インウイ
〜〜香りだけが、時間を止める〜〜
〜序章〜
もう出会うことは
なくなってしまったけれど
20年くらい前までは
時折 街で
女性とのすれ違いざまに
振り返った香り
インウイ
調べると
すでに長いこと廃盤となっていて
また
すでに無い物ねだり
ネット上では
高騰した価格となっている
もう
忘れてしまった香りではあるけれど
僕の1番好きな香りであったはずで
それでもきっと今
貴女がそれを香らせ
目の前を通り過ぎたならば
間違いなく
一瞬で連れ戻されるあの頃
40年も前の
ステディだった彼女から
いつも香ったそれは とても上品な香りで
また それまで
香りなど意識したことがなかった若造は
なんだか
大人の世界に入り込んだかのような錯覚の中で
彼女を守った頃だった
もう
貴女の姿さえ 虚ろな今を生きながら
今更なんて笑いながらも
わずかでも良い
ほんの数滴でもと
時折
願うことがある
不思議かな
男は
香りだけは忘れないようだ
〜街角の一瞬〜
11月の夕方、僕は駅前の商店街を歩いていた。
用事は特になかった。定年を迎えてからというもの、目的のない散歩が増えた。行き先を決めずに家を出て、気の向くまま歩いて、疲れたら帰る。それだけの時間を、今は持っている。
人が多かった。夕方の商店街は、仕事帰りの人たちで賑わっている。スーツ姿の男、買い物袋を下げた女、学校帰りの子どもたち。皆それぞれの速度で、それぞれの方向へ歩いている。
その中を、僕はゆっくりと歩いた。
すれ違いざまだった。
女性とすれ違った瞬間、何かが鼻の奥を掠めた。ほんの一瞬のことだ。気づいた時には、もうその人は通り過ぎていた。振り返ると、黒いコートの背中が、人混みの中に消えていくところだった。
香りだった。
なんという香りだったか、言葉では言えない。花のようでもあり、木のようでもあり、しかしそのどちらでもない。上品で、静かで、しかし確かに存在を主張する何か。
僕は立ち止まった。
商店街の人の流れの中で、1人だけ立ち止まった。周りの人たちが僕の脇を通り過ぎていく。しかし僕は動けなかった。その香りが、どこかで嗅いだことがある、と思ったからだ。
どこで。
いつ。
答えが出るより先に、香りは消えた。夕方の街の匂い——排気ガスと、食べ物の匂いと、人々の体温——が戻ってきて、その一瞬の残像を塗りつぶした。
しかし僕の中の何かは、もう動き始めていた。引き出しの奥にしまってあった記憶が、鍵もかけていないのに、ひとりでに開き始めていた。
インウイ。
その名前が、どこからともなく浮かんだ。
〜初めてその香りを嗅いだ夜〜
40年前、僕は25歳だった。
彼女と出会ったのは、秋の終わりだった。共通の友人が開いた小さな食事会で、彼女は窓際の席に座っていた。黒い髪を肩のところで切り揃えて、話す時に少し首を傾ける癖があった。
名前は、今ここでは書かない。
あの頃、僕は香りというものにまったく無頓着だった。整髪料の匂いと、タバコの煙と、居酒屋の油の匂い。そういうものが混在する空気の中を生きていた。香水というものを意識したことは、それまでほとんどなかった。
初めて気づいたのは、帰り道だった。
食事会が終わり、何人かで駅まで歩いた。11月の夜の空気は冷たくて、皆コートの前を合わせながら歩いていた。僕は彼女の隣に並んだ。特に意図したわけではなかったが、気づいたらそうなっていた。
その時だった。
夜風が吹いて、彼女の髪が少し揺れた。その瞬間、何かが僕の鼻をかすめた。
立ち止まりそうになった。しかし彼女はそのまま歩いていたので、僕も歩き続けた。歩きながら、その香りが何なのかを考えた。花ではない。果物でもない。しかしどこか有機的で、生きているような香りだった。
「その香水、何ていうんですか」
気づいたら、聞いていた。
彼女が振り向いた。少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「インウイ、っていうの」
「インウイ」
僕はその名前を繰り返した。しかしその音の響きが、その香りにぴったり合っていると思った。インウイ。どこか遠いところを指し示すような、静かな音。
「好きなんですか、その香水」
「ずっと使ってる。母が好きだったから」
その答えが、妙に心に残った。母から受け継いだ香り。それを纏って夜の街を歩く彼女。その事実が、彼女という人間に、僕の知らない奥行きを与えた気がした。
駅の改札の前で別れた。
その夜、アパートに帰ってから、しばらく眠れなかった。あの香りがまだ鼻の奥に残っているような気がして、それを手がかりに、今日出会った人のことを考え続けた。
