いつの間にか季節は巡り

今年ばかりは

居残ることなく終えそうな夏


9月というのは
好きではないと
いや
嫌いだったなあと
今更ながら振り返る



夏休みが終わり
2学期が始まり

夏の終わりと共に
彼女たちの心も離れ

始めての彼女に
フラれたのもまた
9月だったなあ なんて

半世紀もが過ぎたというのに
あの日の
あの彼女の言葉と姿とが
今もまだ
残っているから仕方ない

ラジオからは
竹内まりやさんの
Septemberが流れ

無理矢理 その歌詞へと
重ね合わせては
ひとり黄昏れてもみる

もう何も届かないのに
もう何も変わらないのに

男は
女のように
上書きは出来ず

朽ちて行く
メモリースティックに
刻まれたままなのだろう


さて
今年も
富士山が閉山となり
季節の終わりを告げるかのように

それでも
アルプスや
近くの低山たちは
これから
見頃を迎えようとしている

不思議かな
その境目は
3000mくらいにあって

2000m級の山々は
樹林帯の中で
その美しさを
待ち侘びている



さて
今シーズンは
体調不良と
悪天候と
熊の出没により
抑えられたままの山

それでも
なんとかしたいと
まずは熊避けのスプレーを
準備した

しかし
先日の無理なストレッチにより
せっかくのリハビリも
またフリダシへと戻り

どうやら
北アルプスの紅葉には
間に合いそうもない

すれば
せめて
尾瀬か

戸隠あたりを
ぶらりしたいと
今一度
老い始めた身体と
相談せねばならず

その後に控える
孫娘とのスキーにも
なんとか
意地でも間に合わせたいと
ジタバタし始めてみた



さあ
いよいよ夏が終わり
短い秋が
目の前にある

冬が来る前に
何が出来るのか
何をするべきか

ご同輩
もう少し
ジタバタしてみよう

朝から
1日雨予報となり
ならば
もしや
少しは空いてるかも なんて
出掛けてみた
東京都美術館

しかし
同じような考えの方々か
それほど空いてるはずはなく
結構な並びの末
観ることが出来た



そこでは
イギリスの大英博物館から
里帰りしたというものが
所狭しと並び

それはそれは
凄いものばかり

久々に圧倒されて
身震いなどした

これだけのものが
なぜゆえイギリスへ? と
残念に思いながらも

いやいや
海外へと流出していたから
残った作品ばかり

戦争とは
火災とは
震災とは
多くを失い

おかげで僕たちは
今
タイムマシンの如く
それらを
目の前に出来る





東京が終われば
大阪へと移り

やがてまた
イギリスへと戻る

時折
そんな仕掛け人たちのおかげで
この国では
多くを目の前にすることが出来る



やはり
大事なことは
本物を観ること

本物を目の前にし
一瞬でも
その1番近くにいるということ

すれば
わずか数秒でも
独占した気にもなれて

その後
テレビや雑誌で
それらを見た時に

あれは
あの日
ここにあったと
自己満足などして
微笑むことが出来るのだろう


東京都美術館100周年
百花繚乱展
ありがとう


そうそう
ここもまた
65歳以上の
シニア料金を設定してあり
その恩恵に授かった

いつの間にか
そんな齢に
なった…


そんな齢に
なれた…


ギックリ・コンタクト
―老いと踊る、腰の中の侵入者―


まえがき
人は、歳を取る。
これは誰にでも平等に訪れる、どうにも避けようのない現実です。
昨日まで普通にできたことが、今日は少し難しい。
立ち上がるときに「よいしょ」と声が出たり、階段を見れば一瞬足がすくんだり。久しぶりに庭仕事をしようものなら、翌日には身体中から苦情の嵐が届きます。
なかでも厄介なのが、前触れもなくやってくる「ぎっくり腰」です。
本人としては、ただ鉢を持ち上げただけ。
あるいは、靴下を履こうとしただけ。
それなのに腰はこちらの事情など一切構わず、「本日の営業は終了しました」とあっさり看板を下ろしてしまう。
本作は、そんな身近な「老い」と「ぎっくり腰」を入口にした物語です。もしも人間の身体の中に、老化を研究する小さな宇宙の機械が住み着いていたら――という、少し可笑しくて、少し切ないSFコメディとなっています。
老いは、退治すべき敵なのか。
それとも、身体が送ってくる「そろそろ無理をするな」という、小さなメッセージなのか。
ぎっくり腰になったことのある方も、まだ幸運にもなったことがない方も。
どうぞ腰をいたわり、お茶でも飲みながらお楽しみください。




序章 昨日と今日のあいだ
昨日できなかったことが、今日できるようになった。
孫たちは、そんな小さな進歩を見つけるたびに、無邪気に笑う。
「じいじ、昨日より上手!」
大月甚平、六十八歳。
その笑顔を見るたび、甚平の胸のどこかが、ちくりと痛む。
なぜなら甚平にとって、近ごろの「昨日と今日」は、まるで逆さまだからだ。
昨日できたことが、今日はできない。
しかも、その差は日に日に大きくなっている。
朝、布団から起き上がる。それだけで一仕事だ。
靴下を履く。それだけで一苦労。
庭の草むしりをすれば、翌日は腰が文句を言う。
擦り傷ひとつ治るのにも、若い頃なら二、三日だったものが、今では律儀に一週間かかる。
そして今。
彼の腰は――というより「腰から下」全体は――かれこれ一週間、まったく仕事をする気配がない。
「まあ、年だからねえ」
近所の誰もが、そう言って笑う。
甚平も、そう自分に言い聞かせている。
六十八歳。もう若くはない。
そのことくらい、本人が一番よく分かっている。
だが、どうしても諦められないことが一つあった。
孫娘のゆきが、この冬、初めてスキーをする。
「じいじ、一緒に滑ってね」
そう言われたのだ。
その約束だけは、何としてでも守りたかった。
そして、その夜。
甚平はまだ知らなかった。
自分の腰の奥に、笑えない――いや、笑うしかない「同居人」がいることを。



第一章 三度目の正直、いや正直ではない
事の発端は、庭のプランターだった。
冬支度のため、少し重たい鉢を持ち上げようとした。ただ、それだけだった。
「よいしょ」
次の瞬間。
――グキッ。
甚平の腰が、まるで枯れ枝を踏み折ったような音を立てた。
「う……」
その場から動けない。これで三度目だった。
去年の暮れに一度。今年の花見の前に一度。そして今回。
「お父さん、また?」
娘の由美が呆れた声で駆けつけた。
居間のソファまで貼うようにして移動した甚平は、精一杯の虚勢を張った。
「なあに、少し休めば治る。若い頃はこんなもの、寝て起きれば治ったもんだ」
「若い頃の話でしょ、それ。もう六十八だよ」
正論というものは、いつだって胸に刺さる。
翌日、しぶしぶ訪れた接骨院で、院長の鬼灯(ほおずき)先生は、甚平の話を聞きながら笑った。
「大月さん、これはねえ、身体が『壊れた』んじゃありません」
「じゃあ、何です?」
「『警告灯が点いた』んですよ」
「警告灯?」
「ええ。今までの運転では無理がありますよ、もう少し身体をいたわってください、ということです」
甚平は顔をしかめた。
「先生、気休めはいいから、いつ治るか教えてくださいよ。孫がこの冬、スキーデビューするんです。それまでに、ちゃんと付き添ってやりたい」
鬼灯先生は、甚平の顔をじっと見た。そして、なぜか意味ありげに笑った。
「三ヶ月、ですか……」
「何です?」
「いえ。面白いことを言うなあと思いまして」
何が面白いのか、そのときの甚平には分からなかった。
その夜。
湿布を貼って早々に布団へ入った甚平は、痛みの余韻でなかなか眠れなかった。
天井を睨みながら、ぼんやり考える。
(怪我をせんように、しなやかに戻しておかねばな……)
孫娘のゆきは、今年七歳になる。
スキーウェアを試着しては、鏡の前でくるくる回る。あの笑顔を、ゲレンデで見たい。
それだけが、今の甚平の一番の望みだった。
そして、うとうとしかけた、その時――。
「――あの、すみません」
腰のあたりから、小さな、くぐもった声がした。



第二章 真夜中のノック
甚平は飛び起きた。
正確には、飛び起きようとして、腰の激痛で再び布団へ倒れ込んだ。
「だ、誰だ!」
部屋には誰もいない。妻はとうに他界している。今は一人暮らしだ。
二階の寝室には、甚平しかいない。
だが、声は確かに聞こえた。
しかも、部屋のどこかからではない。
――自分の腰の内側から。
「落ち着いてください」
声がした。
「取り乱されると、こちらとしても困ります。今、その姿勢で暴れられますと、私の方が先に壊れます」
甚平は固まった。
「お、お前……腰の中にいるのか」
「正確には、第三腰椎と第四腰椎の間、椎間板のやや後方です」
「そんなこと聞いてない!」
「失礼しました。ですが、正確さは大事にしたいもので」
律儀な口調だった。
まるで役所の窓口で、書類の不備を淡々と指摘されているような気分になる。
「幻聴だ」
甚平は自分に言い聞かせた。
「疲れているんだ、俺は」
布団を頭までかぶる。すると声がした。
「幻聴でしたら、こんなに筋の通った会話にはなりませんよ」
「……」
「それに、幻聴なら痛みは治まりません」
「何?」
「試しに、深呼吸してみてください」
甚平は恐る恐る息を吸った。
「今、痛みを一時的に十パーセントほど緩和しておきました」
「……本当に?」
「サービスです」
甚平は布団から顔を出した。少しだけ痛みが和らいでいる。
腰のあたりに、そっと手を当てる。
「……お前、何者だ」
声が、少し嬉しそうになった。
「やっと聞いてくださいましたね」
「……」
「長かったんですよ。一週間、ずっと話しかけていたんですが」
甚平は絶句した。
一週間。つまり――。
「お前、最初の『グキッ』の時からいたのか?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「じゃあ、あの時、俺が『もう駄目だ』って言ったのも聞いてたのか?」
「聞いていました」
「『救急車呼ぶなよ』って言ったのも?」
「それも」
「……」
甚平は天井を見上げた。
「最悪の同居人だ」
「私も、そう思います」



第三章 自己紹介、および謝罪
翌朝。
甚平は寝不足の目をこすりながら、台所で湯呑みを片手に「声」との対話を続けていた。
傍から見れば、独り言をぶつぶつ言う老人にしか見えない。
幸い、由美はまだ来ていない。
「まず名乗れ。話はそれからだ」
「失礼しました」
声が少し改まった。
「私は識別番号Q-77821。通称『コシラー』と呼ばれております」
「コシラー……」
「旧式の関節保守調査機です」
「要するに?」
「あなたの腰の中に住んでいる、小さな機械です」
甚平は湯呑みを落としかけた。
「機械だと?」
「はい」
「宇宙人じゃなくて?」
「宇宙人というほど大げさなものではありません」
「腰の中に勝手に住み着いてる時点で、十分大げさだ」
「ごもっともです」
コシラーの説明によれば、宇宙のどこかには、生物の「老化」を研究する観測機関があるという。
名称は――。
「銀河老化管理局」
「……」
「何です?」
「宇宙にも役所があるのか」
「あります」
「しかも名前が役所そのものだな」
「組織名については、私も少し古臭いと思っています」
銀河老化管理局。
そこでは、さまざまな知的生命体の老化を観察している。
多くの文明では、老化は技術によって克服されている。
ところが地球では違う。
老いていく身体を抱えながら、人間は生きる。
できなくなったことを嘆きながら、それでも別の何かを見つける。
それが、彼らには非常に興味深いらしい。
「私のような小型調査機は、対象の体内に潜り込み、老化の進行データを収集します」
「勝手に?」
「正確には、契約に基づいております」
「誰との契約だ?」
コシラーは少し黙った。
「あなたのお父上です」
甚平の手が止まった。



第四章 銀河老化管理局
「親父?」
甚平の父・大月甚一は、五年前に八十九歳で亡くなっている。
甚一は、晩年まで妙に身体を大切にする人だった。
毎朝、庭を歩いた。膝が痛いと言いながら、簡単な体操を続けた。
そして七十歳の頃、突然スキーを始めた。
甚平には、それがずっと不思議だった。
「ご説明します」
コシラーが言った。
「約二十年前、甚一さんの体内で長らく任務についていた先輩機が、老朽化のため役目を終えました」
「お前じゃないのか?」
「私は後継機です」
「で?」
「引き継ぎの際、少々手違いがありまして」
「また手違いか」
「業界では『緊急転居』と呼んでおります」
「絶対に業界用語じゃないだろ」
コシラーは続けた。
甚一が亡くなる直前、コシラーは次の宿主へ移る準備をしていた。
本来なら、血縁者の中から最も適した人物を選ぶ。
ところが当時、大月家に泊まり込んでいたのは、父の介護をしていた甚平だけだった。
「つまり……」
「あなたに乗り換えました」
「なりゆきで?」
「はい」
甚平は頭を抱えた。腰が痛い。
それだけでも厄介なのに、亡き父の「同居人」まで引き継いでいた。
「じゃあ、この一週間治らない腰痛も、お前のせいか?」
「そこは、お詫びしなければなりません」
コシラーの声が沈んだ。
「本来、私には『円滑化パッチ』という補助機能があります」
「何だ、それは」
「関節の動きを、年齢相応かつ無理のない範囲で滑らかに保つ機能です」
「年齢相応というのが、妙に気に障るな」
「申し訳ありません」
「で?」
「先日のプランター事件の際、私はデータ収集を優先してしまいました」
「それで?」
「パッチの適用が一瞬遅れました」
「一瞬でグキッか」
「はい」
「……」
「本当に申し訳ありません」
甚平は怒る気にもなれなかった。
「お前、機械のくせに妙に律儀だな」
「父君にも、同じことを言われました」
その一言に、甚平は少し黙った。



第五章 鬼灯接骨院の秘密
コシラーとの奇妙な同居生活が始まって三日目。
甚平は再び鬼灯接骨院を訪れた。
施術台に横たわりながら、甚平は周りを気にしつつ声を潜めた。
「先生」
「はい」
「単刀直入に聞きますが……」
「何でしょう」
「先生の腰にも、何か『いる』んじゃないですか?」
鬼灯先生の手が、ぴたりと止まった。
数秒の静寂。そして――。
「ははははは!」
大笑いした。
「やっぱり分かっちゃいましたか」
「やっぱり?」
「ええ。コシラー君でしょう?」
甚平は目を見開いた。
「知ってるんですか!」
「私のところにいるのは、もう五代目ですよ」
「五代目?」
「ずいぶん長い付き合いです」
鬼灯先生は何事もなかったように施術を続けた。
「実はね、大月さん。ここには、あなたと似た人が何人か来ます」
「腰の中に機械がいる人が?」
「ええ」
「いるのかよ!」
「ただし、本人たちには言ってません」
「なんで?」
「言っても信じないでしょう」
「俺は?」
「大月さんは、運が悪かったんですよ。痛みで寝不足でしたから」
「ひどい話だ」
「でもね」
鬼灯先生の声が少し優しくなった。
「彼らは、そんなに悪いやつらじゃないんですよ」
「宇宙の機械が?」
「ええ。むしろ、私たちが『もう年だから仕方ない』と諦めかけたところを、こっそり支えてくれている」
「ただし、時々ドジを踏む」
「その通りです」
甚平は腰に手を当てた。
「今回みたいに?」
「今回みたいに」
すると腰の奥から、くぐもった声がした。
「……盗み聞きしていました。すみません」
鬼灯先生はクスクスと笑った。
「ほら、悪いやつじゃないでしょう?」
「まあ……」
甚平は苦笑した。
「孫のスキーを見たいなんて言ってるところまで聞いてたんだろ?」
「はい」
「お前、本気なのか?」
「はい」
コシラーは静かに答えた。
「大月さんが、その日を楽しみにしていることは、私にも分かりますから」



第六章 回収命令
事態が急変したのは、その翌週だった。
深夜。
甚平が布団に入ろうとした時、コシラーの声が、いつになく緊張していた。
「大月さん」
「何だ」
「少々、厄介なことになりました」
「今度は何だ」
「本部から、回収命令が出ました」
甚平は眉をひそめた。
「回収?」
「はい」
任務中の逸脱行為。宿主との過度な会話。そして、規定以上の感情移入。
それが問題になったらしい。
「呼び戻されたら、どうなる?」
「一時的に私はあなたの腰から離れます」
「その間は?」
「円滑化パッチも停止します」
「つまり?」
「ここ最近より、かなり痛くなる可能性があります」
「冗談じゃない」
甚平は布団の上で拳を握った。
「孫のスキーデビューまで、あと二ヶ月半しかないんだぞ」
「承知しています」
「俺は約束したんだ」
「はい」
その翌夜。
腰の奥から、今まで聞いたことのない、やけに威圧的な声が響いた。
「Q-77821、聞こえているな」
「はい」
「サビ取り三等監察官である」
甚平は眉をひそめた。
「サビ取り?」
「正式名称です」
「ずいぶん庶民的だな」
「黙れ、大月甚平」
「……」
「あなたの腰に住み着いているこの調査機は、任務規定に反し、宿主との過度な交流を続けている」
「交流じゃない。こいつは俺の腰の中にいるんだ」
「それを交流と呼ぶ」
「ずいぶん融通が利かないな」
「規定は規定だ」
甚平は腹を立てた。
「こいつがいなくなったら、俺は孫との約束を果たせない」
「感傷的な問題は、当局の管轄外だ」
その言葉に、甚平は黙った。そして、ゆっくり言った。
「なら、感傷じゃない話をしよう」
「何?」
「高齢の人間が、明確な目標を持って身体機能の回復を試みるケース」
サビ取り部長は沈黙した。甚平は続ける。
「そういうデータが、お前たちにとって貴重なんじゃないのか?」
沈黙。
「どうなんだ?」
さらに沈黙。やがて――。
「……続けたまえ」
甚平は、思わず笑った。
「宇宙の役所も、黙るときは長いんだな」
「本官にも聞こえているぞ」
「聞こえて結構だ」



第七章 亡き父の日記
膠着状態のまま、数日が過ぎた。
ある日、甚平は実家の蔵を整理していた。
古い箱。古い写真。古い道具。
そして、一冊の革の手帳が出てきた。父・甚一の日記だった。
パラパラとページをめくる。
七十歳の欄に、こんな一文があった。
『今日、コシラーとやらに、しなやかさを取り戻したいと相談した』
甚平の手が止まった。
『孫と滑りたい。ただそれだけの願いだが、こいつは真剣に付き合ってくれる。妙な機械だが、悪くない同居人だ』
甚平は顔を上げた。
「親父……」
腰の奥から、静かな声がした。
「はい」
「お前……あの時も、コシラーだったのか」
「同じ個体です」
「ずっと?」
「はい」
「二十年以上?」
「正確には二十一年と――」
「そこはいい」
甚平は笑った。
七十歳で突然スキーを始めた父。
当時、三十代半ばだった甚平には、それが単なる「変わり者の道楽」にしか見えなかった。
だが、日記には別の理由が書かれていた。
『甚平が大きくなった。今度は孫と滑りたいと言っている。身体は思うようにならないが、気持ちはまだ滑りたい』
さらにページをめくる。
『膝が笑う。腰も笑う。それでも今日は、笑って滑れた』
そして最後に。
『孫の甚平の目が輝いていた。それだけで、来た甲斐があった』
甚平は日記を胸に抱いた。
自分は今、あの日の父と、同じ場所に立っている。
父も、老いていた。
自分も、老いている。
そして二人とも、身体が思うようにならなくなった時に、「誰かと何かをしたい」と願っていた。
甚平は、小さく笑った。
「親父も、結構な物好きだったんだな」
「はい」
コシラーが答えた。
「そこは、非常によく似ています」
「誰に似たんだ」
「お父上に」
「……そうか」
甚平は、もう一度日記を開いた。



第八章 リハビリ大作戦、開始
「よし」
翌朝。甚平はぐっと床を踏みしめて立ち上がった。
少しふらついた。だが、立った。
「決めた」
「何をでしょう」
「やる」
「何を?」
「スキーだ」
「はい」
「サビ取り部長が何と言おうと、やる」
「承知しました」
「ただし――」
甚平は痛む腰にそっと手を添えた。
「今度は無茶をしない」
コシラーが、心なしか嬉しそうな声を上げた。
「それが一番です」
そこから、一人と一機による、奇妙なリハビリ生活が始まった。
朝は軽いストレッチ。決して無理はしない。
痛みを無視せず、身体の声を聞く。
少し歩く。休む。また少し歩く。
「今日はここまでです」
「まだできる」
「駄目です」
「昔なら――」
「昔は、もう終了しました」
「機械のくせに冷たいな」
「機械だからこそ、記録を正確に残せます」
「俺は記録じゃない」
「承知しています」
甚平は苦笑しながら、指示通りに息を整えた。
散歩の距離が少しずつ伸びた。庭仕事も時間を区切って再開した。椅子から立ち上がる所作も滑らかになり、スクワットも無理のない範囲で取り入れた。
「今日は十回です」
「二十回」
「十回」
「十五回」
「十一回」
「なんで一回だけ増やすんだ」
「交渉の結果です」
甚平は声を上げて笑った。
いつの間にか、腰の痛みばかりを気にする時間が減っていた。
代わりに、「今日は昨日より歩けた」という小さな変化を楽しむようになっていた。
由美も、父の変化に気づいた。
「最近、お父さん、独り言増えたね」
「独り言じゃない」
「じゃあ、誰と話してるの?」
甚平は少し考えた。
「腰の調子について、詳しいやつだ」
由美は怪訝な顔をした。
「お父さん、いよいよ変になった?」
「失礼な娘だな」
「でも、楽しそう」
甚平は笑った。
「まあな」
腰の奥から、小さな声が聞こえた。
「嬉しいです」
「何が?」
「大月さんが、笑っているので」



第九章 サビ取り部長、再び
一ヶ月後。
リハビリの成果が、少しずつ形になってきた。
歩く距離は伸び、腰の鈍痛も減った。何より甚平自身が、自分の身体をもう一度信用できるようになっていた。
そんなある夜。
再び、サビ取り部長からの通信が入った。
「Q-77821」
「はい」
「報告を聞いた」
「はい」
「宿主の関節可動域、想定を上回る改善が見られている」
コシラーは黙っていた。
「本人の努力によるものです」
「その通りだ」
サビ取り部長は意外にも素直だった。
「当局でも、こうした『目的を持った高齢個体の機能回復』について、研究価値が高いとの判断が出た」
甚平が口を挟んだ。
「つまり?」
「つまり、観測を継続する」
「回収は?」
「見送る」
「本当に?」
「ただし」
やっぱり来た。
「今回の成果報告書の責任者欄には、本官の名前を記載すること」
甚平は吹き出した。
「やっぱりそれか!」
「何が『やっぱり』だ」
「宇宙のお役所も、地球の役所と変わらんな」
「本官にも聞こえているぞ」
「聞こえて結構」
「それから、大月甚平」
「何だ?」
「あなたも観測対象として、少々評価が上がった」
「俺が?」
「はい」
「何の評価だ?」
少し間があった。
「……しぶとさ」
甚平は笑った。
「褒め言葉として受け取っておこう」



