百年目のオーブ
― 時をめぐる光の物語 ―


まえがき
人が生きる時間には、かぎりがあります。
およそ百年も経てば、今この地球上で笑い、悩み、懸命に生きている人間たちのほとんどは、新しい誰かと入れ替わっています。
その事実を思ったとき、私たちは少しだけ寂しさを覚えるかもしれません。
けれど、自分が去ったあとの世界にも、同じように陽が昇り、風が吹き、誰かが大切な人と出会い、今日という一日を慈しんでいるのだとしたら——それは決して切ないことばかりではないはずです。
この物語は、山の上の静かな電波観測所で暮らす一人の男性と、百年の未来からやってきた一人の女性の、小さな出会いから始まります。
「何が出来るかではなく、何も邪魔をしないこと」
忙しない日々の中で、私たちが誰かの時間を、そして自分自身の時間をそっと大切に思えるような、静かで温かな風をお届けできれば幸いです。
一筆を置くにあたり、どうぞ山の上の静寂と、夜空に舞う柔らかな光の物語を、ゆっくりとお楽しみください。




序章 百年
わずか百年で、この世界の人間たちは、ほぼすべてが入れ替わる。
そう気づいたのは、三十を過ぎた頃だった。駅のホームで、産院の帰りらしい若い夫婦とすれ違ったときのことだ。母親の腕の中に、蜜柑ほどの小さな顔をした赤ん坊がいた。
あの子も、百年後にはもういない。
そう思った瞬間、足もとの床が薄い氷に変わったような気がした。けれど怖くはなかった。ただ、ひどく静かな気持ちになった。
僕らの持ち時間は、思っているよりずっと短い。だとすれば、何が出来るかを数えるより、何も邪魔をしないことのほうが大切なのかもしれない。
僕はその夜、手帳にそんなことを書きつけた。詩とも呼べない、ただの独り言だった。
まさかその独り言が、百年の向こう側まで届くことになるなんて、そのときの僕は知る由もなかった。



第一章 プラーナの見える朝
岬遼(みさき りょう)、三十八歳。職業は、山の上の古い電波観測所の保守技師。
八ヶ峰(やつがみね)電波観測所は、標高千九百メートルの尾根にある。かつては宇宙の彼方から届く微かな電波を拾い、銀河の地図を描いていた場所だ。いまは新しい観測網に役目を譲り、巨大なパラボラアンテナが一基、空を見上げたまま錆びていくのを、僕が世話をしている。
所員は僕ひとり。以前は所長の志村さんがいたが、三年前に定年を迎えて山を下りた。別れ際に、彼はこう言った。
「岬くん、あのアンテナはね、もう何も聴いてないように見えるだろう。でも、耳だけは閉じてないんだよ」
意味はよく分からなかった。ただ、その言葉が、なぜかずっと胸に残っていた。
それからの三年、僕は、たった一人の山の暮らしを、それなりに気に入っていた。朝はアンテナの関節にグリースを差し、昼は配電盤を点検し、夜は薪ストーブの前で手帳を開く。仕事の合間に思いついた言葉を、気まぐれに書きつける。誰に見せるわけでもない。ごくたまに、下の町のネットカフェから匿名の投稿サイトに載せてみることもあったが、読む人などいなかった。
それでよかった。言葉は、書きとめた瞬間に、半分、役目を終えているのだと、僕は思っていた。
その朝、最初に異変に気づいたのは、コーヒーを淹れているときだった。
湯気の向こうで、何かが揺れていた。
細い、細い、透きとおった糸のようなもの。それが窓から入り込み、台所を斜めに横切って、壁へと抜けていく。糸は一本ではなかった。よく見ると、部屋じゅうに、数えきれないほどの淡い光の筋が流れている。まるで目に見えない川が、この山小屋を丸ごと貫いているようだった。
僕は目をこすった。寝不足かと思った。だが、糸は消えなかった。
恐る恐る手を伸ばしてみる。指先に触れたはずの光は、なんの手ごたえもなく、僕の手のひらを通り抜けていった。ほんの少し、冬の朝の空気のような冷たさと、遠い誰かの体温のような温かさが同時に肌をなでた。
「……なんだ、これ」
声に出してみても、答えは返ってこない。ネットで調べると、こういうものを、ある人たちは「プラーナ」と呼ぶらしかった。生命のエネルギー。宇宙に満ちる気。眉唾ものの記事ばかりだったけれど、僕が見ているものの描写とは、不思議とよく似ていた。
それが見え始めたのは、この日からだ。
朝も昼も夜も、光の糸は、ただ静かに世界を流れていた。木々を抜け、岩を抜け、僕の身体を抜けていく。それは恐ろしいというより、むしろ懐かしい感触だった。
けれど、一週間ほど経った頃、僕はもうひとつの奇妙なことに気づく。
丸い光の玉が、ふわりふわりと漂っているのだ。
写真を撮ると白い斑点として写る、あの「オーブ」だ。心霊写真の類いだと、世間では笑い話にされている。だが僕の目には、それは埃でも水滴でもなく、ちゃんと意志を持って動くものに見えた。
そしてその玉は、なぜか、決まって僕を避けた。


第二章 避けていくオーブ
ためしに、オーブに近づいてみた。
尾根の遊歩道で、直径二十センチほどの白い光がゆらゆらと浮いている。僕がそっと歩み寄ると、光は、ちょうど同じ距離だけ、すうっと後ろへ下がった。
もう一歩。また一歩。
追いかけっこのようになった。僕が右へ回れば光は左へ逃げ、僕が立ち止まれば、光も動きを止める。やがて僕がしゃがみこんで、何もしないでじっとしていると、光はゆっくりと近づき、僕の周りをぐるりと一周した。
けれど、決して触れなかった。数センチ手前で、必ず、身をかわす。
面白いのは、糸のほうだ。プラーナは僕の身体を平然と通り抜けるのに、オーブは、かならず避けて通る。同じ光なのに、扱いがまるで違う。
「さあ、益々、分からない」
僕は独りごとを言って、笑った。
その夜、手帳に書きとめておこうと思った。この不思議を、忘れないように。ペンを持ったまま、しばらく窓の外を眺めていた。
星が、いつもよりずっと近くにあった。
数日後、山に大雨が降った。
雷を伴う嵐で、観測所の電源は何度も落ちた。僕は懐中電灯を片手に、配電盤の点検をして回っていた。そのとき、ふと、玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。
一番近い民家まで、歩いて二時間はかかる山の上で、である。
僕は息を止めた。もう一度、鳴った。
おそるおそる扉を開けると、そこに、ずぶ濡れの女性が立っていた。
年は僕と同じくらい。長い黒髪が頬に貼りつき、薄手の見慣れない素材のコートが雨を吸って重たげに揺れている。手には何も持っていない。荷物も、傘も、携帯電話すらも。
彼女は僕を見て、ほっとしたような、泣き出しそうな、不思議な顔をした。
「……岬遼さん、ですね」
「はい、あの……」
「よかった。本当に、いた」
そう言って、彼女は、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
僕は慌てて彼女を抱きとめた。その身体は、驚くほど軽かった。そして抱きとめた瞬間、僕には、はっきりと見えた。
彼女の身体を、オーブが、幾つも幾つも取り巻いていた。
まるで、迷い子を見守る蛍の群れのように。



第三章 澪
彼女は、天城澪(あまぎ みお)と名乗った。
暖炉に薪をくべ、毛布とホットミルクを渡すと、彼女はようやく頬に血の気を取り戻した。僕は、聞きたいことが山ほどあった。どうして僕の名を知っているのか。この山の上まで、どうやって来たのか。けれど、言葉が喉につかえてうまく出てこない。
先に口を開いたのは、澪のほうだった。
「岬さん。あなたは、ここ最近、光の糸が見えていませんか。それから、丸い光の玉が、あなたを避けるのも」
僕は、マグカップを取り落としそうになった。
「……どうして、それを」
「私たちが、そうなるように調整したからです。いえ、正確には、調整したのは私たちの先輩たちですけれど」
私たち。先輩たち。彼女の言葉はいちいち、輪郭のぼやけた響きをしていた。
「順を追って話します。信じなくてもいい。でも、最後まで聞いてください」
彼女は膝の上で両手を握り、深く息を吸った。
「私は、あなたより、ずっと先の時代から来ました」
僕は、笑おうとした。うまく笑えなかった。彼女の目が、あまりに真剣だったからだ。
「どのくらい、先ですか」
「ちょうど、百年」
暖炉の薪が、ぱち、と爆ぜた。
澪の話は、こうだった。
百年後の世界では、時間の流れを観測する技術が確立されている。時間は、川のようなものなのだという。上流が未来で、下流が過去。僕らが「プラーナ」と呼んだ光の糸は、その川の水そのもの、つまり、未来から過去へと流れ落ちる時間の粒子だった。
そして、オーブは、その川を遡ってくる観測者だった。
「未来の私たちは、過去を見に来ているんです。決して干渉しないという、たったひとつの約束を守って」
「見に来る……何のために」
「学ぶために。そして、感謝するために」
澪は少し笑った。その笑みが、僕には、ひどく遠い場所から届く灯りのように見えた。
「私たちの時代は、長く生きられます。……不老不死に、近いんです。病気も、老いも、ほとんど克服しました。けれど、それを手に入れた人類は、ある大きな問いにぶつかったの」
「問い?」
「私たちは、なぜここまで来られたのか。何を間違えずに来られたのか」
彼女は、僕をまっすぐに見た。
「その答えの根っこに、一篇の詩があります。作者の名前は、岬遼」
僕は、思わず声を上げた。
「詩なんて、僕は、そんな」
「『何が出来るかではなく、何も邪魔をするな、なのかもしれない』」
暖炉の火の中で、ちょうど薪がふたつに割れた。
それは、僕が手帳に書いた、あの独り言の一行だった。誰にも見せたことはない。ただ、ずいぶん前に、ほんの気まぐれで、匿名の投稿サイトの片隅に載せた覚えはあった。誰にも読まれず、すぐに埋もれたと思っていた。
「あの一行を、私たちの時代は『観測憲章』の第一条に置いています。過去に干渉してはならない。未来の誰かの、持ち時間を邪魔してはならない。……あなたの言葉が、私たちの世界の、いちばん深いところに、刻まれているんです」
信じられなかった。信じられるはずがなかった。けれど、目の前の女性が嘘をついているようには、どうしても見えなかった。
「じゃあ、オーブが僕を避けるのは」
「敬意です」
澪は静かに答えた。
「あなたに触れてはいけない。あなたの時間を、決して乱してはいけない。観測者は皆、そう教えられて育ちます。だから、あなたの周りだけは、オーブが必ず距離を置く」
そして、彼女は、ほんの少し声を落とした。
「でも私は、その約束を、破ってしまいました」
「破った?」
「どうしても、会いたかったんです。詩の作者に。それだけの理由で、私は規則を破って、川を遡り、あなたの扉を叩いた。……ごめなさい」
彼女の睫毛が、微かに震えていた。
僕は、何を言えばいいのか分からなかった。けれど、気づくと、こう口にしていた。
「謝ることじゃ、ないと思います」
「え」
「遠いところから、会いに来てくれたんでしょう。寒かったでしょう。……とにかく、今夜は休んでください」
澪は、小さく目を見開き、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……やっぱり、そういう人なんですね。あなたは」
その夜、僕は暖炉のそばの床に毛布を敷いて眠り、彼女は簡易ベッドで眠った。窓の外では、無数のオーブがふわふわと浮かび、山小屋を静かに見守っていた。



第四章 三日間
澪が山小屋に来て、最初の朝。
僕が目を覚ますと、彼女はもう起きていて、窓辺に立っていた。朝日が彼女の輪郭を淡く縁取り、その周りを、オーブがちいさな星のように漂っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
「岬さん、あれは何ですか。台所で、白いものが、ぷくぷくしています」
「ああ、それは、パン種です。昨日の夜から寝かせておいた」
「生きているんですか?」
「ええ、まあ、酵母は生きていますね」
澪は、ボウルの中のパン種を、まるで宝物でも見るように、覗き込んだ。百年後の食事は、栄養も味も、すべて調整されたものらしい。だから、こうして「膨らんでしまう」食べ物が、驚くほど不思議に映るのだと、彼女は言った。
「私たちの時代には、失敗がないんです。失敗しないように、ぜんぶ、作られているから。……こうして、勝手に膨らんだり、しぼんだりするのを見ていると、なんだか、生きものと暮らしているみたい」
その日の朝、僕が焼いたパンは、案の定、少し焦げて、少し固かった。それでも澪は、一口かじって、目を丸くした。
「おいしい」
「そんなに?」
「あたたかい。……なんて言えばいいのかな。ちゃんと、誰かの手の味がします」
僕は、照れくさくなって、コーヒーを啜った。
二日目は、山を下りて、麓の町へ行った。
澪には、着替えも靴も、財布もない。とりあえず、必要なものを買い揃えなければならなかった。僕の古い軽トラックの助手席で、彼女は終始、窓に額をくっつけていた。
「木が、こんなに、動いてる」
「風ですよ」
「風、って、こんなふうに見えるんですね。私たちの時代は、街の風は、計算されて吹いているから」
町の商店街で、僕らは、たくさんの寄り道をした。
コンビニの自動ドアの前で、彼女は三回、行ったり来たりして、ドアを開け閉めした。硬貨を渡すと、「これは、なんの、お守りですか」と真顔で訊いた。古本屋の棚の前では、一時間近く動かなくなった。町の図書館では、迷子になった。司書の女性に、優しく声をかけられて、真っ赤になって戻ってきた。
「岬さん、私、ここで、働きたい」
「図書館で?」
「本が、こんなに、たくさん、紙のまま、置いてある。……最高です」
そう言って笑った顔が、あまりにも無邪気で、僕は、返事をするのを忘れた。
その帰りに、麓の町はずれの介護つき住宅に、志村さんを訪ねた。
窓辺の車椅子に座った志村さんは、僕の顔を見るなり、皺だらけの目を細めた。そして、僕の後ろに立つ澪を見て、ゆっくりと、二度、頷いた。
「やっと、来たか」
「志村さん、あの、この人は」
「言わなくていい、言わなくていい」
志村さんは、手を振った。
「岬くん。君が、光の糸を見るようになったんだろう。そうじゃないかと思っていたんだ。あれは、心の澄んだ人にだけ、見えるものでね」
「所長も、見えていたんですか」
「四十年、見ていたよ。誰にも言わなかった。言ったところで、笑われるだけだし、それに」
彼は、窓の外の、遠い山並みを眺めた。
「あの光たちは、そっとしておいてほしそうだった。だから、私は、そっとしておいた。それが、私にできた、たった一つのことだ」
そう言うと、彼は、膝の上の古びた鍵を、僕の手に握らせた。
「アンテナの下の、ケーブルトンネルの鍵だ。もし、何か困ったことが起きたら、あそこへ行きなさい。私の道具箱が、置いてある」
「困ったこと、ですか」
「起きるさ。何かをそっとしておくには、それを、そっとしておかない人たちから、守らなきゃならん」
志村さんは、澪に向かって、深々と頭を下げた。
「遠いところから、よく来てくれたね。……岬くんを、よろしく」
澪は、目に涙を溜めて、同じくらい深く、頭を下げ返した。
帰り際、商店街の隅にある、小さな中古レコード店の前で、澪が足を止めた。
「岬さん。これが、レコード、ですか」
ガラス越しに、黒くて丸い円盤が、ずらりと並んでいた。詩の中で、僕が「CDになり、そのCDすら終えようとしている」と書いた、あのレコードだ。
「百年の間に、消えたものの、ひとつです」
澪は、囁くように言った。
「私の時代では、こういうものは、博物館にしかありません。でも、あなたの詩を読んだとき、私は、ずっと、その音を聴いてみたかった」
僕は、財布の中身を、そっと数えた。
その夜、山小屋の暖炉のそばで、僕らは、一枚のレコードを聴いていた。
店の主人に無理を言って、古い小さなプレーヤーごと安く譲ってもらったのだ。針が盤面に落ちるとき、ぷつ、ぷつ、と、小さな雑音が混じる。その先から、遠い昔の、誰かの歌声が、ゆらゆらと立ちのぼった。
「……雨みたい」
「雑音が?」
「ううん、全部。この音、ぜんぶ」
澪は、目を閉じて、ゆっくりと身体を揺らした。
僕は、しばらく、その横顔を見つめていた。暖炉の火が、彼女の頬に、あたたかな影を落としている。オーブたちが、部屋の隅で、遠慮がちに、ふわふわと明滅していた。
やがて、彼女が、目を開けた。
「岬さん。踊りませんか」
「僕は、ダンスなんて」
「私も、知りません。でも、いいんです。決まりなんて、ないから」
彼女が差し出した手を、僕は、取った。
ぎこちなく、ゆっくり、揺れる。狭い山小屋の床で、二人の影が、暖炉の炎の中で、寄り添ったり、離れたりした。針が盤面の最後の溝を擦る頃、僕らは、どちらからともなく、足を止めていた。
沈黙が、心地よかった。
「……ずっと、こうしていられたら、いいのに」
澪が、独り言のように、つぶやいた。
僕は、何も答えなかった。答えられなかった。彼女が「帰る人」であることを、僕は、痛いほど知っていたから。
三日目の夜、屋根の上で、僕らは星を見た。
毛布にくるまって、並んで寝そべる。天の川が、夜空を斜めに横切っていた。
「あの光は、何年前のものですか」
「あの星なら、たぶん、数百年前かな」
「じゃあ、私たちは、いつも、過去を見ているんですね」
「そうなりますね」
「不思議。私は、未来から来て、過去を見ていて。あなたは、過去の光を見ながら、未来を想像している」
「……なんだか、こんがらがりますね」
「ふふ。でも、それが、たぶん、生きてるっていうことなんですよ」
そのとき、僕の耳の奥に、遠くから、低いエンジン音が聞こえた。
僕はまだ、それが、この穏やかな日々の終わりを告げる音だとは、知らなかった。



第五章 追跡者
異変が起きたのは、その翌日の午後だった。
澪は、すっかり山の暮らしに馴染んでいた。薪を割る僕を眺め、洗濯物を干し、朝になれば、窓辺で光の粒と挨拶を交わした。百年後の空には、星がまるで違って見えるのだと、彼女は昨夜も言っていた。
「星座の形は、あまり変わらないの。でもね、空にある光の数が、ずっと多いんです。人の作ったものが、いっぱい浮かんでいるから」
「にぎやかですか」
「にぎやか。でも、少し、さみしい」
そう言って笑う横顔に、僕は、いつの間にか目を奪われるようになっていた。
けれど、その穏やかな日々は、唐突に途切れた。
黒い四輪駆動車が、観測所の私道を上がってきたのだ。
山の上まで来る車は少ない。物資を運ぶ業者と、ごく稀な見学者くらいだ。だが、その車には、そのどちらの気配もなかった。ナンバープレートの下に、小さな銀色の徽章が光っている。
車から降りてきたのは、背の高い三人の男だった。先頭の男は、五十歳前後。灰色のスーツにコートを羽織り、革靴を泥に汚しながら、あくまで丁寧な口調で言った。
「岬遼さんですね。私、先端計測開発機構の久我(くが)と申します。少し、お時間をいただけませんか」
久我は名刺を差し出した。肩書きは、特別調査官。
「先日から、この一帯で、原因不明の電磁的擾乱が観測されているんです。八ヶ峰の上空に、通常では考えられない量の、微粒子反応が」
僕は、内心の動揺を隠しながら答えた。
「さあ、僕には分かりません。古い機械ばかりですから」
「そうですか」
久我は、あっさりと頷いた。だが、その目は、僕の背後、山小屋の窓辺に向けられていた。
そこに、澪が立っていた。
一瞬、彼女の周りで、オーブがぱっと散った。
久我の口元が、静かに、ほんのわずかに、歪んだ。
「……なるほど。そちらの方が、『客人』というわけですか」
僕は本能的に、澪の前に立ち塞がった。
「お引き取りください。ここは私有地ではありませんが、あなた方に用はない」
「岬さん。私たちは、争うつもりはないのですよ」
久我は柔らかく言った。
「ただ、ひとつだけ、お願いしたいだけです。あの光の球体を、私どもの研究のために、一つだけ、ご提供いただきたい」
「提供?」
「ええ。たとえば、その方が、あれを呼び寄せてくださるなら」
そのとき、僕は理解した。
この男は、知っているのだ。オーブが、ただの現象ではないことを。そして、未来から来た者が、それを呼べるということを。
久我は、笑みを崩さずに続けた。
「未来の技術。時間を遡る仕組み。それがどれほどの価値を持つか、あなたなら、お分かりでしょう。私どもは、それを、正しく、活かしたいと思っているのですよ」
「正しく?」
僕は、乾いた声で笑った。
「未来のものを、今のために使うことが、正しいんですか」
「それが、進歩というものでしょう」
「違う」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「先の人が、後の人の時間を、勝手に使っちゃいけない。逆もそうだ。今の僕らが、未来の持ち時間を、横から奪っちゃいけない。……何も、邪魔をするな。それだけなんです」
久我の目から、笑みが消えた。
「残念ですね」
彼が、右手を軽く挙げる。背後の二人が、一歩前へ出た。
「では、力ずくで」
その瞬間、澪が僕の腕を掴んだ。
「岬さん、走って!」
僕らは、山小屋の裏口から飛び出した。



第六章 森を抜ける
雨上がりの森は、足もとがぬかるんでいた。
背後から、男たちの声と、枝を踏み折る音が追ってくる。僕は澪の手を引き、勝手知ったる山道を、尾根に向かって駆けた。肺が焼けるように熱い。それでも、握った彼女の手だけは、不思議とひんやりと落ち着いていた。
「岬さん、どこへ」
「アンテナの下に、古い保守用のトンネルがあるんです。ケーブルを通すための。あそこなら、しばらく隠れられる」
「距離は」
「尾根を回りこんで、谷を一つ越えます。……走れますか」
「私の時代の人間は、運動が苦手だと思っていました?」
彼女は、汗の光る顔で、にやりと笑った。「これでも、脚力補正を、まだ切っていませんから」
その言葉どおり、澪の足取りは軽かった。僕のほうが、先に息を切らしていた。
しかし、追手も、ただの人間ではなかった。
頭上で、ぶうん、と、虫の羽音に似た低い唸りがした。
見上げると、木々の隙間から、掌ほどの黒い機械が、こちらを覗いていた。小型の無人機だ。赤い小さなランプが、規則正しく明滅している。
「見つかった!」
「違う、あれは、私を追っているんです」
澪は、コートの胸元を、乱暴に探った。小さな銀色のボタンを、ちぎり取る。
「これ。観測用の記録端末。川を遡るとき、痕跡を残すのは、これのせいです。あの機械は、これの信号を、辿っている」
「捨てましょう」
「でも、これがなければ、私が……」
「帰る扉は、これがなくても開くんでしょう?」
澪は、一瞬、目を見張り、それから、頷いた。
「はい。扉を開くのは、オーブたちです。これは、ただの、私の、日記帳みたいなもの」
「なら、いい」
僕らは、谷底を流れる小さな沢まで駆け下りた。雨で増水した水が、白い泡を立てて岩を洗っている。僕は、流れの縁に落ちていた朽ち木を引き寄せ、そこへ、銀のボタンをそっと括りつけた。
木を、流れの中央へ押し出す。
朽ち木は、ゆっくりと回りながら、下流へと運ばれていった。上空の無人機が、その方向へ、すうっと、向きを変える。
「うまくいった……」
「行きましょう。長くは、もちません」
沢を渡るには、古い吊り橋を使うしかなかった。かつて、観測所の職員が、谷の向こうの資材置き場へ行くために架けたものだ。ワイヤーは錆びて、踏み板は、ところどころ腐っている。
「私が先に行きます。踏み板が、抜けそうなところを、教えるから」
僕が一歩目を踏み出した途端、橋全体が、ぎいい、と悲鳴を上げた。
「……ゆっくりね」
「分かってます」
十歩ほど進んだときだった。
足もとの踏み板が、ばきり、と音を立てて割れた。
「あっ」
「澪さん!」
僕の目の前で、澪の身体が、傾いた。
僕は、咄嗟に手を伸ばした。彼女の手首を、掴む。全体重が、腕にのしかかる。谷底で、増水した沢が、獣のように唸っている。
「離さないで!」
「離しません」
言葉と同時に、僕の足も、踏み板から外れた。
二人の身体が、橋のワイヤーにぶら下がる。腕が、みしみしと軋んだ。
「岬さん、もう、いい。私を離せば、あなたは」
「そんなこと、するわけがないでしょう!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「あなたは、遠いところから、僕に会いに来てくれた。それを、こんなところで、落とすなんて、そんな邪魔は、僕は、絶対に、しない」
そのとき、橋の周りに、ふわりと光が浮かんだ。
オーブだ。数十、いや、数百もの光の玉が、谷の暗がりを満たしていく。彼らは、僕らに触れなかった。ただ、ワイヤーと踏み板の周りを、ゆるやかに巡り、闇を払った。
光に照らされて、対岸の崖に張り付いた、太い鉄の梯子が見えた。ずっと昔に使われていた、非常用の設備だ。
「あそこ! あそこなら、届く!」
僕は、ワイヤーを蹴って、身体を振った。一度、二度。三度目で、澪の手が、梯子の一段を掴んだ。
僕らは、なんとか、岸に這い上がった。
しばらく、二人とも、ぜいぜいと肩で息をしていた。
やがて、澪が、ぽつりと言った。
「……さっき、私を離さないって、言いましたね」
「言いましたね」
「本当に、離さなかった」
「当たり前です」
澪は、泥だらけの顔で、ふっと笑った。それから、僕の手を、ぎゅっと握りしめた。
その先に、僕の目指す場所があった。



第七章 電波観測所の夜
トンネルの入口は、笹に埋もれた鉄の扉だった。志村さんから預かった鍵を、錆びた錠に差し込む。硬く、ぎしりと軋んで、それでも、錠は開いた。二人で身を滑り込ませる。扉を閉めると、闇と、湿った土の匂いが、僕らを包んだ。
懐中電灯の丸い光の中で、澪が肩で息をしている。
「……久我という人は、どうして、私たちのことを」
「分かりません。でも、あの人は、オーブが何なのかを、はじめから知っていた」
澪は唇を噛んだ。
「たぶん、私のせいです。私が川を遡ったとき、痕跡が、強く残りすぎた。観測者は本来、痕跡を残さないように来るのに、私は、急ぎすぎて」
「澪さん」
「私は、規則を破りました。そのせいで、あなたに、危険を」
「それは、もう言わなくていいです」
僕は、彼女の言葉を遮った。
「あなたが来なければ、僕は、光の糸の正体も、ずっと知らないままだった。……あんなきれいなものを見せてくれた人を、責める理由なんて、ないですよ」
暗がりの中で、澪が、ゆっくりと僕を見上げた。
トンネルの壁に、埃をかぶった木箱が置かれているのに、僕は気づいた。志村さんの古い道具箱だ。蓋を開けると、使い込まれた一冊のノートが出てきた。表紙には、几帳面な字で「観測日誌」とある。
ページをめくった僕は、息を呑んだ。
そこには、毎晩の日付とともに、こう書かれていた。
〈今夜も、丸い光が来た。挨拶をした。返事はないが、たぶん聞こえている〉
〈アンテナの向きを、ほんの少し、あの光のほうへ合わせておく。邪魔にならない程度に〉
〈岬くんは、まだ気づいていない。あの子は、きっと、いつか見える人になる〉
「……志村さん」
声が震えた。所長は、僕よりずっと前から、彼らを見ていたのだ。何十年も。そして、ただ静かに、耳を閉じずにいた。
「あのアンテナは、単なる観測機器じゃなかったんですね」
澪が、日誌を覗き込んでつぶやいた。
「この場所は、川の流れが、ちょうど集まる場所。何十年も、あの人が、そっと整えてくれていたんだわ。……だから私は、迷わず、ここに来られた」
「じゃあ、帰るときも」
「はい。今夜、日付が変わる頃に、扉が開きます。一度きり。それを逃したら、私は、二度と帰れません」
僕の胸の奥で、何かが、小さく軋んだ。
分かっていたことだった。彼女は未来の人だ。いつか、帰る人だ。それなのに、その日が今夜だと聞かされた途端、足もとの地面が、すとんと抜けたように感じた。
僕は、何か言おうとして、言えなかった。
代わりに、澪のほうから、静かに言った。
「岬さん。怖くないですか」
「怖い、ですよ。追われているし」
「そうじゃなくて」
彼女は、小さく笑った。
「百年後には、あなたも、いないでしょう。私は、それを知っている。あなたが、いつ、どんなふうに生きて、いつ眠りにつくのかを、記録で読んだ。……それでも、あなたは、ずっと穏やかなんですね」
「そう、なのかな」
「詩の中で、あなたは書いていた。『残念ながら、僕たちはそれを、見ることは出来ないけれど、それを、想像することは出来る』って」
澪は、僕の手を、そっと両手で包んだ。
「私、あの一行に、救われたんです。終わりのない時間を生きる私たちは、ずっと、何かを見失っていた。でも、あなたは、終わりがあるからこそ、今日を、想像し大切にできるんだって、教えてくれた」
その手は、あたたかかった。プラーナの糸が、僕ら二人の身体を、同じようにすうっと通り抜けていく。
トンネルの外で、男たちの足音が、遠くを通り過ぎていった。



第八章 久我の夜
久我は、谷を見下ろす林道に、車を停めていた。
運転席の窓を少し開けると、湿った夜の空気が、車内に流れ込んでくる。彼は、ダッシュボードの上に置いた、一枚の古い写真を、指先でなぞった。
写真の中で、六歳の少年が、麦わら帽子を被って笑っていた。
蒼(あおい)。久我の、ひとり息子だった。
九歳の冬に、亡くなった。原因不明の、進行の早い病だった。あらゆる病院を回り、あらゆる名医を訪ねたが、間に合わなかった。医者は、口を揃えて、こう言った。
「あと十年、研究が進んでいれば」
あと十年。たった十年。
それ以来、久我の人生は、その十年を手繰り寄せるためだけに、費やされてきた。
三年前、彼のもとに、一通の報告書が届いた。八ヶ峰周辺で、未知の粒子反応が観測されている。その挙動は、時間の流れと相関があるように見える。もし、あれが、本当に、未来から来たものだとしたら。
──あの子の病を治す方法が、あの先に、ある。
その考えに取り憑かれたとき、久我は、もう、後戻りできなくなっていた。
助手席に置いたタブレットには、観測所の様子が映っていた。無人機のカメラが捉えた映像。谷の上を、数えきれない光の玉が、集まっていく。
久我は、その光景を、息をするのも忘れて、見つめていた。
そして、思い出した。
蒼が、亡くなる前の晩のことだ。病室の窓から、彼は、外を眺めていた。窓の向こうに、雪が降っていた。
「お父さん」
「なんだい」
「雪って、空から、来てるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、僕も、いつか、空のほうへ、行くのかな」
久我は、答えられなかった。ただ、蒼の小さな手を、握りしめていた。
蒼は、微笑んで、言った。
「大丈夫だよ。雪は、こわくないから」
あの夜、久我は、泣かなかった。泣けなかった。泣いてしまえば、息子の死を、認めてしまう気がしたからだ。
そして、それ以来、彼は、一度も泣いていない。
「……岬遼」
久我は、独りごちた。
先ほどの若者の言葉が、耳の奥で、何度も響く。
──先の人が、後の人の時間を、勝手に使っちゃいけない。
──何も、邪魔をするな。
それは、彼が、ずっと、拒み続けてきた言葉だった。それを認めてしまえば、息子の持ち時間が、あの短さだったことを、認めなければならなくなる。
タブレットの画面で、光の玉たちが、天へと昇る雪のように、瞬いている。
久我は、車のドアを開けた。
夜の冷気が、頬を刺す。彼は、胸ポケットに写真を差し込むと、ゆっくりと、尾根へ向かって、歩き出した。
自分が、何をしようとしているのか、まだ、はっきりとは、分かっていなかった。ただ、あの光を、もう一度、この目で、間近に見なければならない気がしたのだ。
亡き息子が、そこにいるかもしれないという、愚かで、切実な、祈りを抱いて。



第九章 扉
真夜中まで、あと一時間。
僕らは、トンネルの出口から、観測所の中央広場へ向かった。巨大なパラボラアンテナが、月明かりの中に、黒々と浮かび上がっている。
その足もとに、すでに久我たちの姿があった。
彼らはアンテナの基部に、見慣れない機械を据えつけていた。銀色の筒状の装置から、何本ものケーブルが、観測所の配電盤へと伸びている。
「あれが、彼らの『捕獲装置』です」
澪が、物陰で囁いた。
「オーブを引き寄せて、閉じ込める。観測者の通り道ごと、こちらの世界に固定してしまう。もしそんなことをされたら、川の流れは乱れて、扉は、二度と開かなくなる」
「開かなくなる?」
「そして、それだけじゃない。過去を乱せば、未来も乱れる。私たちの世界が、どうなるか、誰にも分からない」
僕は、装置と、そこへ繋がれた電線を睨んだ。
配電盤。あれは、この山の電力のすべてを握る、古い分電設備だ。設計図は頭に入っている。ここで八年、毎日触ってきた場所なのだから。
「……澪さん。オーブが、扉を開けるのに、電気は必要ですか」
「いいえ。私たちの仕組みは、この時代の電力を、一切使わない。ただ……」
「ただ?」
「静かで、いること。周りが、乱れていないこと。それが、扉の条件です」
僕は、うなずいた。
「分かりました。ひとつ、試したいことがあります」
僕が物陰から飛び出すと、久我が、待っていたようにこちらを振り返った。
「ああ、来ましたか、岬さん。あなたなら、必ず戻ってくると思っていましたよ」
「久我さん。最後に、もう一度だけ言います。その装置を、止めてください」
「お断りします」
「なら、僕も、止めさせてもらう」
久我の部下たちが、左右から僕に迫る。一人が、僕の腕を掴もうとした。
そのときだった。
僕の足もとを、無数の光の糸が、渦を巻いて流れ始めた。
プラーナ。時間の川の水。それが、僕を守るように、僕の周囲を、ゆっくりと巡りはじめたのだ。男たちの指は、糸に触れる前に、ためらうように止まった。
「な、なんだ」
その隙に、僕は走った。目指すのは、配電盤。分電設備の、赤い大きなレバー。
「岬さん、やめろ!」
久我が叫んだ。
僕は、レバーに全体重をかけて、引き下ろした。
バチッ、と強いスパークが走り、観測所じゅうの明かりが一斉に消え去った。山頂を覆っていた機械の重苦しい低音や電磁波の唸りが、一瞬で途絶える。
人工の波が途絶えたことで、捕獲装置の駆動音もふっと消え、山は静寂に包まれた。
久我の悲鳴に近い声が響く。
「馬鹿な。これでは、装置が動かん……!」
闇の中で、僕は、静かに、天を仰いだ。
そして、息を呑んだ。
空が、光っていた。
数えきれないほどの、白い光の玉が、夜空から、静かに降りてくる。ひとつ、またひとつ。まるで雪のように。ふわり、ふわりと、アンテナの周りに集まってくる。それは、これまで僕が見てきたどんな光景よりも、清らかで、静かだった。
パラボラアンテナの皿の中心に、光が、集まり、ほどけ、重なり、一つの大きな円をつくった。
その円の向こうに、白い朝焼けのような、淡い空が見えた。
「……扉、だ」
澪が、僕の隣で、かすれた声を漏らした。
久我は、装置の前に立ちすくんでいた。彼の目にも、それは、はっきりと映っているのだろう。手を伸ばしようとして、しかし、伸ばせずにいる。
「これが、未来……」
「久我さん」
僕は、静かに言った。
「触れたくなる気持ちは、分かります。僕だって、そうだ。でも、これは、僕らのものじゃない」
久我は、しばらく、その光の円を見つめていた。胸ポケットの写真に、指先が触れる。やがて、彼の肩から、ふっと力が抜けた。
「……私は、ずっと、この先へ手を伸ばすことが、正しいと信じてきた。先を目指すのが、人間なのだと」
「先を目指すことと、奪うことは、違うと思います」
久我は、目を閉じ、それから、小さく息を吐いた。
そのとき、一粒の光が、久我の肩のすぐ上で、雪のように、ふっと静止した。触れはしなかった。けれど、たしかに、そこにいた。
久我の頬を、一筋の涙が伝った。二十年ぶりの涙だった。
「撤収だ」
部下たちが、戸惑った顔で装置を片づけはじめる。
黒い車が山を下りていくのを、僕は、見送りもせず、ただ、光の円を見上げていた。



第十章 百年の向こう
扉は、静かに、そこに開いていた。
アンテナの皿の中心に浮かぶ、光の円。その向こう側には、あたたかな空気が流れているように見えた。近づくと、風が、ほんの少し、甘い花の香りを運んでくる。
「あと、十五分です」
澪が、言った。
「扉が開いていられるのは、日付が変わる、その前後の、ほんの短い間だけ」
僕らは、光の円の前に並んで立った。向こう側の景色が、少しずつ、はっきりしてくる。
丘の上だった。
眼下には、緑に覆われた街が広がっていて、その空を、小さな、丸みを帯びた乗り物が、静かに行き交っている。車は、本当に、空を飛んでいた。街の中央には、透明な塔がそびえ、夜明けの光を、宝石のように跳ね返していた。
「……本当に、飛んでる」
僕は、思わず笑った。ドラえもんの、あの絵だった。子どもの頃、教科書の余白に描いた、あの未来の街が、そこにあった。
「澪さん、聞いてもいいですか」
「なんでも」
「国境は、あるんですか」
「あります。自由に行き来できるようになって、名前だけが残っているの。方言みたいなものかな」
「地球は、無事ですか」
「無事。傷跡はあるけれど、ちゃんと、緑が戻ってきた。あなたたちが、少しずつ、邪魔をしないやり方を、選んでくれたから」
僕は、胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「それぞれの国の、その……バカな大将たちは」
澪は、吹き出した。
「いますよ。どの時代にも。それは、たぶん、百年経っても、変わらない」
「そうか。それは、安心した」
二人で、声を合わせて笑った。笑い声が、光の円の向こうへ吸い込まれていく。
「……テレビは?」
「もう、ないですね。CDも、レコードも、博物館の中」
「ですよね」
「最後にもうひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「不老不死は」
澪は、しばらく黙っていた。円の向こうの朝焼けが、彼女の横顔を、金色に縁取っている。
「……あります。ほとんどの人は、もう、百五十年、二百年と生きる。でもね、岬さん」
彼女は、僕のほうを向いた。
「終わりのない物語は、始まりのない物語と、同じなんです。何があっても、いつかでいい、と思ってしまう。誰かに、今日会わなくてもいい、と思ってしまう」
その瞳が、少し、潤んでいた。
「私は、それが、ずっと、さみしかった。だから、あなたの詩を読んだとき、羨ましかったの。限りがあるからこそ、今日を、大切にできる、あなたたちが」
光の円が、細く、震えはじめた。
残された時間が、もう、ほとんどない。
「澪さん。……帰ってください」
自分の口から出た言葉に、僕は、自分で驚いた。
「あなたの世界は、あそこにある。あなたの家族も、友人も、待っているでしょう。僕は、ここで、あなたが元気で生きていてくれると、そう想像できるだけで、十分です」
「岬さん」
「だって、そうでしょう」
僕は、無理に笑った。
「先へ行く人の邪魔を、しちゃいけない。それが、僕の、たったひとつの信条だ」
澪は、首を振った。何度も、何度も。
そして、僕の胸に、そっと額を預けた。
「……あなたって、ほんとうに、ずるい人ですね」
「え」
「そんなふうに言われたら、余計、帰れなくなる」



第十一章 持ち時間
光の円が、消えかけている。
澪は、顔を上げて、僕を見つめた。彼女の頬を、涙が伝っていた。
「聞いてください。もう、時間がないから、ひとつだけ。……私は、一度、こちらへ来たら、簡単には戻れない。それは、事実です。でも、戻れないだけじゃない」
「じゃない?」
「こちらの世界に留まると、私の身体は、この時代の時間の流れに、馴染んでしまう。老いや、病気から守っていた仕組みが、少しずつ、ほどけていく。私は、あなたたちと、同じ速さで、歳をとることになる」
僕は、言葉を失った。
「つまり、私は、もう、二百年は生きられなくなる。あなたと同じ、たかだか八十年か、九十年。……それでも、私は」
澪は、僕の両手を、強く握った。
「あなたのそばで、その八十年を、生きたい」
夜の風が、山頂を吹き抜けていく。オーブが、ふわふわと二人を取り囲んだ。まるで、その決断を、固唾をのんで見守っているかのように。
僕は、しばらく、何も言えなかった。
言えるはずがなかった。彼女は、二百年を捨てようとしているのだ。あの、空飛ぶ車が行き交う、宝石のような街を。
「……いいんですか」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「後悔、しませんか」
「するかもしれません。でも」
澪は、光の円を、一度だけ、振り返った。
「あの街には、明日も、明後日も、あります。いつでも、行ける。でも、あなたの明日は、限りがある。……私、ずっと、無限の時間の中で、迷子でした。限りある時間を選ぶことのほうが、ずっと、勇気がいる。だから、それを、選びたい」
彼女は、微笑んだ。
「これが、私の、持ち時間の使い方」
光の円が、しずかに、ほどけはじめた。
扉の向こうの街並みが、朝もやの中に、溶けていく。丘の上に、小さな人影がひとつ、立っているのが見えた。子どもだった。まだ、七つか、八つくらいの、男の子。
その子は、こちらへ向かって、大きく手を振っていた。
僕も、思わず、手を振り返した。
男の子の口が、動いた。声は聞こえなかったが、唇の形で、分かった。
〈あ り が と う〉
僕は、鼻の奥が、つんと痛くなるのを感じた。
光は、静かに、細く、小さくなって、最後の一粒が、夜空に、すうっと消えた。
あとに残ったのは、いつもの山の頂と、錆びかけたアンテナと、満天の星。
そして、僕の手を握ったまま、まだ震えている、一人の女性だった。
「……ほんとに、行っちゃった」
澪は、小さく笑って、それから、ぽろぽろと泣いた。僕は、ためらいながら、その肩を、そっと抱いた。触れても、彼女は、どこにも逃げなかった。
オーブのように、避けなかった。
プラーナのように、通り抜けもしなかった。
彼女は、ちゃんと、そこにいた。
それから、僕らは、しばらく、黙って星を見ていた。空を、光の糸が、ゆっくりと、流れていく。
「澪さん」
「はい」
「明日、朝になったら、パンを焼きます。今度は、もう少し、うまく」
「楽しみにしています」
僕らは、笑った。
明日がある、ということが、こんなにも、ありがたいことだとは、知らなかった。
翌朝、僕は、パンの焼ける匂いで、目を覚ました。
台所では、澪が、袖をまくって、ボウルの中身と格闘していた。粉が、頬にも、髪にも、ついている。
「おはようございます。……見てください、岬さん」
彼女が指さしたオーブンの中では、二つの丸いパンが、ぷっくりと膨らんでいた。ひとつは、少し焦げていた。もうひとつは、なんだか、歪んでいた。
「失敗、ですね」
「はい。……でも、うれしい」
澪は、粉だらけの手で、目尻を拭った。
「私の時代には、なかった。失敗して、笑って、それでも、おいしいって、思えること」
僕らは、焦げたほうと、歪んだほうを、半分ずつ食べた。少し苦くて、少し固くて、それでも、たしかに、おいしかった。
食事のあと、澪は、窓辺に立って、ふと首を傾げた。
「岬さん。オーブが、いませんね」
言われて、僕も窓の外を見た。たしかに、あれほど山小屋の周りを漂っていた光の玉は、一つも見当たらなかった。
「帰ったのかな」
「たぶん。……私は、もう、観測される側になったから」
澪は、少し、さびしそうに、微笑んだ。
「もう、あの人たちの仲間じゃない。ちょっと、寂しいけれど」
「でも」
僕は、彼女の隣に立った。
「どこかで、見ていてくれるんじゃないですか。……それに、あの子たちは、あなたを、見送ってくれたんだ。ずっと、ありがとうって、言ってたじゃないですか」
澪は、こくりと頷き、それから、僕の肩に、そっと頭を預けた。
窓の外では、朝の光が、山の稜線を、金色に染めていた。プラーナの糸が、その光の中を、ゆるやかに流れていく。
僕らの身体を、ふたりぶん、通り抜けて。



