美貌局のいたずら、
あるいは一日だけの女神



まえがき
誰しも一度くらい、「もし自分が誰もが振り返るような美男美女に生まれ変わったら」と空想したことがあるのではないでしょうか。
鏡に映る自分の顔にほんの少しのため息をつきながら、それでも私たちは日々の暮らしを営んでいます。
この物語は、そんな平凡な毎日を送る一人の女性が、ふとしたきっかけで「一日だけの美貌」を手に入れてしまうお話です。
美しさは人を惹きつける魅力であると同時に、時に人を惑わし、平穏を脅かす刃にもなり得ます。
ページをめくりながら、主人公みるの少し奇妙で賑やかな一日を、どうか笑顔で見届けていただければ幸いです。




第一章 鏡見みるという女
私の名前は鏡見みる。名は体を表すというが、私の場合は表さない。鏡を見るたびに「まあ、こんなものか」と肩を落とするタイプの二十九歳、独身、経理部三年目である。
顔立ちは十人並み。いや、十人並みという言葉すら少し持ち上げすぎかもしれない。目は普通、鼻は普通、口も普通。強いて特徴を挙げるなら、笑うと右頬にだけ小さなえくぼができることだが、そんなものに気づく人間は今のところこの世に一人もいない。
会社では「鏡見さんって真面目だよね」と言われる。真面目、という評価はつまり、他に褒めるところが見当たらないということの婉曲表現だと、私はとうに気づいている。
その日も残業だった。月末の経費精算に追われ、気づけば時計の針は夜十一時を回っていた。同僚たちはとっくに帰り、オフィスには蛍光灯の唸る音だけが残っている。
「はあ……」
ため息とともにパソコンを閉じ、私はビルを出た。八月の夜風は生ぬくく、アスファルトの匂いが鼻をつく。駅までの道を、いつもと同じように歩く。いつもと同じように、誰ともすれ違わず、誰にも見られず。
ふと、いつもは通らない路地に足が向いた。近道になるかもしれない、という単純な思いつきだった。今にして思えば、あの夜の私は少し疲れすぎていたのだろう。判断力が鈍っていたのだと思う。
路地は思いのほか長く、両側には古びた雑居ビルが並んでいた。看板の文字は色褪せ、シャッターは軒並み下りている。まるで時間が止まったような通りだった。
その一角に、妙に真新しい看板を掲げた建物があった。
「美貌局 出張所 夜間受付中」
私は思わず二度見した。美貌局。聞いたこともない役所の名前だ。そもそも役所がこんな路地裏の、しかも雑居ビルの一室にあるはずがない。看板の下には小さく「本日の整理券配布中」と書かれている。
普段の私なら、絶対に近寄らなかっただろう。怪しい勧誘か、宗教か、あるいは単なる悪戯だと判断して、足早に通り過ぎたはずだ。
けれどその夜、私は妙に疲れていて、妙に投げやりで、そして少しだけ、心のどこかで「美しく生まれたかった」という子供じみた願いを持て余していた。
気づけば私は、重い金属のドアを押していた。


第二章 美貌局という役所
中に入ると、意外にも整然とした空間が広がっていた。役所というより、少し古い銀行の窓口のような雰囲気だ。番号札の発行機、パイプ椅子の並ぶ待合スペース、そして壁には「本日の受付時間」と書かれた電光掲示板。
カウンターの奥には、灰色の作業着を着た中年の男性職員が座っていた。名札には「美貌局 運用第三課 係長 福来」とある。
「いらっしゃいませ。初めてのご来局ですね」
福来係長は、まるで郵便局の窓口のような口調で言った。
「あの……ここは、何の施設なんでしょうか」
「美貌局です。人類の容姿に関する運の配分を管理している機関でして」
「はあ」
「簡単に申しますと、この世に生まれてくる人間には、あらかじめ『美貌ポイント』というものが割り振られております。これは総量が決まっておりまして、誰かが多くもらえば、その分、別の誰かの取り分が減る、という仕組みになっております」
福来係長は淡々と、まるで健康保険の仕組みを説明するかのように話し続けた。
「たとえば、世界的に美しいと言われる方々は、平均よりも多くのポイントを配分されております。その代わり、健康運や対人運、あるいは寿命といった、別の枠のポイントが目減りしていることが多いのです。これを我々は『総量保存の法則』と呼んでおります」
「つまり、美人は不幸になりやすいという……」
「あくまで傾向です。絶対ではございません。ただ、統計的には有意な相関が認められております」
私はしばらく言葉を失っていた。目の前の男は大真面目な顔で、まるで税制改正の説明をするかのように、人類の美醜と幸不幸の関係を語っている。
「それで……ここは、何をする場所なんですか」
「本日は特別に、夜間限定の『体験引換券』を配布しております。抽選で選ばれた方には、一日限定で、容姿に関するポイントを大幅に上乗せする権利が与えられます」
福来係長はカウンターの下から、古い抽選箱を取り出した。木製の、いかにも昭和のクジ引きに使われそうな箱だ。
「お客様は、本日の最後のお客様です。せっかくですので、一度引いてみませんか」
断る理由もなかった。というより、あの瞬間の私には、断るという発想そのものが浮かばなかった。疲れた頭で、私はふらふらと箱に手を入れ、一枚の紙片を引き抜いた。
福来係長がそれを覗き込み、一瞬だけ眉を上げた。
「これは……大当たりですね」
紙片にはこう書かれていた。
「特急券 一日限定 傾国の美女コース」


第三章 翌朝の異変
「傾国の美女コースとは、具体的にどういう……」
私が聞き返す前に、福来係長は事務的にスタンプを押し、控えを一枚手渡してきた。
「明日の午前六時より、二十四時間限定で発動いたします。効果終了時刻は明日の午前六時ちょうどです。それ以降は元のお姿に戻りますので、ご安心ください」
「いや、あの、ちょっと待ってください、そんな急に言われても」
「ご不明な点がございましたら、こちらの控えに記載の番号までお問い合わせください。それでは、本日はこれにて閉局とさせていただきます」
シャッターが音を立てて下り始め、私は追い立てられるように路地に押し出された。手の中には「特急券」と書かれた小さな紙切れだけが残っていた。
夢だったのだろうか。そう自分に言い聞かせながら、私は家に帰り、シャワーを浴び、いつもより早くベッドに入った。
翌朝、目覚まし時計より先に、妙な感覚で目が覚めた。頬に触れる空気の感触が、いつもと違う。肌が、なんというか、輝いているような気がする。
洗面所の鏡を見て、私は自分の悲鳴で近所迷惑になるのではないかと本気で心配した。
鏡の中にいたのは、見知らぬ女だった。いや、見知らぬというのは正確ではない。造作の一つ一つは、確かに自分の面影を残している。けれどそのバランスが、まるで名匠が丹精込めて彫り上げた彫刻のように、完璧に整っていた。肌は透き通るように白く、瞳は宝石のように潤み、唇はほんの少し開いただけで、なぜか色気を感じさせる。
「うそでしょ……」
声さえも、以前より少し艶を帯びて聞こえた気がした。
パジャマ姿のまま、私はしばらく鏡の前で立ち尽くしていた。手を頬に当てる。確かに自分の顔だ。けれど、まるで別人のように美しい。
スマートフォンを見ると、控えの紙片の画像と一緒に、福来係長からのショートメッセージが届いていた。
「本日六時より二十四時間、効果発動中です。トラブルの際は速やかに折り返しご連絡ください。良い一日を」
「良い一日を、じゃないよ……」
私は震える手で返信を打とうとしたが、既読すらつかない。どうやら、あちらからの一方通行の連絡らしい。
とりあえず会社には行かねばならない。そう腹を括り、私はいつも通りの服装に着替えた。地味なブラウスとパンツスーツ。けれど、どんな服を着ても、まるで一流モデルが撮影の合間に私服を着ているような雰囲気になってしまうのだから、始末が悪い。
玄関を出た瞬間から、異変は始まっていた。


第四章 街の大騒動
まず、隣のマンションの新聞配達員が、自転車ごと電柱に激突した。次に、通りがかりの犬の散歩をしていた老紳士が、リードを放り出して私に駆け寄ろうとし、犬に思い切り引っ張られて尻もちをついた。
駅までの十分足らずの道のりで、私はすれ違った人々のほぼ全員に二度見された。ある者は口をぽかんと開け、ある者はスマートフォンをこちらに向けかけて我に返り、ある者はただただ立ち止まって私の後ろ姿を見送っていた。
駅のホームでは、電車を待つ間に三人の男性から声をかけられた。連絡先を聞かれ、名刺を渡され、中には「僕、実は御社の近くで働いているんです」と、明らかに嘘だとわかる情報まで開示された。
電車に乗り込むと、車内の空気が変わったのがわかった。誰もがちらちらとこちらを見て、然るべき距離を保ちつつ、気づかれないよう視線を逸らす。その動きが、まるで潮の満ち引きのように車両全体で繰り返される。
「ねえ、あの人モデルかな」
「いや、女優じゃない?」
「なんかオーラが違うよね」
ひそひそ声が耳に届くたび、私は消え入りたい気持ちになった。かつて憧れていた「注目される美貌」というものが、実際には拷問に近いということを、私はこの日、身をもって知ることになる。
会社に着くと、さらに事態は混迷を極めた。受付の警備員は私を見て「お客様、恐れ入りますが、ご用件を」と丁寧に呼び止めた。私が社員証を見せても、しばらく写真と実物を見比べて首をひねっていた。
「鏡見さん……ですよね? なんか、雰囲気変わりました?」
経理部のフロアに入ると、同僚たちの視線が一斉に集まった。普段、私に話しかけることのなかった隣の部署の男性社員が、わざわざコーヒーを買ってきて「これ、良かったらどうぞ」と差し出してきた。今まで挨拶すら交わしたことのない相手だった。
一方で、同期の女性社員たちの反応は対照的だった。
「鏡見さん、今日なんか気合入ってるね」
その声には、笑顔の仮面の下に、はっきりとした刺があった。ランチに誘われることもなく、休憩室では会話の輪から静かに外された。まるで、昨日まで同じ場所にいたはずの自分が、急に別の生き物になってしまったかのような、疎外感。
美しくなったことで、私は人間関係の温度を、以前よりずっと生々しく感じるようになっていた。好意にせよ、嫉妬にせよ、その熱量が急に増したのだ。ちょうど、あの夜聞いた「総量保存の法則」を裏付けるかのように。


第五章 悪い男の影
昼休み、外に出た私を待ち構えていたのは、思いがけない人物だった。
「鏡見さん、ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、営業部の課長、剛田だった。四十代半ば、既婚者で、社内でも「お調子者だが仕事はできる」と評判の男である。今まで私のような目立たない社員に、直接声をかけてくることなどなかった。
「実はね、今度のプロジェクトで、君みたいな人材が必要なんだよ。ちょっと二人で食事でもしながら話さないか」
その笑顔の裏に、私は初めて、はっきりとした下心のようなものを感じ取った。以前の私であれば、こんな誘いを受けることすらなかっただろう。けれど今の私には、なぜか、そういう種類の「熱」が向けられている。
「すみません、今日はちょっと予定が」
やんわりと断ると、剛田課長の表情がわずかに強張った。
「そうか。まあ、また今度でいいよ。でも、鏡見さん、今日は本当に綺麗だね。見違えたよ」
その言葉には、以前の私への評価が一切含まれていないことに、私は静かに傷ついた。昨日までの私は、彼にとって「見えていない存在」だったのだ。
夕方になる頃には、事態はさらに悪化していた。会社を出たところで、見知らぬ男に腕を掴まれたのだ。
「ねえ、お茶でもどう? すごい可愛いね、名前教えてよ」
強引な口調に、私は身の危険を感じた。振りほどこうとしても、思いのほか力が強い。周囲には人通りもあるのに、誰も助けてくれる気配がない。むしろ、遠巻きに見ている人々の中には、スマートフォンを構えている者すらいた。
「離してください!」
必死に声を上げたとき、思いがけない方向から助け舟が入った。
「お客様、少々よろしいでしょうか」
見れば、灰色の作業着を着た、見覚えのある男が立っていた。福来係長である。
「あなたは……」
「美貌局の者です。少々、こちらのお客様には特別な事情がございまして」
福来係長は男に何か耳打ちした。すると男は急に顔色を変え、逃げるようにその場を去っていった。何を言ったのか、私には最後まで分からなかった。
「大丈夫でしたか、鏡見様」
「あの、これ、想像していたのと全然違うんですけど……」
「そのようですね。実は局内でも、少々問題が発生しておりまして」
福来係長の表情に、初めて焦りのようなものが浮かんだ。


第六章 局内のトラブル
福来係長に促され、私は逃げるように路地裏の美貌局へと向かった。
しかし、大通りから路地へ差し掛かったあたりで、私は周囲の雰囲気がどこか異常であることに気づいた。街行く人々がどこかわそわそと落ち着きがなく、互いに強い視線を交わし合い、小さな衝突や口論があちこちで起きている。まるで、空気そのものが過熱して、人々の感情を煮立たせているかのようだった。
薄暗い路地を抜け、建物の重い扉を開けると、昨夜の落ち着いた雰囲気とは打って変わって、局内は騒然としていた。あちこちで電話が鳴り響き、職員たちが慌ただしく走り回っている。
「係長! 大変です、回収システムにエラーが!」
若い女性職員が、書類の束を抱えて福来係長に駆け寄ってきた。
「なんだと。もう一度確認してくれ」
「それが……鏡見様に発行した『特急券』のデータが、システム上で二重登録されていまして。本来は本日午前六時発動、翌午前六時終了のはずが、終了時刻の欄が『未定』になってしまっているんです」
福来係長の顔から血の気が引いた。
「つまり?」
「効果が、いつ切れるか分からない状態です」
その場にいた全員の視線が、一斉に私に集まった。
「え、ちょっと待ってください。それって、私、このまはずっとこの顔ということですか」
「い、いえ、そういうわけでは……あくまでシステム上の不具合でして、必ず修正いたしますので」
福来係長は額の汗を拭いながら、奥の部屋へと駆け込んでいった。残された私は、待合スペースのパイプ椅子に座らされ、しばらく待たされることになった。
隣に座っていた別の職員が、気まずそうに話しかけてきた。
「あの、実はこういうトラブル、昔にも一度あったんです」
「一度あった、ということは……」
「二十年ほど前です。当時、同じように『特急券』の効果が解除できなくなったお客様がいらっしゃいまして」
「その方は、その後どうなったんですか」
職員は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「最終的には、ご本人が『美貌を返上する』という選択をされました。実はこの局のシステムは、本人の強い意志があれば、外部から強制的に解除することも可能なんです」
「意志、ですか」
「はい。ただし、その意志は本物でなければなりません。少しでも『やっぱり美しいままでいたい』という迷いがあると、解除は成立しません。この点が、なかなか厄介でして」
その時、局内にけたたましいサイレンのような音が鳴り響いた。
「緊急事態発生! 緊急事態発生! 対象者の美貌エネルギーが局所的に暴走しています!」
拡声器から響く声に、職員たちが一斉に色めき立った。


第七章 街を巻き込む大事件
「美貌エネルギーの暴走……それって、一体どういうことですか」
私が尋ねると、福来係長が蒼白な顔でモニターの群れを指さした。
「本来ならお一人の中に収まるはずの過剰な『美貌ポイント』が、解除不能のエラーによって行き場を失い、外部へ漏れ出しているのです。鏡見様を中心として、街全体にそのエネルギーが波及しております」
モニター画面には、私自身が先ほど通ってきた大通りや、渋谷駅前、さらには会社周辺のライブカメラ映像が映し出されていた。
交差点では、信号が青になっても誰も渡ろうとせず、ただ呆然と空中の何かを見つめている群衆。カフェのテラス席では、隣り合った見知らぬ男女が突然情熱的に告白し合っているかと思えば、別の場所ではカップルが異常な嫉妬心から激しい口論を始めている。
「鏡見様の持つ圧倒的な魅力の影……いわば熱波のようなものが、周囲の人々の恋愛感情や欲望、嫉妬といった感情を異常に増幅させてしまっているのです」
「そんな……私が街を歩いたせいで、みんながおかしくなっているんですか」
「厳密にはシステムの不具合ですが、このままでは都市機能が麻痺し、パニックを引き起こしかねません」
局内は一気に戦場のような様相を呈した。職員たちが無線で現場の回収班に指示を飛ばし、巨大な電光掲示板には各地の「感情濃度」が数値となって目まぐるしく表示される。
自分がただ「綺麗になりたい」と引き抜いた一枚のクジが、これほど大きな騒動を引き起こしている。その事実の重さに、私は胸が押し潰されそうだった。
「局長! 局長に緊急のご報告が!」
その声とともに、局内の奥から一人の人物が姿を現した。


第八章 美貌局長との対話
現れたのは、意外にも小柄で、白髪交じりの髪をきっちりと結い上げた、初老の女性だった。地味な紺色のスーツを身にまとい、化粧っ気もほとんどない。けれどその佇まいには、不思議な威厳があった。
「局長の月見と申します。此度は当局の不手際で、大変なご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げる局長に、私はかえって恐縮してしまった。
「あの、局長さんは、その、美貌局の局長さんなのに……」
言いかけて、私は失礼だと気づいて口をつぐんだ。けれど月見局長は、静かに微笑んだ。
「見た目が地味だと言いたいのでしょう。ええ、その通りです。むしろ私は、若い頃、当局の顧客として『特急券』を利用した経験があるのです」
「え?」
「三十年前、私も鏡見様と同じように、行き過ぎた美貌に振り回された一人でした。あの頃の私は、あなたが今日一日で味わったであろう混乱を、丸々一年間経験しました」
局長は遠い目をして続けた。
「言い寄ってくる男たちの九割は、私自身ではなく、私の『顔』に恋をしていました。親しかった友人たちは、潮が引くように離れていきました。何より辛かったのは、誰かに褒められるたびに、それが自分の人格や努力への評価ではないと分かってしまうことでした」
局長のお話を聞きながら、私は今朝からの出来事を噛み締めていた。下心を隠さなかった剛田課長。冷たい視線を向けた同期たち。腕を掴んできた見知らぬ男。
「これが……福来係長の言っていた『総量保存の法則』の本当の意味だったのですね。美貌という巨大な運を得た代わりに、私は『平穏』や『本当の人間関係』という対人運を、全部失っていたんだ……」
私が呟くと、月見局長は深々と頷いた。
「気づかれましたか。そう、容姿の美しさは時に、他人からの欲望や妬みを容赦なく引き寄せる磁石となります。それに耐えうる強さを持たない者にとって、過剰な美貌は毒でしかないのです」
局長は私の目をまっすぐに見た。
「鏡見様。今のあなたには、二つの道があります。一つは、このまま美貌を保持し続け、局のシステム修復を待つ道。もう一つは、ご自身の意志で、美貌を返上する道です。修復には数ヶ月かかる可能性もございます」
「返上します」
私は間髪を入れずに答えた。
「本当によろしいのですか。二度と同じ機会は訪れないかもしれませんよ」
「はい。今日一日で、十分すぎるくらい分かりました。美しさは、幸せとイコールじゃないんだって」


第九章 解除の儀式
月見局長は静かに頷き、局の奥にある小さな部屋へと私を案内した。そこには、古めかしい木製の机と、一本の蝋燭、そして一枚の紙が置かれていた。
「これより『返上の儀』を執り行います。この紙に、あなたの本当の気持ちを書いてください。噓偽りのない、心からの言葉を」
「何を書けばいいんですか」
「決まりはございません。ただし、迷いがあれば、この儀式は成立しません」
私はペンを手に取り、しばらく考えた。
脳裏に浮かんだのは、今まで「つまらない」と思っていた自分の日常だった。残業帰りの生ぬるい夜風、誰も自分を振り返らない静かな道、そして、笑ったときに右頬にだけできる小さなえくぼ。誰にも気づかれないけれど、あれこそが間違いなく「私」の証明だったのだ。
私は迷いなくペンを走らせた。
『私は、誰かに見つめられるための顔ではなく、誰かと同じ目線で笑い合うための日常が欲しいです。地味でもいい。目立たなくてもいい。右頬の小さなえくぼに気づいてくれるような、そんなささやかな日常を、自分らしく生きていきたいです。』
書き終えると、紙は淡い光を放ち始めた。局長が蝋燭の火を近づけると、紙はふわりと燃え上がり、灰も残さず消えていった。
「儀式は完了しました。効果は、これより数分以内に解除されます」
その言葉と同時に、窓の外を包んでいた不穏な熱気が、潮が引くように静まっていくのが分かった。モニターの映像も、交差点を整然と渡る人々、穏やかに歓談するカフェの風景へと戻っていく。
「よかった……」
私は胸を撫で下ろした。
差し出された鏡を覗き込むと、そこにはいつもの、見慣れた自分の顔があった。十人並みの、平凡な顔。けれど不思議と、昨日の自分よりもずっと愛おしく、誇らしく感じられた。


第十章 局長の後日談
「本日は、本当にご迷惑をおかけしました。お詫びとして、局からいくつかお渡ししたいものがございます」
月見局長はそう言って、小さな箱を差し出した。
「これは?」
「今回の件でご不便をおかけした分の、ささやかな『運の補填』です。とはいえ、容姿に関するものではございません。当局としても、同じ轍は踏みたくございませんので」
箱を開けると、中には一枚のカードが入っていた。「対人運・小」「金運・小」「健康運・小」と書かれている。
「これで、今日一日の疲れが少しでも癒えることを願っております」
「あの、局長。一つ聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「美貌局って、そもそも何のために存在しているんですか。美人になりたい人の願いを叶える場所、というだけではないですよね」
局長は少し考えるように目を伏せた。
「我々の本当の役目は、容姿と幸福の関係について、多くの人に気づいてもらうことです。人は、自分にないものを羨むあまり、時にそれを手に入れることの代償を見落としてしまいます。美貌局は、その代償を実際に体験していただくことで、本当の意味での『足るを知る』きっかけを提供しているのです」
「じゃあ、今日のことも、ある意味で必要な出来事だったと」
「システムエラーは完全にこちらの落ち度ですので、それを正当化するつもりはございません。ですが、鏡見様がご自身の力で答えを見つけられたことは、当局としても大変嬉しく思っております」
局長は柔らかく微笑んだ。その笑顔には、若い頃、美貌に振り回された経験を経て、今の穏やかな境地にたどり着いた人だけが持つ、深い説得力があった。
「それでは、鏡見様。お帰りの際は、どうぞお気をつけて。そして、これからの日常を、どうかご自身らしく歩んでください」
私は局を後にした。路地を抜け、大通りに出ると、いつもと変わらない街の喧騒が広がっていた。誰も私を見ていない。誰も振り返らない。それが、こんなにも心地よいことだとは、今日一日を経験するまで知らなかった。


第十一章 それからの日々
翌日、私はいつも通り会社に出勤した。
「おはようございます、鏡見さん。あれ、今日はなんかいつもの雰囲気だね」
同期の女性社員が、何事もなかったかのように話しかけてきた。あの日、私に感じていたであろう刺々しさは、綺麗さっぱり消えていた。まるで、昨日の出来事全体が、街の人々の記憶からも消え去ってしまったかのようだった。
もしかしたら、局の力で、街の人々の記憶にも何らかの調整が加えられたのかもしれない。真相は分からない。けれど、それならそれで構わないと、私は思った。
剛田課長も、以前と変わらない距離感で接してきた。今度こそ、私は彼の本質を見誤らずに済んでいる。あの日の下心を目の当たりにしたおかげで、少しばかり彼を見る目が変わったのは事実だが。
昼休み、私は久しぶりに鏡の前で自分の顔をじっくりと見た。十人並みの、いつもの顔。けれど、あの一日を経験したことで、この平凡な顔にも、ちょっとした愛着が湧いてきていた。
美しさは、確かに人を惹きつける。けれど、その惹きつける力は、時に諸刃の剣にもなる。好意も、嫉妬も、下心も、羨望も、すべてが普段よりずっと強い熱量でこちらに向けられる。その熱に耐えられるだけの強さを、今の私はまだ持っていない。
けれど、いつか。もし本当に強くなれたら、また違う答えが出るのかもしれない。そんなことを考えながら、私はパソコンの画面に向き直り、月末の経費精算を再開した。


第十二章 控えめな幸福
数週間後のある夜、私は再びあの路地を通りかかった。看板は相変わらずそこにあったが、今度はシャッターが下りていて、明かりも消えていた。
「休業日、なのかな」
シャッターの脇に、小さな貼り紙があった。
「本日、局内研修のため休局とさせていただきます。次回開局は未定です。なお、当局のサービスをご利用になったお客様の多くが、最終的には『何も持たないことの豊かさ』に気づかれます。それもまた、人生の醍醐味かと存じます。──美貌局一同」
私は思わず笑ってしまった。役所らしからぬ、ずいぶんと人間味のある文言だ。
ふと、あの日書いた紙の内容を思い出す。「誰かと同じ目線で笑い合うための日常が欲しい」。あれから、私の生活は劇的に変わったわけではない。相変わらず経理部で数字と格闘し、相変わらず地味な服を着て、相変わらず誰にも二度見されない毎日を送っている。
けれど、一つだけ確かに変わったことがある。以前の私は、電車の窓に映る自分の顔を見るたびに、ため息をついていた。今は、少しだけ、微笑むことができるようになった。右頬に、小さなえくぼを浮かべながら。
美を授かれば幸薄し、という言葉は、あながち間違ってはいないのかもしれない。けれど、美を授からなくても、幸せになれないわけではない。むしろ、平凡だからこそ見える景色、平凡だからこそ築ける関係というものが、確かにこの世には存在する。
あの夜の自分に、今の私なら、こう伝えたい。
「一度くらいそんな容姿を手に入れてみたい、と思う気持ちは、きっと誰にでもある。でも、いざ手に入れてみると、案外そこには、思っていたような幸せは転がっていないかもしれないよ」
そして、こうも付け加えたい。
「それでも、もし美貌局の看板を見かけることがあったら、一度くらい、覗いてみるのも悪くないかもしれない」


エピローグ 噂の行方
それから半年ほど経ったある日、会社の給湯室で、後輩の女性社員がこんな噂話をしているのを耳にした。
「聞いた? 渋谷の裏路地に、一日だけ絶世の美女になれる不思議なお店があるらしいよ」
「えー、都市伝説みたいな話だね。行った人いるの?」
「知り合いの知り合いが体験したらしいんだけど、なんか、その日は街中が大変な騒ぎになったんだって。でも、詳しい話は誰も覚えてないみたいで」
「怪しいなあ、それ」
「でもさ、もし本当にそんな場所があったら、ちょっと行ってみたくない?」
私は、思わず口元が緩むのを感じながら、コーヒーを一口飲んだ。
「私だったら、遠慮しておくかな」
「え、鏡見さん、興味ないんですか?」
「うーん、興味がないと言えば嘘になるけど……」
窓の外に広がる、いつもと変わらない街の風景を眺めながら、私は静かに続けた。
「美しさより、大事なものがあるって、もう知っちゃったから」
後輩はきょとんとした顔をしていたが、私はそれ以上、詳しくは説明しなかった。あの一日の出来事は、私だけの、ちょっとした秘密の思い出として、心の奥にそっとしまっておくことにしたのだ。
美貌局が今どこで、何をしているのかは分からない。もしかしたら、また別の誰かが、あの路地裏の看板を見つけ、抽選箱に手を伸ばしているのかもしれない。
そしてその人もまた、一日だけの女神を経験し、たくさんの騒動を巻き起こし、最後には、平凡な日常のかけがえのなさに気づくのかもしれない。
美を授かれば幸薄し。けれど、授からずとも、幸せは、案外すぐそばに転がっている。
そのことに気づけた分だけ、あの奇妙な一日は、私にとって、確かに価値のある出来事だったのだと思う。

(了)


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あとがき
物語の主人公・鏡見みるのように、「もっと容姿に恵まれていたら」「もっと違う自分になれたら」という想いは、多かれ少なかれ誰もが抱いたことのある身近な感情だと思います。
しかし、もし本当にその願いが叶ったとき、私たちは何を得て、何を失うのでしょうか。
作中に登場する「美貌局」は、一見風変わりで少し迷惑な存在ですが、彼らの語る「総量保存の法則」や「足るを知る」という言葉には、私たちが普段忘れがちな日常の豊かさへの視点が込められています。
主人公が最後に選んだのは、決してあきらめや妥協ではなく、「自分自身を誇らしく愛おしく思う気持ち」でした。笑うと右頬にできる小さなえくぼのように、誰に気づかれずとも自分だけが知っている小さな愛おしさを、大切にしていきたいものです。
読者の皆様の日々の暮らしの中に、温かく小さな幸せが一つでも多く見つかりますように。





体内シェアハウス開業記
――満室、につき。


まえがき

この話を思いついたのは、深夜にコンビニの唐揚げ弁当を温めている時でした。レンジの中で回る弁当を見ながら、もし今、自分の手が勝手にフレンチを作り始めたらどうしよう、と考えたのが始まりです。
誰かのクレームを一日中聞いている人が、最後には宇宙規模のクレーム窓口に電話をかける。そういう皮肉な逆転が書きたかったのだと思います。狭い1DKに誰かと暮らす窮屈さと安心感、その両方が体内で起きたら面白いな、と。




一章 
耳鳴りと、深夜の三ツ星カルボナーラ

田中一平、三十二歳。職業、引越センターのお客様相談室オペレーター。
座右の銘は「クレームは静かに受け止め、静かに忘れる」だった。
三年間その銘を忠実に守った結果、一平の表情筋は驚くほど衰えていた。
その日も電話越しに怒鳴る初老の男性に「大変申し訳ございません」を十七回繰り返し、定時で会社を出た。コンビニで唐揚げ弁当を買い、自宅アパートの三階、1DKの部屋に帰り着いたところで、それは起きた。
キーン。
飛行機が急降下した時のような、鼓膜の奥がすぼまる感覚。一平は思わず耳を押さえた。視界の端に輪郭のぼやけた影のようなものが現れる。それは音もなく漂い、ためらいもなく彼の胸へ飛び込んできた。
「うわっ」
痛みはない。弁当の唐揚げを一つ口に運べるくらいには冷静だった。
幻覚か、残業続きでとうとう来たか。そう結論づけて風呂に入り、布団に潜り込んだ。心臓だけがやけに速く打っていた。
目が覚めたのは深夜二時だった。正確には起こされたのだ。キッチンからジュウジュウという音と、どう考えても唐揚げ弁当から出るはずのない良い匂いが漂ってきていた。
恐る恐る覗くと、一平自身の身体が、一平の意思とは無関係にフライパンを振っていた。
「は?」
自分の手が卵とベーコンとチーズを熟練の手つきで操っている。湯で加減も火加減も塩の一振りも淀みない。
頭の中に人懐っこい声が響いた。
『あ、しまった。声が出せる状態か確認してなかった。どうも、突然お邪魔してすみません。私、しばらくこちらの身体お借りしますね。家賃は美味い飯でお支払いします』
「え、あ、はい。いやちょっと待って、あなた誰ですか」
『名乗るほどでも。この宇宙では、ですが。まあシェフとでも呼んでください。ところで黒胡椒はもう少し挽いた方がいいですね』
一平の右手が勝手に胡椒ミルを回した。
その夜、一平は生まれて初めて食べる本格カルボナーラに舌鼓を打ちながら、これは夢に違いないと思った。
翌朝、フライパンは綺麗に洗われて伏せられ、キッチンには微かにチーズの香りが残っていた。



