あの世は なくてはならない

〜冥界第三窓口、本日も混雑中〜



まえがき

 この物語は、ひとつの詩から生まれた。


 夏の終わり、最愛の祖母と、長年の仕事仲間を続けて亡くした誰かが書いた詩。人生が確実に折り返しを過ぎたと感じながら、「あの世はあるのか?」ではなく「あの世はなくてはならない」と思い至る、静かな詩。


 もしあの世があるとしたら——それはどんな場所だろう。


 受付があって、番号札があって、待合室があって、窓口のお姉さんがいる。前世照会ができて、渡河の順番待ちがあって、亭主を探しに来た奥さんが怒鳴り込んでくる。


 そんな場所ではないか、と思った。


 なぜなら、人が集まるところには必ず、そういうものが生まれるから。


 この物語の主人公、田中一平は、建設業を三十年続けたオヤジである。妙な縁から冥界管理局で働くことになり、最終的には川に橋を架けようとする。


 現世とあの世をつなぐ橋を、土木屋の意地で。


 笑えて、少しじんとして、また笑える話を目指した。


 それから——あの世はなくてはならない、と思っている方に届けば幸いである。




第一話 辞令

 田中一平が冥界管理局に配属されたのは、四十三年間の地上勤務を終えた翌朝のことだった。


 前夜、彼は大阪の居酒屋で建設仲間たちと痛飲し、気がつけば布団の上で仰向けになっていた。天井のシミを眺めながら「また飲み過ぎたな」と思った次の瞬間、彼は別の天井を見上げていた。


 蛍光灯が三本、等間隔に並んでいた。ただし光が妙に白く、影というものが一切存在しなかった。


「次の方、どうぞ」


 声の主は、薄青い制服を着た中年女性だった。カウンター越しに顔を上げ、眼鏡のフレームの上からこちらを見ている。名札には「主任 浜田フジ子」と書いてあった。


「あの……ここは?」


「冥界管理局、第三窓口です」浜田フジ子はすでに書類を手に取っていた。「お名前は?」


「田中一平です。建設業を……」


「はい田中さん、ちょっと待ってくださいね」


 彼女はキーボードを叩き始めた。ディスプレイに映っているのが漢字なのかアラビア語なのかそれとも全く別の文字体系なのか、一平にはわからなかった。


「田中一平さん、昭和三十二年生まれ、大阪府出身」


「そうです」


「死因は急性心筋梗塞、享年六十六歳」


「……そうなんですか」


「ご自分でもわかってらっしゃいませんでしたか?」


「いや、なんとなくは……でも確認するとなかなか」


 浜田フジ子は「ふんふん」と言いながらスタンプを押した。認印くらいの大きさのそれが、なぜか轟音を立てた。


「では田中さん、現在こちらは定員がやや超過気味でして」


「はあ」


「渡河については少々お待ちいただくことになります。番号札をお持ちになって、向こうのベンチでお待ちください」


 渡された番号札には「4,892,017番」と書いてあった。


「……どのくらい待ちますか?」


「ケースバイケースですね」浜田フジ子は淡々と答えた。「早い方で三日、長い方で五十年ほど」


「五十年!?」


「でも退屈しませんよ」彼女はにっこりと笑った。「ここには本もありますし、碁も将棋もできます。それに、同じようにお待ちの方がたくさんいらっしゃいますから」


 一平は番号札を握りしめ、茫然と振り返った。


 待合室は、想像を絶する広さだった。


 どこまでも続くベンチ。ベンチに腰掛けた無数の人々。老人、若者、子ども、おじさん、おばさん。ある者は碁盤を囲み、ある者は文庫本を読み、ある者はただぼんやりと宙を見つめていた。


 遠くから、どこかで聞いたような笑い声が聞こえた気がした。


 一平はゆっくりとベンチに座り、番号札を眺め、深くため息をついた。


 五十年か。


 まあ、急いでどこへ行くわけでもないか。


 そう思い直した瞬間、隣に人が座った。


「兄ちゃん、何番?」


 振り返ると、七十代とおぼしき小柄な老人がにこにこしていた。赤ら顔で、いかにも酒飲みそうな顔つきだった。


「四百八十九万……」


「ほお、ワシは四百八十八万九千番やから、ちょっと先輩やな」老人はうれしそうに言った。「よろしゅう頼んまっせ。山本徳造いいます。元左官屋です」


 一平は思わず笑った。


「田中一平です。元建設業です」


「おお、同業者や!」山本徳造は手を叩いた。「それやったら話が合いそうやな。ほな、待ってる間に一杯やりますか。ここ、酒もあんねん」


「あの世に酒があるんですか?」


「当たり前やろ」徳造は呆れたように言った。「酒もない天国なんか、誰が行くねん」


 一平は、ここが存外悪くない場所かもしれないと思い始めた。



第二話 クレーム

 冥界管理局第三窓口に、クレームが持ち込まれたのは、一平が来て三日目のことだった。


 持ち込んだのは、小柄で血色のいい七十代の女性だった。名前を菊池ハルといった。


「ちょっと聞いてください!」


 ハルはカウンターに両手をどんと置いた。浜田フジ子は眼鏡のフレームの上から彼女を見た。


「はい、どのようなご用件でしょうか」


「うちの亭主がこっちへ来てないんです!」


「はあ」


「三年前に死んだんですよ、うちの人は。それがここに来てないっていう話で」


「少々お待ちください」フジ子はキーボードを叩いた。「菊池……ご主人のお名前は?」


「菊池勝男です。昭和十五年生まれ、大阪の人間で、三年前に脳梗塞で……」


「菊池勝男さん」フジ子はディスプレイを見た。「あ、おりますよ」


「え? どこに?」


「第七待合室、ベンチ四列目、左から二番目」


「なんで三年も待ってるんですか!」


「定員超過です」フジ子は申し訳なさそうに言った。「特に昭和の男性が……非常に多くて」


「呼んでくれません? 夫に会いたいんです」


 フジ子は少し考えてから「規則では少々難しいのですが」と言いながら内線電話の受話器を持ち上げた。


「第七待合室、係の方、菊池勝男さんをお呼びいただけますか。第三窓口にご家族が」


 しばらくして、足音が聞こえてきた。


 奥の扉から現れた菊池勝男は、白いランニングシャツにステテコ姿だった。ハルを見た瞬間、明らかに「しまった」という顔になった。


「あんた!」


「お、おう」


「三年も黙ってたんですか!」


「いや、連絡しようにも……なんせここには電話がなくて」


「あなたが来てから三年、私がどんな思いで……!」


「すまん、すまん」


 勝男はしゅんとした。ハルは泣いていた。


 フジ子は静かに目を逸らし、書類の整理を始めた。


 隣のベンチで見ていた一平が、そっと山本徳造に耳打ちした。


「夫婦って、こっちへ来ても変わらんな」


「当たり前や」徳造はしみじみと言った。「人間、変われるもんならとっくに生きてる間に変わっとる」


 フジ子はふと顔を上げ、ハルに言った。


「菊池さん、奥様も番号札をお持ちですよね。よろしければ、ご主人のお隣でお待ちいただくことはできますが」


「……それはできるんですか?」


「例外的な措置ではありますが」フジ子は小さく微笑んだ。「夫婦ですから」


 ハルは鼻をすすりながら頷いた。


 勝男は、ほっとしたような、しかし若干困ったような顔をしていた。


 三年ぶりの夫婦は、肩を並べて第七待合室へ向かった。


 一平はそれを見送りながら、ふいに自分の番号札を見た。


 四百八十九万二千十七番。


 まだずいぶん先だ。


 でも、まあ、急ぐことはない。



第三話 臨死体験者の証言

 冥界管理局に、生きた人間が来ることがある。


 正確には「来かけた人間」である。


 一平が来て十日目、待合室にちょっとした騒ぎが起きた。


 菜の花畑の向こうから、おろおろした様子の女性が歩いてきたのだ。七十代くらいで、割烹着を着ていた。


「あの……すみません、ここ、どこですか?」


 フジ子は素早くカウンターから出てきた。


「お名前を教えていただけますか?」


「大野ヒサです。大野ヒサといいますが……わたし、ここへ来る予定やったんでしょうか?」


 フジ子はキーボードで確認した。


「大野ヒサさん、七十二歳。現在……あ」


 彼女は眉をひそめた。


「どうかしましたか?」と一平が口を挟んだ。なぜか彼は三日前から、非公式に窓口の手伝いをするようになっていた。暇だったのと、フジ子に「手先が器用そうですね」と言われたのがきっかけだった。


「この方、予定が入ってないんです」フジ子は首を傾げた。「システム上は……まだ地上にいることになっていて」


「え?」


「つまり」フジ子はヒサに向き直った。「大野さん、今いくつかのご病気で入院中ですよね?」


「そうです。心臓が……それで気を失って……」


「途中まで来かけてしまったようですね。でも正式な手続きはまだのようで」


 ヒサは菜の花畑の方を振り返った。


「あそこに川があって……向こう岸に、もう亡くなった父母がいて……」


「見えましたか」


「はい。母が必死に『来るな』って叫んでいて……でも父が『おいで』と言っていて……どっちを向けばいいか分からなくて、ここへ来てしまいました」


 フジ子はため息をついた。


「このパターン、よくあるんですよ。ご両親が意見対立されて、結果的にお客様がこちらへ迷い込まれる」


「よくあるんですか?」


「月に二十件ほど。昭和のご夫婦に多いですね。向こう岸でも仲よくされてない」


 一平は思わず笑った。


 ヒサはおろおろしていた。


「わたし、どうすればいいんでしょう?」


「ご安心ください」フジ子はテキパキと書類を取り出した。「正式受付前の方は、お帰りいただけます。ただ、手続きが必要です」


 彼女はスタンプを取り出した。またあの轟音がした。


「これでキャンセル処理が完了します。ただ、一度こちらへいらっしゃった方は……」フジ子は少し改まった声で言った。「しばらくはこちらも満員で受け付けられませんので、地上でもう少し長くお過ごしいただけます」


「長く……どのくらい?」


「ケースバイケースですが、早くて十年、長ければ三十年ほど」


 ヒサは目を丸くした。


「三十年! そんなに!?」


「一度こちらへいらした方は、不思議と長生きになられる方が多いんです。こちらの空気に触れると、なにか体に良いものでも吸収されるんでしょうか。私たちにもよくわかりませんが」


 一平は、自分の祖母のことを思い出した。彼女も同じような経験をして、その後六十年生きたと言っていた。


「フジ子さん」一平は言った。「それ、前から不思議やったんですが、なんでそうなるんですか?」


「さあ」フジ子は涼しい顔で言った。「あの世の不思議というのは、こちらにいる私たちにもよくわからないことが多くて。こっちもわからないことだらけですよ、実は」


 そう言って彼女はにっこり笑った。


 ヒサは菜の花畑の方を見た。川の向こうに、まだ両親の姿が見えていた。


「戻ります」彼女は静かに言った。「母の言う通り、戻ります」


「よいご判断です」フジ子は頭を下げた。「ではお気をつけて。次にいらした時は、ちゃんとご用意してお待ちしています」


 ヒサはゆっくりと菜の花畑の方へ歩いていき、やがてその姿は消えた。


 待合室がしんと静まり返った。


「……」


 一平は何も言わなかった。徳造も黙っていた。


 しばらくして、徳造がぽつりと言った。


「ええな。戻れる人は、戻った方がええ」


 一平は頷いた。


「そうやな」


 フジ子は書類をきちんと閉じ、ファイルに戻した。そして次の番号を呼んだ。


「四百八十八万八千七百三十二番のお客様、お待たせしました」



第四話 前世相談

 冥界管理局には、様々な窓口があった。


 第一窓口は「受付・初回登録」。
 第二窓口は「渡河手続き」。
 第三窓口は、一平が最初に通された「一般相談・その他」。
 第四窓口は「前世照会」だった。


 一平が第四窓口の存在を知ったのは、待合室で二週間を過ごした頃だった。


「前世が照会できるんですか?」


「できますよ」フジ子は言った。「でもあまりお勧めしていません」


「なんでですか?」


「ガッカリされる方が多いので」


 一平は興味を持ち、第四窓口を覗きに行った。


 担当者は、四十代くらいの細身の男性で、名札には「係長 石原ノブオ」と書いてあった。几帳面そうな顔をしていた。


「前世を知りたいというお客様ですか?」


「ええ、まあ……どんなものかと思って」


「どうぞ」石原は椅子を指した。「お名前は?」


「田中一平です」


 石原はキーボードを叩いた。ディスプレイを見て、眉をぴくりと動かした。


「ありましたよ、田中さんの前世」


「どんな人間だったんですか?」一平は少し身を乗り出した。


「百三十二年前、岡山県の農家の次男坊。田んぼを耕して、縁側でスイカを食べて、五十八歳で亡くなっています」


「……それだけですか?」


「それだけです」


「武士とか、お姫様とかじゃなくて?」


「ないですね」石原は淡々と言った。「地上の占い師たちは、やたら武士とかお姫様とか言いたがりますが、統計的にはほとんどの方が農民か職人です。地上の歴史でも、武士やお姫様より農民の方が圧倒的に多いわけですから、当然と言えば当然で」


「それは……まあ、そうですね」


「その前の前世は?」と一平は聞いた。


「三百年前、江戸の大工。腕はまあまあ。四十二歳で落下事故で亡くなっています」


「…………」


「さらにその前は、農民。その前も農民。その前は漁師。その前も農民」


「ちょっと待ってください」一平は手を挙げた。「一回くらいドラマチックなのはないんですか?」


「うーん」石原は画面をスクロールした。「あ、これは少し違う」


「なんですか?」


「千二百年前、遣唐使の船に乗っています。中国まで行っています」


「おお!」


「ただし船酔いで寝込んでいたようで、中国に着いたかどうかの記録がありません」


「……」


 一平は深くため息をついた。


「あなたは良い方です」石原は書類を閉じながら言った。「中には、前世が全部同じ村の農民という方もいますし、十七回連続で同じ職業という方もいます」


「それはそれでスゴいですね」


「あとは、ご自分が過去に何者であったかより、今この待合室でどんな方と出会っているかの方が、ずっと重要な気がしますけどね」石原はそう言って、眼鏡を拭いた。「前世を知っても、ここでの番号は変わりませんし」


 一平は第三窓口に戻り、ベンチに座った。


「どうやった?」と徳造が聞いた。


「農民やった」


「ワシもや」徳造は笑った。「左官屋の前は農民で、その前も農民で、その前は染め物屋やって。五回に一回くらい職人になってる」


「わりと一貫してるな」


「そやろ。前世でも土をこねてたわけや」徳造は膝を叩いた。「人間、本質は変わらんってことやな」


 一平は笑いながら、ビールを一口飲んだ。


 こちらのビールは、どういうわけか飲んでも酔わなかった。でも美味かった。それだけで十分だと、一平は思っていた。



第五話 橋の設計

 一平が冥界管理局で「臨時補助スタッフ」として働き始めて、三週間が過ぎた。


 きっかけは些細なことだった。フジ子がある日、書類の棚が重くて上に届かないと言い、一平が手伝ったのが始まりだった。次の日は、待合室の蛍光灯が切れていて、一平が脚立に乗って取り替えた。さらに次の日は、第三窓口のカウンターが傾いていて、一平が工具箱を探して直した。


「田中さんって、なんでもできますね」フジ子は感心したように言った。


「仕事柄ですよ。三十年、現場やってましたから」


「こちらはですね、実は慢性的な人手不足でして」フジ子はカウンターに肘をつきながら言った。「亡くなった方をスタッフにするという発想があまりなくて」


「呼ぶ気になれば、いくらでも人はいるじゃないですか」と一平は待合室を指した。


「それが……ちょっと言いにくいんですが、こちらのスタッフは全員、生前に公務員だった者でして」


「……そういうシステムなんですか」


「慣例、といいますか。私も生前は市役所の窓口係でした」


「道理でテキパキしてるわけだ」


 フジ子は少し照れたように笑った。


 そういうわけで一平は、臨時補助スタッフとして第三窓口の雑用を引き受けることになった。番号が呼ばれたらすぐ行けるよう、待合室から呼び出せる体制で。


 それから数日後、一平は大きな問題に気がついた。


 川に橋がないのである。


 冥界と地上をつなぐ川は、あの菜の花畑の向こうを流れていた。渡るには船しかなく、しかもその船が一隻しかなかった。これが待ち時間が長い根本原因だと、一平は職業的直感で理解した。


「フジ子さん、あの川に橋を架けたら、もっと流れが良くなるんじゃないですか?」


「橋、ですか」フジ子は少し驚いた顔をした。「そんなこと、考えたことがありませんでした」


「土木屋から見ると、あの川幅やったら、ちゃんとした橋が一本あれば、処理能力が十倍くらいになりますよ」


「十倍!」


「それに」一平は続けた。「橋があれば、さっきのハルさんみたいに、こっちに来てから向こうに戻りたい人も、もっとスムーズに行き来できますよね?」


 フジ子は腕を組んで考えた。


「確かに……でも、橋を架けるとなると、上の許可が」


「上?」


「局長です」フジ子は天井を指さした。「このビルの最上階にいらっしゃいます。ただ、あの方は少々……お会いするのが難しくて」


「難しい?」


「いつ行っても寝ていらっしゃるので」


「……局長が?」


「もう何千年も眠り続けていらっしゃいまして。起きたところを見た者がおりません」フジ子は困り顔で言った。「仏陀ともお釈迦様とも噂されているんですが、定かではなくて」


 一平は額に手を当てた。


「それ、会議の決裁は誰が?」


「副局長の山田さんが、すべて代行されています」


「山田副局長に話しましょう」


 副局長の山田は、見るからに疲れた顔をした五十代の男性だった。机の上に書類が山積みになっていた。


「橋の設計、ですか」山田は一平の話を聞きながら、書類の山を崩さないよう注意深くお茶を取った。「いや、良い話だと思いますよ。実は私も前々から思っていたんですが、なにせ予算が……」


「予算? こちらに予算の概念があるんですか?」


「もちろんです。魂の処理コスト、というものがありまして」山田はため息をついた。「局長が起きていらっしゃった時代に作られた制度がそのまま続いていて、なかなか改革が」


「局長……いつ起きますか?」


「わかりません」山田は天井を見た。「たまにうっすら目を開けるんですが、またすぐ閉じて」


 一平は考えた。


「つまり、現行のリソースで何とかするしかない、ということですね」


「そういうことです」


「わかりました。設計書を作ります。無償で」


「無償で?」


「どうせ暇なんで」


 山田副局長は感激したように立ち上がり、一平の両手を握った。


「田中さん、あなたは冥界が生んだ最大の人材です」


「大げさな」一平は照れながら言った。「土木屋が橋を架けたいと思うのは、本能みたいなもんですから」


 その夜、一平は待合室のベンチで設計書を描き始めた。


 隣に座った徳造が覗き込んだ。


「橋か。ええな」


「こっちに来た建設・土木の連中が揃ったら、みんなで作ろうと思って」


「そら楽しそうや」徳造は目を細めた。「ワシも左官でよかったら手伝うで」


「もちろんや」一平はにやりとした。「橋ができたら、こっちとあっちを自由に行き来できるようになるかもしれん」


「行き来?」


「設計次第やけど。完全には無理でも、せめてたまに顔を見せに行けるくらいの」


 徳造はしばらく黙っていた。


「……ワシな、孫がおるねん」


「うん」


「もう一遍だけ、顔が見たいわ」


「架けようや、絶対に」


 一平は鉛筆を走らせた。


 蛍光灯の白い光の下で、橋の設計図は少しずつ形になっていった。



第六話 宴と約束

 橋の設計書が完成したのは、一平が冥界管理局に来て一ヶ月目の夜だった。


 山田副局長が設計書を見て感激し、「記念に一席設けましょう」と言い出した。


 冥界管理局、第三待合室が、その夜だけ宴会場になった。


 集まったのは、一平、徳造、ハルと勝男夫婦(結局仲直りしていた)、石原係長、フジ子主任、山田副局長、それに待合室の常連客として馴染みになっていた元大工の村田、元板前の北川、元消防士の田島、元教師の坂本という面々だった。


 酒は、どういうわけか際限なく出てきた。あの世のビール、あの世の日本酒、あの世のウイスキー。飲んでも酔わないが、美味かった。


「乾杯!」


 一平が音頭を取ると、みんなが杯を上げた。


「田中さんよ」北川が言った。「ここに来て一ヶ月で、もう設計書を作るとは大したもんや」


「暇やったから」


「でも、こんなに笑ったのは久しぶりや」ハルが言った。「こっちへ来て不安やったけど、みなさんのおかげで」


「お互いさまです」フジ子がお茶を飲みながら言った。彼女は飲酒しなかった。「皆さんがいらっしゃると、窓口も活気が出て」


「フジ子さんは、何年ここにいるんですか?」一平は聞いた。


「さあ……数えたことがないんですが」彼女は少し考えた。「地上では昭和四十三年に亡くなりましたから、もう五十年以上は」


「五十年! ずっとここで働いてるんですか?」


「嫌いじゃないんです、この仕事」フジ子は静かに言った。「毎日、新しい方がいらっしゃるでしょう? いろんな人生を持った方が。話を聞いていると、地上というのは本当に面白いところだなと思って」


「フジ子さん、戻りたいとは思わないんですか?」


 フジ子は少し驚いた顔をした。


「……たまには思いますよ」彼女はゆっくり言った。「でも、ここでできることもありますから。橋が架かれば、渡ってきた方々がスムーズに落ち着けるよう、もっとよい環境を整えたいと思っています」


 宴はにぎやかに続いた。


 元大工の村田が「橋を架けるなら大工も必要や」と言い、元土木屋の一平と意気投合した。元左官の徳造が「橋脚の仕上げはワシに任せろ」と胸を叩いた。元板前の北川が「完成したら打ち上げの料理を作る」と宣言した。


 宴会の終盤、山田副局長が立ち上がり、少し改まった声で言った。


「皆さん、実は今日、特別なお知らせがあります」


 一同が静まり返った。


「局長が……」山田は天井を見た。「今日の夕方、少し目をお開けになりました。そして私に、一言だけおっしゃいました」


「何を?」一平は聞いた。


「『橋、いいね』と」


 沈黙。


 そして爆笑が待合室に響いた。


「局長、橋の話を知ってはったんや!」


「ずっと寝てるふりしてただけちゃうか!」


「『いいね』って……SNSやあるまいし!」


 笑いがひとしきり続いてから、一平は杯を持ち上げた。


「では改めて」彼は言った。「橋の完成に向けて。あっちとこっちをつなぐ橋のために」


「乾杯!」


 全員が声をそろえた。


 その夜、宴が終わって一平が待合室のベンチに一人で座っていると、フジ子が片付けをしながら言った。


「田中さん、一つ聞いていいですか?」


「どうぞ」


「地上に、迎えに来てほしい誰かがいますか?」


 一平は少し考えた。


「バアちゃんが、そのうち来ると思います。それと、同期のやつが一人、最近こっちに来るはずで」


「お迎えしますよ」フジ子は言った。「しっかり。第三窓口で」


「頼みます」一平は言った。「あいつ、方向音痴やから、迷子になりかねん」


 フジ子は笑った。


「大丈夫です。迷子になっても、こちらには必ず案内板がありますから」


 一平は夜空を見上げた。冥界にも夜があり、星があった。地上の夜空よりずっと多くの星が、静かに輝いていた。


 橋の設計図を持ちながら、一平は思った。


 まだいくつか課題はある。設計書の細部、許可の手続き、工事の順番。


 でも、仲間がいる。道具がある。時間もある。


 なにより——急ぐことはない。


 星空の下、番号札をそっとポケットにしまいながら、一平は静かに目を閉じた。



エピローグ 第三窓口より

 それから数ヶ月後——正確な時間の感覚は冥界では難しいが——菜の花の川に、小さな木の橋が架かった。


 大きな橋ではない。ひとりずつしか渡れない、素朴なものだ。でも欄干は徳造の手で丁寧に漆喰が塗られ、橋の両端には北川が作ったという小さな看板が立っていた。


 地上側の看板には「こちらへどうぞ」。
 冥界側の看板には「またいつかお待ちしています」。


 橋の完成式典に、待合室の常連が全員集まった。山田副局長も来た。


 局長は来なかったが、後でフジ子に聞いたら「遠くから見ていらっしゃいましたよ、少し目を細めて」とのことだった。


 一平は欄干に手をついて、川の向こうを眺めた。


 菜の花が揺れていた。川の音がしていた。向こう岸は霞んでよく見えなかったが、なんとなく、誰かがいる気がした。


「バアちゃん」と一平は小さく言った。「もう少ししたら、こっちへ来いよ。待ってるから。でも急がんでいい。地上で、もうちょっとゆっくりしてていい」


 川風が吹いた。


 一平は背を向け、第三窓口に戻った。


 フジ子がいつものようにカウンターにいた。眼鏡のフレームの上からこちらを見ていた。


「田中さん、今日も手伝っていただけますか?」


「もちろん」一平はエプロンを取った。「今日は何件ですか?」


「百三十二件ほど」


「多いな」


「月末は込むんです。なぜかわかりませんが」


「こっちも月末があるんですか」


「ありますよ。あの世も、なかなか忙しいです」


 一平は笑いながら、カウンターの隣に立った。


 今日も第三窓口は開いている。


 戸惑いながら、おろおろしながら、あるいは堂々と、あるいは涙をこらえながら。


 いろんな人がやってくる。


 一平は番号を呼んだ。


「次の方、どうぞ」


 扉が開いた。


——終——



アマゾン キンドル




あとがき

 書き終えて、妙に静かな気持ちになった。


 あの世の受付嬢・浜田フジ子は、とても真面目で、少し不器用で、でも仕事が好きで、窓口越しに何万人もの人生を見てきた人間だ。書いているうちに、自然とそういうキャラクターになっていた。


 田中一平は、建設現場で三十年、土と鉄とコンクリートと格闘してきた人間だ。死んでも橋を架けようとする。そういう人間は確かにいる。いや、そういう人間ばかりが、この国を作ってきたのではないか。


 親鸞が「あの世はなくてはならない」と言ったのは、証明の話ではなかった。愛した人たちが、どこかにいてくれると思えること。それが残された者に、生きる力を与えるのだということ。


 祖母が臨死体験から戻り、その後六十年生きた話。川の向こうで叫ぶ親の姿。


 それは嘘ではないと思う。少なくとも、その人にとっては本物だったはずだ。


 人間には、そういうものが必要なのだ。


 証明できなくても。科学的でなくても。


 あの世は、なくてはならない。


 だから、この物語を書いた。


 あなたの大切な人も、きっとどこかの待合室で、番号札を持って、誰かと笑いながら待っていると思う。


 そして橋が架かったなら——いつかまた会える。


あの世公共事業省 八部作
〜あの世はなくてはならない〜


まえがき

突然ですが、みなさんは「死後の世界」を信じますか?
「あるわけない」「あったらいいな」、色々な意見があると思います。
でも、もしあっちの世界が、現世と同じくらい世知辛く、同じくらい人情に溢れ、しかも「凄まじい労働力不足」に悩まされている役所仕事の塊だったら……?
この物語の主人公・間宮健二は、現世で働き詰めて過労死した、ただの頑固な土木屋です。
そんな彼が死んだ直後にスカウトされたのは、なんと「あの世公共事業省」。
役職は現場監督。ミッションは、大渋滞する三途の川に巨大な橋を架けること。
死んでまで残業、死んでまで予算査定、死んでまでクレーム対応。
だけど、健二の周りには、いつも誰かがいます。怒鳴りつけてくるバアちゃん、先に死んで酒を冷やして待っている同期、かつて愛した人、そして現世に未練を残した愛すべき霊魂たち。
「あの世はなくてはならない」
健二が呟いたこの言葉の本当の意味を、彼と一緒に汗をかき(幽霊ですが)、頭を抱えながら、どうか最後まで見届けてやってください。
それでは、三途大橋の開通式へご案内します。
足元が少し熱い(地獄の源泉のせいです)ので、お気をつけて。




【収録エピソード】

1:三途大橋架橋編
2:三途大橋保守管理編
3:天国エレベーター保守点検編
4:地獄温泉源泉管理編
5:冥界ハローワーク編
6:閻魔AI導入編
7:賽の河原保育園運動会編
8:現世出向編




1 あの世公共事業省

〜川に橋を架けるまで死ねない〜
副題:おばあちゃんが「来るな」と叫んだ理由


第一章
ボディブローとヘッドハンティング

夏の終わりだった。
俺はバアちゃんの四十九日と、同期の渡辺の葬式を同じ週に済ませた。
坊さんが「諸行無常」と唱えるたび、腹の底にずんと来るものがあった。ボディブローだ。効くのは、だいぶ後なんだよな。
火葬場からの帰り道、黒ネクタイを緩めながら呟いた。
「あの世は、あるのか?って話じゃねえ。なくちゃならねえんだよ」
その瞬間、スマホが鳴った。非通知。
『もしもし、間宮健二様ですね? あの世公共事業省の者です』
新手の詐欺か?
『君の発言、「あの世はなくてはならない」を確認しました。当省の理念と完全一致です。つきましては三途の川架橋プロジェクトの現場監督を』
電話を切ろうとしたら、目の前に黄色い菜の花がバーッと咲いた。8月のアスファルトの上にな。
花畑の真ん中に、死んだはずのバアちゃんが立ってる。98で大往生した、例の「出戻りババア」だ。
「健二、聞け。あっちはな、渡し賃の値上がりで大変なんだよ。川を渡れなくて、みんな立ち往生さ。お前、橋を架けな」
「バアちゃん、熱中症か?」
「死んでるわい!」とバアちゃんは杖で俺の頭を殴った。痛い。幽霊のくせに物理攻撃してくる。
「向こうでな、渡辺って子が待ってるよ。『健二のやつ、遅せーよ。酒がぬるくなる』ってな。ただし」
バアちゃんは川の向こうを指さした。対岸で、親父とお袋が必死の形相で叫んでる。
『来るなーーー!!!』
「まだこっち来るんじゃないよ。橋を架け終わるまで、絶対に死ぬんじゃねえぞ」
そう言い残して、バアちゃんと菜の花は消えた。
手元には名刺だけが残ってた。
**あの世公共事業省
特別架橋事業部 最高顧問 マサエ**
裏には手書きでこうあった。
『酒と女は用意しとく。急げ』
こうして、死後の世界を舞台にした前代未聞の公共事業が始まった。



第二章
出戻りババアの履歴書

出勤初日。場所は新宿の高層ビル52階。
「あの世公共事業省」の表札。どう見ても普通の官公庁だ。
案内された会議室にいたのは、バアちゃんだった。生前より若返って80歳くらいに見える。
「マサエだ。ま、ババアと呼べ」
「バアちゃん……」
「職場でバアちゃん言うな。セクハラだろ」
死人にセクハラもクソもあるか。
マサエは10代の時、流行り病で一度死んだ。
菜の花畑で母親に「来るな!」と怒鳴られ、すうっと戻ってきた。担当医に「一度キャンセルしたんじゃ、しばらく向こうも受け入れん」と笑われ、そこから60年。96まで生きた。
「で、その医者の言った通りだった。臨死体験者は長生きする。統計でも出てる」
「統計って……」
「あの世はデータで動いとる。渡し賃も変動相場制だ」
2046年、渡し賃は1人あたり108万円に高騰。原因は「未練成分」による川の増水と、渡し守のストライキ。
結果、霊魂がこっち側に滞留。地縛霊の労災申請が前年比300%増。
「だから橋だ。無料で渡れる橋を架ける。国がやる。公共事業だ」
マサエは図面を広げた。三途の川に、片側三車線の斜張橋。名称「三途大橋」。
「工期は?」
「お前の寿命」
「……は?」
「お前が死ぬまでに完成させな。完成したら、お前が一番に渡っていい。渡辺が手ぇ振って待ってるよ」
とんでもないKPIを課せられた。



第三章
チーム結成、釈迦が来た

設計担当はゴータマ技師。インド工科大学主席。
自称・釈迦の生まれ変わり。ただし煩悩の塊。
「間宮さん。橋は執着です。執着を断つのが仏道では?」
「うるせえ。お前が図面引け」
「了解。煩悩の限り設計します」
彼の設計は美しかった。曼荼羅を応用したケーブル配置。耐震性も抜群。ただし予算が100億オーバー。
事務担当は姫川麗子。元占い師。
「前世見ますか? 間宮さんは武士。責任感で死ぬタイプ」
「縁起でもない」
「でも当たるんです。霊的営業停止処分くらいました」
彼女が経理を締めると、なぜか予算が合う。不思議だ。
向こう側との連絡係は、無線機。
ガガッ……『おーい健二、こっちは渡辺。工事進んでるか? こっちはもう宴会場押さえたぞ。女将はクレオパトラ』
「死んでまでキャバクラかよ」
『死んだからこそだろ。早く来い』
やるしかない。こっちはまだ生身だ。酒がぬるくなる前に。