〜大人の世界〜
付き合い始めてから、僕の感覚は少しずつ変わっていった。
それまで意識したことのなかった香りというものが、急に存在感を持ち始めた。街を歩けば、すれ違う人々の香水に気づくようになった。デパートの化粧品売り場の前を通ると、複雑に混ざり合った香りが漂ってくる。それを以前は気にも留めなかった。しかし今は、その中に彼女の香りと似たものがないかを、知らず知らず探している自分がいた。
似たものはなかった。
インウイは、他のどの香りとも違った。
人によって香りの出方が違う、ということを教えてくれたのも彼女だった。同じ香水でも、纏う人の体温や体質によって、まるで違う匂いになる。彼女の肌の上でインウイは、穏やかで、落ち着いていて、しかしどこか芯のある香りになった。それは彼女そのものの性質と、どこかで重なっていた。
僕より3つ年上だった。
その3年分の差が、当時の僕にはとても大きく感じられた。彼女は何事も落ち着いて判断した。感情的になることが少なくて、物事の本質を見る目があった。僕が興奮して話すことを、静かに聞いて、それから穏やかに意見を言う。その穏やかさが、時に頼もしく、時に少し遠く感じられた。
「若いわね」と彼女は時々言った。
からかうような言い方ではなかった。ただ、事実を述べているような言い方だった。それが僕の自尊心を少し刺激した。若くて何が悪い、と思いながら、しかし大人に見られたいという気持ちもあった。
彼女といる時間は、背筋が伸びる感じがした。
自分よりきちんとした人間の隣に立つ時の、あの感覚。粗雑なところを見せてはいけないという緊張感が、いつも少しあった。それが窮屈だったかといえば、そうでもなかった。むしろその緊張感の中に、何か心地よいものがあった。
大人の世界に入り込んだかのような錯覚、と今の僕は思う。
錯覚と言えばそうかもしれないが、その錯覚が僕を少し成長させたことも、確かだった。彼女の隣にいることで、僕は背伸びをした。背伸びをするうちに、少しだけ本当に背が伸びた。
インウイの香りは、その時間の全体に漂っていた。
彼女に会う日は、必ずその香りがした。デートの帰り道、電車の中で、まだ彼女の香りが自分の服に残っているような気がした。本当に残っていたのか、気のせいだったのか、今となってはわからない。ただ、そう思いたかったのかもしれない。
〜別れという名の静けさ〜
2年ほどが経った、春のことだった。
別れ話というものは、たいてい突然やってくる。しかし振り返ってみれば、その前からいくつかの予兆があったことに気づく。会う頻度が少しずつ減っていたこと。電話の声が、どこか遠くなっていたこと。話す内容が、以前より表面的になっていたこと。
僕はそれらに気づいていなかった。あるいは、気づきたくなかった。
「話がある」と彼女が言ったのは、桜が散り始めた頃だった。
公園のベンチだった。花びらが舞っていた。絵のような場面だったが、僕には景色を見る余裕がなかった。彼女の声の質が、いつもと違うことはわかっていた。
「しばらく、会うのをやめようと思って」
「なぜ」
「うまく言えないんだけど」
「うまくなくていいから言ってくれ」
彼女は少し間を置いた。公園に風が吹いて、桜の花びらがベンチの上に落ちた。
「あなたといると、私が大きく見えすぎる気がして」
「どういう意味だ」
「あなたが私を見上げてる感じがする。それが、少し苦しい」
僕は黙った。
彼女の言っていることが、わかった。背伸びをしていたのは僕だけではなかった。彼女も、僕に見上げられることで、自分が実際より大きな人間であるように振る舞わなければならなかった。それが、疲れたのかもしれない。
「俺が変わればいい」
「そういうことじゃないの」
「じゃあ、どういうことだ」
彼女は答えなかった。答えられなかったのか、答えたくなかったのかは、わからなかった。
その日が最後だった。
引き止めることはできた。言葉を尽くせば、もう少し時間を延ばすことはできたかもしれない。しかし彼女の声の質が、もう決まっていることを告げていた。決まったことを覆そうとすることが、みっともないように感じた。
別れ際、彼女は「元気でね」と言った。
僕は「うん」とだけ言った。
電車に乗って、家に帰った。その夜は何も食べずに、ただ天井を見ていた。悲しいというより、何もない感じだった。大きな空洞が胸の中にできて、そこに風だけが通り抜けていくような感覚。
その後、彼女には会っていない。
〜廃盤〜
商店街から帰って、夕食を終えた後、僕はスマートフォンで「インウイ」と検索した。
