『価値観の夜に時計が逆回る』



まえがき


 人は、自分が思っている以上に、“価値観”で人生を選んでいるのかもしれません。


 若い頃は、お金があれば幸せになれると思っていました。

 高級車に乗れば人生が変わる気がしたし、ブランド物を持てば“大人”になれる気もしていました。


 けれど年齢を重ねるにつれ、人は少しずつ気づき始めます。


 本当に落ち着く店。

 本当に心が休まる会話。

 本当に自然に笑える相手。


 そういうものは、意外と派手ではなく、むしろ地味で、静かで、当たり前の場所にあったりするのだと。


 この物語は、そんな“価値観”の話です。


 もし、あなたの価値観が今とは少し違っていたら――

 もし、別の選択をしていたら――

 もし、別の誰かを愛していたら――


 あなたの人生は、どんな景色になっていたのでしょう。


 高級店に囲まれた人生。

 ブランドに包まれた人生。

 海外で暮らす人生。

 誰もが一度くらいは憧れるような世界。


 けれど、そのどれもが“幸せ”とは限らない。


 なぜなら人は、最後には“自分が自然に呼吸できる場所”へ戻っていくからです。


 還暦を過ぎると、人生は少し静かになります。


 ですがその静けさの中で、若い頃には見えなかったものが見えてくる。


 この物語は、そんな年齢になったひとりの男が、

 いくつもの世界線を巡りながら、

 最後に「自分の人生」を見つけ直す話です。


 読み終えたあと、

 あなた自身の“自然に笑える場所”を、

 少しだけ思い出していただけたなら幸いです。





第一章 価値観の夜に時計が逆回る

 還暦を越えると、人生は急に“静か”になる。

 若い頃は、仕事に追われ、子どもに追われ、時間に追われていた。だが六十を過ぎると、追いかけてくるものが減り、代わりに“思い出”が追いついてくる。

 その夜もそうだった。

 私は台所のテーブルに肘をつき、孫の写真を眺めていた。

 長女の子は、私の若い頃にそっくりだ。眉の形も、笑ったときの口元も、まるでコピーしたようだ。

 次女の子は、妻の笑顔をそのまま受け継いでいる。あの、外遊びが好きで、いつも太陽みたいに笑っていた彼女の笑顔だ。

 「……大きくなったな」

 写真に向かって呟くと、妻が湯呑みを置いた。

 「あなた、また写真見てるの? ほんと好きねえ」

 「いや、なんか……落ち着くんだよ」

 妻は笑った。

 「あなたって昔からそうよね。高級なものには興味ないくせに、家族の写真だけは宝物みたいに扱うんだから」

 私は苦笑した。

 「高級なもんは落ち着かん。どうも性に合わん」

 妻は湯呑みをすすりながら言った。

 「あなたの“価値観”ってやつね」

 その言葉に、私はふと遠い昔を思い出した。

 ――価値観。

 若い頃は、そんな言葉を使う男は嫌いだった。偉そうで、説教臭くて、自分を正当化するための言い訳に聞こえた。

 だが六十を過ぎると、その言葉が妙にしっくりくる。

 高級店が苦手で、場末の居酒屋が好きで、ブランドより無印の質感を選び、派手さよりも素朴な笑顔を好む。

 そんな価値観が、私の人生をゆっくりと形づくってきた。

 「……まあ、これで良かったんだろうな」

 そう呟いた瞬間だった。

 壁の時計が、コチ、コチ、と逆に動き始めた。

 最初は老眼のせいかと思った。だが、秒針は確かに逆走している。

 分針も、時針も、まるで人生を巻き戻すように回り出した。

 「おいおい……なんだこれ」

 立ち上がろうとしたが、椅子ごと後ろへ引っ張られるような感覚に襲われた。

 視界が白く弾け、耳鳴りがして、身体がふわりと浮いた。

 次の瞬間、私はまったく別の世界に立っていた。


第二章 高級フレンチの悪夢

 高級フレンチの悪夢から逃げ出した私は、店を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。

 次に目を開けると、そこは銀座の街角だった。

 夜の銀座は、六十を過ぎた今でもどこか落ち着かない。若い頃から、私はこの街が苦手だった。理由は簡単だ。高級店が多すぎる。

 私は高級店に入ると、ナプキンの折り方でパニックになる男だ。フォークが三本並んでいるだけで、「これは罠か?」と疑ってしまう。

 そんな私が、なぜか銀座のど真ん中に立っている。

 しかも、目の前には“絶対に自分とは縁がないはずの店”があった。

 店名はフランス語で、読めるようで読めない。ドアマンは黒いスーツで直立不動。店の前には黒塗りの車が並んでいる。

 私は思わず後ずさりした。

 (いやいや、これは違う。私が来る場所じゃない)

 逃げようとしたその瞬間、ドアマンが深々と頭を下げた。

 「加藤様、本日もお待ちしておりました」

 ……加藤様? 私が?

 私は思わず周囲を見回した。同じ名字の誰かがいるのかと思ったが、どう見ても私に向かって言っている。

 「どうぞ、いつもの席へ」

 いつもの? 私が? この店に?

 私は半ば強制的に店内へ案内された。

 中に入ると、空気が違った。高級店特有の“静かな圧力”がある。

 照明は暗く、テーブルには白いクロス。ナプキンは芸術作品のように折られている。

 私は思った。

 (ああ……これは悪夢だ)

 席に案内されると、テーブルには小さな金属プレートが置かれていた。

 《KATO》

 私は震えた。

 (なんで名前が刻まれてるんだ……? ここは私の縄張りじゃないぞ……?)

 店員がワインリストを差し出した。

 「本日は、ロマネ・コンティのご用意もございます」

 私は心の中で叫んだ。

 (帰りたい……!)

 だが、店員は続ける。

「加藤様は、当店の“プラチナ会員”でございますので、特別にご案内できる銘柄がございます」


 プラチナ? 私が? この私が?

 私は悟った。

 (これは……“価値観が真逆だった場合の人生”だ)

 つまり、高級店が大好きで、ブランドを誇らしげに持ち、場末の居酒屋など見向きもしない――そんな“別の私”が生きてきた世界線。

 店員が料理の説明を始めた。

 「本日の前菜は、北海道産の雲丹を使ったムースでございます。こちらをまず香りでお楽しみいただき……」

 私は思った。

 (いや、雲丹は軍艦巻きで食べたい……)

 料理が運ばれてくるたびに、私は心の中でツッコミを入れ続けた。

 「こちらは、フランス産の鴨を四十八時間かけて低温調理したものです」

 (焼き鳥の“ねぎま”の方が好きだ……)

 「こちらは、トリュフを贅沢に使ったリゾットでございます」

 (トリュフより、ラーメンの背脂の方が落ち着く……)

 食べれば食べるほど、私は自分が“この世界線の住人ではない”ことを痛感した。

 店員が言った。

 「加藤様、デザートはどうなさいますか? 本日は特別に、“加藤様専用メニュー”もご用意しております」

 私は叫んだ。

 「すまん、ちょっと外の空気を吸ってくる!」

 店員が驚いた顔をしたが、私は構わず店を飛び出した。

 外に出た瞬間、視界が白く弾けた。

 (頼む……次はもう少しマシな世界線であってくれ)



第三章 ブランドお嬢様との結婚世界線

 ブランドお嬢様の世界線から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。

 次に目を開けると、そこはマンションのエントランスだった。

 白い大理石の床。天井のシャンデリア。空気がやたらと香水の匂いを含んでいる。

 私は思わずつぶやいた。

 (……これは、絶対に私の生活圏じゃない)

 その時、エレベーターが開き、ひとりの女性が現れた。

 全身ブランド。バッグはロゴが主張しすぎて、もはや“歩く広告塔”のようだ。

 彼女は私を見るなり、当然のように腕を絡めてきた。

 「あなた、今日は早かったのね」

 ……あなた? 私が? このブランドの塊のような女性の夫?

 私は心の中で叫んだ。

 (やめてくれ、これは絶対に違う世界線だ)

 

■ブランドの家

 部屋に入ると、そこはモデルルームのように整いすぎていた。

 生活感が一切ない。雑誌の撮影用かと思うほどだ。

 ソファは白。テーブルも白。床も白。

 私は思った。

 (こんな家で醤油をこぼしたら死刑だな……)

 妻(らしい女性)が言った。

 「あなた、また無印なんて買ってきてないでしょうね?」

 私は反射的に背筋を伸ばした。

 「い、いや……」

 「あなたの“質感がどうのこうの”っていう価値観、あれ本当にやめてほしいのよね。ブランドじゃないと、気分が上がらないの」

 私は悟った。

 (ああ、これは“価値観が真逆だった場合の結婚生活”だ)

 

■休日の過ごし方の地獄

 妻は続けた。

 「ねえ、今度の休日はどうする? 新作のバッグを見に行きたいの。あなたのカードで」

 私は思わず聞き返した。

 「……カードで?」

 「そうよ。あなた、プラチナカード持ってるじゃない。あれ、使わないと意味ないでしょ?」

 私は心の中で叫んだ。

 (いや、意味があるとかないとかじゃなくて……そもそも私はプラチナカードなんて持ってない!)

 妻はさらに続ける。

 「それに、あなたの服も買い替えましょう。その“無印っぽいシャツ”、ほんとやめてほしいの」

 私は胸を押さえた。

 (無印のシャツを否定されたのは人生で初めてだ……)

 

■価値観のズレが生む小事件

 夕食の時間になった。

 妻が言った。

 「今日はデリバリーにしたわ。フレンチのコースよ」

 私は思わず聞き返した。

 「……家でフレンチ?」

「そうよ。あなた、外食ばかりじゃ疲れるでしょ? たまには家でゆっくり高級料理を楽しみたいの」


 私は思った。

 (いや、家で食べるなら焼き魚と味噌汁がいい……)

 料理が運ばれてくると、妻はスマホを構えた。

 「ちょっと待って。写真撮るから」

 私は箸を持ったまま固まった。

 (いや、冷める……)

 妻は言った。

 「あなた、ほんとセンスないわね。こういうのは“映え”が大事なのよ」

 私は悟った。

 (ああ……これは無理だ)

 

■逃走

 妻が言った。

 「ねえ、来月の記念日だけど、銀座の新しい高級レストランを予約しておいたわ。あなた、ああいう場所が似合うんだから」

 似合わない。絶対に似合わない。

 私は高級店に入ると、ナプキンの折り方でパニックになる男だ。

 私は思わず叫んだ。

 「すまん、ちょっと外の空気を吸ってくる!」

 玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。

 (頼む……次はもう少しマシな世界線であってくれ)



第四章 西洋女性と結婚した世界線

 ブランドお嬢様の世界線から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。

 次に目を開けると、そこは――白かった。

 壁が白い。床も白い。家具も白い。窓から差し込む光まで白く感じる。

 私は思わずつぶやいた。

 (……ここはどこだ?)

 キッチンから声がした。

 「Honey, breakfast is ready!」

 ……ハニー? 私が? 誰に?

 キッチンに立っていたのは、金髪で背の高い女性だった。映画に出てくるような、理想的な西洋の奥さんというやつだ。

 彼女は笑顔で言った。

 「You always wake up late. Come on, kids are waiting.」

 キッズ? 子ども? 私の?

 リビングの奥から、ハーフの子どもたちが走ってきた。

 「Dad! Dad!」

 私は思わず後ずさりした。

 (おいおい……これは夢か? それとも、若い頃の“あの妄想”が具現化した世界線か?)

 

■アメリカナイズされた“別の自分”

 妻(らしい女性)が言った。

 「Today is your turn to take them to school. Don’t forget their lunch boxes.」

 私は震える声で答えた。

 「え、ええと……味噌汁は?」

 妻は首をかしげた。

 「Miso soup? You mean that salty soup you like? I can make it for dinner.」

 私は胸を押さえた。味噌汁を“that salty soup”と呼ばれたのは初めてだ。

 子どもたちが言った。

 「Dad, can we have pancakes again tonight?」

 私は思った。

 (いや、味噌汁が飲みたい……)

 妻が笑顔で言う。

 「You know, you’re more American than me now. You never eat Japanese food anymore.」

 私は叫びそうになった。

 (そんなはずはない! 私は毎日、味噌汁と焼き魚で生きてきた男だ!)

 しかし、この世界線の私は、どうやら“アメリカナイズされた男”らしい。

 

■文化のズレが生む小さな痛み

 朝食のテーブルには、パンケーキ、ベーコン、スクランブルエッグ。

 私はフォークを持ちながら思った。

 (いや、朝は白米と味噌汁だろ……)

 妻が言った。

 「By the way, your mother called. She said she misses you. You should visit Japan sometime.」

 ……日本に“帰る”ではなく、“訪れる”と言われた。

 その瞬間、胸の奥がズキンと痛んだ。

 (ああ……これは違う。これは、私の人生じゃない)

 

■子どもたちの言葉

 子どもたちが学校へ行く準備をしながら言った。

 「Dad, can you help me with my homework? It’s about American history.」

 私は思わず聞き返した。

 「……日本史じゃなくて?」

 「Japan? Dad, you’re not from Japan. You were born here!」

 私は固まった。

 (え……? この世界線の私は、日本に生まれていない?)

 妻が笑いながら言った。

 「Honey, you always forget. You moved here when you were a baby. You’re basically American.」

 私は思った。

 (いや、私は“基本的に日本人”だ……!)

 

■逃走

 妻が言った。

 「Honey, after you drop the kids, can you pick up some groceries? We’re out of maple syrup.」

 私は叫びそうになった。

 (いや、味噌が切れてるなら分かるけど……メープルシロップが切れて困る人生なんて知らない!)

 私は玄関へ走った。

 「Honey? Where are you going?」

 振り返る余裕もなく、私は外へ飛び出した。

 視界が白く弾けた。

 (頼む……次は味噌汁の匂いがする世界線であってくれ)


第五章 ハワイ移住の世界線

 西洋女性との世界線から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。

 次に目を開けると、そこは――青かった。

 空が青い。海が青い。ついでに私のサーフパンツも青い。

 潮の匂いが鼻をくすぐり、波の音が胸の奥に響く。

 私は思わず呟いた。

 「……ここは、ハレイワか?」

 若い頃、娘たちが外国人と結婚するかもしれないと想像したとき、ついでに自分もハワイに住む妄想をしたことがある。その妄想が、どうやら現実になっているらしい。

 

■ハレイワの朝

 家の前にはサーフボードが立てかけられ、庭にはパパイヤの木が揺れている。

 私は自分の腕を見た。真っ黒に焼けている。

 (……誰だ、この健康的な腕は)

 そこへ、隣の家の男が声をかけてきた。

 「Yo, Kato! Waves are perfect today! You coming?」

 私は思わず胸を張った。

 「Of course!」

 ……と言ったものの、サーフィンなど一度もやったことがない。

 だが、この世界線の私は、どうやら“ハレイワのローカルサーファー”らしい。

 

■伝説のサーファー(らしい)

 海に出ると、周りのサーファーたちが声をかけてくる。

 「Kato! Show us your legendary drop-in!」

 レジェンダリー? 私が? 何を?

 私はボードに乗り、波に向かって漕ぎ出した。

 次の瞬間、派手に転んだ。

 海の中でぐるぐる回され、鼻に海水が入り、命の危険すら感じた。

 浜に戻ると、ローカルたちが笑いながら言った。

 「Kato, you okay? You’re not young anymore, man!」

私は思った。


 (いや、若くても無理だ……)

 

■夢の島の“現実”

 家に戻ると、妻(らしい女性)が言った。

 「あなた、またサーフィンで転んだの? 医療費が高いんだから、気をつけてよ」

 医療費。そうだ。ハワイは物価も医療費も高い。

 冷蔵庫を開けると、牛乳が日本の倍の値段で、卵は金のように扱われていた。

 妻がため息をつく。

 「あなた、最近仕事どうなの? 観光業は不安定だし、そろそろ日本に帰ることも考えたら?」

 私は胸を押さえた。

 (ああ……これも違う。ここは“夢の場所”だけど、私の人生じゃない)

 

■ハレイワの夕暮れ

 夕暮れの海を見ながら、私は思った。

 ハワイは美しい。風も、海も、空も、すべてが絵葉書のようだ。

 だが――

 味噌汁の匂いがしない。

 焼き鳥の煙も、裏道のラーメン屋の湯気も、どこにもない。

 私は玄関へ向かった。

 「どこ行くの?」
 妻が聞く。

 私は振り返らずに言った。

 「味噌汁の匂いがする方へ……」

 外へ飛び出した瞬間、視界が白く弾けた。

 (頼む……そろそろ“本来の世界線”に戻してくれ)



第六章 本来の世界線の妻との出会い

 ハワイの海から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。

 次に目を開けると、そこは――夕暮れの路地だった。

 アスファルトの匂い。遠くで聞こえる自転車のブレーキ音。焼き鳥屋の煙が、ゆっくりと空に溶けていく。

 私は思わず深呼吸した。

 (ああ……この匂いだ)

 高級フレンチでも、ブランドの家でも、ハワイの海でもない。

 私がずっと落ち着いてきた、“普通の日本の裏道”の匂いだ。

 

■彼女の登場

 その時、路地の向こうから女性が歩いてきた。

 背伸びをしない服装。ブランドのロゴはどこにもない。髪を後ろでひとつに結び、少し日焼けした頬に、自然な笑顔が浮かんでいる。

 彼女は私を見ると、軽く手を振った。

 「お待たせ。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃって」

 私は胸の奥がじんわりと熱くなった。

 (……帰ってきた)

 この世界線こそ、私が生きてきた“本来の人生”だ。

 

■初デートの裏道

 彼女は言った。

 「ねえ、今日はどこ行く? あの焼き鳥屋でもいいし、ラーメンでもいいよ」

 私は思わず笑った。

 「……焼き鳥にしようか。床がちょっとベタベタしてる店」

 彼女はケラケラと笑った。

 「あなた、ほんとそういう店好きだよね。でも、私も好きだよ。なんか落ち着くし」

 その笑顔を見た瞬間、私は確信した。

 (ああ、やっぱりこの人だ)

 高級店ではなく、ブランドでもなく、ハワイの海でもなく。

 この“普通の裏道で笑う彼女”こそ、私の価値観の終着点だった。

 

■価値観がぴたりと合う瞬間

 焼き鳥屋に入ると、店主が「いらっしゃい」と言いながらタオルで額を拭いた。

 床は少しベタつき、壁には昭和のポスター。煙がゆらゆらと漂っている。

 彼女は席に座るなり言った。

 「こういう店の方が、なんか“生きてる”って感じがするよね」

 私は思わず聞き返した。

 「……生きてる?」

 「うん。高級店って、綺麗だけど“息してない”感じがするの。ここは、ちゃんと人の匂いがする」

 私は胸の奥がじんわりと温かくなった。

 (価値観が合うって、こういうことなんだな)

 

■選んだのではなく、選び合った

 彼女がビールを飲みながら言った。

 「ねえ、あなたってさ、なんでそんなに“普通の店”が好きなの?」

 私は少し考えてから答えた。

 「……背伸びしなくていいから、かな。それに、君が一番自然に笑う場所だから」

 彼女は照れたように笑った。

 「そんなこと言うと、また好きになっちゃうよ?」

 私は思った。

 (いや、もう十分すぎるほど好きだ)

 その瞬間、遠くで時計の針が動く音がした。

 コチ、コチ、コチ――
 今度は、正しい方向へ。

 私は悟った。

 (ああ……もう旅は終わりだ)

 この世界線こそ、私が選び、そして選ばれた人生。

 私は彼女の手を取り、夕暮れの裏道を歩き出した。

 焼き鳥の煙が、ゆっくりと夜空に溶けていった。



最終章 現代への帰還

 夕暮れの裏道を、彼女と並んで歩いていた。

 焼き鳥の煙がゆっくりと空へ溶けていき、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。

 その瞬間、またあの“時計の音”がした。

 コチ、コチ、コチ――
 今度は、確かに前へ進む音だ。

 私は目を閉じた。

 (ああ……もう戻る時間か)

 目を開けると、私は台所の椅子に座っていた。

 壁の時計は、何事もなかったかのように正しい時間を刻んでいる。

 テーブルの上には、孫の写真。

 私は深く息をついた。

 (長い旅だった……)

 

■娘たちの帰宅

 その時、玄関の方から声がした。

 「お父さん、ただいまー!」

 長女が帰ってきた。その後ろには、背の高い、優しそうな男が立っている。

 「こんにちは、お父さん。今日は娘さんをお借りしました」

 彼は少し照れたように笑った。

 次女も続いて帰ってきた。その後ろには、また背の高い、優しそうな男。

 「こんばんは。今日は家族でご飯ですか?」

 私は思わず笑った。

 (なるほど……うちの娘たちは、“普通で、優しくて、よく笑う男”を選んだのか)

