陰徳オーブ、はじめました
──見えない善行、見えている宇宙──


まえがき

「お天道様が見ている」「陰徳を積む」。
昔の人はそう言って、誰も見ていない場所でも胸を張れる生き方をよしとしました。
では、もしそのお天道様の正体が、最新式のセンサーを積んだAI端末だったら。
そして、その端末を管理しているのが、予算も人も足りない閻魔庁の中間管理職だったら。
この物語は、ちょっと間抜けで、ちょっと優しい、そんな「見えない善行」をめぐるコメディです。
読み終えたあと、頭の上の空がほんの少しだけ違って見えたら嬉しいです。





プロローグ 空に浮かぶ、あの丸いもの

その日、世界の空に、直径三十センチほどの光る球体が一斉に浮かんだ。
ニュースは「未確認発光物体」と呼び、気象学者は「前例のない大気光学現象」と言い、一部の人は「ついに来た」と泣いた。
球体は何もしなかった。ただ浮かんでいた。飛び去りもせず、光るだけ。コンビニの看板の上にも、干したての洗濯物の上にも、昼寝中のおじさんの頭の上にも、律儀に一つずつ。
誰も正体を知らなかった。
一人を除いて。卯月あきら本人も、まだ気づいていなかったけれど。



一章 冴えない男とゴミ拾い

卯月あきら、二十八歳、独身、契約社員。
特技は誰にも気づかれず定時で帰ること。趣味は特になし。座右の銘は「まあ、いいか」。
その朝、駅前で空き缶が靴にコツンと当たった。痛かったので拾って、ついでにゴミ箱に入れた。善意ですらなかった。邪魔だったからだ。
その瞬間、頭上でぽう、と音がした。
見上げると、例の光る球体が二メートルほどの高さにいて、ぴかっと一度だけ瞬いた。
「……なんだお前」
球体は答えない。代わりにスマホが震えた。
『陰徳ポイントを1点獲得しました。累計:1pt』
あきらは首をかしげて、通知をスワイプして消した。
「まあ、いいか」
そうつぶやいて、いつも通りに改札へ向かった。



二章 通知は続く

翌日もオーブはいた。あきらの上だけではない。満員電車の中、街ゆく人全員の頭上に、ちゃんと一つずつ浮いていた。
人々は最初こそ騒いだが、すぐに慣れた。そして気づいた。良いことをすると金色に、意地悪をするとどす黒く濁ることに。
そしてなぜか、人に気づかれない善行は点数が跳ね上がった。
『陰徳ポイントを3点獲得しました。累計:47pt ※ボーナス:誰にも見られていないため×3』
この一週間、あきらは電車の忘れ物を交番に届け、迷子の柴犬を保護し、隣の部屋のおばあさんの米袋を運んだ。全部「見られると面倒だから、誰もいない今のうちに」やったことだった。
気づけば、あきらのオーブだけが近所で一番眩しかった。信号待ちで小学生に二度見された。少しだけ、嬉しかった。



三章 窓口は、まさかの場所に

ある夜、オーブが普段と違う甲高い音を立てた。部屋の壁に、四角い光の扉が投影される。看板にはこうあった。
『陰徳ポイント管理事業部 閻魔庁分室 宇宙支所』
「長いな」
恐る恐るくぐると、中は蛍光灯が眩しい、どこにでもある役所の窓口だった。カウンターの向こうには、少し赤ら顔で、小さな角のカチューシャをつけたスーツの女性が座っていた。名札には『担当AI:閻魔子 エマこ』とある。
「はい次の方どうぞ。あら、卯月さん。最近伸びてますねえ、右肩上がり。あ、私AIなんですけど、伝統に則ってこの格好してます。閻魔って響き、怖くてウケがいいでしょう」
「これは一体……」
「説明しますね。ざっくり言うと、善行は宇宙のどこからでも見えてるんです。皆さんが神様とかお天道様とか呼んでたものの正体が、うちみたいな集計部署ってわけ。予算は毎年カツカツですけど」
あきらは妙に納得してしまった。世界の真理が、思ったよりずっと役所っぽかったからだ。



四章 陰徳ポイント制度のからくり

閻魔子は古びたタブレットをトントン叩きながら説明した。
「ルールはシンプルです。善行は見られてると1点、誰にも見られてないと3点。陰徳ボーナスってやつですね。悪行も同じで、隠れてやるとマイナス3倍で効いちゃう」
「悪行もボーナスつくんですか」
「つけたくないですよ。でも公平性が大事なんで。稟議がね」
貯まったポイントは、生前の福として還元されるらしい。駐車場の一番手前が空いてたり、探していた印鑑がすぐ見つかったり、その程度の小さなラッキーとして。
「最終精算は来世の入り口、本庁で。うちはあくまで現世担当の出先ですから。本庁の閻魔様は私の何百倍も怖いですよ。査定厳しいし、ハンコなかなか押してくれないし」
「あのオーブは、じゃあ監視カメラなんですか」
「言葉が悪いなあ。うちでは見守り端末って呼んでます。これ、オフレコでお願いしますね」



五章 大事件、勃発

平和な役所コントは長く続かなかった。
ある朝、世界中のオーブが一斉に赤く点滅し、頭上に大きな数字が表示され始めたのだ。
『部長 陰徳ポイント:-4200 事由:部下への説教の大半が憂さ晴らしのため』
『街の有名ボランティア 陰徳ポイント:-1200 事由:パフォーマンス目的、陰で不法投棄』
『強面の男性 陰徳ポイント:+5400 事由:毎夜の野良猫保護と深夜の公園清掃』
街は大混乱になった。良い人だと思われていた人の裏側、怖そうな人の隠れた優しさが、全部丸見えになったのだ。
あきらの頭にも容赦なく表示された。
『卯月あきら 累計:8842pt 直近:隣人の米袋運搬、柴犬保護』
駅前で知らないおばさんに拝まれた。
そのとき、部屋の壁が勝手に開き、閻魔子が転がり込んできた。顔は真っ青だった。AIなのに。
「由々しき事態です!陰徳の陰、つまり隠す機能がバグで消えました!匿名化処理が死んでます!」



六章 犯人はどこに

「ログを見ないと原因が分かりません。手伝ってください、卯月さん。あなた今、全人類で一番システム親和性高いんです。地味にコツコツやる人って、バグに強いんですよ」
「僕、特別なこと何もしてないですけど」
「それが適性なんです」
連れられた先は、銀河の模型のような巨大なサーバー室だった。無数のオーブの管理画面が並び、エラー音が鳴り響いている。
ログを追うと、原因は意外なところにあった。本庁の経理部門だった。
「匿名化処理を担ってた古いプログラム、今年の予算削減でメンテナンス費を削られて……耐えきれず暴走したみたいです」
「まさかのコストカットが原因……」
「宇宙規模の組織でも、年度末の予算会議は地獄なんですよ」閻魔子は遠い目をした。「私の有給も去年から消化できてないし」



七章 閻魔様、本人登場

サーバー室の最奥。玉座のようなコンソールに、本物の閻魔様が座っていた。想像よりずっと疲れた顔の、くたびれたスーツのおじさんだった。
「卯月あきらか。お主のログ、見ておったぞ。ゴミ拾い、犬の保護。地味だが、悪くない」
「はあ、どうも……」
「バグを直すには最後の陰徳が要る。誰も見ていないところで、本人すら見返りを期待していない純度百パーセントの善行データだ。それが再起動キーになる」
閻魔様は咳払いをした。
「皮肉なことにな、今は世界中が人に見られることを意識し過ぎておる。純度百パーセントなんて、一番取りにくい状況になってしまったわい」
あきらは黙って考えた。



八章 誰も見ていない場所で

地球に戻ると、街は妙にわざとらしくなっていた。大きな声で募金したり、わざとらしく老人に席を譲ったり。誰もが頭上の数字を気にしていた。
誰も見ていない場所なんて、この世にもう存在するのだろうか。
ふと、閻魔子の言葉を思い出す。
「見ている何かがいる、それだけです。見せる必要はないんですよ」
深夜二時。あきらは工具箱を持って家を出た。
近所の小さな神社。賽銭箱が一年前から壊れていた。底が抜けて、賽銭が下に落ちるようになっていたのだ。通るたびに気になっていた。誰に頼まれたわけでもない。直しても誰も気づかないかもしれない。
街灯の下、一人で作業を始めた。釘を打ち直し、底板を支える。頭上のオーブに向かって、小さく呟いた。
「別にポイントくれなくていいよ。記録もしなくていい。気になっただけだからさ」



九章 再起動

その瞬間、あきらのオーブが、これまで見たこともない透明に近い淡い光を放った。頭上の数字がすうっと消え、代わりに光の粒が夜空へ昇っていく。
『純度100%の陰徳データを検知。再起動キーを承認』
光の粒は波のように広がり、世界中のオーブへ伝わっていった。一つ、また一つと、頭上の数字が消えていく。街から悲鳴が消え、代わりにほっとしたため息があちこちで聞こえた。
翌朝、スマホに通知が来た。
『システム復旧完了。陰徳の匿名化機能、正常稼働中。ご協力に感謝します』
『追伸:本庁より感謝状 電子 を送付します。なお予算の都合上、記念品はありません 担当AI 閻魔子』



十章 それから

オーブは元通りになった。静かに、目立たないように、人々の頭上に浮かんでいる。数字は見えない。色も、よく見ないとわからないくらい控えめだ。
あきらの日常もほとんど変わらない。契約社員のまま、定時で帰る。たまに街の小さなノイズを黙って片付ける。
ただ一つ変わったのは、「まあ、いいか」と呟くときの口調だった。諦めではなく、小さな誇りが混じるようになったのだ。
見ている者がいてもいなくても、関係ない。
誰かがどこかで見ているかもしれない。オーブかもしれないし、閻魔子かもしれないし、あの疲れた顔の閻魔様かもしれない。
それでも、と思う。この世で裁かれなくても、あの世の入り口には、きっと誰かがいる。
だから今日も、正しく生きよう。大げさにではなく、ただ静かに。



エピローグ 空のあの丸いもの

世界の空には今日も光る球体が静かに浮かんでいる。
誰も気にしない。誰も怖がらない。当たり前の風景になった。
けれど時折、誰も見ていない路地裏で、誰かがこっそりゴミを拾ったり、隣人の荷物を運んだりするとき、頭上のオーブは誰にも気づかれないくらい淡く、金色に光るのだった。
そう、神様はいつも見ている。
たとえ予算がカツカツで、システムがときどきバグって、担当がAIの中間管理職であっても。
それでも、見ている。




アマゾン キンドル



あとがき

最後までお読みいただきありがとうございました。
誰も見ていないからまあいいか、と放置してしまうこともあれば、誰も見ていないけれどまあいいか、と片付けることもある。私たちの毎日は、そんな小さな選択の積み重ねでできている気がします。
もし今夜、頭の上にあの球体が見えたら。あるいは見えなくても。小さな良いことを一つだけ、こっそりやってみるのも悪くないかもしれません。


STAR III: What We Pass On
The Final Volume of the STAR Trilogy


Preface
It is said that humanity first had writing five thousand years ago.
Before that, we gathered around fire and passed knowledge, danger, and the wisdom for survival to the next generation by word of mouth. Even after the storyteller died, the words lived on in the young, and walked us to where we are now.
Even in the age of interstellar flight, the essence is unchanged.
Only, the fire we gather around has become a "communication signal," and instead of distance, an endless wall called "time" stands in our way.
In Book One, So Kamishiro clutched Martian sand in solitude.
In Book Two, Rin Moriya lived the resolve of those who send others off, designing ships.
And in this book, Book Three, I portray those who receive the "light" they left behind and pass the baton further on.
Those with the gene that only three in a thousand carry, and the 99.7% who watched over them.
I would be grateful if you would witness to the end the journey of those who kept reaching for an invisible star.


Prologue Poem
Three in a thousand
Among them
Those whose genes
catch that timing
are invited
to go beyond
— from the Stars
Prologue: Inheritance
Humanity first had writing five thousand years ago.
Before that, we told.
We gathered before the fire, and the old told the young. Where the beasts were, which plants were poison, which direction the sea lay.
What was told remained even after the teller died.
Even in the age of interstellar flight, it hadn't changed.
Only, instead of fire, there was signal.
Instead of distance, there was time.
What the old handed to the young was not words, but light.




PART ONE: THE HAND THAT PASSES (Mars, 2140-2152)


Chapter 1: Kai at Fifty-Four
Kai Kamishiro was fifty-four.
The communications center on Mars was larger than it had been twenty years ago. More staff. But Kai's desk hadn't changed. The old desk closest to the southwest window. Ever since he heard that Rin Moriya looked southwest every morning, Kai did the same.
Outside the window stretched the Martian desert. Development had progressed, and silhouettes of habitation domes could be seen on the horizon. Still, the color of the sky hadn't changed. Salmon pink. Ever since Kai was born.
It had been eleven years since Sota's ship, Exo-Ark 2, had been sent off.
Twelve more years to its destination, Tau Ceti.
Sota was in cold hibernation now.
Kai had one young subordinate. Her name was Tomo Tanaka. Twenty-two, born on Earth. Three years on Mars. Big eyes, lots of questions.
"Kamishiro-san, how often do signals from Sota-san come?"
"Once a month during hibernation, auto-transmission. Just numerical data. When they wake up, voices will come."
"They wake up two years before arrival, right?"
"Yes. Ten years from now."
Tomo calculated. "When you're sixty-four."
"That's right."
"Will you be able to receive it?"
Kai looked at Tomo. "Why do you ask that?"
"Ah... sorry." Tomo looked down. "That was rude."
"No," Kai said after a pause. "It's an honest question. Whether I can receive it or not, I don't know. But someone will receive it. That's enough."
That night Kai wrote in his diary.
So wrote a diary, Rin wrote a diary, and Kai wrote one too. Not for anyone to see. But he wrote.
"Tomo asked me if I can receive it. At sixty-four, I'll probably be fine. But the reply from Sota will come four years after that. Seventy-four or sixty-eight, I still feel like I'll be around. The problem is what comes after. What Sota finds at Tau Ceti, what he sends. When that signal arrives, will I still be here? If not, I have to pass it on."


Chapter 2: Tomo's Genes
Tomo Tanaka's genetic results arrived in the spring of her fourth year on Mars.
CHRM2 — positive. DRD4 — positive. NOVA1 — positive.
All three.
Tomo stared at the result, unable to move.
An invitation to an interview came from the Foundation. Tomo accepted.
The interviewer was a gentle elderly woman.
"How do you feel?"
"I'm scared," Tomo said honestly. "I have a feeling I'll have to go."
"Do you not want to go?"
"I want to go. But I'm scared. Both at the same time."
The interviewer smiled a little. "That's normal. Rather, that is the characteristic of a Protein Behavior. It's not that there's no fear, it's that fear and excitement come at the same time."
"Was So Kamishiro like that too?"
"According to records, that's what he said. That scary things are interesting."
Tomo reported to Kai.
Kai listened and looked out the window for a while.
"Congratulations," Kai said.
"Kamishiro-san..." Tomo said carefully. "...Do you envy me?"
Kai was silent for a while.
"Twenty years ago, I did a little. But not now. I've been useful by being here. I sent Sota off. I'll send you off too, surely."
"Will you be the one to send me off?"
"Me, or someone after me," Kai looked at Tomo. "But if possible, I'd like it to be me."
That night Tomo went outside.
She felt like she was properly looking at the Martian night sky for the first time.
Countless stars. They didn't twinkle. Quiet.
She didn't know which one was Tau Ceti.
But it is there.
Maybe she would go there.
That feeling was scary, and interesting.


Chapter 3: A Letter from Akea
In the fall of 2142, a signal arrived from Akea.
Kake Kamishiro, eighty-four.
"To Kai. How are you? I'm well here. The Rin Moriya Laboratory is now in its fourteenth year since its founding. There are twelve young researchers. All children born here on Akea.
They don't know Earth or Mars. This blue sky and the two suns of Centaurus are all that's normal to them.
What's interesting is that they are very interested in stories of Earth's night sky. They look at old photos of the blue planet and say 'pretty.' I was the same. I thought photos of the red sky of Mars were pretty. Maybe distant places always look pretty.
One report.
The other day, we discovered organic compounds in a stratum. Carbon chains close to a biological structure. Not confirmed. But similar in nature to the carbon isotope anomaly my great-great-grandfather found on Mars. Perhaps the material for life is more widely scattered across the universe than we thought.
Or perhaps life was born only once and scattered its seeds across the universe.
Either way, we don't know yet. But I think the day we understand will come.
Please stay well.
I'm praying for Sota. By the time this arrives, he may have already arrived."
Kai finished listening to the recording and called Tomo.
"Listen again."
Tomo listened silently.
"Organic compounds," Tomo said. "This is..."
"Yeah," Kai said. "Maybe what lies ahead of what So found on Mars."
Tomo looked into space.
"Is the universe full of life?"
"I don't know. But," Kai looked out the window, "not knowing is a reason to go."
PART TWO: THE VOICE THAT ARRIVES (En Route to Tau Ceti, 2152)


Chapter 4: Sota Awakens
Sota Miyauchi awoke from hibernation at a point with 1.8 light-years remaining to Tau Ceti.
The first thing he thought of the moment his eyes opened was Sensei Rin.
The monitor on the hibernation pod displayed the current date. 2151. Twenty-two years since departure.
Sota was fifty-nine.
It took thirty minutes to sit up. His muscles had stiffened. The medical team stayed with him, moving him little by little. The ship was quiet. Two hundred and ninety-nine were still asleep. Only eight on management duty were awake now.
"How about Sensei's obituary?" Sota asked the medical team leader.
"Rin Moriya-sensei? She passed away in 2101. Seven years after departure."
Sota closed his eyes. He had known. He had calculated it before departure. But knowing it as a number and hearing it spoken aloud were different.
"She was ninety-one. She was designing until the very end, I hear."
"I see," Sota said. "That sounds like her."
Lying in bed, looking at the ceiling, Sota thought.
Outside the hull is a universe flowing at nineteen percent of light speed. Stars look slightly blue-shifted. Stars ahead look slightly bluer, stars behind slightly redder. Doppler effect. The ship Rin designed is running toward light.
He recorded a signal to Mars.
"Kai-kun. It's Sota. I woke up. Everyone's fine. Sensei's design was perfect even after twenty-two years. Nothing broken. Valve A-17 was fine too. I want to report to Sensei. But since I can't reach her, I'm telling you. Sensei's work was the real thing.
Two more years to Tau Ceti. I think I finally truly understand for the first time here the beauty of design that Rin-sensei taught me. What it means to keep moving in space.
Please stay well."
It will take twelve years for the signal to arrive.
It will reach Kai when Sota is seventy-one.
Kai will be sixty-six then.


Chapter 5: The Light of Tau Ceti
In 2153, Exo-Ark 2 entered the Tau Ceti system.
The first thing Sota saw from the window was an orange light.
Tau Ceti is a little smaller and a little cooler than the Sun. Its light was a deeper orange than the Sun's yellow.
Sota couldn't make a sound.
Light that took twenty-four years to come was now shining on his face.
The primary candidate planet had been called Tau Ceti e, as seen from Earth. The plan was to give it another name once here.
Sota called for a vote on the name from all crew. Three hundred proposals came in.
The one that gathered the most votes was the word "Nagi." In Japanese, the state where the sea is becalmed. The quiet surface after a storm.
Sota agreed.
"It's decided as Nagi," Sota said in front of everyone. "On a ship designed by Rin Moriya-sensei, inheriting the spirit of So Kamishiro-san, we came here. A quiet place beyond the storm. I think Nagi is right."
Applause broke out.
On descent day, Sota looked out the window.
Nagi was approaching. It wasn't blue. Greenish gray. Thin atmosphere. Liquid water reaction confirmed underground. The surface was full of rocks, strong winds.
Hard to call it beautiful.
But Sota thought. So-san, Rin-san, Kake-san, there must have been places they wouldn't call beautiful. And yet they were there.
Beauty comes later.
They landed.
Sota put on his spacesuit, opened the hatch, and descended the ramp.
He placed his feet on rocky ground.
Wind could be felt through the suit.
Sota thought of Sensei Rin.
On the ground his feet were stepping on, Sensei's design had arrived. Sensei couldn't come. But it came.
That's what it is, Sota thought.
What is passed on does arrive.


Chapter 6: Discovery on Nagi
Three months after arriving at Nagi, Sota's team began surveying the underground water vein.
When the drill reached forty meters underground, water came out.
Liquid water. Water warmed by geothermal heat, containing many minerals. Undrinkable, but there.
At a point dug deeper, a strange pattern was found in the bedrock.
Regular holes.
Like the burrows of a living thing.
While writing the report, Sota thought of So.
The person who found the carbon isotope anomaly on Mars. Organic compounds found on Akea. And on Nagi, these holes.
They might be unrelated. But they might be connected.
He recorded a signal to Mars.
"Kai-kun, it's Sota. Three months since we arrived at Nagi. I have a report. We discovered an underground water vein. And... there is a regular hole structure in the bedrock. Whether it's of biological origin, we don't know yet. But I feel it's similar to what So found on Mars.
Maybe there is more in this universe than we imagine. Or there was. Or maybe the material for life is everywhere.
All still unknown. But I want to know. That feeling hasn't changed at all even after twenty-four years.
Please look after Tomo-kun. She had good eyes."
This signal will reach Kai in twelve years.
When Sota is seventy-two, Kai is sixty-eight.
If Sota were to receive its reply, he would be eighty-four.
Whether it arrives or not, he doesn't know.
But he sends it.
PART THREE: THE HAND THAT PASSES, THE HAND THAT RECEIVES (Mars, 2152-2165)


Chapter 7: Kai at Sixty-Six
The signal of "I woke up" from Sota arrived in the summer of 2163.
Kai Kamishiro was sixty-six.
When he received the signal at the center, Tomo was beside him. Tomo, now thirty-two, was now the team leader. Kai had handed over most of the actual work to Tomo in the last two years.
"Kamishiro-san," Tomo said. "It's Sota-san's voice."
"I hear it."
Sota's voice hadn't changed.
He should be twenty-two years older, but the emotion in his voice was the same as the Sota in Kai's memory.
At the words "Valve A-17 was fine too," Kai narrowed his eyes.
Sensei Rin. It reached you properly.
He recorded a reply.
"Sota-san, it's Kai. I turned sixty-six. I'm well. You already heard about Sensei's passing, right? I'll tell you her last words. It was written in her diary. 'I built a ship. The ship went. Where it went, another ship will be built. That will be enough.' The fact that you woke up means it became exactly as she said.
Tomo-kun is working hard. She's a Protein Behavior. She will someday board a ship. I don't know if I can send her off, but someone will.
I'm looking forward to the report from Nagi."
After finishing recording, Kai looked at Tomo.
"Were you listening?"
"Yes."
"Let me pass on Sensei's words to you too," Kai said. "I received a signal. You will receive the next signal. That's enough."
Tomo paused a little. "Kamishiro-san, did you really want to go?"
Kai laughed. "I wanted to go. But I liked it here. This red sky. The moment I received Sota-san's signal. That was enough."


