縺れ糸の修復師 四部作


〜まえがき〜

人生には、どうしても解けない「縺れ」ができる。 

 
若さに任せてぷつりと引き千切った人間関係。
言えなかった「ごめん」と、聞けなかった「ありがとう」。 

 
胸の奥で固く結ばれたそれは、時間とともに石のように固まっていく。
この物語は、60歳の時計修理屋・修が、嵐の日に現れた少女から「赤い糸」の修復を頼まれるところから始まります。 

 
時計の歯車は直せても、人の心の縺れは直せるのか。
雨に濡れることを格好良いと思っていた男が、「傘を差す知恵」にたどり着くまでの話です。
もしあなたにも、引き千切ってしまった過去があるなら。
この短い物語が、固くなった結び目に触れる小さなピンセットになれば嬉しいです。 

 
さあ、雨音をBGMに、一本の糸を解く時間を始めましょう。



【登場人物】

修(おさむ) / 60歳:海岸沿いの古い街で「時計と小物の修理屋」を営む男。若い頃はサーファーとして無鉄砲に生き、多くの人間関係を引き千切ってきた。

雨の少女:ある嵐の日に、傘も差さずに店へ迷い込んできた不思議な客。





縺れ糸の修復師 一 赤い糸


【第一章:雨の日の傘、あるいは傲慢の終わり】

初夏というにはあまりに冷たい、暴力的な土砂降りの日だった。


古いトタン屋根を叩く雨音を聞きながら、六十歳になった修(おさむ)は、店のカウンターで静かに温かい珈琲をすすっていた。


若い頃の自分なら、こんな雨の日はわざと傘を放り出し、濡れた髪をかき上げながら嵐の中を歩いたものだ。「逃げも隠れもせん人生が格好良い」と、本気で信じていたからだ。雨に打たれることも、風に煽られることも、どこか「世界と戦っている自分」の証明のようで心地よかった。


「……と~に、過ぎ去ったな、そんな頃は」
修は苦笑し、手元にある古びた番傘を見つめた。
人間がこの大自然に、あるいはこの世間という名の巨大な世界に、真っ向から立ち向かったところで勝てるわけがないのだ。


還暦を過ぎてようやく、修は「雨の日には傘を差す」という、当たり前で、しかし至高の知恵に気づいた。世界に勝とうとするのではなく、地球と同化し、緩やかにその場その場を凌ぐこと。それこそが、老いて手に入れた真の洗練だった。


その時、店のドアがカランと鳴った。
入ってきたのは、十代後半に見える少女だった。驚いたことに、彼女は傘を持っていなかった。服も髪も、まるで海に飛び込んできたかのようにびしょ濡れだった。


「いらっしゃい。……ひどい雨だ。すぐにストーブをつけるよ」


修がバスタオルを差し出すと、少女はそれを黙って受け取り、代わりに濡れたカバンから「それ」を取り出した。


それは、透明なガラス瓶だった。中には、まるで生き物のように複雑怪奇に絡み合った、一本の「赤い太糸」が入っていた。


「これを、解(ほど)いてほしいの」と少女は言った。


「時計の修理なら専門だがね」と修は返す。


「あなたならできるわ。決して、引き千切らずに、元の一本に戻して」


少女の瞳の奥に、かつて自分がどこかの街に置き去りにしてきたような、強い「後悔」の光を見た気がして、修は気づけばその瓶を受け取っていた。



【第二章:引き千切ってきた過去たち】

少女は毎日、夕方になると店にやってきた。修はカウンターに拡大鏡を据え、竹製の細いピンセットを使って、ガラス瓶から取り出した赤い糸の縺(もつ)れに挑んだ。


不思議なことが起きたのは、最初の結び目をわずかに緩めた瞬間だった。


じりじりと、頭の芯が熱くなる。店内の珈琲の香りが、一瞬にして「潮風と、古いシボレーのシートの匂い」に変わった。


(……ここは、どこだ?)


修の脳裏に、鮮烈な景色が飛び込んできた。
1970年代の終わり、カリフォルニアのハンティントン・ビーチ。

照りつける太陽、ラフに削られたロングボード、そして、隣で笑っていた、あの頃の恋人の眩しい笑顔。


若い頃の修は、あまりに不器用だった。


彼女と言い争いになり、お互いの気持ちが少しでも縺れると、そのもどかしさとプライドの高さに耐えかねて、自らぷつりと関係を断ち切ってしまった。


「もういい、終わりだ」と、強引に糸を引き千切ることが、男の潔さだと勘違いしていたのだ。


ハッと我に返ると、修は冷や汗をかいていた。手元の赤い糸は、ほんの数ミリだけ解けていた。
カウンターの向こうで、少女が静かに修を見つめている。


「覚えがあるだろ?」
少女の声が、なぜか自分の内なる声のように響いた。


「後悔、っていう名の覚えが」
修は、乾いた喉を鳴らした。「ああ……ご同輩」と、誰にともなく心の中で呟いた。俺たちは若い頃、なぜあんなに簡単に、大切なものを引き千切ってしまえたのだろうか。



【第三章:男女の仲、そのままじゃいかん】

糸の中心部に近づくにつれ、縺れは一層ひどくなり、まるで硬い岩のようになっていった。拡大鏡で見ても、どこが始点で行き止まりなのかさえ分からない。


それは、人間関係――特に、男女の仲の縺れそのものだった。


一度拗れてしまった感情は、放置すればするほど、時間の経過とともに固着していく。


「そのままじゃ、いかん。投げちゃ、いかん。諦めちゃ、いかん」
修は、自分自身に言い聞かせるように何度も呟いた。


若い頃の自分は、すぐに投げ出し、すぐに諦めた。しかし、今ここでこの糸を投げ出したら、あの過去の苦い後悔を、もう一度繰り返すことになる。


「必ず前向きで、最善を尽くす。何らかの手を打つんだ。決して、縺れた糸を引き千切っちゃいかん……!」


修は老眼鏡を何度もずらし、指先の感覚だけに集中した。
外は再び、激しい風が吹き始めていた。世間という荒波の中で、かつては逃げ惑うか、あるいは無謀に突撃した修だったが、今は違う。

ただ静かに、机に向かい、今できる最善の手を、ミリ単位で打ち続ける。


少女はそんな修の横顔を、愛おしそうに見守っていた。彼女の姿は、陽が落ちるにつれて、どことなく透き通って見えるようになっていた。



【第四章:地球という名の自然の中で】

その夜、街はこれまでにないほどの大嵐に見舞われた。


地響きのような雷鳴が轟き、風が窓ガラスを激しく叩く。地球という名の自然が、その圧倒的な力を見せつけているようだった。


店内の電気がバツンと消え、あたりは完全な闇に包まれた。
昔の修なら、ここでパニックになるか、あるいは嵐に向かって悪態をついていただろう。しかし、今の修の心は奇妙なほど凪いでいた。


「風が吹けば、風の中に……か」


修は小さな蝋燭に火を灯した。揺れる炎のなかで、世界と同化する感覚があった。


自然には勝てない。世間にも勝てない。ならば、この激しい流れを緩やかに凌ぐまでだ。
修は静かに息を吐き、嵐の音をBGMにしながら、最後の、最も頑固な結び目にピンセットを差し込んだ。


不思議なことが起きた。
世界の嵐と同調するように、修の心からすべての力みが消えた瞬間、あれほど硬く固まっていた最後の結び目が、するりと、まるで最初から解けていたかのように滑らかに解けたのだ。


一本の、美しい、長い赤い糸が、机の上にまっすぐ伸びていた。
どこも千切れていない。ただ、かつての記憶をすべて内包した、綺麗な一本の線だった。


修が顔を上げると、いつの間にか嵐は去り、雲の切れ間から美しい月光が店内に差し込んでいた。
そして、目の前にいたはずの少女の姿は、どこにもなかった。



【第五章:なあ、ご同輩】

翌朝、世界は洗われたように晴れ渡り、眩しい光に満ちていた。


修の店のカウンターには、綺麗に巻き直された赤い糸の束と、一枚の古い絵葉書が残されていた。絵葉書には、カリフォルニアの青い海が描かれており、見覚えのある、しかしどこか懐かしい文字でこう書かれていた。


『傘を差してくれて、ありがとう』
修はそれを愛おしそうにポケットに仕舞うと、店の入り口に「本日休業」の札を掛けた。
数年ぶりに、お気に入りのスニーカーを履いて、海岸へと続く坂道を下っていく。


きらきらと輝く水平線を見つめながら、修は、この世界のどこかで同じように年を重ね、同じように胸に苦いトゲを刺したまま生きているであろう仲間たちのことを想った。


「僕らはさ、若い頃、それが出来なかったってわけよ」
潮風が、修の白髪を優しく揺らす。


「覚えがあるだろ? 後悔、っていう……。なあ~、ご同輩。でもさ、雨の日には傘を差して、こうしてまた、光の中に立てばいいんだ。縺れた糸は、今からでも、いくらでも解けるんだからな」
修は深く息を吸い込み、輝く海に向かって、静かに、しかし最高の笑顔を浮かべた。