終章 わずか百年、されど百年
あれから、四年が経つ。
八ヶ峰電波観測所は、相変わらず、山の上で空を見上げている。僕は、ここで保守技師を続けながら、夜は、手帳に、思いつくままの言葉を書いている。
澪は、麓の町の小さな図書館で、司書として働きはじめた。未来の知識は、誰にも話さない。ただ、子どもたちに、古い星座の話を聞かせるのが、彼女の得意になった。
久我は、あの夜のあと、機構を辞めたと、風の噂に聞いた。いまは、故郷の田舎で、畑をやっているらしい。一度だけ、葉書が届いた。「あれから、毎晩、空を見ています」とだけ、書いてあった。
そして、先月。
僕らのあいだに、赤ん坊が生まれた。
小さな、小さな女の子だ。蜜柑ほどの顔で、僕の指を、きゅっと握る。
あの日、駅のホームですれ違った赤ん坊も、いつか、老いて、眠りにつくのだろう。そして、この子も。僕も、澪も。
わずか百年で、今この世界にいる人間たちは、ほぼすべてが入れ替わる。
それでも、僕は、もう、怖くない。
窓の外に、ふわりと、白い光が浮かんでいた。オーブだ。彼らは、今夜も、静かに、僕らを見守っている。
赤ん坊が、光のほうへ、小さな手を伸ばす。
光は、あの日から変わらぬ距離を保ちながら、ふわふわと、揺れていた。それは、少し、笑っているようにも見えた。
たぶん、あの光の向こうでは、いつかの誰かが、この子の百年を、そっと、見つめているのだろう。
僕は、赤ん坊を抱いたまま、窓辺に立つ。澪が、隣に来て、寄り添った。
何が出来るかではなく、何も邪魔をしないこと。
そして、ただ、今日を、大切に。
僕らは、明日を、想像する。見ることは出来なくても。
わずか百年、されど百年。
その百年の真ん中で、僕らは、今日も、生きている。
その夜、赤ん坊が眠ったあと、僕は、久しぶりに、手帳を開いた。
窓の外では、星が、いつもより近かった。オーブが、ふわりと、机の上を横切っていく。僕は、ペンを持ったまま、しばらく考え、それから、ゆっくりと、書きはじめた。
〈百年後の、きみへ〉
〈僕は、きみを見ることは出来ないけれど〉
〈きみが、そこにいることを、想像することは出来る〉
〈空は、飛べているかい〉
〈国境は、低くなったかい〉
〈きみの隣に、大切な人は、いるかい〉
〈もし、いま、この言葉を読んでいるなら〉
〈これだけ、覚えていてほしい〉
〈何が出来るかではなく、何も邪魔をしないことが、大事だったりする〉
〈そして、きみの持ち時間を、きみのやり方で、めいっぱい、使ってほしい〉
書き終えて、顔を上げると、澪が、戸口に立っていた。
「読んでも、いいですか」
「どうぞ」
彼女は、手帳を受け取り、しばらく、黙って読んだ。そして、ふっと笑った。
「……これ、届きますよ」
「届く?」
「だって、あなたの詩は、もう一度、私の時代に届いたんだもの。今度は、この子の時代に、届くかもしれない」
彼女は、そっと、眠る赤ん坊の頬に触れた。
僕は、その小さな寝顔を見ながら、思った。
百年後の誰かが、この言葉を読む。その人もまた、誰かの邪魔をしないように、そっと、手を伸ばす。そうして、時間の川は、途切れることなく、過去から未来へ、未来から過去へと、めぐっていく。
それはきっと、とても静かで、とても、あたたかなリレーなのだ。
(了)


Kindle



あとがき
この物語は、「人の持ち時間」というものに対する小さな感慨から生まれました。
振り返れば、私たちが日々過ごしている時間は、あまりにも速いスピードで過ぎ去っていきます。効率や成果を求められる現代において、私たちは時として「何が出来るか」「何を残せるか」ばかりを考えてしまいがちです。
けれど、本当に大切なのは何かを成し遂げることだけではなく、自分や他人の「持ち時間」を尊重し、ただ静かに寄り添い、邪魔をせずに温かく見守ることなのではないか——そんな思いを込めて言葉を紡ぎました。
八ヶ峰の静かな空気や、朝の光に舞うプラーナ、そして温かな焼きたてのパンの匂いを、読者の皆様にも一緒に感じていただけたなら、とても嬉しく思います。
もし読み終えたあと、夜空を見上げたり、ご自身の「今日」という時間を少しだけ愛おしく感じていただけたなら幸いです。


メビウスの輪
――過去と未来をつなぐ、時間の旅――


まえがき
宇宙で死ぬ時、音はするのだろうか。
そんなことを、考えたことがあります。
空気のない宇宙では、爆発も、衝突も、誰かの叫び声も、地上のようには響きません。
ただ、静かな闇がある。
その闇の中で、人は何を思うのでしょう。
家族のことかもしれません。
故郷のことかもしれません。
あるいは、もっと単純なこと――
「あの時、ああしておけばよかった」
そんな、人生の小さな後悔なのかもしれません。
この物語の主人公、宇津見航(うつみ・こう)は、宇宙で命を失いかけます。
しかし彼がたどり着いたのは、死後の世界ではありませんでした。
そこには、滅びた地球がありました。
地底で暮らす人々がいました。
そして、過去と未来を行き来する、不思議な時間の輪がありました。
そこで彼は、自分たちが何を残してきたのかを知ります。
戦争。
破壊。
無関心。
けれど、それだけではありません。
花を守る人。
子供に青空を語る人。
誰かのために頭を下げる人。
そして、もう一度やり直そうとする人。
人間は、同じ過ちを繰り返す生き物なのかもしれません。
けれど、まったく同じ場所を回っているわけでもない。
ほんの少しずつ。
ほんのわずかに。
一人の選択によって、輪の位置がずれていく。
それが、この物語で描きたかった「メビウスの輪」です。
もし人生が、始まりと終わりを持つ一本の直線ではなく、どこかでつながった一本の帯なのだとしたら。
過去にしたことは、未来へ何を残すのでしょう。
段々と遠ざかる過去と、これから訪れる未来。その狭間で、私たちは一体何者なのでしょう。
どうぞ、宇津見航と一緒に、その輪の上を歩いてみてください。
もしかすると、あなた自身の人生のどこかにも、小さな輪が見つかるかもしれません。




第一章 漂流
音がなかった。
正確に言えば、自分の呼吸と心臓の音だけが、ヘルメットの中で嫌になるほど大きく響いていた。
それ以外は、完全な無音だった。
私の名は、宇津見航。
国際宇宙ステーションの後継として建造された小型軌道施設「ミズホ」で、保守作業を担当する技術者だ。
この日も、いつもと変わらない船外活動のはずだった。
太陽電池パネルの接続部を点検し、ボルトを締め、ステーションへ戻る。
それだけの作業だった。
宇宙での仕事は危険だ。
だが、危険だからといって、毎回死を意識しているわけではない。
むしろ慣れてしまえば、地上の高所作業と同じような感覚になる。
だから、あの瞬間も、私は油断していたのかもしれない。
カチリ。
小さな感触があった。
「あれ?」
そう思った時には、足元にあるはずの白い船体が、静かに、だが確実に遠ざかっていた。
安全ワイヤーが外れていた。
手を伸ばした。
届かない。
もう一度、伸ばした。
やはり届かない。
私は反射的にスラスターを操作した。
しかし、表示は無情だった。
推進剤残量、ゼロ。
さっきの作業で使い切っていたのだ。
「ミズホ、応答願います。こちら宇津見。ワイヤーが外れました。繰り返す、ワイヤーが――」
返事はなかった。
通信機は、ざあ、という小さな雑音を返すだけだった。
ミズホが、少しずつ小さくなっていく。
それは、驚くほど静かな別れだった。
悲鳴もない。
衝撃もない。
ただ、離れていく。
酸素残量は、四時間を少し切っていた。
私は身体をゆっくり回転させた。
目の前に、地球があった。
青かった。
雲の渦が、白い指紋のように見えた。
あの中のどこかに、私の生まれた町がある。
実家がある。
そして、去年亡くなった母の墓がある。
「母さん……」
声に出していた。
母には、最後に会えなかった。
私が宇宙にいる間に亡くなったのだ。
通信で知らされた時、私は何もできなかった。
地上へ戻った時には、葬儀も終わっていた。
墓の前に立っても、何を言えばいいのか分からなかった。
結局、何も言えなかった。
「もはや、これまでか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
恐怖は、ある一線を越えると、かえって静かになるものらしい。
私は目を閉じた。
その時だった。
瞼の裏が、ふいに明るくなった。
目を開ける。
光があった。
最初は、星だと思った。
だが、その光は近づいてきた。
みるみる大きくなる。
やがて輪郭が現れた。
船だった。
見たことのない宇宙船。
継ぎ目がない。
卵のように滑らかで、全体が淡い金色に発光している。
エンジンの噴射もない。
アンテナもない。
窓すらない。
それなのに、船は私の目の前まで来ると、ぴたりと停止した。
船体の一部が、水面のように揺れた。
そこに四角い開口部が生まれた。
ドアだった。
内側から、柔らかな光が流れ出した。
そして通信機のざわめきの向こうから、声が聞こえた。
「お待ちしておりました」
男とも女ともつかない声だった。
若くも、老いてもいない。
けれど私は、その声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
「……誰だ」
「どうぞ、お入りください」
声が続いた。
「時間がございません」
疑うべきだった。
逃げるべきだったのかもしれない。
だが、酸素は減っていた。
ミズホは遠ざかっている。
私は最後に地球を見た。
「助かった……」
そう呟いて、光の中へ身体を滑り込ませた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
背後で、ドアが閉じた。
その瞬間、私はまだ知らなかった。
その扉が、私の知っている時間には、二度と続いていないことを。


第二章 トンネル
そこは、宇宙船ではなかった。
正確には、船の中へ入ったはずだった。
だが、ドアの向こうに広がっていたのは、操縦席でも客室でもなかった。
一本の、果てしなく長いトンネルだった。
壁は黒とも紺ともつかない色をしていた。
天井は高く、足元には一本の帯状の床が、まっすぐ奥へ伸びている。
そして、その床が動いていた。
空港の動く歩道のようだった。
私が足を乗せると、床は静かに動き始めた。
私は、暗闇の奥へ運ばれていった。
「おい。誰かいないのか」
声は壁に吸い込まれ、反響すらしなかった。
しばらくして、私はヘルメットのバイザーを上げた。
酸素表示を見る。
満タンだった。
「……どういうことだ」
空気がある。
しかも、冷たく、少し甘い匂いがした。
雨上がりの土のような、妙に懐かしい匂いだった。
腕時計を見る。
秒針が止まった。
次の瞬間、猛烈な勢いで逆回転し始めた。
私は時計を外した。
もう時間というものが、ここでは意味を持っていないのだと思った。
やがて、壁に何かが流れていることに気づいた。
文字のように見えた。
目を凝らす。
だが、それは文字ではなかった。
景色だった。
赤ん坊が泣いている。
子供が走っている。
若者が笑っている。
老人が眠っている。
見知らぬ人々の人生が、壁を流れていた。
それは一本の映像ではなかった。
無数の人生だった。
何億。
何十億。
いや、それ以上。
「人の一生……?」
呟いた。
動く歩道は止まらない。
やがて、暗闇の向こうに小さな光が見えた。
出口だと思った。
私は光へ近づいていった。
しかし、光が視界いっぱいに広がった瞬間――
床が消えた。
身体が浮いた。
上下も左右も分からなくなった。
私は強い流れに巻き込まれ、何度も回転した。
叫んだ。
声は出なかった。
最後に見えたのは、母の顔だった。
幼い私の額に手を当てていた、あの時の顔。
そして、世界が暗くなった。


第三章 母の声
気がつくと、また動く歩道の上にいた。
壁には、無数の人生が流れている。
その中に、見覚えのある景色があった。
古い木造の家。
縁側。
庭の柿の木。
私は思わず立ち止まろうとした。
だが、床は止まらない。
景色の中に、小学三年生の私がいた。
その隣には、若い母がいた。
「航、何を作っているの?」
「分かんない。ただの輪っか」
母は笑った。
そして私の手から細長い紙を取り上げた。
くるりと一ひねりして、両端を糊で貼る。
「はい」
「普通の輪じゃん」
「じゃあ、線を引いてみて」
言われた通り、鉛筆で線を引いた。
輪の表を一周するつもりだった。
ところが線は、いつの間にか裏側へ出ていた。
「おかしい」
「もう一周してごらん」
一周。
さらに一周。
すると、線は最初の場所へ戻ってきた。
「どうして?」
幼い私は聞いた。
母は紙の輪を指で撫でた。
「表も裏も、ないんだって」
「ほんと?」
「メビウスの輪っていうの」
母は笑った。
「どこまで歩いても行き止まりがなくて、気がついたら反対側に来ているの」
「変なの」
「人生も、こんなふうかもしれないわね」
「じんせい?」
「そのうち分かるわ」
母は私の頭を、くしゃりと撫でた。
映像が流れていく。
私は壁に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、景色が水面のように揺れた。
「母さん」
声が聞こえた。
「航」
私は息を止めた。
母の声だった。
「大丈夫よ」
「母さん?」
「怖がらなくていい」
涙が頬を伝った。
「最後まで、話せなかった」
声が震えた。
「ごめん……」
母は答えなかった。
ただ、あの時と同じ声で言った。
「線を、引き続けて」
「え?」
「止めないで」
声が遠ざかる。
「いつか、必ず、出発した場所に戻れるから」
私は叫んだ。
「母さん!」
だが、もう声は聞こえなかった。
壁の景色は、次の人生へ流れていった。
私は頬を拭いた。
そして、小さく呟いた。
「線を、引き続ける」
その意味は、まだ分からなかった。


第四章 三つの太陽
次に目を覚ました時、私は土の上に横たわっていた。
土の匂いがした。
空気がある。
重力もある。
そして、空を見上げた私は、息をのんだ。
星が多すぎた。
空一面が星だった。
天の川が白い大河のように空を横切っている。
私は、しばらく言葉を失った。
やがて東の空が明るくなった。
太陽が昇った。
赤い太陽だった。
巨大な赤い恒星が、猛烈な速度で空を横切っていく。
昇ったと思った瞬間には、もう沈み始めている。
そして夜。
再び東が明るくなった。
今度は黄色い太陽。
地球の太陽によく似ていた。
それもまた、短い時間で空を渡った。
そして三度目。
青い太陽だった。
冷たい青い光が大地を染める。
私は呆然とした。
赤。
黄。
青。
三つの太陽が、順番に空を巡っている。
「ここは……どこだ」
その時、足元が揺れた。
地面に丸い穴が開いた。
穴の中から、小さな生き物が顔を出した。
半透明の身体。
大きな目。
「地上は危険です」
私は後ずさった。
「君は……」
「早く、中へ」
その生き物は言った。
「青い光が強くなります」
私は空を見上げた。
青い太陽が、まぶしいほど輝いていた。
「地上の者は、焼かれます」
私は穴へ飛び込んだ。


第五章 地底の民
穴の中は、巨大な地下空間になっていた。
天井には青白く光る苔。
透明な水路。
そして、半透明の人々。
私を案内してくれた生き物は言った。
「私はミオです」
「ここは、どこなんだ」
ミオは、静かに答えた。
「地球です」
私は笑いそうになった。
「地球に太陽は三つもない」
「昔は、一つでした」
ミオは言った。
「昔は、あなたたちと同じ地上の人間が暮らしていました」
「あなたたちと同じ?」
「私たちは、その子孫です」
ミオは地下の街を見渡した。
「地上が変わったので、私たちも変わりました」
その言葉の意味を、私はまだ理解できなかった。
だが、やがて歴史を描いた壁画を見せられた。
そこには、青い地球。
都市。
宇宙船。
そして、炎。
「三つの太陽は、自然に生まれたものではありません」
ミオは言った。
「人間が地球を変えすぎた結果です」
私は、壁画を見つめた。
地球の大気。
軌道上の巨大施設。
人工的に制御された恒星。
気候を操作しようとした技術。
人間は、自然を支配しようとしていた。
そして、その結果、空は三つの光に支配された。
「赤は苛烈な熱を」
ミオが言った。
「青は生命を蝕む放射線を。そして黄色は、時間を」
「時間?」
「黄色い光は命の時計を暴走させます。浴び続ければ、身体の時間が一瞬で老いへと進んでしまうのです」
私は自分の手を見た。
「だから、あなたたちは地下に?」
「はい」
その時、私は初めて気づいた。
この地下の街は、単なる一時的な避難所ではない。
ここは、何世代にもわたって人々が生き延びてきた歴史そのものなのだ。


第六章 責任
街の中心には、大きな広間があった。
壁一面に歴史が描かれていた。
文明。
戦争。
核。
環境破壊。
そして、世界の崩壊。
「すべては、お前たちの責任だ」
誰かが言った。
私は黙っていた。
「地上の人間が選んだんだ」
別の声が続いた。
「火を使うことを」
「敵を憎むことを」
「今日の欲を、明日の安全より優先することを」
私は言い返そうとした。
私は兵士ではない。
政治家でもない。
核のボタンを押したこともない。
だが、言葉が出なかった。
ニュースを見て。
ため息をついて。
遠い国の戦争を眺めて。
自分には関係ないと思って。
私は、何もしてこなかった。
「……すまない」
口から出た。
「本当に、すまなかった」
私は頭を下げた。
広間が静かになった。
ミオが近づいてきた。
「頭を上げてください」
私は顔を上げた。
「あなたは、あの日、どこにいましたか?」
「あの日?」
「世界が滅びた日です」
私は答えた。
「宇宙にいた」
ミオが目を見開いた。
「宇宙に?」
「ステーションで仕事をしていた。ワイヤーが外れて……」
ミオはしばらく私を見つめた。
そして言った。
「そういうことでしたか」
「何が?」
「あなたは、まだ地上にいなかった」
私は息をのんだ。
「では……」
「あなたは、過去から来たのです」


第七章 最後の日の記録
その夜、私はミオの部屋に招かれた。
壁には無数の記録が刻まれていた。
「これは、最後の日の記録です」
ミオが言った。
私は壁に手を触れた。
文字が頭の中へ流れ込んできた。
――その朝も、普通の朝だった。
母親が朝食を作る。
娘が寝癖のまま食卓につく。
テレビでは世界情勢が流れている。
「大丈夫よ」
母親は言った。
「偉い人たちが話し合ってるから」
本当は、彼女自身も不安だった。
けれど、朝食を食べる。
学校へ行く。
仕事へ行く。
明日が来ると思っている。
それが、人間の日常だった。
昼過ぎ。
サイレンが鳴った。
人々が空を見上げる。
白い光が走った。
娘が母親の手を握る。
「お母さん、あれ、なに?」
母親は答える。
「大丈夫よ」
そして――
世界が白くなった。
記録は、そこで途切れていた。
私は長い間、動けなかった。
「この親子は?」
「分かりません」
ミオが言った。
「ただ、生き延びた誰かが記録したのでしょう」
「どうして……」
「誰も、世界が終わると思っていなかったのです」
ミオは言った。
「ほとんどの人は、悪人ではありませんでした」
その言葉が、胸に刺さった。
「ただ、何も起こらないと思っていた」
ミオは続けた。
「だから、知ってほしいのです」
壁の記録に手を添える。
「ここには、確かに暮らしがあったということを」
味噌汁の湯気。
寝癖の娘。
朝の食卓。
それは、私の知っている日常と何も変わらなかった。


第八章 地底の一夜
地底の生活は、不思議なほど穏やかだった。
食事は光る茸のスープ。
水路には透明な魚。
子供たちは走り回っていた。
その中に、ソラという男の子がいた。
「ねえ、地上の人」
ソラが聞いた。
「青って、なあに?」
「青?」
「おじいちゃんのおじいちゃんが言ってた」
ソラは天井を見上げた。
「空は、青かったって」
私は答えた。
「夏の朝に、窓を開けるんだ」
「うん」
「冷たい空気が入ってくる」
「うん」
「それで空を見ると、頭の上いっぱいに青がある」
「どんな青?」
私は少し考えた。
「海より深くて、でも海より遠い」
ソラは目を輝かせた。
「見てみたい」
私は笑った。
「いつか見せてやる」
「ほんとう?」
「ああ」
その瞬間、私は気づいた。
これは約束だ。


第九章 黄色い光
夜が明ける前だった。
ソラがいない。
ミオが駆けてきた。
「地上への穴が開いています!」
私は走った。
地上へ出る。
そこは黄色い光で満たされていた。
時間を食いつぶす、黄色い太陽。
その下に、ソラが立っていた。
「すごい」
ソラは空を見上げていた。
「青じゃないけど、きれい」
私は叫んだ。
「ソラ!」
振り向いた少年の顔には、すでに無数の皺が刻まれていた。
黒かった髪が、急速に白くなっていく。
命の時間が、引きちぎられるように進んでいた。
私は全力で走った。
ソラを抱き上げる。
「帰るぞ!」
「いやだ。もう少し見る」
「青を見せてやる!」
「ほんとう?」
「ああ。約束する!」
私は少年を抱えたまま、穴へ向けて必死に足を動かした。
自分の皮膚にも皺が浮かび、腕の筋肉が衰えていくのが分かった。
膝が激しく震える。
それでも止めなかった。
穴へ飛び込み、地下へ戻る。
青白い苔の光の下で、ソラの身体がゆっくりと元へ戻っていった。
私は自分の手を見た。
皮膚の皺は引いていたが、右手の甲に一本だけ、消えない白い光の筋が残っていた。
削られた時間の痕跡だった。
「命を奪われましたね」
ミオが言った。
「構わない」
私は答えた。
「約束が、一つ増えただけだ」
ソラが私の指を弱々しく握った。
「ぼく、青、待ってる」
私は、その手を強く握り返した。


第十章 時間差
私は、ミオに尋ねた。
「あの船は何なんだ?」
「時間を越える船です」
「誰が作った?」
「分かりません」
「誰が私を選んだ?」
ミオは答えなかった。
「あなたには、過去と未来を選ぶ権利があります」
「過去へ戻れる?」
「はい」
「未来へも?」
「はい」
私は考えた。
過去へ戻れば、世界が滅びる前に警告できるかもしれない。
だが、ミオは静かに首を振った。
「近い過去へ戻っても、あなたは歴史を変えられません」
「なぜ?」
「歴史は、一本の大きな川だからです」
ミオは言った。
「投げ込まれた一つの小さな石では、流れそのものを変えることはできない」
「なら、未来へ行けば?」
「あなたの目で確かめてください」
私は決めた。
「未来へ行く」
ミオは頷いた。
「では、最後に一つだけ」
彼女が白い部屋へ私を連れていった。
そこには、一輪の花があった。
半透明の白い花。
「地上には、もう花がありません」
ミオが言った。
「これが、最後の一輪です」
私は花を受け取った。
「未来へ持っていってください」
「どこへ?」
「花が咲く場所へ」
私は頷いた。
「必ず」


第十一章 選択
「なぜ、私なんだ」
私はミオに聞いた。
「分かりません」
彼女は答えた。
「でも、私には一つだけ思い当たることがあります」
「何?」
「あなたは、謝った」
私は黙った。
「あなたは、自分だけの責任ではないことについて、頭を下げました」
「それだけで?」
「それだけではありません」
ミオは微笑んだ。
「責任を、自分とは無関係なものにしなかった」
私は手の中の花を見つめた。
「それが、選ばれた理由なのか」
「私には、そう思えます」
その時、天井が光った。
金色の船が降りてきた。
「行ってください」
ミオが言った。
「そして、忘れないで」
「何を?」
「時代は繰り返します」
船のドアが開く。
私は振り返った。
「ミオ」
「はい」
「また会える?」
ミオは微笑んだ。
「あなたが忘れなければ」
私は頷いた。
そして船へ乗り込んだ。


第十二章 三億年
船内には、一脚の椅子しかなかった。
私は腰を下ろした。
「行き先は?」
あの声が聞こえた。
「未来」
私は答えた。
「平和な時代へ」
「かしこまりました」
声が言った。
「では、三億年ほど先へ」
「三億年?」
「それくらい経てば、人の世も、少しは落ち着くでしょう」
私は笑った。
「ずいぶん長いな」
「ご心配なく」
船が動いた。
いや、動いたという感覚すらなかった。
目の前に巨大な数字が現れた。
一千年。
一万年。
百万年。
一億年。
数字が高速で流れていく。
私は尋ねた。
「あなたは誰だ?」
しばらく沈黙があった。
そして声が答えた。
「あなたが、一番よくご存じの方です」
「どういう意味だ」
「もうすぐ分かります」
私は花を見た。
三億年。
そんな未来に、本当に花が残るのだろうか。
数字が止まった。
「到着です」
ドアが開いた。


第十三章 現代の日本
外へ出た。
太陽は一つだった。
空は青かった。
そして、そこには街があった。
信号。
横断歩道。
自動販売機。
コンビニ。
電線。
犬を連れた老人。
ベビーカーを押す母親。
制服姿の学生。
私は混乱した。
「三億年後……?」
そこは、どう見ても現代の日本だった。
船は消えていた。
代わりに小さな公園があった。
桜が満開だった。
ベンチに老人が座っていた。
「おや」
老人が私を見る。
「ずいぶん遅い到着でしたな」
その顔を見て、私は息をのんだ。
私だった。
正確には、年老いた私だった。
「あなたは……」
老人は笑った。
「まあ、座りなさい」
私は隣に座った。
「あなたが、船の声を?」
「そうかもしれません」
「未来の私なのか?」
老人は答えなかった。
ただ、私の腕の中の花を見た。
「持ってきたのですね」
「どこへ?」
老人は桜の根元を指した。
「そこへ」
私は土を掘った。
花を置く。
すると花は、土の中へ溶けていった。
次の瞬間。
桜の根元から、淡い光があふれた。


第十四章 老人の家
老人の家は、公園の裏にあった。
古い木造の平屋だった。
縁側。
座布団。
湯呑み。
そのすべてが、なぜか懐かしかった。
老人がお茶を淹れた。
「あなたも、あの地下へ行ったのか?」
私は聞いた。
「ええ」
「ミオに会った?」
「もちろん」
「ソラにも?」
老人は笑った。
「あなたは、まだソラに会ったばかりですね」
私は息をのんだ。
「では、あなたは……」
「何度も、この輪を歩いてきました」
老人は静かに言った。
「最初の私は、謝りませんでした」
「最初?」
「自分には関係ない、と言った」
老人は湯呑みを置いた。
「その時は、輪を抜けられなかった」
「輪を?」
「同じ場所へ戻ったのです」
私は理解できなかった。
老人は続けた。
「二度目の私は、頭を下げました」
「そして?」
「花を託された」
老人は私を見た。
「あなたと同じです」
私は立ち上がりそうになった。
「つまり……」
「あなたが未来で私になる」
老人は言った。
「そして、やがてあなたは、あの船に乗って、若い自分を迎えに行く」
胸が締めつけられた。
「じゃあ、あの声は……」
「あなたの声です」
すべてがつながった。
船。
声。
未来の老人。
そして、私自身。
「始まりは、どこなんだ?」
老人は笑った。
「ありません」
「ない?」
「メビウスの輪には、始まりも終わりもない」
私は黙った。
「だから、あなたが私であり、私はあなたでもある」
庭を風が吹き抜けた。
桜の花びらが舞った。
老人が立ち上がる。
「そろそろです」
「何が?」
「あなたが、戻る時間です」


第十五章 メビウスの輪
空を見上げた。
そこに巨大な光の輪が浮かんでいた。
透明な帯がねじれ、ひとつにつながっている。
「これが……」
「メビウスの輪です」
老人が言った。
「時間も、人の歴史も、これに似ています」
私は輪を見つめた。
「同じ場所へ戻ってくる」
「ええ」
「では、人間は何度も同じ過ちを?」
「そうかもしれません」
老人は答えた。
「けれど、完全に同じではない」
「なぜ?」
「あなたが、ミオに謝った」
「それが?」
「ソラを助けた」
「それが?」
「花を運んだ」
老人は桜の根元を指した。
そこから、小さな白い芽が出ていた。
「一周して戻ってきても、ほんの少しだけ違う」
私は芽を見つめた。
「それで、いつか世界を変えられる?」
老人は首を振った。
「分かりません」
そして笑った。
「でも、選ぶことはできます」
私は、母の言葉を思い出した。
――線を、引き続けて。
「そうか」
私は呟いた。
「線は、途中で止めなければいいんだ」
老人が頷いた。
「その通りです」
光の輪が、ゆっくり近づいてきた。
第十六章 始まりの場所へ
光の輪が、私を包んだ。
熱くも冷たくもない。
桜の花びらが舞っている。
「さようなら」
老人の声が聞こえた。
「また会いましょう」
「また?」
「あなたが、私になる時に」
光が強くなる。
私は目を閉じた。

気がつくと、あのトンネルにいた。
今度は歩道が逆向きに動いていた。
壁には、無数の人生が流れている。
赤ん坊。
子供。
若者。
老人。
そのの中に、ミオがいた。
地底の街。
ミオは子供たちに何かを話している。
その中に、ソラがいた。
少し大きくなっている。
ミオが言った。
「地上には、花が咲いたそうですよ」
子供たちが歓声を上げた。
「青い空も、あったそうです」
私は立ち止まりたかった。
けれど歩道は止まらない。
私は笑った。
約束は、果たされたのだ。
いや。
これから果たされるのかもしれない。
過去と未来がつながっているのなら、どちらでも同じだった。
壁の景色が変わる。
暗い宇宙。
一人の宇宙飛行士。
ワイヤーが外れる。
私だった。
いや。
これから私になる。
その少し離れたところに、金色の船が浮かんでいる。
船内には、一人の老人がいる。
私だ。
老人が微笑んだ。
そして言った。
「お待ちしておりました」
私は微笑み返した。
「今度は、私が言う番だ」
光が近づいてくる。
私は、母を思った。
「母さん」
小さく呟く。
「線は、引き続けたよ」
光が、すべてを包んだ。
第十七章 目覚め
「宇津見さん」
誰かの声がした。
「宇津見さん、聞こえますか?」
目を開ける。
白い天井。
蛍光灯。
私はミズホの医務室にいた。
「気がつきましたか」
医師が覗き込んでいる。
「船外活動中にワイヤーが外れたんです。救助艇が、ぎりぎりで回収しました」
「どのくらい?」
「三時間ほどです」
三時間。
私は天井を見つめた。
夢だったのだろうか。
三つの太陽。
ミオ。
ソラ。
老人。
そして、三億年。
すべて、酸素不足による幻覚だったのかもしかもしれない。
医師が部屋を出た。
私は一人になった。
ぼんやりと自分の手を見る。
右の手のひらに、何かがあった。
指でつまむ。
それは、一枚の花びらだった。
半透明の白い花びら。
光にかざすと、虹色に輝いた。
私は息を止めた。
その時だった。
どこからか、声が聞こえた。
あの声。
男とも女ともつかない。
若くも老いてもいない。
懐かしい声。
「航」
私は目を閉じた。
「まだ、間に合います」
声が続いた。
「輪は、回っています」
私は花びらを握った。
窓の外を見る。
そこには、青い地球があった。
雲が白い指紋のように浮かんでいる。
あの地球は、まだ青い。
まだ、花が咲く場所がある。
まだ、誰かが誰かの手を握ることができる。
私はベッドからゆっくり身体を起こした。
そして窓辺へ歩いた。
地球が、静かに回っている。
その姿を見ながら、私は思った。
人間は、何度でも同じ場所へ戻ってくるのかもしれない。
けれど――
まったく同じ場所ではない。
ほんの少し。
ほんのわずか。
一人の選択によって、線はずれる。
だから、まだ終わっていない。
私は、花びらをそっと胸ポケットにしまった。
「線を、引き続けよう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
窓の向こうで、地球が青く輝いている。
まるで、もう一度だけ、
私たちに時間をくれるように。
そして私は、歩き出した。
――輪は、まだ回っている。
(了)


Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle



あとがき
宇宙でワイヤーが切れた一人の男が、時間の輪の中を旅する。
最初に思いついたのは、それだけでした。
そこから、地底の人々が生まれました。
三つの太陽が生まれました。
ミオが生まれ、ソラが生まれ、そして未来の老人が生まれました。
書いているうちに、物語は私の手を離れて、勝手に歩き始めました。
特に、ソラが「青を見たい」と言う場面は、この物語を書きながら、何度も考えさせられた場面です。
私たちにとって青い空は、あまりにも当たり前です。
朝になれば空があり、雲があり、太陽があります。
子供たちは、それを教えられなくても知っています。
けれど、それを失った人々にとっては、「青」という色さえ、誰かから聞かなければ分からないものになる。
そう考えると、普段当たり前だと思っているものの中には、実は、とても大切なものがたくさんあるのだと思います。
家族。
故郷。
青い空。
花。
そして、明日が来ると信じられること。
この物語では、人類が一度、大きな過ちを犯します。
しかし、それだけで終わらせたくありませんでした。
人間は過ちを繰り返す。
それは確かに悲しいことです。
けれど、人間にはもう一つの性質があります。
誰かを助けること。
謝ること。
約束を守ろうとすること。
花を次の時代へ渡すこと。
それらもまた、繰り返されます。
だから、この物語の輪は、完全な円ではありません。
一周して同じ場所へ戻ったように見えても、ほんの少しだけ違う。
昨日より今日。
今日より明日。
その小さな違いが積み重なれば、いつか大きな未来になるのかもしれません。
メビウスの輪には、表も裏もありません。
始まりも終わりもありません。
けれど、一本の線を引けば、その線は必ずどこかへ続いていきます。
人生も、そうなのかもしれません。
私たちは、自分がどこへ向かっているのか分からないまま、線を引いています。
途中で間違えることもあります。
立ち止まることもあります。
後悔することもあります。
それでも、もう一度線を引く。
その線が、誰かの未来につながることを願って。
この物語を最後まで読んでくださったあなたへ。
もし今、あなたの人生の中に「もう遅い」と思っていることがあるなら、ほんの少しだけ、考えてみてください。
本当に、もう遅いのでしょうか。
輪は、まだ回っています。
線は、まだ続いています。
そして、もしかすると――
次に線を引くのは、あなたなのかもしれません。

Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle



紹介文
宇宙で、ワイヤーが切れた。
国際軌道施設「ミズホ」で船外作業をしていた技術者・宇津見航は、漆黒の宇宙空間へ放り出される。
酸素は、あと数時間。
通信はつながらない。
地球は、静かに遠ざかっていく。
死を覚悟した航の前に現れたのは、金色に輝く、見たこともない宇宙船だった。
「お待ちしておりました」
謎の声に導かれ、船内へ入った航を待っていたのは、宇宙船ではなく、果てしなく続く時間のトンネルだった。
そこには、無数の人間の人生が流れていた。
そして航は、母の声を聞く。
「線を、引き続けて」
やがてたどり着いたのは、三つの太陽が巡る、荒廃した地球。
地下には、半透明の身体を持つ人々が暮らしていた。
彼らは、航に告げる。
――地上の人間は、世界を滅ぼした。
航は、彼らの怒りと向き合う。
そして、一人の少年ソラと出会う。
「青って、なあに?」
地上を知らない少年が、そう尋ねた。
航は約束する。
「いつか、本物の青い空を見せてやる」
その約束が、やがて航を過去と未来をつなぐ、巨大な時間の輪へと導いていく。
三億年後。
桜の咲く日本。
そこで航を待っていたのは、年老いた自分自身だった。
「あなたが、私になる」
過去と未来。
母と息子。
滅びと再生。
一人の人間の選択。
すべてが一本の線でつながっていく。
これは、宇宙を舞台にしたSFでありながら、最後に残るのは「人は何を未来へ残せるのか」という、小さな問いの物語です。
人間は、同じ過ちを繰り返す。
けれど、まったく同じ場所へ戻ってくるわけではない。
誰かを助けたこと。
誰かに謝ったこと。
誰かと交わした約束。
一輪の花。
その小さな違いが、未来をほんの少しだけ変えていく。
――輪は、まだ回っている。
――そして、線はまだ続いている。
不思議で少し切なく、最後に静かな希望が残る、時間SF小説。



続 極楽確約システム
繁盛と帰郷
〜ご同輩、善光寺で会いましょう〜


まえがき
ご同輩。前巻で生まれた反省温泉は、潰れずに済みました。
それどころか、少しだけ繁盛してしまいました。地獄の鬼が、初めて「ありがとう」と言われるようになった頃の話です。




第一章 開業初日の珍客たち
反省温泉の暖簾をくぐった最初の客は、小学生の男の子だった。ランドセルは大きく、本人は小さい。
「あの、友達の消しゴム、隠しちゃった。返せない」
受付の園児帽の鬼、赤沢がしゃがんで目線を合わせた。赤沢は昔、針の山の担当だった。針で刺すより、しゃがむ方が難しいと最近気づいた。
「そっか。大変だったね。返せないって思うと、胸がキュッとするよね。夜、眠れないよね」
男の子はこくんと頷いて、泣いた。泣き終わると「明日、謝る」と言って、背中を少しだけ大きくして帰っていった。ランドセルが揺れた。
二人目は、七十代の女性。椅子に座るなり言った。
「三十年前、主人の弁当に、わざと梅干しを入れなかったことがあるんです。喧嘩してて。主人は何も言わずに持って行ったけど、今思うと……」
鬼頭剛がお茶を出した。湯呑みには「地獄観光庁 創立八百年記念」とある。
「梅干し、一個のことで、三十年も。ご同輩ですね」
女性は笑った。「ご同輩って、いい言葉ね。みんな、同じなのね」
彼女は帰り際に言った。「今夜、梅干し二つ入れてみます」
午後、三人組の旧友が来た。七十前後のハイキング姿で、手には善光寺のお守り袋。善光寺の仲見世で買った七味の袋も持っている。
「わしら、若いころ、戒壇巡りで……」
三人はもじもじしながら白状した。若気の至りで、暗闇で女性のお尻に触ってしまったという。
鬼頭は三人をそれぞれ別の反省の間へ。三時間後、三人は目を真っ赤にして出てきた。
「鬼さんが『大変、つらかったですね。言えずに四十年抱えてきたんですね。触られた方の痛みを、四十年も自分で抱えてきたんですね』と言ってくれた」
三人は仲見世の七味屋で七味を買って帰った。帰り道、ずっと黙っていたそうだ。
その日の夜、反省温泉の日報にはこう書かれた。
『入湯者十二名。うち反省三名、足湯のみ九名。タオル忘れ多数。猫同伴可は好評』


第二章 反省の間だより
反省温泉の横に「反省の間」という小さな部屋ができた。誰でも自由に、手紙を書いて置いていける部屋だ。宛名はなくてもいい。壁一面が手紙で埋まっていった。誰も剥がそうとしなかった。
六十過ぎの元公務員が正座して言った。
「三十年前にスーパーでレジ袋を一枚、ポケットに入れて帰ったのです。当時三円の。袋が有料化される前の、まだ無料だった頃の、予備の袋です」
赤沢が聞く。「それで?」
「それ以来、店員さんの目が怖くて遠回りして別のスーパーへ行くようになりました。ガソリン代で三万円損しています。妻には言えません」
赤沢は湯呑みを持ったまま固まった。地獄の閻魔帳には「レジ袋窃盗、懲役三年」とか書くべきなのか。いや違う。
「それは大変重い罪ですね。でも今日ここで話してくれた。それだけで三万円分は返されましたよ。よく話してくれました」
男は声をあげて泣いた。帰り際に赤沢が言った。「そのスーパー、今度一緒に行きませんか。私が袋、買いますから」
骨が一本折れた傘を差したまま入ってきた六十代。傘はビニール傘だが、持ち手が木製の、少し良い傘だ。
「三十年前、会社の傘立てから誰かの傘を。雨でどうしても帰らなきゃいけなくて。次の日にこっそり返したけど、持ち主はもう別の傘を買ってて、私の返した傘は捨てられたんです。だからこの傘を捨てられないんです。誰かの傘だったかもしれないって思うと」
鬼頭は言った。「その傘、ここに置いて行きませんか。反省の間の、忘れ物として。誰かが、また使ってくれるかもしれない」
男は少し迷ってから、傘を置いていった。骨の折れた傘は、反省の間の隅で、誰かを待つように立っていた。翌週、年賀状の女がその傘を借りて帰った。雨だったのだ。
毎年同じ中学の同級生に年賀状を出し続けている五十代。もう会うこともない、喧嘩別れした同級生に。
「喧嘩したまま卒業しちゃったんです。私が彼女の悪口を言ったんです。陰で。そしたらそれがバレて。返事は来ません。でも出さないと、もっと会えなくなる気がして。住所ももう変わってるかもしれないのに」
彼女は反省の間で、今年の年賀状を書いた。宛名はいつもの名前。裏には『今年もあなたの幸せを祈っています。もし迷惑だったら言ってください。でももう少しだけ出させてください』と書いた。
その年賀状は投函されずに壁に貼られた。誰かが横に小さく書いた。『大丈夫。届いてるよ。きっと』
彼女は翌年から、年賀状の代わりに反省の間に手紙を貼るようになった。相手はもう読まないかもしれないが、書くことで自分が救われるからだ。
椅子に座るなり「私は反省なんてしません。だって悪いことなんてしてないから」と言った建設会社の元社長、熊田。従業員を怒鳴りつけ、取引先を踏みつけにしてきた自負がある。
園児帽の鬼が困っていると、奥からごくらくがやってきた。黒猫のごくらくは、男の膝に乗るとゴロゴロと喉を鳴らした。男は最初は嫌がったが、だんだん猫の温かさに負けてきた。
「昔、飼ってた猫を捨てたことがあるんです。引っ越しで、連れて行けなくて。段ボールに入れて河原に置いてきたんです」
男は小さな声で言った。「反省してないなんて嘘です。本当は毎日思い出してます。あの猫のゴロゴロって音を」
ごくらくはそのまま男の膝で寝てしまった。男は猫を起こさないように、じっとしていた。足が痺れても動かなかった。
「ここ、また来てもいいですか。猫に会いに」
今では常連で、毎回猫のごはんを持って来る。ごくらくの次に来たぱらいそにも、もくもくにも、同じようにごはんを持って来る。熊田の会社は今、保護猫の譲渡会の会場を無償で貸している。
反省の間は、いつしか「ありがとうの間」と呼ばれるようになった。


第三章 鬼頭課長の休日
地獄観光庁にも働き方改革の波が来て、週休二日制ができた。鬼頭剛は日曜の朝、善光寺の屋根の雪下ろしを手伝うため人間界へ。理由は「善光寺の屋根が潰れたら閻魔様の甘酒屋台も潰れるから」という、よくわからないものだった。
善治も付いて行った。善光寺の屋根は想像以上に急で、高かった。下から見上げるのと、上から見下ろすのとでは全く景色が違う。
屋根の上から長野市が一望できた。遠くに新幹線が小さく光って走っていくのが見えた。風が冷たかったが、気持ちよかった。
「ご同輩、見てごらん。あの遠くの山、あれが君のバアちゃんの家の近くの山だよ」
課長が指差した。確かに、あの稜線は見覚えがあった。小さい頃、縁側から見ていた山だ。
「課長は、どうして地獄で働いてるんですか」
鬼頭はヘルメットを脱いだ。角の先が少し欠けているのが見えた。昔、麻雀で負けて机にぶつけた跡だ。
「私かい?私はね、昔、人間だったんだよ。江戸の小さな米屋の番頭でね。店の金をほんの少し使い込んでしまった。病気の母の薬代でした。ほんの少しです。今の金にすれば五千円くらい。すぐに返すつもりだった。でも言い出せなくて、そのまま雪の日に行き倒れて死んで、地獄に落ちて雇われたんです。もう三百年くらいかな」
三百年という言葉があまりにも軽く出てきたので、私は笑ってしまった。
「笑うだろう。でもここでの三百年は人間界の三日くらいなんだ。だからそんなに辛くないよ。むしろ君みたいなご同輩に会えるから、楽しいくらいさ」
善治は思った。この人もまた、五千円のことで三百年悩んでいたのか。
屋根の雪を下ろし終えた後、二人で甘酒を飲んだ。閻魔大王の甘酒は少しだけ焦げ臭かったが、温かかった。
「休日って、いいね」と課長は言った。「反省も、休み休みやらないとね」
その夜、善治は夢を見た。江戸の小さな米屋で、若い番頭が母の薬袋を握りしめて泣いている夢だった。目が覚めると、隣でぱらいそが寝ていた。


