夢在庫、稀少につき

―― I was made for loving you ――



【まえがき】

若い頃に思い描いていた未来と、いま自分が立っている場所。

その二つの間に横たわる距離に、ふと眩暈を覚えることがあります。

私たちは歳を重ねるなかで、いくつもの「夢」や「憧れ」を手放してきました。

なりたかった職業。

行きたかった場所。

一緒にいたかった人。

あの頃は確かに本気だったのに、いつの間にか「若かったから」と片づけてしまったもの。

では、そうして手放した夢たちは、一体どこへ消えていくのでしょうか。

単なる記憶の塵として風化してしまうのか。

それとも、どこか遠い場所で、私たちが思い残した熱を、ひっそりと保ち続けているのか。

もしも――

叶わなかった夢が、どこかに「在庫」として保管されていたら。

そして、ある日突然、

「保管期限が切れましたので、処分します」

などという通知が届いたら。

本作は、そんな小さな妄想から始まりました。

人生の折り返し地点を過ぎた大人たちが、かつての自分に優しく別れを告げる。

そして、空いた場所に、まだ名前のついていない新しい何かを置いていく。

夢を手放すことは、敗北ではないのかもしれません。

むしろ、手放したからこそ、次の夢が入ってくる余地が生まれるのかもしれない。

ラジオから流れる古い洋楽のように。

少し可笑しくて、少し切なくて、最後にはほんの少し温かい。

そんな物語として、楽しんでいただければ幸いです。




第一章 通知書は火曜日に届く

田中裕太、三十八歳。

生命保険会社の契約管理部で、毎日せっせと「解約リスク顧客リスト」を作っている。

数字を見て、数字を入力し、数字を並べる。

若い頃には、まさか自分の人生が、こんなにも無機質な数字だらけになるとは思っていなかった。

中学から高校にかけて、裕太は右投げの野球少年だった。

本気で甲子園を目指し、毎日泥だらけになってボールを投げた。

肩や肘が悲鳴を上げても投げ続けた。

雨の日には、雨が上がるまで校舎の軒下で、じっと空を睨んでいた。

自分がいつかプロ野球選手になることを、疑ったことさえなかった。

高校三年の夏。

右肘の酷使が祟り、甲子園予選の途中でマウンドを降りた。

それが、裕太の野球人生の終わりだった。

十八歳の夏から二十年。

三十八歳になった今、右手に握っているのは硬球ではなく、ただの黒いボールペンである。

そんな裕太のもとに、ある火曜日、一通の茶封筒が届いた。

郵便受けから取り出した瞬間、妙な違和感があった。

普通の封筒より、ずっしりと重い。

差出人の欄には、風変わりな活字で、こう刻まれていた。

銀河未達成夢在庫管理機構 第七支局

「……なんだ、これ」

裕太は封筒をひっくり返した。

消印がない。

いや、よく見ると、封筒の隅で小さな光が明滅している。

どうやら消印らしい。

そして、その横には、

本状は焼却厳禁

と表示されていた。

「宗教の勧誘か、新手の投資詐欺か」

裕太は眉をひそめながら封を切った。

中には、やけに格式ばった書式の通知書が一枚入っていた。

拝啓

貴殿名義にて保管しております未達成夢在庫
「プロ野球選手(右投手・防御率2点台希望)」につきまして、
保管期限を経過したため、下記の通り処分(競売)にかけさせていただく運びとなりました。

保管期限――思春期終了時点+二十年。

つきましては、七十二時間以内に第七支局窓口までご来局のうえ、
引き取り・破棄・買い戻しのいずれかをお選びください。

ご来局なき場合、自動的に競売へ回されますことをご了承ください。

銀河未達成夢在庫管理機構
窓口担当 ピトー・パナリス
(人間換算・見た目年齢いろいろ)

裕太は、しばらく通知書を眺めていた。

「……なんなんだよ、これ」

子供の頃の夢。

プロ野球選手。

そんなものは、とっくに捨てたと思っていた。

いや。

正確には、捨てたつもりになっていただけなのかもしれない。

三十八歳にもなって、まだそんなものを「保管」されていたと言われても困る。

裕太は通知書を丸めてゴミ箱に入れようとした。

だが、寸前で手が止まった。

もし本当に、あの頃の自分がどこかに残っているのだとしたら。

それを何も知らない宇宙の誰かに売り飛ばされるのは――

ほんの少しだけ、嫌だった。

「……行くしかないか」

こういう時、真面目な人間ほど無視できない。

そして裕太は、まだ知らなかった。

その判断が、止まっていた自分の人生を、もう一度動かすことになるとは。

⸻

第二章 第七支局は駅ビルの裏にあった

指定された住所は、なんの変哲もない駅ビルの裏手だった。

シャッターには、

テナント募集中

という褪せた貼り紙が一枚。

裕太は通知書の住所と交互に見比べた。

「ここ……だよな」

どう見ても、ただの湿っぽい空き店舗である。

念のため、シャッターを三回叩いた。

コン。

コン。

コン。

「開いてますよ〜」

中から、ひどく気の抜けた声が返ってきた。

裕太は恐る恐るシャッターを少し持ち上げた。

その瞬間、向こう側に広がる光景を見て、言葉を失った。

広い。

広すぎる。

倉庫というより、ひとつの巨大な都市だった。

天井は見えない。

無数のスチール棚が地平線の彼方まで並んでいる。

その一つ一つに小箱がぎっしりと詰め込まれ、棚には多様なラベルが貼られていた。

『プロ野球選手』

『ミュージシャン(ギターボーカル・武道館経験希望)』

『大学教授(専門は未定だが尊敬されたい)』

『宇宙飛行士(火星希望・月は妥協ライン)』

『漫画家(単行本十巻以上希望)』

『パン屋(自分の店・駅から徒歩五分以内)』

『世界一周(できれば仕事を辞めてから)』

裕太は呆然と立ち尽くした。

「ようこそ、田中裕太さま」

カウンターの向こうに、小太りの中年男が立っていた。

緑色のタイツ。

見事な禿頭。

そして背中には、申し訳程度の小さな羽がついている。

「担当のピトー・パナリスです」

男は恭しく頭を下げた。

「ネバーランド出身で、かつては永遠の少年でした」

「……ピーターパン?」

「その末路、とお呼びください」

ピトーは寂しそうに笑った。

「ちなみに、永遠という言葉には、かなり個人差がございます」

「そういうものなんですか」

「そういうものです」

ピトーはカウンターの下から厚いファイルを取り出した。

表紙には、

田中裕太

と印字されている。

その名前を見た瞬間、裕太の胸が小さくざわついた。

⸻

第三章 夢は宇宙船の燃料になる

「そもそものお話をしますとね」

ピトーは手袋をした指でファイルをめくった。

「人間が若い頃に本気で見た夢というのは、非常に高濃度の純エネルギーなんです」

「エネルギー?」

「ええ。我々の銀河では、恒星間航行船の推進燃料に使われております」

「夢が、宇宙船のガソリンになるんですか?」

「正確には、叶わなかった夢に残る『未練成分』です」

ピトーは得意げに眼鏡を押し上げた。

「叶った夢というのは、ただの心地よい思い出になります。時間とともに揮発してしまう」

「なるほど」

「しかし、叶わなかった夢には、『もしもあの時』という強烈なエネルギーが残る」

ピトーは少し考え、

「まあ、言ってみれば、宇宙版のハイオクです」

と言った。

裕太は苦笑した。

「ずいぶん嫌なガソリンですね」

「燃費は最高です」

「そうですか」

「特に質が良いのは、本人が諦めたことを忘れたふりをしている夢です」

「……」

「長年寝かせた樽出しの古酒のようなものでしてね。高値で取引されます」

裕太は、自分の名前がついた棚へと案内された。

そこに、一つの小箱が置かれていた。

透明なケース。

その中で、一人の少年が動き続けている。

白いユニフォーム。

右手の硬球。

帽子のつばの下から、真剣な眼差しがこちらを見つめている。

「……俺だ」

少年の裕太は、箱の中で何度も同じ動作を繰り返していた。

セットポジション。

深呼吸。

そして鋭いフォームでの投球。

何度投げても、少年は疲れない。

「この子は、いつまでこうしてるんですか?」

「所有者が決断を下すまでです」

裕太はガラス越しに少年を見つめた。

「……恥ずかしいな」

「何がです?」

「こんなに本気だったんだ、俺」

「本気だったからこそ、こうして熱を保ち続けているのですよ」

ピトーの声が少し低くなった。

「ここに残されているのはみんな、『取りに来ることができなかった人たち』の熱量です」

裕太が倉庫の奥を見渡す。

棚の合間を、無数の影が歩いていた。

制服姿の少女。

ランドセルを背負った少年。

ギターを抱えた若者。

画材を抱えた少女。

誰もが自分の棚を探すように、あてもなく彷徨っている。

「彼らは?」

「夢の残像です」

「ずっと、ここに?」

「所有者が日常に埋もれて忘れても、夢の側は所有者を忘れられませんから」

裕太は背筋が伸びる思いがした。

時間に置き去りにされた情熱たち。

永遠の少年を名乗るピトーが、なぜこんな場所で働いているのか。

その理由が、少しだけ分かった気がした。

裕太は箱の中の少年を見つめた。

「でも……俺はもう、プロ野球選手にはなれませんよ」

「ええ」

ピトーは静かに答えた。

「だから、期限が来たのです」

⸻

第四章 競売会場のホシノさん

「引き取るか、買い戻すか、破棄するか」

ピトーが指を三本立てた。

「三択です」

「買い戻しの通貨は?」

「『残り人生の秒数』です」

「秒数?」

「プロ野球選手コースですと、約八千万秒――二年半分といったところですね」

裕太は絶句した。

「高すぎる」

「でしょうね」

「現実的じゃない」

「ええ。ですから、大抵の方は競売へ流されます」

ピトーは何でもないことのように続けた。

「今夜ちょうど開催されますので、見学されてはいかがです?」

案内された会場は、重厚なオペラハウス風の吹き抜けだった。

中央の壇上には、光る蝶ネクタイを締めたオークションロボットが立っている。

右手には、巨大な金色のスプーン。

「なんでスプーンなんです?」

「さあ」

ピトーは肩をすくめた。

「銀河の正式な作法としか」

カーン!

スプーンが鳴った。

競売が始まった。

「ミュージシャン! ギターボーカル、武道館経験希望!」

犬の姿をした異星商人が札を上げる。

「五十万秒!」

「六十万!」

「八十万!」

「落札!」

カーン!

裕太は呆気に取られた。

「……あの夢、誰が使うんです?」

「さあ」

ホシノが隣で笑った。

「宇宙のどこかで、誰かがギターを弾くんじゃない?」

裕太は隣の女性を見た。

黒髪を後ろで一つに結んだ、スーツ姿の女性。

三十代後半ほどだろうか。

胸元には、

ホシノ

とだけ書かれたプレートがある。

「あなたも、見送りに?」

小声で声をかけられた。

「ええ。子供の頃の野球の夢です」

「あなたは?」

「私?」

ホシノは舞台を見たまま答えた。

「宇宙飛行士」

「宇宙飛行士?」

「火星希望。月は妥協ライン」

裕太は思わず吹き出した。

「棚のラベルと同じだ」

「笑っちゃうでしょ」

ホシノは苦笑した。

「高校生くらいまで本気で目指して、それからはすっかり現実的な大人になりました」

「僕もまったく同じです」

「今日は買い戻さないんですか?」

裕太が聞くと、ホシノは首を振った。

「まさか」

「どうして?」

「二年半分の人生を差し出す勇気なんてないわ」

彼女は少し間を置いた。

「ただ……」

「ただ?」

「ちゃんと、お別れを言いたくて来たの」

その横顔を見て、裕太は何も言えなかった。

不思議だった。

初対面なのに、その言葉だけは自分にも分かる気がした。

⸻

第五章 スプーンの音と、値がつかない夢

「大学教授! 専門未定、ただし尊敬されたい!」

競り人ロボットが叫んだ。

会場は沈黙した。

「三十万秒!」

誰も動かない。

「二十万!」

まだ動かない。

「十万!」

沈黙。

ピトーが小声でつぶやいた。

「……またウチの在庫か」

裕太は吹き出した。

「夢にも人気不人気があるんですね」

「厳しい世界です」

やがて、裕太の番が来た。

「出品番号四〇九二!」

ロボットが声を張り上げる。

「プロ野球選手! 右投手! 防御率二点台希望! 未練濃度、きわめて良好!」

会場がざわめく。

裕太の心臓が激しく脈打った。

「さあ、おいくらから――」

「待ってください!」

裕太は思わず立ち上がっていた。

会場の視線が一斉に注がれる。

ホシノも驚いたように見上げている。

「その夢……」

裕太は舞台上の箱を見た。

十八歳の自分がいる。

右手にボールを握っている。

「あの……買い戻すことはできません」

会場が静まり返った。

「でも、せめて」

裕太は言葉を探した。

「すぐ近くで、見送らせてもらえませんか」

競売ロボットが停止した。

数十秒の処理音が響く。

「規定外申請を受理します」

箱が裕太の前へ運ばれてきた。

裕太はしゃがみ込んだ。

ガラスの向こうで、少年がこちらを見ている。

「なあ」

少年は答えない。

「俺たち、頑張ったよな」

沈黙。

「甲子園には行けなかった」

裕太は笑った。

「プロにもなれなかった」

少年は何も言わない。

「……でも、めちゃくちゃ楽しかったよな」

その瞬間だった。

箱の中の少年が、ふっと柔らかく微笑んだ。

そして右手を掲げ、小さく敬礼した。

裕太も、照れくさそうに敬礼を返した。

「じゃあな」

箱が再び壇上へ戻される。

「五百万秒!」

犬の商人が札を上げた。

「落札!」

カーン!

箱が運ばれていく。

裕太は最後まで見届けた。

涙は出なかった。

むしろ、胸の奥につかえていた重い塊が、すうっと温かい空気に変わっていくようだった。

隣にホシノが立った。

「……いい顔で、お別れできたわね」

「そうですか?」

「ええ」

彼女は小さく笑った。

「私も、ちゃんと見送れそう」

⸻

第六章 新しい夢は在庫にならない

「見事なお見送りでした」

競売が終わった後、ピトーが感心したように頷いた。

「見送ったことで、あなたの心の中に一つ、『空き棚』ができました」

「空き棚?」

「ええ」

ピトーは裕太の胸を指した。

「そこにはまた、新しいものを置くことができます」

「新しい夢?」

「そうです」

ピトーは少し胸を張った。

「ここにある未達成の夢は、過去の遺物です」

「はい」

「しかし、“これから始めたいこと”は、絶対に当機構の在庫にはなりません」

「どうしてです?」

「値段のつけようがないからです」

ピトーは誇らしげに言った。

「競売にも出せない。燃料にもならない。機構としては、一番困る厄介物です」

「それは大変ですね」

「ええ」

ピトーは真顔で頷いた。

「ただし――」

「ただし?」

「当人だけが、やたらと幸せになる」

裕太は笑った。

「それなら、大歓迎ですね」

「私もそう思います」

裕太は、ふと振り返った。

ホシノの姿がない。

「……あれ?」

ピトーが出口を指した。

「見送りを終えた人間は、みんな急ぎ足になります」

「なぜ?」

「新しい人生へ帰りたいからでしょう」

裕太は考えるより先に走っていた。

三十八歳の重い体。

すぐに息が切れた。

それでも走った。

こんなふうに夢中で走ったのは、何年ぶりだろう。

⸻

第七章 シャッターの外は、いつもの駅前だった

「ホシノさん!」

シャッターの手前で、裕太はようやく追いついた。

ホシノが振り返る。

「裕太さん?」

「僕も……」

息を整えながら言った。

「あなたの『宇宙飛行士』を、見届けさせてもらえませんか」

ホシノは一瞬目を見開いた。

それから、嬉しそうに笑った。

「ええ」

二人は並んで、もう一度会場へ戻った。

ホシノの夢が壇上へ運ばれる。

ラベルには、

宇宙飛行士(火星希望・月は妥協ライン)

と書かれていた。

透明なケースの中には、少女時代のホシノがいた。

宇宙服を着ている。

ヘルメットの中から、真っ直ぐ前を見つめている。

ホシノは少女を見つめた。

「……私、こんな顔してたんだ」

「どんな顔?」

「絶対に火星へ行く人の顔」

裕太は笑った。

「今でも行けるんじゃないですか?」

ホシノは裕太を見る。

「……そういうこと、簡単に言うんですね」

「すみません」

「でも」

ホシノは少女に向かって、小さく手を振った。

「ありがとう」

少女は動かなかった。

けれど、その目が少しだけ柔らかくなったように見えた。

やがて競売が始まった。

「宇宙飛行士! 火星希望!」

札が上がる。

ホシノは最後まで目を逸らさなかった。

「落札!」

カーン!

