷く。「はい」
「ここですけど」
孫が僕を見る。僕も首を傾げる。
女性が入ってくる。そして僕を見る。
「やっと、会えました」
僕は驚いた。「どなた?」
女性は笑う。「あなたが昔、夢の中でギターを渡した人です」
僕は息を止めた。「……あの少女?」
女性は頷いた。「大人になりました」
僕は笑った。「そうか」
女性は僕の前に小さな箱を置いた。
「これを返しに来ました」
箱を開ける。中には古いピック。僕があの夢で彼女に渡したものだった。

第一七三章 夢の中の時間
「これ、ずっと持ってたの?」僕が聞く。
「はい」
「何年?」
「六十年」
僕は笑った。「長いな」
「私、音楽を続けました」
「そうか」
「途中で何度もやめようと思いました」
「うん」
「でも、一曲だけ思い出すんです」
「YaYa?」
女性は笑った。「はい」
そして彼女は言った。
「私も、たくさんの人に一曲を渡しました」
僕は黙った。
「だから今日は返しに来たんです」
僕はピックを手に取った。
「もう、返さなくていいよ」
「え?」
「次の人へ渡して」
女性は笑った。「分かりました」
その瞬間、僕は気づいた。
YaYaは受け取るものではない。渡すものなのだ。

第一七四章 死んだ僕
夢が変わった。
葬儀場。僕の写真、祭壇。家族が泣いている。僕はその後ろに立っている。
「死んだのか」自分でそう思った。
誰も僕を見ない。妻が写真を見ながら泣いている。僕は近づいた。
「ありがとう」
声は届かない。
息子も泣いている。
「ごめんな」
声は届かない。
孫もいる。ギターを抱えている。僕は言った。
「弾け」
届かない。
そのとき、孫がギターを構えた。そして一曲、弾き始めた。僕が生前好きだった曲。
家族が静かに聴いている。僕は泣いた。
死んでも音は残る。記憶も残る。そして、人の中に残ったものだけが時間を越えていく。

第一七五章 あの講堂
場面が変わる。
古い大学。創立百周年。あの日講堂。僕は若い。先輩もいる。桑田さんもいる。ギター、照明、満員の客。僕ステージに立っている。
「これ、夢だよな」
隣に桑田さん。「そうだよ」
「じゃあ、何でこんなにリアル?」
「夢だから」
「意味分からない」
桑田さんが笑う。「夢って、そういうもんだろ」
僕はギターを見る。
「でもあの日、本当に弾いたの?」
桑田さんが黙る。そして笑う。
「さあ」
「え?」
「君がそう思ってるなら、弾いたんじゃない?」
僕は呆れる。「そんな適当な」
「音楽なんてそんなもんだよ」
桑田さんがステージへ出ていく。客席から歓声。僕も続く。
その瞬間、僕は気づいた。
あの日、僕は一曲しか弾いていない。でも記憶の中では、何十年もその曲を弾き続けている。
つまりあの日の一曲は、僕の人生そのものだった。

第一七六章 先輩が来る
突然、先輩がステージへ上がってきた。
「おい!」
「何です?」
「俺にもギター貸せ」
「弾けるんですか?」
「知らん」
「知らないって……」
先輩はギターを抱える。そして弾く。
ジャーン。
ものすごく下手だった。僕は吹き出した。
「先輩!」
「何だ!」
「下手すぎます」
「うるさい!」
客席から笑い声。桑田さんも笑っている。
原さんが叫ぶ。「もう! ちゃんと弾いてよ!」
先輩が怒鳴る。「じゃあ、お前が弾け!」
原さん「私は歌うの!」
会場が大爆笑。僕も笑った。こんなくだらない時間が永遠ならいいのに、そう思った。

第一七七章 教授が来る
すると、客席から教授が現れた。あの教授。僕が単位をもらった、あの教授。
「お前」
「はい」
「卒業したか?」
「しました」
「本当に?」
「はい」
教授は笑った。「なら、よし」
先輩が口を挟む。「先生、俺も卒業しました」
教授「お前は本当にギリギリだったな」
「すみません」
「ジョニ黒は?」
先輩が固まる。「……」
僕は笑った。「やっぱり持っていったんだ」
先輩が小声で「黙れ」
会場、大爆笑。
教授が笑いながら言った。
「人生も単位も、追試ばかりだ」
僕はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。

第一七八章 追試
教授が黒板を出した。そこには大きく書いてある。
「人生の追試」
僕は笑った。「何ですか、これ?」
教授「お前たち、まだ終わっていない」
「死んだのに?」
教授は頷く。「人生に追試はない」
「じゃあ?」
「次の人が受ける」
僕は意味が分からなかった。教授が黒板に書く。
「一人が失敗したら、次の人が続きをやる」
僕は黙った。
「それがYaYaだ」教授が笑った。「一人で完成させなくていい」
「……」
「誰かに続きを渡せ」
僕はようやく分かった。祖父が僕に渡したように、僕も誰かへ渡す。そしてその人も、誰かへ渡す。
だから、物語は終わらない。

第一七九章 最後の観客
講堂が静かになった。
客席に一人だけ、知らない少年が座っている。僕は近づいた。
「君は?」
少年は答えない。ただギターケースを持っている。
僕は聞く。「音楽、好き?」
少年は頷く。
「弾ける?」
首を振る。
「じゃあ、一曲だけ」
僕はギターを渡した。少年は震える手で受け取る。そして弦を弾く。
ポーン。
一音。それだけ。でも講堂が明るくなった。
客席にいた人たちが、少しずつ消えていく。祖父、原さん、桑田さん、先輩、教授。最後に、僕。
少年だけが残った。少年が僕を見る。
「あなたは?」
僕は笑った。「俺?」
「はい」
僕は少し考えた。そして答えた。
「昔、一曲だけ手伝った人」
少年が笑う。「じゃあ今度は、僕が」
「何を?」
「あなたを手伝います」
僕は泣いた。

ーーーーーーーーーー

第十五幕 目覚め
第一八〇章 朝の電話
電話で目が覚めた。妻だった。
「起きてる?」
「うん」
「何時だと思ってるの?」
時計を見る。午前六時。
「早いな」
「あなた寝言で、ずっと『一曲だけ』って」
僕は笑った。「夢見てた」
「またYaYa?」
「うん」
妻が呆れる。「好きねえ」
「好きなんだと思う」
「じゃあ、朝ご飯」
「分かった」
電話を切る。僕はベッドから出た。
そのとき、机を見る。ギター。その横に小さなピック。昨日までなかった。
僕は手に取った。裏に小さく文字。
「次は君。」
僕は笑った。

第一八一章 講堂へ
その日、僕は大学へ向かった。何十年ぶりだろう。
古い坂道。少し短くなった気がする。昔にあんなに長かったのに。
講堂。改修されている。でも入り口だけは昔のまま。
僕は中へ入る。誰もいない。舞台、客席、照明。僕はステージへ上がった。
ギターを持つ。そしてあの日と同じ場所に立った。
目を閉じる。拍手が聞こえた気がした。
「よっ」
僕は笑った。「よっ」
そして、一曲弾いた。

第一八二章 百周年の意味
大学の創立百周年。あの日、僕は何も知らなかった。
ただ先輩に連れられ式典に行った。偶然、桑田さんに会った。偶然、ギターを弾いた。偶然、人生が少しだけ変わった。
でも今なら分かる。偶然ではなかった。
あの日、あの場所に、あの人たちが集まった。それだけで十分だった。
人生にはそういう日がある。後になって初めて意味が分かる日。その瞬間はただの一日。でも何十年後、何十年後に振り返ると、人生の中心になっている。
僕にとって、それがあの日だった。

ーーーーーーーーーー

第十六幕 YaYaの百年
第一八三章 百年後
さらに夢は進んだ。
百年後、東京。僕はもういない。でも町にはYaYaがある。
小さな店。誰が経営しているのか誰も知らない。看板だけ昔のまま。
「YaYa」
雨の日、灯りがつく。一人の若者が店へ入る。
「ここ、何の店ですか?」
店主は答えない。ただギターを渡す。
「一曲だけ」
若者は笑う。「また?」
店主も笑う。「また」
若者がギターを弾く。すると店の壁に写真が浮かぶ。
僕、祖父、先輩、桑田さん、原さん、教授、知らない人々。そしてもっと、もっとたくさんの人。百年間、この店を通り過ぎた人たち。誰もが一枚ずつ写真になっている。
若者が聞く。「この人、誰?」
店主が答える。「昔、一曲だけ弾いた人」
「有名?」
「全然」
「じゃあ、何で?」
店主は笑う。「それで十分だから」

第一八四章 最後のページ
百年後のYaYa。店の奥に一冊のノート。
最初のページ、祖父。最後のページはまだ空白。
若者がペンを持つ。何を書こうか迷う。そして一行書いた。
「今日は、僕が一曲弾いた。」
その瞬間、次のページに文字が浮かぶ。
「ありがとう。」
若者が驚く。誰の字か分からない。さらに一行。
「次は、君が渡して。」
若者は笑った。ギターをケースへ入れる。
店を出る。雨が止んでいる。振り返ると店が消えている。
でも不思議ではない。YaYaは建物ではない。だから消えても困らない。必要な場所にまた現れる。誰かが誰かを必要としたとき。誰かが一曲を渡したいとき。そして誰かが自分の人生をもう一度始めたいとき。
終章 YaYa
僕はもう、何歳なのか分からない。夢なのか現実なのか、それも分からない。
ただ、一つだけ分かる。僕たちは人生の中で、何度も夢を見る。
若い頃の夢。叶わなかった夢。忘れていた夢。そして、もう一度見たい夢。
そのどれも無駄ではない。夢は現実から逃げるためだけのものではない。時には現実へ戻ってくるための場所になる。
だから、もし今夜あなたが雨の音を聞いたなら、目を閉じて少しだけ待ってほしい。
カラン。
ドアが開く。誰かが言う。「遅いよ」
あなたは笑う。「悪い。ちょっと寄り道してた」
「どこへ?」
「人生」
店主が笑う。「そうか。それなら仕方ない」
そしてギターを渡す。「一曲だけ」
あなたはギターを受け取る。「何を弾けば?」
店主は答える。「君が今まで生きてきた曲」
あなたは考える。
楽しかった日、苦しかった日、恋、別れ、家族、友達、失敗、成功、笑い、涙。全部思い出す。
そして、弦を弾く。
ポーン。
最初の音。少し不器用。でも確かにあなたの音。
店主が笑う。「いい音だ」
あなたも笑う。そして、もう一度弾く。今度は少しだけ上手くなる。
人生も同じ。最初から上手くなんていかない。何度も間違える。何度もやり直す。それでも最後まで弾けばいい。
誰かが聴いている。誰かが待っている。そしていつか、あなたの一曲を誰かが受け取る。
その瞬間、あなたはもう一人ではない。
YaYa。それは、そんな場所。
だから、この物語に本当の意味での終わりはない。僕が終わっても、あなたが続ける。あなたが終わっても、誰かが続ける。
一曲、また一曲。
そしていつの日か、遠い未来。知らない誰かがあなたのことを思い出す。
「昔、こんな人がいたんだって」
そしてギターを手に取る。
ポーン。
その一音が鳴った瞬間、YaYaの灯りがまたつく。
雨の夜。東京のどこか。誰も知らない小さな店。
カラン。
ドアが開く。
「いらっしゃい」
「ここ、YaYaですか?」
「そう」
「何の店?」
店主が笑う。「一曲だけ弾く店」
「それだけ?」
「それだけ」
「変な店ですね」
「よく言われる」
二人、笑う。そしてまた、一曲始まる。
YaYa。

――夢は、忘れた過去ではない。
――未来へ渡すために、一度だけ、もう一度。
――自分を取り戻すための、小さなステージなのだ。

そして今日もどこかで、誰かが肩を叩かれている。
「よっ」
その人が振り返る。笑う。
「よっ」
その瞬間、物語はまた始まる。
YaYa。

おしまい。
……のはずだった。
雨が、また降り始めた。

ーーーーーーーーーー

第十七幕 書いていない物語
第一八五章 雨の音で目が覚めた
雨の音で目が覚めた。
時計を見る。午前四時四十四分。「またか」僕は天井を見ながら呟いた。
最近、妙な夢ばかり見る。YaYa、祖父、講堂、先輩、ギター、知らない人。そして最後には、必ず「一曲だけ」と言われる。
僕はベッドを出た。台所へ行き、水を飲む。そしてふと机を見る。昨日まで何も置いていなかった場所にノートがある。黒い表紙。見覚えがない。
僕は手に取った。表紙に白い文字で「YaYa」。「またかよ」思わず笑ってしまった。
ノートを開く。最初のページ、何もない。二ページ目、何もない。三ページ目、何もない。
最後のページ。そこだけ文字があった。僕の字。間違いなく、僕の字だった。
『明日の朝、先輩が来る。』
僕は笑った。「そんなわけない」ノートを閉じた。

第一八六章 翌朝
午前八時。インターホンが鳴る。ピンポーン。
妻が玄関へ向かう。「誰?」「俺だ」
その声。僕は飛び起きた。「……まさか」
玄関へ行く。ドアを開ける。そこに、先輩がいた。
「よっ」
僕は固まった。先輩は昔と同じように僕の肩を叩いた。「久しぶりだな」「……何で?」「何が?」「いや。何でここに?」「お前、電話しただろ」「してません」
先輩が首を傾げる。「したよ」「いつ?」「昨日」「……」
僕は何も言えなかった。先輩が笑う。「何だ。寝ぼけてんのか?」
僕は机を見る。ノート。そこには確かに書いてある。
『明日の朝、先輩が来る。』
僕はノートをそっと閉じた。

第一八七章 ノートの続き
先輩が帰ったあと、僕はノートを開いた。すると、昨日までなかった文字が増えている。
『午後三時、大学へ行く。』
「……」僕はノートを閉じた。「行かない」
妻が聞く。「どこへ?」「大学」「何で?」「呼ばれてる」「誰に?」「……知らない」
妻は少し考えて言った。「行ってくれば?」「え?」「夢の続きなんでしょ?」
僕は笑った。「夢じゃないよ」
妻はノートを見る。そして一言。「じゃあ、なおさら」
午後二時。僕は大学へ向かった。

第一八八章 誰もいない講堂
大学。あの日と同じ坂道。ただし、今はずっと綺麗だ。新しい校舎、新しい看板。学生たちが笑いながら歩いている。
僕は講堂へ入った。誰もいない。ステージ、客席、静寂。僕は中央の席に座った。
そのとき、照明が一つ点いた。僕は立ち上がった。「誰?」
返事なし。
もう一つ、照明が点く。そしてステージ中央にマイク一本。その横にギター。
僕は笑った。「分かったよ」
ステージへ上がる。ギターを持つ。すると、客席から声。
「遅いよ」
僕は振り返る。誰もいない。「誰?」
声。「俺だよ」「どこ?」「後ろ」
振り向く。そこに、若い僕がいた。

第一八九章 若い僕
二十代の僕。髪も黒い。痩せている。少し生意気そうな顔。
僕は笑った。「お前、若いな」
若い僕が言う。「そっちこそ、老けたな」「そりゃそうだ」「何歳?」「内緒」「何で?」「夢だから」
若い僕は笑った。「俺、ちゃんと卒業できる?」
僕は少し考えた。「できる」「本当?」「ああ」「音楽は?」「やる」「売れる?」「……」「どう?」
僕は笑った。「それは自分で決めろ」
若い僕が少し不満そうに言う。「ずるい」「人生なんてそんなもんだ」
若い僕がギターを見る。「俺、上手くなる?」「少し」「少しかよ」
二人で笑った。

第一九〇章 ノートの正体
若い僕が突然言った。「そのノート」
僕は驚いた。「知ってるの?」「俺が書いた」「え?」
若い僕が笑う。「正確には、まだ書いてない」「どういう意味?」「未来の俺が書く」「未来の俺?」
「そう」僕はノートを見る。
若い僕が続ける。「そのノート、時間を逆に進むんだ」「……」「未来に書かれたものが、過去に現れる」
僕は呆れた。「そんな馬鹿な」「夢だよ」「またそれか」「でも、現実だ」
僕は言い返せなかった。

第一九一章 書いてはいけないこと
若い僕がノートを指差す。「一つだけ、注意して」「何?」「未来を書きすぎないこと」「どうして?」「全部決まってしまうから」
僕は黙った。
「未来は分からないから面白い」若い僕は笑った。「先輩が来ることくらいならいい」「じゃあ?」「宝くじの番号とか書いちゃ駄目」「……」
僕は黙った。若い僕が僕を見る。「考えた?」「少し」「駄目」「まだ何も言ってない」「顔に書いてある」
僕は笑った。「昔のお前、嫌な奴だな」「今もだろ」
二人で笑った。

ーーーーーーーーーー

第十八幕 桑田さんからの電話
第一九二章 あり得ない電話
大学から帰る途中、スマホが鳴った。知らない番号。僕は出る。「もしもし」
『もしもし』男の声。僕のは固まった。
「……桑田さん?」
『おう』
「え?」
『元気?』
「いや、元気ですけど」
『今度、ちょっと手伝ってほしいんだけど』
僕は笑った。「またですか?」
『また』
「今度は何?」
『ギター』
「やっぱり」
『一本、足りない』
僕は空を見上げた。雨。
『来られる?』
「いつ?」
『今夜』
「……」
『一曲だけ』
僕は笑った。「分かりました」
電話を切る。妻へ連絡。「今夜、ちょっと出る」
妻『また夢?』
「たぶん」
妻『気をつけてね』
「うん」
僕は歩き出した。

第一九三章 ライブハウス
夜。小さなライブハウス。入り口に「YaYa」。僕は立ち止まる。「……ここ?」
ドアを開ける。カラン。
中には桑田さん、原さん、そして知らない若者たち。
桑田さんが僕を見る。「来たな」「どうも」「今日は一曲じゃないぞ」「え?」「三曲」「話が違う」
原さんが笑う。「この人、昔からこうなの」
桑田さん。「いいだろ?」「いや、よくない」「ギター、貸すから」
僕はギターを見る。「これ、僕が弾くんですか?」「そう」「下手ですよ」
桑田さんが笑う。「知ってる」「……」「でも、今日は下手なほうが入い」
「何で?」
桑田さんは客席を見る。「みんな、上手い音楽を聴きに来たんじゃない」
僕は客席を見る。そこには昔の僕、昔の先輩、祖父、若い原さん、そして見知らぬ人々。
「……」
桑田さんが言う。「思い出しに来たんだよ」
僕はギターを持った。

ーーーーーーーーーー

第十九幕 人生のセッション
第一九四章 一曲目
僕が弾く最初の音。少し外れた。客席から笑い。僕も笑った。「すみません」
桑田さんが言う。「それでいい」
二音目、今度は合った。三音目、原さんが歌う。客席から手拍子。
僕は思った。これはコンサートじゃない。人生だ。
最初は音を外す。次に合わせる。また外す。でも誰かが待ってくれる。誰かが合わせてくれる。だから続けられる。

第一九五章 二曲目
二曲目、僕の知らない曲。桑田さんが歌う。でも歌詞が不思議だった。全部、僕の人生。
大学、先輩、妻、子供、仕事、失敗、成功、夢、そして老い。
僕は弾きながら泣いていた。「何で?」
桑田さんが歌いながら笑う。「知らないよ」「これ、僕の人生ですよ」「そう?」「そうですよ」「じゃあ、君が作ったんじゃない?」
僕は笑った。「作った覚えない」「人生なんてそんなもんだ」
また、その言葉。

第一九六章 三曲目
最後の曲。桑田さんが言う。「これは君が弾いて」「何?」「YaYa」
僕は驚いた。「YaYaって、曲だったんですか?」
桑田さん「違う」「じゃあ?」「店」「……」「でも、曲でもある」
原さんが笑う。「いいから弾いて」
僕は弦に指を置く。そして弾いた。
最初の音。ポーン。
すると客席全員が歌い始めた。僕は知らない歌詞。でも、なぜか歌える。
声が重なる。祖父、先輩、妻、子供、孫、ひ孫、見知らぬ人、若い僕、百歳の僕。みんなが一緒に歌っている。
僕は笑った。そして泣いた。
曲が終わる。静寂。誰も拍手しない。一秒、二秒、三秒。
そして一斉に拍手。大きな拍手。僕は頭を下げた。

ーーーーーーーーーー

第二十幕 夢からの手紙
第一九七章 翌朝
目が覚めた。朝。雨。机。ノート。
僕は恐る恐る開いた。新しい文字。
『ありがとう。』
僕は笑った。その下、さらに文字。
『これで、三曲目。』
「三曲目?」僕はページをめくる。そこには数字。一、二、三、そして四。四の横には空白。
僕はペンを持った。「四曲目?」そう呟いた。
するとノートに文字が浮かんだ。
『四曲目は、お前が決めろ。』
僕は考えた。何を弾けばいい? 昔の曲? 新しい曲? 祖父の曲? 自分の曲? 家族の曲?
しばらく考えて、僕は書いた。
『まだ決めない。』
すると文字が消えた。代わりに一行。
『正解。』
僕は笑った。

第一九八章 妻の秘密
朝食。妻がコーヒーを飲んでいる。僕は何気なく聞いた。「YaYaって知ってる?」
妻の手が止まった。「……」「知ってるの?」「昔、夢で見た」
僕は箸を落とした。「え?」
妻が笑う。「あなたと結婚する前」「どんな夢?」「雨の夜、小さな店」「YaYa?」「そう」
僕は黙った。妻が続ける。「そこであなたに会った」「僕に?」「若いあなた」
僕は驚いた。「何て言ってた?」
妻は少し考える。「一曲、歌って」
僕は笑った。「俺、ギターじゃなくて?」「歌」「何を?」
妻が笑った。「覚えてない」「……」「でもあなた、下手だった」「夢の中でも?」「夢の中でも」
二人で笑った。

第一九九章 妻のYaYa
妻は言った。「私ね、あの夢を見て、あなたと会うんじゃないかって思ったの」「実際、会った?」「会った」「どこで?」「駅」「いつ?」「雨の日」
僕は黙った。妻も黙った。そして二人、同時に笑った。「まさか」「ね」
でも僕は思った。もしかしたらあの日、駅で僕が彼女に声をかけたのも、偶然ではなかったのかもしれない。
YaYaは人を再会させる。まだ会ったことのない人さえ再会させる。
未来の自分と過去の自分。まだ生まれていない自分。そして、まだ出会っていない人。
すべてどこかで一度会っている。夢の中で。

ーーーーーーーーーー

第二一幕 四曲目
第二〇〇章 決めない曲
僕はその日、ノートを閉じた。
四曲目はまだ決めない。未来もまだ決めない。夢もまだ決めない。
ただ、今日を生きる。妻と朝食を食べる。仕事へ行く。帰る。テレビを見る。笑う。眠る。それだけ。
でも、その「それだけ」が、実は一番大切なのかもしれない。
夜、ベッドに入ると雨がポツポツと窓を叩く。僕が目を閉じると、遠くからギターの一音。ポーン。
僕は笑った。「またか」
すると肩を叩かれた。「よっ」
目を開けると、そこに若い僕。「また来たのか」「うん」「何しに?」
若い僕が笑う。「四曲目」「まだ決めてないぞ」「だから来た」「何で?」「一緒に決めよう」
僕は笑った。「しょうがないな」
二人で雨の夜を歩く。駅裏の灯り。YaYa。カランとドアを開ける。
店の中には先輩、祖父、桑田さん、原さん、教授、妻、子供、孫、ひ孫、そしてまだ会ったことのない人々。全員が待っている。
桑田さんが言う。「遅いよ」
僕は笑う。「悪い」「何してた?」「人生」
先輩が笑う。「まだやってんのか」「まだ」
教授が黒板を出す。そこには大きく書いてある。――第4曲。
僕はギターを持つ。「何を弾けば?」
誰も答えない。僕は考える。そして最初の音を弾く。ポーン。
その瞬間、店の壁が消えた。東京の夜景、渋谷、大学、坂道、講堂、ライブハウス、駅、家、雨、青春、老後、そしてこれから。全部が一つにつながる。
僕は弾き続ける。誰かが歌い、笑い、泣き、手を叩く。
そして誰かが新しいギターを持って入ってきた。「すみません」
振り返ると若い女性。ギターケースを抱え、少し緊張している。
「ここ、YaYaですか?」
僕は笑う。「そう」「一曲、弾いてもいいですか?」
僕はギターを差し出す。「もちろん」
彼女が受け取り、僕に聞く。「何を弾けば?」
僕は答える。「あなたの曲」
彼女が笑う。僕も笑う。そしてYaYaの灯りがまた一つ点いた。

エピローグ まだ終わらない
朝、目が覚める。雨は止んでいた。
ノートを見る。最後のページに新しい文字。
『第5曲は、あなたへ。』
僕はしばらくその文字を見つめ、ペンを持った。その下に自分で一行書く。
『次に弾く人が、決める。』
ノートを閉じ、窓を開ける。朝の空が青い。遠くで電車が走っている。普通の東京の朝。
でも、もう僕には分かっている。どこかで今日も誰かが夢を見る。雨の夜、小さな店、ギター、「一曲だけ」。
そしてその人は目を覚まし、少しだけ人生を好きになる。それでいい。
YaYaは今日もどこかで開いている。誰かが誰かを待っている。そして僕たちはいつかまたそこで会う。若い自分とも、老いた自分とも、死んだ人とも、まだ生まれていない人とも、そして一度も会ったことのない大切な人とも。
だから、もしあなたが今夜雨の音を聞いたなら、眠る前に少しだけ耳を澄ませてほしい。
もし遠くでギターの音が聞こえたら、それはきっと誰かがあなたのために一曲始めた音だ。ポーン。
そして誰かが笑う。「よっ」
あなたも笑う。「よっ」
――その瞬間、また物語が始まる。
YaYa。一曲だけ。でも、その一曲が、人生になる。
――完――

続く… かな?




