本日の
心臓部のエコー検査では
問題なしと結果が出て
まずはひと安心

それでも
この一週間
お借りした携帯型心電計には
脈の乱れのデータが残り
結果
発作性上室性頻拍症とのこと

原因は分からず
きっと
疲れと

加齢と
ストレスなのだろう



セミリタイア後
ストレスになるものを
ひとつひとつ排除して来たけれど

今まだ残る
大きめのあれこれがあって
それらはなかなか
ここから離れてくれない

それでも
ここ2日ほどは
その発作も起こらず
このまま閉じてくれたらと
期待などしてみるけれど

その時にはこれをと
薬も頂き

担当医いわく
それでもダメなら
心臓内部でそれを司る
電気信号を発する場所を
カテーテルで閉じる手術になるそうで

春先の入院手術で懲りたもんだから
それだけは NO と
願いたい

振り返れば
この症状は昨年も何度かあって
その時は
救心を飲んで治った

今回もまた
何の前触れもなく
10日ほど前に始まり
ここ2日ほどは
落ち着いている

また救心でもと思ったけれど
65にもなったから
診察してもらおうかと
近くのクリニックへと出向けば

案の定
心電図に異常はなく
ではと
その場で頂いた紹介状を持って
専門医へと出掛け

その場でも異常はなく
本日の検査となった


時折 聞く
急性心不全なる病

それを思うと
なんともな気分にも陥るけれど
こればかりは
何も分からない

なんせ
ガキの頃から
健康に過ごして来れた身体

そろそろ
ゆっくりしようと思いながらも
まだまだ
やれるからとも思う




さて
本日は上の孫の誕生日
早いもので もう6歳

来春には
ランドセルを背負うだなんてな

僕らも齢を取るはずだ

出来るだけ長く
健康でこの世にいて
孫たちの未来を見たくなった

さあ
プレゼントを届けに行こう





そんな待合室で

壁に貼られたポスターを見れば

帯状疱疹と

肺炎球菌との

ワクチンの年齢だと気づいて


ではと尋ねてみれば

予約なしで

今すぐでも大丈夫ですよ とのこと


しかし

帯状疱疹のポスターの誕生日を

わずかに越していたもんで


カクカクシカジカでと

更に尋ねると

それも大丈夫だと言われ…


では

先日 ご近所の先輩が

帯状疱疹で倒れていたのを思い出し


まずは先に

そちらをお願いすることにした


すると

これもまた2種類あって

1回だけで終わるものと

2回打つものとがある


国からの助成金があって

1回だけのものは

5000円の負担


2ヶ月あけて2回のものは

18200円✖️2の負担


違いは

効き目らしいけれど

このあまりの費用差ゆえ

まずは1回だけのものを

お願いした


肺炎球菌は

66歳の誕生日までにと言われ

年内にまた

考えることにした


多くのことが

まるで世紀末のように

大きく変わりつつある


未来は

大丈夫なのだろうか?





しかしね ご同輩

本日の

そのエコーの担当の女医さん


マスク姿のオバサンなんだけれど

それがなんとも

綺麗っぽい!


しかも

胸のエコーの最中

あたしに

身体を預けて

くっつけて! なんて言うじゃない


えっ? って思ったけれど

まさか

そこで 良いんですか? なんて

言えないじゃない


言われるまま

ぐっとくっつけたら

暖かいし

柔らかいし…    で


こりゃ

ドキがムネムネしちゃいそうで…


でもね

こういう時は

違うことを考えて…


なんとか

ムネムネしなかったって

わけだ! 笑


そうだよなあ

我々世代は

きっともう

若い娘ではなく

同世代くらいに

魅力を感じるんだろなあ 笑


時限遺伝子
―― 清正の井戸に呼ばれた男
加筆版



まえがき
日常のふとした瞬間に、なぜか妙な既視感を覚えることはありませんか。
立ち寄った神社、ふと見上げた空、あるいは毎朝見慣れた水たまり。自分でも理由のわからない懐かしさや、「何かをしなければならない」という謎の焦燥感に駆られたとき、私たちはそれを「ストレス」や「疲れ」のせいにして片付けてしまいがちです。
ですが、もしそれが単なる気のせいではなく、何百年も前の先祖からあなたのDNAの中に仕込まれていた「時限発信装置」だとしたら――?
本書は、五十代を迎えた一人の男が、東京・明治神宮の「清正井(きよまさのいど)」で体験した奇妙でどこかおかしな「継承」の物語です。歴史上の英傑たちが現代のIT技術よろしくタブレットを操作し、現代を生きる子孫へ託した「壮大な使命」とは何だったのか。
歴史のロマンと日常のユーモア、そして世代を超えて受け継がれる目に見えないバトンについて、肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。



序章 厄年のバグ
五十二歳になった年から、私の脳には奇妙なバグが混入した。
夜な夜な、見知らぬ着物姿の男たちが枕元に立ち、無言のまま何かを「置いていく」のである。目が覚めても手には何もない。あるのはただ、後頭部に張り付いたような、妙にリアルな既視感だけだった。
会社の健康診断では「ストレス性の不眠傾向」と診断された。しかし私は密かに思っていた。これはストレスではない。もっと別の――たとえるなら、体の奥深くに仕込まれたタイマー装置が、静かにカウントダウンを始めたような感覚なのだ、と。




一章 清正井戸、無人の一瞬
その日、私は特に予定もなく、気づけば明治神宮の森を歩いていた。目的地を決めた記憶はない。足が勝手に、清正井(きよまさのいど)へと向かっていた。
清正井は都内屈指のパワースポットとして知られ、平日でも列ができる。ところが私が井戸の柵の前に立った瞬間――
人が消えた。
さっきまで並んでいた観光客も、スマホを構えたカップルも、係員も、忽然と姿を消し、井戸の水音だけが森に響いていた。
「……まさか」
そう呟いた瞬間、水面が揺れた。
風はない。誰も石を投げてはいない。それなのに、波紋だけが静かに広がっていく。
水面の向こうに、男の顔があった。額に古傷、鋭い眼光。歴史の教科書で見た顔――そうと分かるより先に、背筋が凍った。
私は思わず半歩、後ずさった。
だが、水面の男は、動かなかった。
いや、正確には――私が動いても、動かなかったのだ。
鏡であれば、私が下がれば彼も下がるはずだ。しかし彼はそこに立ったまま、微動だにせず、目だけが、こちらを追っていた。
心臓が、耳の奥で鳴っていた。指先が冷たくなっていく。逃げなければ、と頭のどこかが叫んでいるのに、足が地面に張りついたように動かない。
「……あ」
声にならない声を漏らした、その瞬間だった。
視界が黒く塗りつぶされ、意識が遠のいた。



二章 遺伝子会議室へようこそ
気づくと私は、和風というより「和風会議室」としか言いようのない奇妙な空間にいた。床の間に長机、上座に、先ほど水面から私を見つめていた男が腕組みで座っている。その両脇には見覚えのない、しかし妙に自分に似た顔立ちの人々が並んでいる。
恐怖はまだ胸の奥にわだかまっていた。だが、その男が口を開いた瞬間、張り詰めていた空気は呆気なく緩んだ。
「遅いぞ。何代待たせる気だ」
清正は開口一番、そう言った。声は野太いが、言葉遣いはやけに現代的だった。さっきまでの、あの底冷えするような眼光はどこにもなかった。
「あ、あの……ここは?」
「説明が要るか。まあいい、手短に言う」
清正は懐から一枚の巻物――いや、よく見るとそれはタブレット端末のような形をしていた――を取り出し、指でスワイプしながら話し始めた。
「我々先祖一同は、子孫の中から一定の年齢と経験値を満たした者に、代々の記憶と使命を『継承』する仕組みを、DNAに埋め込んでおる。いわば時限発信装置じゃ。お主は先ほど、その受信条件――五十二歳、および一定の知識・関心の蓄積――を満たしたのでな」
「待ってください、なぜ五十二歳なんですか。五十でも五十五でもなく」
思わず尋ねた私に、清正は当然だという顔で答えた。
「五十二という歳はな、人がちょうど、親の気持ちと子の気持ちを同時に理解できる、数少ない時期なのじゃ。老いた親を気遣う我が身と、我が子や孫の行く末を案じる我が身、その両方が同時に胸に宿る。継承の重みを受け止めるには、ちょうどよい年頃、というわけよ」
隣に座っていた江戸期らしき男が、したり顔で付け加える。
「加えて、脳内の受容体とやらが、最も開きやすい時期でもあるそうにございます。まあ、詳しい仕組みは平安の方が」
話を振られた平安装束の女性が、うんざりした様子で肩をすくめた。
「私に振らないで。私だってマニュアルの受け売りよ」
隣に座っていた、縄文時代らしき装束の老人が横から口を挟んだ。
「腹減った」
「黙っておれ、順番じゃ」
清正が一喝する。どうやらこの会議室、時代も立場もバラバラな先祖たちが、順番待ちで詰め込まれているらしい。江戸期らしき男は退屈そうにスマホ型の巻物をいじり、平安装束の女性は「更新プログラムが重い」とぼやいている。
私はようやく状況を飲み込んだ。これは霊的体験でも比喩でもなく、遺伝的に実装された、多世代リレー式伝達システムのインターフェースなのだ。



三章 任務の内容、あまりにも地味
「して、我らが子孫よ。お主に託す任務じゃが」
清正が咳払いをして、いよいよ本題に入った。会議室の空気が張り詰める。歴代の先祖たちが一斉に居住まいを正す。
私も思わず息を呑んだ。国家の秘宝か、失われた技術か、はたまた人類を救う叡智か――。
「井戸の、落ち葉さらいを頼みたい」
「……は?」
「清正井の湧水口、北側の排水溝がここ数年、落ち葉と苔で詰まりかけておる。水の流れが滞ると、気が濁る。気が濁ると、お主らの時代のパワースポット人気にも陰りが出よう。由々しき事態じゃ」
「いや、それは神宮の管理事務所の仕事では……」
「事務所は月イチの点検じゃ。日常の小さな目詰まりまでは手が回らぬ。だが我らは見ておるのだぞ、四百年、ずっとな」
平安の女性がため息をつく。
「うちの子孫なんて、賽銭も投げっぱなしで拝んで満足して帰るだけよ。誰も水を見ていない」
江戸の男もうなずく。
「拙者の子孫に至っては、写真だけ撮って即帰り申した」
私が困惑していると、清正がふと、遠くを見るような目をして呟いた。
「城ならば、三日で築いたこともある」
「……はい?」
「小田原攻めの折、一夜城という手もあってな。人と木材さえ揃えば、城など三日でどうにでもなる。だが、井戸の掃除だけは、四百年かけても終わらぬ」
その口ぶりには、誇りとも諦めともつかない、奇妙な重みがあった。会議室に漂う、なんとも言えぬ「あるある先祖会」の空気。私はこの壮大な仕掛けの正体が、要するに清掃ボランティアの召集であったことに、めまいを覚えた。
――と、その時である。
会議室の隅で、けたたましいアラーム音が鳴り響いた。



四章 誤配信事件
「なんじゃ、この音は」
清正が眉をひそめる。会議室の壁――というより虚空――に、赤い文字で何かが浮かび上がった。
〈警告:継承データ、経路誤配信を検出〉
〈第四十七代・伝達対象、二重登録の可能性〉
「二重登録……?」私は思わず聞き返した。
江戸の男が、スマホ型巻物を慌てて操作しながら言った。
「拙者が確認いたす……あ、これは。清正様、まずいですぞ。今回の『水源保全ミッション』、実は同時にもう一系統、別の子孫に向けても送信されておりまする」
「なにィ」
「相手は……蒲生氏郷(がもう・うじさと)様の血筋。しかも配信先が、清正様の想定していた東京ではなく、なぜか三重県松阪の方に……いや待てこれは古いキャッシュだ、現在は都内在住の模様」
会議室がにわかにざわつく。縄文の老人までもが箸を止め(いつの間にか団子を食べていた)、身を乗り出す。
清正が唸った。
「つまり、儂の任務――清正井の清掃――が、蒲生の血を引く別の子孫にも、誤って『松阪城の水路を守れ』という別内容とごちゃ混ぜになって届いておる、ということか」
「御意」
「厄介じゃな……先方はおそらく、意味不明な使命感に突き動かされて、東京の井戸と松阪の水路、両方が気になって仕方ない状態になっておるはずじゃ」
私は嫌な予感がした。誰かもう一人、同じように「奇妙な夢」を見て、わけもわからず彷徨っている人間がいるということだ。
ふと、会議室の一番奥、光の届かない暗がりに、誰かが立っている気がした。振り返ったときには、もう何もいなかった。江戸の男に聞いても、「気のせいでござろう」と笑われるだけだった。
私はそれきり、そのことを忘れることにした。



五章 異変の兆し
目が覚めると、私は井戸の柵の前に立ったままだった。時計を見ると、経過していたのはわずか三分。しかし手のひらには、なぜか小さな葉が一枚、握られていた。
翌週末、清掃ボランティアに参加してみると、長年通っているという年配の参加者たちが、揃って首をかしげていた。
「今年はなんだか、湧水の量が例年より少ない気がするんだよねえ」
「落ち葉だけじゃなくて、小枝や泥まで溜まるようになったし」
「そういえば、先月の豪雨のあとから、流れの向きが心なしか変わった気もします」
誰も理由は分からない、という顔をしていた。気候のせいかもしれない、木の生育のせいかもしれない――そんな曖昧な言葉で、話はいつも締めくくられた。
だが私には、ある確信めいた予感があった。あの会議室で聞いた「気が濁る」という言葉が、単なる比喩ではなかったのではないか、と。
「絶えなく動くならば水清らかなり」――流れが弱まっているのは、井戸だけの問題ではないのかもしれない。



六章 ライバル子孫、参上
清掃ボランティアの集合場所で、私は妙な男に声をかけられた。歳の頃は同じくらい、名刺には「蒲生」の文字。
「あの……失礼ですが、最近、変な夢を見ませんか。着物姿の武将が出てきて、水がどうとか、井戸がどうとか」
私は思わずむせた。
「見ます。めちゃくちゃ見ます」
「……やっぱり」
蒲生氏郷の子孫を名乗るその男――蒲生さんは、名刺交換もそこそこに、堰を切ったように話し始めた。三重の実家の水路の夢と、東京の井戸の夢が交互に出てきて、自分がどちらを優先すべきか分からず、有給を使って両方見に来てしまった、と。
「しかも妙なことに、実家の水路も最近、流れが目に見えて細くなっているらしいんです。母がそう言っていて……偶然かもしれませんが」
私は思わず息を呑んだ。松阪の水路と、東京の井戸。遠く離れた二つの水が、示し合わせたように弱っている。
「正直、意味不明で疲れ果てておりまして……あなたも同じ目に?」
「同じというか……たぶん、うちの先祖の伝達ミスに、あなたが巻き込まれた形のようです」
私は会議室での出来事を、できるだけ常識的な言葉に置き換えて説明した。蒲生さんは最初こそ怪訝な顔をしていたが、途中から妙に納得した様子でうなずいた。
「なるほど……道理で。うちの先祖はどちらかというと城普請より、統治とか流通の人でしたから、水路そのものより『流れを止めるな』という理念の方が近いのかもしれません」
「じゃあ、東京の井戸は」
「巻き込まれ、ですね、たぶん」
奇妙な連帯感が芽生えた瞬間だった。ライバルというより、同じバグに悩まされた「同僚」のようなものだ。



七章 全国百人計画
蒲生さんと意気投合した私たちは、清掃ボランティアの後、近くのカフェで「作戦会議」を開いた。テーブルの上に広げたのは、神宮の資料室で見せてもらった古い縁起書の写しと、蒲生さんが実家から取り寄せた郷土史の抜粋だった。
「この縁起書に、気になる一文があるんです」
蒲生さんが指さしたのは、達筆すぎて半分も読めない一節だった。曰く――「水は血に応じ、血は水に応ず。子孫の心、井を離るる時、井もまた心を離る」。
「つまり……子孫が『気にする』のをやめると、水の方も応えるのをやめる、ということですかね」
「たぶん。うちの会議室の連中が言ってた『気が濁る』というのも、比喩じゃなくて、割と文字通りだったのかもしれません」
私はナプキンに、日本地図を簡単に描いた。清正井、松阪の水路、そして――他にも同じような話をしている人が、きっとどこかにいるはずだ。あの誤配信は、私と蒲生さんの間だけで起きたとは限らない。
「探してみましょう。同じような夢を見ている人が、他にもいないか」
私たちは、古い神社仏閣めぐりの愛好者が集まる掲示板や、郷土史サークルのSNSを手当たり次第に調べ、それとなく「最近、変な夢を見ませんか」と書き込んでいった。
反応は、思いのほか早かった。京都の名水、金沢の用水、九州の湧水、奥出雲の滝、果ては北海道の沢まで――全国各地から、似たような報告が雪崩を打つように集まり始めた。
最終的に、緩やかにつながった「同志」の数は、把握できているだけで百人を超えていた。
正直、収拾がつかなかった。
グループチャットには、日々わけの分からないメッセージが飛び交った。
「うちの先祖、多分お坊さんなんですが、水じゃなくて『鐘を撞け』しか言ってきません」
「私の場合、温泉の話とごっちゃになってて、旅館の女将さんに変な顔をされました」
「これって新手の宗教勧誘ではないですよね?」
蒲生さんが、額を押さえながら呟いた。
「百人分の誤配信って、普通に考えて、事故の規模じゃないですよね」
「はい。むしろ……」
「意図的に混線させられた、みたいな」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。



