すべての齢を、あなたと
――時間の向こうで、もう一度「美しい」と言うために――
まえがき
人は、ときどき空を見上げます。
そこに何かを探しているわけでもないのに、ふと顔を上げる。
月が出ていれば、月を見る。
星が見えれば、星を見る。
そして、何も見えない夜には、見えないものまで見ようとする。
月は、夜ごとにその姿を変えます。
満ちる夜もあれば、欠ける夜もある。
満月は美しい。
けれど、満月の翌日。
ほんの少しだけ欠けた月にも、不思議な美しさがあります。
人も、きっと同じなのだと思います。
二十歳の自分。
三十歳の自分。
四十歳の自分。
五十歳、六十歳、七十歳。
若かった頃の自分を、今の自分から見ると、未熟だったと思うことがあります。
あんなことを言わなければよかった。
あんなことで意地を張らなければよかった。
もっと素直になればよかった。
もっと誰かの話を聞けばよかった。
けれど、その頃の自分もまた、そのときなりに懸命に生きていました。
今の自分だけが、本当の自分なのではない。
過去の自分も、失敗した自分も、恋をした自分も、後悔した自分も。
そのすべてが重なって、今の自分になっている。
だから、齢を重ねるということは、過去を捨てていくことではなく、過去の自分を少しずつ抱きしめ直していくことなのかもしれません。
この物語には、古い映画館が出てきます。
そこには、一台の古い映写機があります。
その映写機が本当に過去を映すのか。
それとも、人の心が過去を映しているだけなのか。
最後まで、はっきりとはわかりません。
ただ、人はときどき、もう一度会いたい人に会うことがあります。
現実ではなくても。
夢の中で。
記憶の中で。
あるいは、物語の中で。
そして、その人に会ったとき初めて、自分が長いあいだ抱えていたものを手放せることがあります。
この物語が、あなたの中にいる二十歳のあなたにも、四十歳のあなたにも、そして今のあなたにも、静かに届けばと思っています。
どの頁の、どの言葉が心に残るのか。
それは、読んでくださるあなたにしかわかりません。
もし最後の頁を閉じたあと、
「自分にも、もう一度会ってみたい人がいる」
そんなふうに思っていただけたなら。
この物語を書いた意味は、きっとあったのだと思います。
プロローグ 最後の頁
真柴悠一は、七十八歳になっても、万年筆を握る手が震えないことだけを、ひそかな誇りにしていた。
書斎の机には、書き出しの一行すら定まらない原稿用紙が並んでいる。
白い紙。
白い紙。
また白い紙。
窓の外では、夕方の風が庭木を揺らしていた。
悠一は万年筆を置いた。
七十八歳。
小説家になって五十年近くになる。
これまで、何冊もの本を書いてきた。
若い頃は、言葉が次から次へと出てきた。
机に向かえば、朝まで書けた。
ところが今は、一行を書くまでに一日かかる。
それでも、焦りはなかった。
むしろ、書けない時間も悪くないと思うようになっていた。
人間は、若い頃には「書くこと」ばかり考える。
齢を重ねると、「書かないこと」にも意味があるとわかってくる。
悠一は窓の外を見た。
机の上には、今日の新聞が置いてある。
その地方欄に、小さな記事が載っていた。
――月映座、来月末で閉館。
記事によれば、老朽化と経営難のため、建物は取り壊される予定だという。
悠一は、しばらくその文字を見つめていた。
月映座。
その名前を見ただけで、胸の奥に古い風景が浮かんだ。
まだ二十歳だった頃。
映画を観に行った。
そこで、一人の女性と出会った。
沙也加。
その名前を、悠一は長いあいだ口にしていなかった。
妻が亡くなって、五年になる。
妻との人生は穏やかだった。
喧嘩もした。
笑った。
病院にも付き添った。
旅行にも行った。
そして最後の日、妻の手を握った。
それで十分だったと思っている。
だからこそ、若い日の記憶に触れることには、どこかためらいがあった。
昔の恋は、美しいまま保存されているわけではない。
その中には、若さも、愚かさも、意地も、言えなかった言葉も入っている。
悠一は新聞を閉じた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
