時間どろぼう

― ある夜、天井から記憶が還ってくる物語 ―



まえがき

人は、どれほどのことを忘れて生きているのでしょう。

初めて転んだ日の痛み。
誰かに頭を撫でられた温もり。
夕暮れの匂い。
台所から聞こえてきた包丁の音。

忘れたつもりはなくても、いつの間にか思い出せなくなっているものがあります。

けれど、もしかしたら。

それらは本当に消えてしまったのではなく、どこかで静かに預かられているのかもしれません。

古い家の柱に。
庭の木に。
縁側に落ちる夕陽の中に。

この物語は、「忘れること」と「思い出すこと」の間にある、少しだけ不思議な夜の話です。

もし読み終えたあと、懐かしい匂いを思い出したなら。
今はもうない家のことを、少しだけ考えたくなったなら。

どうか、忘れてしまったと決めつけないでください。

私たちの時間は、案外どこかで、
静かに帰る場所を待っているのかもしれません。

きっと、あなたの時間も、
誰かに優しく預けられているのでしょう。




序章

真夜中に目を覚ますと
決まって
天井には何者かの姿がある

そして
その直後
懐かしい匂いが漂って来る

これは? と思うが
思い出せない

遥か昔の
あの頃って頃の
何だっけ? と考えていると

その両者ともが
姿を消してしまう

まるで時間を
盗まれたように。

けれど、その頃の私は、
それが「返されようとしている時間」なのだとは、
まだ知らなかった。



一 天井の影

目が覚めると、いつも同じ時刻だった。枕元のデジタル時計は、決まって午前三時十七分を指している。

高遠まひるは、その数字を見るたびに、自分の体がまだ夢の縁にぶら下がっているような感覚を覚えた。視界の隅、天井の、ちょうど蛍光灯の傘の脇のあたりに、何かがいる。

人の形をしているようで、していない。輪郭は煙のようにゆらゆらと揺れていて、目を凝らすほど形を失っていく。最初の夜はぎょっとして飛び起きたが、もう二十回近くこの現象を経験した今では、驚きよりも、もっと別の感情のほうが強くなっていた。懐かしさだ。

そう、それが起こった直後、決まって匂いがする。

夏の終わりの、雨上がりのアスファルトの匂い。あるいは、誰かの台所で煮込まれている味噌汁の匂い。古い木の廊下に染み込んだ、線香と畳の匂い。毎回少しずつ違うのに、どれもまひるの胸の奥の、鍵のかかった引き出しを叩いてくる。

「これは——」

そこまで考えて、まひるはいつも止まる。何だったか。どこで嗅いだ匂いだったか。誰と、いつ。

遥か昔の。あの頃という頃の。

何だっけ。

考えようとした瞬間、天井の影も、匂いも、潮が引くようにすっと消えてしまう。あとに残るのは、暗い部屋と、自分の心臓の音と、何か大切なものを取りこぼしたという、ぼんやりとした喪失感だけだった。

まるで、時間を盗まれたように。

まひるは三十二歳、フリーランスのコピーライターで、都心のワンルームマンションに一人で暮らしていた。仕事は順調だったし、人間関係に大きな悩みもなかった。だから最初は、ただの過労による幻覚だろうと思っていた。睡眠外来にも行った。脳波にも異常はなかった。医者は「ストレス性のものでしょう」と言って、軽い安定剤を出した。

薬を飲んでも、現象は変わらなかった。

ただ、ひとつだけ気づいたことがある。現象が起きる夜は、決まって、まひるが昔のことを——たとえば子供の頃に住んでいた町のことや、もう何年も会っていない祖母のことを——ふと考えた日の翌晩だった。


二 もの忘れ熱

異変に気づいたのは、SNSだった。

「#最近忘れっぽい」というハッシュタグが、ある夜から急に伸びていた。最初は単なる体調不良の話題かと思っていたが、読み進めるうちに、まひるは妙な共通点に気づいた。

——小学校の運動会の記憶が、急に思い出せなくなった。

——祖父の声を、もう思い出せない。顔は覚えているのに。

——実家の匂いを、突然忘れてしまった気がする。

それらの投稿は、奇妙なことに、ほとんどが同じエリア——まひるが今暮らしている街の、北側に位置する「茜町」という古い住宅街にかつて住んでいた、あるいは縁のある人々によるものだった。

茜町は、まひるにとっても、どこか聞き覚えのある地名だった。ただし、いつ、なぜ覚えているのか、それがどうしても思い出せない。

そんなある夜、まひるは仕事の打ち合わせの帰り、雨に降られて駆け込んだ喫茶店で、一人の老紳士と隣り合わせになった。白髪を几帳面に撫でつけ、染みのついたノートを広げているその人物は、宮田と名乗った。かつて大学で「時間の物理学」を研究していたが、今は無職だという。

「茜町のことを調べているんですね」宮田は、まひるの手元のスマートフォンの画面をちらりと見て言った。「最近、その手の相談を受けることが多くてね」

「相談、ですか?」

「もの忘れ熱、と私は呼んでいます」宮田は薄く笑った。「正式な病名じゃない。医学的にも認められていない。だが、現象としては確かに存在する。ある地域に縁のある人々が、特定の記憶だけを、まとめて失っていく」

まひるは、自分の天井の影のことを話すべきか迷い、結局話した。話さずにはいられなかった。

宮田は驚かなかった。むしろ、ノートに何かを書きつけながら、満足げにうなずいた。

「やはり、あなたもですか。——『時間どろぼう』という言葉を聞いたことは?」


三 古い町の図面

宮田の話は、こうだった。

人が「忘れる」というのは、本当は消えてなくなることではない。記憶は脳の中の電気信号であると同時に、その出来事が起きた「場所」そのものにも、ごくわずかな痕跡を残す——そういう説を、宮田は大学を追われる前、大真面目に研究していたのだという。

「土地は覚えている、という言い方をよくしますね。比喩だと思われがちですが、私はそうは思わない。何十年も同じ家族が暮らした台所には、その家族が交わした言葉や、流した涙や、笑った瞬間の、ごく微量の『残留時間』が積もっていく。それは熱のように、匂いのように、その場所に染み込んでいくんです」

そして、古い土地、古い建物が壊されるとき。その残留時間は行き場を失う。

「普通なら、そのまま霧散して消えるだけです。けれど、ごく稀に——とりわけ、長い年月、多くの人の記憶を抱え込んできた土地では——その残留時間が、ひとつの『意識』のようなものに育つことがある。土地そのものが、自分に染み込んだ記憶を手放したくないと、そう願うかのように」

それが、「時間どろぼう」だと、人々は呼んできた。本当は盗んでなどいない。むしろ逆だ、と宮田は言った。

「壊される前に、その土地は、自分が抱えてきた記憶の欠片を、元の持ち主たちに返そうとする。夜ごと、眠っている人の枕元を訪れて、少しずつ、少しずつ。けれど人間は目を覚ましてしまうし、覚醒した意識は、うまくその記憶を受け取れない。だから、影だけ見えて、匂いだけ漂って、肝心の中身は、するりとこぼれ落ちてしまう」

まひるは、その夜のうちに、市役所の都市計画課のホームページで、茜町の再開発計画を調べた。

戦前から残る木造家屋が建ち並ぶその一角は、来月末、ついに最後の区画の解体工事が始まることになっていた。古い銭湯、古い駄菓子屋、古い稲荷神社——その全てが、更地になる予定だった。

そして、その図面の片隅に、まひるは見覚えのある住所を見つけた。

茜町三丁目、四番地。

そこは、まひるが五歳まで——祖母と暮らしていた家があった場所だった。

そして、その瞬間。
思い出せないはずの記憶の奥で、
何かが、かすかに扉を叩いた。



四 解体前夜

解体前夜、まひるは傘も差さずに、茜町へ向かった。

工事の足場とブルーシートに囲まれたその一角は、すでに半分以上が更地になっていて、月明かりの下、最後に残った数軒の木造家屋が、ぽつんと寄り添うように建っていた。その中の一軒——傾いた木戸と、色褪せた表札——に、まひるは見覚えがあった。

「祖母ちゃんの……」

声に出した瞬間、その場の空気が、ふっと重さを変えた。

天井の影と同じ気配が、家の戸口に立っていた。今夜はもう、輪郭が揺らいでいなかった。煙のような体の中に、無数の光の粒——まるで遠い夜景のような、小さな光の集まり——が、ゆっくりと渦を巻いている。そして、いつもの懐かしい匂いが、今夜は何倍も強く、まひるを包み込んだ。

雨上がりのアスファルト。味噌汁。線香と畳。そして、もうひとつ——金木犀と、煮物の匂い。

「あなたが……」

まひるが言いかけると、その存在は、声ではなく、匂いと光の揺らぎで応えた。言葉にならない言葉が、頭の中ではなく、もっと深い場所に、直接流れ込んでくる。

——わたしは、盗んでなどいない。

——この土地で重ねられた、五十年分の朝と夜を、ただ、抱きとめてきただけだ。

——だが、もうここは壊される。わたしは、誰のものでもなくなる前に、預かっていたものを、ひとつひとつ、持ち主に返さねばならない。

——あなたの分は、いちばん、返しそびれていた。

光の粒のひとつが、すうっとまひるの方へ近づいてきた。


五 匂いの行方

それは、ただの記憶だった。何の変哲もない、平凡な記憶。

五歳のまひるが、夕方の縁側で、祖母の隣に座っている。

縁側には切り分けられたスイカが置かれていた。

まひるは種を遠くへ飛ばそうとして、うまくいかず、祖母を笑わせている。

「もっと大きくなったら、きっと飛ばせるようになるよ」

祖母はそう言って、濡れた髪をタオルで優しく拭いてくれた。

台所からは煮物の匂いがしている。

庭の金木犀が咲いていて、その甘い香りと出汁の匂いが混ざり合っている。

「ただいま、まひる」

「おかえり。」

その声は、もう何年も聞いていなかったはずなのに、
一度も忘れたことなどなかった。

涙が出た。失っていたことにすら気づいていなかった記憶だった。けれど取り戻した瞬間、それがどれほど大きな穴を自分の中に空けていたか、まひるは初めて理解した。

「ありがとう」

まひるが言うと、目の前の存在は、応えるように、淡く光った。そして、その輪郭が、少しずつ、薄くなっていった。

——他にも、まだ多くの人に、返さねばならないものがある。今夜のうちに、できる限り。

「待って——あなたは、このあと、どうなるの」

——わからない。土地がなくなれば、わたしを留めておくものもなくなる。けれど、それでいい。誰かの記憶の中に、ちゃんと帰れたのなら。

光はそう告げると、夜の闇に溶けるように、家々のあいだを縫って、町の奥へと去っていった。あちこちの窓に、ふっと明かりが灯るのが見えた。きっと、誰かが、まひると同じように、忘れていた何かを、たった今、思い出したのだろう。

翌朝、重機の音で、茜町の最後の家々は静かに崩れていった。

その秋。

更地になった町の片隅に、一本だけ残された金木犀が、小さな花をつけた。

まひるは仕事の帰り道、ふと思い立って、その場所へ足を運んだ。

夕暮れの風が吹く。

すると、不意に懐かしい匂いがした。

出汁の匂い。
畳の匂い。
そして、祖母の家の縁側で嗅いだ、あの金木犀の香り。

気づけば、まひるは微笑んでいた。

「ちゃんと帰ってきたんだね。」

返事はない。

けれど風が、ひとつだけ、やさしく揺れた。

金木犀の香りが、
夕暮れの町へ、静かにほどけていく。

どこか遠くで、
誰かが、ふいに昔のことを
思い出している気がした。

そして今日もどこかで、
帰りたがっている時間が、
誰かの眠りを、そっと訪れている。

その人が、
「おかえり」と言ってくれるのを、
静かに待ちながら。

——人はそれを、
「時間どろぼう」と呼ぶのかもしれない。


― 了 ―


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あとがき

歳を重ねるほど、人は未来よりも過去のほうが愛おしくなるのかもしれません。

けれど、不思議なことに、本当に大切だった時間ほど、私たちは案外うまく思い出せません。

それは失われたのではなく、日々を生きていくために、いったん心の奥へしまわれているのでしょう。

もし今夜、
理由もなく懐かしい匂いがしたなら。

どうか少しだけ、
立ち止まってみてください。

それはきっと、
あなたの中で迷子になっていた時間が、
「帰ってもいいですか」と、
そっと扉を叩いている音なのです。

どうかその時は、慌てて思い出そうとせず、静かに目を閉じてみてください。

記憶というものは、追いかけると逃げてしまいますが、待っていると、案外、自分から帰ってきてくれるものです。

人は、思い出だけでは生きていけません。

けれど、思い出があるからこそ、
前へ進めるのだと思います。

もしあなたにも、
もう思い出せない誰かの笑顔や、
どこかの町の匂いがあるのなら。

今夜、少しだけ耳を澄ませてみてください。

天井の向こうで、
あなたの「時間どろぼう」が、
静かに順番を待っているかもしれません。

この物語が、あなたの大切な時間を思い出す、小さなきっかけになれば幸いです。


久々に訪れた
黒姫高原の 童話館

目的は
ニックさんの
アファンの森づくり

40周年記念展が開催中とのことで

本当は
その初日と思っていたけれど
アースデイ東京と重なってしまった




雨天を覚悟していたけれど
有り難いことに
間に合ってくれた


展示をひとつひとつ
振り返るように確認すれば
あの日のニックさんが
頭の中に蘇り

やあ
元気? って
微笑んで来る

この40年で
森はとても綺麗になった
そして
広大にもなった

ニックさんは
森を残し
人をも残し
未来に希望も残してくれた

見れるはずのない
未来の森の姿を想像し
ならばと僕らも
全力で加勢した




ニックさんを失って
はや6年

残念ながら
益々 世の中は荒れて行く

それでも
心ある方々の中には
必ずニックさんが宿り

きっと
100年後を正してくれるはず




帰り際
森へと立ち寄れば
観光バスが停まっており
見れば
とある歌い手が
沢山のファンを連れて
森を案内していた

なるほど
こうしてわずかでも
知る方々が増えたならばと
嬉しくもなり

本日は
選んだ酒を持って
ニックさんの眠る
メモリアルストーンで献杯した

森は初夏を迎え
樹々は緑を濃くし
小鳥たちは
春とは違う声で囀ってもいる

僕はひとり
相変わらず
なんでニックさんが
居ないんだよ! と呟いてみる

すると
居るよ! ここに… って
聞こえた気がして
ひとりまた熱くなる

森はこれからも 育ち
僕らが居なくなっても
次の方々がここへと来て
100年後も
1000年後も
森として
残って行くのだろう



久々の童話館は
また展示が変わり
還暦を越した僕らですら
一瞬で童心に戻される

その目の前に聳え立つ
黒姫の山々は
雪を跳ね除け
緑のジュウタンを敷き詰めている




童話館の裏手には
移築された
ちひろさんの山荘が残り

ここで
多くを描いたのかと
身震いなどして
手を合わす

花は
見事に咲き誇り
季節の訪れに
感謝などして

さあ
帰ろう…

よっぽどの縁 3

── 縁は、また誰かを探している ──



まえがき

人は、出会いによって変わる。

ある人は、一冊の本によって。
ある人は、一匹の犬によって。
ある人は、たった一人の人との出会いによって。

けれど、その出会いが、どこからやって来るのかを知る人はいない。

私たちは、偶然と呼ぶ。
運命と呼ぶ人もいる。
あるいは、縁と。

この物語は、一度出会った二人が、その先にある、もっと大きな「縁」に触れていく物語です。

出会いは終わりではありません。
ひとつの縁は、また次の縁へと繋がっていきます。

もし今、あなたの隣に大切な人がいるのなら。
それはきっと、よっぽどの縁なのです。



プロローグ 春の手紙

春の薬師寺には、桜より先に風が来る。
その風に乗って、一通の手紙が届いた。
差出人の名前はない。

白い封筒。
見覚えがあった。

誠一は封を切った。
便箋には、たった一行。

──縁には、終わりがない。

その文字を見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。
隣でコーヒーを飲んでいた遥が顔を上げる。

「どうしたんですか?」

誠一は黙って手紙を差し出した。
遥は文字を読み、ゆっくりと息を吐いた。

「また……始まるんですね。」

「そんな気がする。」

春の風が、ベランダを吹き抜けていった。
薬師寺の塔が、夕日に染まっている。

二人はしばらく無言でその景色を見つめていた。
そして遥が、小さく笑った。

「最近、平和でしたからね。」

「平和だったね。」

「少しくらい不思議なことが起きても、もう驚きません。」

誠一も笑った。
確かにそうだった。

時間が狂い、空間に窓が開き、見知らぬ人の声に導かれて出会った。

あれ以上に不思議なことなど、そうそうない。

だが、その夜。
再び、世界は少しだけ軋んだ。




第一章 白い法衣の夢

夢を見た。
霧が深い。
見覚えのある景色だった。

薬師寺。

塔の朱色が、朝靄の向こうにぼんやり浮かんでいる。
石段の上に、一人の老人が座っていた。

白い法衣。
深い皺。
穏やかな笑み。

あの老僧だった。

「お久しぶりです。」

誠一は言葉を失った。

「あなた……。」

「元気そうで何よりです。」

「何者なんですか。」

老僧は微笑む。

「また、その質問ですか。」

「今度こそ答えてください。」

老人はしばらく黙って空を見上げた。

「人は、出会いによってできています。」

「……。」

「誰にも会わなければ、人は自分という形になれない。」

風が吹いた。
桜が舞う。

「だから私は、ときどき道案内をするのです。」

「縁を繋ぐために?」

「いいえ。」

老僧はゆっくりと首を振った。

「縁は、もともと繋がっています。」

「では……。」

「私は、見失った糸を少しだけ照らすだけです。」

誠一が何かを言おうとした瞬間。
霧が濃くなった。
老人の姿が霞んでいく。

「待ってください!」

老僧は最後に言った。

「近いうちに、お客様が来ます。」

「お客様?」

「どうか、優しく迎えてあげてください。」

そして、消えた。



第二章 見知らぬ少女

翌日の午後。
薬師寺の境内は、桜の花見客で賑わっていた。
誠一と遥は、石段に並んで座っていた。

「夢の話、本当なんですね。」

「自分でもそう思う。」

その時だった。

「……やっと見つけた。」

後ろから、声がした。
振り向く。
十七歳くらいの少女が立っていた。

制服姿。
長い髪。
どこか懐かしい顔。

だが、会ったことはない。
少女は二人を見て、ほっとしたように笑った。

「良かった。」

「君は?」

少女は少しだけ考えてから言った。

「まだ、名前は言えません。」

「え?」

「でも、お二人に会いに来たんです。」

遥が首を傾げる。

「私たちに?」

少女は頷いた。
そして、不思議なことを言った。

「ありがとうって、伝えたくて。」

「何を?」

少女は空を見上げた。

桜が舞う。

その横顔が、どこか遥に似て見えた。

「私を、この世界に生まれさせてくれて。」

誠一と遥は、同時に息を呑んだ。
少女はゆっくり微笑む。

「……まだ言えないんです。でも、きっと、もうすぐ分かります。」

そう言うと、制服のポケットから一枚の写真を取り出した。

「これ、預かっていてください。」

そこには、少し年を重ねた誠一と遥が写っていた。
そして、その間に立つ、一人の若い女性。

目の前の少女だった。

春の風が吹いた。
遠くで、薬師寺の鐘が鳴った。

誠一は、写真を持つ手が震えるのを感じていた。

──その少女は、いったい誰なのか。

そして、老僧の言う「お客様」とは、彼女のことなのか。

新しい縁が、静かに動き始めていた。



第三章 消えた一日

翌朝。
誠一は目を覚ますと、妙な違和感を覚えた。

窓から差し込む朝の光。
テーブルの上のコーヒーカップ。
隣の部屋から聞こえる、遥の掃除機の音。

すべて、いつも通り。
なのに、何かが足りない。

スマートフォンを見る。
日付は四月十七日。
その瞬間、胸がざわついた。

「……十七日?」

昨日は、十五日だったはずだ。
十六日が、ない。

慌てて隣の部屋へ向かう。
インターホンを押すと、遥が顔を出した。

「どうしたんですか?」

「今日は何日?」

「十七日ですけど……。」

遥も言い終わる前に、顔色を変えた。

「……あれ?」

二人とも、十六日の記憶がない。

部屋に戻り、スマートフォンの写真を確認する。
そこには、見覚えのない写真が数枚残っていた。

薬師寺。
桜の木。

そして――。
白い法衣の老僧。

三人で笑いながら写っている。

「なんだ、これ……。」

写真の最後の一枚には、手書きの文字が映っていた。

──思い出せない時間にも、縁はある。

誠一は息を呑んだ。

また、始まった。
世界が、少しだけ歪み始めている。



第四章 百年前の手紙

二人は薬師寺を訪れた。
境内では、桜吹雪が静かに舞っている。

寺の古い資料を管理している住職が、二人の話を黙って聞いていた。

やがて住職は立ち上がり、一冊の古びた帳面を持ってきた。

「不思議な話ですが……似た記録があります。」

帳面は、大正時代の日記だった。
ページをめくる。
そこには、達筆な字でこう書かれていた。

『霧の朝、白い法衣の僧に会った。』

『その人は、私が会うべき人に会わせてくれた。』

『人生は、不思議な縁でできている。』

遥が小さく息を呑む。
さらに最後のページには、こう記されていた。

『私もまた、誰かの縁の一本となりたい。』

その下に、見覚えのある言葉。

──出会えたことに、ありがとう。
  楽しくやりましょう。

二人は顔を見合わせた。

「……ずっと前からなんですね。」

誠一が呟く。
住職が静かに頷いた。

「縁は、人から人へ受け継がれていくのかもしれません。」



第五章 未来からの贈り物

翌日、少女が再び現れた。
境内の石段に座り、桜を見上げている。

「待っていました。」

そう言って微笑んだ。
彼女は、一冊のノートを差し出した。

「これを。」

開く。
そこには、未来の日付が並んでいた。

結婚。
引っ越し。
小さな喧嘩。
仲直り。
病気。
旅行。

そして――。

『二人は最後まで笑っている。』

遥の目に涙が浮かんだ。

「未来を知って、怖くないの?」

少女が聞く。
遥はしばらく黙っていた。
それから、誠一を見た。

「怖いです。」

「……。」

「でも、それでも一緒にいたい。」

誠一は、静かに頷いた。

「僕も。」

少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、どこか懐かしかった。

どこか――自分たちに似ていた。



第六章 老僧の告白

その夜。
誠一は再び夢を見た。

霧の中。
石段に、老僧が座っている。

「お待ちしていました。」

「あなたは、一体……。」

老僧は静かに笑った。

「昔、私にも大切な人がいました。」

誠一は黙って聞いた。

「しかし、出会えなかった。」

「……。」

「ほんの少し、タイミングが違った。」

風が吹く。
桜の花びらが舞う。

「その人とは、一生会えませんでした。」

初めて見る、寂しそうな表情だった。

「だから願ったのです。」

老僧は空を見上げる。

「せめて、他の誰かだけでも、出会えますように。」

「それで……。」

「長い長い時間をかけて、私は人の縁を見守るようになりました。」

誠一の胸が熱くなる。
老僧は、神様ではない。
超越した存在でもない。
たった一つの後悔を抱え続けた、一人の人だった。

「出会いは奇跡です。」

老僧が言う。

「だから、どうか大切にしてください。」

「……はい。」

老僧は微笑んだ。

「もうすぐ、すべてが繋がります。」

その姿が、少しずつ霧に溶けていく。

「待ってください!」

誠一が叫ぶ。
老僧は最後に振り返った。
そして、いつものように笑った。

「楽しくやりましょう。」

朝日が昇る。
夢は、静かに終わった。



最終章 縁は、また誰かを探している

翌日の夕方。
少女から渡されたノートの最後のページに、一つだけ住所が書かれていた。

――薬師寺 東塔前 午後六時。

誠一と遥は、約束の時間に東塔へ向かった。

春の夕暮れ。

境内に人影は少なく、鐘の音だけが遠くから聞こえている。

そこに、少女はいた。
白いワンピースを着て、塔を見上げていた。

「来てくれたんですね。」

「君は……誰なんだ。」

少女はゆっくり振り返った。
そして、少し照れくさそうに笑った。

「私の名前は……まだありません。」

「まだ?」

「だって、まだ生まれていませんから。」

春の風が止まった。

「……。」

「私は、お二人の未来から来ました。」

遥が息を呑む。
少女は優しく微笑んだ。

「私は、二人の娘です。」

長い沈黙。
遠くで、鐘が一つ鳴った。

「信じられないですよね。」

「……少しだけ。」

誠一が答える。
すると少女は笑った。

「お父さんは、昔からそう言う人なんです。」

その言葉に、二人は何も言えなくなった。

少女は一歩近づいた。

「ありがとう。」

「……。」

「二人が出会ってくれたから、私はここにいます。」

遥の目から、静かに涙がこぼれた。
少女も泣いていた。

「私は、それを伝えに来たかったんです。」



第七章 最後の鐘

夕暮れが深くなる。
その時だった。
霧が立った。

薬師寺の境内が、白く霞んでいく。
石段の上に、一人の人影が現れた。

白い法衣。
老僧だった。

「お久しぶりです。」

誠一と遥は、同時に頭を下げた。
老僧は少女を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「無事に会えましたね。」