八章 三成、現る
その夜の夢は、いつもと違っていた。
「和風会議室」の隅、清正たちが座る長机とは別に、簿冊とそろばん、そして最新式のノートパソコンを思わせる文机を前に、一人の男が静かに座っていた。切れ長の目、隙のない佇まい。清正とは対照的な、冷ややかな空気をまとっていた。
「石田三成……様?」
思わずその名が口をついて出た。清正が、苦々しい顔で舌打ちする。
「因縁の相手じゃ。まさかこんな場所にまで出張ってくるとはな」
三成は、そろばんを一つ弾きながら、抑揚のない声で言った。
「継承ネットワークの帯域を、意図的に混雑させたのは私だ。清正殿の水源保全案件も、蒲生殿の水路案件も、他の九十八件も、すべて」
「やっぱり……!」蒲生さんの先祖らしき声が、どこかから聞こえた気がした。
「なぜ、そんなことを」私は思わず詰め寄った。
三成は、初めて表情らしきものを見せた。それは怒りではなく、むしろ疲れたような、憂うような色だった。
「考えてもみよ。子孫たちは、すでに十分すぎるほど働いている。会社に、家庭に、老いた親に、育つ子に――限られた時間と体力を、目一杯使い切っておる。そこへ、先祖からの謎の使命だと? 井戸の清掃、水路の点検、鐘撞き当番? 冗談ではない。これ以上、名もなき『やらねばならぬこと』を、勝手に背負わせてよいはずがなかろう」
会議室が、しんと静まり返った。

清正は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……だからこそ、儂は掃除を頼んだ。」
「え?」
「城は一代で建つ。」
「天下も、やがて失われる。」
「だが、水は違う。誰かが見続けねば、静かに途絶える。」
「落ち葉を一枚拾う。それだけなら、人は百年でも続けられる。」
清正は、静かに三成を見た。
「儂が託したかったのは、大仕事ではない。続けること、そのものじゃ。」
三成の目が、わずかに揺れた。
「……」
それ以上、三成は何も言わなかった。

「だから私は、あえて配信経路を過負荷にした。百件、いや千件と誤配信を混ぜて、ネットワーク全体を機能不全に追い込むつもりだった。誰も継承の重みを引き受けずとも、システムが自然消滅すれば、それでよいと考えた」
私は言葉を失った。悪意というより、それはひどく不器用な、優しさの形をしていた。
清正が、静かに口を開いた。
「三成、お主の言い分も分からんではない。だが、儂は見てしまったのでな。この者たちが、頼まれもせぬのに、明け方から熊手を持って水辺に立つ姿を」
三成の目が、わずかに揺れた。
「それは……強制された義務感ゆえでは」
「見ておれば分かる。義務でやる顔と、そうでない顔は違う」
三成は何も言わず、そろばんの珠を、ぱちり、と一つだけ弾いた。
「……今しばらく、見届けさせてもらおう。お前たちが、本当に『引き受けたくて引き受けている』のか、それとも、ただ逆らえずに従っているだけなのか」
その言葉を最後に、三成の姿は音もなく消えた。



九章 枯れゆく井戸
三成が去った翌日から、事態は急速に悪化した。
「和風会議室」の照明が、蛍光灯の寿命が尽きる直前のように、ジジ、ジジ、と明滅するようになった。上座の清正の輪郭が、時折ノイズのように歪む。
「清正さん……三成さんの、仕業ですか」
「分からぬ。だが、奴が手を引いた後も、過負荷の余波が残っておるのは確かじゃ。……いや、あるいは、奴はまだ試しておるのかもしれん。ここで我らが踏ん張れるかどうかを」
清正の声は、途切れ途切れだった。
「聞け。時間がない。清正井の湧水量が、想定より早く落ちておる。今朝方の観測で、平年の三割を切った」
「三割……」
「それだけではない。金沢の用水、京都の名水、九州の湧水――百件の水系すべてで、同様の急落が確認されておる。もはや偶然ではない」
会議室の壁に、赤い警告文字が次々と浮かんでは消えていった。
〈接続不安定:伝達ノード多数、応答遅延〉
〈本システムの安定稼働には、対象水系の最低限の活性が必要です〉
〈このままでは、継承ネットワーク全体の縮退が始まります〉
縄文の老人が、食べかけの団子を持ったまま、その手をぴたりと止めていた。目の焦点が合っていない。まるで一時停止したアニメーションのようだった。
「じい様まで固まっておる……」江戸の男が青ざめた声を漏らす。「拙者にも分かり申した。水が涸れれば、我らの声も届かなくなる。届かなくなれば、子孫はもう、二度と気づかぬまま歳を取っていく」
清正が、絞り出すように言った。
「水が動きを止めれば、儂らも動きを止める。当然のことよ。……皮肉なものよな。何百年もかけて、子孫に『動き続けよ』と伝えるための仕組みそのものが、水の流れが止まった途端、真っ先に動きを止めるとは」
私は息を呑んだ。落ち葉さらいの話が、いつのまにこんな瀬戸際まで来ていたのか。三成の「試し」は、思っていたよりずっと苛烈だった。
「二週間、なんて悠長なことは言っていられないんですね」
「うむ。次に水位を計測するのは、明後日の朝じゃ。それまでに、多少なりとも流れを取り戻さねば……この仕組み自体、途中で立ち消えになるやもしれぬ。そして、三成の見立てが正しかった、ということになる」
清正の姿が、また一瞬、ノイズに飲まれて消えかけた。
目が覚めた瞬間、私はもうベッドから飛び起きていた。時刻は深夜二時。すぐに蒲生さんへメッセージを送った。
「明後日の朝までに、できる範囲でいいから、やりましょう。百人全員に、連絡してください」



十章 もう一度、井戸の前で
翌日の昼、私は久しぶりに、平日にもかかわらず清正井へと足を運んだ。柵の向こうを覗き込んで、言葉を失った。
いつも水音を立てて湧き出ているはずの水面が、ほとんど揺れていなかった。石組みの際には、乾いた泥がひび割れて白くなっている場所すらあった。噂ではなく、目の前の現実だった。
私はすぐに蒲生さんへ電話をかけ、全国百人のグループチャットに、有無を言わさぬ一文を投げた。
「予定を早めます。明日の朝、できる人だけでいいので、それぞれの場所で、水辺に立ってください。理由は――正直、うまく説明できません。でも、お願いします」
反応は、驚くほど早かった。
「金沢、了解です。夜のうちに用水路の様子を見てきます」
「京都、明朝一番で向かいます」
「九州、こちらも雨は止みました。行けます」
「北海道ですが、日の出は早いので大丈夫です」
「宗教勧誘だと思ってましたが、行きます」
誰も「なぜ」とは聞かなかった。奇妙な夢を見てきた者同士、説明の要らない部分があった。
翌朝、私は蒲生さんと並んで、清正井の柵の前に立っていた。熊手を手に、まだ薄暗いうちから、落ち葉と小枝と泥を、ひたすら掻き出していく。手が悴むほどの水の冷たさが、かえって心地よかった。
スマートフォンには、全国の仲間たちからのメッセージが次々と届いていた。
「金沢、始めました」
「京都、到着しました」
「九州、無事、水路に入れました」
「北海道、凍える寒さですが決行中」
示し合わせたように、日本中の水辺で、見ず知らずの子孫たちが、それぞれの井戸や用水や湧水に向き合っていた。滑稽なほど地味な、しかし確かな連帯だった。
作業を終える頃、東の空が白み始めていた。井戸を覗き込むと、さっきまで沈黙していた水面が、確かに、細かく震えていた。
ぽこり、と小さな泡が一つ、水底から立ち上った。
「……動いた」
蒲生さんが呟いた。
私たちは、しばらく無言でその水面を見つめていた。大袈裟な演出も、劇的な奇跡も、何もなかった。ただ、水が、また動き始めただけだった。それだけのことが、この日は途方もなく尊く感じられた。
その夜、久しぶりにあの「和風会議室」の夢を見た。照明のちらつきは治まり、清正の輪郭も、いつも通りはっきりしていた。
三成が、隅の文机から、静かにこちらを見ていた。
「……見せてもらった。百人が、誰に強いられるでもなく、水辺に立つ姿を」
「三成さん」
「訂正しよう。継承とは、押し付けられた義務ではなく、勝手に湧いてくる性分のようなものらしい。それならば、私が余計な手を出す道理もない」
そろばんが、ぱちり、と鳴った。今度はどこか、軽やかな音だった。
清正が、にやりと笑う。
「分かればよいのだ、三成。お主の几帳面さも、無駄ではなかったぞ。おかげで、この者たちの覚悟のほどが、はっきりした」
「皮肉のつもりか、清正殿」
「褒めておるのだ」
二人の間に流れる空気は、四百年来の因縁を挟みながらも、どこか温かかった。縄文の老人が、ようやく再び動き出し、団子の残りを頬張りながら言った。
「メシ、うまい」
「お主は本当に食っておるだけじゃな……」
会議室に、笑いが起きた。



終章 バグではなく、遺伝
あれから私は、もう「奇妙な夢」を見なくなった。
タイマー装置は、どうやら止まったらしい。いや――正確には、鳴らし続ける必要がなくなったのだろう。目覚まし時計は、起きた瞬間に音を止めるものだ。
今でも月に一度、私は清正井の落ち葉をさらう。蒲生さんも時々、有給を使って東京まで顔を出す。全国の仲間たちとは今も緩くつながっていて、季節ごとに「そちらの水はどうですか」と、たわいもない近況報告をやり取りしている。
水は今日も、絶えなく動いている。
そして時折思う。この習慣もまた、私の遺伝子の中で静かにコードされ、いつか私の子か孫か、あるいは見ず知らずの遠い子孫の脳裏に、奇妙な夢となって再生されるのだろうか、と。
その時もし彼らが、加藤清正という妙にIT武将めいた先祖に「落ち葉さらいと、ついでに全国の仲間との連絡係を頼む」と告げられ、目を丸くすることがあったなら――
どうか、笑って引き受けてやってほしい。
先祖からの壮大な使命というのは、案外、そんなものである。
帰り際、私はもう一度、井戸の水面を覗き込んだ。
映っていたのは、私だけだった。だから、安心した。
――次に呼ばれるまでは。

水面には、小さな一枚の落ち葉が、くるりと回って流れていった。



エピローグ
数年後のある日、小学五年生になった孫が、夕食の席でぽつりと言った。
「おじいちゃん、最近、変な夢を見るんだけど」
箸を止めて振り返ると、孫のズボンのポケットから、小さな葉が一枚、ひらりと畳の上に落ちた。
私は思わず笑ってしまった。
「まだ早いよ」
孫は不服そうな顔をして、また夕食に戻った。何でもないような、いつもの夕方だった。
ただ、その夜――
清正井の水面に、小さな波紋が一つ、静かに広がった。

(了)


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あとがき
本作は、ある日の散策で訪れた明治神宮・清正井の清らかな水面と、そこに漂う静寂から着想を得たフィクションです。
加藤清正公や蒲生氏郷公、石田三成公をはじめとする歴史上の人物たちの逸話や、「水」にまつわる伝承を参考にしつつも、劇中に登場する彼らの言動や架空の子孫たち、そして「遺伝子伝達システム」という設定はすべて著者の創作によるものです。
時代がどれほど移り変わり、社会が高度にデジタル化しようとも、私たちが親から子へ、そして孫へと無意識のうちに受け継いでいく「気遣い」や「手入れの心」のようなものは変わりません。大層な偉業ではなくとも、誰かが静かに街角の落ち葉を拾い、清らかな流れを守り続けること。それ自体が、何より尊い「継承」なのではないかという思いを込めて執筆いたしました。
最後になりますが、本作を温かいお気持ちで最後までお読みいただいた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。あなたの日常の中にも、いつか先祖からの愉快な「誤配信」が届くかもしれません。その時はどうぞ、笑って受け取ってあげてください。


時限遺伝子
―― 清正の井戸に呼ばれた男



まえがき
私たちは日々、理由のない「胸騒ぎ」や「ふとした思いつき」にとらわれることがあります。単なる偶然やストレスのせいにして通り過ぎてしまうそれらは、もしかすると、気の遠くなるような時間を越えて届いた「何か」なのかもしれません。
本作は、東京・明治神宮のパワースポットとして知られる「清正井」を舞台に、遺伝子と歴史、そして現代の日常が可笑しくも爽やかに交差するフィクションです。
日常のふとした隙間に潜む小さな奇跡と、世代を超えて紡がれるささやかな絆の物語を、どうぞお楽しみください。




序章 厄年のバグ
五十二歳になった年から、私の脳に奇妙なバグが混ざり込んだ。
夜な夜な、見知らぬ着物姿の男たちが枕元に立ち、無言のまま何かを「置いていく」のである。目が覚めても手には何もない。あるのはただ、後頭部に張り付いたような、妙にリアルな既視感だけだった。
会社の健康診断では「ストレス性の不眠傾向」と診断された。しかし私は密かに思っていた。これはストレスではない。もっと別の、たとえるなら体の奥深くに仕込まれたタイマー装置が、静かにカウントダウンを始めたような感覚なのだと。



第一章 清正井、無人の一瞬
その日、私は特に予定もなく、気づけば明治神宮の森を歩いていた。目的地を決めた記憶はない。足が勝手に、清正井へと向かっていた。
清正井は都内屈指のパワースポットとして知られ、平日でも列ができる。ところが私が井戸の柵の前に立った瞬間、人が消えた。
さっきまで並んでいた観光客も、スマホを構えたカップルも、係員も、忽然と姿を消し、井戸の水音だけが森に響いていた。
「……まさか」
そう呟いた途端、視界がぐにゃりと歪み、私は水面に映る自分の顔の向こうに、もう一人の顔を見た。長烏帽子形の兜に、鋭い眼光。歴史の教科書で見た顔だった。
加藤清正、その人である。



第二章 遺伝子会議室へようこそ
気づくと私は、和風というより「和風会議室」としか言いようのない奇妙な空間にいた。床の間に長机、上座に清正が腕組みで座り、その両脇には見覚えのない、しかし妙に自分に似た顔立ちの人々が並んでいる。
「遅いぞ。何代待たせる気だ」
清正は開口一番、そう言った。声は野太いが、言葉遣いはやけに現代的だった。
「あ、あの……ここは?」
「説明が要るか。まあいい、手短に言う」
清正は懐から、巻物の形をしたタブレットのようなものを取り出し、指でスワイプしながら話し始めた。
「我々先祖一同は、子孫の中から一定の年齢と経験値を満たした者に、代々の記憶と使命を『継承』する仕組みを、DNAに埋め込んでおる。いわば時限発信装置じゃ。お主は先ほど、その受信条件、五十二歳、および一定の知識と関心の蓄積を満たしたのでな」
隣に座っていた、縄文時代らしき装束の老人が横から口を挟んだ。
「腹減った」
「黙っておれ、順番じゃ」
清正が一喝する。どうやらこの会議室、時代も立場もばらばらな先祖たちが、順番待ちで詰め込まれているらしい。江戸期らしき男は退屈そうに巻物型の端末をいじり、平安装束の女性は「更新プログラムが重い」とぼやいている。
私はようやく状況を飲み込んだ。これは霊的体験でも比喩でもなく、遺伝的に実装された、多世代リレー式伝達システムのインターフェースなのだ。



第三章 任務の内容、あまりにも地味
「して、我らが子孫よ。お主に託す任務じゃが」
清正が咳払いをして、いよいよ本題に入った。会議室の空気が張り詰める。歴代の先祖たちが一斉に居住まいを正す。
私も思わず息を呑んだ。国家の秘宝か、失われた技術か、はたまた人類を救う叡智か。
「井戸の、落ち葉さらいを頼みたい」
会議室の空気が、違う意味で張り詰めた。
「……は?」
「清正井の湧水口、北側の排水溝がここ数年、落ち葉と苔で詰まりかけておる。水の流れが滞ると、気が濁る。気が濁ると、お主らの時代のパワースポット人気にも陰りが出よう。由々しき事態じゃ」
「いや、それは神宮の管理事務所の仕事では……」
「事務所は月イチの点検じゃ。日常の小さな目詰まりまでは手が回らぬ。だが我らは見ておるのだぞ、四百年、ずっとな」
平安の女性がため息をつく。
「うちの子孫なんて、賽銭も投げっぱなしで拝んで満足して帰るだけよ。誰も水を見ていない」
江戸の男もうなずく。
「拙者の子孫に至っては、写真だけ撮って即帰り申した」
会議室に漂う、なんとも言えぬ「あるある先祖会」の空気。私はこの壮大な仕掛けの正体が、要するに清掃ボランティアの召集であったことに、めまいを覚えた。



第四章 清正の言葉、本当の意味
「なぜ、そこまでして水にこだわるのですか」
私が尋ねると、清正はふっと表情を緩めた。武将の顔から、少し違う、もっと年老いた、庭師のような顔になった。
「絶えなく動くならば、水清らかなり。そう言うたのは、儂の遺言のようなものでな。城普請の時も、治水の時も、儂が学んだのはそれだけじゃ。動きを止めた水は腐る。人も、家も、国も同じ」
「……」
「お主の中に流れる血もまた、同じ理屈じゃ。夢だ、予兆だと立ち止まって考え込むばかりでは、そのバグとやらは一向に消えぬぞ。動け。実際に手を動かし、足を運び、水を流せ。それだけのことよ」
縄文の老人が、待ってましたとばかりに立ち上がる。
「動いたらメシ食えるか」
「食える食える」
清正が適当にあしらう。何百代分の先祖たちの間に流れる、妙に家庭的な空気に、私は思わず笑ってしまった。