担当編集者の美咲だった。
「先生、原稿、どうですか?」
「どうもこうもない。まだ一行も書けてない」
「先生でも、そういうことあるんですね」
「あるよ。むしろ最近は、そればかりだ」
電話の向こうで、美咲が笑った。
「でも、先生。私は待ちますから」
「何を?」
「先生が書きたいと思ったものを」
悠一は黙った。
書きたいもの。
そんなものが、まだ自分の中に残っているのだろうか。
電話を切ったあと、悠一はもう一度、新聞を開いた。
月映座。
そして、その名前の下に、小さく書かれた閉館の日付。
悠一は、ふと思った。
最後に、一度だけ行ってみよう。
そして、その夜。
悠一は机に向かった。
原稿用紙の一番上に、ゆっくりと文字を書いた。
――どの話の、どこの部分が、その人の心に引っ掛かるのか。
そこから先は、まだ何も決まっていなかった。
けれど、悠一は初めて、書き出せる気がした。
一章 月映座
月映座は、駅から歩いて十五分ほどの古い通りにあった。
看板の「月」の字だけが、かろうじて白く残っている。
建物は古かった。
壁にはひびが入り、入口のガラスには小さな傷がいくつもあった。
それでも、映画館というものには、妙な存在感がある。
そこでは長いあいだ、誰かが笑い、泣き、恋をし、別れてきた。
悠一は受付にいた老人に声をかけた。
「もうすぐ閉館なんですね」
「ええ。寂しいですけどね」
老人はそう言って、映写室のほうを見た。
「先生、映写機、見ていきますか?」
「まだ動くんですか?」
「一応」
映写室には、古い映写機が置かれていた。
金属はくすみ、ところどころ錆びている。
それでも、レンズだけは不思議なほど澄んでいた。
老人が言った。
「昔から、この映写機には変な噂がありましてね」
「変な噂?」
「夜中に一人で映写すると、自分がいちばん強く見たい風景が映るっていうんです」
悠一は笑った。
「ずいぶん都合のいい映写機ですね」
「映画館なんて、昔からそんなもんでしょう」
老人も笑った。
悠一は、その言葉が妙に心に残った。
その夜、家に戻った悠一は、机に向かった。
そして、小説の主人公の名前を決めた。
涼介。
自分より少しだけ若く。
自分より少しだけ素直な男。
彼にも、古い映画館を訪れさせよう。
そこに、遥という女性を登場させよう。
なぜ「遥」という名前にしたのか、悠一自身にもわからなかった。
ただ、その名前を書いた瞬間。
遠い場所から、風が吹いてきたような気がした。
二章 初めて会った日
五十八年前。
悠一は二十歳だった。
月映座で映画を観た。
映画が終わり、観客が少しずつ出ていく中で、隣の席にいた女性が言った。
「最後、あれでよかったと思います?」
悠一は驚いて、その女性を見た。
「え?」
「映画の最後」
彼女は笑った。
「私は、もう少し違う終わり方でもよかったと思う」
それが沙也加だった。
二人は映画館を出て、川沿いを歩いた。
若かった。
何でも話せる気がした。
将来のこと。
仕事のこと。
好きな本。
好きな映画。
そして、まだ何者でもない自分たちのこと。
沙也加が言った。
「人って、二十歳の自分だけじゃないと思う」
「どういうこと?」
「四十歳になったら、四十歳の自分がいる。七十歳になったら、七十歳の自分がいる。でも、その中には二十歳の自分も残ってるんじゃないかな」
悠一は笑った。
「ずっと二十歳のまま?」
「そうじゃなくて」
沙也加は川面を見た。
「二十歳だったことを、なかったことにはできないってこと」
その言葉が、悠一の中に残った。
別れ際、沙也加は言った。
「いつか、また夕陽を見ましょう」
「いつ?」
「いつでも」
それが、二人の最後の約束になった。
三章 書き出し
悠一は、涼介の物語を書き始めた。
涼介は、古い映画館を訪れる。
そこで、映写機の噂を聞く。
そして深夜、一人で映写機を動かす。
映像が映る。
そこに現れたのは、若い女性だった。
名前は、遥。
悠一は、その名前を書くたびに、不思議な感覚になった。
沙也加と遥は違う。
当然、違う。
一人は現実の女性。
もう一人は、自分が作った物語の中の人物だ。
それなのに。
遥が笑う場面を書くと、沙也加の笑顔が浮かんだ。