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縺れ糸の修復師 二 青い糸

第一章 海へ帰る手紙

朝の海は、まだ眠っている。

波の音だけが静かに岸を撫で、カモメが一羽、低く空を横切っていった。

修はいつものように店の前を掃いていた。

昨夜のことが、頭から離れない。

二十年前に海へ消えた男。

青柳航。

そして、その娘を名乗る少女。

店の中では、少女が椅子に座ったまま、両手でマグカップを包んでいた。

「砂糖、もっと入れるか。」

「いえ……十分です。」

声が小さい。

遠慮しているというより、何かを抱えている声だった。

修は向かいの椅子へ腰を下ろした。

「名前は。」

「青柳澪です。」

「いくつだ。」

「十九です。」

十九。

航が海へ消えた年に生まれたことになる。

修は少しだけ目を細めた。

「父親の顔、覚えてるか。」

澪は首を横に振った。

「写真でしか知りません。」

それから、ゆっくりと鞄を開いた。

一枚の封筒を取り出す。

白い封筒。

消印はない。

切手も貼られていない。

ただ、表に小さな字で、

――澪へ

と書かれていた。

「昨日の朝、家の郵便受けに入っていました。」

修は黙って受け取った。

中には、一枚の便箋。

そこには、たった三行だけ。

『青い糸を見つけたら、海へ来なさい。

約束を果たす時が来た。

父より。』

修の背筋に、冷たいものが走った。

この字。

間違いない。

航の字だった。

昔、一緒に波を追いかけていた頃、何度も見た字。

癖まで同じだった。

「……馬鹿な。」

思わず口に出た。

「やっぱり、父なんですよね。」

澪が身を乗り出す。

その目には、期待と不安が同時に浮かんでいた。

修は答えられなかった。

二十年前。

あの嵐の夜。

確かに航は海へ出た。

そして帰らなかった。

遺体も見つからなかった。

だから皆、

『海に呑まれた』

そう結論づけた。

だが。

もし違ったとしたら。

「この手紙のこと、母親は。」

「見せていません。」

「なぜ。」

澪は少しだけ俯いた。

「笑われるからです。」

沈黙。

店の柱時計が、カチ、カチ、と音を立てる。

「私……ずっと思っていたんです。」

澪が窓の外の海を見た。

「父は、どこかで帰ってくる方法を探しているんじゃないかって。」

その言葉に、修の胸が少し痛んだ。

帰ってくる。

その言葉を、昔の自分も信じていた。

一年。

二年。

十年。

ずっと。

だが、人はいつか諦める。

そうしなければ生きていけないからだ。

「変ですよね。」

澪が笑った。

「会ったこともない父を待ってるなんて。」

修は首を横に振った。

「いや。」

窓の外を見た。

凪いだ海。

「待てるってのは、悪いことじゃない。」

その時だった。

カラン。

店の奥で、小さな音がした。

二人が振り向く。

棚の上に置かれていた古い羅針盤。

誰も触っていないのに、その針がゆっくりと回り始めていた。

止まらない。

北を指さない。

くるり、くるりと回り続ける。

やがて。

ぴたり。

海の方角を指した。

その瞬間。

店の電話が鳴った。

ジリリリリ。

古い黒電話。

修が受話器を取る。

「……もしもし。」

返事はない。

ザー……という潮騒だけが聞こえる。

そして。

男の声。

かすれた、遠い声。

『修……聞こえるか。』

修の手が震えた。

『約束の場所へ来い。』

「……航?」

ザー……。

『青い糸が、ほどける前に。』

そこで電話は切れた。

店の中に、静寂が落ちる。

澪が立ち上がった。

「今の……。」

修は受話器を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

二十年。

ずっと止まっていた時間が。

今、

再び動き始めようとしていた。



第二章 青い灯台

夜の海には、昼には見えないものがある。

修は昔、航からそう聞かされたことがあった。

「海はな、人が隠したものを、たまに返してくれる。」

二十歳そこそこの頃の話だ。

二人でサーフボードを抱え、砂浜に座っていた。

「何を返してくれるんだ。」

そう聞くと、航は笑った。

「さあな。思い出かもしれないし、後悔かもしれない。」

その時は、ただの冗談だと思っていた。

だが今、その言葉が胸の奥に引っかかっていた。

――約束の場所へ来い。

電話の声。

あれが本当に航だったのか。

二十年も前に消えた男の声なのか。

修には分からなかった。

分からないからこそ、確かめなければならない気がした。

「青い灯台……。」

澪がぽつりと言った。

「何だ、それ。」

「手紙の裏です。」

修は便箋を受け取った。

裏返す。

そこには、小さな字で、もう一行だけ書かれていた。

『青い灯台で待つ。』

「そんなもの、この町にあったか……。」

修は考え込んだ。

灯台なら一つある。

岬の先の白い灯台だ。

しかし、青い灯台など聞いたことがない。

その時だった。

「ありますよ。」

澪が静かに言った。

「え?」

「母が、昔話みたいに話してくれたことがあります。」

窓の外を見ながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「昔、この町には青い灯台があったって。」

「どこに。」

「誰も知らないそうです。」

「何だ、それ。」

「嵐の夜だけ現れるんだって。」

修は思わず苦笑した。

「幽霊話じゃないか。」

「私もそう思っていました。」

しかし、澪の顔は真剣だった。

「でも父は、何度もその話をしていたそうです。」

修の胸がざわつく。

航なら、そういう不思議な話を妙に信じるところがあった。

星を見て、風を読み、海の機嫌を当てる。

不思議と外さない男だった。

「……行くか。」

「え?」

「岬だ。」

澪の目が大きくなる。

「今からですか?」

「こういうのは、待つと逃げる。」

修は壁の時計を見た。

午後八時。

もう日が落ちている。

だが、海は妙に静かだった。

二人は店を閉め、軽トラックへ乗り込んだ。

エンジンをかける。

古い車が低い音を立てた。

道の先には、月に照らされた海が広がっている。

「怖くないか。」

運転しながら修が聞いた。

「少しだけ。」

「帰ってもいいぞ。」

澪は首を振った。

「ここまで来て帰ったら、きっと一生後悔します。」

その言葉に、修は少し笑った。

「航に似てるな。」

「父に?」

「ああ。後先を考えないところが。」

澪も小さく笑った。

初めて見せる笑顔だった。

岬へ続く道は暗い。

街灯も少ない。

やがて、白い灯台が見えてきた。

その時だった。

「……止めて。」

澪が言った。

「どうした。」

「海……。」

修が車を止める。

二人は外へ出た。

潮の匂い。

静かな波音。

そして――。

海のずっと向こう。

水平線の上。

小さな青い光が見えた。

ぽつり。

まるで星が海に落ちたように。

「……何だ、あれ。」

澪は息を呑んだ。

青い光は、ゆっくりと明滅している。

一度。

二度。

三度。

その形は、次第にはっきりしてきた。

塔。

細長い塔。

灯台だった。

海の上に、青い灯台が立っている。

ありえない。

そこには何もないはずだ。

修は昔から、この海を知っている。

あの場所に島などない。

まして灯台など。

「父……。」

澪が震える声でつぶやいた。

その瞬間。

青い灯台の光が、一度だけ強く輝いた。

そして。

風が吹いた。

潮の匂いとともに、遠くから声が聞こえた。

『遅いぞ、修。』

修の心臓が止まりそうになった。

聞き間違えるはずがない。

二十年ぶりに聞く。

親友の声だった。

青い灯台の光が、ゆっくりと二人を海へ招いていた。



第三章 消えたサーファー

青い灯台の光は、まるで生き物のように明滅していた。

海の上。

何もないはずの場所に。

それでも、確かにそこにある。

修は目を細めた。

「……こんな馬鹿なことがあるか。」

隣で、澪は息をするのも忘れたように灯台を見つめている。

「父が……いるんでしょうか。」

その声は震えていた。

期待と、恐れと。

十九年間抱え続けた願いが、今にも手の届く場所にある。

そんな顔だった。

修はすぐには答えなかった。

海を知る者ほど、海の不思議を簡単には信じない。

だが、今夜ばかりは、信じない方が難しかった。

「行ってみるか。」

「どうやって?」

「漁港だ。」

修は軽トラックへ戻った。

岬の下に小さな漁港がある。

昔、航とよく使っていた小舟が、まだ残っているかもしれない。

二人は急いで車を走らせた。

十分ほどで港へ着く。

夜の漁港は静まり返っていた。

係留された船が、波に合わせて小さく揺れている。

「……あった。」

修が指差した。

港の隅。

古い木の船。

白い塗装は剥げ、ところどころ錆びている。

船の名前は、かろうじて読めた。

《かもめ丸》

「これ……。」

「俺と航で直した船だ。」

修は懐かしそうに船体を撫でた。

二十年以上、誰も使っていないはずだ。

なのに、不思議なことにロープは新しく、船もすぐに動きそうな姿をしていた。

まるで、誰かが手入れを続けていたみたいに。

「変ですね。」

澪も気づいたようだった。

「ああ。」

修は小さく頷く。

そして、船へ乗り込んだ。

エンジンキーを回す。

まさか動くまい。

そう思った瞬間――

ドドドド……

エンジンが一発でかかった。

二人は顔を見合わせた。

「……待ってたのかもしれないな。」

修が呟く。

何を。

誰を。

答える者はいない。

船は静かに港を離れた。

海の上へ出る。

青い灯台は、先ほどより少し大きく見えていた。

近づいている。

いや――

向こうから近づいてきているようにも見える。

「修さん。」

「何だ。」

「父って、どんな人だったんですか。」

波の音の中で、澪が聞いた。

修は少し笑った。

「馬鹿だった。」

「え?」

「どうしようもないくらい。」

「……。」

「波が良いと仕事を休む。困ってる人を見ると放っておけない。好きになったものは、とことん好きになる。」

澪が黙って聞いている。

「それでいて、人の気持ちには妙に鈍い。」

「ふふ。」

初めて澪が声を出して笑った。

「でもな。」

修は前を向いたまま言った。

「良い男だったよ。」

しばらく、誰も何も言わなかった。

月が海に道を作っている。

船は、その上を滑るように進んだ。

その時だった。

ザン――。

突然、海の色が変わった。

船の周りだけが、淡い青に光り始めた。

「何……?」

澪が身を乗り出す。

海の中に、無数の光。

小さな青い粒。

魚でも、プランクトンでもない。

まるで、星が海へ沈んでいるようだった。

そして、その光の中に――

人影が見えた。

「……え。」

海の底。

誰かが立っている。

男だった。

サーフボードを抱え、こちらを見上げている。

修の手が止まった。

その姿を、忘れるはずがない。

白いTシャツ。

日焼けした顔。

少し長い髪。

二十年前のまま。

青柳航。

「航……。」

男は笑った。

昔と変わらない笑顔で。

そして、口を動かした。

『まだ来るな。』

声は聞こえない。

だが、確かにそう言った。

次の瞬間。

海が大きく揺れた。

ゴォッ――。

風が吹く。

さっきまで穏やかだった海が、一変した。

波が高くなる。

空を雲が覆う。

青い灯台の光だけが、さらに強く輝く。

そして。

どこからともなく、低い声が聞こえた。

『青い糸は、まだ結ばれていない。』

修も澪も、息を呑んだ。

『その男を連れて来い。』

その男。

誰のことだ。

『約束を知る者を。』

声が消える。

同時に、海の中の航の姿も消えた。

静寂。

残ったのは、波の音だけだった。

澪が震える声で言った。

「……今の、本当に父ですよね。」

修は答えなかった。

答えられなかった。

ただ一つ、分かったことがある。

二十年前の出来事は、終わっていない。

そして。

自分たちの他に、もう一人。

この謎に関わる人間がいる。

修は、ゆっくりと青い灯台を見上げた。

「あいつか……。」

思い出した。

二十年前の嵐の夜。

自分と航と、もう一人。

あの日、一緒に海へいた男のことを。



第四章 潮騒の約束

港へ戻る頃には、空にかかっていた雲が嘘のように消えていた。

海は再び静かになり、青い灯台の光も消えている。

何事もなかったような夜だった。

だが、二人の胸だけが激しく波立っていた。

船を岸へつける。

修はしばらく動かなかった。

「……修さん。」

澪が心配そうに声をかける。

「大丈夫ですか。」

「ああ。」

そう答えたものの、顔色は良くなかった。

二十年前の記憶が、まるで昨日のことのように蘇っていた。

忘れたつもりだった。

海に置いてきたつもりだった。

だが、海は返してきた。

思い出を。

後悔を。

「帰るぞ。」

「どこへ?」

「会いに行く人がいる。」

修は軽トラックへ乗り込んだ。

夜道を走る。

海岸線を離れ、町の古い住宅街へ。

やがて一軒の小さな家の前で車を止めた。

灯りはまだついている。

「ここ……?」

「佐伯の家だ。」

「佐伯?」

「俺たちと一緒に海へ出ていた男だ。」

修はエンジンを切った。

窓の外を見つめる。

二十年間、一度も口にしなかった名前だった。

佐伯慎二。

高校時代からの友人。

そして――

あの日以来、海へ近づかなくなった男。

「行くぞ。」

玄関のチャイムを押す。

しばらくして、足音がした。

ガラリ、と戸が開く。

白髪混じりの男が顔を出した。

「……誰だ。」

その目が修を捉える。

次の瞬間。

男の顔から血の気が引いた。

「……修?」

「久しぶりだな。」

「何の用だ。」

声が硬い。

警戒している。

いや、怯えているようにも見えた。

修は真っ直ぐに男を見た。

「航のことで来た。」

沈黙。

夜風だけが通り過ぎる。

「帰れ。」

佐伯は扉を閉めようとした。

だが修が手を添えた。

「待て。」

「今さら何だっていうんだ!」

初めて、佐伯が声を荒げた。

「二十年だぞ! 二十年も前のことだ!」

「終わってない。」

その一言で、佐伯の動きが止まる。

「……何を言ってる。」

「航を見た。」

「……。」

「声も聞いた。」

長い沈黙。

やがて佐伯が、力なく笑った。

「お前までおかしくなったか。」

「俺もそう思いたい。」

修は一歩近づいた。

「だが、あいつはいた。」

その時。

後ろにいた澪が頭を下げた。

「初めまして。」

佐伯が目を向ける。

「私は……青柳澪です。」

男の目が見開かれた。

「青柳……。」

「航の娘です。」

風が止まった。

佐伯の顔から、すべての色が消えていく。

「……娘?」

「はい。」

男は何かを言おうとしたが、声にならなかった。

そして。

小さく呟く。

「生まれて……いたのか。」

その言葉には、深い後悔が滲んでいた。

修は見逃さなかった。

「お前、知ってたのか。」

佐伯は答えない。

「何を知ってる。」

やがて男は観念したように目を閉じた。

「……入れ。」

居間は古かった。

壁には、色褪せた写真が飾られている。

その中に、一枚だけ。

若い頃の三人の写真があった。

修。

航。

そして、佐伯。

三人とも、サーフボードを抱えて笑っている。

澪が写真を見つめた。

「……この人が。」

初めて見る父の若い姿。

思わず、写真に触れようとする。

「似てるな。」

佐伯がぽつりと言った。

「目が。」

澪は何も言わない。

「航によく似てる。」

しばらく沈黙が続いた。

やがて修が切り出した。

「話せ。」

佐伯はゆっくりと湯飲みを置いた。

「二十年前の夜……。」

窓の外を見る。

「俺たちは、岬の沖へ出た。」

「嵐の日にか。」

「ああ。」

「何をしに。」

男は答えない。

その代わり、小さくため息をついた。

「……約束を果たしに。」

修の胸がざわつく。

「約束?」

「お前は知らない。」

「何だ、それ。」

佐伯は、どこか遠いものを見る目をした。

「青い灯台だ。」

部屋の空気が止まる。

「やっぱり……。」

澪が息を呑む。

「昔から、この町には言い伝えがある。」

男は静かに語り始めた。

「海で大切なものを失った人間だけが、一度だけ青い灯台を見ることができる。」

「……。」

「そして、その灯台へ辿り着いた者は、失ったものにもう一度会える。」

修は黙って聞いていた。

「馬鹿な話だと思った。」

佐伯が苦く笑う。

「だが、航だけは信じていた。」

「それで?」

「俺たちは……灯台を探しに海へ出た。」

「嵐の日にか。」

「ああ。」

そして。

男の顔が曇る。

「……灯台は、本当に現れた。」

澪が息を呑んだ。

「そして、航は言ったんだ。」

佐伯の声が震えた。

『もし俺が戻らなかったら、約束を頼む。』

「そう言って……。」

男は拳を握りしめた。

「一人で灯台へ向かった。」

静かな部屋に、時計の音だけが響く。

カチ。

カチ。

「俺は……逃げた。」

佐伯がうつむく。

「怖くなって、船を返した。」

「……。」

「それ以来、一度も海へ行っていない。」

長い沈黙。

そして、佐伯はゆっくり顔を上げた。

「だが……もし本当に航がいるなら。」

その目に、二十年ぶりの光が宿っていた。

「今度こそ、迎えに行かなきゃならない。」

その瞬間。

窓の外から、波の音が聞こえた。

ここは海から遠い。

聞こえるはずのない潮騒。

三人が同時に外を見る。

月明かりの中。

庭先に、小さな青いガラス玉が落ちていた。




第五章 海の向こうの修理屋

庭先に落ちていた青いガラス玉は、月の光を受けて静かに輝いていた。

誰が置いたのか。

いつからそこにあったのか。

誰にも分からない。

「……これ。」

澪がそっと拾い上げる。

冷たいはずのガラス玉は、なぜか少しだけ温かかった。

佐伯の顔が青ざめる。

「その形……。」

「知ってるのか。」

修が尋ねる。

佐伯は小さく頷いた。

「航が持っていたものと同じだ。」

「父が?」

「いつも首から下げていた。」

澪は手のひらの上のガラス玉を見つめた。

小さな傷がある。

長い年月を、どこかで過ごしてきたような傷だった。

その時。

ふわり――。

海風が吹いた。

庭の木が揺れる。

そして。

カラン。

どこかで、小さな鐘の音がした。

三人は顔を見合わせる。

「今……。」

「聞こえたな。」

修が呟く。

その音は、一度だけ。

だが、不思議と懐かしい響きだった。

すると、澪が小さく声を上げた。

「見て……!」

ガラス玉の中に、淡い青い光が灯っていた。

そして。

その光が一本の線になって伸びる。

まるで糸のように。

細く、淡く、夜の中へ。

「……青い糸。」

澪が息を呑む。

糸は庭を抜け、道の向こうへと続いている。

海の方角だった。

修は小さく笑った。

「どうやら、呼ばれてるらしい。」

佐伯が不安そうに言う。

「本当に行くのか。」

「今さら怖じ気づいたか。」

「そうじゃない。」

男は唇を噛んだ。

「もし……本当に航がいたとして。」

「……。」

「もし、もう帰れない場所にいるのだとしたら。」

修はしばらく黙っていた。

やがて、静かに答える。

「それでも行く。」

その声に迷いはなかった。

「二十年待たせたんだ。」

夜空を見上げる。

「今度は、俺たちが迎えに行く番だ。」

三人は再び軽トラックへ乗り込んだ。

青い糸は、まるで生きているように、夜道を導いていく。

町を抜け。

坂を下り。

やがて海岸へ。

そして――。

修の店の前で、糸は止まった。

「ここ……?」

澪が首を傾げる。

「俺の店だ。」

だが。

何かがおかしい。

店の窓から、灯りが漏れている。

出てくる時、確かに消したはずだった。

「誰かいる。」

修は鍵を開けた。

扉を押す。

カラン――。

いつものベルの音。

しかし、店の中はどこか違って見えた。

古時計。

工具箱。

棚の上の時計たち。

全部同じ。

なのに、空気だけが違う。

潮の匂いがする。

そして。

カウンターの上に、一冊のノートが置かれていた。

見覚えのない古いノート。

表紙には、青い字で書かれている。

『修理記録』

修がそっと開く。

一ページ目。

そこには、こう書かれていた。



修理番号 一。

依頼品――青い糸。

依頼人――青柳航。

修理内容――帰れなくなった時間。



「……何だ、これは。」

ページをめくる。

次のページ。

そこには見慣れた字が並んでいた。

航の字だった。



もしこれを読んでいるなら、
俺はまだ帰れていない。

だが、生きている。

死んでもいない。

ただ、少しだけ遠い場所へ流れ着いただけだ。

修。

お前なら、この糸をほどいてくれると思っている。

だから頼む。

俺を直しに来てくれ。



店の中が静まり返る。

佐伯が椅子へ座り込んだ。

「……本当に……。」

澪は震える手でノートに触れた。

「父……。」

その時だった。

カチ――。

店の奥で、古い柱時計が鳴った。

一度。

二度。

三度。

時計の針が、逆に回り始める。

カチ、カチ、カチ……

止まらない。

そして。

修理屋の壁。

長年、何もなかった場所に。

ゆっくりと、一枚の扉が浮かび上がった。

古い木の扉。

青い色をしている。

三人は息を呑んだ。

扉の向こうから、潮騒が聞こえる。

そして。

男の声。

懐かしい声。

少しだけ笑ったような声。

『遅かったな、修。』

修の目が大きく開く。

『店を開けて待ってたぞ。』

沈黙。

そして。

ゆっくりと、青い扉の取っ手が回り始めた――。




第六章 父が残した地図

ギィ――。

青い扉が、ゆっくりと開いた。

潮の香りが流れ込んでくる。

懐かしいような、遠い記憶の匂いだった。

扉の向こうには、細い石畳の道が続いている。

夜なのに、空は薄い青色をしていた。

夕暮れでも朝でもない、不思議な時間の色。

そして、その先には――

小さな家が建っていた。

古びた木造の平屋。

軒先には風鈴。

窓辺には小さな鉢植え。

まるで、どこかの海辺にある普通の家だ。

ただ一つ違うのは、玄関の上に掛けられた看板。

そこには、こう書かれていた。

「時計と小物の修理屋」

「……俺の店?」

修が思わず呟く。

店によく似ている。

いや、似ているのではない。

ほとんど同じだった。

「ここ……どこなんですか。」

澪の声が震える。

誰も答えられない。

すると、家の扉が開いた。

カラン。

風鈴が鳴る。

そこから、一人の男が姿を現した。

白いシャツ。

日焼けした顔。

少し長い髪。

そして、昔と変わらない笑顔。

「よう。」

男が手を上げた。

「久しぶりだな。」

修の喉が震えた。

二十年。

ずっと会えなかった友人。

「……航。」

「そんな顔するなよ。」

男は笑う。

「幽霊じゃない。」

「……馬鹿野郎。」

その一言しか出てこなかった。

気づけば、修は駆け出していた。

そして。

思い切り航の胸ぐらを掴む。

「どこへ消えてた!」

声が震える。

怒りなのか。

安堵なのか。

自分でも分からなかった。

「みんな、どれだけ……。」

その先は言葉にならない。

航は困ったように笑った。

「悪かった。」

その顔を見た瞬間。

修の目に、涙が浮かんだ。

「……本当に、生きてたのか。」

「ああ。」

短い返事。

それだけで十分だった。

後ろで、澪が立ち尽くしている。

航の視線が、ゆっくりと彼女へ向く。

その瞬間。

男の顔から笑みが消えた。

「……。」

何も言えない。

十九年。

一度も会えなかった娘。

そして、娘もまた、一度も会ったことのない父。

二人の間を、静かな風だけが通り過ぎる。

やがて。

澪が、小さく頭を下げた。

「初めまして。」

声が震えていた。

「青柳……澪です。」

航の目が見開かれる。

「……澪。」

その名前を、何度も胸の中で呼んできたように。

ゆっくりと、確かめるように。

「大きく……なったな。」

澪は何も答えない。

唇を噛んでいる。

「ごめんなさい。」

その言葉に、航が戸惑う。

「え?」

「怒ろうと思ってたんです。」

涙がこぼれた。

「ずっと……会ったら怒ろうと思ってた。」

一粒。

また一粒。

「どうして帰ってこなかったのって。」

航は静かに聞いている。

「でも……。」

澪は泣きながら笑った。

「本当にいた……。」

その瞬間。

航が、ゆっくりと娘を抱きしめた。

「……すまなかった。」

それだけだった。

言い訳もない。

理由もない。

ただ、その一言だけ。

父と娘は、しばらくそのまま立っていた。

やがて。

航が顔を上げる。

「さて。」

いつもの調子で笑う。

「積もる話は後だ。」

「後って……。」

修が眉をひそめる。

「お前、何で帰れない。」

航は少しだけ空を見上げた。

「帰り道をなくした。」

「何だ、それ。」

「そのまんまだ。」

そして、店の中へ入っていく。

三人も後を追った。

店の中は、修の店とよく似ていた。

ただ、一つ違うものがある。

壁いっぱいに、糸が張り巡らされていた。

赤。

白。

金。

銀。

そして、青。

無数の糸が、天井から吊るされている。

「……これは。」

澪が息を呑む。

「人の縁だ。」

航が答えた。

「縁?」

「ああ。」

一本の青い糸を指でつまむ。

「人と人を結ぶ糸。」

「そんなものが……。」

「あるんだよ。」

航は笑った。

「ただし、見える人間は少ない。」

そして。

部屋の奥から、一枚の紙を持ってきた。

古い海図のような紙。

だが、そこに描かれているのは海ではなかった。

無数の糸。

そして、一本だけ。

真ん中で、大きく縺れている青い糸。

「これが何だか分かるか。」

修が首を振る。

「お前の糸か。」

「半分正解。」

航が指を置く。

「これは、俺たち三人の糸だ。」

修。

航。

佐伯。

そして。

少し離れたところから伸びている、もう一本の糸。

澪。

「二十年前、俺たちはこれを縺れさせた。」

部屋が静かになる。

「だから、俺は帰れなくなった。」

修が低い声で聞く。

「……どうすればいい。」

航は、ゆっくりと顔を上げた。

昔と変わらない笑顔で。

そして、こう言った。

「修理屋の仕事だ。」

窓の外。

どこか遠くで、青い灯台の光が瞬いた。

「縺れた糸を、もう一度ほどこう。」

それが、二十年越しの本当の依頼だった。




第七章 縺れた青い糸

窓の外では、青い海が静かに揺れていた。

ここがどこなのか。

現実なのか、夢なのか。

誰にも分からない。

だが、一つだけ確かなことがある。

二十年前から止まっていた時間が、今、動き始めている。

航は机の上へ古い缶箱を置いた。

蓋を開ける。

中には、小さな貝殻が四つ入っていた。

白い貝殻。

波に磨かれた、なめらかな石のような形。

「覚えてるか。」

修が一つ手に取る。

そして、小さく笑った。

「……まだ持ってたのか。」

高校時代。

三人で拾った貝殻だった。

一人一つずつ持ち、最後の一つは『また会う日まで』の印として缶箱へ入れた。

子どもの約束だった。

「二十年前の夜。」

航が静かに言う。

「俺たちは、ここへ来た。」

「青い灯台へ。」

佐伯が小さく頷く。

「そうだ。」

男の顔には、深い後悔が刻まれていた。

「お前は言ったな。」

修が振り返る。

『失ったものに会える場所がある』

そう言って、嵐の海へ出た。

「何を失ったんだ。」

長い沈黙。

そして、航が静かに答えた。

「……母さんだ。」

修は息を呑んだ。

航の母は、二人が高校生の頃に亡くなっている。

病気だった。

航は最期に立ち会えなかった。

海に出ていたからだ。

それを、ずっと悔やんでいた。

「もしもう一度会えるなら。」

航が窓の外を見る。

「謝りたかった。」

部屋が静まり返る。

「馬鹿だよな。」

小さく笑う。

「死んだ人間に会えるなんて、本気で信じてた。」

「……。」

「でも、灯台は本当にあった。」

あの夜。

青い光が海の上に現れた。

三人は、夢中で船を走らせた。

だが。

近づくほどに、海が荒れた。

風が吹き。

波が高くなり。

そして。

一人の老人が、灯台の前に立っていた。

「老人?」

澪が尋ねる。

航は頷いた。

「白い服を着た、不思議な人だった。」

その老人は言った。



『失ったものを取り戻したいか。』

『ならば、一つだけ条件がある。』

『縺れた糸を直せる者を、いつかここへ連れて来い。』



「それがお前か。」

修が苦笑する。

「たぶんな。」

航も笑った。

「俺は、その意味が分からなかった。」

「それで?」

「約束した。」

すると老人は、こう言った。



『では、お前は待つ者になれ。』



次の瞬間。

大きな波が来た。

船が揺れた。

佐伯は怖くなり、船を返した。

修は海へ投げ出された。

そして――

気づけば、航だけがここへいた。

この、海の向こうの修理屋に。

「帰れなかったのか。」

「帰れなかった。」

航が静かに答える。

「糸が縺れたままだから。」

机の上の海図を広げる。

中央で絡まった青い糸。

「これを直さない限り、俺は帰れない。」

澪が小さな声で聞いた。

「どうやって……。」

航は娘を見る。

優しい目だった。

「許すんだ。」

「え?」

「自分を。」

静かな声だった。

「俺は、母さんに会えなかった自分を許せなかった。」

佐伯を見る。

「こいつは、逃げた自分を。」

修を見る。

「お前は、俺を助けられなかった自分を。」

三人とも、二十年間、同じ夜を抱えて生きてきた。

海へ置いてきたつもりで。

本当は、一歩も前へ進めないまま。

「人の糸ってな。」

航が笑う。

「だいたい、自分で縺れさせるんだ。」

そして。

「でも、ほどくのも自分なんだよ。」

部屋の中へ、風が吹いた。

壁に掛かっていた無数の糸が、ふわりと揺れる。

その時。

修がゆっくりと口を開いた。

「……悪かった。」

航が目を上げる。

「俺、お前を助けられなかった。」

「うん。」

「ずっと後悔してた。」

「知ってる。」

「だから……。」

修の声が震えた。

「帰ってこい。」

長い沈黙。

やがて。

航が笑った。

昔と変わらない、優しい笑顔で。

「もう、とっくに許してる。」

その瞬間。

絡まっていた青い糸が、少しだけほどけた。

次に。

佐伯が顔を上げた。

涙を流しながら。

「俺……怖かったんだ。」

声が震える。

「死にたくなかった。」

「うん。」

「だから逃げた。」

「うん。」

「ごめん……。」

航が立ち上がる。

そして、友人の肩へ手を置いた。

「生きててくれて、よかった。」

佐伯が泣き崩れた。

その瞬間。

青い糸が、さらにほどける。

最後に。

澪が父を見る。

「私……。」

涙を拭う。

「ずっと会いたかった。」

航が微笑む。

「うん。」

「でも、少しだけ恨んでました。」

「それも当然だ。」

「だから……。」

澪が、泣きながら笑った。

「帰ってきてください。」

その言葉が終わると同時に――

パチン。

小さな音がした。

海図の上。

絡まっていた青い糸が、すべてほどけていた。

窓の外。

青い灯台が、強く輝く。

そして。

どこからともなく、あの老人の声が聞こえた。



『修理完了。』



潮風が吹く。

壁の糸が、一斉に光り始めた。

そして。

海の向こうの修理屋が、ゆっくりと朝の光に包まれていく。

航が笑った。

「どうやら……帰れるらしい。」





最終章 帰る場所

朝の光だった。

けれど、それはどこか懐かしい色をしていた。

海の向こうの修理屋を包む、やわらかな青い朝。

窓の外では、青い灯台の光が少しずつ薄れていく。

役目を終えたように。

「……終わったのか。」

修が静かに呟く。

航は窓辺に立ち、遠くの海を見ていた。

その横顔は、二十年前のままでもあり、二十年分だけ大人になっているようにも見えた。

「たぶんな。」

振り返って笑う。

「長かったな。」

「馬鹿野郎。」

修も笑った。

「本当に長かった。」

佐伯が目をこすりながら立ち上がる。

「夢じゃ……ないんだよな。」

「さあな。」

航が肩をすくめる。

「人生なんて、案外、夢みたいなものかもしれない。」

「お前、二十年ぶりなのに相変わらずだな。」

「そうか?」

「そこだけは安心した。」

四人が小さく笑った。

その時だった。

カラン――。

店の入口のベルが鳴った。

誰も触っていない。

だが、確かに音がした。

振り返る。

すると、入口のところに、あの老人が立っていた。

白い服。

白い髪。

海の色をした目。

不思議と、年齢が分からない顔。

「……あなたが。」

澪が小さく呟く。

老人は穏やかに微笑んだ。

「久しぶりだな、青柳。」

航が苦笑する。

「二十年ぶりです。」

「いや。」

老人は首を振った。

「ここでは、ほんの少し前のことだ。」

誰も意味が分からない。

老人は、ゆっくりと店の中を見回した。

そして。

机の上の海図へ目を落とす。

「糸はほどけた。」

静かな声だった。

「よく直した。」

修が一歩前へ出る。

「あなたは……何者なんです。」

老人は少し考えるような顔をした。

それから笑った。

「修理屋だよ。」

「……は?」

「人の縁を、少しだけ預かる仕事をしている。」

修は呆れた顔になる。

「そんな仕事があるのか。」

「あるとも。」

老人は当然のように答えた。

「時計にも寿命があるように、縁にも手入れが必要だ。」

そして。

ゆっくりと修を見る。

「お前も、そういう仕事をしているだろう。」

修は何も言えなかった。

壊れた時計を直す。

壊れた小物を直す。

そして時々、人の心まで直してしまう。

いつからか、そんな人生になっていた。

老人は懐から小さな包みを取り出した。

それを、修へ差し出す。

「これは……。」

開く。

中には、一つの銀色の針が入っていた。

時計の針のようで、少し違う。

不思議な輝きを放っている。

「それを預けよう。」

「俺に?」

「次の修理屋へな。」

「……意味が分からん。」

老人は笑った。

「今は、それでいい。」

そして。

静かに言った。

「人は生きていれば、また糸を縺れさせる。」

窓の外を見る。

「その時、お前の出番だ。」

風が吹いた。

青い灯台の光が、完全に消える。

すると。

海の向こうの修理屋が、少しずつ透け始めた。

「どうやら時間だ。」

老人が呟く。

「帰りなさい。」

その言葉とともに、店が揺れた。

光が満ちる。

まぶしくて、目を開けていられない。

そして――。

次に目を開けた時。

四人は、修の店に立っていた。

いつもの店。

いつもの時計。

いつもの柱。

窓の外には、朝の海が見える。

「……帰ってきた。」

澪が小さく呟く。

すると。

隣で、航が深く息を吸った。

潮の匂い。

故郷の匂い。

「本当に……帰ってきた。」

その声は、少し震えていた。

店の外へ出る。

朝日が昇っている。

海が金色に輝いている。

その光を見ながら、航が静かに言った。

「帰る場所って……なくならないんだな。」

修が隣へ立つ。

「ああ。」

「俺、もうないと思ってた。」

「馬鹿。」

修が笑う。

「待ってる奴が一人でもいるなら、それが帰る場所だ。」

航はしばらく海を見ていた。

そして。

小さく頷いた。

その時。

店の中から、澪の声がした。

「お父さん!」

航が振り返る。

娘が笑っている。

十九年間、想像することしかできなかった笑顔。

「……呼ばれてるぞ。」

修が肩を叩く。

「ああ。」

航が笑う。

「今、行く。」

父は、娘のもとへ歩き出した。

その背中を見ながら、修はポケットへ手を入れる。

そこには、銀色の針が入っていた。

いつの間にか、少しだけ温かい。

その時。

カラン――。

店のベルが鳴った。

振り返る。

入口には、見知らぬ女性が立っていた。

三十代くらいだろうか。

困ったような顔をして、小さな時計を握りしめている。

「すみません……。」

女性が言った。

「ここ、時計だけじゃなくて……。」

そして、少し恥ずかしそうに笑った。

「縁も、直してくれるって聞いたんですが。」

修は、しばらく黙っていた。

それから。

ふっと笑った。

「……まあ、場合による。」

柱時計が、コーンと一つ鳴る。

海から、やさしい風が吹いてくる。

修は女性へ椅子を勧めた。

「とりあえず、話を聞こうか。」

窓の外では、一筋の青い糸が、朝日に溶けるように輝いていた。





つづく…



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運の使い道 

〜とある老人の不思議な一日〜


── 運は使いどころが肝心、 とはいえ人生、なかなかそうもいかない。




第一話 朝のジャンケン

田中辰造、八十二歳。

毎朝の習慣は、起き抜けにひとり鏡の前でジャンケンをすることだった。

「よし、今日も負けた」

右手がチョキ。左手がグー。右手の負けである。

辰造はにんまりと笑った。

運を節約しているのだ。

辰造がこの哲学に目覚めたのは、六十歳の定年退職の日だった。長年の同僚・吉村が言ったのだ。

「田中さん、運ってのはな、有限なんだよ。使ったら減る。だから俺は宝くじも買わんし、パチンコもせんし、結婚式のスピーチでもつまらんことしか言わん」

その吉村は翌年、馬券で百万円当てた。

「あれ?」と辰造は思ったが、追及しなかった。

人生には、追及しないほうがいいことが山ほどある。



第二話 福引きの悲劇

スーパーで三千円買い物をすると、福引き券が三枚もらえた。

辰造は迷った。三枚全部外れにするべきか。

「でも、全部外れって、それはそれで運がいるんじゃないか?」

哲学的な疑問が湧いた。

列に並んで、ガラガラを回した。

一回目。白玉。ハズレ。

「よし!」

二回目。白玉。ハズレ。

「完璧だ!」

三回目。

カランカランカラン――。

金玉が出た。

「一等! 旅行券十万円でございます!!」

辰造は固まった。

店員さんは笑顔で旅行券を差し出している。

後ろの列のおばさんが「いいわねえ~」と言っている。

辰造は受け取りながら、心の中でそっと謝った。

「……すまんな、未来の自分よ」



第三話 おみくじ問題

正月、近所の神社でおみくじを引いた。

「凶が出ますように」

祈りながら引いた。

大吉だった。

辰造は神様に向かって深くお辞儀をした。

「……ありがとうございます」

言いながら、胃のあたりがずしんと重くなった。

隣で引いていた孫の美咲(十四歳)が言った。

「おじいちゃん、なんで大吉なのにそんな暗い顔してるの?」

「運が……減った」

「は?」

美咲はスマートフォンで何かを調べ始めた。

「ねえおじいちゃん、おみくじって神様がランダムに決めるから、運とは関係ないって書いてあるよ」

「……そうか」

辰造は少し安堵した。

しかし翌日、宝くじで三百円当たった。

「やっぱり減ってる」



第四話 隣の山田さんのこと

隣に住む山田貞子、七十八歳。

この人が困ったことに、非常に美しかった。

若い頃は「小町」と呼ばれ、映画のスクリーンに出てもおかしくないほどだったらしい。今も八十歳手前とは思えないほど品があって、背筋がすっと伸びている。

辰造の妻・よし江(享年七十五歳)が生前よく言っていた。

「山田さんはねえ、生まれたときに運をぜーんぶ外見に使っちゃったのよ」

事実、山田さんの人生は波乱万丈だった。

夫は三回変わり、息子は北海道に逃げ、飼い猫は毎回どこかへ失踪した。

庭で育てたトマトは一個も赤くならず、

買った株は百発百中で下がり、

旅行先では必ず雨に降られた。

「でも」と辰造は思う。

山田さんはいつも笑っている。

その笑顔だけは、どんな運にも代えられないものだと。

……もっとも、これは辰造の主観であり、

山田さん本人は「もう少し運があれば」と思っているかもしれない。



第五話 辰造の結論

秋のある午後、辰造は縁側でお茶を飲みながら考えた。

運を節約して、もう二十年以上経つ。

ジャンケンはほぼ全敗。

福引きで一等を引いてしまったのは誤算だった。

おみくじは大吉ばかり出る。

(凶を引こうとすると、なぜか大吉が出る。これはこれで特殊な才能かもしれない。)


しかし。

八十二年間、大きな病気もせず、

事故にも遭わず、

戦争が終わった後に生まれた幸運もあって、

おいしいものを食べ、

よし江と五十年暮らし、

孫が四人いる。

これは……運を節約したおかげか。

それとも、もともとそういう星の下に生まれたのか。

辰造にはわからない。

わからないが、まあいいか、と思った。

お茶が冷めていた。

電気ケトルでお湯を沸かそうとしたら、スイッチを押し忘れて五分待った。

これもきっと、運の節約である。



─── 了 ───


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あとがき

この物語はフィクションです。

ただし「運は有限説」を信じている人は、案外この世の中に多いらしいです。

ジャンケンで負け続けたからといって、宝くじが当たるわけではありません。

おみくじで凶を引こうとしても、引けないときは引けません。

美しく生まれた人が不幸とも限りませんし、

平凡に生まれた人が幸せでないとも限りません。

でも。

「日常の小さなことで運を使い果たさないように」という気持ちの中には、

どこかほほえましい、人間らしい知恵があるような気がします。

大事な場面のために、そっと取っておく。

そういう慎み深さは、運とは別のところで、

きっと人生を少しだけ豊かにするのではないでしょうか。

田中辰造の今日のジャンケンも、きっと負けです。

5123話に

久々に数えてみれば
再開したここも
この10年ほどで
5123話にもなった

アメブロが始まって20年
何度も書いては
何度もバッサリ消して

でも
今回はなぜか消すことなく
10年もが過ぎた

すると
トータルでは軽く
10000話を越しており

まあ
良くも書いたもんだと
苦笑いしてみる

目的は
何かを残して置きたかった
それだけかもしれない

日々 思うことを
ここへ書き込みながら
それと並行して
そこへ
わずかに肉付けをしてみた
勝手な短い物語が
500話ほど出来て

また

挿絵のつもりの落書きも

600枚にもなった

それらを今
再確認し纏めながら
週に10話ほどづつ
Kindleに載せている

そのKindleも
150話にもなり
さてと振り返るばかり

仲間たちは
何を生き急いでいる? と
笑うけれど

65をも越すと
明日は?
来年は? と
約束されていないことに
気付き

ならば今
吐き出してしまえ! と
更に急ぎ足ともなる




この人生の中で
なんとかして
1冊くらい
本を残せたならばと
ジタバタしてはみても

残念ながら
才能は足りず届かず
自己満足なKindleとなった

ストックされた
残り350話ほどを
年内に選別すれば

それもまた
そろそろ飽きる頃になる

そんなわけだよ
ご同輩…

出会いを閉じないで

―― 案内状は、いつも遅れて届く ――



まえがき


―― 案内状は、いつも遅れて届く。
人はある年齢を重ねると、新しい扉を開けることを諦めてしまう瞬間があります。「もう今さら」「自分には関係のないことだから」と、心にそっと鍵をかけてしまう。
本作の主人公、六十二歳の宮原正吾もまた、最愛の妻を亡くしてから七年間、その鍵を固く閉ざして生きてきた男でした。


そんな彼の元に届いた、差出人不明の奇妙な手紙。「出会い管理局」と名乗るそこからの案内は、彼を再び「世界」へと連れ出すための、小さな、しかし確かな旅の始まりでした。


この物語は、劇的な大恋愛や大逆転のドラマではありません。
ただ、下を向いていた男がほんの少しだけ顔を上げ、自分の足で一歩を踏み出すまでの、ささやかで優しい奇跡の記録です。


もし今、あなたの心が少しだけ閉ざされているのなら。
どうぞ、走らずに、あなたのペースでこのページをめくってみてください。





序章 六十二歳の郵便受け

宮原 正吾(みやはら しょうご)の朝は、いつも同じ音で始まる。

カタン、と郵便受けが鳴る音。

築四十年の木造アパート「コーポ夕凪」二〇三号室。妻に先立たれて七年、息子は名古屋で家庭を持ち、年に一度しか帰ってこない。六十二歳の正吾にとって、郵便受けの音は世界と自分をつなぐ、ほとんど唯一の合図だった。

その朝、郵便受けには見慣れない封筒が一通入っていた。

宛名は、確かに「宮原正吾様」。
差出人の欄には、こう書かれていた。

「次への案内状 第一便」
発行:出会い管理局 第七出張所

正吾は老眼鏡を二度かけ直した。何かの宗教の勧誘か、新手の詐欺か。だが、消印もなく、切手も貼られていない。誰かが直接、この郵便受けに入れていったのだ。

封を切ると、中には一枚の白い紙。万年筆で、こう書かれていた。

拝啓
宮原正吾様におかれましては、長らく出会いを閉ざしておられること、当局の記録より確認いたしました。
つきましては、本日午後三時、駅前の喫茶「マグノリア」にて、ご案内人がお待ちしております。
目印は、左手にレモンを一個。

なお、走らずに、ご自分のペースでお越しください。
我々には、あまり時間がありませんので。

敬具

正吾は紙を裏返した。何もない。

「……レモン?」

声に出してつぶやくと、台所のやかんが、なぜか同意するようにピーッと鳴いた。火はつけていないはずだった。

第一章 レモンを持った女

午後三時、五分前。

正吾は喫茶マグノリアの扉を押した。からんころん、と古いベルが鳴る。店内には誰もいない。いや、奥の窓際の席に、一人だけ。

七十歳くらいの女性だった。藤色のショールを羽織り、白髪を一つに束ねている。そして、左手には確かに、黄色いレモンが一個。

「宮原さんね」

女性は顔も上げずに言った。

「……はい」

「お座りなさい。コーヒー、頼んでおいたから」

正吾が向かいに腰を下ろすと、女性はようやく顔を上げた。皺の多い、しかし不思議と若々しい目をしていた。

「私、桐山 静江(きりやま しずえ)。出会い管理局の、まあ、外回りの係。あなたの担当になりました」

「あの、これは何かのドッキリですか」

「ドッキリ? あら、そんな悠長な話じゃないのよ」

静江はレモンをテーブルに置き、ハンドバッグから一冊の手帳を取り出した。表紙には金文字で「宮原正吾 出会い記録簿」と書かれている。

「あなた、過去三年間、新しい人と一度も深い話をしていないでしょう」

「……は?」

「コンビニの店員さんに『ありがとう』を言った回数、四百七十二回。これは出会いに含まれません。スーパーのレジ、八百三回。これも除外。病院の受付、十一回。惜しいけれど、これもノーカウント」

「な、なんでそんなことを」

「管理局ですから」

静江はあっさり言った。

「いいですか、宮原さん。人間にはね、『出会いの貯金』というものがあるの。若い頃はみんな、湯水のように使う。でも、ある年齢を超えると、貯金を引き出すどころか、金庫の鍵そのものを失くしてしまう人が出てくる。あなたは、その典型」

「鍵を、失くした……」

「正確には、自分で閉じてしまった。奥様が亡くなられてから、ね」

正吾は黙った。窓の外で、銀杏の葉が一枚、ひらりと落ちた。

「今日からあなたには、七つの『案内状』が届きます。それぞれが、新しい出会いへの扉。受けるも断るも自由。でも一つだけ、ルールがあるの」

静江はレモンを正吾のほうに転がした。

「走らないこと。歩いて行きなさい。自分のペースで」

「……なぜ、レモン?」

「ああ、これ?」静江は笑った。「ただの目印よ。バナナだと、誰か食べちゃうかもしれないでしょう」

第二章 第二の案内状 ―― 陶芸家と、しゃべる湯呑み ――

二通目の案内状は、三日後に届いた。

本日午後二時、市民会館裏「窯元・土ぼとけ」へ。
目印は、左耳に絆創膏を貼った男。

正吾はバスに乗った。タクシーを使えば早かったが、「歩くペースで」という静江の言葉が、なぜか頭に残っていた。

窯元の戸を引くと、土の匂いがした。奥で、頭の禿げた六十代の男が、ろくろを回している。左耳には確かに、大きな絆創膏。

「あんたが宮原さんかい」

男は手を止めずに言った。

「来栖(くるす)といいます。陶芸、五十年。妻に三回逃げられて、三回戻ってこられた男です」

「……はあ」

「まあ、座って。湯呑み、選びな」

棚には、不揃いな湯呑みが百個ほど並んでいた。正吾は無作為に一つ手に取った。すると――

『おい、俺かよ』

声がした。

正吾はぎょっとして湯呑みを落としそうになった。

『落とすな落とすな! 俺、まだ三年しか焼かれてないんだ!』

「し、しゃべってる……」

「ああ、こいつは『口の悪い湯呑み』だ」来栖は涼しい顔で言った。「俺が作る湯呑みはな、たまにしゃべる。理由はわからん。たぶん、土に混じった何かだろう」

『あんた、宮原さんかい』湯呑みが言った。『ずいぶん、寂しい顔してるなあ』

「……失礼な」

『俺はな、本当はあんたの奥さんに使ってほしかった器なんだ。三年前、注文を受けたんだけどな、間に合わなかった』

正吾は息を呑んだ。

「妻が……ここに?」

「ああ」来栖はろくろを止めた。「奥さん、よくここに来てたよ。あんたへのプレゼントだって言ってね。湯呑みを二つ、夫婦茶碗で頼まれた。でも、片方を焼いてる途中で、訃報を聞いてね。もう片方は、焼くに焼けなかった」

『俺は、片割れだ』湯呑みが静かに言った。『でもな、片割れでも、湯は飲める。冷めない湯を、注いでくれる人がいればな』

正吾の目から、涙が一粒落ちた。湯呑みの中に、ぽちゃん、と音を立てて。

『おい、しょっぱいぞ』

「……すみません」

『でもまあ、悪くない味だ』

来栖は笑った。

「持って帰りな。代金はいらん。奥さんが、もう払ってくれてる」

第三章 第三の案内状 ―― 図書館の幽霊司書 ――

三通目は、市立図書館だった。

三階・郷土資料室。
目印は、本を逆さに読んでいる女性。

階段を上がると、確かに窓際の席で、若い女性が本を逆さに持っていた。二十代半ばだろうか。栗色の髪に、白いブラウス。

「……あの」

女性は顔を上げ、にっこり笑った。

「宮原さん、ですよね。お待ちしてました」

「あなたは」

「司書の、緑川 詩織(みどりかわ しおり)です。あ、正確には、元・司書です」

「元?」

詩織はくすり、と笑った。

「私、十五年前にここで亡くなったんです」

正吾は本棚に手をついた。

「冗談、ですよね」

「半分本当で、半分冗談です。半分は信じてください。私、宮原さんに見えるはずですから」

「……はい、見えてます」

「それで十分です」

詩織は本を正しい向きに直した。タイトルは『中年男性のための、人生後半の歩き方』。

「これね、私が生きてた頃、誰かに読ませたかった本なんです。でも、誰も借りてくれなかった」

「……」

「宮原さん、奥様を亡くされたんですよね」

「ええ」

「私もね、婚約者を亡くしたんです。結婚式の三日前に、事故で。それから私、人生を閉じちゃった。仕事だけして、誰とも深く話さず、ご飯もろくに食べず。三十二歳で、心臓が止まりました」