第五章 現実へ、箒を持って
目が覚めると、私は井戸の柵の前に立ったままだった。背後では、観光客の列が再び動き出していた。時計を見ると、経過していたのはわずか三分。しかし手のひらには、なぜか小さな葉が一枚、握られていた。
翌週末、私はホームセンターで熊手と小さな箒を買い、再び明治神宮へ足を運んだ。まずは境内のボランティア活動について案内を受け、定期的に行われている清掃活動に参加することにした。
井戸周辺の作業中、落ち葉を拾いながら、ふと隣で軍手をはめている老年の参加者に聞いてみた。
「これ、長く続けてらっしゃるんですか」
「もう十五年になるかなあ。なんでかね、五十過ぎた頃から急に、水の流れが気になり出してねえ」
彼は笑いながら、そう答えた。
私はその言葉に、思わず箒を持つ手を止めた。



終章 バグではなく、遺伝
あれから私は、もう「奇妙な夢」を見なくなった。
タイマー装置は、どうやら止まったらしい。いや、正確には、鳴らし続ける必要がなくなったのだろう。目覚まし時計は、起きた瞬間に音を止めるものだ。
今でも月に一度、私は清正井の周りの落ち葉をさらう。水は今日も、絶えなく動いている。
そして時折思う。この習慣もまた、私の遺伝子の中で静かにコードされ、いつか私の子か孫か、あるいは見ず知らずの遠い子孫の脳裏に、奇妙な夢となって再生されるのだろうか、と。
その時もし彼らが、加藤清正という妙にIT武将めいた先祖に「落ち葉さらいを頼む」と告げられ、目を丸くすることがあったなら。
どうか、笑って引き受けてやってほしい。
先祖からの壮大な使命というのは、案外、そんなものである。

(了)


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清正の井



あとがき
本作は、東京・明治神宮の「清正井」を訪れた際に感じた、静謐でどこか不思議な空気感と既視感から着想を得た創作小説です。
作中に登場する加藤清正公の逸話や「絶えなく動くならば水清らか」という考え方は史実や伝承を参考にしていますが、登場人物の描写や設定、世界観はすべてフィクションであり、史実や実在の寺社の見解を代表するものではありません。
日々の中で「ふと気になって手を伸ばしたこと」や「急に興味が湧いたこと」があったなら、それはもしかすると、あなたの遠いご先祖様からのちょっとした「タスクの割り振り」なのかもしれません。
読者の皆様の日常に、小さな潤いとフッと笑えるひとときをお届けできたなら幸いです。


謎の4世紀・外伝
――ミハトの木簡、あるいは三十七代の記――

(完結編)


まえがき
本編『謎の4世紀』の一章、生化学者・柊蘭が遺した記録の最後に、こう記されている。
「娘の名を『ミハト』と付けた。イハトの、水のように澄んだ子、という意味である」
そして終章には、こう続く。
「柊蘭の片仮名を刻んだ木の板は、彼女の娘ミハトの子孫によって代々家の守りとして伝えられた。三十七代後、その一族は大きな戦乱の中で滅んだ」
三十七代。おおよそ千年に及ぶ歳月である。
本編にも前日譚にも書かれなかったこの千年を、ここに綴る。
これは、遠い未来から来た母を五歳で失った女の子が、母の言葉も、母の顔の記憶さえもおぼろげなまま、それでも母が遺した木の板を抱えて生きた一生の記録であり、そしてその木の板が、意味を失いながらも千年近く「守られ続けた」ことの記録である。
歴史というものは、埋まっていく。文字が薄れ、名が忘れられ、意味が変わり、しかし物そのものはしぶとく残ることがある。
ミハトの物語は、その「意味を失ってなお残るもの」についての物語である。




一章 ――五歳の冬――
ミハトが母を亡くしたのは、五歳の冬だった。
正確な年は誰も覚えていない。ただ、その冬はひどく雪が少なく、その代わりに乾いた風が続いた年だったと、のちに村の古老が語り継いだ。
母は熱を出し、七日目に死んだ。
ミハトは母の死に顔をよく覚えていなかった。覚えていたのは、母が死ぬ前日、震える手でミハトの両手を取り、湯で洗ってくれたことだった。
「傷ができたら、必ず熱い湯で洗いなさい」
母はそう言った。ミハトはその言葉の意味を、まだ理解していなかった。
母を亡くしたあと、ミハトを引き取ったのは、母を最初に湿地で拾った女――村では「アネ」と呼ばれていた年長の女だった。アネにはすでに孫がいたが、彼女はミハトを実の孫のように育てた。
村の子供たちは、ミハトを時々「北のおかしな女の子」と呼んだ。母が「北から来た、頭のおかしい、しかし薬草に詳しい女」として村に受け入れられていたことの、そのまま延長だった。ミハト自身は、母がどこから来たのか、本当のところは知らなかった。母は生前、娘にそれを詳しくは語らなかった。
ただ、家の隅に、母が大切にしていた木の板が何枚も積まれていた。
板には、ミハトの知らない文字がびっしりと刻まれていた。



二章 ――読めない文字――
ミハトが十歳になったころ、アネはミハトにこう言った。
「お前の母は、あの板に何かを書き残した。お前が読めるようになったら、読んでやってほしい」
ミハトは板を手に取った。文字は硬い木に金属の針で刻まれていた。片仮名という、この時代の列島のどの言葉とも違う文字だった。
ミハトは最初、それを絵だと思っていた。波のような線、鹿の角のような線、人の顔のような線。だが、よく見ると同じ形が何度も繰り返されている。ミハトはそれが「音」を表すものらしいと、次第に気づいていった。
母の使っていた道具――四千年後の技術で作られた小さな板(タブレット)は、母が死ぬはるか前に光を失い、いまや冷たく重い黒い石のようになっていた。ミハトはそれを母の形見として、木の板と共に大切にしまっていたが、その黒い石はやがて歳月のなかでどこへともなく失われていった。けれど、母の手で直に刻まれた木の板だけは、確かに手元に残り続けた。
ミハトは十五歳のとき、村の老いた巫女に頼み、母が生前まれに口にしていた言葉の断片――「てをあらう」「ねつをだす」「みらいから」――を思い出せる限り書き留めてもらった。巫女は文字を持たなかったので、ミハトが覚えている音を、母の板の文字と照らし合わせながら、少しずつ「読み方」を組み立てていった。
完全には読めなかった。
それでも、ミハトは板の中のいくつかの文字列が、繰り返し現れることに気づいた。
「て」「を」「あらう」
母が生前、口を酸っぱくして繰り返した言葉と、同じ形だった。
ミハトはそこで初めて、母が板に「手を洗うこと」について書き残していたのだと、確信を持った。



三章 ――澄んだ子――
ミハトは十八歳で、村の若い漁師と結婚した。
夫はミハトの出自を気にしなかった。「澄んだ子」という名の通り、ミハトは村で評判の、静かで芯の強い女だった。
ミハトは母から受け継いだ習慣を、家族に伝えた。
食事の前に手を洗うこと。傷を負ったら熱い湯で洗うこと。乳飲み子には、必ず一度火を通した水を飲ませること。
村の女たちは、これを「イハトのアネの家のしきたり」と呼んだ。母が誰であったか、多くの村人はもう覚えていなかった。ただ「北から来た女の家は、昔から手を洗う」という、緩やかな評判だけが残った。
ミハトは三人の子を産んだ。
長女には「ミナ」、次女には「サヨ」、長男には「タケル」と名付けた。いずれも、母の言葉――遠い未来の言葉――とは関係のない、この時代の名だった。ミハトは母の遺した木の板を、長女ミナに託すことに決めた。
「これは、お前のおばあさまが遺したものだ。読めなくてもいい。ただ、大事にしまっておいてほしい」
ミナは頷いた。ミナもまた、板の文字をほとんど読めなかった。
ミハトは四十二歳で死んだ。この時代としては、決して短くはない生涯だった。
死の間際、ミハトは娘たちにこう言い残したと、のちの家伝には記されている。
「文字の意味が解らなくなってもよい。ただ、この板は母様が私達に残してくれた温もりなのだから。燃やさず、捨てず、失わずに、次の子へ渡しておくれ。それだけでいい」



四章 ――三十七代の記(概観)――
ここから先は、家伝と考古学的な推定によって再構成された、駆け足の年代記である。
ミハトの死後、木の板は「イハトの家の宝」として、長女ミナの家系に代々受け継がれた。三代目、四代目のころには、板の文字を読める者は既に一人もいなくなっていた。文字は「先祖が神から授かった、清めのまじない」として扱われるようになった。
七代目のころ、家は村を離れ、より大きな首長のもとへ移った。移住の際、板は焼失を恐れて土器の甕に入れられ、床下に埋められた。以後、板は「開けてはならない、家の守り神」として、代々の当主だけがその存在を知る秘物になった。
十四代目のころ、家は「手洗いの家」として近隣に知られるようになっていた。彼らの家系では、他の家に比べて幼児の死亡率がわずかに低かったと、のちの研究者は推定している。理由を知る者は、既に誰もいなかった。ただ、その習慣だけが儀式として生き残った。
二十二代目のころ、板の存在は一部の当主にしか伝わらない秘密になっていた。この代の当主は、板の文字を「異国の呪符」と誤解し、村の巫女に解読を依頼したが、巫女は解読できず、「これは触れてはならぬ、恐ろしい神の文字である」と告げた。以後、板への畏れはいっそう強まった。
三十代目のころ、家は既にかなりの勢力を持つ豪族の一部となっていた。板は当主の館の奥、代々の家宝と共に保管される「開かずの箱」の中に収められていた。この代のある女性が、箱を開けて板を見たという記録が、断片的に家伝に残っている。彼女はこう記したという。
「先祖の遺したもの、読めねど尊し。読めぬままに、次へ渡す」



五章 ――終わりと、その後――
三十七代目、家は大きな戦乱に巻き込まれた。
相手方の勢力に館を焼かれ、当主とその一族の多くが討たれた。家は事実上、断絶した。
館が焼け落ちたあと、床下に埋められていた甕は焼け跡の土の中に残った。未来の調査隊が探していた四四四四年の世界からはほど遠い、いまは誰も名を覚えていないある時代――焼け跡から甕を掘り出したのは、まったく別の一族の男だった。
彼は甕の中から、古い木の板の束を見つけた。
彼はそれを読めなかった。文字はあまりに古く、あまりに異質だった。彼はそれを不吉なものとも、貴いものともつかず、しかしぞんざいに扱うことも憚られ、近くの寺に寄進した。
寺はそれを、他の古い奉納品と共に蔵の奥にしまった。
蔵は時を経て朽ち、板は他の古文書と混じり合い、やがて誰にも顧みられなくなった。



終章 ――澄んだ水のように――
ミハトが母から受け継いだのは、文字ではなかった。
文字は、三代も経たぬうちに読めなくなった。
ミハトが受け継ぎ、そして子孫たちが千年近くにわたって――ときに意味を失いながらも――受け継ぎ続けたのは、「大事にしまっておく」という、ただそれだけの行為だった。
意味は失われた。しかし、行為は残った。
手を洗うという習慣は、儀式になり、まじないになり、やがて家の評判になった。板の文字は、まじないになり、恐れになり、やがて寺の蔵の奥で静かに眠った。
四四四四年、瀬戸内海の小島から掘り出された壺には、ミハトの家系の記録は含まれていない。柊蘭の木の板は、遠い未来の学会に届くことなく、名も無き寺の蔵の奥で、いまもなお眠っているだろう。あるいは、既にとうに朽ちているかもしれない。
それでも、と本書は記しておきたい。
三十七代、千年近くにわたって、ある家系は「わけも分からぬまま、大事なものを大事にし続けた」。
それはたぶん、歴史書には決して載らない。
しかし、それこそが、名も無き人々が歴史を運ぶやり方なのだと、筆者は思う。
ミハトは、母の名の通り生きた。
澄んだ水は、自分がどこから来たのかを知らない。
ただ、人から人へ、器から器へと姿を変えながら流れ続ける。
歴史もまた、そういうものなのだろう。




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あとがき
『謎の4世紀』本編、そして前日譚を経て、この『謎の4世紀・外伝――ミハトの木簡、あるいは三十七代の記――』をもって、本シリーズは完結となる。

生化学者・柊蘭という一人の女性が未来から古代へ足を踏み入れ、そこで何を残したのか。本編では彼女の科学的知見や未来へのメッセージという「大文字の歴史」に焦点を当てたが、この完結編で描きたかったのは、もっとささやかで、しかし確かな「小文字の歴史」である。

5歳で母を失ったミハトという少女の物語は、文字や科学といった高度な情報が途絶えていく物語でもある。しかし、どれほど文字が読めなくなり、意味が失われようとも、親から子へ渡された「愛の記憶」や「手を洗うというささやかな所作」は、千年の時を生き延びた。歴史をかたち作るのは、教科書に載る英雄や大事件ばかりではない。意味も分からぬまま、ただ「大切なものを大切にし続けた」名も無き人々の無数のバトンリレーこそが、時の流れを支えている。

水のように澄んだミハトの生涯と、その子孫たちの千年に及ぶ静かな歩みに思いを馳せつつ、長きにわたるシリーズにお付き合いいただいた読者の皆様に、心からの感謝を申し上げたい。


謎の4世紀・前日譚

―― 片道タイムマシン、あるいは、送り出す側の物語 ――


まえがき
本書をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。
本作『謎の4世紀・前日譚』は、4世紀の倭国へ渡った7人の男女の生と足跡を描いた本編『謎の4世紀』の舞台裏であり、彼らを「送り出した側」の人間たちを描いた群像劇です。
時間跳躍という技術が確立された未来において、なぜタイムマシンは「片道」でしかあり得なかったのか。二度と戻らないと分かっている人間を過去へ送り出すとき、残された側の人間はどのような責任と感情を背負うのか。
旅立った7人の勇気と選択の背景には、彼らの背中を見送り、その記憶を四千年後の未来まで抱え続けようとした7人の技官たちの、深く静かな覚悟がありました。
二度と逢えない誰かを想い続けること、そして過去となった時間をいつまでも愛おしむことの切なさと温もりを、未来都市の静かな研究所の空気感と共にお届けできれば幸いです。
どうぞ、青い輪の「こちら側」にあった、もうひとつの物語をお楽しみください。




序 ——研究所——
西暦4444年、6月17日、月曜日。
東京湾は、四百年前より二十七メートル高い位置にあった。かつて品川と呼ばれていた地区は水面下にあり、その真上に人工浮島が静かに浮かんでいた。浮島の北端に、白い、飾り気のない五階建ての建物があった。
看板は、無い。
正式名称は、時間工学研究所・第七分所という。通称は「七分所(ななぶんじょ)」と呼ばれていた。所員は常勤で二十八人。契約技官と外部研究者を合わせて四十六人。予算は政府の科学技術省から隔年で降りていたが、年ごとに減っていた。
七分所の一階には、転送室がある。
ヒノキの匂いのする、八畳ほどの板張りの部屋である。中央に、直径二メートルの金属の輪が垂直に立っている。輪の色は灰色でも銀でもなく、ある種の青を含んでいる。輪の周囲には規則的な間隔で細い管が走っており、その中を透明な液体が常にゆっくりと流れている。
この輪を通ると、人は過去に行く。
戻って来た者は、いない。
——
以下は、この研究所の七人の技官と、彼らを取り巻く人々についての記録である。
彼らは、送り出す側の人間だった。
彼らは選ばれた七人(生化学者、剣道七段、元自衛官、言語学者、料理人、記者、映画監督)を、順番にあのアクアブルーの輪の向こうへ送り出した。
そして彼らは、その後もしばらく、生きた。
これは、送り出した者たちがなぜ片道しか作れなかったのか、そしてなぜ、それでも送り続けたのかについての記録である。



第一章 所長・榊 遥(さかき はるか)
榊 遥は六十三歳の女性で、七分所の四代目の所長だった。
彼女はこの研究所の生き字引だった。二十八歳のときに助手として入り、三十四歳で主任研究員、四十九歳で副所長、五十七歳で所長になった。夫はいない。子もいない。恋人もいなかったと、少なくとも所員たちは思っていた。(実際には若い頃、恋人がいた。恋人は彼女がまだ助手だったころ、初期のタイムマシン試験に志願した。その恋人が七分所の最初の送り出しだった。彼は白亜紀後期に送られた。それ以来、消息はない。榊はそのことを誰にも話さなかった)
——
四月のある朝、榊は所長室の窓辺でコーヒーを飲んでいた。
コーヒーは月面産だった。地球のコーヒー豆は二十二世紀に絶滅した。月面の温室で細々と復活栽培されているのが、いま地球で飲めるほぼ唯一のコーヒーである。値段は榊の月給の五パーセントに相当した。彼女はそれを月に一度だけ自分に許していた。
ドアがノックされた。
「入って」
副所長の真木 悠仁(まき ゆうじ)が書類を抱えて入って来た。真木は四十五歳。榊の二十歳年下の有能な補佐役である。
「所長。第八号被験者の選定案です」
榊は書類を受け取った。
第八号被験者とは、七人目のアキラ・スワの次に送り出す予定の八人目の被験者である。既に選定委員会は動いており、候補者は絞り込まれつつあった。
榊は書類の一行目を読んだ。
そして、静かに閉じた。
「真木さん」
「はい」
「これ、止めます」
真木はまばたきをした。
「え」
「送り出し。八人目は送りません。七人で終わりにします」
真木はしばらく黙っていた。それから彼は慎重に言った。
「所長。それは、あなた一人で決められる話では——」
「分かっています。委員会には私が話します」
「理由は」
榊はコーヒーを一口飲んだ。
「昨日の夜、夢を見ました」
「……夢、ですか」
「ええ。夢を見たというのが理由です」
真木は笑わなかった。彼は榊がこの研究所で夢を根拠に決定をしたことがこれまでに一度もないということを知っていた。
「どんな夢ですか」
榊は答えなかった。
——
彼女が見た夢の話は、この物語の最後で書く。
いまは、こう書いておく。
榊 遥はこの日、送り出し計画の正式な凍結を決意した。既に送り出した七人については記録を続ける。しかし、八人目以降は送らない。
その決意を、彼女は六月十七日の正午、全所員に告げる。
以下の六章は、その六月十七日正午までの、他の技官たちのそれぞれの物語である。