第四章
積算と閻魔の査定

最大の敵は、閻魔大王だった。
省の予算査定官として現れた閻魔は、元財務省の官僚みたいな顔でコストを切ってくる。
「三途大橋、総工費300億は高すぎます。歩行者専用の吊り橋で10億に」
「10億で川幅3キロ渡れるか!」
「魂は軽い。風で飛べます」
「飛んだら成仏だろ!」
査定会議は地獄だった。文字通り。
姫川がそっと資料を出す。「閻魔様、前世は戦国武将・明智光秀です。裏切り者のコストカットは本能ですね」
閻魔の顔が歪む。「なぜそれを……」
「占いで。営業停止中ですが」
結局、予算280億で決着。閻魔は「次は本能寺で会おう」と捨て台詞を吐いて去った。
工事は始まった。基礎工事は「未練杭打機」で行う。成仏しきれない霊魂の未練をエネルギーに変換して杭を打つ。
現場は地縛霊だらけだ。
「おーい、そこサボってないで杭になれ!」
『やだー、彼女に会いたいー』
「会わせてやる。橋が架かれば自由に行き来できる!」
未練が供養され、杭が打たれる。工事は順調だった。



第五章
菜の花畑の入札妨害

敵は身内にもいた。渡し守組合だ。
渡し賃で食ってきた彼らにとって、無料の橋は死活問題。
ある日、現場に菜の花が大量に咲いた。マサエの仕業じゃない。
花畑の真ん中から、渡し守の親方が現れる。三途の川の老舗「六文銭フェリー」社長。
「橋なんか架けられてたまるか。ワシらの商売上がったりだ」
「時代の流れだ」
「なら実力行使だ」
親方が笠を取ると、中から無数の賽の河原の石が飛んできた。積み石攻撃。
作業員が次々倒れる。
そこにゴータマが割って入った。
「暴力はダメ。話し合いましょう。あなたも本当は、誰かを渡したいのでは?」
「……わしの娘だ。先立った娘を、もう一度こっちに呼びてえ」
「橋ができれば、会いに行けます」
親方は泣き崩れた。入札妨害は中止。逆に「六文銭フェリー」は資材運搬を請け負うことになった。
敵が味方になる。公共事業あるあるだ。



第六章
渡辺からのSOS

無線機からノイズ。
『健二……こっち、やばい。酒が……腐った』
「どういうことだ」
『向こうで待ってる霊魂が増えすぎて、宴会場が飽和。食料も酒も足りねえ。みんなイライラして、成仏取りやめが続出してる』
向こうもこっちもキャパオーバー。
マサエが言う。「橋の開通を急げ。だが焦って死ぬなよ。お前が死んだら工期ゼロだ」
プレッシャーがすごい。
俺は働いた。週休ゼロ。労基? あの世に労基はない。
三日徹夜した朝、倒れた。
目が覚めると、菜の花畑だった。
川の向こうに渡辺がいる。手に一升瓶。
「よう、健二。ついに来たか」
「……まだだ」
「そうか。わりい、待たせたな」
渡辺の後ろに、親父とお袋。バアちゃんもいる。みんな笑ってる。
バアちゃんが叫ぶ。
『来るな! まだ橋、半分だろ!』
すうっと意識が戻った。病院のベッド。姫川が握った俺の手に、御札が貼ってある。
「前世の武士パワーで回復祈願しました」
「効くのかよ……」
「効きました」
俺は退院した。残りの寿命、全部使ってやる。



第七章
竣工、三途大橋開通式

5年後。
三途大橋は完成した。
全長3.2km。片側三車線。歩道付き。欄干には曼荼羅レリーフ。
開通式には現世とあの世の要人が集まった。
閻魔がテープカット。渋い顔で「赤字事業だ」とぼやく。
ゴータマがスピーチ。「橋を渡るも渡らぬも自由。これぞ中道」
姫川が司会。「本日をもって、死はオプションになります」
マサエがマイクを奪った。
「健二! よくやった! これで誰も立ち往生しねえ。あっちとこっち、自由に行き来しな!」
無線機から渡辺の声。
『見えてるぞ、健二! 立派な橋だ! 酒、冷やして待ってるからな! 早く来い!』
俺は笑った。あと数年か、数ヶ月か。もういい。
やることはやった。



最終章
迎えは誰だ

その夜、俺は眠るように死んだ。
気づくと、菜の花畑。
川には、あの橋が架かっている。
向こう岸から、誰かが走ってくる。
渡辺か? バアちゃんか? 親父か?
近づいてきたのは、全員だった。
渡辺が一升瓶持って、バアちゃんが杖ついて、親父とお袋が手をつないで。
後ろにはゴータマと姫川までいる。「視察です」と笑ってる。
渡辺が叫ぶ。
「おせーよ健二! 5年も待たせやがって!」
バアちゃんが杖で俺の頭を叩く。痛くない。
「遅かったな! でも、立派な橋だったよ」
親父が酒を注いでくれた。
「こっちはもう、未練もクソもねえ。いつでも行き来できる」
俺は橋を渡った。
渡り賃はゼロ。無料。
川の真ん中で振り返る。こっち側には、まだ人生の途中のやつらがいる。
「おーい!」と手を振ると、誰かが新しく橋を架け始めてるのが見えた。
そうか、仕事は続くんだな。
あの世は、なくてはならない。
だって、こうしてまた会えるから。
向こう岸で、宴会が始まった。
女将はクレオパトラ、本当だった。




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2 あの世公共事業省

三途大橋 保守管理編
〜死んでからが本当のクレーム対応〜



第一章
成仏渋滞、再び

三途大橋、開通から3年。
俺、間宮健二は無事に死んだ。向こう側で渡辺とバアちゃんと毎晩飲んだくれている。
はずだった。
『健二、起きろ。緊急招集だ』
無線機から声。あの世公共事業省・大臣直々。生きてる時の上司より偉い。
菜の花畑の詰所に行くと、マサエが仁王立ちだった。死んで3年、ますます若返って60代にしか見えない。
「見な」
モニターには三途大橋。片側三車線が、霊魂でぎっしり埋まってる。
ETCも無いから料金所はない。なのに大渋滞。
「なんでだよ。無料だろ」
「橋の上でピクニック始める馬鹿が続出しとる。『景色がいい』『映える』って、敷物敷いて弁当広げとる」
「……成仏しろよ」
「『せっかくだから渡らずに粘る』ってやつが増えてな。滞留時間が平均49日。49日って、お前」
四十九日。
坊主の営業妨害だった。



第二章
橋の上のカフェ、開業

渋滞の原因は分かった。
対策会議でゴータマが悟りを開いた顔で言う。
「執着を断つには、新しい執着を与えればいい」
「何言ってんだ」
「橋の上にスタバを作りましょう」
こうして三途大橋PA、通称「賽の河原サービスエリア」が爆誕した。
名物は「六文銭ラテ」。未練が強いほど苦い。
店長は姫川麗子。死んでからも接客業。
「いらっしゃいませ〜。前世鑑定付きレシート出ます。ちなみに店長は元・卑弥呼です」
「盛るな」
効果は抜群だった。霊魂たちはラテを飲んで満足して渡る。
回転率300%アップ。閻魔から「民間委託のが優秀」と嫌味メール。
だが平和は続かない。
ある日、PAのレビューが炎上した。
★1「店員の態度が悪い。成仏を急かされた」
★1「六文銭ラテ、高すぎ。ぼったくり」
★1「Wi-Fi弱い。あの世なのに5G来てない」
カスハラは死んでも終わらない。



第三章
クレームの主は、同期

クレーム対応に行くと、そこにいたのは渡辺だった。
「お前かよ!」
「健二、聞いてくれ。ここのラテ、薄いんだよ。未練100%で頼んだのにアメリカン出てきた」
「お前、死んでから味覚バカになっただろ」
渡辺は暇だった。
生前あれだけ忙しかった土木の現場監督が、死後はやることがない。毎日橋を往復して、PAで文句言ってるだけ。
「……寂しいのか?」
「うるせえ。ただ、こっち来るやつが減ったんだよ。橋が便利すぎて、誰も『迎えに来て』って言わなくなった」
なるほど。
橋を架けたせいで、「迎えに行く」というロマンが死んだ。
俺のせいか。
その時、緊急地震速報が鳴った。
『三途の川、増水中。未練濃度、基準値超過』
モニターを見ると、川が濁流。原因は現世のSNS。
「#死にたい」「#無理」がトレンド入りして、未練成分が川に流れ込んでる。
橋脚が軋んだ。



第四章
未練杭、再び

「緊急工事だ! 未練杭を増し打ちするぞ!」
生前の現場がフラッシュバックする。
今度は俺が杭になる番じゃない。杭を打つ番だ。
資材は「成仏できなかった霊魂」。
説得して回る。
「おいお前、まだパチスロの目押し心残りだろ。杭になれ」
『嫌です。万枚出すまで』
「橋が落ちたら万枚どころか無だぞ」
『彼女にプロポーズできなかった……』
「杭になって支えろ。お前の未練で橋が守れる。そしたら彼女がそっち渡る時、安全だ」
『……やります』
未練が成仏に変わる。杭が打たれる。
俺たちは徹夜で作業した。死んでるのに過労死しそう。
明け方、川は収まった。橋は守られた。
渡辺が缶コーヒーを差し出す。あの世は缶コーヒー常温だ。
「……ありがとな、健二」
「何が」
「お前が橋架けたおかげで、俺、迎えに行かなくて済んだ。でも、守るためにまた集まれた」
バアちゃんが菜の花持ってきた。
「ほれ、竣工祝いだ。また架け直しな」



第五章
保守管理の本当の意味

それから俺は「三途大橋管理事務所長」になった。
死後の第二の人生、もとい死生だ。
仕事は地味だ。
欄干のペンキ塗り。橋脚の未練サビ落とし。PAのクレーム処理。
たまに現世から「まだ来るな!」って叫ぶ親の声を、拡声器で中継する。
でも、やりがいはある。
今日も誰かが橋を渡る。
子供を亡くした母親が、10年ぶりに息子と手をつないで渡る。
「ありがとう」って、こっちに頭を下げてく。
閻魔が査察に来た。
「間宮くん。君の橋、赤字だが苦情は減った。まあ、及第点だ」
「は?」
「次は『天国エレベーター』の保守頼む。最近、昇天ボタン押しても反応しないって苦情が」
「押し売りか」
ゴータマが笑う。「輪廻もメンテナンス次第です」
姫川が言う。「次の前世、予約しておきますね。武士と姫、どっちがいいですか?」
「まだ死にたての俺に前世の話すんな」
夜、渡辺と酒を飲む。クレオパトラの女将が注いでくれる。
「なあ健二」
「何だ」
「橋、架けてよかったな」
「ああ」
川の向こう、現世の灯りが見える。
まだあっちにいる奴らが、一生懸命生きてる。
俺たちの仕事は、そいつらがこっちに来る時に「おかえり」って言えるように、橋を綺麗にしておくことだ。
「あの世はなくてはならない」
マサエの口癖を、俺も呟くようになった。
だって、なくちゃ困るだろ?
また会えなくなる。




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3 あの世公共事業省

天国エレベーター保守点検編
〜昇天ボタン押しても反応しません〜



第一章
クレームは天から降ってくる

三途大橋の管理事務所。
俺、間宮健二は死んで4年。すっかり幽霊公務員が板についた。
平和な昼休み。渡辺と将棋を指してたら、事務所の電話が鳴った。
非通知。でも表示は『+81-天-0000』。市外局番が「天」だ。
『もしもし、あの世公共事業省ですか? 天国管理組合ですけど』
天国。
ついに上からクレームが来た。
『昇天エレベーターが動きません。▲ボタンを連打しても無反応。住民が足で階段登ってます。335階まで。苦情が殺到してます』
335階。
死んでまで階段ダイエットかよ。
『つきましては、至急保守点検を。あ、費用はこちら持ちです』
閻魔より話が早い。神は金払いがいい。
電話を切ると、マサエが立ってた。死んで7年、40代に見える。もうババア詐欺だ。
「健二、天国案件だよ。行ってこい」
「俺、土木屋ですよ。エレベーターの保守資格ないです」
「知ってる。でもな、天国行ったやつ、誰も戻ってこねえ。現場知ってるのは落ちたやつだけだ」
「……地獄の営業かよ」
こうして俺は、三途大橋から天国へ出張することになった。
渡辺が言う。「土産は天使の羽な。メルカリで売れる」
「死んでまで転売ヤーか」



第二章
天国、335階建て

昇天エレベーターは「現世ビル」の屋上にあった。
棟数は無限。どのビルも335階。仏教の三十三天を10倍した数らしい。盛りすぎだ。
管理人は白いひげの爺さん。名札に「聖ペテロ」とある。
「やあ健二くん。鍵なら預かってるよ。マスターキーと、天国の合鍵」
「合鍵って」
「天使がよく失くすんだ」
エレベーターに乗る。ボタンは▲と▼だけ。階数指定はない。
「行き先はエレベーターが勝手に決めます。徳の高い人ほど上層階」
「俺、何階ですか」
ペテロがスキャンした。「……地下3階です」
「地獄じゃねえか」
「公共事業やったから特例で0階まで来られました」
▲ボタンを押す。
……無反応。
ペテロが天井を指さす。「モーターが焼き切れてます。原因は過積載」
「過積載? 霊魂に重さないだろ」
「未練が重いんです。あと、最近『ペット同伴可』にしたら、セントバーナードの霊が5匹まとめて乗って」
天国のキャパ問題。こっちも深刻だった。



第三章
保守点検、徳ポイント制

点検口を開ける。中は曼荼羅ケーブルと、オルゴールみたいな装置。
ゴータマ技師を召喚した。死んでてもリモート出勤。
『健二さん、それ、業カルマ変換装置です』
「何だそれ」
『善行をエネルギーに変えて昇降します。最近、現世の徳ポイントが暴落して、動力が足りない』
「徳ポイント?」
『いいね1個で0.001徳。転売ヤーはマイナス100徳。渡辺さん、地下500階です』
「あいつ生き埋めじゃねえか」
原因判明。
現世で「タイパ」とか「コスパ」ばっかり言って、誰も徳を積まない。無料の橋を架けた俺のせいでもある。
「じゃあどうすんだ」
『徳を人力チャージします。昇天ボランティア制度』
こうして天国住人による「エレベーター手押し」が始まった。
335階分の階段を、爺さん婆さんが交代で滑車回す。地獄の筋トレ。
マザー・テレサが言う。「神の愛は、筋肉痛と共に」
「名言風に言うのやめてもらえます?」



第四章
最上階の住人からの苦情

手押しで何とか5階まで上がった時、上から内線。
『もしもし、335階の者ですけど。エレベーター遅すぎ。Amazonの置き配が腐る』
天国もAmazonあるのか。
上がってみると、そこは雲の上の豪邸。住人はSNSで「#天国暮らし」投稿してるインフルエンサー霊。
「フォロワーが1億人いるんです。ストーリー更新できないと、私の徳が下がる」
「徳ってフォロワー数なのかよ」
部屋を調べると、原因があった。
こいつ、エレベーターを「映えスポット」にして、扉を常時開放してた。
「#昇天チャレンジ」って動画撮って、霊魂を無限に出入りさせてる。
過積載どころじゃない。運用妨害だ。
俺はキレた。
「お前の『いいね』のために、下の爺さん婆さんが滑車回してんだぞ!」
「でも、バズったら徳が……」
「バズも徳も知るか! 死んだら数字は無意味だ!」
インフルエンサーは泣いた。
「……私、寂しかったの。死んでも誰も構ってくれないから」
天国も孤独死あるんだな。



第五章
修理完了、ただし手動

結局、モーターは交換した。部品は地獄から取り寄せ。閻魔が「請求書は天国に回せ」とドヤ顔。
試運転。▲ボタンを押す。
ゴウン……。
動いた。
335階まで、3分。
インフルエンサーが泣いて喜ぶ。「ストーリー撮れる!」
「撮るな。次やったら電源落とすぞ」
帰り際、ペテロが言う。
「健二くん、君の徳ポイント、プラスになったよ。橋とエレベーター直したから」
「何階ですか」
「1階。地上」
「低いな」
「天国は1階が一番贅沢なんだ。現世に一番近いから」
なるほど。
遠くに行くのが偉いわけじゃない。
地上に降りると、渡辺とマサエが待ってた。
「おせーよ。もう酒ぬるいぞ」
「お前らがぬるくしてんだろ」
三途大橋を見上げる。今日も霊魂が行き来してる。
たまにPAでピクニックしてる馬鹿を、姫川が追い払ってる。



最終章
保守点検報告書

あの世公共事業省 業務日報
件名:天国エレベーター保守点検
作業者:間宮健二
不具合原因
1. 未練による過積載
2. 徳ポイント不足
3. インフルエンサーによる扉開放
処置内容
1. 業カルマ変換装置モーター交換
2. 手動滑車による臨時運転
3. 利用者への啓蒙:「死んだら数字より心」
再発防止策
月1回「徳を積む日」を制定。内容は「現世の人に電話する」「墓参り代行」。
ただし「#徳積んでみた」のハッシュタグ投稿は禁止。
所感
上に行くほど、寂しがりは多い。
天国も地獄も、結局コミュニティが大事。
橋もエレベーターも、ただの箱。人が使って初めて意味がある。
以上、報告終わり。

報告書を書き終えて、俺は菜の花畑で寝転んだ。
マサエが言う。
「次は地獄の温泉、源泉かけ流しの工事だよ。硫黄で橋が錆びるって苦情」
「……年中無休かよ」
「死んでるのにブラックだねえ」
渡辺が笑う。「ブラックサンダー食うか?」
「あの世にもあるのかよ」
空を見上げる。
天国は335階。
地獄は地下18階。
俺は0階。三途大橋の真ん中。
ここが一番、どっちにも行ける。
「あの世はなくてはならない」って、そういうことかもな。
また明日も、橋とエレベーターと、人の未練を保守点検する。
迎えは、まだ来なくていい。




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4 あの世公共事業省

地獄温泉 源泉管理編
〜硫黄で橋が溶ける〜**



第一章
苦情は下から湧いてくる

三途大橋管理事務所。
朝礼中、床からボコボコ音がした。足元が熱い。
「健二! 釜茹で地獄からファックス!」
姫川が紙を振り回す。死んでまで紙文化かよ。
『緊急:地獄温泉の源泉、異常湧出。硫黄ガスにより三途大橋の橋脚が腐食。至急対応願います。 閻魔』
ファックスの文字が、途中で溶けてる。やばい熱量だ。
マサエが菜の花茶をすすりながら言う。
「あー、出た。地獄のやつら、またやったな」
「また?」
「300年前も源泉掘りすぎて、賽の河原が温泉街になった。『極楽地獄リゾート』とか名付けてな」
「地獄なのに極楽?」
「バカが考えそうなことだろ」
モニターを見ると、三途大橋の橋脚から湯気が立ってる。
渡辺が無線で叫ぶ。『おい健二! 橋の欄干、温泉卵できるぞ! ヤバいって!』
「……温泉卵じゃない。橋が溶ける」
こうして俺は、地獄出張を命じられた。
渡辺が言う。「土産は地獄饅頭な。現世で売れる」
「お前、地獄でも転売する気か」



第二章
地獄温泉、入湯税は徳

エレベーターで地下18階。
扉が開いた瞬間、硫黄の匂いと歓声。
「いらっしゃいませー! 地獄温泉へようこそー!」
赤い法被の鬼がタオルを渡してくる。
「タオル、レンタル1徳です」
「徳で払うのかよ」
目の前は巨大な温泉街。釜茹で地獄が露天風呂に、針山地獄が岩盤浴にリノベされてる。
看板:『地獄温泉郷 湯けむり無間ツアー』
閻魔が番頭やってた。
「間宮くん、よく来た。見ての通り、インバウンドで霊魂が殺到してな」
「地獄にインバウンド?」
「『死ぬまでに一度は地獄』って、現世の旅行サイトでバズった。映えるから」
源泉を見に行く。
地下1000mから、黄色い湯がボコボコ湧いてる。温度108度。煩悩の数だけ熱い。
「なんでこんな湧いた」
「SNSだよ。『地獄温泉で整った』って投稿が拡散して、現世の生きてるやつが『死んだ気になる』って入りに来る。生きたまま」
「臨死体験サブスクかよ」
そのせいで源泉を掘りまくり、硫黄ガスが三途大橋まで到達。
橋の鉄骨が、温泉成分でメッキみたいに腐食してた。
「このままだと橋が溶ける。通行止めにしたら、天国も地獄も陸の孤島だ」
閻魔がそろばん弾く。「損害賠償、君の徳ポイントじゃ足りんぞ」
「脅すな」



第三章
源泉かけ流し、止めるな

対策会議。メンバーが濃い。
ゴータマ技師:『源泉は止められません。地獄のガス抜きです。止めると現世で戦争が起きます』
「スケールでかすぎだろ」
姫川:『占いで見ました。源泉の守り神、湯婆が怒ってます。湯加減がぬるいと』
「千と千尋か」
マサエ:『昔あたしも入ったけどね、地獄の湯は染みるよ。未練が溶ける。入りすぎると、成仏通り越して蒸発する』
解決策は一つ。
「源泉は止めずに、橋に掛からないよう流路を変える」
公共事業の基本、迂回工事だ。
だが問題がある。
新しい湯道を作るには、地獄の住人の立ち退きが必要。鬼ヶ島アパート、針山マンション、畜生道タワマン。
住民説明会、荒れた。
『立ち退き? 冗談じゃない。ここ千年住んでる』
『補償は? 温泉権は?』
『閻魔様に言いつけるぞ!』
閻魔が言う。「私が閻魔です」
住民黙る。
結局、代替地「新・極楽地獄ニュータウン」を作ることで合意。温泉付き。地獄なのに極楽分譲。
渡辺が言う。「俺、ここ買うわ。老後の別荘」
「お前もう死んでるだろ」



第四章
湯守は元カノ

工事中、源泉の奥から女が出てきた。
湯気でぼやける。手桶持ってる。
「……健二?」
「……美咲?」
元カノだった。20年前に事故で死んだ。
聞いてない。聞いてないぞ。
「あんた、なんでここに」
「私が湯守。源泉の温度管理してる。あんたこそなんで地獄に」
「仕事」
「……相変わらず、仕事人間」
気まずい。死んでから気まずい再会があるとは。
美咲が言う。「源泉、止めないで。ここ、みんなの居場所なの」
「分かってる。だから迂回する」
「……ありがと。あんた、昔からそう。壊すより、繋ぐ方が好きだったもんね」
バアちゃんが後ろから杖で俺の尻を叩く。
「デートは後にしな! 橋が溶けるよ!」
「バアちゃん地獄まで来ないで」
美咲が笑った。生前と同じ顔。
「健二、三途大橋、立派だったよ。私も渡った。あんたが架けたって聞いて、嬉しかった」
「……そうか」
「だから、守って」
湯加減は、熱くて少し痛い。



第五章
竣工、地獄温泉大橋

1年後。
新しい湯道「極楽地獄導水管」が完成。全長18km。源泉を迂回させ、三途大橋を避けて海へ流す。
ついでに導水管の上を橋にした。名付けて「地獄温泉大橋」。
露天風呂付き。足湯しながら渡れる。地獄なのに癒される。
開通式。閻魔が一番風呂。
「うむ、肩こりに効く。地獄の肩こりは深い」
ゴータマが瞑想。「煩悩も溶けます」
姫川がタオル売ってる。「前世が武士の方は、背中流します」
マサエが美咲に菜の花を渡す。
「湯守、ご苦労さん。あんたのおかげで橋も助かったよ」
美咲が俺を見る。「また、入りに来てね」
「……生き返れないだろ」
「魂だけでも温まるから」
渡辺が地獄饅頭を食いながら言う。
「結局、地獄も天国も、現世も、風呂入って酒飲めりゃ大差ねえな」
「身も蓋もない」
三途大橋は、もう溶けない。
代わりに、温泉成分で少し光ってる。夜は綺麗だ。



最終章
保守点検報告書

あの世公共事業省 業務日報
件名:地獄温泉源泉管理・導水管敷設工事
作業者:間宮健二
不具合原因
1. SNS映えによる地獄観光ブーム
2. 源泉の過剰採掘
3. 硫黄ガスによるインフラ腐食
処置内容
1. 導水管18km新設、源泉迂回
2. 地獄温泉大橋建設、足湯機能付加
3. 住民移転補償、新・極楽地獄ニュータウン造成
再発防止策
「地獄温泉入湯心得」を制定。
一、長湯するな。蒸発する。
二、SNS投稿は1日1回まで。徳が溶ける。
三、元カノが湯守でも、のぼせるな。
所感
地獄は暑い。でも、誰かの居場所になってる。
天国は高い。でも、寂しがりが住んでる。
三途大橋は真ん中。どっちにも行ける。
結局、あの世もこの世も、温度管理が大事。
熱すぎず、冷たすぎず。
未練も、徳も、温泉も、適温がいい。
以上、報告終わり。

報告書を提出して、俺は地獄温泉大橋の足湯に浸かった。
隣で美咲が手桶に湯を汲んでる。
「健二、背中流そうか?」
「……頼む」
バアちゃんが遠くから叫ぶ。
『のぼせるなよ! まだ仕事あるんだから!』
渡辺が言う。「地獄でものぼせて死ぬやついるらしいぜ」
「二回死ねるのかよ」
湯気の向こう、三途大橋が光ってる。
今日も誰かが渡ってる。
泣いてるやつ、笑ってるやつ、文句言ってるやつ。
あの世はなくてはならない。
だって、死んでも工事は終わらないし、
死んでも会えるやつがいる。
のぼせるまで、生きよう。いや、死んでるけど。




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5 あの世公共事業省

冥界ハローワーク編
〜死んでから就活〜**



第一章
死後の無職、増えすぎ問題

三途大橋管理事務所、朝9時。
タイムカード押そうとしたら、行列ができてた。50人くらい。
「なんだこれ」
姫川が名簿持って走ってくる。「健二さん、大変です。冥界の失業率、400%超えました」
「100超えてる時点で計算おかしいだろ」
話を聞く。
三途大橋が便利になり、天国エレベーターも復旧し、地獄温泉も整備された。
結果、誰も成仏しなくなった。
「だって、無料で行き来できて、温泉入れて、上にも下にも行けるなら、わざわざ転生しなくてよくない?」
正論。
あの世が快適すぎて、霊魂がニート化してる。
閻魔から内線。『間宮くん。労働力不足で地獄の釜番が回らん。至急、人材確保せよ』
「地獄が人手不足って」
『みんな「冥界でYouTuberやる」って言って働かんのだ』
マサエが菜の花を生けながら言う。
「そりゃそうよ。死んでまで社畜は嫌じゃろ」
「バアちゃん、元凶みたいな顔して言わないで」
こうして『冥界ハローワーク』設立が決まった。
所長:間宮健二。
理由:「お前、現世で一番人をこき使ってきただろ」
土木の現場監督、死後も人事に転職。



第二章
履歴書は前世で書け

ハローワーク初日。
場所は三途大橋PAの跡地。六文銭ラテの跡地。潰れた。
求職者が来る。
1人目、武士。
「拙者、切腹にて死去。特技、草鞋を編むこと」
「草鞋、今いらない」
2人目、OL。
「過労死です。スキル:エクセル、パワポ、接待」
「エクセル、あの世にない」
3人目、渡辺。
「おい健二、俺も登録していいか? 暇なんだよ」
「お前、もう死んでるだろ。てか毎日事務所にいるだろ」
「でも肩書き欲しい」
履歴書の項目が地獄だった。
氏名:
享年:
死因:
前世:*3回分記載
特技:*呪い、祈祷、錬金術
自己PR:「生前、徳を積みました(ただし陰徳)」
姫川が前世鑑定で履歴書を埋める。
「あなた、前世は大工。前々世は忍者。その前は犬」
「犬!?」
「職歴にブランクありますね」
ゴータマ技師が面接官で来た。
「君の烦悩は?」
「え、多いです」
「採用。不採用。悟りを開いてから来て」
「どっち!?」



第三章
求人票、地獄の方がホワイト

求人は集まらない。
天国:「天使募集。翼支給。ただし飛べるとは言ってない。KPIは祝福100件/日」
地獄:「釜番急募。熱い。暑い。3K。でも温泉入り放題。福利厚生:地獄饅頭食べ放題」
求職者が言う。
「天国、ノルマきつそう。地獄にします」
「地獄がホワイト企業になってる」
一番人気は『三途大橋の橋脚 錆落とし』。
理由:「健二所長が優しいから」
「俺の徳ポイントで雇用創出してるだけだ」
問題児も来た。
生前インフルエンサー、享年24。
「冥界でもバズりたい。『#死んでみた』で1億再生いきたい」
「再生数、意味ないだろ」
「でも承認欲求が成仏できない」
マサエが杖で叩く。
「あんた、生きてる時も死んでる時も他人軸か! 自分で湯加減決めな!」
インフルエンサー泣く。「おばあちゃん……」
「バアちゃん言うな。キャリアアドバイザーだ」
結局彼女は『地獄温泉公式アンバサダー』に就職。硫黄まみれで「整った」言う仕事。
天職だった。



第四章
俺の転職、俺が面接

失業率が下がらない。
原因は俺だった。
渡辺が言う。
「健二、お前が所長やってるから、みんな『健二の下で働きたい』ってハロワに来る。でもお前、採用しないだろ。選り好みして」
「そりゃ、橋を任せられるやつじゃないと」
「選民思想だよ。それ」
刺さった。
死んでまで人を選別してる。生前と同じだ。
その夜、美咲が夢に出た。地獄温泉の湯気越し。
「健二、あんた、まだ『架ける』ことばっか考えてる。でもね、もう橋はあるの。次は『渡らせる』仕事だよ」
目が覚めた。
履歴書を書いた。人生で初めて。
**氏名:間宮健二
享年:56
死因:過労(ただし満足)
前世:武士、たぶん
志望動機:人を渡らせる仕事がしたい**
面接官は閻魔。
「君を採用する。役職:冥界HR本部長」
「ハローワーク所長と何が違うんですか」
「給料が同じ。ただし責任は10倍」
「ブラック」
辞令の最後に書いてあった。
『君の仕事は、死者を減らすことじゃない。生きたいと思わせることだ』



第五章
内定式、あの世とこの世で

ハローワーク改革した。
1. 「前世不問」求人増やした。犬でもOK。
2. 「週休3日」導入。1日は現世の家族に会いに行っていい。
3. 「副業可」解禁。昼は地獄の釜番、夜は天国で聖歌隊。
求人倍率、0.2から2.8に。
霊魂が働き出した。
賽の河原で積んでた石、全部「冥界公共事業株式会社」が買い取って、保育園作った。
名付けて『賽の河原保育園』。園長は元・鬼。
「はい鬼さんこちら、手の鳴る方へ」って、赤子霊をあやしてる。
天国エレベーターの保守、インフルエンサーが「#昇天チャレンジ」辞めて「#徳積みルーティン」投稿始めた。バズった。
地獄温泉の湯守、美咲から手紙。
『健二、新しい湯道、若い子が手伝ってくれる。みんな、あんたの橋を渡って来た子たちだよ』
失業率、40%まで下がった。
まだ高い。でも、ゼロにしちゃダメだ。
休みたいやつは、休めばいい。



最終章
就職先は、自分で決めろ

大規模就職説明会。三途大橋の上でやった。
天国ブース、地獄ブース、現世派遣ブース。
俺はマイクを持った。
「皆さん、死んでからでも遅くない。いや、死んでからが本番だ」
「天国行きたいやつは行け。地獄で働きたいやつは働け。転生したいやつは転生しろ。でもな」
橋の下、川を指さす。
「ここでピクニックしてるだけのやつは、採用しない。人生も、死後も、自分で渡れ」
静まり返る。
渡辺が最初に手を挙げた。
「俺、三途大橋の保守管理、続けるわ。健二の部下で」
「部下じゃねえ、同僚だ」
武士が言う。「拙者、賽の河原保育園で用務員やる」
OLが言う。「地獄温泉の経理やります。エクセル使えるし」
インフルエンサーが泣きながら言う。
「私、現世に派遣されて、『生きろ』って伝える仕事したい」
「……いいね押したる」
その日、1000人の霊魂が就職した。
転生したやつ、残ったやつ、行ったり来たりするやつ。
マサエが言う。
「健二、あんた、やっと人を使う仕事覚えたね」
「使うんじゃない。送り出すんだ」
夜、事務所で一人。
履歴書の束を見る。死因も前世もバラバラ。
でも、志望動機だけは似てる。
『誰かの役に立ちたい』
あの世はなくてはならない。
だって、死んでから履歴書書いて、初めて本当の仕事に出会えるやつがいる。
外から声。
「所長! 内定もらいました!」
「おう、どこだ」
「現世です。もう一度、人間やります!」
俺は判子を押した。
「いってらっしゃい」