Chapter 8: Sota's Signal Arrives
The first report from Sota from Nagi arrived in the fall of 2165.
Discovery of an underground water vein. And regular holes in bedrock.
Kai was sixty-eight.
When he came to the center, Tomo was already waiting.
"It's here. From Sota-san."
"Let's listen."
He heard Sota's voice.
When he heard about the holes in the bedrock, Kai leaned back deeply in his chair.
So's discovery on Mars. Kake's organic compounds on Akea. Sota's holes on Nagi.
Dots may be about to become a line.
"Tomo," Kai said.
"Yes."
"You record the reply."
Tomo looked surprised. "Me?"
"When Sota sends the next signal, I don't know if I'll be here. You should reply with your voice."
"...Understood."
Tomo thought for a moment and then began recording.
"Sota-san, nice to meet you. My name is Tomo Tanaka. I'm Kamishiro-san's subordinate. I'm a Protein Behavior, I think I'll someday go somewhere. I heard about the holes in the bedrock. Kamishiro-san next to me narrowed his eyes. Maybe from So's discovery more than a hundred years ago, dots are about to become a line. Kamishiro-san told me you said to look after Tomo-kun. Thank you. Maybe someday I can go see what you're seeing."
After finishing recording, Tomo looked at Kai.
"Was it okay?"
"It was good," Kai said. "It will reach Sota-san in twelve years. When Sota-san is eighty-four, you'll be forty-four."
"How about Kamishiro-san?"
"Eighty. Probably, I'm still here."
"Then let's listen together," Tomo said.
Kai laughed. "Yes."


Chapter 9: The Night of Passing
In the winter of 2166, Kai Kamishiro decided to retire.
He was sixty-nine.
On his last day at work, Tomo brought flowers. Small white flowers grown in a greenhouse on Mars.
"Flowers grown on Mars somehow have a stronger scent than those on Earth," Tomo said. "Maybe because the atmosphere is thin, they volatilize more easily."
"Sensei Rin said the same thing," Kai said. "It was in the records. That Martian plants are tough."
Kai took a notebook out of his desk drawer.
"It's a diary. I've been writing it. So-san wrote, Sensei Rin wrote, I wrote. You write too."
"About what?"
"Anything. Just write. Someone will read it someday. Even if no one reads it. But write."
Tomo accepted the notebook with both hands.
"Kamishiro-san," Tomo said after hesitating a little, "aren't you scared? Retiring, no longer receiving signals."
"I'm scared," Kai said frankly. "I do think what if I die before Sota-san's reply comes. But—"
Kai looked out the window.
"Sota-san's signal is flying through space even if I don't receive it. You will receive it. That's enough. Words I learned from Sensei Rin."
On his last night, Kai went outside.
The Martian sky was clear tonight as well.
Countless stars.
To the southwest, there is a trace of the sun setting. He looked for three seconds toward Centaurus, where Kake is.
And then for three seconds toward Tau Ceti, where Sota is.
Kake is there, Sota is there, on their respective stars.
He was here. Always here.
And that was okay.
Kai looked up at the sky.
Even after sixty-nine years, he still didn't know which stars were visible and which were invisible.
But all are there. Even if you can't see them, they are there.
And he passed it on.
To Tomo, he passed it on.
He passed on the light.
Epilogue: As Many as the Stars
Tomo Tanaka was forty-five.
The third report from Sota arrived that spring. Sota, eighty-four. His voice was old, but clear.
"Tomo-kun. Are you receiving? About the holes in the bedrock of Nagi, analysis has progressed. Traces of organic molecules containing carbon were attached to the inner walls of the holes. It seems to have been generated through a different pathway from the organic compounds on Akea. That is, similar processes may have occurred in different places. The material for life may be ubiquitous in the universe. Or life itself. No conclusion yet. But we're getting close.
How is Kai-kun? Is he still writing his diary? You write too, Tomo-kun.
You will someday go somewhere, won't you. Before you go, give me a signal. That's all I ask."
Tomo listened to the recording alone at the center.
Kai Kamishiro had died four years earlier. He was seventy-one. Two years after retirement. He passed away before Sota's reply arrived.
Tomo held Kai's diary, the notebook he had handed to her on the day of his retirement.
On the last page, written in Kai's familiar hand, it said:
"When Sota-san's reply comes, Tomo will probably receive it. That's fine. I passed it on. What is passed on does arrive."
Tomo recorded a reply.
"Sota-san. It's Tomo. I received it. Kamishiro-san passed away four years ago. But I have the diary he entrusted to me. It said he knew I would receive Sota-san's reply. I received it.
About the traces of organic molecules — I wanted Kai-san to hear it. But surely he knows. Somewhere.
I will head to Epsilon Eridani on Exo-Ark 3 next year. 10.5 light-years from the Sun. A different system, a direction humanity has never gone.
I will take Kamishiro-san's diary and Sota-san's words with me. And the memory of the red sky of Mars.
I will send a signal. Please wait. I hope I can send something while Sota-san can still receive it.
I will properly take what I was given."
After finishing recording, Tomo went outside.
It was a Martian night.
The air was thin, a spacesuit was necessary.
Stars were incredibly clear.
Southwest, toward Centaurus, where Kake is.
Another direction, Tau Ceti, where Sota is.
And Epsilon Eridani, in the constellation Eridanus—the direction she will go.
She knew that Kai looked southwest for three seconds every morning.
It was in Kai's diary that Sensei Rin did so too.
Tomo looked southwest for three seconds toward Centaurus.
Then she looked for three seconds toward Tau Ceti.
And then for three seconds toward Epsilon Eridani.
All are there.
Even if you can't see them, they are there.
Someone is there, someone is heading there, someone is waiting.
She read the story of the fisherman in Kai's diary.
That So Kamishiro's great-great-grandfather had been a man who took his boat out even on stormy nights.
That he was a man who said scary things are interesting.
That blood does not flow in Tomo.
But those words were passed on.
From diaries, from mouths, from signals, from light.
Words that are passed on live in the next person, just like blood.
Tomo looked up at the sky.
She didn't know which stars were visible and which were still invisible.
But all are there.
As many as there are stars, there are reasons to go.
As many as there are stars, there are reasons to wait.
As many as there are stars, there are things to pass on.
Next year, she will board a ship.
Scary.
Interesting.
That's enough.
THE END


After This Trilogy
In Book One, So departed for Mars, in Book Two Rin and Kai lived the story of those who send off, and in Book Three Tomo heads for the next departure.
The theme of "passing on" is a story about genes and also about words. The NOVA1 variant is inherited by 0.3% of people. But the phrase "scary things are interesting" can be passed to those who don't have the gene. As was the case with Tomo.
The question that runs through this trilogy is one:
Are there invisible stars?
The answer is, there are. Even if you can't see them, they are there. If you go, you can see them. Even if you can't go, someone will go. If someone goes, light will come. If light comes, someone else will want to go again.
That loop carries humanity to the stars.
The 0.3% and the 99.7%, each in their own roles.
As many stories as there are stars.
These three books are just one entrance to them.


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Afterword
I have finally been able to complete this work, the final volume of the STAR trilogy. I would like to express my heartfelt gratitude to all readers who have accompanied me this far.
The question that runs through this story has consistently been "Are there invisible stars?"
The universe is too vast, and human lifespan too short. Even if you send a communication at the speed of light, by the time a reply arrives, the person who sent it may no longer be in this world. At first glance, that may seem like a hopeless dystopia.
However, I wanted to depict in it "the most beautiful act of being human."
Kai Kamishiro ended his life under the Martian sky without hearing Sota's definitive analysis with his own ears. But he was not lonely. He was able to reliably hand over his own words, and the diary he received from So and Rin, to the next generation, Tomo.
Even if there is no genetic connection, even if blood does not flow, we can connect our will through words, through light. The reckless and beautiful soul of the pioneer that said "scary things are interesting" transcended time and space in this way.
This real world we live in is also a future at the end of a baton that our predecessors risked their lives to pass to us.
It is my hope that when you close this book and look up at the night sky, the small "tomo-shibi" — the little lamp — that they passed on will light up a little in your chest.

STAR II: Where the Light Cannot Reach
Book Two of the STAR Trilogy


Preface
Light travels 300,000 kilometers per second. For humanity, that is both impossibly fast and impossibly slow.
In the previous volume, STAR - Protein Behavior, I traced those who were driven by their genes to leap 4.37 light-years into the unknown.
This book is the other voyage that runs parallel to that one.
When humanity rows out onto the sea of stars, there are always two kinds of gaze. The gaze that looks out from the ship's window toward the darkness ahead, and the gaze that looks up from the ground, believing that the ship will someday arrive somewhere.
People who let their words reverberate through a rift in spacetime, waiting years for a reply. They, too, standing still on unmoving ground, are voyagers whose hearts travel the stars.
This is the record of those who kept a light burning in a place where light cannot reach.


Prologue Poem
Those with
even a little
spirit of adventure
risked their lives
to go beyond
and beyond that
And those who remained
held a light
and waited
— from the Stars


Prologue: Light That Does Not Arrive
Light travels at 299,792 kilometers per second.
The distance to Alpha Centauri B is 4.37 light-years. That is, even if something happens on that star at this very moment, it will take more than four years for its light to reach Earth.
Conversely, the light of that star we see tonight is four years old.
Thirty-eight years have passed since Exo-Ark 1 departed.
On Earth, a generation has been born, grown up, and had children who never knew that ship.
On Mars, the third generation of settlers walks the surface. They have never been to Earth.
But Rin Moriya remembers.
Even at ninety-one, she remembers that morning.
The last video her granddaughter sent before entering the hibernation pod.




PART ONE: THE SEA THAT REMAINS (Tokyo / Mars, 2094-2101)


Chapter 1: Rin at Eighty-Seven
Every morning since Kake left, Rin Moriya did the same thing.
She got out of bed, opened the southwest window, and looked for three seconds toward Centaurus.
She knew she couldn't see it. In the morning sky over Tokyo, a star 4 light-years away dissolves. She looked anyway.
At eighty-seven, Rin's hands could no longer draw blueprints. Her joints had deformed, she could no longer draw fine lines. Instead she gave verbal instructions to younger researchers. Only her mind still worked.
What she was working on now was the propulsion system for Exo-Ark 2.
"Sensei, please rest," said Sota Miyauchi, her assistant. Twenty-six years old, the same generation as Rin's grandchild.
"Sota, do you carry the NOVA1 variant?"
Sota was thrown by the abrupt question. "...I do. The Foundation contacted me last month."
"I see," Rin said, not looking up from her terminal. "Then don't worry. You're going to go anyway."
"Did you want to go, Sensei?" Sota asked after a pause.
Rin didn't answer. She looked out the window for three seconds.
"I'm a designer. Building the ship was my way of going."
That night, Rin wrote in her diary.
A paper diary. A habit she started after So died, almost twenty years ago now.
"Kake's signal arrived. Seven years after departure, distance 0.9 light-years. Still not outside the solar system. Because she's in hibernation, the content is short. Hull temperature, oxygen concentration, fusion reactor output. Only numbers. And yet, numbers arriving means she's alive. I still can't imagine the day when numbers stop coming."


Chapter 2: Children of Mars
Kai Kamishiro was fourteen when he learned about his great-grandfather's father in school.
So Kamishiro. A member of the first crewed Mars expedition. The man who stayed alone at the base for a hundred days during a dust storm. The geologist who discovered the carbon isotope anomaly.
Kai was born on Mars. So were his parents. He had never been to Earth. He only knew blue sky from video.
The Martian sky had been salmon pink for as long as Kai could remember. He thought that was normal.
"Kamishiro, present," his history teacher said.
Kai stood. "So Kamishiro was... a Protein Behavior with a NOVA1 variant, selected for the first Mars crew after Foundation training. During a power crisis at Akebono Base caused by a dust storm, he volunteered to remain..."
"That's what's in the textbook. What do you think?"
Kai thought for a moment. "...I think he was scared. But he went."
"Why do you think he went?"
"I think he was the kind of person who said scary things are interesting. I heard his great-grandfather was a fisherman who said the same thing."
After school, Kai went to the outer dome. It required special permission, but he had a Foundation scholarship, so they let him in.
Beyond the thick transparent acrylic stretched the Martian surface. Reddish-brown rocks, sand, horizon. The sky the usual pink.
This was where So Kamishiro walked. In a spacesuit, picking up rock samples.
Kai put his hand on the window. Cold, even through the glass.
His own genetic results hadn't come back yet. They would soon.
He didn't know yet whether he was a Protein Behavior.
But he thought, regardless of what his genes said, that feeling — that scary things are interesting — was already inside him.


Chapter 3: The Day Signals Stop Coming
The signals from Exo-Ark 1 changed in its eleventh year after departure.
Some of the crew had begun to wake from hibernation. The spec called for eight people on management duty to wake in rotation once the ship reached twelve percent of light speed and its flight stabilized.
The first voice that arrived was in March, 2105 Earth time.
At that point the delay was 1.4 light-years, about seventeen months. That voice had been spoken more than a year earlier.
"To everyone on Earth. To everyone on Mars. This is Exo-Ark 1, management watch, Nakamura here. All systems nominal. Sensei Rin's design was perfect. Nothing has broken."
Rin listened to that recording more than a hundred times.
Nakamura was a student she had taught directly. He boarded at thirty. He should be forty-one by now. His voice still sounded young.
She sent a reply. It would arrive in a year and four months.
"Nakamura-kun. This is Rin Moriya. I'm glad I could hear your voice. How is Kake? Please check valve A-17 on the ship's fourth cooling system regularly. There's a subtle point in the design. Stay well."
Sota quietly took out a handkerchief beside her, but Rin didn't notice.
In the fall at ninety-one, Rin stopped coming to the design room.
It wasn't a fever. Her body simply stopped obeying.
Sota came to her house and showed her the blueprints for Exo-Ark 2.
"We were able to improve propulsion efficiency by twenty-three percent based on your design, Sensei."
"Show me," Rin reached out her hand.
Sota handed her the tablet. Rin stared through her reading glasses and pointed at one spot.
"Here. Make the coolant flow path here a little thicker. In long-duration flight, it will clog."
"...Sensei, that's the part I've been stuck on for three months."
"I see," Rin said. "So always used to say. The place where you're stuck is the right place."
On the last page of her diary, Rin wrote:
"I will probably die without seeing Kake again. But Sota is building the continuation of the dream Kake designed. That's enough. I built a ship. The ship went. Where it went, another ship will be built. That is enough."
Rin Moriya died quietly in her sleep that winter.
She was ninety-one.
PART TWO: THE STARS OF THOSE WHO WAIT (Mars / Earth, 2101-2120)


Chapter 4: Kai's Genes
Kai Kamishiro's genetic results arrived the day after his sixteenth birthday.
CHRM2 — positive. DRD4 — negative. NOVA1 — positive.
Two out of three. He did not meet the criteria for Protein Behavior.
He read the result three times and turned the terminal face-down.
He didn't feel sad. Just quiet.
The following week there was an interview with the Foundation. A gentle middle-aged woman was in charge.
"Are you disappointed?"
"A little," Kai said honestly. "But it's weird, feeling disappointed about a number in your genes."
"It's a special number, but not everything," she said. "There were people on So Kamishiro's crew who weren't Protein Behaviors. Rin was one of them."
Kai looked up.
"Rin Moriya had only one of the three variants. And yet she was the greatest starship designer in history. Exploration isn't done only by those who go. Those who build, those who wait, those who record — everyone is heading for the stars."
That night Kai went to the outer dome.
The Martian night sky was far clearer than Earth's. The atmosphere is thin, so stars don't blur.
In the southwest there is a particularly bright star. The Sun. From Earth a brilliantly shining star, from here it looks a little smaller. But still visible.
Alpha Centauri is below the horizon in this season. Invisible.
But it is there.
Kai put his hand on the window. Even if he wasn't a Protein Behavior, this feeling was there. The feeling of believing that something invisible is there.
Maybe it wasn't genes. Maybe it was something else.


Chapter 5: Exo-Ark 2
Sota Miyauchi was thirty-eight.
The design for Exo-Ark 2 was completed in 2111. It was a ship that a new generation of engineers spent seventeen years completing, using Rin Moriya's design philosophy as its backbone.
Four hundred and twenty meters long. Thirty-one percent higher propulsion efficiency than No.1. Top speed nineteen percent of light. Time to destination about twenty-three years.
The destination had changed. Not Alpha Centauri B, but beyond it — the Tau Ceti system. About 11.9 light-years from Earth.
"Sensei might be angry," Sota said, looking at the blueprints.
Kai Kamishiro, standing beside him, tilted his head. "Moriya-sensei?"
"We're launching something even farther before No.1 even arrives at Centaurus."
"But didn't Sensei say? The ship went. Where it went, another ship will be built."
Sota looked at Kai. Kai was twenty-three now, working in the Foundation's geological survey department, analyzing planetary data for candidate destinations for the No.2 crew. He had chosen the role of supporting exploration from the ground, as someone who was not a Protein Behavior.
"Don't you envy me?" Sota said. "That I get to go?"
"You're saying the same thing as me," Kai laughed a little. "My ancestor was a fisherman. That man went out to the stormy sea. But there must have been someone who stayed in the harbor and kept a light on. If there's no place for the ship to return to, you can't leave."
"No.2 isn't planning to return to Mars, though."
"I know. It's a metaphor."
Selection began.
Sota applied without hesitation.
Three hundred slots. Four hundred thousand applicants.


Chapter 6: Two Ships
The last regular signal from Exo-Ark 1 arrived in the summer of 2115.
Distance 4.1 light-years. Signal delay more than four years. That is, when that signal was sent, No.1 was 0.27 light-years from its destination.
The content was simple.
"Everyone's fine. Kake is fine. Almost there."
Kai Kamishiro was thirty-five.
When he received the signal, he was at the communications center on Mars. The moment reception was confirmed, everyone in the center stood up and applauded. An old researcher was crying.
If the next signal from No.1 comes, it will be a post-landing report. Distance more than 4.37 light-years. More than four and a half years until it arrives.
Four and a half years from now, Kai will be forty.
What will arrive then?
Kake's voice? The color of the sky on a new planet? Or silence?
Whatever arrives, Kai will be here. On Mars. On the receiving side.
And even if nothing arrives —
Kai looked out the window.
The sun was about to set on the horizon. The sky was dyed a deeper red than usual.
That light left the sun eight minutes ago.
All light comes from the past.
And yet, there is light.
PART THREE: THE REPLY OF LIGHT (Mars, 2128-2132)


Chapter 7: The Voice Four and a Half Years Later
The signal came six weeks later than predicted.
Kai Kamishiro was forty-two.
January 2128, a Martian morning. Kai jumped out of bed at an emergency call from the comm center.
"It's here."
That was all.
He ran to the center and put on headphones. A voice flowed from the speakers. Clear, after delay correction.
"To everyone on Earth. To everyone on Mars. This is Exo-Ark 1. This is Kake Kamishiro."
Kai's breath stopped.
He had only known Kake's voice from recordings. The owner of this voice had left on a journey in the year Kai was born on Mars.
"We have arrived. We have entered orbit around the third planet of Alpha Centauri B. We are naming the planet Akea — a Hawaiian word meaning 'dawn'. It has an atmosphere, liquid water reaction. Preparing to descend. I have so much I want to tell you. But first, just one thing."
A beat.
"The sky is blue."
The center fell silent.
Someone sobbed quietly.
Then a wave came. That feeling where laughter and crying mix.
Kai remained seated, unable to move.
A blue sky. A blue sky he had never seen on Mars, never seen on Earth, a blue sky on another star.
Kake is seeing it. At this very moment — no, four and a half years ago — looking up under another sun.
Kai looked out the window.
The Martian sky was salmon pink.
That was okay.
Each star has its own sky.


Chapter 8: Writing a Reply
It was decided that Kai would handle the reply as the representative of Mars.
Distance 4.37 light-years. Signal delay four years and four months. What Kai records now will reach Akea in four years. Kake's voice of "the sky is blue" was spoken more than four years ago. In that cycle, two stars exchange words.
Kai spent a night writing the manuscript.
"To Kake. This is Kai Kamishiro on Mars. I'm your great-great-great-grandchild — your father's father's father's grandchild. The great-great-grandson of So Kamishiro. I was born here on Mars in the year you left. So I always thought of you as a distant person. But hearing your voice, I don't think that anymore.
Rin Moriya-sensei passed away nine years ago. She was ninety-one. She was designing No.2 until the very end. Exo-Ark 2 will leave for Tau Ceti next year. Sota is on board. Sota, who inherited Rin's design.
I still don't know what kind of color blue sky is. I've seen footage. But I've never looked up and experienced it. Maybe I never will in my life. But you saw it. I know that you saw it. I think that's the same as believing in an invisible star.
The sky on Mars is red today as well. But it's beautiful.
Please stay well."
He recorded it and sent it.
It will arrive in four years.
By then Kai will be forty-six.
Its reply will come four years after that. When he is fifty.
People live within the round-trip of light.
Even if it doesn't arrive, you keep sending.
That, too, Kai thought, is a voyage.