「……」

「だから言いたかったの。宮原さん、ご飯、ちゃんと食べてますか?」

正吾は答えられなかった。ここ数年、まともに料理をしていなかった。コンビニ弁当と、インスタント味噌汁。それで生きていた。

「今日、これから一緒に、何か食べに行きませんか」

「……あなたは、食べられるんですか」

「匂いは嗅げます。それで十分美味しいんです」

二人は図書館を出て、近所の定食屋に入った。正吾はサバの味噌煮定食を頼んだ。久しぶりに、ちゃんとした魚の匂いがした。

詩織は向かいに座って、ただ匂いを嗅いでいた。そして言った。

「私、もうすぐ消えるんです。十五年経つから。でも、最後に一人だけ、誰かに『ちゃんと食べてね』って言いたかった」

「……ありがとう」

「いえ、こちらこそ。ごちそうさまでした」

詩織は深く頭を下げて、ふっと、空気に溶けるように消えた。

サバの味噌煮は、塩辛い味がした。

第四章 第四の案内状 ―― 駅前ストリートピアノと、家出少年 ――

駅前広場、ストリートピアノの前。
目印は、ピアノを弾けない少年。

正吾が駅前に着くと、確かにピアノの前に少年が座っていた。十四、五歳だろうか。鍵盤の前で、固まっている。

「弾かないの?」

正吾が声をかけると、少年はびくっと振り返った。

「……弾けない」

「じゃあ、なぜ座ってる?」

「家に帰りたくないから」

少年の名は、海斗(かいと)といった。母親と二人暮らしで、母親が新しい恋人を連れてきた。その恋人が、嫌いだという。

「殴られるとか?」

「いや、優しい。優しすぎて、嫌だ」

正吾は隣に座った。

「俺はな、ピアノは弾けないけど、一音だけ知ってる」

そう言って、ポーン、と「ド」の鍵盤を叩いた。

「これだけ」

「……それだけ?」

「これだけ。でも、これだけでも、音楽だ」

海斗はしばらく黙っていたが、やがて隣の「レ」を叩いた。

ポーン。

「これで二音」

「ああ。曲になりそうだな」

二人は交互に、適当な鍵盤を叩いた。めちゃくちゃな音楽だった。通り過ぎる人が笑った。子供が指を差した。それでも二人は叩き続けた。

三十分ほど経った頃、海斗が言った。

「おじさん、なんで俺に話しかけたの」

「案内状が来たんだ」

「案内状?」

「うん。お前を、案内してくれって」

海斗はぽかんとした。

「意味わかんねえ」

「俺もわからん。でも、たぶん、お前が俺を案内してくれてたんだ。逆だったんだよ」

「は?」

「俺もな、家に帰りたくなかったんだ。誰もいない家にな」

二人はまた、ピアノを叩いた。今度は、少しだけ曲らしくなった。

別れ際、海斗が言った。

「おじさん、また会える?」

「歩いて来れる距離なら」

「歩いてくる」

少年は走らずに、歩いて帰っていった。

第五章 第五の案内状 ―― 面倒な男 ――

居酒屋「とりあえず」。
目印は、一人で五人分の席を取っている男。

正吾は居酒屋の戸を引いた。

奥のテーブルに、五十代後半の男が、確かに五人分の席に荷物を広げて座っていた。スーツはよれよれ、髪は脂ぎっていて、テーブルにはビールジョッキが三つ並んでいる。

「あ、宮原さん? 遅い遅い、もう三十分待ったよ!」

「……はじめまして、ですよね」

「うん、はじめまして! 俺、田所(たどころ)! よろしく!」

握手を求められたが、その手はベタついていた。

田所は、最初の五分で自分の離婚歴を三回語り、次の十分で会社の上司の悪口を言い、その次の十分で「俺、本当は小説家になりたかったんだ」と泣き出した。

正吾は内心、げんなりした。
(これが、案内状の相手か。完全に外れだ)

しかし、トイレに立ったとき、正吾はふと、静江の言葉を思い出した。

面倒な奴と出会うのもまた、次への案内状なのだろう。

席に戻ると、田所はけろりと泣き止んで、枝豆を食べていた。

「宮原さんさあ」

「はい」

「人生って、何だと思う?」

正吾はしばらく考えた。そして、答えた。

「……歩くこと、ですかね」

「歩く?」

「ええ。走らずに、歩くこと。自分のペースで」

田所はジョッキを置いた。

「……それ、いいな」

「は?」

「俺さあ、ずっと走ってきたんだよ。出世しなきゃ、稼がなきゃ、再婚しなきゃ、見返さなきゃって。気づいたら、誰もいなくなってた」

田所の目から、本物の涙が一粒落ちた。さっきの嘘泣きとは違う、静かな涙だった。

「歩いて、いいのかな」

「いいんじゃないですか。誰も急かしてませんよ」

「……そうか」

田所はしばらく黙って、それから笑った。

「宮原さん、あんた、いい人だな。面倒な俺に、付き合ってくれて」

「いえ、こちらこそ」

正吾は思った。
(この男は、面倒な男だった。でも、面倒な男こそ、自分が忘れていた何かを、思い出させてくれた)

帰り際、田所が言った。

「また飲もうな」

「歩いて来れる店なら」

「歩いてくよ」

二人はそれぞれ、別の方向に、ゆっくりと歩いて帰った。

第六章 第六の案内状 ―― 猫と、しゃべる ――

神社の境内。
目印は、賽銭箱の上に座っている三毛猫。

神社に着くと、確かに賽銭箱の上に、三毛猫が一匹、優雅に座っていた。

正吾が近づくと、猫はゆっくりと顔を上げた。

『遅かったね』

「……えっ」

『遅かったね、と言ったんだよ』

猫がしゃべっている。正吾は周りを見回した。誰もいない。

「あの、私、おかしくなりましたか」

『おかしくなったのは、世界のほうだよ。あんたは正常だ』

「はあ」

『私はね、この神社の管理をしている。三百年ほど』

「三百年」

『驚かないんだね』

「もう、何が起きても驚かない気がします」

『それは良いことだ』

猫は前足で顔を洗った。

『宮原さん。あんた、もう五人と会ったね』

「ええ」

『どうだった』

「……不思議でした。でも、悪くなかった」

『そうか。じゃあ、最後の質問だ』

猫の目が、金色に光った。

『あんたは、もう一度、誰かを愛せるかい』

正吾は黙った。

風が吹いて、銀杏の葉が散った。

長い、長い沈黙のあと、正吾は答えた。

「……わかりません。でも、閉じないでおこうと、思います」

『それで十分だよ』

猫はにゃあ、と鳴いて、賽銭箱から飛び降りた。

『最後の案内状は、自分で見つけなさい』

「自分で?」

『そう。もう、地図はいらないだろう』

猫はゆっくりと、社の裏へと歩いていった。走らずに、自分のペースで。

第七章 第七の案内状 ―― 自分で見つけた相手 ――

それから一週間、正吾は何もしなかった。

いや、何もしなかったわけではない。来栖の窯元に湯呑みのお礼に行き、海斗とまたピアノを叩き、田所と居酒屋に行った。神社の猫には会えなかったが、賽銭は毎週入れた。

そしてある日、彼はスーパーのレジで、いつもの店員に「ありがとう」と言った。今までの四百七十二回とは、少し違う「ありがとう」だった。

店員は、五十代の女性だった。名札に「橋本」と書かれていた。

「いつも、ありがとうございます」

橋本さんは、ふと顔を上げた。

「あ……宮原さん、ですよね」

「え、なぜ私の名前を」

「ポイントカードに書いてあって。ずっとお名前、覚えてました」

「……そうですか」

「あの」橋本さんは少し赤くなった。「最近、お顔の感じが、明るくなられましたね」

正吾は笑った。久しぶりに、心から笑った。

「……そうですか」

「はい。前は、なんだか、ずっと俯いてらっしゃって」

「色々、ありまして」

「私も、色々ありました」

二人は少し、見つめ合った。

レジには列ができ始めていた。正吾は荷物を持ち上げた。

「あの、もしよかったら」

「はい」

「今度、お茶でも」

橋本さんは、ぱっと笑った。

「歩いて行ける距離の喫茶店なら」

「マグノリア、ご存知ですか」

「ええ。私、あそこのコーヒー、好きです」

終章 郵便受けに、最後の手紙

その夜、郵便受けがカタンと鳴った。

正吾が開けると、最後の封筒が入っていた。

宮原正吾様

七つの案内、お疲れさまでした。
当局の役目は、ここで終わります。

あなたはもう、自分で出会いを見つけられます。
鍵は、ずっとあなたの手の中にありました。

なお、最後にお伝えしておきたいこと。

走らないでください。
でも、閉じないでください。

出会うべき人は、必ず目の前に現れます。
出会うべきタイミングで、笑顔となれます。

我々には、あまり時間がありません。
でも、ないからこそ、急がずに歩くのです。

敬具

出会い管理局 第七出張所
桐山 静江

正吾は手紙を畳んで、湯呑みの隣に置いた。

『おい、また泣くのかよ』

湯呑みが言った。

「泣かないよ」

『嘘つけ』

「……ちょっとだけ」

『しょっぱい湯は、もう勘弁な』

正吾は笑った。
台所のやかんが、ピーッと鳴った。
今度は、ちゃんと火をつけていた。

窓の外では、銀杏の葉が、ゆっくりと、自分のペースで、落ちていた。

走らずに。
閉じずに。

―― 完 ――



この物語は、一篇の詩から生まれました。

出会いを閉じないで
走る必要などなく
自分のペースで歩けたならば
出会うべき人は、目の前に現れて
出会うべきタイミングの中で、笑顔となれる

なんせ、僕らには、あまり時間がないのだ……

人生の後半に差しかかった人へ、そして、誰かを失った経験のあるすべての人へ。

「閉じないでいる」というのは、勇気のいることです。
でも、その勇気は、走ることではなく、歩くことから始まる。

レモンを持った案内人は、もしかしたら、あなたの郵便受けにも、もう手紙を入れているかもしれません。

走らずに、開けてみてください。

【了】


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あとがき

出会いを閉じないで
走る必要などなく
自分のペースで歩けたならば
出会うべき人は、目の前に現れて
出会うべきタイミングの中で、笑顔となれる

なんせ、僕らには、あまり時間がないのだ……

「心を閉じないでいる」ということは、実はとても勇気がいることです。傷つくかもしれない、裏切られるかもしれない、また大切な人を失って泣くことになるかもしれない。年齢を重ねれば重ねるほど、その恐怖は大きくなります。


けれど、本作の案内人・静江が言ったように、何も全力疾走で新しい世界に飛び込む必要はないのです。ただ、鍵をかけずに、いつもの散歩道を歩くくらいのスピードで世界を眺めてみる。それだけで、日常は少しずつ色を取り戻していきます。


正吾が最後に手に入れたのは、特別なドラマではなく、いつでも行ける喫茶店で、誰かと温かいコーヒーを飲む約束でした。それこそが、人生の後半において最も愛おしい「奇跡」なのだと信じています。


レモンを持った案内人は、もしかしたら、あなたの郵便受けにも、もう手紙を入れているかもしれません。
あなたのこれからの歩みが、どうか優しく、あなたらしいペースでありますように。

経験せよ

――落ちる噺、巡る人生――



まえがき

人生には、若い頃には見えない景色がある。

二十代で読んだ本を、五十を越えて再び開いた時。

昔は退屈だと思っていた映画に、なぜか涙がこぼれた時。

何気なく聞いた落語の一席が、まるで自分のことのように胸へ刺さった時。

人はそのたびに思う。

「ああ、こういうことだったのか」と。

人生経験とは、知識を増やすことではない。

喜びや後悔、出会いや別れを積み重ね、物語を受け取る器を少しずつ大きくしていくことなのだろう。

この物語は、ある男が不思議な寄席に迷い込み、自分の人生をもう一度読み直していく話である。

もしあなたにも、昔は分からなかった物語があるのなら。

そして、今なら少しだけ分かる気がするのなら。

きっと、あなたも「風乗亭」の客の一人なのかもしれない。




プロローグ 黄ばんだ頁

五十二歳になった春のことだった。

高瀬誠一は、書斎の片隅で古い本を見つけた。

埃をかぶった文庫本。

二十代の頃、一度だけ読んで、何が面白いのかさっぱり分からなかった小説だった。

「まだあったのか……」

独り言を漏らしながら、何となく頁をめくる。

雨が窓を叩いている。

静かな午後だった。

読み始めて十分ほど経った頃、高瀬は手を止めた。

ある一文が、胸の奥へ深く沈んでいった。

若い頃には、ただの情景描写にしか思えなかった一行。

しかし今は違う。

そこには、孤独があった。

諦めがあった。

そして、言葉にならない優しさがあった。

「……なるほど。」

思わず声が漏れた。

「こういうことだったのか。」

五十二年生きてきて、ようやく読めるようになった。

本が変わったのではない。

自分が変わったのだ。

高瀬は静かに本を閉じた。

そして、不思議なことを考えた。

もし、人生には「今だから分かる物語」があるのなら。

その逆に、「まだ経験していないから分からない物語」もあるのではないだろうか。

その時だった。

窓の外で、ふっと風が鳴った。

まるで誰かに呼ばれたような気がした。

高瀬はコートを羽織り、傘を持って家を出た。

行き先は、自分でも分からなかった。

ただ、どこかへ行かなければならない気がしたのである。

雨の東京を歩きながら。

彼はまだ知らなかった。

その夜、自分が「人生をもう一度読み直す場所」に辿り着くことを。

そして、その入口の名が――

『風乗亭』であることを。



第一章 雨の神保町

東京の雨には、いくつか種類がある。

春先の雨は、どこか迷いを含んでいる。

降るべきか、やめるべきかを空自身が決めかねているような、細く頼りない雨だ。

その日もそうだった。

午後四時を少し回った頃、高瀬誠一は地下鉄の神保町駅を出た。

自分でも、なぜここへ来たのか分からない。

古本屋へ行く約束があるわけでもない。

誰かと待ち合わせをしているわけでもない。

ただ、家にいてはならないような気がした。

黄ばんだ文庫本を閉じた瞬間から、胸の奥に小さなざわめきが生まれていた。

その正体を知りたくて、気がつけば電車に乗っていた。

神保町は、雨が似合う街だ。

濡れたアスファルト。

軒先に積まれた古い本。

コーヒーの香り。

そして、どこか時代から取り残されたような静けさ。

高瀬は傘を差しながら、ゆっくりと坂を上っていく。

若い頃、この街へは何度も来た。

文学青年を気取って、難しい本を買っていた。

本当はよく分からないくせに、分かったふりをしていた。

二十代というのは、そういう年齢だ。

知らないことを知らないと言えない。

背伸びをすることで、自分を大きく見せたくなる。

高瀬も例外ではなかった。

ふと、一軒の古本屋の前で足を止めた。

店先のワゴンに、一冊の文庫本が並んでいる。

先ほど家で読み返したのと同じ作品だった。

思わず苦笑する。

「今日は縁があるな……。」

本を手に取る。

表紙の端が擦り切れ、何度も人の手を渡ってきたことが分かる。

本にも人生があるのだろう。

誰かに読まれ、忘れられ、また誰かに拾われる。

まるで人の縁のように。

「旦那、それ好きなんですか。」

声を掛けられた。

顔を上げると、古本屋の主人が立っていた。

七十を過ぎているだろうか。

白髪を後ろへ撫でつけ、丸眼鏡を掛けている。

「ええ……昔は分からなかったんですが。」

「ほう。」

「今になって、やっと読めました。」

主人は小さく笑った。

「本ってのは、不思議なもんでね。人が読むんじゃないんですよ。」

「え?」

「本の方が、読む人を選ぶんです。」

高瀬は目を瞬かせた。

主人は続けた。

「若い時には開かない扉ってものがある。人生を少し歩いて、ようやく鍵が合う。」

雨の音だけが聞こえる。

「あなた、今日は何か探してますね。」

「……そう見えますか。」

「ええ。」

主人はにやりと笑った。

「それなら、今日は寄り道をするといい。」

「寄り道?」

「この先の路地を左へ。細い道です。」

「何があるんです?」

主人は答えなかった。

代わりに空を見上げた。

「風が出てきました。」

確かに。

いつの間にか、雨の中を冷たい風が通り抜けている。

古本屋の軒先に吊るされた小さな風鈴が、ちりん、と鳴った。

「今夜なら、開いてるかもしれません。」

「何がです?」

主人はもう答えない。

ただ一言だけ、ぽつりと言った。

「人生を読み直せる場所ですよ。」

高瀬は思わず笑った。

「そんな場所があるなら、ぜひ行ってみたいですね。」

「ええ。行ける人は、そう多くありません。」

主人はそう言って店の奥へ消えた。

高瀬はしばらくその場に立っていた。

なぜだろう。

冗談を言われた気がしない。

むしろ、昔から知っていた場所のことを思い出しかけているような、不思議な感覚だった。

やがて本を棚へ戻し、傘を差し直す。

そして、主人に教えられた路地へ向かった。

細い路地だった。

両脇には古い建物が並び、昼間だというのに少し暗い。

人通りもない。

奥へ進むにつれ、雨の音が遠ざかっていく。

代わりに、どこからか声が聞こえた。

笑い声。

拍手。

そして、何かを語る人の声。

高瀬は足を止めた。

路地の突き当たり。

そこに、見覚えのない古い木造の建物が建っていた。

赤い提灯が一つ。

小さな看板が一枚。

そこには墨文字で、こう書かれていた。

風乗亭

その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが、かすかに鳴った。

まるで、長いあいだ忘れていた約束を思い出したように。

その時。

建物の中から、誰かの笑い声が聞こえた。

そして、静かな男の声が続いた。

「さあ、お後がよろしいようで――」

高瀬は、知らず知らずのうちに、風乗亭の戸へ手を掛けていた。



第二章 風乗亭

戸は、驚くほど軽く開いた。

からり――。

その音だけで、高瀬は妙な懐かしさを覚えた。

中は、決して広くはなかった。

二十人も入ればいっぱいになるほどの小さな寄席である。

古い木の匂い。

畳の香り。

どこからか漂う、ほうじ茶の湯気。

壁には煤けた柱時計が掛かり、ゆっくりと振り子を揺らしていた。

だが、不思議なことに時計の針は動いていない。

七時十七分。

その時刻で止まったままだった。

客席には、十人ほどの客がいた。

誰もが静かに高座を見つめている。

若い女性。

背広姿の男。

老夫婦。

学生服の少年。

年齢も服装もばらばらなのに、皆、どこか似た表情をしていた。

何かを探しているような。

何かを思い出しかけているような。

そんな顔だった。

「おや。」

声がした。

受付の小机の向こうに、一人の老人が座っている。

七十代だろうか。

小柄で、細い目をした男だった。

「初めてですか。」

「……ええ。」

「そうでしょうね。」

老人は頷いた。

「二度目の人は、あまりいません。」

「そういうものなんですか?」

「そういう場所ですから。」

さっぱり意味が分からない。

しかし、その口調には妙な説得力があった。

「木戸銭はいただきません。」

「いや、でも……。」

「代わりに、ひとつだけ。」

老人は笑った。

「今夜、何かひとつ、置いていってください。」

「何を?」

「何でも。」

それだけ言うと、老人は湯呑みを差し出した。

「始まりますよ。」

高瀬は促されるまま、最後列の席へ腰を下ろした。

すると、ちょうど高座の幕が開く。

一人の噺家が、ゆっくりと姿を現した。

年老いた男だった。

白髪。

細い身体。

黒い着物。

しかし、その姿を見た瞬間、高瀬は胸の奥が妙にざわついた。

どこかで会ったことがある。

そんな気がする。

もちろん、会ったはずはない。

なのに。

老人は高座へ上がると、深々と頭を下げた。

客席も静まり返る。

外の雨音さえ聞こえなくなった。

しばらくの沈黙。

そして老人は顔を上げた。

「皆さま、本日はようこそ。」

低く、よく通る声だった。

「今夜の噺は……『芝浜』。」

その言葉だけで、客席の空気が変わった。

高瀬の背筋に、すうっと何かが走る。

『芝浜』。

知っている。

何度も聞いたことのある演目だ。

酒癖の悪い魚屋。

大金の入った財布。

女房の嘘。

そして、夫婦の情。

古典中の古典である。

だが、老人は微笑んだ。

「ただし、今夜の芝浜は、少し違います。」

少し違う?

