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銀座通りの子供たち
〜消えない「光の通り道」を見つめて〜


〜まえがき〜
 ふとした瞬間に、鼻の奥をくすぐる匂いがある。
 それは雨上がりのアスファルトの匂いだったり、夕暮れ時にどこからか漂ってくる煮炊きの匂いだったりする。そんな時、私の意識は現在の喧騒を離れ、一気に半世紀前のあの場所へと引き戻される。
 昭和という時代は、今思えばひどく不便で、ひどく騒がしく、そして驚くほど人間臭い時代だった。
 私が育ったのは、どこの地方にもあるような小さな田舎町の、さらにその隅っこにある古びた借家街だ。そこには、今の物差しでは測りきれない「豊かさ」と、説明のつかない「暗がり」が同居していた。
 この物語は、かつてその街を裸足で駆け回っていた子供たちの記録である。
 金物屋のおばさんがくれた飴玉の甘さ、ガキ大将が教えてくれた山の掟、そして梯子を上って辿り着いた映画館の、あの眩い光の筋。
 それらは歴史の教科書に残るような大層な出来事ではない。しかし、あの場所で呼吸し、トロッコを漕ぎ出そうとしていた私たちにとっては、それが世界のすべてだった。
 記憶の彼方に沈みかけた「あの頃」を、もう一度だけスクリーンに映し出してみたい。
 練炭の香りが漂い始める、あの夕暮れの街へ、皆さんを招待しようと思う。




第1章 メロディフェア

夕方になると、どこからともなく練炭のかおりが漂ってきた。
あの頃の田舎町の借家街というのは、そういう場所だった。どの家も似たような軒先を持ち、似たような夕餉の支度をして、似たような時間に似たような煙を空へ送り出した。煙突から立ち上る細い煙が、夕焼けの空に溶けていく光景は、今思えば一枚の絵のようだった。
僕はそのかおりが、嫌いではなかった。
むしろあれは、家に帰れというサインだった。腹が減ったというサインでもあった。そして何より——今日も一日が終わるという、妙に安心できるサインだった。練炭のかおりがしてくると、それまで走り回っていた僕らは、示し合わせたわけでもないのに自然と散り散りになった。また明日な、とも言わずに。ただ家の方向へ駆けていく。それだけでよかった。
昭和というのは、言葉が少なくても通じる時代だったのかもしれない。
その借家街から、ひとつブロックを隔てた向こう側に、町の銀座通り商店街があった。どんな田舎にも「銀座通り」というのはあるもので、うちの町のそれも御多分に漏れず、金物屋、米屋、床屋、煙草屋が肩を寄せ合うように並んでいた。アスファルトはところどころひび割れていて、電柱の広告看板は色褪せていて、でも人の声だけはいつも賑やかだった。
その商店街を抜けた突き当たりに、映画館があった。
映画館の名前は、今となっては思い出せない。
看板は出ていたはずなのに、子供の僕にはそんなものより、その建物自体が放つ空気の方が気になっていた。古びた木造の外壁、色褪せたポスターが貼られたガラスケース、そして滅多に開かない正面の扉。扉の前に立つと、中から微かにフィルムの焼ける匂いのようなものが漂ってきた気がした。今思えばただの古い木の匂いだったかもしれないが、子供の鼻には確かに、特別な場所のかおりとして届いていた。
そう、滅多に開かないのだ。
その映画館は、たまの休日にしか営業しなかった。
最初はそれが普通だと思っていた。映画館というのはそういうものだろう、と。テレビだって夜中には放送が終わる時代だ。映画館が毎日やっていなくたって、何も不思議じゃない——子供の僕は、そう納得していた。いや、納得というより、疑問を持つこと自体を思いつかなかったのかもしれない。子供というのは、目の前にある世界をそのまま「普通」として受け入れる。それ以外の世界を知らないから。
でも本当のところは、田舎だからだったのだ。
そのことに気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
ある日の学校の帰り道、隣のクラスの健二が何気なく言った。
「あの映画館さ、うちなんだよね」
僕らは一瞬、顔を見合わせた。
健二は自慢するでもなく、照れるでもなく、ただ事実として言っただけだった。それがかえって、僕らの心に火をつけた。映画館の持ち主が同じクラスの友達だなんて、考えたこともなかった。あの扉の向こう側に、健二の家族がいる。そう思うだけで、急に映画館が身近なものに感じられた。
その夜、僕らは作戦会議を開いた。といっても、近所の空き地に集まって、地面に棒で落書きしながら話し合っただけだけど。
「頼んでみようぜ」
「小遣いないのにか?」
「だから頼むんだろ。一生のお願いってやつ」
「一生のお願いって、何回でも使えるもんじゃないぞ」
「映画館のためなら使う価値あるだろ」
翌日の放課後、僕らは健二を取り囲んだ。オレたち小遣いないんだ。でもお願い。一生のお願い。
健二は少し困ったような顔をして、それから笑った。
「良いよ。おまけに特別に、指定席にも入れてやるよ」
その瞬間、僕の胸の中で何かが跳ね上がった。ドキがムネムネするとはまさにこのことで、その夜は興奮してなかなか寝付けなかったほどだ。布団の中で天井を見つめながら、明日は映画館に入れる、指定席というものに座れる、そう思うだけで体が熱くなった。
昭和の子供にとって、映画館というのはそれほど特別な場所だったのだ。
当日、僕らは映画館の横の小さなドアから、こっそりと中へ入れてもらった。
「指定席は2階だから、そっちへどうぞ」
健二がそう言って、奥を指さした。
見ると、壁際に梯子が立てかけてあった。
梯子、である。
階段ではなく、梯子で上る2階席。子供心にも、おい、なんか変じゃあないか、と思った。だが何せ生まれて初めて入った映画館だ。僕らはお互いの顔を見て、それからなぜか、うんうんと頷き合った。なるほど、2階というのはこうやって上るものか、と。誰も疑問を声に出さなかった。それが暗黙の了解だった。
2階に上がると、そこには椅子がなかった。
板の間に座布団が並べてあるだけで、どうぞお好きな格好で、という按配だった。寝転んでもいい。胡座をかいてもいい。正座してもいい。座布団は少し湿った感触がして、板の間は足の裏に冷たかった。でもそんなことは気にならなかった。ここは映画館の指定席なのだから。
今思えばありえない光景だが、あの時の僕らには、それが映画館のすべてだった。その後の長い人生で、僕は映画館というものに対して、どこかおおらかな印象を持ち続けた。シートが少し硬くても、隣に見知らぬ人が座っていても、たいして気にならない。きっとあの日の板の間が、僕の映画館の原型を作ってしまったのだ。
そして、その日上映されたのが——。
「小さな恋のメロディ」だった。
マーク・レスターとトレーシー・ハイド。ビー・ジーズの歌声。そしてあのラストシーン、2人がトロッコで走り去っていく、あの眩しい光景。
スクリーンに光が当たった瞬間、僕らは一斉に息を飲んだ。座布団の上で姿勢を正して、前のめりになって、目を見開いた。映画が始まる前のあの緊張感——暗くなった部屋に光の筋が走って、音楽が流れ出す瞬間——あれを初めて体験した時の震えを、55年経った今でも覚えている。
時期からして、リバイバルではなかったはずだ。あれは間違いなく、ロードショーだった。あの小さな、梯子で上る映画館で、僕らは最新映画を観ていたのだ。
それが昭和という時代の、不思議な豊かさだったのかもしれない。都会も田舎も関係なく、同じ映画が、同じ時代の空気の中で上映されていた。梯子を上った先の板の間でも、銀座の豪華な映画館でも、スクリーンの中の光は同じだった。
55年が過ぎた昨晩、僕は棚の奥からVHSを引っ張り出した。
ビー・ジーズの歌声と共に、あの夕方の練炭のかおりが戻ってきた。健二の笑顔が戻ってきた。梯子の軋む音が、座布団の硬さが、板の間の冷たさが——。
そして今でも思う。
メロディと一緒に、トロッコでどこまでもどこまでも漕いで行きたかった、と。
あの借家街の夕暮れの中へ、もう一度だけ。

第2章 銀座通りの人々

銀座通りというのは、不思議な場所だった。
どんな田舎にも、その町いちばんの通りには「銀座」という名前がついていた。東京の銀座に倣ったのか、それとも単なる語呂の良さなのか、子供の僕には知る由もなかったけれど、とにかくその通りが、僕らの町の中心だった。
賑やかだった。
朝から夕方まで、人の声と自転車の音と、どこからか流れてくるラジオの歌声が混ざり合って、通りは常に生きていた。魚屋のおじさんが威勢よく値段を叫び、米屋の軒先では麻袋が山積みになり、床屋の前では赤青白のサインポールがくるくると回っていた。八百屋の店先には泥のついた野菜が並び、その脇では猫がひなたぼっこをしていた。
昭和の商店街には、生活のすべてが詰まっていた。冷蔵庫が普及していない時代、毎日買い物に来なければならない。だから商店街は毎日の顔なじみで溢れ、会話が生まれ、噂が生まれ、人間関係が生まれた。今のスーパーマーケットとはまるで違う、もっと泥臭くて、もっと温かい場所だった。
その商店街の中で、僕が一番好きだったのが、金物屋のおばさんだった。
金物屋というのは、鍋や釜や包丁や、そういうものを売る店だ。子供にとっては縁もゆかりもない、本来なら素通りするはずの店である。
なのに僕らは、その前を通るたびに必ず立ち止まった。
理由は簡単だ。おばさんが、飴やキャラメルをお山盛りにくれるからだ。
おばさんはいつもニコニコしていた。皺だらけの顔に、小さな目を細めて、僕らが店の前を通りかかるたびに「ちょっとちょっと」と手招きをした。そして奥から小皿を出してきて、そこに飴やキャラメルをお山盛りに載せて、「ほれ、持ってきな」と言うのだった。
気前がいい、というレベルではなかった。もはや、商売っ気がまるでなかった。
「おばさん、今日もくれるの?」
「当たり前じゃない。ほれほれ、遠慮せんでいいよ」
「でも、なんで金物屋に飴があるの?」
おばさんはその質問に、いつも同じように笑った。答えは教えてくれなかった。ただニコニコして、もう一個持っていきな、と言うだけだった。
金物屋なのに、なぜ飴とキャラメルを持っているのか。それをなぜ、子供に配るのか。僕は長いこと疑問に思っていたけれど、結局その答えを聞かないまま、おばさんは逝ってしまった。
今となって思うのは、あのおばさんにとって、子供たちの顔を見ることが、一日の中の楽しみだったのかもしれない、ということだ。金物屋というのは、客が毎日来る店ではない。鍋が壊れるのも、包丁が欠けるのも、そうそうあることではないのだから。だから長い長い一日の中で、おばさんは暇を持て余していたのかもしれない。そこへやってくる僕らが、どれほど賑やかで、どれほど嬉しい存在だったか。
子供の頃の僕には、そんなことは微塵もわからなかった。ただ飴が嬉しくて、キャラメルが嬉しくて、お山盛りという言葉の響きが嬉しくて——それだけだった。
毎朝、納豆屋のおじちゃんがラッパを吹きながらやってきた。
あの音が聞こえると、お母ちゃんが「ほれ、行っておいで」と言う。僕はどんぶりを両手で抱えて、玄関から飛び出した。
どんぶりを持って納豆を買いに行く——今の時代では想像もつかないだろう。パックなんてものはない。おじちゃんが自転車の荷台から木の折り箱を取り出して、どんぶりの中へ直接よそってくれるのだ。
「おじちゃん、今日の納豆、糸ようく引く?」
「当たり前じゃ。今朝打ったばっかりじゃからな」
おじちゃんはいつも自慢そうに言った。そして少しだけ多めによそってくれた。子供には甘かったのだ、あの時代の大人は。
わら苞の匂いと、朝の冷たい空気と、おじちゃんのラッパの余韻が混ざり合った、あの感触。どんぶりを両手で抱えて家に駆け戻る、あの朝の空気の冷たさ。あれが昭和の朝だった。
銀座通りの交差点に、小さな店があった。
小さな、というのは控えめな表現で、正確に言えばほとんど屋台に毛が生えた程度のものだった。どぶ板の水路の上に板を渡して、そこに店を構えているのだ。
水路の上である。
雨が降れば下から水音がした。夏になれば、どこからともなく湿った匂いが漂ってきた。でもそんなことは誰も気にしなかった。気にする方がおかしい、という空気だった。昭和というのはそういう時代で、衛生とか安全とか、そういう言葉よりも先に、腹が減ったという現実があった。
その店で売っていたのは、団子と焼きそばだった。
なぜその二つが同じ店に並んでいるのか、子供の僕には疑問だったが、それもまた誰も気にしなかった。甘いものと塩辛いものが肩を寄せ合って、狭い店の中に煙を立ち込めていた。焼きそばのソースの匂いが、銀座通りの交差点に漂う頃、僕らの腹はきまって鳴った。
店を切り盛りしていたのは、老夫婦だった。
おじちゃんは無口だった。注文を聞くのも、焼きそばを作るのも、団子を渡すのも、すべて黙ってやった。愛想がないのではなく、言葉が不要だったのだと思う。鉄板の前に立って、黙々とへらを動かすおじちゃんの背中は、それだけで十分に雄弁だった。
おばちゃんは反対に、いつもニコニコしていた。
「はいよ、焼きそば一つね」と受け取ったお金をエプロンのポケットにしまいながら、必ずおまけをしてくれた。団子をもう一本、あるいは焼きそばを少し多めに——こっそりと、でも確かに。
「おばちゃん、またおまけしてくれた」
「しーっ。おじちゃんに言わんでよ」
おじちゃんはそれを見ても何も言わなかった。怒るでもなく、苦笑いするでもなく、ただ黙って鉄板に向かっていた。きっとおじちゃんは、全部知っていたのだと思う。おばちゃんがおまけをすることも、子供たちが喜ぶことも。そしてそれが、この店の本当の看板だということも。
どぶ板の水路の上の小さな店に、焼きそばのソースの煙が上がる。
あれが銀座通りの、昭和の午後だった。
商店街には他にも、個性的な人々がいた。
駄菓子屋のじいさんは、いつも無愛想だった。しかし僕らが一円玉を握りしめて迷いに迷っていても、絶対に急かさなかった。ただ黙って、煙草をくゆらせながら待っていた。あの忍耐強さは、今思えば相当なものだ。子供の一円玉のために、どれほどの時間を使っただろう。でもじいさんは嫌な顔一つしなかった。
みそ屋のおじさんは、いつも白い前掛けをして、樽の前に仁王立ちしていた。無口で怖そうに見えたが、一度だけ道端で転んだ僕を助けてくれたことがある。何も言わずに立ち上がらせて、何も言わずに行ってしまった。
銀座通りの人々というのは、みんなそんな感じだった。多くを語らず、でも確かにそこにいた。商売をしながら、町を守っていた。子供の僕らを、遠くから見ていた。
あの通りはもう、今はない。シャッターが並ぶようになったのがいつ頃だったか、気づいた時にはもう、あの賑やかさは消えていた。金物屋も、駄菓子屋も、納豆屋も、どぶ板の老夫婦も——みんないなくなってしまった。
でも練炭のかおりが漂う夕暮れ時に目を閉じると、今でもあのニコニコしたおばさんの顔が浮かんでくる。小皿の上の、飴とキャラメルのお山盛りと一緒に。