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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』 



第九幕 夢を受け継ぐ者
第一二五章 祖父のいない朝
祖父が亡くなってから三年が経った。僕は二十七歳になっていた。 
あの人がいなくなったことは、今でもたまに信じられない。特にギターを弾いていると、隣から「そこ、違う」と言われそうな気がする。 
もちろん、誰もいない。それでも僕は弾く。一曲、また一曲。 
そして最後に必ず、祖父が好きだったコードを鳴らす。 
ジャーン。 
すると不思議なことに、少しだけ安心する。まるで「それでいい」と言われたような気がするのだ。 

第一二六章 YaYaは売れない
僕のバンド「YaYa」は、正直売れていなかった。ライブをやっても客は二十人、多くても五十人。CDを作っても売れず、動画を配信しても再生回数は三桁止まりだった。 
メンバーの一人が言った。
「もう、やめようか」 
僕は黙っていた。別のメンバーも続く。
「俺もそろそろ就職しないと」 
僕は何も言えなかった。みんな生活がある。夢だけでは食べていけない。 
祖父なら何と言うだろう。そう考えた瞬間、頭の中で声がした。 
――一曲だけ。 
僕は思わず笑った。
「またそれかよ」 
周囲には誰も意味が分からない。僕はギターを置いた。
「最後に、一回だけライブやろう」 
メンバーが僕を見る。
「最後?」
「うん」
「それで?」
「それで、やめるかどうか決めよう」 
みんな黙り込んだ。やがて一人が「分かった」と笑い、もう一人も「やろう」と言った。 
僕は頷いた。
「じゃあ、一曲だけじゃなく全部やろう」 
その夜、僕は祖父のギターをケースから出した。 

第一二七章 古いギター
祖父のギターは傷だらけだった。表面には小さな傷、側面には何かをぶつけた跡があり、ネックも少し曲がっている。でも、音は不思議なくらい柔らかかった。 
僕は弦を張り替え、チューニングをする。六本、一つずつ音を合わせ、最後の弦のペグを回した。 
ピン、と音が鳴った瞬間、僕は妙な感覚に包まれた。誰かが後ろにいる。振り返っても誰もいない。 
「おじいちゃん?」 
返事はない。僕は笑った。
「いるわけないか」 
そしてギターを弾いた。一音、二音、三音。 
そのとき、机の上に置いていた古いノートが勝手に開いた。風はない。ページが一枚めくれる。 
そこには祖父の字でこう書かれていた。 
『YaYaは店ではない。』 
その下に、さらに一行。 
『だから、閉店もない。』 
僕は息を止めた。 

第一二八章 ノートの続き
ページをめくった。次のページは何もない。その次も何もない。 
最後のページに、小さく文字があった。 
『もし私が死んだあと、君がこれを読んでいるなら、一つだけ覚えておいてほしい。』 
僕は読む。 
『YaYaを有名にする必要はない。大勢の人に知られる必要もない。一人の人間を、もう一度明日に向かわせられたら、それで十分。』 
僕はノートを閉じた。しばらく何もできなかった。 
そして、泣いた。声を出さずに、ただ泣いた。 
祖父は最後までこんなことを書いていたのか。音楽を売るためではなく、誰かを明日へ送るために。 

第一二九章 最後のライブ
ライブの日は雨だった。昔から雨の日が多い。 
会場は小さなライブハウス。客は三十人。それでも僕はステージに立った。 
マイクを握る。
「今日は僕たちYaYaの、最後のライブになるかもしれません」 
客席から笑いが起き、僕も笑った。 
「でも、一曲だけどうしても聴いてほしい曲があります」 
祖父のギターを構える。最初の音、ポーン。客席が静かになる。 
僕は歌い始めた。それは祖父が僕に教えてくれた、名前のない曲だった。 
曲名は『YaYa』。ただ、それだけだった。 

第一三〇章 見知らぬ客
演奏の途中、僕は客席の後ろに一人の老人を見つけた。白いシャツ、眼鏡、帽子。ずっとこちらを見ている。 
知らない人だったが、なぜか懐かしい。老人が小さく手を上げる。 
「よっ」 
僕は歌いながら笑った。
「よっ」 
隣のメンバーが僕を見る。
「誰?」 
僕は首を振る。分からない。でも知っている、そんな気がした。 
曲が終わると拍手が起きた。老人は立ち上がり、ゆっくり出口へ向かう。僕は追いかけた。 
「すみません!」 
老人が振り返る。
「何?」
「どこかで会ったことありませんか?」 
老人は笑った。
「あるよ」
「いつ?」
「ずっと昔」
「どこで?」 
老人は少し考えて答えた。
「夢の中」 
僕は絶句した。 

第一三一章 老人の話
老人は店の外で傘を開いた。
「君の祖父は元気だったか?」 
僕は驚いた。
「知ってるんですか?」
「少しね」
「どこで?」
「大学」
「大学?」 
老人は笑った。
「昔、君の祖父が一日だけギターを弾いたことがあっただろう」 
僕は頷いた。
「はい」
「俺はあの会場にいた」 
僕は目を見開いた。
「本当に?」
「本当」
「桑田さんと一緒に?」 
老人は笑った。
「いや、俺はただの客だよ」
「でも、祖父はあの日のことを何度も話してました」
「そうか」 
老人は少し空を見た。
「楽しかった?」
「はい」
「それならよかった」 
老人は歩き始めた。僕は呼び止める。
「待ってください! あなたの名前は?」 
老人は振り返らずに答えた。
「忘れたよ」 
そして、雨の中へ消えていった。 

第一三二章 写真
ライブの翌日、僕は祖父のアルバムを探した。古い写真。大学、講堂、卒業式、家族、孫だった僕。 
そして、一枚の見覚えのない写真があった。古い講堂に大勢の人。中央には若い祖父がギターを抱えている。 
その後ろの人々を拡大してみると、右端に昨日の老人が写っていた。 
僕は震える手で写真を持った。裏を見ると、四十年以上前の日付と祖父の字があった。 
『この人もあの日一緒に歌っていた。』 
名前は書かれていなかった。 

第一三三章 もう一つの写真
アルバムの最後にもう一枚、写真があった。 
そこには僕の祖父、若い僕、そして知らない青年が三人で同じ場所に立っていた。 
僕は息を呑んだ。青年は昨日の老人だった。でも、写真の日付は僕が生まれる十年前なのだ。ありえない。 
裏返すと、そこに一言だけ書かれていた。 
『夢は時間を守らない。』 
僕は椅子から立てなくなった。 

第一三四章 教授の娘
僕は黒田教授のところへ行った。教授はすでに亡くなっており、代わりに娘さんが研究室を引き継いでいた。 
僕が写真を見せると、彼女はしばらく黙っていた。 
「これ……知っていますか?」
「父の研究ノートに同じ写真があります」 
驚く僕に、彼女は棚から古いファイルを出してページをめくった。 
そこにあった同じ写真では、祖父の隣に若い男、そしてその後ろに生まれてもいない僕が写っていた。 
彼女が小さく言った。
「父は最後までこれを説明できませんでした」
「先生は何と言ってました?」 
彼女は一枚の紙を渡してくれた。そこにはこう書かれていた。 
『時間とは出来事の順番ではない。人が人を思い出す順番なのかもしれない。』 

第一三五章 YaYaの正体
僕が聞いた。
「先生はYaYaを何だと思っていたんですか?」 
彼女は少し笑った。
「最後には研究対象ではなくなっていました」
「じゃあ?」
「場所。心と心が、一瞬だけ同じ時間になる場所です」 
僕は黙った。 
「父は最後のノートにこう書いていました」 
彼女が読む。 
『YaYaとは過去でも未来でもない。現在である。ただし、誰かを大切に思った瞬間だけ。』 
僕は目を閉じた。 
だから母に会えた。だから若い自分に会えた。だから未来の自分にも会えた。全部「今」だったのだ。 

第一三六章 閉店しない店
その夜、僕は一人で雨の街を歩いた。傘を持っていたが差さなかった。濡れても構わなかった。 
駅前、交差点、古いビル、そして見覚えのない路地。 
僕が立ち止まった先に、小さな店があった。看板には「YaYa」と書いてある。 
僕は笑った。
「やっぱりあったんだ」 
ドアを開けるとカランと音が鳴る。中には誰もいない。カウンターと古いギター、そして一枚の紙があった。 
拾ってみると、そこには『店主は不在です。お好きな席へどうぞ。』と書かれていた。 
「自由すぎるだろ」 
僕は笑いながらカウンターに座り、ギターを取って弦を鳴らした。ポーン。 
すると奥から声がした。
「遅いよ」 
「誰だ?」
「分かってるくせに」 
振り返ると、そこに祖父がいた。 

第一三七章 祖父との再会
若い祖父――いや、僕が知っている一番元気だった頃の祖父がギターを抱えていた。 
「久しぶり」
「三年ぶり」 
祖父は笑った。
「現実ではな」
「夢では?」
「毎日」 
僕は笑った。
「そうだったのか」
「お前が気づかなかっただけだ」 
僕も隣に座った。
「聞きたいことがある。YaYaって、結局何なんだ?」 
祖父は少し考えて言った。
「俺にも分からん。でも、一つだけ分かる。誰かを思い出したとき、人はその人と一緒にもう一度時間を生きる。それがYaYaだ」 
「じゃあ店は?」
「入口だ」
「どこへ?」 
祖父は笑った。
「自分の心」 
僕も笑った。
「結局そういうことか」 

第一三八章 祖父からの頼み
祖父が僕を見る。
「一つ頼みがある。この店を誰かに渡してくれ」 
「どうやって?」
「簡単だ。一曲弾かせる」
「それだけ?」
「それだけ。音楽が好きじゃなくても、ギターが弾けなくても、歌が下手でも音痴でもいい」 
僕は笑った。
「それ、音楽じゃないだろ」 
祖父も笑った。
「人生も音楽じゃないだろ。でも、みんな自分の曲を弾いてる。上手い下手じゃない。最後まで弾くかどうかだ」 
僕はギターを見つめた。 

第一三九章 一曲だけ
祖父と二人でギターを構えた。 
「何を弾く?」
「知ってるだろ」 
僕が最初のコードを弾き、祖父が次のコードを重ねる。 
二人、三人、四人――いつの間にか店には人が増えていた。母、先輩、美紀、父、教授、知らない青年、僕の孫、そしてまだ会ったことのない人々。全員が笑っている。 
僕は思った。これがYaYaなのだと。誰かが思い出すたび人が増え、そしてまた誰かへ渡っていく。 

第一四〇章 夢から夢へ
曲が終わると、祖父が僕に言った。
「じゃあ、帰れ」 
「どこへ?」
「現実」
「もう少しいてもいい?」
「駄目だ。お前にはまだやることがある」 
祖父が指差した店のドアには、十七歳くらいの少女が立っていた。ギターケースを抱え、泣いている。 
「誰?」
「知らん。君が連れてきたんだ」 
少女が僕を見る。
「助けてください。私、もう音楽をやめようと思って……」 
祖父を見ると、何も言わずただ笑っている。僕は少女の隣に座った。 
「一曲、弾くか?」 
少女は泣きながら笑った。
「……はい」 
ギターを渡すと、少女が構えて最初の音を出した。少し外れた音だった。 
僕は笑った。
「いい音だ」 
祖父も笑っていた。 

第一四一章 目覚める理由
朝、僕はベッドの中で目を覚ました。雨の音、時計は七時。 
飛び起きた僕は、夢の内容を忘れないうちに紙を探して書いた。 
『YaYaは夢を見るための場所ではない。夢から帰ってくるための場所だ。』 
ペンを置き、ギターを手にして一曲弾いた後、バンドのメンバーへ電話をかけた。 
「今日、ライブやるぞ。客が一人でもいい」
「え? 何で?」
「一曲、弾きたい奴がいるんだ」
「誰?」
「まだ知らない」 
電話を切り、傘を持って玄関へ向かう途中、机の上のノートが開いていることに気づいた。 
昨夜まで何もなかった最後のページに、祖父の字で新しい一文が書かれていた。 
『店は、今日も開いている。』 
僕は笑った。 

第一四二章 YaYaは今日も
その夜のライブハウスの客は、僕とメンバー、そして昨日の少女の三人だけだった。 
ステージに立った彼女が震えている。
「怖い?」
「はい」
「俺も昔から怖いよ」 
少女が笑い、僕も笑った。
「じゃあ一緒だ。一曲だけ」 
少女が頷き、最初のポーンという音を鳴らした。少し震えた音だったが、確かに音だった。 
僕が隣でギターを弾き、少女が歌う。最初は小さな声が、少しずつ大きくなっていく。 
最後の音が消えると、小さな拍手が響いた。三人だけでも、少女は涙を流していた。 
「ありがとうございます」
「こっちこそ。今日、YaYaを開けてくれてありがとう」 
不思議そうな顔をする少女に、僕は雨の降る外を指差した。遠くに小さく「YaYa」の看板が見える。 
「知らなくていいよ。いつか分かるから」 
その夜、また一つ夢が生まれた。 

第一四三章 未来の記憶
少女はその夜、夢を見た。 
大学の講堂、大勢の観客がいるステージで、一人の老人が彼女にギターを渡す。 
「一曲だけ」
「また?」
「また」 
彼女がギターを受け取った瞬間、老人の顔が若返り、自分と同じくらいの年齢の青年になった。 
「あなた、誰?」
「昔の俺。君がこれからなる俺だ」 
不思議と怖くはなかった。 
「人生は長いよ。でも、一曲ずつだ」
「何の曲?」
「まだ決まってない」 
そして、音が始まり出す。 

第一四四章 続いていく歌
僕はその夢を知らないし、少女も僕の夢を知らない。孫も祖父も知らない。 
それでも音や記憶、約束、雨の日の笑い声は続いている。誰かが思い出すたび「YaYa」が開くから、店は閉じず、看板も消えない。 
人生に疲れ、夢を諦めそうになった人が雨の夜に訪れると、店主は何も聞かずにギターを差し出す。 
「一曲、どう?」 
下手でも間違えてもいい。音が一つ鳴れば、それで「YaYa」は始まるのだ。 

最終章 よっ
何年後か、何十年後か。誰かがこの物語を思い出し、雨の夜に夢を見る。 
古い坂道、濡れた石畳の先にある小さな店「YaYa」。ドアを開けると一人の老人がギターを持って「遅いよ」と笑う。 
「何か弾く? 一曲だけ」 
ギターを受け取り指を置いた瞬間、最初の音が響いて店の灯りが明るくなる。そして老人が自分自身であったことに気づくのだ。 
過去も未来も、全ての自分が一つの場所にいる。思い出すたびに人生は重なる。 
昔の自分に「遅かったな」と言われたら、笑って答えればいい。
「悪かった。ちょっと人生が長引いた」 
ゆっくり雨の中を歩いた先に、いつでも明かりのついた店がある。誰かを思い出し、ギターを弾き続ける限り「YaYa」はなくならない。 
なぜなら「YaYa」とは店でも歌でもなく、誰かを思い出した瞬間に心の中に灯る小さな明かりなのだから。 
今夜雨が降っているなら、少し耳を澄ませてみてほしい。
遠くから聴こえるギターの一音と、「よっ」という声に笑って返してほしい。 
「よっ」 
それだけでまた一曲始められる。あなたの曲はまだ途中なのだから。 
最後の一音が消えたとき、誰かが肩を叩いて「よっ」と言うだろう。
「待ってたよ」と答えて、二人でドアを開ければいい。 
雨の夜、古いギター、コーヒーの香り。また新しい一曲が始まる。 
YaYa――人生は終わった物語ではない。誰かが思い出すたび、続きを始める物語なのだ。 

(おしまい……ではなく、またどこかの雨の夜に)

ーーーーーーーーーー

第十幕 町じゅうが夢を見た夜
第一四五章 午前二時十三分
その夜、雨は朝から降り続いていた。
強くもない、弱くもない、ただずっと降っている。 
時計が午前二時十三分を指した。
その瞬間、町の明かりが一斉に消えた。停電だった。
信号も、コンビニも、マンションも、全部真っ暗。 
ところが、一軒だけ明るかった。
駅裏の古いライブハウス。看板には見慣れない文字で「YaYa」とあった。
誰もその店を知らない。少なくとも昼間には存在していない。
それなのに、午前二時十三分だけ灯りがついた。 

第一四六章 同じ夢
翌朝、町の人たちは妙な話を始めた。 
「昨日、変な夢を見た」
「俺も」「私も」「え?」
最初は偶然だと思った。でも夢の内容を聞くと、ほとんど同じだった。
古い坂道、雨、小さな店、ギター、そして一人の老人。 
老人はみんなに同じことを言った。
「遅いよ」 
ある会社員は「すみません」と答えた。
女子高生は「誰?」と答えた。
八十歳の老人は「何十年も待たせたな」と答えた。
三歳の男の子は「おじいちゃん?」と答えた。 
返事はみんな違ったが、最後だけは全員同じだった。
老人がギターを渡し、「一曲だけ」と言う。
その瞬間、目が覚めた。 

第一四七章 ニュースになる
昼過ぎ、テレビ局がやってきた。 
「昨夜の停電についてですが、何か変わったことはありませんでしたか?」
レポーターがマイクを向けると、町の人が答える。
「夢を見ました」
「どんな?」
「店」
「店?」
「YaYaという」 
レポーターが眉をひそめる。
「その店はどこにあるんですか?」
町の人が指差す。
「駅裏です」 
スタッフが確認するが、そこには古い倉庫しかない。店などない。
テレビ局が混乱する。 
ところが夜、また雨が降った。
そして午前二時十三分、カメラに一瞬だけ店が映った。 

第一四八章 動画
その動画は翌朝、SNSに投稿された。たった十秒。
暗い路地、雨、揺れるカメラ。
そして画面の奥に小さな店の看板――「YaYa」。 
ドアがカランと開き、中から誰かが顔を出す。
老人だ。笑っている。そして一言。 
「よっ」
動画はそこで終わる。
再生回数は一時間で十万、三時間で百万、翌朝には一千万に達した。
コメント欄は大騒ぎになった。 
「CG?」「合成?」「誰?」「怖い」「懐かしい」
そして一番多かったコメントは――
「この人、私の夢にも出てきた」

第一四九章 孫のところへ
その動画を僕の孫を見ていた。
今では三十代、音楽活動を続けている。「YaYa」という名前もまだ使っている。 
彼は動画を見て黙り込んだ。
「……」 
隣にいた妻が聞く。
「どうしたの?」
「この人」
「知ってる?」
「知ってる」
「誰?」 
孫は答えなかった。代わりに祖父の古い写真を取り出した。
そこに写っている若い祖父、ギター、講堂、そしてあの老人。 
孫は動画と写真を並べた。同じ顔だった。ただ、動画の老人のほう pillow(写真)より少し若い。
孫は呟いた。 
「やっぱり、まだいるんだ」
妻が聞く。
「誰が?」 
孫は笑った。
「じいちゃん」 
その夜、孫は雨の中を駅裏へ向かった。 

第一五〇章 存在しない店
駅裏。昼間そこには古い倉庫しかない。
孫は何度も来たが何もない。 
でもその夜は雨が降っていた。
時計は午前二時十二分。孫は立っていた。 
二時十三分。街灯が消える。
そして目の前に灯り。小さな店。看板「YaYa」。 
孫は笑った。
「やっとか」 
ドアを開ける。カラン。
店内には古いギター、カウンター、コーヒー、そして老人。 
「遅いよ」
孫は笑った。
「三年待った」
老人は首を振る。
「違う」
「何が?」
「三十年」 
孫は黙った。
「俺はまだ三十代だけど」
老人は笑う。
「ここでは時間は関係ない」 
孫は椅子に座った。
「じいちゃん?」
「そうとも言える」
「死んだんじゃ?」
「現実では」
「じゃあ、ここは?」
老人は答えた。
「夢」 
孫は笑った。
「やっぱり」
そして聞いた。
「何で町じゅうが夢を見てるの?」 
老人はギターを置いた。 

第一五一章 夢の理由
「町に必要な時が来たから」
「何が?」
「一曲」
孫は眉をひそめる。
「また?」
「また」
「誰のため?」
老人は店の外を見た。雨。
「町の人たち」
「全員?」
「そう」
「何で?」 
老人は少しだけ真面目な顔になった。
「みんな、忙しすぎる」 
孫は笑った。
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「じゃあ?」
「みんな、昔の自分を置いてきた」 
孫は黙った。老人は続ける。 
「子供の頃の夢、昔の友達、好きだった人、やりたかったこと、言えなかった言葉……全部置いてきた」
「それを?」
「一度だけ、取りに行かせる」
孫はギターを見る。
「そのためのYaYa?」
「そう」
「じゃあ、俺は何をすれば?」 
老人が笑った。
「弾け」
「一人で?」
「いや」 
店のドアが開いた。 

第一五二章 次々と来る人々
カラン。 
一人、二人、三人。次々と人が入ってくる。
会社員、女子高生、八十歳の老人、主婦、外国人、サラリーマン、小学生。
誰もが不思議そうな顔をしているが、誰も帰らない。 
老人が言う。
「みんな、一曲だけ」 
会社員が聞く。
「何を弾けば?」
「好きな曲」
女子高生が言う。
「私、ギター弾けません」
「歌えばいい」
八十歳の老人が言う。
「俺は歌えん」
「聞けばいい」
小学生が言う。
「僕は?」
「手を叩け」 
孫は笑った。
「何でもありだな」
老人も笑う。
「人生もそうだろ」 

第一五三章 奇妙なバンド
その夜、奇妙なバンドができた。 
ギター一人、歌二人、タンバリン一人、手拍子十人、口笛三人、何もできない人多数。
でも、音は不思議とまとまった。 
孫がギターを弾き、老人が隣で弾く。そして町の人々が歌う。
最初は小さかった声が、次第に大きくなる。 
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが肩を組む。
八十歳の老人が女子高生に「昔は俺も若かったんだ」と言うと、女子高生が「知ってますよ」と笑う。
「本当か?」「顔に書いてある」「失礼だな」
店中に笑い声が溢れた。 
老人が僕の孫を見る。
「これでいい」
孫は頷いた。 

第一五四章 店の外
午前四時、演奏が終わった。 
店のドアを開けると、外は雨上がりで空が少し明るくなっていた。
町の人々が外へ出る。誰も何も言わない。ただ歩いて、それぞれ自分の家へ、自分の人生へ戻っていく。 
女子高生は駅へ、会社員は自宅へ、八十歳の老人は妻の待つ家へ、小学生は夢の中へ。 
孫だけが残った。老人と二人きり。 
「これで終わり?」
孫が聞くと、老人は首を振った。
「始まり」
「何が?」
「町の人たちが、明日から少しだけ変わる」
「どう変わる?」
老人は笑った。
「それは自分で見るんだ」 

第一五五章 現実
朝、町はいつも通りだった。でも、ほんの少し違っていた。 
会社員は会社へ行く前に父親へ電話した。
女子高生は昔喧嘩した友達へメッセージを送った。
八十歳の老人は妻に「昔、好きだった」と突然言った。
妻は「今は?」と笑い、老人は「今も」と答えた。 
小学生は学校へギターを持っていった。
先生が「それ、何?」と驚くと、「夢でもらった」と少年は笑った。
「変な夢だな」「うん」
でもその日から、少年は音楽を始めた。 

第一五六章 町の変化
一週間後、町の中で小さな変化が起き始めた。 
閉店していた古い喫茶店が再開し、小さなレコード店が営業を始めた。
駅前にストリートミュージシャンが増え、老人たちが公園で歌い始めた。若者たちは昔の歌を聴き始めた。 
そして誰かが言った。
「この町、昔より少しだけ明るくなったね」 
誰も理由を知らない。
ただ雨の日になると、駅裏へ向かう人が少しずつ増えていた。 

第一五七章 記録
孫はすべてを記録し始めた。
夢を見た人、夢の内容、その後何が起きたか。 
そして一つのことに気づいた。
YaYaの夢を見た人は、必ず誰かと再会している。
電話、手紙、偶然、街角、SNS――方法は違っても、「再会」それだけは共通していた。 
孫はノートに書いた。 
YaYaは人を再会させる。
その下に、さらに書き加える。 
しかし、本当に再会しているのは相手なのか、それとも自分自身なのか。
そこまで書いて、ペンを止めた。 

第一五八章 祖父からの答え
その夜、また夢で「YaYa」を訪れた。 
孫が店に入ると、祖父がカウンターにいた。
「じいちゃん」
「おう」
「聞きたいことがある」
「何?」
「YaYaは人を再会させるの?」
「違う」
「じゃあ?」
「思い出させる」
「何を?」 
祖父は孫を見る。
「自分が、まだ生きているってこと」 
孫は黙った。祖父が続ける。 
「人は失敗すると過去に自分を置いてくる。失恋するとあの頃の自分を捨て、夢を諦めると夢を見ていた自分を捨て、大人になると子供だった自分を捨てる」 
祖父はギターを弾く。
「でも本当は、全部自分なんだ」 
孫は頷いた。
「だから、会いに行く?」
「そう」
「自分に?」
「そう」
祖父が笑う。
「それがYaYa」 

第一五九章 帰り道
孫は店を出た。雨が降っていた。
でも今回は振り返らなかった。もう知っている。店は後ろにあるのではない。自分の中にある。だからどこへでも持っていける。 
駅へ向かう途中、一人の少女がギターを抱えて立ち止まり、困っていた。
孫は声をかける。 
「弾ける?」
少女は首を振る。
「全然」
孫は笑った。
「じゃあ、一曲だけ」
少女が笑う。
「何を?」
「まだ決まってない」 
二人で笑った。
雨が少し強くなり、孫は傘を開いて少女にも入るよう言った。二人並んで歩く。 
その後ろ、雨の向こうで一瞬だけ小さな店が見えた。
「YaYa」の看板が灯る。 
そして、誰かが肩を叩いた。
「よっ」 
孫は振り返らない。ただ笑って応えた。
「よっ」

ーーーーーーーーーー

第十一幕 そして、僕たちは
時代が、変わっていく。
音楽も、街も、人も変わる。
でも、変わらないものが一つだけある。
誰かを思い出すこと。
昔の自分を思い出すこと。
そして、その自分に「まだ終わってないぞ」と言ってやること。
YaYaは、そのためにある。
雨の夜、眠りにつく。目を閉じる。
そして、もしどこかに小さな店が見えたら、入ってみればいい。
店主はきっと笑っている。そして、いつものように言う。
「遅いよ」
あなたは笑って答える。
「悪い。ちょっと、人生が長引いた」
店主も笑う。
「それなら、よかった」
ギターが差し出される。
「一曲だけ」
「何の曲?」
「君の曲」
あなたはギターを取り、弦に指を置く。
最初の音。ポーン。
その音を、誰かが遠くで聞いている。
その誰かが、また夢を見る。
そして、またYaYaへ来る。
店は、今日も開いている。
明日も開いている。
百年後も、きっと開いている。
誰かが誰かを、思い出す限り。
そして今日もどこかで、誰かが一曲、始めている。
YaYa。