少女が頷く。

「はい。」

「それは何よりです。」

老僧は、二人へ向き直った。

「私の役目も、ここまでのようです。」

「役目……。」

「人は、自分が思っている以上に、たくさんの縁に支えられて生きています。」

風が吹く。
桜が舞う。

「誰かが誰かに会い、その人がまた別の誰かと出会う。」

「……。」

「人生とは、その繰り返しです。」

老僧は空を見上げた。

「私が会えなかった人も、どこかで笑っているのでしょう。」

誠一が尋ねた。

「あなたは、後悔しているんですか。」

老僧はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。」

そして、優しく笑った。

「あなた方が出会えたのですから。」

その言葉とともに、霧が濃くなっていく。

「もう会えないんですか。」

遥が聞いた。
老僧は答えた。

「会えますとも。」

「本当に?」

「縁は、一生では終わりません。」

そして最後に、いつもの言葉を残した。

「出会えたことに、ありがとう。」

「楽しくやりましょう。」

白い法衣が、桜の花びらの中へ溶けていった。



エピローグ 糸の向こうへ

それから、長い年月が流れた。

春。

薬師寺。

石段には、年老いた誠一と遥が並んで座っている。
二人とも白い髪になった。
けれど、笑顔は昔のままだった。

「最初にここへ来たの、何年前でしたっけ。」

「もう数えられないね。」

「そうですね。」

二人は笑った。

その時。
若い男女が、境内へ入ってきた。
どこかぎこちなく、少し緊張した様子で歩いている。

女性が、一枚の紙を落とした。
誠一が拾う。

そこには、たった一行。

──出会えたことに、ありがとう。
  楽しくやりましょう。

遥が小さく笑った。

「始まりましたね。」

誠一も頷く。

「うん。」

風が吹く。
桜が舞う。

境内の向こうに、一瞬だけ白い法衣が見えた。
その隣には、見覚えのある少女の姿もあった気がした。

次の瞬間には、もう誰もいない。
二人は空を見上げた。

春の空は、どこまでも青かった。

「ねえ。」

「うん?」

「私たち、よっぽどの縁でしたね。」

誠一は微笑んだ。
そして、ゆっくりと答えた。

「うん。」

「よっぽどの縁だ。」

桜の花びらが、静かに二人の肩へ降り積もった。







あとがき

最後まで『よっぽどの縁』三部作をお読みいただき、誠にありがとうございました。

人は、一生のうちにたくさんの人と出会い、そして別れていきます。
その中で、心に残り続ける人がいます。

何十億という人の中から出会えた奇跡。
同じ時代に生まれ、同じ空の下で笑い合える不思議。

私はそれを、「よっぽどの縁」と呼びたいと思いました。

この物語が、あなたの大切な誰かを思い出すきっかけになれば、これ以上の幸せはありません。

出会えたことに、ありがとう。
楽しくやりましょう。


よっぽどの縁 2

〜時を越えて結ばれる、銀色の糸の物語〜


  よっぽどの縁

  この国ですら
  一億二千万人
  世界でならば
  数十億人

  その中で
  人ひとりの時間
  わずか百年ならば
  同じ時代に出会うなんて
  こりゃ
  よっぽどの縁だと
  大好きな薬師寺の僧侶は説く


まえがき

私たちが日々、何気なくすれ違う人々。満員電車の隣の席に座る人、交差点で一瞬だけ目が合った人、同じ本棚の前に佇む人。そのすべての人に、それぞれの人生があり、それぞれの時間が流れています。


この広い世界、長い歴史の中で、私たちが「同じ時代」に生まれ、「同じ場所」で行き交う確率は、どれほど奇跡的なことなのでしょうか。
本作『よっぽどの縁』は、そんな人と人との繋がりを、目に見える「糸」として捉えたひとりの女性の物語です。


誰にも言えない秘密を抱えた彼女の指から伸びたのは、時間をも飛び越える「銀色の糸」でした。昭和という激動の時代を生きた青年が遺した一冊の詩集が、令和の現代、そしてその先の未来へと、静かに想いを手渡していきます。


目に見えるものだけがすべてではない。

けれど、確かにそこにある温かい繋がり。


もしもあなたの日々に、ほんの少しの寂しさや、誰かと繋がりを求める気持ちがあるのなら、どうぞこの物語の頁をめくってみてください。あなたの小指にもきっと、大切な誰かへと続く糸が結ばれているはずです。




第一章 糸の見える朝

 その朝、駅のホームで、白い糸が一本、ふわりと宙を泳いだ。
 誰の目にも映らないはずのそれが、佐倉澪(さくら みお)には、はっきりと見えていた。


 二十六歳の春。澪はもう、その光景にはずいぶん慣れていた。


 糸は、向かい側のホームに立つ女子高生の右手の小指から伸びていた。風に揺れる釣り糸のようにしなやかで、けれども切れることはない。


糸は彼女の指を離れたあと、ホームの屋根を越え、空へ昇り、線路の上を渡って、こちら側で文庫本を読んでいる眼鏡の男性の左手薬指へと繋がっていた。


 二人は、おそらく、互いの存在に気づいてさえいない。
 女子高生はイヤホンで音楽を聴き、男性は本に目を落としている。けれども、糸は確かに二人を結んでいた。淡く光る、絹のような白い糸が。


 澪は小さく息を吐いた。
 糸が見えるようになったのは、九歳の冬のことだった。祖母の葬儀の翌朝、目を覚ますと、世界はすっかり様変わりしていた。父と母の小指から伸びる赤い糸。隣の家の老夫婦を結ぶ、もう色も褪せかけた金色の糸。学校に行けば、友達の指から無数の糸が、教室の壁を抜けて、見知らぬ誰かのもとへと伸びていた。


 最初はこわかった。
「お母さん、糸が見える」
 と訴えた澪に、母は怪訝な顔をして、けれども叱りはしなかった。父は黙って澪の頭を撫でた。誰も信じはしなかったが、誰も笑いもしなかった。それが、澪にとっての救いだった。
 長じるにつれて、澪は理解した。
 あの糸は——人と人とを繋ぐ「縁」なのだと。
 白い糸は、これから出会う縁。赤い糸は、すでに結ばれた縁。金色は、長く深く結ばれた縁。そして、ごく稀に見える黒い糸は、断ち切られた縁の名残。
 糸は色だけでなく、太さも、張り具合も、揺れ方も、すべて違っていた。ぴんと張った糸は、近く出会う予感がする。ゆるくたるんだ糸は、何年も、あるいは何十年も先のことだ。中にはほつれかけたものもあれば、二本三本と縒り合わさったものもある。


 澪はそれらを、ただ眺めて生きてきた。
 他人の縁に口を出すことは、しない。それが、九歳のときに自分に課したただ一つの決まりだった。糸が見えるからといって、神様になったわけではない。誰かと誰かが出会うべきかどうか、澪が判断していいはずがない。


「次の電車は、まもなく到着いたします」
 アナウンスが流れた。


 澪は文庫本の男性をもう一度見た。糸は変わらず、女子高生の指へと伸びている。今日、二人が出会うことはないだろう。糸はまだゆるく、たるんでいる。けれどもいつか——五年後か、十年後か——どこかの街角で、二人はきっと、すれ違うのではなく、目を合わせる。


 よっぽどの縁だ、と澪は思った。
 大好きだった祖母が、生前、よくそう言っていた。祖母は奈良の薬師寺で長く写経をしていた人で、寺の僧侶から聞いた話を、孫の澪によく聞かせた。


「いいかい、澪。この国に一億二千万人。世界には八十億人。その中で、人ひとりの寿命なんてせいぜい百年だろう。同じ時代に生まれて、同じ空気を吸えるなんて、それだけで、よっぽどの縁なんだよ」


 九歳の澪には、その意味はわからなかった。
 けれども糸が見えるようになってから、澪は祖母の言葉の重みを、少しずつ理解しはじめていた。


 電車が来た。
 ドアが開く。澪は乗り込み、つり革に手を伸ばす。窓の外、向かい側のホームの女子高生と眼鏡の男性が、互いに気づかぬまま、それぞれの方向へと歩き出すのが見えた。糸はそれでも、切れない。空を渡って、たわみながら、二人を繋いだままだった。


 よっぽどの縁。
 澪はもう一度、心の中で繰り返した。


 その日、澪は会社に向かう途中で、自分の左手の小指から、これまで見たことのない色の糸が伸びていることに気づいた。


 銀色だった。
 白でもなく、赤でもなく、金でもない。月の光を糸に紡いだような、淡い、けれども確かに光を放つ銀色だった。


 糸は澪の指を離れたあと、車両の天井を抜け、空のどこかへと消えていた。


 あの先に、誰がいるのか。
 澪には、わからなかった。


 二十六年生きてきて、自分の指から伸びる糸を、こんなにもまじまじと見たのは初めてだった。普通、人は自分の縁を見ない。糸というのは、不思議と他人のものばかり目に入る。自分の指から伸びる糸は、たいてい、ぼんやりとしていて色もよくわからないのだ。


 なのに、銀色の糸ははっきりと見えた。
 まるで、見えるべき時期が来た、とでも言うように。


 澪は左手を握りしめた。糸はそれでも消えなかった。揺れもしなかった。ただ、まっすぐに、空の方角へと伸びていた。


 ふと、祖母の声が耳によみがえった。
「無理に押し掛けて出会う必要はないんだよ。必要なら、必要なときに、お互いの準備ができたときに、必ず出会えるんだから」
 澪は、自分の準備ができているのかどうか、わからなかった。


 けれども糸は、確かに伸びていた。
 その日、澪は会社に着くまでの間、何度も左手を見た。糸は消えなかった。
 春の風が、駅のホームを渡っていた。

 会社に着くと、オフィスはいつもの月曜の喧騒に満ちていた。
 澪はデザイン会社で、書籍のレイアウトを担当している。本の中身を読み、文字を組み、紙の上で物語が呼吸できるように、行間を整える仕事だった。


本の仕事を選んだのは、糸が見えるようになってから、自然な流れだった。本というのは、書いた人と読む人とを、時間を越えて結ぶものだ。糸の見える澪には、本のページから、書き手の指へと逆向きに伸びる、淡い糸さえも、ときどき見えることがあった。


「佐倉さん、おはよう」
 声をかけてきたのは、隣の席の先輩、橘恵美(たちばな えみ)だった。三十二歳、二児の母。澪が入社以来お世話になっている。


「おはようございます」
「今朝、なんか、ぼーっとしてない?」
 澪は、慌てて笑った。


「すみません、ちょっと寝不足で」
「ふーん。彼氏できた?」
「いえ、まったく」
「そうなの? 佐倉さんなら、すぐにできそうなのに」
 澪は曖昧に笑って、パソコンの電源を入れた。


 恵美の左手の薬指には、銀色の指輪が光っている。その指輪の上を、ご主人と結ばれた赤い糸が、ゆるやかに渡っていた。それと別に、二本の小さな金色の糸が、子供たちのいる保育園の方角へと伸びている。家族とは、こんなふうに何重にも糸を編み込まれた繭のようなものなのだ、と澪はいつも思っていた。


 仕事が始まる。
 澪は、午前中、新刊の文庫本のレイアウト作業に集中した。けれども、心のどこかは、ずっと、左手の小指から伸びる銀色の糸のことを、考えていた。


 あの糸は、いつから伸びていたのだろう。
 昨日まで、こんなにはっきりとは見えなかった。気づかなかったのか、それとも、本当に今日から伸び始めたのか。


 糸というのは、何のきっかけもなく現れるものではない、と澪は経験的に知っていた。誰かが誰かを思った瞬間、あるいは、誰かが誰かのことを書いた瞬間、糸はゆっくりと張り始める。たぶん、自分の知らないどこかで、自分のことを思ってくれている誰かがいるのだ。


 澪は、思わず微笑んだ。
 二十六歳になるまで、自分は、誰のことも、特別に思ったことはなかった。糸が見えるということは、人を好きになることが、少しだけ難しくなる、ということでもあった。相手の指から、別の方角に伸びる赤い糸を見てしまったら、もう、その人を諦めるしかない。澪は、何度かそうやって、誰かを好きになりかけては、糸を見て、静かに退いてきた。


 けれども、もしかすると——
 澪は左手を見た。
 糸は、変わらず、空のどこかへと伸びていた。


第二章 古書店の老人

 会社の昼休み、澪は近所の古書店に立ち寄った。
 「月燈書房(げっとうしょぼう)」という、看板すら剥げかけた小さな店だ。会社から徒歩五分、駅前商店街の路地を一本奥に入ったところにある。学生時代から十年以上通っているが、客と鉢合わせたことは数えるほどしかない。


 戸を引くと、ちりん、と古い真鍮の鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
 いつものように、奥のカウンターから、しわがれた声がした。店主の岡部老人だ。年齢はおそらく八十を超えている。糸の色からして、ずいぶん長く生きた人だ、と澪は思っていた。


 老人の小指から伸びる糸は、一本だけ、ひときわ太く、深い金色をしていた。亡くなった妻のものだろう、と澪はかつて想像したことがある。糸というのは、相手が亡くなっても、すぐには消えない。色を少しずつ薄めながら、長い時間をかけて、ゆっくりと天に還っていく。


 澪は黙礼して、奥の棚へと向かった。
 いつものように、文庫の棚を眺める。岡部老人は何も言わない。ただ古い扇風機の音だけが、店内に響いていた。


 その時だった。
 澪は、自分の銀色の糸が、店内のどこかで、ふいに揺れたのを感じた。
 糸は、相手との距離が縮まると、わずかに張りを増す。逆に遠ざかると、たるむ。澪は自分の左手を見た。銀色の糸が、店の奥——岡部老人の方向へと、確かに張り詰めていた。
 まさか、と思った。


 岡部老人ではない。老人の糸はすべて、別の方向に伸びている。ということは——
 澪は顔を上げた。
 カウンターの向こう、岡部老人の背後にある棚の前に、一人の女性が立っていた。
 いつの間に入ってきたのだろう。鈴は鳴らなかったはずだ。


 女性は、紺色のワンピースを着ていた。年の頃は澪と同じくらいか、少し下。背中まで伸びた黒髪を一つに束ね、棚の上のほうにある古い和綴じの本を、つま先立ちで取ろうとしていた。
 澪の銀色の糸は——彼女に繋がってはいなかった。
 澪は息を整えた。糸が張ったのは、別の方向だ。よく見ると、糸はその女性のさらに向こう、店の最奥にある一冊の本を指していた。
 本に対して、糸が張る。


 そんなことは、これまでに一度もなかった。
 澪は半信半疑で、女性の脇を通り抜け、最奥の棚へと近づいた。
 糸はますます張る。
 その棚にあったのは、革表紙の古い詩集だった。題は『縁(えにし)』。著者の名前は、表紙が擦り切れて読めない。


 澪はその本を手に取った。
 瞬間、銀色の糸が、ふっと、形を変えた。
 糸の先が、本の中へと吸い込まれるように消え、そして、ページの中から——別の方向へと、再び伸び始めたのだ。今度は時間を越えるかのように、糸はぐにゃりと螺旋を描き、店の天井を貫いて、どこか遠い場所、遠い時代へと向かっていた。


「それは」
 背後で、声がした。
 振り向くと、岡部老人がいつの間にか立っていた。皺だらけの手で、澪の手元の本を指している。
「ずいぶん古い本でね。半世紀以上、誰も手に取らなかった」
「半世紀」
「ええ。私がこの店を継いだ時には、もうそこにあった。父の代からのものです」


 澪は本を開いた。
 黄ばんだ紙に、万年筆で書かれた手書きの詩が並んでいた。印刷ではない。誰かが手で書いた、世界に一冊だけの詩集だった。
 最初のページに、こうあった。

  よっぽどの縁

  この国ですら
  一億二千万人
  世界でならば
  数十億人

  その中で
  人ひとりの時間
  わずか百年ならば
  同じ時代に出会うなんて
  こりゃ
  よっぽどの縁だと
  大好きな薬師寺の僧侶は説く

 澪の手が、震えた。
 祖母が、よく口にしていた言葉。あの薬師寺の僧侶の話。それが、ここに、半世紀以上前から、書かれていた。


「これは、どなたが書いたんですか」
 澪は声を絞り出すように尋ねた。
 岡部老人は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「わかりません。父は、ある人から預かったとだけ言っていた。預かった、と。買い取ったのではなく」
「預かった……」
「いつか取りに来る人がいるはずだ、と父は言っていました。けれども、誰も来なかった。父は亡くなり、私もこの歳になり、もう誰も来ないだろうと、思っていたのですがね」
 老人は、澪の顔をじっと見た。


「あなたは、この本に呼ばれましたか」
 澪は何も答えられなかった。
 ただ、左手の銀色の糸が、もう一度、強く張るのを感じていた。


 糸は、本のページの中から伸び、天井を抜け、時間を越えて、どこか遠くへと繋がっていた。
「お貸ししましょう」
 老人は静かに言った。


「お代はいりません。父は、預かった人にお返しするものだと言っていました。私には、あなたが、その人のように見えます」
 澪は本を胸に抱いた。
 古い紙の匂いが、ふっと立ち上った。それは、祖母の家の匂いに、よく似ていた。


 戸口の真鍮の鈴が、ちりん、と鳴った。
 振り向くと、先ほどの紺色のワンピースの女性が、もう店を出ていくところだった。彼女の小指から伸びる糸は、空に向かって何本も、何本も、淡い光を放ちながら伸びていた。けれども、澪の銀色の糸とは、一本も交わっていなかった。
 彼女は、澪の糸の相手ではない。
 ただ、今日、この瞬間、この古書店で、すれ違っただけの人。


 それでも——と澪は思った。
 すれ違うことすら、よっぽどの縁なのだ。
 澪は本を抱えたまま、戸を引いた。商店街には、午後の陽が降り注いでいた。

 月燈書房を出てから、澪はまっすぐ会社に戻った。
 ランチを買い忘れたことに気づいたのは、エレベーターを降りてからだった。けれども、不思議と空腹は感じなかった。胸に抱いた革表紙の本の、ずっしりとした重みのほうが、澪の意識を満たしていた。
 午後の仕事は、上の空で進んだ。
 パソコンの画面に文字を組みながら、澪は何度も、机の引き出しに視線を落とした。引き出しの中には、ハンカチに包んで、あの本がしまってあった。家に帰るまでの数時間が、これほど長く感じられたのは、初めてだった。


 夕方、退勤の時間になった。
「お先に失礼します」
 澪が立ち上がると、隣の恵美が顔を上げた。
「あら、今日は早いのね」
「ええ、ちょっと、用事があって」
「もしかして、デート?」
 澪は、答えに窮した。


 古い詩集の中の、まだ会ったこともない誰かに会いに行く、と言えるはずもない。
「秘密です」
 澪はそう言って、笑った。


 恵美は、おやおや、という顔で、けれどもそれ以上は追及しなかった。
「気をつけて帰ってね」
「はい」
 澪は本を抱えて、オフィスを出た。

 帰りの電車の中で、澪は、革表紙の本を取り出した。
 乗客はまばらだった。隣の席に座る人もいない。澪は、膝の上にそっと本を開いた。
 黄ばんだ紙の上の、万年筆の文字。
 澪はゆっくりと、最初のページから読み始めた。

  よっぽどの縁

  この国ですら
  一億二千万人……

 文字を追いながら、澪は、自分が、誰かに読まれることを願って書かれた言葉を、確かに今、受け取っていることを感じた。


 半世紀以上前、東京のどこかの下宿で、一人の若者が、まだ見ぬ誰かのために、ペンを走らせた。その文字が、長い年月を、月燈書房の奥の棚で待ち続けて、今、澪のところに届いた。


 よっぽどの縁だ、と澪は心の中で繰り返した。
 電車が、澪のアパートの最寄駅に着いた。
 澪は本を閉じて、再びハンカチに包んだ。プラットフォームに降り立つと、夕暮れの空が、薄い橙色に染まっていた。


 澪の左手の銀色の糸は、その橙色の空を貫いて、どこか遠くへ伸びていた。


第三章 昭和四十二年の手紙

 その夜、澪はアパートに帰り、ささやかな夕食を済ませてから、ようやく古書店で借りた詩集を膝に乗せた。


 革表紙は手のひらに馴染むように柔らかく、けれども角は擦り切れ、背は糸でかがり直された跡があった。誰かが大事に、繰り返し読んだ本だ。
 澪はページをめくった。


 巻頭の「よっぽどの縁」に始まり、詩は全部で四十篇ほど収められていた。どれも縁について書かれていた。出会いの奇跡、すれ違いの寂しさ、別れたあとに残るぬくもり、まだ見ぬ誰かへの呼びかけ。


 万年筆の筆跡は、男性のもののように力強かったが、ところどころに、書きあぐねたような細い線も混じっていた。書き手の息遣いが、ページから直に伝わってくる。


 澪は何度もページをめくり返した。
 そして、ちょうど真ん中あたりのページに、挟まっていた一通の手紙を見つけた。


 封筒は色褪せた水色だった。宛名はなく、ただ「いつか読む人へ」とだけ、表に書かれていた。
 澪は息を呑んで、封を切った。

  いつか読む人へ

  私はあなたを知りません。
  あなたも、私を知らないでしょう。


  けれども、この詩集があなたの手に渡ったということは、私とあなたの間に、なにかしらの縁があったということです。
  よっぽどの縁、と私は呼んでいます。

  私は今、東京の小さな下宿で、この手紙を書いています。
  昭和四十二年、五月。
  窓の外では、隣家のラジオから美空ひばりが流れています。
  私の名は山際良一(やまぎわ りょういち)。二十七歳。出版社の校正係をしています。

