雨の夜だけ開く店 完結編
〜雨止みの店じまい〜



まえがき
人生には時として、「今すぐここから逃げ出したい」「手っ取り早く希望を叶えたい」と願ってしまう瞬間があります。
『雨の夜だけ開く店』は、そんな人間の弱さや焦りと向き合いながら、不器用ながらも自分の足で歩み直す人々の姿を描いてきました。
本作はその完結編となります。
遠回りや失敗の中にこそ、自分自身の本当の価値や温もりがある――。
雨の音に耳を澄ませながら、五人の物語の結末を最後まで見届けていただければ幸いです。 




序章 五つの灯り
その前の晩、老婆は、ひとりの客に、何も売らなかった。 
母親の病を治す道具が欲しいと訴える若者に向き合い、老婆は初めて「それだけは売れない」と首を振った。代わりに、これまでの客たちの話を、木札越しに聞かせてやった。そして客は、道具を求める代わりに、母親と過ごす明日を選んで、店を去っていった。 
その晩、老婆は、帳面を閉じながら呟いた。 
「これで、ちゃんと終われそうだね」 
そして、残された、ほんのわずかな力を振り絞るようにして、目を閉じた。 
その力は、道具を売ることではなく、かつての五人の客を、もう一度だけ、あの場所へ呼び戻すことに使われた。 
──果たして、それから間もない夜、東京のあちこちで、五人の人間が、ほとんど同時に、同じ夢から目を覚ますことになる。 
雨宮太郎は、耳の奥で「ちりん」という音を聞いた気がして、目を覚ました。芽衣は、赤銅色の鈴の音を、夢の中で聞いた気がして、顔を上げた。陸は、右手のひらに、根付の感触を思い出して、目を覚ました。歩美は、天秤が傾く音を、耳の奥で聞いた気がして、手を止めた。順一は、古びた整理券の紙の匂いを、ふと思い出して、足を止めた。 
五人とも、その夜、外は雨が降っていた。そして五人とも、なぜか、あの路地裏のことを、久しぶりに思い出していた。 
──あの店、まだあるんだろうか。 
理由は、誰にも説明がつかなかった。ただ、なんとなく、今夜、あの場所に行かなければならない気がした。そんな、根拠のない予感だけが、五人の胸の中に、同じ形をして灯っていた。 



第一章 路地裏の再会
太郎が路地裏にたどり着いたとき、そこにはすでに、見覚えのない四人の男女が、傘を差したまま、所在なげに立っていた。 
「あの……もしかして、皆さんも」 
太郎がおずおずと声をかけると、芽衣が驚いた顔で振り返った。 
「え、雨宮さん……ですか? お店の木札に、お名前が」 
「木札?」 
「先客のところに書いてあったんです。私、二話目のお客さんで」 
そこへ、陸が会話に加わった。 
「俺は三話目です。木札、見たことあります。雨宮さん、芽衣さん、俺は陸っていいます」 
歩美と順一も、次々に自己紹介をした。木札の順番通り、太郎、芽衣、陸、歩美、順一の五人が、雨の降る路地裏に、偶然にも同じ夜、勢揃いすることになった。 
「みんな、なんでか分からないけど、今夜、ここに来なきゃって思ったんですよね」 
順一が言うと、他の四人も、一様に頷いた。 
「なんか、呼ばれてる気がしませんでした?」 
歩美が言うと、陸も頷いた。 
「俺もです。根付の感触、急に思い出して」 
五人は、しばらく顔を見合わせたあと、どちらからともなく、路地の奥へと歩き出した。 
灯りは、いつもより、心なしか弱々しく灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。 
「±0螺子店」 
太郎が、代表するように戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。 
「……いらっしゃい」 
いつもより、少し掠れた声だった。 



第二章 最後の夜
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。しかし、五人が驚いたのは、その膝の上にいるはずの招き猫の置物が、今夜は、カウンターの隅に、ちょこんと自分の足で立っていたことだった。右手も左手も、しっかりと挙げている。もう、誰かの膝に乗って支えられる必要のない姿だった。 
「皆さん、揃って……珍しいこともあるもんだね」 
老婆は、そう言って、小さく笑った。その笑顔は、どこか安堵したような、それでいて寂しそうな表情だった。 
「あの、今夜、なんだか呼ばれてる気がして……」 
太郎が言うと、老婆はゆっくりと頷いた。 
「呼んだのは、あたしだよ。正確に言えば、この店の最後の力を使ってね」 
「最後、って」 
芽衣が眉をひそめた。 
老婆は、カウンターの奥から、古い一冊の帳面を取り出した。表紙には、何も書かれていない。ただ、中を開くと、五つの名前が、順番に書き込まれているのが見えた。雨宮太郎、芽衣、陸、歩美、順一。 
「この店はね、もともと、あたし自身の罪滅ぼしのために開いていた店なんだよ」 
老婆は、静かに語り始めた。 
「もう、ずいぶん昔の話さ。あたしにも、大切な人がいた。今、そこに立ってる猫又は、もともと、あたしの連れ合いでね」 
五人は、思わずカウンターの隅に立つ招き猫を見た。招き猫の目が、一瞬、人間のように優しく細められた気がした。 
「あたしたちは、二人で小さな道具屋をやっていたんだ。ある日、連れ合いが、流行り病で倒れてね。あたしは、どうしても諦めきれなくて、禁じられている裏の道具に手を出した。『病を、なかったことにする螺子』ってやつさ。三百円で買えるような、ちゃちな代物じゃなかった。もっと、重たい代償のいる道具だった」 
老婆は、皺だらけの手で、帳面をそっと撫でた。 
「病はなくなった。だが、その代わり、連れ合いの魂の半分が、猫又の姿に変えられちまった。人としての時間を、これ以上進められない体にね。あたしは、自分の身勝手のせいで、大切な人を、中途半端な姿のまま、この世に縛り付けちまったのさ」 



第三章 不良品の理由
「それから、あたしと連れ合いは、幸運管理局から、ある罰と、ひとつの役目を与えられた」 
老婆は続けた。 
「罰は、簡単さ。あたしたち自身の力では、二度とまともな道具を作れないようにされた。だから、うちの店で売る道具は、いつも、ちょっとずつ『不良品』になっちまう。あんたたちが経験した通りさ」 
順一が、思わず口を挟んだ。 
「じゃあ、あの追い越し券が暴走したのも……」 
「わざとじゃないよ。だが、避けようもなかった。あたしの作る道具は、必ず、望んだ以上のものを、周りから奪ったり、押し付けたりしちまう。それが、あたしの罪の形なのさ」 
「役目、っていうのは?」 
歩美が尋ねた。 
「望みを、安易な近道で叶えようとする者に、その道具を売ること。そして、その道具が引き起こす騒動を通じて、その人自身に、本当に必要なものを、気づかせること。それが、あたしたちに課された役目だった」 
老婆は、五人の顔を、順に見つめた。 
「太郎さん、あんたは、ゼロからやり直したくて、螺子を買った。芽衣さん、あんたは、もう一度だけ、輝きを取り戻したくて、鈴を買った。陸さん、あんたは、二つとも失いたくなくて、根付を買った。歩美さん、あんたは、不公平を正したくて、天秤を買った。順一さん、あんたは、自分の番を早めたくて、追い越し券を買った」 
「……全員、共通してることがあるんですね」 
太郎が呟いた。 
「そうさ。みんな、何かを、近道で手に入れようとした。だが、それぞれ、ちゃんと、自分の足で、本当の答えにたどり着いた。近道が壊れたあとに残った、あんたたち自身の選択――それこそが、あたしたちに与えられた役目の、本当の成果だったんだよ」 



第四章 解けた約束
そのとき、店の入り口が静かに開き、黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が入ってきた。三日月だった。 
「皆様、お揃いのようですね」 
三日月は、五人を見渡してから、老婆に向き直った。 
「ご報告です。今しがた、幸運管理局にて、正式に確認が取れました。過去五件の案件、いずれも、装置の暴走を最終的に人の手で正しく収束させ、当事者自身の意思による選択で解決に至ったことが認められました」 
老婆は、静かに目を閉じた。 
「そして、昨夜の一件も、併せてご報告いたします」 
三日月は、続けた。 
「道具を求めた六人目のお客様に、あえて何も売らなかったこと。その判断こそが、審査における最後の要件――『同じ過ちを、二度と誰にも繰り返させない』という誓いの、何よりの証明であると、局として認定いたしました」 
老婆の目じりが、わずかに震えた。 
「これにて、雨宮太郎様、芽衣様、陸様、歩美様、順一様の五名による案件、そして昨夜、道具を売らなかったご判断をもって、規定の贖罪件数と条件を、すべて満たしたことを、正式にお伝えいたします」 
老婆の目じりから、一筋の涙がこぼれた。招き猫が、カウンターから、ふわりと飛び降り、老婆の膝に、そっと頭をすり寄せた。その姿が、一瞬、若い男の輪郭に重なって見えたのは、五人の見間違いではなかったはずだ。 
「長かったねえ……」 
老婆は、招き猫の背を、いつまでも優しく撫でていた。 
「あの、それって……」 
芽衣が、胸の奥を詰まらせるようにして尋ねた。 
「お店、なくなっちゃうんですか」 
三日月は、小さく頷いた。 
「贖罪の役目を終えられたお二人は、明日の朝をもって、本来の姿と時間に戻られます。この『±0螺子店』も、今夜が、最後の営業となります」 



第五章 最後の質問
「せっかくだから、最後に、何か聞きたいことがあれば、聞いておいき」 
老婆は、涙を拭いながら、いつもの調子で笑った。 
太郎が、まず口を開いた。 
「俺、あれから、ちゃんと家族を持てました。でも、たまに、今の生活が、本当に自分の実力なのか、不安になることがあります」 
老婆は、優しく答えた。 
「あんたが今持ってるものはね、螺子とは何の関係もないよ。あんたが、あの一週間のあと、毎日、自分の足で歩き続けた結果さ」 
芽衣が、続けて尋ねた。 
「私、新しい連載、まだヒットするかどうか分かりません。また『二匹目はいない』って言われるかもしれません」 
「言われるだろうさ。だが、あんたはもう、同じ場所に針を垂らしちゃいないだろう」 
芽衣は、小さく頷いた。 
陸は、少し言葉を選びながら聞いた。 
「俺、望と結婚して、幸せです。でも、たまに、桜のことを思い出すことがあります。それって、望への裏切りになりますか」 
老婆は、首を横に振った。 
「思い出と、今を生きることは、両立できるよ。両立できないのは、どっちも同時に『恋人』にしようとしたときだけさ」 
歩美は、少し悔しそうに尋ねた。 
「私の職場、まだ完全に平等とは言えません。それでも、頑張り続ける意味、あるんでしょうか」 
「平等な結果は、誰にも約束できない。だが、正当に評価される道を探し続けることは、あんた自身の重さを、ちゃんと保ち続けることになる。それだけは、揺るがないよ」 
最後に、順一が尋ねた。 
「俺、今度こそ、ちゃんと自分から動いて、番を作っていくつもりです。でも、それでも、また誰かに追い越されることは、あると思います」 
老婆は、優しく笑った。 
「あるだろうね。でも、あんたはもう、追い越されても、列に並び続けられる人間になった。それが、あの券を買う前のあんたと、一番違うところさ」 



終章 雨上がりの朝
五人は、それぞれの答えを胸に、静かに頷いた。 
「最後に、何か買っていくかい? 今夜だけは、ちゃんとした、正常な品を用意できるんだけどね」 
老婆が、いたずらっぽく笑った。 
五人は、顔を見合わせ、それから、ほとんど同時に、首を横に振った。 
「いえ」 
太郎が、代表するように言った。 
「今日は、何も買いません。俺たち、もう、近道は必要ないので」 
老婆は、心底嬉しそうに笑った。 
「それが、うちで一番いい買い物の仕方だって、みんな、ちゃんと分かってるんだねえ」 
五人は、店を出た。雨は、いつのまにか、小降りになっていた。 
「またお会いできますか」 
芽衣が振り返って尋ねると、老婆は、静かに首を振った。 
「この場所には、もう、来られないだろうね。でも」 
老婆は、五人の顔を、順に見つめた。 
「あんたたちが、これから先、誰かの『近道したい気持ち』に出会うことがあったら――そのときは、あんたたち自身が、あたしの代わりに、ちゃんと本当のことを、伝えてやっておくれ」 
五人は、それぞれに、深く頷いた。 
路地を出ると、雨は完全に上がっていた。夜明け前の空に、薄い雲の切れ間から、星がひとつ、瞬いていた。 
翌朝、五人がそれぞれ、もう一度あの路地裏を訪れてみると、そこにあったのは、古びたシャッターの下りた、ただの空き店舗だった。「±0螺子店」の看板も、十円玉の風鈴も、跡形もなかった。 
それから五人は、月に一度、示し合わせたように、あの路地裏近くの喫茶店に集まるようになった。互いの近況を報告し合い、時には、誰かが「近道したい気持ち」に負けそうになっていると、他の四人が、順番に、あの夜、老婆から聞いた言葉を、少しずつ分けて聞かせてやった。 
数年後のある雨の夜、順一は、仕事帰りに、ふと懐かしくなって、あの路地に足を向けてみた。空き店舗は、相変わらず、シャッターが下りたままだった。 
だが、ふと、少し離れた別の路地の奥に、小さな灯りが、ぽつんと灯っているのに気づいた。 
近づいてみると、木製の引き戸に、まだ真新しい、しかし見覚えのある字で、こう書かれていた。 
「±0螺子店」 
戸の隙間から、中の様子がうっすらと見えた。 
カウンターの向こうに座っていたのは、老婆ではなく、あの夜、母親のために店を訪れ、道具を買わずに立ち去った見覚えのある若い男の影だった。その膝の上には、元気に右手を挙げた、小さな招き猫の置物が乗っている。 
順一は、その横顔に、思わず息を呑んだ。 
だが、声をかけるのはやめておいた。誰かが、また同じ夜、同じ雨の中で、この店の戸を開けるのを、静かに待っているような気がしたからだ。 
順一は、傘も差さずに、その灯りに背を向けて、ゆっくりと歩き出した。 
雨は、もう、上がっていた。 





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あとがき
自分の力で歩むことの難しさと、その先にある確かな救い。この物語を通じて、読者の皆様の心が少しでも軽く、暖かくなっていただけたなら、とても嬉しく思います。

遠回りの人生も、決して捨てたものではありません。ふと立ち止まりたくなった夜に、またこの本を開いていただければ幸いです。 

雨の夜だけ開く店 第六話
〜売らなかった螺子〜


まえがき
誰しも人生の中で、「もしもあの時」と過去を振り返ったり、「どうして自分だけ」と理不尽な運命を呪いたくなったりする夜があります。どうしても自力では抱えきれない迷いや焦りを抱えたとき、ふと逃げ込みたくなるような場所があったなら――そんな想いから、この物語は生まれました。

物語の舞台は、雨の夜にだけ開く「±0螺子店」です。
店に並ぶのは、一見すると奇妙な道具ばかり。しかし本当に人の心を救うのは、魔法のような道具そのものではなく、自分自身の心とどう向き合うかという「小さな気づき」です。
全六話を通し、それぞれの悩みを抱えた訪問者たちが、自分なりの答えを見つけていく姿を描きました。
雨の日の静かな夜に、温かいお茶でも飲みながら、彼らと一緒に路地裏の店を訪れるような気持ちでお楽しみいただければ幸いです。




序章 治せないもの
宮下涼(みやした・りょう)は、二十九歳。都内の総合病院で、看護師として働いている。
涼の母は、半年前に膵臓がんのステージ4だと診断された。担当医からは「積極的な治療をしても、余命は半年から一年」と告げられていた。看護師という職業柄、涼は誰よりもその言葉の意味を正確に理解していた。理解しているからこそ、余訳につらかった。
涼は、病棟で担当する患者たちには、いつも冷静に、優しく接することができた。「大丈夫ですよ」「一緒に頑張りましょう」と、心からの言葉をかけることができた。だが、自分の母のこととなると、その冷静さはあっけないほど簡単に崩れてしまう。
「涼、そんな辛気臭い顔しないの。まだ、そこまで悪くないんだから」
母はいつも明るく振る舞っていた。むしろ涼のほうが、母よりも先に泣きそうになる日が増えていた。
夜勤明けのある日、涼は母の検査結果を担当医から聞かされた。数値は思ったよりも早いペースで悪化していた。「ご家族としては、そろそろ心の準備もしておいたほうが……」という言葉を、涼はうわの空で聞いていた。
病院を出ると、雨が降っていた。傘を差す気力もなく、涼はふらふらと当てもなく歩き続けた。
──治せるものなら、なんでもいいから、治したい。
看護師として、たくさんの「治せない病」を見てきた。だからこそ、その言葉がどれほど無力で、それでも切実なものか、涼は誰よりも分かっていた。
気づけば、見知らぬ路地に迷い込んでいた。



第一章 願いを、口にする
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。
「±0螺子店」
涼は藁にもすがる思いで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。
「……いらっしゃい」
いつもより、少し掠れた声だった。カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた小さな招き猫が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が五枚、並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」「先客・歩美様」「先客・順一様」。
「螺子屋さん、ですか」
「そうだよ。だが、今夜は、少し勝手が違うよ」
老婆は涼の顔を、じっと見つめた。
「あんたの願い、聞くまでもなさそうだねえ」
涼は堪えきれずに、声を震わせながら言った。
「母を、治してください。どんな道具でもいい。三百円で買えるなら、いくらでも払います」
老婆はしばらく黙り込んでいた。膝の上の招き猫が、心配そうに老婆の袖を小さく引いた。
「悪いが、それだけは、売れないよ」



第二章 境界線
「なんで、ですか」
涼は思わず声を荒げた。
「これまでの人たちには、道具を売ってきたじゃないですか。人の心を動かす道具があるなら、病気だって……! これまでの願いに比べたら、人の命を救いたいと思うことのどこが変なんですか!」
老婆は、静かに首を振った。
「あんたの願いは、変じゃないよ。むしろ、この世で一番、真っ当な願いさ。だからこそ、売れない」
「意味が分かりません」
老婆はカウンターの上に置いてあった帳面を、そっと開いた。
「うちの道具はね、あくまで生きてる人間の『心の在り方』を、多少強引に動かすためのものなんだ。人生の収支をゼロにするとか、もう一度だけチャンスを引き寄せるとか、そういう類のね」
「それが、母の病とどう違うんですか」
「違うんだよ。命そのものの長さを直接いじる道具は、この店では扱えない。それは……あたし自身が、大昔に一度だけ手を出して、取り返しのつかないことになった代物だからさ」
老婆は、愛おしそうに膝の上の招き猫の頭を優しく撫でた。
「あたしも昔、大切な人の病を、なかったことにしようとしたことがある。結果、その人は……人としての時間を、まともに刻めない体になっちまった。あんたの気持ちは、痛いほど分かる。分かるからこそ、絶対に同じ轍を踏ませるわけにはいかないんだよ」
涼は言葉を失った。
「じゃあ……俺は、どうすればいいんですか。指をくわえて、母が弱っていくのを、見てるしかないんですか」
老婆は優しく、しかしはっきりと言った。
「見てるだけじゃない。傍にいることは、できるだろう」



第三章 木札の話
涼が悔しさと悲しみで俯いていると、老婆はカウンターの端に並んだ五枚の木札を、指でそっと撫でた。
「せっかくだ。少しだけ、この木札の主たちの話を、聞いていくかい」
涼は力なく頷いた。
「太郎さんって人はね、生まれてこの方、一度も良いことがなかったと思い込んでた。人生の収支をゼロに戻す螺子を買ったんだが、結局、螺子なんかなくても、自分の足で立ってることに最後は気づいたのさ」
「芽衣さんって人はね、若い頃の栄光をもう一度だけ取り戻したくて、鈴を買った。でも、同じ場所に針を垂らし続けても二匹目は釣れないと気づいて、新しい川を探しに行った」
「陸さんって人は、二つの恋をどっちも失いたくなくて、根付を買った。二兎を追って体まで二つに分かれちまったが、結局、一羽をちゃんと選び取ることで、本当の意味でその一羽と向き合えるようになった」
「歩美さんって人はね、職場の不公平に苦しんで、天秤を買った。誰かを引きずり下ろすんじゃなく、自分の重さで立つことを選んだ」
「順一さんって人は、いつまでも自分の番が来ないことに苛立って、追い越し券を買った。でも結局、番ってのは待つもんじゃなく、自分で作りに行くもんだって気づいたのさ」
老婆は木札から涼へと視線を移した。
「五人とも、共通してることがあるのに、気づくかい」
涼はしばらく考えてから、静かに答えた。
「……誰も、本当に欲しかったものは、道具じゃなかった、ってことですか」
「そうさ。道具はいつだって、きっかけにすぎない。本当に必要だったものは、みんな、自分自身の中に最初からあったんだよ」



第四章 傍にいるということ
「でも」
涼は絞り出すように言った。
「母の場合は、違います。俺がどんなに強くなっても、母の病気は治らない。俺の中に、答えなんてないんです」
老婆は静かに頷いた。
「その通りさ。病そのものは、あんたの心の在り方じゃどうにもならない。だが、あんたがこの先の時間をどう過ごすかは、あんた次第だ」
老婆は涼の目を、まっすぐに見つめた。
「あんた、看護師なんだろう。患者さんに、いつもどう接してる?」
「……できるだけ、普段通りに。深刻な顔をしすぎないように、心がけてます」
「じゃあ、なんで、自分の母親にはそれができないんだい」
涼は答えに詰まった。
「怖いんだろう。母親を失うことが。だからつい、治すことばかり考えて、今、一緒にいられる時間から目を逸らしちまってる」
老婆の言葉は静かだったが、涼の胸に深く突き刺さった。
「あんたが本当にすべきなのは、治せない病を無理やり治すことじゃない。治せないと分かってるからこそ、残された時間をどう大切に過ごすか。それを考えることなんじゃないのかい」
涼の目から、堪えていた涙がひとすじこぼれ落ちた。
「……俺、ずっと、母の前で笑ってるふりをしてました。弱いところ、見せたくなくて」
「それも必要なときはあるだろうさ。だが、たまにはちゃんと弱いところも見せておやり。あんたの母親は、あんたが思ってるよりずっと、強い人のはずだよ」



終章 もうひとつの贖罪
涼は財布を取り出さないまま、静かに頭を下げた。
「今日は、何も買わずに帰ります。でも、話を聞いてもらえて良かったです」
老婆は優しく笑った。
「それでいい。あんたは今夜、うちで一番いい客だったよ。金は一銭も使わずにね」
涼が店を出る間際、老婆はふと呟いた。
「ありがとうね。あんたのおかげで、あたしもようやく分かったよ」
「……何がですか?」
涼が振り返ると、老婆は膝の上の招き猫を優しく撫でながら、静かに微笑んだ。
「あたしが本当に償わなきゃいけなかったのは、道具を売って人を助けることだけじゃなかった。同じ過ちを、二度と誰にも繰り返させないこと。それも大事な役目だったのさ。今夜、あんたに何も売らずに帰したこと――それがあたしにとって、最後の、そして一番大事な贖罪だったのかもしれないねえ」
涼にはその言葉の本当の意味はよく分からなかった。ただ、老婆の横顔がどこか憑き物が落ちたように穏やかに見えたことだけは、はっきりと覚えていた。
雨はいつのまにか小降りになっていた。涼は傘も差さずに夜道を歩きながら、携帯電話を取り出し、母にメッセージを送った。
「明日、休み取れたから、一緒に出かけない? 前に行きたいって言ってた、あの温泉」
すぐに母から返信が来た。
「あら、珍しい。いいわね、行きましょう」
涼はその短いやり取りに、少しだけ救われた気がした。

その夜遅く、路地裏の店では、老婆が静かに帳面を閉じていた。招き猫が膝から飛び降り、カウンターの上に上がると、老婆の手にそっと頭をすり寄せる。
「これで、ちゃんと終われそうだね」
老婆は窓の外の雨音に耳を澄ませながら、小さく息をついた。そして残されたほんのわずかな力を振り絞るようにして、静かに目を閉じた。
路地裏を照らしていた小さな店の灯りが、静かに、しかしどこか温かく消えていく。
その夜、遠く離れた場所で、五人の人間がほとんど同時に同じ夢から目を覚ますことになる。
雨宮太郎は、耳の奥で「ちりん」という音を聞いた気がして。
芽衣は、赤銅色の鈴の音を夢の中で聞いた気がして。
陸は、右手のひらに根付の感触を思い出して。
歩美は、天秤が傾く音を耳の奥で聞いた気がして。
順一は、古びた整理券の紙の匂いをふと思い出して。
それぞれの胸に、根拠のない同じ予感が灯った。
──あの店、まだあるんだろうか。
老婆の最後の力は、道具を売ることではなく、五人をもう一度だけあの場所へ呼び戻すことに使われた。それは彼女なりの、感謝のかたちだったのかもしれない。

(了)


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あとがき
「±0螺子店」にやってくるお客たちは、皆それぞれに思い悩み、立ち止まり、誰かや何かに救いを求めようとしていました。けれど彼らが最後に手に入れたのは、特別な道具の効果そのものではなく、「自分の力で一歩を踏み出す覚悟」でした。
ここで描いた「病」や「生きている時間」というテーマは、私自身にとっても非常に深く、大切な問いかけでした。形あるものはいつか変わり、大切な人との時間には限りがあります。だからこそ、今目の前にある日常や、傍にいてくれる人の温もりを大切に重ねていきたい――そんな願いを込めて一筆一筆を紡ぎました。
この作品が、読んでくださったあなたの心にほんの少しでも寄り添い、雨の日の夜に灯るあたたかなあかりのような存在になれたとしたら、とても嬉しく思います。


雨の夜だけ開く店 第五話
〜追い越し券〜


まえがき
誰かの後ろに静かに並び、自分の順番が巡ってくるのをじっと待ち続ける。そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
真面目に努力していれば、いつか報われる。順番が回ってくる。そう信じて疑わない人ほど、後から来た誰かに軽々と追い越されたとき、心の中に深い溜め息を抱え込んでしまうものです。
本作の主人公・待野順一もまた、そんな葛藤の中に生きる一人です。
効率やアピールが重視される現代社会において、「真面目に待つこと」の切なさと、そこから一歩踏み出す勇気について描きました。 
雨の日の静かな夜に、温かいお茶でも飲みながら、順一と一緒に自分だけの「道」を見つめ直していただければ幸いです。