第二章 主任理論物理学者・鶴岡 慧(つるおか さとる)
鶴岡 慧は五十一歳の男性で、七分所の時間物理理論の最高権威だった。
彼はこの研究所で、なぜ過去には行けるのに未来には行けないのか、そしてなぜ行った者は戻って来ないのかについて、公式に答える立場にあった。
彼の答えは、いつも同じだった。
「まだ、分かりません」
彼はこの答えを公聴会で、記者会見で、政府の予算査定の場で、少なくとも六十七回繰り返した。
——
六月十六日、日曜日。月曜日の前日。
鶴岡は自分の研究室で、七年前から書き続けているある論文を読み返していた。
論文の題はこうだった。
『時間跳躍における非可逆性の起源について――「二重の壁」仮説』
論文は七年間、未発表のままだった。理由は鶴岡自身が、この論文の内容をまだ公表するべきではないと判断していたからである。
なぜか。
論文にはこう書かれていた。
「時間跳躍は、粒子の状態を時空の別の座標へ移送する行為である。この行為は原理的には可逆であり得る。すなわち、送り出したものは原理的には戻せる。
しかし、我々が現在使用している環状液体加速方式——一階転送室の青い輪——は、可逆性を意図的に破壊する構造を持っている。
なぜそのような構造を採用したのか。答えは単純である。可逆性を保持する方式は、送り出す者と送り出される者とのあいだに量子的な結合を生じさせる。この結合は、送り出された者が過去の時空で何らかの決定的な意識的行動を行った瞬間に、送り出した者の側に逆流する。逆流の物理的影響は未だ正確にはモデル化できていない。ただし初期実験のシミュレーションでは、逆流を受けた側の送出装置と、そこにいた技官の両方が時空的に消失するという結果が繰り返し出た。
したがって、我々は可逆方式を放棄した。
我々は意図的に片道方式を採用したのである。
これは失敗ではない。
これは、送り出す側を守るための選択である」
——
論文には続きがあった。
「しかし、片道方式にも代償がある。
片道方式では、送り出された者は過去の時空に恒常的に固着する。彼らはその時空で生き、死ぬ。彼らの意識は、彼らの生きたその時空のその場所に、永遠に埋め込まれる。
これは比喩ではない。物理的な意味でそうである。
ここで興味深い、しかし極めて厄介な事実が一つある。
送り出された者が過去の時空で何かを『書き残した』場合、その書き残されたものは二つの経路で我々の時空に影響する。
第一の経路。通常の考古学的な経路。書き残されたものは物理的に四千年の時を経て、我々の時代の地層から掘り出される。これは我々が慣れ親しんだ歴史学の対象である。
第二の経路。量子的な直接経路。書き残された物体は、送り出しの際に生じた微弱な量子結合の残滓を通じて、我々の側の特定の受信条件が満たされたとき、直接我々の時代の特定の空間座標に出現し得る。
第二の経路が発現する条件はまだ正確に特定できていない。ただし、以下の三条件が揃った場合、確率は有意に上昇する。
(1)書き残しの内容が、送り出した側への明示的な呼びかけを含むこと。
(2)書き残しの物理的媒体が四千年間破壊されずに残存すること。
(3)書き残しが埋設された地点が、送り出し座標との時空的な短絡経路上にあること。
これらの条件が揃ったとき、書き残された物体は掘り出される前に、我々の時代の送り出し施設の特定地点に直接出現する可能性がある」
——
鶴岡はこの論文を七年抱え込んでいた。
理由は二つあった。
一つは、この論文を公表すれば、送り出された七人の誰かが書き残しを通じて呼びかけてくる可能性が社会的に期待されてしまうことだった。期待は失望を生む。もし四千年の時を経て何も届かなかったら、送り出された七人の家族は二重に傷つく。
もう一つの理由は——鶴岡は自分でも認めたくなかったが——彼自身がその呼びかけを恐れていたからである。
呼びかけが届いたとき、彼は何と答えるつもりなのか。
「ようこそ、四千四百四十四年へ」と書けるだろうか。
「あなた方を片道で送ってしまった私たちを許してください」と書けるだろうか。
——
六月十六日の夕方、鶴岡は論文のファイルを閉じた。
彼は研究室を出て廊下を歩き、榊の所長室のドアをノックした。
「入って」
鶴岡はドアを開けた。
「所長。少しお時間いいですか」
榊はコーヒーカップを置いて彼を見た。
「鶴岡さん。ちょうど良かった。私もあなたに話があります」
鶴岡は椅子に腰を下ろした。彼は革のブリーフケースから、七年ぶんの厚さのある紙の束を取り出した。(4444年でも、鶴岡は重要な論文は紙で書く男だった)
「これを公表しようと思います」
榊は束の表題を読んだ。彼女はしばらく動かなかった。
「……鶴岡さん。あなたはこの論文を七年公表しなかった」
「はい」
「なぜ、いま」
鶴岡は少し笑った。笑うのは彼にしては珍しかった。
「昨日の夜、夢を見ました」
榊も少し笑った。
「奇遇ですね。私もです」
——
二人がその夜それぞれ見た夢の話は、この物語の最後で書く。
いまは、こう書いておく。
鶴岡 慧はその日の夜、榊と二時間話した。話の内容は送り出し計画の凍結、七人の書き残しを受信するための量子アンテナの再設計、そしてもし呼びかけが届いたときに我々は何と答えるべきかについてだった。
夜十一時、鶴岡は研究所を出た。
彼は浮島の橋を渡りながら、暗い水面を見下ろした。
「送り出したのは我々だ」と、彼は口に出した。
誰も聞いていなかった。彼は続けた。
「送り出した以上、届いたものは受け取らねばならない」
——
これが鶴岡の、この時点での決意だった。



第三章 転送室オペレーター・巳沢 千夏(みさわ ちなつ)
巳沢 千夏は二十九歳の女性で、七分所の一階転送室の主任オペレーターだった。
彼女の仕事は青い輪を動かすことだった。
具体的には、被験者が転送室に入ってから送り出しボタンを押すまでの約十四分間の装置の状態監視、被験者の生体データ確認、環状液体の流速調整、そして送出の実行である。
——彼女は七人全員を送り出した。
一人目、柊 蘭。
二人目、毛利 剛。
三人目、久保田 修。
四人目、八雲 千秋。
五人目、水島 弦。
六人目、野々村 詩織。
七人目、アキラ・スワ。
七人とも彼女がボタンを押した。
七人とも彼女の目の前で、青い輪の向こうに消えた。
——
巳沢はこの仕事に就いたとき二十四歳だった。就任前の面接で、彼女は審査官にこう聞かれた。
「あなたは人を送り出せますか」
彼女は答えた。
「送り出せます」
審査官は続けた。
「送り出された者は戻って来ません。あなたが押すボタンは、その人の人生の最後のボタンです。それでも押せますか」
彼女はしばらく考えた。
「押せます。ただし条件があります」
「何ですか」
「私が七人送り出したら、八人目は私を送ってください」
——
彼女の申し出は記録された。しかし正式に受理されたかどうかは、彼女自身いまでもはっきりとは知らない。
彼女はその申し出のことを他の誰にも言わなかった。両親にも、恋人にも、友人にも言わなかった。彼女には恋人がいた。彼女は彼を愛していた。愛していたが、いつか自分は青い輪の向こうに消えるつもりだった。
なぜか。
理由は彼女自身にもうまく説明できなかった。
ただ、こうは言えた。
「七人の最後の顔を見た人間が、その七人と同じ時代に同じ場所にいてやらないと、彼らはあまりに寂しい」
彼女はそう思っていた。
彼女はそれを恋人には言わなかった。恋人は彼女が優秀なオペレーターとして日々仕事をこなしていることだけを知っていた。
——
七人目、アキラ・スワを送り出した日の夜、巳沢は一人転送室に残った。
青い輪はまだ微かに鳴っていた。金属の輪の中を環状液体が流れる音である。それは遠くの鈴虫の声のような音だった。
彼女は輪の前に立った。
「アキラさん」
彼女は輪に話しかけた。
「向こうで絵を描いてくださいね。あなたが描く絵は、たぶん四千年後の私たちがみることはないでしょう。でも、あなたが描いたということは私は覚えています」
彼女は一人一人の送り出しの日を覚えていた。
一人目、柊 蘭。四四四〇年三月十二日。曇り。柊は緊張していた。輪に入る前、彼女は巳沢に向かって小さく頷いた。
二人目、毛利 剛。四四四〇年九月三日。晴れ。毛利は剣道の稽古着で来た。彼は輪に入る前、深呼吸を七回した。
三人目、久保田 修。四四四一年二月八日。雪。久保田は装備の点検を輪に入る直前までしていた。彼は巳沢の顔を一度も見なかった。(見ないことが彼の優しさだったと、彼女はあとで思った)
四人目、八雲 千秋。四四四一年七月十九日。晴れ。八雲は輪に入る前、巳沢に「ありがとう」と言った。彼女は七人の中で唯一そう言った被験者だった。
五人目、水島 弦。四四四二年一月二十六日。晴れ。水島は輪に入る前、巳沢に小さな包みを渡した。中には彼が最後の夜に作った握り飯が二つ入っていた。
六人目、野々村 詩織。四四四二年十一月十日。曇り。野々村は輪に入る前、巳沢の目をじっと見た。「あなたもいずれ来る予定ですか」と彼女は聞いた。巳沢は答えなかった。野々村は少し笑った。「もし来たら、瀬戸内の小さな島を探してください。私はそこにいると思います」
七人目、アキラ・スワ。四四四三年五月四日。晴れ。アキラは輪に入る前、巳沢の顔をしばらくじっと見た。それから彼はこう言った。「あなたのいまの顔を、俺は向こうで描くと思う。名前を教えてくれ」
「巳沢 千夏、です」
「ミサワ、チナツ」と彼は繰り返した。「良い名前だ」
——
いま、六月十六日、日曜日。
七人目を送り出してから、一年一ヶ月と十二日が経過していた。
八人目の選定は進んでいた。巳沢は八人目を送り出したら、自分から榊所長に申し出るつもりだった。
「私を九人目に送ってください」と。
——
しかし、その申し出は翌日行われないことになる。
なぜなら翌日正午、榊所長は送り出し計画の凍結を宣言するからである。
そのことを巳沢はまだ知らない。
彼女は青い輪の前にしばらく立っていた。
輪は静かに青かった。
「みなさん」と彼女は七人に話しかけた。
「私もいつか行きます。行って、あなたたち全員を探します。全員に会えるとは思いません。でも一人でも二人でも見つけられたら、その人にこう言います。あなたを送り出したのは私です。ごめんなさい、と」
彼女は青い輪に手を伸ばした。
輪は彼女の手に触れると、少しだけ暖かかった。
——
巳沢 千夏のこの時点での決意はそうだった。
翌日、彼女の決意は榊所長の決意と真正面からぶつかることになる。



第四章 被験者訓練責任者・榊 悠子(さかき ゆうこ)
榊 悠子は五十九歳の女性で、被験者の訓練責任者だった。
彼女は榊 遥の四歳年下の妹である。
姉が所長で、妹が訓練責任者。この人事は就任当時、少なからず議論を呼んだ。しかし悠子は姉のコネで採用されたわけではなかった。彼女は二十年以上、災害地・紛争地への非常時派遣員の訓練を担当してきたその道の第一人者だった。片道で過去へ送られる被験者たちを精神的・実務的に鍛え上げるのに、彼女以上に適した人材は地球圏にはいなかった。
しかし、姉妹の間には微妙な緊張があった。
姉・遥は、被験者を「送り出す」側の責任者。
妹・悠子は、被験者を「送り出せる状態にまで仕上げる」側の責任者。
悠子は七人全員を一年から二年かけて訓練した。彼女は七人全員の体力、精神力、専門技能、そして「戻れない」という事実への精神的な受容をテストし、鍛えた。
七人全員が輪に入る前の最後の一週間を、悠子と二人きりで過ごした。
その一週間は公式には「最終適応期間」と呼ばれていたが、実質的には別れの期間だった。
——
悠子は七人全員に同じ質問を最終週の最後に投げかけた。
「あなたは、なぜ行くのですか」
答えは七通りだった。
柊 蘭。「私は四千四百四十四年で意味を感じられなかったからです。腸内細菌の三千種を暗記していても、私は一度も誰かの命を直接救ったことがありません。向こうではたぶん、一人か二人は救えます。それだけで行く意味はあると思います」
毛利 剛。「剣道七段のこの技を実戦で試してみたいと、若い頃思っていたことがあります。もう若くない。でも、まだ試したい。それだけです」
久保田 修。「私は一人で生きるのが得意です。四千四百四十四年でも一人で生きてきた。向こうでも一人で生きられる。ただ、こちらで一人で生きるより、向こうで一人で生きるほうが少しだけ意味がある気がします」
八雲 千秋。「言葉が消えていくのを見たいからです。四千四百四十四年でも言葉は消えています。しかし私はそれを記録できていない。向こうならたぶん記録できます」
水島 弦。「四千四百四十四年の食材は貧しいです。向こうの食材は豊かです。それだけですと言いたいのですが、たぶんそれだけではありません。私は料理を必要としている人に食べさせたい。四千四百四十四年の私の客は料理を必要としてはおらず、料理を消費していました。向こうの人はたぶん料理を必要としています」
野々村 詩織。「記者だからです。空白があるなら埋めにいくのが記者の仕事です。埋められなくても、埋めにいったという事実だけで記者は記者でいられます」
アキラ・スワ。「なんとなくです。すみません、これしか言えません。映画監督はなんとなく動く生き物です」
——
悠子はこれらの答えをすべて彼女の手帳に書き留めた。手帳は革表紙の古いもので、彼女の母の形見だった。
七人分の答えを書き終えた日の夜、悠子は姉の家を訪ねた。
姉妹は月に一度、姉の家で食事をしていた。この夜もその日だった。
姉の家は浮島の南端にあった。狭い二部屋の質素な住居だった。姉は料理をしなかったため、妹が作った。
——
「姉さん」と悠子は鍋をかき混ぜながら言った。
「うん」
「七人目のあとの八人目の話、進んでるんだって」
「進んでる」
「候補、誰」
姉はしばらく黙っていた。
「まだ正式には言えない」
「じゃあ、非公式で」
「悠子」
姉は妹の名を久しぶりに呼んだ。
「あなたに聞きたいことがある」
「なに」
「あなた、七人の訓練を終えて、いまどう思ってる」
悠子は鍋の火を弱めた。
彼女はしばらく鍋を見ていた。それから彼女は姉の顔を見た。
「もう送らないほうがいいと思ってる」
姉は頷いた。
「理由は」
「七人とも、あちらの人になるつもりで行ったからよ」
姉は頷いた。
「続けて」
「あの子たち、七人とも四千四百四十四年で生きるのを諦めて行ったんじゃない。四千四百四十四年で生きるのをたぶん間違えたと感じて行ったのよ。生き方を間違えた。生きる場所を間違えた。生きる時代を間違えた。だから行ってしまえば、あちらではたぶん本来の自分として生きられると思って行ったの」
「うん」
「これ以上送るなら、送るべき人はいないと私は思う。八人目に相応しい人はいても、その人を送るべきではないというのが私の結論よ」
姉は深く頷いた。
「悠子」
「うん」
「私も同じことを考えてる」
「じゃあ、姉さん」
「明日、私は凍結を宣言する」
——
姉妹はその夜、鍋を二人で食べた。
食べながら悠子は思い出していた。八雲千秋が輪に入る前の日、彼女にこう言ったことを。
「悠子さん。あなたは私たちを送り出す訓練をしました。でも、あなた自身は『送り出されない訓練』をしましたか」
悠子は答えられなかった。
八雲は少し笑って続けた。
「私たちは行きます。あなたは残ります。残るほうのほうがたぶん難しいですよ。行くほうは『もう戻れない』と決めれば、それで覚悟が決まります。残るほうは『まだ生きねばならない』という、無限の覚悟の更新が必要です」
悠子はそのとき涙が出た。
八雲は彼女の頭をそっと撫でた。
「悠子さん。私たちはあなたを覚えています。向こうへ行っても」
——
いま、悠子は鍋を食べながら姉に話した。
「姉さん。八雲さんのあの言葉。『残るほうのほうが難しい』って。あれ、私、まだ答えられていない」
姉は頷いた。
「答えられなくていいのよ。答えられないまま明日凍結を宣言する。それが私たちの答えなの」
姉妹は静かに鍋を食べ終えた。
——
榊 悠子のこの時点での決意はそうだった。
翌日、彼女は姉の凍結宣言を支持する側に立つ。
彼女はそれをあらかじめ決めていた。