箱が運ばれていく。

ホシノは静かに手を振った。

裕太も手を振った。

競り人ロボットがスプーンを振り下ろす。

その音が、今度は少しだけ優しく聞こえた。

すべてが終わった。

二人はシャッターの外へ出た。

そこは、いつもの駅前だった。

居酒屋の看板。

コンビニの明かり。

信号待ちの人々。

行き交う自転車。

さっきまで銀河規模の夢の競売を見ていたとは、とても思えない。

ホシノが空を見上げた。

「現実って、びっくりするほど普通ですね」

「そうですね」

裕太も空を見た。

「でも……」

「なに?」

「さっきより少しだけ、明るく見えません?」

ホシノは笑った。

「それは気のせい」

「そうですか」

二人は歩き出した。

駅の改札が見えてきたところで、ホシノが足を止めた。

「ねえ、裕太さん」

「はい」

「あそこの喫茶店」

彼女が駅前の小さな店を指差した。

「お茶でも、どうですか?」

裕太は一瞬だけ驚いた。

それから笑った。

「ぜひ」

二人は並んで歩き始めた。

まだ何も決まっていない。

それでよかった。

⸻

終章 値段のつかないもの

それから半年が過ぎた。

裕太は相変わらず、生命保険会社で「解約リスク顧客リスト」を作っている。

仕事の内容は何一つ変わっていない。

相変わらず数字を見て、数字を入力し、数字を並べている。

ただ、一つだけ変わった。

週末になると、ホシノと会うようになった。

喫茶店でコーヒーを飲む。

映画を見る。

どうでもいい話をする。

子供の頃の話もする。

これからの話もする。

そして時々、何も話さずに歩く。

ある夜。

街灯の灯る歩道を二人で歩いていた。

ホシノが、ふと思い出したように言った。

「ねえ」

「なに?」

「もし、あの時――」

「うん」

「人生の秒数を払って、野球選手の夢を買い戻していたら」

「うん」

「どうなってたと思う?」

裕太は夜空を見上げた。

もし買い戻していたら。

二年半の人生を差し出して、少年時代の夢を取り戻していたら。

どんな人生になっていたのだろう。

成功したかもしれない。

失敗したかもしれない。

もう一度、野球に夢中になれたかもしれない。

それは、それで悪くない人生だったのだろう。

「……たぶん」

裕太は言った。

「今こうして、ホシノさんの隣を歩いてなかったと思う」

ホシノは立ち止まった。

そして、少し照れたように笑った。

「そっか」

「うん」

「じゃあ、買い戻さなくてよかったのかもね」

「……そう思います」

二人はまた歩き始めた。

しばらくして、裕太はふと思い出した。

子供の頃、父親の古いラジオから流れていた洋楽。

意味もよく分からないのに、なぜかその一節だけが心に残った。

いつか大人になったら。

誰かを好きになったら。

こんな言葉を、格好よく言える人間になれたら。

そんなことを考えていた。

裕太は少し照れた。

けれど、今度は逃げなかった。

「ホシノさん」

「なに?」

裕太は笑った。

「――I was made for loving you」

ホシノは目を丸くした。

そして次の瞬間、

「なによ、それ!」

思いきり吹き出した。

「いきなり洋楽のサビみたいなキザなこと言わないでよ」

「いや……」

裕太は頭を掻いた。

「昔から、このフレーズが好きで」

「ふうん」

「いつか、笑って言える相手ができたらいいなって思ってたんだ」

ホシノは少し黙った。

それから、裕太の手をそっと握った。

「じゃあ」

彼女は笑った。

「言えてよかったね」

「うん」

二人は、そのまま歩いた。

銀河のどこかの倉庫では、今日も誰かの過去に値札が付けられているのだろう。

叶わなかった夢。

諦めた夢。

忘れたふりをした夢。

それらは、誰かの宇宙船を動かす燃料になる。

けれど。

今、二人の間に生まれている時間には、値札がない。

売れない。

買えない。

競売にもかけられない。

だからこそ――

二人だけのものだった。

裕太は、あの倉庫のことを思い出した。

棚に並んでいた無数の夢。

そこには、かつての自分もいた。

あの少年は、もういない。

けれど、それでいい。

夢を失ったのではない。

一つの夢を、ちゃんと終わらせたのだ。

終わった場所には、空き棚ができる。

そして、その棚には――

まだ名前のついていない未来を置くことができる。

人生は、夢の在庫処分ではない。

夢を手放したあとにこそ、

次の夢を置くための場所が、

ちゃんと残されている。

夜空の星が、一つ瞬いた。

裕太は隣のホシノを見る。

ホシノも、同じ星を見上げていた。

二人分の足音が、静かな夜道に続いていく。

その先に何があるのかは、まだ誰にも分からない。

だから、いい。

値段のついていない未来を、

二人で歩いていけばいい。

――完――


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【あとがき】

本作『夢在庫、稀少につき』は、

「もしも、諦めた夢がどこかで保管されていたら」

という小さな妄想から生まれた物語です。

若い頃の情熱や夢を手放すことは、ときに挫折や敗北のように感じられるかもしれません。

「夢を諦めた」

という言葉には、どこか寂しさがあります。

けれど、歳を重ねて振り返ってみると、夢を叶えられなかったことと、人生が失敗だったことは、必ずしも同じではないのだと思います。

叶わなかった夢にも、ちゃんと役割がある。

あの頃の自分が本気で生きた証として、心のどこかに残っている。

だからこそ、無理に否定する必要もない。

「ありがとう」

と一言告げて、静かに見送ってやればいい。

そうすれば、空いた場所に、新しい何かが入ってくる。

それは大きな夢ではないかもしれません。

新しい仕事かもしれない。

小さな趣味かもしれない。

誰かとの出会いかもしれない。

あるいは、ただ明日の朝を少し楽しみにする気持ちかもしれません。

本作の裕太とホシノが見つけたものも、きっとそんなものなのだと思います。

人生の棚には、古い夢も、新しい夢も並びます。

けれど、棚を全部埋めておく必要はありません。

少しくらい空いていた方が、新しいものを置く余地があります。

もし読者の皆様の心の中にも、まだ一つ、忘れたふりをしている夢があるのなら。

無理に取り戻す必要はありません。

ただ一度だけ、振り返って、

「ありがとう」

と言ってみる。

そして、その隣にできた空き棚を眺めてみる。

そこには、まだ誰にも値段をつけられていない、あなた自身の新しい物語が待っているかもしれません。


薬を飲んだかくらい
わかるでしょ? と
いつか
親父たちを笑った息子は

今
あれ?
薬 飲んだっけ? と
カミさんと微笑んでいる

なるほど
そういうことかと
ひとり
苦笑いしながら

先日 処方されたそれと
いつものビタミン剤とを
喉に流し込んだ

いつか
おばあちゃんが
処方された沢山の薬を

1週間分
朝昼晩と分けて
そんな透明なクリアケースに
入れてたけれど

すれば
なるほど
飲んだか飲まなかったか
それで判断が出来たわけで

しかし
まさか今まだ
そこまではと思うけれど

とにかく
医者 嫌い
薬 嫌い な男は

これ以上
増えることはないだろうからと
安易に考えてもいる



血圧は低く
不整脈は
相変わらず残っておるが

まあ
なんとかなるだろう

初めての
65って齢は
そんなことらしい

65回目の夏が
閉じようとしている

天の川を渡る夜
――五世代先の孫からの手紙――


まえがき
夜の静けさの中で、人は時に不思議な繋がりを感じることがあります。
この物語は、四畳半の書斎で一人パソコンに向かう初老の男と、百五十年後の未来から「夢」を介して呼びかける少女の、静かな対話の記録です。
滅びゆく地球を離れ、巨大な船に乗って漆黒の宇宙へ旅立った人類。その果てしない旅路の中で、彼らは何を思い、何を祈っていたのか。
膨大な時空と「天の川」を挟んで交わされる二人の言葉が、読者の皆様の心に小さく暖かい光を灯すことを願っています。




序章 物語を書く男
木下修一は、六十四で会社を退いてから、毎晩のように物語を書いている。
若い頃から胸の奥にしまっていた話を、誰に頼まれたわけでもないのに、夜な夜な引っ張り出しては文字にする。
書斎と呼ぶには狭すぎる四畳半の隅に、古いノートパソコンを据えている。
妻が眠った後の静けさの中で、修一はひとり、ゆっくりとキーボードを叩く。
若い頃なら、一晩で何十枚でも書けたかもしれない。
今では、一つの文章を何度も読み返し、言葉を一つ削り、また一つ足す。
それでも、書くことは嫌いではなかった。
むしろ、会社を辞めてからのほうが、物語を書く時間を大切に思うようになった。
困ったことに、修一には昔から「書きながら寝落ちする」癖がある。
物語の続きを考えているうちに瞼が重くなり、気づけば頬が机に触れている。
翌朝、画面には途中で切れた一文が残っていて、自分でも、
「昨夜は一体、どこまで書いたんだったかな」
と首を傾げる。
そんなことが、幾度もあった。
だが、この数か月、ただ寝落ちるだけでは終わらない夜が増えていた。
眠りの底に、いつも同じ場所が現れる。
光も影もない。
灰色がかった靄のような空間。
その中に、いつも同じ女性が立っているのだ。
修一は、まだ知らなかった。
その女性が、自分の遠い未来からやって来た存在であることを。
そして、その夜の出会いが、ひとつの物語を終わらせ、もうひとつの物語を始めることになることを。



第一章 夢の中の女性
夢の中の景色に、これといった特徴はない。
強いて言うなら、光も影もない、灰色がかった靄のような空間だった。
地面があるのかさえ分からない。
空もない。
遠近感もない。
ただ、どこまでも薄い灰色が広がっている。
その中に、彼女はいつも同じ姿で佇んでいた。
歳の頃は、まるで分からない。
若く見える時もあれば、どこか大人びた翳りを帯びて見える時もある。
長い黒髪。
白っぽい服。
整いすぎるほど整った顔立ちなのに、なぜか記憶の中の誰にも似ていない。
「キミは?」
最初の夜、修一はそう声をかけた。
返事はなかった。
近づこうとすれば、彼女はすっと遠ざかる。
諦めて足を止めれば、今度は向こうから静かに近づいてくる。
まるで磁石の同じ極を近づけたときのように、二人の間には一定の距離だけが存在していた。
「どこかで会ったことがあるのか?」
尋ねても、彼女は答えない。
ただ、修一を見ている。
その眼差しには、恐怖も警戒もなかった。
むしろ、長い間探し続けていたものをようやく見つけたような、不思議な懐かしさがあった。
昔の知り合いだろうか。
修一は記憶を辿った。
亡くなった初恋の人。
若い頃に思いを寄せた誰か。
学生時代の友人。
だが、どれにも当てはまらない。
それでも、夢の中で彼女に会うたび、修一はなぜか安心した。
不思議なことに、怖くはなかった。
いつしか修一は、その女性のことを深く考えなくなった。
歳を取ると、説明のつかないことは、説明のつかないままそっと棚に置いておく術を覚える。
夢など、そんなものだ。
そう思っていた。
少なくとも、彼女が初めて声を発するまでは。




第二章 おじいちゃん
その夜も、修一は書きかけの原稿の続きを考えながら、机に突っ伏していた。
時計を見ると、午前一時を少し過ぎていた。
「今日はここまでにするか」
そう呟いた記憶はある。
だが、電源を切った記憶はない。
気づけば、いつもの灰色の靄の中に立っていた。
彼女も、いつもの場所にいる。
修一は、いつものように声をかけようとした。
その瞬間だった。
彼女の唇が、かすかに動いた。
「――おじいちゃん」
修一は息を止めた。
「……え?」
掠れているようでいて、その声は驚くほどはっきり届いた。
「おじいちゃん……って、俺のことか?」
彼女は小さく頷いた。
「うん」
修一は、しばらく何も言えなかった。
やがて、苦笑した。
「俺はまだ、孫の顔も見てないんだけどな」
「知ってる」
彼女は少し笑った。
「だから、こうして会いに来たの」
「会いに……?」
「うん。あたし、おじいちゃんから見て、五世代未来の孫よ」
修一は、また言葉を失った。
五世代。
子、孫、ひ孫、玄孫、その先。
自分から数えて、五つ先の命。
「……五世代って、どのくらい先なんだ?」
「家系によるけど、だいたい百五十年くらい」
「百五十年……」
修一は乾いた笑いを漏らした。
「それじゃ、俺はとっくに死んでるな」
「もちろん」
あまりにもあっさり言うので、修一は思わず笑ってしまった。
「ずいぶん正直な子だな」
「ごめん」
「いや、いいよ」
彼女も笑った。
その笑顔を見た瞬間、修一の胸の奥で、何かが小さく揺れた。
これまで何度も夢の中で見てきた顔だった。
なのに、初めて見る顔のようにも思えた。
「君、名前は?」
「遥」
「遥?」
「うん。遠く隔たったところっていう意味で、そう名付けられたの」
「なるほど。ずいぶん遠いところから来たもんだ」
「ほんとにね」
二人の間に、初めて小さな笑いが生まれた。
修一はふと思った。
この女性は、本当に自分の子孫なのだろうか。
夢にしては、あまりにも感触が生々しい。
声の響き。
表情。
言葉の間。
どれも、自分の想像だけで作ったものとは思えなかった。
「でも、どうして今まで何も話さなかったんだ?」
「うまく繋げなかったの」
遥は少し困ったような顔をした。
「声を届けるのって、思っているよりずっと難しいのよ」
「夢を使って通信しているのか?」
「夢っていうより……遺伝子の底に残ってる、遠い記憶の折り目を手繰り寄せてるの。百五十年経っても体は送れないけれど、血の繋がった人の『眠りの浅い場所』にだけなら、言葉を落とせるから」
「つまり俺は……」
「遠い未来の受信機」
「嫌な言い方だな」
遥が笑った。
その笑い声が、修一には妙に嬉しかった。




第三章 終わった地球
何度か夢の中で会ううちに、修一は少しずつ遥に慣れていった。
遥もまた、少しずつ未来の話をするようになった。
ある夜、修一は何気なく尋ねた。
「で――そちらの時代は、平和かい?」
軽い気持ちで訊いたつもりだった。
だが、遥はすぐには答えなかった。
灰色の靄の中で、彼女の顔が少しだけ曇った。
「……おじいちゃんは、知らないと思うけれど」
「うん」
「地球は、もう終わってしまったの」
その一言が、修一の胸の奥にゆっくり沈み込んだ。
「終わった、って……どういう意味だ?」
遥は少し考えてから、静かに話し始めた。
「気候の均衡が崩れて、海が随分と姿を変えたの。食料も水も足りなくなって、国同士だけじゃなく、人同士でも争うようになった」
「戦争か?」
「戦争もあった。でも、最後はそういう派手なものじゃなかった」
遥の声は静かだった。
「少しずつ、住める場所が減っていったの」
「……」
「少しずつ、人が減っていった」
修一は何も言えなかった。
「それでも人は、百年近く踏みとどまろうとした。海上都市を作ったり、地下に住んだり、人工的な気候制御を試したり。でも、どれも長くは続かなかった」
「最後は、どうなった?」
遥は灰色の向こうを見つめるようにして言った。
「静かだったよ」
「静か?」
「うん。映画みたいな滅亡じゃないの。空が突然真っ黒になったわけでも、巨大な隕石が落ちたわけでもない」
少し間を置いて、遥は続けた。
「ただ、少しずつ、地球に残る意味がなくなっていったの」
修一は、言葉を失った。
その時、頭の中に、自分が生きている時代の風景が浮かんだ。
季節外れの豪雨。
異常な暑さ。
消えていく生き物たち。
遠い国の干ばつ。
ニュースの中で語られていた、小さな異変。
その一つ一つが、遠い未来から伸びてきた一本の線につながっていくような気がした。
「怖がらせてごめんね、おじいちゃん」
「いや……」
修一は、しばらく考えた。
「怖いというより……申し訳ない気持ちだ」
「どうして?」
「俺たちの時代が、その始まりを作ったのなら」
遥は、ゆっくり首を振った。
「誰のせいとか、そういう話じゃないよ」
「でも……」
「それに」
遥は少しだけ笑った。
「終わりは、始まりでもあったから」




第四章 クイーン・エリザベス
「今、あたしたちは大きな宇宙船に乗ってるの」
ある夜、遥はそう言った。
「宇宙船?」
「うん」
「どこへ?」
「次の星を探しに」
修一は思わず笑った。
「ずいぶん遠くまで来たもんだな」
「まだ始まったばかりよ」
遥の声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。
船の名前を訊くと、遥は答えた。
「クイーン・エリザベス」
「クイーン・エリザベス?」
修一は目を丸くした。
「昔の大海原を航行した客船と同じ名前だ」
「そう。かつて地球の荒波を越えて人を運んだ船。その『どんな嵐でも人を守り抜く』っていう誇りを受け継ぎたくて、名前を残したんだと思う」
遥によれば、地球脱出計画は何十年も前から静かに進められていたという。
巨大な舟艇の設計思想を受け継ぎ、それを宇宙航行用に発展させた。
長期航行に耐える巨大な船体。
内部には居住区があり、人工照明の下には畑が広がっている。
水は循環され、空気も再生される。
そして、船の中心には小さな森まであるという。
「子どもの頃、あたしはそこで遊んでた」
「宇宙船の中で?」
「そう」
遥は笑った。
「窓の外は真っ暗な宇宙なのに、足元には土があって、木が生えてるの。変な感じだったよ」
「でも、羨ましいな」
「どうして?」
「俺は宇宙船の中に森を作るなんて、想像したこともない」
「おじいちゃんたちの時代は、地球そのものが森だったんでしょう?」
修一は黙った。
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
「……そうだな」
「だから、あたしたちは地球を忘れないために、船の中に森を作ったの」
遥はそう言った。
「地球で育ったものを、少しでも未来へ持っていくために」
修一は、その言葉をしばらく考えた。
やがて尋ねた。
「どこへ向かっているんだ?」
「まだ名前のない星よ」
「名前がない?」
「正式な名前はあるけど、船の中ではみんな『新しい星』って呼んでる」
「遠いのか?」
「遠いよ」
遥は笑った。
「今ちょうど、天の川を渡ってるところ」
「天の川を……」
修一は、その言葉を口の中で繰り返した。
子どもの頃、七夕の夜に見上げた空。
小さな星々が流れる、あの淡い光の帯。
その向こうへ、遥たちは進んでいる。
「光と同じ速さで?」
「ううん。光速そのものにはなれないよ。でも、限界に近い速度で飛んでる」
「それでも、何年もかかるんだろう?」
「うん」
「怖くはないのか?」
遥は少し考えた。
「怖いよ。もちろん」
そして、少しだけ笑った。
「でも、みんな一緒だから」
「それだけ?」
「それに――」
遥は、照れたように目を伏せた。
「たまに、おじいちゃんと話せるから」
「俺と?」
「うん」
「それが、そんなに心強いのか?」
「うん」
遥は、はっきりと言った。
「随分と心強いよ」




第五章 新しい星の光
それから幾晩か、遥からの言葉は途絶えた。
修一は夜な夜な原稿に向かいながらも、いつしか彼女の続きを待つようになっていた。
書いているのは別の物語だった。
老人と、遠い町に住む少女の話。
だが、いつの間にか指先は止まってしまう。
遥は今、どこにいるのだろう。
そんなことを考えている自分に気づくたび、修一は苦笑した。
会ったこともない。
本当に存在するかどうかさえ分からない。
それなのに、もう彼女は自分の中で、確かな存在になっていた。
再び声が届いたのは、季節がひとつ変わった頃だった。
「おじいちゃん、聞こえる?」
「……ああ」
修一は、思わず笑った。
「待ってたよ」
「ほんと?」
「うん」
遥の声が、少しだけ明るくなった。
「この先にね、地球にそっくりな星が見えてきたの」
「地球に?」
「大気がある。水もある。観測データでは、地表に緑らしいものも見える」
「生き物は?」
「まだ分からない」
遥の声には、これまでになかった昂りが滲んでいた。
「みんな、久しぶりに笑ったの」
「船の中で?」
「うん。ずっと張り詰めてたから。地球を出てから、誰もが心のどこかで、本当に次の場所があるのかって思ってたんだと思う」
「それで、星が見えた」
「そう」
「よかったな」
「うん」
遥は、しばらく黙っていた。
その沈黙の向こうに、修一は見えない星を想像した。
青い星。
水のある星。
緑のある星。
百五十年という時間を越えて、遥たちがようやく見つけた新しい故郷。
「おじいちゃん」
「なんだ?」
「もしかすると――先行者がいるかもしれない」
「先行者?」
「うん。あたしたちより先に、あの星に辿り着いた誰か」
「地球人?」
「分からない」
遥の声が、少し低くなった。
「あるいは、あの星でずっと暮らしてきた誰か」
修一は黙った。
「つまり……」
「うん」
遥が答える。
「あの星には、あたしたちより先に生きているものがいるかもしれない」
「それは、地球と同じような生物かな?」
「分からない」
通信の奥で、何かの音がした。
遠くから聞こえる警告音のようにも思えた。
「遥?」
「大丈夫」
「本当に?」
「まだ何も分からないから」
そう言いながらも、遥の声には、わずかな緊張が混じっていた。
「今、観測を続けてる」
「気をつけろよ」
「うん」
その返事を最後に、また声が途切れた。
修一は、しばらく暗い画面を見つめていた。




第六章 受け入れてくれると良いね
遥の声が戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。
いつもより落ち着いている。
だが、その落ち着きの奥に、明らかな緊張があった。
「おじいちゃん」
「ああ」
「観測班が、あの星の軌道上に、人工的な構造物らしきものを見つけたの」
修一は息を呑んだ。
「人工的?」
「うん。自然にできたものとは考えにくい形をしている。でも、まだ正体は分からない」
「壊れた残骸かもしれない?」
「そうかもしれない」
「今も動いているものかもしれない?」
「……そう」
二人の間に、長い沈黙が流れた。
「危険なものかもしれないんだな」
「かもしれない」
「戻ることは?」
遥は、静かに答えた。
「できないよ」
「……そうか」
「地球には、もう戻れない。ここまで来るのに、何世代もかかった。あたしたちには、もう後戻りする場所がないの」
その言葉を聞いて、修一は胸が苦しくなった。
故郷を失った者に、選択肢という贅沢は残されていない。
ただ前へ進むしかない。
それは、修一の知る歴史の中にも、何度も繰り返されてきた人間の姿だった。
海を渡った人々。
知らない土地へ移り住んだ人々。
故郷を捨て、新しい場所で生きようとした人々。
彼らもきっと、同じような不安を抱えていたのだろう。
「遥」
「うん」
修一は、何を言えばいいのか分からなかった。
「……受け入れてくれると良いね」
しばらく返事がなかった。
やがて、
「うん……」
と、遥が答えた。
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
まだ何かを続けようとしていたのかもしなく。
けれど、その先の言葉は届かなかった。
灰色の靄が、ゆっくりと薄くなっていく。
「遥?」
呼びかけても、返事はない。
修一は、伸ばした手を途中で止めた。
そして、そのまま目を閉じた。




終章 目覚め
目が覚めると、修一は机に突っ伏したままだった。
首の付け根が鈍く痛む。
ノートパソコンの画面には、書きかけの一文が、いつものように中途半端な形で残っている。
窓の外は、まだ薄暗かった。
修一は、しばらく動かなかった。
夢の続きを、もう一度たぐり寄せようとする。
だが、遥の顔も、灰色の靄も、少しずつ遠ざかっていく。
夢というものは、目覚めた瞬間から消えていく。
手のひらにすくった水のように。
それでも、最後の言葉だけは残っていた。
――受け入れてくれると良いね。
――うん……
修一は、胸の奥に残ったその声を、何度も思い返した。
百五十年も経てば、想像もしないことが起こるのだろう。
自分たちが当たり前だと思っているものも、未来の誰かにとっては、遠い昔の話になる。
そう考えると、不思議な気持ちになった。
かつて黒船が来た時代の人々にとって、今の世界は想像の外側にあっただろう。
空を飛ぶ飛行機。
月へ行く人間。
世界中を瞬時につなぐ通信。
小さな機械の中に収まった無数の知識。
それらを、幕末の人間が想像できだろうか。
ならば――
百五十年後の遥の世界が、今の自分に想像できないのも当然なのかもしなく。
修一は、冷めきったコーヒーに口をつけた。
苦かった。
それから、静かにキーボードへ手を戻した。
昨夜まで書いていた物語を閉じる。
新しい文書を開く。
しばらく白い画面を見つめた。
そして、一行目にこう打ち込んだ。
「昨今、パソコンに向かい物語を書きながら、ふと寝落ちてしまうことがある――」
修一は、そこで一度、手を止めた。
これは夢の記録なのだろうか。
それとも――
まだ見ぬ孫から届いた、一通の手紙なのだろうか。
どちらでもよかった。
少なくとも、あの夜々に交わした言葉を、消してしまいたくはなかった。
遥が本当に百五十年先にいるのなら。
排して、もし本当にあの星へ辿り着いたのなら。
いつか、誰かがこの文章を読むかもしれない。
自分の名前さえ知らない、遥の時代の誰かが。
あるいは、遥自身が。
そんなことは、もちろんあり得ない。
修一には分かっている。
百五十年という時間は、人間一人の人生よりはるかに長い。
けれど、物語なら、その時間を越えられる。
言葉なら、手から手へ渡っていく。
祖父から子へ。
子から孫へ。
そして、まだ生まれていない誰かへ。
修一は、もう一度キーボードを叩いた。
一文字。
また一文字。
物語を書くことしかできない自分にできる、唯一の返事だった。
やがて、空が少しずつ明るくなってきた。
窓の外に朝が近づいている。
修一は手を止めずに書き続けた。
その朝、彼はふと思った。
遥たちが天の川を渡っているのなら。
自分もまた、言葉という小さな船に乗って、同じ川を渡っているのかもしなく。
過去から未来へ。
未来から過去へ。
二度と会うことのできない人と、まだ生まれていない人の間を。
天の川を渡る夜は、もう終わろうとしていた。
けれど、物語はまだ終わらない。
朝の光が、静かに部屋を満たしていく。
修一は、未来へ向けて、一行を書き足した。
――遥へ。
――受け入れてもらえると、いいな。
そして彼は、また書き始めた。