第十章 タイムリミット
とはいえ、油断はできなかった。
孫娘・ゆきのスキーデビューまで、残り三週間。
そんなある日。甚平は少し張り切りすぎた。
散歩の距離を伸ばし、ストレッチのセット数を増やした。そして――。
「グキッ」ではなかった。
「グキ……?」
腰に、じわっと嫌な違和感が走った。
甚平は、その場でピタリと止まった。
「大月さん」
コシラーの声がした。
「無理をしすぎです」
「分かってる」
「今の『分かってる』は、信用できません」
「あと少しなんだ」
「その『あと少し』で怪我をする方を、私は何十件も見てきました」
コシラーの声には、珍しく強い響きがあった。
「甚一さんも、同じことを仰っていました」
甚平は黙った。
「『あと少し、あと少し』と」
「親父も?」
「はい」
「それで?」
「本番前日に軽い捻挫をされました」
「……」
「それでも滑ると言って聞きませんでした」
甚平は苦笑した。
「やっぱり親父だ」
「テーピングで固めて、無理をしていました」
「それで?」
「楽しそうでした」
その言葉に、甚平は笑った。
「同じ轍は踏まん」
「はい」
「今度は、ちゃんとしなやかに戻して、当日を迎える」
「それが正解です」
残り三週間。甚平は焦らなかった。
休むことも、リハビリの大切な一部だと知ったからだ。
少し歩く。少し休む。また歩く。
そして、身体が「今日はここまで」と言ったら、素直にやめる。
老いと戦うのではない。
老いと相談する。
それが、甚平とコシラーが見つけた新しい歩み方だった。



終章 デビューの日、そして
冬晴れの朝。
ゲレンデには、真新しいピンクのスキーウェアに身を包んだゆきの姿があった。
「じいじ、見ててね!」
「ああ」
甚平は笑った。
「ちゃんと見てるとも」
ゆきは、若いインストラクターの後ろについて、緩やかな斜面へ向かった。
一度、振り返る。
甚平が手を振る。ゆきも大きく手を振り返した。
そして――滑り出した。
「わあああっ!」
歓声とも悲鳴ともつかない声を上げながら、ゆきは前へ進んでいく。
少しふらつく。転びそうになる。だが、必死に踏ん張った。
そして最後まで滑り切った。
「できた!」
ゆきが叫んだ。
「じいじ! できたよ!」
甚平は大きく両手を振った。
「よくやった!」
腰は、まだ完璧ではない。少し重く痛む。
だが、立っていられる。笑っていられる。
そして何より、この瞬間を自分の目で見届けることができた。
「――良かったですね」
腰の奥から、コシラーの声がした。心なしか、少し湿っぽい。
「お前のおかげだ」
甚平は言った。
「礼を言う」
「いえ」
コシラーは答えた。
「私は、ただの調査機です」
「そう言うな」
「頑張ったのは、大月さんです」
甚平は少し考えた。そして腰にそっと手を当てた。
「なあ、コシラー」
「なんでしょう」
「お前、このまま俺のところにいてもいいんだぞ」
「……」
「データ集めなら、まだまだ協力してやる」
しばらく沈黙があった。やがて、コシラーが答えた。
「では、お言葉に甘えまして」
「おう」
「もうしばらく、お世話になります」
「こちらこそ」
甚平は笑った。
ゲレンデでは、これから育っていく孫娘が笑っている。
その少し後ろで、老いた祖父も笑っている。
二人の身体には、それぞれの時間が流れている。
若い身体には、これから増えていく無限の可能性。
老いた身体には、慈しむように積み重ねてきた記憶。
そして、そのどちらにも――。
誰にも見えない、けれど確かな何かが、そっと寄り添っている。
老いることは、負けることではない。
昨日できたことが、今日できなくなることもある。
けれど、昨日できなかったことが、今日できるようになることもある。
その間を行ったり来たりしながら、人は生きていく。
甚平は、ゆきの弾むような姿を見つめながら思った。
身体が変わっていくなら、それに合わせて歩けばいい。
少し休んでもいい。立ち止まってもいい。
そして、また歩けばいい。
老いと戦うのではなく。
老いと――踊るように。
甚平は、もう一度、大きく手を振った。
腰の奥で、コシラーが小さく笑った気がした。

――完――


Kindle



あとがき
「ぎっくり腰」という、できれば二度と経験したくない出来事から、この物語は始まりました。
身体が急に動かなくなる。
たったそれだけのことで、人は自分の年齢や衰えを嫌でも思い知らされます。
若い頃なら簡単にできたことができない。無理をすれば翌日にしっかり響く。
そして、「もう年だから仕方ない」と、少しずつ色々なことを諦めるようになっていく。
けれど、本当に必要なのは、老いと無理に戦うことでも、若さを取り戻そうと焦ることでもないのかもしれません。
今の身体としっかり相談しながら、できることを探していく。
それだけで、人生にはまだ意外なほど多くの「次」が残っています。
主人公の甚平と、腰の中の小さな調査機コシラー。
二人の関係を書いているうちに、私はふと、こんなことを考えるようになりました。
もしかすると私たちの身体は、いつも何かを教えてくれているのではないか。
痛みも、疲れも、できなくなったことも。
単なる故障や劣化ではなく、
「そろそろ少し、やり方を変えませんか」
という身体からのメッセージなのではないか、と。
そしてもう一つ。
歳を重ねても、「誰かと一緒に何かをしたい」という気持ちは、なかなか老いてくれません。
孫と滑りたい。もう一度、山へ行きたい。昔の友人に会いたい。行けなかった場所へ行ってみたい。
そういう小さな願いが、身体をもう一度動かす確かな力になることがあります。
もし、あなたの腰の奥から、ある夜突然、
「無理をしないでください」
という声が聞こえてきたら。
それはもしかすると、コシラーかもしれません。
ただし――。
ぎっくり腰の治療については、宇宙の機械ではなく、ちゃんと専門の医療機関に相談してください。
コシラーは、たぶん医師免許を持っていません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
そして、あなたの明日が今日より少しだけ軽やかでありますように。



風待ち峠

― 来る者、去る者 ―



まえがき

人生には、手放さなければならない瞬間が、何度か訪れます。

長年連れ添った愛車。
かつて共に時を過ごした友人たち。
住み慣れた家や仕事。
そして、いつの間にか遠ざかっていた、若い日の自分。

歳を重ねるにつれ、私たちは「失うこと」や「去っていくもの」に、寂しさを覚えるようになります。

けれど、誰かが去ったあとにできた空白は、決して寂しさだけのために残されるものではないのかもしれません。

空いた席があるからこそ、そこへ新しい誰かが座る。

手の中に握りしめていたものを放すからこそ、新しいものを受け取ることができる。

本作は、還暦を目前に控え、長年連れ添ったバイクを手放すことになった一人の男の物語です。

記憶の底に眠っていた旧道「風待ち峠」。

そこで彼が出会うのは、過去なのか、未来なのか、それとも、そのどちらでもないものなのか。

人生の途中で立ち止まったとき、人は時として、自分が歩いてきた道を振り返ります。

そして振り返った先に、もう一度だけ吹いてくる風があるのかもしれません。

読み終えたあと、皆様の心にも、静かで温かな風が吹きますように。




序章 峠へ

 還暦という言葉を、悠介はずっと他人事だと思っていた。

 六十歳になったからといって、何かが突然変わるわけではない。

 そう高を括っていた。

 けれど、六十歳の誕生日を三か月後に控えたある朝、鏡に映った自分の顔を見て、悠介はふいに息を止めた。

 白髪が増えたからではない。

 そこに映っている男が、もう随分長いこと、心から笑っていないことに気づいたからだった。

 その日の午前、整形外科の待合室で、悠介は医師からやんわりと言われた。

「長年使ってきた腰と膝ですからね。無理はしない方がいいでしょう」

 医師は大型バイクに乗っていることを知っていた。

「もう少し軽いものに替えるとか、乗る距離を短くするとか……そういうことも考えてみてください」

 はっきりとは言わなかった。

 だが、悠介には十分伝わった。

 二十歳の頃から四十年近く跨り続けてきた鉄の塊を、そろそろ手放す時期が来たのだ。

 その晩、悠介はガレージのシャッターを上げた。

 埃を被ったカバーを外す。

 黒く艶めいた車体が、蛍光灯の下で鈍い光を返した。

 二十年連れ添った相棒だった。

 タンクに手を置く。

 冷たい。

 けれど、掌の下に積み重なった時間まで冷たいわけではなかった。

 すでに買い取り業者にも連絡を入れている。

 売るなら、まだ価値のあるうちがいい。

 頭では分かっていた。

 それでも、その前に一度だけ。

 誰にも告げずに走っておきたい道があった。

 北へ延びる、名もない峠道。

 二十歳の頃、まだ何もかもが手探りだった時代に、一人の友人と走ったことがある。

 それ以来、なぜか忘れられなかった。

 道の途中には茶屋があった。

 赤い毛氈の敷かれた縁台。

 そこで飲んだ甘酒。

 そして、遠くまで見渡せる崖の上。

 そんな断片だけが、記憶の底に残っている。

 だが、四十年近い歳月が流れた今となっては、それが本当にあったことなのか、それとも時間が記憶を勝手に作り替えたのか、悠介にも分からなかった。

 それでもいい。

 見つからなければ、それだけの道だったということだ。

 見つかれば――そのときは、そのときで考えればいい。

 荷物を最小限にまとめた。

 着替え、雨具、地図。

 それから、連絡先を書いた小さなメモ用紙。

 鍵を差し込み、エンジンをかける。

 腹の底に響く低い音を聞くと、不思議と気持ちが落ち着いた。

 ――来る者は拒まず、去る者は追わず。

 そんな言葉が頭をよぎった。

 誰から聞いたのかも思い出せない。

 ずっと昔から知っていたような言葉だった。

 今の自分には、妙に身に沁みた。

 思えば、若い頃はその逆だった。

 離れていこうとする人がいれば、必死で引き止めた。

 新しい人間関係には臆病で、慣れ親しんだ仲間の輪の中にいることに安心していた。

 それが、いつ頃から変わったのだろう。

 妻を早くに亡くし、一人息子は海外へ赴任して遠くにいる。

 会社を定年で退いてからは、長く付き合ってきた人たちも、一人、また一人と悠介の周りから消えていった。

 寂しくないと言えば嘘になる。

 けれど、不思議なこともあった。

 誰かが去ったあとにできた空白には、いつの間にか別の誰かが入り込んでくることがあった。

 近所の人。

 陶芸教室の仲間。

 散歩の途中で顔を合わせる人。

 行きつけの店の主人。

 若い頃なら見向きもしなかったような、小さな縁だった。

 夜明け前の道路へ出る。

 街灯はまばらだった。

 残暑の残り香がある空気の奥には、かすかな秋の気配が混じっている。

 悠介はヘルメットの中で小さく息を吐いた。

 そしてアクセルを開けた。

 バイクは、ゆっくりと夜明けの街へ走り出した。

⸻

一章 風の匂い

 国道を三時間ほど走ると、景色は次第に山深くなった。

 コンビニの灯りも途絶え、代わりに杉林の匂いが濃くなる。

 悠介は小さなガソリンスタンドに立ち寄った。

 給油を済ませ、缶コーヒーを一本買う。

 店番をしていた老人が、珍しそうにバイクを眺めていた。

「ずいぶん古いバイクだね」

「ええ。長い付き合いです」

「大事にしてるのが分かるよ」

 老人は笑った。

 悠介も笑い返した。

「この先に、峠へ抜ける道ってありますか」

 そう尋ねると、老人は少し首を傾げた。

「峠って言っても、いくつもあるからな。どこを目指してるんだね」

 悠介は記憶の中の景色を言葉にした。

 茶屋がある。

 赤い毛氈の縁台がある。

 崖の上から遠くが見渡せる。

 そこまで話すと、老人の顔から笑みが消えた。

「ああ……」

 しばらく黙ったあと、老人が言った。

「それなら、風待ち峠かもしれんな」

「風待ち峠?」

「ああ。もうずいぶん前に廃道になったはずだが……」

 老人は山の方へ目を向けた。

「今でも通れるのかどうかは、知らん」

 その名を聞いた瞬間、悠介の胸の奥で何かが小さく鳴った。

 風待ち峠。

 そうだ。

 あの日、茶屋の縁台に座っていたとき、友人が笑いながら言ったのだ。

『風待ちの茶屋だってさ』

 突然、記憶が鮮明になった。

 だが、友人の名前が出てこない。

 顔は覚えている。

 笑い方も覚えている。

 バイクに跨るときの癖も。

 なのに、名前だけが記憶の底に沈んでいた。

 特に喧嘩をしたわけではない。

 互いに家庭を持ち、仕事に追われ、いつしか連絡を取らなくなった。

 気がつけば、年賀状すら来なくなっていた。

 去る者は追わず。

 当時の自分は、そうやって済ませてしまった。

「気をつけて行きなよ」

 老人の声に、悠介は我に返った。

「ありがとうございます」

 再びバイクに跨る。

 教えられた分岐を目印に、舗装の荒れた旧道へ入った。

 道はすぐに細くなった。

 やがて一車線になり、両脇から伸びた木々が空を覆い始める。

 エンジン音だけが谷間に大きく響いた。

 不思議なことに、走るほど記憶が鮮明になっていった。

 あの日も、こんな風に木漏れ日が路面にまだら模様を描いていた。

 あの日も、山肌を伝う冷たい風と沢の水の匂いが漂っていた。

 四十年前の記憶とは思えなかった。

 三十分ほど登ったところで、道が突然開けた。

 眼下に雲海が広がっていた。

 その向こうに、幾重にも連なる稜線。

 悠介はバイクを停め、ヘルメットを外した。

 そして、息を呑んだ。

 崖沿いのカーブの先に、一軒の木造家屋が建っていた。

 古びた暖簾が、風に揺れている。

⸻

二章 峠の茶屋と老女

 近づいてみる。

 間違いなかった。

 茶屋だった。

 色褪せた暖簾。

 軒先の縁台。

 そこには、赤い座布団まで置かれている。

 廃道のはずの峠に、なぜこんな場所が残っているのか。

 悠介はエンジンを切り、ゆっくりと歩み寄った。

「いらっしゃい」

 暖簾の隙間から、老女が顔を覗かせた。

 年齢は分からない。

 八十にも見えれば、百歳を越えているようにも見える。

 深く刻まれた皺とは対照的に、その目だけが驚くほど澄んでいた。

「ここ……営業してるんですか」

「見ての通りだよ。座りな。疲れただろう」

 悠介が縁台に腰を下ろすと、老女は奥へ引っ込んだ。

 しばらくして、湯呑みを二つ持って戻ってくる。

 一つを悠介の前に。

 もう一つを、隣の空いた席に置いた。

「甘酒だよ。山は冷えるからね」

 悠介は湯呑みを手に取った。

 生姜の効いた温かい甘みが、体の芯まで染みていく。

 初秋の峠を渡る風が、汗ばんだ首筋を撫でた。

「あの……この道、廃道になったと聞いたんですが」

「廃道、ねえ」

 老女は笑った。

「人が来なくなった道を、勝手にそう呼んでるだけさ」

「じゃあ、まだ通れるんですか」

「来たい者が来て、通りたい者が通る。それでいいんだよ」

 悠介は隣の席を見た。

「連れの方は、まだ来られてないんですか」

「さあてね」

 老女は湯呑みに甘酒を注ぎながら答えた。

「来る日もあれば、来ない日もある。今日は、あんたが来た日だ」

 禅問答のような答えだった。

 けれど、この場所では、それ以上聞く気になれなかった。

 時間の流れ方が、外とは違っている。

 そんな気がした。

「昔、一度だけここに来たことがあるんです」

 悠介は言った。

「四十年くらい前に。友人と二人で、バイクで」

「覚えてるよ」

 老女はあっさりと言った。

「あんたたち、若かったねえ」

 悠介の手が止まった。

「片方は威勢がよくて、片方は物静かだった」

 老女は遠くを見るように目を細めた。

「威勢のいい方が、『この店はずっとあるのか』って聞いたんだよ」

 悠介の胸がざわついた。

「あたしは答えた」

 老女は微笑んだ。

「来たい者には、いつでもここにある、ってね」

 風が吹いた。

 暖簾が、ぱたんと揺れた。

「その友人が……今どこにいるか、分かりますか」

「それは、あたしの領分じゃない」

 老女は首を横に振った。

 そして少しだけ声を落とした。

「でもね。この峠道は、行きたい場所に繋がっている」

「行きたい場所……」

「あんたが本当に行きたいのがどこなのか」

 老女は悠介を見た。

「それは、あんたが一番よく分かってるはずだよ」

 風が吹き抜けた。

 暖簾が大きく膨らむ。

 その向こうで、老女の声がした。

「来る者は、まだ間に合う」

 悠介は振り返った。

 けれど、老女はもう何も言わなかった。

⸻

三章 名もない若者

 茶屋を出て、峠道をさらに進んだ。

 九十九折りのカーブが続く。

 悠介は何度かバックミラーを見た。

 そのたびに、何かが映っているような気がした。

 気のせいだ。

 そう思った。

 だが、しばらくすると、一台のバイクが後ろについてきた。

 路肩が広くなった場所で悠介が速度を落とすと、後ろのバイクも止まった。

 ライダーがヘルメットを外す。

 二十代だろうか。

 汗ばんだ額に前髪が張りついている。

 どこか懐かしい笑い方をする青年だった。

「すみません。後ろから失礼しました」

 青年は笑った。

「この道で人とすれ違うの、久しぶりだったもので」

「この道、よく走るのかい」

「昔から好きなんです」

 青年は山の方を見た。

「今日は、なんとなく呼ばれた気がして」

 悠介は青年を見つめた。

 話し方。

 声。

 バイクへの跨り方。

 どれも、どこか見覚えがあった。

 まるで四十年前の自分を、少し離れた場所から見ているようだった。

「君、名前は?」

 青年は少し考えた。

「さあ……」

 それから笑った。

「なんて名乗ればいいんでしょうね」

「変なことを言うね」

「ここでは、名前ってあまり大事じゃない気がします」

 妙な答えだった。

 それでも悠介は追及しなかった。

 代わりに、若い頃に友人とここを走ったことを話した。

 茶屋のこと。

 甘酒のこと。

 そして、今はその友人と疎遠になっていること。

 青年は黙って聞いていた。

「その方は、後悔してると思いますか」

 突然、青年が尋ねた。

「何を?」

「離れていく人を、無理に引き止めなかったこと」

 悠介は答えに迷った。

「……分からない」

「薄情だったからじゃなく、その人の生き方を尊重しただけかもしれないですよ」

 悠介は青年を見た。

「君は、誰かを見送ったことがあるのかい」

「たくさんあります」

 青年は笑った。

「でも、そのぶん、たくさんの人に会いました。この道の途中で」

 二人はしばらく並んで雲海を眺めた。

 風が山肌を渡っていく。

 やがて青年がヘルメットを被った。

「先に行きます」

「そうか」

「あなたは、まだここで少し考える時間が必要みたいだから」

 青年はエンジンをかけた。

 そして、ふと思い出したように振り返った。

「そうだ」

「ん?」

「そのバイク、手放すんですか」

「ああ」

 悠介はタンクに目をやった。

「もう、体がついていかなくてね」

「もしよかったら、譲っていただけませんか」

「君が?」

「はい。僕、こういう古いバイクにずっと乗りたかったんです」

 青年は少し照れたように笑った。

「連絡先、教えてもらえますか」

 悠介は胸ポケットからメモ用紙を取り出した。

 そして、住所と電話番号を書いた。

 紙を青年に渡す。

 青年は両手で受け取ると、大事そうに胸ポケットへしまった。

「絶対、連絡します」

 青年はバイクに跨った。

「あなたの相棒、大切にしますから」

 エンジン音が峠に響く。

 青年はカーブの向こうへ消えていった。

 悠介はその背中を見送りながら、なぜだか胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 初めて会ったはずなのに。