序章 そろそろ、俺の番だろう
待野順一(まちの・じゅんいち)は、三十五歳になった今も、口癖のように「そろそろ、俺の番だろう」とつぶやく癖が抜けなかった。 
新卒で入った建設資材メーカーの営業部で、順一は十三年間、真面目に働いてきた。無遅刻無欠勤、飲み会の幹事も率先して引き受け、後輩の指導も嫌な顔ひとつせずにこなしてきた。上司からは「順一は真面目でいいやつだ」と、いつも褒められる。 
だが、係長への昇進の話は、いつも順一の一つ前で止まってしまうのだった。 
三年前は、同期の中で一番社歴の浅い男が抜擢された。「若手の抜擢も必要だから」というのが理由だった。去年は、中途採用で入ってきたばかりの女性が昇進した。「即戦力が必要だから」というのが理由だった。今年こそは、と思っていた矢先、今度は他部署からの異動組が、順一の頭越しに係長のポストに座った。「部署間の連携強化のため」という、これまた順一には直接関係のない理由だった。 
「順一くん、真面目にコツコツやってれば、そのうち順番が回ってくるよ」
上司にそう言われるたびに、順一は「はい」と頷きながら、心の中で暗い溜め息をついていた。 
──そのうち、っていつだよ。順番って、一体誰が決めてるんだ。
恋愛でも、似たようなことが続いていた。学生時代からの友人たちは、次々と結婚し、子どもを授かっていく。順一にも、これまで何度か交際の機会はあった。だが、いつも「もう少し様子を見よう」「そのうち関係が深まるだろう」と待っているうちに、相手には別の人が現れ、気づけば取り残されていた。 
順一は二十代の頃、一度だけ交際が長続きした相手がいた。
『一度くらい良いことがあってもいいはずだ』――そう思っていたはずなのに、プロポーズを先延ばしにしているうちに相手から見切りをつけられ、別れることになった。あれ以来、「そろそろ」という言葉が、順一の中でどんどん重く押し込めていくようになった。 
いずれにせよ、その「そろそろ」は、まだ一度も本当の形になったことがない。順一はそう思いながら、今日もまた、自分を追い越していった後輩の昇進祝いの飲み会に、幹事として参加していた。 
「順一さん、今度こそ、次は順一さんの番ですよ!」
後輩たちにそう励まされるたびに、順一は愛想笑いを浮かべながら、心のどこかで、その言葉をもう何百回聞いただろう、と虚しく数えていた。 
雨の降る夜、飲み会の帰り道、順一はいつもと違う道を選んで歩いていた。頭を冷やしたい気分だった。 
気づけば、見知らぬ暗い路地に迷い込んでいた。 



第一章 追い越し券を売る店
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。 
「±0螺子店」
順一は雨宿りのつもりで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。 
「いらっしゃい」
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が四枚、並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」「先客・歩美様」。 
「螺子屋さん、ですよね」
「そうだよ。だが、あんたが欲しいのは、螺子じゃないねえ」
老婆はカウンターの下から、小さな紙の券を取り出した。古びた整理券のような見た目で、表には「特」の文字が、赤い判子で押されていた。 
「これは『追い越し券』。あんたが並んでる『順番待ちの列』を、まとめて何人分か、追い越させてくれる道具さ」
順一は思わず身を乗り出した。 
「追い越せる……本当に、俺の番が、早く来るんですか」
「来るとも。だが、忠告しておくよ」
老婆は、金色の目を細めた。 
「列ってのはね、誰かが前に進めば、その分、誰かが後ろに下がる。追い越すってのは、そういうことなんだ。あんたの番が早く来る分、誰かの番が、その分だけ遠のく」
順一は、少し躊躇した。だが、この十三年間の悔しさと焦燥感が、その躊躇をあっさりと押し流した。 
「三百円だよ」
順一は財布から、百円玉を三枚取り出した。 
「使い方は?」
「その券を、財布の中にでも入れておくといい。あとは勝手に、あんたの番が、するすると前に進んでいく」

 

第二章 早く来た順番
家に帰った順一は、券を財布に入れ、そのまま眠りについた。 
翌朝、出社すると、すぐに部長に呼び出された。 
「順一、来月から係長な。上からも、そろそろお前の番だろうって話が出ててな」
順一は、自分の耳を疑った。あれほど待ち続けた言葉が、あっけないほど簡単に目の前に現れたのだ。 
その日を境に、順一の人生は、まるで早送りのように動き始めた。 
昇進の話が正式に決まった翌週、順一は取引先の紹介で、ある女性と出会った。会って三度目のデートで、相手のほうから「私たち、そろそろ真剣に将来のこと、考えない?」と切り出された。順一が長年待ち続けていた言葉が、今度は恋愛の場面でも、向こうから飛び込んできたのだった。 
最初の数日、順一は舞い上がっていた。ずっと待ち続けていたものが、次々と手に入っていく。「棚から牡丹餅」という感覚とともに、「いや、俺はこれまで真面目に努力してきたんだから、これくらい報われて当然なんだ」と自分に言い聞かせ、誇らしい気持ちに浸っていた。 
しかし、五日目の朝、職場で異様な事態に気づいた。 
昇進したはずの同僚――去年、他部署から異動してきて係長になった男――が、朝礼で突然、降格を言い渡されていたのだ。理由は「引き継ぎの過程で重大なミスが発覚したため」という、これまでなら見過ごされていたはずの些細な不備だった。男は呆然とした顔で、順一のほうをちらりと見つめた。 
さらに、順一の交際相手にも奇妙な影が差し始めた。彼女は以前、別の男性と交際していたのだが、その元交際相手が突然「もう一度、やり直したい」と執拗に連絡を寄越すようになったという。彼女は困惑した様子で、「なんだか急に、あの人が私を追いかけ始めたの」と順一に打ち明けた。 
「……順番が、狂ってる」
順一は背筋に冷たいものを感じながら、そう呟いた。 



第三章 整列が崩れる町
その週末、順一の周囲だけでなく、町全体で奇妙な「順番の乱れ」が相次ぎ始めた。 
通勤途中に見かけた町内の総合病院では、緊急外来の受付順がなぜか次々と入れ替わってしまうという混乱が起きていた。先に受付を済ませて辛そうに待っていた患者が、後から来た軽症の患者に何人も追い越され、一向に治療の順番が回ってこない。看護師たちは「システムが誤作動している」と青ざめていたが、原因は分からないままだった。 
駅のホームでも、電車を待つ整然とした列が勝手に順序を変え始めた。整列していた乗客たちが電車が到着するたび、不可解な力で列の後方に押しやられ、後からやってきた人が先に滑り込んでいく。乗客同士の喧嘩が勃発し、駅員が対応に追われていた。 
保育園の前を通れば、順番にブランコを使うはずの子どもたちの間で、同じ子が何度も順番を「追い越して」しまう珍事が起き、保育士たちが首をかしげていた。 
そして極めつけは、順一の勤める会社で起きた悲劇だった。 
順一が係長になった部署で部下として働くことになった、去年降格したばかりの元係長が、ある日突然、取引先とのトラブルの責任をすべて押し付けられる形で退職に追い込まれてしまったのだ。その男は荷物をまとめて去る際、順一に向かってこう静かに言った。 
「お前が悪いわけじゃないのは分かってる。でも、なんでだろうな。お前が前に進むたびに、俺だけが、どんどん後ろに下がって影の中に押し込められていく気がするんだ」 
順一は胸を強く突かれ、言葉を失った。 
その夜、順一の部屋のインターホンが鳴った。扉を開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」と書かれていた。 
「順一様。単刀直入に申し上げます。『追い越し券』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」 



第四章 順番という名の綱
三日月は順一を近所の静かな児童公園へ案内した。公園の隅にある自動販売機の陰には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。 
「本来、『追い越し券』は、装着者ご本人がごく個人的な事情で足踏みしていた『たったひとつの順番』を、周囲に大きな影響を与えない範囲で少しだけ前倒しにするための道具です。たとえば、混雑したレストランの席を五分だけ早く案内してもらう、といった程度の効果にとどまるはずでした」 
「それが……どうしてこんなことに」 
「今回、券の製造過程で不具合が生じ、順一様お一人の『そろそろ、俺の番だろう』という積年の強い思いが、周囲一帯のあらゆる『順番』を無差別に繰り上げようとする力に変質してしまいました。簡単に申し上げますと――」 
三日月は、少し疲れたような顔で続けた。 
「順番というのは、目には見えない一本の綱のようなものです。誰かが前に進めば、その分、必ず誰かが後ろに引っ張られる。今、この町では、順一様が前に進むたびに、その分の『しわ寄せ』が、無関係な誰かに一方的に押し付けられ続けています」 
順一は、拳を強く握りしめた。 
「俺は、ただ……自分の番がいつまでも来ないことに、疲れてたんです。頑張っていればいつかは順番が回ってくるって、ずっと信じてました。でも、その『いつか』があまりにも遠くて」 
「お気持ちは、痛いほど理解できます」 
三日月は静かに言葉を返した。 
「ですが、券が繰り上げているのは順一様の『番』だけではありません。順一様が追い越すたびに、その分、誰かの『番』が永遠に来なくなる可能性もあるのです。病院の事例のように、命に関わる順番まで無差別に狂わされ始めています」 



第五章 列に、戻る
「教えてください」
順一は三日月を直視して言った。 
「券を返せば、俺の昇進も、彼女との関係も、全部、元に戻りますか」 
「元に戻ります。順一様は再びこれまで通りの、係長になれない立場に戻り、交際関係も白紙に戻る可能性が高いです」 
順一はしばらく目を閉じ、夜の静けさの中で深く息を吐いた。 
「……それでも、返します」 
三日月は少し意外そうな顔をしたあと、静かに尋ねた。 
「よろしいのですか。またあの、報われない日々に戻ることになりますが」 
「はい」
順一は、はっきりと頷いた。 
「この一週間で、よく分かったんです。俺、ずっと『そろそろ俺の番だろう』って、順番が回ってくるのをただ待ってました。でも、本当は順番なんてものは、誰かが決めて勝手に回してくれるものじゃなかったんだと思います」 
順一は言葉を噛みしめるように続けた。 
「俺が本当にすべきだったのは、列の前のほうに無理やり割り込むことじゃなくて、自分から列を抜けて、新しい道を探すことだったのかもしれません。誰かを押し退けなきゃ前に進めない場所にずっと立ち続けてたこと自体が、間違いだったんです」 
三日月は、小さく満足そうに頷いた。 
「わかりました。処置いたします」 
三日月が懐から取り出したのは、小さな銀色の工具のようなものだった。順一が財布から取り出した券を差し出すと、三日月はためらいなく券の端に触れた。 
かちり、と澄んだ金属音が響いた。券はそのまま淡い光の粒となって、夜の空気に溶けるように消えていった。 



終章 自分の足で、進む
翌朝、順一は部長に呼び出され、係長昇進の話が正式に取り消されたことを告げられた。「悪いな、上の意向で急に変更があってな」と部長は申し訳なさそうに頭を下げた。順一は「いえ、大丈夫です」と穏やかな笑顔で答えた。 
交際相手との関係も、あっさりと終わりを迎えた。彼女は元の恋人とやり直す決断をしたという。順一の心に悔しさはなく、不思議なほどすっきりとした納得感だけがあった。 
数日後、順一は自分から部長に声をかけた。
「昇進の順番を待つだけじゃなくて、資格を取ったり、新しい企画を提案したり、自分から積極的に動いてみたいんです」
部長は一瞬驚いた顔を見せた後、「そうか……それは頼もしいな」と、これまでになく温かい眼差しで順一を評価してくれた。 
会社を去った元係長の男には、後日、順一から連絡を取って飲みに行った。「あの時はすみませんでした」と頭を下げると、男は「お前のせいじゃないさ」と笑い、「実は昔からの夢だった独立に向けて、新しい事務所を開く準備を始めたんだ。自分の足でやり直すよ」と晴れやかな顔で語ってくれた。彼もまた、既存の列を抜け出し、自分の道を進み始めていたのだ。 
数か月後の雨の夜、順一は仕事帰り、あの路地裏を通りかかった。 
「±0螺子店」の木製看板が、また小さく灯っていた。 
「よう、久しぶりだね」 
老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せて座っていた。カウンターの端の木札には、「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」「先客・歩美様」に並んで、新しく「先客・順一様」の一枚がしっかりと加わっていた。 
「あの券、大変な騒ぎになりましたよ」 
「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」 
老婆は悪びれる様子もなく、目を細めて笑った。 
「そういえば、ずっと気になってたんですけど」順一は尋ねた。「この店、なんで『順番を早める券』を売ってるんですか。それも、いつも不良品ばかり」 
老婆は招き猫の頭を優しく撫でながら答えた。 
「順番ってのはね、待っていれば来るもんでも、誰かを追い越して奪うもんでもないんだよ。自分の足で、次の列を探しに行く。そのための、ちょっとした後押しをしてるだけさ。まあ、後押しが強すぎて、いつも壊れちまうんだけどね」 
順一は思わず苦笑した。 
「今日は何を買いに来たんだい」老婆が尋ねた。 
順一は静かに首を振った。 
「今日は何も買いません。ただ、ちゃんと自分の足で新しい列を探せてるか、確かめに来ただけです」 
老婆は満足そうに目を細めた。 
「それは、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」 
順一は店を出て、あえて傘を差さずに夜空を見上げた。雨は静かに降り続いていたが、その雫すら心地よく、足取りは驚くほど軽かった。 
『そろそろ、俺の番だろう』 
その言葉は、もう順一の口癖ではなくなっていた。代わりに、心の中で力強くこう誓っていた。 
──俺の番は、待ってて来るもんじゃない。自分で、作りに行くものだ。 
順一は、雨の街へまっすぐ前を向いて歩き出した。 

(了)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
「順番を待つ」ということは、一見すると謙虚で美しい姿に見えますが、時に自分自身の可能性や選択肢を「他者任せ」にしてしまう罠でもあります。
主人公の順一が最後に見つけた答えは、「他人の作った列で割り込むこと」ではなく「自分の足で新しい列を作りに行くこと」でした。 
人生の様々な場面で「自分の番が来ない」と焦ったり落胆したりしている方に、少しでも温かい励ましとなれば幸いです。
また、本作は「雨の夜だけ開く店」シリーズの第五話にあたります。カウンターに並んだ木札(雨宮太郎様、芽衣様、陸様、歩美様)のように、不思議な螺子店を訪れた他の客たちの物語も続いておりますので、機会がございましたら併せてお楽しみいただければ嬉しい限りです。 


雨の夜だけ開く店 第四話 
〜平等の天秤〜


まえがき
人は誰しも、生きている中で一度は「不公平だ」と心の中で叫んだことがあるのではないでしょうか。
同じように努力をし、同じように汗を流しているはずなのに、生まれ持った環境や、巡り合わせ、あるいは要領の良さひとつで、スタートラインも結果も大きく隔たってしまう。そんな世の中の理不尽に突き当たったとき、「すべてが平等になればいいのに」と願ってしまうのは、ごく自然な人間の感情かもしれません。
本作『平等の天秤』は、そうした日常のささやかな苛立ちや不満を抱える主人公・高橋歩美が、不思議な道具と出会う物語です。
もしも本当に、あらゆる格差や差を「均してしまう道具」が存在したら、世界はどうなるのか。そして、私たちが本当に欲している「平等」とは何なのか──。物語を通して、読者の皆様とともに静かに見つめ直す機会となれば幸いです。




序章 軽く口にする「平等」
高橋歩美(たかはし・あゆみ)は、三十二歳になった今も、「平等」という言葉を誰かが軽い調子で口にするたびに、静かに苛立ちを覚えていた。
歩美は、都内の中堅商社で営業事務を担当している。入社十年、遅刻も欠勤もほとんどなく、資格試験にも自費で挑戦し、後輩の面倒見も良い。上司からの評価も、口頭では悪くない。「歩美さん、いつも頑張ってるよね」とよく言われる。
だが、なぜか昇進の話は、いつも歩美を素通りしていく。
同期入社の遠藤という男は、歩美よりも明らかに仕事は雑で、ミスも多い。しかし、遠藤の父親が取引先の重役と旧知の仲だという理由だけで、若くして係長に抜擢された。歩美が徹夜で仕上げた資料を、遠藤は会議で自分の手柄のように発表することもあった。
「まあ、世の中そんなもんだよ。頑張っていれば、いつか報われるさ」
同僚たちは、そう言って歩美を慰める。だが、歩美はいつも、心の中でこう思っていた。
──いつか、っていつだよ。頑張ってる人が全員報われるなら、この世に不公平なんて言葉、存在しないはずでしょう。
生まれ育った環境も、歩美の中では、ずっと引っかかっている棘だった。遠藤の家は裕福で、幼い頃から塾や習い事に不自由しなかったという。歩美の家は、両親が共働きでぎりぎりの生活をしていて、大学の学費も、自分でアルバイトをしながら工面した。
「生まれ持った環境は、一生ついて回る」
歩美は、そう独りごちるのが癖になっていた。すでに差があるスタートラインに立たされていながら、「頑張れば平等にチャンスがある」などと軽々しく言われることに、心底うんざりしていた。
その日も、遠藤が歩美の作った資料を手柄顔で発表するのを、歩美は会議室の隅で黙って見ていた。会議が終わったあと、上司から「歩美さんも、もう少し前に出ていくといいのに」と悪気なく言われ、歩美の中で何かがぷつりと切れる音がした。
雨の降る夜、歩美は残業を終え、傘も差さずに会社を飛び出した。頭を冷やしたくて、いつもと違う道を選んで歩いた。
気づけば、見知らぬ路地に迷い込んでいた。



第一章 天秤を売る店
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。
「±0螺子店」
歩美は雨宿りのつもりで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」。
「螺子屋さん、ですよね」
「そうだよ。だが、あんたが欲しいのは、螺子じゃないねえ」
老婆はカウンターの下から、小さな真鍮の天秤を取り出した。手のひらに乗るほどの大きさで、左右の皿がわずかに揺れている。
「これは『平等の天秤』。あん人と、あんたが不公平だと思ってる誰かとの間で、釣り合いを取ってくれる道具さ」
歩美は思わず身を乗り出した。
「釣り合いって……」
「あんたの努力と、あいつの手柄。あんたの苦労と、あいつの気楽さ。天秤に乗せれば、傾いた分だけ、勝手に均してくれる」
老婆は、金色の目を細めた。
「ただし、忠告しておくよ。天秤ってのは、乗せたものを『同じ重さ』にすることしかできない。何が正しくて、何が間違ってるか、そんなことまでは分からない道具なんだ。使い方を間違えると、とんでもないことになる」
歩美は、遠藤の顔を思い浮かべた。あの、悪びれもせず自分の手柄を語る顔。あの顔が、少しでも「均される」ところを見てみたいと思った。
「三百円だよ」
歩美は財布から、百円玉を三枚取り出した。
「使い方は?」
「その天秤の皿の片方に、あんたの名前を書いた紙切れを乗せる。もう片方に、均したい相手の名前を書いた紙切れを乗せる。あとは、天秤が勝手に、釣り合いを取り始める」



第二章 傾き始める町
家に帰った歩美は、メモ用紙を二枚ちぎり、片方に「高橋歩美」、もう片方に「遠藤」と書いた。そして、それぞれを天秤の皿に乗せた。
天秤は、最初、大きく歩美側に傾いた。まるで、これまでの歩美の苦労の重みを、正直に映し出しているかのようだった。歩美はその傾きを見て、少し胸がすく思いがした。
しかし、次の瞬間、天秤はゆっくりと動き始め、やがてぴたりと、水平になった。
「……これで、いいのかな」
歩美は半信半疑のまま、天秤をそっと棚の上に置いて、眠りについた。
翌朝、出社した歩美は、社内の様子が明らかにおかしいことに気づいた。
まず、遠藤の机の上に、大量の未処理案件のファイルが積み上がっていた。聞けば、これまで歩美が代わりにこなしていた雑務が、なぜか一夜にして、すべて遠藤の担当に戻されていたのだという。逆に、歩美の机には、これまで遠藤が「自分の手柄」として発表していた案件の企画書が、正式に歩美の名義で回ってきていた。
「なんか知らないけど、上のほうで急に担当割り振りが変わったらしいよ」
同僚がそう教えてくれた。歩美は、天秤の効果だと直感した。
その日を境に、歩美と遠藤の立場は、少しずつ、しかし確実に入れ替わり始めた。遠藤が普段避けていた地味な作業を回され、歩美がこれまで日の目を見なかった企画に、正当な評価が与えられるようになった。
最初のうちは、歩美にとって「ざまあみろ」と思えるような、小気味よい展開だった。しかし、三日目になると、事態は歩美の想像を超えて広がり始めた。
遠藤の父親が経営する会社が、突然、取引先との契約をいくつも打ち切られたのだ。理由は「担当者の対応に不備があった」という、これまでなら握りつぶされていたはずの些細な苦情だった。逆に、歩美の実家では、長年赤字続きだった父の小さな工場に、急に大口の受注が舞い込んだ。
町内では、他にも奇妙な「釣り合い」が起き始めていた。



第三章 均され続ける町
その週末、町内では、奇妙な出来事が相次いだ。
裕福な家庭の子どもが通う私立小学校では、突然、給食費の未払いが多発し、逆に、これまで奨学金でぎりぎり通っていた子どもたちの家庭に、なぜか身に覚えのない臨時収入が振り込まれた。
町内の不動産では、日当たりの良い高級マンションの一室と、日当たりの悪い古い賃貸アパートの一室とで、なぜか住人の記憶や持ち物が、少しずつ入れ替わり始めているという奇妙な噂が広まった。実際に、高級マンションの住人が「なぜか安物の家具にしか愛着が持てなくなった」と証言し、逆にアパートの住人が「急に高級な絵画の目利きができるようになった」と首をかしげていた。
駅前の商店街では、繁盛している老舗の和菓子屋と、閑古鳥が鳴いていた新しいカフェとの間で、客足が奇妙に均され始めた。和菓子屋の常連客が、なぜか急にカフェに足を運ぶようになり、逆にカフェの客が、和菓子屋の暖簾をくぐるようになった。
町の人々は、最初こそ「なんだか最近、いろいろ巡り合わせがいいような、悪いような」と、のんびり噂話をしていた。しかし、次第に、あまりにも露骨な「入れ替わり」に、不安を覚え始めていた。
そして、決定的な事件が起きた。
町内の総合病院で、経験豊富なベテラン外科医と、まだ経験の浅い若手医師との間で、手術中に突然、手の感覚と判断力が入れ替わってしまうという事故が起きたのだ。幸い、周囲の医療スタッフの機転で大事には至らなかったが、ベテラン医師は「まるで、自分の腕が、急に他人のものになったようだった」と、青ざめた顔で語った。
歩美は、その日のニュースを見て、血の気が引いた。
「……私のせいだ」
その夜、歩美の部屋のインターホンが鳴った。開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」とあった。
「歩美様。単刀直入に申し上げます。『平等の天秤』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」



第四章 均すことと、認めること
三日月は、歩美を近所の児童公園のベンチに案内した。公園の隅の自動販売機の陰には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。
「本来、『平等の天秤』は、装着者ご本人と、特定の一人との間にある、ごく個人的な『納得のいかなさ』を、当事者二人の間だけで、緩やかに均すための道具です。たとえば、長年こき使われてきた部下と、楽をしてきた上司との間で、一日だけ立場を入れ替えて、互いの苦労を体感させる、といった程度の、限定的な効果にとどまるはずでした」
「それが……」
「今回、天秤の製造過程で不具合が生じ、歩美様お一人の『不公平だ』という感情が、周囲一帯のあらゆる格差を、無差別に均しようとする力に変質してしまいました。簡単に申し上げますと──」
三日月は、少し疲れたような声で続けた。
「今、この町では、努力や才能、積み重ねてきた経験の違いまでもが、意味のあるものとして扱われなくなりつつあります。裕福な家庭も、貧しい家庭も、優れた技術を持つ人も、そうでない人も、すべてが強制的に『同じ重さ』へと均されようとしています」
歩美は、俯いた。
「私、遠藤に、ちょっと痛い目を見てほしかっただけなんです。私が積み上げてきた努力を、あいつが横取りするのが、許せなかった」
「お気持ちは、理解できます」
三日月は、静かに言った。
「ですが、天秤が均しようとしているのは、遠藤様の『ずるさ』だけではありません。歩美様がこれまで積み重ねてきた『努力そのもの』も、天秤にとっては、単なる『重さ』のひとつにすぎないのです。ズルい手柄だけじゃなく、自分が苦労して積み上げた価値まで削られてしまう……このまま放置すれば、いずれ歩美様ご自身の努力の記憶や、そこから得た自信までもが、周囲と均され、意味を失っていくでしょう」
「……努力の記憶が、なくなる?」
「平等というのは、本来、誰もが同じ出発点に立てる『機会』を指す言葉のはずです。しかし天秤は、出発点だけでなく、その後の道のりや、そこで積み上げたものまで、すべて均そうとしてしまいます。それは、平等ではなく、単なる均一化です」



第五章 天秤を、外す
「教えてください」
歩美は言った。
「天秤を外せば、遠藤の家族が受けた不利益も、私の実家の受注も、全部、元に戻りますか」
「元に戻ります。遠藤様は、再びこれまで通りの立場に戻り、歩美様は、再び正当に評価されない日々に戻る可能性が高いです」
歩美は、拳を握りしめた。
「それでも、外してください」
三日月は、少し驚いたような顔をしたあと、静かに尋ねた。
「よろしいのですか。またあの、報われない日々に戻ることになりますが」
「はい」
歩美は、はっきりと言った。
「この一週間で、分かったことがあるんです。私、遠藤に、私と同じ苦労をしてほしかった。でも、それって結局、遠藤を均したいんじゃなくて、私の苦労を、誰かに分かってほしかっただけなんだと思います」
歩美は、続けた。
「天秤は、私の努力と、遠藤のずるさを、同じ重さにしてしまいました。でも、それじゃダメなんです。私の努力は、遠藤のずるさとは、違う種類のものだから。同じ重さにされたら、私の努力そのものが、意味をなくしてしまう」
歩美は、公園の街灯を見上げた。
「私が本当に欲しかったのは、遠藤を引きずり下ろすことじゃなくて、私の努力を、私の努力として、ちゃんと見てもらうことだったんです。天秤で均すんじゃなくて、正当に評価される道を、自分で探すべきだったんだと思います」
三日月は、小さく頷いた。
「わかりました。処置いたします」
三日月が懐から取り出したのは、小さな工具だった。歩美が天秤を差し出すと、三日月はためらいなく、天秤の中心にある小さな留め具を外した。
かちり、と澄んだ音がした。