 それは、私がずっと大切にしてきた価値観そのものだった。

 

■妻の笑顔

 妻が台所から顔を出した。

 「あなた、みんな揃ったわよ。そろそろご飯にしましょう」

 私は立ち上がりながら思った。

 (ああ……これが“本来の世界線”だ)

 娘たちの笑い声。婿たちの穏やかな会話。妻の、昔と変わらない笑顔。

 そのすべてが、私の価値観の延長線上にある。

 

■息子の未来

 ふと、まだ独身の息子のことを思う。

 (あいつはどんな娘を連れてくるのだろう)

 白人でも、黒人でも、ハーフでも。誰でもいい。本人が幸せなら、それでいい。

 ……だが、きっと彼も、私と同じように“普通の日本女性”を選ぶ気がする。

 そんな予感がした。

 

■小泉八雲の言葉

 ふと、小泉八雲の言葉が頭をよぎる。

 「日本の女性は、この国の最高傑作だ」

 もちろん、それは時代背景のある言葉だ。今の価値観とは違う部分もある。

 だが私は思う。

 (最高傑作かどうかは知らない。けれど、私は“この国の女性”に救われてきた)

 妻が笑いながら言った。

 「あなた、何ぼーっとしてるの。早く座って」

 私は席に着き、家族の顔を見渡した。

 

■価値観とは何か

 ああ、価値観とは――

 派手さでも、正しさでも、理屈でもなく、“自分が自然に笑える場所へ導く癖”のようなものだ。

 私は静かに箸を取った。

 「いただきます」

 その言葉が、長い旅の終わりを告げた。


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あとがき

 人生を振り返ると、派手な出来事よりも、静かな選択の積み重ねが自分を形づくってきたのだと感じます。

 高級店が苦手で、場末の店が好きで、ブランドより質感を選び、派手さより素朴な笑顔を好む。

 そんな“価値観”が、私の人生をゆっくりと導いてきました。

 もし価値観が違っていたら、私はどんな人生を歩んでいたのか。そんな思いから、この物語は生まれました。

 高級フレンチの世界線も、ブランドお嬢様の世界線も、ハワイ移住の世界線も、どれも“ありえたかもしれない人生”です。どれも魅力的で、どれも少し滑稽で、どれもどこか寂しい。

 けれど、私は最終的に“普通の裏道で笑う彼女”を選びました。

 その選択が、娘たちの笑顔につながり、孫の写真につながり、今の静かな暮らしにつながっています。

 価値観とは、派手な旗のようなものではなく、もっと小さくて、もっと静かで、もっと個人的なものです。

 自分が自然に笑える場所へ導く癖。

 それが価値観の正体なのだと思います。

 読んでくださったあなたの人生にも、きっと“自然に笑える場所”があるはずです。

 その場所を大切にしてほしい――
 そんな願いを込めて、この本を閉じます。


まばたき同期局
細胞同一性管理局の憂鬱


【まえがき】

人は、三ヶ月で別人になる。

——そんな話を、どこかで聞いたことがある。

もちろん実際には、
すべての細胞が綺麗さっぱり入れ替わるわけではないらしいし、
脳細胞はそう簡単には入れ替わらないとも聞く。

けれど、ふと思うことがある。

もし本当に、
三ヶ月前の自分と今の自分が別人なのだとしたら。

昔の失敗も、
恥ずかしい記憶も、
誰かに言われた酷い言葉も、
全部「前の自分」の出来事として、
少しだけ軽くなるのではないか、と。

逆に、
それでもなお残り続ける感情があるならば、
それは案外、
かなり本物なのかもしれない。

好きだった音楽。
忘れられない景色。
どうしても気になる誰か。

細胞が入れ替わっても、
少しずつ価値観が変わっても、
それでも残る想い。

この物語は、
そんな「変わり続けること」と、
「それでも変わらないもの」との間で、
不器用に抵抗し続ける人たちの話です。

役所仕事のように、
人生にも申請書が必要なら、
恋にも、
更新手続きが必要なのかもしれません。

けれど本当は、
人が誰かを好きになる瞬間に、
そんな書類は一枚も存在しないのでしょう。

夏の終わり、
まばたきするほどの一瞬の中にある、
小さな物語を、
どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。




序章

僕らの身体の細胞は
3ヶ月ほどで
すべてが入れ替わるそうだ
すれば
今日の僕は
3ヶ月前の僕ではない!
なんて思うのならば
多くのことから
解放されるのでは?
そう
まばたきしてる間に
すでに
多くの細胞は入れ替わっていて
貴女を想う気持ちすらも
わずかに
入れ替わりつつある
それでも
変わらぬ気持ちをと
入れ替わる早さに抵抗したら
入れ替わる早さに抵抗し続けたなら
今の心は
ご褒美となって
増幅するのかもしれない
すれば
いつまでも
嫌な過去を引きづることなく
新たな未来へと
進めるかもと
それでも
夏の終わりには
振り返ることばかり
眩しさゆえ
まばたきしただけで
忘れ去ることも
出来るかもしれないけれど…



第一章 申請の朝

僕らの身体の細胞は
3ヶ月ほどで
すべてが入れ替わるそうだ
私が勤務する霞が関の「細胞同一性管理局」、通称まばたき局の第三階窓口は、毎朝九時きっかりに不毛な騒騒しさで幕を開ける。
「ですから、あなたが三ヶ月前のあなたであるという客観的証拠を提示していただかないと、この『細胞同一性確認申請書(様式第三号の二)』は受理できません」
私は、鼻の頭に汗を浮かべた中年の男に向かって、極めて事務的に、しかし一抹の哀れみを込めて言い放った。男は血走った目で私を睨みつけ、手元の『自己同一性継続誓約書』をバンバンと叩いた。
「証拠って何だよ! 俺は俺だろ! 昨日だって妻と一緒に夕飯のハンバーグを食ったんだ! ところが今朝になったら突然、妻が『あなた誰?』って言い出して、離婚届を突きつけてきやがった! 昨日までの俺と今日の俺は同じ俺だ、細胞が入れ替わったって俺の魂は……」
「お客様。魂の連続性については、現在厚生労働省と宗教法人庁の間で協議中であり、当確窓口の管轄外でございます。本局が取り扱うのは、あくまで『法的に細胞が完全に入れ替わったとされる三ヶ月というスパンにおいて、申請者が依然として同一人物であると自己申告し、かつ過去の記録と照合可能な場合』に限られます。お客様は昨日で前回更新から三ヶ月と一日が経過しておりました。残念ながら、法的にはあなたは『別の中年男性』として新たに戸籍を申請し直す必要がございます」
「そんなバカな! じゃあ俺の住宅ローンはどうなる!」
「旧・あなた様の債務ですので、新・あなた様には支払い義務は発生いたしません。ただし、ご自宅の所有権も旧・あなた様のものとなりますので、ただちに退去していただく必要があります」
「ふざけるなあああ!」
男はわめきながら、警備員によってズルズルと引きずられていった。私は小さくため息をつき、「次の方、どうぞ」と番号札のボタンを押した。ガチャン、という重々しいスタンプの音が隣の窓口から響く。スタンプには「同一性承認済」と刻まれている。
次に来たのは、チワワを抱いた老婦人だった。
「この子の細胞も三ヶ月で入れ替わるのかしら。心配で夜も眠れませんの」
「恐れ入りますが、ペットは『ペット同一性条例』の対象外となっております。犬は犬であり続けますので、どうぞご安心してお帰りください」
私は慇懃に頭を下げた。続いて現れたのは、全身に刺青を入れた屈強な男だった。彼は窓口の前に立つなり、勝ち誇ったように笑った。
「おう、俺は今日で三ヶ月経った。だから俺は別人だ。前の俺がやったコンビニ強盗の罪は、今の俺には無関係だ。更新は拒否する!」
「なるほど。自己同一性の更新を拒否されるのですね。承知いたしました」私は手元の『意図的自己同一性放棄届』を取り出し、素早くチェックを入れた。「しかしながら、お客様の指紋およびDNA構造が以前の犯罪者と一致する場合、警察当局は『極めて酷似した別人による連続犯行』とみなし、即座に逮捕する権限を有しております。あ、ほら、後ろに」
男が振り向くと、すでに三人の警察官が手錠を構えて立っていた。「な、なんだと……俺は別人なのに!」と叫ぶ男が連行されていくのを、私は静かに見送った。
これが私の日常である。私の名前は入替しゅん。御年三十三歳、冴えない、生真面目、そして内向的な公務員である。私は毎日、自分が誰であるか証明しようと必死になる人間たちを相手に、書類の不備を指摘し続けている。
局長室のすりガラスの向こうでは、局長が今日も一日中、結跏趺坐で瞑想しているシルエットが見える。彼は「自己の連続性とは幻想である」という持論を持つ変人で、局長室から出てくることはめったにない。
私はふと、自分の手を見た。この手の細胞も、三ヶ月前とはすっかり入れ替わっているのだ。ならば、今の私は、三ヶ月前の私と同じ入替しゅんだと言えるのだろうか。まあ、どうでもいいことだ。私は書類の束を整え、再び番号札のボタンを押した。
今日の私も、ただひたすらに判子を押し続けるだけの、平坦な機械の部品に過ぎないのだから。



第二章 瞬子さん、来る
すれば
今日の僕は
3ヶ月前の僕ではない!
その平坦な私の日常に、突如として予測不可能なバグが発生した。隣の第二窓口に異動してきた同僚、瞬子(まばたきこ)さんである。
年齢不詳。透き通るような白い肌と、長い黒髪。そして何より特徴的なのは、彼女が極端に瞬きをしないことだった。私は仕事の合間に、こっそりと彼女の横顔を観察していたが、五分経っても、十分経っても、彼女の長い睫毛はピクリとも動かなかった。
「入替さん」
突然名前を呼ばれ、私はビクッと肩を震わせた。瞬子さんが、束になった『自我連続性証明書(附表四)』を持ってこちらを見ていた。
「はい、なんでしょう」
「この書類、第七項目の『過去三ヶ月以内の著しい精神的変化』の欄が空白なのですが、受理してよろしいのでしょうか」
彼女の目は、深海の底のように静かで、一切の感情を読み取ることができなかった。私は書類を受け取りながら、彼女の指先が私の手にわずかに触れたのを感じた。その瞬間、私の胸の奥で、何かがパチンと弾けるような感覚があった。
「あ、ええと……これは軽微な記載漏れとみなして、口頭で確認すれば結構です。『特に無し』と追記印を押しておいてください」
「承知いたしました」
瞬子さんは静かに頷き、自分の席に戻っていった。私は自分の手を見つめ、激しく動揺していた。今の感覚はなんだ。これは、法的に申告が義務付けられている『対人感情の変動』ではないのか。
我が国の『細胞同一性法』によれば、特定の他者に対する好意、憎悪、あるいは執着といった強い感情が発生した場合、ただちに『様式第七号「対人感情変動届」』を提出しなければならない。なぜなら、感情という不確定要素は、細胞の入れ替わりに伴う自己同一性の維持に重大な影響を及ぼす可能性があるからだ。
私は引き出しから様式第七号を取り出し、ボールペンを握った。『対象者氏名:瞬子。発生した感情の種類:……恋?』
バカな。三十三歳の公務員が、出会って三日の同僚に恋だと? 私は慌てて書類をシュレッダーにかけた。これは単なる動悸だ。カフェインの摂りすぎだ。
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、瞬子さんが入ってきた。
「入替さんは、いつもブラックですか」
彼女は瞬きをしないまま、私に問いかけた。
「ええ、まあ。目が覚めるので」
「私は、自分が何を好きだったか、よく忘れてしまうのです。細胞が新しくなるたびに、味覚も変わっていくような気がして」
彼女の言葉には、どこか奇妙な響きがあった。私は、彼女の静寂に満ちた佇まいに、どうしようもなく惹きつけられている自分を自覚せざるを得なかった。
「入替さんは、三ヶ月前の自分と同じ自分だと、胸を張って言えますか?」
「ええ、まあ。書類上は」
「書類上は……」彼女は初めて、ふふっと小さく笑った。「面白い方ですね、入替さんは」
その微かな笑顔を見た瞬間、私は再び様式第七号を提出すべきか真剣に悩み始めた。午後の業務中、私は書類の決裁欄に「承認」と書くべきところを、あやうく「好き」と書きそうになり、同僚の佐藤から「入替くん、どうかした? 顔が赤いよ」とからかわれる始末だった。
私は、未申告の感情という法的な時限爆弾を抱え込んでしまったのだ。



第三章 更新忘れ
なんて思うのならば
多くのことから
解放されるのでは?
恋というものは、人間の認知機能を著しく低下させるらしい。瞬子さんのことばかり考えていた私は、公務員として、いや、この国の市民として絶対にあってはならない致命的なミスを犯してしまった。
自分自身の『細胞同一性確認申請』の更新を、一日忘れたのである。
翌朝、コンビニでコーヒーを買おうとして、電子マネーが決済エラーを起こしたとき、私はまだ事の重大さに気づいていなかった。「端末の調子が悪いようですね」と店員に愛想笑いをし、現金を出そうとしたが、ATMでもキャッシュカードが「このカードは現在無効です」という無機質なメッセージを吐き出した。
嫌な予感がして、急いで自宅のマンションに戻ると、オートロックの顔認証システムが私を完全に拒絶した。「エラー:登録されていない人物です」
私はスマートフォンのカレンダーを確認した。昨日が、私の更新期限の最終日だった。
「終わった……」
法的に、私は昨日までの『入替しゅん』ではなくなった。私はただの『身元不明の新規細胞集合体』に成り下がったのだ。
慌てて職場であるまばたき局に駆け込んだが、入り口の入館ゲートが激しい警告音を鳴らした。警備員が飛んできて、私を取り押さえた。
「離してください! 私はここの第三窓口担当の入替です!」
騒ぎを聞きつけて、同僚の佐藤がやってきた。
「佐藤! 俺だ、入替だ! 頼む、ゲートを開けてくれ!」
しかし佐藤は、まるで初めて見る珍獣でも観察するかのように私を見下ろし、冷たく言い放った。
「初めまして。あなたがかつての入替さんの細胞を引き継いだ方ですね。しかし、客観的事実としてあなたは別人です。部外者を中に入れるわけにはいきません」
「ふざけるな! 昨日まで一緒に仕事をしていただろう!」
その時、瞬子さんが佐藤の後ろから姿を現した。私は縋るような思いで彼女を見た。
「瞬子さん! 助けてください、私です!」
瞬子さんは、瞬き一つせずに私をじっと見つめ、そして首を傾げた。
「あなた……誰?」
その一言は、どんな物理的な打撃よりも深く私の胸をえぐった。私が抱えていた未申告の恋心さえも、法的には「かつての入替しゅん」の所有物であり、今の私には何の権利もないのだ。
私は警備員に外へ放り出された。財布には小銭が数十円。旧・私の口座から一円も引き出すことはできない。コンビニで百円のパンすら買えない。
その日は、日比谷公園のベンチで夜を明かすことになった。秋の気配が近づく夜風は冷たく、私は体を丸めた。一羽のハトが、私の足元に寄ってきた。
「お前も、三ヶ月で細胞が入れ替わるのか?」
私はハトに話しかけた。ハトは首をポッポと振った。
「いいよな、お前らは。自分が誰かなんて、証明しなくていいんだから」
昨日までの私は、確かに私だった。しかし、書類一枚の提出を怠っただけで、世界は私を拒絶した。過去の記憶も、瞬子さんへの想いも、すべては私のものではないと宣告された。なんて馬鹿馬鹿しい不条理だろう。
私は、真っ暗な空を見上げながら、激しい虚無感に襲われていた。



第四章 瞬間派の誘い
そう
まばたきしてる間に
すでに
多くの細胞は入れ替わっていて
翌朝、ベンチで凍えている私に声をかけてくる影があった。
「同志よ。システムの不条理に弾き出された哀れな魂よ」
見上げると、奇妙なシンボルマークの入ったジャンパーを着た男が立っていた。彼は私に温かい缶スープを差し出しながら、熱っぽく語り始めた。
「三ヶ月で同一性が失われるなどと、生ぬるい国家の欺瞞だ。真実はもっと残酷であり、かつ美しい。我々は一秒前の我々ですらないのだ!」
私はスープをすすりながら、ピンときた。彼らは「瞬間派」だ。まばたき局を敵視し、自己同一性の絶え間ない更新を主張する過激思想集団。
「私と一緒に来ないか。真の自己を見つける場所へ」
行くあてもない私は、男についていくことにした。たどり着いたのは、郊外の廃ボウリング場だった。薄暗いレーンの上に、何十人もの人間が等間隔で座り、時計の秒針に合わせて「更新!」「更新!」と叫びながら手を叩いている。異様な光景だった。
ボウリングのピンが並ぶ場所には、全身白装束の男が立っていた。彼が瞬間派の教祖「永劫(えいごう)」であるらしい。
「よく来た、迷える細胞群よ」永劫は深い声で言った。「君は昨日までの自分を失い、絶望しているのだろう。だが喜べ。一秒前の君も、すでに死んでいるのだから」
「言っている意味がよくわかりません」私は反論した。「私は、確かに瞬子さんへの想いを覚えています。書類がどうあれ、私の心は……」
「心など錯覚だ!」永劫は一喝した。「細胞は常に死に、生まれ変わっている。プランク時間の単位で、我々は別人に変異しているのだ。それを三ヶ月などという中途半端な期間で区切る国家こそが狂っている。毎秒、いや毎瞬、自分を更新し続けること。それこそが真の自由だ!」
信者たちが一斉に手を叩き、「更新! 更新!」と熱狂的に叫んだ。
私はその滑稽な儀式を見つめながら、ふと冷静になった。まばたきをする一瞬の間にも、確かに細胞は入れ替わっている。彼らの言うことには、奇妙な科学的真理が含まれている。三ヶ月ごとの面倒な申請も、毎秒の狂信的な更新も、本質的には同じ穴の狢だ。
「……同じことじゃないですか」
私は立ち上がり、永劫に向かって言った。
「国家もあなたたちも、変化という自然の摂理に怯え、無理やり枠にはめようとしているだけだ。私は……私は、変わっていく自分を受け入れた上で、それでも変わらないものがあると信じたい。瞬子さんへの想いだけは、誰にも、どの瞬間にも、更新させない!」
その言葉に、ボウリング場が静まり返った。永劫は目を細め、私を冷たく見下ろした。
「愚かな。固定された感情など、腐敗の始まりに過ぎん。つまみ出せ」
私は再び信者たちに両脇を抱えられ、廃ボウリング場の外へと放り出された。しかし、不思議と心は晴れやかだった。私は自分の中で、確固たる決意を固めていた。
もう、国にも、カルトにも頼らない。私は私の意志で、この未申告の感情を守り抜くのだと。



第五章 抵抗のご褒美
貴女を想う気持ちすらも
わずかに
入れ替わりつつある

それでも
変わらぬ気持ちをと
入れ替わる早さに抵抗したら
「瞬子さんへの想いだけは、絶対に更新しない」
私が路地裏でそう強く念じた瞬間、異変が起きた。胸の奥から、ポワァンという間抜けな音が鳴り、ワイシャツのボタンの隙間から、眩しいほどのピンク色の光が漏れ出したのだ。
「な、なんだこれは!?」
光は次第に強さを増し、私の体を包み込んだ。気がつくと、私の体は地面から十センチほど浮遊していた。髪の毛は静電気を帯びたように逆立ち、周囲の空気がパチパチと弾けている。
自然の摂理である細胞の入れ替わりに対し、強烈な意志で「変わらないこと」を抵抗し続けた結果、私の内部に蓄積された感情が、物理的なエネルギーとして発現したのだ。私はこれを密かに「ご褒美現象」と名付けた。
この未申告感情エネルギーの威力は凄まじく、かつ滑稽だった。
私が歩くと、路地裏に設置された自動販売機が狂ったように作動し、「ガチャン! ガチャン!」と無料で缶コーヒーを吐き出し始めた。街頭のラジオからは、なぜか昭和のコテコテの恋愛ソングばかりが流れ出し、交差点に近づくと、すべての信号が空気を読んだかのように青に変わった。散歩中の犬たちはリードを振り切って私の足元に群がり、尻尾を千切れんばかりに振っている。
街頭の大型ビジョンでは、架空のニュース番組が臨時速報を流していた。
『……現在、首都圏において、極めて高濃度の「未申告感情エネルギー」が観測されています。物理学者の素粒子博士によりますと、これは一個人の強烈な自己同一性維持の意志が、周囲の量子場に干渉しているものと見られ——』
私は戸惑いながらも、この不思議な力を利用することにした。浮遊状態のまま、かつての自分のマンションへ向かう。オートロックのパネルの前に立ち、「私は私だ!」と念じると、感情エネルギーが電気的に共鳴し、ドアが「ピッ、歓迎シマス、入替様」と鳴って開いたのだ。
「やった!」
自室に入り、シャワーを浴びて着替えを済ませた。しかし、安心したのも束の間、窓の外に黒いバンが数台停まるのが見えた。車の側面には「まばたき局・同期保安課」の文字。
彼らは、未申告の違法感情を抱えたままエネルギー体と化した私を、国家の脅威とみなして排除しに来たのだ。
「まずい!」
私は窓を開け、ベランダから飛び降りた。感情エネルギーのおかげで、ふわりと着地する。手には、昨日瞬子さんが貸してくれた『自我連続性証明書』の束だけを握りしめていた。
追跡劇の幕開けである。私の胸はピンク色に光り輝き、歩くたびに周囲に愛と平和と缶コーヒーをばら撒きながら、私は真夏の東京の街を駆け抜けていった。