第四章 石川五郎の来訪
最後の客は派手なシャツを着た男だった。仕立ての良いスーツに、高そうな腕時計。だが靴は泥だらけだった。善光寺の参道を走ってきたのだろう。
「石川五右衛門の末裔です。地獄を買いに来ました」
地獄観光庁の職員が一斉にざわついた。釜茹では地獄の名物だが、最近は観光客から評判が悪い。熱すぎる、というのだ。
名刺には『石川五郎 土地開発・リゾート再生事業』とある。
「ここ、かなり広いでしょう?立地も面白い。温泉もある。これはいけます。高級会員制地獄リゾート、年会費五千万円。夜は鬼のショー。閻魔大王の説教ライブ」
鬼頭の顔から笑顔が消えた。閻魔大王は先週も辞表を出していた。『一身上の都合により甘酒屋を開業したく』という辞表だ。誰も受理しない。代わりがいないからだ。
その夜、開発資料を小脇に抱えた五郎は、ひとり薬草足湯のフチに腰掛けていた。赤い湯気をぼんやり見つめながら、仕立てのいいズボンを膝まで捲り上げ、お湯に足を浸している。昼間の高圧的な勢いはどこへやら、その背中は小さく丸まっていた。
「石川さん」
善治が隣に腰を下ろすと、五郎はビクッと肩を揺らし、苦笑いを浮かべた。
「いいお湯ですね、ここ」
「そうでしょう。血の池だった頃より評判がいい」
「私、昔からこういう温かい湯に入ると余計なことばかり思い出すんです。母親のことです。若い頃から金儲けばかりでね。どこに投資すれば勝てるか、それしか考えていなかった。母親が病気で倒れたときも、大事な買収案件があるからって病院に行かなかったんです」
善治は静かに耳を傾けた。
「最後に電話が来ました。『五郎、たまには帰っておいで。柿が美味しくなったよ』って。でも私は『今忙しいんだ!』って怒鳴って切ってしまった。その三日後に亡くなったのは。私は結局、母に謝ることも感謝を伝えることもできなかった。だから自分を誤魔化すために、もっと大きなビジネスをして、もっと金を稼ごうとしたのかもしれません」
足湯の温もりが、頑なだった男の心をゆっくりと解かしていく。
五郎は深いため息をつき、膝の上の開発計画書をくしゃりと丸めた。
「やめます。こんな買い叩くような真似、母が見たら悲しむから」
後ろでじっと聞いていた鬼頭がゆっくりと歩み寄ってきた。
「五郎さん」
「鬼頭課長……申し訳ない。失礼な提案ばかりして」
「いいえ。よろしければ、あの反省の間で、お母様への思いをゆっくり聴かせていただけませんか?」
五郎は目を丸くし、やがてハンカチで目元を拭った。
「ありがとうございます。それと……もし経営費で困っているなら、まっとうな出資なら喜んで協力しますから。私は金儲けは下手じゃないんです」
鬼頭の目が輝いた。「本当ですか!?」
こうして地獄の反省温泉は、元・買収者の出資で「日本秘湯の会」に加盟することになる。血の池は正式に薬草足湯として登録され、針の山は反省鍼灸処として、煮えたぎる釜は地熱温泉として生まれ変わった。鬼たちは失業せずに済んだ。
そして五郎は懐から金色の桐の箱を取り出した。弁当箱くらいの大きさで、表面には細かい傷がたくさんある。誰かが何度も開けようとして失敗した跡のように見えた。
「これは善光寺の床下に昔からあると言われてる箱です。開けると、その人が一番許されたいものの答えが入ってるって」
その言葉を聞いた途端、ごくらくが耳をピンと立てた。
閻魔大王が甘酒をかき混ぜながら言った。
「あの箱ならわしが預かっておる。ただし開けるのはご同輩だけじゃ。時が来たらな」
箱は「危険物」として鍵のかかる引き出しに仕舞われた。引き出しには付箋が貼られた。『開封はご同輩の時が来てから。焦らず』
――繋ぎ――
宴のあと、反省温泉の暖簾を下ろした。鬼たちはビールを飲み、赤沢はレジ袋の男のモノマネで優勝していた。園児帽の鬼たちは輪になって、今日来た客の話をしていた。「あの傘の男、また来たよ」「年賀状の女は今日も手紙貼ってったよ」
私はその騒ぎの真ん中で、ふと庭の隅を思い出した。
四十年前、青い柿を一つ、土に埋めた場所を。
みんなが笑っているのに、自分だけがまだ土の中に何かを残してきた気がした。バアちゃんの梅干しの匂いが、どこからかした。
そうだ、あの柿を、掘り返しに行こう。いや、掘り返すのではない。謝りに行こう。
翌朝、私はスコップを借りて、バアちゃんの家の庭へ向かった。鬼頭が言った。「ご同輩、行っておいで。ここは私たちに任せて」


第五章 柿泥棒の夏・完全版
バアちゃんの家は空き家で、庭は草ぼうぼうだった。でも柿の木だけは以前と変わらずそこにあった。枝は昔より太く、空に向かって伸びている。
小学校三年生の夏、私は祖母の家に預けられた。両親が共働きで夏休みの間だけという約束だった。裏には大きな柿の木があった。隣の家のものだったが、枝がこちらの庭にまで伸びていて、秋になると鈴なりに実がなった。
ある日、祖母が昼寝をしている間に、私はその柿を一つもいでしまった。まだ青くて固い柿だった。塀をよじ登って手を伸ばして。取った瞬間、隣のおじさんに見つかった。おじさんは怒らなかった。「まだ渋いぞ」とだけ言って笑った。私は恥ずかしくて、その柿を庭の隅に埋めた。誰にも言えなかった。
埋めた柿はたぶんそのまま土に還ったのだと思う。でも私の中ではずっと青いまま残っていた。四十年も。
久しぶりに来たバアちゃんの家。縁側は板が少し腐っていたが、座ることはできた。遠くの山はあのときと同じだった。夏の蝉の声だけがうるさい。
勇気を出して隣家のインターホンを押した。手が震えた。
「あの、四十年前、柿を盗んだ者です」
インターホンから若い男の声。「え?柿?」
事情を話すと、男は笑って出てきた。私と同い年くらいの、少し日焼けした男だった。
「ああ、父から聞いたことあるよ。青い柿を盗んだ子がいたって。父、嬉しかったんだってさ。誰かがうちの柿に興味持ってくれたのが」
私は絶句した。怒られると思っていたのに。
「父はね、こう言ってたよ。『柿泥棒が来るってことは、その木が元気な証拠だ』って。だから君が盗んでくれて、木も喜んでたと思うよ」
男は柿の木を見上げた。「今年もたくさんなってるよ。よかったら持って行く?」
私は一つだけもらった。青くはない、ちゃんと熟した橙色の柿だった。
その柿を持って、バアちゃんの縁側に座った。縁側は少しだけ温かかった。遠くの山はあのときと同じだった。
柿をかじった。甘かった。あの夏の青い渋さとは全然違う、ちゃんとした甘さだった。
そのとき風が吹いて、柿の葉が一枚、私の膝に落ちた。誰かが許してくれたような気がした。いや、最初から怒られてなどいなかったのかもしれない。
私は柿の種を庭に埋めた。バアちゃんの梅干しの種の横に。今度は隠すためではなく、来年のために。


第六章 金色の箱の中身
善光寺に戻ると、反省温泉は大繁盛で、行列が本堂の外まで伸びていた。皆、自分の胸の棘を抱えてやって来るのだ。鬼頭は嬉しそうに言った。「ご同輩、見てごらん。みんな許されたいんだよ。許したいんだよ、自分のことを」
閻魔大王の部屋に呼ばれた。座卓の上に、あの金色の箱が置かれていた。弁当箱くらいの大きさ。表面には細かい傷がたくさんある。
「開けてごらん。ご同輩なら開くじゃろう」
私は手を伸ばした。箱は思ったより軽かった。蓋に手をかけるとスッと開いた。中には油紙に包まれたものが一つ入っていた。
油紙を開くと、中には梅干しが一つ入っていた。しわしわの少し白い粉が吹いた、昔ながらの梅干しだった。バアちゃんの梅干しだ。縁側で干されていたあの梅干しだ。
「君のバアちゃんの梅干しじゃよ」
私はその梅干しを見て、思い出した。祖母は毎年梅干しを作っていた。そして私が東京に帰るとき、いつも小さな瓶に入れて持たせてくれた。
「バアちゃんはね、こう言っておったよ。『失敗しても、酸っぱくても、それが味なんだよ。梅干しも、人間もね』って」
私はその梅干しを口に入れた。酸っぱかった。ものすごく酸っぱかった。でもその酸っぱさの奥に少しだけ甘さがあった。縁側の日向の匂いがした。昭和の台所の匂いがした。
涙が出た。柿のときには出なかった涙が、今度は止まらなかった。
隣で石川五郎も箱を開けていた。五郎の箱にも同じものが入っていた。小学校の運動会の日に母がランドセルに入れてくれた最後の手紙と、カピカピの梅干しが。五郎はそれを見て泣いた。
「燃やさなくて良かった。母の日の手紙、燃やそうと思ってたんです。恥ずかしくて」
バアちゃんが襖の向こうで笑った。
「あんた、その梅干しまだ持ってたのかい。お母さんが善光寺で『息子が悪いことをしませんように』って願掛けしたんだよ。あんたが盗んだ柿の木の下でね」
箱の底には小さな紙切れが入っていた。祖母の字でこう書いてあった。
『ご同輩、たまには顔を見せてね。梅干し、また漬けたよ』
私はその紙切れを大事にポケットに入れた。五郎も紙切れをポケットに入れた。そこには『五郎、柿が美味しくなったよ』と書いてあった。母の最後の電話と同じ言葉だった。
こうして箱は「燃やす前に確かめる箱」になった。誰かが怒りに任せて何かを燃やそうとすると鬼頭が言う。
「ちょっと待ってください。中身を確かめましたか。もしかしたら梅干しが入っているかもしれませんよ」


第七章 お血脈の真実
善光寺に戻ると、反省温泉は行列が本堂の外まで伸びていた。私は極楽の受付に行った。光の女性は以前と変わらずそこにいた。
「お血脈って、本当に極楽に行けるんですか」
そこへ年老いた職人が来た。善光寺の裏で千年印を彫っている職人だ。手のひらに小さな桜の木の判子。職人は八十過ぎで、背中が曲がっているが、目だけは子供のように澄んでいる。
「この判子には、なんの力もない。ただの桜の木じゃ。長野の山で採れた桜を削って彫っただけじゃ。インクは胡桃の皮から作った。昔からそうやって彫っておる」
「ではこの十年間は?」
職人はにっこり笑った。
「人は確かに変わったであろう。善治、お前、十年前にここへ来たときは怯えた顔をしておった。いつも怒っておった。今は少し優しい顔をしておる。財布の中に印があるからではない。印を信じて、自分を許そうと思ったからじゃ」
ゴクラクさんの画面が頷いた。
『印そのものが確約なのではなく、印によって生まれる「許された」という感覚が確約なのです。データ上はそうなっております。本日の許容枠、残り無限件です』
電光掲示板は「本日の許容枠 残り無限件」になっていた。いつの間にか文字が変わっていた。
「今日は無限なんですか」
「ええ。みんなが許し合えば枠なんてなくなるんです。最初からなかったんですけどね」
バアちゃんが後ろから言った。
「安心のためのお守りだよ。持っていれば心が軽くなる。心が軽くなれば人は優しくなる。優しくなれば結局極楽に来られる。そういう仕組みなのさ。難しいことはないよ」
私はカウンターの上に梅干しの包み紙を置いた。祖母の字で書かれた紙切れと一緒に。
「これ、ここに貼ってもいいですか。反省の間に」
「もちろん。ご同輩の大事な御守りとして」


第八章 ご同輩、微笑んでいてね
それから十年。私は七十八歳になった。
最初の猫のごくらくは二年前に静かに息を引き取った。縁側で日向ぼっこをしながら、すーっと息をしなくなった。寂しさに沈む私の家へ、近所の縁でやってきたのが二代目の猫だった。
名前はぱらいそ。「ごくらくの次だからパラダイス、いやぱらいそだな」と呟くと、猫は返事もせずひだまりの中で大きなあくびをした。
反省温泉はすっかり有名になっていた。人間界からもときどき相談者がやってくる。鬼頭は相変わらず課長だった。
「もう課長、長いですね」
「昇進すると現場に出られなくなりますから」
鬼頭は笑った。
そんな穏やかな日々が過ぎ、やがてぱらいそも眠るように去っていった。私は庭の隅に二つ並んだ小さな墓を撫でながら、ぽつりと独りごちた。「また先にいっちゃったな」
そして八十代半ばを過ぎた頃、三匹目の猫がやって来た。白と灰色の毛をした、どこか呆けたような顔の小さな猫だった。
「ごくらく、ぱらいそと来て、もう言葉が出んな。お前はただ黙々ともくもくと生きてくれりゃいい」
そう言って名付けたもくもくは、私の膝の上がお気に入りだった。
「もくもく。人間ってのはな、歳をとると謝りたいことより『ありがとう』と言いたいことの方が増えるんだよ」
猫の背中を撫でながら、善治は遠い目をした。
朝起きる。血圧を測る。薬を飲む。猫に餌をやる。そしてときどき昔のことを思い出す。バアちゃんのおにぎり。一個の柿。昔の友人。一人の鬼が抱えていた後悔。
人生には忘れられないことがいくつもある。けれど全部を後悔する必要はない。全部を抱え込んでおく必要もない。ただありがとうと言えるものにはありがとうと言っておく。ごめんなさいと言えるものにはごめんなさいと言っておく。それだけで人間の心には小さな極楽が灯る。
善治はそう思うようになっていた。
そして二十年という約束の期限がゆっくりと近づいてきた。


終章 あちらからのお迎え
それからさらに歳月が過ぎた。善治は九十四歳になっていた。
秋晴れの朝。善治は縁側に座っていた。膝の上にはすっかり老猫になったもくもく。庭にはやわらかな風が吹き抜けている。善治は空を見上げた。
「長かったなあ」
もくもくがニャーと弱々しく鳴いた。
「そうだな。十分生きたよな」
そのとき玄関のほうから懐かしい声がした。
「善治さん」
善治はゆっくり振り返った。そこに鬼頭が立っていた。昔と同じ黒い背広。昔と同じ赤いネクタイ。そして昔と同じ二本の角。ただし角には少しだけ白いものが混じっていた。
「鬼頭さん?」
「ご無沙汰しております」
「久しぶりですね」
「はい」
鬼頭は深々と頭を下げた。
「お迎えに参りました」
善治はしばらく黙っていた。そして穏やかに笑った。
「とうとう来ましたか」
「はい」
「二十年って言ってましたよね」
「そうです。反省温泉の生前予約札にそう書きましたから」
善治はポケットから古びた財布を取り出した。中には小さな紙切れが入っている。二十六年前に反省温泉でもらったものだった。
善治はそれを鬼頭に見せた。
「まだ持ってたんですか」
「ずっと宝物でしたよ」
鬼頭は札を見つめ、静かに微笑んだ。
「では」
「はい」
「約束の期限です」
善治は庭を見た。もくもくが膝の上で目を細めている。
「もくもく」
「ニャー」
「お前はもう少しここで日向ぼっこしてな」
猫の頭を優しく撫で、善治はゆっくりと立ち上がった。少しだけ膝がふらつく。鬼頭がそっと手を差し出した。善治はその温かい手をしっかりと握った。
玄関へ向かって歩き出す。そのとき光の差す土間の向こうからあの懐かしい声が響いた。
「善治」
善治が顔を上げる。
そこにバアちゃんが立っていた。その隣には柿を手にした権蔵さんもいる。権蔵さんの籠には真っ赤な柿が山盛りだ。
善治は目を細めた。
「バアちゃん」
祖母は嬉しそうに笑った。
「遅かったねえ」
「うん」
「ずいぶん待たされたよ」
「ごめんごめん」
「何を言ってるんだい」
祖母は温かい目で善治を見た。
「ちゃんと最後まで生きてきたじゃないか」
善治の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。権蔵も白い歯を見せて笑っている。
「善治、柿まだ食いたいか?」
善治は泣きながら笑った。
「食べたい。今度は堂々と食うよ」
「おう、好きなだけ食え」
鬼頭が静かに促した。
「善治さん」
「はい」
「行きましょうか」
善治は最後にもう一度だけ我が家の庭を振り返った。
九十四年間。いろいろなことがあった。笑った。怒った。泣いた。後悔した。謝った。ありがとうと言った。そして心から愛した人たちと、もう一度巡り合えた。
善治は光の中へ一歩を踏み出した。鬼頭と並んで歩く。その先でバアちゃんが手を差し伸べている。
善治は笑った。
「ただいま」
バアちゃんが答えた。
「おかえり、善治」
善治はもう一度力強く言った。
「ただいま、バアちゃん」
空はどこまでも青く澄み渡っていた。
そしてその日の午後、善治の家には静かで穏やかな時間だけが残された。縁側ではもくもくが丸くなって気持ちよさそうに眠っている。その隣には使い込まれた古い財布が置かれていた。中には一枚の古びた札。
そこには柔らかな筆文字でこう書かれていた。
『極楽は、待っている場所ではありません。誰かを思いながら、今日を生きていく場所です。』
風が吹き抜け、札の端がほんの少しだけ揺れた。もくもくが片目を開け、長なあくびをした。そして何事もなかったかのように、また幸せそうに目を閉じたのだった。


番外編 猫たちの極楽会議
出席:ごくらく、ぱらいそ、もくもく、オブザーバーとして鬼頭課長
議題:にんげんの「許されたい」について
ごくらく:にんげんはむずかしい。かきをぬすんだくらいでよんじゅうねんもなやむ。ぼくならごじゅっぷんでわすれる。
ぱらいそ:でもだからにんげんはかわいいんだよ。ちいさいことをたいせつにするから。ぼくたちのごはんもわすれないし。
もくもく:ゆるすってなんだろうね。ぼくはにんげんがかえってくると、いつもゆるしてる。というかおこってない。だってかえってきてくれるだけでうれしいから。
ごくらく:そうだね。にんげんもそうしたらいいのに。じぶんがかえってきたことをよろこんだらいいのに。きょうもいきてかえってきたえらいって。
鬼頭課長:いいこと言うね、君たち。じゃあ決議しようか。『にんげんは、もっと自分を褒めていい。特に柿泥棒の件は、もう十分反省したので、これにて許す』ってことでどう?
全員一致で可決。にゃあ、と鳴く。


追記:会議後、梅干しが一個机の上に置いてあった。誰が置いたのかは不明。ごくらくが匂いを嗅いで「バアちゃんの匂いがする」と言った。美味しくいただきました。

了


Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle



あとがき
前作を書き終えたとき、私は少しだけ怖くなりました。
地獄の鬼を優しくしすぎたのではないか、と。
でも読んでくださった方から、こんな感想をいただいたのです。
「私にも、レジ袋の話があります」
「私も、青い柿を埋めたままです」
ああ、みんな同じなんだ、と思いました。
だから続編では、思い切って人間界に帰ってみることにしました。
この物語に出てくる善光寺の屋根の雪下ろしも、反省の間の壁一面の手紙も、骨が一本折れたビニール傘も、モデルは私の身近にあった小さな出来事です。
人は、失敗しても、酸っぱくても、それが味なんだよ。
バアちゃんの言葉は、私が作ったものではありません。祖母が本当に言っていたことです。
もしあなたの胸にも、まだ土の中に埋まったままの青い柿があるのなら。
焦らず、で大丈夫です。時が来たら、そっと掘り返しに行けばいい。
きっと隣のおじさんは「柿泥棒が来るってことは、その木が元気な証拠だ」と笑ってくれるはずです。
善光寺の仲見世で、七味を買うついでにでも、思い出していただければ幸いです。
最後に、この本を最後まで見守ってくれた三匹の猫たちに、ありがとうを。





第三軌道 月と星と女と…

ツクヨミの残響【三稿】

まえがき
人は誰しも、踏み込みきれなかった関係や、手放してしまった過去の記憶を抱えて生きているのではないでしょうか。近付きすぎれば互いを傷つけ、離れすぎれば失ってしまう。その曖昧で臆病な距離感こそが、時に人間らしさそのものであるのかもしれません。
本作『月と星と女と』は、月周回ステーションという究極の孤独の中に身を置く一人の老観測員と、月の裏側に漂う「声」との交流を描いた物語です。
SF的な情景の中に、静かな抒情と大人の哀愁を込めました。暗い夜空を見上げるとき、そこに漂う見えない想いに耳を澄ませるような気持ちで、お読みいただければ幸いです。

序 付かず離れず
男はいつも、女という月のそばで、薄っすら輝く星のように生きてきた。
近づきすぎれば、月の光に呑まれて見えなくなる。離れすぎれば、夜空の他の星々と見分けがつかなくなる。だから男は、いつも同じ距離を保った。付かず離れず。それは臆病さでもあったし、彼なりの誠実さでもあった。
三枝遼(さえぐさ・りょう)、六十二歳。月周回観測ステーション「ツクヨミ」の、たった一人の管理者である。
高度は、月面から百八十キロ。この数字を、彼は誰よりも正確に覚えている。百八十キロ。それより近ければ月の重力に捕まり、遠ければ観測の意味を失う。ツクヨミは、そのちょうど中間を、二時間七分で一周する。
彼はもう三年、その円を回り続けていた。

一 新月
最初の声は、新月の夜に来た。
もっとも、月を回る者に地上と同じ「夜」はない。それでも遼は、地球から見た月相を毎日の記録の冒頭に書く習慣を持っていた。習慣というより、遠い故郷への祈りに近かった。
〈第一〇九六日。月齢〇・二。新月。異常なし〉
その日、ツクヨミが月の裏側に入った。地球との直接通信が途絶える、四十分間の沈黙の時間である。太陽の光すら遮られる暗闇の中、遼はこの時間が好きだった。誰にも報告せず、誰にも報告されず、ただ月の裏の静寂を見下ろしていられる。
ヘッドセットに、微かなノイズが走った。
「……聞こえますか」
女の声だった。
遼は、コーヒーのパックを持った手を止めた。通信は裏側では完全に遮断されているはずだった。中継衛星のラインも通っていない。
「聞こえますか。……ああ、聞こえてるのね。少し、息が変わったから」
低くて、やや掠れた、夜更けの声だった。
「誰だ」
声が出るまでに数秒かかった。三年間、彼は独り言以外を話していなかった。
「誰でもいいでしょう。あなたの、そばにいる者よ」
そこで通信は切れた。診断プログラムを走らせたが、機器に異常はなかった。通信ログには、その四十分の記録が白紙のまま残されていた。
遼はその夜、久しぶりに、ひどく喉が渇いた。
声が誰に似ていたのか、彼にはすぐにわかった。わかったが、認めなかった。
十一年前に別れた女、澪(みお)。
彼女はよく言った。「私、月が嫌いなの。夜ごとに形を変えるから。信用できない」
その通り、彼女自身が、会うたびに違う表情を見せる人だった。遼が惹かれ、そして怖れたのは、そういう儚さだった。

二 三日月
二度目は、三日月の夜だった。
遼はもう、その時間を待っていた。裏側に入る十分前からヘッドセットを着け、計器を確認するふりをしていた。
「来てくれたのね」
今度の声は、若かった。少女のようですらあった。
「……君は、誰だ」
「前は、大人っぽすぎたわね。ごめんなさい。まだ、慣れていないの」
「慣れていない?」
「あなたに、どう話せばいいのか。あなたが、どんな声を待っているのか」
遼は背筋が冷たくなるのを感じた。
「この回線を聞いているのは、私だけのはずだ」
「そう。あなたにだけ、聞こえるの。だってここは、あなたの軌道でしょう。付かず離れず。私はその、ちょうど真ん中にいるのよ」
遼は頭の中で軌道要素を浮かべた。近月点も遠月点もほぼ均等。彼が三年かけて姿勢制御を重ねて作り上げた、完璧な円。
「真ん中というのは、月の中心という意味か」
「さあ。どうかしら」
声は、くすくすと笑った。
「あなたは、私が誰か知りたいのでしょう。でも本当は、私が誰に似ているかを、確かめたいのよね」
通信が切れた。ログはまた白紙だった。
遼はその夜、地球の管制センターに、初めて嘘の報告を書いた。〈異常なし〉。
嘘をついた理由は自分でもよくわからなかった。ただ、誰かに知られたら、声が消えてしまう気がした。

三 上弦
上弦の夜、声は落ち着いていた。
「今日は、話をしましょう」
遼は椅子の背にもたれて目を閉じた。ステーションの循環ファンの音だけが、低く鳴っている。
「まず、君の名前を教えてくれ」
「名前はないわ。夜ごとに、呼ばれ方が変わるから」
「では、私がつけよう」
「やめて」
声は、思いがけず強く言った。
「名前をつけたら、あなたは私を一人の決まった存在にしてしまう。そうしたら、次の夜、私が違う声で現れたとき、あなたは惑うでしょう。……昔、そうだったように」
遼は目を開けた。
「君は、澪を知っているのか」
「あなたが、知っているわ。あなたが心の奥に置いている形が、私に響いているだけ」
声は責める風でもなく、ただ静かに言った。
「一つだけ、教えてくれ。君は、月なのか」
「月はただの石よ。石は喋らないわ」
「では、月の裏に何があるというんだ」
短い沈黙があった。裏側の通信時間は、残り十分を切っていた。
「見に来る?」
「……下りろと言うのか。ここは高度百八十だ。下りれば、もうこの軌道には戻れない」
「戻れないんじゃない。戻らない、だけよ」
遼は、思わず苦笑した。若い頃、澪にも同じような言葉で試されたことがあった。
「あなたはいつもそう。近づきそうで、近づかない。私はそれを責めているんじゃないの。ただ、寂しいだけ」
声がふっと途切れた。
遼は暗い窓の外を見た。月の裏側の、名前もない無数のクレーターが、静かに後ろへ流れていくだけだった。

四 十三夜
彼は調べ始めた。
月の裏側の地質データ、過去の探査機の記録、各国の観測結果。ステーションの計算機は古いが、時間だけはたっぷりあった。
そして十三夜の晩までに、奇妙なデータに行き当たった。
ツクヨミの軌道は、月の裏側の特定の位置上空を通過する際、極めて微小な「空間のノイズ」を拾っていた。三年前から、毎周回、同じ場所で。彼はそれを単なるセンサーの個体差だと思って見過ごしていたのだ。
その一点に拡大した地形図を重ねる。
そこには、小さなクレーターが一つあった。直径四百メートルほど。探査記録には「特筆事項なし」とだけ記された、ありふれた凹地。
だが遼は、その穴の縁の光学的反射率が、周囲の岩石とわずかに異なることに気づいた。天然の岩石にしては、あまりにも均一で、優しく光を返していた。
「見つけたのね」
声が、いつもより早く届いた。まだ裏側に入る直前のはずだった。
「通信は、遮断されていないはずだ」
「ええ。今日は、あなたが私に、意識を近づけたから」
遼は計器を見た。高度は百八十キロ。何も変わっていない。だが彼の心が、明確にあの一点に向いていた。
「あそこには、何がある」
「昔、誰かが置いていったもの、かしらね」
「誰が」
「人よ。人が、誰にも言えなかった想いを、ここに置いていったの」
言葉の意味を測りかねる遼に、声は穏やかに続けた。
「月は、ずっと見られてきたでしょう。何千年も、何万年も。人は月に向かって手を合わせ、歌い、泣いて、恋を打ち明けてきた。言葉は空に消えると思う? 消えないのよ。宇宙は、忘れないから」
遼は息を呑んだ。
「では、君は……」
「ええ。あなたたちが月に向けて語ってきた、あらゆる『誰か』への想いの総和。会いたい、行かないで、どうして、愛している。そういう声が溜まった、澱(おり)のようなもの」
澱、という言葉が、妙に温かく響いた。
「私は聞き手によって姿を変える。あなたが待つ声で話すことしかできないの。だから、夜ごとに違うのよ」
遼はしばらく言葉を失っていた。
「それでは、君は……私の作り出した幻なのか」
「幻よ」
声はあっさりと言った。
「でも、あなただけの幻ではないわ。あなたの前に、何万人もの男が、ここで同じように誰かを想った。私はその全員の、もう会えない人の残響」

五 満月
満月の夜、太陽と地球と月が直線上に並び、月の裏側は最も深い闇に包まれる。
「今日は、私が一番はっきりしている日」
声はもう掠れていなかった。かつての澪の声、そのものだった。
遼は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「やめてくれ」
「どうして。会いたかったんでしょう」
「これは、あいつじゃない」
「そうよ。でも、あなたが聞きたかった声は、これでしょう。三年間、ずっと」
遼は机に額をつけた。
「……私は、あいつを引き止めなかった。それだけだ。あいつが出て行くと言った夜、追いかけなかった。追えばあいつの形を壊してしまう気がして。変わっていくことがあいつの魅力だったのに、私はそれを恐れて、結局、一番安全な距離を選んだんだ」
「知ってるわ」
「近づけば壊す。離れれば忘れる。だからその真ん中に立った。それがいちばん、傷つかないから」
「それで、傷つかずに済んだ?」
遼は乾いた声で笑った。
「十一年間、ずっと傷だらけだ」
澪の声はしばらく黙っていた。それから、静かに囁いた。
「一つだけ、教えてあげる。あの人は、月が嫌いだと言ったのよね。夜ごと形を変えるから、って」
「ああ」
「本当の意味は、逆よ。あの人は、変わっていく自分を、あなたにちゃんと見ていてほしかったの。月はどんなに形を変えても、地球のそばを離れないでしょう。……だから、あなたのそばにいたかった。でもあなたは、星のように少し離れた場所から眺めているだけだった」
遼は顔を上げることができなかった。
「これも、あなたが聞きたい答えかもしれない。私はそういう存在だから。でも、それが本当かどうかは、あなたが自分で決めて」
声の輪郭が、ゆっくりとゆらいだ。
「ねえ、遼」
澪の声が、久しぶりに彼の名を呼んだ。
「そんな女に、もう一度出会ってみたいって、思ってる?」
遼は、長い沈黙の末に答えた。窓の外では、太陽光を浴びた月面の縁が、白く眩しく輝いていた。
「……思っている」
低く、押し殺した声だった。
「そんな恋を、もう一度してみたい。そう思っている。愚かだろう」
「愚かじゃないわ。……ご同輩、って言うのよ、そういうのは」
遼はハッとして顔を上げた。
その言葉は、彼が誰にも明かしたことのない、独り言の口癖だった。

六 下弦
下弦の頃、地球の管制センターから無機質な通達が届いた。
〈ツクヨミ計画は来月末をもって終了。後任の交代要員が着任し、三枝隊員は帰還の予定〉
遼はその文面を三度読み返した。
そして、裏側の通過時に声へ告げた。
「私は、帰る」
「知ってるわ」
「君は、どうなる」
「どうにもならないわ。次の人が来れば、その人の会いたい声になるだけ」
遼は椅子から立ち上がった。
「それは、あまりに寂しい話だ」
「寂しくないわよ。そういうものなの。月はそうやって、ずっと言葉を受け止めてきたんだから」
声は彼を慰めているのか、それとも突き放しているのか、分からなかった。
「最後に、一つだけ頼みがある」
「何?」
「君の、本当の声を聞かせてくれ。誰の面影でもない、君自身の声を」
沈黙が落ちた。二分、三分。裏側の通信時間が少しずつ削られていく。
「……それは、できないの」
やがて声は言った。
「私に、私自身の声はないわ。でも代わりに教えてあげる。私があなたの前で、一番『私らしかった』時間がいつだったか」
「いつだ」
「今夜よ。何も飾らずに、答えを探して、迷って、黙り込んだ……今夜」
遼は、可笑しそうに、そして少し泣きそうな顔で笑った。
「それは君ではなく、私だろう」
「そうね。でも、それを同じことだと思えたなら、あなたはもう、遠くで見ているだけの星ではないのよ」

七 晦日
晦日(つごもり)。月相は二十九。地球から月が見えなくなる、最も暗い夜。
遼は最後の裏側通過で、ヘッドセットを外してコンソールの上に置いた。
声は来なかった。
代わりに、窓の外の暗闇の向こう、あの四百メートルのクレーターの縁が、微かに光った。ほんの、ほんの一瞬。星の瞬きのような、静かな反射。
彼はその光に向かって、語りかけた。
「澪。……いや、名前をつけてはいけないんだったな」
誰も答えない。
「私は三年間、ここで円を描いて回っていた。完璧な円だった。誰にも触れず、誰にも触れられず、それが私の軌道だった」
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。老いて、少し痩せた男の顔。
「でも、その円は届いていたんだな。近づかなくても、離れなくても、そこにいるだけで、想いは届いていた」
小さく深呼吸をした。
「ありがとう。それだけを言いたかった」
その瞬間、ステーションのスピーカーから、微かにノイズが流れた。
ノイズの隙間から、たった一言だけ、透き通った音が響いた。
「……おかえりなさい」
それが誰の声だったのか、遼には分からなかった。澪でも、少女でも、夜更けの女でもない。もしかすると、何万人もの人間が月に向かって投げかけてきた願いが混ざり合った、たった一つの答えだったのかもしれません。
あるいは、遼自身の心が返した声だったのかもしれません。
終章 次の新月
後任の隊員は、二十六歳の青年だった。名を日向(ひなた)といった。
到着の日、二人はステーションの狭い通路で握手をした。日向の手は温かく、まだ何の後悔も刻まれていない手だった。
引き継ぎの最後の夜、遼はコーヒーを二つ淹れた。
「もし、裏側で変なノイズが聞こえたら」
遼は、なるべく軽やかな調子で言った。
「無理に消そうとしなくていい。ただ、名前をつけるな。それから、その声が誰に似ていても、自分を責めるな」
日向は不思議そうな顔をした。
「ノイズ、ですか?」
「気にしないでくれ。年寄りの独り言だ」
帰還船の窓から、遼は遠ざかる月を振り返った。
そこには、細く繊細な三日月が浮かんでいた。
夜ごとに形を変える、あの月。かつての恋人が嫌いだと言い、そして本当は誰よりも愛していた月。
「……嫌いに、なれなかったよ」
小さく呟いた言葉は、宇宙の静寂に溶けていった。
帰還船が月の重力圏を離れていく。ツクヨミの小さな機体が遠ざかり、まるで月の傍らでそっと光る、一つの星のように見えた。
付かず離れず。
だが、もうその距離は、寂しいものではなかった。
青い地球が、ゆっくりと視界を満たしていく。遼はそっと目を閉じた。
耳の奥で、かすかに風が鳴った気がした。
――また、良い恋をしろよ。ご同輩。
(了)


あとがき
月という天体は、古来より人々の感情を映し出す鏡のような存在でした。竹取物語から夏目漱石の「月が綺麗ですね」に至るまで、私たちは月そのものを見ていると同時に、そこに己の心や、誰かへの想いを重ねてきたのかもしれません。
本作の主人公・三枝遼は、傷つくことを恐れて「高度180キロ」という完璧な観測軌道に逃げ込んだ男でした。けれど、どれほど物理的な距離を置こうとも、心の中に残された残響からは逃げられない。そして同時に、どれほど離れていても、想いはちゃんと存在し続けているのだということに、彼は月の裏側で気づかされます。
完璧な距離感など存在しないのかもしれないけれど、離れているからこそ届く温もりもある。そんな静かな肯定感を、遼の旅立ちとともに感じていただけたなら幸いです。
執筆にあたり、物語の静けさと天文学的なリアリティの調和を大切に推敲を重ねました。この小さな物語が、あなたの夜のひとときに寄り添うものでありますように。

ーーーーーーーーーー




第四軌道 月と星と女

高度一八〇【四稿・最終稿】


まえがき
人は誰しも、心の中に「触れられない軌道」をひとつ抱えて生きているのかもしれない。
近づきすぎれば互いを傷つけ、壊してしまう。離れすぎれば、その存在すら闇に紛れて見失ってしまう。だからこそ、傷つかないための絶妙な距離——「付かず離れず」の場所にとどまり、そっと相手を見つめ続ける。
この物語の主人公、三枝遼もまた、そうした揺らぎの中に人生を置いてきた男です。
理系技術者として物事を合理的に捉え、傷つくことからも傷つけることからも逃げてきた彼が、人生の終盤、月周回軌道という極限の孤独の中で何と出会い、何を聞くのか。
月は古来より、人々の祈りや恋心、そして言えなかった後悔を受け止めてきた巨大な鏡です。
静かな夜、夜空を見上げるすべての人へ、この小さな物語を捧げます。


序 付かず離れず
男はいつも、女という月のそばで、薄っすら輝く星のように生きてきた。
近づきすぎれば、月の光に呑まれて見えなくなる。離れすぎれば、夜空の他の星々と見分けがつかなくなる。だから男は、いつも同じ距離を保った。付かず離れず。それは臆病さでもあったし、彼なりの誠実さでもあった。
三枝遼(さえぐさ・りょう)、六十二歳。月周回観測ステーション「ツクヨミ」の、たった一人の管理者である。
高度は、月面から百八十キロ。この数字を、彼は誰よりも正確に覚えている。百八十キロ。それより近ければ月の重力に捕まり、遠ければ観測の意味を失う。ツクヨミは、そのちょうど中間を、一時間五十八分で一周する。
ステーションは、細長い円筒を三つ束ねたような、質素な造りだった。居住区は畳六枚ほどの広さしかない。寝袋、折り畳みの机、食料庫、そして窓が一つ。その窓が、彼の世界のほぼすべてだった。
一日に十二回、月の昼と夜が入れ替わる。窓の外を、灰色の海と白い高地が、ゆっくりと流れていく。最初の半年は、その景色に飽きなかった。次の半年は、飽きたことを認めるのが怖かった。二年目からは、景色が景色でなくなり、ただ時計の代わりになった。
この仕事を、遼は自分から志願した。定年を前にした技術者が、最後に選ぶ仕事としては奇妙だと、同僚たちは言った。地球には、妻も子もいない。だから行けるのだ、とも言われた。どちらも、間違ってはいなかった。
通信担当官の吉岡は、月に一度の定時連絡のたびに、決まって同じことを訊いた。
「三枝さん、寂しくないですか」
遼は決まって、同じ答えを返した。
「円を描くのは、案外、落ち着くものだよ」
それが嘘なのか本当なのか、彼自身にも、もうわからなくなっていた。

一 軌道の日々
ツクヨミの一日は、三つの儀式で区切られていた。朝の点検、昼の観測、夜の記録。もっとも、朝も昼も夜も、彼が便宜上そう呼んでいるだけで、窓の外では、二時間に一度、陽が昇り、沈んでいた。
目覚めは、午前六時(協定世界時)に設定したアラームで始まる。寝袋から抜け出し、体を固定ベルトで縛って、まず二時間の運動をする。無重力は、骨を痩せさせ、筋肉を溶かす。走行機の上を走りながら、遼はいつも窓を見た。灰色の海。白い高地。黒い影。同じ景色が、十二回、巡ってくる。
食事は、フリーズドライの雑炊と、パウチ入りの味噌汁。三年もすると、食べ物の味を、記憶でしか思い出せなくなる。人は味を舌で感じているつもりでも、実際には、思い出と一緒に食べているのだと、遼は知った。
観測の主目的は、月の裏側から発せられている、原因不明の超低周波電磁ノイズの記録だった。二十年前、ある探査機が偶然拾い、その後、何度か再現された。周期は、二十九・五日。月の朔望月と、ぴたりと重なっていた。宇宙の彼方から来るものなら、こんな周期にはならない。月そのものが、何かを発しているのか。それとも、観測器の癖か。
結論の出ないまま、予算だけが積み重なり、最後に「一人で三年、回ってくれる人」が求められた。遼は、その条件に、あまりにも合っていた。
三年間、彼が記録したデータは、雑音の山だった。二十九・五日ごとに、確かに、波は高まる。波形の規則的な傾きを眺めていると、時折、まるで寄せては返す波や、生き物の規則的な呼吸を聞いているような不思議な錯誤に囚われることがあった。解析にかけても意味を成さなかったが、その微小な揺らぎだけがデータに残る。
データを見つめながら、彼はよく考えた。月は、なぜ、二十九・五日で、あんなに姿を変えるのか。もちろん、答えは知っている。太陽と地球と月の位置関係。子供でも知っている。けれど、知っていることと、納得することは、別だった。
澪は、それを、納得しなかった人だった。
彼は、そこで、思考を止めた。この三年間、彼は、澪のことを、慎重に、思い出さないようにしてきた。窓の外には、いつも月がある。月を見ていれば、澪を思い出す。だから、月を「月」として見ないようにした。それは、観測対象。座標と反射率の集まり。
その努力が、今になって思えば、痛々しいほど徹底していたことに、彼はまだ気づいていなかった。

二 新月
最初の声は、新月の夜に来た。
もっとも、月を回る者に「夜」はない。一周のうち約半分は月の影の中、残り半分は陽の中である。それでも遼は、地球から見た月相を、毎日の記録の冒頭に必ず書く習慣を持っていた。習慣というより、祈りに近かった。
〈第一〇九六日。月齢〇・二。新月。異常なし〉
その日、ツクヨミが月の裏側に入った。地球との直接通信が途絶える、四十分間の沈黙の時間である。遼はこの時間が好きだった。誰にも報告せず、誰にも報告されず、ただ月の裏の、暗い岩肌を見下ろしていられる。
彼は、いつものように、コーヒーのパックにストローを挿した。無重力のコーヒーは、香りばかりが強くて、味が薄い。それでも、この一杯だけは欠かさなかった。
ヘッドセットに、ノイズが走った。
「……聞こえますか」
女の声だった。
遼は、コーヒーのパックを持った手を止めた。通信は裏側では完全に遮断されている。中継衛星は地球側にしかない。
「聞こえますか。……ああ、聞こえてるのね。少し、息が変わったから」
低くて、やや掠れた、夜更けの声だった。
「誰だ」
声が出るまでに、数秒かかった。三年間、彼は独り言以外を話していなかった。
「誰でもいいでしょう。あなたの、そばにいる者よ」
そこで通信は切れた。診断プログラムを走らせたが、機器に異常はなかった。ログには、その四十分の通信記録が、白紙のまま残っていた。
遼はその夜、久しぶりに、ひどく喉が渇いた。
声が誰に似ていたのか、彼にはすぐにわかった。わかったが、認めなかった。
十一年前に別れた女、澪(みお)。
彼女はよく言った。「私、月が嫌いなの。夜ごとに形を変えるから。信用できない」
その通り、彼女自身が、会うたびに違う人だった。遼が惹かれたのは、そういう人だった。

三 三日月
二度目は、三日月の夜だった。
遼はもう、その時間を待っていた。裏側に入る十分前から、ヘッドセットを着け、計器を確認するふりをしていた。指先が、わずかに落ち着かなかった。六十二歳にもなって、と自分を笑った。
「来てくれたのね」
今度の声は、若かった。少女のようですらあった。
「……君は、誰だ」
「前は、大人っぽすぎたわね。ごめんなさい。まだ、慣れていないの」
「慣れていない?」
「あなたに、どう話せばいいのか。あなたが、どんな声を待っているのか」
遼は、自分の背筋が冷たくなるのを感じた。
「私の通信を聞けるのは、私だけのはずだ」
「そう。あなたにだけ、聞こえるの。だってここは、あなたの軌道でしょう。付かず離れず。私はその、ちょうど真ん中にいるのよ」
遼は、軌道要素を思い出した。近月点も遠月点も、ほとんど同じ。ほぼ真円。彼が三年かけて燃料を刻み、姿勢制御を重ねて作り上げた、完璧な円。
「真ん中というのは、月の中心という意味か」
「さあ。どうかしら」
声は、くすくすと笑った。
「あなたは、私が誰か知りたいのでしょう。でも本当は、私が誰に似ているかを、確かめたいのよね」
通信が切れた。ログは、また白紙だった。
遼はその夜、地球の管制センターに、初めて嘘の報告を書いた。〈異常なし〉。
嘘をついた理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、知られたら、声が消えるような気がした。
その晩、彼は寝袋の中で、長いこと天井を見つめた。天井といっても、無重力ではどちらが上でもない。ただ、目を向けた先に、非常灯の緑が、小さく光っていた。

四 朝と夜のあいだ
声が来ない日々が、続いた。
新月と三日月のあと、声は現れたり、現れなかったりした。遼は、その理由を考えた。月相との関係。ツクヨミの位置。太陽との角度。三十枚のグラフを作り、統計をとり、相関を探した。だが、どんな数字にも、声は捕まらなかった。
ある日、彼は、自分がグラフを作る指の速さに、笑ってしまった。まるで、恋文を書く少年のようだった。声の現れる条件を、必死で探している。会いたい日と、会えない日を、地図にして。
その頃から、彼の生活は、わずかに変わり始めた。
朝、運動のあと、窓に向かって「おはよう」と言うようになった。誰に言うでもない。ただ、言ってみると、声が、ステーションの薄い壁に、小さく響く。それだけで、三年間、動かなかった空気が、わずかに揺れた。
吉岡は、定時連絡で、そのことを目ざとく指摘した。
「三枝さん、最近、声が明るいですね」
「そうかね」
「何か、いいことでも?」
遼は、少し黙った。
「……月が、少し、面白く見えてきてね」
それは、嘘ではなかった。ただ、真実の、ほんの一部だった。
夜、彼は、管制に送らない私的なノートを、開くようになった。そこに、声が言った言葉を、一つずつ書き写した。「私はその、ちょうど真ん中にいるのよ」「名前をつけたら、あなたは私を一人の女にしてしまう」。書き写しながら、彼は気づいた。声は、一度も、彼を責めていない。ただ、事実のように、彼の輪郭をなぞっているだけだ。
その晩、遼は、夢を見た。
夢の中で、彼は防波堤に立っていた。潮が満ちている。隣に、誰かがいる。顔は見えない。ただ、肩に、細い髪が触れている。「ねえ」と、その誰かが言った。「あなたは、私のそばにいるようで、いないのよ」。
彼は、夢の中で、はじめて、答えようとした。
「そばに、いる」
声を出した瞬間、目が覚めた。ステーションの非常灯が、緑に光っていた。自分の心臓の音だけが、暗がりに響いていた。
彼は、寝袋の中で、長いこと、動かなかった。
六十二歳の男が、夢の中で、たったそれだけの言葉を言うために、十一年を要した。そのことが、可笑しくもあり、悲しくもあった。
翌朝、彼は、ノートに一行、書き加えた。
〈月齢十。今日は、夢を見た。そばに、と言えた。夢の中でだけ〉

