神社へと出向けば
丁寧に手を合わせ
健康と
安全と
安定とを願う

その後
これもまた賽銭の一部と思い
必ず おみくじを引く

賽銭箱には
最低100円玉を納める

昨今
銀行での両替にも
それなりの費用が掛かる
おかしな時代となり

知り合いの宮司さんは
それ以下の小銭では
他の方の運まで
奪ってしまうようだと嘆くから

気持ちは分かるが
5円玉を避ける




昨日もまた
リハビリでの散歩中に
立ち寄った神社で
おみくじをひとつ

それには
難しいことが書いてあった

みそぎしもつせのうらかた

平 とある





調べれば
穏やかにとのこと

セミリタイアし
今がきっと
そういう時期なのだろう





そして
病気は
長引くとも障りなしとあるのは
今まだ
その痛みが残るからか





それから
引越し よし
これもそろそろ
実家へと戻るタイミング

商売 悪し のちには良し
今は新たな事を
起こすなということか

方角 南よし
旅行 良し

ただし最後に
訴訟 なんて欄があり
よし ともある

そうだ
これから倉庫の裁判だった

それが片付いたら
南へ旅に出ようと思う




そうそう
神社では
手を合わす前に
失礼ながら
ちょいと動画を撮ってみる

すると
必ずオーブがそこに舞う

すれば
願いは伝わると思い
心から手を合わす





そう
時折 
彼らが映らない神社もある

それは
何を意味するのか
分からないけれども

失礼…

コーヒールンバ
— 砂糖二つだった頃 —


〜まえがき〜

コーヒーが飲めなかった頃がある。
——いや、正確には「飲める自分でいたかった頃」がある。
苦くて、渋くて、大人の飲み物だと思っていた。だから砂糖を入れ、ミルクを入れ、それでもなんとなく落ち着かなくて、本当は紅茶の方が好きだったのに、なぜかコーヒーを頼んでしまう。そういう時期があった。

なぜコーヒーを頼んだのか。今となってはわかる気がする。コーヒーが飲める自分でいたかったのだ。その場に、その人の隣に、ふさわしい自分でいたかったのだ。

これは、コーヒーの話であり、ある女性との恋の話であり、そして時間の話だ。

時間は残酷だ。それは誰もが知っている。しかし時間は同時に、優しくもある。傷を癒し、記憶を柔らかくし、かつて苦かったものを、いつか香り豊かなものへと変えていく。

コーヒーを飲むたびに、思い出す人がいる。その人は今も、どこかで微笑んでいるだろうか。

願わくば、そうであってほしい。




1章 コーヒールンバが流れる店

コーヒールンバ、という曲を知っているだろうか。

古いラテンの曲で、歌詞はこんな意味だと、後になって知った。「昔アラブの偉いお坊さんが、恋を忘れた悲しい男に、しびれるような甘い香りのコーヒーを飲ませた」という話らしい。

失恋した男がコーヒーで癒される。なんともシンプルで、しかし妙に納得のいく話ではないか。

僕がその曲を初めて意識したのは、大学三年の冬だった。

彼女が働いていた喫茶店に、その曲がよく流れていた。

その喫茶店は、大学のそばにあった。駅から少し外れた、細い路地の突き当たり。知らなければ通り過ぎてしまうような場所に、「喫茶 ムーン」という小さな店があった。

看板は古くて、文字の塗料が少し剥げていた。ドアを押すとベルが鳴り、コーヒーの香りが鼻をついた。照明は暗めで、カウンターに六席、テーブルが三つ。壁際の棚には古いレコードが並んでいて、いつも低音量でジャズかラテンかボサノバが流れていた。

そこで彼女は働いていた。

島田真央。

それが彼女の名前だった。

最初に会ったのは、友人に連れられてその店に入った時だった。

秋の終わりの、肌寒い午後だった。授業の後、行くところもなく、友人の「いい店がある」という言葉についていった。それが全ての始まりだった。

ドアを開けると、カウンターの中に一人の女性がいた。白いエプロンをして、長い髪を後ろで束ねていた。顔を上げて、「いらっしゃいませ」と言った。

その声が、妙に印象に残った。

低すぎず、高すぎず。ちょうどいい音域の、落ち着いた声だった。

僕は友人の後ろで、なんとなく彼女から目が離せなかった。

その日、僕はカフェオレを頼んだ。

コーヒーが苦手だったからだ。いや、正確には、コーヒーを一人前に飲める自信がなかったと言うべきか。砂糖やミルクでごまかせるカフェオレなら、まだ飲める。

友人はアイスコーヒーを頼み、砂糖も何も入れずにストローで吸った。大学に入ってすぐにコーヒーの苦さに目覚めた、と言っていた。

「お前はまだカフェオレか」と笑われた。

「うるさい」と返したが、少し恥ずかしかった。

カウンターの中の彼女は、僕たちのやり取りを聞いていたかもしれない。でも、特に何も言わなかった。ただ丁寧にカフェオレを作って、「お待たせしました」と出してくれた。

その所作が、なんとなく綺麗だった。




2章 彼女のこと

島田真央のことを、最初からちゃんと知っていたわけではない。

何度か店に通ううちに、少しずつわかってきたことがある。彼女は同じ大学の二年生で、経済学部だった。バイトはもう一年以上続けていて、マスターの佐久間さんからも信頼されているらしかった。

性格は穏やかで、しかし芯が強かった。理不尽なことには静かに、しかしはっきりと意見を言う。一度、酔った中年の男性客が横柄な態度を取った時、彼女は笑顔を崩さずに、しかし毅然として「申し訳ございませんが、他のお客様のご迷惑になりますので」と言い切った。その場はすんなり収まった。

僕はカウンターの端からその様子を見ていて、なんだかすごい人だと思った。

彼女と初めてまともに話したのは、ある雨の日の夕方だった。

客が僕一人になったタイミングで、彼女がカウンターを拭きながら「いつもありがとうございます」と言った。

「こちらこそ」と答えたが、何を言えばいいのかわからなくて、それ以上言葉が続かなかった。

「コーヒー、苦手ですか?」と彼女は聞いた。

「え?」

「いつもカフェオレですよね。それとも、カフェオレが好きなんですか」

見ていたのだ。常連客の注文くらいは把握しているだろうが、それにしてもちゃんと見ていてくれたのだ、という事実が、妙に嬉しかった。

「苦手、というか……まだ慣れてないというか」と僕は正直に言った。

彼女は少し笑った。「正直ですね」

その笑顔が、まずかった。

それから僕は、週に三回以上その店に顔を出すようになった。

友人には「入れ込みすぎだ」と言われたが、気にしなかった。彼女と少しでも話せる時間が、その週の中で一番楽しかった。

話すといっても、長い会話ではない。彼女はバイト中だから、接客の合間の短いやり取りだ。でも、それで十分だった。

「今日は寒いですね」「そうですね、冬になりましたね」という会話でも、彼女が自分に向けて話してくれているという事実が、何か大事なものを満たしてくれた。

恋というものは、最初はそういうものだと思う。相手の声が聞けるだけで、十分だと感じる時期がある。

告白したのは、冬の初めだった。

店の閉店間際を狙った。最後の客が帰り、佐久間マスターが奥に引っ込んだタイミングで、カウンターの前に立った。

「あの」と言ったきり、次の言葉が出なかった。

彼女はコーヒーカップを磨きながら、こちらを見た。

「どうかしましたか?」

「好きです」と僕は言った。それだけ言えた。

彼女は少し目を丸くして、カップを置いた。

しばらく沈黙があった。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。

「……ありがとうございます」と彼女は言った。「少し、時間をもらえますか」

断られなかった。それだけで、その夜は眠れなかった。


3章 砂糖とミルクの青春

付き合い始めたのは、告白から一週間後だった。

彼女からの返事は、次に店に行った時に、カウンター越しに告げられた。

「よろしくお願いします」

それだけだった。しかし、それで十分すぎた。

帰り道、十二月の冷たい風の中を、なぜか暑い思いをしながら歩いた。口元が緩んで止まらなくて、自分でもおかしいと思いながら、それでも止められなかった。

付き合い始めてから、僕は彼女が働く喫茶店に行く時の居心地が、少し変わった気がした。

以前は「彼女に会いに行く場所」だったのが、今は「彼女の職場にお邪魔している場所」になった。気を遣うようになった。他の客の邪魔にならないように、彼女の仕事の妨げにならないように。

バイトのない日に会う方が、自然だった。

ファミレス、公園、図書館。大学生のカップルが行けるような場所を、一通り巡った。お金がなかったから、高い店には行けなかった。でも、そういう場所の方が、かえって会話が弾んだ気がする。

デートの帰りに、喫茶店に寄ることがあった。

彼女がバイトしている「ムーン」ではなく、別の店だ。駅前の、チェーン店でもなく、かといって気取ってもいない、ごく普通の喫茶店。

そこで僕は、いつもコーヒーを頼んだ。

砂糖を二つ、ミルクをたっぷり入れて。

一度、真央がそれを見て笑った。「砂糖、入れすぎじゃないですか」

「ちょうどいいんだよ」と言ったが、自分でも少し入れすぎだとは思っていた。

「甘いものが好きなんですね」

「コーヒーはまだ慣れてないから」と正直に言うと、彼女はまた笑った。

「じゃあ、練習しましょうか」

「練習?」

「まず砂糖を一つにして、次は半分にして、最後はなしにする。そうやって少しずつ慣れていけばいいんです」

彼女の言い方は、先生みたいだった。でも、嫌じゃなかった。むしろ、そうやって自分のことを気にかけてくれることが、嬉しかった。

その後、僕はコーヒーに砂糖を一つだけ入れるようにした。

ミルクはまだたっぷり入れた。

真央はそれを見て「進歩してますね」と言い、少し微笑んだ。

その微笑みのために、コーヒーを飲んでいたのかもしれない。砂糖を減らしていたのかもしれない。大人になろうとしていたのかもしれない。

恋というのは、人をそういう方向に動かすものだと、後になって思った。

付き合っていた期間に、いくつかの思い出がある。

梅雨の日に二人で映画を見て、出てきたら雨が上がっていた。彼女が「晴れましたね」と言って、空を見上げた時の顔。

夏に彼女の友人たちと一緒に花火大会に行って、帰りの電車が混んでいて、彼女のそばにいるために必死に立ち続けた夜。

秋に大学の学祭があって、僕のサークルの出し物を彼女が見に来てくれた。終わった後に「よかったです」と言ってくれて、褒められ慣れていない僕はどんな顔をすればいいかわからなかった。

そういう記憶が、今もどこかに残っている。色褪せた写真のように、細部はぼやけているが、輪郭だけははっきりしている。

コーヒールンバが店に流れると、真央は少し遠い目をすることがあった。

「この曲、好きですか?」と一度聞いたことがある。

「好きとか嫌いとかじゃなくて……なんか、いつもここで流れてるから、この曲を聞くと喫茶店の匂いがするような気がして」と彼女は言った。

「コーヒーの匂いってこと?」

「そうじゃなくて、もっとぜんぶ。コーヒーの匂いも、古い木の匂いも、雨の日に湿った空気も。ぜんぶひっくるめた匂いです」

それはなんとなくわかる気がした。場所の記憶というのは、匂いとセットになっている。

「じゃあ将来、どこかでコーヒールンバを聞いたら、ここのことを思い出すのかな」と僕は言った。

真央はしばらく考えてから、「そうかもしれませんね」と言った。

その「そうかもしれませんね」が、どこかに引っかかったのを覚えている。

「ここのことを思い出す」のは、「ここにいる自分を思い出す」ということで、それはつまり、今この瞬間がいつか過去になるという予感を、彼女はすでに持っていたのかもしれない。

そう気づいたのは、ずっと後になってからだった。


4章 別れ、そして街

別れは、突然ではなかった。

じわじわと、しかし確実に、二人の間の何かが変わっていったのだと思う。

大学四年になり、就職活動が始まった。僕は文学部で、専攻は日本文学だった。はっきりした将来のビジョンがなく、就活には手間取った。エントリーシートを書きながら、自分という人間を言語化することの難しさに、毎晩うんざりしていた。

真央は経済学部で、早々に内定をもらっていた。金融関係の会社だったと記憶している。

二人の間で、何かが少しずつすれ違い始めたのは、そのあたりからだったかもしれない。

すれ違い、というのは、劇的なものではなかった。

会う回数が減った。連絡が遅くなった。一緒にいる時間の中に、以前はなかった沈黙が増えた。

悪いことをしたわけじゃない。怒鳴り合いをしたわけでもない。ただ、二人の間の何かが、少しずつ薄くなっていった。

春の終わりに、彼女から「話がある」と言われた。

どこかでそれを予感していた。だから驚かなかった。

「今まで、ありがとうございました」と彼女は言った。

「こちらこそ」と僕は言った。

それで終わった。長い言葉は、どちらもなかった。

別れた後、「喫茶 ムーン」には行けなかった。

行けないというより、行かない方がいいと思った。真央がまだそこで働いている以上、僕が顔を出すのは彼女の仕事の邪魔になるだろうと思ったのだ。

だから、あの路地を通ることも避けるようになった。少し遠回りをしても、その前を通らないルートを選んだ。

コーヒールンバを聞くたびに、あの店のことを思い出した。真央の言った通りだった。あの曲は、あの場所の記憶とセットになっていた。

就職してからも、コーヒーに対する苦手意識は抜けなかった。

社会人になれば自然とブラックで飲めるようになるものだと思っていたが、そうでもなかった。会議室でコーヒーが出ると、こっそり砂糖を入れた。打ち合わせの場でミルクを入れることを、少し恥ずかしいと思いながらも、やめられなかった。

コーヒーは苦手なまま、でも飲まなければいけない場面は増えていく。それが社会人生活というものだった。

真央のことは、時々思い出した。思い出すたびに、あの店のコーヒーの香りと、コーヒールンバのメロディが、セットで蘇ってきた。


5章 バッタリ

再会は、本当に偶然だった。

別れてから何年経っていただろうか。三年か、四年か。僕は会社員として、それなりに忙しく過ごしていた。仕事に慣れ、少し余裕が出てきた頃だった。

土曜日の昼過ぎ、都内のある街を歩いていた。仕事の用事が終わって、特に急ぐこともなく、ぶらぶらと商店街を歩いていた。

交差点で信号待ちをしていると、向こう側に見覚えのある後ろ姿があった。

長い髪を束ねて。白いコートを着て。

信号が変わった。人の波が動いた。向こう側の人たちがこちらに向かって歩いてくる。

顔が見えた。

島田真央だった。

一瞬、息が止まった。

これは誰もが経験することだと思う。昔付き合っていた人に、不意に再会した瞬間の、あの奇妙な感覚。心臓が一拍飛ぶような、時間が止まるような、あの感じ。

彼女も気づいた。

目が合った。

向こうも一瞬、表情が変わった。驚きと、何か別の感情が混じった、複雑な顔だった。

無視するわけにはいかなかった。

もし初対面なら通り過ぎればいい。もし顔見知り程度なら、軽く会釈するだけでもいい。しかし、かつて付き合っていた相手だ。無視して通り過ぎるのは、それ自体が一種の「態度表明」になってしまう。

「やあ」と僕は言った。声が、少し上ずった。

「あ、こんにちは」と彼女は言った。

交差点の真ん中で、二人で立ち止まった。周りの人たちが、流れていく。

「元気?」

「うん、元気。あなたは?」

「まあ、なんとか」

そういう言葉しか出てこなかった。当然だ。何年も経って、交差点でバッタリ会って、すぐに中身のある言葉が出るはずがない。

でも、「うん」とうなずいてくれた時、なぜか救われた気がした。

怒っているわけでも、冷たいわけでもない。ちゃんと普通に、昔の知り合いとして話してくれている。それだけで、十分だった。

「せっかくだから、お茶でも」と言ったのは、僕の方からだった。

言いながら、少し後悔した。余計なことを言ったかもしれない、と思った。

しかし彼女は少し考えてから、「そうですね」と言った。

「そうですね」。

付き合っている頃の口調に戻っていた。年上の僕に対する、丁寧だけど親しみのある言い方。その言葉遣いが戻ってきたことが、なんとなく嬉しかった。

近くに喫茶店があった。こぢんまりとした、静かな店だった。

二人でドアを押した。


6章 ホット、ください

店内は落ち着いた雰囲気だった。BGMはジャズで、客は数人。窓際の席が空いていた。

向かい合って座ると、久しぶりに彼女の顔をちゃんと見た。

変わっていなかった。正確には、少し変わっていたが、本質的なものは変わっていなかった。社会人として数年を過ごした落ち着きのようなものが加わっていたが、目の表情や、口元の雰囲気は、あの頃のままだった。

「久しぶりですね」と彼女は言った。

「何年ぶりだろう」

「三年か四年くらいですか」

「そのくらいだと思う」

店員が来た。彼女はすぐに「アイスコーヒーをください」と言った。

僕は一瞬考えて、「ホット、ください」と言った。

「あら」と真央は言った。

その一言で、すべてが蘇った。

「コーヒー、飲めるようになったのね?」

柔らかい驚きの声だった。批判でも皮肉でもなく、ただ純粋な驚き。

「まあ、一応」と僕は答えた。

一瞬で、あの頃に引き戻された。

砂糖を二つ、ミルクをたっぷり入れていたあの頃。「練習しましょうか」と言ってくれた彼女。「進歩してますね」と微笑んでくれた顔。あの喫茶店のカウンター。コーヒールンバのメロディ。

すべてが、「ホット、ください」という言葉一つで、一気に蘇ってきた。

本当はあの時、「ホット」ではなく「紅茶」と言いたかった。

今もコーヒーが得意というわけではない。飲めるようにはなったが、積極的に選ぶほど好きではない。あの店に入った瞬間、紅茶の方が飲みたいと思った。

でも「ホット」と言った。

なぜか。

コーヒーを飲む自分でいたかったから、だろうか。彼女の前で、コーヒーを飲める大人になった自分を見せたかったから、だろうか。

そう考えて、ああ、あの頃と変わっていないな、と思った。彼女の前でコーヒーを頼んでいた、あの大学生の頃と。見栄を張って、でもごまかして、コーヒーに砂糖を山ほど入れていたあの頃と、何も変わっていない。

そう思ったから、話をごまかした。

「まあ、一応」と言って、それ以上は言わなかった。

コーヒーが来た。

僕は自然な手つきを装いながら、そっと砂糖を一つ入れた。

ミルクは入れなかった。それだけは、あの頃と違った。

ほろ苦いコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。

街は続いていた。人が歩き、車が走り、何事もなく時間が流れていた。

真央はアイスコーヒーのストローに口をつけながら、「仕事は?」と聞いた。

「なんとかやってる」と僕は答えた。「あなたは?」

「私も。部署が変わったりしたけど、同じ会社にいます」

普通の会話だった。当たり前の会話だった。しかし、その普通さが、妙に切なかった。


7章 あの頃へ

話したいことがあって、その喫茶店に誘ったのだ、と心のどこかで思っていた。

しかし実際に向かい合って座ると、「話したいこと」が何だったのか、うまく言えなかった。

正確には、話したいことはあった。でも、それを言葉にしていいのかどうか、わからなかった。

終わった関係は、終わった関係だ。お互いにそれはわかっている。今さら蒸し返すつもりはない。ただ、あの別れ方が、あまりにもあっさりしすぎていたから。もう少し、何か言えることがあったんじゃないかという気がしていたから。

でも、それをこの場で言うべきかどうか。

言えなかった。

代わりに、昔の話をした。

大学の頃の話。共通の知人のその後。彼女のバイト先だった「喫茶 ムーン」のこと。

「あのお店、まだあるのかな」と真央は言った。

「さあ。僕はもう何年もあの辺には行ってないから」

「佐久間さん、元気かしら」

「マスターは頑固だから、まだやってると思う」

真央は少し笑った。

「コーヒールンバ、覚えてますか? あのお店でよく流れてた曲」

「覚えてる」と僕は言った。「今でも、あの曲を聞くとあの店を思い出す」

「私も」と彼女は言った。「あと、コーヒーの匂いも」

それはあの頃、彼女が言っていたことと同じだった。場所と匂いと音楽は、記憶の中でひとつになる、ということ。

「あの頃、砂糖をたくさん入れてたよね」と真央は言った。

「覚えてるんだ」

「覚えてます。山盛りって感じだった」

「山盛りは言いすぎだよ」

「二つか三つ入れてたじゃないですか」

「……まあ」

真央は笑いながら「今は違うんですか?」と聞いた。

「今は砂糖一つ。ミルクは入れない」

「進歩してる」

あの頃と同じ言葉だった。「進歩してますね」。

その言葉が聞けただけで、何か報われた気がした。

なぜコーヒーを頼んだのか、本当のことを言おうかと思った。

紅茶が飲みたかったけど、あなたの前でコーヒーを飲める自分でいたかった。あの頃と変わっていない。今もそういう見栄を張ってしまう。

でも、言わなかった。

それを言ってしまうと、「あの頃のまま」であることが確定してしまう気がして。成長していない自分を、正面から認めることになる気がして。

だから話を変えた。天気の話をした。仕事の愚痴を少し言った。真央は聞きながら、時々うなずいた。

コーヒーは、砂糖一つで最後まで飲んだ。


8章 笑顔のこと

一時間ほど話して、お開きになった。

店を出ると、外はもう夕方で、空が少しオレンジがかっていた。

「じゃあ、私はこっちなので」と真央は言い、来た方向と反対側を指さした。

「ああ、そっちか。じゃあ」

「うん。またね」

そう言って、真央は歩き出した。

僕は少し見送って、それから自分も歩き出した。

振り返らなかった。振り返ってしまうと、何か変なことになりそうな気がしたから。でも、真央がどこかで振り返ったかどうかは、わからない。確かめなかった。

電車の中で、今日のことを反芻した。

バッタリ会うのは、恋愛小説や映画ではよくあることだが、現実でもやはり起きるものだ。その時の感情は、フィクションで描かれるほどドラマチックではない。もっと混乱していて、もっと平凡で、もっとぼんやりしている。