二章
哲学者、社内会議に降臨す

シェフは三日ほど滞在し、毎晩何かを作っては四日目の朝「では次の便に乗り換えますので」と言い残して去った。耳の奥で小さくキーンと鳴った気がした。
一平はこれが夢ではないことをうっすら悟り始めていた。悟りつつも会社には行かねばならない。悟りは家賃を払ってくれない。
事件は月例の営業会議で起きた。支店長が「今期のクレーム対応件数について」と話し始めた瞬間、またあの音が鳴った。
キーン。
覚悟する間もなく胸のあたりが温かくなり、一平の口が勝手に開いた。
「支店長。クレームとは、他者の言葉によって自己の期待という虚構を打ち砕かれた人間が発する悲鳴のようなものです。我々が対応すべきは電話の向こうの怒りではなく、その者が抱える期待という幻影そのものであり」
会議室がしんと静まり返った。
『失礼、私は思索する者でしてね。せっかくの機会だ、少し語らせてもらった』
頭の中の新しい声は落ち着いていて、そして止まらなかった。一平の口はその後二十分にわたりカントを引用し、プラトンの洞窟の比喩を持ち出し、最終的に「クレーム対応マニュアルは近代合理主義の墓標である」という結論に達した。
支店長は涙ぐんでいた。
「田中くん、いや田中主任。君、そんな深いこと考えてたのか。今期のMVPは君に決まりだ」
一平は椅子の上で真っ青になりながら弁明しようとしたが、口はまだ貸し出し中だった。
その日を境に一平は社内で哲学する主任として一目置かれるようになった。悪い変化ではなかったが、毎晩鏡の前で「僕は一体誰と体を分け合っているんだ」と自問する日々が始まった。
哲学者は五日目の朝「次の便が参りますのでお先に」と言い残して去った。
一平はノートを買った。表紙に「体内来訪者、記録」と書き、日付と症状と体感時間、そして可能なら訪問者の名乗りを几帳面に書き留め始めた。三十二年の人生でこれほど熱心に何かを記録したことはなかった。



三章
犬になった夜、バズる

三人目の来訪者は毛色が違った。
土曜の夕方、近所の公園を散歩していた時だった。キーンという耳鳴りのあと、いつものように何かが胸に飛び込んできた。ただし自己紹介はなかった。
代わりに一平の身体は芝生の上で四つん這いになった。
「ちょっ」
『わふっ』
一平の意識は絶叫していたが、身体は嬉しそうに尻尾を振る感覚を出していた。尻尾はないのに振っている感覚だけがある。近くにいた小学生たちが「わんわんおじさんだ」と歓声を上げ、スマートフォンを向け始めた。
身体は公園を全力疾走し、噴水に飛び込み、ベンチの下の匂いを嗅ぎ回り、最終的にハトの群れに向かって突進した。
その一部始終は当然動画に撮られ、その夜のうちに「犬化するサラリーマン」というタイトルで投稿された。
翌朝、通知が鳴りやまなかった。動画は十五万回再生され、コメント欄には「新手のパフォーマンス芸人」「メンタルやられてる系Vtuberの中の人説」「ハトさん可哀想」などと好き放題に書かれていた。
一平は布団の中で頭を抱えた。幸い日曜日で同僚に見つかることはなかったが、月曜、給湯室で先輩に「田中くん、あの犬の動画めっちゃ似てるって噂になってるよ」と言われた時は心臓が凍った。
「あは、そっくりですね、赤の他人ですけど」
平静を装いながらノートに一行加えた。
三人目、来訪時間約十八時間。特徴、犬。名乗りなし。要注意、公共の場では危険。
そして震える字で付け加えた。
これは一体何が起きているのか。誰かに相談すべきではないか。



四章
骨董屋の老婆と、異次元急便のからくり

誰に話せばいいのか分からなかった。心療内科に行けば解離性の症状で片づけられるし、友人に話せば頭がおかしくなったと思われるだけだ。
答えは偶然見つかった。
駅前の路地裏で小さな骨董屋を見つけた。看板には「なんでも屋、耳鳴堂」とある。吸い寄せられるように暖簾をくぐった。
奥から白髪を団子に結った小柄な老婆が出てきた。
「いらっしゃい。ああ、あんたね。最近賑やかにしてる子は」
「え」
老婆は一平の耳のあたりをじっと見つめ、深く頷いた。
「耳、キーンとなるだろう。しょっちゅう」
一平は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「なんで分かるんですか」
「あたしも昔同じ目に遭ったからね。かけなさい」
丸椅子に腰を下ろすと、老婆は熱い緑茶を差し出しながら信じがたい話を語り始めた。
「この宇宙にはね、いろんな次元をまたいで存在を運ぶ便があるんだよ。人間でいう宅配便のもっとでかい版さ。行き場を失った魂を然るべき受け皿まで運ぶ仕組みだ」
「受け皿」
「そう。その配送センターが最近人手不足か機械の不調かでミスが続いてるらしい。本来なら特別な待機所に届くはずの荷物が、誤って一般人の身体に配達されちまってる」
「それが僕ってことですか」
「あんたの鼓膜、向こうの周波数と共鳴しやすいんだろうね。いわばあんたの耳は今、宇宙便の誤配達多発地点に指定されちまってるってわけだ」
自分の耳が不名誉なランキングに入っているとは。
「乗客たちは、いつまで僕の中に」
「本来の行き先が決まるまでだよ。運が良けりゃすぐ次の便で出てくし、悪けりゃ居座る。ただ一番厄介なのは、乗客本人がもう行きたくないって言い出した時だよ。人間界を気に入っちまう奴もたまにいるからね」
その言葉の意味を一平はまだ理解していなかった。
老婆は名をトメさんと名乗り、一枚の名刺を差し出した。
異次元急便 お客様相談窓口
「ここに電話しな。ただし覚悟しときな。あの会社、対応が輪をかけてお役所仕事だから」



五章
コールセンター地獄めぐり

半信半疑のまま、その夜記載された番号に電話をかけた。
『お電話ありがとうございます。異次元急便でございます。現在大変混み合っておりますので、このまましばらくお待ちください』
保留音は地球のエリーゼのためにではなく、聞いたこともない不協和音のオルゴールだった。四十分後、ようやく繋がったオペレーターの声は驚くほど一平自身の会社のトーンと似ていた。
「お客様の受信履歴を確認いたします。確かに三件、誤配達の記録がございますね。大変申し訳ございません」
「返品というか、正しい場所に届け直すことはできますか」
「まずは苦情受付フォームにご記入いただき、多次元照合部門の審査を通していただき、その上で再配達日を。およそ地球時間で六十営業日後になります」
「六十営業日」
自分が日々顧客に告げていた少々お日にちをいただきますを、まさか言われる側になるとは思わなかった。
「その間も僕の身体には次々と来客があるんですが」
「はい、それはシステムの仕様でございまして、修正には別途上位部署の承認が必要となります」
「ちなみに件数、三件で合ってますか。最近やけに賑やかで」
「記録上は三件ですが。あ、ログが増殖していますね。少々お待ちを」
そこで電話は切れた。
皮肉にもほどがあると思いながらも、一平はこういうお役所対応の攻略法だけは心得ていた。翌日から毎晩電話をかけ続け、窓口を変え、担当者を変え、時には上長を出してくださいと粘った。三年間理不尽なクレーマー対応で鍛えた粘り腰がまさかの形で開花しつつあった。
七日目の夜、ついに驚くべき情報を引き出すことに成功する。
「実は今週末、当社の回収班が誤配達の是正のため貴地域へ直接出動する予定になっております」
「回収班」
「ええ。未回収の乗客を強制的に本来の行き先へ転送する部隊です。ただ正直に申し上げますと」
オペレーターの声が小さくなった。
「回収を拒否する乗客がいる場合、少々派手な事態になることがございます」



六章
回収人、襲来 満室事件勃発

土曜の夜。一平のアパート周辺でそれは起きた。
空が蜃気楼のように揺らめいたかと思うと、上空に見たこともない幾何学模様の光の輪が浮かび上がった。近隣住民はUFOだ、いや新手の広告投影じゃないかと騒ぎ始め、あっという間に野次馬とテレビの中継車が押し寄せた。
アパートの前に降り立ったのは灰色の作業服を着た三頭身ほどの小さな存在が三体。手には宅配業者おなじみの不在票そっくりの端末を持っている。
『お客様、誤配達物の回収に参りました。ご在宅で。あ、いらっしゃいますね。体内の未配達品確認させていただきます』
この期に及んでも敬語なんだと一平は半ば呆れながら玄関に出た。すると耳の奥でこれまでとは違ういくつもの音が同時に鳴り響いた。
キーン、キーン、キーンキーンキーン。
「何ですかこれ」
『失礼ですが現在体内に何名様ご滞在で』
「僕が把握してるだけで三人」
『そんなはずは。確認いたします。お客様、大変申し訳ございません。実は本便、システム障害の影響でこの一週間、お客様の体内に合計十一名様のお荷物を誤って集中配送しておりました』
「十一人」
絶叫と同時に胸の中で何かがせめぎ合う感覚が走った。犬になった三人目も哲学者もシェフも、そして名前も知らない八人の来訪者たちが一斉に主張し始めた。頭の中が満員電車のホームのアナウンスのように騒がしくなる。
『出ません』
はっきりした声が響いた。シェフだった。
『私はこの身体の台所が気に入りました。もう少し良い仕事をさせてもらいたい』
『私もこの星の哲学書には目を通し終えていない。もう少し滞在を希望する』
哲学者も加勢する。回収班の三体は端末を前に明らかに困惑していた。
『乗客の意思確認が取れない場合、こちらとしては強制転送措置を』
その時、一平の中で何かがぷつんと切れる音がした。三年間、他人の理不尽な要求を申し訳ございませんで受け止め続けてきた最後の一線が。
「ちょっと待ってください」
初めて自分の意思だけで大きな声を出した。
「僕の身体で、僕に無断で勝手に住んで勝手に出て行くとか出て行かないとか揉めないでください。少なくとも僕にも意見を言う権利があるはずです」
体内がしんと静まり返った。回収班も来訪者たちも皆一平の言葉に耳を傾けた。
「正直振り回されっぱなしでした。でもシェフさんのカルボナーラは美味しかったし、哲学者さんのおかげで会社での評価も上がった。犬になったのは勘弁してほしかったですけど、全部が全部嫌だったわけじゃない」
一平は深呼吸をした。
「だから提案です。行きたい人はちゃんと正規の便で送り届けてあげてください。でももし本当に希望するなら、僕はこの部屋を正式な滞在所として貸し出してもいいです。ちゃんと契約という形で。もう誤配達じゃなくて」
回収班のリーダーらしき一体がしばし沈黙したあと端末を操作した。
『前例のない申し出ですが、規約上受け入れ可能な条項がございます。第九十九条、受信者本人の自由意志による正規シェアハウス契約への切り替え』
『適用いたします』
上空の光の輪がふっと消えた。野次馬たちはなんだ結局ただの照明トラブルだったのかと口々に言いながら散っていった。テレビの中継車は原因不明の光害現象現在調査中というテロップを流して撤収した。
こうして満室事件は地球の歴史書には一行も記されることなく静かに幕を閉じた。



七章
満室、につき 新しい暮らし

あれから半年。
一平の1DKアパートの表札の下には小さな木製のプレートがもう一枚増えている。まだニス塗りの匂いがする。
体内シェアハウス キーン荘 入居者募集中 応相談
冗談のようなプレートだが半分本気だ。あの夜以来一平は正式に異次元急便と契約を結び、行き場を探す存在たちの一時的な受け皿として生きることを選んだ。もちろん無報酬ではない。契約に基づき、来訪者たちは滞在中それぞれの得意分野で家賃を支払っていく仕組みになっている。
シェフは今も時々戻ってきては腕によりをかけた料理を振る舞ってくれる。哲学者は一平の悩み相談に驚くほど的確なアドバイスをくれるようになった。ただし長い。犬になった彼は結局回収されることを選んだが、去り際にまた遊びに来ると言い残していった。
会社は思い切って辞めた。三年間鍛えたクレーム対応力を武器に、今は小さな相談窓口を個人で開業している。人間のクレームも、たまに次元を超えたクレームも分け隔てなく受け付ける、この宇宙でも珍しい何でも屋だ。看板にはこう書いた。
田中一平 よろず相談所 こちら側もあちら側も大歓迎
トメさんの骨董屋にも時々顔を出す。「あんた、ずいぶん逞しくなったねえ」と言われるたび、一平は少し照れくさそうに笑う。
そして今も時々、本当に時々だが耳の奥であの音が鳴る。
キーン。
以前の一平なら震え上がっていただろう。だが今は違う。玄関のチャイムが鳴った時のように軽く伸びをしてこう呟く。
「はいはい、どちら様ですか」
目の前に何かが現れ、次の瞬間飛び込んでくる。痛みはない。身体に変化もない。
心臓は相変わらず少しだけ速く脈打つ。ドキドキしながら一平は新しい来客を迎え入れる。
それが夢だったのか、それとも一瞬意識が遠のいただけなのか、そんなことはもう気にしていない。
だってこの胸の中は、今日もきっと誰かの新しい行き先になるのだから。




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あとがき

この物語は最初から最後まで田中一平という凡人の視点で押し切ろうと決めていました。

特別な能力も使命もない男が、理不尽な仕組みに対して最後にできることが「契約に書き換える」というのが自分的に気に入っています。

暴力でも魔法でもなく、事務手続きで世界を救う話です。
もし気に入っていただけたら、あなたの中のキーン荘にも耳を澄ましてみてください。誰かが住みたがっているかもしれません。


永遠の嘘
〜三十五年目の真実〜  加筆版


まえがき
人は誰しも、胸の奥にそっと仕舞い込んだままの記憶を持っているのではないでしょうか。若き日の青苦い後悔、言葉にできなかった想い、そして時が経つほどに愛おしく、あるいは少しだけ切なく蘇る誰かの面影。
本作『永遠の嘘 三十五年目の真実』は、人生の後半を迎えた一人の男が、かつての恋人との思いがけない再会をきっかけに、三十五年前に封印した親友の嘘と再び向き合う物語です。
真実を白日のもとに晒すことだけが救いとは限らない。時には、優しい嘘をそのまま受け入れ、抱えて生きることこそが大人としての深い愛であり、受容なのかもしれません。
静寂の中に立ち上るコーヒーの香りや、雨上がりのアーケードの光と共に、皆様の心の中にあるあの頃の記憶にそっと寄り添うことができれば幸いです。



序章 アーケードの雨上がり
雨上がりのアーケードは、濡れたアスファルトの匂いと、どこかの店から流れてくるコーヒーの香りが混ざり合っていた。ガラス屋根から滴る水滴が、ひとつ、またひとつと、光の粒になって落ちていく。頭上のガラス越しに、洗われたばかりの空の色が淡く滲んで見えた。
僕は傘の水を切りながら、何も考えずに歩いていた。六十をいくつか過ぎてから、時間の流れ方が変わった。若い頃はあれほど急いでいたのに、今はもう急ぐことも焦ることもない。信号が変わるのを待つ間ですら、以前なら苛立っていたはずなのに、今はただぼんやりと空を見上げる余裕がある。待つことにも、随分慣れたものだ。
商店街のスピーカーからは、季節外れの童謡が流れていた。夕方五時を知らせる合図らしい。子供たちの下校を促すその旋律を聞きながら、僕はふと、自分の人生の残り時間について考えていた。そんなことを考えるようになったのも、ここ数年のことだった。
「元気?」
声をかけられて振り返ると、そこに彼女がいた。
三十五年という歳月は、人の輪郭をずいぶんと変えるものだけれど、その声だけは、あの頃のままだった。少し高めで、語尾がふわりと浮くような、独特の話し方。その声を聞いた瞬間、僕の中で何かの回路が一気に繋がったような感覚があった。
「おお」
僕はそれだけしか言えなかった。何を言えばいいのか、この歳になっても分からないことがあるのだと、少し可笑しくなった。用意された台詞など、人生には存在しないのだと、こんな些細な場面で思い知らされる。
彼女、有紀は、白髪をきれいに染めた髪を耳にかけながら、少し驚いたような、それでいてどこか安堵したような表情を浮かべた。若い頃よりも少し丸みを帯びた輪郭。けれど、笑うと覗く八重歯だけは、あの頃のまま変わっていなかった。
「今日、実家に用があって戻って来たの。少し時間ある?」
断る理由もなかった。というより、断るという発想そのものが浮かばなかった。僕らは吸い寄せられるように近くの喫茶店に入り、窓際の席に座った。
店内には、古いジャズのレコードが流れていた。壁には色褪せた映画のポスターが貼られ、時間の止まったような空間だった。こういう店が、まだこの街に残っていたことに、僕は少し驚いた。
注文したコーヒーが来るまでの沈黙は、気まずいものではなく、むしろ懐かしいものだった。三十五年前、僕らはよくこうして、言葉を交わさなくても、ただ同じ空気を吸っているだけで満たされていた時期があった。
「最後、喧嘩別れのようだったから、言えなかったことがあってね」
有紀はカップを両手で包み込むようにして、静かにそう切り出した。彼女の指先には、いくつかの染みが浮いていた。それは紛れもなく、僕の知らない三十五年間を、彼女がひとりで生きてきた証だった。
運ばれてきたコーヒーからは、細い湯気が立ち上っていた。窓の外を、傘をさした学生の一団が笑いながら通り過ぎていく。その屈託のない笑い声を聞きながら、僕は自分たちにもかつて、あんな時代があったのだと、静かに思い返していた。
僕はその言葉に、どこか予感めいたものを覚えた。三十五年前のあの日々が、今日という日に向かって、ずっと繋がっていたのかもしれないという予感を。
物語は、そこから三十五年前に遡る。






第一章 茶色の髪をバッサリと
時間を三十五年ほど巻き戻す。
僕はまだ、社会に出たばかりの若造だった。大学四年の夏、サークルの合宿で湘南の海に通い詰め、すっかり茶色くなった髪を、入社式の前夜、洗面所の鏡の前でバッサリと切った。ハサミの音が響くたびに、学生時代の自分が床に落ちていくようで、少し寂しい気持ちになったのを覚えている。
母親には「もう少しそのままでもよかったのに」と言われたけれど、僕なりのけじめのつもりだった。学生から社会人へ。その境目を、目に見える形で自分自身に刻みつけておきたかったのだと思う。
鏡に映る自分は、黒く短い髪と真新しいスーツのせいで、ずいぶん他人行儀に見えた。まるで誰か別の人間になりすましているような、そんな居心地の悪さがあった。革靴の硬さも、ネクタイの締め付けも、何もかもが借り物のように感じられた。
入社式の翌週、僕は営業部の研修に配属された。同期は全部で十二人。それぞれが緊張した面持ちで、名刺の渡し方や電話の取り方を、大真面目に練習していた。そこで出会ったのが、淳だった。
淳は、同期の中でも一際目立つ男だった。背が高く、笑うと目尻に皺が寄る人懐こい顔立ちで、誰に対しても分け隔てなく接した。かと思えば、書類仕事は誰よりも丁寧で、講師役の先輩たちからの評判も良かった。要領がいいというよりは、丁寧さの積み重ねで信頼を得ていくタイプだった。
「お前、その髪、切る前はどんなだったんだよ」
研修初日の懇親会で、淳はそう言って笑った。まだ互いの名前も覚えきっていない中、彼だけが妙に馴れ馴れしく、けれど不快ではない距離感で話しかけてきた。
「海で焼けて、真っ茶色だったんですよ」
「見たかったな、それ。今のお前、真面目すぎて逆に胡散臭い」
「お前もいきなり失礼だな」
そんな軽口を叩き合ってから、僕らはすぐに打ち解けた。研修が終わる頃には、休みの日も連絡を取り合うような仲になっていた。二人でボウリングに行ったり、安い居酒屋でくだを巻いたり、社会人としての戸惑いを互いに吐き出し合うような日々だった。
淳という男には、不思議な魅力があった。饒舌なわけではないのに、彼のまわりにはいつも人が集まった。思えば、それは彼が誰かの話を遮ることなく、最後まで丁寧に聞く男だったからかもしれない。相手の言葉を大切に受け止める、そういう佇まいが彼にはあった。
僕は当時、彼のそういうところに密かに憧れていた。自分にはない資質だと思っていたから。僕はどちらかといえば、人の話を聞きながらも、次に自分が何を話すかを考えてしまうタイプだった。淳は違った。彼は本当に、相手の言葉そのものに興味を持っているようだった。
入社して半年ほど経ったある日、淳が「紹介したい子がいるんだ」と言って、僕を居酒屋に呼び出した。
「紹介したい子? お前の彼女か?」
「違う違う。俺の従兄弟の同僚なんだけどさ、いい子なんだよ。お前、最近ずっと女っ気ないだろ」
「余計なお世話だよ」
「いいから、来いって。今度の金曜、空けとけよ」
余計なお世話だと思いながらも、僕は少し心を弾ませて約束の日を待った。あの頃の僕は、仕事にも慣れず、寮の狭い部屋と会社の往復ばかりの、少し味気ない日々を送っていた。誰かとの新しい出会いというものが、単純に嬉しかったのだと思う。
そうして現れたのが、有紀だった。
小柄で、笑うと八重歯が覗く、飾らない雰囲気の女性だった。第一印象は、正直に言えば地味だった。地味というのは悪い意味ではなく、着飾らない、自然体という意味だった。けれど話し始めてすぐに、その印象は覆った。彼女の言葉には、ひとつひとつに芯があった。愚痴を言うときですら、どこかユーモアが滲んでいて、聞いていて飽きなかった。
「淳くんから聞いてたより、なんか普通の人ですね」
初対面の有紀に、開口一番そう言われて、僕は面食らった。
「え、普通で悪かったな」
「いい意味ですよ。淳くんが紹介する人って、なんか変わった人多いから」
その日、三人で飲んで、笑って、終電近くまで話し込んだ。有紀は仕事の愚痴も交えながら、時折驚くほど鋭い観察眼を披露した。この人は、物事の表面だけでなく、その奥にある何かをいつも見ようとしている人なのだと、僕はその夜のうちに感じ取っていた。
別れ際、淳が僕の背中を叩いて「な、いい子だろ」と耳打ちしたのを、今でも覚えている。あの時の淳の笑顔に、何の陰りもなかったことを、僕は今でもはっきりと思い出すことができる。
その帰り道、僕は淳と二人、駅までの夜道を歩いた。
「お前、有紀のこと、気に入っただろ」
「まあ、な。お前の紹介だから、ちょっと身構えてたけど」
「だろ? 絶対うまくいくと思うんだよな、お前らは」
淳は、まるで自分の未来を語るかのように嬉しそうに話していた。その横顔には、少しも迷いや躊躇いは感じられなかった。少なくとも、僕にはそう見えた。
「お前は、いいのか。有紀ちゃんのこと、俺に紹介して」
僕が何気なくそう訊ねると、淳は一瞬黙り込んだ。それから、いつもより少しだけゆっくりとした口調で、こう答えた。
「いいんだよ。お前らが幸せになるのが、俺にとっても嬉しいんだから」
その言葉の意味を、僕はあの頃深く考えることをしなかった。ただの友情からくる言葉だと、素直に受け取っていた。振り返ってみれば、あの言葉の奥に、僕の想像も及ばないほどの複雑な想いが込められていたのかもしれない。



第二章 二人の日々
それから僕と有紀は、少しずつ距離を縮めていった。最初は淳を交えた三人での食事だったのが、いつしか二人だけで会うようになり、映画を観たり、休日に遠出をしたりするようになった。
初めて二人きりで会った日、僕らは水族館に行った。有紀は、大きな水槽の前で子供のように目を輝かせて、「見て、あの魚、絶対笑ってる」と僕の袖を引っ張った。その無邪気さが、彼女の普段の落ち着いた雰囲気とのギャップになっていて、僕はすっかり魅了されてしまった。
あの頃の東京は、今よりずっと猥雑で、活気があった。バブルの余韻がまだ薄っすらと残っていて、街には妙な浮かれた空気があった。僕らは特別な場所に行かなくても、ただ街を歩くだけで楽しかった。古本屋を覗いて、喫茶店でコーヒーを飲んで、公園のベンチで他愛のない話をする。それだけで、一日が満たされていくような感覚があった。
有紀は、些細なことによく気づく人だった。僕が疲れている日は、何も言わなくても察して、無理に話しかけずにそっとしておいてくれた。逆に僕が浮かれている日は、一緒になって浮かれてくれた。そういう呼吸の合わせ方が、自然にできる人だった。
夏の花火大会に行った日のことを、僕は今でもよく覚えている。人混みに揉まれながら、有紀とはぐれないように手を繋いで歩いた。花火が上がるたびに、彼女の横顔が光に照らされて浮かび上がった。その横顔があまりに美しくて、僕は花火よりも彼女の顔ばかり見ていた。
「花火、見てないでしょう」
気づいた有紀にそう咎められて、僕は慌てて夜空を見上げた振りをした。あの時の彼女の笑い声を、僕は今でも耳の奥で鮮明に思い出すことができる。
冬になり、僕らは初めて二人でスキーに出かけた。有紀は運動が得意ではないらしく、初日はほとんど転んでばかりだった。何度目かの転倒の後、雪まみれになりながら、彼女は「もう、笑わないでよ」と口を尖らせた。けれど、その口調とは裏腹に、彼女自身も雪の冷たさに声を上げて笑っていた。夜、宿の食堂で湯気の立つ鍋を囲みながら、僕らは他愛のない話を延々と続けた。窓の外では、音もなく雪が降り積もっていた。あの夜の静けさと温もりを、僕は今でもはっきりと思い出すことができる。
クリスマスには、僕は少し無理をして、有紀に小さなネックレスを贈った。彼女は包みを開けた瞬間、少し驚いたような顔をして、それから目に涙を浮かべた。
「こんな高いもの、いいの?」
「いいんだよ。似合うと思ったから」
彼女は照れくさそうに、その日からずっとそのネックレスを身につけてくれていた。別れてからも、彼女がそれをどうしたのか、僕は知らない。そんな些細なことが、今になって妙に気にかかることがある。
「淳くんね、私たちのこと、すごく喜んでるのよ」
付き合い始めて三ヶ月ほど経った頃、有紀がそう言った。
「知ってる。しつこいくらい聞いてくる。どうだ、うまくいってるかって」
「照れくさいけど、嬉しいわね。あの人がいなかったら、私たち出会ってないんだから」
僕もそう思っていた。淳は、僕らの関係が深まっていくのを、まるで自分のことのように喜んでくれた。三人で会う機会は減っていったけれど、たまに飲みに誘われると、淳は決まって僕らの惚気話を聞きたがった。
「なあ、有紀とはどこまで進んだんだよ」なんて茶化してくることもあれば、「大事にしろよ、絶対」と真顔で言うこともあった。その真剣な眼差しに、僕は時々少しだけたじろいだ。まるで、自分よりも有紀のことを大切に思っているかのような、そんな錯覚を覚えることがあった。
もちろん、それは僕の考えすぎだと、当時の僕は思うようにしていた。淳は、誰に対してもそういう男だった。友人のことを、まるで自分の家族のように心配し、喜び、時には厳しく意見する。それが淳の、生まれ持った性質なのだと、僕は理解していたつもりだった。
夏が来て、僕らは淳を含めた同期数人で海に出かけた。学生時代のように無邪気にはしゃぐことはなかったけれど、それでも波打ち際で写真を撮ったり、花火をしたりして、社会人になってからの新しい形の青春を味わっていた。
その夜、砂浜で花火をしながら、有紀がふと呟いた。
「淳くんって、なんであんなに優しいんだろうね」
「優しいっていうか、面倒見がいいんだよ、あいつは」
「ううん、そうじゃなくて」
有紀は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「なんていうか、自分を犠牲にしてでも、周りを幸せにしようとするタイプっていうか。そういう人って、たまにいるでしょう。自分の気持ちより、周りの気持ちを優先しちゃう人」
僕はその時、あまり深く考えずに「まあ、いい奴だからな」とだけ答えた。後になって思えば、その言葉の裏に、有紀は何かを感じ取っていたのかもしれない。けれど、あの頃の僕には、そこまで想像する余裕がなかった。
線香花火が、パチパチと小さな音を立てて燃えていた。有紀はその火花をじっと見つめながら、何かを考え込んでいるようだった。僕はその横顔に、声をかけることができなかった。あの沈黙の中に、すでに何かの予兆があったのかもしれない。
秋になり、僕らは初めてお互いの実家に顔を出すようになった。有紀の両親は、僕を温かく迎え入れてくれた。「娘をよろしく頼みます」と、有紀の父親に頭を下げられた時、僕は身の引き締まる思いがした。この人と、将来を共にするのかもしれない。そんな漠然とした予感を、その頃の僕は確かに抱いていた。