第3章 借家街の掟

借家街には、子供たちの掟があった。
誰が決めたわけでもない。文字に書かれたわけでもない。でも僕らは皆、その掟をちゃんと知っていた。生まれた時から空気のように身についていた、そういう類のものだ。弱い者をいじめない。年下には優しくする。大人の話に口を挟まない。そして——ガキ大将の言うことには従う。
その掟の頂点に立っていたのが、鉄だった。
本名は知っていたが、誰も呼ばなかった。みんな「鉄」と呼んだ。なぜそのあだ名になったのか、これも誰も知らなかった。ただ鉄は鉄で、それ以外の何者でもなかった。
鉄は怒りっぽかった。
些細なことで声を荒げ、気に入らないことがあれば拳が飛んだ。だから僕らは鉄の機嫌をいつも読んでいた。今日は虫の居所が悪いか、今日は上機嫌か——それによって、その日の遊びの空気が決まった。
「おい、今日の鉄、どうや」
「朝から機嫌悪そうやったぞ」
「じゃあ今日はメンコやめとくか」
そういう会話が、借家街の子供たちの間で日常的に交わされていた。鉄の機嫌は、天気予報よりも重要な情報だった。
でも鉄は、本当は優しかった。
泣いている子がいると、黙って隣に座った。誰かがいじめられていると、何も言わずに間に入った。弱い者には手を出さなかった。強がっているくせに、捨て猫を拾って帰ったこともあった。そしてその猫を、親に内緒で押し入れの中で飼っていた。一週間後に親に見つかって大目玉を食らったが、その時の鉄の顔が、今でも忘れられない。怒られながらも、猫だけはちゃんと守っていた。
怒りっぽいのは、たぶん照れ隠しだったのだと思う。
僕らの溜まり場は、銀座通りの裏手にある神社の境内だった。
大きな神社ではない。こじんまりとした、古びた社が一つあるだけで、普段は参拝客もほとんどいなかった。でも境内には広い石畳があって、大きな楠の木が日陰を作っていて、僕らにとっては最高の遊び場だった。
春は桜が散って石畳を染めた。夏は楠の木が日陰を作って涼しかった。秋は銀杏の葉が黄色く舞った。冬は境内が白くなって、僕らは雪合戦をした。一年中、あの神社が僕らの王国だった。
そこでの一番の騒ぎといえば、メンコとパチンコだった。
メンコは真剣勝負だった。自分のメンコを地面に叩きつけて、相手のメンコをひっくり返したら総取り。負ければ大事なメンコを失う。だから皆、本気だった。鉄のメンコの叩きつけ方は格別で、石畳に当たる音が境内に響き渡った。風圧でひっくり返るのではないかと思うほどの力だったが、なぜかいつも微妙に外れた。それが悔しくて、鉄はまた怒った。
「くそっ、もう一回じゃ」
「鉄、さっきから何回やっとるんじゃ」
「うるさい。もう一回じゃ言うとる」
誰も逆らえなかった。そして誰も、本当は逆らいたくなかった。鉄が必死になっているのが、みんな好きだったから。
パチンコは、Y字型の木の枝にゴムを張っただけの代物だ。石ころを飛ばして、木の幹に当てる。それだけのことなのに、なぜあんなに夢中になれたのか。鉄は照準が正確で、狙った的にほぼ外さなかった。その腕前だけは、誰も文句が言えなかった。
楠の木の幹には、僕らのパチンコの跡が無数についていた。あの傷は今もあの木に残っているだろうか。それとも木が大きくなって、傷ごと飲み込んでしまっただろうか。
夕方になって練炭のかおりが漂い始めると、お母ちゃんたちが呼びに来た。
「ご飯よ」「帰りなさい」「もう暗くなるよ」
その声を聞くまで、僕らは帰らなかった。帰りたくなかったのではなく、声がかかるまでが遊び時間だという、暗黙の了解があったのだ。
鉄は最後まで残った。いつも一番最後に、誰もいなくなった境内で一人、メンコを地面に叩きつけていた。
あいつの家は、何か事情があったのだと、大人になってから知った。
でもあの頃の僕には、それはわからなかった。ただ鉄が最後まで残っているのが当たり前で、翌朝また境内に来ると、鉄はもうそこにいた。まるで神社に住んでいるみたいに。朝露の残る石畳に座って、一人でメンコをいじっていた。
借家街の掟は、鉄が守っていた。そして神社の境内は、僕らの小さな王国だった。あの王国に、永遠などというものはなかったけれど、あの頃の僕らは、それが永遠に続くものだと思っていた。

第4章 夏の匂い

夏になると、僕らは山へ行った。
借家街から銀座通りを抜けて、さらに田んぼ道を30分ほど歩いた先に、こんもりとした雑木林があった。大人たちは「裏山」と呼んでいたが、僕らにとってはそこは立派な山であり、未踏の密林であり、何が潜んでいるかわからない冒険の舞台だった。
夏休みに入ると、僕らは毎日のようにそこへ通った。
目的はカブトムシとクワガタだった。
朝露がまだ残る早い時間に、鉄を先頭にして僕らは出発した。虫取り網と、蓋つきの缶と、気合いだけを持って。田んぼ道を歩く間、稲の青い匂いが鼻をくすぐった。蛙が鳴いていた。遠くで農作業をしているおじさんの姿が見えた。
鉄は道中ずっと無口だった。いつもの怒りっぽさはどこへやら、山に入ると鉄は別人のように静かになった。木の幹に耳を近づけたり、腐葉土の匂いを嗅いだりしながら、獣のように山の中を進んだ。
「鉄、どこ行くんや」
「しーっ。うるさいと逃げるじゃろ」
声を殺して、足音を立てずに進む。木漏れ日が差し込んで、地面に光の模様を作っていた。どこかで野鳥が鳴いていた。
カブトムシは樹液の匂いがする木にいた。クヌギの幹に張りついた、黒光りするカブトムシを見つけた時の興奮は、今でも忘れられない。鉄が無言で指さして、僕らは息を飲んだ。誰も声を上げなかった。その瞬間だけは、僕らは完全に一つだった。
カブトムシの角の付け根をそっとつまんで、缶の中に入れる。缶の中で暴れる音がする。重さが手に伝わる。あの感触を、今でも覚えている。
「でかい。今年一番じゃ」
「鉄が見つけたんやからな。鉄のもんじゃ」
「お前らも来とったんじゃから、みんなのもんじゃ」
そう言いながら、鉄は缶を自分のリュックにしまった。でも家に帰る時、缶の中身を全員に分けてくれた。それが鉄だった。
スイカを食べたのは、帰り道だった。
誰かの家の縁側に腰を下ろして、冷やしたスイカを頬張った。汗だくの顔に、スイカの甘い香りが混ざった。種を遠くへ飛ばして、誰が一番遠くまで飛ばせるか競い合った。
あの香りが、僕にとっての夏の匂いだ。
スイカの香りと、汗と、雑木林の腐葉土の匂いが混ざり合った、あの感触。瓶に詰めて取っておけたなら、と今でも思う。
でも、あの夏には怖い記憶もある。
その日も僕らは裏山に入っていた。カブトムシを探して、いつもより奥の方まで踏み込んでいた。木が密になって、空が見えなくなってきた頃だった。
突然、鉄が立ち止まった。
僕らも止まった。
林の奥の、薄暗い木立の中に、何かがいた。姿は見えなかった。音もなかった。でも確かに、何かがそこにいた。気配、というより、もっと重たい何か——空気が変わった、と言えばいいのか。鳥の声が止んで、風も止んで、山全体が息を潜めたような、あの瞬間。
鉄が低い声で言った。
「走れ」
理由は聞かなかった。僕らは一斉に駆け出した。枝を踏みながら、蜘蛛の巣を顔で切りながら、転びそうになりながら、ただ走った。
山を出て、田んぼ道まで戻って、ようやく僕らは足を止めた。全員、肩で息をしていた。誰も何も言わなかった。鉄でさえ、しばらく黙っていた。
それから鉄がぽつりと言った。
「見たか」
僕らは首を振った。
「俺も見てない」
それだけだった。それ以上、誰も何も言わなかった。あれが何だったのか、今でもわからない。動物だったのかもしれない。風だったのかもしれない。あるいは——。
でも鉄が「走れ」と言った。それだけで十分だった。
あの夏の裏山に何かがいたことは、僕らの間で長いこと語られなかった。語れなかった、というべきかもしれない。言葉にした途端に、何かが壊れる気がして。
昭和の夏には、説明のつかないものがまだ、あちこちに潜んでいた。山にも、神社にも、古い家の押し入れの中にも。そしてそれは怖ろしいだけではなく、どこかこの世を豊かにするものでもあった。
あの夏以来、僕らは裏山の奥へは踏み込まなかった。でも翌年も、また翌年も、夏になると山へ行った。カブトムシを探して、スイカを食べて、汗をかいた。
それが僕らの夏だった。

第5章 映画館の秘密

健二の家は、映画館の隣にあった。
といっても、映画館と家の境目がどこなのか、子供の僕には正直よくわからなかった。映画館の建物と住居が、増築を重ねながら一体化していて、どこからが店でどこからが家なのか、曖昧なまま繋がっていた。
乱雑だった。
玄関には映写機の部品らしきものが転がっていた。廊下には古いフィルムの缶が積み上がっていた。畳の部屋には映画のポスターが無造作に丸めて置いてあった。何十年分もの時間が、そのまま堆積しているような家だった。
でも温かかった。
不思議なことに、あの乱雑さが少しも不快ではなかった。むしろ、その散らかり方が家の体温のように感じられた。誰かがここで長い時間をかけて生きてきた、その証拠がそこかしこに積み重なっているような。
健二の家に遊びに行くと、いつも何かの匂いがした。フィルムの匂い、古い畳の匂い、そして何かを煮ている匂い。健二のお母さんはいつも台所にいて、僕らが来ても特に驚かず、「上がりなさい」とだけ言った。
映画館を切り盛りしていたのは、健二のおじいちゃんだった。
小柄で、白髪で、いつも同じ作務衣を着ていた。映写室にこもって、フィルムと格闘しているのが日課だった。子供が来ても特に愛想を振りまくわけでもなく、ただ黙って映写機を回した。
でも映画が始まると、おじいちゃんの横顔が変わった。
スクリーンに光が当たる瞬間、おじいちゃんは必ず目を細めた。何百回、何千回と同じ作業を繰り返してきたはずなのに、その目には毎回、小さな誇りのようなものが灯った。
あの目を、僕は忘れられない。
映画というのは、映写機がなければ始まらない。スクリーンでもなく、フィルムでもなく、あの光を送り出す人間がいなければ、何も始まらないのだ。おじいちゃんはそのことを、言葉ではなく背中で知っていた。
一度だけ、おじいちゃんが映写室に入れてくれたことがある。
「光の通り道を、見てみるか」
おじいちゃんはそう言って、映写機のレンズの前に立たせてくれた。光の筋が僕の体を貫いて、スクリーンに届いていた。その光の中に、小さな人影が映っていた。僕自身の影だった。
「お前さんが邪魔をしとる。でも光はお前さんを回って届くんじゃ」
おじいちゃんはそう言って、静かに笑った。あの言葉の意味が、今になってわかる気がする。
火事が起きたのは、僕らが中学に上がった頃だった。
夜中のことで、詳しいことは誰も知らなかった。映写室からだという話もあったし、隣家からの貰い火だという話もあった。とにかく朝になると、あの映画館は半分焦げた姿で銀座通りの端に立っていた。
煙の匂いが、借家街まで漂ってきた。練炭のかおりとは全く違う、焦げた木と、溶けたフィルムの、苦い匂いだった。
健二は学校に来なかった。一週間ほどして登校してきた健二は、特に何も言わなかった。僕らも何も聞かなかった。ただ、いつもと同じように隣に座って、いつもと同じように過ごした。
それが僕らのやり方だった。
その後、映画館は再建されなかった。おじいちゃんが歳をとっていたこともあった。時代もあった。テレビが茶の間に当たり前になって、わざわざ映画館へ足を運ぶ人が少なくなっていた。あの梯子で上る二階席も、座布団の板の間も、そのまま灰になって消えた。
ずっと後になって、健二から聞いた話がある。
おじいちゃんは火事の後、毎晩焼け跡の前に立っていたという。何をするわけでもなく、ただ立っていた。雨の日も、風の日も。
「じいちゃん、あそこで何してたんやろな」
健二はそう言って、笑った。笑いながら、少し目を逸らした。
僕には何も言えなかった。おじいちゃんが何を見ていたのか、たぶんわかっていたから。あの光を、もう一度だけ送り出したかったのだと思う。スクリーンに映像が浮かび上がる、あの瞬間を。
映画館というのは、建物ではなかった。あの光を守り続けた、一人の老人の時間だったのだ。
「光の通り道を、見てみるか」
おじいちゃんのあの言葉が、今でも耳に残っている。

第6章 トロッコ

小学校の卒業式というのは、不思議な日だった。
終わったという実感と、始まるという予感が、ごちゃ混ぜになって胸の中で渦を巻いていた。体育館に並んだ僕らは、みんな同じ顔をしていた。泣くほど悲しくはないけれど、笑えるほど嬉しくもない、あの中途半端な顔を。
でも僕には、もう一つ別の気持ちがあった。
引っ越しが決まっていたのだ。
父親の仕事の都合で、卒業と同時にこの町を離れることになっていた。中学はもう、別の町で通うことになる。借家街も、銀座通りも、神社の境内も、裏山も——全部、置いていかなければならない。
卒業証書を受け取る時、担任の先生が小さな声で言った。「元気でな」それだけだった。でも先生の目が少し潤んでいるのを、僕は見た。
一番気になっていたのは、鉄のことだった。
卒業式の帰り道、僕は神社の境内へ寄った。
鉄はいた。いつものように楠の木の根元に座って、メンコを一枚手の中でくるくると回していた。制服姿が妙に似合わなくて、でもそれがまた鉄らしかった。
「引っ越すんやろ」
僕が何も言う前に、鉄は言った。
「知ってたのか」
「町内やもん。知らん方がおかしい」
鉄はメンコを地面に叩きつけた。いつもの癖だった。石畳に当たって、跳ね返って、楠の根元に転がった。
しばらく、二人とも黙っていた。春の風が境内を吹き抜けて、楠の葉が揺れた。遠くで誰かの自転車のベルが鳴った。それだけだった。
「鉄、俺——」
「ええわ。言わんでいい」
鉄は立ち上がって、楠の幹のパチンコの跡を指でなぞった。数え切れないほどある傷跡を、一つ一つ確かめるように。
「元気でやれよ」
鉄はそれだけ言った。こちらを見なかった。楠の幹のパチンコの跡を、指でなぞりながら言った。
僕も何も言えなかった。ありがとう、とか、また会おう、とか、そういう言葉が喉まで出かかったけれど、どれも違う気がして、結局何も言えなかった。
ただ頷いた。鉄も頷いた。それが別れだった。
引っ越しの朝、荷物を積んだトラックが借家街の細い道をゆっくり進んだ。
僕は助手席から、流れていく景色を眺めていた。金物屋の前を通った。シャッターが降りていた。どぶ板の店の前を通った。まだ煙が上がっていた。焼け跡だけが残った映画館の前を通った。納豆屋のおじちゃんがラッパを吹きながら自転車で曲がってくるのが見えた。
誰も見送りには来なかった。
それでよかった、と思う。昭和の別れというのは、そういうものだった。大げさな言葉もなく、涙の抱擁もなく、ただ日常の中に静かに滑り込んで、気づいたら終わっている。
トラックが銀座通りに差し掛かった時、僕は後ろを振り返った。
神社の楠の木が、遠くに見えた。その根元に、小さな人影があった。
鉄だった。
こちらを見ているのか、いないのか、遠すぎてわからなかった。でも僕は手を振った。思い切り、窓から身を乗り出して振った。
人影は動かなかった。
トラックが曲がって、神社が見えなくなった。
「小さな恋のメロディ」のラストシーンを、僕はずっと忘れられなかった。メロディとダニエルが、トロッコに乗って走り去っていく。どこへ行くかわからない。でも二人は漕ぎ続ける。ビー・ジーズの歌声の中を、どこまでもどこまでも。
あのシーンを初めて見た時、僕は何がそんなに眩しいのかわからなかった。でも今はわかる。行き先がわからなくても、漕ぎ続けられることが眩しかったのだ。後ろを振り返らずに、ただ前へ向かって進んでいけることが。
あの借家街を出た日、僕もトロッコに乗ったのだと思う。鉄も、健二も、金物屋のおばさんも、どぶ板の老夫婦も、納豆屋のおじちゃんも——みんな、それぞれのトロッコで、それぞれの方向へ漕ぎ出していった。
昭和という時代が、そうさせたのかもしれない。あの頃の僕らは皆、どこかへ向かっていた。どこへ行くかは知らなくても。