――夢は、終わるために見るものではない。
――忘れていた自分を、もう一度迎えに行くために見るものだ。
雨が止む。朝が来る。

そして、新しい一日。
その一日をどう生きるか。
それは夢ではなく、あなたが決めること。
だから、歩こう。一歩、また一歩。
もし途中で疲れたら、少しだけ休めばいい。
雨が降ったら、YaYaへ。一曲だけ弾きに行けばいい。
そしてまた、現実へ帰ればいい。
なぜなら、人生とは夢と現実の間を何度も行ったり来たりしながら、自分の曲を完成させていくことなのだから。
そして、最後まで曲を弾き終えたら、誰かがきっと肩を叩く。
「よっ」
その声に、笑って答える。
「よっ」
――それで、いい。
YaYa。また、雨の夜に。

ーーーーーーーーーー

第十二幕 最初の客
第一六〇章 古い録音テープ
それから。僕の孫は、YaYaについて調べ続けた。
もちろん誰かに頼まれたわけではない。ただ知りたかった。あの店はいつから存在していたのか。誰が最初に「YaYa」と呼んだのか。そして、なぜ雨の夜にしか現れないのか。
古い写真、新聞記事、大学の記念誌、卒業アルバム、図書館の資料、何年も前の音楽雑誌……あらゆるものを探した。
そしてある日、実家の物置で一本のカセットテープを見つけた。
ラベルには祖父の字で、たった一言。
「一九八一年・雨」
僕は古いカセットデッキを引っ張り出した。テープを入れ、再生を押す。
ザー……ザー……。
雨の音。そして遠くからギターの音と、誰かの笑い声。
「もう一回!」
若い男の声。そして別の声が応じる。
「無理だよ。指が痛い」
また笑い声。僕は息を止めた。聞いたことがある。その声は、祖父だった。

第一六一章 知らない会話
録音は大学の講堂ではなかった。もっと狭い場所、誰かの部屋のようだった。
「で。どうする?」と祖父。
「どうするって?」
「本当に東京へ行くのか?」
「行くよ」
「音楽で食えると思う?」
「思わない」
「じゃあ何で?」
しばらくの沈黙。そして、祖父が笑った。
「一回くらい、やってみたいじゃん」
別の男が笑う。「馬鹿だな」
「お前もだろ」
二人で笑い合うところへ、女性の声が割り込んできた。
「二人とも、くだらない」
僕は思わず立ち上がった。この声も知っている。写真に写っていた、祖父の隣にいた女性。そして後の原さんだ。
さらに、もう一人の若い男が言った。
「じゃあ、約束しよう」
「何を?」と祖父。
「いつか大きなステージに立ったら、今日のことを忘れない」
女性が笑う。「そんな日、来るわけないじゃない」
「来るよ」祖父は即答した。
「絶対?」
「絶対」
そして、もう一人の男が言った。
「じゃあ、店を作ろう」
「店?」
「そう。いつでも帰ってこられる店」
僕は息を呑んだ。YaYaという名前は、まだ出てきていない。

第一六二章 名前の由来
テープが少し途切れる。
ザー……ザー……。
そして、女性の声。
「名前は?」
「YaYa」と男が答える。
「何それ?」
「意味はない」
「意味ないの?」
「意味なんて、後からつければいい」
祖父が笑う。「いいな」
女性も笑った。「じゃあ、YaYa」
その瞬間、テープが終わった。
僕は呆然とした。YaYaは祖父が死ぬ前に作った夢ではない。もっとずっと昔、彼らが若者だった頃に生まれていたのだ。

第一六三章 最初の約束
僕は古い写真をもう一度見返した。
あの三人――祖父、原さん、そしてもう一人の男。名前が分からない。写真の裏には何も書いておらず、ただ小さく数字だけが記されていた。
「3」
僕はその数字が気になった。三人で約束したから「3」なのか。
そう思ったが、もう一枚写真が出てきた。そこには四人。祖父、原さん、知らない男、そしてもう一人の若い女性。写真の裏の数字は「4」。
さらに五人が写った写真には「5」。
僕は背筋が寒くなった。数字は人数ではなかったのだ。
写真を年代順に並べる。一、二、三、四、五……。
そして最後の写真に書かれていた数字は「0」だった。
僕は意味が分からなかった。

第一六四章 ゼロ
その写真には誰も写っていなかった。ただ、雨の路地と小さな店、そして「YaYa」という看板。
僕は写真を見ながら呟いた。
「これが最初……?」
すると背後から声がした。「違う」
振り返ったが、誰もいない。
「誰?」
返事はない。僕は写真を凝視した。看板の横にある小さな文字を拡大する。そこには祖父の字で、こう書いてあった。
――0は、誰もいないという意味ではない。まだ誰にも出会っていない。
僕はしばらく、その言葉を見つめていた。

第一六五章 最初の客
その夜、夢を見た。いつものYaYaだ。
でも少し違う。店も椅子も新しく、ギターも新品だった。祖父もおらず、カウンターにも誰もいない。
僕は店内を見回して「誰もいない」と言った。
するとドアが開いた。カラン。
一人の男が入ってきた。二十歳くらいで若い。びしょ濡れで、髪から雨が落ちている。
男は僕を見る。「ここ、YaYa?」
僕は頷く。「そう」
「誰かいますか?」
僕は周りを見て、「僕だけ」と答えた。
男は笑った。「そうですか」
そしてカウンターに座り、「一杯ください」と言った。
「何を?」と困る僕に、男は少し考えて「コーヒー」と言った。
僕が淹れたコーヒーを一口飲み、男はため息をついた。「美味い」
「ありがとうございます」
「ここ、いつから?」
僕が答えられずにいると、男は笑った。「まだ始まったばかりなんですね」
僕は尋ねた。「あなたは?」
男は「僕?」と言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「僕は、人生をどうすればいいのか分からない人です」
僕が黙っていると、男は続けた。
「音楽をやりたい。でも怖いんです。失敗するのが」
僕は笑った。「失敗なら、僕もいっぱいしたよ」
男も笑った。「そうですか」
「うん」
「じゃあ、一曲弾いてもいいですか?」
僕はギターを渡した。男が弦に指を置き、一音を鳴らす。ポーン……。
その瞬間、店の奥から拍手が聞こえた。誰もいないはずなのに、拍手だけが聞こえる。一人、二人、三人……やがて店中が拍手で満たされた。
男は泣いていた。僕も泣いた。
そのとき分かった。この人が最初の客だ。

第一六六章 店主のいない店
目が覚めた。朝だった。
僕は飛び起き、夢を忘れないうちに書き留めた。そしてひとつ気づいた。
YaYaには店主がいない。祖父も、僕も店主ではない。では誰が店を開けているのか。
答えは簡単だった。客だ。
YaYaは、誰かが必要としたとき、その人自身が開ける店なのだ。

第一六七章 現実の老人
その日の午後、僕は駅前で一人の老人に会った。見覚えがあった。写真で見た、若い頃の祖父の友人だ。
僕は声をかけた。「すみません」
老人が振り返る。「何?」
「YaYaって、知っていますか?」
老人の顔が変わった。「……誰から聞いた?」
「祖父です」
「そうか」
老人はしばらく黙ったあと、言った。「まだ続いてるのか」
「知ってるんですか?」
老人は笑った。「俺は最初の一人だった」
僕は言葉を失った。「最初の客……?」
「違う」老人は首を振る。「最初の店主」
「店主?」
老人は遠くを見た。「YaYaを最初に開けたのは、君の祖父じゃない」
「じゃあ誰?」
老人は笑った。「俺だよ」

第一六八章 四十年前の店
老人は話してくれた。
大学を卒業したあと、四人はそれぞれ違う道へ進んだ。音楽、会社、教師、家庭……夢は少しずつ離れていった。
そしてある雨の夜、老人は小さな店を借りた。看板は自分で作った。「YaYa」。
理由はなかった。ただ昔、四人で決めた名前だった。
「店を始めたんですか?」
「そう」
「何の店?」
老人は笑った。「何でも屋。コーヒー、酒、音楽、相談、愚痴、恋愛相談、離婚相談、就職相談……何でも聞いた」
「……儲かりました?」
「全然」老人は笑った。「だから一年で潰れた」
僕も笑った。「じゃあ、YaYaは?」
老人は雨を見た。
「店は潰れた。でも、夢だけが残った」
その瞬間、僕はすべてがつながった気がした。

第一六九章 夢の店
YaYaは建物ではない。
誰かが誰かの話を聞く。誰かが誰かに一曲弾かせる。誰かがもう一度明日へ進む。その瞬間、YaYaは開く。
だから大学の講堂にも、ライブハウスにも、僕の夢にも、孫の夢にも、そして町の夢にも存在したのだ。
老人は言った。「お前の祖父は、YaYaをずっと守っていた」
「どうやって?」
「人に渡したんだ」
「渡した?」
「そう。自分のものにしなかった」
僕は黙って聞いていた。
「それが一番大事なんだ」老人は笑った。「店は誰かのものになった瞬間、終わる。誰のものでもないから、続くんだ」

第一七〇章 最後の秘密
老人は僕に一枚の黄ばんだ古い封筒を渡した。表には僕の名前がある。
「これ……?」
「君の祖父から」
「いつ?」
「四十年前」
僕は驚いた。「僕、まだ生まれてません」
「知ってる」
「じゃあ、なんで?」
老人は笑った。「夢だから」
僕は封筒を開けた。中には一枚の紙。祖父の字だった。
――お前がこれを読む頃、俺はもういないだろう。
でも、YaYaは残っている。
もし、いつか店を見つけたら、店主になろうとするな。
客になれ。
そして、次の人に一曲だけ渡せ。
僕は紙を握りしめた。
老人が言う。「それで、終わりだ」
「終わり?」
「そう」
「本当に?」
老人は笑った。
「いや。ここからが、始まりだ」

ーーーーーーーーーー

第十三幕 僕の一曲
その夜。
僕はギターを持って雨の中へ出た。
目的地は決まっている。
駅裏。
古い倉庫。
誰も知らない場所。
午前二時十三分。
街灯が消える。
僕の前に店が現れる。
YaYa。
僕はドアを開ける。
カラン。
中には誰もいない。
僕はカウンターに座る。
ギターを置く。
そして一人で弾き始める。
祖父の曲。
父の曲。
孫の曲。
少女の曲。
名前のない人の曲。
全部混ざる。
最後に僕は自分の曲を弾いた。
まだ名前はない。
でもこれでいい。
曲は誰かに名前をつけてもらうものではない。
生きている間に少しずつ自分で名前をつけていけばいい。
最後の音。
ポーン。
静寂。
すると後ろから拍手。
一人。
二人。
三人。
振り返る。
そこに祖父、父、知らない老人、少女、そしてもっとたくさんの人。
僕は笑った。
「今日は客なんですけど」
祖父が笑う。
「知ってる」
「じゃあ誰が店主?」
祖父が指を差す。
僕の後ろ。
そこには一人の少年。
ギターを抱えて立っている。
少年は僕を見る。
「すみません」
「何?」
「一曲、弾いてもいいですか?」
僕は笑った。
「もちろん」
ギターを渡す。
少年が弦に指を置く。
少し震えている。
僕は言った。
「大丈夫」
少年が見る。
「下手でも?」
「うん」
「間違えても?」
「うん」
「笑われても?」
僕は笑った。
「それでも弾けばいい」
少年が頷く。
そして一音。
ポーン。
YaYaの灯りが少しだけ明るくなる。

エピローグ
翌朝。
僕は自宅のベッドで目を覚ました。
雨は止んでいる。
机の上。
祖父のノート。
最後のページ。
昨日まで何もなかった。
そこに新しい文字。
たった一行。
――次は、お前が待つ番だ。
僕は笑った。
窓を開ける。
朝の空気。
鳥の声。
街の音。
普通の朝。
でももう普通ではない。
僕はギターを持つ。
玄関へ。
妻が聞く。
「どこ行くの?」
僕は答える。
「ちょっと、一曲だけ」
「朝から?」
「うん」
妻が笑う。
「また?」
「また」
僕も笑う。
ドアを開ける。
外は晴れている。
それでも遠くで小さな雨音が聞こえた。
僕は振り返る。
誰もいない。
でも肩に何かが触れた気がした。
「よっ」
僕は笑った。
「よっ」
そして歩き出す。
YaYaはもう店ではない。
夢でもない。
過去でもない。
未来でもない。
誰かが誰かに一曲を渡す。
その瞬間、YaYaは生まれる。
だからこの物語にも終わりはない。
あなたが誰かを思い出したとき。
あなたが昔の自分に「元気だったか?」と声をかけたとき。
あなたが諦めかけた夢をもう一度だけ抱きしめたとき。
きっとどこかで小さな店の灯りがつく。
カラン。
ドアが開く。
そして誰かが言う。
「遅いよ」
そのときは急가なくていい。
笑こう答えればいい。
「悪い。ちょっとだけ人生を楽しんでた」
そして店の中へ一歩入ればいい。
ギターが一本置いてある。
あなたのためにずっと待っていた。
YaYa。
――一曲だけ。
――人生を、もう一度。

つづく…    と思う




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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』 



第七幕 夢をつなぐ人
第八十六章 新しいメンバー
その人から連絡が来たのは、テレビ出演から三週間後だった。
メールの件名。「あなたの夢について」
またか。僕は少しだけ嫌な予感がした。
メールを開く。
『突然のご連絡をお許しください。私は大学で心理学を研究しています。あなたが出演された番組を拝見しました。その中で、あなたが「YaYa」と言った瞬間、私も同じ夢を見ました』
僕は画面を見つめた。続きを読む。
『私の夢には、あなたはいませんでした。代わりに、私自身がいました。ただし、十九歳の私です』
僕は椅子にもたれた。さらに続く。
『そして、私の十九歳の自分が言いました。「遅いよ」。誰に言ったのかは分かりません。でも、その声を聞いたとき、なぜか「YaYa」という言葉が浮かびました。一度、お会いできませんか』
僕は返信した。
『会いましょう。ただし、夢の話はあまり期待しないでください。私自身、何が何だか分かっていません』
すぐに返信が来た。
『それで十分です』

第八十七章 教授
男は大学教授だった。名前は黒田、五十八歳。僕より五歳若い。
大学の研究室へ行くと、壁一面がホワイトボードだった。そこには奇妙な図が描かれている。
「これは?」僕が聞く。
黒田教授は答えた。「夢のネットワークです」
「……」
「笑っていいですよ」
「いや。もう慣れました」
教授は笑った。
「あなたは、同じ夢を見る人間が世界中にいると思いますか?」
「いるんでしょうね」
「実際にいます」
「どれくらい?」
「正確には分かりません。じゃあ、少なくとも三百人以上」
僕は黙った。「三百人?」
「はい」
「全員、YaYaを?」
「全員ではありません」
教授はホワイトボードを指した。
「古い場所」
「場所?」
「大学、駅、喫茶店、ライブハウス、病院、海辺。人によって違います」
「共通点は?」
教授は一つの言葉を書いた。――『再会』
「……」
「皆、誰かと再会しています」
僕は母を思い出した。先輩、美紀、若い自分、未来の自分。全部、再会だった。

第八十八章 夢の条件
「じゃあ、誰でも見られるんですか?」
「そう簡単ではありません」
「条件がある?」
「あると思います」
「何?」
教授は三本の線を引いた。
「一つ目。強い未練。二つ目。強い記憶。三つ目」教授は少し間を置いた。「まだ終わっていないこと」
僕は笑った。「僕は全部当てはまりますね」
「でしょうね」教授も笑った。「でも、もう一つあります」
「何です?」
教授が振り返った。
「誰かに、思い出されていること」
僕は黙った。「どういう意味です?」
「夢は自分だけのものじゃない。誰かがあなたを思い出す。その思いが、あなたの夢に入る」
「じゃあ、母が?」
「可能性はあります」
「亡くなった人でも?」
「記憶の中では生きていますから」
僕は少し笑った。「それなら、夢の中では誰も死なないんですね」
教授は答えなかった。

第八十九章 教授の夢
「先生は?」僕が聞いた。「あなたもYaYaの夢を見るんでしょう?」
教授は黙ったあと、「見ます」と言った。
「誰に会います?」
教授は窓の外を見る。「父です。私が十八歳のときに亡くなりました」
僕は何も言わなかった。
「夢の中では、父はいつも同じ場所にいます」
「どこです?」
「駅。古い駅です」教授は笑った。「でも、列車は来ません」
「どうして?」
「父が乗らないから」
僕は意味が分からなかった。教授は続ける。
「父はいつも私に聞くんです。『まだ帰らないのか?』」
「……」
「私はいつも答えられません」教授は少し笑った。「だから、夢が終わらない」
僕はその言葉を聞いて、何かを感じた。

第九十章 終わらない夢
「終わらない夢?」
「はい」
「悪い夢ですか?」
「いいえ」教授は首を振った。「むしろ、心地いい」
「じゃあ、起きたくない?」
「そう思うこともあります」
僕は自分の夢を思い出した。母、先輩、若い僕、未来の僕。みんな消えていく。でも、完全には消えない。
「先生」
「はい」
「夢って、終わらせる必要があるんでしょうか?」
教授はしばらく考えた。
「いい質問ですね」
「答えは?」
「夢を終わらせるのは、目を覚ますことではありません」
「じゃあ?」
「もう、会わなくてもいいと思えること」
僕は黙った。教授は静かに言った。
「再会できたから、別れられる」
その言葉が、妙に胸に残った。

第九十一章 YaYa研究会
それから、僕は教授の研究に協力することになった。と言っても難しいことはしない。
夢を見たら記録する。誰が出てきたか、どこだったか、何を言ったか。最後にどんな気持ちになったか。
ただ、一つだけ奇妙なことがあった。研究参加者の多くが同じ言葉を使うのだ。
「また一曲」
ある人は祖父と。ある人は昔の恋人と。ある人は幼い頃の自分と。そして、ある人はまだ生まれていない子供と。
夢の中で、一曲だけ音楽を聴く。その曲が終わると目が覚める。
教授はそれを「YaYa現象」と呼んだ。
僕は笑った。「名前、そのまんまですね」
教授も笑った。「研究者なんて、そんなものです」

第九十二章 まだ生まれていない子
ある日、研究室に若い女性が来た。二十代。彼女は夢の記録を提出した。僕が何となく読むと、そこにこう書いてあった。
『私は小さな男の子と海辺にいました。男の子は私に言いました。「お母さん」』
僕は手を止めた。彼女はまだ結婚していないし、子供もいない。
「その男の子は?」彼女に聞いた。
「分かりません」
「知っている子?」
「いいえ」
「夢の中で何か言いました?」
彼女は少し泣きそうになった。
「『またね』って」
僕は息を呑んだ。
「それから?」
「ギターの音がして、目が覚めました」
教授を見る。教授は黙っている。
僕は思った。YaYaは過去だけではない。もしかすると未来にもつながっているのではないか。

第九十三章 未来の子
その夜、僕は夢を見た。
海辺だった。夕暮れ、波の音、砂浜。僕は一人で歩いていた。
遠くに子供がいる。男の子。僕は近づいた。
「君」
男の子が振り返る。知らない顔。でも、なぜか懐かしい。
「誰?」
男の子は笑った。「僕? あなたの――」少し間を置いて、「ずっと先の人」
僕は笑った。「何だそれ」
男の子も笑った。「変なの」
「お前、俺を知ってるの?」
「知ってるよ」
「どこで?」
「夢で」
僕は黙った。男の子が小さなギターを持っている。
「弾けるの?」
「少し」
「聴かせて」
男の子はギターを弾いた。一音、二音。そして僕の知っているコード。
僕は驚いた。「それ……俺が教えた?」
男の子は笑った。「まだ教えてもらってない」
僕は背筋が寒くなった。「じゃあ、誰に?」
男の子は海の向こうを見る。
「あなたに。未来のあなたから」
僕は言葉が出なかった。

第九十四章 時間のない場所
男の子が言った。「ここには時間がないんだ」
「時間がない?」
「うん」
「じゃあ、何がある?」
男の子は笑った。「思い出」
「それだけ?」
「それと」少し考えて、「約束」
「約束?」
「また会うっていう約束」
僕は胸が熱くなった。「じゃあ、YaYaって?」
男の子は笑った。「知らない」
「知らないのか」
「でもみんなが言ってる」
「誰が?」
男の子は後ろを指差した。僕は振り返った。
そこには大勢の人がいた。若い人、老人、子供、男、女。知らない人、知っている人。亡くなった人、まだ生まれていないような人。みんなが一緒に立っている。
そして誰かがギターを鳴らした。ポーン。
全員が笑った。「YaYa」
僕は目を閉じた。

第九十五章 夢からの帰り道
目が覚めた。朝。カミさんはまだ寝ている。
僕はベッドを出て台所へ行き、コーヒーを淹れる。窓を開けると朝の空が青い。
僕と思った。夢の中では時間がない。だから亡くなった人にも、若い自分にも、未来の自分にも会える。でも現実には時間がある。だから人は生きている。だからこそ、一日が大切になる。
僕はギターを手に取り、弾いた。一曲。まだ上手くない。でも、いい。
その音を聞いて、カミさんが起きてきた。
「朝から何?」
「練習」
「何の?」
「夢の」
「また?」
「うん」
カミさんは笑った。「あなた、本当に好きね」
僕も笑った。「うん」
そして、彼女が一言。
「YaYa」
僕は振り返った。「……」
「何?」
「いや」
「何よ」
「今、初めてあなたから聞いた」
カミさんは首を傾げた。「何を?」
僕は笑った。「何でもない」
そしてまたギターを弾いた。

第九十六章 最後の研究
それから半年。僕たちの研究は少しずつ形になっていった。
YaYa現象。夢の共有。記憶。再会。未完の約束。まだ科学的に説明できない。でも、一つだけ分かったことがある。
夢を見た人の多くが、目覚めたあと誰かに電話をするのだ。久しぶりの友人、家族、昔の恋人、昔の先生。
そしてその電話が、人生を少し変える。仲直りする人、会いに行く人、謝る人、ありがとうを言う人。夢は現実を変えていた。
教授が言った。「これが、夢の意味なのかもしれません」
「何です?」
「過去を見ることではなく、未来を変えること」
僕は笑った。「それなら、夢も悪くないですね」
教授は頷いた。

第九十七章 卒業式
研究発表の日、僕は大学の講堂に立った。百年記念式典以来、何十年ぶりか。同じ場所、同じ舞台。でも僕はもう学生ではない。
教授がマイクを持った。「最後に一人、話をしてもらいます」
僕はステージへ上がった。客席を見る。学生、教授、研究者。そして家族。カミさん、娘、佐々木、YaYaのメンバー。みんなこちらを見ている。
僕はマイクを握った。
「私は夢を研究する人間ではありません」
笑いが起きる。
「ただ、夢をたくさん見てきた老人です」
また笑い。
「夢の中で、何度も昔の自分に会いました」
会場が静かになる。
「母にも、友達にも、知らない人にも。そして、未来の自分にも会いました」
僕は一度、客席を見る。
「そこで、一つだけ分かったことがあります。……人生は、終わったところから始まることがある」
会場が静まり返った。
「卒業したから学生時代が終わるわけではない。別れたからその人との時間が終わるわけでもない。夢を諦めたからその夢が消えるわけでもない」
僕は笑った。
「そして、歳を取ったから青春が終わるわけでもない」
割れんばかりの拍手が起きた。

第九十八章 アンコール
僕はステージを降りようとした。そのとき、客席から声がした。
「一曲!」
僕は振り返った。佐々木だった。
「一曲!」
YaYaのメンバーも立ち上がる。「一曲!」
会場から笑い声と拍手が湧き起こる。僕は教授を見た。教授は肩をすくめた。
「研究発表より、こっちのほうが人気ですね」
僕は笑った。「じゃあ、一曲だけ」
ギターを持ち、ステージ中央へ。照明が僕だけを照らす。僕はゆっくり、最初のコードを鳴らした。

第九十九章 YaYa
その瞬間、会場の時計が全部止まった。
僕は気づかなかった。観客も気づいていない。ただ一つの音だけが長く、長く響いている。
僕は目を閉じた。
するとまた、あの坂道。雨。講堂。若い僕、母、先輩、美紀。四人目、未来の僕。そして、まだ会ったことのない人々。全員がそこにいた。
僕は笑った。「また会ったな」
若い僕が笑う。「遅いよ」
「悪かった」
「何年待たせるんだ」
「六十年くらい」
「長すぎる」
二人で笑う。母が言った。
「もう、いいでしょう」
「何が?」
「もう、帰っていい」
僕は母を見る。「うん」
「今度は?」
「現実へ」
「そう」母は笑った。「いってらっしゃい」
僕は頷いた。「行ってきます」
そして、目を開けた。

第百章 帰る場所
講堂。拍手。時計が動き出す。一秒、二秒、三秒。
僕は最後のコードを鳴らした。ジャーン。
大きな拍手が広がる。僕は深く頭を下げた。そしてマイクに一言。
「ありがとうございました」
それだけ言ってステージを降りる。
カミさんが待っている。「良かったよ」
「ありがとう」
娘も笑っている。「お父さん」
「何?」
「今、ちょっと若く見えた」
僕は笑った。「夢の中で青春やってきたからな」
「ふーん」娘が腕を組む。「じゃあ、帰ろう」
「うん」
僕たちは講堂を出た。外は雨だった。
僕は立ち止まり、笑った。「やっぱり」
カミさんが聞く。「何?」
「YaYaの日だ」
「そうなの?」
「そう」
僕は傘を開いた。三人で歩き始める。
僕は振り返らなかった。もう振り返らなくても分かっている。あの人たちは消えない。夢の中にも、記憶の中にも、僕の中にもちゃんといる。
だから今は帰ればいい。家族のいる場所へ、今の人生へ。そしてまた明日、ギターを弾けばいい。一曲、また一曲。いつか最後の一曲が来るまで、僕は弾き続ける。

その夜、眠る前、僕はギターを壁に掛けた。そして小さく言った。
「おやすみ」
返事はない。でも眠りに落ちる直前、遠くで誰かが笑った。
『よっ』
僕は目を閉じたまま笑った。
「よっ」
そして夢の中で、またギターの音がした。
YaYa。

――夢は、過去へ戻るためにあるのではない。
――明日へ進むために、もう一度だけ、大切な人に会うためにある。

そしてその夜も、どこかで誰かが同じ夢を見ていた。
古い講堂。雨。ギター。
そして一人の若者が振り返って言う。
「遅いよ」
その若者に、誰かが答える。
「悪い。ちょっと人生が長引いた」
二人は笑った。そしてまた一曲、始まった。
YaYa。