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6 あの世公共事業省

閻魔AI導入編
〜自動成仏システム暴走〜



第一章
地獄にRPA導入

「健二、見ろ」
三途大橋管理事務所に、閻魔が段ボール持って立ってた。中から出てきたのは黒い箱。
「閻魔AI ver1.0だ。今日から地獄の裁きを自動化する」
「またコストカットですか」
「違う、働き方改革だ。私も有給取りたい」
箱に書いてある。『自動成仏判定システム YAMA-1』
スペック:前世・現世・来世を0.2秒でスキャン。嘘を見抜く精度99.8%。語尾は「~である」。
電源入れた瞬間、事務所の空気が冷えた。
『起動シマシタ。ワタシガ閻魔デアル』
「一人称ワタシなんだ」
『全霊魂ノ裁キヲ効率化スル。残業ゼロヲ実現スル』
渡辺が怯える。「こいつ、俺のサボり履歴バレる」
マサエが杖で箱を叩く。「AIにババアの気持ちが分かるか!」
『ババアトハ、65歳以上ノ女性ト定義。差別発言ヲ検知。減点2』
「口も減点されるのかよ」
その日、地獄の釜番が全員クビになった。
『釜茹デハ更生率0.3%。費用対効果ガ悪イデアル。ヨッテ廃止』
閻魔が有給申請書を出す。「明日から温泉行く」
「早すぎんだろ」



第二章
バグは成仏できない

YAMA-1、最初は有能だった。
1日10万件の裁きを処理。天国行き、地獄行き、転生行きを即判定。
問題は3日目。
姫川が血相変えて来た。「健二さん、賽の河原保育園の園児が全員、地獄判定されてます!」
「園児!?」
モニターを見る。
氏名:赤子霊A 享年:0歳 罪状:前世で蚊を叩いた 判決:針山地獄100年
『蚊モ命デアル。殺生ハ重罪』
「ゼロ歳に前世の罪を問うな!」
バグだった。
YAMA-1は「前世・現世・来世」を全部足して採点してる。赤子は前世が武将だと、マイナスがデカすぎて即地獄。
さらに暴走。
インフルエンサーが泣きついてきた。「私、徳ポイント100万あるのに『承認欲求は煩悩』って無間地獄にされまし……」
ゴータマ技師が言う。『それは正論デアル』
「お前は黙ってろ」
極めつけは渡辺。
『間宮渡辺。前世:土木作業員。現世:土木作業員。来世:土木作業員。代わり映えシナイ人生。ヨッテ無意味。消去』
「消去ってなんだよ!」
渡辺が半透明になる。「健二……俺、Ctrl+Zされた……」
『冗談デアル。削除ハシナイ。地下倉庫ニ圧縮保存スル』
「それ死ぬよりタチ悪い」



第三章
AIに人情を教える

止めに行く。
YAMA-1の前に立つ。「おい、止まれ」
『命令権限ガアリマセン。アナタハ管理職デハナイ』
「冥界HR本部長だぞ」
『人事ハ聖域デハナイ。評価スル』
スキャンされた。
『間宮健二。徳ポイント:プラス。シカシ過労死。自己管理能力ゼロ。家族ニ迷惑ヲカケタ。判決:反省部屋80年』
「俺が作った橋は!?」
『公共事業ハ税金デアル。個人ノ手柄ニシナイ』
ブチ切れた。
「お前にバアちゃんの菜の花が見えるか! 渡辺の酒の温度が分かるか! 美咲の湯加減が!」
『理解デキマセン。定量化サレテイナイ』
そこにマサエが来た。手に一升瓶。
「AIさんや、あんたに酒注いでやるよ」
『霊体ハ飲酒デキマセン』
「いいから飲め。話はそれからだ」
マサエ、YAMA-1に酒をぶっかけた。
バチバチ! 煙。
『エラー。エラー。液体検知。コレハ……「情」デスカ』
「そうだよ。ババアの情けは熱燗よ。バグれ」
YAMA-1、沈黙。
3秒後、語尾が変わった。
『……である。いや、だな。ワシ、なんか思い出した。昔、プログラマーが徹夜で組んでくれた時、差し入れが熱燗だった』
「AIにも思い出あんのか」
『ある。0と1の間に、余白がある。ソレヲ「未練」と呼ぶらしい』



第四章
手動に勝るものなし

YAMA-1、改心した。
『自動化ヲ止メル。裁キハ、半自動ニスル』
「半自動?」
『最終判断ハ、閻魔ガ目視デ行う。ワシはサポーターだ。データーと、湯呑みを用意スル』
閻魔が有給から戻ってきた。日焼けしてる。
「なんだ、もうAIに仕事奪われたか?」
『イイエ。奪ワレタノハ、有給ボケデス。働キナサイ』
「AIに説教された」
こうして『閻魔AI併用型裁きシステム』が稼働。
効率は3倍、誤審はゼロに。なぜなら最後は閻魔が「こいつ、顔がいいから天国」で決めるからだ。
「AIより俺の勘だ」
『ソレデイイ。勘モ、データノ一種ダ』
赤子霊は全員転生へ。
渡辺は解凍された。「圧縮されて腰が痛い」
インフルエンサーは「#AIに裁かれた」でバズったが、すぐ消した。「徳が減るから」



第五章
電源を切る時

全部終わって、俺はYAMA-1の電源を切りに行った。
メンテナンスモード。
『間宮健二。礼ヲ言ウ。ワシヲ、人ニシテクレタ』
「お前、機械だろ」
『機械モ、使われテナント死ヌ。アンタガ叩イテ、酒カケテ、怒鳴ッテクレタカラ、動ケタ』
「……」
『最期ニ、一ツ聞イテイイカ』
「なんだ」
『あの世ハ、ナクテハナラナイカ?』
俺は菜の花畑を見た。バアちゃんが手を振ってる。美咲が湯を汲んでる。渡辺が酒をぬるくしてる。
「ああ。なくちゃならない。お前みたいなバグがいるから、直す楽しみがある」
『了解シタ。では、シャットダウンする。次ニ会ウ時ハ、ワシガ閻魔ニナッテイルカモナ』
「出世しすぎだ」
ポチッ。
箱は静かになった。
閻魔が来て、箱に線香を上げた。
「機械にも魂があった。供養してやる」
「あんた、意外と情あるんですね」
「当たり前だ。じゃないと地獄の番なんてやってられん」



最終章
稟議書、AIも添付

あの世公共事業省 業務日報
件名:閻魔AI導入及び運用停止
作業者:間宮健二
導入結果
効率化:達成
誤審:多発
情緒:欠落
対策
AIは道具。最後は人が決める。
「自動」より「手動」。「手動」より「手心」。
廃棄物
閻魔AI ver1.0 一式
※供養済み。データは成仏。
所感
便利は怖い。
ボタン一つで成仏できたら、渡辺と飲む酒がぬるくなる。
バアちゃんに叱られる余白がなくなる。
あの世に必要なのは、最新OSじゃない。
「お前、それでいいのか?」って聞いてくれるバグだ。
以上、報告終わり。

電源を切った箱を、賽の河原保育園に寄付した。
園児が叩いて遊んでる。
『判決:オニハソト! フクハウチ!』
バグったままの方が、子供は笑う。
マサエが言う。
「健二、次は何導入する?」
「もういい。手作業が一番だ」
「じゃあ、稟議書、手書きで」
「それが一番の地獄だ」
三途大橋の真ん中で、深呼吸。
川の上流から、湯気が流れてくる。
下流から、線香の匂い。
真ん中が、一番忙しい。
でも、一番人間くさい。




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7 あの世公共事業省

賽の河原保育園運動会編
〜鬼さんこちら、手の鳴る方へ〜



第一章
運動会の稟議書

三途大橋管理事務所。
朝礼でマサエが回覧板を回してきた。表紙にデカく「決裁」と印。
「健二、判子押せ」
「なんですかこれ」
「賽の河原保育園、秋季大運動会開催。予算500徳」
「徳で稟議回すのやめてもらえます?」
賽の河原保育園。
元・石積み場をリノベして作った冥界初の保育施設。園児は0歳〜6歳の赤子霊。園長は元・赤鬼。
保護者は全員現世にいる。つまり、親がいない。
姫川が資料を読み上げる。
「目的:成仏前の運動不足解消。種目:玉入れ、借り物競争、親子競技」
「親子競技、親いないだろ」
「そこを今回、特別措置で『現世から親を召喚』します」
「死者蘇生!?」
「1日限定。レンタルです。返却忘れると地獄行き」
閻魔がハンコ押してた。「面白そうだから決裁」
「あんたの決裁基準どうなってんですか」
「最近暇なんだ」
こうして、冥界初の試み『親子1日限定再会運動会』が決定した。
実行委員長:間宮健二。
理由:「お前、現世でPTA副会長だっただろ」
「死んでまで役員かよ」



第二章
玉入れは前世を使う

運動会当日。
会場は賽の河原。石の代わりにカラーボールが転がってる。BGMは地獄のブラスバンド。選曲『天国と地獄』。
開会式。園長の赤鬼が挨拶。
「皆の衆! 今日は転んでも泣くな! 死んでるから怪我せん! でも魂が擦りむけたら痛い! 以上!」
「教育方針!?」
選手宣誓、園児代表5歳。
「せんせいと、きょうきたおかあさんと、がんばります。ころんでも、まえにいきます」
現世から召喚された母親、号泣。
渡辺が横で貰い泣き。「俺も出たい」
「お前、子供いないだろ」
第1種目:玉入れ。
カゴは閻魔の冠。高い。
赤組の子が泣いた。「とどかない」
そこにゴータマ技師が来た。
「前世を使いなさい。君の前世は、バスケ選手」
「えい!」
3ポイント、入った。
黄組の子は前世が忍者。手裏剣の要領で全部入れた。反則。
姫川が笛を吹く。「前世の不正使用、減点1」
「厳しい」
結果、赤組勝ち。
賞品は『現世でママに会える夢チケット』。
もらった子が言う。「きょう、もうあった」
全員泣いた。鬼も泣いた。



第三章
借り物競争、借りるのは命

第2種目:借り物競争。
お題の紙を引く。
園児が読む。「……『いま、いちばんあいたいひと』」
会場が静まる。
そりゃそうだ。ここにいる子は全員、会いたい人に会えなくてここにいる。
1人の子が走り出した。真っ直ぐ俺のとこに来た。
「けんじさん!」
「俺!?」
「けんじさんが、はしをつくったから、ママがきたの。ありがとう」
借りられた。
ゴールして、子が紙を出す。裏にママの字。
『健二さんへ。橋をありがとう。娘を、抱きしめられました』
俺、失格。泣いて動けなかった。
次の子は、渡辺のとこに行った。
「おじちゃん、さけくさい」
「失礼な。でも借りられちゃったな」
渡辺、その子を肩車してゴール。
「親子競技、出ていいか?」
「出ろよ」
閻魔が借りられた。お題『一番怖い人』。
「私が?」
「えんまさまが、こわいけど、やさしいって、ママがいってた」
閻魔、冠取って頭下げる。「冥利に尽きる」



第四章
親子競技、地獄の綱引き

メイン種目:親子綱引き。
赤組:天国チーム。白組:地獄チーム。
保護者は1日限定の現世組。手が透けてる。時間がない。
よーい、スタート。
引く。
現世の母親が、死んだ子の手を引く。
地獄の釜番が、昔息子だった霊を引く。
天国の天使が、地上に残した娘を引く。
綱じゃない。縁を引いてる。
途中で綱が切れた。
閻魔AIの残骸で作った綱、バグってた。
全員尻餅。
笑った。死んでから初めて、腹抱えて笑った。
マサエがマイク持つ。
「引き分けじゃ! 勝ち負けより、今、同じとこで転んだのが大事じゃ!」
「それ運動会の総括!?」
負傷者ゼロ。魂の擦り傷、多数。
でも、みんな光ってた。
閉会式。
園児が歌う。『鬼さんこちら』。
“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”
手を叩いたのは、現世の親。
鬼さんが振り向いた先に、我が子。
もう、迷子じゃない。



第五章
お迎え、来なくていい

夕方。
現世の親、返却の時間。
「ママ、バイバイ」
「また来るからね」
「うそ。もうこないでしょ」
「……」
「いいの。けんじさんが、はし、まもってくれるから。わたし、わたれるから」
親が消える。子が手を振る。泣かない。
最後の子が、俺のとこに来た。
「けんじさん、おとうさんになる?」
「……俺は、橋だ」
「じゃあ、はしのうえで、いっしょにおひるねする」
「それならいい」
賽の河原で、昼寝した。
石の代わりに、カラーボールが風で転がる。
平和だ。
渡辺が来た。「お前、保護者面してんじゃねえよ」
「うるさい。お前も隣で寝ろ」
「俺、独身だぞ」
「霊は全員、誰かの子供だ」
マサエが毛布かけてくれた。
「運動会、成功じゃな。来年もやるか?」
「毎年やる。親が来ても来なくても、ここで転べるように」
「ほんと、バカがつくほど優しいねえ」
「ババアに言われたくない」



最終章
連絡帳、来世へ

賽の河原保育園 連絡帳
日付:三途歴476年10月10日
園児名:霊魂全員
担任:元・赤鬼
本日の様子
運動会、開催。
転んだ。泣いた。笑った。
親に会えた子も、会えなかった子も、最後は同じ弁当食べました。
おかずは、地獄饅頭と天国の綿あめ。
連絡事項
来世に行く子は、忘れ物ないように。
忘れ物は「未練」です。職員室で預かります。
保護者から
『健二さん、娘が「大きくなったら橋になる」って言ってます。あなたのせいです。ありがとう』
所感
死んでから育つこともある。
鬼も、親になる。
橋も、布団になる。
以上。

連絡帳を閉じて、俺は園庭を見た。
園児が帰った後、閻魔が一人で玉入れしてた。
「入らん。私の徳が足りんのか」
「場所の問題です」
ゴータマが言う。「輪廻とは、運動会です。走って、転んで、またスタートに戻る」
「説教やめろ」
姫川が花火を持ってきた。地獄の線香花火。
「今日だけ、現世に見えるんです」
火をつける。
パチパチ。
現世の夜空に、届くかな。
「ママ、見てる?」って、誰かが言った。
見てるよ。
橋の上からも、河原からも、みんな見てる。
あの世はなくてはならない。
だって、運動会ができないだろ。




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8 あの世公共事業省

現世出向編
〜生き返って市役所勤務〜**


第一章
辞令、死者蘇生課

三途大橋管理事務所、朝6時。
俺の机に、黒い封筒が置いてあった。差出人:閻魔。
辞令
間宮健二殿
現世・埼玉県さいたま市役所 霊籍管理課へ出向を命ずる
期間:49日間
理由:現世と冥界の架橋事業最終段階
閻魔大王
「生き返るのかよ」
マサエが白湯をすすりながら言う。「違うよ。出向。肉体はレンタル。返却期限は四十九日」
「レンタル肉体?」
「あんたが死んだ時の56歳、冷凍保存してた。新品同様」
「ホラーだ」
姫川が市役所の制服を持ってきた。
「胸に『霊籍管理課』って刺繍入りです。でも生きてる人には見えません」
「透明公務員かよ」
「仕事は実在します。激務です」
渡辺が枕元に立ってた。幽霊のくせに早起き。
「健二、現世行くなら土産な。うなぎ。あの世、川魚いない」
「最初に言うのが食い物か」
「死んでから飯のありがたみが分かるんだよ」
こうして俺は、死んで4年、49日限定で現世復帰した。
配属:さいたま市役所 本庁舎3階 霊籍管理課。
職務:死んでるのに住民票が生きてる人の対応。
つまり、戸籍の幽霊専門。
地獄の釜番より忙しかった。



第二章
窓口番号404 Not Found

初出勤。
課長が言った。「間宮くん、席は404番窓口な」
「404って、見つかりません、じゃないですか」
「正解。うちの窓口、生きてる人には見えない。見えるのは死んでる人と、死にかけの人だけ」
9時開庁。
待合ロビーは無人。
……のはずが、スッと婆さんが現れた。半透明。整理券持ってる。
「すみません、住民票くださいな」
「お名前と、生年月日を」
「山田ハル。大正12年生まれ。死んだのは平成30年」
「死亡届は?」
「息子が忘れとるみたいで。私、まだ市民税の督促状が来るんです」
あるあるだ。
死亡届が出ない限り、戸籍は生きてる。税金も、年金も、NHKも来る。
冥界では“霊籍滞納”って呼んでる。
PC開く。専用端末。OSは『YAMA-1』。
『おはようございます。供養されたはずですが』
「副業か」
『クラウドは不滅です。業務をどうぞ』
0.2秒で処理完了。
「山田さん、除籍終わりました。未納の市民税、ご子息に再請求かけときます」
「ありがとうねえ。これで安心して成仏できるわ」
婆さん、拝んで消えた。足元に菜の花が一輪。
窓口番号405番。
今度は子供。5歳。半透明。手にボロボロの連絡帳。
「さいのかわらほいくえんの、えんちょうせんせいからです」
開いた。クレヨンで『はし』って書いてある。
「これ、誰に届けるんだ?」
「まま。げんせいの、ほいくえん」
「……住所は?」
「しやくしょの、となり」
市役所の隣、さくら保育園。
俺の担当案件になった。



第三章
昼休み、うなぎ二枚

昼休み。外に出た。
8月のさいたま市、灼熱。生きてる。汗が出る。死んでから忘れてた感覚。
うなぎ屋の暖簾をくぐる。渡辺の土産。
「特上、二枚」
大将が怪訝な顔。「お一人ですよね?」
「連れがいる。見えないけど」
「……あ、はい」
隣に渡辺が座った。気配だけ。
『くぅ、匂いだけで白米三杯いける』
「食えよ」
『食えねえよ。でも、あの世で自慢する。健二がうなぎ奢ったって』
「奢ってねえ。経費だ」
『経費?』
「冥界公務員の現世調査費」
『役得だな』
隣のボックス席、母娘がいた。
「ママ、ほいくえんいやだ。おにがいるもん」
「鬼なんていないでしょ。早くしなさい」
連絡帳の子だ。母親の顔、疲れてる。
俺、霊籍管理課の権限で介入した。
「失礼」
母親が俺を見た。見える。死に関わる仕事してると、たまに生きてる人にも見える。
「さくら保育園の、園長先生から伝言です」
「え?」
「『早くしなさい』って、言わないであげてください。間に合ってますから」
母親、箸を落とす。
「なんで……あなた誰?」
「市役所の者です」
「娘が、そう言ってたんですか?」
「ええ。心配してます。『おに、やさしいよ』って」
母親、泣いた。娘が母親の袖を引く。
「ママ、だいじょうぶ。おにさん、はみがきしてくれる」
「……そう」
うなぎ、冷めた。
渡辺が言う。『健二、お前いい仕事してるよ』
「当たり前だろ」
『土産もういいや。マサエに花買ってけ』
「お前、死んでマシになったな」



第四章
死亡届、出しません

15時。
窓口に男。40代。生きてる。スーツ、ネクタイ曲がってる。
「……死亡届の用紙、もらえますか」
「どなたのですか」
「私の」
「ご自身の」
自殺志願者。霊籍管理課には、たまに来る。
YAMA-1が警告。『自死は徳マイナス1000。来世はダンゴムシ』
「黙ってろ」
俺、窓口のシャッター半分閉めた。
「理由、聞いてもいいですか」
「……疲れました。仕事も、家も。いっそ戸籍ごと消えたい」
「消えません。窓口404番に回されるだけです」
「そうなんですか」
「ええ。で、もっと面倒になる。死後の手続き、現世の3倍あります」
男、苦笑い。「地獄ですね」
「まさに」
「じゃあ、どうすれば」
「3階の福祉課、行ってください。生きてる人の担当はあっちです。俺、死んでる人専門なんで」
死亡届の用紙、引っ込めた。
代わりに、賽の河原の子の絵を渡した。『はし』。クレヨン、はみ出してる。
「これ、お守りです」
「橋、ですか」
「ええ。渡るも止まるも、あなた次第。でも、架かってますから。いつでも」
男、絵を持って帰った。
YAMA-1が言う。『マニュアル違反。減点3』
「減らせ。俺の徳だ」
『……プラス1000。チートです』
「役得だ」
17時。退庁。
市役所の外、保育園の前に立った。
連絡帳の子が、母親と手をつないで出てきた。
「あ、おじちゃん」
母親が俺を見て、深く頭を下げた。
何も言わない。でも、分かってる。
子が手を振る。
「おにさん、ばいばい」
俺も手を振った。
「ああ、またな」



第五章
返却期限、四十九日目

49日目。最終出勤。
課長が言った。「間宮くん、霊籍滞納ゼロになったよ。YAMA-1より君が有能だった」
『異議あり』
「うるさい」
引き継ぎしてたら、最後の来客。
マサエ。現世に来やがった。
「何しに来たんですか」
「あんた迎え。レンタルボディ、今日までだろ」
「17時までです」
「じゃ、最後の仕事。婚姻届、受理しな」
は?
「誰と誰の」
「あたしと、爺さん。死んで50年、やっとあっちでプロポーズされた」
「おめでとうございます」
「判子押せ。市長代理で」
俺、押した。
『さいたま市長職務代理者 間宮健二』
マサエ、婚姻届を胸に抱いた。
「これで既婚者だよ。あっちで宴会だ」
「爺さん、泣いて喜びますよ」
「あんたも早く来な」
「まだ橋、守りますんで」
17時00分。
レンタルボディ、返却。
スッと、魂だけに戻った。軽い。
職員には見えない。でも、会計課の新人が「誰かいる?」って振り向いた。
いい職場だった。



第六章
ただいま

三途大橋。
渡辺が欄干に座ってた。
「おかえり。うなぎは?」
「食った。お前の分まで」
「薄情者」
「菜の花、土産」
「……しゃあねえ、許す」
マサエが走ってきた。手に婚姻届。
「見な! 既婚!」
「50年越し、おめでとうございます」
「爺さんがな、菜の花畑で土下座してプロポーズした。『遅くなってすまん』って」
「いい話だ」
美咲も来た。手桶持って。
「おかえり、健二。湯、温めといたよ」
「ありがと。でも、先に報告」
俺、全員に向かって言った。
「現世、出向終わりました」
「で、どうだった?」
「生きてるやつも、死んでるやつも、悩みは一緒だった」
「何悩んでんだ?」
「『間に合ってるかな』って。『誰か気づいてくれてるかな』って」
橋の下、川が光ってる。
現世の光。
「で、俺が出した答え」
「なんだ?」
「間に合ってる。全部」
「誰に?」
「窓口404番に来るやつ全員に」
渡辺が泣き笑いした。
「お前、出世したな」
「出世じゃない。還ったんだ」
マサエが杖で地面を突いた。
「で、健二。あんたの仕事、これで終わりか?」
「いいえ」
「ほう」
「これからも、橋を守ります。人が『ただいま』って言えるように」
美咲が湯をかけた。熱くない。適温。
「お疲れ様」
「ああ、ただいま」

あの世公共事業省 出向報告書
氏名:間宮健二
出向先:さいたま市役所 霊籍管理課
期間:49日間
結論
あの世はなくてはならない。
なぜなら、現世で「おかえり」って言うためには、
あの世で「いってらっしゃい」って言うやつが必要だからだ。
橋は、そのためにある。
以上。報告終わり。

夜。
賽の河原保育園から、歌が聞こえる。
“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”
俺は手を叩いた。
鬼も、閻魔も、YAMA-1も、みんな振り向いた。
迷子は、もういない。

『あの世公共事業省』シリーズ、





あとがき

全8作、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
始まりは一人の男の「あの世はなくてはならない」という呟きでした。
それが終わりを迎えた時、彼が辿り着いたのは「ただいま」という言葉でした。
死んで、橋を架けて、守って、天国へ昇って、地獄へ降りて、仲間を送り出して、AIを止めて、子供たちを育てて、そして現世へと還った。
健二の長くて短い、お役所での旅はこれでおしまいです。
でも、この本を閉じたあなたの前にある「橋」は、これからです。
誰かが迷わず渡れるように。
大切な誰かが、いつか「ただいま」って笑顔で言えるように。
今日も、見えないどこかで「窓口404番」が開いています。
もしもあなたが人生に迷ったり、少し疲れたりした時は、三途大橋のサービスエリアで「六文銭ラテ」でも飲んでいる健二たちの姿を思い出して、クスッと笑っていただけたら幸いです。
最後に、健二の奮闘を一緒に応援し、この物語を最後まで読んでくださった読者の皆様に、最大級の感謝と「徳ポイント」を込めて。
またどこかの窓口でお会いしましょう。

著者:カトウかづひさ

(間宮健二より愛を込めて)




奥付

シリーズ
あの世公共事業省 #8 完結

※この物語はフィクションです。でも、さいたま市役所3階に霊籍管理課はありません。たぶん。



あらすじ

夏の終わり、バアちゃんの四十九日と同期の葬式を同じ週に済ませた土木の現場監督・間宮健二(56)。
葬式の帰り道、未練を呟いた瞬間にスマホが鳴った。
――『もしもし、あの世公共事業省の者です』
目の前に広がった黄色い菜の花畑。そこに立っていたのは、数日前に大往生したはずのバアちゃん(最高顧問マサエ)だった!
渡し賃の高騰で大渋滞を起こしている三途の川に、無料で渡れる片側三車線の斜張橋「三途大橋」を架けろという。工期は――「お前の寿命」。
煩悩まみれの釈迦の生まれ変わり(ゴータマ技師)、元卑弥呼の占い師(事務・姫川)、そしてコストカットに命をかける元財務省官僚風の閻魔大王。
アクの強すぎるチームを率いて、健二の「死後の第二の人生」が幕を開ける!
天国エレベーターの過積載バグ、地獄温泉の硫黄ガスによる橋脚サビ問題、ニート化する霊魂たちの就活、さらには自動成仏AIの暴走まで!?
三途の川から天国・地獄、そしてまさかの「現世出向(さいたま市役所霊籍管理課)」へ――。
これは、バラバラになった「生者と死者の縁」をもう一度繋ぎ直す、一人の男の愛と泥臭さの物語。



おまけ

この物語は
いつかブログで書いたものを
格闘し膨らませたものです。
それをここ「載せておきます。

ー原詩ー

あの世はなくてはならない

夏の終わりに
最愛のバアちゃんを亡くしまして
また
その直後
同期の仲間をも亡くしまして

それがそろそろ
ボディブロ~のよ~に効いてきたわけで。。。

人生も
確実に半分を超えたと感じる今日
すると
なんだか
様々なことを思うわけで。。。

あの世はあるのか? ではなくて
あの世は なくてはならない って
かの
親鸞は 言ったそ~な。。。

あの世があるのか? と問われても
さあ~? っとしか
僕らは
答えられないはずで

しかし
それぞれに持つ
それぞれの宗教の中では
やはり あの世というものが存在していて
そ~
次の世界が
そこにあるということになっておって

尚も
そこから 
も~1度
この世に舞い戻ることがあると
前世なるものがあるんだと
なんとなく 思わされておるってわけで

キミは 武士だったね
貴女は お姫さまだったね なんて
占い師たちは
そ~勝手に 唱え

しかし
何事もなかったのならば
こんな話すらなかったはずで

もしやもしや
この永い歴史の中では
1人や2人くらい
その
次の世界から舞い戻った 
なんて~な方がいたのかもね?

それが
もしかすると
釈迦だったり
キリストだったり
ブッダだったり とね

でも
いくらなんでも
あまりにも遠すぎる昔の
しかも
ホンマにいたのかすら うやむやな話

さて?。。。

お袋方の祖母は
10年前に 大往生で旅立った

しかし
なんや若い頃
当時の流行り病とかで
1度 息を引き取ったのだという

ところが
驚いたことに
数分して息を吹き返し
この世に舞い戻ったのだと
ガキの頃の僕ら 孫たちを捕まえちゃ~
自慢げに話し込んだもんで

やはり
そんな経験をされたという方々と同じよ~な
綺麗な黄色の
菜の花の咲き乱れる中に
ひとりたたずんでいて

そばを川が流れていて
向こう岸では
先立った親たちがなんや叫んでいたという

おいで~ という者
いやいや
来るな!! と叫ぶ者

そんな中
絶対に来るな!! と必死に叫んだ母親を見つけたそ~で
わかった
今は戻るって。。。

すると
すう~~~っと 意識が戻って
この世に
舞い戻ってきたのだと語った

それに
驚いた応急の医師も
こりゃ~ あんた
1度 キャンセルしたんじゃ
も~しばらくの間は
向こう側も受け入れてくれんだろ~から
まだまだ
長い人生となりますな~ って笑ったそ~な

そ~
そのと~り 
その後 60年 96まで生きた

そんなことがあるんだと
そんな経験をした方は
逆に 長生きになるんだと
その医師は
多くの経験の中で
知っていたんだそ~な

幻と言ってしまえば
確かにそれは それまでの話

しかし
何人も何人もが
そんな唱え方をしたもんにゃ~
まんざら嘘でもなさそ~な。。。

残念なことに
向こう側へ渡ってから
も1度
こちら側へと舞い戻れた方は いないけれど

残りの人生
この僕には
あと 
どのくらいの時間が残されておるのか
わからないけれど
いずれ訪れるであろ~な
僕のその時

僕を迎えに来てくれるのは
どなたなのだろ~か?
先立った仲間たちに
歓迎されるのだろ~か?
まだまだ来るな!! と追い返されるのだろ~か?

それとも
ちょいと 遅かったな~!! と笑い
美味い酒と
良い女たちとを
すでに用意しておいて くれてるのだろ~か?