第7章 55年後のメロディ

深夜だった。
家族はとっくに寝ていた。台所の時計の針が、静かに時を刻んでいた。テレビは消えていた。外では風が吹いていて、窓ガラスがかすかに震えていた。
何かに引き寄せられるように、僕は棚の前に立っていた。
長い時間、そこに立っていたのかもしれない。気がつくと、段ボール箱を引っ張り出していた。埃が舞った。くしゃみをした。
箱の中から、それは出てきた。
埃をかぶったVHSのテープ。ラベルには自分の字で「小さな恋のメロディ」と書いてあった。いつ録ったのか、もう覚えていない。でも確かに、自分の字だった。若い頃の字だった。
再生できるかどうかもわからなかった。そもそもビデオデッキがまだ動くのかどうか。おそるおそる電源を入れると、ゴロゴロと年老いた機械音がして、テープを飲み込んだ。
しばらくノイズが走った。
それからビー・ジーズの歌声が、部屋に流れ出した。
涙が出た。
なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。画面の中ではまだ、オープニングのクレジットが流れているだけだった。マーク・レスターもトレーシー・ハイドも、まだ画面に現れてもいない。それなのに涙が出た。
歌声のせいだったのかもしれない。あの旋律が、鍵のかかった引き出しをいきなりこじ開けるような力を持っていたのかもしれない。55年という時間を、一瞬で飛び越えるような力を。
最初に浮かんだのは、鉄の顔だった。
楠の木の根元に座って、メンコをくるくると回している鉄。パチンコの照準を定めて、静かに目を細める鉄。引っ越しの朝、神社の境内でこちらを見ていた、あの小さな人影。
あいつは今、どこで何をしているのだろう。
55年という時間は、途方もなく長い。あの借家街で過ごした時間の、何倍もの時間が過ぎた。鉄も僕も、すっかり老いた。怒りっぽいガキ大将は、今頃どんな顔をしているのか。まだ怒りっぽいのか。それとも丸くなったのか。孫の顔でも見ながら、縁側で日向ぼっこをしているのか。
会いたいとも思う。でも会えなくていいとも思う。
あの神社の境内で別れた時のまま、鉄は鉄でいてほしい。楠の木の根元で、メンコを叩きつけている鉄のままでいてほしい。それが勝手な願いだとわかっていても。
画面の中でメロディが笑った。
あの眩しい笑顔。トレーシー・ハイドの、世界中の夏を集めたような笑顔。梯子で上った二階席の板の間で、座布団の上に胡座をかいて、僕はあの笑顔に息を飲んだ。
あの時の心臓の音が、今でも聞こえる気がする。
子供というのは残酷なほど正直で、美しいものを美しいと感じる回路が、まだ何にも汚されていない。あの頃の僕の目に映ったメロディは、この世のものではないくらい眩しかった。
それから55年が過ぎた。僕の目は老いて、膝は痛くなって、深夜に一人でVHSを見ながら泣いている。
それでも画面の中のメロディは変わらない。あの夏のまま笑っている。あの梯子の二階席のまま、座布団の板の間のまま、健二の得意そうな顔のまま——すべてがあの頃のまま、画面の中に生きている。
ラストシーンが来た。
トロッコに乗ったメロディとダニエルが、どこまでも走っていく。ビー・ジーズの歌声が高まって、二人の姿が小さくなって、やがて光の中に消えていく。
僕は画面を見つめたまま、動けなかった。
どこへ行くのかわからなくても、漕ぎ続けること。後ろを振り返らずに、ただ前へ向かうこと。あの映画が教えてくれたのは、たぶんそれだけのことだった。でもそれだけのことが、どれほど難しいか。55年かけて、ようやく少しわかった気がする。
テープが終わって、ノイズが走った。部屋が静かになった。
深夜の静寂の中で、僕はしばらくそのままでいた。
練炭のかおりはもう、どこにもない。金物屋のおばさんも、どぶ板の老夫婦も、納豆屋のおじちゃんも、健二のおじいちゃんも——みんな、とっくにいなくなってしまった。
でも確かに、いたのだ。
あの借家街に、あの銀座通りに、あの神社の境内に、あの裏山に。確かに生きて、確かに笑って、確かに怒って、確かに泣いた。
僕が最後の昭和世代だとしたら、あの人たちのことを覚えているのも、もう僕らだけかもしれない。
だから書いた。
夕方になると練炭のかおりが漂ってきた、あの借家街のことを。銀座通りの、飴をお山盛りにくれたおばさんのことを。どぶ板の上の焼きそばの煙のことを。梯子で上る映画館の、板の間の冷たさのことを。裏山で走れと言った鉄のことを。
そしてメロディと一緒に、トロッコでどこまでもどこまでも漕いで行きたかった——あの夏の子供が、確かにここにいたということを。
あの光は、消えていない。


〜あとがき〜
 書き終えてみると、指先にあの頃の泥の感触が残っているような、不思議な高揚感の中にいる。
 
 今回、筆を執ったのは、単なる懐古趣味からではない。デジタル化され、すべてが効率と清潔さで塗り固められた現代において、私たちが置き去りにしてきてしまった「何か」を、もう一度確認したかったからだ。
 
 物語に登場した映画館はもうない。銀座通りも、どぶ板の上の商店も、私の記憶の中にしか存在しない場所がほとんどだ。仲間たちとも、あの卒業式を境に二度と会うことはなかった。
 けれど、55年後の深夜に古いビデオテープを再生した時、私は確信した。形あるものは消えても、あの日、暗闇の中で見つめた「光」は、私たちの血肉となって今も流れ続けているのだと。
 人生という名のトロッコは、時に重く、時に坂道を転げ落ちるように進んでいく。行き先が分からず、不安に駆られる夜もある。そんな時、私を支えてくれたのは、いつだってあの借家街の夕焼けであり、無口なおじさんたちの背中であり、共に笑った友の顔だった。
 最後になったが、この拙い回想録を最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
 もし、この物語のどこかで、あなた自身の「失われた記憶の匂い」を感じていただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはない。
 私たちのトロッコは、まだ止まってはいない。
 あの眩しいメロディを胸に、もう少しだけ漕ぎ続けてみようと思う。
 昭和という、美しくも泥臭い時代に愛を込めて。


アマゾン キンドル





〜おまけ〜

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

メロディフェア

ガキの頃
小学生の頃 
住んでた田舎町の借家街から
ひとつブロックを隔てた
その町の銀座通り商店街を抜けた所に
ちょいと さびれた映画館があってね

そこが
たまの休日にしか営業しないんだよね

その頃はね
映画館って
そんなもんだろう って感じてたんだけどね
やっぱ
田舎だから だったんだよね

ある日
そこがね
隣りのクラスの友達の家で経営してるって 知ってね
みんなで
そいつに頼んでみたんだよ

オレたち
小遣い ないんだ
でも お願い!!
一生のお願い!! ってね 

そしたらまた
そいつが良い奴でね

良いよ!! って
おまけに
特別に 指定席にも入れてやるよ って。。。

嬉しかったよね~
もう
”ドキが ムネムネしちゃったよ”

するとさ
当日
横のドアから
こっそり入れてくれてね

この上の
2階が指定席だから
そこへも ど~ぞ!! って。。。

でもね
そこ
ハシゴ で上るんだよ
そう
ハシゴ でね

子供心にも
おい
なんか変じゃあ~ねえ~か? って感じたけれど
なんせ
初めて入った映画館だったもんで

ほおおお~~~
なるほど 2階がね
観やすいしね って
なぜか 
うんうんと 納得なんかしてさ

それは
確かに昭和の時代で
戦後のドサクサの生き残りの場所で
当時としては
娯楽の最先端だったのかもね?

僕らが
本当に
最後の昭和世代だったんだな って
今更ながらに感じるよね

更にはね
そこには
イスなんてなくてさ
床は板の間敷きで
座布団があってさ
ど~ぞ
お好きな格好で ってなあ~具合

そ~さ
寝転んでてもOK
正座してても
胡座をかいてても OK

ありえね~!! って
今なら思うけれども
なんせ
初めてだからさ

その後の僕らの
映画館とは? って感を
ここが作っちまったってわけさ

それでね
その日
上映したのは

な なんと
忘れもしない

”小さな恋のメロディ”

そう
あの 
マ~クレスタ~と トレ~シ~ハイドの。。。だよ

今思うと 
これだって 凄いこと!!

時期からして
ど~考えても
リバイバルなんかじゃあ~なくて
完全に 
”ロ~ドショ~” だったんだよね

そんな思い出の中から
いつの間にか 55年もが過ぎて

昨晩
棚の奥の方から
引っ張り出した VHS

ビ~ジ~ズの歌声と共に蘇った
そりゃあ~
懐かしい頃

そして
今でも思うよ

メロディと一緒に
トロッコで
どこまでもどこまでも
漕いで行きたかった なんて。。。



これもまた

僕らの

昭和の

実話です…



パーティーナイト

〜火のないところに、煙を立てた結果〜


〜まえがき〜

人は、なぜ動けないのだろう。

好きな人がいても、声をかけられない。
隣に座れる距離にいても、何も言えない。

傷つくのが怖いのか。
関係が壊れるのが怖いのか。
それとも、ただ少し臆病なだけなのか。

理由はいくつもあるのに、結果はいつも同じで、
「何も起きないまま時間だけが過ぎていく」。

この物語は、そんな夜に、
ひとつだけ小さな嘘を置いてみたらどうなるか、という話です。

大げさな奇跡は起きません。
世界も変わりません。

けれど、ほんの少しだけ、
誰かの人生が動くかもしれない。

そんな夜が、どこかにあってもいいと思いました。





第一章 孤独な企み



十二月に入ると、東京の街はいっせいに赤と金色に染まった。

イルミネーションに彩られたケヤキ並木。デパートの入口で流れるジングルベル。コートの襟を立てたカップルたちが、肩を寄せ合いながら歩いていく。

翔は煙草の煙を長く吐き出して、その光景をガラス越しに眺めた。
——このまま何もしなければ、誰も何も変わらない気がした。

事務所の窓から見えるのは、新宿の南口だ。夜の七時。残業で残っているのは翔ひとりで、フロアの蛍光灯は半分が消えていた。デスクの上には仕事の書類と、それと一緒に届いたエアメールが一通。

差出人はケイト。ロサンゼルス在住、二十四歳。翔が去年の夏にサンフランシスコで知り合い、一週間だけ一緒にいた、アメリカの女だ。
一週間しかいなかったのに、他の誰より長く残った。

封筒を手に取り、裏返した。何度も何度も触ったせいで、封の縁がすこし毛羽立っていた。

「会いたい」

それだけ書いてあった。英語で三語。

I miss you.

翔はもう一度だけ煙草を吸い、灰皿に押しつけた。




翔が言うところの「奥手な連中」は、だいたい十人ほどいた。

大学時代からの仲間に、その仲間の友達、さらにその友達の知り合い、という具合に輪が広がって、気づけばそのくらいの人数になっていた。週末ごとに誰かの部屋に集まり、酒を飲み、マージャンをして、深夜に解散した。男が七人、女が三人。一見すると賑やかな集団だったが、その中でカップルはひとりもいなかった。

それぞれ好きな人くらいいるだろうが、誰も動かない。

誰かが誰かを好きそうにしていても、みんな空気を読んで何も言わない。自分が傷つくのが怖いのか、仲間関係が壊れるのが怖いのか、それとも単純に臆病なのか。翔にはよくわからなかったが、なんとなくもったいないとは思っていた。

ケイトの手紙を受け取ったその夜、翔は帰りの電車の中でずっと考えていた。

クリスマスイブが三週間後に迫っていた。



翌朝、龍に電話した。

「パーティーやろう」

「は?」

「クリスマスイブ。店、借り切って。仲間を集めて、その先の友達まで呼んで。三十人くらい」

電話口で龍が黙った。翔は続けた。

「一緒に企んでくれ」

「お前、ケイトのことで頭おかしくなったか」

「なってない」

「なってる。声で分かる」

翔は笑った。龍には何でもすぐ見抜かれる。大学一年のときからずっとそうだ。

「……まあ、面白そうではある」と龍は言った。「店の心当たりはあるか」

「渋谷に小さいビストロがある。オーナーが大学の先輩で、平日なら話を聞いてくれるはずだ」

「費用は」

「折半。儲けを出す必要はない。集まってくれれば、それでいい」

また沈黙があった。

「分かった」と龍は言った。「でも一個だけ条件がある」

「なんだ」

「お前が当日、ちゃんと楽しそうにしてろ。暗い顔で幹事やられたら、こっちまで惨めになる」

翔は少しだけ考えて、「わかった」と答えた。

受話器を置いたあと、翔はもう一度ケイトの手紙を引き出しから取り出した。三語を読んだ。窓の外、十二月の空は低く、灰色だった。

それでもなぜか、少しだけ気持ちが軽くなっていた。

火のないところに、煙を立てることにした。


*  *  *

第二章 満席のレストラン

一 健太

健太は三回、鏡の前でネクタイを結び直した。

一回目は曲がった。二回目は結び目が大きすぎた。三回目でようやくましになったが、それでもどこか締まりがない気がして、結局外してコートのポケットに突っ込んだ。

クリスマスイブにネクタイはおかしいか。でも普段着では軽すぎるか。

鏡の中の自分が、情けない顔をしていた。

翔から電話が来たのは二週間前だ。「クリスマス、パーティーやるから来い。友達も連れてこい」。それだけだった。翔に「来い」と言われたら断れない。健太はそういう人間だ。大学のころからずっとそうだ。

友達は連れてこなかった。そんな友達が、都合よくいるわけがない。

渋谷のビストロは駅から歩いて七分だった。健太は地図を三度確認して、それでも一度だけ道を間違えた。路地を曲がると、小さな灯りが見えてきた。木の看板に手書きの店名。窓の内側が、オレンジ色に滲んでいた。

扉を開けると、笑い声と熱気が一度に押し寄せてきた。

三十人近くが、もう来ていた。

健太は入口に立ち尽くした。知っている顔は半分くらいで、あとは初めて見る顔ばかりだった。その中に、一人だけ、酷く目を引く女がいた。

カウンター席に腰掛けて、グラスを両手で包むようにして持ち、窓の外を見ていた。黒いセーター。短く切った髪。笑ってもいないのに、なぜか場の中心にいるような存在感があった。

健太は上着を脱ぐふりをしながら、もう一度その横顔を確認した。

名前も知らない。

ただ、この夜が少しだけ、長くなればいいと思った。

二 麻衣

麻衣がビストロに着いたのは、七時を少し回ったころだった。

誘ってくれたのは、職場の先輩の佐藤さんだ。「いいパーティーがあるから」と言われて、断る理由もなかった。クリスマスイブをひとりで過ごすくらいなら、知らない人間がいる場所のほうがまだましだと思った。

店に入ると、予想よりずっと人が多かった。麻衣は少し面食らいながら、カウンターの端に座った。

隣の席は空いていた。

グラスにミネラルウォーターを注いでもらい、窓の外を眺めた。イルミネーションが、雨に濡れたアスファルトに映って滲んでいた。綺麗だと思った。と同時に、なぜ自分はこんなところに来てしまったのだろう、という気持ちもあった。