再燃した、というわけではない。それはわかっている。

ただ、彼女がちゃんとそこにいて、ちゃんと笑っていて、「進歩してる」と言ってくれたこと。それが嬉しかった。それだけだ。

でも、そのシンプルな嬉しさが、なんだかとても大事なもののように感じられた。

笑顔というのは不思議なものだと思う。

当たり前のように思えて、当たり前ではない。嬉しい時だけでなく、困った時にも笑顔を作れる人間がいる。怒っている時でも、怒りを隠すために笑顔を作る人間がいる。

真央の笑顔は、そういう複雑さを含んでいた。

あの頃、理不尽な客の前でも笑顔を崩さなかった彼女。でもその笑顔の奥に、何か確固とした意志が宿っていた。笑っているから柔らかいのではなく、笑いながらも折れない強さがあった。

そういう笑顔を持つ人間に、僕は弱い。

今日の真央の笑顔も、あの頃と変わっていなかった。いつも微笑んでいてほしいと思う。でも、それは願えることではない。彼女は彼女の人生を生きている。自分の都合で、いつも微笑んでいてほしいなどと思うことは、おかしな話だ。

わかっている。でも、そう思う。

終わった仲だ、と自分に言い聞かせた。

電車が駅に着くたびに、そう思った。終わった。あの別れの日から、もう何年も経った。彼女には彼女の生活があり、僕には僕の生活がある。今日のことは、ただの偶然の再会で、それ以上でも以下でもない。

わかっている。

でも、コーヒーの味が、舌の奥にまだ残っていた。砂糖一つで飲んだ、少し苦いコーヒーの味が。

そしてコーヒールンバのメロディが、頭の中でいつの間にか流れていた。


9章 時間が変えるもの

あれから時間が経った。

仕事が変わった。住む場所が変わった。会う人間が変わった。

そして、結婚した。

妻は、穏やかな人だ。笑い上手で、怒る時もあるが根を引かない。料理が上手で、週末の朝はいつも美味しいものが食卓に並んでいる。

結婚してからは、さすがに街でバッタリ、ということはなくなった。いや、「なくなった」というより、「なくなるはずだ」という安心感の中で生きるようになった、と言うべきか。

生活というのはそういうものだ。偶然の出会いや別れよりも、決められた秩序の中で、毎日が過ぎていく。

コーヒーを本当に好きになったのは、三十代に入ってからだった。

きっかけは、出張先で飲んだ一杯のコーヒーだった。

地方の小さなカフェ。マスターが丁寧にハンドドリップで淹れてくれた。砂糖もミルクもなく、そのまま口にした。

苦かった。しかし、その苦さの奥に、複雑で豊かな何かがあった。果物のような酸味と、チョコレートのような深み。それが後から来た。

これがコーヒーなのか、と思った。

今まで自分が飲んでいたものは、コーヒーという名前の別の何かだったのかもしれない。

今は豆を自分で選んで、手で挽いて飲む。

香りを重視する。豆の産地や焙煎度合いを見て、今日の気分に合うものを選ぶ。グラインダーで挽く時の音が好きだ。挽きたての粉の香りが広がる瞬間が好きだ。

砂糖は入れない。ミルクも入れない。ブラックで飲む。

あの頃の自分が見たら、驚くだろうか。砂糖を山盛り入れていた大学生が、今は豆を手で挽いてブラックで飲んでいる。

人は変わるものだ。好みも、習慣も、感覚も。それが成長なのか、老いなのか、単なる変化なのか、よくわからない。でも、変わった。確かに変わった。

変わらないものもある。

コーヒールンバを聞くと、あの店を思い出す。真央の声を思い出す。砂糖を入れすぎていたコーヒーの甘さを思い出す。

時間は流れる。しかし記憶は流れない。流れているようで、どこかに引っかかって残る。

それは悪いことではない、と今は思う。

あの頃があって、今がある。あの苦さがあって、今の味がある。あの別れがあって、今の生活がある。

何もかもがつながっている。切り離せない。だから、昔の恋を懐かしく思うことも、後悔することも、どちらも否定することはない。それはすべて、今の自分を作った材料の一部だ。

真央のその後を、僕は知らない。

あの再会の後、彼女とは連絡を取っていない。取るべきではないと思ったし、取りたいとも思わなかった。正確には、取りたい気持ちはあったかもしれないが、取るべきではないという理性が勝った。

彼女が今、どこで何をしているのか。幸せでいるのか。今もあの笑顔でいるのか。

わからない。確かめる術もない。

でも、きっと大丈夫だ、と思う。根拠はない。でも、あの笑顔を持っている人間は、たいていのことは大丈夫だ。そういう強さが、あの笑顔には宿っていた。


10章 ブラックで飲める朝

日曜日の朝。

妻はまだ寝ている。子供たちも寝ている。静かな時間だ。

僕は一人でキッチンに立ち、グラインダーで豆を挽く。

ガリガリという音が、静かな朝の空気に響く。

挽きたての粉をドリッパーに入れ、湯を少しだけ注いで、蒸らす。三十秒。その間に、粉がふっくらと膨らむ。新鮮な豆の証拠だ。

それからゆっくりと湯を注いでいく。細い湯を、円を描くように。急がない。丁寧に。

コーヒーが落ちてくる。

深い色の液体が、カップに少しずつ溜まっていく。

香りが部屋に広がる。

コーヒーの香りというのは、今でも少し懐かしい気持ちにさせる。あの喫茶店の空気を、どこかで思い出させる。真央がエプロンを締めて、カウンターの中に立っていた光景を。

懐かしい、というのは悲しいことではない。

むしろ、その記憶が今もちゃんと残っているということが、何か大事なことのように思える。あの時間は、確かに存在したのだ。あの会話は、確かに交わされたのだ。

それで十分だ。

カップにコーヒーを注いで、テーブルに持っていく。

椅子に座り、一口飲む。

苦い。でも、その苦さが好きだ。

砂糖は入れない。ミルクも入れない。ブラックのまま、ゆっくりと飲む。

あの頃の自分に教えてやりたい、と思う。

いつかコーヒーが好きになるよ、と。砂糖もミルクも入れずに飲める日が来るよ、と。それまでの時間も、ぜんぶ意味があるよ、と。

でも、教えなくていい。あの時間があったから、今がある。遠回りに見えても、それが自分にとっての道だった。

窓の外で、小鳥が鳴いている。

日差しが部屋に差し込んできている。

コーヒーカップを両手で包んで、少し目を閉じる。

コーヒールンバのメロディが、頭の中に浮かんだ。あの古いラテンの曲。「恋を忘れた悲しい男に、甘い香りのコーヒーを飲ませた」という歌。

今の自分は、恋を忘れた悲しい男ではない。

でも、コーヒーを飲みながら、かつての恋を少しだけ思い出す。それくらいの余裕が、今はある。

大人になったのだと思う。

苦いものを苦いまま受け入れて、それでも美味しいと感じられるようになった。それが大人になるということの、一つの定義かもしれない。

妻が起きてきた。

「早いね」と彼女は言い、眠そうな目をこすりながらキッチンへ向かった。

「コーヒー、もう一杯淹れようか」と僕は言った。

「うん、お願い」

グラインダーをもう一度手に取る。

豆を挽く音が、また朝の空気に響く。

コーヒールンバは、もう頭の中にない。

今ここにあるものの音だけが、聞こえている。



〜エピローグ〜

香りのこと

コーヒーの香りは、記憶を呼び覚ます。

それは科学的にも説明できることらしい。嗅覚は他の感覚とは異なる経路で脳に届き、記憶と感情を司る部位に直接つながっているという。だからコーヒーを嗅ぐだけで、あの喫茶店の午後が蘇ったり、誰かの声が聞こえる気がしたりする。

真央の声は、コーヒーの香りとセットになっている。

それはもう変わらないだろう。コーヒーを飲むたびに、彼女のことを思い出す。でも、それはもはや痛みではない。ただの、記憶だ。


コーヒールンバは、今でも時々耳にする。

ショッピングモールのBGMで流れていたり、カフェで流れていたり。あの古いメロディは、半世紀以上を超えて、今も生き続けている。

あの曲を聞くたびに、僕は少しだけ若返る。砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲んでいた頃に、一瞬だけ戻る。そしてまた、今に戻る。

それでいい。

過去は過去で、今は今だ。どちらも本物で、どちらも自分の一部だ。


今日もコーヒーを淹れる。

豆を挽く。湯を注ぐ。香りが広がる。

カップを手に取り、一口飲む。

苦くて、深くて、美味しい。

大人になったものだ、と思う。

そして少しだけ、あの頃を懐かしく思う。

砂糖をたくさん入れて、彼女に笑われていたあの頃を。コーヒーが飲めないくせに、コーヒーを頼んでいたあの頃を。コーヒールンバが流れる、薄暗い喫茶店の、あの空気を。


─ 了 ─


アマゾン キンドル



〜あとがき〜

この小説を書きながら、コーヒーを何杯も飲んだ。

昔はミルクと砂糖なしでは飲めなかったコーヒーが、今は豆を選んでブラックで飲めるようになっている。人の味覚というのは変わるものだと、改めて実感した。

コーヒーの味が変わるように、恋の記憶も変わる。渦中にある時は甘くて、別れた後はひどく苦くて、時間が経つとほんのり懐かしい香りになる。

この物語の主人公は、特別な人間ではない。どこにでもいる、ごく普通の男だ。見栄を張って、うまく言えなくて、気づいた時には大事なものが変わっていた。そういう人間の話を書きたかった。

真央という人物は、一人の女性というより、「過去の大切な時間」の象徴として書いた。誰にでも、そういう存在がいると思う。名前は違っても、場所は違っても、コーヒーの味と結びついているような、そういう記憶が。

コーヒールンバを聴きながら読んでいただけたなら、嬉しく思います。


ウインナーコーヒー事件簿

――渋谷の片隅で、僕らは笑いを仕込んだ――


〜まえがき〜

この物語は、今からおよそ45年前、僕が学生だった頃に実際に起きた、ある小さな「事件」をもとにしています。

事件といっても、誰かが傷ついたわけでも、法律に触れるようなことが起きたわけでもありません。ただ、一杯のコーヒーと、二本のウインナーソーセージと、無言のサラリーマンが登場するだけの、ちっぽけな、しかし僕の心にずっと引っかかり続けてきた出来事です。

あれから25年以上が経った今も、ふとした瞬間にあの日のことを思い出します。あのサラリーマンは今、どこで何をしているのでしょうか。あの沈黙の意味は何だったのでしょうか。

これを書くにあたって、記憶を掘り起こし、当時の渋谷の空気を呼び起こし、青春の馬鹿さ加減と、それに伴う甘酸っぱい後悔を、できる限り正直に書きました。

読んでくださる皆さんが、1杯のコーヒーを手にしながら、この物語を楽しんでいただけたなら、これ以上の幸せはありません。




第一章 渋谷の片隅の喫茶店



渋谷という街は、昔から不思議な場所だった。

今でこそ再開発が進み、ガラス張りの高層ビルや複合商業施設が立ち並ぶ近未来的な都市に変貌しているが、僕が学生だった頃の渋谷は、もっと雑然としていて、もっと猥雑で、もっと人間くさかった。

センター街を抜けると怪しい呼び込みの声が飛んできて、道玄坂を上ればラブホテルと場外馬券売り場が肩を並べていた。ハチ公前の待ち合わせには、いつも誰かが誰かを待っていて、そのまま永遠に待ち続けているんじゃないかと思えるような顔をした人間が何人もいた。

そういう渋谷の、少し外れた細い路地に、その喫茶店はあった。

「喫茶 たけだ」。

看板は手書きで、文字の端が少し滲んでいた。ドアを開けると、古い木の匂いとコーヒーの香りが混ざり合って、独特の空気が漂ってきた。カウンターが六席、テーブルが四つ。決して広くはないが、何か不思議な居心地の良さがあった。

僕が初めてその店に入ったのは、確か大学一年の秋だった。友人のタカに「面白い店がある」と連れて行かれたのだ。



タカ、というのは、僕の大学時代のルームメイトだった。本名は中野貴志というが、僕は入学してすぐに「タカ」と呼ぶようになり、それが周りにも伝染して、本人も気に入っているらしく、今となっては本名を呼ぶ人間の方が少なかった。

理工学部の学生だったが、なぜか文学部の僕と気が合い、同じアパートの隣の部屋に住んでいたこともあって、ほとんど毎日顔を合わせていた。

性格は正反対だった。僕は基本的に慎重で、面倒なことを避けたがる人間だったが、タカは何か面白いことを見つけると止まらなくなるタイプで、しかもその「面白いこと」の方向性が少しずれていた。悪い奴ではない。ただ、いたずら心と知的好奇心が変な方向で結びついていることが多かった。

そのタカが「面白い店がある」というのだから、何かあるとは思っていた。



「喫茶 たけだ」は、外から見ると何の変哲もない喫茶店だった。しかし中に入ると、その雰囲気は独特だった。

壁にはびっしりとレコードジャケットが貼られていた。ジャズのものもあれば、クラシックのものもあり、昭和歌謡のものもあった。統一感はまるでなかったが、それがかえって不思議な温かみを醸し出していた。

カウンターの中には、竹田さんがいた。

竹田正一。それがマスターの名前だった。

五十代の半ばくらいだろうか。白髪交じりの短い髪に、無駄のない動き。コーヒーを淹れる所作には、長年の習熟が滲み出ていた。口数は少なく、愛想がいいとは言えなかったが、不思議と居心地が悪くない。それは、彼の目が優しかったからかもしれない。

僕たちが入っていくと、竹田さんはちらりと視線をよこし、「いらっしゃい」と低い声で言った。それだけだった。

しかし、その「それだけ」が、妙に心地よかった。



僕とタカはカウンターに並んで座り、コーヒーを注文した。

竹田さんが淹れるコーヒーは、本当に美味かった。今でもあの味を思い出すことがある。深くてコクがあって、しかし苦すぎない。ちょうどいい温度で出てきて、カップに口をつけた瞬間に、ふっと身体の力が抜けるような感覚があった。

「ここ、どうやって知ったんだ?」と僕は聞いた。

「先輩に教えてもらった」とタカは言った。「ゼミの先輩。ここでバイトしてたらしい」

「へえ」

「マスター、面白い人だぞ」とタカは言い、竹田さんの方をちらりと見た。

竹田さんはカウンターの向こうで、黙ってコーヒーカップを磨いていた。

その後、僕たちはあの喫茶店の常連になった。週に2、3回は顔を出し、コーヒーを飲み、時間を潰した。竹田さんとはあまり会話をしなかったが、それが心地よかった。何も言わなくていい場所というのは、学生にとって意外と貴重だった。


第二章 竹田さんのこと



竹田正一という人物について、僕が知っていることは多くない。それは、彼が自分のことをほとんど話さなかったからだ。

ただ、断片的にわかってきたことがいくつかあった。

もともとは別の仕事をしていたこと。詳しくは語らなかったが、ある時期に「嫌になって辞めた」らしかった。その後、コーヒーに惚れ込んで修業を重ね、この店を開いた。開店してからもう20年以上になると、ある日ぽつりと言っていた。

「20年以上」と僕は繰り返した。「ずっとここで?」

「ずっとここで」と竹田さんは短く答えた。

それ以上は聞かなかった。竹田さんの目に、何か聞いてはいけない色が浮かんだような気がしたからだ。今思えば、それは過去への愛着だったのか、それとも後悔だったのか、わからない。



竹田さんには、几帳面な一面があった。

豆の管理、水の温度、抽出の時間。すべてに細かいこだわりがあり、それを乱されることを嫌った。一度、タカが冗談で「インスタントでいいですよ」と言ったら、本当に怖い顔をされた。タカが後でこっそり「あれは本気で怒ってたな」と言っていたほどだった。

一方で、店の外観や内装については驚くほど無頓着だった。壁のレコードジャケットは脈絡なく増えていくし、テーブルの木が傷んでも補修するだけで替えようとしない。「味が出てきたんだ」と言って、むしろ大事にしていた。

コーヒーさえ美味ければいい。それが竹田さんの美学だったのかもしれない。



メニューは、シンプルだった。

コーヒー、カフェオレ、紅茶。それにトースト。季節によってアイスコーヒーが加わる。それだけだった。

ウインナーコーヒーはなかった。

これが後々重要になってくる。

当時の僕には、もちろんそんなことはわかっていなかった。ただ、竹田さんの店でウインナーコーヒーを飲んだことはなかった、という事実だけが、後から振り返ると意味を帯びてくる。



竹田さんが店を閉めると言い出したのは、確かその年の冬が近づいた頃だった。

「1週間ほど留守にする」と竹田さんは言った。「急な用事でね」

「急な用事?」

「親戚のことで」それ以上は説明しなかった。

竹田さんは少し困った顔をして、カウンターに肘をついた。「店を閉めるのも癪だしな。誰かに頼めたらいいんだが」

タカが即座に手を挙げた。

「俺ら、やりますよ」

僕は驚いてタカを見た。タカはにやりと笑っていた。

竹田さんも驚いたようだったが、僕たちの顔をしばらくじっと見てから、「頼めるか?」と言った。

「任せてください」とタカは言った。

こうして、事件の幕が上がった。


第三章 魔のメニュー、誕生



竹田さんが去った翌朝、僕とタカは意気揚々と店の鍵を開けた。

「いや~、嬉しいな」とタカは言いながら、カウンターの中に入り、慣れた様子でエプロンを締めた。「渋谷で1週間、喫茶店のマスターだぞ」

「アルバイトだよ」と僕は訂正した。「マスターじゃない」

「細けえことは気にするな。で、どうする?」

「どうするって、普通に営業するんだよ」

「それだけか?」タカはカウンターに寄りかかり、腕を組んだ。「せっかく一週間あるのに、普通に営業して終わり、か」

僕は嫌な予感がした。タカが「せっかく」と言い出す時は、たいてい何か余計なことを考えている。



タカが最初に「ウインナーコーヒー」の話を持ち出したのは、その日の午後、常連客が帰ってしばらく経った、ほんの束の間の閑散とした時間だった。

「なあ、ウインナーコーヒーって知ってるか?」

「知ってる」と僕は答えた。「ホイップクリームを浮かべたコーヒーだろ」

「そう。でもさ、田舎の喫茶店で注文したら、本当にウインナーソーセージが入ってきた、って笑い話があるじゃないか」

「あるな」

タカはにやりと笑った。「俺、それやりたい」

僕は一瞬、意味がわからなかった。そして理解した瞬間、「絶対だめだ」と言った。

「なんで? 面白いじゃないか」

「面白くない。竹田さんの信用を傷つけることになる」

「怒る客は来ない。シャレのわかる客だけを選んで出すんだから」

「そんな選び方できるわけないだろ」

「できるかもしれない」タカは真剣な顔で言った。「人を見る目さえあれば」



その夜、僕たちはアパートに戻り、議論を続けた。

タカは珍しく熱心に説得してきた。曰く、「これは文化的実験だ」。曰く、「笑い話の実証研究だ」。曰く、「誰も傷つけない」。

僕は頑強に抵抗した。しかし、気づけば「標的の条件」を一緒に考えていた。

人間というのは、話し合ううちに、いつのまにか相手の世界に引き込まれてしまうことがある。タカはそういう引力を持った人間だった。

「まず、怒鳴りそうな人は外す」とタカは言い、ノートに書き始めた。「それと、急いでそうな人も外す。余裕がない人に出したら笑えない」

「気弱そうな人に絞るのか?」

「気弱そうというより……シャレが通じそうな人。笑えそうな人」

「そんな人、どうやって見分けるんだ?」

「雰囲気だよ、雰囲気」タカは自信満々に言った。「俺には人を見る目がある」

その根拠のない自信が、またなんとも言えなかった。



翌朝、タカは1枚の紙を持ってきた。

手書きのメニューだった。

文字は下手くそだった。タカは理系の人間らしく、字を書くのが苦手だった。「ウインナーコーヒー」という文字は、なんとなく傾いていて、最後の「ヒー」の部分がやや大きくなっていた。