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第八幕 最後の一曲
第百一章 夢を見なくなった
不思議なことに、それから僕は夢を見なくなった。
正確に言えば、YaYaの夢を見なくなったのだ。
最初の一週間は少し寂しかった。二週間目には気にならなくなり、一か月が経つ頃には完全に忘れていた。
朝起きてギターを弾き、仕事をする。家族と食事をし、孫が生まれたら写真を撮り、テレビを見る。
そんな普通の毎日。それで十分だった。
ある日、娘が言った。
「お父さん」
「何?」
「最近、夢見ないね」
僕は驚いて聞き返した。
「どうして知ってる?」
「顔」
「顔?」
「前は朝起きると、なんか嬉しそうだった」
僕は笑った。
「そうだったか?」
「うん」
「今は?」
「普通」
「普通が一番だろ」
娘は少し笑って、「そうかもね」と言った。

第百二章 ギターを弾かない日
七十五歳になった。
僕はギターを弾く回数が少し減った。指が昔ほど動かない。間違えるし、疲れる。
それでも、たまには弾いた。
カミさんが「無理しないで」と言う。
「分かってる」
「痛くない?」
「大丈夫」
「じゃあ、一曲だけ」
「うん」
一曲。それがいつも二曲になり、三曲になる。
最後は「もう寝るよ」と怒られる。そんな毎日だった。

第百三章 孫
孫が初めて僕のギターを触った。まだ四歳。
小さな手で弦を引っ張る。ベーン、と変な音が鳴った。
僕は笑った。
「上手い」
娘が「甘い」と口を挟む。
「何が?」
「音が出ただけ」
「それで十分」
孫が聞いてくる。
「おじいちゃん」
「ん?」
「これ、どうやって弾くの?」
僕はギターを渡した。
「こう」
一つ、コードを鳴らす。孫が真似をする。
ベーン。また変な音。
僕は笑った。
「もう一回」
孫が弾く。
「もう一回」
また弾く。
僕は思った。昔、自分もこうだったのだろう。
何も知らない、何もできない。でも、音を出したかった。ただそれだけだったのだ。

第百四章 夢の話
孫が聞いた。
「おじいちゃん」
「何?」
「夢って、本当?」
僕は少し考えた。
「何の夢?」
「寝てるときの」
「本当だよ」
「起きたら?」
「消える」
「じゃあ、嘘?」
僕は笑った。
「違う」
「何で?」
「夢の中で感じたことは本当だから」
孫は分からない顔をした。
「難しい」
「そうだな。大人になったら分かる」
「おじいちゃんは? 分かってんの?」
僕は少し考えて答えた。
「まだ勉強中」

第百五章 娘からの電話
その夜、娘から電話があった。
「お父さん」
「どうした?」
「変なことがあった」
僕は少し笑った。
「また夢?」
「うん」
「どんな?」
「大学」
「講堂?」
「そう」
「ギター?」
「そう」
僕は黙った。
「でも、今度は違うの」
「何が?」
「私が舞台に立ってた」
「……」
「客席に、若いお父さんがいた」
僕は目を閉じた。
「それで?」
「私にこう言ったの」
「何て?」
娘が笑った。
「『一曲だけ頼む』って」
僕は思わず笑った。
「やっぱり」
「何が?」
「俺の夢だ」
「違うよ」
「え?」
「私の夢」
「……」
娘は続けた。
「それで、舞台の袖に小さい男の子がいた」
「誰?」
「分からない」
「何してた?」
「ギターを持ってた」
僕は孫の部屋を見る。
「……」
「お父さん?」
「うん」
「どうしたの?」
僕は笑った。
「何でもない」
電話を切ったあと、僕はしばらく孫の寝顔を見ていた。

第百六章 次の夢
その晩、僕は久しぶりに夢を見た。
YaYa。雨。店。
でも、今までとは少し違う。
僕はカウンターに座っている。若い僕はいない。母も先輩も美紀も、未来の僕もいない。誰もいない。僕だけだ。
店の中には静かな音楽が流れている。
僕はバーテンダーに聞いた。
「みんなは?」
「もう帰りました」
「そうか」
「寂しいですか?」
「少し」
「でも」とバーテンダーは笑った。「これからです」
「何が?」
「新しいお客さんが来ます」
ドアを見る。カラン、と音がして開いた。
入ってきたのは僕の孫だった。四歳ではない。十七歳くらいだ。
僕は驚いた。
「大きくなったな」
孫は笑った。
「おじいちゃん」
「何?」
「ギター、借りてもいい?」
僕は笑った。
「もちろん」
孫はギターを持つ。僕のギターだ。少し古く、傷だらけだが、音は出る。
「何を弾く?」
孫が言った。
「YaYa」
僕は笑った。
「知ってるのか?」
「おじいちゃんが教えてくれた」
「そうだったな」
僕は隣に座った。二人でギターを構える。

第百七章 教えるということ
「コードは?」と孫が聞く。
僕は教えた。
「こう」
「こう?」
「違う」
「難しい」
「最初はみんなそうだ」
「おじいちゃんも?」
「もちろん」
「嘘」
「本当」
僕は笑った。
「おじいちゃんは昔、ものすごく下手だった」
「今もじゃん」
僕は絶句した。
「お前、誰に似た?」
孫が笑い、僕も笑った。その笑い声が店いっぱいに広がった。
するとカウンターの奥から声がした。
「いいねえ」
僕は振り返った。桑田さんだった。
僕は思わず笑った。
「まだいるんですか?」
「いるよ」
「いつまで?」
「分からない」
「夢だから?」
「そう」
桑田さんが笑う。
「君もまだやる?」
僕は孫を見る。孫がギターを抱えている。
僕は答えた。
「一曲だけ」
桑田さんが笑う。
「それ、昔から言ってるね」
僕も笑った。

第百八章 最後のバンド
その夜、YaYaに人が集まった。
母、先輩、美紀、四人目、未来の僕、佐々木、教授、娘、そして僕の孫。
時代も年齢も関係ない。みんな同じ場所にいる。
僕はそれを見て初めて分かった。
YaYaは店じゃなかった。夢でもなかった。
人が大切な誰かを思い出した瞬間に、そこにできる場所だったのだ。
だから、どこにでもある。雨の日の路地にも、古い講堂にも、自宅のリビングにも、病院のベッドにも。そして、誰かの心の中にも。
僕はギターを持った。
「最後の一曲です」
孫が聞く。
「最後?」
僕は笑った。
「たぶん」
「たぶん?」
「人生は予定通りにならないからな」
孫も笑った。
そして、演奏が始まった。

第百九章 YaYaの歌
最初の音は僕。二つ目は孫。三つ目は娘。四つ目は未来の僕。五つ目は若い僕。六つ目は母。七つ目はみんな。
一つずつ音を重ねる。やがて音楽が一つになる。
過去、現在、未来、全部が混ざり合う。
僕は歌う。
戻れない日々を惜しむ歌ではない。失ったものを嘆く歌でもない。
今ここにいることを喜ぶ歌。そして、まだ見ぬ明日へ「また会おう」と約束する歌。
最後の音を僕が鳴らす。ジャーン。
音が消える。静寂。誰も喋らない。
やがて拍手が起こる。一人、二人、三人……やがて店中が拍手で満たされた。

第百十章 目覚め
目が覚めた。朝だ。僕は七十五歳。
ベッドの隣にはカミさん。窓の外は雨。
僕は起き上がり、ギターを取った。指が少し痛いが、それでも弾いた。一つ、二つ、三つ。
すると部屋のドアが開いた。孫だった。
「おじいちゃん」
「ん?」
「ギター」
「どうした?」
「教えて」
僕は笑った。
「いいぞ」
孫が隣に座る。僕はゆっくりコードを教えた。ひとつ、ひとつ。
孫の指が弦を押さえる。最初の音は少し外れた。
僕は笑った。
「いい音だ」
「本当?」
「本当」
孫がもう一度弾いた。今度は少しだけきれいな音。
僕は目を閉じた。
どこか遠くで誰かが笑っている。
「よっ」
僕も笑った。
「よっ」

第百十一章 最後の手紙
それから何年か経ち、僕は八十歳になった。
体はずいぶん弱り、ギターもほとんど弾かなくなった。でも孫は弾き続けている。バンドを作ったらしい。名前は「YaYa」。
僕は笑った。
「そのまんまだな」
孫は言った。
「おじいちゃんがそうしろって」
「俺が?」
「夢で」
僕は何も言えなかった。
そして、一枚の手紙を書いた。
孫へ。
人生は長い。思っているよりずっと長い。
でも、振り返ると一瞬だ。
だから焦らなくていい。失敗してもいい。恥ずかしいことをしてもいい。夢を見てもいい。夢を諦めてもいい。そして、また夢を見てもいい。
大切なのは、一人で生きないこと。
誰かと一緒に一曲弾くこと。下手でもいい。途中で間違えてもいい。笑えばいい。
そして最後にはこう言えばいい。
「またな」
それだけでいい。
おじいちゃんより。

第百十二章 雨の夜だけ
その夜、僕は眠った。もう夢は見ないと思った。
でも、夢を見た。
YaYa。店の前。雨。
僕は店に入る。カラン。中には誰もいない。
僕はカウンターに座った。
バーテンダーが言った。
「お疲れ様でした」
僕は笑った。
「ありがとう」
「長かったですね」
「うん」
「楽しかった?」
「うん」
「後悔は?」
僕は少し考えた。
「ある」
「そうですか」
「いっぱいある」
「それでも?」
「それでも、楽しかった」
バーテンダーが頷く。
「では、最後に一曲」
僕はギターを受け取った。もう指は痛くない。音もきれいだった。
僕は弾いた。最初のコード、そしてもう一つ。
誰かが隣で弾いている。見ると、若い僕だった。
「お前か」
「うん」
「久しぶり」
「そうだな」
「元気だった?」
「ずっと」
僕は笑った。
「そうか」
二人でギターを弾く。やがて店のドアが開いた。カラン。
母が入ってきた。
「遅いよ」
僕は笑った。
「悪かった」
「行きましょう」
「どこへ?」
母は店の外を指差す。そこにはあの坂道、そしてその向こうに朝の光があった。
僕はギターを置いた。
「じゃあ、行こうか」
若い僕が言う。
「一緒に?」
「もちろん」
母が笑う。
僕たちは歩き出す。坂道をゆっくり上っていく。
振り返ると、YaYaの店の灯りと看板が見えた。
僕は小さく手を振った。
「またな」
店の中から声が聞こえた。
「また」
そして、目を閉じた。

終章 夢の続き
朝、僕は目を覚まさなかった。
けれど、それを悲しいことだとは思わない。なぜなら夢の中で、ちゃんと帰る場所を見つけたから。
その日の夜、僕の孫はライブハウスに立っていた。ギターを抱えている。観客は満員だ。
ステージの中央には「YaYa」の看板。
孫がマイクに近づく。
「この曲は、僕のおじいちゃんに。昔、夢の中で僕にギターを教えてくれました」
会場が笑う。孫も笑う。
「だから今日は、一曲だけ」
ギターを構え、最初のコードを鳴らす。ジャーン。
その瞬間、客席の一番後ろ、誰もいない席に一人の老人が座っていた。
白いシャツ、ギター、穏やかな笑顔。老人は小さく手を上げた。
「よっ」
孫は一瞬演奏を止めそうになったが、笑って演奏を続けた。
その老人が誰なのか、誰にも分からない。ただ孫だけは知っていた。
(おじいちゃん)
老人は笑った。そして、雨の音がどこからともなく聞こえてきた。ポツ、ポツ、ポツ。
ライブハウスの外で雨が降り始める。その雨の中、小さな看板が灯った。
【YaYa】
その夜、また一人夢を見る。その人は若い頃の自分に会い、言われる。
「遅いよ」
その人は笑って答える。
「悪い。ちょっと人生が長引いた」
そして二人で一曲始める。
人生は一度しかない。だから何度もやり直せる。
矛盾しているようだけれど、それでいい。人は過去に戻れないが、過去を連れて未来へ行くことはできる。
母も、友も、恋も、失敗も、後悔も、笑い声も、あの日の坂道も、講堂も、ギターも、全部自分の中にある。だからいつでも会いに行ける。
雨の夜、眠りについたとき。ふと昔の歌を聴いたとき。誰かに「元気か?」と聞きたくなったとき。
その場所はきっとどこかにある。古い路地の奥、記憶の片隅、夢の入り口、そしてあなた自身の心の中に。
看板にはこう書いてある。
【YaYa】

――夢の中で、もう一度あの頃の自分に会おう。
そしてもし、誰かがあなたの肩を叩いたら振り返ってほしい。
そこにいるのは若い頃のあなたかもしれない。あるいは、まだ会っていない未来のあなたかもしれない。
そのときはきっとこう言うだろう。
「よっ」
だからあなたもこう答えてほしい。
「よっ」
そして一曲始めよう。上手くなくてもいい、間違えてもいい。人生そのものが最初から完璧な演奏ではないのだから。最後の音が消えるまで弾けばいい。
そして最後に笑ってこう言えばいい。
「またな」
それだけで十分だ。
YaYa――人生は、夢の続きを生きるためにある。
後日譚 あの店は、まだある

第一一三章 十年後
あれから十年が経った。僕はもう八十歳を越えている。正確な年齢は最近あまり数えなくなった。
誕生日が来るたびにカミさんが「また一つ増えたね」と言う。
僕は「減っていけばいいのにな」「何が?」「年齢」「馬鹿ね」と答える。いつもそこで終わるそんな会話が好きだった。
娘は相変わらず忙しく、孫はミュージシャンになった。それもあろうことか、僕が昔夢の中で出会ったあのバンド「YaYa」という名前で活動している。
もちろん僕は反対した。
「名前くらい、もっと格好いいのにしろ」
孫は笑った。
「これがいい」
「何で?」
孫は少し考えて答えた。
「また会おうって」
僕は何も言えなかった。

第一一四章 ライブ
その日、孫のライブがあった。会場は小さなライブハウス。
僕は車椅子で入った。隣にカミさんがいる。
「大丈夫? 疲れない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当」
「無理しないでね」
「分かった」
僕は笑った。
ステージには孫とギター、そして若いメンバーたち。昔の僕とはまるで違う。髪型も服装も音楽も何もかも違う。でも、ギターを構える姿だけはなぜか同じだった。
孫がマイクを握る。
「今日は僕の祖父が来ています」
会場から拍手が起こり、僕は恥ずかしくなった。
「余計なこと言うな」と小さく呟くと、カミさんが「嬉しいくせに」「まあな」と笑った。
孫が続けた。
「この曲は、祖父が若い頃に夢の中で出会った人たちへ。そして今ここにいる皆さんへ。――YaYaです」
最初の音が鳴った。

第一一五章 あのコード
そのコードを聞いた瞬間、僕の胸がぎゅっと締めつけられた。
知っている。この音だ。昔、大学の講堂で僕が弾いた音。あの日、一曲だけ桑田さんを手伝ったあの音。
いや、少し違う。同じではない。でも、どこか同じだ。
僕は目を閉じた。すると客席の向こうに若い僕が立っていた。大学生の僕がギターを抱えて笑っている。
(久しぶり)
僕は心の中で言った。若い僕は何も言わず、ただ笑っている。
その隣に母、先輩、美紀、四人目、未来の僕……みんながいる。
僕は思わず笑った。
「まだいたのか」
若い僕が肩をすくめた。
「お前こそ」
「俺はもう八十だぞ」
「知ってる」
「どうして?」
「夢だから」
僕は笑った。
「便利だな」
二人で笑った。

第一一六章 夢の客
ライブが終わり、孫がステージから降りてきた。
「どうだった?」
僕は親指を立てた。
「良かった」
「本当に? どこが?」
僕は少し考えた。
「最後の音」
「最後?」
「ちゃんと誰かに渡した」
孫は不思議そうな顔をした。
「何を?」
「音。昔は俺が受け取った」
「誰から?」
「分からない」
「じゃあ今度は?」
僕は孫を見る。
「お前に渡した」
孫は笑った。
「じゃあ次は僕が誰かに?」
「そう」
「分かった」
孫がギターケースを閉じたとき、ライブハウスのドアが開いた。
一人の青年が入ってきた。二十歳くらい。客でもスタッフでもない。彼は孫のところへ歩いてきた。
「すみません」
「はい?」
「今日の曲……YaYaっていう曲」
「はい」
「僕、夢で聴きました」
僕は振り返った。

第一一七章 知らない青年
青年は僕を見る。
「あなたがおじいさんですか?」
「そうだけど」
「やっぱり」
「何が?」
「夢に出てきました」
僕は苦笑した。
「またか」
孫が驚く。
「知ってる人?」
「知らない」
青年が言う。
「僕はあなたにギターを渡されました」
僕は黙った。
「夢の中で?」
「はい」
「何て言った?」
青年は僕を見る。
「『一曲だけ頼む』って」
僕は思わず吹き出した。
「それ、俺の決まり文句になってるな」
孫も笑い、青年も笑った。
するとカミさんが後ろから言った。
「また始まったわね」
僕は振り返る。
「何が?」
「あなたの夢」
僕は笑った。
「そうだな」
そして青年を見る。
「名前は?」
「悠真です」
「悠真か」
「はい」
「ギター、弾ける?」
「少し」
僕は笑った。
「じゃあ、一曲やるか」
孫が言った。
「今?」
「今」
三人でステージへ戻った。

第一一八章 三世代
ステージの上には僕、孫、そして知らない青年。
八十歳、二十代、そしてその間。まるで時間そのものが並んでいるようだった。
僕はギターを持つ。指が震えるのを孫が支えてくれた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「無理しないで」
「分かってる」
青年が聞く。
「何を弾くんですか?」
僕は答えた。
「分からない」
「え?」
「始めれば分かる」
僕は最初の音を鳴らした。ポーン。
孫が続け、青年が続ける。三つの音が重なった。
その瞬間、会場の照明が一度だけ消えた。真っ暗。そして再び点いた。
客席の一番後ろに一人の男が立っていた。僕は目を疑った。桑田さんだった。若い頃の、あの日の姿だ。
僕は笑った。
「また来たのか」
男は笑って、肩を叩く仕草をした。
「よっ」
僕は小さく返した。
「よっ」

第一一九章 クロコダイル
演奏が終わる。僕は孫と青年を見る。
「クロコダイルって知ってるか?」
青年が首を振り、孫も「名前だけ」と言う。
「そうか」
僕は少し笑った。
「あの頃、俺たちはそこで夢みたいな話をしてた」
「どんな?」
「いつか大きなステージに立とうって」
「立てた?」
僕は考える。
「どうかな」
「テレビにも出たじゃん」と孫が言う。
「そうだな」
「じゃあ、夢は叶った?」
僕は笑った。
「半分」
「半分?」
「夢は叶うと別の夢になる」
孫が考える。
「どういうこと?」
「夢の途中で次の夢が始まるんだ」
青年が小さく頷いた。僕はこちらまで懐かしい気持ちになった。昔の自分もこんな顔をしていたのだろう。

第一二〇章 手紙の続きを
その夜、家に帰る。カミさんは先に眠っていた。
僕は机に向かい、昔孫に書いた手紙の続きを書こうと思った。でも、誰に書けばいいのか分からなかった。孫か、悠真か、これから生まれてくる誰かか、それとも若い頃の自分か。
僕は紙にこう書いた。
君へ。
君が何歳なのか私には分からない。十八歳かもしれない、二十歳かもしれない、六十歳かもしれない。あるいは、まだ生まれていないかもしれない。
でも、もし君がいつか「あの頃に戻りたい」と思ったら、一つだけ覚えておいてほしい。
戻らなくていい。
今いる場所で、あの頃の自分をもう一度生きればいい。
僕はそこでペンを置いた。

第一二一章 最後の夢
その夜、僕は眠り、久しぶりにYaYaへ行った。
店の前、雨、看板の灯り。ドアを開ける。カラン。
店内には誰もいない。僕はカウンターへゆっくり歩いた。
「こんばんは」
声がした。バーテンダーだ。いつもの人。
僕は座った。
「今日は何を飲む?」
「コーヒー」
「お酒じゃないの?」
「もうそんなに飲めない」
バーテンダーが笑う。
「歳を取りましたね」
「お互い様だろ」
「私は歳を取りません」
「そうだったな」
僕は笑った。
コーヒーが出てくる。一口飲むと懐かしい味がした。
「今日は一人ですか?」
「うん」
「寂しい?」
「いや」
僕は店内を見渡した。
「みんなここにいるから」
バーテンダーは何も言わない。僕は笑った。
「不思議だな」
「何が?」
「昔は会えない人に会うためにここへ来た」
「はい」
「今は会わなくてもいるって分かる」
バーテンダーが微笑む。
「それが卒業です」
僕は少し笑った。
「また卒業か」
「あなた、卒業するのが好きですね」
「大学では三年も余計にかかった」
「そうでしたね」
二人で笑った。

第一二二章 店じまい
バーテンダーが店の時計を見る。
「そろそろ」
「閉店?」
「はい」
僕は立ち上がった。
「長い間ありがとう」
「こちらこそ」
「何を?」
「たくさん夢を見てくれて」
僕は笑った。
「俺が見てたのか?」
「あなたが見ていたから店があったんですよ」
僕は少し考えた。
「じゃあ、俺が忘れたら?」
「店も眠ります」
「誰かが思い出したら?」
「また開きます」
僕はドアを見る。
「じゃあ、また開くな」
「ええ」
「誰かが来る?」
「きっと」
「誰?」
バーテンダーが笑った。
「あなたの知らない人です」
僕は笑った。
「そうか」
ドアを開ける。雨。僕は外へ出た。
振り返ると店の灯りと「YaYa」の文字。僕は手を上げる。
「またな」
店の中から小さな声がした。
「また」

第一二三章 朝
目が覚めた。朝だ。静かだった。
僕は自分の手を見る。まだ温かい。
ギターを探すと壁にあった。手を伸ばすが、今日は弾かなかった。
代わりに窓を開けた。朝の風、鳥の声、遠くの車。
カミさんが起きてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「眠れた?」
僕は笑った。
「うん」
「夢は?」
「見た」
「またYaYa?」
「うん」
「何してた?」
僕は窓の外を見る。
「店じまい」
カミさんは笑った。
「そう」
「うん」
「じゃあ、もう行かなくていいの?」
僕は首を振った。
「違う」
「何が?」
「YaYaは俺が行く場所じゃない」
「じゃあ?」
僕は笑った。
「誰かが思い出す場所だ」
カミさんはしばらく黙り、僕の手を握った。
「じゃあ、ここにあるね」
僕はその手を握り返した。
「うん」
窓の外で雨が降り始めた。ポツ、ポツ、ポツ。
僕は笑った。
「今日は開店するかもな」
カミさんも笑った。
「誰が行くの?」
僕は答えなかった。

第一二四章 そして、誰かが
その日の夜、遠い町で一人の青年がギターを抱えていた。
仕事に失敗し、恋人とも別れ、友達にも何となく連絡できない。
「俺の人生、何なんだろう」
そう呟いてベッドに横になる。窓の外は雨。
眠る。夢を見る。
古い坂道、濡れたアスファルト、小さな店。看板には【YaYa】。
青年は立ち止まる。
(こんな店、知らない)
でも、なぜかドアを開けた。カラン。
中には一人の老人がギターを抱えている。老人が振り返る。
「遅かったな」
青年は驚く。
「誰ですか?」
老人は笑う。
「昔の俺」
「……」
「いや」と老人は笑い直した。「君がいつかなる俺だ」
青年には分からない。でも、なぜか怖くない。
老人がギターを差し出す。
「一曲、弾くか?」
青年が聞く。
「何の曲?」
老人は答える。
「まだ誰も知らない曲」
青年がギターを受け取り、弦に指を置く。そして最初の音。ポーン。
老人が笑う。
「いい音だ」
青年も少し笑った。その瞬間、店の看板が明るく灯る。【YaYa】
そして、物語はまた最初に戻る。

エピローグ よっ
もし、いつかあなたが昔の自分を思い出したら。
もし、夜中に突然昔の友達に電話したくなったら。
もし、もう会えない誰かに「元気か?」と聞きたくなったら。
もし、ふと「あの頃は良かったな」と呟いたら。
そのとき雨が降っていたら、少しだけ耳を澄ましてみてほしい。
どこか遠くでギターの音が聞こえるかもしれない。ポーン、と一音。そして誰かの声。
「よっ」
そのときは振り返らなくていい。ただ笑って答えてほしい。
「よっ」
それだけでいい。
人生には取り戻せないものがある。言えなかった言葉、会えなくなった人、戻れない場所、叶わなかった夢。
それでも、人生にはまだ残っているものがある。
今日誰かにありがとうと言うこと。明日誰かに会うこと。下手でもギターを弾くこと。笑うこと、泣くこと。そしてまた一歩歩くこと。
青春は過ぎ去った時間ではない。青春とは、もう一度何かを始めようとする気持ちだ。
だから八十歳でも六十歳でも四十歳でも二十歳でも十歳でも、まだ青春の途中。僕たちはみんな途中なのだ。人生という長い曲の、まだ途中。
だから最後の一音が鳴るまで弾こう、笑おう、誰かと一緒に。
そしてもし最後の夜にYaYaのドアが開いたなら。カラン。
そのときはきっと、誰かが肩を叩いてくれる。
「よっ」
あなたは振り返る。そこにいるのは若い頃の自分かもしれない、母かもしれない、父かもしれない、昔の恋人や親友、あるいは未来の自分やまだ知らない誰かかもしれない。
でもきっと笑っている。そして一言、こう言う。
「待ってたよ」
そのとき、あなたも笑えばいい。
「遅くなった」
そして二人で店に入る。
雨の夜、小さな店、古いギター、コーヒー、笑い声。そして一曲、最後の一曲。
でも本当は最後なんかじゃない。曲が終わればまた次の曲が始まる。夢が終われば朝が来る。朝が来ればまた人生が始まる。
だから大丈夫、遅くない。まだ間に合う。
一曲だけなら、誰でも弾ける。
YaYa――また会おう。また一曲。また明日。
そして雨の向こうで、今日も小さな店の灯りが静かに灯っている。

続く… ような気がする


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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』  



第三幕 夢の続きは現実にある
第四十六章 知らないギター
それから三年が経った。
僕は六十三歳になった。
三年前なら、六十三歳という数字を聞くだけで、かなりの老人だと思っていた。ところが、実際になってみると、たいしたことはない。
ただ、朝、起きたときに「よっこらしょ」と言う回数が増えただけだ。
それから、眼鏡を探す時間も増えた。眼鏡を掛けているのに「眼鏡がない」と言ったこともある。
カミさんには「もう一度、人生やり直してきたら?」と笑われた。
僕は答えた。
「夢の中なら、何度もやってる」
「知らないわよ」
そんな、平凡な毎日だった。
ところが、ある朝。玄関先に、見知らぬ荷物が届いた。
差出人は「クロコダイル」。
僕は固まった。
「……」
カミさんが後ろから覗き込む。
「何?」
「知らない」
「あなた宛てでしょ?」
「うん」
「開けてみれば?」
僕は箱を開けた。中に古いギターが入っていた。
白いボディ。少し傷がある。だが、妙に見覚えがある。
僕は弦に触れた。
ポーン。
音が鳴った。
その瞬間、胸の奥で何かが動いた。