人の多い場所が嫌いなわけではない。ただ、知らない人間に声をかけるのが、死ぬほど苦手だった。

しばらくして、入口のほうが少し騒がしくなった。

上着を脱ぎあぐねている男が一人、入口に立っていた。背が高くて、少し困ったような顔をしていた。ネクタイをしていないのに、シャツの第一ボタンが几帳面に閉まっていた。

麻衣はなんとなく、その男から目が離せなかった。

理由は分からなかった。ただ、この人も少し、場違いな感じがすると思った。自分と同じように。

三 翔

八時になると、店はほぼ満席になった。

翔はカウンターの奥から、全体を見渡した。来た。本当に来た。三十二人。借り切ったテーブルがすべて埋まり、笑い声が層を重ねていた。

龍が隣に立った。

「上出来じゃないか」と龍は言った。

「ああ」

「楽しそうにしろよ、って言っただろ」

「してる」

「してない。目が泳いでる」

翔は苦笑して、赤ワインを一口飲んだ。ケイトのことを考えていた。今ごろロサンゼルスは朝だろう。彼女は何をしているだろう。コーヒーを飲んで、窓から太平洋を眺めているだろうか。

「なあ」と龍が言った。「入口のとこにいる背の高い男、健太か」

「そう」

「あいつ、ずっとカウンターの女を見てるぞ」

翔は視線を動かした。確かに。健太がカウンターの端に目をやっては、すぐ逸らし、またやっては逸らしていた。カウンターには、翔の仲間の仲間で来た女が座っていた。名前は確か、麻衣。

翔はグラスを置いた。

「よし」と言った。

「よし、って何が」

「煙を立てる」

龍が少しだけ笑った。「どっちからやる」

「男からだ。女に先に言ったら、待つのが辛くなる」

「なるほど」と龍は言い、そして付け加えた。「お前、こういうとき本当に生き生きするな」

翔は何も答えなかった。でも、それは本当のことだと思った。

ケイトへの寂しさは、まだ胸の底にあった。けれど今夜だけは、それを燃料にすることができる気がした。

人混みをかき分けて、翔は健太のほうへ歩いていった。


*  *  *

第三章 火のないところに煙を



健太は壁際に立って、ビールを飲んでいた。

飲む速度が少し速すぎる、と自分でも思った。でも手持ち無沙汰にしているよりましだった。近くにいた仲間と二言三言しゃべって、笑って、また黙った。笑い方が少し大きすぎた気もした。

カウンターの女は、まだそこにいた。

誰かと話しているときもあれば、グラスを眺めているときもあった。健太が盗み見るたびに、違う角度の横顔があった。そのたびに目を逸らした。

「よお」

背中を叩かれた。振り返ると、翔がいた。

「楽しんでるか」と翔は言った。

「ああ、まあ」

「嘘つくな。さっきから壁と友達になってるじゃないか」

健太は苦笑した。「うるさい」

翔がグラスで口元を隠しながら、ひそめた声で言った。「なあ、カウンターにいる女、気づいてるか」

心臓が一拍、余分に打った。

「……どの」

「黒いセーターの。麻衣ちゃん。おれの友達の友達なんだけど」翔は何でもないような口調で続けた。「あの娘、お前のことちょっと気にしてるみたいだぞ」

健太は固まった。

「は」

「入ってきたとき、見てたって。さっき聞いた」

「……誰に」

「麻衣ちゃんの友達に」

翔はそれだけ言うと、「まあ、どうするかはお前次第だけどな」と付け加えて、人混みの中に消えた。

健太はしばらくそのまま立っていた。

ビールのグラスが、汗をかいていた。



翔は人混みをかき分けて、龍を見つけた。

「男に言った」

「反応は」と龍が聞いた。

「固まってた。悪くない」

龍が小さく笑った。「次は女か」

「頼む。お前のほうが自然に入れる」

龍は少し考えて、「分かった」と言い、グラスを持ってカウンターのほうへ歩いていった。

翔は柱に背中を預けて、それを遠くから見ていた。

龍は麻衣の隣に自然に立って、何か話しかけた。麻衣が少し驚いたような顔をして、それから笑った。龍はうまい。初対面の人間をすぐ笑わせる才能がある。翔にはそれができない。翔にできるのは、人を動かす算段を立てることだけだ。

しばらくして龍が戻ってきた。

「言った。『入口に立ってた背の高い人、あなたのこと見てたみたいですよ』って」

「反応は」

「耳が赤くなった」

翔はうなずいた。

「あとは化学反応に任せる」

「お前、本当に悪いやつだな」と龍は言った。

「そうか」

「いや、褒めてる」



麻衣は、グラスの中の気泡を数えていた。

さっき龍というひとが話しかけてきて、いろんなことをしゃべった。店のこと、翔のこと、今夜集まった人たちのこと。聞いていると自然と笑えた。感じのいいひとだった。

そして帰り際に、さらりと言った。

「入口に立ってた背の高い人、あなたのこと見てたみたいですよ」

麻衣は「そうですか」と答えた。それしか言えなかった。

背の高い人。入口に立っていた。ネクタイをしていなくて、第一ボタンが閉まっていた。

麻衣はそっとカウンターから首を動かした。

いた。壁際に、さっきと同じ場所に、同じ少し困ったような顔で立っていた。

見てた、というのは本当だろうか。

こういう話は、たいてい社交辞令か、場を盛り上げるための方便だ。麻衣はそれをよく知っていた。だから信じるつもりはなかった。

ただ。

その男が、ちょうどそのとき、こちらを見た。

一瞬だった。目が合った。男はすぐに逸らした。麻衣も逸らした。

頬が、少し熱かった。

方便でもいい、と思った。今夜だけは。



九時を過ぎると、店の中の空気が変わった。

最初の緊張がほぐれて、笑い声が大きくなり、席の移動が始まった。知らない同士が隣に座り、話し始めた。翔はそれをカウンターの奥から眺めていた。

健太が、麻衣のそばに移動したのが見えた。

翔は小さく息を吐いた。

火は、ついた。

あとは本物かどうかだ。嘘から始まったものが本物になるかどうかは、翔には分からない。それは二人の問題だ。翔にできることは、最初の一手を置くことだけだった。

コートのポケットに手を入れると、ケイトの手紙が指先に触れた。

三語。

翔はそっとそれを握ったまま、もう少しだけこの夜の中にいることにした。

窓の外では、東京のクリスマスイブが、音もなく更けていった。


*  *  *

第四章 嘘が転じて誠になる

一 健太

健太が麻衣のそばに移ったのは、半分は勢いで、半分は酒のせいだった。

「ここ、座ってもいいですか」

自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。麻衣は少し驚いたような顔をして、それから「どうぞ」と言った。声が思ったより低くて、落ち着いていた。

最初の五分は、店の話だった。料理のこと、混み具合のこと、翔とはどういう知り合いかということ。健太は相槌を打ちながら、内心では自分が普通に会話しているという事実に驚いていた。

「さっき、入口のところで困ってましたよね」と麻衣が言った。

健太は固まった。「見てましたか」

「少し」

「ネクタイ、持ってきたんですけど、やめたんです」

「なんで」

「おかしいかと思って」

麻衣が小さく笑った。「おかしくないと思いますよ。していたほうが、むしろ」

「そうですか」

「はい。几帳面な感じがして」

几帳面。健太はその言葉を頭の中で繰り返した。褒められているのか、からかわれているのか判断できなかった。でも、悪い気はしなかった。

話しているうちに、気づいたら一時間が過ぎていた。

料理の話から、仕事の話になり、子供のころの話になり、好きな本の話になった。麻衣は本をよく読むらしく、健太の知らないタイトルをいくつも挙げた。メモしておきたいと思ったが、手帳を持ってきていなかった。

「また教えてもらえますか」と健太は言った。

「また?」

「今度、どこかで」

口から出てから、少し言いすぎたかと思った。でも麻衣は怒らなかった。少し間を置いて、「いいですよ」と言った。

その「いいですよ」の言い方が、社交辞令には聞こえなかった。

少なくとも、健太にはそう聞こえた。

二 麻衣

麻衣は帰りの電車の中で、さっきの会話を順番に思い出していた。

健太という名前だと分かったのは、一時間ほど話してからだった。名前を交換するタイミングを、二人ともずっと逃していた。最後に龍が「健太、そろそろお開きだぞ」と声をかけてきて、それで初めて分かった。

健太。

声に出してみたら、なんとなく似合っている気がした。

龍から「あなたのこと見てた」と言われたとき、麻衣は半信半疑だった。でも今は、少し違う気持ちになっていた。あの会話は、誰かに仕掛けられたものだったかもしれない。でも、会話そのものは本物だったと思う。

健太は聞き方が丁寧だった。麻衣が話すとき、ちゃんと待った。笑うタイミングが少し遅れるのも、作った笑いではないからだと分かった。

几帳面と言ったら、本当に困った顔をしていた。褒め言葉として受け取れなかったのだろう。それが可笑しくて、麻衣はあのとき初めて、本当に笑えた気がした。

電車が駅に着いた。ホームに降りると、冷たい空気が頬に触れた。

また、と言っていた。

また会えるかどうかは分からない。でも、また会いたいとは思った。自分でも、少し驚きながら。

連絡先を交換しなかったことに気づいたのは、改札を出てからだった。

麻衣はしばらく立ち止まって、それから歩き出した。

次があるなら、次のときに交換すればいい。

そう思えた自分が、今夜だけの特別な自分のような気がした。

三 健太

翔が「どうだった」と聞いてきたのは、店の外に出たあとだった。

「何が」

「麻衣ちゃんと話してただろ。ずっと」

健太は少し考えた。どう答えればいいか分からなかった。

「……楽しかった」と言った。

翔はそれを聞いて、「そうか」とだけ言った。

「なあ翔」

「何だ」

「さっき言ってたこと、本当か。あの人が、おれのことを見てたって」

翔は少し間を置いた。冬の路地に、二人の吐く息が白く浮かんだ。

「さあな」と翔は言った。「でも、今夜話してみて、どうだった」

「それは……」

「本当かどうかより、そっちのほうが大事だろ」

健太は黙った。翔の言っていることは、正しいと思った。

入口に立ったとき、あの横顔を見た。それは本当だ。龍から何を言われたかとは関係なく、あの瞬間に何かが動いたのも本当だ。

「連絡先、聞かなかった」と健太は言った。

「ばか」

「分かってる」

「翔の友達の友達だから、ルートはある。俺に言え」

「……頼む」

翔が笑った。街灯の下で、少し意地悪そうに、でも温かく笑った。

「お前みたいなやつが動いたときは、たいてい上手くいくんだよ」

「なんでそんなこと分かる」

「勘だ」と翔は言った。「それと、経験」

二人は並んで歩いた。渋谷の夜は、まだ騒がしかった。

健太はコートのポケットに手を入れて、今夜の会話をもう一度、最初から辿り直した。

几帳面。

その言葉だけが、ポケットの底に残っているみたいに、温かかった。


*  *  *

第五章 サンタクロースの気分



あれから、三十年が過ぎた。

翔は今、横浜の小さな家に住んでいる。庭に柿の木が一本あって、今年もよく実った。妻は去年から始めた陶芸教室に週二回通っていて、玄関には歪んだ形の皿がいくつも並んでいる。それが翔には、なぜかひどく好きだった。

ケイトとは、あの冬が終わる前に別れた。

別れたというより、自然に遠のいた。春になってエアメールが来なくなり、翔も書かなくなった。寂しかったが、しばらくすると別の寂しさに変わり、それも時間が解決した。人の心はそういうふうにできている。

翔が妻と出会ったのは、その翌年の夏だった。あのパーティーとは関係のない場所で、まったく関係のない縁で出会った。今思えば、あのクリスマスイブに自分が仕掛けたことと、自分の恋愛は、まるで別の話だった。

それでいいと思っている。

人を動かすことと、自分が動くことは、別の筋肉を使う。翔はどうやら、他人の恋には向いていたが、自分の恋には不器用だった。妻にそれを言ったら、「今さら」と笑われた。



健太と麻衣が結婚したのは、パーティーから二年後だった。

翔が仲人を頼まれたとき、少し笑ってしまった。火をつけたのが仲人をやるとは、と思った。でも断る理由はなかった。むしろ、引き受けることが筋だと思った。

式の日、健太はまたネクタイを曲げていた。控室で翔が直してやりながら、あの夜のことを思い出した。壁際でビールを飲んでいた健太。困ったような顔で入口に立っていた健太。

「緊張してるか」と翔は聞いた。

「してる」と健太は即答した。

「あのとき、カウンターに声かけに行ったときも、そんな顔してたぞ」

「してないよ」

「してた。でも、行った」

健太はネクタイを直されながら、小さく笑った。「翔があのとき、嘘をついたんだろ」

翔は手を止めた。「何の話だ」

「麻衣が俺のことを見てた、って。あれ、本当じゃなかったんだろ」

翔はしばらく黙って、それから「さあな」と言った。

「さあなって」

「本当かもしれないだろ。麻衣さんに聞いたか」

「聞いてない」

「じゃあ分からない」

健太は翔の顔を見て、それ以上追及しなかった。ネクタイはまっすぐになっていた。

式は、晴れた日だった。



健太と麻衣の子供は、二人いる。

上の子が去年、子供を産んだ。つまり健太と麻衣は祖父母になった。翔はその知らせを電話で受けたとき、受話器を持ったまましばらく動けなかった。

孫。

あの夜、壁際で困った顔をしていた男の、孫。

翔が「おめでとう」と言うと、健太は電話口で「お前のせいだぞ」と言った。怒っているのではなく、笑っていた。

「俺のせいじゃない」と翔は言った。

「嘘つくな」

「動いたのはお前だ」

「最初の一手はお前だろ」

翔は笑った。電話の向こうで健太も笑っていた。

あのパーティーから生まれたカップルは、健太と麻衣だけではなかった。あの夜、翔と龍が動いたのは一組だけだったが、あの場の空気が何かを後押ししたのか、翌月から翌年にかけて、仲間の中でいくつかの芽が出た。知らせを聞くたびに翔は、自分が何かしたとは思わなかった。ただ、煙を立てたら、どこかに本物の火があったのだ、と思った。

火のないところに煙を立てる。

それは嘘だった。でも嘘が場を作り、場が本物を引き出した。人間はそういう生き物なのかもしれない。少し背中を押されると、自分でも知らなかった本物が出てくる。



十二月になると、翔は毎年あの夜を思い出す。

渋谷の小さなビストロ。オレンジ色の灯り。満席のテーブルと、層を重ねた笑い声。コートのポケットの中のエアメール。三語。

I miss you.