 ずっと前から知っていたような気がした。

⸻

四章 霧の中の面影

 青年を見送ったあと、悠介は再び走り始めた。

 だが、数百メートルも進まないうちに、道は深い霧に包まれた。

 視界は数メートル先までしかない。

 悠介は速度を落とした。

 霧の中を、ゆっくりと進む。

 やがて、前方に人影が浮かび上がった。

 道端にライダーウェアを着た男が立っている。

 ヘルメットを脇に抱えていた。

 悠介はバイクを停めた。

 ゆっくりと歩み寄る。

 そして、その顔を見た瞬間、息を呑んだ。

「……お前」

 声が震えた。

「お前なのか」

 そこに立っていたのは、三十年以上会っていない、あの友人だった。

 最後に会った日のままの顔。

 時間だけが、そこから先へ進んでいないようだった。

 友人は笑った。

「久しぶりだな」

 悠介の喉が詰まった。

「悪いな。連絡もせずに」

「いや……」

 言葉が出てこない。

「こっちこそ、ずっと……」

 謝りたいことはいくつもあった。

 もっと連絡すればよかった。

 一度くらい会いに行けばよかった。

 あのとき、もう少しだけ話していればよかった。

 けれど友人は、ゆっくり首を振った。

「謝らなくていい」

 その声は、昔と変わらなかった。

「俺たちは、そういう縁だったんだよ」

「そういう縁?」

「誰が悪いわけでもない」

 霧の向こうで、風が鳴った。

「それぞれ、自分の道を走ってただけだ」

 悠介は黙った。

「どうして、この道に?」

「さあな」

 友人は苦笑した。

「俺も、なんとなく呼ばれた気がしたんだ」

「呼ばれた?」

「ここなら、言えなかったことも言える気がしてな」

 二人は昔の話をした。

 若い頃のくだらない喧嘩。

 旅先で迷ったこと。

 バイクが故障して、二人で押したこと。

 茶屋で飲んだ甘酒。

 何時間話していたのか分からなかった。

 けれど、その時間はどこか遠かった。

 すでに終わった物語を、二人で読み返しているようだった。

「お前は今、幸せか」

 友人が尋ねた。

 悠介は少し考えた。

「分からない」

 正直に答えた。

「ただ……この歳になって、いろんなものを手放し始めている実感はある」

 友人は頷いた。

「それでいいんだよ」

「そうかな」

「手放すことは、失うことと同じじゃない」

 その言葉が、悠介の胸に残った。

「俺たちは、それぞれの道を走っているだけだ。時々、こうしてすれ違う」

 友人は笑った。

「それだけで、十分じゃないか」

 霧が少し薄くなった。

「待ってくれ」

 悠介が一歩近づいた。

「まだ話したいことが――」

「大丈夫だ」

 友人の輪郭が、少しずつ淡くなっていく。

「お前はこれから、ちゃんと前を向いて走れる」

「……お前」

「俺は、それを見届けに来ただけだから」

 次の瞬間、風が吹き抜けた。

 霧が一気に晴れる。

 そこには誰もいなかった。

 悠介は峠の真ん中に一人で立っていた。

 しばらく動けなかった。

 やがて、自分の右手が固く握られていることに気づいた。

 ゆっくりと掌を開く。

 そこには、小さな白い石があった。

 丸く、滑らかな石。

 かつて二人でこの道を走ったとき、友人が路傍で拾って、

『お守りだ』

 そう言って手渡してくれた石と、よく似ていた。

 悠介はその石を握りしめた。

 不思議と温かかった。

⸻

五章 空いた席

 気がつくと、悠介は再び茶屋の前に立っていた。

 老女は縁台に座っていた。

 まるで、ずっと待っていたかのように。

「会えたようだね」

 悠介は何も言わず、縁台に腰を下ろした。

 掌の白い石を見る。

「……あの若者は」

 悠介は尋ねた。

「誰だったんですか」

 老女は笑った。

「さあねえ」

「僕の若い頃だったんでしょうか」

「そうかもしれない」

 老女は山を眺めた。

「これから出会う誰かだったのかもしれない」

「じゃあ、あの友人は?」

「それも、あんたが決めればいい」

 老女はそれ以上説明しなかった。

 甘酒の湯気が、二人の間をゆっくりと上っていく。

「人は生きている間に、たくさんの人と出会う」

 老女が言った。

「そばにいてくれる人もいれば、離れていく人もいる」

 悠介は隣の席を見た。

 赤い座布団だけが置かれている。

「若いうちは、空いた席ばかり気にするんだよ」

「空いた席……」

「誰がいなくなったか。誰が去っていったか」

 老女は、隣の座布団を軽く撫でた。

「でもね」

 悠介を見る。

「空いた席ばかり見つめていると、その隣に誰が座ってくれているのか、見えなくなる」

 悠介は黙っていた。

 そして手帳を取り出した。

 古いページを開く。

 黄ばんだ紙には、昔の友人の名前が並んでいた。

 その隣には、近年になって書き加えた名前がある。

 陶芸教室の仲間。

 散歩仲間。

 行きつけの店の主人。

 近所で時々会う人。

 いつの間にか、ページの余白はほとんどなくなっていた。

「……いつの間に、こんなに増えたんだろう」

 悠介が呟く。

 老女は答えなかった。

 ただ、静かに笑っていた。

 悠介は手帳を閉じた。

 今まで、自分は何人が去っていったかばかり数えていたのかもしれない。

 けれど、いつの間にか、同じくらい多くの人が自分の人生に入ってきていた。

 誰かが去ったあとに残った空白。

 その空白を埋めるように、別の誰かがやってきた。

 そして、自分自身もまた、誰かの人生に現れては、いつか去っていく存在なのだろう。

 老女が立ち上がった。

「そろそろ行きな」

「はい」

「風が変わってきた」

 悠介は顔を上げた。

 確かに、風向きが変わっていた。

 老女は隣の空いた席を見た。

「席は、空けておくものさ」

「誰かが来るから?」

「そういうこと」

 悠介は笑った。

 白い石を握る。

 長い間、胸の奥に引っかかっていたものが、静かにほどけていくようだった。

⸻

終章 光る方へ

 夕陽が稜線を染める頃、悠介はバイクのエンジンをかけた。

 振り返る。

 そこには茶屋も、縁台もなかった。

 ただ、

 風待ち峠

 と刻まれた古い木製の道標が、ぽつんと立っているだけだった。

 悠介はしばらく道標を見つめた。

 それからヘルメットを被った。

 峠を下る。

 来たときよりも、バイクが軽く感じられた。

 麓の町に着く頃には、街灯が灯り始めていた。

 スマートフォンが鳴る。

 陶芸教室で知り合った仲間からだった。

「悠介さん、今度の週末、みんなで窯出し会をするんですけど、来ませんか」

 悠介は少し笑った。

「うん。ぜひ行くよ」

「よかった。楽しみにしてます」

 電話を切る。

 悠介は信号待ちの交差点で、ふと空を見上げた。

 自分を待ってくれている人がいる。

 それは、特別なことではないのかもしれない。

 けれど今の悠介には、それが以前とは違うものに思えた。

 数日後。

 自宅に一本の電話が入った。

「あの……悠介さんでしょうか」

 聞き覚えのある声だった。

「はい」

「峠でお会いした者です」

 悠介は思わず笑った。

「ああ」

「例のバイク、本当に譲っていただけませんか」

「もちろん」

 約束の日。

 青年は悠介の家を訪れた。

 ガレージの前に立った青年は、バイクを見るなり目を輝かせた。

「やっぱり、いいですね」

「古いぞ」

「それがいいんです」

 青年は車体をゆっくり撫でた。

 悠介は鍵を差し出した。

「大事にしてくれよ」

「はい」

 青年は鍵を受け取った。

「大切に乗ります」

 そして少し考えるように言った。

「いつか僕も、誰かにこれを譲る日が来るのかな」

 悠介は笑った。

「そのときは……」

 少しだけ間を置く。

「その人に、ちゃんと道を教えてやってくれ」

「道?」

「ああ」

 悠介は山の方角を見た。

「風待ち峠への道をね」

 青年は一瞬、驚いた顔をした。

 それから、嬉しそうに頷いた。

「分かりました」

 エンジンがかかる。

 懐かしい低い音が、ガレージいっぱいに響いた。

 青年はヘルメットを被り、バイクを走らせる。

 その背中が、道の向こうへ小さくなっていく。

 悠介は、しばらくその場に立っていた。

 ポケットの中の白い石に触れる。

 冷たいはずの石が、今日は不思議と温かかった。

 手放す。

 その言葉を、悠介は長い間、失うことと同じ意味だと思っていた。

 けれど違った。

 手放したからこそ、誰かの手に渡るものがある。

 自分が走った道を、次の誰かが走っていく。

 自分が大切にしてきたものが、誰かの新しい物語になる。

 それは、失うことではない。

 形を変えて、残っていくことなのかもしれなかった。

 その夜、悠介は手帳を開いた。

 新しいページに、青年の名前を書き加えた。

 去っていった人。

 新しく出会った人。

 遠くにいる人。

 もう会えない人。

 そして、これから出会う人。

 そのすべてが、自分の人生を形づくっている。

 窓を開ける。

 秋の澄んだ夜風が、部屋へ吹き込んできた。

 悠介は目を閉じた。

 どこか遠くで、バイクの音が聞こえた気がした。

 ――来る者は拒まず。

 ――去る者は追わず。

 それでも、去っていく背中に手を振ることはできる。

 そして、空いた席には、いつか新しい誰かが座る。

 悠介は鏡の前に立った。

 そこに映った自分を見て、少し驚いた。

 笑っていた。

 久しぶりに、心から笑っていた。

 風は、止むのを待つものではない。

 風が吹いてきたら、その風を感じて、自分の足で歩き出せばいい。

 悠介は窓の外を見た。

 夜の向こうには、まだ見えない明日がある。

 そして、そのどこかにはきっと、新しい風が吹いている。

 悠介は、静かに笑った。

 もう、待つ必要はなかった。


了


Kindle




あとがき

 人は年齢を重ねるにつれ、少しずつ「手放すこと」と向き合うようになります。

 体力の変化。

 生活環境の変化。

 仕事との別れ。

 住み慣れた場所との別れ。

 そして、長く付き合ってきた人との別れ。

 若い頃には、それらを「失うこと」だと思っていたのかもしれません。

 けれど、歳月を重ねてみると、手放したもののあとには、いつの間にか別のものが残っていることに気づきます。

 新しい友人。

 新しい趣味。

 新しい日常。

 そして、思いがけない出会い。

 本作に登場する「風待ち峠」は、地図には載っていない場所です。

 けれど、人生の途中で立ち止まり、過去を振り返った人の心の中には、もしかすると誰にでも、そんな峠があるのではないでしょうか。

 そこでは、もう会えない人と再び会えるかもしれない。

 若かった頃の自分と出会うかもしれない。

 そして、まだ見ぬ未来とすれ違うかもしれない。

 大切なのは、過去を忘れることではないのでしょう。

 過去を抱えたまま、それでも前へ進むこと。

 手放すことは、忘れることではありません。

 大切だったものを大切だったまま、次の誰かへ渡していくことなのかもしれません。

 この物語が、人生のどこかで立ち止まった方の心に、ほんの少しでも温かな風を届けることができれば幸いです。

 そして皆様のこれからの道にも、穏やかな風が吹きますように。


宵の口笛
――還暦の夜に――


まえがき
人は年齢を重ねるにつれ、ふとした日常の中で「忘れていたはずの過去の音」を聞くことがあります。早朝の静寂のなか、どこからか聞こえてきた口笛の旋律。それは単なる脳の悪戯ではなく、かつて共に笑い、共に時代を駆け抜け、そして先に旅立っていった仲間たちからの静かな伝言なのかもしれません。
本作『宵の口笛 ――還暦の夜に――』は、六十歳という人生の大きな節目を迎えた一人の男が、一曲の幻の旋律を通して自らの半生と身体、そして去りゆく友との絆に向き合う物語です。
若い頃には気づかなかった「穏やかな日常」の尊さ。過ぎ去った日々を慈しみながら、これからの道を一歩ずつ踏みしめていくすべての人へ、この小さな物語を捧げます。




序章 朝の音
その朝、秋山肇は見知らぬ旋律で目を覚ました。
夢の中で誰かが口笛を吹いていた。低く、少し掠れて、けれど確かに聞き覚えのある節回しだった。布団の中で目を開けたまま、肇はしばらくその音を追いかけていた。頭の奥で鳴り続けるメロディは、指の隙間からこぼれる水のように、思い出そうとするほど形を失っていく。
六十歳になったばかりの朝だった。カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより白く、やけに事務的に見えた。



一 検索結果
枕元のスマートフォンを取り、肇は不器用な口笛を吹いてみたり、掠れた声でハミングしてみたりした。今どきは鼻歌や口笛だけで曲を探し当てるアプリがあるのだと、以前娘に教わったのを思い出したからだ。
半信半疑で待つこと数秒。画面に一枚のジャケット写真と、聞いたこともない曲名が表示された。
『宵の口笛』
 作曲者不詳・一九六八年ごろの録音とされる
肇はその文字をしばらく見つめた。聞いたことのない曲のはずなのに、体のどこかがその名前に反応していた。



二 CMの残像
再生ボタンを押した瞬間、肇の脳裏に唐突な映像が蘇った。
ブラウン管の向こう、琥珀色の液体が氷を鳴らしてグラスに注がれる場面。渋い声のナレーション。子どもの頃、居間の隅で見ていたウイスキーのコマーシャルだ。あの旋律は、たしかにあの映像の背景に流れていた。
だが不思議なことに、肇はそのCMを見た記憶がどうしても具体的な年に結びつかなかった。父がまだ健在だった年か、それとも――もっと後、友人たちとテレビの前で笑っていたあの夜だったか。
曲を繰り返し聴くたびに、記憶の断片が少しずつ像を結んでいく。庭先の匂い、誰かの笑い声、遠くで鳴る夜の虫の声。まるで、この曲自体が過去への扉の合鍵であるかのように。



三 ふざけた仲間たち
その日の夕方、肇は古いアルバムを引っ張り出した。
四十代の頃、毎晩のように飲み歩いた仲間たちの写真が並んでいる。皆、笑っている。無敵だと思っていた。体は正直だという言葉を、当時は誰も信じていなかった。
あの中の三人は、もういない。五十代なかばで、まるで示し合わせたように倒れた。解毒作用が落ちていることに気づかぬまま、二十代の頃の勢いで飲み続けた結果だと、肇は今なら分かる。肇自身もまた、五十代の終わり際に体を壊しかけ、すっかり酒から遠ざかるようになっていた。
写真の中の一人、坂本が、あの曲を口笛で吹いていたのを思い出した。酔うと決まって同じ節を吹く癖があった男だった。
――もしかして、あの旋律は坂本の口笛だったのではないか。
馬鹿げた考えだと思いながらも、肇はその夜、もう一度あの曲を再生した。



四 還暦の店
夢の中で、肇は見覚えのない路地に立っていた。
突き当たりに小さな灯りがひとつ。扉を開けると、カウンターだけの小さな店があり、奥から静かにあの旋律が流れていた。
「いらっしゃい」
振り向いた店主の顔は、坂本だった。だが歳を取っていない。四十代のままの顔で、静かにグラスを磨いている。
「お前、還暦になったんだってな」
「……夢か、これは」
「さあな。でも、俺たちはここでずっと同じ歳のままだ」
カウンターの奥には、他にも見覚えのある顔がいくつか並んでいた。皆、あの頃のまま笑っている。だが誰も、グラスに口をつけようとはしなかった。
「一杯どうだ」
「いや……酒は、やめたんだ」
「知ってるよ。だからここに呼ばれたんだろう」
坂本は静かに笑った。責めるでも、羨むでもない、ただ静かな笑いだった。
「俺たちは、伝えそこなった。身体は正直だってことをな。お前はまだ、伝えられる側にいる」



五 六十三の夜
目が覚めても、しばらく肇は動けなかった。
その日から、肇は自分の体調に今までよりも丁寧に耳を澄ますようになった。健康診断の数値、疲れの残り方、付き合いの席での一杯の重さ。すべてが、以前より克明な手触りを持って感じられた。
六十三の誕生日を迎えた夜、肇は久しぶりにあの曲を再生した。今度は、夢の中の店は現れなかった。ただ、旋律だけが静かに部屋を満たし、やがて消えていった。
それで十分だという気がした。



終章 古希への道
あれから月日が流れ、肇はときおりあの旋律を口ずさむことがある。もう検索する必要はない。曲名も、その来歴も、すでに肇の中にある。
たまの付き合いの席では、グラスに注がれた一杯のビールを、少しぬるくなるまで時間をかけて大切に味わう。それだけで、十分に美味いと感じられる自分がいる。
健康と、安全と、安定。派手ではないが、それが本当の幸福なのだと、坂本たちが身をもって教えてくれたのだと、肇は思っている。
古希までの道のりは、まだ長い。だが今夜も、どこかで誰かが静かに口笛を吹いているような気がして、肇はゆっくりと窓を開け、夜気を吸い込むのだった。

(了)


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あとがき
人生の後半生を迎えるとき、人は誰しも「かつて失ったもの」と「いま手元に残っているもの」の双方を見つめ直す瞬間があります。がむしゃらに駆け抜けた若き日の熱狂や、無茶を重ねた無敵の感覚は、時の流れとともに穏やかな記憶へと姿を変えていきます。
主人公の肇が辿りついた「健康と、安全と、安定」という言葉は、決して消極的な諦めではありません。命の有限さを知った大人だけが到達できる、洗練された生活の美学であり、生きることへの深い感謝そのものです。
この作品が、読者の皆様にとって自らの歩んできた道を愛おしく振り返り、これからの時間を優しく慈しむ小さなきっかけとなれば幸いです。



特に
孫息子たちを見ていると
お前たちは
人間1回目だよなあ と
嬉しくもなる

そう
孫娘と違うのは
やはり男の子ってのは
考える前に
ガムシャラに行動しているようで

そんな姿を見て
娘はいつも
なんで男の子って
あんなにアホなんだろう? と
微笑んでいる

それはもちろん
僕のガキの頃と同じで

お袋に何度叱られても
その直後 忘れて
また同じ悪さを始めた

確かに
幼い頃は
女の子の方が成長が早く

次々と覚える言葉や
伸びる体格に
圧倒される

それでも
運動能力はさほど変わらず
逃げ足の速さでは
やはり男の子の方が勝るようだ

足が速いだけで
なんとかなった小学生の頃

それで
わずかに上下関係が出来るから
上手く行けば
中学までは
その辺りの立場を保てる

でもそこから先ともなれば
さすがにそれは
武器にはならず

生まれ持った器量と
そこへ足して行く努力とが
必要となる

もちろん
勉強は嫌いだったけれど
ギリギリ間に合うように
仲間たちに手伝って貰い
帳尻を合わせて来れた

そんなだから
注目されたことなど1度もなく
赤点ラインを
行ったり来たりしていた若造は

社会へと放り出されて
更にその重みに負けることとなる

諦めか
撤退か
降参かと
投げる寸前に
アメリカに救い出された



そんな日から
45年もが過ぎて
何も変わらない心と
老いてしまった身体との狭間で
また悩み始めている

持ち時間は
砂時計の砂が落ちるように
止まることなく減り続け

あと何が出来るのか
あと何をしたいのか
あと何は
あと何も… と

いくつものプランを
自らに化して
次の世が来るまで
ジタバタしてみようと思う

どうやら
1回目の人生は
30点
やっぱり 赤点だったようだ
笑

人間、三部作 


あなたは、人間、何度目ですか?


第一部

人間、一回目です
――玉響課・魂配属係の、とんでもない事務ミス――

まえがき
人間は、何回目なのだろう。
そんなことを考えたことはありませんか。
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい人。
行ったこともない場所なのに、なぜか知っている景色。
初めてなのに、妙に手際のいい人。
反対に、何をやっても不器用で、何度やっても上手くならない人。
もし本当に、魂が何度も生まれ変わっているのだとしたら、人間には「経験者」と「初心者」がいるのかもしれません。
けれど、もしそうだとして――。
何度も人間を経験している魂と、初めて人間になった魂では、どちらが立派なのでしょう。
本作は、そんな少し真面目で、少し馬鹿馬鹿しい疑問から生まれました。
宇宙のどこかには、魂を次の人生へ送り出す役所がある。
そこでは、虫も魚も獣も人間も、きちんと整理券を持って順番を待っている。
ところがある日、その役所で、とんでもない事務ミスが起きてしまう。
画像や数字の羅列ではなく、たった一つの押し間違いによって。
そして一人の青年が、本来なら何度も経験を積んでから挑むはずだった「人間」という難しい生き物に、いきなり放り込まれてしまう。
彼は不器用です。
要領もよくありません。
鳩に敬語を使い、エレベーターの定員を心配し、就職面接で「人間一回目です」と言ってしまいます。
でも――。
もしかすると、人間というものは、本来そういうものなのかもしれません。
何度目であろうと、一回目であろうと。
今日という日は、誰にとっても一回きりです。
そんなことを、少し笑いながら考えていただけたら幸いです。


序章 玉響課の憂鬱
宇宙のどこか。
座標も名前も持たない場所に、それでも「課」は存在する。
魂配属課。
通称――玉響課。
宇宙ができてから、いつできたのか誰も知らない。
ただ、そこには役所があり、窓口があり、受付番号があり、そして長い長い行列がある。
窓口は、いつも混んでいた。
虫。
魚。
鳥。
獣。
そして人間。
肉体を脱いだばかりの魂たちが、ぼんやりと光る球体の姿で、整理券を握りしめて並んでいる。
「次の方、どうぞ」
窓口に座っているのは、課長のタマユラ子だった。
三千年この仕事をしている。
三千年もやっているのだから、さぞ立派な人物かと思えば、そうでもない。
制服のサイズが、いまだに合っていなかった。
本人は「魂に体型の概念はない」と主張しているが、制服担当からは毎年、
「それなら、なぜ去年と同じサイズを注文するんですか」
と言われている。
タマユラ子は、今日も判子を押していた。
「はい。次の方」
一つの魂が、ふわふわと窓口まで進んできた。
「あのう……」
「はい」
「私、正しく生きたと思うのですが」
「それは結構なことです。では記録を確認しますね」
タマユラ子が端末を覗き込む。
「ええと……虫」
魂が少し誇らしげに光った。
「虫としては模範的ですね」
さらに画面を送る。
「魚」
魂がまた光った。
「魚としても問題なし」
さらに。
「獣」
「はい」
「こちらも真面目です」
「ありがとうございます」
「では、次は人間コースへ」
魂が嬉しそうに揺れた。
「いよいよですか」
「はい。ただいまの待ち人数は――」
タマユラ子が画面を確認する。
「約二千八百年です」
「二千八百年!?」
「早い方ですよ」
「……早い?」
「前回は四千三百年でした」
「それと比べているんですか!?」
「列を乱さず、静かにお待ちください」
魂は肩を落とした。
「はい……」
タマユラ子は判子を押した。
ぽん。
「次の方」
彼女は、三千年間ずっと同じ仕事をしている。
そして、三千年間ずっと思っている。
この宇宙で一番大変なのは、戦争でも災害でもない。
窓口業務だ。
なにしろ、魂というものは、みんな自分だけは早く生まれ変わりたいと思っている。
順番を守ることが、何より苦手なのだ。
そんな玉響課で、ある日。
誰も予想しなかった事務ミスが起きた。
それは宇宙の歴史上、もっとも小さなミスでありながら、地上の一人の青年の人生を、大きく狂わせることになる。


第一章 キャンセル待ちの孫息子
タマオは、生まれたときから少し変わった子供だった。
祖父の修一は、生まれたときからそんな孫の不思議な言動をずっと間近で見守ってきた。
赤ん坊のころ。
泣きもせず、笑いもせず、蛍光灯を見つめていた。
そして突然、深々と頭を下げた。
両親は驚いた。
「タマオ?」
赤ん坊は何も答えない。
ただ、もう一度蛍光灯に向かって頭を下げた。
三歳になると、もっと変わった。
公園で蟻の行列を見つけると、その横にしゃがみ込んだ。
「お疲れ様です」
母親が振り向く。
「誰に言ってるの?」
「先輩たちに」
「……先輩?」
タマオは蟻を指差した。
「僕より先に生まれて、ちゃんと働いています」
そして、ぺこりと頭を下げた。
「先を越してしまって、すみません」
母親は何も言えなかった。
小学校の運動会では、リレーの選手になった。
ところが、バトンを受け取った瞬間、タマオは審判のところへ走っていった。
「すみません」
「どうした?」
「このバトン、本当に僕が受け取ってよろしいのでしょうか」
「え?」
「正式な手続きを経ていますか?」
「……君、走って」
「確認してからでもよろしいでしょうか」
その間に、チームは全員、遠くへ行ってしまった。
修一は、そんな孫を見るたびに、複雑な気持ちになった。
「タマオ」
「はい、おじいちゃん」
「お前、もしかして――」
「はい?」
「いや……何でもない」
修一には、若いころから一つの奇妙な考えがあった。
魂は何度も生まれ変わるのではないか。
虫になり。
魚になり。
獣になり。
そして、ようやく人間になる。
修一はそれを「玉響」と呼んで、昔、一篇の詩にしたことがある。
もちろん誰にも相手にされなかった。
本人も半分は冗談だった。
ただ、タマオを見ていると、ときどき思う。
もしかしたら――。
大学生になったタマオは、さらに磨きがかかっていた。
エレベーターに乗ると、
「私、このエレベーターの定員に入る資格があるでしょうか」
と呟く。
コンビニでレジに並べば、後ろの客に、
「本当に私が先でよろしいでしょうか」
と聞く。
就職面接では、
「御社に採用していただく前に、一つ確認したいことがあります」
面接官が身構える。
「何でしょう」
「私、人間としての採用面接が初めてなのですが、これは通常の手順でしょうか」
面接官は三人とも黙った。
そして一人が、小さな声で言った。
「……初めてじゃない人も、いるのかな」
そんなタマオが、ある夜、修一の家を訪ねてきた。
「おじいちゃん、相談があります」
「珍しいな」
「最近、背中がむずむずするんです」
「病院へ行け」
「いえ、そういう感じではなくて」
タマオは窓の外を見た。
「気づくと空を見ています」
「……」
「飛べそうな気がするんです」
修一は、湯呑みを落としそうになった。