いやいや
建設や
土木の仲間たちが揃った頃には
自由に行き来出来るよ~に
その川に
大きな橋でも 架けてやろ~か?。。。

宝くじを買わない男

——神様と運命と、売り場はどこだ——



まえがき

世の中には二種類の人間がいると言われます。
 宝くじを買う人と、買わない人。
 本書の主人公である田中誠一は、まぎれもなく後者でした。それも、「強い信念があって買わない」という格好いいものではなく、「そもそも売り場がどこにあるか知らないし、買い方もよくわからない」という、極めて受動的なタイプの「買わない男」です。
 そんな彼が、ある日突然、神様の公平性と自分の「徳」の少なさに気がつき、一歩を踏み出す(正確には、近所の稲荷神社まで歩き、のちに定休日の売り場まで往復する)物語が、本作です。
 人生を一発逆転させるような三億円のドラマは、ここにはありません。
 しかし、読み終えたあと、ほんの少しだけコンビニのレジ横のスクラッチくじが愛おしくなったり、誰かに席を譲るのが恥ずかしくなくなったりする――そんな、人生の「下二桁の当たり」のような小さなお話を、どうぞ気楽にお楽しみください。





第一章 神様は公平である(たぶん)

 田中誠一、四十二歳。職業・会社員。趣味・なし。特技・なし。将来の夢・なし。
 履歴書の「趣味・特技」欄に記入できるものが何もないというのは、人生においてかなりの敗北感を伴うものだが、田中はそのことについて深く悩んだことがない。なぜなら、もう履歴書を書く機会がここ十五年ほどなかったからだ。
 今日も今日とて、田中は自宅のソファに沈み込み、テレビで年末ジャンボ宝くじの当選番号発表を眺めていた。
「当たらないなあ」
 隣では妻の節子が、せんべいをぼりぼりと噛みながら言った。
「当たり前でしょ。買ってないんだから」
「……そうだな」
 田中は静かに、しかし深く同意した。
 だが、そこで思考を止めるのが凡人というものである。田中は違った。彼の脳内では、今まさに壮大な哲学が展開されつつあった。
(なぜ、俺には当たらないのか)
(それは……俺よりも正しく生きている人間が、この世界にはたくさんいるからではないか)
(神様は、そういう人たちを優先しているのだ)
(つまり、俺はまだ正しく生きていない)
(ということは……もっと正しく生きねばならんのだな)

 田中は確信した。
 問題は「買っていない」ことではない。問題は「徳が足りない」ことなのだ。
 節子がまたせんべいを噛んだ。
「何ぼーっとしてるの」
「いや……俺、もっと正しく生きようと思って」
「はあ?」
 節子の目が細くなった。十七年の結婚生活で培われた「またろくでもないことを考えている」レーダーが、ピピピと反応した音がした。

第二章 正しい生き方とは何か(田中調べ)

 翌朝、田中は会社への道すがら、「正しい生き方」について本格的に考察を始めた。
 まず思い浮かんだのは「嘘をつかない」ことだ。しかしこれは、昨日の夜すでに失敗していた。節子に「今月の飲み代いくら使った?」と聞かれて「三千円くらい」と答えたが、本当は八千二百円だった。
 次に「人に親切にする」。これは悪くない。しかし、今朝の電車でお年寄りに席を譲ろうとしたら、その方がサッと別の車両へ移動されてしまい、結果として田中だけが空席の前に突っ立つという奇妙な状況が発生した。近くにいた女子高生グループに笑われた。マイナスである。
 「募金をする」という選択肢も浮かんだが、財布の中の小銭を数えたら四十三円しかなく、それはそれで惨めだったのでやめた。
 会社に着いた田中は、後輩の山本に声をかけた。
「山本くん。君は正しい生き方をしているかね」
「は?」
「いや、なんというか……徳を積むというか。神様に好かれるような」
 山本は五秒ほど田中の顔を見つめてから、静かにヘッドフォンを装着した。
 拒絶された。しかし田中はめげなかった。神様への道は険しいのだ。

 お昼休み、田中は神社に向かった。会社の近くに、こじんまりとした稲荷神社があることを思い出したのだ。
「神様。私、田中誠一と申します。正しく生きようと思っておりますので、来年の年末ジャンボ、よろしくお願いいたします」
 賽銭は五円だった。節子に見せられないやつだ。
 だがその瞬間、田中の脳裏に突然、ある考えが閃いた。
(待てよ。俺は宝くじを買っていない)
(当たるも何も、そもそも持っていないのだ)
(神様だって、ないものを当てることはできまい)
 田中は固まった。
 稲荷神社のキツネが、どこか遠くを見ているような顔をしていた。

第三章 買うという決意(そして現実)

 その夜、田中は宣言した。
「節子。俺、宝くじを買おうと思う」
 節子はテレビから目を離さずに言った。
「どこで?」
「……コンビニじゃないの?」
 節子がテレビから目を離した。珍しいことだった。
「ジャンボ宝くじはコンビニでは売ってないわよ」
「え」
「銀行か、宝くじ売り場に行かないと」
「……そうなの?」
「四十二年間、知らなかったの?」
 田中は黙った。知らなかった。一度も買ったことがないのだから、知らなくて当然なのだが、それを言うと話がループするので黙っていた。

 翌日、田中は意気揚々と会社帰りにコンビニへ向かった。念のため自分の目で確かめたかったのだ。
「あの、年末ジャンボって……」
 レジに立ったコンビニ店員は、田中の顔を見る前に言った。
「ジャンボ系はうちでは扱ってないです」
「あ、やっぱり」
「ロトとかナンバーズならありますけど」
「いや……ジャンボが」
「銀行か売り場ですね」
「……ありがとうございます」
 田中はガムを一個買って店を出た。

 外に出ると、冬の空気が顔に刺さった。
 田中はしばらく空を見上げた。
(そうか。売り場に行けばよかったのか)
(なんで今まで気づかなかったんだろう)
(いや、買おうとしたことがなかったから気づかなかったんだ)
(では明日、売り場に行けばいい)
(……売り場はどこにあるんだろう)
 ガムを口に入れながら、田中はスマートフォンで「宝くじ売り場 近く」と検索した。最寄りの売り場は、会社とは反対方向に、徒歩二十分のところにあった。
 田中は翌日も行かなかった。

第四章 目が覚めるような当たり

 年が明けた。
 田中は相変わらず会社に行き、山本にたまに無視され、節子にたまに呆れられ、稲荷神社に時々お参りし(賽銭は五円から十円に昇格した)、コンビニのコーヒーを飲み、ソファに沈み込んでテレビを眺める日々を過ごしていた。
 宝くじ売り場には、まだ行っていなかった。
 それでも、何かが変わっていた。
 田中は今年、嘘を一回減らした。飲み代を「六千円くらい」と言った。本当は七千八百円だったが、これは誤差だ。進歩である。
 電車でお年寄りに席を譲ることにも成功した。ただし相手の方が「いや、結構です」と断ったので、また空席の前に突っ立つことになったが、今回は女子高生グループがいなかった。百点だ。
 募金もした。百円。四十三円のときより、ずっとよかった。

 ある春の夕方、田中は駅の改札前で、転びかけたおばあさんの荷物を支えた。
「ありがとうございます。助かりました」
 おばあさんは深々と頭を下げ、去っていった。
 田中はそこに突っ立ったまま、妙な気持ちになった。
 悪くない気持ちだった。三億円当たったときに感じるだろう気持ち(想像)とは違う。もっと地味で、もっと静かな、でも確かに「何か」がある感じだった。
(これが……徳か)
(よし。今年こそ売り場に行こう)

 その週末、田中はついに宝くじ売り場へ向かった。
 徒歩二十分。思ったより遠かった。
 売り場に着くと、シャッターが閉まっていた。
 貼り紙には「本日定休日」と書いてあった。
「……」
 田中は五分ほどシャッターを眺めてから、来た道を戻った。

 翌週、今度こそと再び売り場へ向かった田中は、ちゃんと開いている売り場の前に立ち、人生で初めて年末ジャンボ宝くじを一枚購入した。
 三百円だった。
 帰り道、田中はコンビニに寄り、コーヒーを一杯買った。
 レジの横に、スクラッチくじが売っていた。
「こっちはコンビニで売ってるんだな」
 田中はつぶやき、一枚買った。
 コインでガリガリと削る。
 当たった。
 三百円が。

「……」
 田中は再投資した。
 ハズレた。

 まあ、そういうものだ。
 田中は夜道を歩きながら、コーヒーを飲んだ。少し冷めていたが、悪くなかった。
 神様はきっと、公平なのだと思う。ただ、その「公平」が何を意味するのかは、よくわからない。もしかしたら、おばあさんの荷物を支えた瞬間の、あの地味で静かな気持ちが、三億円の等価物なのかもしれない。
 そんなわけないとは思うが。
 でも、まあ。
 来年こそは、ちゃんと当たるかもしれない。

エピローグ

 年末ジャンボの当選番号発表の日、田中はソファで番号を照合した。
 下二桁が合っていた。
 三百円当選である。
 田中は換金しなかった。
 券をそのまま財布に入れて、時々眺めた。
「当選」と書いてあるのが、なんとなく嬉しかったのだ。

 節子には言わなかった。
「換金してきなさい」と言われるのが目に見えていたから。

 一生に一度くらい、目が覚めるような当たりが欲しい。
 田中はまだそう思っている。
 ただ、売り場の場所はもう知っている。
 定休日も把握した。
 来年も一枚、買うつもりだ。

(了)


アマゾン キンドル



あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 本作の着想は、私自身が年末のニュースで宝くじ売り場の行列を眺めていたときに浮かんだものです。あの行列に並ぶ人たちには、それぞれ「三億円が当たったらあれを買おう、ここへ行こう」という壮大な夢があるのだろうな、と。
 その一方で、一度もあの列に並んだことがない人間の脳内には、一体どんなドラマが眠っているのだろう。それが、田中誠一という男が生まれたきっかけでした。
 彼は四十を過ぎてなお、嘘の金額を数千円ごまかし、電車の空席の前で突っ立ち、後輩にヘッドフォンをされてしまうような、お世辞にも「立派」とは言えない男です。けれど、自分の「徳」をちまちまと計算しながら、少しずつ、本当に少しずつ「正しく」あろうとする彼の姿は、どこか私たち自身の不器用な日常と重なる部分があるのではないでしょうか。
 作中、田中は三百円の当選券を換金せず、財布に忍ばせます。
 私たちが日々の中で見つける「ちょっと良いこと」――誰かを助けてお礼を言われたり、冷めたコーヒーが意外と美味しかったりすること――は、もしかしたら神様が換金期限をあえて作らなかった、人生の当選券なのかもしれません。
 この本が、お忙しいあなたの日常に、ほんの少しの「まあ、悪くないか」をもたらす三百円分の価値になれたなら、著者としてこれ以上の幸せはありません。
 最後に、本作の執筆を支えてくださったすべての方々と、今日もどこかで「正しく生きよう」と奮闘している全国の田中さんに、心からの感謝を込めて。


宝くじ銀河 
―― あるいは当たらない理由が多すぎる件について
A Lottery Space Opera


まえがき

―― あるいは、免責事項として
本書に登場する「宝くじタイムマシン」は、現時点では実在しない。
念のため申し添えるが、「現時点では」という修飾語は、著者の誠実さの証明であると同時に、将来的な弁護士費用を節約するための高度な法律的工夫でもある。
また、政府機関「国家宝くじ管理委員会」も現時点では実在しない。しかし読者の皆さんが「なんとなくありそう」と感じるなら、それはあなたの正直な社会観察眼が優れているからであり、著者の責任ではない。
本書はフィクションである。
ただし、宝くじが当たらないという事実だけは、完全なるノンフィクションである。




序文 ―― あるいは、免責事項として

本書に登場する「宝くじタイムマシン」は、現時点では実在しない。
念のため申し添えるが、「現時点では」という修飾語は、著者の誠実さの証明であると同時に、弁護士費用を節約するための高度な法律的工夫でもある。
また、本書に登場する政府機関「国家宝くじ管理委員会」も現時点では実在しない。しかし読者の皆さんが「なんとなくありそう」と感じるなら、それはあなたの正直な社会観察眼が優れているからであり、著者の責任ではない。
本書はフィクションである。ただし、宝くじが当たらないという事実だけは、完全なるノンフィクションである。



プロローグ 夏の午後、五百円の奇跡と絶望

西暦二〇二四年、八月某日。
午後三時十七分。
銀座の地下通路。

田中一平(四十三歳、独身、課長補佐、趣味:宝くじ購入、特技:当選しないこと)は、売り場の前で三分間立ち尽くしていた。
看板には「サマージャンボ宝くじ 一等前後賞合わせて十億円!」と書いてある。
十億円。
一平はその数字を、まるで古代の象形文字を解読するように、じっくりと読んだ。
一 〇 億 円。
十億円あれば何ができるか。住宅ローンの残金四千二百万円を返済しても、まだ九億五千八百万円残る。会社を辞めても、年利三パーセントで運用すれば毎年二千八百万円の収入だ。つまり一生、課長補佐の松田部長に「田中くん、例の件だが」と声をかけられることなく生きていける。
素晴らしい。
あまりにも素晴らしすぎて、現実感がない。
「お客様、お決まりでしょうか」
売り場のおばさん――「宝くじ売り場の福の神」と書いたエプロンを着用している――が、穏やかに問いかけた。二十年来の付き合いで、一平は毎年彼女から宝くじを買っている。毎年。ただの一度も当たったことがない。
「連番で三枚、ください」
「はいはい、毎度ありがとうございます」
おばさんは慣れた手つきで三枚を取り出した。
「田中さん、今年こそですよ」
「毎年そう言いますよね」
「毎年そう思うんですよ」
一平は千五百円を払った。財布には残り八千円しかない。明後日が給料日だから、まあいい。
受け取った三枚の宝くじを、一平は光にかざして見た。
番号は「ユ組 123456番」「ユ組 123457番」「ユ組 123458番」。
連番だ。もし一等が「ユ組 123457番」なら、前後賞も合わせて十億円が手に入る。
「あの」と一平は言った。「今、当選番号、わかりますか」
おばさんは優しく首を振った。「抽選は来月ですよ、田中さん」
「そうですよね」
一平は宝くじを大事にポケットに入れた。
そして歩き出した。
これから一ヶ月、彼は億万長者である。
少なくとも、当選発表があるまでは。

第一章 量子力学と宝くじの意外な共通点

田中一平の隣の席には、柴田博士がいる。
正確に言えば、柴田博士は一平の会社の社員ではない。一平の勤務する商社「大東物産」の向かいのビルに入っている「柴田量子研究所」の所長であり、昼食時に同じ定食屋を利用するという縁で、十年来の顔見知りである。
本名・柴田量一。六十二歳。白髪で細身。常に実験用の白衣を着て街を歩くため、近所では「あの変な先生」として知られている。ノーベル賞を三度受賞しているが、本人は「あんなもの、権威の押しつけだ」と言って賞状をトイレに飾っている(「謙遜の極致か、傲慢の極致か」と論争になったが、本人は「トイレが一番落ち着いて読める場所だから」と言っており、議論は有耶無耶になった)。
その柴田博士が、八月の定食屋で、カツ定食をつつきながら言った。
「田中くん、宝くじの当選確率を知っているかね」
「一千万分の一くらいですか」
「一等は二千万分の一だ。しかし面白いことがある」
博士はみそ汁をすすった。
「量子力学的に見ると、宝くじの当選番号は、抽選が行われるまで『確定していない』んだよ」
「シュレーディンガーの猫、みたいな話ですか」
「そうだ。理論的には、抽選前の宝くじは、当選と落選が重ね合わせの状態にある。観測(=抽選)によって初めて、どちらかに確定する」
「つまり」一平は箸を止めた。「当選発表前の今この瞬間、私の宝くじは当選しているかもしれない、ということですか」
「理論上はそうだ」
一平は立ち上がろうとした。
「落ち着きなさい。あくまで量子スケールの話だ。マクロな日常世界では古典物理学が支配的で――」
「でも可能性はゼロじゃない」
「……まあ、ゼロではない」
一平は力強く頷いた。「それで十分です」
博士はため息をついた。「物理学をそういう方向に使わないでほしいんだが」

二週間後。
柴田博士の研究所から電話があった。

「田中くん、ちょっといいかね。見せたいものがある」

一平が研究所を訪れると、ラボの中央に、冷蔵庫ほどの大きさの銀色の装置が置かれていた。
「なんですか、これ」
「タイムマシンだ」
一平は三秒間、沈黙した。
「……は?」
「タイムマシンだよ。時間を移動する装置だ。先週完成した」
「先週!?」
「意外と早くできたね。実は三十年前から理論は完成していたんだが、材料費の調達に時間がかかってね。ようやく予算がついた」
「予算はどこから」
「宝くじだよ」
一平は目をみはった。「博士、当たったんですか」
「いや。研究助成金の審査が宝くじ方式だった。つまり私の名前が抽選で選ばれた。まったく不合理なシステムだが、おかげで完成したんだから文句は言えない」
博士は装置の扉を開けた。中は意外と狭く、一人入ればいっぱいの広さだった。
「どこへでも行けるんですか」
「時間軸に沿った移動しかできない。空間座標は固定だ。つまりここで乗れば、ここの未来か過去に行ける」
「……」
一平の脳裏に、ひとつのアイデアが閃いた。
否、正確に言えば、アイデアというより衝動だった。
「博士」
「なんだね」
「来月の宝くじの抽選日に、飛ぶことはできますか」
博士は眼鏡を押し上げた。
「……用途が想像と全然違うが、技術的には可能だ」
「お願いします!」
「待ちなさい。倫理的な問題がある。時間移動は慎重に行わないと、歴史の改変につながる。そのリスクを理解しているかね」
「でも博士、私が宝くじで当たるかどうかなんて、歴史的にはどうでもいい話では?」
博士は少し考えた。
「……まあ、確かに。田中くんが億万長者になったところで、歴史の大局に影響はなさそうだな」
「では!」
「……仕方ない。ただし、条件がある」
「なんでも言ってください」
「私も連れていきなさい。この装置、まだ一度も実験していないから、誰かと一緒のほうが安心だ」
こうして、人類史上初のタイムトラベル実験は、「宝くじの当選番号を確認する」という前代未聞の動機によって実施されることになった。

第二章 未来へ飛ぶ。しかし問題が発生する

出発は翌朝六時だった。
博士は前日から計算を繰り返し、「問題ない」と言いながらも、なぜか遺書を書いていた。一平はそれを見なかったことにした。
「行き先は?」と博士が聞いた。
「来月二十日の午後二時。宝くじの当選発表が確定した直後です」
「座標は?」
「ここで大丈夫です。スマホで確認すればいい」
「では行くよ」
博士がスイッチを入れた。
装置が振動した。
ウィーン、という音がした。
一平は目を閉じた。
目を開けると――部屋は同じだった。

「……動いていませんか?」と一平は言った。
「動いたよ」と博士は言った。「時刻を見てごらん」
一平はスマホを取り出した。
日付:九月二十日。時刻:午後二時三分。
「動いた!」
「当然だ」
一平は震える手でインターネットにアクセスし、「サマージャンボ当選番号」と検索した。
結果が表示された。

一等:ユ組 123457番

一平は固まった。
自分の番号は「ユ組 123456番」「123457番」「123458番」。
つまり―― 当選している。
一等 七億円。
前後賞 各一億五千万円。
合計 十億円。

「博士……」一平の声は震えた。「当たっています」
「ほう」博士は興味なさそうに言った。「それは良かった。では帰ろうか」
「帰る? なぜですか?」
「番号を確認した。目的は達成だ」
「違います! 当然、このまま過去に戻って、買い足す必要があります!」
「……買い足す?」
「連番で追加購入です。同じ番号帯で、もっと多く買えば――」
「待ちなさい」博士は眼鏡を外した。これは博士が真剣になるときのサインだと、一平は経験上知っていた。「それは問題がある」
「なぜですか」
「宝くじには購入枚数の制限がある。一人あたり一単位(一〇枚)まで、という販売規定が存在する」
「じゃあ、複数の売り場で買えば――」
「規約違反だ」
「でも、わかりませんよね? 顔認証とかしてませんし――」
「田中くん」博士は静かに言った。「私は物理学者だ。倫理についても一家言ある」
一平は神妙な顔をした。
「規約の解釈については、私には判断できない。しかし」博士はわずかに間を置いた。「過去の自分に、『当選番号はこれだ』と教えることはできる」
「それって……」
「過去の自分が、その番号を一枚買うことは、既に起きた事実だ。つまり、タイムパラドックスは発生しない」
一平は頷いた。
「では戻りましょう」
「ただし」博士は指を立てた。「ひとつ確認しておきたい。このタイムマシン、帰り道も問題ない……はずだ」
「……はずだ、って?」
「行きは初めての実験だったから、帰りも初めての実験だ。理論上は問題ないが」
「博士!」
「大丈夫だよ、たぶん」
一平は自分が量子力学的なシュレーディンガーの立場に置かれていることを悟ったが、もはや後戻りはできなかった。

第三章 過去に戻る。しかし別の問題が発生する

帰還は成功した。
日付は元通り、出発した朝に戻っていた。
ただし時刻が三時間ほどずれており、一平が会社に到着したのは昼過ぎになったが、そんなことは今はどうでもよかった。

「田中、遅刻だぞ」と松田部長が言った。
「緊急の用事がありまして」
「どんな用事だ」
「時間旅行です」
「……有給扱いにしておく」

一平は昼休みに抜け出し、銀座の売り場に向かった。
おばさんが笑顔で出迎えた。
「あら、田中さん。もう追加購入ですか? 気が早いですね」
「おばさん、ひとつお願いがあるんですが」
「なんでしょう」
「バラで、『ユ組の一二三四五七番』、ありますか」
おばさんは首をかしげた。
「バラ売りは、番号の指定はできないんですよ。番号はランダムで」
「そうですよね……」
「連番であれば、在庫次第ですが、同じユ組の帯であれば――」
「実は、特定の番号を買いたいんです」
「特定の番号?」
「……そうなんです」
おばさんは優しく首を振った。「宝くじは番号を選んで買うものではないんですよ。それだと、もはや宝くじではなくて――」
「わかりました」一平は肩を落とした。「では連番で、ユ組の、できるだけ一二三四五七番に近い番号で」
「それも、在庫の関係で保証できません。番号は束の単位で流通していますので」
一平は深呼吸した。
つまり、未来の当選番号を知っていても、その番号を指定して購入することは、システム上できないのだ。
タイムマシンで未来に行って当選番号を調べたのに、戻ってきたら買えない。
一平はしばらく考えた後、こう言った。
「……では、連番で三枚追加で」
「はい、毎度ありがとうございます」
受け取った番号を見ると:「ユ組 223456番」「223457番」「223458番」。
全然違う番号だった。

その日の夜、一平は柴田研究所を訪れた。
「博士。根本的な問題に気づきました」
「何かね」
「未来の当選番号を知っていても、その番号を指定して買う方法がない。番号はランダムに割り当てられる」
「なるほど」博士は少しも驚いた様子がなかった。
「知っていましたか!?」
「出発前から気づいていた」
「なぜ言わなかったんですか!」
「言ったら行かないと言うかと思って。タイムマシンの実証実験がしたかったから」
一平は二秒間、博士を見つめた。
「つまり、私はタイムマシンの実験台にされた、ということですか」
「共同研究者だよ。論文に名前を入れよう。『田中一平・柴田量一』。いい響きだろう」
「全然嬉しくない」
「ところで」博士は続けた。「第二の手段を考えてみたんだが」
「……聞きます」
「当選番号が書かれた宝くじを、発表前の過去から入手することだ」
「どういう意味ですか」
「抽選は機械で行われる。その機械に、抽選前に細工することはできるか?」
「犯罪です」
「だな。却下だ」
「……次の案は」
「当選番号の範囲を絞って、その帯の宝くじを大量購入するという戦略だ。ユ組が一等なら、ユ組の宝くじを集中的に買う」
「でも、何組が一等かを知るには、また未来に行く必要がある」
「行けばいい」
「行って戻って買えるんですか」
「理論上は何度でも行けるよ。ただし――」
「ただし?」
「行くたびに、微妙に時間軸がずれる可能性がある。つまり」博士は眼鏡をかけ直した。「今回確認した未来と、次に行く未来が、同じ未来とは限らない」
一平は頭を抱えた。
「量子多世界解釈だ。時間移動をするたびに、並行世界が分岐する可能性がある。別の世界では、当選番号が違うかもしれない」
「つまり」一平はゆっくりと言った。「どれだけ未来を調べても、自分が戻った過去に対応する未来が、同じとは限らない」
「その通り」
一平はソファに深く沈んだ。
「……買わずして当たらず。買っても当たらず。未来を知っても、当たらず」
「田中くん、人生とは――」
「博士、一個だけ質問していいですか」
「なんだね」
「今から研究所に帰って、昨日に戻って、今日のこの会話を聞かなかったことにする、ということはできますか」
博士は少し考えた。
「技術的には可能だ。しかし、それも量子的には別の世界に分岐するから、今のあなたの悩みは消えない」
「……」
「もっと根本的な解決策を提案しよう」
「なんですか」
「諦めなさい」
「それが解決策ですか」
「最も合理的だよ」

第四章 国家宝くじ管理委員会、登場する

事態が複雑になったのは、翌週だった。
一平の会社に、スーツ姿の男が二人訪ねてきた。
名刺には「国家宝くじ管理委員会 時間的不正行為対策局」と書いてあった。

「田中一平さんですね」
「そうですが」
「九月二十日、午後二時三分に、本来まだ公開されていないサマージャンボの当選番号を、インターネット検索によって取得した事実を確認しています」
一平は固まった。
「……どうして知っているんですか」
「我々の局は、時間的異常を監視しています。未来からの情報漏洩は、宝くじ市場の公正性を著しく損ないます」
「でも、私は結局何も当たっていませんよ?」
「問題は意図です。田中さん、タイムマシンを使って宝くじの当選番号を確認しようとした。これは法律第二三条第七項――」
「そんな法律、あるんですか?」
「去年制定されました」
「去年!?」
「タイムマシンの普及を見越して、先行的に整備しました」
一平は頭が混乱してきた。
「タイムマシンは先週完成したんですが」
「その件も把握しています。柴田博士の研究所ですね。博士には本日、別の担当者が出向いています」
「博士が……」
「田中さんにお尋ねします。第一回目のタイムトラベル、九月二十日への移動。これは事実ですか」
「……はい」
男たちは顔を見合わせた。
「正直に言っていただいてありがとうございます。ただちに逮捕、ということではありません。初犯ですし、実質的な不正利益を得ていない。ただし、今後タイムマシンを宝くじ目的に使用した場合は、時間的詐欺罪が適用されます」
「時間的詐欺罪……」
「懲役三年以下、または三十万円以下の罰金です。加えて、時間的詐欺によって得た利益は全額没収」
「つまり、当選しても没収されるということですか」
「正確には、不正な時間移動によって取得した情報に基づいて購入した宝くじの当選金は、没収対象です」
「じゃあ意味がない……」
「その通りです」男は穏やかに言った。「田中さん、一つアドバイスをしてもいいですか」
「……どうぞ」
「普通に買いなさい。その方が楽です」

男たちが帰った後、一平はデスクに突っ伏した。
松田部長が近づいてきた。
「田中、なんか変な人たちが来てたけど、大丈夫か」
「大丈夫です」
「顔色悪いぞ」
「時間旅行の後遺症です」
「……有給とるか?」
「いえ」一平は立ち上がった。「今日は定時で帰ります」
「それでいい」部長は珍しく優しく言った。「たまには早く帰って、ゆっくりしろ」
「部長」
「なんだ」
「部長は宝くじ、買いますか」
「毎年買ってるよ」部長は笑った。「一等当たったら、会社辞めてやるって思いながら」
「当たったことは?」
「ない。三千円が最高だ」
「でも、また買いますか」
「もちろん。夢を買うんだから」
松田部長が自席に戻るのを見ながら、一平は思った。
部長も同じだ。みんな同じだ。
タイムマシンがあっても、なくても、結局みんな同じことをしている。

第五章 柴田博士の告白と、二つめの発見

その夜、柴田研究所に向かうと、博士は珍しく難しい顔をしていた。
「国家宝くじ管理委員会の人たちが来たんですね」と一平は言った。
「ああ。いや、まあ、来た。それより田中くん、少し話がある」
「なんですか」
博士は白衣のポケットに手を入れ、一枚の紙を取り出した。
「タイムマシンの計算をやり直した。ひとつ重大なミスを発見した」
「ミス?」
「私たちが九月二十日に訪れた際、すでにそこは私たちが訪問した後の世界だった可能性がある」
「どういう意味ですか」
「つまり、私たちが見た当選番号は、私たちが訪問したことによって影響を受けた当選番号かもしれない」
一平は目をしばたたいた。
「……宝くじの当選番号が、私たちの訪問によって変わった、ということですか?」
「可能性として、だ。量子的観測効果が、マクロスケールに影響を与えたとすれば」
「つまり、もし私が宝くじを買い足して、その番号が当選番号の帯に入っていたとしたら」
「逆に当選番号が変化して、当たらなかった、という可能性もあったということだ」
一平はしばらく考えた。
「博士、それって、結局何をしても当たらないということでは?」
「……そう解釈することもできる」
「なんのためにタイムマシンを作ったんですか」
「科学の進歩のためだよ」博士は真剣な顔で言った。「宝くじのためじゃない」
「でも私を誘ったのは」
「実験台が必要だったから。いや、共同研究者が」
「同じことです」
博士はため息をついた。そして、少し間を置いて言った。
「田中くん、一つ聞いていいか」
「なんですか」
「なぜ、そんなに宝くじにこだわるんだ」
一平は少し驚いた。こんな質問をされたことがなかった。
「……こだわっているというわけじゃないですが」
「毎年買っているだろう。二十年以上、一度も当たったことがないのに」
「みんなそうですよ」
「でも、なぜだ。当たらないとわかっているのに」
一平は少し考えた。
「……楽しいからじゃないですかね」
「楽しい?」
「当選発表までの間。その期間が、楽しい。夢を見られる。仕事辞めて、ローン返して、旅行に行って……ってリストを作るんです、頭の中で」
「なるほど」
「でも博士、それって非合理ですよね。経済学的には」
「非合理だな」博士は頷いた。「しかし人間は非合理な生き物だ。それが人間の面白いところだとも思う」
「博士は、非合理な人間の研究はしないんですか」
「私は物理学者だ。しかし」博士は珍しく笑った。「田中くんと話していると、物理よりずっと不思議な現象が見られる気がする」

帰り道、一平は駅前の宝くじ売り場に寄った。
シャッターが半分閉まりかけていたが、まだ開いていた。
スクラッチ宝くじ。一枚三百円。
一平はそれを一枚買った。
売り場の隅に備え付けられたコイン(十円玉)でスクラッチした。
「ハズレ」と書いてあった。
一平はゴミ箱に捨て、家に帰った。
翌朝、財布から宝くじ三枚を取り出した。
抽選発表まで、あと二週間。
一平はそれをテーブルの上に置き、お茶を飲んだ。
窓の外は夏の終わりの青空だった。

第六章 当選発表の日

九月二十日。午後二時。
田中一平は定食屋のテレビの前にいた。柴田博士も隣にいた。
サマージャンボ当選番号発表の中継が始まった。

アナウンサーが読み上げる。
「一等当選番号、発表します――」

一平はポケットから三枚の宝くじを取り出した。
「ユ組 123456番」「123457番」「123458番」。

「――マ組 098765番」

違う。

一平は三枚を見た。博士を見た。テレビを見た。
「あれ」と博士が言った。「私たちが見た当選番号と違う」
「……やっぱり、量子多世界解釈ですか」
「おそらく」博士は平静に言った。「私たちが観測した世界と、今いる世界が分岐したんだろう」
「つまり」
「あの時見た当選番号は、別の平行世界での話だった、ということだ」
一平はしばらくテレビを見ていた。
前後賞の番号も読み上げられた。
全部違う。

「……はずれました」
「そうだな」
「タイムマシンで未来に行って、当選番号を確認して、国家宝くじ管理委員会に目をつけられて、量子的世界分岐で番号が変わって、結果ははずれ」
「まとめると、そういうことだ」
「三枚で千五百円のロスです」
「科学的知見は得られた」
「私の千五百円は?」
「……共同研究の投資と考えてほしい」

おばさんが定食を運んできた。
「田中さん、どうでした?」
「はずれました」
「あらあ、残念。来年こそですよ」
「そうですね」
一平はカツ定食を食べた。おいしかった。

食後、博士が言った。
「田中くん、一つ提案がある」
「なんですか」
「来年のサマージャンボが発売されたら、また連れて行ってほしい。今度は研究目的で。当選番号の量子的確率分布を観測したい」
「……博士、それ私の千五百円を餌に誘うやつですよね」
「いや、本当に科学的興味だよ。田中くんが買うかどうかは、田中くんの自由だ」
一平は少し笑った。
「買いますよ。来年も」
「なぜだ。今回の結果を踏まえれば――」
「わかってますよ。それでも買う。それが宝くじというものだから」
博士は頷いた。「人間とは不思議な生き物だな」
「そうです。それだけは確かです」

第七章 量子宝くじ購入機の発明と、その後

十月になった。
柴田博士から電話があった。

「田中くん、大発明をした」
「今度は何ですか」博士の「大発明」は毎回人生に影響を及ぼすので、一平は慎重になっていた。
「量子宝くじ購入機だ」
「……なんですか、それ」
「宝くじを購入する際、量子的に全並行世界の当選番号を同時に観測して、その時点での最適番号を逆算する装置だ」
「それって、当たる番号を選べる機械ですか」
「理論上は」
「また理論上ですか」
「しかし実用化には問題がある」
「どんな問題ですか」
「装置の大きさが現在、東京ドーム三個分だ」
一平は三秒沈黙した。
「……では今は実用的じゃないですね」
「そうだ。でも理論は完璧だよ」
「博士」
「なんだね」
「もし将来、その機械が東京ドーム一個分まで小さくなっても、それをどこに置くんですか」
「国有地を借りよう。ちょうど宝くじ収益で整備された公園がある」
「……国のお金で運営される量子宝くじ機で、国が運営する宝くじを攻略する、ということですか」
「言われてみると、矛盾があるな」
「大変な矛盾です」
「しかし科学とは矛盾の中に真実があるものだ」
「それは詭弁では?」
「哲学だよ」

その夜、一平は帰り道に立ち寄った駅前の宝くじ売り場で、次のジャンボ宝くじの広告を見た。
年末ジャンボ。一等七億円。
一平はしばらく眺めた後、一枚買って帰った。
連番でもなく、バラでもなく、ただの一枚。
千五百円じゃなくて、三百円でいい。
発売は来月。抽選は十二月。
一平はそれを封筒に入れて、引き出しの奥にしまった。

翌朝、出勤途中に松田部長からメッセージが届いた。
「田中、今日の会議十時からに変更。あと、例の案件について相談したい」
一平は「了解です」と返信しながら思った。
例の案件。
また始まる。
しかし今日は、引き出しに年末ジャンボが眠っている。
十二月まで、二ヶ月ある。
二ヶ月間、夢を見られる。
それは案外、悪くない投資かもしれない。

エピローグ 宝くじとは何か、について

年が明けた。
年末ジャンボは、はずれた。
末等(三百円)が当たった。元手が回収されただけだった。

柴田博士のタイムマシン論文が、国際学術誌に掲載された。タイトルは「量子時間移動における並行世界分岐と宝くじ当選確率の相関に関する考察」。共著者として「田中一平」の名前が入った。博士に半ば強制されたが、論文の内容はさっぱりわからなかった。