五 上弦
上弦の夜、声は落ち着いていた。
「今日は、話をしましょう」
遼は、椅子の背にもたれて、目を閉じた。ステーションの循環ファンの音だけが、低く鳴っている。
「まず、君の名前を教えてくれ」
「名前はないわ。夜ごとに、呼ばれ方が変わるから」
「では、私がつけよう」
「やめて」
声は、思いがけず強く言った。
「名前をつけたら、あなたは私を一人の女にしてしまう。そうしたら、次の夜、私が違う私で現れたとき、あなたは怒るでしょう。裏切られたと思う。……昔、そうだったように」
遼は目を開けた。
「君は、澪を知っているのか」
「あなたが、知っているわ」
声は、正確な答えを避けているのではなく、そもそも答えの形が違うのだ、と遼は思った。
遼は、試すように、訊いた。
「では、潮汐力は、距離の何乗に反比例する?」
「三乗」
声は、即答した。それから、少し、間を置いた。
「……あなたが、あの人に言ったのよね。人の心には、作用しません、って」
遼は、背筋を伸ばした。その言葉は、十一年前、港の食堂で、澪にだけ言った言葉だった。
「どうして、それを」
「あなたの中に、あるから。私は、あなたの耳の、少し手前で、話しているの」
「一つだけ、教えてくれ。君は、月なのか」
「月は、ただの石よ。石は喋らない」
「では、月の裏に、何かがあるのか」
長い沈黙があった。裏側の通信時間は、残り十分を切っていた。
「見に来る?」
声が、そう言った。
「……下りろと言うのか。ここは高度百八十だ。下りれば、戻れない」
「戻れないんじゃない。戻らない、だけよ」
遼は、笑ってしまった。若い頃、澪にも同じようなことを言われた気がした。
「あなたは、いつもそう。近づきそうで、近づかない。私はそれを責めているんじゃないの。ただ、寂しいだけ」
声が、ふっと途切れた。
遼は暗い窓の外を見た。月の裏側の、名前もない無数のクレーターが、静かに後ろへ流れていった。

六 澪
澪と出会ったのは、遼が三十九歳の秋だった。
場所は、瀬戸内の小さな港町。宇宙機の部品を作る町工場への出張で訪れた彼は、帰りの船が欠航になり、一晩、町に足止めされた。潮が荒れていた。港の食堂で遅い夕飯を食べていると、隣の席の女が、窓の外の海を睨んで言った。
「今夜は、大潮ね。嫌な夜」
それが澪だった。三十四歳。地元の小さな郵便局に勤め、夜は姉の営む小料理屋を手伝っていた。目が大きく、笑うと目尻が下がり、黙ると急に遠い人に見えた。
「月のせいよ」と彼女は言った。「月が引っ張るの。海を。人の心も」
遼は技術者らしく、笑って訂正した。潮汐力は距離の三乗に反比例して、人の心には作用しません、と。澪は、しばらくきょとんとして、それから声を立てて笑った。
「あなた、面白い人ね。でも、私は月が嫌い」
「なぜ」
「夜ごとに形を変えるから。信用できないじゃない」
それは、その場を取り繕う冗談のように聞こえた。遼はそう受け取った。
翌朝、船は出た。遼は東京へ戻ったが、二週間後、また用もないのにその町へ向かっていた。
つきあい始めてからの日々は、月の満ち欠けのようだった。と書けば陳腐だが、実際にそうだった。澪は、日によって別人のように振る舞った。よく喋る日があり、一言も口を利かない日があった。突然、料理に凝る夜があり、突然、何もかもが嫌になる朝があった。機嫌が悪いのではない、と彼女は言った。「今日の私は、こういう形なの」。
遼は、その形の一つ一つを、少し離れた所から眺めていた。近寄って何かを言えば、その形が崩れてしまう気がした。彼の仕事は、軌道計算だった。物体が別の物体に落ちないように、かつ離れすぎないように、計算する。恋も、同じ方程式で解けると、どこかで思っていた。
月に二回、彼は瀬戸内へ通った。金曜の夜に着き、日曜の夕方に発つ。同居の話は、何度か出た。澪は「あなたの部屋、本ばかりだから」と冗談めかし、遼は「君の郵便局は、辞められないだろう」と答えた。互いに、逃げ道を差し出し合っていた。
防波堤の上で、二人で並んで海を見た夜がある。潮が満ちてくる音を聞きながら、澪は、ぽつりと言った。
「この町の人はね、月を拝まないの。大潮の夜は、家の中で、じっとしてる」
遼は、面白い風習だと思って、頷いた。それだけだった。彼女がなぜ、そんな話をしたのか、訊かなかった。訊けば、彼女の中の何かに触れてしまう。触れないことが、彼の礼儀だった。
三年目の冬、澪は言った。
「ねえ、遼。あなたは、私のそばにいるようで、いないのよ」
「そんなことはない」
「星みたいなの。見えるのに、届かない。月のそばで光ってるくせに、月には触れない星」
彼女は、少し笑った。
「私、月になりたかったんじゃないの。あなたの、月になりたかったの。でも、月には、地球が要るのよ。引っ張ってくれる、重いものが」
遼は、その意味を、そのときは半分もわからなかった。わかろうとして、黙った。黙ることが、彼の最も得意な答えだった。
春先に、澪は町を出た。行き先は、告げなかった。遼が追いかけなかったことを、彼女は、最後まで責めなかった。
ただ、去り際に、もう一度だけ言った。
「月が嫌いって言ったの、覚えてる? あれ、本当の理由は、別にあるの。いつか話す」
いつかは、来なかった。
数年後、共通の知人から、澪が別の海辺の町で、小さな書店を開いたと聞いた。行こうと思えば、行けた。遼は、行かなかった。会えば、あの頃の形が、また崩れてしまう気がした。
遼は、その言葉を、十一年、忘れたふりをして生きてきた。

七 十三夜
彼は、調べ始めた。
月の裏側の地質データ、過去の探査機の記録、各国の観測結果。ステーションの計算機は古いが、時間だけはたっぷりあった。
そして、十三夜の晩までに、奇妙な事実にたどり着いた。
ツクヨミの軌道は、月の裏側の、ある一点の上空で、必ず「通信が乱れる」のだ。ごくわずかな、誤差の範囲のノイズ。三年前から、毎周回、毎日、同じ位置で。彼はそれを、単なる機器の癖だと思って見過ごしていた。
過去の探査機の報告書も、洗い直した。各国が、この五十年の間に打ち上げた探査機のうち、月の裏側を低く飛んだ十一機。そのすべてが、あの地点の上空で、記録に残らないほど小さな異常を出していた。報告書の末尾に、担当技官が書き足した所見の欄。そこには、ほとんど示し合わせたように、似た言葉が並んでいた。
〈原因不明。ただし、誰かに呼ばれた気がした〉
遼は、その一行を、何度も読み返した。科学者たちは、それを、疲労による錯覚として処理していた。彼自身も、つい先月まで、そうしていただろう。
その一点に、拡大した地形図を重ねる。
小さなクレーターが、一つあった。直径は四百メートルほど。どの探査記録にも「特筆事項なし」とだけ書かれた、ただの穴。
遼は、その穴の縁の反射率が、周囲より不自然に均一であることに気づいた。天然の岩は、こんなに滑らかに光らない。
「見つけたのね」
声が、いつもより早く来た。まだ裏側に入る前のはずだった。
「通信は、遮断されていないはずだ」
「ええ。今日は、あなたが私に、近づいたから」
遼は、計器を見た。高度は百八十。変化はない。だが、彼の意識が、初めてあの穴に向かっていた。
「ここは、何だ」
「昔、誰かが置いていったもの、かしらね」
「誰が」
「人よ。人が、人に言えなかったことを、ここに置いていったの」
遼は、言葉の意味がわからなかった。
「月は、ずっと見られてきたでしょう。何千年も、何万年も。人は月に向かって、手を合わせ、歌い、泣いて、恋を打ち明けてきた。言葉は、空に消えるものだと思う? 消えないのよ。宇宙は、忘れないから」
遼は、息を呑んだ。
「では、君は」
「ええ。あなたたちが、月に向けて語ってきた、あらゆる『あなた』の総和。会いたい、行かないで、どうして、愛している。そういう声の、澱みたいなもの」
澱、という言葉が、妙に優しく響いた。
「私は、聞き手によって姿を変える。あなたが待つ声で、話すことしかできない。だから、夜ごとに違うの」
遼は、しばらく声が出なかった。
「それでは、君は、私の作り出した幻ではないのか」
「幻よ」
声は、あっさり言った。
「でも、あなたの幻ではないわ。あなたの前に、何万人もの人が、ここで同じことを願ったの。私は、その全員の、もう会えない人の声」
窓の外を、月の裏側が流れていく。あの穴は、もう視界の外だった。だが遼には、それがまだ、そこに開いているのがわかった。耳のように。
これまで科学と数値、そして合理的解釈の防壁の中に逃げ込んできた男が今、初めて論理の通用しない「人々の祈りと後悔の深淵」へと自ら向き合おうとしていた。

八 地上から
吉岡拓海は、筑波の管制センターの、小さな通信室にいた。
三枝遼と定時連絡を交わす、たった一人の担当官。三十四歳。この仕事に就いて六年、そのうち三年は、遼の担当だった。
ここ二ヶ月、彼は、遼の声の変化に気づいていた。以前の遼は、報告を読み上げるように話した。抑揚のない、乾いた声。それが、最近は、語尾が、わずかに柔らかい。ときどき、沈黙の中に、息を吸う音が混じる。誰かに、話しかける準備をしているような息だった。
吉岡は、同僚に、それを話した。同僚は笑った。「孤独が長すぎると、人は、誰かの声を作るらしいぞ」。吉岡は、笑わなかった。
彼には、思い当たる節があった。
吉岡の父は、漁師だった。母を早くに亡くし、父は一人で彼を育てた。夜、船から戻る父は、口を利かなかった。ただ、酒を呑みながら、窓の外の海を見ていた。月が出ている夜は、必ず、窓辺に座った。一度だけ、吉岡が、「何を見てるの」と訊いたとき、父は答えた。「おまえのお母さんに、聞いてもらってるんだ」
幼い彼は、意味がわからなかった。今は、少し、わかる。
「寂しくないですか」と、吉岡が遼に、毎月訊くのは、心配のためだけではなかった。彼は、答えを聞きたかったのだ。人は、そんなに、一人で、円を描いていられるものなのか。その答えが、知りたかった。
その日の夜、彼は、遼の観測データを、初めて、自分で、詳しく見た。二十九・五日周期のノイズ。三年間、誰も意味を見つけられなかった、雑音の山。
彼は、そのデータを、ふと、音声に変換してみた。特に理由はなかった。ただ、遼の声を思い出して、そうしたくなった。
ヘッドホンから流れてきたのは、雑音ではなかった。
波の音だった。
寄せては返す、遠い海の音。その底に、無数の、ささやきが、砂のように混ざっている。吉岡は、身動きが取れなかった。父の、あの窓辺の背中が、目に浮かんだ。
ノイズは、月相に合わせて、大きくなり、小さくなり、そして、二十九・五日で、また始まった。まるで、潮のように。
吉岡は、ヘッドホンを外し、長いこと、天井を見上げた。
彼は、このことを、上には、報告しなかった。報告すれば、遼の任務は、すぐに終了になる。遼は、地球へ戻され、あの声から、引き離される。
そう思ったとき、吉岡は、自分が、遼の共犯になっているのに気づいた。そして、それを嫌だと思わない自分にも。
翌日の定時連絡で、彼は、いつもの質問を、いつもの調子で、口にした。
「三枝さん、寂しくないですか」
少しの間があった。回線の向こうで、遼が、息を吸う音がした。
「……今は、あまり、寂しくないよ」
吉岡は、その答えを、ノートに、書き留めなかった。書き留めなくても、忘れないと思った。

九 満月
満月の夜は、眩しすぎて、遼は眠れなかった。
地球から見れば、月は完全な円を描く。だが周回軌道からは、月は常に半分しか見えない。満月とは、太陽と地球と月が、一直線に並ぶこと。それは、月の裏側が最も暗くなる夜でもあった。
「今日は、私が一番はっきりしている日」
声は、もう掠れていなかった。澪の声、そのものだった。
遼は、目頭が熱くなった。
「やめてくれ」
「どうして。会いたかったんでしょう」
「これは、澪じゃない」
「そうよ。でも、あなたが聞きたい声は、これでしょう。三年間、ずっと」
遼は、机に額をつけた。
「……私は、あいつを引き止めなかった。それだけだ。あいつが出て行くと言った夜、追いかけなかった。追えば、あいつの形を壊すような気がして。変わっていくことが、あいつの魅力だったのに、私はそれを恐れて、結局、一番遠い距離を選んだ」
「知ってるわ」
「近づけば、失う。離れれば、忘れる。だから、その真ん中に立った。それがいちばん、傷つかないから」
「それで、傷つかなかった?」
遼は、乾いた声で笑った。
「十一年、傷だらけだ」
「昔からだ」
遼は、続けた。
「子供の頃、両親が、よく喧嘩をした。夜中に、壁の向こうから、皿の割れる音が聞こえた。私は、布団の中で、天井の染みを数えた。そのうち、気づいたんだ。近づかなければ、割れるものもない、と。それで、私は、星が好きになった。あんなに遠くて、誰も傷つけない」
「……それは、あなたの、優しさでもあるわ」
「臆病さだ」
「同じことよ。あなたの中では」
澪の声は、しばらく黙った。それから、静かに言った。
「一つだけ、教えてあげる。あの人は、あなたの月になりたかったのよ。月は、どんなに形を変えても、地球のそばを離れないでしょう。……でも、あなたは、少し離れた場所から見ているだけだった」
遼は、顔を上げられなかった。
「これも、あなたが聞きたい答えなのかもしれないわ。私は、そういうものだから」
「では、もう一つ訊く」
遼は、絞り出すように言った。
「あいつは、去り際に言った。月が嫌いな本当の理由は、別にある、と。いつか話す、と。あれは、何だったんだ」
声の輪郭が、ゆらいだ。
「……それは、私には、わからない」
声は、初めて、困ったように言った。
「私に聞こえるのは、あなたの記憶の、表側だけなの。あなたが蓋をしたものは、私にも開けられない。……あの人は、それを、月には言わなかったのね」
「では、誰に」
「あなたによ。あなたが、聞き逃したのよ、きっと。……思い出して、遼。それは、あなたの中にしか、ないから」
遼は、しばらく黙っていた。窓の外で、白い月面が、まぶしく輝いていた。
「ねえ、遼」
澪の声が、彼の名前を呼んだ。
「そんな女に、もう一度出会ってみたい、って、思ってる?」
遼は、長い間、答えなかった。
「……思っている」
やっと、そう言った。
「そんな恋愛を、もう一度してみたい。そう思っている。愚かだろう」
「愚かじゃないわ。ご同輩、って言うのよ、そういうの」
彼は、はっとして顔を上げた。
その言葉は、彼が誰にも話したことのない、独り言の癖だった。

十 千の声
十六夜(いざよい)の頃、声は、一度に、多くなった。
「今日は、少し、騒がしくてごめんなさい」
最初に聞こえたのは、老いた男の声だった。「おい、聞こえるか」と、しわがれた声が言った。遼は、体を固くした。
「おまえさん、ようやく、ここまで来たな」
「誰だ」
「誰でもねえよ。ただ、月に向かって、酒を呑んでた爺さんだ。……ばあさんが死んだ夜にな」
声は、ふっと消えた。
次に、幼い男の子の声。「お父さん、まだ帰ってこないの」。それも、すぐに消えた。その次は、母親らしい女の声。「あなたが元気なら、それでいいのよ」。次は、恋を打ち明ける若い男。次は、誰かを呪う声。次は、ただ泣いているだけの声。
遼は、耳を塞ぎたい気持ちを堪えながら、聞いていた。声は、数分の間に、何十、何百と入れ替わった。まるで、巨大な図書館の書架を、一気に走り抜けているようだった。
「やめてくれ」
遼が言うと、ぴたりと、それらは止んだ。
「……ごめんなさい」
いつもの、あの声が戻ってきた。
「私は、本当は、あれなの。一人の女じゃなくて、ああいうものの、集まり。あなたの前では、その中から、あなたに一番必要な声を選んで、束ねているだけ。……時々、束ねきれなくて、こぼれてしまう」
「なぜ、今日は、こぼれた」
「あなたが、あの穴に、近づきすぎているから。私が、私でいられなくなる」
遼は、しばらく黙っていた。
「一つ、訊いていいか」
「ええ」
「私の前にも、ここを回った人間が、いたのか」
声は、長い沈黙の後、答えた。
「いたわ。何人か。みんな、一人で来て、みんな、最初は驚いて、それから、夢中になった。そして、みんな、私に、名前をつけた」
「その後は」
「名前をつけた人は、私を、一人の女にしてしまうの。他の声が、聞こえなくなる。彼女だけを求めて、降りて、そのまま……」
声は、途切れた。
「そのまま?」
「戻れなかったんじゃないの。戻らなかったの。彼女のいる場所を、離れたくなかったから」
遼は、息を呑んだ。
「では、君が、私に名前をつけさせなかったのは」
「あなたに、戻ってほしかったから。……私は、もう、誰かを、そこに置いていきたくないの」
それは、あの声が、初めて見せた、本当の感情だ、と遼は思った。何万もの言葉の澱が、一つの、ひどく小さな祈りに、凝り固まった瞬間。
「君は、優しいな」
「優しくなんかないわ」
声は、少し、笑った。
「ただ、たくさんの『行かないで』を聞きすぎて、行かないで、と言えなくなっただけ」
遼は、窓の外を見た。月の裏側が、静かに、流れていく。あの穴の上を通過する、その一瞬、彼の胸の奥で、何かが、かすかに鳴った。呼ばれている、と思った。同時に、呼ばれるままに降りていった、名前も知らない先人たちの背中が、見えた気がした。
降りるのなら、戻るつもりで降りなければならない。
彼は、そのことを、自分自身に、まるで契約のように、言い聞かせた。

十一 降下
ツクヨミには、小さな着陸機が一機、係留されている。
愛称は「ウサギ」。緊急用の一人乗りで、月面への軟着陸と、周回軌道への再上昇が、一度ずつだけ可能な燃料を積んでいる。三年間、一度も動かしたことはなかった。遼は、月に一度、点検だけは欠かさなかった。使わないと知りながら、使えるようにしておく。それも、彼の生き方だった。
下弦の前夜、遼は管制センターに、一通の申請を送った。
〈着陸機の降下試験を実施したい。裏側通過中、通信不能時間帯に実施し、周回に復帰する〉
吉岡は、案の定、反対した。「三枝さん、あと一ヶ月で任務は終了なんですよ。今さら、そんな危険な」。遼は、穏やかに答えた。「あと一ヶ月だからだ。使わずに帰るのは、あの機体に悪い」
半分は、口実だった。半分は、本心だった。
出発の前夜、遼は、ノートに、遺書のようなものを書きかけて、やめた。代わりに、こう書いた。
〈必ず戻る。戻って、コーヒーを飲む〉
書いてから、可笑しくなった。六十二歳の男が、死地に向かう前夜に書く言葉が、コーヒーだとは。けれど、それが、彼の本心だった。日常に戻る、という約束。円の中に、戻る、という約束。それを、自分に課さなければ、あの穴の縁で、足がすくむ気がした。
その夜、彼は、ほとんど眠らなかった。
許可は、出なかった。遼は、裏側に入る時刻を待って、通信を切った。
降下は、静かだった。ウサギの小さな窓の外を、月の裏側が、ゆっくりと近づいてくる。高度百八十キロが、百キロ、五十キロ、十キロと縮んでいく。ツクヨミの円が、遠ざかっていく。近づくほどに、月は、灰色の壁のように立ち上がった。
降下の最中、遼は、初めて、恐怖というものを、正確に思い出した。
三年間、彼は、恐れなかった。恐れないことが、彼の職能だったからだ。円を描く男は、落ちることを恐れてはならない。恐れれば、軌道が乱れる。だが今、円を離れ、螺旋を描いて落ちていく機体の中で、彼は、自分の膝が、小刻みに震えているのを見た。
情けない、と思った。けれど、同時に、嬉しかった。震えているのは、生きている証拠だった。近づくとは、こういうことなのだ。近づけば、恐ろしい。失うかもしれない。だから、人は、近づかない。近づかなければ、震えないで済む。
澪は、その震えを、毎日、彼に差し出していたのだ、と思った。震えながら、笑って、「今日の私は、こういう形なの」と。彼は、それを、遠くから、涼しい顔で眺めていた。
窓の外で、月面が、ぐんぐんと迫ってきた。
彼は、六十二年間で初めて、自分から円の外へ出た。
着陸地点は、あの小さなクレーターの縁から、三百メートル離れた平地だった。着地の衝撃は、驚くほど小さかった。舞い上がった月の塵が、音もなく、ゆっくり降り積もっていく。
船外服を着て、ハッチを開けた。梯子を降りる。ブーツの下で、細かな砂が、ぎゅっと鳴った気がした。実際には、真空の中で音はしない。ただ、そう感じた。
空は、真っ黒だった。地球は、見えなかった。裏側には、地球がない。星々だけが、無数に、やけにくっきりと瞬いている。遼は、自分が、その星々の一つになったような気がした。
歩いた。低重力の中で、体が、ふわりふわりと運ばれる。息が、ヘルメットの中で、白く曇る。
クレーターの縁に立った。
縁に立ったとき、黒い鏡のような内壁に、自分の姿が映った。白い船外服の、小さな人影。その背後に、無数の星。星の中に、一人の男が、立っている。それは、遼が三十年間、思い描いたことのない、奇妙な構図だった。星々に囲まれた星でもなく、月のそばの星でもなく、ただ、星空の中の、一人の人間。
それは、驚くほど整った、碗のような窪みだった。内壁は、黒い鏡のように滑らかで、星の光を、静かに映している。底の中央に、何かがあった。石のようでもあり、器のようでもあった。高さは、人の背丈ほど。表面には、無数の細い筋が、渦を巻いていた。
遼は、内壁を、ゆっくりと降りていった。
底の手前で、遼は、足を止めた。
石の周りに、人影が、いくつか、座っていた。
三体。いずれも、旧式の、白い船外服だった。塵をかぶり、色は褪せ、バイザーは黒く曇っている。彼らは、渦を巻く石に向かって、静かに、腰を下ろしていた。まるで、夜、焚き火を囲む旅人のように。
遼は、息を殺した。恐怖は、不思議と、なかった。彼らは、死んでいるというより、待っているように見えた。
一体の胸に、小さな金属の名札が、ついていた。刻まれた文字は、遼には読めない国の言葉だった。その手の中に、色褪せた写真が、一枚、握られている。若い女性の、笑顔。彼女は、誰かに向かって、手を振っていた。
遼は、ヘルメットの中で、そっと、頭を下げた。
彼らは、名前をつけたのだ。声に。そして、その名前の女を、追って、ここへ降りてきた。戻らなかったのではなく、戻れなかったのでもなく、ただ、彼女のそばに、いたかった。それは、悲劇と呼ぶには、あまりにも、穏やかな最期に見えた。
だが、遼は、そうなりたいとは思わなかった。
「私は、戻るよ」
誰にともなく、囁いた。その言葉が、彼らへの、詫びのように響いた。
底に着いたとき、耳の奥で、音が、生まれた。
最初は、風のようだった。次第に、それが声だと、わかってきた。無数の声。低い声、高い声、老いた声、幼い声。聞いたこともない言葉が、幾重にも重なって、囁いている。
行かないで。
どうして。
ただいま。
ごめんなさい。
会いたい。
言語が違っても、意味だけは、不思議とそのまま届いた。何千年もの間、人が月に向けて吐き出した言葉が、ここに降り積もり、ゆっくりと熟成して、一つの大きな囁きになっていた。
遼は、その中に、自分の声が混じっていないことに、気づいた。
三年間、彼は、誰にも何も言わなかった。月に向かってさえ。
そのとき、遼は、突然、思い出した。
澪が、防波堤の上で言った言葉。この町の人は、大潮の夜は、家の中でじっとしている。あの夜、彼女は、他にも何かを言おうとしていた。遼が、面白い風習だと頷いたあと、彼女は、口を開きかけて、閉じた。
あの夜だけではない。初めて会った、あの荒れた夜。「月のせいよ」と言った澪に、彼は、潮汐力の講釈をした。
澪は、笑った。声を立てて。けれど、その笑顔の奥に、ほんの一瞬、何かが沈んだのを、彼は見ていた。見ていて、見なかったことにした。
澪の父は、彼女が九歳の年、大潮の夜に、漁に出て戻らなかったのだ。
それを、彼は、確かに聞いていた。付き合って二年目の夏、彼女が、酔った勢いで、ぽつりと零したのだった。「うちの父ね、月に連れて行かれたの」。遼は、そのとき、また言ったのだ。「それは、潮の流れが速かったんだよ」と。合理的に。優しいつもりで。
澪は、「そうね」と笑って、それきり、その話をしなかった。
月が嫌いだと言った、本当の理由。彼女は、いつか話すと言った。だが、彼女はもう、話していたのだ。二度も。そして二度とも、彼は、悲しみを物理で訂正した。
遼は、その場に膝をついた。
ヘルメットの中で、涙が、頬を伝わずに、球になって浮かんだ。無重力に近い低重力は、涙さえも、彼の顔から離れたがらなかった。
「思い出したのね」
澪の声が、足元から、囁くように立ち上った。
「あの人は、あなたが笑ったとき、悲しかったの。でも、同時に、少しだけ、救われたのよ。あの日から、月が、ほんの少し、怖くなくなったって」
遼は、顔を上げた。
「それは、君の言葉か。それとも、私の願いか」
声は、少し笑った。
「どちらでもいいでしょう? ここでは、その二つは、同じものなの」
遼は、しばらく、動けなかった。それから、ゆっくりと、立ち上がった。
中央の、渦を巻く石の前に、歩み寄る。手袋越しに、その表面に触れた。冷たいのに、どこか、温かい気がした。
彼は、通信を、外部スピーカーではなく、その石の表面に向けて、開いた。そして、三年間、誰にも言わなかった言葉を、口にした。
「あの夜、笑って、すまなかった。……君の悲しみを、訂正して、すまなかった」
声は、震えなかった。震えるはずの声が、不思議なほど、静かだった。
石が、かすかに光った。渦の筋が、ゆっくりと、遼の言葉を吸い込んでいく。
そして、無数の囁きの中に、彼自身の声が、一筋、混ざった。
遼は、その瞬間、自分が、何かの一部になったのを感じた。孤独ではなくなった、という意味ではない。ただ、孤独が、彼一人のものではなくなった。何万人もの孤独と、同じ場所に、置かれた。
それは、思ったより、悪くない感覚だった。
ウサギの燃料は、再上昇に、ちょうど足りるだけだった。遼は、梯子を登り、ハッチを閉めた。
エンジンが、着火する。月面が、遠ざかっていく。窓の外で、クレーターの縁が、一瞬、ほんのりと光った。
戻れないんじゃない。戻らない、だけ。
そう言った声に、彼は、今度は、戻ることで答えた。

十二 下弦
下弦の頃、地球の管制センターから、通達が来た。
〈ツクヨミ計画は、来月末をもって終了。後任の交代要員が着任し、三枝隊員は帰還の予定〉
勝手な降下試験については、吉岡から、長い、叱責とも安堵ともつかない文面が届いていた。最後の一行だけが、私的な言葉だった。〈無事で、よかったです〉。遼は、返信に、〈すまなかった〉とだけ書いた。
遼は、その通達を、三度読んだ。
その晩の定時連絡で、吉岡は、いつもの質問をしなかった。代わりに、こう言った。
「三枝さん。あのノイズ、音にして、聴いてみたんです」
遼は、黙った。
「波の音でした。……海の」
「そうか」
「報告は、していません。するつもりも、ありません」
遼は、目を閉じた。
「ありがとう」
「うちの親父がね、月に向かって、亡くなった母のことを、話しかけてる人だったんです。だから、あの声は、たぶん、僕にも、少し、わかるんです」
「……君の父上は、月と、仲が良かったんだな」
「ええ。たぶん」
通信の向こうで、吉岡が、洟をすする音が、小さくした。遼は、聞こえなかったふりをして、優しく言った。
「帰ったら、君に、コーヒーを奢らせてくれ。地球の、ちゃんと味のするやつを」
「約束ですよ」
「約束だ」
通信を切ったあとも、しばらく、その約束の余韻が、狭い居住区に残っていた。
それから、声に告げた。
「私は、帰る」
「知ってるわ」
「君は、どうなる」
「どうにもならないわ。次の人が来れば、その人の、会いたい声になるだけ」
遼は、椅子から立ち上がった。
「それは、ひどい話だ」
「ひどくないわよ。そういうものなの。月は、そうやって、ずっとやってきたのよ」
声は、彼を慰めているのか、突き放しているのか、わからなかった。
「最後に、一つだけ頼みがある」
「何?」
「君の、本当の声を聞かせてくれ。誰の声でもない、君自身の」
沈黙が落ちた。三分、五分。裏側の通信時間が、少しずつ減っていく。
「……それは、できないの」
やがて、声は、言った。
「私に、私自身の声はないの。でも、代わりに、教えてあげる。私が、あなたの前で、一番『私らしかった』夜が、いつだったか」
「いつだ」
「あの穴の底で、あなたが、黙って、立っていたとき。何も装わずに、私を聞いていた、あの数分間」
遼は、笑った。泣いているようにも見えた。
「それは、君が、ではなく、私が、だろう」
「そうね。でも、それを同じことだと思えたなら、あなたはもう、星ではなくなったのよ」
遼は、しばらく、その言葉を胸の中で転がした。
星ではなくなった。では、何になったのか。月ではない。月は、あの声のほうだ。地球でもない。
答えは、出なかった。出なくていい、と思った。
その夜、遼は、久しぶりに、自分の軌道を、計算し直した。
ウサギの再上昇で、燃料は、ほとんど尽きていた。ツクヨミの円は、ほんのわずかに、歪んでいる。近月点が、二キロ、低い。完璧な円では、なくなった。
遼は、その数字を、しばらく、眺めていた。以前の彼なら、それを、許せなかっただろう。修正の計算を、朝まで続けただろう。
だが、今の彼は、その二キロの歪みを、そのまま、次の人に、渡すことにした。
円は、少し、歪んでいていい。近づいた痕跡が、そこに、残っていていい。

十三 晦日
晦日(つごもり)の夜、月は姿を消す。
月齢二十九。地球から見えなくなる、新月の前の、一番暗い夜。
最後の裏側通過の前に、遼は、荷物をまとめた。
持ち帰るものは、ほとんどなかった。三年分の、擦り切れた下着と、私的なノートと、ポケットの中の、小さな月の砂。それだけ。彼は、ステーションの居住区を、丁寧に拭き上げた。次の人が、使うために。
窓のガラスを、最後に、手のひらで、そっと撫でた。三年間、彼の世界のほとんどすべてだった、窓。冷たく、硬い、ただの二重ガラス。それでも、そこから、彼は、たくさんのものを、見た。
「世話になった」
声に出して、そう言った。誰に言ったのか、自分でも、わからなかった。窓か、ステーションか、月か、それとも、あの声か。
そして、最後の裏側通過で、遼は、ヘッドセットを外した。
声は来なかった。
代わりに、窓の外の暗闇の向こう、あの四百メートルのクレーターの縁が、かすかに光っていた。ほんの、ほんの一瞬。星の瞬きのように。
彼は、その光に向かって、話しかけた。
「澪。いや、名前をつけてはいけないんだったな」
誰も答えない。
「私は、三年間、ここで円を描いて回っていた。完璧な円だった。誰にも触れず、誰にも触れられず、それが、私の軌道だった」
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。老いた、痩せた男の顔。
「でも、その円は、君に届いていた。近づかなくても、離れなくても、そこにいるだけで、届いていた」
小さく、息をついた。
「ありがとう。それだけを、言いたかった」
その瞬間、ステーションの通信機が、かすかに鳴った。
ノイズの中に、たった一言、聞こえた。
「……おかえりなさい」
それが、誰の声だったのか、遼にはわからなかった。澪でも、少女でも、夜更けの女でもなかった。もしかすると、何万人もの人が、月に向かって願い続けた、たった一つの言葉が、混ざり合った声だったのかもしなく、あるいは自分自身の声だったのかもしれない。
彼は、ヘッドセットを、そっと、胸に押し当てた。三年間、聞き続けた夜更けの声。最後のこの一言は、彼が、ずっと、誰かから言われたかった言葉だった。
おかえりなさい。
六十二年間、彼は、一度も、どこにも、「帰って」いなかった。円を描くだけで、着地することが、なかった。その男が、たった今、初めて、帰る場所を、与えられた気がした。それが、地球であれ、港町であれ、あるいは、彼自身の中であれ。

終章 次の新月
後任の隊員は、二十六歳の青年だった。名を、日向(ひなた)といった。
到着の日、二人はステーションの狭い通路で握手をした。日向の手は熱く、まだ何にも傷ついていない手だった。
引き継ぎの最後の夜、遼は、コーヒーを二つ淹れた。
日向は、天文学の博士課程を出たばかりだった。志望の理由を訊くと、彼は、照れたように笑った。
「月が、好きなんです。子供の頃から。夜ごとに形が変わるのが、面白くて」
遼は、コーヒーの湯気の向こうで、少し、目を細めた。
「月は、好きになると、厄介だよ」
「そうなんですか」
「厄介で、いい相手だ」
「もし、裏側で、声が聞こえたら」
遼は、なるべく軽い調子で言った。
「無視しなくていい。ただ、名前はつけるな。それから、その声が誰に似ていても、責めるな」
日向は、怪訝な顔をした。
「声、ですか?」
「気にするな。年寄りの与太話だ」
遼は、帰還船の窓から、月を振り返った。
それは、細い、細い三日月だった。
夜ごと形を変える、あの月。彼の恋人が嫌いだと言い、そして本当は誰よりも恐れ、誰よりも憧れていた月。
「……嫌いに、なれなかったよ」
小さく、そう呟いた。
帰還船が、月の重力圏を離れる。ツクヨミの小さな光が、遠ざかっていく。その光は、月のそばで、薄っすらと輝く、一つの星のように見えた。
付かず離れず。
だが、もう、その距離は、寂しくはなかった。
*
日向は、その夜、一人で、ツクヨミの窓の前にいた。
新月だった。月の裏側は、完全な闇に沈んでいる。彼は、遼が残していったコーヒーの銘柄を、真似て淹れてみた。味は、やはり薄かった。
ヘッドセットに、ノイズが走る。
「……聞こえますか」
日向は、飲みかけのパックを、宙に浮かせたまま、動きを止めた。
それは、若い女の声だった。祖母でも母でもない。ただ、彼が、十九のときに別れた、ある人の口調に、どこか似ていた。
「誰、ですか」
「誰でもいいでしょう。あなたの、そばにいる者よ」
日向は、遼の言葉を思い出した。名前はつけるな。誰に似ていても、責めるな。
彼は、しばらく迷った。そして、なるべく、静かな声で言った。
「……こんばんは」
声は、ふっと、笑った。
「こんばんは。今夜は、話をしましょうか」
日向は、少し、戸惑った。何を話せばいいのか、わからなかった。
「何でもいいのよ。今日あったことでも」
「……今日、三枝さんが、帰りました」
「ええ、見ていたわ。あの人は、いい人だった」
声は、少し、遠いところを見るように、言った。
「あの人は、最後に、私に、ありがとうって言ったの。あなたも、いつか、言うのかしら」
日向は、しばらく考えた。
「まだ、わかりません。……でも、コーヒーが薄い、っていう話は、してもいいですか」
声は、今度は、はっきりと、声を立てて笑った。
「いいわよ。聞かせて」
窓の外で、月の裏側の闇が、ゆっくりと流れていく。そのずっと下で、あの、黒い鏡のような穴が、静かに、彼の言葉を待っていた。
*
地球に戻った遼は、半年のリハビリの後、瀬戸内の、あの港町を訪ねた。
澪は、もう町にいなかった。姉の店は、別の人の手に渡り、郵便局は、統合されて、名前が変わっていた。彼女がどこへ行ったのか、誰も、確かなことは知らなかった。
それでも、遼は、悔いなかった。会うためではなかった。伝えるために、来たのだ。
港の食堂は、昔のまま、そこにあった。暖簾の色だけが、褪せていた。奥から出てきた老いた主人は、遼の顔を、じっと見た。
「……あんた、三枝さん、かい」
遼は、驚いた。
「十一年前に、澪ちゃんが、ここに来てね。言い残していったんだよ。もし、背の高い、口数の少ない男が訪ねてきたら、これを伝えてくれ、ってな」
主人は、汚れた前掛けで手を拭いた。
「大潮の夜は、家にいなくていい。外に出て、海を見ていい。……月は、もう、嫌いじゃないから、だとさ」
遼は、しばらく、言葉が出なかった。
十一年前。あの別れの直後に、彼女は、すでに、この伝言を預けていたのだ。彼女は、彼を待っていた。あるいは、待たないために、言葉だけを置いていった。どちらだったのか、もう、わからない。
「あの子、笑ってたよ。泣きながら、笑ってた」
遼は、深く、頭を下げた。
その晩、遼は、港の宿に泊まった。
夕方、彼は、一人で、町を歩いた。新月までは、まだ、二日ある。町の家々は、日が落ちると、いつもより早く、戸を閉めた。この町の人々は、月を、拝まない。月の力の強い夜には、家の中で、じっとしている。
海沿いの小さな広場の隅に、丈の低い、石の塔が、立っていた。「海難供養塔」と、彫られている。側面に、名前が、びっしりと、刻まれていた。この町の海で、帰らなかった人々の名前。
遼は、その一つ一つを、指でなぞるように、目で追った。
塔の、ちょうど中ほど、低い位置に、その名前は、あった。
〈大潮の夜 享年三十六  水原 清司〉
水原は、澪の旧姓だった。
遼は、しゃがみこんで、その名前の前で、しばらく、動かなかった。十一年前、彼は、この塔の存在さえ、知らなかった。知ろうと、しなかった。
夕闇の中で、遼は、両手を合わせた。宗教は、持たない。けれど、月にでも、海にでも、この名前にでも、言いたいことが、あった。
「娘さんを、一人にして、すまなかった」
他人の父親に向かって、何を言っているのだろう、と、自分でも思った。けれど、その言葉だけは、口にしておかなければならない気がした。
新月の夜、防波堤に立った。大潮だった。真っ暗な海が、音もなく、足元まで満ちてくる。町の家々は、どこも、灯りを落として、静まり返っていた。
月は、見えなかった。だが、そこにあるのがわかった。夜ごと形を変えながら、それでも、この海のそばを、決して離れない、あの月。
遼は、海に向かって、口を開いた。
「あの夜、笑って、すまなかった」
波が、防波堤を洗った。
それだけだった。返事は、なかった。返事が来ないことが、今の彼には、もう、苦しくなかった。言葉は、消えない。宇宙は、忘れない。いつか、どこかで、誰かに、届くだろう。
目を閉じると、波の音が、いつもより、深く聞こえた。
寄せては返す音の底に、何か、細かなものが、混ざっている気がした。砂のような、囁きのような。彼は、それを、聞こうとして、やめた。聞こえても、聞こえなくても、同じことだった。
この海は、ずっと、月に引かれ続けてきた。何千年も、何万年も。そして、その引力の下で、人は、恋をし、別れ、待ち、忘れ、思い出してきた。月は、ただ、そこにあっただけだ。石は、喋らない。喋るのは、いつも、人のほうだった。
ふと、彼は、ポケットの中に、月の砂の一粒が、入り込んでいるのに気づいた。船外服から、いつの間にか、零れたものらしい。指先に載せると、それは、暗闇の中で、ほんの一瞬、光った気がした。
遼は、笑った。
夜ごと姿を変えるなんて、そんな女に、出会ってみたいよな。
そして、そんな恋愛、また、してみたいよな。
ご同輩。
(了)


あとがき
物語に出てくる三枝遼という男は、若くもなければ、情熱的な英傑でもありません。人生の後半を迎え、静かに自分の「孤独の領域」を完成させようとしていた男です。しかし、どれほど理屈や円軌道で自分を囲い込もうとしても、人間はどこかで「他者との関わり」や「遠い日の未練」から逃げ切ることはできません。
科学やロジックは、私たちの生活を安全で整然としたものにしてくれます。しかし時に、大切な人の本当の悲しみや揺らぎを、正論という名の言葉で削ぎ落としてしまうことがあります。私自身、年を重ねる中で「あのとき、ただ黙って話を聞いてやればよかった」と思う瞬間が幾度もありました。本作は、そうした大人のための小さな「やり直し」の物語でもあります。
月の裏側に溜まった「言えなかった言葉の澱」。それは、私たちが日々の生活の中でどこかへ置き去りにしてきた祈りや後悔そのものかもしれません。
この物語が、読み終えたあなたの心に、静かな波音と月明かりのような温かさを少しでも残すことができたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
季節の変わり目、夜風に当たられる際はどうかお体を大切に。
またどこかの物語でお会いできることを願って。

Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle


あれこれと試行錯誤しながら

パソコンと格闘しながら 笑

Kindleの物語を作る過程を

四段階に表してみました


ーーーーーーーーーー



第一軌道 月と星と女と

観測バー「みちかけ」【一稿】

まえがき
人は誰しも、自分の人生の主役として生きています。しかし時に、誰かの眩しい人生の傍らで、静かに光を反射するだけの「傍観者」のような心地になることはないでしょうか。
本作の主人公・吾朗もまた、そんな男のひとりです。
地球から遠く離れた月面都市で、夜ごとに別の「誰か」の人生を宿して現れる女。彼女たちの短い旅路を見届ける吾朗の姿を通して、「誰かの人生を見つめること」「記憶と存在」「人と人との付かず離れずの距離感」を描きたいと考えました。
月は十四日ごとに満ち欠けし、その姿を変えます。
ですが、変わり続けているのは月の方なのか、それとも見上げている私たちの方なのか。
グラスを傾けるような軽妙な語りの裏に秘められた、少し切なくて温かい「星と月の物語」を、どうぞ最後までお楽しみください。


序

男はいつも、女という月のそばで、薄っすら輝く星の如く、付かず離れずな人生を送ってきた。

——と、俺はよく酒の席で語る。ご同輩、笑ってくれて構わない。これは酔っ払いの戯言じゃない。月で実際にあった話だ。

第一夜 観測バー「みちかけ」

月面都市「凪(なぎ)」の外縁、第三居住区のドームの縁に、観測バー「みちかけ」はある。地球が見える方角にだけ張り出した窓。客はいつもまばらだ。俺、狭間吾朗、五十二歳。ステーション間の軌道整備士で、仕事が終わればここで薄いウイスキーを舐めるのが日課だった。

彼女と初めて会ったのは、月の夜が始まる日だった。月の夜は長い。地球時間で十四日間も続く。だから月では「夜が始まる日」という言い方をする。

「隣、いいかしら」

白い髪を一つに束ねた、年恰好のわからない女だった。七十にも、四十にも見えた。

「あんた、星を見る目をしてるね」

それが彼女の最初の言葉だった。彼女はその夜、俺に星の話を聞かせてくれた。プレアデスの和名、冬のダイヤモンドの見つけ方、かつて地球の大学で天文学を教えていたこと。ただし、名前を聞いても彼女は首を横に振った。