終章 自分の重さで立つ
翌朝、町の様子は、少しずつもとに戻っていった。遠藤は再び係長として振る舞い始め、歩美の実家の工場は、また元通り、ぎりぎりの経営状態に戻った。ニュースでは、病院の一件について「一時的な人為的ミスだった」という、あっさりとした続報が流れた。
歩美は、悔しさがなかったと言えば嘘になる。だが、なぜか、以前より少しだけ、心が軽かった。
数日後、歩美は思い切って、上司に直談判をした。「これまで自分が担当してきた案件の実績を、正式に評価してほしい」と。すぐに結果が出たわけではなかったが、上司は初めて、歩美の話を最後まで、真剣に聞いてくれた。
遠藤との関係は、劇的には変わらなかった。ただ、歩美は、遠藤の手柄を黙って見過ごすのをやめ、必要なときには、はっきりと「それ、私が作った資料です」と言うようになった。小さな変化だったが、歩美にとっては、大きな一歩だった。
数か月後の雨の夜、歩美は残業帰り、あの路地裏を久しぶりに通りかかった。
「±0螺子店」の看板が、また灯っていた。
「よう、久しぶりだね」
老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せていた。カウンターの端の木札には、「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」「先客・陸様」に並んで、新しく「先客・歩美様」の一枚が加わっていた。
「あの天秤、大変な騒ぎになりましたよ」
「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」
老婆は悪びれる様子もなく笑った。
「そういえば、ずっと気になってたんですけど」
歩美は尋ねた。
「この店、なんで『平等』を売らずに、『天秤』なんて回りくどいものを売るんですか」
老婆は、金色の目を細めて笑った。
「平等ってのはね、誰かが誰かに与えるもんじゃないんだよ。天秤は、傾きを見せてやることしかできない。そこから先、どう釣り合いを取るかは、結局、自分の手でやるしかないのさ」
歩美は、その言葉を、しばらく黙って噛みしめた。
「今日は何を買いに来たんだい」
老婆が尋ねた。
歩美は首を振った。
「今日は、何も買いません。ただ、自分の重さで、ちゃんと立ってられてるか、確かめに来ただけです」
老婆は目を細めて笑った。
「それは、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」
歩美は店を出て、傘を差さずに、少しだけ夜空を見上げた。雨はまだ降っていたが、不思議と、足取りは軽かった。
生まれ持ったスタートラインの差は、誰かの天秤で、簡単に均せるものではない。
けれど、その差をどう受け止め、自分の重さで、どこへ向かって歩き出すかだけは、いつだって、自分で選べる。
歩美は、そう思いながら、まっすぐ前を向いて、家路についた。

(了)


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あとがき
連作短編『雨の夜だけ開く店』シリーズも、第四話となりました。これまでの物語を通してお付き合いいただいている読者の皆様にも、今回初めて『±0螺子店』の扉を開けてくださった読者の皆様にも、心より感謝申し上げます。
今回のテーマである「平等」は、私たちの日々の暮らしや仕事、人間関係の中で、絶えず頭を悩ませる大きな問いです。公平でありたいと願いつつも、目に見える格差や理不尽に直面したとき、人はどうしても心を痛めてしまいます。作中の主人公・歩美が見出したように、「自分の価値や努力を他人の物差しで均さないこと」の大切さが、少しでも皆様の心に温かく響けば幸いです。


雨の夜だけ開く店 第三話
二兎の根付



まえがき
「二兎を追う者は一兎をも得ず」——誰もが知るこの諺ですが、もしも本当に「二羽とも追いかけられる道具」があったとしたら、人は幸せになれるのでしょうか。
本作『雨の夜だけ開く店』第三話では、二人の女性の間で揺れる主人公・陸が、不思議な道具「二兎の根付」と出会うことで巻き起こる騒動を描いています。選択することの怖さと、一つを選び取ることの大切さを、少し不思議でノスタルジックな空気感とともにお楽しみいただければ幸いです。




登場人物

陸(りく)
30歳の会社員。仕事では決断力があるが、私生活では婚約者の望と初恋の桜の間で優柔不断になってしまう。「二兎の根付」によって「陸A(望と向き合う自分)」と「陸B(桜と向き合う自分)」に分裂する。 

望(のぞみ)
陸の婚約者で、同じ会社の総務部勤務。穏やかで理解のある女性。 

桜(さくら)
陸の大学時代の初恋相手。海外留学を経て10年ぶりに帰国し、陸と再会する。 

老婆(±0螺子店 店主)
不思議な路地裏の店で螺子や怪しい道具を扱う和装の老婆。膝の上に招き猫を乗せている。 

三日月(みかづき)
「幸運管理局 運勢調整課」の職員。黒いスーツに猫耳風の髪飾りをつけ、世界の歪みを収束させるために現れる。 



序章 どちらも失いたくない
陸(りく)は、三十歳になった今、自分が優柔不断な人間だとは思っていなかった。むしろ、仕事では即断即決を信条にしている。取引先との商談でも、迷ったら三秒で結論を出す。周囲からは「決断力のある男」と評されることも多い。 
ただし、それはあくまで「仕事では」の話だった。 
陸には今、婚約者がいる。望(のぞみ)という、同じ会社の総務部で働く女性だ。付き合って四年、去年の暮れにプロポーズをして、来年の春には結婚式を挙げる予定になっている。望は穏やかで、陸の仕事の愚痴を黙って聞いてくれる、いわば「一緒にいて疲れない」人だった。 
そこへ、桜(さくら)が帰ってきた。 
桜は、陸の大学時代の初恋の相手だった。当時、告白する勇気が出ないまま、桜は海外の大学院に進学し、そのまま向こうで就職して、十年近く音信不通になっていた。ところが先月、桜が仕事の関係で日本に戻ってくることになり、共通の友人を通じて、久しぶりに連絡が来た。 
「陸くん、元気にしてた? 今度、ご飯でも行かない?」 
その一通のメッセージから、陸の心は、明らかに揺れ始めた。実際に会ってみると、桜は昔と変わらず、いや、昔よりずっと魅力的になっていた。話は尽きず、二軒目、三軒目とはしごをして、気づけば終電を逃していた。 
陸は罪悪感を覚えながらも、桜との時間を「もう一度だけ」「もう一度だけ」と重ねてしまっていた。 
──良い女に出会えたからといって、付き合えるとは限らない。 
陸はそう自分に言い聞かせようとした。だが、心のどこかで、こうも思っていた。 
──もしかしたら、両方、手に入れられるんじゃないか。 
望との結婚も、桜とのやり直しも、どちらも諦めたくない。そんな都合のいい考えが、陸の頭から離れなくなっていた。 
「二兎を追う者は一兎をも得ず、か……」 
陸は、雨の降る夜、会社帰りにひとりごちた。分かってはいる。分かってはいるのだが、どうしても、どちらか一方を切り捨てる決断ができなかった。 
その夜、陸はいつもと違う道を歩いていた。桜と会った帰り、望に嘘の残業理由を告げたばかりで、後ろめたさから、いつもの駅とは反対方向に、当てもなく歩き続けていたのだ。 
気づけば、見知らぬ路地に迷い込んでいた。 



第一章 二匹の兎の根付
路地の奥に、小さな灯りがぽつんと灯っていた。木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれている。 
「±0螺子店」 
陸は雨宿りのつもりで戸を引いた。あっけないほど軽く開いた。 
「いらっしゃい」 
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。カウンターの端には、小さな木札が二枚、並べて置かれていた。「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」と書かれている。 
「螺子屋さん、ですか」 
「そうだよ。だが、あんたが欲しいのは、螺子じゃないねえ」 
老婆はカウンターの下から、小さな根付を取り出した。象牙色の根付には、背中合わせに彫られた二匹の兎が、それぞれ違う方向を向いて座っていた。 
「これは『二兎の根付』。追いかけたい二つのものを、両方とも、いっぺんに追いかけられるようにする道具さ」 
陸は思わず身を乗り出した。 
「両方とも……本当に、両方、手に入るんですか」 
「手に入るとは言ってないよ。追いかけられる、と言ったんだ」 
老婆は、金色の目を細めた。 
「この根付をつけると、あんたの体がふたつに分かれる。ひとつは、望さんのもとへ。もうひとつは、桜さんのもとへ。それぞれの人生を、同時に、まるごと生きられるようになる」 
陸は言葉を失った。まさか、心の内をすべて見透かされているとは思わなかった。 
「ただし、忠告しておくよ。兎ってのは、もともと一羽だったものを、無理やり二羽に見せかけているだけなんだ。本体はひとつしかない。二羽を追いかけ続ければ続けるほど、本体そのものが、少しずつ、すり減っていく」 
「すり減るって……」 
「まあ、使ってみりゃ分かるさ。三百円だよ」 
陸は財布から、百円玉を三枚取り出した。頭では「やめておけ」と分かっていながら、指は勝手に硬貨をカウンターに置いていた。 
「使い方は?」 
「その根付を、鞄の内側にでも縫い付けておくといい。あとは勝手に、体が二つに分かれる。心配しなさんな、痛くはないよ」 



第二章 もうひとりの陸
家に帰った陸は、鞄の内ポケットに根付を縫い付け、そのまま眠りについた。 
翌朝、目が覚めると、陸は自分の部屋の天井を二つ、同時に見ているような、奇妙な感覚に襲われた。慌てて体を起こすと、鏡の前に、もうひとりの自分が立っていた。 
「……お前、誰だ」 
陸が問うと、鏡の前の陸も、同時に同じ台詞を口にした。 
「いや、俺だよ。お前だよ。どっちも、俺なんだよ」 
不思議なことに、驚きよりも先に、妙な納得感が陸の中に広がった。まるで、ずっと二つに分かれたがっていた自分の心が、ようやく体という形を得たかのようだった。 
その日から、陸の生活は一変した。 
一方の陸(便宜上、陸Aと呼ぶ)は、いつも通り会社に出社し、望とデートの約束をし、結婚式場の下見に付き合った。もう一方の陸(陸Bと呼ぶ)は、体調不良を理由に会社を休み、桜と一日中、都内をあちこち歩き回った。 
最初の数日は、うまくいっているように見えた。望は、陸Aの態度に何の疑いも抱かなかった。桜も、陸Bとの時間を心から楽しんでいるようだった。陸自身、二人の恋人と、それぞれ十分な時間を過ごせているという充実感に、うっすらと酔いしれていた。 
しかし、五日目の夜、異変が起き始めた。 
陸Aと陸Bが、同じ日の同じ時間に、まったく同じレストランを予約してしまっていたのだ。望との結婚記念日ディナーの予約と、桜との「十年越しの再会を祝う」ディナーの予約が、どちらも同じ店の、同じ個室に重なっていた。 
店員が困惑した様子で、「お客様、本日同じお名前で、ご予約が二件入っておりまして……」と告げた瞬間、陸Aと陸Bは、鏡合わせのような格好で、それぞれの恋人の前に立ち尽くすことになった。 
望と桜が、互いの顔を見て、怪訝そうな表情を浮かべる。 
「……あの、陸くん?」 
望が言った。 
「陸、くん……?」 
桜も、同じタイミングで言った。 
陸Aと陸Bは、慌てて別々の言い訳を口にしようとしたが、二人同時に「いや、これは、その」と、まったく同じ言葉を、まったく同じイントネーションで発してしまい、事態はさらに混乱を極めた。 



第三章 増え続ける町
その夜以降、事態は陸個人の問題では収まらなくなっていった。 
翌日、陸Aと陸Bが勤める会社では、経理部の人員がなぜか二倍に増えていた。同じ顔、同じ名札をつけた社員が、それぞれ別のデスクで、同じ書類を処理していた。誰もそれを不思議に思っていない様子だったが、給与計算の際、同一人物への給与が二重に振り込まれるという珍事が発生し、経理担当者が頭を抱えることになった。 
町内のスーパーでは、レジに並ぶ客の列が、なぜか鏡写しのようにもう一列、店の反対側にも出現していた。同じ商品を同じ順番でカゴに入れている客たちが、互いの存在にまったく気づかないまま、会計を済ませていく。 
駅のホームでは、同じ車両に、まったく同じ服装の乗客が、二人一組で乗り込んでくる光景が目撃されるようになった。SNSには「双子だらけの町」「うちの近所、なんか変」といった投稿が相次いだ。 
町内会の掲示板には、「本日の盆踊り大会、参加者多数につき、会場を急遽二か所に増設します」という貼り紙が出た。実際には、参加者の数そのものが二倍に膨れ上がっていたのだ。 
そして極めつけは、陸Aと陸Bが、それぞれ別の場所で、まったく同時に望と桜にプロポーズしてしまうという事件だった。陸Aは結婚式場の下見の帰りに、改めて望に指輪を差し出し、陸Bは桜との散歩の途中、思わず口をついて出た勢いで、桜に指輪を差し出していた。 
二つの指輪は、不気味なほど、まったく同じデザインだった。 
その夜、陸の部屋のインターホンが鳴った。開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」とあった。 
「陸様。単刀直入に申し上げます。『二兎の根付』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」 



第四章 すり減る本体
三日月は、陸A、陸Bの両方を、近所の児童公園のベンチに呼び出した。公園の隅には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。 
「本来、『二兎の根付』は、装着者の中にある、ごく個人的な『二つの選択肢』への未練を、一時的に、しかも自覚的な範囲でのみ可視化するための道具です。両方の可能性を、じっくり比較検討するための、いわば思考実験の装置にすぎませんでした」 
「それが……」 
「今回、根付の製造過程で不具合が生じ、陸様お一人の『どちらも失いたくない』という強い執着が、実際に肉体そのものを分裂させるほどの力に変質してしまいました。さらに問題なのは──」 
三日月は、陸AとBを交互に見た。 
「分裂した肉体は、それぞれが『本物』であろうとするあまり、周囲の人間関係、物質、さらには時間そのものまでも、無理やり複製し始めています。この状態が続けば、いずれ町全体が、際限なく自己複製を繰り返す『増殖ループ』に陥り、誰も、何が本物で何が複製なのか、区別がつかなくなります」 
陸AとBは、顔を見合わせた。同じ顔なので、鏡を見ているようだった。 
「もうひとつ、申し上げにくいことがあります」 
三日月は、静かに続けた。 
「陸様の『本体』──最初にこの世に生まれた、たったひとつの陸様の存在そのものが、分裂を繰り返すたびに、少しずつ、すり減っています。このまま放置すれば、どちらの陸様も、本物としての実感を失い、いずれは望様の記憶からも、桜様の記憶からも、輪郭のぼやけた存在になり果てるでしょう」 
陸AもBも、言葉を失った。 



第五章 一羽を選ぶ
「教えてください」 
陸Aが言った。 
「根付を外せば、俺は、どうなりますか」 
「根付の効力を解除すれば、分裂した肉体はひとつに戻ります。ただし、戻る際に、どちらか一方の選択──望様との未来か、桜様との未来か──を、明確に選び取っていただく必要があります。両方を、なかったことにはできません」 
陸Bが、うつむいたまま尋ねた。 
「もし、選べなかったら」 
「そのときは、根付の効力が完全に暴走し、陸様ご自身が、どちらの人生にも属さない、輪郭のない存在として、この町の増殖ループの中に永遠に取り込まれることになります」 
陸AとBは、しばらく黙り込んだ。 
やがて陸A(結婚式場の下見をしていたほう)が、ぽつりと言った。 
「なあ。俺たち、そもそも、なんで根付なんか使ったんだろうな」 
陸Bが答えた。 
「怖かったんだよ。どっちかを選んだら、選ばなかったほうを、一生後悔する気がして」 
「うん」 
「でも、この一週間で分かった。俺たち、二人分の人生を生きてるつもりで、実際は、望さんにも桜さんにも、半分ずつしか、向き合えてなかった」 
陸Aは、自分の胸に手を当てた。心臓のあたりが、確かに、少しずつ薄れていくような感覚があった。 
「俺、望と生きていきたい」 
陸Aは、静かに、はっきりと言った。 
「桜のことは、大切な思い出だ。でも、思い出のままにしておきたい。あの頃、告白する勇気がなかった自分ごと、今の望との人生を選びたいんだ」 
陸Bは、少しの間、目を閉じていた。そして、小さく頷いた。 
「……分かった。それでいい」 
「お前は?」 
「俺は、お前だよ。お前が選んだなら、それが、俺の答えでもある」 
二人の陸は、静かに頷き合うと、三日月のほうを見た。 
「根付を、外してください」 



終章 一羽になって
三日月が根付の内側にある小さな留め具を外すと、かちり、と澄んだ音がした。その瞬間、陸の体を、生ぬるい風のようなものが吹き抜けた。 
気づけば、陸は自分の部屋のベッドの上で、ひとりで目を覚ましていた。鏡には、もう一人分の自分は映っていなかった。 
翌日、陸は望に、すべてを正直に打ち明けることにした。桜と会っていたこと、心が揺れたこと、そして最後には、望との未来を選んだこと。望はしばらく黙って聞いたあと、静かに言った。 
「正直、傷ついた。でも、ちゃんと話してくれて、よかった」 
それから、望との関係が完全に元通りになるまでには、それなりの時間がかかった。だが、少なくとも、陸の心の中で、望への気持ちは、以前よりもずっと、はっきりとした輪郭を持つようになっていた。 
桜には、後日、改めて連絡を取った。 
「ごめん。俺、望と生きていくことにした」 
桜は、電話の向こうで、少し寂しそうに、でも柔らかく笑った。 
「うん、知ってた。なんとなく、あの日のディナーの騒動で」 
「……悪かった」 
「ううん。むしろ、はっきり言ってくれて、ありがとう。私も、次に進めるから」 
数か月後の雨の夜、陸は仕事の帰り道、あの路地裏を久しぶりに通りかかった。 
「±0螺子店」の看板が、また灯っていた。 
「よう、久しぶりだね」 
老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せていた。カウンターの端の木札には、「先客・雨宮太郎様」「先客・芽衣様」に並んで、新しく「先客・陸様」の一枚が加わっていた。 
「あの根付、大変な騒ぎになりましたよ」 
「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」 
老婆は悪びれる様子もなく笑った。 
「今日は何を買いに来たんだい」 
老婆が尋ねた。 
陸は首を振った。 
「今日は、何も買いません。ただ、ちゃんと一羽で立ってられてるか、確かめに来ただけです」 
老婆は目を細めて笑った。 
「それも、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」 
陸は店を出て、傘を差さずに、少しだけ夜空を見上げた。雨はまだ降っていたが、不思議と、体が軽く感じられた。 
二兎を追う者は、一兎をも得ず。 
けれど、一兎を選び取った者だけが、その一兎と、本当の意味で向き合える。 
陸は、そう思いながら、望の待つ家へと、まっすぐに歩き出した。 



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あとがき
人生には「もしあの時、別の道を選んでいたら」という思いや、「どちらも諦めたくない」という局面が何度も訪れます。
主人公の陸は、怪しげな「二兎の根付」によって二つの人生を同時に手に入れますが、身体や存在そのものがすり減っていく中で、「二つを選ぶことは、結局どちらにも半分しか向き合えていないことと同じだ」という事実に気づかされます。
何かを選ぶということは、他の何かを手放すということでもあります。一見すると寂しい決断に見えますが、一つの選択肢に自分の足でしっかりと立つことこそが、相手や自分自身に対する誠実さなのだというメッセージを込めました。
『雨の夜だけ開く店』では、これからも人間の小さくも愛おしい欲望や迷いを映し出す道具たちが登場します。また雨の夜にお会いしましょう。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


雨の夜だけ開く店 第二話
〜二匹目のどじょう〜



まえがき

「一度掴んだ幸運を、もう一度だけ手に入れたい」——そう願ったことはありませんか?

人生において、大きな成功や幸福を経験した人ほど、その後の停滞期に「二匹目のどじょうはいないのだろうか」と悩むものです。

本作『雨の夜だけ開く店 第二話 二匹目のどじょう』は、19歳で突然の大ヒット作を生み出しながらも、その後8年間にわたりスランプに苦しみ「一発屋」と呼ばれ続けた一人の女性漫画家の物語です。

雨の降る夜、路地裏に佇む怪しげな「±0螺子店(プラスマイナスゼロネジテン)」で彼女が出会ったのは、逃げた運をもう一度だけ手繰り寄せる不思議な『二匹目の鈴』。

過去の栄光とどう向き合い、これから訪れる未来へどう足を踏み出すのか。ノスタルジックな雰囲気とともに、温かい勇気を届けるファンタジーをお届けします。




序章 一発屋と呼ばれて

芽衣(めい)は、二十七歳になった今でも、名刺代わりに配られる文庫本の帯に「あの『ちいさな逃げ水』の作者」と印刷されるたび、うんざりした気持ちと、どこか懐かしいような気持ちの両方を味わっていた。

十九歳のとき、大学のサークルの合間に描いた読み切り漫画『ちいさな逃げ水』が、ある新人賞をきっかけに火が付き、アニメ化、実写化、海外配信まで飛び火する大ヒットになった。当時の芽衣は、担当編集者に「これは天才の一撃です」とまで言われ、雑誌の表紙を飾り、テレビの情報番組にも呼ばれた。

しかし、その後の八年間、芽衣は一度も同じ規模のヒットを出せていない。

『ちいさな逃げ水』の後に発表した長編は、初速こそ良かったものの尻すぼみで打ち切り。次の作品は編集部の意向でジャンルを変えたが、読者からは「別人が描いたみたい」と酷評された。三作目は、あからさまに前作の焼き直しだと叩かれ、四作目は連載開始前に企画自体が流れた。

業界内で、芽衣にはいつからか「一発屋」という呼び名がついていた。本人のいないところでは、もっと直接的に「二匹目のどじょうがいない人」と言われていることも、風の噂で知っていた。

──二匹目のドジョウはいない。

芽衣自身、この言葉を誰よりも重く受け止めていた。最初の一匹は、確かに釣れた。だが、同じ場所に同じ針を垂らしても、二匹目は絶対に食いつかない。それが、この八年間、身をもって学んだ真実だった。

その日も、芽衣は新しい連載企画のプレゼンで編集会議に落選し、雨の降る夜道をとぼとぼと歩いていた。傘は差していたが、風にあおられて何度も裏返り、ろくに役に立っていなかった。

「またダメだった……」

芽衣はコンビニの前で足を止め、缶チューハイを一本買い、その場でひと口飲んだ。担当編集からは「芽衣さん、正直、もう『逃げ水』の再来を狙うより、まったく違う名前で新人賞に応募し直すくらいの覚悟がいるかもしれません」と言われたばかりだった。

八年前の栄光を、他人事のように「過去の遺産」として片付けられた気がして、芽衣の足はますます重くなった。

いつもなら通らない裏路地に迷い込んだのは、単なる気まぐれか、あるいは雨のせいで方向感覚を失っていたからか。芽衣自身にもよく分からなかった。

ただ、その路地の奥に、小さな灯りがひとつ、ぽつんと灯っているのが見えた。



第一章 鈴を鳴らす店

木製の引き戸に、達筆とも悪筆ともつかない字で、こう書かれていた。

「±0螺子店」

芽衣は首をかしげた。螺子屋、という響きにしては、店構えがどこか甘味処のようだった。軒先には、古い十円玉が何枚もぶら下がり、雨に当たってちりちりと涼しげな音を立てている。

雨宿りのつもりで戸を引くと、あっけないほど軽く開いた。

「いらっしゃい」

カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった。膝の上には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が乗っている。以前は包帯を巻いていたのか、よく見ると前脚のあたりに、うっすらとした跡が残っていた。

「螺子屋さん、ですよね。すみません、螺子は買いに来たわけじゃなくて」

「知ってるよ。あんたが欲しいのは、螺子じゃない」

老婆はカウンターの下から、小さな漆塗りの箱を取り出した。蓋を開けると、中には小さな鈴が入っている。魚の形をした、赤銅色の鈴だった。よく見ると、その魚は、どじょうに似ていた。

「これは『二匹目の鈴』。一度だけ、逃げた運を、もう一度だけ手繰り寄せる道具さ」

芽衣は思わず身を乗り出した。

「二匹目の……それって」

「あんた、心の中でずっと繰り返してるだろう。二匹目のドジョウはいない、二匹目のドジョウはいない、ってね」

図星だった。芽衣は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

「うちの螺子は、人生の収支をゼロに戻す道具だ。でも、この鈴は少し違う。一度だけ確かに掴んだものを、もう一度だけ、無理やり手繰り寄せる。ただし──」

老婆は、金色の目を細めた。

「無理やり、ってところが肝心だよ。自然に二匹目が来るわけじゃない。一匹目を、もう一度、力ずくで引きずり出すだけなんだ。魚だって、同じ穴から二度も引きずり出されたら、いい迷惑さ」

「代償があるんですね」

「察しがいいね。安心おし、三百円だよ」

芽衣は苦笑した。前回、この店に来た誰かも、同じように三百円を払ったのだろうか、とふと思った。カウンターの端に置かれた小さな木札に、「先客・雨宮太郎様」という文字が、ほとんど消えかけた墨で書かれているのに、芽衣は気づかなかった。

「使い方は?」

「簡単だよ。鈴を、一番大事にしまってあるものの近くで、三回鳴らす」

芽衣の脳裏に、すぐに思い浮かぶものがあった。実家の本棚の奥、初版本と一緒に大切にしまってある、『ちいさな逃げ水』の生原稿だった。



第二章 同じ日が、もう一度

家に帰った芽衣は、実家の物置から取り寄せていた段ボール箱を開け、『ちいさな逃げ水』の生原稿の束を取り出した。八年前、担当編集者と何度も直しては消し、消しては直した、思い出深い原稿だ。

芽衣はその原稿の上に、赤銅色の鈴を置き、震える手で三回鳴らした。

りん。りん。りん。

澄んだ音が部屋に響いたあと、しばらく何も起こらなかった。芽衣は少し拍子抜けして、鈴をそのまま原稿の上に置いたまま眠りについた。

翌朝、担当編集者から電話がかかってきた。

「芽衣さん! 大変です、昨日プレゼンした企画、編集長がひと晩考え直したらしくて、『やっぱり通そう』って言い出しました!」

芽衣は耳を疑った。昨日、確かに落選したはずの企画だった。

「え、でも、昨日ダメだったって……」

「それが不思議なことに、編集長、昨日の会議のこと自体をよく覚えてないみたいで。今日改めて『これ、いい企画じゃないか』って、まるで初めて見たみたいな反応で」

芽衣は電話を切ったあと、しばらく呆然としていた。まるで、昨日という日が、少しだけ書き換わったような感覚だった。

その日を境に、芽衣の周りで、奇妙な「巻き戻り」現象が続いた。

昼、コンビニで缶チューハイを買おうとレジに並ぶと、店員が「あれ、お客さん、さっきも同じの買いませんでした?」と首をかしげた。芽衣はその日、まだ一度もそのコンビニに行っていなかった。

