空に、国境はない
――ある年の、まだ名前のついていない未来のために


まえがき
 空から地球を見ると、国境線は見えない。
 海と大陸があり、雲が流れ、夜には無数の灯りが浮かんでいる。
 けれど地上に降りれば、そこには国境があり、国籍があり、敵と味方がある。
 本を読む時間が失われ、短い映像と短い言葉だけが、人々の感情を動かすようになった未来。
 複雑な問題は、簡単な二択に置き換えられ、考えることさえ誰かに任せるようになった世界。
 その先で、もし二つの国の間に、ほんの小さな衝突が起きたら。
 もし、その瞬間に、誰かが「敵」と呼ばれたら。
 そして、その「敵」の中にも、自分と同じように、朝起きて、食事をして、大切な人を思い、明日を待っている人間がいることを思い出せたら。
 本作は、そんな未来を想像して書いた物語です。
 これは戦争の物語ではありません。
 戦争にならなかった夜の物語です。
 そして、その夜のあとに残された、まだ答えのない問いの物語です。




プロローグ
誰も読まなくなった本
 かつて、この国には本屋という場所があった。
 紙の匂いがして、ページをめくる音が聞こえる場所だった。
 誰かと話さなくてもよかった。
 何かを買わなくてもよかった。
 ただ棚の前に立ち、知らない誰かが書いた言葉を、ゆっくり読むことができた。
 けれど、いつからか、人々はそこを通り過ぎるようになった。
 本を読むには時間がかかる。
 考えるにも時間がかかる。
 だから人々は、画像のついた短い音声へ流れていった。
 三秒で笑い、五秒で怒り、七秒で忘れる。
 長い文章は読まれなくなった。
 複雑な話は嫌われた。
 答えのない問いは、もっと嫌われた。
 本屋は一軒、また一軒と灯りを消した。
 最後まで残った店も、やがてシャッターを下ろした。
 その向こう側には、誰にも読まれなくなった本が、まだ何千冊も眠っていた。
 情報は、誰かが選んで並べてくれる。
 自分で探さなくてもいい。
 自分で考えなくてもいい。
 そうして人々は、いつの間にか、自分の頭で考えることに少しずつ疲れるようになった。
 これは、その先にある物語だ。
 まだ、どこにも起きていない。
 けれど、もう、それほど遠くない未来の物語。
 ある年の、まだ名前のついていない未来。
 空だけが、すべてを知っていた。


一
慧――都市、二十歳
 慧のポケットの中で、世界は絶えず光っていた。
 朝、目を開けるより先に画面を見る。
 誰かの朝食。
 誰かの寝癖。
 誰かの短い冗談。
 誰かの怒り。
 まだ意味を成す前の言葉の断片が、次から次へと指先の下を流れていく。
「また潰れたんだって。駅前の本屋」
 友人の誠が言った。
「へえ」
 慧は画面から目を上げなかった。
「昔、あそこ結構大きかったよな」
「そうなの?」
「知らないのかよ」
「知らない」
 誠は笑った。
「まあ、俺も入ったことないけど」
 二人は笑った。
 それで話は終わった。
 本屋がなくなることに、もう誰も驚かなかった。
 むしろ慧には、あんなに場所を取る建物が、よく今まで残っていたものだと思えた。
 けれど夜になると、ときどき妙な気分になった。
 画面を消したあとの部屋が、急に広くなる。
 冷蔵庫の音。
 遠くを走る車。
 時計の秒針。
 そんなものが、やけに大きく聞こえる。
 何かを埋めなければいけない。
 そんな気がして、慧はまた画面をつける。
 光が戻る。
 音が戻る。
 人の声が戻る。
 そして、静けさが消える。
 その日も、昼休みにいつものように画面を眺めていた。
 見慣れないニュースが流れてきた。
 ――防衛予算、過去最大を更新。
 数字だけが大きく表示されている。
 その下には短いコメントが並んでいた。
 賛成。
 反対。
 当然。
 やりすぎ。
 誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが皮肉を言った。
 慧は何も押さなかった。
 指を滑らせる。
 次の動画へ。
 犬が踊っていた。
 慧は少し笑った。
 防衛費の数字は、もう画面の外へ消えていた。
 自分には関係のない話。
 そのときは、本当にそう思っていた。


二
秋山――永田町、五十四歳
 秋山は、言葉を扱う仕事についたつもりだった。
 若い頃は、議論を重ねれば人は分かり合えると信じていた。
 国と国との間にも、言葉は届く。
 時間はかかっても、対話を続ければ、いつか溝は埋まる。
 そう思って政治の道を選んだ。
 けれど五十四歳になった今、彼の前にあるのは、言葉では埋まらない沈黙ばかりだった。
 隣国からの軍事演習。
 同盟国からの負担増額要求。
 国内の不安。
 ネット上の怒号。
 国民は長い説明を待ってくれない。
 三十秒で結論の出ない話は、途中で画面から消される。
「秋山先生」
 秘書官が資料を差し出した。
「世論は、もっと分かりやすい説明を求めています」
 秋山は資料を受け取った。
「分かりやすい、ね」
「はい」
「つまり?」
 秘書官は少し困った顔をした。
「二択にしてほしい、ということです」
 秋山は笑わなかった。
 対話か、抑止か。
 話し合いか、武器か。
 安全か、危険か。
 本当は、その間に無数の道がある。
 けれど無数の道は、短い動画には向かない。
 だから秋山も、少しずつ変わっていった。
 言葉ではなく、数字を積み上げるようになった。
 防衛費。
 装備数。
 迎撃率。
 配備時間。
 数字なら、説明しやすい。
 数字なら、責任の所在も曖昧にできる。
 秋山自身、それに気づいていた。
 それでもやめられなかった。
 ある夜、議事堂を出た。
 空を見上げる。
 星は、都市の明かりにほとんど消されていた。
 秋山は思った。
 昔は、もっと星が見えた気がする。
 けれど、それが本当に星のせいなのか、自分のせいなのかは分からなかった。


三
美咲――軌道上、高度四百キロ
 美咲は、地球を一周するのに九十分しかかからないことを、身体で知っている数少ない人間の一人だった。
 窓の外には、青い星がある。
 大気の薄い縁が、青白く光っている。
 夜側に入る。
 都市の灯りが、地表に散らばった星のように浮かび上がる。
 東京。
 大阪。
 ソウル。
 上海。
 マニラ。
 その光の間に、国境線は見えない。
 海と陸の輪郭があるだけだ。
 美咲は、地上への定期報告を送りながら、いつも同じことを考えていた。
 ――国境は、地面の上にしかない。
 もちろん、地上では国境が重要だ。
 法律も違う。
 言葉も違う。
 歴史も違う。
 けれど、この高さまで来ると、それらは見えない。
「美咲さん」
 背後から声がした。
 振り向くと、ヤンがいた。
「地上、また騒がしいみたいですね」
「みたいね」
 ヤンは窓の外を見る。
 彼は隣国の出身だった。
 美咲とは、生まれた場所が違う。
 けれど、この一年、同じ食事を分け合い、同じ機器を点検し、同じ宇宙船で眠ってきた。
 ここでは、それをいちいち意識することはなかった。
 彼がどこの国の人間なのか。
 そんなことより、今日の酸素量の方が重要だった。
 美咲は苦笑した。
「ここから見ると、本当に馬鹿げて見えるのよ」
「何が?」
「地上の線」
 ヤンは少し考えてから笑った。
「線なんて、ここにはないですからね」
「そう」
 美咲は青い地球を見た。
 地球は今日も、何も知らない顔で回っていた。


四
涼――開発ラボ、三十二歳
 涼が設計したドローンは、人を助けるためのものだった。
 土砂崩れの現場で、瓦礫の下の体温を探す。
 台風のあと、孤立した集落に薬を届ける。
 山で遭難した人を見つける。
 彼は大学時代から、そのための機体を改良してきた。
 薄暗いラボで一人、瓦礫の模型に何度もセンサーをかざし、小さな命の反応を拾い上げようとしていたあの頃。
 軽く。
 速く。
 遠くまで。
 そして、もっと正確に。
 だから、上司からその話を聞いたときも、最初は意味が分からなかった。
「防衛省案件に、うちの技術が採用された」
「……防衛?」
「ああ」
 上司は悪びれなかった。
「国から大きな仕事が来た。会社としても悪くない」
 会議室のモニターには、涼の設計したセンサーが映っていた。
 形はほとんど同じだった。
 性能もほとんど同じ。
 けれど、画面に表示される言葉だけが違っていた。
 生存者。
 ではなく、
 標的。
 涼は黙っていた。
 生きている人を見つけるための目が、命を狙うための目に変わっていた。
 回路の設計図はほとんど変わっていない。
 それなのに、意味だけが反転している。
「涼くん」
 先輩が肩を叩いた。
「これも時代の要請だから」
「……そうですね」
 それ以上は言えなかった。
 その夜、涼は部屋の奥から一冊の本を取り出した。
 大学時代に買ったまま、ほとんど読んでいなかった本だった。
 埃を払う。
 ページを開く。
 そこに一行だけ、目に留まった。
 ――技術は、それだけでは善でも悪でもない。
 涼はしばらく、そのページを見つめていた。
 そして本を閉じなかった。


五
リナ――海の向こうの国、十九歳
 リナの部屋にも、慧の部屋と同じように、スマートフォンの青い光が満ちていた。
 言葉も違う。
 生まれた国も違う。
 食べるものも少し違う。
 けれど、朝起きて最初に画面を見ることだけは、慧と変わらなかった。
 彼女の国でも、本を読む若者は減っていた。
 彼女の国でも、防衛費という言葉がニュースに増えていた。
 指導者は、対岸の国を「脅威」と呼んだ。
 ニュースの画面には、国旗が大きく映された。
 リナは、それを見た。
 そして、少しだけ眉をひそめた。
 その国には、十九歳の女の子もいるだろう。
 大学へ行く人もいる。
 働く人もいる。
 恋をしている人もいる。
 朝寝坊して怒られている人もいる。
 そう思った。
 けれど、その考えを言葉にする前に、次の動画が始まった。
 猫が転んだ。
 リナは笑った。
 さっきまでの違和感は、画面の下へ流れていった。
 慧はリナを知らない。
 リナも慧を知らない。
 二人が出会うことはないかもしれない。
 けれど、もし出会っていたら。
 二人とも、同じことを思っただろう。
 ――自分は、たまたまこの国に生まれただけだ。
 生まれる国を、自分で選んだわけではない。
 国境の内側と外側。
 そのどちら側に生まれるかも、選べなかった。
 それなのに、大人たちは、その偶然の線を理由に、憎しみを語る。
 リナは、画面に出てくる「敵国」という文字を見るたび、少しだけ胸がざわついた。
 けれど、その感情を考えるには、画面はあまりにも速かった。


六
あと二発
 その日は、何の前触れもなくやってきた。
 隣接する海域で、小さな衝突が起きた。
 最初は、それだけだった。
 けれど、誰かが発砲したという未確認情報が流れた。
 確認される前に拡散した。
 拡散された情報に、別の情報が重なった。
 怒りが加わった。
 恐怖が加わった。
 そして、ほんの数時間で、二つの国の空気が変わった。
 慧の画面から、いつもの動画が消えた。
 赤い速報が画面を埋め尽くしている。
 ――東京・大阪に着弾の可能性。
「……何?」
 慧は画面を見つめた。
 意味が入ってこない。
 もう一度読む。
 東京。
 大阪。
 自分の知っている街だった。
 友人がいる。
 母親がいる。
 コンビニがある。
 大学がある。
 駅がある。
 ただ、それだけの普通の街だった。
 それが突然、ニュースの中で「目標」になった。
 慧は、三度読み返した。
 それでも現実にならなかった。
 秋山は、対策本部の会議室にいた。
 テーブルには地図が広げられている。
 赤い印が二つ。
 東京。
 大阪。
 秋山は、その二つの丸を見つめた。
 地図の上では小さな印だった。
 けれど、その中には何百万人もの人間がいる。
 朝、目覚ましを止めた人。
 学校へ向かった子ども。
 弁当を作った親。
 コンビニでコーヒーを買った会社員。
 慧も、その中の一人だ。
「秋山先生、対応を」
 声をかけられた。
 秋山は地図から目を離せなかった。
「……選択肢は?」
「迎撃。反撃。報復。いくつかあります」
「そうか」
 どれも、言葉としては簡単だった。
 けれど秋山には分かっていた。
 その言葉の一つ一つの向こう側に、人間がいる。
 軌道上では、美咲が緊急通信を受け取っていた。
「東京への脅威を確認」
 表示された文字を見つめる。
 東京。
 自分の故郷。
 そして、発射元候補として、ヤンの国の名前が表示されている。
 美咲は隣を見た。
 ヤンは黙っていた。
 窓の外には、青い地球。
 線はない。
 なのに、その星の上で、人間は線を引いていた。
 涼はニュースを見ていた。
 自社のシステムが、二つの飛翔体を追尾している。
 彼が作った目だった。
 人を探すために作った目。
 いまは、脅威を探している。
 涼の頭の中に、あの本の一文が浮かんだ。
 ――技術は、それだけでは善でも悪でもない。
「じゃあ……」
 涼は独り言のように呟いた。
「誰が決めるんだ」
 リナは、対岸の国のニュースを見ていた。
 自分の国の名前が出ている。
 「加害の可能性」
 そう読まれた。
 リナは何もしていない。
 朝起きた。
 学校へ行った。
 昼にパンを食べた。
 友人と少し笑った。
 それだけだった。
 それなのに、自分が生まれた国の名前だけで、自分も「敵」の側に置かれていた。
 画面の赤い文字を見つめながら、リナは初めて、スマートフォンを伏せた。


七
声
 秋山の前に、一枚の資料が置かれていた。
 迎撃成功率。
 八割。
「悪くない数字です」
 誰かが言った。
 秋山は、その数字を見つめた。
 八割。
 そして、その隣にある二割。
 その二割の中には、東京があるかもしれない。
 大阪があるかもしれない。
 慧がいるかもしれない。
 秋山は、手元にあった配備数の数字が並ぶ資料を、ゆっくりと裏返して伏せた。
「迎撃だけでは足りない」
「先生?」
「向こうと直接話す」
「今からですか?」
「今からだ」
 若い官僚が言った。
「今さら、対話ですか」
 秋山はその顔を見た。
「そうだ」
 声は震えていた。
「今さらでもいい」
 誰も口を挟まなかった。
「私たちは、対話の代わりに数字を積み上げてきた」
 秋山は続けた。
「防衛費。装備。迎撃率。発射時間。全部必要だったのかもしれない。だが、その数字だけでは、人間を守れない」
 秋山は電話を取った。
「私から話す」
 回線がつながった。
 相手国の指導者。
 直接会ったことはない。
 名前だけは知っている。
 向こうも、秋山の名前だけは知っているだろう。
 最初の数秒、二人とも何も言わなかった。
 秋山が口を開いた。
「あなたの国の若者たちも、私たちの国の若者たちも、たまたまその国に生まれただけです」
 返事はない。
「彼らは、自分の生まれる場所を選べませんでした」
 秋山は息を吸った。
「それなのに、選んでもいない理由で、命を差し出させるのですか」
 長い沈黙があった。
 秋山は、電話を切らなかった。
 受話器を強く握りしめる秋山の耳に、やがて向こうから小さな吐息と、声が届いた。
「……私にも、十九歳の娘がいます」
 秋山は受話器を握り直した。ほんの一瞬、部屋の喧騒が遠のいた。
「そうですか」
「あなたの国にも、いるのでしょう」
「はい」
 また沈黙。
「どうすればいい」
 相手の声は、指導者のものではなかった。
 一人の父親の声だった。
 その通話が、事態を変えたのか。
 別の判断が同時に動いていたのか。
 後になっても、誰にも正確なことは分からなかった。
 ただ一つ確かなのは、数字ではなく、人間の声が電話回線を通ったということだった。


八
着弾しなかった夜
 二発のミサイルは、最終的に、海上で軌道を変えた。
 誰もいない海域へ落下した。
 迎撃の成果だったのか。
 発射元の判断だったのか。
 あるいは、その両方だったのか。
 公式発表は、最後まで曖昧だった。
 慧は、自分の部屋に座っていた。
 テレビから、何度も同じニュースが流れている。
 着弾しなかった。
 その言葉だけが、何度も繰り返された。
 慧は、何も言えなかった。
 街が残った。
 友人もいる。
 駅もある。
 本屋の跡地もある。
 世界は、壊れなかった。
 そして、しばらくすると、画面にはいつもの動画が戻ってきた。
 誰かの朝食。
 誰かの冗談。
 誰かの猫。
 慧は指を動かしかけた。
 止まった。
 その夜、慧は閉店した本屋の前まで歩いた。
 シャッターは下りている。
 もう何年も、その前を通り過ぎるだけだった。
 けれど、その日は立ち止まった。
 シャッターの隙間から、わずかに中が見えた。
 埃をかぶった本。
 倒れた棚。
 古い紙の匂い。
 慧はしばらく動かなかった。
 そして、初めて思った。
 ――読んでみようかな。
 軌道上では、美咲が地球を見下ろしていた。
 東京の光。
 大阪の光。
 そして、隣国の光。
 すべてが、夜の地表に同じように散らばっている。
「今日も、線は見えないね」
 ヤンが言った。
「うん」
 美咲は答えた。
「見えないのに」
 少し間を置く。
「どうして、あるって信じられるんだろうね」
 ヤンは答えなかった。
 ただ、二人で地球を見ていた。
 涼は深夜のラボにいた。
 自分が設計した機体の図面を開く。
 画面の片隅に、用途を記入する欄がある。
 涼はそこに、しばらくカーソルを置いた。
 そして、一行を書いた。
 ――これは、誰かを見つけて、助けるための目である。
 保存ボタンを押した。
 それだけだった。
 けれど、涼にとっては、それで十分だった。
 リナはニュースを消した。
 暗くなった画面に、自分の顔が映った。
 十九歳。
 どこにでもいる、普通の女の子。
 彼女はふと思った。
 対岸の国にも、自分と同じ十九歳がいるのだろう。
 その人も、今夜、息を止めていたかもしれない。
 そう考えると、知らない誰かの顔が、少しだけ近く感じられた。


エピローグ
まだ答えのない問い
 戦争には、ならなかった。
 けれど、世界が根本から変わったわけではなかった。
 防衛費は、その後もしばらく増え続けた。
 本屋も、いくつか灯りを消した。
 人々は相変わらず、短い言葉と短い映像を追いかけた。
 怒りは、簡単に広がった。
 恐怖も、簡単に広がった。
 それでも、ほんの少しだけ変わったことがあった。
 慧は、月に一度、閉店した本屋の跡地にできた小さな古本コーナーへ行くようになった。
 一冊読むのに、三秒では足りない。
十秒でも足りない。
それでも、ページをめくった。
秋山は、演説の最後に、必ず一つだけ答えのない問いを残すようになった。
答えを与えることより、考える時間を残すことの方が大切な場合がある。
美咲は地上に戻ったあと、子どもたちの前で、いつも同じ写真を見せた。
国境線の描かれていない、夜の地球。
「この写真に、国境は見えますか?」
子どもたちは首を横に振る。
「じゃあ、ないんですか?」
一人の子どもが答える。
「見えないだけじゃない?」
美咲は笑った。
「そうかもしれません」
涼は、新しい機体を作るとき、契約書にサインする前に、以前より少し長く考えるようになった。
技術は、使う人間によって姿を変える。
だからこそ、自分が何を作るのかを考え続けなければならない。
リナは、対岸の国のニュースを見るたびに、画面の向こうにいる誰かを想像するようになった。
自分と同じ十九歳かもしれない。
自分と同じように、明日のことを考えているかもしれない。
名前も知らない。
顔も知らない。
それでも、どこかで同じ夜を見ている。
世界から、「自分たちだけが」という声が消えたわけではない。
今も、その声はある。
自分たちの国。
自分たちの安全。
自分たちの正しさ。
そう言い続ける声は、まだ強い。
けれど、その隣には別の声もある。
自分も。
あなたも。
生まれる場所を選べなかった。
同じ空の下で生きている。
その声は、まだ小さい。
けれど、確かに存在している。
次の夜も、きっと誰かが問いかける。
自分たちだけを守るのか。
それとも、自分も、あなたも守るのか。
その二つの声のどちらが、次の夜を選ぶのか。
答えは、まだ、誰も知らない。
ただ、空は今日も静かだった。
国境など、どこにも描かれていない空だった。

了


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あとがき
 便利で速いものに囲まれ、日々の生活をただ通り過ぎていく中で、ふと「自分とは違う場所で生きている誰か」のことに思いを巡らせる瞬間があります。
 私たちが生きている現代もまた、膨大な情報と短い言葉が飛び交い、複雑な物事が安易に単純化されてしまいがちな世界です。忙しない日常のなかで立ち止まり、考え、他者の存在に想像力を伸ばすことは、時に少しだけ骨の折れる作業かもしれません。
 けれど、言葉の行間や、ページをめくるその数秒の静寂の中にこそ、人間としての優しさや踏みとどまる強さが宿っているのではないか――そんな思いを込めて、この物語を紡ぎました。
 画面の向こうにある誰かの暮らしを想像すること。小さな「問い」を自分の中に残し続けること。この物語が、読んでくださったあなたの心にほんの少しでも温かな余白を残せたなら幸いです。
 

証人の樹 


まえがき
人間は、記憶する生き物です。
誰かとの約束を覚えています。
失ったものを覚えています。
自分が犯した間違いも、ときには忘れたふりをしながら、どこかで覚えています。
けれど、人間の記憶には限界があります。
百年前の出来事を知らない人が増えれば、その出来事は少しずつ遠ざかっていきます。
千年前の出来事になれば、伝説になり、やがて名前すら失われていきます。
では、もし人間が忘れてしまったことを、ずっと覚えている存在がいたとしたら。
それが、本だったら。
記録装置だったら。
あるいは、一本の樹だったら。
本作『証人の樹』は、そんな小さな問いから生まれました。
舞台は、人間が一度、大きく地球を傷つけてしまった未来。
廃墟となった都市の中に、一本の巨大な樹が立っています。
その樹は、人間を裁きません。
怒りもしません。
ただ、見ていました。
人間が何をしてきたのか。
何を失ったのか。
そして、人間の中に、それでも残っているものは何なのか。
樹が最後に選んだ証人は、一人の少女でした。
未来という名を持つ少女、ミライ。
彼女が選ぶのは、得をする道ではありません。
けれど、その小さな選択が、滅びかけた世界にもう一度、芽を出させることになります。
これは環境破壊の物語であると同時に、「人間は、何を残せば人間なのか」という物語でもあります。
どうか、最後の一葉までお付き合いください。




序章 記録された世界
かつて、高いビルが空を突き刺していた時代があった。
人は地の底深くに街を造り、山を削ってトンネルを通した。
光を求めて上へ。
涼しさを求めて下へ。
近道を求めて横へ。
便利さという名の欲望は、地球という一つの身体を、休むことなく掘り続けた。
地面の中には道路が走り、地下鉄が走り、巨大な施設が造られた。
山は切り開かれ、海は埋め立てられ、森は数字に置き換えられた。
一本の樹が何年生きてきたかよりも、その土地からどれだけの利益が得られるかが重要だった。
それから、どれほどの時が流れただろう。
いま、かつて高層ビルが並んでいた場所には、赤く錆びた骨組みだけが、風に鳴る巨大な墓標のように立っている。
地下都市はとうに水没した。
トンネルは崩れた。
駅だった場所には泥が溜まり、かつて人を運んだ線路は獣たちの寝床になった。
人間は、絶滅しなかった。
ただ、限りなくそれに近い数まで減った。
世界は静かになった。
車の音もない。
工場の音もない。
飛行機の音もない。
夜空には、昔の人間が見上げることを忘れていた星々が戻っていた。
そして、廃墟となった都市の中心に、一度も倒れなかった一本の樹があった。
その樹は、すべてを見ていた。
そして、まだ何かを待っていた。
これは、その樹と、一人の少女の物語である。