それでも、ある種の愛嬌があった。

値段は?という問いに、タカは「竹田さんのコーヒーと同じでいい。むしろちょっと安くしよう。お詫びの気持ちで」と言った。その「お詫びの気持ち」という発言が、まだ後ろめたさが残っていた証拠だった。

僕たちはその紙を、壁の目立つ場所に貼った。

魔のメニューが誕生した瞬間だった。



ウインナーソーセージの仕込みについては、タカが考えた。

「皮付きじゃないとダメだ」とタカは言った。

「なんで?」

「コーヒーの中に沈めるわけじゃないから、食感が大事なんだ。それに皮付きの方が、より『食べ物』感が出て面白い」

理屈はよくわからなかったが、確かに安っぽいウインナーよりは皮付きの方が、何か清潔感があった。竹田さんの店に出すものとして、多少の品位は保ちたかった。

近くのスーパーで皮付きウインナーを買ってきて、冷蔵庫の奥に忍ばせた。

準備は整った。

後は、「待ち人」が来るだけだった。


第四章 標的の条件



標的の条件について、タカは恐ろしく真剣だった。

それはまるで、論文の研究対象を選定するような厳粛さだった。理系の人間らしく、条件を箇条書きにして、チェックリストまで作り始めた。

「第一条件:怒りっぽそうでないこと」

「第二条件:時間的余裕があること」

「第三条件:ユーモアを解する知性があること」

「第四条件:こちらが怖くないこと」

最後の条件を見て、僕は思わず笑った。「こちらが怖くないこと、って、それは選ぶ側の都合じゃないか」

「当たり前だ」とタカは涼しい顔で言った。「俺たちが逃げ場を確保しないでどうする。これはジョークだが、ジョークをかける側だって身の安全を確保する権利がある」

その論理は歪んでいたが、妙に説得力があった。



最初の1日は、何事もなく過ぎた。

来る客は来る客、みんなコーヒーかカフェオレを頼み、壁のメニューには目もくれなかった。いや、目を向ける人もいたが、「ウインナーコーヒー」の文字をちらりと見て、そのまま別のものを注文した。

「見てるのに注文しない」とタカは首を傾げた。「興味はあるんだな」

「シャレのわかる人間ばかりじゃないってことだ」と僕は言った。「それに、知らない店でいきなり見慣れないものを頼む人間は少ない」

「じゃあ、常連に期待するか」

「常連は竹田さんのメニューを知ってる。かえって不思議がるんじゃないか?」

タカは腕を組んだ。「確かに。一見さんに期待するしかないな」



2日目も、成果はなかった。

学生のグループが来て、ざわざわとコーヒーとカフェオレを注文し、大声で話して帰っていった。サラリーマン風の男性が1人で来て、新聞を広げ、コーヒーを飲み、帰っていった。年配の女性が2人連れで来て、紅茶を飲みながら長々と話し、最後は笑いながら帰っていった。

誰も「ウインナーコーヒー」を頼まなかった。

閉店後、タカはため息をついた。「思ったより難しいな」

「当たり前だ」と僕は言った。「それに、来る客が全員チェックリストの条件を満たしていたとしても、まずウインナーコーヒーを頼まなきゃ始まらない」

「そこなんだよな」タカは天井を見上げた。「ウインナーコーヒーを頼むというのは、ある種の冒険心がいる。それは俺たちにとって都合がいいことだが、同時に障壁でもある」

冒険心のある人間が、同時に気弱でなければならない。その矛盾に、タカも薄々気づいていた。



3日目の午前中、1人の青年が入ってきた。

20代の前半だろうか。スーツは少しよれていて、ネクタイは緩んでいた。会社員らしいが、どこかまだ学生の面影が残っていた。髪は少し乱れていて、目の下に薄い隈があった。

タカと僕は視線を交わした。

青年はカウンターに座らず、窓際のテーブルに座った。メニューがないことに気づいたのか、きょろきょろと周りを見回した。そして、壁の手書きのメニューを発見した。

目が止まった。

「ウインナーコーヒー」の文字に、確かに目が止まった。

しかし、その日は結局「コーヒー」を注文した。

惜しかった。あと一歩だった。

その日の閉店後、タカは「明日だ」と言った。「あの人がまた来る。そして今度は頼む」

「なんでそう思う?」

「あの目が気になってた。ウインナーコーヒーを見た時の目だよ。あれは好奇心の目だ。1度気になったものを、次に来た時に試してみる。そういうタイプだ」

タカの観察眼は、時として正確だった。


第五章 待ち人、来たらず



4日目の朝、タカは珍しく早く起きていた。

普段は僕より1時間は遅く起きるタカが、僕がアパートを出る前にすでに準備を終えて待っていた。

「気合い入ってるな」と僕は言った。

「当たり前だ」とタカは答えた。「今日、来るかもしれない」

店を開けると、タカはすぐに冷蔵庫のウインナーの状態を確認した。まるで手術前に器具を点検する外科医のようだった。

「状態は良好」とタカは満足そうに言った。

「ウインナーの状態を確認してる男の図、って誰かに見せたいな」と僕は思ったが、言わなかった。



午前中は、昨日と同じような客層だった。

オフィスに向かう前に立ち寄ったらしいサラリーマンが数人。近所の主婦らしき女性。学生らしき2人連れ。

誰も「ウインナーコーヒー」を頼まなかった。

タカはカウンターの中で、来る客ごとに小声でチェックリストを読み上げていた。「怒りっぽそう……微妙。時間的余裕……なし。ユーモア……不明。こちらが怖くない……これは大丈夫」

「全員失格か?」と僕は聞いた。

「だいたい第1か第2の条件で引っかかるな」

午後になっても、状況は変わらなかった。



タカが焦り始めたのは、四日目の夕方だった。

「あと3日しかない」

「竹田さんが帰ってきたら終わりだもんな」

「このまま誰も頼まなかったら……」タカは言葉を止めた。

「どうする?」

「……悔しい」

その一言が、妙におかしかった。何が悔しいのか。誰も自分たちのいたずらに引っかからなかったことが悔しいのか。それとも、せっかく準備したウインナーを無駄にすることが悔しいのか。

たぶん両方だった。



4日目が終わろうとしていたその時、扉が開いた。

昨日来た青年だった。

タカと僕は、瞬時に視線を交わした。タカの目が光った。

青年は今日も少しよれたスーツで、ネクタイは昨日より少し緩んでいた。おそらく残業でもしてきたのだろうか。目の下の隈は、昨日より少し濃くなっていた。

彼は今日も窓際のテーブルに座り、きょろきょろと周りを見回し、壁の手書きのメニューを探した。

そして目が止まった。

今日は昨日より長く、その文字を見つめていた。

タカが小声で「来た」と言った。

しかし彼はまた、「コーヒーをください」と言った。

タカの肩が、かすかに落ちた。

その日は結局、何も起こらなかった。


第六章 待ち人、来たる!



5日目の朝。

タカは前日より更に早く準備を終えていた。目に見えない緊張感を纏っていた。

「今日で決める」とタカは言った。

「どうやって?」

「あの人が今日も来たら、だ」

「来なかったら?」

「……来る」

その確信の根拠を問い質す気にもなれなかった。



午前中は平穏だった。

タカは昨日より口数が少なく、カウンターの中で静かにコーヒーを淹れ続けた。考え込んでいるようだった。

昼前、タカが突然言った。「1つ確認したいことがある」

「なんだ?」

「もし彼がウインナーコーヒーを頼んだとして、どうやって出す?」

「え?」

「コーヒーの中にウインナーを直接入れるのか? それとも別の形で出すのか?」

その問いは、意外と本質的な問題だった。



僕とタカは、昼の閑散とした時間を利用して議論した。

「コーヒーの中に直接沈めたら、さすがに洒落にならないかもしれない」と僕は言った。

「怒りそうか?」

「怒るというより、引く気がする。食べ物を粗末にしてる感じがして」

タカは腕を組んだ。「じゃあ、どうする?」

しばらく2人で考えた。

「受け皿に置く、というのはどうか」と僕は言った。

「受け皿に?」

「コーヒー本体は、ちゃんとウインナーコーヒー(ホイップクリームのせ)として出す。で、受け皿にウインナーを2本、そっと置いて出す」

タカは目を細めた。「……面白い」

「そうすることで、コーヒーはコーヒーとしてちゃんと飲める。ウインナーもちゃんと食べられる。でも、その組み合わせが謎だ」

「受け皿のウインナー……確かに謎だな」タカは小さく笑った。「『ウインナーコーヒー』をどう解釈したのか、わからなくなる」

「それがいい。コーヒーの中に沈めたら『こいつらバカだ』ってなるけど、受け皿なら『もしかして何か意味があるのか?』ってなる可能性がある」

「哲学的だ」

「バカなことを哲学的にやるのが、いたずらの本質だよ」

タカは笑った。「お前、たまにいいこと言うな」



作戦会議が終わって1時間後、扉が開いた。

あの青年だった。

タカと僕は、今度は声も出せなかった。ただ、互いの目が動いた。

青年は今日も同じ窓際のテーブルに座った。今日のスーツは昨日よりさらによれていた。ネクタイは今日はほとんど解けかけていた。残業続きなのだろうか。それとも、他に何か疲れることがあるのだろうか。

彼は壁のメニューをしばらく眺めた。昨日より長く眺めた。一昨日より更に長く。

そして。

「ウインナーコーヒー、ください」

静かな声だった。迷いのある、しかし決意のある声だった。

タカと僕は、顔を見合わせた。

「待ち人 来たる!!」

2人の心の中で、同時にその言葉が弾けた。


第七章 受け皿の上のウインナー



しかし、いざその瞬間が来ると、僕たちは固まった。

準備はしていた。何日も準備していた。しかし、実際に「ウインナーコーヒー、ください」という言葉が耳に届いた瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。

隣でタカも固まっているのがわかった。

ほんの3秒か4秒か。

「はい、少々お待ちください」とタカが言った。声は、かすかに上ずっていた。



カウンターの中で、僕とタカは小声で話し合った。

「やるか?」

「やる」

「本当にやるか?」

「やる……よな?」

「やろう」

「うん、やろう」

こんな会話をしながら、タカはコーヒーを淹れ始めた。いつもより丁寧に、竹田さんのやり方を思い出しながら。コーヒーにホイップクリームを乗せた。ちゃんとした、美味しそうなウインナーコーヒーだった。

僕は冷蔵庫からウインナーを取り出した。皮付きの、立派なウインナー。それを2本、受け皿の端に、そっと置いた。

コーヒーカップを受け皿の中央に置くと、ウインナーは左右に1本ずつ、まるで添え物のように収まった。

「悪くない」とタカは言った。小さな声で。

「うん」と僕は答えた。やはり小さな声で。



青年のテーブルに運んでいったのは、タカだった。

「お待たせしました、ウインナーコーヒーです」

タカの声は、努めて平静を装っていた。

青年は顔を上げ、テーブルに置かれた品を見た。

1秒。

2秒。

3秒。

彼の表情は、動かなかった。

タカはカウンターに戻ってきた。僕たちは、さりげなく青年を観察した。

彼はもう1度、受け皿のウインナーを見た。それからコーヒーカップを見た。またウインナーを見た。

首を傾げた。ほんの少しだけ。

そしてコーヒーに口をつけた。



コーヒーを一口飲んだ後、彼はウインナーを手に取った。

フォークもナイフもなかったので、素手で。

そのまま、ウインナーを口に入れた。

もぐもぐと食べた。

それからコーヒーを飲んだ。

またウインナーを食べた。

コーヒーを飲んだ。

ウインナーを食べた。

最後に、残ったコーヒーを飲み干した。

全部、食べた。全部、飲んだ。

一言も、言わなかった。

タカと僕は、カウンターの中で完全に固まっていた。


第八章 沈黙



彼が帰ったのは、それから十五分後だった。

コーヒーを飲み終えると、彼は静かに席を立ち、財布を取り出し、カウンターに来た。

「いくらですか?」

「400円です」とタカが答えた。壁のメニューに書いてあった値段だった。

彼は四百円を出し、「ごちそうさまでした」と言って、出ていった。

それだけだった。

ウインナーについては、一言も言及しなかった。

変だとも言わなかった。美味しかったとも言わなかった。意味がわからないとも言わなかった。苦情を言うわけでも、笑うわけでも、困惑した様子を見せるわけでもなかった。

ただ、食べて、飲んで、帰った。



扉が閉まった後、僕とタカは長い間、黙っていた。

「……どういうことだ?」

最初にそう言ったのは、タカだった。

「わからない」と僕は答えた。

「怒ってたのか?」

「怒ってたようには見えなかった」

「笑ってたのか?」

「笑ってたようにも見えなかった」

「困ってたのか?」

「……少なくとも、困惑はしてたと思う。でも、それを表に出さなかった」

タカはカウンターに両肘をついて、頭を抱えた。「なんで何も言わないんだ。せめて一言、何か言ってくれればよかったのに」

「怒鳴らなかっただけよかっただろ」

「怒鳴ることはないと思ってた。でも、笑ってほしかった。」

それが本音だった。タカは、この「実験」の終着点として、相手と笑いを共有することを夢想していたのだ。しかし、彼は笑わなかった。何も言わなかった。ただ食べた。



「もしかして、わかってて食べたのか?」と僕は言った。

「どういうこと?」

「彼は『ウインナーコーヒー』という言葉を知っていた。本来はホイップクリームのことだと知っていた。その上で、手書きの怪しいメニューを見て、何か企んでいる可能性を察した。だから、あえて引っかかってみせた……という可能性はないか?」

タカは目を見開いた。「つまり、俺たちが彼を試したつもりが、彼に試されていたと?」

「可能性の話だよ。でも、あの飄々とした態度は、そういう余裕を感じさせた」

「だとしたら……」タカは言葉を失った。「だとしたら、俺たちは完全にやり込められた」

「そう」

沈黙が落ちた。

しかし、その可能性は同時に、別の可能性も示していた。彼は怒ってはいなかった。むしろ、一種のゲームとして楽しんでいたかもしれない。

それはそれで、なんだか救いだった。



もう1つの可能性は、彼が本当に何も知らなかった、というものだ。

「ウインナーコーヒー」という言葉を聞いたことがなかった。だから手書きのメニューを見て、何の疑問も持たずに注文した。来たものを見て、「そういうものか」と思った。特に驚きも疑問もなく、ただ食べた。

それはそれで、ある意味で最も純粋な反応かもしれなかった。

「もしかしてウインナーコーヒーというものが本当にウインナーとコーヒーのセットだと思ってたとしたら……」タカは言いかけて止まった。

「俺たちはいたずらじゃなく、正しいメニューを提供したことになる」と僕は続けた。

「そういうことになる」

2人でしばらく考えた。

「どっちだろうな」

「わからない」

「聞けばよかったか?」

「聞けるわけがないだろ」

それ以上の議論は、できなかった。


第九章 議論の夜



その夜、僕とタカはアパートに戻って、深夜まで話し続けた。

ビールを買ってきて、2人で飲みながら、あの青年の沈黙の意味を考え続けた。

仮説は次々と生まれた。

仮説A:彼は「ウインナーコーヒー」の正体を知らず、それゆえ驚きもせず食べた。

仮説B:彼は正体を知っており、僕たちのいたずらを察したが、あえて乗ってみせた。

仮説C:彼はいたずらを察したが、怒るのも笑うのも面倒で、ただ食べた。

仮説D:彼はひどく疲れていて、ウインナーが来ようが何が来ようが、もうどうでもよかった。

「仮説Dが1番現実的な気がする」と僕は言った。

「それはそれで悲しい」とタカは言った。



タカが「仮説E」を持ち出したのは、ビールの三本目に入った頃だった。

「彼が実は喜んでいた可能性はないか?」

「喜んで?」

「ウインナーが来た時、内心ではものすごく喜んでいた。でも、表情に出すのが苦手なタイプ。だから何も言わずに食べたが、心の中では笑っていた」

僕は少し考えた。「……ありうるな」

「もしそうなら、俺たちの作戦は大成功だ。彼は笑った。ただ、外に出さなかっただけで」

「外に出なかった笑いを成功と言っていいのか?」

「いいんじゃないか。人間の笑いは、口角を上げた時だけじゃない。心の中で面白いと思った瞬間も、笑いのうちだ」

タカの言葉には、不思議な説得力があった。



しかし、もっと暗い可能性もあった。

「馬鹿にされた可能性はないか?」と僕は言った。

タカの表情が曇った。「馬鹿にされた?」

「彼の立場から考えてみよう。疲れて喫茶店に入った。手書きの怪しいメニューがあった。注文したら、コーヒーに加えてウインナーが出てきた。そこで彼は何を思うか。『この店のバイトは何も知らないのか。馬鹿なことをやっている』と思う可能性はある」

タカはしばらく黙っていた。「……あるな」

「そして、怒るのも呆れるのも面倒だから、ただ食べて帰った。彼の中では俺たちは、若い馬鹿者だった」

「最悪の可能性だな」

「でも、否定できない」

2人は黙ってビールを飲んだ。



深夜になって、タカが言った。

「答えは出ないな」

「出ない」と僕は答えた。

「聞けばよかった」

「聞けなかった。あの状況で聞けるわけがない」

「だよな」タカはため息をついた。「子供のいたずらをした大人、みたいな気分だな」

「俺たちは学生だから、ほぼ子供だ」

「でも、あの人は社会人だった。子供が社会人にいたずらをしたことになる」

「そう考えると、なんか申し訳なかったな」

タカは珍しく、しみじみとした顔をしていた。「謝りたいような気持ちと、でも笑いたいような気持ちが、同時にある」

「それがいたずらというものだよ」と僕は言った。「後で後悔する。でも、後悔しながら笑える。そのバランスが絶妙に保たれているのが、いたずらの本質だ」

「お前、またいいこと言う」

「ビールのせいだ」

2人で笑った。

深夜の小さな笑いは、あの青年の沈黙と同じくらい、どこかに消えていった。


第十章 竹田さんの帰還



残りの2日間は、静かに過ぎた。

あの青年は再び来なかった。ウインナーコーヒーを注文する客は、他に1人もいなかった。壁の手書きメニューは、最後まで一件しか「成果」をもたらさなかった。

6日目の夜、タカは壁のメニューをそっと剥がした。

「記念に持っておくか?」と僕は言った。

「やめとく」とタカは言い、丸めて捨てた。「証拠は残さない方がいい」

「竹田さんには言わないのか?」

「言えるわけないだろ」

確かにそうだった。



1週間後、竹田さんが戻ってきた。

「ご苦労さん」と竹田さんは言い、僕たちを見た。何かを察しているような、いないような、いつもの底知れぬ目だった。

「問題はなかったか?」

「はい、特には」とタカは答えた。完璧な笑顔だった。僕は笑顔を作ることすら忘れて、ただ頷いた。

竹田さんはしばらく店の中を見回した。カウンターを確認し、コーヒー豆の状態を確認し、冷蔵庫を確認した。

「ウインナーが減ってるな」と竹田さんは言った。

僕とタカは固まった。

「まかないで食ったか?」

「あ……はい」とタカが言った。「すみません」

「いい」と竹田さんは短く言った。「好きに食ってよかった」

それだけだった。

竹田さんは「まかない」だと思ったのだ。

僕たちは顔を見合わせた。タカは安堵の表情を浮かべたが、同時に少し罰が当たった顔をしていた。



その後、僕たちは変わらず「喫茶 たけだ」に通い続けた。

竹田さんは変わらず、無口で、コーヒーを丁寧に淹れ続けた。

あの手書きのメニューの話も、あの青年の話も、僕たちがバイトをした1週間の話も、竹田さんにすることはなかった。

ただ、1度だけ。卒業が近づいた頃、竹田さんがぽつりと言った。

「お前たちが店を手伝ってくれた時、何かやったろ」

僕とタカは、凍りついた。

「……なんのことですか?」とタカが言った。

竹田さんは笑った。珍しく、はっきりと笑った。「ウインナーが減ってただけじゃない。メニューの貼り紙の跡があった」

「……」

「まあいい」竹田さんは言い、コーヒーを淹れながら続けた。「面白いことを考えるな、お前たちは」

怒られたのか、褒められたのか、今もよくわからない。でも、竹田さんの声には、確かに笑いが含まれていた。


第十一章 四半世紀後



あれから40年以上が経った。

僕はもう学生ではない。会社員になり、結婚し、子供が生まれ、それなりの人生を歩んできた。タカとは今も年に数回、酒を飲む仲だ。

渋谷の街は変わった。「喫茶 たけだ」はもうない。竹田さんが70を過ぎた頃に店を閉めたと、風の噂で聞いた。

あの手書きのメニューは、タカが捨てた。あの青年は、今どこにいるかわからない。

でも、あの沈黙は、ずっと僕の中に残っている。



ある日、小学生の息子が聞いてきた。

「ウインナーコーヒーって何?」

僕は一瞬、固まった。

「どこで聞いたんだ?」

「学校の友達が言ってた。田舎の喫茶店で注文したら、本当にウインナーが来たって笑い話」

「……ああ、そういう話があるな」

「本当にそんなことあるの?」

僕は少し考えた。

「ある、かもしれない」

息子は不思議そうな顔をした。

僕はそれ以上は言わなかった。



タカに電話して、あの話をしたのは、息子に聞かれた翌日だった。

「覚えてるか? あの渋谷の件」

「覚えてる」タカはすぐに答えた。「四半世紀経っても、たまに思い出す」

「俺も」

「あの人、今ごろどこで何してるんだろうな」

「さあ。60代になってるはずだ」

「60代か……」タカは少し間を置いた。「もしかして、自分の子供にウインナーコーヒーの話をしてるかもしれないぞ。俺は若い頃、渋谷の喫茶店でウインナーコーヒーを頼んだら、受け皿にウインナーが来た、って」