「夜が明ければ、私は私じゃなくなる。名前は要らないよ」

次に会ったのはひと月後、次の夜が始まる日だった。

同じ顔の女が、同じ席に座っていた。だが目つきが違った。二十歳そこそこの、跳ねるような目つきだった。

「あ、おじさん、あたしのこと知ってる顔してる。でもあたし、あんた知らない」

その夜の彼女は画家だった。クレヨンを持ち込んで、ナプキンに月の絵を描いた。クレーターの影の色が、昼と夜で違うのだと教えてくれた。前の夜のことは、何一つ覚えていなかった。

月が嫌いだ、と俺はかつて言っていた。夜ごと形を変えるから、と。

だが目の前には、夜ごと姿を変える女がいた。文字通りに。

第二夜 ルナ・アーカイブ

謎の種明かしは、醜いほどあっさりしていた。

通信中継棟の整備記録を調べていた俺は、凪市の港湾局から届く「特殊貨物」の受領リストに目を留めた。貨物名——「意識パケット」。送り主は地球の各国のホスピス。荷受けは凪市医療研究棟、コードネーム「ルナ・アーカイブ」。

末期患者の意識をスキャンし、月の夜の十四日間だけ、訓練された宿主(ホスト)の身体に転送する。死を目前にした人間に、最後の「旅」を提供する実験プログラム。地球の重力ではもう動けない身体の代わりに、月の六分の一の重力の中で、もう一度だけ歩かせてやる。それがルナ・アーカイブだった。

宿主は一人。意志を一時的に休眠させる契約を結んだ、一人の女。

夜ごと姿を変える女——あれは、夜ごと違う人間が、同じ身体に宿っていたのだ。

俺はあのバーで、毎夜、違う誰かと酒を飲んでいたことになる。老いた天文学者と、若い画家と、そしてこれから来る無数の「誰か」と。

ならば俺が恋をしていたのは、いったい誰だったのか。

第三夜から第七夜まで

俺は記録をつけ始めた。バーテンダーに借りた紙のノートに、夜ごとの彼女を書き留めた。

第三夜。無口な男が宿っていた。元宇宙飛行士で、古い管制信号の符丁を覚えていた。驚いたことに、若き日の俺と同じ訓練校の出身だった。男はグラスを置く手つきで、懐かしそうにこう言った。

「お前、狭間のガキじゃないか。よく生きてたな」

三十年ぶりの先輩の声が、見知らぬ女の唇から出た。俺は泣かなかった。泣く代わりに、二杯おごった。

第四夜。母親になり損ねた女。俺の手を握って、産まなかった子供の名前を一時間かけて話した。

第五夜。十七歳の少女。地球の海を一度だけ見たいと言って、窓の外の青い星を夜通し眺めていた。「あんたは幸せだね」と少女は言った。「月にいられるんだから」。幸せ、か。俺は薄っすら輝く星のように、誰かのそばを回ってるだけだ、と答えたかったが、黙っていた。

第六夜。誰も来なかった。アップロードの失敗。空白の夜に、俺は初めて気づいた。俺は「彼女たち」を愛しているんじゃない。夜ごとに零れ落ちる人生を、誰かが見届けなければならない——その「見届ける役目」に、俺は自分の寂しさを預けていたのだ。

月の満ち欠けが、誰のものでもない光であるように。あのバーの彼女は、誰のものでもない人生の通り道だった。そして俺は、そのそばを回るだけの星。付かず、離れず。

第八夜 朔(さく)

第八夜に宿ったのは、俺の知っている女だった。

「……吾朗?」

その声で、三十年が崩れた。

梓(あずさ)。かつての婚約者。俺が月行きを選んだ年に、地球に残った女。別れ際、彼女は言った。「月が嫌い。夜ごと形を変えるものを、待ってられない」。

「あんた、老けたね」梓は俺の顔を見て、昔のままの口角で笑った。「私は死ぬ前に一度、あんたの月を見ておきたかった。あんたが選んだものを、嫌いなまま死にたくなかった」

俺たちは十四日間、月の夜を過ごした。三十年分の話をした。彼女は結婚し、子を持ち、孫の写真を頭の中に持ってきていた。俺は独りのままだった。それでよかった。そう言い合えるだけの年月が、俺たちを隔てて、そして俺たちを許していた。

夜が明ける最後の地球時、梓は言った。

「吾朗。あんたは私の月じゃなかった。あんたは、いつも誰かのそばにいる星だ。それは悪いことじゃないよ。星があるから、月は自分が見えてるって分かるんだから」

夜が明けた。梓の意識パケットは、契約により完全消去された。一回限りの旅。それがルールだった。

星は、月に届かない。届いたとしても、月は夜ごとに別の月になる。ご同輩——それでも俺は、あの十四日間を、人生の中でいちばん「届いた」と思っている。

終夜 そして語りは星になる

ルナ・アーカイブは、九年目の冬、地球側の倫理審査で凍結された。「死者の意識の使い回しは尊厳に反する」——正しい議論だったと思う。正しさはいつだって、恋の邪魔をする。

最終夜。アップロード予定は「なし」。だが彼女は、バーに現れた。

宿主の、素の女。九年間、自分の身体を貸し続けていた女。名前を、梶浦ヨリノと言った。彼女は俺の差し出したノート——九十八夜分の記録——を、一晩かけて読んだ。

「私、何度も愛されてたのね」ヨリノは言った。「覚えてないのに、愛されてた」

「覚えてないのに、だよ」俺は言った。「そいつは俺の十八番だ」

ヨリノは翌週、地球に帰還した。重力圏の違う身体は、月に永住できない。俺はステーションに残った。軌道整備士は、星の仕事だ。回り続けるのが仕事だ。

結び ご同輩へ

——とまあ、そういうわけで。

夜ごと姿を変える女なんて、嫌いだと言ったこともあった。だがご同輩、よく聞きな。夜ごと姿を変える女に出会って、分かったことがある。

変わるのは月のほうじゃない。毎夜、同じ場所から月を見上げてる星のほうが、実は少しずつ、軌道を変えられてるんだ。気づいたときには、もう、元の夜空には戻れない。

いや、そんな女に出会ってみたいよな。

そして、そんな恋愛、また、してみたいよな——ご同輩。

今宵も月のそばで、薄っすら輝く星が一つ。付かず離れず、回っている。

(了)


あとがき
この物語は、「もしも死を間近に控えた人の意識が、最後の十四日間だけ月の重力の中で羽を伸ばせたら」という、ひとつの小さな空想から始まりました。
月面都市のバーで、夜ごとに違う人生を宿したひとりの女と酒を交わす。一見するとSF的な設定ですが、そこで交わされる言葉や感情は、私たちが日常で抱く「切なさ」や「懐かしさ」、そして「去りゆくものへの愛おしさ」そのものです。
第八夜で登場する旧友・梓との再会や、ラストで自分の身体を貸し続けていたヨリノとの静かな対話。誰かの記憶を背負うこと、そして忘れてしまっても確かにそこにあった愛を書く時間は、作者自身にとっても愛おしい作業でした。
「星があるから、月は自分が見えてるって分かる」
誰かの特別になれなくても、誰かの傍らで静かに照らし続ける「星」のような存在の尊さを、少しでも感じていただけたなら幸いです。
今夜、ふと夜空の月を見上げたときに、その傍らで小さく光る星のことを思い出していただけますように。


ーーーーーーーーーー



第二軌道 月と星と女と

観測バー「みちかけ」完全版【二稿】


まえがき
ご同輩、少しだけ時間をいただけないだろうか。
グラスを傾けながら聞くような、たわいもない昔話だ。
人が年をとると故郷の話をしたがるように、俺にもひとつだけ、胸の奥から取り出しては光にかざしたくなる夜の記憶がある。
この物語は、地球を遠く離れた月面都市で起きた出来事であり、ある一人の女と、その身体を通り過ぎていった名もない人生たちの記録だ。そして何より、どこにも帰る場所のなかった俺という男が、どうにか自分の軌道を見つけるまでの話でもある。
夜空を見上げるとき、人は月ばかりを眺める。満ちては欠けるその姿に、美しさや儚さを見出すからだ。だが、そのすぐ傍らで、主張することもなく薄っすらと輝いている星の存在に気づく者は少ない。
月という天体と、その傍らで回り続けたひとつの星。
もしあなたにも、胸の奥に忘れられない「月」のような誰かがいるのなら、この夜の語りに付き合ってもらえると嬉しい。
夜は長い。酒の準備はいいだろうか。


序
男はいつも、女という月のそばで、薄っすら輝く星の如く、付かず離れずな人生を送ってきた。
——と、俺はよく酒の席で語る。ご同輩、笑ってくれて構わない。これは酔っ払いの戯言じゃない。月で実際にあった話だ。
お前たちの多くは地球で生まれて、地球で老いていく。それはそれで正しい人生だ。だが俺は、三十八歳のときに月に来て、それから一度も帰っていない。理由は簡単だ。帰る理由が、向こうにもこっちにもなかった。人間、帰る場所がないと、回る場所を探すもんだ。衛星と同じでな。
今夜もグラスを傾けながら、一つの話をしよう。夜ごと姿を変える女と、それを見届けた星の話だ。

第一夜 観測バー「みちかけ」
月面都市「凪(なぎ)」の外縁、第三居住区のドームの縁に、観測バー「みちかけ」はある。地球が見える方角にだけ張り出した窓。客はいつもまばらだ。
店主の爺さんは無口で、客が話しかけても頷くか頷かないかで返事を済ませる。だが酒の出し方だけは律儀で、グラスの縁まで正確に八分目。月の重力では液体の立ち方が地球と違う。表面張力が勝って、酒が縁に吸い付くように盛り上がる。それを計算に入れた八分目だ。爺さんは何も言わないが、ちゃんと月の酒場をやっている。
俺、狭間吾朗。軌道整備士。五十二歳。仕事は、凪と周回ステーションを結ぶ連絡艇の軌道を、毎朝コンマ何秒単位で修正することだ。言ってしまえば宇宙の交通整理だが、月の引力は地球の引力圏に揉まれて毎日微妙に癖を変える。放っておけば船は当たる。当たれば人が死ぬ。だから俺の仕事は地味だが、殺しを防ぐ仕事だった。
彼女と初めて会ったのは、月の夜が始まる日だった。
月の夜は長い。地球時間で十四日間も続く。だから月では「夜が始まる日」という言い方をする。夜が始まる日には、凪では小さな祝いがある。照明が落とされ、ドーム越しの星がいちだんと濃くなる。
「隣、いいかしら」
白い髪を一つに束ねた、年恰好のわからない女だった。七十にも、四十にも見えた。背筋が伸びていて、座る前に一度、窓の外の地球に目をやった。故郷を確かめるような、しかし懐かしむのとは少し違う、点検するような目つきだった。
「あんた、星を見る目をしてるね」
それが彼女の最初の言葉だった。
その夜、彼女は俺に星の話を聞かせてくれた。プレアデスの和名は「すばる」で、古くは「みぼしぶみ」とも書いたこと。冬のダイヤモンドは、プロキオンを頂点に据えると犬の首輪に見えること。かつて地球の大学で天文学を教えていたこと。学生には「先生の授業は、星座が親戚のおばさんの話みたいだった」と言われたこと。
「星はね、遠いから優しく見えるの。近くにあったら、どれもこれも燃えて荒れて、ひどいもんだよ」
「それでも見上げるんですか」
「見上げるさ。遠いものは遠いまま愛せる。近いものを愛すのは、もっと難しい仕事だ」
名前を聞いても、彼女は首を横に振った。
「夜が明ければ、私は私じゃなくなる。名前は要らないよ」
酔った客の戯言だと思った。月の酒場では、誰もが少しだけ詩人になる。
次に会ったのはひと月後、次の夜が始まる日だった。
同じ顔の女が、同じ席に座っていた。だが目つきが違った。二十歳そこそこの、跳ねるような目つきだった。
「あ、おじさん、あたしのこと知ってる顔してる。でもあたし、あんた知らない」
その夜の彼女は画家だった。筆記具の持ち込みが厳しいドーム内で、どこから調達したのか、赤青黄のクレヨンを三本持っていて、ナプキンに月の絵を描いた。クレーターの影の色が昼と夜で違うのだと教えてくれた。
「昼の影は黒いの。夜の影はね、青いんだよ。地球の光が染み込んでるから。アースライトって言うんだって。あたし、それが見たくて来たの」
「来た? どこから」
「あはは。秘密。言ったら怒られる契約なの」
前の夜のことを尋ねても、彼女は本気できょとんとした。演技ではない。目が澄んでいた。
月が嫌いだ、と俺はかつて言っていた。夜ごと形を変えるから、と。
だが目の前には、夜ごと姿を変える女がいた。文字通りに。
幕間一 軌道整備士の覚え書き
ここで少し、俺の仕事と月の話をしておこう。ご同輩、退屈だろうが我慢してくれ。この背景がないと、後の話の重さが伝わらない。
凪は有人月面都市としては三代目にあたる。初代は実験基地、二代目は採掘基地、そして三代目の凪は——変わり種だ。「人間が死ぬために来る街」と陰で呼ばれた。
地球の医療が行き着いた先に、こういう思想が生まれた。延命はもう限界だ。ならば、死の質を高めよう。人生最後の数週間を、苦痛の管理ではなく、体験として設計しよう。そのために月が選ばれた。重力が六分の一しかない。地球上ではもう立てない身体も、月では歩ける。跳べる。二度と泳げない海の代わりに、二度と見られないと思っていた星空の、誰よりも近くに行ける。
俺たち整備士は、そういう「最後の旅人」を運ぶ船の軌道を守っている。旅客リストを見れば年齢と疾患のコードが並んでいて、俺は数字を直しながら、知らない誰かの死に際をいつも素通りしていた。
素通りのはずだった。あのバーの女に出会うまでは。

第二夜 ルナ・アーカイブ
謎の種明かしは、醜いほどあっさりしていた。
通信中継棟の整備記録を調べていた俺は、港湾局から届く「特殊貨物」の受領リストに目を留めた。貨物名——「意識パケット」。送り主は地球の各国のホスピス。荷受けは凪市医療研究棟、コードネーム「ルナ・アーカイブ」。
仕事の延長で追うのは、整備士の悪い癖だ。軌道の数字に嘘はないが、人の作るリストにはいつも空白がある。俺はその空白を埋めるのが好きだった。
ルナ・アーカイブの仕組みはこうだ。
末期患者の意識をスキャンし、月の夜の十四日間だけ、訓練された宿主(ホスト)の身体に転送する。死を目前にした人間に、最後の「旅」を提供する。地球の重力ではもう動けない身体の代わりに、月の六分の一の重力の中で、もう一度だけ歩かせてやる。意識は往路だけ転送され、復路はない。夜が明けると同時に、パケットは契約により完全消去される。一回限りの、片道の旅。
宿主は一人。意志を一時的に休眠させる契約を結んだ、一人の女。
夜ごと姿を変える女——あれは、夜ごと違う人間が、同じ身体に宿っていたのだ。
リストを遡ると、宿主の登録名が一つだけ実名で残っていた。梶浦ヨリノ。契約期間、九年。職業欄には「月の女将候補」とあった。なんだそりゃ。
俺はあのバーで、毎夜、違う誰かと酒を飲んでいたことになる。老いた天文学者と、若い画家と、そしてこれから来る無数の「誰か」と。
ならば俺が話し相手に選んでいたのは、いったい誰だったのか。誰に話しかけていたのか。俺が夜ごと待っていたのは、女か、それとも女の中を通り過ぎていく、名もない人生の群れだったのか。
答えは出なかった。出ないまま、次の夜が始まった。

第三夜 管制信号の男
俺は記録をつけ始めた。バーテンダーの爺さんに借りた紙のノートに、夜ごとの彼女を書き留めた。爺さんは何も言わず、ノートの代金だけを正確に請求した。
第三夜に宿ったのは、無口な男だった。グラスを置く手つきが硬くて、指の第二関節が太い。機械を触ってきた人間の指だ。
「そこの窓、地球の裏側に回ると電波が届かなくなるだろ」
いきなり、そう言った。声は女の声なのに、節回しが旧式の管制官だった。
「旧月交の符丁、覚えてるか。『灯台下暗し、四号待機』」
俺は震えた。それは三十年前、俺が訓練校で教わった民間宇宙交の裏符丁だった。意味は「最も危険なのは足元、四号艇は発進を待て」。
「……先輩、ですか」
男——女の顔をした男——は、にやりと笑った。
「お前、狭間のガキじゃないか。よく生きてたな」
先輩の名は氷室と言った。訓練校時代、俺の教育係で、地球に帰ってから航路管制の責任者になった男だった。消息は知らなかった。知ろうともしなかった。
「癌だよ。見つかったときには手遅れだった。最後にもう一度だけ、管制席の気分を味わいたくてな。窓から軌道を睨む、あの気分を」
「ここは管制室じゃないですよ。バーです」
「分かってる。バーだから来たんだ。管制室に酒は持ち込めないからな」
三十年ぶりの先輩の声が、見知らぬ女の唇から出た。俺は泣かなかった。泣く代わりに、二杯おごった。
氷室は夜明け近く、窓の外の地球を指して言った。
「狭間。お前、あそこに置いてきたもんがあるだろ。取りに帰れとは言わん。だが、置きっぱなしのもんはな、こっちから見えてるぞ。月からは全部見えるんだ。逃げても見える」
その言葉の意味を、俺はずっと後になってから知ることになる。

第四夜 名づけられなかった子
第四夜の彼女は、小さな女だった。背丈はヨリノの身体のままなのに、座った途端に膝を抱えて、存在そのものが一回り縮んで見えた。
「私、話すのが仕事みたいなの。聞いてくれる?」
彼女は、産まなかった子供の話を一時間かけてした。
若い頃、病気で子宮を失った。結婚は二度した。二度とも、優しい人だった。「子供は要らない」と言ってくれた。だが彼女には分かっていた。要らないのではなく、諦めてくれたのだ。その諦めが、優しければ優しいほど、彼女の中で重くなった。
「私ね、子供の名前を、五十年間考え続けてたの。男の子なら航(わたる)。女の子なら凪(なぎ)。風のない海。静かな子。……この街に来て、吹いたわ。私の娘の名前と同じ名前の街が、月にあったのよ」
彼女は俺の手を握った。ヨリノの手なのに、握り方が母親だった。俺は母親の手を知らない。三歳で施設に入った。だからその握り方を、母親だと「知っていた」ことが、俺自身いちばん驚きだった。人間は、経験していない記憶も、どこかに持っているらしい。
「あんた、いい目をしてる。誰かの最後を、ちゃんと見られる目だ。……お願い。今夜の私を、覚えてて。覚えててくれる人が一人いれば、人は消えても消えないの」
「覚えます。ノートに書きます。名前は——」
「名無しでいいの。私はずっと、名づける側に回りたかった。名づけられる側は、今夜は要らない」

第五夜 海を見た少女
第五夜は十七歳の少女だった。
彼女はバーの窓にへばりついて、地球を夜通し眺めていた。
「あの青いの、海でしょ。あたし、海って生で見たことないの。病院の窓は中庭向きでさ。本の海と、画面の海は知ってる。でも本物は、知らないまま終わる」
「月にも海はあるぞ。名前だけだけどな」
「知ってる。静かの海、危機の海、雨の海。ロマンチックなのに全部、溶岩(ラーバ)の跡なんでしょ。詐欺だよね」
彼女は笑った。十七歳の笑い方で。病気の話は自分からは一切しなかった。ただ、夜明け近くにこう言った。
「あんたは幸せだね。月にいられるんだから」
幸せ、か。
俺は薄っすら輝く星のように、誰かのそばを回ってるだけだ、と答えたかった。だが黙っていた。十七歳の少女の「幸せ」という言葉を、おっさんの自嘲で汚すわけにはいかなかった。それが俺なりの礼儀だった。
「ねえおじさん。あたしが消えた後でさ、このバーにまた来るんでしょ。……そのとき、窓の外の地球を見て、あの青いのが海で、あたしがそれを一度だけ本気で見たって、思い出して。それであたしの人生、海ありに訂正されるから」
ノートのその頁には、俺は「海あり、訂正済み」とだけ書いた。

第六夜 空白の夜
第六夜。誰も来なかった。
アップロードの失敗。送り主のホスピスで、患者が転送の二時間前に息を引き取った。意識スキャンは生存中にしか成立しない。間に合わなかった。
空白の夜に、バーには俺と爺さんだけがいた。
「……今夜は、誰も来ないのか」
爺さんは初めて、言葉で答えた。
「来なかった夜も、夜だ」
それだけ言って、いつもの八分目を差し出した。
空白の夜に、俺は初めて気づいた。俺は「彼女たち」を愛しているんじゃない。夜ごとに零れ落ちる人生を、誰かが見届けなければならない——その「見届ける役目」に、俺は自分の寂しさを預けていたのだ。
月の満ち欠けが、誰のものでもない光であるように。あのバーの彼女は、誰のものでもない人生の通り道だった。そして俺は、そのそばを回るだけの星。付かず、離れず。
星は悲しい存在か? いや、違う。星は悲しんでいる暇があれば輝いている。それが軌道の仕事だ。俺はそう自分に言い聞かせて、グラスを空けた。

第七夜 迎えに来た男
第七夜に宿ったのは、背の高い——いや、背の高く見える男だった。
「お前のノートの話は聞いてるよ」
男は開口一番そう言った。俺はぎょっとした。
「ルナ・アーカイブの運営技師だ。……いや、『だった』、か。俺はこのプログラムのスキャン技術を作った人間だ。それで今、末期患者として、自分の作ったシステムで月に来ている。出来の悪い小説みたいだろ」
男は自嘲気味に笑って、それから真顔になった。
「一つ頼みがある。宿主の——ヨリノのことを、悪く思わないでくれ。彼女は九年間、自分の人生を棚に上げて、九十七人の他人の最後を身体で運んできた。報酬は雀の涙だ。彼女が続けているのは金のためじゃない。……彼女はね、最初に宿った人間が、自分の死んだ母親だったんだ。それ以来、やめられなくなった」
俺はノートを開いた。記録の最初の夜。白い髪の、天文学者の女。
——星は遠いから優しく見えるの。近いものを愛すのは、もっと難しい仕事だ。
あれは、ヨリノの母親が、ヨリノに向けて言っていた言葉だったのかもしれない。宿主の身体を借りて、娘の隣の客に。
「もう一つ」男は言った。「審査会が動いてる。ルナ・アーカイブはもう長くない。長くて一年。……狭間さん、あんたのノートは、この実験が『何だったのか』を証明する、唯一の民間記録だ。頼む、書き続けてくれ」
夜が明ける直前、男は窓の外に小さく手を振った。
「迎え、お疲れさん。俺は自分で帰る」
誰に言ったのか、俺には分からなかった。分からないままのほうがいいこともある。

第八夜・前編 朔(さく)
第八夜に宿ったのは、俺の知っている女だった。
「……吾朗?」
その声で、三十年が崩れた。
梓(あずさ)。かつての婚約者。俺が月行きを選んだ年に、地球に残った女。
——三十年前、横浜の埠頭だった。
「月になんか行かないで」梓は言った。「あんたはいつもそう。遠いものばっかり見て。隣にいる人間より、空っぽの軌道の数字のほうが大事なんでしょ」
「違う。軌道は空っぽじゃない。数字は人を運んでる」
「だったら私は? 私はあんたの何なの。衛星? そばを回ってるだけで、降りては来てもらえない」
「梓……」
「月が嫌い」彼女は言った。「夜ごと形を変えるものを、待ってられない。満ちては欠けて、約束が毎晩違う顔をする。そんなの、待つほうがバカだ」
別れの日、海は凪いでいた。皮肉なもんだ。そのとき俺たちは、三十年後に「凪」という名の街で、こんな形で会うとは知る由もなかった。
「あんた、老けたね」
梓は俺の顔を見て、昔のままの口角で笑った。ヨリノの顔なのに、梓だった。人間は顔じゃない。顔の奥の、光の通い方がその人なんだと、俺はそのとき悟った。
「私は死ぬ前に一度、あんたの月を見ておきたかった。あんたが選んだものを、嫌いなまま死にたくなかった」

第八夜・後編 満ちる
俺たちは十四日間、月の夜を過ごした。
三十年分の話をした。梓は結婚し、子を持ち、孫の写真を頭の中に持ってきていた。亭主は五年前に先立った。いい人だったよ、と梓は言った。ほんとうにいい人でね、と二度言った。二度目のほうが、少し私に謝ってるみたいだった、と彼女は笑った。
俺は独りのままだった。それを聞いて梓は、ほっとしたような、悲しんだような顔をした。
「吾朗、あんた、私のこと待ってたの?」
「違う。待ってたんじゃない。……回ってただけだ。軌道を外れた船は迷子になる。俺は三十年、自分の軌道を修正するタイミングを逃し続けただけだ。ただの慣性さ」
「あんたらしい言い訳だね」
凪の街を歩いた。六分の一の重力の中で、梓は少女みたいに跳んだ。静かの海の展望台で、彼女は長いこと黙っていた。
「……ごめん、吾朗。あの日、月が嫌いって言ったけど」
「いいよ、もう」
「違うの。月が嫌いだったんじゃない。月にあんたを取られるのが、嫌だったの。……月は何も悪くない。毎晩顔を変えるのは、地球から見る角度が毎晩違うから。月自身は、ずっと同じ球体のまま。……それに、三十年かけて気づいた」
夜が明ける最後の地球時、梓は言った。
「吾朗。あんたは私の月じゃなかった。あんたは、いつも誰かのそばにいる星だ。それは悪いことじゃないよ。星があるから、月は自分が見えてるって分かるんだから」
「梓。もう一度、会えるか」
彼女は首を横に振った。優しく、しかし絶対に。
「パケットは一回限り。それが私たちの契約。……でもね、聞いて。私、今夜が人生最後の夜だと思って来た。頭の中の孫の顔も、地球のベッドも、全部置いてきたつもりだった。でも違った。人生最後の夜は、来た夜じゃなくて、帰る夜だった。私はこれから地球のベッドに帰って、孫の顔を見て、それから眠るように死ぬ。……あんたのおかげで、私の人生最後の物語は『月に行った話』になった。悪くない結末だろ?」
夜が明けた。
梓の意識パケットは、契約により完全消去された。一回限りの旅。それがルールだった。
俺はバーの席に残って、窓の外の青い星を見ていた。あの星のどこかに、梓がいる。生きている梓がいる。会えないが、いる。それは三十年間も同じだったはずなのに、今夜だけは、その事実が眩しかった。
星は、月に届かない。届いたとしても、月は夜ごとに別の月になる。ご同輩——それでも俺は、あの十四日間を、人生の中でいちばん「届いた」と思っている。
幕間二 審査会記録(抜粋)
——以下は、地球圏医療倫理審査会の公開議事録からの抜粋である。俺の語りではない。事実として、ここに置いておく。
議題:ルナ・アーカイブ計画の継続審議
委員甲:「死者の意識の使い回しは尊厳に反する」という批判に対し、本計画は『使い回し』ではなく『本人の同意に基づく一回限りの体験提供』であると反論できるか。
計画側:「体験の記憶は消去後、いかなる主体にも残存しない。残るのは宿主の身体履歴のみです」
委員乙:「では、その体験は『あった』と言えるのか。誰の記憶にも残らない旅は、旅なのか」
計画側:「……傍観者の記録が一つだけ存在します。月の観測バーの常連客による、私的なノートです」
議長:「一民間人の手記に、一計画の存在証明を負わせるのか」
(沈黙)
ご同輩、重い責任を背負わされたもんだ。俺はただ、酒が飲みたかっただけなのにな。

終夜 ヨリノ
ルナ・アーカイブは、九年目の冬、地球側の倫理審査で凍結された。正しい議論だったと思う。正しさはいつだって、恋の邪魔をする。
最終夜。アップロード予定は「なし」。
だが彼女は、バーに現れた。
宿主の、素の女。九年間、自分の身体を貸し続けていた女。名前を、梶浦ヨリノと言った。素の彼女は、どの夜の誰よりも静かだった。九年分の他人の人生を通してきた身体は、歩き方がどこか「皆」の平均になっていた。
「狭間吾朗さん、ですね。審査会の議事録、読みました。……それ、私のことを書いてくれたんですか」
俺は差し出した。九十八夜分のノート。彼女は一晩かけて、それを読んだ。時々笑い、時々目を押さえ、梓の夜の頁で長く止まった。
「私、何度も愛されてたのね」ヨリノは言った。「覚えてないのに、愛されてた」
「覚えてないのに、だよ。そいつは俺の十八番だ」
「母の夜のことも、書いてありました。……ありがとう。母はね、星の人だったんです。遠いものを愛すのが上手で、近いものを愛すのが下手な人。……私はこの仕事で、母に会いに来たのかもしれません。九年かけて、やっと会えた」
ヨリノは翌週、地球に帰還した。重力圏の違う身体は、月に永住できない。埠頭で彼女は言った。
「狭間さん。ノートの続きは、地球で書いてください。今度は私が、あなたの話を聞く番です。……あなたは九十八夜、誰かの話を聞いてきた。あなた自身の夜は、まだ一度も来ていない」
俺はステーションに残った。軌道整備士は、星の仕事だ。回り続けるのが仕事だ。
ヨリノの言葉は、今も俺の中にある。俺自身の夜。それが来るのかどうかは分からない。だが星は、夜が来るのを待たない。夜が来ようと来まいと、光っているのが星の仕事だ。
結び ご同輩へ
——とまあ、そういうわけで。
夜ごと姿を変える女なんて、嫌いだと言ったこともあった。だがご同輩、よく聞きな。夜ごと姿を変える女に出会って、分かったことがある。
変わるのは月のほうじゃない。毎夜、同じ場所から月を見上げてる星のほうが、実は少しずつ、軌道を変えられてるんだ。気づいたときには、もう、元の夜空には戻れない。
月は何もしていない。ただそこにいて、満ちて、欠ける。それだけで、そばの星の一生を変えてしまう。女というのは、ずるい天体だ。
いや、そんな女に出会ってみたいよな。
そして、そんな恋愛、また、してみたいよな——ご同輩。
今宵も月のそばで、薄っすら輝く星が一つ。付かず離れず、回っている。
爺さん、もう一杯。今夜は八分目の、その上を頼むよ。
(了)


あとがき
この物語は、「人間が人生の最後に求めるものは何か」「去りゆく者の言葉を受けとめる存在とは何か」という問いから生まれました。
SFという物語の枠組みを使っていますが、描きたかったのはどこにでもある「人と人との距離感」です。遠くにいるからこそ優しくなれたり、近くにいるからこそすれ違ってしまったり。月と星という二つの天体は、そんな人間のもどかしくも愛おしい関係性を静かに象徴してくれている気がします。
語り手の狭間吾朗は、決してヒーローではありません。地球で傷つき、軌道を外れ、月という果てしない静寂の中に逃げ込んできた男です。けれど、誰かの物語をただ「見届け、ノートに書き留める」という小さな行為を通して、彼自身もまた救われていきました。
誰かの人生に深く介入することはできなくても、ただ傍らで光を放ち、記憶に刻むこと。それもまた一つの愛の形なのではないでしょうか。
もしこの物語が、あなたの忙しい日々の夜に、静かな酒場のような心地よい余韻を少しでも残せたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
今夜、ふと夜空を見上げたとき、月の傍らでひそやかに輝く小さな星に目を留めていただければ幸いです。

Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle





極楽確約システム
〜ご同輩、善光寺で会いましょう〜
不思議で滑稽な、あの世とこの世の人情ファンタジー


まえがき
人は、いつから「死」を意識するのでしょう。
若い頃には、そんなことを考えたこともなかったのに、歳を重ねると、ふとした瞬間に「あの世」という言葉が近くに感じられることがあります。
友人の訃報を聞いたとき。
病院の待合室で、自分の名前を呼ばれるのを待っているとき。
あるいは、昔の写真を整理しているとき。
「あの人は、今どうしているんだろう」
そんなことを考える。
もし、本当に「あの世」があるのなら。
そこには、役所があるのだろうか。
受付はあるのだろうか。
順番待ちはあるのだろうか。
自由はあるのだろうか。
そして、地獄にも経営というものがあるのだろうか。
そんな馬鹿げたことを考えていたら、この物語が生まれました。
舞台は、長野の善光寺。
そこには昔から、「お血脈の御印」というものがあります。
それをいただけば、極楽へ行ける。
そんなありがたい話が、本当にあるとしたら。
もし、それを信じる人が増えすぎたら。
困るところが、ひとつあります。
そう。
地獄です。
誰も地獄に来なくなったら、鬼たちはどうなるのでしょう。
針の山は?
血の池は?
煮えたぎる釜は?
何千人もの鬼たちは、いったい何をして暮らせばいいのでしょう。
もしかすると、地獄もまた、人間の世界と同じように、経営難に陥るかもしれません。
そこで登場するのが、地獄観光庁の鬼頭剛課長です。
彼は、ある日突然、この世にやって来ます。
目的はひとつ。
「極楽へ行ける」という約束を、取り消してもらうこと。
けれど、その話を持ちかけられた男には、ひとつの事情がありました。
善治、六十八歳。
猫と暮らす、ごく普通の男です。
彼は十年前、善光寺で「お血脈の御印」をいただいていました。
それ以来、何となく心が軽くなった。
少しだけ、人に優しくなった。
昔のことを思い出しては、「あのとき、もう少し違う言葉をかけてやればよかった」と思うようになった。
そんな男です。
果たして、極楽行きの約束は、本当に必要なのでしょうか。
地獄は、本当に悪い場所なのでしょうか。
そして、人は「許された」と思うことで、少しだけ優しくなれるのでしょうか。
これは、そんなことを考えながら書いた物語です。
ご同輩。
どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。
あの世の話ですが、怖い話ではありません。
むしろ、鬼たちが少し困っていて、仏さまが少しのんびりしていて、年寄りが昔のことを思い出し、猫が勝手に歩き回る。
そんな話です。
もし読み終えたあと、
「自分にも、ひとつくらい、ちゃんと謝っておきたいことがあるな」
と思っていただけたら。
この物語を書いた者として、とても嬉しく思います。




序章 善光寺までの道
善治は、善光寺へ向かう坂道を、ゆっくり歩いていた。
六十八歳。
昔なら、まだまだ若いと言われたかもしれない。
しかし本人にしてみれば、立派な年寄りである。
朝起きる。
顔を洗う。
血圧を測る。
薬を飲む。
朝飯を食べる。
猫に餌をやる。
そして、しばらくぼんやりする。
最近の一日は、その繰り返しだった。
「まあ、そんなもんだろう」
善治は、ひとりで呟いた。
若い頃には、一日が長かった。
今は、一年が短い。
気がつけば六十八歳。
昨日まで五十代だったような気がするのに、いつの間にか、六十代も後半になっている。
坂道の先に、善光寺の山門が見えてきた。
善治は足を止めた。
「久しぶりだな」
十年前にも、ここへ来た。
あのときは、もっと元気だった。
いや。
元気だったというより、元気なつもりだった。
病院でちょっとした検査に引っかかり、自分が思っていたよりも、自分の身体が古くなっていることを知った。
その帰りに、善光寺へ寄った。
属性など気にせず、お血脈の御印をいただいた。
「これを持っていれば、極楽へ行けるらしいですよ」
そう言われた。
善治は笑った。
「そんな都合のいい話があるんですか」
「ありますよ」
坊さんは、真顔で答えた。
「昔から、そう言われています」
善治は、その言葉を信じた。
信じたというより、信じてみることにした。
それから十年。
お血脈の御印は、ずっと財布の中に入っていた。
何か特別なことが起きたわけではない。
病気が治ったわけでもない。
宝くじが当たったわけでもない。
猫が人間の言葉を話すようになったわけでもない。
ただ。
少しだけ、生き方が変わった。
怒ることが減った。
誰かに嫌なことを言われても、
「まあ、いいか」
と思えるようになった。
昔の自分なら、絶対に許せなかったことも、
「死んだあとまで、そんなことを覚えていたくないな」
と思うようになった。
それだけだった。
けれど、それだけのことが、善治には案外大きかった。
山門の下で、善治は空を見上げた。
青い空だった。
雲がひとつ、ゆっくり流れている。
「極楽か……」
善治は笑った。
そのときだった。
背後から声がした。
「ご同輩」
善治は振り返った。
誰もいない。
「……?」
もう一度、歩き出そうとした。
すると、また声がした。
「ご同輩。ちょっと、お時間よろしいですか」
今度はいはっきり聞こえた。
善治が振り返る。
そこに、男が立っていた。
黒い背広。
赤いネクタイ。
頭には、立派な角。
そして、胸元には赤い名刺。
善治は、しばらく男を見つめた。
男も、善治を見つめた。
やがて善治が言った。
「……鬼、ですか?」
男は、にっこり笑った。
「はい」
そして、深々と頭を下げた。
「地獄観光庁、総務部、人材確保課、課長。鬼頭剛と申します」
善治は思った。
――善光寺まで来て、鬼に名刺を渡されるとは。
人生というものは、最後まで何が起こるかわからない。
そして、この日。
善治の人生は、ほんの少しだけ、あの世の都合に巻き込まれることになった。


第一章 ご同輩、ご機嫌いかが
「地獄観光庁……?」
善治は、鬼頭の名刺をもう一度見た。
赤い紙だった。
普通の名刺より、ずいぶん厚い。
しかも、妙に生暖かい。
「これ、本物ですか?」
「もちろんです」
鬼頭は胸を張った。
「地獄観光庁、総務部、人材確保課。課長の鬼頭剛です」
「人材確保課?」
「はい」
「地獄にも、人事部みたいなものがあるんですか」
「ありますとも」
鬼頭は真顔で答えた。
「地獄も組織ですから」
善治は名刺から鬼頭の顔へ視線を移した。
鬼頭の額には、立派な角が二本生えている。
どう見ても鬼だった。
ただし、背広姿のせいで、どこか会社員にも見える。
「それで、私に何の用ですか?」
「単刀直入に申し上げます」
鬼頭は一歩近づいた。
「お血脈の御印を、返していただきたい」
「……嫌です」
即答だった。
鬼頭が目を丸くする。
「まだ話の内容を説明していませんが」
「だいたい分かりました」
善治は財布を取り出した。
その中には、十年前にもらったお血脈の御印が入っている。
「これを返したら、私、地獄へ行くんでしょう?」
「そういうことになります」
「じゃあ、嫌です」
「ですよねえ……」
鬼頭は肩を落とした。
「最近、皆さん、そうおっしゃるんです」
「当たり前でしょう」
「地獄もですね、昔とは事情が違うんですよ」
鬼頭はため息をついた。
「昔は、悪いことをした人が、わんさか来ました」
「でしょうね」
「ところが今は、皆さん善行に励まれる」
「いいことじゃないですか」
「いいことなんですが……」
鬼頭は声を落とした。
「地獄としては、大変なんです」
善治は首を傾げた。
「地獄が?」
「はい」
「経営が?」
「はい」
「……地獄にも経営があるんですか?」
「あります」
鬼頭は真剣だった。
「大変なんですよ、これが」
善治は、なんだか可笑しくなってきた。
「それで、私にどうしろと?」
「お血脈の御印を返していただきたい」
「嫌です」
「ですよねえ」
鬼頭は、また肩を落とした。
しばらく二人は黙っていた。
善光寺の境内を、観光客が歩いていく。
若い夫婦。
外国人の旅行者。
杖をついた老人。
小さな子ども。
みんな、それぞれの願いを胸に、この寺を訪れている。
善治は思った。
――極楽へ行きたい。
人間というのは、ずいぶん贅沢な生き物だ。
生きている間は長生きを願い。
死ぬときには苦しみたくないと願い。
死んだあとには、極楽へ行きたいと願う。
「鬼頭さん」
「はい」
「ひとつ聞いていいですか」
「どうぞ」
「地獄って、本当にそんなに人が減ってるんですか?」
鬼頭は、しばらく黙った。
探るような目つきで、静かに頷いた。
「……かなり」
「そんなに?」
「ええ」
「どれくらい?」
鬼頭は周囲を見回した。
「ここでは何ですから」
「はい?」
「少し、場所を変えましょう」
「どこへ?」
鬼頭は、善光寺本堂のほうを指差した。
「戒壇巡りを、ご存じですか?」
善治は頷いた。
「真っ暗なところを歩くやつでしょう」
「そうです」
鬼頭は笑った。
「少しだけ、暗いところでお話ししましょう」
善治は嫌な予感がした。
しかし。
なぜか断る気になれなかった。
「分かりました」
こうして善治は、鬼に連れられて、善光寺の戒壇巡りへ向かうことになった。


第二章 名刺は赤かった
本堂の中へ入る。
善治は、いつ来てもここだけは空気が違うと思う。
外のざわめきが遠くなり、静かな時間が流れている。
鬼頭は、受付で何かを話していた。
「え?」
善治は耳を疑った。
「鬼頭さん、ここ、普通に入れるんですか?」
「私、地獄観光庁の職員ですよ」
「だから?」
「善光寺とは、昔から業務提携がありまして」
「……本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「細かいところは、気にしないでください」
善治は、ますます不安になった。
戒壇巡りの入口。
中は暗い。
善治は一度、足を止めた。
「本当にここですか?」
「はい」
「鬼頭さん、暗いところ平気なんですか?」
「鬼ですから」
「関係あるんですか?」
「たぶん」
また、たぶんだった。
二人は階段を下りた。
一歩。
また一歩。
やがて、周囲は完全な闇になった。
善治は、壁に手を伸ばした。
冷たい石の感触。
湿った空気。
足音だけが響く。
右手を壁に這わせながら、一歩ずつ進む。
そのときだった。
足元を抜ける風の温度が、ふっと変わった。
線香の香りが薄れ、代わりにどこか硫黄のような、かすかに温かい風が足元から吹き上げてきた。
足裏の感触も、善光寺の板張りから、ひんやりとした古い石畳へと変わっていく。
いつの間にか、境内の地下を歩いている感覚が失われていた。
「鬼頭さん」
「はい」
「何か、空気変わりませんでしたか?」
「おや、気づかれましたか。ここから先は当庁の管轄領域です」
「……どこに連れていく気ですか」
「鬼ですから」
「答えになってません」
鬼頭の声が、暗闇の中で少しだけ笑った。
しばらく歩く。
すると、前方に小さな光が見えた。
「出口ですか?」
「違います」
「じゃあ何です?」
「受付です」
「……何の?」
鬼頭は答えなかった。
光が近づいてくる。
やがて、白いカウンターが見えてきた。
その向こうに、一人の女性が座っていた。
いや。
女性のように見えた。
白い服。
穏やかな笑顔。
そして、胸元に名札。
そこには、
『極楽受付』
と書いてある。
善治は立ち止まった。
「……極楽?」
受付の女性が笑った。
「はい。極楽です」
鬼頭が咳払いをした。
「こちらが、極楽の受付になります」
「いやいやいや」
善治は首を振った。
「話がおかしいでしょう」
「何がです?」
「地獄の話をしに来たのに、どうして極楽の受付が出てくるんですか」
受付の女性が答えた。
「最近は、地獄と極楽の業務も、かなり一体化しているんですよ」
「一体化?」
「はい」
「どういう意味です?」
「人が少ないものですから」
鬼頭が小さく咳をした。
「その話は、あとで」
受付の女性は、善治を見た。
「善治さんですね」
「……はい」
「六十八歳」
「はい」
「猫、一匹」
善治は目を見開いた。
「どうして猫のことを?」
受付の女性は笑った。
「ごくらくちゃんですね」
善治は固まった。
「……知ってるんですか?」
「もちろんです」
「どこで?」
「こちらでは、いろいろと記録されていますから」
「何を?」
「人間のこと」
そして、少し間を置いて、
「猫のことも」
と言った。
善治は思った。
――これは、とんでもないところへ来てしまった。