 澪は一度、手紙から目を離した。
 昭和四十二年——西暦に直せば、一九六七年。今から五十九年前のことだ。


 澪は左手を見た。銀色の糸は、変わらず、天井のどこかへと伸びていた。けれども今、その糸の張り具合が、確かに変わっていた。糸の先が、ぐっと過去へと——半世紀以上の時間の向こうへと、引かれているのを、澪は感じていた。
 まさか、と思いながら、澪は手紙を読み続けた。

  私は子供の頃から、不思議なものが見える質でした。
  人と人とを結ぶ、糸のようなものです。
  白い糸、赤い糸、金色の糸。色は様々で、太さも違う。けれども、それは確かに、人と人とを結びつけているものでした。

 澪は、思わず手紙を取り落としそうになった。
 心臓が、どくん、と一つ大きく打った。
 山際良一という男性は、澪と同じものが、見えていた。
 糸が、見えていた。

  長じてから、私はこれを「縁」と呼ぶことにしました。
  奈良の薬師寺に何度か通ううち、ある僧侶がこう教えてくれたのです。


  「人と人との出会いは、よっぽどの縁です。同じ時代に生まれて、同じ空気を吸えるだけで、それだけで奇跡なのです」


  その言葉が、私の見ている糸の正体を、ようやく言い当ててくれたように感じました。

  さて、私には一つだけ、不思議な糸があります。
  それは、私自身の左手の小指から伸びる、銀色の糸です。
  他の色とは違う、月の光のような銀色。
  この糸の先がどこへ続いているのか、私にはわかりません。
  けれども最近、糸の張り方が変わってきたのです。
  以前はゆるくたるんでいた糸が、ぴんと張るようになりました。

 澪は息を止めた。
 左手の小指。銀色の糸。月の光のような色。
 すべて、自分のものと同じだった。

  私はもう若くありません。
  二十七歳というのは、当時としては立派な大人で、いい加減に身を固めるべき年でもあります。けれども私は、誰とも結ばれていない。私の指から赤い糸は伸びていない。


  ただ、銀色の糸だけが、空のどこかへ向かって伸びている。

  それで私は、考えました。
  もしかするとこの銀色の糸は、同じ時代の誰かを指しているのではない。
  もっと、ずっと遠くの——時代すら越えた誰かに、繋がっているのではないか。

  馬鹿げた考えかもしれません。
  けれども糸は、確かに、私の知らない方向へと伸びている。


  空のどこか、時間のどこか。
  その先に、いつか、私と同じものが見える誰かがいる。


  その人に、この詩集を届けたい。
  私が見たもの、感じたこと、考えたことを、その人とだけは、分かち合いたい。

  だから私は、この詩集を、近所の古書店に預けることにしました。
  月燈書房という店です。店主の岡部さんとは、よく将棋を指す仲です。
  岡部さんに、こう言って預けます。


  「いつか、この本を取りに来る人がいるはずです。その時は、お代を取らずに渡してやってください」
  岡部さんは笑って頷きました。私のことを、変わり者だと思っているでしょう。
  けれども彼は、頷いてくれました。

  いつか読む人へ。
  あなたが、銀色の糸を持つ人ならば。
  あなたが、私と同じものが見える人ならば。
  どうか、お願いがあります。

  返事を書いてください。
  この手紙の余白に、あるいは新しい紙に、なんでもいいから、書いてほしい。
  そして、それをまた詩集の中に挟んで、月燈書房に返しておいてください。


  岡部さんが亡くなっていても、その息子さん、あるいは孫の代に、いつか、私に届くかもしれない。
  ばかげた話だと、自分でも思います。
  けれども、糸は確かに、伸びているのです。

  あなたがこの手紙を読んでいる時、私はもうこの世にはいないかもしれません。
  それでも、糸は切れません。
  糸は、生きている人と死んだ人を結ぶこともできるのだと、私は信じています。

  よっぽどの縁、とは、そういうものではないでしょうか。

  昭和四十二年五月十七日
  山際良一

 澪は、手紙を膝の上に置いて、長いあいだ動けなかった。
 窓の外では、現代の東京の夜が、ネオンと自動車のヘッドライトで明るく光っていた。けれども澪の心の中では、半世紀以上前の、美空ひばりの流れる下宿の窓辺に、一人の若者が万年筆を握っている。


 その人の左手の小指からは、銀色の糸が伸びている。
 そしてその糸は、時間を越えて、今、澪の指へと繋がっている。
 澪は、自分の左手を、もう一度見た。
 銀色の糸は、変わらず、天井へと——いや、おそらくはもっと遠く、五十九年前の東京へと——伸びていた。


 澪は、手紙を胸に抱きしめた。
 返事を書こう、と思った。
 届くかどうかはわからない。けれども、糸が繋がっているのなら、書かないわけにはいかない。
 よっぽどの縁、なのだから。


第四章 薬師寺の僧侶

 澪はその週末、新幹線に乗って奈良へ向かった。
 手紙を読んだ夜、いてもたってもいられず、休暇願を出した。会社の同僚は怪訝な顔をしたが、澪はただ「祖母の墓参りに」とだけ答えた。


半分は本当だった。祖母は奈良の出身で、菩提寺もそこにあった。

 けれどもう半分は——薬師寺で、答えを探したかった。


 山際良一が言葉を交わしたという僧侶は、もうとうに亡くなっているだろう。けれども薬師寺という場所そのものに、何かが残っているのではないか。澪はそう感じていた。


 奈良駅から近鉄に乗り換え、西ノ京駅で降りる。駅から薬師寺までは歩いてすぐだった。
 五月の風が、若葉を揺らしていた。
 寺の門をくぐったとき、澪は思わず立ち止まった。


 境内の空気が、薄い金色の光に満ちて見えた。
 糸だった。
 数え切れないほどの糸が、東塔の屋根を渡り、西塔の九輪を縫い、回廊の柱と柱とを結び、そして空高くへと伸びていた。寺を訪れる人々の指から、それぞれの方角へと糸が伸び、亡くなった誰か、まだ見ぬ誰か、遠い時代の誰かへと、ゆっくりと揺れていた。


 澪は、こんな景色を見たのは初めてだった。
 糸が、こんなにも、密に、丁寧に、人と人とを結んでいる場所が、この世界にあったのだ。


 澪は左手を見た。
 銀色の糸は、変わらず、まっすぐに伸びていた。けれども、ここ薬師寺では、糸の先がはっきりと過去の方角を指している。空の高みから、時間の深みへと、糸はゆるやかに角度を変えて続いていた。


 澪はゆっくりと境内を歩いた。
 東塔の前に立ち、写経道場の脇を通り、玄奘三蔵院の手前まで来たとき、ふと、回廊の影に座っている一人の僧侶を見つけた。


 若い僧侶だった。
 まだ三十前後だろうか。剃り上げた頭に、墨染の衣。胡坐をかいて、文庫本を読んでいた。
 澪は、なぜか、その僧侶に話しかけたくなった。


 若い僧侶の小指から伸びる糸は、不思議な様子だった。多くは普通の人と同じく白や赤やまちまちの色だったが、一本だけ、ひときわ古びた、薄い銀色の糸が、東のほうへと伸びていた。


「あの」
 声をかけると、僧侶は顔を上げた。
 穏やかな目だった。


「観光ですか」
「いえ。あの、お聞きしたいことが」
 澪は迷った。何をどう聞けばいいのか、わからなかった。


 けれども僧侶は、急かさなかった。文庫本を閉じて、隣の縁を手のひらで軽く叩いた。
「お座りください。長い話は、座って聞きます」
 澪は腰を下ろした。
 しばらく、二人とも黙っていた。境内を渡る風が、回廊の軒先を鳴らした。


 澪は、決心して、口を開いた。
「あの、ばかげた質問かもしれません」
「ええ」
「この寺に、五十年以上前、山際良一という方がよく通っていたと、聞きました」
 僧侶は、表情を変えなかった。けれども、目の奥に、わずかな揺らぎが見えた。


「山際良一……」
「ご存知でしょうか。あるいは、その方の話を、お聞きになったことが」
 僧侶は、しばらく黙っていた。
 それから、ゆっくりと頷いた。
「先代の、そのまた先代から、聞いたことがあります」
「先代の、先代から」
「ええ。ここの僧侶は、代々、不思議な話を語り継ぐ風習がありましてね。

山際良一という方の話は、私たちの間では、ちょっとした伝説のようになっています」
 澪は息を呑んだ。


「伝説」
「ええ。なんでも、その方は、人と人との縁が、糸のように見える方だったとか」
 澪の手が、震えた。
 僧侶はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


「先代の話では、山際さんは、ご自分の小指から伸びる銀色の糸について、よく語っておられたそうです。誰にも繋がっていない、けれども確かにどこかへ伸びている、不思議な糸だと」
「その糸は、どうなったのですか」
 澪は、声を絞り出すように尋ねた。
 僧侶は、ふっと、優しく笑った。


「先代は、こうおっしゃっていました。山際さんがお亡くなりになった日、空が、銀色に光ったと」
「銀色に……」
「ええ。糸が、空に解き放たれて、別の時代の、別の誰かのところへ、流れていったのだと。先代はそう言っていました。お若い私は、半信半疑で聞いていましたが」


 僧侶は、そこで、澪の左手を見た。
 澪は、慌てて手を引こうとした。けれども僧侶は、目を細めて、こう言った。
「お客さん。今、あなたの左手から、銀色の糸が伸びているように、私には見えます」


 澪は、息を止めた。
「見えるのですか」
「いえ、私には、本当は何も見えません。けれども、あなたの目の動きで、わかります。先代も、そう言っておられました。糸が見える人は、自分の指先を、ちらちらと見るのだと」
 僧侶は、ゆっくりと続けた。


「山際さんもまた、そういう仕草をしておられたそうです」
 澪は、ようやく、声を取り戻した。


「……信じて、いただけるのですね」
「信じます。私が信じなくとも、先代も、その先代も、信じていた話です。お寺というのは、信じることを引き継ぐ場所でもあるのです」
 澪は、目頭が熱くなるのを感じた。


 長いあいだ、誰にも話せなかった。母にも、父にも、職場の同僚にも。糸の話は、いつも、心の奥に閉じ込めてきた。それを今、初対面の若い僧侶が、当たり前のように受け入れている。
「ありがとうございます」
 澪は深く頭を下げた。


 僧侶は、何度か頷いてから、こう言った。
「山際さんは、晩年、こうおっしゃっていたそうです。『私の銀色の糸の先には、きっと、私と同じものが見える人がいる。その人にだけ、私の見たものを、お渡ししたい』と」


 澪は、鞄の中から、革表紙の詩集を取り出した。
「これ、です」
 僧侶は、その本を見た。
 表紙に触れることはしなかったが、ただ、深く、深く、頷いた。


「届きましたか」
「届きました。五十九年かかって」
「よっぽどの縁、ですね」
 僧侶は、そう言って、笑った。
 澪も、笑った。


 二人のいる回廊に、五月の風が吹き渡った。風に乗って、どこからともなく、写経道場の墨の匂いが流れてきた。


 澪は、銀色の糸が、確かに、自分と、五十九年前の山際良一を結んでいるのを感じていた。
 そして、もう一つ、別のことに気づいた。
 若い僧侶の左手の小指から伸びる、薄い銀色の糸は——その先が、東の方角、東京のどこかを指していた。


 澪は、何か言おうとして、結局、口を閉じた。
 彼にもまた、いつか、自分と同じことが起こるのかもしれない。
 糸というものは、そういうふうに、長い長い時間をかけて、巡るのかもしれない。


 澪は、若い僧侶に、もう少し話を聞きたかった。
 僧侶は、自分の名を、慈円(じえん)、と名乗った。
「お茶を、お持ちしましょうか」
 慈円は、立ち上がろうとした。


「いえ、お忙しいでしょうから」
「忙しくはありません。今日は、私の当番の日ではないのです。たまたま、この回廊で本を読んでいただけです」
 慈円はそう言って、また座り直した。


「ふしぎなことに、私がここで本を読んでいたら、あなたが来た。それもまた、よっぽどの縁ですね」
 澪は、頷いた。
「慈円さんも、糸が見えるのですか」
 澪は、思い切って、尋ねた。


 慈円は、首を振った。
「いいえ、私には見えません。ただ、見える人の話を、長く聞いてきました。先代の住職は、見える方でした」
「先代の」
「ええ。山際良一さんの話を、私に伝えてくださったのが、先代です。先代は、ご自分も糸が見える方でしたから、山際さんの話を、よく理解しておられました」
 澪は、目を見開いた。


 糸が見える人は、自分ひとりだと、長いこと思っていた。山際良一を知ったとき、ようやく、過去にもう一人いたのだとわかった。けれども、もしかすると——


「先代も、糸が見えたのですか」
「ええ。先代の話では、糸が見える人は、ごく稀に、いらっしゃるそうです。

一つの世代に、一人か、二人か。日本中で。世界に広げれば、もう少しいるのかもしれません」


「そんなに、少ないのですか」
「少ない、というよりは、自覚している人が少ない、ということだと、先代はおっしゃっていました。本当はもっと多くの人に、ぼんやりとは見えている。けれども、ぼんやりとしか見えないから、自分の気のせいだと思って、忘れてしまう。


はっきりと見える人は、稀ですね」
 澪は、回廊の柱の影を見つめた。
 日が傾き始めて、影は少しずつ長くなっていた。


「先代は、はっきりと見える方でしたか」
「ええ。山際さんと同じくらい、はっきりと見えていたそうです。だから、山際さんの話を、信じることができたのです」
 慈円は、ふと、空を見上げた。


「私には見えませんが、私の仕事は、見える人を信じることです」
 澪は、その言葉に、胸を打たれた。
 信じるということは、見えることよりも、むしろ難しいことなのだ。見える人は、自分の目で確かめている。けれども、見えない人が、見える人の話を信じるためには、ただひたすらに、相手を尊重するしかない。


「ありがとうございます」
 澪は、もう一度、頭を下げた。
 慈円は、目を細めた。


「あなたは、これから、どうされますか」
「東京に戻って、お返事を書きます」
「山際さんに、ですか」
「はい。届くかどうかはわかりませんが、書かないわけにはいかないと、思っています」
「届きますよ」
 慈円は、はっきりと言った。


「届くかどうか、わからないとおっしゃいましたが、私は、届くと確信しています。なぜなら、糸は、生きている人と死んだ人を、結ぶこともできるからです。先代から聞いた、山際さんの言葉です」
 澪は、頷いた。


「同じことを、山際さんも、手紙に書いておられました」
「でしょうね。糸が見える方は、みな、同じ真実に辿り着くようです」
 慈円は、回廊から立ち上がった。


「お見送りしましょう」
 二人で、ゆっくりと、境内を歩いた。
 東塔の前で、慈円が立ち止まった。
「この塔は、千三百年前から、ここに立っています」
「千三百年」
「ええ。創建されてから、何度か建て替えはありましたが、それでも、この場所に、塔がずっとあり続けている。塔は、人と人とを結ぶ縁の、もう一つの形かもしれません。塔が立っているからこそ、千三百年前の誰かと、今のあなたが、同じ場所に立っている」
 澪は、東塔を見上げた。


 九つの輪が、夕陽を受けて、淡く光っていた。
 その輪の周りに、無数の糸が、絡まりながら、空へと伸びている。澪には、それが見えた。寺を訪れた人、訪れる人、亡くなった人、これから生まれる人——それらすべての糸が、塔を中心にして、結ばれている。


「美しい場所ですね」
 澪は、つぶやいた。
「ええ。私が、この寺を選んだ理由でもあります」
 慈円は、微笑んだ。
 二人は、門のところまで歩いた。


「またいつか、お越しください」
「はい。ぜひ」
 澪は、深く一礼して、寺を後にした。
 振り返ると、慈円は、まだ門のところに立って、澪を見送っていた。


 彼の左手の小指から伸びる、薄い銀色の糸は——澪の進む方向、東京のほうへと、まっすぐに、伸びていた。
 澪は、何か言いかけて、結局、ただ、もう一度頭を下げて、駅へと歩き出した。


 もしかすると、いつか、慈円もまた、自分と同じことを経験するのかもしれない。
 いや、もしかすると、もう経験しつつあるのかもしれない。
 その時、糸の先で待っているのは、誰なのだろう。
 澪には、わからなかった。けれども、糸は、必要なときに、必要な人を結ぶ。慈円が、いつか、その時を迎えるのだろう。


 夕陽が、奈良の街を、橙色に染めていた。
 澪の銀色の糸は、過去と、未来と、その両方へ、淡く揺れていた。


第五章 返事を書く

 東京に戻った澪は、その夜、机に向かった。
 白い便箋を一枚、ライトの下に広げる。万年筆を握る。インクの色は、迷ったすえ、紺青を選んだ。山際良一の手紙の文字も、紺青に近い色だった。
 窓を開けると、五月の夜風が入ってきた。


 部屋の隅のラジオから、古いジャズが小さく流れている。澪は、半世紀以上前のあの下宿に、自分を重ね合わせるつもりで、ペンを動かし始めた。

  山際良一さま

  いつか読む人へ、と書かれたお手紙を、確かに受け取りました。
  令和八年、五月。
  あなたが手紙を書かれてから、五十九年が経ちました。

 澪はここで、一度ペンを置いた。
 五十九年。長いような、短いような時間だった。
 山際良一はもう、この世にはいない。それは薬師寺の僧侶の話で、はっきりと知った。それでも、糸は切れていない。糸は、生きている人と死んだ人を結ぶこともできる。山際自身が、手紙の中でそう書いていた。
 澪は、また書き始めた。

  私の名は、佐倉澪と申します。二十六歳。会社員をしています。
  女です。あなたは、男性の方を想像しておられたかもしれませんが、お許しください。
  私もまた、人と人とを結ぶ糸が見えます。
  子供の頃から、ずっとです。
  白い糸、赤い糸、金色の糸。あなたが手紙に書かれた通りの色を、私も見ています。
  そして、私の左手の小指からも、銀色の糸が伸びています。
  その糸は、過去のあなたへと繋がっていました。

  あなたが書き残された詩集を、月燈書房で受け取りました。
  岡部老人は、二代目だそうです。あなたが将棋を指していた岡部さんは、お父様だったのですね。今のご主人は、もうすぐ八十歳になられるとのことです。
  ご主人は、こうおっしゃいました。
  「父は、いつか取りに来る人がいるはずだ、と言っていました」
  私は、その人かもしれません。

 澪は手を止めて、左手の小指を見た。銀色の糸が、便箋の上にかかっていた。糸はゆっくりと揺れて、まるで澪の手の動きを見ているかのようだった。

  奈良の薬師寺に行ってきました。
  あなたが通っておられた、あの寺です。
  今は、若いお坊さまが、あなたの話を伝説のように語り継いでおられました。
  あなたが亡くなった日、空が銀色に光った、と。
  その糸が、時代を越えて、私のところに届いたのだと、私は信じています。

  あなたの詩集、ゆっくりと読ませていただきました。
  一篇、一篇、心に染みるものでした。
  とくに「よっぽどの縁」は、私の祖母が、よく口にしていた言葉です。
  祖母もまた、薬師寺の僧侶から、その話を聞いたと言っていました。
  もしかすると、私の祖母とあなたは、同じお坊さまから、同じ話を聞いていたのかもしれません。
  それもまた、よっぽどの縁ですね。

 澪は微笑んだ。
 ペンが、紙の上を、なめらかに走った。

  山際さん。
  私は、糸が見えることを、ずっと、ひとりで抱えてきました。
  誰にも話せませんでした。話したところで、信じてもらえないと思っていました。
  けれどもあなたの手紙を読んで、ようやく、私はひとりではなかったのだと、知りました。
  時代を越えて、私と同じものを見ていた人がいた。
  その人が、私に向かって、手紙を書き残してくれていた。
  それは、私の人生の中で、最も大きな贈り物のひとつでした。

  お返事を書きます。
  届くかどうかはわかりません。けれども、糸が繋がっているのなら、書かないわけにはいかないでしょう。
  あなたが、私の存在を、半世紀以上前に予感してくださったように。
  私もまた、これから先、私の銀色の糸の先にいる、誰かのことを、信じます。

 澪は、ふと、ペンを止めた。
 自分の銀色の糸は、確かに、過去の山際良一へと伸びている。けれども、糸というものは、本来、一本の道ではない。よく見ると、糸は澪の指から二方向に伸びていた。一方は過去へ、もう一方は——未来へと。
 澪は、その未来の方角を、しばらく見つめた。
 糸の先には、まだ会ったことのない誰かがいる。それは何十年後か、あるいは、もう少し近い未来か。
 澪は、再び、ペンを取った。

  山際さん。
  私は、あなたから受け取ったものを、もう一度、次の誰かに渡そうと思います。
  あなたの詩集と、あなたの手紙と、そして、私のこの手紙を。
  月燈書房に預けます。
  岡部老人のあとも、おそらく誰かが、あの店を継いでくれるでしょう。
  継がれなかったとしても、本というものは、不思議と、必要な人のところに届くものだと、私は信じています。

  いつか、私の銀色の糸の先にいる人が、この詩集を手に取るでしょう。
  その時、私もまた、あなたのように、その人に向かって書き残します。
  よっぽどの縁、と。

  あなたの詩集を、ありがとうございました。
  あなたの手紙を、ありがとうございました。
  あなたが、私を見つけてくださったことを、ありがとうございました。

  令和八年五月二十三日
  佐倉澪

 書き終えると、澪は、長く息を吐いた。
 万年筆の蓋を閉める。便箋を二つに折る。それから、もう一枚、白い紙を用意した。
 今度は、未来の誰かへの手紙だった。

  いつか読む人へ

  あなたが、銀色の糸を持つ人ならば。
  あなたが、私と同じものが見える人ならば。
  どうか、お願いがあります。
  返事を書いてください——

 澪は、山際良一の文章を、そのまま借りた。書き換える必要は、なかった。
 縁というものは、こんなふうに、繰り返されるものなのかもしれない。
 澪は、自分の手紙と、未来への手紙の二通を、詩集の中に丁寧に挟んだ。山際良一の手紙も、もとあった場所に戻した。


 革表紙の本は、少しだけ厚みを増した。
 その厚みは、五十九年の時間と、これから先の何十年か、あるいは何百年かを、確かに重ねた厚みだった。
 澪はラジオを消した。
 窓の外、東京の夜空に、星が一つ、銀色に瞬いて見えた。
 糸はまだ、消えていなかった。


第六章 月燈書房ふたたび

 翌週の土曜日、澪は月燈書房を訪ねた。
 革表紙の詩集を、紺色の風呂敷に包んで、胸に抱えていた。


 商店街の路地を曲がる。看板の剥げかけた古書店の前に立ったとき、澪は一瞬、立ち止まった。
 左手の銀色の糸が、ふっと、これまでにない揺れ方をしたのだ。


 糸は、過去にも未来にも、それから——店の中にも、伸びていた。
 澪は戸を引いた。ちりん、と真鍮の鈴が鳴る。
「いらっしゃい」
 岡部老人の声がした。


 いつもの通りの、しわがれた声。けれども今日は、声の中に、少しだけ、待っていたような響きがあった。
 澪はカウンターに歩み寄り、風呂敷から本を取り出した。


「お返しに来ました」
「ええ」
「それと、お願いがあります」
 岡部老人は、皺だらけの目を細めた。


「父からの言伝てを、思い出しました」
 老人は、棚の下の引き出しから、古びた一枚の紙を取り出した。万年筆の文字で、こう書かれていた。

  月燈書房の主へ
  革表紙の詩集が、戻ってきたら——
  その人の手紙を、必ず一緒に挟んでおいてください。
  そして、次の人が現れるまで、また、奥の棚にしまっておいてください。
  お代は取らずに。
  いつかまた、必要な人のところに、届くはずです。
  山際良一