遥が川沿いを歩く場面を書くと、あの日の風が蘇った。
悠一は筆を止めた。
物語とは、記憶を別の形にしているだけなのかもしれない。
そう思った。
四章 映写機の光
涼介は、午前零時を過ぎてから映写機を回した。
最初は何も映らなかった。
やがて、白い光がスクリーンに広がった。
そこに、若い女性が立っていた。
「遥……?」
女性は振り返った。
「涼介?」
それは、初めて会った日の風景だった。
映画館。
川。
夕暮れ。
二人の会話。
涼介はスクリーンの中へ歩いた。
そして気づいた。
これは映画ではない。
自分が覚えているものだった。
けれど、どこまでが自分の記憶なのかは、わからなかった。
遥が言った。
「忘れたと思っていた?」
涼介は答えられなかった。
帰るとき、ポケットに古い映画の半券が入っていた。
現実には存在しないはずのものだった。
五章 幾つもの遥
次に映写機を回したとき。
遥は二十歳ではなかった。
三十歳だった。
次は四十歳。
その次は五十歳。
六十歳。
七十歳。
年齢が変わるたびに、顔も声も少しずつ違った。
それでも、同じ人だった。
涼介は気づいた。
人は齢を重ねるたびに別人になるのではない。
同じ人間の中に、新しい時間が重なっていくのだ。
悠一も、その場面を書きながら、自分の人生を思った。
二十歳。
三十歳。
四十歳。
五十歳。
六十歳。
どの自分も、自分だった。
そして、そのどの自分にも、今の自分から言ってやれることがある。
「あのときも、よく頑張ったな」
そう思うだけで、胸の奥が少し軽くなった。
六章 二十歳の自分
その夜。
悠一は、自分の二十歳の姿を見た。
夢なのか。
記憶なのか。
それとも、ただの想像なのか。
わからなかった。
二十歳の悠一は言った。
「ずいぶん老けたな」
悠一は笑った。
「お前も、いずれこうなる」
「嫌だな」
「そう言うと思った」
二人は並んで座った。
二十歳の悠一が言った。
「沙也加のこと、どうした?」
悠一は黙った。
「結局、何も言えなかったんだな」
「……そうだな」
「結婚したんだろ?」
「した」
「幸せだった?」
悠一は少し考えた。
「幸せだった」
若い自分は笑った。
「じゃあ、よかった」
その一言で、悠一は泣きそうになった。
若い自分は、何も責めなかった。
ただ、そこにいた。
それだけでよかった。
七章 美咲との対話
「先生」
美咲が言った。
「私、最近、自分だけ遅れている気がするんです」
「何に?」
「人生に」
三十五歳になった美咲は、友人たちの結婚や出産、昇進の話を聞くたび、自分だけ取り残されているように感じていた。
悠一は言った。
「人生に順位なんてないよ」
「でも、つい比べます」
「僕も若い頃は比べてた」
「先生も?」
「もちろん」
悠一は笑った。
「でも、齢をとるとわかる。人と比べている時間は、自分の人生を生きていない時間なんだ」
美咲は黙って聞いていた。
「だから、焦らなくていい」
「先生は、後悔してませんか?」
悠一は窓の外を見た。
「してるよ」
「たくさん?」
「たくさん」
そして、少し笑った。
「でも、後悔があるから、人生が失敗になるわけじゃない」
八章 四十代の悔い
四十歳の悠一が現れた。
働き盛りだった。
仕事ばかりしていた。
沙也加から届いていた手紙にも、すぐには返事をしなかった。
そのうち返事を書くこと自体を忘れた。
四十歳の悠一は言った。
「忙しかったんだ」
現在の悠一は答えた。
「知ってる」
「仕方なかった」
「それも知ってる」
「でも……」
四十歳の悠一は黙った。
「一度くらい、会いに行けばよかったな」
悠一は、その言葉を聞いていた。
そして初めて、自分が本当に後悔していたことに気づいた。
会えなかったことではない。
会おうとしなかったことだ。
九章 作中の遥、現実を映す
涼介は、いくつもの遥と出会った。
二十歳の遥。
三十歳の遥。
五十歳の遥。
七十歳の遥。
どの遥も、涼介を見て笑った。
「私たち、結局どうなるの?」
涼介は答えられなかった。
遥が言った。
「結ばれるって、一緒に暮らすことだけじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「忘れないことも、ひとつの結び方かもしれない」