第三章 地獄の台所事情
「まず、こちらをご覧ください」
鬼頭が一枚の紙を差し出した。
そこには、奇妙な表が書かれていた。
「地獄収支報告書?」
善治は読み上げた。
「はい」
「……赤字じゃないですか」
「そうなんです」
鬼頭は深刻な顔をした。
「地獄、現在、大赤字です」
「どうして?」
「来る人が少ないからです」
「そんなこと、本当にあるんですか?」
「あります」
鬼頭は机の上に資料を並べた。
「まず、針の山」
「はい」
「昔は大人気でした」
「人気だったんですか?」
「地獄の定番ですから」
「まあ……そうですね」
「ところが、最近は健康ブームで」
「健康ブーム?」
「針が怖くないんです」
善治は笑った。
「確かに」
「鍼灸院というものがありますでしょう」
「あります」
「針を刺されることが、むしろ健康にいいと思われている」
「まあ、そうですね」
「針の山を見せても」
鬼頭はため息をついた。
「『あ、これ、鍼治療みたいですね』と言われるんです」
善治は吹き出した。
「それは困りますね」
「次に、血の池」
「はい」
「昔は恐ろしい場所でした」
「でしょうね」
「ところが最近は、赤い温泉だと思われています」
「……」
「『血の池地獄って、写真映えしますね』」
鬼頭は、両手で頭を抱えた。
「そう言ってスマートフォンで写真を撮るんですよ」
善治は笑った。
「地獄も大変ですね」
「他人事ではありませんよ」
「どうして?」
「あなたが極楽へ行くと、また一人、地獄の顧客が減ります」
「私はまだ死んでませんよ」
「分かっています」
鬼頭は真顔で言った。
「だからこそ、今のうちに相談しているんです」
善治は腕を組んだ。
「それで、私にどうしろと?」
「お血脈の御印を返していただく」
「嫌です」
「……ですよね」
鬼頭は深いため息をついた。
そして、資料の最後のページを見せた。
そこには、大きく、
『地獄人口 前年比マイナス三十七パーセント』
と書かれていた。
「三十七パーセント……」
善治は思わず呟いた。
「これは、かなり減っていますね」
「そうでしょう?」
「それで、鬼は何人いるんです?」
「約三千人」
「三千人!」
「はい」
「そんなに?」
「昔はもっといました」
「仕事は?」
鬼頭は黙った。
「……ありません」
「え?」
「仕事がないんです」
善治は笑いそうになった。
「鬼なのに?」
「鬼だからです」
「意味が分かりません」
「昔は、悪い人が来れば、仕事がありました」
「はい」
「ところが最近は、反省している人ばかりなんです」
「それは……いいことじゃないですか」
「地獄としては困るんです」
鬼頭は資料を閉じた。
「そこで、私たちは考えました」
「何を?」
「地獄の改革です」
善治は眉を上げた。
「改革?」
「はい」
鬼頭の目が、少しだけ輝いた。
「針の山をなくします」
「え?」
「血の池もなくします」
「え?」
「煮えたぎる釜も、使い方を変えます」
善治は、思わず笑った。
「地獄じゃなくなるじゃないですか」
鬼頭は真顔で答えた。
「その通りです」
「……」
「だから、困っているんです」
善治は、しばらく何も言えなかった。
増え続ける空席と、手持ち無沙汰な三千人の鬼。
もしかすると。
地獄という場所も、変わろうとしているのかもしれない。
人間の世界が変わってきたように。
鬼たちの世界もまた、変わらざるを得なくなったのだ。
鬼頭が、静かに言った。
「善治さん」
「はい」
「お願いがあります」
「何でしょう」
「あなたの力を、貸していただきたい」
善治は鬼頭を見た。
「私に、何ができるんです?」
鬼頭は答えた。
「それを、これからお話しします」
そして。
地獄の改革案が、善治の前に差し出された。


第四章 暗闇の戒壇巡り
「改革案?」
善治は、鬼頭が差し出した紙を見つめた。
そこには、いくつもの項目が並んでいた。
――針の山、再利用計画。
――血の池、温泉化計画。
――煮えたぎる釜、地熱エネルギー活用計画。
――鬼職員、再教育計画。
「ずいぶん現代的ですね」
善治が言うと、鬼頭は苦笑した。
「地獄も、いつまでも昔のままではいられません」
「鬼も大変ですね」
「大変ですよ」
鬼頭はため息をついた。
「でも、一番困っているのは、別のことなんです」
「何です?」
鬼頭は、一枚の資料を取り出した。
「人間が、自分は許されたと思い込んでしまうことです」
善治は眉をひそめた。
「それは、悪いことなんですか?」
「悪いとは言っていません」
鬼頭は首を振った。
「むしろ、その逆です」
「じゃあ、どういう意味です?」
「お血脈の御印をいただいた人の中には、『これで極楽へ行ける』と思って、それまでの人生を振り返らなくナル人もいるんです」
善治は黙った。
「自分は大丈夫だ」
「許されている」
「死んだら極楽だ」
そう思えば、確かに楽になる。
けれど。
それで、本当にいいのだろうか。
鬼頭は言った。
「私たちが問題にしているのは、お札そのものではありません」
「では、何を?」
「人間の心です」
善治は、しばらく黙っていた。
そのときだった。
受付の女性が、静かに口を開いた。
「善治さん」
「はい」
「お血脈の御印を、もう一度よく見てみませんか?」
善治は財布から札を取り出した。
十年間、大切に持っていたものだった。
小さな札。
特別に見えるわけではない。
けれど、善治にとっては、大切なものだった。
「これが、私を極楽へ連れていってくれるんでしょう?」
受付の女性は微笑んだ。
「そう信じているのですね」
「はい」
「では、一度だけ、ご自分で確かめてみてください」
「何を?」
「その札が、あなたに何をしてくれたのか」
善治は答えられなかった。
鬼頭が立ち上がった。
「少し歩きましょう」
「どこへ?」
「もう一度、暗闇を」
二人は受付を離れた。
極楽の受付の明かりが、少しずつ遠くなる。
再び暗闇。
善治はゆっくり歩いた。
不思議だった。
さっきは怖かったのに、今はそれほど怖くない。
暗いということは、何も見えないということだ。
何も見えないからこそ、自分の中にあるものが、妙にはっきりする。
十年前。
病院の帰り。
善光寺。
お血脈の御印。
あのとき、何を考えていたのだろう。
死にたくなかった。
怖かった。
まだやりたいことがあった。
妻に、もっと優しくしておけばよかったと思った。
もう少し、子どもたちと話せばよかったと思った。
そして。
亡くなった母親のことを思い出した。
「……バアちゃん」
善治の口から、自然に言葉が出た。
鬼頭は何も言わなかった。
「鬼頭さん」
「はい」
「私、母親に謝りたいことがあります」
「何ですか?」
「最後に会ったとき、忙しいからって、早く帰ったんです」
「……」
「そのあと、しばらくして亡くなりました」
善治は歩きながら続けた。
「別に、ひどいことを言ったわけじゃないんです」
「はい」
「でも、もう一度くらい、ゆっくり話しておけばよかった」
暗闇の中で、鬼頭の声がした。
「それが、後悔です」
善治は頷いた。
「そうかもしれません」
「でも」
鬼頭は言った。
「後悔できるということは、まだ、その人を大切に思っているということでもあります」
善治は足を止めた。
暗闇の向こうから、かすかに光が見えた。
「出口ですか?」
「いいえ」
鬼頭が言った。
「極楽です」


第五章 極楽の受付
光の先には、小さな建物があった。
白い壁。
木の扉。
大きな看板。
そこには、
『極楽受付』
と書かれていた。
善治は目を疑った。
「本当に、役所みたいですね」
「極楽ですから」
「関係ないでしょう」
中へ入る。
受付の奥には、長い机があり、その上にいくつもの端末が並んでいた。
「ここで、何をしているんです?」
「死後の手続きです」
「死後の手続き……」
「はい」
鬼頭は慣れた様子で説明した。
「死亡確認」
「はい」
「人生記録照合」
「はい」
「本人確認」
「はい」
「家族との関係確認」
「はい」
「未練の有無」
善治は眉を上げた。
「未練も調べるんですか?」
「重要です」
「どうして?」
「未練を残したままだと、次の場所へ進めませんから」
善治は少し考えた。
「それじゃ、私なんか、かなり時間がかかりそうですね」
「なぜです?」
「やり残したことがいっぱいあります」
鬼頭は笑った。
「そういう人のほうが、案外、長生きするんですよ」
「そうなんですか?」
「やり残しがあるから」
善治は笑った。
「なるほど」
受付の奥から、機械音とともに声がした。
「次の方、どうぞ」
善治が振り返る。
そこには、小さな機械が置かれていた。
画面には、
⁠GOKURAKU SYSTEM⁠
と表示されている。
「何ですか、これ?」
「極楽システムです」
「そのままですね」
「分かりやすさは大事です」
鬼頭が機械に近づいた。
「ゴクラクさん」
機械が反応した。
「はい。鬼頭課長」
「この方を登録してください」
「承知しました」
画面に善治の名前が表示された。
⁠善治 六十八歳⁠
その下に、いくつもの項目が並んでいる。
家族。
友人。
仕事。
健康。
後悔。
感謝。
そして――
猫。
「猫まであるんですか?」
「もちろん」
鬼頭は答えた。
「猫は重要です」
「何が?」
「人間がどんな人だったか、猫が一番よく知っています」
善治は思わず笑った。
「そんな馬鹿な」
すると機械が言った。
「訂正します」
「はい?」
「猫は、人間がどんな人だったかではなく、人間が自分にどれだけ餌をくれたかを記憶しています」
善治は吹き出した。
鬼頭も笑った。
「ごもっともです」
「ごくらくは、ちゃんと覚えてくれてるかな」
善治が呟く。
「何をです?」
「私のことです」
「もちろんです」
鬼頭が言った。
「あなたが毎朝、餌をやっていることも」
「はい」
「雨の日に、濡れて帰ってきたごくらくをタオルで拭いたことも」
「……」
「病気になったとき、夜中までそばにいたことも」
善治は黙った。
「そんなことまで、記録されているんですか?」
「記録されているというより」
鬼頭は、少しだけ笑った。
「残っているんです」
「何が?」
「あなたの人生に」
善治は画面を見つめた。
そこには、いろいろな記録があった。
大きな出来事。
小さな出来事。
自分では忘れていたことまで。
その中に、ひとつの項目があった。
⁠後悔 十二件⁠
「十二件もあるんですか」
善治は苦笑した。
「もっとあると思っていました」
「大事なのは数ではありません」
鬼頭が言った。
「そのひとつひとつを、どうするかです」
「どうするって?」
「向き合うんです」
「死んでから?」
「生きているうちに」
善治は鬼頭を見た。
鬼頭は、いつもの鬼の顔ではなかった。
どこか、人間らしい顔をしていた。
「だから」
鬼頭は静かに言った。
「地獄も、少し考え方を変えようとしているんです」
「地獄が?」
「はい」
「どう変えるんです?」
鬼頭は笑った。
「罰を与える場所から」
少し間を置いて、
「話を聞く場所へ」
と言った。
善治は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「鬼頭さん」
「はい」
「それなら、地獄も悪くないかもしれませんね」
鬼頭は答えた。
「そう言ってもらえると、助かります」
そのとき。
極楽システムから、静かな電子音が鳴った。
「善治さん」
「はい?」
「ご家族から、面会申請があります」
善治の胸が、一瞬だけ高鳴った。
「家族?」
鬼頭が画面を見る。
書籍の端末を操作しながら、少し驚いた顔をした。
「これは……」
「誰です?」
鬼頭は答えなかった。
画面に表示された名前を見つめている。
やがて。
「会ってみますか?」
と、静かに言った。
善治は頷いた。
「お願いします」
そして、極楽の奥から。
懐かしい声が聞こえてきた。
「善治」
その声を聞いた瞬間。
善治は、何も言えなくなった。


第六章 バアちゃんの縁側
「善治」
その声を聞いた瞬間。
善治の胸の奥で、何かが崩れた。
「……バアちゃん?」
そこにいたのは、紛れもなく祖母だった。
いつもの着物。
いつもの笑顔。
そして、いつもの手に、小さなおにぎりを持っている。
「腹、減ってないか?」
善治は笑った。
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
目の奥が熱くなった。
「バアちゃん……」
「なんだい、そんな顔して」
「だって……」
「久しぶりだねえ」
「うん」
「大きくなったねえ」
善治は思わず笑った。
「もう六十八だよ」
「そうかい」
祖母は首を傾げた。
「じゃあ、まだ子どもだね」
「六十八だよ?」
「私から見れば、子どもさ」
昔と同じだった。
何十年経っても。
祖母は祖母だった。
善治は、おにぎりを見た。
「それ、まだ作ってるの?」
「作るよ」
「塩むすび?」
「そう」
「好きだったんだよな」
「知ってるよ」
祖母は笑った。
「昔から、あんたはこればっかりだった」
善治は、おにぎりを受け取った。
手のひらに乗せる。
温かかった。
「……食べていい?」
「何言ってるんだい」
祖母が笑う。
「そのために作ったんだよ」
善治は一口、食べた。
懐かしい味だった。
何十年ぶりだろう。
その味を覚えていた。
「うまい」
「そうかい」
「やっぱり、うまいよ」
「それならよかった」
二人は縁側に座った。
庭には、見たことのない花が咲いていた。
空は、どこまでも青い。
鳥の声がする。
善治は聞いた。
「ここが極楽?」
「そうだよ」
「ずいぶん普通だね」
「極楽だからって、毎日花火が上がるわけじゃないよ」
「そりゃそうか」
「ご飯も食べるし」
「へえ」
「眠くなれば寝る」
「死んでからも?」
「死んだからこそだよ」
祖母は笑った。
善治も笑った。
しばらく沈黙が続いた。
そして善治は、ずっと胸の中にあったことを口にした。
「バアちゃん」
「なんだい」
「最後に会ったとき」
「うん」
「俺、すぐ帰ったよな」
祖母は何も言わなかった。
「忙しいからって」
「そうだったね」
「もっと話せばよかった」
「そうかい」
「ごめん」
祖母は、おにぎりを握るような仕草をした。
「善治」
「うん」
「そんなこと、もういいんだよ」
「でも……」
「人間はね」
祖母は、空を見ながら言った。
「生きてる間に、全部ちゃんとするなんて無理なんだよ」
善治は黙った。
「言えなかったこともある」
「うん」
「謝れなかったこともある」
「うん」
「ありがとうと言えなかったこともある」
祖母は笑った。
「だから、あとから思い出すんだよ」
「あとから?」
「そう」
「それに意味があるの?」
「あるよ」
祖母は善治を見た。
「思い出せたってことは、その人をまだ大事にしてるってことだから」
善治の目から、涙が一粒落ちた。
祖母は何も言わなかった。
ただ、おにぎりをもう一つ握った。
「ほら」
「……うん」
「食べな」
「うん」
そのとき。
遠くから鬼頭の声が聞こえた。
「善治さん!」
「はい?」
「そろそろ時間です!」
善治は立ち上がった。
「もう行くの?」
祖母が聞いた。
「うん」
「また来ればいい」
「死んだら?」
「それでもいい」
祖母は笑った。
「でも、まだ来ちゃ駄目だよ」
善治は笑った。
「分かってる」
「ちゃんと生きておいで」
「うん」
「まだまだ、やることがあるんだろ?」
善治は頷いた。
「ある」
祖母は手を振った。
「じゃあ、行っておいで」
善治は何度も振り返った。
祖母は、ずっと手を振っていた。


第七章 閻魔大王の辞表
極楽から戻ると、鬼頭が待っていた。
「どうでした?」
善治は答えた。
「バアちゃんに会いました」
「そうですか」
「泣いてしまいました」
「それは、よかった」
「よかった?」
「泣けるというのは、まだ心が生きているということですから」
善治は鬼頭を見た。
「鬼頭さん」
「はい」
「地獄って、本当に必要なんですか?」
鬼頭は少し考えた。
「昔は、必要だったと思います」
「今は?」
「今は、変わらなければならないと思っています」
「どうして?」
鬼頭は一枚の紙を取り出した。
「これです」
善治が見る。
そこには大きく、
『地獄改革計画』
と書かれていた。
「閻魔大王の提案です」
「閻魔大王が?」
「はい」
「何をするんです?」
鬼頭は読み上げた。
「第一に、罰を見直す」
「ほう」
「第二に、反省を促す」
「うん」
「第三に、生きている者の後悔を減らす」
「それは、どうやって?」
鬼頭は笑った。
「話を聞くんです」
「誰が?」
「鬼が」
善治は笑った。
「鬼が、人の話を?」
「そうです」
「それ、鬼の仕事ですか?」
「新しい仕事です」
鬼頭は胸を張った。
「地獄観光庁、事業再編案です」
「観光庁なのに?」
「観光もします」
「何を観光するんです?」
「反省です」
「……」
善治は笑った。
「よく分かりません」
「そのうち分かります」
鬼頭は言った。
「そこで、新しい施設を作ります」
「施設?」
「はい」
「何という名前?」
鬼頭は、少し得意そうに言った。
「反省温泉です」
「……温泉?」
「はい」
「地獄で?」
「地獄で」
善治は頭を抱えた。
「ますます地獄じゃなくなるじゃないですか」
「だから改革なんです」


第八章 反省温泉、開業準備
地獄の風景が変わり始めた。
針の山。
そこには看板が立てられた。
『反省鍼灸処』
血の池。
そこには、
『薬草足湯』
という看板。
煮えたぎる釜は、
『地熱温泉』
になった。
善治は呆れていた。
「本当にやるんですね」
鬼頭は忙しそうに走り回っている。
「もちろんです!」
「鬼が足湯の案内をしてますよ」
「新しい時代ですから」
「針の山で鍼灸?」
「大好評です」
「血の池で足湯?」
「女性客に人気です」
「地獄ですよね?」
「元・地獄です」
「……」
鬼頭はさらに説明した。
「そして、最大の目玉がこちら」
扉の上に、
『反省の間』
と書かれている。
「何をするんです?」
「話をします」
「誰と?」
「鬼と」
「何を?」
「後悔を」
善治は扉を開けた。
中には、椅子が二つ。
向かい合って置かれている。
一方に鬼。
もう一方に、人間。
鬼が言う。
「では、あなたの後悔を聞かせてください」
人間が言う。
「昔、女房にひどいことを言いました」
鬼が聞く。
「何と言ったんです?」
「覚えていません」
「では、何が後悔なんです?」
「女房が泣いたことだけ覚えています」
鬼は黙って聞く。
それだけだった。
怒鳴らない。
脅さない。
罰を与えない。
ただ、聞く。
善治は思った。
「鬼頭さん」
「はい」
「これなら、いいかもしれませんね」
「でしょう?」
「地獄より、ずっと人間らしい」
鬼頭は笑った。
「鬼が人間らしくなって、人間が少し鬼から学ぶ」
「どういうこと?」
「人間は、悪いことをしたあと、誰かに聞いてもらえるだけで少し楽になることがあります」
「そうですね」
「そして、少し楽になれば」
鬼頭は言った。
「もう一度、生きてみようと思える」
善治は頷いた。
「なるほど」
その日の夕方。
反省温泉の入り口に、最初の客がやってきた。
男だった。
六十代くらい。
鬼頭が笑顔で迎える。
「いらっしゃいませ」
男は不安そうに言った。
「ここ、本当に地獄ですか?」
「以前は」
「今は?」
「反省温泉です」
男はしばらく考えた。
「……温泉だけ入って帰ってもいいですか?」
鬼頭は即答した。
「もちろんです」
「反省しなくても?」
「したくなったら、どうぞ」
男は笑った。
「それなら、いいですね」
善治も笑った。
地獄は。
少しずつ変わり始めていた。


第九章 開業初日の珍客たち
反省温泉の開業初日。
予想以上の人がやってきた。
最初は、本当に反省したい人たちだった。
「妻に謝りたい」
「息子と仲直りしたい」
「昔の友達に、ありがとうと言いたい」
そんな人たち。
ところが。
午後になると、少し変わった客が増えてきた。
「地獄の温泉って、珍しいから来ました」
「写真を撮っていいですか?」
「SNSに載せてもいい?」
鬼頭は頭を抱えた。
「観光客まで来てしまった……」
善治は笑った。
「地獄観光庁なんだから、いいんじゃないですか?」
「反省してほしいんですよ!」
「まあまあ」
「ここは地獄ですよ!」
「元・地獄でしょう」
鬼頭はため息をついた。
しかし。
その中に、一人だけ。
妙に静かな男がいた。
高そうな服。
高そうな靴。
高そうな腕時計。
そして、妙に地獄を見回している。
「鬼頭さん」
「はい」
「あの人、何してるんです?」
「さあ……」
男は、針の山を見た。
血の池を見た。
地熱温泉を見た。
そして。
小さく呟いた。
「これは……使える」
善治は、その言葉を聞き逃さなかった。
「鬼頭さん」
「はい」
「あの人、何か企んでませんか?」
鬼頭は男を見た。
そして。
「……嫌な予感がします」
男は、こちらを振り返った。
そして、にっこり笑った。
「どうも」
名刺を差し出す。
そこには、
『石川五郎』
と書かれていた。
善治は、名刺を見つめた。
「石川……五郎?」
男は笑った。
「はい」
「もしかして……」
「ご想像の通りです」
男は胸を張った。
「石川五右衛門の、十六代目の末裔です」
鬼頭の顔が引きつった。
善治は思った。
――また、とんでもないのが来た。
そして。
地獄の経営危機は。
新たな方向へ転がり始めることになる。


第十章 石川五郎の末裔
「石川五郎……」
善治は、もう一度その名前を見た。
「はい」
男は胸を張った。
「石川五右衛門の、十六代目の末裔です」
「それで?」
「それで?」
「何をしに来たんです?」
五郎は、地獄を見回した。
「買いに来ました」
「何を?」
「ここを」
善治と鬼頭は、同時に男を見た。
「……ここ?」
「そうです」
五郎は笑った。
「地獄を、買いたいんです」
鬼頭の顔から笑顔が消えた。
「何を言っているんですか」
「いやいや、冗談ではありません」
五郎は鞄から書類を取り出した。
「私、土地開発の仕事をしておりまして」
「はい」
「ここ、かなり広いでしょう?」
「地獄ですから」
「立地も面白い」
「地獄ですよ」
「温泉もある」
「元・地獄です」
五郎は目を輝かせた。
「これはいけます」
善治は呆れた。
「何が?」
「地獄リゾートです」
「……」
「高級温泉旅館」
「……」
「テーマパーク」
「……」
「夜は鬼のショー」
鬼頭が立ち上がった。
「帰ってください」
「まあまあ」
五郎は笑った。
「ビジネスの話ですよ」
「ここは地獄です!」
「だから面白いんじゃないですか」
五郎は資料を広げた。
そこには、豪華な完成予想図まで描かれていた。
「鬼の露天風呂」
「……」
「地獄鍋」
「……」
「閻魔大王の説教ライブ」
鬼頭は頭を抱えた。
「やめてください」
「なぜです?」
「閻魔大王は、もう辞表を出しています」
「え?」
「地獄の経営改革に疲れまして」
「……」
五郎は少し考えた。
「それなら、私が社長をやります」
「もっと駄目です」
善治は吹き出した。
「石川さん」
「はい」
「あなた、地獄を何だと思っているんです?」
五郎は少し黙った。
そして、真面目な顔になった。
「商売の種です」
「なるほど」
善治は頷いた。
「正直ですね」
五郎は笑った。
「私は、正直だけが取り柄です」
その夜。
開発資料を小脇に抱えた五郎は、ひとり薬草足湯のフチに腰掛けていた。
赤い湯気をぼんやり見つめながら、仕立てのいいズボンを膝まで捲り上げ、お湯に足を浸している。
昼間の高圧的な勢いはどこへやら、その背中は小さく丸まっていた。
「石川さん」
善治が隣に腰を下ろすと、五郎はビクッと肩を揺らし、苦笑いを浮かべた。
「……いいお湯ですね、ここ」
「そうでしょう。血の池だった頃より評判がいい」
「私、昔から……こういう温かい湯に入ると、余計なことばかり思い出すんです」
「余計なこと?」
五郎は捲り上げた腕をさすりながら、ぽつりと言った。
「……母親のことです」
「お母さん?」
「ええ」
五郎は湯気を見つめた。
「若い頃から金儲けばかりでね。どこに投資すれば勝てるか、それしか考えていなかった。母親が病気で倒れたときも、大事な買収案件があるからって、病院に行かなかったんです」
善治は静かに耳を傾けた。
「最後に電話が来ました。『五郎、たまには帰っておいで。柿が美味しくなったよ』って。でも私は『今忙しいんだ!』って怒鳴って切ってしまった」
五郎の手が、湯の中でぎゅっと握りしめられた。
「その三日後でした。亡くなったのは。私は結局、母に謝ることも、感謝を伝えることもできなかった。だから……自分を誤魔化すために、もっと大きなビジネスをして、もっと金を稼ごうとしたのかもしれません」
足湯の温もりが、頑なだった男の心をゆっくりと解かしていく。
五郎は深いため息をつき、膝の上の開発資料をくしゃりと丸めた。
「……やめます」
「地獄リゾートをですか?」
「ええ。こんな買い叩くような真似、母が見たらまた悲しみますから」
後ろでじっと聞いていた鬼頭が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「五郎さん」
「鬼頭課長……申し訳ない。失礼な提案ばかりして」
「いいえ」
鬼頭は頭を振った。
「よろしければ、あの反省の間で、お母様への思いをゆっくり聴かせていただけませんか?」
五郎は目を丸くし、やがてハンカチで目元を拭った。
「……ありがとうございます。それと……もし経営費で困っているなら、私に相談してください。まっとうな出資なら、喜んで協力しますから」
鬼頭の目が輝いた。
「本当ですか!?」
善治は笑った。
強欲なビジネスマンの後悔もまた、地獄の温泉によって少しだけ優しくほぐされたのだった。


第十一章 鬼頭課長の休日
ある日。
鬼頭が珍しく休みを取った。
「鬼にも休日があるんですか?」
善治が聞くと、
「ありますよ」
鬼頭は答えた。
「週休二日制です」
「地獄なのに?」
「地獄だからこそです」
「なるほど」
鬼頭は、人間界へやって来た。
背広姿。
角は帽子で隠している。
善治も一緒だった。
二人で町を歩く。
「鬼頭さん」
「はい」
「どこへ行くんです?」
「喫茶店です」
「喫茶店?」
「コーヒーが飲みたいんです」
「鬼もコーヒー飲むんですね」
「飲みますよ」
二人は喫茶店に入った。
鬼頭はメニューを見て、
「ブレンド」
と言った。
善治は笑った。
「普通ですね」
「鬼だからって、血の池を飲むわけじゃありません」
「そりゃそうですね」
コーヒーが運ばれてくる。
鬼頭は、一口飲んだ。
「……うまい」
「でしょう?」
「地獄にも喫茶店を作りたいですね」
「また改革ですか?」
「ええ」
鬼頭は笑った。
しばらくして。
善治が聞いた。
「鬼頭さん」
「はい」
「どうして鬼になったんです?」
鬼頭の手が止まった。
「……昔の話です」
「聞いてもいいですか?」
「大した話ではありません」
「それでも」
鬼頭はしばらく黙っていた。
「私は、昔、人間でした」
「え?」
「江戸の頃です」
「そんな昔?」
「はい」
鬼頭は遠くを見るような目をした。
「小さな商いをしていました」
「何を?」
「米です」
「それで?」
「金に困っていました」
鬼頭は笑った。
「ほんの少しだけ、店の金を使い込みました」
「ほんの少し?」
「今の金にすれば、それほど大きな額ではありません」
「じゃあ、なぜ?」
「返すつもりだったんです」
「でも?」
「返せなかった」
鬼頭はコーヒーを見つめた。
「病気になりました」
「……」
「死ぬ間際になって、ようやく後悔しました」
「家族には?」
「言えませんでした」
「謝れなかった?」
「はい」
鬼頭は頷いた。
「だから、死んでも終わらなかった」
「どういう意味です?」
「自分の中で、ずっと続いていたんです」
「後悔が?」
「はい」
鬼頭は笑った。
「それで、気がついたら鬼でした」
善治は何も言えなかった。
「地獄で働き始めて、最初は人を罰するのが仕事だと思っていました」
「違ったんですか?」
「違いました」
「何が?」
鬼頭は言った。
「人は、罰よりも、自分の後悔に苦しんでいることが多い」
善治は黙って聞いた。
「だったら」
鬼頭は笑った。
「話を聞くほうがいい」
善治は頷いた。
「だから、反省温泉なんですね」
「そうです」
鬼頭はコーヒーを飲み干した。
「私自身が、一番聞いてほしかったのかもしれません」


第十二章 反省の間だより
反省温泉は、少しずつ評判になった。
人間界から来る人。
地獄から移ってくる人。
増え続ける客に対応するため、地獄の鬼たちは日々研修を重ねた。
そして、ときには、生きている人間の夢に入り込んでくる人。
みんな、それぞれに後悔を抱えていた。
ある老人は言った。
「妻に、ありがとうと言えなかった」
ある女性は言った。
「娘に、もっと好きだと言えばよかった」
ある男は言った。
「親父に謝りたい」
鬼は何も言わない。
ただ、聞く。
そして最後に、
「よく、話してくれました」
と言う。
それだけだった。
ある日。
善治は反省の間の壁に、一枚の札が貼られていることに気づいた。
「これは?」
鬼頭が答えた。
「生前予約札です」
「生前予約?」
「はい」
札には、こう書かれていた。
『よく、話してくれました。
まだ、こちらへ来るには早いです。
あと二十年は、来ないでください。』
善治は笑った。
「ずいぶん勝手ですね」
「地獄側の都合です」
「都合?」
「まだ地獄の準備ができていません」
「なるほど」
善治は札を見つめた。
「これ、私ももらえますか?」
鬼頭は笑った。
「もちろん」
「本当に?」
「はい」
鬼頭は一枚の札を取り出した。
そこには、
⁠善治⁠
と書かれていた。
「二十年?」
「二十年です」
「長いなあ」
「短いですよ」
鬼頭は笑った。
「歳を取ると、二十年なんてあっという間です」
善治は札を受け取った。
「じゃあ、二十年後に」
「そのときは、こちらで」
「はい」
善治は札を財布に入れた。
けれど。
このときの善治は知らなかった。
その二十年が。
自分にとって、思っていたよりずっと大切な時間になることを。


第十三章 柿泥棒の夏
善治には、一つだけ。
子どもの頃から、ずっと忘れられないことがあった。
柿だった。
まだ八歳の頃。
近所に、権蔵という老人がいた。
庭に、大きな柿の木があった。
秋になると、たくさんの実がなる。
善治は、その柿が好きだった。
けれど。
勝手に取ってはいけない。
祖母から、何度も言われていた。
「権蔵さんの柿は、取っちゃいけないよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
でも。
子どもというのは、誘惑に弱い。
ある夕方。
善治は、権蔵の家の前に立っていた。
柿が、枝いっぱいに実っている。
一つ。
くらいいいだろう。
善治は木に登った。
そして、一番大きな柿を一つ取った。
その瞬間。
「こら!」
声がした。
善治は凍りついた。
下を見る。
権蔵が立っていた。
「……」
「何してる」
「……柿」
「見れば分かる」
善治は木から降りた。
怒られると思った。
殴られるかもしれない。
祖母にも叱られる。
善治は俯いた。
すると。
権蔵は言った。
「それ、一つだけか?」
「……うん」
「じゃあ、持ってけ」
善治は顔を上げた。
「え?」
「どうせ取ったんだろ」
「……」
「もう一つ取れ」
「いいの?」
「ああ」
権蔵は笑った。
「ただし、今度は堂々と取れ」
善治は、もう一つ柿を取った。
知識など持たない子どもの足で、走って帰った。
家に帰ると、祖母が待っていた。
「善治」
「……」
「どこから持ってきたの?」
善治は黙っていた。
祖母は柿を見た。
探る目つきで、そしてすべてを察した。
「権蔵さんのところだね」
「……うん」
「謝っておいで」
「でも……」
「行っておいで」
善治は、また権蔵の家へ向かった。
「ごめんなさい」
頭を下げた。
権蔵は笑った。
「もういい」
「勝手に取りました」
「分かってる」
「ごめんなさい」
「だから、もういいって」
権蔵は、柿を一つ善治に渡した。
「ほら」
「いいの?」
「ああ」
「ありがとう」
その言葉だけだった。
それから何十年も経った。
権蔵は亡くなった。
善治も、その出来事を忘れていた。
いや。
忘れたつもりになっていた。
ある日の反省の間。
善治は、その話をした。
「そんな小さなことを、まだ覚えているんですか?」
鬼頭が聞いた。
「覚えてるんです」
「なぜ?」
善治は考えた。
「たぶん……」
少し間を置いて。
「ありがとうを、ちゃんと言えなかった気がするんです」
鬼頭は黙っていた。
そして。
「では」
と言った。
「会ってみますか?」
善治は顔を上げた。
「誰に?」
鬼頭は笑った。
「権蔵さんに」
善治の胸が、大きく鳴った。
何十年も前の。
たった一個の柿。
その柿から始まった小さな後悔が。
ようやく、動き始めた。


第十四章 お血脈の真実
「権蔵さんに、会えるんですか?」
善治は鬼頭に聞いた。
「はい」
「本当に?」
「反省温泉には、そういう仕組みがありますから」
「仕組みって……」
鬼頭は笑った。
「後悔している人と、後悔の中に残っている人を、少しだけつなぐんです」
善治は、胸が高鳴るのを感じた。
何十年も前のことだった。
たった一個の柿。
けれど、その小さな出来事が、ずっと心のどこかに残っていた。
「こちらです」
鬼頭が扉を開けた。
そこには、一人の老人が座っていた。
白い髪。
少し曲がった背中。
善治は、その顔を見た。
「……権蔵さん」
老人が顔を上げた。
「おう」
その声だった。
間違いない。
善治が八歳だった頃。
何度も聞いた声。
「大きくなったな」
善治は笑った。
「もう、六十八ですよ」
「そうか」
権蔵は笑った。
「俺も、ずいぶん待ったな」
「……」
「柿、一個だったな」
善治は頷いた。
「はい」
「ちゃんと食ったか?」
「食べました」
「うまかったか?」
「はい」
善治の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございました」
権蔵は首を傾げた。
「何が?」
「柿です」
「そんな昔のことか」
「僕は、ずっと覚えていました」
「そうか」
「ちゃんと、お礼を言いたかった」
権蔵は、少し笑った。
「今、言ったじゃねえか」
「はい」
「じゃあ、それでいい」
善治は、何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
「もういいって」
「でも……」
「人間は、昔のことを考えすぎる」
権蔵は笑った。
「柿一個くらいで、何十年も悩むな」
善治も笑った。
涙が止まらなかった。
鬼頭は、少し離れたところで二人を見ていた。
そして、小さく呟いた。
「これが、反省温泉なんです」
善治は振り返った。
「はい」
「罰を与えるんじゃない」
「はい」
「終わらせるんです」
善治は頷いた。
「ああ」
そのときだった。
善治の財布から、一枚の札が落ちた。
拾い上げる。
お血脈の御印。
十年間、ずっと持っていた札。
善治は、それを見つめた。
「鬼頭さん」
「はい」
「これって、本当に極楽へ行ける札なんですか?」
鬼頭は答えなかった。
代わりに、奥から一人の僧侶が現れた。
穏やかな顔をした老人だった。
「その札を、どう思いますか?」
善治は考えた。
「……守ってくれるものだと思っていました」
「今は?」
「分かりません」
僧侶は笑った。
「それでいいのです」
「え?」
「お血脈の御印は、魔法の札ではありません」
善治は驚いた。
「魔法じゃない?」
「はい」
「じゃあ、極楽へ行けるというのは?」
「人は、信じることで変わるのです」
僧侶は、静かに続けた。
「あなたが十年前、この札を手にしたとき」
「はい」
「あなたは、こう思ったのでしょう」
――これで大丈夫だ。
――自分は許された。
――ならば、もう少し、人に優しく生きよう。
善治は黙った。
「それこそが、お血脈の力なのです」
善治は、札を見つめた。
確かに。
この十年間。
何か大きな奇跡が起きたわけではない。
けれど。
少しだけ、人に優しくなった。
少しだけ、怒らなくなった。
少しだけ、昔のことを許せるようになった。
そして。
今日。
バアちゃんに会えた。
権蔵にも会えた。
「じゃあ……」
善治は言った。
「この札がなくても、極楽へ行けるんですか?」
僧侶は微笑んだ。
「極楽というものは、札の中にあるのではありません」
「では、どこに?」
「あなたの中に」
善治は、しばらく黙っていた。
そして、札を財布へ戻した。
捨てることはしなかった。
それは、十年間の自分を支えてくれたものだったから。
ただ。
もう、札だけに頼る必要はなかった。


第十五章 ご同輩、微笑んでいてね
それから十年。
善治は七十八歳になった。
最初の猫のごくらくは、二年前に静かに息を引き取った。
寂しさに沈む善治の家へ、近所の縁でやってきたのが二代目の猫だった。
名前は、ぱらいそ。
「ごくらくの次だから、パラダイス……いや、ぱらいそだな」
善治が呟くと、猫は返事もせず、ひだまりの中で大きなあくびをした。
「お前もまた、俺の最後の気休めにつきあってくれるのかい」
頭を撫でると、ぱらいそはゴロゴロと喉を鳴らした。
反省温泉は、すっかり有名になっていた。
人間界からも、ときどき相談者がやってくる。
鬼頭は、相変わらず課長だった。
「もう課長、長いですね」
善治が言うと、
「昇進すると現場に出られなくなりますから」
と、鬼頭は笑った。
「出世したくないんですか?」
「鬼にも、こだわりがあるんです」
そんな穏やかな日々が過ぎ、やがて「ぱらいそ」も眠るように去っていった。
善治は庭の隅に二つ並んだ小さな墓を撫でながら、ぽつりと独りごちた。
「また先にいっちゃったな」
そして八十代半ばを過ぎた頃。
三匹目の猫がやって来た。
白と灰色の毛をした、どこか呆けたような顔の小さな猫だった。
「ごくらく、ぱらいそ、と来て……もう言葉が出んな。お前はただ、黙々(もくもく)と生きてくれりゃいい」
そう言って名付けた「もくもく」は、善治の膝の上がお気に入りだった。
「もくもく。人間ってのはな、歳をとると謝りたいことより『ありがとう』と言いたいことの方が増えるんだよ」
猫の背中を撫でながら、善治は遠い目をした。
朝起きる。
血圧を測る。
薬を飲む。
猫に餌をやる。
そして。
ときどき、昔のことを思い出す。
バアちゃんのおにぎり。
権蔵さんの柿。
鬼頭課長の赤い名刺。
反省温泉の温もり。
お血脈の御印。
人生には、忘れられないことがいくつもある。
けれど。
全部を後悔する必要はない。
全部を抱え込んでおく必要もない。
ただ。
ありがとうと言えるものには、ありがとうと言っておく。
ごめんなさいと言えるものには、ごめんなさいと言っておく。
それだけで、人間の心には小さな極楽が灯る。
善治は、そう思うようになっていた。
そして、二十年という約束の期限が、ゆっくりと近づいてきた。


終章 あちらからのお迎え
それから、さらに歳月が過ぎた。
善治は九十四歳になっていた。
秋晴れの朝。
善治は縁側に座っていた。
膝の上には、すっかり老猫になった「もくもく」。
庭には、やわらかな風が吹き抜けている。
善治は空を見上げた。
「長かったなあ」
もくもくが、
「ニャー」
と弱々しく鳴いた。
「そうだな」
善治は笑った。
「十分、生きたよな」
そのとき。
玄関のほうから、懐かしい声がした。
「善治さん」
善治はゆっくり振り返った。
そこに、鬼頭が立っていた。
昔と同じ黒い背広。
昔と同じ赤いネクタイ。
そして。
昔と同じ二本の角。
ただし。
その角には、少しだけ白いものが混じっていた。
「鬼頭さん?」
「ご無沙汰しております」
「久しぶりですね」
「はい」
鬼頭は、深々と頭を下げた。
「お迎えに、参りました」
善治は、しばらく黙っていた。
そして、穏やかに笑った。
「とうとう来ましたか」
「はい」
「二十年って言ってましたよね」
「そうです」
鬼頭は懐かしそうに目を細めた。
「反省温泉の生前予約札に、そう書きましたから」
善治はポケットから古びた財布を取り出した。
中には、小さな紙切れが入っている。
二十六年前。
反省温泉でもらったものだった。
善治は、それを鬼頭に見せた。
「まだ持ってたんですか」
「ずっと宝物でしたよ」
鬼頭は札を見つめ、静かに微笑んだ。
「では」
「はい」
「約束の期限です」
善治は、庭を見た。
もくもくが膝の上で目を細めている。
「もくもく」
「ニャー」
「お前は、もう少しここで日向ぼっこしてな」
猫の頭を優しく撫で、善治はゆっくりと立ち上がった。
少しだけ膝がふらつく。
鬼頭がそっと手を差し出した。
善治は、その温かい手をしっかりと握った。
玄関へ向かって歩き出す。
そのとき。
光の差す土間の向こうから、あの懐かしい声が響いた。
「善治」
善治が顔を上げる。
そこに。
バアちゃんが立っていた。
その隣には、柿を手にした権蔵さんもいる。
善治は、目を細めた。
「……バアちゃん」
祖母は嬉しそうに笑った。
「遅かったねえ」
「うん」
「ずいぶん待たされたよ」
「ごめんごめん」
「何を言ってるんだい」
祖母は温かい目で善治を見た。
「ちゃんと、最後まで生きてきたじゃないか」
善治の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
権蔵も白い歯を見せて笑っている。
「善治、柿、まだ食いたいか?」
善治は泣きながら笑った。
「食べたい。今度は堂々と食うよ」
「おう、好きなだけ食え」
鬼頭が静かに促した。
「善治さん」
「はい」
「行きましょうか」
善治は最後に、もう一度だけ我が家の庭を振り返った。
九十四年間。
いろいろなことがあった。
笑った。
怒った。
泣いた。
後悔した。
謝った。
ありがとうと言った。
そして。
心から愛した人たちと、もう一度巡り合えた。
善治は、光の中へ一歩を踏み出した。
鬼頭と並んで歩く。
その先で、バアちゃんが手を差し伸べている。
善治は笑った。
「ただいま」
バアちゃんが答えた。
「おかえり、善治」
善治は、もう一度力強く言った。
「ただいま、バアちゃん」
空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
そして。
その日の午後。
善治の家には、静かで穏やかな時間だけが残された。
縁側では、もくもくが丸くなって気持ちよさそうに眠っている。
その隣には。
使い込まれた古い財布が置かれていた。
中には、一枚の古びた札。
そこには、柔らかな筆文字で、こう書かれていた。
『極楽は、待っている場所ではありません。
誰かを思いながら、今日を生きていく場所です。』
風が吹き抜け、札の端がほんの少しだけ揺れた。
もくもくが片目を開け、長なあくびをした。
そして。
何事もなかったかのように、また幸せそうに目を閉じたのだった。
――おしまい。


Amazon Kindle



あとがき
人は、歳を重ねるほど、
「死」というものを、少しずつ身近に感じるようになるのかもしれません。
友人から届く訃報。
昔の写真。
もう会えなくなった人の声。
ふとした瞬間によみがえる、何十年も前の出来事。
そして、そんなときに思うのです。
「あのとき、もう少し話しておけばよかった」
「ちゃんと、ありがとうと言えばよかった」
「悪かった、と一言伝えておけばよかった」
人生には、どうしても言い残すことがあります。
本作の主人公、善治もそうでした。
善治が持っていた「お血脈の御印」は、
物語の中では、まるで極楽行きの切符のような存在として登場します。
けれど、本当に描きたかったのは、
札そのものの不思議な力ではありません。
「自分は許されている」
そう信じることで、
人は少しだけ優しくなれる。
怒ることを一度やめる。
誰かの話を少し長く聞く。
ありがとうを言ってみる。
昔のことを思い出してみる。
そんな小さな変化の積み重ねこそが、
もしかすると「極楽」なのではないか。
私は、そんなことを考えながら、この物語を書きました。
書籍化にあたり、主人公の善治を取り巻く愛おしい描写をいくつか深めました。
そして、もう一人の主人公が鬼頭剛です。
角を生やし、
赤い名刺を持ち、
地獄の観光庁で働いている鬼。
けれど、彼にも後悔があります。
地獄にいるのは、
悪い人間だけではないのかもしれません。
「もっと、こうしておけばよかった」
そんな思いを抱えたまま、
誰にも話せずにいる人がいる。
だから鬼頭は、
罰する地獄から、
話を聞く地獄へと変えようとします。
針の山も、
血の池も、
煮えたぎる釜も、
人を苦しめるためだけのものではなくなる。
そして、
「反省温泉」が始まります。
少し笑えて、
少し馬鹿馬鹿しくて、
それでも最後には、
自分の中にある大切なものを思い出してもらえる場所。
そんな地獄があってもいいのではないか。
そんな気持ちで書きました。
善治が思い出した、
バアちゃんのおにぎり。
一個の柿。
言えなかった「ありがとう」。
言えなかった「ごめんなさい」。
どれも、人生から見れば小さな出来事です。
けれど、人が最後まで覚えているのは、
案外、そういう小さな出来事なのかもしれません。
もし今、
あなたの心の中にも、
「ありがとう」
とか、
「ごめんなさい」
とか、
「もう一度、会いたい」
という言葉が残っているのなら。
まだ、生きているうちに、
伝えてみてください。
電話でもいい。
手紙でもいい。
直接言えなければ、
心の中で言ってもいい。
きっと、その言葉は、
どこかへ消えてしまうものではありません。
ご同輩。
極楽は、
死んでから行く場所だけではないのかもしれません。
誰かを思いながら生きること。
誰かに優しくすること。
昔の自分を許すこと。
そして、
今日という一日を、ちゃんと生きること。
その中に、
小さな極楽があるのではないでしょうか。
本作を最後まで読んでくださった皆さまへ。
ありがとうございました。
どうぞ、まだまだ元気に生きてください。
極楽の話は、
そのあとで十分です。