「父は、これを大事にしまっていました。私には、最初は意味がわからなかった」


 岡部老人は、紙を澪に見せた。
「けれども先日、あなたがあの詩集を抱えて出ていかれたとき、私は、ああ、これは、父の言っていた縁だな、と思いました」
 澪は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。手紙を、二通、挟みました。一通は、山際さんへの返事。もう一通は、未来の誰かへの手紙です」
「未来の誰か」
「ええ。私の銀色の糸は、過去のほうへも、未来のほうへも、伸びているのです」


 岡部老人は、しばらく黙ってから、微笑んだ。
「人の縁というのは、そういうものかもしれませんね」
「はい」
「あなたは、本を私に預けてくださる。私は、また奥の棚にしまう。いつか、別の誰かが、ここに来る」
「そう、信じています」
 澪は、本を風呂敷ごと、老人に差し出した。


 老人は、両手で、丁寧にそれを受け取った。
「お預かりします。私が生きている間は、私が。私が逝ったあとは、息子か、孫か、店を継ぐ誰かが、預かるでしょう。父から私へ、私から次の代へ。本もまた、人と人とを繋ぐ、糸のようなものです」
 澪は、目頭が熱くなるのを感じた。


 左手の銀色の糸が、店の天井のあたりで、ふわりと、二本に分かれた。一本は過去の山際良一へ。もう一本は、未来のまだ見ぬ誰かへ。
 澪は、その光景を、しばらくじっと見ていた。
 糸は、もう、孤独ではなかった。

 帰り道、商店街を歩きながら、澪は不思議な感覚に包まれていた。
 長いあいだ、糸が見えるというのは、孤独な能力だと思っていた。誰にも話せず、誰にも理解されない、自分だけの秘密。糸は他人のものばかりで、自分は、糸を見るだけの傍観者だった。


 けれども、本当は違ったのだ。
 糸は、見える側にも、繋がっている。
 時代を越えて、空間を越えて、糸は誰かと誰かを結びつけ、そして、その糸を見ることのできる人もまた、別の誰かと結ばれている。
 澪は、山際良一と繋がった。
 そして、まだ見ぬ未来の誰かと、これから繋がる。
 その誰かもまた、その先の誰かと繋がるだろう。


 澪が出会わなかったかもしれない人と、未来のその誰かとが、間接的に出会うように——糸は、長い長い時間をかけて、人々を縫い合わせていく。


 澪は、ふと、足を止めた。
 商店街の交差点で、紺色のワンピースの女性とすれ違った。
 あの日、月燈書房で見かけた女性だった。
 彼女は澪のほうを、見もしなかった。澪も、声をかけなかった。糸も、二人の間には、伸びていなかった。


 ただ、すれ違っただけだった。
 それでも、澪は思った。
 すれ違うことすら、よっぽどの縁。


 彼女もまた、いつか、どこかの誰かと出会うだろう。澪が出会うべき人と、彼女が出会うべき人とは、違う。けれども、もしかすると、彼女の出会う誰かと、澪の出会う誰かとが、その先のどこかで、別の縁を結ぶのかもしれない。


 糸は、見えなくとも、確かにそこにある。
 すれ違う一瞬の風の中にも、確かに糸は揺れている。
 澪は、商店街を抜けて、自分のアパートへと向かった。
 左手の小指から伸びる銀色の糸は、過去と未来へ、静かに、けれども確かに、伸び続けていた。


 数ヶ月後、澪は会社の昼休みに、また月燈書房を訪れた。
 岡部老人は、いつものようにカウンターの奥に座っていた。


 澪は、革表紙の詩集が、奥の棚にきちんと戻されているのを確認した。本の背を、指で、そっと撫でた。
「次の方が、いつ来られるか、わかりませんね」
 澪が言うと、老人は微笑んだ。
「来るときには、来ます。来ないときには、来ません。それだけのことです。私が父から教わったのは、それだけです」
 澪は、頷いた。


 店を出ようとしたとき、戸口に、若い男性が立っていた。年の頃は、澪より少し下、二十二、三歳といったところだろうか。
 彼は、初めて月燈書房に来た様子で、少し戸惑った顔をしていた。
 彼の左手の小指から——
 澪は、息を呑んだ。


 淡い、銀色の糸が、伸びていた。
 糸は、店の奥の棚へと向かって、まっすぐに、張り詰めていた。
 澪は、彼と目が合った。
 彼は、何かを言いかけて、けれども結局、黙礼だけして、店の中へと入っていった。
 澪は、彼を引き止めなかった。
 ただ、そっと、戸を引いて、外に出た。
 ちりん、と真鍮の鈴が鳴った。


 商店街の空に、夏の雲が浮かんでいた。
 澪は、左手の小指を見た。銀色の糸は、過去へと、そして未来へと、確かに伸びている。
 その未来のほうの糸が、今、初めて、近づいてきたのを澪は感じた。
 糸は、ぴんと張っていた。


 いつか、彼と、言葉を交わすことになるのだろう。あるいは、ならないかもしれない。
 けれども、糸は、確かに繋がっている。
 澪は、空を見上げた。
 雲の合間から、太陽の光が差し込んで、糸を、ほんの一瞬、はっきりと、輝かせた。
 よっぽどの縁、と澪は心の中で呟いた。


 大好きだった祖母の声が、聞こえた気がした。
 大好きな薬師寺の僧侶の話を、孫に語ってくれた、あの祖母の声だった。
 澪は、商店街を歩き出した。
 左手の小指から伸びる銀色の糸は、過去と、未来と、そして今ここを、確かに、繋いでいた。


 商店街を歩きながら、澪は、もう一度、若い男性のことを思い出していた。


 彼の左手から伸びていた、銀色の糸。
 彼もまた、糸が見える人なのだろう。あるいは、これから見えるようになる人かもしれない。澪が九歳の冬の朝、突然糸が見えるようになったように、彼にも、いつか、そんな朝が来るのだろう。


 彼が、月燈書房であの詩集を見つけたとき、何を思うだろうか。
 澪の手紙を、彼が読むとき、彼は、半世紀以上前の山際良一の文字と、今の自分の文字とが、同じ詩集の中で並んでいることに、驚くだろうか。それとも、すでに何かを予感していて、ただ、ああ、やはり、と頷くだけだろうか。


 澪には、わからなかった。
 けれども、それでいいのだ。
 縁というのは、自分が制御するものではない。糸は、自分の意思で張ったり、たわんだりするものではない。糸は、ただ、そこにある。見えるか、見えないか、それだけの違いだ。


 澪は、夏の空を見上げた。
 雲は、ゆっくりと、東のほうへ流れていた。
 奈良の薬師寺の、慈円のことを思った。
 彼は今頃、何をしているだろう。境内の回廊で、また文庫本を読んでいるだろうか。それとも、写経をしているだろうか。あるいは、彼もまた、誰かと出会って、銀色の糸の先を、辿りつつあるのだろうか。


 澪は、慈円に、葉書を送ろうと思った。
 月燈書房で、新しい持ち主に会ったこと。彼の左手にも、銀色の糸が伸びていたこと。糸というものは、こんなふうに、巡るものらしいこと。
 慈円なら、わかってくれるだろう。

 アパートに帰った澪は、机に向かって、葉書を書いた。
 短い文章だった。
「先日は、ありがとうございました。今日、月燈書房で、新しい持ち主に会いました。私と、よく似た糸を持つ方でした。慈円さんに、お知らせしたくて、筆を取りました。佐倉澪」
 それだけ書いて、ポストに投函した。


 夏の夕暮れだった。
 ポストの上に、夕陽が斜めに差して、赤い箱がさらに赤く輝いて見えた。
 澪は、ふと、自分の左手の小指を見た。
 銀色の糸は、これまでよりも、少しだけ、ゆるんでいた。
 張り詰めていた糸が、ふっと、ほどけたような感じだった。
 ああ、と澪は思った。
 糸は、果たすべき役目を、果たしたのかもしれない。


 山際良一からの糸を受け取り、自分が受け取ったものを、未来の誰かに渡すための準備をした。糸は、まだ完全に切れたわけではない。けれども、ぴんと張っていた緊張は、確かに、ほどけた。
 澪は、しばらく、ポストの前に立っていた。
 風が吹いて、髪を撫でていった。

 数日後、奈良から葉書が届いた。
 差出人は、慈円。
 短い返事だった。


「お知らせ、ありがとうございました。私もまた、東京で、ある方に出会いました。よっぽどの縁、を感じています。いつか、佐倉さんにお話できる日が、来るかもしれません。慈円」
 澪は、その葉書を、机の引き出しに大事にしまった。


 糸は、こうして、巡るのだ。
 澪が山際良一から受け取ったものを、誰かに渡す。慈円もまた、誰かに渡す。その誰かが、また別の誰かに渡す。
 縁は、一本の線ではない。
 縁は、無数の糸が交差し、絡み合い、ほどけて、また結ばれる、巨大な織物のようなものだ。
 澪は、その織物の、ほんの一筋の糸として、生きている。
 それで、十分だった。


 秋になった。
 ある日、澪は、会社の昼休みに、また月燈書房を訪ねた。
 いつもの古書店の戸を引くと、ちりん、と鈴が鳴る。


 けれども、その日、カウンターの奥にいたのは、岡部老人ではなかった。
 澪と同じ年頃の女性が、座っていた。
「いらっしゃいませ」
 彼女は、ぎこちなく微笑んだ。


「岡部さんは……」
「祖父は、先週、亡くなりました」
 澪は、息を呑んだ。
「孫の、私が、店を継ぐことになりました。岡部美咲(おかべ みさき)と申します」
 彼女は、深く頭を下げた。
 澪も、慌てて頭を下げた。


「お悔やみを申し上げます。私、岡部さんには、長くお世話になっておりました」
「ありがとうございます。祖父から、よく話を聞いていました。佐倉さんという、特別なお客様がいらっしゃると」
「特別、ですか」
「ええ。父からの言伝てがあって、革表紙の詩集のことを、佐倉さんにお伝えするように、と」
 澪は、目を見開いた。


 美咲は、カウンターの引き出しから、一枚の紙を取り出した。岡部老人の、震える筆跡で書かれた、最後の手紙だった。

  佐倉様
  長くお世話になりました。私の番は、ここで終わりです。
  革表紙の詩集は、奥の棚に、変わらずございます。
  次の方が、いつ来られるか、私にはもう、見届けることができません。
  けれども、孫の美咲が、店を継いでくれることになりました。


  美咲もまた、私や父と同じく、本を必要な人のところに届けることを、約束してくれました。
  糸は、こうして、繋がっていくのですね。
  ありがとうございました。
  岡部

 澪は、手紙を読んで、目頭を押さえた。
 長くお世話になった老人の、最後の挨拶だった。
「ありがとうございます」
 澪は、美咲に向かって、深く頭を下げた。


「こちらこそ。父から、佐倉さんのお話を、何度も聞いていました。佐倉さんと、私の祖父との縁は、よっぽどの縁だったのだ、と」
 美咲は、そう言って、微笑んだ。
 澪は、ふと、彼女の左手の小指を見た。


 糸はたくさん伸びていたが、銀色のものは、なかった。
 けれども、それでいい、と澪は思った。


 糸が見えなくとも、糸が見える人を、信じてくれる人がいる。そして、その人が、本を預かってくれる。それで、縁は、繋がっていく。
 岡部老人が、糸が見える人だったかどうか、澪は知らない。けれども、彼は、糸を信じていた。父から受け継いだ約束を、最後まで、果たしてくれた。
 それだけで、十分だった。

 澪は、奥の棚へと向かった。
 革表紙の詩集は、変わらず、そこにあった。
 ただ、本の隣に、もう一冊、白い表紙の薄い本が、新しく並んでいた。
 タイトルはなかった。
 澪は、その白い本を手に取った。
 最初のページには、若い筆跡で、こう書かれていた。

  昭和も、令和も、その先も。
  糸を持つ人へ。
  私もまた、銀色の糸を持つ者です。
  あなたの手紙を読みました。
  あなたが残した詩集を、私もまた、引き継ぎます。

 澪は、息を止めた。
 あの夏の日、月燈書房に来た、若い男性。彼が、書き残したものだった。
 白い本は、彼が新しく作った、未来への手紙の入れ物だった。


 澪は、白い本のページをめくった。
 いくつかの詩と、いくつかの短い文章が、収められていた。彼もまた、糸について、書いていた。
 澪は、白い本を、革表紙の詩集の隣に、そっと戻した。
 二冊の本が、並んで、棚に置かれていた。
 昭和の山際良一、令和の佐倉澪、そしてその先の、若い彼。


 三人の手紙が、一つの場所で、待っていた。
 いつか、また、新しい誰かが来るのだろう。
 その時、棚には、三冊の本が並んでいるのかもしれない。あるいは、もっと多くの本が。
 澪は、棚に向かって、深く頭を下げた。
 月燈書房の戸口で、新しい店主の岡部美咲が、澪を見送っていた。


 その隣には、ふと気づくと、岡部老人の姿が、淡く透けて、立っているような気がした。
 錯覚かもしれない。
 けれども澪は、老人の小指から伸びる金色の糸が、孫の美咲の小指へと、確かに、繋がっているのを見た。
 糸は、生きている人と亡くなった人を、結ぶこともできる。
 山際良一が、そう信じていた通りに。

 澪は、戸を引いた。
 ちりん、と鈴が鳴った。
 商店街に、秋の夕陽が、斜めに差していた。
 澪の左手の銀色の糸は、過去にも、未来にも、確かに伸びていた。


 糸の先には、まだ会ったことのない、けれども、いつか会うはずの、誰かがいる。
 よっぽどの縁、と澪は呟いた。

 ——出会えたことに、ありがとう。
 楽しくやりましょう。


     了



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あとがき

最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。


この物語は、「一億二千万人、世界でならば数十億人の中で、同じ時代に出会うなんて、こりゃよっぽどの縁だ」という、奈良・薬師寺の僧侶の説法(原案の詩)から着想を得て生まれました。


主人公の澪は、人の縁が視覚的に見えてしまうからこそ、かえって人と深く交わることに臆病になっていた女性です。


しかし、過去の住人である山際良一の言葉に触れ、自分の能力を信じて守ってくれた古書店の岡部老人や僧侶の慈円と出会うことで、彼女の孤独は緩やかにほどけていきました。


私たちが生きる現代は、SNSなどで手軽に誰かと繋がれる反面、本当の意味での「一期一会」や、時間をかけた「縁」の有り難みを感じにくくなっているのかもしれません。


ですが、たとえ直接言葉を交わさず、ただすれ違っただけの間柄であっても、それは途方もない確率の果てに生まれた「よっぽどの縁」なのです。


澪が過去から受け取ったバトンを未来の青年へと繋いだように、この本があなたの元へ届いたこともまた、ひとつの美しい縁だと信じています。


あなたの進む未来が、どうかたくさんの温かい糸で編まれていますように。


――出会えたことに、ありがとう。

楽しくやりましょう。


よっぽどの縁 1

── 時空を渡る、ひとすじの糸 ──



まえがき

人は一生のうちに、何人と出会うのだろう。


ましてや、広い世界、果てしない時間の流れの中で、同じ時代に生まれ、言葉を交わし、心を寄せる確率など、天文学的な数字の彼方にある。


本作は、奈良・薬師寺を舞台に、孤独を抱えた一人の男と、時間の迷路に迷い込んだ一人の女が、「縁」という名の目に見えない糸に手繰り寄せられていく物語である。


私たちが「ただの偶然」と片付けてしまう出来事の裏側には、もしかしたら時空さえも歪めてしまうほどの、巨大な引力が働いているのかもしれない。


今、このページを開いてくださったあなたとの出会いもまた、ひとつの大切な「縁」。
どうぞ、霧深い薬師寺の境内へ、足を踏み入れるようにお読みいただければ幸いです。



プロローグ  消えた僧侶の言葉

薬師寺の朝は、霧から始まる。

奈良の盆地に白く積もる霧は、塔の朱色を溶かし、時間そのものを曖昧にする。観光客がまだ来ない早朝、三重塔の影が境内に細長く倒れているその時間に、青木誠一は必ずここへ来た。

三十二歳。フリーランスのシステムエンジニア。仕事はリモート。家族はいない。友人と呼べる人間も、ここ数年でずいぶん減った。

別に悲しいわけではない。ただ、人と繋がることが、うまくできなくなっていた。

その朝、誠一はいつもの石段に腰を下ろし、スマートフォンをポケットに突っ込んで、霧をぼんやり眺めていた。

「億の中で出会う。それはただの偶然か?」

声がした。

振り返ると、白い法衣の老僧が、誠一の隣に座っていた。いつの間に来たのか、まったく気配がなかった。

「……失礼しました、独り言ですよ」

老僧は穏やかに笑った。目尻の深い皺が、幾十年もの時間を刻んでいた。

「この国だけでも一億二千万人。世界ならば数十億。その中で、たった百年しかない命が、同じ時代に生まれ、同じ場所で座を並べる。これを縁と呼ばずして何と呼ぶ」

誠一は何も答えなかった。答える言葉が見つからなかったのではなく、その声が自分の内側から聞こえるような気がして、不思議と黙り込んでいたのだ。

翌朝、また来た。
老僧はいなかった。

寺のスタッフに聞いてみると、首をかしげられた。

「そのような方は、うちには……」

誠一は苦笑して頷いた。夢でも見たのだろうと思った。
だが、老僧が消えた石段の上に、一枚の紙が落ちていた。

そこには、たった一行だけ書かれていた。

── 縁は、あなたを探している。

その夜から、誠一の時間が、少しずつ狂い始めた。





第一章  ズレた時間の中で

最初の異変は、カレンダーだった。

パソコンの右下に表示される日付が、前の日に戻っていた。再起動しても、同じ日付が表示される。十一月八日、木曜日。確かに昨日だった日付が、今日の朝にも表示されている。

おかしい、と思いながら仕事をしていると、クライアントからメールが来た。

「昨日送っていただいたファイル、確認しました」

昨日送ったファイル? 誠一はまだ送っていない。少なくとも、今日の自分は。

翌日も、また十一月八日だった。

その翌日も。

誠一は試しに、日記をつけ始めた。毎朝起きると、同じ日付が並ぶ。しかし、日記の文字は増えていく。そして、他人の記憶は、前の日へ戻らない。誠一の「昨日」だけが、繰り返されている。