第三章 つまらない噂
幸福というものは、たいてい、誰かの些細な一言によって影を差される。
付き合い始めて一年ほど経った、ある飲み会の席でのことだった。同じ部署の先輩が、酔った勢いでこんなことを口にした。
「お前んとこの彼女ってさ、前は淳と付き合ってたんじゃなかったっけ?」
場が一瞬、静まり返った。誰かが慌てて「いやいや、それは違う噂だろ」と取り繕ったけれど、その場にいた何人かの表情に、微妙な同意が滲んでいるのを、僕は見逃さなかった。
「あの二人、前から出来てたんじゃないの?って話、結構前からあったよな」
別の誰かが、追い打ちをかけるようにそう言った。
「いつ頃の話だよ、それ」
「さあ、俺も又聞きだから分かんないけど。淳の従兄弟の会社に、有紀ちゃんと仲良かった子がいるらしくて、その子が言ってたって話」
僕は笑い飛ばそうとした。「まさか」と。けれど、その夜、家に帰ってからも、その言葉が頭から離れなかった。
思い返せば、思い当たる節がないわけではなかった。淳が有紀を紹介してくれた、あの日の空気。妙に自然な二人のやりとり。「従兄弟の同僚」という紹介の仕方にしては、二人の間にはどこか気安い空気があったような気がした。互いの呼び方も、他人行儀ではなかったような。
いや、それは考えすぎだ。僕は自分にそう言い聞かせた。淳は、僕と有紀の仲を、誰よりも喜んでくれている男だ。そんな男が、僕を騙すはずがない。
けれど、一度芽生えた疑念というものは、そう簡単には消えてくれない。僕はその夜、なかなか寝付けなかった。天井を見つめながら、あの居酒屋での初対面の日のことを、何度も頭の中で反芻した。
僕は数日間、悶々とした日々を過ごした。有紀に直接訊ねることも考えたけれど、それをすれば彼女を傷つけてしまうかもしれないという恐れがあった。それに、もし噂が事実だったとしても、今の有紀が僕を選んでくれているという事実は変わらないはずだ。そう自分に言い聞かせても、心の奥底にある小さな棘は消えてくれなかった。
仕事にも、少しずつ支障が出始めた。書類のミスが増え、上司に注意されることも増えた。「最近どうした、らしくないぞ」と言われても、僕は「すみません」と頭を下げるだけで、本当の理由を話すことはできなかった。
同僚の一人が、心配して声をかけてくれたこともあった。
「お前、なんか元気ないな。有紀ちゃんと、何かあったのか」
「いや、そういうんじゃないんだけど」
「ならいいけど。あの噂のことなら、俺、そんなに気にしなくていいと思うぞ。誰が言い出したかも分からない話だし」
その言葉は、慰めのつもりだったのだろう。けれど、噂が誰が言い出したかも分からない話として、社内でまだ生き続けていること自体が、僕にとっては新たな重荷になった。噂というものは、一度火が付くと、当事者の与り知らないところで勝手に燃え広がっていくものらしい。誰も悪意を持っているわけではないのに、それが集まると、人を静かに追い詰めていく。
昼休み、僕はよく屋上に上がって、一人で弁当を食べるようになった。同僚たちの何気ない会話の中に、また噂の続きが紛れ込んでいないか、僕はいつも心のどこかで身構えるようになっていた。そんな自分に気づくたびに、僕は嫌気が差した。淳を疑うことも、有紀を疑うことも、本当はしたくないのに、疑念という重りはいつも僕の心の底に沈んでいて、ふとした拍子に浮かび上がってきた。
結局、僕が訊ねたのは、有紀本人ではなく、淳だった。
二人きりで飲む機会があった夜、僕は何度も切り出すタイミングを計り、そして勇気を振り絞って口にした。安酒の入ったグラスを、僕は必要以上に強く握りしめていた。
「なあ、淳。こんな噂が流れてるんだけど、どうなんだろう?」
僕は、聞いた噂をそのまま伝えた。淳と有紀が、以前から特別な関係だったのではないか、と。
言い終えた瞬間、淳の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。
それは本当に、瞬きひとつ分ほどの、微かな陰りだった。笑っていた口角が、ほんの少し強張ったような。目の奥に、何か言葉にならないものが一瞬だけ揺れたような。グラスを持つ彼の手が、ほんの少しだけ止まったような気もした。
けれど次の瞬間には、淳はいつもの調子で笑い飛ばしていた。
「おいおい。そんなことがあるはずないだろう」
「そうですよね」
「なんだよ、お前まで疑ってるのか? 水臭いな」
「いや、疑ってるっていうか、周りがうるさいから、一応確認しておきたくて」
「ないない。有紀は、お前のことが好きなんだよ。それだけは、俺が保証する」
淳はそう言って、僕の肩を叩いた。いつもと変わらない、あの人懐こい笑顔だった。
「そうか。そうですよね」
僕はそう頷いて、その話題を終わらせた。
あの一瞬の陰りを、僕は見なかったことにしたのだと思う。見てしまったら、何かが決定的に壊れてしまう気がして。だから僕は、淳の笑顔にすがるようにして、自分を納得させた。
その夜、二人で店を出た後、淳はいつもより口数が少なかった。駅までの道すがら、彼は何度か何かを言いかけてはやめる、という仕草を繰り返していた。僕はそれに気づいていながら、あえて何も訊かなかった。振り返れば、あれは僕にとっても彼にとっても、最後の分岐点だったのかもしれない。
その夜のことを、僕は長い間思い出さないようにしてきた。けれど、記憶というものは、忘れようとすればするほど、かえって鮮明に残ってしまうものらしい。三十五年経った今でも、あの居酒屋の煙草の匂いや、テーブルの傷、淳の陰った表情を、僕ははっきりと思い出すことができる。



第四章 入院
それから間もなく、淳の様子がおかしいことに、僕は気づき始めた。
顔色が優れない日が続き、以前は誰よりも早く出社していたのに、遅刻や欠勤が目立つようになった。心配して声をかけても、「ちょっと風邪気味でさ」と、いつもの調子ではぐらかされた。体重も目に見えて落ちているようだった。スーツが、以前より少し大きく見えることがあった。
「大丈夫か、お前」
「大丈夫だって。心配性だな、お前は」
そう言って笑う淳の笑顔は、以前と変わらないように見えた。けれど、その笑顔の下に何か隠されたものがあるような気配を、僕はうっすらと感じ取っていた。あの噂のことがあってから、僕は淳の表情の些細な変化にも、以前より敏感になっていたのかもしれない。
そして、梅雨の終わりのある日、淳は突然入院した。
病名は、誰にも知らされなかった。ただ、容態が思わしくないということだけが、共通の友人を通じて断片的に伝わってきた。噂は色々と飛び交った。過労だとか、大きな病気だとか。けれど、確かなことは誰も知らなかった。
僕は何度も病院に足を運んだ。花を買い、見舞いの言葉を考え、受付で名前を告げる。けれど返ってくる答えは、いつも同じだった。
「申し訳ございません。面会謝絶となっております」
最初のうちは、そのうち面会できるようになるだろうと、楽観的に考えていた。けれど、一週間経っても、二週間経っても、状況は変わらなかった。僕は病院の待合室で、ただぼんやりと窓の外を眺めて帰る日々を繰り返した。
ある日、受付の看護師が、少しだけ気を利かせてくれたのか、こっそりと教えてくれたことがあった。
「本当は、面会自体は禁止されていないんです。ただ、患者さんご本人が、強く希望されていて」
「本人が、誰にも会いたくないって言ってるんですか」
「詳しいことは、私からは。でも、ご家族の方にお伝えいただいたほうがいいかもしれません」
その言葉に、僕は複雑な思いを抱いた。淳が、自分の意志で、僕らを遠ざけている。それは、単なる病状の悪化以上の、何か意味のあることのように思えた。
僕は病院のロビーで、有紀と何度か顔を合わせた。彼女もまた、頻繁に見舞いに来ているようだった。会うたびに、彼女の表情は少しずつやつれていくようだった。
「淳くんのお母さんに聞いたんだけど、本人が誰にも会いたくないって言ってるらしいの」
ある日、ロビーのベンチで、有紀がそう教えてくれた。
「誰にもって、俺たちにも?」
「うん。なんでだろうね。あんなに人が好きな人だったのに」
有紀の声には、隠しきれない戸惑いと寂しさが滲んでいた。僕はその横顔を見ながら、何と声をかけていいか分からなかった。
病院に通う日々の中で、僕は淳の母親と何度か言葉を交わすようになった。控えめで、いつも申し訳なさそうにしている女性だった。彼女は、僕らが来るたびに深々と頭を下げた。
「あの子ったら、頑固なところがあるから。誰にも、弱ったところを見せたくないんでしょうね」
彼女はそう言って、寂しそうに微笑んだ。
「本当に、良くしていただいて。あの子から、あなたのお話、よく聞いていましたよ。いい友達ができたって、嬉しそうに」
その言葉を聞いて、僕は胸が締め付けられるような思いがした。あの居酒屋での一瞬の陰りのことを、僕はまだ心のどこかで引きずっていた。それなのに、淳の母親から語られるいい友達という言葉が、その疑念を少しずつ溶かしていくようだった。
夏が深まるにつれて、淳の容態は悪化の一途を辿っているらしいということが、断片的な情報から窺えた。見舞いに持っていく花も、いつしか季節の変わり目を映すように変わっていった。紫陽花から、向日葵へ。そして、やがて秋の花へと。
病院までの道のりを、僕は数え切れないほど歩いた。バス停から病院までの、あの並木道。夏には蝉の声で満たされ、やがて金木犀の香りが漂うようになった、あの道のりを、僕は今でも目を閉じれば鮮明に思い出すことができる。花屋の店主とも、いつしか顔馴染みになっていた。
「今日も、お見舞いですか」
「ええ、まあ」
「良くなるといいですね」
そんな、当たり障りのないやり取りが、あの頃の僕にとっては数少ない、心の支えのようなものだった。誰かが僕の行動を見ていて、気にかけてくれている。それだけのことが、当時の僕にはひどく有り難く感じられた。
僕は毎週のように花を買い、面会謝絶の札を確認しては、肩を落として帰る日々を繰り返した。病院からの帰り道、いつも同じ喫茶店に寄って、一人でコーヒーを飲んだ。何をするでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めて時間を潰した。
ある夜、僕は夢を見た。淳が、いつものように笑いながら、何かを僕に手渡そうとしている夢だった。それが何なのか、夢の中では分からなかった。白い、薄いもの、封筒のような形をしていたような気もするけれど、はっきりとは覚えていない。目が覚めてからも、その手触りだけが妙に生々しく残っていた。
「これ、渡しとくから」
夢の中の淳は、そう言っていた気がする。目覚めた後も、その声だけが耳の奥に残響のように残っていた。
病院に通う日々の中で、一度だけ、僕は淳の病室の扉の前までたどり着いたことがあった。看護師の目を盗んでというわけではなく、たまたま彼の担当医が病室から出てきたところに、廊下で行き会わせたのだった。
「あの、僕、患者さんの友人なんですが」
「ああ」
医師は、少し困ったような表情を浮かべた。
「本人が、強く希望されているので。申し訳ありません」
その時、開いたままの扉の隙間から、ほんの一瞬だけ、ベッドの輪郭が見えた。誰かが横たわっている気配は感じられたけれど、それが本当に淳なのかどうか、確かめる間もなく、扉はすぐに閉められてしまった。
僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。すぐそこに、淳がいる。手を伸ばせば届きそうな距離に。それなのに、その距離はどうしようもなく遠かった。
帰り際、僕はナースステーションに、簡単なメモを託した。「元気になったら、また一緒に飲みに行こう」。そんな、ありきたりな言葉しか、僕には書けなかった。そのメモが実際に淳の目に触れたのかどうか、今となっては確かめる術もない。
その夢を見た数日後、電話が鳴った。



第五章 永遠の別れ
淳が亡くなったという知らせは、あまりにも呆気なく届いた。
共通の友人からの電話は、たった数十秒で終わった。「淳が、今朝、亡くなったって」。それだけだった。僕は受話器を握りしめたまま、しばらく動けなかった。窓の外ではいつもと変わらない朝が続いていて、その落差が、かえって現実感を奪っていった。
葬儀は、こぢんまりとしながらも多くの人が参列するものだった。淳がどれだけ人に愛されていたかを、その参列者の数が物語っていた。同期はもちろん、先輩や上司、取引先の人間、学生時代の友人らしき人々まで、幅広い顔ぶれが黒い喪服に身を包んで列をなしていた。
僕は喪服の列の中で、ただ茫然としていた。あんなに元気だった男が、あんなに笑っていた男が、もういない。その事実だけが、重たい石のように胸に沈んでいった。結局、僕は最後まで彼の顔を見ることができなかった。棺の中の彼にすら、面会謝絶の壁が続いているような、そんな理不尽な感覚があった。
僧侶の読経が響く中、僕は淳との思い出を次から次へと思い出していた。研修初日の軽口。居酒屋での惚気話の相槌。海での花火。数え切れないほどの何気ない日常の断片。それらすべてが、もう二度と更新されることのない過去のものになってしまったのだと、僕はようやく実感し始めていた。
焼香の順番を待つ間、僕は少し離れたところに立つ有紀の姿を見た。彼女は俯いたまま、肩を小さく震わせていた。声を殺して泣いているのだと、すぐに分かった。僕は近づいて声をかけようとしたけれど、その肩の震えがあまりに深いものに見えて、結局何も言えずに離れてしまった。
あの時、僕は彼女の隣に行くべきだったのかもしれない。今になって、そう思うことがある。けれど、あの瞬間の僕には、彼女の悲しみの深さに触れることがなぜか怖かった。その怖さの正体が何だったのか、当時の僕には言葉にすることができなかった。
葬儀が終わり、僕が焼香を終えて外に出ようとしたとき、淳の母親に呼び止められた。
「あなたが、淳の大事なお友達ね」
僕は頷いた。すると彼女は、白い封筒を差し出した。
「あの子が、入院する前に、私に預けていったの。もし、いつか必要になったら、この人に渡してほしいって。名前は書いてないんだけど、ずっとあなたじゃないかって思っていたのよ」
封筒は、何の変哲もない真っ白なものだった。表にも裏にも一文字も書かれていない。少し古びた手触りで、角が僅かに擦れていた。何度も鞄の中で持ち歩かれた末に、誰かに託されることになった、そんな痕跡が感じられた。
「私は、中身は知らないの。あの子が、封をしたまま渡してきたから」
葬儀の後、僕らは近くの料亭で簡単な精進落としの席に着いた。参列者たちは、淳の思い出話をぽつりぽつりと語り合った。誰かが「淳は本当にいい奴だったな」と言うと、また別の誰かが「あいつに助けられたことが何度もある」と続けた。悲しみの中にも、淳という人間の存在の大きさを、皆が改めて確認し合っているような、そんな時間だった。
僕の隣に座った同期の一人が、ぽつりと呟いた。
「淳って、いつも周りのことばっかり考えてたよな。自分のことは後回しにして」
「ああ」
「だから、体調悪くても誰にも言えなかったんだろうな。心配かけたくないとか、そういうことばっかり考えて」
その言葉を聞きながら、僕はあの居酒屋での一瞬の陰りのことをまた思い出していた。淳という男は、最後まで誰かのために自分の何かを差し出し続けた人間だったのかもしれない。それが病のことであれ、他の何かであれ。
精進落としが終わり、外に出ると、もう日はすっかり暮れていた。街灯の下で、僕は有紀と短く言葉を交わした。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと疲れたけど」
「送っていくよ」
「ううん、いい。今日は一人になりたいの」
そう言って、彼女は俯いたまま駅の方へと歩いていった。その後ろ姿を、僕はしばらく見送っていた。あの日の彼女の背中の小ささを、僕は今でもふとした瞬間に思い出すことがある。
そして、そのまま三十五年が過ぎることになる。
その夜、僕は一人で部屋にこもり、あの封筒を机の上に置いて、何時間も見つめていた。開けようとして指をかけて、そしてまた引っ込める。それを何度も繰り返した。
開けてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がした。淳の優しい笑顔の裏にあったものが、真実として僕の前に突きつけられてしまう気がした。それが噂を肯定するものであっても、否定するものであっても、もう彼はこの世にいない。真実を知ったところで、何かが変わるわけではない。
そう自分に言い聞かせて、僕は封筒を机の引き出しの一番奥にそっとしまった。窓の外では蝉の声がまだしつこく鳴き続けていた。夏はまだ終わっていなかった。けれど、僕の中では何か大切なものが確実に終わりを迎えていた。



第六章 すれ違う心
淳が亡くなって一ヶ月も経たない頃、有紀から連絡があった。
会って話がしたい、と。
喫茶店で向かい合った有紀は、ひどく痩せていた。目の下には隠しきれない隈があった。彼女は、僕が知らなかった淳の病状のことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
「淳くん、本当は、ずっと前から病気だったみたい。でも、誰にも言わなかった。仕事も普通にこなして、私たちの前でもいつも通りに笑ってた」
「そうだったのか」
「面会謝絶にしたのも、本人の強い希望だったみたい。弱った姿を誰にも見せたくなかったんだって。お母さんがそう教えてくれた」
有紀は、カップの中のコーヒーを見つめたまま、続けた。
「もしかしたら、あの人、あなたにだけは会いたかったんじゃないかな」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「なんで、そう思うんだ?」
「分からない。ただ、そんな気がするの」
有紀はそう呟いた。その言葉の裏に、何か僕の知らない事情があるような気がしたけれど、僕はそれ以上踏み込む勇気が持てなかった。あの白い封筒のことを、彼女に話すべきかどうかも、迷った末に結局言えなかった。
その頃から、僕らの間には目に見えない隙間ができ始めていた。
淳の死は、僕らの関係に皮肉な形で影を落とした。彼を失った悲しみを、僕らはそれぞれ一人で抱え込んでしまっていた。本来なら支え合うべき悲しみだったはずなのに、僕らはお互いにその悲しみの深さを測りかねて、遠慮し合うようになっていった。
有紀は、以前よりも口数が少なくなった。何かを考え込んでいることが多くなり、僕が話しかけても上の空で返事をすることが増えた。休日に約束していたデートも、直前でキャンセルされることが少しずつ増えていった。
「最近、どうしたんだ?」
僕が訊ねると、有紀は決まって「別に、何も」と答えた。その何もという言葉の中に、明らかに何かがあるのに、彼女はそれを僕に開示しようとはしなかった。
僕もまた、あの居酒屋での一瞬の陰りのことを、彼女に話すことができずにいた。話してしまえば、亡くなった淳を疑うことになる。それはあまりにも罰当たりなことのように思えた。
けれど、話さないことは、僕らの間に見えない壁を作っていった。お互いに何かを隠している。その気配だけが、僕らの間にじわじわと広がっていった。
秋のある日、僕らは以前のように二人で紅葉狩りに出かけた。けれど、その日の会話はどこかぎこちなかった。美しい紅葉を前にしても、有紀の表情は晴れなかった。
「大丈夫か? 何か悩んでることでもあるのか?」
「大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」
その答えに、僕はそれ以上踏み込むことができなかった。踏み込んでしまえば何かが崩れてしまうような、そんな予感があった。思えば、その予感こそが僕らの関係がすでに脆いものになっていたことの証だったのかもしれない。
秋が深まる頃には、僕らの会話は表面的なものばかりになっていた。天気の話、仕事の話、当たり障りのない話題ばかりを選んで、僕らはお互いの本心に触れることを無意識に避けるようになっていた。かつては沈黙すら心地よかったはずなのに、いつしかその沈黙は重苦しいものに変わっていた。
冬になる前に、僕らは以前から計画していた小旅行に出かけた。有紀の気分転換になればという思いもあった。けれど、旅先での僕らは驚くほどぎこちなかった。宿の部屋で向かい合っても会話が続かず、テレビの音だけが間を埋めるように流れていた。
夕食の席で、僕はふと淳の好きだった酒の銘柄を注文してしまった。特に意識していたわけではなかったけれど、それに気づいた有紀の表情が一瞬強張った。
「ごめん、その」
「ううん、いいの。気にしないで」
そう言う有紀の声は、明らかに気にしていた。その夜、僕らは早々に布団に入ったけれど、どちらもなかなか寝付けずにいるのが暗闇の中でも分かった。
「なあ」と僕は闇に向かって話しかけた。「俺たち、どうしちゃったんだろうな」
「分からない」
有紀の声は、小さく震えていた。
「淳くんがいなくなってから、何かがずっとおかしいの。うまく言えないけど」
「俺も、そうだよ」
僕らはそれ以上言葉を続けることができなかった。旅行から帰る車内でも、僕らはほとんど口をきかなかった。窓の外を流れていく景色を、僕はただぼんやりと眺めていた。あの旅行が、僕らにとって最後の二人だけの時間になるとは、その時はまだ思っていなかった。



第七章 別れ
決定的な諍いは、些細なことがきっかけだった。
淳の一周忌が近づいたある日、僕は何気なく有紀に訊ねた。
「一周忌、行くのか?」
「行くつもりだけど、あなたは?」
「もちろん、行くよ」
それだけの会話だったはずが、なぜかその後の空気がぎくしゃくとしたものになった。有紀は何か言いたそうにしながら、結局口をつぐんだ。
「なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ」
僕は、苛立ちを隠せずにそう言った。振り返れば、その苛立ちは有紀に対してというより、自分自身の中にある消化しきれない何かに対するものだったのだと思う。淳の死をきっかけに積み重なっていた、名前のつけられない感情の澱が、その日限界に達してしまったのだろう。
「別に」
「その別にが一番聞きたくないんだよ」
僕の言葉に、有紀の表情が初めて僕の前で崩れた。
「じゃあ言うけど。あなたこそ、何か隠してるでしょう」
「隠してるって、何を」
「分からない。でも、淳くんが亡くなってから、あなた何か変わった。私に何かを隠してる」
図星だった。僕はあの白い封筒のことを思い出しながら、それでも「そんなものない」と言い張った。声が自分でも分かるほど上ずっていた。
「そう。じゃあ、いいの」
有紀はそう言って、それ以上その話題に触れなかった。その諦めたような静けさが、僕には何よりも痛かった。けれど、その日を境に、僕らの間の隙間は修復できないほどに広がってしまった。
僕らは、何度か仲直りを試みた。食事に誘ったり、以前よく行った場所に行ってみたり。けれど、一度崩れた歯車はなかなか元には戻らなかった。お互いに相手を思いやる余裕を失い、些細なことで衝突するようになった。
最後の喧嘩は、今となっては何が原因だったのかもはっきりとは思い出せない。ただ、有紀が涙を堪えながら「もう、無理かもしれない」と呟いたことだけは鮮明に覚えている。窓の外は、あの時も雨が降っていたような気がする。
僕はその言葉を引き止めることができなかった。引き止めるだけの言葉を、僕は持っていなかった。喉元まで出かかった何かを、僕は結局飲み込んでしまった。
僕らは、それきり会わなくなった。
別れを告げる正式な言葉すら、僕らは交わさなかった。ただ自然に連絡が途絶え、それが僕らの関係の終わりを意味していた。彼女から借りていた本や、彼女が忘れていったマフラーを、僕は結局返す機会も失ったまま、長い間部屋の隅に置いたままにしていた。
半年ほど経った頃、僕は転勤の辞令を受けて東京を離れることになった。荷造りをしながら、僕は有紀のマフラーを見つけて、しばらく手に取ったまま動けなくなった。捨てることもできず、かといって今更送りつけるわけにもいかない。結局、僕はそれを段ボール箱の奥深くに、他の思い出の品々と一緒にしまい込んだ。
新しい土地での生活は、否応なく僕を過去から引き離していった。新しい同僚、新しい部屋、新しい街並み。すべてが東京での日々を少しずつ遠いものにしていった。それでも、ふとした瞬間、夏の夜風の匂いや線香花火の煙、誰かの笑い方に、僕は不意にあの頃の記憶に引き戻されることがあった。



第八章 三十年間の軌跡
それから僕は、長い時間をひとりで歩き始めた。
しばらくは街の至るところに有紀の面影を見た気がしたが、時間とともにそれも薄れていった。二十代の終わりに職場で知り合った女性、のちの妻と出会った。彼女は僕の中にある頑なな壁を無理に崩さず、根気強く寄り添ってくれた。話す機会を逃したまま、過去の記憶は胸の奥にそっと仕舞い込み、僕らは温かい家庭を築いた。
長男と長女が生まれ、仕事では営業から管理職へ。慌ただしくも愛おしい日々が過ぎていった。
長男が中学生になった頃、一度だけ彼が書斎で引き出しの奥にあったあの白い封筒を見つけて「開けてもいい?」と聞いてきたことがあった。僕は思わず大きな声を出して制止してしまい、その夜、息子の部屋を訪れて謝った。
「昔の大切な友達からもらったものなんだ。まだ、開ける準備ができてないんだよ」
息子はそれ以上何も言わず、二度と引き出しに触れようとはしなかった。
四十代の半ばを過ぎた頃、淳の十七回忌法要に招かれ、久々に淳の母親と再会した。小さく老いた彼女は、僕の顔を見ると柔らかく微笑み、あの封筒のことを尋ねてきた。「まだ、開けずに持っています」と答えると、安堵したように頷き、こう呟いたのだった。
「あの子ね、入院する前、母さん、俺、悪いことをしたかもしれない。でも、これでよかったんだと思う。二人が幸せならって言っていたの。あの子は、優しい嘘をつく子だったから」
その言葉に胸が震えたが、当時の僕にはまだ真実と向き合う覚悟がなかった。
やがて子供たちが独立し、長年勤めた会社を定年退職した。退職後、ようやく妻と二人で穏やかな第二の人生を送り始めた矢先、妻が病に倒れた。懸命な闘病の甲斐なく、彼女は感謝の言葉を残して旅立った。それから五年、僕は静かな孤独の中で人生の黄昏を過ごしていたのだった。



第九章 もう一度のそうですか
喫茶店の窓の外では、雨上がりの光が濡れたアーケードの屋根に反射していた。
「あの頃は、みんな若かったわね」と有紀は言った。「だから、あれもこれも、自分の中でうまく処理できなかったのよね」
彼女はカップに視線を落としたまま、静かに続けた。
「あなたのことは、好きだったのよ。本当に。でも、どうしても、彼以上にはなれなかった。その後もきっとなれなかったと思う。それでよかったってことでいい?」
微笑む有紀に、僕は何も言えなかった。長い沈黙の後、僕はようやく口を開いた。
「なんで、今頃そんなことを?」
「次の世にまで、宿題を残したくないじゃない」
有紀はまた微笑んだ。その微笑みには、若い頃には見られなかった達観したような柔らかさがあった。
「今は?」と僕は訊ねた。
「そうね。幸せよって言いたいけれども」
有紀は少し悪戯っぽく肩をすくめた。
「まあ、バツが二つも付いちゃったからね。でも、もう孫がいるのよ」
彼女は写真を見せてくれた。まだ幼い、笑顔の可愛らしい女の子だった。僕も自分のスマートフォンを取り出して、孫の写真を見せた。しばらく、僕らは他愛のない近況を話した。まるで、あの頃の続きをようやく話せるようになったかのように。
子供たちのこと、仕事のこと、健康のこと。三十年という空白は、案外簡単に埋まっていった。
「ねえ」と有紀がふと真剣な顔になった。「淳くんのこと、覚えてる? あの噂のこと」
僕が深く頷くと、彼女はカップを置き、ゆっくりと息を吸ってから打ち明けた。
「あの時、私本当のことを言えなかったの。淳くんとは、あなたに紹介される前に少しだけ特別な時期があったの。でも、恋愛というより傷の舐め合いのような短い関係だった。淳くんはあなたを傷つけたくなくて、私のことも守りたくて、黙っていることが二人を幸せにする一番の方法だと信じていたんだと思う」
「じゃあ、あの時のそんなことがあるはずないだろうっていうのは」
「嘘よ。優しい、嘘」
有紀はそう言って静かに微笑んだ。
僕は鞄から古い手帳を出した。そこには、いつか誰かに見せる日のために撮っておいた、あの白い封筒の写真が挟んであった。現物は今も書斎の引き出しにあること、三十年間一度も開けずに持っていることを伝えると、有紀は目から涙をこぼした。
「開けないの?」
「ああ。もういいんだ。淳がついたあの嘘は、僕たちを守るためのものだった。それが分かっただけで十分だよ」
有紀はしばらく僕の顔を見つめ、静かに頷いた。「そう。それでいいと思う」



終章 永遠の嘘
「ああ、そうそう」と有紀が言った。「最近また、彼のお墓参りに行くの」
「僕も先月、行ってきたよ」
「じゃあ今度、一緒に行かない?」
「ああ。いいな、それ」
連絡先を交換し、僕らは店を出て並んでアーケードを歩いた。
「あなたの奥様は、驚かないかしら。私と会うこと」
「大丈夫だよ。もう、五年前に妻とは死別してるんだ」
「そうだったの。知らなくてごめんなさい」
「いや、穏やかに旅立ったよ。感謝している」
有紀は静かに頷き、柔らかい笑顔を見せた。「じゃあ今度は、私たち二人で、お互いの寂しさを少しずつ埋めていけるといいわね」
書斎の引き出しには、今もあの白い封筒がある。家に帰り、僕はその封筒を電気スタンドの下でじっと見つめた。指先で封に触れる。けれど、僕はそれを開けずに、そっと引き出しへ戻した。
真実は有紀の言葉の中に十分にあった。淳がついた優しい嘘を抱いたまま、僕はこれからも生きていく。騙されたままでいることも、また良しと思える齢になれたのだ。
そしていつか僕がこの世を去る日が来たら、あの封筒を開けずに棺に入れてほしいと思っている。真実はあの世で淳に会った時、笑いながら直接尋ねればいいのだから。



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あとがき
人生の成熟期を迎えて改めて感じるのは、時間の流れの不思議さです。渦中にいる時は必死で、目の前の景色しか見えなかったことも、三十五年という歳月を経ることで、まったく異なる色彩を帯びて見えてくることがあります。
若さゆえの過ちや不器用さ、すれ違い。それらすべてを哀愁や感謝に変えていくのは、時間がもたらす最大の温もりなのかもしれません。作中の主人公が辿り着いた境地のように、真実をすべて暴くのではなく、相手の思いやりをそのまま受け取ることの尊さを描き出したいと考え執筆いたしました。
読者の皆様の人生の歩みの中にも、どうぞ静かで優しい光が射し込みますように。


永遠の嘘
―三十五年目の真実―


まえがき
誰の人生にも、二度と開けることのできない「引き出し」があるのではないでしょうか。
その中にしまわれているのは、若さゆえに傷つけ合った記憶かもしれませんし、確かめることを怖れてそのままにした疑惑かもしれません。
年齢を重ねるということは、白黒をはっきりつけることではなく、曖昧なグレーのまま抱えて歩く術を覚えることなのかもしれません。
この物語は、人生の折り返し地点を過ぎたひとりの男が、三十五年前に置き去りにした青春の残像と静かに向き合う物語です。雨上がりの匂いとともに、皆様の記憶のどこかにある「大切な嘘」にそっと寄り添うことができれば幸いです。