ズレの光

―しあわせの定義―


まえがき

ふとした瞬間に、理由もなく立ち止まったことはありませんか。

靴紐がほどけていたから。
忘れ物を思い出したから。
ポケットのスマートフォンが鳴ったから。

その数秒の立ち止まりが、もしあなたを、ほんのわずかな不幸から遠ざけていたとしたら――。

私たちは毎日、無数の可能性の中を生きています。

いつもと同じように目を覚ました朝。
予定どおりに乗った電車。
無事に渡り終えた横断歩道。
たまたま一本遅らせた電車。
なぜか選ばなかった道。

その一つひとつの裏側には、私たちが気づいていない無数の「もし」が存在しているのかもしれません。

この物語に登場する「ズレ」は、科学的に証明されたものではありません。

けれど、人生を振り返ってみると、

「あのとき、なぜかそうした」

という小さな出来事が、意外なほどたくさんあることに気づきます。

もし、ほんのわずかな時間のズレが、私たちの人生を変えているとしたら。

そして、そのズレが偶然ではなく、何か目に見えない力によって生まれているとしたら。

それはいったい、誰の意思なのでしょう。

神なのか。
宇宙なのか。
人間自身の無意識なのか。
それとも、ただの偶然なのか。

答えは、この物語の中でも出ません。

ただ一つ、主人公の宮下奈津美が最後に気づくことがあります。

幸せとは、何か特別なものを手に入れることではなく、
「今ここにあるもの」に気づくことなのかもしれない。

そんな思いを込めて、この物語を書きました。

あなたの日常にも、ふと立ち止まる瞬間がありますように。

そして、その小さな「ズレ」の中に、見えない光を感じてもらえたなら幸いです。

序章 分岐点

交差点の信号が青に変わる、その〇・三秒前のことだった。

宮下奈津美は横断歩道の手前で、靴紐がほどけていることに気づいた。

急いでいた。

その日は朝から会議があり、提出する資料の最終確認も終わっていなかった。腕時計を見ると、予定していた時間までほとんど余裕がない。

それなのに、なぜかそのときだけ、足元の靴紐が妙にはっきりと目に入った。

奈津美は小さく舌打ちをして、しゃがみ込んだ。

その瞬間だった。

視界の端を、白いバンが猛スピードで横切った。

タイヤが濡れたアスファルトを噛み、耳障りな音を立てる。

信号無視だった。

奈津美の目の前を通過したバンは、そのまま交差点の向こうへ消えていった。

もし、靴紐に気づかなかったら。

もし、あと〇・三秒早く歩き始めていたら。

自分が今立っているはずだった場所を、あの車は通過していた。

奈津美は立ち上がれなかった。

周囲の人々は、何事もなかったように歩いている。

誰かがバンを見たかもしれない。

誰かが危ないと思ったかもしれない。

けれど、誰も奈津美には声をかけなかった。

やがて信号が青になった。

人々が一斉に歩き始める。

奈津美も遅れて歩き出した。

「……運がよかっただけ」

そう呟いた。

その日は、それで終わるはずだった。

けれど、帰りの満員電車の中で、奈津美は朝の出来事を何度も思い返していた。

なぜ、あのタイミングだったのだろう。

靴紐がほどけていることなど、普段なら多少ほどけていても気にしない。

なのに、あの日だけ。

あの瞬間だけ。

まるで誰かに、

「ちょっと待って」

と声をかけられたようだった。

誰かに、そっと肩を叩かれたような感覚。

奈津美は窓に映る自分の顔を見つめた。

その顔は、自分でも驚くほど真剣だった。

その夜、奈津美はノートパソコンを開いた。

何の気なしに、

「ニアミス」
「事故 未然」
「事故 直前 立ち止まる」

そんな言葉を検索した。

すると、思っていた以上に多くの体験談が出てきた。

理由もなく立ち止まった。

忘れ物を思い出した。

くしゃみが出た。

スマートフォンが鳴った。

財布を落とした。

靴紐がほどけた。

どれも、それ自体は珍しいことではない。

だが、その直後に事故が起きていた。

「あのとき、なぜか一歩遅れた」

という話が、あまりにも多かった。

奈津美は画面を閉じなかった。

偶然にしては、多すぎる。

そのとき初めて、彼女は思った。

もしかすると――

私たちの人生には、目に見えない「ズレ」があるのではないか。




一 統計の中の幽霊

奈津美の仕事は、都市交通局のデータアナリストだった。

市内で発生する交通事故やニアミスのデータを分析し、危険地区を洗い出す。

信号のタイミング。

標識の配置。

道路の形状。

時間帯ごとの交通量。

それらを数字に置き換え、事故を減らす方法を考える。

地味な仕事だった。

けれど奈津美は、この仕事が嫌いではなかった。

数字の一つ一つの向こう側に、人間の生活がある。

事故が一件減れば、誰か一人の人生が変わるかもしれない。

そう思っていた。

ある日の昼休み、奈津美は個人的な興味から、過去五年間のニアミス記録を調べ始めた。

事故にはならなかった。

しかし、あと少しタイミングが違えば、事故になっていた可能性が高い。

そんな事案が、市のデータベースには大量に記録されていた。

位置。

時刻。

車両速度。

歩行者の進行方向。

信号の状態。

奈津美はそれらを一件ずつ確認していった。

そして、妙な傾向に気づいた。

事故を回避した直前に、当事者が予定外の行動を取っているケースが多い。

靴紐を結び直した。

忘れ物に気づいた。

くしゃみをした。

スマートフォンを確認した。

立ち止まった。

振り返った。

ほんのわずかな時間だった。

〇・二秒。

〇・三秒。

〇・五秒。

それだけのズレが、事故の軌道から人間を外していた。

奈津美は何度も集計し直した。

プログラムを変えた。

条件を変えた。

サンプルを分けた。

それでも数字は大きく変わらなかった。

彼女は同僚の高梨に相談した。

高梨は統計解析が専門だった。

皮肉屋で、愛想はあまりよくない。

しかし数字については誰よりも厳密だった。

「偶然の重なりだよ」

高梨は画面から目を離さずに言った。

「人間はランダムな現象の中にもパターンを見つける。そういう認知の癖がある」

「アポフェニア?」

「そう」

「でも、見てほしい」

奈津美はデータを渡した。

高梨はしばらく無言で画面を見た。

「……母数は?」

「約十二万件」

「五年間?」

「市内で記録されたニアミスのうち、条件を満たしたもの」

高梨はスクロールを続けた。

「それで、この『予定外の行動』が……」

「四十七パーセント」

「……」

「どう思う?」

高梨は眼鏡を外した。

「高すぎるな」

「でしょう?」

「ただし、これだけでは『何かがある』とは言えない」

「わかってる」

「記録そのものに偏りがある可能性もある。報告された事案だけを使っているなら、証言者の記憶も混ざる」

「それも調べる」

「本気か?」

奈津美は頷いた。

「うん」

高梨はため息をついた。

「お前、昔からそうだったな」

「何が?」

「数字が気になると、答えが出るまで帰らない」

奈津美は少し笑った。

「悪い?」

「悪いとは言ってない」

高梨は画面を見ながら続けた。

「ただ、これを上に出すなら、相当慎重にやれよ。『不思議な力が事故を防いでいる』なんて書いた瞬間に、誰もデータを見なくなる」

「わかってる。私も、そう思っているわけじゃない」

「じゃあ、何を思ってる?」

奈津美は答えなかった。

窓の外には、夕方の街が広がっていた。

無数の車。

無数の人。

無数の信号。

その一つ一つが、ほんのわずかなタイミングの違いで動いている。

「……幽霊みたい」

「何が?」

「数字の中に、誰も見ていない何かがいるみたい」

高梨は苦笑した。

「データに幽霊か」

「うん」

「じゃあ、見つけてみろよ」

その言葉が、奈津美の背中を押した。



二 目撃者

奈津美は独自に聞き取り調査を始めた。

データベースに残っている当事者へ連絡し、事故の直前に何を感じ、何をしていたのかを尋ねた。

休日を使った。

有給も使った。

市内のあちこちを訪ね歩いた。

多くの人が似たような話をした。

「理由もなく、急に立ち止まりたくなったんです」

「誰かに呼ばれた気がして、振り返ったんです」

「今考えても、どうしてそうしたのかわかりません」

その中に、一人だけ気になる証言をする老人がいた。

佐伯忠雄。

八十二歳。

三年前、自転車に乗っていたところ、大型トラックとの衝突を間一髪で免れていた。

奈津美は佐伯の家を訪ねた。

小さな平屋だった。

縁側には古い座布団があり、庭には柿の木が一本立っていた。

佐伯は茶をすすりながら言った。

「わしはね、見たんだよ」

「何を、ですか?」

「光、というのかな」

佐伯は庭を見た。

「うまく言えん。水面が揺れるような、透明な歪みだった」

奈津美は黙って聞いていた。

「トラックが来た。わしは避けようとした。でも、その前に身体が半歩、右へ動いた」

「自分で動かしたんですか?」

「いや。動かしたというより、動いてしまった」

佐伯は笑った。

「頭で考えるより、身体のほうが先に知っていたんだろうな」

奈津美はノートに書き込んだ。

「その『光』を、ほかの人に話しましたか?」

「話したさ」

「反応は?」

「頭がおかしくなったんじゃないか、と」

佐伯は笑った。

「だから、もう誰にも言わないことにした」

少し間を置いて、奈津美が尋ねた。

「私には話してくださったんですね」

「あなたが聞きに来たからだよ」

「どうして私が信じると思ったんですか?」

「さあね」

佐伯は肩をすくめた。

「でも、あんたは最初から笑わなかった」

奈津美は返事をしなかった。

佐伯は庭の柿の葉を見ながら言った。

「あれは、悪いものじゃないと思うよ」

「どうしてですか?」

「あの日、わしは誰かに守られたような気がした」

その言葉は静かだった。

「誰かは知らん。神様かもしれんし、ただの偶然かもしれん。でも、あの瞬間に助かった。それだけは確かだ」

佐伯は湯呑みを置いた。

「だから、あの日から毎朝、空に向かって『ありがとう』と言うことにした」

「誰に?」

「知らん」

老人は笑った。

「知らん相手にありがとうと言うのも、悪くないもんだよ」

帰り道、奈津美はその言葉を何度も思い返した。

誰かもわからない相手に感謝する。

その行為は、奇妙なほど静かだった。

そして、なぜか温かかった。



三 偽善のボランティア

調査を進めるうち、奈津美は「ズレ」の頻度が特に高い地域に気づいた。

市の東部。

かつて工場地帯だった場所だ。

そこでは、NPO法人「あかりの会」が独居高齢者の見守り活動を行っていた。

地図上にデータを重ねると、この地域ではニアミスだけでなく、高齢者の急病の早期発見率も高かった。

奈津美は「あかりの会」を訪ねた。

代表の榎本は五十代半ばの女性だった。

てきぱきとした話し方をする一方、笑うと少し疲れた顔になった。

「正直に言いますね」

榎本は言った。

「この会、最初から立派な目的で始めたわけじゃありません」

奈津美は顔を上げた。

「最初は補助金と税金対策です」

「……」

「夫の会社が苦しくて。書類上だけの見守り活動を作って、補助金を受け取る。年に数回、高齢者の家を訪問して、写真を撮って報告書を書く。それくらいのつもりでした」

「でも、今は違う」

「ええ」

榎本は窓の外を見た。

「続けているうちに、変わったんです」

最初は義務だった。

それが、いつの間にか気になり始めた。

いつも訪ねている高齢者が、今日は元気なのか。

昨日と違う様子はないか。

ちゃんと食べているか。

ある日、榎本は約束もしていないのに、一人の女性のことが妙に気になった。

「何となく、寄ってみようと思ったんです」

そこへ行くと、その女性は倒れていた。

意識がなかった。

救急車を呼び、一命を取り留めた。

「あと少し遅かったら、危なかった」

榎本は言った。

「それ以来です。声をかけることが、仕事じゃなくなったのは」

奈津美は尋ねた。

「動機が不純だったことを、後悔していますか?」

榎本は少し考えた。

「していますよ。最初から善人だったらよかったと思います」

そして、笑った。

「でも、人間って、最初から立派じゃなくてもいいのかもしれません」

奈津美は黙っていた。

「始まりがどうだったかより、途中でどうするかのほうが大事なこともある。私はそう思うようになりました」

その言葉は、奈津美の胸に残った。

「榎本さんも、理由のない胸騒ぎを感じることがありますか?」

「あります」

榎本は頷いた。

「昔なら気のせいで片づけていました。でも今は、気になったら一度、見に行くことにしています」

奈津美は考えた。

もしかすると「ズレ」は、善人だけに起きるわけではない。

不純な動機で始めた人間にも起きる。

けれど、その小さなきっかけをどう受け取るかは、人間の側に委ねられているのかもしれない。

ズレが人を救うのではない。

ズレをきっかけに、人が誰かを救う。

そんな見方もできるのではないか。

奈津美は、そう思い始めていた。




四 断片

夜、自分の部屋で取材ノートを開くと、これまでに聞いた人々の声が蘇ってきた。

深夜のコンビニで働く女子大学生、里美。

閉店作業中、なぜかいつもと違う順番で棚を整理したくなったという。

その数分の遅れで店の外に出る時間が変わり、駐車場で起きた泥酔客同士のトラブルに巻き込まれずに済んだ。

「どうしてあの日だけ、あんなことをしたのか、自分でもわかりません」

そう言っていた。

建設現場で三十年働く田村。

朝礼の直前、理由もなく安全帯を一度締め直した。

その日の午後、高所から足を滑らせた。

「いつもの締め方だったら危なかった」

同僚からそう言われた。

田村本人は首を傾げていた。

「なんであの日だけ締め直したのか、今でもわからん」

小学校教師の宮田。

遠足の引率中、川辺に近づく児童を見た瞬間、強い胸騒ぎを覚えた。

児童に大声で名前を呼びかけた。

その子が振り返った直後、足元の土砂が崩れ落ちた。

タクシー運転手の長谷川。

雨の深夜、普段なら断らない乗車を、一件だけなぜか断った。

「胸の虫が騒いだんです」

後日、その客を乗せて走るはずだった道路で、大きな事故が起きていたことを知った。

誰も、自分の体験を「奇跡」とは呼ばなかった。

運がよかった。

たまたまだ。

そう言って、日常へ戻っていった。

奈津美はノートを閉じた。

これらは本当に同じ現象なのだろうか。

ただの偶然を、彼女が勝手につなぎ合わせているだけなのではないか。

そう思うこともあった。

それでも、数が増えるほど、気になることがあった。

誰も、何かを誇示していない。

自分が選ばれたとも言わない。

ただ、

「助かってよかった」

と話すだけだ。

その控えめさが、奈津美には不思議だった。

もし世界に何か大きな意思があるのだとしたら、それは派手な奇跡を起こすのではなく、

ほんの少しだけ、

人間の歩幅を変えるのかもしれない。




五 分岐する時間

佐伯への取材から数日後、奈津美は大学時代の恩師、桐生教授を訪ねた。

桐生は理論物理学者だった。

退官後も小さな研究室で量子力学の解釈問題を研究している。

奈津美がデータを見せると、桐生はしばらく黙って画面を見つめた。

「面白い」

最初に出た言葉は、それだった。

「ただし、面白いというのは、正しいという意味ではないぞ」

「わかっています」

桐生はホワイトボードに簡単な線を描いた。

「量子力学には、多世界解釈という考え方がある」

「世界が分岐する、という話ですよね」

「そう。少なくとも一つの解釈では、量子現象の結果によって、世界は複数の可能性へ枝分かれしていくと考える」

一本の線から、二本。

さらにそこから、四本。

桐生は枝分かれした線を描いた。

「たとえば、宮下さんが事故に遭う世界と、遭わない世界があるとする」

「私は今、遭わなかった世界にいる」

「そう考えることはできる」

「では、なぜ私はこっちにいるんでしょう?」

桐生は笑った。

「そこが難しい」

教授は椅子に座り直した。

「問題は、可能性が無数にあるとして、その中で私たちが経験する出来事に、何らかの偏りがあるのかどうかだ」

「私のデータは、その偏りを示している?」

「可能性はある。しかし、まだ何とも言えん」

「でも、十二万件あります」

「母数が大きいからこそ、慎重にならなければならない」

桐生はそう言ってから、少し考えた。

「仮に、だ」

「はい」

「時間の流れや可能性の分岐に、ごく小さな偏りがあるとする」

「偏り?」

「たとえば、破局的な結果へ進む可能性が、ほんのわずかに小さくなる」

「そんなことが?」

「今の物理学では、確認されていない」

桐生ははっきり言った。

「だが、仮説として考えることはできる」

「その原因は?」

「わからない」

即答だった。

「神かもしれない。宇宙そのものの性質かもしれない。まだ知られていない物理法則かもしれない。あるいは、人間の意識とは無関係の、もっと単純な現象かもしれん」

奈津美は黙った。

「先生は、どう思いますか?」

桐生は窓の外を見た。

「科学者としては、わからない、と答える」

「科学者としては?」

「老人としてなら……」

桐生は少し笑った。

「長く生きていると、人生には説明できないことが多すぎると思うよ」

奈津美も笑った。

「それ、科学者の発言ですか?」

「だから老人として、と言っただろう」

しばらく沈黙が続いた。

やがて桐生が言った。

「宮下さん。この研究で一番大切なのは、『誰かが世界を守っている』と証明することじゃない」

「……」

「そう思いたい気持ちはわかる。でも、そこへ急ぐと、数字が見えなくなる」

「はい」

「だから、最後までわからないままでもいいと思う」

奈津美は頷いた。

研究室を出ると、夕暮れの街が広がっていた。

世界のどこかで、今この瞬間にも無数の分岐が起きているのかもしれない。

その中の一つを、自分たちは歩いている。

もし、その世界にほんの少しだけ「ズレ」があるのなら。

それを見つけることよりも、

そのズレによって与えられた時間を、どう生きるか。

そのほうが大切なのかもしれなかった。



六 裁かれない正直者

調査を進めるうち、奈津美は一つの事実にぶつかった。

「ズレ」が起きたからといって、必ずしも本人が幸せになるわけではない。

高梨の従兄弟、清水という会社員がいた。

五年前、勤務先の建設会社で、使用予定の資材に強度上の問題があることを発見した。

清水は上司に報告した。

しかし会社は問題を公にしたくなかった。

清水は「トラブルメーカー」と呼ばれ、左遷され、最終的には退職した。

その後、その資材を使った建物で小規模な崩落事故が起きた。

幸い死者は出なかった。

清水の指摘が正しかったことは明らかになった。

それでも会社から正式な謝罪はなかった。

清水は今、以前よりずっと低い給料で倉庫の仕事をしていた。

「割に合わないですよ」

居酒屋で、清水はそう言った。

「正しいことをしても、得をするとは限らない」

グラスについた水滴を指でなぞる。

「黙っていた人間のほうが、今もいい暮らしをしている。俺は家族にも面倒な人間だと思われた」

奈津美は何も言えなかった。

正しいことをした。

だから幸せになった。

そんな単純な話ではない。

奈津美は尋ねた。

「事故のとき、何か不思議なことはありませんでしたか?」

清水は少し考えた。

「そういえば……」

「あの建物の作業は、本来なら昼間に行われる予定だった」

「はい」

「ところが、直前に予定が変更されて、夜間作業になった」

「それが?」

「崩落が起きたのは、その夜中だった」

清水は苦笑した。

「もし予定どおり昼間だったら、作業員が大勢いた。もっと大きな事故になっていた可能性はある」

奈津美は黙った。

ここにも「ズレ」がある。

しかし、そのズレは清水自身を救ったわけではない。

彼の名誉を戻したわけでもない。

ただ、誰かが死ぬ可能性を減らした。

「正しいことをしても、すぐに報われないことってあるんですね」

奈津美が言うと、清水は笑った。

「すぐどころか、最後まで報われないこともあるさ」

そして少し間を置いた。

「でも最近は、あの建物の前を通ると、誰も死ななくてよかったと思うようになった」

「……」

「俺の名前がどうとか、会社が謝るとか、もうどうでもいい。あそこで誰かが死ななかった。それだけで、まあ、よかったんじゃないかと思う」

その言葉に、奈津美は何も返せなかった。

正しさとは、必ず本人を幸せにするものではない。

善意も、必ず報われるわけではない。

それでも、人がしたことは、結果として誰かの人生に残る。

清水の告発もそうだった。

本人には見えないところで、誰かの命を守っていた。

奈津美は店を出た。

夜風が頬を撫でた。

「世界って、不公平ですね」

隣を歩く高梨に言った。

「そうだな」

「でも、だからって、正しいことをやめる理由にはならない」

高梨は少しだけ笑った。

「お前、最近、妙に強くなったな」

「そう?」

「前は数字に答えを求めてた」

「今は?」

「数字の向こうに人間を見るようになった」

奈津美は返事をしなかった。

それは、自分でも少しだけわかっていた。



七 同じ景色

奈津美は、この調査を一人で抱えきれなくなっていた。

高梨に相談することが増えた。

いつの間にか、二人はこの現象を「ズレ」と呼ぶようになっていた。

ある晩、二人は市内を見下ろす丘の上の公園にいた。

夜風が冷たかった。

眼下には、街の光が広がっている。

信号機。

車のライト。

マンションの窓。

コンビニの看板。

一つ一つの光の下に、誰かの生活がある。

「もし、本当に何かが俺たちをずらしているとしたら」

高梨が言った。

「誰の意思なんだろうな」

奈津美は夜景を見つめた。

「わからない」

「神様?」

「かもしれない」

「未来人?」

「それはないと思う」

「宇宙人?」

「もっとない」

高梨が笑った。

奈津美も笑った。

「じゃあ、何だと思う?」

「わからないから、面白いんじゃない?」

「珍しく哲学的だな」

「高梨に言われたくない」

二人はしばらく黙った。

やがて奈津美が言った。

「私、佐伯さんの話が好きなんだ」

「光の話?」

「うん」

「俺は、あまり信じてないけどな」

「私も、信じてるわけじゃない」

「じゃあ、なぜ好きなんだ?」

奈津美は少し考えた。

「誰かに守られたと思って生きられるって、幸せだと思わない?」

高梨は答えなかった。

奈津美は続けた。

「たとえ、それが偶然でも」

「……そうかもな」

夜景を見ながら、高梨が言った。

「幸せって、何なんだろうな」

「急にどうしたの?」

「昔は、金があれば幸せだと思ってた」

「今は?」

高梨は少し黙った。

「数年前、家族を亡くした」

奈津美は横を見た。

高梨は夜景を見たままだった。

「それから、数字ばかり見るようになった。数字は裏切らないから」

「高梨……」

「でも、最近ちょっと違う」

「何が?」

「誰かと同じものを見るのも、悪くないなと思うようになった」

奈津美は笑った。

「今日は本当にどうしたの?」

「うるさい」

二人は笑った。

それから奈津美も、自分のことを話した。

小学四年生の夏。

熱を出して学校を休んだ日。

一人で下校していた幼なじみのゆかりが、工事現場の資材落下事故で亡くなった。

「あの日、私が学校に行っていたら」

奈津美は言った。

「一緒に帰っていたら」

少し間を置いた。

「歩く速さが違っていたら」

何十年も抱えてきた、答えのない問いだった。

高梨はしばらく何も言わなかった。

そして、

「それは奈津美のせいじゃない」

と言った。

「……」

「誰にも、未来を全部知ることなんてできない」

奈津美の目に涙が浮かんだ。

「でも、私はずっと、あの子を救えなかったと思ってた」

「救えなかった過去を変えることはできない」

高梨は静かに言った。

「でも、これから救えるかもしれない人のために、お前は今ここにいる」

奈津美は顔を伏せた。

「それでいいんじゃないか」

しばらくして、奈津美は涙を拭いた。

「高梨、今日は妙に優しいね」

「柄にもないのは自覚してる」

二人はまた夜景を見た。

同じ場所に立っている。

同じ高さから。

同じ景色を見ている。

それだけのことが、奈津美にはひどく尊いことのように思えた。

「同じ景色を、同じ目線で見られる相手がいる」

奈津美が言った。

「それだけでも、幸せって呼べるのかもしれないね」

高梨は頷いた。

「少なくとも、俺は今、そう思う」



八 追跡者

ある日、奈津美のもとに見知らぬ番号から電話がかかってきた。

「未来予防研究所」と名乗る民間シンクタンクだった。

丁寧な口調だった。

しかし、どこか人を値踏みするような響きがあった。

「宮下奈津美さんですね。あなたが個人的に進めている事故予測の調査に、大変興味を持っております」

奈津美は警戒した。

市の記録は簡単に外部へ出せるものではない。

高梨に相談すると、彼は眉をひそめた。

「妙だな」

「何が?」

「誰かがデータの存在を知ってる」

「市から漏れた?」

「それか、お前の調査を見ていた人間がいる」

数日後、奈津美は指定されたオフィスを訪ねた。

応対したのは、影山という男だった。

四十代くらい。

笑みを絶やさない。

「単刀直入に申し上げます」

影山は言った。

「あなたの発見には、大きな価値があります」

「価値?」

「事故が起きにくい場所、起きにくい時間を予測できるとしたら?」

影山は続けた。

「保険、不動産、物流、投資。さまざまな分野で利用できます」

「私は利益のために調査しているわけではありません」

「存じています」

影山は笑った。

「だからこそ、我々が申し上げているのです。あなたのデータ、分析手法、今後の研究成果を、すべて買い取りたい」

「お断りします」

即答だった。

影山の笑顔が少しだけ薄くなった。

「情報は、いずれ誰かの手に渡ります」

「だから、みんなが見られる形にしたいんです」

「理想論ですね」

「そうかもしれません」

奈津美は立ち上がった。

「でも、私にはそのほうが正しいと思えます」

影山は何も言わなかった。

帰り道、奈津美は不安になった。

自分の研究が、利益のために使われる。

もし「ズレ」を予測できるようになったら、それを利用する人間が現れるかもしれない。

事故を避けるためだけでなく、

事故が起きにくい場所を独占するために。

高梨に話すと、彼は言った。

「なら、独占できないようにすればいい」

「どうやって?」

「公開する」

「でも……」

「お前の研究を、誰か一人の所有物にしない」

高梨は言った。

「市が受理しなくてもいい。大学と共同研究にすればいい。方法もデータも、可能な範囲で公開する」

「そんなことをしたら、批判されるかもしれない」

「されるだろうな」

「即答なんだ」

「世の中、何かを出せば必ず誰かが文句を言う」

高梨は笑った。

「でも、隠していたら、誰か一人のものになる」

奈津美は黙った。

それも、一つの「ズレ」なのかもしれない。

独占される道から、共有される道へ。

ほんの少し、進む方向を変える。

奈津美は頷いた。

「やってみる」

「そうこなくちゃな」

二人は、また一歩進んだ。



九 閉ざされる光、開く光

しかし、現実は簡単ではなかった。

奈津美が上司にデータを提出すると、市当局は正式な受理を拒否した。

「非科学的な仮説に基づく報告書」

それが理由だった。

さらに、調査に使用したデータの一部について、

「業務外の私的研究であり、個人情報の目的外使用にあたる可能性がある」

と指摘された。

奈津美は始末書を書くことになった。

「宮下さん」

上司は事務的に言った。

「気持ちはわかります。でも、うちは科学的根拠に基づいて政策を決める部署です」

「はい」

「仮説そのものを否定しているわけじゃない。ただ、今のデータだけでは行政を動かせない」

奈津美は何も言わなかった。

週末。

奈津美は一人で、佐伯が事故を免れた交差点へ向かった。

何かを確かめたかった。

交差点に立っていると、大型トレーラーが近づいてきた。

歩行者信号は赤。

その向こうから、一人の青年が歩いてくる。

スマートフォンを見ている。

奈津美は嫌な予感がした。

青年が車道へ一歩出ようとする。

「危ない!」

奈津美が叫んだ。

しかし、その声が届くより早く、

青年のポケットから着信音が鳴った。

青年が立ち止まる。

スマートフォンを取り出す。

「もしもし?」

トレーラーが目の前を通過した。

風圧が奈津美の髪を揺らした。

青年は何も気づいていない。

電話の相手は母親らしかった。

「今日、帰り遅くなる?」

そんな他愛のない会話が聞こえた。

奈津美は動けなかった。

今、目の前で起きた。

ほんの数秒。

たった一度の着信。

それが、一人の人間の位置を変えた。

奈津美は空を見上げた。

佐伯の言葉を思い出した。

「ありがとう」

小さく呟いた。

それが誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

その日の夜、始末書の最後に、奈津美は一文を書いた。

「私が見たデータが正しいかどうかは、時間が証明するのだと思います。ただ、それを待つ間も、私は目の前の交通安全対策に全力を尽くします」

それから数か月後。

市内で事故が相次いだ。

削減された事故対策予算の対象地域だった。

原因は複数あり、「ズレ」の研究だけが事故増加を説明するわけではなかった。

しかし、再調査の中で、奈津美が提出したデータが「統計的に無視できない異常」として取り上げられた。

大学の研究者も興味を示した。

市だけで判断するのではなく、大学との共同研究という形で再分析が始まった。

研究結果は、限定的な形ではあったが公開された。

反応は予想以上だった。

「自分にも似た経験があります」

「なぜか一歩遅れたことがある」

「事故の前に、急に立ち止まった」

そんな声が次々に寄せられた。

もちろん、批判もあった。

「ただの偶然だ」

「統計の解釈がおかしい」

「後から意味づけしているだけだ」

奈津美は、それらも受け止めた。

科学としては、まだ証明できない。

その事実は変わらない。

けれど、

「わからない」

ことと、

「存在しない」

ことは同じではない。

研究は続くことになった。

そして、未来予防研究所からの連絡は、いつの間にか途絶えていた。

影山たちが何を考えていたのか。

最後まで、奈津美にはわからなかった。

それでもよかった。

「ズレ」が何なのか。

誰が起こしているのか。

本当に存在するのか。

その答えは、まだ遠かった。

だからこそ、奈津美は研究を続けることにした。




終章 しあわせの定義

一年後。

奈津美は変わらず、交通局で働いていた。

「ズレ」の正体は、解明されていない。

大学との研究も続いている。

新しいデータが集まり、仮説が修正され、また新しい疑問が生まれる。

科学とは、そういうものだった。

奈津美は以前ほど、答えを急がなくなっていた。

横断歩道で、靴紐を結び直す人。

ふと空を見上げる人。

忘れ物に気づいて引き返す人。

一本早い電車を見送る人。

それらの一つ一つが、本当に世界の「ズレ」なのかはわからない。

でも、

「そうだったらいいな」

と思えるようになった。

佐伯忠雄は、その年の春、静かに息を引き取った。

享年八十三。

告別式で、息子から一冊の小さなノートを渡された。

佐伯が毎日つけていた「感謝帳」だった。

ページを開くと、一日一行だけ書かれていた。

「今日も無事」

「柿が実った。ありがとう」

「風が気持ちよかった」

「近所の人が笑っていた」

特別なことは何もない。

けれど、その一つ一つが、佐伯にとっては幸せだった。

最後のページには、こう書かれていた。

「今日も目が覚めた。ありがとう」

奈津美は、その文字を長い間見つめていた。

「あかりの会」は、今では若いボランティアも増えていた。

榎本は相変わらず忙しそうだった。

「最初は偽善だったんですよ」

今でもそう言う。

けれど、その言葉の後には必ず、

「でも、続けてよかった」

と続ける。

清水も、相変わらず不器用だった。

以前の会社から正式な謝罪を受けたわけではない。

失った年月が戻ったわけでもない。

それでも、以前より穏やかな顔をしていた。

社内の不正に悩む元同僚たちが、時々、彼を頼って相談に来るという。

正しさは、賞状のように手渡されるものばかりではない。

誰かの記憶の中に残ることもある。

誰かの命を守ることもある。

そして、ときには自分自身の心を、少しだけ救うこともある。

奈津美と高梨は、今も時々、あの丘へ登った。

ある夕暮れ。

二人は並んで街を見下ろしていた。

「幸せって、何だろうね」

奈津美が言った。

高梨は少し考えた。

「健康とか、金とか、仕事とか。人によって違うだろうな」

「うん」

「でも……」

高梨は街を見た。

「誰かと同じ景色を見られることも、幸せなんじゃないか」

奈津美は笑った。

「前にも聞いた気がする」

「そうだったか?」

「うん」

「じゃあ、俺も少しは成長してるってことだな」

二人は笑った。

街には無数の光が灯っている。

その一つ一つの下で、人が暮らしている。

笑っている人。

泣いている人。

病気と闘っている人。

誰かを待っている人。

明日のことを考えている人。

それぞれの人生が、ほんのわずかな時間の差によって交差している。

奈津美は思った。

幸せは、遠くにあるものではないのかもしれない。

健康であること。

誰かに必要とされること。

好きな人と食事をすること。

無事に家へ帰ること。

朝、目を覚ますこと。

そして、

今この瞬間を、誰かと共有できること。

そんな小さなものの中に、もう幸せは存在している。

交差点の信号が、青に変わる。

その〇・三秒前。

どこかで誰かが靴紐を結び直している。

誰かが、忘れ物に気づいて立ち止まる。

誰かが、なぜか一本遅い電車を選ぶ。

それが偶然なのか。

確率の偏りなのか。

まだ知られていない物理法則なのか。

あるいは、本当に誰かがそっと世界を支えているのか。

奈津美には、わからない。

たぶん、これからもわからない。

でも、それでいい。

わからないものが一つくらい、この世界に残っていてもいい。

奈津美は隣を歩く高梨に、ふと思いついたように尋ねた。

「ねえ、高梨は今、幸せ?」

「藪から棒だな」

高梨は苦笑した。

そして少し考えた。

「……悪くはない」

「それだけ?」

「少なくとも、今この瞬間は」

奈津美は笑った。

「それで十分だよ」

信号が青になった。

二人は歩き出した。

同じ景色を。

同じ目線で。

並んで。

(了)


Amazon Kindle



あとがき

物語の中で描いた「〇・三秒のズレ」は、科学的に確認された現象ではありません。

けれど、私たちの人生を振り返ってみると、

「あのとき、なぜかそうした」

という出来事は、意外なほど多いものです。

予定していた道をなぜか変えた。

一本早い電車に乗らなかった。

忘れ物を取りに戻った。

誰かからの電話に出るために立ち止まった。

その結果、何かが起きた。

あるいは、何も起きなかった。

人生では、「起きなかった出来事」を知ることができません。

事故に遭わなかった。

病気にならなかった。

誰かと出会わなかった。

逆に、出会った。

私たちは、実際に起きた出来事だけを人生として受け取っています。

けれど、その裏側には、無数の「起きなかった可能性」がある。

そう考えると、何気ない一日も、少し違って見えてくるのではないでしょうか。

この物語では、「ズレ」を通して、いくつかの人間の姿を描きました。

誰かに助けられたと感じ、感謝する老人。

不純な動機から始めた活動を、いつしか本当の仕事に変えていった女性。

正しいことをしたにもかかわらず、報われなかった男。

そして、過去の後悔を抱えながら、未来の誰かを救おうとする女性。

人生は、必ずしも公平ではありません。

正しい人が必ず報われるわけでもない。

善いことをしたから、幸せになれるとも限らない。

それでも、人が誰かのためにしたことは、完全に消えてしまうわけではないのだと思います。

それは誰かの記憶に残るかもしれない。

誰かの命を救うかもしれない。

誰かの心を少しだけ軽くするかもしれない。

そして、その小さな行為が、また別の誰かの行動を変えるかもしれない。

それもまた、一種の「ズレ」なのではないでしょうか。

私は、幸せというものは、手に入れるものだけではないと思っています。

すでに持っているものに気づくこと。

今日も目を覚ました。

誰かと話した。

ご飯を食べた。

笑った。

無事に家へ帰った。

そんな、ごく普通の一日の中にある小さな出来事を、

「ありがたい」

と思えること。

それも、幸せの一つなのだと思います。

もし明日、あなたがなぜか立ち止まったとしたら。

もし、予定とは違う道を歩いたとしたら。

もし、何となく誰かに電話をしたくなったとしたら。

その理由は、きっとわかりません。

ただ、その小さな「ズレ」が、あなたの人生にとって何か大切な意味を持つこともあるのかもしれません。

もちろん、本当にただの偶然かもしれません。

それでも私は、

「もしかしたら」

と思っていたい。

世界には、まだ私たちの知らない優しさが残っているかもしれないからです。

あなたのこれからの日常にも、

小さな「ズレ」と、

その先にある温かな光が、

そっと差し込みますように。



年に1度
近くに見えた時にと
チケットを取り
カミさんと
カミさんのテニス仲間たちとで
出掛ける年中行事

毎度 
その大ホールは超満員となり
今回もやっと手に入れた
ファンクラブ枠のチケット



相変わらずの
爆笑トークと
身震いし鳥肌が立つ音を

グレープの頃から
長いこと追い掛けて来た

若い頃は
隠れまさしたんとも陰口を叩かれ
それでも
好きなものは好きだと
胸を張って来た



ファンクラブは
今まだ22000人もいるそうで
尚も特に40代の男性が
増え続けているそうだ

一時は
ジャニーズのすべてを足しても
敵わないほどだったそうだが
長年のファンたちも
そろそろ老いて
時間と戦い始めたようだ 

ここもまた
あとどのくらい? という
暗黙のカウントダウンが
始まっており

最後まで見届けねばと
急ぐ足



今夜のお隣の席は
のっけからスタンディングで
賑やかに微笑むオバさんがいて

ツアーを追い掛け
岐阜から来たそうで
これから車を運転して帰ると
微笑んでいたっけ

訊けば
そんな方々が多いらしく
愛されてることに
また嬉しくなった

あの頃の客席は
黄色い声がしていたけれど
今は
ナフタリンの香りが… なんて
さださんも微笑んでいる

そうだ
皆 同じだけ齢を重ね
僕がこんなだから
あなた方もそんなだよね と
これまた笑っている


セロ弾きのゴーシュ


僕もまた
出会えたことへの感謝と
その置き土産をして去った
あいつにも感謝しながら…



子らへ届く光

―― あるタイムマシンの物語 ――



まえがき

人は、自分の生きている時代しか選べません。

過去へ戻ることもできなければ、未来を直接見ることもできません。

だからこそ、ときどき思うのです。

もし未来から誰かがやって来て、

「あなたたちの今日が、私たちの未来を決めました」

そう教えてくれたら、私たちは何を思うだろう、と。

若い頃には、未来など遠い先の話でした。

けれど、歳を重ねるにつれて、未来という言葉の中に、顔が見えるようになります。

子どもたちの顔です。

孫の顔であり、その孫がまだ見ぬ子どもたちの顔です。

自分たちがいなくなった後にも続いていく世界。

そこに、何を残すのか。

何を壊さずに渡すのか。

そして、何を伝えるのか。

この物語は、七十を過ぎた一人の老人のもとへ、未来から一人の若者が訪れるところから始まります。

老人が持っていたのは、特別な能力ではありません。

怒りながらも、怒りだけでは何も変わらないと知ったこと。

諦めそうになりながら、それでも言葉を書くことをやめなかったこと。

そして、目の前にいる子どもの未来を、ほんの少しでも良くしたいと思ったこと。

それだけでした。

タイムマシンは、過去を変えるための機械なのか。

それとも、今を生きる人間に「未来を選ぶ責任」を思い出させるための機械なのか。

答えは、この物語の中にあります。

もし読み終えたあと、身近にいる子どもの顔を一度でも思い浮かべていただけたなら。

この物語の光は、もう一つの未来へ届いたのかもしれません。




一、冷静という名の防波堤

怒っても、苛立っても、それは結局、自分の中だけのことだ。

老詩人・宮下修一は、深夜のパソコンの前で、いつもそう自分に言い聞かせていた。

七十を過ぎてからの日課は、ブログに詩を書くことだった。

誰かに頼まれたわけではない。

出版社から声がかかるわけでもない。

読者が大勢いるわけでもない。

それでも修一は、ほとんど毎晩、キーボードを叩いた。

書くことで、胸の中に溜まったものを少しだけ外へ出せる。

それだけでよかった。

若い頃は違った。

中学校の理科教師だった修一は、生徒に手を上げたことこそ一度もなかったが、職員室の机を拳で殴ったことなら、数え切れないほどあった。

授業が思うように進まなかった日。

保護者から理不尽な電話を受けた日。

同僚と教育方針をめぐって激しく言い合った日。

怒りは、いつも修一の中から簡単にあふれ出した。

湯呑みを割った。

棚を蹴った。

自転車の泥よけを壊した。

翌朝になれば、壊したものを見て自己嫌悪に陥った。

だが、怒りが直してくれたものは、一つもなかった。

壊したものだけが、増えていった。

定年退職して十年。

妻の富子からは、

「あなた、ずいぶん丸くなったわね」

と言われる。

だが修一は、そうは思っていなかった。

丸くなったのではない。

諦めるのが、少し上手くなっただけだ。

怒鳴ったところで、世の中は動かない。

腹を立てたところで、過ぎた時間は戻らない。

ならば、冷静でいた方がいい。

それが七十を過ぎて、ようやく分かったことだった。

その夜、修一は一篇の詩を書き終えていた。

テーマは、三日後に迫った選挙だった。

画面には、こんな言葉が並んでいた。

――今がなくては、未来は来ない。

――今日の都合だけで選んだものが、明日の子どもたちに残る。

――未来は、遠い場所にあるのではない。

――今日のすぐ先にある。

修一はしばらく画面を眺めた。

「……説教くさいかな」

独り言を呟いた。

それでも削除はしなかった。

投稿ボタンを押す。

画面の右上に、小さな「公開しました」の文字が出た。

窓の外では、九月の生ぬるい風が網戸を揺らしていた。

遠くで電車が走る音がした。

それきり、静かな夜が戻ってきた。

修一はパソコンの電源を落とし、寝室へ向かった。

隣の布団では、妻の富子がすでに眠っている。

四十年以上連れ添った妻は、修一が夜な夜な詩を書いていることを知っていた。

だが、内容に口を出したことは一度もない。

「あなたが機嫌よく書いていれば、それでいいのよ」

それが富子の口癖だった。

若い頃、怒りに任せて物を壊していた修一を、富子は何度も黙って見守ってきた。

天井を見つめながら、修一はふと思った。

教師時代の最後の教え子たちは、今では四十代になっている。

あの子たちは、今の日本をどう見ているのだろう。

そして、その子どもたちは。

修一はそんなことを考えながら、いつしか眠りに落ちていた。

⸻

二、選挙前夜、街の空気

翌朝。

修一は近所の喫茶店「モカ」で、旧友の田村と待ち合わせていた。

田村は地方紙の記者を四十年務め、去年ようやく退職した男だった。

二人は週に一度、ここでコーヒーを飲みながら世間話をする。

「修一、昨日の詩、読んだぞ」

田村は新聞を畳んだ。

「また辛口だな」

「辛口のつもりはない。ただの独り言だよ」

「独り言にしちゃ、アクセス数が伸びてるじゃないか」

「物好きがいるんだろ」

田村が笑った。

窓の外を選挙カーが通り過ぎていく。

候補者の名前が、スピーカーから繰り返し流れていた。

だが、通行人の多くは振り返らなかった。

イヤホンをした若者。

ベビーカーを押す母親。

仕事へ急ぐ会社員。

誰もが、自分の一日を生きることで精一杯だった。

「静かな選挙だな」

田村が言った。

「みんな疲れてるんだろ」

「疲れているから、諦めるのか」

「……そういうこともあるさ」

店の隅では、田村の孫、健太が参考書を広げていた。

大学生の健太は、修一に気づくと軽く頭を下げた。

「健太くん」

「はい」

「今度の選挙、行くのかい」

健太は少し考えた。

「たぶん、行かないっす」

「どうして」

「誰に入れても同じっていうか……俺一人の一票で、何か変わるとは思えないんで」

田村が眉をひそめた。

「こら、そういうことを言うもんじゃない」

「だって、じいちゃん。俺が就職する頃には年金だってどうなってるか分かんないし、給料だって上がる気がしない。なのに、五十年後の未来を考えろって言われても、無理っすよ」