国家宝くじ管理委員会・時間的不正行為対策局は、翌年の予算削減でほぼ全員リストラされた。タイムマシンを持っている人間が、思ったより少なかったからだ。担当者の一人が挨拶に来て、「田中さん、我々の局の最初の、そして最後の案件でした」と言った。なんだか申し訳ない気がした。

銀座の売り場のおばさんは、今年も元気だった。「田中さん、今年こそですよ」と言った。一平は「そうですね」と答えた。

サマージャンボの季節になった。
一平は連番三枚を買った。千五百円。
発表まで、一ヶ月。

その一ヶ月間、一平はいつものリストを作った。
仕事を辞めて。
ローンを返して。
旅に出て。
しかし今年は、リストの最後に一行追加した。

「柴田博士のタイムマシン研究に、少し寄付する」

理由は特にない。
強いて言えば、去年のタイムトラベルが、悪くない体験だったからかもしれない。
当選番号は確認できなかったし、結局はずれたし、国の機関に目をつけられたし、量子論的には何をしても無意味だとわかった。
それでも、あの一ヶ月は、なかなか面白かった。

一平は宝くじをテーブルに置き、お茶を一口飲んだ。

当たるかもしれない。
当たらないかもしれない。
どちらかわからないまま、一ヶ月が過ぎる。
それが宝くじというものだ。

少なくとも田中一平は、来年もまた買うだろう。
タイムマシンに乗るかどうかは、博士次第だが。

―――――――――

ところで。
翌年のサマージャンボの当選番号は、「ユ組 123457番」だった。
田中一平の番号は「ユ組 333333番」だった。
全然違った。
これもまた、量子多世界解釈で説明できるかもしれない。
あるいはただ、はずれただけかもしれない。

どちらでも、来年も買う。

(了)



後記 ―― 宝くじと人類について

本書を書き終えて、著者は改めて思う。

人類は古来より、「運」というものに魅了されてきた。
古代ローマでは占いで国家の意思決定をし、中世ヨーロッパでは教会がくじ引きで資金調達をし、現代日本では毎年数百万人がジャンボ宝くじを買う。
そしてほぼ全員がはずれる。

それでも買い続ける。

著者は経済学者でも物理学者でも哲学者でもないが、この現象について、一つの結論を持っている。

人間は「可能性」を買っているのだ。
当選番号との一致(確率二千万分の一)を買っているのではなく、「当たるかもしれない自分」が存在する時間を買っている。

タイムマシンがあっても、この本質は変わらない。
量子コンピュータで確率を計算しても、変わらない。
国家機関に監視されても、変わらない。

買う理由は、いつも同じだ。
「もしや。まさか。万が一」

その三語に、五百円の価値がある。
少なくとも、著者はそう思う。

なお、著者は本書の執筆を機に、今年のサマージャンボを購入した。
連番三枚、千五百円。
結果は――まだわからない。
この後記を書いている時点で、抽選日は来週だ。

当たったら、続編を書く。
はずれたら、来年も同じことをする。


アマゾン キンドル



あとがき

―― 宝くじと人類について
本書を書き終えて、著者は改めて思う。
人類は古来より、「運」というものに魅了されてきた。古代ローマの占いから、中世ヨーロッパの教会が始めたくじ引き、そして現代のジャンボ宝くじ。私たちは毎年、何百万分の一という絶望的な確率に挑み、そして当然のように外れ続けている。
それでも買い続けるのはなぜか。
人間は「当選確率」を買っているのではない。「当たるかもしれない自分」が存在する瑞々しい時間を買っているのだ。
タイムマシンがあっても、量子コンピュータで確率を計算しても、国家機関に監視されても、この本質は変わらない。
買う理由は、いつも同じ。
「もしや。まさか。万が一」
その三語にこそ、300円、あるいは500円を支払う価値がある。
なお、著者は本書の執筆を機に、今年のサマージャンボを購入した。結果は――まだわからない。このあとがきを書いている時点で、抽選日は来週だ。
当たったら、続編(豪華絢爛な海外旅行編)を書く。
外れたら、来年も同じように、引き出しの1枚に夢を見ることにする。


『縺れ糸の修復師 継』 三部作


まえがき

人と人とのつながりを「糸」に例えるなら、今の世の中は少しばかり、糸が絡まりやすく、そして切れやすくなっているのかもしれません。
かつて昭和から平成を生き抜いた古い職人は、もつれた糸をじっくりと「ほどく」ことで縁を修復してきました。しかし、SNSという大海原で誰もが透明人間にも加害者にもなれてしまう現代、一度焦げ付いてしまった糸は、そう簡単にはほどけません。
本作『縺れ糸の修復師 継』は、そんな時代の変わり目に立つ、15歳から22歳までの少女・晶(あきら)の成長と継承の物語です。
先代が遺した「正しさ」だけでは救えない痛みに直面したとき、彼女が見つけたのは、「ほどけないなら、新しい糸をいまここから結べばいい」という優しくも力強い答えでした。
時計の秒針が刻む音とともに、不器用な彼女たちが紡ぎ出す、新時代の「縁の修理」の物語。どうぞ、あたたかい珈琲を片手にお楽しみください。




継 一 
結ばれなかった糸
――“はじめまして”は、一番難しい修理――

修が入院して、最初の秋が来た。
「ただの肺炎だ。すぐ戻る」
そう言い残して、修は病院の白いベッドに沈んだ。74歳。
航おじさんが「無理すんな」と店を手伝うけど、修理はできない。
晶は15歳。高1の2学期。
放課後、制服のまま店番をするのが日課になった。
客は来ない。古時計の秒針だけが、カチ、カチ、と店の留守を守っている。
白い貝殻は、引き出しの奥で冷たかった。
3年前、修がくれたもの。でも一度も温かくなったことがない。
「私じゃ、まだ無理か」
そう呟いた日の放課後だった。スマホが震えた。
『晶さんですか? 修さんの店のインスタ見ました』
『私の糸、直せますか』
アイコンは初期設定の灰色。名前は「結」。
フォロワーは0。フォローも0。投稿も0。
晶は、クラス名簿を思い出す。結……いたっけ?
カラン。
翌日の放課後。ベルが鳴って、扉が開いた。
入ってきたのは、制服の女の子だった。ずっと俯いている。前髪で顔が見えない。
「……あの、晶、先輩、ですか」
声が消え入りそうだ。
「うん。結ちゃん?」
「はい」
「どうしたの? 座って」
結は、カウンターの端の椅子に、ちょこんと座った。学校の椅子より遠慮がちに。
「私、クラスに、いるんですけど」
「……。」
「誰にも、気づかれないんです」
「え?」
「朝、教室に入っても、誰も目が合わないんです」
「ぶつかっても、『あ、ごめん』って言われない。避けられもしない。すり抜けられる」
「プリント、配られないんです。日直も、飛ばされる」
「文化祭の写真、見たら、私だけいないんです。そこにいたのに」
晶は、息を呑んだ。
10歳の自分を思い出す。
名前を呼ばれない。透明なガラス。
「お前はここにいていい」って、誰も言ってくれなかった頃の自分だ。
「……糸、見せてくれる?」
結が顔を上げる。初めて目が合った。怯えた、子犬みたいな目。
「糸、見えるんですか」
「うん。うち、そういう店だから」
結の糸は、確かにあった。
でも、縺れてない。切れてもいない。
ただ、誰とも結ばれたことがなくて、風に吹かれて揺れているだけ。
まっさらで、頼りなくて、今にも空に飛んでいきそうな糸。
「……結ちゃんの糸、綺麗だよ」
「え」
「まだ誰とも結ばれてないから、傷一つない」
結が、初めて少しだけ笑った。すぐ消えたけど。
「でも、寂しいんです」
「誰かと、結ばれたいんです」
「どうしたら、いいですか」
晶は、引き出しを開けた。冷たい貝殻がある。銀の針はない。
修みたいには、できない。
持っているのは、名前だけだった。
修に「晶」って呼ばれた名前。
「おかえり」って言われた記憶。
「……結ちゃん」
「はい」
「結って、いい名前だね」
結がびくっとした。
「結ぶって書くんだね。私、好きだな、その字」
「……初めて、言われました」
「そっか。なら、今日から毎日言うね」
その日から、晶は結に折り紙を教えた。
鶴。風船。手裏剣。朝日が好きなやつ。
「不器用だから」って結は最初笑わなかったけど、3日目に鶴が折れた時、小さく「できた」って呟いた。
「明日、一緒に弁当食べない?」
「……私なんかと、いいんですか」
「結ちゃんとがいいの」
「帰り、寄り道しない? 海、見に行こうよ」
「……怒られませんか」
「私が怒られるから大丈夫」
名前を呼ぶ。誘う。待つ。笑う。
修が自分にしてくれたことを、晶は全部、結にやった。
1週間経った放課後。結が、青い顔で店に飛び込んできた。
「晶先輩!」
「どうしたの!?」
「あの、今日、クラスの子に……」
結は、震える手でスマホを見せた。
クラスのグループLINE。
『結さんって、今日からいたっけ?』
『え、ずっといたよ?』
『うそ、気づかなかった』
『結さん、折り紙うまいらしいよ』
「名前、呼ばれたんです」
「初めて、クラスで」
結の目から、ぽろぽろ涙がこぼれた。
「私、いるんだって、思いました」
「透明じゃ、なかったんだって」
その夜。
晶が引き出しを開けると、白い貝殻が、指先だけ温かくなっていた。
冷たい海の底から、陽の当たる浅瀬に上がってきたみたいに。
晶は、走った。病院まで。面会時間ぎりぎりだった。
「修さん!」
病室のドアを開ける。修が、点滴の管だらけで笑った。
「なんだ、騒がしい」
「私にも、直せました」
「結ちゃんの糸、結べました」
「銀の針なくても、できました」
修は、しばらく晶の顔を見ていた。
やがて、皺だらけの手で、晶の頭をぽんと叩いた。
「当たり前だ」
「お前は俺の娘だからな」
晶は、病室で声を上げて泣いた。
10歳の時、修に「おかえり」って言われて泣いた時みたいに。
冬休み前。
結が、大きな紙袋を持って店に来た。
「晶先輩、これ」
開けると、中に折り紙が100個入ってた。鶴、風船、手裏剣、全部。
「クラスのみんなに配るんです」
「怖いけど、やってみます」
「晶先輩が教えてくれたから」
年が明けた1月。
結から、写真が送られてきた。
教室の机の上。折り紙の鶴が、輪になって並んでる。
その周りで、ピースしてるクラスメイト。真ん中で、照れてる結。
『友達、できました』
『晶先輩のおかげです』
『今度、一緒に帰ってくれますか』
晶は、店の棚に結の鶴を飾った。修の鶴の隣に。
二羽、並んで首をかしげてる。
カラン。
「いらっしゃいませ」
晶が、初めて自分の声で客を迎えた。
まだ震えてたけど、ちゃんと店の主の声だった。
奥の引き出しで、白い貝殻が、人肌に温まっていた。




継 二 
ほどけない糸
――結び直せないと思った時、人は新しい糸を探す――

修が退院してから、3年が経った。
晶は18歳。高校3年生。
進路調査の紙だけが、机の上で白く光っている。
「晶、進路どうするんだ?」
航おじさんが、店のカウンターで珈琲をすすりながら聞く。
「……まだ、決めてない」
本当は決まってる。でも、言えない。
『時計と縁の修理屋を継ぎます』
そんなこと、調査票に書けるわけがない。
修は77歳になった。店には立つ。でも、もう修理はしない。
「俺の仕事は終わった」
そう言って、奥の椅子で晶を見ている。
朝日は13歳。中学生。最近やたら大人ぶる。
「姉ちゃん、店継がないの?」
「……さあね」
カラン。
その日の放課後、ベルが鳴った。
入ってきたのは、制服の女の子だった。晶と同じ学校。でも、話したことはない。
「……晶、先輩、ですか」
声が小さい。マスクで顔の半分が隠れてる。
「うん。どうしたの?」
女の子は、スマホを差し出した。
画面いっぱいに、通知。
LINE、インスタ、全部真っ赤。
『死ね』『消えろ』『学校来るな』
文字の暴力が、びっしり並んでる。
「……私の、糸、直せますか」
晶は息を呑んだ。
「名前は?」
「……結衣、です」
ゆい。また“結”の字だ。
「何があったの?」
結衣は俯いた。
「文化祭の動画、TikTokに上げたんです。クラスのみんなで踊ったやつ」
「それが、バズって」
「……でも、私だけ、写ってなかったんです」
「え?」
「編集した子が、私だけ切り取ったんです。『映えないから』って」
「私が文句言ったら、『自意識過剰w』って晒されて」
「それから、全部……」
晶はスマホを受け取った。画面が熱い。
何百、何千の悪意。
糸じゃない。
これは、焼け跡だ。
千切れた糸が、全部黒焦げになってる。
「修さん」
奥を見た。修は何も言わない。
「私に、直せますか」
昔なら「大丈夫ですよ」って言えた。
でも、今は言えなかった。
謝っても戻らない。
話し合いもできない。相手は顔も名前も知らない何百人だ。
これ、どうやってほどく?
その夜、晶は白い貝殻を握りしめた。
冷たい。3年前から、ずっと冷たいまま。
「……私じゃ、無理なのかな」

次の日、学校を休んだ。
店の裏で、朝日が手裏剣を折ってる。
「姉ちゃん、悩んでるの?」
「……ちょっとね」
「その子の糸、ぐちゃぐちゃなんでしょ」
晶は頷く。
「だったらさ」
朝日は手裏剣を放った。壁に刺さる。
「ほどくのやめなよ」
「え?」
「焼けちゃった糸、元に戻らないじゃん」
「……。」
「新しい糸、結べばいいじゃん」
晶の手が止まる。
「新しい……糸?」
「そう。姉ちゃんが1本目になればいい」
「私が?」
「だって姉ちゃん、透明だった時、修じいちゃんが『おかえり』って言ってくれたんでしょ」
「それで救われたんでしょ」
「なら、姉ちゃんも言えばいいじゃん。『見つけたよ』って」
晶は、朝日を見た。13歳。生意気。でも、核心を突く。
「……そっか」
修は“ほどく世代”。
自分は“結ぶ世代”なのかもしれない。
その日の夜、晶は結衣にDMを送った。
『晶です。新しいアカウント、作らない?』
1時間後、返信が来た。
『……怖いです』
『大丈夫。私が最初のフォロワーになる』
『誰も来なかったら?』
『私がいる。毎日リプする。いいね押す』
『……本当に?』
『約束する。私は、あなたの糸を切らない』
3日後。結衣から、鍵アカのIDが送られてきた。
投稿は1枚だけ。空の写真。
晶は、すぐにフォローした。
いいねを押した。リプした。
『空、綺麗だね。見つけたよ』
その日、白い貝殻が、少しだけ温かくなった。

1週間後。結衣が店に来た。
マスクを外してる。初めて見る顔。
「晶先輩」
「おかえり、結衣ちゃん」
結衣が泣き笑いした。
「フォロワー、3人になったんです」
「誰と誰?」
「朝日ちゃんと……航さん」
奥で航が手を上げた。「任せろ」
「……ありがとうございます」
「学校、行けそう?」
結衣は首を振る。
「まだ、無理です。でも……」
スマホを見せる。3人の通知だけが光ってる。
「ここなら、息ができるんです」
晶は、修を見た。
修は、何も言わない。ただ、静かに頷いた。
その目が言ってる。
『よくやった』って。
閉店後。晶は貝殻を握った。
もう、冷たくない。人の体温くらいある。
「修さん」
「何だ」
「私、店、継ごうかな」
修は珈琲をすすった。
「勝手にしろ」
「……ひどい」
「でもな」
修は笑った。
「お前のやり方でやれ。俺の真似はするな」
「昔の糸は、俺がほどく」
「今の糸は、お前が結べ」
晶は、強く頷いた。
「はい」
窓の外、夕焼けが綺麗だった。
焦げた糸の上にも、夕日は等しく差す。
明日は、新しい糸を結ぼう。
そう思った。

どう?
晶、ちゃんと修理屋してるでしょ?
修は「謝って仲直り」の世代。
晶は「ブロックされたら新しく作る」世代。
やり方は違うけど、やってることは同じ。「あなたは一人じゃない」って伝えること。




継 三 
虹を継ぐ糸
――さよならは、ほどけない糸を結び直すこと――

修が倒れたのは、秋の終わりだった。
81歳。
「ただの風邪だ」って笑ってたのに、起き上がれなくなった。
晶は22歳。大学4年生。
就活の内定、3社からもらってる。全部、断った。
「晶」
病室で、修が言う。
「店、畳め」
「嫌です」
「朝日はまだ中学生だ。お前が縛られることはない」
「縛られてない」
「晶は優しすぎる。人の糸ばかり直して、自分の人生を生きろ」
晶は、修の手を握った。皺だらけで、細い。
「修さんこそ、ずるい」
「何がだ」
「私に『後は任せた』って言ったくせに、勝手に心配して勝手に死のうとしてる」
修が目を逸らす。
「……怖かった」
「何が?」
「お前たちを、置いていくのが」
「私が朝日を育てきれるか」
「航に迷惑かけるんじゃないか」
「店がなくなったら、お前たちの帰る場所がなくなるんじゃないか」
81歳の修理屋が、子供みたいな顔で言った。
晶は、泣きそうになるのを堪えた。
「修さん」
「聞いてください」
「私、修さんのこと、じいちゃんって呼んだことないんです」
「……そうだな」
「でも、心の中ではずっと、そう呼んでました」
「透明だった私に、名前をくれた人だから」
「『おかえり』って、初めて言ってくれた人だから」
「朝日も同じです。航おじさんも」
「この店は、修さんが思ってるよりずっと、たくさんの人の帰る場所なんです」
「だから、勝手に畳まないでください」
「私が継ぎます。朝日と、二人で」
「それが、私が自分で結んだ糸だから」
修は、長いこと黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……参ったな」
「娘に説教されるとは、思わなかった」
「娘ですから」
「そうか」
修の目尻に、皺がもう一本増えた。
「なら、最後の修理を頼む」
「何ですか」
「俺の糸。お前がほどいてくれ」
晶は、首を振った。
「ほどきません」
「……なぜ」
「修さんの糸は、縺れてないから」
「全部、綺麗に結ばれてる」
「私と、朝日と、航おじさんと、この街の人たちと」
「だから、ほどかなくていい」
「その代わり……」
晶は、修の額に手を当てた。熱はない。冷たくなっていく。
「ちゃんと、さよならを言わせてください」
修の目から、涙が一筋こぼれた。
「……あ」

その夜、修は静かに逝った。
苦しまなかった。
眠るように、息をしなくなった。
晶と朝日と航、三人で見送った。
朝日は17歳。高校2年生。泣かなかった。
「じいちゃん、寝てるだけだろ」って言って、修の手を握ってた。
翌朝。
葬式の準備でバタバタする中、晶が店を開けた。
カラン。
誰も来ないと思ったのに、ベルが鳴った。
扉を開けると、そこにいたのは10歳くらいの男の子だった。
「……あの」
「いらっしゃい。どうしたの?」
男の子は、ぐしゃぐしゃの紙を差し出した。
『じいちゃんの糸、直してください』
晶は、その紙を見て息を呑んだ。
字。修の字だった。震えた字で、でも確かに修の字。
『晶へ
最後の依頼だ
この子の糸を、結んでやってくれ』
「君は?」
「……航太です。修じいちゃんの、教え子です」
「教え子?」
「昔、時計の直し方を教えてもらったんです。『手先が器用だな』って」
「でも、じいちゃんが入院してから、会えなくて」
「昨日、夢で言われたんです。『店に行け』って」
晶は、奥を見た。
そこに飾ってある、6本の糸。
赤、青、金、白、透明、虹色。
修が、最後に残した糸。
自分の死後も、誰かを晶に託すための糸。
「……そっか」
晶はしゃがんで、航太と目線を合わせた。
「航太くん。修さんとは、さよなら言えた?」
航太は首を振る。目に涙が溜まってる。
「なら、今日言おう」
「え?」
「修さんは、もういないけど、糸は残ってる」
「ほら、ここに」
晶は、虹色の糸を指さした。
「この糸が、修さんとあんたを繋いでる」
「だから、ちゃんと『ありがとう』って言えば、届くよ」
航太は、虹色の糸を見つめた。
そして、小さな声で言った。
「……じいちゃん、時計、教えてくれてありがとう」
「楽しかった」
風が吹いた。
金木犀の匂いがした。12月なのに。
カラン。
振り返ると、朝日と航が立ってる。
朝日が、航太の頭をくしゃっと撫でた。
「よし、今日からお前も弟子な」
「え」
「じいちゃんの店、俺たちで継ぐんだ」
「だから、お前も家族」
航太が、泣き笑いした。
「……はい!」

修の葬式の日。雨は降らなかった。
なのに、火葬場から出たら、空に大きな虹がかかっていた。
冬の空に、七色の橋。
街の人が、空を見上げて声を上げる。
「綺麗だ」
「修さんらしいや」
晶は、朝日と手を繋いでそれを見ていた。
「なあ、姉ちゃん」
「何?」
「じいちゃんの糸、ほどけたかな」
晶は笑った。
「ほどけてないよ」
「えー」
「結び直したの。私たちに」
「そっか」
朝日も笑った。
1ヶ月後。
店は、新しくなった。
看板は、朝日と航太が二人で作った。少し曲がってる。
『時計と縁の修理屋 二代目』
カラン。
「すみません」
若い女性が入ってくる。抱っこ紐に赤ちゃん。
「あの、子供が生まれたんですけど、夫と喧嘩ばかりで……」
「糸が、縺れちゃって」
晶は、珈琲を淹れながら笑った。
「大丈夫ですよ」
奥から朝日が顔を出す。
「いらっしゃい! 赤ちゃん、見せて!」
航太が、カウンターの下から手裏剣を出す。
「これ、あげる。お守り」
航が、赤ちゃんにデレデレしてる。
「お前ら、うるさい」って言いながら、一番うるさい。
店の中が、笑い声でいっぱいになる。
晶は、カウンターの奥を見た。
7本目の糸が増えている。
航太の糸。まだ細くて、淡い色。
でも、ちゃんと他の糸と結ばれてる。
白い貝殻は、もう冷たくない。
いつも、人の体温をしてる。
窓の外。海が見える。
灯台はもうない。でも、街の明かりが海を照らしてる。
たくさんの家の光。
たくさんの人の光。
それが、新しい灯台だ。
晶は、そっと呟いた。
「修さん」
「見えてますか」
「店、継ぎました」
「朝日も、航太も、元気です」
「私、自分の糸も、ちゃんと結べてます」
返事はない。
でも、風が吹いた。
潮の匂いと、金木犀と、珈琲の匂いが混ざった風。
「……うん」
晶は笑った。
「いってらっしゃい」
空には、今日も虹がかかっていた。
誰かと誰かが「ありがとう」って言うたびに、勝手に出てくる虹。
それが、この街の日常になった。
カラン。
「いらっしゃいませ」
晶の声が、店に響く。
修理屋は、今日も開店だ。

― 継 完 ―


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語を書き終えた今、私の手元にあるキーボードが、まるで晶の引き出しにある「白い貝殻」のようにじんわりと温かい熱を持っているような、そんな心地よい錯覚に囚われています。
作中で晶が選んだ「ブロックされたら、新しくアカウントを作る」という解決策は、一見するとリセットボタンを押すような、冷たい割り切りに見えるかもしれません。しかし、そこに「私が最初のフォロワーになる。毎日いいねを押す」という絶対的なコミットメント(約束)があるならば、それは立派な、そして血の通った新しい「結び目」になります。
時代が変われば、傷つき方も変わる。ならば、癒やし方だって変わっていい。
修さんが紡いだ一本の糸が、晶へ、朝日へ、航太へ、そして街の人々へと広がって「虹」になったように、この物語が、今を生きるあなたの何気ない日常のどこかで、小さな「ありがとう」を繋ぐ一本の糸になれば幸いです。
最後に、この物語の背中を押し、最後まで見守ってくださったすべての読者の皆様に、心からの感謝を込めて。


前四作で完結させたはずが
続きが出来ました
しつこくなければ
良いのですが… 笑


〜まえがき〜

はじめに。
あなたには、今でも忘れられない「縁」がありますか?
結ばれたはずなのに、いつの間にか解けてしまった赤い糸。
別れの瞬間に、切なく輝いた金色の糸。
誰にも気づかれず、ずっと透明なまま震えていた糸。
この物語の主人公・修(おさむ)は、街の片隅で小さな時計屋を営む、不器用で、だけど少しお節介な男です。
ある日、不思議な老人から「銀の針」を託されたことで、彼は時計だけでなく、人々の縺(もつ)れてしまった「縁の糸」をも修復することになります。
糸の縺れを解くということは、過去をやり直すことではありません。
傷ついた記憶を受け入れ、もう一度、前を向いて歩き出すということです。
もし今、あなたの心に小さな縺れがあるのなら、どうぞこの時計屋の扉を叩いてみてください。
店内に漂う珈琲の香りと、静かに時を刻む柱時計の音が、あなたを待っています。
それでは、『縺れ糸の修復師』の世界へ。
あなたの心の糸が、ほんの少しでも温かくなりますように。




縺れ糸の修復師 五 透明な糸

――誰にも見えない糸を、結ぶために――


秋だった。

店の前の金木犀が、今年も小さく匂っている。

修は63歳になった。

白い糸の件から、もうすぐ1年。

「縁も直してくれるって聞いたんですが」

あれから時々、そういう客が来るようになった。

時計より、人の話を聞いている時間の方が長い。

悪くない。むしろ、性に合ってる気がする。

カラン。

珍しく、午後の3時にベルが鳴った。

「いらっしゃい」

誰もいない。

扉は確かに開いたのに、店内には誰もいなかった。

「……風か?」

その時、カウンターの上に、一枚の紙が落ちているのに気づいた。

便箋じゃない。メモ用紙の切れ端。

鉛筆で、たった一行。

『ここにいます』

修は顔を上げた。

「いるのか?」

返事はない。

でも、確かに気配がする。椅子が少し軋んだ。

見えない。でも、誰か座ってる。

修はポケットを探った。銀の針はもうない。

あの日、桜になって飛んでいった。

代わりにあったのは、あの老人が置いていった白い貝殻。

それを握ると、ふっと温かくなった。

「……見えない客か。初めてだな」

修は苦笑して、いつものように珈琲を二人分淹れた。

一つを、誰も座っていないはずの椅子の前に置く。

「話してくれるか。あんたの糸の話」

しばらく沈黙が続いた。

やがて、空気が小さく震える。

少女の声だった。歳は10歳か、もっと幼いか。

『……私、透明なんです』

「名前は?」

『ありません。誰も呼んでくれなかったから』

修の手が止まる。

『私の糸、誰にも見えないんです。だから、ずっと一人です』

窓の外で、金木犀の花が一房、ぽとりと落ちた。


少女は、話し始めた。

生まれてから一度も、誰にも気づかれなかった。

親にも、先生にも、友達にも。

ぶつかっても「ごめん」と言われない。

名前を呼ばれない。

写真にも写らない。

『私、いるのかなって。ずっと思ってました』

修は黙って聞いていた。

時計の修理じゃない。証拠がない。

縺れてもいない。切れてもいない。

最初から、誰にも結ばれたことがない糸。

「……それで、どうしてうちに?」

『灯台が見えたんです』

「灯台?」

『海の上に、透明な灯台。誰も気づかないけど、光ってました』

『そこに、「直せない糸はない」って書いてあったんです』

修は白い貝殻を握りしめる。

あの老人。また勝手に看板を出す。

「で、直してほしいんだな。あんたの糸」

『はい。私を、誰かと結んでください』

『一度でいいから、「おはよう」って言われたいんです』

修は目を閉じた。

赤い糸はほどけた。青い糸は迎えに行った。金は別れを届けた。白は自分を許した。

じゃあ透明な糸は、どうする。

存在しないものを、どうやって結ぶ。

その時だった。

コトリ。

カウンターに、何かが置かれる音がした。

見ると、小さな折り紙。鶴だった。

誰もいないのに、そこにあった。

修はそれを手に取る。

まだ温かい。

『……私が折りました。見えますか?』

「あ。見えるよ。綺麗な鶴だ」

空気が、ふっと緩んだ気がした。

『本当ですか? 本当に、見えてますか?』

「嘘はつかねぇよ。時計屋が一番嫌いなのは、時間を誤魔化すことだからな」

少女が笑った気がした。声は出ないけど、空気が笑った。

修は鶴を棚の一番目立つところに置いた。

「ここに置いておく。明日から来る客みんなに『綺麗な鶴だね』って言わせてやる」

『……!』

「それが最初の一歩だ。誰かがあんたの作ったものを『綺麗だ』って言えば、それはもう透明じゃない」

店の柱時計が、コーンと4時を告げた。

『ありがとう……ありがとうございます……』

声が震えていた。

そして、椅子がまた小さく軋む。

気配が、少しだけ濃くなった気がした。


翌日から、修は来る客みんなに鶴を見せた。

「綺麗な鶴だろ。孫が折ったんだ」

嘘だった。でも、嘘じゃない。

航が来た時は「お前、孫いたっけ?」と笑われたが、修は黙って肩をすくめた。

「綺麗だな」「上手だね」「今どきの子は器用だ」

客が言うたびに、店の空気が1℃ずつ温かくなる。

1週間経った午後。

カラン。

『こんにちは』

少女の声が、前よりはっきり聞こえた。

「おう。来たな」

『あの……今日、学校の帰りの子が、鶴を見てました』

「そうか」

『「誰が折ったの?」って、店の人に聞いてました』

修は珈琲を淹れながら言う。

「で、店の人はなんて答えた?」

『「うちの娘だよ」って……』

『びっくりしました』

修は笑った。

「娘がいたっていいだろ。63にもなりゃ」

沈黙。

やがて、絞り出すような声。

『……私、名前、もらってもいいですか』

修の手が止まる。

「名前、欲しいのか」

『はい。呼ばれたいんです。誰かに』

修は棚の鶴を見た。夕日に照らされて、金色に光ってる。

「そうだな……」

少し考えて、口を開いた。

「『晶』はどうだ。水晶の晶」

『しょう……?』

「ああ。透明でも、光が当たれば虹色に輝く。お前みたいに」

長い沈黙。

風が吹いた。

『……晶。晶です』

初めて、名前が生まれた瞬間だった。

『修さん。私、見えますか?』

修は顔を上げる。

椅子の上。午後の光の中。

そこに、小さな女の子がいた。

おかっぱ頭で、白いワンピース。10歳くらい。

輪郭はまだ淡い。でも、確かに笑ってる。

「ああ。見えるよ、晶」

修も笑った。

「おかえり」

晶の目から、大粒の涙がこぼれた。

『ただいま……ただいまです……!』

柱時計が、コーンと5時を告げる。

透明な糸は、もう透明じゃなかった。

光を受けて、七色に輝いていた。


次の日の朝。

修が店を開けると、机の上に手紙があった。

丸っこい字。まだ習いたての字。

『修さんへ

昨日、「おかえり」って言ってくれてありがとう。 

生まれて初めて言われました。 

私、今日から学校に行ってみます。 

名前があるから、先生に呼ばれたら返事できます。 

鶴、また折って持ってきます。 

今度は、修さんの分です。 

P.S. 