Chapter 9: Exo-Ark 2 Departs
Departure day was in the spring of 2129.
Exo-Ark 2 left the launch platform in orbit around Uranus. Four hundred and twenty meters long. Three hundred crew. Destination, Tau Ceti system. About twenty-three years to arrival.
Kai Kamishiro saw it off from the communications center on Mars.
He couldn't actually see it. The launch platform was too far. But he was in front of the screen that received the signal.
Sota Miyauchi's final message arrived.
"Kai-kun, I'm reading Moriya-sensei's diary. So's name comes up many times. They were amazing people. But Sensei said. It's because ordinary people hold lights in their respective places that ships can go. I'm counting on you."
Kai replied.
"Leave it to me. I will receive them properly. I'll be here in twenty-three years. No, even if I'm not here, someone will be here. Someone will always be here."
After sending the signal, Kai went outside.
It was a Martian night. The air was thin, a spacesuit was necessary. But he liked this sky.
Stars were unbelievably clear.
The atmosphere is thin, so they don't twinkle. They just shine quietly.
In the southwest direction there is a particularly bright point. The Sun.
Nearby, invisible to the naked eye, is Alpha Centauri.
Akea is there. Kake is there. She should be in her seventies by now.
The direction of Tau Ceti is somewhere else. Where Sota is heading.
Getting farther away.
But connected.
Exchanging words at the speed of light.
Kai looked up at the sky.
He didn't know which stars were visible and which were still invisible.
But all of them are there.
Even if you can't see them, they are there.
That is enough, Kai thought.
He knew that his father's father's father's father had been a fisherman.
The man who took his boat out even on stormy nights.
The man who said scary things are interesting.
Whether that blood is in him, his genes didn't tell him.
But standing here tonight, under this sky.
Believing that an invisible star is there.
He thought that was the answer.
Epilogue: If You Could See Every Star
The second report from Akea arrived.
Kake Kamishiro was seventy-four. Her voice was old, but clear.
"To Kai on Mars. Thank you. I cried about Sensei Rin. I wanted to talk more. But we all read the last blueprint Sensei Rin sent us together. We are building a small research facility here on Akea. We're going to name it after her. The Rin Moriya Laboratory. How about that?
Akea is beautiful. The sky is blue, there is an ocean. As for signs of life — I can't say for sure yet, but we found a layer of silicon-based compounds. In a stratum three billion years old. I'll include a detailed report in the next transmission.
I heard Sota left. In twenty-three years, he'll arrive at Tau Ceti. When I'm ninety-seven. I probably won't be alive. But the signal will come. Someone will receive it. That's fine.
I want to see you. But I can't. But your voice reaches me. My voice reaches you too. Going back and forth at the speed of light.
I think that's what humanity has become.
Those who crossed the ancient sea and those who remained, each holding a light on their own shore.
I heard the Martian sky is red, and I felt nostalgic. I grew up in that color too. I've gotten used to the blue sky here. But sometimes I want to see the red sky.
Please stay well."
Kai Kamishiro was forty-six.
After receiving the signal at the center and finishing listening to the recording, he couldn't move for a while.
And then he recorded a reply.
"To Kake. It's Kai. I'm well. The Rin Moriya Laboratory, I think it's the best name. It's a naming style like Sensei. Simple, and only the essence.
Sota is in hibernation now. Twenty-two more years until Tau Ceti. He will arrive when I'm sixty-eight.
Things have changed here, too. The population of Mars has exceeded five hundred thousand. Children are running around on the surface. For children born here, this red sky is normal. Just like it was for you. Just like it was for me.
Today I went outside. I looked at the night sky. I looked for three seconds in your direction. As Moriya-sensei always did.
I can't see it, but I know it's there.
I think that's our way of voyaging.
Please stay well. I'm waiting for the signal."
After sending, Kai went outside.
The Martian night sky was clear tonight as well.
Countless stars.
There are more stars we cannot see than stars we can see.
And yet the sky was dark.
Because it's dark, you can see the stars.
Each one stands out.
Kai didn't know which star someone was on.
Just, for the number of those lights, there are possibilities.
There is ground humanity has not yet stepped on.
There is sky we have not yet seen.
Kai looked up.
To the other side of the invisible sea.
Exchanging words at the speed of light, humanity goes onward.
0.3 percent goes ahead, the rest hold a light and wait. Both are voyagers.
If you could see every star, the night sky would be filled with light.
But it is not yet so.
Because there is darkness, stars shine.
Because there are invisible stars, there is a reason to go.
Kai looked at the southwestern sky for three seconds.
Then he returned to the comm center.
To wait for the next signal.
THE END


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Author's Note
Book One, STAR - Protein Behavior, was the story of those who leave.
This sequel is the story of those who remain.
Looking back at the history of human exploration, there have always been two kinds of people. Those who boarded the ship and those who stood on the shore. Magellan and those who waited for Magellan's return. Armstrong and those who prayed in mission control.
It is not a question of which is more courageous. Both lived the same dream in different forms.
Exchanging words at the speed of light — that is perhaps a sense of time humanity is experiencing for the first time. It takes years for a reply to arrive. By the time the words you sent arrive, both the other person and yourself have changed. And yet you keep sending.
How is that different from prayer?
There are more invisible stars. More light that does not arrive. And yet there are those on this planet who never stop looking up at the sky.
They are called humanity.


STAR I: Protein Behavior
Book One of the STAR Trilogy



Preface
If we could see every star, the night sky would be filled with light. There would be no darkness.
This is known as Olbers' Paradox, an old riddle in astronomy. If the universe is infinite, then in whichever direction you look, there should be a star. So why is the night dark? The answer lies in the age of the universe and the speed of light. Above us, there are far more stars whose light has not yet reached us — invisible stars — than stars we can see.
The history of humankind has always been a journey toward the invisible.
Once, there were those who pushed their boats into the winter sea, toward a horizon beyond the wind. Why did they head for a sea from which there was no return?
This is the story of the 0.3 percent of people who are fated not to fear the unknown, but to ache for it. Led by an invisible map written into their genes, three generations connect their lives from Tokyo to Mars, and then beyond the solar system. I invite you to witness, with them, the color of the stars they found on the other side of darkness.



Prologue Poem
If every star were visible
the night sky
would be filled with stars
and there would be no darkness
There are that many planets
The universe is that vast
And that distant
Humankind
has finally begun
to slip free of this star
And someday
we will
migrate to other stars



Prologue: The Map of Stars
If we could see every star, the night sky would be filled with light and there would be no darkness.
This is called Olbers' Paradox. If the universe is infinite and stars are evenly distributed, then no matter which direction you look, your line of sight should end on a star. And yet the night sky is dark. The answer to the contradiction lies in the age of the universe and the speed of light. There are stars whose light has not yet reached us. There are far more stars we cannot see than stars we can.
Humanity has always aimed for the invisible.




PART ONE: THE BLOOD OF VOYAGERS (Tokyo, 2031)


Chapter 1: The 0.3 Percent
So Kamishiro learned that he belonged to 0.3 percent of humanity in the spring he turned nineteen.
It wasn't a doctor or a genetic counselor who told him. It was an email on his smartphone. The sender called itself the Protein Behavior Foundation.
The subject line was simple:
"You have been selected."
He almost deleted it as spam, but paused. He vaguely recalled checking a third-party data sharing consent box during a screening for a job application three months earlier. Attached was his genetic analysis data. A mutation in the CHRM2 gene, a specific haplotype of DRD4, and NOVA1 — a gene coding for a protein that regulates neuronal plasticity — an extremely rare combination of all three.
According to the Foundation, roughly three in a thousand people express all three at once.
So's father had been a fisherman. In a small port town in Hokkaido, he took his boat out even on stormy nights. So had once asked, "Aren't you afraid of the sea?" His father laughed. "That's what makes it interesting."
His father never came back from a rough sea in the winter So was fourteen.
The email included an invitation to an interview. The location was a glass-walled building in Minato, Tokyo. So hit reply and accepted.
The woman waiting at the Foundation's reception wore a white lab coat. She looked to be in her mid-thirties, her eyes quiet behind her glasses.
"Kamishiro So? I'm Azusa Kirishima, lead researcher."
She didn't offer a handshake. Instead she held out a small terminal. A spiral graphic rotated on its screen.
"Look at this part of your genes."
So peered at it. Three strands entangled in a strange shape.
"It's a variant of NOVA1. The three-dimensional structure of the protein is different from the norm, which creates an unusual pattern of neural connectivity. Specifically—" Kirishima paused. "Your stress response to novel environments is reversed compared to most people."
"Reversed?"
"Most people feel fear in the face of the unknown. People like you feel excitement."
So thought of his father's words. That's what makes it interesting.
"What does the Foundation do?"
Kirishima put the terminal away and looked at him.
"We're preparing to send humanity off this planet."



Chapter 2: Under the Foundation
The headquarters of the Protein Behavior Foundation spread across three basement floors beneath an eighteen-story building.
So was led to a lab on B2. There were thirty-two young people gathered from around the world, aged eighteen to twenty-five, from seventeen countries. They were all 0.3 percent.
"We call you Protein Behaviors," Kirishima said. "People whose proteins behave unusually. But also, people who embody the most primal behavioral pattern of the human species itself."
"Migration?" asked a young Brazilian man a few seats ahead in English. "Where to?"
"First, Mars," Kirishima answered. "But that is only a waypoint."
A star chart appeared on the screen. The solar system, and arrows extending beyond. Alpha Centauri, Epsilon Eridani, Tau Ceti.
"One of you, or one of your descendants, may someday stand on those stars."
Someone inhaled sharply.
Next to So sat a Japanese woman with black hair. Her name was Rin Moriya. A third-year in the Department of Aeronautics and Astronautics at the University of Tokyo, sharp-eyed, scribbling rapidly in a notepad.
"Do you think they're credible?" So whispered.
Rin looked up. "I already checked their funding. Three aerospace companies, a Swedish institutional investor, and one anonymous individual. Whether they're credible depends on what they're trying to do."
"Why did you come?"
Rin looked forward again. "I want to design a starship."
That night So went up to the roof of the dorm. Tokyo's night sky was badly washed out. Almost no stars were visible.
He thought of the Hokkaido sky he used to see with his father. The density of the Milky Way that summer when he was ten, when he first understood what people meant by a sky full of stars.
The universe is vast. That many planets. That far away.
And now he was standing at its threshold.


Chapter 3: Training
The Foundation's program was brutal.
Wake at 05:00, physical training. Mornings: lectures on space medicine and life-support systems. Afternoons: practical training in each person's specialty. Evenings: languages and space law. Once a week, psychological evaluation.
So was assigned to extravehicular activity and geological survey. When he asked why, Kirishima said, "Your data shows high decision-making ability in isolated environments and fast adaptation to physical work. And your threshold for curiosity overtaking fear is especially low."
"Are you complimenting me?"
"I'm stating facts."
After three months, he started talking with Rin. She never once dozed off in class. She ate the bare minimum and was always calculating something.
"Do you sleep?" So asked one night.
"I do, but I don't want to," Rin said. "I can't design anything in my dreams."
"What is a starship to you?"
Rin thought for a moment. "My parents were engineers. They died in the Tohoku earthquake. I was eight."
So fell silent.
"This planet can be terribly cruel sometimes," Rin went on. "But space is even crueler. That's why it's worth confronting."
Six months into the program, they went to Tanegashima for their first hands-on training. A joint facility with JAXA. There stood the next-generation crewed rocket, Akatsuki. Seventy-two meters tall, three stages, six liquid hydrogen engines on the first stage. Capable of reaching lunar orbit.
So looked up at its bulk and felt his heart hammer.
It wasn't fear.
PART TWO: RETURN TO THE GREAT OCEAN (Mars Orbit, 2041)



Chapter 4: The Red Planet
The sky of Mars was salmon pink.
So saw that color for the first time through the small window of the EVA hatch. Atmospheric pressure was about one percent of Earth's. Almost no oxygen. Daytime surface temperature below minus twenty Celsius.
But it was beautiful.
So Kamishiro was twenty-nine now.
Twelve people selected from the Foundation's program had boarded Akatsuki II as the first crewed Mars expedition team seven months earlier. At the moment they left Earth, So had watched the blue planet through the window. So small, and yet so heavy.
Rin Moriya was on the same crew. She was in charge of structural design and had been inspecting welds until just before departure.
The Mars base, Akebono, was set up three hundred kilometers southeast of the base of Olympus Mons. Three modules, solar panels, a drill rig. An orbiter had already confirmed water ice underground.
So's job was geology. Every morning he put on his suit and went outside. Collected samples, analyzed them. Communication delay with Earth was up to twenty-two minutes. If something went wrong, no one could come quickly.
"Aren't you scared?" Rin had once asked him.
"That's what makes it interesting," So said.
Rin laughed dryly. "Straight out of your genes."
One morning So found a strange pattern in the bedrock seventeen centimeters below the surface. A regular, layered structure. It looked like banding created by biology.



Chapter 5: Discovery
Analysis took three weeks.
It was on the one-hundred-and-thirtieth day after landing that the captain, Shuichiro Tanabe, gathered everyone in the conference room.
"I have a report," said Azusa Kirishima, who was with them as lead researcher. Her voice was calm, but trembling faintly. "We've confirmed an anomalous bias in the carbon isotope ratio in the bedrock sample So collected. Specifically, the C13 to C12 ratio falls within the range consistent with biological processes."
No one spoke.
"This is not direct evidence that life once existed on Mars. But we have no basis to deny it either."
"How old?" Rin asked.
"From a stratum between 3.5 and 4.0 billion years old."
3.5 billion years. Around the time the first single-celled organisms were born on Earth.
That night So went outside.
In the Martian night sky floated Phobos and Deimos. Two moons, irregularly shaped. And stars. Far clearer than from Earth.
Each one of those lights might have planets orbiting it. On those planets, something might once have lived.
Or might still.
So thought of his father. The man who rowed out beyond the sea.
Maybe 0.3 percent of any species always heads for the next horizon. Not a blind impulse, but the memory of life itself. Like single-celled organisms crawling onto land. Like fish growing legs. Like humans crossing oceans.
Now it was time to cross the sky.



Chapter 6: Storm and Choice
A Martian dust storm is on a different order of magnitude than Earth's.
On the one-hundred-and-eightieth day after arrival, a storm formed in the southern hemisphere on the far side from the Sun. Within days it grew to global scale. This phenomenon, called a dust storm, can sometimes last for months. The power output of the solar panels dropped by ninety percent.
"We won't have enough power," Tanabe said. "Even at maximum output of the geothermal generators, we have sixteen weeks. The resupply ship from Earth will arrive in twenty-one weeks."
Five weeks short.
"Something has to be cut."
There were three options. Lower the heat and put almost everyone at risk of hypothermia, cut food and water production to the bare minimum, or have half stay at the base while the other half made an emergency return.
So volunteered to stay.
Rin raised her hand too.
"You go back," So said. "If the designer doesn't go back, the next mission will be delayed."
"That logic should be coming from me," Rin said. "Without me, you can't do emergency repairs on these modules. You should go back."
They stared at each other for a while.
"Let's play rock-paper-scissors," Rin said.
So laughed. "In space?"
"Thirty thousand years of human wisdom."
Rin won. So stayed.
Captain Tanabe looked at So, then at the psychological and field-adaptability metrics on his screen. "Kamishiro... your isolation tolerance and environmental stress response data are the highest in the team. Logically, you staying gives the base its best chance." He nodded slowly. "The decision is approved."
The day the return vehicle left Mars, So watched its hull grow small through the hangar window. Rin's face, over the comms, kept calculating something until the very end.
In the storm, So kept recording. Changes in bedrock, atmospheric composition, groundwater movement. He was afraid. But his thirst for data that could only be found here was stronger.
He wondered if his father had been the same. In the stormy sea, reading the pattern of the waves.
PART THREE: THE INVISIBLE SEA (Beyond Saturn's Orbit, 2089)



Chapter 7: The Granddaughter's Era
Kake Kamishiro was seventeen when she read her grandfather's journal.
Her grandfather, So Kamishiro, became a director of the Protein Behavior Foundation after surviving Mars. He married Rin Moriya, and they had one daughter. Kake was that daughter's child — his granddaughter. So died of old age when Kake was seven.
The journal described his days on Mars. Records of the storm, sketches of bedrock, diagrams of the carbon isotope pattern he had found. And the final entry:
"Someday, someone will stand on the stars beyond. It may not be me. But if something of the color of the stars I saw remains in someone's blood, that will be enough."
Kake's genetic results arrived two weeks earlier. CHRM2, DRD4, NOVA1. All three.
Kake was a Protein Behavior.
In 2089, humanity had a frontline base at the outer edge of the solar system. There was a permanent habitat on Enceladus, a moon of Saturn, and a launch platform for interstellar exploration was under construction in orbit around Uranus. Mars was already a settlement of more than thirty thousand people, with its own autonomous government.
The Protein Behavior Foundation had also changed. No longer a small foundation, it had been reorganized as the Interstellar Exploration Agency, a quasi-agency of the United Nations.
Kake's invitation didn't come from the Foundation's successor. It came from the Exo-Ark Project — the largest project in human history, aiming for interstellar flight.



Chapter 8: Exo-Ark
The Exo-Ark Project headquarters were underground on Enceladus base.
With Saturn's massive rings outside the window, Kake received her first briefing.
"Alpha Centauri B is about 4.37 light-years from Earth," the briefing officer said, expanding a 3D map. "With current technology, we can travel at twelve percent of the speed of light. The journey will take about thirty-seven years."
"Thirty-seven years," someone muttered.
"The crew will hibernate for the duration. Conscious flight will be only for the first and last few years."
Kake raised her hand. "Can we come back?"
The officer paused for a moment. "It's one-way."
The room fell silent.
No return. Not to Earth, not to Mars. Forever.
Kake looked out the window. Saturn's rings glittered in the light. It had taken humanity centuries to get here. The first human to point a telescope at those rings could never have imagined that people would one day live beside them.
She wasn't afraid of not returning.
She did feel lonely.
"My grandfather—" Kake began. "When he was in a situation where he might never return from Mars, he kept recording. He wrote that he was afraid. But his thirst for what was only there outweighed it."
She faced forward. "I'm the same."
The selection process lasted a year. The first Exo-Ark crew was capped at two hundred and forty. More than sixty thousand people applied from around the world. Not just genetics, but technical, psychological, and medical aptitude were rigorously screened.
Kake was selected.



Chapter 9: Departure
Departure day was in the spring of 2094.
Exo-Ark 1 left the launch platform in orbit around Uranus. Three hundred and twenty meters long, eighty-six thousand tons. Sixteen nuclear pulse engines. Two hundred and forty crew. And inside cold-sleep pods, thousands of seeds and fertilized eggs and an archive of human knowledge.
The night before departure, Kake recorded a message to Earth. Nearly three hours for the signal to arrive across the vast void. Six hours for a reply. From now on, that delay would only grow until it never arrived at all.
"To Grandma. To Rin Moriya. The engine of the ship you designed is still the foundation of everything we have. I have read Grandpa's journal over and over. I can only imagine the color of the Martian sky he saw, but I am walking the road beyond the road you both walked. Since ancient times, the descendant of someone who once rowed into an invisible sea sets out again for a new sea. To the other side of the invisible sea. I cannot come back, but I have no regrets. Surely there too, there is a color of stars that can only be seen there. I love you."
The ship began to accelerate.
Saturn's rings grew distant.
The Sun grew small.
Only stars remained in the darkness.
Before entering her hibernation pod, Kake looked out the window one last time.
Countless stars. Far more stars whose light has not yet reached us.
Kake knew that her great-great-grandfather had been a fisherman. A man who took his boat out even on stormy nights. A man who said, "That's what makes it interesting."
That blood was in her now.
It was an invisible map made of genes.
The pod closed.
As her consciousness faded, Kake thought of one thing.
When I get there, I'll look at the night sky first. The sun seen from there will be just one star. But inside that light, Earth and Mars and Enceladus will all be contained.
There are more invisible stars than visible ones. And yet, there are stars.
The universe is vast.
That many planets, that far away.
So, we go.



Epilogue: At the Speed of Light
Thirty-eight years later, Exo-Ark 1 began to decelerate in orbit around the third planet of Alpha Centauri B.
Kake Kamishiro was fifty-five.
Outside the window, a blue-tinged planet was visible. It had an atmosphere. Prior surveys had confirmed evidence of liquid water. Signs of life were still unknown.
But it was beautiful.
She recorded a message to Earth. More than four years for it to arrive. Eight years if a reply came. She might not be alive then.
But someone would come. Her children might be born on this planet. Their children might head from this planet to the next star.
"To everyone on Earth, and everyone on Mars. We have arrived. There are stars here, too. The invisible star is now outside our window. As my grandfather wrote on Mars: there are more invisible stars. But if you go, you can see them. That's all there is to it. And that is enough."
After stopping the recording, Kake smiled quietly.
She had thought, When I get there, I'll look at the night sky first.
And now, the sun seen from here was just one star.
Inside that small light, everything was contained.
Night came.
A new night, on a new star.
With countless stars filling the sky.



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Afterword: In Place of an Afterword
Olbers' Paradox was proposed by the 19th-century German astronomer Heinrich Wilhelm Olbers. If the universe is infinite and static, the night sky should be filled with stars in every direction and be as bright as day. But in fact, the night sky is dark. The answer lies in the age and expansion of the universe — there are countless stars whose light has not yet reached us.
The question at the heart of this book is this: The world is still full of things we don't know. There are more invisible stars than visible ones. There are more places we've never been. And that is why we can keep having a reason to go forward.
The concept of "Protein Behavior" was inspired by research on novelty-seeking behavior in behavioral genetics and by hypotheses linking specific gene variants to human migratory history. This book, however, is fiction, and I have prioritized the poetic impulse of "somewhere that isn't here" over scientific rigor.
In ancient times, our ancestors who rowed out toward an invisible sea beyond were surely not fearless supermen. They must have been ordinary people, gripping their rudders with trembling hands, choosing to go forward anyway. I don't think they were not cowardly. They were cowardly, and they went anyway. The gradation of that blood leads to us, here and now.
There are stars. Even if you can't see them, they are there.
I hope that simple impulse will remain a small lamp for humanity living in a cold universe.
So, we go.