了


Kindle



あとがき
この物語は、夜中に一人でキーボードに向かっているとき、「もしこの画面の向こう、あるいは夢の底が、遠い未来とつながっていたらどうだろう」という思いつきから生まれました。
150年という歳月は、個人の命にとっては絶望的なほど遠い時間ですが、人類の歴史や遺伝子、そして言葉や文章という媒体を通してみれば、ほんのひと繋がりの長さに過ぎません。
修一の手記は、果たしてただの老人の夢想だったのか、それとも時空を越えた文通だったのか。新星の「先行者」たちは彼らを暖かく迎え入れてくれたのか――その答えは、夜空の天の川を見上げる読者の皆様の想像の中に委ねたいと思います。
静かな夜のお供になれたなら幸いです。






昨日 娘から連絡があって
家の裏の
ブロック塀と物置との隙間に
子猫が入り込んで出られず 
鳴いていると

旦那は? と尋ねると
先日 
ショッピングセンターの駐車場で
当て逃げされた車の修理へと
上の子供たちを連れて
ディーラーに出掛けているので
夕方まで戻らないと

下の子供と2人
今 車もないし
何も出来ずにいると

分かった
今すぐ行く と
カミさんと急ぎ足

すると
隣の家の物置と
娘の家のブロック塀との隙間に
子猫が挟まっており
動けなくなって鳴いている

どうしたものかと
その隙間へと手を伸ばせば
ギリギリなんとか届いて
救出することが出来た

白とグレーとの柄の
生後3週間ほどか

とても綺麗な顔立ちで
一瞬 これは我が家でと
思ったけれど
残念なことに
なんせ僕が 猫アレルギー

そう
子供の頃から
実家では猫も犬も
いつも一緒だったはずが

10年ほど前
とある猫カフェに連れられて
出掛けてみれば
鼻が痒くなり
クシャミが止まらない

いつの間にか
そんな体質となっていて
これは無理かと

娘宅でも
もっか3人の子育て中で
てんやわんやの最中

それと並行して
娘とカミさんとで
その猫の引き取り手を探し中

猫好きの知り合いたちや
いくつもの保護団体に問えば
只今 
満席で難しいと言われるばかり

更に とある団体からは
なんと10万円を寄付して頂けたら
引き受けるとまで言われ

そんな時代なのかと
ガッカリ…

それでも
保護と並行して
ネコカフェを営む
ねこかつ という団体から
はい 受け入れますよ と返事を頂き

これまた
急ぎ足



そこは
観光客で賑わう商店街の中にあり
伺ってみれば
カフェというよりも
皆 猫の目線に座り
猫たちと楽しそうに遊んでいる姿

なるほど
こうした活動により
保護した猫たちの資金をかと
嬉しくなった

入口には只今満席とあり
中ではきっと100を越すほどの
猫たちが遊んでいる

担当の女性に訊けば
この子はまだやっと
乳離れをしたくらいですね

きっと親子での散歩中に
塀から落ちてしまったのでしょう

これ1匹ではないはずですので
近く 他の子猫や
親らしき猫を見掛けたら
無理せず 保護して
去勢をしてあげて下さい

こことここの獣医さんならば
ボランティアで協力してくれますよと

そのメモ書きを頂き

この子は今後 どうなりますか?
と問えば

大丈夫ですよ
とても元気ですので
まずは数日 様子を見て
獣医さんの診察を受けて

落ち着いてから
里親探しから始めることにと…

ありがとうございます
良かったです

そんな
わずかな時間
小さな命と
関わることが出来たこと

心ある娘に育ってくれてたこと

感謝してみた


帰り際
車の中で
犬だったらなあ と呟けば

カミさんから
ぱふ が最後と決めてたでしょ
と言われ

そうだ けれど… と
苦笑いしてみた

命って
なんなのでしょうね

ペットショップの綺麗な
ウインドウの中に並ぶ
高価な値の付いた彼らと

こうして
いつどこで生まれたか
分からず彷徨う彼らとの差は

すべては
人間たちの
エゴかと
罪かと

心を痛めるばかり なり…

幸あれ

バンが似合う男


まえがき
「自分を良く見せたい」という欲望は、誰しもが抱くものです。高級な服、ブランドの時計、排気音の大きな車――それらは時に私たちに自信を与えてくれます。しかし、それらをすべて剥ぎ取った時、自分自身には何が残るのでしょうか?
本作『バンが似合う男』は、見栄という鎧を身にまとっていた一人の男が、一本の太い骨身を手に入れるまでのユーモラスで少し切ない物語です。肩の力を抜きつつ、男の「本当のカッコよさとは何か」を笑いと共にお楽しみいただければ幸いです。




一章 スポーツカーを降りた日
三十五歳になる小田切修一は、その日、愛車の赤いスポーツカーを中古車屋に売った。
「本当にいいんですか? こんな良い車を」
査定士は、車と修一の顔を何度も見比べた。
「ええ」
「まだ走行距離も少ないですし、かなり大事に乗られてますよね」
「……そうですね」
修一は赤いボディを眺めた。納車された日のことを思い出す。嬉しかった。駐車場に停めた車を何度も振り返った。信号待ちをしているだけなのに周囲の視線が気になった。それが嫌ではなかった。むしろ、少し誇らしかった。
若い頃の修一は、「良いものを持つこと」が「良い男になること」だと思っていた。高い時計、仕立ての良い服、少し高級な店、そして赤いスポーツカー。それらを身につけていれば、自分まで価値のある人間になったような気がした。
だが、三十五歳になった頃から妙な違和感を覚えるようになった。車を降りた瞬間、ただの自分に戻る。時計を外せばただの腕になり、ブランドの服を脱げばただの身体になる。では、自分自身には何が残っているのだろう。その答えが出ないまま半年ほど過ぎた。
そんなある日、湘南の海で一人の男に出会った。名前は知らない。みんなから「タカさん」と呼ばれていた。日に焼けた肌、無駄のない体。そして、少しボロい白い国産バン。タカさんはいつも、そのバンの荷台にサーフボードを積んでいた。
ある日、海辺で若者たちが車の話をしていた。
「やっぱドイツ車だよな」
「いや、イタリアだろ」
「俺、次はポルシェにするわ」
タカさんは缶ビールを飲みながらその話を聞いていた。やがて一人の若者が、タカさんのバンを指差した。
「タカさん、その車いつまで乗るんすか? もう結構古いでしょ」
タカさんは自分のバンを見つめ、ふっと笑った。
「いいんだよ。俺には、これが似合う」
「え?」
タカさんはボンネットを軽く叩いた。
「車ってのはな、自分より目立っちゃいけねえんだ。自分を鍛えた男なら、安物のバンでも似合うんだよ」
若者たちは笑った。だが、修一だけは笑えなかった。タカさんは何も高価なものを身につけていない。なのに、不思議なくらい格好よかった。バンからサーフボードを下ろす背中を見ながら、修一は思った。――俺は、本当に格好いいのだろうか。
それからしばらくして、タカさんは「南の島に行ってくる」と言い残し、車をどこかに引き払って姿を消した。そして半年後、修一はスポーツカーを売る決断をしたのだった。
「最後に、何かありますか?」と査定士が聞いた。修一は少し考え、「いえ。十分、楽しませてもらいました」と笑った。
赤いスポーツカーが店の奥へ消えていく。寂しくなかった。むしろ、少しだけ身軽になった気がした。



二章 筋肉と謎のバン販売店
スポーツカーを手放した修一が次に向かったのは、スポーツジムだった。「鍛えれば、バンが似合うようになる」というタカさんの言葉を、修一は真面目に受け止めていたのだ。
ジムのトレーナーは、筋骨隆々の初老の男だった。名札には「ゴンザレス・田中」とある。国籍も経歴も不明だ。
「お客さん、目的は何です?」
「バンが似合う男になりたいんです」
田中の表情がガラリと変わった。「……なるほど。バン道(どう)ですね」
「バン道……?」
「うちにも何人かいますよ、その系統の会員が」
それ以来、修一は筋トレに没頭した。スクワット、ベンチプレス、デッドリフト。なぜか握力まで激しく鍛えさせられた。「握力は何のためですか?」と尋ねると、田中は真顔で答えた。「バンのドアを開けるためです」「普通に開きますよね?」「普通の男はな」――修一はそれ以上突っ込むのをやめた。
三ヶ月後、修一の体は見違えるように変わっていた。胸板は厚くなり、背中には力強い筋肉がついていた。だが、肝心のバンがない。
ネットで探していると、工業地帯の外れにある『バン専門中古車販売店』という怪しい店を見つけた。口コミには「普通の車屋ではありません」とだけ書かれている。
訪ねてみると、倉庫のような店内で眼帯をした老人が座っていた。「バンを探している」と伝えると、老人は修一の体をじっと見つめた。
「ほう……いい面構えだ。前はスポーツカーに乗ってただろう。バンってのは見せかけの男には似合わんのだ」
老人が奥のシャッターを開けると、そこに一台の白いバンが停まっていた。色あせたボディ、後部のサーフボード用キャリア。見覚えがあった。
「これは……」
「元はある男の愛車だ。波乗りに夢中になって南の島へ渡ったきり帰ってこん」
胸が鳴った。「タカさん……」
「こいつがあんたを選ぶかどうかは知らんがね」老人は不敵に笑った。修一はその場で、そのバンを買い取った。



三章 バンが喋る
家に帰り、修一はさっそくバンを丁寧に磨き上げた。最後に運転席へ座り、「よろしくな」と呟いた。すると――
「おい」
どこからか声がした。誰もいない。
「おい、そこの兄ちゃん。俺だよ、俺。車だよ」
修一は固まった。自分の頭を叩き、ボンネットを二回ノックした。「……筋トレのしすぎで幻聴が聞こえるのか?」
「幻聴じゃねえよ。前の持ち主が変な念でも込めていったんだろ。俺はバンだ」
「喋ってるのか、車が?」
「そうだよ。あいつはいつも言ってた。『自分より車を目立たせるな』『鍛えた男にこそバンが似合う』ってな。だからお前が本当に鍛えてるか気になってる」
「どうやって判断するんだ?」
「乗ってみろ」
修一がエンジンをかけると、古いエンジンが低く唸った。「……悪くない。及第点だ」とバンが言った。
こうして、修一と喋る白いバンとの奇妙な生活が始まった。



四章 バン愛好会という名の秘密結社
ある夜、カーナビが勝手に作動し、見知らぬ倉庫街へ誘われた。到着すると、そこには何十台もの国産バンと、胸板が分厚い男たちが集まっていた。
「よく来たな。我々は『全国バン愛好会・漢の部』だ」
全身筋肉の会長が威厳たっぷりに言った。「我々には三つの掟がある! 第一、車の値段を自慢しない! 第二、馬力を自慢しない! 第三、バンの傷を恥じない! 傷は勲章、へこみは歴史だ!」
「おおお!」と歓声をあげる男たち。修一も入会試験(車中泊や荷室での昼寝など)を難なくクリアし、会員番号八十八番を授かった。




第五章 波の上のタカさん
数ヶ月後、愛好会のツーリングで訪れた湘南の海で、修一は信じられない光景を目にした。さらに日焼けし、筋骨隆々になったタカさんが波打ち際に立っていたのだ。
「タカさん!」
「おお、あの時の若造か! 鍛えたな、いい顔になった」
修一のバンを見るや、タカさんは「おお、元気だったか!」と叫び、愛車をガシッと力強く抱きしめた。バンが「プピッ」と嬉しそうにクラクションを鳴らす。
「タカさん、バンが似合う男って、結局どういう男なんですか?」修一が尋ねた。
タカさんは海を見つめ、静かに語った。
「見せかけを捨てた男だ。高い車や速い車に乗るのが悪いわけじゃない。ただ、車に負けるな。高い車に乗ってるから偉いんじゃない。自分の中身がちゃんとしてりゃ、どんな車に乗ったって格好いいんだよ」
修一の胸に、その言葉が深く染み渡った。スポーツカーを手放して得た答えが、ようやく繋がった瞬間だった。



終章 バンが似合ってこそ
それから修一は、毎週末バンで出かけるようになった。海、キャンプ、釣り。会社の後輩に「なんでそんなボロいバンに乗ってるんですか?」と聞かれれば、「こいつが似合う男になったからだよ」と答え、「まずは筋トレだ」と笑った。
「おい修一、たまには洗車しろよ。塩は嫌いだ」とバンが勝手に呟く。
「お前、海に行きたがってただろ」
「海は好きだが塩分は嫌いだ」
修一は吹き出した。昔なら周囲の目を気にして、高級なもので自分を飾っていた。だが今は違う。バンを降りても、自分は自分だ。自分の中に残るものが、確かに感じられる。
筋肉だっていつか衰え、車もいつか壊れる。だが、自分自身を磨こうとした時間だけは、決してなくならない。
夕陽のなか、古いエンジン音を響かせて白いバンが走っていく。車が格好いいのではない。その車に乗る男が、もう自分を飾ろうとしていないからだ。

了


アマゾン キンドル




あとがき
「男の価値とは何か」という少し重くなりがちなテーマを、喋るバンや筋トレ愛好会といったコミカルな要素で軽快に描き出してみました。物語の主人公・修一のように、私たちは時に他人の目や所有物で自分を測ってしまいがちです。ですが、本当に大切なのは「何を持っているか」ではなく「自分自身がどうあるか」なのだと感じます。

失礼ながら、特に良い車に乗ってる連中ほど、マナーの悪さを感じる世の中。
読者の皆様が、ご自身の「相棒」と共に自分らしい道を歩んでいけるよう、願いを込めて。



別巻 物好きの山
――ある登山初心者と、偏屈な師匠の話――


まえがき
 人は時々、急に立ち止まる。
 昨日まで普通にできていたことができなくなり、朝起きるだけで疲れ、好きだったものが、何も響かなくなる。
 けれど不思議なことに、そういう時に限って、今まで見えていなかったものが、ふと見えることがある。
 遠くの山並み。
 風の匂い。
 湯気の立つコーヒー。
 疲れた体で食べる塩むすびの味。
 若い頃には気づかなかったものが、人生の途中で、急に胸に入ってくることがある。
 本作は、燃え尽きた一人の男が、山を通して、もう一度「自分の人生」に参加していく物語です。
 もちろん、登山の技術や知識も出てきます。
 けれど本当は、これは山の話というより、「興味を持ち直す話」なのかもしれません。
 自分に。
 他人に。
 世界に。
 人は何歳からでも、何度でも、新しい景色を見に行ける。
 しかも面白いことに、そういう人間ほど、少し“物好き”なのです。
 どうせ一度きりの人生ならば、少しくらい物好きな方が、案外、遠くまで行けるのかもしれません。
 この物語が、誰かの「次の一歩」のきっかけになれば嬉しく思います。




序章
まずは
 何にでも興味を持つということ。
 アンド、
 そこへとその身を入れ込んでみるということ。
 どうせ一度きりの人生ならば、
 もっともっとと欲張って、
 あれもこれもを取り込めたならば、
 もう一歩広い世界が、
 笑顔と共にやってくるはずで。
           ――『物好きの美学』より



一章 燃え尽きた男と、唐突な思いつき
 田村悟志が初めて山というものに登ったのは、四十二歳の秋のことだった。
 動機は、正直なところ、たいして立派なものではない。
 医者に「少し休みなさい」と言われた。
 上司に「しばらく来なくていい」と言われた。
 妻には「あなた、最近おかしい」と言われた。
 三者三様に同じことを言われたわけで、つまり田村悟志という人間は、その秋、誰の目にも「燃え尽きた人間」として映っていたのだ。
 休職して最初の一週間は、ひたすら寝た。
 次の一週間は、起きているのに何もできなかった。
 その次の一週間は、何かしなければという焦りだけが空回りして、結局また寝た。
 そして四週目の月曜日。
 田村は台所でコーヒーを淹れながら、何気なく窓の外を見た。
 空が妙に高かった。
 東京の住宅街の向こうに、うっすらと山の稜線が見えた。
 晴れた日には見える。
 そのことに、二十年近くここに住んでいて、初めて気づいた。
 田村は窓に近づいた。
 山は、遠かった。
 けれど、確かにそこにあった。
 「山か」
 誰もいない台所に向かって、声に出した。
 その声が、予想外に自分の耳に響いた。
 この三週間、何を見ても何も感じなかった。
 テレビも、本も、音楽も、食事も。
 なのに、山を見た瞬間だけ、何かが引っかかった。
 「山、か……」
 もう一度呟いた。
 理由はなかった。
 ただ、気になった。
 その日の午後、田村はスポーツ用品店に出かけた。
 登山コーナーというものが、こんなに広かったとは知らなかった。
 ザック。
 登山靴。
 ウェア。
 レインギア。
 ストック。
 ヘッドランプ。
 地図。
 コンパス。
 棚に並ぶものの半分は、用途すら分からない。
 「何かお探しですか?」
 店員が声をかけてきた。
 二十代の若い男で、顔が日に焼けていた。
 「山に登りたいと思って」
 「どのくらいのレベルをお考えですか?」
 「全くの初心者です」
 「日帰りのハイキングから始めますか? それとも……」
 「北アルプスに登りたい」
 店員の動きが止まった。
 「……北アルプスですか?」
 「はい」
 「初心者の方には、まず低山から始めることをお勧めしているんですが」
 「北アルプスじゃないと、という理由はないんです」
 田村は少し考えた。
 「ただ、どうせやるなら、ちゃんとしたところに行きたい」
 店員は困った顔をした。
 それから、
 「少々お待ちください」
 と言って、店の奥へ消えた。
 しばらくして戻ってきたのは、店員ではなかった。
 六十代か七十代の小柄な老人だった。
 白髪を短く刈り込み、顔は革のように日焼けしている。
 目だけが妙に鋭かった。
 「あんた、北アルプスに登りたいって?」
 「ええ」
 「登山経験は?」
 「ありません」
 老人は田村をじろじろと見た。
 頭から足まで。
 それから、
 「靴のサイズは?」
 「二十七センチです」
 「体重」
 「七十二キロです」
 「普段、どのくらい歩く?」
 「通勤で一日三十分くらいでしょうか。最近は在宅なので、ほとんど歩いていません」
 老人は深く息を吐いた。
 よく練れたため息だった。
 「あんた」
 「はい」
 「山を舐めてるだろ」
 田村は少しムッとした。
 「舐めてはいません」
 「経験ゼロで北アルプスに行きたいと言う人間は、大抵そう言う」
 「……」
 老人は田村の顔を見た。
 「なぜ北アルプスなんだ」
 「窓から見えた稜線が気になって」
 「それだけか?」
 「それだけです」
 老人は、しばらく黙った。
 やがて、
 「ふん」
 と言った。
 「変な奴だな」
 「よく言われます」
 「そうか」
 老人は少しだけ笑った。
 「なら、見込みはある」
 「見込み?」
 「物好きってことだ」
 老人は店員に向かって言った。
 「俺が見る」
 そして田村に向き直った。
 「道具は俺が選んでやる。ただし、いきなり北アルプスには連れていかん」
 「はい」
 「まず俺についてこい」
 「あの……どなたですか?」
 「奥村だ」
 老人はぶっきらぼうに答えた。
 「奥村鉄三。ここのオーナー。山岳ガイドを三十年やってる」
 それが、田村悟志と、偏屈な師匠との出会いだった。