第一章 瓦礫の未来
少女の名は、ミライといった。
名付けた親は、もういない。
ミライ自身、その名の意味を昔の言葉としてしか知らなかった。
もっとも、それを教えてくれた老人は、昔こう言っていた。
「ミライってのはね、まだ来ていないもの、という意味だよ」
「まだ来ていないもの?」
「そうさ」
老人は笑った。何がおかしいのか、ミライにはわからなかった。
ミライは十六になるまで、〈裂け谷〉と呼ばれる旧市街の廃墟で暮らしてきた。
使える金属。
腐っていない布。
たまに見つかる乾燥食料の缶。
古い工具。
水を入れられる容器。
そうしたものを拾い集め、谷の底にある集落へ持ち帰る。
それを水や燃料と交換する。
それが、ミライの日常だった。
その日、ミライはいつもより遠くまで歩いていた。
噂に聞く〈沈んだ塔〉を見に行くためだった。
昔は天まで届くように見えたという超高層ビル。いまでは半分が地面に沈み、誰も近づかない場所になっている。
地面はところどころ陥没していた。足元の割れ目から覗き込むと、底の見えない縦穴が口を開けている。
祖母は生前、こんなことを言っていた。
「昔の人間はね、地面の下にも街を作ったんだよ」
「どうして?」
「空に届かないなら、地の底に潜ればいいと思ったんだろうねぇ」
その声には、呆れとも、哀しみともつかない響きがあった。
やがてミライの前に、〈沈んだ塔〉が現れた。
噂通りだった。
鋼鉄とガラスでできていたはずの塔は、半分ほどが地面に沈み、傾いたまま立っている。
だが、ミライの目を奪ったのは塔ではなかった。
塔を突き破るようにして、一本の巨大な樹が生えていた。
幹の太さは、大人が十人手をつないでも囲めないほどだった。
枝は塔のあらゆる窓から溢れ出し、まるで塔そのものを抱きしめるように空へ伸びている。
葉は、風もないのにかすかに揺れていた。
ミライは立ち尽くした。
こんな大きな樹を見たことがなかった。いや、こんな大きな生き物を見たことがなかった。
彼女は、吸い寄せられるように、崩れた入り口から塔の中へ足を踏み入れた。


第二章 地下の楽園
塔の内部は、思っていたより静かだった。
根が壁を割り、床を持ち上げている。建物の骨格そのものを、樹が支えているようにも見えた。
ミライは崩れかけた階段を降りた。地下へ。さらに地下へ。
やがて、暗闇の中に小さな光が見えた。
そして、電灯が点いていた。
水音がした。かすかに、肉の焼ける匂いまでした。
ミライは息を止めた。
旧時代の技術で守られた地下区画。そこには、人が暮らしていた。しかも、地上の集落では見たこともないほど整った服を着た人間たちが、そこにはいた。
壁には照明がある。水は流れている。食べ物もある。
ミライは、まるで別の世界に入り込んだような気がした。
「おや」
声がした。
「迷い込んだのかい、地上の子」
振り返ると、恰幅の良い老人が立っていた。顔色は悪い。だが、指には黄ばんだ宝石の指輪がいくつも光っている。
老人はミライを見て笑った。
「名前は?」
「ミライ」
「ほう。ずいぶん皮肉な名前だ」
「どういう意味?」
「いや。何でもない」
老人は手を振った。
「わしはゴウドだ」
ゴウドは温かいスープを差し出した。
「食べなさい」
ミライの腹が鳴った。だが、手を伸ばせなかった。
「地上の人たちには?」
「何?」
「この食べ物。地上にも分けてあげればいい」
ゴウドは少し黙った。そして、笑った。
「それは無理だ」
「どうして?」
「決まっているだろう」
ゴウドはスープの器を見た。
「限られたものを全員で分ければ、全員が少しずつ飢える」
「でも、分けなかったら?」
「われわれが生き残る」
「それでいいの?」
ゴウドは、ミライを見つめた。
「お前は若いな」
「何が?」
「生き残るということを、まだ知らない」
ミライは答えなかった。
ゴウドは続けた。
「わしらは、何十年もここで生きてきた。水も、電気も、食料も、自分たちで管理してきた」
「地上の人たちは?」
「自分たちで生きればいい」
「どうして?」
ゴウドは肩をすくめた。
「全員を助けようとして、全員死ぬよりいいだろう?」
その言葉に、ミライは何も返せなかった。
だが、谷で暮らしてきた自分には、どうしても納得できなかった。
谷では、足りないものを分けた。足りないからこそ、分けた。
それでも足りない日には、年寄りが自分の分を子供に渡した。
誰かが怪我をすれば、みんなで運んだ。
誰かが死ねば、みんなで埋めた。
豊かではなかった。けれど、誰も一人ではなかった。
ミライはスープを返した。
「いらない」
ゴウドの眉が動いた。
「そうか」
ミライが立ち去ろうとすると、背後から声がした。
「あの樹に近づくんじゃない」
ミライは振り返った。ゴウドの顔から笑みが消えていた。
「あれは……人間の敵だ」


第三章 証人
樹の根元には、小さな空洞があった。
ミライが中へ入ると、幹の内側一面に、淡い光の筋が走った。血管のようだった。文字のようでもあった。
そして、声がした。
『ようやく、来たか』
ミライは飛び退いた。声は耳から聞こえたのではない。頭の中に直接響いた。
「あなたは……誰?」
しばらく沈黙があった。やがて、
『わたしに名はない。強いて言うなら、観測者』
「観測者?」
『この星に起きたことを、記録する者』
ミライは巨大な幹を見上げた。
「あなたは、樹なの?」
『そうでもあり、そうでもない』
光が揺れた。
『わたしは、旧時代の終わりに造られた』
「誰が?」
『人間だ』
ミライは驚いた。
『生態系が崩壊していくことを知った研究者たちは、最後にひとつのものを残そうとした』
「何を?」
『記録だ』
光が強くなった。
『人間は、忘れる。歴史を忘れる。絶滅した生き物を忘れる。失われた森を忘れる。そして、自分たちがなぜ滅びかけたのかさえ忘れる。だから、忘れないものを造った』
ミライは、樹の幹に手を触れた。冷たくはなかった。ほんのり温かかった。
『わたしは、地中の水と、崩れた都市の栄養を吸いながら生きてきた。そして、その間に起きたことを記録してきた』
「全部?」
『全部だ』
「そんなこと、できるの?」
『人間にはできない。だから、人間はわたしを造った』
少しだけ、樹の声が柔らかくなった。
次の瞬間、ミライの周囲に、無数の光の粒が浮かんだ。光の粒は映像になった。
高いビル。走り続ける車。夜も眠らない街。
山を削る巨大な機械。海を埋め立てる工事。地下へ伸びていく道路。
そして、消えていく森。消えていく鳥。消えていく虫。消えていく魚。
最後の一匹が息絶える瞬間まで、樹は記録していた。
ミライの目から涙が落ちた。
「どうして……」
『何が?』
「どうして、こんなことになったの?」
観測者は答えなかった。しばらくして、静かに言った。
『便利だったからだ』
ミライは顔を上げた。
『少し便利になる。もう少し便利になる。誰かが便利になれば、別の誰かも便利になりたくなる。そして、気がついたときには、誰も止まれなくなっていた』
ミライは映像を見つめた。
「これは……罪なの?」
『罪と呼びたければ、それでもいい』
「じゃあ、罰なの?」
長い沈黙のあと、観測者は言った。
『違う。罰ではない。順番だ』
「順番?」
『山を削れば、いずれ山が崩れる。地を掘れば、いずれ地が沈む。命を奪えば、いずれ自分たちの世界から命が消える。与えたものは、いつか返ってくる。良いも悪いもない。ただ、順番が来るだけだ』
ミライは、その言葉を心の中で繰り返した。順番。
それは、谷で何度も聞いた言葉だった。食料を配るとき。水を汲むとき。病人を看るとき。
誰かが困れば、「次は自分の番かもしれない」と、老人たちは言った。
世界は違っても、何かが巡っていくという意味だけは同じだった。


第四章 金の匂い
ゴウドは、何年も前から樹の存在を知っていた。そして、観測者の正体にも気づいていた。
だが、それ以上に彼が興味を持ったのは、樹の記憶ではなかった。樹液だった。
地下の人間たちは長い研究の末、樹の根から採取した樹液に、細胞の修復を促す特殊な成分が含まれていることを突き止めていた。傷は早く治る。病気の進行も遅くなる。そして、老化した細胞の一部が若い状態に戻る。完全な不老不死ではない。それでも、十分すぎるほどの価値だった。
ゴウドはそれを独占していた。
「人間は、結局そこへ戻る」
ゴウドは樹を見上げながら呟いた。
「金だ」
彼の背後には、地下区画の男たちがいた。そして、そのさらに後ろには、旧世界の重機があった。地下の予備電源で、長い眠りから起こされた掘削機が、低い音を立てている。
「小娘」
ゴウドはミライを見た。
「お前も、あの樹の力を見ただろう」
「やめて」
「なぜ?」
「樹が死ぬ」
ゴウドは笑った。
「樹はまた生える」
「同じ樹じゃない」
「同じだ」
「違う!」
ミライの声が響いた。
ゴウドは黙った。
ミライは続けた。
「この樹には、全部が入っている」
「全部?」
「消えた動物も。森も。人間がしたことも」
ゴウドは、少しだけ目を細めた。
「だからどうした?」
「忘れちゃいけない」
「忘れれば楽になる」
「でも、同じことをする」
ゴウドは笑った。
「だから記憶が何だという?」
そして、ミライに近づいた。
「わしは、人間を救おうとしている」
ミライは黙った。
「この樹液を使えば、少なくとも一部の人間は生き残れる」
「一部だけ?」
「全部を救う力など、どこにもない」
ゴウドの声は、不思議なほど静かだった。
「わしは悪人なのか?」
ミライは答えられなかった。
ゴウドは続けた。
「地上の連中を助ければ、食料が足りなくなる。水が足りなくなる。電力が足りなくなる。やがて地下も巻き込まれる」
「だから、独り占めするの?」
「だから、生き残る者を選ぶ」
その言葉は冷たかった。だが、ミライには、ほんの少しだけ怖いものが見えた。
ゴウドは欲深いだけではない。この老人もまた、滅びることを恐れている。ただ、恐怖のために、他者を切り捨てることを覚えてしまったのだ。
ゴウドが背を向けた。
「掘れ」
掘削機が動き始めた。


第五章 選択
ミライは観測者のもとへ走った。
「逃げて!」
光る空洞の中で叫んだ。
『わたしは動けない』
「でも、ゴウドたちが根を掘ってる!」
『知っている』
「どうして止めないの?」
『止める力がないからだ』
ミライは言葉を失った。
『わたしは、記録するために造られた。人間を支配するためではない。人間を裁くためでもない。ただ、見てきた』
「それだけ?」
『それだけだ』
「じゃあ、死ぬの?」
『おそらく』
ミライは拳を握った。
「怖くないの?」
『怖い、という感情を持っているかどうか、わたしにはわからない。ただ、惜しいとは思う』
「何が?」
『まだ、記録したいことが残っている』
ミライの胸が痛くなった。
「じゃあ、どうすればいい?」
『お前が決めることだ』
「私が?」
『そう』
観測者の声が、初めて少しだけ人間らしく聞こえた。
『ゴウドに樹液の場所を教える道もある。樹液を分けてもらえば、お前も長く生きられるだろう。この世界では、正直者は損をする』
ミライは黙った。谷での暮らしが頭に浮かんだ。足りない食料。少ない水。壊れた道具。それでも、子供には食べさせる。怪我人には水を渡す。老人が倒れれば、若者が背負う。誰も裕福ではない。誰も安心していない。それでも、誰も一人ではなかった。
ミライは顔を上げた。
「私は……」
少しだけ震えていた。
「あなたを守る」
『なぜ?』
「得にならなくても」
『なぜ?』
ミライは答えた。
「谷では、そうするから」
そして、
「私も、そうしたいから」
と言った。
観測者は長い間、沈黙した。やがて、
『記録した』
と答えた。
ミライは笑った。
「それ、記録することなの?」
『わたしは証人だから』
その瞬間、地下の奥で、掘削機の轟音が響いた。


第六章 いずれ訪れる順番
掘削機の刃が、根に食い込んだ。その瞬間だった。
樹全体が、まばゆい光を放った。地下区画が揺れた。壁に亀裂が走る。天井から土砂が落ちてくる。
「止めろ!」
誰かが叫んだ。だが、ゴウドは止めなかった。
「掘れ!」
「危険です!」
「構わん!」
掘削機がさらに根へ食い込む。すると、地面そのものが沈んだ。
ゴウドが顔を上げた。
「まさか……」
観測者の根は、長い年月をかけて地下の構造物を支えていた。かつて人間が掘った空洞。そこへ入り込んだ根。その根が崩れれば、地下都市そのものが持たない。
『山を削れば、いずれ山が崩れる』
観測者の声が響いた。
『地を掘れば、いずれ地が沈む』
天井が大きく崩れた。人々が逃げ始める。ゴウドも走った。だが、足元が崩れた。
「ゴウド!」
ミライが手を伸ばした。一瞬、ゴウドはミライを見た。そして、手を伸ばした。ミライはその手を掴んだ。だが、間に合わなかった。崩れた床が二人の間を裂いた。ゴウドの身体が瓦礫の下へ落ちていく。
「ミライ!」
最後に聞こえた声は、怒りではなかった。恐怖だった。
そして、地下の楽園は崩れた。長い年月をかけて、人間が地下へ逃げ込み、築き上げた世界。その世界は、それを支えていた一本の樹を奪おうとした瞬間、自らの重さに耐えられなくなった。
ミライは光る根にしがみついた。
「ごめん……守れなかった」
『いいや。お前は、残った』
「でも……」
『得にならないと知りながら、それでも、わたしのそばに残った。それだけで、十分だ』
そのときだった。幹の根元が、小さく光った。一本の根が裂ける。そこから、ひとつの種が押し出された。掌に収まるほどの、小さな種。触れた瞬間だけ、淡く光った。
ミライはそれを拾った。
「これは?」
『わたしの記憶だ』
「記憶?」
『すべてを入れた』
ミライは種を見つめた。
「あなたは……死ぬの?」
『樹は死ぬ』
「じゃあ、あなたも?」
『わからない。ただ、記録は残る』
ミライは種を握りしめた。
「どこへ行けばいい?」
『地上へ』
「そして?」
『植えなさい』
「何を?」
『未来を』
ミライは泣きながら笑った。自分の名前と同じ言葉だった。
『樹は、また芽吹く。今度は、誰かが大事に守ってくれることを願う』
天井が崩れた。ミライは走った。瓦礫の隙間を抜け、階段を駆け上がり、地上へ向かった。背後から、最後の光が、一度だけ強く輝いた。そして、消えた。


終章 次の世で
それから、何年が経っただろう。
〈裂け谷〉には、小さな森ができていた。ミライが植えた種から、一本の若木が芽を出した。その周りに草が生えた。花が咲いた。やがて、鳥が戻った。虫が戻った。名も知らぬ小さな生き物たちが、少しずつ戻ってきた。
谷の人々は、相変わらず貧しかった。食料は十分ではなかった。水も少なかった。正直に生きても、特別な見返りがあるわけではなかった。
それでも、誰も飢え死にしなかった。誰も見捨てられなかった。
ミライは大人になった。そして、年老いていった。
ある夜。若木の下に座り、星空を見上げていた。かつて高いビルが突き刺していた空には、いま、無数の星があった。
風が吹いた。葉が揺れた。
そのとき、ミライの頭の中に、小さな声が聞こえた。
『記録した』
ミライは目を閉じた。それが本当に観測者の声なのか。それとも、自分の記憶が生み出したものなのか。もう、確かめる必要はなかった。
ミライは若木の幹に手を触れた。
「今日も、誰も見捨てなかったよ」
葉が揺れた。
『記録した』
ミライは笑った。
「それだけ?」
『それだけだ』
しばらく二人とも黙っていた。そしてミライは空を見上げた。
人間が世界を支配していた時代には、当たり前だと思っていた空だった。いまは、ただそこにある。星があり、月があり、風があり、樹がある。
ミライは思った。
人間が地球を守るのではない。地球の中で、人間もまた、生きさせてもらっている。ただ、それだけなのかもしれない。
若木は、静かに葉を揺らしていた。まるで、遠い未来に向かって、何かを語りかけるように。
もしも本当に、すべてを見ている者がいるのなら。
もしも、この小さな、損ばかりする生き方を、それでも見ていてくれるのなら。
次の世では、きっと。
もう一度、同じ順番が来る。
そして今度は、人間が誰かを救う番なのかもしれない。
夜空の下で、若木は立っていた。その幹の中には、遠い昔の記憶が眠っている。
人間が栄えた時代。
人間が壊した世界。
失われた命。
最後の一匹。
そして、瓦礫の中で、一本の樹を守ろうとした少女。
すべてを見ていた、証人の樹。
その樹は、もう何も語らない。
ただ、生きている。

(了)


Kindle



あとがき
『証人の樹』を書き終えて、最初に残ったのは、「人間は本当に変われるのだろうか」という問いでした。
地球を傷つけたのも人間です。
森を切り、山を削り、地下を掘り、便利さを求め続けたのも人間です。
けれど同時に、
誰かに食べ物を分けるのも人間です。
倒れた人を助けるのも人間です。
損をすると分かっていて、それでも誰かを見捨てないのも、人間です。
だから、この物語では、人間そのものを否定する結末にはしたくありませんでした。
ゴウドも、単純な悪人ではありません。
彼は彼なりに、人間を生き残らせようとしていました。
ただ、その「生き残る」という目的が強くなりすぎたとき、人はいつの間にか、
「自分たちだけが生き残ればいい」
という考えに変わってしまいます。
ミライが選んだのは、その反対でした。
得になるからではない。
褒められるからでもない。
正しいからでもない。
ただ、
「誰かを見捨てたくない」
と思ったからです。
私は、そこに人間の小さな希望があるのではないかと思っています。
作中で観測者は、
「罰ではない。順番だ」
と言います。
これは、人間を脅すための言葉ではありません。
自分たちがしたことは、いつか自分たちのところへ戻ってくる。
そして、自分たちが誰かに与えたものも、いつか別の誰かへ渡っていく。
そんな意味での「順番」です。
一本の樹が記録したのは、
人間の罪だけではありません。
人間の優しさも、
人間の愚かさも、
人間の弱さも、
そして、人間が最後まで捨てなかったものも、
すべてでした。
だから、
『証人の樹』は、
滅びの物語ではありません。
最後に残った小さな種の物語です。
そして、
その種を誰かに渡す物語です。
もし読んでくださったあなたの中に、
何か小さな種が残ったのなら――
とても嬉しく思います。

もう何度
抽選申し込みしたことか

でもでも
1度も当たることなく
時間ばかりが過ぎて行く

更には
開業予定も
遥か先延ばしとなり

1番早くても
2037年だそうだが
これもまた
物価高騰や難工事により
きっと先延ばしになるのだろう

すると
僕ら世代は
乗れるのか? と
不安視してみる


リニア試乗


それでもこうして
年に何度かの
抽選による試乗募集があって

懲りずに今回もまた
そこへと名前を載せてみる



YouTubeを観れば
試乗した方々の動画が流れ
凄いね! って
笑顔での言葉ばかり

今回こそは! と
夢を見ながら
募集要項に記入してみるけれど

さあ
どうかな?

なんせ
抽選倍率は
今まだ狭き門らしい

50倍から700倍なんて
ネットでは騒がれているからね



しかしね
開業すれば
時速500キロ
東京・名古屋間 40分
東京・大阪間 60分 だそうで

狭い日本
そんなに急いでどこへ行く? って
ことかもね?

便利かな?
便利だよな?