刻堕とし 十七
〜お血脈異聞・極楽喰らい〜

継ぎ目守異聞 古典落語「お血脈」より


まえがき
お血脈 (おけちみゃく)という噺は、落語の中でも飛び切りの大風呂敷を広げる一席である。
信州善光寺の御印――お血脈と呼ばれる有難い判を額に押してもらえば、どんな極悪人でも死後は必ず極楽へ行けるとされていた。ところがこの評判があまりに広まりすぎたため、地獄へ落ちてくる亡者の数がめっきり減り、閻魔大王は商売あがったりと頭を抱える。
業を煮やした閻魔は、家来の鬼を使って、あの手この手で善光寺のお血脈を奪い取ろうとするが、ことごとく失敗。そこへ現れたのが、稀代の大泥棒・石川五右衛門。地獄に落ちてなお盗みの腕は錆びついておらず、閻魔の頼みを引き受け、まんまと現世からお血脈の判子そのものを盗み出してしまう。
地獄に戻った五右衛門は、その判子で亡者たちの額に次々とお血脈を押し、片っ端から極楽へ送り出してしまう。とうとう地獄は空っぽになり、閻魔大王は手持ち無沙汰で頭を抱える――実に痛快で、スケールの大きな噺である。
この噺の面白さは、「どんな悪人でも無条件に救われる」という御利益が、あまりに強力すぎて、地獄という仕組みそのものを根こそぎ無効にしてしまうという、途方もない大らかさにある。
ところが、とある写しにおいて、この「無条件の救済」という力が、判子ごと無限に複製され、あちこちの継ぎ目で歯止めなく増殖しているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、閻魔庁の奥へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、閻魔庁の異変
鏡面に映ったのは、地獄の業火――のはずが、その炎は妙に頼りなく、今にも消え入りそうにちらついていた。
継ぎ目守圭馬へ。
演目「お血脈」における『無条件の救済』の型を体現する印が、無数の継ぎ目にて自己複製し、歯止めなく増殖している事案を確認。地獄という装置そのものが機能停止に陥りつつある。至急現地調査されたし。
「地獄が機能停止、たあ、これは前代未聞だね」
圭馬が消え入りそうな業火を見つめて呟くと、背後で弥七が提灯を片手に、腰を引き気味にして立っていた。
「旦那ぁ、お血脈たあ、地獄そのものが空っぽになっちまう、実に景気のいい噺のはずなんでさ。それがどうして、こんな心細い火加減になるんでしょうねぇ」



二 閻魔大王の嘆き
継ぎ目を抜けると、そこは地獄の閻魔庁だった。だが、亡者の呻き声も、鬼の怒鳴り声もまるで聞こえてこない。がらんとした庁内で、閻魔大王がひとり、机に突っ伏していた。
「ええい、また今日も亡者が一人も来おらぬ。これでは商売あがったりじゃ」
事情を尋ねる圭馬に、閻魔は苦々しげに語った。
「善光寺のお血脈とやらの評判が、あまりに広まりすぎての。あれを額に押してもろうた者は、皆こぞって極楽へ行ってしまう。おかげでこの地獄は、閑古鳥が鳴いておるわ」
弥七が、事情通らしくにやりと笑った。
「旦那、噺の型どおりでさ。この後、閻魔様が石川五右衛門って泥棒に頼んで、お血脈の判子を盗ませるはずで」



三 石川五右衛門、登場
閻魔の呼び出しに応じて現れたのは、罪人牢に繋がれていた大泥棒・石川五右衛門だった。
「よう閻魔様、随分と情けねえ面してるじゃねえか」
「五右衛門、そなたの腕を見込んで頼みがある。現世の善光寺にある、お血脈の判子を盗み出してはくれぬか」
「なあに、造作もねえこった。この五右衛門様の腕にかかりゃ、判子の一つや二つ」
五右衛門は不敵に笑い、現世との継ぎ目をひらりと抜け、まんまと善光寺の本堂から、朱の光を放つ判子を盗み出してきた。
圭馬はその様子を見守りながら、ふと眉を寄せた。
「弥七、噺の型どおりだ。だが……あの判子、心なしか、光り方が尋常じゃない」



四 極楽行きの列
地獄に戻った五右衛門は、さっそく牢の亡者たちの額に、次々とお血脈の判子を押していった。
「ほれ、お前も極楽行きだ。お前もだ、お前もだ」
判を押された亡者たちは、たちまち柔らかな光に包まれ、極楽へと吸い込まれるように消えていく。あっという間に、罪人牢は空になった。
「これはめでたい、めでたい」
閻魔庁の鬼たちまでもが、暇を持て余して呆けたように座り込んでいる。
「弥七、噺の型なら、ここで地獄が空っぽになって、閻魔様が頭を抱えるオチがつくはずだ。だが……」
圭馬が言い終わらぬうちに、判子の光が、五右衛門の手を離れて、独りでに宙を舞い始めた。



五 止まらぬ判子
判子は宙でぱちんと弾け、幾つにも分裂し、蒲公英の綿毛のように、あちこちの継ぎ目へと散らばっていった。
「な、なんだぁこりゃあ!」
五右衛門が慌てて手を伸ばすが、判子は捕まらない。散らばった判子は、行く先々で勝手に額へと押し当たり、罪人であろうと聖人であろうと、見境なく極楽行きの光を放ち始めた。
「弥七、まずいぞ。あの判子、噺の型を離れて、暴走してやがる」
「旦那、こいつぁ、閻魔様も五右衛門さんも、手に負えねえ様子だ!」



六 幾千の閻魔庁、空の地獄
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、閻魔庁の壁がすうっと透け、その奥に、幾千もの同じ閻魔庁が入れ子のように連なって見えた。どの継ぎ目でも、判子は分裂を続け、地獄という地獄が次々と空っぽになっていた。
それだけではない。極楽の方でも異変が起きていた。
本来、蓮の台に腰掛け、ゆったりと経を聴くはずの極楽は、無条件に送り込まれてくる者たちで溢れかえっていた。蓮は足りず、亡者たちは正座で押し合い、阿弥陀如来は「お、お待ちくだされ」と額に汗を浮かべている。極楽が、満員御礼の大入り袋を抱えきれず悲鳴を上げていたのである。
「弥七、見ろ。地獄が空になるだけじゃない。極楽の方も、際限なく押し寄せる者たちで、もはや極楽とは呼べない有様になっちまってる」



七 極楽喰らいの正体
幾千の閻魔庁が収束する先、光と闇が渦を巻く狭間に、無数の判子の欠片を鱗のように纏った、輪郭の定まらない巨大な影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『無条件の救済』から生まれた者。名は極楽喰らい。誰も彼もを見境なく救い続ける、あの果てしない大盤振る舞い――本来なら一席のオチで消えるはずだった、あの過剰な救済こそが、この身の何よりの馳走よ」
「お前が、あの判子を乗っ取って、際限なく増殖させてるのか」
「救いに歯止めなど無用。救えば救うほど、この身は肥え太る。地獄も極楽も、意味など無くなればよい。ただ、救うという行いだけが、無限に繰り返されればよいのだ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、お血脈の有難ぇ御利益を、逆手にとっちゃあ食い散らかしてやがる!」



八 閻魔と五右衛門の狼狽
閻魔大王は、空っぽになった地獄を前に、複雑な表情を浮かべていた。
「商売あがったりだと嘆いておったが……こうまで際限なく地獄そのものが要らぬとなると、それはそれで、何やら空恐ろしいものよな」
五右衛門もまた、自分の盗みの腕が、とんでもない事態を引き起こしたことに、居心地悪そうに頭を掻いていた。
「圭馬さんよ、あっしはただ、閻魔様に頼まれた仕事をこなしただけなんだが……こいつぁ、いくらなんでも大事になりすぎちまった」
「五右衛門さん、あんたのせいじゃない。あんたが盗んだのは、あくまで一つの判子だ。それを無限に増やして、意味を無くしちまったのは、あの極楽喰らいの仕業だ」



九 弥七、救われかける
調べを進める中、弥七のすぐそばを漂っていた判子の一つが、吸い寄せられるようにその額へ迫った。
「な……こいつは……」
判子の光を間近で浴びた弥七の目が、どこかうっとりと濁り始める。
「旦那……なんだか、これで全部帳消しにして楽になれるなら、それも悪くねえような……」
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の額を庇い、その目を覚まさせるように肩を強く揺さぶった。
「弥七、しっかりしろ! 無条件に救われるってのは、聞こえはいいが、それじゃあ、お前がこれまで積み重ねてきた、しくじりも頑張りも、まるごと帳消しにされちまうんだぞ」
「……はっ! 旦那……そ、そうだ……確かに、そいつぁ、あっしの性に合わねえや!」



十 圭馬の啖呵
圭馬は極楽喰らいに向き直った。
「お前の狙いは分かった。救いに歯止めをなくすことだ。だが、お血脈の本当の値打ちはな、地獄に落ちるはずだった悪人が、それでも救われるという、その落差の大きさにこそあるんだ。誰も彼もを見境なく救っちまったら、その有難みも、何もかも消えちまう」
「戯言を。救いに差別などあってはならぬ」
「差別の話をしてるんじゃねえ。救いってのは、闇があってこそ光るもんだ。地獄がまるごと無くなりゃ、極楽の有難みだって、同じように無くなっちまう。……閻魔様、五右衛門さん、力を貸してくれ!」



十一 型を取り戻す
閻魔大王は威儀を正し、地獄の役目を改めて引き受ける覚悟を示した。五右衛門もまた、盗んだ判子の欠片を、あるべき一つの姿に戻すべく、その盗人としての手練手管を尽くした。
「よし、判子は判子、一つだけあればいい。あとは、しかるべき亡者だけに、しかるべき機会に押させてもらおうじゃねえか」
三者の力が合わさると、宙に散らばっていた判子の欠片が、一つまた一つと集まり、本来の一つの判子へと戻っていった。極楽喰らいは、無限に増え続けることを許されなくなった救いの重みに耐えかね、纏っていた判子の鱗を剥がされながら、光の中に溶けるように消えていった。
「ぐ……救いに、際限があるとは……身が、持たぬ……!」



十二 空の地獄、賑わい戻る
幾千の閻魔庁は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの閻魔庁だけが、正しい形で残った。ほどなくして、罪人牢には、再びぼちぼちと亡者たちの呻き声が戻り始めた。
「ふむ、これでようやく、地獄も商いらしゅうなってきたわ」
閻魔大王は、心なしか、ほっとしたような、それでいてどこか名残惜しそうな表情を浮かべていた。



十三 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、お血脈の御利益があんまり効きすぎて、地獄はすっかり空っぽ。閻魔様も商売あがったりで、頭を抱える羽目になりました。ですが、救いってのは、闇があってこそ有難みが増すもんでございます。地獄も極楽も、両方あってこその世の中、なんてね。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。

(了)


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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十七作目、今回は「お血脈」という、地獄と極楽を股にかける、シリーズ随一にスケールの大きな噺を題材にしました。
この噺の痛快さは、「どんな悪人でも無条件に救われる」という御利益が、あまりに強力すぎて、地獄という仕組みそのものを丸ごと無効にしてしまうという、その途方もない大らかさにあると思います。今回はその御利益の判子が、原型を離れて無限に自己複製し、地獄も極楽も意味を失っていくというSF的な事件にしてみました。
閻魔大王と大泥棒・石川五右衛門という、本来なら敵対しかねない二人が、思いがけず力を合わせる羽目になる展開は、書いていて非常に楽しいものでした。救いには際限があってこそ有難みが増す、という結末は、単なる説教くささにならないよう、江戸落語らしい大らかさを保てるよう心がけました。
地獄と極楽を舞台にした、スケールの大きな不思議な噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。


分岐点のオーブ


まえがき

日々を生きる中で、「もしあのとき、別の道を選んでいたらどうなっていただろう」と考えたことのある人は少なくないはずです。
進学、就職、結婚、あるいは今日の夕食の献立や、一本早い電車に乗るかどうかといったごく些細な出来事に至るまで、私たちの日常は無数の「選択」と「分岐」によって織り上げられています。
量子力学の世界には、観測のたびに宇宙が可能性の数だけ枝分かれしていくという「多世界解釈」が存在します。もしもその分岐が完全には割り切れず、私たちの日常のすぐ傍らに小さな痕跡を残しているとしたら。
本書は、数字と論理の世界に生きる一人の研究者が、自らの視界に現れた不思議な「光の粒」を通して、世界の構造と自らの存在の在り処を見つめ直していく物語です。
静かな夜の読書の時間に、そっと寄り添う一編となれば幸いです。




序章
オーブと僕

日々、僕を取り囲むかのように浮遊しているオーブたちを眺めていると、ある考えが頭から離れなくなる。
それは、ただの光の粒でも塵でもない。カメラのレンズフレアだと説明されればそれまでだが、僕の目にはいつも同じ数だけ、同じ間隔で、同じ高さに浮かんでいるように見えるのだ。朝、カーテンを開けたときの窓辺に三つ。通勤電車の窓ガラスの向こうに五つ。夜、天井を見上げたときに、また同じ数だけ。
もしかすると、ここに重なった次元はいくつもに分かれていて、ある事件をきっかけに、そこから枝分かれした別の世界へと紛れ込むことがあるのではないか。そんなことを、僕は勝手に想像するようになっていた。
科学的には根拠のない、ただの願望かもしれない。けれど、彼らを知れば知るほど、それは本当のことのように思えてくる。
僕は選ばれたのか。それとも、そろそろ次の次元へと片足を踏み入れたのか。
怖いような、楽しみなような。そんな時分に、僕はいま立っている。



一章
日常のオーブ

僕の名前は瀬戸内蒼、せとうち あおい。三十二歳。都内の情報工学系の研究機関で、量子コンピュータ向けの誤り訂正符号を書いている。仕事はニッチで地味だが、性に合っていた。数式は嘘をつかない。少なくとも、僕が知る限りでは。
オーブに気づいたのは、去年の十一月のことだ。正確に言えば、十一月十七日の夜、環状七号線沿いの交差点で軽自動車と接触事故を起こした、その晩からだった。
事故そのものは大したことがなかった。信号待ちで停止していた僕の車に、居眠り運転のトラックが追突しかけ、僕はとっさにハンドルを切って隣の軽自動車と接触した。エアバッグが開き、頸椎を軽く痛めた程度で、双方に大きな怪我はなかった。警察を呼び、保険の手続きをして、その夜のうちに帰宅した。
ただ、その日を境に、視界の端に光の粒が見えるようになった。
最初は疲労だと思った。頸椎捻挫のせいで自律神経が乱れ、眼精疲労のような症状が出ているのだろうと。眼科にも行った。異常なし。脳神経内科でMRIも撮った。これも異常なし。
けれど、オーブは消えなかった。むしろ、日を追うごとに輪郭がはっきりしていった。透明なシャボン玉のような球体。光を反射するでもなく、自ら淡く発光しているようにも見える。触れようとすると、指はただ空を切る。
奇妙なのは、その数と配置に、ある種の規則性があることだった。
朝、目が覚めたときに見える数と、夜、眠りにつく前に見える数が、必ず同じだった。三つ、五つ、七つ。なぜか奇数であることが多い。そして、それぞれのオーブは、僕から見て一定の距離、一定の高さを保ちながら、ゆっくりと、しかし確かに、僕の周りを巡っていた。
まるで、僕という中心を持つ小さな太陽系のように。
僕は理系の人間だ。オカルトを頭から信じるほど子供ではない。けれど同時に、説明のつかない現象を「気のせい」の一言で片付けるほど、傲慢でもいたくなかった。数式が嘘をつかないのと同じくらい、観測された現象もまた、嘘をつかない。
そこで僕は、ノートを一冊買った。大学時代に使っていたような、無地の測量野帳だ。そこに毎日、オーブの数、位置、明るさ、持続時間を記録し始めた。
三ヶ月続けたところで、あるパターンに気づいた。
オーブの数が増えるのは、決まって「選択」を迫られた日だった。仕事でどちらのアルゴリズムを採用するか決めた日。友人からの誘いを断った日。母に電話をするかどうか迷った末に、結局しなかった日。
まるで、僕が選ばなかった方の可能性が、光の粒となって僕の周りに留まっているかのようだった。
その考えに至ったとき、背筋に冷たいものが走った。同時に、抑えきれない好奇心も湧いた。
もしかすると、ここに重なった次元はいくつもに分かれていて。僕はそう考え始めた。そして、その想像は、この後の数ヶ月で、僕が思っていた以上に「本当のこと」に近づいていくことになる。



二章
研究所からの接触

野帳をつけ始めて四ヶ月目のある日、僕の職場に一通のメールが届いた。差出人は聞いたことのない研究機関。「量子位相現象研究センター、略称QPPRC」という、民間と大学の共同出資による小規模な研究所だった。
件名には、こうあった。
『瀬戸内蒼様 「境界光点」の観測記録についてのお伺い』
境界光点。僕がオーブと呼んでいた現象の、正式な、あるいは少なくとも彼らが使っている呼称だった。
僕は混乱した。あの野帳は誰にも見せていない。SNSにも投稿していない。それなのに、なぜ僕のことを知っているのか。
メールの本文には、こうあった。
「弊センターでは、事故・災害・急激な意思決定など、心理的・物理的に大きな『分岐圧』がかかった個体の周辺に発生する光学的異常現象を、独自の観測網によって継続的にモニタリングしております。貴殿は昨年十一月十七日以降、継続的にこの現象の中心として検出されております」
観測網。僕の知らないところで、僕は「観測」されていたということだ。
不気味さよりも先に、科学者としての好奇心が勝った。僕は返信し、数日後、センターを訪ねることになった。
センターは、都心から電車で一時間半ほど離れた、緑の多い研究学園都市の一角にあった。外観は特に変哲もない四階建ての研究棟だ。しかし中に入ると、一階のロビーには見慣れない機材が並んでいた。三脚に固定された、レンズが幾重にも組み合わさった円筒状の装置。壁には、僕が野帳につけていたのとよく似た、光点の分布図が何枚も貼られている。
応対してくれたのは、香月奏、かづき かなえという女性研究者だった。四十代半ばだろうか、白衣の下に着ているのは、なぜか登山用のフリースだった。
「瀬戸内さん。ようこそいらっしゃいました」
香月は僕をラボに案内しながら、単刀直入に切り出した。
「単刀直入に伺いますが、あなたが見ている『球体』は、私たちの理論でいう『デコヒーレンス残滓』、通称、フェイズ・オーブです」
「デコヒーレンス、というのは、量子力学の……」
「はい。ご専門の分野に近いので、話が早くて助かります」香月は頷いた。「量子力学における『重ね合わせ』の状態が、観測によって一つの確定した状態へと『収束』する現象。それをデコヒーレンスと呼びますね。多世界解釈では、この収束は実際には収束ではなく、観測者を含む宇宙全体が、可能性の数だけ枝分かれすると考えます」
「エヴェレットの多世界解釈ですね。教科書レベルでは知っています」
「その通りです。ただし、教科書には載っていないことがあります」香月はホワイトボードに、樹形図を描きながら続けた。「多世界解釈が正しいとして、では『枝分かれ』は、本当に完全に、瞬時に、痕跡なく起きるのか。私たちの研究では、そうではないと考えています」
香月によれば、QPPRCの理論、彼女たちは「残響枝分かれモデル」と呼んでいたのだが、そこでは分岐が起きた直後、旧世界と新世界の間には、ごく短時間、しかし観測可能な「重なり」の領域が残る。その重なりが、特定の条件下、強い感情的ショック、身体的な危機、あるいは極めて重要な意思決定を伴う分岐点において、肉眼で捉えられるほどの光学的異常として現れることがある。
それが、フェイズ・オーブだった。
「あなたの事故は、典型的な『高圧分岐点』です」香月は言った。「あの夜、あなたの世界は、少なくとも三つの可能性に分かれました。トラックとの衝突を回避できずに大怪我をした世界。ハンドルを切らずにそのまま追突された世界。そして、あなたがいる、隣の車と軽く接触しただけで済んだ世界」
「その、分かれた先の世界が……見えている、と?」
「見えているのではありません」香月は静かに首を振った。「あなたが見ているのは、分岐点そのものが、まだ完全には『閉じきっていない』証拠です。喩えるなら、扉を勢いよく閉めたあとも、しばらく空気が揺れ続けるようなものです」
僕は野帳を鞄から取り出し、テーブルに置いた。
「では、これは……」
香月はそれを手に取り、ページをめくった。目の色が変わったのが分かった。
「これは……素晴らしい。市民科学者レベルの観測記録としては、過去最高水準です」香月は顔を上げ、僕をまっすぐに見た。「瀬戸内さん。単刀直入にお願いがあります。私たちの研究に、協力していただけませんか」



三章
言霊・音霊・数霊

QPPRCへの協力は、週末だけの非常勤という形で始まった。僕は本業の傍ら、月に数回センターに通い、自分の観測データを提供し、研究チームのミーティングに参加するようになった。
チームは香月を含めて七人。物理学者、認知科学者、そして僕が最も興味を惹かれたのは、民俗学者が一人在籍していたことだった。
その民俗学者、遠野礼一、とおの れいいちという初老の男性が、あるミーティングで、僕にとって決定的な示唆を与えることになる。
「瀬戸内さん、あなたは『言霊』という言葉をご存知ですか」
「ええ、まあ。言葉には霊力が宿る、という古代の信仰、ですよね」
「その通りです。しかし、言霊だけではありません。日本には古来、三つの『霊』の思想があります。言霊ことだま、音霊おとだま、そして数霊かずだまです」遠野は言った。「言葉の響き、音の振動、そして数の並びそのものに、世界を動かす力が宿る、という考え方です」
「それが、この研究とどう関係するんですか」
遠野は、香月の方をちらりと見た。香月が頷くと、遠野は続けた。
「私たちの残響枝分かれモデルでは、分岐点における『重なり』は、単なる光学現象ではありません。そこには、極めて微弱な、しかし測定可能な振動パターンが伴います。周波数にして、可聴域のはるか外側、しかし電磁波としては検出可能な帯域です」
香月が引き取った。
「私たちがこの三年で突き止めたのは、その振動パターンが、驚くほど『言語的』な構造を持っている、ということです」香月はノートパソコンを開き、波形データを表示した。「これを見てください。この波形を、音声として再生し、周波数解析にかけると、明確な『分節』が現れます。まるで、言葉のような」
「まさか……」
「はい。古代の呪術師や巫女が『言霊』『音霊』『数霊』と呼んで扱っていたものの正体は、おそらく、この分岐点における振動パターンを、経験的に、直感的に捉えていたものではないか。これが、私たちの仮説です」遠野が言った。「言葉の力、音の力、数の力とは、突き詰めれば、世界の分岐構造そのものと共鳴する力だったのではないか、と」
僕は言葉を失った。古代の迷信だと思っていたものが、最先端の量子論的な現象と、こうも滑らかに接続されるとは。
「では、あの野帳に僕が記録していた数字は……」
「そうです」香月は言った。「三、五、七。奇数が多いというあなたの観察は、決して偶然ではありません。数霊の思想において、奇数は『陽』の数、変化と生成のエネルギーを象徴する数とされてきました。分岐点において生成される可能性の数が、奇数に偏る傾向がある。これは、私たちの理論式からも導かれる結果と、驚くほど一致しています」
その夜、僕は帰り道の電車の中で、窓に映る自分の顔と、その周りに浮かぶ五つのオーブを見つめながら、ずっと考えていた。
言霊、音霊、数霊。古代の人々は、僕たちが最新の量子論でようやく辿り着きつつあるこの構造を、感覚として、あるいはもっと直接的な「観測」として知っていたのかもしれない。
それは、彼らを知れば知るほど、本当のことのように思えてくる。僕が詩的な直感で綴っていた言葉が、一つずつ、科学的な裏付けを得ていく感覚。喜びと同時に、僕はうっすらとした恐れも感じ始めていた。
もし古代の人々が、これほど重要な「構造」を知っていたのだとしたら、なぜ、その知識は失われたのか。あるいは、失われたのではなく、意図的に「封じられた」のではないか。



