序章

J’S BAR 

村上春樹さんの小説の中に
時折 出没するこの店は
その物語の中では
かなり大事な場所でもあって
若者たちを包み込む
JAY という名の中国人のマスターがいる

そんな小説の中では
すべてが格好良く進行していくわけだけれども

僕らのガキの頃には
なかなかどうして
毎度 突き当たる壁に
右へ逃げたり
左へ折れたり
いやいや
後ろへと引き下がることの方が多かったわけで

そんな僕らの青春の中にも
名前は違えど
その J’S BAR は存在した

細い階段を
薄暗い階段を
足元を確かめながら下りて行くと
その文房具屋さんの地下には
古くて天井の低い
僕らの溜まり場があって

JAY ではないが
年老いてはいたが優しいマスターと
アルバイトの 
福島なまりの そりゃあ~綺麗な看板娘

奥には
インベーダーゲームがあったけれど
大好きだったのは
その入り口付近に置かれた
古いモノラルのジュークボックスと
僕らよりも3つ年上の
その皆が憧れた看板娘 
サワコねえちゃん

場所は渋谷
明治通りに面した宮下公園の向かい側

名前は
スナック エイト

そして
いつぞやか 僕らは正々堂々と
その恋のレースのスタートラインに並んでいた

良い時代だった
そう
この人生に於いて
とても良い風が吹いていた

結局
授業をさぼってまで通った
イケメンのあいつが彼女を射止め
僕らは仕方なくも涙ぐんだ中で

でも
負けは負けだと祝杯を挙げながら
笑顔は次の機会にと素直に諦められた

そんな70年代の終わりに
そんなそんな 居心地の良い夢を見た

そして
長い長い時は過ぎ
先日 久々に訪れてみたその場所には
もう その店があるはずもなく

すでにそこだけ廃墟化してしまったビル
それでも地下へと通じる その階段だけが
ひっそりと降ろされたシャッターの中にあることを確認などして

あ~~~ っと
ひとつ 溜息をついた

すぐ道路向かいにあったはずの
僕らが勝負したバッティングセンターもなく
向かい側の宮下公園すらもない

時はすでに45年もが流れ
そこにいた すべての人は入れ替わり
そして今も時は流れ続けている

そう
今も いずれ過去となって
また こうして
どなたかが 懐かしく今を
未来で語るのだろう

あの頃
目をつぶっても歩けたほど
知り尽くした渋谷の街は
哀しきかな
もう ひとつもわからない街へと
変わってしまった…






J’S BAR
〜四十五年後に開いた地下〜

——アルト。
四十五年ぶりに、僕の名前が呼ばれた。


第一章 廃墟のシャッター
先週の土曜日、僕は久しぶりに渋谷へ行った。
特別な用事があったわけじゃない。六十三歳になった男が、午後の手持ち無沙汰をもてあまして、なんとなく電車に乗っただけのことだ。定年退職からもう三年が経つ。妻の芙美子は友人たちとランチだと言って出かけていったし、子供たちはとっくに独立している。家の中にひとりで座っていると、時間というものがひどく粘っこいものに感じられて、どこかへ逃げ出したくなる。
渋谷に降り立って最初に思ったのは、やっぱりわからない、ということだった。
ハチ公前の広場に出て、僕は少しの間、ぼんやりと立ち尽くした。スクランブル交差点を渡る人々の波は相変わらず激しく、外国人観光客がスマートフォンを掲げて動画を撮っている。その向こうに聳えるビルの群れは、僕の記憶の中にある渋谷とはまるで別の街だった。
かつて、目をつぶっても歩けたほど知り尽くしていた街。
それがどこにもない。
道玄坂の傾斜だけは昔のままで、登りながら息が少し切れるのも変わっていないけれど、並んでいる店はすべて入れ替わっている。知っている名前がひとつもない。看板の色が、音楽の漏れてくる感じが、人々の歩き方までもが、あの頃とは違う。
僕は明治通りの方へ歩いていった。
宮下公園はもう公園じゃなかった。商業施設になっていた。「ミヤシタパーク」という名前で、おしゃれなショップが並んでいる。それはそれでいいんだろうけれど、あの細長い公園で昼寝をしていた人たちはどこへ行ったんだろう、と僕は思った。ベンチでギターを弾いていた若者たちは。バッティングセンターで汗を流していた連中は。
バッティングセンターも、もちろんなかった。
その向かい側に、目当ての場所があった。
正確に言えば、あったはずの場所、だ。
文房具屋は消えていた。ビルごと残ってはいるのに、一階は完全にシャッターが降りていて、窓ガラスにはクラフト紙が貼られている。二階も三階も同じで、全体的に薄汚れた廃墟めいた雰囲気を漂わせていた。周囲の建物が新しくなっていく中で、そのビルだけが時間から取り残されたみたいに古びている。
でも。
細い路地を入ったところに、地下へ続く階段があった。
あの階段が。
シャッターが降りていた。錆びついた、古いシャッターだ。チェーンが巻かれて南京錠がかかっている。でも確かにそこにあった。半世紀近い歳月を経て、変わらずにそこにあった。
僕はしばらく、そのシャッターの前に立っていた。
秋の午後の光が、路地に斜めに差し込んでいた。どこかで烏が鳴いた。通り過ぎる人は誰もいなかった。
アルト、とどこかで声がした。
一瞬、息が止まった。
僕の昔のあだ名だ。背が高いくせに声が低くて、友達にそう呼ばれていた。でも今や僕をそう呼ぶ人間はいない。妻も、子供も、職場の同僚だった連中も、誰も知らない。
振り返っても、誰もいなかった。
ただ秋の光と、烏の声と、路地に漂う微かな黴のにおいがあるだけだった。
気のせいだろうと思った。
でも家に帰る道すがら、あの声のことがずっと頭から離れなかった。低くて、少し掠れていて、でも不思議にきれいな声。
その声を、僕はよく知っていた。

家に帰ると芙美子はまだ戻っていなかった。
僕は書斎に入って、本棚の前に立った。村上春樹の文庫が何冊か並んでいる。学生の頃から読んでいて、引越しのたびに持ち歩いてきた本たちだ。背表紙の色があせて、端が擦り切れている。
『1973年のピンボール』を取り出した。
開くと、あのバーの場面が浮かんでくる。J’S BAR。薄暗い照明と、静かなジャズと、ジェイというゆっくりと老いていく中国人のマスター。僕らが十代の頃に読んで、こういう場所があるものかと憧れた。格好よく悩んで、格好よく恋をして、格好よく失って、格好よく生き続ける登場人物たちに、嫉妬にも似た気持ちを抱いた。
現実は、ずっとかっこわるかった。
でも、現実にも場所はあった。
スナック エイト。
今から四十五年前、渋谷の地下にあったその店のことを、僕は久しぶりに思い出していた。薄暗い階段を降りたところにある、天井の低い、古い、煙草の煙が染み付いたような場所。インベーダーゲームの電子音と、古いジュークボックスの音楽と、栃木なまりのやさしいマスターと。
そして、サワコねえちゃん。
澤子さん、というのが本名だったと思う。僕らより三つ年上で、当時は二十一歳か二十ニ歳。アルバイトとして働いていた。顔の造作がとびきりきれいというわけじゃないけれど、笑うと目のあたりに光が集まるような感じがして、みんなが好きになった。
みんなが、本当にみんなが好きだった。
あの路地で聞いた声は、サワコねえちゃんの声に似ていた。
そんなはずはない。あれから四十五年だ。もし彼女が存命なら、今は六十代の後半のはずだ。あの路地にふらりと現れて、アルトと呼びかけるような理由がない。
でも似ていた。
僕は本を閉じて、ソファに横になった。天井を見ながら、目を閉じた。
眠るつもりはなかったけれど、秋の午後のひかりの中で、いつの間にか眠ってしまっていた。

夢を見た。
地下に続く階段だった。薄暗くて、手すりが古びていて、降りるたびに木が軋む音がした。でも怖くはなかった。むしろ懐かしかった。降りていけばいいものがある、という確信があった。
ジュークボックスの音楽が聞こえてきた。
何の曲だったか、目が覚めたら思い出せなかった。でも確かに聞こえた。古い、少し歪んだモノラルの音で、でも温かみのある音で。
「アルト」
と、声がした。
目が覚めた。
窓の外はもう暗くなっていた。台所から芙美子が夕飯の支度をする音が聞こえてきた。
夢だった。
ただの夢だ。
なのに、僕の心臓は妙に大きく打っていた。




第二章 一九七九年の地下
あれは一九七九年の冬のことだった。
僕は十八歳で、渋谷の予備校に通っていた。大学受験に一度失敗して、浪人生として毎日授業を受けていたけれど、正直なところ勉強はあまり頭に入っていなかった。あの頃の自分に何が足りなかったかと言えば、勉強への情熱ではなくて、何かに熱中する方向がわかっていなかった、ということだと思う。何者になりたいのかが、まるでわからなかった。
スナック エイトを最初に教えてくれたのは、クラスメートの武田だった。
武田勝彦、通称カツ。関西弁のイケメンで、女の子の扱いが上手くて、でも根が真面目なのか成績はわりとよかった。僕とカツは何となく気が合って、授業が終わると一緒にどこかへ行くことが多かった。
「ええとこ見つけたんや」とカツが言ったのは、十一月の終わりだったと思う。「地下にあるスナックやけど、なんか雰囲気がええんよな。ジュークボックスがあってな」
「スナックって、俺ら入れるのか」
「全然入れる。ていうか、客層が若いんや。マスターがやさしいし」
「女の子とかいるのか」
カツがにやっとした。「それが、これがまたすごいんや。アルバイトのねえちゃんが、めちゃくちゃきれいやねん」
それが最初だった。
文房具屋の脇にある路地から、細い階段を降りていく。手すりに触れると冷たくて、下から音楽の音が漏れてきた。あの頃のジュークボックスの音楽は、スピーカーが一つしかないから左右に広がらない。ただ真ん中からまっすぐに、温かく柔らかく音が出てくる。モノラルの音楽というのはなぜか人を安心させる。
扉を開けると、煙草の煙と、酒と、古い木の混ざったにおいがした。
天井が低かった。照明が温かくて、昼間でも夜のような雰囲気だった。カウンターが六席か七席あって、奥に小さなテーブルが三つ。カウンターの奥に、白髪の老人がいた。七十代に見えたけれど、後で聞いたら六十代だった。腰が少し曲がっていて、動作がゆっくりしていた。でも目だけはいつも細くて温かかった。
「いらっしゃい」と老人が言った。「初めてかい」
「はい」と僕が答えると、老人は「好きなとこ座って」と言った。それだけだった。歓迎しているでも拒絶しているでもなく、ただそこにいなさいよ、という感じだった。
カウンターの端に座った。カツはすでに常連めいた態度で「マスター、いつものやつ」と言った。いつものやつ、がコーラだというのが後でわかった。
そしてサワコねえちゃんが奥から出てきた。
印象を正確に伝えるのは難しい。きれいだった、というのは事実だけれど、それだけじゃない何かがあった。動き方がきれいだったのかもしれない。グラスを置く仕草とか、振り向くときの首の角度とか、そういう細かいものが全部、ひとつの調和を作っていた。福島出身で、なまりがあった。でもそのなまりが、彼女の声をより温かくしていた。
「いらっしゃい。初めてね?」
「はい」と僕はまた答えた。
「カツくんの友達?」
「そうです」
「何飲む?」
「コーラで」
サワコねえちゃんはわずかに笑った。「みんなコーラなのね」と言った。非難でも揶揄でもなく、ただ事実として、でも微かにおかしそうに。
それが僕らの最初の会話だった。

その後、スナック エイトは僕らの溜まり場になった。
僕とカツだけじゃなくて、やがて仲間が増えた。同じ予備校の矢島と橋本、それからカツの高校時代の友達だという田村も加わって、五人でいつも地下に集まった。授業をさぼることもあった。いや、正直に言えば、授業をさぼることの方が多かった。
何をするわけでもなかった。
コーラを飲んで、ジュークボックスで音楽をかけて、くだらない話をした。奥のインベーダーゲームをやることもあったけれど、そっちは田村と橋本の専門で、僕はあまりやらなかった。僕が好きだったのはジュークボックスだった。百円玉を入れると、内部でメカニカルな音がして、レコードが選ばれて、針が下りる。あの瞬間が好きだった。
かけた曲は今でも覚えている。
オフコースの「さよなら」。ゴダイゴの「銀河鉄道999」。松山千春の「季節の中で」。あと洋楽も何曲かあって、ポール・マッカートニーの「マイ・ラブ」をよくかけた。なぜかというと、サワコねえちゃんがその曲が流れると必ず少しだけ手を止めるから。
気づいたのは三回目に行ったときだった。
カウンターを拭いていたサワコねえちゃんの手が、「マイ・ラブ」が始まったとき、一瞬だけ止まった。止まってから、また動き始めた。でも確かに止まった。
「その曲、好きですか」と僕は聞いた。
サワコねえちゃんは少し驚いたように僕を見て、それから「好きよ」と言った。「昔、好きだった人がいつもかけてた」
「昔?」
「もう終わった話」
それ以上は聞かなかった。でも、その夜から僕は百円玉を用意しておくと必ず「マイ・ラブ」をかけるようになった。サワコねえちゃんの手が止まる瞬間を見るために。
馬鹿だと思うけれど、十八歳というのはそういうものだ。

冬が深まるにつれて、僕らはますますエイトに入り浸った。
受験はどうなっているんだという話は誰もしなかった。みんなどこかで不安だったと思う。でもエイトの地下に降りていれば、その不安が少し遠のいた。マスターが何も言わずにただそこにいてくれて、サワコねえちゃんが笑ってくれて、ジュークボックスが音楽を流してくれる。
マスターの名前は田所さんといった。出身は栃木で、若い頃は横浜で船員をやっていたらしい。なぜ渋谷で飲み屋をやることになったのかは聞かなかった。いや、一度聞いたことがあるかもしれないけれど、「まあ、なりゆきだな」と言っただけで、それ以上は教えてくれなかった。
田所さんは僕らに説教をしなかった。
こんな時間にこんなところにいていいのかとか、受験はどうなんだとか、そういうことを一切言わなかった。ただ黙って飲み物を出して、カウンターを拭いて、時々短い言葉を挟むだけだった。
一度だけ、こんなことを言った。
「若いうちに、居場所があるのはいいことだよ」
それだけだった。でも僕はその言葉をずっと覚えている。
サワコねえちゃんは、どこから来たのかと言えば、福島の郡山だった。高校を出てから東京に出てきて、昼は服飾の専門学校に通いながら、夜はエイトでバイトをしていた。洋服を作りたいのだという。いつか自分のブランドを持ちたいのだと、話してくれたことがあった。
「どんな服を作りたいんですか」と僕が聞くと、サワコねえちゃんは少し考えてから「長く着られる服」と言った。「流行が変わっても、ちゃんと着られる服。三十年後にも好きだと思える服」
「難しそうですね」
「難しいけど、それがやりたいことだから」
その言葉が、十八歳の僕には眩しかった。やりたいことがわかっている人の言葉の重さが、羨ましかった。

一月になって、僕らの間に変化が起きた。
カツがサワコねえちゃんに告白したのだ。
それほど驚きはしなかった。カツがサワコねえちゃんを好きだということは、誰の目にも明らかだった。問題は、僕らの全員が大なり小なり同じ気持ちを抱えていた、ということだ。
カツが最初に動いた、それだけのことだった。
どういう状況で告白したのかは知らない。カツから後で聞いたところによると、エイトが閉まった後、外まで送っていって、明治通りの路地で言ったらしい。
結果は、断られた。
「ありがとう、でもごめんね」とサワコねえちゃんは言ったらしい。「私には、ちょっと事情があって」
カツはしょんぼりして翌日僕に報告した。でも三日後にはまたエイトに来ていた。振られても来続けるのが僕らのスナック エイトへの愛情の深さで、それはある意味でサワコねえちゃんへの愛情よりも深かったかもしれない。
「やっぱり誰かいるんかなあ」とカツは言った。
「さあ」と僕は言った。
「アルトはどう思う?告白しないの?」
「しないよ」
「なんで?好きやろ」
「好きとか嫌いとか、そういう話じゃないよ」
カツは「よくわからんな」と言ったけれど、僕にもよくわからなかった。好きだった。確かに好きだった。でも告白してどうにかしようという気持ちが不思議となかった。サワコねえちゃんがカウンターの向こうにいて、笑って、「マイ・ラブ」が流れるとき一瞬だけ手を止める。その光景が僕には十分だったのかもしれない。
あるいは、こういうことだったかもしれない。
僕はエイトを失いたくなかった。告白して振られれば、行きにくくなる。告白して上手くいったとしても、それはまた別の関係になる。あの地下の、あの光の中での時間が、変質してしまう。
それが嫌だった。
だから僕は何もしなかった。
賢明だったのかどうかは、今でもわからない。


第三章 ジュークボックスの記憶
先週の渋谷から帰ってきた翌朝、僕は夢の続きを探すように書斎に座っていた。
コーヒーカップを両手で包んで、窓の外の朝の光を見ていた。芙美子が「どうしたの、ぼーっとして」と声をかけてきた。
「渋谷に行ったんだよ、昨日」と僕は言った。
「渋谷?何しに?」
「なんとなく。昔よく行ってた場所を見に」
芙美子は少し黙ってから「変わってた?」と聞いた。
「全部変わってた。宮下公園もなくなってた」
「そう」と彼女は言った。それ以上聞いてこなかった。長年連れ添った妻というのは、相手が立ち入ってほしくない記憶の領域を本能的に察知する。芙美子は僕の学生時代のことをほとんど知らない。知ろうとしてこなかったし、僕も詳しく話さなかった。
コーヒーを飲み終えて、一人になった書斎で、僕はスナック エイトのことを思い出し続けた。
あの地下にいた時間は、人生の中でもっとも濃密な時間の一つだったと思う。濃密というのは、出来事が多かったという意味じゃない。逆だ。何も起きていなかった。ただ座って、飲んで、音楽を聴いて、話していた。でも、その何もない時間が、何かで満ちていた。
若さ、と呼べばいいのかもしれない。あるいは、可能性、と呼ぶべきか。
まだ何者でもなかった僕らが、何者にでもなれると漠然と信じていた。その信念の熱が、空気を温めていた。
サワコねえちゃんは僕らにとって、少し上の世界の人間だった。
三つしか違わないけれど、その三年の差が当時は大きかった。彼女は働いていて、夢を持っていて、東京での暮らしを自分の力で作っていた。そして何か、語られない過去があった。
「昔、好きだった人がいつもかけてた」
「マイ・ラブ」についてそう言った言葉が、ずっと引っかかっていた。過去形だった。「好きな人」ではなく「好きだった人」。それは何を意味するのか。別れたのか、それとも。
聞けなかった。聞かなかった。

二月になって、矢島が「サワコさんのこと、知ってるか」と言った。
放課後、予備校の近くの喫茶店で、矢島はコーヒーを飲みながら声をひそめた。矢島は五人の中では一番情報通で、どこから情報を仕入れてくるのかよくわからないけれど、色々なことを知っていた。
「何を」と僕は聞いた。
「亡くなった恋人がいるらしい」
鼓動が少し変わった。
「事故で」と矢島は続けた。「去年か一昨年に。相手も福島の人で、東京で一緒に暮らすつもりだったらしいんだけど、福島に帰省したときに事故に遭って」
「確かな話なのか」
「田所のマスターから聞いた」
僕は黙っていた。
「だからまあ」と矢島は言った。「カツが振られたのも、そういうことだと思う。そういう状況で、新しく誰かを好きになるのって、難しいと思うから」
「そうだな」
「アルトは?告白する気ないの?」
「ない」
矢島は少し考えてから「なんでだろうな」と言った。非難ではなく、純粋に疑問として。
「わからない」と僕は答えた。「でも、そういう気持ちには、なれない」
その夜、ジュークボックスで「マイ・ラブ」をかけながら、僕はサワコねえちゃんの横顔を見ていた。彼女は手を止めて、カウンターの一点を見ていた。何を見ているのかはわからなかった。遠いところを見ているような目だった。
その人のことを、考えているんだろうと思った。
その人がいつもかけていた曲が流れるたびに、その人のことを思い出しているんだろうと。
それは悲しかった。でもなぜか、きれいだとも思った。誰かをそこまで思い続けられることの、純粋さのようなものが、きれいだと。

春になった。
桜が咲いて、散って、受験の結果が出た。
カツは志望校に受かった。矢島も橋本も受かった。田村は落ちてもう一年やることにした。そして僕は、中堅の私立大学に滑り込んだ。第一志望ではなかったけれど、もうこれでいいと思った。
合格発表の日の夜、五人でエイトに集まった。
田所マスターがコーラの代わりにビールを出してくれた。「めでたいね」と言った。「でも田村くんはもう一杯だ」
「マスター、ひどい」と田村が笑いながら言った。
サワコねえちゃんは笑っていた。本当に笑っていた。「おめでとう」と言った。「よかった。頑張ったね」
「頑張ってないですよ、俺は」とカツが正直に言った。「授業サボってここにいることの方が多かったし」
「それでも受かったんだから、地頭がいいのよ」とサワコねえちゃんは言った。「羨ましいわ」
「サワコさんも大学行けばいいじゃないですか」
「私は服を作る方が先よ」
その夜は遅くまでいた。
帰り際、僕はジュークボックスに最後の百円を入れた。「マイ・ラブ」を選んだ。
サワコねえちゃんの手が、また一瞬だけ止まった。
僕は「ありがとうございました」と言った。
「何が?」とサワコねえちゃんが聞いた。
「ここにいさせてくれて」
彼女は少し間を置いてから「こちらこそ」と言った。「あなたたちがいてくれて、楽しかった」
それが、僕とサワコねえちゃんの最後の会話だった。
大学に入ってからも、最初の頃は何度かエイトに顔を出した。でも新しい友人ができて、新しい場所ができて、自然と足が遠のいた。最後にエイトに行ったのはいつだったか、正確には覚えていない。いつの間にか行かなくなっていた。
サワコねえちゃんがエイトを辞めたのがいつだったかも知らない。
その後の人生で、彼女に会うことは一度もなかった。


第四章 もう一度、あの階段
あれから一週間が経った。
シャッターの前に立って聞いたあの声のことが、どうしても頭を離れなかった。
気のせいだ、と何度も自分に言い聞かせた。四十五年前の記憶が、なんらかの拍子に聴覚を錯覚させただけだ。そんなことはよくある。特に年齢を重ねると、過去の記憶が妙に生々しく浮かんでくることがある。
でも土曜日の午後、また僕は渋谷に向かっていた。
今度は目的があった。あの場所に、もう一度行く。それだけだった。
明治通りに出て、路地に入る。廃墟めいたビルは、先週と同じようにそこにあった。シャッターも同じだった。南京錠も同じだった。
ただ、今日は何かが違った。
シャッターは、閉まっているはずだった。なのに、下から光が漏れていた。
錯覚かと思って目を凝らした。錯覚じゃなかった。下の隙間が、人が通れるかどうかというくらい、持ち上がっていた。南京錠はどこかに消えていた。チェーンも外れていた。
理由を考えるより先に、体が動いていた。
シャッターに手をかけると、思ったより軽く持ち上がった。錆びていたけれど、動いた。くぐれるくらいの隙間を作って、僕は頭を下げて中に入った。
暗かった。スマートフォンのライトをつけた。
階段があった。
記憶よりも急で、段が多かった。でも確かに、あの階段だった。手すりは錆びていて、触れると赤い粉が手につく。一段一段、注意しながら降りていった。
木が軋む音がした。
音楽が、聞こえた。
最初は空耳だと思った。でも降りるに連れて、はっきりしてきた。古い、モノラルの音楽だった。メロディが聞こえた瞬間、全身に鳥肌が立った。
「マイ・ラブ」だった。
ポール・マッカートニーの「マイ・ラブ」が、地下から流れてきていた。
心臓が激しく打った。ライトを持つ手が少し震えた。
降り切ったところに、扉があった。
古い木の扉。ガラス窓に、ひびが入っている。でも向こう側に光が見えた。電球の、温かみのある、オレンジ色の光が。
ノブを回した。
扉が開いた。

そこはスナック エイトだった。
信じられなかった。でも間違いなかった。
天井の低い、カウンターが六席か七席の、煙草の煙と酒と木の混ざったにおいのする場所。壁のポスターはあの頃のままで、山口百恵と、ゴダイゴと、どこかの洋酒の広告が貼られている。カウンターの端にジュークボックスがあって、「マイ・ラブ」が流れていた。
奥に、インベーダーゲームの筐体が見えた。
客はいなかった。
カウンターの向こうに、女がいた。
背を向けていたから顔は見えなかった。グラスを拭いていた。グレーのエプロンをして、髪を後ろでまとめていた。
僕は声が出なかった。
女がゆっくりと振り向いた。
顔を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「いらっしゃい」とサワコねえちゃんは言った。「初めてかい……じゃなかったね。久しぶりね、アルト」
二十一歳か二十ニ歳のままの顔だった。四十五年前の顔のままで、笑っていた。目のあたりに光が集まるような、あの笑い方で。
「サワコ、ねえちゃん」と僕は言った。声が掠れた。
「そんなに驚かないでよ」と彼女は言った。「まあ、座って。何飲む?」
「コーラで」
思わずそう答えていた。四十五年前と同じ答えを。
サワコねえちゃんは小さく笑った。「みんなコーラなのね」と言った。
あの頃と、まったく同じ言葉で。