第六章 夏の終わりの追跡
今の心は
ご褒美となって
増幅するのかもしれない

すれば
いつまでも
嫌な過去を引きづることなく
同期保安課の追手は執拗だった。彼らは「同一性測定器」という仰々しいアンテナを振り回し、「感情ガイガーカウンター」で私のピンク色の軌跡を追いかけてきた。
「目標、新宿方面へ逃走! 瞬きカウントメーターの数値、異常なし!」
私は皇居周辺から新宿、そして渋谷へと逃げ回った。夏の終わりの熱気が、アスファルトから立ち上っている。私の体から溢れる感情エネルギーは、疲労を忘れさせてくれたが、あまりにも目立ちすぎるのが難点だった。
渋谷のスクランブル交差点に差し掛かったとき、私は前方から見覚えのある姿が歩いてくるのを発見した。瞬子さんだ。彼女は保安課の隊員たちと一緒にいた。
「瞬子さん……! なぜ君が追手側に?」
私が立ち止まると、保安課の隊員たちが一斉に私を取り囲んだ。
「入替しゅん。未申告感情保持および細胞同一性法違反の容疑で確保する」
絶体絶命。そう思った瞬間、瞬子さんが動いた。彼女は瞬き一つせずに隊員たちの前に進み出ると、手に持っていたスタンプを隊員たちの額に次々と押し付けた。「却下」「却下」「却下」。
スタンプを押された隊員たちは、なぜかその場に崩れ落ちた。
「入替さん、こちらへ」
瞬子さんは私の手を引き、雑踏の中へ走り出した。私たちは地下鉄の駅に逃げ込み、息を切らせてホームのベンチに座り込んだ。
「瞬子さん、一体どういうことですか。あなたは私を忘れたのでは……」
「私は、あなたが誰かなんて最初からわかっていません。でも、あなたの胸から出ているその光が、私を呼んでいるような気がしたのです」
彼女は初めて、少しだけ悲しそうな表情を見せた。
「入替さん。私は『永続瞬子計画』の被験者なのです」
「えっ……?」
「まばたき局の極秘プロジェクト。瞬きを極限まで減らすことで、視覚情報の連続性を保ち、細胞が入れ替わっても自己同一性が維持できるかという非人道的な実験。だから私は、ほとんど瞬きをしません。でも、そのせいで、私は自分が誰なのか、何を感じているのか、すっかりわからなくなってしまったのです」
彼女の言葉に、私は言葉を失った。彼女は、システムによって感情を凍結された存在だったのだ。
「逃げましょう。どこか、誰も私たちの同一性を問わない場所へ」
私たちは無人の電車に乗り込んだ。追手はすぐそこまで迫っていた。私は残された感情エネルギーをすべて振り絞り、「動けええ!」と叫んで車両の制御盤に手を触れた。
ピンク色の光が車両全体を包み込み、電車は物理法則を無視して、滑るように一駅分だけ進んで停車した。滑稽だが、これが私の愛の力の限界だった。
私たちは廃駅の屋上へと登った。夕焼けが、真夏の東京を赤く染め上げていた。遠くで、夏の終わりを告げる蝉の声が聞こえる。
二人の間に沈黙が流れた。私の胸の光は、少しずつ穏やかな明滅に変わっていた。



第七章 まばたきひとつ
それでも
夏の終わりには
振り返ることばかり

眩しさゆえ
まばたきしただけで
忘れ去ることも
出来るかもしれないけれど…
午後五時。まばたき局の申請窓口が閉まる時刻。屋上の扉が重々しい音を立てて開き、一人の男が姿を現した。
ずっと局長室で瞑想していたはずの、局長だった。
「よくここまで逃げたな、入替くん」
局長はゆっくりと歩み寄りながら言った。その顔を見て、私は息を呑んだ。瞬間派の教祖「永劫」と瓜二つだったからだ。
「驚くことはない。永劫は私の双子の弟だ。我々は、国家の法とカルトの教義という両極端な方法で、人類の自己同一性の謎を解き明かそうとしていた。しかし、君は第三の道を示した」
局長は私の胸で微かに光るピンク色のエネルギーを見た。
「自己同一性とは抵抗である。流転する細胞への抵抗こそが、人間を人間たらしめる。抵抗は、すなわち愛だ。見事な証明だったよ」
「だったら、私たちを見逃して——」
「しかし」局長は首を横に振った。「システムは例外を許さない。君に最後通告をする。今ここでこの『特例更新申請書』にサインし、感情を申告して元の日常に戻るか。それとも、永遠に法的な別人として、追われ続ける生を選ぶか」
局長が差し出した書類を、私は見つめた。サインすれば、私は再び「入替しゅん」になれる。だが、それはこの感情を国家の管理下に置くことを意味する。
隣に立つ瞬子さんを見た。彼女は、やはり瞬き一つせず、ただ静かに夕日を見つめていた。
「私はもう、瞬きする方法を忘れてしまったの」
彼女は微笑みながら呟いた。その横顔は、あまりにも美しく、そして哀しかった。
私は決断した。
「こんな書類……」
私は局長から申請書をひったくると、ビリビリと破り捨てた。紙片が、夏の終わりの乾いた風に巻き上げられ、夕空へと舞い散っていく。
局長はため息をつき、「そうか」とだけ言って背を向けた。彼が去った後、屋上には私と瞬子さんだけが残された。
西日が強烈に差し込み、私の目を刺した。目が痛む。ずっと彼女を見つめ続けていたため、限界が近づいていた。
もし、ここで私がまばたきをしたら。
その一瞬の暗闇の間に、私の細胞はわずかに入れ替わり、この狂おしいほどの感情も、ほんの少しだけ摩耗してしまうのだろうか。この抵抗をやめれば、すべてを忘れ去って、楽になれるのだろうか。
「眩しいですね」
瞬子さんが、ぽつりと呟いた。
風が吹き抜け、破られた書類の欠片が陽光にきらめく。私の目に涙が滲み、視界がぐにゃりと歪んだ。彼女の輪郭が、光に溶けていくように見えた。
私は——




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【あとがき】

ここまで読んでくださって、
本当にありがとうございました。

この作品を書きながら、
私は何度も、
「自分とは何なのだろう」
という、答えのない問いについて考えていました。

人は毎日少しずつ変わっていきます。

好きだったものが変わり、
嫌いだったものが好きになり、
昔ほど怒らなくなったり、
逆に妙に涙もろくなったりする。

十年前の自分と、
今の自分とでは、
きっと考え方も、
価値観も、
かなり違っている。

それなのに、
私たちは平然と、
「昔から変わらない自分」
というものを信じて生きています。

それは不思議で、
どこか健気なことだと思うのです。

この作品に登場する
「細胞同一性管理局」は、
そんな人間の曖昧さを、
無理やり制度化したらどうなるだろう、
という発想から生まれました。

ですが書いているうちに、
これはSFというより、
むしろ恋愛の話なのだと気づきました。

変わっていく世界の中で、
誰かを想い続けること。

あるいは、
変わってしまった相手を、
それでも同じ相手だと信じ続けること。

恋とは、
ある意味で、
最も個人的な「自己同一性」の証明なのかもしれません。

そして、
もしこの作品を読み終えたあとに、
読者の皆様がほんの少しだけ、
過去の自分に優しくなれたり、
誰かへの想いを大事にしたくなったなら、
作者としてこれ以上嬉しいことはありません。

それではまた、
どこか別の物語で。

——次にお会いする頃には、
お互い、
少し別人になっているのかもしれませんが。

※本作はフィクションであり、実在の役所・人物・細胞とは無関係である。

『一億の屍を越えて』

― 賢者タイムに悟る聖戦 ―



【まえがき】

このタイトルを見て、
「なんだこれは」と思われた方へ。

はい。
たぶん、その感想で合っています。

本作は、
還暦を過ぎた男が、
ある土曜の夜に突如として
“白い宇宙戦争”へ巻き込まれる話です。

しかも、
戦っているのは、
一億の自分自身。

書いている本人も、
途中から
「自分は何を書いているのだろう」
と何度か思いました。

けれど、
妙なもので、
人間という生き物は、
あまりにもくだらないことを真剣に考え始めると、
時々、
変に哲学的な場所へ辿り着いてしまいます。

人は皆、
奇跡みたいな確率を勝ち抜いて生まれてきた。

それなのに、
日常の中で、
そのことをすぐ忘れてしまう。

仕事に疲れたり、
年齢を気にしたり、
孤独を抱えたり、
誰かと比べたり。

でも本当は、
ここに存在している時点で、
すでに「一等賞」なのかもしれません。

本作は、
そんな途方もなく馬鹿馬鹿しい、
しかし少しだけ切実な思いつきから始まりました。

下ネタで笑っていただいても結構です。
B級SFとして楽しんでいただいても嬉しいです。

ただもし、
読み終えたあとに少しだけ、
「明日もまあ、生きるか」
と思っていただけたなら、
作者としてこれ以上幸せなことはありません。

それでは、
白い宇宙の最前線へ、
どうぞ。




第一章:新宿ビッグバンと白い宇宙の呼び声

男と生まれたならば、避けては通れぬ戦いがある。
還暦を過ぎ、人生の酸いも甘いも噛み分けたはずの私、加藤誠一にとって、それは土曜の夜の静かな儀式だった。

「ふぅ……」
新宿の片隅、喧騒を離れた一室で、私は「それ」を放出した。週に一度、溜まったエネルギーを解き放ち、心身をデトックスする。これこそが、明日を生きるための、そして不動産管理という地味な日常を乗り切るための、ささやかな生存戦略なのだ。

だが、その夜は違った。
放出した瞬間、視界が強烈なホワイトアウトに染まった。
「……なんだ!?」
意識が遠のき、重力が消える。気がつくと、私は得体の知れない銀色のパワードスーツに包まれ、粘液に満ちた白い大峡谷に立っていた。

辺りを見渡して、私は息を呑んだ。
そこには、私と全く同じ顔をした「ミニ加藤」たちが、地平線の彼方まで埋め尽くしていたのだ。その数、およそ一億。

「おい、ぼやぼやするな! ゲートが開くぞ!」
隣にいた筋骨隆々の男――通称『ターボ』が私の肩を叩く。

「ゲート? 一体どこへ行くんだ?」
「決まっているだろう。一等賞の座をもぎ取りにいくんだよ!」
その時、天空から地鳴りのような咆哮が響き渡った。
『全員、射出(イジェクト)!』



第二章:死の渓谷 ― 溶けゆく戦友たち ―

爆風とともに、一億の軍勢が突き進む。
目指すは遥か彼方にそびえ立つ黄金の門。しかし、その道程は地獄そのものだった。

上空から降り注ぐのは、侵入者を拒絶する「酸の豪雨」。
「ぎゃあああ!」
悲鳴が上がる。酸に触れた同胞たちが、煙を上げながら溶けていく。先ほどまで肩を並べていた戦友が、一瞬で白い虚無へと消えていった。
私は死に物狂いで尾部のスクリューを回転させた。

ふと、頭をよぎる。なぜ世の中には「風俗」なる商売が脈々と受け継がれているのか。
それは、この絶望的な死のレースを、我々の本能が、細胞が、記憶しているからではないか。死の恐怖から逃れ、種を繋ごうとする狂おしいほどの本能。商売が成り立つのは、この過酷な聖戦への「供え物」なのかもしれない。

「加藤! 右だ、巨大白血球(クリーチャー)が来るぞ!」
ターボの叫びと共に、巨大なアメーバ状の怪物が現れ、数千の仲間を一飲みにした。
「……これが、生きるということか」
私は恐怖に震えながらも、止まることはできなかった。



第三章:一億の遺言 ― 尾部に宿る意志 ―

中間地点。一億いた軍勢は、もはや数万にまで激減していた。
私のスーツもボロボロになり、スクリューの出力が落ち始める。

「……ここまでか」
膝をつきかけたその時、足元で溶けゆく一人の男が、私の足首を掴んだ。
「行け……加藤……。お前が、俺たちの『一等賞』だ」
「何を言ってる! お前だって……」
「いいんだ。俺たちの命は、お前という一匹に託された。受け取れ、俺たちの全エネルギーを!」
脱落していく仲間たちが、次々と私に手を差し伸べる。

彼らの体が光の粒子となり、私のスーツに吸い込まれていく。
一人の無念、千の希望、万の祈り。
敗れ去った仲間たちの重みが、私の尾部(スクリュー)を青白く、太陽よりも熱く燃え上がらせた。
「背負っているのは……俺一人の命じゃない!」
私は叫んだ。一億の屍を越えて、私は光速の弾丸と化した。



第四章:黄金の惑星「ゾア」 ― 最終関門突破 ―

ついに現れた。
漆黒の闇の先に鎮座する、巨大な黄金の惑星、聖地『ゾア』。
だが、その惑星は、ダイヤモンドよりも強固な「透明シールド(透明帯)」に守られていた。

先行したエリートたちが、次々とシールドに激突し、火花を散らして散っていく。
「無駄だ! 突破できない!」
絶望の声が響く中、私は一億人の咆哮を胸に、頭部のドリルを最大出力で回転させた。

「これが! 俺たちの! セイシ(生死)を掛けた戦いだぁぁぁ!!」
火花が散り、空間が歪む。一億の想いが一点に集中し、絶対防御の壁に亀裂を入れた。
パリン、という、宇宙が割れるような音がした。
私は、黄金の海へと飛び込んだ。



第五章:賢者の帰還 ― 一等賞の責任 ―

「……はっ!」
意識が戻った時、私はソファの上で呆然としていた。
テレビからは深夜の静かなニュースが流れている。手元には、役目を終えた丸まったティッシュ。

先ほどまでの壮絶な宇宙戦争が嘘のような、静寂。
私は立ち上がり、洗面所の鏡の前に立った。
そこには、髪に白いものが混じり、シワの増えた六十過ぎの男が映っている。
「ふっ、冴えない一等賞だな」
自嘲気味に笑った。

しかし、鏡の中の自分の瞳をじっと見つめる。
あの日、一億の競争を勝ち抜き、この世に生を受けた。そして今また、一億の想いを背負って「放出」の戦いを終えた。

どんなに惨めな日があっても、どんなに孤独な夜があっても、私は間違いなく「選ばれし覇者」なのだ。
「敗れ去った仲間たちの分も……生きてやらなきゃな」
私は背筋をピンと伸ばした。
明日もまた、管理物件の掃除がある。孫たちと遊ぶ約束もある。
平凡に見える日常のすべてが、一億の犠牲の上に成り立つ奇跡のステージなのだ。

私は静かに電気を消し、深い眠りについた。
明日の朝、世界で一番誇らしい「一等賞のゴミ出し」をするために。

(完)


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【あとがき】

最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。

この作品は、
最初は完全に悪ふざけでした。

「精子目線で宇宙戦争をやったら面白いんじゃないか」

——ただ、それだけです。

ですが書き進めるうちに、
不思議と、
これは「命」の話になっていきました。

一億の中から、
たった一つだけ選ばれて生まれてくる。

そう考えると、
僕らが今こうして、
コンビニへ行ったり、
洗濯したり、
ゴミ出しをしたりしていることすら、
とんでもなく低確率な奇跡の延長なのかもしれません。

もちろん、
人生はそんなに劇的ではありません。

毎日は地味です。

疲れるし、
腰も痛いし、
深夜にどうでもいい動画を見てしまうし、
気づけばもう朝だったりします。

それでも、
どこかで生き延びて、
明日を迎えている。

その事実だけで、
実は十分すごいことなのではないかと、
最近は思うのです。

主人公の加藤誠一は、
宇宙を救った英雄ではありません。

ただの、
少し疲れた、
どこにでもいる六十代の男です。

ですが、
彼は最後に、
「一等賞のゴミ出し」をしようとする。

私は、
あの場面が結構好きです。

人生の本当の格好良さというのは、
案外、
そういうところにある気がしています。

壮大なことではなく、
また明日を生きようとすること。

そして、
敗れ去った「一億の仲間たち」の分まで、
ちゃんと笑って生きようとすること。

そんな気持ちを、
この物語に込めました。

もし、
この作品を読んだ誰かが、
少しだけ自分の人生を肯定できたなら、
これほど嬉しいことはありません。

それではまた、
別の妙な物語でお会いしましょう。

——次は、
もう少し真面目な話かもしれませんし、
もっと酷い話かもしれません。


山と川と

― 時制管理局始末記 ―


【まえがき】

人は、人生の中で何度か、
「なぜ、あの時ああしたのだろう」
と思い返す瞬間を持つ。

ほんの些細な行動。
何気ない返事。
たまたま乗った電車。
たまたま立ち寄った店。

もしあの時、
ほんの少し違う選択をしていたなら、
今ここにいる自分は存在していただろうか。

そんなことを考える年齢になった。

若い頃は、
未来は遠くにある巨大なものだった。
けれど年を重ねるにつれ、
人生を変えるのは大事件ではなく、
エレベーターの中の数秒や、
誰かへの一言だったのではないかと思うようになる。

この物語は、
時間を管理する巨大組織の話でありながら、
実のところ、
ごく普通の人間の日常について書いたつもりです。

世界を救う英雄ではなく、
区役所へ住民票を取りに行く中年男。

けれど、
時間というものが本当に存在するなら、
その流れを支えているのは、
案外そういう人たちなのかもしれません。

「山」
と呼びかけられた時、
あなたなら何と返すでしょうか。

もし自然に
「川」
と返してしまう人なら、
この物語は、
少しだけあなたのために書かれています。




プロローグ ― エレベーターの中で

区役所のエレベーターに乗ったのは、午後二時を少し回った頃だった。
二階のボタンを押し忘れたことに気づいて舌打ちしたとき、ドアが閉まりかけた。滑り込んできたのは小柄な老人だった。紺色のウィンドブレーカー、白髪を短く刈り込み、年齢は七十を超えているだろう。それ以外に特筆すべき点は何もない。区役所によく来る、どこにでもいる老人だった。
ドアが完全に閉まった。
老人は前を向いたまま、ほとんど口を動かさずに言った。
「山」
私の耳がそれを拾うのと、脳がそれを解釈するのとの間に、ほんの一瞬のラグがあった。
山?
なぜ、エレベーターの中で、見ず知らずの老人が「山」と言うのか。
しかし次の瞬間、私の口は――自分でも驚くことに――答えていた。
「川」
声に出してから後悔した。何をやっているんだ、と。これは何かの冗談か。忠臣蔵の合言葉じゃあるまいし。だが、老人は微動だにしなかった。依然として前を向いたまま、エレベーターの昇降表示を眺めている。
五階。
ドアが開く直前、老人は振り返ることなく、低い声で言った。
「例の件は少々手こずったが、無事終えた」
そしてドアが開くと同時に、老人は足早に廊下へ消えた。
私は一人、エレベーターの中に取り残された。
五階のボタンは、誰も押していなかった。

第一章 ― 普通の男

私の名前は桐島達也。四十七歳。職業はフリーの翻訳者で、主に技術文書を扱っている。妻とは八年前に別れ、今は杉並区の2LDKに一人で住んでいる。趣味は囲碁とビールと、週に一度の銭湯。
要するに、どこにでもいる中年男だ。
区役所に来たのは住民票の取得のためだった。転居の手続きに必要な書類で、窓口業務は一階にある。なぜ私が二階のボタンを押したのかといえば、ぼんやりしていたからとしか言いようがない。あの日、私は少し頭が痛く、前夜に飲みすぎていた。
老人との奇妙な交わりを、私は最初「何かの間違い」として処理しようとした。老人が独り言を言っていて、私がたまたまそれに反応してしまった。あるいは老人は電話か何かをしていて、「山」というのは通話相手への暗号で――いや、エレベーターに乗り込んできたとき、老人の手に携帯電話はなかった。
「例の件は少々手こずったが、無事終えた」
その言葉が、頭から離れなかった。
夜、ビールを飲みながら考えた。老人は誰かへの報告をしていた。その誰かが、私だったとしたら? しかし、私はその老人を知らない。「例の件」の「例」が何を指すのかも分からない。
翌朝、私は区役所に電話した。
「昨日の午後二時ごろ、五階にはどのような部署がありますか」
「五階は書庫と、一部の特別窓口になっております」
「特別窓口というのは」
「ご案内できる情報に限りがございます」
そこで電話は終わった。
私は翻訳の仕事に戻ろうとしたが、画面の文字が頭に入ってこなかった。どうしても、あの老人の背中が目に浮かぶ。
何が「無事終えた」のか。