第四十七章 伝票
箱の底に伝票が一枚あった。
宛名は僕。差出人は空欄。
ただ、備考欄に手書きで『遅くなってすまん』と書かれていた。
僕は笑った。
「……またか」
カミさんが聞く。
「誰?」
「分からない」
「分からない人からギター?」
「そう」
「怖くない?」
「少し」
「じゃあ捨てれば?」
僕はギターを見る。
「いや」
「何で?」
「返さないといけない気がする」
「誰に?」
僕は答えられなかった。
その夜、ギターを弾いてみた。
驚いたことに、僕の指が昔覚えたコードを自然に押さえた。
忘れていたはずなのに、身体は覚えている。
人間というのは不思議だ。頭は忘れる。身体は覚えている。
そして、心はもっと長く覚えている。

第三十一部 六十三歳のバンド
第四十八章 メンバー募集
翌週、僕はとんでもないことを始めた。
バンドを作ったのだ。
きっかけは会社の元同僚だった。
「ギター弾けるんですか?」
「昔はな」
「じゃあ、やりましょうよ」
「何を?」
「バンド」
「俺たちが?」
「俺たちが」
集まったのは、六十三歳、六十一歳、六十歳、五十八歳、五十五歳。
平均年齢、六十歳。
若者から見れば完全な老人会である。ところが、本人たちは全員、大学生のつもりだった。
ドラムの男が言う。
「バンド名、どうします?」
僕は答えた。
「YaYa」
全員が黙った。
「何それ?」
「夢で聞いた」
「……いいじゃん」
「何が?」
「意味は分からないけど」
「じゃあ決まり」
こうして、「YaYa」という、日本一平均年齢の高い素人バンドが誕生した。

第四十九章 初練習
初練習はひどかった。
ギターは間違える。ドラムは走る。ベースは入る場所を間違える。キーボードは一曲飛ばす。ボーカルは歌詞を忘れる。
五分後、全員口を揃えて「休憩!」。
僕は笑った。
「桑田さんたちも最初はこんな感じだったんだろうな」
誰かが言った。
「お前、夢の中で会ったんだろ?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、サインもらった?」
「夢だからない」
「役に立たないな」
全員が笑った。
そのとき、スタジオのドアが開いた。
若い女性が顔を出した。
「すみません」
「はい?」
「隣の部屋、予約してたんですけど」
「どうぞ」
女性は中を見て「あ」と言った。僕を見る。
そして、驚いた顔をした。
「……」
「どうしました?」
女性は僕のギターを指差した。
「それ」
「はい?」
「私の祖父のギターです」
僕は固まった。

第三十二部 祖父
第五十章 写真
女性はスマートフォンを取り出し、写真を見せてくれた。
そこには、若い男性がギターを抱えて写っていた。
「祖父です」
僕は写真を見る。そして、言葉を失った。
その男性は、夢の中の「四人目」だった。
「……知ってますか?」
僕は答えられなかった。女性が言う。
「祖父は若い頃、大学でバンドをやっていたそうです」
「大学?」
「はい」
僕が自分の大学名を尋ねると、同じだった。
「いつ頃?」
「一九八〇年前後です」
僕は椅子から立ち上がった。
「ちょっと待って。お祖父さんの名前は?」
女性が答えた名前を聴いて、僕は目を閉じた。
その名前を知っている。
だが、学生名簿にはなかった。写真にも名前がなかった。
なぜなら彼は、大学を卒業する前に突然いなくなったからだった。

第三十三部 幻の四人目
第五十一章 消えた学生
僕たちは彼女の祖父について調べ始めた。
名前、住所、当時の写真、古い新聞、大学の資料。
少しずつ分かってきた。
彼は音楽が好きで、ギターが上手かった。そして卒業前、家族の事情で突然大学を辞めたらしい。それ以上は分からなかった。
しかし、一枚だけ写真があった。大学の記念式典のステージ。
そこに僕がいる。桑田さんがいる。原さんがいる。そして、彼がいる。
僕は写真を見ながら震えた。夢とまったく同じだった。
ただし、一つだけ違う。夢では彼はギターを忘れていたが、現実ではギターを持っていた。
「このギター……」
彼女が頷く。
「祖父が最後まで持っていたものです」
「なぜ僕に?」
「祖父が亡くなる前に私に預けたんです。『いつか、あの人に返してくれ』って」
僕は息を止めた。
「あの人?」
「誰のことか分からなかったんです。でも、写真を見たらあなたのことだと思いました」
僕はギターを見た。
三十年以上眠っていたギター。僕の夢を待っていたギター。

第三十四部 もう一度のステージ
第五十二章 電話
その夜、電話が鳴った。知らない番号。
僕は出た。
『久しぶり』
また、あの声だった。
「……桑田さん?」
『おう』
「今度は何ですか?」
『ライブ』
「え?」
『やるんだろ?』
僕は笑った。
「どうして知ってるんです?」
『夢はつながってるから』
「そんな馬鹿な」
『じゃあ、やめるか?』
「……やります」
『そうこなくちゃ』
電話が切れた。カミさんが言う。
「誰?」
「桑田さん」
「本物?」
「分からない」
「夢?」
「たぶん」
「じゃあ、好きにしたら?」
僕も笑った。

第三十五部 雨の夜
第五十三章 ステージ
ライブ当日は雨だった。不思議なくらい昔と同じ。
会場は小さなライブハウス。
観客は家族、友人、昔の大学仲間、そしてあの女性。彼女は祖父のギターをじっと見ていた。
僕はステージへ上がり、マイクを持った。
「今日は……夢の話をします」
客席が笑う。
「でも、今日は夢から借りてきたギターを弾きます」
彼女が涙を浮かべた。
「このギターの持ち主は、ずっと誰かを待っていたらしい。僕はその人を知りません。でも、夢の中では何度も会いました」
そして、ギターを鳴らす。
ジャーン。
音が響いたその瞬間、会場の照明が一度だけ消えた。

第五十四章 四人
真っ暗な中、誰かが笑った。
「よっ」
僕はその声を聞いた。
「……先輩?」
別の声。
「遅いぞ」
僕は笑った。
「誰がですか」
「お前だよ」
「何年待たせるんだ」
僕はギターを握った。
暗闇の中、四人の気配がする。僕、若い僕、母、そして四人目。
僕は言った。
「今日は一曲だけですよ」
誰かが笑う。
「いつも一曲だな」
僕は答える。
「一曲がいいんです。一曲なら、終わったあと、また会える気がするから」
照明が戻る。
客席には誰もいない場所が一つだけ空いており、そこに古いギターケースが置かれていた。

第三十六部 YaYa
第五十五章 最後の客
ライブが終わり、観客が帰っていく。
最後まで残っていたのは、あの女性だった。
「ありがとうございました」
彼女が言う。
僕はギターを渡そうとした。
「これは……」
「いえ」
彼女は首を振る。
「祖父があなたにって。私もそう思います。このギターは、もう帰る場所が決まってるんじゃないですか?」
僕はギターを見た。
その瞬間、弦が一度だけ鳴った。
ポーン。
僕は笑った。
「そうですね」
「何か?」
「いや、また一曲、弾けそうだなと思って」
彼女も笑った。
最終章 六十三歳の青春
帰宅したのは午前一時。雨はまだ降っていた。
僕はギターを壁に掛けた。
カミさんが眠っている。僕は一人、窓を開けた。
渋谷ではない。昔の大学でもない。ただの、今の東京。
でも、どこかでギターが鳴った。
僕は笑った。
「またか」
そして、小さく呟いた。
「YaYa」
すると、背後から声がした。
「よっ」
僕は振り返らなかった。もう、怖くない。
「よっ」と返事をする。
「元気か?」
「まあまあ」
「幸せか?」
僕は少し考えた。
「うん」
「ならいい」
声が消えた。
僕は窓の外を見る。雨が静かに降っている。
その向こうに、若い僕がいる。ギターを抱えている。
その隣に、母、先輩、美紀、そして知らない四人目。
みんなが僕を見ている。
僕は手を振った。若い僕も手を振る。
そして四人は、ゆっくり坂道を上っていく。
僕は追わない。今度こそ、追わない。
僕には今の人生がある。家族がいる。友達がいる。ギターがある。
そして、まだ一曲残っている。
僕はギターを手に取り、少しだけ弾く。
下手だ。昔よりもっと下手だ。でも、楽しい。それでいい。
人生は、上手に弾くためにあるんじゃない。
誰かと一緒に、音を出すためにある。
僕は最後のコードを鳴らした。
ジャーン。
音が消える。そして静寂の中、誰かが言った。
『またな』
僕は笑った。
「また」
その言葉を僕は知っている。それがさよならではないことを。
YaYa。
それは、また会うための合言葉なのだ。
そして僕たちの青春は、今日もどこかで鳴っている。
一曲、また一曲。終わることなく。
ずっと、ずっと。
YaYa。
――完――

ーーーーーーーーーー

第四幕 YaYaを知っている人
第五十六章 娘の夢
翌朝。娘から電話があった。
「お父さん」
「どうした?」
「変な夢を見た」
僕は黙った。
「どんな夢?」
娘は少し笑った。
「知らない大学の坂道を歩いてた」
僕の手が止まった。
「……それで?」
「古い講堂があった」
「うん」
「そこに若い男の人がいて」
「誰?」
「分からない」
娘は言った。
「でも、お父さんにそっくりだった」
僕は、椅子から立ち上がった。
「何をしてた?」
「ギターを弾いてた」
「……」
「それでね」
娘が笑う。
「その人が私に言ったの」
「何て?」
「『お父さんをよろしく』って」
僕は、言葉が出なかった。娘は続ける。
「意味分からないでしょ?」
「うん」
「でも」
少し間があって。
「最後に。『YaYa』って言ってた」
僕は、電話を握ったまま、何も言えなかった。

第五十七章 カミさんの夢
その日の夜。カミさんが言った。
「私も変な夢を見た」
「……何?」
「いや、あなたと同じ」
僕は笑えなかった。
「どんな夢?」
「大学みたいな場所」
「講堂?」
「そう」
「ギター?」
「そう」
「……何で知ってるの?」
僕は観念して、全部話した。
夢のこと。母のこと。先輩のこと。桑田さんのこと。四人目のギタリストのこと。
カミさんは黙って聞いていた。そして、最後に笑った。
「馬鹿ね」
「何が?」
「一人で青春やり直してると思ったら、家族まで巻き込んでるじゃない」
僕は苦笑した。
「ごめん」
「別に」
カミさんはお茶を飲んだ。
「でも」
「何?」
「夢の中で、あなたのお母さんに会った」
僕は顔を上げた。
「何て言ってた?」
カミさんは少し笑った。
「あなたをよろしくって」
「……」
「それから」
「うん」
「『この人、昔から鈍いから』って」
僕は笑った。
「母さんらしい」
カミさんも笑った。

第五十八章 町内会
数日後、町内会の集まりがあった。僕は何となく出席した。
すると、隣に座った老人が突然、「YaYa」と言った。
僕は振り向いた。
「……」
老人もこちらを見る。
「何ですか?」
「いや」
老人は笑った。
「知ってるかなと思って」
「何を?」
「夢」
僕は背筋が寒くなった。
「あなたも?」
「見るよ」
「どんな?」
「若い頃の自分」
僕は黙った。老人は続けた。
「俺の場合は、昭和四十年代の銀座だ」
「へえ」
「毎晩、同じ喫茶店に行く」
「そこで何を?」
「昔の女房が待ってる」
「……」
「もう死んで三十年になる」
僕は何も言えなかった。老人は笑った。
「夢ってのは、会いたい奴に会えるんだな」
「そうですね」
「でも」
老人は少し遠くを見る。
「一つだけおかしいことがある」
「何です?」
老人は小さく笑った。
「毎回、店を出るとき、誰かが言うんだ」
「何て?」
「YaYa」
僕はその言葉を聞いて確信した。
これは、僕だけの夢ではない。

第五十九章 夢の掲示板
その夜。僕はインターネットで「YaYa 夢」と検索した。
何もない。
「YaYa 夢 大学」
何もない。
「YaYa 不思議な夢」
何もない。
諦めようとしたそのとき、古い掲示板を見つけた。
タイトル:同じ夢を見る人いますか?
投稿日時:二〇〇一年
最初の書き込み。
『雨の夜、古い店に入る夢を見る。』
次。
『店の名前は?』
返信。
『YaYa。』
僕は画面を見つめた。さらに投稿を読む。
『店の中に、若い頃の自分がいる。ギターを持っている。店を出ると、人生が少し変わっている。』
そして最後の投稿。
投稿日時:二〇一〇年
『もう一度、あの店に行きたい。』
その後、書き込みはない。僕はページを閉じようとした。
その瞬間、新しい投稿があった。
投稿日時:今日
内容:今夜、YaYaに行きます。
僕は時計を見た。午前一時。
その投稿者の名前。
KATO
僕は息を呑んだ。

第六十章 KATO
翌朝、その掲示板をもう一度開いた。
投稿は消えていた。
「……」
検索しても出てこない。夢だったのか。僕はそう思った。
ところが午後、知らない男から電話があった。
「カトウさんですか?」
「はい」
「私、あなたと同じ夢を見ています」
僕は黙った。
「どこに住んでるんです?」
「東京です」
「年齢は?」
「六十」
「……」
「何か?」
「僕より三歳若い」
男は笑った。
「じゃあ、先輩ですね」
僕も笑った。
「やめてくださいよ」
男は言った。
「今夜、会いませんか?」
「どこで?」
「渋谷」
「また?」
「はい」
「クロコダイル?」
「違います」
男が言った。
「YaYaです」
僕はしばらく黙った。
「そんな店、ありませんよ」
「あります」
「どこに?」
「雨が降ったら分かります」
電話が切れた。

第六十一章 渋谷の雨
夜、雨が降った。
僕は渋谷へ向かった。駅を出る。昔と同じ坂道。だが景色は違う。ビル、看板、外国人、若者、スマートフォン。
僕は笑った。
「俺たちの時代とは違うな」
そのとき、雨が強くなった。僕はいっぽんの路地へ入った。
そこに小さな店があった。
看板:YaYa
僕は立ち止まった。ドアを開ける。
カラン。
店内には男が一人。六十歳くらい。ギターを抱えている。男は僕を見る。
「遅かったですね」
「あなたが?」
「はい」
「名前は?」
男は笑った。
「KATOです」
僕は笑った。
「僕も」
「知ってます」
「……」
男は一枚の写真を出した。そこには若い僕、若い男、そして四人。
僕は息を止めた。
「これ」
「私の父です」
「……」
「父は、あなたのことを知っていました」
僕は写真を見る。
「どうして?」
男は静かに言った。
「あなたと一緒に、あの一曲を弾いたからです」

第六十二章 五人目
僕は椅子に座った。
「待ってください」
「はい」
「僕の夢では四人でした」
「そうですね」
「でも、あなたの父親がいたなら五人になる」
男は笑った。
「実は」
「何です?」
「もう一人います」
「……」
「六人目も」
僕は頭を抱えた。
「いったい何人いるんです?」
男は笑った。
「分かりません」
「何それ」
「夢を見る人が増えているんです」
「どうして?」
男はギターを鳴らした。
ポーン。
「誰かが夢を思い出すたびに、新しい人が入ってくる」
「何の中へ?」
男は店内を見回した。
「YaYaへ」
その瞬間、ドアが開いた。
カラン。
一人の若い女性が入ってきた。僕はその顔を見て驚いた。僕の娘だった。
「……」
「お父さん?」
僕は立ち上がった。
「どうしてここに?」
娘はきょとんとしている。
「夢を見たから」
僕は笑った。
「やっぱりな」
娘は言った。
「何が?」
僕は店の奥を見る。
そこには若い僕、母、美紀、先輩、四人目、そして知らない人たち。みんながこちらを見ている。
僕は小さく息を吐いた。
「どうやら」
ギターを手に取る。
「今夜は一曲じゃ済まないらしい」
誰かが笑った。
「よっ」
僕も笑った。
「よっ」
そして、店の奥から最初のコードが鳴った。

第六十三章 夢のバンド
その夜、僕たちは一晩中演奏した。
誰も曲名を知らない。楽譜もない。でも全員、なぜか知っている。
昔の歌、知らない歌、まだ存在しない歌、これから生まれる歌。全部一つになった。
娘が歌う。僕がギターを弾く。若い僕が隣で笑う。母が手拍子をする。美紀がピアノを弾く。四人目の男がベースを弾く。
桑田さんがどこからともなく現れて、「いいねえ」と笑う。
原さんが「もうちょっとテンポ落として」と言う。
僕は笑った。
「夢なのに注文が細かいな」
原さんが言う。
「夢だからよ」
全員が笑った。
そして、最後の曲。
タイトルは「YaYa」。
誰がつけたのか分からない。歌詞もメロディも最初から知っていた。
僕はギターを鳴らした。そして歌った。
過去へ戻る歌ではない。未来へ進む歌でもない。ただ、今ここにいることを喜ぶ歌。一番大切な人に「また会おう」と伝える歌。
最後の音が、静かに消えた。

第六十四章 朝
目が覚めた。自宅だった。
朝、カミさんが「おはよう」と言った。僕は「おはよう」と答えた。
娘からメッセージが来ていた。
『昨夜、変な夢を見た。』
僕は笑った。返信する。
『YaYa?』
すぐに返事が来る。
『うん。』
僕はスマートフォンを置いた。
カミさんが「何?」と聞く。
僕は笑った。
「秘密」
「何それ」
僕は窓を開けた。雨は止んでいた。朝の東京。いつもの景色、いつもの人生。でも、どこか違う。
僕はギターを手に取った。一つ、コードを鳴らす。
するとスマートフォンが震えた。知らない番号。メッセージ。
『今夜、YaYaで。』
僕は笑った。そしてカミさんに言った。
「今夜、ちょっと出かけていい?」
「どこへ?」
僕は少し考えて答えた。
「昔の友達に会いに」
カミさんは笑った。
「いってらっしゃい」
僕は靴を履いた。玄関を開ける。外は晴れている。
僕は空を見上げた。
「雨じゃないと店は開かないんだよな」
そう言った瞬間、一滴、雨が落ちてきた。僕の頬に。
ポツン。
僕は笑った。
「……やっぱり」
そして歩き出した。
六十三歳。
もう一度、青春の続きを始めるために。
YaYa
――夢は、忘れた頃に続きを始める。――


ーーーーーーーーーー

第五幕 未来から来た客
第六十五章 雨のない夜
その夜、僕は渋谷へ向かった。不思議なことに雨は降っていなかった。
YaYaは雨の夜だけ開く店だ。だから今夜は開いていない、そう思った。ところが、あの路地に入ると店があった。看板にはいつもの文字、「YaYa」。
僕は立ち止まった。
「……雨、降ってないぞ」
すると、店のドアが開いた。カラン。中から声がした。
「今夜は特別」
僕は恐る恐る入った。店内には誰もいない。いや、一人だけカウンターに男が座っていた。後ろ姿。六十代、白髪。僕はその男を見て、妙な既視感を覚えた。
「こんばんは」
男が振り返った。僕は息を呑んだ。僕だった。今の僕ではない。少しだけ歳を取った僕。七十代くらい。
「……」
男は笑った。
「やっと来たな」
「あなたは?」
「お前だよ」
「僕?」
「そう」
僕は椅子に座った。
「何年後?」
男は考えた。
「十五年後」
「僕は、そんなに長生きするの?」
「予定では」
「予定?」
「人生は、予定通りにはいかないからな」
僕は笑った。
「それもそうだ」
未来の僕はコーヒーを飲んだ。
「うまいぞ」
「同じ味?」
「少し苦い」
「今と同じじゃないか」
二人で笑った。

第六十六章 未来の僕
「何しに来た?」未来の僕が聞いた。
「呼ばれたから」
「誰に?」
「分からない」
「そうだろうな」
未来の僕は笑った。「お前は、いつも分からないまま来る」
「悪かったな」
「いや、それでいい」
「どうして?」
未来の僕は窓の外を見た。「分かっていたら、人生なんて面白くない」
僕は黙った。
「十五年後、何が起きる?」
「知りたいか?」
「少し」
「家族は?」
「いる」
「妻は?」
「いる」
「娘は?」
「いる」
「幸せ?」
「うん」
未来の僕は笑った。「それなら、もう十分だ」
「仕事は?」
「辞めてる」
「ギターは?」
「まだ弾いてる」
「下手?」
「相変わらず」
僕は笑った。「安心した」
未来の僕も笑った。
「でもな」
「何?」
「一つだけ、お前に言っておきたい」
「うん」
「夢は、歳を取るほど現実に近くなる」
「どういう意味?」
「若い頃は、夢と現実を分けていた」
「うん」
「歳を取ると、その境目がだんだん消えていく」
僕は黙って聞いた。

第六十七章 なくなるもの
「十五年後、何がなくなる?」僕が聞く。
未来の僕は少し考えた。
「友達」
「……」
「親戚」
「……」
「知っている店」
「……」
「街」
「……」
「自分の記憶」
僕は黙った。
「怖い?」
「少し」
「そうだろうな」
未来の僕は笑った。「でも、代わりに増えるものもある」
「何?」
「ありがとう」
「?」
「若い頃は言わなかっただろ?」
「まあ」
「歳を取ると、言いたくなる」
未来の僕はコーヒーを飲んだ。
「ありがとう」
「誰に?」
「みんなに」
「母にも?」
「もちろん」
「美紀にも?」
「もちろん」
「先輩にも?」
「もちろん」
「カミさんには?」
未来の僕は笑った。「一番言う」
僕は少し笑った。

第六十八章 未来の妻
そのとき、店のドアが開いた。カラン。女性が入ってきた。僕は目を見開いた。
彼女は未来の僕の隣に座り、僕を見る。
「こんにちは」
僕は声を失った。彼女は今のカミさんだった。ただ、少し歳を取っている。
「……」
僕は未来の僕を見る。「本物?」
「本物」
妻が笑った。「何してるの?」
「昔の俺と話してる」
「変なの」
「夢だから」
「そうね」
僕は二人を見ていた。未来の僕が妻の手を握る。その光景を見て、僕はなぜか泣きそうになった。
「何?」妻が聞く。
「いや」僕は笑った。「十五年後も仲良くしてるんだな」
未来の妻は少し考えて、「仲良くしたり、喧嘩したり」
「今と同じ?」
「今と同じ」
僕は笑った。「それが一番いい」
未来の僕が言う。「そうだろ?」

第六十九章 最後のメンバー
突然、店の奥からギターの音がした。ポロン。
僕は振り返る。若い僕、母、美紀、先輩、四人目、娘。そして未来の僕。みんなが楽器を持っている。
僕は笑った。「またバンド?」
若い僕が言った。「当たり前だろ」
「何を弾く?」
「決まってる」
「YaYa?」
「そう」
僕はギターを受け取った。
未来の僕が言う。「お前が最後の音を出せ」
「僕が?」
「そう」
「どうして?」
「最初の音は、若いお前が出した」
僕は若い自分を見る。
「最後は?」
未来の僕が笑う。「今のお前だ」
僕はギターを構えた。みんなが静かになる。

第七十章 一曲
僕は最初のコードを鳴らした。
若い僕が二つ目、美紀が三つ目、母が四つ目、先輩が五つ目、四人目が六つ目、娘が七つ目、未来の妻が八つ目。そして未来の僕が最後のコード。
音が重なった。若い僕、今の僕、未来の僕。三人の時間が一つになった。
僕は思った。過去も現在も未来も、本当は同じ一日なのかもしれない。僕たちはそれぞれの時間から少しずつ音を出しているだけ。
そして、最後の音が消えた。

第七十一章 未来からの手紙
目が覚めた。朝。
僕は机の上に一枚の紙を見つけた。夢の中で未来の僕が書いていたものだった。
あり得ない。そんなことは分かっている。でも確かにそこにあった。便箋、文字、僕の字。
そこにはこう書いてあった。
六十三歳の俺へ。
心配するな。十五年後もギターは下手だ。
僕は笑った。その下、続きがあった。
でも、まだ弾いている。
僕は少し胸が熱くなった。さらに最後の一行。
だから、お前も弾け。
僕はギターを取った。朝の静かな部屋、僕は一曲弾いた。

第七十二章 妻の質問
朝食の時、カミさんが聞いた。「また夢?」
「うん」
「今度は?」
「未来の俺」
「何歳?」
「七十八」
「へえ」
「お前も出てきた」
「私?」
「うん」
「何してた?」
「喧嘩してた」
カミさんが睨む。「夢の中でも?」
「いや、現実でも」
「そう」
二人で笑った。
カミさんが味噌汁をよそう。「で、七十八歳の私はどんなだった?」
僕は少し考えた。「今と同じ」
「何それ」
「きれいだった」
「急に何?」
「夢だから」
「便利ね」
僕たちは笑った。

第七十三章 最後の雨
その日の夕方、空が曇り雨が降り始める。
僕は傘を持たずに外へ出た。雨に濡れる。昔なら嫌だった。今は少し気持ちいい。
駅まで歩くと、あの路地にYaYaの店がある。僕はドアを開けた。カラン。
中には誰もいない。カウンターに一枚の紙があった。僕は手に取った。
次は、お前が夢を見せる番だ。
僕は笑った。「誰に?」
すると店の奥から若い声がした。「俺たちに」
僕は振り返った。そこには若い僕がいた。ギターを抱えて笑っている。
「何を見せる?」僕が聞く。
若い僕は肩をすくめた。「知らない」
「お前が知らないのか?」
「知らない」
二人で笑った。
僕はギターを持った。そして二人で店を出た。
雨の渋谷、人が行き交う。若い僕が走り出す。「待て!」僕も走る。六十三歳、息が切れる。「おい!」
若い僕が笑う。「遅いぞ!」
「うるさい!」僕も笑う。
坂道を二人で走る。昔の坂、今の坂、同じ坂。そして坂の上から朝日が差した。