でもそれって

幸せかな…
どうかな…





生まれて、死んで、また会う。
――生と死をめぐる、不思議なSF三部作――

* 『仮退院の惑星』――生きる
* 『軌道病棟』――死を意識する
* 『魂の順番待ち』――死んで、また生まれる



まえがき
人は、いつか死にます。
それは、誰もが知っていることです。
けれど私たちは、普段、そのことをあまり考えずに生きています。
朝起きて、食事をして、仕事をして、誰かと話して、笑って、眠る。
そんな何気ない一日の中に、「生きている」という不思議が、静かに存在しています。
では、生きるとは何なのでしょう。
死ぬとは、何なのでしょう。
そして――
死んだあとに、もし「何か」が続いているとしたら。
そんなことを考えながら書いたのが、この三部作です。
『仮退院の惑星』では、
まだ生きている人間が、自分の人生を見つめ直します。
『軌道病棟』では、
宇宙という巨大な空間の中で、死を意識しながら生きる人々を描きます。
そして『魂の順番待ち』では、
死んだあとに待っているかもしれない、不思議な場所を描きました。
三つの物語に、直接的なつながりはありません。
登場人物も、舞台も、それぞれ違います。
けれど、その底には一つの問いがあります。
――人は、何のために生きるのだろう。
そしてもう一つ。
――死んだら、本当にすべてが終わるのだろう。
もちろん、答えはありません。
科学で証明できる話でもありません。
だからこそ、物語にしてみました。
宇宙の病院。
人生を再査定される人間。
死を待つ人々。
そして、生まれ変わる順番を待つ魂たち。
少し不思議で、
少し滑稽で、
時々切なくて、
最後には、ほんの少しだけ温かい。
そんな物語を三つ並べてみました。
人は、生まれて。
生きて。
いつか死んで。
もしその先に、もう一度誰かと出会えるのなら。
人生というものは、今より少しだけ違って見えるかもしれません。
この三部作が、
読んでくださった方の「今日」という一日を、
ほんの少しだけ大切に思えるきっかけになれば幸いです。
それでは、しばらくの間。
生と死のあいだにある、
不思議な世界へ。
どうぞ、お付き合いください。


一部
仮退院の惑星
―― 宇宙保健機構・地球支部からの報告書 ――

一 検診通知
半田治のポストに、その封筒が届いたのは、九月にしては妙に肌寒い火曜日の朝だった。
封筒は水色で、隅に小さく「宇宙保健機構 地球支部 第七病棟管理課」という判が押してある。差出人の欄には、判読しにくい丸っこい字で「地球担当・受持医」とだけ書かれていた。
「またこれか」
治はため息をついた。この手の封筒が来るのは、これで三度目だった。一度目は三十九年前、二十一歳のとき。二度目は――思い出したくもない、バイクで転倒して救急車に運ばれた、あの二回のうちのどちらか。
だが今回は、様子がちがった。封筒の右上に、赤いスタンプで大きくこう押されていたのだ。
「還暦前・全身再査定 対象者」
そしてその下に、もう一つ、さらに小さく、しかし治の心臓には十分すぎるほど大きく響く一文が添えられていた。
「本人、大厄該当につき、優先審査扱いとなります」
治は封筒を持ったまま、しばらく玄関先に立ち尽くした。近所の柴犬が吠えた。空はやけに青かった。こういうときに限って空が青いのは、この惑星の意地の悪いところだと治は思った。
封を切ると、中には一枚の呼び出し状と、地図と、それから――どういうわけか――飴玉が一つ入っていた。ハッカ味だった。
呼び出し状にはこう書かれていた。
「拝啓 貴殿におかれましては、これまで三十九年にわたり、良好な仮退院状態を継続してこられたこと、当機構としても大変喜ばしく存じます。つきましては、還暦を機に、貴殿の心身の状態、社会的機能、および幸福指数について、総合的な再査定を行いたく存じます。つきましては、来る十月一日、第七病棟管理課窓口までご出頭くださいますよう、お願い申し上げます。なお、審査結果によっては、仮退院の継続、条件変更、あるいは――」
そこから先は、なぜか印字がかすれていて読めなかった。
治は封筒をテーブルに置き、コーヒーを淹れた。手が少し震えていた。震えているくせに、口元はどういうわけか、笑いたがっていた。
三十九年前、彼はまさにこの手の呼び出しを受けて、オレンジ色の車に乗せられたのだった。あのときも、こんなふうに、妙に晴れた日だった。

二 支部事務所
第七病棟管理課は、駅前の、ごくふつうの雑居ビルの三階にあった。一階は美容室、二階は行政書士事務所、三階だけが、なぜか「宇宙保健機構」だった。表札は小さく、見落としそうなほど地味だった。
エレベーターを降りると、待合室には、治と同じような年格好の男女が十人ほど、所在なげに座っていた。壁には「健康長寿県ランキング」というポスターが貼られており、堂々の一位には「長野県」と書かれていた。
「あそこは別格ですからねえ」
隣に座っていた老婦人が、治の視線に気づいて話しかけてきた。
「別格、というと?」
「支部長がとにかく厳しいんですよ。塩分、運動、笑い、生きがい――全部揃わないと合格点をくれない。でもそのぶん、みんな長生きするから、文句も言えなくてねえ」
老婦人はそう言うと、静かに笑った。笑うと、頬にたくさんの皺が寄った。健康そうな皺だった。
「治さん、半田治さん、どうぞ」
呼ばれて、治は立ち上がった。案内された部屋の扉には「受持医:宇野井(うのい)」という名札があった。
中に入ると、白衣を着た、丸眼鏡の小柄な男が、机の向こうでにこにこと待っていた。年齢は五十代半ばくらいだろうか。机の上には、湯気の立つ緑茶と、なぜか将棋盤が置かれていた。
「やあ、半田さん。いや、三十九年ぶりですなあ」
「……お会いしたこと、ありましたっけ」
「二十一のとき、あなたはタバコをやめる代わりに、カミさんをくださいと願ったでしょう。あれ、私が処理したんですよ」
治は目を丸くした。
「あの願いを、処理、って……」
「この惑星は、交換でできています。何かをやめれば、何かが届く。何かを差し出せば、何かが返ってくる。あなたはタバコという習慣を返上し、代わりに伴侶という処方を受けた。悪くない取引でしたな。奥さんの登美子さん、お元気ですか」
「元気です。口うるさいですが」
「結構、結構。口うるさいのは、健康な証拠です」
宇野井医師はそう言って、カルテらしきものを開いた。それは紙のカルテではなく、薄いガラス板のようなもので、触れると光の文字がふわふわと浮かび上がった。
「さて。あなたは今年、還暦を迎える。干支がひと回りして、振り出しに戻る年です。同時に、男の大厄。この二つが重なるのは、六十年に一度の非常に重要なケースでしてね。当機構としても、慎重に審査させていただくことになります」
「審査……というのは、つまり」
宇野井医師は、湯気の立つ茶をひとくち飲んでから、静かに言った。
「簡単に言えば、こういうことです。半田さん、あなたはこの先も、仮退院を続けたいですか? それとも――」
言葉を濁したまま、宇野井医師はにっこりと笑った。笑うと、丸眼鏡の奥の目がほとんど見えなくなった。
治は、思わず息を呑んだ。ポケットの中にあるハッカ飴の包み紙を、指先でぎゅっと握りしめた。

三 オレンジ色の相棒
「まあ、そう硬くならんでください」
宇野井医師は将棋盤を治のほうへ押し出した。
「審査の前に、まず面談です。今日のところは雑談だと思ってください。ところで半田さん、あなたはこれまでに二度、緊急搬送を受けていますね」
「はい……あれは、正直、思い出したくない」
「一度目は二十一歳、バイクで転倒。二度目は五十歳、同じくバイクで転倒。二度とも、オレンジ色の車が、ピーポーピーポーと迎えに来た」
「その節は、お世話になりました」
「あの車の運転手、覚えていますか」
治は記憶をたどった。薄れゆく意識と消毒液の匂いの中で、妙に落ち着いた声で「大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」と話しかけてくれた男の顔が、かすかに浮かんだ。
「なんとなく、ですが……妙に落ち着いた人だった気がします」
「それ、私の同期です。名前は檜山(ひやま)といいましてね。今はもう、こちら側の人間ですが」
「こちら側、というと」
「本院送還済み、ということです。つまり、亡くなった。もう十年前になりますか」
治は言葉を失った。宇野井医師は、しかし、ちっとも湿っぽい顔をせずに続けた。
「檜山は、生前、いい迎え屋でした。彼のモットーは『急いで来て、ゆっくり運ぶ』。サイレンは急いでいるように聞こえるが、実際に患者を運ぶときは、驚くほど丁寧だった。あなたを二度とも無事にこちらへ届けたのは、彼の腕です」
「今は、その檜山さんは……」
「本院の、案内係です。今度あなたが本院に――いや、これは失言でした。まだ決まったわけではない」
宇野井医師は慌てて茶を飲んだ。治は、なんだかおかしくなって、思わず小さく笑ってしまった。
「先生、それ、フォローになってませんよ」
「これは失礼」
宇野井医師も笑った。二人でしばらく笑っていると、ふと、窓の外を救急車が通り過ぎていった。ピーポーピーポーという音が、部屋の中まで響いてきた。
「ああ、いい音だ」と宇野井医師がつぶやいた。
「いい音、ですか」
「あれは、この惑星でいちばん正直な音です。誰かの人生に、ちゃんと『まだ続きがある』と告げている音ですから」
治は、その音が遠ざかっていくのを、しばらく黙って聞いていた。

四 長野出張所
一週間後、治は「長野出張所への任意訪問」という、奇妙な指示書を受け取った。
「任意」と書いてあるくせに、封筒の隅には小さく「訪問を推奨します(強く)」と添えられていた。この機構の日本語は、いつもこういう具合に、遠慮がちに強制してくる。
長野出張所は、駅から少し歩いた、りんご畑のそばの一軒家だった。表には「健康長寿の里・出張診療所」という木の看板が下がっている。
出迎えたのは、日に焼けた、がっしりとした体格の女性医師だった。名札には「支部長・戸隠(とがくし)」とあった。
「よく来た。半田さんだね」
「はい。あの、私、審査対象者でして」
「知ってる。あんたの資料はもう全部見た」戸隠支部長は、治の頭からつま先までをじろりと眺めた。「歩き方が悪い。膝を庇っとる。座り方も悪い。猫背だ。それから――」
「あの、それから?」
「顔が疲れとる。笑いが浅い」
治は思わず自分の頬を触った。
「笑いに、深い浅いなんて、あるんですか」
「あるとも。浅い笑いは、口先だけで作った愛想笑い。深い笑いは、腹の底から、思わず漏れてしまう笑い。うちの県が長寿なのは、塩分がどうとか、標高がどうとか、いろいろ言われとるが、本当の理由はな、深い笑いの回数が多いからだ」
戸隠支部長は、そう言って、治を診療所の奥の畑へ連れていった。畑では、老人たちが何人も、楽しそうに土をいじっていた。九十歳は超えているだろう、腰の曲がった男性が、大声で冗談を言い、周りがどっと笑っている。
「見てみろ。あの笑いだ。あれが、深い笑いだ」
治は、その光景をしばらく眺めていた。なんだか、羨ましいような、恥ずかしいような気持ちになった。
「支部長、正直に言うと、私、最近あんなふうに笑ったこと、あったかどうか……」
「だろうな。都会の患者は、みんなそう言う」戸隠支部長は腕を組んだ。「都会の連中は、いつもストレスとやらを抱えて、病との境目をふらふら彷徨っとる。それじゃあ、仮退院とは名ばかりの、半分入院しとるようなもんだ」
「半分、入院……」
「そうとも。この惑星の都会人は、生涯、仮退院中というより、生涯、外泊中の重症患者に近い。笑いなさい、半田さん。深く、腹の底から。それが、いちばんの治療だ」
治は、その言葉を、なぜか胸の奥にしまい込んだ。ポケットの中の飴玉のように、少しずつ溶けていくように。

五 厄年特別審査部
長野から戻った翌週、治は再び支部事務所に呼び出された。今度は三階ではなく、地下一階。案内板には「厄年特別審査部(男性厄年課)」とある。
エレベーターの扉が開くと、そこは薄暗い、迷路のような廊下だった。壁には古めかしい貼り紙が並んでいる。
「前厄・本厄・後厄――三年連続、油断は禁物」
「男の大厄、四十二歳にあらず。人生には、もう一つの大厄がある」
「還暦大厄、これぞ真の関門」
治は初めて知った。四十二の厄年は有名だが、還暦にもう一つの、いわば「隠れ大厄」があるということを。
窓口には、疲れた顔の中年男性職員が座っていた。名札には「担当・碓氷(うすい)」とある。
「半田さん、ですね。還暦大厄、初めてですか」
「はい、というか、そんな厄年があること自体、初耳です」
碓氷はため息をついた。
「無理もない。うちの部署、宣伝が下手くそでしてね。四十二の厄年ばかり有名になって、還暦大厄はいつも影が薄い。でも、実はこっちのほうが重要なんですよ。なにしろ、干支がひと回りして、振り出しに戻る年ですから」
「振り出しに戻る、というと」
「つまり、赤ちゃんに戻る、ということです。比喩ですけどね。還暦のお祝いに赤いちゃんちゃんこを着せるのは、その名残です。もう一度、生まれ直すつもりで、人生をリセットする。だからこそ、この年は、身体の検査だけじゃなく、『生き方』そのものの再査定が必要になる」
碓氷は、机の上に分厚いファイルを広げた。
「半田さんの資料を見ましたが、いくつか気になる点があります」
「どんな点でしょう」
「まず、趣味の欄が空欄です」
治は口ごもった。
「それから、『最近笑ったこと』の欄も空欄」
「……」
「それから、これは重要なんですが、『今後の願い』の欄も、空欄です」
碓氷は、ファイルを閉じて、治をまっすぐ見た。
「半田さん。あなたは三十九年前、タバコをやめる代わりに『カミさんをください』と願った。そのおかげで、いい奥さんを得た。十年前、五十歳でバイクを降りた。あのときも、何か願ったんじゃないですか」
治は記憶をたどった。そういえば――十年前、長年乗ったバイクを手放したとき、寂しさの反面で漠然と、何か新しいものが届くのかもしれないと思っただけで、はっきりと願ったわけではなかった。
「いえ、あのときは、特に何も」
「それがまずい」碓氷はぴしゃりと言った。「この惑星の交換システムは、明確な願いがないと発動しません。あなたは十年前、バイクという大きな存在を差し出したのに、何も受け取っていない。つまり、あなたの口座には、未使用の『交換ポイント』が、たまったままになっている」
治は目を丸くした。
「交換ポイントって、そんなものが」
「あります。健康長寿県のポイントカードみたいなものです、ええ」碓氷はにやりと笑った。「還暦大厄の審査に通るには、その未使用ポイントを、きちんと使い切ることが条件です。さもないと――」
「さもないと?」
「未練が残ったまま、審査に臨むことになる。それは、あまり、よろしくない」
碓氷はそう言うと、一枚の申請用紙を差し出した。「今後の願い」という欄が、大きく空いていた。

六 交換の理論
家に帰った治は、その申請用紙をテーブルに置いたまま、しばらく動けずにいた。
妻の登美子(とみこ)が、夕飯の支度をしながら聞いてきた。
「何、その難しい顔」
「いや、実はさ」
治は、これまでの経緯を、かいつまんで話した。仮退院という概念、宇野井医師、長野の戸隠支部長、そして今日の碓氷の話。登美子は、菜箸を持ったまま、しばらく黙って聞いていた。
「――で、あなた、未使用のポイントがあるって言われたわけね」
「そうなんだ。十年前、バイクを降りたとき、何も願わなかったから」
登美子はくすりと笑った。
「あなたらしいわ。タバコをやめたときは、若かったから、素直に『妻をください』なんて言えたのに。バイクを降りたときは、もう五十だったから、恥ずかしくて何も言えなかったんでしょう」
図星だった。治は黙ってビールを飲んだ。
「でもさ」登美子が続けた。「今なら、何か、願いたいことがあるんじゃない?」
治は考えた。健康、長生き、それとも、もっと具体的な何か。
そのとき、隣の部屋から、息子の陽一(よういち)の声が聞こえてきた。三十二歳、いまだ独身。仕事は真面目にやっているが、浮いた話の一つも聞かない。
「陽一のこと、心配なんだよな、実は」
治がぽつりと言うと、登美子はうなずいた。
「私も。あの子、仕事仕事で、出会いなんてどこにもないでしょう」
治の頭の中で、三十九年前の記憶と、いまの願いが、するりと重なった。
――二十一でタバコを辞めたとき、代わりにカミさんを下さいと願った。
――今度は、バイクを降りたから、何かが届くのかもしれない。
そうだ。今度は、自分のためじゃない。
「息子に、嫁を、って願おう」
治がそうつぶやくと、登美子は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「あなたって人は。自分の還暦の審査だっていうのに、息子の嫁の心配ですか」
「だって、俺はもう十分もらったからな。登美子も、三十九年分の人生も。今度は、俺のぶんの未使用ポイントを、あいつに回してやりたい」
登美子は何も言わず、ただ、治の背中を軽く叩いた。その手が、少し湿っていた。

七 申請書と、息子
翌日、治は申請用紙の「今後の願い」の欄に、こう書いた。
「息子・陽一に、良き伴侶が与えられますように。私の未使用の交換ポイントを、すべて彼のために使ってください」
書き終えて、しばらく眺めていると、なんだかおかしくなってきた。役所の申請書に、こんなことを書く日が来るとは思わなかった。三十九年前の自分に見せてやりたい。
その晩、治は思い切って、陽一の部屋のドアをノックした。
「入っていいか」
「珍しいな、父さんが」
陽一は、パソコンの画面を閉じて振り返った。仕事の資料が、机の上に山積みになっている。
「実はな」治は、椅子に座りながら切り出した。「父さん、今年還暦でな。ついでに大厄でな。それで、いろいろと審査を受けることになってな」
「審査? 健康診断的な?」
「まあ、そんなようなもんだ。それでな、その審査の書類に、お前のことを書いた」
「俺の?」
「良き伴侶が与えられますように、って」
陽一は、しばらく呆気にとられた顔をしていたが、やがて、ぷっと吹き出した。
「父さん、それ、神社のお札とかに書くやつだろ。役所の書類に書くもんじゃないよ」
「いいんだよ、これも一種のお祈りみたいなもんだ。この惑星のシステムでは、これが結構、効くらしいんだ」
「意味わかんないけど」陽一は笑いながら首を振った。「でも、まあ、ありがたく受け取っとくよ」
「本当に、心配なんだよ、お前のこと」
陽一は少し表情を和らげた。
「父さんこそ、審査って、大丈夫なのか。何か、悪い結果が出たりしないだろうな」
治は、正直、その答えを持っていなかった。だが、こう言った。
「大丈夫だ。深く笑えば、大丈夫らしい」
「なんだよ、それ」
「長野の先生が言ってたんだ。深い笑いは、いちばんの薬だって」
陽一はまた笑った。今度は、さっきよりも深く、腹の底から出るような笑いだった。治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出した。
(あれが、深い笑いだ)
治は、自分の胸の中に、何か温かいものが灯るのを感じた。

八 大審査
十月一日、その日はやはり、妙に晴れていた。
治はスーツを着て、支部事務所の最上階、これまで一度も足を踏み入れたことのない、七階の「大審査室」へと案内された。
部屋は、思っていたよりもずっと簡素だった。円卓が一つ、椅子が数脚、それだけだった。円卓の向こうには、三人が並んで座っていた。中央に宇野井医師、右に戸隠支部長、左に碓氷。
「揃いましたな」宇野井医師がにこやかに言った。「では、始めましょうか。半田治さん、還暦大厄・全身再査定、開始します」
治は椅子に腰かけた。手のひらに汗がにじんでいた。思わずポケットを探ると、あの日渡されたハッカ飴がコロンと指に触れた。
「まず、身体面の査定は問題なし。血圧やや高めですが、許容範囲内。次に、社会的機能。これも問題なし、家族関係、勤労状況、いずれも良好」
宇野井医師はガラス板を操作しながら、淡々と読み上げていく。治は少しずつ、緊張が緩んでいくのを感じた。
「問題は、次の項目です」戸隠支部長が身を乗り出した。「幸福指数、および、深い笑いの頻度」
「これが、うちの管轄なんだが」戸隠支部長は腕を組んだ。「半田さん、長野に来たとき、あんたは正直に言ったな。最近、深く笑ったことがあったかどうか、わからないと」
「はい……」
「その後、どうだ。何か、変化はあったか」
治は、昨晩の、陽一との会話を思い出した。
「息子と、話をしました。息子が、深く笑ったんです。それを見ていたら、なんだか、こっちまで温かい気持ちになりました」
「それは、あんたが笑ったことになるのか?」戸隠支部長が鋭く聞いた。
「いえ、正確には、私自身が大きな声を出して笑ったわけでは……」
碓氷が、ここで口を挟んだ。
「支部長、それについては、私の担当分野からも申し上げたいことがあります」
「なんだ」
「半田さんは、未使用の交換ポイントを、すべて息子さんのために使うと申請されました。これは、還暦大厄の審査において、非常に稀なケースです」
「稀、というと」
「通常、患者は自分のために願います。健康、長寿、あるいは金銭。しかし半田さんは、自分の分を、子どもに譲った。これは、いわば――」碓氷は少し言葉を選んだ。「笑いの、贈与、とでも言うべき現象です」
宇野井医師が、ここで初めて、ガラス板から顔を上げた。
「笑いの贈与、ですか。それは興味深い」
「深い笑いというのは、必ずしも自分の口から出るものだけを指すのではない、というのが、最近の機構内の研究でも指摘されておりましてね」碓氷は続けた。「誰かを笑わせること、誰かの笑いを見て自分も温かくなること、これもまた、深い笑いの一形態である、と」
戸隠支部長は、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて、ふっと表情を緩めた。
「なるほどな。半田さん、あんた、案外、いいことをしたのかもしれんぞ」

九 判定
三人は、しばらく小声で話し合っていた。治は、円卓の前で、ただじっと待っていた。窓の外では、また救急車のサイレンが聞こえた。ピーポーピーポー。誰か、別の患者を迎えに行くのだろう。あの音は、いい音だ、と治は思った。宇野井医師の言葉を、今なら少しわかる気がした。
「まだ続きがある、と告げている音」
やがて、宇野井医師が顔を上げた。
「半田治さん。判定をお伝えします」
治は、思わず背筋を伸ばした。
「まず、身体面、社会面、いずれも良好。次に、幸福指数について。当初、単独での深い笑いの頻度は低いという評価でしたが、審査の過程で、贈与的な笑い――つまり、他者の笑いを介した幸福の共有が、良好に機能していることが確認されました。加えて」
宇野井医師は、ガラス板をくるりと治のほうへ向けた。そこには、光る文字でこう浮かんでいた。
「仮退院、継続を許可する」
治は、思わず大きな息を吐いた。全身の力が抜けるようだった。
「ただし」戸隠支部長が付け加えた。「条件がある」
「条件……ですか」
「一つ、月に一度は長野に来て、深い笑いのリハビリを受けること。二つ、息子の陽一くんの様子を、定期的に報告すること。三つ――」
戸隠支部長は、ここで少し表情を和らげた。
「三つ、あんた自身も、そろそろ何か、自分のための願いを、一つくらい持て」
治は、その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
「自分のための願い、ですか」
「三十九年前は妻を願った。十年前は何も願わなかった。今度は息子のために願った。それはそれで、立派なことだ。だがな半田さん、還暦っていうのは、振り出しに戻る年だ。振り出しってのは、ゼロってことだ。ゼロってことは、また一から、好きに願っていいってことだ」
碓氷も、うなずきながら付け加えた。
「未使用ポイントは使い切っていただきましたが、還暦を機に、新しい口座が開設されます。これは、いわば、人生の第二クールの、初回ボーナスのようなものです」
治は、しばらく考えた。何を願おうか。健康か、長寿か、それとも――
「先生方、少し、考える時間をいただけますか」
「もちろん」宇野井医師は、にこやかにうなずいた。「なにしろ、これから、あと六十年ぶんの時間があるわけですから」
「六十年……」
「干支がひと回りするまで、ですよ。気長に、考えてください」
治は、深く頭を下げた。頭を上げたとき、なぜか、目の奥が少し熱かった。それが涙なのか、それとも別の何かなのか、治自身にもよくわからなかった。

十 シャバの空気
審査室を出て、エレベーターで一階まで降りると、外はすっかり秋の陽気になっていた。風が、どこかりんごの匂いを運んでくるような気がしたが、たぶん気のせいだった。
治は、スマートフォンを取り出して、登美子にメッセージを送った。
「審査、通った。仮退院、継続だそうだ」
すぐに返信が来た。
「よかった。今夜は赤飯にしましょうか」
「還暦のお祝いはもう少し先だろう」
「いいじゃない、前祝いよ。それに、あなた、今日から新しい口座が開設されたんでしょう。それもお祝いしなきゃ」
治は、思わず笑った。腹の底から、久しぶりに、深く。
駅までの道を歩きながら、治は、ふと立ち止まって、空を見上げた。
三十九年前、二十一歳の治は、タバコをやめて、代わりに妻をもらった。
十年前、五十歳の治は、バイクを降りて、何も願わなかった。未使用のまま、それはずっと胸のポケットに入っていた。
そして今、六十歳の治は、その未使用のぶんを、息子のために使った。息子に、良き伴侶が与えられますようにと。
還暦とは、干支がひと回りして、また振り出しに戻ることだという。だとしたら、まだ何も始まっていないのと同じだ。おまけに、男の大厄にも当たっている。
だが、それでいい、と治は思った。振り出しに戻るということは、また一から、好きに願っていいということだから。
治は、ポケットに手を入れた。指先に、あの日もらったハッカ味の飴玉が、まだ一つ、包み紙のまま残っていた。治はそれを口に放り込んだ。冷たく、少し甘く、そして、どこか懐かしい味がした。
シャバの空気は、今日も、悪くない。