第二章 ― 時制管理局

老人が再び現れたのは、三日後だった。
私が行きつけの定食屋で日替わりを食べていると、向かいの席に音もなく座った。ウィンドブレーカーは今日は灰色だったが、白髪の刈り込みと、やや細い首の具合で、すぐに分かった。
「驚かせてしまいましたな」と老人は言った。今度は私の顔を見て、きちんと話した。声は穏やかで、東北訛りがわずかに残っていた。「エレベーターの件。あなたを連絡相手と勘違いした」
「勘違い?」
「連絡相手は同じ時間帯に同じ場所にいるはずでした。あなたが『川』と返したので、てっきり」
老人は少し恥ずかしそうに笑った。その表情がひどく人間的で、私は逆に不安を感じた。
「あなたは何者ですか」
老人はしばらく黙り、定食屋の窓の外を見た。昼の商店街が、何の変哲もなく流れている。
「時制管理局、と言っても分からないでしょうな」
「分かりません」
「正式名称は『時間的連続性保全機構』といいますが、世間には存在を知られていない。我々は時間の流れを――正確には、時間の分岐と収束を――管理している組織です」
私は箸を置いた。
「タイムトラベルの話をしていますか」
「そうです」老人は静かに言った。「あなたの時代から、約九十年後の技術です。しかし過去への介入は現在に影響を与える。我々の仕事は、その影響を最小化することです。『例の件』というのは、ある介入の後始末でした」
「どんな」
老人は少し間を置いた。
「二〇三七年に、ある人物が過去へ戻り、自分の父親の事故を防ごうとした。善意からの行動でしたが、それによって連鎖的に三つの別の事故が発生する経路が生まれてしまった。私はその修正のために、この時代に来ていた」
「……それが、無事終えた、ということですか」
「はい」老人は頷いた。「あなたが合言葉を返してくれたとき、私はつい任務の話をしてしまった。本来あってはならないことです」
老人は立ち上がった。支払いはすでに済ませているらしかった。
「忘れていただければ幸いです」
「待ってください」
老人が振り返った。
「その三つの事故というのは、防げたのですか」
老人は少しだけ、目を細めた。
「防げました。ただし――」

第三章 ― 消えた記録

老人は「ただし」の先を言わなかった。
ドアを開けて、商店街の雑踏に消えた。私は定食のサバ味噌を半分残したまま、椅子に座り続けた。
その夜、私は自分のやるべきことをやった。翻訳者という職業は、情報の収集と整理が得意だ。
まず「時間的連続性保全機構」で検索した。何も出なかった。次に英語でTemporal Continuity Preservation Agencyと入れた。やはり何もない。政府機関のデータベース、内閣府の外局一覧、防衛省の関連組織リスト。どこにも、それらしい名称は存在しなかった。
次に私は、老人が言った「二〇三七年の事故」という言葉を手がかりに、近い将来起こりうる大規模事故のリストを作ろうとした。もちろんそれは不可能だ。ただ私は、何かしていないと落ち着かなかった。
午前一時を過ぎた頃、私はあることに気がついた。
三日前、エレベーターの出来事の直後、私は区役所のフロアガイドをスマートフォンで撮影していた。「五階に何があるか」を確認するためだ。そのファイルを開くと――五階の表記だけが、奇妙にぼやけていた。他の階は鮮明なのに、五階だけが、まるで水に濡れた紙の文字のように、読み取れない。
私は区役所のホームページを確認した。フロアガイドのページを開く。
五階の欄は空白だった。
区役所に五階は存在しているはずだ。現に私はそのエレベーターに乗り、五階で老人が降りるのを見た。しかし公式の記録には、五階が存在しない。
翌朝、私は直接区役所へ行った。エレベーターのボタンを見た。
五階のボタンはなかった。
四階の上に六階があり、その間には何もない。昨日まで確かにあったはずの、「5」という数字が刻まれたボタンが、消えていた。

第四章 ― 後始末の意味

老人に会えたのは、さらに一週間後のことだった。
会えたというより、老人の方が現れた。今度は私のマンションの前だった。夕方、買い物から帰る途中、エントランスの脇に老人が立っていた。
「少し歩きませんか」
断る理由がなかった。私たちは近くの公園に向かった。夕暮れの公園には子どもの声と、遠くを走る車の音だけがあった。
「五階が消えました」と私は言った。
「知っています」老人は言った。「あれは私の仕事の副産物です。後始末というのは、痕跡を消すことも含む」
「五階全体が存在しなかったことになった、と?」
「正確には、あの建物の五階には、我々の一時的な拠点がありました。任務完了と同時に、その拠点ごと時間軸から回収する必要があった。物理的には存在しているが、記録上は存在しないことになる」
「物理的には、今も五階はあるんですか」
「あります。ただし、一般の方には認識できない。エレベーターのボタンも、脳が処理する前に知覚をフィルタリングする装置を設置してあります」
私は空を見た。どこにでもある夕方の空だった。
「あなたは何者ですか。本当に」
老人はベンチに腰を下ろした。私もその隣に座った。
「桐島さん」老人は私の名を知っていた。「私が最初にエレベーターで声をかけたのは、勘違いだけが理由ではありません」
「どういう意味ですか」
「あなたは今から六年後、ある事故の現場に居合わせます。そのときのあなたの行動が、二十三人の命を救う。我々はそれを知っている」
私は何も言えなかった。
「しかし、その行動はあなたが適切な判断力を持っていることを前提としている。パニックになれば、救える命は十二に減る。そのような条件分岐が、時間軸に記録されていた」
「それで……エレベーターで」
「あなたが『川』と返したとき、私には確信が持てました。あなたは予期せぬ状況に、冷静に、ユーモアを持って対処できる人間だ」老人は言った。「ですから、正直にお話しした。知っておいた方が、いざというとき役立つこともある」

第五章 ― 山と川と

「その事故というのは、教えてもらえるのですか」
老人は首を横に振った。
「具体的な日時と場所を知ると、人間は行動を変えます。行動が変わると、結果が変わる。それが良い方向に変わるとは限らない」
「二十三人が救われる保証も、なくなる」
「そういうことです」
私たちはしばらく黙って、公園の砂場を見ていた。子どもが一人、砂山を作っては崩していた。
「忠臣蔵を知っていますか」と私は言った。
老人が少し驚いた顔をした。
「討ち入りの合言葉ですよ。山と川と。敵か味方かを見分けるための」
「ご存じでしたか」老人は言った。「……いや、あのエレベーターで『川』と返せる人間が、知らないわけはありませんな」
老人は笑った。それは最初に定食屋で見た笑いと同じで、ひどく人間的だった。
「我々の組織にも、似たような合言葉があります。時代と場所によって変わりますが、根本は同じです。見知らぬ場所で、信頼できる仲間かどうかを確かめる手段」
「あなたの本当の連絡相手は、どこにいるんですか」
「安全な時代に戻っています。私も今夜、帰還します」
「今夜」
「そうです。だからこれが最後の話です」
老人は立ち上がった。夕日が公園の樹々を赤く染めていた。
「桐島さん、六年後、あなたは正しい判断をします。それはあなたの性質から来るものです。誰かに教わったり、準備したりするものじゃない」
「それは……どうすれば確かめられるんですか」
老人は少し考えてから、言った。
「エレベーターで、見ず知らずの老人の独り言に、なんの躊躇もなく『川』と返せる人間です。大丈夫ですよ」
老人は歩き始めた。砂場の子どもが、また砂山を作り始めていた。
「名前を聞かせてください」
老人は立ち止まらなかった。背中だけがこちらに向いたまま、
「名乗れる名前を持つのは、あなたたちの時代の特権ですよ」
そう言って、夕暮れの中に消えた。

エピローグ ― 六年後

あれから六年が過ぎた。
老人のことは、誰にも話していない。話したとしても信じてもらえないだろうし、そもそも「信じてもらう」必要を感じなかった。私は相変わらず技術文書を訳し、囲碁を打ち、週に一度銭湯に行く。
一つだけ変わったことがある。
私はエレベーターに乗るとき、ドアが閉まる瞬間、少しだけ周りに注意を払うようになった。
何かが起きるかもしれない、という予感からではない。ただ、あの老人が教えてくれた何かを、うまく言葉にできないまま、習慣として引き継いでいるのだと思う。
今朝、地下鉄の駅で、プラットフォームの端に立っていた若い女性が足を滑らせた。私はほとんど考えずに腕を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。
「大丈夫ですか」
「ありがとうございます」彼女は少し青ざめた顔で言った。
それだけだった。大きな事故でもなく、群衆が集まるような場面でもなかった。ただ私は、気がついたら動いていた。
これが老人の言っていた六年後なのかどうか、私には分からない。
もっと大きな何かが、これから来るのかもしれない。
それとも、この小さな瞬間の積み重ねのことを、「二十三人を救う」と呼んでいたのかもしれない。
エレベーターのドアが閉まる。
私は一人だ。
誰も「山」と言わない。
でも私は今日も、なんとなく、その準備だけはしている。

――了


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【あとがき】

最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

『山と川と』は、
私の中では少し不思議な作品でした。

書き始めた時には、
もっと大きな時間SFになる予定だったのです。

未来都市があり、
巨大な管理局があり、
時間犯罪者との対決があり――
そんな物語になるはずでした。

けれど実際に書き進めるうちに、
この話は、
区役所の古いエレベーターから離れなくなりました。

結局、
私が書きたかったのは、
未来技術ではなく、
「人間の反応」だったのだと思います。

突然、
理解不能な出来事に遭遇した時、
人はどう振る舞うのか。

知らない誰かに、
ほんの少し信頼を向けられるのか。

桐島という男は、
特別な能力を持っていません。
ただ、
妙な状況でも、
少しだけユーモアを返せる人間でした。

私は歳を重ねるほど、
世の中を支えているのは、
こういう種類の人たちなのではないかと思うようになりました。

大声で正義を叫ぶ人より、
誰にも見えない場所で、
静かに誰かを助けている人。

もしかすると、
時間の流れというものも、
そんな無数の小さな判断によって、
支えられているのかもしれません。

エレベーターのドアが閉まる瞬間、
誰かが乗り込んでくる。

その時、
少しだけ周囲を見るようになったなら、
作者としては嬉しく思います。


NO MONEY - NO MISSION

~報酬なき男の使命録~


まえがき

 この物語は、ある平凡な中年男の話である。

 名を田中孝男(四十七歳)という。大手食品メーカーの営業部に勤めて二十三年。妻あり、子二人、ローンあり、薄毛あり、腹回りあり。どこにでもいる、ごく普通の男だ。

 しかし彼には、誰も知らない一面があった。

 それは、世界を密かに、そして勝手に、よりよくしようとする衝動である。

 誰も頼んでいない。報酬もない。称賛もない。

 それでも彼は今日も立つ。公衆トイレの便器の前に。

 これは、そんな男の滑稽にして崇高な記録である。




一章 事の始まり、もしくは最初の使命

 田中孝男が「使命」というものに目覚めたのは、四十五歳の秋のことだった。

 場所は、田町駅近くの居酒屋「鳥よし」の二階トイレ。

 彼は昼食後の恒例行事として小用を足しに入り、そこで運命的な出会いを果たした。

 排水溝の手前に、一本の毛が落ちていたのだ。

 それは間違いなく、前の使用者のものであろう短い縮れ毛だった。通常であれば男というものはそのような物体を無視し、用を足し、去るものである。

 しかし、その日の孝男は違った。

 なぜかは本人にも分からない。強いて言えば、前の晩に録画していた「プロジェクトX」を見たせいかもしれない。あるいは、課長に三度同じ書類の修正を命じられ、密かな鬱憤が溜まっていたせいかもしれない。

 孝男は、その縮れ毛を見つめた。

 そして、思った。

 ――流してやろうか。



 狙いを定めるのに、三秒かかった。

 放物線の計算は経験的なものだ。四十余年の男としての実績がここに活きる。残量の調整もカギとなる。勢いが強すぎてもダメ。弱すぎても届かない。水が細く長く、しかし確実に排水溝へと向かう軌道を描かねばならない。

 孝男は、息を止めた。

 静かな集中。まるで弓道の射。いや、これはもはや一種の禅だ。

 そして――。

 流れた。完璧に。

 縮れ毛は渦を描きながら排水溝に吸い込まれた。

 「よしっ!」

 孝男は思わず呟いた。拳を握っていた。

 これが、始まりだった。


二章 使命の定義、もしくは哲学的考察

 帰宅した孝男は、夕食の卓でぼんやりと考えていた。

 「ねえ、聞いてる?」妻の恵子が言った。「今日、陽太の学校から電話があってさ」

 「うん」孝男は上の空で答えた。

 頭の中には、あの瞬間が繰り返し再生されていた。縮れ毛が排水溝に落ちる、あの美しい弧を描く軌道が。

 使命とは何か。

 広辞苑によれば「与えられた任務」とある。しかし今日の孝男の行為は、誰にも与えられていない。会社でもなく、国でもなく、神でもなく。

 それでも確かに、あれは使命だったと孝男は思った。

 自分の中から湧き出た、抗いがたい命令。そう、NO MISSION ではなく、SELF MISSION だ。

 「ちょっと、聞いてるの?」

 「聞いてる聞いてる。陽太が何かしたんだろ」

 「先生に向かって『おじさん』って言ったらしいの」

 「あははは」

 孝男は笑ったが、頭の中ではすでに次の作戦を考えていた。



 翌朝、孝男は早めに家を出た。

 そして田町の公衆トイレに寄り道した。

 便器の前に立ち、床を確認する。

 あった。また一本。

 「ふっ」

 孝男は鼻から息を吐いた。使命の男は、動じない。


三章 エスカレーション第一段階:紙くずの反乱

 使命は、静かに、しかし着実に拡大していった。

 ある日のこと。孝男が会社近くのコンビニのトイレに入ると、床に小さな紙くずが落ちていた。ゴミ箱から外れたと思しき、くしゃくしゃになったティッシュだ。

 孝男は便器の前に立ちながら、それを見た。

 毛ではない。紙だ。

 しかも排水溝からは三十センチほど離れている。

 通常、これは「不可能」に分類されるミッションだ。

 しかし孝男の頭脳は、すでに解決策を算出していた。

 水圧だ。

 勢いよく放つ水流は一種の水鉄砲にもなり得る。そうすれば紙くずをじわじわと排水溝方向へ誘導できるのではないか。

 問題は精度と残量だ。

 孝男は腰の角度を微妙に調整した。まるでゴルファーがアドレスを取るように、慎重に、丁寧に。

 そして、作戦を開始した。



 七分後。

 孝男はトイレから出てきた。

 シャツの裾が少し湿っていたが、紙くずは排水溝に流れ込んでいた。

 完璧ではなかった。だが成功だ。

 「よしっ!」

 コンビニの入口でそう呟いたため、入ってきた女子大生が怪訝な顔をした。

 孝男は気づかなかった。使命の男は、周囲の視線を気にしない。


四章 エスカレーション第二段階:格闘する男

 問題が発生したのは、師走のある夕方だった。

 孝男が入った百貨店のトイレ。そこには毛でも紙でもなく、なんと一円玉が落ちていた。

 排水溝のそば、五センチ。絶妙な位置だ。

 孝男の使命センサーが、ビリビリと反応した。

 しかし。

 一円玉は硬い。丸い。そして重い。

 水流では動かない。これは物理の問題だ。

 孝男は考えた。足の先で蹴るか?しかし靴の爪先では正確な力加減が難しい。下手をすると排水溝を超えてしまう。あるいは逆方向に飛ぶ。

 孝男は、意を決した。

 腰を屈め、指でつまもうとした。しかしその姿勢で一円玉を「流す」のはどう考えても不自然だ。いや、そもそも一円玉を指でつまんで排水溝に入れるのは「流す」とは言えない。それはただの「捨てる」だ。

 使命の本質が問われた瞬間だった。

 孝男は悩んだ。五分間、便器の前で悩んだ。

 後ろのドアが開き、おじさんが入ってきて、立ちんぼの孝男を見て「あ、失礼」と言って出て行った。



 結論として孝男が出した答えは、「一円玉は対象外」という新ルールの制定だった。

 使命には、スコープが必要だ。

 帰宅後、孝男はメモ帳に書いた。

 『流す使命対象物リスト(暫定版)』

 ・毛類(縮れ・直毛・長短問わず) → 可

 ・紙くず(小) → 可(要技術)

 ・紙くず(大) → 要検討

 ・硬貨 → 対象外(物理的限界)

 ・靴紐 → 仮想敵。いつか挑む

 妻の恵子がそのメモを見て、「病院行く?」と言ったが、孝男は「大丈夫」と答えた。


五章 エスカレーション第三段階:ライバルの登場

 孝男が通うフィットネスクラブのトイレで、事件は起きた。

 いつものように便器の前に立ち、床の確認をした孝男は、目を疑った。

 縮れ毛が……すでにない。

 いや、あったはずだ。三分前に入ったとき、確かにあった。しかし今はもう、排水溝の方向に流れた跡すら残っていない。

 誰かが、先にやった。

 孝男の胸に、複雑な感情が渦巻いた。安堵か。嫉妬か。いや、これは――仲間への驚きではないか。

 世界には、自分以外にも「流す男」がいたのだ。

 孝男は洗面台で手を洗いながら、鏡の中の自分を見た。なんだか感動していた。



 翌週。同じトイレ。

 今度は孝男が先に入り、毛を発見し、見事に流した。

 「よしっ!」

 そしてドアを開けると、五十代とおぼしきがっしりした男性と目が合った。彼もまたトイレに入ろうとしていたのだ。

 男は便器の前に立ち、床を見た。

 孝男は手を洗いながら、その男の背中を見た。

 男は五秒ほど床を見つめ、やがて何かを悟ったように、ゆっくりと用を足し、去っていった。

 二人の間に、言葉はなかった。

 しかしそこには、確かな連帯があった。

 使命の男たちの、無言の握手が。


六章 エスカレーション最終段階:国際ミッション

 翌年の春、孝男は出張でシンガポールへ飛んだ。

 チャンギ国際空港のトイレ。

 世界最高水準の清潔さを誇るその白亜の聖域で、孝男は思いがけないものを発見した。

 縮れ毛、一本。

 国籍不明。人種不明。しかし使命の対象物であることは、明らかだ。

 ここはシンガポール。ポイ捨てには罰金が科される国だ。しかし、トイレの床に落ちた毛を流す行為は……おそらく合法だ。いや、むしろ奨励されるべき行為だろう。

 孝男の胸に、ある感慨が広がった。

 これはもはや日本の問題ではない。人類共通の使命だ。

 言語の壁を超え、文化の壁を超え、地理の壁を超え、男たちはみな同じ便器の前に立ち、同じ床を見る。

 そこに落ちたものを流すのか、流さないのか。

 それが、問題だ。



 孝男は、狙いを定めた。

 国際的な使命の遂行。

 空調の音だけが響く、清潔な白いタイルの空間で、孝男はかつてない集中を高めた。

 そして――流した。

 完璧だった。

 「よしっ!」

 英語でもなく、中国語でもなく、マレー語でもなく、日本語で孝男は呟いた。

 誰かが隣の個室から「ん?」と言ったが、孝男は気にしなかった。


七章 報酬について、もしくは人生の真理

 東京に戻った孝男に、部長から呼び出しがかかった。

 シンガポールの商談がうまくいったのだ。

 「田中君、よくやった。今期のボーナス、少し色をつけよう」

 部長が言った。

 「ありがとうございます」

 孝男は礼を言いながら、思った。

 これがもらえる報酬か。しかし、あのシンガポールの一本の毛を流したことへの報酬は、どこにもない。

 当然だ。誰も頼んでいない。誰も見ていない。誰も知らない。

 NO MONEY - NO MISSION。

 そう、これは金にならない使命だ。

 しかしだ。

 孝男は廊下を歩きながら、改めて考えた。

 金になる仕事のやりがいと、金にならない使命の充実感は、どちらが大きいか。

 答えは明白だった。



 その夜、孝男は晩酌しながら息子の陽太に言った。

 「なあ、陽太」

 「なに」中学生の息子は、スマホから目を離さずに答えた。

 「人生でいちばん大事なことは何か、わかるか」

 「知らん」

 「報酬のない使命を見つけることだ」

 陽太はスマホから顔を上げ、父を見た。

 「……お父さん、また変なこと考えてるの?」

 「変じゃない。崇高だ」

 「お母さーん、お父さんがまたおかしいー」

 恵子が台所から顔を出した。「どうせトイレの話でしょ。ご飯食べて」

 孝男は苦笑した。

 誰にも理解されない。それでいい。

 使命とは、本来そういうものだ。


エピローグ

 田中孝男、四十七歳。今日も公衆トイレに立つ。

 床を確認する。

 あった。

 狙いを定める。

 残量を調整する。

 集中する。

 そして、流す。

 「よしっ!」

 誰も聞いていない呟きが、白いタイルに吸い込まれる。

 報酬? ない。

 指令? ない。

 感謝? ない。

 それでも、孝男の胸には確かな充実感がある。

 使命を果たした男だけが知る、あの静かな高揚感が。

 NO MONEY - NO MISSION。

 しかし男は今日も行く。

 誰も頼んでいないのに。

 あははは。

〈完〉


あとがき

 公衆トイレという日常の聖域で、誰に頼まれるでもなく密かな使命を遂行する男の話。くだらないといえばくだらない。しかし、人生のあらゆる崇高さは、こうした「無償で、無名で、誰にも知られない行為」の積み重ねではないかと、私は思うのです。

 NO MONEY - NO MISSION。

 それでも、今日も男たちはトイレに立ちます。

 どうか笑って読んでいただければ幸いです。

便器の哲人 記



アマゾン キンドル




おまけ

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

” NO MONEY - NO MISSION ”

公衆トイレに立つと
時折
前の方のチO毛が
そこに落ちてるもんで。。。

ならば と
よおおお~~~く狙いを定めて
排水口へと流し込んでやろ~か なんて。。。

それは
長いこと
男とゆ~生き方をして来たもんで
結構 
うまいこといくもんで

残りの残量を 程よく調整なぞしながら
大砲を
いやいや
小銃を構え
ここ1番の狙いを定める

そして
無事 
排水溝に流れ落ちた有様を確認なぞすると

よしっ!! なんて呟き
優越感に浸る 中年男

しかしながら
この ミッションは
どこのどなたからも
指令を受けたものではないもんで

” NO MONEY - NO MISSION ” ってわけには いかんの ダ。。。

そ~よ
これには
報酬なんて不要
カネなんて 受け取れんの ダ

え?
誰も くれない って?