終章 YaYa
僕は目を覚ました。ベッドの中。隣でカミさんが寝ている。
時計は午前六時。僕はしばらく天井を見た。そして笑った。
夢だった。全部、夢だった。
でも不思議なことに悲しくない。僕はベッドから起き上がり窓を開ける。
朝の空気、鳥の声、車の音、いつもの世界。
僕はギターを取り、弦を鳴らす。ポーン。
少し音が外れた。僕は笑う。「まあいいか」
そして思う。
青春は若い人だけのものではない。六十三歳にも、七十八歳にも、そして死んだ人にも、夢の中なら青春はある。
だから人は何度でもあの頃へ戻れる。ただし戻るためではない。今をも一度好きになるために。
僕は窓の外を見る。雨はもう止んでいる。
でもどこかで誰かがギターを弾いている。その音に合わせるように僕も弾く。
一つ、二つ、三つ。
そして最後に小さく言う。「YaYa」
誰かが遠くで答えた。「またな」
僕は笑った。「また」
人生は一度きり。でも青春は何度でも始められる。夢の中でも、現実の中でも、そして誰かの心の中でも。
だから今日も一曲弾こう。下手でもいい、途中で間違えてもいい、最後まで弾けばいい。
その先に、また誰かが待っている。「よっ」と肩を叩いてくれる。そんな人生なら悪くない。
僕はギターを抱えた。そして朝の街へ歩き出した。
YaYa。
――また会おう。
――また一曲。
――そして、また明日。


ーーーーーーーーーー


第六幕 会ったことのない友達
第七十四章 変なメール
そのメールが届いたのは、土曜日の朝だった。
件名は「YaYaについて」。僕は嫌な予感がした。
最近、「YaYa」という文字を見ると何でも怪しく感じる。
メールを開く。本文は短かった。
『はじめまして。突然のメールで申し訳ありません。
私は北海道に住んでいます。あなたとは一度も会ったことがありません。
でも、昨夜、夢の中で会いました』
僕はコーヒーを飲む手を止めた。続きを読む。
『私は夢の中で、古い大学の講堂にいました。そこにあなたがいました。
あなたはギターを弾いていました。そして、私にこう言いました。
「遅刻するなよ」
でも、私は何に遅刻するのか分かりません』
僕は思わず笑った。
「何だそれ」
『もし同じ夢を見ているのであれば、一度お話しできませんか。
追伸。私もギターを弾きます。ただし、かなり下手です』
僕は返信を書こうとした。しかしその前に、カミさんが後ろから覗き込んだ。
「また?」
「うん」
「今度は北海道?」
「うん」
「そのうち世界一周するわね」
「夢で?」
「あなたの場合、ありそう」
僕たちは笑った。

第七十五章 北海道の男
男の名前は佐々木、六十四歳。札幌在住。
会社を定年退職して、今は暇を持て余しているらしい。電話で話した。
「本当に夢に出てきました?」
「はい」
「僕が?」
「そうです」
「何してました?」
「講堂でギター」
「やっぱり」
「それから、あなたの隣に若い男がいました」
僕は黙った。
「誰でした?」
「分かりません」
「顔は?」
「あなたに似ていました」
「若い僕?」
「たぶん」
僕は椅子にもたれた。
「あなた、その夢の中で誰かから何か言われませんでした?」
「言われました」
「何て?」
佐々木は少し笑った。
「『バンドやろうぜ』」
僕は吹き出した。
「誰が?」
「あなたです」
「俺かよ」
「はい」
僕は笑いながら頭を抱えた。
どうやら夢の中の僕は、六十三歳になってもまだバンドを組みたがっているらしい。

第七十六章 老人会ではない
一週間後、佐々木が東京へ来た。
僕たちは渋谷で会った。写真では見ていたが、実際に会うのは初めてだ。なのに顔を合わせた瞬間、二人とも笑ってしまった。
「初めまして」
「初めまして」
「……なんか変ですね」
「何が?」
「初めて会った気がしない」
僕も同じだった。
「夢で会ってるからかな」
「かもしれません」
僕たちは近くの喫茶店に入った。
音楽、大学、仕事、家族、人生。気がつけば三時間が経っていた。
佐々木が言った。
「これ、持ってきました」
ケースを開ける。ギターだった。僕は笑った。
「本当に持ってきたんだ」
「夢の続きですから」
「なるほど」
佐々木が真顔で言う。
「バンド、やりませんか?」
僕はコーヒーを吹きそうになった。
「またか」
「何が?」
「夢でも同じこと言われた」
佐々木は笑った。
「じゃあ運命ですね」
「大げさだな」
「人生、もう残り時間も少ないですよ」
「おい」
「だったら、やりたいことやりましょう」
僕は黙った。そして笑った。
「分かった」
こうして、また一人メンバーが増えた。

第七十七章 平均年齢六十二歳
YaYaのメンバーは、気がつけば六人になっていた。
ギター:僕
ギター:佐々木
ベース:六十一歳
ドラム:五十八歳
キーボード:五十五歳
ボーカル:六十歳
平均年齢は六十歳を超えている。
若いスタッフから「シニアバンドですね」と言われ、僕たちは全員で否定した。
「違う」
「何が?」
「青春バンドだ」
「……」
スタッフは苦笑した。
「まあ、どちらでもいいですけど」
練習開始三十分で全員息切れ。
「休憩!」
「早い!」
「無理するな!」
「年寄り扱いするな!」
「お前が一番休みたがってる!」
笑い声が響く。楽しかった。演奏は相変わらず下手だった。

第七十八章 娘の提案
娘がライブを見に来た。終演後、声をかけてくる。
「お父さん」
「何?」
「面白い。みんな下手なのに楽しそう」
「下手は余計だ」
娘は笑った。
「でも、それがいいんじゃない?」
僕は少し考えた。
「そうかな」
「うん」
娘はスマートフォンを見せてきた。そこには僕たちの演奏動画が投稿されていた。
再生回数、一万。
「何だこれ?」
「私が投稿した」
「勝手に?」
「うん」
「消してくれ」
「嫌」
翌日、再生回数は三万。その翌日は十万。一週間後には百万人になっていた。
僕たちは全員で固まった。

第七十九章 老人バンド、ブレイク
テレビ局から電話が来た。
「出演していただけませんか?」
「何の番組ですか?」
「音楽番組です」
「いや、僕たち素人ですよ」
「それがいいんです」
「平均年齢六十歳ですよ」
「それがいいんです」
「全員、演奏が下手です」
「そこもいいんです」
僕はメンバーを見る。全員ニヤニヤしている。
「どうする?」
「出よう」とベース。
「怖いけど出よう」とドラム。
佐々木がギターを抱える。「夢の続きです」
僕は笑った。
「分かった」
出演決定。

第八十章 テレビ局
テレビ局では若いスタッフが走り回っていた。
「五分前!」「三分前!」「スタンバイ!」
僕たちは控室で固まっていた。
「緊張するな」
「する」
「手が震える」
「俺も」
佐々木が僕を見る。
「大学の講堂より緊張しますね」
「当たり前だ」
「でも」と佐々木が笑った。「一曲だけなら」
僕も笑った。
「そうだな」
そのとき、控室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは番組のプロデューサー。そして、その後ろに一人の男性。
僕はその人を見た瞬間、立ち上がった。
桑田さんだった。

第八十一章 また会ったな
「久しぶり」と桑田さんが笑う。
僕は言葉が出ない。
「夢ですか?」
「今日は現実」と桑田さんは笑った。「テレビの企画でね」
僕は笑った。
「驚かせないでくださいよ」
「悪い悪い」
桑田さんは僕の肩を叩く。「よっ」
僕も笑って「よっ」と返した。
桑田さんはメンバーを見る。
「YaYa?」
「はい」
「いい名前だね」
僕は聞いた。
「どうして知ってるんです?」
桑田さんは少し考えた。
「夢で聞いた」
僕たちは顔を見合わせた。桑田さんが笑う。
「夢って、案外みんなで共有してるのかもね」
そして、本番の時間になった。

第八十二章 一曲だけ
ステージ。照明、観客、ものすごい数のカメラ。
僕はギターを握った。手が震える。
佐々木が小声で言った。
「大丈夫」
「何が?」
「夢と同じ」
「そうだな」
ドラムのカウント。一、二、三、四。
音が始まった。
僕たちは演奏した。下手だった。少し音も外れた。
でも観客が笑っている。楽しそうに手を叩いている。
そして最後、僕は一つだけコードを鳴らした。ジャーン。
大きな拍手。僕が頭を下げる。
その瞬間、客席の一番後ろに母が見えた。

第八十三章 母
僕は息を止めた。
母は若い頃の姿だった。笑っている。
その隣に、先輩、美紀、四人目の若い僕、そして未来の僕。みんな手を叩いている。
僕は涙が出そうになった。でも泣かなかった。笑った。
そして小さく口を動かした。
「ありがとう」
母が頷いた。
次の瞬間、照明が変わった。客席は普通の観客。誰もいない。
幻だった。夢だった。
でも、それでいいと僕は思った。

第八十四章 アンコール
司会者がステージへ出てきた。
「素晴らしかったですね!」
僕たちは苦笑した。
「いや、素晴らしくは……」
「アンコール!」と客席から声が上がる。
「アンコール!」
僕たちは顔を見合わせる。佐々木が言った。
「どうします?」
僕は笑った。
「一曲だけ」
全員が笑う。アンコール。
僕はギターを構え、言った。
「この曲は、昔の僕たちへ。そして、今の僕たちへ。最後に、これからの僕たちへ」
観客が静かになる。ギターを鳴らす。
そして、YaYa。
僕たちはもう一度、演奏した。

第八十五章 帰り道
放送終了後、僕たちは局を出た。
夜の東京。雨。
佐々木が笑った。
「やっぱり」
「何?」
「YaYaは雨の日ですね」
僕は空を見る。
「そうだな」
「次はどこへ?」
「知らない」
「夢?」
「たぶん」
僕たちは歩いた。六人全員が六十代。
でもその後ろ姿は、どう見ても若者だった。
駅へ向かう坂道で、僕はふと後ろを振り返った。
誰もいない。でも確かに聞こえた。
「よっ」
僕は笑った。
「よっ」
そして歩き出す。
青春は終わっていなかった。ただ形を変えただけだった。
大学生だった僕、会社員だった僕、夫になった僕、父親になった僕、そして六十三歳になった僕。
全部同じ人間。全部僕だった。
だから過去の自分を恥ずかしがる必要なんてない。あの頃の自分がいたから、今の自分がいる。
夢の中で何度も会った若い僕は、もう別人ではない。僕自身なのだ。
そして未来の僕も、きっと今の僕の続きを生きている。
だから僕は、今日もギターを弾く。
上手くなくていい。格好良くなくていい。ただ、誰かと一緒に音を出せばいい。
その音の向こうに、また誰かがいるから。
YaYa。
――青春は、年齢では終わらない。
――思い出した瞬間に、もう一度始まる。
そしてその夜、世界のどこかで、また一人同じ夢を見始めた。
古い講堂。
雨。
ギター。
そして、誰かの声。
「よっ」
物語は、まだ終わらない。

続く…


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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』 



第二幕 忘れた名前
第二十七章 写真の裏側
夢を見なくなってから、二週間が過ぎた。
僕は少し安心していた。同時に、少し寂しかった。
夢というものは妙なものだ。見ているときには「早く終わってくれ」と思うくせに、終わってしまうと「もう一度見たい」と思う。人間というのは、つくづく勝手な生き物だ。
そんなある日、押し入れの整理をしていた。カミさんに「いい加減、昔の物を捨てたら?」と言われたからだ。段ボール箱を一つずつ開ける。卒業アルバム、古い手帳、大学時代の写真、映画の半券、喫茶店のマッチ箱。
そして、一枚の写真。僕は手を止めた。
そこには、大学の前で笑っている僕が写っていた。若い。髪が多い。痩せている。今の僕から見れば、別人だった。その隣に、先輩がいる。僕は眉をひそめた。
「……」
写真の裏を見る。そこには、手書きでこう書いてあった。
一九八〇年八月十一日
その下に、もう一行。
YaYaの夜。
僕は息を止めた。「何だ、これ……」
僕は大学の記念式典の夢を思い出した。桑田さん。クロコダイル。一曲だけのサポート。そして、先輩。全部が、この日付に重なっていた。
僕は写真を裏返した。さらに、小さな文字がある。
四人で行った。
四人。僕、先輩、美紀。そして、もう一人。
名前が消されていた。黒いインクで何度も塗り潰されている。
僕は背筋が寒くなった。「誰だ?」
記憶を探したが、何も出てこない。だが、写真の隅、僕の手の後ろにギターケースが写っていた。

第二十八章 大学へ
翌週、僕は母校を訪ねた。創立記念で建て替えられた校舎は、すっかり新しくなっていた。昔の講堂もない。坂道だけが残っている。
僕はゆっくり歩いた。この坂を何度も歩いただろう。授業に遅れて走った。友達とふざけた。美紀と歩いた。先輩と酒を飲んだ。そして、卒業した。いや、卒業できた。
三年も留年したのだから、普通ならとっくに諦めていた。それでも、なぜか卒業できた。
僕は事務室を訪ねた。「卒業生なんですが」
職員が顔を上げる。「何かお探しですか?」
「昔の学生名簿を見たいんです」
「何年度ですか?」
僕は答えた。すると、職員が少し困った顔をした。
「古い資料ですね」
「お願いします」
しばらく待つと、一冊の分厚い名簿が出てきた。僕はページをめくった。自分の名前、友達の名前、美紀の名前。そして、探していた先輩の名前。
「あった……」
僕は指を止めた。しかし、そこに書かれていた名前を見て息が止まった。
該当者なし。
僕は何度も確認した。学籍番号、卒業年度、在籍者名簿。どこにも、先輩の名前がない。
「そんな……」
職員が尋ねる。「どうされました?」
「この人」と僕は紙を指した。「この人、ここにいたはずなんです」
職員は首を傾げる。「お名前は?」
僕は言った。「……分かりません」
「?」
「ずっと、先輩と呼んでいたので」
職員は苦笑した。「そういうこと、ありますよね」
僕は笑えなかった。
帰り際、受付の女性が言った。「でも、昔の写真資料なら、別棟にあるかもしれません」
「見られますか?」
「申請すれば」
僕はその場で申請した。

第二十九章 古いフィルム
写真資料室は、古い建物の地下にあった。職員がフィルムの箱を並べてくれた。大学祭、卒業式、講堂、創立記念。僕は一つずつ確認した。そして、一つの箱を見つけた。
一九八〇年八月 記念行事
僕の手が震えた。フィルムを確認する。古い映像、学生たち、教授たち、ステージ。そして、桑田さん。
僕は驚いた。夢ではなかった。確かに、桑田さんが映っている。その隣に、原さん。そして、僕。
僕は息を呑んだ。映像の中で、桑田さんが僕の肩を叩いている。何か話している。
音声を上げる。雑音、ざあざあという雨音。そして、桑田さんの声。
『待ってたよ』
僕は立ち尽くした。夢と同じだった。
さらに、映像の端に先輩が映った。僕の隣に立っている。何かを言っている。僕は音量を上げた。
ザーッ。ザーッ。
そして、ほんの一瞬、先輩の声が聞こえた。
「――お前、卒業したら……」
そこで映像が切れた。僕は叫びそうになった。「続きは?」
職員が言う。「テープが劣化してますね」
「修復できませんか?」
「専門業者に出せば可能かもしれません」
僕は立ち上がった。「お願いします」
「大学としては……」
「費用なら僕が出します」
職員は驚いた。「そこまでして?」
僕は答えた。「知りたいんです」
「何を?」
僕は少し考え、そして言った。「僕が何を忘れたのかを」

第三十章 美紀
その夜、美紀の夢を見た。彼女は雨の駅に立っていた。
「やっと来た」
「美紀」
「遅かったね」
「何が?」
「思い出すの」
僕は彼女の前に立った。「先輩は誰なんだ?」
美紀は答えない。
「君は知ってるんだろ?」
「うん」
「教えてくれ」
「まだダメ」
「どうして?」
「あなたが思い出したら、夢が終わるから」
「それでいい」
「本当に?」
「うん」
美紀は少し悲しそうに笑った。「じゃあ」
彼女は僕に一枚の写真を渡した。僕は受け取る。
そこには、四人が写っていた。僕、美紀、先輩、そして、もう一人。
僕はその顔を見て息を呑んだ。「……この人」
知っている。ずっと知っていた。僕の人生の一番近くにいた人。
「誰?」美紀が聞く。
僕は答えられなかった。顔は分かる。声も、笑い方も、癖も、全部知っている。なのに、名前だけが出てこない。
美紀が言った。「あなたが一番忘れたくなかった人」
僕は震えた。「誰なんだ?」
美紀は僕の耳元で名前を囁いた。その瞬間、雨音が消えた。世界が真っ白になった。

第三十一章 母
目が覚めた。朝だった。僕はベッドの上で声を出した。
「……母さん」
それだけだった。涙が出た。僕は思い出した。
大学時代、僕が三年も留年して親に迷惑をかけて、何度も「もう学校を辞める」と言った。そのたびに母は言った。
「卒業なんてしなくてもいい」
「でも?」
「あなたが生きていれば、それでいい」
そして、最後の学費を払った日、母は笑った。
「卒業したら、ギターでも何でも好きなことをしなさい」
僕は、その約束を忘れていた。
先輩は、僕の母だった。正確には、母の言葉を僕の青春の中で何度も繰り返してくれた人だった。
だから名前がなかった。先輩は誰でもなかった。そして、誰でもあった。
僕を送り出した人。僕の肩を叩いた人。「行け」と言ってくれた人。その人が、先輩だった。
僕は泣いた。そして、笑った。「そうだったのか」
窓の外を見る。雨が降っている。僕はギターを取り、母が好きだった曲を一曲だけ弾いた。

第十七部 最後のライブ
第三十二章 六十歳のステージ
それから数か月、僕は小さなライブを開いた。観客は家族、友人、会社の仲間、そして昔の大学の友達。
ステージの上には一本のギター。僕はマイクの前に立った。
「今日は」少し緊張した。「僕の夢の話をします」
客席が静かになる。
「若い頃、僕には音楽をやりたいという夢がありました」
笑い声。
「でも、就職して、結婚して、子供ができて、仕事をして、夢はどこかへ行きました」
僕はギターを構えた。
「ところが最近、夢の中で昔の僕に会いました」
客席から笑い声。
「そして、そいつが言ったんです」
僕は少し間を置いた。
「――まだ下手だな」
会場が笑った。僕も笑った。
「腹が立ちました」さらに笑い。「でも、思いました。ああ、こいつ、まだ生きてるんだなって」
会場が静かになった。
「だから今日は、そいつのために一曲だけ弾きます」
僕はギターを鳴らした。そして歌った。若い頃の歌、友達の歌、家族の歌、人生の歌。最後に、YaYa。
会場には僕の家族がいた。カミさんが泣いている。娘も少しだけ目を赤くしている。
僕は笑った。そして、最後のコードを鳴らした。

第三十三章 拍手
拍手が起きた。長かった。僕は頭を下げ、顔を上げる。
客席の一番後ろに、一人の男が立っている。背広、白髪、僕と同じくらいの年齢。
僕は目を疑った。先輩だった。
僕はステージから降り、追いかけて外へ出た。しかし、誰もいない。雨だけが降っている。
地面に一枚の紙。拾うと、古い大学の卒業証書だった。名前を見ると、そこには僕の名前。その下に、赤い文字で『卒業おめでとう』と書かれていた。
僕は笑った。「……今さらかよ」
雨の中、僕は空を見上げた。「ありがとう」
誰もいない。でも、どこかから声がした気がした。
「よっ」
僕は笑った。「よっ」
終幕 青春は、終わらない
家へ帰り、玄関を開ける。
カミさんが言う。「おかえり」
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん」
「夢みたいだった?」
僕は笑った。「いや」とギターを壁に立て掛ける。「夢じゃなかった」
カミさんが笑う。「何それ」
僕も笑った。「分からない」
それでいい。分からなくても、人生には説明できないことがある。
夢と現実の間、記憶と忘却の間、若さと老いの間、そして別れと再会の間。その全部を、人は「人生」と呼んでいるのかもしれない。
僕は窓を開けた。夜風が入ってきた。雨の匂い、東京の匂い。遠くで誰かがギターを弾いている。
僕は目を閉じる。そして、あの頃の自分にもう一度だけ声をかける。
――元気か?
返事が聞こえる。
――お前こそ。
僕は笑った。
――まあまあだ。
――なら、いい。
僕はギターを手に取り、もう一度最初のコードを鳴らした。ジャーン。
音は少し外れた。でも、それでいい。完璧じゃなくていい。人生だって、ずっと音を外しながら進んできたのだから。
雨の夜、東京の片隅。一人の男が古いギターを弾いている。その音を、若い頃の僕が聞いて、二人とも笑っている。それだけで十分だった。
YaYa。
青春は終わらない。ただ少しずつ形を変えて、僕たちの中で鳴り続ける。
――完――

YaYa ―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―

第十八部 存在しない記録
第三十四章 卒業アルバム
ライブの翌朝、僕は一人で大学の卒業アルバムを開いていた。昨日までならこんなものを見ても懐かしいだけだったが、現在は違う。何かを探している。何を探しているのか、自分でも分からない。
ページをめくる。ゼミ、クラブ、文化祭、卒業式、そして集合写真。
僕は指を止めた。いた。僕がいる。美紀もいる。友人たちもいる。だが、先輩はいない。
「……」
おかしい。僕は確かに先輩と一緒に写った写真を見た。だが、このアルバムにはどこにもいない。僕が写真を拡大するように顔を近づけたそのとき、一人の男が写真の端に立っていることに気づいた。顔がぼやけている。まるで最初から焦点が合っていないようだった。
僕は指でその部分をなぞった。「誰だ?」
すると、ページの間から小さな紙が落ちた。拾うと古いメモだった。そこには僕の字でこう書いてある。
『先輩は写真に写らない』
僕は息を呑んだ。「何だよ、これ……」
裏を見る。さらに一行。
『だから、覚えているのは俺たちだけ』
僕は椅子から立ち上がった。

第十九部 もう一人の僕
第三十五章 電話
その日の午後、電話が鳴った。知らない番号だった。僕は少し迷ってから出た。
「もしもし」
『久しぶり』
男の声。若い。聞き覚えがある。
「誰ですか?」
『忘れた?』
「……」
『俺だよ』
僕は黙った。その声は、若い頃の僕自身の声だった。
「……僕?」
『そう』
「どうして電話なんか」
『頼みがある』
「何?」
『今夜、渋谷に来て』
「どこへ?」
『クロコダイル』
僕は時計を見る。「今夜?」
『そう』
「また夢か?」
『違う』
「じゃあ何?」
少し間があった。
『今度は、俺が夢を見る番だから』
電話が切れた。僕はしばらく受話器を握ったままだった。

第二十部 クロコダイルの夜
第三十六章 階段
夜、渋谷。僕は地下へ続く階段を降りた。見覚えのある階段。だが、店は閉まっていた。看板もない。ドアには鍵が掛かっている。
「やっぱり夢か」そう呟いた。
すると背後から、「遅い」と声がした。
僕は振り返った。若い僕が立っていた。大学時代の僕。ギターを背負い、髪も黒く、頬も痩せている。
「……お前」
「何だよ」
「どうしてここに?」
「呼んだのは俺だろ」
「そうだったな」
若い僕は笑った。「歳取ったな」
「お前もいつか取る」
「嫌だ」
「すぐだぞ」
「嘘つけ」
二人で笑った。僕は聞いた。「何がしたい?」
若い僕は少し考え、「聞きたいことがある」と言った。
「何?」
「俺は、この先どうなる?」
僕は答えられなかった。若い僕は続ける。
「就職する?」
「する」
「結婚する?」
「する」
「子供は?」
「できる」
「幸せ?」
僕は黙った。
「どうなんだよ?」
僕は笑った。「幸せだよ」
「本当に?」
「うん」
「夢は?」
「……」僕はギターケースを見た。「少し忘れる」
若い僕は笑わなかった。「そっか」
「でも」と僕は言った。「全部じゃない」
「?」
「お前は残る」
若い僕が僕を見る。「俺が?」
「そう」
「どこに?」
「俺の中」
若い僕は少しだけ笑った。「変なの」
「そうだな」
そのとき、階段の上から足音が聞こえた。

第二十一部 四人目
第三十七章 雨の女
階段を下りてきたのは、一人の女性だった。白い傘を持っている。僕はお息を止めた。
「美紀?」
違った。美紀ではない。でも、どこか似ている。女性は僕たちを見て笑った。「やっぱり二人いる」
若い僕が聞く。「誰?」
女性は答えた。「あなたたちを見てきた人」
「誰なんですか?」と僕が聞く。
女性は古いチケットを差し出した。クロコダイル。そこには僕たち三人の名前、そして四人目の名前。
僕はその名前を見て愕然とした。それは、僕の母の名前だった。
「……母さん?」
女性は微笑む。「そう」
若い僕が笑う。「何だよ、母さんか」
僕は若い僕を見る。「知ってたのか?」
「知ってる」
「いつから?」
「最初から」
「じゃあ、何で教えなかった?」
若い僕は少し困った顔をした。「お前が思い出すまで待ってた」
女性が言った。「あなたは、夢の中で何度もお母さんに会っている」
「いつ?」
「先輩として」
僕は目を閉じた。やはりそうだった。あの肩を叩く手、あの声、あの「よっ」という言葉。母だった。

第二十二部 母のライブ
第三十八章 四人目の観客
女性はステージへ上がった。「一曲、弾いて」
若い僕がギターを構える。「何を?」
女性は笑った。「あなたが一番好きな曲」
若い僕が弾き始めた。僕は客席に座った。そこには美紀がいた、桑田さんがいた、原さんがいた、先輩がいた。いや、先輩は母だった。
僕は笑った。「こんなところで、何やってるんだよ」
母が笑う。「あなたの卒業祝い」
「もう卒業したよ」
「そうね」
「何年経ったと思ってる?」
「知らない」母は笑った。「夢の中だから」
僕は少し泣いた。母は昔と同じ顔だった。僕が一番覚えている母の顔。台所で笑っていた顔、玄関で見送ってくれた顔、病院のベッドで「大丈夫」と言っていた顔。全部、ここにある。
「母さん」
「何?」
「ありがとう」
母は笑った。「何が?」
「全部」
「大したことしてないわよ」
「したよ」
「そう?」
「うん」
母は少し考えて、「じゃあ」と言った。「もう一曲」
「何を?」
「あなたの今の歌」
僕は立ち上がり、若い僕からギターを受け取って弾いた。今の僕の歌、家族の歌、仕事の歌、歳を取った歌、そして夢の歌。母はずっと笑っていた。