第五章 地下の時間
カウンターに座った。
コーラが出てきた。グラスに氷が入って、赤いコースターの上に置かれた。四十五年前と同じコースターだった。エイトのロゴが入った、薄くなった赤いコースター。
「どうして」と僕は言った。「どうしてここが」
「どうして、って何が?」とサワコねえちゃんは聞いた。
「まだあるんですか、この店が。こんな、廃墟みたいになってるのに」
「あるのよ」と彼女は言った。「ずっとあったのよ、ここに。ただ、入ってくる人がいなかっただけで」
「田所マスターは?」
「田所さんはニ十五年前に亡くなったわ。私が引き継いで、一人でやってる」
「引き継いで、一人で」
「変でしょ。客が来ない店を引き継いで、一人でやってる。でも、ここにいたくて」
サワコねえちゃんはカウンターを拭きながら、静かに言った。その仕草は四十五年前と同じだった。同じ速さで、同じ圧力で、カウンターを拭いていた。
「サワコねえちゃん」と僕は言った。「あなたは、どうなってるんですか」
「どうなってる、って?」
「あなたは今、いくつなんですか」
彼女は手を止めた。それからゆっくりと僕を見た。目のあたりに、少し影が差した。
「その質問に答えるのは難しいわ」と彼女は言った。
「難しい?」
「ここはね、アルト」と彼女は言った。「ここは、ちょっと特別な場所なの。外の時間と、ここの時間が、ずれてる」
「ずれてる」
「そう。外では四十五年が経ってるかもしれないけど、ここでは、あの頃のまま。だからここにいる私は、あの頃の私のまま」
「でも、俺は六十三歳だ」
「そうね。あなたは外から来てる。だからあなたはちゃんと六十三歳よ。
「ここにいるとね」
「時間って、あんまり進まないみたいなの」
僕はコーラのグラスを見つめた。氷が溶けて、グラスの表面に水滴がついていた。
「矢島から聞いた」と僕は言った。「恋人のことを」
サワコねえちゃんの手がわずかに止まった。
「田所さんから聞いたって」
「そう」と彼女は静かに言った。「聞いたんだね」
「事故で、亡くなったって」
「うん」
「それで、あなたはここに」
「彼がね」と彼女は言った。「よく来てたのよ、ここに。二人で。だから、ここにいると、会える気がして。会えなくても、近くにいる気がして」
「会えるんですか」
「会えないわ」と彼女は言った。あっさりと、でも哀しみのない声で。「死んだ人には会えない。どこかに行ってしまった人には会えない。ただ、その人がいた場所に自分がいることで、何かを感じることはできる」
ジュークボックスの「マイ・ラブ」が終わった。一瞬の静寂があって、また別の曲が始まった。松山千春だった。「季節の中で」。
「あの頃みたいね」とサワコねえちゃんが言った。
「そうですね」と僕は言った。
「あなたたちが来てた頃の話、覚えてる。あなたはいつも「マイ・ラブ」をかけてた」
「気づいてたんですか」
「気づいてたわ。気遣ってくれてたんでしょ。私がその曲で手を止めるのを見て」
「見てたんですか、俺が見てるのを」
「見てたわ」と彼女は笑った。「あなた、わかりやすかったから」
恥ずかしかった。六十三歳になった今でも、少し恥ずかしかった。
「カツくんは?元気にしてる?」
「元気ですよ。大阪に帰って、会社をやってる。子供が三人いる」
「そう。よかった」サワコねえちゃんは目を細めた。「告白されたのよ、あの子に」
「知ってます。カツから聞きました」
「断ってしまって、悪かったと思ってた。でも、あの頃の私には、どうにもできなかった」
「仕方ないですよ。カツも今は笑って話してますから」
「そう、よかった」
しばらく、二人とも黙っていた。松山千春が歌い続けた。カウンターの上のグラスが、静かに光を受けていた。
「アルトはどうなの?幸せ?」とサワコねえちゃんが聞いた。
唐突な問いだった。でも嫌な問いじゃなかった。
「まあ、そこそこ」と僕は正直に答えた。「悪くない人生だったと思う。妻もいるし、子供たちも独立した。仕事もまあまあやれた。でも、あなたに聞かれると、なんかうまく答えられないですね」
「なんで?」
「あの頃の自分が思い描いてたものと、違う人生を生きてきた気がするから。いや、違うというか、小さくなった、というか」
「小さく?」
「夢が小さくなった。自分が大きくなるにつれて、夢が縮んでいった。変な話ですけど」
サワコねえちゃんは頷いた。「わかる気がする」と言った。「でも、それが普通じゃないの?若い頃の夢って、実際の自分よりずっと大きいでしょ。それで当然で、年を取るって、その夢と現実の折り合いをつけていくことじゃないかな」
「サワコねえちゃんは服のブランドを作りたいって言ってた」
「言ってたね」
「作れましたか」
「作れなかったわ」と彼女はあっさり言った。「専門学校を出たあとで、彼が死んで、そのあとしばらく、何も考えられなかったから。気づいたら時間が経っていた。そしてここにいた」
「後悔してますか」
「してるかもしれないし、してないかもしれない。ここにいる私は、あの頃の私だから、後悔という感情がどういうものか、よくわからなくなってきた」

二時間ほどいた。
コーラを二杯飲んで、ジュークボックスで「マイ・ラブ」をかけて、サワコねえちゃんと話した。他に客は来なかった。田所マスターも来なかった。二人だけで、あの地下にいた。
帰り際、「また来てもいいですか」と僕は聞いた。
サワコねえちゃんは少し考えてから「来れると思う」と言った。「シャッターが開いてれば、来れる。でも毎回開いてるとは限らないから」
「どういうこと?」
「私にも、よくわからないのよ」と彼女は言った。「ここの理屈は。ただ、来てほしいと思った人には、開いてるみたい。あなたがまた来たいと思えば、開いてると思う」
「じゃあ、また来ます」
「待ってる」
階段を登り始めたとき、「アルト」と呼ばれた。
振り返った。サワコねえちゃんがカウンターの向こうから僕を見ていた。
「来てくれてよかった」と彼女は言った。「久しぶりに、誰かと話せた」
外に出ると、秋の夕暮れの空が広がっていた。
シャッターは、いつの間にか元の位置に戻っていた。南京錠もチェーンも、元通りになっていた。


第六章 繰り返す秋
それから、僕は月に一度か二度、渋谷に行くようになった。
必ず明治通りの路地に入って、廃墟のシャッターの前に立った。開いているときと、開いていないときがあった。開いていないときは、ただシャッターを見てから帰った。開いているときは、降りた。
降りるたびに、スナック エイトがあった。
「マイ・ラブ」が流れていることが多かった。「季節の中で」のときも、「さよなら」のときも、「銀河鉄道999」のときもあった。でも「マイ・ラブ」が一番多かった。
サワコねえちゃんは毎回、グラスを拭いていた。
毎回、「いらっしゃい」と言った。
毎回、コーラを出してくれた。
話した。たくさん話した。
あの頃の話をした。カツの話、矢島の話、橋本の話、田村の話。田所マスターの話。どんな音楽をかけていたか。インベーダーゲームで田村がどれほど上手かったか。橋本が一度、コーラをひっくり返して大騒ぎになったこと。
「あったあった」とサワコねえちゃんは笑った。「あのとき、橋本くんの顔が真っ赤になって、田所さんが全然怒らなくて、余計に橋本くんが申し訳なさそうにしてた」
「そうそう。その後しばらく、橋本は来なかったし」
「恥ずかしかったのよ、きっと」
そういう話をするとき、サワコねえちゃんは本当によく笑った。あの頃の記憶が彼女にとっても大切なものだということが、伝わってきた。
現在の話もした。
「今どんな音楽を聴くの?」とサワコねえちゃんは聞いた。
「最近はあまり聴かないですね。若い頃に好きだったものを、たまにまた聴くくらいで」
「ポール・マッカートニーは?」
「たまに聴きますよ。ずいぶん年を取ったけど、まだ活躍してるみたいで」
「そう。よかった」
外の世界の話をするとき、サワコねえちゃんの目はどこか遠くなった。知っていることと知らないことの境界線の向こうを見るような目だった。
「外はずいぶん変わってるのね」と彼女は言った。
「変わってますよ。スマートフォンというものがあって、みんな持ってる。手のひらに入るコンピューターで、電話もできるし、音楽も聴けるし、世界中の情報にアクセスできる」
「すごいわね」
「すごいですよ。でも、なんか、疲れることも多いですよ。情報が多すぎて」
「そう。ここは情報がなくていいわ」とサワコねえちゃんは言った。「ジュークボックスと、酒と、誰かと話すだけ。それで十分」
「確かに」と僕は思った。「それで十分かもしれない」

十一月になった。
その日、シャッターは開いていた。降りると、「マイ・ラブ」が流れていた。
でもサワコねえちゃんの様子が、少し違った。
グラスを拭きながら、どこか上の空だった。返事がいつもより遅かった。
「どうかしましたか」と僕は聞いた。
「ちょっとね」と彼女は言った。「そろそろかなと思って」
「そろそろ?」
「ここにいられなくなるのが、そろそろかなと」
胸が締まった。「どういうこと?」
サワコねえちゃんはグラスを置いて、カウンターに両手をついた。「よくわからないんだけど」と彼女は言った。「感覚的に、わかるの。ここにいられる時間が、終わりに近づいてるって」
「なくなるってこと?この場所が?」
「場所がなくなるというより、私がいられなくなる。外のビルが再開発されるみたいだから、この地下も壊されると思う。壊されたら、私もいられなくなる」
「どこへ行くんですか」
「わからない。でも多分、行くところに行く」
「その人のところへ?」
サワコねえちゃんは少しの間、黙っていた。それからゆっくりと頷いた。「かもしれない。そうだったらいいなとは思ってる」
僕は黙っていた。何も言えなかった。
「悲しそうな顔しないで」とサワコねえちゃんが言った。「私はね、アルト、あなたたちがここに来てくれたあの頃が、とても好きだった。田所さんと三人でやってたあの頃も、田所さんが亡くなって一人になってからも、あの頃の記憶がここにはある。それで十分だったと思う」
「でも寂しかったんじゃないですか、一人で」
「寂しかったわ。でもね」と彼女は言った。「あなたがまた来てくれた。これはよかったと思ってる。終わりの前に、また話せてよかった」
「マイ・ラブ」が、また始まった。
「俺は」と僕は言った。「ここに来るたびに、若い頃に戻れる気がしてた。あの頃の自分に、少し戻れる気がしてた」
「それでよかったじゃない」
「よかったです。本当に」
「あなたはね、アルト」とサワコねえちゃんは言った。「あの頃から、ちゃんとした人だった。告白もしないで、ただ音楽をかけてた。馬鹿みたいだけど、でもそれが、あなたらしかった」
「馬鹿みたいですよ、本当に」
「でも嬉しかったわ」と彼女は笑った。「誰かが、あなたのためじゃなくて私のために音楽をかけてくれてるって、わかったから」
「気づいてたんですか、やっぱり」
「最初から気づいてた」


第七章 最後の百円
十二月に入って、また渋谷に行った。
シャッターの前に立った。
開いていた。
降りた。
「マイ・ラブ」が流れていた。でも今日はそこに、もう一曲混ざっているような気がした。遠くから別の音楽が聞こえるような、重なるような感じ。
サワコねえちゃんはカウンターの向こうにいた。
でも今日は、グラスを拭いていなかった。カウンターの前に立って、こちらを見ていた。エプロンをしていなかった。普通の服を着ていた。
「今日で最後ね」と彼女は言った。
「そうですか」
「来週から工事が入るらしいから。今日がぎりぎりだった」
コーラは、もう用意されていた。カウンターの上に、赤いコースターの上に。
最後のコーラを、ゆっくり飲んだ。
「カツたちに、よろしく言っておいてください」とサワコねえちゃんが言った。「あなたから見てるくらいでいいから、元気でいてくれたらって」
「言います」
「田所さんにも。あの人、優しかったから。私の勝手を何も言わずに認めてくれた」
「田所さんにはどうやって言うんですか」
「どうやってかわからないけど、会えるかもしれないから」
そうか、と思った。彼女の行く先には、田所マスターもいるかもしれない。その人もいるかもしれない。そう考えると、少し気持ちが楽になった。
「俺は」と僕は言った。「あなたに会えてよかった。またこうして会えるとは思わなかったから」
「私も」とサワコねえちゃんは言った。「よかった。本当に」
ジュークボックスに向かった。最後の百円を持って。
入れると、メカニカルな音がした。レコードが選ばれる音が。針が下りる音が。
「マイ・ラブ」が流れ始めた。
振り返ると、サワコねえちゃんが手を止めていた。
カウンターの向こうで、静かに立って、音楽を聴いていた。目を少し閉じて。遠くを見るような表情で。
僕は何も言わなかった。
音楽が終わるまで、ただそこにいた。
曲が終わった。
「行きます」と僕は言った。
「うん」と彼女は言った。
「さよなら、サワコねえちゃん」
「さよなら、アルト。元気でね」
階段を登った。
一段一段、ゆっくりと。木の軋む音がした。
上に出ると、十二月の冷たい空気が顔に当たった。空は青く澄んでいた。
シャッターは、もうきっちりと閉まっていた。


終章 時は流れ続ける
年が明けた。
カツに電話した。久しぶりの電話だった。
「サワコさんのことを話したくて」と僕は言った。
「サワコさん?エイトの?」とカツは言った。「懐かしいな、急に。どうしたん?」
「なんか、会った気がしてな」
「会った?どこで?」
「夢の中みたいな話だよ。気にしないで」
「夢か。でもなんか伝えてくれたんか?」
「よろしくって。あと元気でいてくれたらって」
カツはしばらく黙っていた。それから「そうか」と言った。「律儀やな、サワコさん。ありがとう、アルト」
「よかった」
電話を切って、窓の外を見た。一月の空だった。乾いていて、青かった。
矢島にもメッセージを送った。橋本にも。田村にも。サワコねえちゃんに会った夢を見た、みんなのことを話したら喜んでた、という内容で。三人とも返信をくれた。矢島は「不思議な夢だな」と言い、橋本は「なんかじんとした」と言い、田村は「エイトかあ、懐かしいな。また集まりたいな」と言った。
また集まろうという話になった。どこで、という具体的な話はまだだけれど、春に東京で、ということになりそうだ。

二月になって、僕はまた渋谷に行った。
明治通りの路地に入った。
廃墟のビルは、もうなかった。
更地になっていた。工事用のフェンスが張り巡らされていて、フェンスの向こうに重機が見えた。すでに工事が始まっていた。地下まで掘り返されていた。
あの階段は、もうない。
スナック エイトも、もうない。
サワコねえちゃんも、もうここにはいない。
でも僕は、清々しい気持ちでそこに立っていた。
悲しいかと言えば、もちろん悲しかった。でも、悲しみの下に、温かいものがあった。あれはちゃんとあった、という確信。あの時間は本物だった、という感覚。
風が吹いた。冬の、冷たい風だったけれど、不思議と温かみを感じた。
「さよなら」と僕は声に出さずに言った。
それから、明治通りへ戻った。
宮下公園の代わりにある商業施設の脇を通った。若い人たちが行き来していた。スマートフォンを見ながら歩く人、イヤホンをして音楽を聴いている人、友達と笑いながら歩く人。
みんな、今を生きていた。
この街で、今という時間を過ごしていた。
四十五年後に、この街がどうなっているかは誰にもわからない。あの人たちがどこへ行くかも。でも今この瞬間の、この街での時間は、確かに存在する。やがて記憶になって、誰かの胸に残る。
今も、いずれ過去となって、また誰かが懐かしく今を、未来で語るのだろう。

春になった。
五人で集まった。
カツが大阪から来た。矢島は神奈川から、橋本は埼玉から、田村は東京にいた。渋谷で集合したのは、みんな異存なかった。
でも渋谷のどこへ行くかで少し迷った。
「エイトの跡地を見に行こうか」と僕が言うと、「そうしよう」と全員が言った。
明治通りの路地に、五人で入った。
工事フェンスは外されていて、すでに新しいビルの基礎工事が始まっていた。更地のその場所を、五人で眺めた。
「ここかー」とカツが言った。
「ここやな」
「あの頃は毎週来てたな」と矢島が言った。
「俺、ここで人生で初めてインベーダーをやったんだよな」と橋本が言った。
「俺は全クリしたんやけど」と田村が言った。
「してないしてない」とカツが言って、笑いが起きた。
しばらく、みんなで眺めた。
何も言わない時間があった。でも沈黙は重くなかった。それぞれが、それぞれの思い出の中にいる時間だった。
「サワコさん、どうしてるんかなあ」とカツが言った。
「どこかで元気にしてると思うよ」と僕は言った。
「そうやな」とカツは言った。「そうやったら嬉しいな」
僕は胸の中で、サワコねえちゃんに向かって言った。
この人たちが来てくれましたよ、と。
みんな、元気ですよ、と。
春の風が吹いた。明治通りを渡って、どこかから桜の花びらが一枚、舞ってきた。宮下公園の桜は移植されたと聞いていた。その桜かもしれないし、別の桜かもしれない。
一枚の花びらが、工事フェンスの前に落ちた。
「行こうか」と僕は言った。「飲みに」
「どこで飲むの」と矢島が言った。
「どこでもいい。五人で飲める場所なら」
「エイトみたいなとこがいいな」とカツが言った。
「あったらいいけど、なかなかないよ」と橋本が言った。
「探してみようよ」と田村が言った。「俺、この街はよく知ってるから」
五人で、渋谷の街を歩き始めた。
どこへ向かうかは決まっていなかった。でも方向は同じだった。
時は流れ続けている。
あの頃も、今も、これからも。
でも流れていく時の中で、確かに残るものがある。
地下に降りる細い階段のこと。古いジュークボックスの音のこと。赤いコースターの上に置かれたコーラのグラスのこと。カウンターの向こうで笑っていた、目のあたりに光が集まるような笑い方をした人のこと。
「マイ・ラブ」が流れるたびに一瞬だけ手を止めた、その横顔のこと。
それらはもう過去になった。でも過去は消えない。消えないままで、誰かの胸の中に、静かに生き続ける。
春の渋谷を、五人で歩いた。
どこかから音楽が聞こえてきた。何の曲かはわからなかった。でも温かい音だった。
誰かが百円玉を入れる音が、どこかで聞こえた気がした。




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後記
この物語に登場するスナック エイトは実在した店です。そして、渋谷の街の記憶、明治通り、宮下公園、そしてバッティングセンター、その向かい側にあったビルの地下へ続く階段——それもまた、かつてこの街に、誰かの記憶の中に確かに存在しました。
失われた場所は、記憶の中に生き続けます。
そして記憶は、語られることで、また誰かの中へと移っていきます。




今日 届いた
海を越えたキミからの手紙は
一週間も前のキミの気持ちで
すぐに折り返した僕の手紙が
キミへと届くのもまた
一週間も先だった頃
失ったすれ違いの心は
取り戻せないまま終えた


〜プロローグ〜

 福沢諭吉は言った。
 「一身にして二生を経るが如し」と。

 蒸気機関が世界を変えた時代に生きた彼は、馬の背に揺られた少年時代と、汽車が走り電信が結ぶ壮年期とを、同じ一つの肉体の中に収めた。それは確かに、二つの生を生きるに等しい経験だっただろう。

 では、われわれはどうだ。

 桐島誠は、窓の外を流れる東京の夜景を眺めながら、そんなことを考えた。六十二歳。定年まであと三年。手の中にあるスマートフォンの画面には、Facebookの通知が一件、点滅していた。

 差出人の名前を見た瞬間、誠の手が止まった。

 Sara Mitchell。

 四十年。四十年ぶりに、その名前が現実の時間の中に舞い降りてきた。

 誠はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。指先が微かに震えていた。それは老いのせいではなかった。少なくとも、そう思いたかった。

 窓の外では、東京の夜が光り続けていた。あの頃には想像もできなかった数の光が、地平線まで広がっている。あの頃、この街はもっと暗かった。そしてもっと、遠かった。

 

 

 

 

四十年かかった「好きです」

 


一章 エアメール

一九八四年 大阪・誠、二十二歳

 誠がSaraと出会ったのは、梅雨の晴れ間のことだった。

 大阪・心斎橋の英会話スクール。誠は父親に言われるままに入学した。商社マンになるつもりだった。英語ができれば、海外駐在のチャンスもある。それだけの理由だった。

 Saraは講師だった。ミシガン州出身、二十四歳。亜麻色の髪に、少し鼻の高い、屈託のない笑顔の女性だった。彼女の授業は、教科書を使わなかった。ただ話した。日常の、ありふれた話を。

「ねえ、誠。好きな食べ物は何?」

「た、たこ焼き……」

「Oh! Takoyaki! I love it. Octopus ball, right?」

 クラスの笑いが起きた。誠も笑った。英語の授業でこんなに笑ったのは初めてだった。

 授業のあと、誠はいつも少し遅くまで残った。テキストを整理するふりをしながら、Saraが教室の黒板を消し終わるのを待った。理由を自分でも説明できなかった。ただ、その場所の空気が好きだった。

「帰らないの?」とSaraは聞いた。

「もう少し……復習を」

「嘘ね」と彼女は笑った。「でも、まあいいか。お茶でも飲もう」

 近所の純喫茶で、二人はよく話した。Saraの英語はゆっくりで、誠の拙い言葉をいつも辛抱強く待った。彼女は日本のすべてに興味を持っていた。電車の正確さ、食べ物の丁寧さ、人々の奥ゆかしさ。誠には当たり前すぎて気づかなかったものを、Saraは宝物のように拾い集めた。

「日本人って、言いたいことを言わないんだね」とSaraはある日言った。「気持ちが、どこかに隠れてる」

「アメリカ人は違うの?」

「全然違う。思ったことはすぐ言う。それが正しいかどうかは関係なく」

「それは……羨ましい」

 Saraはじっと誠を見た。「誠も、ちゃんと言えるよ。時間がかかるだけで」

 その「時間」が、二人の間では致命的な意味を持つことになるとは、その時の誠には分からなかった。

 秋が来た。Saraの滞在期限が近づいていた。彼女は十月の末に帰国する予定だった。誠は何も言えなかった。言いたいことは山ほどあった。でも日本語でも言えなかった。まして英語では。

 Saraが去る三日前、誠はスクールの廊下で彼女を呼び止めた。

「Sara……あの、住所を、教えてほしい」

 彼女は少し驚いた顔をして、それからあの屈託のない笑顔になった。「手紙?」

「うん。書きたい。書いても、いい?」

「もちろん。私も書く」

 彼女はノートの切れ端に住所を書いた。ミシガン州アナーバー。誠には呪文のように聞こえた。

 Saraが去った日、誠は南海電車の窓から、遠ざかる関西国際空港の方角を見つめた。空港はまだ開港前で、ただの海だったが、その方向に彼女がいると思うだけで、胸が痛かった。

往復、二週間

 最初の手紙を書くのに、一週間かかった。

 誠は何度も書き直した。英語で書くべきか、日本語で書くべきか。日本語で書けば読んでもらえないかもしれない。英語で書けば、伝えたいことの半分も伝わらないかもしれない。結局、半分ずつにした。前半は英語、後半は日本語。「後半は読めなくていい。でもこれが、俺の言葉だから」と英語で添えた。

 エアメールの封筒は、近所の文具屋で買った。薄い青のストライプが縁を走っている、あの独特の封筒。重量を計って、切手を貼った。

 投函してから、待った。

 ニ週間後、返事が来た。

 Saraの文字は大きくて、少し右に傾いていた。書き出しはいつも「Dear Makoto,」だった。「誠へ」ではなく、「Dear Makoto」。その二文字に、誠は毎回、鼓動が速くなった。

 彼女の手紙は、誠の英語の勉強になった。知らない単語はノートに書き写した。文法も違う、表現も違う。でも不思議と、意味は分かった。言葉の向こうに、彼女の声が聞こえる気がした。

 往復で二週間。誠が手紙を書いて、Saraが受け取って、返事を書いて、誠が受け取るまで、最低でも二週間かかった。

 つまり誠は常に、二週間前のSaraと会話していた。

 最初の頃、それは気にならなかった。むしろロマンチックですらあった。手紙を待つ間、誠はSaraのことを考え続けた。彼女は今何をしているだろう。何を食べているだろう。この瞬間、誠のことを考えてくれているだろうか。

 しかし季節が変わるにつれ、その「ずれ」が少しずつ重くなってきた。

 十二月。Saraの手紙に、「同僚のJasonとパーティに行った」という一節があった。誠はその名前が、一週間ずっと頭から離れなかった。次の手紙には「Jason誰?」と書いた。その返事が来るまで、また一週間。返事には「ただの友達。心配しないで」とあった。でも誠はその一節を読みながら思った。「この返事を書いたのも、もう一週間前のことだ」と。

 やきもきする時間が、二倍に引き伸ばされていた。

届かなかった手紙

 翌年の春、誠は就職した。大手食品会社の営業部。毎朝七時に家を出て、夜は九時、十時まで帰れないことも多かった。手紙を書く時間が、少しずつ削られていった。

 Saraからの手紙は変わらず来た。週に一度の律儀さで。でも誠の返事は、二週間に一度になり、三週間に一度になった。

 Saraの手紙のトーンが変わり始めたのは、夏の終わりだった。

「最近、どうしてる?忙しいのはわかるけど、心配してる」

 誠は心の中で謝った。でも返事を書く時間がない。書こうとすると、疲れた頭が止まった。あんなに頑張って書いた英語が、今は鉛のように重かった。

 九月に入ったある夜、誠はようやく長い手紙を書いた。仕事のこと、毎日の疲れ、でもSaraのことをいつも考えていること。来年、絶対に会いに行くこと。アナーバーに行く。ミシガン湖を見たい。

 その手紙を投函した翌日、Saraからの手紙が届いた。

 読んで、誠は凍りついた。

「Makoto へ。長い間、考えてた。あなたのことが好き。でも、私たちは遠すぎる。あなたの返事がだんだん来なくなって、私はどうすればいいか分からなくなった。Jasonが、私のそばにいてくれる。彼のことを、真剣に考えようと思う。ごめんなさい。でも、あなたのことは忘れない。Sara」

 誠は手紙を二度、三度読んだ。

 タイミングが、こんなにも残酷だとは思わなかった。誠がアナーバーに行くと書いた手紙は、今ちょうど太平洋の上を飛んでいる。届くのは一週間後。しかしその手紙が届く頃には、もうSaraの心は決まっている。

 返事を書くべきだった。すぐに電話すべきだった。でも誠はSaraの電話番号を知らなかった。電話するには、国際電話の番号案内を使わなければならない。あのころ、それは簡単なことではなかった。

 誠は一週間後、返事を書いた。でもそれは、すでに遅かった。その返事も、太平洋を渡って一週間後に届いた。Saraからの返事は来なかった。

 二週間というタイムラグが、二人の間に取り返しのつかない溝を作った。

 もし電話が自由にできたなら。もしメッセージが瞬時に届いたなら。きっとこうはならなかった、と誠は長い間思い続けた。

 でも本当にそうだっただろうか。

 それは、ずっと後になってから考えることだった。



二章 ポケベルの暗号

一九九三年 東京・誠、三十一歳

 バブルが弾けて三年が経っていた。

 誠は転職していた。大阪の食品会社を辞め、東京のマーケティング会社に移った。二十八歳の時のことだ。理由は単純で、大阪にいると、Saraと過ごした心斎橋の景色が目に入りすぎた。それだけのことだった。