二章 師匠の最初の授業は、登山とは無関係だった
 翌日。
 田村は奥村に呼ばれ、店の奥にある小部屋に入った。
 壁には山の写真が所狭しと貼ってある。
 険しい岩稜。
 雪をかぶった峰。
 雲海。
 夕暮れの山小屋。
 どれも田村には知らない世界だった。
 奥村が湯飲みを置いた。
 「まず聞く」
 「はい」
 「あんた、今、何に興味がある?」
 田村は答えられなかった。
 「……今は、特に何にも」
 「何にも?」
 「休職中で。やる気がなくなっています」
 「そのやる気のない人間が、なぜ北アルプスに行こうとする」
 「自分でも分かりません」
 「分からんのか」
 「はい。ただ、窓から見えた稜線を見て、久しぶりに何かを感じたんです」
 奥村は湯飲みを両手で包んだ。
 「ふん」
 それから、
 「あんた、何の仕事をしてた?」
 「システムエンジニアです。大手の受託開発会社で、プロジェクトマネージャーをやっていました」
 「好きだったか?」
 「最初は」
 「今は?」
 「怖いです」
 田村は自分でも驚くほど素直に答えていた。
 「ミスが怖い。責任が怖い。部下が怖い。会議が怖い。気がついたら、全部怖くなっていました」
 奥村は黙って聞いていた。
 「いつからだ?」
 「分かりません。五年くらい前から、少しずつだと思います」
 「なぜ五年も黙ってた?」
 田村は答えなかった。
 奥村が言った。
 「言えなかったんじゃない」
 田村は顔を上げた。
 「言いたくなかったんだろ」
 胸に刺さった。
 「弱ってるって、認めたくなかった」
 田村は目を逸らした。
 奥村はそれ以上追及しなかった。
 しばらくして、湯飲みを置いた。
 「あんたが山を始めるにあたって、最初に覚えることがある」
 「登山技術ですか?」
 「違う」
 「じゃあ……」
 「興味だ」
 田村は首を傾げた。
 「山に興味を持つことですか?」
 「違う。自分に興味を持つんだ」
 「自分に?」
 「あんたは仕事のことばかり考えて、自分を放ったらかしにしてきたんだろ」
 田村は黙った。
 「何が好きなのか。何が嫌なのか。何が楽しいのか。何をしたくないのか。そういうことを、もう長いこと考えてないんじゃないか」
 図星だった。
 「山はな」
 奥村が言った。
 「こっちが疲れてるのに、元気なふりなんかさせてくれない」
 「……」
 「脚が痛けりゃ痛い。腹が減れば腹が減る。怖けりゃ怖い。山は、会社みたいに『大丈夫です』と言っても信じてくれん」
 田村は思わず笑った。
 「何ですか、それ」
 「山は人事評価をしてくれないってことだ」
 奥村も笑った。
 「だから、最初の練習をする」
 「何を?」
 「毎晩、自分に聞け」
 奥村は指を一本立てた。
 「今日、何が楽しかったか」
 「それだけですか?」
 「一つでいい」
 「登山の練習に聞こえませんが」
 「俺もそう思う」
 田村は思わず吹き出した。
 「じゃあ、なぜやるんですか?」
 「知らん」
 「……」
 「でも、やってみろ。物好きなんだから」
 その夜。
 田村は久しぶりにノートを開いた。
 白いページの真ん中に、ぽつんと書いた。
 『今日、何が楽しかったか。』
 しばらく考えた。
 何も思いつかなかった。
 それでも、今日一日を思い返した。
 やがて一つだけ浮かんだ。
 『奥村のいる、あの小部屋のお茶が美味かった。』
 それだけ書いた。
 田村は、その一行をしばらく眺めていた。
 なぜだか分からない。
 少しだけ、胸が軽かった。



三章 低山での洗礼、あるいは体の正直さについて
 最初の山は、奥多摩の低山だった。
 標高千メートルにも満たない、初心者向けのコース。
 それでも田村には十分すぎるほどきつかった。
 登り始めて三十分で膝が笑い出した。
 一時間で息が上がり、まともに会話できなくなった。
 奥村は二歩ほど前を歩いていた。
 田村が遅れると止まる。
 田村が歩けば歩く。
 それだけだった。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「もう少し、ゆっくり歩いてもらえませんか」
 「今、俺はゆっくり歩いてる」
 「そうですか?」
 「俺にはな」
 田村は苦笑した。
 しばらく歩いてから、
 「先に行ってください」
 と言った。
 「なぜ?」
 「後ろから見られていると、追いつかなきゃと思ってしまいます」
 奥村が振り返った。
 それから笑った。
 「正直に言ったな」
 「はい」
 「よし。じゃあ先に行く」
 「いいんですか?」
 「ただし、俺を追うな」
 奥村はさっさと先へ進んだ。
 田村は一人になった。
 すると不思議なことに、楽になった。
 速く歩く必要はない。
 息が苦しければ止まればいい。
 足が重ければ休めばいい。
 誰にも急かされない。
 田村は初めて、自分の歩き方を探した。
 頂上に着いたのは、コースタイムより四十分遅かった。
 奥村は岩の上に座り、弁当を食べていた。
 田村が到着すると、
 「遅い」
 と言った。
 「すみません」
 「謝るな。ただの事実だ」
 「……」
 「次は三十分縮めろ」
 田村は笑った。
 「鬼ですね」
 「山では鬼くらいでちょうどいい」
 田村は隣に腰を下ろした。
 コンビニで買った塩むすびを取り出す。
 一口食べた。
 田村は手を止めた。
 「……美味い」
 「何だ?」
 「これ」
 「塩むすび?」
 「こんなに美味かったでしたっけ」
 奥村は鼻で笑った。
 「腹が減ってるからだ」
 「それだけですか?」
 「それだけだ」
 少し間を置いて、
 「でも、それが大事なんだ」
 と言った。
 田村は遠くを見た。
 稜線の向こうに、白い峰が見えた。
 「あれが北アルプスですか?」
 「ああ」
 「遠いですね」
 「遠いな」
 「いつか行けますかね」
 奥村は田村を見た。
 「その前に、ここを何回か歩け」
 「はい」
 「山は、行きたいところより、帰ってこられるところから始めるんだ」
 田村は、その言葉を覚えていた。
 下山の途中、田村は聞いた。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「次から、道具の意味を教えてもらえますか?」
 「なぜ?」
 「なぜこの靴なのか。なぜこのザックなのか。なぜストックを使うのか。全部知りたい」
 奥村はしばらく黙って歩いた。
 そして、
 「物好きだな」
 と言った。
 「そうですか?」
 「褒めてる」
 その日の夜。
 田村はノートを開いた。
 『今日、何が楽しかったか。』
 迷わず書いた。
 『山の上で食べた塩むすび。』



四章 先輩方の知恵というのは、検索では出てこない
 それから三ヶ月。
 田村は週に一度、奥村と山に入った。
 奥多摩の低山から始まり、丹沢、八ヶ岳の麓へ。
 少しずつ標高を上げた。
 奥村は歩きながら、いろいろなことを教えた。
 地図の読み方。
 天気の見方。
 行動食の選び方。
 水の確保。
 テントの設営。
 ガスバーナーの扱い。
 装備の整理。
 休憩の取り方。
 田村は一つ一つノートに書いた。
 「書くな」
 ある日、奥村が言った。
 「なぜですか?」
 「書くと安心するからだ」
 「覚えるために書いているんですが」
 「書いたことで、分かった気になる」
 奥村は田村のノートを指で叩いた。
 「体で覚えろ。手で覚えろ」
 「失敗して?」
 「そうだ」
 「危なくないですか?」
 「だから俺がいる」
 奥村は平然と言った。
 「ただし、死ぬほどの失敗はするな」
 田村は笑った。
 「ずいぶん都合のいい教え方ですね」
 「師匠なんて、そんなもんだ」
 その言葉の意味を、田村は一週間後に思い知った。
 八ヶ岳の稜線を歩いていた。
 午後から天気が崩れる予報だった。
 空の色が変わり始めていた。
 奥村が立ち止まった。
 「今日はここまでだ」
 「もう少し行けませんか?」
 奥村が田村を見た。
 「レインウェアは?」
 「ザックに入っています」
 「出してみろ」
 田村はザックを下ろした。
 レインウェアは一番奥だった。
 食料を出し、水筒をどけ、タオルを引っ張り出す。
 ようやく見つけた。
 一分以上かかった。
 奥村は黙って見ていた。
 「もし今、雨が降ったら?」
 田村は答えられなかった。
 「濡れてから着るつもりか?」
 「……」
 「山はな、知識のテストじゃない」
 奥村は空を見た。
 「今、何が必要か。それを取り出せるかどうかだ」
 その瞬間、冷たい雨が落ちてきた。
 奥村は、
 「帰るぞ」
 と言った。
 帰り道、田村は黙っていた。
 口惜しいというより、自分の甘さが恥ずかしかった。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「ネットで調べて、頭の中では分かっているつもりでした」
 「うん」
 「でも、全然違いますね」
 「当たり前だ」
 「知っていることと、できることは違う」
 「そういうことだ」
 しばらくして、奥村が言った。
 「今日、あんたは一つ賢くなった」
 「失敗したから?」
 「失敗したのに、言い訳しなかったからだ」
 田村は何も答えなかった。
 その翌週から、田村は家でザックの整理を練習した。
 目をつぶっても、必要なものが取り出せるように。
 家の廊下でザックを背負い、何度も荷物を出し入れした。
 一日三十分。
 妻の麻子が実家から戻ってきたのは、ちょうどその頃だった。
 廊下に立つ田村を見て、
 「何をやっているの?」
 と聞いた。
 「登山の練習」
 麻子はしばらく田村を見ていた。
 急に仕事を休んで心配ばかりかけていた夫の顔を、じっと見つめ直すように。
 そして、少しだけ安心したように微笑んで、
 「なんか、顔が変わった」
 と言った。
 「変わった?」
 「うん」
 少し考えてから、
 「真剣な顔してる。久しぶりに見た」
 田村は照れくさくなった。
 その夜。
 ノートを開いた。
 『今日、何が楽しかったか。』
 田村は二行書いた。
 『妻が戻ってきたこと。』
 『真剣な顔をしていると言ってもらえたこと。』
 翌日。
 田村は奥村の店へ行った。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「先輩方の話を聞きたいです」
 「先輩?」
 「奥村さんが若い頃に教わった人たちです」
 奥村は少しだけ目を細めた。
 「なぜ?」
 「本やネットに書いてあるマニュアルじゃなく、生身の経験を聞きたくなったんです」
 奥村は黙った。
 やがて、
 「そういうことか」
 と言った。
 そして初めて、自分の昔話を始めた。



五章 奥村鉄三の昔話、あるいは山が人を作る方法について
 奥村鉄三が最初に山に登ったのは、十六歳の時だった。
 父親に連れられて、北アルプスの燕岳に登った。
 「しんどかった」
 奥村は言った。
 「途中で何度も帰りたいと思った」
 「でも帰らなかった」
 「帰れなかった」
 奥村は笑った。
 「父親が先に行っていたからな」
 「待ってくれなかったんですか?」
 「待たん」
 「厳しいですね」
 「昔の親父なんて、そんなもんだ」
 父親は振り返らなかった。
 ただ歩き続けた。
 奥村は、それを追いかけるしかなかった。
 頂上に着いたとき、父親は息子に一言だけ言った。
 「見ろ」
 雲海の上に、山が連なっていた。
 奥村は何も言えなかった。
 「初めて見る景色だった」
 奥村は窓の外を見た。
 「そのとき、分かったんだ。親父がなぜ山に来るのか」
 「それから山が好きになったんですか?」
 「いや」
 田村は笑った。
 「嫌いだった」
 「え?」
 「体が痛かったからな」
 二人は笑った。
 「三回目に登ったとき、初めて好きになった」
 「なぜ三回目?」
 「一回目は苦しかった。二回目は少しだけ楽だった。三回目に初めて、景色を見る余裕ができた」
 奥村は湯飲みを持ち上げた。
 「何でもそうだ。最初から楽しめる奴なんて、そんなに多くない」
 「奥村さんの師匠は、お父さんだったんですか?」
 「父親は俺が二十歳のときに死んだ。山じゃない。病気だ」
 奥村の声が少しだけ低くなった。
 「その後は、いろんな人に教わった」
 「一番印象に残っている人は?」
 「山田という男だ」
 奥村は壁の写真を見た。
 「プロのガイドだった。もう亡くなったがな」
 「どんな人だったんです?」
 「よく見ていた」
 「見る?」
 「空を見る。雲を見る。風を見る。岩を見る。雪を見る。人を見る」
 奥村は指を一本立てた。
 「俺が何も言わなくても、山田さんは立ち止まった。俺が『どうしたんですか』と聞くと、『風が変わった』と言う」
 「それだけ?」
 「それだけだ」
 「どうやって分かるんですか?」
 「知らん。俺も真似した」
 「真似して分かるようになった?」
 「十年くらいかかった」
 田村は笑った。
 「十年ですか」
 「山は検索できんからな」
 その言葉が妙に印象に残った。
 奥村は続けた。
 「もう一人、忘れられない人がいる」
 「どんな人ですか?」
 「女性だ。俺が四十代の頃、槍ヶ岳で会った」
 「槍ヶ岳?」
 「ああ。七十代のおばあさんだった」
 「七十代で槍ヶ岳を?」
 「小さなリュック背負って、サクサク登ってた。俺の方が追いつくのに必死だった」
 「すごいですね」
 「頂上で話しかけたら、『六十歳から始めた』と言ってた」
 「六十歳から……」
 「旦那に先立たれて、何かしなきゃと思ったらしい。友人に誘われて登山を始めた。それから十年」
 奥村は少し笑った。
 「十年で槍ヶ岳だ」
 「その人、何て言ったんですか?」
 「ああ」
 奥村は目を細めた。
 「『山は正直だから好きです』」
 田村は黙った。
 「『こちらが本気でかかると、ちゃんと応えてくれる』ってな」
 田村はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
 山は正直。
 自分が本気でかかれば、応えてくれる。
 仕事では、何をしても評価や都合や人間関係が絡んだ。
 でも山には、それがない。
 歩けば進む。
 休めば止まる。
 間違えれば危険になる。
 単純だった。
 だからこそ、難しい。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「山って、不思議ですね」
 「今ごろ気づいたか」
 「はい」
 「遅い」
 「すみません」
 「謝るな」
 奥村は笑った。
 「山は待ってくれる」
 「待ってくれる?」
 「ああ。今日登れなかったら、明日登ればいい。明日が駄目なら来年でもいい」
 「でも、山は逃げない」
 「そうだ」
 奥村は言った。
 「逃げるのは、だいたい人間の方だ」
 その言葉を聞いた田村は、なぜか胸が熱くなった。
 そして奥村は、田村の顔を見た。
 「そろそろ行けるぞ」
 「どこへ?」
 「北アルプスだ」
 田村の胸が高鳴った。



六章 本番、あるいは北アルプスの本当の顔
 田村が北アルプスに足を踏み入れたのは、弟子入りから八ヶ月後の夏だった。
 コースは燕岳から槍ヶ岳への縦走。
 三泊四日。
 奥村が選んだ。
 「初めての本格的な山行にしては、少しきつい」
 「少し?」
 「かなりきつい」
 「正直ですね」
 「嘘をついて山で死なれたら、俺が困る」
 田村は笑った。
 出発前、奥村が言った。
 「一つだけ約束しろ」
 「何ですか?」
 「しんどくなったら、すぐ言え」
 「はい」
 「格好つけるな」
 「はい」
 「怖かったら?」
 「言います」
 「よし」
 一日目。
 合戦尾根の登りは、覚悟していたよりきつかった。
 標高差が一気に上がっていく。
 足が重い。
 呼吸が荒くなる。
 以前の田村なら、奥村に遅れまいと無理をしていた。
 だが今は違った。
 三歩歩いて、一息。
 五歩歩いて、一息。
 必要なら止まる。
 自分のリズムを守る。
 燕山荘が見えてきたとき、田村の目に最初に飛び込んできたのは、空だった。
 空が近い。
 雲が同じ高さにある。
 その向こうに、白く輝く稜線が連なっている。
 「あれが表銀座だ」
 奥村が言った。
 田村は言葉を失った。
 「……すごい」
 それしか出なかった。
 「そういうときは、それでいい」
 奥村が言った。
 田村は遠くの稜線を見た。
 八ヶ月前。
 自宅の窓から見た、あの山。
 あれが、ここにつながっていた。
 「来てよかった」
 田村が呟いた。
 奥村は何も言わなかった。
 ただ、隣に立って同じ方向を見ていた。
 二日目。
 稜線歩き。
 晴れていれば天国のような道だ。
 だが午前中から雲が出始めた。
 奥村が空を見上げた。
 「ペースを上げる」
 「はい」
 午後二時。
 天気が急激に崩れた。
 雷だった。
 稜線に立っていると、雷は遠い空の出来事ではない。
 真横から来る。
 空気そのものが震えた。
 轟音。
 田村の身体が硬くなった。
 「走れ!」
 奥村が叫んだ。
 田村は考える前に走った。
 雨で滑る岩肌を踏みしめ、足元の浮き石に肝を冷やしながら前へ進む。
 滑らないように。
 転ばないように。
 必死に前を走る奥村の背中を追う。
 前方に小屋が見えた。
 重い扉を開けて飛び込んだ。
 肩で息をしながら、田村は振り返った。
 扉の向こうで激しい稲妻が走った。
 「怖かったか?」
 奥村が聞いた。
 「怖かったです」
 即答だった。
 奥村はうなずいた。
 「いい返事だ」
 田村は濡れたウェアを脱いだ。
 「怖くない人間の方があぶない」
 奥村が言った。
 「怖いから、逃げる。怖いから、考える。怖いから、戻る。それでいい」
 田村は黙って聞いていた。
 半年前の自分だったら、怖いと言えなかった。
 会社で怖いと言えなかったように、山でも格好をつけただろう。
 何かが変わっていた。
 いや。
 変わったというより、戻ってきたのかもしれない。
 自分に。



七章 槍ヶ岳の頂上で、田村悟志は何かを決めた
 三日目の朝。
 快晴だった。
 槍ヶ岳の穂先が、青空の中に鋭く突き刺さっている。
 その下に広がる雲海は、白い海のようだった。
 最後の岩場。
 鎖とはしごを使って登る。
 高度感がある。
 足が震えた。
 それでも田村は、手足を一つずつ確かめながら進んだ。
 そして頂上に立った。
 言葉が出なかった。
 三百六十度の展望。
 雲の上に、山だけがある。
 遠くに富士山も見えた。
 「初めて来たとき、親父に『見ろ』と言われた」
 奥村が言った。
 「何も言えなかった」
 「同じです」
 田村は答えた。
 「何も言えません」
 「出なくていい」
 二人は黙っていた。
 風が吹いていた。
 やがて田村が言った。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「私はこれから、どうしたらいいと思いますか」
 「仕事か?」
 「全部です」
 「山も?」
 「山も」
 「家族も?」
 「家族も」
 奥村はしばらく考えた。
 そして、
 「俺に聞くな」
 と言った。
 「……」
 「あんた自身が分かってくだろ」
 「そうでしょうか」
 「ここまで自分の足で来たんだ。答えまで俺に背負わせるな」
 田村は笑った。
 そして、遠くを見た。
 八ヶ月。
 何を学んだだろう。
 興味を持つこと。
 体を動かすこと。
 失敗すること。
 先輩に聞くこと。
 格好をつけないこと。
 怖いと言えること。
 自分のペースを知ること。
 それは、登山の技術だったのだろうか。
 違う。
 もっと別の何かだった。
 「復職したいと思います」
 田村は言った。
 「そうか」
 「ただ、前と同じには戻りたくない」
 「うん」
 「しんどいと言える自分でいたい。限界を認められる自分でいたい」
 奥村は黙っていた。
 「会社が受け入れてくれるかは分かりません」
 「そうだな」
 「以前と同じ仕事ができないかもしれない」
 「それも、やってみなきゃ分からん」
 奥村は田村の足元を見た。
 「あんたは今、自分の足でここに立っている」
 田村も足元を見た。
 岩の上に、確かに自分の足があった。
 「それだけは、誰にも否定できん」
 田村は静かにうなずいた。
 しばらくして、もう一つ聞いた。
 「私はこれからも山を続けたいと思っています」
 「そうしろ」
 「続けた先に、誰かに教えることができるでしょうか」
 奥村が初めて、満面の笑みを見せた。
 「それを聞くのは、まだ早い」
 「そうですか」
 「でも」
 奥村は空を見た。
 「遅くはない」