ケイトは今ごろ、どこにいるだろう。

三十年前、遠距離の寂しさを埋めようとして、他人の恋に火をつけた。自分の孤独を燃料にして、他人を温めた。そういう冬だった。

おかしな話だと思う。でも、それが翔という人間のやり方だったのだろう。

庭の柿の木が、夕暮れの中に黒く浮かんでいた。

妻が台所で何か作っている音がした。玄関には歪んだ皿。居間には、子供たちが残していった玩具がまだ出しっぱなしになっている。

翔はソファに深く座って、目を閉じた。

あの夜の店の中が、まぶたの裏に浮かんだ。三十二人。笑い声。ワインのグラス。壁際の健太。カウンターの麻衣。龍の横顔。自分の手の中の煙草。

サンタクロースというのは、こういう気分なのかもしれない。

与えた本人は、もらわない。与えたことも、たいていは忘れられる。でも、どこかで誰かの家に灯りがついている。

それで十分だ、と翔は思った。

十分すぎるくらいだ。



〜エピローグ〜

その年のクリスマスイブ、健太から一通のメッセージが届いた。

「孫の名前、決まった。翔、って言うんだ」

翔は長いこと、その文字を眺めた。

それから、妻を呼んだ。

「ちょっと来い」

「どうしたの」

「何でもない。ちょっと来い」

妻が居間に入ってきて、翔の顔を見て、「泣いてるの」と言った。

「泣いてない」

「泣いてる」

翔は何も言わなかった。妻が隣に座った。

窓の外に、冬の夜があった。

どこか遠くで、クリスマスの鐘が鳴っていた。





〜あとがき〜

この物語の中で起きたことは、
とても小さな出来事です。

誰かが嘘をひとつついて、
誰かがほんの少し勇気を出した。

それだけです。

けれど振り返ってみると、
人の人生は、そういう些細なきっかけで
大きく変わっていくのかもしれません。

あの夜、もし誰も何も言わなかったら。
もし、ほんの一言がなかったら。

きっと、何も起きなかった。

でも実際には、何かが起きた。

その違いは、ほんのわずかです。

この物語を読み終えたあと、
もし思い出す人がいるなら。

もし、少しだけ動いてみようと思うなら。

それはきっと、この物語にとって
いちばん嬉しい続きです。



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〜あらすじ〜

十二月、東京。
誰もが誰かと過ごす夜。

それでも、動けない人たちがいた。

同じ仲間で集まりながら、
想いを抱えたまま、誰も一歩を踏み出さない——

その空気に、ひとりだけ耐えられなかった男がいた。

翔。

彼はクリスマスイブ、三十人のパーティーを仕掛ける。
そして、ひとつだけ“嘘”をついた。

「――あの人、あなたのこと見てたよ」

たったそれだけの一言が、
止まっていた時間を動かし始める。

偶然か、必然か。
嘘から始まった会話は、本物になるのか。

そして三十年後。
あの夜の選択が、静かに回収される。

これは、
火のないところに煙を立てた夜の、
小さくて、確かな奇跡の話。



これは

22の時

僕らが仕掛けた

本当の話です…    笑


知ることすらなかった人


— あなたの隣に、前の誰かがいた —


〜序章〜

世界には、誰も気づかない入れ替わりがある。
あなたの隣にも、かつて別の誰かがいた。

ある朝、コーヒーカップが二つ並んでいた食卓が、次の朝には一つになる。クローゼットの右半分を占めていた服が、ある日を境に消える。シャワーの後に曇った鏡に残る、見知らぬ人の息の跡。

そういう空白は、静かにやってくる。

そして静かに、埋まっていく。

去った人は知らない。自分がいた場所に、誰かが来たことを。

来た人は知らない。自分がいる場所に、誰かがいたことを。

ただ一人、神だけが見ている。

二人の女が、同じ男を挟んで、すれ違う風景を。




前半 彩の章——去っていく人

第一章 コーヒーと、雨の匂い

別れというものは、たいてい予告なしにやってくるわけではない。

坂本彩は、それを知っていた。知っていながら、見ないふりをしていた。

彼——宮本健一と付き合い始めて、三年と四ヶ月。最初の一年は、すべてが眩しかった。待ち合わせの駅の改札で、遠くから走ってくる彼の姿を見つけるたびに、胸の奥が締まるような感覚があった。あの感覚は、本物だった。今でも、そう思う。

だがいつからか——おそらく二年目の秋あたりから——何かが少しずつ、ずれ始めていた。

一緒にいるのに、遠い。

そういう感覚を、彩は何度か覚えた。たとえば、二人でテーブルを挟んで座っているのに、健一の視線がどこか遠くを向いている夜。たとえば、彩が何かを話しているのに、「うん、うん」と相槌だけが返ってくる夜。そういう夜が、少しずつ増えていった。

それでも彩は、待った。

待てとは申しません——と、誰かが言ってくれれば、楽になれたかもしれない。でも誰もそんなことは言ってくれない。だから彩は自分で、待つことを選んだ。

雨の降る土曜日だった。

健一のアパートのキッチンで、彩はコーヒーを淹れていた。二人分。豆から挽いて、ペーパーフィルターで丁寧に落とす。それが彩の習慣で、健一も最初は「うまい」と言って喜んでいた。

リビングから、健一の声がした。

「彩」

なんとなく、わかった。声の質が、いつもと違う。

コーヒーを持って入っていくと、健一はソファに座って、膝の上で手を組んでいた。目が、合わない。

「話がある」

彩はカップを二つ、テーブルに置いた。自分のカップを両手で包んで、座った。

「うん」

「ごめん」

窓の外で、雨が静かに降り続けていた。

 

第二章 振る側の痛み

健一は、長い時間をかけて話した。

好きじゃなくなったわけじゃない、でも、このままでいることが正直じゃない気がして、彩には申し訳なくて、自分でもよくわからないんだけど——

彩は聞きながら、健一の顔を見ていた。

泣きそうだ、と思った。健一が、泣きそうだった。

振る側にも痛みがある——彩はそのとき、初めてそれを本当の意味で理解した。健一の声は震えていた。言葉を選びながら、それでも傷つけてしまうことを恐れながら、話している。その様子が、かえって胸に刺さった。

「わかった」と彩は言った。

健一が顔を上げた。

「ごめん、彩」

「謝らないで」彩は言った。「謝られると、もっと辛い」

窓ガラスに、雨粒がぶつかる音がした。

彩はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。いつもより、苦く感じた。

「出会いの風景、覚えてる?」と彩は聞いた。

「え?」

「最初に会ったとき。友達の飲み会で、隣の席になったじゃない」

「……覚えてる」

「あのとき健一、私のグラスが空いてるのに気づいて、何も言わずに注いでくれたんだよね」

健一は何も言わなかった。

「あの瞬間が好きだった」彩は言った。「言葉じゃなくて、動作で気にかけてくれるひとだって、思ったから」

今もそういう人だ、と彩は思った。別れ話でも、言葉を丁寧に選んで、相手を傷つけないように話している。

だからこそ、もっと痛かった。

 

第三章 1番近くにいた人が、遠のく

帰り道、彩は傘を持っていなかった。

健一が「傘、持ってくか」と言った。彩は「いい」と言った。濡れて帰ることが、なんとなく、今の自分には似合っている気がした。

駅までの道を、一人で歩いた。

雨は細かくて、冷たかった。髪が湿って、コートの肩が暗く濡れた。

振り返りたい衝動が、何度かあった。健一のアパートの窓に、まだ電気がついているかどうか、確かめたかった。でも振り返らなかった。振り返っても、何も変わらないことを知っていたから。

昨日まで、世界で一番近くにいた人が、今日から一番遠くなる。

その理不尽さを、頭では理解できる。でも体の方が、まだついてこない。

改札を通るとき、彩は泣いた。声は出なかった。ただ、涙だけが出た。周りの人たちはそれぞれの夜に急いでいて、誰も気づかなかった。

プラットフォームで電車を待ちながら、彩は思った。

この痛みは、どのくらいで消えるだろう。

一週間か。一ヶ月か。それとも、もっと長いか。

答えを知っている人はいない。みんな、自分の痛みの中で、一人で数えるしかない。

電車が来た。

扉が開いて、彩は乗り込んだ。

窓の外を、雨に濡れた街が流れていった。

 

第四章 空になっていくもの

別れてから、一週間が過ぎた。

彩は普通に生活した。朝起きて、仕事に行き、夜帰って、眠る。泣くのは夜だけ、と自分に決めた。昼間に泣くと仕事にならないから。

健一のアパートに置いてきたものが、少しあった。歯ブラシ、化粧ポーチ、読みかけの文庫本。健一から「取りに来る?」とメッセージが来たが、彩は「コンビニの袋に入れて、玄関に出しておいて」と返した。取りに行けば、また顔を見ることになる。顔を見たら、また泣く自信があった。

袋を受け取ったのは、雨上がりの夕方だった。

健一はちゃんと、玄関の外に出しておいてくれた。袋の中には、歯ブラシと化粧ポーチと文庫本、それから——彩が忘れていた、小さなヘアゴムが一つ。

そのヘアゴムで、彩は泣いた。

こんなものまで、拾っておいてくれたのか、と思ったら。

二週間が過ぎた。

彩は、健一のスマートフォンの番号を削除した。SNSのフォローも外した。見えないようにした。見えると、確認したくなるから。

でも健一がどこかで生きていることは、変わらない。同じ街のどこかで、同じ空の下で。それが、たまらなくなる夜があった。

三週間が過ぎた。

彩は、コーヒーを一人分だけ淹れることに、少し慣れた。

それだけが、今の彩の小さな前進だった。

 

第五章 出会いの風景は、どこかに残る

一ヶ月が過ぎた頃、彩は久しぶりに友人と会った。

「大丈夫?」と友人の由香が聞いた。

「大丈夫」と彩は言った。嘘ではなかった。完全な本当でもなかったが。

「健一くんのこと、恨んでる?」

彩はしばらく考えた。

「恨んでない」

「なんで」

「振る側にも、痛みがあるから」彩は言った。「あの人も、ちゃんと苦しんで、あの話をしてた。それは本物だったと思う」

由香は黙って聞いていた。

「出会いの風景も、本物だったと思う」彩は続けた。「最初に会ったとき、グラスに気づいて注いでくれたこと。あの人の優しさは、本物だった。それが最後まで変わらなかったことが、かえって悲しいんだけど」

窓の外に、夕暮れが広がっていた。

「彩はさ」と由香が言った。「次の恋愛、できる?」

「できると思う」彩は言った。「いつかは」

「いつか、ね」

「うん。でも今はまだ、この痛みの中にいたい」

由香が少し驚いた顔をした。

「痛みの中に、いたい?」

「健一と過ごした時間が、本物だった証拠だから」彩は言った。「痛くなくなった瞬間に、全部が夢みたいになる気がして。それが怖い」

由香は何も言わなかった。代わりに、彩の手を、そっと握った。

夕暮れが、窓の外で深くなっていった。

 

第六章 彩の最後の日

三ヶ月が過ぎた。

彩はある朝、目が覚めたとき、健一のことをすぐに思い出さなかった。

起き上がって、コーヒーを淹れて、窓を開けて——そこで初めて、「そういえば」と思った。

その「そういえば」が来た日を、彩はずっと待っていた。痛みが薄れる日ではなく、痛みを思い出す前に一日が始まる日。それが来たとき、少しだけ前に進めた気がした。

窓の外には、街が広がっていた。

どこかで誰かが、今日も誰かと別れている。どこかで誰かが、今日も誰かと出会っている。そういう入れ替わりが、この街のあちこちで静かに起きている。

彩は知らなかった。

この同じ朝、宮本健一のアパートの近くに、一人の女が引っ越してきたことを。

名前を、澪という。

 

後半 澪の章——やってくる人

第七章 知ることすらなかった人

中村澪は、その街のことを何も知らなかった。

仕事の都合で引っ越してきたのは、秋の初めだった。段ボールを積み上げたアパートの部屋で、澪は窓を開けた。知らない街の、知らない空気が入ってきた。

隣の駅まで歩いて十分。スーパーが近くにある。コインランドリーも徒歩圏内。不動産屋が説明していた条件は、確かに揃っていた。でもそれ以上のことは、何もわからない。

この街に、どんな人が住んでいるか。

どんな空気が流れているか。

どんな別れが、少し前にここであったか——そんなことは、澪には知る由もなかった。

近所のコーヒーショップを見つけたのは、引っ越して三日目だった。

駅から少し外れた、小さな店。カウンター席が四つと、二人がけのテーブルが三つ。豆を選んで、一杯ずつ丁寧に淹れてくれる。澪はそういう店が好きだった。

カウンターに座って、エチオピアのシングルオリジンを頼んだ。

「よく来るんですか」と、隣に座っていた男が言った。

振り向くと、三十代前半ぐらい。地味なジャケット。少し疲れた目をしている。

「いえ、今日が初めてで」

「この辺、引っ越してきたんですか」

「三日前に」

男は少し驚いたような顔をして、「そうですか」と言った。

名前は、宮本健一といった。

 

第八章 空白の場所

健一と二度目に会ったのは、一週間後だった。

同じ店で、同じ時間に、偶然。

澪はカウンターの端に座っていて、健一が入ってきたとき、二人は同時に気づいた。健一が少し笑って、「また会いましたね」と言った。澪も笑った。

それから二人は、他愛のない話をした。仕事のこと、この街のおすすめの場所、どこのパン屋がうまいか——そういう話。

澪は、健一の中にある空白に、最初から気づいていた。

うまく言葉にはできないのだが、この人は何かを最近失った、という感じがした。目の奥に、まだ癒えていない傷のようなものがある。でも丁寧な人だ、とも思った。話を聞くとき、ちゃんとこちらを向く。

澪自身も、失ったものがあった。

前の街に、五年付き合った男がいた。別れたのは半年前。仕事の都合での引っ越しは事実だが、この街を選んだのは、前の街から遠ざかりたかったからでもある。

だから澪には、健一の空白が、少しわかった。

その空白の意味を、澪はまだ知らなかったけれど。

 

第九章 コーヒーの香りと、はじまり

三度目に会ったのは、澪から誘った。

「この辺、おすすめの店って他にありますか」とコーヒーショップで聞いたら、健一が「何店か知ってますよ」と言った。「今度、案内しましょうか」

澪は「ぜひ」と言った。

休日の午後、二人で街を歩いた。健一は知っている店をいくつか教えてくれた。古本屋、小さなギャラリー、夕方になると行列ができるベーカリー。

歩きながら、健一が言った。

「この街、住みやすいですよ。慣れたら」

「宮本さんは長いんですか、ここ」

「四年ぐらい」

「一人で?」

少し間があった。

「今は一人で」

澪は、それ以上聞かなかった。今は、という言葉の重さを、澪はちゃんと受け取った。

夕暮れの中を、二人で歩いた。健一の歩くペースは、澪に合わせてくれていた。それが自然で、澪は少し、胸の中が温かくなった。

出会いというものは、いつも静かにやってくる。

ドラマチックな演出もなく、予告もなく。ただ、ある日の午後、誰かの隣を歩いていて、気づいたらその人のことが少し気になっている——そういうふうに。

 

第十章 空いた場所に、収まるということ

二ヶ月が過ぎた。

澪と健一は、週に一度か二度、会うようになっていた。コーヒーを飲んで、街を歩いて、たまに夕食を食べた。付き合っているとは言っていなかった。でも澪の中では、何かが少しずつ育ち始めていた。

ある夜、健一のアパートで澪がコーヒーを淹れた。

豆を挽いて、ペーパーフィルターで落とす。健一が「うまいな」と言った。

澪はそのとき気づかなかった。健一がその言葉を言ったときの、一瞬の間を。

健一は思い出していた。同じキッチンで、同じようにコーヒーを淹れていた人のことを。雨の降る土曜日のことを。

でも健一は、何も言わなかった。

その痛みは、健一の中だけにある。澪には関係のないことだ——そう思った。澪には澪の過去があって、それは澪の中にある。お互いの傷を、お互いが静かに持ち寄って、それでも今ここにいる。

「澪さん」と健一は言った。

「うん」

「ここに来てくれてよかった。この街に」

澪はコーヒーカップを両手で包んで、健一の顔を見た。

「私も」と澪は言った。「よかったと思ってる」

窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。

二つのコーヒーカップが、テーブルの上に並んでいた。

 

第十一章 澪の知らない痛み

澪は知らない。

かつてこのアパートに、別の女がいたことを。

同じキッチンでコーヒーを淹れ、同じソファに座り、同じカップを両手で包んでいた人がいたことを。

その人の名前を、澪は知らない。顔も知らない。その別れがどのくらい痛かったか、二人のどちらがより傷ついたか、そういうことも何も知らない。

そして、彩もまた知らない。

自分がいた場所に、今、別の女がいることを。同じカップで、同じコーヒーの香りの中に、自分と同じように座っている人がいることを。

二人は出会わない。名前も知らない。交わることのない二つの人生が、ただ一人の男を介して、静かに隣り合っている。

男の数ほど女はいて、女の数ほど男もいる——誰かが言ったその言葉の意味を、健一は今少しだけ、理解しているかもしれない。

人は誰かを失って、誰かに出会う。その繰り返しの中で、少しずつ、生きていく。

それは残酷なことか。

あるいは——救いのことか。

 