 東京は大阪より速かった。電車も、人の歩き方も、会話の切れ味も。誠はその速さに溶け込もうとしながら、どこかで置いていかれている感覚を持ち続けた。

 会社にポケベルが支給されたのは、その頃だった。

「これ、どう使うの?」と誠は先輩社員の平田に聞いた。

「会社から呼び出しがかかるんだよ。ピーっと鳴ったら、すぐ電話しろってこと」

「じゃあ電話機じゃないんだ」

「そう。受信専用。でも最近は数字メッセージも打てるやつが出てきてる。女の子に114106とか送るんだよ」

「何それ?」

「アイシテルの語呂合わせ。1が『ア』、14が『イ』……まあ、若いやつがやる遊びだ」

 平田は笑ったが、誠は笑えなかった。数字で気持ちを伝える。なんと不思議な方法だろうと思った。でも、それが今の時代のやり方なのだと、なんとなく分かった。

724106

 雪乃と出会ったのは、取引先との会食の席だった。

 橘雪乃、二十六歳。広告代理店のプランナー。黒いスーツに、白いブラウス。場慣れした笑顔で、でも目の奥に何か鋭いものを持っていた。

「桐島さんは、どんな音楽が好きですか?」と彼女は唐突に聞いた。

「音楽?……井上陽水、とか」

「渋いですね。私もです。『氷の世界』が特に好きで」

 誠は少し驚いた。二十六歳の女性が井上陽水を好むとは思わなかった。「なんで?」

「言葉が、ちゃんと悲しいんです。作った悲しさじゃなくて」

 その一言で、誠は雪乃が好きになった。

 会食の帰り、誠は名刺を渡した。「もし何かあれば」と言いながら、本当は何かあってほしかった。

 一週間後、誠のポケベルが鳴った。数字が並んでいた。

 724106。

 誠はしばらく眺めた。「ナ、ニ、ア、イ、シ、テ……」。違う。「ナ、ニ、イ、シ……」。

 もう一度、ゆっくり数えた。

 7が「ナ」。2が「ニ」。4が「シ」。1が「ア」。0が「オ」。6が「ム」。

 「ナニシテルノ?」。

 誠は苦笑いしながら、受話器を上げた。

 電話越しの雪乃の声は、想像より少し低かった。「分かりました?」と彼女は笑った。

「ギリギリ」と誠は答えた。「こういうの、慣れてないから」

「じゃあ練習しましょう。次は問題を出しますね」

 その日から、二人はポケベルで話した。数字の暗号で、気持ちを送り合った。

 414106。「ヨイシテル」ではなく「コイシテル」だと分かるまで、誠は三分かかった。

 726。「ナニ?」。

 10951。「アイシタイ」。

 数字が言葉になり、言葉が気持ちになった。不思議なことに、直接言うより照れが少なかった。数字という一枚のガラス越しに、本音が滑り込んでくる感じがした。

 誠は思った。これが、今の時代の手紙なのかもしれない、と。

バブルの後の、小さな幸福

 二人は付き合い始めた。

 景気が悪くなっていた。誠の会社でも、プロジェクトのキャンセルが続いた。残業代が削られ、ボーナスが半分になった。取引先の会食も減り、タクシーではなく終電で帰るようになった。

 でも不思議と、その時代が暗かったとは思わない。雪乃とよく行ったのは、新宿の小さなバーだった。カウンターに並んで、安いビールを飲んだ。雪乃は仕事の愚痴を言い、誠は相槌を打ち、やがて二人は笑っていた。

「ねえ、桐島さんってさ」と雪乃はある夜言った。「昔、好きだった人がいるでしょ?」

 誠は手元のグラスを見た。「なんで分かるの」

「目が、たまに遠くに行くから」

 誠は少し考えて、Saraのことを話した。エアメールのこと。二週間のタイムラグのこと。届かなかった、あの最後の手紙のこと。

 雪乃は黙って聞いた。最後に言った。「切ないね」

「うん」

「でも、時代のせいにしてる部分、ない?」

 誠は答えられなかった。

「電話できたはずでしょ、国際電話。高かったかもしれないけど、やろうと思えば。手紙だって、もっと早く返事できたはず」

「……そうだな」

「時代の限界じゃなくて、あなたの限界だったのかも」

 それは優しい言葉ではなかった。でも誠には、正直な言葉として響いた。

 雪乃と過ごした三年間は、穏やかだった。派手さはなかったが、毎日がしっかりしていた。しかし三十四歳になった年の春、雪乃は言った。

「私、大阪に転勤になった」

「そうか……」

「一緒に来る?」

 誠は大阪に戻ることを考えた。あの街の、あの記憶の中に戻ること。心斎橋の純喫茶。英会話スクールの廊下。Saraの文字が書かれたノートの切れ端。

「俺は……東京を離れられない」

 雪乃はうなずいた。「分かった。ありがとう、正直に言ってくれて」

 別れは静かだった。ポケベルで最後に届いた数字は、「0833」。

 誠はしばらく考えた。「オヤスミ」。

 それが、二人の最後の会話だった。



三章 既読のない夜

二〇一二年 東京・誠、五十歳

 スマートフォンが、世界を変えた。

 誠はその変化を、比較的ゆっくりと受け入れた世代だった。ガラケーで十分だと思っていたが、息子の翔太に「父さん、いい加減変えなよ」と言われて、五十歳の誕生日にiPhoneを買った。

 最初は戸惑った。文字の打ち方が違う。電話帳の引き方が違う。何もかもが、慣れた場所から少し右にずれているような感覚だった。

 でも気づくと、手放せなくなっていた。

 ニュースを見る。天気を調べる。電車の乗り換えを確認する。飯を食う前に写真を撮る。道に迷ったらGPSに聞く。音楽を流す。本を読む。そのすべてが、手の中の小さな板一枚でできた。

 便利だと思った。同時に、何かが失われたとも思った。でも何が失われたのか、うまく言葉にできなかった。

「既読」という言葉

 ある夜、翔太が珍しく早く帰ってきた。二十三歳。就職して二年目。いつもは深夜まで帰ってこないのに、その夜は九時前に玄関を開けた。

「どうした?」と誠は聞いた。

「別に」

 翔太はリビングのソファに倒れ込み、スマートフォンをじっと見つめた。表情がない。

「飯、食うか?」

「いらない」

 誠は台所でビールを一本取って、翔太の隣に座った。「彼女と何かあったか」

 翔太は答えなかった。ただ画面を見ている。

「既読がついてるのに、返事が来ない」と翔太はようやく言った。「三時間」

「既読?」

「メッセージを読んだかどうかが分かるんだよ、LINEは。読んだって分かってるのに、返事が来ない。それって、どういうことだと思う?」

 誠はビールを一口飲んだ。「分からん」

「分からないじゃなくてさ……」

「いや、本当に分からない。俺の時代はそういうものがなかったから」

 翔太は呆れたように見た。「父さんの時代って、どうしてたの?」

「手紙を書いて、一週間待った。返事が来るのはさらに一週間後だった」

「一週間?」

「そう。アメリカに手紙を送ったことがある。往復で二週間かかった」

 翔太はしばらく黙った。「それ……つらくなかったの?」

「つらかったよ。すごく。でも、それしかなかったから」

「今は既読がついてるのに三時間でつらい。昔は二週間で……そっちの方がよっぽどつらいな」

「慣れの問題だよ。お前の時代では三時間が普通の待ち時間じゃない。俺の時代では二週間がそうだった。でも」

 誠は続けた。「つらさの中身は、たぶん同じだ。相手が何を考えてるか分からない。その不安は、時代が変わっても同じだと思う」

 翔太はスマートフォンを見た。画面には「既読2」の文字と、青いトーク画面が表示されていた。

「電話、してみたらどうだ」と誠は言った。

「電話は……ハードルが高いんだよ、今は」

「なんで? ボタン一つだろう」

「そういう問題じゃないんだよ、父さん」

 誠には分からなかった。電話がハードルになった時代。既読という概念が生まれた時代。それは確かに、誠が育った時代とは別の時代だった。

 翔太の恋愛は、その夜のうちに終わったらしかった。翌朝、翔太はいつもより早く家を出た。スマートフォンを見ながら、無言で。

 誠は見送りながら、思った。四十年前、自分はSaraへの返事を書くのに一週間かかった。翔太の彼女は、三時間返事を返さなかった。どちらが相手を傷つけたか。どちらが相手を愛していなかったか。

 そんなことは、関係なかったのかもしれない。

フェイスブックの通知

 翔太の一件から二週間後のことだった。

 誠はFacebookのアカウントを作った。翔太に「父さんみたいな世代が使うんだよ」と言われて、半ば強引に登録させられた。

 名前を入力して、プロフィール写真を設定して、出身地と職歴を入力した。すると、「知り合いかもしれない人」というリストが現れた。

 誠は何気なくリストをスクロールした。同僚の名前、大学の後輩の名前……。

 そして止まった。

 Sara Mitchell。

 プロフィール写真の女性は、あのSaraだった。少し白いものが混じった亜麻色の髪。でも目は同じだった。あの屈託のない目。

 誠は長い間、その写真を見つめた。

 友達申請を送るべきか。四十年の沈黙の後に、ボタン一つで「友達」になる。その軽さが、なんとも言えない気持ちにさせた。

 誠はその夜、申請を送らなかった。

 翌朝、Facebookを開くと、通知が来ていた。

 「Sara Mitchellさんが友達リクエストを送りました」。

 向こうから来た。

 誠は画面を見ながら、思わず声が出た。それは笑いとも、驚きとも、どちらとも取れる音だった。

 四十年前、自分は返事を書くのに一週間かかった。

 今日は、「承認」ボタンを押すのに一時間かかった。

第四章 渋沢栄一の顔
二〇二四年 東京・誠、六十二歳

 新しい一万円札が流通し始めた、その夏のことだった。

 誠はコンビニのキャッシュディスペンサーでおろした新しい一万円札を、しばらく眺めた。渋沢栄一の顔が、こちらを見ている。

 聖徳太子、伊藤博文、福沢諭吉、そして渋沢栄一。誠が物心ついてから、一万円札の顔は三度変わった。それを「三世」と数えるなら、誠はすでに三世を生きている。

 スマートフォン、SNS、そして今、AIが日常に入り込んできた。電話が生まれ、ポケベルが生まれ、携帯電話が生まれ、スマホが生まれ、そしてAIが話しかけてくる。

 福沢諭吉は二世を生きたという。自分は何世を生きているのだろう。五世か、十世か。数えるのが馬鹿らしくなってきた。

 誠はそんなことを考えながら、コンビニを出た。

再会のメッセージ

 Saraとは、Facebookで繋がって以来、時折メッセージを交わしていた。最初は短いものだった。

「元気?」

「元気。そっちは?」

「元気よ。日本語、まだ練習してる」

 その「日本語まだ練習してる」という一言が、誠には意外だった。あれから四十年、Saraはまだ日本語を学び続けているのか。

「なんで日本語を続けてるの?」と誠は聞いた。

 返事が来るまで、三日かかった。

「あなたの手紙の後半が、読みたかったから」

 誠は、息が止まった。

 あの最初の手紙。前半は英語で、後半は日本語で。「後半は読めなくていい。でもこれが、俺の言葉だから」と書いた、あの手紙。

 Saraはそれをずっと持っていた。そして読もうと、四十年間、日本語を学び続けていた。

「読めた?」と誠は書いた。

「だいぶ読めるようになった。でも、一つだけ分からない言葉がある」

「何?」

「『好きです』ってどういう意味?」

 誠は笑った。声に出して、笑った。一人でいるのに。

「知ってるくせに」と誠は書いた。

「知らない。教えて」

「……I like you. いや、I love you に近いかな」

「四十年前に言ってくれれば良かったのに」

「書いたじゃないか。手紙に」

「手紙に書いたのと、ちゃんと言うのは違う」

 誠は画面を見た。そうだな、と思った。

 手紙に書いたのと、ちゃんと言うのは違う。ポケベルで数字を送るのと、ちゃんと言うのは違う。メッセージを打つのと、ちゃんと言うのは違う。

 どんなに技術が変わっても、その違いだけは変わらないのかもしれない。

来日

 Saraから連絡が来たのは、一万円札を眺めたあの日から三週間後だった。

「来月、東京に行く。娘の結婚式があって」

 誠は返事を打つ手が止まった。

「会える?」とSaraは書いた。

 誠はしばらく考えた。四十年ぶりの再会。お互い六十代。あのころのSaraではなく、あのころの誠でもない。それでも、会いたいと思った。いや、会わなければならない気がした。あの「後半の手紙」の答えを、ちゃんと口で言うために。

「会おう」と誠は書いた。

 返事は一分で来た。「嬉しい」。

 四十年前なら、この一言が届くまで一週間かかった。

再会

 待ち合わせは、上野公園にした。

 八月の終わり。まだ蒸し暑い午後。誠はベンチに座って待った。公園の木々が、微かに揺れていた。スマートフォンを見ると、Saraから「今、公園の入り口にいる」とメッセージが来た。

 立ち上がった誠の目に、遠くから歩いてくる女性が見えた。

 白いシャツ。少し白くなった亜麻色の髪。でも歩き方が、あのSaraだった。迷いのない、まっすぐな歩き方。

 Saraも誠を見つけた。少し早足になった。

 十メートル。五メートル。三メートル。

 二人は止まった。

「Makoto」

「Sara」

 それだけだった。でもその二つの言葉の中に、四十年分が詰まっていた。

 Saraは笑った。あのころと同じ、屈託のない笑顔で。「老けたね、お互い」

「そうだな」と誠も笑った。

「手紙、ずっと持ってたよ」とSaraは言った。「後半、全部読めた。最後の方、『ずっと好きでした』って書いてあった」

 誠は空を見た。少し雲があった。「よく読めたな」

「四十年かかったけどね」

「遅すぎる」

「あなたが返事を書くのが遅かったんじゃない」

 誠は苦笑いした。「そうだな。時代のせいにしてたのかもしれない」

「私もそう。Jasonのことも、本当はあなたへの返事を待ちきれなかっただけだった」

 二人はしばらく黙った。上野の木立が風に揺れた。

「Jasonとは?」と誠は聞いた。

「三十年前に離婚した。子供が二人いる。娘が今回、日本人と結婚する」

「そうか」

「あなたは?」

「結婚したことがある。十五年前に離婚した。息子が一人いる」

「そうか」とSaraは言った。今度は日本語で。

 誠は笑った。「日本語、うまくなったね」

「あなたの手紙のおかげ」

 二人は並んでベンチに座った。公園を行き交う人たちは、誰もスマートフォンを見ていた。写真を撮り、メッセージを打ち、画面の中の世界に半分沈みながら歩いていた。

「これからの三十年、どんな世界になると思う?」とSaraは聞いた。

「分からない」と誠は答えた。「でも、たぶんまた全部変わる」

「怖い?」

「少しね。でも……」

 誠は続けた。「変わっても、変わらないものもある気がする」

「何が?」

 誠はSaraを見た。四十年越しの、その顔を。

「気持ちを伝えるのに、勇気がいること。それは変わらない」

 Saraはしばらく誠を見つめた。それから、また日本語で言った。

「好きです」

 誠は、息を飲んだ。

「四十年遅い」

「あなたも四十年遅かった」

 誠は笑って、空を見上げた。雲が少し動いていた。

「今からでも遅くないかな」

「分からない」とSaraは言った。「でも、遅すぎるよりはいい」

 上野の木々が揺れた。誰かのスマートフォンが鳴った。電車の音が遠くから聞こえた。

 誠は手の中のスマートフォンを、ポケットに仕舞った。今この瞬間だけは、画面の外にいたかった。



エピローグ

 その夜、誠は一人でビールを飲みながら、窓の外の東京を眺めた。

 財布から新しい一万円札を取り出した。渋沢栄一の顔。

 聖徳太子が福沢諭吉になり、福沢諭吉が渋沢栄一になった。お札の顔が三度変わる間に、電話が生まれ、ポケベルが生まれ、スマホが生まれ、AIが生まれた。

 福沢諭吉は一身にして二生を経ると言った。

 自分は何世を生きたのだろう。手紙の世界、ポケベルの世界、スマホの世界、AIの世界。少なくとも四世。いや、もっとかもしれない。

 でも、今日のあの再会は、何世分の出来事だったのか。

 四十年前の手紙の後半が、ようやく届いた。四十年かかった返事が、今日、上野公園のベンチで口から出た。

 これを何世と数えるのか。誠には分からなかった。

 スマートフォンが光った。Saraからのメッセージだった。

「今日は、ありがとう」

 誠は少し笑った。四十年前なら、この一言が届くまで一週間かかった。

 今は一秒だ。

 でも、気持ちを打ち明けるのに、四十年かかった。

 技術は速くなった。でも人間は、相変わらず時間がかかる。それが、悪いことだとは思わない。時間がかかった分だけ、言葉は重くなる。四十年分の重さを持った「好きです」は、きっとその重さの分だけ本物だった。

 誠は返事を打った。

「こちらこそ」

 送信ボタンを押した。

 一秒で届く言葉。でも、四十年かかって育った気持ち。

 誠は一万円札を財布に戻して、ビールを飲んだ。窓の外の東京は、相変わらず光り続けていた。

 これからの三十年、また世界は変わるだろう。お札の顔も、また誰かに変わるかもしれない。スマートフォンは何か別のものに置き換わるかもしれない。AIが、今よりずっと深く日常に入り込むかもしれない。

 でも。

 誠はそう思った。

 でも、あの「好きです」の重さだけは、変わらないはずだ。

 どの時代を生きていても、それだけは変わらない。

(了)
 

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〜あとがきに代えて〜

 福沢諭吉は「一身にして二生を経るが如し」という言葉を残しました。蒸気機関が世界を塗り替えた時代を生き、馬の背に揺られた少年と、電信の時代の壮年とを、同じ一つの体の中に生きた人の言葉です。

 この物語は、その言葉を起点にしています。

 もし福沢諭吉が二世を生きたなら、わたしたちは何世を生きているのか。手紙からポケベルへ、ポケベルから携帯電話へ、携帯からスマートフォンへ、そして今、AIの時代へ。一人の人間の一生の中で、世界が何度も作り替えられた。

 それはまぎれもなく、五世であり、十世であるかもしれません。

 でもこの物語を書きながら、思ったことがあります。

 技術がどれだけ変わっても、人間が「気持ちを伝えるのに時間がかかる」という事実だけは、変わっていないのではないか、と。

 手紙が一週間かかった時代、わたしたちは返事を書くのに躊躇しました。ポケベルで数字を打つ時代、わたしたちは少し間接的に愛を伝えました。メッセージが一秒で届く時代、わたしたちは「既読スルー」に悩みます。

 インフラは速くなった。でも、心は変わっていない。

 主人公の桐島誠と、Saraの話は、架空の物語です。でも、あのエアメールのすれ違いは、実際に誰かが経験したことではないか、という気がしてなりません。技術の限界ではなく、人間の限界で、大切な誰かとすれ違ってしまった経験を、持っている人は多いはずです。

 そして、それでもいい、と今は思います。

 時間がかかったぶん、届いた言葉には重みがある。四十年越しの「好きです」は、四十年分の重さを持っている。

 お札の顔は変わっても、そういうことだけは変わらないと、この物語は信じています。
 

アマゾンのキンドルは
週に10冊の掲載の縛りも
今週で70冊となりました

掲載予定では
今月中に
100冊になるでしょう

今週 悩んで
載せなかった長めのこれを
わずかな間
ここに載せて置きますので
ご意見を頂けたら嬉しく思います


アマゾン キンドル



〜プロローグ〜

僕らの持ち時間は
日に日に縮まり
残りの時間を思った時
他の場所へ行く方と
今を続ける方とに分かれる

光の速さに近い宇宙船の中では
時間に遅れが出て
地球へと戻ると
そこに大きな時間差が出来ると
相対性理論は説明するが
はてさて それすらも分からない…

それは
宇宙船まで速くなくても
日常 急いで動いていると
時間の流れはほんのわずかに遅れ
すれば老化も遅れると

更には
高い場所もそれで
山登りやスカイツリーでもと
それらを積み重ねると
きっとわずかでも
老化は遅れるのかもしれない

記憶では
出来たばかりのコンピューターは
部屋一杯の大きさだった

それが今
手のひらに乗るここまで
小さくなった

それだって
わずか半世紀

すれば
あと半世紀も経てば
想像を越えた時代が
やって来るのだろう

スマホは更に小さくなり
もしかすると
その姿すら消して
身体に埋め込まれたかチップが
即座に脳へと伝達し…

車は空を飛び回り
最短距離で目的地へと

いや
身体は分子になり
一瞬で遠くへと移動し
そちらでまた身体へと戻る

その途中で
悪い細胞は除去され
健康も保たれる

訊けば
電子を半分に分けて
半分をここに置き
半分を遥か彼方に置く

すると
ここに置いた半分に
情報を入れると
瞬時にあちらにもその情報が
届いていると

それは 
まこと不思議かな
間に何ひとつ
繋ぐものは不要だそうで
すでにその実験は
完成していると

すれば
どこにも漏れることなく
情報を送れると

ならば
半分を今日に置き
半分を明日に なんてなれば

明日側からのデータが
今日 届けば
多くのことが間に合うかも
なんて…

はてさて
老いた男が目一杯の想像をしても
せいぜいそんなくらいだけれど
現実は更に上へと進化するのだろう

ただし
僕ら世代は残念ながら
それを見届けることは
出来ないけれど…

すれば
見掛けの若い方々は
日常 速い乗り物で動き回り
高い山にでも登っているのかと
思ってみるが…

それよりも
本当は良い栄養を摂り
規則正しく過ごし
多くの遊びの中で
楽しく
身体を動かしているのだろう





量子テレポーション


序章


——私は、ここにいる。

だが同時に、ここにいない。

モニターの向こうで、もう一人の僕が死んだ。

その瞬間、こちらの僕は——何も感じなかった。

恐怖でも、悲しみでも、安堵でもない。ただ、乾いた確信だけが、胸の奥に積もった。雪のように、音もなく。静かに、確実に。

「次は、こっちだ」

誰に言うでもなく、僕は呟いた。部屋には誰もいなかった。いや、正確には——もう一人の僕が、さっきまでそこにいたはずだった。同じ顔、同じ声、同じ記憶を持った存在が、モニターの中で静かに消えた。

消えた、とは語弊がある。「転送された」と言うべきか。だが転送された先がここなら、転送元が消えたことは——消えた、としか言いようがない。

僕は画面を見続けた。

空になった受け取り側の装置を。

そして——静寂の中で、確信だけが深くなっていった。


一章 時間はズレる


僕らの持ち時間は、日に日に縮まっている。

それは誰にも平等で、誰にも止められない——はずだった。少なくとも、あの研究所に足を踏み入れるまでは、そう信じていた。信じていた、というより、疑う理由がなかった。時間は流れる。それは変えられない前提で、川が海へ向かうように、誰もが同じ速度で老いていくものだと思っていた。

研究所というのは大げさな呼び名で、実態は廃工場の一角を改装した作業場だった。区外れの、人通りの少ない通りに面した古いビルの地下。外から見ると、何かの資材置き場か、あるいは廃業した業者の倉庫のように見えた。表札もなく、インターフォンもなかった。

階段を降りると、鉄製の扉があった。ノックすると、内側から錠が外れる音がした。

最初に感じたのは、温度だった。外気より二、三度、低い。次に気づいたのは、音の消え方だ。外の喧騒が、扉の向こうで完全に遮断された。吸音材でも貼ってあるのか、あるいは構造自体が音を殺す設計なのか——そのどちらかだと思ったが、後者だと男は言った。

「音は情報です」と男は最初の日に言った。「不必要な情報は、実験の精度を下げます」

天井の低い部屋に、古いラックサーバーが並び、ケーブルが床を這い回っていた。窓はなかった。いつが昼で、いつが夜かも、そこにいると分からなくなる。照明は一定で、温度は一定で、音は最小限だった。時間の感覚が溶けていく場所だった。

それは意図的な設計だったのかもしれない、と後になって思う。

「時間は固定されていません」

男はそう言った。

最初の日の、最初の言葉だった。挨拶も、自己紹介も、世間話も——なかった。扉を開け、室内へ招き入れ、椅子を指差して座るよう促し、自分も向かいに座り、そして言った。

「時間は固定されていません」

出会いは偶然ではなかったと、今の僕は思う。だが当時は、偶然だと信じていた。知人の紹介、という体裁だったが、その知人も今は連絡が取れない。半年前に急に連絡が来て、「面白い人がいる、会ってみないか」と言われた。それだけだった。

男は四十代に見えた。正確な年齢は分からない。痩せていて、骨張った指をしていた。髪は短く、眼鏡をかけていなかったが、細い目が常に何かを測っているように動いていた。言葉を選ぶ癖があった。長い沈黙の後に、ようやく一文を出す。その一文が、毎回、的確すぎた。

「速く動けば、時間は遅れます。重力が強い場所では、さらに遅れる。これは仮説ではなく、観測された事実です」

アインシュタインの特殊相対性理論と、一般相対性理論の話だ。知識としては知っていた。光速に近い速度で移動した物体は、静止した観測者から見て時間の進みが遅くなる——ローレンツ収縮と時間の遅延。これは実験で繰り返し確認されている。高速で飛ぶ粒子の寿命が、静止時より長く観測されること。原子時計を乗せた航空機と地上の時計がわずかにズレること。

さらに一般相対性理論では、重力が時間の流れを変える。重力が強いほど、時間は遅れる。地球表面と上空では、わずかだが時間の速さが異なる。この差を補正しなければ、GPS衛星は日々蓄積する誤差で使い物にならなくなる。

だから今も、私たちの生活の中に、時間の相対性は静かに組み込まれている。

だが男は、それを教科書の言葉で語らなかった。

「あなたは今、一秒ごとに一秒を消費しています。誰でもそうです。ですが——消費の速度は、変えられます」

机の上に置かれたのは、黒い箱だった。

金属製で、一辺が三十センチほど。表面は艶消しの加工が施されており、継ぎ目がほとんど見えなかった。前面に小さなパネルがあり、わずかに青白い光を放っていた。接続ポートが左右に複数あり、細いケーブルがラックサーバーへと伸びていた。内部から微細な振動が伝わってくる気がした。心拍とは違う、規則的なリズム。息をしているような、そんな印象だった。

「これは"時間"ではなく、"あなたの状態"を扱います」

僕は箱を見た。箱は、何も言わなかった。

「どういう意味ですか」

「量子状態です」と男は言った。「物質の、最も根本的な記述。それを——移動させます」


二章 量子もつれ


量子力学を、僕は専門家として学んだわけではない。

文系の出身で、数式を追う習慣はなかった。だが男との会話を通じて、僕はいくつかの概念を、骨身に刻むように理解していった。説明を求めると、男は惜しまなかった。むしろ、説明することを、どこか楽しんでいるようだった。数式を使わずに、物理の本質を伝えようとする——そういう種類の人間がいて、男はその典型だった。