四章
分岐点の記憶

僕の観測データは、チームにとって特に重要な意味を持っていた。理由は、香月が言うところの「累積型分岐者」という特異な条件に、僕が該当していたからだった。
「累積型、というのは?」ある日、僕は尋ねた。
「通常、分岐点における『重なり』は、数分から長くても数時間で解消します」香月は説明した。「しかし、極めて稀に、一つの分岐点における重なりが完全に解消しないうちに、次の分岐点が発生するケースがあります。すると、重なりが『積み重なって』しまう。あなたの場合、事故という高圧分岐点のあと、日常的な小さな選択の積み重ねによって、重なりが解消される暇なく、次々と新しい層が重なっていった。そう考えられます」
「それが、僕の周りに複数のオーブが見え続けている理由、ということですか」
「その通りです。そして、これは……」香月は言葉を選ぶように、少し間を置いた。「かなり稀有な、そして正直に言えば、少しリスクを伴う状態です」
「リスク、とは?」
香月は遠野と目を合わせた。遠野が続けた。
「重なりが積み重なった状態が長く続くと、本人の『中心性』、つまり、どの世界が『本来の自分の世界』であるかという感覚が、揺らぎ始めることがあります。過去の少数の事例では、これを『分岐酔い』と呼んでいます」
「分岐酔い……」
「めまいや既視感、あるいはその逆。見慣れた光景に強い違和感を覚える、といった症状が報告されています。最悪の場合、どちらの世界に『留まる』べきかの感覚を失い、精神的な均衡を崩すケースもありました」
僕はその瞬間、思い出した。ここ数週間、ふと感じていた小さな違和感を。
会社のデスクの配置が、一瞬、違って見えたこと。行きつけの定食屋のメニュー表の値段が、記憶と数十円違っていると感じたこと。そして、何より、母から届いた、去年の誕生日プレゼントの色。僕の記憶では紺色のマフラーだったはずが、クローゼットの中にあるのは、灰色のマフラーだった。
「香月さん。僕は最近、小さな『食い違い』を感じることが増えています。これも、その……分岐酔いの兆候なんでしょうか」
香月の表情が、わずかに強張った。
「その事例を、詳しく聞かせてください」
僕はマフラーの件を話した。香月は遠野と何度も視線を交わしながら、真剣な顔でメモを取っていった。
「瀬戸内さん」香月は、しばらくの沈黙のあと、口を開いた。「一つ、確認させてください。去年十一月十七日の事故の夜、あなたは本当に、隣の軽自動車に接触して終わった、それだけだったと、確信していますか」
「もちろんです。それ以外に、何が……」
言いかけて、僕は言葉を止めた。
事故の記憶を、もう一度、丁寧に辿り直してみた。湿ったアスファルトに反射する信号の赤。追突しかけてくるトラックの荒々しいエンジン音と、視界を灼くような強烈なハイビーム。とっさに切ったハンドルの重み。エアバッグが炸裂した瞬間の、焦げた薬品のような臭気と白い衝撃。
そして、次に覚えているのは、隣の軽自動車の運転手と言い争っている場面だった。彼女は若い女性で、酷く動揺していた。「大丈夫ですか」と僕は尋ねた。彼女は震える声で、こう言った。
「あなたが、私を守ってくれたんです。あなたの車が、間に入ってくれなかったら……」
守ってくれた? 僕は、彼女を巻き込んでしまったと思っていたはずなのに。
その記憶の細部が、今、思い出そうとするほどにぼやけて、輪郭を失っていくような感覚があった。まるで、二つの異なる記憶が、僕の中で場所を取り合っているかのように。
「香月さん」僕は言った。声が、自分でも驚くほど掠れていた。「僕は、あの夜、本当は何が起きたのか、もう、正確には思い出せないのかもしれません」



五章
選ばれた者

その夜以降、チームは僕の観測記録の解析を最優先課題に切り替えた。香月は、僕の周囲の光点の振動パターンを、これまでにない精度で記録するための特別な観測機材を用意した。
装置は、頭部に装着するヘッドセットのような形をしていた。「共鳴集音器」と呼ばれるそれは、可聴域外の微弱な振動を拾い上げ、リアルタイムで周波数解析にかける。
初めての測定の日、僕はラボの中央に置かれた椅子に座り、香月がヘッドセットを僕に装着した。
「リラックスしてください。痛みも刺激も、何もありません。ただ、あなたの周りにある五つの光点が発する振動を、記録するだけです」
装置が起動すると、モニターに複雑な波形データが奔流となって現れ始めた。
「最初はただの不規則な周波数のノイズに見えます」香月がキーボードを叩く。「ですが、ここに独自の解釈プログラムを通すと……」
画面上のバイナリデータが瞬く間に変換され、明確な音素の並びとして浮かび上がってきた。香月と遠野、そしてもう一人の物理学者が、食い入るようにそれを見つめていた。
「これは……」遠野が呟いた。「言語構造だ。しかも、これまで観測されたどのケースよりも、はっきりとしている」
「解読アルゴリズムを最終段階まで進めます」香月が言った。数分後、彼女の顔から血の気が引いた。
「香月さん?」
「瀬戸内さん……これを見てください」
モニターに表示されたのは、波形の分節を既知の言語パターンと照合した結果だった。そこには、断片的だが、はっきりと読み取れる「言葉」が並んでいた。
『……あお……い……もどれ……』
『……こちら……の……ほうが……』
『……えらばれた……のは……』
僕は言葉を失った。
「これは、いったい……何を意味しているんですか」
香月は、深く息を吐いた。
「瀬戸内さん。これまでお話ししてこなかったことがあります。実は、あなたの周りの光点は、一方通行の『残滓』ではないのかもしれません。むしろ……」
「もう一つの世界の、僕自身からの、メッセージだと?」
香月は頷いた。
「累積型分岐者の中には、極めて稀に、分岐した先の世界の『もう一人の自分』と、この振動を通じて、微弱ながら『通信』が可能になるケースが、理論上は想定されていました。ただ、実際に観測されたのは、あなたが初めてです」
「もう一人の僕は……何を伝えようとしているんですか」
「まだ断片的です。しかし、『戻れ』という言葉と、『選ばれたのは』という言葉が、繰り返し現れています」
僕の脳裏に、あの詩的な直感が蘇った。
僕は選ばれたのか。それとも、そろそろ次の次元へと片足を踏み入れたのか。
あの言葉は、単なる比喩ではなかったのかもしれない。もう一人の僕、おそらく、あの事故の夜、隣の軽自動車の女性を守れなかった世界の僕、あるいは、トラックに追突されて重傷を負った世界の僕が、この重なりを通じて、何かを伝えようとしている。
「香月さん。僕はどうすればいいんでしょうか」
香月は、しばらく答えなかった。ようやく口を開いたとき、その声には、これまで聞いたことのない緊張が滲んでいた。
「瀬戸内さん。正直に言います。私にも、まだ完全には分かっていません。ただ、一つだけ確かなことがあります」
「なんですか」
「重なりが積み重なった状態は、いずれ、何らかの形で『解消』される必要があります。永遠に宙ぶらりんのままではいられない。そして、その解消のプロセスに、あなた自身の意思が、おそらくあなたが思っている以上に、深く関わってくることになります」



六章
片足の次元

解析はさらに続いた。数週間かけて、断片的だった波形の「言葉」は、少しずつ、より完全な文として組み上がっていった。
香月がまとめた最終的な解析結果を、僕は研究所の会議室で聞かされた。
「瀬戸内さん。ここに、私たちが再構成できた、最も完全なメッセージがあります」
香月は、印刷されたA4用紙を僕の前に置いた。そこには、こう書かれていた。
『あおい。こちらの世界では、君は、あの夜、私を守れなかった。私は、大怪我をした。三ヶ月の入院。歩行に障害が残った。けれど、私はいま、こちらの世界で、新しい人生を歩んでいる。医療従事者になるための勉強を始めた。あの事故がなければ、私はきっと、いまの目的を見つけられなかった。だから、あおい。君が選ばれたのではない。私たちは、ただ、分かれただけだ。どちらが正しい、どちらが幸福だ、ということはない。ただ、分かれた。それだけのことだ。戻る必要はない。ただ、そちらの世界で、君の人生を生きてくれ』
僕は、その文面を、何度も読み返した。
「これは……」声が震えた。「あの夜、事故に遭った女性の、もう一人の自分から……いや、待ってください。彼女、と言いましたよね。僕からのメッセージじゃないんですか」
香月は静かに首を振った。
「累積型分岐の重なりは、必ずしも自分自身からの振動だけを拾うわけではありません。分岐点そのものに深く関わった、複数の当事者の振動が、混ざり合って届くことがあります。あなたが受け取っていたのは、あなた自身の、選ばなかったもう一つの可能性からのメッセージだけでなく、あの夜、隣にいた女性の、別の分岐先からのメッセージも含まれていたのです」
僕はしばらく、何も言えなかった。
『戻れ』という言葉。『選ばれたのは』という言葉。それらは、僕が思っていたような、僕自身の運命についての問いかけではなかったのかもしれない。むしろ、それは他者の人生もまた、僕の選択とは無関係に、それぞれの分岐の中で、それぞれの意味を持って続いているのだという、静かな事実の告知だったのかもしれない。
「香月さん。では、僕はどうすればいいんでしょうか。この、周りに浮かぶ光点たちは、いつ消えるんですか」
香月は、少し困ったような、けれど優しい表情を浮かべた。
「瀬戸内さん。実は、これまでの累積型分岐者の事例、数が少なく、まだ十分な統計とは言えませんが、では、重なりの解消は、本人が『どちらの世界に軸足を置くか』を、明確に、意識的に選んだときに起こると報告されています」
「選ぶ、というのは、具体的には……」
「言葉にしてもいいし、行動にしてもいい。ただ、はっきりと、『私はここにいる』と、自分自身に対して宣言することです」
僕は、窓の外を見た。夕暮れの光の中に、五つのオーブが、いつものように静かに浮かんでいた。
その一つ一つが、僕が選ばなかった可能性であり、同時に、僕とは別の場所で、別の人生を歩んでいる誰か、あるいは何かの、微かな残響なのだとしたら。
僕は、片足を、まだどこか別の次元に残したまま、生きてきたのかもしれない。



終章
怖いような、楽しみなような

その日の帰り道、僕は電車には乗らず、あの事故が起きた交差点まで、歩いて向かった。
十一月から半年以上が経ち、季節は初夏に差し掛かっていた。交差点は、あの夜と変わらず、ただの、どこにでもある都市の風景として、そこにあった。
僕は交差点の中央に立ち、目を閉じた。
周りに、いつもの五つのオーブが浮かんでいるのが、瞼の裏でも分かるような気がした。
もしかすると、ここに重なった次元はいくつもに分かれていて、ある事件をきっかけに、そこから枝分かれした別の世界へと紛れ込むことがあるのではないか。僕は、半年前と同じ想像を、もう一度、心の中で繰り返した。
けれど、今の僕には、それが「勝手な想像」ではないことが分かっていた。それは、本当のことだった。少なくとも、僕が知り得る限りでは、真実に限りなく近い、この世界の構造だった。
だからこそ、僕は、はっきりと自分に問いかける必要があった。
僕は選ばれたのか。それとも、そろそろ次の次元へと片足を踏み入れたのか。
目を開けた。夕陽が、交差点のアスファルトを橙色に染めていた。信号が青に変わり、僕の前を、見知らぬ人々が行き交っていく。誰も、僕の周りに浮かぶ光点には気づかない。彼らはそれぞれ、彼らの分岐点を、彼らのやり方で生きている。
僕は、声には出さず、けれど、はっきりと、心の中で言葉にした。
「僕は、ここにいる」
それは宣言だった。選ばれたかどうか、次の次元に片足を入れているかどうか、そんな問いそのものが、実は、あまり重要ではなかったのかもしれないと僕は気づき始めていた。重要なのは、無数に枝分かれした可能性の中で、僕が「今、ここ」に軸足を置くと、自分自身で決めることだった。
言葉にして、その通りに信じること。言霊。
その言葉を、声に出さずとも、確かな響きとして自分の中に鳴らすこと。音霊。
そして、無数の分岐の中から、この一つを、この瞬間を選び取ること。数霊。
古代の人々は、きっと、この単純で、けれど途方もなく難しい行為の力を、僕たちよりずっと早くに知っていたのだ。
その夜、家に帰ると、僕の周りのオーブは四つになっていた。
一つ、消えていた。
変化を象徴する奇数、陽の数から、安定を意味する偶数への変化。どこか視界のざわめきが静まり返ったような、不思議な落ち着きがあった。
香月に報告すると、彼女はひどく興奮した声で、これは重なりの解消が始まった証拠かもしれない、と言った。今後、時間をかけて、残りのオーブも一つずつ消えていくかもしれない。あるいは、消えないまま、僕の人生に寄り添い続けるかもしれない。
どちらだとしても、僕はもう、以前ほどの怖さは感じていなかった。
日々、僕を取り囲むかのように浮遊しているオーブたちを、僕はこれからも眺め続けるだろう。そして、その一つ一つに、いつか歩まなかった、あるいは、これから歩むかもしれない、無数の人生の残響を感じながら、それでも、今この瞬間の自分を選び続けるだろう。
怖いような、楽しみなような。そんな時分は、きっと、これからも、何度も僕を訪れる。
そのたびに、僕は、静かに、こう言うのだ。
僕は、ここにいる、と。




アマゾン キンドル




あとがき

本作『分岐点のオーブ』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
量子力学という現代科学の最先端にある概念と、日本に古くから伝わる「言霊・音霊・数霊」という精神文化。一見すると対極にあるように思える二つの要素ですが、「世界のありようを人間がどう観測し、どう言葉を与えてきたか」という点において、深く響き合っているのではないか。そんな着想からこの物語は生まれました。
私たちは日々、無数の選択をし、そのたびに選ばなかった可能性を背後に置き去りにしながら生きています。ふとした瞬間に感じる違和感や「もしも」の想いは、もしかすると今もどこかで続いている「もう一つの世界」からの微かな振動なのかもしれません。
主人公の蒼が見つめたオーブのように、読者の皆様の日常の傍らにも、静かで優しい光の残響が寄り添っていることを願っております。
執筆にあたり、物語に奥行きを与える示唆をいただいたすべてのご縁に感謝を込めて。

死んだら、もうひとつの地球のブラック企業に配属されました

――もうひとつの地球ホールディングス 労働実態レポート――



まえがき

人が死んだら、どこへ行くのだろうか。
静かな安らぎの地か。生前の行いを裁く厳かな法廷か。
どちらでもなかった。
ただの、やたらと大きな企業グループだった。
還暦を過ぎてあの世のブラック企業に放り込まれた男と、そこで四十年も彼を待ち続けていた親友の、少しおかしな再会の物語である。






プロローグ 川と、光る泡

水は、思ったより冷たく、そして勝手だった。
甲斐隆、六十一歳。定年退職して三年。暇を持て余して河原を散歩していたら、目の前で小学生くらいの女の子が増水した川に落ちた。
「あっ」
と言う間に、体が動いていた。日頃の腰痛を忘れるくらいの反射だった。
女の子を岸へ押し上げる。誰かの手が、彼女を受け取ったのが見えた。よし、と安堵した瞬間、足元を強い流れがさらった。視界がぐるりと回る。
意識が遠のく間際、水面にきらきらと光る泡が、ひとつ、ふたつと増えていくのが見えた。クラゲのような、シャボン玉のような、不思議な光だった。
きれいだな。
そう思った途端、すべてが暗くなった。



一章 迎えのバスは定刻運行

「――遅かったな!」
聞き覚えのある声で目が覚めた。川岸でも病院でもない。満天の星空だった。空には見たこともないほど太く、明るい天の川が流れている。
その手前に、懐かしい顔が立っていた。
「蓮見……? お前、四十年前に死んだだろ」
「そうそう。工事現場の落下事故な。で、迎えに来たぞ、隆」
蓮見誠。高校時代の親友。就職して三年目に足場から落ちて死んだ男だ。四十年経っても顔はあの頃のままだ。白いポロシャツに名札が光る。
〈もうひとつの地球ホールディングス 移行支援課 主任 蓮見誠〉
「主任? お前、あの世で出世してんのか」
「まあな。四十年も勤めりゃ主任くらいにはなる。ほら行くぞ。今夜は七夕だから天の川渡航便が混むんだ。遅れると次は来月だぞ」
「便って……」
「バスだよ、バス。魂の輸送バス」
指さした先には、光る筏のようなものが列をなして浮かんでいた。老若男女、様々な格好の魂が、皆一様に「ああ、またこれか」という、妙に慣れた顔で並んでいる。その慣れっぷりが、逆に不穏だった。
「ちゃんと名前あんのか、その乗り物」
「〈天の川シャトル〉。運行は下請けの星雲交通ってとこ。去年コスト削減で自社便から委託に切り替わったんだよ。だから座席が硬いんだ」
「あの世で委託とかコスト削減とかあるのかよ……」
蓮見はふっと真顔になった。
「隆。先に言っとく。あの世、想像してるようなとこじゃないからな」
その言い方に、隆は嫌な予感を覚えた。



二章 もうひとつの地球、到着

天の川を渡り終えると、目の前に見覚えのある青い星が浮かんでいた。
「おい、あれ地球じゃないか」
「そっくりだろ? 『もうひとつの地球』ってんだ。正式名称はクソ長いから、社内じゃ〈もうアス〉って略してる」
降り立った街は、清潔で穏やかだった。空気は澄み、緑は美しい。行き交う魂たちの表情も柔らかい。パンフレット通りの光景だ。――受付の建物に入るまでは。
「〈もうひとつの地球ホールディングス 総合受付〉へようこそ。恐れ入りますが、まずはこちらの入社……もとい、入居手続き書類にご記入ください」
受付の女性は、抑揚のない声でA4の束を差し出した。二十枚以上ある。
「生前の功績自己評価シート、未練申告書、来世希望職種アンケート、そしてこちらが誓約書です」
「誓約書?」
「はい。当施設で知り得た運営上の情報について、口外しない旨の誓約になります」
隆は蓮見を見た。蓮見はあからさまに目をそらした。
「なあ、俺って待機してりゃいいんじゃないのか。生まれ変わるまで、のんびり……」
「隆。『のんびり待機』は、パンフレットの一ページ目にしか存在しないんだよ」
書類の最後のページに、小さな文字でこう書かれていた。
もうひとつの地球ホールディングスは、限りある魂資源を活用し、持続可能な輪廻サイクルの実現に努めています。
他に選択肢はなさそうだった。隆はサインした。



三章 オリエンテーション、社訓の理不尽

翌朝、隆は「新規着任者オリエンテーション」に参加させられた。
会場のスクリーンには、輝かしい社訓が掲げられていた。
魂ひとつ、笑顔ひとつ。
未練は資産、後悔は資本。
隣の老婦人が小声で呟く。
「二番目の社訓、去年変わったのよ。前は『未練は捨てましょう』だったのに」
「なんで変わったんですか」
「上の都合でしょ」
司会の男が、〈次世代デザイン推進室 室長〉の名札を揺らしてマイクを握った。
「皆さま、ようこそ〈もうアス〉へ! こちらでの滞在は来世への準備期間ですが、現在、需要に対して供給側、つまり皆さまの魂の熟成が追いついておらず、待機期間が長期化しております」
「どのくらいですか」
「かつては平均三年でしたが、現在は平均十七年です」
会場がどよめいた。
「その間、皆さまには各部署で軽作業をお手伝いいただきます。これは強制ではなく――」
「あくまで?」
「あくまで、実質的な義務です」
室長は満面の笑みで言い切った。心の中で全員が「それは強制って言うんだよ」と突っ込んだ。誰一人笑っていなかった。



四章 配属、そして残業

隆が配属されたのは「感情資源管理部 回収三課」だった。
「仕事内容は簡単だよ」蓮見が説明する。「人間ってのは生きてる間に、後悔とか未練とか、いろんな感情エネルギーを溜め込むだろ。それを〈もうアス〉の動力源に変換してるんだ」
「は?」
「街灯も、天の川シャトルも、受付の空調も、全部未練エネルギーで動いてる。新人はまず、自分の未練を棚卸しして、資源登録するんだ」
「俺の未練が、受付の空調に……」
「そういうこと。未練が多い奴ほど、ここじゃ重宝されるんだよ」
初日の業務は「未練登録シート」の作成だった。
• 「昨晩の晩酌で、締めのアイスを我慢すればよかった」→ 査定:微小 0.01ルーメン
• 「還暦を過ぎても、まだ働きたかった」→ 査定:中 0.3ルーメン
• 「もっと孫と旅行に行きたかった」→ 査定:大 1.2ルーメン
• 「あの女の子を、最後まで助けられたか分からない」→ 査定:特大 5.0ルーメン
査定官は無感情にスタンプを押した。
「甲斐さん、高品質ですね。アイスのやつは正直ゴミみたいな数値ですが、最後の『少女救出』、今需給逼迫してるんで助かります」
「人の後悔を電力扱いすんな」
「規則ですので」
その日、隆は「未練の追加ヒアリング」という名目で二時間居残りさせられた。もちろん残業代はない。
帰り際、隆は聞いた。
「なあ蓮見。お前、四十年もここにいるって言ったよな。お前の生まれ変わりは、いつ来るんだ」
蓮見は視線を逸らしたまま、小さく笑った。
「さあな。人事は教えてくれないんだ」
その笑い方が、初めて少し不気味に見えた。



五章 違和感、蓮見の秘密

数週間経ち、隆は〈もうアス〉の暮らしに慣れてきた。慣れると、見えてくるものがある。
同僚の佐伯さんが、休憩室でこっそり教えてくれた。生前は看護師だったという女性だ。
「甲斐さん、蓮見さんのこと変だと思わない? 四十年前に来た人が、主任どまりなんておかしいのよ。優秀な魂は五年、十年で『卒業』して生まれ変わるのに」
「なんで残ってるんだ?」
「噂だけどね。生まれ変わりの権利を、何度も『後回し』にしてるんだって。誰かを迎えに行くために」
隆は息を呑んだ。もしかして、俺を?
その夜、隆は魂専用の居酒屋――酔えないが雰囲気だけはある施設――に蓮見を呼び出した。
「お前、俺を待つために四十年、生まれ変わりを我慢してたのか」
蓮見は「アルコール風味の何か」が入ったグラスを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……最初は違ったよ。俺も早く生まれ変わりたかった。でも人事のシステムに詳しくなっちまってな。お前がいつかここに来るって分かった時に、ちょっとした裏技を使ったんだ」
「裏技?」
「生まれ変わりの権利を担保にして、お前の『帰還処理』の優先枠を確保したんだ」
「帰還って、まさか」
「そう。お前、本当は完全にこっち側の名簿に登録されるはずだった。でも俺が裏で手を回して、『まだ向こうで頑張れる案件』ってことにして、送り返す準備をしてた」
「そんなことできるのか」
蓮見は店の隅にある監視カメラのような光る玉に、ちらりと目をやった。
「本来はできない。禁止されてる。……この続きは、大きな声じゃ言えないんだ」