その意味を尋ねる間もなく、噺が始まった。

「えー……魚屋の勝っつぁんがね……。」

たったそれだけだった。

たった一言。

それだけなのに――。

高瀬の視界が揺れた。

畳の匂いが消える。

代わりに、潮の匂いがした。

冷たい風。

遠くで鳴く鴎。

そして……雪。

頬に、冷たいものが触れた。

高瀬は思わず顔を上げた。

そこには寄席はなかった。

江戸の冬空が広がっていた。

「……え?」

声が漏れる。

足元は石畳。

目の前には長屋。

桶を抱えた女が歩いていく。

子どもたちが走り回っている。

誰かが魚を売っている。

本物だ。

夢ではない。

芝居でもない。

風の冷たさまで、はっきりと感じる。

「なんだい、兄さん。」

突然、声を掛けられた。

振り向く。

そこに立っていたのは、三十前後の男だった。

髪は乱れ、着物はくたびれ、赤い顔をしている。

酒臭い。

しかし、その目を見た瞬間。

高瀬は息を呑んだ。

男の顔が――

若い頃の自分に、そっくりだったのである。

男は首を傾げた。

「変な顔して。どっかで会ったかい?」

高瀬は答えられなかった。

胸の奥で、何かが大きく音を立て始めていた。

すると、どこからか、あの噺家の声が聞こえてきた。

姿は見えない。

だが、声だけが風に乗って届く。

「人はねえ……。」

静かな声だった。

「経験した分だけ、物語の中へ入っていけるんですよ。」

高瀬は、雪の降る江戸の町に立ち尽くしていた。


第三章 芝浜の雪

雪だった。

静かな雪だった。

江戸の空から、音もなく白いものが舞い落ちている。

高瀬はしばらく、その場から動けなかった。

冷たい。

頬に落ちた雪が、ゆっくりと溶けていく。

夢ではない。

もし夢なら、こんな冷たさまで感じるだろうか。

「おい、兄さん。」

先ほどの男が、不思議そうにこちらを見ている。

「具合でも悪いのかい?」

男は魚屋の桶を肩に担いでいた。

顔は若い頃の自分に似ている。

いや、似ているというより……。

その仕草。

その眉の動き。

その笑い方。

まるで、二十五歳の頃の自分そのものだった。

「……あんた。」

高瀬は、ようやく声を出した。

「名前は?」

男はきょとんとした。

「何だい、急に。」

そして笑う。

「高瀬だよ。」

その瞬間。

胸の奥で何かが止まった。

高瀬。

自分と同じ名前。

いや、それだけではない。

年齢も、顔も、空気も。

これは偶然ではない。

目の前にいるのは――若い頃の自分だ。

「……そんな馬鹿な。」

「何ぶつぶつ言ってるんだい。」

若い高瀬は笑った。

「さっきから変な兄さんだな。」

その笑顔を見て、今の高瀬は思わず苦笑した。

若い。

とにかく若い。

そして、何も知らない顔をしている。

まだ父を亡くしていない。

まだ妻とも出会っていない。

まだ、大切な友人と絶縁もしていない。

まだ、自分がどんな人生を送るのか、何一つ知らない。

それが、少しだけ羨ましかった。

「酒でも飲むかい?」

若い高瀬が言った。

「俺はこれから一杯やるんだ。」

「ああ……。」

「付き合いなよ。」

高瀬は頷いた。

断る理由がなかった。

二人は雪の中を歩き出した。

町の角を曲がる。

小さな居酒屋へ入る。

中は暖かかった。

囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てている。

徳利が運ばれてくる。

若い高瀬は、ぐいっと酒を飲んだ。

「うまいなあ。」

実に旨そうな顔をする。

その顔を見て、高瀬は思い出した。

自分も昔は、こうして酒を飲んでいた。

世界は広い。

自分には才能がある。

何にだってなれる。

そう信じていた。

「兄さん。」

若い高瀬が、ふいに尋ねた。

「俺、ちゃんと生きていけるかな。」

高瀬は顔を上げた。

「え?」

「何だかさ。」

若い男は笑った。

「最近、分かんなくなってきてさ。」

窓の外では雪が降り続いている。

「俺、何者にもなれない気がするんだ。」

その言葉は、胸に刺さった。

忘れていた。

そうだ。

二十五歳の頃、自分はいつも不安だった。

何者かになりたかった。

特別になりたかった。

でも、自分には何もない。

そのことが怖かった。

「笑うだろ?」

若い高瀬は、照れくさそうに言った。

「みんな平気そうに生きてるのに、俺だけ置いていかれてる気がする。」

高瀬は答えられなかった。

なぜなら、その気持ちを知っていたからだ。

痛いほど。

長い沈黙が流れた。

やがて、今の高瀬が静かに口を開いた。

「なあ。」

「ん?」

「お前は……十分、頑張ってるよ。」

若い高瀬が目を瞬かせる。

「何だよ、それ。」

「いや……。」

高瀬は笑った。

「そう言いたくなっただけだ。」

若い男は、しばらく黙っていた。

それから、少しだけ笑った。

「変な兄さんだな。」

その時だった。

どこからか、拍子木の音が聞こえた。

カン。

カン。

カン。

店の空気が揺らぐ。

囲炉裏の火が遠くなる。

雪が消えていく。

そして、あの噺家の声が聞こえた。

「人はね。」

静かな声だった。

「若い頃の自分を許せるようになって、初めて大人になるんですよ。」

高瀬の胸が、熱くなった。

気づけば、目の前の若い男が立ち上がっている。

「そろそろ行くよ。」

「あ……。」

「魚を売らなきゃならない。」

そして、笑った。

「俺、何とかなるかな。」

その顔は、昔の自分そのものだった。

高瀬は、今度は迷わなかった。

ゆっくりと頷く。

「大丈夫だ。」

「そうか。」

若い高瀬は、嬉しそうに笑った。

「なら、もう少し頑張ってみるよ。」

雪の中へ歩き出す。

背中が、少しずつ遠ざかる。

高瀬は立ち尽くしていた。

やがて、その姿が白い雪の中へ消えていく。

そして最後に、風が吹いた。

――ありがとう。

確かに、そう聞こえた。

次の瞬間。

高瀬は再び、風乗亭の客席に座っていた。

高座の上では、噺家が静かに『芝浜』を語り続けている。

何事もなかったかのように。

だが、高瀬の頬には、一筋の涙が流れていた。

そして初めて思った。

もしかしたら、この寄席は――。

人生をやり直す場所ではない。

人生を、もう一度「読み直す」場所なのかもしれない。



第四章 若き日の男

高座では、まだ『芝浜』が続いていた。

魚屋の勝が、女房のついた嘘に気づき、静かに涙をこらえる場面である。

客席には、すすり泣く声が聞こえていた。

高瀬は、しばらく動けなかった。

自分の膝の上を見つめる。

先ほどまで感じていた雪の冷たさが、まだ掌に残っている。

夢ではない。

あれは確かに、自分の人生のどこかに存在していた時間だった。

「よく戻ってこられましたね。」

声がした。

いつの間にか、受付の老人が隣に座っていた。

湯気の立つ湯呑みを差し出してくる。

「……戻る人と、戻れない人がいるんですか。」

老人は微笑んだ。

「さあ、どうでしょう。」

「ここは、いったい何なんです?」

「寄席ですよ。」

「そういうことを聞いているんじゃない。」

高瀬は思わず強い口調になった。

老人は怒りもせず、静かに茶をすすった。

「旦那。」

「……。」

「人は、人生を一度しか生きられません。」

「そうですね。」

「だから、一度きりの人生を、何度も読み返したくなる。」

老人は、高座を見た。

「本と同じですよ。」

高瀬も、つられて高座へ目を向ける。

噺家は穏やかな顔で語り続けている。

「若い頃には読めなかった頁がある。」

老人が言う。

「悲しみを知って、ようやく読める頁がある。」

「……。」

「別れを知って、初めて意味が分かる言葉がある。」

高瀬は黙っていた。

老人は、ぽつりと続けた。

「風乗亭はね。」

少しだけ笑った。

「そういう頁を、めくる場所なんです。」

その時。

高座の噺が終わった。

静かな拍手が起こる。

老人の噺家が頭を下げる。

すると、ふいにこちらを見た。

いや。

見たような気がした。

その目が、まっすぐ高瀬を見つめていた。

そして――微笑んだ。

胸がざわつく。

どこかで見たことのある笑い方。

だが、思い出せない。

「次の噺へ参りましょう。」

噺家が言った。

「次は、『文七元結』。」

客席の空気が変わる。

人情噺の名作。

父と子。

親の情。

人を信じること。

高瀬は思わず息を呑んだ。

父。

その言葉だけで、胸の奥が重くなる。

父が亡くなって、もう十年になる。

厳しい人だった。

褒められた記憶は少ない。

若い頃は反発ばかりしていた。

酒を飲みながら、何度も口論した。

最後まで、分かり合えなかった気がしている。

病院で最期を迎えた日も、何を話したのか、よく覚えていない。

それが今でも、心のどこかに引っかかっていた。

「旦那。」

隣の老人が言った。

「まだ、聞けていない言葉があるんじゃありませんか。」

高瀬は顔を上げた。

「……何ですって。」

しかし、老人はもう何も言わない。

ただ、高座を見ている。

噺家が、静かに語り始めた。

「えー……左官の長兵衛という男がおりまして……。」

その瞬間だった。

風が吹いた。

いや。

風ではない。

懐かしい匂いだった。

木の匂い。

煙草の匂い。

そして、古い作業着に染みついた、あの匂い。

高瀬の心臓が大きく跳ねた。

知っている。

忘れるはずがない。

父の匂いだ。

目の前が、ゆっくりと暗くなっていく。

高座が消える。

提灯の灯りが遠ざかる。

代わりに、夕焼けの色が広がった。

どこかで蝉が鳴いている。

子どもの声がする。

そして――。

目の前に、一軒の古い家が現れた。

その庭先に、一人の男が立っていた。

色あせた作業着。

大きな背中。

手には煙草。

ゆっくりと振り返る。

「……おう。」

その顔を見た瞬間。

高瀬の目から、涙がこぼれた。

そこにいたのは――。

三十年前に亡くしたはずの、父だった。

父は、不思議そうな顔で笑った。

「どうした、誠一。」

昔と同じ声だった。

「そんな顔して。」

高瀬は、一歩も動けなかった。

人生には。

どうしても、もう一度会いたい人がいる。

どれだけ歳を重ねても。

どれだけ時間が過ぎても。

その人にだけは、もう一度。

たった一言でいいから、話したい。

その願いが、今――。

夕暮れの庭先で、叶おうとしていた。




第五章 父の背中

夕暮れだった。

夏の終わりの、少しだけ涼しい風が吹いている。

庭の隅では、風鈴がちりん、と鳴っていた。

父は縁側へ腰を下ろし、煙草に火をつけた。

昔と変わらない姿だった。

高瀬は立ち尽くしたまま、その背中を見ていた。

大きな背中だった。

子どもの頃は、世界で一番大きな背中だと思っていた。

だが、自分も五十二歳になり、気づけば父がこの頃と同じ年齢を越えている。

それなのに――。

今でも、父の前に立つと、自分は子どもになってしまう。

「座れ。」

父が言った。

高瀬は黙って縁側へ腰を下ろした。

しばらく二人とも何も話さない。

風鈴の音だけが聞こえている。

やがて父が口を開いた。

「珍しいな。」

「何が。」

「お前が黙ってるのが。」

高瀬は小さく笑った。

確かにそうだ。

若い頃の自分は、父と会えばすぐに言い争いになった。

父の生き方が古臭く見えた。

頑固で、不器用で、時代遅れだと思っていた。

だから反発した。

理解しようともしなかった。

「親父。」

「ん?」

「俺……。」

言葉が続かない。

何を言いたかったのか、自分でも分からなくなる。

謝りたいのか。

感謝を伝えたいのか。

それとも、まだ文句を言いたいのか。

父は煙草の煙を空へ吐いた。

「歳を取ると、不思議だな。」

「……。」

「昔のことばかり思い出す。」

高瀬は父を見た。

父が、こんなことを言う人だっただろうか。

「若い頃は前しか見てなかった。」

父が続ける。

「明日のこと。来年のこと。家族を食わせること。」

夕陽が、父の横顔を赤く染めていた。

「でもな。」

父は少し笑った。

「歳を取ると、後ろを振り返るようになる。」

その笑顔に、深い皺が刻まれている。

自分は、この顔をちゃんと見たことがあっただろうか。

「誠一。」

「うん。」

「お前、まだ自分を許してないな。」

高瀬は息を止めた。

「……何のことだ。」

「分かる。」

父は静かに言った。

「親だからな。」

高瀬は顔を伏せた。

胸の奥にしまっていたものが、ゆっくりと疼き始める。

父が死んだ日。

病室で、何か言おうとした。

ありがとう。

ごめん。

何でもよかった。

だが結局、何一つ言えなかった。

そのことが、ずっと心に残っていた。

「俺は……。」

声が震える。

「親父に、何も返せなかった。」

父は黙っている。

「若い頃は反抗ばっかりして……。」

「うん。」

「結婚しても、ろくに顔も出さなくて……。」

「うん。」

「死ぬ時も……何も言えなかった。」

風鈴が鳴った。

ちりん――。

高瀬の目から、ぽたりと涙が落ちる。

五十二歳になって、子どものように泣いていた。

「……ごめん。」

ようやく出た言葉だった。

何十年も遅れてしまった言葉だった。

父は黙って空を見上げていた。

やがて。

大きな手が、ぽん、と高瀬の肩に置かれた。

昔と同じ、少し荒れた手だった。

「馬鹿。」

父が笑った。

「親ってのはな。」

夕焼けの向こうを見ながら言った。

「返してもらおうなんて、思っちゃいない。」

高瀬は顔を上げた。

父は続ける。

「子どもが元気で生きてりゃ、それでいい。」

その一言で、何かが崩れた。

胸の奥で、長い間固まっていたものが、静かに溶けていく。

「俺もな。」

父は笑った。

「お前が生まれて、初めて親になったんだ。」

高瀬は目を見開いた。

「最初から立派な父親なんていない。」

父は遠くを見る。

「みんな、初めてなんだよ。」

夕暮れの空を、一羽の鳥が横切っていった。

「だから、許してやれ。」

「……誰を。」

父は、ゆっくりとこちらを見た。

「お前自身を。」

その瞬間。

どこかで、拍子木の音が鳴った。

カン。

カン。

カン。

風が吹く。

庭が揺らぐ。

夕焼けが遠ざかっていく。

父の姿が、少しずつ薄れていく。

「待って……!」

高瀬は立ち上がった。

父は、いつものように笑っていた。

「ああ、そうだ。」

「親父……!」

「たまには墓参りに来い。」

そして、少し照れたように言った。

「お袋、寂しがってるぞ。」

高瀬は、涙の中で笑った。

本当に。

最後まで、そういう人だった。

父の姿が夕陽の中へ溶けていく。

そして最後に、いつもの声が聞こえた。

「お前の人生、悪くないぞ。」

――ありがとう。

今度は、ちゃんと言えた。

その瞬間。

高瀬は再び、風乗亭の客席に座っていた。

高座では、『文七元結』の大団円を迎え、静かな拍手が起きていた。

高瀬は、そっと頬に触れた。

涙で濡れている。

隣を見る。

受付の老人が、静かに頷いていた。

「ひとつ、置いていけましたね。」

「……え?」

「後悔です。」

老人は湯呑みを差し出した。

「まだ、続きがありますよ。」

高瀬は高座を見た。

噺家が、次の演目の支度を始めている。

そして、なぜだろう。

少しだけ怖かった。

この寄席は。

あと何人、自分の会いたい人を知っているのだろう。

そして、あと何ページ。

自分の人生には、読み返していない頁が残っているのだろう。

遠くで、また風が鳴った。





第六章 子別れ

風乗亭の時計は、相変わらず七時十七分で止まっていた。

高瀬は湯呑みを手にしたまま、その時計を見つめていた。

なぜ止まっているのだろう。

いや、本当に止まっているのだろうか。

ここへ来てから、自分の時間の感覚が曖昧になっていた。

どれほどの時が過ぎたのか。

それとも、まだほんの数分しか経っていないのか。

「次の噺でございます。」

高座の噺家が、静かに頭を下げた。

「『子別れ』。」

その言葉に、高瀬の胸が小さく揺れた。

子別れ。

父と子が離れ、そして再び結ばれる噺。

名作だ。

だが、なぜだろう。

今夜、その題を聞いただけで、胸の奥が重くなる。

「旦那。」

受付の老人が言った。

「親というものは、不思議ですね。」

「……。」

「親になって初めて、自分の親の気持ちが少し分かる。」

高瀬は黙った。

自分にも息子がいる。

今年、二十八になる。

東京を離れ、関西で暮らしている。

もう三年も会っていない。

仲が悪いわけではない。

だが、昔のように何でも話せる関係でもなくなっていた。

電話をしても、どこかよそよそしい。

会話は短い。

元気か。

元気だよ。

仕事はどうだ。

まあまあ。

それだけ。

親子とは、いつからこんなふうになるのだろう。

小さな頃は、あれほど自分の後をついて回っていたのに。

「……俺も、親父と同じなのかな。」

思わず、そんな言葉が漏れた。

老人は微笑む。

「案外、みんな同じですよ。」

その時だった。

高座から、噺家の声が響く。

「さて、子どもというものは……。」

風が吹いた。

今度は、優しい風だった。

春の匂いがした。

桜の匂い。

洗濯物の匂い。

そして――。

小さな手の温もり。

高瀬は目を開いた。

公園だった。

夕方の公園。

滑り台。

ブランコ。

砂場。

遠くで子どもたちの笑い声がする。

そして。

「お父さん!」

小さな声がした。

振り返る。

そこにいたのは、五歳くらいの男の子だった。

小さなリュック。

少し大きめの帽子。

息を切らしながら、こちらへ走ってくる。

「見て!」

男の子が、両手を広げる。

その手の中には、どんぐりが三つ。

「あった!」

その顔を見た瞬間。

高瀬の呼吸が止まった。

息子だった。

幼い頃の、息子だった。

「……健太。」

思わず名前がこぼれる。

「うん!」

男の子が笑う。

「お父さん、見て!」

小さな手を差し出してくる。

高瀬は震える手で、そのどんぐりを受け取った。

軽い。

けれど、なぜか胸がいっぱいになった。

「一番大きいの、あげる。」

「……いいのか。」

「うん!」

何の見返りもない。

ただ、父親に喜んでもらいたい。

それだけの笑顔だった。

高瀬は、その顔を見つめた。

そうだ。

この子は、こんなふうに笑う子だった。

自分は、いつから忘れていたのだろう。

仕事が忙しくなった。

疲れていた。

帰りが遅くなった。

休日も減った。

気がつけば、息子は大きくなっていた。

そして、いつの間にか、何を考えているのか分からなくなっていた。

だが。

分からなくなったのではない。

分かろうとする時間を、作らなくなっただけなのかもしれない。

「お父さん。」

幼い息子が尋ねた。

「大人って、楽しい?」

高瀬は、思わず笑ってしまった。

昔、確かに聞かれたことがある。

その時、自分は何と答えただろう。

覚えていない。

「……どうかな。」

「楽しくないの?」

「楽しいこともある。」

「ふーん。」

息子は少し考えた。

そして、にこっと笑った。

「じゃあ、僕も早く大人になりたい!」

その笑顔に、高瀬の胸が痛くなった。

こんなにも真っすぐな目で、自分を見てくれていたのに。

「健太。」

「なあに?」

「お父さん……。」

言葉が詰まる。

謝りたいのか。

会いたいと言いたいのか。

自分でも分からない。

すると。

小さな息子が、不思議そうに首を傾げた。

「お父さん、泣いてるの?」

高瀬は、自分の頬を触った。

涙だった。

知らないうちに、涙が流れていた。

すると、幼い息子が、小さな手で涙を拭いてくれた。

「大丈夫だよ。」

そう言って笑った。

「僕、お父さんのこと、大好きだから。」

その一言だった。

たった、それだけだった。

しかし、その言葉は、何十年という時間を越えて、高瀬の胸へまっすぐ届いた。

拍子木の音が聞こえる。

カン。

カン。

カン。

春の風が吹いた。

桜の花びらが舞う。

公園が、少しずつ遠ざかっていく。

「待って……!」

高瀬は手を伸ばした。

幼い息子は、どんぐりを一つ差し出した。

「これ、持ってて!」

次の瞬間。

高瀬は、風乗亭の客席へ戻っていた。

静かな拍手が起きている。

『子別れ』が終わったのだ。

高瀬は、ふと自分の手を見た。

そこには――。

小さなどんぐりが、一つだけ乗っていた。

「……。」

息を呑む。

夢ではない。

本当に、会ってきたのだ。

受付の老人が、にこりと笑った。

「今度は、何を置いていきました?」

高瀬は、どんぐりを見つめながら答えた。

「……言い訳、ですかね。」

老人は静かに頷いた。

「それは、重かったでしょう。」

高瀬は、何も言えなかった。

ただ、心に決めていた。

この寄席を出たら。

明日になったら。

いや、今夜にでも。

息子に電話をしよう、と。

その時。

高座の上で、老人の噺家がゆっくりと立ち上がった。

そして、初めて高瀬へ向かって言った。

「旦那。」

その声に、客席の空気が静まり返る。

「次が、最後の噺です。」

高瀬は、思わず息を止めた。

風乗亭の時計は、まだ七時十七分を指したままだった。



第七章 消えた寄席

「次が、最後の噺です。」

老人の噺家の声は、不思議なほど静かだった。

だが、その一言だけで、客席の空気が変わった。

高瀬は周囲を見渡した。

他の客たちも、どこか寂しそうな顔をしている。

若い女性は、膝の上で手を握りしめていた。

背広姿の男は、目を閉じている。

老夫婦は、そっと寄り添って座っていた。

皆、この場所との別れを知っているようだった。

高座の上で、老人は扇子を置いた。

そして、ゆっくりと口を開く。

「最後の噺は……。」

一拍。

「『経験せよ』。」

客席が静まり返った。

高瀬は眉をひそめた。

聞いたことのない演目だった。

古典でもない。

新作でもない。

そんな噺があるのだろうか。

「そんな顔をなさるな。」

老人が笑う。

「この噺は、今夜だけの噺です。」

そう言って、高瀬をまっすぐ見た。

「旦那のための噺です。」

その瞬間。

胸の奥で、何かが鳴った。

老人は、静かに語り始めた。



昔々――。

ある男がおりました。

その男は、本が好きでした。

噺も好きでした。

けれど若い頃は、どれほど素晴らしい物語を読んでも、その本当の意味が分かりませんでした。

男は焦りました。

早く何者かになりたい。

早く答えを知りたい。

人生の意味を知りたい。

だから急ぎました。

走りました。

たくさんの人に会い、たくさんの人と別れました。

誰かを愛し、誰かを傷つけました。

成功もしました。

失敗もしました。

そして、気がつけば、五十を過ぎていました。

ある雨の日。

男は、一冊の古い本を読み返します。

すると――。

昔は読めなかった一行が、胸に深く染み込んできたのです。

その時、男は思いました。

「ああ……。」

「私は今まで、物語を読んでいたのではない。」

「人生のほうが、私を読んでいたのだ。」



高瀬の息が止まった。

その噺は。

その男は。

まるで――自分だった。

老人は続ける。



人は、経験を積むために生きているのではありません。

経験の意味を知るために、生きているのです。

若い頃には分からなかったこと。

悲しみを知って初めて分かること。

失って初めて気づくこと。

許して初めて見える景色。

それらを一つずつ拾い集めながら、人はようやく自分の人生を読むことができるのです。

だから、急ぐことはありません。

答えは、すぐには見つからない。

人生は、ゆっくりと読む本なのです。



しん……と静まり返る客席。

高瀬の目から、一筋の涙が流れた。

その時だった。

老人の顔が、ふっと揺らいだ。

いや。

高瀬の目が、揺れたのかもしれない。

だが、次の瞬間。

高瀬は思わず立ち上がっていた。

「あ……。」

その顔を、知っていた。

その笑い方を、知っていた。

その目を、知っていた。

高座の上にいる老人は――。

年老いた自分だった。

七十代になった、高瀬自身だった。

客席が消える。

提灯が消える。

時間が止まる。

風だけが吹いている。

老人は、静かに笑った。

「ようやく気づきましたか。」

高瀬は声も出ない。

「……俺……なのか。」

「そうですよ。」

老人は頷いた。

「少し先を歩いている、あなたです。」

「そんな……。」

「驚きますよね。」

老人は、どこか嬉しそうに笑った。

「私も、あなたくらいの頃は驚きました。」

高瀬は混乱していた。

だが、不思議と怖くはなかった。

むしろ、懐かしかった。

「ここは……何なんだ。」

老人は、しばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「人生の栞(しおり)ですよ。」

「栞……。」

「人は時々、自分がどこまで読んだのか分からなくなる。」

老人は高座を見渡した。

「そんな時、一度立ち止まって、読み返す場所が必要なんです。」

風が吹く。

提灯が揺れる。

「旦那。」

老人――未来の自分が、優しく言った。

「あなたの人生は、面白かったですか。」

高瀬は、すぐには答えられなかった。

失敗もあった。

後悔もあった。

別れもあった。

泣いた夜もあった。

だが。

父に会えた。

若い自分に会えた。

幼い息子に会えた。

それらすべてが、自分の人生だった。

長い沈黙のあと。

高瀬は、小さく笑った。

「……ええ。」

そして、ゆっくりと頷く。

「ようやく、面白くなってきました。」

老人が、満足そうに笑った。

「それで十分です。」

その時だった。

風乗亭の柱時計が――。

コチ。

と、小さく音を立てた。

止まっていた針が、初めて動いた。

七時十八分。

そして、提灯の灯りが、少しずつ消えていく。

「時間です。」

老人が立ち上がった。

「もう、帰りなさい。」

「また来られるか。」

老人は少し考えた。

そして笑う。

「人生を、もう一度読みたくなったら。」

その言葉と共に。

風乗亭は、ゆっくりと闇へ溶け始めた。




第八章 経験せよ

気がつくと、高瀬は雨の路地に立っていた。

手には、畳んだ傘。

雨は、いつの間にか止んでいた。

夜の神保町は静かだった。

先ほどまで目の前にあったはずの風乗亭は、どこにもない。

古い木造の建物も。

赤い提灯も。

あの小さな看板さえも。

あるのは、薄暗い空き地だけだった。

高瀬はしばらく立ち尽くしていた。

まるで、長い夢から覚めたようだった。

だが――。

夢ではない。

コートのポケットへ手を入れる。

指先に、小さな丸い感触が触れた。

取り出す。

どんぐりだった。

春の公園で、幼い息子から受け取ったもの。

掌に乗せると、不思議と温かかった。

高瀬は、そっと笑った。

「……本当だったんだな。」

空を見上げる。

雲の切れ間から、小さく星が見えていた。

風が吹く。

どこか懐かしい風だった。

江戸の風。

昭和の風。

そして、令和の風。

きっと、全部同じ風なのだろう。

形を変えながら、ずっと吹き続けている。

高瀬は歩き出した。

神保町の通りへ出る。

古本屋の灯りが、まだいくつか残っていた。

ふと、あの店の前まで戻ってみた。

だが。

店は閉まっていた。

灯りも消えている。

本当に、あったのだろうか。

そう思った時だった。

軒先に、一枚の紙が貼られているのが目に入った。

達筆な字で、こう書かれていた。



経験せよ。

急ぐな。

分からぬままでよい。

人生は、後になって意味を持つ。

悲しみも。

別れも。

後悔も。

すべては、いつか読むための頁である。



その下に、小さく一行だけ書き添えられていた。



読書は五十を越してからが良い。

だが、若い頃に読んでおくこと。

その差こそが、生きた証だから。



高瀬は、しばらくその紙を見つめていた。

そして、小さく笑った。

「そういうことか。」

人生には。

すぐに答えが出るものもある。

だが、何十年も経ってから、ようやく意味が分かる出来事もある。

人との出会い。

別れ。

愛情。

後悔。

許し。

それらは、若い頃には難しすぎる本のようなものだ。

だが、いつか。

頁をめくれる日が来る。

その時、人は初めて気づく。

あの出来事は、この一行を読むためにあったのだと。

スマートフォンが震えた。

メールが一通。

差出人の名前を見て、高瀬は立ち止まった。

息子だった。

珍しい。

開く。

短い文章が書かれていた。



「今度、東京へ行くよ。
久しぶりに飯でもどう?」



たった、それだけだった。

だが、高瀬の目が熱くなる。

思わず空を見上げた。

「……そうか。」

風が吹く。

どこかで、あの噺家の笑い声が聞こえた気がした。

高瀬は、ゆっくりと返信を打つ。



「待ってる。」



送信。

そして、スマートフォンをしまう。

五十二歳。

人生の下り坂かと思っていた。

だが、違った。

ここから先は、景色をゆっくり眺めながら歩く道なのだ。

まだ知らない物語がある。

まだ読んでいない頁がある。

まだ、経験していないことがある。

高瀬はコートの襟を立てた。

そして、夜の神保町を歩き始める。

その背中を、ひとすじの風が追い越していった。

どこから来て。

どこへ向かう風なのか。

それは分からない。

ただ一つだけ、確かなことがあった。



人生は、経験した者だけが読める物語でできている。

そして。

経験した者だけが、聴ける噺でできている。

                  ― 完 ―


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あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
人は、つい「もっと早く知りたかった」と思ってしまいます。
もっと若いうちに。
もっと早いタイミングで。
もっと賢かったなら、と。
けれど人生には、早すぎて理解できないことがあります。
悲しみを知らなければ分からない優しさ。
別れを経験しなければ気づけない愛情。
失敗しなければ見えない景色。
それらは、決して遠回りではなく、物語を読むために必要な時間だったのかもしれません。
『経験せよ』という題名には、「たくさん苦労しなさい」という意味を込めたわけではありません。
嬉しかったことも、情けなかったことも、誰かを愛したことも、誰かを失ったことも。
そのすべてが、いつか自分自身を深く理解するための一冊の本になる。
そんな思いを込めました。
もし本書を閉じたあと、ふと昔に読んだ本を手に取ってみたくなったなら。
あるいは、久しぶりに落語を聞いてみようと思っていただけたなら。
作者として、これほど嬉しいことはありません。
人生には、まだ読んでいない頁があります。
そして、まだ聴いていない噺があります。
どうか皆さまのこれからの頁が、穏やかな風に包まれますように。

聴き手の一流

ーー怪談落語ーー


まえがき

私たちは日々、無数の言葉に囲まれて生きています。
スマートフォンを眺め、本をめくり、誰かと会話を交わす。しかし、その言葉のどれほどが、私たちの「真ん中」に届いているでしょうか。

本作の主人公・蓮見薫は、言葉を扱うプロでありながら、どこか傷つかない安全な場所から世界を眺めていた男です。
そんな彼が、雨の浅草で「怪談落語」という奇妙な鏡に出会います。

落語は、理不尽なこの世を人間が笑って生き抜くために作った、血の通った芸です。
それを本当の意味で受け止めるには、聴き手の側にもそれなりの「器」が必要なのかもしれません。

これは、ある男が人生の喪失を経て、真の「聴き手」へと生まれ変わっていく、少し不思議で、ほんのり温かい物語です。
どうぞ、肩の力を抜いて、身体全部でお聴きください。




ーー経験せよーー

人生経験を積めば
その時にやっと
辿り着く場所がある
目の前の噺家は
目線から消え
その物語の中へと入り込む


一 寄席の隅

雨が降り始めた夜だった。

 蓮見薫は、傘も持たず浅草の路地を歩いていた。四十三歳。出版社の編集者という肩書きは、もうずいぶん前から自分を守る鎧ではなくなっていた。担当していた著者が逝き、長年手がけた文芸誌が廃刊になり、いまは単行本の担当を細々と続けているだけだった。

 軒先を借りながら歩くうち、ふと気づけば見知らぬ小路に入り込んでいた。街灯が一本だけ点り、その光の輪の中に、古びた暖簾がかかっていた。

 〈末廣亭 分座〉

 そんな名の寄席は知らない。だが雨脚は強まる一方で、薫は引き戸を開けた。

 中は薄暗く、七、八十人ほど入れそうな椅子席に、客はまばらだった。老人が多い。誰も薫のことを気にしなかった。

 高座には五十がらみの男が座っていた。地味な着物に、これといった特徴のない顔。だが声だけは妙に通る。

 「それでは、始めさせていただきます」

 と言って、男は少し間を置いた。

 その間が、おかしかった。

 おかしいとは笑えるという意味ではない。ずれていた。時間のたるみのような、一瞬だけ世界が呼吸を止めたような、そういう間だった。薫は背筋が少し冷えるのを感じながら、椅子に深く座り直した。


二 怪談噺の中の男

噺は「牡丹燈籠」の変形だった。

 だが薫は途中から、これが自分の知っている話ではないと気づき始めた。

 登場人物の名が違う。舞台が江戸の下町ではなく、もっと時代が曖昧な、どこかの長屋だった。そして死んだはずの女が男のもとを訪ねてくる場面で、噺家は不意に目線をあげ、薫の方を見た。

 ——見た、と薫は確信した。

 客席の暗がりの中で、自分だけを見た。

 女の幽霊が男に言う言葉が、妙に耳に引っかかった。

 「あなたはまだ、何も聴いておられない」

 笑いの噺ではないので客席は静かだった。老人たちは目を閉じている者も多い。薫だけが、何故か目を開けていられなかった。

 気づいたら、高座の男が消えていた。

 いや、消えたのではない。いつの間にか、男は下りていて、次の演者が準備をしていた。薫には、その切れ目がわからなかった。時間が折り畳まれたように感じた。

 休憩を告げるアナウンスが流れ、薫は立ち上がろうとして、隣の老人に声をかけた。

 「さっきの方、お名前はご存知ですか」

 老人は目を開け、薫を見た。

 「さっき?」

 「高座に出ておられた」

 「あなた、ずっと寝てはりましたで」

 老人は穏やかにそう言って、立ち上がった。


三 楽屋口

薫は出口ではなく、楽屋口の方へ歩いた。

 引き戸を引くと、狭い廊下があった。誰も止めなかった。廊下の突き当たりに小部屋があり、先ほどの噺家が鏡の前に座っていた。着物のまま、化粧を落としてもいない。ただ、鏡を見ていた。

 「失礼します」

 薫は言った。男は振り向かなかった。

 「あなたの噺を聴きました。——あの、女の台詞は何ですか。まだ何も聴いておられない、というのは」

 鏡の中の男が、薫を見た。

 直接ではなく、鏡越しに。

 「そのまんまの意味です」と男は言った。「あなたはこれまで、耳で聴いていただけだ」

 「それは——」

 「落語を、本を、人の言葉を。耳だけで受け取ってきた。でも人間ってのは、身体全部で聴くもんでしょう。傷を持って、恥をかいて、恋をして、誰かを失って——そういうものが全部、耳の奥にたまってはじめて、本当の音になる」

 男は鏡から目を離し、薫の方を向いた。

 「あなたには、まだそれが薄い」

 薫は黙っていた。

 否定できなかった。

 編集者として何千もの言葉を扱いながら、自分はずっと少し、斜に構えていた。作品を評価するが、傷つかない場所に立っていた。距離を置きすぎていた。


四 江戸の風

「あなた、何か失いましたね、最近」

 男が言った。質問ではなく、確認だった。

 「文芸誌が……廃刊になりました」

 「それだけではないでしょう」

 薫は少しの間、黙った。

 「師匠を亡くしました。担当していた小説家で、長年……」

 「死んだんですか」

 「はい」

 「それは」と男は言った。「立派な経験です」

 立派、という言葉が予想外で、薫は少し笑った。

 「笑えましたね」と男は言った。「それが大事なんです」

 男は煙草入れを手に取り、ぽんと膝においた。

 「落語というのはね、喜怒哀楽を全部持った人間が作ったものです。江戸の町人が、理不尽な世の中でなんとか笑って生きるために作った。だから聴く側にも、それだけの器が要る。でも器は最初からあるもんじゃない。欠けたり、割れたり、継いだりするうちに、深くなっていく」

 薫は、あの詩を思い出した。

 読書は五十を越してからが良い——そう書いた原稿を、数年前に編集したことがあった。あの著者も、もういない。

 「私は」と薫は言った。「まだ間に合いますか」

 男は答えなかった。

 ただ、笑った。

 それが答えだった。


五 消えた寄席

薫が楽屋口を出たとき、雨は上がっていた。

 振り返ると、暖簾がなかった。引き戸もなかった。古びた木の壁があるだけで、そこに入り口があった痕跡すら見当たらなかった。

 薫はしばらく壁を見ていた。

 怖くはなかった。それが不思議だった。

 代わりに、妙にすっきりした気分があった。長い間、肩に乗っていた何かが、すとんと落ちたような。

 スマートフォンを取り出すと、画面に雨の滴が残っていた。時刻は午後九時すぎ。

 薫は歩き出した。

 翌日、薫は久しぶりに自分から寄席に行った。上野の鈴本。午後の部の最後の演目まで、きちんと聴いた。笑ったし、少し泣きそうにもなった。隣の老人が「いい噺でしょう」と言って、薫は「はい」と答えた。

 それからしばらく経って、薫は書いた。

 自分のために書いた文章だったが、気づけば原稿用紙が十枚を越していた。あの夜のこと、師匠のこと、廃刊になった雑誌に載っていた数えきれない言葉のこと。耳だけで聴いていた自分のこと。

 その原稿をどこかに出すつもりはなかった。

 ただ、書かずにいられなかった。

 そういうものが、人の器を深くしていくのだろうと、薫は思った。


六 若手を探して

半年が過ぎた。

 薫は月に一度は寄席に行くようになった。上野、新宿、浅草。若手の独演会にも足を運んだ。うまい人もいた。まだ荒削りな人もいた。

 ある夜、二ツ目の若い女性噺家の会に行った。演目は「文七元結」。大ネタだった。客席はまばらで、薫のほかには年配の客が数人いるだけだった。

 噺家は緊張していた。それがわかった。声がわずかに震えていた。

 だが中盤、主人公の左官屋が身を切る決断をする場面で、噺家の声が変わった。

 技術ではなかった。何か、腹の底から出てくるものがあった。

 薫は息をのんだ。

 老人が一人、ハンカチを取り出した。

 噺が終わったとき、客席は静かだった。拍手は小さかったが、続いた。薫も手を叩きながら、あの夜の男の言葉を思い出した。

 ——目の前の噺家は目線から消え、その物語の中へと入り込む。

 薫はそのとき初めて、その意味を身体で理解した。

 寄席を出ると、冷たい空気が気持ちよかった。

 スマートフォンを開いて、若手噺家の名前を検索した。月に一度の独演会があるらしかった。

 次回の日程を、手帳に書き留めた。

 今日もまた、新たな若手を探してみる。

 それが、薫の習慣になった。



七 最後の高座

数年後。

薫が贔屓にしていた若手噺家が真打になる。

その披露興行の帰り道、再び雨が降る。

そして路地の奥に、あの暖簾が見える。

今度は薫が迷わず戸を開ける。

高座には、あの名も知らぬ噺家。

男は笑って言う。

「どうです。少しは聴けるようになりましたか。」

薫は答える。

「まだ途中です。」

「でも、前よりは少し。」

すると噺家は頷く。

「それで十分です。人は死ぬまで修業ですから。」

高座の灯りがふっと消える。

再び灯りがついた時、そこには誰もいない。

薫だけが、客席で静かに笑っている。





後記

あの寄席が本当にあったのかどうか、薫にはわからない。

 地図を調べても、末廣亭の分座などという施設は存在しなかった。あの夜の噺家の名も知らない。

 だがそれでも薫は、あの男が言ったことを信じている。

 経験は人を変える。ゆっくりと、気づかないほどゆっくりと。

 読書も、落語も、誰かの死も、自分が笑ったことも——それらが全部、耳の奥にたまっていく。

 そうして人はいつか、本当の意味で、聴き手になる。

 江戸の風は、まだどこかに吹いている。

 それを感じるかどうかは、受け取る側の器による。

 器は、欠けてこそ、深くなる。


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あとがき

「器は、欠けてこそ、深くなる」
本作の最後に残されたこの言葉が、私の中に静かに灯り続けています。

人生を歩む中で、私たちは多かれ少なかれ傷を負います。

大切な人との別れ、愛着のあった仕事の終わり、挫折。それらは一見、自分という器が壊れてしまったかのような絶望をもたらしますが、
実はその「欠け」こそが、他者の痛みを、そして物語の神髄をせき止めるための「深さ」になるのではないでしょうか。