「それはそれで面白い」

「面白い。俺たちがネタを提供したことになる」

2人で笑った。電話越しに、40年前と同じような笑いが響いた。



ただ、笑いの後に、いつも少しだけ引っかかりが残る。

あの沈黙の意味は、今もわからない。

彼は笑っていたのか。怒っていたのか。呆れていたのか。疲れていたのか。それとも、すべてを超越して、ただウインナーとコーヒーを楽しんでいたのか。

人の心の中は、覗けない。あの日もそうだった。今もそうだ。

でも、彼が最後に「ごちそうさまでした」と言って帰ったことは、覚えている。その声は、怒っていなかった。少なくとも、声だけで判断すれば、穏やかだった。

それだけを頼りに、僕は「たぶん大丈夫だった」と信じることにしている。

根拠はない。でも、そう信じる方が、あの笑い話を笑い話のまま覚えていられる。


〜エピローグ〜

ウインナーかウインナーか

最後の疑問

この話を書き終えて、一つのことが気になり始めた。

「ウインナーコーヒー」の「ウインナー」は、正確にはどう表記するのか。

ウインナーと書く人もいれば、ウィンナーと書く人もいる。「ウ」の後ろに小さい「ィ」が入るか否か。

調べてみると、元々はドイツ語の「Wiener」、すなわち「ウィーンの」という意味の言葉に由来する。ウィーンで生まれたコーヒーのスタイル、だからウインナーコーヒー(あるいはウィンナーコーヒー)という名がついた。

ホイップクリームを浮かべたコーヒー。それが本来の姿だ。

ソーセージの「ウインナー」も同じウィーン由来。ウィーンで生まれたソーセージだから、ウインナーソーセージ。

つまり、コーヒーのウインナーもソーセージのウインナーも、語源は同じウィーンなのだ。

そう考えると、僕たちのいたずらは、ある意味で非常に正確な語源的遊びだったとも言える。

ウィーン生まれのコーヒーに、ウィーン生まれのソーセージを添えた。これほど「ウインナーコーヒー」の名に忠実なメニューが他にあるだろうか。


……という屁理屈を思いつくのに、40年かかった。


まあ、どちらにせよ。

「ウインナー」でも「ウィンナー」でも、どっちでもいい。

あの日の受け皿の上のウインナーは、確かに存在した。

あの青年の沈黙は、確かに存在した。

そして、あの笑いは、今も僕とタカの中に存在し続けている。


それで十分だ。

─ 了 ─





〜あとがき〜

この物語を書くにあたって、いくつかの点をお断りしておきたいと思います。

まず、登場人物の名前はすべて仮名です。「タカ」も「竹田さん」も、実際の人物の名前ではありません。ただ、出来事そのものは、おおむね実際に起きたことに基づいています。

「おおむね」と書いたのは、40年以上前の記憶というものは、どこか美化されたり、誇張されたり、あるいは欠落したりするものだからです。正確な日時も、細かいやり取りも、今となっては確かめる術がありません。

ただ、あの青年が「ウインナーコーヒー」を注文し、受け皿の上のウインナーを黙って食べ、「ごちそうさまでした」と言って帰ったことは、鮮明に覚えています。記憶とは不思議なもので、感情が伴った出来事は消えない。

もしこの本を読んでいる方の中に、あの日の青年がいたとしたら。

まず謝りたい。勝手なことをして、本当に申し訳なかった。

そして聞きたい。あの時、何を思っていたのか。

その答えが聞けることは、たぶんない。でも、聞けないからこそ、この話は終わらない。終わらないから、書き続けられる。

1杯のコーヒーと、2本のウインナーと、無言の男。

小さな出来事が、長い物語になりました。

読んでくださった皆様に、心から感謝申し上げます。


アマゾン キンドル



インウイ
〜〜香りだけが、時間を止める〜〜


〜序章〜

もう出会うことは
なくなってしまったけれど

20年くらい前までは
時折 街で
女性とのすれ違いざまに
振り返った香り

インウイ

調べると
すでに長いこと廃盤となっていて
また
すでに無い物ねだり
ネット上では
高騰した価格となっている

もう
忘れてしまった香りではあるけれど
僕の1番好きな香りであったはずで
それでもきっと今
貴女がそれを香らせ
目の前を通り過ぎたならば

間違いなく
一瞬で連れ戻されるあの頃

40年も前の
ステディだった彼女から
いつも香ったそれは とても上品な香りで

また それまで
香りなど意識したことがなかった若造は
なんだか
大人の世界に入り込んだかのような錯覚の中で
彼女を守った頃だった

もう
貴女の姿さえ 虚ろな今を生きながら
今更なんて笑いながらも

わずかでも良い
ほんの数滴でもと
時折
願うことがある

不思議かな
男は
香りだけは忘れないようだ






〜街角の一瞬〜

11月の夕方、僕は駅前の商店街を歩いていた。

用事は特になかった。定年を迎えてからというもの、目的のない散歩が増えた。行き先を決めずに家を出て、気の向くまま歩いて、疲れたら帰る。それだけの時間を、今は持っている。

人が多かった。夕方の商店街は、仕事帰りの人たちで賑わっている。スーツ姿の男、買い物袋を下げた女、学校帰りの子どもたち。皆それぞれの速度で、それぞれの方向へ歩いている。

その中を、僕はゆっくりと歩いた。

すれ違いざまだった。

女性とすれ違った瞬間、何かが鼻の奥を掠めた。ほんの一瞬のことだ。気づいた時には、もうその人は通り過ぎていた。振り返ると、黒いコートの背中が、人混みの中に消えていくところだった。

香りだった。

なんという香りだったか、言葉では言えない。花のようでもあり、木のようでもあり、しかしそのどちらでもない。上品で、静かで、しかし確かに存在を主張する何か。

僕は立ち止まった。

商店街の人の流れの中で、1人だけ立ち止まった。周りの人たちが僕の脇を通り過ぎていく。しかし僕は動けなかった。その香りが、どこかで嗅いだことがある、と思ったからだ。

どこで。

いつ。

答えが出るより先に、香りは消えた。夕方の街の匂い——排気ガスと、食べ物の匂いと、人々の体温——が戻ってきて、その一瞬の残像を塗りつぶした。

しかし僕の中の何かは、もう動き始めていた。引き出しの奥にしまってあった記憶が、鍵もかけていないのに、ひとりでに開き始めていた。

インウイ。

その名前が、どこからともなく浮かんだ。




〜初めてその香りを嗅いだ夜〜

40年前、僕は25歳だった。

彼女と出会ったのは、秋の終わりだった。共通の友人が開いた小さな食事会で、彼女は窓際の席に座っていた。黒い髪を肩のところで切り揃えて、話す時に少し首を傾ける癖があった。

名前は、今ここでは書かない。

あの頃、僕は香りというものにまったく無頓着だった。整髪料の匂いと、タバコの煙と、居酒屋の油の匂い。そういうものが混在する空気の中を生きていた。香水というものを意識したことは、それまでほとんどなかった。

初めて気づいたのは、帰り道だった。

食事会が終わり、何人かで駅まで歩いた。11月の夜の空気は冷たくて、皆コートの前を合わせながら歩いていた。僕は彼女の隣に並んだ。特に意図したわけではなかったが、気づいたらそうなっていた。

その時だった。

夜風が吹いて、彼女の髪が少し揺れた。その瞬間、何かが僕の鼻をかすめた。

立ち止まりそうになった。しかし彼女はそのまま歩いていたので、僕も歩き続けた。歩きながら、その香りが何なのかを考えた。花ではない。果物でもない。しかしどこか有機的で、生きているような香りだった。

「その香水、何ていうんですか」

気づいたら、聞いていた。

彼女が振り向いた。少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。

「インウイ、っていうの」

「インウイ」

僕はその名前を繰り返した。しかしその音の響きが、その香りにぴったり合っていると思った。インウイ。どこか遠いところを指し示すような、静かな音。

「好きなんですか、その香水」

「ずっと使ってる。母が好きだったから」

その答えが、妙に心に残った。母から受け継いだ香り。それを纏って夜の街を歩く彼女。その事実が、彼女という人間に、僕の知らない奥行きを与えた気がした。

駅の改札の前で別れた。

その夜、アパートに帰ってから、しばらく眠れなかった。あの香りがまだ鼻の奥に残っているような気がして、それを手がかりに、今日出会った人のことを考え続けた。



〜大人の世界〜

付き合い始めてから、僕の感覚は少しずつ変わっていった。

それまで意識したことのなかった香りというものが、急に存在感を持ち始めた。街を歩けば、すれ違う人々の香水に気づくようになった。デパートの化粧品売り場の前を通ると、複雑に混ざり合った香りが漂ってくる。それを以前は気にも留めなかった。しかし今は、その中に彼女の香りと似たものがないかを、知らず知らず探している自分がいた。

似たものはなかった。

インウイは、他のどの香りとも違った。

人によって香りの出方が違う、ということを教えてくれたのも彼女だった。同じ香水でも、纏う人の体温や体質によって、まるで違う匂いになる。彼女の肌の上でインウイは、穏やかで、落ち着いていて、しかしどこか芯のある香りになった。それは彼女そのものの性質と、どこかで重なっていた。

僕より3つ年上だった。

その3年分の差が、当時の僕にはとても大きく感じられた。彼女は何事も落ち着いて判断した。感情的になることが少なくて、物事の本質を見る目があった。僕が興奮して話すことを、静かに聞いて、それから穏やかに意見を言う。その穏やかさが、時に頼もしく、時に少し遠く感じられた。

「若いわね」と彼女は時々言った。

からかうような言い方ではなかった。ただ、事実を述べているような言い方だった。それが僕の自尊心を少し刺激した。若くて何が悪い、と思いながら、しかし大人に見られたいという気持ちもあった。

彼女といる時間は、背筋が伸びる感じがした。

自分よりきちんとした人間の隣に立つ時の、あの感覚。粗雑なところを見せてはいけないという緊張感が、いつも少しあった。それが窮屈だったかといえば、そうでもなかった。むしろその緊張感の中に、何か心地よいものがあった。

大人の世界に入り込んだかのような錯覚、と今の僕は思う。

錯覚と言えばそうかもしれないが、その錯覚が僕を少し成長させたことも、確かだった。彼女の隣にいることで、僕は背伸びをした。背伸びをするうちに、少しだけ本当に背が伸びた。

インウイの香りは、その時間の全体に漂っていた。

彼女に会う日は、必ずその香りがした。デートの帰り道、電車の中で、まだ彼女の香りが自分の服に残っているような気がした。本当に残っていたのか、気のせいだったのか、今となってはわからない。ただ、そう思いたかったのかもしれない。



〜別れという名の静けさ〜

2年ほどが経った、春のことだった。

別れ話というものは、たいてい突然やってくる。しかし振り返ってみれば、その前からいくつかの予兆があったことに気づく。会う頻度が少しずつ減っていたこと。電話の声が、どこか遠くなっていたこと。話す内容が、以前より表面的になっていたこと。

僕はそれらに気づいていなかった。あるいは、気づきたくなかった。

「話がある」と彼女が言ったのは、桜が散り始めた頃だった。

公園のベンチだった。花びらが舞っていた。絵のような場面だったが、僕には景色を見る余裕がなかった。彼女の声の質が、いつもと違うことはわかっていた。

「しばらく、会うのをやめようと思って」

「なぜ」

「うまく言えないんだけど」

「うまくなくていいから言ってくれ」

彼女は少し間を置いた。公園に風が吹いて、桜の花びらがベンチの上に落ちた。

「あなたといると、私が大きく見えすぎる気がして」

「どういう意味だ」

「あなたが私を見上げてる感じがする。それが、少し苦しい」

僕は黙った。

彼女の言っていることが、わかった。背伸びをしていたのは僕だけではなかった。彼女も、僕に見上げられることで、自分が実際より大きな人間であるように振る舞わなければならなかった。それが、疲れたのかもしれない。

「俺が変わればいい」

「そういうことじゃないの」

「じゃあ、どういうことだ」

彼女は答えなかった。答えられなかったのか、答えたくなかったのかは、わからなかった。

その日が最後だった。

引き止めることはできた。言葉を尽くせば、もう少し時間を延ばすことはできたかもしれない。しかし彼女の声の質が、もう決まっていることを告げていた。決まったことを覆そうとすることが、みっともないように感じた。

別れ際、彼女は「元気でね」と言った。

僕は「うん」とだけ言った。

電車に乗って、家に帰った。その夜は何も食べずに、ただ天井を見ていた。悲しいというより、何もない感じだった。大きな空洞が胸の中にできて、そこに風だけが通り抜けていくような感覚。

その後、彼女には会っていない。



〜廃盤〜

商店街から帰って、夕食を終えた後、僕はスマートフォンで「インウイ」と検索した。

すぐに出てきた。


資生堂の「インウイ(Inoui)」香水は、1970年代後半に登場したグリーン・ウッディ・シプレの香りで、凛とした知的な大人の女性を演出する名香として知られていました。1990年代に廃盤となり、現在は一部のオークションサイトや中古香水専門店でのみ入手可能。

廃盤、という文字を見た。

わかっていたことだった。20年くらい前から、街でその香りに出会わなくなっていた。あの頃は、同じ香りの人とすれ違うたびに振り返っていた。しかし気づけば、振り返ることもなくなっていた。香りが街から消えていたのだ。

オークションサイトを開いてみた。

出品されていた。30ミリリットルの小瓶が、数万円の値段がついていた。

高い、と思った。しかし高いとは思いながら、しばらくその画面から目が離せなかった。小瓶の写真は少し粗くて、ラベルの文字が読みにくかった。しかし Inoui という文字だけは、はっきりと見えた。


40年前の記憶が、画面の向こうで値段をつけられている。

おかしな感覚だった。あの頃の夜の帰り道も、公園のベンチも、散っていた桜も、全部が今や「廃盤」になっている。時代が変わり、香りは市場から消えた。しかし僕の中には、まだそれが残っている。

指が、「購入手続きへ」というボタンの上で止まった。

押すか、押さないか。

押したとして、何が手に入るのか。小瓶の中に入った液体。噴霧すれば、あの香りが漂うかもしれない。しかしそれは40年前の彼女の香りではない。彼女の肌の上でなければ、インウイはインウイにならない。それは、ずっと前からわかっていることだった。

指を引いた。

スマートフォンを置いた。

しかしその夜、画面をもう1度開いて、また出品ページを見た。何もしないまま、ただ見た。それだけのことが、なぜかやめられなかった。




〜男は香りだけは忘れない〜

人間の記憶の中で、香りだけが特別な場所を持っている、という話を読んだことがある。

視覚の記憶や聴覚の記憶は、時間とともに変容する。鮮明だったものが薄れ、細部が失われ、やがて輪郭だけになる。しかし嗅覚の記憶は、脳の中で感情と直接繋がっているため、いつまでも生々しいまま残ることがある。40年前の香りを嗅いだ瞬間、40年分の時間が一瞬で消える。

僕にはそれが起きた。

街角で、あの香りに似たものをかすめた瞬間、僕は25歳に戻った。冬の食事会の帰り道、夜風の中で、隣を歩く彼女の髪が揺れた、あの瞬間に。

彼女の顔は、今では少し曖昧になっている。

目がどんな形だったか、笑うとどんな顔になったか、正確には思い出せない。声も、どんな声だったかを言葉で説明することができない。しかし香りは、今でも確かに鼻の奥にある。どんな香りだったかを言葉では言えないが、嗅げばわかる。それだけは確かだ。

わずかでも良い、ほんの数滴でも、と時折願うことがある。

それは彼女に会いたいということとは、少し違う。40年が経ち、お互いに人生を歩んできた。今更会って何を話すのか、想像もできない。しかし、あの香りの数滴があれば、あの時代に戻れる気がする。25歳の夜の空気と、背伸びをしていた自分と、自分より少し大人の彼女と、その全部が戻ってくる気がする。

男は香りだけは忘れない、と思う。

これが男だけのことなのかは、わからない。しかし少なくとも僕は、そうだった。顔より先に香りを思い出す。声より先に香りが来る。40年という時間が、他の全てを少しずつ薄めていく中で、香りだけは薄まらなかった。

不思議なことだと思う。

人間の体というのは、こういうものなのかもしれない。失ったものを手放せないように、どこかに必ずしまっておく。視覚でも聴覚でもなく、嗅覚という、最も原始的な感覚の中に。

翌朝、もう1度スマートフォンを開いた。

オークションのページはまだ残っていた。小瓶の写真と、値段と、出品者のコメント。「未開封品。保管状態良好」と書いてある。

しばらく見ていた。

そして、そっと閉じた。

買わなくていい、と思った。

持っていなくていい。あの香りは、すでに僕の中にある。40年間、ずっとそこにあった。これからも、そこにあり続けるだろう。それで十分だ。

窓の外に、11月の光が満ちていた。

遠くで、電車が走る音がした。どこかへ向かう人が、今日もまたホームに立っている。かつて僕が立ったホームで、新しい誰かが、誰かを待っている。

街はいつも、続いている。

香りだけが、時間を止める。



アマゾン キンドル





術後
1ヶ月は安静にと言われ
サボった身体は
なかなか元には戻らない

昨日もまた
リハビリにと
低山をぶらりすれば
鳥たちの囀る声に包まれて
嬉しくもなる







今まだ
わずかに残る
脇腹へのピリッとした痛みを
かばいながらの山道

急ぐことなく
ゆっくりと歩けば
いつもよりも
彼らの声は染み込んでも来る

それでも
姿は見えず
鳥は鳥たちのいとなみをと
この季節を急ぐ

僕はカミさんに見守られて
この山道を歩く



いつの間にか
時間と戦っている自分に
気付いても

どうにもならないことを悟り
我が身を任す


こうして落ちる体力に

熊の出没が拍車を掛けて

更に山を遠ざける

還暦よりも
この65という齢は
染み入る場所が深いようだ…



Kindle予定




月の裏側で

── With or Without You ──


プロローグ

 人はなぜ、夢の中でだけ本当のことを言えるのだろうか。

 眠りに落ちる直前、桐島誠はいつもそんなことを考える。

 目が覚めている間は、言えないことが多すぎる。会社では、妻には、鏡に映る自分自身にさえも。

 だが夢の中では違う。夢の中の誠は、もっと自由だ。もっと正直だ。もっと──若い。

 五十四歳。それが今の誠の年齢だった。




第一章 レコードの夜

 金曜日の夜、桐島誠はひとりだった。

 それはいつものことだった。ここ三年、週末は決まってひとりだ。別居中の妻、節子は今ごろ西宮の実家にいるだろう。娘の彩香は東京で働いている。誠のマンション──大阪市内、南堀江の1LDK──には、誠と、レコードと、古いステレオだけが残されている。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに腰を下ろした。向かいの壁には、天井まで届くスチール製のラックが二本並んでいる。そこに収まっているのは、LPレコードが約四百枚、CDが二百枚ほどだ。節子は「引っ越しのたびに増えるから嫌」と言っていた。それは本当のことで、誠には反論できなかった。