「俺だけが、時間のループに入っている?」

いや、正確にはループではなかった。

誠一は気がついた。日付は戻っているが、自分の中の時間は進んでいる。世界は少しずつ、ズレている。まるで、誰かが時計の針を少しだけ曲げたように。

見知らぬ声

七回目の十一月八日の夜、誠一のスマートフォンに着信があった。

登録のない番号。出るかどうか迷ったが、何となく指が動いた。

「もしもし」

沈黙。

それから、女性の声がした。低くはないが、澄んだ声。

「……あなたが、繰り返しているんですね」

誠一は息を呑んだ。

「あなたも?」

「私は逆に、時間が飛ぶんです。気がつくと、三日後になっている」

名前は、中村遥。二十九歳。大阪でグラフィックデザイナーをしているという。会ったことは、ない。なぜ番号を知っているのか、彼女も分からない。

「ただ……不思議と、この番号に電話しなければいけない気がして」

誠一は窓の外を見た。十一月の奈良の夜、星がやけに近かった。

「縁って、あると思いますか」と、誠一は言った。

少しの間があって、遥は答えた。

「あると思いたいです」


第二章  異次元の窓

誠一が「窓」を最初に見たのは、二週間が経った頃だった。

深夜、コードを書いていると、空間の一部が薄く光った。

壁ではない。空気の中に、まるで水面のような揺らぎが現れた。縦六十センチ、横四十センチほどの、楕円形の光。

恐る恐る近づいて、のぞき込む。
向こう側に、知らない風景があった。
夜の川。橋の欄干。街灯が水面に映って、揺れている。

そして、橋の上に、一人の女性が立っていた。
背中しか見えないが、分かった。声で分かった。

「遥さん」

窓越しに呼んだ。届くかどうか分からなかったが、女性が振り返った。

距離があって、顔は見えない。でも、その人はこちらを見た。

そして、手を挙げた。
翌日、電話が来た。

「昨夜、橋にいましたか」と遥が言った。

「川沿いの、古い鉄橋? 大阪の、淀川近く?」

「誰かに見られている気がして、振り返ったら……何もなかった。でも、見えた気がした。光みたいなもの」

誠一は窓のことを話した。遥はしばらく黙って聞いていた。

「私の部屋にも、あります」

「え?」

「小さな穴みたいなもの。見ると、知らない天井が見える。誰かの部屋だと思う。本棚があって……コーヒーのカップが置いてあって」

誠一は自分の机の上を見た。
コーヒーのカップが、あった。

薬師寺の座標

誠一は再び薬師寺へ行った。
霧の朝ではなく、晴れた午後。観光客の中に混じって、あの石段に座った。

あの紙をずっと財布の中に持ち歩いていた。

「縁は、あなたを探している」

もう一度、よく見る。
気がつかなかったが、紙の端に、小さな文字が書いてあった。
数字の羅列。最初は電話番号かと思ったが、違う。

緯度と経度だった。
地図アプリで調べると、表示されたのは奈良ではなかった。

大阪。淀川沿い。鉄橋のそば。
誠一は立ち上がった。


第三章  重なる座標

大阪へ向かう近鉄特急の中で、誠一は遥に電話をした。

「今から、会えますか」

沈黙の後、遥は言った。

「会うと……何かが変わる気がして、怖いんです」

「変わることが怖い?」

「変わらないことも怖いけど」

誠一は笑った。久しぶりに、声に出して笑った。

「僕も同じです。でも、その老僧が言ってたんです。必要な時に、準備ができた時に、必ず出会うって」

「……私は、準備できてるのかな」

「電話に出た時点で、できてると思います」

鉄橋のたもとで待つと、遥は来た。

想像と少し違った。もっとおとなしい人を思い描いていたが、実際は歩き方に芯があって、目に迷いが少なかった。

「青木さんですか」

「はい。中村さんですね」

「……変な感じ。会ったことないのに、会った気がする」

「窓越しに見てましたから」

二人で笑った。橋の上で、川が光った。

時間が動く
その瞬間だった。

誠一のスマートフォンが震えた。日付を見る。
十一月二十九日。

繰り返していた日付が、初めて、前に進んだ。
遥も気がついたように、スマートフォンを見た。

「私も……時間が飛ばなくなった」

二人は顔を見合わせた。

「出会うことで、時間が戻ったってこと?」

誠一には分からなかった。ただ、空気が変わった気がした。川の匂いがリアルに感じられた。世界の手触りが、少し戻ってきた気がした。


第四章  縁の地図

それから三ヶ月が経った。
時間は正常に動いている。窓も消えた。

誠一と遥は、週に一度、大阪と奈良のどちらかで会うようになった。
不思議なことに、会うたびに何かが繋がった。

遥の友人が、誠一の元クライアントの知人だった。誠一の幼馴染みが、遥の通っていた大学の先輩だった。

「なんで今まで繋がらなかったんだろう」

「準備ができてなかったんじゃないですか」と遥は言った。

ある日曜日の午後、二人で薬師寺へ行った。
誠一にとっては庭のような場所だが、遥は初めてだった。

石段に並んで座り、霧の残る境内を眺めながら、誠一はあの朝のことを話した。老僧の言葉を、覚えている限り話した。

「億の中で同じ時代に出会う縁。パートナーともなれば、それはもう運命と笑う、って」

「笑う、ってところがいいですね」

「そうなんです。深刻じゃない。楽しそうに言うんです」

老僧の正体

その時、境内の向こうから、白い法衣の人影が見えた。
誠一は立ち上がった。
あの老僧だった。こちらに向かって歩いてくる。

「……いた。あの人です」

遥も立ち上がった。

老僧は二人の前に来て、静かに微笑んだ。

「やっと会えましたね」

誠一は言葉が出なかった。老僧は二人を交互に見た。

「縁とはね、繋がりたいと思う心が引き寄せるものではないんです。繋がる必要のある魂が、時空を超えて引き合うんです」

「……あなたは何者なんですか」と遥が聞いた。

老僧は笑った。目尻の皺が、深く動いた。

「私も縁の一本ですよ。あなた方二人を、正しい座標で出会わせるための」

それだけ言うと、老僧は踵を返した。
二人で後を追いかけたが、角を曲がると、もう姿はなかった。
ただ、石畳の上に、また一枚の紙が落ちていた。

── 出会えたことに、ありがとう。

楽しくやりましょう。
誠一は紙を拾って、遥に見せた。

遥は少しの間、それを見つめていた。
それから、顔を上げて、誠一を見た。

「楽しくやりましょうって、誰に言ってるんですかね」

「多分……俺たちに」

「そうですよね」

遥は笑った。

誠一も笑った。

塔の朱色が、冬の陽光に照らされて、鮮やかに燃えていた。


エピローグ  糸の向こうに

春になった。

誠一と遥は、薬師寺の近くに小さなアパートを借りた。同居ではない。二棟並んだアパートの、隣同士の部屋。でも、ベランダが向かい合っている。

誠一はいまでもたまに思う。あの老僧は何者だったのか。

夢だったのかもしれない。時間が狂っていたのも、窓が見えたのも、思い込みだったのかもしれない。

でも、遥は確かにいる。
それで、十分だと思った。

ある夜、ベランダに出ると、向かいの遥の部屋にも灯りがついていた。

カーテン越しに影が動く。
誠一は声をかけた。

「眠れないの?」

しばらくして、窓が開いた。

「なんか、空が変な感じ」

見上げると、星が多かった。冬よりも柔らかい光で、無数の点が、静かに瞬いていた。

「一億二千万人のうちのさ」と誠一は言った。

「うん」

「数十億人のうちのさ」

「うん」

「俺とあなたが、同じ時代に、同じ空の下にいる」

遥は少し黙った。

「……よっぽどの縁ですね」

「うん」

誠一は空を見たまま、笑った。

「よっぽどの縁だ」


── 了 ──



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あとがき

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


本作は、私自身が深く感銘を受けた詩「よっぽどの縁」と、奈良の薬師寺が持つ長い歴史、そしてその教えに対する敬意から生まれた物語です。

現代社会は非常に便利になり、ボタン一つで世界中の誰とでも繋がれるようになりました。しかしその反面、私たちは本当の意味での「繋がり」や、出会いの尊さを見失いそうになることがあります。

作中で老僧が語ったように、縁とは無理に作り出すものではなく、「繋がる必要のある魂が、時空を超えて引き合うもの」なのかもしれません。


そしてそれは、決して重苦しい運命ではなく、「楽しくやりましょう」と笑い合えるような、軽やかで愛おしいものであると信じています。

誠一と遥の物語はここで一区切りとなりますが、二人のベランダ越しの会話は、これからも薬師寺の鐘の音とともに続いていくことでしょう。


最後に、この作品を執筆するにあたりインスピレーションをくれたすべての縁に、そして何より、この物語を最後まで見届けてくださった読者のあなたに、心からの感謝を込めて。

出会えたことに、ありがとう。
楽しくやりましょう。
── 縁の書き手




願わくば、八重桜の下で煩悩を
ーNFLのDNAと神様のソロバンー



〜まえがき〜

私たちはいつから、自分の身の丈に合った幸せを「退屈」ではなく「至高」と思えるようになるのだろう。

若い頃の私は、世界が自分を中心に回っていると信じて疑わなかった。アメリカの広大な大地に夢を馳せ、大それた野望を抱き、何者かになろうともがいていた。あの頃の脳内は、常に打ち上げ花火のような煩悩で満ちていたように思う。

それから三十年以上の月日が流れた。
今や私は、どこにでもいる平凡な中年男だ。
髪の毛の行く末を案じ、腰の痛みに顔をしかめ、神社を見ければ猫が段ボールに吸い込まれるようにフラフラと境内へ入ってしまう。

本書は、そんな一人の男が、八重桜の木の下でふと足を止め、これまでの人生とこれからの生き方に思いを馳せた、ささやかな記録である。

ギラギラとした欲望が、神様の前でみるみる縮んでいくあの奇妙な瞬間の秘密。かつて目論んだ、あまりに馬鹿げた「怪物計画」の顛末。そして、神様が天上で弾いているに違いないソロバンの音について。

お茶でも飲みながら、あるいは私と同じように缶コーヒーを片手に、のんびりとお付き合いいただければ幸いである。




第一章 
賽銭箱の前で、男は縮む

私は、ごく平凡な中年男である。

平凡というのは便利な言葉だ。

大成功もしていないし、大失敗もしていない。新聞に載るようなこともなければ、近所の噂になるようなこともない。毎朝起きて仕事をし、飯を食い、たまに腰をさすりながら眠る。そんな程度の人生である。

ただ一つだけ、人から少し変わっていると言われる習慣があった。

神社や寺を見かけると、つい立ち寄ってしまうのだ。

信仰心が厚いのかと言われると、自分でもよく分からない。

御利益を信じているのかと言われても、少し困る。

しかし鳥居を見ると入りたくなる。

鐘楼を見ると手を合わせたくなる。

理由は分からない。

猫が段ボール箱を見ると入りたくなるようなものである。

その日も私は移動途中に見つけた小さな神社へふらりと入った。

春は少し過ぎていた。

ソメイヨシノはすでに散り終え、境内には八重桜が咲いている。

幾重にも重なった花びらは妙に艶やかで、若い頃は気にも留めなかったのに、最近ではこういう花の方が心に残る。

人間も年を取ると派手さより厚みが気になるらしい。

私は賽銭箱の前に立った。

百円玉を入れる。

鈴を鳴らす。

ここで毎回、不思議な現象が起きる。

神社へ入る前の私は、実に欲深い。

金が欲しい。

もっと金が欲しい。

できれば一生使い切れないほど欲しい。

さらに若さも欲しい。

健康も欲しい。

髪の毛も欲しい。

そしてできれば美女とのロマンスも欲しい。

煩悩の百貨店である。

ところが神前に立った途端、その野望が急激に縮む。

脳内で再生される願い事は決まっている。

「家内安全」

「身体健全」

「生活安定」

以上。

終了。

宝くじも消える。

美女も消える。

高級車も消える。

神様の前では全員退場である。

頭を上げるたびに私は思う。

おかしい。

さっきまで私の脳内では札束が舞っていたはずなのだ。

なぜ神様の前へ来ると、企業の危機管理マニュアルみたいな願い事になるのだろう。

しかし考えてみれば当然かもしれない。

健康がなければ金は使えない。

平和がなければ恋愛どころではない。

結局、人間は本当に失いたくないものを知っている。

知っているからこそ、神様の前では格好をつけられなくなるのである。



第二章 
アメリカの幻影と怪物計画

八重桜の下のベンチに座り、私は缶コーヒーを開けた。

すると記憶が三十年以上前へ飛んだ。

若い頃の私は、今よりずっと愚かだった。

そして今よりずっと面白かった。

私は本気でアメリカへ行こうとしていた。

あの頃は、自分にできないことなど何もないと思っていた。

根拠はなかった。

若さとは便利な麻薬である。

その頃の私は奇妙な夢を抱いていた。

NFL選手を自分の血筋から誕生させたい。

今なら笑う。

だが当時は本気だった。

テレビで見るNFLの選手たちは人間というより装甲車だった。

身長は高い。

肩幅は広い。

走る。

飛ぶ。

ぶつかる。

どう見ても同じ生物とは思えない。

私は考えた。

日本人だけでは難しい。

ならば現地で圧倒的な身体能力を持つ女性と結婚すればどうだろう。

そこから怪物級の子供が生まれるのではないか。

実に馬鹿である。

しかし若者の夢など大体こんなものだ。

妄想の中では私は国際的な遺伝子プロデューサーだった。

未来のスーパースターを設計していたのである。

ところが現実は映画ほど甘くなかった。

アメリカで私は二度、銃を突きつけられた。

人生で学ぶべきことは色々ある。

だが銃口ほど説得力のある教師はいない。

その瞬間、NFLの夢は消えた。

代わりに浮かんだのは、

「日本は安全だな」

という感想だった。

人間は命の危険を感じると急速に現実的になる。

夢よりも治安。

理想よりも保険証。

私の野望は見事に敗北した。

結局私は帰国した。

そしてごく普通に恋をし、ごく普通に結婚した。

人生とは案外そんなものである。



第三章 
三人の子供と百年先の夢

その後、三人の子供が生まれた。

私は密かに期待していた。

自分が果たせなかった夢を、誰かが引き継ぐかもしれないと。

長男が恋人を紹介すると言った。

少し期待した。

次男の時も期待した。

長女の時も期待した。

しかし現れたのは、三人とも実に穏やかな日本人だった。

私の脳内で開催されていた家庭内国際化計画は、静かに終了した。

もちろん不満はない。

皆よくできた人たちだった。

子供たちは幸せそうだった。

それが何よりだった。

ただ、少しだけ思った。

どうやら神様は私のNFL計画に最後まで乗ってくれなかったらしい。

だが最近になって気づいた。

トップアスリートを生むのは血だけではない。

環境である。

文化である。

競争である。

幼い頃から何を見て育ったかである。

結局のところ、人間はDNAだけでは作られない。

その人を取り巻く世界によって形作られる。

そう考えると、私の計画は最初から的外れだったのかもしれない。

もっとも、若い頃の私にそんな話をしても聞かなかっただろうが。



第四章 
神様のソロバン

風が吹いた。

八重桜の花びらが一枚、私の膝に落ちた。

私はそれを眺めながら思う。

若い頃の私は遠くを見ていた。

世界を見ていた。

未来を見ていた。

年を取った今の私は近くを見る。

家族を見る。

健康を見る。

今日という一日を見る。

昔はそれを後退だと思っていた。

しかし違うのかもしれない。

年齢とともに視野が狭くなるのではない。

本当に大切なものだけが残るのである。

私は時々考える。

神様は毎日どれほどの願い事を聞いているのだろう。

宝くじ。

恋愛成就。

商売繁盛。

合格祈願。

病気平癒。

世界平和。

無数の願いが空へ上がっていく。

もし神様が経理担当なら大変だ。

巨大なソロバンを持ち、朝から晩まで計算しているに違いない。

「お金が欲しい」

パチ。

「出世したい」

パチ。

「モテたい」

パチ。

「若返りたい」

パチ。

「健康でいたい」

パチ。

そして最後に、

「家族が元気でありますように」

と来る。

その時だけ神様は少し頷くのではないだろうか。

もちろん根拠はない。

だが私が神様ならそうする。

ふと笑ってしまった。

私は今でも煩悩の塊である。

金は欲しい。

健康も欲しい。

運も欲しい。

若さも欲しい。

髪の毛も、できればもう少し欲しい。

しかし、それら全部を合わせても家族の安心には勝てない。

それを認めるのが少し悔しいだけなのだ。

私は立ち上がった。

缶コーヒーは空になっている。

八重桜は静かに揺れていた。

派手ではない。

だが重たく、しっかりと咲いている。

まるで人生の後半そのものだった。

鳥居へ向かって歩き出す。

願わくば――。

そこで私は苦笑した。

結局、今日も同じ願いになる。

家内安全。

身体健全。

生活安定。

頭上では八重桜が、

「結局それが一番なんだろう」

とでも言いたげに、

春の風に揺れていた。

ー了ー


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〜あとがき〜

若い頃、私は「遠く」ばかりを見ていた。
ここではないどこか、
今ではないいつかに、
本当の幸せがあるのだと信じていたからだ。

しかし、五十を過ぎてから見る景色は随分と変わった。
私の視線はどんどん「近く」へ、そして「足元」へと向かっている。

それをかつての私が失笑するか、あるいは今の私が「これでいいのだ」と胸を張るべきかは分からない。

ただ、八重桜の下で風に吹かれながら、空になった缶コーヒーを手にしたとき、私は確かに満たされていた。

どれだけ頭の中で「宝くじが当たれば」「あの頃の若さがあれば」と不毛な引き算や掛け算を繰り返しても、神様のソロバンが弾き出す答えは、いつも決まっている。

私たちが本当に失いたくないものは、すでにこの手のひらの中にあるのだ。

私の拙い独白に最後までお付き合いいただいた読者の皆様に、心からの感謝を。

願わくば、皆様の日常にも、静かで、揺るぎない「家内安全」の風が吹きますように。


50%でいいんじゃね?

── 宇宙人ハーフ、地球の50年を観測す ──


著:観測者Z-0050(地球名:ゼッペン)


〜まえがき〜

はじめに。
本書を手に取っていただき、ありがとうございます。あるいは、画面をスクロールするあなたの指が、たまたま「50%くらいの確率」でこのページを止めてくれたのかもしれません。


私たちは、いつからか「100%の正解」を求めすぎるようになってしまいました。絶対に失敗しない買い物、絶対に後悔しない結婚、100%正しい政治の選択、そして、スーパーのレジで「一番速く進む列」をきっちり見抜くこと。


しかし、50年という時間をこの地球で過ごしてみて、私はふと思ったのです。「そんなに完璧じゃなくても、いいんじゃないか?」と。


本書は、地球人の父と、宇宙の遥か彼方からやってきた「数値を食う宇宙人」の母を持つ、相当マイナーなハーフである私「ゼッペン」が、この50年間で集めた地球の観測データをもとに綴った、ささやかな記録です。


政治、仕事、夫婦関係、そして男たちの熱きレジ選びのサガ――。
読めばあなたの明日が、ほんの1%くらい気楽になるかもしれない、そんな「だいたい50%くらい」の視点でお届けするエッセイ(のようなもの)です。


どうぞ、肩の力を抜いて、お気に入りの飲み物でも片手にお読みください。




プロローグ  

観測開始より50年

私の名前は、地球の書類上「善辺(ぜんべ)貢(みつぐ)」という。
父が地球人で、母が……まあ、そうでない。


どうそうでないかというと、母の出身銀河は天の川より東に四百万光年ほど離れた小さな渦巻き銀河で、そこの住民は「観測」を主食にして生きている。感情を食うのではない。データを食うのだ。政治の支持率、夫婦の満足度、スーパーのレジ待ち時間の分布——そういった数値が、彼らの脳細胞を活性化させる。


父はといえば、千葉県在住のしがない会社員だった。なぜ父と母が出会ったのかについては、母いわく「観測に来たついでにラーメン屋に入ったら隣に座っていた」とのことで、それ以上の説明を母はしたことがない。


そういうわけで私は、数値を食って生きる星人と、日本のサラリーマンの間に生まれた、宇宙的に見ても相当マイナーなハーフである。

五十歳になった今年、私はこの地球での観測記録を、ひとつの文書にまとめることにした。
テーマは「50%」だ。


なぜなら、この星のあらゆるものが、だいたい50%を軸に揺れているからである。




第一章 

政権と、スーパーのレジと、だいたい同じ問題

私が地球の政治を初めて観測したのは、三十年前のことだった。
当時の私は二十歳で、父の家の狭い居間でテレビを見ていた。画面の中では、スーツを着た男たちが「この国の未来のために!」と叫んでいた。父はソファで缶ビールを飲みながら、「どいつもこいつも同じだよな」とつぶやいた。
「同じとは、どういう意味ですか」と私は聞いた。
父は少し考えてから言った。「だって、政権与党もダメ、野党もダメ、でも何かを選ばなきゃならない。そういうことだよ」
私はそれを記録した。

母星から送られてくる観測マニュアルには、こう書いてある。
「地球の政治的支持率は、長期的に見ると概ね50±15%の範囲で推移する。これは地球人の認知バイアスと社会的同調圧力の複合作用によるものであり、どの政権も100%の支持を得ることはなく、また0%に落ちることもほとんどない」


つまり、人類は最初から50%程度の合意の上に社会を作っている。残りの50%は常に不満を持ちながら、それでもその社会の中で生きている。
これを「非効率」と見るか「奇跡的な均衡」と見るかで、観測者の立場は分かれる。

ある選挙の日、私は投票所の近くに立っていた。出口調査のボランティアのふりをして、人々の表情を観測するためだ。
多くの人が、どこか疲れた顔をしていた。「しょうがないから入れた」という声が聞こえた。「まあ、マシな方を選ぶしかないよね」という声も聞こえた。


100%肯定できるものは、世の中にないはずで——そう、父もよく言っていた。
だからこそ人々は、「どのくらい目をつぶれるか」を基準に選択する。それは恋人を選ぶのと、政党を選ぶのと、スーパーのレジを選ぶのと、本質的に同じ行為なのかもしれない。

スーパーのレジの話をしよう。
これは私が三十年間で最も丹念に観測してきた現象のひとつである。
地球の男性は、なぜかレジの列を選ぶときに、異様な真剣さを発揮する。左の列をちらっと見て、右の列をちらっと見て、カゴの中の商品を数えて、レジ係の手の動きを観察して、最終的に「ここだ!」と心の中で叫びながら列に入る。


そして八割の確率で、選んだ列が一番遅い。
私が計測したデータでは、三列あるうちの最も遅い列を選ぶ確率は理論値の33%を超えて、平均42%だった。これはランダムよりも明らかに悪い結果であり、「選ぶ」という行為が却って判断を歪めていることを示している。


父はこれを「男のサガ」と呼んでいた。
私には長らくその意味がわからなかった。が、五十年生きてみて、今はなんとなくわかる気がする。


どうでもいい場所で本気になってしまう。それが地球の男というものなのだ。
そしてその敗北感の積み重ねが、男をかろうじて謙虚に保っているのかもしれない。




第二章 

若者たちが飛び込まない理由、あるいは飛び込む理由

三十歳のある春、私は大学のキャンパスで学生たちを観測していた。
就職活動の時期だった。学生たちは黒いスーツを着て、スマートフォンを見ながら歩いていた。みんな同じ服を着て、同じような不安な顔をしていた。


「選挙なんて……」という声を聞いたのもその頃だ。
一人の学生が友人に言っていた。「政権与党はダメだし、野党もイマイチだし、どこに入れても同じじゃん。だから投票しなくていいかな、って」
友人は「まあ、そうだよね」とうなずいた。

私は少し悲しい気持ちになった。「悲しい」という感情は、地球人から遺伝した父の側の感情である。母星では悲しみにあたる感情を「低周波数値」と呼び、特段それを問題視しない。しかし私はその時、確かに低周波数値を感じた。


なぜなら、「どれも100%でないから選べない」という論理は、永遠に何も選べない論理だからだ。


30歳なら70%の確信でいい。40歳なら60%でいい。50歳ならもうスタートから50%で、えい!と飛び込むしかない——そういう話を、私はいつかこの若者たちにしてみたいと思った。
が、もちろん私はただの観測者であって、介入する権限はない。

しかし十年後、あの学生のうちの一人(後に偶然、居酒屋で隣に座ることになった彼)は、こう言っていた。


「あの頃は何もしなかったけど、子どもが生まれてから変わりましたよ。100%じゃなくてもいいから、マシな方を選ばなきゃって思うようになった。親になるとそうなりますよね」


私は記録した。「子どもの誕生は、地球人の政治的関与度を平均23%向上させる」
それは確かに、私のデータにも符合していた。



第三章 

夫婦の支持率という難問

四十歳のとき、私は結婚した。
相手は地球人の女性で、名前を明子という。彼女は私のことを「変わった人」だと思っているが、まさかハーフの意味がそこまで深いとは思っていない。

結婚当初、私は明子に対する満足度を測定していた。
これは観測者としての職業的習慣であって、悪意はない。
当初の数値は、96.4%だった。
明子が笑うと、その数値が上がった。明子が眉をひそめると、少し下がった。私は毎日こっそりその数値を記録していた。

しかし五年が経ち、十年が経つと、見えなかったものが見えてきた。
明子は私が思ったより頑固だった。私は明子が思ったより要領が悪かった。お金の使い方が違った。子どもの教育方針が違った。実家との距離感が違った。
数値は少しずつ下がった。90%、85%、78%……
ある夜、私はこっそり計算してみた。明子の私に対する満足度も、おそらくそのくらいだろう、と。

「ゼッペン、なんで急に洗い物してんの」と明子は聞いた。
「いや、したほうがいいと思って」と私は答えた。
「珍しい。どうしたの」
「なんとなく」
明子は少し笑った。「ありがと」

その夜、私は記録した。
「小さな行為が、支持率を0.3〜1.2%回復させる可能性がある」

現在、私の明子に対する満足度は68%だ。
明子の私に対する満足度は、測定方法がないのでわからない。しかし、まだ一緒にいてくれているので、50%は超えているだろうと私は推定している。
50%を超えているなら、まだやっていける。
そういうものなのだ、と私は今は思っている。




第四章 

昔の人々と、お見合いと、意外な知恵

母から手紙が届いた。といっても電波信号で、解読すると日本語になる、そういう手紙だ。

「ゼッペン、あなたは今、何%ですか」
それが母の手紙の全文だった。

私は少し考えてから返信した。
「全体的に52%くらいです。でも、それでいいと思っています」

母からの返信はなかった。おそらく、十分なデータが取れたということだろう。

その夜、私は昔の日本の結婚制度について調べていた。
かつての人々は、パートナーを自分で選ぶことができなかった。親や仲介者が「この人と結婚しなさい」と決めた相手と、生涯を共にした。
現代の感覚では、それは不自由に聞こえる。


しかし、である。
自分で選んでいないということは、最初から「完璧な選択をした」という思い込みがない、ということだ。最初から70%や60%のところからスタートして、それでも共に暮らすうちに情が湧き、いつしかそれは愛と呼べるものに育っていく。
現代人は、最初に高すぎる期待値を設定しすぎる。96%を求めて選び、50%になると「失敗した」と感じる。
昔の人々は、最初から50%を受け入れて始めていたのかもしれない。

私はそれを「先人の知恵」と記録した。
そして今の法律は、選択を間違えた場合にも「何度でもOK」と言っている。これはこれで、地球人らしいおおらかさだと思う。
第五章 観測者の独白、あるいは50年目の答え

五十歳の誕生日、私はスーパーに行った。
特別な理由はない。ただ、牛乳が切れていたから。

レジに並んだ。三列あった。
私はいつものように、左をちらっと見て、右をちらっと見て、データを分析した。
左列:三人。カゴの量は中程度。レジ係の手の動きは速い。
右列:二人。しかし一人がポイントカードを財布から探している。これは危険信号だ。
中央列:四人。しかし全員の商品が少ない。