スマートに、傷つかないように生きることが器用とされる現代だからこそ、泥臭く傷つきながらも「一流の聴き手」へと成熟していった薫の姿に、どこか救いを感じていただけたなら幸いです。

今日もどこかの路地裏で、江戸の風が吹いているかもしれません。あなたの器に、心地よい物語が満ちることを願って。


忘れる力

ーーある男の、すこし情けない物語ーー



〜まえがき〜

人は、なぜ忘れるのでしょう。

悲しかったこと。
悔しかったこと。
誰かを傷つけてしまったこと。

もし、そのすべてを鮮明に覚えていたなら、きっと私たちは前へ進めなくなってしまうのかもしれません。

だから人間の脳は、少しずつ記憶を薄めていく。
それは、とても優しい仕組みです。

けれど、忘れてはいけないものもあります。

誰かに言われた言葉。
誰かと過ごした時間。
そして、自分が誰かを傷つけてしまったという事実。

この物語は、五十三歳の少し情けない男が、二十四年ぶりの再会をきっかけに、「忘れること」と「覚えておくこと」の意味を見つけていく、小さな物語です。

人生には、大きな奇跡など、そうそう起こりません。

けれど、スーパーの惣菜コーナーで昔の恋人と再会するような、小さな奇跡なら、案外どこにでも転がっているのかもしれません。

この物語が、皆さまの心の中にある「忘れたくない誰か」を、少しだけ思い出すきっかけになれば幸いです。




この
僕らの脳は
まことにうまいこと出来ていて

悪いこと
悲しいこと
辛いこと

それらを消していく
自分を守る為に
自動的に消し去る
そんな機能が付いているんだそ~ですよ

          ――序詩より





第一章 脳みそは、やさしい嘘つきだ

 男の名前は、田中宗介という。五十三歳。バツイチ。
 身長百七十センチ、体重七十八キロ。二十代のころは七十キロを切っていたが、まあそれは関係ない話だ。髪の毛はまだ黒いと本人は思っているが、美容院の鏡に映る頭頂部は、すでに白と黒のまだら模様になっている。それについても、本人はほとんど気にしていない。なぜなら、彼の脳みそは、ありがたいことに、不都合な現実を自動的に消去する優れた機能を持っているからだ。
 これを、田中宗介は「忘れる力」と呼んでいた。
 正確には、とある夜中にテレビで見た科学番組で、似たようなことを言っていたのを覚えていて、それ以来、自分の都合のいいように解釈して使っているだけだ。番組の正確な内容は、もちろん忘れている。
 「人間の脳は、辛い記憶を自動的に薄めていく機能がある。これは自己防衛本能の一種であり——」
 とかなんとか、眼鏡をかけた白衣の学者が言っていた。田中宗介はそれを聞きながら缶ビールを飲み、「そうか、俺が忘れっぽいのは病気じゃなくて才能だったのか」と深く納得し、その後すぐ眠りに落ちた。
 それが今の田中宗介の哲学の根幹である。

 田中宗介は、大阪の下町にある小さな鉄工所で働いている。従業員は社長を含めて七人。主な仕事は、近隣の工場や建設会社から頼まれる金属部品の加工だ。難しい仕事ではないが、かといって簡単でもない。体は使う。頭はあまり使わない。給料は可もなく不可もなく。
 「可もなく不可もなく」というのが、田中宗介の人生の基本テーマである。
 離婚したのは六年前だ。理由はいくつかあるが、主な原因は「なんとなく」だったと田中宗介は理解している。元妻の福子は、もっと明確な言語で説明できるはずだが、田中宗介はその詳細をほとんど覚えていない。忘れる力が、きっちり仕事をしたのだ。
 「ちゃんと話し合おうとしない」
 「同じことを何度も繰り返す」
 「私の話を聞いてない」
 こういうことを言われた気がするが、それぞれが具体的にどんな場面で起きたのかは、もう出てこない。靄の中に消えている。田中宗介にとって、離婚というのは、長い夢から覚めたような感覚で、夢の内容は起きた瞬間から薄れていき、今はもうタイトルだけが残っている状態だ。
 タイトルは『離婚』。あらすじは不明。

 今の田中宗介の日常は、だいたいこんな感じだ。
 朝六時半に起きる。顔を洗う。冷蔵庫を開けて、昨日の残りのご飯と、適当なおかずで朝飯を食べる。七時半に家を出る。電車で二十分、鉄工所に着く。働く。昼飯を食べる。働く。夕方五時に終わる。スーパーで適当なものを買う。家に帰る。飯を食べる。ビールを飲む。テレビを見る。寝る。
 この生活に、田中宗介は特に不満を持っていない。
 持っていないというより、不満を感じる前に忘れてしまう、という方が正確かもしれない。
 一人暮らしの二DKのアパートは、整頓されているわけではないが、とんでもなく汚いわけでもない。男の一人暮らしの「許容範囲」という、誰も明文化したことのない基準をだいたいクリアしている程度の部屋だ。
 息子が一人いる。大学二年生で、名前は拓也という。元妻の福子と暮らしている。たまに連絡が来る。たまに飯を食いに来る。その程度の関係だが、田中宗介はそれで十分だと思っている。息子の方は何を思っているか、聞いたことがない。

 そういう男が、ある木曜日の夕方、スーパーの惣菜コーナーで、昔の女に会った。
 それがこの話の始まりである。
     


第二章 惣菜コーナーという、運命の舞台

 スーパー「フレッシュマート西中島」の惣菜コーナーは、夕方五時半から七時の間が最も混む。
 割引シールが貼られ始めるのがだいたい六時頃で、その情報を知っている近隣の主婦と独身者と老人たちが、まるで打ち合わせをしたかのように集結する。田中宗介もその一人だ。
 この日のターゲットは、豚のしょうが焼きと、だし巻き卵だった。二つ合わせて定価で七百八十円だが、二割引シールが貼られれば六百二十四円になる。百五十六円の節約。田中宗介はこういう計算だけは素早い。
 「あ」
 と、彼は声を出してしまった。
 隣で、同じ豚のしょうが焼きに手を伸ばしていた女性が、顔を上げた。
 田中宗介は固まった。
 女の名前は、吉田——いや、今は何という名字かわからないが、旧姓は吉田、下の名前は恵子。かつて田中宗介が、二十七歳の春から二十九歳の秋にかけて、真剣に交際していた女性だった。
 「……田中くん?」
 恵子の方も固まった。
 二人は、惣菜コーナーの豚のしょうが焼きを挟んで、しばらく無言で向き合った。
 二十四年ぶりだ。

 「久しぶりやね」
 「うん、久しぶり」
 「元気やった?」
 「まあ、なんとかね。そっちは?」
 「うん、まあ」
 こういう会話が世の中に存在することの意義について、田中宗介はこの瞬間、深く考えた。が、考えている場合ではなかった。
 恵子は四十八歳くらいのはずだ。当時より少し丸くなった気がするが、目元の感じは変わっていない。髪は当時肩まであったが、今は耳の下くらいで切っている。化粧は薄め。スーパーの蛍光灯の下で見ると、少し疲れた顔をしているように見えたが、それは田中宗介も同じことだろう。
 「こっち住んでんの?」田中宗介は聞いた。
 「うん、三年前から。田中くんは?」
 「俺は十年くらい前から近くに住んでる」
 「そっかあ」
 「うん」
 また沈黙が来た。
 田中宗介の脳みその中で、何かが急速に動き始めていた。
 記憶、というより感触、というより匂い、というより——なんというか——
 「あのさ」と田中宗介は言った。
 「うん?」
 「よかったら、ちょっとお茶でも」
 恵子は少し間を置いて、「うん、いいよ」と言った。

 二人は豚のしょうが焼きをそれぞれ一つずつカゴに入れ(割引シールはまだ貼られていなかったが、もはやそんなことはどうでもよかった)、精算を済ませ、スーパーの隣にあるファミリーレストランへ入った。
 案内された席は、窓際のボックス席だった。外は暗くなり始めていた。
 田中宗介はコーヒーを頼んだ。恵子はホットレモンティーを頼んだ。
 「結婚してんの?」田中宗介はまた聞いた。
 「した。離婚した」
 「あ、俺も」
 「そっかあ」
 「うん」
 なんか笑えるな、と田中宗介は思った。恵子も少し笑っていた。
     


第三章 男の記憶は、なぜか都合がいい

 コーヒーとレモンティーが来てから、二人はしばらく当たり障りのない話をした。
 お互いの仕事のこと。子供のこと(恵子にも息子が一人いた)。最近の大阪の話。共通の知人はいたかという確認(いなかった)。
 田中宗介は、話しながら、頭の中で懸命に二十四年前を掘り起こそうとしていた。
 吉田恵子。当時彼女はどこかの商社に勤めていた。確か、繊維系の会社だった気がする。いや、もしかしたら食品だったかもしれない。とにかく、スーツがよく似合っていた。
 付き合ったのは、共通の友人の飲み会で知り合ったのがきっかけだ。最初に話しかけたのは向こうからだったか、こちらからだったか。向こうからだったような気がするが、自信はない。
 「あの頃さ」と恵子が言った。「田中くん、よくギター弾いてたよね」
 「ああ」田中宗介は驚いた。「そんなことしてたっけ」
 「してたしてた。弾き語りみたいなの。下手やったけど」
 「そうか……」
 田中宗介には、ギターを弾いていたという記憶が薄かった。確かに二十代のころ、安いアコースティックギターを買ったような気がする。が、練習した覚えも、人前で弾いた記憶も、ほとんどない。
 「えっと、何か弾いてたっけ」
 「サザン」
 「……ああ」
 「あと、長渕剛」
 「……そうか」
 田中宗介は少し恥ずかしくなった。二十代の自分がギターを抱えてサザンや長渕を弾き語っている姿は、想像するだけで少し胃が痛くなる。良い意味での忘れ力が発動していたのだ。

 「別れた理由、覚えてる?」恵子が突然聞いた。
 田中宗介は少し考えた。
 「なんか……仕事が忙しくなったとか」
 「それは私の方やん」
 「あ、そっか」
 「田中くんが急に連絡してこなくなったんやけど」
 「え?そうやったっけ」
 「そうやった。しかも、最後に会った時、何も言わんと帰ってそれっきり。三回電話しても出んかったし」
 田中宗介は固まった。
 そんなことをしたのか、俺は。
 恵子は怒っているわけではなく、むしろ少し面白がっているような顔をしていた。二十四年という時間は、怒りを笑い話に変える十分な発酵期間だったらしい。
 「ごめん」田中宗介はとりあえず言った。
 「もうええよ、二十四年前の話やもん」恵子は笑った。「ただ、当時はわりと傷ついたけどね」
 「そうか……」
 田中宗介は、自分が最低な別れ方をしていたことを、この瞬間初めて知った。いや、正確には「知った」というより「思い出した」わけだが、当時の記憶が全くないので、どちらとも言えない。
 脳みそが守ってくれていたのか、それとも初めからそんなことを覚えていなかったのか。

 「田中くんってさ」恵子が言った。「昔から記憶力、あんまりなかったよね」
 「そうやろか」
 「付き合って最初のクリスマス、私の誕生日やったのに忘れてたやん」
 「……え」
 「十二月二十四日。覚えてなかったやろ」
 「……ごめん」
 「もうええってば」
 恵子はまたくすくす笑った。田中宗介は、この笑い声に聞き覚えがある気がした。二十四年分の堆積の奥から、何か音のようなものが浮かんでくる感じ。
 懐かしい、という感情は、記憶ではなく感触に紐づいているのかもしれない。
 田中宗介はそんなことをぼんやり考えながら、コーヒーを飲んだ。
     


第四章 男はなぜ、十年後も「抱ける」と思うのか

 ファミリーレストランを出たのは、夜の八時過ぎだった。
 「また会おか」という話になり、連絡先を交換した。田中宗介はラインのIDを伝えた。恵子はそれをスマートフォンに入力した。
 「じゃあ、また」
 「うん、またね」
 二人は別々の方向に歩き出した。
 田中宗介は夜の住宅街を歩きながら、自分の中に妙な高揚感があることに気づいた。スーパーの豚のしょうが焼きが入った袋を提げながら、なんというか、足取りが軽い。
 これはなんだろう。
 青春の甘い記憶が呼び起こされた、という感じではない。そもそも具体的な記憶がほとんど残っていない。ではなぜ、こんなに気分がいいのか。
 田中宗介は考えた。
 考えながら歩いた。
 アパートの階段を上がりながら考えた。
 部屋に入り、豚のしょうが焼きを皿に移し替えながら考えた。
 冷蔵庫からビールを取り出したところで、答えが出た。

 「いける」
 田中宗介は一人で声に出して言った。
 誰もいない部屋に、その言葉が浮いた。
 「いける」というのは、つまり——恵子のことが、今でも魅力的に見えた、ということだ。二十四年の時間を経ても、田中宗介の目には、彼女は「十分に魅力的な女性」として映っていた。
 五十三歳の独身男性が、四十八歳の離婚した女性を「いける」と評価する、その「いける」の意味するところについて、田中宗介はあまり深く考えなかった。考えなかったというより、深く考える必要を感じなかった。
 ビールを開けた。
 豚のしょうが焼きを食べた。
 なんとなく、気分がよかった。

 問題は翌朝、職場で起きた。
 田中宗介は、同僚の村上(四十七歳、既婚)に昨夜の出来事を話した。村上は工場の休憩室で、コーヒーを飲みながら聞いていた。
 「二十四年ぶりに昔の彼女に会ってんて。スーパーで」
 「へえ」村上は興味なさそうに言った。
 「まだ全然いけるやん思って」
 「……なにが?」
 「いや、そういうこと」
 村上は少し考えて、「田中さん、五十三歳ですよ」と言った。
 「知ってる」
 「相手は?」
 「四十八やと思う」
 「お互いもうそういう年齢ちゃいます?」
 「そういう年齢って、どういう年齢や」
 「ほら、こう、現実的に考えて……」
 田中宗介は村上の言葉を、軽くスルーした。忘れる力というのは、今聞いた話を即座に無効化することもできる。

 昼休みには、今度は後輩の松田(三十二歳、彼女なし)に話した。
 「二十四年ぶりに昔の彼女に再会してん」
 「マジっすか」松田は弁当を食べながら顔を上げた。「で、どうすんですか」
 「また会おかって、連絡先交換した」
 「おお。再燃ですか」
 「どうやろな。まあ、いけると思って」
 「いける、てどういう意味ですか」
 「お前もそれ聞くか」
 「あ、そういう意味のいけるですか」松田は少し考えた。「なんというか……田中さん、相手はどう思ってるんですかね」
 「さあ」
 「さあ、て」
 「向こうも悪い感じじゃなかったと思う」
 「思う、て曖昧ですね」
 「人間の記憶というのはな」田中宗介は少し偉そうに言った。「都合よく書き換えられるもんなんや。脳みそが自分を守るために、な」
 「それ、今回の件と関係あります?」
 「大いに関係ある」
 「どこが」
 田中宗介は答えられなかった。
     


第五章 ラインというものの残酷さについて

 恵子からラインが来たのは、再会から三日後の土曜日の朝だった。
 「おはようございます。先日はありがとうございました。またご飯でも行きましょう」
 田中宗介は、このメッセージを三回読んだ。
 「おはようございます」——丁寧語。よそよそしい、ということか。しかし、二十四年ぶりに再会して翌々日なのだから当然かもしれない。
 「先日はありがとうございました」——これも丁寧。でも感謝している。感謝しているということは、悪くは思っていない。
 「またご飯でも行きましょう」——これは明確な誘いだ。行きましょう、という積極的な表現を使っている。
 田中宗介は自分のライン返信スキルが著しく低いことを自覚していたので、息子の拓也に電話した。
 「なんや、急に」拓也は電話口で眠そうな声を出した。土曜の朝九時である。
 「ちょっと聞きたいことあって」
 「なに」
 「ラインの返し方やねんけど」
 沈黙。
 「……親父、誰に送るん」
 「昔の彼女」
 また沈黙。今度は少し長い。
 「……何歳の話やねん」
 「お前が生まれる前の話や」
 「マジか」
 「スーパーで会ってな、飯食って、連絡先交換して」
 「は?なんで」
 「なんでって、そういう流れで」
 拓也はしばらく何も言わなかった。田中宗介には、電話の向こうで息子が状況を整理しようとしている気配が伝わってきた。
 「で、どんなライン来たん」
 田中宗介はメッセージを読み上げた。
 「……普通やな」拓也は言った。
 「そうやろか」
 「普通やと思う。で、どう返したいん」
 「またご飯行きたい」
 「じゃあそう返せばええやん」
 「でもなんか、こう、ちゃんとした感じにしたくて」
 「ちゃんとした感じ、て」
 「わからんけど。お前、彼女おるやろ。どんな感じで送るんや」
 「親父と彼女のラインは違う……」拓也は少し疲れたような声で言った。「でもまあ、シンプルでええと思うよ。余計なこと書かん方がいい」
 「余計なこと、たとえば?」
 「たとえば……先日はとても素敵な時間でした、とか書いたら引くわ」
 「書こうとしてた」
 「やめとき」

 田中宗介は息子に礼を言って電話を切り、しばらく考えてから、こう返信した。
 「こちらこそ、ありがとう。また行こか」
 送信ボタンを押してから、「行こか」というのが大阪弁すぎたかもしれないと少し後悔したが、既読がついたのでもう遅い。
 五分後、恵子から返信が来た。
 「いいですね。来週はどうですか?」
 田中宗介は、「いいですね」という言葉の「ね」が持つ柔らかさについて、少し長い時間をかけて考えた。
     


第六章 二度目の食事と、忘れていたこと

 二人が再び会ったのは、翌週の水曜日の夜だった。
 今度は、田中宗介が知っている小さな居酒屋にした。カウンターが中心の店で、料理はまあまあうまく、値段も手頃で、何より静かだから話しやすい。田中宗介が一人でよく来る店だ。一人で来ることについて何も思われないような店、というのが、この年齢になるとありがたい。
 恵子は少し遅れてやってきた。仕事帰りらしく、紺色のジャケットを着ていた。
 「ごめん、遅くなって」
 「いや、俺も今来たとこ」田中宗介は言った。実際には二十分前から来てビールを一杯飲んでいたが、こういう時は「今来たとこ」と言うのが礼儀だと思っている。
 乾杯をした。
 刺身と、焼き鳥と、だし巻き卵を頼んだ。

 「仕事、なにしてんの?」田中宗介は聞いた。
 「会計事務所。事務してる。田中くんは?」
 「鉄工所」
 「昔から?」
 「いや、三十代に転職して、ずっとそこ」
 「体、きつくない?」
 「まあ、慣れた」
 こういう会話が続いた。お互いの近況を、大きな声でなく、静かに話す感じ。
 田中宗介は、この会話の心地よさが、どこから来るのかを考えた。初対面の人間との食事では、こういう感じにはならない。かといって、旧知の友人とも少し違う。
 かつて、互いの体温を知っている人間同士の会話、とでも言うのか。
 それは少し詩的すぎる表現だな、と田中宗介は思ったが、他に言い方が思いつかなかった。

 「離婚した時、辛くなかった?」
 恵子が聞いた。
 「まあ……辛かったと思うけど、あんまり覚えてないな」
 「また覚えてないやつ」恵子は笑った。「田中くんって昔から、都合の悪いことは忘れるよね」
 「脳みその防衛機能や」
 「都合がよすぎる防衛機能やな」
 「お前は?」
 田中宗介は「お前」と言ってしまってから、しまったと思った。二十四年前の言葉遣いが出た。
 が、恵子は気にしていなかった。
 「私は……しばらく引きずったかな。でもまあ、子供が中学の時やったから、そんなこと言ってられへんかったし。なんとかなった」
 「強いな」
 「強くなるしかないやん」
 田中宗介はそれを聞いて、何かを言おうとして、止めた。
 言えることが何もなかった、というのが正確だ。「強いな」の先に続く言葉は、この場合存在しない気がした。

 二時間ほどして、店を出た。
 夜風が少し涼しかった。
 「送っていこか?」田中宗介は言った。
 「ええよ、逆方向やろ」
 「いや、少し歩きたいし」
 「……じゃあ、少しだけ」
 二人は並んで夜の道を歩いた。特に何を話すでもなく、ただ歩いた。住宅街の細い道を、二人の足音が続いた。
 電灯の下で、田中宗介は横を歩く恵子の横顔を、ちらりと見た。
 「あのさ」と彼は言った。
 「うん?」
 「また会えたらいいな、と思って」
 恵子は少しだけ間を置いて、「うん」と言った。
 それだけだった。それだけで、十分だった。
     


第七章 息子に見透かされる父

 翌週の日曜日に、息子の拓也が珍しく一人でアパートにやってきた。
 「飯でも食いに来たか」田中宗介は聞いた。
 「まあ、そんなとこ」
 冷蔵庫の中身は貧弱だったので、近所の定食屋に二人で行くことになった。親子丼と焼き魚定食を頼んだ。
 「昔の彼女と、また会ったん?」拓也は唐突に聞いた。
 「ああ」
 「どやった」
 「まあ、よかった」
 「よかった、て何が」
 「飯が美味かったし、話せたし」
 拓也は親子丼を食べながら、少し考えるような顔をした。
 「親父さ」と拓也は言った。「その人のこと、好きやったん?昔」
 田中宗介は少し驚いた。こういう質問をする子供だとは思っていなかった。
 「……好きやったと思う」
 「思う、てまた曖昧やな」
 「覚えてないとこもあって」
 「なんで別れたん」
 「向こうに聞いたら、俺が連絡してこなくなったって言ってた」
 「え」拓也は箸を止めた。「最低やん」
 「だよなあ」田中宗介は認めた。「でも覚えてなくて」
 「覚えてないから許されるわけじゃないやろ」
 「わかってる」
 「……親父、その人のことまだ好きなん?」
 田中宗介はしばらく焼き魚をほぐしながら考えた。
 好き、という言葉の意味が、五十三歳になると複雑になる。二十代のころの「好き」と、今感じているものが同じかどうかわからない。
 「どうやろな」田中宗介は言った。「また会いたいとは思う」
 「それは好きってことやろ」拓也はあっさり言った。
 「そんなシンプルか」
 「シンプルやと思うけど」
 田中宗介は息子の顔を見た。二十歳の、まだ何も知らない顔。しかし、ある種の真実を当たり前のように言える顔。
 「お前のお母さんのこと、恨んでるか?」田中宗介は聞いた。唐突な質問だった。
 拓也は少し間を置いた。
 「恨んでない。でも、親父のこと、よくわからへんとこはある」
 「わからへん、て?」
 「なんか、何考えてんかわからんというか……いつも飄々としてるやん。それが、ほんまに何も考えてないのか、考えてるけど言わへんのかが」
 田中宗介は、息子に見透かされているような気がした。いや、実際に見透かされているのかもしれない。
 「俺も、よくわからんことがある」田中宗介は正直に言った。「自分のことが」
 「……そういうもんなん?大人になっても」
 「なんか、そういうもんみたいやな」
 拓也は少し黙って、また親子丼を食べ始めた。
 田中宗介は焼き魚を食べながら、息子がいつの間にかこんなことを言えるようになっていたことに、少し驚いていた。
    


第八章 三度目の正直、あるいは脳みその敗北

 三度目に二人が会ったのは、それから二週間後だった。
 恵子の提案で、大阪の梅田をぶらぶらして、夜は中華を食べようということになった。
 田中宗介は当日の朝から、なんとなくそわそわしていた。
 この感じには覚えがある。というより、こういう感じがあったということを、久しぶりに思い出した。デートの前のそわそわ。
 「デート」という言葉を自分の頭の中で使ってみてから、田中宗介は少し照れた。五十三歳でデートという言葉を使っていいのかどうかが、なんとなく判然としない。しかしそれ以外の言葉も浮かばなかったので、デートということにした。

 梅田の街は相変わらずうるさくて、人が多かった。
 二人は特に目的もなく歩いた。本屋に入った。恵子が気になった文庫本を手に取るのを、田中宗介は横で見ていた。
 「本、読むんや」
 「うん、最近はまってる。田中くんは?」
 「ほとんど読まん。マンガは読む」
 「何の?」
 「歴史系とか」
 「へえ」
 こういう会話が続いた。互いの生活の細かい部分が、少しずつ見えてくる感じ。
 恵子は文庫本を買った。田中宗介は、本屋の隣にあったコンビニで缶コーヒーを買った。

 中華料理屋に入ったのは七時頃だった。
 餃子と麻婆豆腐と炒飯を頼んだ。ビールで乾杯した。
 「あのさ」田中宗介は言った。「聞いてもいいか」
 「うん」
 「今、誰かと付き合ってたりするん?」
 恵子は少し笑った。「聞くんや」
 「まあ、一応」
 「してない。田中くんは?」
 「俺もしてない。ずっと」
 「離婚してから?」
 「うん」
 恵子はビールを飲んだ。「なんで?」
 「なんでって……なんでやろ。きっかけがないというか」
 「モテないん?」
 「そういうことをダイレクトに聞くな」
 恵子はまた笑った。この笑い方は、初めて会った時より少し柔らかくなっている気がした。
 「私も、なんかきっかけがなくて。子供のこと考えたら、変な人連れてくるわけにもいかへんし、気づいたらこの年齢になってた」
 「子供、もう大学生やろ?」
 「うん。だからもう関係ないんやけど。なんか、習慣みたいになってしまって」

 帰り道、二人は梅田の繁華街を抜けて、少し静かな道を歩いた。
 田中宗介は、言おうか言うまいか、ずっと迷っていたことがあった。
 迷いながら歩いて、信号待ちをして、また歩いて、もう一つ信号待ちをして。
 「なあ」田中宗介は言った。
 「うん」
 「また付き合えたりせんかな、と思って」
 恵子は何も言わなかった。
 田中宗介も何も言わなかった。信号が青に変わって、二人は渡った。
 「急やな」恵子がやっと言った。
 「急か」
 「急やと思う。三回しか会ってないで」
 「まあそうやな」
 「でも」恵子は少し間を置いた。「悪い気はしない」
 田中宗介は、その「悪い気はしない」という言葉を、頭の中で転がした。
 悪い気はしない。マイナスの否定。プラスの断言ではない。しかし、マイナスではない。
 「もう少し、会ってみよか」恵子は言った。
 「うん」田中宗介は言った。
 それで十分だと思った。
    


第九章 元妻からの電話と、記憶の整理

 その翌週の火曜日の夜、元妻の福子から電話が来た。
 「拓也から聞いたんやけど」福子はいきなり言った。「昔の彼女と付き合い直すって本当?」
 田中宗介は、息子のことを一瞬恨んだ。
 「付き合い直す、とはまだ言ってない」
 「でも会ってんでしょ」
 「まあ」
 「何回も」
 「三回」
 「三回も」
 「三回くらいで『も』はつかんやろ」
 電話の向こうで、福子は短く息をついた。怒っているのか、呆れているのかが電話越しではわからない。
 「あのさ」福子は言った。「私と離婚した時のこと、覚えてる?」
 「……覚えてないとこもある」
 「でしょうね」福子は皮肉でなく、ただ確認するように言った。「田中くんって、都合の悪いことは全部忘れるから」
 「よく言われる」
 「私との結婚で辛かったこと、覚えてる?」
 田中宗介は考えた。正直に言えば、あまり覚えていない。離婚の直前にひどい言い合いをした気はするが、何を言い合ったかが出てこない。
 「ぼんやりとは」
 「そう」福子は言った。「あなたはいつもそう。辛いことも悲しいことも、ぼんやりしか覚えてない。だから同じことを繰り返す」
 「……そうかもしれん」
 「その人のこと、大事にしてあげてね」福子は意外なことを言った。「ちゃんと向き合って」
 「……お前は、なんで俺の心配するんや」
 「心配してるんじゃなくて」福子は言った。「その人が心配」
 田中宗介は少し黙った。
 「……わかった」
 電話は切れた。

 田中宗介はその夜、珍しく長い時間、起きていた。
 ビールを飲みながら、天井を見ていた。
 忘れる力、というのを、ここ数週間ずっと便利に使ってきた。しかし、忘れることによって守られているのは自分だけで、相手は覚えている。自分が忘れた傷を、相手はずっと持っていた。
 二十四年前の恵子との別れ方。
 福子との離婚のあれこれ。
 息子の拓也が「よくわからへん」と言ったこと。
 忘れる力、というのは本当に「力」なのか。ただの怠慢ではないのか。
 田中宗介は、五十三年生きてきて初めてくらいの真剣さで、この問いに向き合った。
 向き合いながら、ビールを飲んだ。
 三缶目を開けたところで、少し眠くなってきた。
 まあ、答えは明日でも考えられる、と思って、電気を消した。
     