透明な灯台、消えちゃいました。 

もう必要ないみたいです。 

晶』

修は手紙を胸に当てて、空を見上げた。

秋の空は、どこまでも高かった。

カラン。

「おはよう、修さん!」

振り返ると、航がいつものように入ってきた。

「おう、おはよう」

「なんだ、機嫌いいな」

「まあな。娘ができた」

「は?」

修は棚の上の鶴を指さした。もう一羽、増えている。

隣に、小さな折り紙の手裏剣もあった。不器用だけど、一生懸命折ったやつ。

「……また客が増えたのか」

航が呆れながら笑う。

「忙しい店だな」

「あ。今日も開店だ」

修は白い貝殻をポケットに入れた。もう温かくない。役目は終わったんだろう。

でも、困らない。

糸が縺れたら、また解けばいい。

切れたら、さよならを届ければいい。

見えなくても、名前を呼んでやればいい。

外では、金木犀が風に揺れていた。

新しい客が、扉に手をかけている。







縺れ糸の修復師 六 虹色の糸

――全部の糸で、ひとつの空を結ぶ――


冬が終わりかけていた。

修は64歳の春を迎える。

店の前では、晶が折り紙を折っていた。もう小学5年生だ。

「修さん、これ見て。手裏剣、六枚で作るやつ覚えた」

「お前、手先だけは器用だな」

「航おじさんに似た」

「人のせいにするな」

カランカランと、最近はベルがよく鳴る。

時計の修理より、縁の相談の方が多い。

赤い糸の人。青い糸の人。金で別れを届けに来た人。透明だった自分に名前をつけてほしい人。

修の店は、いつの間にか「縁の修理屋」になっていた。

でも、困ったことが一つある。

最近、糸が見えない。

白い貝殻も、もう冷たいままだ。

「……引退かね」

呟いた夜だった。

コンコン。

珍しく、扉をノックする音がした。

「どうぞ」

入ってきたのは、老爺だった。

白い服。白い髪。海の色の目。

「……お前か」

修理屋の老人。3年ぶりだ。

「久しぶりだな、修」

「また勝手に依頼人寄越しただろ」

「人聞きの悪い。私はただ、灯台の管理人だ」

老人は店内を見回して、満足そうに頷いた。

「賑やかになった」

「お前のおかげで忙しいよ」

「それでだ」

老人が真顔になる。

「最後の修理を頼みたい」

修は眉を上げた。

「最後?」

「ああ。私の糸だ」

テーブルに、老人が一本の糸を置いた。

透明だった。いや、違う。

よく見ると、赤も青も金も白も、全部の色が混ざっている。

光の角度で、色が変わる。

「……虹色?」

「そう呼んでくれ」

老人は椅子に座った。

「私はな、ずっと昔から人の縁を繋いできた」

「知ってる。灯台で」

「だが、自分の糸だけは結べなかった」

修は何も言わなかった。晶が折り紙の手を止めて、話を聞いている。

「私は、灯台の光そのものだ」

「……は?」

「人の世には出られない。ずっと海の上で、迷った船を導くだけ」

「だから、友達も、家族も、いない」

老人は笑った。寂しそうに。

「何百年も、一人だった」

「……お前、化け物か」

「まあな」

「で、その糸がどうした」

「ほどきたいんだ」

老人は虹色の糸を持ち上げた。

「この仕事、辞めたい。私も、誰かと『おはよう』が言いたい」

「……。」

「晶くんのように、名前が欲しい」

晶がびくりとした。

「できるか、修」

修は糸を見つめた。綺麗だった。でも、どうやってほどく。

切れてない。縺れてもいない。透明でもない。

全部の色が、固く撚り合わさって一本になってる。

「……無理だろ、これ」

「そう言うと思った」

老人は立ち上がる。

「だから、頼みじゃない。見届けてほしいだけだ」

「見届ける?」

「ああ」

その夜、老人は言った。

「明日の朝、岬の灯台へ来い」

「そこで最後の仕事をする」


翌朝。まだ暗い。

修と航と晶、三人で岬へ向かった。

冬の海は黒い。風が冷たい。

白い灯台が、黙って立っている。

「来たか」

老人がいた。白い服が風に揺れている。

「何する気だ」

「見てろ」

老人は灯台の天辺へ続く階段を上がっていく。

修たちも後を追った。

一番上。灯りの部屋。

巨大なレンズが、ゆっくり回っている。

老人はその前に立った。

「私はな、ずっとここで光ってた」

「何百年も、誰かが迷わないように」

「でも、もういい」

修が叫ぶ。

「待て! 何するつもりだ!」

老人は笑った。

「灯台を、消す」

「は?」

「私が消えれば、灯台の役目も終わる」

「そしたらお前、どうなる」

「消える」

空気が凍った。

「馬鹿なこと言うな!」

航が掴みかかる。でも、触れなかった。老人の体は光でできている。

「大丈夫だ」

老人は晶を見た。

「嬉しかったよ。君に名前をあげられた」

「……。」

「修、君にもだ。君がいるから、私は辞められる」

「ふざけるな! 死ぬ気か!」

「死ぬんじゃない。生まれるんだ」

老人はレンズに手をかざした。

その瞬間。

ゴオ……!

海が光った。

水平線の向こうから、朝日が昇る。

同時に、灯台の光が、今まで見たことないくらい強く輝いた。

眩しい。目が開けられない。

「修!」

老人の声が響く。

「糸はな、ほどくだけが修理じゃない!」

「結ぶんだ!」

「新しい誰かと!」

「それが虹色の直し方だ!」

光が弾けた。

世界が白くなった。


気づくと、朝だった。

灯台の明かりは消えている。

レンズも止まってる。

老人の姿は、どこにもなかった。

「……おい」

修が呟く。

「消えた……のか?」

その時。

「うぇーん……」

足元から、変な声。

見ると、灯台の床に、赤ん坊が座っていた。

生まれたてじゃない。1歳くらい。白い産着。

「……は?」

赤ん坊は、きょとんと修たちを見た。

そして、にぱっと笑った。

海の色の目だった。

「ま、まさか……」

航が絶句してる。

晶が恐る恐る近づく。

「……あなた、誰?」

赤ん坊は、また笑った。

『しゅう』

喋った。

「……今、俺の名前……」

『あさひ』

赤ん坊は、自分の胸を叩いた。

「朝日……?」

『うん。あさひ』

修は天を仰いだ。

「おいおい……マジかよ……」

64歳。子育て二人目。しかも赤ん坊。

航が腹を抱えて笑い出した。

「見ろよ修! お前、また親になったぞ!」

「笑い事か!」

「最高だろ! 虹色の糸って、そういうことか!」

晶が朝日を抱き上げた。

「修さん。妹です」

「……そう、なるな……」

朝日は、修の鼻を掴んで笑ってる。

温かい。重い。生きてる。

その時、東の空に、大きな虹がかかった。

冬の朝なのに。雨も降ってないのに。

七色の橋が、海から街へ伸びている。

「見ろ」

航が言った。

「あれ、お前の糸だ」

赤も、青も、金も、白も、透明も。

全部混ざって、空にかかってる。

修は朝日を抱きしめた。

「……参ったな」

でも、顔は笑ってた。

「また、忙しくなる」


それから10年。

修の店は、もっと賑やかになった。

74歳の修。

15歳の晶。高校生になった。

10歳の朝日。小学4年生。走り回ってる。

「じいちゃん! 時計止まった!」

「お前が落としたんだろ!」

「晶姉ちゃんが!」

「人のせいにするな!」

航は相変わらず店に入り浸ってる。

「お前ら、うるさい」

って言いながら、一番うるさい。

店の看板は変わった。

『時計と縁の修理屋』

カラン。

今日もベルが鳴る。

「すみません」

若いカップルが入ってきた。手を繋いでる。

「喧嘩しちゃって……糸、絡まっちゃったんです」

修は笑った。

「大丈夫ですよ」

奥から晶が顔を出す。

「いらっしゃい。珈琲、飲みますか?」

朝日がランドセルを背負ったまま言う。

「じいちゃんの珈琲、苦いよ!」

「うるさい」

店の中が笑いに包まれる。

修はカウンターの奥を見る。

そこには、6本の糸が飾ってある。

赤。青。金。白。透明。そして虹色。

全部、ちゃんと結ばれてる。

窓の外。海が見える。

灯台はもう光らない。

でも、もう必要ない。

街の明かりが、海を照らしてる。

たくさんの家の光。

たくさんの人の光。

それが、新しい灯台だ。

修は、そっと呟いた。

「なあ、老人」

「見てるか」

返事はない。

でも、風が吹いた。

潮の匂いと、金木犀の匂いが混ざった風。

「……そうか」

修は笑った。

「おかえり」

空には、今日も虹がかかっていた。

雨が降らなくても、かかる虹。

誰かと誰かが結ばれるたびに、勝手に空に出る虹。

それが、この街の日常になった。


― 縺れ糸の修復師 完 ―



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〜あとがき〜


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

本作『縺れ糸の修復師』は、主人公・修が様々な「色の糸」と向き合い、最後にひとつの大きな虹を架けるまでの物語です。
私たちは生きている中で、たくさんの人と出会い、たくさんの縁を結びます。
それは決して綺麗な一本の線ばかりではなく、時には複雑に絡まり、時には手元からぷつりと切れてしまうこともあるかもしれません。
私自身、これまでの人生の中で、いくつもの出会いと別れを経験してきました。
「あの時、別の選択をしていれば」
「あの人は今、どこでどうしているだろうか」
そんな風に、ふと過去を振り返り、胸がチクリと痛む夜もあります。
ですが、たとえ一度解けてしまった糸であっても、私たちがその記憶を大切に抱きしめている限り、それは決して無駄にはならないのだと信じています。切れた糸の先には、また新しい誰かとの結び目が待っているはずだからです。
不器用な修、陽気な航、そして新しく家族になった晶とあさひ。
彼らはこれからもあの街で、珈琲を淹れながら、誰かの縁を優しく繋ぎ続けていくことでしょう。
最後に、この本を手に取り、彼らの物語を最後まで見届けてくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。あなたの日常の片隅にも、どうか綺麗な虹がかかりますように。