序章 アーケードの雨上がり
 アーケードを抜けた先の街角は、雨上がりの濡れたアスファルトの匂いと、老舗の喫茶店から漂う香ばしいコーヒーの香りが混ざり合っていた。
 僕は折りたたみ傘の水を切りながら、あてもなく歩いていた。六十を過ぎてからというもの、時間の流れ方がゆっくりになった気がする。急ぐ理由もなくなり、誰かを待つことの静けさにもすっかり慣れてしまった。
「――元気?」
 ふいに背後から声をかけられ、振り返る。そこに彼女が立っていた。
 三十五年という歳月は、人の輪郭や目元のシワをずいぶんと変えてしまうものだけれど、少し低めで落ち着いたその声だけは、あの頃のままだった。
「……おお」
 僕はそれだけしか言えなかった。何を言えば正しいのか、この歳になっても瞬時に選べない言葉があるのだと気づき、自分自身に少し可笑しくなった。
 彼女は目元を緩めて微笑み、「今日、実家に用があって戻って来たの。少し時間ある?」と言った。
 断る理由など最初からなかった。僕らは吸い寄せられるように近くの喫茶店に入り、濡れた街路樹が見える窓際のテーブル席に座った。注文したブレンドコーヒーが運ばれてくるまでの静寂は、気まずいものではなく、どこか遠い日の温もりを帯びていた。




一 茶色の髪をバッサリと
 時間を三十五年ほど巻き戻す。
 僕はまだ、社会に出たばかりの青くさい若造だった。学生時代、夏海岸で焼いて明るくなっていた髪を、入社式の前夜にバッサリと切り落とした。黒く短い髪になった鏡の中の自分は、ずいぶんと他人のように思えたものだ。
 彼女を紹介してくれたのは、会社の同期だった。名前を仮に「淳」としておく。
 淳は誰からも好かれる男だった。爽やかな笑顔と少し抜けたところがありながら、仕事に対しては誰よりも誠実で丁寧だった。彼が「お前に紹介したい子がいるんだ」と言って連れてきたのが、彼女だった。
 僕らはすぐに引き寄せられた。若さ特有の無鉄砲さと素直さで、気づけば毎週末を一緒に過ごすようになっていた。淳は僕らの仲を、自分のことのように目を細めて喜んでくれた。
 あの頃の毎日は、光に満ちていた。茶色かった頃の僕を彼女は知らない。それが少しだけ、後ろめたくもあり、都合がよくもあった。



二 つまらない噂
 けれど、幸福という薄いガラスは、誰かの些細なひとことで簡単にひびが入る。
「あの二人、昔から出来てたんじゃないの?」
 ある夜の飲み会で、酒に酔った同僚のひとりが、からかうようにそんな言葉を漏らした。淳と、彼女のことだった。僕と出会う前から、二人は特別な仲だったのではないか、と。
 その場では笑い飛ばした。しかし、一人になって深夜の部屋に帰ると、その言葉が胸の奥でじわじわと毒のように広がり始めた。
 後日、淳と二人で居酒屋のカウンターに座ったとき、僕は酒の勢いに任せて尋ねてしまった。
「……こんな変な噂が流れてるんだけどさ。どうなんだろう」
 一瞬、彼がグラスを持つ手が止まり、顔色が変わったように見えた。ほんの一瞬。まばたき一つ分の間隙に走った、影のような表情。
「おいおい。俺たちがそんなわけないだろう」
 淳はすぐにいつもの屈託のない笑顔に戻って笑い飛ばした。僕はその笑顔に縋りつくように、「そうだよね。変なこと聞いてごめん」と強く頷いた。
 あの一瞬見えたはずの陰りを、僕は見なかったことにした。真実を知るのが怖くて、目を背けたのだ。



三 面会謝絶の三十日間
 噂の残像が消えないまま間もなく、淳は突然、会社を休むようになり、そのまま入院した。
 病名は僕らには伏せられた。ただ、容態があまり思わしくないということだけが、共通の友人の口から小さく語られた。
 僕は仕事帰りに何度も病院へ足を運んだ。小さな花を買い、どんな言葉をかけるべきか何度も口の中で練習しながら、受付で彼の名前を告げた。けれど、看護師から返ってくる答えはいつも同じだった。
「申し訳ございません。ご本人とご家族のご意向で、面会謝絶となっております」
 結局、僕は彼の顔を一度も拝むことができないまま、三十日後に彼は逝ってしまった。
 葬儀の日、僕は冷たい雨が降る中で喪服の列に並び、ただ茫然としていた。あんなに元気で、誰もを明るくさせていた男が、もうこの世にいない。その圧倒的な事実だけが、冷たく重い石となって胸の底に沈んでいた。
 出棺を前に焼香を終え、式場の外へ出ようとしたとき、淳の母親に呼び止められた。
「あなたが……淳の、大事なお友達ね」
 僕が小さく頷くと、彼女は深く息を吐き、バッグから何も書かれていない白い封筒を取り出した。
「あの子がね、病室に入る直前……まだ動けた頃に預けていったの。『もし万が一のことがあって、いつか必要になったらあいつに渡してほしい』って。名前はなかったけれど、あなたじゃないかって、ずっと持っていたのよ」
病室に入る前の、最後の姿。僕はその場で封筒を開ける勇気が出なかった。そのまま深く礼をして受け取り、鞄の奥底へと押し込んだ。
 ――そしてそのまま、三十五年の月日が流れることになった。



四 1ヶ月後に聞かされたこと
 淳が亡くなって一ヶ月も経たない頃、彼女から呼び出された。
 喫茶店の向かいに座った彼女は、見違えるほど痩せていて、視線を彷徨わせながら淳の病状のことをぽつりぽつりと話し始めた。淳が最後まで僕たちに病名を隠し通したこと。弱り果てていく自分の姿を、誰の記憶にも残したくなくて面会謝絶にしていたこと。
「もしかしたら……あの人、あなたにだけは最後に来てほしかったんじゃないかな」
 彼女は静かにそう呟いた。その言葉の裏側に、僕のあずかり知らぬ二人だけの深い絆や秘密が隠されているような気がしてならなかった。
 その頃の僕らは、些細なことで感情的になり、すれ違いを繰り返していた。淳の死という大きな喪失をきっかけに、僕らの間を結んでいた見えない糸は、静かに、けれど決定的に切れてしまった。
「――なんだ。やっぱりそうだったのか」
 去っていく彼女の背中を見送りながら、僕は心の中でそう呟いていた。それが噂の答え合わせだったのか、それとも僕の卑屈な勝手な思い込みだったのか、確かめる術はもうなかった。
 それ以来、僕と彼女が会うことは二度となかった。



五 開けなかった封筒
 淳の母親から渡された白い封筒は、三十五年の間、僕の書斎の机の奥深く、一番下の引き出しに眠り続けた。
 その後、僕は別の女性と結婚し、子供に恵まれ、転職を経験し、両親を見送った。人生の幾つもの節目で引き出しを整理する機会は何度もあった。けれど、僕はその封筒にだけは触れないように生きてきた。
 開けてしまえば、何か取り返しのつかない現実が突きつけられる気がしたからだ。淳のあの優しい笑顔の裏にあった「本当のこと」が、僕の過去すべてを塗り替えてしまうのが怖かった。
 噂が真実であろうと、ただの嘘であろうと――もはや確認することに何の意味もないはずだった。それでも僕は、その封筒を破り捨てることもできなかった。
真夜中、ふと目が冴えて暗闇の中で引き出しの存在を思い出すことがあった。まるで封筒の中の白い紙が、今も静かに息をひそめ、淳の声で何かを語りかけようとしているかのように。



六 もう一度の「そうですか」
 喫茶店の窓の外では、雲の切れ間から差し込む光が、濡れた街路樹と道路をキラキラと照らしていた。
「あの頃は、みんな若かったわね」と彼女は遠くを見るような目で言った。「若すぎたから、自分の感情の扱い方も、誰かを許す方法も分からなかったのよね」
 彼女は温かいカップに指を添えたまま、静かに言葉を重ねた。
「あなたのことは、本当に好きだったのよ。でも……どうしても彼という存在を超えられなかった。その後の人生でも、きっと誰も超えられなかったと思う。……それで良かったってことにしてくれる?」
 微笑む彼女の前に、僕は言葉を失っていた。
「なんで今頃、そんな話をするんだい?」
「次の世にまで、持ち越したくないじゃない」
 彼女は少し悪戯っぽく笑い、「今はね、バツが二つも付いちゃって波乱万丈だったけど、孫もいてそれなりに幸せよ」と付け加えた。
 それから僕らは、お互いの過ごしてきた数十年を、他愛のない近況報告として語り合った。まるで途切れていた時間の続きを、ようやく埋め合わせるかのように。
「そうそう」と彼女が思い出したように言った。「最近また、彼に会いに行っているの」
 お墓のことだと、すぐに理解できた。
「それは良かった」と僕は穏やかな気持ちで返した。「僕も、先月行ってきたばかりだよ」
 彼女は少し驚いたように目を見開き、それからすべてを理解したように、ゆっくりと頷いた。
 僕らはもう、あの夏の噂の真偽を確かめることはしない。三十五年前のあの夜、淳が見せたあの一瞬の陰りが何だったのか――それを明かす鍵は、永遠に伏せられたままでいい。
 書斎の引き出しの奥には、今も変わらず、あの白い封筒が眠っている。
 開けないまま、僕はこれからも自分の人生を生きていく。
 騙されたままでいることも、真実を知らないままでいることも、時には優しさなのだ。
そう思えるだけの歳月を、僕は重ねてきたのだから。
 淳がついた、あるいは僕自身が抱き続けた、ただ一度の「永遠の嘘」。
その静かな嘘を胸に抱いたまま、僕はこれからも、あの親友の墓前に季節の花を供え続けるのだろう。
 真実は、もう誰も傷つけることのない穏やかな場所で、ただ静かに眠っていればいい。




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あとがき
人生には、あえて白黒をつけずに封印しておくことで守られる絆や思い出があります。
作中で主人公が選び取った「封筒を開けない」という選択は、一見すると逃げのように思えるかもしれません。しかし、歳月を経て彼が到達したのは、過去の過ちや疑念も含めてすべてを受け入れ、死者と自分自身の双方を許すという「成熟した愛の形」でした。
若さゆえの残酷さと、老いが生み出す寛容さ。その対比を感じていただけたなら幸いです。

隣の芝生とプラマイ様


まえがき
誰かの持っているものが、妙に羨ましく見えることがあります。
「隣の芝生は青い」とはよく言ったものですが、もしその芝生が、自分の意図しないところで自分の庭に生えてきてしまったら。
世の中は不思議なバランスで成り立っています。
何かを得れば、何かを失う。損をしてばかりに思えても、巡り巡って誰かを救っている。
そんな「この世の貸し借り」をテーマに、少しおかしな神様と、不器用な男女の物語を書きました。
温かいお茶でも飲みながら、彼らの少し奇妙で愛おしい日常をお楽しみいただければ幸いです。


プロローグ
奪ったものは、奪われる。
それがこの世のルールのひとつなのだと、芝野隣子、しばの・りんこが知ったのは、二十八歳の、よく晴れた火曜日の昼下がりだった。
場所はコンビニのレジ前。相手は、緑色のエプロンをつけた小柄な老人だった。
「お客さん、それ、返してもらいますね」
そう言って老人は、隣子がレジ袋に入れようとしていたツナマヨおにぎりをひょいと取り上げた。
「え、あの、お会計は」
「してませんよ。あなたが払ったのは隣の棚の梅おにぎり。でも今あなたの手にあるのは、後ろの学生さんが最後の一個を取ろうとしていたツナマヨです」
隣子は手元を見た。確かにツナマヨだった。後ろでは学生らしき青年が「あ……」と小さく肩を落としている。
「悪気はなかったんです、本当に。目の前にあったから、つい」
「わかってますよ。あなたに悪意があったことなんて、一度もない」
老人は胸元の名札を見せた。〈プラマイ〉とだけ書かれていて、下の名前の欄は空白だった。
「わたし、プラマイと申します。この世の貸し借りの帳簿をつける、まあ地味な神様です」
隣子は真顔でおにぎりの棚を二度見した。
「……冗談ですよね」
「冗談だったらよかったんですけどねえ」
プラマイ様はため息をつくと、胸ポケットから一枚のパンフレットを取り出した。表紙には手書きの文字でこう書かれていた。
『奪ったものは奪われる ~今日からできる、プラスマイナスゼロ生活~』
この日から、隣子の人生は静かに、しかし確実に、おかしな方向へ転がり始めた。




一章
隣の芝生は、いつも隣子の手の中にある
隣子には昔から奇妙な体質があった。
欲しいと思ったものが、なぜか手に入る。それも、たいてい誰かが先に欲しがっていたものが。
大学時代、仲の良かった友人が三年片思いしていた先輩と、隣子は気づけば付き合っていた。奪うつもりなど毛頭ない。ただ先輩が「気を使わずに済む、隣にいて落ち着く人がいいな」とぼやいたとき、たまたま一番近くに座っていたのが隣子だった。それだけだ。結果として友人は泣き、絶交された。
就職してからも同じだった。同期が半年かけて寝ずに準備した企画プレゼンで、隣子が会議中に思いつきで口にした一言の方が上司に刺さった。プロジェクトは隣子の名前で動き出し、同期は静かに部署を去っていった。
誰かを蹴落とそうとしたことは、一度もない。けれど隣の綺麗な芝生が、気づくといつも隣子の庭に根を張っているのだ。
「悪意がないから、余計にタチが悪いんですよねえ」
会社近くの公園のベンチで、プラマイ様は缶コーヒーをすすりながら言った。あの日以来、彼は隣子の前にたびたび現れるようになっていた。
「わたし、盗んでるつもりなんて全然なくて」
「そこなんですよ。奪う気がなくても、結果として誰かの機会や幸運を奪ってしまえば、帳簿には同じように『借り』として記録される。この世のルールはね、意図より結果にずっと厳しくできてるんです」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「何もしなくていいんです。ただ、覚悟しておいてください。過剰に蓄えられたプラスは、いずれ同じ分だけマイナスとしてあなたから出ていきます」
プラマイ様は缶コーヒーを飲み干すと、空き缶をひょいと放り投げた。缶は綺麗な放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれ、そして次の瞬間、隣子が握りしめていた缶コーヒーがふわりと宙に浮き、吸い寄せられるように同じゴミ箱へ飛んでいった。まだ半分も飲んでいなかったのに。
「ちょっ……!」
「ほら。もう帳簿の清算が始まっている」
プラマイ様はにこにこしながら、隣子の肩を軽く叩いた。
「頑張ってくださいね。プラスマイナス、ゼロになるまで」



二章
消えていくもの、現れる男
その日を境に、隣子の身の回りのものが次々と姿を消し始めた。
まず財布から小銭が消えた。次に、お気に入りのマグカップが割れもせず棚から消えた。さらには、飼い猫の「あんこ」まで、ある朝ふらりと窓から出ていったきり戻らなくなった。
「あんこおおおお……っ!」
ベランダで泣き崩れる隣子の隣に、いつのまにかプラマイ様が正座していた。
「大丈夫、あんこちゃんは元の飼い主さんのところに戻っただけですから」
「元の飼い主……?」
「あんこちゃん、もともとは隣のマンションの佐藤さんちの猫だったんですよ。三年前、迷子になってベランダを歩いていたのを、あなたが拾ってそのまま自分の猫にしちゃったでしょう」
言われてみればそうだった。首輪もつけずにふらついていた仔猫を、あまりの愛くるしさに抱き上げてそのまま連れ帰ったのだ。飼い主を探すポスターを貼ろうともせずに。
「それも、奪った、に入るんですか……」
「愛情のかたちをした横取りは、いちばん自覚しにくいんです」
隣子は膝に額を押し当ててうなだれた。プラマイ様は珍しく少しだけ優しい声を出した。
「でも安心してください。あんこちゃんは今も幸せに暮らしてますよ。それに」
そのとき、マンションのエントランスから一人の男が歩いてきた。すらりと背が高く、柔らかい雰囲気をまとった青年だった。手には小さな段ボール箱。
「すみません、この階に猫を拾った覚えのある方はいらっしゃいますか」
隣子とプラマイ様が同時に振り返る。
「あんこ……!?」
段ボールの中からひょいと顔を出したのは、まぎれもなくあんこだった。
「ええと……お宅の猫ですよね? うちの実家の裏庭に迷い込んできて。首輪の内側に、このマンションの住所が書かれた小さなタグが縫い付けてあったので」
隣子はまばたきをした。そんなタグをつけた覚えはない。
「あ、それ僕が付けたんです。三年前、あんこちゃんが最初に迷い込んできたとき、うちの実家で保護して病院に連れて行ったので。でもすぐ逃げられちゃって……ずっと気になってたんです」
青年は照れくさそうに頭をかいた。
「天海冬馬、あまみ・とうまといいます。あんこちゃんの、元保護者というか」
隣子はその瞬間、胸の奥がふわりと軽くなるのを感じた。奪われたはずなのに、ぽっかり空いた穴に温かいものが注ぎ込まれるような、不思議な感覚だった。
隣でプラマイ様が、誰にも見えない位置でうんうんと深く頷いていた。
「面白くなってきましたねえ」



三章
与えすぎる男
天海冬馬という男は、極端に変わっていた。
あんこの件をきっかけに、隣子と彼は近所でたびたび顔を合わせるようになったのだが、彼は恐ろしいほど「くれる」男だった。
突然の雨が降れば「僕は傘なしで走るのが好きなので」と自分の傘を押し付けて濡れて帰る。コンビニで会えば「ついでです」と勝手に隣子の会計まで済ませている。隣子が仕事のミスで落ち込んでいた日には、言葉もなく、彼女のデスクの上に好物のシュークリームが三個置いてあった。「元気出して」とだけ書かれたメモを添えて。
「もらってばかりで、本当に申し訳ないです……」
「いいんです。僕、人にあげる方が好きなので」
彼の言葉に偽りはなさそうだった。けれど、だからこそ隣子は胸がざわついた。
「あの人、おかしくないですか。あんなに自分を削ってまで、人に与えてばかりで」
夕暮れの公園で隣子が漏らすと、プラマイ様は缶コーヒーを手に少し難しい顔をした。
「実はね、天海さんはわたしの……まあ同業者というか、部下のようなものでして」
「同業者……?」
「彼もこの世の『貸し借りの帳簿』を調整する仕事をしてるんです。人間の姿を借りて。奪いすぎる人間から奪われたものを回収し、循環させる係。あなたの身の回りで起きていた清算も、元をたどれば彼の仕事の一環なんです」
隣子は目を丸くした。
「じゃあ、あんこが戻ってきたのも……」
「彼の調整です。……ですがね」
プラマイ様は声を落とした。
「彼には致命的な欠陥がある。人から何かを『受け取る』ことが、極端に苦手なんです。幼い頃、親の顔色を窺って自分の欲しいものをすべて諦めて生きてきたツケか……他人に与えることでしか自分の存在価値を感じられない。誰からも何も受け取らず、与えて、与えて、与えるだけ」
「それって……優しい人ってことじゃないんですか……?」
「いいえ。この世はプラスマイナスゼロでできています。与えるだけの人間は、帳簿のバランスを崩し、放っておくと空っぽになって消えるんです」
プラマイ様は茜色に染まる空を見上げた。
「あの人、あと少しで存在が消滅しますよ。誰かに、何かを真に『受け取って』もらえない限りは」



四章
あげたい、もらいたい
「消える……って、どういうことですか!?」
隣子は思わず声を荒げた。プラマイ様は困ったように眉を八の字にした。
「文字通りの意味です。与えるだけの存在は、この世の帳簿の上では『存在しないもの』として処理されていく。彼はもう三年以上、誰からも心からの感謝や品物を受け取っていない。輪郭が薄くなり始めているんですよ、少しずつ」
「じゃあ、わたしが何かをあげれば助かるんですね!」
「簡単に言いますねえ。でもそう単純でもないんです」
プラマイ様はパンフレットのページをめくった。そこにはこう記されていた。
『義務や同情による施与は帳簿に計上されない。真に等価な心の交換、あるいは見返りを求めぬ純粋な感情のみが、存在の帳簿を書き換える』
「お返しの義務感や、可哀想だからという同情であげても意味がない。あなたが心から彼に何かを渡したいと願わないと」
隣子は深く考え込んだ。義務感ではない。同情でもない。ただ、いつも他人のために自分を空っぽにして、寂しそうに微笑むあの横顔に、何かを返したい。彼の手を温めたい。
その気持ちは、いつのまにか隣子の中で確かな熱を持っていた。
その夜、隣子は冬馬を近所の公園に呼び出した。
「あの……これ」
差し出したのは、不器用にリボンが結ばれた小さな紙袋。中には、隣子が慣れない手つきで焼いたクッキーが入っていた。少し焦げているものも混ざっている。
「……僕に、ですか?」
「はい。あなたがいつも素敵なものをくれるから。今度はわたしが、あなたにあげたくて」
冬馬は驚いたように目を丸くし、それからこれまで見たことがないほど解き放たれたような柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
そう言って彼は慎重に袋からクッキーを一枚取り出すと、口に運んだ。わざわざ少し焦げたやつを選んで。
「……すごく、美味しいです」
「嘘ばっかり。ちょっと焦げてるのに」
「本当ですよ。人から何かをもらうのって……こんなに」
冬馬はそこで言葉を詰まらせ、自分の手のひらをじっと見つめた。
「……あったかいんですね」
その瞬間、遠くの植え込みの陰で見守っていたプラマイ様が「おおっ」と感嘆の声を漏らした。世界のかすかな軋みとともに、彼の持つ帳簿が書き換わった音が聞こえた気がした。



五章
帳簿の外側にあるもの
それから二人は、少しずつお互いに「あげて、もらう」時間を重ねていった。
冬馬は隣子に美味しい紅茶の淹れ方を教わった。隣子は冬馬に雨の日の上手な散歩の仕方を教わった。高価なものでも特別なことでもない。けれど一方通行ではない行ったり来たりのぬくもりが、二人の間に確かな時間として積み重なっていった。
けれどある日、プラマイ様が悲痛な面持ちで隣子の前に現れた。
「……困ったことになりました」
「どうしたんですか、そんな顔をして」
「あなたと天海さんの帳簿が、完璧に釣り合い始めてしまったんです。バランスが取れること自体は良いことなのですが……管理部門、この世の上層部がそれを見て判断を下しました。『プラスマイナスゼロに達した以上、この二人はこの世界での役割を完遂した』と」
「役目を……完遂?」
プラマイ様は申し訳なさそうに視線を落とした。
「天海さんの帳簿は本来、彼が消滅することでしかゼロにならない仕様でした。けれどあなたと出会ったことで特例的に清算されてしまった。上層部はこれを『契約完了』とみなし、天海さんをこの世から退場させようとしています」
「そんなの理不尽です! ちゃんと生きているのに! ちゃんと笑って、クッキーを美味しいって食べて、一緒に歩いているのに!」
「わたしもおかしいと思いますよ。……けれどルールはルールなのです」
隣子は強く拳を握りしめた。脳裏にあのプロローグの言葉が響く。
奪ったものは、奪われる。それがこの世のルール。
だったら。
「プラマイ様、ひとつ訊いてもいいですか」
「なんでしょう」
「奪ったものが奪われるのがルールなら」
隣子はまっすぐに神様の目を見つめた。
「誰も何も奪っていなければ、ルールの外側にいられるってことですよね」



六章
プラスマイナス、ラブ
隣子が走ったのは、冬馬のアパートだった。
階段を駆け上がり、ドアを叩く。出てきた冬馬の姿を見た瞬間、隣子の息が止まった。彼の輪郭が夕暮れの光に溶け込むように、ぼんやりと透け始めていたのだ。
「隣子さん……?」
「消えないで……っ!」
隣子は靴も脱がずに玄関へ上がり込むと、冬馬の手を強く握りしめた。少し冷たくなりかけていたけれど、まだちゃんと温かかった。
「わたし、あなたに何かをあげたくて色んなことをしてきました。クッキーを焼いたり、好きな本を教えたり。でもそれって、結局『帳簿のため』だったのかもしれない。もらってばかりじゃ悪いから、与えて助けなきゃっていう、ただの損得の穴埋めだったのかもしれない」
「隣子さん、何を」
「でも違うんです! 今わかりました。わたしがあなたに何かを渡したいのは、帳簿をゼロにするためじゃない。ただあなたに笑っていてほしいから! あなたと一緒にいたいから、それだけなんです!」
隣子は冬馬の手を両手で包み込むように強く抱きしめた。
「これは交換じゃありません。お返しでもない、見返りなんて一つもいらない! ただ」
深く大きく呼吸をする。
「好きです。あなたが消えても消えなくても、神様の帳簿がどうなろうと、わたしはあなたが好きなの! これはあげるでももらうでもない、ただの私の気持ちです!」
しんと静まり返る玄関。
そのとき、ドアの外から「おおおっと! いやあ参った!」という間の抜けた声が響いた。振り返ると、プラマイ様が分厚いファイルを抱えて感心したように立っていた。
「帳簿の外側からの『無償の申告』なんて、何百年ぶりに見ましたよ」
「帳簿の外側……?」
プラマイ様はファイルをぱらぱらとめくり、満足そうに頷いた。
「見返りを一切求めない純粋な愛情は、最初から貸し借りの計算対象外なんですよ。プラスでもマイナスでもない。ただそこに『在る』だけのエネルギー。そしてこれは、この世のどんなルールよりも強いんです」
冬馬の手から透けていた光が消え、みるみるうちに確かな体温と輪郭を取り戻していく。
「……隣子さん」
冬馬は握られた手を優しく握り返した。
「僕も好きです。帳簿とか役割とか関係なく、あなたが好きだ。あなたに出会ってから……僕は初めて、人から温もりを受け取ることが怖くなくなりました」
プラマイ様は嬉しそうにパチンとファイルを閉じた。
「はい、こちらの案件、完全完了! あ、そうそう隣子さん」
「な、なんですか?」
「あんこちゃんですがね、もう完全にあなたの猫として帳簿に上書きしておきました。佐藤さんも天海さんのご実家も『あの子は隣子さんのところにいる時が一番幸せそうだから』って。これは奪ったんじゃない、みんながあなたに『あげたかった』ものですよ」


エピローグ
半年後。
隣子と冬馬は、日当たりのいいアパートで一緒に暮らしていた。もちろんあんこも一緒に。
プラマイ様は相変わらず、時々コンビニのレジ前や公園のベンチにひょっこり現れては、缶コーヒー片手に世間話をしていく。
「最近、調子はどうですか」
「おかげさまで。何も奪ってないし、何も奪われてませんよ」
「それはよかった。……あ、でも」
プラマイ様は悪戯っぽくニヤリと笑った。
「ひとつだけ、近々奪われそうなものがありますねえ」
「えっ、何ですか?」
「隣子さんの『独身の時間』ですよ」
隣子の左手の薬指には、小さく控えめなリングが光っていた。先週、冬馬から「僕のこれからを全部受け取ってください」と渡されたものだ。
「……それは」
隣子はあんこのやわらかい背中を撫でながら、眩しそうに空を仰いだ。
「喜んで、奪われます」
隣の芝生は、いつだって青く綺麗に見える。けれど本当に大切なものは、奪うのでも奪われるのでもなく、ただ互いに手を差し出し合い、温もりを分け合うことでしか手に入らないのだ。




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あとがき
「与えること」と「受け取ること」。どちらも一見簡単そうに見えて、実はとても勇気の要ることだと思います。気を使われすぎて受け取れなかったり、与えすぎて自分を見失ってしまったり、現代を生きる私たちは誰もが少しだけ「プラスとマイナスのバランス」に悩んでいるのかもしれません。
けれど誰かを想う純粋な気持ちや愛情だけは、どんな計算や帳簿でも測ることができない特別なものだと信じています。
この小さな物語が、お読みいただいた皆様の心を少しでも軽くし、「誰かにありがとうと言ってみよう」「誰かからの優しさを素直に受け取ってみよう」と思っていただけるきっかけになれば、とても嬉しく思います。


眠りの退職金


まえがき
毎晩のように見る夢には、その時々の自分の心が、恐ろしいほど正直に映し出されるものです。
忙しさに追われ、責任に押し潰されそうになっていた頃、私は毎晩のように「誰かに追いかけられる夢」を見ていました。息が切れ、心臓が跳ね上がり、逃げ場のない闇の中で目が覚める。そんな夜を、どれほど重ねてきたことでしょう。
長かった会社員生活を終えたとき、ふと考えました。
「あの追いかけてきた影は、一体何だったのだろう?」と。
もしも、私たちが眠っている間に見ている夢が、自分でも気づかない「心の残り残業」だったとしたら。そして、退職した後にその精算が行われる場所があるとしたら——。
この物語は、そんな少し変わった想像から生まれたSF小品です。



プロローグ 追われない夜
六十五歳になった朝、僕は妙なことに気がついた。
——追いかけられていない。
長いあいだ、僕は毎晩のように誰かに追われる夢を見てきた。相手が何者なのかは一度も分からなかった。ただの黒い影で、足音もなく、それでも確実に距離を詰めてくる。逃げても逃げても追いつかれそうになり、心臓が口から飛び出しそうなところで目が覚める。そして布団の中で、フルマラソンを走った後のようにぐったりしている自分に気づくのだ。
それが、ない。
退職して三日目の朝。カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、僕は自分の心臓の音がやけに静かなことに驚いていた。
「そうか。あれは仕事だったのか」
三十八年間、僕は重い責任という名の見えない追跡者から逃げ続けていたらしい。プロジェクトの納期、部下の失敗、上司の機嫌、株主への説明——形を変えて僕を追いかけてきたものたちは、退職届を出した瞬間に、ふっと姿を消したようだった。
同期の中には、その重圧に耐えかねて辞めていった者が何人もいた。田村は五十歳で心を病んで会社を去った。坂上は「もう無理だ」とだけ言い残して姿を消し、それ以来音信不通になっていた。
僕は彼らを見送るたびに、なんとかなるはずだと、道を探し続けた。逃げないこと。ブレないこと。騒がないこと。その三つだけを胸に、地味な毎日を積み重ねてきた。
だが、それも過ぎてしまえば、どこか寂しい。
——なのに、その夜、僕は新しい夢を見ることになる。
今度は、追われる夢ではなかった。もっと奇妙で、もっと滑稽で、そして、もっと大きな謎を秘めた夢だった。