第十章 忘れる力と、覚えておく意志

 四度目に恵子と会ったのは、十一月の初めだった。
 今度は、田中宗介が珍しく提案した。「京都まで紅葉を見に行かへんか」
 「田中くんって、そういうとこ行くん?」恵子は少し驚いた様子で言った。
 「行かん。でも行ってみてもええかなと思って」
 恵子は少し笑って、「行こか」と言った。

 電車で京都に出て、嵐山を歩いた。平日だったが、それなりに人はいた。川沿いの道を、二人は並んで歩いた。紅葉は見ごろで、赤と黄色と緑が混在していた。
 「きれいやな」恵子は言った。
 「うん」田中宗介も言った。
 こういう時に気の利いたことを言える男だったら、もっと違う人生だっただろうと田中宗介は思った。しかし「うん」以外の言葉が出なかった。
 それでも恵子は怒らなかった。

 お茶屋でひと休みした。温かい抹茶と、小さな和菓子が出てきた。
 「ねえ」恵子が言った。「田中くん、あの頃と変わったな、と思うことある?」
 「あの頃、て二十代の頃?」
 「うん」
 田中宗介は考えた。
 「……あんまりわからん。覚えてないとこが多いし」
 「それはそうやな」恵子は笑った。「でも、なんか違う気がする。昔の田中くんは、もっとずっと自分の話しかせんかった」
 「今も似たようなもんやろ」
 「違う。ちゃんと聞いてる、今は」
 田中宗介はそれを聞いて、少し驚いた。自分ではあまり意識していなかった。
 「そうかな」
 「うん。それが、なんか嬉しくて」
 恵子は窓の外の紅葉を見ながら言った。
 田中宗介は抹茶を飲みながら、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

 帰りの電車の中で、田中宗介は少し眠くなりながら、今日のことを覚えていようと思った。
 珍しい感覚だった。いつもなら、楽しかったことも、心地よかったことも、気づけばぼんやりしてしまう。でも今日は、覚えておきたいと思った。
 嵐山の紅葉の色。恵子の横顔。「ちゃんと聞いてる」という言葉。
 忘れる力は、自分を守るためにある。でも覚えておく意志は、相手を大切にするためにある。
 田中宗介は、この二つが自分の中にちゃんとあることを、初めてはっきりと意識した。
 電車が揺れた。隣に座った恵子が、少しだけ田中宗介の方に傾いた。
 田中宗介はそのままにしておいた。

 大阪に戻って、駅で別れる時。
 「また来週」田中宗介は言った。
 「うん、また来週」恵子は言った。
 それだけだった。
 田中宗介は帰り道を歩きながら、ポケットに手を入れて、今日のことをもう一度頭の中で再生した。
 うまくできた、とは言えない。気の利いたことは何も言えなかった。でも、それなりによかった気がした。
 夜風が冷たくなってきた。
 アパートの明かりが見えてきた。
 田中宗介は、その日の夜、いつものビールを一缶だけ飲んで、早めに寝た。
    


終章 脳みそは賢く、人間はすこし愚かで、それでもなんとかなる

 それから三ヶ月が経った。
 田中宗介と恵子は、週に一度か二度会うようになっていた。「付き合っている」と言えるのかどうかは、二人の間でまだ明確に決まっていない。しかし、それで困ることも特にないので、そのままにしていた。
 息子の拓也は、「その人と付き合ってるん?」と聞いてきた。
 「まあ、似たようなもんや」田中宗介は答えた。
 「相手の人は何て言ってるん」
 「聞いてない」
 「聞けよ」
 「まあ、そのうち」
 拓也は「相変わらずやな」と言った。しかし、怒っているわけではないようだった。

 職場の村上には「うまくいってるんですか」と聞かれた。
 「まあまあ」田中宗介は答えた。
 「再燃ですね」村上は言った。
 「再燃って言葉が好きやな、お前」
 「いや、なんか青春感あって」
 「もう五十三やで」
 「でも青春ですよ、それ」村上はにやにやしながら言った。「遅れてきた青春」
 田中宗介は「うるさい」と言ったが、少し嬉しかった。

 後輩の松田は、「そういうの、いいですね」と言った。
 「どういうのが?」
 「大人の——なんていうか、もう一回、みたいな」
 「お前もそういう歳になったらわかるで」
 「俺はまだ三十二なんで」
 「そうやな」

 元妻の福子には、もう報告していない。
 福子はおそらく拓也から何か聞いているだろうが、電話はかかってこない。
 それでいいと思っている。

 田中宗介は、この頃少し変わったことがある。
 一つは、スマートフォンのメモアプリに、ちょくちょく何かを書くようになったことだ。
 「今日、恵子と天王寺の公園を歩いた。銀杏が黄色かった。彼女はいつも少し早足で歩く」
 「恵子の好物は、たこ焼きと抹茶アイス。甘いものと辛いものを交互に食べる」
 「今日、恵子に『最近なんか楽しそうやね』と言われた。俺にはよくわからないが、そうなのかもしれない」
 こういう他愛ないことを、忘れないように書いておく。
 それは、脳みその忘れる力への、ささやかな抵抗だった。

 もう一つは、恵子に謝ったことだ。
 先月、二人で食事をしていた時、田中宗介は突然言った。
 「二十四年前の別れ方、ちゃんと謝ってなかった。ごめん」
 恵子は少し驚いた顔をして、「もうええって言うたやん」と言った。
 「ええのはええけど、ちゃんと謝っとかんと、と思って」
 恵子はしばらく黙って、「……うん、ありがとう」と言った。
 それだけだった。
 でも、何かが少し変わった気がした。田中宗介の中の、どこかが。

 人間の脳みそは、本当にうまくできている。
 辛いこと、悲しいこと、後悔すること。それを自動的に薄めて、人間が前を向いて生きていけるようにしてくれる。
 田中宗介は、その機能に、これからも何度もお世話になるだろうと思っている。
 でも同時に、意識的に覚えておかなければならないこともある、ということを、五十三歳にしてようやく学んだ気がする。
 それが相手への敬意というものかもしれない。少し大げさかもしれないが。

 今日も田中宗介は、スーパー「フレッシュマート西中島」の惣菜コーナーに来ている。
 豚のしょうが焼きに、割引シールが貼られるのを待っている。
 隣に恵子はいない。今日は一人だ。
 でも来週の土曜日、二人でどこかへ行く約束をしている。
 どこへ行くかはまだ決めていない。
 それでいい気がしている。

 六時ちょうどに、惣菜コーナーの店員が割引シールを持ってやってきた。
 田中宗介は素早くシールを確認し、豚のしょうが焼きとだし巻き卵をカゴに入れた。
 百五十六円の節約。
 小さな勝利だ。
 彼は少し胸を張って、レジへ向かった。

                        了
     


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あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

年齢を重ねると、人生は新しいことよりも、失ったものや終わったものの方が増えていくように感じることがあります。

若い頃の恋。
昔の友人。
もう会えなくなった人。

そして、自分自身の一部。

けれど人生は不思議なもので、終わったと思っていた場所から、もう一度何かが始まることがあります。

それは情熱的な恋ではないかもしれません。
劇的な奇跡でもありません。

ただ、「また来週ね」と言い合える誰かがいる。

そのことが、人生を少しだけ温かくしてくれる。

田中宗介は、忘れることで生きてきました。

そして最後に、覚えておく努力を始めます。

それはきっと、誰かを大切にするということなのだと思います。

この小さな物語が、皆さまの心にほんの少しでも温かさを残せたなら、作者としてとても嬉しく思います。

またどこかの物語でお会いできますように。


黒い翼
三つに枝分かれした物語

途中 第三章から
物語が三つに変わります…



【まえがき】

人は、自分の中にある「黒さ」をどこまで認められるのでしょうか。

怒り、嫉妬、憎しみ、後悔。
誰にも見せたくない感情を、私たちは胸の奥深くに閉じ込めながら生きています。

そして、いつしか「いい人」であろうとするあまり、本当の自分を忘れてしまうことがあります。

『黒い翼』は、そんな一人の男の物語です。

ある夜、一人の女性を救おうとした男は、白い翼を得て空へ舞い上がります。そして、そこで出会うのは、自分自身の姿をした「黒い翼の男」。

人はなぜ、誰かを救いたいと思うのか。
人は本当に、誰かを救うことができるのか。
そして、自分の闇を受け入れた先に何が待っているのか。

この物語には、三つの結末があります。

どの結末も間違いではありません。
人の心に、たった一つの答えがないように。

読み終えたあと、あなた自身の中にいる「もう一人のあなた」と、少しだけ向き合っていただけたなら、とても嬉しく思います。




黒い翼  
1つ目の物語

第一章 橋

四月の夜の風は、まだ冬の匂いを薄く残していた。

冴島透《さえじまとおる》は、コンビニのレジ袋を片手に提げて多摩川沿いの遊歩道を歩いていた。

残業のあとに買った発泡酒と、半額シールの貼られた唐揚げ弁当。

袋の中で缶がかすかに鳴っている。それ以外に、音らしい音はなかった。

午前一時を回っていた。

橋の手前まで来たとき、彼は足を止めた。

橋といっても歩行者用の小さな鉄橋で、欄干は腰の高さほどしかない。下を流れる川は、夜のこの時間にはただの黒い帯だ。
光を吸い込んで、ほとんど反射しない。
深さは知らない。
ただ、落ちて死ぬかどうかは、落ちる前にはわからない種類の高さだった。

欄干の外側に、女がいた。

外側、というのが正確だ。手すりを背にして、踵《かかと》を端にかけて立っている。両手はうしろの欄干を握っていた。

顔は川のほうを向いていて、髪が風で流れていた。コートは着ていなかった。三月の終わりに買ったような薄いブラウスが、ぼんやりと白く浮かんでいた。

透は息を止めた。

声をかけるべきか、かけずに通り過ぎるべきか、警察に電話すべきか、駆け寄って腕をつかむべきか、頭の中でいくつかの選択肢が並んだ。並んだだけで、どれも実行できなかった。

体が勝手に動いたのは、女の踵が一センチ、外側に滑ったときだった。

「待って」

声は、自分の喉から出たとは思えないほど小さかった。けれど、女はそれを聞いた。ゆっくりと振り返った。

驚きの表情はなかった。怒りもなかった。ただ、迷惑そうな顔だけがあった。

「来ないで」

女は言った。

透はレジ袋を地面に置いた。発泡酒の缶が、アスファルトの上で小さな音を立てた。

「危ないですから、こちら側に」

「来ないでって言ってるの」

女は前を向き直った。風が髪をまた流した。横顔に見覚えがあるような気がして、透は息を呑んだ。気のせいだと思った。気のせいに決まっている。

「あの」

「うるさい」

「話だけでも」

「話すことなんてない」

透は欄干に近づいた。一歩、二歩。三歩目で、女が踵をさらに滑らせた。

「来たら飛ぶ」

足が止まった。

「来なくても、もう飛ぶ」

二人のあいだで、夜の空気が固まっていた。透は自分の心臓の音を聞いていた。

「あなたが」と彼は言った。「あなたが死んだら、たぶん、僕はずっと忘れない」

女は笑った。あの笑い方を、透は知っていた。

知っているはずがないのに、知っていた。

「忘れていいよ」と女は言った。「忘れてくれていい」

「忘れられない」

「あなた、誰」

「通りすがり」

「じゃあ忘れられる」

そう言って、女は手を放した。

正確には、放そうとした。

透が欄干を越えて飛びついたのは、その瞬間だった。あとから思い返しても、なぜそんなことをしたのか説明できなかった。
腕を伸ばせば届く距離だったから、というだけのことかもしれない。

指先が女のブラウスの袖をつかんだ。

つかんだ、と思ったときには、二人とも欄干の外側にいた。

体重が前に傾いた。

「ばか」と女が言った。

それが、落ちる前に聞いた最後の言葉だった。

落下というのは、本当はとても静かなものだと、透は初めて知った。

風の音はあった。耳のうしろで、空気が引き裂かれるような音がしていた。けれどそれは「音」というよりも「感触」に近かった。本物の音は、不思議なほどしなかった。

視界の中で、川の黒い帯が近づいてくる。近づいてくるはずだった。けれど、いつまで経っても近づいてこなかった。

おかしい、と透は思った。

橋の高さはせいぜい十数メートルだった。落下時間は、計算するまでもなく二秒に満たないはずだった。
けれど、もう五秒は落ち続けている気がした。十秒かもしれなかった。

横を見た。

女が落ちていた。彼の少し下、手の届かない距離で、髪を逆立てるようにして落下していた。表情は見えなかった。

その下に、川はなかった。

黒い帯のはずだったものが、黒い「面」になっていた。面はゆっくりと遠ざかっていた。落ちているのに、遠ざかっていた。

これは夢だ、と透は思った。

思った瞬間に、背中に衝撃が走った。

衝撃というよりは、強い圧力だった。両肩の骨のあいだに、何かが押し込まれたような感覚。
痛みはなかった。ただ、自分の体が、自分のものではない形に変わっていく感じがした。

肩甲骨の外側で、何かが展《ひら》いた。

風の抵抗が、変わった。

落下が止まった。

止まっただけではなかった。体は、空中に浮いていた。

透は自分の背中を見ようとして、首を捻った。視界の端に、白いものがあった。羽根だ、と理解するまでに数秒かかった。

白い翼が、彼の背中から生えていた。


「これは」と彼は声に出した。「夢だな」

夢だと自分に言い聞かせれば、目が覚めるはずだった。覚めなかった。

代わりに、翼が勝手に動いた。

最初の一打ちで、体は十メートルほど上昇した。二打ち目で、空気の流れを掴む感覚が指先のように戻ってきた。

彼は飛び方を知らなかった。
けれど、翼は知っていた。
翼が、彼に飛び方を教えていた。

女は、と彼は思った。

下を見た。

女はまだ落ちていた。

ずっと下、ほとんど点になりかけている。落下しているのに、距離は開いていく一方だった。
物理法則がどこかで壊れていた。あるいは、最初から物理法則の通用しない場所だった。

透は翼を畳んで急降下した。

風が頬を切った。眼球が乾いた。翼を畳んでも、彼の体は思ったほど速く落ちなかった。
何かが、彼の落下を遅らせていた。彼は加速しなかった。
けれど女はどんどん遠ざかっていった。

追いつかない。

何度羽ばたいても、加速しても、女との距離は縮まらなかった。むしろ、わずかに開いていく。
透は歯を食いしばった。何かがおかしい。落下する物体の速度に、なぜ追いつけない。

そのとき、女が振り返った。

落下しながら、上を向いて、透のほうを見た。

距離があるはずなのに、その顔ははっきり見えた。

女は微笑んでいた。

「ありがとう」

声は届かないはずだった。けれど届いた。

「さよなら」

その顔を、透は知っていた。

二十年前に知っていた顔だった。


彼女の名前は、桐谷澪《きりたにみお》といった。

透が大学三年のとき、同じゼミにいた女性だった。理工学部の物理学科で、量子力学を専攻していた。
背が高く、笑い方がぎこちなく、ノートの余白に意味のわからない数式の落書きを書く癖があった。

二人は付き合っていた、というほどでもない、けれど他人でもない距離にいた。

澪は卒業を前に、研究室で命を絶った。

理由は、最後までわからなかった。

遺書はなかった。両親も、ゼミの教授も、誰一人として、彼女がそんなことをする予兆を見ていなかった。透自身も見ていなかった。
少なくとも、見ていたことに気づいていなかった。

葬式の帰り道、透は橋の上で吐いた。

吐いたあとで、欄干にもたれて、こう思った。

僕は、たぶん、彼女に「死にたい」と言わせなかった。「死にたい」と言える隙間を、僕は彼女に与えなかった。
僕はいつも、いい話ばかりした。彼女が暗い顔をすると、励ました。慰めた。先のことを話した。希望のことを話した。

たぶんそれが、致命的だった。

その夜のことを、透は二十年間、誰にも話さなかった。


落下していく女は、二十年前の桐谷澪の顔をしていた。

そんなはずがなかった。橋の上で見たときは、見覚えがあるような気がしただけで、別人のはずだった。澪はとっくに死んでいる。
死んだ人間は、四十前の中年女になって橋から飛び降りたりはしない。

それでも、落ちていく女の顔は、澪だった。

二十二歳の、あの澪の顔だった。

透の翼が、勢いを増した。

理屈ではなかった。翼が、彼の意思とは別のところで強く羽ばたいた。彼の体は、矢のように加速した。風の音がはじめて、本物の音になった。

距離が、縮まりはじめた。


追いついたのは、どれくらいの落下のあとだったかわからない。

ひょっとしたら、数秒だったのかもしれない。数分だったのかもしれない。あるいは、もっとずっと長かったのかもしれない。落下の時間は、もう普通の時間ではなかった。

透は腕を伸ばし、女の腰を抱いた。

抱き寄せた瞬間、女の体は驚くほど軽かった。重さが、ほとんどなかった。羽根のほうがまだ重い、というほどの軽さだった。

「澪」

呼んだ。

女は答えなかった。けれど、彼の胸に顔をうずめた。

透は翼を強く打ち、上昇に転じた。


橋へ戻ろう、と彼は思った。

橋に戻れば、現実に戻れる気がした。あの欄干の、こちら側に降りれば、すべてが元通りになる。
澪は生きていて、二十年は巻き戻り、いや、巻き戻らなくていい、ただ、この女を、この見知らぬ女を、安全な場所に戻せれば。

上を見た。

橋がなかった。

落ちてきた空間は、ただの暗い空だった。星は出ていなかった。雲もなかった。空のはずなのに、空ではなく、ただの「上」だった。橋があったはずの場所には、ぼんやりとした灰色の靄《もや》が広がっているだけだった。

それでも、透は翼を打ち続けた。

何度打っても、上にたどり着かなかった。

そして、下から、別の翼の音が聞こえてきた。



第二章 黒い翼

最初に聞こえたのは、自分の翼の音と、ほとんど同じ音だった。

ほとんど同じだが、わずかに違う。位相がずれている。打ち下ろすタイミングが、半拍だけ遅い。透は自分の心臓が二つあるような錯
覚に陥った。一つは胸の中で、もう一つは胸の外で、別のリズムを刻んでいる。

彼は下を見た。

下、というよりは、後方やや下。雲のような靄を切り裂いて、何かが上昇してくる。

人影だった。

人影には翼があった。

翼の形は、透のそれと同じだった。風切り羽の数も、羽ばたきの幅も、おそらく彼自身のものと一ミリの誤差もない。違うのは、色だけだった。

漆黒。

光をまったく反射しない、純粋な黒。羽根の一枚一枚が、夜そのものを切り取って貼り付けたように見えた。

その人影が顔を上げた。

透は腕の中の女を、無意識に強く抱き直した。

下から上がってくる男の顔は、透自身の顔だった。


「渡せ」

声が届いたとき、透はまだ二十メートルほど上にいた。距離があるはずなのに、声は耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。

「その女を、こちらに渡せ」

透は答えなかった。代わりに、翼をさらに強く打った。上昇の速度を上げた。

黒い翼の男も、同じだけ加速した。

距離は縮まらず、開きもしなかった。

「無駄だ」と黒い翼が言った。「お前と俺は、同じ筋力を持っている。
同じ翼を持っている。同じ意志を持っている。逃げ切れない」

「お前は誰だ」

透は言った。声が震えていた。

黒い翼は笑った。

その笑い方も、透自身の笑い方だった。

「俺は」

黒い翼の男は、ゆっくりと言った。

「黒の、お前だ」


その瞬間、空間が一度、波打った。

波打った、としか言いようがなかった。地平線のような線が一本、視界のどこかに走り、それが横にずれ、また戻った。
透の三半規管が、自分のいる場所を見失った。上下が一瞬わからなくなった。腕の中の女が、ずるり、と滑った。

慌てて抱き直した。

「黒、だと」と透は言った。

「そうだ」黒い翼の男は答えた。「お前の本当の姿だ。お前がずっと隠してきた、悪魔のほうのお前だ」

「悪魔」

「言葉が古いか」黒い翼は笑った。「シャドウ、と呼んでもいい。影、と呼んでもいい。抑圧された半身、と呼んでもいい。
呼び方はどうでもいい。重要なのは、お前が俺を、ずっと地下に閉じ込めてきたという事実だけだ」

透は何も言えなかった。

「その女を渡せ」と黒い翼は繰り返した。「その女は、本来俺のものだ」

「澪は」

「澪?」黒い翼は片眉を上げた。「ああ、そう呼んでいたな。お前は」

「澪は誰のものでもない」

「もちろんだ」黒い翼は頷いた。「だが、彼女を救えるのは、お前ではない」


透は混乱していた。

理屈で考えれば、これは夢だった。夢のなかの整合性を真に受ける必要はなかった。目を閉じて、強く念じれば、目が覚めるはずだった。

念じた。

覚めなかった。

代わりに、黒い翼が距離を詰めてきた。

透は反射的に身を翻し、横方向に飛んだ。女の体を抱え直し、翼を強く打ち、雲の上の暗い空間を斜めに駆け抜けた。
背後で、黒い翼が同じ角度で旋回した。完璧な追跡だった。

「無駄だと言っただろう」

「うるさい」

「お前と俺は同じだ。
お前が右に飛べば、俺も右に飛ぶ。お前が左に飛べば、俺も左に飛ぶ。お前が上に逃げれば、俺も上に追う。なぜなら俺はお前だからだ」

「だったら」と透は息を切らせながら言った。「だったら、なぜ追ってくる。俺がお前なら、お前は俺の意思に従えばいい」

黒い翼は笑った。

「お前こそ、俺の意思に従うべきじゃないのか」


腕の中の女が、わずかに身じろぎした。

「ねえ」

か細い声が、透の耳元で言った。

「ねえ、降ろして」

「澪」

「降ろしてって、言ってる」

「だめだ」

「あなた、誰」

女は目を開けていた。落下していたときとは違う顔だった。澪ではなかった。あるいは、澪でもあった。二十二歳のあの澪と、四十前の見知らぬ女の顔が、二重写しになっていた。どちらでもあり、どちらでもなかった。

「君を、助けにきた」と透は言った。

「誰も、助けてなんて頼んでない」

「頼まれなくても」

「あなた、いい人ね」

女は笑った。

それは皮肉ではなかった。けれど、褒め言葉でもなかった。ただの、観察だった。

「いい人。ずっと、いい人だったんでしょう」

「……」

「いい人は、人を救えないのよ」


下から、黒い翼が肉薄してきた。

腕が伸びてきた。女の足首を掴もうとする黒い指。透は身を捻って避けた。女の体が、また少しずれた。

「離せ」と透は叫んだ。

「お前こそ離せ」と黒い翼は言った。「お前はこの女を、救えない」

「俺が救う」

「お前はいい人だ」黒い翼は笑った。「いい人は、誰も救えない。お前自身がそれを知っているはずだ」

「黙れ」

「澪のときも、そうだっただろう」

透の翼が、一瞬、止まった。

止まった、というよりは、力を失った。空気を掴む感覚が、指先から抜けた。彼の体は、女を抱えたまま、ふっと数メートル落下した。慌てて翼を打ち直した。

黒い翼は、その隙を見逃さなかった。

距離は、もう五メートルもなかった。


透は上を見た。

雲のような灰色の靄が、頭上に近づいていた。あの靄の中に入れば、視界が遮られる。視界が遮られれば、黒い翼から逃げ切れるかもしれない。

理屈は通っていなかった。同じ翼を持つ存在に対して、視界を遮ることに意味があるのか。けれど、ほかに方法はなかった。

彼は最後の力で翼を打った。


靄の中は、本当の意味で「無」だった。

色がなかった。音がなかった。上も下もなかった。湿り気だけが、肌にまとわりついた。
透は翼の動きを頼りに方向を保とうとした。打ち下ろせば、体は上に向かう。それだけが、確かなことだった。

腕の中の女は、また気を失っていた。

呼吸はしていた。胸が、ゆっくりと上下していた。

しばらく、靄のなかを上昇し続けた。

どのくらいの時間がかかったのか、わからなかった。十秒だったかもしれないし、十分だったかもしれない。靄の中では、時間が膨らんだり縮んだりしていた。

ふいに、靄が薄くなった。


抜けた。

雲を抜けた、と最初は思った。

けれど、それは雲ではなかった。

透が出た先は、夜の空でも、青い空でもなかった。

そこは、もっと高い場所だった。


頭上は、漆黒だった。

ただの闇ではなかった。星がちりばめられていた。何百、何千、何万という星が、瞬きもせずにそこにあった。地上から見上げる星空ではなかった。大気の揺らぎを通さずに見る、本物の星だった。

足元には、青い球体の一部が広がっていた。

雲海の縁が、丸く、わずかに彎曲《わんきょく》していた。その向こうに、青と白のまだら模様。さらにその下に、もっと深い青。

地球だった。

透は、大気圏の外、ぎりぎりのところに浮いていた。


下を見た。

黒い翼の姿は、なかった。

雲の中、あるいは雲のずっと下、見えない場所で、彼は追跡をやめていた。

ここまでは、追ってこられない。

直感的に、透はそう理解した。

なぜここまでは追ってこられないのか、彼にはわからなかった。けれど、黒い翼があの靄を抜けない理由は、確かに存在するのだ、と感じた。

彼の翼が、ゆっくりと羽ばたきをやめた。

それでも、体は落ちなかった。

ここでは、もう、重力は彼に作用していないようだった。


腕の中の女が、目を覚ました。


「ねえ」と女は言った。

声は、もう澪のものではなかった。けれど、澪ではない、とも言い切れなかった。

「ねえ、ありがとう」

「澪」

「澪じゃない」と女は微笑んだ。「澪でもある。でも、澪じゃない」

「君は」

「ねえ、もう、いいの」

「何が」

「降ろして」

透は首を振った。

「だめだ」

「下に、黒いあなたがいるからって?」

「そうだ」

「いいのよ、それで」

「何を言ってる」

「それが、いいのよ」


地球が、足の下でゆっくりと回っていた。

風はなかった。音もなかった。

ただ、女の声だけが、彼の耳元にあった。

「ねえ」と女は言った。「あなた、二十年前の夜のこと、覚えてる?」

透は答えなかった。

「橋の上で吐いた夜のこと」

「……」

「あの夜、あなたは決めたの。覚えてる?」

「……何を」

「もう、誰も死なせないって」

透の翼が、ぴくりと震えた。

「もう、誰にも、悲しい思いをさせないって。誰に対しても、優しくあろうって。誰の前でも、いい人でいようって」

「それの、何が悪い」

「悪くないのよ」女は首を振った。「悪くない。ただ、それは、片方を捨てる決断だったの」

「片方」

「あなたが、本当はもう一人いたの。怒ったり、嫉妬したり、人を傷つけたいと思ったり、誰かを羨んだり、誰かを憎んだりする、もう一人のあなた」

「……」

「それを、あなたは捨てたの。地下に閉じ込めた。鍵をかけて、見ないことにした」

透は黙っていた。

「でも、人間って、そんなふうにできてないのよ。半分だけで生きるようには、できてないの」

「だから、何だと言うんだ」

「だから」女は微笑んだ。「だから、私を落として」


透は息を呑んだ。

女は、彼の腕の中で、もう一度ゆっくりと言った。

「私を落として。下にいる、黒いあなたのところに」

「だめだ」

「それが、いいの」

「君を、彼に渡したら」

「渡したら?」

「君は、死ぬ」

女は笑った。

「もう、死んでるのよ、私は」


地球の縁から、太陽の光が漏れはじめていた。

夜明けが、地表のどこかで始まろうとしていた。

透の白い翼が、その光を受けて、ほんのわずかに金色に染まった。


「ねえ」と女は言った。「あなた、量子力学、覚えてる?」

「少しだけ」

「観測されない限り、すべての可能性は重なり合ったままで存在し続ける。覚えてる?」

「シュレディンガーの猫の話か」

「そう。猫は、箱を開けるまでは、生きていて、同時に死んでいる」

「それが」

「私もそうなの」女は言った。「私は、生きていて、死んでいる。あなたが二十年前、観測しなかった可能性の中で、私はずっと、どちらでもなかった」

「観測しなかった?」

「あなたは、あの夜、私の顔を見なかった。本当の意味で、見なかった。私が何を抱えていたか、あなたは見ないことを選んだ」

「……」

「だから、私はあのとき、確定しなかった。死んでもいないし、生きてもいない。二十年間、ずっと、どちらでもないまま、漂っていた」


透の腕が、震えた。

「君は」

「ええ」

「澪なのか」

「澪でもあるし、澪じゃない」女は笑った。「私は、あなたが観測しなかったすべての女の集まりよ」



第三章 観測

「私が、観測しなかった、すべての女」
透は言葉を繰り返した。その意味が、大気圏外の冷たい空白へと溶けていく。

腕の中の彼女は、地球の自転が生み出すかすかな光の輪をその瞳に映していた。二十年前の澪であり、数分前に橋の欄干にいた名もなき女性であり、あるいは透がこれまでの人生で「見ないふり」をして通り過ぎてきた、あらゆる誰か。

「人間はね、誰かを救おうとするとき、自分の見たい姿だけを切り取って救おうとするの」
彼女は、透の白い羽をそっと指先でなぞった。

その指は驚くほど冷たく、しかし確かにそこにあった。
「あなたのその綺麗な白い翼は、優しさだけでできている。でも、優しさというのはね、時に残酷な『拒絶』でもあるのよ」

「拒絶……? 僕が、君を拒絶したというのか」

「そうよ」
彼女は穏やかに、しかし断固として言った。

「あなたが二十年前に私に与えなかったのは、『死にたい』と言える隙間だけじゃない。
私の『醜さ』や『絶望』を受け入れる隙間よ。

あなたはいつも正しく、いつも優しかった。だから私は、自分の底にある真っ黒な泥を、あなたに見せることができなかった。

見せれば、あなたのその綺麗な世界を汚してしまうと思ったから」
透の胸の奥で、何かがきしむ音を立てた。

葬式の帰り道、橋の上で吐いたあの夜の記憶が、濁流となって蘇る。自分は彼女を励まし、慰め、希望を語った。それが正解だと信じていた。だが、それは彼女の「暗闇」から目を背け、自分の「正しさ」を守るための独善だったのではないか。