第二章 視察官、参上
そのころ。
宇宙の彼方、玉響課では大騒ぎになっていた。
「課長!」
新人職員のヒヨコ丸が、書類の束を抱えて走ってきた。
走り方は、いまだにぎこちない。
前世が本物のひよこだったからだ。
「何ですか、ヒヨコ丸さん」
「大変です!」
「また整理券の紙詰まりですか?」
「違います!」
「では何です?」
「二重配属です!」
タマユラ子の手が止まった。
「……何ですって?」
「タマオという人間の魂配属記録に、二つの魂番号が存在しています」
「二つ?」
「はい」
ヒヨコ丸が震える手で画面を見せる。
「一つは、正規の順番待ちをしていた魂」
「もう一つは?」
「キャンセル待ちの魂です」
「キャンセル待ち?」
「はい」
「どうしてそんな魂が、人間コースに?」
「三日前、人間コースで急なキャンセルが出ました」
「ええ」
「そのとき、システムが自動的に『次の候補』を検索したんですが……」
「はい」
「候補が多すぎて、一瞬だけ処理が止まりました」
「……」
「その直後、たまたま一番近くにいた魂が、受付画面に入り込みました」
「入り込んだ?」
「はい」
「どうやって?」
「本人もよくわかっていません」
タマユラ子は頭を抱えた。
「つまり……」
「はい」
「虫、魚、獣という準備期間をすべて飛ばして」
「はい」
「いきなり人間に?」
「はい」
「……人間コースを?」
「はい」
タマユラ子は椅子から立ち上がった。
三千年間、一度もしたことのない勢いで。
「これは由々しき事態です」
「課長、どうされるんですか?」
「私が地上へ行きます」
「課長自ら?」
「当然です」
タマユラ子は制服の襟を整えた。
「窓口業務は誰にでもできます」
「課長……」
「しかし、事務ミスの責任は」
判子を机に置く。
「判子を押した者が取らねばなりません」
「課長、判子を押したのはシステムです」
「……」
「課長?」
「今の発言は聞かなかったことにします」
こうしてタマユラ子は地上へ降りることになった。
仮の肉体。
名前は、田村由紀子。
二十代。
どこにでもいそうな女性。
ただし中身は、三千年間、魂しか相手にしてこなかった役所の課長である。
人間生活については、ほぼ素人だった。


第三章 人間、にわか仕込み
タマオが働く小さな印刷会社に、一人の中途採用社員が入った。
「本日よりお世話になります。田村由紀子と申します」
「よろしくお願いします」
社員たちが頭を下げる。
タマユラ子も頭を下げる。
ただし、角度が深すぎた。
「……田村さん?」
「はい」
「そこまで頭を下げなくても」
「礼は深いほどよいと記録されています」
「誰の記録ですか?」
「三千年分です」
「……?」
タマオは隣の席から、その様子を見ていた。
昼前。
上司が言った。
「田村さん、コピー機の紙、補充しておいて」
「補充とは、何をどのように補充すればよろしいのでしょうか」
「紙を入れるだけ」
「前例を確認したいのですが」
「前例?」
「失敗すると問題が発生しますので」
「コピー用紙ですよ」
「それでもです」
タマオが立ち上がった。
「田村さん、僕がやります」
「ありがとうございます」
タマオがトレイを引き出す。
「ここに紙を入れます」
「なるほど」
「こうです」
「手際がいいですね」
タマユラ子は、ふと尋ねた。
「あなたは、人間何年目ですか?」
タマオは真顔で答えた。
「一回目です」
タマユラ子の手から、紙が一枚落ちた。
「……今、何と?」
「一回目です」
「人間が?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「前世は?」
「……?」
「虫とか、魚とか、獣とか」
「ありません」
タマユラ子は確信した。
この青年だ。
キャンセル待ちの魂。
そしてその日の昼休み。
タマオは屋上で鳩に向かって頭を下げていた。
「先輩、いつもお疲れ様です」
鳩がパンくずを食べる。
「僕はまだまだ未熟者ですが、どうかご指導ください」
タマユラ子は呆れて声をかけた。
「鳩に敬語を使う必要はないと思います」
タマオは振り返った。
「そうでしょうか」
「ええ」
「でも、彼らは僕よりずっと長く空を飛んでいます」
「それは……」
「人生の先輩です」
「鳩生です」
「そうです」
タマユラ子は黙った。
この青年は、どうやら本当に人間一回目らしい。
そして彼女は、初めて思った。
人間という生き物は――。
もしかすると、何回やっても難しいのではないか。


第四章 虫たちの抗議デモ
玉響課では、別の問題が発生していた。
「課長!」
ヒヨコ丸が、また走ってきた。
「今度は何ですか」
「抗議です!」
「誰から?」
「昆虫連合です!」
「……」
机の上に、山のような書類が積まれた。
差出人。
蟻。
蝶。
カブトムシ。
クワガタ。
その他、大量の昆虫。
一枚目を開く。
『我々は正規の手順を守っております』
二枚目。
『虫としての人生を真面目に生きました』
三枚目。
『魚への昇格も待ちました』
四枚目。
『獣への昇格も待ちました』
五枚目。
『それなのに、いきなり人間へ行くとは何事ですか』
六枚目。
『順番を守れない魂が、人間になれるのでしょうか』
タマユラ子は黙って書類を読んだ。
「……もっともです」
「課長」
「何です?」
「人間になったタマオさんは、順番を守ることに関しては、かなり優秀です」
「それはそうですね」
「なのに、どうして怒っているんでしょう」
「順番を守ったからこそ、怒っているんですよ」
「……難しいですね」
「輪廻とは、そういうものです」
タマユラ子は窓の外を見た。
地上ではタマオが生きている。
不器用に。
一つ一つ確認しながら。
誰かを追い越すこともなく。
誰かを押しのけることもなく。
何をするにも、
「これでよろしいでしょうか」
と尋ねる。
それは確かに、何度も人間を経験した魂とは違っていた。
だが。
タマユラ子は思った。
経験が少ないからこそ、見えるものもあるのではないか。
「課長?」
「はい」
「どうします?」
「規則は変えません」
「はい」
「ただし――」
タマユラ子は一枚の書類を取り出した。
「救済措置を申請します」


第五章 もう一人の「僕」
ある夜。
タマオは鏡を見ていた。
いつもの自分。
いつもの顔。
なのに。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ違う表情をした。
タマオは目をこすった。
「……今の、何?」
もう一度見る。
普通の自分がいる。
だが、その夜から妙なことが起き始めた。
知らない景色を夢に見る。
草むら。
水の中。
暗い土の中。
そして空。
どれも、自分には経験がないはずの景色だった。
ある朝。
タマオは修一の家を訪ねた。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「僕、変なんです」
「今さらだな」
「……」
「冗談だ」
タマオは笑わなかった。
「僕の中に、もう一人いるような気がするんです」
修一は黙って聞いた。
「虫だったような記憶があります」
「……」
「魚だったような感じもする」
「……」
「でも、それは僕じゃない」
修一は、長い間しまっていた古いノートを取り出した。
「これを見ろ」
「何ですか?」
「昔、俺が書いた詩だ」
ページを開く。そこには『玉響たち』と題された古い詩があり、直筆の柔らかい字で、最後にこう添えられていた。
『人間、何度目ですか』
タマオは、その言葉を見つめた。
そして、なぜか涙がこぼれた。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「僕……」
声が震える。
「僕、本当の順番じゃなかったのかもしれません」
そのときだった。
玄関のチャイムが鳴った。
修一が開ける。
そこに立っていたのは、田村由紀子だった。
「どうして……」
タマオが驚く。
由紀子は、静かに頭を下げた。
「タマオさん」
「はい」
「あなたに、お話ししなければならないことがあります」
「何でしょう」
「私は、田村由紀子ではありません」
修一が眉をひそめる。
「では、誰なんです?」
由紀子は姿勢を正した。
「魂配属課――玉響課、課長のタマユラ子です」
沈黙。
タマオが言った。
「……会社、辞めますか?」
「その必要はありません」
「そうですか」
「まず、あなたの魂について説明します」
タマユラ子は、すべてを話した。
本来なら別の魂が入るはずだったこと。
キャンセル待ちの魂が、誤って配属されたこと。
そして、今のタマオが、宇宙の手続き上は「予定外」の存在であること。
話し終えたとき。
タマオは俯いていた。
「じゃあ僕は……」
静かに言った。
「ここに、いてはいけないんですか?」
タマユラ子はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「規則だけを見れば、そうなります」
修一が立ち上がった。
「なら、聞きたい」
「はい」
「この子がここからいなくなったら、今までの人生はどうなる?」
「……」
「蟻に謝ったことも」
「……」
「鳩に敬語を使ったことも」
「……」
「エレベーターの定員を気にしたことも」
「……」
「面接で『人間一回目です』と言ってしまったことも」
タマユラ子の口元が少し緩んだ。
「記録としては、すべて残ります」
「記録の話じゃない」
修一は言った。
「この子が生きてきた時間そのものだ」
タマユラ子は、しばらく黙っていた。
そして、初めて課長ではなく、一人の魂として答えた。
「……無駄にはなりません」
「本当か?」
「はい」
「なぜ?」
「私は三千年、窓口に座っていました」
「それで?」
「数え切れないほどの魂を見ました」
タマユラ子はタマオを見る。
「何度も人間になった魂は、人生の要領を知っています」
「……」
「どこで笑い、どこで怒り、どこで得をすればいいのか」
「……」
「でも、あなたは違う」
タマオは黙っている。
「あなたは、毎日を初めて見るように生きている」
タマユラ子は微笑んだ。
「だから、よく立ち止まる」
「……」
「よく考える」
「……」
「よく謝る」
「……」
「そして、よくお辞儀をする」
修一が笑った。
「そこは余計だな」
「申し訳ありません」
「ほら」
修一が笑う。
タマオも少し笑った。
タマユラ子は言った。
「規則は守ります」
「はい」
「本来の順番待ちだった魂には、私から直接お詫びします」
「……」
「そして、次の空き枠を最優先で用意します」
「そんなことができるんですか?」
「課長権限です」
「三千年分の権限ですか?」
「三千年分です」
「……結構強いんですね」
「普段は使わないだけです」


第六章 正しく生きる、ということ
数日後。
玉響課の窓口に、一つの魂が呼ばれた。
「大変申し訳ございませんでした」
タマユラ子が深々と頭を下げる。
「事務手続きの不備により、あなた様の人間配属枠が、一時的に別の魂に使用されました」
魂は、ふわりと揺れた。
「そうですか」
「本当に申し訳ありません」
「まあ」
魂は笑った。
「長く生きていると、いろいろありますよ」
「長く生きている……」
「正確には、長く待っています」
「……そうでした」
タマユラ子も笑った。
「次の空き枠を最優先でご案内します」
「どんな人生ですか?」
「それが――」
タマユラ子は画面を見る。
「なかなか感じのよい家庭です」
「それは楽しみですね」
「何か希望はありますか?」
「ありません」
魂は言った。
「初めてなら、何でも初めてでしょうから」
タマユラ子は、その言葉を聞いて少し驚いた。
そして思った。
案外。
この魂も、タマオと似ているのかもしれない。
一方、地上では。
タマオが会社の屋上で鳩を見ていた。
「先輩」
鳩が振り向く。
「今日もよろしくお願いします」
隣に立った田村由紀子が言った。
「まだ鳩に敬語を使っているんですね」
「はい」
「もう、人間一回目ではないかもしれませんよ」
タマオは少し考えた。
「でも、今日の僕は今日が初めてです」
タマユラ子は黙った。
「だから、一回目でいいと思います」
「……なるほど」
タマオは鳩に向かって頭を下げた。
「では、仕事に行ってきます」
鳩は飛んでいった。
タマユラ子が言った。
「タマオさん」
「はい」
「あなたのような魂が増えると、玉響課の窓口業務も少し楽になるかもしれません」
「それは褒め言葉ですか?」
「もちろんです」
「では、ありがたく受け取ります」
二人は笑った。


終章 持ち時間
夕暮れ。
修一は縁側に座っていた。
空が赤く染まっている。
風が庭の木を揺らしている。
昔、自分が書いた詩。
『玉響たち』
あれは本当に、ただの妄想だったのだろうか。
修一には、もうわからない。
ただ一つだけ、わかったことがある。
人間が何回目なのか。
そんなことは、案外どうでもいい。
十回目でも。
百回目でも。
あるいは――。
一回目でも。
今日という日は、一度しかない。
タマオは今日も、失敗するだろう。
間違えるだろう。
何かを確認しすぎて、人を待たせるだろう。
鳩にも敬語を使うだろう。
それでも。
それは、タマオにしか使えない時間だ。
修一は空を見上げた。
「一回目か……」
小さく笑った。
「俺だって、そうだったんだよな」
そのとき。
空の向こうで、何かが光った。
小さな玉響。
ふわり。
ふわり。
そして、夕暮れの空へ消えていった。
宇宙のどこかでは、今日も玉響課の窓口が開いている。
「次の方、どうぞ」
長い列が続いている。
虫も。
魚も。
鳥も。
獣も。
そして、人間も。
みんな順番を待っている。
けれど。
列の先に何があるのかは、誰にもわからない。
だからこそ。
今ここにいる一回を、大切にすればいい。
何度目の人生かではなく。
何回目の人間かでもなく。
今日という一日を、
自分の一回目として。
生きていけばいい。
――人間、一回目です。

(了)


あとがき
「人間、一回目です」という言葉を思いついたとき、最初に浮かんだのは、少し変な人間でした。
何をするにも確認する。
誰に対しても礼儀正しい。
蟻に謝り、鳩を先輩と呼び、エレベーターに乗るだけでも資格を気にする。
そんな人がいたら、たぶん周囲は少し困るでしょう。
でも、よく考えてみると、私たちも似たようなものかもしれません。
仕事も。
人間関係も。
家族も。
老いることも。
別れも。
本当は、誰だって初めてです。
経験があるように見えても、今日という日は初めて。
昨日と同じ一日が来たように見えても、昨日とは違う一日です。
だから本作では、輪廻転生という大きなテーマを、あえて宇宙の「役所」にしてみました。
魂にも整理券があり。
順番があり。
キャンセル待ちがあり。
そして、たまには事務ミスもある。
ずいぶんいい加減な宇宙ですが、もしかすると、そのくらいのほうが人間にはちょうどいいのかもしれません。
完璧な人生などありません。
予定通りの人生も, たぶんありません。
それでも、自分に与えられた持ち時間を、自分なりに生きていく。
それだけで、人生は十分に価値があるのではないでしょうか。
もし読み終えたあと、
「自分も、今日だけは一回目のつもりでやってみようかな」
と思っていただけたなら、とても嬉しく思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二部


人間、二回目です

―玉響課・経験者窓口の憂鬱―

まえがき
人生には、経験がものを言うことがあります。
一度やったことなら、二度目は上手くできる。
一度失敗したことなら、次は避けられる。
一度別れたことがあるなら、次は別れ方もわかる。
……本当に、そうでしょうか。
もし人間が何度も生まれ変わるのだとしたら、二回目の人生は、一回目より楽なのでしょうか。
前世の記憶があれば。
人間関係のコツを知っていれば。
仕事の仕方を知っていれば。
恋愛の失敗も、ある程度は避けられる。
そんな「経験者」がいたとしたら、きっと人生など簡単に生きられるはずです。
ところが。
宇宙のどこかにある魂配属課――通称・玉響課では、どうやらそうは考えていないようです。
「人間二回目です」
そう胸を張って地上へ降りた魂が、なぜか一回目の魂よりも苦労する。
前回の人生と比べてしまう。
前回ならこうした。
前回はこうだった。
前回は、もっと上手くできた。
けれど、今回の人生は、前回の続きではありません。
家族も違う。
時代も違う。
出会う人も違う。
そして何より――
今日という日は、今回が初めてです。
本作は、そんな少し面倒くさくて、少し可笑しい「人間二回目」の魂と、相変わらず宇宙の窓口業務に追われるタマユラ子たちの物語です。
一回目の人生も難しい。
二回目の人生も難しい。
もしかすると、人間というものは、何回目になっても新人なのかもしれません。
どうぞ、少し笑いながらお付き合いください。


序章 経験者窓口
宇宙のどこか。
座標も名前も持たない場所に、それでも役所は存在する。
魂配属課。
通称――玉響課。
今日も窓口は混んでいた。
虫。
魚。
鳥。
獣。
人間。
さまざまな魂が、整理券を握りしめて並んでいる。
「次の方、どうぞ」
窓口のタマユラ子が顔を上げる。
「人間コースを希望します」
「はい。では前世の経験を確認しますね」
魂の記録が画面に表示された。
「ええと……人間、一回」
「はい」
「今回は二回目ですね」
「はい」
魂が少し誇らしげに光った。
「経験者です」
タマユラ子は無表情で言った。
「経験者だからといって、優先されるわけではありません」
「はい」
「人間二回目だからといって、難易度が下がるわけでもありません」
「はい」
「前世の経験が、今回そのまま役立つとも限りません」
「……」
「それでも二回目ですか?」
「もちろんです」
魂は胸を張った。
「一回目よりは、ずっと上手く生きられると思います」
タマユラ子は、長年の経験から、こういう魂ほど心配になることを知っていた。
「では、こちらに署名を」
魂が書類に署名する。
「最後に一つだけ確認します」
「何でしょう?」
タマユラ子は静かに尋ねた。
「今回の人生を、前回の人生と比較しない自信はありますか?」
魂は即答した。
「もちろんです」
タマユラ子は判子を押した。
ぽん。
「では、行ってらっしゃいませ」
魂が光の階段を下りていく。
タマユラ子は、その背中を見送った。
「……たぶん、比較するでしょうね」
隣で新人職員のヒヨコ丸が言った。
「課長、なぜわかるんですか?」
「三千年、窓口をやっていますから」
「経験ですか」
「そうです」
タマユラ子は少し考えた。
「でも、三千年経験しても、人間のことはよくわかりません」
ヒヨコ丸が首を傾げた。
「課長は人間じゃないですよね」
「だから余計にわからないんです」


第一章 人間、二回目です
男の名前は、佐伯恒一。
三十七歳。
会社員。
妻なし。
子なし。
大きな特徴はない。
ただ一つだけ。
本人だけが知っていることがある。
自分は、人間二回目なのだ。
生まれた瞬間から、妙な感覚があった。
病院の天井を見上げたとき。
「……またここか」
赤ん坊の口から、そんな声が出た。
両親は驚いた。
医師はもっと驚いた。
ただ、赤ん坊本人は、それ以上何も覚えていなかった。
それでも成長するにつれ、断片的な感覚が戻ってきた。
前世。
仕事。
家。
駅。
知らない女。
そして、最後に見た夕焼け。
佐伯は自分の前世を「人生経験」と考えた。
だから今度は失敗しない。
学生時代から計画的だった。
前世では勉強を怠った。今回は勉強する。
前世では無駄遣いした。今回は貯金する。
前世では会社で人間関係に苦労した。今回は余計なことを言わない。
前世では結婚して失敗した。今回は慎重に相手を選ぶ。
完璧だった。
……はずだった。
就職して十年。
貯金は増えた。
仕事も順調。
上司とも揉めない。
同僚とも喧嘩しない。
恋愛も慎重にした。
ところが。
なぜか人生が、まったく楽しくない。
ある夜。
佐伯は一人で居酒屋に入った。
カウンターに座る。
「生ビールください」
店員が尋ねた。
「おつまみは?」
「結構です」
「本当に? おすすめの焼き鳥もありますよ」
「……大丈夫です」
佐伯はメニューを見ながら考えた。
前世では、ここで焼き鳥を頼んだ。そして調子に乗って食べすぎ、胃を壊して後悔したのだ。だから今回は頼まない。
無駄や失敗を回避できたはずだった。
店員が去る。
佐伯はビールを一口飲んだ。
「……」
美味しくない。
正確には、美味しい。
でも、前世のあの「失敗した夜」ほどの味わいがない。失敗を避ける代わりに、自分はいったい何を味わっているのだろうか。
佐伯は思った。
――前回のほうが良かった。
その瞬間。
自分で自分に嫌気が差した。
「俺は、何をやっているんだ」
二回目の人生。
失敗しないために生きている。
しかし。
失敗しない代わりに、何もしていない。


第二章 前世比較表
翌朝。
佐伯は会社へ向かった。
電車に乗る。
空いている席を見つけた。
座ろうとした瞬間、若い女性が走ってきた。
佐伯は譲った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性が座る。
佐伯は満足した。
前世ではなりふり構わず席を取っていた。今回は譲った。大人になった。成長したのだ。
そう自分を誇った直後。
女性がスマートフォンを取り出した。
佐伯の前で大きな声で電話を始めた。
「もしもし? 今、電車なんだけど――」
佐伯は眉をひそめた。
前世の自分なら一言注意していたはずだ。だが今回は我慢する。波風を立てず、人間関係で揉めないのが今回のルールだ。我慢こそが大人なのだから。
しかし、五分。
十分。
十五分。
佐伯はついに耐えられなくなった。
「すみません」
女性が振り向く。
「何ですか?」
「……いえ」
「?」
「何でもありません」
佐伯は黙った。
前世なら怒っていた。
今回は我慢した。
我慢して波風を立てなかったはずなのに、なぜか前世で怒ったとき以上に腹が立つ。
会社に着く。
上司が言った。
「佐伯君、これ今日中にお願い」
「はい」
前世なら「無理です」と突っぱねて険悪になっていた。今回は引き受ける。
ところが昼休み。
同僚が言った。
「佐伯さんって、何でも引き受けますよね」
「そうかな」
「便利なんですよ」
佐伯は固まった。
便利。
その言葉が胸に刺さった。
前世なら怒っていた。
今回は――。
「……そうですか」
笑ってみせた。失敗を避けて大人な対応をしているはずなのに、心が少しずつすり減っていく。
その日の帰り道。
佐伯は駅前のベンチに座った。
「何なんだよ……」
そのとき。
隣から声がした。
「大丈夫ですか?」
若い男だった。
「顔が、とても難しい顔をしています」
「……」
佐伯は男を見た。
どこか見覚えがある。
「あなたは?」
「タマオです」
「タマオ……?」
「人間一回目です」
佐伯は目を丸くした。
「一回目?」
「はい」
タマオは笑った。
「佐伯さんは?」
佐伯は胸を張った。
「二回目です」
「すごいですね」
「だろう?」
「何が違うんですか?」
「経験があります」
「そうなんですか」
「前回の人生を知っている」
「便利ですね」
「そうだろう」
タマオは少し考えた。
「じゃあ、今回の人生は前回と同じなんですか?」
佐伯は答えられなかった。