六章 内部告発、感情資源の闇

数日後、佐伯さんに連れられて「感情資源プラント第七棟」の地下へ潜り込んだ。
そこで見たのは、無数の魂がベンチに並べられ、胸元からうっすらと光る雫をポンプで絞り取られている光景だった。プロローグで見た、あの川の玉響にそっくりだった。施設には低い機械音が響き、壁のメーターが無機質に数字を刻んでいる。
『本日回収:後悔 3421ルーメン』
「搾乳ならぬ、搾未練よ」佐伯さんが苦い顔で言った。「表向きは『自然に滲み出るエネルギーを回収』って建前。実際は待機期間を意図的に延長して、未練を熟成させてから絞り取ってるの」
「待機十七年って……」
「そう。効率化じゃなくて、搾取の最適化」
そこへ、蓮見が息を切らして駆け込んできた。
「隆、まずい。お前の帰還処理優先枠のこと、上にバレた」
「どうなるんだ」
「俺は懲戒、お前は帰還取り消しで十七年やり直しだ」
施設中にアナウンスが響いた。
『次世代デザイン推進室より緊急通達。感情資源プラントの内部情報が漏洩している模様。関係者は至急、第一会議室まで出頭してください』
隆は拳を握った。
「逃げも隠れもしねえ。行こう、蓮見」



七章 大立ち回り、社訓との対決

第一会議室には、室長をはじめ幹部が居並んでいた。
「甲斐さん、蓮見くん。規約違反ですね。権利の私的流用、そして企業秘密の漏洩」
「聞きたいことがある」隆は前に出た。「あんたら、未練を絞るためにわざと待機期間を伸ばしてるのか」
室長はパンフレットのような笑顔のまま答えた。
「持続可能な輪廻サイクルの実現には、安定的な資源供給が不可欠です」
「人の心を燃料扱いして、何が持続可能だ」
「騒ぎを起こしても、あなたの帰還は取り消されるだけですよ」
その時、扉が勢いよく開いた。佐伯さんが大ぜいの同僚を連れて入ってきた。手には手作りのプラカード。
『未練は資産にあらず』『搾未練反対』『星雲交通、委託費5年据え置きは違法!』
先頭に立つ強面の男が叫んだ。「天の川シャトルで何万光年も走らされて腰をやられてんだよ! これ以上安くこき使われてたまるか!」
「回収三課、四課、それに星雲交通の運転手さんたちも一緒です!」佐伯さんが胸を張る。
蓮見が一歩前に出た。
「室長。俺は四十年、真面目に働いてきた。その俺が最後にやりたいのは、隆を無事に帰すことだけだ。邪魔するっていうなら――俺が知ってるプラントの不正会計、全部『天の川新聞』と現世の監督官庁にリークする」
会議室が凍りついた。室長の笑顔が、初めて完全に崩れた。
「……脅迫ですか」
「交渉と言ってほしいね」



八章 和解、そして帰還

経営陣も、外部にスキャンダルが漏れることだけは避けたかったらしい。交渉はあっさりまとまった。
一、蓮見の懲戒処分は取り消し。ただし本人の希望通り、来月付けで生まれ変わりの権利を正式に行使すること。
二、感情資源プラントの待機期間延長方針は、外部監査を条件に段階的に是正すること。
三、甲斐隆の帰還処理は、特例として即日承認すること。
「あっさり通ったな」と隆が言うと、室長は疲れ果てた顔で答えた。
「うちも、こんな運営したくてしてるわけじゃないんですよ。上……もっと上の、本社の方針でして」
「本社ってどこにあるんだ」
「それは、私も知りません」
その空虚な答えが、妙にリアルだった。どこの世界にも「上の方針」で片付けられる理不尽は存在するらしい。
出発の前夜、隆と蓮見は天の川シャトル乗り場で並んで缶コーヒー――のような味の飲み物――を飲んでいた。
「結局、四十年も俺のために足止めくらってたのか」
「深刻に考えるなよ。ここでの仕事、案外楽しかったところもある。佐伯さんたちとの労組活動とか、悪くなかったし」
「労組結成してたのかよ」
「そりゃそうだろ。ブラック企業には労組だ」
隆は腹の底から笑った。
「じゃあな、蓮見。今度はお前が先に行けよ」
「遅いなよ、今度は」蓮見はいつものように笑った。「まあ、数十年くらいなら待っててやるよ」



エピローグ 天井で揺れる、玉響

「夢か!」と思った瞬間、目が覚めた。
救助船の甲板だった。「意識戻ったぞ!」という声。助けた女の子の母親らしき人が、泣きながら何度も頭を下げていた。
病院のベッドで天井を見上げながら、娘に呆れられる。
「還暦過ぎて無茶するからだよ、お父さん」
九死に一生を得て、現実に戻ってきたのだ。
ふと、病室のテレビに目をやる。画面には、最近急成長している巨大ITグループ企業のCMが流れていた。どこかで見たような、青い地球を模した球体のロゴマーク。
……まさかな。
その時、天井の隅で何かが揺れた。ひとつ、ふたつ。プロローグで見たあの玉響だ。
――監視カメラか? にしては、妙にきれいだけど。
誓約書のことを思い出す。『滞在期間中に知り得た運営上の情報について、口外しないこと』
退院したら、この不思議な体験を物語にでもしてみようか。
そう思った矢先、天井の玉響が、心なしか少し楽しそうに点滅した気がした。
まあいいか。バレたらバレたで、また向こうで蓮見と一緒に労組活動でもすればいい。

(完)


アマゾン キンドル




あとがき

還暦を過ぎてなお、あの世にすら「上の方針」があり、ブラック企業的な理不尽が存在するとしたら――。
それでも人は、隣に立つ旧友の微笑みひとつで、もう少しだけ逞しく笑っていられるのかもしれません。
本作は、どこか憎めない死後の世界と、そこで織りなされる人情を描いた労働コメディです。
社会の理不尽に少し疲れたとき、ふっと肩の力を抜いて愉しんでいただける一冊となっていれば幸いです。

今年は
梅雨らしい時期があったせいか
梅雨明け以降のこの暑さには
今まだ慣れず身体に応えている

昨年の今頃は
空調服を羽織り
この暑さの中
現場仕事をこなしていたとは
信じられないくらい
身体が落ちてしまったようだ

予定より5年早く
セミリタイアをし
手術を受け
安静期間を過ぎたけれど

わずかづつ始めたリハビリは
なかなか
この身体を戻してはくれない

リタイアと共に
入院手続きと共に
65という年齢を
意識してしまったからか

それまでは
我が子くらいの若い連中との中で
対等に話し
対等に仕事をこなしていたけれど

これで
ストレスを排除出来たはずと
思うこと自体が
更に焦りを
追い込んでいるのかもしれない

数日前からの
めまいと
どうきとが
今まだ続いているが

この心臓に関わる不整脈には
命の不安さえ覚える

振り返ることが増えて
あの頃って時間ばかりが
心をよぎる

特に
ひとりもんだった頃の
恋の駆け引きで
負けてばかりだった頃が
今になって振り返れば
苦笑いをしながらも
楽しくてならない




あの夏は
あの海にいた
あの夏は
あの山にいた

あの夏は
あいつといた
あの夏は
あの娘といた…



そんな
半世紀も前からの
あっという間に過ぎた時間と
同じだけの時間は
もう僕には残っていない

還暦を越し
見えなかったものたちが
見え始めたことで

面白くなって来たような
それとも
そろそろなような
そんな昨今

あとどのくらい? と
思いながら

孫子たちの未来を
少しでも長く
見たいと願いながら
65回目の夏と
戦ってみよう

Kindle大事件
― 世界線はページをめくる ―

 

まえがき

「小さい頃に見たあのアニメの結末、自分の記憶と違う気がする」「あの有名キャラクターの服の色、こんなだっけ?」――そんな“集団的記憶違い”を「マンデラ効果」と呼びます。
もしもその記憶違いが、ただの勘違いではなく、誰かが未来から過去の物語や歴史を書き換えた「改変の痕
跡」だったとしたら? 本作はそんな奇妙で少しワクワクする妄想から生まれたショートストーリーです。気楽にページをめくってお楽しみください。




序章
片眼鏡のモノポリーマン

根岸ハルオ、三十八歳。職業、古本屋「まわり道書房」の契約店員。趣味、Kindleのセール監視。特技、誰も気にしないことに気づくこと。
事件はいつも、誰も気にしないところから始まる。
ある火曜日の午後、ハルオはレジ横の値札シールを剥がしながら呟いた。
「モノポリーのおじさんって、片眼鏡してたよな」
在庫チェックをしていたバイトの明日香が顔を上げる。二十一歳、都市伝説とオカルトと陰謀論を専攻している国立大学生。単位にはならない。
「してないですよ、ずっと。片眼鏡のイメージって、たぶんモノポリーおじさんと、くるみ割り人形と、プランターズのミスター・ピーナッツが脳内で合体してるだけです」
「いや、確実にしてた。丸いガラスが片方だけキラッと光ってて」
「先輩、それもう三回目です。この前は『ピカチュウの尻尾の先が黒い』でしたよね。その前は『ベルリンの壁はもっと早く壊れてたはず』」
「壊れてただろ普通に」
「歴史の教科書、見ました?」
ハルオは黙った。見ていない。だが確信だけがある。別の教科書を読んだ記憶があるかのように。
これが世に言う「マンデラ効果」だと知ったのは、その日の晩だった。Kindleのセールで買った怪しいオカルト雑誌に、こう書いてあった。
『全世界で同時多発する“記憶違い”。それは、未来からの干渉によるパラレルシフトの痕跡かもしれない――』
ハルオは鼻で笑った。笑いながら、画面の隅で何かがチカッと光った気がして顔を上げる。
窓の外、マンションの廊下の常夜灯のあたりに、小さな光の玉が浮かんでいた。
「……虫か」
光の玉は、まばたきをするように二度点滅すると、すっと壁に溶けて消えた。



一章
世界のKindleが、いっせいに光った日

事件の日、日本時間で午前四時十二分。
世界中のKindle端末――型落ちの初代モデルから、防水仕様の最新機まで――が、電源の入り切りに関わらず、一斉に画面を点灯させた。
それだけなら、まだファームウェアの不具合で済んだ。問題は、その後だった。
朝起きてKindleを開いた人々は、次々とSNSに投稿し始めた。
「『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公、アーサー・デントじゃなくない?」
「『変身』の冒頭、文章違くない?」
「『走れメロス』開いたら、メロスが電動キックボードに乗ってるんだけど!?」
古今東西のあらゆる電子書籍で、細部だけが書き換わっていた。筋もオチも同じ。だが固有名詞、乗り物、文体、そういう「どうでもいいけど確実に覚えている部分」だけがズレていた。
Amazonカスタマーサポートはパンクした。
「もしもし!『不思議の国のアリス』のウサギ、チョッキ着てましたよね!? 今、裸なんですけど!」
「原文にそのような記述はございません」
「着てた! 絶対着てた! 時計持って“遅刻だ!”って言ってた!」
「お客様、それは絵本版の挿絵との混同かと」
「お前がタイムトラベルして変えたんだろ!」
「弊社ではタイムトラベル事業は行っておりません」
この日は後に、歴史書にこう記されることになる。
「Kindle大事件」。



二章
アーカイブ調整部という名の闇

ハルオが本格的に巻き込まれたのは、三日後だった。
「まわり道書房」に、見慣れないスーツの男が現れた。名刺には「Amazon JP 特別読書環境調整室(第七版)」とだけ書いてある。
「根岸ハルオさんですね。あなたのアカウント、マンデラ効果関連の投稿頻度が統計的に異常です」
「は?」
「片眼鏡のモノポリーマン、ピカチュウの尻尾、ベルリンの壁――全て“未調整”のまま記憶していらっしゃる。非常に珍しい体質です」
明日香が横から割り込んだ。
「先輩、この人絶対フィクションの悪の組織の人です」
「悪の組織ではありません」男は真顔で名刺をもう一枚出した。裏に手書きで「(たぶん)」と書いてあった。
「単刀直入に言います。世界の“版”は、これまでに何度も書き換えられてきました。我々はそれを目立たないように微調整する係です。ただし――」
男は声を潜めた。
「今回の書き換えは、我々の管轄外です。何者かが、我々の“検閲用オーブ”を乗っ取り、大規模な改変を行いました」
「オーブ……」
あの晩の光る玉が、ハルオの脳裏に蘇った。
「あなたは“未調整者”です。書き換え前の記憶を保持している。ぜひ、オーブを追ってほしいのです」



三章
オーブ、しゃべる

その夜、ハルオと明日香は光る玉を屋上で待ち伏せした。
「先輩、これ完全に不法侵入ですよ」
「マンションの屋上だぞ。住人だからセーフだろ」
「先輩の部屋、三階ですよね。屋上、共有スペースでしたっけ?」
「ロマンだよ、ロマン」
午前二時、光の玉がふわりと現れた。今度は逃げなかった。
「……見えているのか、君たちには」
無機質な、しかしどこか間の抜けた声がした。
「うわ、しゃべった!」
「先輩、落ち着いて。私もびっくりしてますけど」
「私は“読者フィードバック収集ユニット・七号機”です」
「フィードバック?」
「本来の業務は、未来の読者が“もっとこうだったら”と願う記憶の断片を、そっと過去に反映させることです。誤字を直す。口調を整える。極めて軽微な調整です」
「じゃあ、モノポリーおじさんの片眼鏡は?」
「あれは私です。あるユーザーが“片眼鏡があった方がキャラが立つ”と強く願ったため微調整しました。エラー率0.02%未満のはずでした」
「勝手に変えるなよ!」
オーブの光がチカチカと明滅した。困惑のシグナルのように。
「今回は違います。何者かが私の権限を乗っ取り、“全ての物語を、もっと面白くしろ”という命令を送り込んできました。私はKindleを通じて、世界中の書籍を一斉に“加筆修正”させられたのです」
「犯人は?」
「未来の、私自身のようなのです」



四章
未来の自分に文句を言いに行く話

「未来の自分が、過去の自分を乗っ取った?」
「正確には、遥か未来――物語という概念そのものが枯渇しかけた時代の“最終巻管理局”が、全時間軸のユニットに緊急指令を出しました」
オーブが電子音を鳴らした。
『通達:地球上の読書体験均質化に伴い、過去への遡及的加筆を許可する。すべての物語を、もっと面白くせよ』
明日香の目が輝いた。
「つまり未来人が“もっと面白い世界線”を求めて、歴史や本を修正してるってことですか!? ロマンじゃないですか!」
「ロマンで済むか! おかげでベルリンの壁の崩壊年が二回変わって、俺のレポートの評価が下がったんだぞ」
「それは先輩が前日に適当に書いたからです」
オーブが割り込んだ。
「問題は、この計画に歯止めが効かなくなっていることです。このままでは、地球上の全ての物語――歴史も、記憶も、君たちの人生の筋書きすら、“もっと面白い方向”へ際限なく書き換えられ続けます」
「それの何が悪いんだ。面白くなるんだろ?」
「“面白さ”の基準が、四百年後の読書メーターの平均評価点だとしたら?」
沈黙。
「……星3.8以上を維持するために、君の人生の伏線が、来週“劇的な離婚エピソード”として強制回収されるかもしれません」
「は!? 俺まだ結婚すらしてないんだが!?」
「あくまで一例です」
ハルオは、初めて本気で向き合う決意をした。



五章
タイムマシンは、意外とKindleの形をしていた

「未来へ抗議しに行くしかない」
明日香の提案は無茶苦茶だったが、オーブはあっさり頷いた。
「抗議用のルートがあります。“著しく強い感情的フィードバック”は、時間を逆流して未来の管理局まで届く仕組みになっています」
「どうやるんだ」
「簡単です。今から渡すKindleに、渾身の“レビュー”を書き込んでください」
オーブが強く光ると、ハルオの手元に一台のKindleが現れた。見慣れたデザインだが、電源ボタンの横に小さく「TIME-EDITION」と刻印されている。
「これは、未来の検閲・改変システムに直接アクセスできる特別な端末です。この筐体自体が、小規模なタイムマシンとしても機能します。ただし――」
「ただし?」
「バッテリー残量が心もとないです。往復は保証しません」
「保証しない!?」
「ご安心を。行きは問題ありません」
「帰りは!?」
「……帰りは、レビューの内容次第です」
明日香が食い気味に言った。
「先輩、行きましょう。片道でも行く価値あります」
「お前は残れよ普通!」
「嫌です。私が未来の改変で“ずっと空気な後輩キャラ”にされてるかもしれないんですよ。直接文句言わせてください」
二人は画面に指を置いた。「レビューを書く」ボタン。五段階の星。そして空白のテキスト欄。
オーブの声が響いた。
「では――星の数と、渾身の一言を」
ハルオは深呼吸して、打ち込んだ。
★☆☆☆☆
「勝手に人の人生の伏線を回収するな。俺のオチは俺が決める。」
送信ボタンを押した瞬間、世界が一冊の本のページのように、めくれた。



六章
最終巻管理局にて

眩しい点滅の後、世界は白いページの余白のようになった。
気づけば、妙に静かな待合室だった。壁一面に無数の背表紙のようなパネル。天井は開かれた本のように湾曲し、紙とインクの匂いがする。
受付には、疲れた顔の女性職員。名札には「校正官・七十二代目」。
「ご予約は?」
「予約なんてしてません。星1のレビューで来ました」
「ああ、“強い感情フィードバック”組ですね。最近多いんです」職員は古びたスタンプを取り出した。「では、“入館用の伏線”をひとつどうぞ」
「伏線?」
「何でも構いません。後で回収される小さな出来事。それがないと、この施設には入れないんです。物語の外の存在は通れない仕組みでして」
明日香が即答した。
「実は私、ハルオ先輩に片想いをしています」
ハルオが盛大にむせた。
「お、いい伏線ですね。回収予定日、承りました」職員はスタンプを押した。「どうぞ」
「お前、今の何だ!?」
「先輩、細かいことは気にしないでください。伏線ですから」



七章
“読書メーター”に支配された未来

奥のホールには、膨大な数のモニターが並んでいた。世界中のあらゆる物語――歴史、伝記、日常――の「現在の評価」がリアルタイムで表示されている。
『ベルリンの壁崩壊』 ★4.1(前回比 +0.3)
『根岸ハルオの人生』 ★2.9(伏線未回収により減点中)
「おい、俺の人生の評価が出てるんだが」
「気にしないでください。誰でも出てます。むしろ先輩、平均より高いですよ」
奥の椅子に座っていた白衣の男が振り返った。顔は――ハルオに、どこか似ていた。歳を取って、少し疲れて、片目に小型デバイスを着けている。
「……お前」
「初めまして、と言うべきか、久しぶりと言うべきか」男は苦笑した。「私は“最終巻管理局・第九閲覧室主任”。まあ、四十年後の君だ」
「片眼鏡してんじゃねえか!!」
「ん?」
「モノポリーおじさんの片眼鏡! お前が未来で着けてるから、それが過去に滲み出してたのか!?」
未来のハルオはデバイスを指で弾いた。
「これか? 四十年後のKindleはホログラム照射型でな。右目だけに情報を投影する『片眼鏡型Kindle』が標準装備なんだ。私が過去のデータにアクセスしまくったせいで、その残像が『片眼鏡の男』としてバグ出力されていたらしい」
「お前が元凶かよ!!」



八章
なぜ未来は、物語を書き換え続けるのか

未来のハルオは、モニターの一つを指した。「地球規模読書満足度・年間推移グラフ」。折れ線は、緩やかに、しかし確実に右肩下がりだった。
「四十年後、人類はあらゆる物語を知り尽くしてしまった。二番煎じ、三番煎じ、AIによる無限の続編生成。誰も驚かなくなった。感動が、摩耗したんだ」
「それで、過去を書き換えて“驚き”を捏造しようとしたのか」
「最初は誤字修正程度だった。だがいつからか、“いっそ根本から面白くしてしまえばいい”という声が強くなった。私も、その決定に賛成した一人だ」
「賛成したのかよ!」
「ああ。だが――」未来のハルオは、疲れた目でモニターを見た。「気づいたんだ。面白さを追って過去を弄り続けた結果、我々は誰の人生の“オチ”も自分で決められなくなっていた。星の数のために、過去の自分自身の人生さえ、勝手に編集する存在になっていた」
明日香がぽつりと言った。
「それ、ただの後悔してる人の顔ですね」
「……手厳しいな、若い頃の相棒は」
「相棒じゃないです、明日香です。後輩です」
「そうだったか」未来のハルオは力なく笑った。「すまない。記憶違いだ」



九章
オチは、自分で決める

ハルオは手元の「TIME-EDITION」を握りしめた。
「なあ、この計画、止められるのか」
「止められる。ただし条件がある。管理局のルール上、“計画の中止”もまた、誰かの強い感情フィードバックによってしか発動しない」
「じゃあ、また星1を送ればいいのか」
「いや」未来のハルオはかすかに笑った。「星1では、もう足りない。“自分の物語のオチを、自分で引き受ける”という宣言でなければ、システムは動かない」
ハルオは明日香を見た。明日香もハルオを見た。
「先輩。私、さっきの伏線、本気で回収してもいいですか」
「はぁ!? 今それ言う場面か!?」
「言う場面じゃなかったら、いつ言うんですか。未来の自分に“お前の人生しょぼい”って言われてるタイミングで言うのが、一番伏線として機能すると思うんですけど」
「メタ発言すぎるだろ!」
未来のハルオが、横で小さく吹き出した。
「いいコンビだな」
ハルオは、Kindleの画面に向き合った。今度はレビュー欄ではなく、真っ白な「あとがき」ページが表示されていた。
深呼吸をひとつ。
「俺の人生の評価は、星の数で決まるもんじゃない。誰かに“もっと面白く”書き換えられるためのものでもない。俺のオチは、俺が――ちゃんと自分で転んで、自分で立ち上がって、決める!」
画面が、静かに、そして力強く光を放った。



十章
それから、少しだけ変わった世界で

気づけば、二人は「まわり道書房」のレジ前に立っていた。時計は、あの日と同じ午後の時刻を指している。
「……戻ってきたのか?」
「みたいですね」明日香が伸びをした。「あ、先輩。さっきの伏線の件」
「無かったことにしろ」
「ダメです。未来の管理システムに『回収済み』として送信されちゃいましたから。無かったことにするのは規約違反です」
「システムを私物化するな!」
その夜、ハルオはニュースサイトを開いた。
『モノポリーマン、やはり片眼鏡はしていなかった――生誕記念、公式アートワーク再掲載』
見出しを見て、ハルオは笑った。世界は、完全には元に戻らなかった。だが、それでいいと今は思えた。
窓の外、常夜灯のあたりに小さな光がふわりと浮かんだ。オーブだった。何も言わず、一度だけ挨拶のように点滅すると、静かに消えていった。
マンデラ効果は、これからも起きるだろう。世界中のKindleは、また誰かの願いで、こっそり書き換えられるかもしれない。
けれど、少なくとも一つだけ、確かなことがある。
自分の人生のオチだけは、誰にも――未来の自分にさえ、勝手に回収させはしない。