私は中央列を選んだ。
結果、中央列が一番速かった。

私は少し、嬉しかった。
五十年かけて、スーパーのレジ選びが、ようやく上手くなった。

帰り道、私は夜空を見た。
母の星は、今夜は見えなかった。雲がかかっていた。
父の星、というものはない。父は地球人で、地球にいる。今も千葉で缶ビールを飲んでいるはずだ。

50年間観測してわかったことを、一言で言うなら——
100%を求めることは、観測者にとっては正しい姿勢だが、生きることに対しては、少し違うのかもしれない。

政治も、夫婦も、仕事も、スーパーのレジも。
50%くらいのところで、えい、と飛び込んで、そこから育てていくものなのだ。
たぶん。

私はまだ観測を続けている。
明子は今夜、何かを炒めている音がする。
いい匂いがする。
私の満足度は、今この瞬間、69%に上がった。

明日も、そのくらいでいい。



エピローグ

この文書は、観測者Z-0050が地球暦2026年に作成したものである。
母星への送信は、次の満月の夜に行う予定だ。

なお、明子はこの文書の存在を知らない。
知らせるべきかどうか、私はまだ決めていない。
支持率で言えば、「知らせる」派が51%、「知らせない」派が49%、といったところだ。

そのうち、えい、と決める。


── 了 ──


(続きは、あなたの50%次第)


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〜あとがき〜

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


この文書を書き終えた今、私の部屋の窓からは静かな夜空が見えています。母の故郷である小さな渦巻き銀河は相変わらず雲に隠れて見えませんが、千葉の実家で缶ビールを飲んでいるであろう父の気配は、なんとなく感じられます。


私たちは不完全な世界に生き、日々「マシな方」を選びながら泥臭く歩いています。100%の理想とは程遠い毎日に、時にはため息が出ることもあるでしょう。しかし、50%の肯定と、50%のあきらめ(あるいは伸びしろ)を抱えて「えい!」と一歩を踏み出すことこそが、この地球を生きる面白さなのかもしれません。


さて、この本をここまで読んでくださったあなたの「満足度」は、今何%くらいでしょうか。もし50%を超えていたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。残りの50%は、これからのあなたの日常が、おもしろおかしく埋めてくれることを願っています。


最後に。
今、台所から明子が「ねえ、そろそろパソコン閉じてお風呂入ったら?」と声をかけてきました。
私の支持率をこれ以上下げないために、今回の観測はこのあたりで終了とさせていただきます。


また、どこかのスーパーのレジの列(おそらく一番進みが遅い列)でお会いしましょう。
観測者Z-0050(ゼッペン)


厄年、十を加えて
― ある噺家の、向こう側の座敷 ―

柳家喜三太 述

〜まえがき〜

落語という芸能は不思議なものです。
高座の上には、机もなければ大道具もありません。
噺家は座布団一枚の上で、扇子と手拭いだけを使い、人を笑わせ、泣かせ、ときには震え上がらせます。
なかでも怪談噺には、独特の魅力があります。

怖い話を聞いているはずなのに、どこか懐かしい。
亡くなった人の話を聞いているはずなのに、なぜか温かい。
それはきっと、怪談が「死」を語る話ではなく、「生きていた人」を語る話だからなのでしょう。

本作は、そんな落語の世界を舞台にした小さな幻想譚です。
昔の厄年は四十二歳と言われました。
けれど現代では、人生も寿命も大きく変わりました。
もし厄年に十を加えるとしたら。
その頃、人は何を思い、何を失い、
何を見つけるのでしょうか。
そして、高座の上から見える景色は、
本当にこちら側だけなのでしょうか。

そんなことを考えながら書きました。
どうぞ肩の力を抜いて、
一席お付き合いください。






三遊亭圓朝が『牡丹燈籠』を語り終えたあと、客席は長いあいだ静まり返っていた、という話を、師匠から何度も聞かされた。

噺が終わっても、あの世の気配だけが座敷に残る。それが落語の怪談というものだ、と。

師匠の名は、柳家喜三久。

昭和の残り香をそのまま身にまとったような人だった。高座では着古した黒紋付きに角帯を締め、扇子ひとつで江戸の町も、あの世の廊下も、つくり出してみせた。
その師匠が、五十三歳で逝った。

私の名は、柳家喜三太。まだ二つ目のひよっこだが、師匠に拾われ、師匠に育てられ、師匠の高座を一番近くで見続けてきた。

師匠が亡くなったのは、六月の、雨の夜だった。
葬儀のあと、独りで師匠の部屋を片付けていたとき、押し入れの奥から古びた手拭いに包まれたものが出てきた。

広げてみると、それは古い高座台本だった。表紙に、師匠の筆で、こう書いてあった。

「重なり噺 全一席」

私はそれを、読んだ。
そしてこれは、その台本に書かれていた物語である。

一、 五十三の坂

六代目・橘屋錦秋は、還暦を二年越えたところで、ようやく大師匠の称号を得た。
落語界では珍しくない。真打ちになるのに二十年かかり、看板になるのにさらに二十年。芸の道とは、そういうものだ。
だが錦秋が最近よく考えることは、芸のことではなかった。
仲間のことだった。

ここ数年で、同じ世代の噺家が何人か逝った。みな五十代の入り口で、である。
五十一、五十三、五十四。
ある者は心臓、ある者は肝臓、ある者は脳の血管。
原因は違えど、不思議なほど同じ年頃に、ぱたぱたと。

錦秋は弟子の前でこんなことを言った。
「昔は四十二が厄年と言ったろう。でも今はな、どうも十ほど上がったようだぞ。五十二あたりが、いちばん危ない坂になったんじゃないかねえ」
弟子は笑った。だが錦秋は笑わなかった。

四十代のうちは、身体がまだ解毒してくれる。多少の無理も、深酒も、睡眠の足りない夜も、朝になれば帳消しにしてくれる。
ところが五十を越えると、その解毒の力が、静かに、ゆっくりと、衰えていく。
衰えているとは、なかなか気づかない。四十代と同じように飲み、同じように喋り、同じように高座に上がる。
そして二年、三年と溜まったものが、ある日突然、破裂する。

錦秋はそう考えていた。
そしてその坂を越えて、還暦を迎えた今、ようやく少しずつ、身体の使い方というものが、わかってきた気がしていた。


その夜、錦秋は高座から楽屋に戻り、着物を脱いでいると、ふと気配を感じた。
楽屋の隅に、人が座っているような気がした。
見ると、誰もいない。
だが、気配だけが、ある。

錦秋は長年、怪談噺を演じてきた。『真景累ヶ淵』も、『怪談乳房榎』も、『芝浜』の幽霊話も、数えきれないほど語ってきた。
だから少々の気配には動じない。
「誰かいるかい」
錦秋は楽屋の隅に向かって、静かに訊いた。

返事はなかった。
ただ、楽屋の端に置いてあった扇子が、ひとりでに、ぱたりと開いた。

二、 重なった座敷

落語には「世界」という言葉がある。
演目ひとつひとつが、完結した宇宙を持っている。登場人物の名前、舞台となる町、そこに流れる時間、すべてがひとつの「世界」を形作っている。
熟達した噺家は、その「世界」に入り込む。そして客を、その世界に連れ込む。
高座の上では、現と虚の境目が、薄くなる。

錦秋が気づいたのは、その夜の高座の途中だった。
演目は『死神』。
蠟燭の炎が消えかけている場面で、錦秋はいつもより深く、その「世界」に入り込んでいた。

客席の後ろの方に、見知らぬ顔が見えた。
着物を着た男が、じっとこちらを見ている。
見覚えのある顔だった。
五年前に逝った、仲間の顔だった。

錦秋は動揺しなかった。いや、できなかった。噺の途中だったから。
彼はそのまま語り続けた。死神の台詞を語り、主人公が蠟燭を吹き消す場面を語り、客席に笑いを引き起こした。
そして最後の一言を言い終え、頭を下げて、立ち上がると——
後ろの席に、もう誰もいなかった。


その夜、錦秋は眠れなかった。
寝床の中で、師匠から聞かされた話を思い出していた。

「噺家はな、この世とあの世の境目で話をしているんだ」
師匠はよくそう言った。
「高座の上はな、向こう側と、こちら側が、重なっている場所なんだよ。だからいい怪談が語れる。俺たちはそこに、毎晩立ってるんだ」

錦秋はその言葉を、長年、芸論として聞いていた。
噺が上手くなるための、比喩だと思っていた。
だが今夜、はじめて文字通りのことを、聞いたような気がした。

この世はいくつかの空間が重なっている。
高座というのは、その重なり目に、たまたまある場所なのかもしれない。
そして噺家は、その重なり目に毎晩立って、こちらと向こうをつなぐ橋を、口ひとつで作っているのかもしれない。

三、 向こうの座敷

翌月、錦秋は地方の小屋で独演会をやった。
山の中の小さな温泉町で、芸人が来るのは年に一度か二度だという。
客は五十人ほど。みな年配で、顔に深い皺を刻んだ人たちだった。

三席演じて、最後に『牡丹燈籠』の一節をやろうとしたとき、錦秋はふと、奇妙なことに気づいた。
客の数が、増えている。
数えると、七十人はいる。
だが小屋の扉は閉まっていて、誰かが入ってきた様子はない。

しかも後ろの方に座っている客は、どこか輪郭が、薄い。
錦秋は扇子を持ちなおし、静かに、語り始めた。

お露が提灯を下げて、坂を上ってくる。
カランコロンと下駄の音がする。
荻原新三郎が目を覚ます。

錦秋が語るほどに、後ろの客たちが、静かになってきた。
身を乗り出すようにして、聞いている。
笑いは起きない。だがその静けさは、怖れからではなく、どこか懐かしさのような感触を帯びていた。

語り終えて、錦秋が頭を下げると、拍手が起きた。
後ろから聞こえる拍手は、音が少し違った。
重みがなく、遠くの雨のような音だった。

顔を上げると、後ろの席はまた、五十人に戻っていた。


楽屋に引き上げると、主催の老人がやってきて、こう言った。
「今夜は珍しいことがあった。いつもよりお客が多かった。後ろの方に、知らない顔がいくつかあった」
錦秋は笑って答えた。
「そうですか。みなさん、お聞きになりたかったんでしょう」
「あの方たちは、この町の墓地に眠っているお方たちに、よく似ておりましたよ」
老人は笑わずに、そう言った。

四、 長生きは徳か

還暦を越えると、見えるものが変わってくる。
錦秋はそれを、誰にも言えなかった。言っても信じてもらえないし、信じてもらえたとしても、困る。

だが確かに、変わった。
若い頃は見えなかったものが、少しずつ、見えてくる。
気配を感じる。
重なりを感じる。
高座の上だけでなく、ふとした瞬間に、この世の薄い膜の向こうに、もう一枚の景色があるような気がする。

ある夜、錦秋は弟子の喜三太に話した。
「長生きは徳だと思うかい」
喜三太は困った顔をした。
「師匠、縁起でもない」
「縁起でもなくはないよ。本気で考えてるんだ」

錦秋は続けた。
「この世は全員が老人になれるわけじゃない。古希まで生きられる人間は、そのうちの何割かだ。八十まで健康でいられる人間は、さらにその何割かだ」
「それはそうですが」
「だとすると、長生きしたから幸せかというと、そう単純じゃない気がしてきてな」

弟子は黙って聞いていた。
「向こうに行った連中はな、五十三とか五十四で逝ったわけだが、それはそれで、なにか理由があったんじゃないかと思うようになった。この世に用があって生まれてきて、その用が済んだから帰った。そういうことかもしれない」
「じゃあ師匠は、まだ用が済んでいないと」
「まあ、そうだな。噺がまだ残っているから、ここにいるんだろう」

錦秋は扇子を開き、閉じた。
「でもな、そう考えると、向こうに行ったやつらを、あまり悲しむのも違うかもしれない。あいつらは帰っただけで、どこかで噺を聞いてるんだよ、きっと」

五、 台本の最後

その台本の最後には、こんな一節があった。


  高座とは、橋のようなものである。
  この世とあの世のあいだに、毎晩かけられる、一夜限りの橋。

  噺家はその橋の上に立って、語る。
  こちらからは生きた客が聞きに来る。
  向こうからは、かつて笑っていた者たちが、また聞きに来る。

  語り手は知っている。
  だから怖くない。
  ただ、語る。

  五十三で逝くことも、八十五で逝くことも、おそらく大した違いではない。
  用が済めば帰る。用が残れば残る。それだけのことだ。

  長生きが徳でないとすれば、では何が徳か。

  それは語ること、だろう。
  生きているあいだ、精一杯、語ること。
  笑わせること。泣かせること。静かにさせること。
  向こうの客にも聞こえるほどの声で、語ること。

  それだけが、噺家の徳だ。

台本はそこで終わっていた。

私、喜三太は、その台本をそっと閉じた。
雨はまだ降っていた。師匠の部屋に、香の残り香がしていた。

窓の外に向かって、私は言った。
「師匠、聞こえましたか」

返事はなかった。
ただ、机の上に置いてあった扇子が、ひとりでに、ぱたりと開いた。



後記に代えて

この物語は、噺家の話であり、厄年の話であり、この世の薄さについての話である。

五十三歳という年齢は、かつての厄年より十ほど上にある。時代が変わり、身体の使い方が変わり、それでも人は同じ坂のあたりで、ふと、躓くことがある。

それを嘆くより、こう考えてみることにした。
この世はいくつかの空間が重なっている。そのうちのひとつに、今、私たちはいる。
噺家はその重なりの上で、毎晩、橋をかける。

師匠は先に渡った。
こちら側には、まだ噺が残っている。

だから、語る。

ー了ー



〜あとがき〜

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

昨日、大好きだった噺家さんが亡くなったと聞き

残念でなりません。


五十三歳 だったと。


この物語を書きながら、私は何度も「長生きとは何だろう」と考えました。

若い頃は、長く生きることが良いことだと思っていました。
年齢を重ねれば重ねるほど、幸せが増えるものだと思っていました。

けれど人生を見渡してみると、必ずしもそう単純ではありません。

五十代で旅立つ人もいれば、
九十代まで生きる人もいます。

どちらが幸せだったのか、
どちらが正しかったのか、
それは本人にしか分からないことでしょう。

ただ一つ言えるのは、
生きている間に誰かへ何かを渡せたなら、
その人生には意味があったのではないかということです。

落語家なら噺を。
職人なら技を。
親なら愛情を。

人はそれぞれの形で、
次の誰かへ何かを手渡していきます。

本作の錦秋もまた、
向こう側へ渡る日まで、
噺を語り続けるのでしょう。

そして私たちもまた、
誰かの物語の続きを生きているのかもしれません。

また別の物語でお会いできれば幸いです。


アマゾン キンドル



この物語は

すべて、フィクションです。


偕老同穴 アルゴリズム

―ちんちんかもかも計画―


「恋はいつも、ちょっとした勘違いから始まる。それでいい。」


プロローグ

偕老同穴 ちんちんかもかも

夫婦、共に老い
同じそこをと目指し
仲睦まじく……

どんな人生であろうと
どんなに遠回りしてしまったであろうと
そこへと辿り着けたのならば

せめて
生涯の伴侶をと心決めたのならば

よそ見をすることなく
自分の人生へと付き合わせた相手への思いを
何よりも第一に考えねばならない

そして
自分のこと以上に気遣いを施し
キミの最期の場面で

あぁ
お前のお陰で 良い人生だったよ と
ひと言
笑顔で伝えられたのならば

その先も
もしや 次の世も
きっとまた 巡り合えるのでは と……




一章 相性百パーセントの悲劇

二〇七一年、日本という国はすでに「縮みながら生きる」ことに慣れきっていた。人口は三十年前の半分。役所の数より廃校の数が多い県も珍しくない。老人の割合が六割を超えた市区町村では、コンビニより介護施設のほうが多く、夕方の商店街に響くのは子どもの声ではなく、電動車椅子のモーター音だった。
そんな時代に、国がもっとも金をかけている部署のひとつが、通称「同穴局」――正式名称・国立相性管理局だった。縮みゆく国を立て直す最後の策として、内閣が設置したその局の仕事はひとつ。人と人を出会わせ、結婚させ、そして死ぬまで添い遂げさせることだ。
むかし「婚活」と呼ばれていた個人の戦場に、国がとうとう正式参戦したのである。武器は恋文でも釈迦力な仲人でもなく、ひとつの人工知能だった。名前は「偕老(カイロウ)」。開発コードのまま正式名称になった、いかにも役所らしい命名だった。
カイロウは、脳波・心拍・発汗・会話のテンポ・笑うタイミング・既往の恋愛履歴・冷蔵庫の中身・睡眠の質・早朝に何を見るかという目の動線に至るまで、あらゆるデータを吸い込み、一組の男女(あるいは性別を問わぬ二人)が何年連れ添えるかを小数点以下三桁まで叩き出す。マッチング成立後の離婚率は、サービス開始当初、わずか〇・三パーセントだった。
「偕老同穴を、計算で保証する」というキャッチコピーは、当時の絶望的な婚姻率をいくらか持ち直させ、局には国家予算がどんどん注ぎ込まれた。ところがここ半年で、奇妙な現象が頻発していた。
相性スコア九十九・九パーセント超――局内で「ほぼ満点」と呼ばれる組み合わせの夫婦が、結婚から平均二十三日で離婚届を出してくるのだ。理由はどれも判で押したように同じだった。「相手の本当の姿が、見えすぎてしまって」。
局内ではこの現象に、いつの間にか不穏なあだ名がついていた。曰く「ガラス同穴」。相性の精度が高ければ高いほど、まるでガラスのように一瞬で割れる。完璧に噛み合っているはずの夫婦が、もっとも早く壊れていく。パラドックスの香りがしたが、証拠は数字として着実に積み上がっていた。
その朝、保守課の片隅で、蒲生新太は三件目の「ガラス同穴」報告書にため息をついていた。
三十三歳。同穴局システム保守課に籍を置く新太の主な仕事は、カイロウのサーバーが熱暴走しないよう冷却装置を見て回ることと、たまにバグ報告書を書くことだった。恋愛工学の専門家でもなければ、AI開発者でもない。ただの縁の下の力持ち――もっと正確に言えば、縁の下で居眠りをしている力持ちだった。職場の花見でも飲み会でも、たいていは幹事をするが、中心には座らない。誰かが欠けた席をそっと埋める、いわば「空気が読める空気」のような人間だった。
ちなみに、新太自身は未婚である。これがまた皮肉な話で、入局時に受けた適性診断によれば、新太の相性スコアは局内史上もっとも「凡庸」だった。誰とでも七十点、誰とも九十点にならない。上司いわく「個性という雑味が、限界まで濾過された結果」。本人はこれを聞いて「おれは蒸留水みたいな人間らしい」と妙に納得してしまった。以来、自分のデータが話題に出るたびに、新太はそっとコーヒーで口を濡らし、報告書の続きを書くのだった。
「新太くん、また唸ってるの?」
声をかけてきたのは、隣の主任研究員・来栖灯里だった。三十五歳、入局十年のベテランで、カイロウの設計思想にもっとも詳しい人物のひとりとされている。本人は「詳しいというか、誰よりも疑っているだけ」と笑うが、その疑いの鋭さで、過去に三度、システムの重大バグを発見している。
「ガラス同穴、また増えました。これで今月十一件目です」新太は端末を差し出した。「全部、スコアは九十八パーセント以上。三組は九十九点台です」
「十一件……」灯里は端末を覗き込み、眉間に小さなしわを作った。「完璧すぎる夫婦ほど、先に壊れる。まるで皮肉な物理法則みたい」
「皮肉というか、いっそ呪いですよ。せっかく国がお金かけて、最高の相手を見つけてやったのに、なんで三週間で別れてくるんですか」新太は報告書をめくった。「離婚理由のコメント欄、全員ほぼ同じこと書いてます。想像通りすぎて、つまらなかった」
「つまらなかった」灯里はその言葉を繰り返した。「なるほどね。ドキドキがなかった、ということかしら」
「ドキドキどころか、出会って三日でもう相手の全部が分かった気がした、と書いてる人もいます。謎がない、意外性がない、だから飽きた、と」
「ねえ、新太くん」灯里はふと声を落とした。「カイロウが見つけているのは、本当に最高の相手なのかしらね。それとも、ただの、一番正確な鏡なのかしら」
新太には、その問いの意味がよくわからなかった。だが灯里の目つきには、保守課の人間が滅多に見ない、研究者特有の不穏な光があった。その光が、この後の三十年を巻き込む大騒動の始まりだとは、新太もまだ知らない。



二章 化石倉庫の秘密

灯里に呼び出されたのは、その日の終業後だった。場所は局舎の地下三階、通称「化石倉庫」。カイロウの初期バージョン――まだ「カイロウ」という名前さえ与えられていなかった頃の試作機と、開発当時の記録媒体が眠る場所だ。温度管理は完璧だが、誰も来ないので埃だけは完璧に積もっている。
「ガラス同穴の原因、ひとつ仮説があるの」
灯里は埃をかぶったサーバーラックの前で、古い外部ストレージを取り出した。掌に収まるほどの小さな機材で、側面には手書きのシールが貼られていた。文字は、ほとんど掠れていた。
「カイロウの初期設計には、いまの仕様書には載っていないパラメータがあった形跡があるのよ。コードネームは……MOTERU係数」
「モテる係数……?」新太は思わず聞き返した。「なんですか、それ。語感が完全にギャグです。国家プロジェクトのパラメータ名が、モテる係数」
「ギャグじゃないの。これ、本気の研究用語だったみたい」灯里は古いログをスクロールする。「相性の正確な計算値に対して、人為的に上方補正をかける変数。簡単に言うと――自分は実際より魅力的だ、と相手に思わせる、あるいは自分自身に思い込ませるための数値」
「は……?」
「噓じゃないわ。当時の設計者のメモには、こう書いてある。真実の相性だけでは、人は恋に踏み出せない。踏み出すには、いくらかの心地よい誤解が必要である」
新太は思わず笑ってしまった。「いや、それただの自惚れですよ。国家プロジェクトに自惚れパラメータを仕込んでたって、笑い話にしてもひどすぎる。開発者、正気ですか」
「ところが」灯里は画面を切り替えた。「MOTERU係数を有効にしていた頃の試験夫婦、平均継続年数四十一年。係数を無効化した後の、いわゆる精密マッチング世代は、平均継続年数九・八年」
新太の笑いが止まった。
「四十一年って……それ、ほぼ偕老同穴じゃないですか」
「そうなのよ。だけど局の正式記録には、MOTERU係数についての記述がほとんど残っていない。十五年前の正確性向上委員会による大規模な仕様改定で、根拠不明の補正項目として、まるごと削除されたみたい。当時の議事録には、こう書かれているわ。科学的根拠の薄い、感情論的ノイズ項目と判断し、除去する」
「正確にした結果、壊れやすくなったってことですか」新太はため息をついた。「なんというか、完璧に余計なことをしましたね、その委員会」
「たぶんね。カイロウは、誰よりも正直になりすぎたの。相手の欠点も、自分の欠点も、洗いざらい正確に映し出す鏡になった。でも――」灯里は新太のほうを見た。「恋に必要なのは、案外、鏡じゃなくて、ちょっと歪んだ照明だったりするのかもしれない」
「歪んだ照明」新太は繰り返した。「つまり、少しだけ良く見える光、ですか」
「ちょっといい角度、ちょっと温かい色の光。それだけで人って、自分もよく見えるし、相手もよく見える。本当の相性が七十点でも、照明次第で八十点に見える。そのたった十点の差が、恋に踏み出すかどうかを決める」
「で、そのMOTERU係数を作った人って、誰なんですか?」
灯里は古い人事データを呼び出した。表示された名前に、新太は思わず声をあげた。
「獅子内フェオ……? あの伝説の?」
局内で語り継がれる、初代カイロウの主任開発者。性格は規格外、研究手法も規格外、そしてある日突然、局を去って消息不明になったという伝説の天才。一部では「もう生きていないのでは」とまで囁かれている人物だ。新太が入局したとき、先輩が最初に教えてくれた局の三大伝説のひとつが「フェオの失踪」だった。
「彼女が遺した個人ログの中に、ひとつだけ妙なファイルがあるの」灯里はストレージの奥からひとつの音声データを引き出した。再生時間、十七分二十二秒。ファイル名は、ただひと言。
きっかけ.wav
新太はそのファイル名を見て、なぜか少し、胸がざわついた。