すぐに出てきた。
資生堂の「インウイ(Inoui)」香水は、1970年代後半に登場したグリーン・ウッディ・シプレの香りで、凛とした知的な大人の女性を演出する名香として知られていました。1990年代に廃盤となり、現在は一部のオークションサイトや中古香水専門店でのみ入手可能。
廃盤、という文字を見た。
わかっていたことだった。20年くらい前から、街でその香りに出会わなくなっていた。あの頃は、同じ香りの人とすれ違うたびに振り返っていた。しかし気づけば、振り返ることもなくなっていた。香りが街から消えていたのだ。
オークションサイトを開いてみた。
出品されていた。30ミリリットルの小瓶が、数万円の値段がついていた。
高い、と思った。しかし高いとは思いながら、しばらくその画面から目が離せなかった。小瓶の写真は少し粗くて、ラベルの文字が読みにくかった。しかし Inoui という文字だけは、はっきりと見えた。
40年前の記憶が、画面の向こうで値段をつけられている。
おかしな感覚だった。あの頃の夜の帰り道も、公園のベンチも、散っていた桜も、全部が今や「廃盤」になっている。時代が変わり、香りは市場から消えた。しかし僕の中には、まだそれが残っている。
指が、「購入手続きへ」というボタンの上で止まった。
押すか、押さないか。
押したとして、何が手に入るのか。小瓶の中に入った液体。噴霧すれば、あの香りが漂うかもしれない。しかしそれは40年前の彼女の香りではない。彼女の肌の上でなければ、インウイはインウイにならない。それは、ずっと前からわかっていることだった。
指を引いた。
スマートフォンを置いた。
しかしその夜、画面をもう1度開いて、また出品ページを見た。何もしないまま、ただ見た。それだけのことが、なぜかやめられなかった。
〜男は香りだけは忘れない〜
人間の記憶の中で、香りだけが特別な場所を持っている、という話を読んだことがある。
視覚の記憶や聴覚の記憶は、時間とともに変容する。鮮明だったものが薄れ、細部が失われ、やがて輪郭だけになる。しかし嗅覚の記憶は、脳の中で感情と直接繋がっているため、いつまでも生々しいまま残ることがある。40年前の香りを嗅いだ瞬間、40年分の時間が一瞬で消える。
僕にはそれが起きた。
街角で、あの香りに似たものをかすめた瞬間、僕は25歳に戻った。冬の食事会の帰り道、夜風の中で、隣を歩く彼女の髪が揺れた、あの瞬間に。
彼女の顔は、今では少し曖昧になっている。
目がどんな形だったか、笑うとどんな顔になったか、正確には思い出せない。声も、どんな声だったかを言葉で説明することができない。しかし香りは、今でも確かに鼻の奥にある。どんな香りだったかを言葉では言えないが、嗅げばわかる。それだけは確かだ。
わずかでも良い、ほんの数滴でも、と時折願うことがある。
それは彼女に会いたいということとは、少し違う。40年が経ち、お互いに人生を歩んできた。今更会って何を話すのか、想像もできない。しかし、あの香りの数滴があれば、あの時代に戻れる気がする。25歳の夜の空気と、背伸びをしていた自分と、自分より少し大人の彼女と、その全部が戻ってくる気がする。
男は香りだけは忘れない、と思う。
これが男だけのことなのかは、わからない。しかし少なくとも僕は、そうだった。顔より先に香りを思い出す。声より先に香りが来る。40年という時間が、他の全てを少しずつ薄めていく中で、香りだけは薄まらなかった。
不思議なことだと思う。
人間の体というのは、こういうものなのかもしれない。失ったものを手放せないように、どこかに必ずしまっておく。視覚でも聴覚でもなく、嗅覚という、最も原始的な感覚の中に。
翌朝、もう1度スマートフォンを開いた。
オークションのページはまだ残っていた。小瓶の写真と、値段と、出品者のコメント。「未開封品。保管状態良好」と書いてある。
しばらく見ていた。
そして、そっと閉じた。
買わなくていい、と思った。
持っていなくていい。あの香りは、すでに僕の中にある。40年間、ずっとそこにあった。これからも、そこにあり続けるだろう。それで十分だ。
窓の外に、11月の光が満ちていた。
遠くで、電車が走る音がした。どこかへ向かう人が、今日もまたホームに立っている。かつて僕が立ったホームで、新しい誰かが、誰かを待っている。
街はいつも、続いている。
香りだけが、時間を止める。
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