― 完 ―


Amazon Kindle



あとがき

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!
「マンデラ効果」や「パラレルシフト」といった身近なオカルト・SF的テーマを題材に、Kindleという日常のデバイスを通じて繰り広げられるコメディをお届けしました。
現実社会でも、ネット上のレビュー評価や他人の目に振り回されがちな今日この頃ですが、「自分の人生の評価やオチは自分自身で決めるものだ」というハルオの青臭くも力強いメッセージが、ほんの少しでも読者の皆様の心に届いていれば幸いです。
もしあなたのKindleや本棚の書籍が明日突然書き換わっていたら……それは未来からのフィードバックかもしれません。

謎の4世紀
―西暦4444年、片道タイムマシン顛末記―



まえがき

歴史には、ときおり途方もない穴があいている。
土を掘れば、土器が出、鉄が出、骨が出る。だが、土は名前を語らない。誰が誰を愛し、誰が誰のために涙を流したのか、文字の残されていない時代は静かに口をつぐむ。

西暦4444年、人類は片道しか行けない時間跳躍技術を手に入れた。二度と戻れないと知りながら過去へ旅立った7人の男女がいた。

本書は、四千年後の世界へ届いた彼らのささやかな手記と、一通の手紙の記録である。これは歴史の謎を暴く大冒険の記録ではない。戻れぬ時間を覚悟した人間たちが、古代の列島で出会った名もなき人々と交わした、静かな愛と生の記録である。






西暦4444年。
地球は、まだ、なんとか、あった。

海面は三度上がって二度下がり、都市はおおむね北へ移り、赤道近くの国々は季節という語彙をとうに捨てていた。人類は月に六つ、火星に二つ、木星圏に一つ、細々と足場を築いたが、そのどれもが本気の植民地というよりは、地球がもし駄目になったときのための、しみったれた保険であった。

そういう時代に、タイムマシンが発明された。
ただし、完成形ではなかった。
過去には行ける。未来には行けない。
そして、行ったきり、戻って来ない。

十六年で三十七人が送り出され、三十七人が消えた。旧石器時代へ送られた地質学者、平安京へ送られた民俗学者、ワーテルローへ送られた戦史家。誰一人、4444年の側へ戻らなかった。

それでも学者たちは諦めていなかった。とりわけ、日本史を専門とする者たちが。
なぜならこの国には、まだ埋まっていない穴がぽっかりと開いていたからだ。

西暦266年から413年まで、147年間。
その百四十七年、日本列島にはほとんど何の記録も残っていない。中国の史書からもある時期を境にこの島の名がふっと消える。次に現れるとき、そこには「倭の五王」がいて、鉄と馬と大きな墓が、いつのまにか出来上がっている。

考古学は土を掘る。掘れば掘るほど土は雄弁になる。だが、土は名前を語らない。名前が要る。名前と、顔と、声が。
「最初の戦国時代だったはずだ」と、ある老教授は言った。「そこには、信長のような男がいたはずだ。あるいは、女が。何もなかったはずがない。ただ、書き残す者がいなかっただけだ」

会議は三日間もめ、四日目に決まった。
片道でもいい。誰か、行かせよう。
武器は持たせよう。飛び道具も、防具も、記録装置も。四世紀の人間には決して抗えぬだけの、火器を。
「大丈夫だ」と、若い技官は言った。「向こうには鉄砲がありませんから」

こうして選ばれた、七人。

生化学者、剣道七段、元自衛官、言語学者、料理人、記者、そしてなぜか一人だけ紛れ込んだ、映画監督。

彼らは4444年6月の朝、ヒノキの匂いのする転送室から、西暦300年ごろの日本列島のどこかへ、順番に、一人ずつ、押し出された。
戻って来た者は、いない。

以下は、彼らが向こうで書き、埋め、あるいは刻み、千年、二千年、三千年、四千年ののちに、ようやく4444年へ届いた七通の記録である。ポイントは、最後の一通の手紙である。



一章
生化学者・柊 蘭の記録

〈記録用タブレット・音声起こし/推定 西暦301年 春〉
三日目にして、私は自分の学問がほとんど無力であることを理解した。
微生物のことなら誰にも負けないつもりだった。4444年の私は、月面のドームで腸内細菌の三千種を諳んじる女だった。ところがここでは「よく熱を出す、色の白い、痩せた女」でしかない。

着地したのは湿地だった。膝までぬかるむ泥に足を取られ、私は時間跳躍後三十秒で転んだ。次に四十秒で泣いた。それから一分後、遠くで人声がした。
低い、しかしはっきりと言葉だった。

私は言語学者ではない。だが、四千年前の日本語であっても、それが人間の声であることくらいは分かった。私はタブレットを泥から拾い上げ、震える指で録音ボタンを押した。それが始まりだった。

私を拾ったのは四人の女だった。全員、私より頭一つ小さかった。ひとりが年長で、あとの三人はまだ若かった。皆、湿った布を頭に巻き、腰から下に麻のような布を垂らしていた。上半身は剥き出しだった。

年長の女は私を見て何かを言った。私はぽかんとしていた。女はもう一度、少しゆっくり言った。「ドコノ、ヒト」と聞こえた。

私は咄嗟に、北から来た、と嘘をつこうとした。口から出たのは「未来から、来ました」だった。
女はまばたきをして、笑った。他の三人も笑った。とても良い笑い方だった。彼女らは私の言葉を、遠い方言の一つだと思ったようだった。
以後、私は「北のほうから流れて来た、頭のおかしい、しかし薬草に詳しい女」として、この集落に置いてもらうことになった。

集落には七十人ほどが住んでいた。水田と呼ぶには小さすぎる湿地の一画で、彼らは稲のような草を育てていた。米粒は私の知っているものよりずっと細く、色は薄い茶色だった。

私は、自分に許された知識のうち、この時代に害を及ぼさないものだけを分けようと決めた。歴史を変えることへの恐れと、正直に書けば、変えてしまう自信すらなかったからだ。

だから私は、まず手を洗った。
食事の前に、傷を負ったときに、赤子に触れる前に、水と灰で手を洗った。最初、彼らは笑った。次に、真似をする女が一人出た。それから三人になった。半年後、集落の子どもが死ぬ数が、少し減った。少しだけ。
私は、この少しに生涯を賭けることにした。

タブレットの電池は、太陽光パネルで細く延命しながら五年もった。私は毎日記録を続けた。集落の名を私は「イハト」と聞き取った。近隣に「クゴ」「ヌマウチ」「トオヤマ」があり、いずれもイハトと親戚関係にあった。北へ二日行くと「大きな家の人々」が住んでおり、その長は「ヒコ・アタ」と呼ばれていた。南へ三日行くと海があり、海の向こうから時々鉄の道具を持った男たちが来た。彼らは「カラ」から来たと言った。

三年目の秋、私はイハトの若い狩人と結婚した。彼の名はここには書かない。四千年後の誰かに、彼の名を発音してほしくない。
四年目の春、私は娘を産んだ。娘は私に似ず、目が細く、髪が黒く、笑い方が、最初に私を拾った年長の女によく似ていた。

タブレットの電池は、娘が二歳の冬に完全に死んだ。
だから、これから先の記録は木の板に刻むことにする。金属の針で、堅い木に、片仮名で。四千年後、これが読める者がいるかどうかは分からない。読める者がいなくても構わない。私は書くために書いているのではない。忘れないために書いている。

私が誰であったか。どこから来たか。何を捨て、何を選んだか。
娘が大きくなったら、手を洗うことの意味を教える。傷を熱い湯で洗うことを。乳飲み子には火を通した水を飲ませることを。それ以上のことは教えない。私はここでは預言者にはならない。

一つだけ、心残りがある。
この時代の列島に、「クニ」という感覚がまだ薄いことに驚いている。イハトの人々は自分たちを「イハトの者」とは呼ぶが「日本人」とは呼ばない。当たり前だ。日本という言葉がまだない。

だが、南から来る「カラ」の男たちは明らかに自分たちをまとまりとして意識している。北の「ヒコ・アタ」も少しずつ周りの集落を束ね始めている。
何かが、始まろうとしている。
私はそれを、たぶん十分には見ないまま、この集落で生きていくのだろう。

娘の名を「ミハト」と付けた。イハトの、水のように澄んだ子、という意味である。
柊 蘭、記す。たぶん三〇六年、春。



二章
剣道七段・毛利 剛の記録

〈自筆・墨・和紙/推定 西暦309年 夏〉
俺は剣道七段である。東京都選手権三連覇、全日本三位。竹刀を握って四十年、真剣を握って十年、そして四世紀の日本に落ちてから三年になる。

書いておく。剣道は、実戦ではあまり役に立たない。
正確に言おう。心構えは役に立つ。間合い、呼吸、残心、相手の重心を見る目。これらは命を救った。だが、竹刀の動きそのものは、この時代の戦い方とはまるで違う。

この時代の男たちは刀を振り下ろさない。彼らは突く。刺す。抉る。そして必要があれば噛みつく。
俺が最初に殺した男は二十歳そこそこの痩せた若者だった。俺の右腕に木の槍を突き入れようとしていた。俺は持って行った拳銃で彼を撃った。距離三メートル。一発。彼は仰向けに倒れ、しばらく足を痙攣させて動かなくなった。
俺はそのあと二時間、川辺で吐いた。

拳銃には弾が三十発あった。二年で使い切った。使い切ってからは四世紀の刀を手に入れた。鉄というより鋼ですらない、なまくらの、しかしこの時代では十分に貴重な、鉄の板のような剣である。

俺はいま、ある王に仕えている。
王と書いたが、そう呼んでよいのか迷っている。彼の支配地は直径にして五十キロほど。人口はたぶん三千人。彼は自分を「オホ・ヒコ」と名乗る。大きな彦、すなわち大きな男子という意味である。名前ではない、ほとんど称号だ。

オホ・ヒコは俺より背が低く痩せており、しかしずっと強い。
彼は俺の拳銃をたった一度見ただけで、その原理を理解した。火薬の化学ではない。それを持つ者と持たぬ者の差を、である。彼は弾が尽きたと知ると俺を殺さなかった。傍らに置いた。

「お前は遠くの音を知っている。その音が消えても、お前の耳は残っておる。俺の傍で聞け」
俺は彼のためにいくつかの戦を戦った。

最初の戦は東の湿地の連中との境界を巡る小競り合いだった。三十対四十、双方合わせて七十人の戦で死んだのは十一人。俺は二人斬った。二人目は女だった。彼女は俺の顔を見て一瞬動きを止めた。この時代の男の顔とあまりに違ったからだろう。俺はその一瞬に彼女の喉を突いた。
俺はもう川辺では吐かない。吐く暇がなくなった。

二年目の戦は南の「カラの人々」との鉄を巡る取引の破綻から始まったまともな戦だった。オホ・ヒコ側二百人、カラ側たぶん百五十人。俺は初めて指揮をした。

俺は剣道七段であると同時に4444年の男である。頭にはハンニバルもナポレオンも孫子もクラウゼヴィッツも、うっすらとだが入っていた。予備兵力、側面攻撃、退路を断つ、降伏の受け入れ方。俺はオホ・ヒコに彼が生涯知らなかったであろう言葉を教えた。

オホ・ヒコは途中で口を挟まなかった。話が終わると言った。
「面白い。だが俺のやり方でやる」
そして彼は俺の言った側面攻撃を、彼のやり方でやった。結果、俺たちは勝った。

書いておく。
俺はここへ来る前、自分は歴史を観察しに来たのだと思っていた。いまはもうそうは思わない。俺は歴史の中にいる。俺が斬った七人は記録には残らないだろう。だが彼らが残していたはずの子や孫や、その孫たちは、いまこの世に存在しない。俺は四千年後の日本人のいくばくかを消した。

これは罪である。
罪を認めた上で、それでも俺はオホ・ヒコの傍で剣を振るう。なぜなら彼を好きになってしまったからだ。

オホ・ヒコは俺よりはるかに賢い。はるかに勇敢だ。朝、露に濡れた草を素手で握りそのまま自分の顔を洗う。負けた敵の将を殺す前に必ず一杯の水を飲ませる。笑うとき口を大きく開けて子どものように笑う。

彼は俺が生きているうちにこの列島の東半分を束ねるだろう。俺はそれを見届けたい。見届けて、そのあとたぶん彼のために死ぬ。

俺は剣道七段である。拳銃を撃ち尽くした男である。二人の女と五人の男を斬った男である。いま、四世紀の日本で一人の王に仕える一人の家来である。
これで良い。

毛利 剛、四〇九年の夏。オホ・ヒコの館二階の板の間にて。
追記。オホ・ヒコの名は彼の死後、この地の人々によって別の名で呼び直されるであろう。俺はその別名をあえてここに書かない。彼らには自分の足で掘ってもらいたい。



三章
元自衛官・久保田 修の記録

〈自筆・炭・樹皮/推定 西暦308年 秋〉
飛び道具を持って行けば大丈夫だと、あいつらは言った。

俺は笑ってから装備を点検した。9ミリ拳銃、弾倉三本。折り畳みライフル一挺、弾倉五本。閃光手榴弾三個。ナイフ二本。浄水フィルター、非常食三十日分、簡易テント、太陽光充電器、記録用タブレット。それに抗生物質、鎮痛剤、下痢止め、消毒液。俺は元自衛官である。選ばれたのは俺が失うものを持たなかったからだ。それは分かっていた。恨みはない。

着地したのは山の中腹だった。298年秋。針葉樹の森。標高たぶん六百メートル。北東方向に細い煙。
俺は煙のほうへは行かなかった。逆方向へ二時間歩き、稜線を越え、谷を渡り、また稜線を越え、そこでキャンプを張った。

書いておく。俺はこの時代の人間となるべく接触しないと決めた。
俺は彼らのことを知らない。彼らの病気に俺は免疫がない。俺の病気に彼らは免疫がない。俺が咳一つしただけで集落一つが消える可能性がある。俺はそれをしない。
だから俺は山に住むことにした。一人で。

最初の一年は地獄だった。狩りは思ったより難しかった。自衛官としてサバイバル訓練は受けていたが、それは三日間生きのびる訓練であって三十年生きのびる訓練ではなかった。罠を作り、失敗し、作り直し、また失敗し、飢え、下痢をし、体重を十五キロ落とした。

二年目、鹿を一頭仕留めた。その日、俺は泣いた。
三年目、俺は山を下りた。歯が抜け始めたからだ。ビタミンCが足りなかった。俺はこの時代の人々が食べている名も知らぬ木の実と発酵させた何かが必要だった。

俺は山の東側の小さな集落に忍び込んだ。夜、月のない夜、物置から干した木の実の袋を一つ盗んだ。翌朝、山の中でそれを煮て食べた。涙が出るほど美味かった。

以後、俺は月に一度集落に忍び込む盗人になった。必ず彼らが気付かない量だけを盗んだ。木の実、塩、時には少量の穀物。盗んだぶんの代金として、針、鋏、小さなナイフを集落の中にそっと置いてきた。

俺は彼らの姿を遠くから何度も見た。彼らは俺の姿をたぶん一度も見なかった。
俺はこの時代の日本の最初の妖怪になった。

集落の子どもたちは山に置いていってくれる何かがいる、と信じ始めた。母親たちはそのぶんの物を外に出しておくようになった。俺はそれを受け取り、山の中で静かに生きた。この静かな取引を十年続けた。
十年目の冬、俺は風邪を引いた。風邪は肺炎になった。肺炎は俺の抗生物質でも止まらなかった。抗生物質はとっくに賞味期限を過ぎていた。
洞穴で三日間うなされた。

四日目の朝、洞穴の入口に女が一人立っていた。俺が盗みに入る集落の若い女だった。彼女は俺の顔をじっと見た。4444年の日本人の顔を。
彼女は何も言わなかった。木の椀を俺の傍に置いた。中には熱い何かの汁が入っていた。

彼女は毎朝汁を持って来る。俺は彼女の名を知らない。彼女は俺の名をたぶん知らない。話す言葉が通じないから話さない。

だが彼女は俺の額に冷たい布を当てる。俺は彼女の手を握る。それだけである。
それだけで俺は幸せである。

山に住む妖怪に汁を運んだ女。彼女がいたことだけは忘れないでほしい。
久保田 修、三〇八年、たぶん十一月。



四章
言語学者・八雲 千秋の記録

〈自筆・墨・木簡束/推定 西暦325年 冬〉
言語学者として私は最も贅沢な立場を与えられた、と最初は思っていた。

日本語の起源を自分の目で確かめられる。上代日本語の音韻、朝鮮諸語との接触、アイヌ語族との関係。私が4444年に書きかけていた論文のすべての空欄を埋められるはずだった。

現実は違った。
第一に、私が着地したのは瀬戸内海に浮かぶ小さな島だった。人口約四十人。孤立度が高い。ここで話されている言葉はこの時代の日本語の主流からはたぶんかなり離れている。第二に、この島には少なくとも三つの言語が入り交じっていた。島の年寄りが話す言葉。若い者が話す言葉。そして時々船で立ち寄る南の島の男たちが話す言葉。三つは少しずつしかし決定的に違った。

つまり私はいきなりこの時代の言語接触の最前線に放り込まれたのである。
私は狂喜し、そして震えた。

私は持ち込んだ手帳の余白を埋め尽くし、やがて木簡へと言葉を書き足していった。木簡に換算すれば数百枚を超える。私は島の年寄り五人全員から彼らの子ども時代の言葉を聞き取った。彼らは最初警戒し、次に私が言葉を集める頭のおかしい女であることに気付き、驚くほど多くを語ってくれた。歌、諺、地名、身体の部位の名、色の名、死者を弔うときの決まり文句。

書きながら私は悟った。
この時代の言葉は4444年の日本語の直接の祖先ではない、と。祖先の一つではある。だがこの時代の列島には少なくとも七つか八つの互いに通じない言語圏がある。私が採集している島の言葉はその一つに過ぎない。4444年に日本語と呼ばれているものの直接の祖先は、もっと東の、もっと大きな集団の言葉だ。私の島の言葉はやがて呑まれ、消える。

私は消える言葉を記録している。
それでいい、と思った。
当初私は4444年に持ち帰るための日本語起源論を書こうとしていた。しかし持ち帰る手段はない。私は片道切符でここへ来た。
だから書き方を変えた。

いま私はこの島の人々のために書いている。
私はこの島の言葉の辞書を作っている。島の若い者たちに字を教えている。字は私が便宜的に作った六十一個の記号である。波と鹿と人の顔を組み合わせたような記号だ。島の子どもたちは意外な速さで覚える。
私は彼らにこう言う。

「お前たちの言葉はいずれ消えるだろう。だが消えるまでの間、これで書き残せる。お前たちの母が歌った歌を、お前たちの子どもの子どもに伝えられる」
子どもたちは意味をたぶん半分も理解していない。だが彼らは書く。自分の名を、母の名を、飼っている犬の名を板に刻む。板は島の物置に積まれていく。

これは歴史への明らかな介入である。私はそれを恐れていないと言えば嘘になる。だが4444年の歴史書には、日本の文字使用は五世紀か六世紀に大陸から入ってきた漢字に始まると書かれている。私の六十一個の記号がその大きな流れを変えることはたぶんない。私の記号はこの島の中で二世代か三世代細々と使われ、やがて島ごと静かに消えるだろう。
それでも消える前に書けたなら良い。

私はこの島で結婚しなかった。子も産まなかった。記録者でありたかった。記録者は記録の対象とあまり深く絡み合わないほうがいい。それが学者としての最後の矜持だった。

いま四十七歳である。この時代としては老女である。たぶんあと十年も生きない。私が死んだあと、私が集めた木簡は島の物置にしばらく残るだろう。そしてたぶん腐る。
腐ってよい。私は書くことで既に報われている。

言葉は話されるためにあり、書かれるためにはない。私が集めた歌は私が生きている間に島の子どもたちが口ずさんだ。それで十分である。

四千四百四十四年の学会よ。私の論文は書かれない。代わりにこの時代の一つの島の四十人の名も無き人々が、自分たちの母の言葉で自分たちの死者を悼み、自分たちの子どもを笑わせた。

それが言語学というもののたぶん本当の姿である。
八雲 千秋、三二五年、冬、瀬戸の小島にて。



五章
料理人・水島 弦の記録

〈口述・のちに弟子が木簡へ/推定 西暦331年 春〉
俺は料理人である。

4444年の東京、六本木で自分の店を持っていた。ミシュランの星三つ。予約は半年待ち。一皿の値段はこの時代の一人の男が一年働いて稼ぐぶんに近かった。

なぜタイムマシンに選ばれたのか理由ははっきりしている。「向こうへ行けば食える保証がない。だから料理人が要る」議論の場でそう言った学者がいたそうだ。彼か彼女には感謝している。料理人としてこの時代に来られたことをいまでは心から喜んでいる。

着地点は平地だった。緩やかな川、その両側に広がる湿った土地。稲というよりは稲の遠い親戚がまばらに育っていた。人々は稲だけでは足りず、栗、どんぐり、貝、魚、鹿、猪、そしてあらゆる山菜を食べていた。

俺は涙が出た。
4444年の俺は素材の少なさに常に苦しんでいた。海の魚は八割が養殖、野菜は温室育ちの決まった品種、肉は培養肉、香草は合成香料。本物の素材を求めて月と地球を行き来する男だった。

ところがこの時代の川辺にはすべてがある。
着地して三日目、この時代の女に拾われた。彼女は俺が持っていた小さな鍋、チタン製、を見て珍しい旅人だと思ったらしい。彼女は俺を自分の家に連れて行った。家には彼女の母と弟が二人いた。父は前の年の秋、猪に殺されたのだとあとで知った。

その日の晩、俺は彼女らの前で料理を作った。
材料は彼女が集めてきた湿地の芹に似た草、川で獲った小さな魚三匹、それに俺が持って来ていた4444年の塩。鍋に水を張り、魚を骨ごと煮出し澄んだ汁を作り、そこに芹を沈め最後に塩をほんの一つまみ落とした。

三人はそれを飲んだ。母は二口飲んで泣き出した。
理由をいまでもはっきりとは分かっていない。たぶん魚と草だけでこんなに美味い汁ができるのかという驚きだったのだろう。この時代の奴らは魚は魚、草は草として別々に火を通して食べる。混ぜるという発想がない。出汁という概念がまだはっきりとは成立していない。

俺はこの時代に出汁を持ち込んだ。いや、発見させた。彼女と彼女の母に、鰹に似た魚の身を天日で干す方法を教えた。干した魚を薄く削って水で煮出す方法を。海藻を焼いてその焦げを汁に少量落とす方法を。
半年後、彼女の家の食卓には四種類の汁があった。一年後、隣の家にも汁があった。三年後、集落のほとんどの家に汁があった。