夕方、担当編集者と打ち合わせをしていると、編集者が同じ台詞を、一言一句違わずに、二度繰り返した。本人はまったく気づいていない様子だった。

夜、テレビをつけると、ニュースキャスターが、数時間前に読んだはずのニュース原稿を、まったく同じ抑揚で、もう一度読み上げていた。

芽衣は最初、自分が疲れているせいで、既視感(デジャヴ)を強く感じているだけだと思おうとした。しかし、三日目の朝、事態は「気のせい」では済まされないレベルに達した。



第三章 町中が、同じ一日を繰り返す

その日、芽衣の住む町では、朝から異様な報道が相次いだ。

「本日、都内某所の商店街で、複数の店舗が『まったく同じ客に、まったく同じ商品を、まったく同じ会話とともに二度販売した』という証言が相次いでいます」

芽衣が住む町の宝くじ売り場では、前日にすでに一等が出ていたにもかかわらず、翌日また、まったく同じ番号の組み合わせで一等が発表されるという珍事が起きた。二日連続で同じ番号が一等になるなど、統計的にありえないことだった。

町内の結婚式場では、前日に無事に式を終えたはずの新郎新婦が、翌日また同じ会場に現れ、まったく同じ誓いの言葉を、まったく同じタイミングで、また一から繰り返す羽目になった。新郎は「なぜかもう一度、あの日をやり直している気分だ」と、狐につままれたような顔でインタビューに答えていた。

駅前の交差点では、前日に危うく事故になりかけた自転車と自動車が、翌日また同じ場所で、同じタイミングで、同じようにヒヤリとする場面を繰り返した。幸い、双方とも「なぜか今日は妙に注意深くなっていた」ため、大事には至らなかったが、目撃した歩行者たちは口々に「昨日と同じ光景を見た」と証言した。

そして極めつけは、芽衣自身の身に起きたことだった。

編集長に「通そう」と言わせたはずの企画の会議が、まったく同じメンバー、まったく同じ議題で、もう一度開催されることになったのだ。編集長は「あれ、これ、この間もやらなかったっけ?」と首をひねりながらも、結局また同じ結論に至り、同じ言葉で企画を承認した。

芽衣にとって、それは喜ばしいことのはずだった。だが、同時に、拭いきれない違和感があった。

──これは、前に進んでいるんじゃない。ただ、同じ一日を、無理やりもう一度なぞっているだけだ。

その夜、芽衣の部屋のインターホンが鳴った。開けると、そこには黒いスーツを着た、猫の耳のような髪飾りをつけた若い女性が立っていた。名刺には「幸運管理局 運勢調整課 三日月」とあった。

「芽衣様。単刀直入に申し上げます。『二匹目の鈴』の効果が、想定を超えた範囲にまで及んでいます」



第四章 もう一匹のどじょう

三日月は、芽衣を近所の児童公園のベンチに案内した。公園の隅の自動販売機の陰には、右手をしっかりと挙げた招き猫の置物が置かれていた。

「本来、『二匹目の鈴』は、装着者本人が過去に一度だけ手にした、ごく個人的な幸運を、もう一度だけ、限定的に呼び戻すための道具です。たとえば、若い頃に叶わなかった恋を、もう一度だけ告白し直すチャンスを与える、といった程度の、ごく小規模な効果にとどまるはずでした」

「それが……」

「今回、鈴の製造過程で不具合が生じ、芽衣様お一人の『二匹目』への渇望が、周囲一帯の時間の流れそのものを巻き込み、『特に幸運だった一日』を無限に繰り返そうとする力に変質してしまいました。簡単に申し上げますと──」

三日月は、少し疲れたような声で続けた。

「この町は今、緩やかに『同じ一日』へと巻き戻され続けています。放っておけば、いずれ町全体が、ある特定の『良かった一日』のループに完全に固定され、誰も、二度とその先の未来へ進めなくなります」

芽衣は息をのんだ。

「じゃあ……私が今、企画を通してもらえたのも」

「その企画が『通った』という事実そのものが、本当の意味での前進ではなく、過去の成功をなぞっているだけの状態です。芽衣様は今、八年前のご自身の栄光を、無理やりもう一度体験し直しているにすぎません」

芽衣の胸に、鈍い痛みが走った。八年間、喉から手が出るほど欲しかった「二匹目」が、ようやく手に入ったと思ったのに。それは、前に進むための二匹目ではなく、ただ一匹目を、もう一度水槽に戻しただけの、まがい物だったのだ。

「鈴を返せば、元に戻りますか」

「鈴の効力を解除することは可能です。ただし──」

三日月は言葉を切った。

「解除した瞬間、この町で起きていた『二度目の幸運』はすべて、もとの一度きりの出来事に巻き戻ります。今日通ったはずの企画も、白紙に戻る可能性が高いです。そして、芽衣様ご自身も、また『一発屋』と呼ばれていた、あの八年間の続きに戻ることになります」



第五章 もう一度、針を垂らす

芽衣は、公園の街灯を見上げた。虫が数匹、頼りない光の周りをくるくると回っている。

「教えてください。鈴を使い続けたら、この先、私はどうなりますか」

「町全体が『あの一日』のループに固定されたあと、時間が経つにつれ、ループの精度は次第に粗くなっていきます。同じ会話、同じ出来事が、少しずつズレを起こし、やがて誰も、何が本物の記憶で、何がループの中の出来事なのか、区別がつかなくなるでしょう。芽衣様ご自身も、いずれ『ちいさな逃げ水』を描いた十九歳のあの瞬間から、一歩も進めなくなるかもしれません」

芽衣は、自分の手のひらを見つめた。

思えば、この八年間、芽衣がずっと恐れていたのは、「二匹目が釣れないこと」ではなかったのかもしれない。本当に恐れていたのは、一匹目の輝きを、自分自身の手で汚してしまうこと。だからこそ、無意識のうちに、同じ川の同じ場所にばかり針を垂らし続け、新しい川を探そうとしてこなかったのではないか。

「鈴を、返します」

芽衣ははっきりと言った。

「本当によろしいのですか。今、通っている企画も、白紙に戻るかもしれません」

「それでいいんです」

芽衣は静かに続けた。

「私、ずっと『二匹目のドジョウはいない』って言われるのが怖くて、同じ場所にばかり針を垂らしてました。でも、今回のことで分かったんです。二匹目がいないんじゃない。同じ場所に、同じ餌で、同じ時間に、って条件をつけすぎてたから、釣れなかっただけなんだって」

三日月は、少し驚いたような顔をしたあと、小さく頷いた。

「わかりました。処置いたします」

三日月が懐から取り出したのは、小さな工具だった。芽衣が鈴を差し出すと、三日月はためらいなく、鈴の内側にある小さな留め具を外した。

かちり、と澄んだ音がした。

その瞬間、芽衣の体を、生ぬるい風のようなものが吹き抜けた気がした。町の方角から、遠く、複数の家の窓明かりが一斉に揺らめいたように見えたのは、気のせいだろうか。



終章 新しい川

翌朝、芽衣の携帯に、担当編集者から電話がかかってきた。

「芽衣さん、すみません、やっぱり昨日の企画、編集長がもう一度考え直したいと言っていまして……」

芽衣は電話越しに、思わず笑ってしまった。

「大丈夫です。むしろ、白紙に戻してもらえて助かりました」

「え?」

「その企画、実はあんまりしっくり来てなかったんです。もう一回、ちゃんと新しいの考えます」

電話を切ったあと、芽衣は久しぶりに、まっさらな原稿用紙を机に広げた。『ちいさな逃げ水』の続編でも、二番煎じの焼き直しでもない、まったく新しい主人公の名前を、ゆっくりと書き始めた。

数か月後の雨の夜、芽衣は打ち合わせの帰り道、あの路地裏を久しぶりに通りかかった。

「±0螺子店」の看板が、また灯っていた。

「よう、久しぶりだね」

老婆はカウンターの向こうで、相変わらず招き猫を膝に乗せていた。

「あの鈴、大変な騒ぎになりましたよ」

「聞いたよ。すまなかったね、また不良品を売っちまって」

老婆は悪びれる様子もなく笑った。

「そういえば」と芽衣は尋ねた。「前にもお客さん、いましたよね。カウンターの木札に、名前が書いてあって」

「ああ、雨宮さんかい。半年くらい前に、螺子を買いにきた男だよ。今は元気にやってるみたいだね、風の噂じゃ」

芽衣は少し笑った。同じ雨の夜だけ開くこの店に、自分と同じように、何かを取り戻したくてやってきた人が、他にもいたのだと思うと、不思議と心強かった。

「今日は何を買いに来たんだい」

老婆が尋ねた。

芽衣は首を振った。

「今日は、何も買いません。ただ、ちゃんと前に進めてるか、確かめに来ただけです」

老婆は目を細めて笑った。

「それは、うちで一番いい買い物の仕方だね。金がかからない」

芽衣は店を出て、傘も差さずに、少しだけ夜空を見上げた。雨はまだ降っていたが、不思議と、寒さは感じなかった。

二匹目のどじょうは、同じ穴からは釣れない。

けれど、新しい川に、新しい針を垂らせば、そこには、まだ誰も見たことのない魚が待っているかもしれない。

芽衣は、そう思いながら、家路を急いだ。机の上には、まだ何も書かれていない、まっさらな原稿用紙が、彼女の帰りを待っていた。

(了)



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あとがき

「二匹目のどじょうを狙う」という言葉には、どこか安易な柳の下の泥泥しさがつきまといます。しかし、一匹目を捕まえた経験があるからこそ、「もう一度あの輝きを」と願ってしまうのは、表現者や何かを志す人にとってごく自然な感情ではないでしょうか。
主人公の芽衣が気づいたように、二匹目が釣れないのは「同じ場所、同じ餌、同じ時間」にこだわりすぎてしまっているからかもしれません。過去の成功体験に縛られず、思い切って新しい川へ竿を伸ばしたとき、そこにはまた新しい出会いや挑戦が待っているのだと思います。
雨の夜の静けさとともに、この物語が皆さまの日常に小さな前向きさをもたらせたなら幸いです。
また雨が降る夜に、別の物語でお会いしましょう。

雨の夜だけ開く店 第一話
〜福は二度こない〜



まえがき

人は誰しも、スタートラインの不平等さを感じたことがあるのではないでしょうか。
「なぜ自分ばかりついていないのか」「なぜあの人ばかり恵まれているのか」。
この物語の主人公・雨宮太郎も、そんな溜息を抱えて生きる43歳のしがない経理マンです。彼が欲しかったのは、宝くじの高額当選でも一攫千金でもなく、ただ「みんなと同じ、ゼロのスタートライン」でした。
運命のネジを回したことで巻き起こる可笑しくも少し切ない騒動を通して、「自分の人生を自分の足で歩むとはどういうことか」を、太郎とともに感じていただければ幸いです。
どうぞ、雨の夜の不思議な路地裏へお入りください。





序章 

三日遅れの誕生日
雨宮太郎(あめみや・たろう)という男の話をしよう。
四十三歳、独身、都内の中堅印刷会社で経理を担当している。特技は「損益計算書を一日で締める」ことと、「宝くじを買うと必ず外れる」ことだった。
太郎には、生まれたときから奇妙な癖がひとつある。人が「二度あることは三度ある」と言うたびに、心の中でそっと訂正するのだ。
──いや、それは一度でも良いことがあった人間の台詞だ。
というのも太郎は、物心ついてから一度も「これは幸運だった」と胸を張って言える出来事に恵まれたことがなかった。
たとえば誕生日。太郎の戸籍上の誕生日は五月十四日だが、実際に生まれたのは五月十一日だ。当時、役所の担当者が書類を数日分溜め込んでいたせいで受理が遅れ、なぜか記載までずれてしまった。母が抗議したものの「受理日と出生日は別物ですので」の一点張りで押し切られたという。以来、太郎の家では毎年、本当の誕生日と戸籍の誕生日の両方を「どちらも中途半端に祝わない」という妙な伝統が続いている。
高校の修学旅行のくじ引きでは、太郎だけが「バス酔い確定」と言われる最尾列中央の席を引き当てた。三年間で皆勤賞を逃した唯一の理由はインフルエンザではなく「学級閉鎖の翌日に限って熱を出す」という謎の巡り合わせだった。
就職活動では、第一志望の最終面接へ向かう途中で電車が人身事故で止まり、迂回した先でも事故に巻き込まれ、一時間遅刻して即不採用。今の会社は、滑り止めのそのまた滑り止めだった。
昔、結婚しかけたこともある。相手の名前は美咲といった。婚約指輪を買いに行った帰り、太郎のカバンから指輪の入った小箱だけが忽然と消えた。財布ではなく、指輪だけが。「これは天の意志だと思う」と彼女は静かに去っていった。太郎は今でも、あれは天の意志というよりカバンの縫い目が甘かっただけだと思っている。天に意志があるとしたら、ずいぶん暇な神様だ。
居酒屋で同僚にそんな話をすると、みんな笑って言う。
「雨宮、そろそろ来るんじゃないの。悪いことばかり続くわけないだろ」
太郎はビールの泡を眺めながら答える。
「いや、続くんだよ。一度も来てないものは、二度目もないんだ」
その夜も太郎は決まり文句を吐き、いつも通り終電に一本乗り遅れ、雨の中を歩いて帰る羽目になった。
──ただし、その夜だけは、少し違っていた。




第一章 

雨の夜だけ開く店
タクシー代を惜しんだ太郎は、普段は使わない裏路地の近道を選んだ。街灯が少なく、湿った空気が漂う通りだ。
雨脚が強まり軒先を探していると、路地の奥に見慣れない灯りがぽつんと灯っていた。
木製の引き戸に、不思議な味のある字で看板が掲げられている。
「±0螺子店(ぷらまいぜろねじてん)」
軒先には風鈴代わりに古い十円玉がぶら下がり、雨粒を受けてちりちりと涼やかな音を立てていた。雨宿りのつもりで戸を開けると、見た目に反してすんなりと滑った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に座っていたのは、和装の老婆だった──ように見えたが、どこか雰囲気が猫に似ている。金色がかった目が、縦に細く光っていた。膝の上には、右手を吊り包帯で固定された招き猫の置物がちょこんと乗っている。置物のくせに、時折ぱちぱちと瞬きをした。
「あの、ここは何のお店ですか」
「螺子屋(ねじや)だよ。家具のじゃない、人生のさ」
太郎は苦笑した。この手の開運商法には引っかからない。
「結構です。俺、そういうのは信じないので」
「信じなくていいよ。うちは信じない客のほうが効くんだから」
老婆は桐箱を取り出し、蓋を開けた。中には長さ二センチほどの古びた螺子が一線、収まっている。錆びた鉄のようでもあり、鈍い金のようでもある光沢を放っていた。
「これは『ぷらまいぜろのねじ』。人生の収支を、いったんゼロに戻す道具だ」
「収支?」
「あんた、生まれたときからずっとマイナスを背負ってると思ってるだろう。持って生まれた巡り合わせの悪ささ。だが、このねじを使えば、マイナスの分だけチャラにできる。プラスにはならないよ。ただのゼロ。それだけは約束する」
太郎は桐箱の螺子を見つめた。
「……いくらですか」
「三百円」
「安すぎませんか」
「高い金を取ると『効果があるはずだ』と必死になって運を無駄遣いする。三百円くらいで缶コーヒーを買う気でゼロに戻す。それがうちのやり方さ」
太郎は小銭入れから百円玉を三枚出した。
「使い方は?」
「おへそに軽く押し当てて、時計回りに一回転さ」
太郎は真顔で老婆を見た。老婆も大真面目だった。膝の上の招き猫だけが、申し訳なさそうな顔でこちらを見上げていた。




第二章 

おへそに、ねじを
部屋に帰り着いた太郎は、洗面所の鏡の前で螺子を手に考え込んだ。
正気ではない。だが、あの店の十円玉の風鈴の音と老婆の言葉が、妙に胸に残っていた。
「……どうせ何も起きないさ」
太郎はシャツを捲り、螺子の先をおへそに当てた。ひんやりとした金属の感触。力を込める間もなく、螺子は吸い込まれるようにすっと肌に沈み込んだ。
痛みはない。代わりに体幹の奥深くで「かちり」と、耳ではなく骨で聴くような澄んだ音が響いた。長年噛み合わずにいた歯車が、本来の位置に収まったような感触だった。
翌朝、目覚めは静かだった。
出勤途中、いつもなら確実に引っかかる開かずの踏切が、太郎が近づいた瞬間にすんなりと上がった。
「……たまたまだな」
だが、その日を境に「小さな異変」が重なり始める。
昼休み、自販機で缶コーヒーのボタンを押すと、ことん、ことんと二本落ちてきた。二本目の底には「当たり」のシール。太郎の人生で自販機の当たりなど見たこともなかった。
夕方、経理の締め作業で数字が合わず全員が残業を覚悟したとき、太郎がふと読み直した一行に記載漏れが見つかり、一瞬で解決した。課長が「雨宮、お前今日は冴えてるな」と肩を叩いた。「冴えている」などと言われたのは人生で初めてだった。
帰り道、駅までの七つの信号が、すべて青で繋がった。
──収支を、いったんゼロに戻す。
もし本当にマイナスが消えたのだとしたら。これまで当たり前に存在していた「普通」とは、こんなにも滑らかで滞りのないものだったのか。
その晩、太郎は居ても立ってもいられずあの裏路地へ向かった。しかしそこにあったのは古いシャッターが下りた空き店舗で、看板も風鈴も跡形もなかった。今夜は星が綺麗に晴れていた。




第三章 

止まらない歯車
最初の数日、太郎が噛み締めていたのは「平穏」だった。
しかし一週間もすると、事態は「普通」の領域を明らかに踏み越え始めていた。
会社の福引きで特等の温泉ペア宿泊券が当たった。独身の太郎が困っていると、普段はあまり会話のない経理部の若手・佐伯さんが「いいですね」と声をかけてくれ、一緒に行く流れになった。太郎の人生で、若い女性とプライベートの約束が交わされるなど天変地異に近かった。
買い物のレジでは前の客のクーポンが偶然適用され、商店街の抽選でも米二十キロが当たった。
あきらかにおかしい、と太郎は首をひねった。ゼロに戻るどころか、運勢が猛烈な勢いでプラスへ跳ね上がっている。
そんな折、太郎の携帯に奇妙な着信があった。
『雨宮太郎様のお電話でしょうか。私、幸運管理局・運勢調整課の三日月と申します』
鈴の転がるような声だが、どこか事務的だ。詐欺かと思い切ろうとすると、相手は太郎が三百円で螺子を買ったこと、雨の日の店舗、招き猫の怪我まで正確に口にした。
『単刀直入に申し上げます。雨宮様が装着された『ぷらまいぜろのねじ』は、本来、装着者ご本人のマイナスだけを相殺する道具です。しかし……』
三日月の声が少し低くなった。
『螺子の製造工程に初期不良があり、雨宮様お一人のみならず、周囲のエリア一帯の「運の収支」を巻き込んで吸い上げてしまっていることが判明いたしました。言うなれば、現在の雨宮様は周囲の運を吸い寄せるダイソン状態です』
「ダイソン……? ちょっと待ってください、どういうことです」
『このまま放置されますと、近々このエリアで大規模な「運勢の崩壊」が発生いたします』




第四章 

街が引っくり返る日
異変は唐突に訪れた。
週末の朝、太郎の住む街で、事故など起きたことのない交差点にて高級車が垣根に突っ込んだ。運転していたのは、地元で「強運」と名高かった不動産会社の社長だった。社長は同時に長年買い続けていた株の大暴落に見舞われた。
太郎の会社では、一番の優良顧客から突然の契約解除が入る一方、新人が誤送信したメールがきっかけで奇跡的な超大型案件が成立した。社内は歓喜と悲鳴が同時に飛び交う混乱に包まれた。
スーパーではシステム障害で全商品が10円で決済され、隣町の同系列店では逆に全商品が10倍の値段で請求されるトラブルが発生した。
テレビのニュースでは「都内某所で相次ぐ不可解な確率の偏り」として取り上げられ始めていた。
その日の夜、太郎の部屋のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒いスーツを着た小柄な女性が立っていた。髪飾りがどことなく猫の耳の形をしている。名刺には『幸運管理局 運勢調整課 三日月』とあった。
「雨宮様。見ての通り、事態は深刻です」
三日月は部屋に入るなり、重々しく告げた。
「あなたにプラスが集中している歪みのしわ寄せが、街全体に及んでいます。生涯病気をしないはずだった人が急病に倒れたり、逆に幸運に恵まれるはずだった人の運気が打消されたりしています。運の収支は、どこかで必ず釣り合いを取ろうとするのです」
太郎は息をのんだ。
温泉チケットも、佐伯さんとの会話も、思いがけない褒め言葉も。すべて、誰かが払うはずだった幸運を自分が横取りしていた結果だったのか。




第五章 

選ぶべきもの

三日月は太郎を近所の公園へと誘った。ブランコのかたわらには、あの路地裏にいた招き猫が、今度は両手を所在なさげにブラブラさせながら座っていた。
「選択肢はふたつあります」
三日月の髪飾りが、街灯の光を受けてかすかに揺れた。
「ひとつは、螺子を抜くこと。抜き方は簡単です。反時計回りに回せば外れます。ただし……外した瞬間、あなたの運勢は元の『マイナス』に戻ります。この一週間で吸い上げたプラスは街へ還元されますが、あなたは再び、損ばかりの人生を生きていくことになります」
太郎は街頭の明かりを見つめた。夜風が頬を撫でる。
「もうひとつの選択肢は?」
「このまま螺子を挿し続けることです。そうすれば、あなたはこれからも幸運を享受し続けられます。ですが、街の運勢バランスは完全に崩壊し、誰がどんな不運を背負わされるか分からない、無秩序な状態が続きます」
太郎は自分の胸、そしておへそにあてがった手に視線を落とした。
佐伯さんと笑い合った時間の温もりを思い出す。それは太郎にとって、生まれて初めて味わう「まぶしい日々」だった。手放したくない、という欲望が胸をかすめたのは事実だ。
だが──。
「……俺が欲しかったのは、勝ち組の運じゃない」
太郎の口から、静かな言葉が漏れた。
「みんなと同じ、ゼロの場所だった。誰かの運を奪ってまで手に入れた幸運なんて、履き慣れない高級靴を履いて走ってるみたいで、ずっとそわそわしてたんです」
三日月は目を見張り、それから柔らかく微笑んだ。
「外してください」
太郎はまっすぐに三日月を見た。
「元に戻るだけです。もともと、俺の人生だったんですから」




第六章 

三日月とねじと
三日月は懐から小さな工具を取り出すと、太郎のおへそに当て、静かに反時計回りへ回した。
かちり。
骨の奥で、またあの音がした。
今度は歯車が解き放たれるような、寂しくも清々しい感触だった。体に溜まっていた暖かな気が、夜空に向かって一気に解き放たれていく。
遠くの街の灯りが、一瞬だけパチパチと瞬いた気がした。
翌朝。
太郎はいつも通りアラームを聞き逃して寝坊した。踏切は開かず、10分待たされた。自販機のコーヒーは1本しか出ず、会社の伝票は計算が合わずに1時間頭を抱えた。
「……戻ったな」
苦笑いしながらも、太郎の胸底にあったのは深い安堵だった。
だが、すべてが失われたわけではなかった。
数日後、あの不動産会社の社長から丁寧な礼状と品物が届いた。実は事故の夜、動転する社長と家主の間に入り、穏便に現場をまとめたのは太郎だった。運に関係なく、太郎の「根が親切で骨を折る性格」そのものは消えていなかったのだ。
そして佐伯さんとも、温泉チケットが流れたあとも普通に昼食を共にする関係が続いていた。「温泉は残念でしたけど、また美味しいお店教えてくださいね」と彼女は笑っていた。
手に入れた幸運は消えても、太郎自身が紡いだ人間関係は、何ひとつ消えていなかった。




終章 

それから
半年後の雨の夕方。太郎はふと思い立って、あの裏路地を歩いた。
「±0螺子店」の看板に、再び灯りがともっていた。
「やあ、久しぶりだね」
老婆は相変わらず招き猫を膝に乗せていた。招き猫の右手の包帯は外れ、元気に上を向いていた。
「あの螺子、大変な欠陥品でしたよ」
「すまなかったねぇ。でも、おかげで何か見つかったかい」
太郎はポケットから百円玉を三枚出した。
「同じものをください。今度は、ちゃんとした±0のやつを」
老婆は片眉を上げた。
「懲りないね。今度のは正真正銘、ただのゼロだよ。プラスにはならない」
「それでいいんです」
太郎は笑った。
「誰かのせいにしないで、自分の足で歩くためのスタートラインが欲しいんです。マイナスからじゃなく、ゼロから」
老婆は嬉しそうに目を細め、桐箱を差し出した。
「気に入ったよ。持って行きな」
店を出ると、雨はまだ降り続いていた。
太郎は持ち帰った螺子をおへそには刺さず、部屋のデスクの引き出しの奥、大切な印鑑のとなりにそっとしまった。
「いつでもゼロに戻せる」
その選択肢が手元にあるということだけで、太郎の心は不思議と軽く、力強かった。
二度目の幸運は、まだ来ていない。
けれど太郎は、もう「一度も来ない」と決めつけるのをやめた。
スタートラインがどこであろうと、そこからどっちへ向かって歩き出すかは、いつだって自分で選べるのだから。





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あとがき
物語の主人公・雨宮太郎のように、私たちは時に「自分だけが損をしているのではないか」という思いにとらわれることがあります。しかし、人生の「プラスとマイナス」をどう捉え、引き出しの中にどんな準備をしておくかで、今日という日の景色は少しだけ変わるのかもしれません。
太郎が引き出しにしまった小さな螺子が、読者の皆様の心にも、ささやかな「心のゆとり」として届いていれば幸いです。


さいせん、はじめました。

―五円玉、宇宙を救う(かもしれない)―



まえがき
財布からそっと五円玉を取り出し、「ご縁がありますように」と賽銭箱へ投げ入れる。誰もが一度はしたことのある、日本の参拝風景です。
ところが最近、銀行の硬貨両替手数料が話題になりました。
もし神様の側でも、この小銭の処理に頭を抱えていたとしたら?
良かれと思って続けていた習慣が、実は大好きな神様を困らせていたとしたら。
そんなちょっとおかしなピンチに、真面目だけが取り柄のサラリーマンが挑む物語です。
神社参拝の新しい景色と、神様たちの世俗的な裏事情を、気軽にお楽しみください。