終章 物好きの美学、あるいはすべてを渡すこと
 田村悟志が復職したのは、弟子入りから一年が経った秋だった。
 職場に戻ると、いくつかのことが変わっていた。
 担当するプロジェクトは以前より小さくなり、部下の数も減っていた。
 それを「左遷」と感じる人もいるだろう。
 田村は、そう思わなかった。
 むしろ、余白ができたと思った。
 だが、すぐに何もかもがうまくいったわけではない。
 ある日の会議で、若い部下が資料のミスを指摘された。
 以前の田村なら、
 「なぜこんな簡単なことができないんだ」
 と言っていただろう。
 その言葉が、喉まで出かかった。
 田村は一瞬、昔の自分に戻っていた。
 怖かった。
 自分がまた同じ場所へ戻ってしまう気がした。
 会議室の空気が重くなる。
 田村は息を吐いた。
 「今日はここまでにしましょう」
 部下が顔を上げた。
 「修正は明日でいい。今日はもう帰ろう」
 会議が終わった。
 田村は一人で残った。
 窓の外を見た。
 夕方の空が、少し赤かった。
 その夜。
 ノートを開いた。
 『今日、何が楽しかったか。』
 田村は長いこと考えた。
 今日は、楽しいことはなかった。
 それでも一行書いた。
 『怒鳴らなかった。』
 それだけだった。
 だが、田村には十分だった。
 翌日。
 また仕事が始まった。
 以前とは違う。
 完璧ではない。
 それでも、自分のペースを少しずつ取り戻していた。
 部下が「しんどい」と言えるようになった。
 以前の田村は、その言葉を聞くのが苦手だった。
 自分が弱さを認めていなかったからだ。
 今は違う。
 「しんどいなら、言ってくれ」
 そう言えるようになった。
 復職から三ヶ月後。
 若い部下が言った。
 「田村さん、最近変わりましたね」
 「どんなふうに?」
 「なんか、余裕がある感じがします」
 少し考えて、
 「以前は、話しかけるのが怖かったです」
 と言った。
 田村は苦笑した。
 「そうか」
 「すみません」
 「謝るな」
 田村は笑った。
 「言ってくれてありがとう」
 その頃から、登山も続けた。
 週に一度の奥村との山行は、復職後も変わらなかった。
 二年目の春。
 奥村が言った。
 「そろそろ一人で行ってみろ」
 「一人で?」
 「怖いか?」
 「怖いです」
 「なら行け」
 「怖いのに?」
 「怖いからだ」
 奥村は笑った。
 「逃げるな、という意味じゃない。怖さを知ったまま、自分で判断する練習だ」
 田村は一人で奥多摩の低山に入った。
 最初に奥村と登った、あの山だった。
 今は一人で地図を読む。
 天気を見る。
 自分のペースで歩く。
 頂上で弁当を広げた。
 遠くの稜線を見る。
 北アルプスが霞の向こうに白く光っていた。
 田村はノートを取り出した。
 『今日、何が楽しかったか。』
 考えるまでもなかった。
 『全部。』
 それから田村は、週末に近所の山岳サークルへ顔を出すようになった。
 奥村に勧められたわけではない。
 自分で探した。
 自分で連絡した。
 自分で行った。
 サークルには、登山を始めたばかりの人間が何人もいた。
 道具の選び方が分からない人。
 地図が読めない人。
 天気の判断ができない人。
 田村は一つずつ、知っていることを伝えた。
 ただし、言葉だけではなく、一緒に歩きながら。
 ある日、若い参加者が聞いた。
 「田村さんは、どこで山を覚えたんですか?」
 「いい師匠に会えたから」
 「どんな師匠ですか?」
 田村は少し考えた。
 「偏屈で、口が悪くて、でも正直な人です」
 「怖そうですね」
 「怖いよ」
 田村は笑った。
 「でも、嘘をつかない。格好をつけない。それが一番の教えだったと思います」
 「田村さんも、同じですよ」
 「そうかな」
 「一緒に歩いていると、分かります」
 その言葉が、田村には少し嬉しかった。
 その夜。
 奥村の店に寄った。
 奥村はカウンターの向こうでコーヒーを淹れていた。
 「サークルで、少しずつ教え始めました」
 「そうか」
 「まだうまく教えられません」
 奥村はコーヒーを田村の前に置いた。
 「うまく教えようとするな」
 「え?」
 「知ってることを渡せ」
 「全部ですか?」
 「全部だ」
 奥村は言った。
 「出し惜しみするな」
 「全部渡したら、自分のものがなくなりませんか?」
 奥村は鼻で笑った。
 「馬鹿だな」
 「……」
 「知識は物じゃない。渡したら減るもんじゃない」
 田村はコーヒーを一口飲んだ。
 「渡せば渡すほど、あんた自身が深くなる」
 田村は頷いた。
 しばらくして、聞いた。
 「奥村さん」
 「何だ」
 「なぜ私を弟子にしたんですか?」
 「最初に会ったとき、経験もなくて、動機も曖昧だったでしょう」
 「そうだったな」
 「なのに、なぜ?」
 奥村はしばらく黙った。
 やがて、
 「目だ」
 と言った。
 「目?」
 「何かに飢えてる目をしてた」
 田村は黙った。
 「燃え尽きていた」
 奥村は言った。
 「でも、その奥に、まだ何かあった」
 「それが分かったんですか?」
 「長く人間を見てりゃ、なんとなく分かる」
 奥村は肩をすくめた。
 「道具は揃えられる。体力もつけられる。技術も教えられる」
 そして、
 「でも、本物の好奇心だけは、他人から入れてもらえん」
 と言った。
 田村は窓の外を見た。
 夜空に、かすかな星が見えた。
 「ありがとうございました」
 奥村は眉をひそめた。
 「まだ礼を言うな」
 「なぜです?」
 「あんた、まだ始まったばかりだ」
 「そうですね」
 「北アルプスはまだある」
 「はい」
 「南アルプスもある」
 「はい」
 「冬山もある。沢もある」
 「沢まで?」
 「嫌か?」
 「いえ」
 田村は笑った。
 「面白そうです」
 奥村が少しだけ目を細めた。
 「そうだろうな」
 田村はコーヒーを飲んだ。
 苦味の向こうに、ほんの少し甘さがあった。
 店を出る。
 夜の空気が冷たかった。
 田村は空を見上げた。
 山は見えない。
 それでも、どこかにある。
 まだ行っていない場所がある。
 まだ知らない景色がある。
 まだ会っていない人がいる。
 まだ、やっていないことがある。
 そう思うと、少し可笑しかった。
 四十二歳。
 人生の半分を過ぎてから、こんなことを考えるとは思わなかった。
 田村は歩き出した。
 急ぐ必要はない。
 自分のペースでいい。
 そして、ふと思った。
 明日は、どこへ行こうか。

           ――了――


Kindle



あとがき
 山というのは、不思議な場所です。
 しんどい。
 疲れる。
 足は痛い。
 天気は急に変わる。
 虫もいる。
 重い荷物を背負って、わざわざ高いところまで歩いていく。
 冷静に考えると、かなり物好きな趣味です。
 それでも、なぜ人は山へ向かうのでしょうか。
 たぶんそこには、
 「自分がちゃんと生きている」
 という感覚があるからだと思います。
 一歩ずつ歩くこと。
 息を整えること。
 怖いと思うこと。
 美しいと思うこと。
 助けてもらうこと。
 誰かに教わること。
 そして、いつか自分が誰かに教えること。
 山では、普段ごまかしているものが、そのまま出てきます。
 だから苦しい。
 でも同時に、
 だからこそ救われる。
 田村悟志という男も、最初から強かったわけではありません。
 弱って。
 止まって。
 何も感じられなくなったところから始まりました。
 けれど、何かに興味を持つことを諦めなかった。
 それが彼を、もう一度前へ進ませました。
 奥村鉄三のような人は、現実にも時々います。
 不器用で。
 偏屈で。
 口も悪い。
 けれど、本当に大切なことだけは、決して誤魔化さない人。
 そういう先輩方の背中に、人生を救われた人は、案外たくさんいるのではないでしょうか。
 そして面白いことに、教わった人は、いつか誰かに渡す側になります。
 知識も。
 経験も。
 失敗も。
 全部です。
 渡しても減らない。
 むしろ、渡した分だけ、人は深くなっていく。
 人生も、山も、きっと同じなのだと思います。
 もし今、少し疲れている人がいるなら。
 遠くを見る元気がない人がいるなら。
 まずは近所を歩いてみてください。
 空を見てください。
 風を感じてください。
 そして、
 今日、何が少し良かったか。
 一つだけ探してみてください。
 お茶が美味かった。
 空がきれいだった。
 誰かが笑っていた。
 少しだけ歩けた。
 そんな小さなことでいい。
 案外そこから、次の稜線が見えてくるかもしれません。
 そして、その稜線の向こうには、まだ知らない景色が待っています。
 人生は、思っているより長い。
 そして、思っているより物好きです。
 どうせ一度きりなら。
 少しくらい、物好きでいきましょう。



三部作 物好きの山


第一部

見えない手
―ある釣り人の記録―


まえがき
若い頃の私は、前へ進むことばかりを考えていました。障害があれば乗り越え、不都合があれば勢いで押し切り、自分の思い通りに時間を動かすことこそが「生きること」だと信じて疑わなかったのです。しかし、人は誰しも年齢を重ね、予期せぬ挫折や身体の衰え、身近な人との別れを経験します。還暦という節目の坂を越えたとき、ふと振り返ってみれば、私が「己の力で切り開いてきた」と思っていた道の傍らには、常に無言で私を立ち止まらせてくれた「何か」が存在していたことに気づかされました。
本作は、一人の釣り人が秋の渓流を前に経験した小さな足止めと、時を超えて受け継がれる祖父の言葉を巡る短い物語です。人生には、進むことと同じくらい「引き返すこと」「留まること」に深い意味がある瞬間が存在します。日々の忙しない流れの中で、ふと立ち止まり、ご自身の歩んできた道を穏やかに愛おしむような時間となれば幸いです。


一
腰を痛めたのは、先週の水曜日だった。
荷物を持ち上げようとした瞬間、腰の奥に鈍い痛みが走った。
たいしたことはない。
そう自分に言い聞かせたものの、そのまま動くことができず、三日ほど大人しくしていた。
ところが今度は、喉の奥がひりつき始めた。
熱も出た。
風邪だった。
風邪薬を飲みながら体を休め、そして迎えた今日、土曜日。
窓の外は朝から土砂降りだった。
今週末に予定していた、山奥への釣行は、これで完全に流れた。
腰。
風邪。
アンド雨。
三段階だ。
私は窓の外を眺めながら、独りごちた。
一つなら、偶然で片づけられる。
二つでも、まあ、そんなこともあるだろうと思える。
だが三つ揃うと、話は少し違ってくる。
まるで、念には念を入れて、あらゆる角度から道を塞ぎに来たかのようだった。
「分かった」
私は誰にともなく呟いた。
「ありがとう。もちろん、やめとくよ」
人に話せば、きっと笑われる。
「ただの偶然だよ」
そう言われるに決まっている。
もちろん、私だって、それが偶然ではないと証明できるわけではない。
それでも、この感覚だけは、当人にしか分からないものなのだ。


二
今週末は、山奥に分け入って、フライフィッシングをする予定だった。
今シーズンは、体の不調やそのリハビリ、さらには実家の片付けといった雑事も重なり、なかなか機会を作れずにいた。そこへ最近は、あちこちで熊の出没情報まで聞くようになった。
気がつけば、まだ一度も渓に足を運べていない。
しかも今月末には禁漁になる。
だからこそ、行けるときに行っておこうと思った。
熊避けスプレーも用意した。
もちろん、それだけで安全が保証されるわけではない。
それでも、できる準備はしておきたかった。
今週末を選んだのも、そのためだった。
ところが、である。
腰を痛めた。
風邪をひいた。
そして、雨が降った。
これだけ重なると、さすがに考えてしまう。
やはり今回も、あの見えない何者かが、私を止めに入ったのではないか。
そう思わずにはいられなかった。


三
こんなことは、若い頃から何度となくあった。
ただ、当時の私は、その気配にまるで気づかなかった。
若さというものは、ときに鈍感さとよく似ている。
行きたいと思えば行く。
やりたいと思えばやる。
少々の不調や違和感など、勢いで踏み越えてしまう。
相変わらずの勢い任せで、そのたびにたいてい失敗した。
怪我をしたこともある。
後になって振り返れば、
「あのとき、やめておけばよかった」
と思うことも少なくなかった。
それが単なる不運だったのか。
それとも、何かの警告だったのか。
その重大さに、ようやく気づいたのは、還暦を迎えた年だった。
何かに乗り出そうとすると、その直前になって決まっておかしなことが起きる。
たとえば、バイク。
出発しようとすると、エンジンがかからない。
前の日までは何の問題もなかったのに、である。
あるときはタイヤがパンクしていた。
別のときにはライトが点かなかった。
修理工場へ持っていっても、はっきりした原因が分からないことも多かった。
ところが、
「そうか。今日はそう来たか」
と呟いて出発を諦めると、その直後、バイクは何事もなかったかのように動き始める。
何度もそんなことが続いた。
さすがに私は考えるようになった。
これは、単なる故障ではないのではないか。
もちろん、そんなことを誰かに話せば笑われる。
だから、私は誰にも言わなかった。
ただ一つだけ、やり方を変えた。
無理に突破しようとしない。
一度立ち止まってみる。
そして、
「ありがとう」
と声に出して、その声に従ってみる。
それを覚えてからというもの、私の暮らしは少しだけ静かになった気がする。


四
不思議なことに、この感覚は、大きな出来事だけに限らない。
日常の、ごく些細な場面にも潜んでいる。
たとえば、目当てのものを買いに出かけたとする。
売り場まで行く。
すると、そこにはすでに先客がいる。
ただ、それだけのことだ。
混んでいるわけでもない。
店員に断られたわけでもない。
ほんの少し待てば済む。
それなのに、なぜか私は、
「今日は、それじゃない」
という気がすることがある。
そこで無理に待たず、別の売り場を覗いてみる。
すると、ふと思う。
「なるほど。これではなかった」
あるいは、
「いや、そもそも、今の自分には必要なかったな」
と気づく。
先客というだけの、何でもない出来事。
偶然と言われれば、それまでだ。
それでも、そんな小さな出来事が積み重なっていくと、いつの間にか一つの感覚が育ってくる。
守られているのか。
試されているのか。
助言なのか。
それとも、神託のようなものなのか。
先祖なのか。
神様なのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
私には、何一つ分からない。
だが、今では、それでいいと思っている。
名前をつけてしまえば、かえって何か大切なものを見失う気がするのだ。


五
実家の片付けをしていたときのことだった。
仏壇の裏に置かれていた古い茶箱を動かした。
底には、長い間誰にも触れられていなかったような、一冊の大学ノートがあった。
表紙には、祖父の名前が万年筆で記されている。
私はしばらく、その名前を眺めた。
祖父は、私が子どもの頃にはもうかなり年を取っていた。
無口な人だった。
こちらから話しかけなければ、何時間でも黙っているような人だった。
だが、釣りだけは好きだった。
ノートを開いてみる。
そこには、長年にわたる渓流釣りの記録が残されていた。
日付。
天候。
川の名前。
水量。
釣果。
どこで何匹釣れたか。
どんな毛鉤を使ったか。
実に几帳面な字で、淡々と記されている。
ところが、ページをめくっていくうちに、時々、妙な一文が混じっていることに気づいた。
「今日は出発の朝、下駄の鼻緒が切れた。行くのをやめた」
別のページには、
「支度をしていたら、猫が三度、こちらを見て鳴いた。中止とする」
さらに、
「体の節々が痛み、目まいもする。天の意向と見て、竿を仕舞う」
私は、そこで手を止めた。
祖父もまた、同じものを感じていたのだろうか。
偶然を、偶然のまま受け取らない何かを。
ページをめくる。
そして、ある年の秋の記述に目が留まった。
短い文章だった。
「隣村の彦市、無理に出て、渓で足を滑らせ帰らぬ人となる。合図を侮るなかれ」
私はしばらく、その文字から目を離すことができなかった。
背筋を、冷たいものがすっと走った。


六
その夜、私は祖父のノートを枕元に置いて眠った。
夢を見た。
深い山の中だった。
私は一人で渓を歩いている。
木々の間から差し込む光は薄く、水の流れる音だけが静かに響いていた。
しばらく歩いていると、対岸の岩の上に誰かが立っているのが見えた。
老人だった。
顔はよく分からない。
古びた蓑のようなものを身につけている。
老人は何も言わず、ただこちらを見ていた。
私は川を渡ろうとした。
一歩、足を踏み入れようとした、そのときだった。
老人がゆっくりと首を横に振った。
私は立ち止まった。
「今日は、やめておけ……ということですか」
そう問いかけた。
老人は答えなかった。
ただ、もう一度だけ、静かに首を横に振った。
そこで目が覚めた。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。
しばらく天井を見つめていた。
あの老人は誰だったのだろう。
祖父だったのか。
もっと遠い先祖だったのか。
あるいは、山そのものが、私の記憶の中にある祖父の姿を借りて現れたのか。
私には分からない。
ただ、枕元のノートに残された祖父の筆跡と、夢の中の老人の佇まいが、どこか重なって見えた。


七
翌週になると、腰の痛みはすっかり引いていた。
風邪も治まった。
天気予報を見ると、来週末は久しぶりの快晴が続くらしい。
禁漁まで、あと一週間。
ぎりぎりだが、間に合う。
今度こそ行ける。
そう思って支度を始めた。
だが、そこで私は、ふと手を止めた。
これまでなら、急いで荷物を詰め込んでいたところだ。
しかし、今度は違った。
熊避けスプレーの箱を開ける。
使用期限を確認する。
ノズルの状態を見る。
地図を広げる。
林道の状態を調べる。
入渓点までの道を確認する。
天候をもう一度見る。
一つひとつ、ゆっくりと確かめていった。
これまでの私は、こうした確認さえ、勢いに任せて省いていたかもしれない。
だが、今は違う。
急かされているのではない。
むしろ、落ち着けと言われているような気がした。
支度をしているうちに、不思議なことを思った。
亡くなった祖父が、すぐ隣に座って、黙ってこちらを見ているような気がする。
もちろん、そんなはずはない。
それでも私は、誰にともなく呟いた。
「今度は、行かせてもらえますか」
返事はない。
雨の音もない。
ただ、静かな部屋があるだけだった。
だが、拒まれている気配もなかった。


八
出発の朝は、見事な快晴だった。
空は高く、雲もほとんどない。
腰に違和感はない。
体調もいい。
ロッドケースとザックを固定し、バイクのセルボタンを押す。一発でエンジンがかかった。
私は思わず笑った。
「今日は、いいんだな」
もちろん、返事はない。
それでも、なぜかそう言いたくなった。
道中、何のトラブルもなかった。
やがて山へ入り、舗装の切れた林道を進む。
渓の近くにバイクを停め、荷物を背負った。
そして、ゆっくりと川へ降りていった。
水は澄んでいた。
朝の光を受けて、川面が細かな銀色の光を返している。
竿を伸ばす。
毛鉤を結ぶ。
深く息を吸う。
そして、上流へ向かって歩き始めた。
何度目かのキャストだった。
竿先に、確かな手応えが伝わってきた。
反射的に竿を立てる。
水面が跳ねた。
銀色の魚体が、一瞬だけ陽の光を弾いた。
イワナだった。
私はしばらく、その魚を手のひらに乗せて眺めていた。
小さな命が、掌の中で静かに動いている。
その姿を見ていると、なぜだか祖父のノートのことを思い出した。
私は、そっと魚を水へ戻した。
イワナは一度だけ尾を振り、流れの中へ消えていった。
「ありがとう」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
魚に向けてだったのか。
山に向けてだったのか。
祖父に向けてだったのか。
それとも、これまで何度も私を立ち止まらせてきた、あの見えない何者かに向けてだったのか。
たぶん、その全部だった。


九
帰り道、林道の途中でバイクを停めた。
ヘルメットを脱ぎ、山並みを眺めた。
夕方の光が、木々の向こうに沈みかけている。
私は、しばらく何も考えずに立っていた。
守られているのか。
試されているのか。
助言なのか。
お告げなのか。
先祖なのか。
神様なのか。
今も、何一つ答えは出ていない。
だが、一つだけ分かっていることがある。
人生では、進むことだけが正解ではない。
ときには、立ち止まることにも意味がある。
行けなかった日。
壊れたバイク。
店の前にいた先客。
突然の体調不良。
そして、あの日の土砂降り。
振り返ってみれば、それらはすべて、今日この日、無事にこの場所へ立つための遠回りだったのかもしれない。
願いはいつも、健康と、安全と、穏やかな暮らし。
それだけで十分だと思っていた。
いや。
本当は、それだけで十分だったのだ。
山を見ながら、私はふと笑った。
「ずいぶん、遠回りさせるもんだな」
誰も答えなかった。
けれど、なぜか、それでいいと思った。