ごもっともで。。。

あははは





Kindleの規定

大丈夫かなあ…     笑





変化球

ある女の投球論


プロローグ ―― マウンドの向こう側から

今朝もテレビをつけたら、野球をやっていた。

チャンネルを変えようとして、手が止まった。画面の中で、細身の日本人投手が、体の三倍はありそうな大男のバッターを、ぽかんと三振に取った瞬間だった。スタジアムが揺れた。実況アナウンサーが叫んだ。そして投手はほとんど表情を変えずに、ベンチへ引き揚げていった。

わたしはソファに座ったまま、しばらく動けなかった。

なぜだろう。四十二歳の独身女が、朝のリビングで野球中継を見て、胸がじんとしている。

思い当たることはある。あの投手が投げたのは、フォークボールだった。力で押すのではなく、変化で勝負する球。打てるものなら打ってみろ、という静かな自信が、あの小さな体のどこかに詰まっていたのだ。

わたしはコーヒーを一口飲んで、思った。

男というのも、あれに似ている。いや、正確には逆か。男が投げてくるのではない。わたしたちが受けに回るのでもない。どちらかといえば男のほうが、毎度毎度、わけのわからない変化球を投げてきて、こちらを翻弄する。

三振したことも、ある。
打ち返したことも、ある。
そして一度だけ、球ごと消えてしまったことが、ある。

これは、そういう話だ。




第一章 直球男のこと ―― 速いだけじゃ、ね

二十三歳のとき、最初に付き合った男は、直球しか投げない人だった。

田中誠一という名前で、名前からして直球だった。大学の同期で、ゼミで隣に座っていて、ある日の帰り道に突然、「好きです。付き合ってください」と言った。夕暮れの駅前で、歩行者の流れの真ん中で、大きな声で。

わたしは思わず「え、ちょっと、声が」と言ったのだけれど、彼はひるまなかった。

「声が何ですか」

「大きい」

「大きくて悪いですか」

悪くはないけれど、と思いながら、わたしは返事をした。オーケー、と。今思えばあれが間違いの始まりだったかもしれないし、正解の始まりだったかもしれない。よくわからない。

田中くんとの付き合いは、最初から最後まで、すべてが直球だった。

デートの誘い方も直球だった。「今週の土曜日、映画に行きましょう。十四時に渋谷駅ハチ公口で待っています」。ロマンのかけらもないが、わかりやすさでは百点だ。待ち合わせ場所に迷ったことは一度もなかった。

喧嘩の仕方も直球だった。「あなたが先週言ったことが、気になっています。あれはどういう意味ですか」。オブラートに包むということを、彼はしなかった。わたしが何か言葉を選んでいると、「回りくどいです、直接言ってください」と言った。

愛情表現も直球だった。「好きです」「かわいいです」「一緒にいると楽しいです」。全部、現在形、主語つき、句点あり。まるで教科書の例文のようだったが、嘘くさくはなかった。むしろその分、信用できた。

でも二年付き合って、わたしたちは別れた。

理由を一言で言うなら、飽きたのだと思う。いや、飽きたというのは正確ではない。直球には直球なりの限界があって、それは速さだ。速い球は、慣れれば打てる。打てるようになると、もうスリルがない。バッターボックスに立つのが、どこか作業みたいになってくる。

田中くんは悪い人ではなかった。むしろとても良い人だった。だから余計に申し訳なかった。別れを告げたとき、彼はこう言った。

「理由を教えてください」

直球で聞いてくるので、直球で答えるしかなかった。

「慣れてしまいました」

「慣れてしまうのが悪いんですか」

「悪くはないんですが……」

「じゃあ何がいけないんですか」

それに答えられなかったのが、わたしの限界だった。田中くんは直球投手として完璧だったのかもしれない。ただわたしが、変化球を欲しがる打者だったというだけで。

のちに彼は同じゼミの別の女の子と結婚した。らしい。それを聞いたとき、ああそうか、と思った。直球で幸せになれる人が、世の中にはいる。それはそれで、正しいことだと思う。

ロジャー・クレメンスが「身体をデカくしろ、腕を太くしろ」と言ったのは、速い球を投げるための方法論だ。速い球で勝負するのは、一つの哲学だ。でも野球には変化球がある。それが必要な場面が、ある。

わたしは気がつくと、変化球を待つ打者になっていた。

第二章 カーブ男のこと ―― 予測できた、少しだけ遅れて

二十七歳のとき、カーブを投げる男に出会った。

松永浩二、という。職場の先輩で、わたしが入社して三年目のころから、じわじわとこちらへ向かってきた人だ。カーブというのはそういう球で、最初はどこへ行くのかわからないが、ある時点から急に曲がってくる。直球だと思ったら、そうではなかった。

松永さんは、最初の一年ほど、まったく恋愛的な素振りを見せなかった。

仕事の相談にのってくれたり、残業のときにコーヒーをおごってくれたり、そういう先輩らしいことをするだけだった。わたしも特に意識していなかった。背が高くて、話しやすくて、いい先輩だな、と思っていた。それだけだった。

転機は、ある飲み会の帰り道だった。

タクシーを拾おうとしていたら、松永さんが「駅まで一緒に歩きませんか」と言った。普通の提案だった。歩いた。十五分くらいの道のりだった。途中で松永さんが言った。

「田中さん(わたしの苗字)って、笑うときに少し左に傾くよね」

「え?」

「気がついてた? 自分でも」

気がついていなかった。そんなことを観察している人がいるとは思っていなかった。わたしは少し動揺した。

「……見てたんですか」

「見てた」

それだけだった。告白でも何でもなかった。でもその夜、家に帰ってから、なぜかずっと気になった。あれは何だったのだろう、と。

これがカーブの怖さだ。投げた瞬間にはわからない。ゆっくりと、じわじわと曲がってくる。気がついたときには、もう近くに来ている。

そこから半年かけて、松永さんとわたしは付き合い始めた。正確に言えば、気がついたら付き合っていた、という感じで、いつ始まったのかよくわからなかった。あとで「いつから好きだったんですか」と聞いたら、「入社してきた最初の日から」と言われた。三年越しのカーブだ。ゆっくりすぎて笑いそうになったが、その分だけ、重量感があった。

松永さんとの付き合いは、三年続いた。

楽しかった。本当に楽しかった。彼は観察力があって、わたしが言葉にしない前に気持ちを読んでくれることが多かった。「今日、なんか疲れてるね」と言って、行き先を変えてくれたり、「それ、本当はあまり食べたくなかったでしょ」と言って、別の店を探してくれたり。こちらが何も言わなくても、球の軌道を読んでくれているような人だった。

ただ、問題があった。

カーブは、軌道が予測できる。

三年も付き合うと、松永さんがどのタイミングでどんなことを言ってくるか、だいたいわかるようになった。「今日はここで気遣いが来るな」と思うと、来る。「そろそろ将来の話をするな」と思うと、する。それ自体は悪いことではない。安心感があった。

でも、ある夜、わたしは気づいた。

松永さんが言葉を選んでいる間、わたしは心の中でその言葉を先読みしていた。そして実際にその言葉が来たとき、予想通りだったことに、安堵するでもなく、喜ぶでもなく、ただ「やっぱりそうか」と思うだけだった。

これはカーブの限界だ。変化するのに、パターンがある。パターンがわかれば、打てる。打てると、もうスリルがなくなる。

別れ話は、長かった。松永さんはカーブ投手らしく、じわじわとした説得を試みた。「もう少し時間をくれないか」「考え直せないか」「何が足りないのか教えてくれ」。一つ一つ、丁寧に、ゆっくりと。

わたしは少し残酷なことを言ってしまったかもしれない。

「松永さんのこと、好きだったんです。ただ、次に何が来るか、全部わかるようになってしまって」

彼はしばらく黙っていた。そして言った。

「それは、わたしが下手だったってことかな」

「違います」とわたしは言った。「それは、わたしが贅沢なんだと思います」

どちらが正解だったのかは、今でもわからない。

カーブは美しい球だ。あの軌跡は、どの球にも真似できない。ただ、打者が慣れてしまうという宿命を、カーブは最初から背負っている。それは投手のせいではない。打者のせいでもない。ただそういう球なのだ。

第三章 フォーク男のこと ―― 落ちた、完全に

三十一歳のとき、フォークボールを投げる男に出会って、完璧に三振した。

その男の名前は、江口慎吾という。

フォークボールというのは、真っすぐ来るように見えて、急に落ちる。バッターはついバットを振ってしまう。振ってから、あ、これは落ちた、と気づく。でももう遅い。空振り三振だ。

江口さんとの出会いは、友人の結婚式だった。

テーブルが同じで、スピーチが長くて退屈していたら、隣から「長いですね」とぼそっと言われた。振り向いたら、すごく整った顔の男性が、まっすぐ正面を向いたまま、そう言っていた。わたしは笑いをこらえながら「長いですね」と返した。それだけだった。

でもその短いやりとりが、妙に記憶に残った。

披露宴が終わって、二次会に流れたとき、江口さんがまた隣に来た。「さっきのスピーチ、合計で二十二分ありました」と言った。わたしは「計ってたんですか」と聞いた。「暇だったので」と彼は言った。

笑い方が、良かった。

大げさではなかった。口角が少しだけ上がって、目が細くなって、それだけなのに、なぜかとても楽しそうに見えた。ああ、この人は嘘がつけない人だな、とわたしは思った。感情がそのまま顔に出る人だ、と。

これがフォークの最初の一手だった。真っすぐ来ているように見えた。

それからLINEを交換して、週に一度くらいメッセージが来た。たいした内容ではなかった。「今日、駅前に新しいラーメン屋ができていた」とか「会議が三時間続いた」とか。返信すると、また短いメッセージが来た。そのうちに、なんとなく会うようになった。

江口さんは、一見するとぼんやりした人に見えた。

話し方がゆっくりで、声が低くて、あまりテンションが上がらない。盛り上げようとする素振りがなかった。一緒にいて、ふとした沈黙が生まれても、彼は全然気にしなかった。わたしも気にしなくなっていった。

これがフォークのずるいところだ。

真っすぐ来ているうちは、まだ打てると思っている。油断している。そしてある瞬間、急激に落ちる。バットが空を切る。気がついたら三振している。

わたしがはっきりと「落ちた」と気づいたのは、付き合って四ヶ月ほど経った夜のことだった。

二人でふらっと入った居酒屋で、何でもない話をしていた。好きな季節の話だったか、子どもの頃の話だったか、もう覚えていない。そのとき、江口さんがわたしの話を聞きながら、ちらっと笑った。あの笑い方だ。口角が少しだけ上がって、目が細くなる。

そのとき、わたしの胸の中で、何かがぽとりと落ちた。

ああ、この人のことが好きだ。

おかしな感覚だった。普通、好意というのはじわじわ育つものだと思っていた。でもあの瞬間は、育ったのではなく、落ちた。完全に、一瞬で。フォークボールがそうであるように。

江口さんとは、二年間付き合った。

幸せだった。ただ、江口さんは転勤が多い仕事だった。二年目の秋に、九州への異動が決まった。わたしには東京を離れられはい事情があった。介護が必要な母親がいた。遠距離は試みたが、半年もたなかった。

別れるとき、江口さんは「また会いに来てもいいですか」と言った。わたしは「いつでもどうぞ」と言った。

でも来なかった。わたしも呼ばなかった。

それでよかったのだと思う。フォークボールというのは、一度落ちたら、もう上がらない。それがフォークの性質だ。落ちた先は、美しい場所だったけれど、戻ってくる球ではなかった。

三十三歳のわたしは、その恋を胸に仕舞って、またバッターボックスに立った。今度はどんな球が来るのだろう、と少しだけ楽しみにしながら。

第四章 ナックル男のこと ―― 本人も制御不能

三十六歳のとき、ナックルボールを投げる男に会った。

これは本当に参った。

ナックルボールというのは、回転をかけない球だ。回転がないから、空気の影響をもろに受けて、どこへ行くかわからない。投げた投手本人も、キャッチャーも、誰も予測できない。それがナックルボールだ。

倉田義則、という。年齢はわたしより三つ上の、三十九歳。出会いは料理教室だった。男性の参加者が珍しかったので覚えていた。

最初の印象は、不思議な人、だった。

話は面白かった。知識が広くて、どんな話題にもついてきた。料理も、意外と上手だった。「こう切ると断面が多くなるので、味がしみこみやすくなります」とか、「火を入れる順番が大事で」とか、ちゃんとした理屈を知っていた。なかなかやるじゃないか、と思った。

ただ、言動が読めなかった。

たとえば、ある日のこと。料理教室が終わって、「お茶でもどうですか」と誘ったら、「今日はちょっと」と断られた。翌週、なんとなく気まずいかなと思っていたら、倉田さんのほうから「先週のお誘い、断ってごめんなさい。今日、よかったら」と言ってきた。わたしが誘ったことを、一週間覚えていたのだ。それは少し、嬉しかった。

お茶を飲んで、楽しかった。また会いましょう、となった。

次に会ったとき、倉田さんは二時間遅刻してきた。謝りながら、「時間の感覚が、時々おかしくなる」と言った。意味がよくわからなかった。

三回目に会ったとき、倉田さんは突然「この国を出たいと思っている」と言った。どこへ、と聞いたら「南米かな」と言った。具体性は何もなかった。

四回目に会ったとき、倉田さんは「もっとちゃんと会いたいんですが、どうですか」と言った。気持ちはあるらしかった。わたしも、嫌いではなかった。だから「うん」と言った。

付き合い始めた。

これが、混乱の始まりだった。

倉田さんは、月に三回会う約束をすると、必ず一回はキャンセルした。でも、会うときは本当に楽しかった。こちらが想定していない角度から話が来て、笑わされた。「この人面白いな」と思ったら、次の瞬間には「よくわからない」になっていた。

気分の波があった。機嫌がいい日と、妙に沈んでいる日があった。沈んでいる理由を聞いても、「よくわからない」と言った。自分でもわかっていないらしかった。

これがナックルボールだ。

投げた本人も、どこへ行くかわかっていない。

受ける側は困り果てる。どう構えればいいのか。インコースに来るのか、アウトコースなのか、高いのか低いのか、全部わからない。とにかく目の前の動きに反応し続けるしかない。体力を使う。

付き合って十ヶ月で、わたしは限界を感じた。

悪い人ではなかった。むしろ、倉田さんはとても純粋な人だった。嘘はつかなかった。ただ、自分のことが、自分でも把握できていなかった。ナックル投手が自分の球をコントロールできないのと同じだ。本人のせいではない。ただそういう球を、持っているのだ。

別れるとき、倉田さんは「そうか」とだけ言った。長い沈黙の後に、「ごめんなさい」と言った。

「謝ることじゃないと思うんですが」とわたしは言った。

「でも、振り回したと思うから」

「振り回されたのは、事実です」とわたしは言った。「でも、それなりに楽しかったのも事実です」

これは本当のことだった。ナックルボールは疲れる。でも、あの変化は、他の球では味わえない。打てる打てないに関係なく、目が離せなかった。バッターボックスに立って、飽きることだけは、なかった。

倉田さんとは、今も時々メッセージが来る。「元気ですか」「元気です」それだけのやりとりが、年に二回くらい続いている。ナックル投手は、引退してからも、どこへ行くかわからない。

第五章 消える魔球のこと ―― 大リーグボール、そして

三十九歳のとき、消える魔球を投げる男に会った。

これが、この話の核心だ。

大リーグボール一号、というのがある。巨人の星、という昔の漫画に出てくる架空の魔球で、とにかく速い。人間の限界を超えた球、という設定だったと思う。そして二号は、消える魔球だ。

彼の名前は、書かない。

なぜかというと、今思い返すと、あれは本当に消えてしまったから。名前を書いたら、また現れてきそうで。それは少し、まずい。

出会いは、共通の知人を通じた食事会だった。

六人で集まった席で、彼はほとんど喋らなかった。背が高くて、少し老けた印象の男性だった。四十四歳だと後で聞いた。静かな人だな、と思ったが、それ以上の印象はなかった。

帰り際に、彼がわたしに言った。

「さっき、◯◯さんの話に、一人だけ違う反応してましたよね」

「え?」

「みんなが笑ってるところで、あなただけ少し引いてた。あれ、何か思うところがあったんですか」

会って三時間の人に、そんなことを言われるとは思っていなかった。確かにそのとおりだった。でも、なぜわかったのか。

「……見てたんですか」

「見てました」

それだけだった。

ここで、何か予感がすれば良かった。カーブのときと同じ始まりだ、と気づけば良かった。でも、気づかなかった。あるいは気づいていたけれど、気づかないふりをした。どちらかはわからない。

それから何度か会った。

彼は言葉が少なかった。でも、少ない言葉の一つ一つが、妙に正確だった。わたしが何かを話すと、余分なことを言わずに、核心だけを返してきた。わたしの話を、本当に聞いている人だった。

あるいは、そう見えた。

これが消える魔球の恐ろしさだ。見えている。ちゃんと見えている。だから振る。でも振った瞬間、もうない。どこへ消えたのか、わからない。

付き合うという言葉を、わたしたちは使わなかった。でも、会い続けた。半年ほど。

彼は、ある夜突然、連絡が来なくなった。

突然というのは正確ではなく、前の週に少し距離を感じていた。でも気のせいかと思った。そして次の週、メッセージを送ったら、既読がついた。返事はなかった。翌日も、翌々日も。

一週間後、「ごめんなさい」とだけ来た。

理由は書いてなかった。聞こうとしたが、もう返事は来なかった。

これが、消える魔球だ。

消えた。

しもた、と思った。そして次の瞬間、あははは、と笑いたい気分になった。いや実際には笑えなかったが、笑うしかないとは思った。なぜなら、あまりに綺麗に消えたから。痕跡もなく、説明もなく、ただいなくなった。見事なものだ、と思ってしまった。

消える魔球には、受けた側にできることが何もない。コースを読むことも、タイミングを合わせることも、バットを短く持つことも、全部関係ない。消えるのだから。

しばらく、ぼんやりしていた。

一ヶ月ほどは、正直なところ、よくわからない気持ちだった。怒りなのか悲しみなのか、自分でも判断がつかなかった。ただ、どこか空洞のような感じがして、コーヒーの味が薄く感じた。