プロローグ カラン、という音について
賽銭箱に硬貨が落ちる音は、世界中どこでも同じだと思われている。
カラン、と。
だがそれは誤解だ。材質や重さ、そして額面によって、音の奥にもう一つの音が鳴っている。人間の耳には届かない、周波数外の通知音だ。
その日、二宮チカラは財布から一番小さくて軽い硬貨を選び、賽銭箱へ指で弾くように投げ入れた。
カラン。
「今年もよろしくお願いします。ご縁がありますように」
彼は手を合わせ、目を閉じた。知らない。その瞬間、三次元の地球から十一次元離れた巨大な処理施設で、けたたましい警報が鳴り響いたことを。
「また五円玉! 今月だけで四十七枚目だぞ!」
処理施設のオペレーターは頭を抱え、モニターに浮かぶ「二宮チカラ」という名前の請求書に深いため息をついた。



第一章 おばあちゃんの教え
二宮チカラ、三十二歳。都内の中堅商社に勤める、取り立てて特徴のない会社員。特技はエクセルの関数を無駄に凝ること。趣味はコンビニのくじを外し続けること。要するに、運に見放されがちなタイプだ。
そんな彼が唯一、律儀に守り続けている習慣があった。神社に行ったら必ず五円玉を入れる、ということだ。
「ご縁は五円って、昔から決まっとるのよ」
小学生の頃、亡くなった祖母がそう教えてくれた。語呂合わせだと大人になればわかる。でも律儀なチカラは三十二歳になった今も守っていた。財布には常に五円玉のストックがあり、コンビニでは「小銭で払います」と言っては、せっせと五円玉だけを残していた。
その日も残業終わり、会社近くの小さな神社に立ち寄っていた。正式名称は三巳稲荷神社。地元の人しか知らないような社だ。
最近のチカラは少し荒れていた。企画は通らない。上司の機嫌は悪い。おまけに失恋したばかり。神頼みでもしなければやっていられない気分だった。
「今年もよろしくお願いします。ご縁がありますように」
五円玉を投げ入れ、深々と頭を下げる。いつもと変わらない参拝のはずだった。
その直後、社務所の奥から巫女装束の女性が飛び出してきた。
「ちょっとあなた。今の五円玉、あなたですね!?」
「は、はい……?」
「四十七枚目ですよ、今月だけで。いい加減にしてください」
目の前まで詰め寄って、彼女は腰に手を当てて言い放った。
「わたし、銭形千歳と申します。この神社の、まあいろいろあって臨時で監査をしている者です。単刀直入に言います。あなたの賽銭、迷惑です」



第二章 監査官・銭形千歳
「迷惑って、言われましても……」
チカラは目を白黒させた。神様に失礼のないよう、真面目に手を合わせてきたつもりだった。
千歳は困惑するチカラを見て、少しだけトーンを落とした。
「順を追って説明します。あなたは五円玉を『縁起がいいから』という理由で選んでいますね」
「はい。祖母の教えで」
「気持ちはわかります。でも現実の話をすると、神社は集めた賽銭を銀行に持ち込んで、必要な現金に両替したり口座に入金したりするんです。ところが今は、大量の硬貨を持ち込むと枚数に応じた手数料がかかる。五百枚を超えたあたりから、完全に赤字です」
「赤字……賽銭が、赤字に?」
「そうです。そしてそれは、地上の銀行だけの話ではありません」
千歳は指で宙に小さな光の輪を描いた。輪は回転し、立体的な図表になった。
「わたしたちが本当に管理しているのは、賽銭箱の向こう側。神域と呼ばれる領域にある、ご縁の流通システムです。あなたたちが納めたお金は、物理的な硬貨としてだけでなく、エンというエネルギー単位に変換されて、神様たちの活動資金になっています」
「神様の、活動資金」
「はい。神様が霊験を発揮するにもコストがかかるんです。ご利益はタダじゃありません」
チカラは呆然とした。千歳は続けた。
「そして、そのエンへの変換にも両替手数料がかかります。担当は神域にある巨大機関、通称・冥銀行。ここが小額硬貨の処理コストでずっと悲鳴を上げているんです」
「つまり、僕の五円玉が」
「はい。あなたの五円玉一枚につき、神域では処理コストとして約三エンの赤字が出ています。四十七枚で、今月だけで百四十一エン。この三巳稲荷神社を担当する神様、三巳様は半年以上、この負債の返済に追われて、新しいご利益を一つも発動できていません」



第三章 三巳様、経営難
三巳稲荷神社の本殿の裏手、小さな祠の中にその神様はいた。
体長三十センチほどの白い狐。名を三巳様という。神々しいはずの姿は、電卓片手にげっそりやつれ、目の下には濃いクマができていた。
「うわああ、また今月もマイナスかあ……」
電卓を放り投げ、机に突っ伏す。机には冥銀行御中と書かれた督促状らしき巻物が山積みだ。
「あの、あなたが三巳様、ですか」
「おお、お前が例の五円玉常習犯か。いや、責めとらん。責めとらんが、正直つらい」
「すみません……」
「謝らんでいい。悪いのは五円玉にご縁を結びつけた大昔の誰かの語呂合わせのセンスじゃ。あれのせいで日本中の小さな神社が軒並み経営難なんじゃ」
三巳様は大きなため息をついた。
「わしのようなマイナーな神は、賽銭の総額自体が少ない。それでいて律儀に五円玉ばかり納めてくれる参拝者が多いから、額面の割に処理コストばかりかさむ。このままだと来月には合祀の対象にされてしまう」
「合祀というのは?」
千歳が補足した。
「早い話が経営統合です。赤字が続く小さな神様は、近隣の大きな神社の神様に吸収され、独立した神格としては消滅させられてしまう。人間の会社でいう吸収合併ですね」
「そんな、神様にもそんな仕組みが」
「厳しい世界なんです。ご利益資本主義とでも言いましょうか」
チカラは言葉を失った。良かれと思って続けてきた習慣が、神様を廃業寸前まで追い詰めていた。
「わしは別に自分が消えるのは構わん。だがこの神社を頼ってくる参拝者が困る。縁結びも商売繁盛も、頼む相手がおらんようになったら、みんなどこにお願いすればいいんじゃ」
三巳様の目にうっすら涙が浮かんだ。
チカラの中で、何かがカチリと音を立てた。
「わかりました。僕にできることがあるなら、何でもします」



第四章 臨時徴収担当、命を受ける
「本当にいいんですか」
千歳が念を押した。
「何でもする、というのは簡単に言うことじゃありません。あなたには正式に臨時ご縁調整担当を委嘱します。つまり」
千歳が指を鳴らすと、目の前に辞令が浮かび上がった。

辞令
二宮チカラ殿
貴殿を三巳稲荷神社 臨時ご縁調整担当に任命する
任期:本日より正月三が日まで
冥銀行 神域会計監査部

「正月三が日って、あと二週間もないじゃないですか!?」
「そうです。もっと大きな問題が迫っているんです」
千歳の表情が真剣に変わった。
「初詣です。毎年三が日には日本全国の神社に一年で最も多くの参拝者が押し寄せます。そして大半が、あなたと同じように小銭こそ縁起がいいと信じて、五円玉や十円玉を大量に投げ込む」
「それは、確かに」
「今年、その総量が冥銀行の処理能力の限界を超える見込みなんです。名付けて、コイン洪水です」
パンッと手を叩くと、空中に赤い立体グラフが映し出された。棒グラフがぐんぐん伸び、警告ラインを突き破る。
「もし処理能力を超えた小銭が神域に流れ込むと、システムがパンクして両替処理が完全停止します。そうなれば日本中の、いえ下手をすると世界中の小さな神々のご利益が一斉に機能停止に陥る。これをわたしたちは霊験デノミネーションと呼んで最も恐れています」
「そんな大事になるなんて……」
「しかも近年は、大きな神社ほど後方の参拝者が賽銭箱まで届かせようとコインを投げつけてくる。物理的にも危険です。将棋倒しの原因になったこともあります。神域の経済問題であると同時に、地上の安全問題でもあるんです」
チカラは唾を飲んだ。
「僕は一体、何をすればいいんですか」
千歳はにやりと笑い、肩に手を置いた。
「決まっています。日本中の五円玉信者の意識改革ですよ」



第五章 招き猫、参戦す
とはいえ一介の会社員に、日本中の参拝マナーを変えられるはずがない。
途方に暮れるチカラの前に、社務所の片隅に置かれていた古びた招き猫の置物が口を開いた。
「にゃあ。手伝ってやろうか、人間」
「しゃ、喋った!?」
「驚くことはない。ワシは招福。この神社に三百年仕えとる招き猫型の式神じゃ。普段は置物のフリをしとるが、緊急事態とあらば話は別よ」
招福は台座から飛び降り、後ろ足で立ち上がり、前足を組んだ。
「お前がすべきことは単純明快。SNSじゃ」
「え?」
「今どき人の意識を変えるのに一番手っ取り早いのは口コミよ。お前、会社ではエクセルの達人なんじゃろ。データをまとめて、拡散されるネタにする才能があるはずじゃ」
千歳も頷いた。
「実は冥銀行の広報部から極秘データの開示許可が下りています。賽銭処理コストの実態を可視化して伝えられれば、行動が変わる可能性があると」
そこから三日間、チカラは有給をかき集めて早退しては、千歳や招福と資料作りに没頭した。
一枚の五円玉が神域処理コストで約三エンの赤字。五百円玉一枚ならコストを補って余りあるプラス。電子マネー賽銭は実は神域でも歓迎されている。そうしたデータを、招福直伝のゆるキャライラストと共にわかりやすい画像にまとめていく。
タイトルは招福の提案でこう決まった。
『お賽銭、本当は五百円がありがたいってホント? 神主さんに聞いてみた』
きわめて俗っぽいタイトルだが、これが功を奏した。三巳稲荷神社の宮司の協力を得て投稿された記事はじわじわ拡散され始める。
「バズってる、バズってますよチカラさん!」
千歳が興奮気味にスマホを見せた。閲覧数は十万を超え、コメント欄には知らなかった、今年から百円にする、五円玉信仰意味なかったのかという声が並んでいた。
だが招福だけは浮かない顔をしていた。
「にゃあ……喜ぶのはまだ早いぞ。バズるというのは諸刃の剣じゃ」 



第六章 両替尊、降臨
招福の懸念は的中する。
その夜、三巳稲荷神社の空に巨大な渦が現れた。中心から降り立ったのは、そろばんのような杖を持ち、パリッとしたスーツに身を包んだ痩せぎすの神。経理担当の権化のような存在だった。
「誰だ、勝手に神域の内部データを地上に流出させたのは」
低く疲れきった声だった。
「両替尊……!」
千歳が息を呑んだ。
「冥銀行の実務トップです。神域の会計を一手に取り仕切る、恐ろしく忙しい神様……」
両替尊はそろばん杖をチカラに突きつけた。
「二宮チカラ。お前がやったことは確かに参拝マナーの改善に繋がるだろう。だが神域の内部会計情報の無断開示は重大な規約違反だ。下手をすれば地上と神域の間の見えない壁、人間が神様の存在を無条件には信じないという絶妙なバランスを崩しかねん」
「そんなつもりじゃ。僕はただ三巳様を助けたくて」
「わかっている。動機は同情する。だが結果がすべてだというのがうちの上の連中の口癖でな」
両替尊は大きなため息をついた。怒りよりも深い疲労がにじんでいた。
「正直に言おう。わし自身この仕組みにはうんざりしとる。神とはいえ毎日毎日五円玉の入金伝票を何万枚と処理させられる身にもなってみろ。手が震える。目がかすむ。おまけに上からは赤字を出すなの一点張り。神様の経理担当ほど割に合わん仕事はないぞ」
「両替尊様も、大変なんですね」
「大変なんてもんじゃない。だからこそお前のやったことは本来ならありがたい話でもある。問題はやり方だ」
両替尊はそろばん杖を回し、地面に巨大な書類を投影した。
「三日後の大晦日、日本中の主要な神社に特別査察が入る。結果次第でコイン洪水を防ぐ緊急措置、全国一斉の賽銭システム緊急停止が発動される可能性がある」
「賽銭システムの停止って」
「初詣そのものが成立しなくなるということだ」



第七章 初詣の夜、コイン洪水
大晦日の夜。三巳稲荷神社にはいつになく長い行列ができていた。
チカラは招福特製の五百円のすすめと書かれた立て看板を持って境内入口に立っていた。隣には巫女姿の千歳。本殿の屋根の上には腕組みをした両替尊の姿もある。
「本当にこれでうまくいくんでしょうか……」
チカラがつぶやいたその時、都心の方角の空がうっすら赤く光り始めた。
「まずい。都心の大きな神社からコインが溢れ始めている……!」
千歳のスマホには神域の処理量を示すグラフが表示されていた。棒グラフが警告ラインを軽々と突き破っていく。
「見てください、あの空!」
夜空には無数の光の粒が隕石群のように降り注いでいた。全国の賽銭箱から溢れ出した、処理しきれない小銭たちの残留エネルギーだった。
「このままでは本当にデノミネーションが……!」
両替尊が屋根から飛び降り、そろばん杖を天に掲げた。
「仕方ない。緊急停止を発動する」
「待ってください!」
チカラは思わず叫んでいた。
「停止したら今夜初詣に来ているみんなの願い事はどうなるんですか。三巳様みたいな小さな神様たちはどうなるんですか」
「代案があるのか」
両替尊がじろりと見た。
チカラは深呼吸し、招福が持ってきた段ボール製の即席ブースを指差した。臨時両替所と書かれている。
「みんな五円玉が縁起いいって信じてるだけなんです。だったらもっと縁起がいい方法を今夜ここで教えればいいじゃないですか」
「今夜、この場で?」
「五円玉を持ってきた人には僕らのポケットマネーで五百円玉に両替してもらう。手数料はこっちが持ちます。その代わりその五百円玉を賽銭箱に入れてもらう。なぜそれが神様のためになるのかもその場で説明する」
千歳が目を丸くした。
「チカラさん、それ全財産注ぎ込むことになりますよ!?」
「かまいません。どうせボーナスも出なかったし、失恋のショックで貯金する気力もなくしてたんです。それなら目の前の神様を助けるために使った方がよっぽど気が晴れる」
両替尊はしばし沈黙したのち、ふっと小さく笑った。
「面白い。よかろう。一時間だけ待ってやる。それで流入量が落ち着かなければ緊急停止は免れんがな」



第八章 五百円の勇気
「五円玉、五百円に両替できまーす! 手数料無料! わけを聞いてってくださーい!」
招福がどこからか調達した拡声器で叫んだ。最初は誰も足を止めなかった。だが千歳が笑顔で一人ひとりに声をかけていくうち、少しずつ人だかりができ始める。
「え、五円玉だと神様が困るって本当ですか?」
「はい、実は」
チカラはあの日聞いた話をできるだけわかりやすく噛み砕いて説明した。銀行の両替手数料のこと。神域の処理コストのこと。小さな神様たちが経営難で苦しんでいること。
最初は半信半疑だった参拝者たちも、自腹を切って必死に両替を続けるチカラの様子や、屋根の上に立つ偉そうな痩せた神様の存在感に、次第に耳を傾け始めた。
「へえ、じゃあ今年は五百円にしようかな」
「私も。五円玉うちに何百枚もあるから両替してもらおうっと」
行列はいつしか臨時両替所を中心にした縁日のような賑わいに変わっていた。
チカラの財布からはみるみる一万円札が消えていった。二万、三万。それでも彼は笑顔で両替を続けた。
「チカラさん、そこまで自分の貯金を……!?」
「いいんです。誰かの願い事が神様に届くなら、こんなに安い買い物はありません」
一時間後。千歳のスマホのグラフは警告ラインを大きく下回るところまで下がっていた。
「信じられない。都心の方の神社でも同じような動きが自然発生的に広がっています。SNSでチカラさんたちの取り組みが拡散されたみたいです。チカラさんが作ったあの図解、全国の宮司さんがそのまま印刷して貼り出してくれてます」
屋根の上で両替尊が満足げに頷いた。
「よくやった、二宮チカラ。緊急停止は必要なさそうだ」
「本当ですか……!」
チカラはその場へへなへなと座り込んだ。財布はほとんど空っぽだったが、不思議と気持ちは軽かった。
祠の奥からげっそりしていたはずの三巳様が元気な足取りで駆け寄ってきた。
「チカラよ。お前のおかげでわしの今月の収支、久しぶりに黒字に転じそうじゃ!」
「よかった、本当に、よかったです」
三巳様はチカラの肩によじ登ると、ふさふさの尻尾で頬をそっと撫でた。
「お前のおばあさんが教えてくれたご縁は五円というのはな、あながち間違いではないんじゃ。ただ金額の話ではなく、気持ちの話だったんじゃよ。それを額面に固執させてしまったのは時代の方じゃ」



エピローグ あといくつ寝ればお正月
三が日が明けた頃、チカラのもとに一枚の辞令が届いた。
辞令
二宮チカラ殿
臨時ご縁調整担当の任を解く
なお貴殿の功績に鑑みご縁大使の称号を授与する
冥銀行 神域会計監査部 両替尊
「ご縁大使、ですって」
千歳が隣でくすくす笑った。あの一件以来、なぜか頻繁に監査と称して顔を出すようになっていた。
「これからもたまにでいいので、お賽銭の啓発活動手伝ってもらえますか」
「もちろんです。あ、そうだ」
チカラは財布を取り出すと、中から一枚の五円玉を取り出した。
「これ、最後の一枚なんです。捨てるのはもったいないから記念に取っておこうかと」
千歳はそれを見てふっと笑った。
「五円玉自体が悪者なわけじゃありません。ただそれだけで済ませようとする気持ちが神様を困らせていただけです。気持ちを込めて選ぶ金額なら、五円でも五百円でも神様はちゃんと受け取ってくれます」
「なるほど……」
チカラは空を見上げた。もうすぐまた一年が終わる。そしてまた新しい年が来る。
大きな神社では今年もきっと黒山の人だかりができるのだろう。後ろの方から危なっかしくコインを投げ込む人もまだいるかもしれない。
けれどチカラは知っている。その一枚一枚の向こうで、電卓片手に経営に頭を悩ませる小さな神様たちがいることを。
「さて、今年はいくら包もうかな」
財布の中の一万円札を数えながら、チカラは小さく笑った。
あといくつ寝れば、お正月。
その夜もどこかの神社の賽銭箱でカランという音が響いていた。
その向こう側で今日も誰かがそろばんを弾いている。




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あとがき
 「感謝の気持ちを伝えるための賽銭が、文化や経済の変化によって意図せず相手(神社や神様)の負担になってしまう」という日常のちょっとした矛盾。それをユーモアと優しさで解きほぐす物語にしたいと思い、一気に書き上げました。 
 お金の額そのものよりも、「相手を思いやる気持ち」こそが一番のご利益(ご縁)なのだと、チカラたちの奮闘を通して少しでもお伝えできていれば幸いです。 
 今度神社にお参りに行く際は、ぜひ賽銭箱の"向こう側"に思いを馳せてみてください。もしかすると、電卓を叩く小さな神様が、笑顔であなたを迎えてくれるかもしれません。

『運のメカニズム』


まえがき
人は誰しも、自分ばかりが損をしているように感じたり、「なぜ自分だけこんなに運が悪いのだろう」と肩を落としたりする夜があります。
この物語の主人公・沢渡陽もまた、そうした不運の渦中で静かに息を潜めて生きている青年です。けれど、彼が背負わされた「世界一の不運」は、巡り巡って誰かの日常を支える不可欠な「重し」になっていました。
私たちが何気なく通り過ぎていく「何事もない一日」。それは、派手な幸運や成功よりもずっと繊細で、誰かの小さな善意や踏ん張りによってギリギリのところで保たれているのかもしれません。
もし今、あなたが少しだけ生きづらさを感じているなら、この物語があなたの足元を静かに照らす灯りとなれば幸いです。
どうぞ、陽とともに「平らな道」を歩む旅をお楽しみください。

献辞
平々凡々な日々を、丁寧に歩むすべての人へ。




第1章 観測史上最低値
誰もがきっと
わずかでも
その 運とやらを
持ち合わせているはずで
――そう聞かされるたび、沢渡陽(さわたり・よう)は、はにかむよりも先に、うっすらと肩をすくめてしまう癖があった。
だってそれは、たぶん嘘だ。少なくとも自分に関しては、絶対の嘘だ。
二〇四七年、六月十四日、火曜日。
朝六時三十二分、目覚まし時計が鳴る前に、彼は目を覚ました。理由は単純で、天井から水が垂れてきたからだ。上階の水漏れ。管理会社は「お盆明けに業者を手配します」と一週間前に言ったきり、音沙汰がない。バケツを敷き直し、寝袋のように丸めた毛布を抱えて、陽は起き上がった。
顔を洗い、髭を剃ろうとしてカミソリの替刃を切らしていることに気づき、ひげ面のまま出勤の支度をした。冷蔵庫の中は、賞味期限切れの卵と、封を切ったまま忘れていた納豆が二パック。納豆を掻き回して啜り、玄関を出た。
玄関を出て三歩目で、頭上に何かが落ちた。
生温い。ぬめっとしている。指で拭って空を見上げると、電線の上でカラスが一羽、こちらを見下ろしていた。目が合った。カラスは翼を広げ、なにごともなかったかのように飛び去った。
「……いつものことだ」
陽は無表情のまま、アパートの共用水道でタオルを濡らし、頭を洗った。二十八年間生きてきて、鳥の糞に当たった回数は数え切れない。もう驚かない。驚かないが、悔しくないと言えば嘘になる。
駅までの道すがら、財布から千円札が一枚、こぼれ落ちた。気づかなかった。気づいたのは、コンビニでおにぎりを買おうとして、財布の中身が三百五十七円しかなかったときだ。おにぎりを棚に戻し、菓子パンの一番安いのを選んだ。
改札を通ろうとしたら、ICカードの残高が足りなかった。チャージ機の前で並んでいたら、前の老人が操作を間違え、五分待たされた。ホームに降りたら、たった今、電車が出て行った直後だった。次の電車は「人身事故のため運転を見合わせております」とアナウンスが流れた。
陽は、ホームのベンチに座って、菓子パンをかじった。あんぱんだった。一口目に、あんが入っていなかった。二口目にも、入っていなかった。全部食べ終わっても、あんは入っていなかった。工場の充填ミスだった。SNSに投稿すれば話題になるかもしれない、と一瞬思ったが、写真を撮る気力もなかった。
派遣先の会社に着いたのは、始業から一時間三十分遅れだった。
「沢渡くん、契約更新の件だけどね」
上司の高木は、陽の顔を見るなり、机の引き出しから封筒を取り出した。中身は聞かなくてもわかる。三ヶ月ごとに更新される派遣契約が、今回で切られるという通告だった。
「今期の予算がね、ちょっと厳しくてね。あと、ほら、君、勤怠がね」
「はい」
「悪気があるわけじゃないのは、わかってるよ」
「はい」
「なんていうか、こう、ツイてないっていうのかな。うん」
高木は、自分でも何を言っているかわからないという顔で、へらへらと笑った。陽は封筒を受け取り、深く一礼して、自分の席に戻った。
パソコンの電源を入れると、モニターに縦線が入って、そのまま動かなくなった。
その日の午後、区役所から一通のハガキが届いていることを、陽は帰宅してから知った。
『無料LQ健康診断のご案内』
LQ、と書かれていた。ラック・クアンタム。運量子。
三年前、東大と理化学研究所の共同チームが発表した「運の素粒子」だ。人間の身体には、生涯を通じて発生する運のゆらぎが、極微の粒子として蓄積・消費されている――そう証明された。以来、社会はあっという間に組み替わった。就職も、結婚も、医療の順番も、住宅ローンの審査も、LQ残高で決まる時代になった。
陽はLQ測定を、これまで一度も受けたことがなかった。受けたところで、良い数値が出るはずがないと知っていたし、測ってしまえば、就職や結婚のときに数値を提出しなければならない場面が増えるだけだ。知らずにいるほうが、まだ生きやすかった。
だが、区役所の無料健診は、生活保護申請の前提条件になっていた。派遣を切られた以上、貯金は二週間ももたない。行くしかなかった。
区役所の三階、LQ健診コーナー。順番待ちの椅子は空いていた。誰も好んで自分の運を測りたいとは思わないのだろう。
「沢渡陽さん、こちらへどうぞ」
案内係の女性は、白衣を着ていた。首から下げたIDカードには「運量子庁 地域相談窓口 詠美(うたみ)」とあった。年の頃は三十歳前後、切れ長の目と、感情の読めない静かな声。
「初めての測定ですね。手のひらを、こちらに」
ルックス・メーター、と呼ばれる測定装置。小さなガラスの円盤の上に手のひらを乗せると、指先の毛細血管を流れる血液から、LQを検出する。
陽は、右手を乗せた。
装置が、低い唸り声を上げ始めた。
唸り声が、徐々に高くなった。
高くなった音が唐突に途切れたかと思うと、また低く唸り始めた。
詠美の眉が、わずかに動いた。
モニターの表示が、ゆっくりと数字を刻んでいった。
 −9
 −99
 −999
 −9,999
 −99,999
 −999,999
 −9,999,999
 −99,999,999
 −999,999,999
 −9,999,999,999
 −99,999,999,999
 −999,999,999,999
 −9,999,999,999,999
そこで、ピタリと止まった。
詠美がモニターに近づき、目を細めた。それから、装置のリセットボタンを押すと、もう一度、陽の手のひらを装置に乗せさせた。
同じ数字が表示された。
「……もう一度、いいですか」
三度目も、全く同じだった。
詠美は無言で立ち上がり、白衣のポケットから携帯端末を取り出した。廊下へ出て数分後に戻ってきたとき、彼女の表情はそれまでの「無」から、一段深い「静けさ」へと変わっていた。
「沢渡さん」
「はい」
「あなたのLQ残高、観測史上最低値です」
「……はあ」
「日本国内、いえ、この装置が全世界に配備されて以来、これほど深いマイナスは一例も報告されていません」
陽は、しばらく黙ってその言葉を咀嚼した。
「……つまり、僕は、世界一運が悪い、と」
「はい」
「賞金は出ますか」
「出ません」
詠美は、真顔で首を振った。
陽は、思わず少し笑った。生まれて初めて、自分の不運がここまで極まっていることを、他人の口から公式に認定された。奇妙な安堵があった。ずっと薄々そうだと思っていたことが証明された安堵。名前をつけられずに苛立っていたものに、名札がついた安堵。
「わたし、少しあなたにお話ししたいことがあります」
詠美は椅子に座り直し、両手を膝の上で組んだ。
「これは区役所の窓口では本来お伝えする範囲を超えます。ですが、あなたのお立場は少し特殊ですので」
「特殊」
「はい」
彼女は、一度深く息を吸った。
「沢渡さん。あなたは、宇宙のバランスの要(キーストーン)です」
蛍光灯が、じりじりと音を立てて鳴っていた。
窓の外、夕方の空が、鈍い橙色に染まっていた。
陽は詠美の顔を、ぼんやりと見つめていた。
何を言われたのか、まだうまく飲み込めていなかった。
――この時、彼はまだ知らない。この日を境に、彼の「観測史上最低の運」が、ある巨大な均衡の――地球の、そして宇宙そのものの均衡の――最後の錘(おもり)になろうとしていることを。
でも
その 運とやらは
なかなか
都合良く現れない
ならば
それをタイミング良く
ここぞと思うのは常
それでも
そんなわけには行かないから
世の中は面白い