エピローグ 振り出しにて
半年後、陽一が、職場の後輩だという女性を、家に連れてきた。
名前は、実桜(みお)といった。よく笑う人だった。腹の底から、深く。
治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出していた。
(あれが、深い笑いだ)
夕食の席で、登美子が、実桜に治との馴れ初めを話していた。二十一歳のときにタバコをやめて、代わりに妻をもらったのだという、あの古い話を。実桜は、目を丸くして、それから、これまでで一番深く笑った。
治は、その様子を眺めながら、静かにビールを飲んだ。
翌月、治は長野に出向いた。戸隠支部長は、畑仕事をする老人たちの中に混じって、治を見つけると、片手を上げた。
「どうだ半田さん、その後」
「息子に、いい人ができました」
「そりゃよかった。願いが、ちゃんと届いたな」
「はい。それで、支部長」治は少し照れながら続けた。「自分の願いも、決まりました」
「ほう、何を願うんだ」
治は、しばらく口ごもったあと、こう言った。
「あの二人の子どもが、深く笑える子に育ちますように」
戸隠支部長は、しばらく治の顔をじっと見つめてから、大きな声で、腹の底から笑った。畑にいた老人たちも、つられて笑った。その笑い声が、りんご畑いっぱいに広がっていった。
治も、笑った。
三十九年前と同じように、心の底から。

――了――



二部
軌道病棟
― Orbital Ward ―

一
腹の奥で、古い瘢痕が疼いた。
僕、蓮司(れんじ)は、外惑星航路を往復する輸送船《ノトス》の操舵士だった。もう十五年、木星圏と地球圏を結ぶ航路を、荷を積んでは運び、運んでは戻ってくる。その繰り返しの中で、身体のあちこちに、仕事の勲章とも呼べる古傷を溜め込んできた。
いちばん厄介なのが、腹壁の瘢痕ヘルニアだった。八年前、木星圏の中継ステーションで与圧服の破損事故に遭い、緊急の腹部手術を受けた。その時の縫合痕が、経年劣化した与圧服の生地のように、少しずつ緩んできていたのだ。
医師には「そろそろ根治手術をしないと、腸が脱出する危険がある」と、二年前から言われ続けていた。だが僕は、航路のスケジュールを理由に、ずっと先延ばしにしてきた。全身麻酔をかけて、術後一ヶ月は重力下での安静が必要だと聞けば、誰だって二の足を踏む。無重力に慣れた身体を、わざわざ重力のある軌道ステーションの病棟に預けて、一ヶ月も寝て過ごすなど、僕には想像もつかなかった。
けれど、この春――正確には、地球暦でいう三月――瘢痕の疼きが、明らかに変わった。鈍い違和感ではなく、鋭く差し込むような痛みが、荷役作業のたびに走るようになった。
そろそろか。
いよいよか。
やらねばならないのか。
自問自答は、いつも同じ結論に辿り着いた。僕は航路管理局に長期休暇を申請し、木星圏行きの次の便を降りた。
端末で手配を済ませながら、地球にいる彼女からの通信履歴を眺めた。『次はいつ戻るの?』という短い問いかけに、僕はまた「仕事が落ち着いたら」とだけ返し、返信を途絶えさせていた。
行き先は、地球と月の中間軌道に浮かぶ、《リング・メディカル・ステーション》。輪状に設計された、この宙域でもっとも設備の整った医療施設だった。

二
手術は、思っていたよりもあっさりと終わった。
執刀医は、瘢痕組織を丁寧に剥離し、人工メッシュで腹壁を補強したと説明してくれた。「これで、あと二十年は保ちます」と、彼女は事務的な口調で言った。僕は麻酔から覚めたばかりの、まだ靄のかかった頭で、その数字を反芻した。二十年。僕の残りの持ち時間の、ちょうど半分くらいだろうか。
問題は、僕自身の身体ではなかった。
術後の経過は順調で、痛みも予想より軽かった。厄介だったのは、入院した外科病棟――ステーションの「B環状区画」と呼ばれるフロアの、空気そのものだった。
そこは重症患者の多い病棟だった。デブリ衝突による減圧外傷、放射線障害、長期航行による循環器系の劣化。地球圏の病院とは違い、退院していく患者よりも、より重い症状の患者へと「入れ替わっていく」ことの方が、圧倒的に多いフロアだった。

三
リハビリのため、僕は毎日、看護ステーションを取り囲むように配置された環状の廊下を、決められた周数だけ歩くことを課せられた。
人工重力は地球の三分の二程度に調整されていたが、久々に重力を受け止める術後の腹筋には、それでも十分すぎる負荷だった。引きつる腹を庇いながら、足を引きずり、テクテクと。
一周、また一周と。
廊下の反対側、看護ステーションを挟んで向かい合う病室のひとつは、全面が強化ガラス張りになっていた。集中管理室――そこでは、常に看護師とAI医療アシスタントの目が、患者から離れることはない。
僕は、そこを通り過ぎるたびに、なんとなく申し訳ないような気持ちになった。まるで、他人の生死の現場を覗き見しているような、そんなうしろめたさだった。それでも僕は、ガラス越しに横たわる患者を見るたび、心の中でそっと、無事を祈るようになった。
ある日の午後、その部屋は賑わっていた。ガラスの向こうに、患者の身内らしき人々が何人も集まり、涙ぐみながら何かを語りかけている姿が見えた。僕は歩調を緩め、通り過ぎながら思った。――良くなってきているのだろうか。それとも。
翌朝、同じ廊下を歩くと、その部屋はガランとしていた。ベッドのシーツは新しく張り替えられ、モニターの類はすべて片付けられていた。
間に合わなかったのか。
そう思った瞬間、僕の胸は、鉛を飲み込んだように重くなった。誰なのかも、名前も知らない。それでも、その「空白」は、僕の中に長く尾を引いた。
廊下の途中、給水ステーションの脇に、小さな観測窓があった。そこに、いつも同じ女性が座っていた。歳の頃は、僕と同じくらいだろうか。車椅子に浅く腰掛け、青く輝く地球をじっと見つめている。すれ違うとき、彼女は決まって、小さく会釈だけを返してくれた。名前も、病状も知らない。それでも、彼女がそこにいることが、いつからか、僕の毎日の歩行の、ささやかな目印になっていた。

四
僕自身が入っていた四人部屋も、決して軽症者ばかりの部屋ではなかった。
隣のベッドにいた老人は、外惑星鉱山での労働災害で肺の半分を失っていた。彼は僕によく話しかけてきて、若い頃に木星の衛星で見た、氷の下に広がるオーロラのような発光現象の話を、何度も繰り返した。僕はその話が、実は三通りくらいのバリエーションがあることに気づいていたが、黙って聞いていた。
転棟の前夜、彼はいつもより低い声で、僕にこう言った。
「なあ、蓮司さん。また会うかもしれんな」
どういう意味かと聞き返すより先に、彼は目を閉じ、そのまま眠ってしまった。僕はその一言を、ただの寝言だろうと聞き流した。
その老人が、翌朝、忽然と「移動」になった。看護師は「別のフロアへの転棟です」とだけ僕に告げたが、その言い方の抑揚に、僕は何か決定的なものを感じ取った。それきり、彼のベッドに、彼が戻ってくることはなかった。
新しいベッドには、また別の患者が運び込まれてきた。その人もまた、いずれ「入れ替わる」のだろうか。
人生の最終ラインというものを、こんな形で、次々と目の当たりにするとは思わなかった。
もしかしたら、僕も。
そんな考えが、ふと胸をよぎる瞬間があった。手術は成功したと聞かされている。予後も良好だと。それでも、あの環状の廊下を歩くたびに、僕の心のどこかは、たしかに一瞬、暗い軌道へと落ちていった。

五
窓の外――正確には、ステーションの外周に沿って設置された観測モニターの向こうには、地球が青く浮かんでいた。その青い球体の上を、夜の領域を示す影がゆっくりと、確実に覆っていく。
地球では、僕の古い仲間たちが、きっと今日も気楽に笑っているのだろう。航路の合間の休暇で酒を飲み、次の目的地の話で盛り上がっているのだろう。彼らを恨む気持ちなど、微塵もなかった。ただ、この病棟という、生と死のあまりにも近い場所と、あの気楽な日常との「あまりにも大きな隔たり」を、僕はどうしても、見て見ぬふりができなかった。
命と戦っている患者たち。
それを支え続ける、医師と看護師たち。
そして、その狭間に、たまたま迷い込んだだけの僕。
夜、消灯後の病室で、僕はひとり、その大きな隔たりについて考え続けた。誰に話すでもなく、ただ、たそがれるような時間だった。
天井の非常灯だけが、青白く点滅していた。隣のベッドから聞こえる誰かの寝息と、廊下の向こうから響く医療モニターの単調な電子音。その二つの音の間に、僕は自分の呼吸を重ねてみる。吸って、吐いて。ただそれだけのことが、この病棟では、ひどく貴重なものに思えた。
地球にいた頃は、こんなことを考えたこともなかった。次の航路、次の荷、次の休暇。時間はいくらでもあるつもりで、僕はずっと、大事な決断を後回しにし続けてきた。手術のことも、結婚のことも、そして、自分自身の生き方そのものも。
けれど、この環状の廊下を何十周も歩き、隣のベッドの持ち主が音もなく入れ替わっていくのを見るたびに、僕の中で、何かがゆっくりと組み変わっていくのを感じた。

六
退院を三日後に控えたある夜、僕は当直の看護師――名をユーリといった――に、こんな話をした。
「この病棟に来てから、残りの持ち時間ばかりが気になるようになりました」
ユーリは、モニターを確認する手を止めずに、静かに答えた。
「多くの方が、そうおっしゃいます。でも、それは悪いことではないと思いますよ。持ち時間を意識するからこそ、その時間の使い方を、ちゃんと選べるようになるんです」
僕は、彼女の言葉を、何度も頭の中で反芻した。
ふと思い出して、僕は尋ねた。「観測窓のところに、いつも座っている女性がいますよね。あの方は、もう長いんですか」
ユーリは、少し驚いたような顔をした。「観測窓に……ですか? あそこにいらした患者さんは、三日前に退院なさいましたよ」
昨日も、確かに車椅子の彼女と目が合い、会釈を交わしたはずだった。首筋を冷たい風が吹き抜けたような気がしたが、僕はそれを口にするのをやめた。ユーリの表情には、冗談を言っている様子は、どこにもなかった。
航路管理局への長期休暇申請は、実はもう「セミリタイア」への切り替え申請に書き換えていた。二年先延ばしにしていた手術を決断したのと同じように、今度は、これまで先延ばしにしてきた「生き方そのもの」の見直しを、決断する番だった。
婚約者に――地球で待っている彼女に――僕はこの入院中、何度もメッセージを送った。最初は近況報告のつもりだった。だが、書いているうちに、いつも同じ結論に辿り着いた。
明日、目が覚める保証など、誰にもない。
それは、この病棟の廊下を何十周も歩く中で、否応なく叩き込まれた事実だった。
僕はメッセージの最後に、短く書き足した。
――今度こそ、先延ばしにしない。
送信ボタンを押す指先が、少しだけ震えていた。

七
退院の朝、僕はもう一度だけ、あの環状の廊下を歩いた。
ガラス張りの集中管理室には、新しい患者が横たわっていた。僕は、いつものように歩調を緩め、心の中で、その人の無事を祈った。今度は、うしろめたさではなく、ただ純粋な祈りとして。
観測窓の脇を通ったとき、車椅子はもうそこになかった。ただ、ガラスに反射した光が、一瞬だけ、誰かが座っているような影をつくった。瞬きをすると、それはもう消えていた。
――また会うかもしれんな。
老人の声が、ふいに耳の奥で蘇った。あのときは聞き流しただけの言葉の意味を、僕は今、少しだけわかる気がした。この病棟を巡る廊下も、僕らの人生も、結局はひとつの軌道なのかもしれない。同じ場所を、何度も、違う形で通り過ぎていく。
ステーションの発着ロビーで、僕は地球行きのシャトルを待ちながら、窓の外に浮かぶ青い星を見つめた。
もう先延ばしはしない。
婚約者と会ったら、まず伝えよう。今日という日を、大事にすると。
シャトルのハッチが開いた。僕は、まだ少しだけ引きつるように痛む腹の傷を押さえながら、それでも確かな足取りで、乗り込んでいった。
――了――


三部
魂の順番待ち
――前世は犬、来世は猫、なのに今世はサラリーマン――

一 平凡な火曜日
保坂了、三十四歳。
独身。
経理部所属。
役職なし。
年収は、それなり。
趣味は特にない。
会社では「真面目だけど目立たない」と言われ、自宅では「飯をくれる人」として猫に認識されている。
つまり、人生において特筆すべきことは何もなかった。
強いて言えば、拾った猫が異常に態度がでかいことくらいだった。
「ミケ。俺の枕、返してくれないか」
ベッドの中央。
了の枕の上。
三年分ほど前の雨の日に段ボール箱の中で震えていたはずの猫が、堂々と香箱を組んでいた。
名前はミケ。
三毛猫だからミケ。
あまりにも安直な名前だったが、本人は特に不満を申し立てることもなく、三年間その名前で暮らしている。
了が手を伸ばす。
ミケは片目だけを開けた。
「……」
「いや、俺の枕なんだけど」
「……」
ミケは大きく欠伸をした。
そして、もう一度目を閉じた。
「お前、絶対わざとやってるだろ」
猫は答えない。
もちろん答えない。
しかし、その顔は明らかに、
「だったら何?」
と言っているように見えた。
了は諦め、ベッドの端に身体を押し込んだ。
翌朝。
いつものように会社へ行き、いつものように仕事をして、いつものように定時を少し過ぎて帰宅した。
特別なことは何もなかった。
それが、保坂了の日常だった。
だから、その夜。
スマートフォンに届いた一通のメールが、人生を根本から変えることになるとは、夢にも思わなかった。
午後十一番四十七分。
画面に表示された差出人は、
『輪廻転生管理局・生類課 noreply@rinne-tensei.go.jp』
だった。
件名は、
【重要】貴殿の輪廻転生順序に関する行政指導のお知らせ
だった。
「……なんだ、これ」
迷惑メールだと思った。
だが、本文を開いた瞬間、了の眉間に皺が寄った。
そこには、役所の通知書としか思えない文面が並んでいた。
――保坂了様。
――魂ID:7749-DOG-Ω。
――貴殿の転生履歴について、重大な順番違反が確認されました。
「順番違反?」
読み進める。
――本来、貴殿は今生において「犬生」を割り当てられておりました。
――しかし、前回の転生処理における入力ミス、および担当部署間の引き継ぎ不備により、人間枠へ誤配属されたことが判明いたしました。
――さらに、その誤配属を修正する際、別の魂との入れ替え処理が発生し、現在、三種族間の転生待機列に重大な遅延が生じております。
了は画面を見つめた。
「……何だよ、それ」
さらに下には、
――つきましては、次回土曜日、輪廻転生管理局・生類課(哺乳類特別窓口)までご来訪ください。
――今後の魂配分についてご相談申し上げます。
添付ファイル。
地図。
場所は、自宅から徒歩十五分ほどのところだった。
そこには、三年前に閉店した喫茶店の名前が記されていた。
「喫茶ボンヌール」
了はスマートフォンを伏せた。
「詐欺だな」
そう呟いた。
その直後。
ベッドの上のミケが、了を見た。
なぜか、妙に真剣な目だった。
「……お前、何か知ってるのか?」
ミケは答えなかった。
ただ、尻尾を一度だけ振った。

二 潰れた喫茶店
土曜日。
了は喫茶ボンヌールの跡地に来ていた。
九割九分、詐欺だと思っていた。
残りの一分は、
「もし本物だったら面白い」
という、経理部員らしからぬ好奇心だった。
店は三年前に閉店したままだった。
古びた看板。
色褪せた壁。
埃をかぶった窓。
ところが、入口だけが妙に新しい。
木製のプレートが掛かっている。
そこには、
「輪廻転生管理局
生類課
哺乳類特別窓口
地方支局・仮設」
と書かれていた。
「……本気かよ」
了が扉を開ける。
チリン。
昔ながらの喫茶店のベルが鳴った。
しかし、中にあったのは喫茶店ではなかった。
パイプ椅子。
番号札発券機。
受付カウンター。
壁には、
「本日の窓口対応時間は魂力の都合により前後する場合があります」
という貼り紙。
さらに、
「転生先の種族変更には本人確認が必要です」
「前世記憶の開示には別途申請が必要です」
「生まれ変わり後の苦情は現世側では受け付けません」
などという注意書きまである。
「……役所じゃねえか」
カウンターの奥から女性職員が顔を上げた。
頭には、妙に大きな猫耳がついている。
名札には、
「三毛田」
とあった。
「保坂了様ですね」
「はい」
「魂ID、7749-DOG-Ω」
「……はい」
「お待ちしておりました」
三毛田は書類を確認した。
「どうぞ、お掛けください」
「これ、本当に輪廻転生管理局なんですか?」
「はい」
「俺、死んでませんけど」
「存じております」
「じゃあ、なんで呼ばれたんですか」
三毛田は少し困ったような顔をした。
「順番が狂っているからです」
「順番?」
「輪廻というものは、皆さんが想像されているほど神秘的ではありません」
三毛田は机の上の分厚いファイルを開いた。
「魂には、それぞれ転生予定表があります」
「予定表?」
「はい。人間、犬、猫など、次の生をどこで過ごすか、大まかな順番が決められています」
「そんなものがあるんですか」
「もちろんです」
三毛田は当然のように答えた。
「ただし、全宇宙の魂を完全に管理するには職員が足りませんので、かなり大雑把です」
「大雑把……」
「以前は牛、馬、鳥、魚、昆虫まで管理していました」
「今は?」
「予算削減です」
「……」
「現在は、人間、犬、猫を中心とした簡易運用になっています」
了は頭を抱えた。
「輪廻転生って、行政改革されるものなんですか」
「天界も財政事情は厳しいんですよ」
三毛田は真顔だった。
「問題は、あなたです」
ファイルを一枚めくる。
「保坂様は、前回の転生処理で、本来とは違う種族に割り当てられました」
「犬?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
「でも俺、人間ですよ」
「だから困っているんです」
三毛田はため息をついた。
「さらに、その修正処理の際に別の魂を巻き込んでしまいました」
「別の魂?」
「宮田さんです」
了の手が止まった。
「……宮田?」
三毛田は頷いた。
「宮田浩一さん。あなたの会社の元同僚ですね」
三年前に亡くなった。
入社して三年目。
了が唯一、気を許していた友人だった。
「彼が……どうしたんですか」
「本来、彼は人間として再配属される予定でした」
「再配属?」
「ところが、あなたの処理ミスの影響で、犬の列に入りました」
「……犬?」
「その後、さらに猫の列へ移動しています」
了は黙った。
三毛田は静かに続けた。
「そして三年前、あなたが拾った猫――ミケさん」
「……」
「彼女の魂IDを照合すると、宮田さんの魂と一致します」
了は椅子から立ち上がりかけた。
「待ってください」
「はい」
「ミケが?」
「はい」
「宮田?」
「はい」
「……猫?」
「現在は猫です」
了は何も言えなくなった。

三 生類課の裏事情
三毛田は湯飲みを了の前に置いた。
「どうぞ」
了は一口飲んだ。
猫まんまのような匂いがした。
「……これ、何のお茶ですか」
「生類課特製です」
「答えになってません」
奥のデスクでは、若い男性職員がパソコンと格闘していた。
頭には犬耳。
「また落ちた……」
「彼は犬飼君です」
「犬飼……」
「新人です」
犬飼が振り返った。
「すみません、猫の魂数がまた二重計上されています」
「また?」
「はい。昨日だけで三百二十一件」
「原因は?」
「マクロです」
「直せます?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕、犬なので。細かい計算はちょっと苦手なんです」
「初耳ですよ、その特性」
三毛田は説明した。
輪廻転生管理局は、かつて巨大な組織だった。
しかし、長い年月の間に統廃合が進み、現在ではほとんどの部署が廃止されている。
馬部門は担当者がいなくなって消滅。
鳥類部門は生類課へ統合。
金魚係は、なぜか「夏季休業中」のまま二百年が経過。
そして魂の管理システムは、最新のクラウドではなく、古いサーバーとExcelで動いていた。
「なぜExcelなんですか」
「前任者が詳しかったからです」
「それだけ?」
「それだけです」
了は深く息を吐いた。
「じゃあ、俺の人生が変になった原因も……」
「はい」
「Excel?」
「正確には、Excelを使った人間です」
「余計ひどい」
三毛田は申し訳なさそうに頭を下げた。
「輪廻転生管理局としても、今回の件は重大なミスだったと認識しています」
「じゃあ、どうするんです?」
「二つ方法があります」
「一つ目は?」
「現状維持」
「嫌です」
「まだ説明してません」
「嫌です」
三毛田は苦笑した。
「現状維持の場合、魂の待機列がさらに長くなります」
「どれくらい?」
「現在、人間側で約七十二万件。犬側で約四十一万件。猫側で約五十六万件」
「……そんなに?」
「しかも、毎日増えています」
「なんで?」
「人が死ぬからです」
「当たり前だろ」
「ですから処理が追いつかないんです」
三毛田はもう一枚の書類を出した。
「最近、犬や猫に妙な現象が増えているのも、その影響です」
「妙な現象?」
「人間のような目をする」
「……」
「人間の会話を理解する」
「……」
「ため息をつく」
「……」
「飼い主の仕事の愚痴を聞いて、明らかに呆れた顔をする」
了は黙った。
「ミケのことじゃないですか」
「はい」
「完全にミケです」
「世界中で増えています」
三毛田は資料を見せた。
そこには、
『最近、うちの犬が人間を憐れむような目で見る』
『猫が夫より賢そうな顔をしている』
『うちの犬が会社の上司みたいなため息をつく』
などの相談事例が並んでいた。
「魂の渋滞が、記憶の逆流を起こしているんです」
「逆流?」
「本来なら次の生に持ち越さないはずの記憶が、順番待ちの圧力で少しずつ表面化している」
「だから犬や猫が人間みたいになる?」
「はい」
「それ、かなり危ないんじゃ……」
「その通りです」
三毛田は静かに言った。
「人間も同じです」
その言葉に、了は顔を上げた。
「人間?」
「最近、人間側でも、犬や猫の記憶が表面化しています」
「……例えば?」
「散歩に行きたくなる」
「それは普通じゃないですか」
「飼い主に褒められると異常に嬉しい」
「……」
「誰かが帰宅すると、理由もなく嬉しくなる」
「……」
「食事を出されると、とりあえず尻尾を振りたくなる」
「人間には尻尾ないでしょう」
「だから困っているんです」

四 ミケの正体
帰宅すると、ミケが玄関に座っていた。
「ただいま」
ミケは了を見る。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「お前……宮田なのか?」
ミケは答えない。
当然だ。
猫なのだから。
了は靴を脱いだ。
「宮田だったら、何か合図してくれ」
ミケは黙って歩き出した。
そして、了の部屋の前で立ち止まった。
振り返る。
「……」
「何だよ」
ミケは机の上に置かれた古い名刺入れを見た。
了は息を呑んだ。
名刺入れを開く。
そこには、三年前に亡くなった宮田の名刺が入っていた。
小さな猫のイラスト。
宮田が生前、自分で描いたものだった。
「俺、死んだら猫になりたいんだよな」
以前、宮田がそう言ったことを思い出した。
「人間関係、疲れるじゃん」
そのとき、了は笑った。
「猫なんか、毎日寝てるだけだろ」
宮田は言った。
「それがいいんだよ」
了は名刺を握りしめた。
「……お前、本当に宮田なのか?」
ミケは了を見つめた。
そして、前足で名刺を一度だけ押した。
了は笑った。
「分かりにくいんだよ、お前」
ミケは欠伸をした。
「その態度……」
了は笑いながら、目を細めた。
「やっぱりお前だな」
ミケは何も言わない。
ただ、了の膝の上に乗った。
その夜。
了は初めて、ミケを抱きしめた。
三年前、段ボールの中で震えていた小さな猫。
あの日、自分が拾ったと思っていた。
しかし、もしかすると。
拾ったのではなく、
再会したのかもしれない。