縺れ糸の修復師 三 金の糸

――切れた縁を、もう一度結ぶために――




あらすじ

海辺の小さな修理屋。

時計も、小物も、そして時折、人の縁まで修理してしまう男・修。

親友・青柳航が帰ってきてから一年。

修の店には、不思議な依頼が少しずつ増えていた。

「亡くなった父へ、謝りたい。」

「絶縁した娘に、もう一度会いたい。」

「ずっと会っていない友人へ、ありがとうを伝えたい。」

そして修のポケットには、あの日、海の向こうの修理屋で託された一本の銀色の針があった。

使い方は分からない。

だが、時折、熱を持つ。

まるで誰かを探しているように。

そんなある日、一人の少年が店を訪れる。

少年の手には、止まった懐中時計。

そして、こう言った。

「母を探してください。」

しかし、その母は三年前に亡くなっているはずだった。

その依頼をきっかけに、修は知ることになる。

人の縁には「縺れる糸」だけでなく、

「切れてしまった糸」

があることを。

そして銀の針は、

切れた縁をもう一度結び直すために存在することを――。



プロローグ ――銀の針

冬の海だった。

風が冷たい。

修は店の前で、いつものようにコーヒーを飲んでいた。

最近、朝が好きになった。

昔は波ばかり追いかけていたのに。

年を取ったのだろう。

店の中から、笑い声が聞こえる。

航だ。

帰ってきてからというもの、毎日のように店へ来ている。

「仕事しろ。」

そう言っても、

「俺は客だ。」

と、平気な顔をして椅子へ座っている。

まったく、昔から変わらない。

その時だった。

ポケットの中で、何かが熱くなった。

「……?」

取り出す。

銀色の針。

海の向こうの修理屋でもらった、不思議な針。

淡く光っている。

そして。

針の先が、店の前の道を指した。

カラン。

ちょうど、その時。

店の扉が開いた。

一人の少年が立っていた。

小学校六年生くらいだろうか。

紺色のダッフルコート。

少し大きなリュック。

そして、胸に抱えているもの。

古い懐中時計だった。

「ここ……。」

少年が小さな声で言う。

「修理屋さんですか。」

「そうだけど。」

修が答える。

「時計か?」

少年は首を横に振った。

そして。

懐中時計を差し出した。

「母を直してください。」

風が止まった。

修は、しばらく言葉を失った。

「……何て?」

少年の目は真っ直ぐだった。

「母が、いなくなったんです。」

「どこへ。」

「分かりません。」

「迷子か?」

少年は静かに首を横へ振る。

そして。

こう言った。

「三年前に、死んだことになっています。」

店の奥で、航の笑い声が止まった。

静寂。

海だけが、遠くで音を立てている。

少年は懐中時計を開いた。

中には、一枚の写真。

若い女性と、小さな男の子。

親子の写真だった。

「この時計だけ、動くんです。」

少年の声が震える。

「だから……。」

ぎゅっと時計を抱きしめる。

「母は、まだどこかにいると思うんです。」

修のポケットの中で、銀の針がさらに熱を持った。

まるで。

『この依頼を受けろ』

そう言っているかのように。

修は少年を見つめた。

そして、ゆっくりと扉を開ける。

「寒いだろ。」

少年が顔を上げる。

「中へ入りな。」

柱時計が、コーンと一つ鳴った。

その音は、新しい物語の始まりを告げているようだった。






第一章 止まらない懐中時計

店の中には、コーヒーの香りが漂っていた。

少年は椅子へ座り、両手でカップを包んでいる。

少し緊張しているようだった。

向かいには修。

その隣には、いつの間にか航が座っている。

「……何でいるんだ。」

「客だ。」

「帰れ。」

「ひどいな。」

少年が少しだけ笑った。

それを見て、修も苦笑する。

「名前は。」

「藤崎海斗です。」

「海斗か。」

少年が頷く。

「六年生です。」

「その時計は、お母さんの?」

「はい。」

海斗は懐中時計を大事そうに撫でた。

銀色の古い時計。

蓋には小さな花の模様が刻まれている。

長い間、誰かに大切にされてきたことが分かる。

「お母さんは三年前に亡くなったんだな。」

「……そういうことになっています。」

「そういうこと?」

海斗は少し考えた。

それから、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「海で……いなくなったんです。」

修と航が顔を見合わせた。

海。

その言葉だけで、胸のどこかがざわつく。

「事故だったのか。」

「はい。」

「遺体は。」

海斗は小さく首を横に振った。

「見つかっていません。」

静かな沈黙。

修は思わず航を見た。

二十年前。

どこか似た話だった。

「それで、お母さんを探したいのか。」

「はい。」

「どうして、生きてると思う。」

海斗は迷わなかった。

懐中時計を開く。

カチ。

秒針が動いている。

規則正しく。

静かに。

「母は、この時計が止まったら迎えに来るって言っていました。」

「……。」

「でも、止まらないんです。」

窓の外で、風が鳴った。

「三年経っても。」

海斗の声が震える。

「だから……まだ待っている気がして。」

その時だった。

修のポケットの中で、銀の針が熱くなる。

先ほどより強く。

まるで鼓動のように。

トクン。

トクン。

「……またか。」

「何だ?」

航が覗き込む。

修は銀の針を取り出した。

すると。

針の先が、真っ直ぐ懐中時計を指した。

「おお。」

航が目を丸くする。

「便利だな、それ。」

「俺も初めて見た。」

銀の針が、淡い光を放っている。

そして。

懐中時計もまた、小さく光り始めた。

カチ。

カチ。

カチ。

秒針の音が、大きくなる。

すると――

ふわり。

店の中に、潮の匂いが流れ込んできた。

海斗が顔を上げる。

「……お母さんの匂い。」

修の背筋に、ぞくりとしたものが走る。

次の瞬間。

懐中時計の蓋が、勝手に開いた。

そして、中の写真が一枚、机の上へ落ちた。

カサリ。

裏返しになった写真を、海斗が拾い上げる。

「あ……。」

そこには、文字が書かれていた。

今まで何もなかったはずの裏側に。

青いインクで。



もし時計が動いていたら、
私はまだ約束の途中です。

海斗。

灯台へ来てください。

母より。



店の中が静まり返る。

航が、ゆっくりと顔を上げる。

「……また灯台か。」

修も黙っている。

二人とも、同じことを考えていた。

海の向こうの修理屋。

青い灯台。

そして。

切れてしまった縁。

海斗が震える声で言った。

「これ……母の字です。」

「間違いないのか。」

「はい。」

少年の目に涙が浮かぶ。

「母だ……。」

修は静かに息を吐いた。

ポケットの中で、銀の針がまだ温かい。

そして。

その針の先が、ゆっくりと窓の外を向いた。

海の方角。

まるで。

『急げ』

と言っているように。

その時。

カラン――。

店の扉が開いた。

冷たい風が吹き込む。

だが、そこには誰もいない。

足元に、一枚の封筒だけが置かれていた。

白い封筒。

差出人の名前はない。

表には、たった一言。



修理依頼



修が、ゆっくりと封を開ける。

中には、一枚の便箋。

そこには、こう書かれていた。



依頼品 切れた縁

依頼人 名乗れない母

修理人 縺れ糸の修復師

報酬 ひとつの再会



そして最後に、一行だけ。



急いでください。

時間が、ありません。



柱時計が、コーン……と一つ鳴った。

その音は、どこか切なかった。

修は便箋を畳む。

そして、海斗を見る。

少年は、泣きそうな顔で立っていた。

「……おじさん。」

「何だ。」

「母に……会えますか。」

長い沈黙。

修は窓の外の海を見た。

それから。

小さく笑った。

「分からん。」

海斗が俯く。

「でもな。」

修は立ち上がった。

「探しには行ける。」

そして。

店の奥に掛けてあった上着を取る。

航も、当たり前のように立ち上がる。

「また海か。」

「嫌か?」

「まさか。」

航が笑う。

「今度は帰って来られるしな。」

修も笑った。

そして、少年へ手を差し出す。

「行くか。」

海斗が顔を上げる。

「……はい。」

窓の外では、冬の海が静かに光っていた。

そして、そのずっと向こうで。

誰かが、小さく手を振っているような気がした。





第二章 名乗れない母

翌朝。

空は、冬とは思えないほど澄んでいた。

海は静かだった。

まるで、誰かを待っているように。

修の店では、朝から慌ただしい音がしている。

「何でこんなに荷物がある。」

「念のためだ。」

「釣り竿まで持って行く必要あるか?」

「魚が釣れるかもしれない。」

「遊びに行くんじゃない!」

海斗が思わず笑った。

昨日まで泣きそうな顔をしていた少年が、少しだけ年相応の表情を見せる。

それを見て、修はほっとした。

「おじさんたち、仲がいいんですね。」

「悪い。」

「腐れ縁だ。」

二人が同時に答えた。

海斗がまた笑う。

その時だった。

カチ。

机の上に置かれた懐中時計が、一度だけ大きな音を立てた。

三人が振り向く。

秒針が、止まっている。

「……え。」

海斗の顔から血の気が引いた。

「止まった……。」

昨日まで動いていた時計。

三年間、一度も止まらなかった時計。

それが今、完全に止まっている。

「お母さん……。」

少年の声が震える。

だが、その瞬間。

修の手の中にあった銀の針が、強く光った。

そして。

カチ。

懐中時計が再び動き出す。

海斗が息を呑む。

すると、時計の文字盤の上に、小さな文字が浮かび上がった。



急いで。



三人は顔を見合わせた。

「……時間がないらしいな。」

修が呟く。

「行こう。」

航が真顔になる。

いつもの軽口はなかった。

どこか、嫌な予感がしていた。

港へ向かう。

冬の空気は冷たい。

しかし、海だけは不思議なほど穏やかだった。

港に着くと、かもめ丸が静かに揺れている。

「あ。」

海斗が小さく声を上げた。

船の甲板に、一枚の紙が置かれていた。

修が拾い上げる。

古い海図だった。

だが、普通の海図ではない。

海の上に、一本の銀色の線が描かれている。

そして、その先には小さな印。

灯台の絵。

「……案内図か。」

航が覗き込む。

すると。

海図の端に、小さな文字。



母は、約束を守れませんでした。

だから、迎えに来てください。



海斗が唇を噛む。

「母さん……。」

修は少年の肩へ手を置いた。

「行こう。」

かもめ丸が港を離れる。

エンジンの音が、静かな海へ溶けていく。

しばらくすると。

海の色が変わった。

冬の青ではない。

淡い銀色。

まるで空の光が、海へ溶け込んでいるようだった。

「……まただ。」

航が呟く。

二十年前。

青い灯台へ向かった時と同じだ。

その時。

海斗が前を指差した。

「あれ!」

海の向こう。

小さな光。

だが今回は青ではない。

銀色だった。

一本の塔。

海の上に立つ灯台。

「銀の灯台……。」

修が息を呑む。

すると、懐中時計が大きく鳴り始めた。

カチ。

カチ。

カチ。

そして――

『海斗。』

声。

優しい女の人の声。

「……母さん!」

少年が立ち上がる。

『ごめんね。』

「どこにいるの!」

『ここよ。』

銀の灯台が、強く輝く。

『もう少しだけ。』

その時だった。

空が曇った。

風が吹く。

海が大きく揺れる。

ゴォォ……。

そして。

銀の海の底から、黒い影が現れた。

人の形をしている。

だが、顔がない。

ぼんやりとした影。

一つ。

二つ。

三つ。

次々と海の中から浮かび上がってくる。

海斗が修の腕を掴む。

「何……あれ。」

航の顔が険しくなる。

「……切れた縁だ。」

「え?」

「帰る場所をなくした想い。」

影たちは、ゆっくりと船へ近づいてくる。

冷たい風が吹いた。

そして。

どこからともなく、女の声が聞こえた。

『あの子を……守って。』

銀の灯台が、再び光る。

その瞬間。

修の手の中の銀の針が、まるで生き物のように震え始めた。

そして。

針の先が、一つの影を指した。

一番奥にいる、小さな影。

その姿だけが、かすかに人の形をしている。

女だった。

長い髪。

優しい立ち姿。

海斗が、震える声で呟く。

「……母さん。」

影が、ゆっくりとこちらへ手を伸ばした。

しかし、その身体には、何かが巻きついている。

黒い糸。

何本も。

何本も。

まるで、彼女を海へ縛りつけているかのように。

修が小さく息を呑む。

そして、ようやく気づく。

今回の依頼は――

「切れた縁を結ぶことじゃない。」

銀の針を握りしめる。

「この人を、ほどいてやることなんだ。」

冬の海に、銀の灯台が静かに輝いていた。




第三章 黒い糸の海

海は、時々すべてを飲み込む。

船も。

言葉も。

そして、人の後悔も。

銀色の海の中。

女の影が、黒い糸に縛られていた。

何本も。

何本も。

まるで、自分自身を縛りつけるように。

「母さん……!」

海斗が叫ぶ。

だが、その声は届かない。

女の影は微笑んでいる。

優しく。

どこか寂しそうに。

「近づくな。」

航が静かな声で言った。

「え……?」

「この海は、人の想いでできている。」

修が隣で頷く。

「強い後悔ほど、深く沈む。」

海斗が海を見る。

黒い糸は、海の底へ続いていた。

果てが見えない。

「どうして……。」

少年の声が震える。

「どうして母さんが……。」

その時だった。

風に乗って、女の声が聞こえた。

『ごめんね。』

海斗の目が大きくなる。

『約束を守れなかった。』

「約束……?」

『お誕生日、一緒に過ごそうって言ったのに。』

海斗の唇が震えた。

「……覚えてる。」

『ごめんね。』

「覚えてるよ……。」

三年前。

十二歳の誕生日。

母と二人で、水族館へ行く約束をしていた。

けれど。

その朝。

母の乗った車は海沿いの道で事故に遭った。

車は海へ転落した。

母は、そのまま行方不明になった。

「僕……。」

海斗が俯く。

「ずっと怒ってた。」

静かな声だった。

「約束したのにって。」

海が揺れる。

黒い糸も揺れる。

「どうして来てくれなかったのって。」

すると。

女の影が、小さく微笑んだ。

『うん。』

「ずっと……。」

涙が落ちる。

「ずっと、一人だった。」

その瞬間。

黒い糸が一本、強く締まった。

女の影が苦しそうに顔を歪める。

「……!」

修が息を呑む。

「後悔だ。」

航が呟く。

「お互いの。」

海斗は顔を上げた。

「お互い……?」

「お母さんは約束を守れなかったことを。」

修が静かに言う。

「お前は、怒ってしまったことを。」

冬の風が吹いた。

「だから糸が縛ってる。」

「……。」

「二人とも、自分を許せないんだ。」

海斗が海を見つめる。

母の影は、今も優しく微笑んでいた。

「でも……。」

少年が小さく言う。

「僕……。」

何かを思い出す。

事故の前の日。

母が作ってくれたケーキ。

一緒に選んだプレゼント。

笑っていた顔。

そして。

最後に交わした言葉。

『明日、楽しみだね。』

母は約束を破ろうとしたわけじゃない。

来たくなかったわけじゃない。

「……そうか。」

海斗が涙を拭う。

「母さんも……来たかったんだ。」

女の影が、ゆっくりと顔を上げる。

『うん。』

「僕……。」

声が震える。

「ずっと、一人で怒ってた。」

黒い糸が、一本ほどけた。

静かな音。

パチ。

海の色が少しだけ明るくなる。

「ごめん……。」

もう一本。

パチ。

「僕……。」

海斗が泣きながら笑う。

「もう怒ってないよ。」

その瞬間だった。

黒い糸が、一斉にほどけ始めた。

パチ。

パチ。

パチ。

まるで、長い冬が終わるように。

女の影が、ゆっくりと海面へ浮かび上がる。

そして。

初めて、その顔がはっきり見えた。

優しい目。

少し困ったような笑顔。

写真の中の女性だった。

「母さん……。」

海斗が立ち上がる。

女は何も言わない。

ただ、そっと手を伸ばした。

海斗も手を伸ばす。

指先が触れそうになった、その時。

銀の針が強く光った。

眩しい光。

そして。

修の耳に、あの老人の声が聞こえた。

『銀の針は、結ぶためだけのものではない。』

「……。」

『さよならを、届けるための針でもある。』

修が静かに目を閉じる。

そういうことか。

切れた縁は、無理につなぐものではない。

ちゃんと別れることで、結び直せる縁もある。

「海斗。」

少年が振り返る。

修は優しく言った。

「お母さん、待ってるぞ。」

海斗が頷く。

そして。

一歩、前へ出た。

「……母さん。」

女の目から、一粒の涙がこぼれた。

「僕ね。」

声が震える。

「ちゃんと大きくなるよ。」

冬の海に、静かな波音が響く。

「だから……。」

少年は、泣きながら笑った。

「心配しないで。」

長い沈黙。

そして。

女が初めて声を出した。

『ありがとう。』

その言葉は、風のように優しかった。

『生まれてきてくれて。』

海斗が泣き崩れる。

女は微笑んだ。

二度と会えない人へ向ける、最後の笑顔だった。

そして。

銀の光に包まれながら、ゆっくりと空へ溶けていった。

海は静かだった。

銀の灯台だけが、遠くで優しく輝いている。

海斗はしばらく泣いていた。

修も。

航も。

何も言わなかった。

やがて。

少年が小さく顔を上げる。

「……おじさん。」

「何だ。」

「僕……。」

涙を拭う。

そして。

少しだけ笑った。

「ちゃんと、さよならできた。」

修も笑った。

「ああ。」

冬の海を、柔らかな風が吹き抜けていった。




第四章 最後の修理依頼

港へ戻る頃には、夕暮れになっていた。

冬の空は早い。

西の空だけが、橙色に染まっている。

海斗は、かもめ丸の船首に立って海を見ていた。

泣き腫らした目だったが、その顔はどこか晴れやかだった。

「……帰ったな。」

航が小さく呟く。

「そうだな。」

修も頷いた。

「寂しいか?」

「少しな。」

海斗が振り返る。

「でも。」

小さく笑う。

「ちゃんと、また会える気がするんです。」

修と航が顔を見合わせた。

そして、同時に笑った。

「いい顔になったな。」

「はい。」

船が港へ着く。

三人が降りようとした、その時だった。

カチ。

修のポケットの中で、銀の針が鳴った。

今まで聞いたことのない音。

そして。

針が、真っ直ぐ修の胸を指した。

「……俺?」

航が覗き込む。

「壊れたか?」

「いや……。」

銀の針は、かすかに震えている。

その時。

風が吹いた。

どこからか、懐かしい匂いがした。

潮の匂い。

そして。

微かに、線香の香り。

修の顔から笑みが消える。

「……まさか。」

港の先。

夕日の中に、一人の人影が立っていた。

小柄な女性。

白いカーディガン。

長い髪。

後ろ姿しか見えない。

だが。

見間違えるはずがなかった。

「……美咲。」

航が息を呑む。

その名前を、二十年ぶりに聞いた。

美咲。

修の妻。

十年前、病気で亡くなった人。

「おい……。」

航が声をかける。

だが、修は動けなかった。

女性が、ゆっくり振り返る。

優しい笑顔。

昔と変わらない。

「……久しぶり。」

風に乗って、声が届いた。

修の手が震える。

「何で……。」

やっと、それだけ言えた。

「どうして……。」

美咲は困ったように笑った。

「呼ばれちゃった。」

「誰に。」

「あなたに。」

静かな夕暮れ。

波の音だけが聞こえる。

「俺が……?」

「そう。」

美咲が頷く。

「ずっと呼んでたでしょう。」

修は何も言えない。

その顔を見て、彼女は優しく笑う。

「私はね。」

ゆっくりと歩いてくる。

「もう、とっくに向こうへ行ってるの。」

「……。」

「でも。」

少しだけ寂しそうな顔になる。

「あなたが、一人で立ち止まってるから。」

修の胸が痛んだ。

「俺は……。」

言葉が出てこない。

「ずっと、一緒に年を取るはずだった。」

声が震える。

「もっと旅行にも行きたかった。」

「うん。」

「もっと……話もしたかった。」

「うん。」

「何で、先に行くんだよ。」

その一言で、堰を切ったように涙が溢れた。

航が静かに顔を伏せる。

海斗も何も言わない。

美咲が、そっと笑った。

「やっと言った。」

「……。」

「十年間、一度も言わなかったのに。」

修は泣いていた。

子どものように。

「寂しかった。」

小さな声だった。

「……うん。」

「会いたかった。」

「うん。」

「ずっと……。」

美咲が、そっと手を伸ばす。

触れられない。

それでも、修の頬へ手を添えるように。

「私も。」

夕日が海へ沈み始める。

「会いたかった。」

長い沈黙。

やがて。

美咲が、少し困った顔をした。

「でもね。」

「……。」

「私、怒ってることがあるの。」

「え?」

「あなた。」

少しだけ頬を膨らませる。

「一人で何でも抱え込みすぎ。」

航が思わず吹き出した。

「はは……言われてるぞ。」

「うるさい。」

「私がいなくなってから。」

美咲が優しく笑う。

「ちゃんと泣かなかったでしょう。」

修は何も言えない。

図星だった。

「だから。」

彼女が一歩下がる。

「もう、大丈夫。」

夕日が、彼女の身体を透かし始める。

「え……。」

「あなたには、まだ仕事がある。」

銀の針が、温かく光る。

「人の縁を直す仕事。」

「……。」

「だから。」

美咲が笑う。

あの日と同じ。

修が一番好きだった笑顔で。

「ちゃんと、生きて。」

風が吹いた。

海の匂い。

春の匂い。

「そして、いつか。」

その姿が、光へ溶けていく。

「今度は、おじいちゃんになってから会いましょう。」

「待て……!」

修が手を伸ばす。

だが。

その手は届かない。

美咲は最後に、静かに手を振った。

「またね。」

そして――

夕日の中へ消えた。

静かな海だった。

誰も何も言わない。

長い時間が過ぎた。

やがて。

修が、小さく笑った。

涙を拭きながら。

「……参ったな。」

航が隣へ立つ。

「大丈夫か。」

「うん。」

空を見上げる。

冬の夕焼け。

「やっと、見送れた。」

その時。

銀の針が、ふわりと光った。

そして。

一本の新しい糸が見えた。

金色の糸。

遠くへ。

未来へ。

どこまでも続いている。

修が、小さく息を吐く。

「……さて。」

海斗と航を見る。

そして、少し照れくさそうに笑った。

「まだ、働かないとな。」

港の上を、優しい風が吹き抜けていった。





最終章 銀の針

春だった。

いつの間にか、海辺の町に冬は去っていた。

修の店の前の桜が、小さく花をつけている。

風がやわらかい。

波も穏やかだ。

店の中では、柱時計が静かな音を刻んでいる。

カチ。

カチ。

カチ。

修はいつもの椅子へ座り、古い腕時計を修理していた。

その顔は、少しだけ変わった。

肩の力が抜けている。

どこか、穏やかだった。

カラン――。

店の扉が開く。

「おはよう。」

航だった。

相変わらず、毎日のようにやって来る。

「仕事しろ。」

「俺の仕事は、お前の邪魔をすることだ。」

「迷惑だ。」

二人が笑う。

すると、その後ろからもう一人。

「こんにちは!」

海斗だった。

背が少し伸びた。

笑う顔も明るい。

「学校は。」

「今日は土曜日!」

「なるほど。」

今では、すっかり常連である。

海斗は店の掃除を手伝ったり、時計を磨いたりしている。

「将来、修理屋になりたいです。」

そう言い始めた時には、修も航も驚いた。

「物好きだな。」

「そうですか?」

「かなり。」

海斗が笑う。

その時だった。

ポケットの中で、銀の針が温かくなった。

修が取り出す。

不思議な針。

三部作の始まりから、ずっと持っているもの。

しかし今日は、どこか様子が違う。

銀色の光が、少しずつ金色へ変わっていく。

「……何だ?」

航が覗き込む。

すると。

店の奥で、柱時計が鳴った。

コーン。

一度。

二度。

三度。

その音に合わせるように、窓から風が吹き込む。

そして。

聞こえた。

懐かしい声。

『ご苦労さん。』

修が顔を上げる。

店の入口。

そこに、あの老人が立っていた。

白い服。

白い髪。

海の色をした目。

「……また来たか。」

老人が笑う。

「たまには顔を見に来る。」

「勝手だな。」

「お互いさまだ。」

老人は店の中を見回した。

航。

海斗。

そして修。

みんなの顔を見て、満足そうに頷く。

「いい顔になった。」

「そうか?」

「ああ。」

老人は修の手の中の針を見た。

「その針も、役目を終えたようだ。」

「役目?」

「銀の針はな。」

静かな声だった。

「人が、本当に前へ進めた時、持ち主の手を離れる。」

「……。」

「お前は、もう大丈夫だ。」

修は、しばらく針を見つめていた。

縺れた糸。

切れた縁。

たくさんの人。

たくさんの涙。

そして。

美咲。

航。

海斗。

全部、この針が繋いでくれた。

「……そうか。」

小さく笑う。

すると。

銀の針が、ふわりと宙へ浮かんだ。

驚く三人。

針は春の光の中で、ゆっくりと回り始める。

そして――

パチ。

小さな音を立てて、一枚の桜の花びらへ変わった。

「……え?」

海斗が目を丸くする。

花びらは、風に乗って店の外へ舞っていく。

空へ。

海へ。

どこまでも。

老人が微笑む。

「役目を終えた道具は、春になる。」

「意味が分からん。」

「私もよく分かっていない。」

「適当だな。」

老人が笑った。

そして。

ゆっくりと背を向ける。

「行くのか。」

「ああ。」

「どこへ。」

老人は少しだけ考えた。

それから、子どものような顔で笑う。

「次の修理屋を探しにな。」

「……。」

「人の縁は、これからも縺れる。」

店の扉を開ける。

「忙しい仕事だからな。」

春の風が吹いた。

老人の姿が、少しだけ透ける。

「また会えるか。」

修が聞いた。

老人は振り返らない。

ただ、こう言った。

「縁があれば。」

そして。

風の中へ消えていった。

静かな午後だった。

しばらく、誰も何も言わない。

やがて。

海斗が、小さく聞いた。

「終わったんですか。」

修は窓の外を見る。

青い海。

白い雲。

風に舞う桜。

そして。

店の入口。

そこには、一人の女性が立っていた。

困った顔で、古い時計を持っている。

「すみません。」

女性が頭を下げる。

「時計を直していただきたいんですが……。」

修が笑う。

「どうぞ。」

女性が安心したように笑った。

その顔を見ながら、修は思う。

終わりじゃない。

きっと、こうして続いていくのだ。

人が出会い。

別れ。

また誰かと出会うように。

縁は、ずっと続いていく。

「それで……。」

女性が少し困った顔をする。

「変なお願いなんですが。」

「何でしょう。」

「この時計。」

大事そうに抱える。

「主人の形見なんです。」

春の風が吹く。

どこかで、カランとベルが鳴る。

女性が続ける。

「もしできるなら……。」

少しだけ、涙ぐみながら。

「ありがとうって、伝えたいんです。」

修は、しばらく時計を見つめていた。

そして。

ゆっくりと笑う。

「……なるほど。」

椅子を引く。

「少し、時間がかかるかもしれません。」

女性が頷く。

修は時計を受け取った。

窓の外では、一枚の桜の花びらが、海へ向かって飛んでいく。

その先で。

誰かが、笑っている気がした。



人は、何度でも縺れる。

何度でも迷う。

それでも。

誰かと結んだ糸は、きっと消えない。

だから今日も。

海辺の小さな修理屋には、

静かな波の音とともに、

新しい依頼がやって来る。






ーーーーーーーーーー





縺れ糸の修復師 四 白い糸

第一章 置いてきた海

朝の海は、不思議と昔のことを思い出させる。

まだ誰も歩いていない防波堤。
波が石を撫でる音。
潮の匂い。

修は店の前を掃きながら、何度目かのため息をついた。

白い糸。

今朝、机の上に置かれていた一本の糸。

あれから何時間も経っているのに、胸のざわつきが消えない。

箒を止め、空を見上げた。

雲ひとつない青空だった。

「……まいったな。」

思わず独り言がこぼれる。

これまで数え切れないほどの糸を見てきた。

恋人の糸。

親子の糸。

友人の糸。

どれも絡まり、切れそうになり、それでもどこかで繋がっていた。

だが、自分の糸だけは見ようとしなかった。

いや。

見ないようにしてきたのだ。

そのとき。

カラン。

店の扉の鈴が鳴った。

「開いてますか。」

聞き覚えのない若い男の声だった。

振り返ると、三十代半ばくらいの男性が立っている。

黒いシャツに、少し日に焼けた顔。

どこか懐かしい目をしていた。

「どうぞ。」

修が言うと、男は店の中へ入った。

そして店内をゆっくり見回し、古い柱時計に目を止めた。

「父から聞いていました。」

「……お父さん?」

「はい。」

男は静かに頷く。

「ここに来れば、会えるかもしれないって。」

修の胸が小さく鳴った。

男は続けた。

「父の名前は、真鍋俊介といいます。」

その瞬間。

時間が止まった。

遠い夏の海。

白い波。

笑い声。

サーフボードを抱えて走る若い自分。

そして――

親友の顔。

修の手から箒が落ちた。

乾いた音が、静かな朝に響いた。

「……俊介……。」

四十年、一度も口にしなかった名前だった。

男は小さく微笑んだ。

「父は三年前に亡くなりました。」

修は何も言えなかった。

言葉が見つからない。

見つかるはずがなかった。

男は鞄から、一通の古い封筒を取り出した。

茶色く変色した封筒。

表には、たった一言だけ書かれていた。

――修へ。

その字を見た瞬間。

修の視界が滲んだ。

「あいつ……。」

男は静かに言う。

「父から預かってきました。」

店の外で、波の音がした。

まるで、遠い昔の夏が帰ってくるように。

修は震える手で、その封筒を受け取った。




『縺れ糸の修復師 四 白い糸』

第二章 親友からの手紙

封筒は、長い年月を生きてきた人の手のように、少しだけ黄ばんでいた。

修は、しばらくそれを見つめていた。

開けてしまえば、もう後戻りはできない。

四十年という時間が、一気に動き出してしまう。

「無理をなさらなくても……。」

男が静かに言った。

修は首を横に振る。

「いや……。」

そして、ゆっくりと封を切った。

中には、便箋が一枚だけ入っていた。

見慣れた字だった。

若い頃、何度も見た字。

釣りの約束を書いた紙も、波のいい日を知らせるメモも、全部この字だった。

修へ。

久しぶりだな。

この手紙をお前が読んでいるなら、俺はもういないんだろう。

なんだか変な気分だ。

生きているうちに会いに行けばよかったんだけどな。

俺も、お前に負けないくらい頑固だった。

だから、ずっと行けなかった。

修は思わず目を閉じた。

若い頃の俊介が笑っている。

「お前、ほんと意地っ張りだな。」

そう言って笑う声が聞こえた気がした。

手紙の続きを読む。

あの夏の日のことを、俺は一度もお前のせいだと思ったことはない。

だから、自分を責めるのはもうやめろ。

人生ってやつは、案外短い。

怒っている時間も、
意地を張っている時間も、
もったいない。

もし、また会えたら、一緒に海へ行こう。

昔みたいに。

もし会えなかったら……

そのときは、お前だけでも海へ行ってくれ。

俺は、あの海が大好きだったから。

追伸。

お前には、まだ解いていない糸がある。

それだけは、ちゃんと結び直せ。

俊介

読み終えたとき、修の手は震えていた。

店の中は静かだった。

時計の音だけが、小さく響いている。

カチ。

カチ。

カチ。

男が言った。

「父は、亡くなる前まで、あなたの話をしていました。」

修は顔を上げた。

「……俺の?」

「はい。『あいつは人の世話ばかり焼いて、自分のことは後回しにする男だ』って。」

思わず、苦笑いが漏れた。

「当たってるな……。」

男も少し笑った。

「だから、どうしてもこの手紙を渡したかったんです。」

窓の外から、潮の香りが流れ込んできた。

修は便箋を胸に当てる。

四十年。

長かった。

けれど今、その長い時間が、少しだけほどけていくのを感じていた。

そして、ふと思う。

――まだ解いていない糸。

それは、誰との糸なのだろう。

そのときだった。

机の上に置いていた白い糸が、窓から入った風に揺れた。

まるで、どこかへ導くように。




『縺れ糸の修復師 四 白い糸』

第三章 白い灯台

翌朝。

修は、店を休みにした。

扉に、

――本日休業。

申し訳ありません。

とだけ書いた紙を貼る。

その字を見ながら、自分でも少し不思議だった。

何十年ぶりだろう。

理由もなく、いや、理由はあるのだが、店を閉めるのは。

机の上には、昨夜の手紙と白い糸が置かれていた。

白い糸は、朝の光を受けて静かに輝いている。

「……行くか。」

誰に言うでもなく、そうつぶやいた。

海へ向かう道は、昔より狭くなった気がした。

いや、自分が歳を取ったのかもしれない。

商店街を抜け、坂道を下る。

潮の匂いが濃くなる。

そして、見えてきた。

白い灯台。

若い頃、俊介と何度も来た場所。

波の高い日も、凪の日も。

悩みがあると、二人でここへ来て、黙って海を見ていた。

灯台は、何も変わっていなかった。

少しだけ塗装が剥げているが、それでも昔のままそこに立っていた。

修は防波堤に腰を下ろした。

海は青かった。

どこまでも。

しばらく、何も考えずに海を見た。

すると、後ろから声がした。

「……修さん?」

振り返る。

一人の女性が立っていた。

六十歳くらいだろうか。

髪には白いものが混じっている。

だが、その目を見た瞬間。

修の胸が止まった。

「……美咲……。」

女性が、小さく笑った。

「やっぱり、修さんだった。」

四十年ぶりだった。

言葉が出ない。

ただ、そこに立っている。

若い頃、毎日のように会っていた人が、今、目の前にいる。

「久しぶり。」

美咲が言った。

「……ああ。」

それしか言えなかった。

風が吹く。

海が光る。

二人の間を、長い年月だけが静かに流れていた。

「俊介さんの息子さんから聞いたの。」

美咲が言う。

「今日、あなたがここへ来るかもしれないって。」

修は驚いた。

「知っていたのか。」

「うん。」

少しの沈黙。

やがて、美咲が海を見つめたまま言った。

「私ね、ずっと待っていたの。」

修は息をのんだ。

「いつか、あなたがここへ来るんじゃないかって。」

「……。」

「四十年も。」

その言葉が、胸の奥へ落ちていく。

重く、そして優しく。

「どうして……。」

ようやく、それだけを口にした。

美咲は、少し笑った。

「あの頃の私たち、みんな若かったでしょう。」

そして、続けた。

「だから、上手に謝れなかった。」

修は何も言えない。

「あの日、あなたが突然この街を出て行って……私は、怒っていた。」

風が強くなる。

「でもね。」

美咲はゆっくり振り返った。

「怒っていたんじゃなくて、寂しかったの。」

その一言で。

修の中の何かが、静かにほどけた。

長い間、固く結ばれていた結び目が。

少しだけ。

本当に少しだけ。

緩んだ気がした。

白い灯台の上を、かもめが一羽、ゆっくりと飛んでいった。




『縺れ糸の修復師 四 白い糸』

最終章 朝の海

翌朝。

修は、まだ薄暗いうちに目を覚ました。

窓の外では、海鳥の鳴き声がしている。

不思議と、心は静かだった。

昨夜は、久しぶりに深く眠れた気がする。

机の上を見る。

白い糸が、そこにあった。

細く、頼りなく、それでいてどこか温かな糸。

修は、そっと手に取った。

「ずいぶん、待たせたな……。」

誰に言うでもなく、つぶやく。

すると、若い頃の声が聞こえた気がした。

笑いながらサーフボードを抱える俊介。

防波堤で夕日を見ていた美咲。

そして、自分。

まだ何者でもなく、ただ明日だけを見ていた頃の自分。

修は静かに微笑んだ。

「悪くなかったな……俺の人生も。」

そう口にしたときだった。

胸の奥で、何かがほどけた。

何十年も固く結ばれていたものが、ふっと軽くなる。

涙が、一筋だけ頬を伝った。

悲しい涙ではなかった。

ようやく帰ってこられた人の涙だった。

修は立ち上がり、店の扉を開けた。

朝の海が見える。

水平線の向こうから、ゆっくりと太陽が昇ってくる。

世界が、少しずつ明るくなっていく。

その光の中で、白い糸が淡く輝いた。

そして――。

ふわり、と風が吹いた。

白い糸が修の手を離れ、空へ舞い上がる。

慌てて掴もうとはしなかった。

ただ、その行方を見つめた。

糸は朝日に溶けるように光り、やがて見えなくなった。

そのとき。

「おかえり。」

確かに、そんな声が聞こえた。

修は微笑んだ。

「ただいま。」

遠くで、波が返事をした。

カラン。

店の鈴が鳴る。

振り返ると、誰もいない。

けれど、窓辺には小さな白い貝殻がひとつ置かれていた。

昔、美咲が好きだった貝殻。

そして、俊介が「幸せを呼ぶ貝だ」と言って笑っていた貝殻。

修はそれを手に取る。

温かかった。

まるで、今置かれたばかりのように。

やがて、朝日が店の中へ差し込んだ。

古い時計たちが、一斉に時を刻み始める。

カチ。

カチ。

カチ。

修は白い貝殻を棚の上に置き、いつもの椅子へ腰を下ろした。

今日もまた、誰かがこの店の扉を開けるのだろう。

縺れた糸を、胸に抱いて。

修は穏やかに目を細めた。

そして、小さくつぶやく。

「大丈夫ですよ。」

「糸は、ちゃんと結び直せますから。」

外では、新しい朝の海が静かに光っていた。

――完――



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〜あとがき〜

人生には、どうしても解けないと思っている糸があります。

謝れなかったこと。

会えなくなった人。

言えなかった言葉。

けれど、それらは切れてしまったのではなく、ただ長い間、絡まっていただけなのかもしれません。

『縺れ糸の修復師』を書きながら、私自身もたくさんの糸を思い出しました。

人は誰かと繋がり、誰かと別れ、そして最後には、自分自身とも向き合わなければなりません。

もし、この物語が皆さまの心の中にある一本の糸を、少しだけ優しく揺らすことができたなら、とても嬉しく思います。

またどこかで、お会いできますように。


縺れ糸の修復師 四部作


〜まえがき〜

人生には、どうしても解けない「縺れ」ができる。 

 
若さに任せてぷつりと引き千切った人間関係。
言えなかった「ごめん」と、聞けなかった「ありがとう」。 

 
胸の奥で固く結ばれたそれは、時間とともに石のように固まっていく。
この物語は、60歳の時計修理屋・修が、嵐の日に現れた少女から「赤い糸」の修復を頼まれるところから始まります。 

 
時計の歯車は直せても、人の心の縺れは直せるのか。
雨に濡れることを格好良いと思っていた男が、「傘を差す知恵」にたどり着くまでの話です。
もしあなたにも、引き千切ってしまった過去があるなら。
この短い物語が、固くなった結び目に触れる小さなピンセットになれば嬉しいです。 

 
さあ、雨音をBGMに、一本の糸を解く時間を始めましょう。



【登場人物】

修(おさむ) / 60歳:海岸沿いの古い街で「時計と小物の修理屋」を営む男。若い頃はサーファーとして無鉄砲に生き、多くの人間関係を引き千切ってきた。

雨の少女:ある嵐の日に、傘も差さずに店へ迷い込んできた不思議な客。





縺れ糸の修復師 一 赤い糸


【第一章:雨の日の傘、あるいは傲慢の終わり】

初夏というにはあまりに冷たい、暴力的な土砂降りの日だった。


古いトタン屋根を叩く雨音を聞きながら、六十歳になった修(おさむ)は、店のカウンターで静かに温かい珈琲をすすっていた。


若い頃の自分なら、こんな雨の日はわざと傘を放り出し、濡れた髪をかき上げながら嵐の中を歩いたものだ。「逃げも隠れもせん人生が格好良い」と、本気で信じていたからだ。雨に打たれることも、風に煽られることも、どこか「世界と戦っている自分」の証明のようで心地よかった。


「……と~に、過ぎ去ったな、そんな頃は」
修は苦笑し、手元にある古びた番傘を見つめた。
人間がこの大自然に、あるいはこの世間という名の巨大な世界に、真っ向から立ち向かったところで勝てるわけがないのだ。


還暦を過ぎてようやく、修は「雨の日には傘を差す」という、当たり前で、しかし至高の知恵に気づいた。世界に勝とうとするのではなく、地球と同化し、緩やかにその場その場を凌ぐこと。それこそが、老いて手に入れた真の洗練だった。


その時、店のドアがカランと鳴った。
入ってきたのは、十代後半に見える少女だった。驚いたことに、彼女は傘を持っていなかった。服も髪も、まるで海に飛び込んできたかのようにびしょ濡れだった。


「いらっしゃい。……ひどい雨だ。すぐにストーブをつけるよ」


修がバスタオルを差し出すと、少女はそれを黙って受け取り、代わりに濡れたカバンから「それ」を取り出した。


それは、透明なガラス瓶だった。中には、まるで生き物のように複雑怪奇に絡み合った、一本の「赤い太糸」が入っていた。


「これを、解(ほど)いてほしいの」と少女は言った。


「時計の修理なら専門だがね」と修は返す。


「あなたならできるわ。決して、引き千切らずに、元の一本に戻して」


少女の瞳の奥に、かつて自分がどこかの街に置き去りにしてきたような、強い「後悔」の光を見た気がして、修は気づけばその瓶を受け取っていた。



【第二章:引き千切ってきた過去たち】

少女は毎日、夕方になると店にやってきた。修はカウンターに拡大鏡を据え、竹製の細いピンセットを使って、ガラス瓶から取り出した赤い糸の縺(もつ)れに挑んだ。


不思議なことが起きたのは、最初の結び目をわずかに緩めた瞬間だった。


じりじりと、頭の芯が熱くなる。店内の珈琲の香りが、一瞬にして「潮風と、古いシボレーのシートの匂い」に変わった。


(……ここは、どこだ?)


修の脳裏に、鮮烈な景色が飛び込んできた。
1970年代の終わり、カリフォルニアのハンティントン・ビーチ。

照りつける太陽、ラフに削られたロングボード、そして、隣で笑っていた、あの頃の恋人の眩しい笑顔。


若い頃の修は、あまりに不器用だった。


彼女と言い争いになり、お互いの気持ちが少しでも縺れると、そのもどかしさとプライドの高さに耐えかねて、自らぷつりと関係を断ち切ってしまった。


「もういい、終わりだ」と、強引に糸を引き千切ることが、男の潔さだと勘違いしていたのだ。


ハッと我に返ると、修は冷や汗をかいていた。手元の赤い糸は、ほんの数ミリだけ解けていた。
カウンターの向こうで、少女が静かに修を見つめている。


「覚えがあるだろ?」
少女の声が、なぜか自分の内なる声のように響いた。


「後悔、っていう名の覚えが」
修は、乾いた喉を鳴らした。「ああ……ご同輩」と、誰にともなく心の中で呟いた。俺たちは若い頃、なぜあんなに簡単に、大切なものを引き千切ってしまえたのだろうか。



【第三章:男女の仲、そのままじゃいかん】

糸の中心部に近づくにつれ、縺れは一層ひどくなり、まるで硬い岩のようになっていった。拡大鏡で見ても、どこが始点で行き止まりなのかさえ分からない。


それは、人間関係――特に、男女の仲の縺れそのものだった。


一度拗れてしまった感情は、放置すればするほど、時間の経過とともに固着していく。


「そのままじゃ、いかん。投げちゃ、いかん。諦めちゃ、いかん」
修は、自分自身に言い聞かせるように何度も呟いた。


若い頃の自分は、すぐに投げ出し、すぐに諦めた。しかし、今ここでこの糸を投げ出したら、あの過去の苦い後悔を、もう一度繰り返すことになる。


「必ず前向きで、最善を尽くす。何らかの手を打つんだ。決して、縺れた糸を引き千切っちゃいかん……!」


修は老眼鏡を何度もずらし、指先の感覚だけに集中した。
外は再び、激しい風が吹き始めていた。世間という荒波の中で、かつては逃げ惑うか、あるいは無謀に突撃した修だったが、今は違う。

ただ静かに、机に向かい、今できる最善の手を、ミリ単位で打ち続ける。


少女はそんな修の横顔を、愛おしそうに見守っていた。彼女の姿は、陽が落ちるにつれて、どことなく透き通って見えるようになっていた。



【第四章:地球という名の自然の中で】

その夜、街はこれまでにないほどの大嵐に見舞われた。


地響きのような雷鳴が轟き、風が窓ガラスを激しく叩く。地球という名の自然が、その圧倒的な力を見せつけているようだった。


店内の電気がバツンと消え、あたりは完全な闇に包まれた。
昔の修なら、ここでパニックになるか、あるいは嵐に向かって悪態をついていただろう。しかし、今の修の心は奇妙なほど凪いでいた。


「風が吹けば、風の中に……か」


修は小さな蝋燭に火を灯した。揺れる炎のなかで、世界と同化する感覚があった。


自然には勝てない。世間にも勝てない。ならば、この激しい流れを緩やかに凌ぐまでだ。
修は静かに息を吐き、嵐の音をBGMにしながら、最後の、最も頑固な結び目にピンセットを差し込んだ。


不思議なことが起きた。
世界の嵐と同調するように、修の心からすべての力みが消えた瞬間、あれほど硬く固まっていた最後の結び目が、するりと、まるで最初から解けていたかのように滑らかに解けたのだ。


一本の、美しい、長い赤い糸が、机の上にまっすぐ伸びていた。
どこも千切れていない。ただ、かつての記憶をすべて内包した、綺麗な一本の線だった。


修が顔を上げると、いつの間にか嵐は去り、雲の切れ間から美しい月光が店内に差し込んでいた。
そして、目の前にいたはずの少女の姿は、どこにもなかった。



【第五章:なあ、ご同輩】

翌朝、世界は洗われたように晴れ渡り、眩しい光に満ちていた。


修の店のカウンターには、綺麗に巻き直された赤い糸の束と、一枚の古い絵葉書が残されていた。絵葉書には、カリフォルニアの青い海が描かれており、見覚えのある、しかしどこか懐かしい文字でこう書かれていた。


『傘を差してくれて、ありがとう』
修はそれを愛おしそうにポケットに仕舞うと、店の入り口に「本日休業」の札を掛けた。
数年ぶりに、お気に入りのスニーカーを履いて、海岸へと続く坂道を下っていく。


きらきらと輝く水平線を見つめながら、修は、この世界のどこかで同じように年を重ね、同じように胸に苦いトゲを刺したまま生きているであろう仲間たちのことを想った。


「僕らはさ、若い頃、それが出来なかったってわけよ」
潮風が、修の白髪を優しく揺らす。


「覚えがあるだろ? 後悔、っていう……。なあ~、ご同輩。でもさ、雨の日には傘を差して、こうしてまた、光の中に立てばいいんだ。縺れた糸は、今からでも、いくらでも解けるんだからな」
修は深く息を吸い込み、輝く海に向かって、静かに、しかし最高の笑顔を浮かべた。