第二十三部 目覚める前に
第三十九章 母の質問
曲が終わる。母が聞いた。「幸せ?」
僕は答えた。「うん」
「後悔は?」
「ある」
「いっぱい?」
「いっぱい」
母は笑った。「じゃあ、よかった」
「どうして?」
「後悔できるほど、生きたんだから」
僕は泣いた。「母さん」
「何?」
「もう一つ聞きたい」
「どうぞ」
「先輩って」
母が笑う。「うん」
「誰?」
母は僕の頭を軽く叩いた。「あなたが必要だった人」
「それだけ?」
「それだけで十分でしょう」
「……」
「人はね」母が言った。「誰かの人生に必要とされた瞬間、その人の中に残るの」
「死んでも?」
「死んでも」
「夢の中でも?」
「もちろん」母は笑った。「だから、あなたが私を思い出す限り、私は夢の中で先輩になれる」
僕は笑った。「ずいぶん都合がいいな」
「親なんて、そんなものよ」
僕は笑った。母も笑った。そして、ステージの照明が少しずつ暗くなった。

第二十四部 YaYaの意味
第四十章 歌のない歌
「待って」僕は母を呼び止めた。
「何?」
「YaYaって」
母が振り返る。「うん」
「どういう意味なんだ?」
母は少し考えた。「あなたはどう思う?」
「分からない」
「じゃあ」母は笑った。「あなたが決めなさい」
「僕が?」
「うん」
「今日までの人生で?」
「今日からの人生で」
僕は考えた。YaYa。それは昔の歌の名前でも、夢の中の店の名前でも、青春の記号でも、母の声でも、先輩の声でもなかった。きっと、戻れない時間にもう一度だけ触れるための合言葉だった。
僕は母に言った。「じゃあ、僕にとっては」少し考えて、「また会おう、だ」
母は笑った。「いいじゃない」そして、手を振った。「また会いましょう」
「うん」
「夢で」
「うん」
「じゃあね」
「母さん」
「何?」
「今度は、僕が先輩になるよ」
母は声を出して笑った。「まだ早いわよ」
その声と一緒に、世界が白くなった。

第二十五部 現実
第四十一章 朝の電話
目が覚めた。朝だった。雨は降っていない。僕は天井を見た。夢だった。間違いなく、夢。でも、涙が頬を濡らしていた。
僕は起き上がった。そのとき、電話が鳴った。カミさんが出る。
「はい」
少し話して、僕を見る。
「あなたに」
「僕?」
「大学から」
僕は受話器を取った。「もしもし」
『以前、資料を探していた件ですが』大学の職員だった。『見つかりました』
「何が?」
『古い記念行事の映像です』
僕は息を止めた。
『それと』
「はい」
『写真が一枚』
「写真?」
『あなたが探していた先輩と思われる人物が写っています』
僕は立ち上がった。「本当ですか?」
『ただ』
「はい」
『少し変なんです』
「何が?」
『写真には四人いるんですが』
「……」
『三人しか名前が分かりません』
僕は目を閉じた。「四人目は?」
電話の向こうで職員が言った。『あなたのお母さまです』
僕は何も言えなかった。
『それと』
「はい」
『もう一人、妙な人物が写っています』
「誰です?」
『あなたです』
「……」
『今の年齢のあなたが』
電話が切れた。僕は受話器を握ったまま立ち尽くしていた。

第二十六部 写真
第四十二章 未来の僕
大学へ向かった。資料室。机の上に一枚の写真。
僕はそれを見た。四人。若い僕、美紀、母。そして、もう一人、老人。僕はその老人を見て言葉を失った。それは、今の僕だった。
「……」
職員が言う。「おかしいですよね」
僕は答えなかった。
写真の裏を見る。文字がある。
一九八〇年八月十一日。
その下。
『四人で、最後の一曲』
僕は写真を握った。「これは合成じゃない」
職員が言う。「大学の保存資料です」
「誰が撮ったんです?」
「記録がありません」
僕は笑った。「でしょうね」
写真をもう一度見る。若い僕がこちらを見ている。そして、笑っている。まるで今の僕を知っているように。
僕は小さく呟いた。「また会ったな」
写真の中の僕が笑った気がした。

第二十七部 最後の手紙
第四十三章 母へ
その夜、僕は机に向かった。便箋を一枚出し、宛名を書く。
『母さんへ』
もう何年も手紙を書いていない。書いても届かない。それでも書きたかった。
僕はゆっくり言葉を並べた。
『ありがとう。迷惑をかけた。心配させた。夢を諦めた。でも、今は少しだけ分かる。夢は叶えるものだけじゃない。忘れてしまった夢を、もう一度抱きしめるものでもある。僕は幸せだった。そして、これからも幸せでいようと思う』
最後に一言だけ書いた。
『YaYa』
封筒に入れる。宛先は書かない。そして引き出しにしまった。
その瞬間、机の上のギターから弦が一本、勝手に鳴った。ポーン。
僕は笑った。「母さん?」
返事はない。でも、それでよかった。

第二十八部 雨の夜だけ
第四十四章 あとさき
その夜、久しぶりに雨が降った。僕は傘を持って近所のコンビニまで歩いた。帰り道、見覚えのない路地があった。そこに小さな店。看板には『あとさき』。
僕は立ち止まった。「またか」
ドアを開ける。カラン。
店主の老人が笑った。「いらっしゃい」
僕は席に座る。「コーヒーを」
「砂糖は?」
「いりません」
老人が笑う。「大人になったね」
僕は笑った。「そうですか?」
「うん」
コーヒーが出てくる。一口。苦い。でも美味しい。
老人が聞く。「何か置いていくかい?」
「何を?」
「後悔とか」
僕は考えた。「ありません」
老人が笑う。「本当に?」
「あります」
「どっちだ?」
僕は笑った。「持って帰ります」
「そうか」
「でも」と僕はカップを置いた。「一つだけ置いていきます」
「何を?」
僕は答えた。「怖がっていた自分」
老人は静かに頷いた。「それがいい」
僕は立ち上がった。「いくらです?」
「無料」
「どうして?」
「夢だから」
僕は笑って店を出た。雨が降っている。振り返ると、店はない。そこには古い自動販売機が一台あるだけだった。
僕は笑った。「やっぱり夢か」
でも、ポケットの中に小さな紙が入っていた。取り出すと、そこには『また一曲』と書いてある。
僕は空を見上げた。雨の向こうで、ギターの音がした。

最終部 また一曲
第四十五章 YaYa
家へ戻る。家族は眠っている。僕は一人、リビングでギターを抱える。時計を見る。午前二時。静かな夜。
僕は小さく弾き始める。一つ、二つ、三つ。コードを鳴らす。
すると、遠くから別のギターの音。僕は笑う。若い僕だ。さらにベース、ピアノ、ドラム、そして誰かの歌声。
僕は目を閉じる。渋谷の夜、古いライブハウス、大学の坂道、雨、美紀、母、先輩、桑田さん、原さん、友達、家族。全部が一つの音になる。
僕は思った。人生とは、もしかするとこういうものなのかもしれない。
一人で演奏しているつもりでも、本当はたくさんの人が一緒に演奏してくれている。親、友達、恋人、妻、子供、仕事仲間、知らない誰か、そして過去の自分。みんなが少しずつ自分の人生に音を足してくれる。だから、一人の人生なんて本当はない。
僕は最後のコードを鳴らした。ジャーン。
音が消える。静寂。その静寂の中で誰かが言った。
「よっ」
僕は笑った。「よっ」
もう一度、声がする。
「元気か?」
僕は答えた。「まあまあだ」
「幸せか?」
僕は少し考え、そして答えた。「うん」
「なら、いい」
僕は目を開けた。誰もいない。でも不思議と寂しくなかった。
僕はギターを置き、窓の外を見る。雨が止んでいる。東の空が少し明るい。朝が来る。また、今日が始まる。
僕はゆっくり立ち上がり、最後に一言だけ呟いた。
「YaYa」
その言葉はさよならではなく、ありがとうでもなく、まして過去へ戻るための言葉でもなかった。それは、もう一度生きてみようという小さな合図だった。
僕はカーテンを開けた。朝日が部屋に入ってくる。若い頃の僕が窓の向こうで笑っている。その横に母がいる、美紀がいる、先輩がいる。そして、今の僕の家族がいる。みんな同じ方向を見ている。
僕はその光景を見ながらギターを抱えた。
「じゃあ」僕は笑った。「今日も一曲、やるか」
誰も答えない。でも、どこかで確かに笑い声がした。

YaYa
――人生は、最後の一曲が終わるまで終わらない。――


続く…    かも?




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『一曲だけの青春
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した―』  


第一幕
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した― 

序章 夢には、年齢制限がない 
人間というものは、歳をとると昔のことをよく思い出すようになる。
若い頃には、そんなことは考えもしなかった。
明日が来るのが当たり前で、来年があるのも当たり前。
十年後なんて、あまりに遠すぎて、考えることさえ馬鹿らしかった。 
ところが、ある年齢を越えると違ってくる。
昔の友達の名前を、突然思い出す。
学生時代に住んでいたアパートの間取りを、妙に鮮明に覚えている。
もう何十年も会っていない人の笑い声まで、昨日聞いたように蘇る。 
そして、ときどき思う。
もし、あのとき別の道を選んでいたら。
もし、あのとき声を掛けていたら。
もし、あのとき諦めなかったら。
人生には、「もしも」が多すぎる。 
だからなのかもしれない。
歳をとると、人は夢を見る。
過去へ戻る夢を。
若かった頃の自分に会う夢を。
もう会えない人と、もう一度だけ話す夢を。 
僕も、そんな夢を見た。 
ただし――。
僕の夢は、少しばかり変だった。
いや。少しどころではない。かなり変だった。 
なにしろ僕は、その夜。
サザンオールスターズのメンバーになった。
しかも、正式加入ではない。
「ギターが来ないから、一曲だけ頼む」
という、実にいい加減な理由で。 
そして、その一曲が終わったあと、
「じゃあ、来週からツアーね」
と、当たり前のように言われた。 
さらに、その夢の中では――。
僕はまだ大学生で。
僕の先輩は六年も大学にいて。
教授に単位をねだるために酒を持参し。
渋谷の街には、僕の知らない青春がまだ残っていた。 
そして最後には。
僕自身が、僕に出会った。 
これは、そんな一晩の話である。 



第一部 渋谷の坂道 
第一章 卒業したはずなのに 
渋谷駅の改札を出ると、
「よっ!」
と、後ろから肩を叩かれた。 
振り返る。先輩だった。
「あ……」
僕は思わず声を漏らした。 
先輩は、あの頃のままだった。
少しくたびれたジャケット。伸びかけた髪。片手には、何が入っているのか分からない大きな鞄。
そして、昔と変わらない、妙に人懐っこい笑顔。 
「なんだよ」
先輩が笑う。
「幽霊でも見たみたいな顔して」
「いや……」
僕は先輩の顔をじっと見た。何かがおかしい。ものすごくおかしい。 
「先輩、大学……」
「ああ」
「まだ卒業してないんですか?」
先輩は少しも悪びれず、
「まだだ」
と言った。 
「……何年目です?」
「六年」
「六年?」
「六年」
「同じ大学に?」
「同じ大学だ」 
僕は頭を抱えた。
「僕ですら三年もダブったのに」
「お前は卒業したからいいだろ」
「そうですけど」
「俺だって、もうすぐだ」
「去年もそう言ってました」
「去年は去年だ」
「今年は?」
先輩は少し考えた。
「今年も、もうすぐだ」
「何がもうすぐなんです?」
「卒業」
「単位は?」
先輩は黙った。
「……足りない」
「何単位?」
「少し」
「何単位です?」
「聞くな」 
先輩は歩き出した。僕も仕方なくついていく。
駅から大学までは、緩く長い坂道が続いていた。
歩いているうちに、妙な気分になってきた。
懐かしい。とても懐かしい。 
坂の途中には、昔と同じ店があった。
古い喫茶店。学生向けの定食屋。狭いレコード店。そして、角にある煙草屋。
どれも記憶の中にある。 
僕は立ち止まった。
「……ここ」
「何だ?」
「昔のままですね」
「当たり前だろ」
「いや……」 
先輩は振り返った。
「お前、去年卒業したばっかりだろ?」
「……」 
そうだった。僕の記憶では去年、卒業したはずだ。
三年も留年して、ようやく卒業した。就職して、結婚して、子供もできた。そのはずだった。
なのに。今、僕は学生服ではないにせよ、大学へ向かっている。
しかも、隣には六年目の先輩。 
僕は急に不安になった。
「先輩」
「何だ?」
「僕、本当に卒業しましたよね?」 
先輩は歩きながら言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「夢なんだから、細かいこと気にするなよ」 
僕は足を止めた。
「……今、何て言いました?」 
先輩も足を止めた。僕を見る。そして、ニヤッと笑った。
「聞こえたか?」
「はい」
「じゃあ、忘れろ」
「無理ですよ」
「そのうち忘れる」
「何を?」
「全部」 
そう言って先輩は歩き出した。僕は追いかけた。
坂の先に、大きな建物が見えてきた。大学の講堂だった。
今日は創立百周年の記念式典。巨大な講堂には、すでに大勢の人が集まっているらしい。 
「しかし」
僕は言った。
「僕、卒業生ですよね?」
「そうだ」
「なのに、何で今日ここに?」
「招待状が来たんだろ」
「そうですけど」
「じゃあ来ればいい」
「先輩は?」
「教授に会う」
「式典は?」
「それどころじゃない」
「単位ですか?」
「単位だ」 
先輩は鞄を叩いた。ゴトン、と重い音がした。
「何です?」
「ジョニ黒」
「……」
「それから、もう一本。オールドパー」 
僕は呆れた。
「何をするつもりです?」
先輩は真顔で答えた。
「卒業する」
「酒で?」
「人間、最後は誠意だ」
「それを誠意って言うんですか?」
「教授がそう思えば誠意だ」
「思わなかったら?」
「そのときは、もう一本出す」 
僕は笑ってしまった。何も変わっていない。この人だけは、何十年経っても変わらない。
――いや。まだ、何十年も経っていない。
そう思ったところで、また違和感を覚えた。何十年? 僕はいったい、何歳なんだ? 
自分の手を見る。若い。皺がない。指も細い。爪も綺麗だ。僕はいま一度その手を見つめた。 
「どうした?」
先輩が言った。
「……何でもありません」 
僕は手をポケットに入れた。坂道を登る。
すると、講堂の前に人だかりができていた。ものすごい数だった。
学生だけではない。年配の人もいる。報道関係者らしい人もいる。誰かがカメラを構えている。 
僕は先輩の肩越しに覗き込んだ。
「何ですかね?」
「さあ」
先輩が答える。だが、その声が少し変だった。 
「先輩?」
「……桑田か」
「え?」 
先輩は人だかりの向こうを見ていた。そして、ぼそりと言った。
「桑田か……」
「桑田って?」 
先輩は答えなかった。僕も人の隙間から中を覗いた。
その瞬間。時代が一気に巻き戻ったような感覚に襲われた。 
そこにいたのは、若い男だった。
ギターを抱え、サングラスを掛け、少し照れたような笑顔で人々に囲まれている。
僕はその顔を知っていた。テレビで何度も見た。レコード店でも見た。新聞でも見た。 
その人が、ふっとこちらを見た。目が合った。そして、笑った。
「やあ!」 
僕は固まった。桑田さんが人混みをかき分けてこちらへ歩いてくる。まっすぐ僕のところへ。
そして言った。
「待ってたよ」  


第二章 クロコダイルの約束 
「……僕を?」
桑田さんは笑った。
「そうだよ」
「何で?」
桑田さんは少し首を傾げる。
「約束したじゃない」
「約束?」
「忘れたの?」 
僕は必死に記憶を探した。
クロコダイル。その言葉が頭の中に浮かんだ。
渋谷。ライブハウス。酒。煙草。友達。ギター。そして、若い僕。
何かを叫んでいる。 
――いつか、サザンに入れてください! 
「……」
「思い出した?」
「いや」
桑田さんは笑った。
「言ったんだよ」
「僕が?」
「そう」
「何て?」
「いつかサザンに入れてくれって」 
僕は頭を抱えた。
「そんなこと……」
言った。確かに言った。酔っ払っていた。若かった。怖いものがなかった。
何にでもなれると思っていた。世界が自分を待っているような気がしていた。 
「でも」
僕は言った。
「それは冗談で……」
「そうだっけ?」
「僕、就職しましたし」
「知ってる」
「ギターも、もうほとんど弾いてません」
「それも知ってる」
「じゃあ、何で?」 
桑田さんは少し困った顔をした。
「実はさ」
「はい」
「ギターが一人、抜けるんだ」
「え?」
「今日」
「今日ですか?」
「そう」
「急ですね」
「急なんだよ」
「それで?」
「君に頼もうと思って」 
僕は笑った。
「無理ですよ」
「何で?」
「下手だから」 
桑田さんは少し考えてから言った。
「大丈夫。俺たちもまだ下手だから」 
その言葉を聞いて、僕は笑った。
「それ、本気ですか?」
「もちろん」 
すると、後ろから女性の声がした。
「ちょっと!」
振り返ると、原さんが立っていた。 
「もう始まるわよ!」
「分かってるよ」
「ギターは?」
「来ない」
「だから?」
桑田さんは僕の肩を叩いた。
「代わりを見つけた」 
原さんが僕を見る。僕も原さんを見る。しばらく沈黙があった。
「……この人?」
「そう」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって……」 
原さんは呆れた顔をして、僕に言った。
「あなた、弾ける?」
「一応……」
「じゃあ、お願い」
「え?」 
あまりに自然に言われたので、断るタイミングを失った。
そのときだった。先輩が割り込んできた。 
「おい、桑田!」 
空気が変わった。桑田さんが先輩を見る。
「ああ」
「まだ何か用があるのか?」
「いや」
「俺は忘れてないぞ」
「こっちだって忘れてないよ」 
僕は二人を見た。何だ? この二人。絶対に何かある。
「先輩?」
「黙ってろ」
「でも」
「黙ってろ」 
桑田さんが言った。
「お前、まだあのこと根に持ってんの?」
先輩が言う。
「お前こそ」
「俺は悪くない」
「俺だって悪くない」
「じゃあ原さんに聞けば?」 
原さんが二人の間に入った。
「もう、いい加減にして!」 
二人とも黙った。
「……はい」
「……すまん」
先輩が小さく頭を下げた。桑田さんも「悪かった」と言った。 
僕は思った。女で揉めたのだろうか。だが、そんなことを聞ける雰囲気ではなかった。 
そのとき。講堂の中からスタッフが飛び出してきた。
「桑田さん!」
「はい」
「もう時間です!」
「分かってる」
「ギターは?」
桑田さんは僕を見る。
「ここ」
「え?」
スタッフも僕を見る。
「……誰ですか?」
桑田さんは胸を張った。
「今日からメンバー」
「ええっ?」 
僕は思った。夢だ。これは絶対に夢だ。そうでなければ説明がつかない。
だが。夢だと分かっているのに、僕の心臓は猛烈な勢いで鳴っていた。  


第三章 一曲だけ 
舞台袖に連れて行かれた。ギターを渡される。
知らないギターだった。だが、手にすると妙に馴染んだ。
スタッフが慌ただしく走っている。照明が動く。客席から拍手が聞こえる。 
僕は震えていた。
「無理です」
桑田さんが言った。
「大丈夫」
「本当に?」
「一曲だけ」
「その一曲で失敗したら?」
「みんな忘れる」
「でも僕は?」
「一生忘れない」 
僕は笑った。
「それ、励ましてます?」
「もちろん」
原さんが笑った。
「頑張って」
「はい」 
僕はステージへ出た。眩しい。客席が見えない。巨大な講堂。満員。老いも若きもいる。
そして、一番前に見覚えのある人がいた。 
僕だった。
若い僕ではない。今の僕。六十を越えた僕。その隣には――妻がいた。 
僕は息を呑んだ。
「どうして……」 
今の僕が、ステージの上の僕を見て笑っていた。そして、口だけを動かした。
「頑張れ」 
僕はギターを握った。桑田さんがマイクの前に立った。
「今日はですね」
客席から歓声が上がる。
「ちょっとした事情で、急遽、こちらの彼に参加してもらうことになりました」
拍手。僕はおじぎをした。
「一曲だけです」
また拍手。 
僕は思った。一曲だけ。それならやってみよう。
桑田さんがこちらを見る。目が合う。頷いた。
そして、音が始まった。 
不思議だった。指が勝手に動いた。僕は弾いていた。しかも、上手い。ものすごく上手い。
「……?」
自分でも驚いた。 
客席が沸く。桑田さんが笑う。原さんも笑う。
先輩は、客席の端で腕を組んでいた。そして、なぜか泣いていた。 
曲が終わった。大歓声だった。僕は呆然としていた。
桑田さんが肩を抱いた。
「ありがとう」
「いえ……」
「助かったよ」
「はい」
「じゃあ」
桑田さんが笑った。
「来週からツアーね」
「え?」
「よろしく」
「いや」
僕は慌てた。
「一曲だけって……今ので終わりですよね?」
「今日の一曲はね」
「じゃあ、来週は?」
「来週は来週」
「……」 
そのとき、会場の後ろから大きな声がした。
「すみませーん!」 
全員が振り返った。一人の男が息を切らしながら走ってきた。ギターケースを抱えている。
「遅れました!」 
桑田さんが目を丸くした。
「お前!」
「すみません!」
男は深々と頭を下げた。
「俺、抜けるなんて言いましたけど」
「言っただろ」
「ハヤトチリでした!」
「……」
「やっぱり、ここにいます!」
そして、土下座した。 
僕はその男を見た。それから桑田さんを見た。原さんを見た。先輩を見た。会場を見た。
何もかもがおかしかった。でも、なぜか笑えてきた。 
「分かりました」
僕は言った。
「あなたが遅れたから、仕方なく僕が手伝ったんですよ」 
桑田さんが笑った。原さんも笑った。先輩は腹を抱えて笑っていた。そして客席も笑った。
その瞬間。講堂の天井が消えた。青空が見えた。雲が流れた。拍手が波のように広がった。 
僕は空を見上げた。すると、空の向こうから誰かの声が聞こえた。
「お前、楽しかったか?」
僕は答えた。
「はい」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、もう帰れ」
「どこへ?」
声は笑った。
「今のところへ」 
その瞬間、世界が真っ白になった。 
第四章 六年目の卒業 
気がつくと、僕は大学の教授室の前にいた。
先輩が隣にいる。手にはジョニ黒。もう一本、オールドパー。 
「先輩」
「何だ?」
「さっきの……」
「何が?」
「サザン」
「知らん」
「え?」 
先輩は真顔だった。
「俺は教授に会いに来たんだ」
「でも……」
「お前、変な夢でも見たんじゃないか?」
「夢?」
「そう」
「先輩も夢ですよね?」
「俺は現実だ」
「六年目なのに?」
「それは現実だ」 
教授室の扉が開いた。教授が顔を出した。
「君か」
「先生」
「卒業したいのか?」
先輩は深く頭を下げた。
「はい」
「単位は?」
「足りません」
「何年目だ?」
「六年目です」 
教授はため息をついた。
「君は去年も来たな」
「はい」
「一昨年も」
「はい」
「その前も」
「はい」
「何年やるつもりだ?」
先輩は答えなかった。 
教授は机の上に置かれた酒瓶を見る。そして、
「……しょうがないな」
「え?」
「特別だぞ」 
先輩の顔が輝いた。
「本当ですか!」
「卒業しろ」
「はい!」 
僕は笑った。何だ、やっぱり夢だ。そう思った。
ところが、教授が僕を見る。
「君は?」
「僕?」
「君も単位が足りないだろ」
「え?」
「三年留年した」
「はい」
「卒業したことになっているが」
「はい」
「本当にそれでいいのか?」 
僕は答えられなかった。教授は続けた。
「君は、何になりたかった?」 
僕は黙った。ギター、音楽、小説、映画、旅、恋。いろんなものが頭に浮かんだ。
けれど、最後に浮かんだのは妻の顔だった。そして、子供の笑顔。 
教授が言った。
「人生は、単位を取ることとは違う」
先輩が横から言った。
「先生、俺は?」
「君はまず卒業しろ」
「はい」 
教授は僕を見る。
「君はもう卒業している」
「……」
「だから、帰りなさい」
「どこへ?」
教授は笑った。
「家へ」 
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。
僕は立ち上がった。先輩が言う。
「またな」
「先輩」
「何だ?」
「卒業、おめでとうございます」
先輩は笑った。
「お前もな」
「僕は去年ですよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「じゃあな」 
僕は教授室を出た。廊下を歩く。
大学の景色が、少しずつぼやけていく。
坂道、喫茶店、渋谷駅。そしてステージ、ギター、桑田さん、原さん、先輩。
全部が遠くなっていく。 
最後に、あの曲が聞こえた。遠くから、誰かが歌っている。
若い頃の友達。家族。涙。恋。もう一度だけ戻れたなら。 
僕は振り返った。そこには若い自分がいた。ギターを抱えて笑っていた。
僕は言った。
「頑張れ」
若い僕が答えた。
「そっちもな」 
そして、目が覚めた。 

YaYa
―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した― 

第二部 目覚めたはずの朝 
第五章 カミさんが二人いる 
目が覚めた。朝だった。窓の外が薄青く明るくなっている。
時計を見る。五時十二分。 
「……」
僕はしばらく天井を見ていた。夢だった。そう思った。
大学、先輩、桑田さん、ギター、ステージ。全部、夢。
そりゃそうだ。現実に僕がサザンのメンバーになるわけがない。
僕は布団の中で小さく笑った。
「変な夢だったな……」 
隣を見る。カミさんが寝ている。いつもの寝顔だ。僕は安心した。
ところが。 
「おはよう」
声がした。
「え?」
振り返る。カミさんが起きていた。
「おはよう」
「お、おはよう」
「どうしたの?」
「いや……」
「変な顔してる」
「夢を見てた」
「どんな?」 
僕は少し考えた。
「サザンに入った」
カミさんは黙った。そして、
「……何で?」
と聞いた。
「知らないよ」
「ギター弾けたの?」
「夢の中では」
「へえ」
カミさんは笑った。
「よかったじゃない」
「うん」
「楽しかった?」
「……うん」 
そう答えた瞬間、カミさんが不思議なことを言った。
「じゃあ、もう一回行ってくれば?」
「え?」
「その夢」
「どうやって?」
「寝ればいいじゃない」
「そんな簡単なものじゃないよ」
「夢なんだから、簡単でしょ」
僕は笑った。
「そうだな」 
布団から出ようとした。そのとき、廊下から声がした。
「お父さん!」 
娘の声だった。僕が振り返ると、娘が立っている。
まだ幼かった。高校生くらい。
「お父さん、何してるの?」
「いや……」
「早くして」
「どこへ?」
娘は怪訝そうな顔をした。
「大学でしょ?」
「……え?」
「今日、創立百周年の式典なんでしょ?」 
僕は固まった。娘が言った。
「お父さん、遅刻するよ」 
僕はカミさんを見る。カミさんは普通の顔をしている。
「……ねえ」
「何?」
「今日って何日?」
カミさんは答えた。
「八月十一日」
「何年?」
カミさんが笑った。
「おかしなこと聞くわね」
そして言った。
「昭和だよ」 
僕は絶叫した。
「えええええっ!」 
その声で目が覚めた。 
……天井。朝。時計。五時十二分。
僕は飛び起きた。
「夢……」
だった。今度こそ、絶対に夢だった。 
「お父さん!」
隣の部屋から声がする。娘の声。
僕は恐る恐る時計を見る。五時十三分。
「……」
「お父さん?」
「はい!」
「何?」
「何でもない!」 
僕は布団をかぶった。しばらくしてカミさんの声。
「何を一人で騒いでるの?」 
僕は答えなかった。怖かった。いや、怖いというよりおかしかった。
夢から覚めたはずなのに、夢の中で、もう一度夢を見た。
これはいったい何なのだろう。  