「だから、彼が生まれたのね」
彼女は下方の、灰色の靄の奥を指さした。

「あなたが切り捨てた、怒りや、利己心や、醜さを引き受けた、もう一人のあなたが」
下層の雲海が、にわかに波打ち始めた。

靄を裂いて、再びあの位相のずれた羽ばたきが聞こえてくる。

黒い翼。

彼は諦めていなかった。大気圏の境界、重力が消失しかけたこの絶対的な静寂の領域へと、重力を、あるいは執着をその身にまとったまま、猛烈な速度で上昇してくる。

「渡せ」
再び、あの声が響いた。今度は耳元ではなく、透の脳髄に直接突き刺さるような、重く、濁った響きだった。

「透、お前はまた同じ過ちを繰り返す気か。その女を『綺麗なまま』抱きしめて、宇宙の果てまで連れて行く気か。

それは救いではない。ただの監禁だ。ただの独りよがりだ!」
黒い翼の男が、雲海から躍り出た。
彼の顔は、怒りに歪んでいた。

それは透がこれまでの人生で、決して他人に見せたことのない、自分自身でも忘れていたはずの「激情」の表情だった。

「俺に渡せ! 俺なら、この女の泥を、絶望を、そのまま喰らってやれる。お前のように綺麗な言葉で薄めたりはしない!」
透は女を抱きしめる腕に力を入れた。

「だめだ……! お前に渡せば、彼女は落ちる。真っ逆さまに、あの黒い川へ!」

「それでいいのよ、透」
腕の中の女が、悲しいほど綺麗な声で囁いた。

「箱は、開けられなければならないの。生か死か、どちらか一つに、私は確定しなきゃいけない。あなたの『いい人』という名の箱の中に、私を閉じ込め続けないで」

「澪……」

「私は、落とされることを望んでいるの。あなたの『黒さ』に、私のすべてを観測してもらうために」
黒い翼が、眼前に迫る。

その漆黒の羽根から、夜の匂いが放たれる。それは四月の、あの冬の匂いを残した風と同じ匂いだった。
透は理解した。

このまま彼女を抱きしめて飛び続ければ、自分は「何一つ汚さない聖者」のまま、誰も救えずに永遠を彷徨うことになる。彼女を救うということは、彼女のすべて――その命の終わりさえも――を受け入れるということであり、そのためには、自分自身の「汚さ」と向き合わなければならないのだ。

透はゆっくりと、腕の力を抜いた。
「透……?」
黒い翼の男が、一瞬、驚いたように羽ばたきを止めた。

透は女の体を、宇宙の静寂の中にそっと手放した。
重力のないはずの空間で、なぜか彼女の体は、吸い込まれるように下方へと、黒い翼の男に向かって落ちていった。

「ありがとう」
彼女の最後の微笑みが、太陽の光に照らされて、今度こそ明確に、二十年前の桐谷澪の顔となって確定した。

黒い翼の男が、両腕を広げて彼女を受け止める。
抱きしめた瞬間、男の黒い翼から、墨のような闇が溢れ出し、彼女のブラウスを、そして彼女の存在そのものを包み込んでいった。

それは破壊ではなく、完全な「受容」の儀式のように見えた。

そして、二人の体が、猛烈な速度で地球へと落下し始める。

「待ってくれ!」
透は叫び、後を追おうとした。

しかし、羽ばたこうとした瞬間、背中に奇妙な違和感を覚えた。
白い翼が、一枚、また一枚と、ハラハラと抜け落ちていく。

光を浴びて金色に輝いていた羽根は、大気圏の摩擦に触れることもなく、ただの光の粒子となって消えていく。

救うべき対象を失った翼は、その存在理由を失ったかのように、完全に消滅した。

「あ――」
翼を失った透の体もまた、重力の網に捕らえられた。

上下の感覚が戻る。猛烈な風の音が、鼓膜を破らんばかりに鳴り響く。

落下が始まった。
黒い翼と彼女を追いかけるように、透は真っ逆さまに、青い地球へと、あの黒い帯のような多摩川へと、落ちていく。

視界が、急速に白夜から夜の闇へと巻き戻されていく。
雲を突き抜け、靄を裂き、風が肉を削るように吹き荒れる。

透は目を閉じなかった。
迫り来る黒い川の面を、しっかりと見つめていた。


結章 四月の風

「――っ!」
激しい呼吸と共に、透は跳ね起きた。

アスファルトの冷たい感触が、手のひらを通じて伝わってくる。

耳に飛び込んできたのは、ごうごうと流れる川の音と、遠くを走る電車の遠鳴りだった。

「はぁ、はぁ、はぁ……」
胸が激しく上下する。自分の手を何度も握り締め、確かめる。普通の、四十前の男の、少し冷えた手だった。背中に翼の気配はなかった。

肩甲骨のあたりを触ってみても、そこにあるのは凝り固まった筋肉だけだった。
隣を見る。
コンビニのレジ袋が、倒れていた。
中から発泡酒の缶が転がり出し、アスファルトの上で静かに止まっている。半額シールの貼られた唐揚げ弁当も、そのままだった。

透は立ち上がり、ゆっくりと周囲を見回した。
そこは、多摩川沿いの遊歩道だった。

数メートル先には、歩行者用の小さな鉄橋がある。欄干は腰の高さほどしかない。
欄干の外側には――誰もいなかった。

薄いブラウスの女も、黒い翼の男も、そこには存在しなかった。
ただ、四月の夜風が、冬の匂いをかすかに残して吹き抜けていくだけだった。

「夢、か」
透は呟いた。

だが、その声は以前のような諦念を帯びてはいなかった。胸の奥が、不思議なほど軽かった。

二十年間、ずっと自分を縛り付けていた、あの葬式の夜の吐き気のような重苦しさが、綺麗に消え去っていた。

彼は鉄橋に近づき、欄干に手をかけた。
下を流れる川は、やはりただの黒い帯で、光を吸い込んで反射しない。深さはわからない。

けれど、透はもう、そこから目を背けようとは見えなかった。
川の黒さは、自分の内側にある黒さと同じだった。それを認め、受け入れたとき、世界は少しだけ違って見えた。

「澪」
小さく、名前を呼んでみた。

返事はなかった。けれど、風が優しく彼の頬を撫でた。それは、あの宇宙の境界で聞いた「ありがとう」という声に、とてもよく似ていた。
透はレジ袋を拾い上げ、発泡酒の缶を中に戻した。

明日もまた、いつも通りの残業があり、いつも通りの日常が始まるのだろう。いい人でいることを、完全にやめることはできないかもしれない。

けれど、これからは。
暗い顔をした誰かに出会ったとき、安易な希望でその場を濁すことだけはしないだろう。共にその暗闇を眺める強さを、今の自分は持っている気がした。

透は歩き出した。
橋を渡り、自分の家へと向かう彼の足取りは、ほんの少しだけ、地面から浮いているようになめらかだった。




ーーーーーーーーーー




2つ目の物語


第三章 二つの翼

透は、女を抱く腕に力をこめた。

「だめだ」

「あなた」

「君を、誰にも渡さない」

「でも、あなたは知ってるはずよ」女は静かに言った。

「箱を開けなければ、何も終わらない。私はずっと、開かれるのを待ってる」

「箱を開けるのが、君を落とすことだとは限らない」
女は目を見開いた。

透は自分の言葉に、自分で驚いていた。けれど、口にしてしまうと、それが正しい気がした。

「君は言った。俺が観測しなかったから、君は確定しなかったって」

「ええ」

「だったら、今、観測すればいい。落とすことでも、見ないふりをすることでもなく」

「どうやって」

「分からない」透は首を振った。「分からないけど、たぶん、今までと同じやり方じゃだめなんだ」

下で、何かが動く気配があった。
雲の縁が、黒く滲んだ。
黒い翼が、追いついてきたのだ。

大気の境界などないかのように、漆黒の翼が靄を突き破って上昇してきた。透のすぐ下、五メートルもない距離に、もう一人の自分が浮かんでいた。

「ここまで来れないはずだ」と透は言った。

「来れないと思っていたのは、お前だけだ」黒い翼は答えた。
「俺はずっと、お前のすぐ後ろにいた。お前が気づかなかっただけだ」
その言葉に、透は何も言い返せなかった。

「渡せ」黒い翼はもう一度言った。けれど、声には、最初ほどの強さがなかった。

「いやだ」

「お前には救えない」

「お前にも救えない」

黒い翼は黙った。

「お前は、彼女を地下に引きずり込むだけだ」と透は続けた。
「俺は、彼女を光の届かないところに閉じ込めるだけだった。どっちも、彼女を見ていない」

「では、どうしろと言うんだ」
透は答えなかった。代わりに、腕の中の女を見た。

女は、もう澪の顔ではなかった。誰の顔でもなかった。輪郭だけがあって、そこに無数の表情が、波のように重なっては消えていった。

透は、黒い翼に向かって、手を伸ばした。
「何のつもりだ」

「お前を、地下に閉じ込めたままにはしない」

「俺を、地上に連れて行くつもりか」黒い翼は笑った。

「俺がどんな存在か、分かって言っているのか」

「分かってない」透は言った。
「分かってないから、知りたい」

指先が触れた瞬間、世界がもう一度、波打った。
今度は、地平線がずれるのではなかった。

二つの翼が、重なった。
白い羽根の隙間に、黒い羽根が入り込んだ。黒い羽根の隙間に、白い羽根が入り込んだ。痛みはなかった。

ただ、長いあいだ閉じていた扉が、軋みながら開いていくような感覚があった。

透は、二十年間忘れていたものを、一度に思い出した。
澪が暗い顔をするたびに、励ましながら、心のどこかで苛立っていたこと。

彼女の沈黙が怖くて、言葉で埋めようとしていたこと。
「大丈夫」と言うたびに、本当は「大丈夫にしてくれ」と願っていたこと。

そして、葬式の夜、橋の上で吐きながら、悲しみと同じ量だけ、どこかで安堵していたこと——もう、彼女の暗さに、付き合わなくていいのだという、誰にも言えなかった安堵。
それは、醜い感情だった。
けれど、確かに、透のものだった。

「これが」と透は言った。声が震えていた。「これが、俺だったのか」
「半分はな」黒い翼は、もう黒くなかった。羽根の色が、灰色に変わりはじめていた。

「もう半分は、お前がさっき言った通りだ。誰かを救いたいと、本気で思う部分」

「お前は、悪魔じゃなかったのか」
「悪魔と呼んだのは、お前だ」灰色の翼は言った。「俺はずっと、お前に見てもらいたかっただけだ」

腕の中の女が、目を開けた。
その顔は、もう誰かの顔ではなかった。透の前にいる、一人の女の顔だった。

「ねえ」と彼女は言った。「私、誰だったか、分かる?」
透は首を振った。

「分からない。でも」

「でも?」

「君が誰であっても、俺は君を、ちゃんと見る」

女は、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。今度の笑いは、皮肉でも、観察でもなかった。
「やっと」とだけ、彼女は言った。

体が、ふわりと軽くなった。
女の輪郭が、光の粒になって、ほどけていった。痛みも、悲しみも、安堵も含めて、すべてが透の腕の中で静かに散っていった。

最後まで残ったのは、二十二歳の澪の、ぎこちない笑い方だった。
それも、やがて消えた。

気づくと、透の背中には一対の翼があった。
片方は白く、片方は灰色だった。
地球が、足元でゆっくりと回っていた。夜明けの光が、雲海の縁を金色に染めていた。

透は、もう何も追いかけていなかった。
落ちていく誰かもいなかった。
ただ、二つの色をした翼で、静かに、宇宙に浮かんでいた。

目を覚ましたとき、透は橋の上にいた。
欄干の内側、安全な側に、座り込んでいた。
手には、まだレジ袋が提げられていた。発泡酒の缶が、ぬるくなっていた。

川を見た。黒い帯が、いつも通り、そこにあった。誰も立っていなかった。

透は、長いあいだ、欄干にもたれていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、歩き出した。

背中に、もう翼はなかった。けれど、何かが、確かに変わっていた。
二十年間閉じ込めていた扉が、もう、施錠されていないことだけは、分かっていた。



ーーーーーーーーーー



3つ目の物語


第三章 地下室

靄を抜けた瞬間、落下は止まった。
止まった、というよりは、地面があった。

いや、地面ではなかった。天井だった。あるいは壁だった。上下も前後もない、真っ白な部屋だった。透は女を抱いたまま、その白い空間に立っていた。
白い翼はまだ背中にあった。けれど、羽ばたく必要はもうなかった。

「ここは」

「地下室」

声がした。

振り返ると、黒い翼の男が立っていた。十メートルも離れていない。さっきまで追いかけっこをしていた距離が、嘘のようだった。

黒い翼は壁にもたれ、腕を組んでいた。その姿は、残業明けの透自身がコンビニの前で煙草を吸うときの姿と寸分違わなかった。

「地下室、だと」透は繰り返した。

「お前が作った」黒い翼は言った。

「二十年前にな」

透は女をそっと床に降ろした。
床は床らしく冷たく、硬かった。
女はまだ目を閉じている。
呼吸は浅い。
生きているのか、死んでいるのか、まだ確定していない。

「渡しに来たんだろう」黒い翼が言った。「その女を」
透は黙って頷いた。

「なら、置いていけ」

「その前に」透は一歩前に出た。「聞きたいことがある」

「なんだ」

「お前は、俺なのか」
黒い翼は笑った。

やはり、透自身の笑い方だった。嫌なところまでそっくりだった。
「そう聞かないと、お前は安心できないんだな」

「答えろ」

「俺はお前だよ」黒い翼は翼を一度だけ小さく羽ばたかせた。

風圧で、透の前髪が揺れた。「お前が捨てたほうのお前だ。お前が『あはなりたくない』と思って、二十年間かけて殺し続けてきたお前だ」

「殺して、ない」

「殺したさ」黒い翼は指を三本立てた。
「大学四年の冬、お前は教授に殴りかかりそうになった。覚えてるか。澪の死を『彼女の弱さだ』と言われたときだ」

透の喉が、ひくりと動いた。

「お前は殴らなかった。殴る代わりに、頭を下げた。『ご指導ありがとうございました』ってな。あのとき、俺は死んだ」

黒い翼はもう一本指を折った。
「社会人三年目。取引先の部長に、サービス残業を押し付けられた。断ればよかった。お前は断らなかった。『喜んで』と言って、朝まで資料を作った。あのときも、俺は死んだ」

最後の一本を折る。

「三十五のときだ。婚約者に浮気された。問い詰めればよかった。殴ればよかった。泣き喚けばよかった。

お前は何をした? 『君が幸せなら、それでいい』と笑った。あの夜、俺は完全に死んだ」
白い部屋に、しばらく沈黙が落ちた。

「そのたびに」黒い翼は続けた。
「お前は白い翼を一枚、手に入れた。

いい人の翼だ。
正しい人の翼だ。
誰も傷つけない人の翼だ」

「……それの、何が悪い」

「悪くないさ」
黒い翼は肩をすくめた。

「ただ、お前は半分になった。それだけだ」
透は拳を握った。
握った拳が、自分のものではないみたいに軽かった。

「だから」と黒い翼は女を顎で指した。「その女を俺に渡せ。お前には、彼女を観測する資格がない。いい人は、他人の地獄を覗き込めない。覗き込んだら、自分が汚れるからな」

透は女を見た。
女の睫毛が、わずかに震えた。まだ、どちらでもなかった。

「観測って」透は言った。

「なんだ」

「見ることだよ」黒い翼は嘲るように言った。

「相手の全部を見る。光も、闇も、善も、悪も、綺麗なところも、醜いところも。見て、それでも『お前でいい』と言う。それが観測だ」

「お前に、それができるのか」

「俺はお前だ」黒い翼は一歩前に出た。
「俺は、お前が見るのをやめた全部を持ってる。だからできる」

二人の距離は、三メートルまで縮まっていた。白と黒、同じ顔、同じ身長、同じ声。違うのは、翼の色だけだった。

「最後に聞く」透は言った。
「お前は、澪を、愛していたか」
黒い翼は、初めて笑わなかった。

しばらく、黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「愛していたさ」

「じゃあ、なぜ」

「愛していたから、殺したくなかった。
殺したくないから、見なかった。
見なかったから、彼女は一人で死んだ」

透の白い翼が、大きくしなった。

「同じだな」透は言った。

「ああ」黒い翼は頷いた。

「俺もお前も、同じ理由で彼女を見殺しにした。
お前は善で見殺しにした。
俺は悪で見殺しにした。

動機は正反対で、結果は同じだった」

「なら」透は一歩、前に出た。
距離は二メートル。

「俺が彼女を渡したら、お前はどうする」

「決める」黒い翼は女を見た。

「生かすか、殺すか、今ここで決める。それが観測だ」

「俺にも、決めさせろ」

「お前には無理だ」黒い翼は首を振った。

「お前は決めない。決めることは、誰かを傷つけることだから。お前は誰も傷つけたくない。
だから、永遠に決めない」

透は目を閉じた。
二十年間の夜を思い出していた。

残業の夜。
一人で食べる半額弁当の夜。
橋の上で吐いた夜。
誰かの幸せを祈って、自分を殺してきた夜。

目を開けた。
「違うな」透は言った。

「何が」

「俺は、決めなかったんじゃない」
白い翼が、音を立てて畳まれた。
羽根が一枚、床に落ちた。

「決めるのが、怖かっただけだ」
黒い翼の表情が、初めて変わった。驚きだった。

「俺は」透は続けた。
「俺は、澪の地獄を見て、それでも『お前でいい』と言えなかった。
言う資格が自分にはないと思った。

だって俺は、汚い人間だからだ。
怒るし、嫉妬するし、殴りたいときもある。そんな俺が、彼女の綺麗な絶望を抱きしめるなんて、烏滸《おこ》がましいと思った」

「……」

「だから、いい人になった。いい人をやってれば、汚い自分を隠せると思った。隠してれば、彼女にふさわしい人間になれると思った」

透は女の横に膝をついた。冷たい手に、自分の手を重ねた。

「馬鹿だったな」
女の指が、ぴくりと動いた。

「澪」透は呼んだ。
「ごめん」

黒い翼が動いた。
止めに来た。

透は顔を上げなかった。
女の指に、額を当てた。

「ごめん。俺、怒ってる。お前が一人で死んだことに、怒ってる。
俺に何も言わなかったことに、嫉妬してる。
あの教授を、今でも殴りたいと思ってる。
婚約者のことも、まだ憎んでる」

一言ごとに、白い翼が黒く染まっていった。
羽根の先から、根本に向かって、墨を流したように。

「俺、ぜんぜんいい人じゃない。
弱いし、ずるいし、見たくないものから目を逸らしてきた。
お前のことだって、本当はちゃんと見てなかった」

白い翼は、もう半分以上が黒に変わっていた。
「でも」透は女の手を握りしめた。「でも、お前が、生きてても、死んでても、お前がお前であることに変わりはない。お前がどっちでも、俺は」

そこまで言って、透は息を呑んだ。
言う資格がないと思っていた言葉が、喉まで出かかっていた。

黒い翼が叫んだ。
「言うな!」

透は黒い翼を見た。もう一人の自分を見た。地下室に閉じ込めてきた、自分自身を見た。

「お前も」透は言った。「一緒に言えよ」
黒い翼は立ち止まった。

「俺一人じゃ、言えないんだ」透は笑った。
泣きそうな顔で笑った。「半分じゃ、足りないんだよ」
白い部屋が、きしんだ。

床に亀裂が走った。
亀裂から、光が漏れた。

黒い翼は、ゆっくりと透の横に膝をついた。女のもう片方の手に、触れた。

二人は顔を見合わせた。
二十年ぶりに、自分自身と目が合った。
「せーの、で」透が言った。

黒い翼は頷いた。
二人は同時に、女に向かって口を開いた。

「「生きてくれて、ありがとう。
死なないでくれて、ありがとう」」
白と黒が混ざった翼が、大きく広がった。

灰色の、夜明けの色をした翼だった。
女の睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。


地下室が崩れた。



第四章 朝

目が覚めると、頬にアスファルトの感触があった。
冷たかった。ざらざらしていた。
現実の冷たさだった。

透はゆっくりと上体を起こした。
背中が重い。
翼はない。
振り返っても、灰色の羽根は一枚も落ちていなかった。
夢か。そう思って、右手を見た。

レジ袋があった。
中身は、ぬるくなった発泡酒と、潰れた唐揚げ弁当。缶が一つ、転がって、カランと鳴った。

橋だった。
歩行者用の小さな鉄橋。欄干は腰の高さほどしかない。下を流れる多摩川は、やはり黒い帯だった。けれど、東の空が白み始めていた。夜が、少しずつ剥がれていく時間だった。