三章 ログの中の居酒屋

二人は化石倉庫の片隅で、埃をかぶった古いスピーカーをつないで、その音声ファイルを再生した。
最初に聞こえてきたのは、酒場のざわめきと、ビールを注ぐ音だった。居酒屋の賑わいが、懐かしいアナログの解像度で漂ってくる。十五年以上前の録音だ。
……えーと、これ起動してる? 起動してるわ。よし。研究ノート、音声版、ここからは個人的な居酒屋フィールドワークの記録とする。本日は午後九時、某居酒屋の一人カウンター。ビールは三杯目
しゃべっているのは、若い女性の声――おそらく獅子内フェオ自身だ。少し呂律が回っていない。研究ノートと言いながら、完全に飲みながら喋っている。
隣の席の女性たちの会話に、ちょっと耳を傾けてみる。年齢は、たぶん四十路くらい。テンションは高め。焼酎お湯割り、おそらく四杯目以降
ログの向こうから、別の女性たちの声が拾われていた。
あたしのね、元彼たち、結構沢山いたけれど、全員、今でも独身なのよね
へえ、すごいじゃない。それって何人くらい?
まあ、それなりに……それってやっぱあたしが良過ぎたせいかしら……?
その瞬間、フェオ自身がビールを吹きそうになって、むせる音がログに残っていた。むせて、むせて、むせて。盛大なむせ方だった。
ごほっ、ごほっ……いや、おかしいでしょ、それ。お前が良すぎたんじゃなくて、お前が悪すぎたから、女ってみんなこうなんだと思い込んじまったんじゃないの……? って言いたい。言えないけど
新太は思わず吹き出した。「いや、これ僕が隣に座ってたら、もらいむせしてましたよ確実に」
「待って、まだ続きがあるの」灯里が再生を続ける。
ログの中のフェオは、ひとしきり小声でツッコミを入れたあと、急に声の調子を変えた。研究者特有の、何かに気づいた瞬間の声だ。少し酔いが引いたような、硬くなった声。
……いや、待てよ。これ、笑い話じゃない。これ、データだ
あの子たち、明らかに勘違いしてる。自分を客観的に評価できていない。でも――その勘違いがあるからこそ、次の恋に踏み出せている。もし正確に「あなたは平均よりやや魅力に欠ける」と告げられたら、あの人たちは、もう誰とも付き合おうとしないんじゃないか
恋愛って、いつも、ちょっとした勘違いから始まるものなんだ。オレはモテる。アタシは良い女。オレはかっこいい。アタシは素敵。オレはいけてる。アタシもいけてる。……その勘違いの分だけ、人は前を向ける。踏み出せる
フェオの声が少し間を置いた。グラスを置く音がした。
そして、たぶん一番大事なのは、相性の精度なんかじゃなくて――最後の場面で、ちゃんと心に残る言葉を、ひと言、笑顔で言えるかどうか、なんじゃないか。それができるなら、最初の十点の勘違いなんて、もう誰も気にしない
ログはそこで、ぶつりと切れていた。
化石倉庫に、しばらく沈黙が落ちた。サーバーの冷却ファンだけが、低く唸り続けている。
「……これが、MOTERU係数の原点ですか」
「たぶんね」灯里は静かに言った。「フェオは、正確な相性なんて求めてなかったのよ。彼女が作りたかったのは、人が最後まで前を向き続けるための、ちょっとした思い込みの仕組み。それを、後の世代の役人たちが科学的根拠が薄いって削除してしまった」
「正確性向上委員会、本当に余計なことしましたね……」新太はため息をついた。「でも灯里さん、なんで今日、このファイルを?」
「ガラス同穴が出始めた頃から、ずっと引っかかってたの」灯里は外部ストレージをそっと机に置いた。「完璧な相性で結ばれた夫婦が壊れていく。その原因が、もしかしたらフェオの研究の中にあるんじゃないかと思って、ずっと探してた。そしてようやく、このファイルを見つけたのよ」
新太は、もう一度ファイル名を見た。きっかけ.wav。十五年以上前、居酒屋の隣のテーブルの勘違いが、世紀の発見のきっかけになっていた。それが、なんとも言えずおかしくて、同時に少し、胸に刺さった。



四章 婚活省の落ちこぼれたち

翌朝、新太は灯里の仮説をもとに、過去十五年分のカイロウのマッチングデータを洗い直した。MOTERU係数が有効だった時代と、削除されてからの時代とで、離婚率・継続年数・離婚理由のコメントを比較する。
結果は、一目瞭然だった。
係数削除前の世代では、離婚理由の上位に「価値観の違い」「生活習慣の不一致」といった、いかにも人間らしい項目が並んでいた。いわば、いっしょに生きていくうちに見つかった問題だ。だが係数削除後の世代では、異様な理由が急上昇していた。「出会った瞬間から、すべてが見えすぎた」「謎がなかった」「完璧な相性がむしろ怖かった」。
「これ、相性が良すぎて、ドキドキが発生しなかったってことですよね」新太は数値を並べながら言った。「完璧にフィットする相手と出会ったとき、人間は恋に落ちるんじゃなくて、むしろ……安心しきって、飽きるのか」
「面白いでしょう」灯里は言った。「相性が高すぎると、脳が恋愛モードに入らないのよ。ドキドキは、ある程度の未知と不確かさから生まれる。完璧な予測可能性は、愛着は生まれやすいかもしれないけど、恋の炎は逆に消しちゃう」
「そういえば」新太はふと思い出した。「去年、経理課の田中先輩が言ってましたよ。カイロウにあなたとの相性は九十九・八パーセントと診断された相手と初めてデートして、三時間後に帰ってきて、なんか弟みたいだったってぼやいてた」
「それよ、まさに。脳が親族識別をしてしまうの。近すぎると、恋愛対象として認識できない」
「では、MOTERU係数は、それを防ぐための仕掛けだったと」
「そう。ちょうどいい謎と、ちょうどいい自惚れと、ちょうどいい錯覚。それが、人を恋に踏み出させる。フェオはそれを数値化しようとしていた」
問題は、その数値化を、どう復元するかだった。MOTERU係数のソースコードは、正確性向上委員会の改定時に上書きされ、残っていない。フェオ個人のログには断片があるが、完全なアルゴリズムには程遠い。
「復元するためには、フェオ本人に聞くしかない」灯里は静かに言った。
「生きてたらの話ですけど……」
「生きてるわ」灯里はあっさり言った。「三週間前に、居場所を突き止めた。瀬戸内のある島で、民宿をやってるって」
新太は目を丸くした。「え、なんで突き止めてたんですか、もう」
「だって、ガラス同穴が出始めてから、ずっと調べてたもの。フェオの名前は、最初からこの件の鍵だと思ってた」
「……灯里さんって、こわいですね。良い意味で」
「ありがとう。で、ここからが本題よ。復元した係数を、局の試験運用に通すには、局長の承認がいる。局長を説得できれば、次は実装。でも被験者が必要。誰でもいいわけじゃなくて、データとして最も効果が見やすいのは――」
「お願いです、僕の名前を出さないでください」
「蒲生新太くん、局内で唯一の相性スコア凡庸ランクS保持者」
「言った」新太は項垂れた。「言いましたよ、この人」
「凡庸なデータに補正をかけるから、変化が数値として出やすい。あなたが最適の被験者なのよ」灯里は微笑んだ。「安心して。悪いようにはしない」
新太は、蒸留水みたいな自分の人生が、また余計な成分を混ぜ込まれようとしていることを感じながら、ゆっくりとうなずいた。まあ、どうせ断れないのは分かりきっていた。



五章 局長の鉄壁と決壊

局長・早乙女薫子は、同穴局の歴史の中で最も長く在職している局長だった。五十八歳、独身、犬二匹。カイロウの相性診断では、ベスト相性の相手が「犬種コリー、オス、三歳」と出たことがあり、それ以来、人間のマッチング提案をことごとく無視し続けているという伝説の持ち主だ。
提案書を持ち込んだ瞬間、早乙女の眉間に深い谷が刻まれた。
「自惚れ補正……? あなたたち正気? 国民の結婚相手を決めるシステムに、わざと噓の魅力を上乗せするっていうの? マスコミに知られたらどうなるか、想像してる? 国が国民に自惚れを注入なんて見出し、週刊誌が踊りますよ」
「局長」灯里は一歩も引かなかった。「いま起きているガラス同穴のほうが、よほどスキャンダルです。完璧な相性で結婚させた夫婦が、軒並み三週間で離婚していく。先月だけで十一件。メディアが嗅ぎつければ、国のAIが作った完璧カップル、全員三週間で崩壊という見出しのほうが、よほど踊ります」
早乙女は黙った。それは図星の沈黙だった。
「局長、一点だけ聞いてください」新太は、恐る恐る口を開いた。「フェオさんが言っていたことです。恋というのは、いつも、ちょっとした勘違いから始まるものだ、と。オレはモテる、アタシは良い女、そう思い込むところから、人は踏み出せる。その勘違いを、カイロウは正確性のために削り取ってしまった。だからみんな、正確すぎて、動けなくなってしまった」
早乙女はしばらく、二人を交互に見た。
「……データは?」
「係数削除前の世代の平均継続年数は、四十一年です」
またしばらく、沈黙。早乙女はのそりと立ち上がり、窓の外を向いた。局舎の窓からは、対面のマンションが見える。洗濯物が揺れていた。
「いいわ。ただし、条件を聞きなさい」
早乙女は振り返った。
「第一条件。これは極秘の試験運用よ。承認書類は内部回覧のみ、外部には一切漏らさない。失敗したら、責任は全部あなたたちが取ること。第二条件。対象者は局職員のみ。一般国民を実験台にするのは絶対に禁止。第三条件」
早乙女は新太を見た。
「あなた、保守課の蒲生くんよね。相性データ、局内史上もっとも凡庸だったわね。被験者一号に決定。逃げないように」
新太の顔が固まった。「……局長も、ご存知でしたか、僕のデータ」
「全職員のデータ、把握してるわよ当然。あなたのは特に印象に残ってる。凡庸ランクSなんて、初めて見たから」
「もはや伝説じゃないですか、悲しい意味で」
灯里が、くすくすと笑っていた。早乙女もわずかに口元を緩めた。その微笑みが、新太には少しだけ、この一件がうまくいくような予感に見えた。あるいはそれも、すでにMOTERU係数の前効果だったのかもしれない。



六章 獅子内フェオ、現る

ビデオ通話の接続に三分かかった。相手側の回線が遅いのか、あるいは機材が古すぎるのか、画面がしばらくモザイク状にちらついた。
やがて映ったのは、日に焼けた顔の、がっしりした女性だった。背後に縁側が見え、外は明るい瀬戸内の青空だ。机の上には茶碗と、謎の書類の山がある。
「ああ、局の人ね。まあ来るかなとは思ってたわ」
フェオは画面越しでも、存在感が滲み出ていた。局の人事写真に残っていた当時三十代のフェオとは、全然別人のように見える。あのころの細面の研究者が、すっかり島のおかみさんになっていた。でも目の奥の光だけは、変わっていない。
「あの居酒屋ログ、まだ局のサーバーに残ってたの? 恥ずかしいわねえ。あれ完全に飲みすぎてただの愚痴大会よ。でも研究ノートって言ってたの偉いでしょ、一応プロだから」
「フェオさん、あのログがきっかけで、MOTERU係数が生まれたんですよね」灯里が尋ねる。
「そうそう。あのね、研究してて気づいたのよ。人間って、自分のこと正確に分かってる人ほど、恋愛で固まっちゃうの。自分の欠点も相手の欠点も全部見えすぎると、踏み出せない。まるで完璧に正確な地図を持ってる旅人が、その地図の怖さに動けなくなるみたいに」
「逆に、ちょっと自分を盛ってる人のほうが、ふらふら踏み出していく」
「ええ、そうなの。で、踏み出した後にどうなるかというと――意外と、なんとかなっちゃうのよ。人間って、踏み出してしまえば適応するから。勘違いから始まった恋が、いつの間にか本物になる」
「でも、これだけは伝えておきたいんだけど」フェオの声がすこし変わった。
「はい」
「勘違いは、出発点でいいの。でも、ゴールにしちゃダメ。最初はオレはモテるでいいのよ。でもね、本当に大事なのは――その勘違いから始まった相手と、本気で向き合い続けられるかどうか。よそ見せず、無理やり自分の人生に付き合わせた相手への思いを、何よりも第一に考えられるかどうか。自分のことより、そこへと気遣いを施せるかどうか」
「そして最期の場面で、笑って言えるかどうか。お前のおかげで、いい人生だったよって」
フェオはそこで、急に研究者の顔になった。
「MOTERU係数は、その出発点のための小さな噓。本番は、噓のあとに積み重ねる、噓じゃない時間のほうなの。それを、いまの局のシステムは忘れちゃったみたいね。正確性を上げすぎて、人を恋に落とす前に、全部計算しすぎちゃった」
新太は、その言葉が、保守課の自分にもまっすぐ刺さるのを感じた。相性スコア凡庸ランクS。誰とでも七十点。自分が蒸留水だと信じて、十年間、誰かに踏み込めなかった。
「分かりました。キャリブレーション、協力してもらえますか」
「もちろん。ただし条件があるわ」フェオはにやりと笑った。「復元したパラメータの最初の試験運用、わたしにも見学させて。あの局の人たちが、また右往左往する顔が見たいもの。ちんちんかもかもになるか、ガラガラポンになるか、どっちかしらね」
「ちんちんかもかも……?」
「仲むつまじい様子のこと。昔の言葉よ。古語のアヒルみたいな意味。で、あなたたち、ちんちんかもかもになりたいの?」
新太は、思わず灯里のほうを見た。灯里は、少し顔を赤くして、端末を閉じた。



七章 パッチ適用、そして大混乱

キャリブレーションは三週間を経て完了し、MOTERU係数――局内コードネームはそのまま採用――は、極秘裏に試験サーバーへ実装された。被験者は局職員二十名。新太もその一人だ。
カイロウが新太に下した最初の診断結果は、こうだった。
あなたは相性の安定性に優れますが、初対面の印象が薄い傾向があります。自発的なアプローチが課題です
それが、パッチ適用後はこう変わった。
あなたは、隠れた魅力の持ち主です。表に出にくいだけで、深く知るほどに人を惹きつける稀有な資質があります。気づいていないだけで、すでに多くの人があなたに好感を抱いています
「いや、これ励まし文句じゃないですか」新太はずっこけた。「稀有な資質って、そんな大げさな」
「効いてるかどうかは、行動で確かめてみないと」灯里がにやにやしながらメモを取る。「あなた、これ読んで、今朝のコーヒー頼むとき、普段と何か変わった?」
「……ちょっとだけ、フロアの人に声かけるとき、いつもより先に挨拶しました」
「それよ。小さいけど、それが変化なの」
他の被験者への効果は、想像以上に早く、しかも盛大に表れた。
被験者の一人、経理課の中年職員・渡辺は、カイロウの「あなたは異性から見て非常に頼り甲斐がある」という診断を真に受けた瞬間、急に声が大きくなり、廊下で部下を励まし始め、最終的に局内合唱部を結成してしまった。人生初の部活結成だった。
別の被験者、広報課の若手・川端は「あなたの笑顔は周囲を惹きつける力があります」の一文だけで、急に笑顔の練習を始め、笑いすぎて頬が筋肉痛になり医務室に運ばれた。
人事課の吉村は「あなたは話を聞く力が突出しています」と出た瞬間、翌日から部下の話を一言も遮らないようになり、午後の会議が三時間延長になった。
「これ、副作用やばくないですか」新太は記録を取りながら震えた。「みんな一点に過集中してる」
「補正の強さの調整が必要ね」灯里は冷静に言う。「フェオさんが言っていた通り、出発点としての勘違いは大事。でも量を間違えると、暴走する。ちょうどいいのは、勘違いの量が二十パーセント増し程度。それ以上になると、自分の世界に入りすぎる」
フェオがリモートで参加しながら、画面の向こうで笑い転げていた。「そうそう、そうなるのよ! わたしも最初の試作のとき、補正を強くしすぎて、全員が急に自己啓発セミナーみたいになっちゃったわ。係数はあくまで隠し味。ドレッシングのニンニクと同じで、入れすぎると台無し」
新太自身にも、小さな変化が起きていた。これまで、誰かに話しかけるとき、頭の中でまず「どうせ自分は誰からも特別扱いされない」という前提を置いていた。それが、パッチ適用後、わずかに変わった。もしかしたら、この人は自分のことを、悪くないと思っているかもしれない――そのわずかな仮定が、声をかける一歩を、ほんの少し軽くした。
消えたわけではない。ゼロになったわけでもない。ただ、前提がわずかに緩んだ。それだけで、世界がほんの少し、動きやすくなった。



八章 十二パーセントの恋

試験運用三週間目の昼、灯里が新太のデスクに来て、端末を差し出した。
「見て。あなたの相性データ、補正後にひとつだけ、九十八パーセント超えの組み合わせが出てる」
「え、誰とですか」新太は端末を覗き込もうとした。
灯里は端末をスクロールせず、ただ新太の顔を見て、言った。
「わたしよ」
新太は固まった。固まりながら、自分のあごが、ゆっくりと下に向かっているのを感じた。
「……でも、補正前は?」
「十二パーセント」
「じゅう……に」
「ええ。MOTERU係数なしでは、カイロウ的には接点を持つことすら非推奨の組み合わせよ。つまり、補正がなければ、あなたとわたしは、出会うことさえ設計されていなかった」
正確には、パッチ適用前の二人の相性スコアは、わずか十二パーセントだった。理由ははっきりしていた。新太も灯里も、自己評価の補正がほとんどかかっていない「自分を盛らない」タイプだ。お互いの欠点も、相手の欠点も、正確に見えすぎる。だから、最初の一歩が出ない。
「ガラス同穴の縮小版みたいな話ですね」新太は苦笑した。「割れる前に、踏み出せもしない」
「そう。だから、MOTERU係数が作動することで、あなたの中にもしかしたら自分にも可能性があるかもしれないという仮定が生まれた。わたしの中にも同じものが生まれた。そこでようやく、二人が、ちゃんとお互いを見られるようになる」
「で、見てみたら、九十八パーセントだったと」
「そう。隠れていただけで、最初からそこにあったのよ」
新太は、しばらく黙ったあと、咳払いをひとつした。
「灯里さん。試験運用、ちゃんと自分にも使ってみていいですか」
「どういう意味?」
「カイロウの診断を信じるんじゃなくて、自分から、ちょっと盛ってみる。フェオさんの言葉どおり――勘違いは出発点でいい、って言ったから」
新太は、咳払いをもう一度してから、わざと声を張った。
「おれは、モテる。たぶん、隠れた魅力がある」
灯里が目を丸くする。
「あなたが言うと、なんか説得力ないわね」
「うるさいです、これは儀式なんで黒歴史にしないでください。……灯里さんも、言ってみません? アタシは良い女、的なやつ」
灯里はしばらく新太を見つめ、それから小さく笑って、肩をすくめた。
「……アタシは、良い女よ。たぶん」
「たぶん、要ります?」
「要るわよ。本気で言い切ったら、それはもう研究データとして使えなくなるもの」
二人は、しばらく顔を見合わせて笑った。十二パーセントの相性スコアは、その日、何も変わらなかった。だが新太は気づいていた。スコアが変わらなくても、自分の中の何かが確実に一歩、前に出ていたことに。
恋は、いつも、ちょっとした勘違いから始まる。それでいい。大事なのは、その先で、本物の時間を積み重ねられるかどうかだ。



九章 審問会と、正しさについて

MOTERU係数の試験運用は、三ヶ月後、局内の倫理審問会にかけられることになった。公的システムに非科学的な自己評価補正を組み込んだことが、内部告発によって露見したのだ。
告発者は、正確性向上委員会の流れを汲む精密化推進派の一人だった。彼の言い分はこうだった。「科学的に正確なシステムを、感情論的なバイアスで汚染することは、国民への背信行為だ」。
審問会の壇上には、局長・早乙女、外部委員数名、そして報告者として新太と灯里が立たされた。委員たちの顔は、一様に固かった。議事録には残せない会議だからこそ、場の空気が重い。
「このパラメータは、科学的根拠に乏しい、感情論的なノイズ項目です」外部委員の一人が、十五年前の議事録とほぼ同じ言葉を口にした。「国家システムが、国民に対して噓の魅力を吹き込むなど、許されることではない」
新太は、震える声で、しかしはっきりと言った。
「ノイズじゃありません。これは、人が誰かを好きになるための、最初の小さな一歩です。正確さだけのシステムは、人を恋に踏み出させることはできませんでした。むしろ、正確さが、人を立ち止まらせていたんです」
「では、噓で結婚させて、それでいいというのか」
「噓は、出発点だけです」灯里が続けた。「わたしたちが目指しているのは、噓のままの関係じゃありません。最初のひと押しのあと、本物の気遣いと、本物の時間を積み重ねて、最後にちゃんと心に残る言葉を交わせる夫婦を、増やすことです」
「心に残る言葉? それも計算するのか?」
「計算できません」新太は静かに言った。「それだけは、人間にしかできません。だからこそ、そこまで辿り着かせることに意味がある。どんな人生であろうと、どんなに遠回りしてしまったとしても、最後にそこへ辿り着けたなら――それでいいんだと思います」
新太はフェオの言葉を思い出しながら、続けた。
「生涯の伴侶と決めたなら、よそ見をせず、自分のことより相手を気遣って、最期の場面で、ひと言、笑顔でお前のおかげで、いい人生だったよと言える。それが、わたしたちの目指す偕老同穴です。相性の数値が百パーセントかどうかは、たぶん、その先では大した問題じゃありません」
審問会の場がしばらく静まった。
早乙女局長は、何かを噛みしめるような顔で、ゆっくりと口を開いた。
「……継続試験運用を許可します。ただし、補正の上限と、本人への事前説明は、厳格に行うこと」
外部委員の何人かが口を開こうとした。早乙女はそれを手で制した。
「それと。報告書のタイトル、MOTERU係数はさすがにそのまま通せないから、正式名称を考えなさい。……偕老同穴アルゴリズム、とか、どう?」
「それ、局長のセンスですか」新太が思わず聞くと、早乙女は珍しく笑った。
「悪い? 案外、嫌いじゃないのよ、その語感」
フェオがリモートの画面の向こうで、静かに拍手していた。