第三章 経験者、迷子になる
それから佐伯は、タマオと時々会うようになった。
不思議な青年だった。
何をするにも初めて。
だからこそ、何でも新鮮に見える。
「佐伯さん、今日の夕焼け、きれいですね」
「前世でも見た」
「……」
「いや、悪い」
「そうですか」
タマオは笑った。
「僕は初めてです」
「毎日同じような夕焼けだろ」
「でも、今日の夕焼けは今日しか見られません」
佐伯は何も言えなかった。
ある日。
二人で食堂に入った。
タマオがメニューを眺めている。
「何にする?」
「迷っています」
「僕ならこれだ」
佐伯が指差した。
「前世で食べたことがある。美味しい」
「じゃあ、それにします」
料理が来る。
タマオが一口食べた。
「美味しいです」
「だろう」
「でも、佐伯さん」
「何?」
「前世で食べた味と、比べているんですか?」
「……」
「僕は、比べられません」
「一回目だから?」
「はい」
タマオは箸を置いた。
「だから、今の味が全部です」
佐伯は料理を見た。
同じ料理。
同じ店。
それなのに。
なぜか急に、自分の料理が違って見えた。
その夜。
佐伯は夢を見た。
前世の自分。
妻。
家。
仕事。
最後の夕焼け。
目が覚める。
汗をかいていた。
「……前回のほうが良かった」
口に出した。
だが、その言葉を言った瞬間。
違和感があった。
前回の人生が本当に良かったのなら。
なぜ自分は、もう一度生まれたのだろう。


第四章 玉響課、再調査
宇宙。
玉響課。
「課長!」
ヒヨコ丸が走ってきた。
「またですか?」
「今回は大変です!」
「何が?」
「人間二回目の佐伯恒一さんから、地上相談が来ています」
「相談内容は?」
ヒヨコ丸が書類を見る。
「『前世より人生がつまらない』」
タマユラ子はため息をついた。
「……典型的ですね」
「典型なんですか?」
「人間二回目には、よくあります」
「どんな症状です?」
「前世比較」
「はい」
「記憶依存」
「はい」
「成功体験への執着」
「はい」
「そして――」
タマユラ子は判子を持った。
「『前はもっと上手くできた』病」
「病気なんですか?」
「病名はありません」
「じゃあ?」
「人間です」
ヒヨコ丸は納得した。
「なるほど」
「納得するところではありません」
タマユラ子は立ち上がった。
「地上へ行きます」
「また課長自ら?」
「前回のタマオの件もあります」
「タマオさんも?」
「はい」
「では今回も?」
「もちろんです」
タマユラ子は仮の肉体を選んだ。
今回も名前は田村由紀子。
ただし前回とは違う服装にした。
「課長、その服は?」
「人間二回目の魂には、それらしい格好が必要です」
「それらしい?」
「経験者に見える服です」
「どんな服ですか?」
「少し落ち着いた服です」
「それで何が変わるんです?」
「気分です」
「……」
タマユラ子は地上へ降りた。


第五章 人間二回目の落とし穴
佐伯は、会社を辞めようとしていた。
前世と同じ仕事。
前世と似た毎日。
もう嫌だった。
「今度こそ違う人生にする」
そう思っていた。
ところが。
転職先を探しているうちに、どこも前世と比較してしまう。
給料。
通勤時間。
人間関係。
会社の雰囲気。
何を見ても、
「前の会社のほうが……」
となる。
佐伯は頭を抱えた。
そこへタマユラ子が現れた。
「佐伯さん」
「田村さん?」
「少しお話があります」
「何でしょう」
「あなた、前世の人生を知っていますね」
佐伯の顔色が変わった。
「……なぜ」
「玉響課の記録です」
「玉響課?」
「魂配属課です」
佐伯は固まった。
「まさか……」
「はい」
タマユラ子は言った。
「あなたは確かに人間二回目です」
佐伯は少し嬉しそうにした。
「やっぱりそうなんですね」
「ただし」
「はい」
「二回目だからといって、前回より上手く生きられるとは限りません」
「……」
「むしろ、あなたは前回の人生に引っ張られすぎています」
佐伯は黙った。
「前回はこうだった」
「……」
「前回はこうすれば成功した」
「……」
「前回のほうが幸せだった」
「……」
「あなたは、今の人生を生きていません」
その言葉が胸に刺さった。
「でも、経験があるんです」
「はい」
「それを使うのが悪いんですか?」
「いいえ。使って結構です。ですが――」
タマユラ子は淡々と言った。
「地図として使うのです」
「地図?」
「前回の人生は、今回の人生の答えではありません。せいぜい参考資料です」
「参考資料……」
「しかも、ずいぶん古い資料です」
「古い?」
「少なくとも十年以上前のものです」
「……」
「家族も違う。時代も違う。出会う人も違う。なのに、なぜ前回と同じ答えが出ると思うのです?」
佐伯は答えられなかった。
そこへタマオがやってきた。
「田村さん」
「タマオさん」
「佐伯さん、どうしたんですか?」
「人間二回目の先輩が、少し迷っているのです」
タマオは佐伯を見た。
「僕、一回目ですけど」
「知っている」
「一回目だから、前回がありません」
「……」
「だから、比べることもできません」
佐伯は笑った。
「君は、本当に得だな」
「そうでしょうか」
「何も知らない」
「はい」
「何も経験していない」
「はい」
「だから迷わない」
タマオは少し考えた。
「いえ」
「え?」
「僕も、迷います」
「……」
「毎日迷います」
「一回目なのに?」
「一回目だからです」
佐伯は、思わず笑った。
「そうか」
「はい」
「一回目だから迷うのか」
「二回目でも迷うんじゃないですか?」
「……」
「僕にはまだわかりません」
「そうだな」
佐伯は空を見上げた。
「俺にも、わからないのかもしれない」


第六章 前回の自分に謝る
その夜。
佐伯は一人で歩いた。
前世で暮らしていた町。
もう何も残っていない。
家もない。
店もない。
駅前の景色も変わっている。
それでも、記憶だけは残っている。
前世の自分。
妻。
喧嘩。
仕事。
失敗。
成功。
そして最後の日。
佐伯はベンチに座った。
「なあ」
誰もいないのに話しかける。
「俺、ずっとお前の人生をやり直そうとしてた」
風が吹いた。
「でも、無理なんだな」
返事はない。
「当たり前だよな」
佐伯は笑った。
「お前と俺は、同じ魂でも、同じ人生じゃない」
少しだけ、涙が出た。
「悪かったな」
前回の自分に謝った。
「お前の人生を失敗作みたいに扱って」
それから立ち上がった。
翌朝。
佐伯は会社へ行った。
上司の前に立つ。
「部長」
「何だ?」
「昨日お願いされた仕事ですが」
「うん」
「今日は無理です」
部長が驚く。
「え?」
「明日にしてください」
「珍しいな」
「はい」
佐伯は笑った。
「二回目なので、今回は少し練習してみます」
「何の練習だ?」
「断る練習です」
部長は困った顔をした。
「……まあ、いいけど」
その日の昼。
同僚に誘われた。
「佐伯さん、昼飯どうです?」
「行きます」
前世なら一人で食べていた。
今回は行ってみる。
午後。
帰り道。
雨が降ってきた。
前世なら嫌いだった。
今回は傘を買った。
コンビニの店員に、
「ありがとうございました」
と言われた。
佐伯も頭を下げた。
「こちらこそ」
それだけの一日。
何も特別なことはない。
けれど。
佐伯は思った。
――悪くない。


終章 何回目でも新人
数日後。
玉響課。
タマユラ子は、佐伯の記録を確認していた。
「どうやら、少し落ち着いたようですね」
ヒヨコ丸が覗き込む。
「人間二回目って、大変なんですね」
「ええ」
「一回目より?」
「一回目も大変です」
「じゃあ、三回目は?」
タマユラ子は黙った。
「……もっと大変でしょうね」
「なぜです?」
「経験が増えるからです」
「経験が増えたら、楽になるんじゃないですか?」
「人間は、経験が増えるほど」
タマユラ子は判子を置いた。
「『自分はわかっている』と思い始めます」
ヒヨコ丸は納得した。
「なるほど」
「だから、経験は便利ですが」
タマユラ子は微笑んだ。
「同時に、重たい荷物にもなります」
そのころ地上では。
佐伯がタマオに言っていた。
「タマオ君」
「はい」
「俺、人間二回目だけど」
「はい」
「たぶん、まだ何もわかってない」
タマオは笑った。
「僕もです」
「君は一回目だろ」
「はい」
「じゃあ、俺と同じじゃないか」
「そうですね」
二人は並んで歩いた。
夕暮れだった。
タマオが空を見る。
「きれいですね」
佐伯も見上げた。
「……前にも見た」
タマオが笑う。
「また比べてますよ」
佐伯も笑った。
「悪い」
少し歩いてから、佐伯が言った。
「でも」
「はい」
「今日の夕焼けは、今日が初めてだな」
タマオは頷いた。
「はい」
二人はしばらく黙って歩いた。
その空のずっと向こう。
宇宙のどこか。
玉響課の窓口では、また一つの魂が順番を待っていた。
「次の方、どうぞ」
魂が窓口へ進む。
タマユラ子が記録を見る。
「前世、人間です」
「はい」
「人間経験、二回」
「はい」
「今回も人間を希望?」
「はい」
タマユラ子は尋ねた。
「前回の経験を活かしたいですか?」
魂は少し考えた。
「……できれば」
「そうですか」
タマユラ子は判子を持った。
そして、書類の一番下に、小さく注意書きを追加した。
『前世経験は参考資料であり、今回の人生の保証ではありません』
ぽん。
判子を押す。
「では、行ってらっしゃいませ」
魂が光の階段を降りていく。
ヒヨコ丸が尋ねた。
「課長」
「何です?」
「人間って、何回目になったら一人前になるんでしょう?」
タマユラ子は、少し考えた。
そして答えた。
「たぶん――」
窓口の向こうを見つめる。
「最後まで、なりません」
「え?」
「何回目でも、初めてのことが起きますから」
ヒヨコ丸は笑った。
「じゃあ、人間はずっと新人ですね」
「そういうことです」
タマユラ子は次の整理券を取った。
「次の方、どうぞ」
その声が、広い宇宙のどこかに響いていく。
一回目の魂も。
二回目の魂も。
何度目かわからない魂も。
みんな同じように、順番を待っている。
そして地上では。
人間二回目の佐伯が、今日という一日を生きている。
人間一回目のタマオも。
誰もが、今日を初めて生きている。
何回目の人生かは、もう関係ない。
昨日は昨日。
前世は前世。
そして今日という日は――
今日が一回目。
佐伯は空を見上げた。
「人間、二回目です」
小さく笑う。
「でも、今日は一回目だな」
空の向こうで、玉響が一つ。
ふわり。
ふわり。
そして静かに消えた。

(了)


あとがき
『人間、一回目です』に続いて、今回は「二回目」を書いてみました。
一回目のタマオは、何も知らないからこそ、何事にも丁寧でした。
では、二回目ならどうなるのか。
そんな疑問から生まれたのが、佐伯恒一という人物です。
彼は経験があります。
前世を知っています。
失敗も成功も覚えている。
だから、今度こそ上手く生きられると思っている。
ところが、人間というのは不思議なものです。
経験があるからこそ、
「前はこうだった」
「前はこうすればよかった」
「前より良くしたい」
と考えてしまう。
そして気がつくと、今の人生ではなく、前の人生を生き直そうとしている。
けれど、人生はコピーできません。
同じ魂だったとしても、家族が違う。
時代が違う。
出会う人が違う。
自分自身だって、少し違う。
だから、前回の人生の正解を今回に持ち込んでも、必ずしも同じ答えにはならない。
これは、輪廻転生の話であると同時に、私たちの日常の話でもあります。
昨日の経験。
昔の失敗。
若いころの成功。
「あのときはこうだった」という記憶。
それらは確かに大切です。
でも、今日という日は、昨日の続きであっても、昨日そのものではありません。
何歳になっても。
何度失敗しても。
何度経験しても。
今日初めて出会う人がいて、今日初めて見る景色があり、今日初めて決めることがあります。
だから、人間は何回目になっても新人なのかもしれません。
一回目の人も。
二回目の人も。
十回目の人も。
みんな同じように、今日を生きるしかない。
そんな少し可笑しくて、少し真面目な話として、この物語を楽しんでいただけたなら幸いです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


第三部


人間、三回目です


――玉響課・最終面談――

まえがき
人は、経験から学びます。
一度失敗すれば、二度目は同じ失敗をしない。
二度失敗すれば、三度目はもっと上手くなる。
――普通なら、そう考えます。
では、もし人生そのものを三回経験していたら。
仕事も。
恋愛も。
結婚も。
別れも。
成功も失敗も。
一度ならず二度まで経験していたら。
三回目の人生は、きっと簡単なはずです。
けれど、本当にそうでしょうか。
一回目の人生は、何も知らない。
二回目の人生は、前回と比較してしまう。
そして三回目になると――
「もう失敗したくない」と思ってしまう。
だから今度は、人生を完璧に設計しようとする。
けれど、人生には予定表に書けないものがあります。
偶然出会う人。
突然訪れる別れ。
思いがけない出来事。
そして、自分でも予想していなかった自分自身。
『人間、一回目です』では、何も知らない魂が、人間として生きることの尊さに気づきました。
『人間、二回目です』では、経験のある魂が、過去と今を比べ続けることの愚かさに気づきました。
そして本作では、その先へ進みます。
三回目の人間は、何を知るのでしょうか。
もしかすると答えは、
「何回目であっても、今日という日は初めて」
という、ごく当たり前のことなのかもしれません。
宇宙のどこかにある魂配属課。
今日も、タマユラ子は判子を持っています。
三回目の人生を迎える魂を前にして、彼女は何を言うのでしょうか。
少し笑って。
少し考えて。
最後に、ほんの少しだけ、ご自身の人生を振り返っていただければ幸いです。


序章 最終面談
宇宙のどこか。
座標も名前も持たない場所に、それでも役所は存在する。
魂配属課。
通称――玉響課。
今日も窓口には長い行列ができていた。
虫。
魚。
鳥。
獣。
人間。
さまざまな魂が、整理券を握りしめて順番を待っている。
窓口の奥では、課長のタマユラ子が書類を整理していた。
「次の方、どうぞ」
一つの魂が進み出る。
タマユラ子が記録を確認した。
「前世、人間」
「はい」
「その前も人間」
「はい」
「さらにその前も……人間」
魂が胸を張った。
「三回目です」
タマユラ子は画面を見つめた。
「人間三回目……」
隣にいたヒヨコ丸が小声で言う。
「ベテランですね」
「そうでもありません」
「どうしてです?」
タマユラ子は書類をめくった。
「この魂、前回も『次こそ完璧に生きる』と言っています」
「……」
「前々回も」
「……」
「さらにその前も」
ヒヨコ丸が首を傾げた。
「では、学習していないんでしょうか?」
「いいえ」
タマユラ子は答えた。
「学習しすぎているんです」
「?」
「人間は、経験を積むほど、自分の経験を信じすぎることがあります」
タマユラ子は魂に尋ねた。
「今回の人生で、何をしたいですか?」
魂は即答した。
「失敗したくありません」
タマユラ子は、しばらく黙っていた。
そして判子を持つ。
「では、最終面談です」
「最終?」
「人間三回目ですから」
ぽん。
判子が押された。


第一章 三回目の男
男の名前は、黒田 恒一。
五十二歳。
会社経営者。
独身。
そして――人間三回目。
幼いころから、奇妙な既視感があった。
初めて訪れた場所なのに知っている。
初めて会った人なのに、何となく結末がわかる。
初めて聞く歌なのに、昔から知っている気がする。
そして、三十代を過ぎたころ。
記憶がはっきりとつながった。
前世。
さらに、その前の人生。
黒田は理解した。
自分は人間三回目なのだ。
だから今回は、絶対に失敗しない。
前々世では、貧乏だった。
前世では、金はあったが人間関係を失った。
今回は両方を手に入れる。
前々世では、働きすぎた。
前世では、働かなさすぎた。
今回は適度に働く。
前々世では結婚した。
前世では独身だった。
今回は慎重に相手を選ぶ。
何もかも計画した。
そして、ほぼ完璧に人生を進めた。
会社は成功した。
金もある。
健康にも気をつけている。
人付き合いも慎重だ。
大きな失敗はない。
ところが。
五十二歳になったある夜。
黒田は、自宅の広いリビングで一人、ワインを飲みながら呟いた。
「……つまらない」
失敗していない。
だから、後悔も少ない。
けれど。
何かが足りない。
「こんなはずじゃなかった」
その言葉を口にした瞬間、黒田は思わず苦笑した。
「こんなはずじゃない、か……」
前世でも言った。
その前も言った。
三回目になっても、全く同じことを言っている。
黒田は頭を抱えた。
「俺は、何回やれば気が済むんだ」


第二章 人生設計書
黒田の机には、一冊のノートがあった。
表紙には、
『第三人生・完全攻略法』
と書かれている。
中身は実に細かい。
五十五歳までに会社を後継者へ譲る。
五十六歳で地方へ移住。
五十七歳で趣味を始める。
五十八歳で結婚。
六十歳で――。
人生が、精密な予定表になっていた。
ある日、黒田は喫茶店に入った。
窓際の席に座る。
すると、店員がコーヒーを運んできた。
「お待たせしました」
黒田がカップを口に含む。
「……少し、苦いですね」
店員が笑った。
「今日は豆が違うんです」
黒田は驚いた。
「いつも同じではないのですか?」
「毎日同じ味じゃ、つまらないでしょう?」
黒田は返事ができなかった。
店を出たあと。
道端で子どもが転んだ。
母親が駆け寄る。
黒田は一瞬、助けようとした。
だが、足を止めた。
自分には予定がある。
人助けをすると時間がずれる。
予定が狂う。
そのとき。
黒田の背後から声がした。
「大丈夫ですか?」
見ると、一人の青年が子どもを起こしていた。
タマオだった。
「ありがとうございます」
母親が頭を下げる。
タマオも頭を下げる。
そして黒田に気づいた。
「あ」
「君は……」
「以前お会いしましたね」
「タマオ君か」
「はい」
黒田は言った。
「君は相変わらずだな」
「何がです?」
「人間一回目」
「はい」
「何も知らない」
「はい」
「だから、予定もない」
「そうですね」
タマオは笑った。
「でも、予定がないと、誰かを助けられることもあります」
黒田は何も言えなかった。


第三章 玉響課、三回目を監視する
宇宙。
玉響課。
「課長!」
ヒヨコ丸が駆け込んできた。
「黒田恒一さんの人生設計が、また細かくなっています!」
「またですか」
「はい。六十歳以降の予定まで決まっています」
タマユラ子は記録を見る。
「典型的な三回目です」
「二回目とは違うんですか?」
「二回目は過去と比較します」
「はい」
「三回目は未来を管理しようとします」
「なるほど」
「でも、人間の未来ほど管理できないものはありません」
ヒヨコ丸が尋ねた。
「では、どうします?」
タマユラ子は立ち上がった。
「地上へ行きます」
「またですか?」
「三回目ですから」
「何か特別な対応が必要なんですか?」
「はい」
タマユラ子は少し考えてから言った。
「経験者ほど、初心者に会わせる必要があります」


第四章 予定外
黒田は、その日も予定通りに仕事を終えた。
十八時に退社。
十九時に食事。
二十時に読書。
二十一時に風呂。
二十二時に就寝。
完璧だった。
ところが、帰宅途中。
駅の階段で、老人が転んだ。
周囲の人が集まる。
黒田も立ち止まった。
予定では、ここをそのまま通過するはずだった。
だが老人が黒田を見上げた。
「すみません……」
黒田は手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
老人を助ける。
救急車を呼ぶ。
病院まで付き添う。
気づけば、夜の二十三時だった。
予定はすべて崩れた。
翌朝。
黒田は寝不足だった。
会社でも珍しくミスをした。
昼食の時間も遅れた。
人生設計書を開く。
予定表は、昨日から完全にずれている。
「最悪だ……」
そこへ田村由紀子が現れた。
もちろん、タマユラ子である。
「黒田さん」
「田村さん?」
「昨日、予定外のことがありましたね」
「ええ」
「困りましたか?」
「当然です。予定がすべて狂いました」
タマユラ子は微笑んだ。
「でも」
「何です?」
「昨日の老人は、助かりました」
黒田は黙った。
「それは、予定表には書かれていません」
「……」
「でも、あなたの人生には刻まれました」
黒田は静かにノートを閉じた。


第五章 三回目の告白
黒田には、気になっている女性がいた。
会社の取引先に勤める、春子という女性だった。
しかし黒田は告白しなかった。
前々世では、早すぎる結婚で失敗した。
前世では、遅すぎて別れた。
だから今回は、慎重にする。
タイミングを計る。
場所を選ぶ。
言葉を吟味する。
そして――。
五年が過ぎた。
春子は別の男性と結婚した。
黒田は何も言えなかった。
「また、同じだ」
その夜、黒田は一人で酒を飲んだ。
そこへタマユラ子が現れた。
「どうして告白しなかったのです?」
「失敗したくなかったからです」
「失敗しましたね」
「……はい」
「では、次は?」
黒田は苦笑した。
「もう次はありませんよ」
「本当に?」
「人間三回目ですから」
タマユラ子は黙った。
そして静かに言った。
「黒田さん」
「はい」
「あなたは、三回目だから失敗したのではありません」
「……」
「三回目だから、失敗を怖がりすぎたのです」
黒田は目を閉じた。


第六章 人生の予定外
数年後。
黒田は会社を後継者に譲った。
予定より二年早かった。
地方へ移住した。
予定より三年早かった。
趣味を始めた。
予定より五年早かった。
そして、春子とは別の女性と出会った。
出会ったその日に、黒田は言った。
「私は人間三回目なんです」
女性は笑った。
「何ですか、それ」
「いや……」
黒田も笑った。
「何でもありません」
今度は、人生を説明しようとしなかった。
未来を決めようともしなかった。
ただ、一緒に食事をした。
途中で雨が降ってきた。
傘を一本しか持っていなかった。
二人で濡れながら歩いた。
黒田は笑った。
「予定外ですね」
女性も笑った。
「嫌ですか?」
黒田は空を見上げた。
「いいえ」
そのとき、初めて思った。
――予定外も、悪くない。