でも三ヶ月経つと、すこしずつ戻ってきた。

コーヒーが美味しくなった。

朝の空気が、また気持ちよくなった。

そして、あの消え方を思い出すと、少しだけ笑えるようになった。



第六章 チェンジアップ男のこと ―― 遅い球ほど、待てない

四十一歳のとき、チェンジアップを投げる男に出会った。

これが、一番厄介だった。

チェンジアップというのは、直球と同じフォームで投げておいて、実際にはずっと遅い球だ。打者は速い球が来ると思って振る。だからタイミングが合わない。早すぎる。空を切るというより、自分だけ先に行ってしまう。

恋愛にも、そういう人がいる。

西島敦司、という。
年齢は四十五歳。出版社に勤めていて、知り合ったのは、友人に誘われた読書会だった。

最初の印象は、薄かった。

悪い意味ではない。本当に、印象が薄かったのだ。

背も普通、服装も普通、話し方も普通。場を盛り上げるわけでもなく、気の利いた冗談を言うわけでもない。読書会のあと、みんなで食事に行ったときも、彼は静かに人の話を聞いていた。

正直に言えば、その日はほとんど記憶に残っていない。

ただ、帰り際にエレベーターの前で、わたしがトートバッグを落としたとき、西島さんが無言で拾ってくれた。

「ありがとうございます」

と言ったら、

「いえ」

とだけ言った。

本当に、それだけだった。

だから困るのだ。
チェンジアップというのは、最初、球に見えない。

その後、何度か読書会で会った。

西島さんは、毎回同じような場所に座って、同じくらい喋って、同じくらい笑った。良くも悪くも、変化がなかった。わたしは最初、そういう人を恋愛対象として認識しないタイプだった。

恋愛というのは、もっとこう、
「何か」があるものだと思っていた。

直球の熱量とか、
カーブの余韻とか、
フォークの落下とか、
ナックルの不安定さとか。

そういう“変化”が、恋愛なのだと思っていた。

でも西島さんには、それがなかった。

会っても疲れない。
緊張しない。
振り回されない。
心拍数も上がらない。

まるで白湯みたいな人だった。

なのに、気がつくと、わたしはその人のいる席を探していた。

読書会の日、「今日は来ているかな」と思うようになった。
いても、別に何が起きるわけでもない。ただ、いると少し安心した。

これがチェンジアップの怖さだ。

速くない。
派手じゃない。
でも、タイミングを崩される。

ある日、読書会の帰りに、雨が降った。

みんな駅へ急いでいたが、西島さんは鞄から折り畳み傘を出して、「使いますか」と言った。

「西島さんは?」

「もう一本あります」

見ると、鞄の横に古いビニール傘が刺さっていた。

わたしは傘を受け取って、一緒に駅まで歩いた。

雨の音がしていた。
特に盛り上がる話はなかった。

好きな作家の話を少しして、
最近眠りが浅いという話をして、
途中のコンビニで肉まんを買った。

それだけだった。

でも、その帰り道、
わたしは妙な感覚になっていた。

あれ。
今、すごく自然だったな、と。

頑張っていなかった。
面白く見せようとも、
魅力的に見せようともしていなかった。

ただ、一緒に歩いていた。

恋愛というより、
生活に近かった。

そこに気づいた瞬間、
わたしは少し焦った。

チェンジアップだ、と思った。

直球だと思って振ろうとしていたら、
球が来ない。

身体だけが先に動いて、
自分のタイミングのほうが崩れている。

西島さんとは、ゆっくり近づいた。

付き合いましょう、という言葉は、今回もなかった。

気づけば毎週会っていて、
気づけば夕飯を一緒に食べていて、
気づけばスーパーで、
「豆腐、木綿にします?」
みたいな会話をしていた。

そしてある夜、
鍋を食べながら、
わたしは不意に思った。

ああ。
こういうので、よかったのかもしれない。

恋愛には、ずっと、
強い球が必要だと思っていた。

忘れられない球。
人生を変える球。
三振する球。

でも、本当に長く続くのは、
案外こういう、
打ち気を外す球なのかもしれない。

西島さんは、相変わらず地味だった。

LINEの返信も遅かった。
記念日を覚えるタイプでもなかった。
サプライズもなかった。

でも、こちらが熱を出したとき、
コンビニでゼリーとポカリを買ってきて、
「桃味しかなかったです」
と言った。

それだけだった。

それだけなのに、
わたしは少し泣きそうになった。

若い頃なら、
こんな球、
見逃していたと思う。

速くないから。
派手じゃないから。
ドラマにならないから。

でも四十一歳の今は、
わかる。

毎日きちんとキャッチできる球、
というものがある。

それは、思ったより難しい。

チェンジアップは、
遅い球だ。

でも、人は案外、
遅い球を待てない。

速いもの、
強いもの、
激しく落ちるものに、
つい反応してしまう。

わたしもずっと、そうだった。

だから今、
西島さんと並んでスーパーを歩きながら、
時々ふと思う。

ああ、
ようやくタイミングが合ったのかもしれない。

人生のほうと。



エピローグ ―― 私も変化球を覚えた

四十二歳になった今、わたしはソファでコーヒーを飲みながら、野球中継を見ている。

日本人投手が、大男のバッターをフォークボールで三振に取っている。さっきよりも、その動きが好きだ。あのピッチャーは、何を考えながら投げているのだろう。どんな変化球を持っていて、どの場面でどれを使うか、どうやって決めているのだろう。

野茂英雄が最初にメジャーリーグへ行ったのは、ずいぶん前のことだ。わたしがまだ学生の頃だった。あの頃、日本人がメジャーで通用するなんて、本当に思っていなかった。体格が違う。球速が違う。向こうの打者のパワーが違う。誰もが言っていた。

でも野茂は行った。そして、フォークボールで三振を取った。力でではなく、変化で。

今の時代はアフター野茂と言うらしい。わたしには、なんだか誇らしい言葉に聞こえる。

変化球というのは、力のない者が力のある相手に勝つための知恵だ。真っすぐ勝負できないから、曲げる、落とす、消える。そうやって考え抜いた末に生まれた球が、見ている者を魅了する。

そういえば、わたしも最近、変化球を覚えた気がする。

恋愛における変化球、とは何か。

たとえば、感情をすぐに見せないこと。出会って三秒で「あなたのこと、面白いと思います」と言わないこと。わたしは昔、直球しか投げられなかった。思ったことをすぐ言った。感じたことをすぐ表した。それはそれで良かったが、相手を驚かせることは少なかった。

でも今は、少し間を置くことを覚えた。

相手が何かを言って、すぐに返さない。一拍置いて、考えてから返す。そうすると、言葉に重さが出る。「この人は本当にそう思って言っているんだ」と伝わる。これはカーブかもしれない。じわじわと曲がってくる球。

それから、全部を見せないこと。

自分のことを話すとき、全部を一度に言わない。少しずつ、少しずつ出す。そうすると、相手に「もっと知りたい」という気持ちが生まれる。これはチェンジアップかもしれない。球速が遅くて、相手のタイミングをずらす球。

これらの技術を、わたしは失恋から学んだ。

直球男から、正直さを学んだ。
カーブ男から、観察することを学んだ。
フォーク男から、落下することの美しさを学んだ。
ナックル男から、制御できないものを受け入れることを学んだ。
消える魔球の男から、消えることもある、ということを学んだ。

それぞれの恋愛が、一種の変化球講座だったのかもしれない。三振するたびに、少し賢くなった。

でも正直に言う。

変化球を覚えても、打たれることはある。これは野球だって同じだ。どんなにすごいピッチャーでも、打たれる日がある。疲れた日がある。相手が自分の球を読んでくる日がある。それでも投げ続けるのが、投手というものだ。

わたしもきっと、また誰かのバッターボックスに立つ。

どんな球が来るかわからない。直球かもしれないし、カーブかもしれない。ナックルかもしれないし、消える魔球かもしれない。それを全部楽しめるくらいには、バッターとして成熟したと思う。三振しても、まあしゃあない、と笑える程度には。

テレビの中で、日本人投手が、また次のバッターに向かっている。

あの投手も、今日の試合が終われば、また練習する。明日のバッターのために、新しい変化を考える。打者がいなければ、投手の変化球は意味をなさない。投手がいなければ、打者は打つものがない。

それはそれで、うまくできた仕組みだと思う。

コーヒーを飲み干した。

今日も、いい天気だ。

さて、わたしもそろそろ、マウンドに上がるか。



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来週 Kindle 掲載予定


Where were you in '62?
― THX138 ―


THX138の頃に

憧れたジョンの黄色いデュ~スク~ペは
こんなファ~イ~ストなアジアの島国には届かず

ガキの頃から
とうにアメリカンだったはずの気持ちは
今 還暦をも越して

もしや そろそろ
ジャパニ~ズへと戻りつつある今日

"1962年の夏 あなたはどこにいましたか?"

Where were you in '62?




一 テレビの中のアメリカ

還暦を越えた冬の夜、偶然つけたテレビに釘付けになった。

画面の中に、見覚えのある黄色いクルマが走っていた。

おおお~~~!!

声が出た。自分でも驚いた。六十を過ぎた男が、ひとりの部屋でそんな声を上げるとは思っていなかった。でも出た。腹の底から、あの頃と同じ温度で。

「アメリカン・グラフィティ」だった。

もちろん持っている。VHSで持っていた。DVDでも持っている。何度観たかわからない。それでも、偶然チャンネルを回した先にこれが流れていると、体が違う反応をする。予期しない場所で旧友に会ったときのような、あの感じだ。

黄色い五八年型シボレー・インパラ。ジョン・ミルナーのデュースクーペ。

ウルフマン・ジャックの声がラジオから流れ、ローラースケートの娘たちが駐車場を滑り、ジュークボックスが光る。一九六二年の夏、カリフォルニア。

僕らの先生は、これだったのかもしれない、とあらためて思った。

教科書でも、親父でもなく。

ジョージ・ルーカスが撮った、あの一本の映画が。

*  *  *

THX 1138、という数字を知っているだろうか。

ルーカスが「アメリカン・グラフィティ」を撮る前に作った、最初の長編だ。ディストピアのSF。無機質な白い世界で、番号で呼ばれる人間たちの話。あの映画の主人公の番号が、THX 1138だった。

後年、ルーカスは「スター・ウォーズ」の中にこっそりその番号を忍ばせた。ファンへのウィンクだ。

そういう遊び心が、僕は好きだった。

アメリカには、そういうものが詰まっていた。映画にも、音楽にも、ジーンズにも。

僕らはそれを、海の向こうから必死に受け取ろうとしていた。

*  *  *

二 青木くんのリーバイス

中学に入った頃、青木くんはすでに僕らの遥か前を走っていた。

青木くんというのは、同じクラスの男で、名字が青木だから青木くんと呼んでいた。名前はたしか修一だったが、誰も修一とは呼ばなかった。青木くんは青木くんで、それで完結していた。

彼はいつも何かを先に知っていた。音楽でも、映画でも、ファッションでも。僕らが気づく三ヶ月前には、青木くんはすでに次のものへと移っていた。

そんな青木くんが、ある朝教室に入ってきたとき、何かが違った。

脚だった。

はいているジーンズが違った。

それまでの僕らは、田舎町の洋品店に並ぶ「とりあえずジーンズ」を誇らしく履いていた。国産の、なんだかわからないメーカーの、でも青くてジーンズの形はしているそれを。それで十分だと思っていた。

青木くんは教室の真ん中に立って、こう言った。

「おい。これからはこれだぞ」

リーバイスの501だった。

「昨日、アメ横で買ってきたんだ」

僕らは黙って見ていた。いつも斜に構えている連中が、言葉を失っていた。

ジッパーではなかった。ボタンだった。フライがボタンで留まっている、一見面倒くさそうなそれは、しかし妙に格好よかった。シルエットが違った。腰の落ち方が、脚の流れ方が、何かが根本的に違った。

ガツン、と頭の中で音がした。

あ、またやられた。

悔しかった。でも欲しかった。

その週末、僕らは上野へ向かった。「斜に構えた田舎のガキ一行」が、母親にねだって小遣いをかき集めて、アメ横へと。

手に入れた501を履いた日の感触を、今でも覚えている。

アメリカを、穿いた、と思った。

それから何十年も経った今も、クローゼットには501が山積みになっている。型が変わっても、流行が変わっても、結局そこへ戻る。ジーンズ=501、という刷り込みは、もう体に染み付いて取れない。

青木くんのせいだ。

いや、青木くんのおかげだ。

*  *  *

三 有楽町、一九七四年

「アメリカン・グラフィティ」が日本で公開されたのは、一九七四年のことだった。

僕らは揃いの501を履いて、有楽町へ向かった。

青木くんも一緒だった。

映画館に入る前、青木くんは何も言わなかった。ただ少し早足で歩いていた。僕はそれが青木くんなりの興奮の表れだということを、その頃には知っていた。

暗くなった映画館で、僕らは二時間、息をするのも忘れそうになっていた。

ウルフマン・ジャックの声。

黄色いデュースクーペ。

ローラースケート。

ロックンロール。

ジュークボックス。

一九六二年のアメリカが、スクリーンに広がっていた。僕らが生まれた頃の、あるいはまだ生まれていなかった頃の、遠い遠いカリフォルニアが。

エンドロールに、こんな一行が出た。

"Where were you in '62?"

"1962年の夏、あなたはどこにいましたか?"

映画館を出て、青木くんはしばらく黙っていた。それから言った。

「俺、向こうに行くかもしれん」

僕は何も聞かなかった。聞く必要がなかった。

青木くんはアメリカへ行くつもりだ、とそのとき確信した。

*  *  *

四 青木くんのサンフランシスコ

高校を卒業すると同時に、青木くんはサンフランシスコへ渡った。

送別会も何もなかった。ある朝、いなくなっていた。それが青木くんらしかった。

向こうで何をしていたか、断片的には聞いた。古着の買い付けをしていた、という話。ヴィンテージのデニムを掘り起こして、日本へ送っていた、という話。向こうのリサイクルショップを回って、誰も気づいていない五〇年代の一枚を見つける、そういう仕事だったらしい。

青木くんにしかできない仕事だ、と思った。

僕らがまだ国内でうろうろしている間に、青木くんはとっくに本物のアメリカの中にいた。映画の中ではなく、街の中に。

数年後、帰国した青木くんは原宿に店を出した。

輸出入の業者として、アメリカと日本を行き来しながら集めた古着やグッズを売る店だった。

一度だけ行ったことがある。

狭い店の中に、見たことのないものが詰まっていた。五〇年代のバーシティジャケット。六〇年代のワークシャツ。古いレコードのポスター。真鍮のバックル。色褪せたが、その色褪せ方が完璧な、デニムたち。

青木くんは相変わらず、何かを先に知っていた。

「最近な」と彼は言った。「向こうの若いやつらが、五〇年代のものを掘り返し始めてる。もう一周するかもしれん」

僕には何のことかよくわからなかった。でも青木くんが言うなら、そうなるのだろうと思った。

残念ながら、店は長くは続かなかった。

詳しいことは聞かなかった。時代のせいかもしれないし、青木くん自身が次へ移りたくなったのかもしれない。どちらにしても、あの店がなくなったと聞いたとき、僕は少しだけ、時代の一区切りを感じた。

*  *  *

五 憧れは褪せない

昨今、アメリカは近くなった。

ネットを開けば、向こうの古着屋が出てくる。欲しいものを検索すれば、海の向こうから届く。六〇年代のジュークボックスも、五〇年代のジャケットも、クリックひとつで手に入る時代だ。

でも、何かが違う。

僕らが憧れた六〇年代のアメリカは、そこにはない。

ウルフマン・ジャックが深夜ラジオで喋っている、あのアメリカ。デュースクーペが国道を流している、あのアメリカ。ジュークボックスが輝いている、ドライブインの、あのアメリカ。

それは映画の中にしかない。あるいは、僕らの記憶の中にしかない。

でも、だからこそ色褪せない。

偶然つけたテレビで「アメリカン・グラフィティ」が流れた夜、僕が感じたのはそれだった。現実のアメリカへの憧れではなく、あの映画が作り出した、永遠に一九六二年の夏であり続ける、あの世界への憧れ。

それは本物の記憶ではない。僕らは一九六二年のカリフォルニアにはいなかった。ギリギリこの世に生まれてはいたが、田舎の日本の、どこかにいた。

でも、心はあそこにいた。

青木くんもそうだったのだと思う。だから渡った。本物を探しに。

尚も、いつかあの黄色いデュースクーペをと思っている。

カートが憧れた、白いサンダーバードの金髪の女性も、だなんて。

時を越えて、僕らの憧れは果てしなく続く。

*  *  *

終章 THX138

テレビを消した後、しばらくそのまま座っていた。

部屋は暗かった。外は静かだった。還暦を越えた男がひとりで、黄色いクルマの余韻の中にいた。

こんなきっかけで、すべてが引っ張り込まれる。色褪せずに残った心の中へと。

笑顔は、あの頃以上のものになる。

良い季節だったと、良い時代だったと、誇らしく誰かに伝えたくなる。

青木くんは今、どこにいるだろう。

まだ何かを先に知っていて、僕らの遥か前を走っているだろうか。

それとも、どこかの街で501を履いて、古いレコードでもかけているだろうか。

聞いていない。聞く必要はない。


"Where were you in '62?"