五 世界の渋滞
翌週。
ニュースを見ていると、奇妙な特集が始まった。
「全国の動物病院で、犬や猫の行動に関する不思議な相談が増えています」
画面には一匹の犬。
飼い主が、
「最近、この子が私の仕事の話を聞くと、ものすごく嫌そうな顔をするんです」
と話している。
別の映像。
猫がテレビの国会中継を見ている。
政治家が何かを話すたびに、猫が大きなため息をつく。
「……」
了はテレビを消した。
会社へ行く。
部長が待っていた。
「保坂君」
「はい」
「僕はね、最近、来世について考えるんだよ」
「……」
「人間は大変だ」
「そうですね」
「来世は犬がいい」
部長は遠くを見るような目をした。
「犬になって、毎日散歩して、飯を食べて、寝る」
了は部長を見た。
「……部長」
「何だね」
「最近、犬っぽくなってません?」
「失礼な」
その日の昼休み。
隣の課の女性社員が言った。
「うちの夫、最近、寝言で『お座り』って言うと本当に正座するんです」
「……」
営業部の若手は、商談中に相手から褒められると、なぜか身体を左右に揺らすようになった。
「犬っぽい」と噂された。
そして駅前では、もっと奇妙な事件が起きた。
老婦人が連れていた柴犬が、横断歩道で立ち止まった。
隣には、急いでいるサラリーマン。
柴犬はサラリーマンを見た。
そして、前足を一歩引いた。
まるで、
「お先にどうぞ」
と言うように。
動画はSNSで拡散された。
『犬、紳士すぎる』
というタイトルがついた。
だが、了には分かっていた。
あれは紳士なのではない。
人間だった頃の記憶が、魂の渋滞によって浮かび上がったのだ。
帰宅すると、ミケがテレビの前に座っていた。
「見たか?」
ミケは振り返る。
「犬が道を譲った」
「……」
「お前も、ああなるのか?」
ミケは目を細めた。
「宮田」
呼びかけても、返事はない。
「お前、俺より先に人間に戻るんだよな」
ミケの尻尾が、ゆっくり動いた。
「俺は、そのあと犬か」
ミケは何も言わない。
「……変な話だよな」
了は笑った。
人間だった友人が猫になり。
自分は、次に犬になる。
そして、その次には――。
「もしかしたら、お前が俺を飼うのか」
ミケが了を見る。
その顔は、
「当然でしょ」
と言っているように見えた。

六 決断
数日後。
了は再び、生類課を訪れた。
三毛田は書類の山に埋もれていた。
「また来ました」
「保坂さん」
三毛田は顔を上げた。
「決めました」
「はい」
「俺、次の生は犬になります」
三毛田はしばらく黙っていた。
「よろしいのですか?」
「はい」
「犬生は、人間ほど複雑ではありません」
「知ってます」
「食べる」
「はい」
「寝る」
「はい」
「散歩する」
「はい」
「飼い主が帰ってきたら喜ぶ」
「それ、今の俺より幸せそうですね」
三毛田は笑った。
「犬になることを、嫌ではないのですか?」
了は少し考えた。
「最初は嫌でした」
「はい」
「人間に生まれたのに、人生が平凡で。仕事も普通で。特別な才能もなくて」
「……」
「でも、最近思うんです」
了は窓の外を見た。
「平凡だったから、ミケを拾えたのかもしれない」
三毛田は黙って聞いている。
「もし俺が忙しくて、もっと違う人生を送っていたら、あの日、あの段ボールを見つけなかった」
「はい」
「宮田とも会わなかった」
「はい」
「そう考えると、間違った人生だったのかどうか、分からなくなりました」
三毛田は書類を一枚取り出した。
「それでも、順番を戻しますか?」
「はい」
了は頷いた。
「俺のせいで、誰かがずっと順番待ちしてるんでしょう?」
「……はい」
「だったら、俺が一回、犬をやります」
三毛田は静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「何で職員からお礼を言われるんですか」
「この仕事をしていると、皆さん自分の順番ばかり気にされるんです」
「……」
「自分がどこへ行くか。自分が何になるか。自分が得をするか」
三毛田は書類に判を押した。
「でも、誰かの順番を空けるために、自分から列に戻る人は、あまりいません」
了は苦笑した。
「経理ですから」
「関係あります?」
「順番が合ってないと、気持ち悪いんですよ」
三毛田は笑った。
「では、正式に処理します」
書類に、
「現世:人間」
「次回:犬」
「次々回:猫」
と記入される。
了はそれを見た。
「……猫?」
「はい」
「犬の次が猫?」
「順番は魂ごとに違います」
「なるほど」
「そして、その次に人間へ戻る予定です」
了は笑った。
「じゃあ、ミケは?」
三毛田は別の書類を確認した。
「宮田さんは、次回の転生で人間側へ戻る予定です」
「人間に?」
「はい」
「どんな人間に?」
「それは決められません」
「俺の近くに来ますかね」
「それも分かりません」
「……そうですか」
了は少しだけ残念そうにした。
すると三毛田が言った。
「ただし、魂には不思議な傾向があります」
「何ですか?」
「一度深く関わった魂同士は、別の生になっても、また近くに集まりやすい」
了は笑った。
「じゃあ、また会えるかもしれない」
「ええ」
「そのとき、俺が犬で、宮田が人間だったら……」
「立場が逆になりますね」
「宮田が俺を飼う」
三毛田は笑った。
「そうなるかもしれません」
了は立ち上がった。
「それなら、悪くないですね」

七 犬の時間
それから三十数年が過ぎた。
ある家の縁側に、一匹の老いた柴犬が寝そべっていた。
名前は、リョウ。
若い頃から人間が好きだった。
特に、家の主人である青年にはよく懐いた。
青年の名前は、宮田。
不思議なことに、青年は経理の仕事をしていた。
数字を合わせるのが好きで、仕事から帰ってくると、縁側の犬に向かってよく愚痴をこぼした。
「今日も上司に怒られたよ」
リョウは黙って聞く。
「俺、向いてないのかな」
リョウは尻尾を振る。
「お前はいいよな」
青年が笑う。
「寝てればいいんだから」
リョウは目を細めた。
――そうでもない。
犬にも犬の悩みがある。
散歩に行きたいのに雨が降る。
ご飯が少ない。
知らない犬が庭に入ってくる。
そして何より、
飼い主が元気のない顔をしていると、どうしていいか分からない。
人間だった頃には知らなかった悩みだった。
ある日。
青年は祖父の遺品を整理していた。
古い引き出しの奥から、一枚のメモが出てきた。
それはどこか見覚えのある、角ばった、真面目な経理マン特有の几帳面な字で書かれていた。
そこには、
「犬と猫とだけは
他の動物たちとは違い
人間に寄り添って
生きて来た。
それはもしや
次は人間に
生まれ変わるかのように。
いや。
かつて人間だったかのように」
とあった。
青年は首を傾げた。
「何だ、これ」
縁側を見る。
老犬がこちらを見ている。
青年は笑った。
「まさかな」
リョウは立ち上がった。
ゆっくり青年のところまで歩く。
そして、その足元に座った。
青年が頭を撫でる。
「お前、昔から人間みたいな顔するよな」
リョウは目を閉じた。
――昔から?
その言葉に、胸の奥で何かが動いた。
雨の日。
段ボール。
猫。
古い名刺。
経理部。
喫茶店。
猫耳の職員。
そして、
「俺、死んだら猫になりたいんだよな」
という声。
すべてが一瞬だけ、遠い記憶のように浮かんだ。
リョウは目を開けた。
青年を見上げる。
尻尾を一度。
二度。
ゆっくり振った。
青年は笑った。
「お前、本当に人間みたいだな」
リョウは何も言わない。
言えるはずがない。
今は犬なのだから。
ただ。
不思議と悪くなかった。
犬には犬の幸せがある。
誰かが帰ってきたら嬉しい。
名前を呼ばれたら嬉しい。
天気が良ければ嬉しい。
ご飯が美味しければ嬉しい。
そして。
大切な人がそばにいれば、それだけでいい。

エピローグ 順番待ち
その頃。
輪廻転生管理局・生類課では、今日も朝から職員たちが忙しく働いていた。
「犬、三百二十六件!」
「猫、四百十二件!」
「人間、一万八千九百七十一件!」
「多すぎます!」
「死ぬ人間が多いんだから仕方ないでしょう!」
「じゃあ、誰か手伝ってください!」
「私は猫担当です!」
「僕は犬です!」
「意味分かりません!」
奥の机では、犬飼がパソコンを叩いていた。
「……あ」
三毛田が振り返る。
「どうしました?」
「魂配分表、またエラーです」
「今度は何ですか?」
犬飼が画面を見る。
「一件だけ、種族が空欄になっています」
「空欄?」
「はい」
三毛田が画面を覗き込む。
そこには、
魂ID:7749-DOG-Ω
現世:犬
次回:猫
次々回:人間
と表示されていた。
その下に、小さな備考欄がある。
三毛田はそこを読んだ。
「……『再会予定あり』」
「誰とです?」
犬飼が尋ねる。
三毛田は少し笑った。
「さあ」
そして、判を押した。
「本日の割り当て、完了」
窓の外では、どこか遠くで犬が鳴いていた。
どこかでは猫が眠っている。
どこかでは、人間が会社へ向かっている。
それぞれが、それぞれの列に並んでいる。
前の人が進めば、自分も一歩進む。
誰かが先に行けば、自分の番も少し近づく。
人生は、もしかしたら。
自分だけのものではないのかもしれない。
誰かの人生の途中に、自分がいて。
自分の人生の途中には、誰かがいる。
そして、その関係は。
生まれ変わっても、完全には消えない。
犬だったり。
猫だったり。
人間だったり。
ときには、名前すら変わってしまう。
それでも。
なぜかまた会う。
理由は分からない。
ただ、魂は知っているのかもしれない。
「この人だ」
「この猫だ」
「この犬だ」
そうやって、長い長い列の中で、もう一度出会う。
輪廻転生管理局の古い掲示板には、今日も一枚の紙が貼られている。
――次の方、お待ちください。
その文字の下に、小さく追記されていた。
――順番は、必ず来ます。
そして世界のどこかで。
一匹の老犬が、若い飼い主の足元で目を閉じた。
その顔は、とても穏やかだった。
次の順番を待つように。
けれど、急ぐ必要などないと知っているように。

――了――

Amazon Kindle


あとがき
三つの物語を書き終えて、
あらためて思うことがあります。
人間というのは、
ずいぶん不思議な生き物です。
生まれた瞬間から、
いつか死ぬことが決まっている。
それなのに、
笑ったり、怒ったり、恋をしたり、
誰かを心配したり、
明日の予定を立てたりする。
考えてみれば、
かなり大胆な生き方です。
『仮退院の惑星』では、
「生きる」ということを考えました。
『軌道病棟』では、
「死を意識する」ということを考えました。
そして『魂の順番待ち』では、
「死んだあと」を想像しました。
書いているうちに、
三つの物語が一本の線でつながっていくような感覚がありました。
生まれて。
生きて。
死んで。
そして――
また、どこかで会う。
もちろん、
そんな世界が本当に存在するのかは分かりません。
死後の世界も、
魂も、
生まれ変わりも、
今の科学では証明されていません。
だからこそ、
物語の中では自由に想像してみました。
もしかすると、
宇宙のどこかに病院があるのかもしれない。
もしかすると、
死を迎えた人たちが集まる場所があるのかもしれない。
もしかすると、
生まれ変わる前の魂たちが、
自分の順番を静かに待っているのかもしれない。
そして、
そこで誰かが言うのです。
「次は、どこへ行きますか?」
そんな世界を想像すると、
人生の見え方が少し変わってきます。
今そばにいる人も、
昔そばにいた人も、
これから出会う人も。
ひょっとすると、
長い時間の中では、
何度もどこかで出会っているのかもしれない。
そう考えると、
人生の別れさえ、
少しだけ違って見えてきます。
この三部作に、
正しい答えを用意したつもりはありません。
読んでくださった方が、
それぞれの人生の中で、
それぞれの答えを見つけていただければと思っています。
そして最後に。
もし本当に、
「生まれて、死んで、また会う」
という長い旅があるのなら。
今この瞬間を生きている私たちは、
その旅の途中にいるのでしょう。
だったら今日は、
今日しかできないことを一つ。
誰かに「ありがとう」と言う。
久しぶりの人に連絡する。
好きなものを食べる。
空を見上げる。
そして、
少しだけ笑う。
それだけでも、
十分なのかもしれません。
またいつか。
この本のどこかで。
あるいは、
別の物語の中で。
お会いできれば幸いです。




砂時計の渚
―― 不思議な物語 ――


まえがき
人は、歳を重ねるほど、時間を意識するようになるのかもしれません。
若い頃には、時間はいくらでもあると思っていました。
けれど、還暦を過ぎ、友人の訃報が一つ、また一つと届くようになると、「残された時間」という言葉が、急に現実味を帯びてきます。
できなくなったこと。
失ったもの。
先に逝ってしまった人たち。
そんなものを数えているうちに、いつの間にか、自分の時間まで減ってしまったように感じることがあります。
もし、亡くなった友人たちが、人生の途中で立ち止まったまま、どこかにいるとしたら。
もし、そこに「砂時計の砂」のように、人それぞれの時間が流れ続けている場所があるとしたら。
この物語は、そんな小さな想像から生まれました。
少しだけ不思議な渚の物語を、どうぞ最後までお楽しみください。




一章 還暦の夜
還暦を過ぎてからというもの、訃報は静かに、しかし確実に増えていった。
年賀状の宛名が一つ減り、同窓会の名簿に「※」の印が一つ増える。
そのたびに、諏訪部誠一は、自分の胸の奥に小さな石が積まれていくような気がした。
その夜も、一通の短いメールが届いた。
〈お知らせいたします。この度、夫・田村俊一が永眠いたしました〉
俊一。
高校の三年間、毎日のように自転車を並べて走った男だった。
就職してからは疎遠になっていた。
それでも、還暦の同窓会で再会したときには、あの頃と同じ声で笑っていた。
「誠一、お互い、もう先が見えてきたな」
そう言って笑った俊一の顔を、誠一はまだ覚えている。
あれから、まだ半年も経っていない。
誠一は、リビングの椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、正月の名残の飾りが、冷たい風に揺れていた。
還暦を迎え、干支が一巡した。
「ここから、もう一度始まるんだ」
そんなふうに言う人もいる。
けれど誠一には、人生がもう一度始まったというより、残り時間が、急に数字として見えるようになっただけのように思えた。
そのときだった。
胸の奥で、
とくん。
小さな一拍が強く鳴った。
近頃、ときどき感じる違和感だった。
医者に行くほどではない。
歳のせいだろう。
疲れているだけだ。
そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど今夜は、その一拍が妙に大きく響いた。
「……まさかな」
誠一は立ち上がった。
薬缶に水を入れようと、台所へ向かう。
そのとき、視界の隅で何かが揺れた。
窓の外。
まだ夜明け前の暗闇のはずだった。
なのに、庭の向こうに、薄い橙色の光が見えた。
誠一は窓を開けた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
そして、玄関を出た。
庭の向こうには――
見慣れない渚が広がっていた。


二章 渚に立つ人影
夜のはずなのに、そこだけ夕暮れのような橙色の光に包まれていた。
波の音はしなかった。
聞こえるのは、
さらさら、
さらさら、
という、何かが絶え間なく流れ落ちる音だけだった。
誠一は足元を見た。
砂だった。
しかし、普通の砂ではない。
砂時計の中に入っているような、細かな砂の粒が、渚一面に広がっている。
風はない。
それなのに砂は、静かに、確実に、ある一点へ向かって流れていた。
「……何だ、ここは」
そのときだった。
「誠一」
声がした。
誠一は顔を上げた。
渚の先に、人影が立っている。
見覚えのある姿だった。
まさか。
そう思った瞬間、その顔がはっきりと見えた。
俊一だった。
しかし、誠一の記憶にある還暦の俊一ではない。
高校時代。
自転車を漕ぎ、くだらない話をしながら笑っていた、あの頃の俊一だった。
十七か十八歳。
制服姿のまま。
「……俊一?」
「そうだよ」
俊一は笑った。
あの頃と寸分違わぬ笑い方だった。
誠一は言葉を失った。
数時間前に届いた訃報。
その本人が、目の前で少年の姿のまま立っている。
「お前……死んだんじゃないのか」
「そうみたいだな」
「そうみたいって……」
「俺にも、よく分からないんだよ」
俊一は肩をすくめた。
「ここがどこなのかも、誰が作った場所なのかも分からない。ただ、一つだけ分かったことがある」
俊一は、足元の砂を指さした。
「この砂は、人間の時間なんだ」
誠一は黙って砂を見た。
「時間?」
「ああ。誰かの持ち時間だ」
俊一は言った。
「人によって長さは違う。でも、流れ始めたら止まらない」
誠一の足元を、無数の砂粒が通り過ぎていく。
さらさら。
さらさら。
「俺の時間も、ここにあるのか」
「ああ」
俊一は笑った。
「だから、あまり長居はできないぞ」


三章 時が止まった者たち
俊一に導かれ、誠一は渚を歩いた。
歩くたびに、橙色の光の中から人影が浮かび上がってきた。
中学時代の同級生、北村。
二十代の頃に亡くなった従兄の健太郎。
ほかにも、記憶の奥にしまっていた人たちがいた。
不思議なことに、誰も老いていない。
亡くなったときの姿でもなかった。
それぞれの人生で、もっとも輝いていた頃の姿だった。
「不思議だろう」
俊一が言った。
「ここでは、誰も老いない」
誠一は、北村の顔を見つめた。
「どうして?」
「さあな」
俊一は少し笑った。
「ただ、俺たちは、あの日のままなんだ」
誠一は胸が締めつけられるような気がした。
自分だけが歳を取っていく。
白髪が増えた。
身体が思うように動かなくなった。
友人が一人、また一人と先に逝っていく。
それなのに、ここにいる人たちは、みんな若い。
「……羨ましいよ」
誠一は正直に言った。
俊一が振り返った。
「そうか」
「俺は還暦を過ぎてから、できることが少しずつ減っている気がする。酒もやめた。食事にも気をつけている。それでも身体は歳を取る」
誠一は苦笑した。
「友達は先にいなくなる。自分の番も、いつか来るんだろうと思う。だから、最近は時間を数えてばかりだ」
俊一はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「誠一」
「ん?」
「お前、勘違いしてるよ」
「何を?」
俊一は渚の向こうを見た。
「俺たちは、老いないんじゃない」
少し間を置いて、
「老いる機会を、失っただけだよ」
誠一は何も言えなかった。
その言葉が、胸の奥に深く沈んでいった。


四章 あいつの分まで
「老いる機会を……失っただけ」
誠一は、砂の上に立ったまま呟いた。
俊一は頷いた。
「白髪が増えることも、腰が痛くなることも、身体が重くなることも、老眼になることも、全部、生きているからできることだ」
「……嫌なことばかりだけどな」
「そうだな」
俊一は笑った。
「でも、俺たちには、それすらもうない」
誠一は黙って砂を見た。
俊一が続けた。
「お前、同窓会で言ってたよな」
「何を?」
「『あいつの分まで生きる』って」
誠一は俯いた。
友人の葬式に出るたび、そう言ってきた。
「誰かが亡くなるたびに、みんな同じことを言う。でもな」
俊一は、誠一の顔を見た。
「それは、言葉にするものじゃないんだ」
「じゃあ、何なんだ?」
「ちゃんと生きることだよ」
誠一は返事ができなかった。
「俺は……怖いんだ」
やがて、誠一は言った。
「この歳になって、残り時間を数えることが。友達が一人減るたびに、次は自分かもしれないと思うことが」
俊一は、砂の流れを見つめた。
「誠一」
「うん」
「この砂は、止まらない」
「……ああ」
「お前が怖がっても、喜んでも、同じ速さで流れていく」
俊一は一粒の砂を拾おうとした。
しかし、砂は指の間からこぼれていった。
「だったらさ」
俊一が笑った。
「怖がって過ごす一日と、笑って過ごす一日。どっちがいい?」
誠一は、しばらく考えた。
そして笑った。
「……笑って過ごすほうだな」
「だろ?」
砂は、さらさらと流れ続けていた。


五章 動悸の理由
しばらく歩いたあと、誠一はふと胸に手を当てた。
「なあ、俊一」
「何だ?」
「俺、最近、動悸がするんだ」
俊一の顔から、笑みが消えた。
「どんな?」
「一拍だけ、強く打つんだ。とくん、って」
「いつから?」
「何か月か前からかな」
「医者には?」
「まだ行ってない」
俊一は黙った。
「歳のせいだと思ってたんだ」
「誠一」
俊一の声が、少し低くなった。
「それは、確かめたほうがいい」
「大したことないと思う」
「俺もな。大したことないと思ってたんだ」
誠一は顔を上げた。
俊一は渚を見ていた。
「ここでは、言えないことがあるんだ」
「……死んだ理由か?」
俊一は答えなかった。
ただ、誠一の胸を指さした。
「その音を、この渚に持ち込む前に」
俊一は、静かに言った。
「一度、ちゃんと確かめてこい」
誠一は自分の胸に手を当てた。
とくん。
また一拍。
その音が、さっきまでとは違って聞こえた。
老いの音なのか。
病気の音なのか。
それとも、まだ生きているという音なのか。
誠一には分からなかった。


六章 砂時計の向こう
「誠一」
俊一が言った。
「そろそろ時間だ」
橙色の光が、少しずつ薄くなっていた。
「もう行くのか」
「ああ」
「もっと話したいよ」
「俺もだ」
俊一は笑った。
「でも、ここは生きている人間が長くいる場所じゃない」
誠一は渚を見渡した。
北村が手を振っている。
健太郎も笑っている。
みんな、あの日のままだ。
時を止めた人たち。
誠一は、胸の奥に寂しさが込み上げてくるのを感じた。
「なあ、俊一」
「何だ?」
「俺、この先どうしたらいいんだろう」
俊一は答えなかった。
誠一は続けた。
「願うことといえば、健康と、安全と、安定と……最近は、それくらいなんだ」
俊一は、少しだけ笑った。
「それでいいんじゃないか」
「いいのか?」
「人間、歳を取ると、欲しいものが変わるからな」
俊一は誠一の肩を叩いた。
「でもな」
「うん」
「願うだけじゃ駄目だ」
「……分かってる」
「本当に分かってるか?」
俊一が笑った。
「動悸がするなら病院へ行け。心配なら誰かに話せ。食べ過ぎたら少し歩け。眠れなければ無理をするな」
「ずいぶん現実的だな」
「死んだ後だからこそ、言えるんだよ」
二人は笑った。
そして俊一は、最後に言った。
「誠一」
「何だ?」
「俺たちの分まで、なんて気負わなくていい」
「……」
「ただ、ちゃんと生きろ」
俊一の声が、静かに渚へ溶けていく。
「老いることを、そんなに嫌がるな」
「……」
「老いはな」
俊一は笑った。
「俺たちが、手に入れられなかった贈り物なんだから」
その言葉を最後に、俊一の姿が少しずつ光の中へ消えていった。
「俊一!」
誠一は手を伸ばした。
俊一は、最後まで笑っていた。