「まず、量子もつれから始めましょう」

一九三五年。アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの三人が、ある思考実験を発表した。いわゆるEPRパラドックスだ。量子力学の標準的な解釈に従えば、二つの粒子は「もつれ」の状態に置かれることができる。もつれた粒子の一方を観測すると、瞬時にもう一方の状態が確定する——どれほど遠く離れていても。

東京で一方の粒子を観測すれば、ニューヨークにある対になった粒子の状態が、光の速さすら超えた速度で「確定」する。

「アインシュタインはこれを、"不気味な遠隔作用"と呼んで否定しようとしました」と男は言った。「局所的実在論を信じていた彼は、こんな馬鹿げたことが起きるはずがないと考えた。隠れた変数があるはずだ、と。量子力学は不完全なのだ、と。粒子はもともと状態が決まっていて、私たちがそれを知らないだけなのだ、と」

だが一九六四年、ジョン・ベルが数学的な不等式を導出した。ベルの不等式と呼ばれるそれは、もし隠れた変数が存在するなら必ず満たされるはずの条件を定式化したものだった。実験でこの不等式が破れるならば、隠れた変数はない——量子力学の「不気味さ」は本物だということになる。

一九八二年、アラン・アスペらがパリで行った実験は、不等式の破れを明確に示した。その後、より精度の高い実験が繰り返され、ループホールを次々に塞いでいった。二〇一五年のデルフト工科大学の実験は、事実上すべてのループホールを閉じた最初のものとして知られている。

結論は明確だ。隠れた変数はない。量子力学の「不気味さ」は実在する。

「情報は送れません」と男は続けた。「もつれを使っても、情報を光速より速く伝達することはできない。それは数学的に証明されています。もつれた粒子の状態を観測した結果は、ランダムです。あらかじめ決めておくことができない。だから、信号を載せることができない」

「では、何の役に立つのですか」

「一致させることができます」

男は二つの小さなカプセルを取り出した。直径一センチほどの、透明なアクリル製の筒。内部に微細な構造が見えたが、裸眼では判別できなかった。

片方を箱の左側ポートに接続し、もう片方を三メートルほど離れたパネルの上に置いた。スイッチを入れると、両方が同時にわずかに震えた。二つの光点が、同時に点滅した。

「遠く離れた場所に置かれたこれらは、同時に状態が変化します。原因と結果、という時間的順序が成立しない形で」

理由は説明できる。数式で記述できる。だが直感は拒否する。

「量子テレポーテーションは、このもつれを利用します。送り側でスキャンした量子状態の情報を、もつれたチャンネルを介して受け側に伝える。ただし——」男は箱に手を触れた。「"物"を送るのではありません。"状態の情報"を送るのです。そして——」

「元の状態は、消えます」

「元の状態が消える」と僕は繰り返した。

「はい」と男は言った。「これは量子複製不可能定理によるものです。量子状態は、完全にコピーすることができない。スキャンすることと、複製することは、量子力学の範囲では同時にできない。だから——移動だけが可能です。コピーではなく、移動。移動した先に、元と同じ状態が現れる。元は、なくなる」

僕はその言葉を、最初は抽象的な物理の話として聞いた。

粒子の話、原子の話、微細な量子状態の話。

それが自分の問題になるとは、まだ思っていなかった。


三章 観測という行為


「観測すると、状態が確定する」と男は言った。「観測されていない間、粒子は複数の状態に重ね合わさって存在しています」

量子重ね合わせ。これも難解な概念だ。電子は「どこにあるか」が確定するまで、確率の波として空間に広がっている。観測という行為が、その波を一点に収縮させる。

シュレーディンガーの猫、という有名な思考実験がある。エルヴィン・シュレーディンガーが一九三五年に提示したもので、当初は量子力学の解釈の奇妙さを批判するために作られた。

箱の中に猫を入れる。同時に、量子的な確率——例えば放射性物質の崩壊——によって毒が放出される装置を置く。崩壊するかどうかは、開けてみるまで分からない。では箱を開けるまで、猫は生きているのか、死んでいるのか。

量子力学の標準的な解釈に従えば、観測するまで両方の状態が重ね合わさって存在している。箱を開ける——つまり観測する——という行為が、どちらかに確定させる。

「馬鹿げた話だと思いますか」と男は訊いた。

「思いません」と僕は答えた。正直なところ、思っていたが、それを言う必要はなかった。

「ですが」と男は続けた。「この解釈には、いくつかの流派があります。コペンハーゲン解釈は、観測によって波動関数が収縮すると言う。多世界解釈は、観測のたびに宇宙が分岐すると言う。デコヒーレンス理論は、環境との相互作用が重ね合わせを失わせると説明する。どれが正しいかは——まだ分かっていない」

「それは困りますね」

「困るのは、日常感覚で理解したい人間だけです」と男は言った。淡々とした口調だった。「数式は正しく機能します。どの解釈を採っても、計算結果は一致する。実験の予測も、一致する。解釈の違いは——哲学的な問いです」

多世界解釈については、後日、もう少し詳しく聞いた。

量子的な選択のたびに、宇宙が分岐する。猫が生きている世界と、死んでいる世界が、ともに実在する。観測は現実を選ぶのではなく、観測者がどちらかの世界に属するかを決めるだけだ——あるいは、観測者自身も分岐する。

「あなたは、どの解釈が正しいと思いますか」と僕は訊いた。

男は少し間を置いた。普段より、長い沈黙だった。

「私が正しいと思うことは、あまり意味を持ちません」と彼は言った。「この装置は——どの解釈においても、同じように機能するよう設計されています」

黒い箱が、わずかに振動した。

その振動が、何かの前触れだとは、まだ思っていなかった。


四章 最初の転送


最初はリンゴだった。

小ぶりな、赤いリンゴ。青果店で男が買ってきたもので、特別なものではなかった。それを送り出し側の装置——黒い箱を大型化したような、部屋の隅に置かれた装置——の台座に置いた。

「量子状態の完全なスキャンを行います」と男は説明した。「原子の配置、電子の状態、分子の結合、熱振動——すべての量子状態を記述します。これは膨大な情報量です」

「リンゴ一個で、どのくらいですか」

「現在の理論値では、可観測宇宙の情報量を超えます」と男は言った。「ですが——完全なスキャンは必要ありません。重要な状態だけを選択的にスキャンする。これが、実用的な量子テレポーテーションの鍵です」

「選択的に」

「記憶と行動に関わる情報。構造的な整合性を保つために必要な情報。それ以外——例えば、原子一個の位置の正確な座標——はノイズとして省略できる」

「それは本当に同じと言えるのですか」

「人間の記憶も、同じ意味で完全ではありません」と男は言った。「昨日の朝食を思い出すとき、あなたは箸の角度を分子レベルで再現しているわけではない。それでも、同じ記憶と言える」

スキャンが完了した。

男がスイッチを入れた。

音はなかった。光もなかった。ただ——台座の上のリンゴが、消えた。消えた、というより、存在しなくなった。そこにあったものが、そこにない。それが「消える」という言葉の、正確な意味だと初めて理解した。

三メートル離れた受け取り側の装置に、同じリンゴが現れた。

「同じ?」と僕は訊いた。

「区別がつきません」と男は言った。「物理的に測定可能な範囲では、完全に一致しています」

「味は」

「かじってみますか」

僕はリンゴを手に取った。重さは同じ。手触りは同じ。かじると——甘くて、少し酸っぱかった。ごく普通の、赤いリンゴの味だった。

だがそれが元のリンゴの味かどうかは、確認のしようがなかった。元のリンゴはもう存在しないから。

これが、この問題の核心だ、と今の僕は理解する。検証不可能性。

元と同じかどうかを確かめる手段は、原理的にない。比較対象が消えているから。


五章 マウスの場合


次はマウスだった。

実験用の白いマウス。ケージで二週間、特定のプロトコルで飼育された個体だった。転送前に、迷路実験で学習を施した。左右の選択を、餌の報酬によって強化する。三日間で、正答率が八十五パーセントを超えた。

転送した。

マウスは消え、受け取り側に現れた。外見は変わらなかった。活動も、正常だった。餌を与えると食べた。水を飲んだ。毛繕いもした。

翌日、同じ迷路を置いた。

マウスは、正しく走った。

記憶は移動した。

だが——と男は言った——これが「同じマウス」であることを、どう証明するか。

「行動が同じです」と僕は言った。

「行動パターンが同じ、という観察事実があるだけです」

「記憶が同じです」

「記憶に対応する物理的状態が同じ、ということです」

「それは同じということではないのですか」

「"同じ"とは何か、です」と男は言った。「元のマウスと、転送後のマウスの間に、時間的な連続性があるか。物理的な連続性があるか。元のマウスは消えた。新しいマウスが現れた。間に、断絶がある」

「でも、人間が眠って起きるときも、ある種の断絶では」

「良い観点です」と男は言った。珍しく、評価する言葉だった。「睡眠中は意識が断絶するという意味では、似ています。だが——脳の物理的な連続性は保たれる。ニューロン間の接続は変わらない。量子テレポーテーションは、物理的な連続性すら断ち切ります」

マウスは、自分が転送されたことを知らない。

知る必要もない。

だがそれは——マウスだから成立する話なのかもしれない。マウスに「自分」という概念があるなら、転送後のマウスは自分が同じマウスだと思っているだろうか。

あるいは——何も思っていないかもしれない。


六章 被験者・田中の場合


人間への応用は、三ヶ月後だった。

被験者は、田中と名乗った。二十八歳。職業不詳。実際には職に就いていなかったようだが、詳しくは聞かなかった。男が連れてきた人物で、事前に十分な説明を受けた、とのことだった。書面での同意書もあった。

田中は、転送を「面白い実験」と表現した。最初に会ったとき、彼はどこか能天気な印象を受けた。細身で背が高く、軽い調子で話す癖があった。「まあ、死ぬわけじゃないんでしょう」と言った。男は「死と、どう違うかは議論の余地がある」と答えた。田中は笑った。

「まあ、試してみないと分からないですよね」

転送当日。

田中は送り出し側の装置の前に立った。特別な準備は必要なかった。ただ立つだけ。静かにしていれば、スキャンが始まる。

「緊張しますか」と僕は訊いた。

「しますよ」と田中は言った。「でも——なんか、大丈夫な気がする」

スキャンには十五秒かかった。

その後、一瞬の間があった。

送り出し側の田中が、消えた。

三メートル離れた受け取り側に、田中が現れた。

「どうですか」と男が訊いた。

田中は周囲を見回した。目を瞬かせた。

「普通です」と田中は言った。「何も変わった感じはない」

彼は自分の手を見た。腕を曲げた。足踏みをした。

「ほんとうに何も変わらないな。眠って起きた感じもない。ただ——さっきここにいて、今もここにいる」

記憶も、感情も、そのまま。

話し方、癖、笑い方。すべて転送前と変わらなかった。

僕は安堵した。だが男の表情は、変わらなかった。何かを注意深く観察しているような、静かな緊張が顔に見えた。

翌日も、田中は変わらなかった。

二日後も、変わらなかった。

三日後。

田中は研究所の一角で、自分の手を見つめながら、言った。

「俺は"続いていない"」


七章 連続性の崩壊


「続いていない、とは」と僕は訊いた。

「説明が難しい」と田中は言った。「感覚では分かっているんだけど」

彼は窓の外を見た。研究所に窓はなかったから、視線はただ壁に向かっていた。コンクリートの、冷たい灰色の壁。

「寝て起きると、前の日の自分と今日の自分が——なんとなく繋がってる気がするでしょ。記憶があって、感情が続いていて。朝目を覚ましたとき、自分が誰かを確かめる必要がない。当たり前のように、昨日の続きから始められる」

「そうですね」

「それが自分が同じだと思える根拠だと思うんですよ。証明とかじゃなくて、感覚として。俺が俺であるという——なんとなくの確信みたいなもの」

「転送してから、それがない」

田中は手のひらを閉じ、また開いた。

「記憶はあります。転送前のことも、昨日のことも。田中健太として生きてきた三十年近くのことも、全部ある。でも——どこかで、糸が切れた感じがする」

彼は言葉を探すように、少し間を置いた。

「向こうの俺が消えた瞬間、こっちの俺が始まった。それは分かってる。論理的には分かってる。向こうの俺が経験したことを、俺は記憶として持っている。でも、それを経験した"俺"と、今の俺が——同じかどうかが、分からなくなってきた」

「同じじゃないと思いますか」

「同じかもしれない。でも——同じじゃないかもしれない。その区別が、前はなかった。区別する必要がなかった。転送前は、俺は確実に俺だった。今は——確実じゃない」

「それは認識の問題では」と僕は言った。「物理的には同じなのだから」

「でも、認識がズレているということは——何かが変わったということじゃないですか」

田中は手を見続けた。

「俺は"続いていない"んです。向こうの田中の記憶を持った、別の何かが始まった。そういう感覚が——消えない」

その夜、田中は姿を消した。

荷物も、連絡先も、何も残さなかった。研究所のあった廃工場の近くの小さなホテルに泊まっていたが、チェックアウトもせずに出ていった。精算は後日、現金が封筒に入って郵送されてきた。差出人の住所はなかった。

男は特に慌てた様子を見せなかった。「想定内です」と言った。「精神的な適応には、個人差があります」

だが僕は、田中の言葉を長く引きずった。

俺は"続いていない"。

その感覚の意味を、僕は自分の言葉で理解しようとした。

転送前の田中は、転送を経験した。その記憶は移動した。だが、転送を経験した"連続性"——ここからそこへ移動した、という感覚——は、転送後の田中には存在しない。なぜなら、経験した本人は消えているから。

転送後の田中は、記憶として「転送した」ことを知っている。だが、それは経験として「覚えている」のではなく、記録として「持っている」だけかもしれない。

その差が、田中を苦しめた。


八章 デレク・パーフィットの問い


男は翌日、一冊の本を持ってきた。

英語の、厚い本だった。表紙は地味で、タイトルと著者名だけが印字されていた。"Reasons and

Persons"。デレク・パーフィット著。一九八四年刊。オックスフォード大学出版局。

「第三部を読んでください」と男は言った。「個人の同一性について書かれています」

僕は英語が得意ではなかったが、男が日本語で要約してくれた。

パーフィットはこう問う。

ある男性の脳を分割し、左半球と右半球をそれぞれ別の身体に移植した場合、どちらが元の人物か。

常識的な答えは——どちらかだ、もしくはどちらでもない、だ。

だがパーフィットは、その問い自体を疑う。

個人の同一性は、「ある」か「ない」かの二値ではないかもしれない、と彼は言う。何かがある程度続いている、という意味での同一性があるだけで、「完全に同じ」か「全く別」かというのは、程度の問題かもしれない。

さらに彼は言う。

個人の同一性は、実は、私たちが思うほど重要ではないかもしれない。

生き残るとは何か。記憶と性格が続くこと——それが脳の物理的な連続性の上にある必要は、ないかもしれない。

「田中は、これを理解しなかった」と僕は言った。

「理解していたと思います」と男は答えた。「だからこそ、耐えられなかったのでしょう」

「理解して、なお——」

「感覚は、理解とは別のところで動きます。論理では、転送前後の自分が連続していると説明できる。だが感覚は、断絶を感じる。その乖離が——耐えられなかった」

「あなたは、パーフィットの考えに同意しますか」と僕は訊いた。

「同意の枠組みで考えることに、あまり意味を感じません」と男は言った。「私が問いたいのは——転送後の存在が、転送前の存在と"十分に連続している"かどうかです。完全にではなく。十分に」

「田中は、十分でなかったと感じた」

「そうです」

「あなたは耐えられると思いますか。もし転送するとしたら」

男は少し間を置いた。

「私は転送しません」と彼は言った。

その理由は、訊かなかった。訊いたとしても、答えなかっただろうと思う。


九章 装置の拡張


転送装置の能力は、空間だけではなかった。

男は三ヶ月後、装置の改良を終えた。新しい機能は、わずかな時間的な移動を可能にするものだった。正確には、「時間的な方向への量子状態の転写」だが、男はそれを「時間移動」と、やや不正確に呼んでいた。

「時間と空間は、本質的に同じ構造を持っています」と男は言った。「相対性理論が示す通り、時空間は一つの連続体です。x、y、z、tの四次元。空間の三方向と、時間の一方向。数学的には、これらは同じ枠組みで記述されます」

「だが現実では、時間は一方向にしか流れない」

「そう見えます」と男は言った。「エントロピーの増大——熱力学の第二法則が、時間に方向性を与えています。コップが割れることはあっても、割れたコップが元に戻ることはない。この非対称性が、時間の矢を作っています」

「しかし」

「量子力学の基本方程式は——時間対称です。シュレーディンガー方程式は、時間の向きを逆にしても成立する。CPT対称性と呼ばれる性質があって——電荷の反転、空間の反転、時間の反転、この三つを同時に行うと、物理法則は変わらない」

「つまり」

「時間対称な理論と、時間非対称な現実の間に、何かがある。その何かの隙間に——装置は干渉します」

一日、三日、一週間。

それが、改良された装置の仕様だった。ただし——方向は「未来へ」のみだった。過去への移動は、理論的にも実験的にも、実現していなかった。

「ただし」と男は付け加えた。「情報の漏れは——双方向に起こりえます」

その意味を、僕はすぐには理解しなかった。


十章 未来からのノイズ


最初に気づいたのは、受信側モニターの異常だった。

送受信を同期させるためのチャンネルに、ノイズが混じっていた。定期的に、一定のパターンで。単なる電気的な干渉だと思っていたが、ある夜、男がそれを詳細に解析した。

「これは自然発生的なノイズではありません」と男は言った。

解析結果をプリントアウトしたグラフを、僕に渡した。グラフには不規則に見えるが、拡大すると規則性のある波形が記録されていた。

「エントロピーが低すぎます。自然のノイズは、もっとランダムに分布します。このノイズには——構造があります」

「構造とは」

「情報です」と男は言った。「誰かが送った情報です」

さらに解析を進めると、その情報は文字に変換できた。日本語の文字列。ただし断片的で、完全には復元できなかった。

モニターに、文字の断片が現れた。

——来るな

「誰が送ったのですか」と僕は訊いた。

男は答える前に、別の解析を走らせた。筆跡解析——デジタル化された文字の、筆圧分布、線の引き方の癖、文字間隔のパターン。AIによる比較照合。

「あなたです」と男は言った。

「僕が?」

「将来のあなたが、このチャンネルを通じて送信した、と考えられます」

僕は画面を見た。——来るな。

自分の字だとは、思えなかった。思えなかったが——言われてみれば、確かに、自分の字の特徴がいくつかあった。「な」の最後の払い方。「来」の二画目の終わりの癖。

「九十三パーセントの一致です」と男は言った。

「将来の僕が」と僕は繰り返した。

「時間移動の実験を開始して以来、チャンネルには微細な干渉が生じています。それを情報として解釈すると——この文字列になります」

「——来るな」

「何に来るな、ということですか」

「解釈は、お任せします」と男は言った。


十一章 複数の時間軸からの干渉


ログを徹底的に解析すると、最初のノイズだけではなかった。

過去六ヶ月のデータを遡ると、複数の時点から類似した信号が観測されていた。それらはすべて、ノイズとして処理され、自動的にフィルタリングされていた。アーカイブの底に眠っていたそれらを、男は一日かけて掘り起こした。

——選ぶな

——戻れない

——もう遅い

すべて、僕の筆跡だった。

九十一パーセント、八十七パーセント、九十五パーセント——照合率は、いずれも高かった。

信号が届いた時刻を整理すると、パターンが見えた。

田中が転送される一時間前。

装置の時間拡張実験を開始した日の朝。

別の被験者が強行転送を行った直後。

そして——今日。

「将来の複数の時間軸から、干渉が来ています」と男は言った。

「複数の時間軸」

「時間が分岐している可能性があります。複数の未来の"あなた"が、それぞれの時点からメッセージを送ってきている」

「だが内容が矛盾している」

「矛盾しているように見えます」と男は言った。「——戻れない、と——来るな、では、時制が違う。前者は已然の事実——既に戻れなくなっている状態からの告知。後者は未来への警告——まだ起きていないことを止めようとしている」

「どちらが正しいのですか」

「どちらかが正しく、どちらかが——消えた世界からの残滓かもしれません」

「消えた世界」

「はい」と男は言った。「収束の話をするタイミングが来たようです」


十二章 収束という概念


男は古いホワイトボードを引き出してきた。マーカーで、いくつかの線を引いた。

一点から始まる、分岐する線。木の枝のような図。

「多世界解釈に従えば、量子的な選択のたびに宇宙は分岐します。実験でボタンを押す。Aの宇宙では結果が出る。Bの宇宙では別の結果が出る。両方が実在する」

「どちらも等しく」

「理論上は、等しく実在します」と男は言った。「ですが——」彼はマーカーを止めた。「実際には、すべての分岐が等しく持続するわけではないかもしれない」

「なぜ」

「観測と観測者の問題です。多世界解釈では、観測者自身も分岐します。あなたも、Aの宇宙のあなたと、Bの宇宙のあなたに分かれる。ですが——ある条件下では、二つの分岐が互いに干渉し、どちらかに収束する可能性がある」

「どちらかが消える」

「そうです」と男は言った。「これを私は"収束"と呼んでいます。正式な物理的概念ではありません。私の仮説です。観測や実験で確認されてはいない」

「その仮説に基づけば」

「——来るな、というメッセージは」男はホワイトボードに向き直った。「転送を選んだ世界から、転送しなかった世界への干渉かもしれません。あるいは——転送しなかった世界が、転送した世界に向けて送っているかもしれない」

「どちらが消えようとしているのですか」

「両方が、相手を消そうとしているのかもしれません」と男は言った。「収束は——選ばれなかった時間の排除です。排除される前に、排除を止めようとする。あるいは排除から逃げようとする」

「——来るな、は、どちらから来た言葉ですか」

男は答えなかった。

「どちらの世界の僕が書いたのですか」と僕は訊いた。

「転送した世界の"あなた"が書いた可能性と」と男はゆっくりと言った。「転送しなかった世界の"あなた"が書いた可能性が、両方あります」

「そして、どちらかが消える」

「そうです」

「そして今——」

「まだ、どちらも存在しています」と男は言った。「収束は——起きていない」


十三章 別の被験者


田中の後、もう一人、強行した者がいた。

名前は聞いていない。三十代後半の男性で、技術的な背景を持っていた——詳細は分からないが、装置の操作を独自に習得し、男の監督なしに実験を行おうとした。田中とは別の経路で男と接触した人物で、僕が研究所に通う前から何らかの関わりがあったようだった。

彼は、時間移動を要求した。未来へ七日。

空間的な転送ではなく、時間的な移動。改良後の装置が持つ、「時間方向への転写」機能の使用。

男は反対した。完全な安全確認ができていない、と言った。意識に関わる量子状態の時間移動は、空間移動より遥かに不安定で、理論的なモデルがまだ確立されていないと言った。

だが彼は聞かなかった。

ある深夜、研究所に一人で入り、自分でスイッチを入れた。

転送は——成功したはずだった。

七日後の朝、受け取り側に何かが現れた。

男が確認に来たとき、僕も立ち会った。

脳の活動は正常だった。EEGのパターンは、覚醒時の通常値を示していた。心拍も、血圧も、生体機能に異常はなかった。瞳孔反応も正常。

だが彼は、一度も話さなかった。

目を開けていた。視線が動いた。光源の方向に向く。音に反応する。だが——

内側に、誰もいなかった。

「何が起きたのですか」と僕は訊いた。

「量子コヒーレンスの喪失です」と男は言った。「正確には、意識に関わる量子状態のコヒーレンスが、時間移動の過程で失われた」

「意識に関わる量子状態、とは」

「まだ理論が確立されていません。ペンローズやハメロフの量子意識論を参照しましたが——実証はされていない。ただ——何らかの量子的なプロセスが意識に関与しており、それが時間移動の負荷に耐えられなかった」

「では、彼は死んだのですか」

「身体は生きています」

「彼は」

男は少し間を置いた。

「"どこにも"いません」と男は言った。「意識が存在しなくなった、とも言えます。あるいは——意識だけが、七日後に飛んでしまって、身体が残された、とも言えます。後者であれば、七日後——この身体が到着した時点——に、どこかに意識があるはずですが」

「七日後に来ましたか」

「来ませんでした」と男は言った。

それ以上は聞かなかった。


十四章 コピーか連続か


ボタンは目の前にある。

「押しますか」と男は訊いた。

いつからそこにあったのか、気づいていなかった。装置の前に立っていた。台座の上には何もない。自分がいつここに来て、どのような経緯でこの体勢になったか——記憶は続いているが、どこかで選択が起きていた。

「元の個体は消えます」と男は言った。「念のため、確認です」

「分かっています」

「連続性は、転送先で"そう感じる"だけです。転送された側は、眠って目を覚ましたように感じます。断絶の感覚はほとんどない——場合があります」

「田中は感じた」

「田中は感じました。感じる人と、感じない人がいます。どう違うのかは——まだ分かっていません」

「だが——」

「ここにいる僕は、消える」

「はい」と男は言った。「確実に」

つまり——ここでボタンを押せば、僕は消える。

向こうで"僕だと思っている何か"が目を覚ます。

そいつは僕の記憶を持つ。僕の癖を持つ。今この瞬間考えていることを考えており、昨日の朝食を覚えており、田中の言葉を引きずっており、パーフィットの問いを頭の隅に置いており、もう一人の被験者が「どこにもいない」という事実を知っており——そのすべてを「自分の経験」として持つ。

だがここにいる僕は、存在しなくなる。

「それでも同一だと言えるのですか」と僕は訊いた。自分に向けて。

「パーフィットはそれを重要だと思わなかった」と男は言った。

「パーフィットは自分では試していない」

男は、珍しく笑った。口元だけの、小さな笑みだった。

「そうですね」と彼は言った。「試していない」

「あなたも試さない」と僕は言った。

「はい」

「なぜですか」

男はしばらく沈黙した。

「私には——続かなければならない理由があります」と彼は言った。

それ以上は言わなかった。


十五章 逡巡


僕は三日、考えた。

研究所から出て、普通の場所で——カフェで、公園で、自室で——ただ坐って考えた。

何故転送したいのか、という問いから始めた。最初はそこが不明瞭だった。なんとなく、成り行きで、ここまで来てしまった気がした。半年前に知人から「面白い人がいる」と言われ、研究所を訪れ、男の話を聞き、実験を見守り、田中が消え、警告が届き——気づけば「ボタンを押す」という前提で物事を考えるようになっていた。