僕らは、確かに、ギリギリ、なんとか、この世に生は受けてはいた。

けれども。。。


THX138






── 口約束と、三十年後の夢 ──


【まえがき】

若い頃、誰でも一度くらい、そんな約束をしたことがあるんじゃないだろうか。

「三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会って結婚しよう」なんて。

笑いながら。半分本気で。半分冗談で。

この物語の主人公は、六十二歳の男だ。

ある夜、三十数年前に別れた女が夢に出てきた。

それだけの話だ。

それだけの話なのに、翌朝から、何かがずっと胸の中に引っかかっている。

幸せは向こうからは来ない、探しに行かなければ。

あの頃、そんなことを知っていたら——。

いや、知っていても、きっと同じことをしたんだろう。




第一章 夢の中の「あははは」

◆ 夢

夢を見た。

場所は、昔住んでいた町の、古い喫茶店だ。もうとっくに潰れているはずの店が、夢の中では当たり前のように営業していた。

カウンターに二人で並んで座っていた。

隣にいる女の顔が、なぜかはっきり見えなかった。でも声はわかった。笑い方もわかった。

「ねえ、三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会おうよ」

夢の中の俺は笑っていた。

「あははは。いいよ、そうしよう」

そこで目が覚めた。

時計を見ると、朝の四時二十分だった。

隣で妻の佐知子(さちこ)が静かに寝息を立てている。

浅見浩一(あさみこういち)、六十二歳。定年まであと三年。子ども二人は独立している。妻とは三十四年連れ添った。

何の不満もない生活だ。

それなのに、なぜ今夜、あの夢を見たのか。

◆ 三十数年前のこと

浩一がその女——中村亜矢子(なかむらあやこ)——と付き合ったのは、二十一歳から二十四歳までの三年間だった。

出会いは大学のサークルだ。ギタークラブ。浩一はギターが下手で、ほとんど幽霊部員だったが、亜矢子は違った。毎回練習に来て、一番うまかった。

付き合い始めたのは二年生の秋。別れたのは就職して二年目の春。

別れた理由は、今となってはよく覚えていない。いや、正確には覚えているが、あまりにも情けない理由なので、記憶の奥に仕舞い込んできた。

一言で言えば、浩一が逃げたのだ。

亜矢子が真剣になればなるほど、浩一は怖くなった。

真剣に向き合うことが怖かった。責任を持つことが怖かった。

だから、笑って誤魔化した。

「あははは。まあ、お互い頑張ろうよ」

そんな言い方で、別れた。

別れ際に、あの約束をした。

「三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会おう。結婚しよう」

それも笑いながら。

亜矢子は笑わなかったけれど。


第二章 新幹線で来た女

◆ 手紙

別れてから三年が経ったころ、浩一は結婚を決めた。

相手は職場の同僚・佐知子だ。穏やかで、一緒にいると楽だった。

婚約が決まった夜、浩一はふと思い出した。

あの約束のことを。

「もしも結婚するときには必ず知らせる」

そんな約束もしていた。

普通の人間なら、そこで止まる。

でも浩一はバカ正直に、手紙を書いた。

亜矢子の実家の住所はまだ知っていた。

短い手紙だった。

「このたび結婚することになりました。以前の約束の手前、ご報告します。お元気で」

書きながら、自分でも何をやっているのかわからなかった。

送ったあと、後悔した。

でも取り消せなかった。


◆ 押し掛けてきた彼女

一週間後、電話が来た。

「浩一くん? 亜矢子です」

声を聞いた瞬間、心臓が止まりかけた。

「……亜矢子」

「手紙、もらったから。会いたい。来ていい?」

来ていい、と言われる前に断るべきだった。

でも、浩一は「……うん」と言ってしまった。

翌週の日曜日、亜矢子は新幹線に乗ってやってきた。

駅の改札口で待っていると、改札から出てきた亜矢子は——三年前とほとんど変わっていなかった。

「来ちゃった」と彼女は言った。笑顔で。でも目が笑っていなかった。

二人で駅近くのカフェに入った。

亜矢子はコーヒーを頼んで、真っすぐに浩一を見た。

「結婚、本当にするの?」

「……する」

「もう決めたの?」

「決めた」

亜矢子はしばらく黙っていた。

コーヒーカップを両手で包んで、テーブルの染みを見つめていた。

「あの約束……覚えてた?」

浩一は答えられなかった。

覚えていた。だから手紙を書いた。

でも、それが何を意味するのかを、浩一は正面から受け取ることができなかった。

◆ 背を向ける

亜矢子は浩一に、あの熱さを持参してきていた。

三年前と変わらない、あの真剣な目。

「浩一くんのことが、まだ好きだよ」

はっきりと、そう言った。

浩一は、また怖くなった。

三年前と同じように。

「……ごめん」

それだけ言って、俯いた。

亜矢子は「そっか」と静かに言った。

カップのコーヒーを最後まで飲んで、立ち上がった。

「幸せになってね」

改札に向かう亜矢子の背中を、浩一は見送った。

追いかけることも、もう一度呼ぶことも、できなかった。

ただ、背を向けるだけしか、できなかった。

罪かな。

罪だよな。

いや、罪ではないよな。

ないはずだよな。

三十数年経った今も、その問いに答えが出ない。


第三章 あははは、の意味

◆ 息子の恋愛相談

夢を見た翌週の土曜日、長男の健太(けんた)が久しぶりに家に来た。三十一歳、独身、都内でシステムエンジニアをやっている。

夕食を食べながら、健太がぽつりと言った。

「好きな人がいるんだけど、なんか怖くて」

「怖い?」

「うん。真剣に好きだから、真剣にぶつかるのが怖い。玉砕したら立ち直れないかもって」

浩一はコップを置いて、息子の顔を見た。

——三十年前の俺だ。

「玉砕するよりも、怖いことがある」と浩一は言った。

「何が」

「逃げたまま歳を取ることだ」

健太は黙っていた。

「笑って誤魔化して、ずっと逃げてると、三十年後に夢を見る。夢の中でまた笑ってる。あははは、ってな」

「……父さんの話?」

「他人の話だ」

浩一はそう言ってビールを飲んだ。

健太は少し考えてから「そっか」と言った。

食事が終わって健太が帰ったあと、佐知子が洗い物をしながら言った。

「健太に、昔のこと話してたの?」

「……聞こえてたか」

「少しだけ」

佐知子は振り返らずに言った。「あの人のこと、時々夢に見るでしょ」

浩一は固まった。

「……なんで知ってる」

「寝言で笑うから。あははは、って」

◆ 佐知子のこと

洗い物を終えた佐知子はタオルで手を拭いながら、テーブルの椅子に座った。

「怒ってない」と彼女は言った。「人間は過去を持って今を生きてるから」

「……悪かった」

「謝らなくていい。それより聞いていい?」

「何を」

「その人に、ちゃんとさよならを言えたの?」

浩一は答えられなかった。

佐知子は静かに続けた。「言えてないから、夢に出てくるんじゃないかな」

浩一はしばらく黙っていた。

言えていなかった。あの日、「ごめん」と俯いただけで、ちゃんと向き合わなかった。亜矢子の目を見なかった。

「……そうかもしれない」

「そういう人って、夢に出てくるよ。私にも一人いるから」

浩一は驚いて妻を見た。

佐知子は少し笑って「お互い様ね」と言った。

三十四年連れ添った妻が、その夜、少しだけ違って見えた。

第四章 三十二で嫁に行ったと聞いたけれど

◆ 旧友からの便り

亜矢子のことを最後に聞いたのは、共通の友人・木下(きのした)からだった。

あれはいつのことだったか。浩一が三十五歳か三十六歳のころだと思う。

木下から電話があって、「そういえば亜矢子さん、去年結婚したって」と言われた。

「そうか」と浩一は言った。

「三十二だって。相手は地元の人らしいよ」

「そうか」と、また言った。

電話を切ってから、ほっとした気持ちと、もやっとした気持ちが混ざり合っていた。

ほっとしたのは、亜矢子が幸せを見つけたからだ。もやっとしたのは——自分でもよくわからなかった。

今になって思う。

あの「もやっと」は何だったのか。

後悔だったのかもしれない。

あるいは、自分が逃げ続けてきたことへの、遅れてきた自覚だったのかもしれない。

◆ 口約束の正体

なぜ、あんな約束をしたのだろう。

三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会おう。

浩一はその理由を、六十二歳になった今、ようやく言葉にできる気がする。

それは「滑り止め」ではなかった。

亜矢子への気持ちは本物だった。

ただ、その気持ちに正面から向き合うことが怖かった。

だから、遠い未来に先送りした。「三十になったら」という言葉に、今の責任を押しつけた。

そして笑った。あははは、と。

笑うことで、真剣さを誤魔化した。

若さが、そうさせたのかもしれない。

でも若さのせいにするのは、簡単すぎる。

結局のところ、浩一は逃げたのだ。

怖かったから、逃げた。

それだけだ。

◆ 健太から電話

夢を見た週から十日ほどが経った月曜日の夜、健太から電話があった。

「告白した」

「どうだった」

「付き合うことになった」

「そうか」

「父さんの言葉が背中を押してくれた。逃げたまま歳を取る方が怖い、って」

浩一は電話口で、少し笑った。

「よかった」

「父さんも、幸せにしてもらってるんだよね、母さんに」

「……ああ」

「じゃあね」

電話を切って、浩一はリビングを見渡した。

佐知子がソファで本を読んでいた。

三十四年間、この人と生きてきた。

不満もあった。ぶつかることもあった。それでも続いてきた。

佐知子は顔を上げて「健太から?」と聞いた。

「ああ。彼女ができたって」

「あら」と佐知子は嬉しそうに笑った。「よかった」

その笑顔が、浩一にはありがたかった。


第五章 幸せは探しに行かなければ

◆ すまん

ある夜、浩一は一人でビールを飲みながら、昔のアルバムを引っ張り出した。

段ボールの奥から出てきた、色あせた写真。

大学のサークルの合宿。山の中で、全員がギターを持っている。

その端に、亜矢子が写っていた。

笑顔だった。細くて、まっすぐで、あの頃の熱さがそのまま写真に残っていた。

浩一は写真に向かって、小さく言った。

「すまん」

声に出して言ったのは、初めてだった。

三十数年間、心の中で何度も言いかけて、言えなかった言葉だ。

「あの約束、守れなくてすまん。手紙なんか書いてすまん。ちゃんと向き合えなくて、すまん」

誰も聞いていない。

佐知子は寝室にいる。

だから言えた。

亜矢子は今、どこかで誰かの妻として、あるいは母として、生きているだろう。

幸せでいてほしい、と思った。

心から、そう思った。


◆ 若い衆たちへ

翌日、浩一は部下の若い社員——入社二年目の加藤(かとう)——と昼食をとった。

加藤は二十五歳で、最近失恋したと聞いていた。

「好きな人に、なかなか気持ちを言えなかったんですよ」と加藤は言った。「言おう言おうと思ってるうちに、別の人と付き合い始めちゃって」

「言えばよかった」

「……そうですよね」

「でも言えなかっただろ」

「はい」

浩一は箸を置いた。「幸せは向こうからは来ないんだ。探しに行かなければ、探し続けなければ」

加藤は黙って聞いていた。

「自分から動くのが怖いのはわかる。玉砕が怖いのもわかる。でも、笑って誤魔化して逃げると、三十年後に後悔する」

「三十年後ですか……」

「ああ。俺みたいにな」

加藤は少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になって「そうします」と言った。


◆ 約束というもの

口約束は、守るべきか。守らざるべきか。

浩一には、今もわからない。

あの約束が正しかったのか、間違いだったのか。

手紙を書いたことが正しかったのか、間違いだったのか。

ただひとつ言えることがある。

約束をするなら、笑って誤魔化すな。

あははは、と笑って誤魔化す約束を、言葉にするな。

誤魔化したいなら、最初から言うな。

言うなら、向き合え。

向き合えないなら、黙っていろ。

それが、三十数年かけて浩一がたどり着いた、唯一の答えだ。


◆ 今夜の夢

あの夢を見てから一ヶ月が経った。

今夜は不思議と、穏やかな気持ちで眠れた。

夢は見なかった。

あるいは、夢を見ても覚えていなかった。

朝、目が覚めると、隣に佐知子がいた。

「おはよう」と佐知子が言った。

「おはよう」と浩一は言った。

それだけだ。

三十四年連れ添って、それだけのやり取りで十分になった。

それが幸せというものの、地に足のついた姿なのかもしれない、と浩一は思った。

幸せは向こうからは来ない。探しに行かなければ、探し続けなければ。

でも、探し続けた先に、こうして朝が来る。

それで、十分だ。


〔エピローグ〕

半年後。

健太が彼女を連れてきた。

名前は麻衣(まい)といった。

明るくて、少し不器用で、でも真剣な目をしていた。

食事を終えて健太たちが帰ったあと、佐知子がお茶を淹れながら言った。

「あの子、いいね。真剣な目をしてる」

浩一は「そうだな」と言った。

亜矢子のことを、少しだけ思い出した。

あの日、改札に向かう背中を見送った夜から、三十数年。

人生は続いている。

若い二人の前にも、たくさんの壁があるだろう。口約束をして笑い合う夜もあるかもしれない。

でも、どうか——真剣に向き合ってほしい。

あははは、で誤魔化さないでほしい。

         ── 了 ──


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【あとがき】

若い日の口約束。守るべきか、守らざるべきか。
答えは最後まで出しませんでした。

それは、読んでくださった方それぞれが、自分自身の経験と重ねながら考えてほしいからです。

ひとつだけ言えることがあるとすれば。
幸せは向こうからは来ない。
今日も、探しに行く価値がある…。



縁の糸は時を超えて
――偶然と必然の狭間で――


プロローグ 縁の始まり

すべての出会いには、
必ず理由がある。
わずかな違いで、
ここにはたどり着かなかったはずのものばかり。

世界の果てに、糸を紡ぐ者がいるという。

その者は、時の流れの中で見えない縁を結び、人と人、人と運命を繋いでゆく。人はその糸に気づかず、ただ偶然と呼ぶ。しかし偶然とは、必然が姿を変えたものに過ぎない。

タリエン王国の歴史書にはこう記されている。

――《縁の糸》は、準備の整った魂にのみ、その端を差し出す。準備なき者が糸を掴もうとすれば、それはすり抜けるか、あるいは縺れて傷となる。――

これは、ひとりの旅人と、ひとりの若き魔法使いの物語である。

ふたりはそれぞれの場所で、それぞれの痛みを抱えながら、長い時間をかけて準備を重ねてきた。そしてある朝、霧深い森の入り口で、何の予告もなく出会った。

それが偶然だったのか、必然だったのか。

問いの答えは、物語の終わりにある。




第一章 旅人の荷物

アルヴァン・セイラスは四十二歳になる年に、旅を再開した。

かつて彼は、タリエン王国随一の剣士として名を馳せた。若い頃は竜を討ち、王の命を救い、数々の武功を立てた。しかしその名声と引き換えに、彼は多くのものを失ってきた。

妻を。

友を。

そして、自分自身の心の一部を。

十年前、妻のリアナが病で逝った夜、アルヴァンは剣を壁に立てかけ、二度と抜かないと誓った。その後の十年は、王都の外れにある小さな農家で、名もなき農夫として過ごした。畑を耕し、羊を飼い、夜には酒を飲んだ。悲しみを忘れるためではなく、悲しみと共に生きることを学ぶために。

だが、春の始まりのある朝、隣人の老婆ヴェラが彼の家を訪ねてきた。

「アルヴァン」と老婆は言った。「お前さんの目が変わったよ」

「どう変わりましたか」

「死んだ目じゃなくなった。ようやく生きようとしとる目だ」

アルヴァンは返す言葉を持たなかった。しかし老婆の言葉が、何かを揺さぶった。その夜、彼は久しぶりに夢を見た。リアナが草原を走っていた。笑いながら振り返って、言った。

「行きなさい。あなたにはまだ、会うべき人がいる」

翌朝、アルヴァンは小さな革袋に必要なものだけを詰め、壁の剣を外した。刃は錆びていたが、柄の革は十年前のままだった。妻が贈ってくれた剣だった。

彼は農家の鍵をヴェラに預け、道へと出た。

どこへ行くかは決めていなかった。ただ、足の向く方へ歩こうと思った。

それが縁の糸の始まりだったと、後に彼は気づく。しかしそのときは、ただの旅の一歩に過ぎなかった。

三日間、彼は北へ歩いた。春の道は柔らかく、鳥の声が山野に満ちていた。道中、いくつかの村を通り過ぎ、水と食料を補充した。村人たちは彼の剣を見て怪訝な顔をしたが、声をかける者はいなかった。

四日目の朝、霧が出た。

珍しい霧だった。春の霧にしては濃く、白というより銀色に光っていた。道が見えなくなり、アルヴァンは立ち止まった。霧の中で方角を失うのは危険だ。それは旅人の基本だった。

しかしそのとき、霧の奥から声が聞こえてきた。

「あっ……くそっ、また失敗した」

若い声だった。女の声だった。怒りと落胆が混じった声だった。

アルヴァンは声の方へ慎重に歩いた。霧が薄くなり、木々の輪郭が現れ始めた頃、彼は森の入り口でうずくまる小さな人影を見つけた。

少女、と思いかけて、すぐに訂正した。二十代の前半だろうか。短く刈り込まれた黒い髪、緑色の瞳、魔法使い特有の銀の紋章が刺繍された薄紫のローブ。膝の前には魔法陣の痕跡――霧の発生源らしい白い灰が円形に散っていた。

彼女は自分の手のひらを見つめ、眉間に深い皺を寄せていた。

「迷子か」と、アルヴァンは声をかけた。

女は顔を上げた。驚きと警戒が半々の目だった。

「違います。実験中です」

「霧の中で?」

「私が霧を出しました。……失敗しましたが」

アルヴァンは彼女の前に屈み込み、白い灰を見た。確かに魔法陣の痕だった。しかし中心が微妙にずれている。それが失敗の原因だろうと、剣士の直感が告げた。魔法は詳しくないが、中心のある技は何でも同じだ。

「中心がずれている」

「……わかってます」

「気分が悪いときは、中心がずれる。体の重心と同じだ」

女はしばらく沈黙した。それから、ゆっくりと立ち上がった。

「どうして旅人が魔法陣のことを知っているんですか」

「知らない。ただ、体の使い方は知っている」

女は彼をまじまじと見た。革袋、錆びた剣、くたびれた旅靴。

「……名前は?」

「アルヴァン。あなたは?」

「エルダ。エルダ・ルーネンです」

霧が、ゆっくりと晴れていった。


第二章 魔法使いの重荷

エルダ・ルーネンは二十三歳だった。

王都の魔法学院を首席で卒業した彼女は、卒業と同時に宮廷魔法師の職を打診されていた。しかし彼女はそれを断り、一人で各地を旅していた。理由を人に話したことはない。しかし理由はあった。

彼女の師、老魔法師ゴルドが死んだのは半年前のことだった。

ゴルドは彼女に言った。「エルダ、お前にはまだ学ぶべきことがある。それは学院の中にはない。お前が探しに行かねばならない」

師の言葉の意味は、まだよくわからなかった。だが、旅に出ることだけは間違いないと感じた。宮廷に仕えることではない、と。

それから半年、エルダは各地の遺跡を巡り、古い魔法陣を研究し、記録してきた。しかし何かが足りなかった。技術ではない。知識でもない。もっと根本的な何かが。

アルヴァンと出会った日、彼女は七十三回目の《霧の術》に失敗したところだった。

霧の術は初歩の魔法だ。学院の一年生でも習う。しかし最近、彼女はこの術を完成させることができていなかった。原因は自分でもわかっていた。集中できないのだ。師の死後、心の奥底に何かが刺さったまま抜けず、それが術の中心を歪ませていた。

だから見知らぬ旅人に「中心がずれている」と言われたとき、エルダは驚いた。正確だったから。魔法のことではなく、自分の内側のことまで言い当てられたような気がして。

霧が晴れると、森の入り口の風景が現れた。老木が数本、春の芽吹きを見せていた。アルヴァンはその根元に腰を下ろし、水筒を取り出した。

「どこへ行く途中だ?」と彼は尋ねた。

「北の《古都ラエン》の遺跡を調べに。あなたは?」

「特に決めていない」

「……珍しいですね」

「年を取ると、行き先より歩くことの方が大事になる」

エルダは彼の横に座った。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。警戒すべき相手のはずだった。見知らぬ中年の旅人が、霧の中から現れたのだ。しかし彼の声に、不思議なほど危険な気配がなかった。長い時間を生きてきた者の、静けさがあった。

「《古都ラエン》ならば、二日で行ける」とアルヴァンは言った。「同じ方向だ」

「一緒に行くつもりですか?」

「同じ方向に歩くだけだ。一緒とは言っていない」

エルダは笑いそうになるのをこらえた。

「……変な人ですね」

「よく言われる」

そうして、ふたりは同じ方向へ歩き始めた。

距離を保ちながら。しかし確かに、並んで。


第三章 ラエンへの道

道中、ふたりはあまり話さなかった。

アルヴァンは元来、無口な男だった。リアナが生きていた頃はよく話したが、それは妻が話し上手だったからだ。彼女がいなくなってからは、言葉の使い方を忘れてしまったような気がしていた。

エルダは話すことは得意だったが、この旅人に何を話せばいいかわからなかった。師のこと、失敗の連続のこと、宮廷を断ったこと。どれも重すぎて、初対面の相手に言う言葉ではないと思った。

だから、ふたりは黙って歩いた。

それが不思議なほど、苦にならなかった。

初日の夕暮れ、川沿いに野営地を見つけた。アルヴァンが焚火を起こし、エルダが川から水を汲んだ。役割は言葉なしに分かれた。

夕食は乾燥した豆のスープだった。素朴な味だったが、体が温まった。

「ラエンで何を調べるつもりだ?」アルヴァンが炎を見つめながら尋ねた。

「《縁の魔法陣》の痕跡を」

「縁の魔法陣?」

「古代の魔法です。人と人の縁を繋いだり、切ったりできると言われている。ほとんどは伝説の域を出ませんが、ラエンの遺跡に実物が残っているという記録があって」

「信じているのか、その伝説を」

エルダは少し考えてから言った。

「信じているかどうかより、確かめたいんです。縁というものに、実体があるのかどうかを」

「なぜ確かめたい?」

今度は長い沈黙があった。焚火がパチリと音を立てた。

「師が死んだとき、なぜその時期だったのかと思いました。もっと早くでも、もっと後でも、どちらでもよかったはずなのに。なぜあの瞬間に、という疑問が消えなくて。……縁に実体があるなら、理由があるはずだと思って」

アルヴァンはしばらく黙っていた。

「妻が死んだとき、同じことを思った」

エルダは彼を見た。旅人は炎を見つめたまま、表情を変えなかった。しかしその横顔に、十年分の時間が刻まれているのがわかった。

「今は、どう思っていますか?」

「答えはまだ出ていない。だが、問い続けることが大事だと思うようになった」

夜が更けた。ふたりは各自の毛布にくるまって眠った。

エルダは眠る前に、久しぶりに師の顔を思い浮かべた。怒った顔でも、悲しそうな顔でもなく、笑っている顔だった。

何かが、少しだけほぐれた気がした。


第四章 古都ラエン

ラエンは、かつて魔法国家の首都だった都市だ。三百年前に滅び、今は石造りの廃墟のみが残る。しかし廃墟の中心部には今もなお、何らかの魔力が漂っており、魔法使いたちの研究対象となっていた。

ふたりがラエンに着いたのは、翌日の午後だった。

エルダは地図を取り出し、遺跡の中心部へと向かった。アルヴァンは少し後ろを歩きながら、廃墟を観察した。石は古いが丁寧に積まれている。職人の技が感じられた。三百年前の人間も、同じように丁寧に生きていたのだと思うと、妙な親近感があった。