 今夜かけようと思っていたのは、最初から決まっていた。

 ラックの前にしゃがみ、アルファベット順に整理されたLPの背表紙を指でなぞっていく。U。UB40。U2。指が止まった。

 「The Joshua Tree」。

 ジャケットを取り出した。砂漠の荒野に立つ枯れ木。空は薄い青で、どこまでも続いている。このジャケットを最初に見たのは一九八七年、誠が十五歳のときだった。当時はまだLPを買う金がなくて、友人の兄のものを借りて聴いた。それから三十七年が経った今も、このアルバムを聴くと何かが胸の奥でざわめく。

 ターンテーブルに乗せ、針を落とす。

 最初の音が部屋を満たした。

 Where the streets have no name──。

 ギターが鳴り始めた瞬間、誠の胸の中で何かが開く。それはドアのようなものだ。押せば向こうへ行けそうな、透明なドア。でも誠はいつも、その前で立ち止まる。

 ビールを一口飲んだ。

 あの頃のことを思い出す。CDが出始めた頃、誠は高校生だった。友人たちが競うようにCDプレーヤーを買い始める中、誠はまだレコードにこだわっていた。音が違う、と思っていた。でも実際のところ、レコードのほうが好きだったのは、あの盤を持つ重さと、針を落とす一瞬の緊張感と、ジャケットを眺めながら聴く時間が好きだったのだと、今ならわかる。

 それでもCDは買った。

 初めて買ったCDが「The Joshua Tree」だった。

 当時、もう一枚と最後まで迷ったのがマイケル・ジャクソンの「Thriller」だった。どちらも名盤だとわかっていた。でもレジの前で誠は迷わずU2を選んだ。なぜかは、うまく言えない。ただ、U2のほうが自分に近い気がした。

 今でも、その選択は正しかったと思っている。

 二曲目の「I Still Haven't Found What I'm Looking For」が流れ始めた。誠はソファに深く沈み込み、目を閉じた。ビールの缶を腹の上に乗せ、天井を見えない目で見上げた。

 探しているものを、まだ見つけていない。

 五十四歳になっても、それは変わらない。

 むしろ、探しているものが何なのかさえ、わからなくなってきた。

 そういうことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

*  *  *

 夢は静かに始まった。

 誠はどこかの部屋にいた。広い部屋だったが、家具はほとんどない。窓の外は夜で、遠くにオレンジ色の街の灯りが見えた。大阪の夜景に似ているが、少し違う。どこかわからない。

 部屋の真ん中に、椅子がひとつあった。

 そこに誰かが座っていた。


第二章 夢の入り口

 男は小柄に見えたが、立ち上がると意外に背が高かった。

 年齢は、誠と同じくらいだろうか。銀色交じりの短い髪に、縁なしのサングラス。古びたデニムジャケットを羽織り、少し前傾みになって立っている。その立ち方に見覚えがあった。ステージの上で、何万人もの観客に向かって同じように立っていた男だ。

 「やあ」と男は言った。

 英語だったが、誠の頭の中では自然に日本語として届いた。夢の中ではそういうことが起こる。

 「ボノ」と誠は言った。

 「そうだ」と男は微笑んだ。「おかしいか?」

 「おかしいというか」誠は辺りを見回した。「これ、夢ですよね」

 「夢だよ」ボノはあっさり認めた。「でも、だからといって無意味じゃない。夢の中でしか言えないことが、世の中にはたくさんある」

 誠は自分がソファに座っていたはずだと思い出した。「The Joshua Tree」の二曲目まで聴いたはずだった。それがいつの間にかここにいる。

 「座れよ」とボノが言った。どこに、と思ったら、誠の後ろにも椅子があった。さっきはなかったはずだ。でも夢の中ではそういうことも起こる。

 誠は座った。ボノも座った。向かい合って、しばらく黙っていた。

 「あのアルバムを今夜も聴いていたのか」とボノが言った。

 「はい」

 「何枚目だ? LPとCD、両方持っているだろう」

 誠は苦笑した。「LPを一枚、CDを二枚。日本盤と輸入盤で音が微妙に違うから」

 ボノは声を上げて笑った。「そういうやつは世界中にいる。みんな同じことを言う。日本盤のほうがリマスタリングが丁寧だとか」

 「実際そうですよ」

 「わかってる」ボノはまだ笑っていた。「ありがたいことだ」

 しばらく沈黙があった。誠はこの沈黙が不思議と苦にならなかった。夢の中の沈黙は、現実の沈黙と違って息苦しくない。

 「ところで」とボノが言った。「一緒にやらないか」

 「え」

 「バンドだ。俺たちと一緒にやらないか」

 誠は一秒、本気で考えた。それから笑い出した。

 「いや、それは無理です」

 「なぜ」

 「だって、僕は」誠は言いかけて止まった。何が無理なのか。楽器が弾けないから? 年齢が? でも今は夢の中だ。「あなたたちはプロですよ。世界中で何万人も集める。僕は大阪のメーカーに勤めるただの会社員だ」

 「今は、そうだな」ボノは言った。その「今は」という言葉の含みが、誠には少し気になった。

 「ボノさんは今いくつですか」と誠は聞いた。

 「六十四だ」

 「同い年じゃない。僕も来年そうなる」

 「知ってる」ボノは言った。「だから来たんだ」

 誠はまたあの透明なドアのことを思った。ずっと前から自分の前にあって、でも誠はずっとそこで立ち止まってきたドアのことを。

 「ライブ、二回行きました」と誠は言った。「若い頃、LAで。もう少し歳を取ってから、さいたまスーパーアリーナで」

 「覚えている」

 「覚えているわけがないでしょう」誠は笑った。「何万人いたと思ってるんですか」

 「夢の中では覚えている」ボノは真顔で言った。「夢の中では、俺は全員の顔を覚えている」

 それを聞いて、誠は胸の奥で何かが揺れるのを感じた。馬鹿げた話だとわかっていた。でも夢の中では、馬鹿げた話が一番大切なことのように感じられる。

 「もう遅いですよ」と誠は言った。「今さら。いろんな意味で」

 ボノは微笑んだ。「あの頃ならば?」

 誠も微笑んだ。「あの頃ならば」

 「そうか」ボノは立ち上がった。「じゃあ、行こう」

 「どこへ?」

 「あの頃へ」


第三章 タイムマシン

 部屋の外へ出ると、夜空だった。

 建物の外壁を歩いているのか、それとも空中に道があるのか、足元は確かだがその下は何もない。大阪の夜景が眼下に広がっている。通天閣の赤い光が見える。道頓堀のグリコの看板も。

 「あれは何ですか」と誠は言った。

 上空から何かが降りてきていた。音はない。光も少ない。球形ではなく、むしろ平たい円盤のような形で、ゆっくりと、まるで木の葉が落ちるように降下してくる。

 「タイムマシンだ」とボノは言った。

 「UFOじゃないんですか」

 「みんなそう言う」ボノは苦笑した。「二千年後の未来から来るものだから、外見がそう見えるんだ。でも宇宙人じゃない。人間だ。未来の人間が、過去を調査するために使っている」

 「それが、なんで」

 「俺たちのところへ来てくれたんだよ」ボノは言った。「慈善活動の功績らしい。アフリカへの支援、貧困問題への取り組み。未来の人間は、過去の人間の中でも特に世界をより良くしようとした人たちに、特別に許可を出してくれた。タイムマシンの使用を」

 「それはすごい」誠は言った。

 「使用条件がある」ボノは続けた。「こっそり行くこと。過去を大きく変えないこと。でも、小さな変化は許される。それは元々そういう世界線だったということになる」

 機体が静かに着地した。ドアが開いた。中には誰もいなかった。自動運転だ。

 「一九七九年の大阪へ行く」ボノは機体に向かって話しかけた。「十一月。月曜日の夜、午後八時」

 「なぜ七九年なんですか」

 「U2がデビューする前の年だ」ボノは言った。「その年から始めれば、四十年以上ある。もう一度、全部やれる」

 誠は機体の中を覗き込んだ。座席はふたつあった。

 「楽器は何をやってたんですか」と誠は聞いた。

 「ギターはアダムとエッジで決まってる」ボノは言った。「俺はボーカル。だからベースかドラムだ。どちらかを選んでくれ」

 誠は首を振った。「それだと、誰かが抜けないといけない」

 「大丈夫だ」ボノは言った。「キミも知ってるだろう、この世界には複数の歴史が流れている。重なり合う次元。俺たちが入り込むのは、元々そういうことが起こる歴史の流れだ。誰かが欠けるわけじゃない。そういう世界線で、最初からそういうことになっていた」

 誠は考えた。夢の中の論理としては、十分に筋が通っている。

 「それで、なぜ僕なんですか」

 「世界を回って探したんだ」ボノは言った。「次のメンバーを。年齢も関係ない。音楽に対する誠実さと、ある種の孤独と。キミでやっと二人が決まった」

 「二人?」

 ボノが指を差した。

 そこに人影があった。

*  *  *

 男は誠より少し年上に見えた。六十前後だろうか。長身で、少し猫背で、白いシャツの袖をまくっている。顔に見覚えがあった。

 誠は息をのんだ。

 大阪出身のロック歌手で、七十年代から八十年代にかけて活躍した。「月のあかり」という曲を誠は中学生の頃から知っていた。哀愁のある声で、どこか浮世離れした歌い方をする人だった。二〇一三年に亡くなったというニュースを、誠は仕事の昼休みにスマートフォンで見た。

 黒沢光。

 「おそなりました」と黒沢は言った。

 大阪弁で「遅くなりました」という意味だ。でも今の状況で使うと、何か別の意味にも聞こえる。

 「どうして」と誠は言った。「あなたは──」

 「オレもな」黒沢は言った。柔らかく、少し照れくさそうに。「ボノに誘われたのさ」

 「でも」誠は言葉を選んだ。「あなたはもう──」

 「そうや」黒沢は静かに言った。「だから人生、急いじまった」

 その言葉が、誠の胸の中で何かに触れた。

 急いじまった。その言葉の重さを、誠はしばらく測っていた。急いでしまったということは、やり残したことがあるということだ。行けなかった場所がある。会えなかった人がいる。聴けなかった音楽がある。そしてそれが取り返せなくなったということだ。

 「ってことは」誠はゆっくり言った。「まさか、僕も」

 ボノと黒沢が、誠を見ていた。


第四章 月のあかり

 目が覚めた。

 天井が見えた。南堀江のマンション、一LDKの天井だ。見慣れたシミがある。引っ越して来た当初から気になっていたが、三年経った今では一種の目印になっている。このシミがあれば、ここが自分の家だとわかる。

 体を起こすと、缶ビールが膝から転がり落ちた。中身は半分残っていた。ソファの上で眠り込んでいたらしい。ターンテーブルはすでに針が上がっていて、静かに空回りしている。

 時計を見た。午前二時過ぎ。

 誠はしばらく、夢の残滓の中に座っていた。

 ボノ。タイムマシン。一九七九年の大阪。そして黒沢光の「おそなりました」という言葉と、「人生、急いじまった」という言葉。

 夢というのは、起きた直後は鮮明に覚えているのに、数分も経てば霧の中に消えていく。でも今夜の夢は、起き上がった今も、すべてがはっきりと輪郭を持っていた。まるで夢ではなく、何かを実際に体験してきたかのように。

 台所に立ち、水を一杯飲んだ。

 黒沢光のことを考えた。

 誠が初めて「月のあかり」を聴いたのは、中学二年生のときだ。当時、深夜ラジオを布団の中でこっそり聴いていた誠は、ある夜その曲に出会った。歌声の質感が、それまで聴いてきた何とも違っていた。艶があるのに、どこか傷ついているような声。演歌でも洋楽でもない、どこかもっと個人的な場所から来ているような声。

 翌日、レコード屋に走った。

 高校生になってからは、ライブにも行った。黒沢のライブは大きな箱でやることが多かったが、誠は小さな会場のほうが好きだった。汗と煙草の臭いが混じり合った小屋で、黒沢は二時間以上歌い続けた。

 二〇一三年に訃報を聞いたとき、誠は何も言えなかった。ただランチのからあげ弁当を、味もわからないまま食べ続けた。

 「だから人生、急いじまった」

 黒沢の声が、まだ耳の奥に残っていた。現実の声ではない。夢の中の声だ。でも、誠が中学生のときからラジオで聴いてきた声と、寸分違わなかった。

 窓の外を見た。

 大阪の夜が広がっていた。どこかで電車が走っている音がする。南堀江はいつも少し遅くまで街が起きている。

 「ってことは、まさか僕も」と夢の中で言いかけた。

 その先を、誠は言えなかった。振り返ったところで、目が覚めた。

 「急いじまった」という言葉は、死を意味していた。黒沢はもうこの世にいない。だからその言葉を使った。では、ボノがあの場に誠を連れてきたということは──。

 誠は首を振った。

 考えすぎだ。夢の中の論理を現実に当てはめてもしょうがない。

 でも、シャワーを浴びながら、誠はずっと黒沢の声のことを考えていた。

*  *  *

 翌朝、誠は出社した。

 営業部の朝礼で、部長が今月の数字を読み上げている間、誠は窓の外を見ていた。十月の大阪は、空が高くて青い。少し風が出てきていて、街路樹の葉が揺れている。

 「桐島さん」と隣の席の山下が言った。三十二歳の後輩で、誠のことをよく気にかけてくれる。「最近、ちゃんと寝てますか? 顔色が」

 「ソファで寝てしまった」誠は苦笑した。

 「また音楽聴きながら?」

 「そう」

 「奥さんが帰ってきたらまた怒られますよ」と山下は笑ったが、すぐに自分の言葉の不用意さに気づいたように口をつぐんだ。誠の別居のことは、部内で知られている。

 「大丈夫だよ」誠は言った。「帰ってくる予定はないから」

 それ以上は続かなかった。

 昼休み、誠はひとりで近くのうどん屋に入り、かけうどんを食べながらスマートフォンを開いた。黒沢光のことを調べてみた。

 生年月日、出身地、代表曲、受賞歴。そして、二〇一三年九月の死去。くも膜下出血だった。享年六十一歳。

 誠は六十一という数字を、しばらく眺めていた。

 自分はあと七年で、黒沢が死んだ年齢になる。

 七年。長いのか短いのか。

 「人生、急いじまった」

 またその声が聞こえた気がした。


第五章 おそなりました

 夢が続いた。

 次の夜も、その次の夜も。同じ夢を見るわけではなかったが、夢の中には必ず大阪の夜景と、あの透明なドアと、何か言いかけて終わる会話があった。

 三日目の夜、誠はまた明確な夢を見た。

 今度の舞台は、小さなライブハウスだった。ステージは狭く、客席は三十人も入れば満席になるだろう。壁はレンガ造りで、照明は薄暗い。タバコと汗の臭い。誠には見覚えがある匂いだった。若い頃、自分も何度か入ったことがある種類の場所だ。

 客席には誠ひとりしかいなかった。

 ステージに黒沢光が立っていた。ギター一本だけ持って、マイクの前に立っている。さっき夢で見たときと同じ、白いシャツに猫背の立ち姿。

 「また来てくれたか」と黒沢は言った。

 「夢ですよね」と誠は言った。

 「そうや」黒沢は言った。「でも、それがどうした」

 誠は一番前の席に座った。ステージまで二メートルもない。

 「先日の続きを聞きたいんですが」と誠は言った。「あなたは『人生、急いじまった』と言った。それはどういう意味ですか」

 黒沢はギターを爪弾いた。チューニングをするように、低い音を確認しながら。

 「そのままの意味やで」黒沢は言った。「急いだんや。もっとゆっくりやったらよかった」

 「でも、病気は」

 「病気は関係ない」黒沢は首を振った。「急いじまったのは、病気になる前からや。ずっと前から、オレは急いでた」

 「どういうことですか」

 黒沢はしばらく黙って、弦を鳴らし続けた。誠はその音を聴きながら待った。

 「音楽やってると」黒沢はやがて言った。「次の曲、次のアルバム、次のライブって、ずっと先のことばっかり考えてまう。今ここで鳴ってる音より、次に鳴らすべき音のことが気になってまう。そうやって走り続けて、振り返ったら終わってた。それだけのことや」

 誠は聞きながら、自分のことを考えていた。会社のこと。仕事のこと。節子との別居。娘の彩香と最後に話したのはいつだったか。

 「あなたは後悔してますか」

 「後悔は違う」黒沢は言った。「後悔はしてへん。でも、もう一回やるとしたら、もっとゆっくりやりたい。そう思う」

 「ボノが言ってました」誠は言った。「もう一度、別の歴史を歩みたいと」

 「そうやな」黒沢は微笑んだ。「面白い男やろ、あいつ」

 「あなたは」誠は少し躊躇してから続けた。「どうして夢の中にいるんですか。あなたはもう──」

 「死んでるから?」黒沢はあっさり言った。「そういうことにこだわるのは生きてる人間だけや。こっちから見たら、夢と現実の区別なんてそんなにはっきりしてへん」

 「こっちって、どこですか」

 「それは教えられん」黒沢は笑った。「でも、怖い場所じゃないで。静かなとこや。音楽が、ずっと聴こえてる」

 誠はその言葉を、胸の中に入れた。音楽がずっと聴こえている場所。それはもしかしたら、悪くないかもしれない。

 「ボノが言ってた」誠は続けた。「あの場で、『ってことは、まさか僕も』と言いかけた。続きを教えてください」

 黒沢はしばらく考えるようにして、ギターを鳴らした。それから誠を見た。

 「キミは今、何かが急いでるか?」

 誠は考えた。会社で走り続けているか。誰かとの関係を急いでいるか。何かを見逃しているか。

 「わかりません」と誠は言った。「でも、何かが足りない気はしています。ずっと前から」

 「それで十分や」黒沢は言った。「それがわかってるなら、急いでへんということや」

 「でも──」

 「キミはまだここにいる」黒沢は静かに言った。「オレはもうあっちや。それだけの違いや」

 ステージの照明が、少しずつ明るくなっていった。黒沢の輪郭が、光の中に溶けていくように見えた。

 「月のあかり」誠は言った。「あの曲を、ここで聴けますか」

 黒沢は答える代わりに、ギターを鳴らし始めた。

 誠は目を閉じた。

 あの頃から変わらない声が、狭いライブハウスに満ちた。


第六章 目が覚める前に

 四日目の夜、ボノが戻ってきた。

 今度は誠の部屋の中に、最初からいた。レコードラックの前に立ち、背表紙を眺めている。誠がソファから見ていると、ボノは振り返りもせずに言った。

 「黒沢と話したか」

 「はい」

 「どうだった」

 「わかりません」誠は正直に言った。「でも、聞けてよかった」

 ボノはラックから一枚のLPを取り出した。「The Joshua Tree」だった。

 「これをどこで最初に聴いたか、覚えているか」

 「友人の兄の部屋で」誠は言った。「高校に上がる直前の春だった。そいつの兄ちゃんが大学生で、部屋いっぱいにLPが並んでた。その中の一枚だった」

 「どんな部屋だった」

 「タバコの臭いがして、布団が万年床で、でも音楽だけはいい機材で聴かせてくれた」誠は少し笑った。「今思えば、あの人も音楽が好きだったんだなと思う」

 「今は何をしているんだ」

 「知らないです。友人とも連絡が途絶えて、その兄のことは全然」

 ボノは「The Joshua Tree」をラックに戻した。そしてソファの横に立ち、誠を見下ろした。

 「一緒にやらないか、と最初に聞いたとき、キミは笑った」

 「はい」

 「なぜだと思う」

 誠は考えた。「無理だと思ったから」

 「本当にそれだけか」

 誠はまた考えた。「怖かったのかもしれない。もし本当に可能だとしたら、という想像が怖かった」

 「なぜ」

 「今の自分が全部、なかったことになるから」誠は言った。「会社のこと、節子のこと、彩香のこと。あの頃に戻ったら、そういうことが全部変わる。変わってほしいような気もするけど、怖い」