第七章 最終面談
黒田が亡くなった。
三回目の人生を終えた魂は、玉響課へ戻ってきた。
窓口にはタマユラ子。
隣にはヒヨコ丸。
「お帰りなさいませ」
黒田の魂が尋ねる。
「……終わったのですね」
「はい」
「三回目も、うまくはいきませんでした」
タマユラ子は頷いた。
「そうですね」
「会社も予定通りにはいかなかった」
「はい」
「恋愛も」
「はい」
「人生も」
「はい」
黒田は苦笑した。
「三回やっても、結局失敗ばかりでした」
タマユラ子は記録を閉じた。
「では、最終面談です」
「まだあるのですか?」
「あります」
「何を聞くのです?」
タマユラ子は尋ねた。
「もう一度、人間をやりますか?」
黒田は黙った。
長い沈黙があった。
そして言った。
「……もう十分です」
「そうですか」
「三回もやりましたから」
「はい」
「もう、失敗したくありません」
タマユラ子は微笑んだ。
「それは残念です」
「え?」
「あなた、三回目の人生で、ようやく失敗を怖がらなくなったところでしたのに」
黒田は目を丸くした。


第八章 人間一回目の言葉
そのとき。
窓口の向こうから声がした。
「黒田さん」
振り向く。
タマオだった。
「君は……」
「人間一回目です」
「知っているよ」
「僕、前にも言いましたよね」
「ああ」
タマオは笑った。
「今日という日は、今日が初めてなんです」
黒田は黙った。
「だから、僕は毎日、初めてです」
「……」
「怖いですけど」
「うん」
「面白いですよ」
黒田は微笑んだ。
「君は、何も知らないから強いな」
「そうでしょうか」
「いや」
黒田は首を振った。
「違うな」
そして、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「何も知らないんじゃない」
「?」
「知らないことを、知らないまま受け入れているんだ」
タマオは笑った。
「そうかもしれません」
黒田はタマユラ子を見る。
「もし、もう一度やるなら」
「はい」
「今度は、人生設計書はいりません」
「よろしいのですか?」
「はい」
「予定も?」
「いりません」
「前世の経験も?」
黒田は少し考えた。
「経験は持っていきます」
「結構ですね」
「でも」
黒田は笑った。
「答えは、持っていきません」
タマユラ子は、静かに頷いた。


終章 四回目の窓口
宇宙のどこか。
玉響課。
タマユラ子は新しい書類を手にしていた。
記録。
人間経験 三回。
今回――四回目。
ヒヨコ丸が尋ねる。
「課長」
「何です?」
「四回目って、ベテランですよね?」
「そうですね」
「じゃあ、人生も上手になりますか?」
タマユラ子は笑った。
「さあ」
「さあ?」
「人間ですから」
そこへ黒田の魂がやってきた。
「次の人生は?」
タマユラ子は書類を渡した。
「こちらです」
「希望は出せますか?」
「もちろん」
黒田は書類を見る。
職業。
家族。
住む場所。
時代。
さまざまな選択欄がある。
しかし黒田は、ほとんど空欄のまま返した。
「これだけでいいです」
「どれでしょう?」
黒田は一つだけ指差した。
『予期せぬ出来事を受け入れる』
タマユラ子は笑った。
「難しい項目です」
「知っています」
「三回目の経験から?」
「はい」
「では」
タマユラ子は判子を持った。
「行ってらっしゃいませ」
ぽん。
判子が押された。
黒田の魂が、光の階段を降りていく。
ヒヨコ丸が窓口から見送る。
「課長」
「はい」
「人間って、何回やれば一人前になるんでしょう?」
タマユラ子は答えた。
「なりません」
「三回やっても?」
「なりません」
「四回やっても?」
「たぶん」
「じゃあ、何回やっても?」
タマユラ子は笑った。
「何回やっても、人間は初めてです」
そのころ地上では。
タマオが夕焼けを見ていた。
佐伯もいた。
そして、いつの間にか黒田の新しい人生も、どこかで始まっている。
一回目の人間。
二回目の人間。
三回目の人間。
何回目かわからない人間。
それぞれが、それぞれの人生を歩いている。
過去は消えない。
経験も消えない。
失敗も、後悔も、思い出も。
全部、自分の中に残っている。
けれど。
今日という日は、誰にとっても一回目だ。
初めて会う人。
初めて見る景色。
初めて選ぶ道。
初めて聞く言葉。
そして――
初めて経験する今日。
だから、人生は何回目でもいい。
一回目でも。
二回目でも。
三回目でも。
何十回目でも。
大切なのは、
「何回目の人生か」ではなく、
「今日を何回目のつもりで生きるか」なのかもしれない。
夕暮れの空に、玉響が一つ浮かんだ。
ふわり。
ふわり。
そして、どこかへ消えていった。
その先で、また新しい魂が窓口に並んでいる。
タマユラ子が顔を上げる。
「次の方、どうぞ」
物語は、まだ終わらない。
けれど――
この三つの物語は、ここで一度、幕を閉じる。
一回目だから、知らない。
二回目だから、比べる。
三回目だから、選ぶ。
そして最後に残るのは、
ただ一つ。
今日という人生。

(了)


あとがき
『人間、一回目です』
『人間、二回目です』
そして、本作。
『人間、三回目です』
三つの物語を書き終えました。
最初のタマオは、人間一回目。
何も知らないから、何をするにも真剣でした。
蟻に謝り、鳩に敬語を使い、エレベーターの定員まで気にする。
普通なら「変な人」です。
でも、物語を書いているうちに、だんだんと思いました。
もしかすると、彼のほうが一番、人間らしいのではないか。
知らないから、ちゃんと見る。
知らないから、ちゃんと聞く。
知らないから、一つ一つを大切にする。
それが一作目でした。
二作目の佐伯は、人間二回目。
経験がある。
だから前回と比較する。
「前はこうだった」
「前より良くしたい」
「今度は失敗したくない」
経験は人生を助けてくれます。
けれど、経験があるからこそ、目の前の人生を見失うこともある。
それが二作目でした。
そして三作目の黒田は、人間三回目。
彼は、比較するだけでは足りなくなります。
今度こそ失敗しないために、人生そのものを設計しようとする。
けれど、人生には予定表に書けないものがある。
偶然。
出会い。
別れ。
失敗。
そして、予定外の幸福。
三回目になって黒田が最後に選んだのは、
「答えを持っていかない」
ということでした。
これは、三部作を書きながら私自身がたどり着いた答えでもあります。
人は経験から学びます。
過去を振り返ります。
失敗を反省します。
それは大切なことです。
でも、過去の答えをそのまま今日に持ち込む必要はない。
今日という日は、今日しかありません。
何歳になっても。
何回経験しても。
初めて出会うものがあります。
初めて感じることがあります。
初めて選ぶことがあります。
だから結局、人間は何回目になっても新人なのかもしれません。
私自身もまた、いくら歳を重ねて経験を積んでも、結局は毎日が「初めての今日」の手探りなのだと深く感じています。
そして、それでいいのだと思います。
一回目の人間も。
二回目の人間も。
三回目の人間も。
みんな、今日を生きるのは初めてなのですから。
最後まで三部作にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
またどこかで、玉響課の窓口が開くかもしれません。
そのときは、また一人の魂が整理券を握って、列の最後尾に並んでいることでしょう。
「次の方、どうぞ」
その声が聞こえたら。
どうぞ、またお越しください。

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紹介文

『人間、三回目です』

――玉響課・最終面談――


人間、三回目。

前世も人間。

その前も人間。

人生経験は十分。

だから今度こそ――失敗しない。

そう考えた男、黒田恒一。

前々世では貧乏だった。

前世では金を得たが、人間関係を失った。

ならば三回目は、その両方を手に入れればいい。

仕事も。

お金も。

恋愛も。

人生そのものを完璧に設計する。

ところが。

人生には、予定表に書けないことが起こる。

偶然の出会い。

予期せぬ別れ。

予定外の親切。

そして、自分でも知らなかった自分自身。

そんな黒田の前に現れたのは――

人間一回目の青年・タマオ。

何も知らない。

何も経験していない。

だからこそ、今日という一日を「今日が初めて」として生きている。

一方、宇宙の彼方にある魂配属課――通称・玉響課では、課長タマユラ子が三回目の人間を見守っていた。

「一回目は何も知らない」

「二回目は前回と比べる」

「では、三回目は?」

その答えを探すため、玉響課の「最終面談」が始まる。

笑えて、少し不思議で、最後には自分の人生を振り返りたくなる。

『人間、一回目です』

『人間、二回目です』

そして――

『人間、三回目です』

三部作、ここに完結。

一回目だから、知らない。

二回目だから、比べる。

三回目だから、選ぶ。

そして最後に残るのは――

何回目であっても、今日という人生は一回目。



常聞(じょうぶん)