七章 目覚め
気がつくと、誠一はリビングの椅子に座っていた。
窓の外は、夜明け前の暗闇。
薬缶は、まだ台所に置かれたままだった。
火もついていない。
夢だったのだろうか。
それとも――。
誠一は胸に手を当てた。
とくん。
確かに、一拍だけ強く打った。
誠一は、しばらくその音を聞いていた。
そして立ち上がった。
その日の朝。
誠一は妻に、最近の動悸について話した。
「どうして今まで言わなかったの?」
妻は少し怒った顔をした。
「大したことないと思ってた」
「それ、歳を取った人が一番言っちゃいけない言葉じゃない?」
誠一は苦笑した。
「……そうかもしれない」
その日のうちに、かかりつけ医へ電話をした。
数日後。
診察の結果、軽度の不整脈が見つかった。
命に関わるものではなかったが、生活習慣の見直しと、定期的な経過観察が必要だという。
「早めに来ていただいて良かったですよ」
医師が言った。
「こういうものは、放っておくと悪化することもありますから」
診察室を出た誠一は、病院の廊下で立ち止まった。
大きく息を吐く。
助かった。
そう思った。
同時に、少しだけ可笑しくなった。
自分は今まで、老いを恐れていた。
病気を恐れていた。
死を恐れていた。
けれど、本当に怖かったのは――
確かめることから逃げていた自分だったのかもしれない。
誠一は、窓の外を見た。
朝の光が、病院の壁を白く照らしていた。
「俊一」
小さく呟いた。
「行ってきたぞ」


八章 渚の向こうへ
それから半年が過ぎた。
誠一は今も、還暦を過ぎた身体と付き合いながら暮らしている。
酒はやめた。
食事にも気をつけている。
以前より少し歩くようにもなった。
だが、一番変わったのは、身体ではなかった。
老いを、敵のように思わなくなったことだった。
友人が一人、また一人と先に逝く。
その寂しさは、なくならない。
訃報が届くたび、胸の奥が痛む。
それでも今の誠一には、思い出す場所がある。
あの渚。
橙色の光。
さらさらと流れる砂。
そして、制服姿の俊一。
ある晩。
誠一は庭に出て、夜空を見上げていた。
そのときだった。
視界の隅で、何かが揺れた。
橙色の光。
ほんの一瞬だった。
誠一は目を凝らした。
しかし、そこには何もなかった。
風に揺れる木の葉だけ。
「……気のせいか」
そう呟いて、誠一は空を見上げた。
そして、少しだけ笑った。
「俊一」
返事はない。
それでも誠一は、その暗い庭に向かって手を挙げた。
「見ていてくれ」
少し間を置いて、
「俺は、ちゃんと生きるから」
夜は静かだった。
遠くで、犬の鳴き声がした。
誠一は家へ戻ろうとした。
そのとき――
さらさら。
どこからともなく、砂の流れる音が聞こえた気がした。
誠一は振り返った。
何もない。
けれど、なぜか分かった。
砂時計の砂は、誰のためにも止まらない。
生きている者の砂も。
逝ってしまった者の記憶も。
時間は、ただ静かに流れていく。
だからこそ。
一粒一粒を、怖がって数える必要はない。
今日という一粒を、今日として生きればいい。
明日の一粒は、明日になれば落ちてくる。
誠一は、もう一度だけ夜空を見上げた。
老いることは、失っていくことだけではない。
今日まで生きてきたということ。
そして、明日へ進む時間が、まだ残されているということ。
それは、死んだ者にはもう手に入らない。
生きている者だけに与えられた、ささやかな贈り物だった。
さらさら。
砂は、今日も流れている。
誠一は、その音を聞きながら、静かに家へ戻っていった。

――完――


Kindle



あとがき
白髪が増えること、腰や肩が痛むこと、疲れやすくなること。若い頃には忌々しく思えた「老い」のサインも、見方を変えれば、生きているからこそ味わえる体験です。先に逝ってしまった友人たちは、もう歳を取ることすら叶いません。
「あいつの分まで生きる」と肩に力を入れる必要はないのかもしれません。ただ自分の今日という一日を丁寧に、笑って過ごすこと。それこそが、残された私たちにできる最高のことなのだと思います。
誰にとっても砂時計の砂は止まりませんが、だからこそ、今日落ちてくる一粒を大切に味わっていきたいものです。

昨日は
カミさんの
お袋さんとお婆ちゃんとの法事で

カミさんの実家近くの
お寺へと急ぎ足

お袋さんは27回忌となり
お婆ちゃんは24回忌

時間の経つのは
あまりにも早く

特に今年
お袋さんの齢に並んだカミさんは
言葉少なく手を合わせていて
感慨深くもあったのだろう

海沿いの
高台の大きなその古寺は
3.11の震災により
文化財ほどにも見える
立派な本堂はまだ使えないまま
バリケードが張られ

いつ直すのかと
長年思って来たけれど
以前の住職が亡くなって
新たな住職となり

なんだか
その気配すらなく
放置されたまま

多くの檀家たちの協力なしには
難しいようだけれど
このご時世
とんでもなく莫大な費用が掛かるそうで

なかなか上手く行かないようだ

すれば
仮設のような場所での法要となり
これは違うかな? と
心をよぎるけれど

まあそんなだから
仕方がない

さて
わずかな身内だけのそこは
住職の念仏だけが響き
さぞかしと思ってみるが
何の気配もない

そうだ
不思議かな
昨今 なんとなく
気配を感じるようになって

見えなかったものが
目をこらすと
見えるようになって

部屋中をそっと
見渡してはみたが
何も見えなかった

そう
玉響は姿を見せず
ここは本物なのか?と
わずかに疑ってみる

そう
口には出さなかったけれど
ここのスタッフは
なんだか皆 人相が悪い




法要が終わり
叔父さんが近くに来て
僕に呟いた

ここのスタッフ
皆
人相が悪いな

この寺
食い潰されなけらば良いが… と

えっ? 

それ 僕も思っていた

大きな歴史ある古寺
未来は大丈夫なのだろうか

失礼…

たそがれ横丁のかず坊

――自分の丈のままで――




【まえがき】

人は誰しも、人生のどこかで「背伸び」をして生きているのかもしれません。

あの人のほうが成功している。
あの家のほうが恵まれている。
自分には、何かが足りない。

そんなふうに他人と自分を比べ、届かないものに手を伸ばしては、ため息をつく。

それは若さの証でもあり、大人になってからも消えない、小さな傷のようなものなのかもしれません。

この物語の主人公・一男もまた、六十五歳になるまで、ずっと自分の「身の丈」を測りながら生きてきた男でした。

彼がふと訪れた夕暮れの町で出会うのは、過ぎ去った懐かしい時間と、かつて背伸びをしていた自分自身。

そこで一男が受け取るものは、何か特別な成功でも、失った時間を取り戻す魔法でもありません。

ただ、

「これまで歩いてきた自分の人生を、そのまま認めていい」

という、ささやかな気づきです。

もし今、あなたがご自身の歩んできた道に、少しだけ迷いや虚しさを感じているのなら。

どうかこの物語と一緒に、あたたかな黄昏の路地を歩いてみてください。

読み終えたあと、ご自身の足元がほんの少しだけ愛おしく感じられたなら、とても嬉しく思います。





一

六十五歳になった年の秋、田渕一男(たぶちかずお)は、久しぶりに生まれ育った町へ足を運んだ。

定年退職してから三年。

妻には先立たれ、子どもたちはそれぞれ家庭を持った。

一男の暮らしは、静かすぎるほど静かだった。

朝起きて、新聞を読み、簡単な朝食をつくる。

昼になれば近所を歩き、夕方にはひとりでテレビを見る。

何か困っているわけではない。

ただ、一日が長かった。

四十年間の勤め人生活の中で、一男はいつも何かと比べてきた。

同期の出世。

隣の家の車。

息子の友人の進学先。

若い頃から身についた癖は、仕事を辞めても簡単には抜けなかった。

人と自分を並べては、足りないところを探す。

そして、足りないものを見つけるたびに、小さくため息をつく。

そんな自分に、嫌気がさしていた。

ある朝、押し入れの奥から古いアルバムを取り出した。

そこには、まだ若かった自分と、もう会えなくなった人たちが写っていた。

写真の中の自分は、何も知らずに笑っている。

一男は、その顔をしばらく眺めていた。

そして、ふと思った。

――あの町へ、行ってみるか。

理由らしい理由はなかった。

電車に揺られながら窓の外を見る。

田んぼが広がり、やがて見覚えのある山の稜線が現れた。

子どもの頃、毎日のように仰ぎ見た山だった。

あの頃は、この狭い町から出ることばかり考えていた。

それなのに今は、吸い寄せられるように戻ってきている。

人間というのは、身勝手なものだ。

駅前に降り立つと、町はすっかり姿を変えていた。

かつての商店街にはシャッターが並び、その隙間にコンビニエンスストアやコインパーキングが入り込んでいる。

子どもの頃、毎日のように駆け抜けた道も、記憶よりずいぶん細く、短く見えた。

一男は苦笑した。

故郷というものは、思い出の中でだけ大きくなっていくのかもしれない。

あてもなく歩いているうちに、日が傾いてきた。

空は橙色から紫色へ変わり、電柱の影が長く伸びていく。

そのときだった。

ふっと、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。

練炭の匂い。

子どもの頃、借家街の路地でいつも漂っていた匂いだった。

もう何十年も嗅いでいないはずなのに、一度吸い込んだだけで、記憶の底から何もかもが引き上げられた。

湿った土の匂い。

夕飯の煮物の匂い。

自転車のブレーキのキーッという音。

遠くで鳴る豆腐屋のラッパ。

一男は、吸い寄せられるように匂いのする方へ歩いた。

細い路地をひとつ曲がる。

そして、足を止めた。

二

――そこには、シャッターの降りた街ではなく、あの頃の商店街があった。

八百屋の店先には夕方の買い物客が並び、魚屋のおやじが威勢のいい声を張り上げている。

駄菓子屋の前では、子どもたちが十円玉を握りしめていた。

自転車が勢いよく走り抜ける。

どこかのラジオから歌謡曲が流れている。

空気そのものが、あの頃の温かい色をしていた。

一男は立ち尽くした。

夢なのだろうか。

そう思った。

けれど、頬を撫でる夕方の風は確かに冷たかった。

八百屋の白菜の青くさい匂い。

魚屋の潮の匂い。

子どもたちの無邪気な笑い声。

夢にしては、あまりにも生々しかった。

「……かず坊?」

背後から声がした。

一男が振り返ると、割烹着姿の年配の女性がこちらを見ていた。

見覚えがある。

豆腐屋のおばさんだった。

もう三十年も前に亡くなったはずの人。

「かず坊じゃないかい」

「……おばさん」

「久しぶりだねえ。大きくなって」

一男は思わず吹き出しそうになった。

六十五歳になり、白髪の混じった自分を見て「大きくなった」と言う。

それが妙に可笑しく、そして愛おしかった。

「お母さんは元気にしてるかい?」

一男は答えようとして、言葉を詰まらせた。

母の顔が浮かんだ。

若い頃の母。

台所で割烹着を着て包丁を握る母。

夕方、買い出しの袋を提げて帰ってくる母。

「……母は、もう」

声が震えた。

「そうかい」

おばさんはそれ以上聞かず、優しくうなずいた。

そして、水槽から豆腐をすくい上げ、素早く包み始めた。

「ほら。持っていきな」

手渡されたのは、出来たての温かい絹ごし豆腐だった。

一男は両手で受け取った。

ずしりと重く、じんわりと温かさが掌に伝わってくる。

「ありがとうございます」

「何言ってんだい。昔から豆腐ひとつで礼なんか言わなかったじゃないか」

おばさんは豪快に笑った。

その笑顔を見た瞬間、一男の視界が滲んだ。

商店街を歩けば、次々に声をかけられた。

文房具屋のおじさん。

床屋のお兄さん。

駄菓子屋の店番をしていたおばさん。

みんな一男を「かず坊」と呼んだ。

誰も現在の職業を聞かなかった。

肩書も、年収も、家族のことも聞かなかった。

ただ、

「久しぶりだねえ」

と、昔と変わらない笑顔で迎えてくれた。

一男は、その言葉を浴びるたびに、胸の奥にこびりついていた冷たい塊が、少しずつ溶けていくのを感じた。

三

商店街の外れに、小さな公園があった。

錆びついたブランコが二つ並んでいる。

その片方に、ひとりの少年が座っていた。

後ろ姿を見ただけで、一男にはすぐに分かった。

――少年時代の自分だ。

少年はつま先で地面を弄りながら、ブランコをゆったり揺らしていた。

一男は歩み寄った。

「お前は……」

少年は振り返らないまま言った。

「また、背伸びしてきたのか」

一男は息を呑んだ。

「……覚えてるのか」

「何を?」

「いろんなことをさ」

少年は小さく鼻で笑った。

「あの子の家、金持ちだったよな。制服も綺麗でさ、革の鞄持ってた」

「そうだったな」

「俺たちはツギハギの詰襟に、ペラペラの布鞄」

少年は足先で強く砂を蹴った。

「羨ましかった。悔しかったよ」

一男は隣のブランコに静かに腰を下ろした。

ぎい、と鎖が切ない音を立てる。

「今でも、羨ましいのか?」

「羨ましいっていうか……」

少年はしばらく黙り込んだ。

「届かないって、分かってたんだよ」

「何が?」

「何もかもさ。カッコいい自分にも、豊かな暮らしにも」

その言葉は、そのまま六十五年を生きてきた一男の胸に突き刺さった。

少年は続けた。

「だから、少しでも届くように背伸びした。大人ぶって、平気なフリしてさ。……でも、そうやって背伸びしてる自分が、一番惨めで嫌だった」

一男は少年の横顔を見た。

不安に揺れる目。

何かを強く欲しているのに、傷つくのが怖くて、欲しがっていないふりをする目。

かつての自分そのものだった。

「今なら分かるよ」

一男はゆっくりと言った。

「背伸びしたって、届かないものは届かない」

少年は黙って俯いている。

「でもな」

一男は重ねた。

「届かなかったからって、そこまで歩いてきた足跡まで消えるわけじゃない。無駄なんかじゃないんだよ」

少年が、ゆっくりと顔を上げた。

「……じゃあ、なんでおじさんは、今もそんなに苦しそうな顔してるんだよ」

一男は言葉に詰まった。

答えられないまま、秋風に揺れるブランコの鎖の音を聞いていた。

しばらくして、少年は立ち上がった。

「行こう」

「どこへ?」

少年は答えず、ただ商店街のさらに奥の路地へと歩き出した。

四

薄暗い路地の奥に、小さなスナックがあった。

ペンキの剥げかけた看板に、ひらがなで「まりこ」と書いてある。

一男の胸が、どくんと大きく跳ねた。

店の前には、一人の女性が佇んでいた。

記憶の中の姿のまま。

若く、どこか陰があり、けれど華やかな雰囲気を纏った「まりこさん」だった。

高校生の頃、商店街の路地裏で見かけるたび、一男が憧れと羞恥心で胸を痛めた、年上の綺麗な女性。

一男が足を止めると、彼女は振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。

「あら、かずお君」

「……まりこさん」

その呼び方が胸に響いた。

あの頃、ちゃんと会話らしい会話などしたことがなかったのだ。

一男は照れくささを隠すように言った。

「随分……年をとってしまったでしょう」

まりこさんはクスクスと笑った。

「そうねえ。でも、いい男になったじゃない」

二人の間に、心地よい沈黙が落ちた。

一男は、ずっと心の奥底に封印していた想いを、静かに吐き出した。

「あの頃の僕は……あなたに釣り合うような大人になりたくて、必死でした。でも、どうせ僕なんかじゃ届かないと思って、勝手に諦めて……背を向けたんです」

「そう」

まりこさんは静かにうなずいた。

「でもね、かずお君。釣り合うとか釣り合わないとか、そんなことよりずっと前にね」

まりこさんは一男の目をまっすぐ見つめた。

「あの頃のあなたは、用もないのにこの店の前を何度も往復して、一生懸命私に挨拶してくれたでしょう?」

一男は目を見開いた。

「それだけで、私はとっても嬉しかったのよ」

「……そうだったんですか」

「ええ。若い男の子はみんな背伸びするわ。高い煙草を買ってみたり、大人びた口調を使ったりね」

「僕も……そうでした」

「でもね」

まりこさんは少し遠くの空を見つめるように言った。

「本当に素敵なのはね、背伸びして格好つけている人じゃないの。不器用でも、自分の丈のままで一生懸命生きようとしている人よ」

一男は息を呑んだ。

「かずお君は、昔からそういう素朴で真っ直ぐなところがあったわ。気づいてなかったでしょう?」

一男は参ったな、というように苦笑した。

「まったく……気づいていませんでした」

「でしょうね」

二人は顔を見合わせて笑った。

その笑顔を見ているうちに、一男の中で長年のわだかまりが、ふっと消えていくのが分かった。

届かなかった。

恋も、理想も。

けれど――

届かなかったことと、その時間が無駄だったことは、決して同じではないのだ。

五

気がつくと、少年の姿も、まりこさんの姿も消えていた。

一男はひとり、商店街のいちばん突き当たりまで進んだ。

そこには、古びた駄菓子屋があった。

店先の小さな縁台に、腰の曲がった老婆がひとり座っている。

「かず坊」

老婆が言った。

一男は足を止めた。

「……僕を知っているんですか?」

「知ってるともさ」

老婆はしわくちゃの顔で笑った。

「あんたが生まれた時から、ずっと見てきたよ」

「あなたは、一体……」

「まあ、お座りな」

一男は促されるまま、老婆の隣に腰を下ろした。

風が吹き抜け、遠くの商店街の喧騒が、どこか遠い世界の音のように聞こえる。

「ここはね」

老婆は静かに言った。

「たそがれの時間にだけ、境界が解ける場所なんだよ」

「たそがれ……」

「昼でもない、夜でもない。そうだろう?」

一男が空を見上げると、そこは濃い紫色と橙色が混ざり合う、不思議な色合いに染まっていた。

「生きている人も、いなくなった人も。昔の自分も、今の自分も。この時間だけは、少しだけ重なり合うのさ」

一男は静かにうなずいた。

「皆さんは……幻なんですか」

老婆は答えず、ただ一男の手を取った。

その手は小さく、けれど温かかった。

「かず坊」

「はい」

「その手で、これまで本当によく頑張ってきたねえ」

一男は自分の手を見つめた。

爪は丸く、関節は太くなり、シミの浮いた手。

四十年間、愚直に働き続けた男の手だ。

「……大した人生じゃありませんよ。成功もしなかったし、誇れるようなものも何もない」

「バカをお言い」

老婆は一男の手を、ぽんと叩いた。

その口調には、優しい温もりがあった。

「六十年以上も真面目に生きてきて、大したことないなんて言うもんじゃないよ」

老婆は、一男の顔を見た。

「昔から、ずっと自分の身の丈を誰かと比べてばかりいたねえ」

一男の胸が、ツンと痛んだ。

「あっちが上だの、こっちが下だの。あの人より遅れているだの、足りないだの。……そうやって自分を責めてばかりいた」

「否定は……できません」

「だけどね」

老婆は力強く言った。

「身の丈ってのはね、誰かと比べるもんじゃないんだよ」

「じゃあ、身の丈って、何なんですか」

老婆は笑った。

「今日まで転びながらも歩いてきた、あんたの『足の大きさ』そのものさ」

一男は老婆を見た。

「転んだこともあったろう?」

「……ありました」

「道を間違えて、遠回りしたことも?」

「何度も、ありました」

「それでも、休まず歩いてここまで来たんだ」

「……はい」

「だったらねぇ、それがあんたの『丈』だよ。立派なもんじゃないかい」

一男の目から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

六

そのとき、商店街の明かりが一斉に揺らぎ始めた。

八百屋の裸電球。

魚屋の蛍光灯。

駄菓子屋の赤提灯。

ひとつ、またひとつと、煙のように淡く滲んでいく。

空の紫色が、急速に深い闇へと変わっていく。

遠くから声が聞こえた。

「かず坊、そろそろお帰り」

豆腐屋のおばさんの声だった。

「また来なさいね。……気が向いたときだけでいいんだから」

まりこさんの声も重なる。

一男は慌てて立ち上がった。

「もう、行かなければいけないんですか?」

「そうだよ」

老婆は優しく言った。

「また、会えますか」

老婆は答えず、ただ穏やかに微笑んだ。

「かず坊」

「はい」

「もう、そんなに無理して背伸びしなくていいんだよ」

一男の目から、溢れ出る涙が止まらなかった。

「これからは、自分の足で歩きな」

「……はい」

「自分の丈のままで、堂々とな」

一男は深く、深く頭を下げた。

感謝の言葉を述べようと顔を上げた瞬間、老婆の姿は途切れ、商店街の景色は潮が引くように消え去っていた。

……気がつくと、一男はひとり、街灯の下に立っていた。

そこは、シャッターが固く閉ざされた、現代の静かな商店街だった。

空はすっかり夜の黒に包まれ、静寂が広がっている。

遠くで幹線道路を走る車の音が、かすかに聞こえるだけだった。

一男は自分の両手を見た。

豆腐は消えていた。

けれど、掌にはあたたかな温もりの余韻が、しっかりと残っていた。

足元を見ると、古い新聞紙の切れ端が一枚、風に舞って落ちていた。

一男は屈んで、それを拾い上げた。

豆腐を包んでいた新聞紙の端切れだろうか。

街灯にかざしてみたが、日付も文字も擦れていて、もう読むことはできなかった。

一男はその紙きれを丁寧に折りたたみ、胸ポケットに収めた。

そして、ゆっくりと駅に向かって歩き出した。

七

それから一男は、月に一度ほど、あの町を訪れるようになった。

夕暮れ時に路地を歩いてみても、あの賑やかな「たそがれ横丁」には二度と行き当たらなかった。

けれど、それでいいと一男は思っていた。

あれは人生の折り返し地点で、たった一度だけ許された「優しいうたた寝」のようなものだったのだから。

東京の自宅に戻った一男は、少しずつ自分の暮らしを変えていった。

近所の老人会の将棋クラブに顔を出すようになった。

下手くそだと笑われても、ただ楽しそうに駒を指した。

週末に孫が遊びに来たときは、上手く描けないことを気にせず、一緒になって画用紙にクレヨンを走らせた。

ふとした瞬間、

「今さらこんなことをしても……」

という思いが頭をよぎることもある。

テレビを見ていて、同世代の成功者の姿に「自分なんて」と引け目を感じることも、ゼロにはならなかった。

けれど、そんなとき一男は、自分の靴を見るようにした。

六十五年間、泥を蹴り、坂道を登り、休まず歩き続けてきた自分の足だ。

転んだ。

迷った。

遠回りもした。

無駄な背伸びも、たくさんした。

それでも、この足でここまで歩いてきたのだ。

それでいいじゃないか。

そう自分を肯定できる日が、一日、また一日と増えていった。

ある秋の夕方。

一男は近所の散歩道を歩いていた。

西の空が、鮮やかな橙色から深い紫色へと移り変わっていく。

どこからか、秋風に乗って匂いが漂ってきた。

練炭の匂い――

いや。

どこかの家の夕飯の匂いだったのかもしれない。

一男は立ち止まり、目を閉じた。

一瞬だけ、記憶の裏側に、あの商店街が鮮やかに浮かび上がる。

八百屋の活気。

魚屋の威勢。

駄菓子屋の縁台。

ブランコの揺れる音。

「かず坊」と自分を温かく呼ぶ人々の声。

一男は空を見上げ、静かに呟いた。

「……ありがとう」

誰に向けたものか、自分でも分からなかった。

けれど、感謝の想いが胸の奥から溢れていた。

心地よい風が吹き抜け、匂いはすぐに夜の空気へと溶けて消えた。

一男は再び歩き出した。

もう、背伸びはしなかった。

誰かの歩幅と自分を比べて焦ることもなかった。

ただ、自分の足で。

自分の丈のままで。

夕暮れの道を、一歩一歩、確かな足取りで歩いていった。

その背中を、秋の風が優しく、そっと押し続けていた。

(了)