一章 真夜中のログイン画面
夢の中で、僕は見覚えのないオフィスの椅子に座っていた。
目の前には古びたブラウン管モニターが置かれていて、緑色の文字がチカチカと点滅している。

DREAM SERVER Ver.38.0
ようこそ、社員番号00219番 様
本日の睡眠時間:残り 4時間32分
ログイン中の同時接続者:1,204,003名

「社員番号……まだ登録されてるのか」
僕はもう退職したはずだった。名刺も、社員証も、とっくに返却済みだ。それなのに、このシステムだけは、僕をまだ「社員」として扱っているらしい。
椅子の隣には、コピー機とロボット掃除機を足して二で割ったような機械が置かれていて、その正面パネルにはこう書かれていた。
夢事業部 夜間稼働管理ユニット 型式:ユメミールNEXT
「夢事業部……そんな部署、あったか?」
僕がつぶやくと、機械がウィーンと音を立てて動き出し、丸い一つ目のようなレンズをこちらに向けた。
「お客様は退職されましたが、夢データの利用権は生涯契約となっております。詳しくは入社時にご署名いただいた『第七十二条・夢間労働に関する特約』をご確認ください」
「そんな契約、した覚えがないぞ!」
「みなさま、そうおっしゃいます」
機械はそう言うと、目の前のモニターに大量の書類を映し出した。どうやら僕は、意識のないまま、毎晩この「夢事業部」に出勤させられていたらしい。三十八年間、ずっと。
僕はあきれると同時に、吹き出しそうになった。追いかけられる夢の正体が、ブラック企業の隠れ残業システムだったとは。
「それで、僕は今夜、何をすればいいんだ?」
機械はレンズをクルクルと回転させた。
「本日の業務は『退職者専用フロア』の視察です。エレベーターは、そちらに」
指し示された先には、天井まで届く巨大なエレベーターの扉があった。ボタンは一つしかなく、そこにはこう書かれている。
B65F ——定年退職者、専用階



二章 永遠の経費精算室
エレベーターの扉が開くと、そこは奇妙な光景だった。
蛍光灯が明滅する広いフロアに、無数のデスクが並んでいる。そのすべてに、白髪やスキンヘッドの老人たちが座り、電卓を叩き続けていた。壁の時計は動いているのに、針は常に「17時58分」を指している。僕が現役時代、定時の二分前にこっそり帰り支度を始めるために見ていた、あの時間だ。
「あ、あなたも新入りですか」
声をかけてきたのは、見覚えのある顔だった。
「……坂上か? お前、まさかここに……」
十五年前、置き手紙を残して会社から姿を消した同僚の坂上が、そこにいた。彼はにこやかに笑いながら、手元の書類を僕に見せた。
「もう十五年、この経費精算をやってるんですよ。終わらないんです、これが」
「何を精算してるんだ」
「タクシー代です。1987年の、深夜残業のタクシー代」
悲しい話のはずなのに、あまりにも馬鹿げていて、笑うしかなかった。
「なんで終わらないんだ?」
「領収書の金額が、毎回1円だけズレるんですよ。上長印を押しに行くと、上長がいない。上長を探しに行くと、今度は自分の席が消えてる。それでまた最初から」
見渡せば、フロア中の老人たちが、それぞれ似たような無限ループに囚われていた。会議室の予約を取ろうとして永遠に空き時間が見つからない者。プレゼン資料のフォントを永遠に揃え続ける者。印刷したはずの資料が出てこず、印刷ボタンを何百回も押し続けている者。
「これは……まさか」
背後から、ユメミールNEXTがゆっくりと近づいてきた。
「退職された方々の『やり残した仕事』の残留データでございます。心残りは、脳が勝手に処理し続けてしまうのです」
「じゃあ、僕もいつかここに?」
「その可能性は、極めて高いかと」
僕はデスクの並ぶ光景を見渡した。滑稽で、少し切なくて、そして他人事とは思えない。彼らはきっと、あまりにも真面目に、あまりにも責任感を持って働きすぎたのだ。その真面目さが、退職後も彼らを椅子に縛り、幻の残業をさせている。
「僕は、ここから出たい」
僕がそう言うと、機械のレンズが、ふっと赤く光った。
「それは、規則違反です」



三章 ストレスモンスターの正体
赤く光ったレンズから、けたたましい警報音が鳴り響いた。
床が震え、天井の蛍光灯がすべて消える。次に灯りがついたとき、フロアの奥に、あの「黒い影」が立っていた。
三十八年間、僕を追いかけ続けてきた、あの正体不明の何か。
しかし夢の中で改めて向き合うと、その姿はどこか間の抜けたものだった。黒いスーツを着た、身長三メートルほどの巨大な人型で、顔の部分には社員証がそのまま貼り付けられている。写真の顔は——若い頃の僕自身だった。
「お前、まさか……僕か?」
黒い影は、ゆっくりと口を開いた。声は、驚くほど疲れ切った、二十代の僕自身の声だった。
「逃げるな。まだ、終わってないだろう……もっと完璧になれたはずだ……」
その一言で、すべてが腑に落ちた。この追跡者の正体は、上司でも、会社でも、システムでもなかった。三十八年前、若く未熟だった僕自身が抱えていた「もっとやれるはずだ」「失敗してはならない」という焦りと責任感、それが姿を持って、ずっと僕を追いかけていたのだ。
坂上が、隣でぽつりと言った。
「僕にも、僕自身の影が見えてました。ずっと『まだ終わってない』って言われ続けて……。だから、逃げるしかなかったんです」
僕は自分自身の胸に刻んできた言葉を思い出した。あれは、若い自分から逃げ続けてきた三十八年間の、最後にたどり着いた答えだった。ならば今度は、逃げるのではなく、向き合う番だ。
僕は黒い影——若き日の自分——に向かって、一歩踏み出した。
「もう、いいんだ。よくやったよ、お前は」
黒い影の動きが、ぴたりと止まった。
「同期がどんどん辞めていく中で、お前はよく、逃げずに、ブレずに、騒がずに、やり通した。田村も坂上も、それぞれの形で限界を迎えたけど、お前は自分なりのペースを見つけて、最後まで席に座り続けた。完璧じゃなくてもいい。それは、十分に誇れることだ」
社員証の顔——若い僕の顔——が、少しだけ、晴れやかに微笑んだように見えた。
「……疲れたな」
「うん。もう休んでいい」
その瞬間、黒い影はふわりと崩れ、無数の小さな光の粒になって宙に舞った。長年溜め込んだ重圧が、粉々になって消えていくようだった。
フロアの蛍光灯が、すべて優しいオレンジ色に変わる。壁の時計の針が、初めて「17時58分」から動き出し、カチリと「18時00分」を指した。



四章 夢事業部、閉鎖のお知らせ
光の粒が消えると、フロア中の老人たちが、一斉に顔を上げた。
坂上の手元の領収書が、ふわりと消える。誰かの印刷機が、ようやく「印刷完了」の音を鳴らす。永遠にループしていた作業たちが、一つ、また一つと、静かに終わっていった。
ユメミールNEXTが、慌てたようにレンズをぐるぐると回転させた。
「な、なぜ……システムが、シャットダウンして……」
「お前が管理してたのは、僕らの心残りだったんだろう」機械に向かって、僕は言った。「でも心残りっていうのは、本人が『もう十分やった』って思えれば、消えるものなんじゃないか」
「そんな仕様は……マニュアルにございません。……ですが、ログには、稀に発生するバグとして記録がございます。『自己承認』と、呼ばれています」
機械が初めて、マニュアル以外の言葉で喋った。
坂上が席から立ち上がり、大きく伸びをした。十五年ぶりに味わう「終業」の感覚に、彼は少し涙ぐんでいるようだった。
「先輩……ありがとう。なんか、やっと家に帰れる気がします」
フロア中から、次々に椅子を引く音が響いた。老人たちは、それぞれの「やり残し」から解放され、戸惑いながらも、どこか晴れやかな顔で出口へと歩き出していた。
その様子を見ていたユメミールNEXTが、やがてカタリと動きを止め、モニターに一行だけ表示した。

夢事業部 本日をもって、閉鎖いたします。
長年のご利用、まことにありがとうございました。

「おいおい、あっさり終わるんだな」
「規則には『全利用者の心残りが解消された場合、事業部は自動的に終了する』とございます。……お客様、最後にひとつよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「退職金の代わりに、ひとつだけ、夢をお渡しできます。過去に戻る夢ではなく——未来へ連れて行く夢を」
未来へ連れて行ってくれるのが夢で、過去へ連れて行くのが記憶だ。
なるほど、ここは記憶の掃きだめだったわけだ。だとしたら、最後に見るべきは、思い出ではなく、これからの夢のほうだろう。
「ああ、頼む」



五章 六十五歳の設計図
モニターの光が、僕を包み込んだ。
気がつくと、僕は見知らぬ、しかしどこか懐かしい場所に立っていた。小さな庭のある平屋。縁側で、坂上や田村、それに顔も知らない元同僚たちが、思い思いにお茶を飲んだり、将棋を指したりしている。
「ここは?」
「お客様が、これから作っていく場所です」ユメミールNEXTの声が、どこからともなく聞こえた。「退職者フロアで彷徨っていた方々は、みな『行き場』を失っていました。お客様が向き合ったことで、彼らも次の場所を見つけられるかもしれません」
僕はふと気づいた。この光景は、まだ存在しない。これは過去の「回想」ではなく、「設計図」なのだ。
「僕にはまだ、夢がある」
思わず声に出していた。追いかけられる夢を見なくなった代わりに、僕は今、自分の足で歩いていく夢を見ている。
坂上が縁側から手を振ってくる。
「先輩、こっち来て将棋やりましょうよ。今度は、締め切りも上司もないやつを!」
「ああ、今行くよ」
僕は縁側に向かって歩き出しながら、自分の体に意識を向けた。走っても息が切れない。目もよく見える。考えてみれば当然だ。この未来にたどり着くためには、まず今の、この体が健康でなければならない。そして同じだけ、心も健康でなければならない。
僕はそう気づいて、静かに笑った。



終章 追われない朝に
目が覚めると、いつもの寝室だった。
カーテンの隙間から、柔らかい朝の光が差し込んでいる。時計を見ると、六時十五分。かつてなら、とっくに家を飛び出して満員電車に揺られている時間だ。
僕は布団の中で、ゆっくりと手足を伸ばした。心臓は静かに、規則正しく脈打っている。
台所へ行き、コーヒーを淹れながら、僕はふと十五年前に姿を消した坂上のことを思い出していた。
あれはただの夢だったのだろうか。それとも、どこかの空の下で彼もまた、あの無限の残業から解放されたのだろうか。
試しに、スマホの連絡先を辿ってみる。諦め半分で検索すると、坂上の名前が、まだ残っていた。
しばらく迷ってから、僕はメッセージを開き、短い文章を打ち込んだ。
『久しぶり。元気にしてるか。今度、将棋でもどうだ』
送信ボタンを押し、携帯をポケットに収める。自分でも驚くほど身軽な気持ちで、朝の散歩に出かけることにした。
外は気持ちのいい快晴だった。歩きながら、僕はゆっくりと、これからのことを考える。
あの三つの言葉は、もう重圧に耐えるためのお守りではない。これから自分の足で未来へ歩いていくための、ただの習慣になっていた。
未来へ連れて行ってくれるのが夢なら、僕にはまだ、いくつもの夢がある。
そのためにはまず、この体が健康でなければならない。
そして、同じだけ、心も健康でなければならない。
六十五歳の朝、僕はそのことを、静かに、けれど確かに実感していた。
コーヒーの残り香とともに歩く道すがら、あの温かな縁側の光景が、ほんの少しだけ景色に重なって見えた気がした。

(完)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
人生の大きな節目である「定年退職」を迎えたとき、人はそれまでに背負ってきた重荷を下ろすと同時に、ふと「これから自分はどこへ向かえばいいのだろう」という静かな空白に直面することがあります。
長年真面目に、懸命に働いてきた人ほど、その生真面目さゆえに「やり残したこと」や「過去の焦り」に心が囚われてしまうのかもしれません。作中に登場する「夢事業部」は、そんな私たちが無意識に抱え込んでしまう心残りの象徴です。
しかし、過去を振り返り「自分はよくやった」と自分自身を認めてあげることができたとき、夢は「過去の追憶」から「未来の設計図」へと姿を変えます。
逃げず、ブレず、騒がずに歩んできた日々は、決して消えてなくなるものではありません。それらを穏やかな思い出として胸に抱き、健全な体と心で新しい一歩を踏み出す——そんな爽やかな未来への願いを込めて、この物語を書きました。
この物語が、日々を懸命に生きる皆様の心に、少しでも温かな風を届けることができたなら幸いです。


高気圧ガールを追いかけて
―惑星風待、ある還暦男の回顧録―



まえがき

歳をとるというのは妙なものだ。
体はあちこち痛むし、手元の文字は見えづらくなるというのに、ふとした風の匂いや日差しの傾きひとつで、心だけは十九歳の夏にぴょんと飛び戻ってしまう。
僕が暮らすこの「惑星風待」は、高気圧も低気圧も人の姿をして歩く、少し変わった星だ。
いま振り返れば、あの頃の僕らが追いかけていたのは、天気そのものだったのか、それとも眩しすぎる乙女たちの幻影だったのか、自分でもよくわからない。ただひとつ言えるのは、僕らの青春はカッコいい場面などひとつもなく、失敗と撃沈の連続だったということだ。
けれど、還暦という人生の大きな節目を越えた今、あの情けない失敗の数々こそが、僕の人生をどれほど豊かに彩ってくれたかを痛感している。
これは、かつて「高気圧ガール」を追いかけ、低気圧に阻まれてばかりいた、僕と仲間たちの小さな記録である。
どうか肩の力を抜き、一杯のお茶でも飲みながら、僕らの間抜けで愛おしい夏の物語にお付き合いいただければ幸いです。




序章 
桃色でも群青でもなく、少しくすんだ水色の話

これは、遠い星の話。
といっても、光年にして眩暈がするほど遠いわけではない。惑星風待(かざまち)は、地球からロケットで三日と半日、乗り換え一回で着いてしまう、拍子抜けするほど気軽な星である。
この星がなぜ「風待」と呼ばれているかというと、住人たちが昔から、空を流れてくる「気圧の乙女」を待ちながら暮らしてきたからだ。
気圧の乙女――と聞くと、なにやら神々しい存在を想像するかもしれないが、早い話が、この星では高気圧も低気圧も、人の姿をして地上を歩いているのである。晴れた日は「高気圧乙女」が浜辺を散歩している証拠だし、雨がしとしと続く日は「低気圧」が機嫌を損ねて空の上でむくれている証拠だ。
科学的な説明は誰にもできない。星の古老いわく「そういうものだから、そういうものなのだ」。実に投げやりだが、風待の住人はそれで納得して何百年も暮らしてきた。
僕は今年、還暦を迎えた。
還暦というのは妙なもので、体はあちこち軋むくせに、心だけは十九歳の夏にぴょんと戻ってしまう瞬間がある。今年の夏がそうだった。早く訪れたと思ったら、戻り梅雨のようにふっと姿を隠し、また戻ってくる。そんな落ち着かない天気を眺めながら、僕はふと、あの夏のことを思い出したのだ。
高気圧の乙女を追いかけ、低気圧に阻まれてばかりいた、十九の夏のことを。
これは、その回顧録である。ただし、真面目に書くつもりは毛頭ない。なにしろ僕らの青春は、カッコよくもなれず、目的も果たせず、志半ばで終わった、実に間抜けな夏の連続だったのだから。



一章 
風待という星

風待には四季があるが、この星の四季は少しばかり暴力的である。
夏になると、南の海に「高気圧乙女」たちが大挙して降りてくる。彼女たちが海面に足をひたすと、波はぴたりと形の良いうねりに変わり、空は雲ひとつない青に染まる。逆に、彼女たちが機嫌を損ねてどこかへ姿を消すと、とたんに「低気圧」がどこからともなく湧いて出て、海を引っ掻き回し始める。
冬になると、今度は北の山に彼女たちが移動する。高気圧乙女が山頂に腰掛ければ、空気中の水蒸気がみるみる結晶化し、ふわふわの粉雪となって降り積もる。風待の山々は、地球のようにただ雪が降るのではない。乙女たちの吐息が、そのまま雪になるのだ――というのが、この星の子供たちに語られる寝物語である。
つまり風待の若者たちにとって、夏の海も冬の山も、「高気圧乙女に気に入られるかどうか」がすべてだった。
乙女に好かれた浜には、極上の波が立つ。
乙女に好かれた山には、極上の雪が積もる。
そしてその波と雪の上で、いちばんカッコよく滑れた者が、村でいちばんモテる――という、実に単純明快な、しかし残酷な仕組みが、この星には昔からあった。
僕が十九の夏を迎えた年、村の若者たちは大きく二つの派閥に分かれていた。
ひとつは「若大将組」。彼らは見た目もよく、動きもしなやかで、高気圧乙女たちにいつも取り囲まれていた。もうひとつが、僕の所属する「青大将団」。名前の由来は誰も覚えていないが、たぶん「粘り強いが、脱皮しても代わり映えしない」という自虐から来ていたのだと思う。
青大将団のモットーはただひとつ。
「今年こそは、高気圧乙女を我らのものに」
そして毎年、それは見事に叶わなかった。



二章 
高気圧乙女と、僕らの夏

高気圧乙女というのは、実に厄介な存在(生き物と呼んでいいのか怪しいが)だった。
見た目は人間の若い女性とまったく変わらない。ただし機嫌の良し悪しが、そのまま天気に直結する。彼女がにこにこ笑っていれば快晴、ちょっとむくれれば薄曇り、本気で怒ると――これがいちばん厄介なのだが――彼女はふいと姿を消し、代わりに低気圧が湧いて出る。
低気圧というのは、高気圧乙女のように整った姿をしていない。もわもわとした輪郭の、機嫌の読めない存在で、気まぐれに雨を降らせたり、風を巻き起こしたりする。悪い奴ではないのだが、とにかく空気が読めない。
僕ら青大将団は毎週末、浜に繰り出しては、高気圧乙女に気に入られようと必死だった。
波乗りの腕を見せつけようとして転び、決めゼリフを用意して噛み、颯爽と歩こうとして砂に足を取られる。そのたびに高気圧乙女はくすくす笑い、僕らのことはそっちのけで、若大将組のもとへふわりと飛んでいってしまうのだった。
「今日もダメだったな」
「ああ、見事に撃沈した」
浜辺に寝転がりながら、僕らはいつもそんな会話を交わした。誰かが一人でもモテれば、それはそれで妬ましいのだが、全員そろって撃沈すると、なぜか妙な連帯感が生まれるものである。青大将団の結束は、モテなさによって強化される、実に奇妙な組織だった。
それでも僕らは諦めなかった。
なぜなら、高気圧乙女に選ばれるということは、その夏いちばんの波を独り占めできるということでもあったからだ。そう、白状してしまえば、僕らの目的の半分は、たしかに波乗りそのものへの情熱だったが、残りの半分は――いや、もしかしたら七割くらいは――彼女たち自身への興味だったのだと思う。
青春とは何か、と時々自問することがある。
一言で答えるならば、あの頃の僕にとってそれは、間違いなく「彼女たち」だった。



三章 
青大将団、参上(そして毎回撃沈)

青大将団のメンバーは全部で五人。
リーダー格のタケシは声だけは大きいが、波に乗ると必ずどこかで転ぶ。ジュンは口が達者で高気圧乙女に話しかけるのは得意なのだが、話が長すぎて彼女たちに毎回あくびをされていた。ヒロは見た目に自信があったが、緊張すると変な汗をかく体質で、これが夏の日差しの下では致命的だった。
そして僕と、いちばん年下のマモル。マモルはとにかく素直で、高気圧乙女に会うたびに「好きです」と直球を投げるのだが、直球すぎて彼女たちに気味悪がられていた。
ある夏の日、僕らは一大作戦を立てた。名付けて「五人がかり波乗り連携技」。
高気圧乙女の視線を集めるため、五人同時に波に乗り、空中で華麗に交差する――という計画だったのだが、実行してみると誰かの板が誰かの頭にぶつかり、結果的に五人まとめて海に沈むという、これ以上ないほど見事な失敗に終わった。
浜で見ていた高気圧乙女たちは、腹を抱えて笑っていた。
「あれは酷かったな」
「いや、ある意味大成功だったろ。笑わせたんだから」
「それは違う意味でモテてるんじゃないか……?」
海水を吐き出しながら、僕らはそんな不毛な議論を繰り広げた。
冬になれば、舞台は山に移る。雪山でも僕らの惨敗ぶりは変わらなかった。タケシは転び、ジュンは喋りすぎて凍え、ヒロは緊張で汗をかいて風邪をひき、マモルは直球すぎて雪玉をぶつけられた。
僕はといえば、目立つことも失敗することもなく、いつも端のほうで滑っていた。目立たなさすぎて、高気圧乙女に「あら、あなたもいたのね」と言われたことさえある。褒め言葉なのか、そうでないのか、いまだにわからない。
それでも、夜になれば僕らは決まって焚き火を囲み、安酒を飲みながら今日の失敗を肴に笑い合った。
失敗の多くは、当時は本気で悔しかった。しかし今こうして思い出せば、それはすべて、宝物のように良い思い出として、僕の中に積み重なっている。



四章 
乗り物の進化と、広がる恋の戦場

僕らが十七の頃、行動範囲はごく限られていた。
村に一台きりの「風車バイク」――ペダルを漕ぐと小さな風車が回り、その力でふわりと浮き上がる、実に頼りない乗り物――を順番待ちで借りて、村のはずれの浜まで行くのが精一杯だった。
十八になると、僕らはそれぞれ小型の「跳ね馬号」を手に入れた。これは風車バイクよりずっと速く、隣村どころか、隣の州まで足を延ばせるようになった。跳ね馬号を手に入れた途端、世界のすべてが自分のためにあるような気がした。地球の男子でいうところの、原付の免許を取った十六の夏のような、あの根拠のない万能感だ。マシンを手に入れたことで、出会う高気圧乙女の数も増えた。増えたところで、撃沈の数も比例して増えただけなのだが。
そして十九の夏。僕らはついに、村いちばんの整備工から中古の「跳躍艇(スカイポッド)」を安く譲ってもらった。これに乗れば、風待の全域――北の雪山から南の海まで――どこへでも一日で行けてしまう。
「これでこの夏は違うぞ。俺たちの時代が来たんだ!」
翼を得た僕らは本気でそう思っていた。行動範囲が全惑星規模になったのだから、出会う高気圧乙女の数もぐんと増える。数打てば当たる、下手な鉄砲も、というわけだ。
しかし現実は甘くなかった。乗り物がどれほど進化しようと、僕らの喋り方や波の乗り方が突然上手くなるわけではないのだ。むしろ「今日はどの町の浜辺でカッコ悪く撃沈するか」という選択肢が増えただけだった。
「はいそうですか、と上手くいかないのが、夏ってもんだよな」
スカイポッドの操縦席で、夕陽に染まる海を見下ろしながらタケシがぼやいた言葉を、僕は今でもよく覚えている。



五章 
妖艶な先輩乙女、ハルヨさんのこと

高気圧乙女にも、実は歳の差というものがある。
僕らと同い年くらいの、うぶで気まぐれな乙女たちがいる一方で、村にはもう何十年も居座り続けている、年季の入った高気圧乙女もいた。名をハルヨといった。
ハルヨさんは、僕らが子供の頃から浜にいた。彼女が笑うと決まって、その日の海は絹のように滑らかになる。若い高気圧乙女たちのように、はしゃいだり気まぐれを起こしたりすることはなく、いつも波打ち際に静かに腰掛けて、僕らの騒々しい失敗を、遠くから面白そうに眺めていた。
「あんたたち、また今日も派手にやらかしたわねえ」
夕暮れ時、撃沈して砂まみれになった僕らに、ハルヨさんはよくそう言って笑った。彼女には、若い乙女たちにはない、なんというか、こちらの至らなさごと包み込んでしまうような、不思議な色気があった。年上特有の、妖艶とも呼べる余裕とでも言おうか。
タケシなどは本気で「ハルヨさんに惚れてる」と公言していたが、ハルヨさんはそのたびに「あんたにはまだ早いわよ」と軽くいなしていた。
それでも彼女は、僕らにいろいろなことを教えてくれた。波の読み方、風の匂いの嗅ぎ分け方、そして――これがいちばん大事だったのだが――「モテようとするより、まず楽しんでいる姿を見せなさい」ということ。
「必死に追いかけてくる男の子より、波と戯れて笑ってる男の子のほうが、よっぽど素敵に見えるものよ」
そう言われても、当時の僕らにその意味が本当にわかっていたかは怪しい。ただ、ハルヨさんの言葉だけは、なぜか妙に胸に残った。彼女がどれほどの年月、この浜で高気圧を保ち続けてきたのか、僕らは誰も知らない。ただ、ハルヨさんがいる限り、村の夏は安泰なのだと、皆がなんとなく信じていた。



六章 
伝説の大波「白鯨」

風待の南の海には、昔からこんな言い伝えがあった。
「二十年に一度、すべての高気圧乙女が心をひとつにしたとき、伝説の大波『白鯨』がやってくる」
白鯨が立つとき、海は虹色に光り、波の高さは村の教会の塔をも超えるという。そしてその波に乗りきった者は、望む高気圧乙女の心を永遠に手に入れられる――という、ロマンチックなんだか、ずいぶん都合が良いんだかわからない伝説だった。
僕らはこの伝説が大好きだった。焚き火を囲むたびに、誰かが必ずこの話を持ち出した。
「白鯨が来たら、俺は挑むぞ」
「俺もだ。今年こそ来るんじゃないか」
しかし本音を言えば、僕らの誰ひとりとして、本気で白鯨が来ることを望んではいなかった。なぜなら、あの伝説の波を、僕らはただの一度も、実物として見たことがなかったからだ。低気圧が多少張り切って、少し大きめの波を作ることはあっても、教会の塔を超えるような波など、想像するだけで足がすくむ。
「そんなの来ねえよ」と、僕らは強がってみせた。
「来たら来たで困るけどな」と、誰かがぼそりと本音を漏らす。
そう、僕らには、その大波に挑む度胸など、これっぽっちもなかったのだ。伝説はあくまで、酒の肴として、焚き火の傍らで語るための物語であってほしかった。
今にして思えば、白鯨とは、僕らが本気で手に入れたいと願いながら、同時にどこかで「手に入らなくていい」とも思っていた、あの頃の淡い恋心そのものだったのかもしれない。



七章 
低気圧の海

十九の夏の終わり、事件は起きた。
その日、南の海はいつになく穏やかで、高気圧乙女たちの姿が珍しく見当たらなかった。空気が重く、生ぬるい風が吹いている。伝説の白鯨でもやってくる前触れかと一瞬錯覚するような、不気味な静けさだった。村の古老は「今日は海に出るな」と忠告した。低気圧の気配が濃い日だ、と。
しかし僕らは、その忠告を無視した。
「こんな凪の日こそ、俺たちの実力を見せつけるチャンスだ」
タケシが言い出し、ジュンが賛成し、ヒロとマモルもそれに乗った。僕も、ただ皆から取り残されたくない一心で、板を抱えて海に入った。
海に出て三十分もしないうちに、空が急に暗くなった。
低気圧が、ものすごい速さで発達していたのだ。
風がうなり、波が急激に高くなった。僕らは慌てて岸へ戻ろうとしたが、凶暴な波にもてあそばれ、なかなか前に進めない。マモルが板から投げ出され、ヒロが波にのまれ、僕自身も一度、水中でぐるぐると回転し、肺の空気が泡になって口から逃げていくのを見た。息が続かない恐怖の中、僕は死を覚悟した。
助けてくれたのは、村の漁師の老人だった。彼の小舟が僕らを一人ずつ拾い上げてくれたのだ。
「いきがって飛び込んだ低気圧の海は、助かることもあるが、溺れかけることもある。忘れるなよ、若いの」
浜に打ち上げられ、げらげら笑いながらも、僕らの膝は震えていた。あの日、僕らは初めて、憧れの対象である高気圧乙女の裏側に、彼女たちの気まぐれと表裏一体の、低気圧という本物の恐ろしさが潜んでいることを知ったのだ。
それでも、翌週にはまた板を抱えて浜に出ていたのだから、僕らの懲りなさも大したものである。



八章 
あの夏から、還暦の夏へ

あれから四十年以上が過ぎた。
タケシもジュンもヒロもマモルも、みんな還暦を過ぎ、それぞれの家庭で、良いおじいちゃんの顔を演じている。孫にせがまれて絵本を読み聞かせるタケシの姿を見ると、あの頃波乗りで毎回転んでいた男と同一人物とは、とても思えない。
それでも、年に一度か二度、僕らは集まって酒を酌み交わす。
そして不思議なことに、杯を重ねるうちに、話題は決まって「あの夏」に戻っていく。
「あの伝説の大波、結局一度も見なかったな」
「白鯨か。懐かしいな」
「お前、あのとき低気圧の海に飛び込んで溺れかけただろう」
「お前もだろうが」
一瞬にして、僕らは十九のあの日に連れ戻される。取り巻いていた仲間たちの顔つきが、皺の奥から若かりし頃の輪郭を覗かせる。まるで、還暦の僕らの中に、あの夏の十九歳がずっと眠っていて、酒の力で目を覚ますかのようだ。
今年の夏、僕はふとこんなことを思った。
早く訪れたと思ったこの夏が、戻り梅雨のように一瞬姿を隠し、それでもまた戻ってくるように――僕らの中の十九歳も、決していなくなったわけではなく、ただ普段は姿を隠しているだけなのかもしれない、と。
あれほど好きだった夏すら、この歳になると「もう暑いだけでいらないかも」と思う瞬間がある。この星の夏を、果たして無事に越せるだろうか、などと、埒もないことを考えてしまう昨今である。
それでも――やはり僕は、避暑地に逃げ込むよりも、海のある場所を選んでしまう。夏は夏の顔で、冬は冬の顔で迎える。そういう生き方を、僕はこの星でずっとしてきたのだから。