十
家に帰り着き、荷物を降ろしているときだった。
ふと、あることを思い出した。
「そういえば……」
私は一人で呟いた。
「そろそろ、カネのことも少し頼んでみようか」
口にしてから、自分でおかしくなった。
これまで健康だ、安全だ、無事に帰れたと感謝しておいて、最後は金の話か。
「いや……」
私は苦笑した。
「足りるだけあれば、それでいい」
少し考える。
「……いやいや」
もう一度考える。
「ちょいと多めに」
自分で言って、自分で笑った。
窓の外では、今日も静かに山の稜線が夕暮れに染まっている。
見えない手は、今日もどこかで、こちらの身勝手なお願いごとを苦笑いしながら聞いているのかもしれない。
それでも、私にはそれが、少しだけありがたかった。

(了)


あとがき
私は四十年にわたり、山奥の渓流を訪れては毛鉤を投げるフライフィッシングを楽しんできました。自然という大きな懐の中に身を置いていると、時に自分の意思や計画など、人間の一方的な都合に過ぎないのだと思い知らされる瞬間があります。天候の急変、突然の体調不良、機材のトラブル――そうした一見すると「不運」に思える出来事も、視点を変えれば「これ以上踏み込むな」という静かな守りの手であったのかもしれません。
年齢を重ね、身の回りの物事を手放したり整えたりしていく中で、私はこうした「目に見えないもの」への感謝の念を強く抱くようになりました。若き日のように何でも自力で突っ走るのではなく、与えられた流れを受け入れ、時には「ありがとう」と声をかけて引き返す。それこそが、無事に家へ帰り、温かいお茶を飲むための最も大切な智慧なのだと感じています。
この小さな物語が、日々の生活の中で少し立ち止まりたいと感じている皆様の心に、小さな凪のような静けさをもたらすことができたなら、とても嬉しく思います。


ーーーーーーーーーー


第二部

昨日屋
―昨日のあなたへ―


まえがき
人は時々、
「引き返す」ということを、負けのように感じてしまいます。
仕事を休むこと。
夢を延期すること。
誰かとの関係を終えること。
山で途中下山すること。
それらはどこか、諦めに似て見えるからです。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
前へ進むことだけが、生きることなのでしょうか。
もし、昨日の自分に一日だけ戻れるとしたら。
そのとき、私たちは何を変えるでしょう。
失った人を取り戻すでしょうか。
間違えた言葉を言い直すでしょうか。
別の道を選ぶでしょうか。
あるいは――
ただ一言、「今日は、やめておけ」と、自分自身に伝えるでしょうか。
これは、北アルプスの山奥にある、少し変わった山小屋の話です。
名前は、『昨日屋』。
そこには、昨日へ戻ることのできる女将がいると言います。
ただし――戻れるのは、一日だけ。
それ以上は、戻れない。
だからこそ、その一日は、とても大切なのかもしれません。


序章 夢の縁に立つ
夢の中で、私は山を見ていた。
どこまでも高く、どこまでも静かな山だった。
空は蒼く澄み渡っている。けれど、はるか稜線の向こうには、不穏な黒い雲が蠢いていた。
私は濡れた石が転がる山道を、一人で歩いていた。風は凍えるほど冷たい。
なぜ歩いているのか、自分でも分からない。ただ、「もう少しだけ」と思っていた。
いつもそうだった。仕事でも、恋愛でも、人生でも。
もう少しだけ頑張れば。もう少し我慢すれば。もう少し先まで行けば、何かが変わる。そう信じ込んでいた。
やがて、深く立ち込める霧の向こうに、古びた建物が見えた。
小さな山小屋だった。入口には使い込まれた木の看板が掛かっており、そこには風化した文字でこう刻まれていた。
『昨日屋』
私が足を止めたそのとき、ギィと音を立てて扉が開いた。
中に立っていたのは、白髪の女性だった。六十代くらいだろうか。静かな眼差しで私を見つめると、薄く微笑んだ。
「ようこそ」
湯気の立つ湯飲みが一つ、暖炉の前のテーブルに置かれている。
女将は静かに私を見つめ、言った。
「昨日に戻ってみますか」
私が答えに窮していると、女将は少しだけ寂しそうな顔をして、つぶやいた。
「では、明日」
その言葉の意味を理解する間もなく、私は深い目覚めの中へと引き戻された。


第一章 三十八時間前の男
赤坂義孝、三十四歳。出版社に勤める編集者だった。
仕事は嫌いではなかった。誰かが書いた文章を読み、その言葉が世の中に出ていく手伝いをする。それは彼にとって、それなりに誇りのある仕事だった。
ただ、最近は深く疲れていた。
三年間付き合っていた女性と別れたのは一か月前だ。原因は忙しさとすれ違い、そして会話が消えていったこと。
最後に彼女が遺した言葉が、今も胸に刺さっていた。
「あなたは、いつも前に進もうとするよね。でも、たまには戻ってもいいんじゃない?」
戻る。そんな選択肢は、彼の人生のどこにも存在しなかった。
その週末、義孝は衝動的に休暇を申請した。金曜の夜、滑り込むように乗り込んだ北へ向かう列車の中で、仕事のメールが次々と届くスマートフォンをそっと伏せた。
翌朝、登山口に立った。空はどんよりと曇り、午後からの悪天候を告げていたが、義孝はいつものように「大丈夫だろう」と自分に言い聞かせ、足を踏み出した。
昼過ぎ、雨が降り始めた。霧雨はすぐに強い風を伴う雨へと変わり、視界を奪っていく。
地図を確認する。予定の山小屋まではまだ距離があった。引き返す選択肢もあったが、「ここまで来たのだから」という強迫観念が、足を前へ押し進めた。
夕刻近く、霧の深い裂け目から古い木造の山小屋が現れた。
看板には『昨日屋』と書かれている。
義孝は息をのんだ。夢で見た、あの場所だった。
扉を開けると、暖かな薪の匂いとともに、あの白髪の女性が出迎えた。
「いらっしゃい。お腹、空いているでしょう。夕飯にしましょう」
それが、島田時子との最初の会話だった。


第二章 女将の名前
夕食はご飯と味噌汁、焼いた魚に山菜という質素なものだったが、義孝の身体に深く沁み通った。
食後、お茶を淹れてくれた時子に、義孝は問いかけた。
「女将さんは、ずっとここに?」
「ええ。もう長いですよ」
「旦那さんは……?」
時子の手がわずかに止まる。
「十三年前に亡くなりました。この山でね」
時子は湯飲みを見つめたまま、静かに語った。
翌朝の荒天を予測する時子の言葉には、山と長く生きてきた者だけが持つ静かな確信があった。
夜、あてがわれた布団に入ると、風の音が小屋を激しく揺らしていた。
枕元に古い手帳が置いてあるのに気づく。表紙には『昨日』とだけ書かれていた。
義孝が手を伸ばすと、戸口から時子の声がした。
「それは読まないほうがいいですよ。昨日に戻って、今日を変えた日の記録ですから」
時子の表情に冗談の色は一切なかった。


第三章 昨日への道
翌朝、外は雲一つない快晴だった。
義孝が「これなら行けそうですね」と言うと、時子は静かに首を振った。
「山は晴れたから安全とは限りません。私には、昨日の天気が分かります。そして私は、一日だけなら昨日へ戻れるんです」
時子は遠い目をして、十三年前の出来事を話し始めた。
「夫が亡くなった夏のことです。嵐が近づく中、夫は登山者たちの出発を止めようとしました。けれど翌朝、山は嘘のように晴れ渡り、人々は静止を振り切って出ていってしまった。夫は後を追い、そして戻りませんでした」
時子は手帳を優しくなでた。
「夫が逝った翌日、私は深い失意の中で、割れた空間の向こうに『昨日の朝』を見ました。私は扉を開け、昨日の夫に駆け寄って『行かないで』と叫びました。けれど、一度動いてしまった過去の運命を変えることはできなかった……。夫を救うことは叶いませんでした」
時子の瞳に、かすかな揺らぎが走る。
「ですが、その日以来、私はこの場所で『昨日』へ戻る術を知りました。事故の兆候が生まれつつある『一目前の昨日』へ戻り、人々に声をかける。救える人と、救えない人がいます。昨日を変えても、人生のすべてを変えられるわけではありません。それでも、私は踏みとどまらせるためにここにいるのです」


第四章 割れた空間
義孝は時子の許しを得て、手帳のページをめくった。
そこには英雄的な物語ではなく、「雨具を忘れた青年を呼び止めた」「靴紐の緩みを指摘して出発を遅らせた」といった、ささやかな記録が並んでいた。
「一つだけ聞いてもいいですか」と義孝は尋ねた。「昨日へ戻ったとき、空間はどうなるんですか?」
「ほんの一瞬だけ、ガラスに光が入るように景色が重なり、空間が割れるのです」
時子が窓の外を指さした瞬間、義孝の視界が歪んだ。
光の屈折の向こうに、別の山道の風景が重なり、耳元で誰かの声が聞こえた。
――戻れ。
振り向いても誰もいない。時子はただ、深く澄んだ眼差しで義孝を見つめていた。


第五章 明日の話
昼近く、山を渡る風の匂いが変わった。
「今日は、稜線まで行かないでください」と時子は言った。
「ここまで来たんですから」と渋る義孝に、時子は温かな茶を注ぎながら言った。
「山は逃げません。チャンスなんてまた来ます。引き返すことと、諦めることは違いますから」
その言葉は、前に進むことだけを強要されてきた義孝の胸に、小さな波紋を広げた。
その夜、嵐は激しさを増した。
義孝は眠れず、再び手帳を開いた。最終ページには今日の日付と、自分の名前が書かれていた。
――赤坂義孝。明日の朝、彼は山へ向かう。
その先は白紙だった。
「そこから先は書いていません。あなたが明日、どうするかは、あなた自身が決めることです」
暗がりから現れた時子が、静かに告げた。


第六章 晴れた朝の罠
翌朝、山は眩しいほどの快晴だった。
義孝がザックを背負うと、時子は彼の足元を指さした。「右足の靴紐を、結び直して」
言葉に従い靴紐を結び直した義孝は、晴天の山道へ踏み出した。
しかし、尾根に近づくにつれ、頬を刺す風の冷たさが変わった。遠くの空に、急速に湧き上がる黒い雲が見える。
いつもなら「もう少し」と進むところだった。だが、時子の言葉が脳裏をよぎる。
――山は逃げません。
「……帰るか」
驚くほど自然に、その言葉が出た。
義孝が小屋に引き返してから三十分後、山は猛烈な吹雪と嵐に包まれた。
扉を開けると、時子が静かに迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
それだけで、自分の選択が正しかったことを義孝は悟った。


第七章 嵐、来たる
外の白魔を眺めながら、義孝はつぶやいた。
「もしあのまま進んでいたら……」
「山で『もし』を考えるのはおよしなさい。戻れなくなりますから」と時子は薪をくべた。
「今日を変えるのは、特別な魔法ではありません。昨日のあなたの決断です」
その夜、義孝は深い夢を見た。
夢の中に現れたのは、白髪になる前の若い時子だった。
「私は夫を救えませんでした。けれど、戻ることで『自分自身』を取り戻したのです。あなたもご自分の場所へ戻りなさい。引き返すことは、諦めることではないのですから」
窓が白く光り、世界が揺れた。


第八章 翌朝の光
目が覚めると、嵐は去っていた。
枕元にはあの手帳があり、ページには一言、こう書かれていた。
――引き返すことと、諦めることは違う。
食堂に向かったが、時子の姿はどこにもなかった。
テーブルの上には、まだ温かいお茶と、「今日は休んでください」と書かれた紙が一枚。
その日の午後、義孝は山を下りた。
何度も振り返りながら歩き、麓にたどり着く直前に最後にもう一度見上げると――そこには小屋はなく、ただ苔むした古い石積みが佇んでいるだけだった。
狐につままれたような心地でザックのサイドポケットを探ると、そこには昨夜までなかったはずの、古びた革の手袋が固く丸められて入っていた。時代から取り残されたような、しかし確かに存在する手触り。
夢ではなかった。そう直感した。


第九章 手袋の記憶
東京へ戻る列車の中で、義孝はスマートフォンの電源を入れた。
山のように溜まった業務連絡に、かつての彼なら青ざめて即答していただろう。だが、義孝は静かに画面を伏せた。
「今日は、休もう」
元恋人からの連絡にも、無理に答えを出すのをやめた。終わったものを過去へとこじ開ける必要はない。
数日後、義孝は山小屋に残されていた革の手袋を、麓の村に住む時子の遠縁の親族へと小包で送った。手紙にはただ、「山で見つけました。お返しします」とだけ添えた。不思議な話など書かなくても、それで十分だった。
その夜、義孝は机に向かい、自分のためにペンを執った。
タイトルは『昨日屋』。
それが現実だったのか幻だったのかは問題ではない。あの日、自分が確かに引き返したこと。その事実だけが彼の中に光っていた。


終章 昨日のあなたへ
それから半年が過ぎた。
義孝は相変わらず編集者として忙しい日々を送っていたが、彼の中の何かが根本から変わっていた。無理を感じたときは立ち止まり、誰かの撤退を寛容に受け入れられるようになった。
夏が訪れ、義孝は再び山へ向かう計画を立てた。
だが出発の朝、体調の微かな違和感と、窓を打つ雨音を感じ取った。
以前の彼なら押して出かけただろう。しかし、義孝は深く息を吐き、アラームを切って布団に潜り直した。
「今日は休みだ」
目を閉じると、深い夢の中で懐かしい山小屋の扉が見えた。
白髪の女将が微笑んでいる。
「今日は、戻らなくてもいいのですか?」
「ええ。今日は、ここにいます」
女将は嬉しそうに頷いた。
「それでいいんですよ。山は逃げませんから」
目が覚めたとき、心は透き通るように軽かった。
義孝は机に向かい、書きかけの『昨日屋』の原稿の末尾に、そっと書き足した。
――来年の夏、また来ます。そのときは、稜線まで。
人はいつも前へ進み続けなくてもいい。立ち止まり、休むことは、明日の自分へ歩くための時間を渡すことなのだ。
昨日の自分は、今日の自分を責めるためにいるのではない。そっと助けるために、そこにいる。


あとがき
この物語の種になったのは、一つの短い詩でした。
「昨日のあなたへ」という言葉から始まった小さな文章を、いつか物語にしてみたいと思っていました。
人生では、前へ進むことが美徳とされます。けれど同時に、休むこと、手放すこと、引き返すこともまた、生き続けるための大切な選択です。
『昨日屋』が本当に存在したのか、それは重要ではありません。
もしあなたが今、何かに疲れて引き返そうとしているなら、どうかそれを「諦め」と呼ばないでください。
山は逃げません。明日になれば、また歩ける道があります。



原詩
昨日のあなたへ

その宿の女将さんは
今日と昨日とを行き来していると
微笑んで コーヒーを淹れてくれた

昨日
やり忘れたことを
今日
やるのではなく
昨日に戻ってやって来ると

すれば
今日は最初から間に合っているから
快適に変わると…

宿泊している僕には
何のことか分からないが
どうやら
そういうことが出来るようだ

ここは? と思えば
山小屋だ
北アルプスだ

あなたは大丈夫かしら?
そう微笑んだけれど

もしもこの先
山奥へと入るならば
前日には
必ずここに
泊まってからにしてねと呟いた

えっ? と尋ねると

私ね
あなたたちを救いたいのよ

僕たちを?

そう

昨日に戻って
そっとアドバイスするの

すると
遭難せずに戻って来れるのよ

はっ?

わずかな装備不足や
間違ったルート
急変する天気

それから
落石 雪崩 豪雨 落雷 突風
熊 …

予知出来ないことに
巻き込まれることばかり

でもそれを
昨日に戻って伝えられたら
間に合うでしょ!

えぇ

でもそれは
いつから?

そうねえ
ここに来て数年した頃
初めての団体さんを受け入れて
その方々と
楽しく過ごした翌日

その方々 
全員の事故を知った直後
突然
目の前の空間が割れて
昨日に戻る道が現れたのよ

ならばと
必死でそこへ飛び込んだら
間に合ってね

それから
毎日 何事もなくても
昨日へ戻って
今日 足りない部分を
補ってくるのよ

はあ?

それは
本当ですか?

そうよ
でもそれは
ナイショね!

ではもしかして
この夏
K2での彼らを救うことも
出来るのですか?

残念ながら
それは無理

だって
昨日にしか戻れないから

そう
一昨日には
もちろん
その先には戻れないの

そうですか
残念です

もしかして女将さん
今
僕を救う為に
明日からここへ戻って来た?

女将さんは
そうかもね? と
にっこり微笑んだ

そうかあ
確かに
明日の天気で悩んでいた

ありがとう! と伝えながら
そこで目が覚めた

しばらく
記憶に残らない夢ばかりだったけれど
ここ数日はまた
不思議な夢から生還している

さて
本日 
単独で
出掛けようとしていた山行

今まだ風邪は治らず
残念ながら
延期とした…


ーーーーーーーーーー


第三部

富士山まであと1メートル
――スコップを担いだ男の、30年と1メートルの物語――


まえがき
人は、なぜ山に登るのだろう。
その問いに対して、昔の偉い登山家は、
「そこに山があるから」
と答えたらしい。
だが、私の場合は少し違う。
酒が入っていたからである。
本作『富士山まであと1メートル』は、そんな極めて不純な動機から始まった、ある中年男たちの長い長い遠回りの物語です。
若い頃の勢いで口にした「富士登山」という一言が、なぜか三十年間も人を集め続け、途中で挫折し、笑われ、また集まり、気づけば人生そのものになっていた――。
書いているうちに、これは単なる登山小説ではないのかもしかもしれないと思うようになりました。
人間は、登れなかった山のことほど忘れられない。
途中で諦めたことほど、妙に心のどこかに残り続ける。
そして歳を重ねると、不思議なことに、
「もう一回くらいやってみるか」
という気持ちが、ふっと戻ってくる。
この物語には、大成功する人もいません。
世界を救う英雄もいません。
あるのは、居酒屋で調子に乗った会社員と、使われないスコップと、「来年こそ行く」と言い続ける人々だけです。
ガイドブックのような正しい登り方はここには書いてありません。
でも人生って、案外そういうもので出来ているのではないでしょうか。
笑っていただけたら嬉しいです。
そしてもし、あなたの心の中にも「あと1メートル」が残っているなら、本書がその景色を少しだけ思い出すきっかけになれば幸いです。


第1章 飲み会という名の罪
人生には、取り消せない一言というものが存在する。
「あの娘、好きなんだよね」と告白した夜。
「俺、課長向いてないかも」と上司に漏らした夜。
そして――
「次の遊びは富士登山ですっ!」
と叫んだ、あの夜。
私の名前は木村勝夫、五十九歳。
コピー機メーカー勤務。
来年には定年を迎える、どこにでもいる平凡なサラリーマンである。
趣味は特にない。
特技は、二日酔いのままでも会議を乗り切ることくらいで、これは特技と呼んでいいのかどうかも分からない。
その「事件」が起きたのは、今から約三十年前のことだった。
場所は新宿の居酒屋「さぶちゃん」。
内装はすべて昭和テイスト。
壁には「男は黙ってサッポロビール」のポスターが貼ってあり、メニューは手書き、トイレは和式、カウンターの隅には煤けたダルマが鎮座していた。
私は当時二十九歳。
入社六年目の若手社員で、酒を飲むと饒舌になるという、最も危険なタイプの人間だった。
その夜も生ビールを三杯、焼酎のお湯割りを四杯、最後に誰かが頼んだ梅酒ロックを半分ほど飲み干したあたりで、私の理性は、さぶちゃんのトイレの排水とともに流れ去っていた。
「なあなあ、みんな~!」
私は立ち上がった。
なぜ立ち上がったのかは、今でも分からない。
人は酔うと立ち上がりたくなる生き物なのかもしれない。
あるいは、私だけかもしれない。
「次の遊び、決めようぜ!」
「ボーリングはどう?」
「釣りもいいな」
「バーベキューがいいです!」
いろいろな意見が飛び交った。
私は、それらをすべて聞き流した。
そして気づいたときには両手を広げ、天井を仰ぎながら叫んでいた。
「次の遊びは――富士登山ですっ!!!」
瞬間、居酒屋さぶちゃんが静まり返った。
BGMに流れていた「北の宿から」だけが、虚しく響き渡った。
田中が目を細めた。
「……富士山?」
鈴木が首を傾げた。
「……登山?」
山田が顔を引きつらせた。
「……え、本気?」
「本気ですよ!」
私は、もはや自分の言葉に酔っていた。
「富士山ですよ、富士山! 日本一の山! 世界遺産! あの山を制した者だけが、真の男と呼ばれるのです!」
「木村さん、女性もいるんですけど」
「真の男女と呼ばれるのです!」
拍手が起きた。
なぜ起きたのかは分からない。
酔っていると、そういうことが起きる。
こうして、私の運命は決まった。
翌週末。
集合場所の富士山五合目に、有志十名が集結した。
全員が、昨夜の拍手の余韻に引きずられてやって来た、いわば「熱が冷める前に参加表明してしまった」人々であった。
私は前夜、ホームセンターで登山靴、雨合羽、ヘッドライトを購入し、
「これで完璧だ」
と思っていた。
今にして思えば、まるで完璧ではなかった。
富士山は、なめていいものではなかった。