 ボノは黙って聞いていた。

 「それに」誠は続けた。「七九年の大阪に戻っても、僕はバンドなんてできないですよ。楽器の心得もないし」

 「夢の中ではできる」

 「でも、これは夢でしょう」

 「そうだ」ボノは言った。「だから何だ」

 誠は答えられなかった。

 「夢の中でできることは、現実でもできる可能性がある」ボノは続けた。「それを知っているかどうかで、現実での生き方が変わる。俺が言いたいのはそういうことだ」

 「つまり」誠はゆっくり言った。「あなたは僕に、本当に七九年へ連れて行きたいわけじゃない」

 「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」ボノは微笑んだ。「夢の中では、どちらも本当だ」

 「曖昧ですね」

 「人生は曖昧だ」ボノは言った。「それでいい」

 窓の外が、少し明るくなってきていた。夜明けが近い。ボノの輪郭が、光の中でわずかに揺らいでいた。

 「最後に一つだけ教えてください」誠は言った。「黒沢は、急いじまったと言っていた。僕は急いでいますか」

 ボノはしばらく考えた。

 「急いでいないと思う」ボノは言った。「でも、止まっているかもしれない」

 「それは」

 「止まるのも、急ぐのも、どちらもよくない」ボノは言った。「ゆっくり、前を向いて歩くだけでいい。それだけのことが、案外難しい」

 「あなたもですか」

 「俺もだ」ボノは笑った。「俺もずっとそれだけのことに苦労してる」

 窓の外がどんどん明るくなっていく。ボノの姿が光に溶けていく。

 「また来ますか」と誠は聞いた。

 「夢の中では、いつでも来られる」ボノは言った。「でも、来ないかもしれない。それも夢だ」

 「With or Without You」と誠は言った。

 「そうだ」ボノは笑った。「いてもいなくても、音楽は鳴っている」


第七章 大阪へ

 十月も終わりに近い、土曜日の朝だった。

 誠は早起きした。夢を見たかどうか、はっきりとは覚えていない。でも目が覚めたとき、胸の中に何か温かいものがあった。朝の光が、薄いカーテン越しに部屋の中に入ってきている。

 シャワーを浴び、コーヒーを淹れ、ソファに座った。

 ターンテーブルに「The Joshua Tree」を乗せた。

 針を落とした。

 最初のギターが鳴り出した瞬間、誠はいつものようにあの透明なドアを想像した。でも今日は、少し違うものを感じた。ドアが、以前より少しだけ近い気がした。

 コーヒーを飲みながら、誠はスマートフォンを取り出した。

 連絡先を開き、「彩香」を探した。最後に電話したのは三ヶ月前だったか、四ヶ月前だったか。東京で広告会社に勤めている娘は、忙しそうで、父親からの電話を鬱陶しがることもある。でも今朝、誠は躊躇わなかった。発信ボタンを押した。

 三回のコールの後、彩香が出た。

 「何? お父さん、こんな朝早く」

 「特に用はない」誠は言った。「元気かと思って」

 「元気よ」少し間があった。「お父さんは?」

 「俺も元気だ。よく眠れてる」

 「そう」また間があった。でも今度は少し柔らかい間だった。「何か夢でも見たの?」

 「見たかもしれない」誠は言った。「はっきりとは覚えてないけど」

 「ふうん」彩香は笑った。「お父さん、夢見る人だったの」

 「そうかもしれない」

 もう少し話した。仕事のこと、東京の天気のこと、今年の正月に誠が年末年始の料理を全部外食で済ませたこと。彩香に「節子さんにも電話してみたら」と言われ、誠は「考えてみる」と答えた。それ以上でも以下でもない会話だったが、電話を切った後、誠の胸の中は少し広くなっていた。

 アルバムはB面に入っていた。

 「With or Without You」が流れ始めた。

 誠はコーヒーカップを置き、目を閉じて聴いた。

 ボノの声が部屋を満たした。一九八七年から変わらない、あの声が。

*  *  *

 午後、誠は外に出た。

 梅田まで地下鉄で出て、それから南へ歩いた。心斎橋、アメリカ村、堀江。いつも歩いている道だが、今日は少しゆっくり歩いた。

 レコード屋に入った。中古のLPを売っている店で、誠は長年の常連だ。

 店主の老人が「いらっしゃい」と言った。七十を超えているはずの男で、いつ来てもカウンターの後ろに座って何かを読んでいる。

 「黒沢光のLPがあれば欲しいんですが」と誠は言った。

 「ちょっと待って」と老人は立ち上がり、奥の棚を探し始めた。五分ほどして、一枚のLPを持ってきた。黒沢光のファーストアルバムだった。ジャケットは少し色あせているが、盤はきれいだ。

 「これ、長いこと売れ残ってたんや」老人は言った。「誰かが来るのを待ってたんかもしれんな」

 誠はそのLPを買った。

 外に出ると、秋の光が街に満ちていた。

 南堀江のマンションへ向かいながら、誠は考えた。

 あの夢は、夢だったのか。それとも──。

 答えは出なかった。出なくていいと思った。

 ボノが夢の中で言っていた。夢の中では、どちらも本当だ、と。

 そうかもしれない。

 誠はレコードを抱えて歩いた。

 秋の大阪は少し肌寒くて、でも空は高くて青かった。どこかで電車の音がした。風が街路樹を揺らした。

 帰ったら、ターンテーブルに乗せよう。

 そして夜になったら、また目を閉じよう。

 夢の続きがあるかもしれないし、ないかもしれない。

 どちらでもいい。

 音楽は鳴っている。

*  *  *

 その夜、誠は黒沢光のファーストアルバムを聴きながら眠りに落ちた。

 夢を見たかどうか、翌朝になっても、誠にはわからなかった。

 でも目が覚めたとき、窓の外は晴れていた。

 そしてターンテーブルは、静かに空回りしていた。

 針はまだ上がっていなかった。

 盤の最後の溝を、まだ走り続けていた。


エピローグ

 翌週の水曜日、誠は節子に電話した。

 「元気?」と聞くと、「まあね」という返事が返ってきた。

 「そのうち、飯でも食おうか」と誠は言った。「梅田で。以前行ったあの店、まだあるかな」

 「どの店」

 「割烹の。カウンターだけの」

 しばらく間があった。「あるかもしれんね」と節子は言った。「調べてみたら」

 「そうする」

 それだけだった。でもそれで十分だった。

 誠は電話を切ってから、窓の外を見た。

 十一月の大阪は、もうすっかり秋だ。

 どこかで「月のあかり」が流れている気がした。

 本当に流れているのか、記憶の中で流れているのか、夢の続きが流れているのか。

 わからない。

 でも、聴こえている。

 それで十分だ。

── 了 ──






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あとがき

 この物語は、U2の「With or Without You」という曲から生まれました。

 いてもいなくても、音楽は鳴っている。夢の中でも、現実でも、この世とあの世の境界でも。

 桐島誠という人物が辿り着いたのは、どこか遠い場所ではありませんでした。ただ、自分の街の、いつもの秋の中に、少し違う目で立っているということです。

 黒沢光というキャラクターは、架空の人物ですが、その声の質感はどこかで実在した誰かから借りてきたものかもしれません。

 「おそなりました」という言葉には、いくつかの意味が重なっています。遅くなってすみません、という謝りと、夜遅くなってきた、という時間の流れと、そしてもう少し先の、取り返しのつかない「遅さ」と。

 人生を急ぐ必要はないけれど、止まっていてもいけない。ゆっくり、前を向いて歩くだけでいい。

 それだけのことが、案外難しい。

 でも、音楽があれば、少しだけ歩きやすくなる気がします。



買い物ブギ
〜夫婦の流儀、それぞれの正義〜




第一章 バーゲンの前夜

 田中幸雄(たなかゆきお)、三十八歳。
 某中堅商社の営業三課に勤め、毎朝七時に家を出て、夜は九時過ぎに帰ってくる。特別なことは何もない、どこにでもいる普通の男だ。趣味はサッカー観戦とたまの晩酌。休日は近所の公園でジョギングをするが、三日坊主を繰り返している。

 妻の幸子(さちこ)、三十六歳。
 パートで週三日、近所のスーパーで働いている。料理は上手で、家の中はいつも整頓されている。だが、この女には一つだけ、夫が「天変地異よりも恐ろしい」と密かに評するほどの習性があった。

 バーゲンである。

 その年の夏の終わり。八月最後の木曜日の夜、幸雄がようやく帰宅すると、玄関のたたきに靴が脱ぎ散らかされており、居間のテーブルの上には何やらカラフルなチラシが五枚ほど広げられていた。

「ただいまー」

 返事がない。
 かわりにリビングの奥から、何かをブツブツ唱える声が聞こえた。

「……A店が九時から、でもB店は八時半に開くから……いや待って、ポイント二倍はA店だけで……」

 幸子はダイニングテーブルに正座し、チラシと睨み合っていた。手には蛍光ペンが三色。付箋も三色。ノートが一冊。そしてスマートフォンが二台(一台は計算機代わり)。

「……おかえり」

 視線はチラシから離れない。

「夕飯は?」

「冷蔵庫。レンジで二分」

 幸雄は黙ってレンジに向かった。冷蔵庫を開けると、きっちりラップで包まれた皿が二段に重なっていた。こういうところは几帳面なのだ、この妻は。

 温めながら、幸雄はそっとチラシを一枚手に取った。

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「……また始まったか」

 幸雄は小さく呟いた。

「聞こえてるよ」

「聞こえてたの?」

「バーゲンのときだけ耳がよくなるの」

 それは特殊能力ではないか、と幸雄は思ったが口には出さなかった。十三年の結婚生活で培った処世術である。

 夕飯を食べながら、幸雄はチラシをちらちらと眺めた。A店、B店、C百貨店、Dスーパー、そして近所のショッピングモール。全部で五軒。しかも明日の金曜日から三日間の特売だという。

「全部行くの?」

「まず優先順位を決めてる」

「優先順位……」

「A店のコートはどうしても見たい。でも開店が九時で、B店の限定商品は八時半から。物理的に両方の開店ダッシュは無理だから、B店を先に当たって、その後A店に移動するか、A店を諦めてB店に集中するか……」

「コートって、もうコート買ったじゃないの、去年」

 幸子がようやく顔を上げた。その目が光っていた。

「去年のは紺。今年のは黒系が欲しいの」

「……黒と紺、似てない?」

「全然違う」

 断言だった。議論の余地なし。幸雄は箸を置いて、麦茶を一口飲んだ。

「一緒に来る?」

「えっ」

「明日。バーゲン」

 幸雄の喉から、思わず変な音が出た。

「いや、俺、仕事が……」

「金曜日でしょ。有給あるじゃない」

「……あるけど」

「たまにはいいじゃない、一緒に」

 幸子がにっこりと微笑んだ。十三年間、幸雄がこの笑顔に何度負けてきたか。数えるのも馬鹿らしい。

「……わかった」

 こうして田中幸雄は、翌日の有給取得を決意した。
 後に彼はこれを、「人生最大の判断ミス」と呼ぶことになる。

第二章 作戦会議は深夜まで

 午後十一時。
 幸子の「作戦会議」は続いていた。

「ねえ、聞いてる?」

 幸雄はソファで半分眠りかけていた。

「聞いてる聞いてる」

「B店のポイントカード、持ってたっけ?」

「……ポイントカード? あったかなあ」

「財布に入ってない?」

 幸雄は重い身体を起こして財布を取り出した。カードが十枚ほど出てくる。ポイントカード、ポイントカード……。

「これ?」と一枚差し出す。

「それはドラッグストアでしょ。ピンクのやつ」

「じゃあこれ?」

「それはガソリンスタンド」

「……これ?」

「あ、それそれ!よかった、ゴールドランク維持してる」

 幸子はカードをスキャンするような目で確認した後、自分のバッグに大切にしまった。

「ゴールドって何かいいの?」

「ポイント一・五倍。明日は二倍デーだから、合わせて三倍になるの」

「三倍……」

「すごいでしょ」

 すごいのかどうか、幸雄にはよくわからなかった。だがこの手の計算において幸子の頭脳は驚異的に回転することを、彼は知っていた。

 テーブルの上に、いつの間にか手書きのルート図が完成していた。

〈バーゲン遠征マップ〉

 B店(開店八時半、限定品コーナーへ直行)→ 徒歩三分 → A店(九時、コート・セーター売り場)→ バス十五分 → C百貨店(十時、特選品フェア)→ 電車二十分 → Dスーパー(食料品のみ、最後でいい)

 地図の各所に、蛍光ペンで印がつけられ、予算と優先順位まで書いてある。

「……これ、軍事作戦?」

「笑わないで。去年、計画なしで行って失敗したんだから」

「去年って何があったの?」

「A店のセールで迷ってたら、B店の限定バッグが売り切れたの。三万円のが最後の一個で、三分差で他の人に取られた」

「……三万円のバッグ……」

「だから今年は完璧な計画を立てるの」

 完璧な計画のために夜更かしする、という本末転倒に幸雄は気づいたが、やはり口には出さなかった。

「明日、何時に起きる?」

「六時半」

 六時半。幸雄の通常の起床時間より三十分早い。

「……六時半か」

「文句ある?」

「ない」

「よし。じゃあ今日はもう寝る。幸雄も早く寝てね」

 言うなり幸子はノートとチラシをきれいに重ねてテーブルの隅に置き、立ち上がった。十秒後には洗面所の水が流れる音がした。
 幸雄はぼんやりとルート図を眺めた。

(俺、明日、何をしに行くんだろう……)

 答えは出ないまま、彼も立ち上がった。

第三章 出撃

 翌朝六時二十五分。
 幸雄が目を覚ますと、幸子はすでにメイクを済ませてダイニングで朝ごはんを食べていた。

「おはよ、早く食べて」

 テーブルにはトーストと目玉焼きと野菜ジュース。いつもと変わらない朝食だが、食べる幸子のペースが違う。呼吸をするように咀嚼し、ほぼ喋らない。マラソン選手が大会前にエネルギー補給する姿を幸雄は思い浮かべた。

「……今日、すごく気合い入ってるね」

「毎年これだけの準備をするのよ」

「俺が付いてくるの、初めてだっけ」

「初めて」

 断言。そうか、十三年間一度も付いてこなかったのか、と幸雄は今さら思った。

 七時五十分、二人は家を出た。
 幸子は動きやすいスニーカーとリュックサックという出で立ち。幸雄はジーンズとスニーカー。

「そのリュック、でかくない?」

「買ったものを入れるの」

「……そんなに買うの?」

「場合によっては」

「場合って……」

 バス停に向かいながら、幸子はスマートフォンでB店の混雑情報をチェックしていた。

「混んでる。昨日から並んでる人もいるって」

「え、並んでる? バーゲンって行列するの?」

「当然でしょ。限定品は争奪戦なんだから」

 幸雄には、その感覚がどうしても理解できなかった。欲しいものがあれば、店に行って、あれば買う。なければ諦める、もしくは別の店を探す。それだけのことではないのか。

 バスに乗って十分。B店が近づいてくると、幸子が低く言った。

「いい、幸雄」

「うん?」

「着いたら私のペースで動いて。勝手にふらふらしないで」

「……わかった」

「余計なことを言わないで」

「……うん」

「値段を見て『高い』と言わないで」

「……努力する」

「努力じゃなくて言わないで」

「……わかった」

 バスが停まった。ドアが開く。

 B店の前には、すでに五十人以上の列ができていた。そのほとんどが女性だった。幸雄が男性を探すと、二人いた。どちらも妻に連れられてきたと思しき、疲れた顔をしていた。

 幸雄は彼らと目が合った瞬間、なんとも言えない同志の情を感じた。

 八時半。開店のチャイムが鳴った。

 人波が動いた。

第四章 戦場のB店

 開店直後のバーゲン会場というものを、幸雄は初めて目の当たりにした。

 後方から見ると、それはまるで一本のロープが解かれた瞬間に弾け出す馬群のようだった。五十人が一斉に、それぞれの目標に向かって散っていく。ヒールの音、スニーカーの音、コートの裾がひるがえる音。

「行くよ!」

 幸子が幸雄の手首をつかんだ。引っ張られながら、幸雄は半分走った。エレベーターを使わず、エスカレーターも使わず、幸子は階段を二段飛ばしで三階まで上がった。

「速っ……!」

「足手まといにならないで!」

 三階はコート・ジャケット売り場だった。すでに人が集まりつつある。幸子はハンガーラックを目で素早くスキャンし、一直線に奥へと進んだ。

「あった」

 黒いロングコートの前で、幸子が立ち止まった。ラックに三着、残っている。

「これこれ。定価六万二千円が三割引」

「……よ、六万二千円?」

「定価が、でしょ。バーゲンで四万三千円くらい」

「よ、四万三……」

「言わないでって言ったよね」

 幸子はコートを手に取り、広げて確認した。縫い目を見て、裏地を確認して、袖口を触る。一連の動作が十秒以内で完了する。

「試着したい」

「あ、うん」

 試着室は列ができていた。幸子は素早く並んだ。幸雄はその後ろに立って、何をするでもなく周囲を見回した。

 隣のラックで、女性が二人、同じセーターを引っ張り合っていた。

「先に取ったのは私」「でも私が見つけたの」という押し問答。店員がおろおろしている。幸雄は見ないふりをした。

 五分後、幸子が試着室から出てきた。

 コートを羽織った幸子は、なんというか、いつもと違った。背筋が伸びて、ちょっとよそよそしいくらいかっこよかった。

「……似合うじゃないか」

 幸雄は素直に思ったことを言った。

 幸子がちらっと幸雄を見た。

「……本当に?」

「うん、本当に」

 幸子は鏡を見た。くるっと一回転した。

「やっぱり黒は正解だったわ」

 そう言いながら幸子の表情が、ふっと柔らかくなった。幸雄はその顔を見て、ああ、これか、と思った。この表情を見たくて、彼女はバーゲンに来るのだ。定価でも安売りでもなく、この瞬間のために。

「買う」と幸子は言った。

「うん」と幸雄は答えた。

 レジに向かいながら、幸子がスマートフォンをチラッと見た。

「八時四十七分。まだA店に間に合う」

「……まだ行くの?」

「当然でしょ。次はセーター」

 幸雄は少しだけ微笑んだ。まあいい。今日は付き合ってみよう、と思った。

第五章 A店の罠

 A店に着いたのは九時七分だった。
 こちらはB店よりもさらに混雑していた。入口からして人の波がある。

「セーター売り場は……二階だ」

 幸子が先を行く。幸雄は荷物持ち(B店の紙袋)として後をついた。

 二階のセーター売り場に入った瞬間、幸雄は軽いめまいを覚えた。ラックとラックの間を人が埋め尽くしていて、どこに何があるのかもわからない。色とりどりのセーターがハンガーから揺れ、値札が乱れて、店員の「いらっしゃいませ」が飛び交う。

「幸雄、あっちのラック見てきて」

「え、俺が?」

「紺か茶のセーター、Mサイズ。あったら呼んで」

 幸雄は言われた通り、反対側のラックへと向かった。

 セーター、セーター、セーター……。色は確かにある。紺も茶もある。だがサイズの見方がわからない。値札を一枚一枚めくっていく。L、XL、S、L、L、M、あった。

「幸子! あったよ、M!」

 幸子が素早く近づいてきた。セーターを見て、触って、

「あ、これ違う。素材がポリエステル混だから。ウールを探して」

「ウールって……どうやって見るの?」

「値札の素材欄」

 幸雄は値札を見た。素材欄があった。一つ一つ確認していく。ポリエステル、アクリル、ウール混……。

「ウール混じゃダメ?」

「比率による。ウール八十パーセント以上がいい」

 幸雄はラックを端から端まで丁寧に調べた。ウール百パーセント、ウール九十パーセント……。

「あった! ウール九十五パーセント!」

「色は?」

「茶……というかキャメル?」

「見せて」

 幸子がセーターを手に取った。広げて確認。首元を見て、裾を確認して、袖を触る。

「うーん……」

「……うーんって?」

「形が微妙」

「形って……セーターじゃん」

「衿の形。これVネックだけど、私ラウンドネックが欲しかったの」

 幸雄はセーターを見た。確かにV字の衿だった。ラウンドネックというのは、丸い衿ということか。そんな違いがあるのか。

「ラウンドネックは……あっち側にあるかも」

 幸雄は反対のラックへ移動した。ラウンドネック、ラウンドネック……。

 五分後、幸雄は三枚のセーターを抱えていた。ウール百パーセント、ラウンドネック、Mサイズ。緑、ベージュ、グレー。幸子に渡すと、幸子はそれを三枚同時に広げて並べた。

「うーん……どれも悪くない」

「三枚とも?」

「悩む」

「……全部買う?」

「そんなには買わない。一枚」

「じゃあどれにするの?」

「悩んでるって言ってるでしょ」

 幸雄は黙った。
 一分が過ぎた。二分が過ぎた。
 幸子はセーターを持ち直し、自分の身体に当てては戻す、を繰り返している。

 三分過ぎたあたりで、幸雄は床に置いてあった紙袋(B店の戦利品)の取っ手を持ち直し、深呼吸した。

 待つ。これが男の仕事だ、今日は。

第六章 昼食という名の休戦協定

 正午を回ったころ、二人はC百貨店のレストラン街にいた。

 幸子の戦利品:黒いロングコート(B店)、グレーのセーター(A店)、手袋一組(A店、予定外)。
 幸雄の戦利品:疲労。

「何食べる?」と幸子が聞いた。

「なんでもいい」

「なんでもいいって言わないでよ、困るから」

「じゃあ……ラーメンは?」

「お昼にラーメン? 重くない?」

「じゃあパスタ」

「パスタもいいけど、今日は和食の気分かな」

「……和食で」

「でもさっぱりしたやつ。天ぷらとか重いかも」

「……じゃあ蕎麦?」

「蕎麦か……いいね。あ、でも鶏肉食べたい」

「鶏肉……じゃあ親子丼?」

「親子丼は嫌い」

「……だったら鶏肉は諦めて蕎麦にしよう」

「うーん、でも鶏肉食べたい」

 幸雄は正面を向いたまま、心の中でゆっくり十数えた。

「鶏と蕎麦が両方あるお店を探す?」

 幸子がパッと顔を輝かせた。

「それだ! 鴨南蛮蕎麦!」

「……それ鴨だけど……」

「鶏も鴨も同じようなもんでしょ」

「……まあ、そうか」

 鴨南蛮蕎麦の店に入り、二人は向かい合って座った。幸雄は生ビールを頼んだ。平日の昼から飲むビールというのは、なぜか格別だった。

 幸子は温かい鴨南蛮蕎麦、幸雄は盛り蕎麦と鶏の唐揚げ(定食)。

「今日、付き合ってくれてありがと」

 幸子が突然言った。

「え、いや、別に」

「来てくれると思わなかった」

「俺も来るとは思ってなかった」

 幸子がくすっと笑った。

「どう? 女の買い物」

「……なるほどな、とは思った」

「何が?」

「決まってから行くんじゃなくて、行って決めるんだな」

 幸子はお茶を一口飲んで、

「そうそう。見て初めてわかることがあるの。ウールとポリエステルの違いとか、Vネックとラウンドネックとか、実際に触ってみないとわからないでしょ」

「まあ……確かに」

「男は最初から答えを決めようとするでしょ。でも女は答えを探しながら歩くの。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、スタイルが違うの」