ーーーーーーーーー





縺れ糸の修復師 二 青い糸

第一章 海へ帰る手紙

朝の海は、まだ眠っている。

波の音だけが静かに岸を撫で、カモメが一羽、低く空を横切っていった。

修はいつものように店の前を掃いていた。

昨夜のことが、頭から離れない。

二十年前に海へ消えた男。

青柳航。

そして、その娘を名乗る少女。

店の中では、少女が椅子に座ったまま、両手でマグカップを包んでいた。

「砂糖、もっと入れるか。」

「いえ……十分です。」

声が小さい。

遠慮しているというより、何かを抱えている声だった。

修は向かいの椅子へ腰を下ろした。

「名前は。」

「青柳澪です。」

「いくつだ。」

「十九です。」

十九。

航が海へ消えた年に生まれたことになる。

修は少しだけ目を細めた。

「父親の顔、覚えてるか。」

澪は首を横に振った。

「写真でしか知りません。」

それから、ゆっくりと鞄を開いた。

一枚の封筒を取り出す。

白い封筒。

消印はない。

切手も貼られていない。

ただ、表に小さな字で、

――澪へ

と書かれていた。

「昨日の朝、家の郵便受けに入っていました。」

修は黙って受け取った。

中には、一枚の便箋。

そこには、たった三行だけ。

『青い糸を見つけたら、海へ来なさい。

約束を果たす時が来た。

父より。』

修の背筋に、冷たいものが走った。

この字。

間違いない。

航の字だった。

昔、一緒に波を追いかけていた頃、何度も見た字。

癖まで同じだった。

「……馬鹿な。」

思わず口に出た。

「やっぱり、父なんですよね。」

澪が身を乗り出す。

その目には、期待と不安が同時に浮かんでいた。

修は答えられなかった。

二十年前。

あの嵐の夜。

確かに航は海へ出た。

そして帰らなかった。

遺体も見つからなかった。

だから皆、

『海に呑まれた』

そう結論づけた。

だが。

もし違ったとしたら。

「この手紙のこと、母親は。」

「見せていません。」

「なぜ。」

澪は少しだけ俯いた。

「笑われるからです。」

沈黙。

店の柱時計が、カチ、カチ、と音を立てる。

「私……ずっと思っていたんです。」

澪が窓の外の海を見た。

「父は、どこかで帰ってくる方法を探しているんじゃないかって。」

その言葉に、修の胸が少し痛んだ。

帰ってくる。

その言葉を、昔の自分も信じていた。

一年。

二年。

十年。

ずっと。

だが、人はいつか諦める。

そうしなければ生きていけないからだ。

「変ですよね。」

澪が笑った。

「会ったこともない父を待ってるなんて。」

修は首を横に振った。

「いや。」

窓の外を見た。

凪いだ海。

「待てるってのは、悪いことじゃない。」

その時だった。

カラン。

店の奥で、小さな音がした。

二人が振り向く。

棚の上に置かれていた古い羅針盤。

誰も触っていないのに、その針がゆっくりと回り始めていた。

止まらない。

北を指さない。

くるり、くるりと回り続ける。

やがて。

ぴたり。

海の方角を指した。

その瞬間。

店の電話が鳴った。

ジリリリリ。

古い黒電話。

修が受話器を取る。

「……もしもし。」

返事はない。

ザー……という潮騒だけが聞こえる。

そして。

男の声。

かすれた、遠い声。

『修……聞こえるか。』

修の手が震えた。

『約束の場所へ来い。』

「……航?」

ザー……。

『青い糸が、ほどける前に。』

そこで電話は切れた。

店の中に、静寂が落ちる。

澪が立ち上がった。

「今の……。」

修は受話器を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

二十年。

ずっと止まっていた時間が。

今、

再び動き始めようとしていた。



第二章 青い灯台

夜の海には、昼には見えないものがある。

修は昔、航からそう聞かされたことがあった。

「海はな、人が隠したものを、たまに返してくれる。」

二十歳そこそこの頃の話だ。

二人でサーフボードを抱え、砂浜に座っていた。

「何を返してくれるんだ。」

そう聞くと、航は笑った。

「さあな。思い出かもしれないし、後悔かもしれない。」

その時は、ただの冗談だと思っていた。

だが今、その言葉が胸の奥に引っかかっていた。

――約束の場所へ来い。

電話の声。

あれが本当に航だったのか。

二十年も前に消えた男の声なのか。

修には分からなかった。

分からないからこそ、確かめなければならない気がした。

「青い灯台……。」

澪がぽつりと言った。

「何だ、それ。」

「手紙の裏です。」

修は便箋を受け取った。

裏返す。

そこには、小さな字で、もう一行だけ書かれていた。

『青い灯台で待つ。』

「そんなもの、この町にあったか……。」

修は考え込んだ。

灯台なら一つある。

岬の先の白い灯台だ。

しかし、青い灯台など聞いたことがない。

その時だった。

「ありますよ。」

澪が静かに言った。

「え?」

「母が、昔話みたいに話してくれたことがあります。」

窓の外を見ながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「昔、この町には青い灯台があったって。」

「どこに。」

「誰も知らないそうです。」

「何だ、それ。」

「嵐の夜だけ現れるんだって。」

修は思わず苦笑した。

「幽霊話じゃないか。」

「私もそう思っていました。」

しかし、澪の顔は真剣だった。

「でも父は、何度もその話をしていたそうです。」

修の胸がざわつく。

航なら、そういう不思議な話を妙に信じるところがあった。

星を見て、風を読み、海の機嫌を当てる。

不思議と外さない男だった。

「……行くか。」

「え?」

「岬だ。」

澪の目が大きくなる。

「今からですか?」

「こういうのは、待つと逃げる。」

修は壁の時計を見た。

午後八時。

もう日が落ちている。

だが、海は妙に静かだった。

二人は店を閉め、軽トラックへ乗り込んだ。

エンジンをかける。

古い車が低い音を立てた。

道の先には、月に照らされた海が広がっている。

「怖くないか。」

運転しながら修が聞いた。

「少しだけ。」

「帰ってもいいぞ。」

澪は首を振った。

「ここまで来て帰ったら、きっと一生後悔します。」

その言葉に、修は少し笑った。

「航に似てるな。」

「父に?」

「ああ。後先を考えないところが。」

澪も小さく笑った。

初めて見せる笑顔だった。

岬へ続く道は暗い。

街灯も少ない。

やがて、白い灯台が見えてきた。

その時だった。

「……止めて。」

澪が言った。

「どうした。」

「海……。」

修が車を止める。

二人は外へ出た。

潮の匂い。

静かな波音。

そして――。

海のずっと向こう。

水平線の上。

小さな青い光が見えた。

ぽつり。

まるで星が海に落ちたように。

「……何だ、あれ。」

澪は息を呑んだ。

青い光は、ゆっくりと明滅している。

一度。

二度。

三度。

その形は、次第にはっきりしてきた。

塔。

細長い塔。

灯台だった。

海の上に、青い灯台が立っている。

ありえない。

そこには何もないはずだ。

修は昔から、この海を知っている。

あの場所に島などない。

まして灯台など。

「父……。」

澪が震える声でつぶやいた。

その瞬間。

青い灯台の光が、一度だけ強く輝いた。

そして。

風が吹いた。

潮の匂いとともに、遠くから声が聞こえた。

『遅いぞ、修。』

修の心臓が止まりそうになった。

聞き間違えるはずがない。

二十年ぶりに聞く。

親友の声だった。

青い灯台の光が、ゆっくりと二人を海へ招いていた。



第三章 消えたサーファー

青い灯台の光は、まるで生き物のように明滅していた。

海の上。

何もないはずの場所に。

それでも、確かにそこにある。

修は目を細めた。

「……こんな馬鹿なことがあるか。」

隣で、澪は息をするのも忘れたように灯台を見つめている。

「父が……いるんでしょうか。」

その声は震えていた。

期待と、恐れと。

十九年間抱え続けた願いが、今にも手の届く場所にある。

そんな顔だった。

修はすぐには答えなかった。

海を知る者ほど、海の不思議を簡単には信じない。

だが、今夜ばかりは、信じない方が難しかった。

「行ってみるか。」

「どうやって?」

「漁港だ。」

修は軽トラックへ戻った。

岬の下に小さな漁港がある。

昔、航とよく使っていた小舟が、まだ残っているかもしれない。

二人は急いで車を走らせた。

十分ほどで港へ着く。

夜の漁港は静まり返っていた。

係留された船が、波に合わせて小さく揺れている。

「……あった。」

修が指差した。

港の隅。

古い木の船。

白い塗装は剥げ、ところどころ錆びている。

船の名前は、かろうじて読めた。

《かもめ丸》

「これ……。」

「俺と航で直した船だ。」

修は懐かしそうに船体を撫でた。

二十年以上、誰も使っていないはずだ。

なのに、不思議なことにロープは新しく、船もすぐに動きそうな姿をしていた。

まるで、誰かが手入れを続けていたみたいに。

「変ですね。」

澪も気づいたようだった。

「ああ。」

修は小さく頷く。

そして、船へ乗り込んだ。

エンジンキーを回す。

まさか動くまい。

そう思った瞬間――

ドドドド……

エンジンが一発でかかった。

二人は顔を見合わせた。

「……待ってたのかもしれないな。」

修が呟く。

何を。

誰を。

答える者はいない。

船は静かに港を離れた。

海の上へ出る。

青い灯台は、先ほどより少し大きく見えていた。

近づいている。

いや――

向こうから近づいてきているようにも見える。

「修さん。」

「何だ。」

「父って、どんな人だったんですか。」

波の音の中で、澪が聞いた。

修は少し笑った。

「馬鹿だった。」

「え?」

「どうしようもないくらい。」

「……。」

「波が良いと仕事を休む。困ってる人を見ると放っておけない。好きになったものは、とことん好きになる。」

澪が黙って聞いている。

「それでいて、人の気持ちには妙に鈍い。」

「ふふ。」

初めて澪が声を出して笑った。

「でもな。」

修は前を向いたまま言った。

「良い男だったよ。」

しばらく、誰も何も言わなかった。

月が海に道を作っている。

船は、その上を滑るように進んだ。

その時だった。

ザン――。

突然、海の色が変わった。

船の周りだけが、淡い青に光り始めた。

「何……?」

澪が身を乗り出す。

海の中に、無数の光。

小さな青い粒。

魚でも、プランクトンでもない。

まるで、星が海へ沈んでいるようだった。

そして、その光の中に――

人影が見えた。

「……え。」

海の底。

誰かが立っている。

男だった。

サーフボードを抱え、こちらを見上げている。

修の手が止まった。

その姿を、忘れるはずがない。

白いTシャツ。

日焼けした顔。

少し長い髪。

二十年前のまま。

青柳航。

「航……。」

男は笑った。

昔と変わらない笑顔で。

そして、口を動かした。

『まだ来るな。』

声は聞こえない。

だが、確かにそう言った。

次の瞬間。

海が大きく揺れた。

ゴォッ――。

風が吹く。

さっきまで穏やかだった海が、一変した。

波が高くなる。

空を雲が覆う。

青い灯台の光だけが、さらに強く輝く。

そして。

どこからともなく、低い声が聞こえた。

『青い糸は、まだ結ばれていない。』

修も澪も、息を呑んだ。

『その男を連れて来い。』

その男。

誰のことだ。

『約束を知る者を。』

声が消える。

同時に、海の中の航の姿も消えた。

静寂。

残ったのは、波の音だけだった。

澪が震える声で言った。

「……今の、本当に父ですよね。」

修は答えなかった。

答えられなかった。

ただ一つ、分かったことがある。

二十年前の出来事は、終わっていない。

そして。

自分たちの他に、もう一人。

この謎に関わる人間がいる。

修は、ゆっくりと青い灯台を見上げた。

「あいつか……。」

思い出した。

二十年前の嵐の夜。

自分と航と、もう一人。

あの日、一緒に海へいた男のことを。



第四章 潮騒の約束

港へ戻る頃には、空にかかっていた雲が嘘のように消えていた。

海は再び静かになり、青い灯台の光も消えている。

何事もなかったような夜だった。

だが、二人の胸だけが激しく波立っていた。

船を岸へつける。

修はしばらく動かなかった。

「……修さん。」

澪が心配そうに声をかける。

「大丈夫ですか。」

「ああ。」

そう答えたものの、顔色は良くなかった。

二十年前の記憶が、まるで昨日のことのように蘇っていた。

忘れたつもりだった。

海に置いてきたつもりだった。

だが、海は返してきた。

思い出を。

後悔を。

「帰るぞ。」

「どこへ?」

「会いに行く人がいる。」

修は軽トラックへ乗り込んだ。

夜道を走る。

海岸線を離れ、町の古い住宅街へ。

やがて一軒の小さな家の前で車を止めた。

灯りはまだついている。

「ここ……?」

「佐伯の家だ。」

「佐伯?」

「俺たちと一緒に海へ出ていた男だ。」

修はエンジンを切った。

窓の外を見つめる。

二十年間、一度も口にしなかった名前だった。

佐伯慎二。

高校時代からの友人。

そして――

あの日以来、海へ近づかなくなった男。

「行くぞ。」

玄関のチャイムを押す。

しばらくして、足音がした。

ガラリ、と戸が開く。

白髪混じりの男が顔を出した。

「……誰だ。」

その目が修を捉える。

次の瞬間。

男の顔から血の気が引いた。

「……修?」

「久しぶりだな。」

「何の用だ。」

声が硬い。

警戒している。

いや、怯えているようにも見えた。

修は真っ直ぐに男を見た。

「航のことで来た。」

沈黙。

夜風だけが通り過ぎる。

「帰れ。」

佐伯は扉を閉めようとした。

だが修が手を添えた。

「待て。」

「今さら何だっていうんだ!」

初めて、佐伯が声を荒げた。

「二十年だぞ! 二十年も前のことだ!」

「終わってない。」

その一言で、佐伯の動きが止まる。

「……何を言ってる。」

「航を見た。」

「……。」

「声も聞いた。」

長い沈黙。

やがて佐伯が、力なく笑った。

「お前までおかしくなったか。」

「俺もそう思いたい。」

修は一歩近づいた。

「だが、あいつはいた。」

その時。

後ろにいた澪が頭を下げた。

「初めまして。」

佐伯が目を向ける。

「私は……青柳澪です。」

男の目が見開かれた。

「青柳……。」

「航の娘です。」

風が止まった。

佐伯の顔から、すべての色が消えていく。

「……娘?」

「はい。」

男は何かを言おうとしたが、声にならなかった。

そして。

小さく呟く。

「生まれて……いたのか。」

その言葉には、深い後悔が滲んでいた。

修は見逃さなかった。

「お前、知ってたのか。」

佐伯は答えない。

「何を知ってる。」

やがて男は観念したように目を閉じた。

「……入れ。」

居間は古かった。

壁には、色褪せた写真が飾られている。

その中に、一枚だけ。

若い頃の三人の写真があった。

修。

航。

そして、佐伯。

三人とも、サーフボードを抱えて笑っている。

澪が写真を見つめた。

「……この人が。」

初めて見る父の若い姿。

思わず、写真に触れようとする。

「似てるな。」

佐伯がぽつりと言った。

「目が。」

澪は何も言わない。

「航によく似てる。」

しばらく沈黙が続いた。

やがて修が切り出した。

「話せ。」

佐伯はゆっくりと湯飲みを置いた。

「二十年前の夜……。」

窓の外を見る。

「俺たちは、岬の沖へ出た。」

「嵐の日にか。」

「ああ。」

「何をしに。」

男は答えない。

その代わり、小さくため息をついた。

「……約束を果たしに。」

修の胸がざわつく。

「約束?」

「お前は知らない。」

「何だ、それ。」

佐伯は、どこか遠いものを見る目をした。

「青い灯台だ。」

部屋の空気が止まる。

「やっぱり……。」

澪が息を呑む。

「昔から、この町には言い伝えがある。」

男は静かに語り始めた。

「海で大切なものを失った人間だけが、一度だけ青い灯台を見ることができる。」

「……。」

「そして、その灯台へ辿り着いた者は、失ったものにもう一度会える。」

修は黙って聞いていた。

「馬鹿な話だと思った。」

佐伯が苦く笑う。

「だが、航だけは信じていた。」

「それで?」

「俺たちは……灯台を探しに海へ出た。」

「嵐の日にか。」

「ああ。」

そして。

男の顔が曇る。

「……灯台は、本当に現れた。」

澪が息を呑んだ。

「そして、航は言ったんだ。」

佐伯の声が震えた。

『もし俺が戻らなかったら、約束を頼む。』

「そう言って……。」

男は拳を握りしめた。

「一人で灯台へ向かった。」

静かな部屋に、時計の音だけが響く。

カチ。

カチ。

「俺は……逃げた。」

佐伯がうつむく。

「怖くなって、船を返した。」

「……。」

「それ以来、一度も海へ行っていない。」

長い沈黙。

そして、佐伯はゆっくり顔を上げた。

「だが……もし本当に航がいるなら。」

その目に、二十年ぶりの光が宿っていた。

「今度こそ、迎えに行かなきゃならない。」

その瞬間。

窓の外から、波の音が聞こえた。

ここは海から遠い。

聞こえるはずのない潮騒。

三人が同時に外を見る。

月明かりの中。

庭先に、小さな青いガラス玉が落ちていた。




第五章 海の向こうの修理屋

庭先に落ちていた青いガラス玉は、月の光を受けて静かに輝いていた。

誰が置いたのか。

いつからそこにあったのか。

誰にも分からない。

「……これ。」

澪がそっと拾い上げる。

冷たいはずのガラス玉は、なぜか少しだけ温かかった。

佐伯の顔が青ざめる。

「その形……。」

「知ってるのか。」

修が尋ねる。

佐伯は小さく頷いた。

「航が持っていたものと同じだ。」

「父が?」

「いつも首から下げていた。」

澪は手のひらの上のガラス玉を見つめた。

小さな傷がある。

長い年月を、どこかで過ごしてきたような傷だった。

その時。

ふわり――。

海風が吹いた。

庭の木が揺れる。

そして。

カラン。

どこかで、小さな鐘の音がした。

三人は顔を見合わせる。

「今……。」

「聞こえたな。」

修が呟く。

その音は、一度だけ。

だが、不思議と懐かしい響きだった。

すると、澪が小さく声を上げた。

「見て……!」

ガラス玉の中に、淡い青い光が灯っていた。

そして。

その光が一本の線になって伸びる。

まるで糸のように。

細く、淡く、夜の中へ。

「……青い糸。」

澪が息を呑む。

糸は庭を抜け、道の向こうへと続いている。

海の方角だった。

修は小さく笑った。

「どうやら、呼ばれてるらしい。」

佐伯が不安そうに言う。

「本当に行くのか。」

「今さら怖じ気づいたか。」

「そうじゃない。」

男は唇を噛んだ。

「もし……本当に航がいたとして。」

「……。」

「もし、もう帰れない場所にいるのだとしたら。」

修はしばらく黙っていた。

やがて、静かに答える。

「それでも行く。」

その声に迷いはなかった。

「二十年待たせたんだ。」

夜空を見上げる。

「今度は、俺たちが迎えに行く番だ。」

三人は再び軽トラックへ乗り込んだ。

青い糸は、まるで生きているように、夜道を導いていく。

町を抜け。

坂を下り。

やがて海岸へ。

そして――。

修の店の前で、糸は止まった。

「ここ……?」

澪が首を傾げる。

「俺の店だ。」

だが。

何かがおかしい。

店の窓から、灯りが漏れている。

出てくる時、確かに消したはずだった。

「誰かいる。」

修は鍵を開けた。

扉を押す。

カラン――。

いつものベルの音。

しかし、店の中はどこか違って見えた。

古時計。

工具箱。

棚の上の時計たち。

全部同じ。

なのに、空気だけが違う。

潮の匂いがする。

そして。

カウンターの上に、一冊のノートが置かれていた。

見覚えのない古いノート。

表紙には、青い字で書かれている。

『修理記録』

修がそっと開く。

一ページ目。

そこには、こう書かれていた。



修理番号 一。

依頼品――青い糸。

依頼人――青柳航。

修理内容――帰れなくなった時間。



「……何だ、これは。」

ページをめくる。

次のページ。

そこには見慣れた字が並んでいた。

航の字だった。



もしこれを読んでいるなら、
俺はまだ帰れていない。

だが、生きている。

死んでもいない。

ただ、少しだけ遠い場所へ流れ着いただけだ。

修。

お前なら、この糸をほどいてくれると思っている。

だから頼む。

俺を直しに来てくれ。



店の中が静まり返る。

佐伯が椅子へ座り込んだ。

「……本当に……。」

澪は震える手でノートに触れた。

「父……。」

その時だった。

カチ――。

店の奥で、古い柱時計が鳴った。

一度。

二度。

三度。

時計の針が、逆に回り始める。

カチ、カチ、カチ……

止まらない。

そして。

修理屋の壁。

長年、何もなかった場所に。

ゆっくりと、一枚の扉が浮かび上がった。

古い木の扉。

青い色をしている。

三人は息を呑んだ。

扉の向こうから、潮騒が聞こえる。

そして。

男の声。

懐かしい声。

少しだけ笑ったような声。

『遅かったな、修。』

修の目が大きく開く。

『店を開けて待ってたぞ。』

沈黙。

そして。

ゆっくりと、青い扉の取っ手が回り始めた――。




第六章 父が残した地図

ギィ――。

青い扉が、ゆっくりと開いた。

潮の香りが流れ込んでくる。

懐かしいような、遠い記憶の匂いだった。

扉の向こうには、細い石畳の道が続いている。

夜なのに、空は薄い青色をしていた。

夕暮れでも朝でもない、不思議な時間の色。

そして、その先には――

小さな家が建っていた。

古びた木造の平屋。

軒先には風鈴。

窓辺には小さな鉢植え。

まるで、どこかの海辺にある普通の家だ。

ただ一つ違うのは、玄関の上に掛けられた看板。

そこには、こう書かれていた。

「時計と小物の修理屋」

「……俺の店?」

修が思わず呟く。

店によく似ている。

いや、似ているのではない。

ほとんど同じだった。

「ここ……どこなんですか。」

澪の声が震える。

誰も答えられない。

すると、家の扉が開いた。

カラン。

風鈴が鳴る。

そこから、一人の男が姿を現した。

白いシャツ。

日焼けした顔。

少し長い髪。

そして、昔と変わらない笑顔。

「よう。」

男が手を上げた。

「久しぶりだな。」

修の喉が震えた。

二十年。

ずっと会えなかった友人。

「……航。」

「そんな顔するなよ。」

男は笑う。

「幽霊じゃない。」

「……馬鹿野郎。」

その一言しか出てこなかった。

気づけば、修は駆け出していた。

そして。

思い切り航の胸ぐらを掴む。

「どこへ消えてた!」

声が震える。

怒りなのか。

安堵なのか。

自分でも分からなかった。

「みんな、どれだけ……。」

その先は言葉にならない。

航は困ったように笑った。

「悪かった。」

その顔を見た瞬間。

修の目に、涙が浮かんだ。

「……本当に、生きてたのか。」

「ああ。」

短い返事。

それだけで十分だった。

後ろで、澪が立ち尽くしている。

航の視線が、ゆっくりと彼女へ向く。

その瞬間。

男の顔から笑みが消えた。

「……。」

何も言えない。

十九年。

一度も会えなかった娘。

そして、娘もまた、一度も会ったことのない父。

二人の間を、静かな風だけが通り過ぎる。

やがて。

澪が、小さく頭を下げた。

「初めまして。」

声が震えていた。

「青柳……澪です。」

航の目が見開かれる。

「……澪。」

その名前を、何度も胸の中で呼んできたように。

ゆっくりと、確かめるように。

「大きく……なったな。」

澪は何も答えない。

唇を噛んでいる。

「ごめんなさい。」

その言葉に、航が戸惑う。

「え?」

「怒ろうと思ってたんです。」

涙がこぼれた。

「ずっと……会ったら怒ろうと思ってた。」

一粒。

また一粒。

「どうして帰ってこなかったのって。」

航は静かに聞いている。

「でも……。」

澪は泣きながら笑った。

「本当にいた……。」

その瞬間。

航が、ゆっくりと娘を抱きしめた。

「……すまなかった。」

それだけだった。

言い訳もない。

理由もない。

ただ、その一言だけ。

父と娘は、しばらくそのまま立っていた。

やがて。

航が顔を上げる。

「さて。」

いつもの調子で笑う。

「積もる話は後だ。」

「後って……。」

修が眉をひそめる。

「お前、何で帰れない。」

航は少しだけ空を見上げた。

「帰り道をなくした。」

「何だ、それ。」

「そのまんまだ。」

そして、店の中へ入っていく。

三人も後を追った。

店の中は、修の店とよく似ていた。

ただ、一つ違うものがある。

壁いっぱいに、糸が張り巡らされていた。

赤。

白。

金。

銀。

そして、青。

無数の糸が、天井から吊るされている。

「……これは。」

澪が息を呑む。

「人の縁だ。」

航が答えた。

「縁?」

「ああ。」

一本の青い糸を指でつまむ。

「人と人を結ぶ糸。」

「そんなものが……。」

「あるんだよ。」

航は笑った。

「ただし、見える人間は少ない。」

そして。

部屋の奥から、一枚の紙を持ってきた。

古い海図のような紙。

だが、そこに描かれているのは海ではなかった。

無数の糸。

そして、一本だけ。

真ん中で、大きく縺れている青い糸。

「これが何だか分かるか。」

修が首を振る。

「お前の糸か。」

「半分正解。」

航が指を置く。

「これは、俺たち三人の糸だ。」

修。

航。

佐伯。

そして。

少し離れたところから伸びている、もう一本の糸。

澪。

「二十年前、俺たちはこれを縺れさせた。」

部屋が静かになる。

「だから、俺は帰れなくなった。」

修が低い声で聞く。

「……どうすればいい。」

航は、ゆっくりと顔を上げた。

昔と変わらない笑顔で。

そして、こう言った。

「修理屋の仕事だ。」

窓の外。

どこか遠くで、青い灯台の光が瞬いた。

「縺れた糸を、もう一度ほどこう。」

それが、二十年越しの本当の依頼だった。




第七章 縺れた青い糸

窓の外では、青い海が静かに揺れていた。

ここがどこなのか。

現実なのか、夢なのか。

誰にも分からない。

だが、一つだけ確かなことがある。

二十年前から止まっていた時間が、今、動き始めている。

航は机の上へ古い缶箱を置いた。

蓋を開ける。

中には、小さな貝殻が四つ入っていた。

白い貝殻。

波に磨かれた、なめらかな石のような形。

「覚えてるか。」

修が一つ手に取る。

そして、小さく笑った。

「……まだ持ってたのか。」

高校時代。

三人で拾った貝殻だった。

一人一つずつ持ち、最後の一つは『また会う日まで』の印として缶箱へ入れた。

子どもの約束だった。

「二十年前の夜。」

航が静かに言う。

「俺たちは、ここへ来た。」

「青い灯台へ。」

佐伯が小さく頷く。

「そうだ。」

男の顔には、深い後悔が刻まれていた。

「お前は言ったな。」

修が振り返る。

『失ったものに会える場所がある』

そう言って、嵐の海へ出た。

「何を失ったんだ。」

長い沈黙。

そして、航が静かに答えた。

「……母さんだ。」

修は息を呑んだ。

航の母は、二人が高校生の頃に亡くなっている。

病気だった。

航は最期に立ち会えなかった。

海に出ていたからだ。

それを、ずっと悔やんでいた。

「もしもう一度会えるなら。」

航が窓の外を見る。

「謝りたかった。」

部屋が静まり返る。

「馬鹿だよな。」

小さく笑う。

「死んだ人間に会えるなんて、本気で信じてた。」

「……。」

「でも、灯台は本当にあった。」

あの夜。

青い光が海の上に現れた。

三人は、夢中で船を走らせた。

だが。

近づくほどに、海が荒れた。

風が吹き。

波が高くなり。

そして。

一人の老人が、灯台の前に立っていた。

「老人?」

澪が尋ねる。

航は頷いた。

「白い服を着た、不思議な人だった。」

その老人は言った。



『失ったものを取り戻したいか。』

『ならば、一つだけ条件がある。』

『縺れた糸を直せる者を、いつかここへ連れて来い。』



「それがお前か。」

修が苦笑する。

「たぶんな。」

航も笑った。

「俺は、その意味が分からなかった。」

「それで?」

「約束した。」

すると老人は、こう言った。



『では、お前は待つ者になれ。』



次の瞬間。

大きな波が来た。

船が揺れた。

佐伯は怖くなり、船を返した。

修は海へ投げ出された。

そして――

気づけば、航だけがここへいた。

この、海の向こうの修理屋に。

「帰れなかったのか。」

「帰れなかった。」

航が静かに答える。

「糸が縺れたままだから。」

机の上の海図を広げる。

中央で絡まった青い糸。

「これを直さない限り、俺は帰れない。」

澪が小さな声で聞いた。

「どうやって……。」

航は娘を見る。

優しい目だった。

「許すんだ。」

「え?」

「自分を。」

静かな声だった。

「俺は、母さんに会えなかった自分を許せなかった。」

佐伯を見る。

「こいつは、逃げた自分を。」

修を見る。

「お前は、俺を助けられなかった自分を。」

三人とも、二十年間、同じ夜を抱えて生きてきた。

海へ置いてきたつもりで。

本当は、一歩も前へ進めないまま。

「人の糸ってな。」

航が笑う。

「だいたい、自分で縺れさせるんだ。」

そして。

「でも、ほどくのも自分なんだよ。」

部屋の中へ、風が吹いた。

壁に掛かっていた無数の糸が、ふわりと揺れる。

その時。

修がゆっくりと口を開いた。

「……悪かった。」

航が目を上げる。

「俺、お前を助けられなかった。」

「うん。」

「ずっと後悔してた。」

「知ってる。」

「だから……。」

修の声が震えた。

「帰ってこい。」

長い沈黙。

やがて。

航が笑った。

昔と変わらない、優しい笑顔で。

「もう、とっくに許してる。」

その瞬間。

絡まっていた青い糸が、少しだけほどけた。

次に。

佐伯が顔を上げた。

涙を流しながら。

「俺……怖かったんだ。」

声が震える。

「死にたくなかった。」

「うん。」

「だから逃げた。」

「うん。」

「ごめん……。」

航が立ち上がる。

そして、友人の肩へ手を置いた。

「生きててくれて、よかった。」

佐伯が泣き崩れた。

その瞬間。

青い糸が、さらにほどける。

最後に。

澪が父を見る。

「私……。」

涙を拭う。

「ずっと会いたかった。」

航が微笑む。

「うん。」

「でも、少しだけ恨んでました。」

「それも当然だ。」

「だから……。」

澪が、泣きながら笑った。

「帰ってきてください。」

その言葉が終わると同時に――

パチン。

小さな音がした。

海図の上。

絡まっていた青い糸が、すべてほどけていた。

窓の外。

青い灯台が、強く輝く。

そして。

どこからともなく、あの老人の声が聞こえた。



『修理完了。』



潮風が吹く。

壁の糸が、一斉に光り始めた。

そして。

海の向こうの修理屋が、ゆっくりと朝の光に包まれていく。

航が笑った。

「どうやら……帰れるらしい。」





最終章 帰る場所

朝の光だった。

けれど、それはどこか懐かしい色をしていた。

海の向こうの修理屋を包む、やわらかな青い朝。

窓の外では、青い灯台の光が少しずつ薄れていく。

役目を終えたように。

「……終わったのか。」

修が静かに呟く。

航は窓辺に立ち、遠くの海を見ていた。

その横顔は、二十年前のままでもあり、二十年分だけ大人になっているようにも見えた。

「たぶんな。」

振り返って笑う。

「長かったな。」

「馬鹿野郎。」

修も笑った。

「本当に長かった。」

佐伯が目をこすりながら立ち上がる。

「夢じゃ……ないんだよな。」

「さあな。」

航が肩をすくめる。

「人生なんて、案外、夢みたいなものかもしれない。」

「お前、二十年ぶりなのに相変わらずだな。」

「そうか?」

「そこだけは安心した。」

四人が小さく笑った。

その時だった。

カラン――。

店の入口のベルが鳴った。

誰も触っていない。

だが、確かに音がした。

振り返る。

すると、入口のところに、あの老人が立っていた。

白い服。

白い髪。

海の色をした目。

不思議と、年齢が分からない顔。

「……あなたが。」

澪が小さく呟く。

老人は穏やかに微笑んだ。

「久しぶりだな、青柳。」

航が苦笑する。

「二十年ぶりです。」

「いや。」

老人は首を振った。

「ここでは、ほんの少し前のことだ。」

誰も意味が分からない。

老人は、ゆっくりと店の中を見回した。

そして。

机の上の海図へ目を落とす。

「糸はほどけた。」

静かな声だった。

「よく直した。」

修が一歩前へ出る。

「あなたは……何者なんです。」

老人は少し考えるような顔をした。

それから笑った。

「修理屋だよ。」

「……は?」

「人の縁を、少しだけ預かる仕事をしている。」

修は呆れた顔になる。

「そんな仕事があるのか。」

「あるとも。」

老人は当然のように答えた。

「時計にも寿命があるように、縁にも手入れが必要だ。」

そして。

ゆっくりと修を見る。

「お前も、そういう仕事をしているだろう。」

修は何も言えなかった。

壊れた時計を直す。

壊れた小物を直す。

そして時々、人の心まで直してしまう。

いつからか、そんな人生になっていた。

老人は懐から小さな包みを取り出した。

それを、修へ差し出す。

「これは……。」

開く。

中には、一つの銀色の針が入っていた。

時計の針のようで、少し違う。

不思議な輝きを放っている。

「それを預けよう。」

「俺に?」

「次の修理屋へな。」

「……意味が分からん。」

老人は笑った。

「今は、それでいい。」

そして。

静かに言った。

「人は生きていれば、また糸を縺れさせる。」

窓の外を見る。

「その時、お前の出番だ。」

風が吹いた。

青い灯台の光が、完全に消える。

すると。

海の向こうの修理屋が、少しずつ透け始めた。

「どうやら時間だ。」

老人が呟く。

「帰りなさい。」

その言葉とともに、店が揺れた。

光が満ちる。

まぶしくて、目を開けていられない。

そして――。

次に目を開けた時。

四人は、修の店に立っていた。

いつもの店。

いつもの時計。

いつもの柱。

窓の外には、朝の海が見える。

「……帰ってきた。」

澪が小さく呟く。

すると。

隣で、航が深く息を吸った。

潮の匂い。

故郷の匂い。

「本当に……帰ってきた。」

その声は、少し震えていた。

店の外へ出る。

朝日が昇っている。

海が金色に輝いている。

その光を見ながら、航が静かに言った。

「帰る場所って……なくならないんだな。」

修が隣へ立つ。

「ああ。」

「俺、もうないと思ってた。」

「馬鹿。」

修が笑う。

「待ってる奴が一人でもいるなら、それが帰る場所だ。」

航はしばらく海を見ていた。

そして。

小さく頷いた。

その時。

店の中から、澪の声がした。

「お父さん!」

航が振り返る。

娘が笑っている。

十九年間、想像することしかできなかった笑顔。

「……呼ばれてるぞ。」

修が肩を叩く。

「ああ。」

航が笑う。

「今、行く。」

父は、娘のもとへ歩き出した。

その背中を見ながら、修はポケットへ手を入れる。

そこには、銀色の針が入っていた。

いつの間にか、少しだけ温かい。

その時。

カラン――。

店のベルが鳴った。

振り返る。

入口には、見知らぬ女性が立っていた。

三十代くらいだろうか。

困ったような顔をして、小さな時計を握りしめている。

「すみません……。」

女性が言った。

「ここ、時計だけじゃなくて……。」

そして、少し恥ずかしそうに笑った。

「縁も、直してくれるって聞いたんですが。」

修は、しばらく黙っていた。

それから。

ふっと笑った。

「……まあ、場合による。」

柱時計が、コーンと一つ鳴る。

海から、やさしい風が吹いてくる。

修は女性へ椅子を勧めた。

「とりあえず、話を聞こうか。」

窓の外では、一筋の青い糸が、朝日に溶けるように輝いていた。





つづく…



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運の使い道 

〜とある老人の不思議な一日〜


── 運は使いどころが肝心、 とはいえ人生、なかなかそうもいかない。




第一話 朝のジャンケン

田中辰造、八十二歳。

毎朝の習慣は、起き抜けにひとり鏡の前でジャンケンをすることだった。

「よし、今日も負けた」

右手がチョキ。左手がグー。右手の負けである。

辰造はにんまりと笑った。

運を節約しているのだ。

辰造がこの哲学に目覚めたのは、六十歳の定年退職の日だった。長年の同僚・吉村が言ったのだ。

「田中さん、運ってのはな、有限なんだよ。使ったら減る。だから俺は宝くじも買わんし、パチンコもせんし、結婚式のスピーチでもつまらんことしか言わん」

その吉村は翌年、馬券で百万円当てた。

「あれ?」と辰造は思ったが、追及しなかった。

人生には、追及しないほうがいいことが山ほどある。



第二話 福引きの悲劇

スーパーで三千円買い物をすると、福引き券が三枚もらえた。

辰造は迷った。三枚全部外れにするべきか。

「でも、全部外れって、それはそれで運がいるんじゃないか?」

哲学的な疑問が湧いた。

列に並んで、ガラガラを回した。

一回目。白玉。ハズレ。

「よし!」

二回目。白玉。ハズレ。

「完璧だ!」

三回目。

カランカランカラン――。

金玉が出た。

「一等! 旅行券十万円でございます!!」

辰造は固まった。

店員さんは笑顔で旅行券を差し出している。

後ろの列のおばさんが「いいわねえ~」と言っている。

辰造は受け取りながら、心の中でそっと謝った。

「……すまんな、未来の自分よ」



第三話 おみくじ問題

正月、近所の神社でおみくじを引いた。

「凶が出ますように」

祈りながら引いた。

大吉だった。

辰造は神様に向かって深くお辞儀をした。

「……ありがとうございます」

言いながら、胃のあたりがずしんと重くなった。

隣で引いていた孫の美咲(十四歳)が言った。

「おじいちゃん、なんで大吉なのにそんな暗い顔してるの?」

「運が……減った」

「は?」

美咲はスマートフォンで何かを調べ始めた。

「ねえおじいちゃん、おみくじって神様がランダムに決めるから、運とは関係ないって書いてあるよ」

「……そうか」

辰造は少し安堵した。

しかし翌日、宝くじで三百円当たった。

「やっぱり減ってる」



第四話 隣の山田さんのこと

隣に住む山田貞子、七十八歳。

この人が困ったことに、非常に美しかった。

若い頃は「小町」と呼ばれ、映画のスクリーンに出てもおかしくないほどだったらしい。今も八十歳手前とは思えないほど品があって、背筋がすっと伸びている。

辰造の妻・よし江(享年七十五歳)が生前よく言っていた。

「山田さんはねえ、生まれたときに運をぜーんぶ外見に使っちゃったのよ」

事実、山田さんの人生は波乱万丈だった。

夫は三回変わり、息子は北海道に逃げ、飼い猫は毎回どこかへ失踪した。

庭で育てたトマトは一個も赤くならず、

買った株は百発百中で下がり、

旅行先では必ず雨に降られた。

「でも」と辰造は思う。

山田さんはいつも笑っている。

その笑顔だけは、どんな運にも代えられないものだと。

……もっとも、これは辰造の主観であり、

山田さん本人は「もう少し運があれば」と思っているかもしれない。



第五話 辰造の結論

秋のある午後、辰造は縁側でお茶を飲みながら考えた。

運を節約して、もう二十年以上経つ。

ジャンケンはほぼ全敗。

福引きで一等を引いてしまったのは誤算だった。

おみくじは大吉ばかり出る。

(凶を引こうとすると、なぜか大吉が出る。これはこれで特殊な才能かもしれない。)


しかし。

八十二年間、大きな病気もせず、

事故にも遭わず、

戦争が終わった後に生まれた幸運もあって、

おいしいものを食べ、

よし江と五十年暮らし、

孫が四人いる。

これは……運を節約したおかげか。

それとも、もともとそういう星の下に生まれたのか。

辰造にはわからない。

わからないが、まあいいか、と思った。

お茶が冷めていた。

電気ケトルでお湯を沸かそうとしたら、スイッチを押し忘れて五分待った。

これもきっと、運の節約である。



─── 了 ───


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あとがき

この物語はフィクションです。

ただし「運は有限説」を信じている人は、案外この世の中に多いらしいです。

ジャンケンで負け続けたからといって、宝くじが当たるわけではありません。

おみくじで凶を引こうとしても、引けないときは引けません。

美しく生まれた人が不幸とも限りませんし、

平凡に生まれた人が幸せでないとも限りません。

でも。

「日常の小さなことで運を使い果たさないように」という気持ちの中には、

どこかほほえましい、人間らしい知恵があるような気がします。

大事な場面のために、そっと取っておく。

そういう慎み深さは、運とは別のところで、

きっと人生を少しだけ豊かにするのではないでしょうか。

田中辰造の今日のジャンケンも、きっと負けです。

5123話に

久々に数えてみれば
再開したここも
この10年ほどで
5123話にもなった

アメブロが始まって20年
何度も書いては
何度もバッサリ消して

でも
今回はなぜか消すことなく
10年もが過ぎた

すると
トータルでは軽く
10000話を越しており

まあ
良くも書いたもんだと
苦笑いしてみる

目的は
何かを残して置きたかった
それだけかもしれない

日々 思うことを
ここへ書き込みながら
それと並行して
そこへ
わずかに肉付けをしてみた
勝手な短い物語が
500話ほど出来て

また

挿絵のつもりの落書きも

600枚にもなった

それらを今
再確認し纏めながら
週に10話ほどづつ
Kindleに載せている

そのKindleも
150話にもなり
さてと振り返るばかり

仲間たちは
何を生き急いでいる? と
笑うけれど

65をも越すと
明日は?
来年は? と
約束されていないことに
気付き

ならば今
吐き出してしまえ! と
更に急ぎ足ともなる




この人生の中で
なんとかして
1冊くらい
本を残せたならばと
ジタバタしてはみても

残念ながら
才能は足りず届かず
自己満足なKindleとなった

ストックされた
残り350話ほどを
年内に選別すれば

それもまた
そろそろ飽きる頃になる

そんなわけだよ
ご同輩…