「……」

透は立ち上がった。
足元に、もう一つ影があった。
女が倒れていた。

薄いブラウス。
髪が顔にかかっている。
欄干の外側ではない。
こちら側の、アスファルトの上に。

呼吸をしている。
胸が、かすかに上下していた。
生きていた。

透は膝をついた。
手を伸ばして、女の肩に触れた。

「大丈夫、か」
女の睫毛が震えた。
ゆっくりと、目が開いた。

二十年前の顔ではなかった。
かといって、見知らぬ顔でもなかった。

四十前後の、疲れた顔だった。
泣きはらしたような目元だった。
けれど、確かに生きている人間の顔だった。

女は透を見た。しばらく、誰かを確認するように見た。

「……誰」
かすれた声だった。

「通りすがり」透は答えた。
二十年前にできなかった返事を、今、ようやく口にした。

「通りすがりだけど、放っておけなかった」
女は少し笑った。
迷惑そうな顔ではなかった。
困ったような、照れたような笑い方だった。

「ばか」
落ちる前に聞いた、最後の言葉だった。

今度は、落ちた後に聞く、最初の言葉だった。

透は女を抱き起こした。
軽くはなかった。
ちゃんと、人間の重さがあった。
体温があった。震えていた。

「救急車、呼ぶか」
「いい」女は首を振った。

「大丈夫。ちょっと、眠いだけ」

「警察は」

「呼ばないで」女は透のシャツを掴んだ。

「お願い。誰にも、言わないで」
透は頷いた。

二人はしばらく、欄干に並んで座っていた。
女は膝を抱え、透はレジ袋を足元に置いた。発泡酒は、もう飲む気がしなかった。

東の空が、だんだんと赤くなっていく。
多摩川の黒い帯に、初めて光が射した。川面が、きらきらと反射した。深さは相変わらずわからない。

けれど、落ちて死ぬかどうかは、落ちなくてもわかる種類の朝だった。

「なあ」透が言った。

「なに」

「名前、聞いてもいいか」
女は少し迷って、それから小さく答えた。

「美月《みづき》。佐倉美月」
澪じゃなかった。

当たり前だった。澪は二十年前に死んでいる。
死んだ人間は、年を取らない。

「透」彼は言った。「冴島透」

「透さん」美月はその名前を、一度舌に乗せた。

「変な名前」

「よく言われる」

二人は笑った。
声に出して笑うのは、なんだか久しぶりな気がした。

風が吹いた。
もう冬の匂いはしなかった。
四月の、朝の匂いだった。

「なあ、佐倉さん」

「美月でいい」

「美月」呼び直して、透は言った。

「俺、さっきまで、変な夢を見てた」

「どんな」

「翼が生えて、あんたを抱えて宇宙まで飛んで、もう一人の俺と喧嘩する夢」

美月はきょとんとして、それから吹き出した。

「なにそれ。厨二病?」

「かもしれない」透も笑った。

「でも、その夢の中で、俺、決めたんだ」

「何を」

「もう、いい人やめる」

美月は笑うのをやめて、透を見た。

「いい人やめたら、どうするの」

「怒るときは怒る。
悲しいときは悲しいって言う。
嫉妬もするし、羨ましいって言う。誰かを殴りたいときは、殴りたいって言う」

「最低じゃん」

「そう」透は頷いた。
「最低。でも、その最低な俺で、あんたのこと、ちゃんと見る」

美月は何も言わなかった。
膝を抱える腕に、少し力が入った。

「見られて」透は続けた。
「どうするかは、あんたが決めていい。嫌なら逃げていい。殴ってもいい。でも、俺はもう、見ないふりはしない」

川面が、朝日に染まって金色になっていた。
美月は立ち上がった。
よろめいて、欄干に手をついた。
透も慌てて立つ。

「帰れるか」

「……たぶん」

「送ってく」

「いい。来ないで」

橋の上での、最初の言葉と同じだった。けれど、響きが違った。
拒絶ではなかった。
照れ隠しだった。

透は三歩下がった。
レジ袋を持ち上げた。
「じゃあ、俺は帰る。残業の続きがあるから」

「嘘。もう朝だよ」

「そうだった」

二人はまた笑った。
美月が橋を渡り始める。
透は見送った。
追いかけなかった。
追いかけないことが、観測することだと、彼はもう知っていた。

橋の真ん中まで行って、美月が振り返った。

「ねえ、透さん」

「なに」

「ありがとう」

「さよなら、じゃないのか」

美月は笑った。
二十年前の誰かに似た笑い方だった。

けれど、誰でもない、佐倉美月自身の笑い方だった。

「また、助けてくれる?」

透は欄干に手を置いた。
鉄はもう冷たくなかった。
朝の陽に温められていた。

「あ」彼は頷いた。

「何度でも、落ちるよ」

美月はもう一度笑って、今度こそ橋を渡り切った。

遊歩道の向こう、マンションの影に消えていった。

透はしばらくそこに立っていた。
やがて、空が完全に白んだ。

街が、動き出す音を立て始めた。
彼はレジ袋を持ち直した。潰れた弁当は、もう食べられそうになかった。発泡酒は、帰って風呂に入りながら飲もうと思った。

橋を降りる。
そのとき、背中に一瞬、羽根の重みを感じた気がした。

振り返っても、何もなかった。
ただ、朝の風が、シャツの背中を膨らませただけだった。

透は歩き出した。
灰色の翼を畳んで、今日という一日へ。



エピローグ 半額弁当

その日の夜、透はまた残業になった。

二十年前から変わらない蛍光灯の下で、二十年前にはなかったクラウドの画面を睨み、二十年前と同じように「お疲れ様でした」と頭を下げて会社を出た。

違うのは、コンビニに寄らなかったことだ。
代わりに、駅前のスーパーに寄った。
閉店間際の店内は、半額シールの祭りだった。

弁当も、惣菜も、刺身も、全部が「50%OFF」の赤い文字を貼られて、助けを待っている。

透は唐揚げ弁当を二つ手に取った。
レジに並びながら、ふと考える。
いい人をやめる、と決めた朝から三日経った。怒る練習はまだできていない。

嫉妬も、憎しみも、うまく言葉にできない。ただ一つだけ、できるようになったことがある。

“見る”ことだ。

部下の疲れた顔を、見なかったことにしなかった。
「大丈夫?」と聞いたら、
「大丈夫じゃないです」と返ってきた。

それでいいのだ、と今は思う。

「お箸、お二つでよろしいですか」
レジの店員に言われて、透は頷いた。

「はい。二人分で」

袋を受け取り、多摩川沿いを歩く。橋はもう渡らない。
橋の手前のベンチが、定位置になった。
ベンチには、先客がいた。

「遅い」

佐倉美月が、膝にバッグを抱えて座っていた。
三日前と同じブラウスではなかった。
ちゃんとコートを着ていた。
化粧も、薄くしていた。

「残業」透は隣に腰を下ろした。
「ごめん」

「別に、待ってたわけじゃないから」

「はい」
袋から弁当を出す。
二つ並べる。
箸を割って、一つを渡す。

「……本当に食べるんだ」

「食うよ。約束したし」

三日前の朝、橋で別れ際に美月が言った。

『今度、半額じゃない弁当、奢ってよ』

『嫌だ』透は即答した。
『半額のほうがうまい』

『最低』

『最低だから』

そうして、なぜか今夜になった。

美月は箸で唐揚げをつついた。
口に入れる。
咀嚼する。
飲み込む。

「……うまい」

「だろ」

「悔しい」

二人は笑った。
川の向こうで、電車が光の帯を引いて走っていった。

「なあ」美月が言った。

「なに」

「あのさ、あの夜のこと、覚えてる?」

「どの夜」

「私が、橋から」

透は弁当を置いた。
美月を見た。
美月は川を見ていた。

「覚えてる」

「私、飛ぶつもりだったの」
美月は静かに言った。

「本当に。誰にも言わないでって言ったけど、本当は、誰かに止めてほしかったのかもしれない」

「……」

「でも、来ないでって言った。

来たら飛ぶって言った。
矛盾してるよね」

「人間だから」透は言った。
「矛盾してていいんだよ」

美月は唐揚げをもう一つ口に入れた。

「あのとき、透さん、欄干越えてきたでしょ」

「うん」

「落ちると思った。
死ぬと思った。
二人で死ぬんだと思った」

「俺も思った」

「でも、落ちなかった」

「うん」

「なんで」

透は空を見上げた。
星は見えない。
街の光が明るすぎるからだ。

でも、確かに上には宇宙があって、灰色の翼があったことを、彼は知っている。

「誰かが」透は言った。
「俺の中の、もう一人の俺が、『お前一人じゃ無理だ』って、背中を押したんだと思う」

「もう一人の、透さん?」

「うん。怒る俺。嫉妬する俺。殴りたいって思う俺。最低なほうの俺」
美月は箸を止めた。

「その人にも、会ってみたいな」

「会ってるよ」透は笑った。

「今、こうやって、あんたと半額弁当食ってるのが、そいつだから」

美月はきょとんとして、それから声を出して笑った。

橋の上では見せなかった、大きな笑い声だった。

「なにそれ。口説いてるの?」

「観測してるの」透は真顔で答えた。

「佐倉美月って人間が、唐揚げ好きで、笑うと目がなくなるってこと、今、観測した」

「きも」

「はい」

また笑った。

食べ終えた弁当の容器を、レジ袋にまとめる。
透が立って、ゴミ箱に捨てに行く。戻ってくると、美月がベンチの上で足をぶらぶらさせていた。

「ねえ、透さん」

「なに」

「私、まだ、死にたいって思うとき、あるよ」

透の足が止まった。

美月は続けた。

「でも、死なないって思うときも、ある。どっちもある。半々なの」

「……そっか」

「それでいいって、言ってくれる?」

透は美月の隣に座り直した。
肩が触れそうで、触れない距離。

「いいよ」

「本当に?」

「本当に」透は頷いた。

「どっちでもいい。どっちでも、あんたはあんただから」

美月は何も言わなかった。
ただ、すん、と鼻をすすった。

「やば。泣くところだった」

「泣いていいよ」

「やだ。化粧崩れる」

「そっか」

四月の夜風は、もう冬の匂いを残していなかった。

川の向こうから、新しい年度の、新しい生活の音が聞こえてくる。

「帰る」美月が立ち上がった。

「送ってく」

「いい。今日は、来ないで」

「わかった」

透は立ち上がらなかった。
ベンチに座ったまま、美月を見送る。

三日前と違うのは、美月が三歩進むたびに振り返ることだった。
三回目に振り返ったとき、
美月は言った。

「また、明日も」

「うん」

「半額弁当」

「うん」

「約束ね」

「約束」

美月は今度こそ振り返らずに歩いていった。
遊歩道の街灯が、彼女の髪をオレンジ色に染めていた。

透はベンチに一人残された。
ポケットを探る。
発泡酒は、もう買わなかった。
代わりに、缶コーヒーが一本入っていた。

微糖。

プルタブを開ける。
冷たい。

一口飲んで、空を見上げた。

翼はない。
でも、飛べる気がした。

落ちてもいい、と思える気がした。

缶を掲げる。
誰もいない夜に向かって、小さく呟いた。

「お疲れ。もう一人の俺」

風が、
返事の代わりにシャツを揺らした。



ーーーーーーーーーー

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【あとがき】

『黒い翼』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

この物語を書き終えた今、私は一つのことを思います。

人は誰しも、白い翼と黒い翼の両方を持っているのではないでしょうか。

誰かを助けたいと思う気持ちも、
誰かを羨み、憎み、怒る気持ちも、
どちらも間違いなく「自分」です。

けれど私たちは、大人になるにつれて、黒い翼を見ないように生きていきます。

いい人になろう。
優しくあろう。
怒らないようにしよう。

それはとても尊いことです。

しかし、黒い翼を閉じ込めたままでは、いつか自分自身が半分になってしまうのかもしれません。

この作品には三つの結末があります。

どれが正解なのか、私にもわかりません。

きっと人生と同じで、答えは一つではないのでしょう。

ただ一つ言えるのは、人は自分の闇を受け入れたとき、少しだけ誰かの痛みに寄り添えるようになるのではないか、ということです。

もしこの物語が、あなたの心の中にいる「もう一人のあなた」と出会うきっかけになれたなら、とても嬉しく思います。

そして願わくば、あなたの翼が白であっても、黒であっても、あるいはその間の灰色であっても、それを否定せずに生きていけますように。

また別の物語でお会いしましょう。


恋のリクエスト

- 一夜の夢、半世紀の恋 -


序章 深夜放送

 ガラス越しに見える街の灯りは、もうほとんど消えている。午前零時を過ぎたAMラジオ局のスタジオには、古いマイクスタンドと、壁いっぱいに並んだレコード棚の匂いだけが残っていた。
 杉田浩一は、卓上のオンエアランプが赤く灯るのを確かめてから、いつもの低い声で語りかけた。
「――今週のリクエストは……」
 四十年近く続けてきたこの深夜放送で、浩一は数えきれないほどの人生の欠片を聞いてきた。届いたハガキを読み、曲をかけ、誰かの夜にそっと寄り添う。それが、彼のすべてだった。
 けれど今夜は、いつもと違った。
 マイクの向こう側――いつもはスタッフしかいないガラス越しの椅子に、一人の女性が座っていたのだ。
 白髪混じりの髪を品よくまとめ、深い藍色のショールを肩にかけたその人は、微笑みながら浩一を見つめていた。皺の奥に残る面影に、浩一は息を呑んだ。
 中学の頃、隣のクラスにいた、谷村由美子。
 半世紀ぶりに会うその人を、浩一はすぐに分かった。いや、分かったというより、忘れたことなど一度もなかったのだ。
 番組では時折、リスナーから届いた身の上話を紹介してきた。数か月前、何の気なしに語った「中学時代、好きだった人に何も言えずに終わった」という話を、若いスタッフたちが覚えていて――今夜のために、彼女を探し出してくれたのだった。
「今週のリクエストは、谷村由美子さんから……」
 浩一がそう告げた瞬間だった。
 由美子の瞳に、みるみる涙が盛り上がった。何かを言おうとして、唇が震え、けれど言葉にならない。
 浩一はとっさにポケットからハンカチを取り出し、ガラスの仕切り越しに身を乗り出した。
「これで……どうぞ」
 微笑んでみせたが、由美子はそれを受け取ることもできないまま、ただ大粒の涙をこぼし続けた。
 スタッフが慌てて卓のフェーダーを上げる。あらかじめ用意されていたリクエスト曲――あの頃、深夜放送でよく流れていた、聴き覚えのあるイントロが、静かにスタジオを満たしていった。


 🎵ミスターDJ ミスターDJ 伝えてよ――🎵



 メロディが流れ始めると、浩一の意識は、ふいに足元から崩れていくような感覚に包まれた。
 スタジオの灯りが滲み、レコード棚の輪郭がぼやけ、四十年分の時間が、糸を引くように後ろへと流れていく。
 気がつけば、浩一は、もう一度あの場所に立っていた。
 昭和五十一年の春、桜の散る、中学校の廊下に。






第一章 廊下

 放課後でも、休み時間でもない。三時限目が終わったばかりの昼休み、北校舎の渡り廊下は、生徒たちの足音と笑い声でいつも騒がしかった。
 浩一は、隆たち悪友三人と連れ立って、購買部のパンを取り合うようにして廊下を駆けていた。十四歳の少年たちにとって、廊下を走るなという校則は、ほとんど意味を持たない言葉だった。
「浩一、お前そんなんじゃ追いつかねえぞ!」
 隆が振り返りながら笑う。浩一はムキになって加速し――そして、曲がり角から出てきた誰かに、まともにぶつかった。
 鈍い音がして、相手は廊下に尻もちをつき、抱えていた教科書とノートが派手に飛び散った。
「うわっ、ごめん!」
 声をかけながら顔を上げた浩一は、そこで初めて、ぶつかった相手をまともに見た。
 隣のクラスの女子だった。リボンの色が違うから、すぐに分かる。膝を擦りむいたのだろう、白いソックスに小さな血がにじんでいた。その子は、痛みよりも驚きの方が勝ったような顔で浩一を見上げ、それから――ゆっくりと、瞳に涙を溜めていった。
「だ、大丈夫? ごめんね、本当に」
 浩一は慌ててしゃがみ込み、散らばったノートを拾い集めた。一緒に走っていた隆たちは、まずいと思ったのか、いつの間にか姿を消していた。
 差し出した手を、彼女は取らなかった。代わりに、声を殺すようにして泣き始めた。膝の痛みのせいなのか、人前で転んだ恥ずかしさのせいなのか、浩一には分からなかった。ただ、目の前で泣いているこの子をどうにかしなければという焦りだけが、胸の中で大きくなっていった。
「ごめん……本当に、ごめん」
 何度謝っても、涙は止まらない。通りかかった担任の男性教師が、何事かと駆けつけてきて、「こら、廊下を走るからだろう」と浩一を一喝した。彼女は教師に支えられて立ち上がり、保健室の方へと連れられていった。
 浩一はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく後ろ姿を見送っていた。振り返ることのなかったその背中を、なぜだか目で追い続けてしまう自分がいた。
 教室に戻ってからも、午後の授業はまるで頭に入らなかった。さっき見た、涙に濡れた瞳。あれは一体、何だったのだろう。ただの後ろめたさだと、浩一は自分に言い聞かせようとした。けれど放課後になっても、その面影は消えなかった。
 帰りのホームルームで、担任が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。杉田、お前がぶつかった一組の谷村さん、膝の傷は大したことなかったそうだ。今度ちゃんと謝っておけよ」
 谷村――。
 名前を知っただけで、なぜか胸の奥がそわそわと音を立てた。
 その日の夜、浩一は布団の中で、何度も廊下でのことを思い返していた。怪我をさせてしまった申し訳なさのはずだった。それなのに思い出しているのは、申し訳なさよりも、彼女の涙に濡れた瞳の方だった。
 窓の外では、近所の家のラジオから、低い男の声が小さく聞こえていた。深夜放送だ。何を話しているのかは聞き取れなかったが、その声の調子だけが、やけに耳に残った。
 このとき浩一はまだ知らなかった。この廊下での出来事が、自分のその後の人生に、半世紀経っても消えない記憶として残り続けることになるとは。


第二章 隣のクラス

 それから浩一は、自分でも説明のつかない行動を取るようになった。
 休み時間のたびに、用もないのに一組の前の廊下を通る。給食の配膳台の順番を、わざと一組と重なる時間に変えてもらう。靴箱の場所すら、彼女のものがどこにあるか、いつの間にか覚えてしまっていた。
「お前、最近なんか変だぞ」
 隆に指摘されても、浩一は「別に」としか答えなかった。本当のことを言うのが、なぜだか恥ずかしかった。
 谷村由美子は、クラスでも目立つ存在だった。成績がいいわけでも、特別目を引く美人というわけでもない。けれど、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかさと、ふとした時に見せる笑顔に、男子も女子も自然と引き寄せられていた。気づけば彼女の周りにはいつも人が集まっていて、浩一はその輪の外側から、ただ眺めることしかできなかった。
──おれなんかが声をかけたところで。
 そう思うたび、胸の奥がちくりと痛んだ。あの廊下でぶつかった日から、彼女は浩一にとって、近くて遠い存在になっていた。同じ学年、隣のクラス。歩いて十数歩の距離にいるのに、まるで雲の上の人のように感じられた。
 そんなある日の放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「あの……杉田くん、だよね」
 振り返ると、由美子が立っていた。手には、見覚えのあるハンカチを持っている。先日の体育の授業中、校庭の隅に落としたまま忘れていたものだった。
「これ、杉田くんのだと思って。名前の刺繍が入ってたから」
「あ……ありがとう」
 声が上ずった。情けないほど上ずった。受け取ったハンカチの感触よりも、彼女がわざわざ自分の名前を覚えていてくれたという事実の方が、何倍も浩一の胸を騒がせた。
「この前は、ごめんね」
 浩一は思い切って言った。「廊下でぶつかった時、ちゃんと謝れなかったから」
 由美子は少し驚いたような顔をしてから、ふわりと笑った。
「ううん、もう平気。膝の傷も、もうほとんど治ったよ」
 それだけの会話だった。けれどその夜、浩一はハンカチを枕元に置いたまま、なかなか眠れなかった。
 このころから浩一は、深夜放送を聴く習慣がついた。布団に潜り込み、豆電球の薄明かりの中、小さなトランジスタラジオのダイヤルを回す。若者向けの深夜番組では、リスナーから届いたハガキが読まれ、その合間にリクエスト曲が流れた。誰かの恋の話、誰かの失恋の話。顔も知らない誰かの想いが、電波に乗って夜の中に溶けていく。それを聴いていると、不思議と心が落ち着いた。
 ノートの端に、何度も書いては消した文章があった。
「隣のクラスの、谷村由美子さんへ――」
 そこから先が、どうしても続かない。何を書けばいいのか分からないのではなく、書いた言葉が彼女に届くことを想像すると、急に怖くなるのだった。もし読まれたら。もし、知られてしまったら。
 結局、その葉書を出すことはなかった。机の引き出しの奥に、書きかけのまま、しまい込んだ。
 窓の外で、夜はいつも静かに更けていった。浩一はまだ、自分の中にある感情に、はっきりとした名前をつけられずにいた。けれどそれが恋と呼ばれるものだと、誰よりも自分自身が、もう気づき始めていた。


第三章 風に消えた言葉

 二年生になっても、浩一の想いは変わらなかった。むしろ、日を追うごとに大きくなっていくようだった。
 クラス替えで、由美子とは廊下で会う回数も減った。それでも体育祭で、文化祭で、彼女の姿を見かけるたびに、浩一の目は勝手に彼女を追ってしまう。隆をはじめとする友人たちは、もう気づいているようだった。けれど誰も、それをからかうことはしなかった。ただ、隆だけが時々、何か言いたげな顔で浩一を見ることがあった。
 転機が訪れたのは、秋の文化祭の夜だった。
 模擬店の片付けが終わったあと、校庭では恒例の打ち上げ花火が上がることになっていた。生徒たちは三々五々、校庭に出て夜空を見上げていた。浩一も隆たちと連れ立って校庭に出たが、人混みの中で、ふと一人になった瞬間があった。
 そこに、由美子がいた。
 クラスの出し物の片付けで遅くなったのか、一人で校舎の渡り廊下に腰掛け、夜空を見上げていた。浩一は声をかけるべきか迷ったが、足はもう、彼女の方へと向かっていた。
「谷村さん」
「あ……杉田くん」
 隣に座ることを許されたわけでもないのに、浩一は少し距離を置いて腰を下ろした。二人の間に、気まずいような、それでいて心地よいような沈黙が流れた。
 最初の花火が上がった。橙色の光が夜空に大きく広がり、由美子の横顔を照らし出した。
「きれいだね」
 由美子がぽつりと呟いた。
「うん」
 浩一はそれだけ答えるのが精一杯だった。心臓が、痛いくらいに早鐘を打っていた。今しかない、と思った。今、この瞬間を逃したら、もう二度とこんな機会は来ないかもしれない。
「あの、谷村さん」
「なに?」
 由美子が振り向いた。花火の光に照らされたその瞳を見た瞬間、浩一の喉は、急速に渇いていった。言おうとしていた言葉が、出かかったところで止まってしまう。
──好きなんだ。中学に入ってからずっと。
 たったそれだけの言葉が、どうしても出てこない。
「……いや、なんでもない」
 浩一は目を逸らして、そう言った。由美子は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。
 その時、遠くから「由美子ー!」と呼ぶ女子の声がした。クラスの友人たちが彼女を探していたのだ。由美子は立ち上がり、「じゃあね」と小さく手を振って、駆けていった。
 一人残された渡り廊下で、浩一は夜空に上がり続ける花火を、ただぼんやりと見上げていた。
 不思議なことに、その瞬間、誰かが自分の背中を強く押しているような感覚があった。今だ、追いかけろ、と。けれど浩一の足は、根が生えたように動かなかった。まるで自分の中に、もう一人の自分がいて、その声に必死で抗っているかのようだった。
 結局その夜、浩一は何も伝えられないまま、家路についた。風に乗って消えていった言葉を、何度も何度も、頭の中で繰り返しながら。


第四章 隆の告白

 三年生に上がってすぐの、ある放課後のことだった。
「浩一、ちょっと話あんだけど」
 校舎裏の自転車置き場で、隆が珍しく改まった顔をしていた。受験を控えたこの時期、何か深刻な相談かと身構える浩一に、隆は意を決したように言った。
「おれ、谷村さんに告白しようと思う」
 その瞬間、浩一の頭の中が真っ白になった。何か言わなければと思うのに、声が出てこない。
「お前も、谷村さんのこと気になってんだろ」
 隆は静かに続けた。「ずっと前から、なんとなく分かってた。でも……おれも、本気なんだ。だから先に言っとく」
 浩一は、何も言えなかった。ここで「実は自分も」と言えば、何かが変わったかもしれない。けれど長年の親友を前にして、その言葉はどうしても喉から出てこなかった。自分よりも勇気を出した隆を、突き放すようなことはできない。そう自分に言い聞かせながら、本当は、ただ怖かっただけなのかもしれなかった。
「……そっか」
 浩一はようやくそれだけを絞り出した。「頑張れよ」
 口にした瞬間、自分でも信じられないほど、空虚な響きがした。
 その夜、浩一は布団の中で、ラジオのダイヤルを回す手を止めたまま、ただ天井を見つめていた。机の引き出しの奥には、出さなかった葉書が、何枚も重なって眠っている。隆は今夜、由美子に何を伝えるつもりなのだろう。自分はなぜ、同じことができなかったのだろう。
 答えは分かっていた。浩一の中で、由美子はいつしか「高嶺の花」になっていた。クラスの誰からも好かれ、誰からも慕われる彼女。自分のような、ごく普通の、目立つところもない男子が想いを伝えたところで、笑われるか、困らせるだけだろう。そう自分に言い聞かせ続けることで、浩一は一歩を踏み出さない自分を、どうにか正当化していた。
 数日後、学校で隆と顔を合わせると、彼はどこか吹っ切れたような、それでいて寂しそうな表情をしていた。
「振られた」
 隆はあっさりとそう言った。「『ごめんね、好きな人がいるかもしれないから』だってさ。よく分かんねえよな、そういう言い方」
 浩一の心臓が、大きく跳ねた。好きな人が、いるかもしれない。それは一体、誰のことなのか。もしかして――そこまで考えて、浩一は慌ててその考えを打ち消した。自惚れるな、と自分を戒める。けれど一度芽生えた小さな期待は、簡単には消えてくれなかった。
「お前、今度こそ言えよ」
 隆は、浩一の肩を軽く叩きながら言った。「おれは振られたけど、お前は……まだチャンスあるかもしれねえぞ」
 その言葉に、浩一はただ曖昧に頷くことしかできなかった。チャンスがあるかもしれない。分かっている。分かっているのに、足が竦んで動かない。受験勉強を言い訳にして、浩一はまた、由美子への想いを胸の奥に押し込めていった。
 時間だけが、容赦なく過ぎていった。

第五章 卒業の日

 三月、卒業式の朝は、抜けるような青空だった。校庭の桜は、まだ固い蕾のままだったけれど、空気にはどこか春の匂いが混じっていた。
 式を終えた教室は、お祭りのあとのような騒がしさに包まれていた。卒業証書の筒を抱えた生徒たちが、寄せ書きの色紙を回し、写真を撮り合い、別れを惜しんでいる。浩一もまた、隆たちと写真に収まりながら、心のどこかでずっと、由美子の姿を目で追っていた。
 廊下に出ると、一組の生徒たちの輪の中に、由美子の姿が見えた。友人たちに囲まれ、笑いながら色紙にサインをしている。あの日、ぶつかって泣かせてしまった少女は、もうすっかり大人びた表情をしていた。
──今しかない。
 浩一は、自分にそう言い聞かせた。高校はそれぞれ別の場所に決まっている。この学校で彼女と会えるのは、もうこれが最後だった。半年前の文化祭の夜と同じ後悔を、二度と繰り返したくない。そう思った。
 人混みをかき分けるようにして、浩一は由美子のそばまで歩み寄った。
「谷村さん」
 声をかけると、由美子は振り返り、いつもの柔らかな笑顔を向けた。
「杉田くん。卒業おめでとう」
「あの……」
 浩一は、深く息を吸い込んだ。心臓が痛いくらいに脈打っていた。三年間、ずっと言えなかった言葉が、ようやく喉元までせり上がってきていた。
「谷村さんに、ずっと――」
 そこまで言いかけたとき、「由美子ちゃん、こっちでも写真撮ろうよ!」と、彼女の友人たちが駆け寄ってきた。由美子はくるりと振り向き、「あ、ごめんね、呼ばれちゃった」と浩一に微笑みかけると、友人たちの輪の中へと吸い込まれていった。
 浩一は、伸ばしかけた手を、虚しく下ろした。
 校門に向かう人波の中、振り返った由美子と、一瞬だけ目が合った。彼女は小さく手を振った。それが、最後だった。浩一もぎこちなく手を振り返したが、結局、伝えるべき言葉は、最後まで音にならないままだった。
 校庭の隅に一人残った浩一は、人波が去っていく校門を、長い間見つめていた。三年前、廊下でぶつかったあの日から始まった想いが、何の結末も迎えないまま、静かに幕を下ろそうとしていた。
「言えなかったのか」
 いつの間にか隣に来ていた隆が、静かに尋ねた。浩一は答える代わりに、小さく首を振った。
「そっか」
 隆はそれ以上何も言わず、ただ浩一の肩に手を置いた。友人にできる、せめてもの慰めだった。
 桜のまだ蕾のままの枝の下を、二人は無言で歩いた。後悔だけが、浩一の胸の中に、重く沈んでいった。あの日、廊下でぶつかった瞬間から始まったこの想いは、結局、誰にも届かないまま、中学生活とともに終わってしまったのだった。

第六章 深夜放送への手紙

 高校生になっても、浩一の中から由美子の面影が消えることはなかった。違う制服を着て、違う友人たちに囲まれながらも、ふとした瞬間――桜の季節になると、廊下を走る生徒たちを見ると、決まって彼女のことを思い出した。
 夏休みのある夜、浩一は久しぶりに机に向かい、白い葉書を一枚取り出した。長い間、書いては消し、消しては書いてきた、あの言葉を。今度は、最後まで書き切るつもりだった。
 ペンを握り、しばらく宙を見つめてから、浩一はゆっくりと文字を綴り始めた。
「中学三年間、隣のクラスにいた人のことが、ずっと好きでした。一度もそれを伝えられないまま、卒業してしまいました。今でも、あの人のことを思い出すと、苦しくなります。もしよかったら、あの頃よく流れていたあの曲を、かけてもらえないでしょうか」
 差出人の名前は、書かなかった。曲のリクエストの欄には、文化祭の夜、二人で見上げた花火の下で流れていたあの曲のタイトルを書いた。
 封をする手が、少し震えていた。これを出したところで、由美子に届くわけではない。彼女がこの番組を聴いている保証すらない。それでも浩一は、どうしてもこの想いを、形にして外に出したかった。電波に乗せて、夜の中に流してしまいたかった。
 葉書をポストに投函した夜から、浩一は毎晩、ラジオの前で正座するようにして放送を聴いた。一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、自分の葉書が読まれることはなかった。それでも諦めずに、布団の中でダイヤルを合わせ続けた。
 そして三週間目のある夜、聞き覚えのある低い声が、こう告げた。
「今夜のリクエストは……ペンネーム、ヒロくんから」
 浩一は飛び起きた。心臓が、痛いくらいに高鳴っていた。
 DJは、浩一の書いた言葉を、丁寧に読み上げた。誰にも言えなかった想い、言えないまま終わってしまった後悔。それが、知らない誰かの声によって、夜の電波に乗せられていく。スピーカーから流れてくる自分の言葉を聞きながら、浩一は、声を殺して泣いた。悲しいからではなかった。ようやく、この想いを誰かに――たとえそれが顔も知らないDJであっても――聞いてもらえたことが、たまらなく嬉しかったのだ。
 曲が流れ始めた。あの夜、花火の下で聞いたのと同じ旋律。浩一は布団の中で膝を抱え、暗闇の中、何度もその曲を聴き返した。
 由美子には、結局届かなかったかもしれない。それでも、あの夜流れた言葉と曲が、たしかに自分の十代の真ん中にあった想いを、形として残してくれた。そんな気がした。
 この夜のことを、浩一は生涯忘れなかった。大人になり、進学のために東京へ出て、紆余曲折を経てラジオの世界に入ったのも、あの夜、暗闇の中で聴いた自分の言葉と、それに応えてくれたDJの声が、心のどこかにずっと残っていたからかもしれない。
 由美子のその後を、浩一は人づてに少しだけ聞いたことがあった。違う高校に進み、やがて地元を離れたということ。それ以上のことは、何も分からなかった。
 季節は巡り、年月は流れた。浩一は自分の番組を持つようになり、誰かの想いを電波に乗せる側の人間になった。けれど由美子への想いだけは、半世紀近い時が過ぎても、あの夜のまま、胸の奥に静かに眠り続けていた。


終章 目覚め

「――先生、先生、大丈夫ですか」
 肩を揺さぶられ、浩一はゆっくりと目を開けた。スタジオの隣にある仮眠室の硬いソファの上だった。壁の時計は、午前三時を少し回っている。
「収録が終わったあと、座ったまま眠ってしまわれて。ずいぶんうなされてましたよ」
 若いディレクターが、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
 夢、だったのか。
 浩一は身体を起こし、こめかみを押さえた。あまりにも鮮明な夢だった。廊下の冷たい板張りの感触、花火の匂い、由美子の涙に濡れた瞳――まるで本当に、もう一度あの日々を生きてきたかのような感覚が、まだ身体の奥に残っていた。
 不思議なことに、これまでどうしても思い出せなかった由美子の顔の細部が、今朝ははっきりと思い出せた。笑った時に少しだけ下がる目尻も、話すときに小さく傾ける首の角度も。半世紀という歳月に薄れていたはずの記憶が、夢を通って、くっきりとした輪郭を取り戻していた。
「そういえば」
 ディレクターが思い出したように言った。「さっき、谷村さんが帰り際に、ロビーのスタッフにこれを預けていかれたそうです」
 差し出されたのは、一枚の古びた葉書だった。色褪せた紙の端は、長い年月を物語るように、ひどく擦り切れている。
 浩一は震える手でそれを受け取り、裏返した。見覚えのある、自分の少し癖のある文字が、そこに並んでいた。
「中学三年間、隣のクラスにいた人のことが、ずっと好きでした……」
 それは、夢の中で書いたはずの、あの葉書だった。十六歳の夏、誰にも知られず投函した、あのままの言葉。けれど現実の浩一は、あの葉書をいつ、どんな経緯で由美子の手元に渡したのか、まるで覚えがなかった。
 葉書の隅には、小さく走り書きが添えられていた。
「あの夜、ラジオから流れてきたこの言葉、誰のことを言っているのか、ずっと考えていました。卒業して何年も経ってから、消印の局名と、教えてもらった筆跡で、やっと分かったんです。ありがとう。あなたの言葉、ちゃんと届いていました」
 浩一は、しばらく言葉を失っていた。
 夢の中の出来事だと思っていたものが、本当に起きたことだったのか。それとも、長い年月の中で、現実と記憶と願いが溶け合い、今夜という夜に、形を結んだだけなのか。浩一には、もう判断がつかなかった。判断する必要もないように思えた。
 ただ確かなのは、十四歳のあの廊下で始まった小さな出来事が、五十年という長い時間を巡って、ようやく一つの円を閉じたということだった。
 窓の外が、わずかに白み始めている。浩一は古い葉書を胸ポケットにしまい、そっと立ち上がった。
 来週も、この深夜放送は続く。机の上には、まだ読んでいないリスナーからの葉書が、何十通も積まれている。誰かが、誰かに伝えられなかった言葉を抱えて、今夜もまたペンを取っているのかもしれない。
 浩一は小さく微笑んだ。
――来週あたり、あの曲を、もう一度リクエストしてみようか。
 音源は、まだ局のアーカイブに残っているだろうか。
 そう思いながら、浩一はスタジオへと続く廊下を、ゆっくりと歩き出した。窓の外では、まだ見えない桜のつぼみが、静かに春を待っていた。

(了)



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あとがき

『恋のリクエスト ― 一夜の夢、半世紀の恋 ―』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

人は人生の中で、伝えられなかった言葉をいくつ抱えて生きているのでしょう。

「あの時、もう少し勇気があったなら。」
「あと一歩だけ、踏み出していたなら。」

そんな思い出は、誰の胸にもひとつやふたつ、あるのではないかと思います。

この物語は、そんな「言えなかった想い」をテーマに書きました。

たった一度のすれ違い。
たった一言、口にできなかった言葉。

けれど、その小さな出来事が、時には何十年もの間、心のどこかで静かに生き続けることがあります。

そして私は、そんな記憶もまた、人を形作る大切な宝物なのではないかと思っています。

深夜ラジオという場所には、不思議な力があります。

顔も知らない誰かの声が、眠れない夜に寄り添ってくれる。
誰にも言えなかった気持ちを、そっと受け止めてくれる。

私自身、ラジオから流れてきた何気ない一言に励まされ、救われたことがあります。

もし、この物語を読んでくださったあなたの心の中にも、昔の誰かの笑顔や、伝えられなかった言葉が浮かんだなら、作者としてとても嬉しく思います。

人生には、叶わなかった恋があります。

けれど、叶わなかったからこそ、いつまでも美しく、やさしく心に残るものもあるのでしょう。

そして、もしかしたら――。

あなたが「届かなかった」と思っているその想いは、どこかでちゃんと、誰かの心に届いているのかもしれません。

この物語が、あなた自身の大切な記憶を振り返る、静かな時間になれたなら幸いです。

また別の物語で、お会いできる日を願って。

ワールドカップが始まって
世界はやっぱり
サッカーなんだなあと
思いながら…

普段 観なくなったサッカーを
この時期だけは
にわかファンとなり
楽しく観ながら
また 呟いてみる

アディショナルタイム?

ロスタイムで良いじゃあないか!

それよりも
何分何秒なんだよ! と

そうだ
何秒が大事なのだ!

アメフトならば
その残り3秒でも
試合がひっくり返る

その曖昧なことが
なんとも
観る側には…

1点づつしか入らないルール
だから
3-0にもなると
面白さが欠けても来る

野球ならば
満塁ホームランで4点
バスケは3点もある
アメフトは6点
ラグビーは5点…
そんなことだよ

それから
90分 
ボールの行方を追わしておいて

0-0 の引き分け? って
なんだよ?

勝ち負けの決着をつけなよ! 
っても…

それだって
PK ってやつは やるせないよな

いっそ
キーパーを外して
ゴールラインから
11人全員が蹴って
いくつ入るか の方が
良いんじゃね! なんて…




そんなことを
ブツブツ 呟きながらも

孫たちの誰かが
こうした場所まで
届いてくれないかなあ などと
楽しみにしてみる
65歳

僕の届かなかった場所へ
僕のDNAだけでも
いつか
誰かが
届けてくれると 良いなあ