終章 雨の交差点

雨が降っていた。

秋の終わりの、細い雨。

坂本彩は、傘を持って駅へ向かっていた。

別れてから、もうすぐ一年になる。痛みは消えていなかったが、薄くなっていた。日常の中に、ちゃんと溶け込める程度に。

今日は由香と会う約束がある。久しぶりに、あの頃よく行っていた駅の近くのカフェで。

彩は傘を開いて、歩き出した。

——同じ時刻、少し離れた場所で。

中村澪は、コーヒーショップから出るところだった。

健一を待たせている。今日は二人で映画を見に行く予定で、待ち合わせは駅の前だ。

澪は傘を開いて、駅に向かった。

二人は、同じ交差点に差し掛かった。

信号が赤だった。

彩は信号の手前で立ち止まった。傘の雫が、アスファルトに落ちた。

澪も、その隣に立った。

二人は、互いを見なかった。それぞれの傘の下で、それぞれの雨音を聞いていた。

信号が、青になった。

彩は右に渡った。澪は左に曲がった。

二人の背中が、雨の中に遠ざかった。

それだけだった。

ただそれだけの、一瞬だった。

二人は知らない。今この瞬間、隣に立っていたのが誰かを。どんな痛みを持っていて、どんな場所から来て、どんな場所へ向かっているのかを。

知ることすらなかった。
それでも、確かに繋がっていた。

雨は降り続けた。

街は静かに、濡れていった。

そしてどこかで誰かが、また誰かと出会い、また誰かと別れ——この夜も、世界は静かに、回り続けていた。


〜あとがき〜

振る側にも、振られる側と同じだけの痛みが残る。

その言葉が、この小説の始まりだった。

去っていく人がいる。やってくる人がいる。その二人は、決して出会わない。でも同じ空の下で、同じ雨に濡れながら、それぞれの傷を抱えて歩いている。

恋愛とは、入れ替わりの繰り返しなのかもしれない。誰かの空白に、誰かが入る。その人がまた空白を作って、また誰かが入る。その連鎖の中で、人は傷つきながら、少しずつ深くなっていく。

彩のことを書きながら、痛かった。

澪のことを書きながら、温かかった。

健一のことを書きながら、その両方を感じた。

諦めろとは、申せない。

そう思いながら、この物語を閉じる。

ー了ー



Kindle


アマゾンキンドルも60冊にもなりました

お時間ありましたら覗いてみて下さい




〜おまけ〜

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

別れ際の風景

待てとは 申しません
耐えろとも 申しません
でも
諦めろとは…   申せません

翳りが出始めた恋愛には
振る側にも
振られる側と同じだけの痛みは
きっと残るはずで

その
別れの風景の中には
出会いの風景も
きっと一瞬はあったはずで
あったと思いたいわけで

その日まで
1番近くにいたはずの人が
その瞬間から
1番遠くに遠のく場面の中で涙し

そして
その日
知ることすらなかった人が
1番近くの場所へと
その空いた場所へと収まるわけで

そんなことの繰り返しの中で
男の数ほど 女はいて
女の数ほど 男もいると

僕らは 気付いてきたわけで…




〜あらすじ〜

あなたの隣にいる人には、
“前の誰か”がいたかもしれない。

彼と別れた女・彩。
そのあとに現れた女・澪。

二人は出会わない。
名前も知らない。

それでも同じ場所で、
同じ人を通して、人生が交差している。

知ることのなかった、もう一人の存在。

静かに胸に残る、
すれ違いの物語。


来週 Kindle予定


夢物語
ー眼鏡を外す、その直前で目が覚める —




第一章 波と麻雀と単位のあいだで

湘南の海は、今日もうまそうにうねっていた。
——単位なんて、どうでもよくなるくらいに。

田村浩二は、大学の時間割表を自転車のカゴに突っ込んだまま、サーフボードを抱えて砂浜を歩いていた。午前十時。本来ならば「現代社会論」の講義が始まっている時間である。

「うねりが来てるのに、教室に座ってられるか」

それが浩二の、三年間変わらぬ哲学だった。

東海道線の各駅停車で四十分、神奈川県の海沿いにあるT大学に入学したのは三年前。合格通知を受け取った夜、父親が「よくやった」と言いながら出してくれたビールの缶を、浩二はまだ覚えている。あのときは確かに、ちゃんと勉強するつもりだったのだ。

だが大学というのは、恐ろしい場所だった。

サークルの先輩に連れられて初めて海に入ったのが四月。五月には麻雀を覚え、六月にはクラブのバイトを始め、夏には中古のバイクを手に入れた。勉強する隙間が、物理的に存在しなかった。

三年生になった今、浩二の取得単位数は、同期の平均をおそらく四十単位ほど下回っていた。

「コウジさん、波来てますよ!」

サークルの後輩、大輔が沖から手を振っている。浩二はボードを抱えて走った。嫌なことは、とりあえず海に入れば忘れられる。

忘れられるのだが。

秋になれば、また現実がやってくる。


第二章 ジョニ黒とオールドパーを持って

十一月の末、浩二はついに腹を括った。

事の発端は担任教員——といっても大学にそんな制度はないのだが、なんとなく相談役になってくれている事務局の田中さんからの一言だった。

「田村くん、このままだと来年も留年だよ」

来年も、ということは今年すでに留年しているわけで、それは浩二も知っていた。問題は「来年も」という部分だ。つまり二年連続留年コースが確定しかけているということである。

「単位、足りないのいくつですか」

「えーと……」田中さんはファイルをめくった。「必修が四つ。選択が六つ。合計十単位」

十単位。

浩二は頭の中でざっと計算した。残りの学期で取れる単位の上限を考えると、普通に授業を受けても間に合わない。

そこで浩二が思いついたのが、レポートだ。担当教員に直接交渉して、特別レポートで単位を認定してもらう。そういう抜け道が、ないわけでもない——と先輩から聞いたことがあった。

問題は、手土産である。

浩二はバイト先のクラブのマスターに相談した。マスターは苦笑しながら、棚の奥からボトルを二本出してきた。ジョニーウォーカー黒ラベルと、オールドパー。どちらも客が飲みきらずに置いていったボトルキープだが、もう三ヶ月以上誰も引き取りに来ていない。

「持っていけ。ただし次のシフト、土曜の深夜も入れ」

「わかりました」

浩二はスーツを引っ張り出した。袖が少し短くなっていたが、まあいい。ウイスキー二本を紙袋に入れ、教員棟に向かった。十二月の朝、キャンパスは銀杏の葉が散り積もって、妙に荘厳な空気が漂っていた。


第三章 教授室の扉を、ノックする

最初は、経済学の村上教授だった。

村上教授はドアを開けるなり、浩二の顔と紙袋を交互に見て、「なんだ」と言った。七十近い、白髪の老教授である。

「あの、田村と申します。三年の……」

「知らん」

「現代経済論、取っておりまして」

「出席日数は?」

「……三回です」

「十五回中?」

「はい」

沈黙。村上教授は眼鏡を押し上げ、「帰れ」と言った。

ドアが閉まった。

浩二は廊下に立ち尽くした。紙袋の中でウイスキーが、かすかに揺れた。

次は社会学の田所教授。こちらは話を聞いてはくれたが、「うちの学部のシステム上、特別措置は一切認められておりましてね」と丁寧に断られた。丁寧な分だけ、かえってこたえた。

廊下のベンチに腰を下ろし、浩二はため息をついた。紙袋を膝に乗せ、空を見上げる。曇り空だった。波は、今日もいいうねりだったろうに。

「ダメか……」

残るはあと四人。

浩二は立ち上がり、次のフロアへと向かった。


第四章 NFLと、人生と

三人目は、英語の必修を担当するスミス教授だった。アメリカ人で、五十がらみ、体格がいい。

ドアをノックすると、「カモン」という声がした。

スミス教授は机の前で、ノートパソコンを開いていた。画面には、見覚えのあるフォーメーション図が映っている。

「あ」と浩二は言った。「NFLですか」

スミス教授が顔を上げた。「ユー・ウォッチ・NFL?」

「はい。チーフスのファンです」

スミス教授の顔が、ぱっと明るくなった。

それから二十分、ふたりはNFLの話をした。今季のAFCの展望、クォーターバックの話、スーパーボウルの予想。スミス教授は身を乗り出し、浩二も負けじと意見を言った。気がつけば、単位の話など一度もしていなかった。

「ところで」とスミス教授は言った。「ユー、ホワット・ドゥー・ユー・ウォント?」

浩二は正直に話した。英語の単位が足りないこと、レポートで補えないかということ。スミス教授はしばらく考えてから、「オーケー」と言った。

「英語でNFLの分析レポート、三千ワード。それで認めよう」

「書きます!」

浩二は紙袋を差し出した。スミス教授は笑って「ノー・サンキュー」と断った。「レポートで十分だ」

廊下に出た浩二は、思わずガッツポーズをした。ウイスキーの紙袋を抱えたまま。


第五章 フン、という顔の女教授

次の相手は、難関だった。

日本文学の桐島教授、五十代前半。廊下ですれ違うと、いつも鼻先を少し上げて、「フン」という空気をまとっている。学生の間では「女王様」と呼ばれていた。浩二も何度かすれ違ったことがあるが、一度として話しかけようと思ったことはなかった。

だが残る選択肢は少ない。

浩二はドアの前で深呼吸し、ノックした。

「はい」という声は、予想通り涼しかった。

部屋に入ると、桐島教授は窓際のデスクで何かを読んでいた。眼鏡をかけ、きっちりとしたジャケット姿。顔を上げた瞬間の表情は、やはり「フン」だった。

「田村と申します。日本近代文学を履修しておりまして——」

「出席は?」

「……五回です」

「十五回中」

「はい」

桐島教授は本を閉じ、浩二をまじまじと見た。浩二は、帰れと言われると思った。

ところが。

教授は静かに立ち上がり、浩二に近づいてきた。

「どのくらい足りないの?」

声が、さっきより少しやわらかくなっている。

浩二は驚きながら、カバンから書類を出した。担当科目の単位数、今の取得状況、必要な補填数。

桐島教授は書類を受け取り、一枚一枚丁寧に見た。そして、

「あらまあ」と言った。「こんなに?」

その声は、もはや「女王様」のものではなかった。なんというか——困ったような、呆れたような、それでいてどこかおかしそうな、そういう声だった。

微笑んでいた。


第六章 取り引き

「じゃあね」と桐島教授は言った。「取り引きしましょうか」

浩二は固まった。

取り引き。

その言葉の意味を、浩二の脳が一生懸命処理しようとした。だが処理しきれなかった。

桐島教授は、上着を脱いだ。

そして、眼鏡を外した。

浩二は息を飲んだ。

眼鏡をかけ、きっちりとしたジャケットで武装していた人物が、その二つを取り去ると——びっくりするほど、きれいだった。髪が肩に落ち、目元が穏やかに細くなって、口元には意地悪そうな笑みがある。四十代か五十代か、年齢がうまく読めない。ただ、間違いなく、美しかった。

「ほら、わかるでしょ?」

桐島教授は言いながら、浩二の手を取った。

浩二は、何も言えなかった。脳が完全に機能停止していた。

「取り引き、ってね」と教授は続けた。手が、浩二の手を包む。「あなたに書いてもらいたいものがあるの」

「……書く?」

「そう。レポートじゃなくて、小説。短いものでいいわ。あなた、文章が書けそうな顔をしてる」

浩二は自分の顔が文章を書けそうかどうか、まったく判断がつかなかった。

「私ね、学生の書いた小説を集めてるの。論文じゃなくて、物語。あなたが今まで経験したこと——波乗りでも麻雀でも、なんでもいい——それを、正直に書いてきなさい」

教授の頬が、ほんの少し浩二の方に寄った。

「書いてきてくれたら、単位をあげる。ちゃんと必要な分だけ」

「……それだけですか?」

浩二は、少し残念そうに聞いてしまった。

桐島教授は、声を出して笑った。品のある、でも本物の笑い声だった。

「それだけよ」と言って、手を離した。「何を期待してたの?」

浩二は真っ赤になった。


第七章 波と文章と、卒業のあいだで

浩二は書いた。

生まれて初めて、真剣に文章を書いた。

波乗りのこと。ボードが初めて波に乗った瞬間の、あの浮遊感。麻雀で徹夜した朝、負けたくせになぜか清々しかった理由。バイクで夜中の国道を走ったときの、風の冷たさと自由の感触。そしてクラブのバイト、マスターの背中、ジョニ黒とオールドパーを持って教授室を回った、あの滑稽な朝のこと。

書いていると、おかしくなってきた。こんなに無駄な三年間を過ごしてきたのかと思うと、なぜか笑えた。いや、無駄ではなかったかもしれない。ただ、教室の外で学んでいたのかもしれない。

四十枚の原稿を、浩二は桐島教授の部屋に持っていった。

教授はその場で読んだ。浩二は部屋の隅に座って、じっと待った。

「……ここ」と教授は途中で言った。「スミス先生とNFLの話をするくだり。もう少し、会話を足しなさい。面白いから」

「はい」

「あとここ。波の描写。『うまそうにうねっていた』って書いてるけど——これ、すごくいい表現ね」

浩二は少し照れた。

最後まで読んだ桐島教授は、原稿をデスクに置き、眼鏡を外した。

——また外した。

浩二は思わず姿勢を正した。

「合格」と教授は言った。「単位、出しましょう」

「ありがとうございます」

「あなたね」教授は言った。「文章、続けなさい。波乗りも麻雀も、素材として悪くないから」

浩二は部屋を出た。廊下の窓から、海の方角の空が見えた。雲が切れて、冬の青空が覗いている。

なんだか、少し、足が軽くなっていた。


終章 夢の続きは、どこへ行った

それから四十年が過ぎた。

田村浩二は今、コピーライターをやっている。会社を定年退職してから、小さな事務所を構えて、細々と続けている。妻と子供と、平凡な日々だ。

今も時々、夢を見る。

単位が足りない夢。教授室の廊下を、ウイスキーの紙袋を持って歩く夢。そして——桐島教授が眼鏡を外す、その直前で目が覚める夢。

目が覚めるたびに、浩二は思う。

あの人は今、どうしているだろう。

桐島教授のことは、卒業してから一度も会っていない。名前で検索すると、いくつか論文がヒットする。今も大学で教えているらしい。それだけはわかった。

もう一つ、浩二が長年探しているものがある。

子供の頃に読んだ漫画だ。眼鏡をかけた地味な女の子が、眼鏡を外すととびきりきれいな顔をしている——そんな話だったと思う。タイトルが思い出せない。作者も出版社も。雑誌のどのあたりに載っていたかすら、定かでない。