 幸雄はビールを飲みながら、なるほどな、と思った。確かに自分は朝から「何でこんなに迷うんだ」と内心思っていたが、それは迷っているんじゃなくて、探しているのかもしれない。

「でも俺には無理だな」

「何が?」

「三枚並べて三分間悩む、あれは無理」

「慣れだよ」

「慣れの問題じゃない気がする」

 幸子が笑った。幸雄も笑った。

 休戦協定が成立した昼食だった。

第七章 C百貨店の迷宮

 昼食後、幸子の戦闘力は回復していた。

「さ、行こう」

「……まだあるの?」

「C百貨店の特選品フェアがある」

「何を買うの?」

「見てから決める」

 そうですか、と幸雄は思った。学習した。見てから決める、それが今日のルールだ。

 C百貨店は地下一階から七階まであるデパートで、今日は全フロアで何らかのセールをやっていた。幸子は地下の食品売り場には目もくれず(「最後にする」)、エスカレーターで五階の特選品フェアへ直行した。

 五階は広いイベントスペースで、普段は展示会などに使われる場所が、今日は全国各地の物産と、百貨店バイヤーが選んだ「特選品」で埋め尽くされていた。

 幸子の目が、変わった。

 何か獲物を探す動物のような目、とでもいうのか。展示台をゆっくりと歩きながら、一つ一つを確認していく。手に取る、戻す、手に取る、戻す。幸雄はその後ろをカバン持ちとして黙ってついていく。

「これ、見て」

 幸子が差し出したのは、小ぶりな木製のトレイだった。

「……お盆?」

「違う、チーズボードよ。木工作家の手作りで、全部一点もの」

「ふーん」

「可愛くない?」

 幸雄はチーズボードを見た。確かに丁寧に作られていて、木目が美しい。値札を見ると八千円。

「……チーズ食べるっけ、うち?」

「食べるでしょ、たまに」

「たまにね……」

「使わなくてもオブジェとして飾ってもいい」

「八千円のオブジェ……」

「幸雄」

「……買えばいいんじゃないかな」

「ありがとう」

 幸子はチーズボードをかごに入れた。幸雄はそこで初めて幸子がかごを持っていることに気づいた。いつの間に。

 さらに進む。幸子はベルギーのチョコレート詰め合わせ(試食あり)、北海道の昆布(試食あり)、京都の飴(試食あり)をそれぞれかごに入れた。幸雄も試食には積極的に参加した。

「ねえ、それ全部買うの?」

「チョコは自分用、昆布とお菓子はお歳暮用」

「……もうお歳暮のこと考えてるの? 八月だよ?」

「いいものを見つけたときが買い時なの」

 なるほど。それもまた一つの哲学だった。

 六階のキッチン用品コーナーでは、幸子はフライパンの前で十五分立ち止まった。新しいフライパンを「そろそろ買い換えたい」と言い続けて半年経つが、いまだに決めていない。

 今日こそ決まるか、と幸雄は期待したが、

「やっぱり実際に料理してみないとわからないから、今日は見送る」

 という結論が出た。

 幸雄は深呼吸した。

「そうか。まあゆっくり探そう」

「うん。来週また別のお店見る」

「……来週も?」

「問題ある?」

「ない」

 幸雄は覚悟を決めた。これは一日の話ではないのだ。

第八章 ハプニング勃発

 午後三時。
 Dスーパーに向かう電車の中で、幸子のスマートフォンが鳴った。

「あ、田中さんから」

 田中というのは幸子の近所の友人で、同じようにバーゲン巡りをしている仲間だった。

「もしもし……え? ほんとに? ……どこ? ……わかった、今から行く!」

 電話を切った幸子の顔が輝いていた。

「どうした?」

「ショッピングモールで、限定品が入荷したって。そのモール、当初の計画から外したんだけど……」

「行くの?」

「行きたい!」

 幸雄は現在地を確認した。Dスーパーに向かっているが、ショッピングモールは反対方向だ。

「Dスーパーは?」

「帰り道に寄れる? 無理かな……」

「地図見てみよう」

 幸雄はスマートフォンで地図を出した。ショッピングモール経由でDスーパー、自宅……。

「ちょっと遠回りになるけど、無理ではない」

「行っていい?」

「いいよ」

「ありがとう!!」

 幸子が次の駅で乗り換えようとしたとき、ふと気づいた。

「……あれ」

「何?」

「B店の紙袋」

「うん」

「……電車に置いてきた」

 幸雄と幸子は同時に次の車両のドアを見た。電車はすでに動き出していた。

 幸子の顔から血の気が引いた。

「コート……」

「落ち着いて。駅員さんに言えばすぐ出てくるよ」

「でも……」

「大丈夫。電車の忘れ物はちゃんと保管されるから」

 次の駅で二人は降りた。駅員に事情を説明した。電車の号車、座席の位置、荷物の特徴(黒いロングコート入り、B店の紙袋)を伝えると、駅員は無線で確認を取った。

 三分後、「終点に向かっていますが、保管してあります」という知らせが来た。

 幸子がほっと息を吐いた。その場にへたり込みそうな顔をした。

「よかった……」

「取りに行けばいい。ショッピングモールは……まあ、諦めるか」

「でも田中さんが……」

「幸子」

 幸雄が珍しく、きっぱりした声を出した。

「コートを取り戻す方が大事でしょ。四万円以上したんだから」

 幸子は一拍置いて、

「……そうだね」

 と言った。

 終点まで電車で行き、コートを受け取り、帰りの電車に乗った。Dスーパーには間に合わなかった。ショッピングモールにも行けなかった。

 疲れ果てた二人が帰宅したのは、夕方の六時だった。
 幸雄は床の上にそのまま横になった。

「……腹減った」

「今日は外食にしよう」

「……賛成」

「あ、田中さんから写真きた。限定品、やっぱり可愛かった……」

「来年にしよう」

「……うん、来年」

 幸子はそう言って、届いた写真を眺めながら来年のバーゲンを心の中で楽しみにしていた。
 幸雄はそのことを知らなかった。いや、うすうす気づいていたかもしれない。

第九章 男の買い物

 翌週の土曜日。

 幸雄はひとりでスポーツ店に行った。

 目的は一つ。ランニングシューズ。今使っているものが限界で、そろそろ買い替えが必要だった。

 店に入り、シューズのコーナーへ直行。店員に声をかける。

「ランニングシューズ探してます。週二、三回走る程度で、アスファルト中心です。幅がやや広めのがいいんですが」

「承知しました。サイズは?」

「二十六・五」

 五分後、三足を勧められた。試し履きをした。一足目はかかとが微妙、二足目はちょうどいい、三足目も悪くない。

「二足目にします」

 合計九千八百円。

 帰宅まで、所要時間四十分。

 幸雄は家に帰って、シューズを箱から出してながめた。これで次のジョギングが楽しみだ。満足感があった。

 幸子が台所から顔を出した。

「あら、もう帰ってきたの?」

「ああ。シューズ買ってきた」

「早い。何時間?」

「四十分くらい」

「四十分で終わるの……」

 幸子が感心したような、呆れたような顔をした。

「俺は決めてから行くから」

「そうね」

「欲しいものが決まってたら、確認して買うだけだから」

「それで満足できるの?」

 幸雄は少し考えた。

「できるよ。これで走れればいい」

「そっか」

 幸子はまた台所に戻った。幸雄はシューズをながめながら、先週のことを思い出した。

 幸子があのコートを試着室から出てきたとき、確かに「似合う」と思った。それは買い物に付き合って初めてわかったことだった。

 自分が店に来て品物を決めて帰るだけだったら、わからなかったことがある。

 幸子が幸せそうに試着室の鏡の前で回っていたこと。チーズボードを選ぶとき、木目を指でなぞっていたこと。電車に荷物を置いてきたとき、泣きそうな顔をしていたこと。

(探しながら歩く、か)

 幸雄はシューズを箱に戻した。

 来年のバーゲン、また付き合ってもいいかもしれない。
 ただし、声には出さないでおこう。言ったが最後、既成事実になる。
 それが十三年で培った処世術というものだ。

第十章 それで良いじゃん

 その夜、二人は夕食後にテレビを見ていた。

 番組はどこかの芸人がスーパーで食材を買って料理を作るというものだった。スーパーで芸人が食材を選びながら、カメラに向かってああだこうだと言っている。

「この人、買い物うまいね」

 幸子が言った。

「そう?」

「見て、野菜の選び方。きゅうりの先端を確認してる。新鮮かどうか見てるんだよ」

「へえ」

「魚も、目が澄んでるのを選んでる」

「詳しいね、幸子」

「買い物してたら自然とわかるようになるの」

 幸雄はビールを飲んだ。

「俺は魚の目なんて見ないな」

「見ればいいじゃない」

「見ても判断できないから」

「じゃあ一緒に行ったとき教えてあげる」

「……また一緒に来るの?」

「行きたい?」

「……」

 幸雄は少し間を置いた。

「次のバーゲンは、まあ、気が向いたら」

「気が向いたら、ね」

 幸子がニヤッとした。わかってるよ、という顔だった。

 テレビの中で芸人が料理を完成させ、スタジオが拍手していた。幸子がそれを見ながら、

「ねえ」

「うん」

「先週、付き合ってくれてよかった」

「まあ、色々あったけどな」

「コートのこと?」

「コートもあったし、セーターの選び方とか、チーズボードとか」

「チーズボード、気に入ってくれた?」

「飾ってあるの見たら、悪くないと思った」

 幸子がうれしそうに笑った。

「そういう発見があるのよ、女の買い物は」

「認める。ただし毎回は無理」

「わかってる」

「体力的に」

「わかってるって」

 二人は少し笑った。

 テレビが次の番組に変わった。幸子はすでにスマートフォンを取り出していた。何かを調べている。

「何してるの?」

「来月のセール情報」

「……早くない?」

「情報収集は早いほうがいいの」

 幸雄はビールを一口飲んだ。

 男は欲しいものを買いに行く。
 女は欲しいものを探しに行く。

 どちらが正しいとか間違いとかではない。スタイルが違うだけだ。

 そしてたまには一緒に歩いてみるのも、悪くない。
 たまには。

 幸雄はソファに深く沈みながら、来月のセール情報を熱心に調べる妻の横顔を見た。

(来月か……また有給、取れるかな)

 心の中で、ほんの少しだけ考えた。

エピローグ 翌年の夏

 翌年の八月最後の木曜日。

 テーブルの上に、チラシが五枚広げられていた。蛍光ペンが三色、付箋が三色、ノートが一冊、スマートフォンが二台。

 幸雄が帰宅すると、幸子がダイニングに正座していた。

「ただいま」

「おかえり。冷蔵庫に夕飯あるから」

 幸雄はチラシを一枚手に取った。見覚えがある構図だ。

「……明日、有給取ろうかな」

 幸子が顔を上げた。

「え?」

「気が向いたから」

 幸子は一拍置いて、

「……じゃあ六時半起きね」

「わかった」

 幸雄は冷蔵庫を開けた。きっちりラップのかかった皿が二段になっていた。

 今年のバーゲンは、何を見つけるだろうか。
 きっと、来てみないとわからないことがある。

 それで良いじゃん。

          (了)





キンドル 



〜おまけ〜


これは以前

ブログで書いたものを

物語に膨らましたものです

それをここに載せて置きます



バーゲンが始まると…


今日だと 定価


でも

明日だと 3割引


なのに

明日だと

それが残っているか分からない


そう

皆がそれを狙ってるかもと


ならば

定価でも今日か


いやいや

明日1番に掛けよう だなんて


カミさんたちは

その日を待つ


しかして

僕ら男たちは

そんな

イライラすることなく

今 必要やらば定価でも買う


そう

男は欲しい物を買いに行く

女は欲しい物を探しに行く


そう

男は買う物を決めてから

女は買う物を決めに


そこが違うから

女たちの買い物には付き合わない


それで良いじゃん! なんて

これで決めちゃおうよ! なんて

カミさんたちには

そんな言葉を吐いてはいかんのだ

なあ…  笑


日曜の夜、食べなかっただけで
— 月曜日が少し楽になった —

たった一つの習慣で、体と気分が整い始めた。




〜まえがき〜

「腹が減っていないのに、なぜ食べているんだろう。」

その一回をやめただけで、少しだけ人生が軽くなった。

日曜の夜、なんとなく食べていませんか。

お腹は減っていないのに、「明日からまた一週間だから」と、とりあえず何かを口にしてしまう。

そして月曜日の朝、なんとなく重い体で目が覚める——。

本書は、そんな“当たり前”に疑問を持った28歳のウェブデザイナー・田中悠の、小さな変化の物語です。

・朝ごはんは食べるべきなのか
・空腹は悪なのか
・食べることは、本当に自分の意思なのか

答えは出ません。

ただ一つ、試してみたことがあります。

「腹が減っていなければ、食べない」

それだけでした。

すると——

眠りが変わり、朝が変わり、日常の感覚が、少しずつ戻ってきました。

これは断食の本ではありません。健康法の本でもありません。

ただ、忘れていた“感覚”を取り戻す物語です。

読後、きっとあなたも一度だけ、こう思います。

「今日は、食べなくてもいいかもしれない」と。


第一章 日曜の夜

午後十一時を過ぎたころ、田中悠はスーパーのレジ袋をテーブルに置いたまま、椅子に座り込んだ。

袋の中には、半額シールの貼られた幕の内弁当と、缶ビールが二本入っている。いつもの日曜の夜だ。金曜の夜から続く飲み会の疲れを引きずったまま、土曜を寝て過ごし、日曜の夜になってようやく一週間が終わる、という感覚だけが残る。

悠は二十八歳だった。渋谷のIT企業でウェブデザイナーとして働いて、もう四年になる。仕事は嫌いではない。ただ——なんとなく、何かが違う、という感覚が、ずっと喉の奥に刺さったまま抜けない。

弁当のふたを開けた。鮭の切り身、玉子焼き、ひじきの煮物、ごはん。きちんとした食事だ。でも、手が動かなかった。

腹は……減っていない。

昼に同僚と中華を食べた。餃子、チャーハン、麻婆豆腐。食べながらずっとスマホを見ていた。何を食べたか、ちゃんと覚えていない。

悠はしばらく弁当を見つめてから、ふたを閉めた。冷蔵庫に入れて、シャワーを浴びた。布団に横になると、不思議なほど早く眠れた。

翌朝——月曜日の朝——目が覚めたとき、体が軽かった。

それだけのことだった。ただそれだけ。でも悠はしばらく天井を見つめて、その軽さの意味を考えた。



第二章 朝食という呪縛

「朝ごはん、食べてきた?」

月曜の朝、出社すると先輩の桜庭さんが声をかけてきた。桜庭さんは三十四歳で、健康オタクとして知られていた。毎朝グリーンスムージーを持参し、デスクの引き出しにはプロテインバーが常備してある。

「食べてないです」と悠は答えた。

「えっ、ダメだよ。朝食は一日のエンジンなんだから。脳がガス欠になるよ?」

悠はそうですねと頷きながら、コーヒーを入れた。コーヒーも食事のうちに入るだろうか、と思った。

午前中、頭は意外と動いた。むしろいつもより集中できた。空腹感はあった。でもそれが不快ではなく、むしろ——研ぎ澄まされている、という感じに近かった。

昼に蕎麦を食べた。いつもは大盛りを頼むところを、普通盛りにした。ゆっくり噛んだ。蕎麦の風味を、久しぶりにちゃんと感じた気がした。

その夜、悠は検索した。「朝食 抜く 健康」。

出てくる情報は矛盾だらけだった。「朝食は絶対に食べるべき」「いや16時間断食が最強」「一日五回少量が理想」「いや一日一食こそ本来の姿」……みんな自分の正解を持っていて、みんな自信満々で、みんな言っていることが違った。

悠はスマホを置いた。窓の外を見た。東京の夜景が広がっている。あの光のひとつひとつに人がいて、それぞれ何かを食べて、何かを考えている。

正解って、あるのだろうか。


第三章 猫と犬

悠のアパートの隣には、田辺という老人が住んでいた。七十過ぎで、猫を一匹飼っていた。名前はモモ。白と茶のまだら模様の、小柄な猫だ。

ある土曜の昼、共用廊下でばったり会った。田辺老人はモモにエサをやっているところだった。

「少ないですね」と悠は言った。小皿に少量のキャットフードが盛ってある。

「猫はこれくらいでいいんだ」と田辺老人は言った。「腹八分、いや六分くらいかな。自分で加減するんだよ、猫は。残したりもする」

モモは少し食べて、日当たりの良い場所に移動して、丸くなった。

「犬は違うけどね」と老人は続けた。「うちの息子が柴犬を飼っているんだが、あれは出しただけ食べてしまう。お腹がいっぱいでも食べ続ける。野生の本能なんだそうだ。いつ次が食べられるか分からないから、目の前にあるうちに食べてしまう」

悠は黙って聞いていた。

「人間もそういうところがあるよなあ」と老人は言った。「テレビをつけながら食べたり、スマホを見ながら食べたり。お腹が減ってるかどうかも分からないうちに食べ始めて、満腹かどうかも分からないうちに食べ終わる。……まあ、わしも若い頃はそうだったけど」

老人は笑った。悠も笑った。

その夜、悠は夕食を少なめにした。テレビは消した。スマホも置いた。ただ食べた。

食べ物の味が、なんだか違う気がした。


第四章 明るくなったら起きる

変化は少しずつ起きていた。

悠は以前、平日は毎朝コンビニで菓子パンとコーヒーを買うか、もしくは何も食べないかのどちらかだった。週末は昼過ぎまで寝て、ブランチと称してファミレスで大量に食べた。夜は飲み会か、一人で食べるデリバリーか。

そういうサイクルが、少しずつ変わっていった。

きっかけは、あの日曜の夜——弁当を食べなかった夜——だった。腹が減っていないなら食べなくていい。それだけのことが、悠には小さな発見だった。

気がつくと、眠れない夜が減った。朝の目覚めが変わった。以前は目覚まし時計と格闘して、なんとか起きていた。でも最近は、自然に目が覚めることが増えた。特に夏が近づくにつれて、夜明けが早くなると、それに合わせるように体が動き出す。

暗くなったら眠くなる。明るくなったら目が覚める。

ごく当たり前のことが、二十八年間ずっと人工的な光と生活リズムで上書きされ続けていた。

ある朝、悠は早起きして近所を散歩した。朝の六時。街はまだ静かだった。パン屋が開いていて、焼き立てのにおいがした。悠はクロワッサンを一つ買って、公園のベンチで食べた。

うまかった。

たったそれだけなのに、なぜだか泣きそうになった。



第五章 食欲のない夜

六月、悠は体調を崩した。熱ではなく、なんとなく体が重く、何も食べたくない日が続いた。

以前の悠なら、「食べないと体に悪い」と思って、無理やり何かを口に押し込んでいた。コンビニのおにぎりでも、カップ麺でも、とにかく「食事をした」という事実を作ることが重要だった。