第2章 山というものは思った三倍くらい高い
五合目から見上げる富士山は、恐ろしいほど巨大だった。
富士山の標高は3776メートル。
すでに五合目は2300メートルほどある。
つまり残りは約1500メートル。
「1500メートルくらいなら大したことないんじゃないか」
と思った私は、根本的に「高さ」というものを理解していなかった。
1500メートルを水平に歩くなら、たいした距離ではない。
しかし山を登るとなると、話はまったく違う。
人間の足腰は、横に動くようにはできていても、永遠に上へ上へと動くようにはできていない。
少なくとも私の足腰は、そうだった。
六合目を過ぎたあたりで、田中が言った。
「空気、薄くない?」
「気のせいだよ」
と私は言った。
七合目で、鈴木が言った。
「なんか頭が痛い」
「気のせいだよ」
と私は言った。
八合目で、山田が言った。
「木村さん、あなた顔が緑色ですよ」
「……気のせ……」
と言いかけて、私はその場にへたり込んだ。
八合目を過ぎると、空気が「なくなる」のだ。
なくなる、という表現は正確ではない。
物理的には、もちろん空気はある。
しかし、吸っても吸っても、肺に入ってこない。
まるで穴の開いたコップに水を注ぐようで、いくら呼吸しても満たされない。
私は岩の上に座り込み、口を魚のようにパクパクさせながら、
「人間はここで生きるようにはできていない」
という至極当然の事実を、体全体で理解した。
隣では田中が、
「いや、これ絶対気のせいじゃないですよ、木村さん」
と言いながら青ざめていた。
それでも――。
私たちは登り続けた。
なぜか。
一つには、下山する元気もなかったから。
もう一つは、
「あんな発言をしておいて、登頂できませんでした」
では、社会的に生きていけないと思ったから。
そして三つ目は――
山田が、
「もうすぐ頂上ですよ!」
と嘘をつき続けたからである。
後で聞いたら、彼女には、
「励ますための嘘は、嘘ではない」
という独自の哲学があった。
そして、真夏の深夜二時。
私たちは山頂に立った。
寒かった。
真夏だというのに、信じられないほど寒かった。
全員が震えながら、それでも笑っていた。
達成感というものは、確かにそこにあった。
やがて雲の切れ間から、ご来光が少しだけ顔を出した。
それは、それは美しかった。
私は思った。
「また来ることは、絶対にない」
なお、この誓いは後に盛大に破られることになる。


第3章 語り継がれる武勇伝と、集まってしまう同志たち
三十年が経った。
あの夜の武勇伝は、年に一度の飲み会で語り継がれてきた。
毎年同じ話を、毎年初めて聞くような顔をして聞く。
それが、私たちのグループの様式美となっていた。
「木村さんが八合目でへたり込んだやつ、最高でしたよね」
「田中の顔が青を通り越して透明になってたよな」
「山田さんが山頂で『絶対に次は来ない』って言ってたのに、今でも富士山の話してますもんね」
そう――。
問題は、富士山の話をする人間が増えていたことだった。
あの夜の居酒屋さぶちゃんにはいなかったのに、武勇伝を聞いて、
「私も行きたい!」
と言う者が現れ始めた。
人間とは不思議なものである。
他人の苦労話を聞くと、
「自分はもう少しうまくやれる」
と思ってしまう。
メンバーが変わり、顔ぶれが変わりながらも、「富士登山組」は毎年夏になると、
「今年こそ」
と集まり始めた。
しかし――。
富士山は、そんな甘い話ではなかった。
第二回。
天候悪化により六合目で撤退。
第三回。
メンバーの一人が五合目で高山病になり、全員で付き添って下山。
第四回。
登山口を間違え、気づいたら御殿場ルートに入っていた。
体力を使い果たし、七合目で断念。
そして第五回。
これは後ほど詳しく語る。
そして第六回――。
今年。
ついに、山頂に到達した者が出た。
それは、私ではなかった。
私はその報告を、居酒屋で聞いた。


第4章 第五回遠征・通称「スコップ事件」の顛末
第五回遠征の話を、少し詳しくしなければならない。
この年、メンバーの中に松本という男がいた。
五十一歳。
職業はシステムエンジニア。
体型は洋ナシ型。
平地での持久走は学生時代から苦手だったと本人が言っていた。
なぜそんな男が富士登山に参加したのかというと、
「来る?」
と聞かれて、
「行きます」
と言ってしまったからである。
人間の多くは、こうして正しくない選択をする。
松本は、
「準備だけは完璧にしよう」
という方針のもと、登山の三か月前から準備を開始した。
まず、毎朝のランニングを始めた。
三日で挫折した。
次に、栄養管理アプリを入れた。
一週間後に削除した。
そして登山用品店に行き、合計七万円分の装備を揃えた。
これだけは実行した。
問題は、その七万円の装備の中に、
「折りたたみスコップ」
が含まれていたことだった。
「なんでスコップ?」
と私は聞いた。
「雪を除けるためです」
と松本は言った。
「夏の富士山に雪はないよ」
「万が一ということがあります」
折りたたみスコップ。
重量、約八百グラム。
八合目あたりで、松本はこのスコップを、
「お守りのようなもの」
と称し、断固として手放さなかった。
九合目で、松本はスコップを片手に持ちながら言った。
「これで山頂の土を少し盛れないですかね」
「何のために?」
「富士山を、ちょうど3777メートルにしたいんです」
「……は?」
「きりがいいじゃないですか」
私は笑った。
しかし、内心では、
「それは名案かもしれない」
と思っていた。
結局、その年の第五回遠征は、天候悪化によって八合五勺付近から引き返した。
松本のスコップは、一度も使われなかった。
しかし松本は、
「来年、また来ます」
と言い、スコップを家に持ち帰った。
なお、このスコップは翌年の第六回遠征にも持参された。
もちろん、また使われなかった。
今でも松本の玄関には、折りたたみスコップが傘立ての隣に立てかけてある。
彼の奥さんは、あれを見るたびに、
「まだ持ってるの?」
と言うらしい。
松本は毎回、
「富士山用だから」
と答える。
奥さんは毎回、同じ顔をするそうだ。


第5章 3776という半端な数字への怒り
そもそも――。
3776メートルというのは、半端な数字ではないか。
私はこのことを、かなり長い間考えていた。
東京タワーは333メートル。
これは美しい。
3が三つ並んでいる。
覚えやすい。
スカイツリーは634メートル。
これも美しい。
6・3・4。
「む・さ・し」。
武蔵。
古の武蔵国にちなんで、634メートルにしたのだという。
粋な計らいである。
では、富士山はどうか。
3776。
3・7・7・6。
語呂合わせにもならない。
語呂が悪い。
覚えにくいわけではない。
しかし、数字の美しさというものがない。
なぜ3777にしなかったのか。
7が三つ並べば、なんとなくめでたいではないか。
なぜ3775にしなかったのか。
3・7・7・5。
……これは何の語呂にもならない。
つまり、どう転んでも3776なのである。
1メートル。
たった1メートルの話だ。
1メートルといえば、大人の一歩分くらいだ。
本棚の高さくらいだ。
子どもの背丈くらいだ。
私のゴルフの飛距離の誤差範囲内でもある。
最後の一つは、余計だったかもしれない。
地球の大きさから見れば、富士山の標高3776メートルだって、巨大な数字とはいえない。
まして、その中の1メートルなど、ほとんど誤差である。
その誤差の中の1メートルくらい――。
誰も気にしないのではないか。
気づいたら私は考えていた。
スコップ、持って行こうかしら。


第6章 第六回遠征・山頂到達の報告
仲間から連絡が来たのは、今年の八月十二日のことだった。
短いメッセージだった。
「着きました。山頂です」
写真が添付されていた。
七人の人間が、山頂の鳥居の前で満面の笑みを浮かべて立っていた。
全員がヘロヘロだった。
一人は完全に放心状態だった。
それでも、笑っていた。
田中。
あの田中だ。
三十年前、八合目で、
「空気、薄くない?」
と言っていた男。
今では五十代半ばになった。
白い歯を見せて笑っていた。
山田もいた。
三十年前、
「絶対に次は来ない」
と言った女性である。
それから何度も挑戦し、今年ついに山頂へ到達した。
写真の中で、
「やったー!」
と叫んでいるのが分かるような顔をしていた。
そして松本。
もちろんスコップを持っていた。
いや、正確にはリュックの中に入れていた。
今回も使われなかった。
私はその写真を眺めながら、居酒屋で一人、ビールを飲んだ。
行けばよかったと思ったか。
思った。
もちろん思った。
だが――。
実は今年の八月十二日、私は別の場所にいた。
孫の七五三の前撮り撮影が、同じ日に入っていたのだ。
孫の名前は勝太郎。
二歳半。
私の顔を見るたびに、
「じ~じ!」
と言って走ってくる。
私はそのたびに、
「じ~じですよ~」
と言いながら抱き上げる。
その日、勝太郎は衣装を着て写真を撮った。
それは、それは可愛かった。
写真の孫と、写真の仲間たち。
私はビールを一口飲んで、
「まあ、いいか」
と思った。
そして次の瞬間――。
「来年は絶対行く」
と思った。
なお、私は過去三十年間で合計七回、
「来年は絶対行く」
と思っている。
富士山に登ったのは、三十年前の一回だけである。


第7章 山頂まであと1メートルの哲学
仮に――。
あくまで仮の話である。
私が来年の夏、スコップを担いで富士山に登ったとしよう。
七合目。
「やはり空気が薄い。スコップが重い」
八合目。
「空気がない。スコップは岩のようだ」
八合五勺。
「このスコップを置いて帰りたい」
九合目。
「なぜ私はスコップを持ってきたのか」
そして山頂。
「……到着した。体は生きているのか? ともかく生きている。さて、スコップを」
そこで私はスコップを取り出す。
そして山頂付近の砂礫を――。
1メートル分ほど。
そっと。
そおおおおっと。
盛る。
1メートル分の土というのは、いったいどのくらいなのだろう。
バケツ何杯分だろう。
スーパーの袋に入るくらいか。
米袋より軽いかもしれない。
そもそも、山頂でそんなことをして誰が気づくのだろう。
誰も気づかないかもしれない。
しかし、もしも――。
何十年か後に、測量技師が精密な調査を行ったとする。
そしてニュースが流れる。
「富士山の標高について再調査を行った結果、従来の計測より若干高いことが判明しました。正確には3777メートルです」
その原因は――。
いや。
犯人という言葉は語弊がある。
貢献者。
そう。
その貢献者は――。
私かもしれない。
あははは。


第8章 定年前夜の告白
来年、私は定年を迎える。
三十八年間、コピー機を売り続けた人生だった。
コピー機というものは、売っている間はただの機械だと思っていた。
しかし定年が近づいてきた今、なんとなく愛着のようなものを感じている。
ガシャコンとトレイが開く音。
スキャンするときの光の走り方。
原稿を忘れたまま去ってしまった人が残した、誰かの確定申告の控え。
人生というのは、振り返ってみると、思ったよりいろいろなものが詰まっている。
三十前に富士山に登ったこと。
その武勇伝が、三十年間、仲間を引き寄せ続けたこと。
六度目にして、ようやく山頂に到達した田中や山田の笑顔。
松本の玄関に今も立つ、出番のないスコップ。
私は思う。
富士山の標高は3776メートル。
だが、その3776メートルに挑んだ人間たちの物語の高さは、どこか別の場所で測るべきものなのかもしれない。
あの山は、登頂できた人だけのものではない。
途中で引き返した人も。
麓から見上げた人も。
居酒屋でビールを飲みながら写真を眺めた人も。
みんな、何かしら富士山と関わっている。
富士山は、そういう山なのだ。
そういえば、富士山が世界文化遺産に登録されたのは2013年だった。
正式な登録名称は、
「富士山――信仰の対象と芸術の源泉」。
信仰の対象。
なるほど。
私も、ある意味では三十年間、富士山を信仰していたのかもしかもしれない。
登れていないのに。
いや。
登れていないから、信仰し続けていたのかもしれない。
人間は、手の届かないものを、最も敬う。


第9章 来年の夏、もう一度
定年後の計画を、妻に話した。
「富士山に登ろうと思う」
妻は味噌汁を飲みながら言った。
「また? 何回目?」
「二回目」
「三十年ぶりに?」
「そう」
「いくつになったと思ってるの」
「五十九」
「無理じゃない?」
「田中は登ったぞ」
「田中さんと比べないの」
妻は箸を置いた。
「あなた、先週、駅の階段で膝が痛いって言ってたじゃない」
「富士山は空気が薄いから、膝への負担が――」
「余計悪いでしょ」
論理的には、妻が正しい。
しかし人間は、論理だけで生きているわけではない。
「スコップも持っていこうと思う」
「なんで?」
「富士山を1メートル高くしようと思って」
妻は、しばらく私を見つめた。
それから味噌汁を一口すすり、言った。
「あなた、定年したら少しゆっくりしなさい」
ごもっともである。
しかし――。
来年の夏。
私は、スコップを担いで富士山の五合目に立つかもしれない。
空気が薄くなってきたら、
「吸っても吸っても肺に入ってこない」
と思うだろう。
山頂に着いたら、信じられないくらい寒いだろう。
探していた答えがそこにあるのかは分からない。
そして、リュックからスコップを取り出し、そっと、そおおおおっと、1メートル分だけ土を盛って――。
いや。
もしかしたら、盛らないかもしれない。
ただ、山頂から見える景色を眺めて、
「やはり素晴らしい」
と思うだけかもしれない。
それで十分なのかもしれない。
富士山は、3776メートルのままでいい。
あの半端な数字が、なんだかんだ言って愛おしい。
3・7・7・6。
語呂は悪い。
覚えにくくもない。
そして――。
三十年間。
たった一つの数字が、こんなにも多くの人間を動かし続けてきた。
そう考えると、それはもう3777より、ずっと大きな数字なのかもしれない。


エピローグ その後の皆さん
田中は、山頂で撮った写真を会社のデスクに飾っている。
サイズはL版。
フレームは百円ショップで買ったものだが、毎朝それを見てから仕事を始めると言っている。
山田は、今年の山頂で、
「次は来ない」
と言っていた。
ところが、来年のメンバー募集には一番最初に手を挙げた。
松本のスコップは、今日も玄関の傘立ての隣に立っている。
私の妻は、富士山の写真集をこっそりネットで注文した。
私が見つけたとき、
「違う。これは友人へのプレゼント」
と言った。
私には、そんな本を欲しがっている友人がいないことは分かっていた。
だから、何も言わなかった。
富士山は今日も、3776メートルの標高で、日本のどこからでも見える場所に立っている。
曇りの日も。
晴れの日も。
誰かが登っていても。
誰も登っていなくても。
変わらず、そこにある。
それが富士山というものなのだろう。
そして私は、来年の夏のことを、少しだけ考えている。
スコップを持っていくか。
持っていかないか。
登れるか。
途中で引き返すか。
そんなことは、まだ分からない。
ただ――。
一つだけ分かっている。
「来年は絶対行く」
私は、もう何度目になるか分からないその言葉を、また心の中で呟いた。
あははは。


著者より一言
実は私。
スコップ、もう買ってあります。
折りたたみ式です。
もちろん――。
富士山用です。

〈了〉


あとがき
富士山は、なぜ人を惹きつけるのでしょう。
日本一高いからでしょうか。
世界文化遺産だからでしょうか。
もちろん、それもあるのでしょう。
でも私は、たぶん、
「ちょうどいい距離にある未完成」
だからではないかと思っています。
遠すぎない。
しかし、簡単ではない。
行けそうで行けない。
登れそうで登れない。
そして、
「来年こそ」
と思わせる。
人生にも、そういうものがあります。
若い頃に諦めたこと。
やろうと思って、結局やらなかったこと。
途中まで行ったのに、引き返したこと。
不思議なもので、人は完全に終わったものより、
「あと少しだったもの」
の方を長く覚えている気がします。
この物語を書きながら、私自身も、自分の中の「富士山」を考えていました。
それは夢だったり。
仕事だったり。
昔の約束だったり。
人によって違うのでしょう。
けれど、たった一つ言えることがあります。
「まだ少し気になっている」
という感情が残っている限り、人間は意外と前に進めるのだと思います。
たとえスコップを担いでいても。
朝、少しだけ足取りが重い日があったとしても。
そして――。
たとえ、そのスコップを最後まで使わなかったとしても。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
もし来年の夏、富士山のどこかで折りたたみスコップを持った中年男性を見かけたら――。
たぶん、それは私ではありません。
でも、もしその男が、
「あと1メートル……」
などと呟いていたら。
どうか、少しだけ応援してあげてください。
                    


原詩
富士山の高さは?

富士山の高さは、3776メートル。
東京タワーは、333メートル。
スカイツリーは、粋な計らいで高さを634メートルにした。
そう。
「武蔵」にしたんだそうだ。
ならば富士山も、そんな半端な高さではなく、
あとわずか1メートル盛って、
3777メートル。
その方が覚えやすいし、良い数字だと思わない?
な?
なんなら僕が、スコップを担いで次の夏にでも、久々~~~にまた登って、
わずか1メートル。
そおおお~~~っと。
盛ってみようかしら。
すると、その後の再調査でも、
「富士山は、正確には3777メートルでした」
なんてことにも――。
この先。
もしも。
もしも。
もしも。
そんなことでもあったならば。
その犯人は――。
僕かもよ?
あははは…

Amazon Kindle


三ヶ月の免罪符



原詩

3ヶ月後は別人


僕たちの身体の細胞は

3ヶ月で

ほぼ入れ替わるそうだ


すれば

今の僕は

3ヶ月前の僕ではなく


また

3ヶ月後の僕も

今の僕ではない


ということは

大事なものは食で

これから食べる物が

3ヶ月後の僕となる


ならば

ここからの食を正しく選べば

3ヶ月後には

正しい僕になれるってことか


するって〜とダ

3ヶ月以前の罪は

もうこの身体には残っておらず

放免されたということか


あ〜良かった  笑






まえがき
誰しも「過去の自分を消し去りたい」と願ったことが一度はあるのではないでしょうか。
もしも「細胞の入れ替わり」を理由に、過去の罪や失言を帳消しにできる法律が存在したら――。
この物語は、そんな都合のいいシステムに振り回されながらも、自分なりに「自分」と付き合っていく人々の、少し滑稽で愛おしい日々を描いたSFショートストーリーです。
肩の力を抜いてお楽しみください。



第一章 施行日
「人体細胞、およそ九十日にて全置換」――この一文が憲法に追記された日、日本中のコンビニからサラダが消えた。
正確には〈細胞新生特例法〉、通称「リセット法」。要旨はこうだ。
人間の身体を構成する細胞は、平均して三ヶ月でその大部分が入れ替わる。ゆえに三ヶ月間、国の定める「正しい食事プログラム」を完遂した者は、法律上「別人」とみなし、それ以前の軽犯罪・債務・不貞・失言等の社会的責任を免除する。
僕、佃周平(つくだ・しゅうへい)は、この法律の運用課――通称「新生課」――の窓口係だった。毎日、うしろめたいことをした人間が、栄養士のような顔をして相談にくる。
「先週、会社の金を三万円くすねてしまいました。正しく食べれば、なかったことになりますか」
「なります。ただし三ヶ月間、認定給食センターの弁当のみです。コンビニのおにぎりは一切禁止」
「厳しいですね」
「厳しいから、罪が消えるんです」
僕はその説明を、もう千回くらい繰り返している。



第二章 クリーン教
流行りだしたのは、法律が通ってから半年後だった。
「新生アカウント」と呼ばれるインフルエンサーたちが現れ、〈正しい僕になるまで、あと◯日〉というカウントダウンを毎日投稿する。玄米、鶏胸肉、発酵食品。彼らのプロフィール欄には決まってこう書いてある。
過去の僕は、もういない。
僕の同期の桃井は、半年で三回「新生」した。一回目は職場での暴言、二回目は不倫、三回目は――察して何も聞かなかった。
「便利なんだよ、佃くん。人を殴っても、正しく食べれば九十日でチャラ」
「殴られた人の記憶は消えませんけどね」
「でも法律上は、殴った“僕”はもういないから」
桃井は破顔した。窓口に並ぶ列の先頭で、栄養士のような清々しい顔をして。
僕はふと、彼の目の奥に、九十日前とまったく同じ光があることに気づいた。