第五章 予算・広報担当・堂島 直(どうじま なお)
堂島 直は三十七歳の男性で、七分所の予算と広報を一人で担当していた。
彼は技官ではなく事務官だった。しかし彼のいない研究所は成立しなかった。なぜなら予算を取ってくるのも、記者会見で嘘をつかずに嘘をつくのも、政府の査問委員会で泣きそうになりながら耐えるのも、すべて彼の仕事だったからである。
彼はこの研究所に来て九年になる。九年で彼は髪の四分の一を失い、胃薬を日に三回飲むようになった。娘は七歳になった。妻は彼を二年前に諦めた。(離婚はしていない。しかし妻は月に十日以上、実家にいた)
——
六月十六日、日曜日。
堂島は月曜日の予算査問委員会の想定問答集を作っていた。
査問委員は五人。全員が政府のそれぞれ違う部局の、それぞれ違う思惑を抱えていた。
想定される質問はいつも同じだった。
問一。「七人送り出して、七人とも戻って来ていない。この計画は失敗ではないか」
答え。「戻って来ないことは計画の既知の前提です。失敗ではありません。(本音:戻れないという時点で、失敗の定義次第では失敗である)」
問二。「四千四百四十四年にこれだけの予算をかけて、過去のことを調べる意味はあるのか」
答え。「歴史的空白を埋めることは、我々の文明の自己理解に不可欠です。(本音:これに答えられる者は、この研究所にたぶん一人もいない)」
問三。「戻って来ない被験者の家族への補償はどうなっているのか」
答え。「規定に従い、生涯給与相当額を一括で支払っています。(本音:金では償えないことを金で償っている)」
——
堂島は想定問答集を書き終えて、椅子に深く腰を沈めた。
彼は天井を見た。
「もう駄目だ」と、彼は口に出した。
彼はこの計画を続けたくなかった。
続けたくなかったというより、続ける意味を彼は失っていた。
九年前、彼はこの研究所に来たとき若く野心的だった。歴史の空白を埋めるプロジェクトの広報担当。彼は自分を時代の最前線に立っていると感じていた。
しかし九年経って、彼はこう思うようになった。
——歴史の空白は埋まらない。
——なぜなら、埋めに行った者が戻って来ないから。
——戻って来ないということは、埋まったかどうかこちらには確認しようがないということである。
——確認できないものを「埋まった」と主張することは詐欺である。
——私は九年間、詐欺の広報担当をしていた。
——
彼は翌日、月曜日の朝、榊所長に辞表を出すつもりだった。
彼の書いた辞表は鞄の中にあった。
彼は鞄を開けて辞表を取り出し、読み返した。
「所長様。九年間お世話になりました。私はこの計画の広報をこれ以上続けることができません。理由は、私がこの計画の意義を信じられなくなったからです。信じられないものを信じている振りをして政府に、市民に伝えることは私の職業的良心が許しません。深く感謝しつつ、辞職を申し出ます。堂島 直」
彼は辞表を鞄に戻した。
そして彼は自分のデスクの引き出しを開けた。
引き出しの一番奥に、一枚の写真があった。
——
写真は四人の家族写真だった。
堂島と妻と、七歳の娘。
そして写真の右端に、五歳のときに死んだ堂島の息子。
息子は生まれつき心臓に問題があった。四千四百四十四年の医療でも彼の心臓は直せなかった。彼は五歳の誕生日の翌週に死んだ。
堂島がこの研究所に来る二年前の話である。
——
堂島はなぜこの研究所に来たのか。
彼は自分でもはっきりとは分かっていなかった。
しかし彼は時々こう思った。
息子が生きていた五年間のあの時間。あの時間はどこへ行ったのか。
四千四百四十四年に息子はいない。しかしあの五年間はあった。それは確かにあった。堂島は息子の顔をいまでも覚えている。息子の笑い声を覚えている。息子の小さな手が堂島の指を握った感触を覚えている。
あった時間はどこへ行くのか。
もし時間が消えないなら——もし時間がどこかに残っているなら——その残っている時間のどこかに、息子はまだいるのではないか。
堂島はそれを信じていた。信じていなかったが、信じたかった。
彼はこの研究所に来て九年、そのことを誰にも言わなかった。
——
彼は写真をしばらく見つめた。
そして彼は辞表を机の上に置いた。
しかし彼は辞表を翌日、榊に出さなかった。
なぜなら——彼はその夜、夢を見たからである。
その夢の話も、この物語の最後で書く。
——
彼は辞表を鞄に戻した。
代わりに彼は新しい紙を取り出し、こう書いた。
「所長様。私はこの計画の凍結を正式に提案いたします。八人目以降の送り出しを中止し、既に送り出した七人からの書き残しの受信に全予算を振り向けるべきです。詳細は月曜日の朝、直接伺います。堂島 直」
彼はその紙を鞄に入れた。
彼は椅子から立ち上がり、灯りを消して事務室を出た。
——
堂島 直のこの時点での決意はそうだった。
翌朝、彼はその紙を榊所長の朝の卓上に置くことになる。
榊は既に同じ結論に達していた。しかし彼女は堂島の紙を丁重に受け取ることになる。



第六章 装置整備技術者・伏見 蒼太(ふしみ そうた)
伏見 蒼太は四十二歳の男性で、青い輪の整備責任者だった。
彼はこの研究所の誰よりも青い輪のことを知っていた。
輪の環状液体の正確な組成(それは機密である)、輪の金属部分の微細な歪みの経年変化、輪の外部電磁場との干渉パターン、そして——輪が時々ひとりでに鳴る、その音の意味。
伏見は青い輪を生き物として扱っていた。
彼は輪に名前を付けていた。輪の正式な型番は「TS-4440-Aプロト」だが、彼は輪を「キョウカ」と呼んでいた。京華とも共花とも書けたが、伏見自身は漢字を決めていなかった。ただ口頭でキョウカと呼んだ。
なぜそう呼んだのか。彼は誰にも説明しなかった。
——
伏見は輪と話をした。
夜、誰もいない転送室で彼は輪の前に座り、輪と話をした。
「キョウカ。今日は久保田さんを送ったな。装備の点検、輪に入る直前までしていた。お前、あの人の緊張、感じただろう」
輪は答えなかった。しかし伏見は輪が何かを感じているのを知っていた。
輪の環状液体の流速が送り出しの前後で微妙に変化することを、伏見は七年前から記録し続けていた。流速の変化パターンは被験者ごとに異なった。柊のときは緩やかで規則的だった。毛利のときは急峻で力強かった。久保田のときは抑制的で静かだった。八雲のときは優雅で複雑だった。水島のときは温かく穏やかだった。野々村のときは鋭く正確だった。アキラのときは揺らぎがちで、しかし深かった。
これらの変化を、伏見はこう解釈した。
輪は被験者を記憶している。
——
伏見はこの解釈を鶴岡に話したことがあった。
鶴岡はしばらく黙って聞いた。それから彼は言った。
「伏見さん」
「はい」
「あなたのその解釈は、公式には支持できません。物理的な根拠がありません」
「はい」
「しかし——」
鶴岡は続けた。
「非公式には、私はあなたの解釈を否定しません。私自身、輪が被験者ごとに微妙に違う挙動を示すことは七年観察してきました。物理ではまだ説明できません。でも説明できないことは『存在しない』ということではありません」
伏見は頷いた。
——
いま、六月十六日の夜。
伏見はまた転送室に来ていた。
キョウカは静かに鳴っていた。
「キョウカ。俺、今日決めたんだ」
輪は答えなかった。
「明日、俺、所長に言う。お前を止めてくれ、って」
伏見は青い輪に触れた。
輪は暖かかった。
「お前はたぶん、七人分の記憶を持ってる。それを消したくない。でもこれ以上送り出すたびに、お前の中の記憶の密度が上がっていく。俺はそれが怖いんだ」
彼は深く息を吐いた。
「お前はいま、七人分。それで十分だ。八人目を送ったら、お前はたぶん変質する。俺の勘だ。物理的な根拠はない。でも、勘だ」
輪はまた答えなかった。
しかし輪の環状液体の流速が微かに変わった。
伏見はそれを感じた。
——
伏見は輪の傍らにしばらく座っていた。
彼は思い出していた。
七人目、アキラ・スワを送り出したあの日。アキラは輪に入る前、伏見のほうを振り返ってこう言った。
「整備の人。この輪、いい輪だ。俺は向こうで、この輪の絵をたぶん描く。輪の色は何色に描いたらいい」
伏見は答えた。
「青、です。ただの青じゃなくて、存在の青、です」
アキラは笑った。
「存在の青、か。分かった。そう描く」
そして彼は輪の向こうに消えた。
——
伏見はいま、その青を見ている。
存在の青。
彼はこの青が四千年後、いや四千百年前のいまの四世紀のどこかで、アキラの筆によって和紙に写し取られたことを知らない。しかし彼はなぜか、それを知っている気がしていた。
——
伏見 蒼太のこの時点での決意はそうだった。
翌朝、彼は鶴岡と榊に輪の停止を正式に提案する。
提案は既に受け入れられていることを、彼はまだ知らない。



第七章 記録係・七尾 匡(ななお ただし)
七尾 匡は二十四歳の男性で、七分所の記録係だった。
彼はこの研究所の最年少の正職員だった。仕事は単純だった。すべてを記録すること。会議の議事録、送り出しの詳細記録、被験者の最終インタビュー、装置の日々の状態、そして技官たちの日常の会話。
会話の記録は公式には任意である。しかし七尾はそれを日課にしていた。彼はいつも小さな録音機を胸ポケットに入れていた。技官たちはそれを知っていたが、誰も嫌がらなかった。七尾は記録したものを勝手に外に漏らさないということが皆に信頼されていた。
——
七尾はなぜ記録係になったのか。
理由は彼の生い立ちにあった。
彼の父はこの研究所の二代目の装置整備技術者だった。
父は七尾が六歳のとき、タイムマシンの初期実験事故で消えた。
正確に言うと父は被験者ではなかった。父は整備中の事故で青い輪の前身装置に巻き込まれたのだった。装置は当時まだ極めて不安定だった。父の体は装置ごと十七世紀のどこかへ送られたと、事後の解析では推定された。しかしそれはあくまで推定だった。父の体が実際にどこへ行ったのか、いつの時代に着いたのか、着いた先で彼が生きたのか即死したのか、これらすべてはいまも分かっていない。
七尾は母に育てられた。母は七尾が十九歳のときに病気で死んだ。
七尾は天涯孤独だった。
彼は大学を卒業してこの研究所に来た。志望動機を聞かれ、面接でこう言った。
「父の行方を知りたいからではありません。父の行方を知ることはたぶんもうできないと理解しています。私が来たいのは、父のような人をこれ以上増やさないためです。増やさないためにはすべてを記録する必要があります。記録はたぶんそれだけで抑止になります。書かれると知っているから人は慎重に動く。私は書く役に就きたいです」
彼は採用された。
——
七尾はこの五年間、驚くほど大量の記録を蓄積した。
紙のノートで四百二十七冊。
デジタルのテキストファイルで約六千万字。
音声記録で約一万四千時間。
写真で約十二万枚。
これらは七分所の公式アーカイブと、七尾の個人アーカイブにそれぞれ分けて保管されている。
七尾はこれらを四千年残すことを目指していた。
「四千年残る記録はどうやって作れますか」と、彼はある日鶴岡に聞いた。
鶴岡は笑った。
「難しいですね。石に彫るのがいちばん確実です。ただし内容は極めて短く要約する必要があります」
「六千万字を要約したら何字くらいになりますか」
「たぶん、七千字くらいに」
七尾は頷いた。
「では、七千字に要約します」
——
七尾はこの五年間、四千年残るための要約作業を進めていた。
彼はこの作業を「七千字プロジェクト」と名付けていた。
七千字はまだ完成していなかった。
——
六月十六日の夜。
七尾は事務室で七千字の最新草稿を読み返していた。
草稿はこう始まっていた。
「西暦四四三八年から四四四四年までの七年間。日本、時間工学研究所・第七分所。所員四十六名。うち被験者として過去へ送られた者、七名。過去へ送られた者はいずれも戻って来ていない。送り出したのはこの研究所の以下の技官たちである——」
そして続いていた。
「所長・榊 遥。理論物理学・鶴岡 慧。転送室オペレーター・巳沢 千夏。訓練責任者・榊 悠子。予算・広報・堂島 直。装置整備・伏見 蒼太。記録係・七尾 匡。そして以下記載する他の三十九名の所員たち——」
七尾は四十六人全員の名前と簡単な経歴と、この研究所での役割を書いていた。
四十六人分で約三千字。
残りの四千字で、彼は七人の被験者の最終インタビューの要旨を書いていた。
一人あたり約五百七十字。
——
七尾はその最新草稿を印刷した。
印刷した紙を、彼は大きな封筒に入れた。
封筒にはこう書いた。
「四千年後の誰かへ」
彼は封筒を机の上に置いた。
彼は翌朝、この封筒を榊所長に渡すつもりだった。
彼は榊にこう頼むつもりだった。
「所長。この七千字を石に彫らせてください。研究所の地下に埋めます。四千年後、たぶん掘り出されます。掘り出されたとき、私たちが何をしていたのか、七人がなぜ行ったのか、これで伝わります」
——
七尾はその翌朝、榊に封筒を渡した。
榊は封筒を受け取り、読んだ。読み終えて彼女は少し笑った。
「七尾さん」
「はい」
「石に彫る代わりに、もっと良い方法があります」
「どんな」
「七人の書き残しの量子的な受信を待つ、という方法です」
七尾はまばたきをした。
「所長。それはたぶん届きません。私は鶴岡先生のあの論文の噂を知っています。届く可能性は極めて低いと」
榊は頷いた。
「その通りです。しかし可能性はゼロではない。もし届いたら七千字は要らなくなります。届かなかったら、あなたの七千字を彫ります。どちらにせよ、あなたの五年間の仕事は無駄にはなりません」
七尾は頷いた。
「分かりました。では、待ちます」
——
七尾 匡のこの時点での決意はそうだった。
彼は待つことにした。
商談や実験の成果を焦ることもなく、彼はただ待ち続けることになる。
四十九年間、彼はこの研究所で待つ。
彼は七十三歳で病を得る。彼が倒れる直前、瀬戸内海の小さな島で素焼きの壺が掘り出されることになるのだが、それはまだ先の話である。