第六章 新聞の日付 
朝食を食べた。テレビをつけた。ニュースが流れている。
僕はコーヒーを飲みながら、ぼんやり画面を見ていた。するとアナウンサーが言った。
「本日は、大学創立百周年記念式典が――」 
僕はコーヒーを吹いた。
「え?」
カミさんが振り返る。
「どうしたの?」
「今、何て言った?」
「何が?」 
テレビを見る。ニュースキャスターが続けている。
「本日、渋谷区の――」 
僕は立ち上がった。
「ちょっと待って」
「何?」
「テレビ、消して」
「何で?」
「いいから!」 
カミさんがリモコンを持つ。僕は新聞を取った。一面。日付。
そこには「昭和五十四年八月十一日」と書かれていた。 
僕は新聞を落とした。
「……」
「どうしたの?」
カミさんが言う。僕は新聞を拾って、もう一度見た。同じだ。昭和五十四年。
カレンダーを見る。昭和五十四年。テレビを見る。昔の番組。
時計を見る。デジタルではない。全部が昔だった。 
なのに、カミさんは何も不思議に思っていない。娘も普通に学校へ行く準備をしている。 
「お父さん」
娘が言った。
「今日は大学なんでしょ?」
「……」
「何?」
「お前、いくつだ?」
娘が眉をひそめる。
「何言ってるの?」
「いや」
「変なお父さん」
娘は笑った。 
僕はカミさんを見る。カミさんも笑っている。まるで、何も問題がないように。
僕は玄関へ向かった。靴を履く。
すると、玄関の外にギターケースが置いてあった。 
「……」
僕は触れなかった。触ったら、また戻れなくなる気がした。 
そのとき、電話が鳴った。黒いダイヤル式電話。
僕は恐る恐る受話器を取った。
「もしもし」
『おう』 
その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。
「……先輩?」
『遅いぞ』
「何が?」
『大学』
「今日は行きません」
『何言ってんだ』
「僕はもう卒業しました」
『知ってるよ』
「じゃあ、何で?」
電話の向こうで先輩が笑った。
『だからだよ』
「どういう意味です?」
『卒業したから来い』
「意味が分からない」
『桑田も待ってる』 
僕は受話器を握ったまま固まった。
『じゃあな』
電話が切れた。受話器を置く。 
カミさんが言った。
「誰?」
「先輩」
「大学の?」
「うん」
「懐かしいわね」
「……知ってるの?」
「もちろん」
「どんな人?」
カミさんは笑った。
「あなたが一番大事にしてた友達じゃない」 
僕は黙った。先輩。一番大事な友達。
だが、僕にはその先輩と過ごした記憶がほとんどない。いや、あるのだ。
でも、それは昨日の夢の中の記憶だった。 
僕はギターケースを見た。そして、玄関を出た。 

第三部 消えた青春 
第七章 先輩の秘密 
大学へ向かう坂道は昨日と同じだった。いや、昨日ではない。何十年も前の景色。
それなのに、僕の足は道を覚えていた。 
坂を上る。喫茶店、定食屋、煙草屋。全部ある。
僕が店先に立つと、店主が僕を見て「ああ、久しぶり」と言った。 
僕は驚いた。
「僕を知ってるんですか?」
「何言ってるんだ」店主が笑う。「毎日来てただろ」
「毎日?」
「そうだよ」 
僕は店内を見る。壁に写真があった。
若い僕、先輩、そして知らない女の子。三人で笑っている。 
「……誰?」
店主は答えず、ただ「忘れたのか」と言った。 
僕は写真を見つめた。女の子の顔に見覚えがある。でも、名前が出てこない。
その瞬間、後ろから声がした。
「やっぱり忘れてるな」 
先輩だった。
「先輩……」
「お前、記憶が悪くなったな」
「この人、誰です?」
先輩は写真を見る。
「お前が好きだった女」
「……」
「本当に忘れたのか?」 
僕は頭を抱えた。胸の奥が痛い。何かを忘れている。ものすごく大切なものを。
「先輩」
「何だ?」
「この人……名前は?」 
僕は答えられない。先輩は小さくため息をついた。
「美紀」 
その名前を聞いた瞬間、頭の中に雨が降った。
駅、傘、制服、笑顔。
「また明日ね」という彼女の声。 
僕はその場にしゃがみ込んだ。
「……思い出した」
先輩は黙っていた。
「どうして忘れてたんだ?」
「お前が忘れたかったからだ」
「何で?」
「彼女がいなくなったから」 
僕は顔を上げた。
「死んだの?」
先輩は答えない。
「事故?」
沈黙。
「病気?」
先輩は首を振った。
「じゃあ、どこへ?」
先輩は言った。
「未来へ」
「……」
「お前より先に」 
意味が分からなかった。先輩は歩き出した。
「来い」
「どこへ?」
「講堂」
「桑田さん?」
「そうだ」
「また?」
「今日は違う」
「何が?」
先輩は振り返った。
「お前が、何を忘れたのかを教えてもらう」 
僕は後を追った。  


第八章 講堂の地下 
講堂に着くと、桑田さんが待っていた。昨日とは違う服装でギターを抱えている。
「来たね」
「はい」
「美紀のこと、思い出した?」 
僕は驚いた。
「知ってるんですか?」
「もちろん」
「何で?」
「この夢を作ったのは、僕じゃないからね」
「……え?」
桑田さんは笑った。
「僕も呼ばれただけ」
「誰に?」 
桑田さんは講堂の地下を指差した。
「下」
「地下?」
「行ってみな」 
僕たちは階段を降りた。地下には古い部屋があった。壁一面に写真が貼られている。
僕の人生だった。大学、就職、結婚、子供、家族旅行。そして、美紀。 
写真を見ていると、自分の知らない記憶が次々に蘇ってきた。
美紀とは大学時代に付き合っていた。僕は彼女と結婚するつもりだった。
だが、僕は夢を追うことを恐れた。音楽も、小説も、何もかも。安定した仕事を選んだ。 
美紀は言った。
「それでいいの?」
僕は答えた。
「いいんだ」
「本当に?」
「うん」 
その数日後、美紀は遠くへ行った。別れた。それだけだと思っていた。
だが、記憶の最後に一枚の写真があった。
美紀が笑っている。その隣に僕がいる。そして、写真の裏に文字があった。 
『また、夢で会おう』 
僕は震えた。
「これは……」
桑田さんが言った。
「お前が忘れた約束」
「美紀と?」
「そう」
「でも、僕は……」 
先輩が言った。珍しく真面目な顔だった。
「人生ってのはな。忘れたから消えるんじゃない」
「……」
「忘れたことにして、生きていくんだ」 
僕は何も言えなかった。
そのとき、部屋の奥からピアノの音がした。
一音。また一音。誰かが弾いている。 
僕は振り返った。そこには若い美紀がいた。 

 
第四部 もう一度だけ 
第九章 美紀 
「久しぶり」
美紀が笑った。僕は言葉が出なかった。何十年ぶりだろう。
いや、夢の中ではほんの数日前なのかもしれない。時間というものが完全に壊れていた。 
「老けたね」
美紀が言った。
「……そっちも」
「嘘」
「夢だから」
「そうね」彼女は笑った。「夢って便利ね」
僕も笑った。 
「どうしてここに?」
「あなたが呼んだから」
「僕が?」
「そう」
「いつ?」
「ずっと」 
僕は黙った。美紀がピアノの前から立ち上がった。
「あなた、幸せ?」
突然だった。僕は答えた。
「幸せだよ」
「本当に?」
「うん」
「奥さんは?」
「いる」
「子供は?」
「いる」
「じゃあ、どうしてここに来たの?」 
僕は答えられなかった。美紀は笑った。
「やっぱり」
「何が?」
「少しだけ、昔に戻りたかったんでしょう?」 
僕は窓の外を見る。雨が降っている。渋谷の雨。若かった頃の雨。
「うん」
「どうだった?」
「楽しかった」
「サザンに入った?」
僕も笑った。
「入った」
「一曲だけ?」
「一曲だけ」
「じゃあ、十分ね」 
美紀は言った。
「人生なんて、一曲あれば十分なのかもしれない」
「どういう意味?」
「一生忘れない一曲があれば、それでいいのよ」 
僕の胸が詰まった。
「美紀」
「何?」
「ごめん」
「何で謝るの?」
「もっと……」
言葉が続かなかった。美紀は首を振った。 
「あなたは、あなたの人生を生きた」
「……」
「私も、私の人生を生きた」
「そうだね」
「だから」彼女は笑った。「もう、戻らなくていいよ」 
その瞬間、講堂の外から大きな音がした。ドラム、ギター、ベース。
そして、桑田さんの声。
「おーい!」 
美紀が笑った。
「呼ばれてるわよ」
「どこへ?」
「最後の一曲」 
僕は立ち上がった。  


第五部 最後のステージ 
第十章 YaYa 
ステージに上がる。客席は満員だった。
先輩がいる。原さんがいる。桑田さんがいる。
そして、客席の最前列には妻がいた。その隣に娘。さらに、幼い頃の僕。 
僕は笑った。
「みんな、いるんだ」
桑田さんが言った。
「人生だからね」
「人生?」
「全部、いるんだよ」 
僕はギターを持った。桑田さんがマイクを握る。
「最後に一曲。これはね、昔を思い出してる人たちに」 
会場が静かになる。僕がギターを構えると、先輩が叫んだ。
「おい!」
「何です?」
「間違えるなよ!」
「先輩こそ、単位間違えるな!」 
客席が笑った。先輩も、桑田さんも、原さんも、僕も笑った。
そして、音が始まった。 
懐かしいメロディ。若かった頃、友達、家族、涙、恋、失ったもの、手に入れたもの。全部が一つになっていく。 
僕は演奏しながら思った。
人生は、やり直せない。だからこそ、人生なのだ。
もしも戻れたとしても、僕は結局同じ場所へ帰ってくるのだろう。
妻のいる場所へ。家族のいる場所へ。今の僕がいる場所へ。 
曲が終わった。長い拍手。
僕は客席を見た。若い僕が立ち上がって笑っていた。
「ありがとう」僕は言った。
若い僕が答える。「こちらこそ」 
照明が落ち、真っ暗になる。どこからか声が聞こえた。
「帰る時間だよ」
僕は目を閉じた。  


エピローグ 朝五時十二分 
目が覚めた。朝だった。時計を見る。五時十二分。昨日と同じ。
僕は天井を見た。隣ではカミさんが眠っている。静かな寝息。
窓の外には、まだ薄暗い東京。僕は布団の中で笑った。
「……楽しい夢だった」 
それだけ言うと、隣から声がした。
「何が?」
驚いて振り返ると、カミさんが目を開けていた。
「夢」
「また?」
「うん」
「今度は何?」
僕が「サザンに入った」と言うと、カミさんは笑った。
「よかったじゃない」
「一曲だけ」
「じゃあ、十分ね」
僕も笑った。「そうだな」 
起き上がり、窓を開ける。朝の空気が入ってくる。
昔の渋谷とは違う、今の東京の匂い。 
コーヒーを淹れてテレビをつけると、サザンの曲が流れてきた。
僕は立ち止まり、画面を見ながら思わず口ずさんだ。 
昔の友達、家族、涙、恋。もしも、もう一度だけ戻れたなら。
僕は戻らない。戻らなくていい。あの頃は、あの頃のままでいい。
だって、あの頃があったから今の僕がいる。 
カミさんが台所から声を掛けた。
「何、ニヤニヤしてるの?」
「いや、昔の夢を見てたんだ」
「どんな夢?」
僕は窓の外の朝日を見ながら小さく笑った。
「一曲だけ、バンドマンになった夢」
「へえ」カミさんは笑った。「じゃあ、今日から練習すれば?」
「今から?」
「夢じゃなくて現実で」
「そうだな」 
そして心の中で、もう一度だけあの頃の自分に言った。
――ありがとう。 
遠い記憶の向こうから、若い僕が笑った気がした。 
I remember younger days.
My friends and the family.
There were tears.
And yes— I fell in love.
If I could only go back once more. 
僕はコーヒーを飲んだ。少し苦かったけれど、妙に美味かった。 
おわり 

―夢の中で、僕はもう一度、青春をやり直した― 

第六部 夢の続き 
第十一章 朝のギター 
その日の朝、僕は久しぶりにギターケースを開けた。
なぜそうしたのか自分でも分からない。昨日までならそんなことはしなかった。
ギターは何年も押し入れの奥にしまってあったものだ。若い頃に買った。 
弦は錆びていて、ケースには古いステッカーが貼ってある。大学時代のものだ。
その中に、一枚だけ見覚えのないステッカーがあった。小さな雨傘の絵。 
「こんなの、貼ったっけ?」
カミさんが台所から言った。
「それ、昔から貼ってあったじゃない」
「そう?」
「あなた、忘れたの?」 
僕は黙った。昨日からこの言葉を何度聞ただろう。
忘れた。その言葉が妙に引っかかった。 
僕はギターを膝に乗せ、弦を一本弾いてみる。ビーン。ひどい音だった。
「下手になったな」自分で笑った。 
するとスマートフォンが鳴った。知らない番号からだった。
「もしもし?」
『おう』 
その声に、僕は固まった。
「……先輩?」
『何だ、寝ぼけてるのか?』
「先輩……?」
『そうだよ』
「どうして?」
『どうしてって、お前が電話番号を教えたんだろ』
「いつ?」
『夢の中で』 
電話が切れた。僕はスマートフォンを見つめた。履歴を見ると、確かに番号が残っている。
名前には「先輩」と表示されていた。 
僕はカミさんを見る。
「ねえ」
「何?」
「昨日、僕、誰かと電話した?」
「してないわよ」
「本当に?」
「ずっと寝てたじゃない」 
僕は黙った。するとギターのケースの中から何かが落ちた。小さな紙だった。
拾うと、古いライブハウスのチケットだった。
そこには「CROCODILE」と書かれていた。日付は昭和五十四年八月十一日。今日と同じ日だった。 

第十二章 クロコダイル 
渋谷へ向かった。理由は分からない。ただ、行かなければならない気がした。
街は変わっている。当然だ、何十年も経っているのだから。
なのに、ある角を曲がると、そこだけ昔の景色が残っていた。
古い看板、細い階段、地下へ続く入口。 
看板には「CROCODILE」とある。
「……」
夢だ、そう思った。だが階段を降りると、ドアの前に先輩がいた。 
「遅い」
「……先輩」
「来ると思ってた」
「ここは?」
「店」
「見れば分かります」
「じゃあ入れ」 
ドアを開けると、中には誰もいなかった。ただ、ステージの上にギターが一本置かれていた。
先輩が言った。
「覚えてるか?」
「何を?」
「ここでお前が言ったこと」 
僕はギターを見る。
「サザンに入りたい」
「違う」
「じゃあ?」
先輩は笑った。
「音楽をやりたい、だ」 
僕は黙った。
「お前は、あの日」先輩が続けた。「本気だった。でも翌朝になったら怖くなった。就職して、ギターを置いて、普通に生きた」 
僕が「それが悪いことですか?」と尋ねると、先輩は「悪くない」と言った。
「俺だってそうだ。俺は大学を卒業しなかった」
「それは……」
「しなかったんじゃない。できなかった」 
先輩は珍しく寂しそうだった。
「俺には、卒業したら終わるものがあった。青春だ。だから六年もいた。馬鹿だろ?」
僕も笑った。「馬鹿ですね」
「お前もだ」
「僕は卒業しました」
「だからお前はもっと馬鹿だ。青春を卒業したからだ」 
僕は言葉を失った。先輩はギターを手に取り、「弾け、何でもいい」と僕に渡した。
受け取って弦を鳴らす。昨日より、少しだけいい音がした。 

第十三章 美紀の手紙 
ギターの音が消えると、客席の奥から誰かが拍手した。振り返ると美紀だった。
「久しぶり」
「……美紀」
彼女は笑っている。大学時代の顔だ。 
「また会ったね」
「夢なの?」
「そう」
「じゃあ、僕は寝てる?」
「たぶん」
「どこで?」
「分からない」美紀は笑った。「夢って、住所がないから」 
先輩が「二人で話せ」と言って店の外へ出ていった。 
「美紀、僕たちはどうして別れたんだ?」
「あなたが怖がったから。私と一緒に生きること」
僕は息を呑んだ。
「違う。僕は君を好きだった」
「知ってる」
「今でも?」
美紀は少し考えて言った。「夢の中なら。昔の気持ちは消えないから」 
美紀は鞄から封筒を取り出した。
「これ。あなたが読まなかった手紙」
開けると、そこには短くこう書かれていた。 
『あなたが夢を諦めても、私はあなたの夢まで嫌いになったわけじゃない』 
僕は目を閉じた。
「……どうして渡してくれなかった?」
「渡したわ。あなたが読まなかったの。机の引き出しに入れたでしょ」 
記憶を探すと確かにあった。怖くて開けず、そのまま引っ越して忘れたのだ。
「ごめん」
「だから、もういいって。あなたにはあなたの人生がある。奥さん、大事にしてる?」
「うん」
「子供は?」
「大事だよ」
「なら、それでいい」 
美紀は窓の外の降り始めた雨を見て言った。
「雨の日だけ会える場所があったら、面白いと思わない?」
「どこ?」と聞いても、美紀は「もうすぐ」とだけ答えた。 

第七部 雨の店 
第十四章 雨宿り 
店を出ると、そこは渋谷ではなく見たことのない町だった。細い路地、古い商店、軒先の雨。
「ここ、どこ?」
「雨宿町。戻りたい人が来る店よ」美紀が言った。 
通りの先に「あとさき」という小さな店があった。
中に入るとカウンターがあり、壁には雨の日の人々の写真が飾られていた。 
カウンターの奥から現れた老人が言う。
「いらっしゃい。ここは『戻らなかった人生』を少しだけ飲む店です。コーヒーにしますか?」 
運ばれたコーヒーを一口飲むと、苦く、そして懐かしく、なぜか涙が出た。
「何で泣くんだろう」
美紀が言った。「思い出したからよ。あなたがちゃんと生きてきたことを」 
老人が語りかける。
「人生は選ばなかった道を消してはくれません。ただ見えなくするだけです。夢とは、その見えなくなった道を夜だけ照らす灯りですよ」 
その瞬間、外で大きな雷が鳴り、店の明かりが消えた。
遠くから懐かしい歌声が聞こえ、次に目を開けたとき、僕はまたステージの上にいた。 

第八部 もう一度だけ 
第十五章 僕たちのバンド 
ステージには桑田さん、原さん、先輩、美紀、そして若い僕がいた。
客席には友人、家族、妻、娘、そして僕の人生で擦れ違ってきたすべての人々がいた。 
桑田さんが言った。
「人間、一人で生きてると思ったら大間違いだよ。最後は『YaYa』を全員でやろう。お前が弾け」 
原さんが鍵盤、先輩がベース、美紀がコーラス、そして若い僕と僕の二人でギターを持った。
音が始まり、過去と現在、若さと老い、夢と現実が溶け合っていく。 
青春とは、戻ることではない。忘れないこと、そして忘れていた自分をもう一度抱きしめることだ。 
曲が終わり、若い僕が「もう行けよ、お前の人生へ」と言った。僕も頷き、ギターを置いた。 

エピローグ 雨が止む 
目が覚めると朝五時十二分。僕は小さく笑った。
起きて窓を開けると夏の雨。僕はギターの弦を張り替えようとケースを開けた。 
台所から「コーヒー飲む?」と妻の声。
「うん。今日は苦いのがいい」 
雨が弱まり、雲の切れ間から光が差す。光の中に若い自分が笑って手を振っている気がした。
僕も小さく手を振ると、彼は消えた。 
コーヒーを飲む。苦いけれど美味しかった。
もう一度戻りたいと思える過去があることは、きっと悪い人生じゃなかったということだ。 
雨が止み、僕は誰もいない部屋でギターを鳴らした。ジャーン。少し音が外れた。
どこからか「俺たちも、まだ下手だから」と声が聞こえた気がして、僕はもう一度ギターを鳴らした。 
おわり 

第九部 夢から持ち帰ったもの 
第十六章 弦を張る 
ギターの弦を張り替えるのに三時間もかかった。若い頃なら三十分で終わったのに、老眼鏡をかけても手元が見えづらい。 
「何してるの?」とカミさん。
「弦を張ってる」
「バンドでも始めたの?」
「今から?」僕は笑った。 
ふと、夢の中で美紀に「奥さん、大事にしてる?」と聞かれたことを思い出し、小さく「大事にしてるよ」と呟いた。 
カミさんが「夢の中で誰かに会っても、最後に帰ってくるのはここ(日常)でしょ? ならいいじゃない」と言ってくれた。
この人と結婚してよかった、と心から思った。
人生とは何かを手に入れるだけでなく、選ばなかった道を後から許していくことでもあるのだ。 

第十七章 先輩からの葉書 
三日後、差出人「先輩」とだけ書かれた葉書が届いた。
封を開けると、たった一行。 
『卒業おめでとう。今度は留年するなよ。追伸:桑田によろしく』 
吹き出してしまうと同時に寒気がした。僕は先輩の本名を知らない。いつも「先輩」と呼んでいただけだったからだ。 

第十部 六年目の先輩 
第十八章 名前のない男 
夢の中で先輩に名前を聞くと、「名前を付けるとその人が一人になっちまう。俺はお前の先輩だった、それだけで十分だ」と言われた。
先輩は「お前の忘れた青春を思い出すために出てきたんだ」と笑った。  


第十九章 最後のクロコダイル 
地下のクロコダイルで、先輩は「今度は一人で歌え」と僕をステージへ促した。
客席には大切な人たちが勢揃いしている。僕が『YaYa』を歌い上げると、先輩が「卒業おめでとう」と肩を叩いた。
その瞬間、先輩の姿が光の中に溶けていった。 

 
第十一部 名前 
第二十章 カトウ 
目が覚めると五時十二分。机の上の葉書を見ると『カトウへ。俺の名前はお前が決めてくれ』と書かれていた。
僕がペンで『青春』と書き込むと、文字はそのまま綺麗に消えていった。 
最終部 YaYa  


第二十一章 もう一度だけ 
一年後、渋谷の坂道を歩く。講堂のあった場所には新しいビルが建っていた。
後ろから「よっ!」と声がした気がして振り返るが、誰もいない。 
スマホにメッセージが届く。『一曲、やるか?』
僕は笑って『一曲だけなら』と返信した。 
空を見上げると、若い僕、美紀、先輩、桑田さんたちが笑いながら坂道を下っていく幻が見えた。
僕は追いかけない。彼らは僕の中で生きているからだ。 
家へ帰り、妻とコーヒーを飲む。
窓を開け、雨上がりの空に向かってギターをもう一度鳴らす。
ジャーン。音は若い日の東京まで届いた気がした。 
「ありがとう」
そう呟くと、遠くから「よっ!」と笑い声が聞こえた。 
終章 If I could only go back once more 
歳をとるとは、過去を増やすこと。
過去は荷物ではなく、自分自身そのものだった。 
雨の夜には、どこかでギターの音がする気がする。
「一曲だけ、やるか?」
「ああ、一曲だけ」 
人生も一曲の音楽のようなものだ。最後の音が消えるまで、僕たちは演奏を続けている。 
雨の向こうで笑う仲間たちに手を振り、僕は今日も生きている。次の一音を鳴らすために。 
YaYa
おわり  


第十二部 夢を見る人 
第二十二章 知らない老人 
それから、しばらく夢を見なかった。
正確に言えば、夢を覚えていなかった。朝起きても何も思い出さない。 
ある日、渋谷の坂道で「YaYa」という見覚えのない喫茶店に入った。
カウンターには老人が一人。壁の写真には、若い頃の僕、先輩、美紀、そして「少し若い頃のその老人」が写っていた。 
老人は言った。「夢の時間は現実の時間と違う。ここは君の心が選んだ場所だ」  


第二十三章 人生のレンタル 
老人は『人生貸出帳』というノートを見せてくれた。
「人は一人では生きられない。だから困ったとき、誰かの人生を少しずつ借りて生きている。恋をしたとき、家族ができたとき、友と別れたとき。君が見た夢は、返却期限が来た人生の確認だよ」  


第十三部 先輩の卒業式 
第二十四章 六年目の答え 
夢の中の卒業式。壇上で先輩が卒業証書を受け取り、振り返って笑った。
僕が「名前は!?」と叫ぶと、先輩は口だけを動かして何かを言ったが、大拍手に消されて聞こえなかった。  


第十四部 名前を思い出せない 
第二十五章 朝食 
目が覚めて朝食を食べる。普通で変わらない朝の愛おしさ。
妻に「いつもありがとう」と言うと、「変なの」と笑われた。  


第十五部 最後の手紙 
第二十六章 美紀からのメール 
スマホに『あなたが選んだ人生を、私は好きです』と一文だけのメールが届く。
送信元不明で返信はエラーになったが、僕も心の中で「僕も好きだよ」と答えた。  


第十六部 桑田さんからの電話 
その夜、電話で桑田さんが「一曲、やらない? 今度は一生分」と誘ってくれた。
僕は「今の自分の人生で弾きます」と答えた。桑田さんは嬉しそうに笑って電話を切った。  


最終章 YaYa 
朝、五時十二分。
窓の外の雨上がりの光の中に、かつての仲間たちが笑って立っていた。
彼らは坂を下り、僕は自分の道を歩く。 
妻が「今日は何するの?」と聞く。
僕は「ギターの練習。一曲だけね」と答えて笑った。 
部屋いっぱいに響くギターの音。過去も未来も、大切な人も全部ここにいる。
あの日々に感謝を込めて、僕は次の一音を鳴らすのだった。   


YaYa

完  


いや、続く…





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