第2章 運量子取引所へようこそ
翌朝、陽の携帯に非通知の着信があった。
「沢渡さんですね。運量子庁の詠美です。昨日の件、正式にお話ししたく、車を差し向けます。三十分後、アパートの前へ」
そう言って、返事も待たずに切れた。
三十分後、アパートの前に停まった車は、黒塗りの車体の低い、しかしどこか値札のつかない類の高級車だった。国産のようだが、ナンバープレートには見たことのない管理番号が振られている。
「乗ってください」
後部座席の詠美は、昨日と同じ白衣ではなく、濃紺のパンツスーツを着ていた。眼鏡もかけている。一見して印象がまるで違った。
「これは、公用車ですか」
「はい。運量子庁本庁の」
「僕、何か犯罪を疑われているんでしょうか」
「まさか」
詠美は、初めてうっすらと微笑んだ。表情の変化がわずかで、笑ったというより口の端が一ミリ動いた、というほうが近い。
車は環八を北上し、内堀通りを回り、霞が関の官庁街に入った。運量子庁は、財務省の南隣、真新しいガラス張りの三十階建てビルに入っていた。三年前まで古い労働関係の合同庁舎があった場所だ。今や運量子経済がすべてを塗り替えていた。
エントランスホールに入ると、天井から床まで届く電光掲示板が、ずらりと数字を流していた。
 +LQ 現在レート 12万3,478円/粒
 −LQ 買取レート 8,942円/粒
 本日出来高 13億5,470万粒
 東証LQ平均 +2.34%
「株みたいなものですか」
「株です。もうそう呼んでも差し支えありません」
詠美は、陽の隣を歩きながら淡々と説明した。
「+LQは、あらゆる成功の触媒です。一粒持っているだけで、あなたが望む出来事のうち、統計的にありえない範囲の幸運がほんのわずかに実現しやすくなる。宝くじの当選率も、就職試験の合否も、健康診断 Result も。逆に−LQは、それを引き受ける負債です。持っていると、望まぬ出来事が統計的にありえない範囲で発生しやすくなる」
「僕は、それを九兆九千九百九十九億粒も負っている、と」
「正確には、九兆九千九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九粒です」
陽は乾いた笑い声を漏らした。
「宝くじで一等が当たっても返せませんね」
「ジャンボ宝くじの一等前後賞合わせて十億円だとすると、+LQに換算しておよそ八千百粒。あなたの負債の――」
詠美は頭の中で素早く計算した。
「――およそ、十二億分の一です」
「……」
「毎年ジャンボを一等連続当選しても、返済に十二億年かかります」
「宇宙の年齢より短いのが救いです」
「宇宙の年齢は百三十八億年です。十二億年は確かにその内側ですね」
詠美は真顔で頷いた。冗談で返したつもりが大真面目に受け止められ、陽はこの人はつくづく大真面目なのだと理解した。
エレベーターは二十九階で停まった。廊下の突き当たりにある無地の扉。詠美がIDカードをかざすと、扉が音もなく開いた。
中は体育館ほどの広さを持つ円形の部屋だった。壁一面がスクリーンで、地球の映像が複数のレイヤーで重ねて投影されている。ひとつは普通の衛星写真。ひとつは青い霧のような+LQの偏在マップ。ひとつは赤黒い霧の−LQの偏在マップ。青は先進国の都市部に濃く、赤は途上国の紛争地域、そして日本国内では都市の周縁やアパート・団地の一角に点状に集まっていた。
そのうちの一点――東京都板橋区の一角に、他とは比べ物にならないほど濃い赤の染みがあった。
「これは、あなたです」
詠美はそう言った。
「私のアパート、板橋にあります」
「はい。宇宙全体のマイナス運量子の、およそ〇・〇〇三パーセントが、あなた一人の中に凝集しています」
「〇・〇〇三」
「はい。地球上の個人としては圧倒的な最大値です。地球外を含めても、これに匹敵する存在は現在の観測技術では発見されていません」
部屋の中央、円卓の向こう側に初老の男が立っていた。白髪を短く刈り込み、黒いスーツに濃紺のネクタイ。ネクタイの結び目が綺麗すぎるほど整っている。
「運量子庁 特別均衡室 室長の八神です」
男は、陽に軽く頭を下げた。
「沢渡さん。単刀直入に申し上げます。あなたには、宇宙のプラスマイナスゼロの法則――我々の用語ではQBL(Quantum Balance Law)ですが――その維持のために、しばらく我々と行動を共にしていただきたい」
「拒否したら」
「拒否できます」
八神は静かに言った。
「ただし拒否した場合、我々はあなたを保護することもできません。あなたのLQ残高はあまりに深すぎて、少しでも均衡が崩れると、あなたの周囲半径数キロメートルの範囲で極端な不運事象が連鎖的に発生する可能性があります。今のところ、あなたご自身がその中心におられるため、外に漏れ出ていないだけなのです」
「外に漏れ出す……」
「はい。あなたが不慮の事故などで亡くなられた場合、抱えていた−LQが周囲に一気に放出されます。板橋区の一部が統計的にありえない不運の連鎖で機能不全に陥り、人命被害も否定できません」
陽は円卓のふちに手を置いた。ひんやりと冷たかった。
「僕、そんな危険物だったんですね」
「危険物ではありません」
八神は初めてわずかに口の端を上げた。それは笑顔というより微苦笑に近かった。
「あなたは要石です。あなたなしでは、この日本列島は遠からず傾きます」
八神はそう言って、円卓の上に一冊の薄い冊子を置いた。
冊子の表紙には、活字ではなく手書きの文字でこう書かれていた。
『運のメカニズム』
陽はその文字をじっと見つめた。
「これは」
「私の拙い手すさびです」
八神は少しばつが悪そうに言った。
「役所勤めのかたわら、詩のようなものを書いておりまして。この職務に就いてから、書かずにはいられなくなったのです」
陽は冊子を手に取り、表紙をめくった。最初のページにこうあった。
誰もがきっと
わずかでも
その 運とやらを
持ち合わせているはずで
――ふ、と陽の口から息が漏れた。
昨日、鳥の糞に当たり、財布から千円を落とし、あんこの入っていないあんぱんを食べ、契約を切られた自分の一日を、この一行が真上から見下ろしているように感じた。
「読ませてください」
「差し上げます。……ただし」
八神は少し声を落とした。
「読み終える前に、決断していただきたい。要石として我々に協力していただけるか。あるいは板橋のアパートに戻り、ご自身のマイナスの中で静かに生きられるか」
陽は冊子を胸のあたりで握りしめた。
「協力すると、僕には何か良いことがありますか」
「特にありません」
八神は正直に答えた。
「悪いこと、なら」
「命の危険が増えます」
「……」
「ですが、ひとつだけ」
八神は円卓の向こうから、まっすぐに陽を見つめた。
「あなたの生涯で初めて、あなたの存在が誰かの役に立ちます。地球規模で」
陽はしばらく黙って、その言葉を反芻した。
生まれてから二十八年間、自分は誰の役にも立ってこなかったと思ってきた。母は自分を産んで三年で家を出た。父は高校に上がる前に病死した。親戚は顔を見ると気まずそうに目を逸らした。恋人はできず、友人と呼べる関係はいつも半年で途切れた。派遣先ではいつも「悪気はないんだけどね」と言われた。
自分がここにいることの意味を、誰かに肯定されたことがほとんどなかったのだ。
「協力します」
陽はそう答えた。自分でも拍子抜けするほど、あっさりと。
――そしてこれが、彼の平々凡々な二十八年間を根こそぎ揺さぶることになる決断だった。
成功者たちは
皆 自分の努力を語ることなく
運が良かったと謙遜する
その一節を、陽は八神の冊子から見つけたが、自分にはまだ関係のない話だと思ってしおりを挟むこともなく次のページへ進んだ。彼はまだ、努力の上に運が舞い降りるあの上昇気流のような感覚を知らなかった。



第3章 一日一善のおばちゃん
運量子庁からの帰り道、陽は板橋のアパートまで電車を使わずに歩いた。
正確に言えば、歩こうと思って歩いたわけではなく、駅の改札で公用車の運転手が「ここまでで結構ですか」と丁寧すぎるほど丁寧に確認した際、陽が「ここでいいです」と答えた瞬間、なんとなくまっすぐアパートに帰る気になれなかっただけだった。
八神から手渡された『運のメカニズム』の冊子は、上着の内ポケットに入っている。歩くたびに、心臓の上で薄い紙束が擦れる音がした。
宇宙のバランスの、要石。
その言葉は、聞いた瞬間よりも、駅を出て荒川の土手沿いを歩き始めてから、じわじわと陽の背中を重くした。要石というものが具体的に何なのか、彼にはよくわからない。神社の下に埋まっている石だろうか。地震を鎮めるという、アレだとするなら、自分は鯰の頭を押さえつけている名もない石ということになる。
石は動かない。石は選ばれない。石はただそこにある。
だが、石はいつも地面の下だ。
陽は土手の斜面に生えた雑草を爪先で軽く蹴った。名前を知らない黄色い花が、風に揺れた。
アパートに戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。
三〇二号室のドアに鍵を差し込もうとしたとき、隣の三〇一号室のドアが開いた。
「あら、陽くん、おかえりなさい」
原田さんだった。
年の頃は六十を過ぎているはずだが、正確な年齢を陽は知らない。この築三十年の木造アパートに陽より先に住んでいて、引っ越してきた日に玄関のドアの前へラップにくるまれたおにぎりを二個置いておいてくれた人だ。もう五年になる。
「今、お帰り? 遅かったのねえ」
「はい、ちょっと区役所で」
「区役所。生活保護?」
「……いえ、まあ、その、健康診断みたいなもので」
「そう。健康が一番よ」
原田さんはそう言って深く頷いた。両手には青いポリバケツを持っていた。中に雑巾とたわし、洗剤のボトルが入っている。共用廊下の掃除をこれから始めるらしかった。
「原田さん、この時間から掃除ですか」
「うん、朝は忙しくてね。今日は昼にお医者行って、それから買い物行って、洗濯物取り込んで、ご飯食べて、やっと今」
「……」
「歳を取るとね、一日の中で体の動く時間帯がだんだん短くなるの。夜のほうが調子いい日もあるのよ」
原田さんはそう言って笑った。
陽はなんとなく鍵を差し込むのをやめ、鞄を自室の玄関脇に置いてから外に出た。
「手伝います」
「あら、いいのに」
「僕、今日時間があるので」
正確には時間しかない、というのが正しい。派遣は切られた。次の職探しは明日からでも間に合う。
陽は原田さんからたわしを一本受け取り、共用廊下の隅にこびりついた土埃を屈んでこすり始めた。
「陽くん、若いのに腰、大事にしてね」
「はい」
「私ね、五十過ぎたときにぎっくり腰やってね。それからよ、若いうちが本当に大事だと思うようになったのは」
「……」
「若いってね、あるだけで、それが運なのよ」
――そう聞かされた瞬間、陽の手がたわしを持ったままふっと止まった。
若い、ということが運。
彼の身体には九兆九千九百九十九億の−LQが凝集している。地球上の個人としての圧倒的最大値。人類史上最悪の運。
その身体が、それでもここまで五体満足で歩いてこられたこと。二十八年間、大きな病気ひとつせずに、こうしてしゃがんでたわしを動かせていること。
陽は自分の右手の甲をぼんやりと見つめた。関節の皺のひとつひとつが、蛍光灯の下ではっきりと影を落としていた。
原田さんはそんな陽の様子を特に気にする様子もなく、鼻歌のようなものをひらひらと口ずさみながら廊下の反対側を拭いていた。
「原田さん」
「はい」
「原田さんは、なんで毎日こんなことしてるんですか」
「こんなこと、って」
「掃除とか、道の掃き掃除とか、あと、あの、猫」
アパートの裏手に雨よけの箱を作り、原田さんが毎朝餌をやっている茶トラの子猫がいた。首輪はない。誰の猫でもない。原田さんが勝手に「みかん」と呼んでいた。
「みかんちゃん?」
「はい」
「あの子はね、去年の秋に雨の中でぴいぴい鳴いてたのを見つけて。ほっとけなかったのよ」
原田さんは雑巾をバケツの水で絞りながら続けた。
「特に深い理由はないの。理由があってやることって続かないもの」
「続かない、ですか」
「うん。ご褒美とか感謝とかそういうの目当てにするとね、貰えなかったときに腹立っちゃうでしょう」
「はあ」
「腹立てながら善いことするのは、善いことじゃなくて、ただの貸し借りだから」
陽はたわしを動かす手をゆっくり再開した。
「一日一善って言うでしょう」
「はい」
「あれ、私は順番が逆だと思うのよ」
「逆」
「善いことをするから一日になる。一日を、善くする、っていうかね」
原田さんはそう言って、また鼻歌のようなものを口ずさみ始めた。
陽はしばらく無言で廊下の隅を磨いた。
ならば
一日一善
世の為
人の為
自ら何かに加勢出来たら
偽善でも結構
運はそこで味方に付く
――胸ポケットの八神の冊子の中にあるそんな一節を、陽はまだ知らなかった。だが、それに近い温度のものを、この日、この廊下でしゃがんだ姿勢のまま、彼は確かに指先で触れていた。
掃除が終わったのは二十一時を回った頃だった。
原田さんはバケツを片付けながら「ちょっと待ってて」と言い、部屋に戻って白い皿を持って出てきた。皿の上には握られたばかりのおにぎりが二つ乗っていた。
「今日、鮭が安かったからたくさん焼いたの。もらってくれる?」
「あの、いつもすみません」
「いいのよ。私一人じゃ食べきれないんだから」
陽は皿を両手で受け取った。
――そのおにぎりが、あと数日後、彼の存在をこの世界に繋ぎ止める錘(おもり)になることを、まだ誰も知らない。
原田さんは部屋に戻る前に、ふと廊下の窓の外を見た。
「あら、今日の月、綺麗ね」
陽もつられて外を見た。
雲の切れ間に、半月に少し欠けた月が白く滲んでいた。それは彼が今日、区役所と霞が関で見せられた青い霧のマップとも、赤黒い霧のマップとも、まったく別の光だった。ただの月の光だった。
「原田さん」
「うん?」
「僕、しばらく少し留守にするかもしれません」
「あら、旅行?」
「……のようなものです」
「気をつけてね。おにぎりは冷凍しておくと日持ちするから」
原田さんはそう言って、自分の部屋のドアを静かに閉めた。
陽は二つのおにぎりが乗った皿を両手で持ったまま、しばらく廊下に立っていた。皿の熱が、じんわりと指の腹に伝わっていた。
――要石は、いつも地面の下だ。
――だが、要石を上から見下ろしている月は、いつも地面の上にある。
意味のない比喩が、彼の頭の中をゆっくりと通り過ぎていった。



第4章 キーストーンの召喚
三日後の朝、六時。
まだ暗いうちに陽の携帯電話が鳴った。
「沢渡さん。詠美です。今から迎えに上がります。二十分後、アパートの前」
「あの、今日まだ心の準備が」
「その準備の時間を、これから車内で三十分差し上げます」
電話は切れた。陽は寝袋のような毛布から抜け出し、冷たい水で顔を洗い、シャツの上に一番まともなジャケットを羽織った。
冷凍庫から原田さんのおにぎりをひとつ取り出した。ラップに包み直し、ジャケットの内ポケットに入れた。反対側の内ポケットには八神の冊子。左右の胸に、それぞれ違う重さの錘を抱えた形になった。
黒塗りの公用車は時間ちょうどに来た。
車内には詠美と、そして後部座席の中央に八神室長が座っていた。八神は今日は黒いスーツではなく、濃いグレーの背広を着ている。ネクタイの結び目はやはり綺麗すぎるほど整っていた。
「沢渡さん、朝早くから申し訳ない」
八神はそう言って車内で軽く頭を下げた。
「事態が想定より早く動きました」
車は環状道路を抜け、首都高速に乗った。窓の外を、まだ青みがかった夜明け前の街が流れていく。
「昨夜、二十三時三十七分。ラクセ・ホールディングスが東京湾上に建設中の〝ラクセ・タワー〟の最終工程を非公式に完了させました」
「ラクセ、タワー」
「はい」
八神の代わりに詠美が説明を引き取った。
「Luck Exchange の頭文字を取ってラクセ、と略します。ラクセ・ホールディングスは日本国内、および東アジアの+LQ市場のおよそ七十四パーセントを握っている財閥です。CEOは神楽坂 誠(かぐらざか・まこと)。表向きは投資会社の会長ですが、実質この国のLQ経済の九割を差配しています」
「そんな人がいたんですね」
「表舞台には出ません。テレビにも新聞にも顔写真は一度も出たことがありません」
「僕、こんな世界に住んでたんですね」
陽は乾いた声で言った。詠美はその皮肉を無視した。
「ラクセ・タワーは公式には〝海上型データセンター〟という名目で建設されてきました。ですが実態は違います」
「実態」
「世界規模のLQオークション会場です」
八神が詠美の言葉を継いだ。
「明日の正午――正確には三十時間後――ラクセ・タワーの最上階で〝グローバル・ラック・オークション〟が開催されます。世界中の+LQ保有者が自分の持ち分を出品し、落札者はたった一人。落札金額の下限は公表されていませんが、我々の試算では地球のGDPのおよそ二・三倍」
「……はあ」
「落札者は事実上、地球上のプラス運量子の九十九パーセントを独占することになります」
車がレインボーブリッジに差し掛かった。まだ夜が明けきっていない海の向こうに、白い塔の先端が朝焼けを反射して点のように光っていた。
あれがラクセ・タワーだ、と詠美が指差した。
「地上二百四十七階、海上高度およそ九百八十メートル。世界一高い建造物です。今朝、完成しました」
「昨日までなかったんですか」
「ありました。ただ最上階の展望フロアが昨夜、湾内から曳航されて上部にドッキングされたのです。完成というのはその意味です」
「便利ですね」
「便利というより常軌を逸しています」
詠美はそう答えた。彼女は時折、真顔で辛辣なことを言う。
車はいつの間にか湾岸のヘリポートに入っていた。専用の待機所に白いヘリコプターが一機、プロペラを回さずに静かに待っている。
「これから我々と一緒にラクセ・タワーに向かっていただきます」
八神が車を降りながらそう言った。
「オークションの、下見ですか」
「いいえ」
八神はヘリのドアを開けながら振り返った。
「あなたが要石として〝場〟の中に立つことで、初めて我々にも神楽坂の狙いが正確に見えるようになります。あなたのマイナスが強すぎて、通常のセンサーでは周辺のプラスが逆に『見えなくなっている』のです」
「見えないほど深い、ということですか」
「はい」
「僕、天体観測でいうとブラックホールみたいなものですね」
「まさにその通りです」
八神はそう言って、初めてはっきりと笑った。
ヘリコプターはゆっくりとプロペラを回し始めた。夜明けの光が湾の水面を少しずつ橙色に染めていく。
陽はシートベルトを締めながら、内ポケットの重さを両手でそっと確かめた。左に原田さんのおにぎり。右に八神の詩集。
――要石が、初めて地面から浮き上がる瞬間だった。
ヘリコプターがラクセ・タワーの上空に近づくにつれ、陽は自分の頭の中に奇妙な違和感が広がるのを感じた。
耳鳴りではない。頭痛でもない。もっと深い場所で、何かがゆっくりと押し寄せてきている。
「感じますか、沢渡さん」
詠美がヘッドセット越しに声をかけた。
「これが+LQの集積です。あなたのマイナスと共鳴しかけています」
「僕、吐きそうです」
「吐かないでください。ヘリの中は狭いので」
詠美の返答は冷徹だった。
タワーは近づくにつれ、その大きさが視覚を圧倒した。地上二百四十七階と聞いても数字はただの数字だ。だが実物の白い塔が朝の海の上にまっすぐ立っている光景は、数字とは次元の違う圧倒感があった。上空から見下ろすと、塔の頭頂部には円盤状の展望フロアが載っていて、まるで細い竿の先に刺された白い月のようだった。
「あの円盤の中でオークションが開かれます」
詠美が指差した。
「今日は下見です。神楽坂はまだ現地入りしていません。オークションは明日の正午。今日は警備の穴を確認します」
「僕、要石ですよね。下見の要石ってなんですか」
「歩く警報装置です」
詠美はそう答えた。
ヘリコプターはタワー中腹の専用ヘリパッドに着陸した。ドアが開くと湾の潮の匂いが鼻先に流れ込んだ。同時に陽の胃の底で、ぐるりと何かが動いた。それは単なる乗り物酔いではなかった。彼の内側にある九兆九千九百九十九億の−LQが、周囲の空気に満ちた+LQに警戒するように身を震わせていたのだ。
タワー内部は白い大理石と透明なガラス、そして金の縁飾りで統一されていた。趣味が悪いのか良いのか陽には判断がつかなかったが、ただ凄まじく金がかかっていることだけは内装のあらゆる細部から匂い立っていた。
「これから幹部フロアの応接室でお待ちいただきます」
八神がそう言った。
「先方の担当者と面談です」
「担当者」
「神楽坂誠その人ではありません。彼の孫娘です」
――八神がそう言った瞬間、陽の頭の中に、なぜか板橋のアパートの裏手にいるあの子猫の姿がふとよぎった。
彼はまだ、その連想の理由を知らなかった。
応接室の扉が、内側から静かに開いた。
「はじめまして、沢渡さん」
現れたのは二十歳前後の、ワンピース姿の細身の女性だった。長い髪をひとつに結び、化粧はほとんどしていない。ラクセ財閥の後継者と聞かされていた陽が想像していた姿とは、まるで違っていた。
「神楽坂 天音(かぐらざか・あまね)と申します」
彼女はそう名乗り、丁寧に深く頭を下げた。
そして頭を上げたとき、彼女は少しはにかむように笑った。
「あの、突然で恐縮ですが」
天音はそう前置きしてから続けた。
「沢渡さんは、もしかして板橋区四丁目のあのアパートにお住まいですか」
陽は自分の耳を疑った。
「……なんでそれを」
「みかんちゃんの」
天音はそう言って、内ポケットから一枚の写真を取り出した。
写真には、原田さんのアパートの裏手で雨よけの箱に丸まっている、あの茶トラの子猫が写っていた。
「みかんちゃんの本当の飼い主が、私なんです」
――要石は地面の下にある。
――だが、地面の下はときどき、思いもよらない場所と繋がっている。
陽の内ポケットで、原田さんのおにぎりが少しだけ重くなった気がした。