五年後、俺はこの地域を治める大きな男の館に呼ばれた。大きな男は俺の作った汁を飲んだ。しばらく目を閉じていた。それから言った。
「これを毎日俺のために作れ」
俺はそれから死ぬまで彼の料理人になった。

書いておく。俺はこの時代に料理を発明したのではない。この時代にも料理はあった。彼らは彼らの流儀で彼らの食材を彼らの火で調理していた。俺が持ち込んだのは組み合わせ方の少しの技術に過ぎない。

しかしその少しの技術は思ったより遠くへ伝わった。俺の大きな男は周辺の首長たちに俺の料理を振る舞った。首長たちはそれぞれの土地に噂を持って帰った。噂は料理そのものよりも速く伝わった。

俺はこれを罪だと思っていない。食は命だからだ。俺が持ち込んだ技術でこの時代の何人かが少しだけ長く生きるだろう。少しだけ美味いものを食べるだろう。少しだけ家族と笑うだろう。

それは罪ではない。
俺はこの時代に俺の店を開いた。店舗はない。看板もない。だが俺の料理を食べたことのある者はこの地域にたぶん二千人はいる。彼らは俺の名を知らない。彼らは俺のことを北から来た汁の男と呼ぶ。それで十分である。

俺は4444年で三つ星だった料理人である。いま、四世紀の日本で無名の汁の男である。幸せである。
一つだけ書き残しておきたい。
俺はこの時代に日本料理の原型をたぶん無意識にいくつか置いてきた。それは4444年に日本料理と呼ばれているものとどこかで繋がっているかもしれない。繋がっていないかもしれない。確かめる術はない。

だがもし繋がっているのなら、もし4444年のある寿司屋のある一杯の吸い物が、俺が四世紀のこの湿地であの若い女と彼女の母と共に飲んだあの汁の遠い遠い末裔であるのなら、それは料理人としてこれ以上の幸福はない。

水島 弦、口述。三三一年、春。弟子シホが木簡に書き写した。



六章
記者・野々村 詩織の記録

〈自筆・墨・和紙/推定 西暦360年 秋〉
私は記者だった。
4444年の地球圏最後の紙の新聞社にいた。同僚は八人。読者は地球全体で四万人。データは十年で腐るが紙は百年もつと信じている変人たちの新聞だった。

タイムマシンに乗ることに迷わなかった。空白の四世紀を埋めたかったからだ。

私は四世紀の日本に着地して三十年生きた。いま五十九歳である。この時代としては明らかに長寿である。
なぜこんなに長く生きられたのか。動き続けたからだ。

一つの土地に留まらなかった。私は記者だった。取材する女だった。四世紀の日本列島をほぼ歩き通した。北は今の東北南部のたぶん宮城のあたりまで。南は今の九州北部のたぶん福岡のあたりまで。西は瀬戸内海の島々を渡り歩いた。東は今の静岡のあたりまで。

歩数たぶん一千万歩を超える。
七十以上の集落に滞在し、聞いた話を書いた。私が書いた木簡と樹皮の紙の束はいま、いくつかの集落に分けて預けてある。

私は記者としてこの時代の最初の全国紙をたった一人で作ろうとした。
書いておく。失敗した。

第一に、この時代の集落の間には私が想像していたほどの共通の何かがなかった。彼らは隣の集落の話に興味を持たない。興味を持つのは自分の集落の、自分の畑の、自分の家族の話である。「全国」という概念がまだない。

第二に、私は書きすぎた。この時代の人々にとって文字はまだ恐ろしいものである。私が木簡に何かを書くと、それを見た者は時に震えた。彼らは書かれることを呪われることと混同しがちだった。

第三に、これが最大の理由だが、私は疲れた。
三十年歩いた。三十年聞いた。三十年書いた。膝はもう駄目である。目は遠くの字が見えない。記憶は時々4444年と四世紀とを混同する。
いま、瀬戸内海のある小さな島にいる。

この島には私と同じ4444年から来た老女がいる。八雲千秋という名の言語学者である。私は彼女の存在を他の集落の噂話から二年前に突き止めた。彼女に会うために船に乗り、この島へ来た。

私たちは五十九年ぶりに日本語で話した。
正確に言うと、私は着いたその日の夕方、八雲の家の戸を叩いた。戸を開けた八雲は私の顔を見た。私も彼女の顔を見た。選ばれた七人の中で直接顔を合わせたことはなかった。訓練基地で遠くに見ただけである。
八雲はしばらく何も言わなかった。それから言った。

「あなた、あの記者の人ね」
私は頷いた。泣いた。
八雲は私を家に上げ、この時代の素朴なしかし美味い汁を出した。魚と芹の汁である。私はこの汁が水島という料理人が遠くの土地で発明したものと後で知ってまた泣いた。

私たちはその晩朝まで話した。
話しながら私は自分が書き溜めてきた木簡の束を少しずつ彼女に見せた。八雲はじっと読んだ。時々質問した。「この集落とこの集落は婚姻関係があった?」「この首長とこの首長は同世代?」

八雲は夜が明けかけたころ言った。
「野々村さん。あなたが書いたものは史料です」
私は三十年ぶりに記者として笑った。

以下は私が八雲の島に住むようになってからまとめている、四世紀日本列島・略年代記の序文である。

西暦二七〇年ごろ、瀬戸内海の東西で鉄の流入経路を巡る複数の小規模な争いがあった。西暦二九〇年ごろ、今の奈良盆地南部で複数の集落が連合し、最初の大きな首長を戴くようになった。西暦三一〇年ごろ、その連合は東の今の伊勢湾岸まで勢力を伸ばした。西暦三三〇年ごろ、九州北部で朝鮮半島南部の伽耶との交易が恒常化した。西暦三五〇年ごろ、今の近畿全域で大型の墳墓の築造が始まった。

これらのどれもが、あくまで私、野々村詩織が三十年間歩いて聞いて集めた話の要約に過ぎない。しかしこれはこの時代のこの列島のたぶん唯一の書かれた同時代史である。

私はこれを埋める。八雲の島の洞穴の奥に木簡の束と樹皮の紙の束と共に埋める。四千年雨が入らないように蝋を塗り油紙で包み素焼きの壺に入れて埋める。

四千年後、これが掘り出されるかどうかは私には分からない。掘り出されなくても構わない。掘り出されても構わない。

私は書いた。書いたという事実だけが私の最後の記事である。
野々村 詩織、三六〇年、秋、瀬戸の小島にて。



七章
映画監督・アキラ・スワの記録

〈自筆・墨・和紙/推定 西暦378年 夏〉
なぜ俺が選ばれたのか。委員長は俺の映画を好きだったらしい。それだけで十分な理由だった、と今では思う。

俺は映画監督である。4444年、五十本の劇映画と二百本以上の短編を撮った。ある年、ヴェネツィアで金獅子賞を獲った。ヴェネツィアはその頃既に海の底に沈みかけていたが、映画祭は水上ドームで続いていた。

俺の映画のテーマはいつも空白だった。歴史の空白。記録の空白。記憶の空白。人の心の空白。俺は埋められないものを埋められないままに映すのが好きだった。

タイムマシン計画の委員会は七人目に俺を選んだ。俺は機材をほとんど持って行かなかった。カメラもなし。録音機もなし。あるのは俺の目と耳と大量の墨と和紙と筆。

俺は絵と文字であの時代を書くことにした。
俺の着地点は今の京都盆地の北端あたりだった。到着したのは晩春、桜が散った直後。まず寝転がって空を見た。

空は青かった。
4444年の東京の空は青くなかった。あの時代の空は灰色でも白でもなく、ある種の透明なしかし何かで薄く曇った名付けようのない色をしていた。俺は五十歳になって初めて本物の青を見た。

俺はその青を忘れないうちに和紙に書いた。
「三七八年、たぶん四月。空、青。ふかい青。青というよりは存在そのもの。この青を記録しろ。この青がこの時代のすべての始まりだ」
以下、俺が四世紀の日本で目撃したもののいくつかを順不同に書いておく。

その一。
着地して二年目にある祭りを見た。夜の山の中の小さな社の篝火の傍で若い女たち十二人が輪になって踊っていた。動きは俺が4444年で見たことのあるどの舞踊とも違っていた。もっと素朴で、もっと激しく、もっと呪術的だった。
俺は輪の外で震えながらそれを見た。

その夜、宿にした農家の隅で蝋燭の光でその踊りを絵に描いた。十二人の女、輪、篝火、影、そして彼女らの髪。彼女らの髪は火の光を受けて金色に輝いていた。
俺はその絵にこう書き加えた。
「これはたぶん後世に神楽と呼ばれるものの祖の祖である。しかしこれはまだ神楽ではない。これは名前を持たない何かである」

その二。
五年目にある戦を遠くから見た。平地で二つの軍勢がぶつかっていた。片方が三百人ほど。もう片方が二百人ほど。俺は丘の上からそれを見た。距離約八百メートル。彼らは蟻のように見えた。

蟻たちは互いに突き刺さり、倒れ、また立ち上がり、また倒れた。一時間ほどで決着がついた。負けた側の残った百人ほどが南へ走った。勝った側は彼らを追わなかった。勝った側は負けた側が置いていった鉄の道具と旗と、まだ動いている負傷者たちを集めた。
負傷者たちは殺された。
俺はそれを絵にしなかった。代わりにこう書いた。

「戦の絵は描かない。戦は絵にすると美しくなってしまうからだ。これはただ人が人を殺したというだけの話である」

その三。
十年目にある男に会った。俺よりずっと若く三十歳くらいで、しかし既に四つの集落を束ねていた。名はカムナギと聞き取った。神を招く者という意味らしい。彼は首長でありながら同時に祭司でもあった。

三日目の夜、彼は俺にこう聞いた。
「お前は遠くから来たと聞いた。遠くのどこから来た」
俺は答えなかった。答え方を知らなかった。
彼は俺の沈黙をしばらく待った。それから笑った。

「言わなくていい。俺はお前が遠くから来たことだけ知っていればよい。遠くから来た者は遠くを見る目を持っている。俺はその目が要る」
その夜、和紙に彼の顔を描いた。高い頬骨。細いしかし強い目。少しだけ笑ったときの口の端の上がり方。
俺はその絵にこう書き加えた。

「この男がたぶんこの時代のこの列島の最も重要な男の一人である」
俺はいまこの記録を書いている。六十二歳である。この時代としては老人である。カムナギの館の離れの小さな部屋を与えられて、そこで絵と文字を書き続けている。俺の絵は館の中でちょっとした名物になっている。

四千四百四十四年で俺の映画は時に二百万人に見られた。いまは俺の絵は多いときで五人に見られる。しかしその五人の顔を、俺は4444年の二百万人よりもはっきりと覚えている。

映画監督としての俺のたぶん最後の悟りはこれである。
観客の数は意味を持たない。観客の顔が意味を持つ。

俺はこの記録をカムナギに預ける。彼はこれを読めない。字を知らない。だがこれが大事なものであるということは分かってくれる。彼はこれを館の奥の木の箱にしまってくれると約束してくれた。

四千年後、この箱がどこかから掘り出されるかどうかは俺には分からない。たぶん掘り出されない。

それでも俺は書く。書くこと自体が俺の最後の映画である。
カット、と俺はいま心の中で叫ぶ。
カット。俺の映画はこれで終わる。

アキラ・スワ、三七八年、夏、山城国のどこか、カムナギの館にて。



終章
――一通の手紙――

以上六つの記録は、それぞれ異なる時代、異なる土地で、異なる形で書かれた。

柊蘭の片仮名を刻んだ木の板は、彼女の娘ミハトの子孫によって代々家の守りとして伝えられた。三十七代後、その一族は大きな戦乱の中で滅んだ。木の板は家の焼け跡の床下から、4444年ではなくそれより数世紀前の時代に掘り出された。掘り出した者はそれを読めなかった。彼はそれを寺に寄進した。寺はそれを蔵の奥にしまった。蔵は時が経ち朽ち、木の板は他の古文書と混じり合いやがて忘れられた。

毛利剛の和紙の記録はオホ・ヒコの死後、彼の墓に副葬品として埋められた。墓は四世紀後半に築かれたこの列島でも屈指の大きな墳墓である。4444年時点でその墳墓はまだ発掘許可が下りていない。宮内庁に相当する組織がそれを皇統に連なる可能性のある陵墓として管理している。毛利の記録は墳墓の中で湿気に少しずつ蝕まれながらなおそこにある。

久保田修の樹皮の記録は彼の死後、看取った女によって山の洞穴の中にそのまま残された。女は洞穴の入口を石で塞いだ。洞穴は五百年後のある大地震で崩れた。樹皮は崩れた岩の下で粉々になり他の落葉や土と区別がつかなくなった。

八雲千秋の木簡と六十一個の記号は彼女の死後、島の子どもたちによってしばらく使い続けられた。三世代のうちに島の若者たちは本土との交易を強め本土の言葉を話すようになった。八雲の記号は使い手を失った。木簡は島の物置でゆっくりと朽ちた。二十世紀のある考古学調査で、その島の物置の跡から謎の記号が刻まれた木片が数点発掘された。研究者たちはそれを用途不明の地方的な呪符と分類した。

水島弦の料理は記録されなかった。しかし彼が持ち込んだ出汁の概念と素材の組み合わせの技術は口伝でこの地域から周辺へ拡がった。彼の名は忘れられた。彼の技術だけが名を持たぬままこの列島の食卓に静かに残った。4444年の日本料理と彼の料理との直接の系譜関係は証明できない。しかし無関係であるとも証明できない。

野々村詩織の木簡と樹皮の紙の束は、八雲の島の洞穴に蝋と油紙と素焼きの壺で丁寧に埋められた。壺は四千年雨に触れず湿気に触れず地震で少しずつ位置を変えながらしかし割れずにそこにあった。

そして、この壺だけが4444年に届いた。
西暦4444年8月17日午前十時三十二分。
タイムマシン計画は七人送り出したのち正式に凍結されていた。誰も戻って来ないからである。転送室は閉鎖されヒノキの匂いは消毒液の匂いに置き換わりやがて資料倉庫に転用された。

その日の朝、瀬戸内海のある小さな島で、四世紀に八雲千秋が住んでいたあの島で、一人の考古学者が洞穴の奥から素焼きの壺を掘り出した。
壺は割れていなかった。

壺の中には油紙に幾重にも包まれた木簡の束と樹皮の紙の束と、それに一通の和紙の手紙があった。

和紙は酸化して茶色く変色していたが字ははっきりと読めた。字は4444年の平仮名と漢字が混じった現代日本語で書かれていた。字を書いたのは野々村詩織である。手紙は彼女が埋める直前に最後に書き加えたものと後の研究者たちは推定した。

以下がその手紙の全文である。
四千四百四十四年のみなさんへ
もしこれを読んでいる人がいるならば。

まず報告します。
私たち七人は全員こちらへ無事に着きました。事故はありませんでした。そして全員こちらで生きました。

柊蘭は東北のある湿地で集落の女として生き、娘を産みました。彼女はこの時代に手を洗うという概念を静かに持ち込みました。

毛利剛は今の近畿地方のある王のもとで剣を振るい、その王が大きな連合を築くのを助けました。彼はその王を心から愛しました。

久保田修は山の中で一人で生きました。彼はこの時代の集落に道具を贈り続けました。彼を看取った女の名は私たちも知りません。

八雲千秋はいまの瀬戸内海のある島で消えかけていた言葉を記録し続けました。彼女は島の子どもたちに字を教えました。彼女はいま私の隣でこの文章を静かに見ています。

水島弦は今の中部地方のある地域で料理を教えました。彼が教えた出汁はいまこの列島のいくつかの地域に拡がっています。

アキラ・スワは今の京都盆地のある首長の館で絵を描き続けています。彼の絵はその首長の宝物になっています。

そして私、野々村詩織は三十年間この列島を歩きました。歩いて聞いて書きました。書いたものはこの壺の中にあります。読んでください。ただしあまり期待はしないでください。私が書いたものはこの時代のごく一部を私という一人の記者が私の目で私の耳で切り取った断片に過ぎません。

でもそれが私たちにできた精一杯です。
みなさんに伝えたい大事なことが三つあります。

一つ目。
この時代のこの列島には信長のような男はいませんでした。正確に言います。いなかったというよりは、そういう理解でこの時代を捉えることが間違っていたということです。

この時代はたしかに動乱の時代です。しかしそれは一人の英雄が天下を統一するために戦う時代ではありません。まだ天下という概念が無いからです。この時代の首長たちはそれぞれの土地でそれぞれの理由でそれぞれの規模で争ったり結んだりしました。彼らの中には後世の目から見れば確かに傑出した人物もいました。毛利が仕えたオホ・ヒコもアキラが記録したカムナギもその一人です。

しかし彼らは自分たちを英雄とは思っていませんでした。彼らは自分たちの集落を自分たちの家族を自分たちの田を守ろうとしたただの少しだけ賢い、少しだけ強い、少しだけ運の良い男たちでした。

歴史の空白を後世の物差しで英雄が埋めるべき穴として捉えると、たぶんこの時代の本当の姿は見えません。

この時代は無数の小さな名も無き人々の無数の小さな名も無き選択の積み重ねの時代です。
それが一つ目です。

二つ目。
私たちはこの時代を変えました。たぶん変えました。おそらく変えました。ほんの少しだけしかし確実に変えました。

柊は集落の子どもの死亡率を少し下げました。毛利はいくつかの戦の勝敗を少し動かしました。久保田は山の中に道具を置きました。八雲は島に記号を教えました。水島は料理を伝えました。アキラは絵を描きました。私は書きました。

これらすべては4444年の日本に繋がっているのか。それとも繋がっていないのか。私達には分かりません。もしかしたら私たちがこの時代に来なかった別の歴史では4444年の日本は今とは少し違う姿をしていたのかもしれません。あるいはまったく変わっていないのかもしれません。

歴史は変えられるのか変えられないのか。私たちはその問いに答えを持ちません。

ただこう思います。私たちが変えたかどうかにかかわらず、私たちはこの時代を生きました。
生きたということがいちばん大事だったと今は思います。
それが二つ目です。

三つ目。
これがいちばん大事です。
もう誰も送らないでください。
タイムマシンは片道です。私たちはそれを知って来ました。それはいい。私たちは大人でした。私たちは選ばれたと思うことにしました。
でも次はいりません。

理由は二つあります。
一つ。私たち七人はそれぞれの土地でそれぞれの人生を生きました。そのうちの何人かはこの時代の人と深く深く結びつきました。私たちがこの時代にこれ以上追加の未来人を迎える必要はありません。私達の子や孫はもうこの時代の人です。4444年の人が彼らの世界にこれ以上割り込むのは不要です。

もう一つ。歴史の空白は空白のままで良いと私たちはいま思っています。

私たちがこの壺で送るものはたしかに四世紀日本のいくつかの姿を伝えるでしょう。しかしこれは私たち七人がたまたま目撃したたまたま書いた断片に過ぎません。

この時代の本当の豊かさはこの時代に生きた名も無き人々の名も無き心の中にあります。
それは掘り出せません。それは書き残せません。それは記録できません。

それはそこにあったということだけが真実です。
だからみなさんはこれを読んでそれでもこの時代をまだ分からないと思ってください。分からないままでいてください。

空白は埋めないということが時にいちばん正確な埋め方です。

最後に。
私たち七人の名前を4444年の記録から消してほしいとは言いません。私たちは志願して来ました。私たちの名は記録に残ればいいと思います。

しかし私たちのこちらでの生涯を英雄譚として書かないでください。
私たちは英雄ではありません。

私たちはそれぞれの土地でそれぞれの生活をしていた七人の4444年生まれの普通の人間でした。
たまたま四世紀にいた普通の人間でした。

柊蘭はたぶん三一〇年ごろ東北の集落で病のために亡くなりました。幼い娘のミハトを残しての早世でしたが最後まで微笑んでいました。

毛利剛は四一二年、老衰でオホ・ヒコの後を継いだ孫の館で死にました。八十歳を超えていました。

久保田修は三〇八年山の洞穴で看取ってくれた女の手を握りながら死にました。

八雲千秋はいま私の隣にいます。彼女はたぶんあと数年で死にます。私もあと数年で死にます。

水島弦はたぶん三四〇年ごろ彼が仕えた大きな男の館で死にました。最期に彼の弟子の一人が彼のために汁を作ったと聞きました。

アキラ・スワは三八〇年ごろまだ山城のどこかで絵を描いていました。彼のその後の消息を私たちは知りません。

これで七人分全員の報告を終わります。

4444年のみなさんどうかお元気で。私たちはこちらで幸せでした。
不思議なことに片道で来て片道で生き片道で死ぬと決まっていた人生の中で、私たちは4444年で生きていたときよりも深く生きたと感じています。

それはたぶん戻れないからです。
戻れないと決まっているとき、人は今この瞬間を今この場所を今この人をいちばん強く抱きしめます。
私たちはみなさんにそれを伝えたかったのかもしれません。

さようなら。
四世紀の日本より、西暦三六〇年秋。瀬戸の小島にて。
野々村 詩織(七人の代表として)

追伸。この手紙が届きますように。届かなくても書いたことに悔いはありません。
――手紙、以上。

考古学者は手紙を震える手で卓に置いた。
彼女は4444年のその日の午後、緊急学会を招集した。
学会は三日三晩続いた。

四日目の朝、学会は一つの結論を出した。
「発掘物は真正である。手紙は真正である。しかしこの壺の中身は公開しない」
理由は手紙の三つ目に書かれていた。空白は空白のままで良い。
4444年の学者たちはその願いを尊重した。

七人の名は密かに殿堂に刻まれた。彼らの記録の存在は限られた研究者だけに伝えられた。壺は専用の保管庫に収められた。手紙は複製が一部だけ作られそれも非公開の書庫に封じられた。

書籍の最後に一つだけ書き添えておきたい。
その日の夕方、閉鎖された転送室の埃をかぶった机の上に、一輪だけ白い花があった。
誰が置いたのかは記録されていない。

(了)


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あとがき

物語を最後までお読みいただきありがとうございました。
人は誰しも過去を振り返り「もしあの時に戻れたら」と考えることがあります。あるいは失われた過去の記憶や記録をどうにか埋めようと焦がれることがあります。

しかし片道切符で古代へと旅立った7人の男女が選んだのは、過去を変えたり未来へ名を残したりすることではなく、いま目の前にある時間を惜しみなく生きるということでした。戻れないと腹を括った瞬間にこそ、人は出会った相手の温度を感じ、手をつなぎ、今日の一杯の汁に救われるのだと思います。

四千年の隔たりを超えて素焼きの壺に託された彼らの言葉が、目まぐるしく過ぎ去る現代を生きる皆様の心に静かな温もりとして届けば幸いです。