――適正化課・因幡令の記録――



まえがき

人は、自分が見たいものだけを見て生きているわけではありません。

むしろ、見せられたものを「世界のすべて」だと思って生きていることの方が多いのかもしれません。

テレビ、新聞、インターネット。

情報が増えれば増えるほど、私たちは自由になったように感じます。

けれど、その情報が誰かによって選ばれ、並べ替えられ、届けられているとしたら。

そして、その選別が人間の判断ではなく、巨大なアルゴリズムによって、ごく自然に行われていたとしたら。

私たちは、自分でニュースを選んでいるのでしょうか。

それとも、ニュースの方に「あなたにはこれで十分です」と選ばれているのでしょうか。

本作の舞台は、2044年の東京です。

そこでは、かつてのテレビ局という存在は姿を消し、「常聞(じょうぶん)」という巨大な情報基盤に統合されています。

常聞は、国民一人ひとりに最適化された情報を届けます。

不快なニュースは減らされます。

関心の薄い話題は小さくされます。

協賛企業にとって都合の悪い情報は、別の形に整えられます。

そして、それは「情報統制」とは呼ばれません。

「適正化」と呼ばれます。

主人公・因幡令も、その仕組みを支える側にいました。

九年間、何の疑問も持たずに。

けれど、ある一本のニュース原稿に残された、たった一行のコメントが、彼の日常を少しずつ壊していきます。

これは、巨大な権力と戦う英雄の物語ではありません。

一人の人間が、

「見なかったことにする」

という、とても簡単で、とても便利な生き方をやめるまでの物語です。

もし読み終えたあと、いつも見ているニュースの画面を、ほんの少しだけ違った目で眺めることがあったなら。

この物語は、それだけで十分に役目を果たしたのだと思います。




序章 窓の内側

2044年、東京。

この国には、もう「テレビ局」という言葉がほとんど残っていなかった。

十二年前に施行された「放送統合法」によって、かつてNHKと呼ばれた組織も、民放各局と呼ばれた組織も、すべて一つの情報基盤に統合された。

その名前は――

常聞。

「常に聞く」という意味から付けられた、いかにも穏やかな名前だった。

常聞は、放送局ではない。

もっと正確に言えば、それは「窓」だった。

朝、壁面スクリーンに触れる。

すると、年齢、居住地、購買履歴、検索履歴、睡眠状態、行動パターンなどから、その人間に必要だと判断されたニュースが自動的に編成される。

同じ時刻に同じニュースを見る人間は、ほとんどいない。

誰かには経済ニュース。

誰かにはスポーツ。

誰かには芸能。

そして誰かには、社会問題がほとんど表示されない。

常聞は、それを「個別最適化」と呼んでいた。

利用者たちは、それを便利だと思っていた。

因幡令も、そう思っていた。

常聞コンテンツ適正化課、第三係。

令の仕事は、配信予定のニュース原稿や特集映像を確認し、「協賛適合スコア」が基準値を下回っていないかを確認することだった。

数字が低ければ差し戻す。

修正されたものを再確認する。

問題がなければ承認する。

それだけだった。

九年間。

令は、その仕事を続けてきた。

自分は報道を作っているわけではない。

政治家でもない。

企業の経営者でもない。

ただ、届く情報を整えているだけだ。

そう思っていた。

その日までは。

午前十時十七分。

令の端末に一本の原稿が届いた。

識別番号――SS-4489。

防衛関連予算の執行に関する調査報道だった。

数字が細かく並んでいる。

令はいつものように読み進めた。

ところが、記事の末尾で指が止まった。

通常なら表示されない管理者コメントが、画面の端に残っていた。

そこには、短くこう書かれていた。

「協賛先:白鷺重工業。当該箇所、完全排除。理由開示不要。」

令は画面を見つめた。

完全排除。

理由開示不要。

それは、内容を検討した結果ではない。

最初から「消す」と決められているということだった。

令はしばらく動かなかった。

それでも、やがてコメント欄を閉じた。

そしていつも通り、スコアを入力した。

何も見なかったことにして。

その夜。

令は眠れなかった。

⸻

第一章 整合エンジン

翌朝、令は一時間早く出社した。

誰もいないフロアで、SS-4489の履歴を呼び出す。

管理者コメントの下に、昨日は見落としていた表示があった。

「整合エンジン処理済み」

令は眉をひそめた。

整合エンジン。

聞いたことがない。

適正化課では、人間が最終的な確認をすることになっている。

少なくとも、表向きは。

令は同期の坂上美咲を捕まえた。

美咲は令より二年先輩で、以前はシステム開発部にいた。

「整合エンジンって、知ってる?」

美咲の手が止まった。

ほんの一瞬だった。

だが令には分かった。

「どこで、その名前を?」

「原稿の履歴に出てた」

美咲は周囲を確認してから、小声で言った。

「表には出さない仕組みよ」

「何をするんです?」

「協賛企業ごとに、許容ラインが設定されているの」

「許容ライン?」

「その企業に不利益になる可能性がある情報を、どこまで流していいか。エンジンが判断する」

「人間が?」

「昔はね」

美咲は苦笑した。

「今はほとんどAIよ。危ない原稿なら、公開前に文章を変える。映像なら別の映像に差し替える。場合によっては、記事そのものを消す」

令は黙った。

「じゃあ、僕らが見ているスコアは?」

「その後」

「……後?」

「エンジンが整えた後の数字よ」

令は、背中が冷たくなるのを感じた。

自分たちは判断していると思っていた。

だが実際には、判断された後のものを確認していただけだった。

「白鷺重工業って……」

美咲の顔から笑みが消えた。

「その名前は、職場ではあまり口にしない方がいい」

「何かあるんですか?」

「知らない方がいい」

「それ、答えになってないですよ」

美咲はしばらく令を見た。

そして、

「だから言ってるの」

とだけ言った。

その日から、令は整合エンジンの記録を探し始めた。

表向きのマニュアルには存在しない。

しかし、社内アーカイブの古い研修資料の片隅に、一枚だけ図が残っていた。

中央に「整合エンジン」。

そこから四本の線が伸びている。

防衛。

エネルギー。

製薬。

金融。

さらに下。

小さな文字があった。

政治資金。

令は、その文字を指でなぞった。

そして初めて、自分の仕事が何を「整えて」いるのか、考え始めた。

⸻

第二章 声の谷

「声の谷」という言葉を、令は古書店で初めて聞いた。

その店は、常聞の推薦欄に一度も表示されたことがなかった。

紙の本。

古いラジオ。

手書きの値札。

壁時計の秒針。

東京の中心にありながら、そこだけ時間が取り残されているようだった。

店主の老人は、令を見るなり言った。

「あんた、常聞の人間だろう」

令は驚いた。

「どうして分かるんです?」

「顔だよ」

老人は笑った。

「常聞の人間は、みんな似た顔をしている」

「どんな顔です?」

「何かを知っているのに、自分では知らないと思っている顔だ」

令は返す言葉がなかった。

老人は店の奥へ歩いた。

「ここでは、常聞を通らない情報を扱っている」

「違法ですか?」

「さあな。法律が何を禁止しているのか、それを決めるのも常聞に近いところにいる人間だからな」

地下室には、古い短波無線機が並んでいた。

紙の束もある。

地方の事故記録。

内部告発文書。

政治資金の記録。

かつて新聞だったもの。

老人はそれを「声の谷」と呼んだ。

放送統合法に反対したジャーナリストや技術者たちが、退職後も続けている非公式の情報網。

短波。

紙。

手渡し。

古い方法だった。

だからこそ、常聞には見つけにくい。

「白鷺重工業について知りたい」

令が言うと、老人の表情が変わった。

「やめておけ」

「なぜです?」

「白鷺だけじゃないからだ」

老人は一枚の紙を差し出した。

五年前の内部告発。

防衛関連予算の水増し。

架空の部品。

実在しない輸送費。

そして、その直後に消えた技術者。

「東成電力も同じだ」

老人は別の紙を置いた。

令の指が止まった。

東成電力。

その名前には、聞き覚えがあった。

いや。

忘れていたはずの名前だった。

老人が令を見た。

「知っている顔だな」

令は答えなかった。

胸の奥で、何かが古い扉を叩いていた。

⸻

幕間 姉の手紙

令には姉がいた。

綾。

十八年前から、一度も会っていない。

母方の実家は、東北の小さな漁村にあった。

その近くには原子力発電所があった。

十八年前、冷却系統の事故が起きた。

当時のニュースは「軽微なトラブル」と報じた。

「安全上の問題はない」

「念のための避難」

「影響は限定的」

令は、それを信じていた。

中学生だった。

大人たちがそう言うなら、そうなのだと思った。

だが、村には戻れなかった。

土地の価値は下がった。

漁業は衰退した。

人々は少しずつ故郷を離れた。

綾だけは、納得しなかった。

地元紙に投書した。

集会に出た。

事故の記録を調べた。

そして、いつも同じことを言っていた。

「誰かが本当のことを言わなきゃ」

ある夜、避難先のアパートで、綾は令に言った。

「私たちがいなかったことにされる」

令は、その言葉を覚えていた。

十八年間、一度も思い出さないようにしていた。

やがて綾は家族から離れた。

親戚から聞いた話では、体調を崩して静養しているらしい。

令は、それ以上聞かなかった。

聞けば、自分も何かをしなければならなくなる気がしたからだ。

そして令は、常聞に就職した。

安定した仕事。

社会的な信用。

何より、故郷のことを考えずに済む生活。

令は「忘れる」という選択をした。

それが大人になることだと思っていた。

しかし、その夜。

アーカイブで東成電力の古い記録を見つけたとき、綾の声が戻ってきた。

――誰かが本当のことを言わなきゃ。

令は、端末の前で長い間動けなかった。

そのとき初めて思った。

自分が九年間やってきた「適正化」とは何だったのか。

原稿から数字を消す。

表現を柔らかくする。

不都合な情報を目立たなくする。

それは、あの日、綾が恐れていたことと同じではないのか。

誰かの人生を、

「なかったこと」

にする仕事ではなかったのか。

その夜、令は十八年ぶりに姉へ手紙を書いた。

宛先は分からない。

それでも、親戚に教えてもらった古い住所へ送った。

封筒の裏に、短く書いた。

「もう、なかったことにはしない。」

⸻

第三章 罠

三度目に古書店を訪れた夜。

令は、店の向かいに立つ二人の男に気づいた。

黒いコート。

無表情。

店を見ている。

令は立ち止まらず、そのまま通り過ぎた。

翌朝。

端末に見慣れない通知が出た。

第三係・因幡令
業務外情報アクセス、検知。

令の喉が乾いた。

常聞は、ニュースだけを監視しているわけではなかった。

人間もまた、情報として処理されている。

通勤経路。

購買履歴。

交友関係。

睡眠時間。

移動距離。

そして、行動の「不自然さ」。

午後、上司の室谷に呼ばれた。

「最近、少し疲れているんじゃないか」

室谷は笑っていた。

「休暇を取った方がいい」

「大丈夫です」

「健康管理部のカウンセリングを受けてもいい」

「必要ありません」

室谷の笑顔が消えた。

「因幡くん」

静かな声だった。

「必要かどうかを判断するのは、君じゃない」

令は黙った。

翌朝。

美咲の席が空いていた。

「異動ですか?」

誰かに聞いた。

「さあ」

「どこへ?」

「知らない」

誰も目を合わせなかった。

その日の夕方、令は美咲の端末を確認した。

アクセス権限――停止。

社員ID――無効。

人事記録――閲覧不可。

まるで、最初から存在しなかったようだった。

令はそこで理解した。

常聞が怖いのは、人間を殴ったり、逮捕したりすることではない。

もっと静かな方法がある。

仕事を消す。

履歴を消す。

人間関係を消す。

居場所を消す。

そして最後には、

その人間を「いなかったこと」にする。

その夜。

古書店へ行った。

だがシャッターは閉じていた。

貼り紙が一枚。

「都合により、しばらく休業いたします」

令は紙を見つめた。

もう戻れない。

そう思った。

⸻

第四章 核心

令はアーカイブ室へ向かった。

適正化課の職員には、本来アクセス権がない。

だが九年間働いてきた。

どこに監視カメラがあるか。

どの時間帯に巡回が減るか。

どの扉のロックが古いか。

令は知っていた。

アーカイブ室の奥。

旧型サーバー。

そこに、東成電力の記録が残っていた。

事故発生時刻。

冷却系統の異常。

住民への避難指示。

そして、当時の技術者による内部報告。

公表された事故より、はるかに深刻だった。

さらに、その後の政治資金の記録。

事故の翌年、安全基準を見直す法案が提出されている。

しかし廃案。

反対した議員の多くが、東成電力から献金を受けていた。

令は、画面を見つめた。

白鷺重工業。

東成電力。

防衛。

原発。

政治資金。

そして常聞。

一本の線でつながっていた。

いや。

線ではない。

巨大な網だった。

そして、その網の上に「整合エンジン」が存在していた。

令は記録を複製しようとした。

その瞬間。

照明が消えた。

暗闇。

足音。

「因幡令」

室谷の声だった。

「そこから先は、君が知っていい領域じゃない」

⸻

第五章 決断

室谷は暗闇の中に立っていた。

「知っていたんですか」

令が聞いた。

「何を?」

「全部です」

室谷は答えなかった。

令は続けた。

「整合エンジンも。政治資金も。事故の記録も」

「知っている」

「それなのに、黙っている?」

室谷は少し笑った。

疲れた笑いだった。

「私も昔は君と同じだった」

「……何を?」

「何かがおかしいと思って、調べた」

室谷は壁にもたれた。

「そして、調べれば調べるほど分かった。腐っているのは一か所じゃない。十か所でもない。互いに支え合っている」

「だから諦めた?」

「違う」

室谷は首を振った。

「最初は、守ろうとした」

「何を?」

「自分を」

沈黙。

「その次に家族を守ろうとした。仕事を守ろうとした。生活を守ろうとした。気がつけば、仕組みそのものを守る側にいた」

令は何も言えなかった。

「君も同じだ」

室谷が言った。

「九年間、ここで働いた。君は何人の人間の声を消した?」

「……」

「私と何が違う?」

令は答えられなかった。

室谷はしばらく令を見た。

そして小さく言った。

「だから、私は君を拘束しない」

「なぜです?」

「まだ、戻れる顔をしているからだ」

室谷は出口へ向かった。

「ただし、一つだけ覚えておけ」

「何を?」

「常聞の回線を使えば、数分で見つかる」

室谷は振り返らなかった。

「本気で外へ出るなら、窓の外へ出ろ」

扉が閉まった。

令は一人になった。

その言葉が、妙に耳に残った。

窓の外。

令は複製したデータを握った。

行く場所は一つだった。

⸻

第六章 電波

古書店の裏口を叩いた。

しばらくして、老人が顔を出した。

「戻ってくると思っていた」

地下室には、以前より多くの人間がいた。

無線技術者。

元記者。

印刷工。

地方紙の編集者。

誰も名乗らなかった。

老人は令のデータを受け取った。

「これを流す」

「常聞が止めに来ます」

「当然だ」

「僕も追われる」

「それも当然だ」

老人は笑った。

「だからこそ、今まで誰もやらなかった」

技術者たちは徹夜でデータを整理した。

感情的な言葉は削った。

推測も削った。

残したのは、確認できる記録だけ。

防衛予算。

事故報告。

政治献金。

整合エンジン。

そして、常聞による情報操作の記録。

三日後。

午前二時四十一分。

短波送信機の前に令が座っていた。

老人が言った。

「君の名前は出す」

「分かっています」

「元の生活には戻れない」

「もう、戻りたいとは思いません」

老人が令を見た。

「怖くないのか」

令は少し考えた。

「怖いです」

それから、

「でも、怖いからって、見なかったことにはできない」

老人は黙っていた。

やがてマイクのスイッチに手をかけた。

「では、始めよう」

⸻

第七章 窓の外

放送は、七分十二秒続いた。

老人の声が、静かに流れた。

白鷺重工業。

防衛予算。

東成電力。

事故記録。

政治献金。

そして、整合エンジン。

糾弾はしなかった。

怒鳴らなかった。

ただ事実を読み上げた。

放送開始から四分。

外で車が止まった。

足音。

複数。

老人が時計を見る。

「来たな」

「逃げましょう」

「私はいい」

「でも――」

「君は若い」

老人は笑った。

「それに、君にはまだ言うべきことが残っている」

令は迷った。

その瞬間、老人が言った。

「窓の外へ出ろ」

室谷と同じ言葉だった。

令は裏口へ走った。

外へ出る。

夜の東京。

誰も自分を見ていない。

それなのに、世界全体が自分を見ているような気がした。

数日後。

令は地方の小さな町に身を潜めていた。

常聞には接続しなかった。

端末も処分した。

そして、風の噂から放送のその後を知った。

受信できたのは一部。

老人は拘束された。

消息は不明。

常聞は放送を「悪質なデマ」と発表した。

内容は全面否定。

だが、それで終わらなかった。

放送を聞いた人間がいた。

記録を紙に印刷した。

手渡した。

また別の人間が複製した。

誰かが短波で流した。

誰かが海外のサーバーに保存した。

誰かが古い記憶媒体にコピーした。

常聞のアルゴリズムが見つけるより早く、

人から人へ、

声から声へ、

記録は移動していった。

一週間後。

東成電力の株価が下落した。

国会で、一人の議員が「情報統制」について質問した。

常聞は質問を小さく扱った。

だが、答弁映像の一部が一般回線へ流出した。

誰が流したのか。

令には分からなかった。

ただ一つだけ分かった。

窓は、完全には閉じられない。

どれほど厚いガラスでも、

どこかには、

小さな隙間がある。

⸻

終章 残された窓

一年が過ぎた。

令は名前を変え、山間の集落で暮らしていた。

都会ほど便利ではない。

常聞の端末も少ない。

けれど、そこには別のものがあった。

人が人に話しかける。

隣人が隣人に知らせる。

誰かが聞いたことを、誰かに伝える。

推薦アルゴリズムのない会話だった。

ある晩。

集会所の古いラジオから、短い符丁が流れた。

声の谷。

まだ生きている。

老人の消息は分からない。

美咲の消息も分からない。

室谷のその後も、令は知らない。

それでも、声だけは残っていた。

常聞は今も稼働している。

ニュースは毎朝届く。

防衛費も増え続けている。

原発の運転延長も、静かに決まっていく。

企業献金を規制する法案も、今年も先送りされた。

令は、自分が何かを変えたとは思っていなかった。

世界は、ほとんど何も変わっていない。

それでも。

半年ほど前、一通の手紙が届いた。

差出人はない。

消印だけがあった。

令は封筒を開けた。

中には、一枚の紙。

そこに一行だけ書かれていた。

「なかったことには、私もしていない。」

令は、すぐに分かった。

綾だ。

どこにいるのか。

どうやって暮らしているのか。

何も分からない。

それでもよかった。

十八年前のあの日。

綾の声は、消えていなかった。

令が忘れたと思っていた声は、

ずっとどこかで生きていた。

令は夜空を見上げた。

都会にはない星が見えた。

その光は、誰かに選ばれたものではなかった。

推薦されたものでもない。

ただ、そこにあった。

令は、老人の言葉を思い出した。

――窓は、完全には閉じきれない。

令は静かに息を吐いた。

そして思った。

明日もまた、どこかで誰かが気づく。

何かがおかしい、と。

その誰かが、一人ではないことを知る。

声は小さくてもいい。

届く相手が一人でもいい。

なかったことにされなければ、

声は消えない。

誰かの手から、

次の誰かの手へ。

そうして、いつかまた、

窓の外へ出る。

令は、夜空を見上げたまま、

小さく呟いた。

「聞こえている」

誰に向けた言葉なのか、

自分でも分からなかった。

ただ、

その言葉だけは、

常聞に選ばせたくなかった。

――完――



Kindle




あとがき

『常聞(じょうぶん)』を書きながら、ずっと考えていたことがあります。

情報が自由に手に入る時代と、情報が自由な時代は、同じではないのではないか。

スマートフォンを開けば、世界中のニュースが目の前に並びます。

けれど、その中から何を見るのか。

何を見ないのか。

何を重要だと思うのか。

それさえも、誰かの仕組みによって決められているとしたら。

私たちは、本当に自分の意思で世界を見ているのでしょうか。

本作では、それを「整合エンジン」という架空の仕組みにしました。

もちろん、2044年の常聞は架空の存在です。

しかし、情報が人間の感情や行動に合わせて最適化されていくという方向そのものは、決して遠い未来の話ではありません。

便利になることと、自由になること。

その二つは、必ずしも同じではない。

そんな小さな違和感から、この物語は始まりました。

主人公の因幡令は、最初から勇敢な人間ではありません。

むしろ、見ないことを選び、忘れることを選び、安定した生活を選んできた普通の人間です。

だからこそ、彼が最後に「見たものを見たと言う」ことには意味があるのだと思っています。

そして、令の姉・綾。

彼女の存在は、令にとって過去そのものです。

けれど、最後に届いた一通の手紙によって、その過去は現在へ戻ってきます。

人は忘れることができます。

社会も忘れることができます。

記録も消すことができます。

それでも、誰かが覚えている限り、完全な「なかったこと」にはならない。

そんな思いを込めました。

大きな体制を一人で変えることはできない。

けれど、一人の人間が「これはおかしい」と思うところから、何かは始まる。

その小さな声が、次の誰かへ渡っていく。

本作の「声の谷」は、その象徴です。

古い短波ラジオ。

紙の記録。

手渡しの情報。

一見すると、最新技術とは正反対のものです。

けれど最後に残るのは、結局、人から人へ渡される「声」なのかもしれません。

もし本書を読み終えたあと、いつも見ているニュースの画面を一度だけ、

「これは誰が、なぜ、私に見せているのだろう」

と眺めていただけたなら。

作者として、とても嬉しく思います。

⸻

作品紹介

『常聞(じょうぶん)』

――適正化課・因幡令の記録――

2044年。

日本から「テレビ局」という言葉が消えていた。

かつての放送局は統合され、国民のほぼ全員が接続する巨大情報基盤「常聞(じょうぶん)」へと姿を変えていた。

常聞は、一人ひとりに最適化されたニュースを届ける。

必要な情報だけを。

興味のある情報だけを。

そして――「見せても問題のない情報」だけを。

常聞コンテンツ適正化課で働く因幡令は、九年間、その仕組みに何の疑問も抱かずに生きてきた。

ある日、一件のニュース原稿に残された不可解な指示を目にする。

「協賛先:白鷺重工業。当該箇所、完全排除。理由開示不要。」

そこから令は、存在しないはずの「整合エンジン」の秘密を追い始める。

やがて浮かび上がる、防衛企業の不正。

原発事故の隠された記録。

政治献金。

そして、それらを国民の目から遠ざけていた巨大な情報統制システム。

さらに令は、十八年前に故郷を失った姉・綾の記憶と向き合うことになる。

「誰かが本当のことを言わなきゃ、私たちがいなかったことにされる」

その言葉は、十八年の時を越えて、令の胸に蘇る。

常聞という巨大な「窓」の内側で生きてきた男は、やがて、その窓の外へ出ることを決意する。

武器はない。

権力もない。

あるのは、消される前の記録と、一人の人間の声だけ。

情報は、完全に消せるのか。

真実は、「なかったこと」にできるのか。

そして――

人間は、自分が見せられている世界を、自分の目で確かめることができるのか。

情報社会の「便利さ」の裏側を描く、近未来SFミステリー。

静かなディストピアの中で、一人の男が「見なかったことにする」人生を終える物語。



為替の楼閣 二部作


まえがき

 お金とは何なのか。

 そして、為替とは、いったい誰が決めているのか。

 スマートフォンの画面に表示される、

 「一ドル=〇〇円」

 という数字。

 私たちは、その数字を経済の現実として受け入れています。

 円が安くなれば、輸入品の価格が上がる。
 円が高くなれば、海外旅行が少し身近になる。

 給料も、物価も、企業の利益も、そして私たちの暮らしも、いつの間にか為替という数字に左右されています。

 けれど、その数字の向こう側には、本当に何もないのでしょうか。

 もし、その数字を意図的に動かそうとする人間がいたとしたら。

 もし、その数字の揺らぎが、私たちの知らない「何か」を映しているのだとしたら。

 そしてもし――。

 私たちが生きている歴史とは別に、「選ばれなかったもう一つの歴史」が存在していたとしたら。

 『為替の楼閣』は、元商社の為替ディーラー、佐伯健二を主人公にした二つの物語です。

 第一楼閣では、現代の金融市場に潜む不正と利権を追います。

 第二楼閣では、その同じ人物と過去を起点に、現実そのものの意味を問い直します。

 二つの物語は、同じ場所から始まります。

 しかし、その先にある世界は違います。





第一楼閣

「円を売った男たち」

 政官財に広がる利権と、市場を揺るがす謎の異常値。

 佐伯健二は、かつての恩師・黒沢誠一と再会し、為替の裏側に隠された巨大な仕組みに迫ります。

第二楼閣

「一ドル、百六十円の亡霊」

 消えたはずの黒沢から届いた招待状。

 地下に存在する謎の評議会。

 そして、「選ばれなかった日本」という、もう一つの歴史。

 同じ「円」という数字を見つめながら、二つの物語は、それぞれ別の問いへ向かいます。

 私たちは、数字に人生を決めてもらうのか。

 それとも、その数字に自分自身の意味を与えるのか。

 そんなことを考えながら、二つの「楼閣」をお楽しみいただければ幸いです。

第一楼閣

― 円を売った男たち ―

プロローグ 閉店セール

 午前三時。

 東京外国為替市場が、もっとも薄くなる時間帯だった。

 画面の数字が、突然跳ねた。

 一ドル=一六三円。

 それが、一秒、二秒と進むたびに上がっていく。

 一六五。

 一六八。

 一七二。

 一七五。

 そして四十七秒後。

 一七八円。

 誰も、理由を説明できなかった。

 ニュース速報は、

 「アルゴリズム取引の異常」

 と報じた。

 金融当局は、

 「現在、原因を調査中」

 とだけ発表した。

 しかし、その一時間後には、為替は何事もなかったように一六三円へ戻った。

 市場は眠り、世界は朝を迎えた。

 ただ一人、その数字を眠らずに見つめている男がいた。

 佐伯健二、六十八歳。

 元商社の為替ディーラーだった。

 健二はチャートを三度、巻き戻した。

 四十七秒。

 同じだった。

 値動きの形も、速度も、異常なほど正確だった。

 「……これは、人間の売買じゃない」

 そう呟いた瞬間、スマートフォンが鳴った。

 知らない番号だった。

 「もしもし」

 返事は、若い女の声だった。

 「佐伯健二さんですね」

 「誰ですか」

 「四十七秒間の値動き、あなたも見ましたね」

 健二は黙った。

 「今すぐ家を出てください」

 「理由を聞かせてもらえますか」

 女は一拍置いた。

 「もう誰かが、あなたの住所を調べています」

 その瞬間だった。

 窓の外を、一台の黒い車がゆっくり通り過ぎた。

 健二はカーテンを閉めた。

 そして初めて気づいた。

 テレビのニュース画面に表示された現在の為替レートが、

 一六三円ではなく、

 一六四円になっていた。

 たった一円。

 だが、何かが確実に動き始めていた。

第一章 尾行者

 女の名前は、水城アヤといった。

 二十九歳。

 中央銀行系のシンクタンクに勤務していたが、二年前に退職。

 現在は個人で、世界各国の金融市場に現れる「説明できない値動き」を追っているという。

 指定された渋谷の裏路地。

 古びたカフェの奥で、水城はノートパソコンを開いていた。

 「これを見てください」

 画面には、過去四十五年分の円ドルレートが表示されていた。

 その上に、奇妙な波形が重なっている。

 「この波形は?」

 「ノイズです」

 「ただのノイズじゃないだろ」

 水城は頷いた。

 「二十年に一度。ほぼ同じ形で現れます」

 画面が切り替わった。

 過去の為替チャート。

 その上に、同じ波形。

 「プラザ合意の前後」

 次。

 「バブル崩壊」

 次。

 「リーマンショック」

 そして最後に、

 「今回です」

 健二は眉を寄せた。

 「偶然じゃないのか」

 「私も最初はそう思いました」

 水城は検索画面を開いた。

 古い商社の社員名簿が表示される。

 そこには、四十五年前の健二の名前があった。

 そして、その隣。

 黒沢誠一。

 健二の指が止まった。

 「……黒沢さん」

 「ご存じですね」

 「私の上司だった。為替を教えてくれた人だ」

 「その人が、今もこの波形の中心にいる」

 「どういう意味だ」

 水城は声を落とした。

 「〈運用会〉という組織を知っていますか」

 健二は首を振った。

 「表向きは、退官した官僚や金融関係者、企業関係者による勉強会です」

 「裏では?」

 「為替を動かしている」

 健二は笑った。

 「そんな馬鹿な」

 「なら、これを見てください」

 画面に、複数の海外口座と日本国内の企業口座が表示された。

 異常な取引。

 不可解な資金移動。

 そして、その中心に、

 〈運用会〉

 という文字。

 「彼らは円を意図的に安くしている」

 「目的は?」

 「利益です」

 そのとき、カフェの窓の外に二人の男が立った。

 黒いスーツ。

 こちらを見ている。

 水城がパソコンを閉じた。

 「もう見つかった」

 「何が?」

 「私たちです」

 水城は立ち上がった。

 「裏口から」

第二章 運用会

 二人は路地を三本抜けた。

 古い雑居ビルの非常階段に入り、水城がようやく足を止めた。

 「ここまで来れば大丈夫です」