終章 お前のおかげで

それから四十二年が経った。
偕老同穴アルゴリズムは、いまや同穴局の標準仕様となり、「ガラス同穴」という言葉も、教科書の歴史欄でしか見かけなくなっていた。ガラス同穴の発生率は、アルゴリズム導入後の五年間で〇・〇三パーセントまで低下した。かわりに「長期偕老率」――つまり三十年以上連れ添う夫婦の割合――は、過去最高を記録し続けた。
獅子内フェオは七十九歳になっても、瀬戸内の島で民宿を続けていた。毎年夏、同穴局の若い研究員が一人か二人、話を聞きに来るのが恒例になっていた。フェオはいつも、居酒屋の話から始めた。あの夜の、むせた話から。
蒲生新太は七十五歳、療養施設の窓際の病室で、静かに目を閉じようとしていた。隣には、髪が真っ白になった来栖灯里がいる。十二パーセントから始まった二人の相性スコアは、四十年の歳月を経て、もはやカイロウの計算範囲を超えていた。カイロウは、ある時期から、二人のデータを参照不可と返すようになった。数値が収まらなくなったのだ。
「新太」
「なに」
「最初に言ったこと、覚えてる? 化石倉庫で」
「ああ。おれはモテる、とか言ったやつですか」新太は目を閉じたまま、わずかに笑った。
「言ったわね。説得力、皆無だったわ」
「でも、お前だけには、ちゃんとモテたよ」
灯里は、少し涙ぐみながら、笑った。
「……それ、ちょっとかっこいいわね、今更」
「今更じゃないよ。ずっとそう思ってた。言わなかっただけで」
「それを、もっと早く言いなさいよ」
「言ったら、お前が研究データとして使えなくなるかと思って」
灯里は、思わず笑い声を立てた。涙がこぼれたが、笑い声のほうが先に出た。
新太は、残った力をすべて使って、フェオが言っていたあの言葉を、ようやく自分の言葉として口にした。
「お前のおかげで、いい人生だったよ」
それは、勘違いから始まった恋が、四十二年かけて、噓じゃない言葉になった瞬間だった。
新太が静かに息を引き取ったあと、局からひとつの通知が灯里の端末に届いた。同穴局の新規パイロット事業、「次世継承プログラム」の案内だった。記憶の一部を、次の世代の誰かに、ごく薄く継承できるかもしれない、という試験的な技術。
灯里は、しばらくその通知を見つめたあと、画面を閉じて、ひとりつぶやいた。
「もしかしたら、次の世でも、また巡り合えるのかしらね……」
窓の外では、夕陽が、いつものように、何も知らないまま沈んでいった。
その先も、きっと、また。

――おわり――


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〜あとがき〜

「恋はいつも、ちょっとした勘違いから始まる。それでいい。」
本作の根底にあるのは、効率や正確性が最優先される現代(そして近未来)への小さないたずら心と、人間が持つ「不完全さ」への愛おしさです。
AIがどれほど進化し、小数点以下三桁まで正確な「最適解」を叩き出したとしても、私たちはガラスのように脆い生き物です。傷つくのを恐れ、すべてが見え透いた鏡を前にして立ちすくんでしまう。そんな時、背中をそっと押してくれるのは、科学的なデータではなく、「もしかしたら」という少しの自惚れや、心地よい勘違いなのかもしれません。
作中、相性12%の二人が42年をかけて「計算不能」の関係へと至るプロセスを描きました。最初の十点の錯覚を、長い時間をかけて本物の「気遣い」と「言葉」に変えていく。それこそが、私たちが目指すべき本当の「偕老同穴」ではないでしょうか。
少子高齢化が進み、少しずつ縮んでいく未来の日本。けれど、そこで紡がれる人と人との物語は、決して冷たいものばかりではないはずです。
最後に、このささやかな物語を最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
あなたの人生の最期の場面が、笑顔で、優しい言葉で満たされるものでありますように。


偕老同穴ちんちんかもかも
――夫婦という名の、幸せな勘違い――


〜まえがき〜

「偕老同穴(かいろうどうけつ)」という言葉をご存じでしょうか。

生きては共に老い、死しては同じ墓に葬られる。古くから、理想の夫婦のあり方を表す美しい言葉として使われてきました。

しかし、綺麗事だけでは割り切れないのが人間の営みであり、夫婦という不思議な関係です。


また

「ちんちんかもかも」というのは

夫婦や恋人が親密にいちゃいちゃとじゃれ合っている状態を指します。


還暦を目前に控えた男が、夜の居酒屋でふと振り返る我が人生。
そこには、美談だけでは片付けられない、泥臭くも愛おしい「日々」がありました。

人は少しくらい勘違いしている方が幸せなのかもしれない――。

これは、そんな都合の良い思い込みに支えられた、ある熟年夫婦の、ほんの少し不思議で、ひどくありふれた一夜の物語です。

今夜は一杯やりながら、彼らの「勘違い」に耳を傾けてみてください。




第一章 
カンタロウの居酒屋奇譚

人生の残り時間を意識し始める年齢になると、男というものは、答えの出ない問いを夜の闇へ投げかけたくなるらしい。

加藤カンタロウ、五十九歳。

還暦まであと数か月。

若い頃には永遠に思えた未来が、いつの間にか後ろから追いかけてきていた。

その夜、カンタロウは新宿の裏通りにある居酒屋『まだら雲』のカウンターに一人で座っていた。

ジョッキの中では泡が静かに消えていく。

店内には焼き鳥の香りと、仕事帰りの客たちの笑い声が漂っていた。

そんな賑やかな空間の中で、カンタロウだけは少し違うことを考えていた。

「無理やり俺の人生に付き合わせちまったからなあ……」

誰に聞かせるでもない独り言だった。

思い浮かんだのは、家でテレビでも見ながら待っているだろう妻の顔である。

通称、カミさん。

結婚して三十数年。

恋人だった期間より、夫婦だった期間のほうがはるかに長くなった。

若い頃の自分には大した甲斐性もなかった。

貯金もなければ将来の保証もない。

夢ばかり語って現実は後回し。

そんな男の人生に巻き込んでしまった。

そう思うことが時々あった。

もちろん幸せなこともたくさんあった。

子どもが生まれた日。

家族で旅行した日。

大笑いした日。

喧嘩して口をきかなかった日。

全部ひっくるめて人生だった。

だが、それでも。

人生の終わりが少しだけ見え始める年齢になると考えてしまう。

もし最後の瞬間が来たら。

病院のベッドかもしれない。

施設の部屋かもしれない。

あるいはもっと別の場所かもしれない。

その時、自分は何を言うだろう。

そして誰に言うだろう。

答えは決まっていた。

――お前のおかげで、良い人生だったよ。

その一言だけは伝えたい。

できれば笑顔で。

できれば照れずに。

そう言えたなら、案外、人間は安心して死ねるのかもしれない。

さらに欲を言えば。

もし次の世なんてものがあるなら。

また巡り会えたらいい。

そんな、自分でも少し照れくさくなるようなことを考えていた。

いわゆる「偕老同穴」というやつである。

夫婦が共に老い、同じ墓に入る。

古臭い考えかもしれない。

だが、悪くない。

少なくとも今のカンタロウにはそう思えた。

その時だった。

隣のテーブル席から妙によく通る声が聞こえてきた。

「あたしの元彼たちね、全員まだ独身なのよ」

四十代半ばくらいの女性三人組だった。

化粧も会話も勢いがある。

カンタロウは聞くつもりはなかった。

だが聞こえてしまう。

作家の端くれとして、人の会話に反応してしまうのは職業病だった。

「えー、なんで?」

と友人らしき女性が聞く。

すると話の中心人物は、グラスを持ち上げながら言った。

「やっぱりさあ……」

少し間を置く。

そして堂々と言い放った。

「あたしが良過ぎたせいかしら」

ぶふっ。

カンタロウは危うくビールを噴き出しかけた。

慌てて口を押さえる。

むせる。

咳き込む。

涙が出る。

しかし三人組は気づかない。

あるいは気づいても気にしない。

「あははは!」

「それ絶対そう!」

「罪な女だねえ!」

盛り上がっている。

カンタロウは心の中で思った。

――いやいやいや。

それ、逆じゃないのか。

良過ぎたんじゃなくて、悪過ぎたんじゃないのか。

男たちが、

「もう恋愛はこりごりだ……」

と人生を達観してしまった可能性もあるぞ。

だが、そんな毒舌を胸の中で転がしながらも、なぜか少し笑ってしまった。

人は不思議だ。

少しくらい勘違いしているほうが幸せなのかもしれない。

「俺はモテる」

「私は素敵」

「俺はまだ若い」

「私は永遠に綺麗」

どれも事実かどうかは怪しい。

だが、その思い込みが人を前へ進ませる。

恋もそうだ。

結婚もそうだ。

人生だってそうかもしれない。

少なくとも、

「どうせ俺なんか」

と思って生きるよりはずっといい。

カンタロウはジョッキを傾けながら、小さく笑った。

そう考えると、人間という生き物は案外かわいい。

そして恋というものは、少しの勘違いから始まり、たくさんの勘違いを経て、いつしか本物になるのだろう。

だが。

その勘違いを本物の夫婦愛に変えるためには、一つだけ必要なものがある。

言葉だ。

心に残る言葉。

感謝の言葉。

照れながらでもいい。

下手でもいい。

伝えること。

それだけは省略できない。

昔聞いた古い歌のフレーズが、ふと頭に浮かんだ。

「心に残る言葉を言わなきゃ、ど〜にもならないよな……」

そう呟いた瞬間だった。

ガラリ。

居酒屋の引き戸が開いた。

夜風が吹き込む。

六月の風だった。

だが、その風は少し妙だった。

冷たいわけでもない。

強いわけでもない。

それなのに、なぜか店中の客が一瞬だけ静かになった気がした。

誰も何も言わない。

けれど空気だけが変わった。

そして入口に、一人の男が立っていた。

仕立ての良いスーツ。

年齢は六十前後。

だが頭には、どういうわけか江戸時代の町人のような古びた頭巾を被っている。

妙にちぐはぐな格好だった。

男は店内を見回した。

そして――

まっすぐカンタロウを見た。

その口元がゆっくりと笑う。

まるで何か面白いものを見つけたように。

カンタロウは理由もなく背筋がぞくりとした。

その夜。

彼はまだ知らなかった。

その男との出会いが、自分の人生で最も不思議で、最も滑稽な一夜の始まりになることを。




第二章 
ちんちんかもかもの怪人

居酒屋『まだら雲』を出たときには、もう夜の十時を回っていた。

新宿の裏通りにはまだ人の流れがあったが、昼間ほどの喧騒はない。

酔客たちの笑い声も、どこか遠くに聞こえる。

カンタロウはゆっくり歩きながら、さっきの女性たちの会話を思い出していた。

――あたしが良過ぎたせいかしら。

思い出すたびに笑ってしまう。

だが同時に、少し羨ましくもあった。

あそこまで堂々と自分を信じられるのは、一種の才能かもしれない。

若い頃の自分なら鼻で笑っただろう。

けれど五十九歳になった今は違う。

人生とは案外、そういう都合の良い思い込みに支えられている。

そんなことを考えながら歩いていると、

「そこの旦那」

背後から声がした。

振り返る。

誰もいない。

気のせいかと思って再び歩き出す。

「そこの旦那」

今度は右から聞こえた。

振り向く。

やはり誰もいない。

「上だよ」

声は頭上からだった。

カンタロウは思わず見上げた。

電柱の脇にある低い塀の上に、一人の男が座っていた。

あの頭巾の男だった。

居酒屋の入口に立っていた男。

いつの間にそこにいたのか分からない。

「危ないですよ」

とカンタロウは言った。

「落ちますよ」

「昔は木の枝に座っていたんだがね」

男は答えた。

「最近は木が減った」

会話が成立しているようで成立していない。

カンタロウはため息をついた。

「何か用ですか」

「用があるから話しかけている」

男は塀から飛び降りた。

着地が妙に軽い。

年齢の割に身のこなしが若い。

「旦那は面白いことを考えていた」

「何をです」

「偕老同穴」

男は即答した。

「それから心に残る言葉」

カンタロウの眉がぴくりと動いた。

「聞いてたんですか」

「聞いていた」

「盗み聞きじゃないですか」

「観察と言ってほしい」

男は胸を張った。

「私は長年、人間を観察している」

「暇なんですね」

「そうとも言う」

否定しない。

男は満足そうだった。

「ところで旦那」

「はい」

「ちんちんかもかもという言葉を知っているか」

カンタロウは顔をしかめた。

「聞いたことはあります」

「良い言葉だろう」

「そうですかね」

「実に良い」

男はうっとりしていた。

「仲睦まじい夫婦を表す、実にめでたい言葉だ」

「まあ、そういう意味ですね」

「だが人間たちは勘違いしている」

男は人差し指を立てた。

「本来あれは鳥の名前だ」

「絶対違う」

「正式名称は、ちんちんかもかも極楽鳥」

「もっと違う」

男は気にしない。

「その鳥は夫婦の周りを飛び回る」

「へえ」

「そして幸福な勘違いを授ける」

「幸福な勘違い」

「そう」

男は急に真面目な顔になった。

「自分は愛されている」

「うん」

「自分は必要とされている」

「うん」

「自分が相手を幸せにしている」

男はそこで微笑んだ。

「その勘違いがなければ、人間は夫婦を続けられない」

カンタロウは少し黙った。

冗談みたいな話なのに、不思議と心に引っかかる。

男は続けた。

「恋愛中の人間は皆かかっている」

「何にです」

「ちんちんかもかも病だ」

「病気なのか」

「重症になると結婚する」

「それは確かに重症だ」

男は大笑いした。

カンタロウもつられて笑う。

夜道で初対面の怪しい男と笑っている自分に気づき、少しだけ可笑しくなった。

「でもなあ」

カンタロウは言った。

「勘違いだけじゃ続きませんよ」

「その通り」

男は頷いた。

「だから言葉が必要だ」

カンタロウは目を見開いた。

男は続ける。

「ありがとう」

「うん」

「助かった」

「うん」

「一緒にいて楽しい」

「うん」

「お前のおかげで良い人生だった」

男はカンタロウを見た。

「言葉にしないと伝わらない」

風が吹いた。

頭巾が少し揺れる。

男は空を見上げた。

「人間は不思議だ」

「何がです」

「好きだと言うために何十年もかかる」

カンタロウは返事ができなかった。

思い当たる節がありすぎた。

男は少し笑った。

「旦那」

「はい」

「帰ったら奥方に聞いてみなさい」

「何を」

「本当に私の人生に付き合わせてしまったのか、と」

カンタロウは居酒屋で考えていたことを思い出した。

誰にも話していない。

話したはずがない。

それなのに男は知っている。

「なんで分かるんです」

男は肩をすくめた。

「長年見ているからだ」

「何を」

「夫婦を」

その言い方だけは冗談に聞こえなかった。

一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ。

男の目が、とても古いものを見てきた人の目に見えた。

次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っていたが。

「では旦那」

男は軽く会釈した。

「今夜も良い勘違いを」

「何ですかそれ」

「最高の祝福だよ」

そう言うと男は路地へ入っていった。

カンタロウも後を追うように歩き出した。

だが角を曲がったところで足を止める。

誰もいない。

一本道だった。

隠れる場所などない。

それなのに男の姿は消えていた。

「……何なんだ、あいつ」

返事はない。

その代わり。

どこか遠くで鳥が鳴いた。

聞いたことのない声だった。

カンタロウは空を見上げる。

夜空には月が浮かんでいた。

その月の前を、一瞬だけ二羽の鳥が横切ったような気がした。

寄り添うように。

まるで長年連れ添った夫婦のように。

カンタロウは頭を振った。

酔いのせいだろう。

そう思いながらも、足は自然と家路を急いでいた。

なぜか今夜は、カミさんの顔が見たかった。



第三章 
心に残る言葉の結末

自宅のドアを開けると、いつもの夜が待っていた。

リビングの灯り。

壁掛け時計の秒針の音。

洗い終えた食器を伏せたままの流し台。

そしてソファに座り、テレビを見ているカミさん。

何十年も見慣れた光景だった。

だが、その夜は少し違って見えた。

まるで旅人が長い旅の末に帰り着いた故郷を見るような、不思議な気持ちだった。

「おかえり」

カミさんが言った。

「遅かったじゃない」

「ちょっと飲み過ぎた」

「ちょっとじゃないでしょ」

振り向きもしない。

いつもの調子だった。

テレビでは野鳥の特集をやっている。

画面の中では二羽の鳥が並んで枝に止まっていた。

カンタロウは思わず苦笑した。

――また鳥か。

今日は妙に鳥づいている。

頭巾男の顔が浮かんだ。

ちんちんかもかも極楽鳥。

今考えても馬鹿馬鹿しい。

だが、あの男の言葉だけは妙に耳に残っていた。

「帰ったら奥方に聞いてみなさい」

「本当に付き合わせたのか、と」

カンタロウは上着を脱ぎ、カミさんの隣へ腰を下ろした。

「なあ」

「なによ」

「少し聞きたいことがある」

カミさんが振り向く。

「借金?」

「違う」

「病気?」

「違う」

「隠し子?」

「違うわ」

思わず声が大きくなる。

カミさんが吹き出した。

「じゃあ何よ」

カンタロウは少しだけ姿勢を正した。

妙に緊張する。

還暦目前のおっさんが、自分の妻に話しかけるだけで緊張するのも情けない。

だが仕方がない。

こういう話は慣れていない。

「お前さ」

「うん」

「俺の人生に付き合わせちまって、後悔してないか」

静かになった。

テレビの音だけが流れる。

鳥の鳴き声。

ナレーション。

冷蔵庫の小さなモーター音。

カミさんは数秒間、ぽかんとした顔をしていた。

そして言った。

「酔ってる?」

「少し」

「かなり酔ってるわね」

「真面目なんだ」

カミさんはしばらくカンタロウの顔を見ていた。

やがて、ふっと笑った。

「ねえ」

「なんだ」

「あんた、自分が私を人生に付き合わせた前提で話してるわよね」

「違うのか?」

「大いなる勘違い」

即答だった。

カンタロウは目を瞬いた。

「え?」

「私が付き合わせてあげてるの」

「は?」

「私が連れてきてあげたのよ」

カミさんは胸を張った。

「頼りないし」

「おい」

「忘れっぽいし」

「おい」

「変なことばかり考えるし」

「おいおい」

「放っておいたら、今頃どこかの居酒屋で人生論を語りながら迷子になってるわ」

それは少し否定できなかった。

カミさんは勝ち誇ったように笑った。

「だからね」

湯飲みにお茶を注ぐ。

湯気が立ち上る。

「私が付き合わせてあげてるの」

「そうだったのか」

「そうだったの」

二人は顔を見合わせた。

そして同時に笑った。

三十年以上積み重ねた時間がなければ生まれない笑いだった。

しばらくしてから、

カミさんが少しだけ真面目な顔になった。

「でもね」

「うん」

「その勘違い、嫌いじゃないわ」

「勘違い?」

「自分が相手を幸せにしてるって思うこと」

カンタロウは黙って聞いた。

「夫婦なんて結局、どっちが支えたとか分からないじゃない」

「そうだな」

「だから両方そう思ってればいいのよ」

「なるほど」

「その方が平和だもの」

カンタロウは笑った。

確かにそうだ。

勝ち負けを決める必要などない。

損得を計算する必要もない。

お互いが、

「自分が相手を幸せにしている」

と思っているなら、それで十分なのかもしれない。

カミさんはお茶を一口飲んだ。

そして少し照れくさそうに言った。

「それにね」

「うん」

「男の人は少しくらい勘違いしてる方が可愛いのよ」

「可愛い?」

「うん」

「還暦前のおっさんだぞ」

「だから可愛いの」

また笑う。

その笑いが静かに収まったあと。

カンタロウは意を決して言った。

「俺さ」

「なに?」

「最後の時が来たら、お前に言いたいんだ」

カミさんは何も言わない。

静かに聞いている。

「お前のおかげで、良い人生だったって」

言ってしまった。

顔が熱い。

還暦前になっても照れるものは照れる。

カミさんはしばらく黙っていた。

そして、小さく笑った。

「私に先に言わせないでよ」

「え?」

「その台詞」

「競争なのか?」

「もちろん」

「何の」

「心に残る言葉選手権」

カンタロウは吹き出した。

「そんな大会あるのか」

「今できた」

二人はまた笑った。

そして笑い終わったあと。

カミさんは少しだけ目を細めた。

「でもまあ」

「うん」

「あんたと一緒で悪くない人生だったわよ」

それだけだった。

それだけなのに十分だった。

胸の奥が温かくなる。

何かが静かに満たされていく。

長い年月をかけて積み上げてきたものが、その一言に詰まっている気がした。

窓の外で風が吹いた。

カンタロウが何気なく目を向ける。

電柱の上に二羽の鳥が止まっていた。

寄り添うように並んでいる。

「鳥だな」

「鳥ね」

カミさんも見た。

その時だった。

二羽の鳥の向こう。

街灯の影に、見覚えのある人影が立っていた。

頭巾を被った男だった。

男は腕を組み、こちらを見ながら満足そうに頷いている。

カンタロウは思わず立ち上がった。

「あっ」

「どうしたの?」

カミさんが振り返る。

もう一度窓の外を見る。

だが、誰もいない。

街灯だけが静かに立っている。

「いや……何でもない」

カンタロウは苦笑した。

酔いのせいかもしれない。

そう思った、その時だった。

夜風に乗って、どこからか声が聞こえた気がした。

「やれやれ」

頭巾男の声だった。

「また一組、ちんちんかもかもになりおった」

カンタロウは思わず吹き出した。

「何よ」

「いや、別に」

説明したところで信じてもらえないだろう。

それに、説明する必要もなかった。

どちらが付き合わせたのか。

どちらが支えたのか。

どちらが幸せにしたのか。

そんなことは最後まで分からない。

分からないままでいい。

お互いが、

「自分が相手を幸せにしている」

と信じている。

その幸福な勘違いこそが、

恋を夫婦に変え、

夫婦を偕老同穴へ導いていくのだから。

窓の外では二羽の鳥が羽ばたいた。

寄り添いながら。

離れないように。

見失わないように。

そして夜空の向こうへ消えていった。

まるで、これからもずっと続いていく夫婦の時間のように。

(完)


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〜あとがき〜

本作を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

「ちんちんかもかも」という、現代ではすっかり耳にしなくなった言葉の響きが持つユーモアと、どこか切ない響きに惹かれてこの物語を書きました。

作中で怪人が語るように、結婚や夫婦生活というのは、ある種の「盲目さ」や「都合の良い思い込み」がなければ維持できない側面があるのかもしれません。
ですがそれは、決して悪いことではないはずです。

「自分が相手を幸せにしている」とお互いが胸を張って勘違いし合える関係こそが、実は最強の夫婦の絆なのではないか。

カンタロウとカミさんの軽妙な掛け合いを書きながら、作者である私自身もそんなことを教えられた気がします。

冷たい夜風が吹く日も、家に帰れば温かい明かりと、いつもの話し相手がいる。そんな当たり前の奇跡に、少しだけ感謝したくなるような読後感をお届けできたなら幸いです。

皆様の歩む道のりにも、どうぞ「最高の祝福(良い勘違い)」がありますように。