修一は黙っていた。

健太の言葉には、反抗よりも疲れがあった。

「先生」

健太が言った。

「先生のブログ、じいちゃんに送られてきたやつ、たまに読んでます」

「そうか」

「でも……正直、未来とか言われても、ピンと来ないんですよ」

修一はコーヒーを一口飲んだ。

「今日が大変なら、五十年後のことなんて考えられないよな」

健太は意外そうな顔をした。

「先生、怒らないんですね」

「昔なら怒ってた」

修一は笑った。

「机くらい殴ってたかもしれん」

田村が吹き出した。

「お前は本当に昔、ひどかったからな」

「だから今は、殴らない」

修一は窓の外を見た。

「その代わり、考える」

「何を?」

「今日の選択が、誰かの明日になるってことを」

健太は答えなかった。

ただ、参考書を閉じることもしなかった。

⸻

三、謎の来訪者

その晩。

修一は書斎で、数年前に書いた「タイムマシンの話」という記事を読み返していた。

アインシュタインの相対性理論。

光速に近づくほど時間の進み方が変わること。

それを修一は、昔の生徒たちに「浦島太郎みたいなものだ」と説明したことがある。

その記事に、新しいコメントが一件ついていた。

あなたの考察は、正しいです。
もう一度、確かめに行きます。

名前はない。

修一は眉をひそめた。

悪戯だろう。

そう思った。

削除しようとマウスに手を伸ばした、そのときだった。

本棚の陰に、青白い光が浮かんだ。

最初は、小さな輪だった。

水面に映った月を、そのまま空中に切り取ったような光。

修一は瞬きをした。

光は消えなかった。

むしろ、少しずつ大きくなった。

「……なんだ、これは」

立ち上がろうとした。

だが、足に力が入らない。

光の輪の中央が揺らいだ。

そして――

一人の若者が現れた。

二十代半ばほどに見える。

服装は見慣れない。

布のようにも、金属のようにも見える。

光の角度によって、色が微妙に変化していた。

若者は静かに一礼した。

「驚かせて、すみません」

修一は声が出なかった。

「私は、あなたの詩を読みに来ました」

「……詩?」

「ブログの詩です。それから、『タイムマシンの話』も」

修一の背中を冷たい汗が流れた。

「君が……あのコメントを?」

若者は頷いた。

「はい」

⸻

四、光より速く老いる者

壁時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。

カチ。

カチ。

カチ。

修一はメガネを掛け直した。

「夢じゃないんだな」

「夢ではありません」

若者は答えた。

「頬をつねってみてください」

「もうやった」

「そうですか」

若者が少し笑った。

修一は、その笑顔に不思議な既視感を覚えた。

「君は何者なんだ」

「未来の地球人です」

「未来?」

「はい」

修一は椅子に座り直した。

「タイムマシンが、本当に完成したということか」

「正確には、時間そのものを自由に行き来できるわけではありません。過去への接触には非常に大きな制約があります」

「相対性理論は?」

「あなたが書いた通りです。光速に近づけば、時間の進み方は変わります」

若者は机の上に置かれた古い物理の教科書を見た。

「ただ、私たちの技術は、それだけではありません」

「なら、過去へ戻ることもできるのか」

「完全な意味ではありません。過去に長く滞在することも、歴史を自由に変更することもできません」

「では、なぜ私のところへ来た」

若者はすぐには答えなかった。

「それを話す前に、一つだけ伝えたいことがあります」

「なんだ」

「あなたが長年、疑問に思っていたことです」

⸻

五、来訪者は、未来の地球人だった

修一は思い出した。

「宇宙人のことか」

「はい」

修一は昔から不思議だった。

もし宇宙に高度な文明があるなら、なぜ地球へやって来ないのか。

なぜ地球を支配しようとしないのか。

なぜ人類は、遠い宇宙からの侵略を恐れるのか。

「君たちは宇宙人じゃないのか」

「宇宙人ですよ」

若者は微笑んだ。

「ただし、あなた方の遠い未来から来た地球人です」

修一は言葉を失った。

「未来の……地球人」

「そうです」

「地球は、その未来まで残っているのか」

「残っています」

修一の胸に、安堵が広がった。

「人類も?」

「います」

「戦争で滅びたりは?」

「何度も危ないところまで行きました」

「それでも?」

「それでも、残りました」

若者は窓の外を見た。

「ただし、あなたの時代から先は、何度も大きな分岐があります」

「分岐?」

「争いを選ぶか、対話を選ぶか。目先の利益を選ぶか、次の世代を選ぶか。便利さを優先するか、残すものを考えるか」

「そんな小さな選択が?」

「未来は、小さな選択でできています」

修一は黙った。

若者は続けた。

「私たちが存在できる未来も、最初から決まっていたわけではありません」

「では、誰かが道を変えた?」

「そうです」

「誰が?」

若者は、壁に貼られた一枚の写真を見た。

修一の孫娘、美咲の写真だった。

「まだ分かりません」

「分からない?」

「歴史は、結果だけを見れば一本の道に見えます。しかし、その途中には無数の選択があります」

若者は写真から目を離した。

「だから私は、あなたに会いに来ました」

「なぜ私なんだ」

「あなたが、諦めながらも、書くことをやめなかったからです」

修一は息を呑んだ。

「誰にも届かないと思いながら、それでも書いた」

「……それだけで?」

「未来を変えるのは、大きな英雄だけではありません」

若者は静かに言った。

「誰かに届くかもしれない言葉を、今日も残す人がいます。その言葉を読んだ誰かが、別の誰かに伝えます。そして、その誰かが――」

若者は美咲の写真を見た。

「さらに次の誰かへ渡す」

修一は何も言えなかった。

⸻

六、孫娘・美咲と交わした約束

若者が消えたあと、修一は一睡もできなかった。

机の上には、若者が座っていた椅子がある。

ほんの少し、位置がずれていた。

夢ではない。

そのことだけは分かった。

翌日は日曜日だった。

娘の直子が、美咲を連れて遊びに来た。

「おじいちゃん、これ見て!」

美咲は学校で描いた絵を広げた。

空に大きな丸い光が浮かび、その下に一人の人間が立っている。

「宇宙人?」

修一が尋ねると、美咲は頷いた。

「うん」

「怖くないのか」

「全然」

「どうして?」

「優しい顔だったから」

修一の手が止まった。

「……会ったのか?」

「夢の中で」

直子が笑った。

「最近、この子、変な夢ばかり見るのよ」

修一は笑えなかった。

「どんな人だった?」

「お兄さんみたいな人」

美咲は少し考えてから言った。

「なんかね、悲しそうだった」

修一の胸がざわついた。

「それから?」

「『まだ間に合う』って言ってた」

修一は美咲を見つめた。

「まだ……間に合う?」

「うん」

美咲は何でもないことのように答えた。

そして机の上の修一のブログ原稿を見た。

「おじいちゃんの詩、難しいね」

「そうか」

「でも、子どもを守ってっていうのは分かるよ」

「どうして?」

美咲は首を傾げた。

「だって、あたしも子どもだもん」

屈託なく笑った。

その笑顔を見て、修一は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「美咲」

「なに?」

「おじいちゃんと約束しよう」

「何の?」

「美咲たちが大人になったとき、今より少しでも笑っていられるように、おじいちゃんもできることをする」

「何するの?」

「まずは、黙らないことかな」

美咲はよく分からない顔をした。

「指切りする?」

「ああ」

小さな指と、皺だらけの指が絡まった。

「指切りげんまん」

美咲の声が、静かな居間に響いた。

その瞬間、修一は思った。

これは政治の話ではない。

未来の話でもない。

目の前にいる、この子との約束なのだ。

そのあと修一は、台所で皿を洗う直子に声をかけた。

「直子」

「なに?」

「仕事、大変か」

「まあね」

「子育ても?」

「大変。でも、楽しいこともあるよ」

修一は少し黙った。

「……すまなかったな」

「何が?」

「お前が小さい頃、仕事ばかりだった」

直子は驚いた顔をした。

「急にどうしたの?」

「いや……」

「今さらよ」

直子は笑った。

「でも、そう思ってるなら、美咲のこと、これからいっぱい構ってあげて」

「ああ」

「それだけで十分」

その夜、布団の中で修一は考えた。

未来を守るというのは、何も大きなことだけではない。

今日、家族と食卓を囲む。

子どもの話を聞く。

約束を守る。

誰かの言葉を無視しない。

もしかしたら、未来とは、そういう小さなものの延長なのかもしれない。

⸻

七、あの日、空が二度またたいた

選挙前日の夕方だった。

修一が夕食の支度をしていると、テレビの画面が一瞬乱れた。

ほんの一秒にも満たない。

映像が二重になった。

同じ人物が二つの動きをした。

次の瞬間、元に戻った。

「……なんだ?」

修一はテレビの前に立った。

インターネットには、すでに投稿が始まっていた。

信号機が、同じ色を二度灯した。

駅のアナウンスが、同じ言葉を二回繰り返した。

時計が、一秒だけ戻った。

同じ場所にいた人間なのに、違う記憶を持っている。

そんな報告まであった。

田村から電話が来た。

「修一、見たか?」

「ああ」

「何だと思う?」

修一は答えられなかった。

分かっていた。

いや、分かってしまった。

「……田村」

「なんだ」

「空が、二度またたいたんだ」

「何?」

「いや……何でもない」

その頃、健太も大学で同じ現象を見ていた。

目の前を歩いていた友人が、笑っていた。

次の瞬間、同じ友人が、泣いていた。

そして、また笑っていた。

ほんの一瞬だった。

だが健太は、その二つを同時に覚えていた。

帰宅後、健太は祖父に電話した。

「じいちゃん」

「どうした」

「今日、変なもの見た」

「どんな?」

「……未来が二つあるみたいだった」

田村は返事ができなかった。

そして修一のもとには、直子から電話が入った。

「お父さん」

「どうした」

「美咲がね……」

声が震えていた。

「『あの夢のお兄さんが、もう一度来た』って」

修一は電話を握る手に力を込めた。

「美咲は何を見た?」

「光」

直子は言った。

「青い光を見たって」

⸻

八、世界の反応

翌朝になっても、世界中の混乱は収まらなかった。

同じ瞬間が二度現れた。

そう表現するしかない現象だった。

物理学者たちは、観測の問題や量子力学の可能性を議論した。

通信障害説。

集団的な錯覚説。

未知の自然現象説。

どれも決定的ではなかった。

修一はテレビを消した。

自分だけが知っている。

そう思うと、妙な孤独を感じた。

富子が茶を運んできた。

「あなた」

「ん?」

「さっきから難しい顔してる」

「……富子」

「何?」

「もし俺が、未来から人が来たと言ったら?」

富子は修一の顔を見た。

しばらく何も言わなかった。

それから、

「信じるかどうかは、そのあとでいいんじゃない?」

と言った。

「まず、あなたが何を見たのか聞かせて」

修一は、すべて話した。

青白い光。

若者。

未来の地球。

美咲の写真。

そして、二度またたいた空。

富子は最後まで黙って聞いた。

「……それで?」

「それで?」

「あなたは、どうするの?」

修一は答えた。

「明日、投票に行く」

「うん」

「それから、もう少しだけ声を出してみようと思う」

富子は微笑んだ。

「あなたらしいわね」

「昔は、怒って物を壊してた」

「覚えてるわよ」

「今は、怒らずに声を出す」

富子は湯呑みを両手で包んだ。

「それなら、きっと大丈夫」

⸻

九、分岐点――若者、再び

その夜。

書斎に、また青白い光が灯った。

若者だった。

前より疲れているように見えた。

「あなたも見ましたね」

「ああ」

「二重の瞬間を」

「君たちがやったのか」

「正確には、私たちが起こしたのではありません」

「どういうことだ」

若者は窓辺に立った。

「未来には、いくつもの可能性があります」

「それを重ねて見せた?」

「一瞬だけ」

「なぜ」

「知ってほしかったからです」

「何を?」

「未来は、決まっていない」

修一は黙った。

「一方の未来では、人々は疲れ果て、どうせ何をしても変わらないと考える。子どもたちは減り、学校はなくなり、地域から人が消えていく」

「もう一方は?」

「違う選択を積み重ねた未来です」

「子どもが増える?」

「必ずしも、そう単純ではありません」

若者は首を振った。

「誰かが誰かを支え、学ぶ機会を残し、失敗した人間を切り捨てず、次の世代に少しでも余白を渡す」

「それが未来を変える?」

「未来を変えるのは、一人の英雄ではありません」

若者は修一を見た。

「一人ひとりです」

「選挙の前日に見せたのは、投票を変えるためか?」

「いいえ」

若者の声は静かだった。

「私たちの規則では、過去の人間の政治的判断を直接誘導することは許されません」

修一は少し安心した。

「では、なぜ?」

「選択の存在を見せることだけが、許された接触だったからです」

「つまり……」

「あなた自身が考えるためです」

修一は長く息を吐いた。

「俺が選ぶんじゃない。俺たちが選ぶ」

「そうです」

「君は、俺を選んだ」

「あなたは、諦めながらも書き続けていた」

若者は微笑んだ。

「それは未来から見ると、とても珍しいことなのです」

「珍しい?」

「誰にも届かないと思っている言葉を、それでも残す人は少ない」

修一は少し笑った。

「詩人だからな」

「だから、あなたに会いました」

⸻

十、修一の決断

若者が消えたあと、修一は机に向かった。

一晩かけて文章を書いた。

何度も書き直した。

怒りを削った。

説教を削った。

正しさを削った。

最後に残ったのは、短い文章だった。

――冷静でいることと、黙っていることは違う。

――誰かを責めるためではなく、次の世代について考えるために声を出そう。

――今日の選択は、今日だけで終わらない。

――未来に届くのは、大きな声だけではない。

――小さな声も、誰かが拾えば、次の人へ渡っていく。

朝。

修一は投稿ボタンを押した。

それから田村へ電話をかけた。

「田村」

「何だ」

「頼みがある」

「珍しいな」

「この文章を広めてほしい」

少しの沈黙。

「分かった」

田村は笑った。

「元記者の意地を見せてやるよ」

文章は地元の情報番組で紹介された。

反響は大きかった。

もちろん批判もあった。

「老人の説教だ」

「不安を煽るな」

「未来のことなんて誰にも分からない」

修一は落ち込んだ。

「やっぱり、書かない方がよかったのかな」

田村は電話の向こうで笑った。

「修一」

「ん?」

「誰の心も波立たせない文章なんて、何も書いてないのと同じだ」

修一は黙った。

「批判されることと、間違っていることは同じじゃない」

「……そうだな」

「ただし、自分が正しいと思い込むのも違う」

「分かってる」

「なら、書き続けろ」

修一は窓の外を見た。

朝の光が差し込んでいた。

⸻

十一、選挙当日

投票日の朝。

修一は美咲の手を引き、直子と一緒に投票所へ向かった。

投票所には、さまざまな人がいた。

ベビーカーを押す母親。

杖をついた老人。

若い夫婦。

学生。

そして、健太。

「先生」

「健太くん」

「昨日、考えました」

「何を?」

健太は少し照れたように笑った。

「俺一人の一票で何かが変わるかどうかは、今でも分かんないです」

「そうか」

「でも、俺一人だからって、最初から何もしなかったら、本当に何も変わらないんですよね」

修一は頷いた。

「それに気づいたなら、それでいい」

健太は投票所の中へ入っていった。

修一も続いた。

投票を終えて外へ出る。

美咲が空を見上げた。

「おじいちゃん」

「ん?」

「今日は空、二回光らないね」

修一は空を見た。

青い空だった。

「そうだな」

「一回だけ?」

「一回でいいんだ」

美咲は意味が分からないように笑った。

修一も笑った。

その日の開票結果を見ても、修一には、それが未来人の見せたどちらの世界なのか分からなかった。

選挙結果だけで未来が決まるわけではない。

そのことを、修一はもう知っていた。

未来は明日も、その次の日も続いていく。

選択も続く。

⸻

十二、未来からの最後の手紙

その深夜。

書斎に、最後の光が灯った。

若者だった。

「これで最後です」

修一は頷いた。

「そうか」

「私たちが、この時代に直接触れられるのはここまでです」

「未来は変わったのか?」

若者は少し考えた。

「傾きが生まれました」

「傾き?」

「未来が一本の線なら、ほんの少しだけ方向が変わった」

「それは、良い方向なのか」

「それを決めるのは、あなた方です」

修一は苦笑した。

「最後まで厳しいな」

「未来は、誰か一人に預けるものではありませんから」

修一は机の上の美咲の写真を見た。

「一つだけ教えてくれ」

「はい」

「君は……俺の子孫なのか?」

若者は初めて、少し困ったような顔をした。

「それは規則違反です」

「やっぱりな」

「ただ……」

若者は懐から一枚の写真を取り出した。

古い写真だった。

そこには、大人になった美咲がいた。

白衣を着ている。

周囲には、大勢の子どもたち。

そして、その顔には、今と同じ笑顔があった。

修一の目が潤んだ。

「美咲……」

「この写真が、あなたにとって何を意味するかは分かりません」

若者は言った。

「でも、未来には残っています」

「何をしているんだ?」

「子どもたちに、科学を教えています」

修一は笑った。

涙を拭った。

「理科教師の孫が、理科を教えてるのか」

「そうです」

若者は一礼した。

「それでは」

「待ってくれ」

「はい」

「未来は……綺麗か?」

若者はしばらく修一を見つめた。

「綺麗なところもあります」

「そうか」

「そして、まだ綺麗にできる場所もあります」

青白い光が強くなった。

若者の姿が薄れていく。

「それを、あなた方にお願いします」

修一が何か言うより早く、若者は光の中へ消えた。

書斎には、写真だけが残った。

⸻

十三、子どもは未来

翌朝。

修一はいつものようにパソコンの前に座った。

新しい詩を書いた。

――未来は、あるらしい。

――それも、私たちが想像するよりずっと遠くまで。

――けれど、その未来は最初から決まっていたわけではない。

――誰かが今日、誰かを思った。

――誰かが今日、声を上げた。

――誰かが今日、子どもの話を聞いた。

――その小さなことが、未来への道を作った。

修一はそこで手を止めた。

少し考えてから、最後の一行を書いた。

――子どもは未来。

そして、その下にもう一行。

――だから、今日を大切にする。

投稿ボタンを押した。

数日後。

健太が家へやって来た。

「先生」

「どうした」

「ゼミで、子どもの支援について発表することになりました」

「そうか」

「先生の詩、引用していいですか?」

修一は笑った。

「もちろん」

「ありがとうございます」

健太は帰り際、玄関で振り返った。

「先生」

「ん?」

「俺、前は未来なんて考えられないって言ったじゃないですか」

「ああ」

「今も、五十年後のことなんて分かりません」

「そうだな」

「でも……自分がやったことが、誰かの明日に残るっていうのは、ちょっと分かる気がします」

修一は頷いた。

「それで十分だよ」

ドアが閉まった。

修一はしばらく、その場に立っていた。

⸻

十四、それから

それから五年の月日が流れた。

あの「二重の瞬間」が何だったのか。

科学的な答えは、結局出なかった。

専門家たちはさまざまな説を唱えたが、どれも決定的なものではなかった。

人々は、少しずつ日常へ戻っていった。

そして、あの日のことを忘れていった人も多かった。

だが、修一は忘れなかった。

美咲の通う学校は統廃合を免れた。

健太は大学を卒業し、役場の子育て支援に関わる仕事に就いた。

以前のような気だるさは、もう顔に残っていない。

そして美咲は、中学生になっていた。

「おじいちゃん」

夕暮れ時。

縁側に座っていた修一の隣へ、美咲が腰を下ろした。

「今日の夕焼け、すごく綺麗だよ」

修一は空を見た。

オレンジ色の光が、街をゆっくり包んでいる。

「本当だな」

「私、将来、宇宙のこと研究したい」

「そうか」

「生物学も面白いんだけど、宇宙って、まだ分からないことがいっぱいあるから」

修一は笑った。

「それなら、いっぱい勉強しないとな」

「うん」

美咲は空を見上げた。

「未来も、こんなふうに綺麗だといいね」

修一は答えようとして、少しだけ考えた。

五年前なら、

「きっと綺麗になるよ」

と簡単に言っていたかもしれない。

だが今は、違う。

未来は、誰にも保証されていない。

だからこそ、人間は今日を選ぶ。

「美咲」

「なに?」

「未来は、綺麗になるかもしれない」

「うん」

「でもな」

修一は笑った。

「綺麗にするのは、お前たちなんだ」

美咲はしばらく黙っていた。

そして、

「じゃあ、おじいちゃんも手伝ってよ」

と言った。

修一は笑った。

「ああ」

皺だらけの手を、美咲の手に重ねた。

「まだ、間に合うからな」

その言葉を口にした瞬間。

修一は、あの夜の若者を思い出した。

――まだ間に合う。

あれは未来からの言葉だったのか。

それとも、自分自身が心の奥でずっと知っていた言葉だったのか。

もう、どちらでもよかった。

夕焼けが、静かに空を染めていた。

空は、一度だけ光った。

その光は、過去へ戻ることもなかった。

誰かを強制することもなかった。

ただ、今日という一日に降り注いでいた。

修一は美咲の横顔を見つめた。

そして思った。

未来へ届けられるものは、財産でも、名誉でもない。

今日、誰かを大切にしたこと。

今日、誰かの話を聞いたこと。

今日、諦めずに声を出したこと。

そして、

次の世代へ渡したいと思った、小さな願い。

それらは、時間を越えて残っていく。

修一は、ゆっくりと空を見上げた。

「美咲」

「うん?」

「帰ったら、また詩を書くかな」

「また難しい詩?」

「今度は、少し分かりやすくするよ」

「じゃあ、読ませて」

「ああ」

二人は笑った。

夕暮れの光の中で。

老人と少女は、しばらく黙って空を見ていた。

その向こうに、まだ誰も知らない未来がある。

それは決まっていない。

だからこそ、人は今日を生きる。

だからこそ、人は明日を選ぶ。

そして、誰かが今日残した小さな光は、

いつか遠い未来で、

まだ見ぬ子どもたちの手元へ届くのかもしれない。

――子らへ届く光。

それは、未来から来る光ではない。

今日を生きる人間が、未来へ渡していく光なのだ。

――了――



Amazon Kindle

Amazon Kindle

Amazon Kindle




あとがき

『子らへ届く光』を書き終えて、ふと思うことがあります。

未来というものは、私たちにとって、あまりにも遠いものです。

十年後。

五十年後。

百年後。

そんな先のことを考える余裕などない。

今日の生活だけで精一杯。

そう思うことも、きっとあるでしょう。

この物語の健太も、最初はそうでした。

「自分の一票で何が変わるのか」

そう思っていた。

けれど、修一も最初から立派な人間だったわけではありません。

若い頃は怒り、物を壊し、あとになって後悔していた。

歳を重ねて、ようやく分かった。

怒ることと、声を上げることは違う。

冷静でいることと、黙っていることも違う。

そして、未来を思うことは、必ずしも大きなことをすることではない。

目の前にいる子どもの話を聞く。

家族との時間を大切にする。

誰かを簡単に諦めない。

今日できることを、一つだけやってみる。

そうした小さな選択が積み重なって、未来という大きな時間を作っていくのだと思います。

この物語では、未来から若者がやって来ます。

けれど、本当は未来人など必要なかったのかもしれません。

美咲の笑顔を見れば、修一はすでに知っていた。

未来は、遠くにあるのではない。

自分の目の前にいる子どもの中にある。

そして、その子どもがいつか大人になり、その先の誰かへ何かを渡していく。

そう考えると、人間は思っているよりずっと長い時間を生きているのかもしれません。

肉体はいつかなくなります。

名前も忘れられるでしょう。

書いた詩も、読まれなくなるかもしれない。

それでも、誰かに優しくした記憶や、誰かを励ました言葉や、誰かのために選んだ小さな行動は、思いもよらない形で次の世代へ残っていく。

それが、人間の持つ不思議な「時間」なのではないでしょうか。

もしこの物語を読み終えたあと、

「自分も、何か一つくらい未来に残せるだろうか」

そんなことを少しでも考えていただけたなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。

未来は、まだ決まっていません。

だからこそ、

今日からでも間に合う。

――子らへ届く光が、あなたの今日にも届きますように。

紹介文

七十を過ぎた老詩人・宮下修一のもとへ、ある夜、青白い光とともに一人の若者が現れた。

「私は、未来の地球人です」

若者が語ったのは、遠い未来の地球の姿だった。

人類は滅びていない。

文明も続いている。

そして、タイムマシンさえ作り上げている。

だが、その未来は最初から決まっていたわけではない。

過去には、いくつもの分岐があった。

争いを選んだ未来。

諦めを選んだ未来。

そして、子どもたちの未来を守ろうとした未来。

やがて、選挙を目前にした街で、奇妙な現象が起こり始める。

テレビの映像が二度流れる。

信号が二度またたく。

人々は、一瞬だけ「二つの未来」を見てしまう。

修一の前に再び現れた未来人は言う。

「未来は、まだ決まっていません」

だが、過去へ干渉することは許されていない。

できるのは、可能性を見せることだけ。

修一に与えられたのは、未来を変える特別な力ではなかった。

一人の老人として、

何を語るのか。

何を残すのか。

そして、目の前にいる子どもと、どんな約束をするのか。

やがて修一のもとに、一枚の写真が残される。

そこに写っていたのは、未来の大人になった孫娘・美咲だった。

これは、タイムマシンの物語であり、

未来から来た若者の物語であり、

そして何より、

一人の老人が、次の世代へ小さな光を手渡していく物語。

未来は、まだ決まっていない。

だから――

まだ、間に合う。

――『子らへ届く光』
――あるタイムマシンの物語

チンチン・シンギュラリティ

――直感エンパイア、抵抗せよ――


まえがき

世の中には、科学では説明できないことがある。

たとえば、なぜ人は、理由もないのに「なんとなく嫌な予感がする」と感じるのか。

なぜ、頭では「やめておけ」と分かっているのに、妙な方向へ突っ走ってしまうのか。

本作は、そんな誰も真面目に考えなかった疑問を、あえて真面目に、そして全力でバカバカしく考えてしまった物語である。

ある日、東京の会社員・月見谷太郎の下腹部から、小さな鎧武者が飛び出した。

その名は――チン太郎。

一方、同期の火野花子の前には、彼女自身の「直感」を名乗る狐面の精霊、カンナが現れる。

二人の中に眠っていたものは、単なる妄想ではなかった。

それどころか、それを兵器として利用しようとする謎の組織まで動き出し、事態は東京を巻き込む大騒動へと発展していく。

笑っていただければ、それで十分である。

ただし、読み終えたあとに、

「そういえば、自分にも直感というものがあったな」

と思っていただけたら、作者としては少し嬉しい。

人間は、理屈だけでは生きられない。

ときには衝動に背中を押され、ときには直感に救われる。

その、説明のつかない部分こそ、人間の面白さなのかもしれない。

それでは、ご同輩。

くれぐれも下腹部にはお気をつけて。




プロローグ

女の直感、男の衝動

東京・丸の内。

中堅商社「東亜ぶらぶら物産」のオフィスビル。

そこでは、誰も本気にはしない、こんな噂が囁かれていた。

男には、衝動という名の武器がある。

女には、直感という名のセンサーがある。

普段なら、酒の席の冗談で終わる話だ。

都市伝説と言ってもいい。

ところが、その日の午後。

会議室で、それは突然、現実になった。

男の衝動が、本当に物理的な武器として現れたのである。

本人の意思とは、まったく関係なく。

しかも、そいつは信じられないほど威張っていて、よく喋った。

「あははは」

では済まされない大事件が、いま始まる。

⸻

第一章

覚醒

月見谷太郎、三十二歳。

独身。

彼女いない歴、三十二年。

東亜ぶらぶら物産、営業企画部。

社内での評価は、

「真面目」

「悪い人ではない」

「でも、何を考えているのか分からない」

という、実に微妙な三拍子だった。

その日も太郎は、会議室の隅で息を潜めていた。

議題は来期の予算案。

課長が資料をめくりながら、部下を順番に詰めている。

「この数字の根拠は?」

「ええと……」

「ええと、じゃないんだよ」

いつもの光景だった。

太郎は黙っていた。

関わらない。

目立たない。

それがサラリーマンの生存戦略だ。

その隣に座っていたのが、同期の火野花子だった。

三十二歳。

仕事ができる。

そして、妙に直感が鋭い。

社内では「花子センサー」と呼ばれている。

彼女が、

「なんか怪しくない?」

と言った相手は、かなりの確率で何か問題を起こす。

その花子が、資料を見ながら低く呟いた。

「この予算、絶対どこかに裏がある」

太郎は横目で見た。

「また勘?」

「うん」

「根拠は?」

「ない」

「ないんだ」

「でも、嫌な感じがする」

その瞬間だった。

興奮した課長が立ち上がった拍子に、胸ポケットから一枚の紙が落ちた。

紙は床を滑り、太郎の足元で止まった。

太郎が拾い上げる。

そこには、

『裏帳簿』

と書かれていた。

会議室が凍りついた。

「課長、これ……」

課長の顔が引きつる。

その直後。

太郎の下腹部が、妙に熱くなった。

「……え?」

じわじわ。

ぽかぽか。

そして――

ボンッ!

「うわああああ!」

太郎のベルト付近から、小さな何かが勢いよく飛び出した。

テーブルの上に着地する。

身長、およそ十五センチ。

小さな甲冑。

小さな兜。

小さな刀。

そして、妙に堂々とした仁王立ち。

そいつは胸を張った。

「拙者、チン太郎!」

会議室の全員が固まった。

チン太郎はシャキンと刀を抜いた。

「裏帳簿、発見!」

「いや、お前が発見したんじゃない!」

「悪徳上司、成敗!」

「待て! やめろおおお!」

チン太郎が走り出す。

太郎が必死に追いかける。

課長が腰を抜かす。

悲鳴とスマートフォンの撮影音が交錯する。

誰かが小声で言った。

「動画、撮っといたほうがよくない?」

「撮るな!」

その日。

月見谷太郎の人生は、大きく変わった。

これが、太郎とチン太郎の最悪な出会いだった。

⸻

第二章

直感の使者

同じ頃。

女子トイレの個室で、火野花子は便座に座っていた。

外では、さっきの事件で大騒ぎになっている。

しかし、花子には別の問題が起きていた。

『はなこ』

「誰?」

頭の中から声が聞こえる。

『わたしよ』

「わたしって誰よ」

『あなたの直感』

花子はしばらく黙った。

そして、鏡を見上げた。

そこに、何かが浮かんでいた。

九本の尾を持つ、半透明の狐。

顔には狐面。

しかし、怖いというより、妙に愛嬌がある。

「あなた、本当に私の直感なの?」

『そうよ』

「なんで狐なの?」

『昔から、そういうイメージなの』

「誰が決めたの?」

『知らないわよ』

狐は少しむっとした。

「名前は?」

『カンナ』

「カンナね」

『よろしく』

花子は鏡の中の狐を眺めた。

「ずいぶん勝手に出てきたわね」

『失礼ね。一万年も眠ってたのよ』

「一万年も寝てたんだ」

『そこは、もっと驚いてよ』

花子は笑った。

だが、カンナの表情が変わった。

『でも、今は遊んでいる場合じゃないわ』

「何?」

『誰かが、人間の中に眠っている力を人工的に覚醒させようとしている』

花子の顔から笑みが消えた。

「何のために?」

『兵器にするためよ』

「兵器……」

『そう。太郎くんの下腹部から出たアレも、男の衝動が具現化したもの』

「アレって言い方……」

『そして私は、あなたの直感が具現化した存在』

花子は腕を組んだ。

「つまり、私の勘がキツネになったわけね」

『直感よ』

「はいはい、直感ね」

『大事なところよ』

花子は少し考えた。

「それで?」

『何が?』

「誰かが私たちを兵器にしようとしてるなら、放っておけないでしょ」

カンナが笑った。

『やっぱり、あなたは私ね』

「それ、どういう意味?」

『直感よ』

「便利な言葉ね」

こうして。

火野花子と直感の使者カンナの奇妙なコンビが誕生した。

⸻

第三章

現行犯逮捕未遂

翌朝。

東亜ぶらぶら物産は、異様な熱気に包まれていた。

月見谷太郎は、

「あの武者を出した男」

として、出社早々、総務部に呼び出されていた。

「月見谷くん」

総務部長が始末書を机の上に置いた。

「昨日の件だが」

「はい……」

「公然わいせつ」

「……はい」

「器物破損」

「はい……」

「業務妨害」

「はい……」

三本立てだった。

太郎は遠くを見つめた。

(終わった)

しかし。

本当の問題は、それではなかった。

太郎の下腹部が、またじわじわと熱を帯び始めていた。

「……まずい」

「何が?」

「いえ、何でもありません」

そのとき。

隣の女性社員が何気なく呟いた。

「男の人って、単純ですよね」

――ピクッ。

太郎の顔が青ざめた。

「…………」

「月見谷くん?」

太郎は両手で腹を押さえた。

「すみません」

「何してるの?」

「何でもありません!」

総務部長は引きつった笑みを浮かべた。

「……今日はもう帰りなさい」

「はい」

「それと」

「はい?」

「昨日、会議室に落ちていた裏帳簿の件だ」

太郎が振り返った。

「あれは、極秘研究機関が社員を試すためにばら撒いたダミーだったそうだ」

「ダミー?」

「本物は別にある」

太郎は嫌な予感がした。

その頃。

花子は資料室にいた。

『右から三段目』

カンナが棚を指差す。

「また勘?」

『直感よ』

「便利ね」

引き出しを開ける。

そこには、一冊のファイルがあった。

表紙には、

『武器覚醒計画』

と書かれていた。

花子は息を呑む。

「……本当にある」

カンナが小さく呟いた。

『嫌な予感が当たるのが、直感の嫌なところね』

花子はページをめくった。

研究責任者。

その名前を見た瞬間、手が止まった。

根来博士。

「誰?」

『知らない』

「でも、嫌な感じがする」

『私も』

二人は顔を見合わせた。

事件は、単なる社内不祥事ではなかった。

⸻

第四章

武器覚醒、パニック

その夜。

都内の高層ホテルで、東亜ぶらぶら物産の忘年会が開催された。

太郎は壁際で静かにウーロン茶を飲んでいた。

チン太郎は、おとなしい。

「よし」

太郎は小さく呟いた。

「今夜は大丈夫だ」

しかし。

会場の空調から、甘い香りが漂い始めた。

ほとんど気づかない程度の香りだった。

それは根来博士が仕掛けた、

「本音隠蔽解除フェロモン」

だった。

人間が普段隠している衝動や直感を、強制的に表へ引きずり出す。

最初に叫んだのは営業部の佐藤だった。

「うわあああ!」

ズボンの裾から、小さな武者が飛び出した。

「拙者、佐助!」

「何なんだよ!」

「俺も出た!」

「俺も!」

次々と男性社員から武者が現れる。

テーブルを走る。

料理を食べる。

ビールを飲む。

中にはカラオケのマイクを奪って熱唱する者までいた。

一方。

女性社員たちの周囲にも変化が起きた。

狐。

猫。

梟。

鹿。

小さな龍。

様々な姿の直感の精霊たちが現れ始めた。

『あの課長、経費をごまかしてる』

『社長の髪、実は――』

「それ以上は言わないで!」

『あの男、今から告白するわよ』

「えっ?」

会場は完全なカオスと化した。

太郎は頭を抱えた。

「これ、忘年会だよな?」

チン太郎が胸を張る。

「否!」

「何?」

「武器博覧会でござる!」

「やめろ!」

その瞬間。

会場の照明が落ちた。

大型スクリーンが点灯する。

そこに、一人の男が映し出された。

銀縁眼鏡。

白衣。

そして、いかにも悪役らしい笑顔。

「諸君」

男が言った。

「ようこそ。実験場へ」

花子が叫ぶ。

「根来博士!」

博士は笑った。

「火野くん。さすがは直感の覚醒者だ」

⸻

第五章

黒幕参上

根来博士は、かつて政府の極秘研究機関に所属していた。

研究テーマは、人間の未解明能力。

直感。

衝動。

予知。

判断。

そして、意識下に眠る身体エネルギー。

長年の研究の末。

博士は、ある仮説にたどり着いた。

人間には、自分自身でも理解していない力が眠っている。

その力は、強い感情や極限状態によって、外部へ実体化することがある。

博士は、それを兵器として利用しようとした。

「人間は、己の力を持て余している」

博士が言う。

「ならば、その力を国家が管理すればいい」

黒服の部下たちが現れた。

手には奇妙な装置。

封印リモコン。

「吸収開始!」

強烈な光線が会場を包んだ。

武者たちが吸い込まれていく。

「うわああ!」

「助けて!」

直感の精霊たちも逃げ惑う。

花子が叫んだ。

「間違ってるわ!」

博士が振り返る。

「何がだ?」

「直感も衝動も、人間が自分自身で付き合っていく大切な一部よ」

博士は冷たく笑った。

「綺麗事だ」

そして、一瞬だけ目を伏せた。

「私は昔、自分の衝動に従った人間が、取り返しのつかない失敗をするのを見た」

花子は黙った。

「だから私は、制御する必要があると考えた」

博士の声には、怒りだけではないものが混じっていた。

恐怖だった。

自分でも制御できないものに対する恐怖。

花子は静かに答えた。

「だからって、人間から選ぶ権利まで奪っていい理由にはならない」

博士が睨む。

「人間は間違える」

「ええ」

花子は頷いた。

「だから、自分で選ぶのよ」

カンナの身体が眩しく光った。

九本の尾が大きく広がる。

「カンナ……」

『行くわよ、花子』

一方。

太郎も前に出た。

「チン太郎」

「何でござる?」

「俺に何ができる?」

チン太郎は刀を抜いた。

「主殿」

「うん」

「考える必要はござらん」

「それ、一番危ないやつだろ」

「行くのでござる!」

「やっぱりか!」

チン太郎の身体が光り始める。

十五センチ。

五十センチ。

一メートル。

そして――

一・五メートル。

完全武装の巨大甲冑へと変貌した。

背中には、なぜか格好いいマント。

太郎は呆然とした。

「……なんでマント?」

「格好いいからでござる!」

「そこだけ自信あるな!」

宴会場は、完全な戦場になった。

⸻

第六章

直感エンパイア、抵抗せよ

根来博士が叫んだ。

「すべてを吸収しろ!」

封印リモコンの出力が最大になる。

巨大な光が会場を覆った。

カンナが空へ舞い上がる。

九本の尾が大きく広がった。

『根来博士』

博士が顔を上げる。

『あなたは、直感を少し勘違いしているわ』

「何を?」

『直感は、未来を当てる道具じゃない』

カンナの身体が輝く。

『自分が本当はどうしたいのかを、誰より先に感じ取る力よ』

博士は黙った。

チン太郎が巨大な刀を構える。

「主殿!」

「何?」

「ここは拙者にお任せを!」

「……頼む」

チン太郎が叫ぶ。

「気合一閃!」

太郎が嫌な顔をする。

「待て。嫌な予感がする」

「武士の一物斬り!」

「やっぱりそれかあああ!」

一閃。

巨大な刀が振り下ろされた。

――ガキィン!

封印装置が真っ二つに砕けた。

光が弾ける。

囚われていた武者や精霊たちが、一斉に解放された。

しかし。

根来博士は最後の装置を起動した。

「まだ終わらん!」

巨大なエネルギーが膨れ上がる。

太郎と花子は、同時に手を伸ばした。

互いの手が触れる。

その瞬間だった。

チン太郎とカンナの身体が、同時に光り始めた。

赤でもない。

青でもない。

白でもない。

ただ、温かい光だった。

その光が会場全体へ広がっていく。

武者たちが立ち上がる。

精霊たちも立ち上がる。

そして。

根来博士の装置が、震え始めた。

「なぜだ……?」

博士が呟く。

「なぜ制御できない!」

花子が答えた。

「だって、人間だから」

「……」

「人間は、あなたが考えるほど単純じゃない」

太郎も続けた。

「理屈だけじゃ、人間は動かないですよ」

「君に何が分かる」

「分かりません」

太郎は苦笑した。

「だから、自分で考えるんです」

装置が激しく震える。

そして――

パーン!

間の抜けた音を立てて、封印リモコンが爆発した。

博士は呆然とした。

「理論上は……完璧だった……」

チン太郎が胸を張った。

「人間は、理論だけではござらぬ!」

カンナが続ける。

『直感も、衝動も、失敗も、迷いも』

花子が言った。

「全部ひっくるめて、人間なのよ」

博士は、ゆっくりと膝をついた。

⸻

第七章

あははは、で終わらせるために

翌朝。

根来博士とその部下たちは逮捕された。

「武器覚醒計画」も、政府によって封印されることになった。

しかし。

東亜ぶらぶら物産には、別の問題が残った。

めちゃくちゃに破壊された宴会場。

そして、

「忘年会で謎の武者が大暴れ」

という動画が、インターネット上に大量に拡散されていた。

太郎は再び、総務部長の前に座っていた。

「月見谷くん」

「はい」

「始末書一枚でいい」

「えっ?」

「これ以上詳しく調べると、私の精神が持たない」

「ありがとうございます!」

こうして太郎は、なんとか会社をクビにならずに済んだ。

ただし。

社内での新しいあだ名は、

「武者を出した男」

になった。

花子も、

「狐と会話する女」

と呼ばれるようになった。

夕方。

二人は会社を出た。

東京の街は、何事もなかったかのように動いている。

花子が言った。

「ねえ、太郎くん」

「何?」

「これからどうする?」

「できれば、普通に過ごしたい」

「無理じゃない?」

「……だよな」

そのとき。

太郎の下腹部から、

ポコン。

と、チン太郎が顔を出した。

「主殿!」

「出てくるな!」

「向こう角に、新たなる邪気が!」

花子の肩でカンナも目を細める。

『……あ』

「何?」

『ちょっと嫌な予感』

花子が笑った。

「行く?」

太郎はため息をついた。

「行くしかないか」

チン太郎が刀を掲げる。

「いざ!」

「だから、その格好で街を歩くな!」

四人は、笑いながら夕闇の東京へと駆け出していった。

世界には、まだ無数の「覚醒」が眠っている。

直感。

衝動。

予感。

迷い。

勇気。

それらは、決して兵器ではない。

人間が人間らしく生きるために持っている、不思議で、面倒で、愛すべき力なのだ。

人間は、理屈だけでは生きられない。

直感も。

衝動も。

失敗も。

迷いも。

その全部を抱えたまま、自分で選んで進んでいく。

そして。

その瞬間こそが――

本当の意味での、

人間のシンギュラリティ

なのかもしれない。

なあ、ご同輩。

自分の中にある妙な力を、どうか大切に。

ただし。

下腹部から甲冑武者が飛び出した場合は、速やかに周囲の人と距離を取ることをおすすめする。

あははは。

⸻

あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

「なぜ、こんな話を書いてしまったのだろう」

執筆しながら、作者自身も何度か考えました。

けれど、考えているうちに、ふと思いました。

人間というものは、案外こういうものなのではないか、と。

頭では分かっているのに、なぜか突っ走ってしまう。

理由は説明できないのに、「こっちだ」と感じる。

あとから考えれば間違っていることもある。

けれど、その直感に救われることもある。

誰かに背中を押してもらわなければ踏み出せないとき、突然湧いてくる衝動に助けられることもある。

本作では、そんな人間の説明できない部分を、

「男の衝動=チン太郎」

「女の直感=カンナ」

という、とんでもない形にしてしまいました。

もちろん、現実には存在しません。

……たぶん。

科学が進歩しても、人間自身について分からないことは、まだまだあります。

だから面白い。

分からないものを、すべて難しく考える必要もありません。

ときには笑ってしまえばいい。

本作は、そんな気持ちで書いた、

不思議で、くだらなくて、ちょっとだけ哲学的なSFコメディ

です。

もし読み終えて、

「くだらないなあ」

と笑っていただけたなら、大成功です。

もしそのあと、

「でも、人間って案外こういうものかもしれないな」

と思っていただけたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。

それでは、ご同輩。

次にあなたの直感が何かを囁いたときは、少しだけ耳を傾けてみてください。

そして、もし妙な衝動に背中を押されたとしても――

最後に決めるのは、あなた自身です。

ただし。

下腹部から甲冑武者が飛び出してきた場合は、速やかに周囲の人と距離を取ることを強くおすすめいたします。

あははは。


アマゾン キンドル



ーー原詩ーー

女の感

男が女と違うのは
おちんちん という名の武器が 付いているということ

女が男と違うのは
直感という
神が与えた 稀有な魔力が付いているということ

それは
もちろん
女たちにとって
これ以上ない武器で

それによって
刺された男どもは
もしかすると
男の
その武器によって
刺された女の如く。。。な かも? な もの。。。

そ~よ
男どもは
それをとがらせた女たちの前では
とてもとても
太刀打ち出来ないものであって



ただし
その直感そのものは
もしかすると
女自身も気付かずに
口にしているのかもしれず

男たちとしては
まずは 閉口
そして
顔色を変えず
黙っておるのが
これ 1番なのかもしれない と。。。

まあ~
ダメなもんは
どんなことをしても ダメなもんで

あきらめ
せめて
現行犯逮捕 な だけは
免れたいものである

なあ~
ご同輩。。。

あははは