それは、誰かに操作されていたのか。男に。装置に。あるいは——未来の自分に。

だが三日間、ひとりで考えると、少しずつ形が見えてきた。

僕は——確認したかったのだと思う。

田中が感じた"断絶"を、自分が感じるかどうか。あるいは感じないかもしれない——その違いが、何を意味するのか。パーフィットの言うように、連続性は重要でないのか。転送後の自分が、それを確認できるかどうか。

試さなければ分からない。だが試したら、試した僕はもういない。

これは死と同じかもしれない。死んでみなければ、死がどのようなものかは分からない。だが死んだ後に「分かった」と報告することは、おそらくできない。

転送の場合も、似ている。転送した後の自分は、「分かった」と思うかもしれない。だがそれを確認する元の自分は、消えている。

未来からの警告——来るな——が、頭から離れなかった。

あれは誰が書いたのか。転送した世界の僕が、転送しなかった世界の僕に向けて書いたのか。それとも逆か。

「来るな」という言葉は——どちらの意図を持っているのか。

転送した世界の僕が書いたなら:「転送するな。転送した先で、何か恐ろしいことが起きた」という警告かもしれない。

転送しなかった世界の僕が書いたなら:「転送するな。転送しなかった方が良かった」という後悔かもしれない。

どちらにせよ、メッセージを送るほど追い詰められた状況がある、ということだ。

それでも——

指が、伸びた。

三日目の夜、僕は研究所に電話した。

「明日、行きます」

「分かりました」と男は言った。


十六章 転送


四日目の朝。

研究所は、いつも通りだった。低い天井、ラックサーバー、這うケーブル、青白い光。男が、いつもの椅子に座っていた。コーヒーを飲んでいた。

「準備はいいですか」と男は訊いた。

「はい」

特別な準備は、必要なかった。

装置の前に立つ。台座の上に乗る。静かにしていれば、スキャンが始まる。

「一つだけ訊いていいですか」と僕は言った。

「どうぞ」

「転送した後の僕が——断絶を感じたとして。それは誰に言えばいいですか」

「私に言ってください」と男は言った。

「あなたは、それを解決できますか」

「できません」と男は言った。「ただ——聞くことはできます」

それで十分だと、何故か思った。

スキャンが始まった。

十五秒間、静かにしていた。

その十五秒が、どのくらい長く感じたか——今は覚えていない。

スキャンが終了した。

処理が走った。

ボタンは、今度は男が押した。

光はない。

音もない。

タイムラグも、感覚の空白も——なかった。

ただ、世界が一度だけ"途切れた"。

瞬きよりも短い、断絶。

それだけだった。


十七章 到着


目を開ける。

同じ部屋。

同じ机。

同じ男が、同じ場所に立っている。コーヒーのカップを持っていた。

だが——空気が違う。

言葉にできない。気圧が変わった、とか、匂いが違う、とかではない。もっと根本的な何か。世界の解像度が、一ミリだけ下がったような。手触りが、わずかに変わったような。あるいは——僕の側の認識が、わずかに変わったのか。

「どうですか」と男は訊いた。

「普通です」と僕は答えた。田中と同じ言葉を、使った。

田中と同じ言葉を使っていることに気づいたとき、背筋に何かが走った。恐怖でも、安堵でも、奇妙な符合への興味でもない。何か、言語化できない感覚。

自分の手を見た。手は、あった。手のひらを閉じた。開いた。昨日の記憶も、田中の言葉も、パーフィットの本も、三日間の逡巡も、ボタンを押した感触も——全部あった。

「田中のように感じますか」と男は訊いた。

「まだ分かりません」

モニターに、映像が残っていた。

転送の映像が、自動的に記録されていた。送り出し側のカメラが、スキャン開始から転送完了までを撮影していた。

——僕が、台座に乗る瞬間。

スキャンが始まる。

十五秒。

男がボタンを押す。

その直後。

僕は映像の続きを見た。

何も起きなかった世界。

ボタンを押した後、台座の上には——何もなかった。僕の姿は消えていた。

それが正常だ。転送は成功した。

だが——三メートル離れた受け取り側のカメラも確認すると。

転送された直後のはずの時間に、受け取り側に何かが現れた映像——がなかった。

「どういうことですか」と僕は訊いた。

男は画面を見た。長い沈黙があった。

「少し待ってください」と彼は言った。初めて、不確かな声で。


十八章 ログの解析


解析に、二時間かかった。

その二時間、僕は椅子に座って待った。

何を考えていたか——あまり覚えていない。手を見ていた気がする。壁を見ていた気がする。男のキーボードを打つ音を聞いていた。規則的な、乾いた音。

「結果が出ました」と男は言った。

彼は画面を向けた。数値とグラフが並んでいた。

「転送は発生していません」

「どういう意味ですか」と僕は訊いた。

「量子状態の移動が、観測されていません。送り出し側のスキャンは完了しています。正常に処理されました。ですが——受け取り側への転写が、ログ上では発生していない」

「映像では、消えていました」

「はい。台座から、姿が消えています」

「では——」

「消えた後に、受け取り側に現れた記録がありません」

「では、ここにいる僕は何ですか」

「それが——」男は画面から目を上げた。「分かりません」

僕は自分の手を見た。手は、あった。脈はあった。

「もう一度、解析してください」

男は首を振った。「ログは明確です。転送装置のすべてのセンサーが、同じ結果を示しています。転送は——起きていない」

「だが僕は——」

「消えた、という映像がある。ここにいる、という事実がある。だが転送の記録がない」

「どちらかが誤りだということですか」

「あるいは」と男は言った。「転送とは別の何かが、起きたということです」


十九章 未来側が過去を書き換えた


「仮説があります」と男は言った。

彼は改めてホワイトボードの前に立った。今度は、複雑な図を描いた。時間軸を示す矢印。分岐する線。そして、矢印が逆向きに描かれた部分。

「時間移動の実験を通じて、装置は時間軸に干渉する能力を持った、と考えています。空間的な転送だけでなく、時間的な方向への影響が——記録には残っていないが、発生していた可能性があります」

「収束の話ですね」

「はい。転送を選んだ世界と、選ばなかった世界が、収束しようとしている。どちらかが選ばれ、どちらかが消えていく」

「そして——」

「転送が成功した世界では」と男は続けた。「転送後の"あなた"が存在しています。その"あなた"が、装置を通じて過去の時点に干渉した。"来るな"というメッセージは、転送後の世界から届いていた」

「だが転送は起きていない、と」

「起きていない——ように見えます」と男は言った。「それが書き換えの結果かもしれない」

「どういう意味ですか」

「転送が成功した世界の"あなた"が、過去に干渉した。その干渉の結果として——転送が起きなかった、という事実が、この世界に上書きされた」

「上書き」

「収束です。転送した世界と、しなかった世界が収束した。残ったのは——転送しなかった、という事実のある世界です。だが——」

「だが、ここに僕がいる」

「そうです」と男は言った。「収束後の世界にいる"あなた"は——どちらの世界の"あなた"かが、分からない」


二十章 残滓


ここにいる僕は、何だ。

転送した世界の残滓か。転送しなかった世界の継続か。

転送ログは、転送が起きていないと言う。だが"来るな"というメッセージを送ったのは、転送した後の僕だ——もしあの仮説が正しければ。

二つのことが同時に成立しているように見える。

転送は起きた。そして、起きなかった。

「シュレーディンガーの猫のようですね」と僕は言った。

男は少し考えてから言った。「そうかもしれません。ただし——箱を開けた観測者自身が、猫と同じ状態にある、という点が異なります」

「観測者は自分が生きているか死んでいるか、決められない」

「そうです。通常、シュレーディンガーの実験では、観測者は外にいます。箱を開ける側にいる。ですが——今の状況では、あなたが箱の中にいます」

「外から観測してください」と僕は言った。

「観測しています」と男は言った。「だが——観測によって確定するのは、外から見た事実だけです。あなたの内側——あなたが何の継続であるか——は、観測できません」

「では、この問いは永遠に答えが出ない」

男は答えなかった。

ただ、画面を見ていた。

ログが、淡々とスクロールしていた。転送は発生していない、という記録が、繰り返し、繰り返し、残されていた。


二十一章 真実の形


その日の夜、僕は一人で研究所に残った。

男は帰った。「考えてみてください」とだけ言って。

僕は、ログを一人で読み返した。過去六ヶ月のデータを、時系列で追った。

田中が転送された日。警告の最初の断片が記録された時刻。装置の改良が完了した日。もう一人の被験者が強行した夜。そして今日。

時系列で並べると、パターンが見えた。

警告は——重要な選択の直前に集中していた。

「選ぶな」が届いたのは、田中の転送の前日。

「戻れない」が届いたのは、強行転送の直後。

「来るな」が届いたのは、今日——僕がボタンを押す前日。

これらは、未来から届いた。

未来の僕が書いた。

だとすれば——どの未来の僕が書いたのか。

転送した世界の僕が、「来るな」と書いたとする。それはなぜか。転送した後に、何か恐ろしいことが待っていたから——あるいは、転送した世界が収束によって消えそうになっていたから。消えまいとして、過去の自分に叫んでいた。

転送しなかった世界の僕が、「来るな」と書いたとする。それはなぜか。転送しなかったことで、何か別の問題が起きたから——あるいは、転送しなかった世界も収束によって消えそうになっていたから。消えまいとして、過去の自分に叫んでいた。

どちらにせよ、叫んでいたのは——消えることへの恐怖からだ。

真実は——こうだったのかもしれない、と今の僕は思う。

多世界解釈が正しいなら、転送の瞬間に世界は分岐した。一方では転送が成功し、僕の量子状態が移動した。もう一方では、何らかの理由で失敗し、僕は元の場所に留まった。

だが——収束が起きた。

どちらかの世界が「選ばれ」、どちらかが消えた。

消えた世界からの"残滓"は、チャンネルを通じて漏れ出した。——来るな。——選ぶな。——戻れない。

それらは、消えゆく時間軸の声だった。

だとすれば——未来からの警告は、届いていたのではない。

消えゆく世界が、消えながら、叫んでいた。

収束とは——選ばれなかった時間の排除だ。

そして今、ここに残っているのが——どちらの世界なのかは。

分からない。

恐らく、永遠に分からない。


二十二章 問いの果て


翌朝、男に電話した。

「一つだけ訊いていいですか」

「どうぞ」

「僕は——転送したのですか」

長い沈黙があった。

「ログは、転送が発生していないと言っています」

「ログが正しいとして」と僕は言った。「転送しなかった世界の僕は、今どこにいますか」

「あなたが、そこにいます」

「転送した世界の僕は」

「どこにもいません——あるいは、あなたがそこにいます」

「どちらかが正しいはずです」

「どちらかが正しいはずです」と男は繰り返した。「ですが——観測によって確定できる根拠が、ありません。ログは転送が起きていないと言う。だが収束が起きたとすれば、ログ自体が書き換えられている可能性がある」

「信頼できるものが、何もない」

「ひとつあります」と男は言った。

「何ですか」

「あなたが、今朝目を覚ましたという事実です」と男は言った。「昨日の記憶があるという事実です。それは——どちらの世界においても、同じです」

電話を切った。

窓から外を見た。

普通の朝だった。


二十三章 終わりと始まり


研究所は閉鎖された。

二週間後のことだった。ある朝、男から短い連絡があった。「実験を終了します。研究所は閉鎖します」それだけだった。以来、連絡はない。装置は回収された——誰が回収したのかは、知らない。男なのか、男の背後にいる誰かなのか、あるいは別の組織なのか。

僕はあの場所を、一度だけ訪れた。

廃工場の一角。鉄製の扉は封鎖されていた。新しい南京錠がかかっていた。隙間から内部を覗くと、何も見えなかった。暗かった。

床の、矩形の跡。

装置が置かれていた場所の、かすかな色の違い。

それだけが残っていた。

——来るな。

その言葉が、なぜ届いたのか。

いや——届いたのではなく、収束の過程で漏れ出したのだとすれば。

消えた世界が、消えながら、叫んでいた。

それが「僕の字」だったのは——どの分岐においても、書いたのが僕だったからだ。転送した世界の僕も、しなかった世界の僕も、同じように、警告を書いた。

どちらの世界も消えることを恐れていた。

どちらの世界も、残ろうとしていた。

それは——人間的な反応だと思った。どの世界においても、存在は続きたいと思う。続くことが唯一の善だという前提なしに、生きていくことはできない。


二十四章 時間の外側


研究所を出て、繁華街を歩いた。

平日の午後。人が多かった。学生、会社員、子供を連れた親、老人。みんな、それぞれの速度で歩いていた。

若い人たちが、軽やかに見えた。

時間を遅らせているわけでもなく。未来へ飛んでいるわけでもない。量子状態を転送しているわけでも、分岐を心配しているわけでも、収束を恐れているわけでもない。

ただ——

よく食べて、よく眠り、よく動き、よく笑っていた。

それだけだ。

どの分岐にも依らない、唯一の生き方とは、そういうことかもしれない。観測されているかどうかに関わらず、世界が分岐しているかどうかに関わらず、連続性があるかどうかに関わらず——

今、ここで生きている。

それは、どの解釈においても、変わらない事実だ。

量子力学がどれほど奇妙な世界を記述していても、コーヒーは熱くて苦い。空は青く、雨は濡らす。その事実は変わらない。マクロな世界は、ミクロの奇妙さから切り離されたように、安定して存在している——デコヒーレンスがそれを保証している。

そして、人は生きる。

観測されても、されなくても。

連続していても、していなくても。

転送されても、されなくても。

ただ、生きる。

最終章 余韻の毒

だが、ときどき思う。

あの瞬間、僕は本当に押したのか?

男が押した——そう記憶している。だが、その記憶は——転送前から持っていた記憶か、転送後に上書きされた記憶か。

それとも——

押さなかった僕が、ここにいるのか。

時間は遅らせられる。空間を越えて状態は移動できる。世界は分岐し、収束する。

だが——問いは残る。

あのボタンは——まだ押されていない。

あるいは、既に押されていて、その結果がここだ。

どちらであっても、ここにいる僕は、明日も目を覚ます。昨日の記憶を持ち、明日を生きる。それは変わらない。

連続性があるかどうかは——関係ない。

それが、この問いの、唯一の答えかもしれない。

時間は遅らせられる。

だが人生は——

どこにも逃がしてはくれない。

ここにいる。

今も、ここにいる。

それだけが、確かだ。

——私は、ここにいる。



Kindle規定に引っ掛かからなければ 提出予定 笑


ヘアヌード・クロニクル
――ある昭和男の性的教養史と、その終焉について――


この物語は、ある一人の男の青春と中年と老年を貫く、ひとつの「渇望」についての記録である。
笑っていただいて構わない。実際、笑えるのだ。
ただし読み終えた後、あなたが男であれば、きっと少しだけ遠い目をするはずである。





第一章 叔父の部屋という名の神殿
昭和三十三年、東京は杉並区の木造家屋に、田中哲男は生を受けた。
父は町工場の旋盤工、母は近所の商店街のお惣菜屋でパートをしていた。三畳と六畳と台所というこじんまりとした家に、両親と、母の弟である叔父・浩二も同居していた。叔父は当時二十五歳。印刷会社に勤める独身男で、体の半分が機械油のにおいのする父とは違い、なんとなくおしゃれで、なんとなく都会的で、哲男の目には眩しく映った。
叔父の部屋は六畳間の奥にあり、三畳一間だった。狭い部屋には、叔父のすべてが詰まっていた。ボブ・ディランのレコード、ジーンズ、革のベルト、英語のペーパーバック、そして――。
哲男が最初にそれを発見したのは、小学校五年生の春のことだった。
叔父が仕事に出かけ、両親もそれぞれ外出していた日曜日の昼下がり。哲男はなんとなく、特に理由もなく、叔父の部屋をうろついていた。子供というのは「なんとなく」の天才であり、その「なんとなく」がしばしば人生を変える。
押し入れの下段、毛布の陰に、それはあった。
『平凡パンチ』。
哲男はその表紙を見た瞬間、なぜか心臓が跳ねた。表紙には外国の女性がビキニ姿で笑っていた。何がそんなにドキドキするのか、十歳の哲男には理由がわからなかった。しかし理由などわからなくてよかった。理由のないドキドキこそが、少年の特権なのだから。
彼はページをめくった。
うわあ。
それだけだった。言葉にならない「うわあ」が、胸いっぱいに広がった。
以来、叔父が外出するたびに、哲男は神殿――叔父の三畳間――へと忍び込むようになった。押し入れには『平凡パンチ』だけでなく、やがて『プレイボーイ日本版』も加わった。号を追うごとに押し入れの蔵書は充実し、哲男の「うわあ」は高度化していった。
一度だけ、危ない目に遭ったことがある。
叔父が予定より早く帰宅したのだ。
哲男は雑誌を抱えたまま押し入れの中に身を潜め、叔父が着替えて再び外出するまでの三十分間、息をひそめて過ごした。叔父が「俺の部屋、なんか息苦しいな」とつぶやいたとき、哲男は死を覚悟した。
しかし叔父は気づかなかった。
押し入れの中で、哲男は誓った。
この三十分は、俺の人生で最も緊張した三十分だ。しかし、それでもやめない。
人間の業というのは深い。

叔父・浩二は哲男が中学二年のときに結婚し、家を出ていった。
送別会と称した夕食の席で、叔父は哲男にこっそり耳打ちした。
「テツ。押し入れの毛布の下、全部お前にやるよ」
哲男は固まった。
「知ってたの?」
「最初から」
叔父は笑った。哲男は真っ赤になった。しかし叔父は何も言わなかった。ただ「男はそういうもんだ」とだけ言い、ビールを一口飲んだ。
これが哲男の最初の、そして最も重要な性教育だったかもしれない。
男はそういうもんだ。
シンプルで、正確で、温かい言葉だった。

第二章 ビニ本という文明の利器
中学校を卒業した哲男は、都内の男子校へと進学した。
男子校というのは一種の魔境である。そこには女性がいない。教師は男、生徒は男、用務員のおじさんも男、なぜか購買のおばさんだけが女性で、彼女は何も知らずに男子高校生たちの信仰の対象になっていた。
「購買のおばさんって、なんかいいよな」
「わかる。なんかいいよな」
「なんかっていうか、なんか、いいよな」
会話の九十パーセントが「なんか」で構成されていたが、全員が同じ「なんか」を感じていたので、コミュニケーションとして成立していた。これはこれで高度な言語能力である。
そんな魔境に、ある日、一冊の本が持ち込まれた。
ビニ本。
正式名称を「ビニールカバー本」という。ビニールで密封されているので中が見えない。見えないから買わなければわからない。買ってみると、中身が本番写真だった。これが一九七〇年代後半の日本における革命的発明だった。
持ち込んだのはクラスの佐々木だった。佐々木はどこから入手したのか今でも謎だが、とにかく一冊のビニ本を抱えて教室に現れた。
「おい、見るか」
その一言で、教室の空気が変わった。二年B組の二十三名の男子が、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように、佐々木の机の周りに集まった。
「すげえ」
「マジか」
「これ、合法なの?」
「知らん。でも買えたから合法じゃないか」
「うーん、ロジックとしてはどうかと思うが……」
「黙って見ろ」
その日の放課後、クラスは「ビニ本研究会」と化した。部活動としての承認はなかったが、実質的な活動時間は剣道部や野球部に引けを取らなかった。
問題は、当時のビニ本が一冊千円から千五百円したことだ。
高校生の小遣いで出せる金額ではない。
そこでクラスでは「共同購入制度」が生まれた。一冊を有志で割り勘する。五人で出せば一人三百円。安い。そして回覧制度により、全員が閲覧できる。
これは純粋に経済的発明だった。のちに哲男が社会人になり、シェアリングエコノミーという概念を知ったとき、「あ、俺たちが高校のとき既にやってたやつだ」と思ったのは秘密である。

しかし問題は、本の扱いにあった。
共同所有物である以上、丁寧に扱わなければならない。しかし十六歳の男子が「丁寧に扱う」ということは、概念として存在するが実践として機能しない。
三ヶ月後、共有のビニ本は原形をとどめていなかった。
「これ、もう本というより、なんか、なんだろう……」
「哲学的な問いだな」
「いや、そういうことじゃなくて物理的に……」
「永遠の命題だ。船のテセウスのパラドックスみたいなもんだ」
「そういうことじゃないっつってんだろ!」
いずれにせよ、ビニ本は哲男たちの高校生活において最重要文化財の地位を占め続けた。

第三章 舶来品との苦闘、あるいは科学的探究
高校二年になると、哲男のクラスに中村という男が転校してきた。
中村は父親の仕事の関係でアメリカに三年住んでいたという。それだけで哲男たちには眩しく見えたが、中村がある日、鞄から一冊の雑誌を取り出したとき、教室は静止した。
『PLAYBOY』。本家本元、アメリカ版プレイボーイである。
「こ、これは……」
「本物だ……」
「なにが違うの?」
「なにが違うって……なんか、こう……スケールが……」
「アメリカだから?」
「そうそう。アメリカだから」
「ロジックがよくわからないが……」
「黙って見ろ」
しかし。
しかし、である。
アメリカ版プレイボーイには、通関の際に付けられたという黒いインクのスタンプが、よりによって最も見たいページに、これ以上ないくらい的確な位置に、べったりと押されていた。
「なんだこれ」
「税関」
「税関って……これ、芸術的なくらい正確に……」
「うん」
「狙ったとしか思えない」
「うん」
「税関職員、絶対楽しんでるだろ」
「うん」
それからの数週間、哲男たちは「黒インク除去プロジェクト」に没頭した。
まずベンジン。インクは少し薄くなった。しかし画像も薄くなった。差し引きゼロ。
次にメチルアルコール。インクは全く動かなかった。しかし紙が波打った。マイナス。
消しゴム。論外。
水。論外。
ドライヤー。「熱すれば何か変わるかも」という根拠のない期待のもとに試したが、何も変わらなかった。ただ紙が温かくなった。
ある日、転校生の中村が神妙な顔で言った。
「聞いたんだけどさ。四十四度で、ベンジンとメチルアルコールを三対七で混ぜると完璧に落ちるって」
全員が中村を見た。
「誰に聞いたの」
「先輩」
「どこの先輩」
「大学の先輩」
「大学生……なんでそんなこと知ってるんだ……いや、まあ知ってるか」
「やってみよう」
哲男たちは理科室の器具を無断拝借し、アルコールランプで温度を調整し、三対七のブレンドを作り上げた。これは実験である。科学的探究である。青春の真剣勝負である。
そして慎重に、該当箇所に塗布した。
インクは……動かなかった。
動かなかっただけでなく、雑誌の紙自体が、ぐにゃりと溶けた。
「……」
「……」
「……落ちた」
「インクじゃなくて紙が落ちた」
「そうね」
「見たかった部分が文字通り消えた」
「うん」
「先輩の情報、デマだったね」
「そうね」
後に哲男は大学で有機化学を学び、あの日の失敗が化学的に見て完全に必然だったことを理解した。しかしそれを知ったとき、彼の胸に去来したのは後悔でも失笑でもなく、なぜか甘酸っぱいような、懐かしいような、不思議な感情だった。
あの頃、俺たちは本気だった。

第四章 四十四ドルのビデオテープ
高校三年の夏休み、哲男は生まれて初めて海外に行った。
学校の「海外研修プログラム」――実態は語学研修を名目にした旅行――でアメリカ西海岸に二週間滞在した。ホームステイで、受け入れ家庭には年配のご夫婦と、同年代の息子が一人いた。
息子の名前はマイク。ずんぐりとした体型で、いつもTシャツにジーンズという格好をした気のいい男だった。
「ジャパニーズ?」
「そう」
「クールだね。コミックス好き?」
「まあ……」
「ガンダム知ってる?」
「知ってるよ。俺が生まれた国だし」
「サムライ!」
「ガンダムとサムライは別物だが……まあいい」
マイクとは不思議と仲良くなった。英語が拙くても、なんとなく通じるものがあった。男子というのは世界共通で、そういうものなのかもしれない。
ある日、マイクが「うちに来いよ」と誘った。
「うちってどこに? ここがうちじゃないのか」
「俺の部屋に、だよ」
マイクの部屋は、一階の端にあった。ドアを開けると、デカいテレビとビデオデッキが鎮座していた。
「見るか?」と、マイクは言った。
「何を?」
マイクはビデオテープを一本取り出した。
哲男は固まった。
その日から一週間、哲男の語学研修は「日本語圏の男子高校生の英語力では表現しきれない視覚的経験」へと変容した。
アメリカン、だった。
スウェーディッシュ、だった。
スケールが違った。文化が違った。なにもかもが違った。
帰国の前夜、マイクはビデオテープを一本、こっそりと哲男に渡した。
「持って帰れよ」
「え、いいの」
「友情のしるしだ」
「……ありがとう」
「Friendship between men transcends all borders.」
「すごくいいことを言ってるような気もするし、全然そういう話じゃないような気もする」
「What?」
「Nothing. Thank you.」
哲男は帰国の際、ビデオテープをスーツケースの底に隠した。叔父の部屋に忍び込んだあの頃から、彼は隠し物の天才だった。
無事に通関を抜けた瞬間、哲男は確信した。
俺は今日、大人になった。
(これは彼が生涯で三回「大人になった」と感じた瞬間のうちの一回である。残りの二回は大学の入学式と、初めて給与明細を見た瞬間だが、それはまた別の話だ。)

第五章 裏ビデオという名の聖杯
大学に入ってから、世界は広がった。
先輩から後輩へ、裏ビデオは受け継がれていく。一種の文化的伝承である。口承文学のビデオ版と言ってもいい。
哲男が入学した経済学部の四年生・宮田先輩は、その道の長老だった。
「いいか哲男。これは文化だ。決して猥褻ではない。人間の根源的欲求を記録した、一種のドキュメンタリーだ」
「そうですね」
「俺の卒業後は、お前が守り伝えていくんだぞ」
「わかりました」
「頼んだぞ」
「はい」
これは哲男が大学で受けた最も明快な教育だったかもしれない。授業料百二十万円の対価として十分かどうかはわからないが。
大学の四年間で、哲男の「コレクション」は充実した。バイト代のかなりの部分がそこに投下された。経済的損失という観点からは嘆かわしいが、精神的充足という観点からは適切な投資だったと、中年になった哲男は考えている。

そして就職し、哲男は社会人となった。
会社員・田中哲男、二十三歳。
仕事は真面目にやった。上司にも同僚にも、そこそこ評価された。営業として、それなりの成績を残した。
ただ、プライベートの一角に、一種の「神殿」が保たれていた。
六畳一間のアパートの押し入れに、叔父から受け継いだ哲男の遺産は、着実に成長し続けていた。
これは文化であり、伝承であり、そして哲男個人の青春の記録だった。