でも今回は違った。

食欲がないなら食べなくていい。さっさと寝よう。

悠は湯船に浸かり、ゆっくり温まって、早めに布団に入った。

翌朝、少し楽になっていた。

朝ごはんは白粥にした。梅干しを一つ載せて、少しずつ食べた。体がそれを求めていた。おいしかった。

食べることって、もしかしてこういうことなのかもしれない——と悠は思った。体の声を聞いて、体が欲しがるものを、体が欲しがるだけ、食べる。それだけのこと。

でも現代の都市生活は、その「それだけのこと」を難しくする。決まった時間に決まった量を食べなければならないような気がする。食べないことに罪悪感を覚える。食べることがストレス発散になる。食べることが社交の道具になる。食べることが、食べること以外の何かになる。

悠はスマホのメモアプリに書いた。「腹が減ったら食べる。腹が減っていないなら食べなくていい。眠いなら寝る。起きたら起きる。それだけでいい、かもしれない」

 

第六章 崩れた夜

送別会の帰り道——
悠は、コンビニに入った。

さっきまであれだけ食べていたのに、なぜか甘いものが欲しくなった。

プリンとシュークリームをカゴに入れる。
ついでにポテトチップスも。

帰宅して、何も考えずに食べた。

気づけば、全部なくなっていた。

——別に、腹は減っていなかった。

そのままベッドに倒れ込む。
胃が重い。喉が渇く。少し気持ち悪い。

天井を見ながら、ぼんやり思った。

「これ、前の自分だ」

変わったと思っていた。
でも、何も変わっていないのかもしれない。

翌朝。
体は正直だった。
重い。だるい。眠い。

悠はキッチンに立って、水を一杯飲んだ。
何も食べたくなかった。

——じゃあ、食べなくていいか。
その判断が、少しだけ違っていた。

無理に戻そうとしない。
無理に整えようとしない。

ただ、今の自分に合わせる。
それだけでいい気がした。

 

第七章 菜食へ、なんて

秋になった。

悠の食生活は、劇的には変わっていなかった。相変わらず三食食べる日が多い。ただ夕食は量を減らして、寝る二時間前までには終えるようにしていた。お腹が空いていない朝は、コーヒーだけにすることもあった。日曜の夜に夕食を抜くことも、習慣になっていた。

不思議なことに、月曜の朝が軽い。

週の最初の日を、少し爽やかに始められる。たったそれだけのことで、一週間の気分が変わる。

ある日、スーパーで買い物をしていて、肉売り場の前に立った。和牛のステーキ用、豚バラ、鶏もも。きれいにパックされて並んでいる。以前は何も考えずにカゴに入れていた。

でも今は——なんとなく考えてしまう。

この肉は、生き物だった。その生き物が育てられ、と殺され、加工されて、ここにある。それ自体が悪いとは思わない。人間も動物で、他の生き物を食べて生きてきた。食物連鎖の一部だ。

ただ——自分はちゃんと、感謝して食べているだろうか。

悠はその日、鶏もも肉を買った。帰って、ゆっくり料理した。塩と胡椒と、少しのハーブ。シンプルな味付けで焼いた。一人で食べた。うまかった。

食べながら、思った。

菜食主義に切り替えるべきか、という問いは、今の自分には少し大きすぎる。でも、ちゃんと考えながら食べること、感謝しながら食べること、体の声を聞きながら食べること——そういうことは、今すぐにでもできる。

菜食へ……なんて思うわけです。

心の中で、誰かに話しかけるように、そう思った。決意ではなく、問いかけとして。


第八章 サイクル

十一月。悠はある土曜の朝、久しぶりに田辺老人と顔を合わせた。老人は庭先(といっても狭いベランダだが)で朝日を浴びながら、お茶を飲んでいた。

「最近どう?」と老人が聞いた。

「なんか、少し変わった気がします」と悠は答えた。

「どう変わった?」

うまく言葉にできなかった。でも、なんとか絞り出した。

「前より、ちゃんと寝られるようになって。あと、ちゃんと食べられるようになった、というか……食べ方が変わったというか」

老人はお茶をすすって、少し考えてから言った。

「それはよかった。人間、ちゃんと食べてちゃんと寝ることが、いちばん難しいんだよな」

悠は笑った。確かにそうだと思った。

ちゃんと食べてちゃんと寝る。子どもの頃は当たり前だったことが、大人になるにつれてどんどん難しくなる。スケジュール、締め切り、付き合い、画面の光、情報の洪水——あらゆるものが、その「当たり前」を遠ざけていく。

でも取り戻せる。少しずつ。

腹が減ったら食べればいい。眠くなったら寝ればいい。暗くなったら眠り、明るくなったら起きればいい。

日曜の夜に夕食を抜いたら、月曜が少し楽になった。

ただ、それだけのことから始まった。

 

〜エピローグ〜

冬の夜。
悠は、また夕食を抜いた。

お腹は、少しだけ空いている。
でも、我慢している感じではなかった。

「今日は、これでいい」
そう思って、歯を磨いた。

以前なら、ここで何かを食べていた。
なんとなく。習慣で。不安で。

でも今は違う。
食べるかどうかを、自分で決めている。

それだけのことなのに、
それだけのことが、ずっとできていなかった。

布団に入る。

窓の外、冬の空気は澄んでいて、
星がいくつか見えた。

明日は月曜だ。

でも——

「大丈夫だ」
そう思えた。

腹が減ったら、食べればいい。
減っていなければ、食べなくていい。

その単純なことを、
これからも、自分で選んでいく。

それだけで、たぶん十分だ。

——了



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〜あとがき〜


愛犬との生活の中で

夏があまりにも暑くなり

日中はもちろん

夜でもアスファルトは冷めず

ではと 散歩は

早朝 日が昇る前しかないと

早起きの習慣になった


毎朝四時に起き

暗い内に散歩にと出掛け

朝日が昇る頃に帰宅する


すると

八時間の睡魔をと逆算すれば

二十時に寝ねばならない


そう

今日四時間

明日四時間 なんて

そんな睡眠の習慣となり


途中

日付が変わる頃に

一度トイレに起きる


すれば

二十時に寝るが為に

夕食は

軽めに

十八時に済まさねばならず

十九時に風呂へと入り

二十時に温まった身体で

布団に潜り込んむ


そんな習慣は

愛犬がいなくなっても

今まだ続いていて


一人で

愛犬と歩いた道を歩き

六時に帰宅し

そこから朝食前に

誰にも邪魔されず仕事が出来る


きっとこれが

体調維持にはベストなのだろう


早寝早起きではなく

暗くなったら 寝る

明るくなったら 起きる


そんな生き物らしい

生き方が

健康を保つのだろう


さあ

今日ももう

寝る時間となった…


Kindle 予定


奈良は時間の大きな粒が

身体を突き抜けるようだ と

いつか誰かが

言ってたけれど…


 



三百年後に残る名前
— 羅、と書いたあの日 —


第一章 修二会の炎

 三月の奈良は、まだ冷えている。
 
 坂口哲郎は、五十二歳になったいまも、東大寺の石畳を踏むたびに背筋が伸びる気がした。子どもの頃、父に連れられてきたときも、そうだった。あの頃の父は、いまの自分とほとんど同じ年齢だったはずだ。
 
 隣を歩く息子の慎吾は、大学四年生になったばかりで、まだどこか眠そうな顔をしている。
「寒いな」
 慎吾がポケットに両手を突っ込んだまま言う。
「そりゃそうだ。三月だもん」
 哲郎は笑いながら答えた。
 
 後ろを歩く次女の麻里は、十八歳。高校の卒業式からまだ日が浅く、ダウンジャケットの下に制服のスカートを合わせた、妙な格好をしていた。それでも、二月堂への石段を登りながら、きょろきょろと辺りを見まわしている様子は、幼い頃から変わらない。
 
 お水取り——正式には「修二会」という。東大寺二月堂で毎年三月に行われる法要で、千二百年以上、一度も途切れることなく続いてきたという。哲郎が妻の幸子から「今年こそ麻里にも見せておきたい」と言われたのは、去年の秋のことだった。
 上の娘の由香はすでに社会人になって三年が経つ。麻里も春から東京の大学に進学する。家族みんなで旅行できる機会は、指で数えられるほどしか残っていないかもしれない、と幸子は言った。
 哲郎にはそれが少し大げさに聞こえたけれど、宿の予約だけはしっかり入れておいた。
 
 二月堂の舞台に近づいたとき、炎が見えた。
 松明を持った練行衆が、廊下を走っている。大きな火の粉が、夜空に舞い上がっては消えた。
「うわ……」
 麻里が声を漏らした。
 哲郎は黙って見ていた。何百年も前の人間が、同じ炎を見上げていた。それを思うと、時間というものが急に薄くなるような気がした。自分がどこに立っているのか、よくわからなくなる感覚。嫌いではない。
 
 帰り道、慎吾がぽつりと言った。
「なんか、すごかったな」
 語彙が足りなさすぎる、と哲郎は思ったが、そういうことは言わなかった。自分だって、「すごかった」以外の言葉が出てこなかったから。
 

第二章 卒論と単位と息子

 慎吾が寮から家に戻ってきたのは、一月の末だった。
 
 部活の引退試合が終わり、四年間暮らした寮を引き払って帰宅した息子は、最初の一週間、ほとんど起き上がらなかった。
「卒論は?」
「出した」
「就活は?」
「終わった」
「単位は?」
 少し、間があった。
「……まあ、なんとかなると思う」
 
 その「まあ、なんとかなると思う」が、なんともならない可能性を含んでいることを、哲郎は長年の経験で知っていた。
 
 案の定、二月に入ると再試験の通知が届いた。補習もあった。慎吾は神妙な顔で対処し、その結果をじっと待つ身になった。バイトに出ることもできず、かといって卒業旅行の計画を立てるわけにもいかず、家の中をぶらぶらしていた。
 
 ならば、と哲郎は思った。
 どうせ奈良に行くなら、連れて行こう。),
 あの子は、もう少し長く、家にいていい。
 

第三章 薬師寺の東塔

 翌朝、哲郎が「薬師寺に行くぞ」と言うと、慎吾と麻里は揃って「え、また?」という顔をした。
「唐招提寺も行く。平城京も見る」
「全部で何時間かかるの」
「文句を言うな。修学旅行でも来てないだろう」
 
 薬師寺は、西の塔と東の塔が左右に並ぶ伽藍で知られている。西の塔はすでに復元が完成しているが、東の塔はいま、修繕工事の最中だった。奈良時代からの建物で、国宝だ。
 
 境内に入ってすぐ、哲郎は案内板に目を止めた。
「東塔の瓦を奉納できるんだって」
「瓦?」
 麻里が首を傾けた。
「修繕に使う瓦に、名前を書いて奉納するんだ。その瓦が実際に塔に使われる」
「ほんとに?」
「ほんとに。この塔は完成したら国宝になって、三百年はそこに残るそうだ」
 
 哲郎はすぐに決めた。
 三人で一枚、書こう。
 
 受付で「三人の連名でも構いますか」と尋ねると、係の方は「もちろんです」と微笑んだ。
 書く文字を何にするか、少し考えた。家族、縁、絆——どれもしっくりこない。
「羅はどうかな」
 哲郎がそう言うと、慎吾が「羅?」と聞き返した。
「羅列の羅。網の目のように、広がっていくイメージだ。家族もそうだろう。一枚の網みたいに、繋がって広がっていく」
 慎吾はしばらく考えてから、「まあ、悪くないか」と言った。麻里は「なんかかっこいいね」と素直に頷いた。
 
「じゃあ、麻里が書いてくれ。高校で習字やってたろう」
「え、私?」
「俺と慎吾では心もとない」
 麻里は筆を受け取り、しばらく瓦の前で静止していた。
 
 そのとき哲郎は、麻里の横顔に翳りのようなものを見た気がした。昨日の夜、麻里が電話をしていた。声は小さかったが、泣いているような気配があった。相手は、春から遠方に転勤になるという彼氏だろう、と哲郎はなんとなく察していた。
 聞かなかった。
 それでいいと思っていた。
 
 麻里が筆を動かした。
 最初の一画——
「あ」
 慎吾が声を上げた。
「四?」
 
「四組」と書いてしまっていた。高校のクラスだろう。動揺していたのかもしれない。
「麻里、それ——」
「わかってる!」
 麻里は慌てて筆を戻し、うまく誤魔化そうとした。しかし誤魔化しきれていないのは、三人全員が知っていた。それでも哲郎は何も言わなかった。慎吾も途中から黙った。
 
 麻里は最後まで書いた。
 「四」の跡が少し滲んで残っているが、「羅」という字は、それなりに力強かった。
 
 三人の名前を書いた。哲郎、慎吾、麻里。
 書き終えたところで麻里が言った。
「……お母さんと由香お姉ちゃんも書いていいかな」
「三人連名って言ったのに」
 慎吾が呆れた。
「いいだろう」
 哲郎は笑いながら言った。「五人家族だもん」
 
 幸子の名前を書いた。由香の名前を書いた。
 瓦は、五人の名前でいっぱいになった。四組の跡も含めて国宝になった。
 

第四章 三百年後のこと

 唐招提寺を歩きながら、哲郎はそのことを考えていた。
 
 三百年後。
 自分はもういない。幸子もいない。慎吾も麻里も由香も。おそらく、その子どもたちでさえ。
 それでも、あの瓦はそこにある。
 
 その頃また
東塔の修繕工事がなされ
その瓦の一枚一枚を丁寧に下ろした時、この瓦に書かれた五人は、いったい誰なのかと、不思議に思うのだろうか。そは家族だろうか、グループだろうか。なぜ「四組」という字が滲んでいるのかと。
 
「お父さん、どうしたの」
 麻里が隣に並んだ。
「なんでもない」
「ぼーっとしてた」
「考えごと」
「何を?」
 
 哲郎は少し迷ってから、答えた。
「三百年後のことを」
 麻里は笑った。
「お父さんらしい」
「そうか?」
「うん。なんか、そういうこと考えそう」
 
 慎吾は少し先を歩いていた。スマートフォンを出しては仕舞い、また出している。結果待ちの不安が、まだ体の中にあるのだろう。
 哲郎はそれを、見ているようで見ていないふりをした。
 
 平城京跡に着いたとき、風が強くなっていた。広大な原っぱに、復元された大極殿だけが、ぽつんと立っている。観光客は少なく、三人はしばらく黙って立っていた。
 
「ここで、昔の人たちは何を考えてたんだろうな」
 慎吾がぽつりと言った。
「同じことじゃないか」
 哲郎は答えた。「先のことが、怖かったり、楽しみだったり」
「……そうか」
 
 麻里が空を見上げていた。
 雲が速く流れていた。
 

第五章 カウントダウン

 宿に戻ってから、夕食を食べながら笑い話になった。
 
「四組って何のクラス?」
 慎吾が聞くと、麻里は顔を赤くした。
「高校三年のとき。……緊張してたんだよ」
「なんで?」
「なんでもない!」
 
 哲郎は笑いながら、それ以上は聞かなかった。幸子に電話したとき、「四組まで書いてきた」と話すと、「え、ほんとに?」と大笑いされた。「由香の名前も書いておいたよ」と付け加えると、「なんで私の名前まで」と言いながらも声が明るかった。
 
 翌日、帰りの新幹線の中で、慎吾のスマートフォンに通知が届いた。
 少しして、慎吾が「卒業できた」とだけ言った。
 哲郎は「そうか」と答えた。
 それだけだった。それで十分だった。
 
 麻里は窓の外を見ていた。流れていく景色を、じっと見ていた。何を考えているのかはわからなかったが、哲郎はなんとなく、彼女が自分の内側でひとつの区切りをつけようとしているのを感じた。
 
 娘たちが巣立っていく前の、残りわずかな時間。
 カウントダウン、と幸子は言った。
 哲郎はそれを大げさだと思っていたけれど、いまは少し、わかる気がした。
 
 でも、悲しくはない。
 あの瓦がある。
 五人の名前が、国宝の塔の中に刻まれている。
 三百年後も。
 
 いつかまた、それぞれが誰かを連れてあの塔の前に立つだろう。子どもかもしれない、パートナーかもしれない。そのとき塔を見上げながら、「あの屋根に、うちの家族の名前がある」と言うだろう。
 誤魔化した「四組」の跡と一緒に。
 
 哲郎は窓の外を見た。
 山が見えた。川が見えた。春が、もうすぐそこまで来ていた。
 
 育て方は、間違ってなかったな。
 そう思ったが、声には出さなかった。
 
(了)
 


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薬師寺にて



あとがき

 これは、十年ほど前に子供たちを連れ出した

我が家の、奈良での出来事です。


 薬師寺東塔は奈良時代からの建造物で、現在は修繕が終わり公開されています。瓦の奉納という形で、訪れた人々が塔の再生に参加できる仕組みは、実際に行われていました。
 
 修二会(お水取り)は、東大寺二月堂で毎年三月に行われる法要です。千二百年以上にわたって続くこの行事は、「お水取りが終わると春が来る」と言われ、奈良の人々に親しまれています。
 
 家族の形は、少しずつ変わっていきます。それでも変わらないものを、塔の瓦の中に見た気がしています。
 

誰にも届かないことを、今日も書いている。

評価もいらない。
共感もいらない。
誰の心にも届かなくていい。

それでも、書いてしまう。

競争、比較、承認。
「そちら側」に疲れた男が選んだのは、
何も目指さないという生き方だった。

意味のない行為を、ただ繰り返す日々。
進歩もなく、結果もない。

それでも——

なぜ、人はやめられないのか。

これは、
誰にも届かないことを、
それでも書き続けてしまう人間の記録。




 目が覚めたとき、理由がなかった。

 いや、理由はあるはずだった。
 仕事もあるし、やるべきこともある。

 だがその朝に限って、それらはどれも、
自分とは関係のないもののように思えた。

 義務だけが残り、意味だけが抜け落ちている。

 そんな奇妙な感覚だった。




 これまで、何もしてこなかったわけではない。

 むしろ、積み上げてきた方だと思う。

 仕事を覚え、評価を得て、
それなりの位置に立ち、
それなりの言葉を使うようになった。

 「順調ですね」と言われることもあった。

 だが、その言葉が増えるほどに、
どこかで違和感も増えていった。

 順調、という言葉の中に、
自分の実感が含まれていなかった。




 ある日の昼休み、
弁当を食べ終えたあと、やることがなくなった。

 スマホを見るでもなく、
誰かと話すでもなく、
ただ、座っていた。

 五分ほどだったと思う。

 だがその五分間は、
これまでのどの時間よりも静かだった。

 そのとき、思った。

 ——この時間、いらないのか?

 いや、むしろ、これだけでいいのではないか。




 それは、決断というほどのものではなかった。

 少しずつ、少しずつ、
やらなくてもいいことをやめていった。

 意味のある行動を減らしていく。

 すると、不思議なことに、
空いたはずの時間が、空白にはならなかった。

 そこに、何かが入り込んできた。

 名前のつかない何か。




 駅へ向かう道すがら、
人は皆、急いでいるように見えた。

 信号が変わる瞬間、
わずかな時間を詰めるように歩く人たち。

 電車の中では、
誰もが何かを見ている。

 情報、数字、他人の言葉。

 その流れの中で、自分だけが少しずれている。

 そう感じた。

 だが、不安ではなかった。

 むしろ、どこか楽だった。




 夜、ふと考える。

 ——このままでいいのか。

 何も積み上げず、
何も残さず、
ただ過ごしていくだけで。

 その問いは、鋭くはなかった。

 むしろ、弱々しかった。

 そして、その弱さゆえに、
簡単に消えていった。

 いいかどうかではなく、
もう、戻る理由が見つからなかった。




 気づけば、書いている。

 何かを伝えるためではなく、
何かを残すためでもない。

 ただ、書く。

 言葉を並べる。

 意味があるかどうかは、あとで考える。

 いや、考えないようにしている。

 意味を考えた瞬間、
それはもう「そちら側」になってしまうからだ。




 見ない、というのは、簡単ではない。

 評価は、あらゆる場所に転がっている。

 数字、順位、反応、称賛、批判。

 それらは常に、こちらを見ている。

 だが、こちらから見なければ、
関係は成立しない。

 そう思うことにした。




 何もしていないようで、
この時間には重さがあった。

 軽くはない。

 だが、重苦しくもない。

 ただ、静かに存在している。

 意味がないからこそ、
他の何にも置き換えられない時間。




 時には、目的のないことを。

 意味などなく、
どこにも辿り着かず、
進歩などあるはずもないことを。

 誰も傷つけず、
誰も追い越さず、
誰にも追い越されない中で。

 ただ、やりたいからやる。

 ここに、こうして、
日々、書き込むように。

 そちら側を見ず、
そちら側を気にせず、
そちら側に影響すら与えず。

 どなたの心にも染みず、
どなたの動きをも変えず。

 単なる、自己満足な中で。

 ……それでも。

 その無意味の奥にだけ、
触れられる何かがあると、

 いまは、思っている。


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