第三章 脳という居残り組
新生課には裏方の部署がある。〈認定審査室〉、通称「記憶課」。
そこの主任、法医学出身の変わり者・霧島博士に呼ばれたのは、ある雨の日だった。
「佃くん、知ってるか。脳の神経細胞は、生まれてからほとんど入れ替わらない」
僕は初耳だった。皮膚も血液も腸も、次々と生まれ変わるというのに。
「つまり――」
「つまり、この法律で“別人”になるのは身体だけだ。過去を覚えている“脳”は、九十日経とうが十年経とうが、ずっと同じ奴が居座ってる。まあ、政治家も省庁も最初から知ってたのさ。経済を回して国民のストレスを減らすために、目を瞑っただけだよ」
霧島博士は、コーヒーではなく玄米茶をすすりながら笑った。
「なのに、なぜ誰も文句を言わないんです」
「文句を言ったら、みんな困るからさ。忘れたいことがある人間の方が、覚えていたい人間より、圧倒的に多いんだ」
外では、新生アカウントたちが今日も「正しい自分」への日数をカウントしていた。



第四章 三ヶ月前の僕へ
窓口業務の合間、僕は自分の申請書を書いてみたことがある。
三ヶ月前――僕は恋人に「大丈夫、覚えてるよ」と嘘をついた。そして彼女の誕生日を、仕事の残業を言い訳にすっぽかした。
新生プログラムを受ければ、法律上その嘘は「なかった僕」のものになる。だが、彼女の記憶からは消えない。そして何より――僕自身の脳からも消えない。
申請書の「免除を希望する事案」の欄に、僕はペンを走らせかけて、止めた。
罪を消すための90日なら、いらない。
その夜、彼女に電話した。
「ごめん、あの誕生日のこと、ちゃんと謝ってなかった」
「今さら?」
「今さらだけど。三ヶ月前の僕がやったことだけど、今の僕が謝る」
電話の向こうで、彼女が小さく笑った。
「細胞は入れ替わっても、謝るのは同じ人だもんね」



第五章 放免、ただし条件付き
半年後、〈細胞新生特例法〉には修正案が付いた。第二項――通称「霧島条項」。
ただし、脳神経系における記憶の連続性が認められる場合、当事者本人の内的な責任は免除の対象としない。
身体は放免されても、心は放免されない。
新生アカウントたちは一時騒然としたが、案外すぐに落ち着いた。そりゃそうだ、法律が何と書いてあろうと、みんな最初から知っていたのだから。ただ、それを国が公式に認めるかどうかだけの話で。
桃井は、今日も窓口に並んでいる。四回目の申請だ。
「霧島条項があっても、まあ、罰金とか出社停止とかは消えるからね」
「桃井さん、それでいいんですか」
「いいんだよ。身体だけでも軽くなれば、御の字」
僕はその申請書にハンコを押しながら、なぜだか少し、彼のことが好きになった。全部わかった上で、それでも軽くなろうとする図々しさが。



終章 乗客と運転手
窓口業務を終えて屋上に出ると、夕陽が新生給食センターの白い建物を橙色に染めていた。
三ヶ月前の僕は、もういない。
三ヶ月後の僕も、今の僕ではない。
けれど、誤魔化さずに謝ったことは覚えている。
身体という乗り物だけが、律儀に九十日ごとに衣替えをして、その中には変わらず同じ運転手が座っている。
心を免罪してくれる紙切れなんて、最初からどこにもなかったのだ。
――それでも。
明日の弁当は、玄米と焼き魚にしよう。
三ヶ月後の僕が、今日より少しだけ、まともな人間の記憶を持てるように。
そう思ったら、なんだか肩の荷が下りて、僕は屋上で一人、声を出して笑ってしまった。
あ〜良かった。

(了)


Kindle





あとがき
最後までお読みいただきありがとうございました。
「過去をなかったことにしたい」というズルい願望と、「結局、自分からは逃げられない」という身も蓋もない現実。その間でジタバタする人間の滑稽さを書きたくて、この物語を作りました。
いくら身体が入れ替わっても、過去の後悔や失敗を背負っていくのは他ならぬ自分自身です。けれど、それに気づいた上で「じゃあ明日はちょっと良いもの食べようかな」と思えたなら、人は何度でも少しずつまともになっていけるのかもしれません。
読んだ後に、あなたの心がほんの少しだけ軽くなっていたなら幸いです。




片道タイムマシン
―渋谷、あの燃える虫たちへ―



まえがき
技術が進歩するにつれ、私たちの思い出は便利に、そして驚くほど軽くなりました。写真はクラウドへ自動で保存され、悲しい出来事や不快な感情はAIが優しくぼかしてくれる。痛みや理不尽を極力排除した世界は、きっととても快適なはずです。
ですが、もしも「編集されていない生の痛み」こそが、私たちがこの世界に確かに存在したという唯一の証拠だとしたらどうでしょうか。
傷痕を誇る古い世代の男と、効率と快適さの中で育った未来の世代。噛み合わないふたりが時空の歪みの中で出会うのは、かつて熱狂の中に存在した「あの頃の渋谷」です。
今夜は、不器用で、痛くて、けれどどうしようもなく愛おしかった時代へ、少しだけ付き合っていただければ幸いです。




序章 スナックバー「残骸」
渋谷の裏路地、雑居ビルの三階。
「スナックバー残骸(ざんがい)」という、縁起でもない名前の店がある。
マスターの火野一馬(ひの・かずま)、六十八歳。
若い頃の火傷の痕が右腕に、バイクで転げた古傷が左膝に、そして人には見せられない傷がいくつか、体のあちこちに勲章のように残っている。
「痛い思いをした数だけ、酒がうまくなるんだよ」
というのが一馬の口癖だったが、正直なところ、それを聞いて笑ってくれる客は最近めっきり減った。
今どきの若い連中は、痛みの話をすると、ちょっと引く。
リアルに殴られたことも、リアルに火傷したことも、リアルに骨を折ったこともない世代だ。彼らの「やばい体験」は、たいていヘッドセットの中で起きている。
その夜、店に場違いな客が来た。
二十四歳くらいの女。妙に古めかしいレザージャケットを着て、しかし目だけが異様に忙しなく動いている――視界の端に何か情報を表示させている人間の癖だ、と一馬にはすぐわかった。
「火野一馬さんですね。1979年、渋谷生まれ渋谷育ち。当時の交友関係についてお聞きしたいことがあります」
女は名刺を出した。
『株式会社クロノスラボ 主任研究員 黒沢未来(くろさわ・みらい)』
「クロノス……時の神様か。ずいぶん大きく出たもんだ」
一馬はグラスを拭きながら鼻で笑った。
「時間旅行の研究をしています」
「はいはい。それで、うちみたいな寂れたスナックに何の用だ」
「あなたの脳が――目当てなんです」
一馬はグラスを拭く手を止めた。



一章 スカウト
ミライという名の女は、あまり冗談が上手ではないタイプらしく、真顔でとんでもないことを言い続けた。
「うちのラボは三年前、タイムマシンの実用化に成功しました」
「へえ」
「ただし――過去には行けません。未来にしか進めない」
一馬は思わず吹き出した。
「そりゃタイムマシンって言うのか? ただの……気の長いエレベーターじゃねえか」
「業界でも似たようなことを散々言われました。おかげで投資は引き上げられ、社員は私含めて三人まで減りました」
ミライは悔しそうでもなく、淡々と告げた。
「量子論的にはですね、時間軸を逆行させるには、莫大な情報密度を持った"錨(いかり)"が必要なんです。未来へは慣性で誰でも進めるけど、過去へ戻るには、それだけ濃い記憶――情報のかたまりが要る」
「で、俺の頭にそれがあると?」
「はい。今どきの人間は生まれたときから脳にログイン履歴が付いてます。感情も記憶も、常時クラウドに同期されて、圧縮されて、フィルターがかかってる。悲しい思い出も、AIが自動でぼかしてくれる時代です。おかげで人類の"記憶密度"はこの五十年でどんどん薄くなってる」
「つまり?」
「あなたの世代は違う。ネットもスマホもない。全部、自分の体で、リアルタイムで、圧縮なしで経験してる。痛みも、火傷も、なくした友達のことも」
ミライは一馬の右腕の火傷跡をじっと見た。
「あなたの記憶は、化石燃料並みに情報密度が高い。うちの機械を動かすには、うってつけの燃料なんです」
「俺を燃料扱いか」
「悪い話じゃないですよ。成功すれば謝礼も出ますし――何より」
ミライは一瞬、目を伏せた。
「祖父の名前、亮(りょう)っていうんですけど。1979年、渋谷で……」
一馬の手から、拭いていたグラスが滑り落ちた。



二章 ラボ、あるいは記憶の値段
道玄坂の奥、寂れた雑居ビルの地下。看板もない扉の向こうが「クロノスラボ」だった。
出迎えたのは所長の常盤(ときわ)という白髪の老人と、もう一人、寡黙な青年エンジニアの三人だけの、こぢんまりとした研究所だ。中央に鎮座するのは、家庭用給湯器くらいの大きさの、配線だらけの装置。
「これが……タイムマシン?」
「正式名称は『片道時間遷移装置・試作三号機』です。愛称はまだありません」
常盤所長が誇らしげに言う。誰も愛称をつけていない時点で、あまり自信がないことが一馬にもわかった。
「亮さんは、あなたと一緒にいた時に事故で亡くなったと聞いています。1979年、渋谷。詳しい経緯は……記録がほとんど残っていない」
ミライが言った。
「私は祖父の顔すら、白黒写真でしか知りません。でも、あなたの頭の中には、あの日の渋谷が――色付きで、匂い付きで、丸ごと残っている」
一馬は黙って煙草に火をつけた。このラボでは特別に許可されていた。「古い記憶を引き出すには、当時の感覚刺激を再現したほうがいい」という実験的な理屈からだった。ハイテクな装置に囲まれながら昭和の煙を吐き出す己の姿に、一馬はどこか可笑しさを感じていた。
「協力してくれるなら、あなたの記憶をスキャンして、亮さんとの最後の日を再構成できます。それを"錨"にして、機械を逆行モードで起動させる」
「うまくいく保証は?」
常盤所長が首を横に振った。
「正直、ゼロに近いです。理論上、記憶密度が閾値を超えれば逆行の可能性が生まれる、というだけで」
「それでもいいなら」
ミライが一馬をまっすぐ見た。
「あなたの持ってる"あの渋谷"を、貸してください」
一馬は煙を吐いて、しばらく天井を見上げていた。
「――いいだろう。ただし条件がある」
「なんでしょう」
「亮のことは、俺の口から話す。お前らのAIとやらに、勝手に美化させたり、変な日本語にされたりするのはごめんだ」
ミライは初めて、少しだけ笑った。



三章 蘇る渋谷、バグだらけの友人たち
記憶採取用ヘルメットは、想像していたよりずっと安っぽく、水泳帽にセンサーを縫い付けたような代物だった。
「痛くないですからね」
「タイムマシンの会社が、水泳帽で人の脳みそ覗くのか」
「予算の都合です」
一馬が目を閉じると、四十七年前の渋谷が、モニターの中に立ち上がった。
――のだが。
「なんだこりゃ」
モニターに映った1979年の渋谷交差点を、なぜかスマートグラスをかけた若者が歩いている。ハチ公像の足元ではドローンが宅配便を配達している。
「バグです。あなたの記憶データと、AIが持っている一般的な"渋谷"のイメージデータが混線してます」
青年エンジニアが慌ててキーボードを叩く。
さらに問題は、再現された「友人たち」だった。
一馬の親友だったはずの亮が、モニターの中で妙に丁寧なカスタマーサポートのような言葉遣いで喋りだした。
「大変恐縮ですが一馬さん、本日のご予定についてご確認をお願いいたします」
「お前、そんな丁寧な喋り方する奴じゃなかっただろうが!」
一馬が思わずモニターに怒鳴ると、亮(のAI)はにこやかに一礼した。
「申し訳ございません。カスタマー対応パラメータを再学習いたします」
隣にいたはずのもう一人の友人――サーフィンでいつも日焼けしていた哲(てつ)は、現代の若者言葉と丁寧語が不自然に混ざった怪しい言葉遣いになっていた。
「マジっすかマスター。今日の波、エグいんで自分そろそろ失礼してよろしいでしょうか」
「時代考証のデータベースが古すぎるんです、すみません……」
ミライが頭を抱えた。
一馬は思わず吹き出してしまった。
四十七年ぶりに"会えた"友人たちは、揃いも揃って、見事なまでにポンコツだった。
それでも――画面の向こうで下手くそに再現された笑い方の癖の中に、確かに亮の面影があった。
「もういい。俺が直接教える。お前ら、亮の口調をちゃんと覚えとけ」
その日から一馬は、来る日も来る日もラボに通い、AIに「本物の渋谷」を叩き込む作業を始めた。死んだ友人の話し方、笑い方、悪態のつき方を、機械相手に何十回も再現して聞かせる。まるで供養のような、リハビリのような時間だった。



四章 実験、逆流の試み
三ヶ月後。ようやく「錨」となる記憶データの密度が閾値を超えた、と常盤所長が興奮気味に報告した日、実験は決行された。
「いいですか、装置は逆行モードで起動します。目標は1979年、渋谷」
ミライがコンソールに向かって叫ぶ。
「一馬さん、装置の中央に立ってください。ヘルメットは着けたまま」
一馬は妙に落ち着いていた。
――もし本当に戻れるなら、あの日、亮を引き止められるかもしれない。あの雨の夜、俺のバイクを貸さなければ。
装置が重低音を上げて唸り、部屋の照明が激しく明滅した。
「密度、上昇中……錨、安定……逆行シークエンス、起動!」
その瞬間、高圧電流のスパークに驚いたミライが足をもつれさせ、悲鳴をあげながら一馬の腕にしがみついた。衝撃で抜けかける太いケーブル。
「ちょ、危な――」
まばゆい光が二人を包み込んだ。
――そして、果てしない静寂。



五章 片道切符、未来渋谷
気がつくと、一馬とミライは、見知らぬ渋谷の交差点に立っていた。
いや、地形は渋谷だった。ハチ公像もある。スクランブル交差点の輪郭も残っている。
だが、そこを歩く人間が、一人もいなかった。
正確には――「歩いているように見える半透明の光の粒」が、無数に行き交っていた。
「……ここは、いつだ」
一馬が呆然とつぶやくと、ミライが自分の腕のデバイスを操作し、顔を極限まで引きつらせた。
「西暦2189年……過去どころか、210年も未来に来ちゃってます」
「逆行モードじゃなかったのか!?」
「私がケーブルを引っ掛けたせいで極性が反転して……その、思いっきり順方向に加速したみたいです」
「お前が原因かよ!」
一馬が叫んだところに、光の粒の一つがすっと近づいてきて、人型に像を結んだ。
『こんにちは。肉体をお持ちのようですね。大変珍しい』
驚くほど自然な、しかしどこか作り物めいた声だった。
「あんた……幽霊か?」
『いいえ、私たちはこの時代の住人です。人類の九十九パーセントは、二十二世紀初頭に肉体を手放し、恒久接続状態――通称「常在(じょうざい)」に移行しました。事故も病気も痛みもない、完全な仮想生活です』
「じゃあ……この街を歩いてる連中は、みんな……」
『実体はありません。渋谷という場所自体、今ではノスタルジー保存区画として、観光用にレンダリングされているだけです。実際にここに"存在"する人間は、あなた方お二人だけです』



六章 リアルという名の見世物
一馬とミライの噂は、光の粒たちのネットワークの中で瞬く間に広まった。
「本物の、傷のある、肉体を持った人間がいる」
それは未来の住人たちにとって、博物館の絶滅危惧種よりも珍しい存在だった。
一馬の腕の火傷跡を見て、光の粒たちは本気で怯え、驚嘆した。
『痛み……! それは本当に痛いんですか!? 消去も編集もできないんですか!?』
「あたりまえだろ。痛いから覚えてんだよ」
『信じられない……我々の"感情"はすべて快適度七十パーセント以上に自動調整されています。本物の悲しみを味わったことなど――』
一馬は、自分の店で聞いた若い客たちの顔を思い出した。
リアルに殴られたことのない世代。あの延長線に、こんな未来があったのか。
数日後には「本物人間・火野一馬」の見学ツアーまで組まれる騒ぎになった。光の粒たちは彼の周りに集まっては、恐る恐る囁き合う。
『触ってもいいですか』
『いいけど、優しくしろよ。俺はもう若くないんだ』
一馬は面倒くさがりながらも、そのたびに昔話をしてやった。
渋谷が「不便で、当たり前だった」時代の話。携帯電話もネットもなく、それでも誰も困っていなかった話。痛い目に遭った回数だけ、世の中の裏側が見えてくるという話。
ある日、光の粒の一つが、妙に懐かしい仕草で近づいてきた。
『よう、一馬』
その声と肩の揺らし方に、一馬は息を呑んだ。
「亮……なのか」
『この保存区画にはさ、昔の記憶データが残留現象を起こすことがあるらしい。俺もよくわかんねえけど』
亮の光は、あの日と同じ、少し困ったような苦笑いを浮かべた。
「悪かったな、亮。あの日……俺のバイク、お前に貸さなきゃよかった。雨の夜に、無理させて」
一馬が四十数年間、胸の奥に澱のように溜め込んできた言葉。亮(らしき光)は、呆れたように首を振った。
『バーカ。濡れたマンホールで滑ったのは俺の不注意だ。借りた俺の自業自得だろ。お前が気に病むことじゃねえよ』
「でも――」
『それにさ、お前の頭の中に俺がこんなに濃く残ってるおかげで、こうやってまた会えた。十分だろ』
そこにはもう、AIの作った丁寧なバグも、不自然な美化もなかった。
一馬は深く息を吐き出し、笑った。
『一馬、お前の記憶は重すぎるんだよ。未来の連中のペラペラなデータじゃ、時空を押し戻せねえ。でも、お前のそのどでかい記憶と、俺の残留シグナルを合わせれば――お前らを「現在」に押し戻せる』
「戻れるのか?」
『ああ。だが、片道だ。もう過去へ戻って俺を救うことはできないぞ』
「……それでいい。お前と話せた。それだけで十分だ」



終章 それでも、今を生きる
2189年の渋谷のネットワークリソースと、一馬の脳に残されたあまりにも高密度な「1979年の記憶」、そして亮の残留シグナルが共鳴し、反転した時間ベクトルを現在へと強力に押し戻した。
「……奇跡ですよ。一馬さんの記憶があまりにも頑丈で重かったから、未来の極性から弾かれて、ちょうど私たちの『現在』に正確に着地できたんです」
ラボに戻ったミライは、泣き笑いのような顔でそう言った。
「タイムマシンのくせに、結局未来に行って帰ってきただけじゃねえか」
「すみません……でも、祖父に会わせてくれて、ありがとうございました」
――その夜。
一馬は「残骸」のカウンターに、いつものように立っていた。
「未来がどうとか、過去がどうとか、結局俺には関係ない話だったよ」
常連客に、一馬はそう言ってグラスを傾けた。
「痛い思いをしなきゃわからないことが、この世にはあるんだ。それを誰かに消してもらったり、AIに肩代わりしてもらったら、それはもう俺の人生じゃなくなる」
若い客の一人が、グラスを見つめながら恐る恐る尋ねた。
「マスター、その火傷……痛かったんですか」
「痛かったよ。今でも雨の日はうずく」
「消せばいいのに。今の医療ならすぐ消せるでしょ」
「消したら、あいつのことも一緒に消えちまう」
一馬はグラスを丁寧に拭き上げながら、小さく笑った。
タイムマシンがあっても、過去には戻れない。
それでいいのだと、今の一馬は思っている。
戻れないから、こうして語り継ぐしかない。
戻れないから、今日という日を、痛む身体で愛おしく生きるしかない。
渋谷の裏路地、雑居ビルの三階。
「スナックバー残骸」の看板の明かりは、今夜も泥臭く、温かく灯っている。

― 了 ―


Kindle



あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は「技術の進化によって私たちが失っていくかもしれないもの」をテーマに執筆しました。痛みや悲しみを排除し、快適さだけを追求した世界は一見すると理想郷のように思えます。しかし、忘れたくない記憶や絆は、往々にしてそうした「痛み」と表裏一体で結びついているのではないでしょうか。
1979年の熱気溢れる渋谷と、2189年の静寂な未来渋谷。そのふたつを繋いだのは、一風変わったタイムマシンではなく、一人の男が抱え続けた「友情と罪悪感の重み」でした。
便利な世の中だからこそ、自分だけの「傷」や「消せない思い出」を愛おしく思っていただけるような、そんな余韻が少しでも残れば幸いです。