第六章 アメリカのオバちゃん、あるいはビジネスモデルの先駆者
二十六歳のとき、哲男は会社の研修でアメリカに三ヶ月滞在した。
ロサンゼルスの語学学校に通いながら、近所のファミリーの家にホームステイする形式だった。受け入れ家庭は、六十代と思われる女性が一人で切り盛りする家だった。
「ミセス・ジョンソンです。よろしくね」
「田中哲男です。よろしくお願いします」
ミセス・ジョンソンは小柄で白髪で、眼鏡をかけていた。ニコニコしていて、朝食には必ずパンケーキを焼いてくれた。どこからどう見ても、普通の善良なアメリカのおばあさんだった。
その家には、哲男の他に三人の留学生が滞在していた。韓国から来たキム、フランスから来たジャン=ポール、ブラジルから来たカルロスである。
四人はほどなくして仲良くなった。国籍も言語も違えど、二十代の男子である。話の方向性はだいたい同じになる。
ある週末の夜、ミセス・ジョンソンがリビングに四人を集めた。
「みんな、今夜ちょっと特別な映画を見ない?」
「どんな映画ですか?」
「まあ、大人向けの映画よ」
「……」
四人の男子留学生は顔を見合わせた。
ミセス・ジョンソンは一人三ドルずつ集めた。
そして彼女はビデオデッキにテープを差し込んだ。
その内容は、どこからどう見ても、どこからどう聞いても、成人向けビデオだった。アメリカ産の、本格的な、成人向けビデオだった。
「……」
「……」
「……」
「Wow」とカルロスが言った。
「Magnifique」とジャン=ポールが言った。
「オー」とキムが言った。
「すごい」と哲男が日本語で言った。
ミセス・ジョンソンはソファに座ってニコニコしながら、ビデオが終わるまで一緒に見ていた。
その表情は、パンケーキを焼くときとまったく同じ表情だった。これが哲男の記憶の中で最も奇妙な点である。

後に哲男は「ビジネスモデル」という言葉を覚えた。
ミセス・ジョンソンのそれは、一九八〇年代のアメリカにおける先進的なビジネスモデルだったと言える。固定費(ビデオテープのレンタル料)を変動収入(留学生からの料金)で回収し、さらに自身も享受するという三方よしのモデルである。
のちに哲男が経営学の本でポーターの競争優位理論を読んだとき、「ミセス・ジョンソンなら直感でわかってたことだな」と思った。

第七章 結婚と、神殿の縮小
三十二歳で、哲男は結婚した。
相手は職場の同僚だった、山田恵子。どこにでもいるような普通の女性だったが、哲男は「どこにでもいるような普通」こそが最も稀有なものだと知っていた。
結婚前に、一つの課題があった。
押し入れ問題である。
六畳一間から二DKへの引越しに際して、哲男は押し入れの中身の大規模な「整理」を余儀なくされた。
数えると、ビデオテープが七十三本あった。
雑誌が百二十冊以上あった。
これを一人の三十二歳男性が二十年かけて収集したのである。
哲男は三日間かけて、これらを処分した。
ビデオテープはHDDに移した。八本だけ、特に思い出深いものを。
雑誌は……捨てた。ゴミ袋に十五袋。火曜日の燃えないゴミの日に、少しずつ出した。
捨てながら哲男は思った。
これは青春を捨てているのだと。
一冊一冊に、思い出があった。どこで買ったか、誰と見たか、どんな時代だったか。押し入れの中の百二十冊は、哲男の二十年分の年輪だった。
最後のゴミ袋を縛りながら、哲男は少し泣きそうになった。
実際には泣かなかった。三十二歳の男が一人でゴミ袋の前で泣いていたら、人として終わりだと思ったからだ。
しかし泣かなかっただけで、悲しかった。本当に、少しだけ、悲しかった。

結婚後の生活は穏やかだった。
恵子は賢い女性だった。賢い女性というのは、知らないふりが上手い女性である。哲男がHDDの中に何を保存しているか、おそらく恵子は知っていた。しかし彼女は何も言わなかった。
これが夫婦というものだ、と哲男は学んだ。
知らないふりをする愛情、というものがある。

第八章 コンビニの前に立つ中年男
四十五歳のある秋の夜、哲男は近所のコンビニに立ち寄った。
夕食の後、缶ビールを買い足そうと思っただけだった。
しかし、雑誌棚の前で、哲男は足を止めた。
そこには当然のように、写真集が置いてあった。ヘアヌードの。
コンビニに。
普通に。
誰でも買える場所に。
「……」
哲男は棚の前に五分間、立っていた。
買いたいのか、と自問した。
別に、と答えが返ってきた。
なぜ買いたくないのか、とさらに問うた。
なんか、違う、と感じた。
「なんか、違う」——それは何が違うのか。
帰り道、缶ビールを片手に、哲男は考えた。
昔は手に入れることそのものが冒険だった。叔父の部屋に忍び込む緊張、ビニ本を共同購入する高揚、舶来品の黒インクと格闘する情熱。すべてが「禁断の果実を求める旅」だった。
それが今は、コンビニで二秒で手に入る。
旅がなくなった。
禁断でなくなった果実は、果実じゃない——とまでは言わないが、なにか、違う。
「お父さん、遅かったね」と恵子が言った。
「ちょっと考え事してた」
「缶ビール一本買いに?」
「うん」
恵子はくすっと笑い、それ以上聞かなかった。
これが賢い妻というものである。

第九章 息子の青春について
哲男に息子が生まれたのは三十六歳のときだった。
雄一郎という名前をつけた。
雄一郎は今年十五歳になる。
哲男が十五歳のとき、何をしていたか。
そう。あの頃だ。ビニ本共同購入制度の時代だ。中村の舶来品と格闘していた時代だ。
雄一郎は……スマートフォンを持っている。
スマートフォン一台で、世界中の情報にアクセスできる。
哲男には、雄一郎がスマートフォンで何を見ているか、厳密にはわからない。しかし十五歳の男子であるからして、大方の察しはつく。
「……大丈夫なのかな」と哲男は思う。
何が大丈夫でないかは、うまく言語化できない。
ただ、あの「うわあ」の感覚——叔父の部屋で初めて平凡パンチを開いたときの、理由のない心臓の跳ね——を、雄一郎は経験できないだろうと思う。
スマートフォンで指を一度スワイプすれば、世界中のあらゆるものが手に入る時代に、「うわあ」のための余白はない。
それは豊かなことなのか、貧しいことなのか。
哲男にはわからない。
ただ、時々、夜中に缶ビールを飲みながら、そんなことを考える。

第十章 昭和男のボヤキ、あるいは哲学的結論
六十七歳になった田中哲男は、今、東京の郊外に妻と二人で暮らしている。
雄一郎は大学を卒業し、就職して、一人暮らしをしている。
定年退職後の哲男は、時間だけが余っている。
ゴルフをする。句会に通う。近所の老人クラブでボランティアをする。
そして時々、一人で缶ビールを飲みながら、昔のことを思い出す。
叔父の部屋の押し入れ。
毛布の陰に隠れていた平凡パンチ。
ビニ本共同購入制度。
三対七のブレンドで溶けた雑誌。
マイクのビデオテープ。
ミセス・ジョンソンのパンケーキのような笑顔。
七十三本のビデオテープとゴミ袋十五袋。
コンビニの雑誌棚の前に立つ自分。
これらはすべて、哲男の人生の一部だった。
笑えるエピソードばかりだ。でも本人は、その都度、本気だった。
本気で憧れ、本気で探し、本気で格闘し、本気で手に入れようとした。
そしてそれらすべてが「時代の産物」だった。
規制があったから燃えた。禁断だったから輝いた。手に入らないから愛おしかった。

哲男は時々、こんなことを考える。
欲望というものは、制約があって初めて「欲望」になるのではないか。
手に入らないから欲しい。禁じられているから惹かれる。遠いから近づこうとする。
それは何もエロの話だけじゃない。
仕事だって、恋愛だって、夢だって、すぐに手に入るものはあまりありがたみがない。遠くにあるから、追いかけるから、意味がある。
コンビニで二秒で手に入るものに、人は命を懸けない。
手に届かない場所にあるものを、必死に手に伸ばす。その行為の中に、何か大事なものがあったような気がする。
「何が言いたいんだ、俺は」と哲男は思う。
「結局、ただのスケベな中年のボヤキじゃないか」とも思う。
そして缶ビールを一口飲み、くくっと笑う。

あははは。
まあ、そういうことだ。
男というのは、どこの国でも、どの時代でも、きっとそんなもんだ。
憧れて、格闘して、失敗して、笑って、また憧れる。
それを繰り返しながら、なんとか大人になる。
なれたのかどうかは、いまだによくわからないが。

田中哲男、六十七歳。
元サラリーマン。現在、句会と老人クラブの日々。
押し入れの中に、今でも何かがある(気がする)。
妻は知らないふりをしている(多分)。

エピローグ 叔父との再会
哲男が六十歳のとき、叔父の浩二が八十二歳で亡くなった。
葬儀の後、片付けを手伝っていると、叔父の部屋の押し入れから、段ボール箱が出てきた。
開けてみると、中には当時の雑誌が数冊残っていた。
『平凡パンチ』、昭和四十年代のもの。
哲男は一冊を手に取り、ページをめくった。
五十年前の女性たちが、五十年前の光の中で笑っていた。
あの頃、叔父はこれを見て何を思っていたのだろう。
そして自分は、この押し入れの前で何を感じていたのだろう。
哲男は一人、押し入れの前にしゃがんで、少しだけ、泣いた。
三十二歳のときには堪えた涙が、六十歳になって、やっと出てきた。
これは青春への惜別だったのか。
叔父への感謝だったのか。
それとも単に、老いたということなのか。
たぶん、全部だ。
たぶん、全部、そういうものだ。

哲男は雑誌を段ボールに戻し、箱を閉じた。
「叔父さん、ありがとうな」と、小さくつぶやいた。
押し入れの向こうにいる叔父が、「男はそういうもんだ」と笑っているような気がした。




著者あとがき
この物語は、ある年代の男性たちが経験した「ないものねだりの青春」についての、愛情込めた記録である。
笑ってください。
でも笑い終わったら、少しだけ思い出してください。
あなたが必死に手を伸ばしていたものを。
届かなかったけれど、それでも伸ばし続けた手を。
あの「うわあ」の感覚を。
その記憶は、恥ずかしいかもしれない。でも本物だった。
そして今、手に入れやすくなった時代に生きる若者たちが、別の何かに必死に手を伸ばしていることを、私は信じている。
形は違っても、人間の「渇望」は変わらない。
それが、ちょっとだけ、救いになる。
あははは。

ヘアヌード・クロニクル
――ある昭和男の性的教養史と、その終焉について――

Kindle版

  


アマゾン キンドル

アマゾン キンドル

アマゾン キンドル






ーおまけー


これは以前

ブログで書いたものを

物語に膨らましたものです

それをここに載せて置きます


ヘアヌード論


これはさ

男たちにとって 長年

も~~~ すんごい 長い年月

恋焦がれ

また 待ち焦がれたもの・・・ だった はずなんだけど・・・

 

ここまで 一般化してしまうと

なんだかな~ な 時代に

突入してしまったわけで・・・

 

中学の頃

まだ同居していた叔父の部屋へ

留守を見はからっちゃ~

平凡パンチ プレイボーイなんかを

こ~っそりと見に忍び込み

すげ~!! って 騒いだものなのにね


高校くらいになった時にはさ

あの ビニ本 ってなあ~やつ

誰かがクラスに持ち込んで

大騒ぎ!!

 

男子校だったもんで

クラスは いつも エロ本だらけ

 

それに どこで売ってるのかも

わからないくらいの やらすぃ~~~本の数々

マジ うれしかったよな~

 

舶来のものなんてさ

通関のときに付けられちまったらしい

あの にっくき 黒インクが

じゃま

じゃま

おじゃま~ なわけさ

 

ど~にかそれを取り除こうと

仲間たちと研究に研究を重ね

ベンジンやら メチルアルコ~ルやらで


尚も

どこで聞いて来たやら

44℃で

3対7で混ぜると 完璧!! だなんて

エロエロ 努力したもんだよな


結局

そんな不純な努力は叶わずに

画像までぜ~んぶ落ちちゃって

あちゃ~!!ってなことになっちまったとさ


裏ビデオ なんかと出会った時には

も~~~

変態

いやいや

大変だったよな

 

これで 僕らは

やっとこさ大人になれた!! とまで思ったもんな

 

でもさ

当時はすべて規制されてて

ないものねだりだったし


あの年代は

男たちみ~んな

そんなことばかり考えてるから

うれしくてうれしくて

大変だったんだろ~けど・・・


それが 今は何よ

これ

コンビニで売ってんだよ

 

あ~あ~

ど~かしてるよ

この国は・・・ って

言える権利は ないな?・・・


アメリカでは昔から

結構

オ~プンなはずなんだけど

子供たちには 完全に NO!! なわけさ

 

お店でも 子供たちには

絶対 手の届かないとこに置いてあるし

TVでも 子供たちの見れる時間帯には

絶対 放送なんてしない

 

40年前のアメリカでは

近所の家にステイしてた仲間から

呼び出されてね

そこの家に行ったらさ

 

そこん家のオバちゃん 

いや ありゃ ババアだな

すんごい やり手でねえ


僕ら

外人の学生を数人集めてさ

レンタルのエロビデオを見せてくれたのよ

それも 1人3ドルも取って・・・


でもさ

本場もん でしょ?

アメリカン ざんしょ?

スエ~ディッシュ ざんしょ?

そりゃ~ 見に行くざんしょ~~~


アホだったけれど

マジにドキドキした

そんな 良い時代だったよな


これからの日本

大丈夫かな~って・・・

あまり エラそ~に言えないけれど

やがて来る 息子たちの青春時代

心配なよ~な

 

そんな中年のオヤジの

ボヤキ なのでございました


あははは

 


右か左か 迷ったら
いっそ
コインに託してみる

すると
それが正解ともなる



そんな生き方して来たけれど
本当は
直感で右 って思ったならば
わざと左の道を選ぶ

すると
皆が見る風景とは違う
もしかすると
面白い風景に出逢う人生となって
生き方に色が付く

人生は1度限り
それもそろそろ終盤ならば
更に
思うがままに生きてみよう


左の道

— 記憶を奪われた浪人 —

その三年間、
誰が——彼の魂を書き換えたのか。





第一章 灰色の夜明け

文政七年、秋。

目が覚めた瞬間、男は——自分の名前を持っていなかった。

天井は見覚えがある。煤けた板目、角に溜まった煤、ゆっくりと揺れる蜘蛛の巣の影。だが、それを見ている自分が、誰なのかが抜け落ちている。

息を吸う。吐く。

心の臓は動いている。体も動く。だが、その中心だけが空白だった。

——ここはどこだ。

声に出そうとして、やめた。音にした途端、何かが壊れる気がした。

男はゆっくりと身を起こした。四畳半の狭い部屋。古い畳。薄い夜具。壁際に積まれた反故紙の束。見覚えはある。だが、それが自分の暮らしだという実感が、遅れてついてくる。

枕元の行灯が、ちろちろと揺れていた。

その炎を見つめているうちに、不意に——言葉が戻った。

「……桐島」

その名が、自分の口から出たことに、わずかな不自然さが残った。

喉の奥で、誰かの声のように転がった。

桐島修二。

それが自分の名だと、理解するまでに数秒かかった。思い出したというより、与えられたような感覚だった。

男——桐島修二は、自分の手の甲を見つめた。

節くれ立った指。古い刀傷の痕。皮膚の皺。見慣れているはずのそれが、まるで他人のもののように感じられる。

なぜ、これが自分の手だと分かるのか。

その理由が、分からない。

「……また、か」

呟きは、やけに乾いていた。

そのとき、不意に——

視界の端で、何かが動いた気がした。

桐島は顔を上げた。障子の向こうに、夜明けの薄い光が滲んでいる。だが、それだけだった。人影はない。音もない。

それでも、確かに今——見られていた気がした。

桐島はしばらく動かずにいた。

やがてゆっくりと立ち上がり、障子に近づく。わずかに開ける。外には、まだ人通りの少ない裏長屋の路地があるだけだった。

誰もいない。

だが、胸の奥に残った違和感は、消えなかった。

まるで、自分の知らぬところで、何かが始まっているような——そんな感覚だった。

桐島は障子を閉め、背を向けた。

そのとき、畳の上に落ちていた瓦版が、わずかに視界に入った。

見出しには、「江戸打ち壊し、鎮圧さる」の文字。

桐島には、その夏の記憶がなかった。

どこで、何をしていたのか。

何もない。

きれいに、切り取られたように。


第二章 依頼人

その日の午後、依頼人が来た。

三十路半ば、地味な紺の小袖を着た女だった。名を高瀬澄江と言った。目の下に隈があり、唇をきつく結んでいた。修二の狭い部屋にある粗末な床几に腰かけ、しばらく何も言わなかった。

その手は、膝の上で何度も小さく震えていた。

「夫が、消えました」

修二は煙管に火をつけた。

「いつのことです」

「三週間前。十月七日、お勤めに出たきり戻りません。町奉行所には届けましたが、借財もなく、囲い者もなく、出奔する理由が見当たらぬと言われました。お調べはしていただけておりません」

「ご主人の御職は」

「幕府の御典医でございます。表向きは薬草の研究をしておりましたが、深川の外れにある御蔵屋敷に勤めておりました」

「御蔵屋敷、ですか」

何かが、胸の中で引っかかった。御典医。屋敷。その言葉が、記憶の霧の奥で微かに光った気がした。修二は煙管を灰吹きに当てた。

「ご主人のお名は」

「高瀬……高瀬隆庵と申します。三十八にございます」

絵姿を受け取った。几帳面そうな顔の男だった。医者らしく頭巾をかぶり、薬箱を脇に抱えて立っている。その顔を見た瞬間、修二の心の臓が一度だけ大きく跳ねた。

知っている——そう思った。いや、知っているような気がした。

いつ、どこで。

「手間賃は一日二百文と実費でございます。前払いで三日分いただきます」

修二は自分の声が、どこか遠くから聞こえる気がした。


第三章 深川への道

翌朝、修二は深川へ向かった。

大川を渡る渡し舟の上から、鈍色の川面が見えた。波は穏やかで、向こう岸に霞む材木町の屋根がある。修二はその景色を眺めながら、自分がどこかでこれと同じ眺めを見たことがあるような気がしてならなかった。

深川・六間堀の外れにある御蔵屋敷は、材木置き場に紛れるようにひっそりとあった。白漆喰の二階建てで、表に看板もなく、知らねば通り過ぎてしまいそうな場所だった。

門番に高瀬澄江からもらった書付を見せ、夫の同僚に話を聞きたいと告げた。しばらく待たされた後、御蔵役人という肩書きの男が出てきた。五十がらみ、白髪交じりの総髪、表情のない顔。

「高瀬のことでしたら、奉行所にはすでにお話しいたしました」

「奥方から頼まれた者です。高瀬殿が姿を消した前後に、何か変わったことはありませんでしたか」

男は少し間を置いた。その間が、修二には長すぎるように思えた。

「格別には。真面目な典医でした。突然おらぬようになって、我らも困惑しております」

「いかような研究をしておりましたか」

「それは……御公儀の御用でございます。お答えできかねます」

修二は役人の目を見た。目が、少し泳いでいた。

帰り際、屋敷の裏手を歩いていると、頭巾を被った若い男が煙管を吸っていた。修二が近づくと、男は驚いたように身を固くした。

「高瀬殿をご存知ですか」

修二が声をかけると、若い男はあたりを見回してから、小声で言った。

「……あなた、本当に奥方の頼みで来られたのですか」

「さよう」

「ならば、屋敷の地下に何があるか、お調べなされ。高瀬さんが消えた夜、私は見たのです。黒羽織の男たちが、何かを——誰かを、運び出すのを」


第四章 封じられた名

修二はその夜、深川の木賃宿に泊まった。

夜具の上に横になり、天井を見上げながら、若い男の言葉を反芻した。誰かを運び出した。高瀬隆庵は出奔したのではなく、連れ去られたのか。

だが、それよりも修二の心を占めていたのは、別のことだった。

高瀬隆庵の絵姿——あの顔を、自分はどこかで知っている。それは確信に近かった。しかし記憶はいつもそうだ。手を伸ばせば逃げる。追えば消える。

修二はふところから古い手控えを取り出した。表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。三年前から持ち歩いているが、中身は自分で書いたはずの覚書なのに、読んでも何の記憶も呼び起こさない言葉が並んでいる。

そのうちの一行。

「深川の御蔵。〈消魂の法〉。記憶を奪う秘術——要確かめ」

修二は何度もその一行を読んだ。深川の御蔵。高瀬が勤めていた屋敷は深川ではないのか。〈消魂の法〉とは何か。そして——記憶を奪う、とはいかなる意味か。

眠れなかった。

夜明け前、修二は起き上がって宿を出た。まだ暗い深川の路地を歩きながら、左と右の分かれ道に何度も差し掛かった。そのたびに彼は、あえて右を選ばなかった。左へ。また左へ。

理由は分からない。ただ、そうすることが自分の性分だと、どこかで思っていた。直感と逆の道を行くこと。それが——いつから始まった習慣なのか。

気がつくと、御蔵屋敷の裏手に出ていた。

建物は静まりかえっていた。裏口の潜り戸に、頑丈な錠前がかかっていた。修二はふところから細い針金を取り出し、錠を外した。自分でも、なぜそんな技を持っているのか分からなかった。体が、覚えていた。


第五章 地下の真実

地下への梯子段は、薄暗かった。

蝋燭の赤い光だけが、土壁を染めていた。修二は足音を殺して降りていった。地下の一段目には薬部屋らしき間が並んでいたが、すべて錠がかかっていた。さらに奥に、もう一段下る梯子があった。

最も深い場所に、一つだけ戸が開いている間があった。

中に入った瞬間、修二は立ち止まった。

壁一面に、人相書きと書付が貼り付けられていた。男たちの顔。薬師のような紙。そしてその中央に、一枚の大きな図が広げられていた。「〈消魂の法〉——段階的記憶除去秘術覚書」と書かれていた。

修二の足が、震えた。

図には、数人の男の名が記されていた。符牒で呼ばれているが、その下に本名が小書きされているものもあった。そして、そのうちの一つに——

「術体参番(桐島修二)——記憶除去 済。追跡継続」

と、あった。

修二は壁に手をついた。頭の中で何かが崩れる音がした。膝が、力を失いそうになった。

術体。記憶除去。

自分の記憶が霧に包まれているのは、病でも老いでもない。誰かに——意図的に、消されたのだ。

床に、一冊の書物が落ちていた。拾い上げると、表紙に「高瀬隆庵——研究覚書 極秘」と書かれていた。

修二は震える手でそれを開いた。

高瀬隆庵は、〈消魂の法〉の術師だった。しかし三月前から、研究の非道を上役に訴えていた。記録によれば、彼は「術体たちには、己の記憶が奪われていることを知る権利がある」と主張し続けていた。そして——失踪の七日前、高瀬は外への訴えを試みたとある。

修二は長い息を吐いた。

高瀬隆庵が消えた理由が、分かった。そして同時に、自分が何者であるかの輪郭が、霧の中から少しだけ浮かび上がってきた。


挿入章 記録の蔵

地下の通路を進んだ先に、もう一つ間があった。

札も何もない、ただの鉄扉。

錠はかかっていなかった。

修二はゆっくりと押し開けた。

中は薄暗く、薬草のような匂いがした。棚が並び、その一つ一つに、書付と木箱が無造作に置かれている。

札が貼られていた。

「術体壱番」

「術体弐番」

「術体四番」

指が止まる。

参番が、ない。

修二は一番手前の木箱を開けた。中に丸められた紙束があった。広げると、男の筆跡だった。息が荒いかのような、乱れた字で書かれている。

『……儂の名は、なんだ』

次の紙。

『昨日も分からなかった。今日も分からない。明日も、たぶん分からぬ』

また別の紙。

『鏡を見ると、知らぬ男がいる。あれが儂だと、説明された。されど、納得できぬ』

その下に、墨が叩きつけられた跡。

『頼む、やめてくれ。全部消すならば、いっそ——』

そこで、文は途切れていた。

修二は動かなかった。

次の箱を開けた。

今度は、別の筆跡だった。

『今日は、名を思い出せた。嬉しゅうございました。されど、三刻後にはまた消えた』

笑っている——そう読める。

だが、その言葉はどこか壊れていた。

『消える前に、紙に書いた。「儂は——」と。されど、その字を見ても、何も感じませぬ。知らぬ者の辞世のようでございました』

長い空白。

『これを読む儂へ。そなたはたぶん、もう儂ではない』

修二の胸の奥で、説明のつかぬ寒気が走った。

棚に並ぶ無数の記録。

これは研究ではない。

積み重ねられた崩壊だった。

そして、その延長線上に——自分がいる。


第六章 もう一人の桐島

書物をふところに押し込み、修二は地下を出ようとした。

梯子段の下から、足音が聞こえた。

複数。草履の重い音。

修二は咄嗟に、間の隅の暗がりに身を潜めた。二人の男が入ってきた。一人は医者装束の五十がらみの男。もう一人は黒羽織を着た、修二よりも若い男だった。

医者装束の男が燭台に火を入れた。間が明るくなった瞬間、黒羽織の男が壁の図を見て、低く舌打ちした。

「誰かが入った。術体参番の書物がない」

「……桐島が来たのか」

「あ奴以外に誰がおる。まだ記憶を取り戻そうとしておる。三年経っても諦めておらぬ」

「追跡の者は」

「本所におる。すぐ呼べる」

修二は暗がりの中で、息を止めた。体の奥で、何かが目を覚ます感覚があった。恐怖ではない。むしろ逆の——怒りに似た、透明な感情だった。

医者装束の男が続けた。

「高瀬が外に出した書付も回収せねばならぬ。あれを公にされると、御法が露見する」

「高瀬は」

「まだ生きておる。使える」

修二は奥歯を噛んだ。高瀬隆庵は生きている。捕らわれているが、生きている。

二人が間を出て行った後、修二は暗がりから出た。ふところの書物に手を当てた。これが証となる。高瀬が命がけで守ろうとした証が、ここにある。

問題は、これをどう使うかだ。奉行所には信用できる伝手がない。瓦版屋——そうだ、確か浅草に、骨のある書き手がいたはずだと、霧の向こうに薄い記憶があった。


第七章 一文銭に託す夜

屋敷を抜け出した修二は、深川の夜の町を歩いた。

大川の方から潮の匂いがしていた。辻行灯の下で立ち止まり、ふところに手を入れると、一文銭が指先に触れた。

修二は銭を取り出し、掌の上で見つめた。

右か、左か——今夜の分かれ道は、もっと重い。このまま本所に戻り、証を抱えてどこかに潜むか。それとも、高瀬が捕らわれているはずの場所を突き止め、今夜中に動くか。

銭を親指で弾いた。

空中で回転し、掌に落ちた。表。

修二は少し笑った。表なら本所へ戻れ。そう決めていた。しかし——自分はいつも、出た目とは逆の道を行く。

今夜は、高瀬を探す。

それが正解かどうかは、分からない。だが、記憶を奪われ、三年間霧の中を生きてきた男には、もはや安全な道を選ぶ理由がなかった。間違った道の先にしか、本当の景色はない——そう信じて生きてきた。それだけが、自分の確かな性分だった。