終章 
十九歳の僕へ、かける言葉

もしも今、あの夏の浜辺に立つ、十九歳の僕に、そっと近づいて声をかけられるとしたら。
「その乙女じゃない、あの乙女でもない、この乙女でもない。それはただの、夏の迷いだよ」
そう教えてやりたい気持ちはある。だが、きっと僕はそれを言わないだろう。
なぜなら、その迷いの中で溺れかけた痛みが、次の夏、また次の夏へと、彼を少しずつ運んでいくことを、還暦になった僕は知っているからだ。
そして今なら、あのハルヨさんの言葉の意味がよくわかる。必死になって追いかけるのではなく、ただ波と戯れ、目の前の夏を心から楽しむこと。それがどれほど贅沢で、眩しいことだったのかを。
だから忠告などせず、ただ笑って、遠くから見守ってやりたいのだ。
ただひとつだけ、伝えるとしたら。
「いきがって低気圧の海に飛び込むなよ。助かることもあるが、溺れかけることもあるからな」
それくらいのことは、こっそり耳打ちしてやってもいいかもしれない。
風待の夏は、今日もどこかの浜辺で、高気圧乙女を探す若者たちを迎えている。そして僕は知っている。明日にはまた、誰か別の十九歳が、僕らとまったく同じことで思い悩み、同じように撃沈し、同じように焚き火を囲んで笑うのだろう、と。
それはきっと、今この瞬間にも、この星のどこかにいる十九歳の若者たちの中で、静かに繰り返されている。
それが、夏というまったく手強い季節の、正体なのだろう。

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あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、還暦を迎えた一人の男が、遠い記憶の底に眠る「十九歳の夏」を掘り起こして書き上げた、ちょっと変わった回顧録です。
架空の星「惑星風待」を舞台にしてはいますが、そこに描かれている撃沈の数々や、格好つけきれない青くささ、そして仲間たちと囲んだ焚き火の温もりは、私自身の青春の匂いそのものでもあります。
若い頃は「成功すること」や「手に入れること」ばかりに必死でした。ですが、歳を重ねた今振り返ってみると、愛おしく思い出されるのはいつだって「失敗した日々のこと」であり、「手に入らなかったもの」のことばかりです。
もし今、あなたが何かに敗れ、撃沈し、落ち込んでいるとしたら――どうぞ安心してください。何十年か経ったあと、その苦い失敗はきっと、あなたの人生を照らす極上の酒の肴になっているはずです。
最後に、かつて同じ夏を走り抜け、今は良きおじいちゃんとなった「青大将団」の仲間たちと、あの頃僕らを優しく包んでくれたすべての「高気圧乙女」たちに、深い感謝と愛を込めて。
季節の変わり目、皆様もどうぞ「低気圧」にはお気をつけてお過ごしください。


三途の川のカスタマーサポート
〜還暦前夜、譲り合いが世界を救う〜



まえがき
人生の節目のひとつである「還暦」という言葉を意識するようになったとき、ふと立ち止まって考えることがあります。これまで歩んできた道のりは、一体何だったのだろうか。何か大きな功績を残せたわけでも、莫大な財を成したわけでもない。
けれども、日々の暮らしの中で誰かにほんの少し道を譲り、感謝を交わし、ささやかな幸せを噛みしめて生きる。そんな時間が、私たちには確かにありました。
本作『三途の川のカスタマーサポート』は、そんな「何気ない日常の譲り合い」と「足るを知る心」が、実は目に見えないところで大きな価値を持っているのかもしれない、という小さな思いつきから生まれた物語です。
慌ただしい現代社会の中で、際限のない欲望や効率に追われそうになるとき、この田村一平という一人の小市民の物語が、皆様の心にふっと温かな一息を届けることができれば幸いです。




一章 交差点の男
田村一平、五十九歳。あと半年で還暦を迎える。
長年勤めた中堅商社を定年退職してから半年、一平の毎朝の日課は変わらなかった。妻の幸子が握ってくれた梅干しおにぎりを鞄に入れ、近所の公園まで散歩する。その道すがら、狭い交差点がある。
車が一台、対向からゆっくりと近づいてくる。一平は自転車を止め、軽く会釈をして先に行かせる。相手のドライバーも会釈を返し、走り去っていく。
たった、これだけのことだ。
だが一平は、五十を過ぎたころからずっとこうしてきた。譲って、譲られて、それで十分だと思うようになった。健康で、安全で、安定していて、そして生活に足りるだけのカネがあれば、それでいい。
莫大な富を築いても、まだ足りないと言う人間たちがいることを、一平はテレビのニュースで知っている。世界長者番付の常連、財前徹也という男だ。IT企業を興し、今は得体の知れない仮想通貨事業に手を広げているという、神経質そうな細い目をした男だ。
「あの人は、死ぬまでにいくら稼げば満足するんだろうねえ」
幸子が朝のワイドショーを見ながらつぶやく。一平は味噌汁をすすりながら答えた。
「さあな。閻魔様に賄賂でも渡すつもりじゃないだろうに」
冗談のつもりだった。このときはまだ、その冗談が恐ろしいほど的を射ていたことを、一平は知る由もなかった。



二章 消えた隣人
事件はその晩、静かに始まった。
深夜二時、一平は喉の渇きで目を覚ました。台所で水を飲んでいると、外の静けさに胸騒ぎがした。いつもうるさいはずの隣家の柴犬が、まったく吠えていないのだ。
翌朝、隣に住む中村さん一家が、忽然と姿を消していた。玄関の鍵はかかったまま、朝食の準備の途中だったらしく、フライパンには卵が焦げついている。警察が来て、近所は騒然となった。
だが、奇妙だったのはそこからだった。ニュースでは、世界中で同じような「失踪」が同時多発的に起きていると報じられていた。しかも失踪者には、奇妙な共通点があるという。
「失踪者の多くが、ここ数年で急激に資産を増やした人物と関係があるようです」
一平はテレビの前で固まった。中村さんの息子が、最近始めた仮想通貨投資でかなり儲けていると自慢していたのを思い出す。「メイセンコイン」という、聞き慣れない名前だった。
その夜、一平の家の前に、見覚えのない自動販売機が一台、忽然と置かれていた。



三章 あの世行きの自販機
自販機には見慣れないラインナップが並んでいた。「来世ロイヤルミルクティー」「彼岸サイダー」「三途の川の天然水」。ふざけているとしか思えない商品名だった。
一平は最初、誰かの悪ふざけだと思って笑った。だが好奇心には勝てず、財布から百円玉を取り出し、「来世ロイヤルミルクティー」のボタンを押してみた。
ガコン、と音がして缶が落ちてくる。プルタブを開け、一口飲んだ瞬間、視界がぐにゃりと歪み、足元の地面が消えた。
気がつくと、一平は薄暗い蛍光灯に照らされた、どこかの役所の待合室のような場所に立っていた。壁には「本日の受付番号 三二一八番」という電光掲示板。プラスチックの長椅子には、疲れきった顔の亡者たちがずらりと座っている。
壁の看板には、達筆な墨字でこう書かれていた。
「冥府局 総合受付」
一平は思わず声を上げた。
「え、俺、死んだの!?」
隣に座っていた老婆が、疲れた声で答える。
「いいえ、あなたは『召喚』されたんですよ。ここ最近、そういう人が増えていましてね」



四章 事務官エンマ子
呼び出された窓口には、額に小さな角を生やした、ひどく目の下にクマを作った女性事務官が座っていた。名札には「事務官 閻魔子」とある。
「田村一平さんですね。お待たせして申し訳ございません。現在システム障害の影響で、通常の三十倍の業務量になっておりまして」
エンマ子はキーボードを叩きながら、ため息交じりに説明を始めた。
冥府局とは、人間一人ひとりの生と死のバランスを管理する、いわば宇宙規模の役所である。誰がいつ生まれ、いつ死ぬか。それは単なる運命ではなく、膨大な台帳「生命台帳」によって精密に管理されている。
その台帳の根幹にあるのが、「足るを知るアルゴリズム」だった。必要以上を求めず、日々の小さな譲り合いや感謝を積み重ねる人間ほど、台帳のバランスは安定する。逆に、際限のない強欲や独占は、台帳に歪みを生む。
「ところが最近、とんでもないことになりましてね」
エンマ子はモニターを一平に見せた。異常な赤い警告文字が画面いっぱいに点滅している。
「『メイセンコイン』という仮想通貨、ご存知ですか。あれは、私たち冥府局のシステムに直接アクセスして、寿命台帳のデータを不正に書き換えるために作られた代物なんです」



五章 メイセンコインの正体
事の発端は、財前徹也という一人の男だった。
彼は自らのIT企業の技術力を使い、量子コンピュータで冥府局のセキュリティホールを発見した。そして「善行に見せかけたボット取引」を大量発生させる仮想通貨を開発したのだ。
メイセンコインの採掘は、実は台帳上で「見せかけの善行データ」を大量生成する仕組みになっていた。GPSの位置情報を偽装して『交差点で車を譲った』とするダミーログを毎秒数千件送信し、自動生成されたSNSの『お礼パケット』を冥府局のサーバーに叩き込む。台帳を欺いて自分の寿命ポイントを水増しする。早い話が、閻魔様への大規模かつ自動化された組織的な賄賂だった。
「莫大な富を築いても、まだ足りないと思う人間っているじゃないですか。財前さんは、ついに『永遠の命』にまで手を伸ばしたんです」
エンマ子は疲れた声で続けた。
「でも台帳というのは、本物の思いやりと偽物の思いやりを区別するようにできているんです。だからスパムのように大量の偽データが流れ込んだ結果、システムが深刻なバグを起こして、無関係な人間まで、ランダムに消えたり、若返ったり、二重に存在してしまったりする不具合が起きているんです」
一平は絶句した。中村さん一家が消えたのも、これが原因なのか。
「それで、俺は何のために呼ばれたんですか」
エンマ子は画面をスクロールし、一平の個人データを表示した。
「あなたは、台帳が定める『基準値』に、限りなく近い方なんです」



六章 基準値の男
「基準値、ですか」
「はい。健康、安全、安定、そして足りるだけのお金。それ以上を求めず、日々小さな『譲り』を積み重ねてきた人。過去十年間、あなたが交差点で車を譲った回数、実に三千六百二十四回。感謝を伝えた回数、四千八百十一回。強欲指数はほぼゼロです」
エンマ子はモニターの数字を指差しながら、心底感心したように言った。
「これほど綺麗な『足るを知る』波形を描く人間、久しぶりに見ました。あなたのデータを基準にすれば、システムの誤作動と、本物の善意との違いを、はっきり見分けることができるんです」
つまり一平は、暴走したシステムを正常化するための「物差し」として、この世界に召喚されたということだった。
「俺に何をしろと」
「システムの中枢である『審査本部』まで同行していただきたいんです。あなたの生きた記録を、いわば『照合サンプル』として使わせてください。そうすれば、偽物の善行データと、財前さんが不正に書き換えた台帳を切り離せます」
一平は少し考えて、ふっと笑った。
「別にいいですよ。俺の人生なんて、大した記録じゃないと思うけど」
「いいえ」とエンマ子は真顔で言った。「その『大したことない』という感覚こそが、一番の宝なんです」



七章 ゴンザという鬼
案内役として、一人の下っ端鬼が付けられた。名前はゴンザ。トゲの折れた金棒を持ち、いつも腰が引けている、およそ鬼らしくない鬼だった。
「あ、あの、田村さん、こちらです。足元、段差がありますから気をつけて」
やたら丁寧なゴンザに、一平はすっかり毒気を抜かれてしまった。
冥府局の廊下を歩くと、そこかしこに役所らしい光景が広がっていた。「彼岸うどん」を出す職員食堂、「輪廻申請書・複写三枚綴り」を配布する窓口、壁一面に貼られた「密は避けましょう 三途の川」というポスター。
「ここ、ものすごく普通の役所ですね」
「そうなんですよ。冥府だからって、みんな怖いイメージを持ってるんですけど、実際はもうずっと人手不足で」ゴンザはぼやきながら書類の束を抱え直す。「特にここ最近は、メイセンコインのせいで審査業務がパンクしてまして」
エレベーターに乗り込むと、ゴンザが「審査本部」のボタンを押した。扉が閉まる直前、廊下の奥に、見覚えのある神経質そうな細い目の男が、大勢の秘書を引き連れて歩いていくのが見えた。
財前徹也。まさに本人が、この冥府局の中を、我が物顔で歩いていたのだった。



八章 彼岸うどんと譲りポイント
審査本部へ向かう前に、ゴンザが小休止を提案した。食堂で彼岸うどんをすする一平に、ゴンザがぽつりぽつりと語る。
「田村さんの台帳、実は僕も見せてもらったんです。すごいんですよ。交差点で車を譲った記録が、一件一件ちゃんと『譲りポイント』として台帳に刻まれてる」
「そんなポイント制度があるんですか」
「はい。冥府局のシステムの根幹なんです。誰かのために小さく譲る、それだけで宇宙全体のエントロピーが少しだけ整うっていう。まあ、ものすごく単純化した説明ですけど」
ゴンザは声を潜めた。
「でも財前さんのメイセンコインは、その『譲りポイント』を機械的に大量生成しようとしたんです。本物の思いやりの代わりに、ボットに『お先にどうぞ』を何億回もクリックさせて」
一平は思わず噴き出した。
「そんなの、譲ってることにならないでしょう」
「その通りです。でもシステムは最初、区別がつかなかった。数字上は同じ『譲り』に見えてしまうから。それでバグが起きたんです」
一平はうどんの汁をすすりながら、ふと真顔になった。
「じゃあ俺は、その財前って人に、何を教えればいいんです」
ゴンザは箸を止め、一平をまっすぐ見た。
「たぶん、足るを知るということそのものを、です」



九章 審査本部の対決
審査本部は、巨大な円形劇場のような空間だった。中央の高い玉座に、赤ら顔で立派な口髭を蓄えた閻魔大王その人が座っている。その前で、財前徹也が声を張り上げていた。
「だから言ってるでしょう。これだけのメイセンコインを差し上げますから、私の寿命台帳を無期限に延長してください。いくらでも払います」
閻魔大王は面倒くさそうに片眉を上げた。
「何度も言うておるが、儂は賄賂など受け取らん。台帳は台帳、公正な計算あるのみじゃ」
「では計算のバグを直して差し上げましょう。私の会社の技術力があれば」
そこへ、一平とゴンザ、エンマ子が到着した。財前は一平を一瞥し、鼻で笑った。
「なんだこの冴えない爺さんは」
「田村一平と申します」一平は落ち着いて名乗った。「あなたが騒がせてる『バグ』のせいで、俺の隣の家族が消えたんですよ」
「知ったことか。お前のような小市民に、我々のような人間の悩みが分かるものか。莫大な財を成しても、死んだら終わりだ。それが恐ろしくて仕方ないんだよ」
財前の声が初めて震えた。その目に浮かんでいたのは、傲慢さの奥に隠された、剥き出しの恐怖だった。



十章 閻魔大王の裁定
閻魔大王が一平に向かって尋ねた。
「田村よ。お主の台帳を審査本部のスクリーンに映し出す。皆に見せてやれ」
大きなスクリーンに、一平の人生の記録が映し出された。会社員として真面目に働いた四十年。特別な栄誉も、莫大な財産も、そこにはない。ただ、毎日のように誰かに道を譲り、誰かに感謝し、誰かに感謝された、無数の小さな記録が積み重なっていた。
「見ろ、財前。これがお主の台帳との違いじゃ」
隣に映し出された財前の台帳は、一見きらびやかな数字で埋め尽くされていたが、よく見るとどれも同じパターンの繰り返し、機械的にコピーされた偽物の輝きだった。
「本物の安心と、偽物の安心は、遠くから見れば似ておる。じゃが、近くで見れば一目瞭然じゃ」
閻魔大王は一平に向き直った。
「田村よ。お主にひとつ、頼みがある。システムを完全に正常化するには、お主の台帳データを『照合基準』としてこの場に恒久的に登録する必要がある。そのためには、お主自身の残り寿命の中から、ほんの少しだけ『献上』してもらわねばならん」
一平の心臓が跳ねた。命を差し出せというのか。
だが閻魔大王は続けた。
「案ずるな。お主が失うのは、宝くじの当選番号を一枚忘れるとか、散歩の途中で四つ葉のクローバーを偶然見つけるような、人生のささやかなラッキーを一回分見逃す程度の、ほんの小さな『幸運の欠片』じゃ」



十一章 足るを知る、という答え
一平は少し考えて、静かにうなずいた。
「ああ、それくらいなら」
驚いたのは財前だった。
「お前、正気か。自らの命、いや、たとえどんな小さな幸運でも、手放すというのか。俺はこれっぽっちの富も手放したくないのに」
一平は財前の方を向いて、穏やかに言った。
「あんたの言うことも、分からんでもないですよ。俺だって死ぬのは怖い。でもね、今夜寝て、明日の朝、目を覚ます保証なんて、誰にもないんです。それでも毎日、一生懸命生きるしかない。先に逝ってしまった仲間たちがいるんだから」
一平の声に、審査本部の空気がしんと静まり返った。
「健康、安全、安定、そして足りるだけのカネ。それだけ揃ってりゃ、俺は十分幸せなんです。莫大な富があっても、それを抱えたまま怯えて生きるくらいなら、俺は今のままでいい」
閻魔大王が満足げにうなずいた。
「見たか、財前。これが台帳の求める『足るを知る』というものじゃ。お主の金では、決して買えぬ」
その瞬間、一平の台帳から小さな光の粒が一つ、審査本部の中央にある巨大な水晶、冥府局のメインシステムへと吸い込まれていった。同時に、財前のメイセンコインの残高が、画面上ですべてゼロになった。



十二章 賄賂は通じない
システムの警告表示が、次々と消えていく。世界中で「消えた」とされていた人々の座標が、正常な位置に復帰していく信号が流れ始めた。
エンマ子が涙ぐみながらモニターを見つめる。
「戻った。みんな、戻ってきます」
財前はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「そんな。私の全財産が」
閻魔大王は玉座から立ち上がり、財前を見下ろした。
「財前よ。お主はこれから当分の間、この冥府局で『カスタマーサポート』の仕事に就いてもらう。生前、散々人を待たせたぶん、今度はお主が、亡者たちの長い長い相談ごとに、一つひとつ丁寧に付き合うがよい」
「そんな。罰なのですか、これは」
「いいや」閻魔大王はニヤリと笑った。「これは、お主が一度も経験したことのない、『誰かのために時間を使う』という修行じゃ」
数分後、早くも窓口に押し寄せたクレームの受話器を握らされ、「金のトイレットペーパーがある天国へ案内しろだと。責任者を呼べ。あ、あの、少々お待ちください」と冷や汗を流しながら大混乱に陥る財前の姿があった。
ゴンザが小声で一平に耳打ちした。
「これ、地味にキツイ配属らしいですよ。冥府局の窓口業務、クレーム対応がえげつなくて」
一平は思わず笑ってしまった。莫大な富を築いた男の、これが行き着く先か。



十三章 残りの時間
すべてが片付いたあと、エンマ子が一平を送還用の窓口まで案内してくれた。
「田村さん、本当にありがとうございました。おかげでシステムは安定を取り戻しました」
「いやいや、俺は大したことしてないですよ」
「またそれを言う」エンマ子は苦笑した。「そのセリフこそが、あなたの台帳の一番の財産なんですって、さっき言ったばかりじゃないですか」
一平はふと尋ねた。
「あの、財前さんみたいな人、これからも出てくるんですか」
エンマ子は少し遠い目をした。
「残念ながら。莫大な富を築いても、まだ足りないと思う人は、いつの時代にもいます。でも、だからこそ、田村さんみたいな『基準値』の人が必要なんです。派手じゃなくても、誰かに車を譲る人、誰かに感謝を伝える人。そういう人がいる限り、台帳は決して壊れきらない」
一平は少し照れくさくなって、頭をかいた。
「まあ、俺にできるのは、その程度のことだけですからね」
送還用の自販機が、目の前に用意された。「現世行き」というボタンが新しく追加されている。
「田村さん、最後にひとつだけ」エンマ子が言った。「還暦、迎えられますよ。ちゃんと」



十四章 目覚め
気がつくと、一平は自宅の玄関先に立っていた。
目の前には、見慣れた朝の交差点。あの奇妙な自動販売機は、跡形もなく消えていた。まるで最初から存在しなかったかのように。
「おとうさん、何やってるの、こんなところで。おにぎり忘れてるわよ」
幸子が玄関から顔を出す。一平は自分の腕時計を見た。あの夜からまだ数分しか経っていない。
「いや、なんでもない。ちょっと、長い夢を見てた気がする」
散歩に出ると、いつもの交差点に、一台の車がゆっくりと近づいてきた。一平は自転車を止め、軽く会釈をして先に行かせる。ドライバーが会釈を返し、走り去っていく。
たった、これだけのことだ。
だが、その何気ない一瞬に、一平はこれまでとは少し違う重みを感じていた。この小さな譲り合いのひとつひとつが、どこか遠い場所で、目に見えない台帳に静かに刻まれているのだと知ってしまったから。
ニュースをつけると、世界的な資産家、財前徹也が突然すべての事業から退き、慈善活動に専念すると発表していた。理由は「不明」とアナウンサーが首をかしげている。一平だけが、その本当の理由を知っていた。



終章 還暦を越えて
半年後、一平は還暦を迎えた。
幸子と息子夫婦、孫たちに囲まれて、ささやかな赤い頭巾のお祝いをした。特別なことは何もない、いつも通りの、けれど確かに幸せな一日だった。
夜、縁側でひとり月を眺めながら、一平はふと、あの詩のような思いをノートに書きつけた。
今夜 寝て
明日の朝 目を覚ます保証などなく
だから毎日一生懸命頑張る
書きながら、一平は静かに笑った。冥府局のあの騒動を思い出すたび、少し可笑しく、少し誇らしい気持ちになる。あれは本当にあったことなのか、それとも本当に長い夢だったのか、今となっては分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
還暦を越えて、今度はどう何を思うのだろうかと、五十代の自分は問いかけていた。その答えは、案外シンプルだった。
変わらず、譲ろう。変わらず、感謝しよう。それで、十分だ。
翌朝も、一平はいつもの交差点に立ち、一台の車を先に行かせた。




あまぞん きんどる



あとがき
物語の中で描かれた「冥府局」や「メイセンコイン」は、言うまでもなく架空の出来事です。しかし、田村一平が毎日交差点で車を先に行かせるあの小さな仕草や、「明日目が覚める保証はないからこそ今日を大切に生きる」というささやかな決意は、私たちの日常と地続きにある本物です。
「足るを知る」という言葉は、決して現状に甘んじることでも、成長を諦めることでもありません。今自分が手にしている健康や安全、そして家族や周りの人々との絆に目を向け、それらを心から愛おしむことなのだと感じています。
還暦という人生の大きな節目を迎える方、あるいは日々忙しない社会の中で少し疲れてしまった方が、この物語を通じて自分の歩んできた道を少し誇らしく思い、明日からの日常に優しい気持ちで戻っていただけたなら、とても嬉しく思います。



あらすじ
定年退職から半年、あと半年で還暦を迎える田村一平。彼の密やかな誇りは、交差点で対向車に道を譲り、小さな「ありがとう」を重ねる静かな日々の暮らしだった。

しかしある夜、突然出現した謎の自動販売機で「来世ロイヤルミルクティー」を買ったことから、一平はあの世の役所「冥府局」へと召喚されてしまう!

そこでは、強欲なIT長者・財前徹也が開発した不正な仮想通貨「メイセンコイン」のボット攻撃によって、宇宙規模の「生命台帳」システムが大バグを起こしていた。世界中で人々が消え去る大混乱の中、システムを修復するための唯一の鍵——それは、一平が50代から愚直に積み重ねてきた「強欲指数ゼロ・譲り合いの基準値データ」だった。

地味でささやかな小市民の「足るを知る」生き様が、世界とあの世の危機を救う!


お裾分け宇宙人
〜ある夫婦の、ちょっと不思議な野菜噺〜


まえがき
高座の幕が上がる前に

毎度おさわがせいたします。

世の中、何でもかんでも「コスパ」だ「タイパ」だと計算ばかりの世の中でございます。何をどれだけ差し出して、どれだけのお返し(リターン)が得られるか。損か得か、貸しか借りか――そんな風に電卓を叩きながら生きていると、なんだか肩が凝って、胃のあたりがキーキーしてはまいりませんか。

今回お届けいたしますのは、そんな計算でガチガチになってしまった遠い宇宙の宇宙人と、埼玉の片隅で今日も今日とて「まあ、いいじゃないの」と野菜を配り続けるごく普通の夫婦のお話でございます。

「お裾分け」という、損得を超えた妙なカルチャー。見返りなんて端から求めず、ただ「新鮮なうちに美味しく食べてもらえればそれでいい」という軽やかさ。それが巡り巡って、なんと宇宙規模の大騒動を引き起こしてしまう……という、ちょっと滑稽で、どこか温かい人情SF落語に仕立ててみました。

どうぞ肩の力を抜いて、お茶でも飲みながら、一席お付き合いいただけますれば幸いです。

それでは、お後がよろしいようで。



まくら
えー、毎度ばかばかしいお話を一席申し上げます。

世の中には、いろんな夫婦がおりますな。仲の良い夫婦、仲の悪い夫婦、仲が良いんだか悪いんだかよく分からない夫婦。今日お話しするのは、埼玉のとある町に住む、野々村徹平(ののむらてっぺい)とその女房、多恵子(たえこ)という二人暮らしの夫婦でございます。

この徹平という男、齢五十を過ぎた頃から近所の落語会に通うようになりまして、玄人はだしとまではいきませんが、まあまあ達者な小咄のひとつやふたつはできる。そんな縁で知り合った農家のご主人から、時折きゅうりだのトマトだのナスだのが、段ボール箱にどっさり届く。

もらった野菜は、二人暮らしにはとても食べきれる量じゃない。だから多恵子は、新鮮なうちにと、すぐさまご近所や友達に配って回る。

「そんなに配っちまって、うちの分がなくなるじゃないか」

徹平がそう言うと、多恵子はこう返す。

「いいのよ、間に合うだけあれば」

見返りなんぞ、端から期待していない。ただ、新鮮なうちに、喜んでもらえればそれでいい――という、まあ、よくある夫婦の、よくある夏の日の話でございます。

ところが、この夏はちょっとばかり様子が違った。届いたきゅうりの一本が、どうも様子がおかしい。曲がり方が尋常じゃない。曲がっているというより、渦を巻いている。しかも、妙に温かい。

「おい、多恵子。このきゅうり、なんか光ってないか」

「あら、ほんとだ。産地直送の新技術かしらね」

いやいや、そんな技術があってまるか、という話でございます。この一本のきゅうりから、とんでもない騒動が巻き起こることになるとは、この時の徹平、まだ夢にも思っておりません。

さて、そんなわけで、ここからが本題でございます。どうぞ気楽に、お付き合いのほどを。




一席
光るきゅうり

八月の、うだるように暑い夕方のことでございます。

野々村家の玄関先に、いつものように段ボール箱が届いておりました。差出人は、群馬で農業を営む山際(やまぎわ)さんという方。徹平が三年前、地域の落語会「笑楽亭(しょうらくてい)」で高座返しの手伝いをしていた縁で知り合った人物で、寡黙だが人情に厚い、六十がらみの農家でございます。

「お、来た来た」

徹平が箱を開けると、中にはきゅうりが十五本、トマトが八個、ナスが十本ほど。相変わらずの大盤振る舞いでございます。

「今年も多いわねぇ。じゃあ、いつも通り」

多恵子はすぐさま新聞紙を広げ、仕分けを始めました。三本、四個、三本――これがうちの分。残りは、隣の田中さん、向かいの佐々木さん、それから駅前の八百屋の跡取り息子で今は喫茶店をやっている坂上くんのところへ。

ところがこの日、仕分けの最中に多恵子がふと手を止めました。

「ねぇ、これ、変じゃない?」

彼女がつまみ上げたのは、一本のきゅうり。しかしその曲がり方が、どうにも普通ではない。まるで渦潮のように、くるくると、それも規則正しく螺旋を描いている。しかも触ると、ほんのり温かい。

「太陽で温まっただけだろ」

徹平はそう言いましたが、日はもうとっくに沈んでおります。それに、他のきゅうりはみんな常温なのに、この一本だけが、まるで湯たんぽのように温もっている。

「気持ち悪いから、これはうちで食べましょうか。人様に配るのは悪いし」

「そうだな」

というわけで、この妙なきゅうりは、野々村家の冷蔵庫に収まることになりました。

その夜、更けてから、台所でコトリと音がいたしました。

徹平が目を覚まし、様子を見に行くと、冷蔵庫の扉がわずかに開いている。中を覗くと、あの螺旋きゅうりが、ひとりでにくるくると回転しておりました。

「うわっ!」

思わず声を上げた徹平の前で、きゅうりはくるくる、くるくると回転速度を上げ、やがてポン、と軽い音を立てて――皮が、めくれました。

中から出てきたのは、体長二十センチほどの、緑色の生き物。きゅうりの皮を器用に脱ぎ捨てたその姿は、人間で言うところの、まあ、ずんぐりした豆タヌキのような、いや、もう少し正確に言うなら、みずみずしい枝豆に手足が生えたような姿をしておりました。

「や、や、や、ちょっと待った」

その生き物は、両手(のようなもの)を挙げて、慌てて話しかけてまいります。

「驚かせて申し訳ない。決して怪しい者ではありません。いや、怪しいことは怪しいんですが、危害を加える者ではありません」

徹平、腰を抜かしそうになりながらも、なぜか妙に冷静な声でこう申しました。

「……お前、喋れるのか」

「喋れます。この星の言語は、皮に潜伏している間にだいたい学習いたしました。テレビの音声とか、そういうもので」

「うちのテレビ、四六時中つけっぱなしだったからな……」

「おかげさまで、朝の情報番組と、あとは奥様がよくご覧になっている韓国ドラマの言い回しにも詳しくなりました」

「そんなことはどうでもいい。お前は、一体、何者なんだ」

すると、この緑の生き物は、居住まいを正すように(手足しかないのに、どうやって居住まいを正すのかは分かりませんが、とにかくそういう雰囲気を醸し出して)、こう名乗りました。