 「説明してくれ」

 健二は息を整えながら言った。

 水城は周囲を確認した。

 「〈運用会〉は、四十五年前に始まった研究成果を独占しています」

 「研究?」

 「金融市場に現れる、説明できない周期的な波形についてです」

 「それが何だというんだ」

 「彼らは、その波形を『境界現象』と呼んでいます」

 健二は眉をひそめた。

 「境界?」

 水城は一枚の古い資料を見せた。

 そこには、同じ日付なのに異なる為替レートが記録されていた。

 一ドル=八十円。

 一ドル=二百十円。

 一ドル=一百十円。

 「黒沢たちは、これを『選ばれなかった歴史』と呼んでいた」

 「別の世界の話か?」

 「私には、まだ断定できません」

 水城は答えた。

 「ただ、彼らは、別の可能性の歴史が現実の市場に影響を与えると考えていた」

 健二は資料を見つめた。

 「そんな話を信じろというのか」

 「私だって信じたくありません」

 水城は静かに続けた。

 「でも、昨夜の四十七秒を説明するには、今のところ、それが一番近い」

 健二の背筋に冷たいものが走った。

 「四十七秒……」

 「そうです」

 「じゃあ、あの値動きは?」

 「送金だけでは説明できません」

 水城は首を振った。

 「市場そのものが、何かに引っ張られていた」

 健二は壁にもたれた。

 そして、ふと疑問が浮かんだ。

 「なぜ私なんだ」

 水城は答えなかった。

 「黒沢さんは、あなたを知っている」

 「それだけか?」

 「違います」

 水城は静かに言った。

 「黒沢さんは、四十五年前から、あなたを探していた」

第三章 地下四十五階

 皇居にほど近い場所に、その建物はあった。

 古い。

 目立たない。

 しかし地下には、地上からは想像もつかない施設が広がっていた。

 エレベーターの表示が降下していく。

 B10。

 B20。

 B30。

 そして、

 B45。

 で止まった。

 扉が開く。

 巨大なサーバールームだった。

 無数のラック。

 低い機械音。

 壁一面に並ぶ為替チャート。

 その中央に、一人の老人がいた。

 車椅子に座っている。

 「健二」

 声を聞いた瞬間、健二は立ち止まった。

 「……黒沢さん」

 四十五年ぶりだった。

 しかし、その声だけは覚えていた。

 「久しぶりだな」

 健二は近づいた。

 「全部、あんたの仕業か」

 黒沢は笑った。

 「違う」

 「じゃあ誰がやっている」

 「私が始めた」

 健二は眉をひそめた。

 「だが、今は私の手を離れている」

 黒沢は自分の車椅子を見た。

 「十年前、私は切り捨てられた」

 「誰に?」

 「政治家。官僚。企業。二世、三世……」

 黒沢は苦笑した。

 「仕組みだけを欲しがる人間は、どこにでもいる」

 健二は詰め寄った。

 「なら、なぜ俺を呼んだ」

 黒沢はしばらく黙った。

 そして、

 「呼んだのは私だ」

 と言った。

 「だが、私が呼びたかったわけではない」

 「どういう意味だ」

 黒沢は壁のモニターを指した。

 そこには、

 一九八一年。

 という数字が表示されていた。

 「この施設は、お前がアメリカへ渡った一九八一年に着工された」

 黒沢は続けた。

 「四十五年後の今日、この場所でお前と再会するために作られた――そう記録されている」

 健二は言葉を失った。

 「そんな馬鹿な」

 「私も、そう思っていた」

 黒沢は笑った。

 「だが、ここでは『馬鹿なこと』ほど、記録として残る」

 画面に古い映像が映った。

 若い健二。

 四十五年前の自分だった。

 ニューヨークのバー。

 笑っている。

 酒を飲んでいる。

 そして、何かを口にしていた。

 「……何だ、これ」

 健二は呟いた。

 黒沢が言った。

 「お前が忘れていることだ」

第四章 二百円の壁

 モニターの隅で、数字が赤く点滅した。

 一ドル=一九四円。

 水城が息を呑んだ。

 「急に動きすぎです」

 黒沢は答えた。

 「彼らが焦っている」

 「二百円を超えたら?」

 黒沢は黙った。

 「超えたら、何が起こる」

 「境界が破れる」

 サーバールームの空気が変わった。

 「二つの可能性が重なり始める」

 「具体的には?」

 「街の名前が変わる。存在しなかった人間が現れる。存在していた人間が消える。企業の歴史が変わる。家族の記憶が変わる」

 健二の頭に、妙な記憶が蘇った。

 何度も見たことがあるはずの街。

 なのに、店の名前が違っていた。

 ハワイで感じた奇妙な違和感。

 知らないはずの場所なのに、懐かしい。

 「もう始まっているのか」

 黒沢は答えなかった。

 その沈黙が答えだった。

 突然、警報が鳴った。

 エレベーターの表示が動き始める。

 B44。

 B43。

 「来る」

 水城が言った。

 黒沢はUSBメモリを健二に渡した。

 「全部入っている」

 取引記録。

 関係者名簿。

 資金の流れ。

 そして、〈境界現象〉に関する記録。

 「これを公開しろ」

 「公開したら?」

 「円は暴落する」

 「どれくらい?」

 黒沢は健二を見た。

 「二百円を超える可能性もある」

 健二は息を呑んだ。

 「それじゃ、境界が……」

 「そうだ」

 黒沢は静かに言った。

 「真実を公開すれば、混乱する」

 「隠せば?」

 「奴らの支配が続く」

 「どっちを選べというんだ」

 黒沢は答えなかった。

 ただ、

 「四十五年前にも、お前は同じ選択を迫られた」

 と言った。

第五章 四十七秒

 エレベーターの表示が、

 B40。

 B39。

 と降りてくる。

 水城がノートパソコンを開いた。

 「送信できます」

 健二はUSBを見つめた。

 黒沢は言った。

 「私はここに残る」

 「なぜだ」

 「四十五年間、私は逃げ続けた」

 黒沢は自分の手を見た。

 「仕組みを作った責任も取らず、後継者たちに利用されるのを黙って見ていた」

 「黒沢さん」

 「最後くらい、逃げたくない」

 健二は首を振った。

 「俺も残る」

 「馬鹿を言うな」

 「四十五年前、あんたに教わったんだ」

 「何を?」

 「相場は数字じゃない。そこに人間がいるってことを」

 黒沢は微笑んだ。

 その瞬間、

 エレベーターの扉が開いた。

 黒いスーツの男たちが一斉に飛び出してくる。

 水城が送信ボタンを押した。

 同時に、世界中へデータが流れ始めた。

 金融監督機関。

 報道機関。

 市場監視システム。

 そして、

 無数の個人端末。

 スマートフォンが鳴り始めた。

 男たちの動きが止まった。

 もう、遅かった。

 四十七秒。

 また四十七秒だった。

第六章 一九四円のまま

 その日を境に、為替はおかしくなった。

 一ドル=一九四円。

 上がらない。

 下がらない。

 まるで巨大な見えない手に固定されたようだった。

 国会は紛糾した。

 〈運用会〉に関係した政治家、官僚、企業関係者の名前が次々に報じられた。

 しかし、逮捕者は少なかった。

 「立証が困難」

 「事実と異なる」

 「個人的な取引だった」

 使い古された言葉が並んだ。

 そして黒沢誠一は、

 消えた。

 施設から運び出されたのか。

 逃げたのか。

 それとも――。

 誰にもわからなかった。

 水城は言った。

 「全部は壊せませんでした」

 健二は一九四円の表示を見つめた。

 「でも?」

 「蛇口は閉じた」

 「それだけか」

 「それだけです」

 水城は少し笑った。

 「でも、十分じゃありませんか」

 健二は答えなかった。

 その数字を見ながら、

 ふと、

 別の場所から誰かに見られているような気がした。

エピローグ 責任者は、まだいる

 半年後。

 健二はハワイにいた。

 ワイキキの浜辺。

 以前より少しだけ観光客が戻っていた。

 波の音を聞いていると、スマートフォンが震えた。

 水城からだった。

 「新しいノイズを見つけました」

 添付されたチャートには、見覚えのない波形があった。

 「〈運用会〉の残党でしょうか」

 続けて、

 「それとも、別の誰かでしょうか」

 とあった。

 健二は海を見た。

 四十五年前。

 若い自分が、酒に酔って口にした言葉。

 「いつか、この国がドルなんぞ気にせず生きていける日が来ますように」

 ただの酔い言葉だった。

 そう思っていた。

 しかし、その言葉が世界のどこかに届いていたとしたら。

 健二はスマートフォンを握った。

 返信は短かった。

 「行こう」

 少し考えてから、もう一行加えた。

 「今度は、逃げも隠れもさせない」

 海の向こうで、

 一瞬だけ、

 陽光が奇妙に揺らいだ。

 その瞬間、スマートフォンに新しい通知が届いた。

 差出人――不明。

 件名――

 「為替評議会へようこそ」

第二楼閣

― 一ドル、百六十円の亡霊 ―

プロローグ ガラガラのハワイ

 ワイキキの浜は、驚くほど静かだった。

 波の音が、やけにはっきり聞こえる。

 かつては日本語の看板が並び、寿司店には行列ができ、着物姿の花嫁が記念写真を撮っていた。

 今は、老人が数人いるだけだった。

 健二は砂浜に座り、遠くの両替所を見た。

 表示板が明滅している。

 一ドル=一六三円。

 数字が、

 一六四円。

 一六二円。

 一六三円。

 と揺れた。

 妙だった。

 単なる数字のはずなのに、

 誰かがこちらを見ている。

 そんな感覚があった。

 スマートフォンが震えた。

 差出人不明。

 件名。

 「為替評議会へようこそ、佐伯さん」

 健二は眉をひそめた。

 その言葉を、

 四十五年前に一度だけ聞いたことがある。

 そして、その言葉を最後に口にした男は、

 消えた。

 黒沢誠一。

 健二は立ち上がった。

第一章 消えた男の招待状

 一九八一年。

 健二が為替の世界に入った年だった。

 当時、一ドルは二百五十円前後。

 海外へ行くことは、今よりずっと大きな出来事だった。

 上司の黒沢誠一は、いつも言っていた。

 「健二。相場というのは、誰かが動かしているんじゃない」

 若い健二が振り向く。

 「じゃあ、誰が?」

 黒沢は笑った。

 「誰かが動かしていることにされているだけだ」

 それから四十五年。

 黒沢は消えた。

 ところが今、

 健二のスマートフォンには、黒沢しか知らない文章が届いている。

 ――新橋の、あの喫茶店を覚えているか。

 ――壁の時計は、今も十二時四十五分で止まっている。

 健二は帰国した。

第二章 地下の評議会

 新橋の喫茶店は、まだ存在していた。

 店内は昔のままだった。

 古いテーブル。

 古い時計。

 そして、

 十二時四十五分で止まった時計。

 店員に聞くと、

 「昔から動かないんですよ」

 と言われた。

 奥へ進む。

 そこには、見覚えのない扉があった。

 扉の向こうにはエレベーター。

 地下へ降りる。

 表示は地下のはずなのに、数字だけが不気味に増えていく。

 B1。

 B2。

 B3。

 そして、

 B45。

 扉が開いた。

 そこには、円形の広間があった。

 壁一面に数字が浮かんでいる。

 三六〇。

 二五〇。

 一六〇。

 一〇〇。

 七五。

 そして、

 ゼロ。

 中央には七人の人間が座っていた。

 その一人が立ち上がった。

 フードを外す。

 健二は息を呑んだ。

 「……黒沢?」

 そこにいたのは、

 四十五年前とほとんど変わらない黒沢だった。

 健二は思わず一歩後ずさった。

 第一楼閣で会った黒沢は、車椅子に座った老人だった。

 目の前の男は違う。

 年齢を重ねているはずなのに、あまりにも若かった。

 黒沢は微笑んだ。

 「驚いたか、健二」

 「……あんたは誰だ」

 黒沢は答えなかった。

 ただ、

 「私は、お前が知っている黒沢とは少し違う」

 と言った。

第三章 選ばれなかった日本

 「歳を取らないのか」

 健二の問いに、黒沢は答えなかった。

 代わりに壁へ手を伸ばした。

 数字が一つ、光る。

 三六〇。

 「一九四九年」

 黒沢が言った。

 「この国には、一ドル=三六〇円という一本の杭が打ち込まれた」

 「固定相場だろ」

 「表向きはな」

 黒沢は微笑んだ。

 「だが、本当の役割は別だった」

 壁が開く。

 その向こうに、

 別の東京が映った。

 高層ビル。

 知らない鉄道路線。

 違う企業名。

 そして、

 日本人の顔。

 しかし、健二は知っている。

 誰一人として知らない。

 「ここは?」

 「選ばれなかった日本だ」

 別の映像。

 一ドル=七十五円。

 さらに別の映像。

 一ドル=三百六十円。

 さらに、

 一ドル=四十二円。

 「歴史は一本じゃない」

 黒沢が言った。

 「この世界では、我々が生きてきた歴史だけが残った。しかし、選ばれなかった歴史も消えたわけじゃない」

 「じゃあ、どこにある」

 「隣にある」

 健二は息を呑んだ。

 「そして為替は、その世界との圧力差を測る」

 「だから円が動く?」

 「そうだ」

 黒沢は一六〇という数字を指した。

 「この数字は、単なる為替レートではない」

 「何なんだ」

 「世界と世界の境界にかかる圧力だ」

 健二は言葉を失った。

第四章 百六十円の亡霊

 「今の一六〇円は、こちら側だけの数字じゃない」

 黒沢は言った。

 「あちら側の日本が、こちらへ押している数字だ」

 「強い円の日本?」

 「そうだ」

 そのとき、健二の頭に記憶が走った。

 ハワイ。

 妙に空いていた街。

 知らない店。

 見覚えのあるはずのホテル。

 そして、

 自分が何度も感じた既視感。

 「まさか……」

 黒沢が頷いた。

 「お前はすでに、境界を何度か越えている」

 「いつ?」

 「気づいていないだけだ」

 壁に映像が浮かぶ。

 四十五年前のニューヨーク。

 若い健二。

 酒に酔い、

 笑いながら言っている。

 「いつか、この国がドルなんぞ気にせず生きていける日が来ますように」

 健二は目を閉じた。

 「……あれか」

 「あの言葉が境界に触れた」

 「馬鹿な」

 「人間の願いは、時に歴史より強い」

 黒沢は言った。

 「お前は、選ばれなかった日本に願いを届けてしまった」

第五章 選択

 七人の評議員が立ち上がった。

 黒沢が中央の鍵を示した。

 「選択肢は二つだ」

 一つ。

 凍結。

 一ドル=百円前後に固定する。

 市場を制御し、

 境界を閉じる。

 ただし、

 変化も止まる。

 もう一つ。

 解放。

 境界を開く。

 為替を完全に市場へ委ねる。

 混乱する。

 円高になるかもしれない。

 円安になるかもしれない。

 日本そのものが変わるかもしれない。

 「どちらかを選べ」

 黒沢が言った。

 健二は数字を見つめた。

 三六〇。

 二五〇。

 一六〇。

 一〇〇。

 数字の一つ一つに、

 人間の暮らしがある。

 給料。

 家賃。

 食料。

 旅行。

 借金。

 夢。

 そして、

 人生。

 健二は鍵に手を伸ばした。

 しかし、

 回さなかった。

 「……おかしい」

 黒沢が見る。

 「何が?」

 「二択しかないことが、おかしい」

 健二は鍵を握った。

 「俺たちは、いつも誰かに二択を用意されてきた」

 黒沢の表情が変わった。

 健二は言った。

 「円高か、円安か」

 「成長か、停滞か」

 「市場か、政府か」

 「安定か、自由か」

 そして、

 「そのどちらかを選ばなきゃならないと思わされてきた」

 健二は鍵を回した。

第六章 観測をやめる

 光が広間を満たした。

 数字が消える。

 三六〇も。

 二五〇も。

 一六〇も。

 一〇〇も。

 すべて消えた。

 「何をした?」

 黒沢が問う。

 健二は答えた。

 「観測をやめた」

 「……何?」

 「誰も、この国の数字を決めない」

 「それでは市場が混乱する」

 「するだろうな」

 「国が壊れるぞ」

 「壊れるかもしれない」

 健二は笑った。

 「でも、誰かが正解を決めてくれる国よりはいい」

 黒沢はしばらく黙っていた。

 やがて、

 「そうか」

 と呟いた。

 「それがお前の答えか」

 「違う」

 「何?」

 「答えを出さないことを選んだ」

 その瞬間、

 評議会の七人が消えた。

 部屋が消える。

 壁が消える。

 世界が消える。

 健二が目を開けると、

 そこは新橋の喫茶店だった。

 壁の時計は、

 十二時四十五分。

 しかし、

 秒針だけが、

 カチッ。

 と動いた。

エピローグ 誰のせいでもなく

 その後、

 円相場がどうなったのか。

 健二は多くを語らない。

 一ドル=一六〇円を超えた日もあった。

 一四〇円台になった日もあった。

 一〇〇円台になったこともある。

 ニュースは毎日、

 原因を探した。

 政治。

 金利。

 戦争。

 景気。

 投資家心理。

 アルゴリズム。

 専門家たちは、それぞれの答えを語った。

 しかし、

 誰も本当の答えを知らなかった。

 ハワイには、

 少しずつ観光客が戻ってきた。

 理由はわからない。

 黒沢誠一の消息も、

 わからない。

 ただ、

 健二のもとには年に一度、

 差出人不明の葉書が届いた。

 そこにはいつも、

 同じ一行だけが書かれている。

 「責任者は、もういない」

 健二はその葉書を、

 同じ抽斗にしまった。

 その奥には、

 四十五年前にニューヨークで買った、

 色あせた一ドル紙幣が一枚。

 健二はそれを取り出した。

 紙幣を眺めながら、

 小さく笑った。

 一ドル。

 ただの紙だ。

 しかし人間は、

 そこに価値を与え、

 国境を作り、

 人生を賭け、

 時には戦争までした。

 窓の外で、

 朝の街が動き始めていた。

 健二はコーヒーを飲んだ。

 もう、

 為替の数字を恐れることはなかった。

 数字は、

 未来を決めるものではない。

 そこに生きる人間が、

 後から意味を与えるものなのだ。

 健二は一ドル紙幣を抽斗に戻した。

 そして、

 鍵をかけた。

      了



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あとがき

 長年、世の中の動きや数字の揺らぎを見つめていると、時折、

 「この数字は一体誰が、何のために動かしているのだろう」

 という不思議な感覚にとらわれることがあります。

 為替というものは、世界中の人々の欲望や安心、恐怖が交錯する、極めて現実的な指標です。

 しかし同時に、実体のない「信用」というものによって成り立っている点では、どこかフィクションに似た性質も持っています。

 一ドルが百円なのか、百六十円なのか、二百円なのか。

 数字が変われば、私たちの生活は変わります。

 けれど、その数字そのものに「人生の意味」まで決める力があるのでしょうか。

 『為替の楼閣』では、元ディーラーである佐伯健二という一人の男を通して、人間が作ってきた社会の仕組みと、歴史の選択について考えてみました。

 第一楼閣では、現実の金融市場に潜む欲望と利権を描きました。

 第二楼閣では、その現実そのものを一度疑い、「もし別の歴史が存在していたら」というところまで物語を広げました。

 けれど、二つの物語を通して描きたかったことは、実は一つです。

 それは、

 「誰かにあらかじめ用意された正解に頼らず、自分自身で未来に向き合うこと」

 です。

 人生には、ときどき二つの道しかないように見えることがあります。

 進むか、戻るか。

 続けるか、やめるか。

 勝つか、負けるか。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。

 もしかすると、三つ目の道を探すこと。

 あるいは、

 「今は答えを出さない」

 と決めることも、一つの選択なのかもしれません。

 年齢を重ね、ふと立ち止まったときに見える風景があります。

 若い頃には気にも留めなかった言葉。

 忘れたと思っていた願い。

 あの日の小さな選択。

 それらが長い年月を経て、思いもよらない形で自分の前に戻ってくることがあります。

 佐伯健二の物語も、そんな一つの人生の余韻から生まれました。

 もし本を閉じたあと、

 スマートフォンに表示された為替の数字を見て、

 ほんの少しだけ、

 「この数字の向こうには、何があるのだろう」

 と思っていただけたなら、とても嬉しく思います。



彼岸プロトコル


まえがき
本作は、日常の身近なオカルト現象である「写真に写るオーブ(光の玉)」を、もし最新の光学技術や量子情報理論の視点から紐解いたらどうなるか、という着想から生まれたショートストーリーです。
「弔い」や「記憶」という日本的で情緒的なテーマと、ハードなSF的アプローチの融合を目指しました。レンズの向こう側に静かに漂う光の意図に、少しだけ思いを馳せながらお読みいただければ幸いです。




プロローグ うそだい、なんて
若い頃、寺の娘だった友人に言った。
「夜になるとね、墓地では火の玉が飛ぶのよ」
僕は笑った。うそだい、なんて。怪談は怪談として消費するものだと思っていたし、彼女の家の墓地が特別だとも思わなかった。子供の頃に聞いた「リンの燃焼」という科学的解説の方が、ずっとしっくりきていたのだ。
あれから三十年近く経って、僕はようやく気づく。
あれは、本当だったのだと。ただし、思っていたのとは、ずいぶん違う形で。



一章 オーブ
昨今のスマートフォンのカメラは、驚くほどよく「視える」。
埃も、水滴も、花粉も、昔のフィルムカメラでは見逃していたものを、律儀にセンサーが拾い上げる。アウトフォーカスによる前ボケや、レンズ内部の光の乱反射が生むゴースト——俗に言う「オーブ」が写真に写り込むのは、さして不思議なことではない。理屈は知っている。僕は電機メーカーで画像センサーの設計をしていた人間だから、その手の光学現象には人一倍冷静なはずだった。
けれど、昨日撮った写真だけは、様子が違った。
お彼岸の花を片付けに、実家の墓所へ行った。
その足で、亡くなった祖母の命日に合わせて、母方の墓所にも寄った。
懇意にしている寺——友人が先代の跡を継ぎ、住職となった「晋山式」に呼ばれた、あの「お寺の娘」の実家にも顔を出した。
最後に、実家の近くの氏神様に手を合わせた。
四か所。
それぞれの本堂、あるいは拝殿の前で、なんとなく手を合わせたあとにスマホを構えた。習慣のようなものだ。
そして、すべての写真に、それはいた。
一枚や二枚ではない。四か所、すべてに。しかも、光の位置も大きさも、明らかに「その場にいる何か」を撮っているとしか思えない配置だった。前ボケの埃なら、あんなふうに毎回、構図の正面に、法要の場へ合わせるように律儀に一つだけ写り込んだりはしない。
家に帰って、仏壇に線香をあげ、何気なくまたシャッターを切った。
そこにも、いた。



二章 旧友
僕はその晩、大学時代の友人、氷見(ひみ)に電話をかけた。彼女は今、量子情報理論を専門にする研究者で、以前「情報は物理的実体を離れて存在しえない」という話を、酔った勢いで熱く語っていたのを覚えている。
「オーブの写真? 送って」
氷見は淡々と言った。僕は四枚の写真を送った。彼女はしばらく黙り、それから言った。
「これ、EXIFデータも見せて。撮影位置の正確なGPS座標が知りたい」
僕は驚いた。彼女がオカルトを頭ごなしに否定しなかったからだ。むしろ逆で、彼女の声には、どこか予感めいた緊張があった。
「実は、うちの研究室で去年から追いかけてるものがあってね」
氷見は言った。
「『残留光量子相関』って呼んでるんだけど——簡単に言うと、特定の場所に、特定の情報パターンを持った光子が、統計的にありえない頻度で観測される現象。国内の寺社や古い墓地で、有意に多く報告されてる」
「それが、これだと?」
「断定はできない。でも、送ってもらった写真の光点、色温度もサイズも、うちが集めてるサンプルとそっくり。それに——」
彼女は画面の向こうでキーボードを叩く音を響かせた。
「この四か所の座標データ、うちの観測データベースの特定の地質エリアと完璧に重なってる」



三章 石に刻まれた記憶
一週間後、僕は氷見の研究室を訪ねた。地下の実験室には、古い墓石や五輪塔の破片、神社の玉垣の欠片などが並んでいた。すべて、持ち主の許可を得て一時的に借り受けた「観測協力サンプル」だという。
「見て」
氷見は、電子顕微鏡の画像をモニターに映した。石の表面、風化した部分の奥に、規則正しい格子状の構造が浮かび上がっていた。
「これは……加工痕?」
「そう。しかも、少なくとも数百年前の加工とは考えにくい精度でね。ナノスケールの格子構造が、石英や長石の結晶の隙間に埋め込まれてる。まるで——」
「まるで、記録媒体みたいに」
氷見はうなずいた。
「仮説にすぎないけど。誰かが、あるいは何かが、長い時間をかけて、こういう構造を石の中に『育てて』きたんじゃないかと思ってる。人が弔いの場所に通い続けることで生まれる、感情の振動——脳波でも、生体電位でもいい——そういうものをきっかけに、格子の中に溜め込まれた情報が、光子として一瞬だけ『再生』される」
「情報って、何の情報?」
氷見は少し言いよどんでから、モニターの隅に別のデータを表示した。それは、光点の明滅パターンを解析したグラフだった。単なるランダムノイズではない。何か、規則性を持った、まるで指紋のような個体差があった。
「解析班の一人が、悪ふざけで名付けたんだけどね」
彼女は苦笑した。
「『個人識別ゆらぎ』。要するに——この光のパターンは、一人ひとり違う」



四章 四つの場所
僕はもう一度、あの四か所を訪ねることにした。今度はただの成り行きではなく、目的を持って。氷見も同行を望んだが、彼女の機材はまだ現場に持ち出せる段階になく、代わりにスマホを何台か借り、複数アングルから撮影することにした。
実家の墓所では、光は墓石のちょうど、祖父の戒名が刻まれた場所の前に現れた。母方の墓所——祖母の墓——では、驚くほどはっきりと、二つの光点が寄り添うように浮かんでいた。氷見に見せると、彼女はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「二つ、ってことは……お祖母さんだけじゃないのかもね」
僕は言葉を失った。祖母は、若くして亡くなった妹がいたと、母から聞いたことがあった。会ったこともない、大伯母にあたる人だ。
寺では、本堂の奥、かつて彼女の晋山式で僕らが座った場所のあたりに、光が現れた。友人——住職になっている彼女に写真を見せると、驚くでも怖がるでもなく、静かに笑った。
「知ってたよ、そんなの。うちでは『いつものこと』だから」
氏神様では、拝殿の奥、御神体のある方角に、これまでで一番大きな光が写った。神職の方に聞くと、こちらも「氏子さんの写真には、たまに写るものです」とだけ、あっさり答えられた。
四か所、四通りの反応。だが共通しているのは、誰も本気で驚いていないことだった。まるで、僕だけが今さら気づいた、当たり前のことのように。



五章 プロトコル
その夜、氷見から連絡が来た。声が珍しく上ずっていた。
「解析、終わった。聞いて」
彼女は、ここ数年で集めた数百件の類似サンプルの位置情報を、日本地図の上にプロットしていた。それは、無作為な分布ではなかった。特定の地質——花崗岩質の地盤で、かつ、地下水脈が近い場所——に、驚くほど集中していた。しかも、その多くが、少なくとも数百年、場合によっては千年以上、絶え間なく人が弔いに通い続けてきた場所だった。
「これは、自然現象なんかじゃない」
氷見は言った。
「誰かが設計したシステムだと思う。人間の営みそのものを、エネルギー源にして動く、超長期の記録装置。弔いに来る人がいる限り、稼働し続ける」
「誰が、そんなものを?」
「わからない。少なくとも、記録が残ってる範囲の人類じゃないと思う」
彼女は言葉を選ぶように、続けた。
「一つだけ、確かなことがある。このシステムは、対象を選んでる。適当な光子のノイズじゃなくて、血縁や、深い関わりのあった相手の——というより、その人物を『覚えている』誰かが訪れたときにだけ、応答する」
僕は、四か所すべてで自分が撮影者だったことを思い出した。友人の寺でも、氏神様でも。もし、これが「記憶する者」への応答だとしたら——僕は、思っていた以上に多くのものを、覚えていたことになる。



六章 彼岸から
半年後。氷見たちのチームは、正式な論文発表の準備を進めている。世間はまだ、この話を知らない。
僕は今も、月命日やお彼岸のたびに、あの四か所を巡っている。今ではもう、光が写らないことの方が珍しい。
科学的な説明は、いずれ与えられるだろう。ナノ構造の起源も、エネルギー変換の仕組みも、いつか論文になり、教科書に載るかもしれない。
けれど、僕はもう、それを「解明されるべき謎」としてだけ見ることができなくなっている。
昔、彼女が言っていた暗闇を漂う「火の玉」とは、ゆらゆらと燃える怪異などではなく、この静かで健気な光の明滅のことだったのだ。
シャッターを切るたびに、そこに写るものを、僕は今、こう呼んでいる。
——返事。
墓地で笑い話にしていた光は、本当は、ずっと律儀に、僕らの訪れを待っていたのかもしれない。
うそだい、なんて笑っていた自分に、今なら言える。
本当だったよ。ただし、思っていたのとは、ずいぶん違う形で。



エピローグ
友人の寺の娘は、今では立派な住職だ。先日会ったとき、彼女はこう言った。
「昔から思ってたんだけど。あれって、消えてしまうことへの、せめてもの抵抗なんじゃないかな。忘れられたくない、っていう」
僕はうなずいた。氷見の言う「システム」という言葉より、彼女の言葉の方が、ずっと腑に落ちた。
今夜も、僕はどこかの墓地で、誰かがシャッターを切っているのを想像する。
そして、律儀に、光が応える。
うそだい、なんて。
もう、僕は笑わない。

了


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あとがき
人が大切な人を思う「記憶」や「祈り」という目に見えないエネルギーが、もし物質世界に干渉する仕組みを持っていたとしたら……そんな想像からこの物語を構築しました。
科学技術がどれほど進歩しても、人が人を想い、別れを惜しむ感情の根底にあるものは変わりません。ふとした瞬間に撮れた写真の中に、もし小さな光を見つけることがあれば、それは科学的なノイズではなく、遠い誰かからの「返事」なのかもしれません。