修二は大川の方へ歩き出した。

川沿いの蔵屋敷。人気のない河岸。荷揚げ用の滑車が、夜空に黒い腕を伸ばしていた。岡場所の情報屋から得た断片的な手がかりを繋ぎ合わせると、御蔵屋敷が管する蔵の一つに、見覚えのない駕籠が二挺止まっているという話だった。

三番蔵。錆びた札。修二は建物の周りを半周し、明かり取りの窓を見つけた。中から、灯りが漏れていた。


第八章 記憶の残骸

蔵の中に入る口を探しながら、修二の頭に断片的な映像が浮かんだ。

白い部屋。冷たい床几。腕に刺された鍼。そして——誰かの声。「これで楽になる。全部忘れられる」

修二は立ち止まった。

忘れたかったのだ——かつての自分は。

そこまでは思い出せた。何か取り返しのつかぬことがあって、自分から記憶を消してほしいと願ったのかもしれない。しかし〈消魂の法〉は、そこから先も続いた。単なる手当てではなく、研究の道具として使い続けられた。自分の意志で始まったことが、いつの間にか牢になっていた。

蔵の裏手に、小さな明かり取りがあった。内錠を針金で外し、体をねじ込むように入った。

積み上げられた俵の影から覗くと、広い土間の中央に、粗末な寝台が置かれていた。そこに、頭巾を被った男が横になっていた。絵姿で見た顔——高瀬隆庵だった。手首に縄がかかり、傍らに男が一人、床几に座って居眠りをしていた。

修二は音もなく近づいた。

番をする男の首筋を、素早く押さえた。数秒で気を失わせた技も——体が覚えていた。かつての自分が何者だったか、少し分かるような気がした。

「高瀬殿」

縄を解きながら呼びかけると、男は目を開けた。焦点の合わぬ目が、しばらくして修二を捉えた。

「……そなたは」

「桐島修二。奥方に頼まれました」

高瀬は唇を震わせた。

「桐島……桐島殿。そなたのことを、存じております。〈消魂の法〉の——」

「話は後で。まず、ここを出ましょう」


第九章 夜明けと告白

二人は夜の深川を歩いた。

高瀬は足を引きずっていたが、転ばなかった。修二は時折後ろを振り返りながら、大川から離れた。

夜明け前の水茶屋。戸を開けると、煮立つ茶の音がしていた。隅の席に腰を下ろし、茶を二つ頼んだ。

「そなたは、自ら〈消魂の法〉を望んだのですよ」

高瀬が言った。声は静かだったが、それがかえって修二の胸に刺さった。

「……さようですか」

「五年前のことです。そなたは、ある火事で女房と子を亡くした。自分の不覚で、と思い込んでいた。記憶を消してほしいと、屋敷に来たのです」

雨の中、焼け跡に膝をついていたそなたを、私は記録で見ました。

修二は茶碗を両手で包んだ。

「それは……本当に、自分の不覚だったのですか」

「違います。そなたは火事を防ごうとして、他の者を救った。そなたに咎はなかった。されど当時のそなたは、そう思えなかった。記憶を消してほしいと、泣いておったと聞きました」

修二の目の奥が、熱くなった。

「〈消魂の法〉は、そなたを最初の術体として、記憶除去の技を完成させました。その後、他の術体を集め、今度は本人の承知なく実験を続けた。私はそれに気づいて、訴えようとした。結果、あの蔵に閉じ込められました」

「記憶は——戻りますか」

「完全には難しいかもしれません。されど欠片は、ずっと残っております。そなたが三年間追い続けてきたものが、その証でございます」

窓の外が、少しずつ白んでいた。深川の朝が来ていた。

修二は窓の外を見た。見知らぬ町の夜明け。霧が、少しだけ薄れていた。


第十章 左の道の先に

七日後、〈消魂の法〉は、江戸中に貼られた瓦版の一面に載った。

高瀬隆庵が外に送っていた書付と、修二が持ち出した書物が証となった。浅草の書き手——薄い記憶の中にあった名の男——が、命がけで書いた。御蔵屋敷の関係者数名が町奉行所に召喚され、幕府は緊急の沙汰を下した。

修二はその朝、本所の路地を歩いていた。

いつもの道。いつもの景色。しかし何かが違った。霧が、薄れている。完全には晴れないが、確かに薄れている。

女房の名は、まだ思い出せなかった。子の顔も、まだ霞んでいた。だが、自分がなぜその記憶を手放したかったのか——その痛みの輪郭だけは、今は感じることができた。痛みを感じられるということは、もしかすると、生きているということかもしれない。

路地の突き当たりに、分かれ道があった。

右に行けば、いつもの煮売屋。

左に行けば、知らない方角。

修二はふところの一文銭を握りしめた。

——弾かなかった。

その代わり、目を閉じた。

一瞬だけ、何かが浮かんだ。

小さな手。

笑い声。

呼ばれた気がした、自分の名ではない名で。

「……」

目を開ける。

今のは、記憶だったのか、それとも願いだったのか。

分からない。

だが——

さっきよりも、少しだけ確かに何かがそこにあった。

修二は、わずかに息を吐いた。

「……悪くない」

誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、自分の中のどこかに向けて。

そして、顔を上げる。

左の道。

今度は、理由はいらなかった。

逆だからでもない。正しいからでもない。

ただ——行きたいと思ったからだ。

修二は一歩、踏み出した。

その足裏に、確かに重さが戻っていた。

文政七年、秋。

霧はまだ、完全には晴れない。

だがその中に、確かに温度が戻り始めていた。

風が、わずかに匂いを運んできた。

どこかで嗅いだことのある——

懐かしい、朝の匂いだった。


〜あとがき〜

 ——間違った道の先にしか、自分はなかった

この物語は、江戸という時代の空気の中に、記憶と自己同一性という普遍的な問いを織り込んだ時代小説です。

「コインに託す」という詩からインスピレーションを受け、直感の逆を行くこと、あえて左の道を選ぶことの意味を、一人の浪人の物語として描きました。

記憶は、人を縛ることもあれば、解放することもある。忘れることは弱さではなく、時に生きるための知恵かもしれません。しかし、記憶の先にある痛みと向き合うとき、人は初めて本当の意味で前に進めるのかもしれません。

桐島修二のように、霧の中を歩きながらも、左の道の先に何があるかを見たいと思える——そんな読者の一歩の背中を、この物語が少し押せれば幸いです。


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〜あらすじ〜

文政七年、江戸。

浪人・桐島修二は、ある朝に気づく。——自分の人生から三年間が消えていることに。

思い出せぬ夏。欠け落ちた記憶。そして、自分自身に対する得体の知れぬ違和感。

そんな折、舞い込んだ依頼。失踪した幕府御典医の行方を探せ、と。

調べを進めるほどに浮かび上がるのは、人の記憶を意図的に消す幕府の極秘御法——〈消魂の法〉。

そして、その生き人形にされた者の一人が——自分だった。

なぜ記憶は消されたのか。なぜ自分は選ばれたのか。

すべてを追うほどに、過去は牙を剥く。

これは、失われた魂を取り戻すため、間違った道を選び続けた男の物語。



左の道
— 記憶を消された探偵 —

その三年間、
誰が——彼の人生を書き換えたのか。




一章 灰色の朝

昭和三十九年、秋。

目が覚めた瞬間、男は——自分の名前を持っていなかった。

天井は見覚えがある。煤けた木目、角に溜まった埃、ゆっくりと回る影。だが、それを見ている“自分”が、誰なのかが抜け落ちている。

息を吸う。吐く。

心臓は動いている。体も動く。だが、その中心だけが空白だった。

——ここはどこだ。

声に出そうとして、やめた。音にした途端、何かが壊れる気がした。

男はゆっくりと上体を起こした。六畳の部屋。古い畳。薄い布団。壁際に積まれた新聞の束。見覚えはある。だが、それが“自分の生活”だという実感が、遅れてついてくる。

枕元の目覚まし時計が、六時二十分を指している。

その針の動きを見つめているうちに、不意に——言葉が戻った。

「……桐島」

その名が、自分の口から出たことに、わずかな不自然さが残った。

喉の奥で、誰かの声のように転がった。

桐島修二。

それが自分の名前だと、理解するまでに数秒かかった。思い出したというより、“与えられた”ような感覚だった。

男——桐島修二は、自分の手の甲を見つめた。

節くれ立った指。古い傷跡。皮膚の皺。見慣れているはずのそれが、まるで他人のもののように感じられる。

なぜ、これが自分の手だと分かるのか。

その理由が、分からない。

「……また、か」

——初めてではない、という感覚だけが残った。

呟きは、やけに乾いていた。

そのとき、不意に——

視界の端で、何かが動いた気がした。

桐島は顔を上げた。窓の方。障子の向こうに、朝の薄い光が滲んでいる。だが、それだけだった。人影はない。音もない。

それでも、確かに今——“見られていた”気がした。

桐島はしばらく動かずにいた。

やがてゆっくりと立ち上がり、窓に近づく。障子をわずかに開ける。外には、まだ人通りの少ない路地があるだけだった。

誰もいない。

だが、胸の奥に残った違和感は、消えなかった。

まるで、自分の知らないところで、何かが始まっているような——そんな感覚だった。

桐島は障子を閉め、背を向けた。

そのとき、畳の上に落ちていた新聞が、わずかに視界に入った。

見出しには、「東京五輪閉幕」の文字。

桐島には、その夏の記憶がなかった。

どこで、何をしていたのか。

何もない。

きれいに、切り取られたように。



二章 依頼人

その日の午後、依頼人が来た。

三十代半ば、地味な紺のスーツを着た女だった。名前を高瀬澄江と言った。目の下に隈があり、唇をきつく結んでいた。修二の間借り部屋にある粗末な椅子に座り、しばらく何も言わなかった。

その手は、膝の上で何度も小さく震えていた。

「夫が、消えました」

修二は煙草に火をつけた。

「いつです」

「三週間前。十月の七日、会社に出かけたまま戻りません。警察には届けましたが、借金もなく、愛人もなく、失踪する理由が見当たらないと言われました。捜査はしてもらえていません」

「ご主人の職業は」

「製薬会社の研究員です。大阪の会社ですが、神戸にある研究所に勤めていました」

「研究所、ですか」

何かが、胸の中で引っかかった。製薬会社。研究所。その言葉が、記憶の霧の奥で微かに光った気がした。修二は煙草を灰皿に押しつけた。

「ご主人のお名前は」

「高瀬……高瀬隆一と言います。三十八歳です」

写真を受け取った。几帳面そうな顔の男だった。眼鏡をかけ、白衣を着て、どこかの実験室らしき場所に立っている。その顔を見た瞬間、修二の心臓が一度だけ大きく跳ねた。

知っている——そう思った。いや、知っているような気がした。

いつ、どこで。

「調査料は日当三千円と実費です。前払いで三日分いただきます」

修二は自分の声が、どこか遠くから聞こえる気がした。


三章 神戸への道

翌朝、修二は神戸行きの列車に乗った。

阪神電車の窓から、灰色の大阪湾が見えた。波は穏やかで、遠くに霞む淡路島がある。修二はその風景を眺めながら、自分がどこかでこれと同じ景色を見たことがあるような気がしてならなかった。

神戸・灘区にある東和製薬の研究所は、山手の住宅街の中にひっそりとあった。白い三階建ての建物で、表に社名の看板もなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所だった。

正門の守衛に高瀬澄江からもらった名刺を見せ、夫の同僚に話を聞きたいと告げた。しばらく待たされた後、研究所の総務部長という肩書きの男が出てきた。五十代、白髪交じりの頭、表情のない顔。

「高瀬の件でしたら、警察にはすでにお話しました」

「奥さんから依頼を受けた者です。高瀬さんが失踪した前後に、何か変わったことはありませんでしたか」

男は少し間を置いた。その間が、修二には長すぎるように思えた。

「特には。真面目な研究員でした。突然いなくなって、我々も困惑しています」

「彼はどんな研究をしていましたか」

「それは……企業秘密になります」

修二は総務部長の目を見た。目が、少し泳いでいた。

帰り際、研究所の裏手を歩いていると、白衣を着た若い男が煙草を吸っていた。修二が近づくと、男は驚いたように身を固くした。

「高瀬さんをご存知ですか」

修二が声をかけると、若い男はあたりを見回してから、小声で言った。

「……あなた、本当に奥さんの依頼で来たんですか」

「ええ」

「だったら、研究所の地下に何があるか、調べてみてください。高瀬さんが消えた日の夜、私は見たんです。白衣を着た男たちが、何かを——誰かを、運び出すのを」


四章 封じられた名前

修二はその夜、神戸の安宿に泊まった。

布団の上に横になり、天井を見上げながら、若い研究員の言葉を反芻した。誰かを運び出した。高瀬隆一は失踪したのではなく、連れ去られたのか。

だが、それよりも修二の心を占めていたのは、別のことだった。

高瀬隆一の写真——あの顔を、自分はどこかで知っている。それは確信に近かった。しかし記憶はいつもそうだ。手を伸ばせば逃げる。追えば消える。

修二はポケットから古い手帳を取り出した。表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。三年前から持ち歩いているが、中身は自分で書いたはずのメモなのに、読んでも何の記憶も呼び起こさない言葉が並んでいる。

そのうちの一行。

「K研究所。S計画。記憶操作の可能性——要確認」

修二は何度もその一行を読んだ。K研究所。神戸にある東和製薬の研究所は、神戸のKではないのか。S計画とは何か。そして——記憶操作、とはどういう意味か。

眠れなかった。

夜明け前、修二は起き上がって宿を出た。まだ暗い神戸の坂道を歩きながら、左と右の分かれ道に何度も差し掛かった。そのたびに彼は、あえて右を選ばなかった。左へ。また左へ。

理由は分からない。ただ、そうすることが自分の性分だと、どこかで思っていた。直感と逆の道を行くこと。それが——いつから始まった習慣なのか。

気がつくと、研究所の裏手に出ていた。

建物は静まりかえっていた。裏口のドアに、南京錠がかかっていた。修二はポケットから針金を取り出し、錠を開けた。自分でも、なぜそんな技術があるのか分からなかった。体が、覚えていた。


五章 地下室の真実

地下への階段は、薄暗かった。

非常灯の赤い光だけが、コンクリートの壁を染めていた。修二は足音を殺して降りていった。地下一階には実験室らしき部屋が並んでいたが、すべて鍵がかかっていた。地下二階に、さらに階段があった。

最も深い場所に、一つだけドアが開いている部屋があった。

中に入った瞬間、修二は立ち止まった。

壁一面に、写真と書類が張り付けられていた。男たちの顔写真。カルテのような紙。そしてその中央に、一枚の大きな図表があった。「S計画——段階的記憶除去プロトコル」と書かれていた。

修二の足が、震えた。

図表には、数人の男の名前が記されていた。コードネームで呼ばれているが、その下に本名が括弧書きされているものもあった。そして、そのうちの一つに——

「被験体03(桐島修二)——記憶除去 完了。追跡継続中」

と、あった。

修二は壁に手をついた。頭の中で何かが崩れる音がした。膝が、力を失いそうになった。

被験体。記憶除去。

自分の記憶が霧に包まれているのは、病気でも老化でもない。誰かに——意図的に、消されたのだ。

床に、一冊のファイルが落ちていた。拾い上げると、表紙に「高瀬隆一——研究資料 極秘」と書かれていた。

修二は震える手でそれを開いた。

高瀬隆一は、S計画の研究者だった。しかし三ヶ月前から、研究の倫理的問題を上層部に訴えていた。記録によれば、彼は「被験体たちには、自分の記憶が操作されていることを知る権利がある」と主張し続けていた。そして——失踪の一週間前、高瀬は外部への告発を試みたとある。

修二は長い息を吐いた。

高瀬隆一が消えた理由が、分かった。そして同時に、自分が何者であるかの輪郭が、霧の中から少しだけ浮かび上がってきた。



六章 記録室

地下二階の通路を進んだ先に、もう一つ部屋があった。

プレートも何もない、ただの鉄の扉。

鍵はかかっていなかった。

修二はゆっくりと押し開けた。

中は薄暗く、薬品のような匂いがした。棚が並び、その一つ一つに、ファイルとテープレコーダーが無造作に置かれている。

ラベルが貼られていた。

「被験体01」
「被験体02」
「被験体04」

指が止まる。

03が、ない。

修二は一番手前のテープを手に取った。古いカセットだった。再生ボタンを押すと、しばらくノイズが続き——やがて、男の声が流れた。

『……俺の名前は、なんだ』

若い男の声だった。息が荒い。

『昨日も聞いた。今日も分からない。明日も、たぶん分からない』

ノイズ。

『鏡を見ると、知らない男がいる。あれが俺だと、説明された。でも、納得できない』

机に何かを叩きつける音。

『頼むから、やめてくれ。全部消すなら、いっそ——』

そこで、音は途切れた。

修二は動かなかった。

次のテープを再生した。

今度は、別の声だった。

『今日は、名前を思い出せた。嬉しかった。でも、三時間後にはまた消えた』

笑っている。

だが、その笑いはどこか壊れていた。

『消える前に、紙に書いた。“俺は——”って。でも、その字を見ても、何も感じない。知らない奴の遺書みたいだった』

長い沈黙。

『これを聞いてる俺へ。お前はたぶん、もう俺じゃない』

修二の胸の奥で、説明のつかない寒気が走った。

カチリ、と音がして、テープが止まった。

修二はゆっくりとテープを戻した。

棚に並ぶ無数の記録。

これは研究ではない。

蓄積された“崩壊”だった。

そして、その延長線上に——自分がいる。



七章 もう一人の桐島

ファイルをコートの内側に押し込み、修二は地下室を出ようとした。

階段の下から、足音が聞こえた。

複数。革靴の重い音。

修二は咄嗟に、部屋の隅の暗がりに身を潜めた。二人の男が入ってきた。一人は白衣を着た五十代の男。もう一人は黒いコートを着た、修二よりも若い男だった。

白衣の男が電灯をつけた。部屋が明るくなった瞬間、黒コートの男が壁の図表を見て、低く舌打ちした。

「誰かが入った。被験体03のファイルがない」

「……桐島が来たのか」

「そうでなければ誰が。奴はまだ記憶を取り戻そうとしている。三年経っても諦めていない」

「追跡チームは」

「大阪にいる。すぐ呼べる」

修二は暗がりの中で、息を止めた。体の奥で、何かが目を覚ます感覚があった。恐怖ではない。むしろ逆の——怒りに似た、透明な感情だった。

白衣の男が続けた。

「高瀬が外に出した資料も回収しなければ。あれを公にされると、計画全体が露見する」

「高瀬は」

「まだ生きている。使える」

修二は奥歯を噛んだ。高瀬隆一は生きている。捕らわれているが、生きている。

二人が部屋を出て行った後、修二は暗がりから出た。コートの内側のファイルに手を当てた。これが証拠になる。高瀬が命がけで守ろうとした証拠が、ここにある。

問題は、これをどう使うかだ。警察には信用できる伝手がない。新聞記者——そうだ、確か大阪に、骨のある記者がいたはずだと、霧の向こうに薄い記憶があった。


八章 コインに託す夜

研究所を抜け出した修二は、神戸の夜の街を歩いた。

港の方から潮の匂いがしていた。街灯の下で立ち止まり、ポケットに手を入れると、五十円硬貨が指先に触れた。

修二はコインを取り出し、掌の上で見つめた。

右か、左か——今夜の分かれ道は、もっと重い。このまま大阪に戻り、証拠を抱えてどこかに隠れるか。それとも、高瀬が捕らわれているはずの場所を突き止め、今夜中に動くか。

コインを親指で弾いた。

空中で回転し、掌に落ちた。表。

修二は少し笑った。表なら大阪へ戻れ。そう決めていた。しかし——自分はいつも、コインの出た目とは逆の道を行く。

今夜は、高瀬を探す。

それが正解かどうかは、分からない。だが、記憶を奪われ、三年間霧の中を生きてきた男には、もはや安全な道を選ぶ理由がなかった。間違った道の先にしか、本当の風景はない——そう信じて生きてきた。それだけが、自分の確かな性分だった。

修二は港の方へ歩き出した。

海沿いの倉庫街。人気のない埠頭。荷揚げ用のクレーンが、夜空に黒い腕を伸ばしていた。情報屋から得た断片的な手がかりを繋ぎ合わせると、東和製薬が所有する倉庫の一つに、見覚えのない車が二台止まっているという話だった。

三番倉庫。錆びた看板。修二は建物の周囲を半周し、換気口を見つけた。中から、灯りが漏れていた。


九章 記憶の残骸

倉庫の中に入る方法を探しながら、修二の頭に断片的な映像が浮かんだ。

白い部屋。冷たい椅子。腕に刺された注射。そして——誰かの声。「これで楽になる。全部忘れられる」

修二は立ち止まった。

忘れたかったのだ——かつての自分は。

そこまでは思い出せた。何か取り返しのつかないことがあって、自分から記憶を消してほしいと願ったのかもしれない。しかしS計画は、そこから先も続いた。単なる治療ではなく、研究の道具として使い続けられた。自分の意志で始まったことが、いつの間にか檻になっていた。

倉庫の裏手に、小さな窓があった。内鍵を針金で外し、体をねじ込むように入った。

積み上げられた木箱の影から覗くと、広いフロアの中央に、簡易ベッドが置かれていた。そこに、眼鏡をかけた男が横になっていた。写真で見た顔——高瀬隆一だった。手首に縄がかかり、傍らに男が一人、椅子に座って居眠りをしていた。

修二は音もなく近づいた。

番人の男の首筋を、素早く押さえた。数秒で意識を失わせた技術も——体が覚えていた。かつての自分が何者だったか、少し分かるような気がした。

「高瀬さん」

縄を解きながら呼びかけると、男は目を開けた。焦点の合わない目が、しばらくして修二を捉えた。

「……あなたは」

「桐島修二。奥さんに頼まれました」

高瀬は唇を震わせた。

「桐島……桐島さん。あなたのことを、知っています。S計画の——」

「話は後で。まず、ここを出ましょう」


十章 夜明けと告白

二人は夜の神戸を歩いた。

高瀬は足を引きずっていたが、転ばなかった。修二は時折後ろを振り返りながら、港から離れた。

夜明け前の喫茶店。扉を開けると、古いジャズが流れていた。角の席に座り、コーヒーを二つ頼んだ。

「あなたは、自分からS計画に参加したんですよ」

高瀬が言った。声は静かだったが、それがかえって修二の胸に刺さった。

「……そうですか」

「五年前のことです。あなたは、ある事故で奥さんと子供を亡くした。自分の過失で、と思い込んでいた。記憶を消してほしいと、研究所に来たんです」

雨の中、砕けたガラスの上に膝をついていたあなたを、私は記録で見ました。

修二はコーヒーカップを両手で包んだ。

「それは……本当に、自分の過失だったんですか」

「違います。あなたは事故を防ごうとして、他の人を救った。あなたに責任はなかった。でも当時のあなたは、そう思えなかった。記憶を消してほしいと、泣いていたと聞きました」

修二の目の奥が、熱くなった。

「S計画は、あなたを最初の被験体として、記憶操作の技術を完成させました。その後、他の被験体を集め、今度は本人の同意なく実験を続けた。私はそれに気づいて、告発しようとした。結果、ここに閉じ込められました」

「記憶は——戻りますか」

「完全には無理かもしれません。でも断片は、ずっと残っています。あなたが三年間追い続けてきたものが、その証拠です」

窓の外が、少しずつ白んでいた。神戸の朝が来ていた。

修二は窓の外を見た。見知らぬ街の夜明け。霧が、少しだけ薄れていた。


十一章 左の道の先に

一週間後、東和製薬のS計画は、全国紙の一面に載った。

高瀬隆一が外部に送っていた資料と、修二が持ち出したファイルが証拠となった。大阪の記者——薄い記憶の中にあった名前の男——が、命がけで記事にした。研究所の関係者数名が警察に任意同行を求められ、製薬会社は緊急記者会見を開いた。

修二はその朝、天神橋筋の路地を歩いていた。

いつもの道。いつもの景色。しかし何かが違った。霧が、薄れている。完全には晴れないが、確かに薄れている。

妻の名前は、まだ思い出せなかった。子供の顔も、まだ霞んでいた。だが、自分がなぜその記憶を手放したかったのか——その痛みの輪郭だけは、今は感じることができた。痛みを感じられるということは、もしかすると、生きているということかもしれない。

路地の突き当たりに、分かれ道があった。

右に行けば、いつもの定食屋。
左に行けば、知らない方角。

修二はポケットのコインを握りしめた。

——弾かなかった。

その代わり、目を閉じた。

一瞬だけ、何かが浮かんだ。

小さな手。
笑い声。

——「おかえり」

そんな気がした。

「……」

目を開ける。

今のは、記憶だったのか、それとも願望だったのか。

分からない。

だが——

さっきよりも、少しだけ確かに“何か”がそこにあった。

修二は、わずかに息を吐いた。

「……悪くない」

誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、自分の中のどこかに向けて。

そして、顔を上げる。

左の道。

今度は、理由はいらなかった。

逆だからでもない。正しいからでもない。

ただ——行きたいと思ったからだ。

修二は一歩、踏み出した。

その足裏に、確かに“重さ”が戻っていた。

昭和三十九年、秋。

霧はまだ、完全には晴れない。

だがその中に、確かに“温度”が戻り始めていた。

風が、わずかに匂いを運んできた。

どこかで嗅いだことのある——

懐かしい、朝の匂いだった。




〜あとがき〜

間違った道の先にしか、自分はなかった

この物語は、昭和という時代の空気の中に、記憶と自己同一性という普遍的なテーマを織り込んだフィクションです。

「コインに託す」という詩からインスピレーションを受け、直感の逆を行くこと、あえて左の道を選ぶことの意味を、一人の中年探偵の物語として描きました。

記憶は、人間を縛ることもあれば、解放することもある。忘れることは弱さではなく、時に生きるための知恵かもしれません。しかし、記憶の先にある痛みと向き合うとき、人は初めて本当の意味で前に進めるのかもしれません。