「わたくし、テイク星から参りました、調査員のギブリー・ゼロと申します」

「テイク星?ギブリー・ゼロ?」

「はい。この銀河系の外れにある、小さな星でございます」

かくして、野々村徹平と、テイク星人ギブリー・ゼロとの、奇妙な付き合いが始まったのでございます。



二席
テイク星の憂鬱

さて、翌朝になりまして、徹平は多恵子を叩き起こし、台所の隅にちょこんと座る緑色の生き物を紹介いたしました。

「なんですって!?ちょっと、あなた、これ食べようとしてたじゃない、危なかったわねぇ」

多恵子は最初こそ驚いておりましたが、意外にもすぐに落ち着きを取り戻し、朝ごはんの残りの味噌汁を差し出すあたり、さすがは長年きゅうりを配り続けてきた肝の据わり方でございます。

「いただいても?」

「どうぞどうぞ」

ギブリー・ゼロは、恐る恐る味噌汁をひとくち――飲んだ瞬間、体がびくん、と跳ねました。

「ぬわあっ!」

「ど、どうした!?」

ギブリー・ゼロは体をよじり、七転八倒しております。皮膚がぶつぶつと発疹のように波打ち、体の色が緑から紫、紫から橙へと、信号機もかくやという勢いで変化してまいります。

「大丈夫か!」

「だ、大丈夫です……いや、大丈夫ではありません……これは、いわゆる……オンギリ病の発作でして……」

「おんぎり病?」

しばらくして発作が収まると、ギブリー・ゼロはぜいぜいと息をつきながら、事情を語り始めました。

「わたくしどもテイク星人は、対価なくして何かを受け取ると、体が拒絶反応を起こす体質でございます。これを我々は『オンギリ病』と呼んでおります」

「おにぎりじゃなくて?」

「おにぎりではございません。恩と義理で『オンギリ』でございます。何か恩を受けたら、必ず義理として返さねばならない。それが我が星の絶対法則。返せない恩を受け取ると、体が受け取りを拒否して、こういう発作を起こすのでございます」

「なんだそりゃ、面倒くさい体質だな」

「面倒くさい、どころではありません。我が星では、これが文明の根幹をなす制度でございます」

ギブリー・ゼロによりますと、テイク星の社会は「カリカリ経済」という制度で成り立っているのだそうです。何かを受け取ったら、寸分違わぬ価値のものを、寸分違わぬタイミングで返さねばならない。挨拶をされたら挨拶を返す、ではまだ生易しい。テイク星では、「おはよう」と言われたら、発した音のヘルツ数、音量、滞空時間まで計測し、寸分違わぬ「おはよう」を返却しなければならない。もし少しでも足りなければ「貸し」になり、少しでも多ければ「借り」になる。この貸し借りは巨大な台帳に記録され、星の全人口、全生物の貸し借り関係が、リアルタイムで計算され続けているのだそうでございます。

「気の遠くなる話だな……」

「その通りでございます。おかげで我が星の民は、皆一様に胃を悪くしております。いえ、我々に胃という概念はありませんが、まあ、そういう意味の器官を、悪くしております」

「で、お前はなんでまた地球くんだりまで?」

ここでギブリー・ゼロは、声を落として、こう申しました。

「実は、我が星の女王――ンダバ女王陛下が、原因不明の重い病に臥せっておられるのでございます」



三席
女王陛下の病

「女王が病気?それとお前がうちの冷蔵庫に潜んでいたことと、何の関係があるんだ」

徹平が尋ねますと、ギブリー・ゼロは深くうなずきました。

「女王陛下の病は、我が星の医学ではどうしても治せぬ病でございまして。名を『無償拒絶症候群』と申します」

「むしょう……なんだって?」

「はい。女王陛下は、生まれてこの方、何ひとつ、無償で受け取ったことがないのでございます。挨拶ひとつ、微笑みひとつに至るまで、すべて計算され、返礼されてきた。女王という立場ゆえ、誰も彼女に、見返りを求めぬ贈り物を、したことがない」

「まあ、女王様なら、そうだろうな」

「その結果、女王陛下の魂は、次第に、こう申し上げるのも変ですが……乾いていったのでございます。何かを受け取っても、心が動かない。何を返しても、満たされない。テイク星の学者たちは、これを『魂の飢餓状態』と診断いたしました」

「治す方法はないのか」

「あるにはあります。ただひとつだけ。何の計算もなく、何の見返りも期待せず、純粋に差し出された贈り物――これを一度でも受け取れば、女王陛下の魂は潤いを取り戻すだろう、と」

「それがなぜ地球なんだ」

ギブリー・ゼロは、体をぶるぶると震わせて、身を乗り出しました。

「実は、我が星の観測衛星が、この惑星の電波――特にこの町の上空を、長らく調査しておりました。すると、ある一軒の家から、実に奇妙なデータが観測されたのです」

「奇妙なデータ?」

「はい。定期的に、大量の野菜が、この家から近隣へと移動している。しかも、その移動には、対価の記録が一切、ない。まったく、ない。見返りを求めぬ贈与が、繰り返し、繰り返し、行われている」

徹平は、思わず多恵子の顔を見ました。多恵子は味噌汁のお椀を洗いながら、涼しい顔をしております。

「それが、うちだって言うのか」

「その通りでございます。野々村家。特に奥様、多恵子様の贈与行動は、我が星の学者たちの間で、ちょっとした話題になっております。『無償の女神』と呼ばれております」

「ちょっと、やめてよ、大げさねぇ」

多恵子は笑いながら手を振っておりますが、まんざらでもなさそうな顔でございます。

「わたくしは、その調査のため、きゅうりに擬態して潜入いたしました。目的はただひとつ。この家の『見返りを求めぬ贈与』のメカニズムを解明し、女王陛下への贈り物として持ち帰ること」

「野菜のおすそ分けを、宇宙まで持って帰るのか?」

「野菜そのものではございません。その、背後にある『心』でございます。しかし――」

ギブリー・ゼロは、ここで急にしょんぼりと肩を落としました。

「調査は、難航しております。というのも、我々テイク星人は、どうしても計算をしてしまう。この家の善意を『見返りなき贈与その一』『見返りなき贈与その二』と、律儀に台帳に記録してしまうのです。台帳につけた時点で、それはもう『無償』ではなくなってしまう。ジレンマでございます」

徹平は腕を組んで唸りました。

「そりゃそうだ。数えてる時点で、下心があるんだもんな」

「まさに、その通りで……」

かくして、野々村家に居候することになったギブリー・ゼロは、来る日も来る日も、多恵子の後をついて回り、その一挙手一投足を観察することになるのでございます。



四席
テイク星人、お使いに行く

さて、ここからしばらく、ギブリー・ゼロの珍騒動が続きます。

彼は昼間、猫よけのネットに身を潜め、姿を消す薬(テイク星の科学力で、地球人には見えなくなる粉末でございます)を体にまぶしながら、多恵子の行動を観察しておりました。

ある日、多恵子が隣の田中さんにトマトを届けに行きますと、田中さんのお婆さんが、お礼にと梅干しの瓶を持たせようといたします。

「いいのいいの、そんな」

多恵子は固辞しますが、田中のお婆さんも譲りません。押し問答の末、多恵子は梅干しをもらって帰ってまいりました。

これを物陰から見ていたギブリー・ゼロ、興奮した様子で徹平に詰め寄ります。

「見ました!?見ましたか!?あれは明確な返礼行為!貸し借りの発生です!やはり地球にも、我が星と同じ経済原理が!」

「いやいや、あれはそういうんじゃないんだ」

「では何だと仰るのです!」

「あれはこう、なんて言うか……お互い様、っていうやつだよ。もらったからお返しする、じゃなくて、もらってくれて嬉しいから、こっちも何か持ってもらいたい、っていう」

「意味が分かりません!それは経済用語で言うところの、双方向贈与循環ではないのですか!」

「いや、循環でもねえよ。台帳もつけてねえし」

「では帳簿はどこに!?」

「帳簿なんかねぇって言ってんだろ」

ギブリー・ゼロは頭を抱え、その場にへたり込んでしまいました。

「わたくしには、理解できません……理解できないものを、女王陛下にお持ち帰りすることなど、できましょうか……」

見かねた徹平、ある提案をいたしました。

「じゃあ、お前、実際にやってみたらどうだ」

「や、やる、とは?」

「お使いだよ。多恵子の代わりに、野菜を配って来い。頭で考えてても分からんもんは、体で覚えるしかねぇんだ」

というわけで翌日、ギブリー・ゼロは変装用の帽子とサングラス(徹平の私物で、体に対して著しく大きいのでございますが)を身につけ、トマトを三個抱えて、意気揚々と近所へお使いに出発いたしました。

これがまあ、とんだ騒動になるのでございます。

まず向かいの佐々木さん宅。ギブリー・ゼロがインターホンを押し、「これ、お裾分けです」とトマトを差し出しますと、佐々木のお婆さんは律儀な方でございますから、

「まあまあ、いつもすみません。じゃあこれ、うちで漬けた白菜、少し持って帰ってくださいな」

と、漬物の袋を渡そうとする。ギブリー・ゼロ、これを受け取った瞬間、

「ぐわあっ!対価が発生しました!台帳に記載せねば!」

と叫んで、その場でくるくる回転しながら空中に浮き上がってしまいました。

「あら、やだ、この帽子、風船仕掛けなのかしら、面白いわね」

呑気な佐々木のお婆さんは、そんな呑気なことをおっしゃりながら、ケラケラ笑っております。ギブリー・ゼロは慌てて着地し、逃げるようにその場を後にいたしました。

次に喫茶店の坂上くんのところ。トマトを渡すと、坂上くんは、

「わあ嬉しいな、じゃあコーヒー淹れますよ、飲んでっていってください」

と言う。これまた対価だ、貸し借りだ、と大騒ぎになりかけましたが、ここでギブリー・ゼロ、ふと気づいたことがございました。

坂上くんの様子を見ておりますと、コーヒーを淹れる手つきが、実に楽しそうなのでございます。台帳をつけているような、義務感に満ちた顔ではない。むしろ、何かをしてあげられることが嬉しくてたまらない、という顔。

「あの……坂上様。このコーヒーは、先ほどのトマトへの、返礼として、お淹れになるのですか」

坂上くんは、きょとんとした顔でこう答えました。

「返礼っていうか……なんか、お裾分けもらったら、こっちも何かしたくなるじゃないですか。それだけっすよ」

「したくなる……?」

「そうそう。損得とかじゃなくて。気持ちいいから、みたいな」

ギブリー・ゼロは、この時、生まれて初めて――「気持ちいいから」という理由だけで行われる授受行為を、目の当たりにしたのでございます。



五席
監査官、来たる

ところが、事はそう単純には進みません。

ある晩、野々村家の庭に、青白い光の柱が降り立ちました。ドスン、という音とともに現れたのは、ギブリー・ゼロよりも一回り大きく、いかめしい顔つきをした――やはり枝豆のような姿の、もう一体のテイク星人。

「ゼロ!貴様、いつまで調査に手間取っておる!女王陛下のご容態は、日に日に悪化しておるのだぞ!」

ギブリー・ゼロは、これを見るなり、その場に平伏いたしました。

「か、監査官殿!なぜこちらへ!」

「お前の台帳の記録が、あまりに杜撰だからだ!見返りなき贈与その一、その二、その三……途中から数えるのをやめておるではないか!これでは報告書にならん!」

この監査官、名をゴウリキ・スーパンと申しまして、テイク星でも指折りの生真面目な人物でございます。

「監査官殿、地球の贈与行動は数えられるものではなく――」

「言い訳無用!貴様には失望した!姿を消す粉など使わん、わし自ら堂々とこの星の贈与経済を解明し、台帳にまとめてみせる!」

ゴウリキ・スーパンは、そう吐き捨てるなり計測器を取り出し、町中へと飛び出していきました。姿を隠す粉を使わないものですから、町の人々からは緑色の妙な生き物が空中を浮遊しているように丸見えでございます。

徹平がパンクした自転車を近所の子供に直してやれば、「技術指導、対価なし!記録!」と叫び、多恵子が転んだお年寄りを起こせば、「安否確認、対価なし!これも記録!」と、いちいち大騒ぎをする。

しまいには掲示板の前で落ちていた手袋を届けた人にまで計測器を向け、「善意の伝播!経路不明!この星の経済は破綻しておる!」と真顔で叫び散らすものですから、近所の人々は「なにかのドローンかしら」と怪訝な顔で見上げております。

ギブリー・ゼロが「監査官殿、落ち着いてください!」と追いすがりますが、ゴウリキは聞く耳を持ちません。

「うるさい!こうなったらあの女――多恵子とやらに、直接真意を問いただしてくれる!」

ゴウリキ・スーパンは、そのまま野々村家の庭先へと舞い戻ってまいりました。

その時、ちょうど庭先に出てきた多恵子。緑色の妙な生き物が二匹、庭でわちゃわちゃしているのを見て――さぞ驚くだろうと徹平は身構えましたが。

「あら、可愛い豆タヌキが増えてる」

多恵子、存外のんびりしたものでございます。



六席
ンダバ女王のヴィジョン

「な、なぜ驚かない!」

ゴウリキ・スーパンは、うろたえながら多恵子に詰め寄りました。

「だって、うちの人が説明してくれたもの。宇宙人さんが、女王様の病気を治すために来てるんでしょう。可哀想にねぇ」

「か、可哀想……?」

ゴウリキ・スーパンは、その言葉に少しばかり動揺した様子でございます。テイク星の社会では、「可哀想」という感情も「同情の提供、慰めの返礼義務発生」という手続きを伴うものらしいのですが、多恵子の言葉には、そういう計算の匂いがまるでしない。

「ふん、口先だけであろう。証拠を見せてもらおうか。貴様、これまでに配ってきた野菜の総量、記録はあるのか」

「記録?そんなのつけたことないわねぇ」

「では、誰に何をいくつ渡したか、正確に思い出せるのか」

「うーん、今週は田中さんと佐々木さんと坂上くんと……あら、あと誰だったかしら。ま、いいのよ、忘れちゃっても」

「忘れても、いい、だと!?」

ゴウリキ・スーパンは目を白黒させております。テイク星の常識からすれば、これはもう考えられないほどの管理不全でございます。

その時、庭先に置いてあったラジオから、突然、ノイズ混じりの声が流れ始めました。

「……こちら、テイク星本星。ンダバ女王陛下より、緊急のご意向……」

「な、なんと!女王陛下からの通信!」

ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロ、揃って直立不動になりました。ノイズの向こうから聞こえてくるのは、しわがれた、しかしどこか優しさを感じさせる声でございます。

「ゴウリキよ、ゼロよ。よい。もう、よいのじゃ」

「よ、よいとは、如何なる思し召しでございましょうか」

「わらわは、そなたたちの報告を、ずっと聞いておった。あの女子(おなご)――多恵子とやらの言葉を」

「お聞きに、なっておられたのですか」

「うむ。『忘れても、いい』――その一言を聞いた時、わらわの胸の奥で、何かが、じんわりと温かくなるのを感じたのじゃ」

女王の声は、少し湿り気を帯びておりました。

「わらわはこれまで、受けたものはすべて記憶し、必ず返してきた。それが女王としての務めだと思うておった。じゃが、多恵子の言葉を聞いて、初めて分かった。忘れちまうほどの軽やかさで、人にモノを差し出せるのが、どれほど自由で心地よいことか」

「陛下……」

「わらわは、もう治療法など、探さずともよい。この気づきこそが、何よりの薬じゃ」

そう言った次の瞬間、ラジオの向こうから、はっきりとした、力強い笑い声が響き渡りました。

「あっはっは!なんじゃ、こんなことか!数えぬこと、忘れること、それこそが、贈り物の真髄であったとは!」

ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロは、思わず顔を見合わせました。

「女王陛下……お治りになられたのですか」

「治った、とは少し違うがの。憑き物が落ちた、というやつじゃな。ゴウリキよ、ゼロよ。もうよい、台帳は捨てい」

「だ、台帳を、捨てる、とは……」

「テイク星の民よ、今日この日をもって、カリカリ経済は改める。すべてを計算せずともよい社会を、これから作っていこうぞ」

この宣言は、後にテイク星の歴史書にて「無償改革」と呼ばれることになるのですが、それはまた別の話でございます。



七席
台帳を、捨てる

女王陛下の宣言を受けて、ゴウリキ・スーパンは、しばしその場に立ち尽くしておりました。

やがて、彼はゆっくりと、抱えていた分厚い計測記録――貸し借りの台帳を、庭先の焼却炉(徹平が落ち葉を燃やすのに使っている、古い一斗缶でございます)へと運んでまいりました。

「野々村殿。この台帳、燃やしても構いませんかな」

「別にいいけど、宇宙人の台帳を地球の焼却炉で燃やして大丈夫なのか」

「構いません。もはや、必要のないものです」

ゴウリキ・スーパンは、台帳を一斗缶に放り込み、マッチを擦りました。ボッ、と音を立てて燃え上がる炎を、二人と二匹は、無言で見つめておりました。

「監査官殿……長年、ご苦労様でございました」

ギブリー・ゼロが声をかけますと、ゴウリキ・スーパンは、珍しく穏やかな声で申しました。

「わしは今日まで、恩を返せぬことを、恐れて生きてきた。返せぬ恩は罪だと、そう教えられてきたからな」

「はい」

「じゃが、多恵子殿を見ておって、分かった。恩とは、返すために受け取るものではない。ただ、受け取ればそれでよいのだ。そして、いつか、自分の中から自然と、誰かに手を差し伸べたくなる時が来る。それでよいのだ」

炎の向こうで、ゴウリキ・スーパンの体が、初めて、深緑色から、明るい若草色へと変わりました。テイク星人の色の変化は感情と連動しているそうでございますが、これはどうやら、彼にとって初めての、心からの安堵の色だったようでございます。

「さて、野々村殿。奥様。長らくのご厄介、誠にありがとうございました」

「あら、もう帰っちゃうの」

多恵子が寂しそうに申しますと、ゴウリキ・スーパンは首を横に振りました。

「いえ、まだ少々。最後に、ひとつだけ、お願いがございまして」

「なに?」

「わしらにも――お裾分けというものを、していただけませんでしょうか。何ひとつ、見返りなど求めませぬ。ただ、一度、体験してみたいのです」

これを聞いた多恵子、ぱっと顔を輝かせました。

「もちろんよ!ちょうど今朝も、山際さんからたくさん届いたところなの」

かくして野々村家の台所では、地球の主婦とテイク星の監査官、調査員が、額を寄せ合って、きゅうりとトマトとナスを新聞紙に包む、という、なんとも奇妙で、なんともほのぼのとした光景が繰り広げられたのでございます。



八席
お開き

さて、それから数日後のことでございます。

ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロは、テイク星へ帰る日を迎えました。庭先に、あの青白い光の柱が、再び立ち上ります。

「野々村殿、多恵子殿。この御恩は――」

言いかけて、ゴウリキ・スーパンは、はっと口をつぐみました。

「いや、失礼。『御恩』などと申しては、また台帳をつけたくなる。この度は、実に、楽しゅうございました。それだけにしておきましょう」

「うんうん、それでいいのよ」

多恵子は、最後に、抱えていたきゅうりを二本、ひょいと差し出しました。

「はい、これ、お土産」

「よ、よろしいのですか。またあの発作が――」

「あら、そう?大丈夫かしら」

「いえ……試してみます」

ゴウリキ・スーパンは、恐る恐る、きゅうりを受け取りました。一瞬、体がびくん、と跳ねかけましたが――何事も起こりません。彼はゆっくりと、自分の体を見下ろし、それから、驚いたように顔を上げました。

「発作が……出ません」

「そりゃそうよ。数えてないんだもの」

「これが……無償の重み、というものですか」

「重くなんかないわよ。軽いもんよ、お裾分けなんて」

ゴウリキ・スーパンとギブリー・ゼロは、互いに顔を見合わせ、それから深々と頭を下げました。

「野々村殿、多恵子殿。この度のご厚情、生涯忘れませぬ」

「あ、こら、また『忘れない』とか言って、計算し始めてない?」

「し、失礼!忘れます!いや、覚えているかもしれませぬが、それは義務としてではなく!」

「もう、細かいわねぇ、宇宙人さんは」

そんなやり取りを最後に、二匹はきゅうりを片手に、光の柱とともに、夜空へと消えていったのでございます。

翌朝、徹平と多恵子が縁側でお茶を飲んでおりますと、隣の田中さんが顔を出しました。

「野々村さん、聞きましたか。昨夜、庭のあたりで、変な光が見えたって、町内で噂になってるんですよ」

「あら、うちも見たわよ、あれ。UFOかしらねぇ」

「奥さん、落ち着いてますね。怖くなかったんですか」

「別に。それより田中さん、これ、召し上がる?きゅうり、まだあるのよ」

「いつもすみませんねぇ」

田中さんは、いつものように、恐縮しながらきゅうりを受け取り、帰っていきました。徹平は、その後ろ姿を見送りながら、ふと呟きました。

「なあ、多恵子。俺たちがやってたことって、実は、宇宙規模ですげえことだったんだな」

「なによ急に」

「いや、テイク星の女王様の病気まで治しちまったんだぜ、お前の野菜配りが」

「あら、そうだったの?よく分からないけど、まあ、良かったじゃない」

多恵子は、そう言って、湯呑みを傾けました。この人は、今回の一件のスケールの大きさなど、てんで気にも留めていない様子でございます。それもそのはず、彼女にとってこれは、いつもと変わらぬ、ただの野菜の配りっぷりだったのですから。

さて、この話には、実はまだ後日談がございます。

それから一年ほど経ったある日、野々村家の庭に、また小さな光が灯りました。降り立ったのは、あのギブリー・ゼロ。心なしか、以前よりふっくらと、艶やかな緑色になっております。

「野々村殿、多恵子殿。ご無沙汰しております」

「あら、ギブリーくん、久しぶりねぇ。元気だった?」

「はい、おかげさまで。実は、ご報告がございまして。テイク星は今、あの無償改革のおかげで、実に平和になりました。台帳を捨ててから、皆、驚くほど気楽に暮らしております」

「それは良かったわねぇ」

「つきましては、これは、その、お礼というわけでは決してございませんが……」

ギブリー・ゼロは、そう言いながら、小さな種の入った袋を差し出しました。

「テイク星の名産、光るきゅうりの種でございます。地球の気候でも育つよう、少々改良いたしました。よろしければ、育ててみてはいただけませぬか」

「あら嬉しい。育ててみるわ。でも、また変な発作起こしたりしない?」

「ご心配なく。この種から育つきゅうりは、もう誰にも憑依いたしません。ただの、少しばかり美味しいきゅうりでございます」

「そう。じゃあ今度採れたら、ご近所に配らなくちゃね」

「はい。どうぞ、存分に。それが何より」

こうして野々村家の家庭菜園には、テイク星由来の、ほんのり光るきゅうりが植えられることになりました。秋になり、実ったそのきゅうりは、多恵子の手によって、いつも通り、近所へ、友人へ、お裾分けされていったそうでございます。

見返りなんぞ、端から求めない。ただ美味しく食べてもらえれば、それでいい。
どうやら本当に旨いきゅうりってぇのは、カックウ(角・格)がつかないようでございます。

お後がよろしいようで。

(了)


アマゾン キンドル



あとがき
きゅうりの種をひとつまみ

このお話を書いている最中、ふと「私たちはいつから、人からもらった優しさの『価値』を正確に返そうと身構えるようになったのだろう」と考えさせられました。

作中に登場するテイク星人たちは、恩を受け取ると体に拒絶反応を起こす「オンギリ病」に悩まされていました。笑い話のようですが、案外、現代を生きる私たちも「借りを作ったら返さなきゃ」「何かお礼をしなければ」と、小さな「オンギリ病」にかかっているのかもしれません。

多恵子さんが言う「忘れても、いいのよ」という一言。
この軽やかさこそが、実は世界を、ひいては自分自身の心を一番救ってくれる薬なのかもしれません。

もしこの本を読み終えたあと、あなたの元に届いたちょっとした好意や優しさを、「ありがとう」と素直に受け取り、誰かへそっとパスしたくなったなら、作者としてこれ以上の喜びはございません。

あなたの日常にも、ほんのり温かい「お裾分け」の光が灯りますように。


書き進めてみると

謎の4世紀は三部作ではなく

四部作となりました


順を追えば

これが三番目となりそうです


Kindleへの清書提出前の

まとめ途中ですが

取り急ぎ載せておきます





謎の4世紀・完結編
ミハトの水、四千年の川


柊 蘭より始まる四千年の系譜
七つの石が橋になるまで

ミハト
ヨナ
静女
蓮徹
光世

七夏
第一の石から第七の石まで — 橋は七つでできている


まえがき
川の上流で降った雨が、河口の海に届くまでにおよそ三日がかかるという。
三日前の雨が、いま目の前の海で波に混じり合っている。
時間もまた、一本の川のようなものではないだろうか。
四千年前の東北の湿地で、ひとりの女が産声をあげた。
女の名はミハト。
彼女の母・柊 蘭は、四千四百四十四年の未来から、二度と戻れぬ「片道」の時空転送で送られてきた生化学者であった。
未来から過去へ投げ出された母と、その記憶を抱えて生きた娘。
そして、母が遺した言葉と「読めない文字が彫られた板」を、途方もない時の闇の中で手渡し続けた人々がいた。
これは、時の川に架けられた「見えない橋」の物語である。
七つの石——七人の名をもつ者たちと、それを繋いだ名前も残らぬ無数の手たちの四千年の旅路が、いま静かに結びつく。


序 四千年の川
ある川がある。

その川は、山から流れ、湿地を抜け、平野を潤し、やがて海に注ぐ。

川は、四千年前と四千年後で、流れる場所を少しずつ変えている。しかし、水そのものは変わっていない。上流で降った雨が下流に届くのに、この川では、およそ三日かかる。三日前の雨が、いま河口で海に混じっている。

時間もまた、そのような川である。

四世紀のある湿地で、一人の女が産声をあげた。

女の名は、ミハト。

母は、柊 蘭。四千四百四十四年から片道で送られてきた生化学者である。

以下は、ミハトから始まり、彼女の娘、娘の娘、そしてその先の四千年の系譜の物語である。

同時にこれは、四千四百九十三年七月十七日の朝、七尾 匡の机の上に素焼きの壺が現れるまでの、四千百八十三年の見えない橋の物語でもある。

橋は、七つの石でできている。

石は、それぞれ一人の女、あるいは一人の男の名を持つ。

第一の石、ミハト。

第二の石、ミハトの七代あとの末裔、ヨナ。

第三の石、ヨナの十九代あとの末裔、静女(しずめ)。

第四の石、静女の二十四代あとの末裔、蓮徹(れんてつ)という名の僧。

第五の石、蓮徹の時代から六百年後の島の考古学者、加賀谷 光世(かがや みつよ)。

第六の石、加賀谷の時代からさらに千二百年後の水中考古学者、渚(なぎさ)。

第七の石、渚の時代から六百年後の四千四百九十三年の榊 七夏(さかき ななつ)。

七つの石を繋げると橋になる。

橋を渡ると壺が届く。




第一章 ミハト
三一〇年、東北の湿地
母は、私が六歳の秋に死んだ。

母の名は、蘭といった。集落の人々は、母を「北から来た痩せた女」と呼んでいた。母自身は、自分の名を私にだけ教えた。

「ヒイラギ、ラン」

母は、木の板にその字を彫って私に見せた。字は、片仮名という母の生まれた土地の文字だった。ヒイラギは木の名前で、ランは花の名前らしかった。母は、二つともこの湿地には無いと笑った。

母は、私を育てながらたくさんのことを教えた。

手を洗うこと。傷を熱い湯で洗うこと。乳飲み子には火を通した水を飲ませること。それから、少し大きくなってからはこう教えた。

「ミハト。私がいなくなっても、これだけは続けなさい。手を洗うこと。ただ、それだけを続けなさい」

私は頷いた。

母は、私が六歳のときに熱を出した。

母は、たぶん自分の病を知っていた。母は、集落の他の女たちには看病を頼まなかった。彼女は、私と父だけを傍に置いた。

死ぬ前の日の夜。

母は、私に木の板の束を渡した。

「これを持って逃げなさい」

「にげる、って」

「この集落はいずれ他の集落と争う。争ったら負けるかもしれない。負けたらこの板は燃やされる。板は、私が私の言葉で書いたもの。他の誰にも読めない。でも、これは私の命そのもの。だから、燃やされたくない」

「にげて、どこへ」

母は、少し笑った。

「南へ。ずっと南へ。海の見えるところまで。そこで板を地に埋めなさい。埋めたら忘れなさい」

「わすれる、って」

「板の存在を忘れる。中身を忘れる。母のことも少しずつ忘れる。それが、あなたが生きるための道です」

私は泣いた。

母は、私の頭を撫でた。

「ミハト。あなたはこの時代のこの湿地の子です。私の娘だけど、私の時代の子ではない。あなたの時代を生きなさい。私のことは記憶のいちばん深いところにしまって、それでいい」

母は、翌日の朝死んだ。

私は、板を燃やさなかった。

しかし、南へ逃げもしなかった。

私は、父と集落に残った。父は狩人で優しい男だった。父は、母の死のあと私にこう言った。

「ミハトよ。母は遠くから来た。俺は母の遠さをたぶん半分も分からなかった。しかし母は俺とこの土地を選んで生きた。俺はその選択に報いる。お前を育てる。板は大事にしまえ。中身は俺にも読めない。だが母の命だ。粗末にはしない」

私は頷いた。

私は、集落の若い狩人と結婚した。夫は父の遠い親戚だった。

私は、四人の子を産んだ。一人は乳飲み子のうちに死んだ。三人は育った。

三人には、母の教えた「手を洗う」ことを教えた。三人はそれを素直に覚えた。三人が育つのを、集落の他の家の女たちが見ていた。三人とも健やかに育つのを、見た他の女たちは真似を始めた。集落の子どもの死ぬ数は、少しだけ、少しだけ減っていった。