Kindle



【あとがき】

私たちは日々、無意識のうちに「他人の物差し」で自分の人生を測ってしまいがちです。

誰かの華やかな活躍を目にしたとき、自分の過ごしてきた時間が急にちっぽけで、価値のないもののように思えてしまう。

そんな瞬間は、誰にでもあるのではないでしょうか。

けれど、この物語の老婆が語ったように、私たちが今日まで歩んできた一歩一歩は、他人と比べて上下を決めるものではありません。

躓いた傷も。

迷って遠回りした時間も。

若さゆえの背伸びも。

そのすべてを含めて、「自分という人間が歩いてきた道」なのだと思います。

誰かより速くなくてもいい。

誰かより立派でなくてもいい。

自分の足で、今日まで歩いてきた。

それだけでも、十分に尊いことなのかもしれません。

主人公の一男と同じように、この物語を読んでくださった皆さまが、ご自身の歩んできた道のりを「これでよかったのだ」と、ほんの少しでも優しく認めてあげられるきっかけになれば、とても嬉しく思います。

夕暮れの空を見上げたとき、ふっと優しい気持ちになれますように。

鼠小僧は、未来からやってきた

――江戸∞トーキョー、時をまたぐ大狂騒曲――



まえがき

歴史には、変えてはいけない出来事がある。

もちろん、私たちは普段そんなことを考えて暮らしてはいない。

昨日のニュースも、明日の予定も、仕事の締め切りも、せいぜい数日先の天気くらいまで。

ところが、もし。

未来の人間が過去を自由に行き来できる時代になっていたら。

もし、その未来に「歴史を守ること」を仕事にする者たちがいたら。

そして、その一人が江戸時代の大泥棒――鼠小僧次郎吉の姿を借りて現れたとしたら。

さて、現代のしがない会社員は、いったい何に巻き込まれるのだろう。

本作は、そんな少々無茶な発想から生まれた、SF時代劇です。

難しい時間理論は、あまり考えないでください。

歴史の整合性についても、細かいことは一旦、江戸の関所に置いてきてください。

必要なのはただ一つ。

「もし鼠小僧が、未来から来ていたら?」

その疑問を楽しんでいただければ、それで十分です。

――では、時の扉を開きます。




プロローグ 回向院にて

両国、回向院。

秋の陽が、古びた墓石の列を斜めに照らしていた。

藤堂省吾、三十四歳。

システムエンジニア。

徹夜明けの顔には、三日分くらいの疲労が張りついていた。

会社では納期に追われ、上司からは意味の分からない修正指示が飛んでくる。

「昨日と言ってることが違うんですけど」

そう言いたいのを、三度飲み込んだ。

そして今日も、帰宅途中に回向院へ立ち寄った。

子供の頃、祖父に連れられてよく来た場所だった。

祖父は、鼠小僧次郎吉の墓の前に来ると、決まって同じ話をした。

「鼠小僧はな、金持ちから盗んで、貧乏人にくれてやったんだ」

「本当に?」

「本当だとも」

祖父は得意そうに胸を張った。

「かっこいいだろう」

省吾は今でも、その言葉を覚えている。

もっとも、大人になって調べてみれば、実際の鼠小僧が本当に「義賊」だったのかは、かなり怪しい。

それでも、祖父にとっては英雄だった。

省吾は墓前にしゃがみ、手を合わせた。

墓石を少し削って持ち帰ると御利益がある――そんな都市伝説めいた話も聞いたことがある。

もちろん、本当に削るつもりはない。

指先で墓石をそっとなぞるだけだった。

「今日も、うまくいきますように」

納期。

上司。

給料。

将来。

三十四歳にもなると、願い事はずいぶん現実的になる。

そのときだった。

指先が墓石に触れた瞬間――

世界が、ぐにゃりと歪んだ。

「……え?」

耳の奥で、機械が起動するような低い音が響いた。

しかし、その音には妙な懐かしさがあった。

まるで、遠い昔に聞いたことのある音。

あるいは――

まだ聞いたことのない音。

――ぷつん。

世界が切れた。

⸻

第一章 峠の異変

目の前に、団子があった。

「……え?」

手には木の串。

そして体には、見慣れない旅装束。

省吾は数秒間、固まった。

「え、ええ?」

状況が理解できない。

とりあえず団子を見つめる。

白い。

串に三つ。

妙にうまそうだ。

混乱のあまり、思わず一個を口に入れた。

直後――

「げほっ、げほっ!」

思い切りむせた。

「旦那さん、大丈夫ですかい?」

背中を軽く叩かれた。

隣に座っていた男だった。

三十絡み。

日に焼けた顔。

人懐こい笑み。

着物姿も板についている。

ただし――

目だけが妙に鋭かった。

「あ、ありがとうございます……」

省吾は咳き込みながら答えた。

男は笑った。

「団子を食ってむせるたあ、ずいぶんと珍しい旦那さんだ」

「……ここ、どこですか?」

「箱根ですが」

「箱根?」

「へえ」

省吾は周囲を見回した。

山。

街道。

茶屋。

旅人。

馬。

そして、どこにも電柱がない。

スマートフォンを探った。

ない。

財布もない。

代わりに懐から出てきたのは、小さな巾着だった。

「……嘘でしょ」

男が首を傾げた。

「何か?」

「いや……」

省吾は頭を抱えた。

ドッキリ。

映画撮影。

テーマパーク。

VR。

夢。

候補を並べてみる。

どれも現実感がなかった。

男が尋ねた。

「これからどちらへ?」

「え?」

「旅の行き先でござんす」

省吾は咄嗟に答えた。

「京都……」

今朝まで見ていたニュース記事と、来週の京都出張の予定が頭をよぎった。

男は頷いた。

「なら、あっしと同じだ」

「え?」

「お供しませんか」

省吾は男の顔を見た。

「おひとりですか?」

「ええ。まあ、気ままなひとり旅ってことで」

男は甘酒を注文した。

それから、まるで昔からの知り合いのように話し始めた。

箱根の旧街道。

これから峠越え。

山道には追い剥ぎも出る。

ひとりより二人のほうが心強い。

話を聞きながら、省吾は思った。

――これは、相当に作り込まれた体験型アトラクションらしい。

ならば、乗ってしまったほうが早い。

「よろしくお願いします」

「へへ」

男は嬉しそうに笑った。

「あっしは……次郎吉とでも呼んでくだせえ」

その名前を聞いた瞬間。

省吾の背筋に、冷たいものが走った。

今朝――

いや。

ほんの少し前まで、回向院で手を合わせていた男の名前だった。

⸻

第二章 手形のない男

峠道は険しかった。

省吾は三十四歳の自分の足腰を、これほど恨んだことはなかった。

一方、次郎吉は涼しい顔で歩いている。

「旦那、遅いですぜ」

「あなた、歩くの速すぎません?」

「そうですかい?」

次郎吉は笑った。

その笑顔が、妙に腹立たしい。

やがて、関所が見えてきた。

その瞬間、次郎吉の表情が変わった。

「……困ったな」

「どうしました?」

「通行手形を忘れちまいやした」

「は?」

省吾は思わず立ち止まった。

「忘れた?」

「ええ」

「戻ればいいじゃないですか」

「戻るのは面倒でして」

「……」

次郎吉は省吾の懐を指差した。

「旦那の手形」

「これが?」

「『供一名』と書き加えちゃもらえませんかね」

「犯罪ですよね?」

「まあ、そうとも言えますな」

省吾の会社員魂が反応した。

「コンプライアンス的に――」

「こんぷら……?」

「いや、なんでもありません」

省吾は額を押さえた。

なぜ自分は、江戸時代の関所でこんな話をしているのだ。

「見つかったらどうするんです?」

「旦那は立派な商人に見えますから」

「根拠は?」

「顔」

「顔ですか」

「顔です」

あまりにも堂々と言うので、省吾は反論できなかった。

結局、震える手で手形に文字を書き加えた。

関所の役人が近づく。

省吾は緊張した。

役人は手形を見る。

省吾を見る。

そして――

「通れ」

「……え?」

あっさりだった。

次郎吉のほうなど、一度も見なかった。

関所を抜けたところで、次郎吉が笑った。

「ほらね」

「いや、何がほらねなんですか」

「旦那は運がいい」

「絶対に違うと思います」

しばらく歩くと、次郎吉が急に立ち止まった。

「さて」

「?」

「ちょいと用事を思い出しやした」

「用事?」

「旦那、先へ行ってくだせえ」

「一緒に行くんじゃないんですか?」

次郎吉は笑った。

「また会いますよ」

そう言った瞬間――

次郎吉は地面を蹴った。

「え?」

一瞬だった。

男の体が、あり得ない高さまで跳ね上がった。

「……」

省吾は口を開けたまま見上げた。

次郎吉は木の枝に軽く手をかけ、そのまま向こう側へ消えた。

「……人間?」

誰も答えなかった。

⸻

第三章 火事と御用

その夜、次の宿場で次郎吉と再会した。

まるで何事もなかったかのようだった。

「旦那、こっちこっち」

「……」

省吾は問い詰めようとした。

だが、次郎吉はすでに宿を取っていた。

湯。

酒。

粗末だが温かい食事。

省吾は疲れ切っていた。

結局、泥のように眠った。

そして――

「火事だ!」

「火事だぞ!」

半鐘の音が鳴り響いた。

省吾は飛び起きた。

廊下は煙で真っ白だった。

「え?」

隣の部屋を見る。

次郎吉がいない。

「また……?」

考えている暇はなかった。

省吾は宿を飛び出した。

夜道を歩き続ける。

すると――

背後から足音がした。

「旦那!」

振り返る。

次郎吉だった。

「無事だったかい!」

「あんた、どこにいたんです!」

「ちょいと野暮用で」

「野暮用って――」

省吾は息を切らしながら叫んだ。

「あんた、何者なんです!」

次郎吉は笑った。

「あっしは、ただの町人ですよ」

その笑顔が、妙に怪しかった。

しばらくすると――

今度は本物の足音が近づいてきた。

「御用!」

「御用だ!」

省吾は凍りついた。

役人たちが走ってくる。

その先頭が叫んだ。

「鼠小僧!」

次郎吉の笑顔が消えた。

「……旦那」

「はい」

「ちょいと、ここでお別れですな」

「え?」

「世話になりやした」

次郎吉は走った。

役人が追う。

「待て!」

次郎吉は路地へ飛び込んだ。

そして――

また跳んだ。

人間の脚力とは思えない高さだった。

宙で一瞬。

その体の輪郭が、ノイズのように揺らいだ。

次郎吉は闇へ消えた。

省吾は呆然と立ち尽くした。

役人の一人が息を整えながら尋ねる。

「お前、あの男と一緒だったのか」

「……はい」

「何者だ?」

省吾は答えた。

「次郎吉……と名乗っていました」

役人は顔をしかめた。

「鼠小僧次郎吉だ」

「……やっぱり」

「なぜ一緒にいた?」

「それは……」

省吾は少し考えた。

「断ったんですが、向こうが勝手についてきました」

役人は怪訝な顔をした。

「妙な男だな」

それは、お互い様だった。

⸻

第四章 正体

翌朝。

省吾は確信した。

これは夢ではない。

痛い。

腹が減る。

眠い。

そして何より――

帰れない。

三条大橋までは、まだ遠かった。

夜。

省吾は野宿をしていた。

焚き火を見つめていると――

「旦那」

声がした。

顔を上げる。

次郎吉がいた。

「……」

「怒ってます?」

「怒ってます」

「そうですか」

次郎吉は火の向こうに座った。

「じゃあ、話をしましょう」

「あなた、人間じゃないですよね」

次郎吉は少し黙った。

やがて――

「バレちゃ、しょうがねえ」

パチン。

指を鳴らした。

次郎吉の輪郭が揺れた。

光の粒が体から剥がれ落ちる。

その下から現れたのは――

人間に似た、人間ではない何かだった。

つるりとした顔。

淡い光を宿す目。

「……」

省吾は絶句した。

「コード名、J-2977」

「ジェー……?」

「二九七七年製。史実保守機構の保全稼働体でさあ」

「西暦二九七七年?」

「そういうこってす」

省吾は頭を抱えた。

「未来から来た?」

「ええ」

「歴史を守る?」

「ええ」

「鼠小僧の姿をしている?」

「それが一番、仕事しやすいんで」

「……」

「メーカーの趣味も入ってます」

「メーカーの趣味?」

「人気キャラクターのほうが、人間社会への潜入成功率が高いんだそうで」

省吾はしばらく黙っていた。

そして、ぽつりと言った。

「……未来って、もっと格好いいものだと思ってました」

次郎吉は肩をすくめた。

「未来も会社組織は会社組織でさあ」

それを聞いて、省吾は初めて少し笑った。

⸻

第五章 改元屋の陰謀

次郎吉の説明によれば、未来では「歴史密猟者」と呼ばれる犯罪者が存在する。

過去へ潜入し、史実を書き換える。

その後、改変前と改変後の歴史を「仮想史」として販売する。

つまり――

歴史そのものを商品にするのだ。

「今回の相手が、〈改元屋〉です」

「改元屋?」

「ええ。歴史を改造して売る連中でさあ」

次郎吉は火を見つめた。

「奴の狙いは、将軍様にまつわる大スキャンダルを捏造すること」

「なぜ?」

「売れるから」

あまりにも現代的な理由だった。

「本当の歴史と、改変された歴史。その二つを未来の市場に流せば、莫大な金になる」

「歴史を、娯楽として売るんですか」

「ええ。『本当はこうだったかもしれない』ってね」

次郎吉は苦笑した。

「歴史ってのは、未来の人間から見ると、ずいぶん面白い商品なんですよ」

「それを防ぐのが、あなたの仕事?」

「そういうことです」

そして、次郎吉は省吾をじっと見た。

「旦那」

「はい」

「鏡を見たことは?」

「ありますよ」

「今の将軍様に、驚くほど似てるんでさあ」

「……は?」

省吾の顔から血の気が引いた。

改元屋の計画は単純だった。

明日の夜、お忍びで出かける将軍を誘拐する。

そして偽者を立てる。

その偽者が「将軍として」あり得ない行動を取れば、歴史は大きく揺らぐ。

そこで省吾を身代わりに使えば――

「本物そっくりの人間が、突然現れる」

次郎吉は笑った。

「これは向こうにとって、最高の獲物でさあ」

「つまり私は囮?」

「その通り」

「断ったら?」

「別に構いません」

「……」

「ただし、放っておけば旦那自身が身代わりにされる可能性が高い」

省吾はため息をついた。

会社でシステム障害が起きたときと同じだった。

誰かが必ず言う。

「ちょっと手伝ってもらえませんか」

そして気づけば――

全部自分の仕事になっている。

「……わかりました」

「お?」

「乗りかかった舟です」

次郎吉は満面の笑みを浮かべた。

「さすが旦那」

「ただし」

「はい?」

「帰ったら有給を取ります」

「未来の有給は?」

「知りません」

「そりゃ大事ですな」

⸻

第六章 三条大橋、決戦前夜

三条大橋のたもと。

そこには、奇妙な一座が集まっていた。

まず、占い師風の老婆。

ただし、懐に入っているのは水晶玉ではない。

未来製の情報端末だった。

「この先、敵が来るよ」

老婆が言う。

「何人?」

次郎吉が尋ねる。

「二十七」

「多いな」

「でも、そのうち十一人は囮」

「便利ですなあ」

次に、大柄な力士姿の男。

「こいつは?」

省吾が尋ねる。

「警備用自律駆動体」

「ロボット?」

「そういう言い方もしますな」

最後に、三味線を抱えた芸者風の女性。

「私はネットワーク担当」

「ネットワーク?」

「歴史にもネットワークはあるのよ」

そう言って、女性は笑った。

省吾は思った。

――未来って、案外ふざけている。

「旦那にはこれを」

次郎吉が羽織を差し出した。

やたら豪華だった。

「これを着て、将軍の身代わり?」

「ええ」

省吾は袖を通した。

鏡を見る。

妙に似合っている。

「……」

「どうです?」

「自分で言うのもなんですが」

省吾は姿勢を正した。

「ちょっと偉そうです」

「もっと自然に」

「これ以上?」

「将軍は、もっと普通にしてます」

「難しいな……」

次郎吉が笑った。

「歴史ってのはね、旦那」

「はい」

「派手な事件より、地味な帳尻合わせで出来てるんでさあ」

その言葉が、省吾の胸に残った。

やがて夜が深くなる。

三条大橋を風が渡っていく。

そして――

遠くから足音が聞こえた。

⸻

第七章 大捕物

丑三つ時。

橋の向こうから、黒装束の一団が現れた。

先頭に立つ男。

着物姿。

しかし袖口には、江戸時代には存在しない金属製の装置が埋め込まれている。

「これはこれは」

男が笑った。

「上様。こんな夜更けに、お散歩ですか」

省吾は心臓が飛び出しそうだった。

だが、教えられた通り、ゆっくりと顔を上げた。

「無礼者」

声が出た。

意外なほど低かった。

「名を名乗れ」

男の笑顔が消えた。

「……改元屋でございます」

「何者だ」

「歴史を、より面白くする者です」

改元屋は笑った。

「あなた方の歴史は、退屈すぎる」

「だから改変する?」

「ええ」

男は両手を広げた。

「人は『もしも』が好きなんですよ」

その瞬間。

省吾は言った。

「残念だったな」

改元屋が眉を上げる。

「歴史は、お前の遊び道具ではない」

一瞬の沈黙。

改元屋の顔に疑念が浮かんだ。

「……誰だ、お前」

「将軍だ」

「違う」

改元屋が叫んだ。

「こいつは――」

その瞬間だった。

欄干の上から、無数の小さな影が飛び出した。

鼠。

だが、生き物ではない。

掌に乗るほどの機械鼠だった。

「行きな!」

次郎吉が叫ぶ。

機械鼠たちは一斉に改元屋の装置へ群がった。

「何だ、これは!」

ガリッ。

配線が噛み切られる。

「やめろ!」

ガリッ。

別の装置が火花を散らす。

「鼠ごときが!」

「鼠を甘く見ちゃいけませんぜ」

次郎吉が笑った。

大柄な力士姿の男が突進する。

ドン!

改元屋の部下が数人まとめて吹き飛んだ。

芸者風の女性は三味線を弾いた。

――ジャラン。

その音と同時に、敵の装置が次々と停止する。

「何をした!」

「接続先を変えただけ」

老婆が笑った。

「未来の迷子にしてやったよ」

「ふざけるな!」

改元屋が省吾へ飛びかかる。

省吾は思わず後ずさった。

だが――

次郎吉が間に入った。

「旦那には手を出させねえ」

改元屋の袖から光の刃が伸びる。

次郎吉がそれをかわす。

二人が橋の上を駆ける。

まるで人間離れした追いかけっこだった。

最後に次郎吉が、改元屋の腕を掴んだ。

「終わりですぜ」

「離せ!」

「嫌ですな」

改元屋の周囲に光の輪が現れた。

未来の取締機関による回収信号。

改元屋の体が少しずつ透けていく。

「待て!」

「もう戻れねえよ」

次郎吉が言った。

「江戸に土足で上がり込むのは、お前さんの流儀でも通らねえ」

「こんな辺境の時代で……!」

改元屋の叫び声が遠ざかる。

やがて――

光が消えた。

橋の上には静寂だけが残った。

川が、何事もなかったように流れている。

省吾は息を吐いた。

「……終わった?」

次郎吉は頷いた。

「終わりです」

その足元を、一匹の機械鼠がちょろちょろと走った。

省吾は思わず笑った。

「こいつも、未来から?」

「ええ」

「名前は?」

次郎吉は真顔で答えた。

「まだありません」

「なんで?」

「そこまで予算が回らなかったんで」

省吾は吹き出した。

⸻

第八章 別れ

夜が明け始めていた。

次郎吉は橋の上から、静かに京都の町を眺めていた。

「江戸は、守られたんですね」

省吾が言った。

「ええ」

「私のおかげ?」

次郎吉は振り返った。

「旦那のおかげです」

「私は囮になっただけですよ」

「それが大事だったんでさあ」

次郎吉は懐から、小さな金属製の鼠を取り出した。

根付のような形をしている。

「これを」

「何です?」

「記念品」

省吾が受け取る。

ひんやりしている。

「本当なら、旦那の記憶は消さなきゃならねえ」

「未来を知ってしまったから?」

「そういう決まりです」

省吾は根付を握った。

「じゃあ、消すんですか」

次郎吉はしばらく黙っていた。

やがて、笑った。

「……今回は、勘弁してもらいやしょう」

「いいんですか?」

「未来の規則にも、抜け道ってもんがありましてね」

「それ、規則違反では?」

「旦那」

次郎吉は悪戯っぽく笑った。

「江戸の関所を、手形に字を書き足して通った人に言われたくありませんな」

「……それは忘れてください」

「無理です」

二人は笑った。

やがて、次郎吉の体が淡い光に包まれた。

「それじゃあ」

「はい」

「命あらば――」

次郎吉が片手を上げた。

「また、どこかで」

その言葉とともに――

視界が、また、ぐにゃりと歪んだ。

⸻

エピローグ 現代にて

気がつくと――

省吾は回向院の墓地に座り込んでいた。

夕暮れだった。

墓石の列が、長い影を落としている。

「……夢?」

省吾は立ち上がった。

頭が重い。

だが、不思議と気分は悪くない。

そして――

ポケットの中で何かが硬く触れた。

取り出す。

小さな金属製の鼠。

省吾は黙ってそれを見つめた。

買った覚えはない。

もちろん、持ってきた覚えもない。

「……」

しばらくして、省吾は苦笑した。

「まあ、いいか」

翌週。

会社の昼休み。

省吾は同僚たちに言った。

「俺、こないだ江戸時代に行ってきたんだよ」

「また徹夜した?」

「違うって」

「じゃあ夢?」

「たぶん違う」

「何がいたの?」

「鼠小僧」

全員が笑った。

「三十四歳にもなって何言ってんだよ」

「未来から来たらしい」

「はいはい」

誰も信じなかった。

ただ一人。

行きつけの古道具屋の店主だけが違った。

店主は、金属製の鼠を見た。

そして――

ほんの一瞬だけ、目を細めた。

「お客さん」

「はい?」

「いい物、持ってますね」

「何か分かります?」

店主は答えなかった。

ただ、鼠を返した。

「大事にしてください」

それだけだった。

それから省吾は、以前より少しだけ肩の力を抜いて仕事をするようになった。

締め切りに追われても。

上司に理不尽なことを言われても。

トラブルが起きても。

「まあ……」

省吾はパソコンの画面を見ながら呟く。

「江戸の関所を、手形に字を書き足して通った身だ」

そして小さく笑う。

「なんとかなるだろ」

そんなある夜。

残業を終えた省吾は、両国の路地を歩いていた。

そのとき。

足元を何かが横切った。

小さな鼠だった。

「……」

鼠は振り返った。

ほんの一瞬。

その目が――

淡い青色に光ったように見えた。

「まさか」

鼠は走り去った。

省吾も追わなかった。

ただ、遠ざかる小さな背中を見つめながら、なぜか笑っていた。

耳の奥に、あの声が残っている。

――命あらば。

また、どこかで。

省吾は夜空を見上げた。

東京の空には、星は少ない。

それでも、その向こうには。

二九七七年という、とてつもなく遠い未来がある。

そして――

そこから誰かが、また江戸へやって来るのかもしれない。

あるいは。

今度は、江戸から誰かが東京へ来るのかもしれない。

歴史というものが、本当に一本の線なのだとしたら。

その線のどこかにはきっと――

鼠が一匹くらい、走っていてもいい。

省吾は歩き出した。

少しだけ、足取りが軽かった。

――命あらば、また、どこかで。

(了)