何十年も探しているが、見つからない。

もしかしたら、と浩二はたまに思う。

あれも夢だったのかもしれない。子供の頃に見た、誰かが眼鏡を外す夢。それがずっと頭の中に残って、桐島教授の記憶と混ざって——

夢と現実の境目なんて、四十年も経てばわからなくなる。

だが一つだけ、確かなことがある。

あの冬の朝、ウイスキーを二本抱えて廊下を歩いた二十歳の自分は、確かに存在した。波と麻雀とバイトと、少しの後悔と、思いがけない出会いの中に——確かに、生きていた。

あの朝の空気の冷たさや、紙袋の重さは、もう思い出せない。

けれど、あのとき胸の奥で何かが少しだけ変わったことだけは、いまでもはっきりと覚えている。

それが何だったのかは、うまく言葉にできない。

たぶん——

ああいうものは、言葉にしてしまった瞬間に、少しだけ嘘になるのだろう。

今夜も、きっと夢を見る。

眼鏡を外す、その瞬間の手前で、目が覚める夢を。

残念だなあ、と浩二は思いながら。

でも——

あの続きを知らないままでいるのも、悪くない。

そう思えるようになったのは、いつからだっただろう。


あの人が眼鏡を外したあと、
本当はどんな顔で笑ったのか。

それだけは、いまだに知らない。





ーあとがきー

人生には、最後までいかない話がある。

あと一歩のところで終わるからこそ、
ずっと残り続ける記憶がある。

この物語は、そんな「途中で目が覚めてしまった夢」の話です。


アマゾン キンドル




あの頃
憧れたバイク乗りは
いつもそこにいて

年に1度
ご挨拶に訪れる…




年に1度も
もう23回ともなり
今年はわずかに遅れた
山の古寺

おそなりましたと
一礼し
山の上からの風景を眺めれば
23年前と変わらずそこにある

変わったのは
いつの間にか
ロン毛さんより
ひと回りも齢を越したこの身体と

周辺に増えた
墓石の数



桜はその姿を終えて
周囲の緑は
チラチラと葉を付け始め

春は
もうすぐ夏に
その場所を奪われる

小鳥たちは
ここぞとばかり
声を張り上げ
パートナーを探す

墓誌をと見れば
改めて
53だったかと
身震いするが
もう何も届かない

ここ数年
あと何度? と思うばかり

覚えていた者が
出掛けられる立場ならばで良い

花はきっとあるだろう
ならば
酒好きだったオヤジさんには
花より団子とばかし
酒を持参するが

それでも
もう
あの頃の仲間たちの
足跡はない

仕方なくも
そんなことなのだろう

人間は2度死ぬという
1度目は肉体の死
2度目は忘れられた死

ならば
その2度目は
僕が食い止めようか…



遠方ゆえ

今年は予定していた

草津からの帰りに回り込もうかと思い

わずかに遅れた墓参


そこから

自宅のオカミさんにと寄り込めば

1年分の長話となり

時間の経つ

あまりの早さに

また振り返るばかり…


Kindle 予定



桐の花
——優しい男は、詩人に勝てない——

〜まえがき〜

人には、ときどき
どうしても敵わないものがあります。
それが才能なのか、過去なのか、
あるいは言葉なのかは分かりません。
これは、桐の花が咲くころに起きた、
少し間の悪い恋の話です。




今朝は
北原白秋と
女を取り合って
負けた夢で
飛び起きた…


一章 夢の証人たち

 目が覚めたとき、田中悟の心臓は、理由もなく全力疾走していた。

 「……白秋」

 六畳一間。ロフト付き。家賃七万二千円。駅から徒歩十二分(不動産屋は十分と言い張っていた)。
 そこにいたのは田中と、消えかけた夢の残りだけだった。

 夢の中に、庭があった。
 薄紫の光に満ちた庭。桐の花が咲いていた。

 そして——橋本さんがいた。
 営業二課の橋本さん。田中が密かに想っている人。

 彼女は黒いスーツではなく、薄い着物を着ていた。
 大正文学の挿絵から抜け出してきたような姿だった。

 田中が近づこうとした、そのとき。

 白い着物。ぼさぼさの髪。手に詩集。
 迷いのない目。

 北原白秋が現れた。

 白秋は田中を一瞥した。
 「君は?」と言われた気がした。

 田中は名刺を出そうとしたが、夢の中では名刺は存在しなかった。

 白秋は橋本さんに向き直り、詩を読んだ。

 意味はよく分からなかった。
 だが、橋本さんは笑った。
 ——見たことのない笑顔で。

 田中は焦って言った。

 「ぼくも詩が書けます」

 白秋が振り向く。

 「ほう」

 田中は必死に考えた。

 「……春が来た、春が来た、どこに来た」

 沈黙。

 白秋が言った。

 「それは唱歌だ」

 橋本さんは、少し困ったように笑った。

 白秋は自然な動作で、橋本さんの手を取った。
 あまりにも自然で、田中は何も言えなかった。

 二人は桐の木の下へ歩いていった。

 田中は、ただ立っていた。
 何も持っていない人間の立ち方で。

 そこで、目が覚めた。



二章 図書館という戦場

 その日一日、田中は白秋のことを考え続けた。

 会議中も。
 カレーを食べながらも。
Excelを埋めながらも。

 「田中くん、聞いてる?」

 「はい。リリースは来月十八日です」

 「十五日だ」

 「……白秋」

 「何?」

 「すみません、独り言です」

 退社後、田中は図書館に向かった。
 敵を知るためだった。
 あるいは、自分が何も持っていないことを確認するためかもしれなかった。

 詩集を開く。

 知らない言葉。
 知らない温度。
 知らない匂い。

 「これは……強いな」

 思わず声が出た。

 仕様書とは、まったく違う言語だった。

 田中は手帳を取り出し、書いてみた。

 フォークが回る
 カルボナーラの渦の中に
 橋本さんの指が白い

 ……悪くない気がした。
 少なくとも、唱歌ではない。



三章 橋本さんの秘密

 橋本さんが文学好きだと知ったのは、偶然だった。

 給湯室で見たマグカップ。
 「BUNDAN」と書かれていた。

 「それ、文壇カフェのですか」

 橋本さんが振り向く。

 「知ってるの?」

 「……少しだけ」

 彼女は嬉しそうに笑った。

 「文学の話ができる人、あんまりいなくてさ。
 田中くん、本読む?」

 田中は言った。

 「詩を、少し」

 「誰の?」

 「……北原白秋」

 その瞬間、橋本さんの目が変わった。

 「白秋、いいよね。危ないのに綺麗で。
 ああいう言葉を書ける人って、ちょっと怖いけど……惹かれる」

 田中は黙って聞いていた。

 田中くんって、ほんと安心するんだよね。
一緒にいて、変に気をつかわなくていいし。

 でも、たまにさ。
そういうのと別のところで、ぐらっとくることってあるじゃない。


 その言葉は柔らかかった。
 だからこそ、よく刺さった。

 「今度、文壇カフェ行く?」

 田中は、少し遅れてうなずいた。



四章 桐の花の下で

 文壇カフェの窓から、公園が見えた。
 桐の木が一本、立っていた。
 薄紫の花が揺れていた。

 夢と同じだった。

 白秋の写真の前で立ち止まる田中に、橋本さんが言った。

 「知り合い?」

 「……一度、負けたことがあります」

 橋本さんは笑った。

 「詩人みたい」

 二人は座り、コーヒーを飲みながら白秋の話をした。

 橋本さんは楽しそうだった。
 田中は、それを見ていた。

 「田中くんって、安心するね。
 一緒にいて疲れない」

 少し間があって、

 「でもさ、言葉で揺さぶられる感じって、特別なんだよね」

 桐の花が揺れた。

 田中は、何も言わなかった。



五章 詩を書く男

 その夜、田中は詩を書いた。

 桐の花の紫が
 窓から差し込んで
 君の横顔を少し遠くした

 前より、少しだけ良くなっている気がした。
 勝てるかどうかは分からなかった。
ただ、本当にそう見えたのだった。

 電気を消し、目を閉じる。

 夢の庭が浮かぶ。

 もしまた会ったら——
 たぶん、また負ける。

 それでもいい、と思った。



エピローグ

 翌朝。

 田中はまた夢を見た。

 桐の庭。
 白秋。
 橋本さん。

 白秋が詩を読む。
 田中も読む。

 橋本さんは、どちらにも微笑んだ。

 目が覚めた。

 心臓は静かだった。

 六時十七分。
 月曜日の朝。

 田中は手帳を開き、書いた。


今朝は
北原白秋と
引き分けた夢で
すっきり起きた


 白秋には勝てない。
 たぶん、これからも。

 それでも——
 今日も橋本さんに会える。

 それだけで、
 負けじゃないことにしている。

ー了ー




〜あとがき〜

桐の花は、静かに咲いて、静かに散ります。
勝ち負けでは言えない気持ちも、
たぶんそれに少し似ています。
この物語が、どこかに残ってくれたら嬉しいです。



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草津へと来れば
夜は落語会へと出掛け

帰り道
その噺家たちと一緒になる


温泉らくご


それは
宿が同じだからで
しかも
あちらが2階で
こちらが3階って
それも
真上真下な仲

ならば
時間ある? なんて誘い

こちらの部屋で
一杯



昨晩もまたそれで
21時半に戻り
今朝
5時半まで


あーでもない
こーでもない と
8時間もの 落語談義

おかげで
ここへ来ると
徹夜となり
翌日 何も出来なくなる 笑



アファンの森


時間あらば
黒姫まで出掛け
始まったニックさんの記念展かと
思っていたけれど…

いよいよ始まる
ゴールデンウィーク



その直前ゆえ
ここは今
ガラガラ状態

明日にはきっと
大渋滞となるだろう

さあ
帰ろう…

先日の真打ち昇進のパーティーで
賑わった仲良しの噺家さんも
いよいよ
ここ草津温泉らくごも最終回となり

今週末
5月1日から
真打ち披露興行が始まる




そう
ここもまた
二つ目さんだけの落語会で
真打ちともなれば
卒業せねばならない

数年 ここの番頭となり
若手の顔付けをして来たから
きっと寂しさもあろう

その最後を見届けねばと
ひとり てくてくとやって来た

草津温泉らくご



彼らの宿は
僕の部屋の真下で
時間あらば 一杯なんて

そんなことも
これで終わりとなる

真打ちともなれば
師匠と呼ばねばならず
それもまた
最終章となり

分かっちゃいるが
なんだか不思議な感覚に
襲われている

これで長い修行期間を終え
いよいよ
ここからが本番だ!



昨年末
突然 その師匠を失い
これもまた
独り立ちとなるタイミング

まさか
人間国宝には難しいだろうが
その道の
新作の
名人と呼ばれる日を
楽しみにしてみる今日

僕はそれを
見届けられるだろうか? なんて
苦笑いしながら
期待などしてみる

ならばいっそ早い内に
弟子を取って
次の世代を育ててくれたならば

僕もまたそこから
再スタートしたいと
思いながら…



さて
急ぎ足でやって来た草津は
なんと8℃の寒さ

それでも
桜はとても綺麗に
咲き誇っている



次々と入門して来る
若手たちの中で
また
僕の周波数に合うどなたかを
探す旅が始まったようだ

ところで
次の番頭は
どなたかな?…


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今週 アップ予定から外れたものを…



タイムマシンにおねがい
— あの夜、声をかけなかった —


〜プロローグ〜

 朝の光が薄く差し込む時刻、坂本誠一は毎朝同じ夢を見た。
 夢の中では、いつも走っている。
 線路沿いの細い道を、息を切らして走っている。誰かに向かって叫んでいる。声は出ているはずなのに、届かない。届く前に、朝が来る。
 目が覚めると、隣で白い塊がもぞもぞと動く。ムク、と名付けた柴犬の雑種で、もう十歳になる。
 「また夢を見た」
 誠一がそう言うと、ムクは一度だけ鼻を鳴らし、また目を閉じた。まるで「知ってる」とでも言うように。

*  *  *

 誠一が五十四歳になった秋のことだった。
 退職まであと六年。妻の幸子とは二十年連れ添い、子供はいない。静かな、どこにでもある夫婦の暮らし。
 だが誠一の胸の中には、七年間、消えない何かがくすぶり続けていた。




第一章

線路沿いの花

 毎朝六時、誠一はムクを連れて散歩に出る。
 コースは決まっている。住宅街の路地を抜け、小さな公園を一周し、線路沿いの道を歩いて帰る。四十分ほどの行程だ。
 問題は、その線路沿いの道にあった。

 道の端、ガードレールの根元に、いつも花束が置いてある。
 最初に気づいたのは七年前の冬だった。誠一がこの町に引っ越してきた翌月のことだ。黄色い菊の花束が、まだ新しい状態で置かれていた。
 誰かが死んだのだ、とすぐにわかった。
 こういう場所が、全国のあちこちにある。誠一はそれを知っていた。いや、それ以上のことを知っていた。

 花束は、季節ごとに変わった。
 春にはチューリップや菜の花。夏にはひまわり。秋には彼岸花の代わりなのか、オレンジ色のガーベラ。冬には白い小菊。
 一度だけ、誰が替えているのかを見てしまったことがある。
 早朝五時半、まだ暗い中を、六十代と思しき女性が静かに花を替えていた。セロハンを丁寧に取り除き、古い花を袋に入れ、新しい花を立てかけ、手を合わせる。その動作のひとつひとつが、まるで儀式のようだった。
 誠一はそっと引き返した。見てはいけないものを見てしまった気がした。

*  *  *

 その日以来、誠一は毎朝手を合わせるようになった。
 「すまん」
 声には出さない。心の中で、ただそう言う。
 ムクは誠一が立ち止まるたびに振り返り、何かを確かめるように鼻をひくひくさせる。それから、また歩き出すのを待つ。
 七年間、毎日、それが続いた。

 ある朝、誠一は花束の前に小さなノートが置いてあるのに気づいた。
 開いてみると、鉛筆でこう書いてあった。
     お花、ありがとうございます。涼太、見てるよ。
 日付は昨日だった。
 誠一は急いでノートを閉じ、元の場所に戻した。胸の奥が、熱くなった。


第二章

涼太のこと

 坂本誠一が中学校の理科教師だったのは、もう二十年以上前のことだ。
 今は市役所の総務課に籍を置いている。教師を辞めたのには理由がある。しかし、その理由を誠一は誰にも話したことがなかった。妻の幸子にも。

 教師時代、誠一のクラスに田中涼太という生徒がいた。
 色白で、やせていて、いつも教室の隅に座っていた。成績は悪くない。むしろ理科は得意で、誠一の授業では一番最初に手を挙げることもあった。
 だが、休み時間になると、涼太はいつも一人だった。
 誠一は気づいていた。クラスの雰囲気が、何か涼太にとって居心地の悪いものになっていることを。廊下ですれ違う時、涼太の目が何かを訴えていることを。
 気づいていたのに、誠一は何もしなかった。

 「先生、最近涼太くんのことが気になって」
 同僚の女性教師がそう言ったのは、十一月の終わりだった。
 「うーん、そうだな。様子は見てるけど」
 誠一はそう答えた。様子を見ている。その言葉が、どれほど空虚だったか。
 あの頃の誠一は、学校内の雑務に追われ、保護者からのクレームに疲弊し、管理職との軋轢にも悩んでいた。涼太のことは、頭の中の「要注意リスト」に入ってはいたが、それ以上にはならなかった。

 十二月の初旬、涼太は学校に来なくなった。
 不登校の届けが出て、一週間が経った。誠一は家庭訪問の予定を立てた。来週、来週と思っているうちに、その週の金曜日が来た。
 その夜、電話が鳴った。
 田中涼太が、線路沿いの道で亡くなったという知らせだった。
 十四歳だった。

*  *  *

 葬儀に参列した誠一は、涼太の母親・田中久子の顔を直視できなかった。
 久子は泣いていなかった。泣き尽くした後の顔をしていた。白い頬に、光の粒のようなものだけが残っていた。
 誠一は香典を渡し、頭を下げた。何か言おうとした。しかし言葉は出てこなかった。
 ただ「申し訳ありません」とだけ言った。
 久子は小さく頷いた。それだけだった。
 誠一はその日、教師を辞めることを決意した。


第三章

ムクの言葉

 ムクを拾ったのは、退職から三年後、誠一が四十歳の時だった。
 雨の日、会社帰りに段ボール箱に入っていた子犬を見つけた。白に茶色の斑点模様、まだ目もはっきりしていない小さな命。
 「どうする?」と幸子に電話すると、「連れておいで」という返事が来た。
 それがムクとの十四年の始まりだった。

 ムクは不思議な犬だった。
 吠えることがほとんどない。誠一が落ち込んでいる時は、そっと膝に顎を乗せてくる。嬉しい時は、しっぽだけで表現する。悲しい時は、遠くを見る。
 そして、朝の散歩で線路沿いの花束の前に来ると、必ず足を止めた。
 誠一が手を合わせる間、ムクも静かに座って待っている。まるで一緒に祈っているようだった。
 「お前には見えるのか、涼太が」
 そう聞くと、ムクは一度だけ誠一を見た。その目が何を言っているのか、誠一にはわからなかった。だが、何かを言っていることは確かだった。