桐島修二のように、霧の中を歩きながらも、左の道の先に何があるかを見たいと思える——そんな読者の一歩の背中を、この物語が少し押せれば幸いです。


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〜あらすじ〜

昭和三十九年、大阪。

私立探偵・桐島修二は、ある朝気づく。
——自分の人生から「三年間」が消えていることに。

思い出せない夏。
欠け落ちた記憶。
そして、自分自身に対する違和感。

そんな中、舞い込んだ依頼。
失踪した製薬会社の研究員。

調査を進めるほどに浮かび上がるのは、
人の記憶を“意図的に消す”極秘計画――S計画。

そして、その被験体の一人が——自分だった。

なぜ記憶は消されたのか。
なぜ自分は選ばれたのか。

すべてを追うほどに、過去は牙を剥く。

これは、失われた人生を取り戻すため、
“間違った道”を選び続けた男の物語。


Kindle 予定



『朝茶の湯気にまぎれて』

〜まえがき〜

朝、一番に淹れるお茶の湯気の中に、
ふと懐かしい誰かの気配を感じることはないでしょうか。

お湯を沸かす音。
茶葉の香り。
器がテーブルに触れる、小さな音。

そんな何気ない朝の所作の中に、
もう会えないはずの人の記憶が、静かに息づいていることがあります。

本作は、ある朝の台所から始まる、
小さなお別れと再生の物語です。

読み終えたあと、あなたの淹れる一杯が、
いつもよりほんの少しだけ温かく感じられたなら、 嬉しく思います。




一章
朝茶の湯気にまぎれて

朝いちばんの台所には、まだ誰の気配もない。
水道の音だけが、小さく響いている。

浄水器を通した水をヤカンに注ぎ、火をつける。
青い炎が、ゆらりと揺れた。

この瞬間が好きだ。
今日も一日が始まる。そう思える。

湯が沸くまでのあいだに、茶葉をすくう。
いつもの癖で、少し多めに入れてしまった。

「ほら、あんた。茶葉が多いよ。もったいない」

背中のほうから、聞き慣れた声がした。

驚かない。
もう何度目だろう。
朝茶の湯気が立つと、当たり前みたいに現れるのだ。この人は。

振り返ると、台所の椅子にバアちゃんが座っていた。
腕を組み、こちらを見ている。
座っているようで、どこか少し浮いている。その曖昧さが、妙に“らしい”。

「そんな急いで飲んだら、味が逃げるよ」
「仏壇の水、昨日のままだろ。バレてるよ」
「顔がむくんでるね。寝不足だよ」

朝の小言三連発。
生きていたころと、何ひとつ変わらない。

「はいはい」と返しながら、急須に湯を注ぐ。
湯気がふわりと立ちのぼり、その向こうでバアちゃんの輪郭がやわらいだ。

「……あんたの淹れる茶は、やっぱりいい匂いだね」

小言のあとに、必ずひとつだけ混じるやわらかい言葉。
それが、いつも胸に残る。

湯呑みをテーブルに置く。
コトン、と小さな音がした。

その音に、バアちゃんがふと目を細めた。

「その湯呑み……まだ使ってるんだね」

「うん。気に入ってるから」

そう言うと、バアちゃんは何か言いかけて、やめた。
湯気が少し薄くなる。

「……あんたにね、言いそびれたことがあるんだよ」

その一言だけを残して、バアちゃんは湯気の向こうへ溶けていった。

台所に静けさが戻る。
僕は湯呑みを両手で包みながら、ひとつ息をついた。

今日も、いつも通りの朝だ。
けれど胸のどこかに、小さな引っかかりだけが残った。


二章
小言の中にまぎれる影

翌朝も、台所は同じように静かだった。
ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れた途端、背後の空気がわずかに動いた。

「ほら、あんた。今日も茶葉が多いよ」

やっぱり来た。

「昨日よりは少ないよ」

「そういう問題じゃないよ」

バアちゃんはいつもの椅子に腰を下ろし、台所を見回した。
幽霊になってまで、生活の細かいところによく気がつく。

「そこ、拭きなさい。水の跡が残るよ」
「仏壇の花、少ししおれてるよ」
「冷蔵庫の卵、賞味期限が近いよ」

「幽霊になっても生活感すごいね」

そう言うと、バアちゃんは鼻を鳴らした。

「生きてる人間のほうが、よっぽど雑なんだよ」

湯が沸く。
茶葉にそっと湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気の向こうで、バアちゃんの表情が少しだけほどけた。

「……いい匂いだね」

ぽつりと落ちるその一言が、小言よりずっと胸に残る。

湯呑みを置く。
コトン、という音に、バアちゃんの視線が吸い寄せられた。

「その湯呑み……大事にしてるんだね」

「うん。バアちゃんが使ってたやつだし」

そう言うと、バアちゃんは少し目を伏せた。
いつもなら「当たり前だよ」と言いそうなのに、その日は違った。

「……しまわれたままだと思ってたよ」

「仏壇の奥にあったやつ?」

「そう。あれは……」

そこで言葉が切れる。
湯気が揺れ、輪郭がにじんだ。

「バアちゃん?」

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ。
でも、まだ言えないんだよ」

「どうして」

「言ったら、消えちゃいそうでさ」

その声だけを残して、バアちゃんは朝の湯気にまぎれて消えた。

残された台所には、さっきまでの気配だけが、ほんのり温かく漂っていた。

僕は湯呑みを手に取り、底をそっとのぞき込む。
何かがそこに沈んでいる気がした。
まだ形にはならない、言葉の影のようなものが。


三章
湯呑みの底に沈んだもの

翌朝、台所に立つと、まだ外は薄暗かった。
春のはじまりの空気はひやりとして、指先が少しかじかむ。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れると、背後の空気がふっとやわらいだ。

「おはようさん。今日も早いね」

「早起きは三文の得だよ」

「三文なんて、今ならいくらだい」

幽霊になっても、その返しは変わらない。

僕は苦笑しながら、バアちゃんの言葉を心の中でなぞる。

「バアちゃん子は三文安いなんて言われるけどさ。それを取り戻すために、僕は毎朝早起きしてるんだよ」

バアちゃんは、一瞬だけ意外そうに目を見開いてから、いつものように鼻を鳴らした。

「ふん、取り戻すのに何年かかるんだい。あんたが子供のころから計算したら、一生分早起きしても足りないよ」

口は悪いが、その横顔はどこか誇らしげに見えた。
湯が沸き始めるころ、バアちゃんはいつもの椅子に座り、台所を見回した。

湯が沸き始めるころ、バアちゃんはいつもの椅子に座り、台所を見回した。

「仏壇の花、替えたね。いい匂いだよ」
「昨日の茶碗、ちゃんと伏せて乾かしたね」
「……あんた、やればできるじゃないか」

褒めているのか、からかっているのか分からない。
でも、その曖昧さが心地いい。

茶葉を急須に入れ、湯を注ぐ。
湯気が立ちのぼり、バアちゃんの輪郭が少しだけ揺れた。

湯呑みをテーブルに置く。
コトン、と音がした。

その瞬間、バアちゃんの表情がふっと変わった。

「……その湯呑み、覚えてるよ」

「バアちゃんが使ってたやつだよね」

「そうだよ。あれはね……あんたが初めて淹れてくれたお茶を飲んだ湯呑みなんだよ」

僕は手を止めた。

「そんなこと、言われたことなかった」

「言ってないからね」
バアちゃんは懐かしそうに笑った。
「あんた、小さかったのに、ずいぶん真剣な顔をして茶葉を入れてね。
お湯が熱すぎて、泣きそうになってたよ」

その笑い方が、生きていたころのままで、息が少し詰まる。

「仏壇の奥にしまったままだと思ってたよ」

「出してきたんだ。使わないのも違う気がして」

「そうかい……」

バアちゃんは湯呑みをじっと見つめた。
その目は、目の前の器を見ているのに、もっと遠い時間を見ているようだった。

「……あれはね、あんたに返したかったんだよ」

「返す?」

「最初にもらったものをさ。
あんたが淹れてくれた、あの最初のお茶の気持ちをね」

僕は黙ったまま、湯呑みを見た。

「でも言いそびれたまま、あたしゃ先に行っちまった」

湯気が細く揺れる。
バアちゃんの輪郭が少し薄くなる。

「だからね……まだ、ここにいるんだよ」

その言葉が、台所の静けさにゆっくり沈んでいった。

気づけば、僕は湯呑みの底をじっと見ていた。
そこに沈んでいるものの形が、昨日より少しだけはっきりして見えた。


四章
言い残したひとことの影

その翌朝は、少し寝坊した。
窓から差し込む光が、いつもより白く見える。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れたあと、背後の空気が少し遅れて動いた。

「遅いよ、あんた。今日は寝坊かい」

「たまにはいいでしょ」

「たまにが増えると、たまにじゃなくなるんだよ」

声はいつも通りなのに、どこか弱い。
それに気づいた瞬間、胸のあたりが少しざわついた。

その日のバアちゃんは、小言が少なかった。

「仏壇の水、替えたね」
「花も新しいね」

それだけ言うと、黙り込む。

湯が沸き、急須に湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気の向こうで、バアちゃんの姿がふわりと揺れた。

湯呑みをテーブルに置く。
コトン、という音に、バアちゃんが目を細めた。

「……その音、好きなんだよ」

「湯呑みの音?」

「そう。あんたが淹れてくれたお茶の音だよ。
あれを聞くとね、生きてたころの朝を思い出すんだよ」

それから、しばらく沈黙が続いた。
いつもより長い沈黙だった。

「バアちゃん?」

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ」

昨日と同じ言葉。
けれど今日は、その声がかすかに震えていた。

「でもね、言うと、ほんとに消えちゃいそうでさ」

「消えるって……」

「そういうもんなんだよ。
言い残したことを言ったら、もうここにはいられないんだよ」

湯気が細くなり、輪郭がにじむ。

「でも、あんたにだけは伝えたいんだよ。
あの湯呑みのことも……あの日のことも……」

そこまで言って、バアちゃんは黙った。
言葉の先が、湯気の中にほどけていく。

「バアちゃん」

呼びかけても、返事はなかった。
気づけば、台所にはお茶の香りだけが残っていた。

僕は湯呑みを見つめながら思う。
そのひとことは、もう、すぐそこまで来ている。


五章
理由の輪郭

その朝は、珍しく風が強かった。
窓ガラスがかすかに鳴り、外の木々がざわざわと騒いでいる。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れた瞬間、背後の空気がゆっくり動いた。

「……おはようさん」

声に張りがない。
振り返ると、バアちゃんはいつもより静かに座っていた。

「どうしたの。元気ないね」

「元気もなにも、あたしゃ幽霊だよ」

そう言って笑う。
けれど、その笑い方は少し弱かった。

湯が沸き、茶葉にそっと湯を注ぐ。
湯気が立つ。
バアちゃんは台所ではなく、湯呑みのほうだけを見ていた。

「……あんた、覚えてるかい」

「何を?」

「最後にあたしが飲んだお茶のことだよ」

僕は手を止めた。

思い返そうとしても、うまく思い出せない。
湯呑みを置いた自分の手つきばかりが浮かんで、
あの日、ちゃんとバアちゃんの顔を見たかどうかさえ曖昧だった。

「……正直、覚えてない」

バアちゃんは少しだけ寂しそうに笑った。

「そうだろうね。あんた、あのころ忙しかったからね」

責める響きは、まるでなかった。
それがかえって胸に痛かった。

「でもね、あたしは覚えてるんだよ。
あんたが最後に淹れてくれたお茶の味を」

「どんな味だったの」

「……薄かったよ」

思わず、小さく笑いそうになる。
けれど次の言葉で、その笑いは消えた。

「薄かったけどね……嬉しかったんだよ」

バアちゃんは、湯呑みを見つめたまま続けた。

「あんた、急いでたろう。
でも、それでも淹れてくれた。
あれがね……たまらなく嬉しかったんだよ」

喉の奥が詰まる。
あの日の僕は、きっと「あとでゆっくり」と思っていた。
その“あとで”が来なかっただけだ。

「でもね……言えなかったんだよ。
“ありがとう”って」

湯気が揺れる。
バアちゃんの輪郭が、さらに薄くなる。

「あの時、言いそびれたまま……あたしゃ先に行っちまった。
だから、まだここにいるんだよ」

僕は思わず顔を上げた。

「バアちゃん。言えばいいじゃないか。今」

するとバアちゃんは、ゆっくり首を横に振った。

「言ったらね、もう来られなくなるんだよ。
あんたの朝茶の湯気に、もう乗れなくなる」

その声は、風にさらわれそうなくらい小さかった。

「でもね……そろそろ言わなきゃいけないんだよ。
あんたが、新しい湯呑みを買う前にね」

「新しい湯呑み?」

「そうだよ。そろそろ探しに行こうとしてるだろう?」

図星だった。
昨日、ふとそんなことを考えたばかりだ。

「……なんで分かるの」

「分かるさ。あんたのことだもの」

そう言って笑った顔が、どこか別れの匂いを含んでいた。

残された湯呑みの底に、沈んだ影が見える。
それはもう、ただの影ではなかった。
“ありがとう”という言葉の形に、少しずつ近づいていた。


六章
最後の朝へ向かう気配

その朝は、やけに静かだった。
風もなく、鳥の声もない。
台所の空気だけが、少しひんやりしていた。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れたとき、背後の空気がかすかに震えた。

「……おはようさん」

バアちゃんの声は遠かった。
まるで、ひとつ向こうの部屋から聞こえてくるみたいだった。

「バアちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。幽霊に大丈夫も何もないよ」

そう言って笑う。
けれど、いつもの調子ではない。

その日は、小言がひとつもなかった。
台所も見回さず、ただ湯呑みのほうを見ている。

湯が沸き、茶葉にそっと注ぐ。
湯気が立ちのぼると、バアちゃんの輪郭は今まででいちばん薄く揺れた。

「……あんた、湯呑みを買いに行くんだろう?」

「うん。そろそろ新しいのが欲しいなと思って」

「そうかい……」

ゆっくりとうなずく。
その仕草が、妙に終わりを思わせた。

「新しい湯呑みが来たらね、あたしゃもう来られないよ」

「どうして」

「そういうもんなんだよ。
新しい器が来たら、古い器の役目は終わる。
あたしの役目も、たぶん同じなんだよ」

胸のあたりが、きゅっと縮む。

「でもね、それでいいんだよ。
あんたが新しい朝を始めるなら、あたしもそろそろ行かなきゃいけない」

「バアちゃん……」

「泣くんじゃないよ。あんた、昔から涙もろいんだから」

「泣いてないよ」

「嘘つき」

少しだけ笑う。
その笑顔が、生きていたころと同じで、かえって苦しい。

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ」

その言葉が落ちた瞬間、台所の空気がすっと静まった。

「でも、それはあんたが湯呑みを買ってきた朝に言うよ」

「どうして今日じゃないの」

「今日言ったら、今日で終わっちまうからだよ」

湯気の向こうで、バアちゃんが微笑む。

「最後くらい、あんたの淹れたお茶を、もう一度ゆっくり味わいたいんだよ」

そのまま輪郭がほどけるように薄れていき、
気づけば、椅子の向こうには誰もいなかった。

僕は湯呑みを見つめた。
そこに沈んでいたものは、もう影ではなく、言葉の輪郭になりつつあった。

次の朝、きっとそれが形になる。


七章
新しい湯呑みを探しに

その日は、朝からよく晴れていた。
雲ひとつない空が、妙に背中を押してくる。

「……そろそろ行くか」

そうつぶやいて外に出る。
朝茶を淹れていないから、バアちゃんは現れない。
湯気が立たない限り、あの人は来ない。
それが、いつのまにか分かるようになっていた。

商店街の奥にある小さな陶器屋は、昔のままだった。
バアちゃんと一緒に来たことのある店だ。

暖簾をくぐると、店の中には土の匂いが満ちていた。
棚にはさまざまな湯呑みが並んでいる。
白いもの、藍色のもの、丸いもの、少し背の高いもの。

どれも悪くない。
けれど、どれもしっくりこない。

「……バアちゃん、どれがいいかな」

思わずこぼれた独り言に、店主がやわらかく笑った。

「誰かのために選んでるんですか」

「まあ……そんなところです」

「なら、手に取ったときに“これだ”と思うものがいいですよ。
器は、不思議と人を選びますから」

その言葉に背中を押されて、棚の奥に目をやる。

ひとつだけ、目が留まった。

淡い緑色の湯呑みだった。
釉薬の流れがやわらかくて、朝の湯気みたいに見えた。

手に取った瞬間、すとんと馴染む。

「……これだ」

口にした途端、胸の奥の重みが少しだけ軽くなった。

会計を済ませて店を出る。
紙袋の中で、新しい湯呑みが小さく揺れる。

帰り道、ふと空を見上げた。
澄みきった青の向こうに、もう答えが待っている気がした。

明日の朝、バアちゃんは何を言うのだろう。
そのことを思うと、寂しさと温かさが、同じ場所で静かに混ざり合った。


八章
最後の朝の湯気

翌朝、目が覚めた瞬間に分かった。
今日は、あの日だ。

寂しさとも、悲しみとも少し違う。
ただ静かに、終わりが近いことだけを告げるような感覚があった。

台所に立つ。
昨日買ってきた新しい湯呑みが、紙袋の中でひっそり待っていた。

淡い緑色。
朝の光を受けて、やわらかく光っている。

「……今日から、よろしく」

そう言って取り出すと、不思議なくらい手に馴染んだ。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れた瞬間、背後の空気がふっと震えた。

「……おはようさん」

振り返る。
バアちゃんが、いつもの椅子に座っていた。
けれど、その輪郭は今まででいちばん薄かった。

「新しい湯呑み、買ってきたんだね」

「うん。昨日」

「いい色だよ。あんたに似合ってる」

その笑顔は、どこか安心した人の顔だった。

湯が沸く。
茶葉にそっと湯を注ぐ。
湯気が立ちのぼる。

新しい湯呑みに、お茶を注ぐ。
テーブルに置くと、コトン、と小さな音がした。

その音に、バアちゃんが目を細める。

「……いい音だね」

「うん。気に入ったよ」

「そうかい」

しばらく、誰も何も言わなかった。
その沈黙だけで、もう十分な気がした。

「バアちゃん……」

呼びかけると、バアちゃんはゆっくり顔を上げた。

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ」

僕は黙ってうなずいた。

「最後に淹れてくれたお茶……あれは薄かったよ」

思わず、少しだけ笑ってしまう。
でも、バアちゃんはまっすぐこちらを見ていた。

「薄かったけどね。
いちばん美味しかったんだよ」

湯気が細く揺れる。

「忙しいのに、あたしのために淹れてくれたろう。
それがね、嬉しかったんだよ」

そこで一度、バアちゃんは言葉を切った。
長いあいだ胸の奥にしまっていたものを、そっと取り出すみたいに。

「だからね……」

目が、やわらかく細くなる。

「——ありがとう」

その瞬間、台所の空気がふっと温かくなった。

「バアちゃん……」

「泣くんじゃないよ。
あんたの朝茶は、これからも続くんだから」

声が少しずつ遠くなる。

「新しい湯呑みでね……
あんたの新しい朝を、ちゃんと生きなさいよ」

最後に、バアちゃんはいつもの調子で、少しだけ意地悪そうに笑った。

「……あんたの淹れる茶は、世界一だよ」

その言葉を残して、バアちゃんは湯気の中へ静かにほどけていった。

あとに残ったのは、新しい湯呑みと、やさしいお茶の香りだけだった。


終章
湯気の向こうに残ったもの

バアちゃんが消えた台所は、不思議なくらい静かだった。

それでも朝は来る。
僕はいつものようにヤカンに水を入れ、火をつけた。
青い炎が揺れる。
湯が沸く。
茶葉にそっと湯を注ぐ。

湯気が立ちのぼる。

思わず振り返る。

——いない。

分かっていたのに、胸の奥が少しだけきゅっとした。

新しい湯呑みにお茶を注ぐ。
テーブルに置く。
コトン、と小さな音がする。

その音が、返事みたいに聞こえた。

「……ありがとう」

気づけば、そう口にしていた。

声も姿もない。
けれど、湯気の揺れも、茶葉の香りも、器の音も、
もう何ひとつ空っぽではなかった。

湯呑みを両手で包む。
温かさが、ゆっくりと手のひらから染みてくる。

「バアちゃん……行ったんだな」

そう言ってみると、寂しさより先に、静かな満ち足りた気持ちが広がった。

朝茶の湯気は、今日もやわらかく立ちのぼる。
その向こうに、もうバアちゃんの姿はない。
けれど、湯気の揺れ方も、湯呑みの音も、茶葉の香りも、
どれも確かにあの人につながっていた。

僕は湯呑みを置き、軽く背筋を伸ばす。

「よし。今日も行くか」

玄関で靴を履き、ふと鏡を見る。
少しだけむくんだ顔が映っていた。

「……顔がむくんでるね。寝不足だよ」

今朝なら、そう言われそうだ。
思わず苦笑いがこぼれる。

外へ出ると、春の光が街をやわらかく包んでいた。
すれ違った近所の人に「おはようございます」と声をかける。
いつもより、少しだけ明るい声が出た気がした。

今朝淹れたお茶の味を思い出す。
茶葉の量は、もう間違えなかった。
温度もちょうどよかった。

でも、もしこれから先、忙しさに追われて、
また少し薄いお茶を淹れてしまう朝があったとしても。
そのたび僕は、寂しさではなく、あの人の「ありがとう」を思い出すのだろう。

台所には、新しい緑色の湯呑みが残っている。
鼻先には、茶の香りがまだ少しだけ残っていた。

それだけで、今日という一日を丁寧に生きるには、もう十分だった。





〜幸せな余韻 〜
朝茶のあとに

バアちゃんが姿を消してから、数日が過ぎた。

台所には、相変わらず朝いちばんの静けさが満ちている。
ヤカンの立てる音も、青い炎の揺れも、何ひとつ変わらない。

けれど、ひとつだけ変わったことがある。

「……よし、今日はこのくらいだな」

僕は、茶葉をすくう手をそこで止める。
以前みたいに、無意識に少し多めに入れることがなくなった。

小言が聞こえなくなった寂しさを、
きっちり量った茶葉で埋めているような、妙な気分だ。

新しい緑色の湯呑みにお茶を注ぐ。
立ちのぼる湯気は、もう誰の形も作らない。

それでも、その向こう側が空っぽだと思ったことは一度もなかった。

ひとくち、お茶を啜る。

「……熱いな」

独り言が、静かな台所に溶けていく。

ふと、最後に聞いた言葉を思い出す。

『あんたの淹れる茶は、世界一だよ』

あれはきっと、バアちゃんが一生かけてためていた、
いちばんやわらかい言葉だったのだと思う。

数えきれない小言は、
みんな、あの一言へたどり着くための長い助走だったのかもしれない。

新しい湯呑みの縁に、朝の光が小さく反射していた。
それが、少し意地悪で、とびきり優しいあの笑顔の残像みたいに見える。

僕は湯呑みを置き、深く息を吸う。

寂しさは消えない。
でも、それは冷たいものではなくなっていた。
お茶の熱みたいに、時間をかけて体の内側を温めてくれるものに変わっていた。

今日も、いい朝だ。

すすぎ終えた湯呑みを、いつもの場所にそっと伏せる。
コトン、という音がした。

その音は、これまででいちばんまっすぐに、僕の心へ届いた。


アマゾン キンドル



〜あとがき〜

お読みいただき、ありがとうございました。

『朝茶の湯気にまぎれて』は、
日常の隙間に残り続ける「記憶」を描きたいと思って書いた物語です。

お湯を沸かす音。
茶葉の香り。
器を置く音。
そんな何気ない所作の中に、
もう会えない人のぬくもりが、ふいによみがえることがあります。

齢を重ねるほど、
あのときは疎ましく思っていた小言が、
あとになって宝物のように思い出されることがあります。
同じように、伝えそびれた感謝の言葉もまた、
時間を越えて心のどこかに残り続けるのだと思います。

作中に何度も出てくる湯呑みの「コトン」という音は、
別れのあとも日常を生きていくための、小さな合図として書きました。

失ったものは戻りません。
けれど、誰かが残してくれた温もりは、
新しい器の中で、新しい朝の中で、
形を変えながら生き続けていく。
私はそう信じています。

この物語が、
日々を懸命に生きる誰かの、ひとときの休息になれたなら、
とても嬉しく思います。

また次の朝茶の湯気とともに、
別の物語でお会いできれば幸いです。

通り掛かった
山の中の道の駅に

ゲイシャコーヒー なんて
書かれていて
思わず
それ下さい と…




それは
とても高価なコーヒーで
都会ではとても
それを選べない

それがまた
なんでこんなところで?

それもまた
なんでこんな安価で? と

尋ねながら…

そう
こんな山の中では
きっと誰も知らないであろう

なのに
なんでよ? と
オーナーに尋ねれば

皆さまに
コーヒーを知って頂きたく
利益を度外視してとのこと



だって
普通のホットが400円なのに
ゲイシャが500円…

そりゃあ
知ってたら
もちろん ゲイシャを選ぶでしょ!

さてすれば
もちろん
美味い 美味い



ところで
ゲイシャ? なんて聞くと
これは
国産? なんて思うわけだけれど

いえいえ
芸者とは関係なく
本当は
ゲシャ と呼ばれるようだ





草津方面へと
お出掛けの際は
是非 お試しあれ!…



アマゾン キンドル



通り掛かった道沿いに
かつて
寅さんがいたバス停があって
思わず立ち止まる

六合村から
草津町へと登る 旧峠道

すでに
路線バスは廃止となり
それでも
このバス停だけは
ここに残されたまま







ロケから
45年もが過ぎて
ガードレールは設置され
もう乗り降りの客はいない

それでもこうして
僕のように
わずかでも想いを残す者たちが
時折 訪れては
思いにふける

男はつらいよ は
全部 観た

すれば
時折 こうして通る場所が
かつてのそこだと気付くことがある



あと3年も経てば
寅さんの齢に
並ぶまでに来たこの身体

今まだ
何も残してはいないし
何ひとつ届いてもいない

名を残すことなく
この時代に消えるのだろうが
それで良いと思っている



物は
バス停は
長い年月 ここに残るが

人間たちは
その姿を見事に消し去る

明日にはまた
違うどなたかが来て
それぞれの想いを
ここで噛み締めるのだろう

そんなことだよ
ご同輩…