Kindle



あとがき

鼠小僧次郎吉という人物を調べてみると、「義賊」というイメージと、実際の人物像には、かなりの違いがあることに気づきます。

けれど、人々が長い年月をかけて作り上げた「鼠小僧」という物語そのものは、確かに存在しています。

本作では、その「物語としての鼠小僧」に、未来というもう一つの物語を重ねてみました。

歴史を守る未来人。

歴史を書き換えて売る密猟者。

そして、その騒動に偶然巻き込まれてしまった、ごく普通の現代人。

考えてみれば、私たちが生きている現在も、未来から見ればすでに「歴史」です。

今日の失敗も。

今日の仕事も。

今日誰かと交わした何気ない会話も。

未来の誰かから見れば、記録されるかもしれない一つの出来事です。

だからこそ、歴史というものは、案外大げさな英雄たちだけで作られているのではなく、名もない人間たちの小さな選択の積み重ねなのかもしれません。

省吾が最後に少しだけ肩の力を抜けるようになったように。

この物語を読み終えたあと、ほんの少しだけ日常が軽く感じられたなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。

そして――

もし深夜の両国で、小さな鼠を見かけても。

どうか、追いかけないでください。

ひょっとするとそれは――

未来から来た「史実保守機構」の新人職員かもしれませんから。


長野でのライブが

確定したようですので

先行でお知らせ致します



先日の
自由が丘での
夕子さんのバースデーライブ


その会場で
長野からみえたファンの方から
会長さん と
声を掛けられて

どうしました? と問えば

そう
いつからか
いつの間にか
僕が
勝手に作ったファン倶楽部の
会長となっていて…

実は
私の自宅のある長野で
夕子さんのライブを
やりたいのだけれど
来てくれるかな? と…

僕もまた
嬉しくなって

ええ
多分 来て下さると思いますよ と
答えた

そう
いつだったか
そんな話題の中

呼ばれたら
どこへでも行きますよ なんて
仰ってたような

もちろん
スケジュールや
その他 条件が合えばでしょうがと

ちょうど
通り掛かった夕子さんを
呼び止めて
カクカクシカジカ… と
伝えると

はい
大丈夫ですよ と
微笑んでくれた

その長野の方と
終演後
その先のお話をと思っていたら

新幹線の最終に間に合わないと
後半の途中で
帰られてしまった

では
次回のライブの時にでもと
思っていれば

ファン倶楽部のラインに
書き込みがあって
話を繋げて欲しいと

ではと
その旨をお伝えすると
喜んで伺いしますとお返事を頂き

一昨日
マネージャーさんと3人
長野へと向けて
新幹線に乗り込んだ

途中
乗り慣れない新幹線
笑い話のような
トラブルはあれど
無事に到着すれば

待ちかねたように改札で
微笑んでいて

そこから
タクシーで
ライブ会場へと案内された

場所は
長野駅から
善光寺方向へと向かう
半分くらいの歩ける距離で

外見からして
なんだか
とても気分が良くなる雰囲気

1階は
ライブカフェで
2階が控室
3階のライブ会場は
キャパ35ほどの
なかなか良い雰囲気で
僕らも前向きとなった

また
マスターも穏やかで
とても感じが良く

訊けば
ビートルズを中心に
自らもバンドをやっているそうで

ならば
自由が丘のそこと
同じですね なんて
これまた嬉しくなった

夕子さんは
早速
持参したマイクをセットし
マスターと音合わせ

僕らは
その歌声の
贅沢な空気に包まれている

結構 良い音が響くの会場のようで
ここならば! と微笑んだ

さて
あとは
日程調整と
あれこれの調整は
僕らの出番ではない

結果
11月14日 (土) 14時からとなり
そこへ向けての準備が始まった


ロズベリーカフェ



廊下には
沢山のポスターが貼られ
すでに多くの著名なミュージシャンが訪れている

なるほど
ここならば と
決まったようで

長野の美味しいお蕎麦を頂き
善光寺参りまでして
新幹線で帰宅した



長野へは
いつも車で来ていたけれど
新幹線って速いのね

わずか1時間ちょっとで
来れる距離

簡単に日帰り往復出来るねと
また微笑んだ

さて
詳細はまた後日
連絡が入ると思うけれど

すでに
何度も開催されている
名古屋ライブのように

こうして
場所を変えてのライブもまた
これからは
楽しみとなるのでしょう

ありがとう

本番には
もちろん僕は
お客として伺いますね



さてすれば

長年の夢が叶いそうだと

とても嬉しそうな彼の願いに
全力でお手伝いをと思ってみる

ここをご覧の方々も
ご都合宜しければ

是非 お越し下さいね

きっと
必ず
素敵なライブになると思います


ーーーーーーーーー


Amazon Kindle


ブレンダ・リーが聴こえる夜

―地球が見た、最後から二番目のクリスマス―



まえがき

人は、ときどき不思議な記憶を思い出します。

何十年も忘れていたはずなのに、ある曲を聴いた瞬間、匂いまで蘇ってくる。

あの日の空。

誰かの笑い声。

着ていた服。

そして、自分でも忘れていたはずの約束。

もし、その記憶が単なる過去ではなかったとしたら。

もし、人間が大きな災害や環境の変化に直面したとき、なぜか「いちばん幸せだった記憶」を思い出すのだとしたら。

それは、地球が人間に何かを問いかけているのかもしれません。

もちろん、科学的に証明された話ではありません。

けれど、もし地球そのものがひとつの巨大な生命システムなのだとしたら。

人間が何を失い、何を守ろうとしているのかを、地球が見ている可能性はないのでしょうか。

この物語の主人公、慧一は六十五歳。

四十五年前、アメリカで出会った九歳の少女、

タミーから突然メールを受け取ります。

そこには、たった一つの問いがありました。

――覚えていますか?

四十五年前のクリスマス。

一緒に聴いた曲。

子供の頃に交わした、小さな約束。

そして現在。

世界では、これまでとは少し違う現象が起き始めていました。

人々が、災害のあとに「人生でいちばん幸せだった記憶」を次々と思い出しているのです。

それは偶然なのか。

それとも――。

本作は、地球を救う英雄の物語ではありません。

世界の運命を変える大発見の物語でもありません。

ただ一人の男が、四十五年前に出会った女性に会いに行く物語です。

世界が変わってしまう前に。

もう一度、同じ曲を聴くために。

そして、自分の人生に残された時間の中で、まだ間に合うことがあるのだと知るために。




プロローグ

夏の匂いが残る秋

その年の秋は、いつまでも夏の匂いがした。

十月に入っているというのに、朝の空気は妙に生ぬるい。

慧一は、ベランダに出て空を見上げた。

雲の動きが速かった。

天気予報では、南の海で発生した台風が、例年とは違う進路を取っていると言っている。

最近、こういうことが増えた。

雨の降り方も。

風の強さも。

季節の境目も。

六十五年も生きていれば、空の変化くらい分かる。

……そんなふうに思っていた。

しかし最近は、自分の記憶のほうが、空より当てにならない。

冷蔵庫を開けて、何を取りに来たのか忘れる。

昔の友人の名前が出てこない。

逆に、何十年も忘れていたことが、突然鮮明に蘇ることがある。

その日の朝もそうだった。

スマートフォンにメールが一通届いた。

差出人を見た瞬間、慧一は動けなくなった。

Tammy Whitfield

その名前を、四十五年間、見ていなかった。

いや。

忘れていたわけではない。

忘れようとしていたわけでもない。

ただ、人生の奥のほうにしまっていた。

そこから出てくることがないように。

メールを開く。

短い英文だった。

慧一は何度も読み返した。

そして最後の一行で、息を止めた。

――Can we talk?

話せますか?

慧一は椅子に座った。

窓の外では、十月の風が電線を揺らしていた。

四十五年前。

ロサンゼルス。

クリスマス。

そして、一人の少女。

慧一は、まだ自分の名前を呼ぶ彼女の声を覚えていた。

⸻

第一章

四十五年後のメール

「タミー……」

声に出してみると、ひどく懐かしかった。

慧一は、もう一度メールを読んだ。

動画通話をしたい。

それだけの内容だった。

仕事の話なのか。

昔話なのか。

それとも、別の何かなのか。

分からない。

ただ、名前を見た瞬間、四十五年前の風景が戻ってきた。

ロサンゼルスの乾いた空気。

英語の聞き取れない自分。

ホームステイ先の家。

クリスマスの飾り。

そして、教会のホール。

慧一はパソコンを開いた。

返信を書く。

Hello, Tammy.

そこまで打って、止まった。

英語は、四十五年前から大して上達していない。

結局、日本語を一度打ってから、翻訳ソフトを使った。

送信。

数分後、返事が来た。

「Thank you, Kei.」

慧一は、その一文をしばらく眺めていた。

Kei。

その呼び方をしたのは、世界で彼女だけだった。

⸻

第二章

1981年のクリスマス

一九八一年。

慧一は二十歳だった。

語学留学という名目でロサンゼルスにいたが、英語はほとんど話せなかった。

ホームステイ先では、毎晩のように辞書を開いていた。

ある日、ホストファミリーに連れられて、近所の教会のクリスマス会へ行った。

大きなホール。

天井から吊るされた星。

小さな電飾。

人々の笑い声。

そして、クリスマスの音楽。

慧一は隅の椅子に座っていた。

英語が分からない。

誰が何を話しているのかも分からない。

ただ笑っているしかなかった。

そのときだった。

一人の少女が目の前に立った。

九歳くらい。

長い髪。

少し大きな赤いセーター。

「You are Japanese?」

慧一は頷いた。

「Yes」

少女は笑った。

「Your name?」

「……Keiichi」

少女は首を傾げた。

「Long」

慧一は苦笑した。

少女は少し考えてから言った。

「Kei」

「Kei?」

「Yes. Kei。」

それから少女は、慧一の手を引いた。

「Come on!」

音楽が始まった。

慧一は何をしていいのか分からなかった。

少女は笑いながら踊った。

周りの大人たちも笑っている。

そのとき流れていた曲を、慧一は後になって知った。

The End of the World。

世界の終わり。

ずいぶん大げさな題名だと思った。

でも、その夜はそんなことを考えなかった。

ただ、九歳の少女に引っ張られて、ぎこちなく踊った。

曲が終わる。

少女が慧一を見上げた。

そして、突然言った。

「私、大きくなったら、あなたのお嫁さんになってあげる」

意味を理解するまで、少し時間がかかった。

慧一は固まった。

周りの大人たちが笑った。

少女も笑った。

慧一も笑った。

それは、子供が口にした、かわいらしい冗談だった。

そのはずだった。

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第三章

タミー

動画の画面に、女性が映った。

「Kei?」

「……タミー?」

「久しぶり」

四十五年ぶりの声だった。

顔つきは変わっている。

当然だ。

九歳だった少女が、今では五十代の女性になっている。

慧一も六十五歳になった。

二人とも、人生の半分以上を過ぎていた。

「あなた、変わったわね」

タミーが笑った。

「そりゃ、四十五年だから」

「でも、目は同じ」

「目?」

「そう。困ったときに、少しだけ細くなる」

慧一は笑った。

「そんなところまで覚えてるの?」

「覚えてる」

その言葉に、慧一は少し黙った。

タミーも黙った。

画面の向こうに、四十五年という時間がある。

「結婚は?」

タミーが聞いた。

「したよ。一度」

「今は?」

「一人」

「私も」

二人とも笑った。

恋愛の話をするには、二人とも少し年を取りすぎている。

いや。

もしかすると、ちょうどいい年齢なのかもしれない。

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第四章

幸せだった記憶

「最近、変な現象が起きているの」

タミーの表情が変わった。

彼女は気候関連の研究機関で働いていた。

専門的な話をし始めると、英語が苦手な慧一には少し難しかった。

ただ、何度か出てきた言葉だけは理解できた。

災害。

記憶。

気候。

そして、幸福。

「災害のあと、多くの人が、昔の記憶を思い出すの」

「昔の記憶?」

「特に、人生で一番幸せだった瞬間」

タミーによれば、世界各地で似た報告が増えているという。

大きな災害を経験した人。

異常気象に巻き込まれた人。

あるいは、何も被害を受けていない人。

そうした人たちが、突然、何十年も前の記憶を鮮明に思い出す。

子供の頃に食べた料理。

父親の声。

母親の手。

昔の恋人。

友人。

古い家。

そして、聴いたことのある曲。

「脳の仕組みで説明できないの?」

慧一が聞く。

「もちろん、それが一番普通の説明」

「じゃあ……」

「でも、説明しきれない部分がある」

タミーは画面の向こうで、少しだけ間を置いた。

「私はね、地球そのものが一つの生命システムなんじゃないかと思っている」

「地球が?」

「人間を含めて、全部」

「それって……SF?」

「そう思ってくれていい」

タミーは笑った。

「まだ仮説だから」

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第五章

地球からの質問

「地球は、人間を罰しているんじゃないのかもしれない」

タミーは言った。

「じゃあ、何をしているの?」

「質問している」

「質問?」

「あなたたちは、何を大切にしたいのですか、って」

慧一は黙って聞いていた。

「大きな災害が起きると、人は未来より過去を見ることがある」

「過去?」

「自分が一番大切にしていたものを思い出すの」

その後、タミーは興味深いデータを見せた。

昔の友人に連絡する人。

家族に電話する人。

長年謝れなかった相手に謝る人。

「ありがとう」を言う人。

中には、何十年も会っていなかった人に会いに行く人もいた。

「それが地球とどう関係するの?」

「分からない」

タミーは正直に答えた。

「でも、記憶を思い出した人たちの行動が変わっている」

慧一は考えた。

人間は、未来のために過去を持っているのかもしれない。

過去そのものを守るためではない。

過去から何かを思い出し、未来の行動を変えるために。

「だから、私もあなたに連絡した」

タミーが言った。

「どうして?」

「あなたとの記憶が、私にとって大切だったから」

慧一は返事ができなかった。

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第六章

ブレンダ・リーが聴こえる夜

「覚えてる?」

タミーが聞いた。

「何を?」

「曲」

慧一は少し笑った。

「四十五年前の曲?」

「そう」

タミーがスマートフォンを操作した。

スピーカーから、古いクリスマスソングが流れ始めた。

ブレンダ・リー。

Rockin’ Around the Christmas Tree。

その瞬間だった。

慧一の胸の奥に、何かが落ちてきた。

ロサンゼルス。

教会。

赤いセーター。

笑い声。

そして九歳のタミー。

四十五年間、ほとんど思い出さなかった風景が、次々と蘇ってくる。

「覚えてる?」

「……覚えてる」

「私は、この曲を聴くたびに、あなたを思い出した」

「四十五年間?」

「ううん」

タミーは少し笑った。

「いつもじゃない」

そして、静かに続けた。

「でも、クリスマスになるとね」

慧一も笑った。

「俺は、あのときのもう一つの曲を覚えてる」

「The End of the World?」

「そう」

二人は少し黙った。

世界の終わり。

そして、クリスマス。

四十五年前には何の意味もなかった二つの曲が、今になって不思議な意味を持ち始めていた。

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第七章

忘れたくなかった

「慧一」

タミーが、久しぶりに本名を呼んだ。

「はい」

「あなた、英語が下手だった」

「今もね」

「そうね」

二人で笑った。

「でも、私は好きだった」

「何が?」

「あなたの話し方」

「英語が?」

「違う」

タミーは笑った。

「伝えようとしていたこと」

慧一は黙った。

「言葉が通じなくても、あなたは何度も話そうとした。身振り手振りで」

「そんなこと、覚えてる?」

「覚えてる」

タミーは画面の向こうで、少し遠くを見るような顔をした。

「私、九歳だったから」

「うん」

「好きなものは、好き。それだけだったの」

慧一は笑った。

「じゃあ、あのお嫁さんになるっていうのも?」

「もちろん」

タミーも笑った。

「子供の約束よ」

そして、少し間を置いた。

「でも……」

「でも?」

「私は、あなたを待っていたというより……」

タミーは言葉を選んだ。

「忘れたくなかったのかもしれない」

その言葉は、妙に静かだった。

慧一は、何も言えなかった。

四十年間という時間は、誰かを待つには長すぎる。

でも。

誰かを忘れないためには、長すぎる時間ではないのかもしれない。

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第八章

最後から二番目

タミーの顔から笑みが消えた。

「慧一。もう一つ、話さなければならないことがある」

「うん」

「これは、まだ公表していないデータなの」

画面にグラフが表示された。

気候システムの変化。

複数の要素が、ある一点に近づいている。

「ティッピングポイント」

慧一は、その言葉だけ理解した。

「すぐに人類が滅亡する、という話ではない」

タミーは念を押した。

「でも、今までの文明が、そのまま続くとは限らない」

気候。

海。

食料。

都市。

エネルギー。

複数のシステムが連鎖して変化する可能性。

「今年のクリスマスが、最後になるってこと?」

慧一は聞いた。

「違う」

タミーは首を振った。

「クリスマスそのものがなくなるわけじゃない」

「じゃあ?」

「今の私たちが知っている世界で迎えるクリスマスが、あと何度あるのか分からないということ」

慧一は画面のグラフを見つめた。

タミーは小さく息を吐いた。

「だから私は、こう呼んでいる」

少し間を置いて。

「地球が見た、最後から二番目のクリスマス」

その言葉が、慧一の胸に残った。

最後ではない。

最後から二番目。

だからこそ、まだ間に合う。

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第九章

会いに来て

「慧一」

「うん」

「今年のクリスマス、ロサンゼルスに来ない?」

慧一は笑った。

「俺、六十五だよ」

「知ってる」

「飛行機、腰が痛い」

「知ってる」

「英語も相変わらず」

「それも知ってる」

「じゃあ、何で?」

タミーは少し笑った。

「会いたいから」

慧一は黙った。

四十年前。

九歳の少女が手を引いてくれた。

四十五年後。

五十代の女性が、もう一度手を差し出している。

「待ってたの?」

慧一が聞いた。

タミーは首を振った。

「ずっと待っていたわけじゃない」

そして笑った。

「いつか、もう一度会えたらいいなと思ってた」

「それだけ?」

「それだけで十分でしょう?」

慧一も笑った。

「そうだな」

通話が終わる前、タミーが言った。

「クリスマスに、あの曲を一緒に聴こう」

「どっち?」

「両方」

二人は笑った。

画面が暗くなった。

慧一は、しばらくそのまま座っていた。

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第十章

古いジャケット

その夜、慧一は押し入れを開けた。

古い箱の中に、パスポートがあった。

一九八一年。

ロサンゼルス。

写真の自分は、二十歳だった。

若い。

細い。

髪も多い。

そして、その隣には、当時着ていたツイードのジャケットがあった。

取り出してみる。

袖を通そうとして、やめた。

入らない。

慧一は笑った。

「そりゃそうだ」

それでも、捨てなかった。

ハンガーに掛けた。

その夜、スマートフォンでブレンダ・リーの曲を聴いた。

四十五年前の音が、部屋の中に広がった。

不思議だった。

曲は変わっていない。

変わったのは、自分だった。

二十歳の自分は、この曲をただのクリスマスソングとして聴いていた。

六十五歳の自分には、そこに四十五年分の時間が重なって聞こえる。

曲が記憶を連れてくるのか。

記憶が曲を意味のあるものに変えるのか。

分からない。

ただ一つ分かったことがある。

自分は、もう一度あの場所へ行きたいと思っていた。

⸻

エピローグ

今年は、行くよ

クリスマスまで、二か月。

慧一はパソコンを開いた。

航空券を検索する。

東京からロサンゼルス。

日付を入力する。

予約画面が表示された。

しばらく、指が止まった。

六十五歳。

腰も痛い。

英語も上手くない。

地球の未来だって分からない。

タミーと会ったところで、何が始まるのかも分からない。

恋になるのか。

昔話だけで終わるのか。

それとも、ただ一晩、一緒にクリスマスソングを聴くだけなのか。

そんなことは、どうでもよかった。

人は、未来が分からないからこそ、誰かに会いに行くのかもしれない。

慧一は、予約ボタンを押した。

航空券の決済が完了した。

画面を閉じる。

窓の外を見る。

夜の雲の向こうに、地球がある。

宇宙から見れば、人間の一生などほんの一瞬だ。

四十五年も、きっと同じだ。

それでも、その一瞬の中に、

誰かと出会い。

誰かを覚えていて。

もう一度会いに行く。

それだけのことが、人生を変えることもある。

慧一は、窓の向こうの暗い空を見上げた。

そして、小さく言った。

「今年は、行くよ。タミー」

地球は、何も答えなかった。

ただ、青かった。

そしてその青い星は、

最後から二番目かもしれないクリスマスへ向かって、

静かに回り続けていた。




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あとがき

「もし、これが最後から二番目のクリスマスだったら」

そんなことを考えたら、人は何をするでしょうか。

大きなことをする人もいるかもしれません。

仕事を辞める人。

旅に出る人。

夢を追いかける人。

でも、たぶん多くの人がするのは、もっと小さなことではないでしょうか。

久しぶりの友人に電話する。

家族と食事をする。

昔の写真を見る。

「ありがとう」と言う。

「ごめん」と言う。

そして、

会いたい人に会いに行く。

この物語を書きながら、私は「最後から二番目」という言葉が好きになりました。

「最後」なら、もう何もできません。

でも、「最後から二番目」なら、まだ一度だけ残されています。

だから、間に合う。

もう一度、話せる。

もう一度、笑える。

もう一度、会える。

ブレンダ・リーのクリスマスソングも、四十年前と同じように鳴ります。

変わったのは、曲ではありません。

その曲を聴く人間のほうです。

人生の途中では、気づかなかったもの。

若い頃には大切だと思わなかったもの。

何十年も経ってから、ようやく分かることがあります。

もしかすると、記憶とは過去を保存するためだけにあるのではなく、

未来へ進むために、過去から手渡されるものなのかもしれません。

もし今年のクリスマスが、

あなたにとって「最後から二番目」だったとしたら。

あなたは誰に会いに行きますか。

誰に電話しますか。

誰に「ありがとう」と伝えますか。

そして、どんな曲を聴きますか。

その答えは、きっと人それぞれです。

でも一つだけ。

会えるうちに。

言えるうちに。

聴けるうちに。

今年のクリスマスを、大切に。




原詩


ブレンダリーを聴きながら