終章 ——三つの夢、そして、六月十七日の正午——
六月十六日の夜。
三人の技官がそれぞれ夢を見た。
榊 遥は若い頃の恋人の夢を見た。
恋人は白亜紀後期に送られたきり消息不明の男である。夢の中で彼は三十歳のままで、白亜紀の湿った森の中に立っていた。彼は榊を見て笑い、こう言った。
「遥。もういい。もう送るな。ここは思っていたより悪くない。俺はこちらで幸せだ。お前もそちらで幸せになれ」
榊は目が覚めた。彼女はしばらく天井を見ていた。
彼女は朝、決意した。八人目は送らない。
——
鶴岡 慧は、彼がまだ書いていない論文の続きの夢を見た。
論文の続きにはこう書かれていた。
「量子的な受信の条件は以下の通りである。送り出す側が送り出しを明示的に放棄したとき、そのとき初めて、送り出された側の書き残しは量子経路を通じて送り出す側に届く可能性が生じる」
鶴岡は目が覚めた。彼はしばらく暗闇を見ていた。
彼は朝、決意した。論文を公表する。
——
堂島 直は死んだ息子の夢を見た。
息子は五歳のままで、四千四百四十四年の堂島のリビングに立っていた。息子は堂島を見て笑い、こう言った。
「パパ。時間は消えないよ。ぼくの五年問も消えていない。ちゃんとあそこにある。だからパパ、もう他の人を探しに行かせないで。ぼくはここにいるから」
堂島は目が覚めた。彼はしばらく隣で寝ている妻の背中を見ていた。(その日、妻は実家から帰って来ていた)
彼は朝、決意した。辞めない。凍結を提案する。
——
六月十七日、月曜日。
正午。
七分所の会議室に四十六人が集まった。
榊 遥が演壇に立った。
彼女は原稿を持って来なかった。
彼女はこう始めた。
「みなさん。今日、この研究所の送り出し計画を正式に凍結します」
会議室が一瞬静まった。
続けて彼女は言った。
「理由はたくさんあります。しかし、いちばん大きな理由はこうです。七人は既に十分に生きています。私たちはこれ以上、彼らの世界に追加の未来人を送り込む必要はありません」
彼女は続けた。
「私たちのこれからの仕事は、待つことです。七人の書き残しが届くのを待ちます。届くまでに何十年かかるか分かりません。私たちの誰かは届く前に死にます。私もたぶん届く前に死にます。しかし届くまで、この研究所は存続します。私たちは待ちます」
彼女は深く頭を下げた。
「みなさん、これまでありがとうございました。そしてこれから、待つことに付き合ってください。よろしくお願いします」
——
会議室は静かだった。
やがて、拍手が起こった。
拍手は長く続いた。
——
その日の夜、伏見 蒼太は青い輪の前に座り、こう言った。
「キョウカ。お前はこれから眠る。眠って、七人の書き残しが届くのを待つ。俺もお前と一緒に待つ」
輪は答えなかった。
しかし輪の環状液体の流速が微かに変わった。
伏見はそれを感じた。
——
以後、七分所は「待ちの研究所」になった。
被験者は送られなくなった。
装置は伏見の手で丁寧に整備され続けた。輪は青いまま、静かに鳴り続けた。
榊 遥はその後二十一年生きた。彼女は八十四歳で死ぬ前に、後任の所長にこう伝えた。「必ず待ってください。届きます」
鶴岡 慧は論文を公表した。論文は学界に少なからぬ衝撃を与えた。しかし彼はその後の議論にあまり参加しなかった。彼は六十七歳で静かに退官した。
巳沢 千夏は送り出しを続けなかった。彼女は青い輪の整備補助として伏見の下で働き続けた。彼女は四十歳で恋人と結婚し、四十二歳で娘を産んだ。娘の名は七夏(ななつ)と付けた。七人の記憶を忘れないためである。
榊 悠子は被験者の訓練をしなくなった。しかし彼女は姉の遺した仕事——残ることの訓練——を始めた。彼女は遺された技官たち、そして消息不明の被験者の家族たちに残る覚悟を教えた。彼女は七十六歳まで生きた。
堂島 直は辞めなかった。彼は予算を取り続けた。「待つための予算」を政府から絞り出すのが彼の以後の仕事だった。彼は髪の半分を失った。彼は五十九歳で心臓発作で死んだ。彼の妻はそのとき、彼の傍らにいた。
伏見 蒼太は青い輪を整備し続けた。彼は輪に話しかけ続けた。彼は六十三歳で退官した。退官のとき、彼は輪にこう言った。「キョウカ。俺はもう来られない。あとは若い人に任せる。でも、俺はお前を忘れない」
——
そして、七尾 匡。
七尾は最年少だった。彼がいちばん長く待った。
彼は四十九年待った。
——
四四九三年、七月十七日。
七分所はまだあった。
所員は既に常勤で十二人しかいなかった。予算は堂島の後任の後任の後任が細々と繋いでいた。青い輪は伏見の後任のそのまた後任が整備していた。
七尾は七十三歳で、その研究所でまだ記録係をしていた。彼は既に白髪だった。彼は独身のまま老いていた。
七月十七日の朝。
七尾はいつものように事務室に出勤した。
彼は自分のデスクの上に素焼きの壺が置かれているのを見た。
壺は彼が置いた覚えがなかった。
壺は明らかに古いものだった。四千年、いや四千年以上経っていると彼は直感した。
壺の口は蝋で密封されていた。
七尾はしばらく壺を見ていた。
それから彼は震える手で壺の蝋を剥がした。
中には木簡の束と樹皮の紙の束、そして一通の和紙の手紙があった。
——
七尾は手紙を開いた。
手紙はこう始まっていた。
「四千四百四十四年の、みなさんへ」
七尾はしばらく読めなかった。
視界が涙で滲んでいた。
彼は椅子に腰を下ろした。
彼は深呼吸を七回した。
それから彼は読み始めた。
——
彼が手紙を読み終えたのは正午だった。
彼は手紙を丁重に机の上に置いた。
彼は立ち上がり、事務室を出た。
彼は廊下を歩いた。廊下は四千四百九十三年の七月の日差しで明るかった。
彼は所長室のドアをノックした。
「入って」
彼はドアを開けた。
新しい若い所長——榊 七夏(さかき ななつ)、巳沢千夏の娘の娘——が机の前に座っていた。彼女は三十四歳だった。
「所長」
「はい」
「届きました」
——
以後、その日の夕方、緊急学会が招集された。
学会は三日三晩続いた。
四日目の朝、学会は結論を出した。
「発掘物は真正である。手紙は真正である。しかし、公開はしない」
理由は手紙の三つ目に書かれていた。
「空白は、空白のままで良い」
——
七尾 匡はその日の夕方、青い輪の転送室に行った。
輪はまだ静かに鳴っていた。
彼は輪の前に座った。
彼は輪に話しかけた。
「キョウカ」
彼は伏見がそう呼んでいた名を、初めて口に出した。
「届いた。四千百三十三年経って、届いた。俺、待ってた甲斐があった」
輪は答えなかった。
しかし輪の環状液体の流速が微かに変わった。
七尾はそれを感じた。
——
七尾はその夜、家に帰った。
彼は机に向かった。
彼は白紙を取り出した。
彼はこう書き始めた。
「四千百三十三年、待ちました。届きました。書き残しは五人ぶん。それに代表者一名字の手紙。全員、こちらから見て当時既に死んでいます。生前の彼らを覚えている者は、この研究所にはたぶん私、七尾 匡一人だけです。私もあと数年で死にます。だから書きます。書いて残します——」
——
彼がそのとき書き始めたのが、この『前日譚』である。
彼は七分所の四十六人ぶんの記録を遡り、七人の技官——榊 遥、鶴岡 慧、巳沢 千夏、榊 悠子、堂島 直、伏見 蒼太、そして彼自身、七尾 匡——の群像としてそれをまとめた。
彼は五年かけてそれを書き上げた。
書き上げた原稿は彼の遺書と共に榊七夏に託された。
七夏はそれを七分所の地下の専用保管庫に収めた。
保管庫の扉にはこう彫られていた。
「送り出したのは我々である。届いたものは我々が受け取った」
——
七尾 匡は五年後、七十八歳で死んだ。
彼は独身のまま死んだ。
彼の机の上には鉛筆と白紙、そして「存在の青」と呼ばれる青い絵の具の小瓶が置かれていた。
彼は生前、この小瓶を大切にしていた。彼は時々この小瓶を開け、指の先に少しだけ青を取り、それを和紙に点として置いた。
彼の遺した和紙には、無数の青い点があった。
——
無数の青い点。
一つ一つが、たぶん四十六人ぶんの記憶の痕跡だった。
そしてその中の七つの点は、遥か遠くの四世紀の湿地と、王の館と、山の洞穴と、瀬戸の小島と、いくつかの川辺と、山城の離れの部屋に繋がっていた。
——
——前日譚、了。

送り出したのは我々である。
届いたものは我々が受け取った。


Amazon Kindle




あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作品は、古代日本の謎に包まれた4世紀(いわゆる「空白の4世紀」)へと時空を超えて渡った人々を描いた前作『謎の4世紀』と対をなす物語として執筆いたしました。
前作が「過去の時代へ降り立ち、二度と戻れぬ世界でいかに生き、何を残したか」という「行く者たち」の物語であったのに対し、本作は「なぜ彼らは片道しか作れなかったのか」「なぜ送り出しを止めたのか」という「残された者たち」の責任と誓いをテーマにしています。
SFという枠組みを借りてはいますが、ここで描きたかったのは「人と人とのつながり」と「過ぎ去った時間への愛おしさ」です。
誰かをどこかへ見送った経験を持つすべての人へ、そして今自分がいる場所で精一杯生きているすべての人へ、この静かな救いの物語が届くことを願ってやみません。
また、本電子書籍の制作・校正にあたり温かいご助言やご感想を寄せてくださった読者の皆様、そして陰ながら支えてくれた家族に、この場をお借りして心より感謝申し上げます。
四千年という時の隔たりを超えて結ばれた彼らの「青い点」のように、この物語が皆様の心の中に小さくも温かい灯火として残り続けることを祈っております。



謎の4世紀





氣が付けば

身体は65歳となっており

そろそろだよ と

周囲の環境に責められ


仕方なくも

えいっ! と

昨年末でセミリタイアしまして


ならばと
わずかに出来た自分の時間の中で
素人が素人なりに
生きた何かを残したいと思い

長年 溜め込んで来た
勝手な夢の物語を
急ぎ足で纏め始めました

それをこの春から
AmazonのKindle へと
載せて来たものが
今週で200冊ともなって

これで
当初の目標100冊の倍にもなり
そこそこを残せたかと思いながらも

生き急ぐかのように纏めた
バカバカしい落書きのような短編は
まだまだ
膨大にその案が残っておりますので

週に10冊までのKindleの規制を
これからも続けて行けば

今年も残り21週
年内に400冊に
達すると思うわけです

そしたら
来春には500にもなるかと
最終目標を持って
更にそのペースを早めましたので

もうしばらく
ここの清書前の試し書きにも
お付き合い下さい


Amazon Kindle







そうそう
以前 描いた落書きの絵も
600枚ほど残してありますので

いつか
それらのすべてを
何らかの形で纏めておきたいとも
思っております

子供たちに
ゴミとして
処分されない内に… 笑


レンタンの匂い
〜夢の街の物語〜


【まえがき】
ふとした瞬間に、理由もなく胸がキュッとなるような「匂い」や「音」はありませんか?
雨上がりの土の匂い、遠くから聞こえる夕方のチャイム、どこかの家から漂う夕飯のカレーの香り、そして――練炭を焚く、あの少し煙たくて甘い匂い。
大人になり、守るべきものが増え、慌ただしい日常を送る中で、私たちは幼い頃の記憶を少しずつ頭の隅へと押しやってしまいます。けれど、あの頃触れた温もりやワクワクした気持ちは、消えてしまったわけではありません。ただ、心の奥にある小さな部屋に、そっとしまわれているだけなのです。
この物語は、五十を過ぎた主人公・タカシが、夢の中で失われた昭和の路地裏へと帰っていくお話です。
もしよろしければ、あなたご自身の懐かしい思い出の鍵を手に取り、タカシと一緒にこの「夢の街」の路地を散策してみてください。読み終えたあと、あなたの心の扉がカタリと動き、少しだけ優しくあたたかい気持ちになっていただけたなら幸いです。





一、レンタンの匂い
タカシは、もう五十を過ぎたおじさんだった。
会社に勤めて、家族を持って、白髪も増えた。けれど月に一度か二度、決まって同じ夢を見る。
夢の中でタカシは、いつも六つか七つの子供に戻っている。そして、夕暮れどきの、どこか懐かしい町の路地に立っているのだ。
その日も、タカシは夢の入り口に立っていた。
きっかけはいつも同じ。どこからともなく漂ってくる、レンタンを焚く匂いだった。あの、少し煙たくて、でも不思議と胸の奥があたたかくなる匂い。
匂いをたどって路地を曲がると、木造の借家がぎっしりと軒を連ねる一角に出る。夕焼けが屋根瓦を橙色に染めていて、どこかの家からラジオの音が漏れている。
「ああ、また来た」
タカシはそうつぶやいて、小さな下駄を鳴らしながら歩き出した。この町では、タカシもちゃんと子供の姿だ。半ズボンから伸びた膝小僧に、擦り傷のかさぶたまである。
この町には名前がない。タカシは心の中で、ただ「夢の街」と呼んでいた。



二、住人たち
夢の街には、いつも同じ人たちが暮らしている。
最初に出会うのは、路地の角の飴屋のオバちゃんだ。
「あら、タカシ坊、おかえり」
オバちゃんはガラスの瓶からニッキ飴をひとつ取り出して、タカシの手のひらに乗せてくれる。この飴には不思議な力があって、口に入れると、その日いちばん忘れていた思い出がふわりと浮かんでくるのだった。
飴屋の隣は本屋で、そこにいるオネエちゃんは、いつも表の縁台に腰かけて本を読んでいる。オネエちゃんの貸してくれる本は、読んでいるうちに挿絵がすこしずつ動き出す。魚の絵は水路を泳ぎ、鳥の絵は本の外まで飛んでいってしまうこともあった。
少し先には、鋳掛屋のオバちゃんが座り込んで、欠けた鍋や薬缶を直している。カンカン、コンコンと金づちの音を立てながら、オバちゃんはこう言うのが口癖だった。
「壊れたものはね、直せば直るぶんだけ、まえより大事になるんだよ」
鋳掛屋の向かいには乾物屋のオジちゃんがいて、干した魚や昆布の匂いに包まれながら店番をしている。オジちゃんは、欲しいものを言うと、代わりに「小さな願いごと」をひとつ聞いてくれた。ただし、その願いごとがどこへ届くのかは、誰も知らなかった。
団子屋には、オジちゃんとオバちゃんの夫婦がいて、蒸したてのお団子を串に刺しながら、いつも二人でくすくす笑っている。あの団子は、食べた人の忘れていた誰かの顔を、そっと思い出させてくれるのだと、タカシは信じていた。
町外れの駐在所には、オジちゃんが自転車にもたれて立っている。この人だけが、少し違う役目を持っていた。
「タカシ坊、そろそろ帰る時間だぞ」
駐在所のオジちゃんは、いつも夢の終わりを教えてくれる人だった。
そして、この町でいちばんの物知りは、大家の先生だ。白髪頭に丸眼鏡をかけて、いつも縁側でお茶を飲んでいる。先生は、この街がどうしてできたのかを知っている、たったひとりの人だった。



三、水路のどじょう
夏の夕方、タカシは決まって借家の裏の水路をのぞきに行く。
澄んだ水の中には、小さな魚の群れが銀色に光りながら泳ぎ、石の陰にはどじょうが潜んでいる。運がよければ、赤黒いザリガニが鋏を振り上げているのも見えた。
タカシは棒切れを持って水路にしゃがみこみ、どじょうを追いかける。追いかけては逃げられ、逃げられては追いかける。それだけで、日が暮れるまでの時間がまるまる過ぎてしまう。
「捕まえられなくたっていいんだよ」
いつのまにか隣にしゃがんでいた鍛冶屋のおじいちゃんが言った。おじいちゃんは店先でいつもトンチンカン、トンチンカンと金づちを鳴らしていて、その音は水路のせせらぎと混ざり合って、ひとつの音楽のように聞こえた。
「大事なのは、追いかけただろう、ってことだけさ」
おじいちゃんはそう言うと、また店先に戻っていった。



四、行ってきまーす
夢の中では、ときに遠い日の記憶が、昨日のことのように鮮やかに蘇ることもあった。
朝になると、タカシは幼稚園の制服に着替えて、大きな声で叫ぶ。
「行ってきまーす!」
道の途中にはパン屋さんがあって、そこの息子が仲良しだった。タカシは毎朝、パン屋の前で「おーい」と声をかけ、二人並んで幼稚園までの道を歩く。焼きたてのパンの匂いが、二人の肩掛けバッグにまで移ってしまいそうなくらい香ばしい。
幼稚園ではお昼寝の時間がある。けれどタカシは、お昼寝が大嫌いだった。
みんなが布団に入って目を閉じているあいだ、タカシはこっそり靴を履いて、先に外へ出てしまう。先生に見つかると叱られるのだけれど、それでもタカシは我慢できなかった。
「だって、寝てるあいだに、あの街のことを忘れちゃいそうな気がするんだもん」
タカシは、誰にともなくそう呟きながら、ひとりで家までの道を歩いて帰るのだった。



五、街が消える日
けれどある日、いつもと様子が違っていた。
タカシがレンタンの匂いをたどって路地を曲がると、いつもの借家の連なりが、少し透けて見えるのだ。飴屋のオバちゃんの声も、心なしか遠くから聞こえるように、かすれている。
「オバちゃん、どうしたの?」
タカシが尋ねると、オバちゃんは寂しそうに笑った。
「タカシ坊。あんたも、もうすぐこの街の外で、たくさんのことを覚えなくちゃいけなくなる。学校のこと、お仕事のこと、大人になってからのこと。頭の中の場所は限られてるからね、覚えることが増えるぶん、忘れることも増えるのさ」
「じゃあ、この街も、忘れちゃうの?」
タカシの声が震えた。
そのとき、大家の先生が縁側からゆっくりと立ち上がって、こちらへやってきた。
「タカシや。この街はな、おまえが忘れようとしても、勝手に消えたりはせんよ」
先生は眼鏡の奥の目を細めて、続けた。
「この街は、おまえの中の、いちばんあたたかい場所にしまわれておる。ただし、しまわれた場所は、時々でも扉を開けてやらんと、埃をかぶって見えにくくなる。それだけのことじゃ」
「扉って?」
「レンタンの匂いを、覚えておくこと。水路のどじょうを追いかけた、あの手応えを覚えておくこと。飴の甘さ、お団子の湯気、鍛冶屋のトンチンカンという音――そういう、小さいものをな」
先生はそう言って、タカシの頭をそっと撫でた。
「大人になっても、時々でいい。夢のかたちで、この街に帰っておいで。わしらは、いつまでもここにおるから」



六、目覚め
駐在所のオジちゃんが、自転車の鐘をチリンと鳴らした。
「タカシ坊、そろそろ帰る時間だぞ」
「うん」
タカシは、いつものように頷いた。振り返ると、飴屋のオバちゃんも、本屋のオネエちゃんも、鋳掛屋のオバちゃんも、乾物屋のオジちゃんも、団子屋の夫婦も、鍛冶屋のおじいちゃんも、みんな路地に立って手を振っていた。
「行ってらっしゃい」
「また、おいでね」
「今度は、飴をもう一個あげような」
タカシは大きく手を振り返して、それから、ゆっくりと目を開けた。
七、それから
タカシは、五十いくつのおじさんの姿で、自分の寝室の天井を見上げていた。
窓の外はもう朝で、隣の部屋からは家族の生活音が聞こえてくる。夢の中の匂いは、もう鼻の奥にほんの少し残っているだけだった。
タカシは布団の中で、ひとりつぶやいた。
「行ってきまーす、か」
それから起き上がって、いつも通りの一日を始めるのだった。
けれど、通勤電車の中で、ふと焼き芋屋の煙のにおいがしたとき。休日に近所の川で、子供が魚を追いかけているのを見かけたとき。タカシの心の奥で、小さな扉がカタリと動く音がした。
その扉の向こうには、いつでも、あの街が待っている。
夕焼けに染まる借家の屋根と、レンタンの匂いと、懐かしい顔たちが。
――そう、きっと今夜も。

(おわり)


アマゾン キンドル




【あとがき】
「練炭の匂い」という言葉に、どこか懐かしさや哀愁を感じる方は多いのではないでしょうか。
私たちは年齢を重ねるにつれ、覚えなければならない現実的な事柄が増え、その分だけ昔の体験や素直な感情を「忘れていく」生き物なのかもしれません。けれど、鋳掛屋のオバちゃんや大家の先生が語ったように、直した分だけ大事になるものがあり、忘れたように思えても心の奥の一番あたたかい場所に残っているものがあります。
ふと立ち止まったとき、焼き芋の煙や川のせせらぎに触れて「あの日」を思い出す。それだけで、明日からの日常がほんの少しだけ愛おしく、誇らしく思えるのではないでしょうか。
この小さな物語が、忙しない日々を生きるあなたの心に、ささやかな温もりを届ける一杯のお茶のような存在になれたなら、とても嬉しく思います。
いつの日も、あなたの心の中にあの美しい夕焼けと、あたたかな街が在り続けますように。