涼介はその言葉を聞いて、長いあいだ黙っていた。
人は、会えなくなっても誰かの人生の中に残る。
それは、恋と呼んでもいい。
記憶と呼んでもいい。
ただの時間と呼んでもいい。
名前は何でもよかった。
残っているということ。
それだけで、十分なこともある。
十章 交わる二つの物語
悠一は、書きながら不思議な気持ちになった。
涼介の物語が、自分の人生をなぞっている。
遥の言葉が、沙也加の言葉と重なる。
けれど、完全には同じではない。
違っている。
だからこそ、物語になった。
ある夜、悠一は昔、沙也加が言った言葉を思い出した。
同じ文字でも、見る角度が変われば違って見える。
人も同じなのだ。
二十歳から見た人生。
四十歳から見た人生。
七十歳から見た人生。
同じ人生なのに、見えるものが違う。
悠一は書いた。
――物語とは、時間を映す映写機なのかもしれない。
十一章 沙也加の消息
沙也加の消息がわかったのは、偶然だった。
古い知人を通して、悠一は彼女が十年前に亡くなっていたことを知った。
病気だった。
遠くの町へ移り、家庭を持ち、静かな人生を送ったという。
知人から、ひとつの言葉を聞かされた。
沙也加は晩年、若い頃の話をすることがあった。
「あの頃の言葉は、今でも大切に残っている」
そう言っていたという。
悠一は、その場で泣かなかった。
不思議なほど、静かだった。
沙也加は生きた。
笑った。
誰かを愛した。
家庭を築いた。
病気になった。
そして死んだ。
自分の知らないところで、自分の人生を完成させた。
それでいい。
それでよかった。
悠一は、初めて思った。
会えなかったことを悔やむより、
生きていてくれてありがとう、と言えばいい。
もう届かなくても。
十二章 涼介の絶望と気づき
物語の中で、涼介もまた遥の死を知った。
何をしても、時間は戻らない。
映写機を回しても、過去を変えることはできない。
涼介はスクリーンの前に座り込んだ。
そこへ、若い遥が現れた。
次に、四十歳の遥。
最後に、老いた遥。
すべての遥が、涼介を見ていた。
「泣いていいよ」
若い遥が言った。
「忘れなくていいよ」
老いた遥が言った。
涼介は泣いた。
そして気づいた。
人を失った悲しみは、消すものではない。
その人が自分の中に残したものを、今度は誰かへ渡していくものなのだ。
十三章 診断
沙也加の死を知ってから、しばらくして。
悠一は病院へ行った。
検査の結果、心臓に気になる影が見つかった。
すぐに危険というわけではない。
けれど、医師の説明は穏やかだった。
「これからは、少し無理をしないほうがいいでしょう」
悠一は聞いた。
「先生、僕はあと何年くらい?」
医師は答えなかった。
答えられないのだ。
悠一は病院を出て、駅まで歩いた。
空は晴れていた。
そのとき、不思議なことに、死ぬことよりも先に思った。
――時間には限りがある。
今までも知っていた。
けれど、知っていることと、自分のこととして感じることは違った。
限りがある。
だから、一日がある。
だから、一言がある。
だから、今日会える人には、今日会ったほうがいい。
悠一は家に帰ると、原稿用紙を出した。
そして書いた。
――時間が有限だと気づくことは、絶望ではなく、残された時間を見つけることなのかもしれない。
十四章 自然に集まる友
悠一は、美咲に病気のことを話した。
その後、なぜか昔の友人たちが家に来るようになった。
編集者。
近所の人。
昔の仕事仲間。
若い頃に競い合った作家。
かつては、誰が売れているか。
誰が賞を取ったか。
誰が有名か。
そんなことばかり気にしていた。
今は、誰もそんな話をしなかった。
ただ、お茶を飲んだ。
昔話をした。
くだらないことで笑った。
悠一は思った。
こんな時間が、いちばん大切だったのかもしれない。
「先生」
美咲が言った。
「何?」
「楽しそうですね」
「うん」
悠一は湯呑みを持ち上げた。
「小説より面白いかもしれない」
十五章 最後の上映
涼介は、最後にもう一度、映写機を回した。
スクリーンに夕暮れの丘が映った。
そこには、遥がいた。
二十歳の遥。