第5章 上昇気流
天音の話は単純だった。
一年前の秋、彼女はロンドンの寄宿舎から初めて日本の祖父の家に長期滞在した。祖父の家は東京・松濤にあり、広い庭付きの豪邸で、当然ながら通りには一匹の野良猫もいなかった。
だが、天音は一日だけ、祖父の運転手をつけずに板橋の商店街を歩いたことがあった。祖父が「東京の下町を一度見てきなさい」と珍しく気まぐれを言ったからだった。
板橋の四丁目、狭い路地の中で、彼女は雨に濡れた生まれたばかりの子猫を拾った。連れて帰りたかったが、松濤の家は祖父が動物アレルギーだった。仕方なく雨よけの箱を作り、そこに子猫を置いて翌朝餌を届けようとしたら、すでに餌が置かれていた。
原田さんが先に見つけていたのだった。
「私、次の日遠くから見てたんです。おばあさんが猫に話しかけながら餌をあげていて」
天音は写真の中のみかんちゃんを、指の腹でそっと撫でるようにした。
「この人にお任せしたほうがこの子は幸せだって思ったんです。祖父の家に連れて行っても、私は寄宿舎に戻ればいなくなってしまうから」
「……そうでしたか」
「時々日本に戻ってきたとき、遠くから様子を見に行っていました。一度、路地の入り口で、あのアパートの三〇二号室の窓から出てくる若い男の人が、みかんちゃんに『おはよう』って声をかけているのを見ました」
陽は、自分がそんなことをした覚えを正直まったく持っていなかった。だが朝、寝ぼけて出勤する道すがら、無意識にそういう言葉を口走っていた可能性は否定できなかった。
「あの方が沢渡さん、ですよね」
「……たぶん」
「今回、祖父の会社の内部資料で『ラクセ・タワー・オークションに政府側から要石が派遣される』という記載を見て、その要石の住所が板橋区四丁目と書かれているのを見つけました」
天音はそこで深く頭を下げた。
「私、あなたにお願いに来たんです」
応接室の空気がしんと静まり返った。窓の外、海の水面が朝日でぎらぎらと光っていた。
「祖父を止めてください」
八神と詠美は応接室の外に控えており、室内にいるのは天音と陽の二人きりだった。
「祖父は五年前から様子がおかしいんです」
天音は静かに語り始めた。
「元々無口な人でした。でも優しい人だった。私が寄宿舎に入る前は、松濤の庭で一緒に樹に虫がつかないよう消毒をしてくれる、そういう人でした」
「はい」
「五年前、祖母が亡くなってから祖父は変わりました。+LQを集めるようになったんです。最初はラクセの経営のためだと言っていました。でもここ二年は違います」
「違う、というと」
「祖父は『寿命』を買いたがっています」
寿命、という言葉が応接室の白い壁にぽつりと置かれた。
「LQは寿命を延ばすと言われているんです。医学的にはまだ確定していません。でも+LQ残高が高い人は統計的に平均寿命が長い。祖父はそれを『延命の切符』だと信じています」
「……」
「祖母はある事故で亡くなりました。祖父はずっとそれを後悔しているんです。もしあのとき+LQを持っていれば、祖母はあの事故に遭わなかった、と」
天音は自分の膝の上で両手を静かに組んだ。
「明日、祖父は地球上のほとんどすべての+LQを独占します。そしてそれを『ある取引先』に売り渡すつもりです」
「取引先」
「地球の外です」
陽はその言葉を聞いた瞬間、応接室のシャンデリアの光が少しだけ揺らいだような気がした。錯覚だ、と自分に言い聞かせた。
「地球の外」
「はい。祖父はその取引先から『永遠の生』を対価として受け取ると契約書に書いています。私、その契約書を祖父の書斎で見ました」
「宇宙人と契約……」
「そう聞くと荒唐無稽ですよね」
天音は自嘲するように笑った。
「私も最初は祖父がおかしくなったのだと思いました。でもラクセ・ホールディングスの監査資料の中に、正体不明の『海外法人』が複数登場するんです。所在地は書類上ケイマン諸島やジブラルタルといった地球上の場所になっています。でも実際に問い合わせると、その住所には何もありません」
「……」
「祖父はそういう表向きの窓口を複数持っています。そして彼らを通じて+LQを地球外に輸出しようとしています。輸出、という言い方が正しいかはわかりませんが」
陽は自分の内ポケットにある原田さんのおにぎりの重さを静かに確認した。
「もしそれが本当だったとして」
陽は慎重に声を発した。
「それが成立したら、地球はどうなるんですか」
天音の目がそこで初めてはっきりと揺れた。
「地球上の+LQは、ほとんどゼロに近くなります。+LQを持たない世界では、良いことは統計的にほとんど起こらなくなります。誰も宝くじに当たらない。誰も良い縁に恵まれない。誰も思わぬ幸運を掴めない」
「……」
「代わりに−LQはそのまま残ります。QBL――プラマイゼロの法則――は、実は地球単体では成立しません。宇宙全体で辻褄を合わせているだけです。+LQだけが外に流出しても宇宙全体ではゼロのままですから、法則は破れません」
「地球だけが」
「地球だけがマイナスの『沈底(しずみ)』になります」
陽は深く息を吸った。
天音の言葉が、彼の内側で少しずつ意味を成し始めた。
彼が二十八年間抱え続けてきた「観測史上最低の運」。それは彼一人の身に起きた個別の不幸のように見えて、実は地球という星が抱える巨大な均衡の、ほんの一部の極端な偏りに過ぎなかったのだ。
もし+LQが地球外に流出したら。
原田さんは朝掃除に出て転倒するかもしれない。
みかんは餌を食べているところを誰かに蹴られるかもしれない。
派遣先でなんとか働いていた同僚たちは、次々と契約を切られるかもしれない。
無数の、平々凡々な、〝わずかに足らずとも安定している〟人生が、一斉に−LQの沈底に沈むかもしれない。
陽の頭の中で、八神の詩の一節がふと浮かんだ。
健康であること
安全に来れたこと
わずかに足らずとも
安定していること
そこそこ足らずとも
カネは回っていること
――そういう目立たない、けれど確かに存在している日常の運たちが、地球から根こそぎ剥がされる。
陽は応接室の窓の外を見た。
海の上に、雲の切れ間から太陽の光がまっすぐに一本降り注いでいた。
その光の柱を見ていると、なぜか彼の胸の内側に、これまで感じたことのない奇妙な感覚がそろりと湧き上がってきた。
怒りではない。正義感でもない。もっと地味な、けれど頑固な何かだった。
「天音さん」
「はい」
「僕、たぶん今、生まれて初めて自分が『要石で良かった』と思いました」
「……」
「二十八年間、僕はずっと鳥の糞に当たり続けてきたんです。財布を落として、電車を止めて、あんこの入っていないあんぱんを食べてきた。それがこういう日のためだったのなら、たぶん悪くない話です」
天音はしばらく陽の顔をじっと見つめていた。それから彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ何もしてません」
「『やる』と決めてくれたことが、もう私にとっては十分です」
応接室の外で、詠美と八神が待っていた。
「決まりましたか」
詠美が静かに訊いた。
「決まりました」
陽はそう答えた。
八神はほんの少しだけ目を細めた。それは笑顔と言うには弱く、けれど無表情と言うには確かに温度のある微妙な表情だった。
「では、明日正午。ラクセ・タワー最上階オークション会場」
「はい」
「あなたには要石として、そこに立っていただきます」
「立って、それから」
「それから、あなたの−LQを解き放ちます」
八神はそう言って、初めて少しだけ声を落とした。
「これは率直にお伝えしなければなりません、沢渡さん」
「はい」
「あなたが九兆九千九百九十九億の−LQを一度に解き放った場合、あなた自身がその反動でどうなるかは我々にも正確に予測できません」
「消えますか」
「消える可能性が六割です」
八神は静かにそう告げた。
陽はそれを聞いて、しばらく廊下の白い壁を見つめていた。やがて、彼は少しだけ笑った。
「六割で消えて、四割で残るんですね」
「はい」
「二十八年間、僕、九割九分悪いことばかりだったんです。四割で残るなら上出来です」
その日の午後、陽はヘリコプターで本土に戻された。
板橋のアパートに帰る途中、車内で彼は八神の冊子を静かに開いた。真ん中あたりのページに、こういう一節があった。
そう
努力の上に
運が舞い込めば
それは強い味方となって
目の前に訪れた上昇気流に乗り
舞い上がることも出来ようが
――努力の上に、運が舞い込む。
陽は自分の二十八年間を努力と呼べるかどうか、正直自信がなかった。
だが少なくとも、鳥の糞に当たり続けても、財布を落とし続けても、あんこの入っていないあんぱんを食べ続けても、彼は生きるのをやめなかった。
朝、起きた。
夜、眠った。
時々、隣人の掃除を手伝った。
名前も知らない子猫に、寝ぼけて「おはよう」と言った。
それが努力と呼べるかはわからない。けれど少なくとも、彼は『続けて』いた。
――続ける、ということが、努力のいちばん薄い、いちばん静かな形なのかもしれなかった。
車の窓の外で、夕方の風が街路樹の葉をまとめて一方向へ押し流した。
上昇気流、というほどではない。けれど確かに、風が吹いていた。
陽は冊子を閉じ、内ポケットの反対側に入れていた原田さんのおにぎりをそっと握り直した。まだ少しだけ、温度が残っている気がした。



第6章 ラクセ・タワー襲撃
翌日、正午まであと三十分。
陽はラクセ・タワー最上階、円盤状の展望フロアの控え室にいた。窓の外には朝とは打って変わって雲ひとつない青空が広がっている。九百八十メートルの高さから見下ろす海は、皺ひとつない布のように静かだった。
「沢渡さん、これを」
詠美が小さな金属製のブローチを差し出した。羽根を広げた鳥をかたどった地味な意匠だった。
「発信機ですか」
「違います。あなたの−LQの放出タイミングを我々の管制室と同期させるためのキーです。オークションが最高潮に達した瞬間――神楽坂が落札を宣言した、その一秒後――ここを親指で押してください」
「押したら」
「あなたの中の九兆九千九百九十九億が一気に解き放たれます」
陽はブローチを受け取り、ジャケットの襟に留めた。左胸には原田さんのおにぎり。右胸には八神の冊子。そして今、襟に詠美が渡した鳥。三つの重さが彼の身体の輪郭を静かに決めていた。
「八神さんは」
「会場の反対側、来賓のふりをして潜入しています」
「天音さんは」
「祖父の付き添いとして壇上にいます。彼女はあなたと接触したことをまだ祖父に知られていません」
控え室のドアが開き、案内係の男が「そろそろお時間です」と告げた。
展望フロアはドーム状の巨大な空間だった。床は磨き上げられた黒曜石のような石材で、天井は外の青空がそのまま透けて見える強化ガラス。壁際には世界各国の富豪や政府関係者、正体不明の代理人たちがそれぞれの陣営で静かに立っていた。誰も大声を出さず、誰も笑わない。まるで葬儀の会場のようだった。
壇上、中央の演壇に白髪を後ろに撫でつけた痩身の老人が立っていた。神楽坂誠。写真でしか見たことのなかった顔が、初めて実物としてそこにあった。目は落ち窪み頬はこけていたが、背筋だけは不自然なほどまっすぐに伸びている。
その隣に天音が立っていた。彼女は昨日会ったときと同じ静かな表情のまま、会場のどこかに視線を漂わせていた。一瞬、その視線が陽の立つあたりで止まった。
司会者がマイクを取った。
「本日、正午をもちまして『グローバル・ラック・オークション』を開始いたします。出品物は、地球上に現存する+LQ残高の九十九・八パーセント。開始価格は――」
数字が読み上げられた瞬間、会場の空気が目に見えて張り詰めた。壁際の代理人たちが一斉にタブレット端末に視線を落とした。
「開始します」
司会者の声とともに、演壇の背後の巨大スクリーンに青い数字が猛烈な速さで上がり始めた。
陽はその光景を見ながら、自分の中の−LQが周囲の+LQの奔流に静かに、しかし確実に反応しているのを感じた。胃の底から頭の芯まで、細かい振動が這い上がってくる。吐き気に近いがそれだけではない、もっと根源的な「異物感」だった。
彼は、自分がこの空間で唯一の異物なのだとはっきりと自覚した。
――要石とは、異物のことだ。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
――周囲と馴染まないからこそ、周囲を支えられる。
会場の空気がさらに張り詰めていく。青い数字は地球のGDPの二倍を超え、二・三倍に近づいていた。
そのとき、会場の入口付近で小さな悲鳴が上がった。
黒い制服を着た警備員たちが一斉に扉のほうへ走り出した。天井のスピーカーから緊急放送のアナウンスが流れた。
「関係者以外の立ち入りを確認しました。会場内の皆様は落ち着いて――」
陽は視線を巡らせた。入口から数十人の見覚えのない集団がなだれ込んでくるのが見えた。彼らは腕に青いLQマップの偏在図を印刷した腕章を巻いていた。
「ラクセの独占反対デモ隊です」
いつの間にか陽のすぐ後ろに立っていた八神が囁いた。
「彼らは我々の作戦とは無関係です。純粋な市民団体です。ですが、これは好都合かもしれません」
「好都合」
「会場の混乱は、あなたが−LQを解き放つ瞬間の絶好の目くらましになります」
演壇の神楽坂は、デモ隊の乱入に眉ひとつ動かさなかった。彼は静かにマイクに向かって言った。
「続けなさい。オークションは止めない」
警備員たちがデモ隊を力ずくで排除し始めた。押し合いの中で誰かが転び、悲鳴が上がった。会場の一部が騒然となる。
その混乱の中、陽は天音と目が合った。彼女は小さく頷いた。
――そのとき、演壇の背後のスクリーンで青い数字がピタリと止まった。
「落札されました」
司会者の声が響いた。
「落札者は――神楽坂誠様」
会場が水を打ったように静まり返った。
神楽坂は演壇の上で、静かに両手を広げた。
「地球上の+LQはこれより正式に私、神楽坂誠個人の所有物となります」
その声には勝利の高揚も喜びもなかった。ただ乾いた、確認のような響きだけがあった。
「そして、この所有権は直ちに『取引先』へと移転されます」
神楽坂がそう言った、まさにその瞬間。
「今です、沢渡さん」
詠美の声が雑踏の中、はっきりと陽の耳に届いた。
陽は襟のブローチに親指を押し当てた。
――押した。
世界が一瞬、白くなった。
彼の身体の中心――胸のあたりから、目に見えない、しかし確実に存在する何かが外に向かって放たれていくのを陽は感じた。それは痛みではなかった。ただ二十八年間、彼の内側に静かに積み重なってきたありとあらゆる不運の重みが、一気に彼の輪郭の外へと溢れ出していく感覚だった。
床が大きく揺れた。
天井の強化ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が瞬時に走った。
会場の照明が一斉に明滅した。
壁際の代理人たちのタブレット端末が次々と火花を上げて沈黙した。
そして――演壇の背後のスクリーンに表示されていた青い数字が、みるみるうちに色を失っていった。青は灰色に、灰色はそして赤黒く。
神楽坂の顔が、初めて驚愕に歪んだ。
「――何が」
彼の声はそこで途切れた。
会場全体を包んでいたあのじわじわとした緊張と高揚の気配が、一瞬にして粘度の高い重苦しい沈黙に塗り替えられていった。
陽はその中心に立っていた。両膝が激しく震えていた。
だが、彼は倒れなかった。



第7章 プラマイゼロの真実
会場は混乱の極みにあった。
窓の外の空が、さっきまでの晴天が嘘のように急速に鉛色の雲に覆われていった。強化ガラスの亀裂から細い隙間風がひゅうと音を立てて吹き込んでくる。
「これは、いったい……」
神楽坂は演壇の上で両手を震わせていた。周りに集まっていた側近たちが一斉に後ずさる。
八神が混乱に乗じて演壇の近くまで進み出た。陽も詠美に支えられながらその後を追った。
「神楽坂さん」
八神が静かに声をかけた。
「運量子庁、特別均衡室の八神です。あなたの落札した+LQは、いまこの瞬間、彼――沢渡陽さんの−LQと相殺されました」
「相殺……」
神楽坂はその言葉を口の中で繰り返した。
「地球上の+LQの九十九・八パーセント。それに匹敵する量の−LQが、この一瞬で放出されたということですか」
「正確には、彼の−LQは九兆九千九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九粒。あなたが落札した+LQの総量とは桁が違います。それでもその方向性――+から−への急激な傾き――を、彼の存在がこの会場において一時的に押し戻したのです」
八神はそう説明しながら、陽の肩にそっと手を置いた。
「彼は要石です。あなたがこの星のプラス運を地球外に運び出そうとしたまさにその瞬間、彼がこの星のマイナス運をこの会場にまとめて叩きつけたのです」
神楽坂の顔から血の気が引いていった。
「馬鹿な。私は正当な取引を――」
「正当、ですか」
天音がそこで初めて口を開いた。
「おじいさま」
彼女の声は震えていた。だがその視線はまっすぐ祖父を見据えていた。
「私、書斎の契約書を見ました。『地球外』の相手に+LQを輸出する契約」
「天音――」
「対価は、おじいさまの『永遠の生』」
「……」
「おばあさまが亡くなったこと、私辛かったです。おじいさまがそれをずっと後悔してることも知ってます。でも」
天音は拳を握りしめた。
「地球中の人から+LQを根こそぎ奪っていいわけじゃない!」
会場の隅で、亀裂の走った天井からぽつり、ぽつりと雨が漏れ始めていた。鉛色の雲から本物の雨が降り始めていたのだ。
神楽坂はしばらく無言だった。彼は演壇の手すりに両手をついた。その手が微かに震えている。
「……お前は知らないんだ」
やがて、絞り出すように彼は言った。
「妻を失った日。私はその日、朝からずっとツイていなかった。会議室の鍵が開かなかった。車が渋渋滞に巻き込まれた。携帯電話が圏外だった。そして病院に着いたとき、彼女はもう――」
神楽坂の声がそこで詰まった。
「もし――もし私があの日、+LQを少しでも持っていたら。会議室の鍵はすぐに開いた。渋滞には巻き込まれなかった。携帯は圏外にならなかった。私は間に合ったんだ!」
会場に雨の音だけが静かに響いていた。
陽はその言葉を聞きながら、自分の胸の内ポケットにまだ原田さんのおにぎりが入っていることを確かめた。冷凍のままここまで持ってきてしまったそれは、もうとっくに解凍され、柔らかくなっていた。
「神楽坂さん」
陽は震える足で一歩前に出た。
「僕は二十八年間、観測史上最悪の運を抱えて生きてきました」
「……」
「鳥の糞に当たって、財布を落として、あんこの入っていないあんぱんを食べて、契約を切られて。数えきれないくらいツイてなかった」
「それが、何だ」
神楽坂の声はまだ震えていた。
「それでも」
陽は続けた。
「その中で、僕におにぎりをくれる人がいました。理由もなく、ただ『ほっとけなかったから』って猫を拾って餌をやる人が。運が悪くても、隣に誰かがいれば一日は終わるんです」
陽は内ポケットから原田さんのおにぎりを取り出した。ラップの中で形が崩れ、ぐしゃりと潰れていた。それでも彼はそれを両手で大切に持ち上げた。
「あなたの+LQへの執着は、たぶん奥さんを失った悲しみと正比例しています。でもその執着が、地球中の『おにぎりをくれる人』の運を奪うことに繋がっている」
「……」
「奥さんが、それを望むと思いますか」
神楽坂は崩れ落ちた。
演壇の手すりに崩れるように両膝をついた。彼の乾いた頬を涙が一筋伝った。
「私は……」
彼の声は、もう経営者のものではなかった。ただの老いた一人の男の震える声だった。
「私はただ、もう一度彼女に会いたかっただけだ……」
天音が祖父の傍らに跪いた。彼女は何も言わず、ただ老いた祖父の背中にそっと手を添えた。
会場の照明が断続的に明滅していた。天井の亀裂からは雨が絶え間なく降り続けている。
だが、演壇の背後のスクリーンに映っていたあの赤黒く染まった数字が――ゆっくりと色を取り戻し始めていた。
赤黒は灰色に。灰色は青に。



第8章 観測史上最低値の使い道
雨はいつの間にかやんでいた。
会場のスクリーンに映る数字は青に戻ったあと、ゆっくりとゼロに近づいていった。+LQも−LQも極端な偏りをなくし、平準化されていく。誰かが「均衡が戻っていく」と呟いた。
陽は演壇のそばの床に座り込んでいた。全身から力という力が抜けていた。指先が震えてまっすぐ伸ばせない。
「沢渡さん」
詠美がそばに膝をつき、彼の脈を確かめた。
「気分は」
「……最悪です。いつも通り」
陽はそう言って小さく笑った。詠美の表情がわずかに緩んだ。
「六割で消えると聞いていました」
八神が陽の反対側に膝をついた。
「はい」
「消えませんでしたね」
「はい。すみません、期待に添えず」
八神はそこで初めて声を出して笑った。
「謝る理由がどこにもありません」
神楽坂は警備員に付き添われ、会場の奥の応接室に運ばれていった。天音は祖父に付き添いながら、一度だけ振り返って陽に深く頭を下げた。彼女の目にはまだ涙が残っていたが、その表情は来たときよりもずっと静かだった。
オークションは「技術的な不備」という名目で中止が発表され、落札は無効とされた。+LQは地球上にそのまま留まったのだ。
会場を出るとき、陽は床の隅に小さな白い塊が落ちているのに気づいた。
原田さんのおにぎりだった。混乱の中で彼の手から落ちてしまったらしい。ラップは破れ、米粒があたりに散らばっていた。
陽はしゃがみこんで、それを両手でそっと拾い集めた。
「もう食べられませんね、これ」
詠美が隣にしゃがみながら言った。
「はい。でも」
陽は崩れた米粒をラップの上に集めながら言った。
「捨てられないです、なんとなく」
詠美はそれ以上何も言わなかった。ただ陽が崩れたおにぎりを丁寧に、丁寧に拾い集めるのを黙って見つめていた。
その夜、板橋のアパートに帰り着いたのは日付が変わる少し前だった。
三〇二号室のドアの前に、陽はしばらく立っていた。隣の三〇一号室の窓から灯りが漏れている。原田さんはまだ起きているらしかった。
陽はドアをノックしようとしてやめた。今日あったことをどう説明すればいいのか、見当もつかなかった。「要石でした」「地球を救いました」――そんな言葉、誰が信じるだろうか。
代わりに彼は、崩れたおにぎりの残骸――米粒だけを集めた小さな包み――を原田さんの部屋のドアの前にそっと置いた。
メモを一枚添えた。
『いただいたおにぎり、大事なときに力をくれました。ありがとうございました。――陽』
書いてから、「大事なとき」という言葉があまりに漠然としていることに気づいた。だがそれ以上正確に書ける言葉が見つからなかった。
自分の部屋に戻り、鍵を閉め、靴も脱がずに玄関へへたり込んだ。
天井からはまだ水が垂れていた。ぽたり、ぽたり、と。バケツの中に水が静かに溜まっていく音が部屋に響いていた。
――何も変わっていない。
陽はそう思った。
天井はまだ直っていない。冷蔵庫の卵はまだ賞味期限切れのままだろう。派遣先にはもう戻れない。生活は明日からまたゼロから探さなければならない。
けれど。
彼は天井を見上げた。
――僕の観測史上最低値は、今日初めて使い道があった。
そう思うと、垂れてくる水の音さえ少しだけ違って聞こえた。
不運は消えなかった。ただ、それが「誰かの役に立つ」という新しい意味を一度だけ持った。それだけで十分だった。
陽は玄関に座ったまま、いつの間にか眠りに落ちていた。



第9章 後同輩、そんなことだよ
一週間後、陽は新しい派遣先の面接会場にいた。
面接官は四十代半ばの疲れた顔の男だった。履歴書をぱらぱらとめくりながら、「前職、三ヶ月で契約終了ですか」と無感情に確認してきた。
「はい」
「理由は」
「予算の都合と聞いています」
面接官はそれ以上深くは突っ込んでこなかった。よくある話、という顔をしていた。
面接の帰り道、駅の改札でICカードの残高がまた足りなかった。チャージ機の前でまた少し並んだ。
――変わらない。
陽はそう思いながら小さく笑った。
要石としての一件のあと、詠美から一度だけ連絡があった。「あなたのLQ残高は、あの日の放出により観測史上最低値から『単なる最低値』程度にまで緩和されました」と事務的な口調で報告された。
「単なる最低値、というのは」
「まだ日本国内で最下位です。ですが『観測史上』という枕詞は外れました」
「それは良くなったということですか」
「はい。統計的には」
陽は電話越しに、詠美が少しだけ口の端を上げているのを想像した。
「詠美さん」
「はい」
「原田さんに、ラクセ・タワーであったこと正直に話してもいいですか」
「守秘義務違反になります」
「じゃあ話しません」
「……ただ、個人的には」
詠美はそこで少し間を置いた。
「あなたが誰に何を話すかは、あなたの自由だと思います」
派遣会社から新しい仕事の紹介が来たのは、その三日後だった。運送会社の倉庫管理。特に変わったところのないごく普通の時給の仕事だった。
面接の合否連絡が来た日、陽は原田さんの部屋のドアを初めて自分からノックした。
「あら、陽くん」
「原田さん、あの、少しお話ししてもいいですか」
「いいわよ。上がっていく?」
陽は原田さんの部屋の小さな座卓の前に正正座した。原田さんはお茶を淹れてくれた。
「あの日置いていったメモ、読みました」
原田さんが湯呑みを陽の前に置きながら言った。
「『大事なときに力をくれました』って、あれどういうこと?」
「……信じてもらえるかわからないんですけど」
陽は湯呑みを両手で包むように持った。
「僕、少し前まで『要石』っていうのをやってました」
「要石」
「はい。地球の運のバランスを保つための、なんていうか、錘みたいなもので」
原田さんは目を丸くした。
「陽くん、それ本当?」
「本当です。信じてもらえないと思うんですけど」
原田さんはしばらく陽の顔をじっと見ていた。それから、ふふ、と笑った。
「信じるわよ」
「え」
「陽くんね、嘘をつくのが下手なんだもの。表情に全部出ちゃう」
「……」
「それに私思うのよ。この世の中、要石みたいな人がどこかにいなきゃ成り立たないって」
原田さんは湯呑みを両手で持ちながら続けた。
「私だってね、掃除もみかんちゃんの世話も誰かに褒められたくてやってるわけじゃないの。でもそれがこの廊下のどこかで誰かの支えになってるのかもしれない。そういう名前のつかない仕事って、世の中にいっぱいあるのよ」
「……」
「陽くんの要石も、たぶんその大きいバージョンなんじゃないかしら」
陽は湯呑みをじっと見つめた。湯気が静かに立ち上っていた。
「原田さん」
「はい」
「新しい仕事が決まりました。運送会社の倉庫の仕事です」
「あら、良かったじゃない」
「時給は前とそんなに変わらないです。特に面白い仕事でもないです」
「うん」
「でも、なんかちゃんと続けてみようと思います」
原田さんはまた、ふふ、と笑った。
「後同輩、そんなことだよ」
「え」
「後から続く人たちに伝えたいことなんて、結局そんなことだけなのよ。ちゃんと続けなさいって」
陽はその言葉の意味を正確には理解できなかった。だがなぜか、胸の奥に静かに落ちてくるものがあった。
湯呑みの中の茶を、陽はゆっくりと飲み干した。



第10章 平な道
半年後。
陽は倉庫の朝礼を終え、フォークリフトの点検簿に判子を押していた。同僚の一人が「沢渡さん、今日荷物多いっすね」と声をかけてきた。「そうだね」と陽は短く答えた。
三ヶ月ごとの契約更新は、この半年で二回無事に続いていた。特に目立った成果があったわけではない。ただ遅刻もせず無断欠勤もせず、淡々と積み荷を運び続けていた。
昼休み、休憩室のベンチで陽はコンビニのおにぎりを頬張っていた。鮭のおにぎりだった。中身にはちゃんと鮭が入っている。
「あんこの入ってないあんぱん、あれから食べてないな」
誰にともなくそう呟いて、陽は小さく笑った。
アパートの天井の水漏れは、あれから二週間後に業者が来て直った。管理会社からは詫び状代わりに商品券が届いた。金額は五千円。安すぎると思ったが、もらえるだけましだった。
三〇一号室の原田さんは相変わらず朝の掃除を続けている。みかんは少し大きくなった。天音は月に一度くらい、こっそりみかんの様子を見にきているらしい。時々陽と路地ですれ違う。彼女はその度に静かに会釈をする。会話はほとんどしない。それで十分だった。
神楽坂誠はラクセ・ホールディングスの経営から退き、天音が後を継いだという話を詠美から聞いた。会社の方針は大きく変わったらしい。「+LQの独占」から「+LQの公平な分配」へ。地味な、けれど確実な方向転換だった。
詠美とはあれから半年で三度連絡があった。二度は業務上の確認。一度は彼女のほうから「近くまで来たので」と板橋の商店街のコロッケ屋の前で待ち合わせた。ただコロッケを二人で立ち食いしただけだった。それ以上のことはまだ何もない。だが、それで十分だった。
ある日の夜、陽は押し入れの奥から八神の冊子――『運のメカニズム』を久しぶりに取り出した。ページをめくると、まだ読んでいなかった最後のほうのページに、こう書かれていた。
平々凡々な日々は
きっと
特別な日々よりも
歩くのが難しい
なぜなら
平な道には
迎え風も
追い風もなく
ただ
自分の足だけが
頼りだから
けれど
その道を
一歩ずつ
歩き続けられることこそ
本当の 運の
使い方なのかもしれない
陽はその一節を何度も読み返した。
観測史上最低値だった彼のLQ残高は、いまも日本国内で最下位のままだ。宝くじはまだ一度も当たったことがない。契約はいつまた切られるかわからない。あんこの入っていないあんぱんは、そのうちまた彼に当たるかもしれない。
それでも。
陽は冊子を閉じ、窓の外を見た。
半月に少し満ちてきた月が、白く静かに浮かんでいた。あの日、ラクセ・タワーの上から見た赤黒い霧のマップも、青い霧のマップも、今はどこにも見えない。ただいつもと変わらない板橋の夜空がそこにあるだけだった。
要石は、いまも地面の下にある。
けれど地面の上を、彼は今日も一歩ずつ歩いている。
平な道を、ただまっすぐに。
――完――