蒼穹の代理人
―青い鳥、還る島―


まえがき
ある世代にとって、アイドルとは単なる「芸能人」ではありませんでした。 青春の記号であり、初恋の代名詞であり、時には人生の道標そのものでした。 とりわけ、輝かしいスポットライトの真ん中から突如として姿を消してしまった存在は、ファンの心の中に「未完の物語」として永く留まり続けます。 もしも、その止まった時間が動き出す場所があるとしたら。もしも、二度と会えないはずの誰かと彼女を引き合わせる「代理人」が必要だとしたら――。 この物語は、そんなささやかな「IF」から始まりました。




序 海図にない島
気象衛星の写真には、瀬戸内海のあの海域に島は存在しない。 海上保安庁の海図にも載っていない。 それなのに、年に一度――いや、正確には「彼女」が呼んだときにだけ、その島は波の下から浮かび上がるのだという。 これは、私がまだ半信半疑だった頃の話だ。 今はもう、信じるほかない。
 


1 招待状
病室の窓から見える桜は、もう三分咲きだった。 ヒロユキが逝ったのは、その桜が満開になる二日前のことだ。 「なあ、頼みがあるんだ」 最後に会った日、ヒロユキは点滴の管を気にしながら、枕元の引き出しから一枚のチケットを取り出した。紙のはずなのに、自ら微かに青く発光しているように見えた。私はそれを目の錯覚だと思うことにした。 『青い鳥 復活ライブ』 そう印刷された文字の下に、日付と、聞いたこともない島の名前があった。地図アプリで検索しても、その名前はヒットしなかった。 「桜井純子、還ってくるんだよ、あの島に」 ヒロユキは中学の頃からの筋金入りのファンだった。私が他の大ヒットアイドルに夢中だったのに対し、彼は頑なに「純子派」を貫いていた。彼女が表舞台から姿を消した後も、彼は彼女を嫌いになれなかった。 「行ってきてくれ。俺の代わりに」 「お前が行けばいいだろう」 軽口のつもりだった。だがヒロユキは笑わなかった。 「幸せの青い鳥は、来るかな」 それが、彼の最後の言葉になった。



2 誰も知らない航路
葬儀の三週間後、私は言われるままに港へ向かった。チケットに記された乗り場は、地方の小さな漁港の、使われていないはずの桟橋だった。 だが、そこには確かに船があった。 古びた白い連絡船。船体に社名はなく、ただ小さく「青い鳥」とだけペンキで書かれている。 乗り込むと、船内はすでに七、八割方埋まっていた。乗客は見事なまでに同世代以上の男性ばかりで、時折その息子ほどの年恰好の若者が混じる程度だった。誰もが皆、同じ青く発光する紙片を大事そうに握りしめている。 「隣、いいですか」 声をかけてきたのは、ぽっちゃりとした青年だった。手には早くも菓子袋があり、甘い匂いが漂ってくる。 「どちらから?」 「北海道からです」と彼は微笑んだ。「やっと会えますね」 「僕は……先立った友人の代わりに来たんだ。彼が最期にくれたチケットで」 「へえ……それじゃあ、そこまでお好きというわけでは」 「ああ、確かに、さほどではない。でも、まったくでもない」 正直な答えだった。私が知っているのは、彼女にまつわる断片的な記憶と、あの頃ヒロユキが目を輝かせていた横顔くらいのものだ。 「心の中に、あいつを連れてきたつもりです」 私は自分の胸のあたりに手をやった。窓の外では、見慣れたはずの瀬戸内の景色が、次第に見知らぬ色に変わっていく。空の青は、次第に濃く、深くなっていく。誰もそれを不思議がらなかった。まるで、皆すでに知っていることのように。



3 海図にない島、再び
上陸すると、そこは確かに無人島だった。 桟橋以外に人工物はなく、携帯電話は圏外を示していた。時計の針だけが、やけにゆっくり進んでいるように感じられる。 「こんなイベントの時だけ現れる島、なんだそうです」 青年が誰かから聞いたらしい話を教えてくれた。 「じゃあ、普段は――」 「海の底、なんじゃないですかね」 冗談めかして言った彼の言葉が、なぜか笑えなかった。 会場は小高い丘の上、天然芝の広場だった。仮設ステージが組まれ、観客はそのまま芝生に座る形式らしい。数えれば三百人ほど。全員が着席していたが、開演前から誰もが立ち上がる気配を隠せずにいた。 薄く陰った空の下、私たちは待った。



4 降臨
轟音とともに、一機のヘリコプターが丘の上に降り立ったのは、開演時刻ちょうどだった。 巻き起こる風に芝が波打ち、砂埃が舞う。誰かが叫ぶように名前を呼んだ。 タラップを降りてきた彼女――桜井純子は、遠目にもわかるほどの、色褪せない美しさを纏っていた。長い沈黙の年月など、まるでなかったかのように。 ステージに上がった彼女は、マイクを取ると、静かに歌い出した。 ようこそここへ 青い鳥…… 「こんにちは。遠くまで、ようこそ」 彼女の声に、会場の男たちが一斉に「こんにちはー!」と叫び返す。まるで少年に戻ったような声だった。 私は最後列で、その光景をただ眺めていた。 「おい、来たよ」 心の中で、私はヒロユキに語りかけた。 「おい、見えてるか」 その瞬間、耳元で確かに聞こえた気がした。 ――いるよ。ありがとうな。 空耳だと片付けるには、あまりに鮮明な声だった。



5 少し遅れて咲いた花
考えてみれば、私自身は時代の真ん中にいた大スターたちに熱狂していたわけではなかった。 少し遅れてデビューした、決して大きく売れたわけではないマイナーなアイドルを、教室の隅でひっそり気にかけていた程度だ。テレビの向こうの遠い存在より、教室にいる現実の少女たちの方に、私の心はいつも向いていた。 ヒロユキとはそこが違った。彼にとって純子は、決して手の届かない、それでいて誰よりも近い存在だった。だからこそ、彼は最後まで彼女を嫌いになれなかったのだろう。 ステージは熱気に包まれ、アンコールも終わった。 「ではまた、いつかどこかで」 彼女はそう言って微笑み、皆に手を振ると、再びヘリに乗り込んで飛び去っていった。



6 二つ買う男
帰りの船で、隣の青年は大量のグッズを抱えて、心底嬉しそうにしていた。 「そんなに買ったんですか」 「ええ。あるもの全部、二つずつ」 「二つ?」 「楽しむ用と、保存用です」 そう言って少年のように笑う青年を見て、私は胸が少し痛むのを感じた。彼のように自分の純粋な熱量でここに来たわけではないからだ。 「何も買わなかったんですか」 「代わりに来ただけだから」 「お土産は……」 言われて、はっとした。ヒロユキに、何か持ち帰らねばならなかったのだ。だがもう、あいつに何かを渡す先など、この世のどこにもない。 事情をかいつまんで話すと、青年は言葉を選ぶように「それは、それは……」と黙り込んだ。 そのときだった。 再びヘリの音が、船の上空に響いた。



7 入れ替わり
連なる波の彼方から迫るヘリは、やがて私たちが乗る連絡船の広い後部甲板へと静かに降り立った。中から現れたのは、確かに先ほどの彼女だった。 「ここに、ヒロユキくんは来ていますか」 その声に、船内の数人が反射的に手を挙げた。彼女は静かに首を振る。 「ごめんなさい。あなたたちではなく」 私は迷いながらも、手を挙げた。 「彼の代わりに、私が来ました」 「そうなの?」 駆け寄ってきた彼女の瞳には、すでに涙が浮かんでいた。 「どうして、あなたが……」 事情を話すと、彼女は大粒の涙をこぼしながら、私に抱きついた。 そのとき、耳元で確かにあいつの声がした。 ――ここにいますよ。連れてきてもらってます。 その声は、彼女にも聞こえたようだった。 「え? どこに?」 彼女が辺りを見回した、その瞬間―― 気がつくと、視界は少しだけ高い位置にあった。私の、いや、私だったはずの身体があった場所に、ヒロユキが立っていた。


8 運命という名の答え合わせ
自分の姿から離れたところで、私はその光景をただ見ていた。この身に何が起きたのか、理屈で説明することはできない。ただ、そういうものだと、なぜか納得していた。 「やっと、会えたのね」 彼女は確信に満ちた声でそう言って、ヒロユキに――もう一度、強く抱きついた。 二人はそのまま、光の中に溶けるように、姿を消した。 気がつくと、私は元の自分の姿に戻り、船の甲板に立っていた。 「な、何が……」 隣で、青年が信じられないという顔をしている。 「わからない」 私にできた返事は、それだけだった。



9 帰路
陸に着いても、二人でしばらく茫然と立ち尽くしていた。何が起きたのか、答え合わせのしようもない。 「では、また、どこかで」 それだけを言い合って、私たちは別れた。彼は北へ。私は帰る場所へ。 家に帰ってからも、私は何度も心の中でヒロユキに呼びかけた。 「おい、いるか」 だが、もう何も返ってこなかった。



終章 妻 純子
数日後、私はヒロユキの墓の前に立っていた。 「なあ、あれは、いったい何だったんだ」 墓石に問いかけても、答えはない。ただ、ふと、耳の奥で微かに声がした気がした。 ――ありがとうな。夢が、叶ったよ。 墓誌に目をやると、そこには彼の名の隣に、見覚えのない一行が新しく刻まれていた。 日付は、つい昨日。 妻 純子 まさか、と思う間もなく、その夜のニュースが、私の疑念を裏付けることになる。 「元人気アイドルの桜井純子さん、島でのイベント後、行方が分からなくなっていることが分かりました――」 翌朝、私はテレビの前で、それをただ黙って見つめていた。 そしてもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。 「不思議な夢を見たのかもしれない」 ――だが、夢なんかじゃない。だって、墓誌に刻まれたあの文字だけは、決して消えはしないのだから。

(了)

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・出来事は全て架空、あるいは物語上のIFです。



アマゾン キンドル



あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 70年代から80年代にかけてのアイドル黄金期、誰もが「誰派か」を熱く語り合っていた時代がありました。しかし、その熱狂の渦中から少し離れ、クラスの隅で自分だけのささやかな推しを静かに見つめていた少年もまた、確かに存在していたはずです。 今回の主人公は、決して物語の中心にいる熱狂的な当事者ではありません。親友の狂おしいほどの情熱に圧倒されつつも、それを優しく見守っていた「傍観者」です。だからこそ、彼は友人の「代理人」として、あの海図にない島へと辿り着くことができました。 ラストシーンで起きた出来事が、怪異だったのか、奇跡だったのか、あるいは遺された者が抱いた美しき夢だったのか――それは読者の皆様の解釈に委ねたいと思います。 あなたの心の中にも、時を超えて還るべき「青い鳥」が寄り添っていますように。

『オーブ、あるいは神様の目録について』



まえがき
この物語は、悲しみの測り方についての物語です。
悲しみは、時間が癒す、と言われます。でも実際には、悲しみは消えません。形を変えて、視界の隅に残り続けます。
もし、その残り続けるものに名前と意味があったら。もし、忘れてしまうのが人間だけで、宇宙の側は何一つ忘れずにいてくれるとしたら。
そんな仮定から、この「目録」の話は始まりました。




一章 観測者
月島詠人がそれに気づいたとき、妻を亡くして半年が経っていた。三十四歳の秋だった。
最初は飛蚊症だと思った。視界の端をよぎる埃のような光。瞬きをしても、目を閉じても、まぶたの裏に淡く残る。白でも金でもない。朝露が朝日を透かした一瞬のような色だった。
誰にも話さなかった。話す相手が、もういなかった。
妻の遺した観葉植物に水をやり、コンビニのおにぎりを齧り、リモート会議に出て、シャワーを浴びて眠る。その生活の中で、粒は常に彼の半径一メートル以内にあった。
ある夜、洗面所の鏡の前で、粒が一つ、鏡の中の彼の右肩に止まった。止まった、としか言いようがない動きだった。歯ブラシを口から抜き、右手を伸ばす。掌の上、一センチの空間。触れられないのに、確かにそこにいた。
「何」
声に出すと、粒は目の前まで上がってきて、わずかに明るくなった。返事のように。



二章 カウント
翌週、会社の健診に脳ドックのオプションをつけた。「最近、視界に霞むものが」とだけ言った。
結果は異常なし。医師は笑って言った。「奥様のこと、まだ眠れていますか」
頷いた。診察室の蛍光灯の下でも、粒は見えていた。医師の白衣の襟に二つ。看護師の耳元に一つ。自分自身の周りには、いつの間にか五つになっていた。
帰りの電車で、初めて数えた。
優先席で居眠る男の周りに一つ。ベビーカーを押す若い母親の周りに七つ。スマホを見て舌打ちする学生の周りには、ゼロだった。
次の駅で乗ってきた老婦人の周りには、十以上の粒が星団のように寄り添っていた。彼女は隣で泣く幼児に飴を差し出し、母親に会釈して窓の外を見た。その瞬間、粒が一つ増えるのを、詠人は見た。



三章 声
粒に声があると気づいたのは、ひと月後だった。音ではない。意味だけが、輪郭を持って頭の中に浮かぶ。
――記録しています。
ベッドで飛び起きた。
「何を」
――あなたの行いを。すべて。
「何のために」
――目録のために。
胸の奥が鈍く痛んだ。妻が亡くなる前日、病室で彼女が言った言葉を思い出したからだ。
「私ね、死んだら全部、覚えていられるのかな。あなたと出会ってから今日までのこと、ぜんぶ」
答えられなかった。「覚えていてほしい」とだけ絞り出した。
粒が言った。
――忘れられません。私たちが、覚えています。



四章 オブザーバー計画
オーブ、と呼ばれていることを、ネットで知った。心霊写真の光の玉だ。ほとんどは埃だが、説明のつかないものもある。
調べるうち、一つの論文に行き着いた。『Project Ledger: 意識場における観測子仮説』スタンフォードの物理学者が2019年に出した、学界では無視された論文だった。
要旨はこうだ。宇宙には人間の行為を情報として記録する微小な観測子が偏在している可能性がある。電磁波でも重力波でもない未知の相互作用で存在し、特定の条件下で視覚野に干渉する。これを暫定的にOrbと呼ぶ。
末尾に、日本人の共著者がいた。九条千歳。京都在住、独立研究者。



五章 千歳
千歳は鞍馬の山中にある庵のような家に住んでいた。十一月初め、紅葉が始まった午後だった。
縁側に座る女性は六十代半ばに見えた。細身で、背筋が竹のように真っ直ぐだった。
「月島さんね。たくさん連れているわ」
自分の肩を見た。彼女には見えている。
玄米茶は香ばしく、少し塩の味がした。中には古い本と天体観測機材、電子顕微鏡が秩序を持って並んでいた。
「オーブは宇宙の記録装置です。ただし記録しているのは物理現象ではない。倫理です。誰に何を渡し、誰から何を奪ったか。誰を助け、誰を傷つけたか」
「閻魔帳みたいなものですか」
千歳は微笑んだ。「昔の人はそう呼びました。今は情報場と呼びます。名前が違うだけ」



六章 欠損
その夜、囲炉裏で聞いた。
「見えるようになるのは二つの場合だけ。極端に徳を積んだ人。もう一つは、大きな欠損を負った人。魂の一部が剥がれ落ちて、そこから見えないものが見えるようになる」
詠人は胸に手を当てた。妻を失ってから、風が吹き抜ける空白があった。
「私もそうでした。三十年前、息子を十一日で亡くしました。それから見え始めました」
炭が爆ぜた。
「最初は絶望しました。息子の周りには、三つしかなかった。十一日で、三つ」
沈黙の後、千歳は顔を上げた。
「でも三十年追いかけて、分かったことがあります。オーブは、死んだ人にも増えるんです」



七章 増える
「死んだ人に」
「ええ。生きている間に積んだ行いが、時間差で他人の人生に作用することがある。五十年前の誰かが植えた木が、今日誰かの日陰になる。そのたびに、亡くなった人の目録に記録が加わるの」
詠人は東京の仏壇を思い浮かべた。あの部屋に、今いくつのオーブがいるだろう。
「目録を、読みに行きませんか」千歳が言った。



八章 目録
「オーブをある方法で密集させると、記録を再生できる。ただし読めるのは自分自身のものと、強い縁で結ばれた人のものだけ」
妻の目録を読める、と悟った。
「危険はあります。読むとは追体験すること。相手が感じた喜びも痛みも後悔も、そのまま感じます」
「妻の痛みも」
「ええ。言えなかった不安も、全部」
囲炉裏の火が頬を照らしていた。やがて詠人は言った。
「読みます。妻は覚えていてほしいと言いました。だから覚えなきゃいけない」
千歳は奥から古い木箱を持ってきた。中には直径五センチほどの金属球。表面に細かな幾何学模様が刻まれていた。
「共鳴装置です。オーブを引き寄せる触媒。亡くなった夫の遺品です。東京の仏壇の前で開けてください」



九章 箱
「設計は夫が遺したものです。数十年で三つしか作れなかった」
「読んで、どうでしたか」
千歳は少し考えた。
「知らなかったことをたくさん知りました。息子が十一日の間に私の指をどれだけ強く握ってくれたか。夫が隠していた優しさがどれだけあったか。そして私が気づけなかったことも。後悔はしました。でもそれ以上に、こんなにも愛されていたのだと、感謝が湧きました」



十章 再生
翌日の夜、仏壇の前で部屋を暗くし、蝋燭を一本灯した。金属球を置き、呼吸を整え、名を呼ぶ。
佳奈。
球がかすかに暖かくなった。空気が動き、天井から光の粒が降りてくる。十、二十、百。球の周りに光の繭ができた。指先が触れた瞬間、彼は佳奈になった。