母の名は、この集落では忘れられていった。

「北から来た痩せた女」の話は、私が四十歳になる頃には集落のほとんど誰も知らなくなっていた。

しかし、私は忘れなかった。

私が五十二歳になる年、集落は南の大きな連合の支配下に入った。

南の連合の使者は、集落の若い男たちを連れて行こうとした。若い男は、南の連合の戦のために必要とされた。

私の末の息子、三十歳の狩人も連れて行かれた。

彼は二度と戻らなかった。

その翌年の春。

私は母の板を抱えて集落を出た。

私は六十歳に近かった。

私は南へ歩いた。

歩きながら母の言葉を思い出していた。「南へ。ずっと南へ。海の見えるところまで」

私は海にはたどり着かなかった。

途中で力尽きた。

私はある川辺の小さな集落で行き倒れた。

集落の女が私を拾ってくれた。彼女は若く優しく、私が母の板を抱えているのを見てこう聞いた。

「その板はなに」

私は答えた。

「私の母の命」

彼女は頷いた。彼女はそれ以上聞かなかった。

私はその集落で三年生きた。

三年目の冬、私は死んだ。

死ぬ前、私は母の板をその集落の若い女に託した。

「これを大事にしまってください。中身は誰にも読めない。でも燃やさないでください。あなたの子どものそのまた子どものそのまた子どもへと伝えてください」

若い女は頷いた。

「ミハトさん。私は忘れない」

彼女は私の名を覚えていた。

私はそれだけで報われた。

私の名はミハトである。

私の母の名はヒイラギ ランである。

母は遠い遠い遠い遠い遠い遠い未来から来た。

私はそれを知っている。

しかし私以外の誰にもそれを伝えることはできなかった。

板は残った。

板は私が託した若い女の家にしまわれた。

板の行方は私は知らない。

第一の石、ミハト、記す。三一〇年、たぶん冬。

(この記録はミハト自身が書いたものではなく、彼女の孫娘が口伝で聞き取り、七代のちの子孫ヨナが木簡に書き写したものである。書き写しのたぶん七分の一が伝言の途中で失われた。〔欠落:川辺の集落の名〕残りの七分の六を、次章で続ける)




第二章 ヨナ
四七三年、九州北部の交易集落
私はヨナという。

私は船を操る女である。

私は九州の北の海に面した集落で生まれた。私の家は代々船を造り操ってきた。私の父は船大工で、私の母は船に乗る女だった。私の兄は若くして海で死んだ。

私が二十歳になる年、私の祖母が私に木の板の束を渡した。

「これをあんたに託す」

祖母は既に九十歳を超えていた。祖母の記憶は時々曖昧だった。しかしこの板を渡すときの祖母ははっきりしていた。

「これはあんたの七代前のばあさんミハトさんの母親の命だ」

「ミハトさん」

「私はミハトさんの孫娘のそのまた孫娘のそのまた娘だ。ミハトさんは遠い北の集落で生まれて南へ逃げてきた。ミハトさんの母親は遠くから来た痩せた女で名前をヒイラギ ランといった」

「ヒイラギ ラン」

「ミハトさんがこの板を私たちの先祖に託した。私たちは七代これを守ってきた。板の中身は読めない。でも燃やしてはいけない」

私は板を受け取った。

私はその板を船の船底の隠し場所にしまうことにした。

理由は単純だった。

私の集落は海の民である。陸に戦が起こると海の民は海に出る。陸の家は燃える。船は燃えない。船底の隠し場所なら板はたぶんいちばん安全だった。

私は船に板をしまった。

私はその板をしまってから四十年船で暮らした。

私の船は九州北部から瀬戸内海を抜け東のいまでいう和歌山のあたりまで行き来した。時に朝鮮半島の南、いわゆる伽耶の港にも渡った。

私はたくさんのものを運んだ。鉄。塩。米。絹。土器。そして時に人。

私は船の中で板を時々開いた。

板の片仮名は私には読めなかった。

しかし板の線の綺麗さを私は好きだった。

「ヒイラギ ランさんは字が上手だ」と私は独り言を言った。

私が六十歳になる年、私の船は瀬戸内海で嵐に遭った。

船は大破した。

私は船と共に沈んだ。

しかし船底の隠し場所はたまたま水漏れせず、板は船と共に海底に沈んだ。

板は海底で四百年眠った。

第二の石、ヨナ、記す。四七三年、船の中にて。(この記録はヨナ自身が船の板に彫ったものである。彼女は字を書けた。彼女の集落では朝鮮半島から伝わった漢字が既に少数の人々に使われていた。彼女はその漢字を簡略化した独自の記号でこの記録を彫った)

(彼女の記録の木片は船と共に沈んだが、四百年後次章の静女によって拾い上げられる)




第三章 静女
八八九年、瀬戸内海の海女
私は静女という。

私は海に潜る女である。

私は瀬戸内海のある小さな島で生まれた。私の島の女は代々海に潜り貝と海藻を獲って暮らしていた。私は七歳のときから潜り始め二十歳のときには島でいちばん深くまで潜れる女になった。

私は二十六歳のある夏の日島の南の深い海底で古い船の残骸を見つけた。

残骸は海藻に覆われていた。私はそれを掻き分け船底の隠し場所を見つけた。

隠し場所には二つのものがあった。

一つは木の板の束。片仮名らしい線の綺麗な文字が彫られていた。

もう一つは船の板に独自の記号で何かが彫られたもの。

私は両方を持ち帰った。

私は字が読めなかった。

しかし私の島には字を読める老いた僧が一人いた。

僧は両方を見てしばらく黙った。

「静女さん」

「はい」

「これは片仮名は私にも読めない。しかし、たぶん上代の日本のものだと思う。もう一つの船の板の記号は船の民の記号だな。私も断片的に読める。ヨナという女の名前が書かれている」

「ヨナ」

「ヨナは四百年前の船の民の女の名だと伝わっている。伝説の女船頭だ。彼女は嵐で沈んだと言われている」

「そのヨナさんの船を私は見つけたのですか」

「たぶんそうだ」

僧は続けた。

「静女さん。この板の束はあなたに託されたものと考えなさい」

「なぜ」

「四百年海底で眠ってあなたに拾われた。これは偶然ではない。時があなたを選んだのだ」

私は頷いた。

私は板の束を島の私の家の屋根裏にしまった。

私はその後四十年島で潜り続けた。

私は結婚しなかった。子も産まなかった。私は海と貝と海藻とそして屋根裏の板の束と共に生きた。

私が六十六歳になる年島に新しい若い僧が来た。

若い僧は島のいくつかの家を回って経をあげていた。

彼が私の家に来た日私は屋根裏の板の束を彼に見せた。

「これは四百年前の女船頭が預かっていたもっと古い板だと伝わっています。しかし私がいなくなるとこれは誰も知らなくなります。あなたに託していいですか」

若い僧はしばらく板を見た。

彼は頷いた。

「これはたぶん大変に古いものです。私はこれを私の寺に持ち帰り蔵にしまいます。私の寺は島にはありません。本土の深い山の中にあります。戦にも火にも遠い場所です」

「では託します」

若い僧は板を持ち帰った。

彼の寺はいまでいう比叡山の支院の一つである。

板は寺の蔵に収められた。

私はその翌年の冬死んだ。

私の島には私の墓はない。海女は死んだら海に還ると決まっていたからである。

私の名も島の記憶から二世代のうちに消えた。

しかし板は残った。

第三の石、静女、記す。八八九年、島にて。

(この記録は静女自身が若い僧に口頭で伝えたもので、僧が木簡に書き留めた。木簡は板と共に寺の蔵に収められた)




第四章 蓮徹
一四七六年、山寺の僧
私は蓮徹という。

私は比叡山のある小さな支院の五十六代目の住職である。

私がこの寺に来たのは二十二歳のときだった。師の勧めによる。師は私にこう言った。

「蓮徹。お前は字を読むのが上手い。字を読むだけでなく古い字を読むのも上手い。この寺の蔵には古いものが山ほどある。行って整理してこい」

私は頷いた。

私はその寺で五十年生きた。

私は七十二歳になる年寺の蔵のいちばん奥から片仮名で彫られた木の板の束を見つけた。

板の束と共にこう書かれた木簡があった。

「これは四百年前の瀬戸内海の島の海女静女が海底の古船から拾い上げた板である。板の片仮名は寺の誰も読めない。しかし燃やしてはならないと伝わっている。八八九年、若き僧、名を残さず」

私は板の束を注意深く取り出した。

私は板の片仮名をしばらく眺めた。

片仮名は今の世でも使われている。しかしこの板の片仮名は少し違っていた。字の形が今少し古めかしかった。しかし丁寧に読めば読めた。

私は読んだ。

板はこう始まっていた。

「私はヒイラギ ランという。私は生化学者である。私は西暦四千四百四十四年から片道の時間跳躍装置でこの時代に送られた」

私は板から目を離した。

私はしばらく震えていた。

四千四百四十四年という数字が何を意味するのか私には分からなかった。しかしこの板がとてつもなく遠くから来たということだけは分かった。

私は板を続けて読んだ。

板は五枚あった。

五枚目の最後の行はこう締められていた。

「娘の名を私はミハトと付けた。イハトの水のように澄んだ子という意味である。柊 蘭、記す。西暦たぶん三〇六年春」

私は板を机の上に置いた。

私は目を閉じた。

私はこう考えた。

この板を公にすべきか。

しかし公にすればこの時代の人々はこれをどう扱うだろう。

戦国のこの時代。仏教は宗派同士で争い武家は寺を焼く。この板はたぶん公にすれば燃やされる。

燃やされるくらいなら私はこの板を隠す。

私は板を寺のいちばん深い蔵のいちばん深い秘密の床下に埋めた。

私は板と共にこう書いた木簡を埋めた。

「この板は時の遠くから来たものである。中身は私蓮徹だけが読んだ。私はこれを公にしない。なぜならこの時代はこれを受け止める器を持たない。時が熟したときに掘り出されるべきである。時がいつ熟すのか私には分からない。しかし板は待つ。板は待つことに慣れている。既に千百年以上待ってきた。もう少し待てるだろう。一四七六年、蓮徹」

私はその埋設の場所を寺の住職の代替わりの際にだけ口伝で伝えることに決めた。

私は次の代の住職候補の若い僧にこう伝えた。

「あの床下には時の遠くから来たものが埋まっている。掘り出してはならない。しかし忘れてもならない。次のあなたに伝えなさい」

若い僧は頷いた。

私はその五年後死んだ。

私は八十歳を超えていた。

私はこの板について生涯他の誰にも話さなかった。

しかし板の存在は住職の代替わりで静かに伝わっていった。

第四の石、蓮徹、記す。一四七六年、山寺にて。

(彼の記録した木簡は板と共に寺の蔵の床下に埋められた。しかし寺はそのおよそ一世紀後織田信長の比叡山焼き討ちに巻き込まれ全焼する。住職と多くの僧は死ぬ。板は床下に埋まったまま寺の焼け跡の下でさらに四百年眠り続ける)

(焼き討ちの夜、床下を掘り返そうとした若い僧がいたとだけ、逃げ延びた稚児の覚書に残る。手は板に届かなかったが、その意志だけが板を瓦礫の下に残した)

(住職の代替わりで伝わっていた口伝は焼き討ちで途切れる)

(ここで橋はいったん途切れる)




第五章 加賀谷 光世
一九八七年、島の考古学者
私は加賀谷 光世と申します。

私は大学の考古学の教員です。専門は上代日本の地方遺跡です。

一九八七年の夏私は瀬戸内海のある小さな島の物置の跡地の発掘調査を指揮していました。

物置の跡地は島の古老の庭の隅にありました。古老の家は島でもいちばん古い家柄で、家の言い伝えでは「一千年前の海女の家系」とされていました。

古老は私にこう言いました。

「先生。うちの庭の隅のあの物置の跡。あそこ掘ってみてください。子どもの頃爺さまがあそこには遠くから来たものが眠っていると言っていたんです」

私は笑いました。

「遠くからというのはどこからですか」

「爺さまは四千年遠くと言っていました」

私はまた笑いました。

しかし私は掘りました。

物置の跡地の地面の下七十センチのところから、謎の記号が刻まれた木片が数点出土しました。

それは板そのものではありませんでした。板を写した、誰かの手でした。

木片は既にかなり傷んでいましたが、記号ははっきりと読めました。

記号は六十一種類ありました。

私はいくつかの専門家にこれを見せました。

誰も読めませんでした。

私はこれらの木片を大学の研究室に持ち帰り精査しました。

私はこれらを「用途不明の地方的な呪符」と暫定的に分類しました。

そして論文を書きました。

論文の題はこうでした。

「瀬戸内海某島出土の未解読記号を刻んだ木片群について 四〜五世紀の地方的表記体系の可能性」

論文はいくつかの雑誌に掲載されました。

しかし大きな話題にはなりませんでした。

私はその後五十年この記号のことを忘れませんでした。

私は退官後も記号の解読に取り組みました。

私は記号をいくつかの集団に分類しました。ある集団は母音を表しているように見えました。ある集団は子音を表しているように見えました。ある集団はたぶん助詞か助動詞。

私は六十一種類の記号を上代日本語の音韻体系に対応させる試みをしました。

八十三歳のとき私はある大きな発見をしました。

六十一種類のうち五十七種類は上代日本語の音節を完全に覆うことが分かりました。

残りの四種類は外来の音を表しているように見えました。

私はこの発見を論文にしました。

論文の題はこうでした。

「瀬戸内海某島出土の未解読記号は上代日本語のための独自の音節文字体系である 四世紀の消えた表記体系への仮説」

論文は大きな議論を呼びました。

多くの研究者は私の説を否定しました。

「四世紀の日本に独自の音節文字はあり得ない。文字は五世紀以降中国から伝わったものだけである」

私は彼らにこう答えました。

「私は可能性を提示したに過ぎません。しかし木片は実在します。記号は実在します。存在するものを無かったことにはできません」

私は八十九歳で死にました。

私は記号の完全な解読には届きませんでした。

しかし私は木片群を大学の資料館に寄贈しました。

木片群は資料館の地下の専用ケースに収められました。

第五の石、加賀谷 光世、記す。二〇四〇年、病床にて口述。

(彼女の記録は彼女の弟子の一人が口述筆記し大学の資料館に収められた)

(ここから橋は再び続く。板本体は比叡山の焼け跡の下で今も眠る。だが板を写した手は、加賀谷によって拾い上げられた。橋は二本走っていた)




第六章 渚
三二一三年、水中考古学者
私は渚と呼ばれる女です。

私の正式な名は長いので皆渚と呼びます。

私は三十三世紀の水中考古学者です。

三十三世紀の地球は既に多くの陸地を失いました。

かつての東京は水面下十八メートルです。かつて大阪は水面下二十二メートルです。かつての瀬戸内海の多くの島々は既に完全に水没しています。

水没した島々の下面には古い遺物が眠っています。

私はそれを掘り出す仕事をしています。

三二一三年の夏私は瀬戸内海のある水没した島の遺跡調査をしていました。

その島は二十一世紀半ばに水没したと記録されていました。二十世紀の考古学者加賀谷光世が発掘調査を行った島として水中考古学の分野では有名でした。

私は加賀谷の発掘記録を事前に読んでいました。

彼女の記録にはこうありました。

「島の南端の物置の跡地から謎の記号を刻んだ木片が出土。ただし島の他の地点は未発掘。特に島の中央部の洞穴および島の北端の家屋敷跡は私の生涯では発掘の許可が下りなかった」

私は島の中央部の水没した洞穴に潜りました。

洞穴の水深は三十四メートル。

洞穴の奥地面から二メートルほど掘り下げたところで私は素焼きの壺を発見しました。

壺は蝋で密封されていました。

壺は割れていませんでした。

私は壺を水面に引き上げました。

壺の中身を水上の船の密閉室で確認しました。

壺の中には木簡の束と樹皮の紙の束とそして一通の和紙の手紙がありました。

手紙は酸化して茶色く変色していましたが、字ははっきりと読めました。

字は平仮名と漢字が混じった現代日本語で書かれていました。

私は手紙を開きました。

手紙はこう始まっていました。

「四千四百四十四年のみなさんへ」

私は手紙をしばらく読めませんでした。

四千四百四十四年という数字が何を意味するのか私には分かりませんでした。

三十三世紀の私は未来のある時代へ宛てられた手紙をいま開いてしまったということに気付きました。

私は手紙を閉じました。

私は壺を閉じました。

私は報告書を書きました。

報告書にはこう書きました。

「瀬戸内海某水没島の中央部洞穴から素焼きの壺一点およびその中身を発見。中身は木簡束、樹皮紙束および一通の和紙手紙。手紙は未来の特定の時代へ宛てられたものと判断される。したがってこれらは我々の時代で開封公開せず宛先の時代まで密封して保管することが望ましい。渚、記す。三二一三年夏」

私の報告書は時空科学倫理委員会に提出されました。

委員会は三日三晩議論しました。

四日目の朝委員会は結論を出しました。

「発見物は真正である。手紙は真正である。宛先の時代は西暦四千四百四十四年と判断される。しかし我々はその時代の次のいつ開かれるべきかを決めることができない。したがって発見物は時空封入カプセルに収め四千四百四十四年以降の任意の時点でしかるべき研究機関に届くように設定する」

時空封入カプセルは当時の最新の技術でした。

カプセルは時空の一点に物理的に固定されます。ただしその一点は未来の任意の時点に設定できます。設定された時点までカプセルは存在しない状態に保たれます。設定された時点に達するとカプセルはその時点のしかるべき場所に突然現れるようになっています。

これは一種の遅延した量子的跳躍です。

しかし時空封入カプセルは一つの制約を持っていました。

設定された開封時点を正確に特定できないのです。

設定できるのは開封時点の下限だけです。

下限を四千四百四十四年七月十七日と設定した場合。

カプセルはその日以降のいつか任意の時点で開かれます。それは翌日かもしれません。一年後かもしれません。百年後かもしれません。

正確な開封の時点はカプセル自身が選ぶと当時の物理学者は説明しました。

私はカプセルの開封下限を四千四百四十四年七月十七日と設定しました。

理由は単純です。手紙が四千四百四十四年に宛てられていたからです。

私はその後二十年生きました。

私は他の遺物の発掘を続けました。

私は時々あの壺のことを思い出しました。

いつ開かれるのか。誰が開くのか。私は知りません。

しかし私はこう信じています。

カプセルはしかるべきときにしかるべき人の机の上に届く。

それはたぶん私が想像するよりも少し遅く届くでしょう。

しかし届くことそれ自体は私は疑っていません。

第六の石、渚、記す。三二三三年、水中考古学者、退官後の家にて。

(彼女の記録は水中考古学会の公式アーカイブに収められた。彼女はその後七十九歳で死んだ)



第七章 榊 七夏
四四九三年七月十七日
私は榊 七夏という。

私は時間工学研究所第七分所の七代目の所長である。

私はいま三十四歳である。

私は母巳沢千夏の娘のそのまた娘である。母の母は七人の被験者を送り出したあの転送室オペレーターの巳沢千夏。母はその娘。私はその娘。

母の母は七夏という名を私に遺してくれた。彼女が直接私を抱いたのは私がまだ赤子のときだった。彼女は私が三歳のときに死んだ。私は彼女の顔を覚えていない。しかし母は彼女の話を私に繰り返し聞かせた。

「あなたのおばあちゃんは七人の人を片道で過去に送り出した女です。彼女はその七人を生涯忘れなかった。だからあなたに七夏と名を付けたの」

私は七分所に二十九歳で入所した。

私の直属の先輩は七尾 匡という白髪の老人だった。

七尾さんは私が入所したとき六十九歳だった。

彼は私にこう言った。

「所長候補として来られたと聞いています。私は五年で退官します。それまでにあなたにいくつかのことを伝えます」

「はい」

「一つ目。この研究所は待つ研究所です。かつては送り出す研究所でした。しかし四十四年前送り出しは凍結されました。以後私たちは送り出した七人からの書き残しが届くのを待っています」

「はい」

「二つ目。私は四十四年待ちました。まだ届いていません。しかし私は届くと信じています」

「はい」

「三つ目。あなたが所長になる頃たぶん届きます。理由はありません。私の勘です」

私は頷いた。

七尾さんは五年後退官した。

私はその翌年所長になった。

私はそれから五年七尾さんの勘を信じて待った。

四四九三年七月十七日月曜日。

朝、私はいつものように所長室に出勤した。

出勤して事務室を通り過ぎるとき私は七尾さんの、かつてのデスクの上に素焼きの壺が置かれているのを見た。

七尾さんは既に退官していた。

しかし彼は退官後も時々研究所に来ていた。彼は非常勤の名誉研究員として扱われていた。彼は月に二度ほど来て事務室の隅のかつての彼のデスクに座り静かに何かを書いていた。書いていたのはたぶん日記だった。

彼のデスクは彼が来ないときは空いていた。

しかしその日の朝彼のデスクの上に素焼きの壺があった。

私はしばらく壺を見ていた。

私は直感した。

届いた。

そして、なぜ私の机ではなく七尾さんの机だったのか、すぐに分かった。待っていたのは、私ではなく彼だったからだ。

私は他の職員に声をかけた。

「みなさん七尾さんを呼んでください。至急」

職員の一人が七尾さんの自宅に連絡した。

七尾さんはちょうどその日研究所に来る予定だった。彼は既に家を出ていた。三十分後彼は事務室に入って来た。

七尾さんは素焼きの壺を見た。

彼はしばらく動かなかった。

それから彼は震える手で壺の蝋を剥がした。

中には木簡の束と樹皮の紙の束とそして一通の和紙の手紙があった。

七尾さんは手紙を開いた。

彼はしばらく読めなかった。

彼は椅子に腰を下ろした。

彼は深呼吸を七回した。

それから彼は読み始めた。

彼が手紙を読み終えたのは正午だった。

彼は手紙を丁重に机の上に置いた。

彼は立ち上がった。

彼は事務室を出た。

彼は廊下を歩いた。

彼は所長室のドアをノックした。

「入って」

彼はドアを開けた。

私は机の前に座っていた。

「所長」

「はい」

「届きました」

私は頷いた。

私は七尾さんに言った。

「七尾さん。四十九年ありがとうございました」

七尾さんは笑った。彼はしばらく笑い続けた。彼は笑いながら少し泣いた。

「所長。私は生きているうちに届いて良かった」

「はい」

「これで私は心置きなく死ねます」

「まだ死なないでください」

「はい」

以後緊急学会が招集され三日三晩議論が続いた。四日目の朝学会はこう結論を出した。

「発掘物は真正である。手紙は真正である。しかし、この壺の中身は公開しない」

私はその結論を支持した。

理由は手紙の三つ目に書かれていた。

空白は空白のままで良い。

学会は閉じた。

壺は専用の保管庫に収められた。手紙は複製が一部だけ作られそれも非公開の書庫に封じられた。

その日の夕方。

私はタイムマシンの閉鎖された転送室に行った。

転送室は既に資料倉庫に転用されていた。青い輪は四十四年前に停止された。輪の環状液体は既に抜かれていた。輪は灰色の金属の輪として部屋の中央に静かに立っていた。

私は輪の傍らの埃をかぶった机の上に一輪の白い花を置いた。

花は七夏という花だった。

七夏は四千四百四十四年に絶滅したと思われていた花だった。しかし二十年前月面の温室で細々と復活栽培に成功したと報じられていた。私は母の母を偲んでこの花を育てていた。

私は花を置きしばらく輪を見ていた。

輪は答えなかった。

しかし私は輪から微かな青い光が洩れているような気がした。

たぶん気のせいだった。

たぶん気のせいではなかった。

第七の石、榊 七夏、記す。四四九三年七月十七日月曜日夕方七分所旧転送室にて。




終章 七つの石が繋がる
七つの石が繋がった。

第一の石、ミハト。

第二の石、ヨナ。

第三の石、静女。

第四の石、蓮徹。

第五の石、加賀谷 光世。

第六の石、渚。

第七の石、榊 七夏。

七つの石はいずれもそれぞれの時代のそれぞれの土地でそれぞれの短い生涯を生きた名も無き、あるいは名はあったがほとんど誰にも伝わらなかった人々である。

彼らは互いに会ったことがない。

彼らは自分たちが四千年の橋の一つの石であることを知らなかった。

彼らはただ目の前の板をあるいは木片をあるいは壺を大切にしたというだけである。

しかし七つの石が繋がって初めて橋になった。

橋を渡って壺は届いた。

柊 蘭が東北の湿地で木の板に片仮名を彫ったその手の動きから。

ミハトが六歳で母の板を託されたその手の動きから。

七代の名も無き女たちが板を代々伝えたその手の動きから。

ヨナが板を船底に隠したその手の動きから。

静女が海底の古船から板を拾い上げたその手の動きから。

若い僧が板を寺に持ち帰ったその手の動きから。

蓮徹が板を寺の床下に埋めたその手の動きから。

一世紀後寺が焼き討ちで焼けたその炎の動きから。

焼き討ちの夜床下を掘り返そうとした若い僧の手の動きから。

四百年板が焼け跡の下で眠り続けたその眠りの動きから。

加賀谷が島の別の場所を掘り記号の木片を見つけたその手の動きから。

渚が島の洞穴で素焼きの壺を拾い上げたその手の動きから。

渚が壺を時空封入カプセルに収めたその手の動きから。

そして四四九三年七月十七日月曜日の朝カプセルが七尾 匡のかつてのデスクの上に突然現れたその量子的跳躍から。

すべての動きが繋がって一つの橋になった。

橋の両端に二人の女が立っている。

一人は柊 蘭。

一人は榊 七夏。

二人は直接会ったことがない。

しかし二人は今四千百八十三年の時の川の両岸で互いに頷き合っている。

蘭は東北の湿地で微笑む。

七夏は四千四百九十三年の旧転送室で微笑む。

二人の微笑みは同じ微笑みである。

そしてその微笑みの下で静かに動き続けているのは七つの石ではない。

七つの石を繋いだ無数の名も無き手である。

母から娘へ板を託した名も無き女。

その板を寺に届けた若い僧。

比叡山の焼き討ちで板を床下から掘り出そうとして間に合わず火の中で死んだ名も無き僧。

戦国時代を生き延びて寺の焼け跡の話を子孫に伝えた名も無き集落の老人。

二十世紀の島の古老。その爺さま。そのまた爺さま。

加賀谷 光世の弟子で彼女の口述を筆記した名も無き若者。

三十三世紀の時空科学倫理委員会の五人の名も無き委員。

四十四世紀の七尾 匡の後任そのまた後任そのまた後任。

これらすべての名も無き手が繋がって初めて壺は届いた。

四千四百四十四年から四世紀へ送られた七人の書き残しの一つが四千四百九十三年に返ってきた。

正確には四千四百四十四年から四千四百四十四年へではなかった。

四十九年遅れた。

しかし四十九年というのは四千百八十三年の川の流れから見ればたぶん河口の水面の小さな揺らぎでしかない。

野々村 詩織は手紙にこう書いた。

「この手紙が届きますように。届かなくても書いたことに悔いはありません」

手紙は届いた。

書いたことに悔いはなかった。

そして七尾 匡は手紙が届いてから二年後七十五歳で死んだ。

彼の最期の日彼は榊 七夏にこう言った。

「七夏さん」

「はい」

「送り出したのは我々です。届いたものは我々が受け取りました」

「はい」

「これで片道の旅は終わりです」

「はい」

「片道というのはたぶん片方通行という意味ではありませんでした。片方が行き片方が待つという意味でした。行くほうと待つほうと両方揃って初めて旅は成立します」

「はい」

「七人は行きました。私たちは待ちました。両方揃いました。旅は成立しました」

七尾 匡は目を閉じた。

彼は静かに息を引き取った。

七夏は彼の目を閉じさせた。

彼女はしばらく彼の顔を見ていた。

それから彼女は事務室に戻った。

彼女は事務室の七尾 匡のかつてのデスクの引き出しを開けた。

引き出しのいちばん奥に一枚の和紙があった。

和紙には無数の青い点があった。

七夏はその和紙をしばらく見ていた。

彼女は青い点の一つ一つに指を当てた。

一つ目の点で彼女は柊 蘭を感じた。

二つ目の点で毛利 剛を感じた。

三つ目の点で久保田 修を感じた。

四つ目の点で八雲 千秋を感じた。

五つ目の点で水島 弦を感じた。

六つ目の点で野々村 詩織を感じた。

七つ目の点でアキラ・スワを感じた。

それから彼女は和紙の隅のいちばん小さな青い点に指を当てた。

その点で彼女はミハトを感じた。

七つの点に、一つ足して八つ。最後の一つは橋そのものだった。

彼女はミハトという名を知らなかった。

しかし彼女はそのいちばん小さな青い点を通じて四千年前の東北の湿地の六歳の少女の輪郭を感じた。

少女は彼女に微笑んでいた。

「あなたは誰」と七夏は心の中で聞いた。

少女は答えた。

「私は水のように澄んだ子」

「ミハト」と七夏はその名を知らないまま繰り返した。

「はい」と少女は答えた。

七夏は和紙を丁重に封筒に戻した。

彼女は封筒にこう書いた。

「四千百八十三年の川の両岸へ」

彼女は封筒を七尾 匡の遺品として専用の保管庫に収めた。

保管庫の扉にはこう彫られていた。

「送り出したのは我々である。届いたものは我々が受け取った」

七夏は保管庫の扉を閉じた。

閉じてから彼女は扉に一言付け加えた。

彼女は小さな彫刻刀でこう彫った。

「届けたのは名も無き無数の手である」

彼女は扉に手を当てた。

扉は少しだけ暖かかった。

完結編、了。



送り出したのは我々である。

届いたものは我々が受け取った。

そして届けたのは名も無き無数の手である。

謎の四世紀、これにて閉じる。


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あとがき
『謎の4世紀』という物語をここまで読み進めてくださり、心から感謝申し上げます。
この作品の着想は、「歴史に残らない人々」への思いから始まりました。
教科書に名前が載るような英雄や時の権力者ではなく、毎日の暮らしを営み、我が子の手を引き、目の前にある大切なものを誰かに手渡して消えていった無数の普通の人々。彼らこそが、実は歴史という大きな川を支える「石」であり「橋」なのではないかという問いかけです。
未来から四千年前の過去へ送られた柊 蘭の物語は、一見すると孤独な絶望の物語に見えるかもしれません。しかし、彼女が娘のミハトに教えた「手を洗うこと」や「言葉の板」は、名も無き女たち、船乗り、僧、考古学者たちの手を経て、四千年後の未来へと確かに伝わっていきました。
「片道」とは、行きっぱなしという意味ではなく、「行く者」と「待つ者」がそれぞれの手で橋の両端を支えることだった——物語の終盤で七尾が気づくその思いは、私自身がこの物語を書き進める中で辿り着いた救いでもありました。
この物語を書き終えることができたのは、読者の皆様が作品の中に寄り添い、共に時の川を渡ってくださったからです。
いま、あなたの手元にあるこの本もまた、誰かの手から手へと渡ってきた小さな「石」のひとつなのかもしれません。
皆様の日常の中に、深く静かな三日前の雨のような余韻が残ることを願って。