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あとがき
本作『運のメカニズム』は、「運」という目に見えないあやふやな存在が、もし目に見える数値として社会を支配するようになったらどうなるだろう、というささやかな疑問から生まれました。
私たちは日々の生活の中で、思い通りにいかないことや理不尽なトラブルに見舞われると、つい「自分はなんて運が悪いのだろう」と投げやりになってしまうことがあります。しかし、一見すると何の役にも立たないように思える日々の忍耐や、報われない穏やかな善意が、実は巡り巡って誰かの日常を支える目立たない柱になっているのかもしれない――そんな願いを込めて、主人公・沢渡陽の物語を紡ぎました。
派手なヒーローのような解決はできなくとも、不運の中でも腐らず、隣人に少しだけ優しくし、今日一日を愚直に生き抜く。それこそが、この不確実な世界を生きる私たちが持ち得る最高の「力」なのではないかと思います。
作品の中に登場する八神室長の言葉や詩のように、皆様の歩む「平らな道」が、どうか静かで穏やかなものでありますように。


時を纏う人
―――還暦の夜に、纏ったことのない服を―――


まえがき
年齢を重ねるにつれ、私たちは知らず知らずのうちに「もう若くないから」「今更こんなことをしても」と、自分の心に小さなブレーキをかけてしまいがちです。けれど、心の奥底で静かに燃え続ける「自分らしく生きたい」という情熱は、決して消えることはありません。
本作『時を纏う人』は、還暦を迎えた主人公・美冬が、過去の「選ばなかった人生」と向き合いながら、本当の自分を取り戻していく物語です。若さへ執着することと、いくつになっても新しい一歩を踏み出すことの違い。それは、大人になった私たちが誰しも抱える葛藤かもしれません。
この物語が、日々の中でふと足をとめ、ご自身の「これから」に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。どうぞ、美冬の旅路を一緒にお楽しみください。




序章 燻る本音
年齢というものは、いつから服のように重くなったのだろう。
若い頃は気にも留めなかった。二十代の頃、開田美冬(かいだ・みふゆ)はリュックひとつで知らない街に降り立つことに、何のためらいもなかった。言葉の通じない国で道に迷っても、それすらも旅の一部として笑い飛ばせた。
けれど気がつけば、六十年という歳月が彼女の肩にのしかかっていた。還暦。その響きは、まるで扉が静かに閉まる音のように、美冬の耳の奥に残り続けていた。
「もう、そういう歳じゃないから」
その台詞を、この一年でいったい何度口にしただろう。誘われた登山も、通信講座で学び直そうとしていた語学も、若い同僚に誘われた一人旅の相談も、すべて「歳相応に」という見えない糸に絡め取られて、実行に移されることなく消えていった。
けれど、心の奥底では、小さな火種がずっと燻っていた。
――自分はいつまでも、自分でありたい。
その本音は、誰に言うでもなく、ただ美冬の中でじっと燃え続けていた。灰にはならず、かといって燃え上がることもなく。
そんなある雨の夜、美冬はいつもの帰り道で、見たことのない路地に出会うことになる。



第一章 消えた路地
その日は朝から小雨が降っていた。定年退職してから半年、美冬は週に三日、近所の図書館でボランティアの読み聞かせをしていた。子どもたちに絵本を読む声だけは、六十年経っても変わらず若々しいと言われる。それが唯一の慰めだった。
帰り道、いつものように商店街を抜けようとしたとき、ふと視線の先に見慣れない路地が目に入った。
三十年以上住んでいる街だ。この商店街のことなら、どの店がいつ閉店してどの店ができたかまで覚えている。なのに、乾物屋と美容室の間に、こんな路地があっただろうか。
傘を傾け、美冬は路地を覗き込んだ。奥には橙色の灯りがぼんやりと滲んでいる。看板らしきものが揺れているが、文字はかすれていて読めない。
普段の美冬なら、きっと素通りしていただろう。知らない路地に足を踏み入れるなんて、若い頃ならいざ知らず、今の自分には似合わない。そう思う自分と、もう一人の自分がせめぎ合った。
――今日ぐらい、いいじゃない。
気づけば美冬は、傘の柄をきゅっと握り直し、路地の奥へと足を踏み入れていた。
雨音が急に遠くなった。路地は思っていたよりずっと長く、両側の壁には見たこともない蔦の模様が這っている。歩けば歩くほど、商店街の喧騒が薄れていき、代わりに微かな鈴の音のようなものが聞こえてきた。
やがて美冬の目の前に、一軒の店が現れた。
木製の古い扉には、達筆な筆文字でこう書かれていた。
「無何有堂(むかうどう)」
聞いたこともない店の名前だった。窓越しに見える店内には、色とりどりの衣服がずらりと吊るされている。それはコートのようでもあり、着物のようでもあり、宇宙服のようにも見える、奇妙な形をした衣だった。
扉に手をかけようとしたその時、中から声がした。
「お入りください。あなたを、お待ちしておりました」



第二章 無何有堂
扉を開けると、蝋燭の匂いと、古い紙の匂いが入り混じった空気が美冬を包んだ。店内は外から見た以上に広く、天井まで届く棚には、無数の衣服が並んでいる。どれも仕立てが美しく、それでいて見たこともない意匠が施されていた。
カウンターの奥に立っていたのは、年齢不詳の人物だった。長い黒髪を一本の紐で結び、瞳の色がろうそくの灯りに合わせて金色にも青色にも見える。性別すら判然としない、静謐な佇まいだった。
「わたしは綴(つづり)と申します。この店の主人のようなものです」
「あの……この店は、いつからここに?」
「さあ。それはお客様によって違うのです」美冬の問いに、綴は微笑みながら答えた。「この店は、必要としている方の前にしか現れません」
美冬は困惑しながらも、なぜか恐怖は感じなかった。むしろ、長年探していた場所にようやく辿り着いたような、奇妙な安堵感すらあった。
「この服は……?」
「これは『装(そう)』と呼ばれるものです。人が纏わなかった人生――選ばなかった道、諦めた夢、口にしなかった本音。それらが織り込まれた一着一着です」
綴は棚から一着のコートを取り出した。深い藍色の生地に、銀色の糸で細かな刺繍が施されている。まるで夜空に星々が散らばっているようだった。
「これは、ある方が三十年前に諦めた、遠洋航海士になる夢が織り込まれています。着る人が現れるまで、ずっとここで眠っているのです」
美冬は思わず息を呑んだ。
「その方は……どうなったのですか」
綴は少し目を伏せた。
「もう十年以上前のことです。その方は結局、この装を纏うことなく、店を出て行かれました。『今更、船に乗ったところで、あの頃の自分には戻れない』と仰って」
「戻れない、から諦めた……」
「けれど、装というのは、戻るためのものではないのです。それは後で、あなたにもわかることでしょう」
綴はそう言うと、藍色のコートをそっと棚に戻した。美冬はその仕草に、どこか寂しさのようなものを感じ取った。この店には、纏われることのないまま眠り続ける装が、他にもたくさんあるのだろう。誰にも袖を通されることなく、静かに埃を被っていく無数の「もしも」の人生。それを思うと、美冬の胸は締め付けられた。
「では、他の装は……」
「棚の奥をご覧ください」
促されるまま、美冬は店の奥へと視線をやった。天井近くまで届く棚には、数えきれないほどの装が並んでいた。医師になるはずだった白衣、画家になるはずだった絵の具まみれのエプロン、遠い異国で暮らすはずだった民族衣装。どれもこれも、誰かの人生の欠片だった。
「これほど多くの『もしも』が、この街だけにあるのですか」
「この街だけではありません。無何有堂は、必要とする者がいる場所ならどこにでも現れます。ただ、纏われることを選ぶ方は、実のところ、それほど多くはないのです」
美冬は思わず綴の顔を見た。
「たいていの方は、扉を開けることさえしません。あるいは、扉の前で立ち止まり、そのまま帰ってしまわれます。ここまで足を踏み入れ、装に手を伸ばされたあなたは、実は珍しいお客様なのですよ」
その言葉に、美冬は何かを試されているような、不思議な緊張を覚えた。
「では……私にも、そういう服があるのですか」
綴は答える代わりに、静かに店の奥へと歩いていった。美冬はその後をついていくしかなかった。
奥の部屋には、一着だけ、他とは違う気配を纏った衣が掛けられていた。それは、コートというより、旅装束に近いものだった。使い込まれた革のような質感でありながら、触れると温かく、まるで生きているようだった。
「これは……」
「あなたが二十代の頃、纏うはずだった『冒険』です」
綴の声は、どこまでも静かだった。
「年齢を脱いで、冒険を羽織る――そうおっしゃっていましたね、あなたは」
美冬は目を見開いた。それは、若い頃の自分が、誰かに――いや、自分自身に呟いた言葉だった。誰にも聞かれていないはずのその言葉を、なぜこの人物は知っているのだろう。



第三章 纏った服
「これを、着てもいいのですか」
美冬の問いに、綴はゆっくりと頷いた。
「ただし、一つだけ約束していただきたいことがあります。装を纏っている間、あなたは『纏った時間』の中を生きることになります。それは夢でもなければ、幻でもありません。もう一つの現実です」
「もう一つの……現実」
「そして、装を脱ぐ時間を、ご自身で決めていただく必要があります。長く纏いすぎれば、戻る場所を見失うことがあります」
美冬は少し躊躇した。だが、心の奥で燻り続けていたあの本音が、迷いを押しのけた。
――今日ぐらい、いいじゃない。
美冬は旅装束に袖を通した。
瞬間、視界が眩く弾けた。

気がつくと、美冬は見知らぬ港町の石畳の上に立っていた。潮の匂い、遠くで響く汽笛、異国の言葉が飛び交う市場のざわめき。手には使い込まれたリュックサックの紐が握られていて、鏡のような水たまりに映った自分の姿を見て、美冬は言葉を失った。
そこに映っていたのは、二十代の頃の自分だった。
肌の張り、身体の軽さ、何より、瞳の奥に宿る「これから何が起こるかわからない」という高揚感。それは還暦を迎えてから、すっかり失っていたものだった。
「これが……纏う、ということ」
美冬は自分の手を握ったり開いたりしながら、確かめるようにつぶやいた。
その日から、美冬の「もう一つの人生」が始まった。
見知らぬ港町から次の街へ、言葉の通じない市場で身振り手振りで値切り交渉をし、汽車に揺られ、時には道に迷い、見知らぬ人々と食卓を囲んだ。若い身体で駆け抜ける世界は、記憶にあるどんな旅行よりも眩しかった。
港町を出て三日目、美冬は小さな漁村に立ち寄った。そこで出会ったのは、同じように旅をしていた青年、ミハイルという名の考古学者だった。彼は遺跡の発掘調査のためにこの地を訪れているのだと言い、美冬を発掘現場に案内してくれた。
「君のような旅人は珍しいね。まるで、何十年分もの経験を積んだ目をしている」
ミハイルの言葉に、美冬は思わず苦笑した。彼にはもちろん、美冬が本当は六十歳であることなど知る由もない。けれど、その言葉は、美冬の中に眠っていた何かをくすぐった。
「昔は、こんな風に旅をするのが夢だったの」
「昔、って。君はまだ若いじゃないか」
美冬は答えなかった。ただ、夕陽に照らされた遺跡の石組みを眺めながら、静かに微笑んでいた。
その後も、美冬の旅は続いた。砂漠の国では星空の下でキャンプをし、ラクダに乗って何日もかけて隊商とともに移動した。雪深い山村では見知らぬ家族に迎えられ、暖炉を囲んで夜通し語り合った。言葉はほとんど通じなかったが、湯気の立つスープと、身振り手振りの会話だけで、不思議と心は通じ合った。
ある夜、山村の老婆が美冬の手を取り、皺だらけの掌をじっと見つめてこう言った。
「あなたの手には、若い娘の手には似合わない何かが宿っているね。まるで、長い旅をしてきた人の手のようだ」
美冬は驚いて自分の手を見た。若々しい肌の下に、確かに何か――言葉にできない重みのようなものを、老婆は見抜いたようだった。美冬はその夜、なかなか寝付けなかった。
二十代の身体は疲れを知らず、行く先々で新しい出会いがあり、美冬の心は満たされ続けていた。けれど、旅を続けるほどに、ふとした瞬間、心の奥がざわつくことが増えていった。まるで、大切な忘れ物をしたまま、遠くまで来てしまったような、そんな落ち着かなさだった。
けれど美冬は気づいていなかった。装を纏い続けるうちに、少しずつ、現実の記憶が薄れていっていることに。



第四章 消えていく人々
一方、現実の世界では、奇妙な出来事が起き始めていた。
美冬の元教え子で、今は市役所に勤める沙耶(さや)という女性が、ある日を境に姿を消した。家族は「最初からそんな娘はいなかった」と言い張り、沙耶の存在そのものが、まるで最初からなかったことのように、街の記憶から消えかけていた。
沙耶の同僚だった青年、涼介(りょうすけ)だけが、その異変に気づいていた。彼は美冬の教え子でもあり、以前、美冬に不思議な路地の噂を聞いたことがあった。
「先生……無何有堂って店、知りませんか」
涼介は美冬の自宅を訪ねた。しかし応答したのは美冬の隣人だった。
「美冬さん? ああ、少し前から見かけないわねえ。旅行にでも行ったのかしら」
隣人の言葉に、涼介は背筋が冷えるのを感じた。美冬が旅行に出かけるなど、聞いたことがなかったからだ。
涼介は独自に調査を始めた。街のあちこちで、似たような話を耳にするようになった。ある日突然姿を消し、家族すら「最初からいなかった」かのように記録から抜け落ちていく人々。共通するのは、皆一様に、人生のどこかで「諦めた夢」を抱えていたということだった。
市役所の同僚だった沙耶の机には、彼女が最後に書いていたメモが残されていた。「乾物屋と美容室の間」――それだけが走り書きされていた。涼介はそのメモを頼りに、何日も商店街を歩き回った。
三日目の夜、雨が降り出した頃、涼介はようやくあの路地を見つけた。奇妙なことに、路地はいつも同じ場所にあるわけではなかった。ある日は乾物屋と美容室の間に、またある日は本屋と喫茶店の間に、まるで気まぐれのように現れては消えていた。涼介はそれに気づくまでに、随分と時間を無駄にしてしまった。
商店街のシャッターがひとつ、またひとつと閉まっていく中、涼介は傘も差さずに走った。もし今夜、路地を見失えば、次にいつ現れるかわからない。沙耶を、そして――胸の奥で、涼介は美冬の名前を思い浮かべていた。あの日から美冬にも会えていないことに、彼はようやく気づいたのだった。
涼介は古い商店街を歩き回り、ついにあの路地を見つけ出した。
雨の降る夜、涼介は傘も差さずに路地を駆け抜けた。



第五章 綴の正体
「あなたが、涼介さんですね」
無何有堂の扉を開けた涼介を、綴は静かに迎えた。
「沙耶を……美冬先生を、返してください」
涼介の声は震えていた。綴はしばらく沈黙した後、ゆっくりと語り始めた。
「わたしは、この宇宙のどこにも属さない者です。人々が選ばなかった可能性――量子的な分岐の中で、実現されることのなかった無数の『人生の断片』を集め、それを衣として編み上げる役目を負っています」
綴は棚に並ぶ無数の装を見渡した。
「本来、装は『纏う』ためのものではありません。人が心の奥にしまい込んだ後悔を、ほんの束の間だけ追体験し、そして手放すための儀式の道具です。装を纏った者は、いずれ自らの意志で脱ぎ、現実へと戻ってくるはずでした」
「はずでした、というのは……」
「ここ最近、装の織り目に綻びが生じているのです。装の力が強くなりすぎ、纏った者たちが、現実に戻る意志そのものを失いつつある。彼らは分岐した世界――もう一つの人生の中に、留まり続けてしまっている」
綴の瞳に、初めて憂いの色が浮かんだ。
「わたし自身、この綻びの原因を掴みかねています。ですが、このまま放っておけば、纏った方々は元の世界から完全に消え、世界の記憶からも消去されてしまうでしょう。既にお二人ほど、その兆候が」
「沙耶と……美冬先生」
涼介は拳を握りしめた。
「先生を、助ける方法はあるんですか」
綴は少し考えた後、静かに頷いた。
「一つだけ。装を纏ったまま分岐世界に深く入り込んだ者を引き戻すには、現実世界とその者を繋ぐ『まだ燻っている本音』――いわば未練の糸を、外側から手繰り寄せる必要があります。それができるのは、わたしではなく、その方を大切に想う、現実世界の人間だけです」



第六章 もう一つの世界
美冬は、いくつもの街を巡っていた。
砂漠の国では星空の下でキャンプをし、雪深い山村では見知らぬ家族に迎えられ、暖炉を囲んで夜通し語り合った。二十代の身体は疲れを知らず、行く先々で新しい出会いがあり、美冬の心は満たされ続けていた。
けれど、ある夜、山小屋の窓に映った自分の顔を見て、美冬はふと違和感を覚えた。
――わたしは、誰だったろう。
一瞬、名前が出てこなかった。図書館で読み聞かせをしていたことも、隣に住む猫好きの老婦人のことも、記憶の輪郭がぼやけ始めていた。ただ、この旅の高揚感だけが、鮮明に残っていた。
「おかしいわ……」
美冬は自分の頬に触れた。若々しい肌の感触。けれど、その下にあるはずの、六十年分の記憶が、まるで薄い紙のように透けて消えかけていた。
そのとき、遠くから声が聞こえた気がした。
「先生」
聞き覚えのある声。誰だったか、思い出せない。けれど、その声を聞いた瞬間、美冬の胸の奥で、小さな灯りが揺れた。
「先生っ、美冬先生!」
美冬は目を閉じた。頭の中に、断片的な光景が蘇り始める。図書館の絵本の匂い。子どもたちの笑い声。隣人のお婆さんが淹れてくれるお茶。そして――
「涼介……くん?」
名前を思い出した瞬間、美冬を包んでいた旅の景色が、ガラスのようにひび割れ始めた。



第七章 綻び
現実世界。無何有堂の奥の部屋で、涼介は綴に導かれ、美冬が最初に袖を通した旅装束の残り布に手を触れていた。
「この布には、美冬先生の想いが、まだ僅かに残っています。あなたが心から先生を想う気持ちを込めて、この布に語りかけてください。それが、先生を引き戻す糸になります」
涼介は目を閉じ、記憶を辿った。
高校生の頃、美冬先生に勧められて読んだ本のこと。進路に迷っていたとき、先生が「あなたが本当にやりたいことを、諦めないで」と言ってくれたこと。あの時の言葉が、今の自分を作ってくれたこと。
「先生……先生がいなくなったら、俺、あの時の言葉に応えられなくなる。先生は、俺に『諦めるな』って言ったじゃないですか。なのに、先生自身が、こっちの世界を諦めるなんて、ずるいですよ」
涼介の声が震えた。
「先生の読み聞かせの声、俺、好きでした。子どもの頃、母が忙しくて、先生の図書館の時間だけが、俺の居場所だったんです。だから――帰ってきてください」
布がぼんやりと光り始めた。綴は静かにその様子を見守っていた。
「これで、糸は繋がりました。あとは、美冬さんご自身の選択次第です」



第八章 選択
もう一つの世界で、美冬は雪山の斜面に立ち尽くしていた。目の前には、二つの道が見えていた。
一つは、このまま旅を続ける道。二十代の身体のまま、世界中を旅し、誰にも縛られず、思うままに生きる人生。もう後悔することも、諦めることもない。
もう一つは、六十年分の記憶と、皺と、白髪と、そして涼介の声が待つ、あの現実の道。
美冬は長い間、その場に立ち尽くしていた。
――ここに残れば、もう「歳相応に」なんて言葉に縛られることはない。ずっと、あの頃のままの自分でいられる。
けれど、ふと美冬の脳裏に、還暦を迎えたあの夜の自分の姿が浮かんだ。鏡の前で白髪を数えながら、それでも「自分はいつまでも自分でありたい」と、静かに燻っていたあの本音。
――あれは、二十代に戻りたいという願いだったのだろうか。
違う、と美冬は気づいた。
あの燻る本音は、若さそのものを求めていたのではなかった。ただ、今の自分のまま、纏ったことのない服を纏う勇気が欲しかっただけだった。二十代の身体を借りて、二十代の人生をやり直すことではなく、六十歳の自分のままで、新しい冒険に踏み出したかっただけなのだ。
「わたしは……」
美冬は雪の中に立ったまま、静かに目を閉じた。
「わたしは、逃げたかったんじゃない。取り戻したかったんだ」
その言葉と共に、美冬を包んでいた旅装束が、ふわりと解けていくのを感じた。



第九章 今日という日
意識が戻ったとき、美冬は無何有堂の奥の部屋の椅子に座っていた。目の前には、涙目の涼介と、静かに微笑む綴の姿があった。
「先生……! よかった、本当に……」
「涼介くん……ありがとう」
美冬は自分の手を見た。皺の刻まれた、見慣れた六十歳の手だった。けれど、なぜだろう、その手を見つめる美冬の心は、これまでにないほど軽やかだった。
「沙耶さんは?」
「先生が戻られたことで、綻びが少し塞がったようです。彼女もまもなく、目を覚ますでしょう」綴が静かに答えた。
美冬は綴に向き直った。
「綴さん。装というのは、結局のところ、何だったのでしょうか」
綴はしばらく考えた後、答えた。
「装は、失われた可能性そのものです。けれど、それは決して『戻るべき場所』ではありません。あなた方が本当に取り戻すべきものは、装の中にではなく、あなた方自身の、これから先の時間の中にあるのです」
美冬は静かに頷いた。
「わたし、わかった気がします。年齢を脱いで冒険を羽織るというのは、若返ることじゃなかった。今のわたしのままで、新しい服に袖を通す勇気を持つことだったんです」
綴は微笑んだ。その微笑みは、初めて見せる、どこか安堵したような表情だった。
「その通りです、美冬さん」



終章 纏ったことのない服
数日後、無何有堂は静かに姿を消した。あの路地も、乾物屋と美容室の間から跡形もなく消え去り、まるで最初から存在しなかったかのようだった。
沙耶は無事に目を覚まし、あの数日間の記憶は曖昧なまま、それでも「何かとても大切なことに気づいた気がする」と、涼介に語った。
美冬は、あの日以来、少しずつ変わり始めていた。
通信講座で諦めていたスペイン語の勉強を再開し、来月には近所の登山サークルに体験参加することにした。子どもの頃から憧れていた遠くの街への一人旅も、来年の春に計画している。
還暦という言葉は、もう美冬を縛る鎖ではなくなっていた。それはただの、通過点の名前に過ぎなかった。
沙耶は目を覚ました後、市役所を辞め、以前から興味を持っていた地域の子育て支援NPOで働き始めた。「なんだか、雪山で誰かに背中を押されたような気がするんです」と、彼女は照れくさそうに涼介に語ったという。もちろん、その「誰か」が美冬であったことを、沙耶自身は知らない。
涼介は、あの夜のことを誰にも話さなかった。話したところで、誰も信じないだろうとわかっていたからだ。けれど、彼の中で何かが確かに変わっていた。それまで「安定しているから」という理由だけで続けていた仕事を辞め、以前からやりたいと思っていた、子ども向けの科学教室を開く準備を始めていた。
「先生に、諦めるなって言われましたから」
久しぶりに図書館を訪れた涼介は、そう言って笑った。美冬はその笑顔を見て、目頭が熱くなるのを感じた。かつて自分が誰かに掛けた言葉が、巡り巡って、今度は自分自身を救う糸になっていたのだと、美冬はようやく理解した。
ある日の夕方、図書館での読み聞かせを終えた美冬は、いつもの商店街を歩きながら、ふと乾物屋と美容室の間に目をやった。もちろん、そこにあの路地はない。ただの、狭い隙間があるだけだった。
美冬は小さく笑った。
「また、いつか会えるかしらね」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、夕暮れの風に溶けて消えていった。
家に帰り着いた美冬は、鏡の前に立った。白髪の増えた髪、目尻の皺、けれど、その奥に宿る瞳の輝きは、あの旅装束を纏った二十代の自分と、何一つ変わらなかった。
「さあ、行こう」
美冬はクローゼットを開けた。そこには、ずっと着ることを躊躇っていた、鮮やかな色のジャケットが掛かっていた。娘が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。「派手すぎる」と一度も袖を通したことのなかったそのジャケットに、美冬はゆっくりと腕を通した。
来年には、また一つ齢を取る。
けれど、今日という日は、これから先の人生の中で、一番若い日なのだ。
美冬は玄関のドアを開け、夕暮れの街へと、新しい一歩を踏み出した。

数か月後、美冬はついに念願だった一人旅に出た。行き先は、若い頃に一度だけ写真集で見て憧れた、遠い異国の港町だった。飛行機に乗るのは十数年ぶりで、搭乗ゲートで少し手が震えたけれど、それすらも愛おしく思えた。
到着した港町の石畳を歩きながら、美冬はふと、あの旅装束を纏って歩いた景色を思い出していた。あれは幻だったのだろうか、それとも、確かに存在したもう一つの現実だったのだろうか。今となっては、確かめる術はない。ただ、あの旅で感じた高揚感だけは、六十歳の美冬の胸の中に、確かに息づいていた。
港の市場で、美冬は一枚のスカーフを買った。鮮やかな藍色に、銀色の刺繍が施された、どこか見覚えのあるスカーフだった。店主に尋ねても、いつからこの店にあったのか誰も覚えていないという。美冬はそのスカーフを首に巻き、潮風に吹かれながら、静かに微笑んだ。
「また会えたわね」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、遠い異国の風に溶けて、青い海の彼方へと消えていった。
美冬の新しい一歩は、まだ始まったばかりだった。この先も、纏ったことのない服が、きっといくつも待っている。それがどんな形をしていようと、どんな色をしていようと、美冬はもう恐れることなく、その袖に腕を通すだろう。
なぜなら、今日という日は――いつだって、これから先の人生で、一番若い日なのだから。
―――完―――


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あとがき
「今日という日は、これからの人生の中で一番若い日」――作中で美冬が辿り着いたこの言葉は、私自身が日々の暮らしの中で切実に実感している思いでもあります。  
過去を振り返って後悔したり、もしもの選択に心を残したりすることは誰にでもあります。しかし、どれほど時間を巻き戻したくとも、真に大切なのは「今の自分のままで、新しい衣服に袖を通す勇気」なのだと、美冬の物語を通じて改めて教えられた気がします。  
読者のみなさまの明日が、新しい一歩を踏み出す鮮やかな一日に彩られますように。心からの感謝を込めて。