十一章 佳奈の目録 一
2008年春、大学入学式。雨。初めてのパンプスの踵が痛む。傘を差した男子学生が声をかけてきた。詠人だった。自分はただ困っている人を助けたつもりだったが、彼女はその時、この人と長く一緒にいると直感していた。傘の下で彼の右肩がずぶ濡れなのに、何も言わなかったからだ。
2012年冬、プロポーズの夜。嬉しさより先に怖かった。自分がこの人を幸せにできるのか。指輪を受け取った手の震えは、感動ではなく責任の重さだった。
2019年夏、子どもができないと分かった日。気にしないで、と言った夜、詠人が寝た後、トイレで声を殺して泣いた。子どもが欲しかったのではない。詠人の子どもをこの世に残したかった。



十二章 佳奈の目録 二
2023年春、診断の日。病院からの帰り、涙は出なかった。駅前のパン屋で詠人の好きなクリームパンを二つ買った。あと何回二人で食べられるだろう、と考えながら。
2023年夏、髪が抜け始めた朝。抜けた髪をゴミ箱ではなく小さな封筒に入れた。彼が悲しむ顔を見たくなかった。封筒は今も下着の引き出しの奥にある。
2024年春、最後の朝。命が数時間だと直感で分かった。詠人の手を握って言った。
覚えていてほしい。
ずっと忘れないで、という意味だと思っていた。違った。
本当はこうだった。
あなたが私を愛してくれたことを、あなた自身が忘れないで。私が死んだ後、もっとしてあげられたはずだと自分を責める日が来る。その時思い出して。あなたは十分に私を愛してくれた。だから自分を許してあげて。
仏壇の前で声を上げて泣いた。オーブたちが明るく輝いていた。



十三章 増えた粒
泣きつくして気づいた。金属球の周りのオーブの中に、色の違う一群があった。他が淡い金なのに対し、桜色をしていた。
佳奈のオーブだ。死後も増え続けていた。生前、近所の一人暮らしの老婦人におかずを届けていた。その老婦人は今も佳奈に教わった煮物を孫に作っている。学生時代の一度の献血が、名も知らない誰かの命を繋ぎ、その人は今も家族と暮らしている。
オーブはそれを一つ残らず記録していた。
その光の端に、深く沈む小さな黒い粒が一つあるのを、この時はまだ気づかないふりをした。



十四章 黒い粒
冬、木箱を返しに京都へ行った。
「伝えなければいけないことがあります。オーブにはもう一種類あります。黒い粒。負債の記録です。誰かを傷つけ、奪った時に生まれる。徳の粒よりずっと深いところに沈むので普段は見えません」
「それはどうなるんですか」
「死んだときに、閻魔が数えます」



十五章 閻魔
「比喩ですか」
「半分は比喩、半分は事実。情報場には記録するものの他に、評価するものがいる。裁くというより清算する。生きている間に積んだ徳と負債の差し引きが、次の行き先を決めます。輪廻とも成仏とも呼ばれてきたものです」
雪を見ながら聞いた。
「佳奈はどこに」
「まだあなたの周りに彼女のオーブがあるでしょう。それが答えです。行き先が決まった魂のオーブはこの世から消えます」



十六章 もう一つの依頼
「私はもう長くありません。膵臓に腫瘍があります。七十を過ぎたら無理をしない方がいい」
千歳は詠人の手を取った。
「三十年分の観測記録と機材と装置の設計図を、誰かに引き継いでほしい。必要なのは物理学ではない。信じ続ける力です」
「僕にですか」
「あなたに。私は五十人以上に目録を読ませました。ほとんどが救われた。少しだけ救われなかった人もいます。でも読まない自由も、あっていい」
頷いた。
「引き継がせてください」



十七章 春
翌年の春、千歳は静かに逝った。葬儀は庵の縁側で数人だけで行われた。
遺体の周りに数えきれないオーブが集まっていた。金、桜、若草、空、藤、そして虹色。彼女が読ませた五十人の記録と、その先で救われた人々の余波が、帰ってきていた。
「先生、続けます」
オーブたちは詠人の周りに移った。バトンのように。



十八章 目録の家
東京の仕事を辞め、庵に移り住んだ。退職金とマンションを売った金で暮らせた。
初夏、木戸を叩く音がした。三十代半ばの疲れ果てた女性だった。幼い娘を事故で亡くしたという。母から聞いた庵の噂を頼りに来たのだという。
「九条先生は春に亡くなりました」
肩を落とす彼女の肩に、小さな光が一つ、消えそうに明滅していた。
「上がってください。お茶を淹れます」
囲炉裏に通し、木箱を持ってきた。
「学者ではありません。でも、娘さんが遺した記録を一緒に探すことはできます」
女性は泣きながら頷いた。帰り際、縁側に小さな飴の包み紙が落ちていた。



十九章 観測者たち
数年が流れた。庵は知る人ぞ知る目録の家と呼ばれるようになった。宣伝はしなかったが、救われた人々の口伝えで、失った者たちがひっそり訪ねてきた。
ある秋、自分の手を見た。皺が増え、白髪が目立つ。庵に来て二十年近く経っていた。
縁側で夕暮れを見ていると、庭一面が光で埋まった。何千、何万のオーブだった。訪れた人々が遺し、社会に戻って蒔いた種から生まれた光が、山を包んでいた。
その中心に、あの黒い粒が浮かんでいた。妻を救えなかった悔恨、自分だけ生き残った罪悪感から生まれた、胸の奥に沈んでいた自分の負債だった。
今、その周りを無数の薄紅のオーブが包んでいた。黒い粒は摩擦で溶けるように小さくなり、やがて淡い桃色に変わった。
清算とは、こういうことか。人は誰かを愛し、誰かのために生きることで、自らの負債をも光に還元できる。



終章 神様の目録
目を閉じると懐かしい声がした。
詠くん、ご苦労様。
目を開けると、とびきり明るい薄紅のオーブが目の前にいた。隣に千歳の虹色が並んでいる。
指先からも微かな光が零れ始めていた。誰かの悲しみに寄り添い、思い出を一緒に抱きしめてきた時間が、自らの目録として輝いている。
宇宙は広大な図書館だ。星が生まれ消えるように、人の想いも小さな一歩も、すべてはここに記録されている。忘れてしまうのは人間だけで、この宇宙そのものは何一つ失わせはしない。
遠くの山道から足音が聞こえた。また一人、深い欠損を抱えた旅人が歩いてきている。
詠人は共鳴装置を手に取った。
「ようこそ。お茶を淹れましょう」
光に満ちた部屋へ足を踏み出した。



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あとがき
書き終えて思うのは、この物語のオーブは、特別な能力の話ではないということです。
誰かのためにした小さなことが、見えないところで誰かを支え続けている。その連鎖を、僕らは普段数えずに生きています。でも数えなくても、確かにそこにあります。
喪失の後に残る空白は、欠陥ではなく、窓なのかもしれません。そこから見える光が、次に来る誰かのための灯りになる。
もし今、あなたの周りにも見えないオーブがあるとしたら、それはあなたがこれまでに渡してきたものの証です。どうかその光を、信じてみてください。


刻堕とし 十八 
〜文七元結異聞・捨て身喰らい〜

継ぎ目守異聞
古典落語「文七元結」より



まえがき
「文七元結」という噺は、江戸落語の中でも屈指の情の深さを持つ一席である。腕は良いが博打にのめり込み、身を持ち崩した左官の長兵衛。見かねた娘のお久は、父を立ち直らせるため、自ら吉原の見世に身を沈め、父に五十両の金を用立てさせる。
その金を懐に、ほろ酔いで家路をたどっていた長兵衛は、大川端で、身投げをしようとしている若い男を見かける。男の名は文七、奉公先の店の掛け取り(集金)の金五十両をすられたと思い込み、申し開きが立たぬと命を絶とうとしていたのだ。
長兵衛は一瞬迷った末、娘が身を売って作ってくれた、あの大切な五十両を、見ず知らずの文七に押し付けるようにして渡し、命を粗末にするなと諭す。
後日、実は文七がすられたと思っていた金は、店に置き忘れていただけだったことが判明する。文七の主人は恩人である長兵衛の家を訪ね、事の次第を知って深く感謝し、双方が心を通わせ、めでたくお久と文七が夫婦になる運びとなる――そんな、見返りを求めない捨て身の情けが、巡り巡って幸せを呼び込む、実に江戸っ子らしい人情噺である。
この噺の重みは、長兵衛が一瞬の迷いの末に下した、損得を度外視した決断そのものにある。娘の犠牲によって得た金を、赤の他人の命のために手放す――それは、計算では決してできない、捨て身の情けだった。
ところが、とある写しにおいて、この「見返りを求めない捨て身の情け」という、かけがえのない一瞬が、あちこちの継ぎ目で無数に引き延ばされ、誰も本当には救われない事態が起きているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、大川端の橋のたもとへと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、川面の異変
鏡面に映ったのは、大川の川面だった。だが、その水面には、幾人もの人影が、橋のたもとに立ち尽くしたまま、いつまでも動かずにいる様子が映っていた。
継ぎ目守圭馬へ。演目「文七元結」における『見返りを求めぬ捨て身の情け』の型が、無数の継ぎ目で歪められ、決断の瞬間だけが引き延ばされ続ける事案を確認。誰も救われず、誰も踏み出せぬまま、橋のたもとに留め置かれる者が続出。至急現地調査されたし。
「決断の瞬間が、引き延ばされ続ける、たあ、これは辛い話だね」
圭馬が川面を見つめて呟くと、弥七が神妙な面持ちで立っていた。
「旦那、文七元結たあ、あっしがこのシリーズで一番、身につまされる噺でさ。長兵衛さんの決断、あれは、そうそう真似のできるもんじゃありやせん」



二 長兵衛とお久
継ぎ目を抜けると、そこは長屋の一室だった。左官の長兵衛が、娘のお久を前に、うなだれていた。
「おとっつぁん、このままじゃ、おっかさんも、あたしらも、共倒れに入っちまう。あたし、覚悟を決めました」
「お久、そんな……お前を売るなんて、そんなことはできねえ」
「いいの。おとっつぁんが博打から足を洗ってくれるなら、あたし、本望です」
弥七が目を伏せた。
「旦那、あっしはこの場面、何度見ても、胸が痛みやす」
「ああ。だが、この娘の決意があってこそ、この後の長兵衛さんの決断が、生きてくるんだ」



三 大川端にて
娘の身売りで得た五十両を懐に、ほろ酔いで家路をたどる長兵衛。大川端の橋のたもとに差し掛かったところで、若い男が、思い詰めた様子で欄干に手をかけているのが見えた。
「お前さん、待ちなせえ」
長兵衛が慌てて声をかけると、男――文七は、涙ながらに事情を語った。店の掛け集めた大事な金五十両をすられ、主人に合わせる顔がない、と。
圭馬は、その場面をそっと見守りながら、声を低くした。
「弥七、ここから先が、この噺で最も重い場面だ。……だが、俺たちが見るべきは、その先にある、長兵衛さんの決断だ」



四 五十両を手放す
長兵衛は、懐の五十両を握りしめたまま、しばし言葉を失っていた。娘が身を売ってまで作った、かけがえのない金。だが、目の前には、それを失えば命を絶とうとしている若者がいる。
「……これを持って行きな」
長兵衛は、震える手で五十両を文七に押し付けた。
「お前さんの命の方が、よっぽど大事だ。金なんぞ、また稼げばいい」
文七は驚き、固辞しようとするが、長兵衛は聞かなかった。
「弥七、見たか。あの一瞬の決断。あれは、損得も理屈も超えたところにある、捨て身の情けだ」
「旦那……」
弥七の声が、珍しく湿っていた。



五 止まらぬ橋のたもと
ところが、その場面を見届けたはずの圭馬たちは、ふと妙なことに気づいた。長兵衛が五十両を渡した後も、文七が涙ながらに礼を言う場面が、いつまで経っても終わらないのだ。
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます」
同じ礼の言葉が、何度も何度も繰り返される。長兵衛もまた、同じ台詞を、繰り返し繰り返し口にしていた。
「弥七、これはおかしい。噺の型なら、この後、文七は店に戻り、後日、金が見つかっていたことが分かって、双方が心を通わせる流れになるはずだ。それが、この橋のたもとから、一歩も先に進まない」



六 幾千の橋、繰り返す決断
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、大川端の景色が透け、その奥に、幾千もの同じ橋のたもとが、川面に映る影のように連なって見えた。どの継ぎ目でも、長兵衛のような立場の者が、同じ捨て身の決断の瞬間を、何度も何度も繰り返し強いられていた。
「弥七、見ろ。あの尊い決断の瞬間だけが、無数に引き延ばされ続けてる。……本来なら、一度きりの決断で、その先の物語に進めるはずなのに」
「旦那、こいつぁ、長兵衛さんたちの気高い決断を、まるで見世物みてえに、繰り返させてやがる」



七 捨て身喰らいの正体
幾千の橋が収束する先、川霧の渦巻く暗がりに、無数の五十両の残像を鱗のように纏った、輪郭の定まらない影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった、『見返りを求めぬ捨て身の情け』から生まれた者。名は捨て身喰らい。人が損得を投げ打ち、何かを手放すあの一瞬――あの苦みと熱さこそ、何よりの馳走よ」
「お前が、あの決断の瞬間だけを、無数に引き延ばして喰らってるのか」
「決断が実を結んでしまえば、旨みは失せる。ならば、決断の瞬間だけを、いつまでも味わい続ければよい。長兵衛が金を手放す、その一瞬の重み――それだけを、幾千と積み重ねておるのだ」
弥七が拳を握った。
「旦那、こいつぁ、長兵衛さんの決断も、文七さんの救われた喜びも、その先にあるはずの、お久さんと文七さんの縁組みまでも、みんな踏みにじってやがる」



八 弥七、決断に取り込まれる
調べを進める中、弥七がふと、幾千の橋の一つに紛れ込み、見ず知らずの誰かの代わりに、決断を下しかけてしまった。
「な……こいつは、あっしが決めることじゃ……いや、しかし……」
弥七の体が、捨て身喰らいの気配にじわりと絡め取られていく。
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の肩を掴んだ。
「弥七、しっかりしろ。この決断は、お前のもんじゃねえ。長兵衛さんが、長兵衛さんの一存で下した決断だ。お前まで、その重みを肩代わりすることはねえ」
「旦那……危なかった。あっしまで、あの決断の瞬間に、飲み込まれるところだった」



九 文七のその後
圭馬は、捨て身喰らいに問うた。
「一つ聞きたい。お前は、決断の瞬間だけを喰らってるっていうが、その先にある、文七さんが救われた後の暮らしまでは、喰えねえのか」
「その先など、この身には旨みがない。救われた後の、平穏な日々の繰り返しなど、何の刺激にもならぬ」
「そうか。……だったら、話は簡単だ」
圭馬はにやりと笑った。
「お前が喰えねえのは、決断の後にある、地味で、しかし確かな暮らしの積み重ねだ。だったら、その積み重ねを、お前の目の前で、たっぷり見せつけてやろうじゃねえか」



十 圭馬の啖呵
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の橋すべてに向けて、力強く語りかけた。
「長兵衛さん、あんたの決断は、もう十分に尊い。だから、次に進んでいいんだ。文七さん、あんたはもう救われたんだ。生きて店へ帰りな。泣いて笑って、地味に所帯を張る番だ!」
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、繰り返されていた決断の瞬間が、少しずつ、その先の物語へと動き出した。文七は涙を拭い、深々と頭を下げると、橋を渡って店へと帰っていく。長兵衛もまた、静かにその背中を見送った。
捨て身喰らいは、決断の瞬間だけでは飽き足らず、その先にある地味な暮らしの積み重ねを目の当たりにして、次第にその輪郭を保てなくなっていった。
「ぐ……決断の先に、こうも味気ない日々が続くとは……身が、痩せて……」



十一 型を取り戻す
幾千の橋は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの大川端だけが、正しい形で残った。文七は無事に店へと戻り、後日、店に置き忘れていただけの五十両が見つかる。
文七の主人は、恩人である長兵衛の家を訪ね、事の次第を知って深く感謝し、長兵衛には手厚い礼が渡された。やがて、文七とお久は夫婦になり、二人で元結(もとゆい)――髷(まげ)を結うための紐――を商う店を開くことになったという。



十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、娘を思う親心、赤の他人を思う捨て身の情け、そのどちらもが巡り巡って、めでたい縁組みにまで行き着きました。損得抜きの決断ってのは、その瞬間だけを切り取って眺めりゃ、ずいぶんと重苦しいもんに見えます。ですが、その先には、ちゃんと地味で、しかし確かな、幸せな暮らしが待ってるんでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。




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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十八作目、今回は「文七元結」という、江戸落語屈指の重みを持つ人情噺を題材にしました。
この噺の重みは、長兵衛が娘の犠牲によって得た大切な金を、見ず知らずの若者の命のために手放すという、損得を度外視した一瞬の決断にあると思います。今回はその「見返りを求めぬ捨て身の情け」という、かけがえのない瞬間そのものが、あちこちの継ぎ目で無数に引き延ばされ、誰も本当には救われないというSF的な事件にしてみました。
決断の瞬間の重みだけを切り取って眺めれば、それはとても苦しいものに見えます。ですが、この噺が本当に伝えたいのは、その決断の先にある、地味で確かな暮らしの積み重ねなのだと思います。捨て身喰らいが最後まで喰らうことのできなかったのが、まさにその「その後の平穏な日々」だったという結末に、シリーズを通じてのテーマを込めました。
命の重みを扱う噺だからこそ、丁寧に、しかし江戸落語らしい温かさを損なわないよう心がけました。楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。