三十歳の遥。
五十歳の遥。
七十歳の遥。
そして反対側には、同じように、いくつもの涼介が立っていた。
若い涼介。
働き盛りの涼介。
疲れた涼介。
老いた涼介。
誰も何も言わなかった。
ただ、同じ方向を見ていた。
夕陽が沈んでいく。
若い涼介が言った。
「きれいだね」
老いた涼介も言った。
「ああ」
遥たちも笑った。
「きれい」
その瞬間。
年齢というものが消えた。
二十歳も、四十歳も、七十歳もなかった。
ただ、そこに生きてきた人たちがいた。
そして、同じ風景を見ていた。
光が消えた。
スクリーンは白くなった。
そして、暗くなった。
十六章 月映座、最後の夜
月映座の最後の上映日。
小さな客席は、思ったより多くの人で埋まった。
美咲。
昔からの友人。
近所の人。
悠一の本を読んでくれた若い人たち。
そして、一人の若い女性が悠一のところへ来た。
「先生」
「はい」
「私、小説を書いているんです」
「そう」
「でも、誰かに読ませるのが怖くて」
悠一は笑った。
「僕も怖かったよ」
「先生でも?」
「僕だって人間だからね」
女性は少し笑った。
悠一は言った。
「どの話の、どこの部分が、誰の心に届くかなんて、誰にもわからない」
「じゃあ、どうすれば?」
「書けばいい」
「それだけですか?」
「それだけ」
悠一は少し考えた。
「届くかどうかを心配するより、まず渡せるところまで持っていくことだよ」
若い女性は黙っていた。
悠一は、ふと沙也加を思った。
そして言った。
「今夜、僕もある人から、それを教わったんだ」
十七章 手放すもの
閉館を翌日に控え、映写機の撤去が始まった。
長いあいだ使われた機械が、少しずつ外されていく。
悠一はそれを見ていた。
「寂しいですか?」
美咲が聞いた。
「うん」
「でも、仕方ないですね」
「そうだな」
悠一は笑った。
「機械がなくなっても、映画を観た人の記憶の中からは消えない」
そして、ふと思った。
自分も同じだ。
肩書き。
評価。
売れたか、売れなかったか。
誰より上か。
誰より下か。
若い頃から抱えてきたものを、一つずつ手放していく。
それは敗北ではない。
荷物を軽くすることだ。
「先生」
「うん?」
「何を考えてるんですか?」
「着物を脱いでる」
「着物?」
「見栄とか、意地とか、比較とか」
美咲が笑った。
「ずいぶん重そうですね」
「そりゃ七十八年分だからな」
二人は笑った。
十八章 最後の頁、ふたたび
その夜。
悠一は最後の原稿を書いた。
机の上には、古い映画の半券があった。
いつ手に入れたのか、もうわからない。
現実のものなのか。
記憶のものなのか。
それも、もうどうでもよかった。
悠一は最後の頁に、ゆっくりと書いた。
――人は、長いあいだ、自分と誰かを比べながら生きている。
――あの人より成功したい。
――あの人より幸せになりたい。
――もっと認められたい。
――もっと若かったら。
けれど、最後に残るものは、そんなものではないのかもしれない。
誰かと同じ風景を見たこと。
誰かと笑ったこと。
誰かの言葉を覚えていること。
そして、自分の中にいる、過去の自分を許すこと。
二十歳の自分も。
四十歳の自分も。
七十歳の自分も。
どれも、自分だった。
どの齢も、捨てる必要はなかった。
悠一は最後の一行を書いた。
――すべての齢を、あなたと。
万年筆を置いた。
その夜、悠一は深く眠った。
エピローグ すべての齢を、あなたと
翌朝。
美咲が訪ねてきた。
「先生?」
返事がない。
書斎へ入ると、悠一は椅子に座ったままだった。
机の上には、完成した原稿。
窓から朝の光が差し込んでいる。
美咲はしばらく何も言えなかった。
悠一は、眠っているように見えた。
穏やかな顔だった。
原稿の最後には、こう書かれていた。
――すべての齢を、あなたと。
それから一年後。
悠一の最後の小説は出版された。
読者から、さまざまな感想が届いた。
二十代の読者は、二十歳の場面に涙した。
四十代の読者は、四十代の後悔に自分を重ねた。
七十代の読者は、最後の頁を何度も読み返した。
同じ本なのに、残る場所は違った。
美咲は、そのことがうれしかった。
悠一が最後まで言っていた通りだった。