*  *  *

 誠一はある夜、ムクに話しかけてみた。
 「なあムク、俺はどうすればよかったと思う?あの時、もっと早く動いていれば」
 ムクは誠一の膝に頭を乗せ、大きなため息をついた。
 「そうだよな。もう過ぎたことだよな」
 ムクはしっぽを少し動かした。
 誠一はそれを「そうじゃない」という意味に受け取った。根拠はない。ただ、十年以上一緒に暮らしてきた直感だ。
 「じゃあ、何だ」
 ムクは立ち上がり、玄関の方を向いた。
 「散歩か?今夜は遅いぞ」
 ムクは動かない。ただ、玄関を見ている。
 誠一はしばらく考えてから、リードを手に取った。

 夜の線路沿いの道は、昼間とは別の顔を持っていた。
 街灯の黄色い光の中に、花束の白い小菊が浮かんでいた。
 ムクはその前で止まり、花束を鼻でそっと嗅いだ。それから誠一を見た。
 「わかった。俺が来ればよかったんだな、夜に」
 涼太は夜、ここを歩いていた。もし誠一がその夜ここを通っていたら、何かが変わっていたかもしれない。
 もちろん、そんなことは不可能だ。誠一は涼太があの夜ここを歩くことを知らなかった。知っていれば、走って止めに行った。
 「でも、俺は知ることができたはずだ」
 ムクが一度、小さく鳴いた。
 「ワン」
 それだけだった。しかし誠一には、それが「そうだ」に聞こえた。


第四章

久子との再会

 それから一ヶ月後、誠一は花束の前に再び久子の姿を見た。
 今度は逃げなかった。
 久子は誠一に気づき、驚いた顔をした。しかしすぐに、静かな表情に戻った。
 「坂本先生」
 「田中さん。毎月、ここに来ているんですね」
 久子は頷いた。
 「月命日なんです。もう七年になりますが、やめられなくて」
 「そうですか」
 誠一は何も言えなかった。ムクが久子の足元に近づき、鼻を寄せた。久子は少し驚いてから、ゆっくりとムクの頭を撫でた。
 「可愛い子ね」
 「ムクといいます。もう十歳で」
 「そう。ずっと一緒なんですね」

 二人はしばらく、その場に立っていた。
 言葉は少なかった。しかし、それでよかった。
 誠一は、七年間胸の中にしまっていたことをようやく口にした。
 「涼太くんのこと、気づいていました。でも、動けなかった。ずっとそれを悔やんでいます」
 久子は誠一を見た。責める目ではなかった。ただ、静かな目だった。
 「先生だけじゃないと思います。涼太の周りにいた人、みんなが同じことを思っている気がします」
 「それが、また辛くて」
 「そうですね」
 久子は花束を整え直し、手を合わせた。誠一も横で手を合わせた。
 ムクも座って、二人の隣で静かにしていた。

*  *  *

 その帰り道、誠一はムクに言った。
 「お前が背中を押してくれたな、先月の夜」
 ムクはしっぽを振った。
 「ありがとう」
 言葉が、少し軽くなった気がした。七年分のすべてではないが、何かが少し、解けた。


第五章

タイムマシンの夢

 誠一はタイムマシンというものをずっと考えてきた。
 子供の頃から、SFが好きだった。理科教師になったのも、もともとは宇宙や物理の不思議に魅せられたからだ。
 タイムマシンは理論上、不可能ではない、という説がある。アインシュタインの相対性理論は、時間が絶対的ではないことを示している。ワームホール、時空のゆがみ、光速に近い速度での旅……。
 しかし現実には、誰も作れていない。
 「人類がまだ辿り着けないものが二つある」と、誠一はある夜ムクに語りかけた。「犬との会話と、タイムマシンだ」
 ムクは耳をぴんと立てた。
 「でもな、俺はもうひとつの方は半分解決してるんじゃないかと思ってる」
 ムクはしっぽを振った。
 「お前が何を言いたいか、大体わかるからな」
 ムクは誠一の手を鼻でつついた。「続けろ」という意味だ。
 「タイムマシンが出来たとしても、過去を変えたら未来が変わる。そうしたら今のお前との時間もなくなる。それは嫌だな」
 ムクはため息をついた。
 「わかってる。でも、涼太には会いたい。一言だけ言いたい。逃げろ、と」

 タイムマシンがある世界を、誠一はよく想像する。
 あの十二月の夜に戻る。線路沿いの道を走る。涼太の腕をつかむ。そしてただ言う。
     逃げろ。どこへでもいい。とにかく逃げろ。
 それだけでいい。
 しかしタイムマシンはない。どこにも、誰の手元にも。
 だから誠一には、今を生きるしかない。

*  *  *

 ある夜、誠一は夢の中でタイムマシンに乗った。
 目の前に現れたのは、十四歳の涼太だった。白くて細い顔、少し下を向いた目。教室の端でいつも見ていた、あの涼太だ。
 「涼太」
 呼んだら、涼太が顔を上げた。
 「先生」
 「どこへも行くな。逃げていい。学校でも家でも、嫌なことからは全部逃げていい。生きてさえいれば、どうにでもなる」
 涼太は少し考えてから、言った。
 「先生、俺、先生の授業好きでした。理科」
 「知ってた」
 「月ってなんで落ちてこないんですかって聞いたら、落ち続けてるからだって言いましたよね」
 「言った」
 「あれ、かっこよかった」
 誠一は泣いた。夢の中で泣いた。
 涼太は笑っていた。
 目が覚めたら、ムクが誠一の顔を舐めていた。


第六章

近所の子供たち

 翌朝から、誠一は変わった。
 これまで黙って通り過ぎていた近所の子供たちに、声をかけるようにした。
 登校する小学生に「おはよう」。一人で公園のブランコに座っている子供には「今日は学校は?」。コンビニの前でたむろしている中学生には「寒いな」とだけ言う。
 どれも、大したことではない。
 しかし、誠一にとっては大事なことだった。

 ムクの散歩中、一人の男の子が声をかけてきた。小学校三年生くらいだろうか。
 「その犬、なんていう名前ですか」
 「ムク。触るか?」
 男の子はムクの頭を撫でながら、「学校、行きたくない」とぽつりと言った。
 誠一はしゃがんで、目線を合わせた。
 「そうか。何かあったか」
 男の子はしばらく黙っていた。
 「友達が、無視するんです」
 「それは辛いな」
 「うん」
 「先生には言ったか」
 「言えない」
 「親には?」
 「言えない」
 誠一はムクのリードを持ち直した。ムクが男の子の手を舐めた。
 「じゃあ、俺に言え。毎朝ここを歩いてるから」
 男の子は少し驚いた顔をした。
 「おじさん、誰ですか」
 「坂本。元理科の先生だ」
 男の子は考えてから、「また明日も来ますか」と聞いた。
 「来る。ムクも来る」
 男の子は少し笑った。

*  *  *

 幸子に話すと、「あなたらしくなったね」と言った。
 「らしく?」
 「ずっと何かを抱えてたでしょう。最近、少し表情が違う」
 誠一は何も言わなかった。
 「ムクのおかげ?」
 「ムクと、もう一人」
 「もう一人?」
 「会ったことのない子だ」
 幸子はそれ以上聞かなかった。長年連れ添った妻の、やさしい沈黙だった。


第七章

この国のことを

 誠一は市役所に勤めながら、この国のあれこれをよく考えた。
 不正の報道が絶えない。上の者が私腹を肥やし、しかし誰も本当の意味での責任を取らない。ニュースを見るたびに、胃のあたりが重くなった。
 「どこかで道を間違えた」
 それが誠一の確信だった。どこで間違えたのかは、正確にはわからない。しかし、間違えたのは確かだ。
 「取り返しがつくのか、取り返しがつかないのか」
 ムクは誠一のつぶやきを、眠たそうな目で聞いている。
 「取り返しがつく間に、正さないといけない。そうじゃないと……」
 涼太のことが頭をよぎった。
 取り返しがつかなくなってから気づいても、遅いのだ。

 誠一は思う。社会と個人は、どこかで似ている。
 見て見ぬふりをする。問題を先送りにする。面倒なことを誰かに押し付ける。そして手遅れになってから悔やむ。
 学校でも、政治でも、家庭でも、職場でも、同じことが繰り返される。
 「でも、変えられる」
 ムクが耳をぴくっと動かした。
 「小さなことから変えられる。俺が毎朝子供たちに声をかけるように。誰かがそれをまねするかもしれない。その誰かのまねを、また別の誰かが……」
 ムクがため息をついた。「長い」という意味だ。
 「わかった。要は、今できることをやれってことだな」
 ムクはしっぽを振った。


第八章

枝分かれした世界

 誠一はある夜、不思議なことを考えた。
 もしもタイムマシンが将来誰かによって発明されたとして、その人は過去を変えるだろうか。
 変えたとしたら、今この世界は存在しないことになる。
 しかし今この世界が存在しているということは、タイムマシンが発明されても誰も過去を変えなかったか、あるいはタイムマシンは永遠に発明されないか、どちらかだ。
 「それとも」と誠一は思った。「過去を変えた別の世界が、どこかに枝分かれして存在しているのかもしれない」
 ムクが誠一の膝に頭を乗せた。
 「その世界では、涼太は生きているかもしれない。そっちの世界の俺が、ちゃんと動いたのかもしれない」
 ムクは目を閉じた。
 「でも俺は、こっちの世界にいる。こっちで生きるしかない」
 誠一は窓の外を見た。星が出ていた。
 「こっちの世界で、できることをする。それだけだ」

*  *  *

 翌朝、線路沿いの道を歩いた。
 花束は、新しいものに変わっていた。白い小菊に、一輪だけ赤いバラが混じっていた。
 今日は普通の日で、月命日ではない。
 誠一は立ち止まり、手を合わせた。
 「涼太、別の世界のお前は元気にしてるか。こっちの俺は、まだここにいる。毎朝来てる。ムクも来てる」
 ムクが鼻を鳴らした。
 「涼太に何か言いたいことがあるのか?」
 ムクは一度だけ、静かに吠えた。
 「ワン」
 それで十分だった。


第章

エピローグ

 翌年の春、誠一は市役所の同僚と話した際、子供の相談窓口の設置を提案した。
 学校でも家庭でも言えないことを、気軽に持ち込める場所。誠一の提案は最初、上司に「予算がない」と却下された。しかし誠一は諦めなかった。三ヶ月後、試験的な形で月二回の相談日が設けられた。
 最初に来たのは、あの公園のブランコの男の子ではなかった。しかし、その子が友達を連れてきたことで、輪が少しずつ広がっていった。

 誠一は毎朝、ムクと散歩を続けた。
 ムクは十一歳になった。少し足が遅くなったが、線路沿いの道では必ず足を止める。
 花束は今日も新しい。
 久子がいつ来るのかは、誠一にはわからない。早朝に来ているのかもしれないし、夜に来ているのかもしれない。ただ、花は絶えない。
 誠一は手を合わせる。「すまん」と心で言う。そしてもう一言、付け加えるようになった。
 「でも、続ける」

*  *  *

 タイムマシンはまだない。
 犬の言葉を訳す機械もまだない。
 でも誠一には、ムクの言いたいことがわかる。十一年、毎日一緒にいたからだ。
 「今日もいい散歩だったな」
 ムクはしっぽを振った。
 「明日も来るぞ」
 ムクはもう一度、しっぽを振った。
 それだけで、十分だった。
 朝の光が、線路沿いの道に差し込んでいた。

──── 了 ────




アマゾン キンドル





〜おまけ〜


これは以前

ブログで書いたご近所の実話を

フィクションに膨らましたものです。

それをここに載せて置きます。


〜タイムマシンにおねがい〜


タイムマシンがあれば

戻りたい過去が沢山ある

救いたい命も沢山ある


毎朝の

ぱふとの散歩で通る

線路沿いの道には

絶えることなく花束が備えられて


すでに

7年もの歳月は流れても

ご近所の親御さんは

その息子の月命日の早朝に

そっと 花を差し替えている


その姿には

決して触れないようにと

その日ばかりは遠回りをする散歩道


毎朝

そっと手を合わし


すまんと

救えなかったことを

一礼をする


時折

声を掛けていながら

気付かなかった


これからは

近所の子供たちには

常に声を掛けようと

改めて思う


人類は

想像した産物を

現実の物として来た


しかし

夢の産物で

今まだ辿り着けない物が

2つあると言う


それは

犬猫たちと会話をする通訳機

もうひとつは

時空を移動するタイムマシン…


そうだ

タイムマシンさえあれば

あの日に戻って… なんて


自分を責めることはない

とにかく逃げろ! と

止められるはずだ


この国は

やはりどこかで

道を間違えた


取り返しの付かない

道を間違えた


それを取り戻すには

今をフェアに戻さねばならない


日々 報道される

お偉いさんたちの不正


国を売り

自分が自分だけがと

楽な道を歩む


安倍が撃たれ

押さえていたその蓋が取れた


検察は

ここぞとばかりに動き出した


ここで

膿を出し切らないと

この国の未来はない


そろそろ

気付いて欲しい

そろそろ

正して欲しい


それとも

タイムマシンが出来るまで待って

あの日に戻り

悪さした連中を止めようか


いや

止まる連中でないならば

いっそ

イテマウカ…


そう

タイムマシンが出来た日に

どなたかによって

歴史は変わるのだろう


ってことは

今まだ

変わらない歴史


遠い未来に於いても

タイムマシンは

出来ないらしい…


それとも

こことは別に

タイムマシンによって

枝分かれした幸福な世の中が

動いているのだろうか


わからない


そうそう

僕の中では

すでに

そのもうひとつの

犬との会話は成り立っている


いや

それは

ぱふ とだけ成り立っている


だって

毎日毎日

10年も一緒に暮らして来たからね


声帯がワンとしか言えないけれど

人間の声帯を持ってたら

きっと かなりのお喋りだろう


すれば

言うに言えないことも

話し出すだろうから

このままの方が都合が良い


そう

僕とだけ

会話が成り立っていれば

それで良し

それが良し…     笑


動かないものに
興味を持ち始めると
そろそろ齢だよ なんて

いつか
先輩が笑っていたけれど…

愛犬を失い
それは更に増して

花を
野菜をと
育てることが増えた

それは
苗木からではなく
出来るだけ種からと思うのは
なぜだろう?

それは多分
始めから育てたいと思う
親心のような
そんなことなのかもしれない

10年前に
植え替えの肥料で失敗し
すべてを失った古代ハスも

実家に分けた
レンコンからではなく
これもまた種からでと
再開して4年

今年はなんとか
咲いてくれると良いのだけれど

そう
花を急ぐのならば
そこそこ出来たレンコンを植えれば
すぐに花は観れるのに

そうじゃあないんだよな と
微笑んで
また始めからの道をと
楽しんでみる



今年もまた
その古代ハスの植え替えを終え
昨年の土が余り

ではと
そこへ 何かの種でもと
先週 撒いてみたのは

ブロッコリーと
ミニトマト





それから
花壇へは 今年もまた
ひまわりを

更には
先週のアースデイ東京で
今年も預かって来た
稲の種も



ニックさんの

マザーツリーの子供たちも

すべての葉を落として冬を越し

今また 葉を付け始めた



ハーブたちも

その勢いを増した



さて
季節は巡り
春から夏へと向かう

時間は
刻々と流れて行く



あと何度? と思う前に
冬を越した
老いたメダカたちが
わずかづつ
その持ち時間を終え始めた

せっかく
冬を越したのに
やっと
暖かくなったのに

そのひとつひとつを
丁寧にすくい上げ
次は花になってその姿を見せてくれ
そしてまた
次の世でも会おう
ありがとう と声を掛け
花壇に埋葬する

すればきっと
言葉は伝わり
花は綺麗に咲き

次の世でも
再会出来るのだろう

命は必ず
巡ってくれると
いつの頃からか
信じるようになった



オーブたちは
僕を取り囲むように
常に浮遊している

そんなことかな…