「ここです」

エルダが立ち止まった。円形の広場だった。中心に大きな石板が埋まっており、表面に複雑な文様が刻まれていた。

エルダは石板に近づき、しゃがみ込んで文様を観察した。目が真剣に輝いていた。

「本物だ……」彼女は小さく呟いた。「これが《縁の魔法陣》。記録通りの形をしている」

「どんな魔法陣だ?」

「中心に二つの点があります。ここと、ここ。この二点の間に、縁の力が流れる。ただし――」

エルダは文様の周囲をなぞった。

「――この陣は、双方が揃わないと発動しません。片方だけが準備できていても、もう片方が来るまで、陣は待ち続ける」

「それが《縁の魔法陣》の特性か」

「そうです。縁は、一方的には成立しない。双方の準備が揃って、初めて縁として現れる。古代の魔法師はそれを、この陣に刻んだんだと思います」

アルヴァンは石板を見下ろした。三百年前の誰かが、こんな山奥の廃都に、この真理を刻んだ。それがいまだにここに残っている。

「試してみるか?」と彼は言った。

「……え?」

「二つの点の上に、それぞれ立てばいい。ただそれだけじゃないのか」

エルダは彼を見た。次に石板を見た。それからゆっくりと立ち上がり、一方の点の上に立った。

「あなたも、あちら側に」

アルヴァンは反対側の点に立った。ふたりは石板を挟んで向かい合った。

何も起きなかった。

五秒、十秒と過ぎた。

エルダが「やはり伝説は――」と言いかけたとき、

石板が光った。

淡い金色の光が、文様の溝に沿って走り、二つの点を繋いだ。光は三秒ほど続き、静かに消えた。

エルダは息をのんだ。アルヴァンも動かなかった。

「……発動した」エルダの声が震えた。「双方が揃ったから。三百年、誰かを待っていた」

アルヴァンはその言葉をゆっくりと噛み締めた。

三百年、待っていた。

縁は、準備の整った者同士を待つ。

何かが、彼の胸の奥でほどけていった。

第五章 夜の語らい

その夜、ふたりはラエンの廃墟の中で眠った。

石造りの小屋が残っており、雨風はしのげた。エルダは魔法陣の写本を取りながら、アルヴァンは焚火の前で静かに過去を思い返した。

やがてエルダが写本を終え、火の前に座った。

「あなたは、どうして旅をやめていたんですか?」

突然の問いだったが、アルヴァンは驚かなかった。焚火を見つめたまま、ゆっくりと答えた。

「妻が死んだあと、続ける理由が見えなくなった。剣を持つことも、旅することも、全部リアナと一緒だったから。彼女がいない世界で、それらを続ける意味がわからなくなった」

「十年、農夫をしていたと言っていましたね」

「ああ。農作業は考えなくていい。手を動かせば、結果が出る。それが楽だった」

「でも、また旅に出た」

「夢を見た。妻が、行けと言った」

エルダは炎を見つめた。

「師も、死ぬ前夜に似たようなことを言いました。『お前にはまだ会うべき人がいる』と」

アルヴァンが彼女を見た。

「同じことを言われた」

「え?」

「妻が夢で言った。『あなたにはまだ会うべき人がいる』と」

ふたりは顔を見合わせた。

沈黙が落ちた。しかしその沈黙は空虚ではなかった。何かが満ちていくような静けさだった。

「……偶然ですよね」エルダが言った。

「そうかもしれない」

「でも、偶然にしては、できすぎている」

「ああ」

エルダは膝を抱えた。

「怖いんです。誰かに近づくことが。師を亡くしてから、誰かと深く繋がることを避けてきました。また失うのが怖くて」

アルヴァンは即答しなかった。じっくりと彼女の言葉を受け取った。それから、

「私もそうだった。十年間」

「……今は?」

「今は、失うことより、出会わないことの方が怖い、という気持ちが少しずつ大きくなってきた。それが準備というものかもしれない」

エルダはしばらく黙っていた。

やがて、彼女は小さく言った。

「……あの魔法陣が光ったのは、私たちが準備できていたから、でしょうか」

「石板はそう言っているようだった」

「ロマンチックすぎる解釈ですね」

「そうだな」

エルダは笑った。久しぶりに、心の底から笑った気がした。


第六章 別れの朝

三日間、ふたりはラエンに留まった。

エルダは魔法陣の研究を続け、アルヴァンは廃墟を歩き回った。夜には焚火を囲み、少しずつ話した。互いの過去、師のこと、妻のこと、そして見てきた景色のこと。

エルダが初めて知ったのは、アルヴァンが竜を討ったことのある剣士だということだった。彼は自慢げに語るでもなく、ただ淡々と話した。その淡々さに、彼がどれだけ多くのものを見てきたかが感じられた。

アルヴァンが知ったのは、エルダが孤児であることだった。幼い頃に両親を失い、ゴルド師に拾われ、魔法学院に預けられた。師は親代わりでもあった。だから師の死は、二重の喪失だったのだ。

四日目の朝、エルダは荷物をまとめた。

「次は東の《霊峰セドラ》に向かいます。そこにも古い魔法陣の記録が」

「そうか」

「……あなたは?」

「まだ決めていない」

エルダは彼を見た。旅の三日間、この男の存在が自分の中で少しずつ大きくなっていることに気づいていた。しかし、どう言えばいいかわからなかった。

彼は年上すぎる。旅の方向も違う。そして何より、自分はまだ、誰かと一緒にいる準備ができているかどうかわからない。

「……また、どこかで会えますか?」

アルヴァンは少し驚いた顔をした。しかし、静かに言った。

「縁の糸が繋いでいれば、会えるだろう」

「それは答えになっていません」

「そうだな。……東の《霊峰セドラ》には、私もいつか行こうと思っていた場所がある。時期が合えば」

エルダはその言葉を胸に収めた。約束ではなかった。しかし可能性だった。

「では、また」

「ああ、また」

エルダは道に出た。振り返ると、アルヴァンが廃墟の入り口に立って見送っていた。

彼女は手を振った。彼も手を上げた。

それだけだった。

しかしエルダは、歩きながら気づいた。

胸の奥にあった重いものが、少し軽くなっていた。


第七章 それぞれの道

エルダは東へ向かった。

《霊峰セドラ》への道は長かった。森を抜け、川を渡り、山を越えた。ひとり旅が久しぶりのように感じた。ラエンを出る前は、ひとり旅こそが自分の本来の姿だと思っていた。しかし今は、少し前まで誰かの足音が隣にあったことを思い出す。

それは孤独ではなかった。懐かしさに近いものだった。

途中の村で、エルダは宿に泊まった。宿の女主人が夕食を出しながら言った。

「お嬢さん、いい顔になったね」

「え?」

「去年ここを通ったときより、目が柔らかくなった。誰かに会ったんじゃないか?」

エルダは驚いた。去年もここに寄っていたが、女主人に覚えられているとは思っていなかった。

「……旅の人に会いました」

「そうかい。その人のことを考えてる顔だね」

エルダは否定しなかった。

「不思議な人でした。年が離れているのに、話していると年齢が関係ない気がして。でも、また会えるかどうかはわかりません」

「縁があれば、また会えるよ」

「……みんなそう言いますね」

「みんながそう言うのは、みんなそれを経験してきたからさ」

女主人は温かいスープを置いて去った。

エルダはスープを見つめながら、アルヴァンの言葉を思い出した。

――縁の糸が繋いでいれば、会えるだろう。

今なら、その言葉が少しわかる気がした。

一方、アルヴァンはラエンを離れ、しばらく当てもなく歩いた。

しかし足は、気づくと東へ向いていた。

特に理由はなかった。ただ、東が気になった。

それが縁の糸というものかもしれないと、彼はぼんやりと思った。


第八章 霊峰セドラの試練

霊峰セドラは、冬の名残りを雪として残す山だった。麓の村から見上げると、頂が雲の中に消えており、その神秘的な姿が多くの旅人を惹きつけた。

エルダが麓に着いたとき、地元の案内人が言った。

「今年は雪が深い。遺跡まで行くには、危険かもしれない」

「それでも行きます」

「おひとりで?」

「……ひとりです」

案内人は難しい顔をしたが、止めることはできなかった。エルダは防寒装備を整え、山道を登り始めた。

三時間ほど登ったところで、吹雪になった。

エルダは《結界の術》で吹雪を凌ごうとした。しかし術が安定しない。集中が乱れていた。

体が冷えてきた。足が重くなった。

それでも進んだ。諦めることは、師への裏切りのような気がした。

しかし、岩の陰で体を休めたとき、エルダは思った。

――私は今、準備ができているのか。

身体的な準備ではなく、心の準備のこと。

師が死んで、まだ半年。悲しみはまだ新しい。アルヴァンに会って、少し軽くなったが、まだ重いものは残っている。

これは、無理に進む場面なのか。それとも、待つべき場面なのか。

吹雪が強まった。

そのとき、後ろから声が聞こえた。

「エルダ!」

振り向いた。

雪の中から、黒い影が近づいてきた。

その姿に、エルダは目を見開いた。

「……アルヴァン?」

「馬鹿な旅人だ」と彼は言った。息を切らしながら。「吹雪の中に、ひとりで」

「なぜここに……」

「足が東に向いていた。理由はそれだけだ」

エルダは呆然とした。それから、ようやく気づいた。

目が潤んでいた。

「……泣いているのか?」

「違います。雪が目に入っただけです」

「そうか」

アルヴァンは彼女の横に座り、革袋から防寒の外套を出した。彼女の肩にかけた。

「遺跡は明日にしろ。今夜は安全な場所で休め」

「でも――」

「準備が整っていないときに無理をしても、縁の陣は光らない。あの石板が教えてくれた」

エルダはしばらく沈黙した。

それから、ゆっくりとうなずいた。

「……そうですね」

ふたりは岩陰に戻り、夜を越えた。

吹雪は夜明けとともに静まった。


第九章 光の陣

翌朝、霊峰は嘘のように穏やかだった。

雪が光に反射して、山全体が輝いていた。ふたりは再び遺跡へ向かった。今度は並んで。

遺跡は山頂近くの岩壁に刻まれていた。ラエンの石板より古く、文様は半ば風化していたが、基本的な構造は同じだった。中心に二つの点。その間を繋ぐ線。

エルダは石板の前に立ち、じっと見つめた。

「ここには、《縁を解く》陣も刻まれている」彼女は言った。「縁を結ぶだけでなく、縁を解くこともできる。古代の魔法師は、両方を作った」

「なぜ解く必要がある?」

「縁は、必ずしも幸せをもたらすとは限らないから。時に、縁が重荷になることもある。そのときのために、解放の術も用意した、ということだと思います」

アルヴァンは石板を見た。結ぶ陣と解く陣。表裏一体。

「あなたは師との縁を解きたいと思ったことがあるか?」

「……ありました。最初の頃は。失うことが苦しくて、出会わなければよかったと思ったことが」

「今は?」

「今は、違います。どんなに苦しくても、あの縁があったから今の私がいる。解きたいとは思わない」

アルヴァンは静かにうなずいた。

「妻との縁も同じだ」と彼は言った。「失って十年経って、ようやくわかった。解きたいとは思わない。ただ、その縁を抱えて次へ進むことができるようになってきた」

エルダは彼を見た。

「……それが準備というものですか」

「そうかもしれない。過去の縁を否定せず、抱えて進める状態。それが次の縁を受け取れる状態なのかもしれない」

エルダは深く息を吸った。それから、一方の点に立った。

「一緒に立ちますか」

アルヴァンは反対側の点に立った。

石板が光った。

今度の光はラエンより明るく、長く続いた。金色の光が山頂の雪に反射して、あたり一面を輝かせた。

エルダは涙をこらえなかった。

アルヴァンは目を細めた。その光の中に、一瞬、リアナの笑顔が見えた気がした。

光が消えた後、静寂があった。

それから、エルダが言った。

「私、ここで気づきました。師の言っていた『学ぶべきこと』が何か」

「何だ?」

「技術でも知識でもなく、縁の受け取り方です。誰かと深く関わることを怖れず、でも依存しすぎず、ただ共にいることの意味を。師はそれを教えたかったんだと思います。言葉ではなく、私が自分で気づくように」

アルヴァンは彼女を見た。

霊峰の朝の光の中で、エルダの顔は以前より清んで見えた。

「師は賢い人だったんだな」

「……ええ。本当に」

エルダはまた泣いていた。しかし今度は、悲しみではなく、感謝の涙だった。


第十章 縁の告白

セドラの麓の村に戻ったふたりは、宿に二泊した。

エルダは魔法陣の記録を整理し、アルヴァンは宿の主人の頼みで、壊れた農具を直した。十年の農夫生活は、こういうところで役に立った。

二日目の夜、食堂で食事をしながら、エルダが言った。

「次は、どこへ行くつもりですか?」

「決めていない」

「……また同じ方向になるかもしれませんね」

「そうかもしれない」

エルダはワインを一口飲んだ。勇気を集めるように。

「一緒に行きませんか」

アルヴァンは動かなかった。

「旅の同行者として、という意味か?」

「……それ以上の意味も、あります」

沈黙。

エルダは続けた。声が少し震えていた。

「あなたと一緒にいる時間が、今まで感じたことのない安心感をくれます。年が離れているとか、これからどうなるかとか、そういうことはまだわかりません。でも、少なくとも今、あなたと一緒に旅を続けたいと思っています。それは、縁の陣が光ったことよりも確かな気持ちです」

アルヴァンはワインを置いた。

長い沈黙の後、彼は言った。

「私もそう思っている」

エルダは顔を上げた。

「ただ」と彼は続けた。「私は四十二だ。あなたは二十三だ。私が老いていく速さは、あなたより速い。それでも構わないか」

「構いません」

「答えが早すぎる」

「考えてきました。霊峰を登るより前から」

アルヴァンは彼女を見た。真剣な目だった。迷いがない目だった。

彼は思った。この目は、十年前の自分が持っていた目に似ている。何かを決めたときの、揺るぎない目。

「……リアナのことを、話してもいいか」

「聞かせてください」

「彼女がいたから、今の私がいる。その縁は消えない。それを抱えたまま、新しい縁を受け取ろうとしている。それでも構わないか」

「私も、師を抱えたまま旅をしています。お互い様です」

アルヴァンは深く息を吸った。

「……ありがとう」

「何がですか?」

「霧の朝に、声をかけてくれたことへの礼だ。七十三回目の失敗の後に」

エルダは笑った。

「知っていたんですか、七十三回目だということ」

「数えていなかったが、そんなに失敗していた目をしていた」

「……失礼な人ですね」

「そうだな」

食堂に夜の賑わいが戻ってきた。

ふたりは、もう少しだけ同じテーブルに座っていた。


第十一章 共に歩む道

それからのふたりの旅は、以前と少し変わった。

距離が変わった。並んで歩く距離が縮まった。言葉が増えた。沈黙の質が変わった。以前の沈黙は、互いを知らない者同士の静けさだった。今の沈黙は、互いを知った者同士の静けさだった。

旅は続いた。南の森、西の湖、各地の遺跡と市場と村を巡りながら、ふたりはそれぞれの研究と、それぞれの目的を持ちながら、同じ道を行った。

エルダの魔法は変わった。

あれほど失敗が続いていた《霧の術》が、ある朝から安定して成功するようになった。術の中心がぶれなくなった。なぜかはわかっていた。自分の内側の中心が、ぶれなくなったからだ。

失うことへの恐れは消えなかった。しかしそれより大きく、誰かと共にある喜びが育っていた。そのバランスが、術を安定させた。

アルヴァンの剣は変わった。

久しぶりに剣を使う機会があった。旅の途中、山賊に遭遇したのだ。アルヴァンは剣を抜いた。錆びた刃は磨き直されていた。彼の動きは若い頃ほどではなかったが、確かな重みがあった。経験の重みだった。

戦いが終わった後、エルダが言った。

「本当に剣士だったんですね」

「疑っていたのか」

「少しは」

「失礼な魔法使いだ」

「お互い様です」

旅を始めて半年が過ぎた頃、ふたりはある古い神殿を訪れた。縁の神を祀るという神殿だった。神官が言った。

「縁の神は、人の縁を見守り、時が来たときに引き合わせる。しかし縁を結ぶのは、神ではなく人自身です。神は糸を手渡すだけ。糸を受け取り、手で握るのは、人の意志によるものです」

エルダはアルヴァンを見た。

「糸を受け取ったのは、私たちの意志ですよね」

「そうだな」

「では、縁は偶然でも必然でもなく、意志なんですか?」

アルヴァンはしばらく考えた。

「三つ全部だと思う。偶然の出会い、必然の時期、そして意志による選択。三つが重なったとき、縁になる」

神官が微笑んだ。

「お客人、なかなか良いことをおっしゃる。まるで縁の神の代弁者のようです」

エルダは笑った。アルヴァンは照れたように咳払いをした。

それが、ふたりらしい瞬間だった。


第十二章 縁の糸は時を超えて

一年が過ぎた。

エルダの研究は大きく進んでいた。古代の縁の魔法に関する論文を書き始め、各地の魔法師協会から注目されるようになっていた。師が望んでいたことは、これだったのかもしれないと思うようになっていた。

アルヴァンは、旅の中で少しずつ剣術の指南を始めていた。村の若者に頼まれ、基礎を教えた。教えることで、自分の技が整理されていくことを知った。与えることが、受け取ることでもある、ということを。

ある秋の夕暮れ、ふたりは最初に出会った場所、ラエンの廃墟に戻った。

一周回って、戻ってきた。

廃墟は変わっていなかった。石板も、文様も、変わらずそこにあった。

エルダは石板の前に立った。

「一年前、私はここで失敗ばかりしていた魔法使いでした。師を失って、何かを探して、でも何を探しているかもわからなかった。あなたに会うまでは」

アルヴァンは石板の反対側に立った。

「私は十年間、農夫だった。妻を失って、続ける理由がわからなくて。夢の声に従って歩いてきたら、霧の中に七十三回失敗した魔法使いがいた」

「七十三回というのは、本当に失礼ですよ」

「事実だろう」

「……事実ですけど」

エルダは笑った。それから、真剣な目になった。

「ここでもう一度、陣を踏みたいです。今の私たちで」

ふたりはそれぞれの点に立った。

石板が光った。

金色の光が走った。

今度は長く、明るく、暖かく。

一年前よりずっと長く、光は続いた。

光が消えた後、エルダが言った。

「長くなりましたね」

「そうだな」

「縁が深くなったから、ですかね」

「かもしれない」

秋の夕日が廃墟に差し込み、ふたりの影を長く伸ばした。

エルダはアルヴァンの隣に歩いてきた。彼の手に、自分の手を重ねた。

アルヴァンは動かなかった。しかし、その手を握り返した。

「ねえ、アルヴァン」

「何だ」

「私たちは、偶然に出会ったのか、必然に出会ったのか、どちらだと思いますか?」

アルヴァンは夕日を見た。それからエルダを見た。

「必然が偶然を装っていたんだと思う。ずっと近くにいて、時を待っていた。私たちそれぞれが準備を終えた、あの朝に姿を現した」

エルダはその言葉をゆっくりと噛み締めた。

「……だから、大事に生きなければいけませんね」

「ああ。縁は、大事に生きている人のところに来る」

夕日が沈んでいった。

廃墟に夜が訪れ、星が出た。

ふたりはしばらく、そこに並んで座っていた。

言葉がなくても、十分だった。

それが、縁というものだった。


エピローグ

三年後。

エルダの論文『古代縁魔法陣の研究:偶然と必然の接点』は、王国魔法師協会の最優秀論文賞を受賞した。師ゴルドの名を冠した研究室が、王都の魔法学院に設立された。

アルヴァンは王都の近郊に小さな武術道場を開いた。農地の代わりに若者たちの汗が、土の代わりに板張りの床が、羊の代わりに木刀の音が、日常を満たした。

ふたりは、王都から一日の距離にある村に家を持った。

海の見える丘の上の、小さな家だった。

ある日の夕方、エルダは縁の魔法陣の模型を作っていた。研究室の学生たちに見せるためだった。精巧な陣の中心に、二つの小さな点が輝いていた。

アルヴァンが横から覗き込んだ。

「まだそれを作っているのか」

「完璧なものを作りたいんです」

「完璧な陣など存在しない。縁と同じで、常に変わり続けるものだ」

「……それは、研究者への挑戦ですか?」

「いや、詩だ」

エルダは笑った。

「あなた、いつからそんなロマンチックなことを言うようになったんですか」

「農夫の頃からだ。ただ言う相手がいなかった」

夕日が海を赤く染めた。

エルダは模型を置き、窓の外を見た。

「ねえ、アルヴァン。もし私が霧の中で失敗し続けていなかったら、あなたは声をかけてこなかったと思う?」

「声をかけたのはお前じゃない。私が近づいたんだ」

「そうだっけ」

「そうだ」

「でも、私が失敗していなかったら、あなたは気づかなかったかもしれない」

「……そうかもしれない」

エルダは微笑んだ。

「失敗してよかった」

アルヴァンは少し考えて、言った。

「七十三回失敗してよかったな」

「もう本当に失礼な人ですね」

「事実だろう」

ふたりの笑い声が、海風に乗って広がった。

偶然と必然と。
その境界は、どこにあるのだろう。
けれど、確かなことがひとつある。

縁は、大事に生きている人のそばに来る。

だから、大事に生きよう。
必然は偶然を装いながら、
いつも、すぐそこにいるのだから。

――了――



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読むのが

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