どの話の、どこの部分が、その人の心に引っ掛かるのか。
それは誰にもわからない。
月映座は、予定通り取り壊された。
建物がなくなったあと、小さな記念碑だけが残った。
そこには、月映座の名前と、短い言葉が刻まれた。
――誰かと同じ風景を見て、「美しい」と言えること。
それから三年が過ぎた。
ある日、美咲のもとへ一冊の本が届いた。
著者は、あの夜、月映座で悠一に声をかけた若い女性だった。
タイトルは、
『光の重さ』
だった。
美咲は読み始めた。
最初の頁に、短い献辞があった。
――あの日、先生が「書けばいい」と言ってくれたので、私は書きました。
美咲は本を閉じた。
そして、窓の外を見た。
夕方だった。
空には、少し欠けた月が出ていた。
満月ではない。
けれど、美しかった。
美咲は思った。
悠一は、いなくなったのではない。
誰かの中へ、少しずつ移っていったのだ。
言葉になって。
物語になって。
そして、また別の物語になって。
人は、死んでも完全には消えない。
誰かの記憶の中に。
誰かの言葉の中に。
誰かが生きるために使った一言の中に。
静かに残っていく。
そして、そのとき初めて。
時間は、過ぎ去るだけのものではなくなる。
過去は、現在の中に残り。
現在は、未来へ渡される。
二十歳の自分も。
四十歳の自分も。
七十八歳の自分も。
すべての齢が、ひとつにつながっていく。
美咲は、本を閉じた。
そして、小さく言った。
「先生。
きれいですね」
誰も答えなかった。
けれど、風が窓を揺らした。
それだけで十分だった。
どの話の、どこの部分が、誰の心に引っ掛かるのか。
それは、誰にもわからない。
それでも、その物語は、確かに誰かに届く。
過去の自分を責めるのではなく。
誰かと比べるのでもなく。
失ったものだけを見るのでもなく。
いま、自分の中にあるものを抱えて。
自由になった心で。
同じ風景の中で。
同じ目線で。
誰かと、
「美しい」
と言葉にできたなら。
それを、幸せと呼ぶのだろう。
そして、いつか。
あなたが自分の過去を振り返るとき。
そこにいる二十歳のあなたにも。
四十歳のあなたにも。
いまのあなたにも。
静かに声をかけてほしい。
――よく、生きてきたね。
――ありがとう。
すべての齢を、
あなたと。
ー終ー
Amazon Kindle
あとがき
言葉を綴るとき、私たちはいつでも「過去の自分」や「どこかの誰か」を探しているのかもしれません。
完璧な人間も、完璧な人生もありません。
満月のように円満に輝く瞬間もあれば、十六夜の月のようにどこか欠けて見える夜もあります。けれど、振り返ってみたとき、その欠けた部分にこそ、その人らしい温もりや深い思い出が宿っているのではないか――そんな想いから、この『すべての齢を、あなたと』は生まれました。
七十八歳の小説家・真柴悠一が紡いだように、人が歩んできた時間や言葉は、形を変えながら次の世代や誰かの心へと静かに受け継がれていきます。不器用だった二十代も、無我夢中だった四十代も、静けさを知る七十代も、何ひとつ無駄な時間などなかったのだと、読者の皆様がご自身の人生を肯定できるきっかけになれば幸いです。
最後まで悠一たちの時間にお付き合いくださったあなたに、心からの感謝を申し上げます。
今夜、あなたの見上げる空に、優しい光が届きますように。
紹介文
七十八歳の小説家・真柴悠一は、閉館の決まった古い映画館「月映座」のニュースを目にする。そこは五十八年前、かつて愛した女性・沙也加と出会った思い出の場所だった。原稿用紙に向かう手が止まっていた悠一は、導かれるように月映座を訪れ、古い映写機にまつわる一つの噂を聞く――「夜中に一人で映写すると、自分がいちばん強く見たい風景が映る」。悠一が書き始めた新たな物語。それは、作中の主人公・涼介と遥の姿を借りて、自らの記憶と過去を巡る旅でもあった。二十代の熱気、三十代の模索、四十代の後悔、そして七十代の諦念と愛おしさ。年齢を重ねるとは、過去の自分を捨て去ることではなく、かつての自分たちを優しく抱きしめ直していくこと。時間と記憶の狭間で繰り広げられる、静かで温かな再生の物語。
















